巻第十五(下)
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大智度論釋初品中毘梨耶波羅蜜義第二十六
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


精進波羅蜜が第四に在る理由

【經】身心精進不懈息故應具足毘梨耶波羅蜜 身心は精進して懈息せず、故に応に毘梨耶波羅蜜を具足すべし。
『身』や、
『心』は、
『精進して!』、
『怠ったり!』、
『休んだりしない!』が故に
『毘梨耶波羅蜜』を、
『具足しなければならない!』。
  懈息(けそく):怠り休むこと。
  毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ):梵語 viirya- paaramitaa の訳。また進波羅蜜、精進波羅蜜、精進度無極に作り、即ち他の五波羅蜜を実践する時、進趣して不撓不屈、能く懈怠を対治して善法を生長す。『大智度論巻4(上)注:六波羅蜜、巻15(下)注:精進』参照。
  精進(しょうじん):梵語毘梨耶 viirya の訳。また毘離耶に作り、勤、精勤、勤精進とも訳し、或は単に進と称す。五根五力等の一。六波羅蜜の一。即ち勇悍にして諸の善法を進修するを云う。「中阿含巻10弥醯経」に、「必ず精進を行じ、悪不善を断じて諸の善法を修し、恒に自ら意を起して専一堅固に、諸の善本の為に方便を捨てず」と云い、「仏遺教経」に、「汝等比丘、若し勤精進せば則ち事として難き者なし。この故に汝等当に勤精進すべし。譬えば小水の常に流れば則ち能く石を穿つが如し。若し行者の心数数懈廃せば、譬えば火を鑽るに未だ熱せずして息まば、火を得んと欲すと雖も火は得べきこと難きが如し。これを精進と名づく」と云い、「成実論巻14善覚品」に、「精進とは、行者若し正勤を行じ、不善法を断じて善法を修集せば、この中、勤行するが故に精進と名づく。かくの如くせば則ち能く仏法の利を得ん。所以は何ん、善法を集むること日日増長するを以ってなり。憂鉢羅、鉢頭摩等の水に随って増長するが如し。懈怠の行者は猶お木杵の初成より来、日日滅尽するが如し。又精進の者は利を得るを以っての故に心常に歓楽し、懈怠の行者は悪法心を覆いて恒に苦悩を懐く。又精進の者は念念の中に於いて善法常に増長して減損あることなく、又深く精進を行ぜば最勝処を得ん。謂わく諸仏の道なり。経中に仏阿難に語るが如し、深く精進を修すれば能く仏道に至ると。又精進の者は定心得易し。又鈍根も精進すれば尚お生死に於いて速かに解脱を得、利根も懈怠せば則ち得ること能わず、又有らゆる今世後世の世間出世間の利は皆精進に因り、一切世間の有らゆる衰悩は皆懈怠に因る。かくの如く懈怠の過と精進の利とを見るが故に精進を念ずるなり」と云えるこれなり。これ精進を行ずることによりて仏道を得べきを説けるものなり。其の語義に関しては、「梁訳摂大乗論巻中」に、「能く懶惰及び諸の悪法を滅除するを毘梨と名づけ、復た不放逸を行じて無量の善法を生長するが故に耶と称す」と云い、又「大乗義章巻12」に、「毘離耶とは此に精進と名づく。法に於いて練心するが故に説いて精と為し、精心に務めて達するが故に進と為す」と云えり。蓋し梵語viiryaは、「打ち勝つ」、或は「制す」の義なる動詞 viir に語尾 ya を附せる中性名詞にして、即ち自ら制して懃修するの意なり。蓋し精進は修道の根元をなすものにして、三十七道品中には之を立てて四正断(又は四正勤)の一科とし、又五根五力七覚支八正道中にも各亦之を一支となせり。「大智度論巻16」に、「この精進は心数法に名づく、勤行不住の相なり。随心行にして心と共に生ず。或は有覚有観、或は無覚無観なり。阿毘曇法に広く説くが如し。一切善法の中に於いて懃修して懈らず、これを精進の相と名づく。五根の中に於いて精進根と名づけ、根増長するを精進力と名づけ、心能く開悟するを精進覚と名づけ、能く仏道涅槃城に到るこれを正精進と名づく。四念処の中に能く懃めて心を繋くる、これ精進の分なり、四正懃はこれ精進の門なり、四如意足の中の欲精進は即ちこれ精進なり。六波羅蜜の中には精進波羅蜜と名づく」と云い、又「大乗荘厳経論巻8」に精進に六種の別あることを説き、「差別に六種あり、一に増減精進 haanivivRddhi- viirya は謂わく四正勤なり、二の悪法減じ、二の善法増するが故なり。二に増上精進 mokSaadhipa- v. は謂わく五根なり、解脱の法に於いて増上の義となるに由るが故なり。三に捨障精進 pakSavipakSa- v. は謂わく五力なり、彼の障礙も礙うる能わざるに由るが故なり。四に入真精進 paviSTa- v. は謂わく七覚分なり、見道に建立するに由るが故なり。五に転依精進 parivartaka- v. は謂わく八聖道分なり、修道はこれ究竟転依の因なるに由るが故なり。六に大利精進 mahaartha- v. は謂わく六波羅蜜なり、自利利他に由るが故なり」と云い、又「倶舎論巻25」に、「四正断、精進根、精進力、精進覚支、正精進は勤viiryaを以って体と為す」と云える即ち皆其の説なり。但し諸経論には精進と精進波羅蜜との不同を説けり、即ち「優婆塞戒経巻7毘梨耶波羅蜜品」に、「善男子、勤精進にして波羅蜜に非ざるあり、波羅蜜にして勤精進に非ざるあり、亦精進にして亦波羅蜜なるあり、精進に非ず波羅蜜に非ざるあり。精進にして波羅蜜に非ずとは、邪精進、善事精進、声聞縁覚の所有の精進の如きなり。波羅蜜にして精進に非ざるものありとは、所謂般若波羅蜜なり。亦精進にして亦波羅蜜なるものありとは所謂布施持戒忍辱精進禅等の五波羅蜜なり。精進に非ず波羅蜜に非ざるものありとは、一切の凡夫声聞縁覚の布施持戒忍辱禅定智慧及び余の善法なり」と云い、又「大智度論巻16」に、「仏道の為に精進するを名づけて波羅蜜と為す。諸余の善法中に精進するは、但だ精進と名づけて波羅蜜と名づけず。問うて曰わく、一切善法の中の懃は何を以って精進波羅蜜と名づけず、而も独り菩薩の精進を名づけて波羅蜜と為すや。答えて曰わく、波羅蜜を到彼岸と名づく、世間の人及び声聞辟支仏は具足して諸波羅蜜を行ずること能わず、この故に名づけて精進波羅蜜と為さず。復た次ぎにこの人は大慈大悲なくして衆生を棄捨し、十力四無所畏十八不共法一切智及び無礙解脱、無量の身無量の光明無量の音声無量の持戒禅定智慧を求めず。ここを以っての故にこの人の精進は波羅蜜と名づけず。復た次ぎに菩薩の精進は不休不息にして一心に仏道を求む。かくの如く行ずるものを名づけて精進波羅蜜と為す」と云えるこれなり。これ世間及び三十七道品中の精進は唯精進にして波羅蜜に非ず、仏道の為にする菩薩の精進を独り精進波羅蜜と名づくることを説けるものなり。又「大乗荘厳経論巻8」には三乗の人に約して精進に三品の別ありとし、即ち声聞の精進を下、縁覚の精進を中、菩薩の精進を上とし、又上下乗の別に依りて二乗小利の精進を下覚、菩薩大利の精進を上覚となせり。又「大方広十輪経巻8精進相品」には、精進に世間及び出世間の二種の別あることを説き、世間の精進は菩薩出世間の精進に同じからずとし、「優婆塞戒経巻7」には、出家の菩薩の精進は難しとせざるも、在家の菩薩は多く悪因縁に纏繞せらるるが故に勤精進を修すること難しと云い、又「大智度論巻16」には、菩薩の精進に身精進及び心精進の別あることを広説せり。今略して大智度論の文を出さば、精進はこれ心数法なりと雖も、身力より出づるが故に名づけて身精進となす。(中略)身力を以って懃修し、若しは手づから布施し、口に法言を誦し、若しは法を講説す。かくの如き等を名づけて身精進と為す。復た次ぎに布施持戒を行ずる、これを身精進と為し、忍辱禅定智慧、これを心精進と名づく。復た次ぎに外事に懃修するこれを身精進と為し、内に自ら専精するこれを心精進と為す。麁の精進を名づけて身と為し、細の精進を名づけて心と為す。福徳の為に精進するを名づけて身と為し、智慧の為に精進するこれを心と為す。若し菩薩初発心より乃至無生忍を得るまで、この中間に於いてするを身精進と名づく。生身未だ捨せざるが故なり。無生忍を得て肉身を捨し、法性身を得て乃至成仏する、これを心精進と為す。復た次ぎに(中略)能く財宝を集めて以って用いて布施するこれを身精進と為し、この布施の徳を以って仏道に至るを得る、これを心精進と為す。生身の菩薩の六波羅蜜を行ずる、これを身精進と為し、法性身の菩薩の六波羅蜜を行ずる、これを心精進と為す。復た次ぎに一切法中皆能く成辦して身命を惜まざる、これを身精進と為し、一切の禅定智慧を求むる時、心懈惓せざるこれを心精進と為す。復た次ぎに身精進とは諸の懃苦を受けて終に懈廃せず。(中略)菩薩本生経中の種種因縁の相はこれを身精進と為す。諸の善法に於いて修行し、信楽して疑悔を生ぜず、而も懈怠せず。一切の賢聖より下凡夫に至りて法を求めて厭くことなく海の流を呑むが如くなるこれを菩薩の心精進と為すと云えり。以って菩薩精進の相を見るべし。又「解深密経巻4地波羅蜜多品」には、精進に被甲精進、転生善法加行精進、饒益有情加行精進の三種ありとし、「大乗阿毘達磨雑集論巻12」に、之を被甲精進、方便精進、饒益有情精進と名づけ、「成唯識論巻9」に亦之を被甲精進、摂善精進、利楽精進と称し、又「梁訳摂大乗論巻中」には、勤勇精進(唐訳に被甲精進)、加行精進、不下難壊無足精進(唐訳に無怯弱無退転無喜足精進)の三品を挙げ、「大乗荘厳経論巻8」には更に五種の別を説き「一に弘誓精進 saMnaaha- viirya とは謂わく行を発起せんと欲するが故なり、二に発行精進 prayoga- viirya とは謂わく諸善を現行するが故なり、三に無下精進 aliina- viirya とは謂わく大果を得、下の体なきが故なり、四に不動精進 akSobhya- viirya とは謂わく寒熱等の苦も動ずる能わざるが故なり、五に無厭精進 asaMtuSTi- viirya とは謂わく少得を以って足れりとなさざるが故なり。此の五種は経中に説く所の如し、弘誓精進あり、現起精進あり、勇猛精進あり、堅固精進あり、不捨仏道精進あり」と云い、また「旧華厳経巻24」には十種の精進を説き「この菩薩は爾の時、不転精進、不捨精進、不染精進、不壊精進、不厭惓精進、広大精進、無辺精進、猛利精進、無等等精進、救一切衆生精進を成ず。この菩薩はかくの如き精進を修習し、直心清浄にして深心を失わず、信解明利にして善根増長し、世間を遠離して垢濁不信皆已に滅尽す」と云えり。此れ等は皆精進に多種の別あることを説けるものなり。又「瑜伽師地論巻42精進品」には総じて精進を分類して九種となし、更に広く之を細説せり。九種とは一に自性精進、二に一切精進、三に難行精進、四に一切門精進、五に善士精進、六に一切種精進、七に遂求精進、八に此世他世楽精進、九に清浄精進なり。初に自性精進とは、菩薩其の心勇悍にして無量の善法を摂受するに堪え、一切有情を利益し安楽ならしめんとし、及び之に依りて起す所の身語意動を云う。二に一切精進とは、之に依在家品精進、依出家品精進の二種あり。而して此の二種に亦各擐甲精進、摂善法精進、饒益有情精進の三種の別あり。就中、擐甲精進とは、菩薩加行精進を発起する前に於いて、其の心勇悍にして先づ誓甲を擐(つらぬ)き、一切有情を度脱せんが為に、仮使い百千俱胝僧数の時劫を経るも勤勇懈らじと誓言するを云い、摂善法精進とは、菩薩は能く六波羅蜜の加行の為に、又能く六波羅蜜を成辦せんが為に精進するを云う。之に無動精進、堅固精進、無量精進、方便相応精進、無倒精進、恒常精進、離慢精進の七種あり。饒益有情精進とは有情を利楽せんが為に勇猛精進するものにして、之に十一種あり、即ち諸の有情に於いて能く義利を引き、彼彼の事業の為に助伴となる等なり。三に難行精進とは之に三種あり。即ち第一難行精進、第二難行精進、第三難行精進なり。四に一切門精進とは之に四種あり、即ち離染法法塵、引白法精進、浄除業精進、増長智精進なり。五に善士精進とは之に五種あり、即ち無所棄捨精進、無退減精進、無下劣精進、無顛倒精進、勤勇加行精進なり。六に一切種精進とは、之に六種七種の二種即ち総じて十三種あり。六種とは無間精進、殷重精進、等流精進、加行精進、無動精進、無喜足精進なり。七種とは与欲俱行精進、平等相応精進、勝進精進、勤求精進、修学精進、利他精進、善護精進なり。七に遂求精進とは、有吉極凶暴上品悪業の有情等の所に於いて精進するを云う。之に八種あり。八に此世他世楽精進とは、諸善法寒熱飢渇蚊虻風日蛇蝎劬労所生の疲倦等に於いて堪忍し精進するを云う。之に九種あり。共に忍に准じて知るべし。九に清浄精進とは之に十種あり、即ち相称精進、串習精進、無緩精進、善摂精進、応時修習相応精進、通達衆相相応精進、不退弱精進、不捨精進、平等精進、迴向大菩提精進なり。「菩薩地持経巻6精進品」に出す所亦之に同じ。以って其の細判を見るべし。又「大乗荘厳経論巻8」に精進の業差別に七種あることを説き、一に現法楽住を得、二に世間法を得、三に出世間法を得、四に資財を得、五に動静を得、六に解脱を得、七に菩提を得と云い、「菩薩地持経巻2力品」には、精進に亦四種の功徳力あることを説けり。これ皆精進に依りて得べき功徳利益を挙げたるなり。又「中阿含巻1水喩経、巻13烏鳥喩経、巻35雨勢経」、「雑阿含経巻26, 27」、「六度集経巻6」、「法華経巻1序品」、「旧華厳経巻23」、「大宝積経巻45毘利耶波羅蜜多品」、「維摩経巻上」、「時世経巻3, 4」、「菩薩瓔珞本業経巻下」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻7」、「諸法集要経巻8精進品」、「集異門足論巻14」、「大毘婆沙論巻80, 142」、「瑜伽師地論巻78」、「大乗起信論」、「摩訶止観巻四之四」等に出づ。<(望)
【論】毘梨耶(秦言精進)問曰。如精進。是一切善法本。應最在初。今何以故第四。 毘梨耶(秦に精進と言う)とは、問うて曰く、精進の如きは、是れ一切の善法の本なれば、応に最も初に在るべし。今は何を以っての故にか、第四なる。
『毘梨耶(精進)』とは、――
問い、
『精進』などは、
一切の、
『善法』の、
『本であり!』、
当然、
『最初』に、
『在るべきです!』。
何故、
『第四なのですか?』。
答曰。布施持戒忍辱世間常有。如客主之義法應供給。乃至畜生亦知布施。或有人種種因緣故能布施。若為今世若為後世。若為道故布施。不須精進。 答えて曰く、布施、持戒、忍辱は、世間に常に有り。客主の義は、法として応に供給すべし。乃至畜生も、亦た布施を知る。或いは有る人は、種種の因縁の故に、能く布施して、若しは今世の為に、若しは後世の為に、若しは道の為めの故に、布施するも、精進を須(ま)たず。
答え、
『布施』や、
『持戒』や、
『忍辱』は、
『世間』にも、
『常に!』、
『有るからである!』、
例えば、
『布施』に関しては、――
『客、主の義(法則)』は、
『法(道理)として!』、
『供給しなくてはならない!』し、
乃至、
『畜生』でも、
『布施する!』ことは、
『知っている!』。
或いは、
有る人は、
種種の、
『因縁』の故に、
『布施することができる!』し、
例えば、
『今世』や、
『後世』の為に、
『布施したり!』、
『道』の故に、
『布施したとしても!』、
是れ等に、
『精進』は、
『必要とされない!』。
  (ほう):梵語達磨 dharma の訳。自性を保持して改変せざるものの意。乃ち自然の道理の義を含む。『大智度論巻2(下)注:法』参照。
如持戒者。見為惡之人王法治罪。便自畏懼不敢為非。或有性善不作諸惡。有人聞今世作惡後世受罪。而以怖畏故能持戒。有人聞持戒因緣故得離生老病死。是中心生口言。我從今日不復殺生。如是等即是戒。豈須精進波羅蜜而能行耶。 持戒の如くんば、悪を為す人を見れば、王法治罪するに、便ち自ら畏懼して、敢て非を為さず。或いは性善にして、諸悪を作さざる有り。有る人は、今世に悪を作せば、後世に罪を受くと聞き、以って怖畏するが故に、能く持戒す。有る人は、持戒の因縁の故に、生老病死を離るることを得と聞き、是の中に心生じて、口に言わく、『我れ今日より、復た殺生せず』、と。是の如き等は、即ち是れ戒なり。豈に精進波羅蜜を須ちて、能く行ずるや。
『持戒』に関しては、――
或いは、
有る人は、
『悪を為した!』、
『人』が、
『王法(国法)』に、
『治罪(断罪)される!』のを、
『見て!』、
自ら、
『畏懼(怖畏)して!』、
敢て、
『非行』を、
『為さなくなった!』とか、
有る人は、
『性』が、
『善である!』が故に、
諸の、
『悪』を、
『作らない!』とか、
有る人は、
こう聞いたので、――
『今世』に、
『罪』を、
『作れば!』、
『後世』に、
『罪』を、
『受けることになる!』、と。
それを、
『怖畏する!』が故に、
『持戒することができた!』とか、
有る人は、
こう聞いたので、――
『持戒した!』、
『因縁』の故に、
『生老病死』を、
『離れることができた!』、と。
是の中に、
『離れたい!』と、
『思う!』、
『心』が、
『生じて!』、
『口』に、こう言った、――
わたしは、
『復た(もう)!』、
『殺生はしないぞ!』、と。
是れ等が、
即ち、
『持戒なのである!』。
是のような、
『持戒』を、
何故、
『精進波羅蜜』を、
『用いて!』、
『行わなければならないのか?』。
  治罪(じざい):罪を裁く。断罪。
  畏懼(いく):おじける。
  怖畏(ふい):こわがる。
如忍辱中。若罵若打若殺。或畏故不報。或少力或畏罪或修善人法或為求道故默然不報。皆不必須精進波羅蜜乃能忍也。 忍辱中の如くんば、若しは罵り、若しは打ち、若しは殺すに、或いは畏るるが故に報いず、或いは力少く、或いは罪を畏れ、或いは善人の法を修め、或いは道を求めんが為の故に黙然として報いざること、皆、精進波羅蜜を必須とせざるも、乃ち能く忍ぶなり。
『忍辱』中に関しては、――
『罵ったり!』、
『打ったり!』、
『殺したり!』しても、
或いは、
『畏れる!』が故に、
『報復しない!』し、
或いは、
『力』が、
『少ない!』が故に、
或いは、
『罪』を、
『畏れる!』が故に、
或いは、
『善人』の、
『法』を、
『修める!』が故に、
或いは、
『道』を、
『求めている!』が故に、
『黙然として!』、
『報復しない!』のであり、
皆、
『精進波羅蜜』を、
必ずしも、
『必要とせず!』、
何とか、
『忍ぶことができている!』。
今欲得知諸法實相。行般若波羅蜜故修行禪定。禪定是實智慧之門。是中應懃修精進一心行禪。 今、諸法の実相を知るを得んと欲して、般若波羅蜜を行ずるが故に、禅定を修行するに、禅定は是れ実の智慧の門なれば、是の中に応に精進を懃修して、一心に禅を行ずべし。
『禅定』に関しては、――
今、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』ことを、
『実証して!』、
『般若波羅蜜』を、
『行おうとする!』が故に、
『禅定』を、
『修行する!』のは、
『禅定』が、
『実の智慧(般若波羅蜜)』の、
『門だからであり!』、
是の中では、
当然、
『精進』を、
『懃(ねんごろ)に!』、
『修めて!』、
『一心』に、
『禅』を、
『行わなくてはならないのである!』。
復次布施持戒忍辱。是大福德安隱快樂。有好名譽。所欲者得。既得知此福利之味。今欲增進更得妙勝禪定智慧。 復た次ぎに、布施、持戒、忍辱は、是れ大福徳の安隠、快楽にして、好き名誉有りて、欲する所の者を得。既に此の福利の味を知るを得れば、今、増進して、更に妙勝なる禅定、智慧を得んと欲す。
復た次ぎに、
『布施』や、
『持戒』や、
『忍辱』とは、
是れは、
『大きな!』、
『福徳であり(布施に応じる)!』、
『安隠であり(持戒に応じる)!』、
『快楽であり(忍辱に応じる)!』、
『好もしい!』、
『名誉』が、
『有り!』、
『欲する!』所が、
『得られるのである!』が、
既に、
此の、
『福利』の、
『味』を、
『知ることができた!』ので、
今、
『増進して!』、
更に、
『妙勝(殊勝)な!』、
『禅定』と、
『智慧』とを、
『得ようとするのである!』。
譬如穿井已見濕泥。轉加增進必望得水。又如鑽火已得見煙。倍復力勵必望得火。 譬えば、井を穿つに、已に湿泥を見れば、転(うた)た増進を加えて、必ず水を得んと望むが如し。又火を鑽(き)るに、已に煙を見るを得れば、倍して復た力励し、必ず火を得んと望むが如し。
譬えば、
『井(いど)』を、
『掘る!』とき、
已に、
『湿泥』を、
『見ることができれば!』、
どんどん、
『増進(進捗)』を、
『加えて!』、
『水』を、
『得よう!』と、
『必然的に!』、
『望むようなものである!』。
又、
『火』を、
『鑽()る!』とき、
已に、
『煙』を、
『見ることができれば!』、
倍して、
『力』を、
『励まして!』、
『火』を、
『得よう!』と、
『必然的に!』、
『望むようなものである!』。
  (ひつ):必定( must )、必然的( certainly )。
欲成佛道凡有二門。一者福德。二者智慧。行施戒忍是為福德門。知一切諸法實相摩訶般若波羅蜜。是為智慧門。 仏道を成ぜんと欲するに、凡そ二門有り。一には福徳、二には智慧なり。施、戒、忍を行ずるは、是れを福徳の門と為し、一切の諸法の実相を知ると、摩訶般若波羅蜜とは、是れを智慧の門と為す。
『仏』の、
『道』を、
『成就しようとする!』には、
凡そ、
『二門』有り、
一には、
『福徳』という、
『門であり!』、
二には、
『智慧』という、
『門である!』。
『福徳』とは、
『布施』や、
『持戒』や、
『忍辱』を、
『行えば!』、
是れが、
『福徳の門であり!』、
『智慧』とは、
一切の、
『諸法』の、
『実相』を、
『知る!』ことと、
『摩訶般若波羅蜜』と、
是れが、
『智慧の門である!』。
菩薩入福德門。除一切罪所願皆得。若不得願者。以罪垢遮故。入智慧門則不厭生死。不樂涅槃。二事一故。 菩薩は、福徳の門に入れば、一切の罪を除いて、願う所を、皆得るなり。若し願を得ざれば、罪垢の遮るを以っての故なり。智慧の門に入れば、則ち生死を厭わず、涅槃を楽しまず、二事は一なるが故なり。
『菩薩』が、
『福徳の門』に、
『入れば!』、
一切の、
『罪』を、
『除いて!』、
『願う!』所は、
皆、
『得られる!』、
若し、
『願う!』所が、
『得られない!』とすれば、
『罪』の、
『垢』が、
『遮っているからである!』。
『智慧の門』に、
『入れば!』、
則ち、
『生死』を、
『厭うこともなく!』、
『涅槃』を、
『楽しむこともない!』、
何故ならば、
『涅槃』と、
『生死』の、
『二事』は、
『一だからである!』。
今欲出生摩訶般若波羅蜜。般若波羅蜜。要因禪定門。禪定門必須大精進力。 今、摩訶般若波羅蜜を出生せんと欲するに、般若波羅蜜は、要(かなら)ず、禅定門に因り、禅定門は、必ず、大精進力を須(ま)つ。
今、
『般若波羅蜜』を、
『出生しよう!』と、
『思えば!』、
『般若波羅蜜』は、
『禅定』という、
『門』が、
『要因であり!』、
『禅定の門』には、
『大精進』という、
『力』が、
『必要である!』。
  要因(よういん):物事を生じる主要な原因( agent )。
何以故散亂心。不能得見諸法實相。譬如風中然燈不能照物。燈在密屋明必能照。 何を以っての故に、散乱心は、諸法の実相を見るを得る能わざればなり。譬えば、風中に然(も)ゆる灯は、物を照す能わず、灯密屋に在れば、明は必ず能く照らすが如し。
何故ならば、
『散乱した!』、
『心』では、
諸の、
『法の実相』を、
『見ることができない!』、
譬えば、
『風』中に、
『燃える!』、
『灯』では、
『物』を、
『照らすことができない!』が、
『灯』が、
『密閉された!』、
『家屋』中に、
『在れば!』、
『明』が、
必ず、
『照らす!』のと、
『同じである!』。
是禪定智慧。不可以福願求。亦非麤觀能得。要須身心精懃急著不懈爾乃成辦。 是の禅定、智慧は、福を以って願求すべからず。亦た麁観して、能く得るにも非ず。要ず、身心の精懃を須ちて、急著して懈(おこた)らざれば、爾して乃(すなわ)ち成辦するなり。
是の、
『禅定』と、
『智慧』とは、
『福』を、
『用いて!』、
『願い求めても!』、
『叶えられない!』。
亦た、
『粗略』な、
『観察』を、
『用いても!』、
『認識できない!』。
要ず、
『身』も、
『心』も、
『努力して!』、
『精進し!』、
『不安』を、
『感じながら!』、
『怠ってはならない!』、
爾のようにして、
ようやく、
『完成するからである!』。
  麁観(そかん):粗略な観察。
  急著(きゅうじゃく):心配する( worry )、不安になる( feel anxious )。急躁。
  成辦(じょうべん):完成( completion )。完備。『大智度論巻12上注:成辦』参照。
如佛所說。血肉脂髓皆使竭盡。但令皮骨筋在不捨精進。如是乃能得禪定智慧。得是二事則眾事皆辦。 仏の所説の如く、血、肉、脂、髄を皆竭尽せしめ、但だ皮、骨、筋のみをして在らしむるまで、精進を捨てざれば、是の如くして乃ち能く禅定、智慧を得、是の二事を得れば、則ち衆事皆辦ずるなり。
『仏』の、
『所説』のように、――
『血、肉、脂、隨』を、
皆、
『竭()れ尽きさせて!』、
但だ、
『皮、骨、筋』のみが、
『在るようになる!』まで、
『精進』を、
『捨てなければ!』、
是のようにして、
ようやく、
『禅定』と、
『智慧』とを、
『得られるのであり!』、
是の、
『二事』を、
『得れば!』、
『衆事』は、
皆、
『備わるのである!』。
  竭尽(かつじん):かれ尽くす。
  参考:『中阿含経巻2』:『云何有漏從忍斷耶。比丘。精進斷惡不善。修善法故。常有起想。專心精勤。身體.皮肉.筋骨.血髓皆令乾竭。不捨精進。要得所求。乃捨精進。比丘。復當堪忍飢渴.寒熱.蚊虻蠅蚤虱。風日所逼。惡聲捶杖。亦能忍之。身遇諸病。極為苦痛。至命欲絕。諸不可樂。皆能堪忍。若不忍者。則生煩惱.憂慼。忍則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從忍斷也』
以是故精進第四。名為禪定實智慧之根。上三中雖有精進少故不說。 是を以っての故に、精進は第四なるも、名づけて禅定と、実の智慧の根と名づく。上の三中にも、精進有りと雖も、少なきが故に説かず。
是の故に、
『精進』は、
『第四ではある!』が、
『禅定』と、
『実の智慧』の、
『根本』と、
『称するのである!』。
上の、
『三(布施、持戒、忍辱)』中にも、
『精進』は、
『有る!』が、
『少ししかない!』が故に、
『説明しない!』。



菩薩が精進する理由

問曰。有人言。但行布施持戒忍辱故得大福德。福德力故所願皆得。禪定智慧自然而至。復何用精進波羅蜜為。 問うて曰く、有る人の言わく、『但だ布施、持戒、忍辱を行ずるが故に、大福徳を得、福徳の力の故に所願を皆得れば、禅定と智慧も自然に至る』、と。復た、精進波羅蜜を用いて、何ん為(せ)んや。
問い、
有る人は、こう言っている、――
但だ、
『布施』、
『持戒』、
『忍辱』のみを、
『行っていれば!』、
故に、
『大福徳』を、
『得ることになり!』、
『福徳』の、
『力』の故に、
『所願』は、
『皆、叶うので!』、
『禅定』や、
『智慧』も、
『自然に!』、
『得られる!』、と。
いったい、
何んの為めに、
『精進波羅蜜』を、
『用いるのですか?』。
答曰。佛道甚深難得。雖有布施持戒忍辱力。要須精進。得甚深禪定實智慧及無量諸佛法。若不行精進則不生禪定。禪定不生則不得生梵天王處。何況欲求佛道。 答えて曰く、仏道は甚深にして得難ければ、布施、持戒、忍辱の力有りと雖も、要ず精進を須(もち)いて、甚深の禅定、実の智慧、及び無量の諸仏の法を得べし。若し精進を行ぜざれば、則ち禅定を生ぜず。禅定生ぜざれば、則ち梵天王の処に生ずるを得ず。何に況んや、仏道を求めんと欲するをや。
答え、
『仏』の、
『道』は、
『甚だ深く!』、
『得難い!』ので、
『布施』、
『持戒』、
『忍辱』に、
『力』が、
『有っても!』、
『甚だ深い!』、
『禅定』や、
『実の智慧』や、
『無量の諸仏の法』を、
『得る!』には、
『精進』が、
『絶対!』、
『必要である!』。
若し、
『精進』を、
『行わなければ!』、
『禅定』を、
『生じさせられず!』、
『禅定』が、
『生じなければ!』、
『梵天王の処(初禅)』にすら、
『生じられない!』。
況して、
『仏の道』を、
『求めようとしても!』、
『得られるはずがない!』。
復次有人。如民大居士等欲得無量寶物則應意皆得。如頂生王王四天下。天雨七寶及所須之物。釋提婆那民分座與坐。雖有是福然不能得道。如羅頻珠比丘。雖得阿羅漢道乞食七日不得空缽而還。後以禪定火自燒其身而般涅槃。 復た次ぎに、有る人は、民大居士等の如く、無量の宝物を得んと欲すれば、則ち意に応じて、皆得。頂生王の如きは、四天下の王たれど、天は七宝、及び所須の物を雨ふらし、釈提婆那民は、座を分ちて、与(とも)に坐すれど、是の福有りと雖も、然れども道を得ること能わず。羅頻珠比丘の如きは、阿羅漢道を得と雖も、乞食して七日得ず、空鉢にして還り、後に禅定の火を以って、自ら其の身を焼いて、般涅槃せり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
例えば、
『民大居士』等のように、
『無量』の、
『宝物』を、
『得ようとすれば!』、
『意』に応じて、
皆、
『得られたのであり!』、
例えば、
『頂生王』などは、
『四天下』の、
『王であった!』が、
『天』が、
『七宝』や、
『必要な物』を、
『雨のように!』、
『降らしたり!』、
『釈提婆那民(帝釈天)』が、
『座』を、
『分けあって!』、
『坐るほどであった!』が、
是のような、
『福』が、
『有っても!』、
而し、
『道』は、
『得られなかった!』し、
例えば、
『羅頻珠比丘』などは、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得ていた!』が、
『七日』、
『乞食しても!』、
『得られず!』、
『鉢』が、
『空のまま!』、
『還った!』後、
『禅定』の、
『火』で、
自ら、
『身』を、
『焼いて!』、
『般涅槃したのである!』。
  民大居士(みんだいこじ):修摩国婆提城の大福徳人。『十誦律巻26』参照。
  頂生王(ちょうしょうおう):転輪聖王の名。『大智度論巻8(下)注:頂生王』参照。
  釈提婆那民(しゃくだいばなみん):梵名sakra kevaanaamindra、また釈提桓因に作る。即ち三十三天の主。『大智度論巻2上注:釈提桓因』参照。
  羅頻珠(らひんじゅ):また羅頻周、羅云珠に作る。即ち舎利弗の弟子。『大智度論巻30(下)注:羅頻周』参照。
  参考:『十誦律巻26』:『佛在毘耶離。隨所住竟著衣持缽。向修摩國遊行。此國有二城。一名婆提城。二名蜜城。婆提城中有六大福德人。何等六。一居士名民大。二民大婦。三民大兒。四民大兒婦。五民大奴。六民大婢。何等民大居士。大福德民大。持少金銀琉璃珠寶。坐市肆中。若諸宗族五親知識朋友。一切閻浮提人。為金銀琉璃珠寶來者。是居士不起坐處。能令求者自恣所須寶物如故不盡。是為民大居士大福德。民大居士婦。有何等福德。若民大居士婦。食時若一切閻浮提人來。為飲食故。一切諸人自恣飽滿。食故不盡。是民大居士婦大福德。民大居士兒。有何等大福德。其兒入倉庫。寶藏中看上向。觀見有孔譬如車轂。錢財寶物從上流下。寶藏即滿。是民大居士兒大福德。民大居士兒婦。有何等大福德。其兒婦持華香瓔珞諸雜塗香好衣上服。至中庭床上坐。欲奉舅姑及夫。坐處未起若一切閻浮提人來。為華香瓔珞諸雜塗香好衣上服來者。一切自恣給與如故不盡。是民大兒婦大福德。民大居士奴。有何等大福德。民大居士奴。若持犁一出耕時七壟成就。是為民大居士奴大福德。民大居士婢。有何等大福德。民大居士婢。一切穀麥舂磨還輸倉。一切閻浮提人為米麵故來者。一切自恣給與米麵。如故不盡。是為民大居士婢大福德。』
  参考:『雑譬喩経』:『羅云珠者舍利弗弟子也。本曾奪辟支佛  食。以是罪故生餓鬼中。無量劫受苦。畢餓鬼身生人中。五百世受飢餓罪。以末後身值佛在世。出家學道服三法衣。遊行乞食無肯施者。或五日或七日不得。目連愍之乞食持與。適墮缽中為大鳥搏去。舍利弗乞食施之。適入缽中變成泥土。大迦葉乞食施之。適持向口口即時合無有入處。佛以食施以大悲力故。即得入口氣味殊特。復以種種方便兼為說法。時羅云珠聞上妙法悲喜交集。一心思惟得應真道』
  参考:『大智度論巻30』:『如舍利弗弟子羅頻周比丘。持戒精進乞食。六日而不能得。乃至七日命在不久。有同道者乞食持與。鳥即持去。時舍利弗語目揵連。汝大神力守護此食令彼得之。即時目連持食往與。始欲向口變成為泥。又舍利弗乞食持與而口自合。最後佛來持食與之。以佛福德無量因緣故令彼得食。是比丘食已。心生歡喜倍加信敬。佛告比丘。有為之法皆是苦相為說四諦。即時比丘漏盡意解。得阿羅漢道。有薄福眾生罪甚此者佛不能救。』
以是故知。非但福德力故得道。欲成佛道要須懃大精進。 是を以っての故に知る、『但だ福徳の力の故に道を得るに非ず。仏道を成ぜんと欲せば、要ず大精進を須って懃むべし』、と。
是の故に、こう知る、――
但だ、
『福徳』の、
『力』の故に、
『道』を、
『得るのではない!』。
『仏』の、
『道』を、
『完成させよう!』と、
『思えば!』、
『努力して!』、
『大精進する!』ことが、
『必要である!』、と。
問曰。菩薩觀精進有何利益。而懃修不懈。 問うて曰く、菩薩は、精進に何なる利益の有るをか観て、懃修して懈らざる。
問い、
『菩薩』は、
『精進』に、
何のような、
『利益』が、
『有る!』のを、
『観て!』、
『修行』に、
『懃めて!』、
『怠らないのですか?』。
答曰。一切今世後世道德利益皆由精進得。 答えて曰く、一切の今世、後世の道徳、利益は、皆、精進に由って得ればなり。
答え、
一切の、
『今世』と、
『後世』の、
『道徳(功徳)』や、
『利益』は、
皆、
『精進』を、
『通して!』、
『得るからである!』。
  道徳(どうとく):道は正道、徳は所得の意。又徳は己に得し、道は他に及ぼすの意。「超日月三昧経巻下」に、「人民を教化して普く十善を行ぜしめ、道徳を遵崇するを法王の教と為す」と云い、「無量寿経巻下」に、「無量寿仏国に生ずれば快楽極まりなく、長く道徳と合明し、永く生死の根本を抜く」と云い、又「大智度論巻15」に、「一切の今世後世の道徳利益は皆精進に由りて得」と云える其の例なり。其の語義に関し、唐の法琳の「辯正論巻5」に、「昔、車胤は道徳を解して云わく、己れに在るを徳と為し、物に及ぶを道と為すと。「殷仲文」云わく、徳とは得なり、道とは由なり。言わく孝を得て心に在るが故に之を徳と謂い、之に由りて而も成ずるが故に之を道と謂う。ここを以って孝を徳の本と為し、成を道の功と曰う。徳は自立を彰わすの名にして、道には兼済の称あり。内は徳に因りて行就り、外は道に由りて化成す。之を生じ之を畜うるは道の要なり、之を成じ之を熟するは徳の至なり」と云えり。これ己れに得る所あるを徳とし、他に及ぼして化成するを道となすの説なり。また了恵の「無量寿経鈔巻6」に新羅羲寂の説を挙げ「得理通神之を道と謂い、所得失わざる之を徳と謂う」と云えり。これ諦実不虚の法を道とし、之を得て失わざるを徳と為すの意にして、自ら儒士の説と異あるものというべし。又道宣の「集古今仏道論衡巻丙文帝詔令奘法師翻老子為梵文事の條」に、道の梵訳に関し道士と玄奘との間に論争せしことを記し、「諸の道士等一時に袂を挙げて曰わく、道を末伽と翻ずるは古訳を失す。昔は称す、菩提は此に謂いて道と為すと。未だ末伽を以って道と為すことを聞かざるなりと。奘曰わく、今は道徳と翻ず。敕を奉ずること軽からず、須らく方言を覈むるを乃ち伝旨と名づくべし。菩提は覚と言い、末伽は道と言う。唐梵の音義確爾として乖き難し、豈に浪翻して天聴を冒罔することを得んやと」とあり。これ梵語末伽 maarga は道の義なれば、之を老子の所謂道徳の語に配すべしと為すの意なり。又「弘明集巻1」、「無量寿経義疏巻下(慧遠)」、「辯正論巻2」、「輔教編巻上」等に出づ。<(望)◯正しい通路、又は正しい法を道(若しくは悟り)と呼び、その道を自己中に保持することを徳と呼ぶ( The correct path, or correct dharma, is called Way 道 (or 'enlightenment' ), and to keep the Way within oneself is called 'virtue' 德. )、梵語 guNa( good quality, virtue, merit ), dharma-prayaaya( The right way, manner, method of proceeding ), bodhi( perfect knowledge or wisdom, the illuminated or enlightened intellect ) 等の訳。
  利益(りやく):梵語 upakaara の訳。又梵語 hita。 一に饒益と云い、略して利又は益と称す。即ち仏道の法に由りて享受すべき福利效益を云う。「大品般若経巻2往生品」に、「菩薩摩訶薩は六波羅蜜に住し、常に勤精進して衆生を利益し、無益の事を説かず」と云い、「無量寿経巻上」に、「道教を光闡して群萌を拯わんと欲し、恵むに真実の利を以ってす」と云える其の例なり。蓋し利益には種種の別あり、「金光明最勝王経巻2分別三身品」に自利利他の二益を説き、「一切の諸仏は自他を利益して究竟に至る。自ら利益すとはこれ法如如なり、他を利益すとはこれ如如智なり。能く自他利益の事に於いて而も自在を得、種種無辺の用を成就するが故なり」と云い、「四分律巻38」には現世利益、後世利益の二種を分別し、「十地経論巻1」に菩薩の現報後報の二種の利益を説き「現報利益とは仏位を受くるが故なり、後報利益とは摩醯首羅智処に生ずるが故なり」と云い、「菩薩地持経巻5」、「梵網経巻下」には菩薩戒を受持するものは五種の福利を得、一に常に一切諸仏の為に念ぜられ、二に終る時其の心歓喜し、三に生生の処に於いて諸菩薩の友となり、四に功徳聚戒度悉く成就し、五に今後世に性戒成就すと云い、又「法華経玄義巻6下」に十妙を明かす中、本迹二門に各利益妙を立てて其の功徳利益を詳述し、「華厳経疏巻1」には聞経に見聞等の十種の益あることを明し、道綽の「安楽集巻下」には、念仏の行者に始益終益の二種の益ありとし、懐感の「釈浄土群疑論巻5」には西方浄土に受用清浄仏土等の三十種の益あることを説き、道鏡等の念仏鏡には、善導闍梨の念仏集の中に念仏の法に滅重罪障等の二十三種の利益あることを説ける等、利益に関する記述は甚だ多し。<(望)
復次若人欲自度身。尚當懃急精進。何況菩薩誓願欲度一切。 復た次ぎに、若し人、自ら身を度せんと欲せば、尚お当に懃め急ぎて精進すべし。何に況んや、菩薩の誓願して、一切を度せんと欲するをや。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
自らの、
『身』を、
『度そう(河を渡らせよう)!』と、
『思う!』ならば、
当然、
『懃め!』、
『急いで!』、
『精進しなくてはならない!』。
況して、
『菩薩』が、
『誓願』して、
『一切を度そう!』と、
『思うのであれば!』、
『尚更である!』。
如讚精進偈中說
 有人不惜身  智慧心決定 
 如法行精進  所求事無難 
 如農失懃修  所收必豐實 
 亦如涉遠路  懃則必能達 
 若得生天上  及得涅槃樂 
 如是之因緣  皆由精進力 
 非天非無因  自作故自得 
 誰有智慧人  而不自勉勵 
 三界火熾然  譬如大炎火 
 有智決斷人  乃能得免離 
 以是故佛告  阿難正精進 
 如是不懈怠  直至於佛道 
 勉強而懃修  穿地能通泉 
 精進亦如是  無求而不得 
 能如行道法  精進不懈者 
 無量果必得  此報終不失
精進を讃ずる偈中に説くが如し、
有る人は身を惜まず、智慧を心に決定し、
法の如く精進を行ずれば、所求の事に難無し。
農夫の懃修すれば、所収も必ず豊実なるが如く、
亦た遠路を渉るに、懃むれば則ち必ず能く達するが如し。
若し天上に生ずるを得て、及び涅槃の楽を得ば、
是の如きの因縁は、皆精進の力に由らん。
天に非ず無因に非ず、自ら作すが故に自ら得、
誰か智慧の人にして、自ら勉励せざるもの有らん。
三界の火の熾然たること、譬えば大炎火の如し、
有智決断の人なれば、乃ち能く免離するを得ん。
是を以っての故に仏は、阿難に正精進を告げたまわく、
是の如く懈怠せざれば、直ちに仏道に至らんと。
勉強して懃修して、地を穿てば能く泉に通ず、
精進も亦た是の如く、求めて得ざる無し。
能く道を行く法の如く、精進して懈らざれば、
無量の果を必ず得て、此の報は終に失われず。
例えば、
『精進』を、
『讃じた!』、
『偈』中に、こう説く通りである、――
有る、
『人』は、
『身』を、
『惜まず!』、
『智慧』を、
『心』に、
『決定させ!』、
『法の通り!』に、
『精進』を、
『行う!』ので、
『求めていた!』、
『事』も、
『容易である!』。
例えば、
『農夫』のように、
『勤勉に!』、
『修めれば!』、
『必ず!』、
『収穫』は、
『豊富であろう!』。
亦た、
『遠路』を、
『渉るときのように!』、
『勤勉ならば!』、
『必ず!』、
『到達できるだろう!』。
若し、
『天上』に、
『生れて!』、
『涅槃』という、
『楽すら!』、
『得られた!』とすれば、
是のような、
『因縁』は、
皆、
『精進』の、
『力による!』。
是のような、
『因縁』は、
『天』が、
『作ったのでもなく!』、
『因縁』が、
『無いのでもない!』、
自らが、
『作った!』が故に、
自らが、
『得たのである!』。
誰か、
『智慧の人』で、
自ら、
『勉励しない!』者が、
『有るだろうか?』。
『三界』の、
『煩悩の火』は、
譬えば、
『大炎火のように!』、
『熾然である!』が、
『有智の人』が、
決断すれば、
『なんとか!』、
『免れられるだろう!』。
是の故に、
『仏』は、
『阿難』に、
『正精進』を、
『こう教えられた!』、――
是のように、
『怠らなければ!』、
真直ぐ、
『仏の道』に、
『到達できるだろう!』、と。
『努力し!』、
『懃修して!』、
『地』を、
『穿てば!』、
『泉』に、
『通じることができるように!』、
『精進』も、
亦た、
是のように、
『求めて!』、
『得られない!』ことが、
『無い!』。
譬えば、
『道』を、
『行く!』、
『法のように!』、
『精進して!』、
『怠らなければ!』、
無量の、
『果』が、
『必ず!』、
『得られ!』、
此の、
『報』は、
『最後まで!』、
『失われない!』。
  所求(しょぐ):探し求めるもの。
  豊実(ぶじつ):豊かに実る。
  熾然(しねん):燃焼の猛烈なること。
  炎火(えんか):烈火。
  行道法(ぎょうどうほう):道を行く法。
  勉強(べんきょう):能力不足を強いて行うこと( do with difficulty; manage with an effort )。
  :農失は他本に従い農夫に改む。
復次精進法。是一切諸善法之根本。能出生一切諸道法乃至阿耨多羅三藐三菩提。何況於小利。 復た次ぎに、精進の法は、是れ一切の諸の善法の根本にして、能く一切の諸の道法を、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで出生す。何に況んや、小利に於いてをや。
復た次ぎに、
『精進』という、
『法』は、
一切の、
諸の、
『善法』の、
『根本であり!』、
一切の、
諸の、
『道法』を、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提』すら、
『出生することができる!』。
況して、
『小利』の、
『法』は、
『言うまでもない!』。
如毘尼中說。一切諸善法乃至阿耨多羅三藐三菩提。皆從精進不放逸生。 毘尼中に説くが如きは、『一切の諸善法は、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで、皆、精進と、不放逸より生ず』、と。
例えば、
『毘尼』中には、こう説いている、――
一切の、
諸の、
『善法』は、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提』すら、
皆、
『精進』と、
『不放逸』より、
『生じる!』、と。
  毘尼(びに):梵名 vinaya 、また毘奈耶、鼻那夜、毘那耶、鞞尼迦等に作り、律と訳す。三蔵の一。
  参考:『十誦律巻11』:『汝等當一心行不放逸法。何以故。乃至諸佛。皆從一心不放逸行。得阿耨多羅三藐三菩提。所有助道善法。皆以不放逸為本。』
復次精進能動發先世福德。如雨潤種能令必生此亦如是。雖有先世福德因緣。若無精進則不能生。乃至今世利尚不能得。何況佛道。 復た次ぎに、精進は、能く先世の福徳を動発すること、雨の種を潤せば、能く必ず生ぜしむるが如し。此れも亦た是の如く、先世の福徳の因縁有りと雖も、若し精進無ければ、則ち生ずる能わず。乃至今世の利すら、尚お得る能わざるに、何に況んや仏道をや。
復た次ぎに、
『精進』が、
『先世』の、
『福徳』を、
『発動することができる!』のは、
譬えば、
『雨』が、
『種』を、
『潤せば!』、
必ず、
『生じさせることができる!』のと、
『同じである!』。
此の、
『精進』も、
是のように、
『先世』に、
『福徳』の、
『因縁』が、
『有った!』としても、
若し、
『精進』が、
『無ければ!』、
是の、
『福徳』を、
『生じさせられず!』、
乃至、
『今世』の、
『利』すら、、
『得られない!』、
況して、
『仏』の、
『道』は、
『尚更である!』。
復次諸大菩薩荷負眾生。受一切苦乃至阿鼻泥犁中苦。心亦不懈。是為精進。 復た次ぎに、諸の大菩薩は、衆生を荷負して、一切の苦を、乃至阿鼻泥犁中の苦まで受くるに、心は亦た懈らず。是れを精進と為す。
復た次ぎに、
諸の、
『大菩薩』は、
『衆生』という、
『荷』を、
『背負って!』、
一切の、
『苦』を、
乃至、
『阿鼻地獄中の苦』すら、
『受ける!』のであるが、
『心』は、
まったく、
『怠ることがない!』。
是れが、
『精進である!』。
復次一切眾事。若無精進則不能成。譬如下藥以巴豆為主。若除巴豆則無下力。如是意止神足根力覺道必待精進。若無精進則眾事不辦。 復た次ぎに、一切の衆事は、若し精進無ければ、則ち成ずる能わず。譬えば、下薬は、巴豆を以って、主と為し、若し巴豆を除けば、則ち下力無きが如し。是の如く意止、神足、根、力、覚、道は、必ず精進を待ち、若し精進無ければ、則ち衆事辦ぜず。
復た次ぎに、
一切の、
『衆事(種種の仕事)』は、
若し、
『精進』が、
『無ければ!』、
『完成することができない!』。
譬えば、
『下薬(下剤)』は、
『巴豆』を、
『主とする!』ので、
若し、
『巴豆』を、
『除けば!』、
『下だす!』、
『力』が、
『無くなるようなものである!』。
是のように、
『四念処』や、
『四神足』や、
『五根』、
『五力』、
『七覚支』、
『八聖道分』などは、
必ず、
『精進』を、
『必要とし!』、
若し、
『精進』が、
『無ければ!』、
則ち、
『衆事』は、
『用をなさないのである!』。
  巴豆(はづ):学名 Croton tiglium Linnaeus。トウダイグサ科ハズ属の植物。巴蜀(四川省)に産し、その形の豆の如きが故に名づく。漢方薬に用いられ強力な峻下作用を有す。又「神農本草経下品」、「金匱要略」等に出づ。
  意止(いし):身念処、受念処、心念処、法念処の総称にして、また四念処、四念住、四意止とも称す。『大智度論巻15(下)注:四念処』参照。
  神足(じんそく):欲神足、念神足、勤神足、観神足の総称にして、また四神足、四如意足とも称す。『大智度論巻5(上)注:四如意足』参照。
  (こん):信根、精進根、念根、定根、慧根の総称にして、また五根とも称す。『大智度論巻15(下)注:五根』参照。
  (りき):信力、精進力、念力、定力、慧力の総称にして、また五力とも称す。『大智度論巻15(下)注:五力』参照。
  (かく):念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支の総称にして、また七覚分、七覚支とも称す。『大智度論巻3(下)注:七覚分』参照。
  (どう):正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定の総称にして、また八正道、八聖道分と称す。『大智度論巻3(下)注:八正道』参照。
  四念処(しねんじょ):梵語 catvaari smRty- upasthaanaani の訳。四種の念処の意。三十七菩提分法の一科。即ち自相共相を以って身受心法を観じ、浄楽常我の四顛倒を対治するを云う。又四念住、四意止、四止念、或は単に四念とも名づく。一に身念処 kaaya- smRty- upasthaana、二に受念処 vedanaa- smRty- upasthaana、三に心念処 citta- smRty- upasthaana、四に法念処 dharma- smRty- upasthaana なり。「長阿含巻13聚経」に、「云何が四法の涅槃に向うなる、謂わく四念処なり。身念処、受念処、意念処、法念処なり」と云い、「大智度論巻19」に、「何等かこれ四念処なる、答えて曰わく、身念処、受心法念処なり。これを四念処となす。四法を観ずるに四種あり、身は不浄なりと観じ、受はこれ苦なりと観じ、心は無常なりと観じ、法は無我なりと観ず。この四法に各四種ありと雖も、身は応に多く不浄なりと観じ、受は多く苦なりと観じ、心は多く無常なりと観じ、法は多く無我なりと観ずべし。何を以っての故に凡夫の人は未だ道に入らざる時、この四法中の邪行に四顛倒を起す、諸の不浄法の中に浄顛倒、苦の中に楽顛倒、無常の中に常顛倒、無我の中に我顛倒(を起す)。この四顛倒を破するが故にこの四念処を説く」と云い、又「倶舎論巻23」に、「已に修して勝奢摩他を成満するに依り、毘鉢舎那の為に四念住を修す。如何が四念住を修習するや、謂わく自と共との相を以って身受心法を観ず。身受心法の各別の自性を名づけて自相となす、一切の有為は皆非常の性なり、一切の有漏は皆これ苦の性なり。及び一切の法は空と非我との性なるを名づけて共相となす。身の自性とは大種と造色となり。受と心との自性は自の名に顕るるが如し。法の自性とは三を除きて余の法なり」と云えるこれなり。これ五停心位に於いて既に勝奢摩他を成満せしに依り、更に毘鉢舎那の為に自相共相を以って身受心法の四を観ずべきを明にせるなり。此の中、身念処とは又身念住とも名づく、即ち身の自相に就き不浄を観じ、又其の共相たる苦空非常非我の相を観じて浄顛倒を対治するを云う。受念処とは又受念住とも名づく、即ち欣求する所の楽受が却って苦を生ずる所以たるを観じ、又其の共相たる苦空等の相を観じて楽顛倒を対治するを云う。心念処とは又心念住とも名づく、能求の心の不住を観じ、又其の共相を観じて常倒を対治するを云う。法念処とは又法念住とも名づく、一切法は因縁所生にして自性あることなく、即ち無我なりと観じ、又其の共相を観じて我倒を対治するを云うなり。「倶舎論巻23」に、「此の四念住の説の次は生ずるに随う。生ずること復た何に縁りてか次第かくの如くなる。境の麁なる者に随って応に先づ観ずべきが故なり。或は諸の欲貪は身処に於いて転ず、故に四念住は身を観ずること初に在り。然るに身を貪するは楽受を欣うに由り、楽受を欣うは心の不調なるに由り、心の不調なるは惑の未だ断ぜざるに由る。故に受等を観ずること、かくの如く次第す。此の四念住は次の如く彼の浄楽常我の四種の顛倒を治す。故に唯四のみありて増ぜず減ぜず」と云えり。これ身は欲貪の転ずる所依なるが故に、先づ之を観じて不浄とし、身を貪することは楽受を欣うが為なるを以って、次ぎに受を観じて苦とし、楽受を欣うことは心の不調に由るものなるが故に、次ぎに心を観じて非常とし、心の不調なるは惑の未断に由るものなるが故に、次ぎに法を観じて非我となすことを説き、以って此の四が順次に浄楽常我の四倒を対治することを明したるなり。又此の中、四念住の体に各三あり、即ち自性念住と相雑念住と所縁念住となり。又性念処、共念処、縁念処とも名づく。就中、自性念住は聞思修の三慧を以って体となし、相雑念住は慧と所余の俱有とを以って体となし、所縁念住は慧の所縁の法即ち身受心法を以って体となす。又「倶舎論巻23」に依るに、四念処の中、初の三は唯雑縁せず、後の法念処は雑縁不雑縁に通ず。即ち唯法を観ずるを不雑縁と名づけ、身等に於いて二三或は四総じて観察するを名づけて雑縁となすとし、かくの如く雑縁法念住を熟修し四善根位に入ると云えり。又「大乗阿毘達磨雑集論巻10」に、「此の四種は其の次第の如く四諦に趣入す、亦修果と名づく。身念住に由りて苦諦に趣入す、所有の色身は皆行苦の相にして、麁重の所顕なるが故なり。この故に観行を修する時能く此の軽安を治す、身の差別に於いて生ずるが故なり。受念住に由りて集諦に趣入す、楽等の諸受はこれ和合愛等の所依処なるを以っての故なり。心念住に由りて滅諦に趣入す、我識を離れて当に所有なしと観じ、我断門を懼れ涅槃の怖を生ずること永く遠離するが故なり。法念住に由りて道諦に趣入す、所治の法を断ずるが為に能治の法を修するが為の故なり」と云えり。これ即ち四念処は順次に四諦に趣入することを説けるものなり。又「長阿含巻5闍尼沙経」、「増一阿含経巻11」、「坐禅三昧経巻下」、「法蘊足論巻5」、「大毘婆沙論巻96、巻186、巻187」、「雑阿毘曇心論巻5」、「瑜伽師地論巻29、巻30」、「順正理論巻60、巻71」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻34」、「四念処巻3」、「大乗義章巻16末」、「倶舎論光記巻23」等に出づ。<(望)
  五根(ごこん):梵語 paJca- indriyaaNi の訳。煩悩を伏し聖道を引くに於いて増上の用ある五種の根を云う。三十七覚分の一科。一に信根 zraddha- indriya、二に精進根 viirya- indriya、三に念根 smRti- indriya、四に定根 samaadhi- indriya、五に慧根 prajJa- indriyaなり。「雑阿含経巻26」に、「世尊、諸の比丘に告ぐ。五根あり、何等をか五と為す。謂わく信根、精進根、念根、定根、慧根なり。若し比丘、此の五根に於いて如実に善く観察し、如実に善く観察せば三結に於いて断知す。謂わく身見と戒取と疑となり。これを須陀洹と名づく。悪趣の法に堕せず、決定して正しく正覚に向い、七たび天人の往生あり、苦の辺を究竟す」と云えるこれなり。「倶舎論巻3」に、「清浄の中に於いて信等の五根は増上の用あり。所以は何ん、此の勢力に由りて諸の煩悩を伏して聖道を引くが故なり」と云い、「同巻25」に、「忍法位の中には必ず退堕せず、善根堅固にして増上の義を得。故に根増すと説く」と云えり。これ即ち此の五根は善根堅固にして、四善根の中の忍位に於いて増上の義あり。能く煩悩を伏して聖道を引くが故に立てて根と為すと云うの意なり。其の次第は先づ因果に於いて信心を起し、次ぎに果の為に、因を修するが故に精進を起し、次ぎに精進に由るが故に念所縁に住し、次ぎに念力持するが故に心即ち定を得。次ぎに心定を得るが故に能く実の如く知る。この故に信進念定慧の次第を立つと云えり。又此の五根は善根断の者は定んで成就せざる所なり。又「増一阿含経巻23、巻42」、「大毘婆沙論巻96」、「大智度論巻19」、「瑜伽師地論巻57」、「顕揚聖教論巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論巻10」、「順正理論巻9」、「成唯識論巻7」等に出づ。<(望)
  五力(ごりき):梵語paJca balaaniの訳。三十七道品の一科。即ち聖道を発生する五種の力用の意。一は信力 zraddhaa- bala、二は精進力 viirya- b.、三は念力 smRti- b.、四に定力 samaadhi- b.、五に慧力 prajJaa- b.なり。「雑阿含経巻26」に、「五力あり、何等をか五と為す。信力、精進力、念力、定力、慧力なり」と云えるこれなり。此の中、信力とは如来の所に於いて浄信を修植し、沙門、婆羅門、或は世間等の為に引奪せられざるを云い、精進力とは、已生の不善法に於いて永断の為の故に策励を生じ、乃至広く四種の正断を説くを云い、念力とは内身に於いて循身観に住し、乃至広く四種の念住を説くを云い、定力とは欲悪不善の法を離れ、乃至広く四種の静慮を説くを云い、慧力とは如実に此れはこれ苦聖諦なり、此れはこれ苦集聖諦なり、此れはこれ苦滅聖諦なり、此れはこれ趣苦滅道聖諦なりと了知するを云う。此の五を通じて力と名づくるに就きては多説あり、「大毘婆沙論巻141」に、此の五を亦五根と名づくるに対照し、能く善法を生ずるが故に根と名づけ、能く悪法を破するが故に力と名づく。有るが説く、傾動すべからざるを根と名づけ、能く他を摧伏するを力と名づく。有るが説く、勢用増上の義これ根なり、屈伏すべからざるの義これ力なり。若し位別を以ってすれば、下位を根と名づけ、上位を力と名づく。若し実義を以ってすれば、一一の位中に皆二種を具すと云えり。以って力と名づくる所以を知るべし。又五根の外に別に五力を立つるに関し、「大乗阿毘達磨雑集論巻10」に、所縁の境界自体等は根と相似たりと雖も、而も果に差別あり。即ち屈伏すべからざるの義あるが故に別に力分を立つと云えり。又之を信等と次第するは展転相生の義あるに由るなり。「倶舎論巻25」に、「何に縁りてか次第かくの如くなる。謂わく因果に於いて先づ信心を起して果の為に因を修し、次ぎに精進を起す、精進に由るが故に念所縁に住し、念力持するに由りて心便ち定を得、心に定を得るが故に能く実の如く知る。この故に信等はかくの如く次第す」と云える即ち其の意なり。又「雑阿含経巻24」、「集異門足論巻14」、「大智度論巻18、巻19」、「顕揚聖教論巻2」、「大乗義章巻16」、「法界次第初門巻中之下」等に出づ。<(望)
如戒唯在八道不在餘處。信在根力餘處則無。如精進者無處不有。既總眾法而別自有門。譬如無明使遍在一切諸使中。而別有不共無明。 戒の如きは、但だ八道のみに在りて、余の処に非ず。信は、根、力に在りて、余の処は則ち無し。精進の如きは、処として有らざる無く、既に総じて衆法にあるも、別に自ら門有り。譬えば、無明使は、一切の諸使中に遍在するも、別に不共無明有るが如し。
例えば、
『戒』は、
『八聖道』中には、
『在る!』が、
『他の処』には、
『存在しない!』し、
『信』ならば、
『五根』、
『五力』中には、
『在る!』が、
『他の処』には、
『存在しないのである!』が、
『精進』は、
『無い!』、
『処』が、
『無く!』、
『総じて!』、
『衆法』中に、
『有る!』が、
『別に!』、
『自らの門』も、
『有するのである!』。
譬えば、
『無明』という、
『使』は、
一切の、
諸の、
『使』中に、
『遍在する!』が、
別に、
『不共の無明』が、
『存在する!』のと、
『同じである!』。
  不共無明(ふぐうむみょう):貪瞋癡等種種の煩悩相応の無明を相応無明と称し、他より独立した無明を不共無明と称す。『大智度論巻15(下)注:無明』参照。
  無明(むみょう):梵語 a- vidyaa の訳。十二因縁の一。又無明支と名づく。癡に同じ。即ち事理に於いて愚にして之に了達せざる精神情態を云う。「雑阿含経巻12」に、「無明を縁として行あり、乃至純大苦聚集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚滅す」と云い、「長阿含巻10大縁経」に、「癡を縁として行あり」と云えるこれなり。これ無明は能く行の縁となり、乃至苦果あることを説けるものなり。無明の語義に関しては、「大毘婆沙論巻25」に、「問う、何が故に無明と名づくる、無明はこれ何の義なりや。答う、不達、不解、不了、これ無明の義なり。問う、若し爾らば無明を除きて所余の法も亦不達不解不了なり、何が故に無明と名づけざる。答う、若し不達不解不了にして愚癡を以って自相と為すものはこれ無明なり。余の法は爾らざるが故に無明に非ず」と云い、又「瑜伽師地論巻84」に、「無明とは所知の事に於いて善巧なること能わず、彼彼の処に於いて正しく了知せず」と云えり。これ不達不解不了にして、而も愚癡を以って其の自相となすものを無明と名づけたるなり。但し説一切有部に於いては、十二因縁は三世両重の因果を説けるものとし、其の中の無明は総じて過去の煩悩の位を指すものとなせり。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が無明なる、謂わく過去の煩悩の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「宿生の中に於ける諸の煩悩の位より今の果熟に至るまでを総じて無明と謂う。彼れと無明と俱時に行ずるが故に、無明の力に由りて彼れ現行するが故なり。王の行くに導従なきに非ざるも、王は但だ勝るるが故に総じて王行くと謂うが如し」と云える其の説なり。これ過去宿生中に於ける諸の煩悩の位より現在五果の熟するに至るまでを総じて無明支と名づけたるものにして、此の位中に諸の煩悩あるも、無明の用最も勝るるが故に無明の名を立つとなすの意なり。唯識大乗に於いては二世一重の説をなし、無明と行とを能引支と名づけ、其の中、正しく善悪の業を発起するものを取りて無明支となすと説くなり。「成唯識論巻8」に、「一に能引支とは謂わく無明と行となり、能く識等の五果の種を引くが故なり。此の中、無明は唯能く正しく後世を感ずる善悪の業を発する者のみを取る。即ち彼の所発を乃ち名づけて行と為す」と云える其の説なり。又無明には相応無明、不共無明の別あり、「大毘婆沙論巻18」に、「見苦所断に十の無明あり、七はこれ遍行なり、即ち五見と疑との相応及び不共無明なり。三は非遍行なり、即ち貪瞋慢相応の無明なり。見集所断に七の無明あり、四はこれ遍行なり、即ち二見と疑との相応及び不共無明なり。三は非遍行なり、即ち貪瞋慢相応の無明なり」と云い、又「瑜伽師地論巻58」に、「此の無明に総じて二種あり、一に煩悩相応の無明、二に独行の無明なり。愚癡なくして而も諸惑を起すに非ず、この故に貪等の余惑と相応する所有の無明を煩悩相応無明と名づく。若し貪等の諸の煩悩纏なく、但だ苦等の諸諦の境中に於いて不如理作意の力に由るが故に、鈍慧の士夫補特伽羅の諸の不如実簡択の覆障纏裹暗昧等の心所の性を独行無明と名づく」と云えり。これ貪等の諸惑と相応する無明を相応無明と名づけ、貪等と相応せず、但だ苦集滅道の四諦の境に於いて如実に簡択せず、覆障暗昧の性なるを名づけて独行の無明となせるものなり。又此の中、「勝鬘経」には相応無明を四住地煩悩と名づけ、独行の無明を無始無明明住地となせり。即ち彼の経一乗章に、「煩悩に二種あり、何等をか二となす、謂わく住地の煩悩及び起煩悩なり。住地に四種あり、何等をか四となす、謂わく見一処住地、欲愛住地、色愛住地、有愛住地なり。此の四種の住地は一切の起煩悩を生ず、起とは刹那の心と刹那に相応す。世尊、心不相応の無始無明住地あり、世尊、此の四住地の力は一切上煩悩の依種なるも、無明住地に比すれば算数譬喩の及ぶ能わざる所なり。(中略)かくの如く無明住地の力は有愛数の四住地に於いて其の力最も勝る。恒沙等の数の上煩悩の依にして、亦四種の煩悩をして久しく住せしむ。阿羅漢辟支仏の智の断ずる能わざる所、唯如来の菩提智の能く断ずる所なり」と云える其の説なり。これ見所断及び三界修所断の貪等と相応する無明を四住地の煩悩と名づけ、心不相応の独行不共の無明を無始無明住地となし、無明住地は一切煩悩の根本にして、唯如来の菩提智のみ能く之を断ずるものなることを明にせるなり。又「大乗起信論」に六染心を挙げ、前の執相応染、不断相応染、分別智相応染の三を相応とし、後の現色不相応染、能見心不相応染、根本業不相応染の三を不相応となせるも亦之と同義なるを見るべく、且つ彼の論に相応不相応の義を解し、「相応の義と言うは、謂わく心と念とは法異にして染浄差別するも、而も知相縁相同じきが故なり。不相応の義とは、謂わく心に即する不覚にして常に別異なく、知相縁相を同じくせざるが故なり」と云えり。これ相応無明は心に相応する無明なるが故に心と共に其の体別異あるも、不相応無明は心に即する不覚なるが故に二者別異なしとなすの意なり。蓋し此の殺は元と華厳の三界一心作の説に基づく所にして、即ち「旧華厳経巻25十地品」に、「又この念を作す、如実に第一義を知らざるが故に無明あり、無明より起こる業これを行と名づく。(中略)又この念を作す、三界は虚妄して但だこれ心の作なり。十二縁分はこれ皆心に依る」とあり。これ三界十二縁起の相は但だ心の所作なることを明せるものにして、起信唯識等の教義は皆之に依憑して起これるなり。就中、今起信論に不相応無明を心に即する不覚となせるは、此の経中の所謂心を以って阿梨耶識となし、而して又此の識を真妄和合となせるに由るものにして、即ち阿梨耶識を無明の依止となすの意なり。然るに唯識家に於いては阿梨耶識を無覆無記の異熟識とし、第七阿陀那識を執識と名づけ、無明は即ち阿陀那識を以って其の依止となすなり。「梁訳摂大乗論釈巻1」に、「此の無明は若し依止を離れば則ち有ることを得ず、此の無明の依止は若し阿陀那識を離れば別体あることなし」と云い、又「大乗義章巻3末八識義」に、「阿陀那とは此の方に正翻して名づけて無解となす、体はこれ無明癡闇の心なるが故なり」と云える即ちこれなり。また「成唯識論巻5」には、不共無明に恒行不共、独行不共の二種ありとし、独行不共は余識にも有りと雖も、恒行不共は独り第七末那識にのみ有り、此の無明は無始以来恒行して真義智を障うるが故に恒行と名づくとし、同じく亦第七識を其の体となすと云えり。要するに無明は癡闇の性にして、其の体即ち癡と別なし。故に婆沙等には之を貪等と共に十使、九結、四暴流、三漏、三不善根等の一となせるも、諸経に亦十二因縁の第一として説くが故に、随って之を以って生老病死の本元、一切煩悩の根本となし、又共不共の二種の中、不共独行を無明の正体とし、之を他の見修所断の相応諸煩悩と区別し、即ち諸諦の第一義を覆障する元初の迷妄にして、唯如来の菩提智のみ能く断ずるものとなすに至れるなり。又「長阿含巻1大本経」、「大毘婆沙論巻38」、「大智度論巻43」、「成実論巻9」、「瑜伽師地論巻64」、「十地経論巻8」、「倶舎論巻19」、「順正輪論巻25」等に出づ。<(望)



精進の利、懈怠の罪

問曰。菩薩欲得一切佛法。欲度一切眾生。欲滅一切煩惱。皆得如意。云何增益。精進而能得佛。譬如小火不能燒大林。火勢增益能燒一切。 問うて曰く、菩薩は、一切の仏法を得んと欲し、一切の衆生を度せんと欲し、一切の煩悩を滅せんと欲して、皆意の如きを得。云何が増益して精進し、能く仏を得る。譬えば、小火なれば、大林を焼く能わざるも、火勢増益すれば、能く一切を焼くが如しや。
問い、
『菩薩』は、
一切の、
『仏法』を、
『得よう!』と、
『思っても!』、
一切の、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思っても!』、
一切の、
『煩悩』を、
『滅しよう!』と、
『思っても!』、
皆、
『意のまま!』に、
『得られる!』のに、
何故、
益々、
『精進して!』、
そして、
『仏(菩提)』を、
『得ることができるのですか?』。
譬えば、
『小火』では、
『大林』を、
『焼くことができなくても!』、
『火勢』が、
『増益すれば!』、
一切を、
『焼くことができる!』のと、
『同じなのですか?』。
答曰。菩薩從初發心作誓願。當令一切眾生得歡樂。常為一切不自惜身。若惜身者於諸善法不能成辦。以是故增益精進。 答えて曰く、菩薩は初発心より、心に誓願を作すらく、『当に一切の衆生をして、歓楽を得しめ、常に一切の為に、自ら身を惜まざるべし。若し身を惜まば、諸の善法に於いて、成辦する能わず』、と。是を以っての故に、増益して精進するなり。
答え、
『菩薩』は、
『初めて!』、
『心』を、
『発した!』時より、
『心』に、
『誓願』を、こう作している、――
一切の、
『衆生』に、
『歓楽』を、
『得させる!』には、
常に、
『一切』の為に、
自ら、
『身』を、
『惜んではならない!』。
若し、
『身』を、
『惜めば!』、
諸の、
『善法』を、
『完成することができないのだから!』、と。
是の故に、
益々、
『精進するのである!』。
復次菩薩種種因緣呵懈怠心。令樂著精進。懈怠黑雲覆諸明慧。吞滅功德增長不善。懈怠之人。初雖小樂後則大苦。譬如毒食。初雖香美久則殺人。 復た次ぎに、菩薩は種種の因縁に、懈怠の心を呵して、精進に著するを楽しましむ。懈怠の黒雲は、諸の明慧を覆うて、功徳を呑滅し、不善を増長し、懈怠の人は、初には、小楽ありと雖も、後には則ち大苦あればなり。譬えば毒を食えば、初には香美なりと雖も、久しくすれば則ち人を殺すが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
種種の、
『因縁』に於いて、
『懈怠』の、
『心』を、
『呵責して!』、
『精進』に、
『著する!』のを、
『楽しませる!』が、
『懈怠』の、
『黒雲』が、
諸の、
『明慧』を、
『覆って!』、
『功徳』を、
『呑滅して!』、
『不善』を、
『増長するからであり!』。
『懈怠の人』は、
初には、
『少しばかり!』、
『楽しむ!』が、
後になれば、
『大いに!』、
『苦しむからである!』。
譬えば、
『毒』を、
『食えば!』、
初には、
『香美であった!』としても、
久しくすれば、
『人』を、
『殺すようなものである!』。
懈怠之心燒諸功德譬如大火燒諸林野。懈怠之人失諸功德。譬如被賊無復遺餘。 懈怠の心の、諸の功徳を焼くこと、譬えば、大火の諸の林野を焼くが如く、懈怠の人の、諸の功徳を失うこと、譬えば賊を被れば、復た遺余無きが如し。
『懈怠の心』が、
諸の、
『功徳』を、
『焼く!』のは、
譬えば、
『大火』が、
諸の、
『林野』を、
『焼くようなものであり!』、
『懈怠の人』が、
諸の、
『功徳』を、
『失う!』のは、
譬えば、
『賊』の、
『害』を、
『被れば!』、
もう、
何も、
『残らない!』のと、
『同じである!』。
如偈說
 應得而不得  已得而復失 
 既自輕其身  眾人亦不敬 
 常處大闇中  無有諸威德 
 尊貴智慧法  此事永以失 
 聞諸妙道法  不能以益身 
 如是之過失  皆由懈怠心 
 雖聞增益法  不能得上及 
 如是之過罪  皆由懈怠心 
 生業不修理  不入於道法 
 如是之過失  皆由懈怠心 
 上智所棄遠  中人時復近 
 下愚為之沒  如豬樂在溷 
 若為世中人  三事皆廢失 
 欲樂及財利  福德亦復沒 
 若為出家人  則不得二事 
 生天及涅槃  名譽二俱失 
 如是諸廢失  欲知其所由 
 一切諸賊中  無過懈怠賊 
 以是眾罪故  懶心不應作 
 馬井二比丘  懈怠墜惡道 
 雖見佛聞法  猶亦不自免
偈に説くが如し、
応に得べくして得ず、已に得て復た失う、
既に自ら其の身を軽んずれば、衆人も亦た敬わず。
常に大闇中に処すれば、諸の威徳有ること無し、
尊貴なる智慧の法、此の事は永く以って失えり。
諸の妙なる道法を聞くも、以って身を益する能わず、
是の如きの過失は、皆懈怠の心に由る。
増益の法を聞くと雖も、上り得て及ぶ能わず、
是の如き過罪は、皆懈怠の心に由る。
生業を修理せずして、道法に入らず、
是の如きの過失は、皆懈怠の心に由る。
上智の棄てて遠ざかる所も、中人は時に復た近づき、
下愚は之に没せられて、猪の溷に在りて楽しむが如し。
若し世中の人と為れば、三事を皆廃失して、
欲楽及び財利と、福徳も亦復た没せん。
若し出家人と為れば、則ち二事を得ずして、
生天及び涅槃と、名誉の二を倶に失わん。
是の如き諸の廃失の、其の所由を知らんと欲すれば、
一切の諸賊中に、懈怠に過ぎたる賊は無し。
是の衆罪を以っての故に、懶心を応に作すべからず、
馬と井との二比丘は、懈怠にして悪道に墜ち、
仏を見、法を聞けりと雖も、猶お亦た自ら免れず。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『得るはず!』のものを、
『得ず!』、
『得た!』ものを、
『復た!』、
『失う!』、
既に、
自らの、
『身』を、
『軽んじた!』者は、
亦た、
『他人』にも、
『敬われない!』。
常に、
『大闇』中に、
『処在する!』者には、
諸の、
『威徳など!』、
『有るはずがない!』、
『尊貴すべき!』、
『智慧』という、
『法』も、
是の故に、
『永久に!』、
『失われる!』。
諸の、
『妙なる!』、
『道の法』を、
『聞きながら!』、
其れすら、
『身』を、
『益することはない!』、
是のような、
『過失』は、
皆、
『懈怠の心』が、
『起こすのだ!』。
『増益する!』、
『法』を、
『聞いた!』としても、
『天』に、
『上って!』、
『到達することはできない!』、
是のような、
『過罪』は、
皆、
『懈怠の心』が、
『起こすのだ!』。
『生業(生活)』の、
『理』を、
『修めず!』、
『道』の、
『法』にも、
『入らない!』、
是のような、
『過失』は、
皆、
『懈怠の心』が、
『起こすのだ!』。
『上智』の、
『棄てて!』、
『遠ざける!』所も、
『中人』は、
『時に!』、
『近づき!』、
『下愚』は、
『豚』が、
『溷(かわや)』で、
『遊ぶように!』、
其の中に、
『没する!』。
若し、
『世間』中の、
『人』が、
『懈怠すれば!』、
『布施』や、
『持戒』や、
『忍辱』という、
『三事』を、
皆、
『廃失(廃棄)して!』、
『欲楽』や、
『財利』や、
『福徳』も、
亦た、
『没失するだろう!』。
若し、
『出家』の、
『人』が、
『懈怠すれば!』、
『禅定』と、
『智慧』という、
『二事』を、
『得られず!』、
『生天、乃至涅槃』と、
『名誉』という、
『二事』を、
『どちらも!』、
『失うだろう!』。
是のような、
諸の、
『廃失』の、
『理由』を、
『知ろうとする!』ならば、
一切の、
『諸賊』中に、
『懈怠の賊』に、
『過ぎた賊』は、
『無いのだ!』。
是の、
『多くの罪』の故に、
『怠惰な!』、
『心』を、
『起こしてはならない!』。
例えば、
『馬宿』や、
『井宿』のように、
『懈怠して!』、
『悪道』に、
『墮ちれば!』、
『仏を見て!』、
『法を聞いた!』としても、
もはや、
『自ら!』を、
『免れさせることはできない!』。
  (ちょ):豚。猪はブタ、豚は子ブタを指す。
  (ごん):豚小屋、便所。かわや。
  懈怠(けたい):ものうくして怠ける。精進に対す。
  (め)、(せい):仏弟子の馬宿、井宿(満宿)を指す。皆六群比丘の一。『大智度論巻10(上)注:六群比丘』参照。
  生業(しょうごう):◯梵語 upapatii- saMvartaniiya- karman の訳、具現化する業( particularizing karma )、来世の生に関し、例えば性格、智慧、地位等の詳細なる諸縁を決定する業、或いは満業、別報業に同じ。六道の別を分けるが如き一般的な縁を決定する引業( aakSepakaM- karma )に対す( The karma that determines precise conditions in one's rebirth, such as one's personality, level of intelligence, social status, and so forth; same as 滿業 and 別報業, which contrast with directive karma 引業, which determines more general conditions, such as the species into which one is born. )、此の業は、一般的に欲望から生じるものとされ、一方、引業は無明/無智より生じるものとされている( This karma is generally understood as being produced from desire, whereas directive karma is produced from ignorance. )。◯梵語 karma, karman の訳、生計を立てる仕事( The work that one does to make a living; one's livelihood )。
  修理(しゅり):梵語 pratisaMskAraNa, pratisaMskR の訳。修復する( To repair; to fix something that is broken )の義。
  懶心(らんしん):嬾心に同じ。怠惰な心。
如是等種種。觀懈怠之罪精進增長。 是の如き等の種種に、懈怠の罪を観て、精進増長す。
是れ等のように、
種種に、
『懈怠』の、
『罪過』を、
『観て!』、
『精進』を、
『増進させるのである!』。
復次觀精進之益。今世後世佛道涅槃之利皆由精進。 復た次ぎに、精進の益を観るは、今世、後世の仏道、涅槃の利は、皆精進に由ればなり。
復た次ぎに、
『精進』の、
『利益』を、
『観てみれば!』、
『今世、後世』の、
『仏道』や、
『涅槃』の、
『利』は、
皆、
『精進』より、
『生じるのである!』。
復次菩薩知一切諸法皆空無所有。而不證涅槃。憐愍眾生集諸善法。是精進波羅蜜力。 復た次ぎに、菩薩は、一切の諸法は、皆空にして、無所有なるを知りて、而も涅槃を証せず、衆生を憐愍して、諸の善法を集む、是れ精進波羅蜜の力なり。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
こう知りながら、――
一切の、
諸の、
『法』は、
皆、
『空であり!』、
『無所有である!』、と。
而も、
『涅槃』を、
『証することなく!』、
『衆生』を、
『憐愍して!』、
諸の、
『善法』を、
『集める!』のは、
是れは、
『精進』という、
『波羅蜜』の、
『力である!』。
復次菩薩一人獨無等侶。以精進福德力故。能破魔軍及結使賊得成佛道。既得佛道。於一切諸法一相無相其實皆空。而為眾生說諸法種種名字種種方便。度脫眾生老病死苦。將滅度時以法身。與彌勒菩薩摩訶薩迦葉阿難等。然後入金剛三昧。自碎身骨令如芥子。以度眾生而不捨精進力。 復た次ぎに、菩薩は一人にして、独り等侶無く、精進の福徳の力を以っての故に、能く魔軍、及び結使の賊を破りて、仏道を成ずるを得、既に仏道を得れば、一切の諸法に於いて、一相無相にして、其の実は、皆空なるも、衆生の為に、諸法の種種の名字を説き、種種に方便して、衆生を老病死の苦より度脱し、将に滅度せんとする時には、法身を以って、弥勒菩薩摩訶薩、迦葉、阿難等に与え、然る後に金剛三昧に入りて、自ら身骨を砕き、芥子の如くならしめて、以って衆生を度して、精進の力を捨てず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『一人であり!』、
独り、
『等侶』も、
『無い!』が、
『精進』という、
『福徳』の、
『力』を、
『用いる!』が故に、
『魔軍』や、
『結使の賊』を、
『破って!』、
『仏』の、
『道』を、
『完成することができ!』、
既に、
『仏』の、
『道』を、
『完成した!』ならば、
一切の、
諸の、
『法』は、
『一相であり!』、
『無相であり!』、
其の、
『実』は、
皆、
『空である!』が、
『衆生』の為に、
『諸の法』の、
種種の、
『名字』を、
『説き!』、
種種の、
『方便』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『老病死の苦』より、
『度脱し!』、
将(まさ)に、
『滅度しようとする!』時には、
『法身(法宝)』を
『弥勒菩薩摩訶薩、迦葉、阿難』等に、
『与え!』、
その後、
『金剛三昧』に、
『入り!』、
自ら、
『身の骨』を、
『砕いて!』、
『芥子のようにし!』、
其れで、
『衆生』を、
『度するのである!』が、
而し、
『精進』という、
『力』を、
『捨てることはない!』。
  等侶(とうりょ):同じ仲間。等類。
  魔軍(まぐん):即ち欲、憂愁、飢渇、渇愛、睡眠、怖畏、疑悔、瞋恚、利養虚称、自高蔑人等を云う。『大智度論巻15上注:偈』参照。
  法身(ほっしん):仏所説の正法。『大智度論巻5下注:法身』参照。
  金剛三昧(こんごうさんまい):最後に一切の煩悩を断ずるに、究竟の果を得る三昧。『大智度論巻4上注:金剛三昧』参照。
復次如阿難。為諸比丘說七覺意。至精進覺意。佛問阿難。汝說精進覺意耶。阿難言說精進覺意。如是三問三答。佛即從坐起告阿難。人能愛樂修行精進。無事不得得至佛道終不虛也。如是種種因緣。觀精進利而得增益。 復た次ぎに、阿難の如きは、諸の比丘の為に、七覚意を説いて、精進覚意に至るに、仏の阿難に問いたまわく、『汝は、精進覚意を説けりや』、と。阿難の言わく、『精進覚意を説けり』、と。是の如く三たび問うて、三たび答うるに、仏の、即ち坐より起ちて阿難に告げたまわく、『人は、能く愛楽して、精進を修行すれば、事として得ざる無く、仏道に至るまで得て、終に虚しからず』、と。是の如き種種の因縁に、精進の利を観て、増益を得。
復た次ぎに、
例えば、
『阿難』が、
諸の、
『比丘』の為に、
『七覚意』を、
『説いて!』、
『精進覚意』を、
『説く!』に、
『至る!』と、
『仏』は、
『阿難』に、こう問われた、――
お前は、
『精進覚意』を、
『説いたのか?』、と。
『阿難』は、こう言った、――
『精進覚意』を、
『説きました!』、と。
是のように、
『仏』が、
『三たび!』、
『問われて!』、
『阿難』が、
『三たび!』、
『答えた!』時、
『仏』は、
『坐』より、
『起たれて!』、
『阿難』に、こう告げられた、――
『人』は、
『精進』を、
『愛し!』、
『楽しみながら!』、
『修行すれば!』、
『獲得できない!』、
『事』は、
『無い!』、
『仏の道』に、
『至るまで!』、
『獲得して!』、
『終りまで!』、
『虚しくはないのだ!』、と。
是のような、
種種の、
『因縁』に、
『精進』の、
『利』を、
『観れば!』、
『精進』を、
『増益することができる!』。
  七覚意(しちかくい):また七覚支、七覚分と称す。覚意を念、択法、精進、喜、軽安、定、捨七種に分類す。『大智度論巻3(下)注:七覚分』参照。
  参考:『雑阿含経巻27(727):『如是我聞。一時。佛在力士聚落人間遊行。於拘夷那竭城希連河中間住。於聚落側告尊者阿難。令四重襞疊敷世尊鬱多羅僧。我今背疾。欲小臥息。尊者阿難即受教敕。四重襞疊敷鬱多羅僧已。白佛言。世尊。已四重襞疊敷鬱多羅僧。唯世尊知時。爾時。世尊厚襞僧伽梨枕頭。右脅而臥。足足相累。繫念明相。正念正智。作起覺想。告尊者阿難。汝說七覺分。時。尊者阿難即白佛言。世尊。所謂念覺分。世尊自覺成等正覺。說依遠離.依無欲.依滅.向於捨。擇法.精進.喜.猗.定.捨覺分。世尊自覺成等正覺。說依遠離.依無欲.依滅.向於捨。佛告阿難。汝說精進耶。阿難白佛。我說精進。世尊。說精進。善逝。佛告阿難。唯精進。修習多修習。得阿耨多羅三藐三菩提。說是語已。正坐端身繫念。時。有異比丘即說偈言 樂聞美妙法  忍疾告人說  比丘即說法  轉於七覺分  善哉尊阿難  明解巧便說  有勝白淨法  離垢微妙說  念.擇法.精進.  喜.猗.定.捨覺  此則七覺分  微妙之善說  聞說七覺分  深達正覺味  身嬰大苦患  忍疾端坐聽  觀為正法王  常為人演說  猶樂聞所說  況餘未聞者  第一大智慧  十力所禮者  彼亦應疾疾  來聽說正法  諸多聞通達  契經阿毘曇  善通法律者  應聽況餘者  聞說如實法  專心黠慧聽  於佛所說法  得離欲歡喜  歡喜身猗息  心自樂亦然  心樂得正受  正觀有事行  厭惡三趣者  離欲心解脫  厭惡諸有趣  不集於人天  無餘猶燈滅  究竟般涅槃  聞法多福利  最勝之所說  是故當專思  聽大師所說  異比丘說此偈已。從座起而去』
如是精進。佛有時說為欲。或時說精進。有時說不放逸。譬如人欲遠行。初欲去時是名為欲。發行不住是為精進。能自勸勵不令行事稽留。是為不放逸。以是故知欲生精進。精進生故不放逸。不放逸故能生諸法。乃至得成佛道。 是の如き精進を、仏は、有る時には、『欲と為す』と説き、或る時には、『精進』と説き、有る時には、『不放逸なり』と説きたまえり。譬えば、人の遠く行かんと欲すに、初めて去らんと欲する時に、是れを名づけて、欲と為し、発(た)ち行きて、住まらざる、是れを精進と為し、能く自ら勧励して、行事をして稽留せざらしむ、是れを不放逸と為すが如し。是を以っての故に知る、欲は、精進を生じ、精進生ずるが故に放逸ならず、放逸ならざるが故に、能く諸法を生じて、乃至仏道を成ずるを得、と。
是のような、
『精進』を、
『仏』は、
有る時には、
『欲である!』と、
『説かれ!』、
有る時には、
『精進だ!』と、
『説かれ!』、
有る時には、
『不放逸だ!』と、
『説かれた!』。
譬えば、
『人』が、
『遠くへ!』、
『行こうとする!』時、
『初めて!』、
『去ろう!』、
『思った!』時、
是れを、
『欲』と、
『呼び!』、
『発()った!』後、
『行きながら!』、
『住まらない!』、
是れを、
『精進』と、
『呼び!』、
自らを、
『勧め!』、
『励まして!』、
『行く!』という、
『事』を、
『停滞させない!』ならば、
是れを、
『不放逸』と、
『呼ばれたのである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『欲』が、
『精進』を、
『生じるのであり!』、
『精進』が、
『生じた!』が故に、
『不放逸であり!』、
『不放逸である!』が故に、
諸の、
『法』を、
『生じることができ!』、
乃至、
『仏の道』まで、
『完成することができる!』、と。
  勧励(かんれい):すすめはげます。
  稽留(けいる):とどこおる。とどまる。
復次菩薩欲脫生老病死亦欲度脫眾生。常應精進一心不放逸。如人擎油缽行大眾中。現前一心不放逸故大得名利。又如偏閣嶮道若懸繩若乘山羊。此諸惡道以一心不放逸故。身得安隱。今世大得名利。求道精進亦復如是。若一心不放逸所願皆得。 復た次ぎに、菩薩は、生老病死を脱れんと欲し、亦た衆生を度脱せんと欲すれば、常に応に精進、一心、不放逸なるべし。人の油の鉢を擎(かか)げて、大衆中を行くが如く、一心と、不放逸とを現前するが故に、大いに名利を得。又偏閣、嶮道を若しは縄を懸け、若しは山羊に乗るに、此の諸の悪道も、一心と不放逸を以っての故に、身に安隠を得て、今世に大いに名利を得るが如く、道を求むるに、精進するも亦復た是の如く、若し一心にして、不放逸なれば、所願を皆得るなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『生老病死』を、
『脱れよう!』と、
『思い!』、
亦た、
『衆生』を、
『度脱しよう!』と、
『思えば!』、
『常に!』、
『精進して!』、
『一心であり!』、
『不放逸でなければならない!』。
譬えば、
『人』が、
『油』の、
『鉢』を、
『擎(かか)げて!』、
『大衆』中を、
『行く!』時、
『一心』と、
『不放逸』とを、
『現前にして!』、
『行く!』が故に、
『大いに!』、
『名利』を、
『得るようなものである!』。
又、
『偏閣(桟道)』や、
『嶮道』を、
『縄』を、
『懸けたり!』、
『山羊』に、
『乗ったりして!』、
『行く!』時、
此の、
『諸の悪道』を、
『一心』と、
『不放逸』とを、
『用いて!』、
『行く!』が故に、
『今世』に、
『大いに!』、
『名利』を、
『得るように!』、
『道』を、
『求めて!』、
『精進する!』のも、
亦復た、
是のように、
若し、
『一心』と、
『不放逸』とを、
『用いれば!』、
『願う!』所が、
皆、
『得られるのである!』。
  現前(げんぜん):呈示される( to be manifested )、◯梵語 pratyakSa の訳、眼前に現れる/見える/知覚できる( present before the eyes, visible, perceptible; )、明瞭/明白/直接的/実際的/現実的( clear, distinct, manifest, direct, immediate, actual, real; )、視界に留める/識別する( keeping in view, discerning; )、視覚的証拠/直接的知覚/感覚による理解( ocular evidence, direct perception, apprehension by the senses; )等の義。◯梵語 abhimukha 阿毘目佉, pratyutpanna 般舟 の訳、立つ/現れる( To arise, appear. )の義。人の前に現れる/人の眼前に現れる( To appear in front of one; to appear before one's eyes. )の意。◯梵語 agrataH, agratas の訳、前に( In front; before one; in presence of )の義。何ものかに於いて、其れ自体が、其の有るがままに現れる( For something to appear as it is in itself )の意。
  偏閣(へんかく):桟道。
  嶮道(けんどう):崖道の如く危険な道。
復次譬如水流能決大石。不放逸心亦復如是。專修方便。常行不廢。能破煩惱諸結使山。 復た次ぎに、譬えば、水流の能く大石を決するが如く、不放逸の心も亦復た是の如し。専ら方便を修めて、常に行じて廃せざれば、能く煩悩と、諸の結使の山を破る。
復た次ぎに、
譬えば、
『水流』が、
『大石』を、
『断裂するように!』、
『不放逸』の、
『心』も、
是のように、
専ら、
『方便』を、
『修めて!』、
常に、
『行』を、
『廃しない!』ことで、
『煩悩』という、
諸の、
『結使』の、
『山』を、
『破壊するのである!』。
  (けつ):断裂( break )。
復次菩薩有三種思惟。若我不作不得果報。若我不自作不從他來。若我作者終不失。如是思惟當必精進。為佛道故懃修專精而不放逸。 復た次ぎに、菩薩には、三種の思惟有り、『若し、我れ作さずんば、果報を得ざらん』、『若し、我れ自ら作さずんば、他より来たらざらん』、『若し、我れ作さば、終に失われざらん』、と。是の如く思惟すれば、当に必ず精進し、仏道の為の故に、懃修専精して、不放逸なるべし』。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『三種』に、
こう思惟する、――
若し、
わたしが、
『作さなければ!』、
『果報』は、
『得られないだろう!』。
若し、
わたしが、
『自ら!』、
『作さないのであれば!』、
『他より!』、
『来なかっただろう!』。
若し、
わたしが、
『作せば!』、
終に、
『失うことはないだろう!』。
是のように
思惟すれば、――
必ず、
『精進して!』、
『仏の道』の為に、
『懃修し!』、
『専精し!』、
『不放逸のはずである!』。
  懃修(ごんしゅ):梵語 abhiyoga の訳、勤勉/精力的努力/粉骨砕身/堅忍/絶え間なき実践( application; energetic effort, exertion, perseverance in, constant practice)の義。
  専精(せんしょう):梵語 tiivra の訳、強力な/厳格な/猛烈な/熱烈な( strong, severe, violent, intense )の義、梵語精力を集中させる/悟りを得る為に全勢力を集中して修行する( to focus one's energies; To fully focus one's mind in practice (toward the attainment of enlightenment) )の意。
如一小阿蘭若。獨在林中坐禪而生懈怠。林中有神是佛弟子。入一死屍骨中。歌舞而來。說此偈言
 林中小比丘  何以生懈廢 
 晝來若不畏  夜復如是來
一小阿蘭若の如きは、独り林中に在りて坐禅し、而も懈怠を生ぜり。林中の有る神は、是れ仏弟子なれば、一死屍の骨中に入りて歌舞し、来たりて此の偈を説いて言わく、
林中の小比丘、何を以ってか懈廃を生ずる、
昼に来たりて若し畏れずんば、夜も亦た是の如く来たらん。
例えば、
『阿蘭若(空閑処)』の、
『一小比丘』などは、
独り、
『林』中に、
『坐禅していた!』が、
『懈怠』を、
『生じた!』。
『林』中の、
有る、
『神』は、
『仏』の、
『弟子であった!』ので、
『一死屍』の、
『骨』中に、
『入る!』と、
『歌舞しながら!』、
『来て!』、
此の、『偈』を説いた、――
『林』中の、
『小比丘』は、
何故、
『懈怠』と、
『廃退』の、
『心』を、
『生じるのか?』。
『昼』に、
『来た!』時、
『畏れていなければ!』、
『夜』にも、
『復た!』、
『来よう!』、と。
  阿蘭若(あらんにゃ):梵語 araNya、山林、曠野と訳し、坐禅に適する空閑処を云う。『大智度論巻3(上)注:阿蘭若』参照。
  参考:『阿育王経巻10』:『鬼因緣  爾時摩偷羅國有一善男子。於優波笈多所出家。多喜睡眠。優波笈多為其說法。將至林中。在一樹下坐禪。而復睡眠。時優波笈多為令其畏。化作一鬼而有七頭。當其前手捉樹枝身懸空中。比丘見已即便驚覺生大怖畏。即從坐起還其本處。優波笈多令還坐禪處。時彼比丘白言和上彼林中有一鬼七頭。當我前手捉樹枝懸在空中。此甚可畏。優波笈多言。比丘。此鬼不足畏。睡眠之心是最可畏。若比丘為鬼所殺不入生死。若為睡眠所殺則生死無窮。比丘即還坐禪之處復見此鬼。畏此鬼故不敢睡眠。是時比丘精進思惟得阿羅漢果。乃至取籌置石室中』
是比丘驚怖起坐內自思惟。中夜復睡。是神復現十頭口中出火牙爪如劍眼赤如炎。顧語將從捉此懈怠比丘。此處不應懈怠。何以故爾。 是の比丘の驚怖して坐より起ち、内に自ら思惟すらく、『中夜に、復た睡らば、是の神、復た十頭の、口中より火を出し、牙爪は剣の如く、眼の赤きこと炎の如きを現して、将従を顧みて語らん、此の懈怠の比丘を捉えよ、此の処は、応に懈怠すべからざるに、何を以っての故にか、爾ると』、と。
是の、
『比丘』は、
『驚き!』、
『怖れて!』、
『坐』より、
『起つ!』と、
『内心』中に、
自ら、こう思惟した、――
『中夜』に、
復た、
『睡ってしまえば!』、
是の、
『神』は、
復た、
『十頭』を、
『現すだろう!』、――
『口』中より、
『火』を、
『出しながら!』、
『牙』と、
『爪』とは、
『剣のようだ!』、
『眼』は、
『赤くて!』、
『炎のようだ!』。
そして、
『将官』と、
『従者』を、
『顧みて!』、
こう語るだろう、――
此の、
『懈怠』の、
『比丘』を、
『捉えよ!』、
此の、
『処』は、
『懈怠すべきでない!』のに、
何故、
『懈怠したのだ?』と、と。
  将従(しょうじゅう):将官と従者。
  参考:『法句譬喩経巻1』:『昔佛在羅閱祇耆闍崛山中。時城內有婬女人。名曰蓮華。姿容端正國中無雙。大臣子弟莫不尋敬。爾時蓮華善心自生。欲棄世事作比丘尼。即詣山中就到佛所。未至中道有流泉水。蓮華飲水澡手。自見面像容色紅輝頭髮紺青。形貌方正挺特無比。心自悔曰。人生於世形體如此。云何自棄行作沙門。且當順時快我私情。念已便還。佛知蓮華應當化度。化作一婦人端正絕世。復勝蓮華數千萬倍尋路逆來。蓮華見之心甚愛敬。即問化人從何所來。夫主兒子父兄中外皆在何許。云何獨行而無將從。化人答言從城中來欲還歸家。雖不相識寧可共還。到泉水上坐息共語不。蓮華言善。二人相將還到水上。陳意委曲。化人睡來枕蓮華膝眠。須臾之頃忽然命絕。[月*逢]脹臭爛腹潰蟲出。齒落髮墮肢體解散。蓮華見之心大驚怖。云何好人忽便無常。此人尚爾我豈久存。故當詣佛精進學道。即至佛所五體投地。作禮已訖具以所見向佛說之。佛告蓮華。人有四事不可恃怙。何謂為四。一者少壯會當歸老。二者強健會當歸死。三者六親聚歡娛樂會當別離。四者財寶積聚要當分散。於是世尊即說偈言 老則色衰  所病自壞  形敗腐朽  命終其然  是身何用  洹漏臭處  為病所困  有老死患  嗜欲自恣  非法是增  不見聞變  壽命無常  非有子恃  亦非父兄  為死所迫  無親可怙  蓮華聞法欣然解釋。觀身如化命不久停。唯有道德泥洹永安。即前白佛願為比丘尼。佛言善哉頭髮自墮。即成比丘尼。思惟止觀即得羅漢。諸在坐者聞佛所說莫不歡喜』
是比丘大怖即起思惟。專精念法得阿羅漢道。是名自強精進不放逸力能得道果。 是の比丘の大怖して即ち起ちて思惟し、専精して法を念じ、阿羅漢道を得たり。是れを自ら強いて精進し、不放逸の力もて、能く道果を得と名づく。
是の、
『比丘』は、
大いに、
『怖れて!』、
即座に、
『起きる!』と、
『思惟し!』、
『専精して!』、
『法』を、
『念じた!』ので、
『阿羅漢』という、
『道』を、
『得た!』。
是れを、
こう称するのである、――
自ら、
『強いて!』、
『精進すれば!』、
『不放逸の力』で、
『道の果』を、
『得ることができる!』と。
復次是精進不自惜身而惜果報。於身四儀坐臥行住常懃精進。寧自失身不廢道業。譬如失火以瓶水投之。唯存滅火而不惜瓶。 復た次ぎに、是の精進は、自ら身を惜まずして、果報を惜む。身の四義なる坐臥行住に於いて、常に懃めて精進し、寧ろ自ら身を失うとも、道業を廃せざること、譬えば、火を失するに、瓶水を以って之に投じ、但だ火を滅することに存して、瓶を惜まざるが如し。
復た次ぎに、
是の、
『精進』とは、
自ら、
『身』を、
『惜まない!』が、
而し、
『果報』は、
『惜むのである!』。
『身』の、
『四威儀である!』、
『坐、臥、行、住』に於いて、
常に、
『懃めて!』、
『精進すれば!』、
寧ろ、
『身』を、
『失った!』としても、
『道の業』を、
『廃止しないのである!』。
譬えば、
『失火』には、
『瓶』の、
『水』を、
『投じることになる!』が、
唯だ、
『火』が、
『消える!』ことのみを、
『心配して!』、
『瓶』を、
『惜まない!』のと、
『同じである!』。
  (そん):本義:生存;存在[ live, exist ]/慰労,慰問[ comfort, console, soothe]/訪問,問候[ visit, express regards and concern for]/撫育,保護[foster, nurture, protect]/思念;懷念[ miss ]/関心, 関懐[ concern ]/儲存,保存,保全[store, preserve]
如仙人師教弟子說偈言
 決定心悅豫  如獲大果報 
 如願事得時  乃知此最妙
仙人師の弟子を教えて、偈を説いて言うが如し、
心を決定して悦予すること、大果報を獲るが如くせば、
願事の如く得る時にして、乃ち此の最妙なるを知らん。
例えば、
『仙人の師』は、
『弟子』に、
『教える!』時、
『偈』を、
『説いて!』、こう言う、――
『心』を、
『決定したら!』、
『大果報』を、
『得たように!』、
『悦楽せよ!』、
『願い事』が、
『叶った!』時、
ようやく、
此れが、
『最妙であった!』と、
『知ることだろう!』、と。
  悦予(えつよ):悦び楽しむ。悦楽。
如是種種因緣。觀精進之利。能令精進增益。 是の如き種種の因縁に、精進の利を観て、能く精進をして増益せしむ。
是のように、
種種の、
『因縁』に、
『精進の利』を、
『観察して!』、
『精進』を、
『増益させるのである!』。
復次菩薩修諸苦行。若有人來求索頭目髓腦盡能與之。而自念言。我有忍辱精進智慧方便之力受之尚苦。何況愚騃三塗眾生。我當為此眾生故。懃修精進早成佛道而度脫之
大智度論卷第十五
復た次ぎに、菩薩は、諸の苦行を修するに、若し有る人来たりて、頭目、髄脳を求索せば、尽く能く之を与え、而も自ら念じて言わく、『我れに、忍辱、精進、智慧、方便の力有れども、之を受くれば、尚お苦なり。何に況んや、愚騃なる三塗の衆生をや。我れは当に、此の衆生の為の故に、懃修精進して、早かに仏道を成じ、之を度脱すべし』、と。
大智度論巻第十五
復た次ぎに、
『菩薩』は、
諸の、
『苦行』を、
『修める!』が、
若し、
有る、
『人』が来て、
『頭、目』や、
『髄、脳』を、
『求索すれば!』、
『尽く!』を、
『与えることができ!』、
而も、
自ら、
『念じて!』、こう言うだろう、――
わたしには、
『忍辱』や、
『精進』や、
『智慧』や、
『方便』の、
『力』が、
『有る!』が、
此の、
『要求』を、
『受ければ!』、
やはり、
『苦しい!』、
況して、
『愚騃な!』、
『三塗の衆生』は、
『尚更であろう!』。
わたしは、
此の、
『衆生』の為に、
『懃修し!』、
『精進して!』、
早かに、
『仏』の、
『道』を、
『完成させ!』、
此の、
『衆生』を、
『度脱しなければならない!』、と。

大智度論巻第十五
  愚騃(ぐがい):癡呆にして事理を知らざること。癡呆の人。


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