巻第十四(下)
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大智度論釋初品中羼提波羅蜜義第二十四
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


衆生と法とを忍ぶ

【經】心不動故。應具足羼提波羅蜜 心は動かざるが故に、応に羼提波羅蜜を具足すべし。
『心』は、
『動かない!』が故に、
当然、
『羼提波羅蜜』を、
『具足すべきである!』。
  羼提波羅蜜(せんだいはらみつ):梵語 kSaanti- paaramitaa の訳。また羼提の訳語忍辱と併せて忍辱波羅蜜、忍波羅蜜とも称す。即ち心能く安住して他の侮辱悩害等を堪忍するを云う。『大智度論巻14(上)注:忍辱』参照。
  忍辱(にんにく):梵語 kSaanti の訳。また羼提、羼底、乞叉底に作り、安忍、或は忍とも訳す。六波羅蜜の一、十波羅蜜の一。即ち心能く安住して他の侮辱悩害等を堪忍するを云う。「長阿含経巻21戦闘品」に、「我れ爾の時に於いて忍辱を修習して行卒暴ならず、常に亦た能く忍辱の者を称讃す。若し有智の人、吾が道を弘めんと欲せば当に忍黙を修すべし。忿諍を懐くこと勿れ」と云い、「増一阿含経巻44十不善品」に、「忍辱を第一となす、仏は無為を最なりと説く。以って鬚髪を剃り、他を害するを沙門となさず」と云い、また「仏遺教経」に、「忍の徳たる、持戒苦行も及ぶ能わざる所なり。能く忍を行ずる者は乃ち名づけて有力の大人となす。若し其れ歓喜して悪罵の毒を忍受すること、甘露を飲むが如くする能わざる者は、入道智慧の人と名づけざるなり」と云えるこれなり。これ他の毀辱を受くるも、忿怨を起して報復を図ることなく、忍黙して相諍わざるを忍辱と名づけたるなり。其の名義に関しては、「瑜伽師地論巻57」に、「云何が忍辱なる、謂わく三種の行相に由る。応に知るべし、一に忿怒せず、二に怨を報せず、三に悪を懐かず」と云い、「摂大乗論本巻中」に、「能く忿怒怨讐を滅尽して、及び能く自他の安穏に善住するが故に名づけて忍となす」と云い、また「大乗義章巻12」に、「羼提と言うは此に忍辱と名づく。他人毀を加うる之を名づけて辱となし、辱に於いて能く安んずる之を目して忍となす」と云えり。蓋し梵語 kSaanti は「耐う」或は「静に保つ」の義なる語根 kSam より来たれる女性名詞にして、即ち忍耐又は安忍の意なり。凡そ忍は世間出世間並びに大乗小乗等に於いて共に尊ぶべき法となすと雖も、就中、大乗にては特に之を重んじ、六波羅蜜の随一とし、菩薩の修すべき必須の要行となせり。「大智度論巻6」に忍に生忍法忍の二種あることを説き、若し衆生ありて種種に悪を加うるも心瞋恚せず、又種種に恭敬供養するも心に歓喜せず。衆生には初なく、又中後なしと観じて常断の二辺に堕せず、邪見を生ぜざるを生忍と名づけ、甚深の法の中に於いて心に罣礙なきを法忍と名づくと云い、また「同巻14及び同巻15」に更に之を委説し、若し悪口罵詈に遇い、刀杖を加えらるるも、思惟して罪福業の因縁を知り、諸法は畢竟空にして我なく我所なしと了し、力能く報ずることを得るも悪心及び悪口業を起さず、之に依りて忍智牢固なることを得とし、また恭敬供養するも之を愛せず、瞋罵打害するも之を瞋らず、婬欲の女人を忍ぶを生忍と名づけ、供養恭敬の法及び瞋悩婬欲の法を忍び、又内の六情に於いて著せず、外の六塵に於いて受けず、能く此の二に於いて分別を作さず、諸法の実相を観じて心信転ぜざるを法忍と名づくと云えり。これ即ち衆生の瞋罵打害に遇うも瞋らず、恭敬供養を受くるも喜ばず、我なく我所なしと了して之を忍受するを生忍とし、分別執著を離れ、甚深の法の中に於いて安忍するを法忍と名づけたるものにして、般若大乗の説に基づき、忍辱の意義を拡大転釈せしものというべし。また「優婆塞戒経巻7羼提波羅蜜品」には忍に世出世の二種ありとし、「忍に二種あり、一に世忍、二に出世忍なり。能く飢渇寒熱苦楽を忍ぶ、これを世忍と名づけ、能く信戒施聞智慧正見に忍びて謬ることなく、仏法僧を忍し、罵詈撾打悪口悪事貪瞋癡等悉く能く之を忍び、能く難忍難施難作を忍ぶを出世忍と名づく」と云い、またその連文に忍辱と忍辱波羅蜜とを四句分別し、「これ忍辱にして波羅蜜に非ずとは、謂わゆる世忍と声聞縁覚所行の忍辱なり。これ波羅蜜にして忍辱に非ずとは、謂わゆる禅波羅蜜なり。亦たこれ忍辱にして亦た波羅蜜なりとは、謂わゆる若し頭目手足を割截せらるるも乃至一念の瞋心を生ぜず。檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、般若波羅蜜となり。忍辱に非ず波羅蜜に非ずとは、謂わゆる声聞縁覚の持戒布施なり」と云えり。これ世の飢渇等を忍ぶを世忍とし、罵詈悪口を忍び、及び能く信戒施聞等を忍して謬らざるを出世の忍と名づけ、また声聞縁覚所行の忍辱は唯忍辱にして波羅蜜に非ず、菩薩所行の忍辱を独り忍辱波羅蜜と称することを説けるものなり。また「大智度論巻30」に、「忍は一切出家の力となり、能く諸悪を伏し、能く衆中に於いて奇特の事を現ず。忍は能く守護して施戒をして毀れざらしめ、忍は大鎧となりて衆兵を加えず、忍は良薬となりて能く悪毒を除き、忍は善勝となり、生死の嶮道に於いて安穏にして患なからしめ、忍は大蔵となりて貧に施し、人を善くする無極の大宝なり。忍は大舟となり、能く生死の此岸を渡りて涅槃の彼岸に至り、忍は從瞿となりて能く諸徳を瑩明す」と云いて、忍の徳を説けり。また「中阿含経巻17」、「正法念処経巻60観天品」、「大般若経巻366巧便行品、巻589安忍波羅蜜多分」、「大品般若経巻1序品」、「六度集経巻5」、「大般涅槃経巻下」、「法華経巻4法師品、同勧持品」、「首楞厳三昧経巻上」、「大宝積経巻45」、「大方等大集経巻12無言菩薩品、巻14虚空蔵品、巻50悪鬼神得敬信品、巻54忍辱品」、「菩薩瓔珞本業経巻下因果品」、「四分律巻59」、「集異門足論巻13」、「解脱道論巻8」、「施設論巻5」、「大智度論巻81」、「瑜伽師地論巻14、巻92」、「菩薩地持経巻2力品、巻6忍品」、「発菩提心経論巻上」、「諸法集要経巻8忍辱品」、「大乗起信論」等に出づ。<(望)
【論】問曰。云何名羼提。 問うて曰く、云何が、羼提と名づくる。
問い、
何故、
『羼提(せんだい)』と、
『称されるのですか?』。
答曰。羼提秦言忍辱。忍辱有二種。生忍法忍。菩薩行生忍得無量福德。行法忍得無量智慧。福德智慧二事具足故。得如所願。 答えて曰く、羼提を、秦に忍辱と言う。忍辱には、二種有り、生忍と法忍となり。菩薩は、生忍を行じて、無量の福徳を得、法忍を行じて、無量の智慧を得れば、福徳と智慧と二事具足するが故に、所願の如きを得。
答え、
『羼提』を、
秦には、
『忍辱』と、
『言う!』。
『忍辱』には、
『二種』有り、
『生忍(衆生を忍ぶ!)』と、
『法忍(法を忍ぶ!)』とである。
『菩薩』は、
『生忍』を、
『行って!』、
『無量の福徳』を、
『得!』、
『法忍』を、
『行って!』、
『無量の智慧』を、
『得る!』と、
『福徳』と、
『智慧』との、
『二事』を、
『具足する!』ので、
故に、
『願い通り!』に、
『成就するのである!』。
譬如人有目有足隨意能到。菩薩若遇惡口罵詈。若刀杖所加。思惟知罪福業因緣。諸法內外畢竟空無我無我所。以三法印。印諸法故。力雖能報不生惡心不起惡口業。爾時心數法生名為忍。得是忍法故忍智牢固。譬如畫彩得膠則堅著。 譬えば、人に目有り、足有れば、意に随うて、能く到るが如し。菩薩は、若しは悪口、罵詈に遇い、若しは刀杖を加えらるるとも、思惟して、罪福は、業の因縁にして、諸法の内外は、畢竟じて空、無我、無我所なるを知り、三法印を以って、諸法に印するが故に、力は、能く報ゆと雖も、悪心を生ぜず、悪口の業を起こさず。爾の時、心数法の生ずるを名づけて、忍と為し、是の忍法を得るが故に、忍智の牢固たること、譬えば、画彩に膠を得れば、則ち堅く著くが如し。
譬えば、
『人』に、
『目』と、
『足』が、
『有れば!』、
『意のままに!』、
『目的地』に、
『到達することができる!』ように、
『菩薩』は、
『悪口』や、
『罵詈』に、
『遇おうと!』、
『刀』や、
『杖()』を、
『加えられようと!』、
『罪福』の、
『業の因縁』を、
『知り!』、
『諸法の内外』は、
『畢竟じて!』、
『空、無我、無我所である!』と、
『知り!』、
『三法印』を以って、
『諸法』に、
『捺印する!』ので、
『力』は、
『報復することができた!』としても、
『悪心』を、
『生じることもなく!』、
『悪口』の、
『業』を、
『起こすこともない!』。
爾の時、
『生じる!』、
『心数法』を、
『忍』と、
『称し!』、
是の、
『忍』という、
『法』を、
『得る!』が故に、
『忍』と、
『智』とが、
『牢固(堅固)になるのである!』。
譬えば、
『画彩(顔彩)』が、
『膠』を、
『加えられる!』ことによって、
『堅く!』、
『著くようになる!』のと、
『同じである!』。
  三法印(さんぽういん):法に於ける三種の印章( three seals of the Dharma )の義。梵語 tri- dRSTi- namitta- mudraa )の訳、略して三印とも名づく。、即ち仏教の教説として印可せらるる範疇に三種ある( Three aspects of the Buddhist teaching that clearly distinguish it from non-Buddhist teachings: )を云う。一に諸行無常 anityaaH sarva- saMskaaraaH ( all things are impermanent )印、二に諸法無我 niraatmaanaH sarva- dharmaaH ( all things lack inherent existence (no-self) )印、三に涅槃寂静 zaantaM nirvaaNam ( and that nirvaaNa is perfect quiescence )印なり。「雑阿含経巻10」に、「一切行無常、一切法無我、涅槃寂静」と云い、「大般涅槃経巻13」に、「一切行無常、諸法無我、涅槃寂静、これ第一義なり」と云い、「蓮華面経巻下」に、「一切行無常、一切法無我、及び寂静涅槃、此の三はこれ法印なり」と云い、「有部毘奈耶巻9」に、「諸行は皆無常、諸法は悉く無我、寂静は即ち涅槃なり。これを三法印と名づく」と云い、また「大智度論巻32」に、「仏は三法を説いて法印と為す。謂わゆる一切有為法無常印、一切法無我印、涅槃寂滅印なり」と云えるこれなり。此の中、諸行無常印とは、また一切行無常印、一切有為法無常印と称し、略して無常印とも名づく。一切世間有為の諸法は皆無常なり、衆生之を了せず、無常法の中に於いて執して常想を為す。故に仏は無常を説いて其の常執を破するを云う。諸法無我印とは、また一切法無我印と称し、略して無我印とも名づく。一切世間の有為無為の諸法は皆無我なり。衆生之を了せず、一切法に於いて強いて主宰を立て、執して我と為す。故に仏は無我を説いて其の我執を破するを云う。涅槃寂静印とは、また涅槃寂滅印、寂滅涅槃印と称し、略して涅槃印とも名づく。一切衆生は生死の苦なることを知らず、惑を起し業を造りて三界に流転す。故に仏は涅槃の法を説いて、生死の苦を出離し寂滅の涅槃を得しむるを云う。就中、諸行無常は唯有為を明し、涅槃寂静は唯無為を明し、諸法無我は通じて有為無為を明す。「倶舎論光記巻1」に、「経教多しと雖も、略して三種あり、謂わく三法印なり。一に諸行無常、二に諸法無我、三に涅槃寂静なり。此れ諸法を印するが故に、法印と名づく。若し此の印に順ずるは即ちこれ仏経、若し此の印に違するは即ち仏説に非ず」と云えり。これ三法印に順ずるを仏教とし、之に違するを非仏説となすの意なり。また巴梨文増一部 aGguttara- nikaaya, III134 及び法句経 dhammapada, XX, maggavagga, 277- 279 にも、亦た三印tilakkhaNa(又は三相)の説あり。 lakkaNa は梵語 lakSaNa にして、印或は特質の義を有し、法印、法本、法本末、或は相と訳す。さればこれ亦た別種の三法印と云うべし。一に一切行無常 sabbe saGkhaaraa aniccaa 、二に一切行苦 sabbe saGkhaaraa dukkhaa 、三に一切法無我 sabbe dhammaa anattaa なり。但し此の中、涅槃寂静を除きて別に一切行苦を挙げたるは、前記漢訳所伝の三法印と異なる所なり。一切行苦とは、一切有為の諸法が遷流して止まらざるを名づけて苦となすなり。また前の三法印に此の一切行苦を加えて、之を四法印、四法本末、或は四憂檀那 udaana と称するの説あり。「増一阿含経巻18」に、「今四法本末あり、如来の所説なり。云何が四と為す、一切諸行無常、これを初法本末と謂う、如来の所説なり。一切諸行苦、これを第二法本末と謂う、如来の所説なり。一切諸行無我、これを第三法本末と謂う、如来の所説なり。涅槃を永寂と為す、これを第四法本末と謂う、如来の所説なり。これを諸賢四法本末と謂う、如来の所説なり」と云い、また「菩薩地持経巻8」に、「四憂檀那法あり。諸仏菩薩は衆生をして清浄ならしめんが為の故に説く。云何が四と為す、一切行無常、これ憂檀那法なり。一切行苦、これ憂檀那法なり。一切法無我、これ憂檀那法なり。涅槃寂滅、これ憂檀那法なり」と云えるこれなり。また此の憂檀那に一切法空を加えて五法印となすあり。「維摩経巻上弟子品」に、「我れ即ち後に於いて其の義を敷演す、謂わく無常の義、苦の義、空の義、無我の義、寂滅の義なり」と云えるこれなり。また「法華経玄義巻8上」には上記三法印を以って小乗中の法印なりとし、別に大乗には唯諸法実相の一法印のみありとなせり。また「有部目得伽巻6」、「大毘婆沙論巻9」、「大智度論巻15、巻22、巻26」、「成実論巻1」等に出づ。<(望)
  忍智(にんち):忍耐と智慧( patience and wisdom )、梵語 kSaanti- jJaana の訳、倶舎論に於いて( In the Abhidharmakośa-bhāṣya )、忍は無間道に於ける観察智を云い( refers to the observing wisdom of the instantaneous path )、智は解脱道に於ける観察智を云う( refers to the observing wisdom in the path of liberation )。即ち慧心の法に於いて安んずるを名づけて忍と為し、境に於いて決断するを名づけて、智と為す。有部の所説に依れば、忍を無間道(旧に無礙道と訳す)の観知と為して、因に属し、智を解脱道の観智と為して、果に属す、と云い、成実及び大乗にては、忍智は皆通ずるも、但だ義に就きてこれを分く、則ち始観を忍と名づけ、終成を智と名づく、と云い、「倶舎論巻23」には、「忍智とは、忍はこれ無間道なり、惑を断じて、能く隔礙するもの無きを得るに約するが故に。智はこれ解脱道なり、已に惑を解脱する得と、繋を離るる得と時を倶にして起こるが故に。二を具えて次第に理定応に然るべくして、猶お世間の賊を駆りて戸を閉めるが如し」と云い、「大乗義章巻9」に、「慧心、法に安んずるを名づけて忍と為し、境に於いて決断してこれを説くを智と為す。毘曇の如きに依れば、見諦惑を断ずるに、忍を無礙と為し、智を解脱と為す。成実法中には一切の治道を通じて名づけて忍と為し、通じて名づけて智と為す。心、法に安んずるを以っての故に通じて忍と名づけ、決断無著の故に通じて名づけて智と為す。大乗法中には忍智亦た通じ、加えて五忍の始より終に至るを説く。二諦の智は等しく初及び後に通じ、義に随いて具さに分くるに義異無きに非ず、始観を忍と名づけ、終成を智と名づく」と云えり。<(丁)
有人言。善心有二種有麤有細。麤名忍辱細名禪定。未得禪定心樂能遮眾惡。是名忍辱。心得禪定樂不為眾惡。是名禪定。 有る人の言わく、『善心には、二種有り、有るいは麁、有るいは細なり。麁を忍辱と名づけ、細を禅定と名づく。未だ禅定を得ざるも、心に楽しんで、能く衆悪を遮す、是れを忍辱と名づけ、心に禅定を得て、衆悪を為さざるを楽しむ、是れを禅定と名づく』、と。
有る人は、こう言っている、――
『善心』には、
『麁()』と、
『細』との、
『二種』が有り、――
『麁』の、
『善心』を、
『忍辱』と、
『呼び!』、
『細』の、
『善心』を、
『禅定』と、
『称する!』。
未だ、
『禅定』を、
『得ていない!』が、
『心』に、
『楽しんで!』、
『衆悪』を、
『遮ることができれば!』、
是れを、
『忍辱』と、
『呼び!』、
『心』に、
『禅定』を、
『得て!』、
『衆悪』を、
『為さない!』ことを、
『楽しめば!』、
是れを、
『禅定』と、
『称するのである!』、と。
  (そ):粗末/粗雑( coarseness )、粗末な/下等な( coarse )、梵語 audaarika の訳、尼乾子外道( nirgrantha )即ち耆那( jaina )教に於いては、「魂を包む粗野な身体( the gross body which invests the soul )」の義を有する語なるも、仏教に輸入せるに至り、粗末/下等等の義となる。
  (さい):微妙( subtlety )、梵語 suukSma の訳、微細な/小さい/純粋の/薄い/狭い/短い/微弱な/僅かな/取るにたらない/重要でない( minute, small, fine, thin, narrow, short, feeble, trifling, insignificant, unimportant )、鋭い/微細な/鋭利な( acute, subtle, keen )、繊細な/精密な/正確な(nice, exact, precise )、微妙な/極少の/つかみどころのない( subtle, atomic, intangible )等の義。
是忍是心數法與心相應隨心行。非業非業報隨業行。有人言。二界繫。有人言。但欲界繫。或不繫。色界無外惡可忍故。亦有漏亦無漏。凡夫聖人俱得故。障己心他心不善法故。名為善。善故。或思惟斷或不斷。如是等種種阿毘曇廣分別。 是の忍は、是れ心数法にして、心と相応する随心の行にして、業に非ず、業報に非ざるも、随業の行なり。有る人の言わく、『二界の繋なり』、と。有る人の言わく、『但だ欲界の繋なり。或いは不繋なり。色界には、外悪の忍ぶべき無きが故なり』、と。亦た有漏、亦た無漏なるは、凡夫と聖人と倶に得るが故なり。己心と他心との不善法を障うるが故に、名づけて善と為す。善の故に、或いは思惟断、或いは不断なり。是の如き等の種種に、阿毘曇は広く分別せり。
是の、
『忍』は、
『心数法であり!』、
『心』に、
『相応し!』、
『心』に、
『随順する!』、
『行()であり!』、
『業でもなく!』、
『業報でもない!』が、
『業』に、
『随順する!』、
『行である!』。
有る人は、こう言う、――
『忍』は、
『二界(欲界、色界)』の、
『繋である!』、と。
有る人は、こう言う、――
『忍』は、
但だ、
『欲界』のみの、
『繋である!』か、
或いは、
『不繋である!』。
何故ならば、
『色界』には、
『忍ばなくてはならない!』、
『外悪』が、
『無いからである!』、と。
是の、
『忍』は、
『有漏でもあり!』、
『無漏でもある!』。
何故ならば、
『凡夫』も、
『聖人』も、
『どちらも!』、
『得るからである!』。
是の、
『忍』は、
『己の心』と、
『他の心』より、
『不善法』を、
『遮る!』ので、
是れは、
『善である!』が、
『善である!』が故に、
『思惟断である!』か、
『不断である!』。
是れ等のように、
種々に、
『阿毘曇』は、
『広く!』、
『分別している!』。
  心数法(しんじゅほう):梵語 caitasikaa dharmaaH の訳。また心所有法、心所法とも称す。心の所有の法の意。『大智度論巻14(上)注:心所有法』参照。
  心所有法(しんじょうほう):梵語 caitasikaa dharmaaH の訳。心の所有の法の意。心又は心王に対す。五位の一。略して心所法、又は心所と称し、旧訳に心数法、心数、或は数とも名づく。即ち心王に従属し、之と相応する精神作用を云う。「品類足論巻1」に、「「心所法とは云何、謂わく、若し法あり、心と相応す。此れ復た云何、謂わく受と想と思と触と作意と欲と勝解と念と定と慧と信と勤と尋と伺と放逸と不放逸と善根と不善根と、一切の結縛の随眠と隨煩悩の纏と、諸の所有の智と、諸の所有の見と、諸の所有の現観と、復たかくの如きの類の法ありて心と相応するを総じて心所法と名づく」と云い、「大毘婆沙論巻16」に、「問う何が故に心所と名づくるや、答う心の所有なるが故なり」と云い、また「成唯識論巻5」に、「恒に心に依りて起こり、心と相応し、心に繋属するが故に心所と名づく。我に属する物に我所と名を立つるが如し。心は所縁に於いて唯総相を取り、心所は彼に於いて亦た別相を取る。心の事を助成すれば心所の名を得、画師の資の作模し塡彩するが如し」と云えるこれなり。これ蓋し心所有法は心王に依属して常に之と相応し、同一所縁に於いて総相及び別相を取り、以って心の事を助成するものなるを説けるものなり。相応に五義あり、「倶舎論巻4」に、「心心所は五義平等なるが故に相応と説く。所依と所縁と行相と時と事と皆平等なるが故なり」と云えるこれなり。此の中、心と心所は必ず同一の根に託するを所依平等と云い、同一の境を縁ずるを所縁平等と云い、所縁の境に於いて行解の相を等しくするを行相平等と云い、同一刹那に現行するを時平等と云い、この体事の同一なるを事平等と云う。即ち此れ等の五義平等同一にして互いに相反せざるが故に、心所法を心相応法、又は単に相応法と名づくるなり。但し心所の数及び其の分類に関しては大小乗諸論の説一准ならず。「倶舎論巻4」には心所法に総じて四十六種ありとし、之を分別して六類となせり。即ち一に大地法、二に大善地法、三に大煩悩地法、四に大不善地法、五に小煩悩地法、六に不定地法なり。此の中、大地法とは恒に一切の善不善等の心に相応する法にして、之に受、想、思、触、欲、慧、念、作意、勝解、三摩地(定)の十法あり。大善地法とは恒に一切の善心に相応する法にして、之に信、不放逸、軽安、捨、慚、愧、無貪、無瞋、不害、勤の十法あり。大煩悩地法とは恒に一切の染汚心に相応する法にして、之に癡、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙の六法あり。大不善地法とは一切の不善心に相応する法にして、之に無慚、無愧の二法あり。小煩悩地法とは少分の染汚心に相応する法にして、之に忿、覆、慳、嫉、悩、害、恨、諂、誑、憍の十法あり。不定地法とは其の起こること不定なる法にして、之に尋、伺、睡眠、悪作、貪、瞋、慢、疑の八法あり。総じて四十六種を成ずるなり。かくの如く倶舎に於いては心所法に四十六種ありとなすも、上座の師は此の中の大地法の十法を否認し、唯受想思の三種のみありとせり。「順正理論巻10」に、「彼の上座言わく、所計の如き十大地法なし。此れに但だ三種あり、経に倶起の受想思と説くが故なり。豈に彼の経に亦た触ありと説かずや、彼の経に三和合の触と言うが如し。経に触ありと言うと雖も別体ありと説かず。故に彼の経に言わく、かくの如きの三法聚集和合するを説いて名づけて触となすと。故に所計の如き十大地法の性なし」と云えるその説なり。また大善地法の十法に就き、「正法念処経巻33」には其の中の無瞋に代うるに無癡を以ってし、「大毘婆沙論巻28、巻143、巻196」、「入阿毘達磨論巻上」、「順正理論巻11」等には、此の外に別に欣厭の二を説き、また大煩悩地法に関し、「品類足論巻2」、「大毘婆沙論巻42」、「雑阿毘曇心論巻2」等には、其の中の惛沈を除き、別に失念、心乱、不正知、非理作意、邪勝解の五を加えて凡べて十法となし、小煩悩地法に関し、「順正理論巻11」には、更に不忍、不楽、憤発等ありと云い、また不定地法に関し、「大毘婆沙論巻75」には別に怖を説き、「雑阿毘曇心論巻2」、及び「成実論巻9隨煩悩品」には、睡眠を別開して睡と眠との二法となせり。また其の分類に関しても「大毘婆沙論巻42」には、受等の十大地法を亦た大無覆無記地と名づけ、十大煩悩地法中の無明、惛沈及び掉挙の三を特に大有覆無記地と名づけ、総じて大地法、大善地法、大煩悩地法、大不善地法、小煩悩地法、大有覆無記地法、大無覆無記地法の七類となし、別に不定地法を説かず。但し此の中、大無覆無記地の十法、並びに大有覆無記地中の無明、及び掉挙は重出、また大煩悩地法の十法の中、後の五は別体なしと説くが故に、婆沙の心所は唯倶舎論所説の四十六法の外に欣厭怖の三を加えたるまでにして、総じて四十九法ありというべし。また「雑阿毘曇心論巻2」には、大地法(十法)、大善地法(十法)、大不善地法(二法)、小煩悩地法(十法)、大煩悩地法(十法)の五類を挙げ、亦た不定地の名を欠くと雖も、別に覚、観、睡(惛沈)、眠、悔、貪、瞋、慢、疑の九法を出し、且つ大煩悩地法の十法中、失念等の五は別体なしと説くが故に、分類は稍倶舎に同じからざるも、数は即ち同一なりと云うべし。又若し成実論に依らば凡そ四十九法あり、即ち「同論巻6苦諦聚中想陰品」以下「余心数品」に至り、次第に想、受、思、触、念、欲、喜、信、勤、憶、覚、観、不放逸、不貪、不瞋、不癡、猗、捨の十八法を説き、また「同巻9集諦聚中煩悩論初煩悩品」以下「同巻12取品」に至り、次第に貪、瞋、癡、憍、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取、戒取の十法を挙げ、「同巻10隨煩悩品」に、睡、眠、掉、悔、諂、誑、無慚、無愧、放逸、詐、羅波那、現相、激切、以利求利、単致利、不喜、頻申、初不調、退心、不敬粛、楽悪友の二十一法を出せるこれなり。此の中、苦諦聚中の十八法は倶舎等に於ける大地法及び大善地法に相当し、また集諦聚中の煩悩及び隨煩悩は彼の不定地法、並びに大煩悩地法等と相当すというべし。また「大乗五蘊論」及び「成唯識論」等には、心所法を分類して遍行、別境、善、煩悩、隨煩悩、不定の六位となし、総じて五十一法を出せり。即ち作意、触、受、想、思の五を遍行。欲、勝解、念、定、慧の五を別境。信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、勤、安、不放逸、行捨、不害の十一を善。貪、瞋、癡、慢、疑、悪見の六を煩悩。忿、恨、覆、悩、嫉、慳、誑、諂、害、憍、無慚、無愧、掉挙、惛沈、不信、懈怠、放逸、失念、散乱、不正知の二十を隨煩悩。悔、眠、尋、伺の四を不定とし、更に隨煩悩の中に就き、初の忿等の十は各別に起こるが故に此れを小隨煩悩と名づけ、次の無慚無愧の二は不善心に遍ずるが故に中隨煩悩と名づけ、後の掉挙等の八は染心に遍ずるが故に名づけて大随煩悩となせり。此れを倶舎の説に対比するに、五遍行、及び五別境は即ち彼の十大地法にして、就中、作意等の五は必定して一切の心に遍ずるが故に遍行と名づけ、欲等の五は別別の境を縁じて起こるが故に別境と名づく。又善の十一は彼の十大善地法に無癡を加え、根本煩悩の六は、彼の不定地中の貪瞋慢疑の四に、大煩悩地法中の癡及び身見等の五見の総称なる悪見を加えたるものにして、即ち成実の説に合するを見るべく、また隨煩悩の二十は、彼の大煩悩地法中の癡を除ける余の五と、大不善地法の二と、小煩悩地法の十と、及び失念、散乱、不正知の三を合したるものに係り、また不定の四は彼の八不定地法中、貪瞋慢疑の四は根本煩悩に摂したるが故に、余の四を立てて不定となせるものなるを見るべし。また「瑜伽師地論巻1」には、二十隨煩悩の外に別に邪欲、及び邪勝解を説くが故に総じて五十三法を成じ、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」には、根本煩悩中の悪見を開して身見等の五種となすが故に総じて五十五法あり。以って其の廃立の一准ならざるを見るべし。また有部の正義に於いては心所法は各各別体ありとなすも、覚天の如きは心の分位に仮立すとなし、唯識大乗に於いては心と心所は非即非離なりとせり。「成唯識論巻7」に、「諸の心所法は、心体を離れて別の自性ありとせんや、即ちこれ心の分位差別なりとせんや。設し爾らば何の失かある、二倶に過あり。(中略)識心の言には亦た心所をも摂す、恒に相応するが故なり。唯識の言と及び現じて彼に似るとは皆失あることなし。此れは世俗に依る。若し勝義に依らば、心所と心とは離にも非ず、即にも非ざるなり」と云える即ちその意なり。また「正法念処経巻17」、「界身足論巻上」、「品類足論巻3」、「衆事分阿毘曇心論巻1」、「成実論巻5」等に出づ。<(望)
問曰。云何名生忍。 問うて曰く、云何が、生忍と名づくる。
問い、
何故、
『生忍』と、
『称するのですか?』。
答曰。有二種眾生來向菩薩。一者恭敬供養。二者瞋罵打害。爾時菩薩其心能忍。不愛敬養眾生不瞋加惡眾生。是名生忍。 答えて曰く、二種の衆生の来たりて、菩薩に向う有ればなり。一には、恭敬して供養し、二には、瞋罵して打害す。爾の時、菩薩は、其の心をして能く忍ばしめ、敬養の衆生を愛せず、加悪の衆生を瞋らず、是れを生忍と名づく。
答え、
『衆生』が、
『来て!』、
『菩薩』に、
『対する!』には、
『二種』の、
『対し方』が有る、――
一には、
『菩薩』を、
『恭敬して!』、
『供養し!』、
二には、
『菩薩』を、
『瞋罵して!』、
『打害する!』が、
爾の時、
『菩薩』は、
其の、
『心』を、
『忍ばせて!』、
『恭敬し!』、
『供養する!』、
『衆生』を、
『愛することなく!』、
『悪を加える!』、
『衆生』を、
『瞋ることもない!』ので、
是れを、
『生忍』と、
『呼ぶのである!』。




恭敬、供養する人を忍ぶ

問曰。云何恭敬供養。名之為忍。 問うて曰く、云何が、恭敬、供養するに、之を名づけて忍と為す。
問い、
何故、
『恭敬して!』、
『供養している!』のに、
之を、
『忍』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。有二種結使。一者屬愛結使。二者屬恚結使。恭敬供養雖不生恚令心愛著。是名軟賊。是故於此應當自忍不著不愛。 答えて曰く、二種の結使有り、一には愛に属する結使、二には恚に属する結使なり。恭敬、供養は、恚を生ぜずと雖も、心をして愛著せしむれば、是れを軟賊と名づけ、是の故に此れに於いては、応当に自ら忍んで、著せず、愛せざるべし。
答え、
『結使』には、
『二種』有り、
一には、
『愛』に、
『属する!』、
『結使であり!』、
二には、
『恚()』に、
『属する!』、
『結使である!』。
『恭敬』や、
『供養』は、
『恚』を、
『生じさせない!』が、
『心』を、
『愛著させる!』ので、
是れを、
『軟らかい!』、
『賊』と、
『呼び!』、
是の故に、
此の、
『恭敬』や、
『供養』に於いては、
自ら、
『忍んで!』、
『愛著しないようにすべきである!』。
云何能忍。觀其無常是結使生處。如佛所說利養瘡深。譬如斷皮至肉斷肉至骨斷骨至髓。人著利養則破持戒皮。斷禪定肉。破智慧骨。失微妙善心髓。 云何が、能く忍ぶ。其の無常にして、是れ結使の生処なるを観ればなり。仏の所説の如く、利養の瘡(きず)は深きこと、譬えば皮を断じて、肉に至り、肉を断じて、骨に至り、骨を断じて、髄に至るが如く、人、利養に著すれば、則ち持戒の皮を破りて、禅定の肉を断じ、智慧の骨を破り、微妙の善心の隨を失う。
何故、
『忍ぶことができるのか?』――
こう観察するからである、――
『利養』は、
『無常であり!』、
是れは、
『結使』の、
『生処である!』、と。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『利養』という、
『瘡(きず)』は、
『深い!』、
譬えば、
『皮』を、
『肉』に、
『至るまで!』、
『断ち!』、
『肉』を、
『骨』に、
『至るまで!』、
『断ち!』、
『骨』を、
『髄』に、
『至るまで!』、
『断つように!』、
『持戒』という、
『皮』を、
『破り!』、
『禅定』という、
『肉』を、
『断ち!』、
『智慧』という、
『骨』を、
『破って!』、
『微妙』な、
『善心』という、
『髄』を、
『失わせるからである!』、と。
  参考:『大荘厳論経巻7』:『復次利養亂於行道。若斷利養善觀察瞋。我昔曾聞。有一比丘在一園中。城邑聚落競共供養。同出家者憎嫉誹謗。比丘弟子聞是誹謗。白其師言。某甲比丘誹謗和上。時彼和上聞是語已。即喚謗者善言慰喻。以衣與之。諸弟子等白其師言彼誹謗人是我之怨。云何和上慰喻與衣。師答之言。彼誹謗者於我有恩應當供養。即說偈言 如雹害禾穀  有人能遮斷  田主甚歡喜  報之以財帛  彼謗是親厚  不名為怨家  遮我利養雹  我應報其恩  雹害及一世  利養害多身  雹唯害於財  利養毀修道  為雹所害田  必有少遺餘  利養之所害  功德都消盡  如彼提婆達  利養雹所害  由彼貪著故  善法無毫釐  眾惡極熾盛  死則墮惡道  利養劇猛火  亦過於惡毒  師子及虎狼  智者觀察已  寧為彼所傷  不為利養害  愚者貪利養  不見其過惡  利養遠聖道  善行滅不生  佛已斷諸結  三有結都解  功德已具滿  猶尚避利養  眾中師子吼  而唱如是言  利養莫近我  我亦遠於彼  有心明智人  誰當貪利養  利養亂定心  為害劇於怨  如以毛繩戮  皮斷肉骨壞  髓斷爾乃止  利養過毛繩  絕於持戒皮  能破禪定肉  折於智慧骨  滅妙善心髓  譬如嬰孩者  捉火欲食之  如魚吞鉤餌  如鳥網所覆  諸獸墜阱陷  皆由貪味故  比丘貪利養  與彼亦無異  其味極尟少  為患甚深重  詐為諂佞者  止住利養中  親近憒鬧亂  妨患之種子  如似疥搔瘡  搔之痒轉增  矜高放逸欲  皆因利養生  此人為我等  遮於利養怨  我以是義故  應盡心供養  如是善知識  云何名為怨  由貪利養故  不樂閑靜處  心常緣利養  晝夜不休息  彼處有衣食  某是我親厚  必來請命我  心意多攀緣  敗壞寂靜心  不樂空閑處  常樂在人間  田利毀敗故  不樂寂定法  以捨寂定故  不名為比丘  亦不名白衣』
如佛初遊迦毘羅婆國。與千二百五十比丘俱。悉是梵志之身。供養火故。形容憔悴。絕食苦行故。膚體瘦黑。淨飯王心念言。我子侍從雖復心淨清潔並無容貌。我當擇取累重多子孫者。家出一人為佛弟子。如是思惟已。敕下國中。簡擇諸釋貴戚子弟。應書之身皆令出家。 仏の、始めて迦毘羅婆国に遊びたまえるが如し。千二百五十の比丘と倶なりしが、悉く、是れ梵志の身にて、火を供養したるが故に、形容憔悴し、食を絶ちて苦行したるが故に、膚体痩せて黒し。浄飯王の心に念じて言わく、『我が子の侍従は、復た心浄く、清潔なりと雖も、並びに容貌無し。我れ当に累を重ねて子孫多き者を択び取り、家ごとに一人を出して、仏の弟子と為らしめん』、と。是の如く思惟し已りて、勅を国中に下し、諸の釈の貴戚の子弟を簡択せしめ、応書の身をして、皆、出家せしむ。
例えば、
『仏』が、
初めて、
『迦毘羅婆国』に、
『遊ばれた!』時のことである、――
『仏』は、
『千二百』の、
『比丘』と、
『いっしょであった!』が、
悉く、
『梵志の身』で、
『火』を、
『供養していた!』が故に、
『形容』が、
『憔悴しており!』、
『食』を、
『絶って!』、
『苦行していた!』が故に、
『皮膚』と、
『身体』が、
『痩せて!』、
『黒かった!』。
『浄飯王』は、
『心』に念じて、こう言った、――
わたしの、
『子』の、
『侍従たち』は、
いったい、
『心』は、
『清浄で!』、
『潔白かもしれない!』が、
『都()べて!』、
『容貌』が、
『無い!』。
わたしは、
『累代』、
『子孫』の、
『多い!』者を、
『択び取り!』、
『家』ごとに、
『一人』を、
『出させて!』、
『仏』の、
『弟子に!』、
『為らせよう!』、と。
是のように思惟すると、――
『勅命』を、
『国』中に、
『下して!』、
『釈種』より、
『貴族』の、
『子弟』を、
『択び出させ!』、
『応召してきた!』者の、
『身』を、
皆、
『出家させた!』。
  形容(ぎょうよう):かおかたち。容貌。
  憔悴(しょうすい):痩せ衰える。
  膚体(ふたい):皮膚と体躯。
  痩黒(そうこく):痩せて黒い。
  浄飯王(じょうぼんおう):梵名 zuddhodana の訳。釈尊の父。『大智度論巻3(下)注:浄飯王』参照。
  侍従(じじゅう):側に仕える者。
  容貌(ようみょう):みため。
  累重(るいじゅう):係累重ぬるの意。
  択取(じゃくしゅ):えらびとる。選択。
  簡択(けんじゃく):えらびとる。選択。
  貴戚(きしゃく):貴き親戚。貴族。
  応書(おうしょ):詔書に応ずる。応召。応詔。
是時斛飯王子提婆達多。出家學道誦六萬法聚。精進修行滿十二年。其後為供養利故來至佛所。求學神通。佛告憍曇。汝觀五陰無常可以得道。亦得神通。而不為說取通之法。出求舍利弗目揵連乃至五百阿羅漢。皆不為說言。汝當觀五陰無常。可以得道可以得通。 是の時、斛飯王の子、提婆達多は、出家学道して六万の法聚を誦し、精進修行すること十二年を満たせども、其の後、供養の利の為の故に、来たりて仏所に至り、神通を学ばんことを求む。仏の告げたまわく、『憍曇、汝は、五陰の無常なるを観すれば、以って道を得、亦た神通を得べし』、と。而して為に通を取る法を説きたまわず。出でて舎利弗、目揵連、乃至五百の阿羅漢に求むるも、皆為に説かずして、言わく、『汝は、五陰の無常なるを観ずれば、以って道を得べく、以って通を得べし』、と。
是の時、
『斛飯王』の、
『子』の、
『提婆達多』は、
『出家』して、
『道』を、
『学び!』、
『六万』の、
『法聚(法蔵)』を、
『諳誦し!』、
『精進し!』、
『修業して!』、
『十二年』を、
『満たした!』が、
其の後、
『供養の利』を、
『求めた!』が故に、
『仏の所』に、
『来る!』と、
『仏』に、
『神通』を、
『学びたい!』と、
『求めた!』。
『仏』は、
『提婆達多』に、こう告げられた、――
憍曇(瞿曇)!
お前が、
『五陰』は、
『無常である!』と、
『観察していれば!』、
それで、
『道』を、
『得ることもできよう!』し、
亦た、
『神通』を、
『得ることもできるだろう!』、と。
而し、
『提婆達多』の為に、
『神通』を、
『取得する!』、
『法』を、
『説かれることはなかった!』。
『提婆達多』は、
『仏の所』を、
『出て!』、
『舎利弗』や、
『目揵連』にも、
『法』を、
『求め!』、
乃至、
『五百』の、
『阿羅漢』にも、
『求めた!』が、
皆、
『提婆達多』の為に、
『法』を、
『説かず!』、
こう言うばかりであった、――
お前が、
『五陰』は、
『無常である!』と、
『観察していれば!』、
それで、
『道』を、
『得ることもできようし!』、
それで、
『神通』を
『得ることもできるだろう!』、と。
  斛飯王(こくぼんおう):梵名途盧檀那 droNodana 、或いは dotodana の訳。浄飯王の弟。阿難と提婆達多の父。『大智度論巻3(下)注:斛飯王』参照。
  提婆達多(だいばだった):梵名 devadatta 、また提婆達兜、調達等に作る。斛飯王の子、阿難の兄。仏の従弟なり。出家して神通を学び、身に三十相を具し、六万法蔵を誦すも、利養の為に三逆罪を作りて生きながら地獄に堕つ。『大智度論巻3(上)注:提婆達多』参照。
  法聚(ほうじゅ):法の部門( section of the Dharma )、梵語 dharma- skandha の訳、法蔵。
  憍曇(きょうどん):梵語 gautama 、また瞿曇、喬答摩に作る。仏五姓の一、即ち釈種の姓字なり。『大智度論巻3(上)注:仏五姓』参照。
不得所求涕泣不樂。到阿難所求學神通。是時阿難未得他心智。敬其兄故如佛所言以授提婆達多。受學通法入山不久便得五神通。 求むる所を得ざれば、涕泣して楽しまず、阿難の所に到りて、神通を学ばんことを求む。是の時、阿難は、未だ他心智を得ざれば、其の兄を敬うが故に、仏の言える所の如きを以って、提婆達多に授くれば、通を学ぶ法を受けて、山に入り、久しからずして、便ち五神通を得たり。
『提婆達多』は、
『求める!』所が、
『得られない!』ので、
『すすり泣きながら!』、
『楽しまないままに!』、
『阿難の所』に到り、
『神通』を、
『学びたい!』と、
『求めた!』。
是の時、
『阿難』は、
未だ、
『他心智』を、
『得ていなかった!』し、
其の、
『兄』を、
『敬っていた!』が故に、
『仏』に、
『言われた!』のと、
『同じように!』、
『提婆達多』に、
『神通の法』を、
『授けた!』。
『提婆達多』は、
『神通』を、
『学ぶ!』、
『法』を、
『受ける!』と、
『山』に、
『入って!』、
『法』を、
『修めていた!』が、
やがて、
『五神通』を、
『成就することができた!』。
得五神通已自念。誰當與我作檀越者。如王子阿闍世。有大王相。欲與為親厚。到天上取天食。還到鬱旦羅越。取自然粳米。至閻浮林中取閻浮果。與王子阿闍世。或時自變其身。作象寶馬寶以惑其心。或作嬰孩坐其膝上。王子抱之嗚唼與唾。時時自說己名令太子知之。種種變態以動其心。 五神通を得已りて、自ら念ずらく、『誰か、当に我が与(ため)に、檀越と作るべき者ならん。王子の阿闍世は、大王の相有り、与(とも)に親厚と為らんと欲す』、と。天上に到りて、天食を取り、還って鬱怛羅越に到りて、自然の粳米を取り、閻浮林中に至りて、閻浮果を取り、王子の阿闍世に与え、或いは時に自ら、其の身を変じて、象宝、馬宝と作りて、以って其の心を惑わし、或いは嬰孩と作りて、其の膝上に坐せば、王子、之を抱きて嗚唼し、唾を与えたり。時時は、自ら己の名を説いて、太子をして、之を知らしめ、種種に変態して、以って其の心を動かす。
『提婆達多』は、
『五神通』を、
『得る!』と、
自ら、こう念じた、――
誰が、
わたしの為に、
『檀越』と、
『作れば!』、
『適当だろうか?』。
例えば、
『王子』の、
『阿闍世』は、
『大王の相』が、
『有る!』、
『阿闍世』に、
『親愛され!』、
『厚遇されるとしよう!』、と。
『提婆達多』は、
或いは、
『天上』に、
『到って!』、
『天の食』を、
『取り!』、
『鬱怛羅越』に、
『還って!』、
『自然の粳米』を、
『取り!』、
『閻浮樹』の、
『林』では、
『閻浮の果(このみ)』を、
『取って!』、
『阿闍世』に、
『与え!』、
或る時には、
自ら、
『身』を、
『変じて!』、
『象宝』や、
『馬宝』と、
『作って!』、
それで、
『王子』の、
『心』を、
『惑わしたり!』、
或いは、
『幼児』の、
『身』と、
『作って!』、
『太子』の、
『膝の上』に、
『坐る!』と、
『王子』は、
之を、
『抱いて!』、
『口』を、
『鳴らしながら!』、
『唾』を、
『与えたのであった!』が、
時時は、
自ら、
『名』を、
『名乗って!』、
『太子』に、
『自分である!』と、
『知らせたり!』して、
種種に、
『変態して!』、
『阿闍世』の、
『心』を、
『惑わせた!』。
  檀越(だんおつ):梵語 daanapati 、施主と訳す。『大智度論巻8(下)注:檀越』参照。
  阿闍世(あじゃせ):梵語 ajaatazatru 、未生怨と意訳す。摩伽陀国頻婆娑羅 bimbisaara 王の子。『大智度論巻3(上)注:阿闍世』参照。
  親厚(しんこう):親愛厚遇。
  鬱旦羅越(うったんらおつ):梵語 uttarakuru 、また鬱怛羅越、鬱怛羅鳩留、北瞿盧洲とも称す。須弥山の北の大洲。『大智度論巻3(上)注:四洲』参照。
  閻浮(えんぶ):梵語 jambuu 、樹名。また瞻部、剡浮、琰浮、譫浮、染部に作る。即ち「立世阿毘曇論巻1南剡浮提品」に、「樹あり名づけて剡浮と曰う。樹に由りて名を立て、この洲地に名づけて剡浮提と曰う。此の樹は剡浮提地の北辺に生じ、泥民陀羅河の南岸に在り。この樹の株本は正しく洲の中央にして、樹株の中央より東西の角を取るに並びに一千由旬あり。この樹生長すれば形容を具足し愛すべし。枝葉相覆い、密厚多葉にして、久しく住すれども凋まず。一切の風雨侵入すること能わず。比丘、譬えば装花鬘師が花鬘及び耳上の荘厳を装飾せるが如し。その樹の形相の愛すべきことかくの如し。上は華蓋の如く、次第に相覆い、高さ百由旬あり。下本は洪直にして都て瘤節なく、五十由旬にして方に枝條あり。樹身は径刺にして広さ五由旬、囲り十五由旬あり。その一一の枝は横出五十由旬、間中の亘度(直径)一百由旬、周廻三百由旬あり。その菓熟する時、甘美比なし、細蜂蜜の如く、味甜くして厭い難し。菓の味かくの如し。菓の大は瓮の如く、その核の大小は猶お世間の剡浮子の核の如し。その上に鳥形あり、大殿獼猴の形の如く、六十歳の大象の如し。この両鳥獣は恒にその実を食う。東枝の菓子は多く剡浮提地に落ち、少しく水に落つるものあり。西枝の菓子は多く剡浮提地に落ち、少しく水に落つるものあり。南枝の菓子は並びに剡浮提の地に落ち、北枝の菓子は悉く河中に落ちて魚の食する所となる。樹根は悉くこれ金沙の覆う所、春の雨時に当るも下漏湿せず、夏は則ち熱からず、冬は風寒なし。乾闥婆及び藥叉神あり、樹下に依りて住す」と云えるこれなり。また「長阿含経巻18」、「大楼炭経巻1」、「起世経巻1」、「起世因本経巻1」、「南本涅槃経巻9」、「善見律毘婆沙巻17」等に出づ。<(望)
  嬰孩(ようがい):一歳より三歳に至る幼児。
  嗚唼(おそう):嗚は、「あゝ」という歌うような声、唼は、「ちゃぷちゃぷ」という鳥の啄む声。
王子意惑。於奈園中大立精舍。四種供養并種種雜供無物不備。以給提婆達多。日日率諸大臣。自為送五百釜羹飯。 王子は、意に惑いて、奈園中に、大いに精舎を立てて、四種に供養し、并びに種種の供を雑えて、物として備わらざる無く、以って提婆達多に給し、日日、諸大臣を率いて、自ら為に、五百釜の羹飯を送れり。
『王子』は、
『意』を、
『惑わされて!』、
『奈園(マンゴー園)』中に、
『多く!』の、
『精舎』を、
『立てて!』、
『四種(衣服、飲食、臥具、湯薬)』を、
『供養し!』、
併せて、
『種種の供養』を、
『雑え!』、
『備わらない!』、
『物』を、
『無くして!』、
それを、
『提婆達多』に、
『供給し!』、
毎日、
諸の、
『大臣』を、
『率いて!』、
自ら、
『五百釜』の、
『羹(あつもの)』と、
『飯』とを、
『送った!』。
  奈園(なおん):蓋し奈は、また柰、㮈とも作り、此に謂う林檎の如し、即ち梵語菴没羅 aamra 、また菴羅等の訳語にして、通常謂わゆる奈園は、菴羅樹女(即ち菴婆羅婆利 aamrapaali )の仏に奉献せる園林、即ち菴羅樹園の意なれども、其れは毘耶離国の所在なれば、是の摩伽陀国阿闍世の供せる奈園とはまたまさに別なるべし。『大智度論巻14(上)注:菴羅樹園』参照。
  菴羅樹園(あんらじゅおん):梵名 aamrapaali- aaraama 、また菴没羅園、菴婆羅園、菴没羅林、奄婆梨園等に作り、また訳して奈園とも称す。毘耶離 vaizaalii 国、菴羅樹女 aamrapaali の仏に献ずる所の園林なるに依り、この称あり。『大智度論巻8(下)注:菴婆羅婆利』参照。
  四種供養(ししゅくよう):即ち衣服、飲食、臥具、湯薬の供養を云う。『大智度論巻33(上)注:四事供養、供養』参照。
  羹飯(こうぼん):あつものと飯。
提婆達多大得供養而徒眾尠少。自念。我有三十相減佛未幾。直以弟子未集。若大眾圍繞與佛何異。如是思惟已生心破僧得五百弟子。舍利弗目犍連說法教化。僧還和合。 提婆達多、大いに供養を得るも、徒衆は尠少なれば、自ら念ずらく、『我れに三十相有りて、仏に減ずること、未だ幾ばくならず。直(た)だ弟子の未だ集まらざるを以って、若し大衆に囲繞せらるれば、仏と何んぞ異ならんや』、と。是の如く思惟し已りて、心に破僧せんことを生じ、五百の弟子を得たるも、舎利弗、目揵連の説法教化に、僧は、還た和合せり。
『提婆達多』は、
『大いに!』、
『供養』を、
『得た!』のに、
『徒衆』が、
『甚だ!』、
『少なかった!』ので、
自ら、こう念じた、――
わたしには、
『三十相』、
『有る!』、
『仏(三十二相)』より、
『幾ばく(いかばかり)も!』、
『少ないわけではない!』。
直だ、
『弟子』の、
『集まらない!』ところが、
『異なるだけだ!』。
若し、
『大衆』に、
『囲繞された!』ならば、
何が、
『仏』と、
『異なろう?』、と。
是のように、
『思惟する!』と、――
『僧』を、
『破ろう!』という、
『心』が、
『生じて!』、
『五百』の、
『弟子』を、
『得たのである!』が、
『舎利弗』と、
『目揵連』が、
『五百の弟子』に、
『説法し!』、
『教化した!』ので、
『僧』は、
『還た!』、
『和合することになった!』。
  尠少(せんしょう):甚だ少ない、殆どない( very few )。
爾時提婆達多便生惡心推山壓佛。金剛力士以金剛杵而遙擲之。碎石迸來傷佛足指。 爾の時、提婆達多は、便ち悪心を生じ、山を推して、仏を圧するも、金剛力士が、金剛杵を以って、遙かに之を擲(なぐ)れば、砕石迸(はし)り来たりて、仏の足指を傷つけたり。
爾の時、
『提婆達多』は、
『悪心』を、
『生じて!』、
『山』を、
『推()し!』、
『仏』を、
『圧()しつぶした!』が、
『金剛力士』が、
『金剛杵』を、
『遙かに!』、
『投げつける!』と、
『砕けた!』、
『石』が、
『迸(はし)り来て!』、
『仏』の、
『足指』を、
『傷つけた!』。
  金剛力士(こんごうりきし):梵語 vajrapaaNibalin の訳。また婆闍羅波尼婆里卑に作る。また密迹金剛力士、密迹力士と称し、或は、その大力を具有せるを以っての故に、また那羅延 naaraayaNa とも称す。「大宝積経巻9金剛力士会」に、往昔転輪聖王勇郡に千子及び法意、法念の二王子あり、法意は曽て誓うて言わく、若し千位の太子成仏の時、当に金剛力士と為りて、仏に親近し、諸仏の秘要密迹の事を聞くべしと。当時の勇郡王は即ち過去の定光如来、千位の太子は即ち賢劫中の千仏、法意王子は即ち金剛力士、名づけて密迹と為すと云えるこれなり。<(佛)、『大智度論巻10(下)注:密迹金剛力士』参照。
  金剛杵(こんごうしょ):梵語伐折羅 vajra の訳。原と印度の兵器と為す。密宗にはこれを仮りて、以って堅利之智に標して煩悩を断ち、悪魔を伏すと為し、その両頭の単独なる者を独股と謂い、三枝に分かるる者を三股謂いて、五枝に分かるる者を五股と謂う。<(丁)
華色比丘尼呵之。復以拳打尼。尼即時眼出而死。作三逆罪。與惡邪師富蘭那外道等為親厚。斷諸善根心無愧悔。 華色比丘尼、之を呵すに、復た拳を以って尼を打てば、尼は即時に眼出でて死し、三逆罪を作せり。悪邪師の富蘭那外道等と親厚を為して、諸の善根を断ずるも、心に愧悔すること無し。
『提婆達多』は、
『華色比丘尼(阿羅漢)』に、
『叱られる!』と、
反って、
『拳』で、
『比丘尼』を、
『打った!』ので
『比丘尼』は、
即時に、
『眼が出て!』、
『死んでしまった!』。
則ち、
『三逆罪(破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢)』を、
『作ったのである!』が、
『悪邪師』の、
『富蘭那外道』等と、
『親しく!』、
『交際して!』、
諸の、
『善根』を、
『断った!』のに、
『心』には、
『恥じる!』ことも、
『悔いる!』ことも、
『無かった!』。
  華色比丘尼(けしきびくに):具さに蓮華色比丘尼と云い、仏在世時の阿羅漢果を逮得せる比丘尼なり。『大智度論巻11(上)注:蓮華色比丘尼、巻13(下)優鉢羅華比丘尼』参照。
  三逆罪(さんぎゃくざい):五逆罪中の破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢を云う。
  富蘭那(ふらんな):具さに富蘭那迦葉 puuraNa- kazyapa に作り、釈尊在世時の印度に勢力有る六師外道の一。『大智度論巻3(上)注:六師外道』参照。
復以惡毒著指爪中。欲因禮佛以中傷佛。欲去未到王舍城中。地自然破裂火車來迎生入地獄。 復た、悪毒を以って、指の爪中に著け、仏を礼するに因(ちな)んで、以って仏を中傷せんと欲すれば、去らんと欲して、未だ王舎城中に到らざるに、地は、自然に破裂して、火車、来たりて迎え、生きながら、地獄に入れり。
『提婆達多』は、
復た、
『悪毒』を、
『指の爪』中に、
『塗り!』、
『仏の足』に、
『礼する!』時、
それで、
『仏』を、
『傷つけた!』が、
『去ろうとして!』、
未だ、
『王舎城』中に、
『到らない!』うちに、
『地』が、
『自然に!』、
『破裂し!』、
『火車』が、
『迎えに!』、
『来て!』、
『生きながら!』、
『地獄』に、
『入った!』。
  中傷(ちゅうしょう):毒を以って傷つく。
提婆達多身有三十相。而不能忍伏其心。為供養利故而作大罪。生入地獄。 提婆達多は、身に三十相有るも、忍んで、其の心を伏す能わず、供養の利の為の故に、大罪を作し、生きながら地獄に入れり。
『提婆達多』は、
『身』に、
『三十相』を、
『有していた!』のに、
『忍んで!』、
『心』を、
『屈伏できなかった!』ので、
『供養』という、
『利』の為の故に、
『大罪』を、
『作して!』、
『生きながら!』、
『地獄』に、
『入ったのである!』。
以是故言利養瘡深破皮至髓應當除卻愛供養人心。是為菩薩忍心不愛著供養恭敬人。 是を以っての故に言わく、『利養の瘡深くして、皮を破りて、髄に至れば、応当に、供養人を愛する心を除却すべし』、と。是れを菩薩は忍んで、心に、供養、恭敬する人を愛著せずと為す。
是の故に、こう言う、――
『利養』という、
『瘡』は、
『深く!』て、
『皮』を、
『破って!』、
『髄にまで!』、
『至る!』が故に、
当然、
『供養する人』を、
『愛するような!』、
『心』を、
『除却しなければならない!』、と。
是れが、
『菩薩』の、
『忍ぶ心』は、
『供養したり!』、
『恭敬する!』、
『人』を、
『愛著しない!』というのである。
復次供養有三種。一者先世因緣福德故。二者今世功德修戒禪定智慧故為人敬養。三者虛妄欺惑內無實德外如清白。以誑時人而得供養。 復た次ぎに、供養に三種有り、一には、先世の因縁の福徳の故に、二には、今世の功徳の修戒、禅定、智慧の故に、人に敬養せられ、三には、虚妄、欺惑にして、内に実徳無く、外に清白の如きに、以って時の人を誑し、供養を得。
復た次ぎに、
『供養を得る』には、
『三種』有り、
一には、
『先世の因縁である!』、
『福徳』の故に、
『供養』を、
『得る!』、
二には、
『今世の功徳である!』、
『修戒』、
『禅定』、
『智慧』の故に、
『人』に、
『恭敬、供養される!』、
三には、
『虚妄、欺惑して!』、
『内』に、
『実の徳』が、
『無い!』のに、
『外』に、
『清白であるように!』、
『見せかけ!』、
『時の人』を、
『誑(たぶらか)して!』、
『供養』を、
『得る!』。
於此三種供養中。心自思惟。若先世因緣懃修福德今得供養。是為懃身作之而自得耳。何為於此而生貢高。譬如春種秋穫。自以力得何足自憍。如是思惟已。忍伏其心不著不憍。 此の三種の供養中に於いて、心に自ら思惟すらく、『若し先世の因縁なれば、福徳を懃修して、今、供養を得るも、是れ身を懃(つと)めて、之を作して、自ら得るのみと為す。何の為にか、此に於いて、貢高を生ぜん。譬えば、春に種えて、秋に穫(かりと)るが如く、自ら力を以って得たるに、何んぞ自ら憍るに足らん』、と。是の如く思惟し已りて、忍んで、其の心を伏すれば著せず、憍らざるなり。
此の、
『三種』の、
『供養』を、
『得る!』中に於いて、
『心』に、
自ら、こう思惟する、――
若し、
『先世の因縁である!』、
『福徳』を、
『懃修して!』、
是の、
『供養』を、
『得た!』とすれば、
是れは、
『懃修した!』、
『身』の、
『作した!』、
『福徳』を、
今、
『供養として!』、
『得たのである!』。
何の為に、
此の、
『供養』に於いて、
『貢高(慢心)』を、
『生じるのか?』。
譬えば、
『春』に、
『種えて!』、
『秋』に、
『収穫するように!』、
自ら、
『力』を、
『用いて!』、
『得たのである!』。
何うして、
自ら、
『憍る!』に、
『足りよう?』、と。
是のように、
『思惟して!』、
其の、
『心』を、
『忍んで!』、
『伏した!』ならば、
『心』は、
『供養』に、
『著することもなく!』、
『供養』に、
『憍ることもない!』。
  貢高(くこう):自慢する( proud )、梵語 stambha の訳、柱( a post, pillar, column )、支える/強化する( support, propping, strengthening )、慢心/傲慢( inflation, pretentiousness, arrogance )、( fixedness, stiffness, rigidity, torpor, paralysis, stupefaction )、自ら変ろうとしない/頑固/麻痺した/ぼうっとする( fixedness, stiffness, rigidity, torpor, paralysis, stupefaction )、停止/障害/抑制( stoppage, obstruction, suppression )の義。憍慢な/尊大な( arrogant, grandiose )の意。
若今世故功德而得供養當自思惟。我以智慧。若知諸法實相。若能斷結。以此功德故。是人供養於我無事。如是思惟已。自伏其心不自憍高。此實愛樂功德不愛我也。 若し今世の故の功徳にて、供養を得れば、当に自ら思惟すべし、『我れは、智慧を以って、若しは、諸法の実相を知り、若しは、能く結を断ずるに、此の功徳を以っての故に、是の人の供養は、我れに於いては事無し』、と。是の如く思惟し已りて、自ら其の心を伏すれば、自ら憍り高ぶることなし。此れ実に、功徳を愛楽して、我れを愛せざればなり。
若し、
『今世の功徳』の故に、
『供養』を、
『得た!』ならば、
自ら、こう思惟することになる、――
わたしは、
『智慧』を、
『用いて!』、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知り!』、
『結』を、
『断じることができた!』。
是の、
『人』の、
『供養する!』のは、
此の、
『功徳』の故に、
『供養するのである!』、
わたしに於いて、
『(供養を為す)事』は、
『無い!』、と。
是のように、
思惟すれば、――
自ら、
『心』を、
『伏して!』、
『心』は、
『憍ることもなく!』、
『高ぶることもない!』。
此の、
『人』は、
実に、
『功徳』を、
『愛し!』、
『楽しんでいるだけだ!』、
『わたし』を、
『愛するからではない!』、と。
譬如罽賓三藏比丘。行阿蘭若法至一王寺。寺設大會。守門人見其衣服麤弊遮門不前。如是數數以衣服弊故每不得前。便作方便假借好衣而來。門家見之聽前不禁。既至會坐得種種好食。先以與衣。 譬えば、罽賓の三蔵比丘の如き、阿蘭若の法を行じて、一王寺に至れば、寺は大会を設くるも、守門人、其の衣服の麁弊なるを見て、門を遮りて、前(すす)ましめず。是の如く数数(しばしば)、衣服の弊なるを以っての故に、毎(つね)に前むを得ず。便ち方便を作して、好衣を仮借して来たるに、門家、之を見て、前むを聴(ゆる)して禁ぜず。既に会に至りて、種種の好食を得れば、先に以って衣に与う。
譬えば、
『罽賓(カシミール)』の、
『三蔵比丘』が、そうである、――
『阿蘭若(頭陀行)の法』を、
『行いながら!』、
『一王寺(王に依って寄進された寺院)』に、
『至る!』と、
『寺』では、
『大会』が、
『設けられていた!』が、
『守門人』が、
其の、
『衣服』を、
『見る!』と、
『粗末で!』、
『ぼろぼろであった!』ので、
『門』を、
『遮って!』、
『比丘』に、
『進ませなかった!』。
是のように、
しばしば、
『衣服』が、
『ぼろぼろである!』という、
『理由で!』、
毎度、
『門』から、
『進むことができなかった!』ので、
『比丘』は、
『方便』を、
『作して!』、
『好衣』を、
『借り!』、
『門』に、
『来てみる!』と、
『守門人』は、
此の、
『好衣』を、
『見て!』、
『進む!』ことを、
『聴(ゆる)し!』、
『禁じることはなかった!』。
間もなく、
『比丘』は、
『会』に、
『至る!』と、
種種の、
『好食』を、
『得た!』が、
『先に!』、
それを、
『衣』に、
『与えた!』。
  罽賓(けいひん):梵名 kapiza 、また迦湿弥羅 kazmiila とも称す。今のカシミールの如し。
  阿蘭若法(あらんにゃほう):梵語阿蘭若 araNya を坐禅に適した閑静処と名づくるに、即ち比丘の修すべき少欲知足等の頭陀行及び戒禅定智慧を修むるの意なり。『大智度論巻3(上)注:阿蘭若』参照。
  (じ):仏寺の通称にして、乃ち仏像を安置し、並びに僧尼止住して以って仏道を修行する処なり。また寺を称して、各種の異称有ること、寺刹、僧寺、精舎、道場、仏刹、梵刹、蘭若、叢林、栴檀林、檀林の如し。寺に相当する梵語に凡そ二有り、一に毘訶羅 vihaara (即ち住処、遊行処と訳す)、二に僧伽藍 saMghaaraama (即ち衆園、精舎と訳して、修行者の居舎の意なり)、また伽藍、或は僧に作る。<(佛)
  大会(だいえ):梵語般闍于瑟 paJcavaarSika の訳。また五年大会と称す。一切の僧に供養する為に五年ごとに王の設くる大会の意。『大智度論巻2(上)注:般闍于瑟』参照。
  麁弊(そへい):粗末でぼろぼろであること。
  仮借(けしゃく):借りる。
  門家(もんけ):門衛。守門人。
  (き):すでに。<動詞>完了( complete, end )、<副詞>已経( already )、不久/隨即( soon )。
眾人問言。何以爾也。答言。我比數來每不得入。今以衣故得在此坐得種種好食。實是衣故得之。故以與衣。 衆人、問うて言わく、『何を以ってか、爾る』、と。答えて言わく、『我れ比数するに、来たる毎に、入るを得ず。今衣を以っての故に、此に在りて坐するを得、種種の好食を得。実に是の衣の故に、之を得れば、故に以って、衣に与うるなり』、と。
『人々』は、
問うて、こう言った、――
何故、
『そうするのですか?』、と。
『比丘』は、
答えて、こう言った、――
わたしは、
『数えてみた!』が、
『来るごとに!』、
『入ることができなかった!』のに、
今は、
『衣』の故に、
此に、
『坐ることができ!』、
種種の、
『好食』を、
『得た!』。
実に、
是の、
『衣』が、
此の、
『好食』を、
『得たのである!』。
是の故に、
これを、
『衣』に、
『与えているのだ!』、と。
  比数(ひすう):比較計算すること。
行者以修行功德持戒智慧故而得供養。自念此為功德非為我也。如是思惟能自伏心是名為忍。 行者は、修行の功徳の持戒と智慧とを以っての故に、供養を得れば、自ら念ずらく、『此れは、功徳の為にして、我が為に非ざるなり』、と。是の如く思惟すれば、能く自ら心を伏す、是れを名づけて、忍と為す。
『行者』は、
『修行』の、
『功徳である!』、
『持戒』と、
『智慧』との故に、
『供養』を、
『得られる!』ので、
自ら、こう念じるのである、――
此れは、
『功徳』が、
『供養されたのであり!』、
『わたし』が、
『供養されたのではない!』、と。
是のように、思惟して、――
自ら、
『心』を、
『伏することができれば!』、
是れを、
『忍』と、
『称するのである!』。
若虛妄欺偽而得供養。是為自害不可近也。當自思惟。若我以此虛妄而得供養。與惡賊劫盜得食無異。是為墮欺妄罪。如是於三種供養人中心不愛著亦不自高。是名生忍。 若し、虚妄、欺偽して、供養を得れば、是れを自ら害して、近づくべからずと為せば、当に自ら思惟すべし、『若し、我れ、此の虚妄を以って、而も供養を得れば、悪賊、劫盗の食を得ると、異なる無し。是れを欺妄の罪に堕すと為す』、と。是の如く、三種の供養人中に於いて、心に愛著せず、亦た自ら高うせず、是れを生忍と名づく。
若し、
『虚妄し(嘘を吐き)!』、
『欺偽し(人を欺し)!』て、
『供養』を、
『得れば!』、
是れは、
『自ら!』を、
『害することになり!』、
『近づくべきでない!』。
自ら、
こう思惟すべきである、――
若し、
わたしが、
此の、
『虚妄』を、
『用いて!』、
『供養』を、
『得たならば!』、
『悪賊』や、
『劫盗』が、
『食』を、
『得る!』のと、
『異ならなず!』、
是れは、
『虚妄』の、
『罪』に、
『堕ちるだろう!』、と。
是れ等のような、
『三種』の、
『供養人』中に於いて、
『心』が、
『愛著せず!』、
亦た、
『自ら!』、
『貢高しなければ!』、
是れを、
『生忍』と、
『称する!』。
問曰。人未得道衣食為急。云何方便能得忍。心不著不愛給施之人。 問うて曰く、人は、未だ道を得ざれば、衣食を、急と為す。云何が、方便して、能く忍を得、心に給施の人を著せず、愛せざる。
問い、
『人』は、
未だ、
『道』を、
『得ていなければ!』、
『衣食』に、
『心配させられる!』が、
何のような、
『方便』で、
『心』に、
『忍』を、
『得て!』、
『給施する!』、
『人』を、
『愛著させないのですか?』。
  (きゅう):切迫した/焦燥して/心配して( urgent, annoyed, anxious )。
答曰。以智慧力觀無常相苦相無我相心常厭患。 答えて曰く、智慧の力を以って、無常相、苦相、無我相を観れば、心は常に厭患す。
答え、
『智慧』の、
『力』で、
『無常相』や、
『苦相』や、
『無我相』を、
『観察すれば!』、
『心』は、
『常に!』、
『厭患するだろう!』。
  厭患(えんげん):迷いから覚める/幻滅を感じる( disillusion )、梵語 saMvega, aapadyante の訳。幻滅を感じるの意。
譬如罪人臨當受戮。雖復美味在前家至勸喻。以憂死故。雖飲食餚膳不覺滋味。行者亦爾。常觀無常相苦相。雖得供養心亦不著。 譬えば、罪人の、当に戮を受くべきに臨んで、復た美味前に在りて、家の勧喩するに至ると雖も、死を憂うるを以っての故に、餚膳を飲食すと雖も、滋味を覚えざるが如し。行者も亦た爾して、常に無常相、苦相を観ずれば、供養を得と雖も、心は亦た著せず。
譬えば、
『罪人』が、
『罰』を、
『受ける!』に、
『臨んでは!』、
『美味』が、
『前』に、
『在った!』としても、
『家族』が、
『どれほど!』、
『勧めよう!』と、
『死』を、
『憂うる!』が故に、
『餚膳』を、
『飲食しても!』、
『滋味』を、
『覚えないのである!』が、
『行者』も、
爾のように、
『無常相』や、
『苦相』を
常に、
『観察していれば!』、
『供養』を、
『得たとしても!』、
『心』が、
『著することはない!』。
  (りく):懲罰( punish )、殺( kill )。
  (け):家族。夫、或いは妻を指す。
  勧喩(かんゆ):勧めさとす。
  餚膳(こうぜん):料理( meals )。膳部。
  滋味(じみ):味( taste )。食物の酸、甜、苦、辣、鹹等。
又如獐鹿為虎搏逐追之不捨。雖得好草美水飲食心無染著。行者亦爾。常為無常虎逐不捨須臾思惟厭患。雖得美味亦不染著。是故行者於供養人中心得自忍。 又、獐鹿は、虎、之を搏(う)ち逐追して、捨てざるが為に、好草、美水を得て、飲食すと雖も、心に染著無きが如し。行者も亦た爾り、常に無常の虎、逐うて、須臾も捨てざるが為に、思惟し厭患して、美味を得と雖も、亦た染著せず。是の故に行者は、供養人中に於いて、心に自ら忍ぶことを得るなり。
又、
譬えば、
『獐鹿』は、
『虎』が、
『捕捉しようとし!』、
『逐追して!』、
『捨てない!』が為に、
『好草』や、
『美水』を、
『得て!』、
『飲食していても!』、
『心』に、
『染著する!』ことが、
『無いように!』、
『行者』も、
同じように、
常に、
『無常』という、
『虎』が、
『逐うて!』、
『須臾(暫時)』も、
『捨てない!』が為に、
『思惟して!』、
『厭患する!』ので、
『美味』を、
『得た!』としても、
『染著することはない!』。
是の故に、
『行者』は、
『供養する!』、
『人』中に於いても、
『心』に、
『自ら!』、
『忍ぶことができるのである!』。
  獐鹿(しょうろく):獐(のろ)は鹿に似た生き物。
  (はく):うつ。闘う/捕捉/軽撃/奪取/搏動( combat, catch, beat, take by force, throb )。



女人を忍ぶ

復次若有女人來欲娛樂誑惑菩薩。菩薩是時當自伏心忍不令起。 復た次ぎに、若しは、有る女人、来たりて娯楽せんと欲し、菩薩を誑惑せん、菩薩は、是の時、当に自ら心を伏して、忍びて起たしめざるべし。
復た次ぎに、
若しは、
有る、
『女人』が、
『来て!』、
『娯楽しよう!』と、
『思い!』、
『菩薩』を、
『誑(たぶらか)して!』、
『惑わすだろう!』。
是の時、
『菩薩』は、
『自ら!』、
『心』を、
『伏し!』、
『忍んで!』、
『心』を、
『起たせないようにすべきである!』。
如釋迦文尼佛在菩提樹下。魔王憂愁遣三玉女。一名樂見。二名悅彼。三名渴愛。來現其身作種種姿態欲壞菩薩。 釈迦文尼仏の如し、菩提樹の下に在すに、魔王憂愁して、三玉女を遣せり、一を楽見と名づけ、二を悦彼と名づけ、三を渇愛と名づくる、来たりて、其の身を現し、種種の姿態を作して、菩薩を壊せんと欲す。
例えば、
『釈迦文尼仏』は、こうであった、――
『菩提樹の下』に、
『坐られる!』と、
『魔王』が、
『憂愁して!』、
『三玉女』を、
『遣した!』、――
一は、
『見て楽しい!』と、
『呼ばれ!』、
二は、
『彼れを悦ばせる!』と、
『呼ばれ!』、
三は、
『愛に渇く!』と、
『呼ばれていた!』。
『三玉女』は、
『来て!』、
其の、
『身』を、
『現し!』、
種種の、
『姿態』を、
『作して!』、
『菩薩』の、
『心』を、
『壊そう!』と、
『思った!』。
菩薩是時心不傾動目不暫視。三女念言。人心不同好愛各異。或有好少或愛中年或好長好短好黑好白。如是眾好各有所愛。 菩薩は、是の時、心傾動せず、目暫くも視ず。三女の念じて言わく、『人心は同じからざれば、好愛も、各異ならん。或いは少(わか)きを好む有り、或いは中年を愛し、或いは長を好み、短を好み、黒を好み、白を好む。是の如く、衆好は、各に所愛有り』、と。
是の時、
『菩薩』の、
『心』は、
『傾くこともなく!』、
『動くこともなく!』、
『目』は、
『暫くも!』、
『視つめなかった!』ので、
『三女』は念じて、こう言った、――
『人』の、
『心』は、
『同じでなく!』、
各各、
『愛する!』、
『好み!』が、
『異なる!』。
或いは、
『年少』を、
『好む!』者が、
『有り!』、
或いは、
『中年』が、
『好みである!』。
或いは、
『背』の、
『高い!』のが、
『好みであり!』、
或いは、
『低い!』のが、
『好みである!』。
或いは、
『色』の、
『黒い!』のが、
『好みであり!』、
或いは、
『白い!』のが、
『好みである!』。
是のように、
衆(おおく!)の、
『好み!』には、
各各に、
『愛する!』所が、
『有る!』、と。
是時三女各各化作五百美女。一一化女作無量變態從林中出。譬如黑雲電光暫現。或揚眉頓睫嫈嫇細視。作眾伎樂種種姿媚。來近菩薩欲以態身觸逼菩薩。 是の時、三女は、各各、五百の美女を化作し、一一の化女は、無量の変態を作して、林中より出づ。譬えば黒雲より、電光暫く現るが如く、或いは眉を揚げて、頓(とみ)に睫(またた)き、嫈嫇もて細かに視、衆伎楽を作し、種種の姿もて媚び来たりて、菩薩に近づき、態身を以って、菩薩に触れて逼らんと欲す。
是の時、
『三女』は、
各各、
『五百』の、
『美女』を、
『化作する!』と、
一一の、
『化女』は、
『無量』の、
『変態(変った形状)』を、
『作して!』、
『林』中より、
『出た!』。
譬えば、
『黒雲』より、
『電光』が、
『暫く!』、
『現れる!』ように、
『五百』の、
『化女』は、
或いは、
『眉』を、
『揚げて!』、
『睫(まつげ)』を、
『ぱたぱた!』、
『睫(またた)いたり!』、
或いは、
『新婦の様態』で、
『至細に!』、
『視つめたり!』、
或いは、
多くの、
『伎楽』を、
『作して!』、
種種の、
『姿態』で、
『媚びながら!』、
来て、
『菩薩』に、
『近づく!』と、
『変態』の、
『身』を以って、
『菩薩』に、
『触れながら!』、
『逼ろうとした!』。
  変態(へんたい):本来の形状を変じた形状、態度。
  嫈嫇(ようみょう):新婦の貌。
  細視(さいし):至細に見る。
  態身(たいしん):変態の身。形状を変じた身。
爾時密跡金剛力士瞋目叱之。此是何人而汝妖媚敢來觸嬈。 爾の時、密迹金剛力士、目を瞋らせて之を叱るらく、『此れは是れ何人なりや、汝、妖媚にして、敢て来たりて、触れて嬈(なや)ます』。
爾の時、
『密跡金剛力士』が、
『目』を、
『瞋らせて!』、
『叱りつけた!』、――
此れは、
何のような、
『人なのか?』、
お前は、
『妖しく!』、
『媚びながら!』、
『来て!』、
『勇敢にも!』、
『触れて!』、
『嬈(なや)ましているが!』、と。
  密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし):梵名 guhyapaada- vajra- saNDa 、また金剛力士とも云う。仏法を守護する夜叉神の称。『大智度論巻14(上)注:金剛力士』参照。
  妖媚(ようみ):魅惑的な方法で人を惑わす( be seductively charming )。
爾時密跡說偈呵之
 汝不知天命  失好而黃髯 
 大海水清美  今日盡苦鹹 
 汝不知日減  婆藪諸天墮 
 火本為天口  而今一切噉
汝不知此事。敢輕此聖人。
爾の時、密跡の偈を説いて、之を呵すらく、
汝は天の命を知らず、好を失いて髯の黄ばむを、
大海水は清美なれど、今日は尽く苦鹹なるを。
汝は日の減ずるを知らず、婆藪も諸天も堕するを、
火は本より天の口と為すも、今は一切を噉うことを。
汝は、此の事を知らざれば、敢て此の聖人を軽んず。
爾の時、
『密跡』は、
『偈』を、
『説いて!』、
『叱りつけた!』、――
お前は、
『天』の、
『運命』を、
『知らないのか?』、――
『美貌』を、
『失って!』、
『髯(ほほひげ)』が、
『黄ばむのを!』。
曽て、
『大海水』は、
『清く!』、
『美味かった!』のに、
今日では、
尽くが、
『苦く!』、
『鹹(から)いのを!』。
お前は、
『知らないのか?』――
『日』も、
『減少するということを!』。
『婆藪仙人』や、
『諸天』すら、
『地獄』に、
『堕ちるのを!』。
『火』は、
本は、
『天』の、
『口であった!』が、
今では、
一切を、
『噉(くら)うのだ!』。
  (こう):好もしき容子。
  黄髯(おうぜん):黄ばんだほおひげ。
  清美(しょうみ):清く美しい。
  苦鹹(くげん):にがくて塩からい。
  婆数(ばす):梵名 vasu 、また婆蓃、婆数縛斯等に作る。婆羅門の仙人。「大智度論巻3」に昔摩伽陀国王たりしが、後出家して仙人と為り、四吠陀の法の讃言に依り、殺生して天を祀ることを主張したるが故、生きながら堕して地獄に入れり、と伝えたり。また「大方等陀羅尼経巻1」に出づ。<(佛)
  天口(てんく):婆羅門の法には、火を以って天の口と為し、火もて供物を焼けば則ち諸天これを食すと云えり。<(丁)
是時眾女逡巡小退。語菩薩言。今此眾女端嚴無比可自娛意。端坐何為。 是の時、衆女は、逡巡して小し退き、菩薩に語りて言わく、『今、此の衆女、端厳無比なれば、自ら意を娯ますべし、何んの為めにか端坐したもう』、と。
是の時、
『衆女』は、
『逡巡して!』、
『小し!』、
『退く!』と、
『菩薩』に語って、こう言った、――
今は、
此の、
『女たち』も、
『比べようもなく!』、
『端正に!』、
『荘厳しています!』、
自ら、
『意(こころ)』を、
『娯まされては!』、
『如何でしょう?』、
何故、
『端正に!』、
『坐っているのですか?』、と。
  逡巡(しゅんじゅん):前に進むをためらう( hesitate to move forward )。
菩薩言。汝等不淨臭穢可惡去勿妄談。菩薩是時即說偈言
 是身為穢藪  不淨物腐積 
 是實為行廁  何足以樂意
菩薩の言わく、『汝等が不浄、臭穢なること悪(にく)むべし。去りて、妄談すること勿かれ』、と。菩薩は、是の時、即ち偈を説いて言わく、
是の身を穢の藪と為す、不浄の物腐りて積もれり、
是れ実に行廁と為す、何んぞ以って意を楽しますに足らん。
『菩薩』は、こう言った、――
お前達は、
『不浄であり!』、
『臭穢であり!』、
『憎悪すべきである!』。
去って、
『無駄口』を、
『叩くでない!』、と。
『菩薩』は、
是の時、
『偈』を説いて、こう言った、――
是の、
『身』は、
『穢れ!』の、
『藪である!』、
『不浄の物』が、
『腐り!』、
『積もっている!』。
是の、
『身』は、
『実』に、
『行廁である!』、
何故、
『意』を、
『楽します!』に、
『足ろうか?』。
  行廁(ぎょうし):歩く便所。
女聞此偈自念。此人不知我等清淨天身而說此偈。即自變身還復本形。光曜昱爍照林樹間作天伎樂。語菩薩言。我身如是有何可呵。菩薩答言。時至自知。 女は、此の偈を聞いて、自ら念ずらく、『此の人は、我等が清浄の天身なるを知らずして、此の偈を説けり』と、即ち自ら身を変じて、本の形に還復すれば、光曜昱爍として、林樹の間を照らす。天の伎楽を作して、菩薩に語りて言わく、『我が身は、是の如し。何んぞ呵すべきこと有らん』、と。菩薩の答えて言わく、『時至らば、自ら知らん』、と。
『女』は、
此の、
『偈』を、
『聞く!』と、
自ら、こう念じた、――
此の、
『人』は、
『知らないのだ!』、――
わたし達が、
『清浄な!』、
『天の身だということを!』、と。
そして、
自ら、
『身』を、
『変じて!』、
『本の形』に、
『復(もど)る!』と、
『光曜(光明)』で、
『昱爍として(赤々と)!』、
『林樹の間』を、
『照らし!』、
『天』の、
『伎楽』を、
『作しながら!』、
『菩薩』に語って、こう言った、――
わたしの、
『身』は、
『是の通りです!』。
何処に、
『叱られる!』所が、
『有るのですか?』、と。
『菩薩』は答えて、こう言った、――
『時』が、
『来れば!』、
『自ら!』、
『知るだろう!』、と。
  昱爍(いくしゃく):光明が赤々と輝くこと。
問曰。此言何謂。以偈答言
 諸天園林中  七寶蓮華池 
 天人相娛樂  失時汝自知 
 是時見無常  天人樂皆苦 
 汝當厭欲樂  愛樂正真道
問うて曰く、此の言は、何んの謂ぞ』、と。偈を以って答えて言わく、
諸天の園林中に、七宝の蓮華池あり、
天人相娯楽するも、時を失えりと汝自ら知らん。
是の時無常なるを見よ、天人の楽は皆苦なりと、
汝は当に欲楽を厭うて、正真の道を愛楽すべし。
『女』は問うて、
こう言った、――
此の、
『言葉』は、
何のような、
『意味ですか?』、と。
『偈』で答えて、
こう言った、――
『諸天』の、
『園林』中の、
『七宝の蓮華池』では、
『天人』が、
『娯楽している!』が、
『時(機会)』を、
『失えば!』、
お前、
『自ら!』が、
『知ることになろう!』。
是の時には、
『無常』を、
『見よ!』、――
『天人』の、
『楽などは!』、
『皆苦である!』、と。
お前は、
『五欲(色声香味触)』の、
『楽』を、
『厭うて!』、
『正真』の、
『道』を、
『愛楽せねばならぬ!』、と。
女聞偈已心念。此人大智無量。天樂清淨猶知其惡不可當也。即時滅去。菩薩如是觀婬欲樂。能自制心忍不傾動。 女は偈を聞き已りて、心に念ずらく、『此の人は、大智無量なり。天の楽は清浄なれども、猶お其の悪を知ること、当るべからず』、と。即時に滅し去れり。菩薩は、是の如く婬欲の楽を観て、能く自ら心を制し、忍んで傾動せず。
『女』は、
『偈』を、
『聞く!』と、
『心』に、
こう念じて、――
此の、
『人』は、
『大智』が、
『無量である!』。
『天』の、
『楽』は、
『清浄である!』のに、
其の、
『悪すら!』、
『知っているのだ!』。
わたしに、
『対抗できるはずがない!』、と。
即時に、
『消え去った!』。
『菩薩』は、
是のように、
『婬欲』の、
『楽』を、
『観ても!』、
『自ら!』の、
『心』を、
『制し!』、
『忍んで!』、
『心』を、
『傾けず!』、
『動かさないのである!』。
復次菩薩觀欲種種不淨。於諸衰中女衰最重。刀火雷電霹靂怨家毒蛇之屬猶可暫近。女人慳妒瞋諂妖穢鬥諍貪嫉不可親近。 復た次ぎに、菩薩は、欲に種種の不浄を観るに、諸の衰中には、女衰最も重し。刀火、雷電、霹靂、怨家、毒蛇の属は、猶お暫くは近づくべし。女人の慳妒、瞋諂、妖穢、闘諍、貪嫉は親近すべからず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『欲(色声香味触)』に、
種種の、
『不浄』を、
『観察してみる!』と、
諸の、
『衰(衰弱させるもの)』中に、
『女』という、
『衰(病に近し)』が、
『最重である!』。
『刀火、雷電、霹靂、怨家、毒蛇の属』は、
猶お、
『暫くなら!』、
『近づけることもできる!』が、
『女人』の、
『慳妒、瞋諂、妖穢、闘諍、貪嫉』は、
『親しむことも!』、
『近づけることもできない!』。
  (すい):衰える/衰えさせること( decline, wane )、梵語 jiirNa, jiirNataa の訳、古びた/使い古した/衰えた/衰弱した/衰退した( old, worn out, withered, wasted, decayed )の義、事物の発展を転じて微弱に向う/向わせること。
  刀火(とうか):戦火、兵火。
  慳妒(けんと):物を惜んで他人の幸福をねたむ。
  瞋諂(しんてん):目をむいて瞋り、人にへつらう。
  妖穢(ようえ):邪悪で人を惑わすような( bewitching )。
  闘諍(とうじょう):手や武器でたたかい、口でもあらそう。
  貪嫉(とんしつ):貪って人をねたむ。
何以故。女子小人心淺智薄唯欲是視。不觀富貴智德名聞。專行欲惡破人善根。桎梏枷鎖閉繫囹圄。雖曰難解是猶易開。女鎖繫人染固根深。無智沒之難可得脫。 何を以っての故に、女子小人は、心浅く、智薄く、唯だ欲のみ、是れを視て、富貴、智徳、名聞を観ず、専ら欲悪を行いて、人の善根を破す。桎梏、枷鎖、閉繋、囹圄は、解き難しと曰うと雖も、是れは猶お開き易し。女の鎖、人を繋げば、染むること固く、根は深し。無智、之に没すれば、脱るるを得べきこと難し。
何故ならば、
『女子』と、
『小人』は、
『心が浅く!』、
『智が薄い!』ので、
唯だ、
『五欲』を、
『視る!』のみで、
『富貴』も、
『智徳』も、
『名聞』も、
『観ず!』、
専ら、
『五欲』の、
『悪』を、
『行って!』、
『人』の、
『善根』を、
『破戒する!』。
『桎梏、枷鎖、閉繋、囹圄』は、
『解き難い!』と、
『言っても!』、
猶お、
『開く!』ことは、
『易しい!』が、
『女』という、
『鎖』が、
『人』を、
『繋げば!』、
『染著』が、
『固く!』、
『根』が、
『深い!』ので、
『無智の者』が、
『没する!』と、
『脱れられた!』としても、
『困難である!』。
  (し):見つめる/見守る( look at, regard )、親しく某事に臨む。
  桎梏(しっこく):足かせと手かせ。
  枷鎖(かさ):首かせと鎖。
  囹圄(りょうご):牢屋。牢獄。
眾病之中女病最重。如佛偈言
 寧以赤鐵  宛轉眼中 
 不以散心  邪視女色 
 含笑作姿  憍慢羞恥 
 迴面攝眼  美言妒瞋 
 行步妖穢  以惑於人 
 婬羅彌網  人皆沒身 
 坐臥行立  迴眄巧媚 
 薄智愚人  為之心醉 
 執劍向敵  是猶可勝 
 女賊害人  是不可禁 
 蚖蛇含毒  猶可手捉 
 女情惑人  是不可觸 
 有智之人  所應不視 
 若欲觀之  當如母姊 
 諦視觀之  不淨填積 
 婬火不除  為之燒滅
衆病中には、女病最も重し。仏の偈に言うが如し、
寧ろ赤鉄を以って、眼中に宛転するも、
散心を以って、女色を邪視せざれ。
笑を含んで姿を作り、憍慢し羞恥して、
面を迴らし眼を摂(おさ)め、美言するも妒瞋なり。
行歩する妖穢は、以って人を惑わし、
婬羅弥網に、人皆身を没す。
坐臥行立、眄を迴らし媚を巧みにすれば、
薄智愚人は、之が為に心酔わさる。
剣を執りて敵に向うも、是れ猶お勝つべし、
女賊の人を害するは、是れ禁ずべからず。
蚖蛇の毒を含めるも、猶お手にて捉るべし、
女情の人を惑わすは、是れ触るべからず。
有智の人は、応ずる所を視ず、
若し之を観んと欲せば、当に母姉の如くすべし。
諦視して之を観れば、不浄填積し、
婬火除かれざるも、之が為に焼滅す。
『衆病』中には、
『女』という、
『病』が、
『最も重い!』。
『仏』は、
『偈』に、こう言われている、――
寧ろ、
『赤熱した!』、
『鉄』を、
『眼』中に、
『転がしても!』、
『散心』で、
『女』の、
『色身』を、
『邪視するな!』。
『笑み』を、
『含み!』、
『姿態』を、
『作して!』、
『憍慢し!』、
『羞恥し!』、
『面(おもて)』を、
『迴らして!』、
『眼』を、
『引寄せ!』、
『言葉』を、
『美しくしようとも!』、
『心』に、
『有る!』のは、
『妒(ねた)み!』と、
『瞋(いか)りだ!』。
『歩く!』、
『妖穢(妖術)』で、
『人』を、
『惑わし!』、
『婬欲』の、
『羅網』で、
『絡め捕る!』。
『坐っても!』、
『臥せても!』、
『歩いても!』、
『立っていても!』、
『流し目』を、
『迴らして!』、
『巧みに!』、
『媚びる!』ので、
『薄智』の、
『愚人』は、
『心』が、
『酔わされる!』。
『剣』を、
『執って!』、
『敵』に、
『向えば!』、
まだ、
『勝ち目』も、
『有ろう!』が、
『女』という、
『賊』が、
『人』を、
『害すれば!』、
もう、
『我慢しようがない!』。
『蚖蛇(まむし)』ならば、
『毒』を、
『含んでいても!』、
まだ、
『手』で、
『捉ることもできよう!』が、
『女』の、
『情(なさけ)』が、
『人』を、
『惑わせば!』、
是れは、
『触れようがない!』。
『有智』の、
『人』は、
『心』に、
『適(かな)う!』所でも、
『視ることはない!』、
若し、
『女』を、
『観たい!』と、
『思えば!』、
『母』や、
『姉』を、
『見る!』のと、
『同じようにするはずだ!』。
『諦視して!』、
『女』を、
『観れば!』、
『不浄』が、
『充満している!』、
『婬欲』の、
『火』が、
『除かれていなくても!』、
『焼け尽きることだろう!』。
  赤鉄(しゃくてつ):赤熱せる鉄。
  宛転(おんてん):転がす。
  邪視(じゃし):邪心に視る。
  女色(にょしき):女身。
  摂眼(しょうげん):眼を引付ける。
  美言(みごん):美しく飾ったことば。
  妒瞋(としん):ねたんで瞋る。
  行歩(ぎょうぶ):あるく。
  婬羅(いんら):婬欲を羅、即ち鳥網に喩う。
  弥網(みもう):広い網。
  坐臥行立(ざがぎょうりゅう):すわる、ふせる、あるく、たつ。行住座臥。
  迴眄(えめん):流し目に見回す。眄は流し目。
  蚖蛇(がんだ):まむし。
  女情(にょじょう):女心。
  所応(しょおう):心に応ずる所。即ち期待する所/順応する所。
  母姉(もし):母と姉。
  諦視(たいし):真実を視る。諦観。
  填積(てんしゃく):うづみてつもる。充満。
  参考:『40華厳経巻28』:『爾時威德主太子。為於世間顯示女人。多諸過患。障諸世間出世間樂。乃至能障無上菩提。於眾會中。即為童女。而說偈言 世間妄計諸宗族  愛敬適悅唯女人  一切最勝無比倫  能成住止諸善伴  女為第一人中寶  亦作天人解脫因  紹續勝種功德身  世智說言女為勝  一切熱惱燒心苦  種種煩冤所逼身  妻慰令使得清涼  譬如毒暑逢甘雨  凡夫心沒諸憂惱  猶遭重病之所纏  因妻佞媚所歡娛  妄謂除憂最勝藥  邪見眾生興是念  女人能為世界因  生成長育福莊嚴  天地變化無能勝  勤勞世業唯由女  勸夫普作諸善事  能令男子隨意轉  此女無染別人心  智人所說諸煩惱  一切過業由女生  況取卑族以為妻  世間極惡無過此  女人弊執為其性  如地堅住匪能移  但隨富樂榮貴遷  貧賤衰羸咸棄捨  五通仙人大威德  退失神通因女人  隨意自在騎項行  王女能令寂靜轉  琰魔死王及猛風  亦如地下沃焦海  炎火黑蛇刀毒藥  女人為害過於此  敬心給足諸財寶  質直承事意無違  智慧方便或剛柔  無有能知女心者  見人啼笑皆過彼  種種幻惑誘其心  貌恭矯媚於男夫  心藏很戾無知者  極虛誑語示真實  極真實言皆虛妄  恒如毒獸害眾生  咄哉丈夫寧共處  長時敬事益憍慢  暫遇違緣惡轉增  若出若處一切時  陵突於夫無愧恥  如火焚薪恒不足  如海吞流無滿時  琰魔不厭殺眾生  女人欲男心亦爾  女人不觀於種族  老少貴賤與妍媸  一切男子悉馳求  無厭恣欲情如是  女人志欲無厭足  曾無少分繫夫心  猶如野牛自在行  恒思漸食於新草  少年盛色心流轉  富貴從夫繫屬人  豐盈玉饌瓔珞衣  常願貧窮隨自意  種種供事咸充足  塗香沐浴妙莊嚴  未嘗慚愧丈夫恩  縱意邪思心不絕  或染欲語憐愍語  舌上猶如甘露生  心中猛惡興毒害  是故女言難定信  女人能間夫宗族  匪令雍穆暫同居  父母兄弟甚怨讎  一切姻親皆捨離  外現美容懷諂媚  一切愆違滿腹中  不應觀視一須臾  況久甘其麤惡語  女人恒於一切處  防諸過患及猜嫌  一行有虧眾所輕  傷風敗俗人咸棄  女人童幼及中年  乃至老時過百歲  內外種族皆榮貴  動止恒須人所防  處女居家隨父母  笄年適事又從夫  夫亡從子護嫌疑  由是常名不自在  出家捨欲修寂靜  心思女境非聖賢  猶鬱金香染垢衣  離善常為智人笑  如囚得出思還入  如狂遇差願重生  癩病已除念病時  捨女思女過於是  如澄靜水蛟龍止  亦如金窟猛獸居  雖修戒定念女人  智者觀之亦如是  智人寧吞於熱鐵  不觀女色亂其心  戒定慧品遍成怨  寂靜資緣皆棄捨  女人不觀於勝族  吉祥富貴智名聞  唯求染欲無異心  云何慧者所親近  有住諸禪及威勢  能殺勇力與王仙  或時女色染其心  退失調伏諸功德  鬥諍象馬諸軍陣  亡軀濟海集珍財  勝族乞丐為僕隸  行非正法皆由女  女人喜怒情難見  染心邪計量無涯  世間名稱諸智人  無有能知女心者  五通神仙及天主  能知大海水多少  終身計算莫能知  一一女人差別意  諂言悅耳甘如蜜  心如利劍害於人  亂意巧妙奪人心  懷惡興謀肆諸毒  女人妙飾或無飾  行住坐臥悉猜嫌  邪視愚智諸女人  見畫像女亦憎惡  愚童樂攀毒樹枝  癡亂欲住毒蛇窟  狂人執持於熱鐵  親近女色過於是  染著女色心昏醉  違意忿毒害於身  怖彼女人喜怒時  智者云何親近住  女人惡法滿其心  如河深水蛟龍止  不觀勇力色種族  恣欲從心無是非  女心不定如疾風  亦如迅速浮雲電  百歲供承資所欲  曾無少念丈夫恩  不敬有德輕無德  憎貧樂富徇貪求  美言敬養增慢高  資財闕乏無心顧  蚖蛇枯磧狼毒華  共住戴持傷一世  暫近女色過於彼  永害未來功德身  女人讒巧恒是非  離間六親及朋友  覆藏己過揚他失  一切過患由女人  女心不定如猿狖  恒思少過忘多恩  愚夫敬事若師尊  如奴奉主情無足  女性如河滋汎溢  漂諸勝法壞多身  如流湍激兩岸崩  女人害善過於是  女人欲網甚堅密  顧視徐行無愧容  笑語歡諍無異心  羅諸富貴如昏醉  女人染愛由妄起  如樹無根欲盡燈  色衰愛息一須臾  所有恩情咸滅盡  女人愛欲須臾頃  染心邪語信難依  或時寶重過珠珍  或生厭棄如芻草  象王自在拔樹力  色如浮空大白雲  由為女象醉其心  一切隨人所調伏  菩薩為法攝女人  雖恒教授心遠離  若時太過而親近  如鳥折翼不能飛  女人志趣恒卑下  如河流處岸崩摧  所往能令善法衰  毀宗滅族皆因此  女人能張愛欲網  羅捕一切諸愚夫  世間染欲諸眾生  如魚吞鉤為所食  智者觀知本不淨  九竅常流晝夜時  如是厭離女人身  云何於此生貪著  女身虛幻如浮泡  老病死苦所依處  積集不淨過山岳  云何於此生貪著  一切憂惱及恐怖  皆從女色之所生  若能觀察無貪著  解脫無憂無恐懼  是故智者不觀女  或時觀察以慈心  想如母女及姊妹  隨應為說無貪法  能了女人身內外  種種不淨之所生  如何境動思欲火  焚燒累劫諸善根』
復次女人相者。若得敬待則令夫心高。若敬待情捨則令夫心怖。女人如是恒以煩惱憂怖與人。云何可近。 復た次ぎに、女人の相は、若し敬待を得れば、則ち夫の心をして高ぶらしめ、若し敬待の情捨つれば、則ち夫の心をして怖(お)じけしむ。女人は、是の如く恒に、煩悩と、憂怖を以って、人に与う。云何が、近づくべき。
復た次ぎに、
『女人』という、
『相』は、
若し、
『夫』より、
『敬待』を、
『受けられれば!』、
則ち、
『夫の心』を、
『高ぶらせる!』が、
若し、
『敬待』の、
『情』を、
『捨てたならば!』、
則ち、
『夫の心』を、
『怖()じけさせる!』。
『女人』は、
是のように、
恒に、
『煩悩』と、
『憂怖』とを、
『人』に、
『与えている!』のに、
何故、
『女人』を、
『近づけられるのか?』。
親好乖離女人之罪。巧察人要女人之智。大火燒人是猶可近。清風無形是亦可捉。蚖蛇含毒猶亦可觸。女人之心不可得實。 親好を乖離せしむるは、女人の罪なり。巧みに人の要を察するは、女人の智なり。大火の人を焼くは、是れ猶お近づくべし。清風の形無きは、是れ亦た捉らうべし。蚖蛇の毒を含めるは、猶お亦た触るべし。女人の心は、実を得べからず。
『親好(親しきよしみ)』を、
『乖離させる!』のは、
『女人』の、
『罪である!』。
『人の要求』を、
『巧みに!』、
『察する!』のは、
『女人』の、
『智である!』。
『大火』は、
『人』を、
『焼く!』が、
まだ、
『近づけられる!』。
『清風』には、
『形』が、
『無い!』が、
まだ、
『捉えられる!』。
『毒蛇』は、
『毒』を、
『含む!』が、
まだ、
『触れられる!』。
『女人』の、
『心』だけは、
『実』が、
『認められない!』。
何以故女人之相。不觀富貴端政名聞智德族姓技藝辯言親厚愛重。都不在心唯欲是視。譬如蛟龍不擇好醜唯欲殺人。 何を以っての故に、女人の相は、富貴、端政、名聞、智徳、族姓、技藝、辯言、親厚、愛重を観ずして、都べて心に在らず。唯だ欲のみ、是れを視る。譬えば、蛟龍の好醜を択ばず、唯だ人を殺さんと欲するが如し。
何故ならば、
『女人の相』は、
『富貴、端政、名聞、智徳、族姓、技藝、辯言、親厚、愛重』を、
『観ないからである!』。
都べて、
『心』に、
『存在せず!』、
唯だ、
『五欲』のみを、
『視るからである!』。
譬えば、
『蛟龍』が、
『好』と、
『醜』とを、
『択ばず!』、
唯だ、
『人』を、
『殺す!』ことだけを、
『思うようなものである!』。
  蛟龍(こうりゅう):伝説中の能く洪水を発して氾濫させる龍( mythical flood dragon )。
又復女人不瞻視憂苦憔悴。給養敬待憍奢叵制。 又復た、女人は憂苦、憔悴を瞻視せざれば、給養、敬待、憍奢を制すべからず。
又復た、
『女人』は、
『憂苦』や、
『憔悴』を、
『視つめようとしない!』ので、
『給養』や、
『敬待』や、
『憍奢』を、
『制する!』ことが、
『難しい!』。
  瞻視(せんし):視つめる。
復次若在善人之中。則自畜心高。無智人中視之如怨。富貴人中追之敬愛。貧賤人中視之如狗。常隨欲心不隨功德。 復た次ぎに、若し、善人の中に在れば、則ち自ら、心の高ぶりを畜(やしな)い、無智の人中には、之を視ること怨の如く、富貴人中には、之を追うて敬愛し、貧賤人中には、之を視ること狗(いぬ)の如く、常に欲心に随いて、功徳に随わず。
復た次ぎに、
若し、
『女人』は、
『善人』中に在れば、
『自高(自尊)』の、
『心』を、
『畜(やしな)い!』、
『無智の人』中には、
之を、
『怨(あだ)のように!』、
『視!』、
『富貴の人』中には、
之を、
『追うて!』、
『敬愛し!』、
『貧賤の人』中には、
之を、
『狗(いぬ)のように!』、
『視て!』、
常に、
『欲心』に、
『随って!』、
『功徳』には、
『随わない!』。
  (ちく):やしなう。養育。
如說國王有女名曰拘牟頭。有捕魚師名述婆伽。隨道而行。遙見王女在高樓上窗中見面。想像染著心不暫捨。彌歷日月不能飲食。 説の如し、国王に女(むすめ)有り、名づけて拘牟頭と曰う。有る捕魚師の、述婆伽と名づくる、道に随いて行き、遙かに王女の高楼上に在るを見る。窓中に面を見て、想像し染著して、心に暫くも捨てず、日月を弥歴するも、飲食する能わず。
例えば、こう説かれている、――
『国王』に、
『女(むすめ)』が、
『有り!』、
『拘牟頭(白蓮華)』と、
『呼ばれていた!』。
『述婆伽』と、
『呼ばれる!』、
『漁師』が、
『有り!』、
『道』を、
『行きながら!』、
遙かに、
『高楼』上に、
『王女』を、
『見た!』。
『窓の中』の、
『王女』の、
『面(かお)』を、
『見て!』、
『想像し!』、
『染著して!』、
『心』に、
『暫く!』も、
『捨てず!』、
『日月』を、
『経たのに!』、
『飲食することができなかった!』。
  拘牟頭(くむづ):梵名 kumuda 、食用白睡蓮/赤蓮花( the esculent white water-lily, the red lotus )。又拘物頭、俱勿頭、句文羅、拘物陀、拘母陀、拘貿頭、拘某頭、拘牟那、屈摩羅、究牟陀、拘勿度、拘勿投等に作り、地喜花、赤蓮花、白蓮花、青蓮花、黄色花等に訳す、又蓮花の未敷の者を云う。<(丁)
  捕魚師(ほぎょし):漁師。
  述婆伽(じゅつばが):不明。
  弥歴(みりゃく):久しく経過する。
母問其故以情答母。我見王女心不能忘。母諭兒言。汝是小人。王女尊貴不可得也。兒言。我心願樂不能暫忘。若不如意不能活也。 母、其の故を問う。情を以って、母に答うらく、『我れ、王女を見しより、心に忘るる能わず』、と。母の児を諭して言わく、『汝は、是れ小人にして、王女は尊貴なれば、得べからず』、と。児の言わく、『我れ心に願楽して、暫くも忘るる能わず。若し意の如くならざれば、活くる能わず』、と。
『母』が、
其の、
『理由』を、
『問う!』と、
『児』は、
『心』の、
『情(うち)』を、
『吐露して!』、
『母』に、こう答えた、――
わたしは、
『王女』を、
『見てから!』、
『心』に、
『忘れることができません!』、と。
『母』は、
『児』を諭して、こう言った、――
お前は、
『小人だよ!』、
『王女』のような、
『尊貴』を、
『得られるはずがないじゃないか!』、と。
『児』は、こう言った、――
わたしは、
『心』に、
『願って!』、
『暫くも!』、
『忘れることができません!』。
若し、
『意のままにならなければ!』、
『とても!』、
『活きてはいけません!』、と。
  願楽(がんぎょう):待ち望む( to expect )、梵語 praarthayate, pra√(arth), praarthana の訳、願望/渇望/要求/懇願/懇請/誓願する( wish, desire, request, entreaty, solicitation, petition )の義。
母為子故入王宮中。常送肥魚美肉以遺王女而不取價。王女怪而問之欲求何願。母白王女。願卻左右當以情告。我唯有一子敬慕王女情結成病。命不云遠。願垂愍念賜其生命。 母は、子の為の故に、王宮中に入りて、常に肥魚、美肉を送り、以って王女に遣して、価を取らざれば、王女怪しみて、之に問わく、『何なる願をか、求めんと欲する』、と。母の王女に白さく、『願わくは、左右を却(しりぞ)けたまえ、当に情を以って、告ぐべし。我れに唯だ一子有り、王女を敬慕して、情結ぼれて病と成り、命遠きにあらず。願わくは愍念を垂れ、其れに生命を賜え』、と。
『母』は、
『子』の為に、
『王宮』中に、
『入る!』と、
常に、
『肥えた魚』や、
『美味い肉』を、
『送って!』、
『王女』に、
『遣(つかわ)した!』が、
『価(あたい)』を、
『取らなかった!』。
『王女』は、
『怪しんで!』、こう問うた、――
お前は、
何のような、
『願い!』を、
『求めているのか?』、と。
『母』は、
『王女』に、こう白した、――
願わくは、
『左右』の、
『方々』を、
『却(しりぞ)けてください!』、
『心』の、
『情』を、
『申し上げます!』。
わたしには、
唯だ、
『一子』
『有るのみです!』が、
『王女さま』を、
『敬い!』、
『慕っておりました!』ところ、
『心』の、
『情』が、
『結ぼれて!』、
『病』と、
『成り!』、
『命』の、
『終りも!』、
『遠くありません!』。
願わくは、
『愍念(あわれみ)』を、
『垂れて!』、
其れに、
『生命(いのち)』を、
『与えてください!』、と。
  (うん):言う/説く( say, speak )、有る( have )、是、為( be )。
王女言。汝去月十五日於某甲天祠中住天像後。母還語子。汝願已得告之如上。沐浴新衣在天像後住。 王女の言わく、『汝は去りて、月の十五日に、某甲の天祠中に於いて、天像の後に住まらしめよ』、と。母は還りて子に、『汝が願は、已に得たり』と語り、上の如く之に告げ、沐浴し、新衣にせしめ、天像の後に在りて住まらしむ。
『王女』は、こう言った、――
お前は、
『去ったならば!』、
『月の十五日』に、
『某甲(なにがし)天祠』中の、
『天像の後』に、
『住まらせよ!』、と。
『母』は、
『還って!』、
『子』に、こう語り、――
お前の、
『願い!』は、
『叶えられたよ!』と、
上のように教えると、――
『沐浴させ!』、
『衣』を、
『新しくさせて!』、
『天像の後』に、
『住まらせた!』。
王女至時白其父王。我有不吉須至天祠以求吉福。王言大善。即嚴車五百乘出至天祠。既到敕諸從者。齊門而止獨入天祠。 王女は、時至るに、其の父王に白さく、『我れに不吉有り、須らく天祠に至りて、以って吉福を求むべし』、と。王の言わく、『大いに善し』と。即ち車を五百乗厳(かざ)らしめ、出でて、天祠に至る。既に到れば、諸の従者に勅して、門に斉(そろ)わしめ、止めて、独り天祠に入る。
『王女』は、
『時』が、
『至る!』と、
『父王』に、こう白した、――
わたしには、
『不吉』が、
『有りました!』ので、
『天祠』に、
『至って!』、
『吉福』を、
『求めなくてはなりません!』、と。
『王』は、こう言った、――
大いに、
『善ろしい!』、と。
そこで、
『車』を、
『五百乗』、
『荘厳させる!』と、
『宮』を、
『出て!』、
『天祠』に、
『向った!』。
既に、
『天祠』に、
『到る!』と、
『諸の従者』を、
『門』に、
『止めて!』、
『整列させ!』、
『独り!』、
『天祠』に、
『入った!』。
天神思惟。此不應爾。王為世主不可令此小人毀辱王女。即厭此人令睡不覺。王女既入見其睡。重推之不悟。即以瓔珞直十萬兩金遺之而去。 天神の思惟すらく、『此れは応に爾るべからず。王を世主と為せば、此の小人をして、王女を毀辱せしむべからず』、と。即ち、此の人を厭い、睡りて覚めざらしむ。王女は、既に入るに、其の睡の重きを見て、之を推すも悟らず。即ち瓔珞の直十万両金なるを以って、之に遺して去れり。
『天神』は、
こう思惟した、――
此れは、
『爾()うあるべきではない!』。
『王』は、
『世界』の、
『主である!』、
此の、
『小人』に、
『王女』を、
『辱めさせてはならない!』、と。
そして、
此の、
『人』を、
『厭うて!』、
『睡らせ!』、
『覚めさせなかった!』。
『王女』は、
『天祠』に、
『入って!』、
其の、
『睡』が、
『重い!』のを、
『見!』、
其れを、
『推してみた!』が、
『悟らない!』ので、
仕方なく、
『価値』が、
『千万両金の瓔珞』を、
『遺(のこ)して!』、
『去った!』。
去後此人得覺見有瓔珞。又問眾人知王女來。情願不遂憂恨懊惱。婬火內發自燒而死。以是證故知。女人之心不擇貴賤唯欲是從。 去りて後、此の人は、覚むるを得、瓔珞有るを見る。又衆人に問うて、王女の来たるを知る。情願を遂げず、憂恨懊悩し、婬火内に発りて、自ら焼けて死したり。是の証を以っての故に知るらく、『女人の心は、貴賎を択ばず、唯だ欲にのみ、是れ従う』、と。
『王女』が、
『去った!』後、
此の、
『人』は、
『覚めることができ!』、
『瓔珞』が、
『有る!』のを、
『見た!』。
そして、
『衆人』に、問うて、――
『王女』が、
『来た!』ことを、
『知ったのである!』が、
『情(心のうち)』の、
『願い!』が、
『遂げられなかった!』ので、
『憂いて!』、
『恨み!』、
『懊悩して!』、
『婬欲』の、
『火』を、
『内に!』、
『発(おこ)し!』、
自らを、
『焼いて!』、
『死んでしまった!』。
是の、
『証(証拠)』の故に、
こう知る、――
『女人の心』は、
『貴賎』を、
『択ばず!』、
唯だ、
『欲』に、
『従うだけである!』、と。
復次昔有國王女。逐旃陀羅共為不淨。又有仙人女隨逐師子。如是等種種女人之心無所選擇。以是種種因緣。於女人中除去情欲忍不愛著。 復た次ぎに、昔、有る国王の女は、旃陀羅を逐うて、共に不浄を為し、又有る仙人の女は、師子に随逐せりと。是の如き等の種種の女人の心には、選択する所無し。是の種種の因縁を以って、女人中に於いては、情欲を除去し、忍んで愛著せず。
復た次ぎに、
昔、
有る、
『国王の女』は、
『旃陀羅』を、
『逐うて!』、
『いっしょに!』、
『不浄』を、
『為した!』し、
又、
有る、
『仙人の女』は、
『獅子』に、
『随逐していた!』が、
是れ等の、
種種の、
『女人の心』は、
何も、
『選択しない!』。
是の、
種種の、
『因縁』で、
『女人』中に於いては、
『情欲』を、
『除去して!』、
『忍んで!』、
『愛著しないのである!』。
  旃陀羅(せんだら):梵語 caNDaala の訳。又は caaNDaala 、また旃荼羅、栴荼羅に作り、厳熾、暴厲、執悪、或は険悪人、執暴悪人、主殺人、治狗人と訳す。即ち印度種姓の一にして、首陀羅の下に位する最も下賎なる階級を云う。「増一阿含経巻18」に、「或は一人あり卑賤の家に生ず、或は旃陀羅種、或は噉人種、或は工師種なり」と云い、「十誦律巻9」に、「比丘往きて旃陀羅子比丘に語る、汝は旃陀羅種なり、出家受戒を用ってせんや。汝応に人の手足耳鼻を截りて持て木の上に著くるを学び、死人を擔ぎ出して焼くを学ぶべし。かくの如き種種の旃陀羅の技術、汝応に学すべしと言わば、軽毀心の故に一一の語は波夜提なり」と云い、「高僧法顕伝」に、「旃荼羅は名づけて悪人と為す。人と別居し、若し城市に入らば則ち木を撃ちて以って自ら異にす。人則ち識りて之を避け、相搪揬することなし。国中に猪雞を養わず、生口を売らず。市に屠店及び沽酒者なく、貨易には則ち貝歯を用う。唯旃荼羅、漁猟師あり肉を売るのみ」と云い、また「玄応音義巻6」に、「旃陀羅、此の言は訛なり、正しくは旃荼羅と云う。此に訳して厳熾と云い、また一に主殺人と云う。謂わく、屠殺者の種類の総名なり。其の人若し行くには則ち鈴を揺りて自ら標し、或は破頭の竹を杖とす。若し然らずば王則ち罪を与う」と云えり。之に依るに旃陀羅は獄卒、御坊、屠殺者等を総称せるものにして、即ち道を行く時、鈴を揺り竹を杖づき、以って自ら標せしめ、人をして其の穢に触れざらしめたるを見るべし。「摩奴法典第十章第十二節」に、「首陀羅 zuudra の男と、吠奢 vaizya 、王族 raajanya 、婆羅門 vipra の女とに依りて生まれたる雑混種 varNa- saMkara は、アーヨーガ aayogava 、クシャトラ kSatra 及び最下級の人間なる旃陀羅 caNDaala なり」と記するを以って見るに、此の種は首陀羅を父とし、婆羅門を母とせる混血雑種なるを知るべし。蓋し旃陀羅は極悪卑賎の種族として古来最も賎しめられ、「法華経巻5安楽行品」に、「旃陀羅及び豬羊鶏狗を畜え、畋猟し漁捕する諸の悪律儀に親近せず。かくの如き人等、或る時来たらば則ち為に説法して悕望する所なし」と云い、また「観無量寿経」に、「未だ曽て無道にして母を害することあるを聞かず。王今此の殺逆の事を為さば刹利種を汚さん、臣今聞くに忍びず、これ栴陀羅なり。宜しく此に住せしむべからず」と云えり。これ世俗の説に従えるものというべく、故に「摩登伽経巻上」には、婆羅門、旃陀羅等に何等の別もあるべからずとし、四姓平等の説をなせり。また「正法念処経巻16」、「放光般若経巻14阿惟越致相品」、「舎頭諫太子二十八宿経」、「大乗大集地蔵十輪経巻4」、「大乗本生心地観経巻5」、「大毘婆沙論巻101」、「法華玄賛巻9」、「玄応音義巻3、巻211、巻23」、「慧琳音義巻1、巻3、巻9、巻12、巻25至巻27、巻47」等に出づ。<(望)
  師子(しし):梵語枲伽 siMha の訳。また獅子に作り、また僧伽彼とも曰う。獣中の王なり。経中には以って仏の勇猛に譬う。「無量寿経巻上」には、「人雄師子、神徳無量」と云い、「大智度論巻7」に、「又師子の四足獣中に独歩無畏にして能く一切を伏するが如く、仏もまたかくの如く、九十六種の外道の中に於いて一切降伏するが故に人師子と名づく」と云い、「梵語雑名」に、「師子、枲伽」と云い、「翻訳名義集巻2」に、「僧伽彼、此れを師子と云う」と云えり。<(丁)
  随逐(ずいちく):後を追って付き従う。



瞋恚、悩害する人を忍ぶ

云何瞋惱人中而得忍辱。當自思惟。一切眾生有罪因緣更相侵害。我今受惱亦本行因緣。雖非今世所作。是我先世惡報。我今償之。應當甘受何可逆也。譬如負債。債主索之應當歡喜償債不可瞋也。 云何が瞋悩する人中に、忍辱を得る。当に自ら思惟すべし、『一切の衆生は、罪の因縁有りて、更に相侵害す。我れ、今、悩を受くるも、亦た本の行の因縁なり。今世の所作に非ずと雖も、是れ我が先世の悪報なれば、我れ、今、之を償い、応当に甘受すべし。何んぞ逆らうべけんや。譬えば負債ありて、債主之を索むるが如し。応当に歓喜して、債を償うべし、瞋るべからず』、と。
何のように、
『瞋悩する!』、
『人』中に於いて、
『忍辱』を、
『成就するのか?』、――
自ら、こう思惟すべきである、――
一切の、
『衆生』は、
『罪』の、
『因縁』が、
『有って!』、
更に、
『相互に!』、
『侵害している!』。
わたしが、
今、
『瞋悩』を、
『受ける!』のも、
亦た、
『本』の、
『行い!』の、
『因縁である!』。
『今世』に、
『作した!』、
『行いではない!』が、
是れは、
『先世』の、
『悪業』の、
『果報』を、
わたしが、
今、
『償うのであり!』、
『甘受すべきである!』、
何うして、
『逆らってよいものか?』。
譬えば、
『負債』を、
『債主』が、
『求める!』のと、
『同じように!』、
『歓喜して!』、
『債』を、
『償うべきであり!』、
『瞋ってはならないのである!』。
復次行者常行慈心。雖有惱亂逼身必能忍受。 復た次ぎに、行者は、常に慈心を行ずれば、悩乱する有りて、身に逼ると雖も、必ず、能く忍受す。
復た次ぎに、
『行者』は、
常に、
『慈心』を、
『行っている!』ので、
有る、
『悩乱する!』者が、
『身』に、
『逼った!』としても、
必ず、
『忍んで!』、
『受けることができる!』。
譬如羼提仙人。在大林中修忍行慈。時迦利王將諸婇女入林遊戲。飲食既訖王小睡息。諸婇女輩遊花林間。見此仙人加敬禮拜在一面立。 譬えば羼提仙人の如し、大林中に在りて、忍を修め、慈を行ぜり。時に迦利王、諸の婇女を将いて林に入り、遊戯す。飲食既に訖(おわ)れば、王、小(しばら)く睡息するに、諸の婇女の輩、花林の間に遊びて、此の仙人を見、敬を加え、礼拜して、一面に在りて立つ。
譬えば、
『羼提仙人』は、こうであった、――
『大林』中に於いて、
『忍』と、
『慈』とを、
『修行していた!』。
その時、
『迦利王』は、
諸の、
『婇女(宮女)』を、
『将(ひき)い!』、
『林』中に、
『入って!』、
『遊び!』、
『戲れていた!』が、
『飲食』が、
『訖(おわ)る!』と、
小(しばら)く、
『睡眠して!』、
『休息した!』。
諸の、
『婇女の輩』は、
『花林の間』に、
此の、
『仙人』を、
『見る!』と、
『敬い!』を、
『加え!』、
『礼拜して!』、
『一面』に、
『立った!』。
  羼提仙人(せんだいせんにん):また忍辱仙と称す。
  忍辱仙(にんにくせん):梵語 kSaanti- vaadi- RSi の訳。また羼提波梨 kSaanti- paala 、羼提和 kSaanti- vaadin に作り、説忍、又は忍語と訳し、一にクンダカクマーラ kuNDaka- kumaara とも称す。釈尊因位に菩薩行を修せられし時の名。「賢愚経巻2羼提波梨品」に依るに、過去久遠劫の時、波羅㮈国に王あり、迦梨kaaliと名づく。時に一大仙人あり、羼提波梨と名づけ、五百の弟子と共に山林に在りて忍辱の行を修す。一日王は四大臣及び夫人婇女等を従えて山林に遊観し、疲極まりて睡息す。時に婇女等花林を観んと欲して遊行し、適ま羼提波梨が端坐思惟するを見、敬心を生じて衆花を其の上に散じ、前に坐して法を聴く、王覚めて之を知り、婇女等に戯れしかを疑い、怒りて仙人を責め、何事を修するかを問うに、忍辱を行ずと答えたるに依り、王は之を試みんと欲し、即ち剣を抜きて其の手脚耳鼻を裁断す。然るに仙人顔色変ぜず、猶お自ら辱を忍ぶと称す。王大いに驚きて曰わく、汝辱を忍ぶと云うも、何を以って之を証するやと。時に仙人答えて曰わく、我が至誠虚ならずんば、血当に変じて乳と為り、身当に還復すべしと。言い訖るに果たして其の身平復すること故の如し。時に仙人又王に告げて曰わく、汝は女色の故に刀を以って我が形を截つ、我れ後成仏せば、当に慧刀を以って汝の三毒を断つべしと。王乃ち懺悔し、後常に仙人を宮に請じて供養す。爾の時の仙人羼提波梨は今の釈尊、迦梨王及び四大臣は憍陳那等の五比丘なりと云えるこれなり。此の説話は有名にして、「巴梨文本生 khantivaadi- jaataka 」、「中本起経巻上転法輪品」、「出曜経巻23泥洹品」、「六度集経巻5」、「金剛般若波羅蜜経」、「鞞婆沙論巻9」、「大智度論巻14」等にも亦た皆之を出せり。但し巴梨文本生及び出曜経には王名を迦藍浮 kalaabu となし、また「大方便仏報恩経巻3論議品」には、過去毘婆尸仏像法の世に波羅㮈国大王の子に忍辱太子あり、性善にして瞋らざるが故に忍辱と名づく。一時王の病篤き時、大臣等姧計を設けて太子を除かんと欲し、不瞋の人の眼睛を得ば王の病を治すべしと称し、乃ち太子の骨を断じ髄を出し、其の両目を剜れることを記し、其の時の太子は即ち今の釈尊なりと云えり。これ亦た忍辱本生の別種の説話なりというべし。また「菩薩本行経巻下」、「僧伽羅刹所集経巻上」、「父子合集経巻5」、「大智度論巻26」等に出づ。<(望)
  迦利王(かりおう):また歌利王と称す。
  歌利王(かりおう):歌利 kaali は梵名。また哥利、迦利、迦梨、羯利に作り、或は kaliGga (迦陵伽、羯陵伽)、又は迦藍浮とも云う。闘諍、悪世、悪生、又は悪世無道と訳す。本生譚中に現るる王の名。「六度集経巻5」に、釈尊過去世に忍辱仙たりし時、此の王悪逆無道にして女色の事より仙人の肢体を割截したりと云えるものこれなり。その説話は菩薩の忍辱行満の例として有名なり。また「賢愚経巻2」、「出曜経巻23」、「金剛般若波羅蜜経」、「鞞婆沙論巻9」、「大智度論巻12、巻14」、「大唐西域記巻3」、「玄応音義巻1、巻3、巻21」、「慧琳音義巻10」等に出づ。
  加敬(かきょう):敬いの動作を施す
仙人爾時為諸婇女讚說慈忍。其言美妙聽者無厭。久而不去。 仙人は、爾の時、諸の婇女の為に、讃じて慈と忍とを説く。其の言、微妙にして、聴く者に厭くこと無く、久しくしても、去らず。
『仙人』は、
爾の時、
諸の、
『婇女』の為に、
『慈』と、
『忍』とを、
『讃じて!』、
『説いた!』。
其の、
『言(ことば)』は、
『微妙で!』、
『聴く!』者には、
『厭きる!』ということが、
『無く!』、
『久しくしても!』、
誰も、
『去らなかった!』。
迦利王覺不見婇女拔劍追蹤。見在仙人前立。憍妒隆盛。瞋目奮劍而問仙人。汝作何物。仙人答言。我今在此修忍行慈。 迦利王は覚めて、婇女の見えざるに、剣を抜いて蹤(あしあと)を追い、仙人の前に在りて立つを見る。憍妒隆盛すれば、目を瞋らせ、剣を奮いて、仙人に問わく、『汝は、何物をか、作せる』、と。仙人の答えて言わく、『我れは、今、此に在りて、忍を修め、慈を行ぜり』、と。
『迦利王』は、
『覚めた!』が、
『婇女』が、
『見えない!』ので、
『剣』を、
『抜いて!』、
『蹤(あしあと)』を、
『追ってゆく!』と、
『仙人の前』に、
『立っている!』のが、
『見えた!』。
『憍慢』と、
『嫉妒』が、
『むくむくと起り!』、
『目を瞋らせ!』、
『剣を奮って!』、
『仙人』に、こう問うた、――
お前は、
何のような、
『事』を、
『作していたのか?』、と。
『仙人』は答えて、こう言った、――
わたしは、
今、
此処で、
『忍』と、
『慈』とを、
『修行していた!』、と。
  (もつ):万物/物品/産物/仕事/事情/他人/神霊( object, article, product, thing, affair, the others, deities)。
王言。我今試汝。當以利劍截汝耳鼻斬汝手足。若不瞋者知汝修忍。仙人言任意。王即拔劍截其耳鼻斬其手足。而問之言。汝心動不。答言。我修慈忍心不動也。 王の言わく、『我れ、今、汝を試さん。当に利剣を以って、汝が耳鼻を截(き)り、汝が手足を斬(き)るべし。若し瞋らずんば、汝が忍を修むるを知らん』、と。仙人の言わく、『意に任す』、と。王は、即ち剣を抜いて、其の耳鼻を截り、其の手足を斬りて、之に問うて言わく、『汝が心は動くや、不や』、と。答えて言わく、『我れ慈、忍を修むれば、心動かざるなり』、と。
『王』は、こう言った、――
わたしは、
今、
お前を、
『試してやろう!』、
『利剣』で、
お前の、
『耳』と、
『鼻』とを、
『そぎ取り!』、
お前の、
『手』と、
『足』とを、
『斬り落とす!』が、
若し、
『瞋らなければ!』、
お前が、
『忍』を、
『修めている!』と、
『知るだろう!』、と。
『仙人』は、こう言った、――
『意』に、
『任せよう!』、と。
『王』は、
すぐに、
『剣』を、
『抜いて!』、
其の、
『耳』と、
『鼻』とを、
『そぎ取り!』、
其の、
『手』と、
『足』とを、
『斬り落とす!』と、
『仙人』に、
問うて、こう言った、――
お前の、
『心』は、
『動いたか?』、
『動かなかったか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『慈』と、
『忍』とを、
『修めている!』ので、
『心』が、
『動くことはない!』、と。
王言。汝一身在此無有勢力。雖口言不動誰當信者。是時仙人即作誓言。若我實修慈忍血當為乳。即時血變為乳。王大驚喜。將諸婇女而去。 王の言わく、『汝が、一身は、此に在りては、勢力有ること無し。口に動かずと言うと雖も、誰か当に信ずべき者なる』、と。是の時、仙人の、即ち誓を作して言わく、『若し我れ、実に慈、忍を修むれば、血は当に乳と為るべし』、と。即時に、血は変じて乳と為るに、王は大に驚喜して、諸の婇女を将いて去る。
『王』は、こう言った、――
お前の、
『一身』は、
『此処に!』、
『在る!』が、
『勢力』が、
『無い!』。
『口では!』、
『動かない!』と、
『言っている!』が、
誰が、
『信じるものか?』、と。
『仙人』は、
是の時、
『誓い!』を、
『作して!』、
こう言うと、――
若し、
わたしが、
『慈』と、
『忍』とを、
『実』に、
『修めていたならば!』、
『血』が、
『乳』に、
『変るだろう!』と、
即時に、
『血』が、
『乳』に、
『変った!』。
『王』は、
大いに、
『驚き!』、
『喜びながら!』、
諸の、
『婇女』を
『将いて!』、
『去った!』。
是時林中龍神為此仙人雷電霹靂。王被毒害沒不還宮。以是故言於惱亂中能行忍辱。 是の時、林中の龍神は、此の仙人の為に、雷電、霹靂す。王は、毒害を被りて没し、宮に還らず。是を以っての故に言わく、『悩乱中に於いて、能く忍辱を行ず』、と。
是の時、
『林』中の、
『龍神』が、
此の、
『仙人』の為に、
『雷鳴を鳴らし!』、
『稲妻を光らせた!』ので、
『王』は、
『毒』を、
『被(こうむ)って!』、
『殺され!』、
『死んで!』、
『宮』に、
『還ることはなかった!』。
是の故に、こう言う、――
『悩乱される!』中にも、
『忍辱』を、
『行うことができる!』、と。
  雷電(らいでん):雷鳴と稲光( thunder and lightning )。
  霹靂(ひゃくりゃく):落雷( thunderbolt, thunderclap )。
復次菩薩修行悲心。一切眾生常有眾苦。處胎迫隘受諸苦痛。生時迫迮骨肉如破。冷風觸身甚於劍戟。是故佛言。一切苦中生苦最重。 復た次ぎに、菩薩は、悲心を修行するは、一切の衆生は常に衆苦有ればなり。胎に処すれば迫隘して、諸の苦痛を受け、生時には、迫迮して骨肉破るるが如く、冷風身に触るれば、剣戟よりも甚だし。是の故に仏の言わく、『一切の苦中に、生苦最も重し』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『悲心』を、
『修行する!』のは、
一切の、
『衆生』には、
常に、
『衆苦』が、
『有るからである!』。
『処胎の時』には、
『圧迫されて!』、
諸の、
『苦痛』を、
『受け!』、
『生時』には、
『圧搾されて!』、
『骨、肉』が、
『破れそうになり!』、
『冷風』が、
『身』に、
『触れる!』、
『苦痛』は、
『剣戟よりも!』、
『甚だしい!』。
是の故に、
『仏』は、こう言われたのである、――
一切の、
『苦』中に、
『生苦』は、
『最も重い!』、と。
  迫隘(ひゃくえ):窮屈にさせられる( be narrowed )。
  迫迮(ひゃくさく):圧搾される( be pressed )。
  剣戟(けんげき):つるぎとほこ。
  困厄(こんやく):困難。苦難。
  生苦(しょうく):生時の苦痛( suffering of being born )、梵語 jaati- duHkha の訳。四苦の一(One of the four kinds of suffering )。
如是老病死苦種種困厄。云何行人復加其苦。是為瘡中復加刀破。 是の如く老、病、死苦、種種に困厄あり、云何が、行人にして、復た其れに苦を加えんや。是れを瘡中に、復た刀を加えて破ると為す。
是のように、
『衆生』には、
『老、病、死の苦』や、
種種の、
『苦悩』が、
『有る!』のに、
『行人』が、
何故、
その上、
其れに、
『苦』を、
『加えるのか?』。
是れでは、
『瘡』中に、
復た、
『刀』を、
『加えて!』、
『破るようなものである!』。
  困厄(こんやく):苦悩[させられる]( distress, be distressed )、梵語 aabaadha, aabaadhika の訳、押し寄せる( press towards )、虐待/困惑させる( molestation, trouble )、苦痛/苦悩( pain, distress )、苦悩させられる/痛めつけられる( distressed, tormented )の義。
復次菩薩自念。我不應如諸餘人常隨生死水流。我當逆流以求盡源入泥洹道。一切凡人侵至則瞋。益至則喜。怖處則畏。我為菩薩不可如彼。雖未斷結當自抑制修行忍辱惱害不瞋敬養不喜。眾苦艱難不應怖畏。當為眾生興大悲心。 復た次ぎに、菩薩の自ら念ずらく、『我れは、応に諸余の人の如く、常に生死の水に随うて、流るべからず。我れは、当に流に逆らいて、以って源を求尽し、泥洹の道に入るべし。一切の凡人は、侵至れば則ち瞋り、益至れば則ち喜び、怖処には則ち畏る。我れは菩薩為れば、彼れの如くなるべからず。未だ結を断ぜずと雖も、当に自ら抑制し、忍辱を修行して、悩害を瞋らず、敬養を喜ばず、衆苦、艱難は、応に怖畏すべからず。当に衆生の為に大悲心を興すべし』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
自ら、こう念じる、――
わたしは、
諸の、
『余人』と、
『同じように!』、
常に、
『生死の水』に、
『随って!』、
『流れていてはいけない!』。
わたしは、
『流れ!』に、
『逆らい!』、
『生死の源』を、
『求め!』、
『尽くして!』、
『泥洹(涅槃)』の、
『道』に、
『入るべきだ!』。
一切の、
『凡人』は、
『侵害』を、
『受ければ!』、
『瞋り!』、
『利益』を、
『受ければ!』、
『喜び!』、
『怖ろしい!』、
『処では!』、
『畏れる!』が、
わたしは、
『菩薩』として、
『彼れと!』、
『同じであってはならない!』、
未だ、
『結』を、
『断じていない!』が、
自ら、
『抑制して!』、
『忍辱』を、
『修行し!』、
『悩まされても!』、
『害されても!』、
『瞋らず!』、
『恭敬』や、
『供養』を、
『喜ばないようにすべきだ!』。
『衆苦』や、
『艱難』を、
『怖畏してはならず!』、
『衆生』の為に、
『大悲心』を、
『興さなくてはならない!』、と。
復次菩薩若見眾生來為惱亂。當自念言。是為我之親厚亦是我師。益加親愛敬心待之。 復た次ぎに、菩薩は、若し衆生来たりて、悩乱を為さんとするを見れば、当に自ら念じて言うべし、『是れは、我が為の親厚なり、亦た是れ我が師なり。益々親愛を加え、敬心もて之を待たん』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
若し、
『衆生』が、
『来て!』、
『悩乱しようとする!』のを、
『見たならば!』、
自ら念じて、こう言わなくてはならない、――
是れに、
『わたし!』は、
『親愛され!』、
『厚遇されるのだ!』、
亦た、
是れは、
『わたし!』の、
『師でもある!』。
益々、
之に、
『親愛』を、
『加えて!』、
『敬心』で、
『待つことにしよう!』、と。
何以故。彼若不加眾惱惱我則我不成忍辱。以是故言。是我親厚亦是我師。 何を以っての故に、彼れ、若し衆悩を加えて、我れを悩さざれば、則ち我れは、忍辱を成ぜざればなり。是を以っての故に言わく、『是れ我が親厚にして、亦た我が師なり』、と。
何故ならば、
彼れが、
若し、
『衆悩』を、
『加えて!』、
『わたし!』を、
『悩まさなければ!』、
『わたし!』の、
『忍辱』が、
『成就しないからである!』。
是の故に、こう言う、――
是れは、
わたしを、
『親愛し!』、
『厚遇している!』し、
亦た、
『わたし!』の、
『師でもある!』、と。
復次菩薩心知如佛所說。眾生無始世界無際。往來五道輪轉無量。我亦曾為眾生父母兄弟。眾生亦皆曾為我父母兄弟。當來亦爾。以是推之不應惡心而懷瞋害。 復た次ぎに、菩薩の心に、仏の所説の如きを知る、『衆生は無始なり、世界は無際なり、五道に往来して輪転すること無量なり。我れも亦た曽て、衆生の父母、兄弟と為れり。衆生も亦た、皆曽て我が父母、兄弟と為れり。当来も、亦た爾るべし。是を以って之を推すに、応に悪心にして、瞋害を懐くべからず』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『心』に、
『仏』の、
『説かれたように!』、知る、――
『衆生』は、
『無始であり!』、
『世界』は、
『無際であり!』、
『五道』に、
『往来して!』、
『輪転する!』ことも、
『無量である!』。
わたしも、
曽て、
『衆生』の、
『父母』や、
『兄弟であった!』し、
『衆生』も、
曽ては、
わたしの、
『父母』や、
『兄弟であった!』、
『未来』も、
亦た、
『爾うであろう!』。
是れを、
推せば、――
『衆生』が、
『悪心』で、
『瞋害』を、
『懐くはずがない!』、と。
復次思惟。眾生之中佛種甚多。若我瞋意向之則為瞋佛。若我瞋佛則為已了。如說鴿鳥當得作佛。今雖是鳥不可輕也。 復た次ぎに、思惟すらく、『衆生の中に、仏種は甚だ多し。若し我れ、瞋意もて、之に向かえば、則ち仏を瞋ると為す。若し我れ、仏を瞋らば、則ち已に了(おわ)れりと為す。『鴿鳥、当に仏と作るを得べし』と説くが如く、今は、是れ鳥なりと雖も、軽んずべからず。』、と。
復た次ぎに、
こう思惟する、――
『衆生』中には、
『仏』の、
『種』が、
『甚だ多い!』。
若し、
わたしの、
『瞋意』が、
之に、
『向かえば!』、
則ち、
『仏』を、
『瞋ることになる!』。
若し、
わたしが、
『仏』を、
『瞋ったならば!』、
則ち、
わたしは、
『もう終りだ!』。
譬えば、
こう説かれている、――
『鴿鳥(はと)ですら!』、
『仏』に、
『作ることができるだろう!』、と。
今、
是れが、
『鳥であった!』としても、
『軽んずべきではないのだ!』、と。
  鴿鳥(こうちょう):鳩の類。いえはと。やまはと。
  参考:『大智度論巻11』:『佛告舍利弗。此鴿除諸聲聞辟支佛所知齊限。復於恒河沙等大劫中常作鴿身。罪訖得出。輪轉五道中後得為人。經五百世中乃得利根。是時有佛度無量阿僧祇眾生。然後入無餘涅槃。遺法在世是人作五戒優婆塞。從比丘聞讚佛功德。於是初發心願欲作佛。然後於三阿僧祇劫。行六波羅蜜。十地具足得作佛。度無量眾生已而入無餘涅槃。』
復次諸煩惱中瞋為最重。不善報中瞋報最大。餘結無此重罪。 復た次ぎに、諸の煩悩中には、瞋最重なり、不善報中には、瞋報最も大なり、余の結には、此の重罪無しと為す。
復た次ぎに、
諸の、
『煩悩』中には、
『瞋』が、
『最も重く!』、
『不善の報』中には、
『瞋の報』が、
『最も大きい!』が、
他の、
『結』には、
此のような、
『重罪』は、
『無い!』。
如釋提婆那民問佛。偈言
 何物殺安隱  何物殺不悔 
 何物毒之根  吞滅一切善 
 何物殺而讚  何物殺無憂
釈提婆那民の仏に問うて、偈に言うが如し、
何なる物をか、殺して安隠なる、
何なる物をか、殺して悔いざる、
何なる物か、毒の根にして、一切の善を呑滅する、
何なる物をか、殺して而も讃うる、
何なる物をか、殺して憂無き。
例えば、
『釈提婆那民』は、
『仏』に問うて、
『偈』で、こう言った、――
何のような、
『物ですか?』、
『殺しても!』、
『安隠なのは!』。
何のような、
『物ですか?』、
『殺しても!』、
『悔いないのは!』。
何のような、
『物ですか!』、
『毒』の、
『根であり!』、
一切の、
『善』を、
『呑滅するのは!』。
何のような、
『物ですか?』、
『殺しても!』、
『讃えられるのは!』。
何のような、
『物ですか?』、
『殺しても!』、
『憂が無いのは!』。
  釈提婆那民(しゃくだいばなみん):梵名 zakradevaanaam- indra 、また釈提桓因等に作り、略して帝釈と称す。三十三天の主。『大智度論巻3(上)注:釈提桓因』参照。
  呑滅(どんめつ):丸呑みせるが如く滅し尽くす。
佛答偈言
 殺瞋心安隱  殺瞋心不悔 
 瞋為毒之根  瞋滅一切善 
 殺瞋諸佛讚  殺瞋則無憂
仏の答えて偈に言わく、――
瞋心を殺せば、心安隠なり、
瞋心を殺せば、心に悔いず、
瞋を、毒の根と為す、
瞋は、一切の善を滅す、
瞋を殺せば、諸仏に讃ぜらる、
瞋を殺せば、則ち無憂なり。
『仏』は、
『偈』に答えて、こう言われた、――
『瞋』を、
『殺せば!』、
『心』は、
『安隠である!』。
『瞋』を、
『殺せば!』、
『心』に、
『悔いない!』。
『瞋』は、
『毒』の、
『根である!』。
『瞋』は、
一切の、
『善』を、
『滅する!』。
『瞋』を、
『殺せば!』、
『諸仏』に、
『讃えられる!』。
『瞋』を、
『殺せば!』、
『憂』が、
『無くなる!』。
菩薩思惟。我今行悲。欲令眾生得樂。瞋為吞滅諸善毒害一切。我當云何行此重罪。若有瞋恚自失樂利。云何能令眾生得樂。 菩薩の思惟すらく、『我れは、今、悲を行じて、衆生をして、楽を得しめんと欲す。瞋は、諸善を呑滅し、一切を毒害すと為す。我れは、当に云何が、此の重罪を行ずべし。若し瞋恚有らば、自ら楽の利を失わん。云何が能く、衆生をして、楽を得しめん』、と。
『菩薩』は、
こう思惟する、――
わたしは、
今、
『悲』を、
『行って!』、
『衆生』に、
『楽』を、
『得させようとしている!』が、
『瞋』は、
諸の、
『善』を、
『呑滅して!』、
一切を、
『毒害するものだ!』。
わたしが、
何うして、
此の、
『重罪』を、
『行うはずがあろう?』。
若し、
『瞋恚』が、
『有れば!』、
自らの、
『楽、利すら!』、
『失う!』のに、
『衆生』に、
何うして、
『楽』を、
『得させられよう?』、と。
復次諸佛菩薩以大悲為本。從悲而出瞋為滅悲之毒。特不相宜。若壞悲本何名菩薩。菩薩從何而出。以是之故應修忍辱。 復た次ぎに、諸仏、菩薩は、大悲を以って本と為す。悲より、瞋を出せば、悲を滅する毒と為し、特に相宜しからず。若し悲の本を壊せば、何んぞ菩薩と名づけ、菩薩は、何より出でん。是の故を以って、応に忍辱を修すべし。
復た次ぎに、
諸の、
『仏、菩薩』は、
『大悲』が、
『本である!』。
若し、
『悲』より、
『瞋』を、
『出せば!』、
『瞋』は、
『悲』を、
『滅する!』、
『毒である!』から、
特に、
『宜しくない!』。
若し、
『悲』という、
『本』を、
『壊せば!』、
何を、
『菩薩』と、
『呼べばよいのか?』、
何から、
『菩薩』が、
『出るのか?』。
是の故に、
当然、
『忍辱』を、
『修めなくてはならないのである!』。
若眾生加諸瞋惱當念其功德。今此眾生雖有一罪。更自別有諸妙功德。以其功德故不應瞋。 若し、衆生、諸の瞋悩を加うれば、当に其の功徳を念ずべし。今、此の衆生に、一罪有りと雖も、更に自ら別に、諸の妙功徳有り、其の功徳を以っての故に、応に瞋るべからず。
若し、
『衆生』が、
諸の、
『瞋悩』を、
『加えた!』としても、
其の、
『功徳』を、こう念じなくてはならない、――
今、
此の、
『衆生』には、
『一罪』が、
『有る!』が、
更に、
別に、
自ら、
諸の、
『妙功徳』が、
『有る!』ので、
其の、
『功徳』の故に、
『瞋るべきではない!』、と。
復次此人若罵若打是為治我。譬如金師煉金垢隨火去真金獨在。此亦如是。若我有罪是從先世因緣。今當償之不應瞋也。當修忍辱。 復た次ぎに、此の人、若しは罵り、若しは打てば、是れを我れを治すると為す。譬えば金師、金を煉(ね)れば、垢は火に随うて去り、真金のみ、独り在るが如し。此れも亦た是の如し。若し、我れに罪有れば、是れ先世の因縁によれば、今、当に之を償うべく、応に瞋るべからず、当に忍辱を修すべし。
復た次ぎに、
此の、
『人』が、
若し、
『罵ったり!』、
『打ったり!』すれば、
是れは、
わたしを、
『治しているのである!』。
譬えば、
『金師』が、
『金』を、
『練れば!』、
『垢』は、
『火に随って!』、
『去り!』、
『真』の、
『金』のみが、
『残るように!』、
此れも、
亦た、
同じなのである。
若し、
わたしに、
『罪』が、
『有れば!』、
是れは、
『先世』の、
『因縁による!』、
『罪である!』、
今は、
『償うべきであり!』、
『瞋るべきではない!』、
当然、
『忍辱』を、
『修めるべきだ!』。
復次菩薩慈念眾生猶如赤子。閻浮提人多諸憂愁少有歡日。若來罵詈或加讒賊。心得歡樂此樂難得恣汝罵之。何以故。我本發心欲令眾生得歡喜故。 復た次ぎに、菩薩は、衆生を慈念ずること、猶お赤子の如し。閻浮提の人には、諸の憂愁多く、歓(よろこび)有る日少なし。若しは来たりて罵詈し、或いは讒賊を加えて、心に歓楽を得ん、此の楽は、得難し、恣(ほしいまま)に、汝之を罵れ。何を以っての故に、我れ本、発心せしは、衆生をして、歓喜を得しめんと欲するが故なればなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『衆生』を、
猶お、
『赤子のように!』、
『慈念する!』。
『閻浮提の人』は、
諸の、
『憂愁』が、
『多く!』、
『歓び!』の、
『有る日』は、
『少ない!』。
若し、
『来て!』、
『罵詈しよう!』と、
『讒賊を施そう!』と、
『心』に、
『歓楽』を、
『得るならば!』、
此の、
『楽』は、
『得難い!』。
お前は、
『恣(ほしいまま)に!』、
『罵れ!』。
何故ならば、
わたしが、
本、
『心』を、
『発(おこ)した!』のは、
『衆生』に、
『歓楽を得させたい!』と、
『思ったからなのだ!』。
  讒賊(ざんぞく):誹謗中傷して迫害する( slander, frame sb. up )。
復次世間眾生常為眾病所惱。又為死賊。常隨伺之。譬如怨家恒伺人便。云何善人而不慈愍。復欲加苦苦未及彼先自受害。如是思惟不應瞋彼當修忍辱。 復た次ぎに、世間の衆生は、常に衆病の悩ます所と為り、又死賊常に、之に随って伺うと為す。譬えば、怨家の常に、人の便を伺うが如し。云何が、善人にして、而も慈愍せざる。復た苦を加えんと欲する。苦の未だ及ばざるに、彼れは先に自ら害を受けん。是の如く思惟すれば、応に彼れを瞋るべからず、当に忍辱を修すべし。
復た次ぎに、
『世間』の、
『衆生』は、
常に、
『多く!』の、
『病』に、
『悩まされ!』、
又、
『死』という、
『賊』が、
常に、
『附纏って!』、
『伺っている!』。
譬えば、
『怨家』が、
『人の機会』を、
恒に、
『伺っている!』のと、
『同じである!』。
何故、
『善人』が、
『慈愍せず!』に、
復た、
『苦』を、
『加えよう!』と、
『思うのか?』。
『苦』が、
未だ、
『及ばない!』中に、
彼れが、
先に、
自らの、
『害』を、
『受けるのに!』。
是のように、
思惟すれば、――
当然、
『彼れを!』、
『瞋るべきでなく!』、
当然、
『忍辱』を、
『修めなくてはならないのである!』。
  便(べん):有利な機会( when it is convenient )。
復次當觀瞋恚其咎最深。三毒之中無重此者。九十八使中此為最堅。諸心病中第一難治。 復た次ぎに、当に観ずべし、『瞋恚は、其の咎最も深く、三毒中には、此れより重き者無く、九十八使中には、此れを最も堅しと為し、諸の心病中には、第一に治し難し』、と。
復た次ぎに、
当然、こう観察すべきである、――
『瞋恚』は、
其の、
『咎』が、
『最も深く!』、
『三毒』中に、
『瞋恚』より、
『重い!』者は、
『無く!』、
『九十八使』中には、
『瞋恚』が、
『最も堅く!』、
『諸の心病』中には、
『瞋恚』が、
『第一』に、
『治し難い!』、と。
  九十八使(くじゅうはっし):また九十八随眠と称す。煩悩を、見道にて断つべき八十八の見惑、修道にて断つべき十の修惑に分類せしものなり。即ち、見惑に就いては、欲界の苦諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。欲界の集諦、滅諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、邪見、見取見。欲界の道諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。色界の苦諦に関して、貪、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。色界の集諦、滅諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見。色界の道諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。無色界の苦諦に関して、貪、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。無色界の集諦、滅諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見。無色界の道諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。修惑に就きて、欲界に、貪、瞋、癡、慢。色界に、貪、癡、慢。無色界に、貪、癡、慢。以上九十八の煩悩を云う。『大智度論巻7(上)注:九十八使』参照。
瞋恚之人不知善不知非善。不觀罪福不知利害不自憶念。當墮惡道善言忘失。不惜名稱不知他惱。亦不自計身心疲惱。瞋覆慧眼專行惱他。如一五通仙人。以瞋恚故雖修淨行殺害一國如旃陀羅。 瞋恚の人は、善を知らず、非善を知らず、罪福を観ず、利害を知らず、自らを憶念せざれば、当に悪道に堕つべく、善言を忘失し、名称を惜まず、他の悩むを知らず、亦た自ら身心の疲悩を計らず、瞋、慧眼を覆えば、専ら他を悩ますことを行ず。一五通の仙人の如きは、瞋恚を以っての故に、浄行を修むと雖も、一国を殺害すること、旃陀羅の如し。
『瞋恚の人』は、
『善』も、
『非善』も、
『知らず!』、
『罪』も、
『福』も、
『観ず!』、
『利』も、
『害』も、
『知らず!』、
自らを、
『憶念しない!』ので、
『悪道』に、
『堕ちることになり!』、
『善い!』、
『言(ことば)』を、
『忘失し!』、
『名称(名誉)』を、
『惜まず!』、
『他』が、
『悩む!』ことも、
『知らず!』、
自ら、
『身心』の、
『疲れ!』や、
『悩み!』を、
『計ることもなく!』、
『瞋』が、
『慧』の、
『眼』を、
『覆う!』ので、
専ら、
『他を悩ます!』ことのみを、
『行う!』。
例えば、
有る、
『五通の仙人』は、
『瞋恚』の故に、
『浄行』を、
『修めていた!』のに、
『旃陀羅のように!』、
『一国』を、
『殺害したのである!』。
復次瞋恚之人。譬如虎狼難可共止。又如惡瘡易發易壞。 復た次ぎに、瞋恚の人は、譬えば虎狼の如く、共に止まるべきこと難し。又悪瘡の如く、発り易く、壊れ易し。
復た次ぎに、
『瞋恚の人』は、
譬えば、
『虎、狼のように!』、
共に、
『止宿する!』ことが、
『難しい!』。
又、
『悪瘡のように!』、
『発(おこ)りやすく!』、
『壊れやすい!』。
瞋恚之人譬如毒蛇人不喜見。積瞋之人。惡心漸大至不可至。殺父殺君惡意向佛。 瞋恚の人は、譬えば毒蛇の如く、人は見るを喜ばず。瞋を積める人は、悪心漸く大となれば、至るべからざるに至り、父を殺し、君を殺し、悪意仏に向う。
『瞋恚の人』は、
譬えば、
『毒蛇のように!』、
『人』が、
『見る!』ことを、
『喜ばない!』。
『瞋を積む人』は、
『悪心』が、
次第に、
『大きくなり!』、
『至ってはならない!』ところまで、
『至る!』ので、
『父』や、
『君』を、
『殺し!』、
『悪意』を、
『仏にまで!』、
『向けるのである!』。
如拘睒彌國比丘。以小因緣瞋心轉大分為二部。若欲斷當終竟三月猶不可了。佛來在眾舉相輪手遮而告言
 汝諸比丘  勿起鬥諍 
 惡心相續  苦報甚重 
 汝求涅槃  棄捨世利 
 在善法中  云何瞋諍 
 世人忿諍  是猶可恕 
 出家之人  何可諍鬥 
 出家心中  懷毒自害 
 如冷雲中  火出燒身
拘睒弥国の比丘の如きは、小因縁を以って、瞋心転た大となり、分って二部を為す。若しは断を欲せんとするも、終(つい)に三月を竟(おわ)るに当って、猶お了(あき)らかにすべからず。仏、来たりて衆に在し、相輪の手を挙げて、遮りて告げて言わく、
汝諸の比丘よ、闘諍を起こす勿かれ、
悪心相続すれば、苦報は甚だ重し。
汝涅槃を求めて、世利を棄捨し、
善法中に在りて、云何が瞋諍する。
世人の忿諍するは、是れ猶お恕(ゆる)すべし、
出家の人が、云何が諍闘する。
出家の心中に、毒を懐けば自らを害す、
冷雲中に、火出づれば身を焼くが如し。
例えば、
『拘睒弥国』の、
『比丘』は、
『小因縁』で、
『瞋心』が、
『どんどん!』、
『大きくなり!』、
『僧』が、
『二部』に、
『分かれて!』、
『是非』を、
『断じようとした!』が、
『三ヶ月』が、
『過ぎても!』、
まだ、
『決着できなかった!』。
『仏』は、
『来られる!』と、
『衆』中に於いて、
『千輻輪相』の、
『手』を、
『挙げて!』、
『諍論』を、
『遮られ!』、
『比丘』に告げて、こう言われた、――
お前たち、
諸の比丘よ!
『闘諍』を、
『起こしてはならない!』、
若し、
『闘諍』を、
『起こして!』、
『悪心』が、
『相続すれば!』、
『苦報』は、
『甚だ!』、
『重いのだから!』。
お前たちは、
『涅槃』を、
『求めて!』、
『世利』を、
『捨てる!』という、
『善法』中に、
『在りながら!』、
何故、
『瞋恚して!』、
『闘諍するのか?』。
『世人』が、
『忿怒して!』、
『闘諍する!』のは、
『分らぬでもない!』が、
『出家人』が、
何故、
『瞋恚して!』、
『闘諍するのか?』。
『出家人』が、
『心』中に、
『毒』を、
『懐けば!』、
自らを、
『害することになろう!』、
譬えば、
『冷たい!』、
『雲』中ですら、
『火』が、
『出れば!』、
『身』を、
『焼くのだから!』、と。
  拘睒彌国(くせんみこく):また憍賞弥国と称す。『大智度論巻14(下)注:憍賞弥国』参照。
  憍賞弥国(きょうしょうみこく):梵名 kauzaambii 、また憍餉弥、憍閃毘、俱睒弥、俱舎弥、俱参毘、拘参毘耶、拘尸弥、拘睒弥、拘剡弥、拘睒鞞、拘睒尼、拘苦毘、苦舎弥、苦藍尼、鳩睒弥、拘深、句参等に作る。不静、不甚静、蔵有等と訳す。また婆蹉(梵名 vatsaa )、越蹉、拔沙、嚩蹉等の称あり。「大唐西域記巻5」に、其の国勢を敍して「周六千余里、国の大都城は周三十余里あり。土称沃壌にして地利豊植に、粳稲多く甘蔗茂り、気序暑熱、風俗剛猛なり。典藝を学ぶことを好み、福善を樹うることを崇ぶ。伽藍十余所、傾頓荒蕪し、僧徒三百余人ありて小乗教を学す。天祠五十余所あり、外道寔に多し」と云い、また其の城内には鄔陀衍那王所造の刻檀仏像、具史長者旧園、世親の唯識論を作りし故塼室、無著の顕揚聖教論を作りし故基、及び場外に如来経行の処、髪爪窣堵波、並びに迦奢布羅城の護法が外道を伏せし故伽藍等の存せしことを記せり。蓋し憍賞弥は古代印度の有名なる都市にして、ラーマーヤナ raamaayaNa には、クシャ kuza 王の王子クシャムバハ kuzambha の建設せし所とし、「中阿含巻55持斎経」、「長阿含巻5闍尼沙経」、「仁王般若波羅蜜経巻下受持品」等には、之を十六大国の一に数え、「大般涅槃経巻中」には、六大都市の一となせり。また「雑阿含経巻25」、「摩訶摩耶経巻下」等に、曽て此の国の比丘、持律の阿羅漢修羅他 sorata を殺害せしより諍論起こり、遂に仏法の滅亡を招けりと云えり。また「増一阿含経巻24」、「法句譬喩経巻1、巻2」、「雑宝蔵経巻8」、「義足経巻上」、「大方等大集経巻56」、「五分律巻6」、「十誦律巻30」、「善見律毘婆沙巻13」、「有部毘奈耶巻42」、「大毘婆沙論巻183」、「高僧法顕伝」、「翻梵語巻8」、「慧琳音義巻15、巻26」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
諸比丘白佛言。佛為法王願小默然。是輩侵我不可不答。佛念是人不可度也。於眾僧中凌虛而去。入林樹間寂然三昧。 諸の比丘の仏に白して言さく、『仏は、法王為れば、願わくは小(しばら)く黙然したまえ。是の輩は我れを侵して、答えざるべからず』、と。仏の念じたまわく、『是の人は、度すべからざるなり』、と。衆僧中に於いて、凌虚して去り、林樹の間の寂然三昧に入りたまえり。
諸の、
『比丘』は、
『仏』に白して、こう言った、――
『仏』は、
『法王です!』が、
願わくは、
『小(しばら)く!』、
『黙っていてください!』。
是の、
『輩』は、
わたしを、
『侵した!』のですから、
『答えない訳にはいかないのです!』、と。
『仏』は、
こう念じられると、――
是の、
『人』は、
『度しようがない(済いようがない)!』、と。
『衆僧』中より、
『凌虚として(雲を凌いで)!』、
『去られ!』、
『林樹の間』の、
『寂然三昧』に、
『入られた!』。
  凌虚(りょうこ):虚空を凌駕する。
瞋罪如是乃至不受佛語。以是之故應當除瞋修行忍辱。 瞋の罪は、是の如く乃至仏語を受けず。是の故を以って、応当に瞋を除きて、忍辱を修行すべし。
『瞋』の、
『罪』は、
是のように、
乃至、
『仏』の、
『語(ことば)』すら、
『受けない!』。
是の故に、
当然、
『瞋』を、
『除いて!』、
『忍辱』を、
『修行すべきである!』。
復次能修忍辱慈悲易得。得慈悲者則至佛道。 復た次ぎに、能く忍辱を修すれば、慈悲を得易く、慈悲を得る者は、則ち仏道に至る。
復た次ぎに、
『忍辱』を、
『修めることができれば!』、
『慈悲』が、
『得易く!』、
『慈悲』を、
『得た!』者は、
『仏の道』を、
『極められる!』。
問曰。忍辱法皆好。而有一事不可。小人輕慢謂為怖畏。以是之故不應皆忍。 問うて曰く、忍辱の法は、皆好もしくとも、一事の可(よ)からざる有り。小人は、軽慢して、謂いて怖畏と為す。是の故を以って、応に皆は忍ぶべからず。
問い、
『忍辱』という、
『法』は、
皆、
『好もしい!』が、
有る、
『一事』のみは、
『宜しくない!』。
何故ならば、
『小人』が、
『軽んじ!』、
『慢(あなど)って!』、
こう謂うからだ、――
『怖畏している!』、と。
是の故に、
当然、
『何もかも!』は、
『忍ぶべきでない!』。
答曰。若以小人輕慢謂為怖畏。而欲不忍。不忍之罪甚於此也。 答えて曰く、若し、小人の軽慢して、謂いて怖畏と為すを以って、忍ばざらんと欲すれば、忍ばざる罪は、此れより甚だし。
答え、
若し、
『小人』が、
『軽んじ!』、
『慢って!』、
『怖畏している!』と、
『謂う!』が故に、
『忍びたくない!』と、
『思う!』ならば、
『忍ばない!』、
『罪』は、
『怖畏する!』、
『罪』よりも、
『重い!』。
何以故。不忍之人賢聖善人之所輕賤。忍辱之人為小人所慢。二輕之中。寧為無智所慢。不為賢聖所賤。 何を以っての故に、不忍の人は、賢聖、善人の軽賎する所にして、忍辱の人は、小人の慢る所と為せばなり。二軽の中には、寧ろ無智の慢る所と為るべく、賢聖の賎しむ所と為らざれ。
何故ならば、
『忍ばない!』、
『人』は、
『賢聖』や、
『善人』に、
『軽んじられ!』、
『賎しまれる!』が、
『忍辱する!』、
『人』は、
『小人』にのみ、
『慢られるからである!』。
『二種』の、
『軽蔑』中には、
寧ろ、
『無智』に、
『慢られるべきであり!』、
『賢聖』に、
『賎しまれてはならない!』。
何以故。無智之人輕所不輕。賢聖之人賤所可賤。以是之故當修忍辱。 何を以っての故に、無智の人は、軽からざる所を軽んじ、賢聖の人は、賎しむべき所を賎しめば、是の故を以って、当に忍辱を修すべし。
何故ならば、
『無智の人』は、
『軽くない!』、
『人』を、
『軽んじる!』が、
『賢聖の人』は、
『賎しむべき!』、
『人』を、
『賎しめるからである!』。
是の故に、
当然、
『忍辱』を、
『修めなくてはならない!』。
復次忍辱之人。雖不行布施禪定。而常得微妙功德生天上人中。後得佛道。何以故。心柔軟故。 復た次ぎに、忍辱の人は、布施、禅定を行ぜずと雖も、常に微妙の功徳を得、天上、人中に生じて、後に仏道を得。何を以っての故に、心柔軟なるが故なり。
復た次ぎに、
『忍辱の人』は、
『布施』や、
『禅定』を、
『行わなくても!』、
常に、
『微妙』の、
『功徳』を、
『得て!』、
『天上』や、
『人中』に、
『生れ!』、
後には、
『仏』の、
『道』を、
『得る!』。
何故ならば、
『心』が、
『柔軟だからである!』。
復次菩薩思惟。若人今世惱我毀辱奪利。輕罵繫縛且當含忍。若我不忍。當墮地獄鐵垣熱地受無量苦。燒炙燔煮不可具說。 復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『若し人、今世に我れを悩まして、毀辱し、利を奪い、軽んじ罵って、繋縛すとも、且く当に含忍すべし。若し我れ忍ばざれば、当に地獄に堕つべくして、鉄の垣、熱き地に無量の苦を受け、焼き、炙り、燔りて、煮ること、具に説くべからず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう思惟する、――
若し、
『人』が、
今世に、
わたしを、
『侮辱し!』、
『利を奪い!』、
『軽んじて罵り!』、
『繋いで縛った!』としても、
且く(尚お)、
『含忍(忍受)しなくてはならない!』。
若し、
わたしが、
『忍ばなければ!』、
『地獄』に、
『堕ちなくてはならない!』。
『鉄の城壁』や、
『赤熱の地』で、
『無量の苦』を、
『受け!』、
『焼かれ!』、
『炙られ!』、
『燔(あぶ)られ!』、
『煮られて!』、
とても、
『説けないほどだ!』、と。
  含忍(ごんにん):耐える/忍受すること( to bear, endure )。
  (しゃ):あぶる( toast )。
  (ぼん):あぶる(roast )。
以是故知。小人無智雖輕而貴。不忍用威雖快而賤。是故菩薩應當忍辱。 是を以っての故に知る、『小人、無智は軽んずと雖も、貴し。忍ばずして、威を用うれば、快しと雖も、賎し。是の故に菩薩は、応当に忍辱すべし。
是の故に、
こう知る、――
『小人』や、
『無智』が、
『軽んじても!』、
『貴く!』、
『忍ばない!』で、
『威』を、
『用いれば!』、
『快くても!』、
『賎しい!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
当然、
『忍辱すべきである!』。
復次菩薩思惟。我初發心誓為眾生治其心病。今此眾生為瞋恚結使所病。我當治之。云何而復以之自病應當忍辱。 復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『我れは初めて発心して誓えり、衆生の為に、其の心の病を治さんと。今、此の衆生は、瞋恚の結使の病む所と為る、我れは当に之を治すべし。云何が復た之を以って、自ら病まんや、応当に忍辱すべし』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう思惟する、――
わたしは、
初めて、
『菩提心』を、
『起こした!』時、
こう誓った、――
『衆生』の為に、
『心の病』を、
『治そう!』、と。
今、
此の、
『衆生』は、
『瞋恚』という、
『結使』を、
『病んでいる!』、
わたしは、
之を、
『治さねばならない!』、
何故、
復た、
此の、
『病』を、
自ら、
『病むことがあろう?』。
当然、
『忍辱せばならぬ!』、と。
譬如藥師療治眾病。若鬼狂病拔刀罵詈不識好醜。醫知鬼病但為治之而不瞋恚。菩薩若為眾生瞋惱罵詈。知其為瞋恚者煩惱所病狂心所使。方便治之無所嫌責亦復如是。 譬えば、薬師の、衆病を療治するに、若し鬼狂病にして、刀を抜き、罵詈して、好醜を識らざれば、医は、鬼病なるを知りて、但だ為に之を治すも、瞋恚せざるが如し。菩薩の、若し衆生に瞋悩し、罵詈せらるるも、其の、瞋恚する者は、煩悩の病む所にして、狂心の使う所と為すを知り、方便して之を治し、嫌責する所無きも、亦復た是の如し。
譬えば、
『薬師』が、
『多く!』の、
『病』を、
『療治する!』のに、
若し、
『鬼狂病』で、
『刀』を、
『抜いて!』、
『罵り!』、
『好、醜』を、
『識別しなかった!』としても、
『医師』は、
『鬼病だ!』と、
『知り!』、
但だ、
『治してやるだけ!』で
『瞋恚することはない!』が、
『菩薩』が、
若し、
『衆生』に、
『瞋恚され!』、
『罵られても!』、
其の、
『瞋恚する!』者は、
『煩悩』に、
『病んでおり!』、
『狂心』に、
『使われている!』と、
『知り!』、
『方便して!』、
之を、
『治すのみ!』で、
『嫌ったり!』、
『責めたりする!』所が、
『無い!』。
亦た、
是れも、
『同じ事なのである!』。
復次菩薩育養一切愛之如子。若眾生瞋惱菩薩。菩薩愍之不瞋不責。 復た次ぎに、菩薩は、一切を育養して、之を愛すること子の如し。若し衆生、菩薩を瞋悩するも、菩薩は、之を愍れんで、瞋らず責めず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『衆生』を、
『育て!』、
『養って!』、
『子のように!』、
『愛する!』。
若し、
『衆生』が、
『菩薩』を、
『瞋って!』、
『悩ませた!』としても、
『菩薩』は、
之を、
『愍れんで!』、
『瞋ることもなく!』、
『責めることもない!』。
譬如慈父撫育子孫。子孫幼稚未有所識。或時罵詈打擲不敬不畏。其父愍其愚小愛之愈至。雖有過罪不瞋不恚。菩薩忍辱亦復如是。 譬えば、慈父の子孫を撫育するに、子孫幼稚にして、未だ識る所有らず、或いは時に罵詈し、打擲し、敬わず、畏れず。其の父は、其の愚小なるを愍れんで、之を愛すること愈(いよいよ)至り、過罪有りと雖も、瞋らず、恚らざるが如し。菩薩の忍辱も、亦復た是の如し。
譬えば、
『慈父』は、
『子孫』を、
『撫育する!』が、
『子孫』が、
『幼稚』で、
『物』を、
『識らない!』ので、
或いは、
時に、
『父』を、
『罵ったり!』、
『打ったり!』、
『投げたり!』して、
『父』を、
『敬うこともなく!』、
『畏れることがなくても!』、
其の、
『父』は、
其の、
『愚かで!』、
『小さい!』のを、
『愍れんで!』、
愈(いよいよ)、
『愛』が、
『極まる!』ので、
『過罪』が、
『有った!』としても、
『瞋ることもなく!』、
『責めることもない!』。
『菩薩』が、
『忍辱する!』のも、
亦た、
『やっぱり!』、
『是の通りなのである!』。
復次菩薩思惟。若眾生瞋惱加我我當忍辱。若我不忍今世心悔。後入地獄受苦無量。若在畜生。作毒龍惡蛇師子虎狼。若為餓鬼火從口出。譬如人被火燒。燒時痛輕後痛轉重。 復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『若し衆生、瞋悩を我れに加えんとも、我れは当に忍辱すべし。若し、我れ忍ばずんば、今世には心に悔い、後に地獄に入りて、苦を受くること無量ならん。若しは畜生に在りて、毒龍、悪蛇、師子、虎狼と作り、若しは餓鬼と為りて、火を口より出さん。譬えば、人の火を被りて焼かるるに、焼くる時には痛むこと軽く、後に痛むこと転た重きが如し』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう思惟する、――
若し、
『衆生』が、
わたしに、
『瞋、悩』を、
『加えようとも!』、
わたしは、
『忍辱しなければならない!』。
若し、
わたしが、
『忍ばなければ!』、
今世には、
『心』に、
『悔い!』、
後世には、
『地獄』に、
『入って!』、
『受ける!』、
『苦』は、
『無量だろう!』。
若しは、
『畜生界』に於いて、
『毒龍、悪蛇、師子、虎狼』と、
『作る!』か、
若しは、
『餓鬼』と、
『為って!』、
『火』を、
『口』より、
『出すことだろう!』。
譬えば、
『人』が、
『火』に、
『焼かれる!』と、
『焼く!』時の、
『痛み!』は、
『軽い!』が、
後に、
『痛み!』が、
『次第に重くなる!』のと、
『同じことだ!』、と。
復次菩薩思惟。我為菩薩欲為眾生益利。若我不能忍辱。不名菩薩名為惡人。 復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『我れ、菩薩と為るは、衆生の為に益利せんと欲すればなり。若し我れ、忍辱する能わずんば、菩薩と名づけず、名づけて悪人と為す』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう思惟する、――
わたしが、
『菩薩』と、
『為った!』のは、
『衆生』の為に、
『利益しよう!』と、
『思ったからである!』。
若し、
わたしが、
『忍辱できなければ!』、
『菩薩』と、
『呼ばれずに!』、
『悪人』と、
『呼ばれるだろう!』、と。
復次菩薩思惟。世有二種。一者眾生數。二者非眾生數。我初發心誓為一切眾生。若有非眾生數山石樹木風寒冷熱水雨侵害。但求禦之初不瞋恚。今此眾生是我所為。加惡於我。我當受之。云何而瞋。 復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『世には、二種有り、一には衆生の数、二には非衆生の数なり。我れは、初めて発心して誓えるは、一切の衆生の為なり。若し非衆生の数たる、山石、樹木、寒風、冷熱、水雨の侵害有らば、但だ之を禦(ふせ)ぐことを求めて、初より瞋恚せず。今、此の衆生は、是れ我が為にする所なれば、我れに悪を加えんとも、我れは当に之を受くべし。云何が、瞋らん』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう思惟する、――
『世界』には、
『二種』有り、
一には、
『衆生の数()』、
二には、
『非衆生の数である!』が、
わたしが、
初めて、
『菩提心』を、
『発して!』、
『誓った!』のは、
一切の、
『衆生』の、
『為である!』。
若し、
『非衆生』の、
『山石、樹木、寒風、冷熱、水雨』が、
『侵害した!』としても、
但だ、
『防禦するだけ!』で、
初めより、
『瞋恚することはない!』。
今、
此の、
『衆生』は、
わたしの、
『誓い!』の、
『原因ではないか!』、
わたしに、
『悪』を、
『加えた(施した)!』としても、
わたしは、
之を、
『受けなくてはならない!』、
何故、
『瞋ることがあろう?』、と。
復次菩薩知從久遠已來。因緣和合假名為人無實人法。誰可瞋者。是中但有骨血皮肉。譬如累墼 復た次ぎに、菩薩の知るらく、『久遠より已来の因縁の和合を仮に名づけて、人と為す、実の人法無きに、誰か瞋るべき者なる。是の中には但だ、骨、血、皮、肉有るも、譬えば墼を累(かさ)ぬるが如し』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう知る、――
『久遠以来』の、
『因縁』の、
『和合』を、
仮に、
『人』と、
『呼ぶだけだ!』、
『人』という、
実の、
『法』は、
『無い!』のに、
『瞋られる!』、
『人』とは、
誰なのか?。
是の中には、
但だ、
『骨、血、皮、肉』が、
『有るのみ!』で、
譬えば、
『煉瓦』を、
『積み重ねた!』のと、
『同じである!』、と。
  (げき):煉瓦の未だ焼成せざるもの。
又如木人機關動作有去有來。知其如此不應有瞋。若我瞋者是則愚癡自受罪苦。以是之故應修忍辱。 又、木人の、機関動作して、去る有り、来たる有るが如し。其の此の如きなるを知れば、応に瞋有るべからず。若し、我れ瞋らば、是れ則ち愚癡にして、自ら罪苦を受けん。是の故を以って、応に忍辱を修すべし。
又、
『木人』は、
『機関の動作』で、
『去ったり!』、
『来たり!』が、
『有るように!』、
其れも、
『此の通りである!』と、
『知れば!』、
『瞋る!』ことなど、
『有るはずがない!』。
わたしが、
若し、
『瞋った!』ならば、
是れは、
『愚癡であり!』、
自ら、
『罪苦』を、
『受けることになる!』。
是の故に、
当然、
『忍辱』を、
『修めなくてはならない!』。
復次菩薩思惟。過去無量恒河沙等諸佛。本行菩薩道時。皆先行生忍然後修行法忍。我今求學佛道。當如諸佛法。不應起瞋恚如魔界法。以是故應當忍辱。 復た次ぎに、菩薩の思惟すらく、『過去の無量恒河沙に等しき諸仏は、本、菩薩の道を行ぜし時、皆、先に生忍を行じて、然る後に法忍を修行したまえり。我れは、今、仏道を学ばんことを求む、当に諸仏の法の如くなるべく、応に瞋恚を起こして、魔界の法の如くなるべからず。是を以っての故に、応当に忍辱すべし』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう思惟する、――
『過去』の、
『無量恒河沙にも等しい!』、
諸の、
『仏たち!』も、
本、
『菩薩』の、
『道』を、
『行われていた!』時には、
皆、
先に、
『生忍』を、
『行って!』、
その後、
『法忍』を、
『修行された!』。
わたしも、
今、
『仏』の、
『道』を、
『学ぼう!』と、
『求めている!』。
当然、
諸の、
『仏』の、
『法のように!』、
『求めなくてはならない!』、
『瞋恚』を、
『起こして!』、
『魔界』の、
『法のように!』、
『求めてはならないのだ!』。
是の故に、
当然、
『忍辱しなくてはならない!』、と。
如是等種種無量因緣故能忍。是名生忍
大智度論卷第十四
是の如き等の種種、無量の因縁の故に、能く忍べば、是れを生忍と名づく。
大智度論巻第十四
是れ等のように、
種種の、
無量の、
『因縁』の故に、
『忍ぶことができれば!』、
是れを、
『生忍』と、
『称する!』。

大智度論巻第十四


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