巻第十四(上)
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大智度論釋初品中尸羅波羅蜜義之餘(卷第十四)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


尸羅波羅蜜とは?

問曰。已知尸羅相。云何為尸羅波羅蜜。 問うて曰く、已に尸羅の相を知れり。云何が尸羅波羅蜜と為す。
問い、
已に、
『尸羅』の、
『相』は、
『知った!』。
何が、
『尸羅波羅蜜ですか?』。
答曰。有人言。菩薩持戒寧自失身不毀小戒。是為尸羅波羅蜜。 答えて曰く、有る人の言わく、『菩薩の持戒は、寧ろ自ら身を失うとも、小戒すら毀(やぶ)らざる、是れを尸羅波羅蜜と為す』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』が、
『持戒して!』、
寧(むし)ろ、
『身』を、
『失った!』としても、
『小さな!』、
『戒すら!』、
『毀(やぶ)らなかった!』とすれば、
是れが、
『尸羅波羅蜜である!』、と。
如上蘇陀蘇摩王經中說。不惜身命以全禁戒。如菩薩本身曾作大力毒龍。若眾生在前。身力弱者眼視便死。身力強者氣往而死。 上の『蘇陀蘇摩王経』中に説けるが如く、身命を惜まずして、以って禁戒を全うするなり。菩薩の本身の如きは、曽て大力の毒龍と作りて、若し衆生、前に在らば、身力弱き者は、眼に視て便ち死し、身力強き者は、気往きて、而して死せり。
例えば、
『蘇陀蘇摩王経』中に説かれたように、――
『身』も、
『命』も、
『惜まず!』、
『禁戒』を、
『全(まっと)うする!』ことである。
『菩薩』の、
『本の身』は、
曽(かつ)て、
『大力』の、
『毒龍』と、
『作っていた!』が、
若し、
『前』に、
『居る!』、
『衆生』の
『身力』が
『弱ければ!』、
『眼』に、
『視たとたん!』に、
『死に!』、
『身力』が、
『強くても!』、
『毒気』に、
『触れただけ!』で、
『死んだ!』。
  蘇陀蘇摩王(そだそまおう):須陀須摩王。『大智度論巻4(上)、同注:須陀須摩王』参照。
  禁戒(ごんかい):[道徳的]勧告( (moral) precept(s) )、梵語 ziila, zikSaa- pada の訳、命令/指図/規制( Commandment(s), instructions, regulations )の義、悪行を遠離して邪悪を避けること( Abstaining from wrongdoing, avoiding evil )、仏より与えられた規則( The rules given by the Buddha )、修行者の信奉する規則( The regulations that practitioners should adhere to )の意。
  参考:『菩薩本縁経巻3龍品』:『‥‥爾時龍王遣金翅鳥還本處已。慰喻諸龍及諸婦女。汝見金翅生怖畏不。其餘眾生睹見汝時。亦復如是生大怖畏。如汝諸龍愛惜身命。一切眾生亦復如是。當觀自身以喻彼身。是故應生大慈之心。以我修集慈心因緣故。令怨憎還其本處。流轉生死所可恃怙無過慈心。夫慈心者除重煩惱之妙藥也。慈是無量生死飢餓之妙食也。我等往昔以失慈心故。今來墮此畜生之中。若以修慈為門戶者。一切煩惱不能得入。生天人中及正解脫。慈為良乘更無過者。諸龍婦女聞是語已。遠離恚毒修集慈心。爾時龍王自見同輩。悉修慈心歡喜自慶。善哉我今所作已辦。我雖業因生畜生中。而得修行大士之業。爾時龍王復向諸龍而作是言。已為汝等作善事竟。為已示汝正真之道。復為汝等然正法炬閉諸惡道開人天路。汝已除棄無量惡毒以上甘露。補置其處欲請一事。汝等當知於十二月前十五日。閻浮提人以八戒水洗浴其身。心作清淨為人天道而作資糧。遠離憍慢貢高貪欲瞋恚愚癡。我亦如是欲效彼人受八戒齋法。汝當知之。若能受持如是八戒。雖無妙服而能得洗浴。雖無墻壁能遮怨賊。雖無父母而有貴姓。離諸瓔珞身自莊嚴。雖無珍寶巨富無量。雖無車馬亦名大乘。不依橋津而度惡道。受八戒者功德如是。汝今當知吾於處處常受持之。諸龍各言。云何名為八戒齋法。龍王答言。八戒齋者。一者不殺二者不盜三者不婬四者不妄語五者不飲酒六者不坐臥高廣床上七者不著香華瓔珞以香塗身八者不作倡伎樂不往觀聽。如是八事莊嚴不過中食。是則名為八戒齋法。諸龍問言。我等若當離王少時命不得存。今欲增長無上正法熾然法燈請奉所敕。佛法之益無處不可。何故不於此中受持。亦曾聞有在家之人得修善法。若在家中行善法者亦得增長。何必要當求於靜處。龍王答言。欲處諸欲心無暫停。見諸妙色則發過去愛欲之心。譬如濕地雨易成泥。見諸妙色發過去欲心亦復如是。若住深山則不見色。若不見色則欲心不發。諸龍問言。若處深山則得增長是正法者當隨意行。爾時龍王即將諸龍至寂靜處。遠離婬欲瞋恚之心。於諸眾生增修大慈具足忍辱以自莊嚴。開菩提道自受八戒。清淨持齋經歷多日。斷食身羸甚大飢渴疲極眠睡。龍王修行如是八戒具足忍辱。於諸眾生心無害想。時有惡人至龍住處。龍眠睡中聞有行聲即便驚寤。時諸惡人見已心驚喜相謂曰。是何寶聚從地湧出。龍見諸人心即生念。我為修德來至此間。而此山間復有惡逆破修德者。若令彼人見我真形則當怖死。怖死之後我則毀壞修行正法。我於往昔以瞋因緣受是龍身。三毒具足氣見觸毒如是。諸人今來至此。必貪我身斷絕壽命。時諸惡人復相謂曰。我等入山經歷多年求覓財利。未曾得見如是龍身文彩莊嚴悅可人目。剝取其皮以獻我王者可得重賞。時諸惡人尋以利刀剝取其皮。龍王爾時心常利樂一切世間。即於是人生慈愍想。以行慈故三毒即滅。復自勸喻慰[泛-之+友]其心。汝今不應念惜此身。汝雖復欲多年擁護。而對至時不可得免。如是諸人今為我身貪其賞貨當墮地獄。我寧自死終不令彼現身受苦。諸人尋前執刀[利-禾+皮]剝。龍復思惟若人無罪有人支解。默受不報不生怨結。當知是人為大正士。若於父母兄弟妻子生默忍者此不足貴。若於怨中生默受心此乃為貴。是故我今為眾生故。應當默然而忍受之。若我於彼生忍受者。乃為真伴我之知識。是故我今應於是人生父母想。我於往昔雖無量世故捨身命。初未曾得為一眾生。彼人若念剝此皮已。當得無量珍寶重貨。願我來世常與是人無量法財。爾時龍王既被剝已。遍體血出苦痛難忍。舉身戰動不能自持。爾時多有無量小蟲。聞其血香悉來集聚唼食其肉。龍王復念今此小蟲食我身者。願於來世當與法食。菩薩摩訶薩行尸波羅蜜時。乃至剝皮食肉都不生怨。況復餘處也』
是龍受一日戒。出家求靜入林樹間。思惟坐久疲懈而睡。龍法睡時形狀如蛇。身有文章七寶雜色。 是の龍は、一日戒を受けて出家し、静を求めて、林樹の間に入り、思惟して久しく坐すに、疲懈して睡れり。龍法に睡時は、形状蛇の如く、身に文章有りて、七宝色を雑えたり。
是の、
『龍』は、
『一日戒』を、
『受けて!』、
『出家する!』と、
『静寂』を、
『求めて!』、
『林樹の間』に、
『入り!』、
『思惟して!』、
『久しく!』、
『坐っている!』うちに、
『疲労して!』、
『物憂くなり!』、
『睡ってしまった!』。
『龍の法(軌範)』として、
『睡る!』時には、
『形状』が、
『蛇のようになり!』、
『身』の、
『文様』には、
『七宝』が、
『色』を、
『雑(まじ)えていた!』。
  疲懈(ひけ):疲労懈怠。疲れて物憂いさま。
  龍法(りゅうほう):龍の軌範/標準( norm, standard )。
  文章(もんしょう):紋章。模様。
獵者見之驚喜言曰。以此希有難得之皮。獻上國王以為服飾不亦宜乎。便以杖按其頭以刀剝其皮。 猟者、之を見て驚喜して言いて曰わく、『此の希有にして得難き皮を以って、国王に獻上し、以って服飾と為さば、亦た宜しからずや』、と。便ち杖を以って、其の頭を按(おさ)え、刀を以って、其の皮を剥ぐ。
『猟者』が、
之を、
『見る!』と、
『驚き!』、
『喜んで!』、
こう言った、――
此の、
『希有の!』、
『得難い!』、
『皮』を、
『国王』に、
『獻上し!』、
『服』の、
『飾りにすれば!』、
『宜しくないことがあろうか?』、と。
そして、
『杖』で、
其の、
『頭』を、
『押さえる!』と、
『刀』で、
其の、
『皮』を、
『剥いだ!』。
龍自念言。我力如意。傾覆此國其如反掌。此人小物豈能困我。我今以持戒故不計此身當從佛語。於是自忍眠目不視。閉氣不息憐愍此人。為持戒故一心受剝不生悔意。 龍の自ら念じて言わく、『我が力は意の如く、此の国を傾覆するも、其れ掌を反すが如し。此の人、小物なれば、豈に能く我れを困らせんや。我れ今、持戒を以っての故に、此の身を計らず、当に仏語に従うべし』、と。是(ここ)に於いて自ら忍んで、目を眠りて見ず、気を閉ざして息せず、此の人を憐愍して、持戒の為の故に、一心に剥ぐを受くるも、悔意を生ぜず。
『龍』は、
自ら、
『念じて!』、こう言った、――
わたしの、
『力』は、
『意のまま!』であり、
此の、
『国土』を、
『ひっくり返す!』のも、
『掌』を、
『反すようなものだ!』し、
此の、
『人』は、
『小物で!』、
とても、
わたしを、
『困らせることなどできない!』が、
わたしは、
今、
『持戒している!』のだから、
此の、
『身のこと!』など、
『思い計らず!』、
『仏』の、
『語(ことば)』に、
『従うとしよう!』、と。
そこで、
自ら、
『目』を、
『閉ざして!』、
『見ないようにし!』、
『気』を、
『閉ざして!』、
『息をせず!』、
此の、
『人』を、
『憐愍して!』、
『持戒する!』が故に、
『一心』に、
『受容して!』、
『剥がれながら!』、
『悔やむ!』、
『意』を、
『生じなかった!』。
  傾覆(きょうふく):ひっくり返す( upset )。
既以失皮赤肉在地。時日大熱宛轉土中欲趣大水。見諸小蟲來食其身。為持戒故不復敢動。自思惟言。今我此身以施諸蟲。為佛道故今以肉施以充其身。後成佛時當以法施以益其心。 既に皮を失うを以って、赤肉地に在り、時に日大熱にして、土中に宛転し、大水に趣かんと欲するに、諸の小虫の来たりて其の身を食らうを見るも、持戒の為の故に復た敢て動かず、自ら思惟して言わく、『今我れ、此の身を以って、諸虫に施さん。仏道の為の故に、今、肉を以って施し、以って其の身に充(あ)て、後に仏と成る時に、当に法を以って施し、以って其の心を益すべし』、と。
既に、
『皮』を、
『失って!』、
『赤い肉』を、
『地』に、
『横たえている!』と、
時の、
『日』は、
『大熱(夏の盛り)であり!』、
『うねうね!』、
『土』中を、
『転がりながら!』、
『大河』に、
『趣こう!』と、
『思った!』が、
見てみると、――
諸の、
『小虫』が、
『来て!』、
其の、
『身』を、
『食っていた!』ので、
『持戒していた!』が故に、
もう、
敢(あえ)て、
『動こうとせず!』、
自ら、
『思惟して!』、こう言った、――
今、
わたしは、
此の、
『身』を、
諸の、
『虫』に、
『施そう!』。
『仏』の、
『道』を、
『行う!』為の故に、
今は、
『肉』を、
『施して!』、
其の、
『身』を、
『満たし!』、
後に、
『仏』と、
『成った!』時には、
『法』を、
『施して!』、
其の、
『心』を、
『満たそう!』、と。
如是誓已身乾命絕。即生第二忉利天上。爾時毒龍釋迦文佛是。是時獵者提婆達等六師是也。諸小蟲輩。釋迦文佛初轉法輪八萬諸天得道者是。 是の如く誓い已るに、身乾きて命絶え、即ち第二忉利天上に生ず。爾の時の毒龍とは、釈迦文仏是れなり。是の時の猟者とは、提婆達等の六師是れなり。諸の小虫の輩とは、釈迦文仏の初転法輪に、八万の諸天の道を得たる者是れなり。
是のように、
『誓って!』、
『身』が、
『乾き!』、
『命』が、
『絶える!』と、
即時に、
『欲界第二』の、
『忉利天』上に、
『生まれた!』のであるが、
爾の時の、
『毒龍』とは、
『釈迦文仏であり!』、
是の時の、
『猟者』とは、
『提婆達』等の、
『六師であり!』、
諸の、
『小虫』とは、
『釈迦文仏』の
『初転法輪』で、
『道』を、
『得た!』、
『八万』の、
『諸天である!』。
  六師(ろくし):外道の六師。『大智度論巻3(上)注:六師外道』参照。
菩薩護戒不惜身命。決定不悔。其事如是。是名尸羅波羅蜜。 菩薩は戒を護って、身命を惜まず、決定して悔いず。其の事の是の如き、是れを尸羅波羅蜜と名づく。
『菩薩』は、
『戒』を、
『護って!』、
『身命すら!』、
『惜まず!』、
『決定して!』、
『悔いない!』が、
其の、
『事』が、
『是の通り!』であれば、
是れを、
『尸羅波羅蜜』と、
『称する!』。
復次菩薩持戒。為佛道故作大要誓。必度眾生不求今世後世之樂。不為名聞虛譽法故。亦不自為早求涅槃。但為眾生沒在長流。恩愛所欺愚惑所誤。我當度之令到彼岸。 復た次ぎに、菩薩の持戒は、仏道の為にして、故に大要誓を作すらく、『必ず衆生を度せんがため、今世、後世の楽を求めざるは、名聞、虚誉の法の為の故にせず、亦た自ら涅槃を求むることの早からんが為にせず、但だ衆生の長流に没在し、恩愛に欺かれ、愚惑に誤たるるが為なり。我れ当に之を度して、彼岸に到らしむべし』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『持戒する!』ことが、
『仏』の、
『道であり!』、
故に、
『大要誓』を、こう作すのである、――
必ず、
『衆生』を、
『度す!』と、
『定めて!』、
『今世、後世』の、
『楽』を、
『求めない!』のは、
『名聞、虚誉』の、
『法』を、
『思うからではない!』、
亦た、
自ら、
『早く!』、
『涅槃』に、
『入りたいからでもない!』、
但だ、
『衆生』が、
『長流』に、
『没在しながら!』、
『恩愛』に、
『欺かれ!』、
『愚惑』に、
『誤たされている!』と、
『思うからである!』。
わたしは、
之を、
『度して!』、
『彼岸』に、
『到らせなくてはならない!』、と。
  要誓(ようぜい):誓言/誓約( an oath )、梵語 satya, satyaa, satyaadhiSThaana の訳、真実を語ること/表裏のないこと/誠実( speaking the truth, sincerity, veracity )の義。
  長流(ちょうる):長い流れ( long-flowing )、梵語 udaka-dhaaraa の訳、水の噴出/流れ( a gush or flow of water )の義、生死中に流転することの永久なることの意。
一心持戒為生善處。生善處故見善人。見善人故生智慧。生智慧故得行六波羅蜜。得行六波羅蜜故得佛道。如是持戒名為尸羅波羅蜜。 一心に持戒するは、善処に生ぜんが為なり、善処に生ずるが故に、善人を見、善人を見るが故に智慧を生じ、智慧を生ずるが故に六波羅蜜を行ずるを得、六波羅蜜を行ずるを得るが故に仏道を得。是の如き持戒を、名づけて尸羅波羅蜜と為す。
『一心』に、
『持戒する!』のは、――
『善処』に、
『生まれる!』為である。
『善処』に、
『生まれる!』が故に、
『善人』を、
『見ることができ!』、
『善人』を、
『見る!』が故に、
『智慧』を、
『生じ!』、
『智慧』を、
『生じる!』が故に、
『六波羅蜜』を、
『行うことができ!』、
『六波羅蜜』を、
『行う!』が故に、
『仏道』を、
『得る!』、
是のような、
『持戒』を、
『尸羅波羅蜜』と、
『称する!』。
復次菩薩持戒心樂善清淨。不為畏惡道。亦不為生天。但求善淨以戒熏心令心樂善。是為尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩の持戒は、心をして楽、善、清浄ならしむるも、悪道を畏るるが為にあらず、亦た天に生ぜんが為にあらず、但だ善、浄を求む。戒を以って心を熏じて、心をして楽、善ならしむ、之を尸羅波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『持戒』は、
『心』を、
『楽、善、清浄にする!』が、
『悪道』を、
『畏れる為でもなく!』、
『天』に、
『生まれる為でもない!』、
但だ、
『善、浄』を、
『求めて!』、
『持戒する!』のであり、
『戒』で、
『心』を、
『熏じて!』、
『心』を、
『楽、善にする!』。
是れを、
『尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
復次菩薩以大悲心持戒得至佛道。是名尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は、大悲心を以って持戒し、仏道を至るを得、是れを尸羅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『大悲心』を、
『用いて!』、
『持戒すれば!』、
『仏』の、
『道』を、
『極められる!』ので、
是れを、
『尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。



持戒は、六波羅蜜を生じる

復次菩薩持戒。能生六波羅蜜。是則名為尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩の持戒は、能く六波羅蜜を生ず。是れ則ち名づけて、尸羅波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『持戒』は、
『六波羅蜜』を、
『生じさせる!』ので、
是れを、
『尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
云何持戒能生戒。因五戒得沙彌戒。因沙彌戒得律儀戒。因律儀戒得禪定戒因禪定戒得無漏戒。是為戒生戒。 云何が、持戒は、能く戒を生ずる。五戒に因りて、沙弥戒を得、沙弥戒に因りて、律儀戒を得、律儀戒に因りて禅定戒を得、禅定戒に因りて、無漏戒を得れば、是れを戒は、戒を生ずと為す。
何のように、
『持戒』は、
『戒』を、
『生じさせるのか?』、――
『五戒』に、
『因って!』、
『沙弥戒』を、
『得!』、
『沙弥戒』に、
『因って!』、
『律儀戒』を、
『得!』、
『律儀戒』に、
『因って!』、
『禅定戒』を、
『得!』、
『禅定戒』に、
『因って!』、
『無漏戒』を、
『得る!』が、
是れは、
『戒』が、
『戒』を、
『生じたのである!』。
  沙弥戒(しゃみかい):沙弥十戒。『大智度論巻13(下)注:十戒』参照。
  律儀戒(りつぎかい):具足戒。『大智度論巻11(上)注:具足戒』参照。
  禅定戒(ぜんじょうかい):定と共に自然に生ずる戒。定共戒。律儀戒と共に有漏戒の一と為す。『大智度論巻13(上)注:定共戒』参照。
  無漏戒(むろかい):無漏の慧に随って生ずる戒。「阿毘曇甘露味論巻上」に、「云何が無漏戒なる。正語、正業、正命なり」と云えるこれなり。『大智度論巻13(上)注:定共戒』参照。
云何持戒能生於檀。檀有三種。一者財施。二者法施。三者無畏施。持戒自撿不侵一切眾生財物。是名財施。眾生見者慕其所行。又為說法令其開悟。又自思惟。我當堅持淨戒。與一切眾生作供養福田。令諸眾生得無量福。如是種種名為法施。一切眾生皆畏於死。持戒不害。是則無畏施。 云何が、持戒は、能く檀を生ずる。檀に三種有り、一には財施、二には法施、三には無畏施なり。持戒して自ら撿(しら)べ、一切の衆生の財物を侵さざる、是れを財施と名づく。衆生見れば、其の所行を慕い、又為に説法して、其れをして開悟せしめ、又自ら思惟すらく、『我れは、当に浄戒を堅持して、一切の衆生の与(ため)の供養の福田と作り、諸の衆生をして、無量の福を得しむべし』、と。是の如き種種を名づけて、法施と為す。一切の衆生は、皆死を畏るれば、持戒して害せざる、是れ則ち無畏施なり。
何のように、
『持戒』が、
『檀』を、
『生じさせるのか?』、――
『檀』には、
『三種』有り、
一には、『財施』、
二には、『法施』、
三には、『無畏施である!』。
『財施』とは、――
『持戒』は、
自らを、
『取り締まって!』、
一切の、
『衆生』の、
『財物』を、
『侵させない!』ので、
是れを、
『財施』と、
『称する!』。
『法施』とは、――
『衆生』が、
其の、
『所行(持戒)』を、
『見て!』、
『慕い!』、
又、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説いて!』、
『開悟させ!』、
又、
自ら、こう思惟する、――
わたしは、
一切の、
『衆生』に、
『供養される!』、
『福田』と、
『作り!』、
『衆生』に、
『無量の!』、
『福』を、
『得させよう!』、と。
是れ等のような、
種種を、
『法施』と、
『称する!』。
『無畏施』とは、――
一切の、
『衆生』は、
皆、
『死』を、
『畏れる!』が、
『持戒』は、
一切の、
『衆生』を、
『害さない!』ので、
是れは、
『無畏施である!』。
  (けん):しらべる/取り締まる( examine, check, inspect )。
復次菩薩自念。我當持戒以此戒報。為諸眾生作轉輪聖王。或作閻浮提王。若作天王令諸眾生。滿足於財無所乏短。然後坐佛樹下。降伏魔王破諸魔軍。成無上道。為諸眾生說清淨法。令無量眾生度老病死海。是為持戒因緣生檀波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩の自ら念ずらく、『我れは、当に持戒して、此の戒の報を以って、諸の衆生の為に、転輪聖王と作り、或いは閻浮提の王と作り、若しは天王と作って、諸の衆生をして、財に於いて満足せしめて、乏短する所無からしめ、然る後に仏樹の下に坐して、魔王を降伏し、諸の魔軍を破って、無上道を成じ、諸の衆生の為に、清浄の法を説き、無量の衆生をして、老病死の海を度せしむべし』、と。是れを持戒の因縁は、檀波羅蜜を生ずと為す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
自ら、こう念じる、――
わたしは、こうしなくてはならない、――
『持戒して!』、
此の、
『持戒』の、
『報』で、
諸の、
『衆生』の為に、
『転輪聖王』と、
『作り!』、
或いは、
『閻浮提の王』と、
『作り!』、
若しくは、
『天王』と、
『作って!』、
諸の、
『衆生』に、
『財』に、
『満足させ!』、
『乏短(欠乏)』を、
『無くさせた!』ならば、
その後、
『仏樹の下』に、
『坐って!』、
『魔王』を、
『降伏』し、
『諸の魔軍』を、
『破って!』、
『無上道』を、
『成就し!』、
諸の、
『衆生』の為に、
『清浄な!』、
『法』を、
『説いて!』、
無量の、
『衆生』に、
『老病死』の、
『海』を、
『渡らせよう!』、と。
是れは、
『持戒』の、
『因縁』が、
『檀波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
  仏樹(ぶつじゅ):菩提樹( bodhi-tree )、梵語 bodhidruma, bodhi-vRkSa の訳、智慧の樹( The wisdom-tree )、釈迦牟尼仏がその下で覚りを開いた樹( the tree underneath which Śākyamuni Buddha attained enlightenment )の意。
云何持戒生忍辱。持戒之人心自念言。我今持戒為持心故。若持戒無忍當墮地獄。雖不破戒以無忍故不免惡道。何可縱忿不自制心。但以心故入三惡趣。是故應當好自勉強懃修忍辱。 云何が、持戒は、忍辱を生ずる。持戒の人は、心に自ら念じて言わく、『我れ、今持戒するは、心を持せんが為の故なり。若し持戒すとも、忍無くば、当に地獄に堕つべし。破戒せずと雖も、忍無きを以っての故に悪道を免れず。何ぞ忿を縦(ほしいまま)にして、自ら心を制せざるべし。但だ心を以っての故に、三悪趣に入る。是の故に、応当に好んで自ら勉強して、忍辱を懃修すべし。
何のように、
『持戒』は、
『忍辱』を、
『生じるのか?』、――
『持戒の人』は、
『心』に、
自らを念じて、こう言う、――
わたしが、
今、
『持戒する!』のは、
『心』を、
『持(たも)って!』、
『忍ぶ!』為である。
若し、
『持戒しても!』、
『心』に、
『忍』が、
『無ければ!』、
『地獄』に、
『堕ちなくてはならない!』。
『破戒しなくても!』、
『心』に、
『忍』が、
『無い!』が故に、
『悪道』を、
『免れられないのだ!』。
何うして、
『心』に、
『忿(いきどおり)』を、
『縦(ほしいまま)にし!』、
自ら、
『心』を、
『制しないでいられよう?』、
但だ、
『心』の故に、
『三悪趣』に、
『堕ちるのに!』、と。
是の故に、
当然、
自ら、
『好んで!』、
『強いて!』、
『努力して!』、
『忍辱』を、
『修めなくてはならない!』。
  (じ):保持する/取り締まる( hold, control )、梵語 √(dhR), dhara, dhaara の訳、持つ/運ぶ/維持・持続する/保持する/保存する/所有する/有する/使用する/雇う/実践する/忍ぶ( to hold, bear (also bring forth), carry, maintain, preserve, keep, possess, have, use, employ, practise, undergo )の義。
  勉強(べんきょう):人に強いて為させる( force somebody to do something )の意。
  懃修(ごんしゅ):修行に精進する( diligently cultivates )、(梵語 √(tap), aataapin の訳、自分自身を苦しめる/自己懲罰を忍ぶ/耐乏生活をする( to torment one's self, undergo self-mortification, practise austerity )の義。
復次行者欲令戒德堅強。當修忍辱。所以者何。忍為大力。能牢固戒令不動搖。復自思惟。我今出家形與俗別。豈可縱心如世人法。宜自勉勵以忍調心以身口忍心亦得忍。若心不忍身口亦爾。是故行者當令身口心忍絕諸忿恨。 復た次ぎに、行者は、戒徳をして、堅強ならしめんと欲すれば、当に忍辱を修むべし。所以は何んとなれば、忍を大力と為し、能く戒を牢固ならしめ、動揺せしめざればなり。復た自ら思惟すらく、『我れは今、出家して形は、俗と別なり。豈に心を縦にして、世人の法の如くなるべし。宜しく自ら勉励し忍を以って心を調え、身口の忍を以って、心も亦た忍を得べし。若し心忍ばずんば、身口も亦た爾り』、と。是の故に行者は当に身口心をして忍ばしめ、諸の忿恨を絶ゆべし。
復た次ぎに、
『行者』は、
『戒』の、
『徳()』を、
『堅強にしたい!』と、
『思えば!』、
当然、
『忍辱』を、
『修めなくてはならない!』。
何故ならば、
『忍』は、
『大力であり!』、
『戒』を、
『堅固にして!』、
『動揺させないからである!』。
復た、
自ら、こう思惟する、――
わたしは、
今、
『出家して!』、
『俗』とは、
『形』が、
『別である!』。
何うして、
『世俗』の、
『人』の、
『法(慣習)のように!』、
『心』を、
『縦(ほしいまま)にできよう?』。
当然、
自ら、
『勉励して!』、
『忍』で、
『心』を、
『調え!』、
『身、口』の、
『忍』を、
『用いて!』、
『心』にも、
『忍』を、
『得なくてはならない!』。
若し、
『心』が、
『忍ばなければ!』、
『身、口』も、
亦た、
『忍ばないだろう!』、と。
是の故に、
『行者』は、
当然、
『身、口、心』を、
『忍耐させて!』、
諸の、
『忿恨』を、
『絶えさせなくてはならない!』。
  (ほう):[ヒンズー教/仏教の]法/徳/守るべき軌範( dharma )、梵語 dharma の訳、文脈により種種の英語に訳される( Rendered into English variously according to the context )、例えば真理/現実/事物/現象/要素/成分/精神的要素/特質である( as: truth, reality; thing, phenomenon, element, constituent, (mental) factor; quality )。「dharma」の語は元と印度語の動詞語幹 √(dhR) より派生し、「保存する/維持する/保つもの」の意を有し、特に「人の活動を保存/維持するもの」の意を有する( The word dharma is originally derived from the Indic root dhr, with the meaning of 'that which preserves or maintains,' especially that which preserves or maintains human activity )。◯仏教に於いては此の語は、広範なる意味を有すると雖も、主要な意味は、仏によって伝えられた、完全に真実に一致する教訓/学説である( The term has a wide range of meanings in Buddhism, but the foremost meaning is that of the teaching delivered by the Buddha, which is fully accordant with reality )。従って真理/真実/真実の原理/法則でもあり( Thus, truth, reality, true principle, law (Skt. satya) )、完全な宗教としての仏教を暗示する。法は、三宝の第二でもある( It connotes Buddhism as the perfect religion. The Dharma is also the second component among the Three Treasures (triratna) 佛法僧 )、そしてそれは法身という観念に於いて、西洋の「霊的」の意に近似している( and in the sense of dharmakāya 法身 it approaches the Western idea of 'spiritual.' )。◯それは一切の事物、或いは何か小/大、可見/不可見、真実/不実の事物、現象、真実、原理、方式、有形の物/抽象的な概念等の意味に於いて使用される( It is used in the sense of 一切 all things, or anything small or great, visible or invisible, real or unreal, affairs, truth, principle, method, concrete things, abstract ideas, etc. )。◯法は、実体を有し、それ自身の性質を帯びるものとして説明され( Dharma is described as that which has entity and bears its own attributes )、特性/特質/性質/要因等の意味に於いて、此の語は、一般に印度の学問的著述に於いて、認識可能な全般的体験の有らゆる詳細を述べることに使用されている( It is in the sense of attribute, quality, characteristic quality, factor, etc. that this term is commonly used in Indian scholastic works to fully detail the gamut of possible cognitive experiences )。◯阿毘曇学派の説一切有部等は、七十五法を列挙し、一方瑜伽唯識派では体験的世界の事象を百種の現象[百法]として分類する( Abhidharma schools such as Sarvâstivāda enumerated seventy-five dharmas 七十五法, while the Yogâcāra school categorized the events of the experiential world into one hundred types of phenomena 百法 )。唯識は、二乗[声聞/縁覚]の修行者に於いては、是れ等の法に於ける自性の欠如が、正しく認識されていないと主張している( Yogâcāras argued that the lack of inherent identity in these dharmas is not duly recognized by the practitioners of the two vehicles 二乘 )。◯六種の認識される対象[六塵]中に於いて、法は、思考的意識[意識]の対象としての概念に等しい( Among the six cognitive objects 六塵, dharmas are equivalent to 'concepts,' being the objects of the thinking consciousness 意識 )。[漢語としての]法には、その他にも慣習/習癖/標準的習性/社会的秩序等の意味を有する( Other meanings include: custom, habit, standard of behavior; social order )。
復次是戒略說則有八萬。廣說則無量。我當云何能具持此無量戒法。唯當忍辱眾戒自得。 復た次ぎに、是の戒は、略説すれば則ち八万有り、広説すれば則ち無量なり。我れは当に、云何が能く此の無量の戒法を具持すべき。唯だ当に忍辱ならば、衆戒は自ら得べし。
復た次ぎに、
是の、
『戒』は、
『略説すれば!』、
『八万』、
『有り!』、
『広説すれば!』、
『無量である!』。
わたしは、
何のようにして、
此の、
『無量の戒法』を、
『具足して!』、
『護持すればよいのか?』、
唯だ、
『忍辱すれば!』、
『衆戒』は、
『自ら得られるはずだ!』。
譬如有人得罪於王。王以罪人載之刀車。六邊利刃間不容間。奔逸馳走行不擇路。若能持身不為刀傷。是則殺而不死。持戒之人亦復如是。戒為利刀忍為持身。若忍心不固戒亦傷人。 譬えば、有る人、王に罪を得るに、王は、罪人を以って、之を刀車に載(の)するに、六辺の利刃、間に間を容れずして、奔逸し馳走して、行くに路を択ばざるが如きに、若し能く身を持てば、刀に傷つけられず、是れ則ち殺して死せざるなり。持戒の人も、亦復た是の如く、戒を利刀と為し、忍を身を持つと為す。若し忍心固からざれば、戒も亦た人を傷つく。
譬えば、こうである、――
有る人が、
『王』に、
『罪』を、
『受けた!』ので、
『王』は、
『此の人』を、
『刀車』に、
『載せた!』。
『刀車』は、
『六辺(前後左右上下)』に、
『利刃』が、
『植わっていて!』、
『隙間が無かった!』し、
『自由気ままに!』、
『走り回って!』、
『路を択ばなかった!』。
若し、
『身』を、
『持(たも)っていれば!』、
『刀』に、
『傷つけられない!』ので、
是れは、
『殺しても!』、
『死なないということである!』。
『持戒の人』も、
復た、是のように、――
『戒』は、
『利い!』、
『刀であり!』、
『忍』を、
『身』を、
『持つことだ!』とすれば、
若し、
『忍』の、
『心』が、
『堅固でなければ!』、
『戒』は、
『人』を、
『傷つけるだろう!』。
  間不容間(かんにかんをいれず):中間に空隙有るを允許せず。
  奔逸(ほんいつ):自由気ままにする。
  馳走(ちそう):疾く走る。
又復譬如老人夜行無杖則蹶。忍為戒杖扶人至道。福樂因緣不能動搖。如是種種。名為持戒生羼提波羅蜜。 又復た譬えば老人、夜行するに杖無ければ、則ち蹶(つまづ)くが如し。忍を戒杖の人を扶けて道を至らしむと為せば、福楽の因縁は、動揺する能わず。是の如き種種を名づけて、持戒は、羼提波羅蜜を生ずと為す。
又復た、
譬えば、
『老人』が、
『夜』、
『行く!』のに、
『杖』が、
『無ければ!』、
『躓くように!』、
『忍』を、
『戒』の、
『杖とすれば!』、
『杖』は、
『人』を、
『扶けて!』、
『道』を、
『行き!』、
『着かせる!』ので、
『福楽』の、
『因縁』では、
『動揺させることができない!』。
是のような、
種種は、
『持戒』が、
『羼提波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
云何持戒而生精進。持戒之人除去放逸。自力懃修習無上法。捨世間樂入於善道。志求涅槃以度一切。大心不懈以求佛為本。是為持戒能生精進。 云何が、持戒は、精進を生ずる。持戒の人は、放逸を除去して、自ら力(つと)めて懃修し、無上法を習い、世間の楽を捨てて、善道に入り、涅槃を志求して、以って一切を度し、大心もて懈(おこた)らず、仏を求むるを以って、本と為す、是れを持戒は、能く精進を生ずと為す。
何のように、
『持戒』は、
『精進』を、
『生じるのか?』、――
『持戒の人』は、
『放逸』を、
『除去し!』、
自ら、
『努力して!』、
『修行』に、
『精進し!』、
『無上』の、
『法』を、
『修習して!』、
『世間』の、
『楽』を、
『捨て!』、
『善』の、
『道』に、
『入り!』、
『涅槃』を、
『求めよう!』と、
『志して!』、
一切の、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思い!』、
『大心』を、
『起こして!』、
『怠けず!』、
『仏』を、
『求める!』ことを、
『本とする!』ならば、
是れは、
『持戒』が、
『精進』を、
『生じさせたのである!』。
  (りき):努力( effort )、体力( phisical strength )、力量( force, power )。
復次持戒之人疲厭世苦老病死患。心生精進必求自脫。亦以度人。 復た次ぎに、持戒の人は、世苦、老病死の患を疲厭して、心に精進を生じて、必ず自ら脱るることを求め、亦た以って人を度す。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『世間の苦』や、
『老病死の患』を、
『厭(いと)う!』ことに、
『疲れ!』、
『心』に、
『精進』を、
『生じて!』、
自ら、
『脱れる道』を、
『求めよう!』と、
『決心し!』、
亦た、
『人』を、
『脱れさせよう!』と、
『思う!』。
譬如野干在林樹間。依隨師子及諸虎豹。求其殘肉以自存活。有時空乏夜半踰城深入人舍。求肉不得屏處睡息不覺夜竟惶怖無計。走則慮不自免。住則懼畏死痛。便自定心詐死在地 譬えば、野干、林樹の間に在り、師子、及び諸の虎豹に依り隨いて、其の残肉を求め、以って自ら存活せしが如し。有る時、空乏すれば、夜半に城を踰え、深く人舎に入りて肉を求め、屏処を得ざるに、睡息して夜の竟るを覚えず、惶怖するも計る無く、走れば則ち自ら免れざるを慮り、住まれば則ち死の痛みを懼畏し、便ち自ら心を定め、死を詐りて、地に在り。
譬えば、
『野干()』が、
『林』の、
『樹の間』に、
『住み!』、
『師子』や、
『諸の虎豹』に、
『寄り添い!』、
『随従して!』、
其の、
『残肉』を、
『求めて!』、
自ら、
『生存し!』、
『活命していた!』。
有る時、
『空腹』で、
『畜え!』も、
『乏しかった!』ので、
『城』の、
『壁』を、
『踰えて!』、
深く、
『人家』に、
『入り!』、
『肉』を、
『求める!』と、
『屏処』を、
『得られないまま!』、
『休息し!』、
『睡眠して!』、
『覚めないまま!』、
『夜』が、
『明けた!』。
『野干』は、
『恐怖』で、
『立てるべき!』、
『策略』も、
『無く!』、
『走った!』としても、
『到底!』、
『脱れられないだろう!』と、
『慮り!』、
『住まった!』としても、
『死の痛み!』は、
『何れほどだろう?』と、
『畏れた!』。
そこで、
『心』を、
『定めて!』、
『死んだ振りをし!』、
『地に横たわった!』。
  野干(やかん):狐( fox, jackal )、梵語 悉伽羅 zRgaala の音訳、ジャッカル、若しくは狐に似た動物、夜鳴き叫ぶ( jackal, or an animal resembling a fox which cries in the night )。
  空乏(くうぼう):空腹乏少、腹がへり、畜えが乏しいこと。
  屏処(びょうしょ):秘密の場所( secret place )、梵語 gupta-pradeza の訳、身を隠すための屏風等で覆われた秘密の場所の意。
  睡息(すいそく):睡眠と休息。
  惶怖(おうふ):恐怖で不安になること。
  懼畏(くい):鬼神等を怯え畏れること。
眾人來見有一人言。我須野干耳即便截取。野干自念。截耳雖痛但令身在。 衆人来たりて見る。有る一人の言わく、『我れは、野干の耳を須(もと)む』と。即便ち截(き)り取る。野干の自ら念ずらく、『耳を截らるるは、痛しと雖も、但だ身をして在らしむ』。
『衆人』が、
『来て!』、
『野干』を、
『見た!』、――
有る、
『一人』は、こう言った、――
わたしには、
『野干』の、
『耳』が、
『必要だ!』、と。
そして、
すぐに、
『耳』を、
『切り取った!』。
『野干』は、
自ら、こう念じた、――
『耳』を、
『切り取られる!』のは、
『痛い!』が、
但だ、
『身』は、
『大丈夫だ!』、と。
次有一人言。我須野干尾便復截去。野干復念。截尾雖痛猶是小事。 次に、有る一人の言わく、『我れは、野干の尾を須む』、と。便ち復た截りて去る。野干の復た念ずらく、『尾を截らるるは、痛しと雖も、猶お是れ小事なり』、と。
次に、
有る、
『一人』は、こう言った、――
わたしには、
『野干』の、
『尾』が、
『必要だ!』、と。
そして、
『尾』までも、
『切り取って!』、
『去った!』。
『野干』は、
またもや、こう念じた、――
『尾』を、
『切り取られる!』のは、
『痛い!』が、
是れは、
まだ、
『小事だ!』、と。
次有一人言。我須野干牙。野干心念。取者轉多儻取我頭則無活路。即從地起奮其智力。絕踊間關徑得自濟。 次に有る一人の言わく、『我れは、野干の牙を須む』、と。野干の、心に念ずらく、『取る者は転(うた)た多く、儻(かりそめ)にも我が頭を取らば、則ち活路無し』、と。即ち地より起ちて、其の智力を奮い、間関を絶踊し、径(みち)に自ら済うを得たり。
次に、
有る、
『一人』は、こう言った、――
わたしには、
『野干』の、
『牙』が、
『必要だ!』、と。
『野干』は、
『心』に、こう念じた、――
『取る!』者が、
『どんどん!』、
『多くなる!』。
若し、
『頭』を、
『取られた!』ならば、
もう、
『活きる路』が、
『無い!』、と。
そこで、
『地』より、
『起つ!』と、
其の、
『智、力』を、
『奮い起こして!』、
『難関』を、
『踊り踰え!』、
自らを、
『済う!』、
『小道』を、
『得たのである!』。
  間関(けんかん):道が狭くて通りがたいさま。
  絶踊(ぜつゆう):踊り越える。絶は越過の意。
行者之心求脫苦難亦復如是。若老至時猶故自寬。不能慇懃決斷精進。 行者の心の、苦難を脱るるを求むるも、亦復た是の如し。若しは老の至る時ならんにも、猶お故(もと)のごとく、自ら寛(くつろ)ぎ、慇懃に、決断して、精進する能わず。
『行者の心』が、
『苦難』を、
『脱れよう!』と、
『求める!』のも、
亦た、
是の通りである、――
若し、
『老い!』の、
『至る!』、
『時であっても!』、
猶お、
『故(もと)のまま!』、
『自ら!』を、
『寛がせていて!』、
『熱心に!』、
『精進しよう!』と、
『決断することがない!』。
  慇懃(おんごん):熱心に( zealous )、◯梵語 adhimaatra, tiivra 等の訳、過度に( excessive )の義、熱心に/丁寧に( zealous, courteous )の意。◯梵語 punaH punaH の訳、繰り返された/もう一回、もう一回( Repeated, again and again )の義、熱心に( zealous )の意。
病亦如是。以有差期未能決計。死欲至時自知無冀。便能自勉果敢慇懃大修精進。從死地中畢至涅槃。 病も亦た是の如く、差(い)ゆる期有るを以って、未だ計を決する能わざるも、死の至らんと欲する時、自ら冀(ねがい)無きを知りて、便ち能く自ら、勉めて果敢に、慇懃に大いに精進を修め、死地中より、畢(つい)に涅槃に至る。
『病』も、
亦た、
是のように、
『治癒する!』時が、
『有る!』と、
『期待する!』ので、
未だ、
『計画』を、
『決断しない!』が、
『死』が、
『至ろうとする!』、
『時になれば!』、
自ら、
『冀(ねがい)』の、
『無い!』ことを、
『知り!』、
たやすく、
自ら、
『努力して!』、
『果敢になり!』、
『熱心になって!』、
『大いに!』、
『精進』を、
『修めることができ!』、
『死地』中より、
畢竟じて、
『涅槃』に、
『至る!』。
  果敢(かかん):勇敢に断固として( courageous and resolute )。
復次持戒之法。譬如人射。先得平地地平然後心安。心安然後挽滿。挽滿然後陷深。 復た次ぎに、持戒の法は、譬えば、人、射るに、先に地を平らぐるを得、地平らかにして、然る後に心安んじ、心安んじて然る後に、満に挽き、挽き満ちて然る後に、深きに陥(おちい)る。
復た次ぎに、
『持戒の法』は、
譬えば、こういうことである、――
『人』が、
『箭』を、
『射る!』のには、
先に、
『地』を、
『平らにし!』、
『地』が、
『平らになった!』、
後に、
『心』が、
『安らかになり!』、
『心』が、
『安らかになった!』、
後に、
『弓』を、
『満月』に、
『挽き!』、
『弓』が、
『満月になった!』、
後に、
『的』に、
『深く!』、
『的中させる!』。
戒為平地定意為弓。挽滿為精進箭為智慧。賊是無明。若能如是展力精進。必至大道以度眾生。 戒を地を平らぐと為し、定意を弓と為し、満に挽くを精進と為し、箭を智慧と為し、賊は是れ無明なり。若し能く是の如く、力を展(の)べて精進すれば、必ず大道に至りて、以って衆生を度す。
此の中、
『戒』とは、
『地』を、
『平らげることであり!』、
『定まった!』、
『意志』が、
『弓であり!』、
『満月』に、
『挽く!』ことが、
『精進であり!』、
『箭』が、
『智慧であり!』、
『賊』は、
『無明である!』。
若し、
是のように、
『力』を、
『展開させて!』、
『精進すれば!』、
必ず、
『大道』に、
『至る!』ので、
それで、
『衆生』を、
『脱れさせることができる!』。
復次持戒之人能以精進自制五情不受五欲。若心已去能攝令還。是為持戒能護諸根。護諸根則生禪定。生禪定則生智慧。生智慧得至佛道。是為持戒生毘梨耶波羅蜜。 復た次ぎに、持戒の人は、能く精進を以って、自ら五情を制し、五欲を受けず。若し心已に去らば、能く摂して還らしむれば、是れを持戒は、能く諸根を護ると為す。諸根を護れば、則ち禅定を生じ、禅定を生ずれば、則ち智慧を生じ、智慧を生ずれば、仏道を至るを得れば、是れを持戒は、毘梨耶波羅蜜を生ずと為す。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『精進して!』、
自ら、
『五情(眼耳鼻舌身)』を、
『抑制して!』、
『五欲(色声香味触)』を、
『感受させない!』ので、
若し、
『心』が、
『去ってしまった!』としても、
『捕えて!』、
『還らせることができる!』、
是れが、
『持戒』が、
『諸根』を、
『護るということである!』。
『諸根』を、
『護れば!』、
『禅定』を、
『生じ!』、
『禅定』を、
『生じれば!』、
『智慧』を、
『生じることになり!』、
『智慧』を、
『生じれば!』、
『仏の道』を、
『極められる!』ので、
是れは、
『持戒』が、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
云何持戒生禪。人有三業作諸善。若身口業善。意業自然入善。譬如曲草生於麻中不扶自直。持戒之力能羸諸結使。 云何が、持戒は、禅を生ずる。人には、三業の諸善を作す有り。若し身口の業善なれば、意業は自然に善に入る。譬えば、曲草の麻中に生ずれば、扶けずして、自ら直きが如く、持戒の力は、能く諸の結使を羸(つか)れしむ。
何のように、
『持戒』が、
『禅』を、
『生じるのか?』、――
『人』には、
諸の、
『善を作す!』、
『三業』が、
『有る!』が、
若し、
『身、口』の、
『業』が、
『善ならば!』、
『意』の、
『業』は、
自然に、
『善』に、
『入る!』。
譬えば、
『曲がった!』、
『草』が、
『麻』中に、
『生じれば!』、
『扶けなくても!』、
『自然に!』、
『真直ぐであるように!』、
『持戒』の、
『力』が、
諸の、
『結使』を、
『弱らせるのである!』。
云何能羸。若不持戒。瞋恚事來殺心即生。若欲事至婬心即成。若持戒者雖有微瞋不生殺心。雖有婬念婬事不成。是為持戒能令諸結使羸。 云何が能く羸れしむ。若し持戒せずんば、瞋恚の事来たりて、殺心即ち生じ、若し欲事至れば、婬心即ち成ず。若し持戒すれば、微瞋有りと雖も、殺心を生ぜず、婬念有りと雖も、婬事を成ぜず。是れを持戒は、能く諸の結使をして羸れしむと為す。
何のように、
『弱らせるのか?』、――
若し、
『持戒しなければ!』、
『瞋恚すべき!』、
『事』が、
『起って!』、
『殺』の、
『心』が、
『生じ!』、
若しは、
『婬』の、
『事』が、
『有れば!』、
『婬』の、
『心』が、
『生じる!』が、
若し、
『持戒していれば!』、
『微瞋』の、
『事』が、
『有っても!』、
『殺』の、
『心』を、
『生じず!』、
若しは、
『婬』の、
『念』が、
『生じても!』、
『婬』の、
『事』は、
『成らない!』。
是れは、
『持戒』が、
『諸の結使』を、
『弱らせたからである!』。
諸結使羸禪定易得。譬如老病失力死事易得。結使羸故禪定易得。 諸の結使羸るれば、禅定を得易し。譬えば老、病力を失わしむれば、死の事得易きが如く、結使羸るるが故に、禅定を得易し。
諸の、
『結使』が、
『弱れば!』、
『禅定』は、
『実現しやすくなる!』。
譬えば、
『老、病』が、
『力』を、
『失わせる!』ので、
『死』は、
『仕事』を、
『実現しやすい!』ように、
諸の、
『結使』が、
『弱まる!』が故に、
『禅定』を、
『実現しやすいのである!』。
復次人心未息常求逸樂。行者持戒棄捨世福心不放逸。是故易得禪定。 復た次ぎに、人心、未だ息まざれば、常に逸楽を求む。行者、持戒して世福を棄捨すれば、心放逸ならず、是の故に禅定を得易し。
復た次ぎに、
『人』の、
『心』は、
未だ、
『息まない!』うちは、
常に、
『逸楽』を、
『求めている!』。
『行者』は、
『持戒して!』、
『世間』の、
『福』を、
『棄捨すれば!』、
『心』が、
『放逸でなくなる!』ので、
是の故に、
『禅定』を、
『実現しやすい!』。
復次持戒之人得生人中。次生六欲天上。次至色界。若破色相生無色界。持戒清淨。斷諸結使得阿羅漢道。大心持戒愍念眾生是為菩薩。 復た次ぎに、持戒の人は、人中に生ずるを得、次に六欲天上に生じ、次に色界に至り、若し色相を破れば、無色界に生ず。持戒清浄にして、諸の結使を断ずれば、阿羅漢道を得、大心の持戒もて、衆生を愍念すれば、是れを菩薩と為す。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『人』中に、
『生まれることができ!』、
次いで、
『六欲天』上に、
『生まれ!』、
次いで、
『色界』に、
『至り!』、
若し、
『色相』を、
『破れば!』、
『無色界』に、
『生まれる!』。
『持戒』が、
『清浄』で、
『諸の結使』を、
『断滅すれば!』、
『阿羅漢道』を、
『成就し!』、
『大心』の、
『持戒』は、
『衆生』を、
『愍念する!』ので、
是れは、
『菩薩である!』。
復次戒為撿麤禪為攝細。 復た次ぎに、戒を、麁を撿(しら)ぶと為し、禅を、細を摂(おさ)むと為す。
復た次ぎに、
『戒』は、
『麁(身、口業)』を、
『取り締まり!』、
『禅』は、
『細(心業)』を、
『取り締まる!』。
復次戒攝身口。禪止亂心。如人上屋非梯不昇。不得戒梯禪亦不立。 復た次ぎに、戒は、身口を摂め、禅は乱心を止む。人の屋に上るに、梯に非ざれば、昇らざるが如く、戒の梯を得ざれば、禅も亦た立たず。
復た次ぎに、
『戒』は、
『身、口』を、
『摂(おさ)め!』、
『禅』は、
『乱心』を、
『止める!』。
譬えば、
『人』が、
『屋根』に、
『上る!』に、
『梯でなければ!』、
『昇れない!』ように、
『戒』という、
『梯』を、
『得られなければ!』、
『禅』も、
亦た、
『成立しない!』。
復次破戒之人。結使風強散亂其心。其心散亂則禪不可得。持戒之人。煩惱風軟心不大散。禪定易得。如是等種種因緣。是為持戒生禪波羅蜜。 復た次ぎに、破戒の人は、結使の風強く、其の心を散乱す。其の心散乱すれば、則ち禅を得べからず。持戒の人は、煩悩の風軟らかく、心大に散ぜざれば、禅定を得易し。是の如き等の種種の因縁は、是れを持戒は、禅波羅蜜を生ずと為す。
復た次ぎに、
『破戒の人』は、
『結使』の、
『風』が、
『強い!』ので、
其の、
『心』を、
『散乱する!』。
其の、
『心』が、
『散乱すれば!』、
則ち、
『禅定』を、
『実現できない!』が、
『持戒の人』は、
『煩悩』の、
『風』が、
『軟らかく!』、
『心』の、
『散乱』も、
『大きくない!』ので、
『禅定』が、
『実現しやすい!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』は、
是れは、
『持戒』が、
『禅波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
云何持戒能生智慧。持戒之人觀此戒相從何而有。知從眾罪而生。若無眾罪。則亦無戒。 云何が、持戒は、能く智慧を生ずる。持戒の人は、此の戒相の何によりてか、有るを観て、衆罪によりて生じ、若し衆罪無ければ、則ち亦た戒無きことを知る。
何のように、
『持戒』は、
『智慧』を、
『生じさせるのか?』、――
『持戒の人』は、
此の、
『戒の相』は、
何によって、
『有るのか?』を、
『観察して!』、
こう知る、――
『戒』は、
『衆罪』によって、
『生じる!』ので、
若し、
『衆罪』が、
『無ければ!』、
亦た、
『戒』も、
『無い!』、と。
戒相如是。從因緣有。何故生著。譬如蓮華出自污泥。色雖鮮好出處不淨。以是悟心不令生著。是為持戒生般若波羅蜜。 戒相は、是の如く、因縁によりて有り。何の故にか、著を生ずる。譬えば、蓮華は汚泥より出づれば、色鮮好なりと雖も、出処不浄なるが如し。是の悟心を以って、著を生ぜしめず。是れを持戒は、般若波羅蜜を生ずと為す。
『戒相』は、
是のように、
『因縁』によって、
『有る!』のに、
何故、
『著』を、
『生じるのか?』。
譬えば、
『蓮華』は、
『汚泥』より、
『出る!』ので、
『色』が、
『鮮やかで!』、
『好もしくても!』、
『出処』が、
『不浄である!』のと、
『同じである!』。
是のような、
『悟心』を、
『用いれば!』、
『著』を、
『生じさせない!』が、
是れは、
『持戒』が、
『般若波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
復次持戒之人心自思惟。若我以持戒貴而可取。破戒賤而可捨者。若有此心不應般若。以智慧籌量心不著戒無取無捨。是為持戒生般若波羅蜜。 復た次ぎに、持戒の人は、心に自ら思惟すらく、『若し我れ、以って持戒は、貴ければ取るべく、破戒は賎しければ、捨つべしとせば、若し、此れ有らば、心は般若に応ぜず。智慧を以って籌量せば、心は戒に著せず、取る無く、捨つる無し。是れを持戒は、般若波羅蜜を生ずと為す。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『心』に、
自ら、こう思惟する、――
もし、
わたしが、
こう思えば、――
『持戒』は、
『貴い!』ので、
『取るべきである!』が、
『破戒』は、
『賎しい!』ので、
『捨てるべきである!』、と。
若し、
わたしに、
此の、
『心』が、
『有れば!』、
わたしの、
『心』は、
『般若』に、
『相応していない!』。
是のような、
『智慧』を、
『用いて!』、
『籌量すれば!』、
『心』は、
『戒』に、
『著することなく!』、
『戒』を、
『取ることも!』、
『捨てることも!』、
『無い!』。
是れは、
『持戒』が、
『般若波羅蜜』を、
『生じたからである!』。
復次不持戒人雖有利智以營世務。種種欲求生業之事。慧根漸鈍。譬如利刀以割泥土遂成鈍器。 復た次ぎに、持戒せざる人は、利智有りと雖も、世務を営むを以って、種種に、生業の事を求めんと欲すれば、慧根漸く鈍なり。譬えば、利刀を以って、泥土を割れば、遂に鈍器に成るが如し。
復た次ぎに、
『持戒しない!』、
『人』は、
『利智』が有っても、
『世間』の、
『業務』を、
『営み!』、
種種に、
『生業の事』を、
『追求したい!』と、
『思う!』ので、
次第に、
『慧根』が、
『鈍くなる!』。
譬えば、
『利刀』でも、
『泥土』を、
『割()いていれば!』、
やがて、
『鈍器』と、
『成る!』のと、
『同じである!』。
若出家持戒不營世業。常觀諸法實相無相。先雖鈍根以漸轉利。如是等種種因緣。名為持戒生般若波羅蜜。如是名為尸羅波羅蜜生六波羅蜜。 若し出家して持戒し、世業を営まず、常に諸法の実相の無相なるを観ぜば、先に鈍根なりと雖も、以って漸く利に転ず。是の如き等の種種の因縁を名づけて、持戒は、般若波羅蜜を生ずと為す。是の如きを名づけて、尸羅波羅蜜は、六波羅蜜を生ずと為す。
若し、
『出家して!』、
『持戒し!』、
『世間』の、
『業務』を、
『営まずに!』、
常に、
『諸法の実相』が、
『無相である!』ことを、
『観察していれば!』、
先には、
『鈍根であっても!』、
次第に、
『利根』に、
『転じる!』。
是れ等の、
種種の、
『因縁』を、
『持戒』が、
『般若波羅蜜』を、
『生じた!』と、
『称し!』、
是れ等を、
『尸羅波羅蜜』が、
『六波羅蜜』を、
『生じる!』と、
『称するのである!』。



罪と不罪と不可得の故にとは?

復次菩薩持戒不以畏故。亦非愚癡非疑非惑。亦不自為涅槃故。持戒但為一切眾生故。為得佛道故。為得一切佛法故。如是相名為尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は、持戒して、以って畏れざるが故にして、亦た愚癡に非ず、疑に非ず、惑にも非ず、亦た自らの涅槃の為の故の持戒にあらず、但だ一切の衆生の為の故に、仏道を得んが為めの故に、一切の仏法を得んが為めの故なり。是の如き相を名づけて、尸羅波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『持戒』は、――
『持戒』を、
『用いて!』、
『畏れない!』が為の故の、
『持戒であり!』、
亦た、
『愚癡』や、
『疑惑』の為の故の、
『持戒ではない!』。
亦た、
自らの、
『涅槃』の為の故の、
『持戒でもなく!』、
但だ、
一切の、
『衆生』の為の故に、
『仏』の、
『道』を、
『得る!』為の故に、
一切の、
『仏の法』を、
『得る!』為の故の、
『持戒である!』が、
是のような、
『相』を、
『尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
復次若菩薩於罪不罪不可得故。是時名為尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、若し菩薩、罪と不罪とに於いて、不可得なるが故なれば、是の時を名づけて、尸羅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
『罪か?』、
『罪でないか?』に於いて、
『認識できない!』が為の故に、
『持戒する!』のであれば、
是の時の、
『持戒』を、
『尸羅波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰。若捨惡行善是為持戒。云何言罪不罪不可得。 問うて曰く、若し悪を捨て、善を行えば、是れを持戒と為す。云何が、『罪と不罪と不可得なり』、と言う。
問い、
若し、
『悪』を、
『捨てて!』、
『善』を、
『行えば!』、
是れが、
『持戒である!』。
何故、
こう言うのか?――
『罪か?』、
『罪でないか?』は、
『認識できない!』、と。
答曰。非謂邪見麤心言不可得也。若深入諸法相。行空三昧。慧眼觀故罪不可得。罪無故不罪亦不可得。 答えて曰く、邪見の麁心を謂いて、不可得と言うに非ず。若し諸法の相に深入して、空三昧を行じて、慧眼もて観れば、故に罪は不可得なり。罪無きが故に不罪も亦た不可得なり。
答え、
『邪見』の、
『粗悪な!』、
『心』で、
『認識できない!』ことを、
『念頭において!』、
『認識できない!』と、
『言うのではない!』。
若し、
諸の、
『法』の、
『相』に、
『深く入って!』、
『空三昧』を、
『行う!』、
『慧眼』を、
『用いて!』、
『観測すれば!』、
是の、
『慧眼』の故に、
『罪』は、
『認識できないのである!』が、
『認識できる!』、
『罪』が、
『無い!』が故に、
『罪でない!』ものも、
亦た、
『無いのである!』。
復次眾生不可得故。殺罪亦不可得。罪不可得故戒亦不可得。何以故。以有殺罪故則有戒。若無殺罪則亦無戒。 復た次ぎに、衆生は不可得なるが故に、殺罪も亦た不可得なり。罪は不可得なるが故に、戒も亦た不可得なり。何を以っての故に、殺罪有るが故に、則ち戒有ればなり。若し殺罪無ければ、則ち亦た戒も無し。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『認識できない!』が故に、
『殺す!』、
『罪』も、
『認識できない!』。
『罪』は、
『認識できない!』が故に、
亦た、
『戒』も、
『認識できない!』。
何故ならば、
『殺す!』という、
『罪』が、
『有る!』と、
『思う!』が故に、
則ち、
『戒』が、
『有るからである!』。
若し、
『殺す!』という、
『罪』が、
『無かった!』とすれば、
亦た、
『戒』も、
『無いはずである!』。
問曰。今眾生現有。云何言眾生不可得。 問うて曰く、今、衆生は現に有り。云何が、『衆生は不可得なり』と言う。
問い、
今、
『衆生』は、
『目前に!』、
『存在している!』。
何故、こう言うのですか?――
『衆生』は、
『認識できない!』、と。
  (げん):現れる/判然とする/顕れる( appear, manifest, become visible )。
答曰。肉眼所見是為非見。若以慧眼觀則不得眾生。如上檀中說。無施者無受者。無財物此亦如是。 答えて曰く、肉眼の所見は、是れ見に非ずと為せばなり。若し慧眼もて観れば、衆生を得ず。上の檀中に、『施者無く、受者無く、財物無し』、と説けるが如く、此れも亦た是の如し。
答え、
『肉眼』の、
『見る!』所は、
『見たことにならない!』。
若し、
『慧眼』を、
『用いて!』、
『見る!』ならば、
則ち、
『衆生である!』と、
『認識できないからである!』。
上の、
『檀』中には、こう説かれている、――
『施者』は、
『無い!』、
『受者』は、
『無い!』、
『財物』は、
『無い!』、と。
此れも、
亦た、
是の通りである。
復次若有眾生是五眾耶離五眾耶。 復た次ぎに、若し衆生有らば、是れは五衆なりや、五衆を離れたりや。
復た次ぎに、
若し、
『衆生』が、
『有った!』とすれば、
是れは、
『五衆だろうか?』、
亦たは、
『五衆』を、
『離れたものだろうか?』。
若是五眾五眾有五眾生為一。如是者五可為一一可為五。譬如市易物。直五匹以一匹取之則不可得。何以故。一不得作五故。以是故知五眾不得作一眾生。 若し是れ五衆ならば、五衆には五有り、衆生は一と為す。是の如きは、五を一と為すべしや、一を五と為すべしや。譬えば市に物を易(か)うるに、直(あたい)五匹なるに、一匹を以って、之を取れば、則ち得べからざるが如し。何を以っての故に、一は、五と作るを得ざるが故なり。是を以っての故に知る、『五衆は、一衆生と作るを得ず』、と。
若し、
是れが、
『五衆ならば!』、
『五衆』は、
『五つ!』、
『有る!』が、
『衆生』は、
『一つである!』。
是のような者は、
『五』を、
『一だ!』と、
『思い!』、
『一』は、
『五だ!』と、
『思うことになる!』。
譬えば、
『市場』で、
『物』を、
『交易する!』時、
『価値』が、
『五匹』の、
『物』を、
『一匹』で、
『取ろうとすれば!』、
『物』が、
『得られない!』のと、
『同じである!』。
何故ならば、
『一つ!』は、
『五つ!』に、
『作れないからである!』。
是の故に、
こう知ることになる、――
『五衆』は、
『一衆生』と、
『作れない!』、と。
  (じき):対する。当( confront )。価値( value, worth )。
  (ひき):布の長さの単位。四丈、約9.7m。
  参考:『中論巻1五陰品』:『如布似縷則不名布。縷多布一故。不得言因果相似。』
復次五眾生滅無常相眾生法從先世來至後世。受罪福於三界。若五眾是眾生。譬如草木自生自滅。如是則無罪縛亦無解脫。以是故知非五眾是眾生。 復た次ぎに、五衆は生滅にして常相無く、衆生の法は、先世より来たりて、後世に至り、罪福を三界に受く。若し五衆にして、是れ衆生なれば、譬えば草木の自ら生じ、自ら滅するが如し。是の如きは、則ち罪の縛無く、亦た解脱も無し。是を以っての故に知る、『五衆は、是れ衆生なるに非ず』、と。
復た次ぎに、
『五衆』は、
『生、滅する!』ので、
『常相』が、
『無い!』が、
『衆生(霊魂)』という、
『法』は、
『先世』より、
『来て!』、
『後世』に、
『至り!』、
『三界(五趣)』に、
『財、福』の、
『報』の、
『受ける!』。
若し、
『五衆()』が、
『衆生ならば!』、
譬えば、
『草木のように!』、
『因縁』が、
『無くても!』、
『自然に!』、
『生じたり!』、
『滅したりする!』ので、
是のような、
『衆生』は、
『罪』を、
『受けて!』、
『三界』に、
『縛されることもなく!』、
『解脱することもない!』。
是の故に、こう知る、――
『五衆』は、
『衆生ではない!』、と。
若離五眾有眾生。如先說神常遍中已破。 若し五衆を離れて、衆生有らば、先に『神常遍』中説いて、已に破せり。
若し、
『五衆』を、
『離れて!』、
『衆生』が、
『有れば!』、――
先に、
『神常遍』中に、
『説いて!』、
『破った通りである!』。
  参考:『大智度論巻12』:『復次是我實性決定不可得。若常相非常相自在相不自在相作相不作相色相非色相。如是等種種皆不可得。若有相則有法。無相則無法。我今無相則知無我。若我是常不應有殺罪。何以故身可殺非常故。我不可殺。常故。問曰。我雖常故不可殺。但殺身則有殺罪。答曰。若殺身有殺罪者。毘尼中言。自殺無殺罪。罪福從惱他益他生。非自供養身自殺身故有罪有福。以是故毘尼中言。自殺身無殺罪。有愚癡貪欲瞋恚之咎。若神常者不應死不應生。何以故汝等法神常。一切遍滿五道中。云何有死生。死名此處失。生名彼處出。以是故不得言神常。若神常者亦應不受苦樂。何以故苦來則憂樂至則喜。若為憂喜所變者則非常也。若常應如虛空雨不能濕熱不能乾。亦無今世後世。若神常者示不應有後世生今世死。若神常者則常有我見。不應得涅槃。若神常者則無起無滅。不應有妄失。以其無神識無常故。有忘有失。是故神非常也。如是等種種因緣可知神非常相。若神無常相者亦無罪無福。若身無常神亦無常。二事俱滅則墮斷滅邊。墮斷滅則無到後世受罪福者。若斷滅則得涅槃。不須斷結亦不用後世罪福因緣。如是等種種因緣可知神非無常。若神自在相作相者。則應隨所欲得皆得。今所欲更不得。非所欲更得。若神自在。亦不應有作惡行墮畜生惡道中。』
復次離五眾則我見心不生。若離五眾有眾生。是為墮常。若墮常者是則無生無死。何以故。生名先無今有。死名已生便滅。 復た次ぎに、五衆を離るれば、則ち我見の心生ぜず。若し五衆を離れて、衆生有らば、是れを常に堕すと為す。若し常に堕せば、是れ則ち無生無死なり。何を以っての故に、生を、先に無くして、今有りと名づけ、死を、已に生じて、便ち滅すと名づくればなり。
復た次ぎに、
『五衆』を、
『離れた!』とすれば、
則ち、
『我見』の、
『心』が、
『生じるはずがない!』。
若し、
『五衆』を、
『離れて!』、
『衆生』が、
『有れば!』、
是の、
『五衆』が、
『常見』に、
『堕ちるからである!』。
若し、
『常見』に、
『堕ちれば!』、
『生』も、
『死』も、
『無いはずである!』。
何故ならば、
こう説明されるからである、――
『生』とは、
先には、
『無かった!』ものが、
今は、
『有る!』
『死』とは、
已に、
『生じていた!』ものが、
順調に、
『滅した!』、と。
  我見(がけん):梵語 aatma- dRSTi 訳。五蘊和合の身の上に、実の我ありと計する謬見を云う。即ち、二十句薩迦耶見(梵語sat- kaayadarzana、身見)の中の初の五種なり。「大毘婆沙論巻8」に、「五は我見なり、謂わく等しく随って色はこれ我なり、受想行識はこれ我なり、と観ず」と云い、「常唯識論巻4」に、之を第七識相応の四根本煩悩の一とし「我見とは謂わく我執なり。非我の法に於いて妄計して我と為す、故に我見と名づく」と云えるこれなり。また「大乗起信論」には、之に人我見と法我見との二ありとし、総相主宰の実我ありと妄計するを人我見と云い、一切法に実の体性ありと妄計するを法我見となせり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「倶舎論巻19」、「同光記巻19」、「同宝疏巻19」、「常唯識論巻6」等に出づ。<(望)、また『大智度論巻5(上):注:我、我所』参照。
  常見(じょうけん):梵語 zaazvata- darzana の訳、または zaazvata- dRSTi の訳、常有を計するの意。また常邪見、或は常論とも名づく。断見に対す。即ち世間及び我の常有を執する辺邪の見を云う。「雑阿含経巻34」に、「仏、阿難に告ぐ、我れ若し答えて我ありと言わば、則ち彼の先来の邪見を増せん。若し答えて我なしと言わば、彼の先の癡惑、豈に更に癡惑を増して、先に我あるも今より断滅すと言わざらんや。若し先来より我あらば則ちこれ常見なり、今に於いて断滅せば則ちこれ断見なり。如来は二辺を離れて処中に説法す」と云い、「大毘婆沙論巻49」に、「若し正慧を以って如実に世間の滅を知見せば執して有と為さず。有と為すは即ちこれ常見なり」と云い、「倶舎論巻30」に、「阿毘達磨の諸論師言わく、我の有無を執するは倶に辺見の摂なり、次の如く常断の辺に堕在するが故なりと。彼の師の所説深く理に応ずと為す、我ありと執せば則ち常の辺に堕し、若し我なしと執せば便ち断の辺に堕するを以ってなり」と云えるこれなり。これ世間及び我の常有を執するを常見と名づけたるなり。蓋し常見はその計頗る広く、即ち過去又は未来の我及び世間を計して常となし、その中亦た前際を計して一切常、或は一分常なりとし、後際を計して有想或は無想等となすの別あり。「瑜伽師地論巻6」に、「計常論とは、謂わく一の若しは沙門、若しは婆羅門あり、かくの如きの見を起し、かくの如きの論を立つるが如し。我及び世間は皆実に常住して作非作に非ず、化所化に非ず、損害すべからず、積聚して住すること伊師迦の如し。謂わく前際を計して一切常と説く者、一分常と説く者、及び後際を計して有想と説く者、無想と説く者、非想非非想と説く者なり。復た諸の極微はこれ常住なりと説く者あり。(中略)この中、前際を計すとは、謂わく或は下中上の静慮に依りて宿住随念を起し、縁起に善からざるが故に、過去の諸行に於いて但だ唯憶念して如実に知らず、過去世を計して以って前際と為して常見を発起し、或は天眼に依りて現在世を化して以って前際となし、諸行の刹那生滅流転に於いて如実に知らず、又諸識の流転相続に於いて、この世間より彼の世間に至りて断滅なきが故に常見を発起し、或は梵王の意に随って成立するを見、或は四大種の変異を見、或は諸識の変異を見るなり。後際を計すとは、想及び受に於いて差別を見ると雖も、然も自相の差別を見ず、この故に常見を発起し、我及び世間は皆悉く常住なりと謂えり。又極微はこれ常住なり、と計すとは、世間の静慮に依りてかくの如きの見を起し、如実に縁起を知らざるに由るが故に、而も有を先と為して果集起することあり、離散を先と為して果壊滅することありと計す。此の因縁に由りて彼の衆微の性より麁物の果生ず。漸に麁物を析するも、乃ち微に至りて住す、この故に麁物は無常にして極微はこれ常なりと」と云えり。これ六十二見に就き、十八種を前際分別見、余の四十四種を後際分別見とし、而して前際分別見の中、四遍常論、及び四一分常論の八種、後際分別見の中、十六有想論、八無想論、八非想非非想論の三十二種、及び極微常住論を以って総じて計常論となせるものなり。此の中、初に四遍常論とは、前の三は外道が下中上三品の静慮に依りて、順次に過去の二万劫四万劫六万劫の成壊劫の事を憶念し、以って常見を発起するを云い、後の一は天眼を以って有情の諸識流転して此に死し彼に生ずるを見、如実に諸行の刹那生滅を知らざるが故に常見を発起するを云う。此の四は総じて過去前際の一切に於いて常見を発起するが故に遍常論と名づくるなり。次ぎに四一分常論の中、第一は外道が宿住通を得て前の来処を観じ、諸趣は皆梵天の意に由りて化する所なりとし、今此の間に来生し無常を見ると雖も、梵王は即ち初後を見ざるが故に常住なりと執するを云い、第二は色滅して心存し、或は心滅して色存すとなし、色又は心の一を常住なりと計するを云い、第三第四は順次に戯忘天及び意憶恚天より此の間に来生すとし、宿住通に依り、過去を観じて先処を常住なりと計するを云う。此の四は前後生、或は色心の一半に於いて常見を発起するが故に一分常論と名づくるなり。次ぎに後際を計する常見の中、十六有想論とは之に四の四句あり、初の四句とは我有色死後有想論、我無色死後有想論、我亦有色亦無色死後有想論、我非有色非無色死後有想論なり。就中、一に我有色死後有想論とは色を執して我となし、死後有想にして、唯無想天を除きて余の欲界及び色界に在りとなすを云い、二に我無色死後有想論とは、無色蘊を執して我となし、死後有想にして唯無想天を除きて余の欲界乃至無所有処に在りとなすを云い、三に我亦有色亦無色死後有想論とは、総じて五蘊を執して我となし、死後有想にして欲界の全分に在りとなすを云い、我非有色非無色死後有想論とは、前の第三の色心を総じて我なりとなすを非し、倶非の我を立てて其の常住を計するを云う。これ命者は身に即し、或は身に異に、或は総じてこれ我なりと計するに依りて此の四の別を生ずるなり。第二の四句とは我有辺死後有想論、我無辺死後有想論、我亦有辺亦無辺死後有想論、我非有辺非無辺死後有想論なり。就中、一に我有辺死後有想論とは、色或は非色を執して我となし、而も我体に分限あり、また其の所依と所縁とに分限ありとなすが故に之を有辺と名づけ、死後亦有想にして、無想天を除きて余の欲界及び全色界に在りとなすを云い、二に我無辺死後有想論とは、色或は非色を執して我となし、共に一切処に遍じ、無辺にして死後想あり、全欲界に在りて其の所応に随うとなすを云い、三に我亦有辺亦無辺死後無想論とは、色を執して我となす者は、我の量は所依の身の巻舒に随って有辺と無辺とあり、非色を執して我となす者は、有量と無量の所依及び所縁に随って我に有辺と無辺とあり、死後有想にして全欲界に在りて其の所応に随うとなすを云い、四に我非有辺非無辺死後有想論とは、前の第三を非し死後有想地に生ずとなすを云う。第三の四句とは我有一想、我有種種想、我有小想、我有無量想なり。就中、一に我有一想とは、我は下三無色に在る時、彼の諸想は唯意門に依りて転ずるが故に我は唯一想ありとなすを云い、二に我有種種想とは、我は欲色界に在る時、彼の諸想は六根門に依りて転じ、種種の境を縁ずるが故に我に種種想ありとなすを云い、三に我有小想とは、或は小色、或は小無色(受、想、行識の随一)を執して我となし、小身に依りて小境を縁ずるが故に我を狭少とす。就中、小色を我となす者は、無想天を除きて欲界及び色界に在り、小無色を我となす者は、無想天を除きて欲界乃至無所有処に在りとなすを云い、四に我有無量想とは、之に無量の色を執して我となし、或は無量の受想行識の無色蘊を執して我となすあり。就中、色を執して我となす者は、我は一切処に遍じて想を我所とし、無量の身に依りて無量の境を縁じ、彼と合するが故に無量の想ありとなし、無想天を除きて欲界及び色界に在り。無量の無色を執して我となす者は、無想天を除きて欲界乃至無所有処に在りとなすを云う。第四の四句とは我純有楽、我純有苦、我有苦有楽、我無苦無楽なり。就中、第一句は下三静慮、第二句は地獄、第三句は鬼畜人及び欲界天、第四句は第四静慮以上の我の受相にして、此世他世共に然りとし、而も苦等の受は客にして、我体は不明了にして転じ、死後有想なりとなすを云う。総じて諸法の想を取るが故に皆有想と名づくるなり。次ぎに八無想論とは有色等の四と有辺等の四を云う。有色等の四とは、我有色死後無想、我無色死後無想、我亦有色亦無色死後無想、我非有色非無色死後無想なり。順次に色と命根と色及び命根と並びに倶非とを以って我なりと執し、共に死後無想天に生ずとなすを云う。有辺等の四とは、我有辺死後無想、我無辺死後無想、我亦有辺亦無辺死後無想、我非有辺非無辺死後無想なり。就中、色又は無色等を執して我となし、我の量狭少なりとなすを有辺と名づけ、色又は無色等を執して我となし、一切処に遍ずとなすを無辺と名づけ、共に死後無想天に生ずべしとなすを云う。次ぎに八種の非有想非無想論とは、之に亦有色等の四と有辺等の四とあり。就中、有色等の四とは、我有色死後非有想非無想、我無色死後非有想非無想、我亦有色亦無色死後非有想非無想、我非有色非無色死後非有想非無想なり。即ち無所有処の染を離れたる者、非想非非想処の無色の諸蘊を執して我となし、或は我は色と和合するが故に我は有色なりと執し、其の所入の定想明了ならざるが故に、我は現在に於いて非有想非無想なるが如く、死後も亦た爾るべしと執するを云う。有辺等の四とは、我有辺死後非有想非無想、我無辺死後非有想非無想、我亦有辺亦無辺死後非有想非無想、我非有辺非無辺死後非有想非無想なり。非想非非想処定を得る者、無色蘊を執して我となし、定時の短促にして一の蘊を縁ずるを有辺と名づけ、定時長延にして総じて四蘊を以って所縁となすを無辺と名づけ、所入の定想明了ならざるが故に、我は現在に於いて非有想非無想なるが如く、死後も亦た爾るべしとなすを云うなり。総じて六十二見の中、二の無因生論及び七種の断滅論を除き、余は多く常見の摂なるを見るべし。また諸経論中、これ等の常見を対治するに空観を用うべきことを明せるもの甚だ多し。「大智度論巻47」に、「若し人、此の空を習わざれば必ず二辺に堕す、若しは常、若し滅なり」と云い、「成実論巻10辺見品」に、「此の見は云何が断ぜん。答えて曰わく、正に空を修習すれば則ち我見なし、我見なきが故に則ち二辺なし」と云える即ち其の意なり。また「雑阿含経巻5」、「長阿含巻14梵動経」、「大般涅槃経巻27」、「大乗入楞伽経巻4」、「大毘婆沙論巻77、巻199、巻200」、「大智度論巻26」、「中論巻1観因縁品、巻3観有無品」、「百論巻下因中有果品」、「般若灯論釈巻9」、「成実論巻10辺見品」、「瑜伽師地論巻58、巻87」、「顕揚聖教論巻6」、「大乗義章巻6」、「三論玄義巻上」等に出づ。<(望)
若眾生常者。應遍滿五道中。先已常有云何今復來生。若不有生則無有死。 若し、衆生にして常ならば、応に五道中に遍満すべし。先に已に常に有らば、云何が今、復た来たりて生ずる。若し生有らざれば、則ち死有ること無し。
若し、
『衆生』が、
『常ならば!』、
『五道』中に、
『遍満していなければならない!』。
先に、
已に、
『常に!』、
『有る!』のに、
何故、
今ごろ、
『来て!』、
『生まれるのか?』。
若し、
『衆生』が、
『生』を、
『有しない!』とすれば、
則ち、
『死』も、
『無いことになる!』。
問曰。定有眾生。何以故言無。五眾因緣有眾生法。譬如五指因緣拳法生。 問うて曰く、定んで衆生有り。何を以っての故に、『無し』と言う。五衆の因縁に、衆生の法有り。譬えば五指の因縁に、拳の法生ずるが如し。
問い、
絶対に、
『衆生』は、
『有る!』のに、
何故、
こう言うのか?――
『無い!』、と。
『五衆』の、
『因縁』で、
『衆生』という、
『法』が、
『有るのだ!』。
譬えば、
『五指』の、
『因縁』で、
『拳』という、
『法が有る!』のと、
『同じだ!』。
答曰。此言非也。若五眾因緣有眾生法者。除五眾則別有眾生法然不可得。眼自見色耳自聞聲鼻嗅香舌知味身知觸意知法空無我法。離此六事更無眾生。 答えて曰く、此の言は非なり。若し五衆の因縁に、衆生の法有らば、五衆を除きて、則ち別に衆生の法有り、然るに得べからず。眼自ら色を見、耳自ら声を聞き、鼻は香を嗅ぎ、舌は味を知り、身は触を知り、意は法を知らば、空しく我法無けん。此の六事を離れて、更に衆生無し。
答え、
此の、
『言葉』は、
『間違っている!』、――
若し、
『五衆』の、
『因縁』に、
『衆生』という、
『法』が、
『有る!』とすれば、
『五衆』を、
『除いても!』、
『別に!』、
『衆生』という、
『法』が、
『有るはずだ!』が、
然し、
是のような、
『法』は、
『認識できない!』。
若し、
『衆生』の、
『眼』が、
自ら、
『色』を、
『見て!』、
『耳』が、
自ら、
『声』を、
『聞き!』、
『鼻』が、
『香』を、
『嗅ぎ!』、
『舌』が、
『味』を、
『知り!』、
『身』が、
『触』を、
『知り!』、
『意』が、
『法』を、
『知る!』ならば、
『衆生』は、
『空しく!』、
『我』という、
『法』が、
『無い!』。
此の、
『六事』を、
『離れれば!』、
更に、
『衆生』は、
『無いのである!』。
諸外道輩倒見故。言眼能見色是為眾生。乃至意能知法是為眾生。又能憶念能受苦樂是為眾生。但作是見不知眾生實。 諸の外道の輩は、倒見するが故に、『眼の能く色を見る、是れを衆生と為す。乃至意の能く法を知る、是れを衆生と為す。又能く憶念し、能く苦楽を受く、是れを衆生と為す』、と言えるは、但だ是の見を作すも、衆生の実を知らず。
諸の、
『外道の輩』は、
『倒見する!』が故に、
こう言っているが、――
『眼』は、
『色』を、
『見ることができる!』が、
是れが、
『衆生である!』、
乃至、
『意』は、
『法』を、
『知ることができる!』が、
是れが、
『衆生である!』とか、
又、
『憶念することができ!』、
『苦楽』を、
『受ける!』者、
是れが、
『衆生である!』、と。
但だ、
是のような、
『見』を、
『作している!』だけで、
『衆生』というものの、
『実』を、
『知らない!』。
譬如一長老大德比丘。人謂是阿羅漢多致供養。其後病死。諸弟子懼失供養故。夜盜出之。於其臥處安施被枕。令如師在其狀如臥。 譬えば、一長老大徳比丘の如し、人は、『是れ阿羅漢なり』と謂いて、多く供養を致す。其の後病に死するに、諸の弟子、供養を失うを懼(おそ)れて、夜、之を盜(ひそ)かに出し、其の臥処に於いて、被枕を安施し、師の在(いま)すが如くならしむれば、其の状(さま)臥するが如し。
譬えば、
一(ある)、
『長老』の、
『大徳比丘』であるが、――
『人』は、
多くが、
『是れは阿羅漢である!』と謂って、
『供養』を、
『送致していた!』ので、
その後、
『比丘』が、
『病死する!』と、
諸の、
『弟子たち』は、
『供養』を、
『失う!』ことを、
『懼(おそ)れる!』が故に、
夜分窃(ひそ)かに、
『師』を、
『室』より、
『出して!』、
『捨ててくる!』と、
其の、
『臥処』に、
『蒲団』と、
『枕』とを、
『静かに!』、
『被せて!』、
『師』が、
『居られる!』ように、
『似せた!』ので、
其の、
『形状』は、
『師』が、
『臥せている!』ように、
『見えた!』。
  (ち):配る/施す/送る( deliver, extend, send )、招引する( incur, result in, cause )、求取/獲得する( gain, get )、表す( express )、奉献する( sacrifice )、到達する( arrive, reach )、極致( very )等の義。
  (く):恐れる/怯える( fear, be afraid of, dread )。
  (とう):盗む/奪う( steal, rob )、こっそりと/暗暗に( in secret )。
人來問疾師在何許。諸弟子言。汝不見床上被枕耶。愚者不審察之。謂師病臥大送供養而去。如是非一。 人の来たりて疾を問わく、『師は何許(いづく)に在すや』、と。諸の弟子の言わく、『汝、床上の被枕を見ずや』、と。愚者は、之を審察せずして、『師は病に臥す』と謂い、大いに供養を送りて、去る。是の如きこと一に非ず。
『人』が、
『来て!』、
『疾(やまい)』を、こう問うた、――
『師』は、
何処に、
『居られますか?』と。
諸の、
『弟子』は、こう言った、――
あなたには、
『床の上』の、
『蒲団』や、
『枕』が、
『見えないのですか?』、と。
『愚者』は、
之を、
『審(つまび)らかに!』、
『観察することもなく!』、
こう謂って、――
『師』は、
『病んで!』、
『臥せっていられますね!』、と。
大いに、
『供養』を、
『送り!』、
『帰っていった!』が、
是のような、
『事』は、
『一度だけではなかった!』。
復有智人來而問之。諸弟子亦如是答。智人言。我不問被枕床褥。我自求人發被求之竟無人可得。 復た有る智人、来たりて之を問うに、諸の弟子も亦た、是の如く答う。智人の言わく、『我れは、被枕、床褥を問わず。我れ自ら人を求めん』、と。被を発(ひら)きて之を求むるに、竟(つい)に人の得べき無し。
復た、
有る、
『智人』が、
『来て!』、
『疾』を、
『問う!』と、
諸の、
『弟子』も、
同じように、
『答えた!』。
『智人』は、
こう言った、――
わたしが、
『問うた!』のは、
『蒲団』や、
『枕』や、
『床』や、
『座布団ではない!』、
わたし、
自らが、
『人』を、
『探そう!』、と。
そして、
『蒲団』を、
『撥ねのけた!』が、
竟(つい)に、
『人』として、
『認識できる!』ものは、
『無かった!』。
除六事相更無我人。知者見者亦復如是。 六事の相を除きて、更に我、人、知者、見者無きことも、亦復た是の如し。
『六事(色、声、香、味、触、法)』の、
『相』を、
『除けば!』、
更に、
『我』も、
『人』も、
『知者』も、
『見者』も、
『無い!』ということも、
亦た、
まったく、
『是の通りである!』。
復次若眾生於五眾因緣有者。五眾無常眾生亦應無常。何以故。因果相似故。若眾生無常則不至後世。 復た次ぎに、若し衆生にして、五衆の因縁に於いて有らば、五衆は無常なれば、衆生も亦た応に無常なるべし。何を以っての故に、因果は相似するが故なり。若し衆生にして無常なれば、則ち後世に至らず。
復た次ぎに、
若し、
『衆生』が、
『五衆』の、
『因縁』によって、
『有る!』とすれば、
則ち、
『五衆』は、
『無常である!』ので、
当然、
『衆生』も、
『無常のはずである!』。
何故ならば、
『因』と、
『果』とは、
『相似する!』が故に、
若し、
『衆生』が、
『無常ならば!』、
則ち、
『後世』には、
『至らないことになる!』。
復次若如汝言。眾生從本已來常有。若爾者眾生應生五眾。五眾不應生眾生。今五眾因緣生眾生名字。無智之人逐名求實。以是故眾生實無。若無眾生亦無殺罪。無殺罪故亦無持戒。 復た次ぎに、若し汝の言うが如く、衆生は、本より已来、常に有らば、若し爾らば、衆生は、応に五衆を生ずべく、五衆は、衆生を生ずべからず。今、五衆の因縁、衆生の名字を生ずるに、無智の人は、名を逐うて、実を求む。是を以っての故に、衆生は実に無し。若し衆生無くんば、亦た殺罪も無し。殺罪無きが故に、亦た持戒も無し。
復た次ぎに、
若し、
お前の、
『言うように!』、――
『衆生』が、
本より
『常に!』、
『有った!』とすれば、
若し、
そうならば、
『衆生』が、
『五衆』を、
『生じなくてはならず!』、
『五衆』は、
『衆生』を、
『生じるはずがない!』。
今、
『五衆』の、
『因縁』が、
『衆生』という、
『名字』を、
『生じる!』と、
『無智の人』が、
『名字』を、
『逐って!』、
『実』を、
『求めるだけだ!』。
是の故に、
『衆生』は、
『実に!』、
『無い!』。
若し、
『衆生』が、
『無ければ!』、
『殺す!』という、
『罪』も、
『無く!』、
『殺す!』という、
『罪』が、
『無ければ!』、
『持戒』も、
『無い!』。
復次是五眾深入觀之。分別知空如夢所見如鏡中像。若殺夢中所見及鏡中像無有殺罪。殺五陰空相眾生亦復如是。 復た次ぎに、是の五衆に深く入りて、之を観れば、分別して、空にして夢に見る所の如く、鏡中の像の如しと知る。若し夢中に見る所、及び鏡中の像を殺せば、殺罪有ること無く、五陰の空相を殺す。衆生も亦復た是の如し。
復た次ぎに、
是の、
『五衆』に、
『深く入って!』、
『観察し!』、
『分別して!』、
こう知る、――
『空であり!』、
『夢』中に、
『見るもののようだ!』、
『鏡』中の、
『像のようだ!』と。
若し、
『夢』中に、
『見るもの!』や、
『鏡』中の、
『像のような!』ものを、
『殺した!』としても、
『殺した!』という、
『罪』は、
『無く!』、
『五陰(五衆)』という、
『空相』を、
『殺したにすぎない!』。
『衆生』を、
『殺す!』ことも、
亦た、
まったく、
『是の通りである!』。
復次若人不樂罪貪著無罪。是人見破戒罪人則輕慢。見持戒善人則愛敬。如是持戒則是起罪因緣。以是故言於罪不罪不可得故。應具足尸羅波羅蜜 復た次ぎに、若し人、罪を楽しまずとも、罪無きことに貪著すれば、是の人は、破戒の罪人を見れば、則ち軽慢し、持戒の善人を見れば、則ち愛敬す。是の如き持戒は、則ち是れ罪の因縁を起こす。是を以っての故に言わく、『罪と不罪と不可得なるが故に、応に尸羅波羅蜜を具足すべし』、と。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『罪』を、
『楽しまなくても!』、
『罪』の、
『無い!』ことに、
『貪著すれば!』、
是の、
『人』は、
『破戒の罪人』を、
『見れば!』、
『軽んじて!』、
『慢(あなど)り!』、
『持戒の善人』を、
『見れば!』、
『愛して!』、
『敬うだろう!』。
是のような、
『持戒』は、
則ち、
『罪』の、
『因縁』を、
『起こすものである!』。
是の故に、
こう言う、――
『罪であるか?』、
『罪でないか?』は、
『認識できない!』が故に、
当然、
『尸羅波羅蜜』を、
『具足しなければならない!』、と。


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