問曰。云何觀諸法實相。 |
問うて曰く、云何が、諸法の実相を観る。 |
|
答曰。觀知諸法無有瑕隙。不可破不可壞是為實相。 |
答えて曰く、諸法には、瑕隙有ること無く、破すべからず、壊すべからざる、是れを実相と為すと観知す。 |
答え、
諸の、
『法』には、
『瑕( きず)』も、
『隙( すきま)』も、
『無く!』、
『破ることもできず!』、
『壊すこともできない!』と、
『観て!』、
是れが、
|
瑕隙(げげき):きずとすきま。 |
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問曰。一切語皆可答可破可壞。云何言不可破壞是為實相。 |
問うて曰く、一切の語は、皆答うべく、破すべく、壊すべし。云何が、『破壊すべからざる、是れを実相と為す』、と言う。 |
問い、
一切の、
『語( 論説)』は、
皆、こう言っている、――
諸の、
『法』は、
『答えることができ!』、
『破ることができ!』、
『壊すことができる!』、と。
何故、こう言うのですか?――
|
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答曰。以諸法不可破故。佛法中一切言語道過。心行處滅常不生不滅。如涅槃相。何以故。若諸法相實有不應無。若諸法先有今無。則是斷滅。 |
答えて曰く、諸法は破すべからざるを以っての故に、仏法中には、一切の言語の道を過ぎ、心行の処滅して、常に不生不滅なること涅槃の相の如し。何を以っての故に、若し諸法は相実に有らば、応に無なるべからず。若し諸法、先に有り、今無ければ、則ち是れ断滅なり。 |
答え、
諸の、
『法』が、
『破られない!』が故に、
『仏法』中には、
一切の、
『法』は、
『言語』の、
『道』を、
『過ぎて!』、
『心行( 思考)』の、
『処(場)』が、
『滅し!』、
常に、
『涅槃の相のように!』、
『不生不滅なのである!』。
何故ならば、
若し、
諸の、
『法』は、
『相』が、
『実に!』、
『有った!』とすれば、
『法』が、
『無いはずがなく!』、
若し、
諸の、
『法』が、
先に、
『有った!』が、
今は、
『無い!』とすれば、
是れは、
『断滅だからである!』。
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復次諸法不應是常。何以故。若常則無罪無福無所傷殺。亦無施命亦無修行利益亦無縛無解。世間則是涅槃。如是等因緣故。諸法不應常。 |
復た次ぎに、諸法は、応に是れ常なるべからず。何を以っての故に、若し常なれば、則ち無罪、無福にして傷殺する所無く、亦た命を施すこと無く、亦た修行の利益無く、亦た無縛、無解にして、世間は則ち是れ涅槃なればなり。是の如き等の因縁の故に、諸法は応に常なるべからず。 |
復た次ぎに、
諸の、
何故ならば、
若し、
『常ならば!』、
『罪』も、
『福』も、
『傷つけられる!』者も、
『殺される!』者も、
『無く!』、
亦た、
『命』を、
『施す!』ということも、
『無く!』、
亦た、
亦た、
故に、
『世間』は、
『涅槃となるからである!』。
是れ等の、
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若諸法無常。則是斷滅亦無罪無福亦無增損。功德業因緣果報亦失。如是等因緣故。諸法不應無常。 |
若し諸法は無常なれば、則ち是れ断滅にして、亦た無罪無福、亦た増損無ければ、功徳の業、因縁、果報も亦た失わる。是の如き等の因縁の故に、諸法は応に無常なるべからず。 |
若し、
諸の、
『法』が、
『無常』ならば、
是れは、
『断滅であり!』、
『罪』も、
『福』も、
『無く!』、
『憎』も、
『損』も、
『無く!』、
故に、
『功徳』の、
『業』も、
『因縁』も、
『果報』も、
亦た、
『失われる!』。
是れ等の、
|
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問曰。汝言佛法中常亦不實無常亦不實。是事不然。何以故。佛法中常亦實無常亦實。常者數緣盡非數緣盡。虛空不生不住不滅故。是常相。無常者。五眾生住滅故無常相。汝何以言常無常皆不實。 |
問うて曰く、汝が言わく、『仏法中には、常も亦た実ならず、無常も亦た実ならず』とは、是の事は然らず。何を以っての故に、仏法中には、常も亦た実、無常も亦た実なり。常とは、数縁尽、非数縁尽、虚空は不生、不住、不滅なるが故に、是れ常相なり。無常とは、五衆は生、住、滅の故に無常相なり。汝は何を以ってか、『常、無常は皆実ならず』、と言う。 |
問い、
お前は、
こう言うが、――
『仏法』中には、
『常』も、
『実でなく!』、
『無常』も、
『実でない!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『仏法』中には、
『常』も、
『実であり!』、
『無常』も、
『実だからだ!』。
『常』とは、
『数縁尽』や、
『非数縁尽』や、
『虚空』という、
『無為法』は、
『不生であり!』、
『不住であり!』、
『不滅である!』が故に、
是れは、
『常相だからである!』。
『無常』とは、
『五衆』は、
『生』や、
『住』や、
『滅』という、
『相である!』が故に、
『無常である!』。
お前は、
|
数縁尽(しゅえんじん):また択滅無為と称し、智慧の縁により涅槃に入るを云う。『大智度論巻15(上)注:択滅、大智度論巻31(上)注:三無為』参照。
非数縁尽(ひしゅえんじん):また非択滅無為と称す、智慧に依らず阿羅漢の証果等に依る相似の涅槃を云う。『大智度論巻31(上)注:三無為』参照。
虚空(こくう):涅槃以外の無為。『大智度論巻31(上)注:三無為』参照。 |
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答曰。聖人有二種語。一者方便語。二者直語。方便語者。為人為因緣故。為人者為眾生說。是常是無常。 |
答えて曰く、聖人には、二種の語有り。一には方便の語、二には直語なり。方便の語とは、人の為に因縁を為さんが故なり。人の為とは、衆生の為に、是れは常、是れは無常と説きたもう。 |
答え、
『聖人( 仏)』の、
『語( 言説)』には、
『二種』有り、
一には、
『方便の語であり!』、
二には、
『直接の語である!』。
『方便の語』とは、
『人の為』に、
『道』の、
『因縁となるからである!』。
『人の為』とは、
『衆生』の為に、
こう説かれたからである、――
是れは、
『常である!』とか、
是れは、
『無常である!』と。
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如對治悉檀中說。若說無常。欲拔眾生三界著樂。佛思惟。以何令眾生得離欲。是故說無常法。如偈說
若觀無生法 於生法得離
若觀無為法 於有為得離 |
対治悉檀中に説けるが如く、若し無常と説けば、衆生の三界の楽に著するを抜かんと欲したまえばなり。仏の思惟したまわく、『何を以ってか、衆生をして、欲を離るるを得しめん』、と。是の故に、無常の法を説きたもう。偈に説くが如し、
若し無生の法を観ずれば、生法に於いて離るるを得、
若し無為の法を観ずれば、有為に於いて離るるを得。
|
例えば、
『対治悉檀』中に説いたように、――
若し、
『無常』と、
『説かれた!』ならば、
『衆生』を、
其の、
『著する!』、
『三界の欲』から、
『抜こうとされたからである!』。
『仏』は、こう思惟された、――
何のようにすれば、
『衆生』に、
『欲』を、
『離れさせられるのか?』、と。
是の故に、
『無常』という、
『法』を、
『説かれたのである!』。
例えば、
『偈』に説く通りである、――
若し、
『無生』という、
『法』を、
『観た!』ならば、
『生』という、
『法』を、
『離れられるだろう!』。
若し、
『無為』という、
『法』を、
『観た!』ならば、
『有為』という、
『法』を、
『離れられるだろう!』、と。
|
対治悉檀(たいじしっだん):四悉檀の一。常見を破らんが為の故に空を説いて教え、断見を破らんが為の故に有門を説くが如き、彼此の執を対治せんが為に、種種の法を説いて、以って破執の益を成就す。なお悉檀(梵語
siddhaanta )は、成就と訳す。<(丁)『大智度論巻1(上)』参照。 |
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云何生生名因緣和合。無常不自在屬因緣。有老病死相欺誑相破壞相。是名生生。則是有為法。 |
云何が生なる。生を因縁和合は無常にして、自在ならずと名づく。因縁に属すれば、老病死の相、欺誑の相、破壊の相有り。是れを生と名づく。生なれば、則ち是れ有為法なり。 |
何を、
『生というのか?』、――
『生』とは、こういうことである――
『因縁』の、
『因縁』に、
『属すれば!』、
『老病死の相』や、
『欺誑の相』や、
『破壊の相』が、
『有る!』が、
是れを、
『生』と、
『称する!』。
『生』とは、
則ち、
『有為法である!』。
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如對治悉檀說。常無常非實相。二俱過故。若諸法非有常非無常。是為愚癡論。所以者何。若非有則破無。若非無則破有。若破此二事更有何法可說。 |
対治悉檀に説くが如き、常無常は実相に非ず。二は倶に過なるが故なり。若し諸法が非有常非無常なれば、是れを愚癡の論と為す。所以は何んとなれば、若し非有なれば、則ち無を破り、若し非無なれば、則ち有を破ればなり。若し此の二事を破れば、更に何法の説くべきか有らん。 |
例えば、
『対治悉檀』に、こう説いている、――
『常』や、
『無常』は、
『実相ではない!』。
『二』は、
『どちらも!』、
『過(あやまち)だからである!』。
若し、
諸の、
『法』が、
『有でもなく!』、
『無でもない!』とすれば、
是れは、
『愚癡の論である!』。
何故ならば、
若し、
『有でなければ!』、
『無』を、
『破ったのであり!』、
若し、
『無でなければ!』、
『有』を、
『破ったからである!』。
若し、
此の、
更に、
何のような、
『法』が、
『有って!』、
『説くことができるのか?』。
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問曰。佛法常空相中。非有非無。空以除有空。空遮無。是為非有非無。何以言愚癡論。 |
問うて曰く、仏法は常に、空相中に非有非無なり。空を以って、有を除き、空空は無を遮る。是れを非有非無と為す。何を以ってか、愚癡の論と言う。 |
問い、
『仏法』は、
常に、
『空相』中に、
『非有であり!』、
『非無である!』。
則ち、
『空』を、
『空空』を、
是れが、
『非有非無である!』。
何故、
|
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答曰。佛法實相不受不著。汝非有非無受著故。是為癡論。若言非有非無。是則可說可破。是心生處是鬥諍處。 |
答えて曰く、仏法は実相を受けず、著せず。汝は非有非無を受けて著せるが故に、是れを癡論と為す。若し非有非無と言わば、是れ則ち説くべく、破すべくして、是れ心の生処、是れ闘諍の処なり。 |
答え、
『仏法』は、
『実相』を、
『受容することもなく!』、
『著することもない!』。
お前は、
『非有非無』を、
『受容して!』、
『著する!』が故に、
是れは、
『愚癡の論である!』。
若し、
こう言うならば、――
『非有非無だ!』と、
是れは、
『説くこともできる!』し、
『破ることもできる!』ので、
是れは、
『心行の生処であり!』、
『闘諍の処でもある!』。
|
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|
佛法則不然。雖因緣故說非有非無。不生著。不生著則不可壞不可破。諸法若有邊若無邊若有無邊若非有無邊。若死後有去若死後無去若死後有去無去若死後非有去非無去。是身是神身異神異亦如是皆不實。於六十二見中。觀諸法亦皆不實。 |
仏法は則ち然らず、因縁故に、非有非無を説くと雖も、著を生ぜず。著を生ぜざれば、則ち壊すべからず、破すべからず。諸法の若しは有辺、若しは無辺、若しは有無辺、若しは非有無辺、若しは死後の有去、若しは死後の無去、若しは死後の有去無去、若しは死後の非有去非無去、是の身は是れ神なり、身に異なり神に異なり、亦た是の如きは皆、実にあらず。六十二見中に於いて、諸法を観るも、亦た皆実にあらず。 |
『仏法』とは、
そうでなく!、
有る、
『因縁』の故に、
『非有非無』を、
『説いた!』としても、
『著』を、
『生じることはない!』。
『著』を、
『生じなければ!』、
『壊すこともできず!』、
『破ることもできない!』。
諸の、
『法』は、
『有辺である!』、
『無辺である!』、
『有無辺である!』、
『非有無辺である!』、
『死後』に、
『去法が有る!』、
『去法は無い!』、
『去法が有るし、去法は無い!』、
『去法は有るでもなく、無いでもない!』、
是の、
是の、
是れ等も、
『六十二見』中に於いて、
諸の、
『法』を、
『観れば!』、
亦た、
皆、
『実ではない!』。
|
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|
如是一切除卻。信佛法清淨不壞相。心不悔不轉。是名法忍。 |
是の如く、一切を除却して、仏法の清浄なる不壊相を信じ、心に悔いず、転じざる、是れを法忍と名づく。 |
是のように、
一切の、
『法』を、
『除き!』、
『去って!』、
『仏法』の、
『清浄な!』、
『不壊の相』を、
『信じ!』、
『心』が、
『悔いることもなく!』、
『転じることもなければ!』、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
|
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|
復次有無二邊。觀諸法生時住時則為有見相。觀諸法老時壞時則為無見相。三界眾生多著此二見相。是二種法虛誑不實。 |
復た次ぎに、有無の二辺とは、諸法の生時と住時とを観るを、則ち有見相と為し、諸法の老時と壊時とを観るを、則ち無見相と為す。三界の衆生は、多く、此の二見相に著す。是の二種の法は虚誑にして不実なり。 |
復た次ぎに、
『有、無の二辺』とは、――
諸の、
『法』の、
『生時』と、
『住時』とを、
『観る!』のが、
『有見相(非実の有相)であり!』、
諸の、
『法』の、
『老時』と、
『壊時』とを、
『観る!』のが、
『無見相(非実の無相)である!』。
『三界の衆生』は、
多く、
是の、
『二種の法』は、
『虚誑であり!』、
『実でない!』。
|
|
|
|
|
若實有相則不應無。何以故。今無先有則墮斷中。若斷是則不然。 |
若し実に有相なれば、則ち応に無なるべからず。何を以っての故に、今無にして、先に有なれば、則ち断中に堕す。若し断なれば、是れ則ち然らず。 |
若し、
何故ならば、
今、
『無であり!』、
先に、
『有であれば!』、
『断』中に、
『堕ちるからである!』。
若し、
『断ならば!』、
是れは、
『間違っていることになる!』。
|
|
|
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|
復次一切諸法。名字和合故謂之為有。以是故。名字和合所生法不可得。 |
復た次ぎに、一切の諸法は、名字の和合の故に、之を謂いて、有と為す。是を以っての故に、名字の和合所生の法は不可得なり。 |
復た次ぎに、
一切の、
諸の、
『法』は、
『名字』の、
『和合であり!』、
故に、
『有る!』と、
『謂うのである!』。
是の故に、
『名字の和合』に、
『生じさせられた!』、
『法』は、
『認められない!』。
|
|
|
|
|
問曰。名字所生法雖不可得。則有名字和合。 |
問うて曰く、名字の所生の法は、不可得なりと雖も、則ち名字の和合有り。 |
問い、
『名字』に、
『生じさせられた!』、
『法』は、
『認められない!』としても、
『名字』の、
『和合』は、
『有る!』。
|
|
|
|
|
答曰。若無法。名字為誰而和合。是則無名字。 |
答えて曰く、若し法無くんば、名字は、誰が為に和合する。是れ則ち名字無し。 |
答え、
若し、
『法』が、
『無ければ!』、
『名字』は、
『誰の為に!』、
『和合するのか?』、
是れは、
『名字』も、
『無いということだ!』。
|
|
|
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|
復次若諸法實有。不應以心識故知有。若以心識故知有。是則非有。如地堅相。以身根身識知故有。若無身根身識知則無堅相。 |
復た次ぎに、若し諸法実に有れば、応に心識を以っての故に有るを知るべからず。若し心識を以っての故に有るを知れば、是れ則ち有に非ず。地の堅相の如きは、身根と身識とを以って知るが故に有り。若し身根と身識の知ること無ければ、則ち堅相も無し。 |
復た次ぎに、
若し、
諸の、
『法』が、
『心識』を、
『用いる!』が故に、
『有る!』と、
『知るはずがない!』。
若し、
『心識』を、
『用いる!』が故に、
『有る!』と、
『知る!』とすれば、
是れは、
『有るのではない!』。
譬えば、
『地』は、
『堅相である!』が、――
若し、
『身根』と、
『身識』とで、
『知る!』ということが、
『無ければ!』、
則ち、
『堅相』も、
『無いことになる!』。
|
|
|
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|
問曰。身根身識若知若不知。而地常是堅相。 |
問うて曰く、身根、身識若しは知り、若しは知らざるも、地は常に是れ堅相なり。 |
問い、
『身根』や、
『身識』が、
『知っていても!』、
『知っていなくても!』、
『地』は、
『常に!』、
『堅相です!』。
|
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答曰。若先自知有堅相。若從他聞則知有堅相。若先不知不聞則無堅相。 |
答えて曰く、若し、先に自ら、堅相有るを知る、若しは、他より聞きて、則ち堅相有るを知れば、若し、先に知らず、聞かざれば、則ち堅相無し。 |
答え、
若し、
若しは、
他より、
『聞いて!』、
『堅相』が、
『有る!』と、
『知った!』とすれば、
若し、
先に、
自ら、
『知ることもなく!』、
『聞くこともなければ!』、
則ち、
『堅相』は、
『無いことになる!』。
|
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|
復次地若常是堅相。不應捨其相。如凝酥蠟蜜樹膠。融則捨其堅相墮濕相中。金銀銅鐵等亦爾。如水為濕相。寒則轉為堅相。如是等種種悉皆捨相。 |
復た次ぎに、地、若し常に是れ堅相なれば、応に其の相を捨つべからず。凝酥、蝋蜜、樹膠の如きは、融くれば則ち其の堅相を捨てて、湿相中に堕し、金銀、銅鉄等も亦た爾り。水を湿相と為すが如きも、寒ければ則ち転じて堅相と為る。是の如き等の種種は悉く、皆相を捨つ。 |
復た次ぎに、
『地』が、
常に、
『堅相ならば!』、
其の、
『相』を、
『捨てるはずがない!』が、
例えば、
『凝酥( チーズ)』、
『蝋蜜( ミツロウ)』、
『樹膠( マツヤニ)』は、
『融ければ!』、
其の、
『堅相』を、
『捨てて!』、
『湿相』中に、
『堕ちる!』ように、
『金、銀、銅、鉄』等も、
亦た、
是の通りである。
例えば、
『水』は、
『湿相だ!』と、
『思われている!』が、
『寒ければ!』、
『堅相』に、
『転じる!』。
是れ等の、
|
|
|
|
|
復次諸論議師輩。有能令無。無能令有。諸賢聖人坐禪人。能令地作水水作地。如是等諸法皆可轉。如十一切入中說。 |
復た次ぎに、諸の論議師の輩は、有を能く無ならしめ、無を能く有ならしむ。諸の賢聖の人、坐禅人は、能く地をして水と作し、水をして地と作す。是の如き等の諸法の、皆転ずべきこと、十一切入中に説くが如し。 |
復た次ぎに、
諸の、
『論議師の輩』は、
『有』を、
『無にすることができ!』、
『無』を、
『有にすることができる!』が、
諸の、
『賢聖の人』や、
『坐禅の人』は、
『地』を、
『水』に、
『作したり!』、
『水』を、
『地』に、
『作すことができる!』。
是れ等のように、
|
十一切入(じゅういっさいにゅう):地、水等十種の物を一切処に観る定。又十一切処とも云う。
十一切処(じゅういっさいじょ):巴梨 kasiNaayatana の訳。一切の万有を総合し、一対象と為してこれを観る一種の定。その方法に十種有り、即ち地、水、火、風、青、黄、赤、白、空、識なり。もし水想に住すれば、則ち万有自身に、皆流動の観を成す。また十禅支、十徧処定、十一切処等と称す。<(丁)『大智度論巻11(上)注:十徧処、巻21(上)十一切処』参照。 |
|
|
|
復次是有見。為貪欲瞋恚愚癡結縛鬥諍故生。若有生此欲恚等處。是非佛法。何以故。佛法相善淨故。以是故非實。 |
復た次ぎに、是の有見は、貪欲、瞋恚、愚癡、結縛、闘諍の為の故に生ぜらる。若し有にして、此の欲、恚等の処に生ぜば、是れ仏法に非ず。何を以っての故に、仏法の相は、善浄なるが故に、是を以っての故に実に非ざればなり。 |
復た次ぎに、
是の、
『有見( 非実の有)』は、
『貪欲、瞋恚、愚癡、結縛、闘諍』の為の故に、
『生じる!』が、
若し、
『有( 実の有)』が、
此の、
『貪欲、瞋恚等の処(心)』中に、
『生じる!』とすれば、
是れは、
『仏法ではない!』。
何故ならば、
『仏法』中の、
『相』は、
『善浄(空)である!』が故に、
是の、
『有』は、
『実でないからである!』。
|
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復次一切法有二種。色法無色法。色法分析乃至微塵散滅無餘。如檀波羅蜜品破施物中說。 |
復た次ぎに、一切の法には、二種有り、色法と無色法なり。色法の、乃至微塵まで分析すれば、散滅して無余なること、檀波羅蜜品破施物中に説けるが如し。 |
復た次ぎに、
一切の、
『法』には、
『二種』有り、
『色法』と、
『無色法である!』が、
『色法』は、
乃至、
『微塵』まで、
『分析すれば!』、
『散滅して!』、
『何も残らない!』。
例えば、
『檀波羅蜜品』の、
『破施物』中に、
『説かれている通りである!』。
|
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無色法五情所不知故。意情生住滅時觀故。知心有分。有分故無常。無常故空。空故非有。 |
無色法は、五情の知らざる所なるが故に、意情の生、住、滅時を観るが故に、心に分有るを知る。分有るが故に無常なり、無常なるが故に空なり、空なるが故に、有に非ず。 |
『無色法』は、
『五情( 眼耳鼻舌身)』の、
『知らない!』、
『法である!』が故に、
『意情』が、
『法』の、
『生、住、滅時』を、
『観る!』が故に、
『心』に、
『分( =無色法)』が、
『有る!』と、
『知る!』が、
『分』が
『有る!』が故に、
『無常であり!』、
『無常である!』が故に、
『空であり!』、
『空である!』が故に、
『有ではない!』。
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彈指頃有六十時。一一時中心有生滅。相續生故。知是貪心是瞋心是癡心是信心清淨智慧禪定心。 |
弾指の頃に六十時有り、一一の時中、心に生滅有り、相続して生ずるが故に、是れ貪心なり、是れ瞋心なり、是れ癡心なり、是れ信心、清浄、智慧、禅定心なりと知る。 |
『弾指の頃( あいだ)』に、
『六十時』が、
『有り!』、
一一の、
『時』中に、
『心』の、
『生、滅』が、
『有って!』、
『無色法』が、
『相続して!』、
『生じる!』ので、
故に、こう知ることになる、――
是れは、『貪心である!』、
是れは、『瞋心である!』、
是れは、『癡心である!』、
是れは、『信心である!』、
是れは、『清浄、智慧、禅定心である!』、と。
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行者觀心生滅。如流水燈焰。此名入空智門。何以故。若一時生餘時中滅者。此心應常。何以故。此極少時中無滅故。若一時中無滅者。應終始無滅。 |
行者は心の生滅を観るに、流水、灯焔の如し。此れを空智の門に入ると名づく。何を以っての故に、若し一時に生じて、余時中に滅すれば、此の心は応に常なるべし。何を以っての故に、此の極少時中に滅無きが故なり。若し一時中に滅無ければ、応に終始滅無かるべし。 |
『行者』が、
『心』の、
『生、滅』を、
『観る!』と、
まるで、
『流水か!』、
『灯焔のようである!』ので、
此れを、
『空智の門に入る!』と、
『称する!』。
何故ならば、
若し、
『一時』に、
『生じて!』、
『他の時』に、
『滅した!』とすれば、
此の、
何故ならば、
此の、
『極少時』中に、
『滅』が、
『無いからである!』。
若し、
『一時』中に、
『滅』が、
『無ければ!』、
『終始』、
『滅』は、
『無いはずである!』。
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復次佛說有為法皆有三相。若極少時中生而無滅者是為非有為法若極少時中心生住滅者。何以但先生而後滅。不先滅而後生。 |
復た次ぎに、仏の説きたまわく、『有為法には、皆、三相有り』、と。若し極少時中に、生じて、滅無ければ、是れを有為法に非ずと為す。若し極少時中の心に生、住、滅あれば、何を以ってか、但だ先に生じて、後に滅し、先に滅して、後に生ぜざる。 |
復た次ぎに、
『仏』は、こう説かれた、――
若し、
『極少時』中に、
『生じて!』、
『滅』が、
『無ければ!』、
是れは、
『有為法ではない!』。
若し、
『極少時』中に、
『心』が、
『生じ!』、
『住し!』、
『滅する!』ならば、
何故、
『心』は、
但だ、
『先に!』、
『生じて!』、
『後に!』、
『滅する!』のみで、
『先に!』、
『滅して!』、
『後に!』、
『生じないのか?』。
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復次若先有心後有生。則心不待生。何以故。先已有心故。若先有生則生無所生。 |
復た次ぎに、若し先に心有りて、後に生有らば、則ち心は生を待たず。何を以っての故に、先に已に心有るが故なり。若し先に生有れば、則ち生には、生ずる所無し。 |
復た次ぎに、
若し、
先に、
後に、
則ち、
『心』は、
『生』を、
『待たないことになる!』。
何故ならば、
若し、
先に、
則ち、
『生』を、
『生じた!』者が、
『無い!』、
誰が、
『生』を、
『生じたのか?』。
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又生滅性相違。生則不應有滅。滅時不應有生。以是故一時不可得。異亦不可得。是即無生。若無生則無住滅。 |
又生、滅の性相違すれば、生は、則ち応に滅有るべからず、滅時には、応に生有るべからず。是を以っての故に、一時なるも不可得なり。異なるも亦た不可得なり。是れ即ち生無し。若し生無ければ、則ち住滅無し。 |
又、
『生』と、
『滅』とは、
『性』が、
『相違する!』ので、
『生時』には、
『滅』が、
『有るはずがない!』し、
『滅時』には、
『生』が、
『有るはずがない!』。
是の故に、
『生』と、
『滅』とは、
『一時』に、
『有る!』というのも、
『容認できない!』し、
『異時』に、
『有る!』というのも、
『容認できない!』、
是れは、
『生』が、
『無いからである!』。
若し、
『生』が、
『無ければ!』、
則ち、
『住、滅』も、
『無いことになる!』。
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若無生住滅則無心數法。無心數法則無心不相應。諸行 |
若し、生住滅無ければ、則ち心数法無し。心数法無ければ、則ち心不相応諸行無し。 |
若し、
『生、住、滅』が、
『無ければ!』、
『心数法』も、
『無いことになり!』、
『心数法』が、
『無ければ!』、
『心不相応諸行』も、
『無いことになる!』。
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心不相応諸行(しんふそうおうしょぎょう):心に相応せざる諸行の意。又心不相応行法と云う。
心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう):心に相応して発生せざる精神作用( mental factors not concomitant with mind
)、梵語 citta- viprayukta- saMskaaraaH の訳、五蘊中の第四(行蘊)中に在って、力等と同様に、精神作用と関連しない要因群が有る(
Within the fourth of the five aggregates (impulse 行) there are factors
not associated with mental functions as well as forces that are. )。行蘊中には、非精神作用が存在する、例えば生理的エネルギーのようなものが挙げられる。(
within the aggregate of impulse, elements that are not mental functions,
such as physiological energies are present. )、此等は心に直接的に関連して作用しないが故に、心不相応と名づけられる(
Since these do not operate in direct association with the mind, they are
named as such. )。阿毘達磨の理論では、この種の要素が十四あり、それ等は実在すると考えられているが、一方唯識理論では二十四あり、不実の存在と考えられている(
In Abhidharma theory there are fourteen of these kinds of factors, which
are considered to be real, while in Yogâcāra theory, there are twenty-four,
and they are considered to be unreal )。即ち阿毘達磨に於いては、(1) 集acquisition [得]
(Skt. prāpti), (2) 非集non-acquisition [非得] (Skt. aprāpti), (3) 人間的共通性human
commonality[ 衆同分] (Skt. nikāya-sa-bhāga), (4) 無想的認識realization of nonconceptualization
[無想果] (Skt. āsaṃjñika), (5) 無想定realization of the non-thought concentration
[無想定] (Skt. asaṃjñi-samāpatti), (6) 無想定の絶滅realization of the concentration
of extinction [滅盡定] (Skt. nirodha-samāpatti), (7)生活能力 life faculty [命根]
(Skt. jīvitêndriya), (8) 生起birth/arising [生] (Skt. jāti), (9) 住居abiding
[住] (Skt. sthiti), (10) 変異changing [異] (Skt. anyathātva), (11) 消滅extinction
[滅] (Skt. vyaya), (12) 一語 name and form [名身] (Skt. nāma-kāya), (13) 章句の集合
formation of phrases [句身] (Skt. pada-kāya), (14) 音節の集合 formation of syllables
[文身] (Skt. vyañjana-kāya). である。 唯識に於いては、(1) acquisition [得], (2) life force
[命根], (3) human commonality [衆同分], (4) 凡夫性 nature of unenlightened sentient
being [異生性], (5) the concentration of no conceptualization [無想定], (6) the
concentration of extinction [滅盡定], (7) the effects of nonconceptualization
[無想報], (8) gathering of names [名身], (9) gathering of phrases [句身], (10)
gathering of syllables [文身], (11) birth [生], (12) old age [老], (13) abiding
[住], (14) impermanence [無常], (15) continuous flow [流轉], (16) 善、悪因の差別 distinction
of good and evil causes [定異], (17) concomitance [相應], (18)活力 activity [勢速],
(19) sequence [次第], (20) direction [方], (21) time [時], (22) number [數],
(23) tendency to combine [和合性], and (24) tendency not to combine [不和合性].が挙げられている。 |
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色無色法無故。無為法亦無。何以故因有為故有無為。若無有為則亦無無為。 |
色、無色法無きが故に、無為法も亦た無し。何を以っての故に、有為に因るが故に無為有ればなり。若し有為無ければ、則ち亦た無為も無し。 |
『色、無色』の、
『法』が、
『無ければ!』、
『無為法』も、
『無い!』。
何故ならば、
『有為』に、
『因る!』が故に、
『無為』が、
『有るからである!』。
若し、
『有為』が、
『無ければ!』、
『無為』も、
『無いことになる!』。
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復次見作法無常故。知不作法常。若然者。今見作法是有法。不作法應是無法。以是故常法不可得。 |
復た次ぎに、作法の無常を見るが故に、不作法の常なるを知る。若し然らば、今、作法は、是れ有法なりと見れば、不作法は、応に是れ無法なるべし。是を以っての故に、常法は不可得なり。 |
復た次ぎに、
『作法( 有為法)』は、
『無常である!』と、
『見る!』が故に、
『不作法( 無為法)』は、
『常である!』と、
『知る!』が、
若し、
そうならば、
今、
『作法』は、
『有(存在する)法だ!』と、
『見た!』が故に、
『不作法』は、
『無(存在しない)法でなくてはならない!』。
是の故に、
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復次外道及佛弟子。說常法有同有異。同者虛空涅槃。外道有神時方微塵冥初。如是等名為異。又佛弟子說非數緣滅是常。又復言滅因緣法常。因緣生法無常。 |
復た次ぎに、外道、及び仏弟子の説には、常法は同なる有り、異なる有り。同とは虚空、涅槃なり。外道の神、時、方、微塵、冥初有りとは、是の如き等を名づけて、異と為す。又仏弟子の説かく、『非数縁滅は、是れ常なり』、と。又復た言わく、『滅因縁の法は常なり。因縁生の法は無常なり』、と。 |
復た次ぎに、
『外道の説』と、
『仏弟子の説』とでは、
『常法』には、
『同じ!』ところも、
『有れば!』、
『異なる!』ところも、
『有る!』。
『同じ!』とは、
『外道』に、
『有る!』、
『神、時、方、微塵、冥初』、
是れ等は、
『異なるとされている!』。
又、
『仏弟子』は、
こう説いており、――
又復た、こう言っている、――
『滅の因縁である!』、
『法』は、
『常であり!』、
『因縁生』の、
『法』は、
『無常である!』、と。
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微塵(みじん):物質を構成する極小の要素。また七極微を一微塵と称す。『大智度論巻12(上)注:極微』参照。
冥初(みょうしょ):衆生の所始たる闇迷の処。蓋し無明の如し。『過去現在因果経巻3』参照。
参考:『過去現在因果経巻3』:『爾時太子。即便前至彼阿羅邏仙人之所。于時諸天。語仙人言。薩婆悉達。棄捨國土。辭別父母。為求無上正真之道。欲拔一切眾生苦故。今者已來。垂至於此。時彼仙人。既聞天語。心大歡喜。俄爾之頃。遙見太子。即出奉迎。讚言善來。俱還所住。請太子坐。是時仙人。既見太子。顏貌端正。相好具足。諸根恬靜。深生愛敬。即問太子。所行道路。得無疲耶。太子初生。及以出家。又來至此。我悉知之。能於火聚。自覺而出。又如大象。於罥索中。而自免脫。古昔諸王。盛年之時。恣受五欲。至於根熟。然後方捨國邑樂具。出家學道。此未足奇。太子今者於此壯年。能棄五欲。遠至此間。真為殊特。當勤精進。速度彼岸。太子聞已。即答之曰。我聞汝言。極為歡喜。汝可為我說斷生老病死之法。我今樂聞。仙人答言。善哉善哉。即便說曰。眾生之始。始於冥初。從於冥初。起於我慢。從於我慢。生於癡心。從於癡心。生於染愛。從於染愛。生五微塵氣。從五微塵氣。生於五大。從於五大。生貪欲瞋恚等諸煩惱。於是流轉生老病死憂悲苦惱。今為太子。略言之耳。』 |
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摩訶衍中。常法法性如真際。如是等種種。名為常法虛空涅槃。如先讚菩薩品中說。神及時方微塵亦如上說。以是故不應言諸法有。 |
摩訶衍中の常法とは、法性、如、真際、是の如き等の種種を名づけて、常法と為す。虚空、涅槃は、先の讃菩薩品中に説けるが如し。神、及び時、方、微塵も亦た、上に説けるが如し。是を以っての故に、応に諸法有りと言うべからず。 |
『摩訶衍』中に、
『常法』とは、
『法性』、
『如』、
『真際』、
是れ等のような、
『虚空』と、
『涅槃』とは、
先に、
『讃菩薩品』中に、
『説いた通りであり!』、
『神、時、方、微塵』も、
是の故に、
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若諸法無者。有二種。一者常無。二者斷滅故無。若先有今無若今有後無是則斷滅。若然者則無因緣。無因緣者應一物中出一切物。亦應一切物中都無所出。 |
若し諸法無ければ、二種有り、一には常に無し、二には断滅の故に無し。若し先に有りて、今無ければ、若しは今有りて、後に無ければ、是れ則ち断滅なり。若し然らば、則ち因縁無し。因縁無ければ、応に一物中より、一切の物を出すべく、亦た応に一切の物中には、都べて出づる所無かるべし。 |
若し、
諸の、
『法』が、
『無ければ!』、
『無い!』には、
若し、
『先に!』、
『有った!』ものが、
『今!』、
『無ければ!』、
若しくは、
『今!』、
『有った!』ものが、
『後に!』、
『無ければ!』、
是れは、
『断滅である!』。
若し、
『断滅ならば!』、
『因縁』は、
『無い!』。
『因縁』が、
『無ければ!』、
『一物』中より、
『一切の物』が、
『出るはずであり!』、
亦た、
『一切の物』中には、
何も、
『出された!』ものが、
『無いはずである!』。
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後世中亦如是。若斷罪福因緣。則不應有貧富貴賤之異及墮惡道畜生中。 |
後世中も亦た是の如し。若し罪福の因縁を断ずれば、則ち応に貧富、貴賎の異有り、及び悪道、畜生中に堕つべからず。 |
『後世』中も、
是のように、
若し、
『罪、福』の、
『因縁』が、
『断たれた!』とすれば、
『貧富』や、
『貴賎』の、
『別異』が、
『有るはずがなく!』、
『悪道』や、
『畜生』中に、
『堕ちるはずがない!』。
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若言常無則無苦集滅道。若無四諦則無法寶。若無法寶則無八賢聖道。若無法寶僧寶則無佛寶。若如是者則破三寶。 |
若し、常無しと言わば、則ち苦集滅道無けん。若し四諦無ければ、則ち法宝も無し。若し法宝無ければ、則ち八賢聖道も無し。若し法宝、僧宝無ければ、則ち仏法も無し。若し是の如くんば、則ち三宝を破る。 |
若し、
『常』は、
『無い!』と、
『言えば!』、
則ち、
『苦、集、滅、道』も、
『無いことになる!』。
若し、
『四諦』が、
『無ければ!』、
則ち、
『法宝』が、
『無いということである!』。
若し、
『法宝』が、
『無ければ!』、
則ち、
『八聖道』が、
『無いことになる!』。
若し、
『法宝』も、
『僧宝』も、
『無ければ!』、
則ち、
『仏法』も、
『無いことになる!』。
若し、
『仏法』が、
『無ければ!』、
則ち、
『三宝』が、
『破れたということである!』。
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復次若一切法實空者。則無罪福亦無父母亦無世間禮法亦無善無惡。然則善惡同門是非一貫。一切物盡無。如夢中所見。若言實無有如是失。此言誰當信者。 |
復た次ぎに、若し、一切の法は、実に空なれば、則ち罪福無く、亦た父母無く、亦た世間の礼法無く、亦た善無く、悪無し。然れば、則ち善悪は同門にして、是非一貫して、一切の物の尽く無きこと、夢中の所見の如し。若し実に無しと言わば、是の如き失有り。此の言は、誰か当に信ずべき者なる。 |
復た次ぎに、
若し、
一切の、
『法』は、
『実に!』、
『空である!』とすれば、
則ち、
『罪、福』は、
『無く!』、
亦た、
『父、母』も、
『無く!』、
亦た、
『世間の礼法』も、
『無く!』、
亦た、
『善、悪』も、
『無いことになり!』、
そうならば、
『善、悪』は、
『門』を、
『同じくして!』、
『是、非』が、
『一致してしまい!』、
一切の、
『物』は、
『尽く!』、
『無くなり!』、
譬えば、
『夢』中に、
『見たもののようになるだろう!』。
若し、
実に、
『無い!』と、
『言えば!』、
是のような、
『失』が、
『有る!』。
誰が、
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一貫(いっかん):一致した/持続した( consistent, persistent )。 |
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若言顛倒故見有者。當見一人時。何以不見二三。以其實無而顛倒見故。 |
若し顛倒の故に有るを見ると言わば、当に一人を見るべき時に、何を以ってか、二三を見ざる、其の実に無くして、而も顛倒して見るを以っての故に。 |
若し、
『顛倒した!』が故に、
『有る!』と、
『見るのだ!』と、
『言うならば!』、
当然、
『一人』を、
『見るべき!』時に、
何故、
『二、三人』を、
『見ないのか?』。
其れが、
『実』に、
『無い!』ものを、
『顛倒して!』、
『見る!』が故に、
『二、三人』、
『有る!』と、
『顛倒して!』、
『見るはずではないか?』。
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若不墮此有無見。得中道實相。 |
若し、此の有無見に堕ちずんば、中道の実相を得ん。 |
若し、
此のような、
『有、無』という、
『見』に、
『堕ちなければ!』、
『中道』の、
『実相』を、
『認められるだろう!』。
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云何知實。如過去恒河沙等諸佛菩薩所知所說。未來恒河沙等諸佛菩薩所知所說。現在恒河沙等諸佛菩薩所知所說。信心大故不疑不悔。信力大故能持能受。是名法忍。 |
云何が、実を知る。過去の恒河沙に等しき諸仏、菩薩の所知所説、未来の恒河沙に等しき諸仏、菩薩の所知所説、現在の恒河沙に等しき諸仏、菩薩の所知所説を、信心の大なるが故に疑わず、悔いず、信力の大なるが故に能く持し、能く受く、是れを法忍と名づく。 |
何のように、
『実を!』、
『知るのか?』、――
例えば、
『過去』の、
『未来』の、
『現在』の、
『信じる!』、
『心』が、
『大である!』が故に、
『疑うこともなく!』、
『悔いることもなく!』、
『信じる!』、
『力』が、
『大である!』が故に、
『堅持して!』、
『受容することができる!』ならば、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
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復次禪定力故。心柔軟清淨聞諸法實相應心與會。信著深入無疑無悔。所以者何。疑悔是欲界繫法。麤惡故。不入柔軟心中。是名法忍。 |
復た次ぎに、禅定力の故に、心柔軟、清浄なれば、諸法の実相を聞いて、心に応じて、与(とも)に会し、信じ著して深く入り、疑無く、悔無し。所以は何んとなれば、疑悔は、是れ欲界の繋法にして、粗悪なるが故に、柔軟心中に入らず、是れを法忍と名づく。 |
復た次ぎに、
『禅定』の、
『力』の故に、
『心』が、
『柔軟、清浄になり!』、
諸の、
『法の実相』を、
『聞いても!』、
『心』に、
『適応して!』、
『理解する!』ので、
『信じ!』、
『著して!』、
『深く!』、
『理解し!』、
『聞いた!』ことを、
『疑うこともなく!』、
『悔いることもない!』。
何故ならば、
『疑う!』ことや、
『悔いる!』ことは、
『欲界』に、
『繋縛する!』、
『法であり!』、
『粗悪である!』が故に、
『柔軟な心』には、
『入らないからである!』。
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
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復次智慧力故。於一切諸法中。種種觀無有一法可得者。是法能忍能受不疑不悔。是名法忍。 |
復た次ぎに、智慧の力の故に、一切の諸法中に於いて、種種に、一法として得べき者の有ること無きを観て、是の法を能く忍び、能く受けて疑わず、悔いず、是れを法忍と名づく。 |
復た次ぎに、
『智慧』の、
『力』の故に、
一切の、
諸の、
是の、
『法』を、
『容認することができ!』、
『受容することができ!』て、
『疑わず!』、
『悔いない!』、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
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復次菩薩思惟。凡夫人以無明毒故。於一切諸法中作轉相。非常作常想苦作樂想。無我有我想空謂有實。非有為有有為非有。如是等種種法中作轉相。得聖實智慧破無明毒。知諸法實相。得無常苦空無我智慧。棄捨不著。是法能忍是名法忍。 |
復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『凡夫人は、無明の毒を以っての故に、一切の諸法中に於いて、相を転ずるを作して、非常なるに、常想を作し、苦なるに、楽想を作し、無我なるに、我想有り、空なるに、実有りと謂い、非有を有と為し、有を非有と為す。是の如く種種の法中に相を転ずるを作せば、聖実の智慧を得て、無明の毒を破り、諸法の実相を知って、無常、苦、空、無我の智慧を得るも、棄捨して著せざらん』、と。是の法を、能く忍ぶ、是れを法忍と名づく。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう思惟する、――
『凡夫人』は、
『無明』という、
『毒』を、
『用いる!』が故に、
一切の、
諸の、
例えば、
『非常』という、
『苦』という、
『我』は、
『空』なのに、
『有である!』と、
『謂い!』、
『非有』なのに、
『有だ!』と、
『思い!』、
『有』なのに、
『非有だ!』と、
『思っている!』、と。
『凡夫人』は、
是れ等の、
わたしは、
『聖実の智慧』を、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』ことで、
『無常、苦、空、無我』という、
『智慧』を、
『得たならば!』、
是の、
『智慧』も、
『棄捨して!』、
『著しないようにしよう!』、と。
是のような、
『法』を、
『忍ぶことができれば!』、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
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復次觀一切諸法。從本已來常空今世亦空。是法能信能受是為法忍。 |
復た次ぎに、一切の諸法は、本より已来、常に空にして、今世にも亦た空なりと観る。是の法を能く信じて、能く受くれば、是れを法忍と為す。 |
復た次ぎに、
一切の、
諸の、
『法』は、
本より、
『常に!』、
『空であった!』し、
今世にも、
『空である!』と、
『観て!』、
是の、
『法』を、
『信じることができ!』、
『受容することができれば!』、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
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問曰。若從本已來常空今世亦空。是為惡邪。云何言法忍。 |
問うて曰く、若し本より已来、常に空にして、今世にも亦た空なれば、是れを悪邪と為す。云何が、法忍と言う。 |
問い、
若し、
本より、
『常に!』、
『空であり!』、
今世にも、
亦た、
『空だとすれば!』、
是れは、
『悪邪見です!』、
何故、
『法忍だ!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。若觀諸法畢竟空。取相心著是為惡邪見。若觀空不著不生邪見。是為法忍。如偈說
諸法性常空 心亦不著空
如是法能忍 是佛道初相 |
答えて曰く、若し、諸法は畢竟じて空なりと観じて、相を取り心著すれば、是れを悪邪見と為す。若し空を観じて、著せず邪見を生ぜざれば、是れを法忍と為す。偈に説くが如し、
諸法の性は常に空なるも、心は亦た空に著せず、
是の如き法を能く忍ぶ、是れ仏道の初相なり。
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答え、
若し、
諸の、
『法』は、
『畢竟じて!』、
『空である!』と、
『観て!』、
『空』の、
『相』を、
『取り!』、
『心』が、
『空』に、
『著すれば!』、
是れは、
『悪邪見である!』。
若し、
『空だ!』と、
『観ても!』、
『心』が、
『空』に、
『著さなければ!』、
『邪見』を、
『生じることもない!』ので、
是れは、
『法忍である!』。
『偈』に説く通りだ、――
諸の、
『法』の、
『性』は、
『常に!』、
『空だとしても!』、
『心』は、
『空に!』、
『著さない!』。
是のような、
『法』を、
『忍ぶことができれば!』、
是れは、
『仏道』の、
『初相である!』。
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如是等種種入智慧門。觀諸法實相心不退不悔不隨諸觀。亦無所憂。能得自利利他。是名法忍。 |
是の如き等の種種に智慧門に入り、諸法の実相を観て、心退かず、悔いず、諸の観に随わずして、亦た憂うる所も無ければ、能く自利利他を得、是れを法忍と名づく。 |
是れ等のような、
種種の、
『智慧』の、
『門』に、
『入り!』、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『観ても!』、
『心』は、
『退くこともなく!』、
『悔いることもなく!』、
諸の、
『観』に、
『随わなくて!』、
『憂うる!』所も、
『無ければ!』、
『自ら!』を、
『利して!』、
『他を!』、
『利することもできる!』ので、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
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是法忍有三種。行清淨不見忍辱法。不見己身。不見罵辱人。不戲諸法。是時名清淨法忍。以是事故說菩薩住般若波羅蜜中能具足羼提波羅蜜。不動不退故。 |
是の法忍には、三種に有り、清浄を行じて、忍辱の法を見ず、己の身を見ず、罵辱する人を見ずして、諸法に戲れざれば、是の時を清浄の法忍と名づく。是の事を以っての故に説かく、『菩薩は、般若波羅蜜中に住して、能く羼提波羅蜜を具足す、不動不退なるが故に』、と。 |
是の、
『法忍』には、
『三種( 外法、内法、実相)』、
『有る!』が、
『清浄( 畢竟空)』を、
『行って( 観て)!』、
『忍辱』という、
『法』を、
『見ず!』、
『自己』の、
『身』を、
『見ず!』、
『罵辱する!』、
『人』も、
『見ずに!』、 諸の、
『法』を、
『戯論しなければ!』、
是の、
『事』の故に、こう説く、――
『菩薩』が、
『般若波羅蜜』中に、
『住して!』、
『羼提波羅蜜』を、
『具足することができる!』のは、
『心』が、
『動かず!』、
『退かないからである!』、と。
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云何名不動不退。瞋恚不生不出惡言。身不加惡心無所疑。菩薩知般若波羅蜜實相。不見諸法心無所著故。若人來罵若加楚毒殺害。一切能忍。以是故說住般若波羅蜜中。能具足羼提波羅蜜 |
云何が、不動にして不退なりと名づくる。瞋恚生ぜざれば、悪言を出さず、身は悪を加えず、心に疑う所無し。菩薩は、般若波羅蜜の実相を知り、諸法を見ず、心に著する所無きが故に、若し人来たりて罵り、若しくは楚毒を加えて、殺害するも、一切を能く忍ぶ。是を以っての故に説かく、『般若波羅蜜中に住すれば、能く羼提波羅蜜を具足す』、と。 |
何故、
『動かない!』、
『退かない!』と、
『称するのか?』、――
『瞋恚』が、
『生じなければ!』、
『口』に、
『悪言』が、
『出ることもなく!』、
『身』が、
『悪』を、
『加えることもなく!』、
『心』に、
『疑う!』所も、
『無いからである!』。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』の、
『実相』を、
『知って!』、
諸の、
『法』を、
『見ることなく!』、
『心』に、
『著する!』所が、
『無い!』が故に、
若し、
『人』が、
『来て!』、
『罵ったり!』、
若しくは、
『楚( むち)』や、
『毒』を、
『加えて!』、
『殺害した!』としても、
一切を、
『忍ぶことができる!』。
是の故に、
こう説く、――
『般若波羅蜜』中に、
『住すれば!』、
『羼提波羅蜜』を、
『具足することができる!』、と。
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