巻第十三(下)
大智度論釋初品中戒相義第二十二之一
1.妄語、不妄語の相
2.飲酒、不飲酒の相
3.優婆塞戒
4.八戒斎の受戒法
5.五戒の受戒法
6.六斎日
7.五戒と一日戒との比較
大智度論釋初品中讚尸羅波羅蜜義第二十三
1.出家
2.出家の律儀
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大智度論釋初品中戒相義第二十二之一
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


妄語、不妄語の相

妄語者。不淨心欲誑他。覆隱實出異語生口業。是名妄語。 妄語とは、不浄心もて、他を誑さんと欲し、実を覆隠して、異語を出し、口業を生ず、是れを妄語と名づく。
『妄語』とは、――
『不浄の心』で、
『他』を、
『誑(たぶらか)そう!』と、
『思い!』、
『実』を、
『覆(おお)い!』、
『隠(かく)して!』、
『虚偽の!』、
『語(ことば)』を、
『出し!』、
『口』の、
『業』を、
『生じる!』、
是れを、
『妄語』と、
『呼ぶのである!』。
  妄語(もうご):虚偽の発言( false speech )、梵語 mRSaa- vaada, mRSaa- vaac の訳、嘘を吐く/人を欺す/真実を曲げること( Lying, deceiving, distorting the truth )の義。十悪の一。五戒の一。虚偽の発言とは広義には、但だ嘘を吐くことのみにあらず、不正確な/誇張した/潤色した発言等を含む( False speech in the broader sense of not only lying, but any speech that is incorrect, exaggerating, embellishing, etc )。又虚妄語、虚誑語、妄舌、虚偽、欺誑とも訳す。最も広く分類すれば、大妄語、小妄語に別けられる( Most broadly categorized into big lies and trivial lies )。梵網経に於いては、嘘を吐く行為を、自らの口を通して語られた嘘 [自妄語] と、人に教えて嘘を吐かせること [教人妄語] 、手段として嘘を吐くこと [方便妄語] とに分類する( In the Sutra of Brahmā's Net, the act of lying is also differentiated into lies spoken through one's own mouth, influencing someone else to lie, and lying by deception )。
  異語(いご):不正確な発言( inaccurate speech )、梵語 anyathaa- vaac, anya- vaada の訳、間違った/虚偽の発言( Erroneous, false, untrue speech )の義。
妄語之罪從言聲相解生。若不相解雖不實語。無妄語罪。是妄語。知言不知不知言知。見言不見不見言見。聞言不聞不聞言聞。是名妄語。若不作是名不妄語。 妄語の罪は、言声を、相解するに従いて生ず。若し相解せざれば、実語ならずと雖も、妄語の罪無し。是の妄語は、知るを知らずと言い、知らざるを知ると言い、見るを見ずと言い、見ざるを見ると言い、聞くを聞かずと言い、聞かざるを聞くと言う、是れを妄語と名づく。若し作さざれば、是れを妄語にあらずと名づく。
『妄語』の、
『罪』は、
『言声』を、
『理解して!』、
『生じる!』ので、
若し、
『言声』を、
『理解しなければ!』、
『実語でなくても!』、
『妄語の罪』は、
『無い!』。
是の、
『妄語』とは、――
『知る!』のに、
『知らない!』と、
『言い!』、
『知らない!』のに、
『知る!』と、
『言い!』、
『見た!』のに、
『見ない!』と、
『言い!』、
『見ない!』のに、
『見た!』と、
『言い!』、
『聞いた!』のに、
『聞かない!』と、
『言い!』、
『聞かない!』のに、
『聞いた!』と、
『言う!』ならば、
是れを、
『妄語』と、
『称し!』、
若し、
『言わなければ!』、
『妄語でない!』と、
『称する!』。
問曰。妄語有何等罪。 問うて曰く、妄語には、何等の罪か有る。
問い、
『妄語』には、
何のような、
『罪』が、
『有るのですか?』。
答曰。妄語之人。先自誑身然後誑人。以實為虛以虛為實。虛實顛倒不受善法。譬如覆瓶水不得入。 答えて曰く、妄語の人は、先に自ら身を誑き、然る後に人を誑き、実を以って虚と為し、虚を以って実と為し、虚実顛倒して、善法を受けず。譬えば、瓶を覆えば、水の入るを得ざるが如し。
答え、
『妄語の人』は、
『先に!』、
『自身』を、
『誑(あざむ)き!』、
『後に!』、
『他人』を、
『誑く!』。
即ち、
『実である!』のに、
『嘘だ!』と、
『思い!』、
『嘘である!』のに、
『実だ!』と、
『思い!』、
『嘘』と、
『実』とを、
『顛倒する!』ので、
『善法』を、
『受けない!』。
譬えば、
『瓶』の、
『口』を、
『覆って!』、
『水』を、
『入れなくする!』のと、
『同じである!』。
妄語之人心無慚愧。閉塞天道涅槃之門。觀知此罪。是故不作。 妄語の人は、心に慚愧無く、天の道と、涅槃の門を閉塞す。此の罪を観知するものは、是の故に作さざるなり。
『妄語の人』は、
『心』に、
『慚愧する!』ことが、
『無い!』ので、
『天の道』も、
『涅槃の門』も、
『閉ざして!』、
『塞ぐ!』。
此の、
『罪』を、
『観て!』、
『知る!』者は、
是の故に、
『妄語』を、
『作さないのである!』。
復次觀知實語其利甚廣。實語之利自從己出甚為易得。是為一切出家人力。如是功德居家出家人共有此利。善人之相。 復た次ぎに、実語を観知するに、其の利は甚だ広く、実語の利は、自ら己より出でて、甚だ得易ければ、是れ一切の出家人の力と為す。是の如き功徳は、居家、出家の人共に此の利有れば、善人の相なり。
復た次ぎに、
『実語』を、
『観て!』、
『知れば!』、
其の、
『利』は、
『甚だ広い!』が、
『実語』の、
『利』は、
『自ら!』、
『己(おのれ)』より、
『出る!』ので、
『得る!』ことも、
『易(やさ)しく!』、
是れは、
一切の、
『出家人』の、
『力』と、
『為るものである!』。
是のような、
『功徳』は、
『居家の人』にも、
『出家の人』にも、
此の、
『利』が、
『共に!』、
『有る!』ので、
『実語』とは、
『善人』の、
『相でもある!』。
復次實語之人其心端直。其心端直易得免苦。譬如稠林曳木直者易出。 復た次ぎに、実語の人は、其の心端直にして、其の心端直なれば、苦を免るるを得ること易し。譬えば稠林より、木を曳くに、直き者は出で易きが如し。
復た次ぎに、
『実語の人』は、
其の、
『心』が、
『真直ぐ!』であり、
其の、
『心』が、
『真直ぐ!』ならば、
『苦』を、
『免れる!』ことも、
『容易である!』。
譬えば、こうである、――
『樹木』の、
『多い!』、
『林から!』、
『木』を、
『曳き!』、
『出す!』のは、
『真直ぐ!』な、
『木ほど!』、
『容易なのである!』。
  端直(たんじき):まっすぐ。正直。
  稠林(ちゅうりん):樹木の多い林。密林。
問曰。若妄語有如是罪。人何以故妄語。 問うて曰く、若し、妄語に、是の如きの罪有らば、人は、何を以っての故にか、妄語する。
問い、
若し、
『妄語』に、
是のような、
『罪』が、
『有る!』とするならば、
『人』は、
何故、
『妄語するのですか?』。
答曰。有人愚癡少智。遭事苦厄妄語求脫不知事發。今世得罪不知後世有大罪報。 答えて曰く、有る人は、愚癡、少智なるに、事、苦、厄に遭い、妄語して脱れんと求むるも、事発(あば)かれて、今世に罪を得るを知らず、後世に大罪報有るを知らず。
答え、
有る人は、
『愚癡であったり!』、
『少智であったり!』で、
『事件』や、
『苦難』や、
『災厄』に、
『遭う!』と、
『妄語』して、
『脱れよう!』と、
『求める!』が、
『事』が、
『発覚すれば!』、
『今世の罪』を、
『得る!』ことを、
『知らず!』、
『妄語すれば!』、
『後世』に、
『大罪の報』が、
『有る!』ことを、
『知らないからである!』。
  遭事(そうじ):不幸な事に遭遇する。
  苦厄(くやく):苦難、災厄。
復有人雖知妄語罪。慳貪瞋恚愚癡多故而作妄語。 復た有る人は、妄語の罪を知ると雖も、慳貪、瞋恚、愚癡多きが故に、妄語を作す。
復た、
有る人は、
『妄語』の、
『罪』を、
『知っている!』が、
『慳貪』や、
『瞋恚』や、
『愚癡』が、
『多い!』が故に、
『妄語』を、
『作す!』。
復有人雖不貪恚。而妄證人罪心謂實爾。死墮地獄如提婆達多弟子俱伽離。常求舍利弗目揵連過失。 復た有る人は、貪、恚にあらずと雖も、人の罪を妄証して、心に『実に爾り』、と謂えば、死して地獄に堕つ。提婆達多の弟子の俱伽離の、常に舎利弗、目揵連の過失を求めしが如し。
復た、
有る人は、
『慳貪でもなく!』、
『瞋恚でもない!』が、
而し、
『人』の、
『罪』を、
『妄証して!』、
『心』に、
『実に、その通りだ!』と、
『謂う!』ので、
『死ぬ!』と、
『地獄』に、
『堕ちるのである!』。
例えば、――
『提婆達多』の、
『弟子』の、
『俱伽離』は、
常に、
『舎利弗』や、
『目揵連』の、
『過失』を、
『求めていた!』。
  妄証(もうしょう):不合理、或いは非常識な証言をする。
  倶伽離(くがり):梵名kokaalika、また瞿伽離、俱迦梨、拘迦利等に作り、意訳して悪時者、牛主と為す。提婆達多の弟子と為り、常に仏の化導を妨礙し、並びに仏、舎利弗、目連、梵天等を毀謗すれば、仏は屡偈を説いてこれを訶責すれど、猶これを謗りて止まず。後に身体に悪瘡を生じて、命終の後には八寒地獄に堕つ。また「雑阿含経巻48」、「大宝積経巻2」、「大智度論巻13」等に出づ。<(佛)
  参考:『毘奈耶巻4』:『佛世尊遊羅閱城耆闍崛山。時尊者舍利弗摩訶目揵連平旦著衣持缽。從耆闍崛山入羅閱城分衛。道逢暴雨。入石室避雨。有牧牛女人先入中避雨。臥夢失精。舍利弗等見即尋出去。時瞿婆離比丘調達弟子。見舍利弗目揵連出。尋入石室見此女人。便生念言。此舍利弗目揵連必與此女人為不淨行。時瞿婆離入城。語諸比丘。諸君常言舍利弗目揵連污清淨行。我向者具見此事。諸比丘不知當何答。往白世尊。世尊告曰。此癡人成大重罪。清淨比丘淨行以無根本棄捐謗。此癡人長夜受苦墮地獄。時瞿婆離比丘往詣佛所。頭面禮足在一面坐。世尊告瞿婆離。瞿婆離比丘。汝宜及時悔心。向舍利弗目揵連。何以故。此等梵行全。瞿婆離白佛。知如來信彼人意淨。但為眼見舍利弗目揵連為惡。世尊復再語瞿婆離。瞿婆離。汝宜及時悔心。向舍利弗目揵連。何以故。此等梵行全。瞿婆離白佛。知如來信舍利弗等。但為眼見舍利弗目揵連為惡。佛如是三語瞿婆離。瞿婆離。汝宜及時悔心。向舍利弗目揵連何以故。此等梵行全。瞿婆離白佛。知如來信彼人意淨。但為眼見舍利弗目揵連為惡。時瞿婆離比丘佛三語不受。便從坐起而去。去不久身體生瘡。狀如芥子。漸漸長大。轉如蜱豆行如大豆。轉如雌豆。(如棗核許)轉如阿摩勒果。轉如勒路(如百子瓠)潰爛一切身膿血流出。時瞿婆離比丘即夜命斷。墮婆曇暮地獄。即夜有一天來至佛所。頭面禮足在一面立。白世尊言。瞿婆離(牧牛)比丘起惡意。向舍利弗目揵連謗言犯梵行。墮摩訶婆曇暮地獄。白世尊已。禮足沒還天上。佛告諸比丘。昨夜有天來至我所。頭面禮足在一面住。白我言。瞿婆離比丘起惡意。向舍利弗目揵連謗言犯梵行。死墮婆曇暮大地獄。此比丘因小事作。大誹謗清淨比丘梵行。若比丘作是誹謗者。僧伽婆施沙。時世尊若諸比丘。欲聞婆曇暮大地獄眾生壽命長短不。今正是時。願世尊說婆曇摩大地獄。諸比丘聞當承受奉行。譬如比丘摩竭大斗十二斛。胡麻子簞盛滿麻子上使盛鋒。有人百年取一麻子。諸比丘尚可數知。麻子之數無知。阿浮地獄人命不可數知如二十無實地獄。不如一空無實地獄。如二十空無實地獄。不如一喚呼地獄。如二十喚呼地獄。不如一使河地獄。如二十使河地獄。不如一須犍提地獄。如二十須犍提(甚香)地獄。不如一摩頭犍提地獄(蒲陶酒香)如二十摩頭犍提地獄。不如一優波羅地獄。如二十優波羅地獄。不如一拘勿豆地獄。如二十拘勿豆地獄。不如一分陀離地獄。如二十分陀離地獄。不如一婆曇摩地獄。彼瞿婆離比丘調達弟子。謗舍利弗目揵連生其中』
是時二人夏安居竟。遊行諸國值天大雨。到陶作家宿盛陶器舍。此舍中先有一女人在闇中宿。二人不知。 是の時、二人は、夏安居し竟りて、諸国を遊行し、天の大雨するに値い、陶作の家に抵りて、陶器を盛れる舎に宿る。此の舎中に、先に一女人有りて、闇中に在りて宿れるも、二人は知らず。
是の時、
『舎利弗』と、
『目揵連』の、
『二人』は、
『夏安居』を、
『終了して!』、
『諸国』を、
『遊行していた!』が、
『天』が、
『大雨』を、
『降らす!』のに、
『遭遇した!』ので、
『陶作』の、
『家』に、
『到る!』と、
『陶器』を、
『収納する!』、
『屋舎』に、
『宿ることにした!』。
此の、
『屋舎』中には、
先に、
有る、
『一女人』が、
『闇』中に、
『宿っていた!』のを、
『二人』は、
『知らなかった!』。
  夏安居(げあんご):梵語 varSaa- vaasa の訳、雨期の住居( residence during the rainy season )の義、又は梵語 varSaa- uSita の訳、雨期に居残る者( one who has stay during the rainy season )の義、雨期の四月十六日乃至七月十五日の三ヶ月間、比丘は精舎中に住まりて、勉学と修行とに集中する( the rainy season of three months, from the 16th of the 4th to the 15th of the 7th month, during which monks stay in their monasteries, concentrating on study and practice )の意。
此女人其夜夢失不淨。晨朝趣水澡洗。是時俱伽離偶行見之。俱伽離能相知人交會情狀。而不知夢與不夢。是時俱伽離顧語弟子。此女人昨夜與人情通。即問女人汝在何處臥。答言。我在陶師屋中寄宿。又問共誰。答言。二比丘。 此の女人、其の夜、夢に不浄を失し、晨朝、水に趣いて、澡洗す。是の時、俱伽離、偶ま行きて之を見る。俱伽離は能く人の交会の情状を相知するも、夢と夢にあらざるとを知らず。是の時、俱伽離の弟子に語らく、『此の女人は、昨夜、人と情を通ぜり』、と。即ち女人に問わく、『汝は何処に在りてか、臥せる』、と。答えて言わく、『我れは、陶師の屋中に在りて、寄宿せり』、と。又問わく、『誰か共なる』、と。答えて言わく、『二比丘あり』、と。
此の、
『女人』は、
其の、
『夜』に、
『夢』に、
『不浄』を、
『失した!』ので、
『早朝』、
『川』に、
『趣いて!』、
『沐浴した!』。
是の時、
『俱伽離』は、
偶然、
『行きあって!』、
之を、
『見た!』。
『俱伽離』は、
『人』の、
『交会』の、
『情況』を、
『容貌』を、
『見て!』、
『知ることができた!』が、
而し、
『夢か?』、
『夢でないか?』までは、
『判断できなかった!』。
是の時、
『俱伽離』は、
『弟子』に、こう語った、――
此の、
『女人』は、
昨夜、
『人』と、
『情』を、
『通じていたのだ!』、と。
そして、
『女人』に、こう問うた、――
お前は、
何処で、
『寢ていたのか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『陶師』の、
『屋舎』中に、
『寄宿していました!』、と。
又、
こう問うた、――
『誰か!』と、
『いっしょだったのか?』、と。
答えて、こう言った、――
『二人』の、
『比丘』と、
『いっしょでした!』、と。
  (しつ):自ら禁ぜず/忍びて住まらず( be out of control )の意。
  澡洗(そうせん):沐浴すること。
  相知(そうち):相を見て知るの意。
  交会(こうえ):会合( meet )、交媾( compulate )の意。
  情状(じょうじょう):情況/状景( circumstance, scene, situation )の意。
是時二人從屋中出。俱伽離見已。又以相驗之。意謂二人必為不淨。先懷嫉妒既見此事。遍諸城邑聚落告之。次到祇洹唱此惡聲。 是の時、二人、屋中より出づ。俱伽離は見已りて、又相を以って之を験(ため)し、意に謂わく、『二人は、必ず不浄を為せり』、と。先に嫉妬を懐くに、既に此の事を見て、遍く、諸の城邑、聚落に之を告げ、次に祇桓に到りて、此の悪声を唱う。
是の時、
『二人』が、
『屋舎』中より、
『出てくる!』のを、
『俱伽離』が、
『見て!』、
『相(様子)』を、
『観察する!』と、
『意』中に、こう思った、――
『二人』は、
必ず、
『不浄』を、
『為したのだ!』、と。
『倶伽離』は、
先に、
『嫉妬』を、
『懐いていた!』上に、
此の、
『事』を、
『見てしまった!』ので、
遍く、
諸の、
『城邑(都城)』や、
『聚落(村落)』中に、
『告げまわり!』、
次いで、
『祇桓精舍』に、
『到って!』、
此の、
『悪名』を、
『唱えた!』。
  悪声(あくしょう):悪名/悪評( bad reputation )の意。
於是中間梵天王來欲見佛。佛入靜室寂然三昧。諸比丘眾亦各閉房三昧。皆不可覺。即自思惟。我故來見佛。佛入三昧且欲還去。即復念言。佛從定起亦將不久。於是小住。到俱伽離房前。扣其戶而言。俱伽離俱伽離。舍利弗目揵連心淨柔軟。汝莫謗之而長夜受苦。 是の中間に於いて、梵天王来たりて、仏に見(まみ)えんと欲するも、仏は、静室に入りて、寂然三昧たり。諸の比丘衆も亦た、閉房三昧たりて、皆覚むべからざれば、即ち自ら思惟すらく、『我れ、故に来たりて仏に見ゆれば、仏は三昧に入りたまえり。且く還り去らんと欲す』、と。即ち、復た念じて言わく、『仏の定より起ちたもうこと、亦た将に久しからざるべし。是に於いて小(しばら)く住まらん』、と。俱伽離の房の前に到り、其の戸を扣(たた)きて言わく、『俱伽離、俱伽離。舎利弗、目揵連は、心浄く柔軟なり。汝は之を謗りて、長夜に苦を受くること莫かれ』、と。
是の中間に於いて、
『梵天王』が、
『仏』に、
『会えるか!』と、
『思って!』、
『来た!』が、
『仏』は、
『静室』で、
『寂然三昧』に、
『入られていた!』し、
諸の、
『弟子たち』も、
各、
『閉房三昧』に、
『入っていて!』、
皆、
『覚ませなかった!』ので、
即ち、
自ら、こう思惟した、――
わたしは、
『用』が有って、
『仏』に、
『会いに!』、
『来た!』が、
『仏』は、
『三昧』に、
『入られている!』。
『仕方がない!』から、
『還るとしよう!』、と。
そこで、
復た、念じてこう言った、――
『仏』が、
『定』より、
『起たれる!』まで、
『待ったとしても!』、
それほど、
『長くはかかるまい!』。
此処に、
『しばらく!』、
『住まるとしよう!』、と。
『俱伽離の房』の、
『前』に、
『到る!』と、
其の、
『戸』を、
『扣(たた)いて!』、こう言った、――
俱伽離!
俱伽離!
『舎利弗』と、
『目揵連』とは、
『心』が、
『浄らかで!』、
『柔軟であるぞ!』。
お前は、
之を、
『謗って!』、
『長夜(長期間)』に、
『苦』を、
『受けるなよ!』、と。
  (こ):ことさらに、故意に、理由/目的あって( deliberately, on purpose )の意。
  長夜(じょうや):梵語 diirgha- raatra の訳、長い夜( long night )の義、[無智に住まる]一夜/長時間( ( of abiding in ignorance ) The whole night; a long time )、生死、或いは輪迴の長い夜( The long night of mortality or transmigration )の意、又無明長夜とも云う。
  参考:『別訳雑阿含経巻5(106)』:『如是我聞。一時佛在王舍城迦蘭陀竹林。時梵主天。於其中夜。威光甚明。來至佛所。爾時世尊。入火光三昧。時梵主天。作是心念。今者如來。入於三昧。我來至此。甚為非時。當爾之時。提婆達多親友。瞿迦梨比丘。謗舍利弗及大目連。此梵主天。即詣其所。扣瞿迦梨門喚言。瞿迦梨瞿迦梨。汝於舍利弗目連。當生淨信。彼二尊者。心淨柔軟。梵行具足。汝作是謗。後於長夜。受諸衰苦。瞿迦梨即問之言。汝為是誰。答曰。我是梵主天。瞿迦梨言。佛記汝得阿那含耶。梵主答言。實爾。瞿迦梨言。阿那含名為不還。汝云何還梵主天。復作是念。如此等人。不應與語。而說偈言 欲測無量法  智者所不應  若測無量法  必為所燒害 時梵主天。說是偈已。即往佛所。頂禮佛足。在一面坐。以瞿迦梨所說因緣。具白世尊。佛告梵言實爾實爾。欲測無量法。能燒凡夫。爾時世尊。即說偈言 夫人生世  斧在口中  由其惡口  自斬其身  應讚者毀  應毀者讚  如斯惡人  終不見樂  迦梨偽謗  於佛賢聖  迦梨為重  百千地獄  時阿浮陀  毀謗賢聖  口意惡故  入此地獄 時梵主天聞是偈已。禮佛而退』
俱伽離問言。汝是何人。答言。我是梵天王。問言。佛說汝得阿那含道。汝何以故來。 俱伽離の問うて言わく、『汝は、是れ何れの人ぞ』、と。答えて言わく、『我れは是れ梵天王なり』、と。問うて言わく、『仏の説きたまわく、汝は阿那含道を得たりと。汝は、何を以っての故にか、来たる』、と。
『俱伽離』は、
問うて、こう言った、――
お前は、
何のような、
『人なのか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『梵天王である!』、と。
問うて、こう言った、――
『仏』は、
こう説かれた、――
お前は、
『阿那含(不還)』の、
『道』を、
『得ている!』、と。
お前は、
何故、
『還って!』、
『来たのか?』、と。
  阿那含(あなごん):梵語 anaagaamin の訳、来ない/還らない( not coming )、又は還ることに従属しない( not subject to returning )の義、不還と訳す。欲界の煩悩を断絶した声聞道の実践者( A practitioner of the path of the śrāvaka 聲聞 who has fully severed the afflictions of the desire realm )の意、次の生処は色界、又は無色界であり、欲界には生まれない( and may be reborn into the form realm or formless realm, but will not again be reborn in this world of desire )が故に不還という。
梵王心念而說偈言
 無量法欲量  不應以相取 
 無量法欲量  是野人覆沒
說此偈已。到佛所具說其事。
梵王の心に念じて、偈を説いて言わく、
無量の法を量らんと欲せば、応に相を以って取るべからず、
無量の法を量らんと欲せば、是の野人は覆没せん
此の偈を説き已りて、仏所に到り、具に其の事を説く。
『梵王』は、
『心』に念じて、
『偈』を説いて、こう言った、――
『無量』の、
『法』を、
『量ろう!』と、
『思えば!』、
『相』を、
『取って!』、
『量ってはならない!』。
『無量』の、
『法』を、
『量ろう!』と、
『思う!』、
是のような、
『野人』は、
『覆没するだろう!』、と。
『梵王』は、
此の、
『偈』を、
『説き已る!』と、
『仏の所』に、
『到って!』、
其の、
『事』を、
『詳細に!』、
『説明した!』。
  野人(やにん):野蛮人/粗野人( savage )。
  覆没(ふくもつ):転覆と沈没( capsize and sink )。
佛言。善哉善哉。快說此偈。爾時世尊復說此偈
 無量法欲量  不應以相取 
 無量法欲量  是野人覆沒
梵天王聽佛說已。忽然不現即還天上。
仏の言わく、『善い哉、善い哉、快く此の偈を説けり』、と。爾の時、世尊の、復た此の偈を説きたまわく、
無量の法を量らんと欲せば、応に相を以って取るべからず、
無量の法を量らんと欲せば、是の野人は覆没せん。
梵天王は、仏の説きたもうを聞き已りて、忽然として現れず、即ち天上に還りたり。
『仏』は、
こう言われた、――
善いぞ!
善いぞ!
此の、
『偈』を、
『説いた!』のは、
『機敏であった!』、と。
爾の時、
『世尊』は、
復た、此の偈を説かれた、――
『無量』の、
『法』を、
『量ろう!』と、
『思えば!』、
『相』を、
『取って!』、
『量ってはならない!』。
『無量』の、
『法』を、
『量ろう!』と、
『思う!』、
是のような、
『野人』は、
『覆没するだろう!』、と。
『梵天王』は、
『仏』が、
『説かれる!』のを、
『聞き已る!』と、
ふっと、
『見えなくなった!』、
即ち、
『天上』に、
『還ったのである!』。
爾時俱迦離到佛所。頭面禮佛足卻住一面。佛告俱伽離。舍利弗目揵連心淨柔軟。汝莫謗之而長夜受苦。俱伽離白佛言。我於佛語不敢不信。但自目見了了。定知二人實行不淨。 爾の時、俱伽離は、仏所に到りて、頭面に仏の足を礼し、却きて、一面に住す。仏の俱伽離に告げたまわく、『舎利弗、目揵連は、心浄く柔軟なり。汝は、之を謗りて、長夜に苦を受くること莫かれ』、と。俱伽離の仏に白して言さく、『我れは、仏語に於いて、敢て信ぜざるにあらず。但だ自ら目に見ること了了なれば、定んで二人の実に不浄を行ぜしことを知れり』、と。
爾の時、
『俱伽離』は、
『仏の所』に、
『到り!』、
『頭面』に、
『仏の足』を、
『礼する!』と、
『却(しりぞ)いて!』、
『壁の一面』を、
『背にした!』。
『仏』は、
『俱伽離』に、こう告げられた、――
『舎利弗』と、
『目揵連』とは、
『心』が、
『浄く!』、
『柔軟であるぞ!』。
お前は、
之を、
『謗って!』、
『長夜』に、
『苦』を、
『受けてはならない!』、と。
『俱伽離』は、
『仏』に白して、こう言った、――
わたしは、
『仏』の、
『語』を、
『敢て!』、
『信じないわけではありません!』が、
但だ、
『自ら!』の、
『目』に、
『はっきりと!』、
『見ました!』ので、
定んで、
『二人』が、
『不浄』を、
『行った!』と、
『知っているのです!』、と。
佛如是三呵。俱伽離亦三不受。即從坐起而去。還其房中舉身生瘡。始如芥子漸大如豆如棗如奈。轉大如瓜。翕然爛壞如大火燒。叫喚嗥哭其夜即死。入大蓮華地獄。 仏は、是の如く三たび呵したまい、倶伽離も亦た三たび受けずして、即ち坐より起ちて去り、其の房中に還るに、身を挙げて瘡を生ず。始は芥子の如く、漸く大きくなりて、豆の如く、棗の如く、奈の如く、転た大なりて瓜の如く、翕然として、爛壊すること大火焼の如く、叫喚し、嗥哭して、其の夜に即ち死し、大蓮華地獄に入れり。
『仏』が、
是のように、
『三たび!』、
『叱られる!』と、
『倶伽離』も、
亦た、
『三たび!』、
『受けずに!』、
即ち、
『坐』を、
『起って!』、
『去った!』。
『倶伽離』が、
其の、
『房』中に、
『還る!』と、
『全身』に、
『瘡(かさ)』が、
『生じた!』、
始めは、
『芥子粒ほどであった!』が、
やがて、
『大きくなって!』、
『豆粒ほどになり!』、
『棗(なつめ)ほどになり!』、
『林檎ほどになり!』、
どんどん、
『大きくなって!』、
『瓜ほどになる!』と、
突然、
『爛れて!』、
『破裂し!』、
『大火』に、
『焼かれたようになり!』、
『叫喚し!』、
『嗥哭していた!』が、
其の夜に、
『死んで!』、
『大蓮華地獄』に、
『入った!』。
  (ない):通常柰に作る。蘋果( apple )に似たる果実の名。蘋果属( リンゴ属、malus )、落葉高木、葉は楕円形、花白色紅暈を帯び、紅、黄、或いは淡緑色等の色なる有り、味甜く或いは略酸し。
  翕然(きゅうねん):突然。忽然。
  叫喚(きょうかん):大声でわめく( cry out )。
  嗥哭(こうこく):野獣のように吼え叫んで泣く( roar and cry )。
  大蓮華地獄(だいれんげじごく):梵語摩訶鉢特摩㮈落迦mahaa- padma- narakaの訳。十六大地獄の一。八寒地獄の一。また大紅蓮花地獄と訳す。謂わゆる、罪を受くる衆生の、寒苦増々極むるに由り、肉色大いに拆け、紅蓮花に似たるなり。
  八寒地獄(はちかんじごく):また八寒㮈落迦、八寒氷地獄とも称す。即ち「倶舎論巻11」に、「また余の八寒㮈落迦有り、その八とは何ん、一に頞部陀 arbuda、二に尼刺部陀 nirabuda、三に頞哳吒 aTaTa、四に臛臛婆 hahava、五に虎虎婆 huhuva、六に嗢鉢羅 utpala、七に鉢特摩 padma、八に摩訶鉢特摩 mahaa- padmaなり。この中の有情は厳寒に逼られ、身と声と変ずるに随って以ってその名を立つ。この八は並びに瞻部州の下、前の所説の如き大地獄(即ち八大熱地獄)の傍らに居す」と云い、「倶舎論光記巻11」に、「頞部陀は此に皰と云う、厳寒身に逼りてその身に皰を生ずるなり。尼刺部陀は此に皰裂と云う、厳寒身に逼りて身皰裂するなり。次の三は寒逼りて口に異声を出すなり。嗢鉢羅は此に青蓮華と云う、厳寒逼切して身変じて拆裂すること青蓮華の如し。鉢特摩は此に紅蓮華と云う、厳寒逼切して身変じて拆裂すること紅蓮華の如し。摩訶鉢特摩は此に大紅蓮華と云う、厳寒逼切して身変じて拆裂すること大紅蓮華の如し」と云えるこれなり。<(望)
有一梵天夜來白佛。俱伽離已死復有一梵天言。墮大蓮華地獄。 有る一梵天の夜来たりて仏に白さく、『倶伽離は已に死せり』、と。復た有る一梵天の言わく、『大蓮華地獄に墮つ』、と。
有る、
『一梵天』が、
『夜』に来て、
『仏』に、こう白した、――
『倶伽離は、死にました!』、と。
有る、
『一梵天』は、
こう言った、――
『大蓮華地獄に、堕ちました!』、と。
其夜過已佛命僧集而告之言。汝等欲知俱伽離所墮地獄壽命長短不。諸比丘言。願樂欲聞。 其の夜過ぎ已りて、仏は僧に命じて集まらしめ、之に告げて言わく、『汝等、倶伽離の墮つる所の地獄の寿命の長短を知らんと欲すや、不や』、と。諸比丘の言わく、『願わくは楽しんで聞かんと欲す』、と。
其の、
『夜』が過ぎると、
『仏』は、
『僧』に、
『集まるよう!』、
『命じられる!』と、
『僧』に告げて、こう言われた、――
お前達は、
『倶伽離』の、
『堕ちた!』所の、
『地獄』の、
『寿命の長短』を、
『知りたいか?』、と。
諸の、
『比丘』は、
こう言った、――
願わくは、
『楽しんで!』、
『聞きたい!』と、
『思います!』、と。
佛言。有六十斛胡麻。有人過百歲取一胡麻。如是至盡。阿浮陀地獄中壽故未盡。二十阿浮陀地獄中壽。為一尼羅浮陀地獄中壽。如二十尼羅浮陀地獄中壽為一阿羅邏地獄中壽。二十阿羅邏地獄中壽。為一阿婆婆地獄中壽。二十阿婆婆地獄中壽。為一休休地獄中壽。二十休休地獄中壽。為一漚波羅地獄中壽。二十漚波羅地獄中壽。為一分陀梨迦地獄中壽。二十分陀梨迦地獄中壽。為一摩呵波頭摩地獄中壽。俱伽離墮是摩呵波頭摩地獄中。出其大舌以百釘釘之。五百具犁耕之。 仏の言わく、『六十斛の胡麻有り、有る人、百歳を過ぐるごとに、一胡麻を取り、是の如くして尽くすに至るも、阿浮陀地獄中の寿は、故より未だ尽きず。二十阿浮陀地獄中の寿を、一尼羅浮陀地獄中の寿と為し、二十尼羅浮陀地獄中の寿を一阿羅邏地獄中の寿と為し、二十阿羅邏地獄中の寿を一阿婆婆地獄中の寿と為し、二十阿婆婆地獄中の寿を一休休地獄中の寿と為し、二十休休地獄中の寿を一漚波羅地獄中の寿と為し、二十漚波羅地獄中の寿を一分陀梨迦地獄中の寿と為し、二十分陀梨迦地獄中の寿を一摩呵波頭摩地獄中の寿と為すが如し。倶伽離は、此の摩呵波頭摩地獄中に堕ちて、其の大舌を出して、百釘を以って之を釘うち、五百具の犁もて、之を耕す。
『仏』は、
こう言われた、――
『六十斛()』の、
『胡麻』が、
『有った!』として、
有る人が、
『百歳』を、
『過ぎる!』ごとに、
『一胡麻』を、
『取り!』、
是のようにして、
『六十斛』の、
『胡麻』が、
『尽きてしまっても!』、
『阿浮陀地獄』中の、
『寿』は、
『まだ尽きない!』し、
『二十阿浮陀地獄』中の、
『寿』は、
『一尼羅浮陀地獄』中の、
『寿である!』が、
例えば、
『二十尼羅浮陀地獄』中の、
『寿』を、
『一阿羅邏地獄』中の、
『寿とし!』、
『二十阿羅邏地獄』中の、
『寿』を、
『一阿婆婆地獄』中の、
『寿とし!』、
『二十阿婆婆地獄』中の、
『寿』を、
『一休休地獄』中の、
『寿とし!』、
『二十休休地獄』中の、
『寿』を、
『一漚波羅地獄』中の、
『寿とし!』、
『二十漚波羅地獄』中の、
『寿』を、
『一分陀梨迦地獄』中の、
『寿とし!』、
『二十分陀梨迦地獄』中の、
『寿』を、
『一摩呵波頭摩地獄』中の、
『寿とした!』として、
『倶伽離』は、
是の、
『摩呵波頭摩地獄』中に、
『堕ちて!』、
其の、
『舌』を、
『出して!』、
『百本』の、
『釘』で、
『打ちつけられ!』、
『五百具』の、
『犁(すき)』で、
『耕される!』のである。
  (こく):10斗。今の19.4リットル。石。
  (こ):もとより。未だ( still )に同じ。
  (ぐ):器物を数える助数詞。
  阿浮陀(あぶだ):梵名arbuda、また頞部陀に作る。八寒地獄の一。
  尼羅浮陀(にらぶだ):梵名nirabuda、また尼刺部陀に作る。八寒地獄の一。
  阿羅邏(あらら):梵名aTaTa、また頞哳吒に作る。八寒地獄の一。
  阿婆婆(あばば):梵名hahava、また臛臛婆に作る。八寒地獄の一。
  休休(くく):梵名hufuva、また虎虎婆に作る。八寒地獄の一。
  漚波羅(うぱら):梵名utpala、また嗢鉢羅に作る。八寒地獄の一。
  分陀梨迦(ふんだりか):梵名pundariika、また鉢頭摩padmaと称す。八寒地獄の一。
  摩呵鉢頭摩(まかはづま):梵名mahaa- padma、また摩訶鉢特摩に作る。八寒地獄の一。
  参考:『雑阿含経巻48(1278)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有瞿迦梨比丘。是提婆達多伴黨。來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。爾時。世尊告瞿迦梨比丘。瞿迦梨。汝何故於舍利弗.目揵連清淨梵行所。起不清淨心。長夜當得不饒益苦。瞿迦梨比丘白佛言。世尊。我今信世尊語。所說無異。但舍利弗.大目揵連心有惡欲。如是第二.第三說。瞿迦梨比丘。提婆達多伴黨於世尊所再三說中。違反不受。從座起去。去已。其身周遍生諸皰瘡。皆如栗。漸漸增長。皆如桃李。時。瞿迦梨比丘患苦痛。口說是言。極燒。極燒。膿血流出。身壞命終。生大缽曇摩地獄。時。有三天子。容色絕妙。於後夜時來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。時。一天子白佛言。瞿迦梨比丘。提婆達多伴黨今已命終。時。第二天子作是言。諸尊當知。瞿迦梨比丘命終墮地獄中。第三天子即說偈言 士夫生世間  斧在口中生  還自斬其身  斯由其惡言  應毀便稱譽  應譽而便毀  其罪生於口  死墮惡道中  博弈亡失財  是非為大咎  毀佛及聲聞。是則為大過。彼三天子說是偈已。即沒不現。爾時。世尊夜過晨朝。來入僧中。於大眾前敷座而坐。告諸比丘。昨後夜時。有三天子來詣我所。稽首我足。退坐一面。第一天子語我言。世尊。瞿迦梨比丘。提婆達多伴黨今已命終。第二天子語餘天子言。瞿迦梨比丘命終墮地獄中。第三天子即說偈言 士夫生世間  斧在口中生  還自斬其身  斯由其惡言  應毀便稱譽  應譽而便毀  其罪口中生  死則墮惡道  說是偈已。即沒不現。諸比丘。汝等欲聞生阿浮陀地獄眾生其壽齊限不。諸比丘白佛。今正是時。唯願世尊為諸大眾說阿浮陀地獄眾生壽命齊限。諸比丘聞已。當受奉行。佛告比丘。諦聽。善思。當為汝說。譬如拘薩羅國。四斗為一阿羅。四阿羅為一獨籠那。十六獨籠那為一闍摩那。十六闍摩那為一摩尼。二十摩尼為一佉梨。二十佉梨為一倉。滿中芥子。若使有人百年百年取一芥子。如是乃至滿倉芥子都盡。阿浮陀地獄眾生壽命猶故不盡。如是二十阿浮陀地獄眾生壽等一尼羅浮陀地獄眾生壽。二十尼羅浮陀地獄眾生壽等一阿吒吒地獄眾生壽。二十阿吒吒地獄眾生壽等一阿波波地獄眾生壽。二十阿波波地獄眾生壽等一阿休休地獄眾生壽。二十阿休休地獄眾生壽等一優缽羅地獄眾生壽。二十優缽羅地獄眾生壽等一缽曇摩地獄眾生壽。二十缽曇摩地獄眾生壽等一摩訶缽曇摩地獄眾生壽。比丘。彼瞿迦梨比丘命終墮摩訶缽曇摩地獄中。以彼於尊者舍利弗.大目揵連比丘生惡心.誹謗故。是故。諸比丘。當作是學。於彼燒燋炷所。尚不欲毀壞。況毀壞有識眾生。佛告諸比丘。當如是學。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
爾時世尊說此偈言
 夫士之生  斧在口中 
 所以斬身  由其惡言 
 應呵而讚  應讚而呵 
 口集諸惡  終不見樂 
 心口業生惡  墮尼羅浮獄 
 具滿百千世  受諸毒苦痛 
 若生阿浮陀  具滿三十六 
 別更有五世  皆受諸苦毒 
 心依邪見  破賢聖語 
 如竹生實  自毀其形
如是等心生疑謗。遂至決定亦是妄語。
爾の時、世尊は、此の偈を説いて言わく、
夫れ士の生まるるや、斧口中に在り、
身を斬る所以は、其の悪言に由る。
応に呵すべきに讃じ、応に讃ずべきに呵して、
口諸悪を集むれば、終に楽を見ず。
心口の業悪を生じて、尼羅浮獄に堕つれば、
具に百千世を満てて、諸毒の苦痛を受けん。
若し阿浮陀に生ぜば、具に三十六を満てて、
別に更に五世有りて、皆諸の苦毒を受けん。
心邪見に依りて、賢聖の語を破せば、
竹に実を生ずるが如く、自ら其の形を毀(こぼ)たん。
是の如き等、心に疑を生じて謗れば、遂に決定に至る、亦た是れ妄語なり。
爾の時、
『世尊』は、
此の、
『偈』を説いて、こう言われた、――
そもそも!
『士(ひと)』は、
『生まれながら!』、
『口』中に、
『斧』が、
『在るという!』のが、
其の、
『悪言』に由って、
『身』を、
『斬る!』、
『理由である!』。
『叱るべき!』所を、
『讃えたり!』、
『讃えるべき!』所を、
『叱ったりして!』、
『口』が、
諸の、
『悪』を、
『集める!』とすれば、
終(つい)に、
『楽』を、
『見ることはないだろう!』。
『心』と、
『口』との、
『業』が、
『悪』を、
『生じて!』、
『尼羅浮陀!』という、
『地獄』に、
『堕ちれば!』、
『百千世』を、
『すっかり!』、
『満たす!』まで、
諸の、
『毒の苦痛』を、
『受けるだろう!』。
若し、
『阿浮陀!』という、
『地獄』に、
『生じた!』としても、
『三十六世』を、
『すっかり!』、
『満たして!』、
更に、
別に、
『五世』を、
『満たす!』まで、
諸の、
『苦の毒』を、
『受けるだろう!』。
『心』が、
『邪見』に、
『依頼して!』、
『賢聖』の、
『語』を、
『破る!』ならば、
譬えば、
『竹』が、
『実』を、
『生じた!』ように、
自ら、
其の、
『形』を、
『傷つけるだろう!』。
是れ等のように、
『心』に、
『疑』を、
『生じて!』、
『賢聖』を、
『謗れば!』、
終に、
『決定する!』に、
『至る!』ので、
亦た、
是れも、
『妄語である!』。
  (ふ):それ。発語の辞。そもそも。
  (し):梵語 puruSa の訳、人/男/男性( a man, male, human being, person, a male person )の義。
妄語人乃至佛語而不信受。受罪如是。以是故不應妄語。 妄語の人は、乃至仏語も、信受せざれば、罪を受くること是の如し。是を以っての故に、応に妄語すべからず。
『妄語の人』は、
乃至、
『仏』の、
『語まで!』も、
『信受しない!』ので、
『罪』を、
『受ける!』ことも、
『是の通りである!』、
是の故に、
『妄語してはならない!』。
復次如佛子羅睺羅。其年幼稚未知慎口。人來問之。世尊在不。詭言不在。若不在時。人問羅睺羅。世尊在不。詭言佛在。 復た次ぎに、仏の子の羅睺羅の如きは、其の年幼稚にして、未だ口を慎むを知らず。人来たりて、之に『世尊在すや、不や』と問えば、詭(いつわ)りて、『在さず』と言い、若し在さざる時に、人羅睺羅に『世尊は在すや、不や』と問えば、詭りて、『仏在す』と言えり。
復た次ぎに、
例えば、
『仏』の、
『子』の、
『羅睺羅』であるが、――、
其の、
『年』が、
『幼稚であり!』、
未だ、
『口』を、
『慎む!』ことを、
『知らなかった!』ので、
『人』が、
『来て!』、
『仏は居ますか?』と、
『問えば!』、
『詭(いつわ)って!』、
『仏は居ない!』と、
『言い!』、
『仏』が、
『不在の時』に、
『人』が、
『羅睺羅』に、
『仏は居ますか?』と、
『問えば!』、
『詭って!』、
『仏は居ます!』と、
『言った!』。
有人語佛。佛語羅睺羅。澡槃取水與吾洗足。洗足已。語羅睺羅。覆此澡槃。如敕即覆。佛言。以水注之。注已問言。水入中不。答言。不入。佛告羅睺羅。無慚愧人妄語覆心道法不入。亦復如是。 有る人の仏に語るに、仏の羅睺羅に語りたまわく、『澡槃に水を取りて、我が与(ため)に足を洗え』、と。足を洗い已れるに、羅睺羅に語りたまわく、『此の澡槃を覆(おお)え』、と。勅の如く、即ち覆えるに、仏の言わく、『水を以って、之に注げ』、と。注ぎ已れるに、問うて言わく、『水は中に入るや、不や』と。答えて言わく、『入らず』、と。仏の羅睺羅に告げたまわく、『慚愧無き人、妄語して心を覆わば、道法の入らざることも、亦復た是の如し』、と。
有る、
『人』が、
『仏』に、
『語る!』と、
『仏』は、
『羅睺羅』に、こう語られた、――
『澡槃』に、
『水』を、
『取って!』、
わたしの、
『足』を、
『洗え!』、と。
『羅睺羅』が、
『足』を、
『洗い已る!』と、
こう語られた、――
此の、
『澡槃』に、
『覆(おおい)』を、
『掛けよ!』、と。
『羅睺羅』が、
『命じられた!』ように、
『覆』を、
『掛ける!』と、
『仏』は、こう言われた、――
此の、
『澡槃』に、
『水』を、
『注げ!』、と。
『羅睺羅』が、
『水』を、
『注ぎ已る!』、と。
問うて、こう言われた、――
『水』は、
『入ったのか?』、と。
答えて、こう言った、――
『入りませんでした!』、と。
『仏』は、
『羅睺羅』に、こう告げられた、――
『慚愧』の、
『無い!』、
『人』は、
『妄語』が、
『心』を、
『覆う!』ので、
『道』という、
『法』が、
『入らなくなる!』のも、
亦た、
『是の通りなのだ!』、と。
  澡槃(そうばん):たらい。
  参考:『中阿含経巻3(14)』:『我聞如是。一時。佛遊王舍城。在竹林迦蘭哆園。爾時。尊者羅云亦遊王舍城溫泉林中。於是。世尊過夜平旦。著衣持缽入王舍城而行乞食。乞食已竟。至溫泉林羅云住處。尊者羅云遙見佛來。即便往迎。取佛衣缽。為敷坐具。汲水洗足。佛洗足已。坐羅云座。於是。世尊即取水器。瀉留少水已。問曰。羅云。汝今見我取此水器。瀉留少水耶。羅云答曰。見也。世尊。佛告羅云。我說彼道少。亦復如是。謂知已妄言。不羞不悔。無慚無愧。羅云。彼亦無惡不作。是故。羅云。當作是學。不得戲笑妄言。世尊復取此少水器。盡瀉棄已。問曰。羅云。汝復見我取少水器。盡瀉棄耶。羅云答曰。見也。世尊。佛告羅云。我說彼道盡棄。亦復如是。謂知已妄言。不羞不悔。無慚無愧。羅云。彼亦無惡不作。是故。羅云。當作是學。不得戲笑妄言。世尊復取此空水器。覆著地已。問曰。羅云。汝復見我取空水器。覆著地耶。羅云答曰。見也。世尊。佛告羅云。我說彼道覆。亦復如是。謂知已妄言。不羞不悔。無慚無愧。羅云。彼亦無惡不作。是故羅云。當作是學。不得戲笑妄言。世尊復取此覆水器。發令仰已。問曰。羅云。汝復見我取覆水器。發令仰耶。羅云答曰。見也。世尊。佛告羅云。我說彼道仰。亦復如是。謂知已妄言。不羞不悔。不慚不愧。羅云。彼亦無惡不作。是故。羅云。當作是學。不得戲笑妄言。羅云。猶如王有大象入陣鬥時。用前腳.後腳.尾.骼.脊.脅.項.額.耳.牙。一切皆用。唯護於鼻。象師見已。便作是念。此王大象猶故惜命。所以者何。此王大象入陣鬥時。用前腳.後腳.尾.骼.脊.脅.項.額.耳.牙。一切皆用。唯護於鼻。羅云。若王大象入陣鬥時。用前腳.後腳.尾.骼.脊.脅.項.額.耳.牙.鼻。一切盡用。象師見已。便作是念。此王大象不復惜命。所以者何。此王大象入陣鬥時。用前腳.後腳.尾.骼.脊.脅.項.額.耳.牙.鼻。一切盡用。羅云。若王大象入陣鬥時。用前腳.後腳.尾.骼.脊.脅.項.額.耳.牙.鼻。一切盡用。羅云。我說此王大象入陣鬥時。無惡不作。如是。羅云。謂知已妄言。不羞不悔。無慚無愧。羅云。我說彼亦無惡不作。是故。羅云。當作是學。不得戲笑妄言。於是。世尊即說頌曰 人犯一法  謂妄言是  不畏後世  無惡不作  寧噉鐵丸  其熱如火  不以犯戒  受世信施  若畏於苦  不愛念者  於隱顯處  莫作惡業  若不善業  已作今作  終不得脫  亦無避處 佛說頌已。復問羅云。於意云何。人用鏡為。尊者羅云答曰。世尊。欲觀其面。見淨不淨。如是。羅云。若汝將作身業。即觀彼身業。我將作身業。彼身業為淨。為不淨。為自為。為他。羅云。若觀時則知。我將作身業。彼身業淨。或自為。或為他。不善與苦果受於苦報。羅云。汝當捨彼將作身業。羅云。若觀時則知。我將作身業。彼身業不淨。或自為。或為他。善與樂果受於樂報。羅云。汝當受彼將作身業。羅云。若汝現作身業。即觀此身業。若我現作身業。此身業為淨。為不淨。為自為。為他。羅云。若觀時則知。我現作身業。此身業淨。或自為。或為他。不善與苦果受於苦報。羅云。汝當捨此現作身業。羅云。若觀時則知。我現作身業。此身業不淨。或自為。或為他。善與樂果受於樂報。羅云。汝當受此現作身業。羅云。若汝已作身業。即觀彼身業。若我已作身業。彼身業已過去滅盡變易。為淨。為不淨。為自。或為他。羅云。若觀時則知。我已作身業。彼身業已過去滅盡變易。彼身業淨。或自為。或為他。不善與苦果受於苦報。羅云。汝當詣善知識.梵行人所。彼已作身業。至心發露。應悔過說。慎莫覆藏。更善持護。羅云。若觀時則知。我已作身業。彼身業已過去滅盡變易。彼身業不淨。或自為。或為他。善與樂果受於樂報。羅云。汝當晝夜歡喜。住正念正智。口業亦復如是。羅云。因過去行故。已生意業。即觀彼意業。若因過去行故。已生意業。彼意業為淨。為不淨。為自為。為他。羅云。若觀時則知。因過去行故。已生意業。彼意業已過去滅盡變易。彼意業淨。或自為。或為他。不善與苦果受於苦報。羅云。汝當捨彼過去意業。羅云。若觀時則知。因過去行故。已生意業已過去滅盡變易。彼意業不淨。或自為。或為他。善與樂果受於樂報。羅云。汝當受彼過去意業。羅云。因未來行故。當生意業。即觀彼意業。若因未來行故。當生意業。彼意業為淨。為不淨。為自為。為他。羅云。若觀時則知。因未來行故。當生意業。彼意業淨。或自為。或為他。不善與苦果受於苦報。羅云。汝當捨彼未來意業。羅云。若觀時則知。因未來行故。當生意業。彼意業不淨。或自為。或為他。善與樂果受於樂報。羅云。汝當受彼未來意業。羅云。因現在行故。現生意業。即觀此意業。若因現在行故。現生意業。此意業為淨。為不淨。為自為。為他。羅云。若觀時則知。因現在行故。現生意業。此意業淨。或自為。或為他。不善與苦果受於苦報。羅云。汝當捨此現在意業。羅云。若觀時則知。因現在行故。現生意業。此意業不淨。或自為。或為他。善與樂果受於樂報。羅云。汝當受此現在意業。羅云。若有過去沙門.梵志.身.口.意業。已觀而觀。已淨而淨。彼一切即此身.口.意業。已觀而觀。已淨而淨。羅云。若有未來沙門.梵志。身.口.意業。當觀而觀。當淨而淨。彼一切即此身.口.意業。當觀而觀。當淨而淨。羅云。若有現在沙門.梵志。身.口.意業。現觀而觀。現淨而淨。彼一切即此身.口.意業。現觀而觀。現淨而淨。羅云。汝當如是學。我亦即此身.口.意業。現觀而觀。現淨而淨。於是。世尊復說頌曰 身業口業  意業羅云  善不善法  汝應常觀  知已妄言  羅云莫說  禿從他活  何可妄言  覆沙門法  空無真實  謂說妄言  不護其口  故不妄言  正覺之子  是沙門法  羅云當學  方方豐樂  安隱無怖  羅云至彼  莫為害他 佛說如是。尊者羅云及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
如佛說。妄語有十罪。何等為十。一者口氣臭。二者善神遠之非人得便。三者雖有實語人不信受。四者智人語議常不參豫。五者常被誹謗。醜惡之聲周聞天下。六者人所不敬。雖有教敕人不承用。七者常多憂愁。八者種誹謗業因緣。九者身壞命終當墮地獄。十者若出為人常被誹謗。如是種種不作。是為不妄語。名口善律儀。 仏の説きたまえるが如く、妄語には、十罪有り、何等か十と為す、一には口気臭し。二には善神、之を遠ざけ、非人便を得。三には実語有りと雖も、人は信受せず。四には智人の語議に参与せず。五には常に誹謗せられ、醜悪の声周く天下に聞こゆ。六には人に敬われず、教勅有りと雖も、人は承用せず。七には常に憂愁多し。八には誹謗の業の因縁を種う。九には身壊れ命終れば、当に地獄に堕つべし。十には若し出でて人と為れば、常に誹謗せらる。是の如く種種を作さざる、是れを不妄語と為し、口の善律儀と名づく。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『妄語』には、
『十罪』が、
『有る!』。
何のような、
『十か?』、――
一には、
『口気』が、
『臭くなる!』。
二には、
『善神』が、
『遠ざかる!』ので、
『非人(悪鬼)』が、
『便宜』を、
『得る!』。
三には、
『実語』が、
『有った!』としても、
『人』に、
『信受されない!』。
四には、
『智人』の、
『談話』や、
『議論』に、
常に、
『参加しない!』。
五には、
『人』に、
『常に!』、
『誹謗され!』、
『醜悪の名声』が、
『天下』に、
『周く聞こえる!』。
六には、
『人』に、
『敬われず!』、
有るいは、
『教たり!』、
『命じたりしても!』、
『人』は、
『承けて!』、
『用いない!』。
七には、
常に、
『憂愁する!』ことが、
『多い!』。
八には、
『誹謗される!』、
『業』の、
『因縁』を、
『種える!』。
九には、
『身』が、
『壊れ!』、
『命』が、
『終る!』と、
『地獄』に、
『堕ちなくてはならない!』。
十には、
『地獄』より、
『出て!』、
『人』と、
『為っても!』、
常に、
『人』に、
『誹謗される!』。
是れ等のような、
種種を、
『作さない!』のが、
『不妄語であり!』、
『口』の、
『善律儀』と、
『称される!』。
  便(べん):直接/即座に/躊躇なく/敏速に/容易に/気持ちよく( directly, Immediately, readily, promptly; easily, comfortably. )、機会/好機( an occasion, an opportunity )、◯梵語 avataara の訳、[特に天より神性を]降下すること/地上に神性を現すこと( descent (especially of a deity from heaven), appearance of any deity upon earth )の義、人を捉える機会[仏典]( opportunity of catching any one (Buddhist literature) )の意。◯梵語 avataara-prekSin の訳、機会を伺う/過失を見つける( watching opportunities, espying faults )の義。
  語議(ごぎ):言談議論。談話と議論。
  参預(さんよ):聞くに預り、其の事を議するに参加するの意。参与。参加。



飲酒、不飲酒の相

不飲酒者。酒有三種。一者穀酒。二者果酒。三者藥草酒。 不飲酒とは、酒には三種有り、一には穀酒、二には果酒、三には薬草酒なり。
『不飲酒』とは、――
『酒』には、
『三種』有り、
一には、『穀酒』、
二には、『果酒』、
三には、『薬草酒』である。
果酒者。蒱桃阿梨咤樹果。如是等種種名為果酒。 果酒とは、蒲桃、阿梨咤樹果、是の如き等の種種を名づけて、果酒と為す。
『果酒』とは、――
『葡萄』や、
『阿梨咤樹の果』であり、
是れ等のような、
種種が、
『果酒』と、
『呼ばれる!』。
  蒲桃(ふとう):常緑喬木、葉は対生、披針形。夏期に開花す、花大にして白色。果実は円球形、或いは卵形、淡緑色、或いは淡黄色、味は甜く香あり、食用に供すべし。ふともも。或いは葡萄をも云う。
  阿梨咤樹(ありたじゅ):不明。
藥草酒者。種種藥草。合和米麴甘蔗汁中。能變成酒。同蹄畜乳酒。一切乳熱者可中作酒。 薬草酒とは、種種の薬草を、米麹、甘蔗の汁中に合和すれば、能く変じて酒と成ること、蹄畜の乳酒と同じ。一切の乳は熱すれば、酒と作るに中(あた)るべし。
『薬草酒』とは、
種種の、
『薬草』を、
『米麹』や、
『甘蔗の汁』中に、
『合和すれば!』、
変じて、
『酒』と、
『成らせることができる!』が、
例えば、
『蹄畜の乳酒』と、
『同じである!』。
一切の、
『乳』は、
『熱くすれば!』、
やがて、
『酒』と、
『作る!』。
  可中(かちゅう):果の如し。はたして。
略說。若乾若濕若清若濁。如是等能令人心動放逸。是名為酒。一切不應飲。是名不飲酒。 略説すれば、若しは乾、若しは湿、若しは清、若しは濁なり。是の如き等は、能く人心をして、動かして放逸せしむ、是れを名づけて酒と為す。一切は応に飲むべからず、是れを不飲酒と名づく。
『酒』を、
略説すれば、――
『乾いている!』か、
『湿っている!』か、
『清らか!』か、
『濁っている!』かだが、
是れ等は、
『人の心』を、
『動かして!』、
『放逸にさせる!』、
是れを、
『酒』と、
『呼ぶのである!』が、
一切の、
『酒』は、
『飲んではならない!』ので、
是れを、
『不飲酒』と、
『称する!』。
問曰。酒能破冷益身令心歡喜。何以不飲。 問うて曰く、酒は、能く冷を破りて、身を益し、心をして歓喜せしむ。何を以ってか、飲まざる。
問い、
『酒』は、
『冷』を、
『破って!』、
『暖かくする!』ので、
『身』には、
『有益であり!』、
『心』を、
『歓喜させる!』のに、
何故、
『飲まないのですか?』。
答曰。益身甚少所損甚多。是故不應飲。 答えて曰く、身を益すること甚だ少なく、損する所甚だ多し。是の故に応に飲むべからず。
答え、
『身』の、
『利益』は、
『甚だ!』、
『少なく!』、
『損害』は、
『甚だ!』、
『多い!』ので、
是の故に、
『飲んではならない!』。
譬如美飲其中雜毒。是何等毒。如佛語難提迦優婆塞。酒有三十五失。 譬えば、美飲の、其の中に毒を雑うるが如し。是れ何等か毒なる。仏の、難提迦優婆塞に語りたまえるが如く、酒には三十五失有り。
譬えば、
『美味な!』、
『飲物』中に、
『毒』を、
『雑えたよう!』である。
是れは、
何のような、
『毒なのか?』、――
『仏』は、
『難提迦優婆塞』に、こう語られた通りである、――
『酒』には、
『三十五』の、
『過失』が、
『有る!』。
  難提迦(なんだいか):梵名nandika、釈氏の長者。『大智度論巻13(上)注:難提迦』参照。
何等三十五。一者現世財物虛竭。何以故。人飲酒醉心無節限。用費無度故。二者眾病之門。三者鬥諍之本。四者裸露無恥。五者醜名惡聲人所不敬。六者覆沒智慧。七者應所得物而不得。已所得物而散失。八者伏匿之事盡向人說。九者種種事業廢不成辦。十者醉為愁本。何以故。醉中多失。醒已慚愧憂愁。 何等か三十五なる。一には現世に財物虚竭す。何を以っての故に、人は酒を飲みて酔えば、心に節限無く、用費に度無きが故なり。二には衆病の門なり。三には闘諍の本なり。四には裸露して恥づる無し。五には醜名悪声ありて、人に敬われず。六には智慧を覆没す。七には応に得べき所の物を得ず。已に得たる所の物を散失す。八には伏匿の事を、尽く人に向かいて説く。九には種種の事業を廃して、成辦せず。十には酔を愁の本と為す。何を以っての故に、酔中失多く、醒め已りて、慚愧し憂愁すればなり。
『三十五』とは、
何を言うのか?――
一には、
『現世』には、
『財物』が、
『虚竭(枯竭)する!』。
何故ならば、
『人』は、
『酒』を、
『飲んで!』、
『酔えば!』、
『心』に、
『節度』が、
『無くなり!』、
『費用』にも、
『限度』が、
『無くなるからである!』。
二には、
『酒』は、
『衆病』の、
『門である!』。
三には、
『酒』は、
『闘諍』の、
『本である!』。
四には、
『裸形であっても!』、
『羞恥する!』ことが、
『無い!』。
五には、
『醜悪』な、
『名声』が、
『高まり!』、
『人』に、
『敬われなくなる!』。
六には、
『酒』に、
『智慧』が、
『覆われ!』、
『愚癡』の、
『海』に、
『沈没する!』。
七には、
『得たはず!』の、
『物』を、
『得ず!』、
『得ていた!』、
『物』を、
『散失する!』。
八には、
『伏匿すべき!』、
『事』を、
『人』に、
『向って!』、
『説明する!』。
九には、
種種の、
『事業』を、
『廃業して!』、
『成功しない!』。
十には、
『酔』は、
『愁』の、
『本である!』。
何故ならば、
『酔うた!』中には、
『失敗する!』ことが、
『多い!』ので、
『醒めてから!』、
『慚愧して!』、
『憂愁するから!』である。
  虚竭(こかつ):枯竭。
  用費(ゆうひ):費用、経費。
  無度(むど):限度無し。
  覆没(ふくもつ):覆って沈める。隠覆と沈没。
  伏匿(ふくとく):伏せて隠す。隠匿。陰蔵。
  成辦(じょうべん):備具。成功。成就。
十一者身力轉少。十二者身色壞。十三者不知敬父。十四者不知敬母。十五者不敬沙門。十六者不敬婆羅門。十七者不敬伯叔及尊長。何以故。醉悶怳惚無所別故。十八者不尊敬佛。十九者不敬法。二十者不敬僧。 十一には身力転た少なし。十二には身色を壊す。十三には父を敬うことを知らず。十四には母を敬うことを知らず。十五には沙門を敬わず。十六には婆羅門を敬わず。十七には伯叔及び尊長を敬わず。何を以っての故に、酔うて悶え、怳惚として、別くる所無きが故なり。十八には仏を尊敬せず。十九には法を敬わず。二十には僧を敬わず。
十一には、
『身』の、
『力』が、
『どんどん!』、
『少なくなる!』。
十二には、
『身』の、
『色』と、
『形』が、
『壊れる!』。
十三には、
『父』を、
『敬う!』ということを、
『知らない!』。
十四には、
『母』を、
『敬う!』ということを、
『知らない!』。
十五には、
『沙門(出家)』を、
『敬わない!』。
十六には、
『婆羅門』を、
『敬わない!』。
十七には、
『伯叔』や、
『尊長』を、
『敬わない!』。
何故ならば、
『酔う!』と、
『悶悶としたり!』、
『怳惚としたり!』して、
『分別する!』所が、
『無くなるからである!』。
十八には、
『仏』を、
『尊敬しない!』。
十九には、
『法』を、
『敬わない!』。
二十には、
『僧』を、
『敬わない!』。
  怳惚(こうこつ):恍惚。
  伯叔(はくしゅく):父の兄と、父の弟。
  尊長(そんちょう):目上。
二十一者朋黨惡人。二十二者疏遠賢善。二十三者作破戒人。二十四者無慚無愧。二十五者不守六情。二十六者縱色放逸。二十七者人所憎惡不喜見之。二十八者貴重親屬及諸知識所共擯棄。二十九者行不善法。三十者棄捨善法。 二十一には悪人と朋党す。二十二には賢善と疎遠す。二十三には破戒の人と作る。二十四には慚無く愧無し。二十五には六情を守らず。二十六には、色を縦(ほしいまま)にして放逸す。二十七には人の憎悪する所にして、之を見るを喜ばず。二十八には貴重の親属、及び諸の知識の共に擯棄する所となる。二十九には不善法を行ず。三十二には善法を棄捨す。
二十一には、
『悪人』の、
『朋党となる!』。
二十二には、
『賢善』を、
『疎縁にする!』。
二十三には、
『破戒』の、
『人と作る!』。
二十四には、
『無慚』、
『無愧』の、
『人と作る!』。
二十五には、
『六情(眼耳鼻舌身意)』という、
『門』を、
『守らない!』。
二十六には、
『色欲』を、
『縦(ほしいまま)にして!』、
『放逸する!』。
二十七には、
『人』に、
『憎悪される!』ので、
『人』は、
『見る!』のを、
『喜ばない!』。
二十八には、
『貴重な!』、
『親属』にも、
諸の、
『知識』にも、
『見捨てられ!』、
『排斥される!』。
二十九には、
『不善』の、
『法』を、
『行う!』。
三十には、
『善』の、
『法』を、
『棄捨する!』。
  放逸(ほういつ):放縦逸楽。勝手気ままに度を過ごして楽しむ。
  擯棄(ひんき):排斥して見捨てる。
三十一者明人智士所不信用。何以故。酒放逸故。三十二者遠離涅槃。三十三者種狂癡因緣。三十四者身壞命終墮惡道泥梨中。三十五者若得為人所生之處常當狂騃。如是等種種過失。是故不飲。 三十一には明人、智士の信用せざる所なり。何を以っての故に、酒は放逸するが故なり。三十二には涅槃を遠離す。三十三には狂癡の因縁を種う。三十四には身壊し命終れば、悪道泥梨中に堕つ。三十五には人と為るを得るも、所生の処は、常に当に狂騃なるべし。是の如き等の種種の過失あれば、是の故に飲まず。
三十一には、
『明智』の、
『人』に、
『信用されない!』。
何故ならば、
『酒』が、
『放逸にするからである!』。
三十二には、
『涅槃』を、
『遠離する!』。
三十三には、
『狂癡』の、
『因縁』を、
『種える!』。
三十四には、
『身』が、
『壊れて!』、
『命』が、
『終る!』と、
『悪道』や、
『泥梨(地獄)』中に、
『堕ちる!』。
三十五には、
若し、
『人』と、
『為ることができても!』、
『生まれた!』、
『処では!』、
『常に!』、
『馬鹿者である!』。
是れ等のような、
種種の、
『過失』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『飲まない!』のである。
  狂癡(こうち):狂人と癡人。
  泥犁(ないり):具さに梵語泥犁耶 nirayaに作り、また梵語㮈落迦 narakaと共に地獄と訳す。
  狂騃(こうがい):狂人と癡人( mad and stupid )。
如偈說
 酒失覺知相  身色濁而惡 
 智心動而亂  慚愧已被劫 
 失念增瞋心  失歡毀宗族 
 如是雖名飲  實為飲死毒 
 不應瞋而瞋  不應笑而笑 
 不應哭而哭  不應打而打 
 不應語而語  與狂人無異 
 奪諸善功德  知愧者不飲
偈に説くが如し、
酒は覚知の相を失い、身色は濁りて悪し、
智心動きて乱れ、慚愧は已に劫(うば)わる。
念を失いて瞋心を増し、歓を失いて宗族を毀(こぼ)つ、
是の如きは飲と名づくと雖も、実に死毒を飲むと為す。
応に瞋るべからざるに瞋り、応に笑うべからざるに笑う、
応に哭くべからざるに哭き、応に打つべからざるに打つ。
応に語るべからざるに語り、狂人と異無く、
諸の善の功徳を奪えば、愧を知る者は飲まず。
例えば、
『偈』に説く通りである、――
『酒』は、
『覚、知』の、
『相』を、
『失わせ!』、
『身』の、
『色、形』を、
『濁らせて!』、
『悪くする!』。
『念』を、
『失わせて!』、
『瞋心』を、
『増し!』、
『歓』を、
『失わせて!』、
『宗族(同族)』を、
『傷つける!』。
是のようなものは、
『飲物』と、
『呼ばれていても!』、
『実に!』、
『死毒である!』。
『瞋るべきでない!』のに、
『瞋り!』、
『笑うべきでない!』のに、
『笑い!』、
『哭くべきでない!』のに、
『哭き!』、
『打つべきでない!』のに、
『打ち!』、
『語るべきでない!』のに、
『語る!』ならば、
『狂人』と、
『異なり!』は、
『無い!』。
諸の、
『善』の、
『功徳』を、
『奪う!』ものを、
『慚(はじ)』を、
『知る!』者は、
『飲まない!』。
如是四罪不作。是身善律儀。妄語不作是口善律儀。名為優婆塞五戒律儀。 是の如き四罪を作さざる、是れ身の善律儀なり。妄語を作さざる、是れ口の善律儀なり、名づけて優婆塞の五戒律儀と為す。
是のような、
『四罪(殺害、不与取、邪婬、飲酒)』を、
『作さない!』のが、
『身』の、
『善律儀であり!』、
『妄語』を、
『作さない!』のが、
『口』の、
『善律儀であり!』、
是れを、
『優婆塞』の、
『五戒の律儀』と、
『称する!』。



優婆塞戒

問曰。若八種律儀。及淨命是名為戒。何以故優婆塞。於口律儀中。無三律儀及淨命。 問うて曰く、若し八種の律儀、及び浄命、是れを名づけて戒と為さば、何を以っての故にか、優婆塞は、口の律儀中の三律儀、及び浄命無き。
問い、
若し、
『八種の律儀』と、
『浄命』とを、
『戒』と、
『称する!』ならば、
何故、
『優婆塞』の、
『戒』には、
『口の律儀』中の、
『三律儀(不悪口、不両舌、不綺語)』と、
『浄命(乞食活命)』とが、
『無いのですか?』。
  八種律儀(はっしゅのりちぎ):四種の身の律儀、即ち不殺、不盗、不邪婬、不飲酒、及び四種の口の律儀、即ち妄語、両舌、悪口、綺語をいう。
  浄命(じょうみょう):四種の邪命を離れた清浄活命を云う。『大智度論巻13(上)注:浄命』参照。
答曰。白衣居家。受世間樂兼修福德。不能盡行戒法。是故佛令持五戒。 答えて曰く、白衣の居家は、世間の楽を受け、兼ねて福徳を修むれば、尽くは、戒法を行ずる能わず。是の故に仏は、五戒を持たしめたまえり。
答え、
『白衣の居家』は、
『世間』の、
『楽』を、
『受けながら!』、
『福徳』を、
『修める!』ことを、
『兼ねる!』ので、
尽くは、
『戒法』を、
『行うことができない!』。
是の故に、
『仏』は、
『優婆塞』には、
『五戒』を、
『持(たも)たせられたのである!』。
復次四種口業中妄語最重。 復た次ぎに、四種の口業中には、妄語最も重し。
復た次ぎに、
『四種』の、
『口業』中には、
『妄語』が、
『最も重いからである!』。
復次妄語心生故作。餘者或故作或不故作。 復た次ぎに、妄語は、心生じて、故(ことさら)に作すも、余は、或いは故に作し、或いは故ならずして作す。
復た次ぎに、
『妄語』は、
『心』が、
『生じて!』、
『故意に!』、
『作される!』が、
他は、
或いは、
『故意に!』、
『作され!』、
或いは、
『故意でなく!』、
『作される!』。
復次但說妄語已攝三事。 復た次ぎに、但だ妄語を説けば、已に三事を摂せり。
復た次ぎに、
但だ、
『妄語』を、
『説けば!』、
已に、
『三事』は、
『包含されている!』。
復次諸善法中實為最大。若說實語四種正語皆已攝得。 復た次ぎに、諸の善法中には、実を最大と為す。若し実語を説けば、四種の正語は皆、已に摂し得たり。
復た次ぎに、
諸の、
『善法』中には、
『実』が、
『最大である!』ので、
若し、
『実語』を、
『説けば!』、
『四種』の、
『正語』は、
『包含される!』。
復次白衣處世。當官理務家業作使。是故難持不惡口法。 復た次ぎに、白衣は、世に処すれば、官に当りて理務し、家業し、使と作る、是の故に、不悪口の法は持し難し。
復た次ぎに、
『白衣』は、
『世間』に、
『処住する!』ので、
『官職』に、
『任じられて!』、
『政務』を、
『処理したり!』、
『家業』に、
『従って!』、
『使(命令)』を
『作したり!』するので、
是の故に、
『不悪口の法』を、
『持つ!』のは、
『難しい!』。
  当官(とうかん):官職を擔任する。
  理務(りむ):政務を処理する。
  使(し):使令、命令( order )。
妄語故作事重故不應作。 妄語は故に作し、事の重きが故に、応に作すべからず。
『妄語』は、
『故意に!』、
『作される!』ものであり、
『事』が、
『重い!』が故に、
『作してはならない!』。
是五戒有五種受。名五種優婆塞。一者一分行優婆塞。二者少分行優婆塞。三者多分行優婆塞。四者滿行優婆塞。五者斷婬優婆塞。 是の五戒には、五種の受有りて、五種の優婆塞と名づく。一には一分行の優婆塞、二には少分行の優婆塞、三には多分行の優婆塞、四には満行の優婆塞、五には断婬の優婆塞なり。
是の、
『五戒』には、
『五種』の、
『受法』が、
『有る!』ので、
『五種』の、
『優婆塞』と、
『呼ばれる!』、――
一には、
『一分』を、
『行う!』、
『優婆塞』、
二には、
『少分』を、
『行う!』、
三には、
『多分』を、
『行う!』、
四には、
『満分』を、
『行う!』、
五には、
『婬』を、
『断じた!』、
『優婆塞である!』。
一分行者。於五戒中受一戒。不能受持四戒。少分行者。若受二戒若受三戒。多分行者。受四戒。滿行者。盡持五戒。斷婬者。受五戒已師前更作自誓言。我於自婦不復行婬。是名五戒。 一分行とは、五戒中に一戒を受けて、四戒を受持する能わず。少分を行ずる者は、若しは二戒を受け、若しは三戒を受く。多分を行ずる者は、四戒を受く。満を行ずる者は、尽く五戒を持す。断婬の者は、五戒を受け已りて、師の前に、更に自ら誓言を作さく、『我れは自婦に於いて、復た婬を行ぜず』、と。是れを五戒と名づく。
『一分』を、
『行う!』者は、
『五戒』中の、
『一戒』を、
『受けて!』、
『四戒』は、
『受持できない!』。
『少分』を、
『行う!』者は、
『五戒』中の、
『二、三戒』を、
『受ける!』。
『多分』を、
『行う!』者は、
『五戒』中の、
『四戒』を、
『受ける!』、
『満分』を、
『行う!』者は、
尽く、
『五戒』を、
『受持する!』。
『婬』を、
『断じる!』者は、
『五戒』を、
『受持したら!』、
更に、
『師の前』で、
自ら、こう誓言する、――
わたしは、
自らの、
『婦』に於いても、
もう、
『婬』を、
『行いません!』、と。
是れを、
『五戒』と、
『称するのである!』。
如佛偈說
 不殺亦不盜  亦不有邪婬 
 實語不飲酒  正命以淨心 
 若能行此者  二世憂畏除 
 戒福恒隨身  常與天人俱 
 世間六時華  榮曜色相發 
 以此一歲華  天上一日具 
 天樹自然生  花鬘及瓔珞 
 丹葩如燈照  眾色相間錯 
 天衣無央數  其色若干種 
 鮮白映天日  輕密無間壟 
 金色映繡文  斐亹如雲氣 
 如是上妙服  悉從天樹出 
 明珠天耳璫  寶磲曜手足 
 隨心所好愛  亦從天樹出 
 金華琉璃莖  金剛為華鬚 
 柔軟香芬熏  悉從寶池出 
 琴瑟箏箜篌  七寶為挍飾 
 器妙故音清  皆亦從樹出 
 波利質妒樹  天上樹中王 
 在彼歡喜園  一切無有比 
 持戒為耕田  天樹從中出 
 天廚甘露味  飲食除飢渴 
 天女無監礙  亦無妊身難 
 嬉怡縱逸樂  食無便利患 
 持戒常攝心  得生自恣地 
 無事亦無難  常得肆樂志 
 諸天得自在  憂苦不復生 
 所欲應念至  身光照幽冥 
 如是種種樂  皆由施與戒 
 若欲得此報  當勤自勉勵
仏の偈に説きたまえるが如し、――
不殺も亦た不盗も、亦た邪婬の有らざるも、
実語して飲酒せざるも、正命も浄心を以ってす。
若し能く此れを行ぜば、二世の憂畏除(のぞ)こる、
戒福は恒に身に隨いて、常に天、人と倶なり。
世間は六時に華ひらき、栄曜と色相発(おこ)る、
此の一歳の華を以って、天上には一日に具す。
天樹は自然に、華鬘及び瓔珞を生じ、
丹葩は灯の照らすが如く、衆色相間錯す。
天衣は無央数にして、其の色は若干種なり、
鮮白は天日を映し、軽密にして間壟無し。
金色は繍文を映し、斐亹は雲気の如し、
是の如き上妙の服は、悉く天樹より出づ。
明珠は天の耳璫、宝磲は手足を曜かす、
心の好愛する所に隨いて、亦た天樹より出づ。
金の華と琉璃の茎と、金剛とを華鬘と為し、
柔軟の香芬薫として、悉く宝池より出づ。
琴と瑟と筝と箜篌とは、七宝に校飾され、
器妙なるが故に音清く、皆亦た樹より出づ。
波利質妒樹は、天上の樹中の王にして、
彼の歓喜園に在りて、一切に比有る無し。
持戒を耕田と為せば、天樹は中より出づ、
天廚の甘露味の、飲食は飢渇を除く。
天女には監の礙無く、亦た妊身の難も無し、
嬉怡として縦に逸楽し、食には便利の患無し。
持戒して常に摂心すれば、自恣の地に生ずるを得、
事無く亦た難無く、常に楽志を肆(ひろ)うするを得。
諸天は自在を得て、憂苦復た生ぜず、
欲する所は念に応じて至り、身光は幽冥を照らす。
是の如き種種の楽は、皆施と戒とに由る、
若し此の報を得んと欲せば、当に勤めて自ら勉励すべし。
例えば、
『仏』が、
『偈』に説かれた通りである、――
『不殺』と、
『不盗』と、
『不邪婬』と、
『実語』と、
『不飲酒』と、
『正命』とは、
『心』を、
『浄くして!』、
『行え!』。
若し、
此れを、
『行うことができれば!』、
『二世』の、
『憂え』と、
『畏れ』とが、
『除かれる!』。
『戒の福』は、
恒に、
『身』に、
『隨い!』、
常に、
『天、人』と、
『いっしょである!』。
『世間』は、
『六時』に、
『華』の、
『光』と、
『色』とが、
『発(おこ)る!』が、
此の、
『一年間』の、
『華』は、
『天上』では、
『一日』に、
『具わる!』。
『天樹』は、
自然に、
『華鬘』や、
『瓔珞』を、
『生じ!』、
『丹葩(紅華)』は、
『灯のように!』、
『照らして!』、
多くの、
『色』が、
『互いに!』、
『交じりあう!』。
『天衣』は、
『無数なのに!』、
其の、
『色』の、
『種類』は、
『多くない!』、
『鮮やかな!』、
『白』は、
『天日』を、
『映し!』、
『軽く!』、
『緻密で!』、
『みぞ』も、
『うね』も、
『無い!』。
『金色』は、
『刺繍』を、
『映し!』、
『文様』は、
『雲気のようだ!』、
是のような、
『上妙』の、
『服』は、
悉く、
『天樹』より、
『出る!』。
『明珠』は、
『天』の、
『耳飾り!』、
『宝磲』は、
『手足』を、
『曜(かがや)かす!』。
『心』に、
『愛好する!』に、
『隨って!』、
亦た、
『天樹』より、
『出る!』。
『金の華』と、
『琉璃の茎』と、
『金剛の線』とが、
『華鬘』と、
『為る!』と、
『柔軟な!』、
『香』が、
『芬薫する!』が、
悉く、
『宝池』より、
『出たものである!』。
『琴、瑟、筝、箜篌』は、
『七宝』で、
『装飾され!』、
『楽器』が、
『美しければ!』、
『楽』の、
『音』も、
『清らかだが!』、
亦た
『天樹』より、
『出たものである!』。
『波利質妒樹』は、
『天上』の、
『樹』中の、
『王であり!』、
彼の、
『歓喜園』に、
『在るが!』、
一切に、
『比類』が、
『無い!』。
『持戒』という、
『田』を、
『耕せば!』、
『天樹』は、
その中に、
『生じる!』。
『天の廚(くりや)』の、
『甘露味』と、
『飲食』は、
『飢渴』を、
『除く!』。
『天女』には、
『障礙となる!』ような、
『監督者』が、
『無く!』、
亦た、
『妊身の難』も、
『無い!』ので、
『喜悦して!』、
『縦(ほしいまま)に!』、
『逸楽せよ!』、
『食っても!』、
『便利の患』は、
『無い!』。
『持戒して!』、
常に、
『心』を、
『摂(おさ)めれば!』、
『自由の地』に、
『生じることができ!』、
『仕事』も、
『難儀』も、
『無いので!』、
常に、
『楽の志』を、
『肆(ひろげ)られる!』。
『諸天』は、
『自在』を、
『得て!』、
もう、
『憂、苦』は、
『生じない!』。
『念(おもい)』に、
『応じて!』、
『欲する!』所が、
『現れ!』、
『身光』は、
『幽冥』を、
『照らす!』。
是のような、
種種の、
『楽』は、
『布施』と、
『持戒』とを、
『通して!』、
『得る!』のであり、
若し、
此の、
『報』を、
『得よう!』と、
『思えば!』、
当然、
自ら、
『勤めて!』、
『勉励しなくてはならない!』。
  六時(ろくじ):◯梵語 SaTsu kaaleSu, SaD- Rtu, SaT- kRtvas 等の訳、一日の六種の期間、一日の昼と夜との全ての時間を示す。詳らかに昼夜六時と言う。全き一日を三種の昼の時間である晨朝、日中、日没と、三種の夜の時間である初夜、中夜、後夜に分割する( Six periods of the day—inferring all hours of the day and night. More fully written as 晝夜六時. The full day is divided into the three daytime periods of 晨朝, 日中, and 日没, along with the three nighttime periods of 初夜, 中夜, and 後夜 )、印度には六時間の習慣が存在していた( the custom of six time periods existed in India )。◯梵語 Sad- Rtu の訳、六種の季節、一年の六期間( the six seasonal periods. the six periods of the year )の義。それに依って、内科医は病気の原因と治療法を決定していた( by which the physician determines the cause and cure of disease )。義浄[金光明最勝王経]に依れば、是れ等は華の期間、熱、雨、秋、寒、氷の期間として認識されている( According to Yijing (T 665.16.448a6–9), these are known as the periods of flowers, heat, rain, autumn, cold, and icy snow )。
  栄曜(ようよう):花から発する光曜。
  丹葩(たんぱ):赤いはなびら。紅花。
  間錯(けんじゃく):交じり合う。
  衆色(しゅしき):多くの色彩。
  無央数(むおうしゅ):無数。
  鮮白(せんびゃく):鮮やかな白色。
  軽密(きょうみつ):軽く緻密。
  間壟(けんろう):間は織目の谷の部分、壟は織目の畝の部分。
  繍文(しゅうもん):刺繍の文様。
  斐亹(ひび):彩のあるさま。
  耳璫(にとう):耳飾り。珥璫。
  宝磲(ほうこ):七宝の一。硨磲。
  華鬚(けしゅ):花のしべ。
  芬薫(ふんくん):草木の花が芬芬と薫るさま。
  琴瑟筝(きんしつそう):琴、瑟、筝は共に"こと"の一種。琴は五弦、または七弦、筝は十二弦、瑟は二十五弦の物を云う。
  箜篌(くご):"こと"の一種。東欧の楽器チター、もしくはチンバロンの如し。
  校飾(きょうじき):装飾。
  波利質妒樹(はりしっとじゅ):梵名 paarijaata、また波利質多樹に作る。
  波利質多樹(はりしったじゅ):梵名 paarijaata、或は paarijaataka、 paariyaatraka、また婆利質多、波利質多羅、波利闍多、波隷質妒、跛里耶多羅迦、波利耶呾羅、波利夜怛邏、波利夜多羅、波利夜多囉、波梨耶多羅、波利耶多に作る。円生、園生、香遍、護種種、奢遊戯、大遊戯、天遊、昼度、度昼、昼過度、或は間錯荘厳、円妙荘厳と訳し、また天樹王と云う。梯沽(デイゴ)属の植物なり。学名 Erythrina indica、六月頃落葉し、一斉に深紅色長穂状の花を開き、珊瑚の如き観を呈するが故に亦た Coral- tree と称せらる。「長阿含巻20忉利天品」に、「二園の中間に樹あり、昼度と名づく。回り七由旬、高さ百由旬、枝葉四布すること五十由旬」と云い、「新華厳経巻67」に、「忉利天中の波利質多羅樹の如し」と云い、「倶舎論巻11」に、「城外東北に円生樹あり、これ三十三天の欲楽を受くる所の勝所なり」と云えるこれなり。これ此の樹が忉利天上に在ることを伝うるものにして、「慧琳音義巻25」に、「波利質多樹花、此に香遍樹と云う。謂わく根茎枝葉花果、皆能く普く忉利諸天に薫ずるなり」と云えり。これに依るに此の樹は香樹なるを知るなり。また「大楼炭経巻3」に、「南方に樹あり、名づけて波質拘耆羅樹となす」と云い、「起世経巻7」に、「雑乱と歓喜の二園の間に三十三天王の為の故に一大樹あり、波梨夜怛羅俱毘陀羅と名づく」と云い、また「法華経巻6法師功徳品」に、「亦天上諸天の香を聞く。波利質多羅拘鞞陀羅樹香、及び曼陀羅華香」と云えるは、共に同樹を指せるものなるが如く、「梵文ディヴャーヴァダーナ divya- aavadaana 」には、「 paarijaatako naamo kovidaara 即ち波利質多と名づくる拘毘陀羅」と云い、また「梵文称有倶舎論疏」には前記円生樹の原語をkovidaara- vRkSa(倶舎釈論巻8には波利闍多)となし、「慧苑音義巻下波利質多羅樹の條にも「具さに波利耶怛羅拘毘陀羅と云う」と云えり。されば此の樹の具名は波利耶怛羅拘毘陀羅 paariyaatraka- kovidaaraとなすべきものなるが如し。但し「頂生王因縁経巻3」に、「此れはこれ三十三天中の波利質多羅樹及び俱毘陀羅樹等なり」と云い、「大般涅槃経巻1」に、「波利質多樹花、拘毘羅樹花」と云い、共にこれを別樹となせり。一説に俱毘陀羅 kovidaaraは、Mountain- ebony(学名Bauhinia variegata)と称する植物にして、雑色の香花を開き、蕾は食用に供せらると云えり。また「長阿含巻18閻浮提洲品」、「大楼炭経巻1、巻4」、「起世因本経巻1、巻6、巻7」、「中阿含巻1昼度樹経」、「円生樹経」、「雑阿含経巻19」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻3」、「新華厳経巻78」、「大宝積経巻115」、「嗟韈曩法天子受三帰衣獲免悪道経」、「正法念処経巻25」、「大毘婆沙論巻133」、「法華義疏巻11」等に出づ。<(望)
  歓喜園(かんぎおん):梵名 nandana- vana の訳。また歓楽園と訳す。忉利天四園中の一。『大智度論巻8(上)注:歓楽園』参照。
  耕田(こうでん):田を耕す。
  天廚(てんちゅう):天上の廚房。
  監礙(かんげ):監督者の障礙。
  妊身(にんしん):妊娠。
  嬉怡(きい):楽しみ喜ぶ。
  便利患(べんりのわずらい):大小便利。
  (じゅう)、(し)、(し):皆、ほしいままの意。
  自恣(じし):自らほしいままにす。勝手気ままなるの意。
  楽志(らくし):楽を意向すること。
  勉励(べんれい):つとめてはげむ。
  参考:『金光明最勝王經(巻9)除病品』:『時彼長者。聞子請已。復以伽他而答之曰 我今依古仙  所有療病法  次第為汝說  善聽救眾生  三月是春時  三月名為夏  三月名秋分  三月謂冬時  此據一年中  三三而別說  二二為一節  便成歲六時  初二是花時  三四名熱際  五六名雨際  七八謂秋時  九十是寒時  後二名冰雪  既知如是別  授藥勿令差  當隨此時中  調息於飲食  入腹令消散  眾病則不生  節氣若變改  四大有推移  此時無藥資  必生於病苦  醫人解四時  復知其六節  明閑身七界  食藥使無差  謂味界血肉  膏骨及髓腦  病入此中時  知其可療不  病有四種別  謂風熱痰癊  及以總集病  應知發動時  春中痰癊動  夏內風病生  秋時黃熱增  冬節三俱起  春食澀熱辛  夏膩熱鹹醋  秋時冷甜膩  冬酸澀膩甜  於此四時中  服藥及飲食  若依如是味  眾病無由生  食後病由癊  食消時由熱  消後起由風  准時須識病  既識病源已  隨病而設藥  假令患狀殊  先須療其本  風病服油膩  患熱利為良  癊病應變吐  總集須三藥  風熱癊俱有  是名為總集  雖知病起時  應觀其本性  如是觀知已  順時而授藥  飲食藥無差  斯名善醫者  復應知八術  總攝諸醫方  於此若明閑  可療眾生病  謂針刺傷破  身疾并鬼神  惡毒及孩童  延年增氣力  先觀彼形色  語言及性行  然後問其夢  知風熱癊殊  乾瘦少頭髮  其心無定住  多語夢飛行  斯人是風性  少年生白髮  多汗及多瞋  聰明夢見火  斯人是熱性  心定身平整  慮審頭津膩  夢見水白物  是癊性應知  總集性俱有  或二或具三  隨有一偏增  應知是其性  既知本性已  准病而授藥  驗其無死相  方名可救人  諸根倒取境  尊醫人起慢  親友生瞋恚  是死相應知  左眼白色變  舌黑鼻梁敧  耳輪與舊殊  下脣垂向下  訶梨勒一種  具足有六味  能除一切病  無忌藥中王  又三果三辛  諸藥中易得  沙糖蜜蘇乳  此能療眾病  自餘諸藥物  隨病可增加  先起慈愍心  莫規於財利  我已為汝說  療疾中要事  以此救眾生  當獲無邊果』
問曰。今說尸羅波羅蜜當以成佛。何以故乃讚天福。 問うて曰く、今、説かく、『尸羅波羅蜜は、当に以って仏と成るべし』、と。何を以っての故に、乃ち天の福と讃ずる。
問い、
今、こう説いた、――
『尸羅波羅蜜』は、
是れを、
『用いて!』、
『仏』と、
『成るのだ!』、と。
何故、
『天』の、
『福まで!』、
『讃じるのですか?』。
答曰。佛言。三事必得報果不虛。布施得大富。持戒生好處。修定得解脫。若單行尸羅得生好處。若修定智慧慈悲和合得三乘道。今但讚持戒。現世功德名聞安樂。後世得報。如偈所讚。 答えて曰く、仏の言わく、『三事は必ず、報果を得て、虚しからず。布施は、大富を得、持戒は、好処に生じ、修定は、解脱を得。若し、単に尸羅を行ずれば、好処に生ずるを得、若し修定と智慧と慈悲とを和合すれば、三乗の道を得』、と。今は但だ讃ずらく、『持戒の現世の功徳は、名聞、安楽なり。後世に得る報は、偈に讃ずる所の如し』、と。
答え、
『仏』は、
こう言われた、――
『三事』は、
必ず、
『果報』を、
『得る!』ので、
『虚しくない!』。
『布施』は、
『大富』を、
『得る!』、
『持戒』は、
『好処』に、
『生まれる!』、
『修定』は、
『解脱』を、
『得る!』。
若し、
単に、
『尸羅』を、
『行った!』とすれば、
『好処』に、
『生まれるだけ!』が、
若し、
『尸羅』に、
『修定』、
『智慧』、
『慈悲』を、
『和合すれば!』、
『三乗』の、
『道』を、
『得られる!』、と。
今は、
但だ、こう讃じたのである、――
『持戒』の、
『現世』に、
『得る!』、
『功徳』は、
『名聞や!』、
『安楽だが!』、
『後世』に、
『得る!』、
『果報』は、
『偈』に、
『讃じた通りだぞ!』、と。
譬如小兒蜜塗苦藥然後能服。今先讚戒福然後人能持戒。能持戒已立大誓願得至佛道。是為尸羅生尸羅波羅蜜。 譬えば、小児の、蜜を苦薬に塗り、然る後に能く服するが如し。今、先に戒の福を讃ずれば、然る後に人は、能く持戒し、能く持戒し已りて、大誓願を立つれば、仏道に至るを得。是れを尸羅は、尸羅波羅蜜を生ずと為す。
譬えば、
『小児』が、
『苦い薬』に、
『蜜』を、
『塗って!』、
その後に、
『服()むことができる!』のと、
『同じように!』、
今、
先に、
『戒』の、
『福』を、
『讃じた!』ならば、
その後、
『人』は、
『戒』を、
『持つことができる!』のであり、
『戒』を、
『持つことができた!』ならば、
『大きな!』、
『誓願』を、
『立てて!』、
『仏』の、
『道』に、
『至ることもできる!』。
是れは、
『尸羅』が、
『尸羅波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
又以一切人皆著樂世間之樂天上為最。若聞天上種種快樂。便能受行尸羅。後聞天上無常。厭患心生能求解脫。更聞佛無量功德。若慈悲心生。依尸羅波羅蜜。得至佛道。以是故雖說尸羅報無咎。 又、一切の人は、皆、楽に著し、世間の楽は、天上を最と為すを以って、若し天上の種種の快楽を聞かば、便ち能く尸羅を受行せん。後に天上の無常なるを聞かば、厭患心生じて、能く解脱を求め、更に仏の無量の功徳を聞かば、若しは慈悲心生じ、尸羅波羅蜜に依りて、仏道に至るを得ん。是を以っての故に、尸羅の報を説くと雖も、咎無し。
又、
一切の、
『人』は、
皆、
『楽』に、
『著する!』が、
『世間』の、
『楽』では、
『天上』が、
『最上である!』ので、
若し、
『天上』の、
種種の、
『快楽』を、
『聞いた!』ならば、
容易に、
『尸羅』を、
『受行できるはずであり!』、
後に、
『天上』の、
『楽』は、
『無常である!』と、
『聞けば!』、
『厭患心』が、
『生じて!』、
『解脱』を、
『求めることができ!』、
更に、
『仏』の、
無量の、
『功徳』を、
『聞いて!』、
若し、
『慈悲心』が、
『生じれば!』、
『尸羅波羅蜜』に、
『依って!』、
『仏の道』に、
『至ることができる!』。
是の故に、
『尸羅の報』を、
『説いた!』としても、
『咎』は、
『無い!』。



八戒斎の受戒法

問曰。白衣居家唯此五戒。更有餘法耶。 問うて曰く、白衣の居家は、唯だ、此の五戒のみなりや、更に余の法有りや。
問い、
『白衣の居家』は、
唯だ、
此の、
『五戒のみですか?』、
更に、
他の、
『法』が、
『有りますか?』。
答曰。有一日戒六齋日持功德無量。若十二月一日至十五日。受持此戒其福甚多。 答えて曰く、一日戒有り、六斎日に持たば、功徳は無量なり。若し十二月一日、乃至十五日に、此の戒を受持せば、其の福は甚だ多し。
答え、
『一日戒』が、
『有る!』、――
若し、
『六斎日』に、
此の、
『一日戒』を、
『受持すれば!』、
其の、
『功徳』は、
『無量である!』が、
『十二月の一日、乃至十五日』に、
此の、
『戒』を、
『受持しても!』、
其の、
『福』は、
『甚だ多い!』。
  一日戒(いちにちかい):俗人の一日に限りて受ける戒。『大智度論巻13(上)注:一日戒』参照。
  六斎日(ろくさいにち):斎は梵語鄔波婆沙 upavaasa の訳。また単に六斎と称す。即ち白月八日十四日十五日、黒月二十三日二十九日三十日の六日に於いて清浄に持戒するを云う。また黒白両半月各三日なるを以って三斎日とも名づく。「長阿含経巻20忉利天品」に、「半月三斎とは云何が三となす、月の八日の斎、十四日の斎、十五日の斎、これを三斎となす」と云い、「十誦律巻57」に、「月の六斎とは謂わゆる八日十四日十五日二十三日二十九日三十日なり。この日に於いて無病の比丘は応に一処に和合して説法すべし」と云えるこれなり。これ即ち比丘は此の六日に於いて一処に集会して布薩説戒し、優婆塞は亦たこれ等の日に一日一夜八斎戒を持すべきことを説けるものなり。但しその期日は異説あり、「中阿含経巻14」、「増一阿含経巻16」等に記する所は今の長阿含経に同じきも、「四分律巻58」には一日十四日十五日(及び十六日二十九日三十日)とし、「大智度論巻13」には一日八日十四日(及び十六日二十三日二十九日)となせり。これ等の日に持斎する所以に関し、「雑阿含経巻40」に、「月の八日に於いて四大天王は勅して大臣を遣して世間を案行せしめ、何等の人か父母沙門婆羅門を供養し、宗親を尊重して諸の福徳を作し、今世の悪を見、後世の罪を畏れ、施を行じ福を作して斎戒を受持し、月の八日十四日十五日及び神変月に於いて受戒布薩を為すやと。十四日に至り、太子を遣し下して世間を観察せしめ、何等の人か父母に供養し、乃至受戒布薩を為すやと。十五日に至りて四大天王自ら世間に下り、衆生を観察す」と云えり。これ此の六斎日は四天王及び太子等が世間案行の日なるを以って、特に謹慎清浄なるべしとなすの意なり。按ずるに印度にては古くより此の六日に於いて鬼神が人を悩害すとなし、沐浴断食するの風行われしを以って、仏教に於いても之を準用し、僧園の法となしたるものなるべしと云う。また「四天王経」、「佛本行集経巻37」、「四分律巻35」、「大智度論巻65」、「十住毘婆沙論巻8」、「大乗四斎日」、「法苑珠林巻88」等に出づ。<(望)
問曰。云何受一日戒。 問うて曰く、云何が、一日戒を受くる。
問い、
何のように、
『一日戒』を、
『受けるのですか?』。
答曰。受一日戒法長跪合掌應如是言。我某甲今一日一夜。歸依佛歸依法歸依僧。如是二如是三歸依。 答えて曰く、一日戒を受くる法は、長跪合掌して、応に是の如く言うべし、『我れ某甲は、今一日一夜、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依せん』、と。是の如く二たびし、是の如く三たび帰依す。
答え、
『一日戒』の、
『受戒の法』とは、――
『長跪し!』、
『合掌して!』、
是のように言う、――
わたくし、
『某甲』は、
今日の、
『一日一夜』、
『仏』に、
『帰依し!』、
『法』に、
『帰依し!』、
『僧』に、
『帰依します!』。
――是のように、
『二たび!』、
『三たび!』、
『帰依する!』。
  長跪(ちょうき):尻を上げて腰を伸ばし、臂を頭より前にし、低く跪いた姿勢。
我某甲歸依佛竟。歸依法竟。歸依僧竟。如是二如是三歸依竟。 『我れ某甲は、仏に帰依し竟り、法に帰依し竟り、僧に帰依し竟れり』。是の如く二たび、是の如く三たび帰依し竟る。
わたくし、
『某甲』は、
『仏』に、
『帰依し竟(おわ)りました!』、
『法』に、
『帰依し竟りました!』、
『僧』に、
『帰依し竟りました!』。
――是のように、
『二たび!』、
『三たび!』、
『帰依し竟る!』。
我某甲若身業不善。若口業不善。若意業不善。貪欲瞋恚愚癡故。若今世若過世有如是罪。今日誠心懺悔。身清淨口清淨心清淨。受行八戒是則布薩。秦言共住。 『我れ某甲は、若しは身業の不善、若しは口業の不善、若しは意業の不善なるは、貪欲、瞋恚、愚癡の故なり。若しは今世、若しは過世の是の如き罪有れば、今日誠心に懺悔して、身清浄、口清浄、心清浄となりて、八戒を受行せん是れ則ち布薩にして、秦には『共住』と言う』。
わたくし、
『某甲』の、
『身業の不善』や、
『口業の不善』や、
『意業の不善』は、
『貪欲』や、
『瞋恚』や、
『愚癡』の故の、
『不善です!』。
『今世』や、
『過去世』の、
是のような、
『罪』が、
『有れば!』、
今日、
『誠心より!』、
『懺悔し!』、
『身』も、
『口』も、
『心』も、
『清浄となって!』、
『八戒』を、
『受行します!』。
是れは、
則ち、
『布薩(poSadha:断食/精進日)であり!』、
その意味は、――
『共に!』、
『暮らす!』ということです。
  布薩(ふさつ):梵語 poSadha、また upoSadha、 upavasatha、 upavaasa、また布薩陀婆、布灑他、布沙他、浦沙他、浦沙陀、褒灑陀、烏逋沙他、或は鄔波婆沙に作る。長浄、長養、増長、善宿、浄住、長住、近住、共住、断、捨、或は斎と訳し、一に説戒とも称す。即ち毎半月十五日等に集会し、各罪過を懺悔して清浄に住するを云う。「中阿含巻36瞿黙目揵連経」に、「我等若し村邑に依りて遊行せんも、十五日従解脱paaTimokkhaを説く時、集りて一処に坐せん。若し比丘の法を知る者あらば、彼の比丘を請じて我等の為に法を説かしめん」と云い、また「五分律巻18」に、「今諸比丘の和合布薩するを聴す。若し往かざれば突吉羅なり。応に一の知法の比丘の若しは上座、若しは上座等は説いて言うべし、大徳僧聴け、今十五日布薩説戒なり。僧一心に布薩説戒を作せ。若し僧時到らば僧忍聴せよ。白すること是の如し。諸大徳、今布薩して波羅提木叉を説かん、一切共に聴き、善く之を思念せよ。若し罪あらば応に発露し、罪なければ黙然たれ。黙然たるが故に当に知るべし、我れ及び諸大徳は清浄なりと」と云えるこれなり。是れ比丘は半月十五日等に布薩堂 uposathaagaara(説戒堂)、または或る一処に集会し、比丘の法を知る者を請じて波羅提木叉、即ち戒本を説かしめ、若し比丘中に戒本の所制を犯ずる者あらば、衆の前に於いて発露懺悔せしむるを布薩と名づけたるなり。蓋し説戒は広く戒本を誦するを以って本制となすも、八難等の諸縁あらば、略してその一部を誦することを得るなり。「四分律巻36」に、「仏の言わく、今より已去聴す、八の難事起こり、若しは余の縁あらば、略して説戒することを聴す。八難とは、若しは王、若しは賊、若しは火、若しは水、若しは病、若しは人、若しは非人、若しは悪虫なり。余事の縁とは、若しは大衆集ることあるも牀座少く、若しは衆多く病まば略して説戒することを聴す。若しは大衆集ることあるも座上の覆蓋周からず、或は天雨らば略して説戒することを聴すと。(中略)五種の説戒あり、序を説き已らば、余は応に言うべし、僧常に聞くと。若しは序と四事を説き已らば、余は応に言うべし僧常に聞くと。若しは序と四事と十三事とを説き已らば、余は応に言うべし僧常に聞くと。若し序と四事と十三事と二事とを説き已らば、余は応に言うべし僧常に聞くと。広く説くは第五なり。これを説戒の五種と謂う」と云えるこれなり。「五分律巻18」、「十誦律巻22」、「優婆塞五戒威儀経」、「律二十二明了論」、「根本薩婆多律摂巻1」等にもまた五種説戒の説を出せり。之に依るに八難等の諸縁ある時、その緩急に応じ、説戒に広略の別を立つることを得るを知るべし。また「四分律巻36」には、説戒に非法別衆、非法和合衆、法別衆、法和合衆の四種の別ありとし、就中、法和合衆羯磨に依るを独り説戒と名づけ、余は説戒を成ぜずと云えり。法とは応に説くべき事を説くを云い、和合衆とは諸比丘一心に和合し、別れて二部と成らざるを云うなり。「五分律巻18」、「十誦律巻54」等に出す所亦た之に同じ。また「四分律巻58」には、布薩に三語布薩、清浄布薩、説波羅提木叉布薩、自恣布薩の四種の別を立て、また「五分律巻18」には、心念口言、向他説浄、広略説戒、自恣布薩、和合布薩の五種、「十誦律巻49」には、説戒経布薩、心念布薩、独在住処布薩、清浄布薩、自恣布薩の五種、「薩婆多毘尼摩得勒伽巻6」には、説、不説、与清浄、自恣、広説の五種、「善見律毘婆沙巻16」には、十四日布薩、十五日布薩、和合布薩、僧布薩、衆布薩、一人布薩、説波羅提木叉布薩、浄布薩、勅布薩の九種ありとなせり。この中、心念布薩(心念口言、一人布薩等之に同じ)とは、説戒の時、唯比丘一人なるを以って、即ち自ら心に念じ、口に我れ某甲清浄なりと言うを云い、向他説布薩(三語布薩之に同じ)とは、比丘二人若しくは三人にして、即ち僧数に満たざるが故に、互いに他に向かって、我れ某甲清浄なりと三語するを云い、和合布薩とは衆和合して布薩するを云い、説戒布薩(説波羅提木叉布薩、説戒経布薩、広略説戒布薩、広略布薩、広説布薩等之に同じ)とは、波羅提木叉を広説し、又は略説するを云い、与清浄布薩(清浄布薩、浄布薩等之に同じ)とは、説戒処に到る能わざる為比丘が他比丘に身の清浄を説き、以って之を衆に告げしむるを云い、自恣布薩とは、七月十五日即ち自恣の日に説戒するを云うなり。布薩の意義に関しては、「毘尼母経巻3」に、「何故に布薩と名づくるや、断を布薩と名づく。能く所犯を断じ、能く煩悩を断じ、一切の不善法を断ずるを布薩の義と名づく。清浄を布薩と名づく」と云い、「薩婆多毘尼摩得勒伽巻6」に、「何を以っての故に、布薩と名づくるや。諸の悪不善の法を捨し、煩悩有愛を捨して清浄の白法を証得し、梵行の事を究竟するが故に布薩と名づく」と云い、「四分律行事鈔巻上四」に、「布薩とは此に浄住と云う。出要律儀に云わく、これ憍薩羅国の語なりと。六巻泥洹(大般涅槃経巻3)に云わく、布薩とは長養にして二義あり、一に清浄戒に住し、二に功徳を増長するなり」と云い、また根本薩婆多部律摂第一に「褒灑陀と言うは、褒灑とはこれ長養の義、陀はこれ持の義なり。謂わく衆集りて戒を説くに由り、便ち能く善法を長養して自心を持するが故に褒灑陀と名づく。また褒灑は前に同じ、陀はこれ浄除の義なり。謂わく善法を増長して不善を浄除するが故なり」と云えり。蓋し梵語褒灑poSaには長養、豊殖等の義あり、また梵語dhaには持の義あるを以って、褒灑陀poSadhaを此の二字の合成語と解せば、即ち長養持の義となるべく、また陀は洗浄の義なる梵語陀婆dhaavの訛音なりとし、poSadhaavを布薩の正音となさば、即ち長養浄の義となるなり。「有部百一羯磨巻3」の夾註、並びに「南海寄帰内法伝巻2随意成規」等には唯後義を取れり。また「雑阿含経巻40」、「斎戒を受持し、月の八日十四日十五日、及び神変月に於いて受戒布薩す」と云い、「大智度論巻13」に、「誠心に懺悔し、身清浄口清浄心清浄にして八戒を受行す。これ則ち布薩なり。秦に共住と言う」と云えり。これ在家の優婆塞が、六斎日及び神変月(即ち三長斎月)に於いて、八斎戒を受持するを布薩と名づけたるものにして、八斎戒を一に布薩護 upavaasa- saMvara(即ち近住律儀)と称するは即ち此の事由に基づくなり。「中阿含巻55持斎経」に、斎に放牛児斎 gopaalakuuposatha、尼揵斎 nigaNThuuposatha、聖八支斎 ariyuuposathaの三種有ることを説き、就中、放牛児斎とは昼夜欲過に楽著するを云い、尼揵斎とは我れに父母なしと説き、而も日日父母を見るが如く、真諦の語を勧進して而も反って虚妄の言を勧進するを云い、聖八支斎とは仏の八斎戒を受持するを云うとなせり。按ずるに布薩は元と印度に於ける吠陀以来の祭法にして、即ち新月祭 darza- maasa、満月祭 pauRna- maasaの各前日に予備祭を行うを布薩 upaavasathaと称し、此の日、祭主は断食して清浄戒に住するを法となせり。後仏陀時代に尼乾子等の外道の間に一処に集会して、断食等の四戒を持するの風行われしを以って、仏は其の行事を準用して僧園の法となしたるが如し。「五分律巻18」に、仏王舎城に在りし時、外道沙門婆羅門は月の八日十四日十五日に共に一処に集りて和合し、布薩説法す。多く衆人あり、来住して供養す。仏は時に瓶沙王の勧めにより、諸比丘にも布薩説戒を聴し給いたりと記するは、即ち其の消息を伝うるものというべし。布薩の期日に関しては諸経律に異説あり。「中阿含巻14大天㮈林経」、「増一阿含経巻16」等には、半月八日十四日十五日をもって斎日とし、(即ち一月に八日十四日十五日二十三日二十九日三十日の六斎日あり)「長阿含経巻20忉利天品」、「雑阿含経巻50」等には、此の外に更に三長斎月(正、五、九月)の一日より十五日に至る三半月を加え、「四分律巻58」には、一日十四日十五日とし、「大智度論巻13」には、一日八日十四日(及び十六日二十三日二十九日)とし、「五分律巻18」には、月の八日十四日は説法し、十五日は布薩すと云い、「四分律行事鈔巻上四」には、八日十四日は俗の為にし、十五日には道の為にすと云い、「十誦律巻22」には、十四日若しくは十五日とし、「巴梨文律蔵 mahaavagga ii,4(布薩揵度)」には、半月に三度説戒せば突吉羅なり、十四日若しくは十五日に一度説戒すべしと云い、「毘尼母経巻2」には、唯十五日とし、「摩訶僧祇律巻27」、「根本薩婆多部律摂巻1」等には、半月に一度布薩し、一年二十四度の布薩の中、冬春夏の各第三第七布薩、即ち合して六布薩を十四日、残余の十八布薩を十五日に行うべしとなせり。是の如く諸説不同なるも、比丘は概ね半月十五日(十五日なき月には十四日)に布薩し、優婆塞は六斎日に八斎戒を受持するを以って常規となせしものの如し。これ蓋し比丘の布薩は元と六斎日に起因するも、半月三度の説戒は繁に過ぐるを以って、遂に半月一回の制を生ずるに至りしものならん。また「起世因本経巻2」、「出曜経巻12」、「四天王経」、「梵網経巻下」、「大比丘三千威儀巻上」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」、「倶舎論巻14、羯磨、同疏巻4上」、「法苑珠林巻88」、「玄応音義巻14、巻16、巻18、巻24」、「翻訳名義集巻11衆善行法篇、巻19斎法四食篇」等に出づ。<(望)
  秦言:他本には此言に作る。
如諸佛盡壽不殺生。我某甲一日一夜。不殺生亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、不殺生なるが如く、我れ某甲の一日一夜不殺生なるも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして(生涯)!』、
『殺生されなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『殺生しない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不盜。我某甲一日一夜。不盜亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、不盗なるが如く、我れ某甲の一日一夜不盗なるも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『盗まれなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『盗まない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不婬。我某甲一日一夜不婬亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、不婬なるが如く、我れ某甲の一日一夜不婬なるも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『婬されなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『婬しない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不妄語。我某甲一日一夜不妄語亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、不妄語なるが如く、我れ某甲の一日一夜不妄語なるも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『妄語されなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『妄語しない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不飲酒。我某甲一日一夜不飲酒亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、不飲酒なるが如く、我れ某甲の一日一夜不飲酒なるも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『飲酒されなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『飲酒しない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不坐高大床上。我某甲一日一夜。不坐高大床上亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、高大床上に坐したまわざるが如く、我れ某甲の一日一夜高大床上に坐せざることも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『高大床上に坐られなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『高大床上に坐らない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不著花瓔珞。不香塗身不著香熏衣。我某甲一日一夜。不著花瓔珞不香塗身不著香熏衣亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、花の瓔珞を著けず、香を身に塗らず、香に薫らせたる衣を著けたまわざるが如く、我れ某甲の一日一夜花の瓔珞を著けず、香を塗らず、香に薫らせたる衣を身に著けざることも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『花の瓔珞を著けず!』、
『身に香を塗らず!』、
『香と薫らせた衣を著けられなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『花の瓔珞を著けず!』、
『身に香を塗らず!』、
『香と薫らせた衣を著けない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
如諸佛盡壽不自歌舞作樂亦不往觀聽。我某甲一日一夜。不自歌舞作樂不往觀聽亦如是。 『諸仏の寿を尽くして、自ら歌舞、作楽せず、亦た往きて観聴したまわざるが如く、我れ某甲の一日一夜自ら歌舞、作楽せず、亦た往きて観聴せざることも、亦た是の如し』。
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『自ら、歌舞や楽を作さず』、
『往きて、観聴されることもなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『自ら、歌舞や楽を作さず』、
『往きて、観聴しない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
已受八戒。如諸佛盡壽不過中食。我某甲一日一夜。不過中食亦如是。我某甲受行八戒隨學諸佛法。名為布薩。 『已に八戒を受け、諸仏の寿を尽くして、中過ぎて食したまわざるが如く、我れ某甲の一日一夜中過ぎて食せざることも、亦た是の如し。我れ某甲、八戒を受行し、隨って諸仏の法を学ぶを、名づけて布薩と為す』。
已に、
『八戒』を、
『受けました!』が、
諸の、
『仏』が、
『寿を尽くして!』、
『正午過ぎて、食されなかった!』ように、
わたくし、
『某甲』が、
『一日一夜』、
『正午過ぎて、食しない!』ことも、
亦た、
『是の通りです!』。
わたくし、
『某甲』は、
『八戒』を、
『受行し!』、
『随順して!』、
諸の、
『仏の法』を、
『学び!』、
是れを、
『布薩』と、
『呼びます!』。
願持是布薩福報。願生生不墮三惡八難。 『願わくは、是の布薩の福報を持ちて、願わくは生生に、三悪八難に堕せざらんことを。
願わくは、
是の、
『布薩』の、
『福報』を、
『持って!』、
願わくは、
『生生(生ずるごと)に!』、
『三悪、八難』に、
『堕ちないように!』。
  八難(はちなん):法を聞き難く、仏に値い難き八の難処、即ち地獄、畜生、餓鬼、長寿天、辺地、聾盲瘖唖、世智辯聡、仏前仏後を云う。
我亦不求轉輪聖王梵釋天王世界之樂。願諸煩惱盡逮得薩婆若成就佛道。 我れは亦た、転輪聖王、梵釈天王の世界の楽を求めず。願わくは、諸の煩悩尽きて、薩婆若を逮得し、仏道を成就せんことを。
わたしは、
決して、
『転輪聖王』や、
『梵天』や、
『釈提桓因』や、
『四天王』の、
『世界の楽』を、
『求めません!』。
願わくは、
諸の、
『煩悩』が、
『尽きて!』、
『薩婆若』を、
『達成し!』、
『仏』の、
『道』を、
『成就せんことを!』。
  逮得(たいとく):到達する( to reach )、梵語 pratilambha, praapta, bhaavayanti, laabhin 等の訳、受領/獲得/達成/発見/理解( receiving, obtaining, attaining, finding, understanding, comprehending )等の義。
  薩婆若(さばにゃ):梵語 sarvajJa、一切智と訳す。謂わゆる仏智の意。『大智度論巻11(上)注:薩婆若』参照。



五戒の受戒法

問曰。云何受五戒。 問うて曰く、云何が五戒を受くる。
問い、
何のように、
『五戒』を、
『受けるのですか?』。
答曰。受五戒法。長跪合掌言。我某甲歸依佛歸依法歸依僧。如是二如是三。 答えて曰く、五戒を受くる法は、長跪合掌して言わく、『我れ某甲は、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依す』と。是の如く二たびし、是の如く三たびす。
答え、
『五戒』の、
『受戒の法』とは、――
『長跪し!』、
『合掌して!』、
こう言う、――
わたくし、
『某甲』は、
『仏』に、
『帰依し!』、
『法』に、
『帰依し!』、
『僧』に、
『帰依します!』、と。
―― 是のように、
『二たび!』、
『三たび!』、
『帰依する!』。
我某甲歸依佛竟。歸依法竟。歸依僧竟。如是二如是三。 『我れ某甲は、仏に帰依し竟り、法に帰依し竟り、僧に帰依竟る』と。是の如く二たびし、是の如く三たびす。
わたくし、
『某甲』は、
『仏』に、
『帰依し竟り!』、
『法』に、
『帰依し竟り!』、
『僧』に、
『帰依し竟りました!』、と。
―― 是のように、
『二たび!』、
『三たび!』、
『帰依し竟る!』。
我是釋迦牟尼佛優婆塞證知我。我某甲從今日盡壽歸依。 『我れは是れ釈迦牟尼仏の優婆塞なりと、我れを証知したまえ。我れ某甲は、今日より尽寿帰依せん』、と。
わたくし、
『某甲』は、
『釈迦牟尼仏』の、
『優婆塞である!』と、
わたしを、
『証知(証言)してください!』。
わたくし、
『某甲』は、
『今日』より、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『帰依します!』。
  証知(しょうち):証言する( to testify )、梵語 saakSin, abhisaMbodha 等の訳、証明/証言する( To prove, witness, attest )の義。
戒師應言。汝優婆塞聽。是多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀知人見人。為優婆塞說五戒如是。是汝盡壽持。 戒師は、応に言うべし、『汝、優婆塞聴け、是れ多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀の人を知り、人を見て、優婆塞の為に五戒を説きたまえること、是の如し。是れを汝は尽寿持て。
『戒師』は、
こう言わねばならない、――
お前!
『優婆塞よ!』、
『聴け!』。
是れは、
『多陀阿伽度』、
『阿羅訶』、
『三藐三仏陀』が、
『人』を、
『知り!』、
『人』を、
『見て!』、
『優婆塞』の為に、
是のように、
『五戒』を、
『説かれた!』。
是れを、
お前は、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『持つのだ!』。
  多陀阿伽度(ただあかど):梵語 tathaagata、また多陀阿伽陀に作る。如来十号の一。『大智度論巻2(下)注:多陀阿伽陀』参照。
  阿羅呵(あらか):梵語 arhat、また阿羅漢に作る。如来十号の一。『大智度論巻2(下)注:阿羅呵』参照。
  三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ):梵語 samyak- saMbuddha、如来十号の一。『大智度論巻2(下)注:三藐三仏陀』参照。
何等五。盡壽不殺生是優婆塞戒。是中盡壽不應故殺生。是事若能當言諾。 何等か五なる、寿を尽くして殺生せず、是れ優婆塞の戒なり。是の中に寿を尽くして、応に故に殺生すべからず。是の事、若し能くすれば、当に諾と言うべし。
何のような、
『五なのか?』、――
『寿を尽くして!』、
『殺生しない!』、
是れは、
『優婆塞』の、
『戒である!』。
是の中には、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『故意に!』、
『殺生してはならない!』。
是の、
『事』が、
『可能ならば!』、
『諾(約束します)!』と、
『言うがよい!』。
盡壽不盜。是優婆塞戒。是中盡壽不應盜。是事若能當言諾。 寿を尽くして盗まず、是れ優婆塞の戒なり。是の中に寿を尽くして、応に盗むべからず。是の事、若し能くすれば、当に諾と言うべし。
『寿を尽くして!』、
『盗まない!』、
是れは、
『優婆塞』の、
『戒である!』。
是の中には、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『盗んではならない!』。
是の、
『事』が、
『可能ならば!』、
『諾!』と、
『言うがよい!』。
盡壽不邪婬。是優婆塞戒。是中盡壽不應邪婬。是事若能當言諾。 寿を尽くして邪婬せず、是れ優婆塞の戒なり。是の中に寿を尽くして、応に邪婬すべからず。是の事、若し能くすれば、当に諾と言うべし。
『寿を尽くして!』、
『邪淫しない!』、
是れは、
『優婆塞』の、
『戒である!』。
是の中には、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『邪淫してはならない!』。
是の、
『事』が、
『可能ならば!』、
『諾!』と、
『言うがよい!』。
盡壽不妄語。是優婆塞戒。是中盡壽不應妄語。是事若能當言諾。 寿を尽くして妄語せず、是れ優婆塞の戒なり。是の中に寿を尽くして、応に妄語すべからず。是の事、若し能くすれば、当に諾と言うべし。
『寿を尽くして!』、
『妄語しない!』、
是れは、
『優婆塞』の、
『戒である!』。
是の中には、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『妄語してはならない!』。
是の、
『事』が、
『可能ならば!』、
『諾!』と、
『言うがよい!』。
盡壽不飲酒。是優婆塞戒。是中盡壽不應飲酒。是事若能當言諾。 寿を尽くして飲酒せず、是れ優婆塞の戒なり。是の中に寿を尽くして、応に飲酒すべからず。是の事、若し能くすれば、当に諾と言うべし。
『寿を尽くして!』、
『飲酒しない!』、
是れは、
『優婆塞』の、
『戒である!』。
是の中には、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『飲酒してはならない!』。
是の、
『事』が、
『可能ならば!』、
『諾!』と、
『言うがよい!』。
是優婆塞五戒盡壽受持。當供養三寶佛寶法寶比丘僧寶勤修福業以來佛道。 是の優婆塞の五戒を寿を尽くして受持して、当に三宝の仏宝、法宝、比丘僧宝を供養し、福業を勤修して、持って仏道を求むべし。
是の、
『優婆塞』の、
『五戒』を、
『寿』の、
『尽きるまで!』、
『受持し!』、
『三宝である!』、
『仏宝』と、
『法宝』と、
『比丘僧宝』とを、
『供養して!』、
『福』の、
『業』を、
『勤修する!』ことを、
『用いて!』、
『仏』の、
『道』を、
『求めるがよい!』、と。
  以来:他本に従い、以求に改む。



六斎日

問曰。何以故。六齋日受八戒修福德。 問うて曰く、何を以っての故にか、六斎日に八戒を受くれば、福徳を修むる。
問い、
何故、
『六斎日』に、
『八戒』を、
『受けて!』、
『福徳』を、
『修めるのですか?』。
答曰。是日惡鬼逐人欲奪人命。疾病凶衰令人不吉。是故劫初聖人。教人持齋修善作福以避凶衰。是時齋法不受八戒。直以一日不食為齋。 答えて曰く、是の日は、悪鬼、人を逐うて人命を奪わんと欲し、疾病、凶衰は、人をして、不吉ならしむ。是の故に劫初の聖人、人に教えて、斎を持せしめ、善を修めて福を作し、以って凶衰を避く。是の時の斎法は、八戒を受けずして、直(た)だ一日食せざるを以って、斎と為す。
答え、
是の、
『日』は、
『悪鬼』が、
『人』を、
『逐うて!』、
『人命』を、
『奪おうとする!』ので、
『疾病』や、
『凶衰』が、
『人』を、
『不吉にする!』。
是の故に、
『劫初』の、
『聖人』が、
『人』に、
『教えて!』、――
『斎( upavasatha:断食日 )』を、
『持たせ!』、
『善』を、
『修めて!』、
『福』を、
『作させ!』、
それで、
『凶衰』を、
『避けさせられた!』。
是の時の、
『斎法』は、
『八戒』を、
『受持せず!』、
但だ、
『一日』、
『食わない!』ことを、
『斎としていた!』。
  (さい):巴梨烏脯沙陀 uposatha, upavasatha の訳。非時食を離るるの意。和語に「トキ」と訓ず。また斎食と云い、不過中食とも称す。即ち午時を過ぎて食せざるを云う。「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」に、「斎の法は、中を過ぎて食せざるを以って体となす」と云い、「摩訶僧祇律巻17」に、「如来は一食なるを以っての故に、身体軽便にして安楽に住することを得。汝等も亦た応に一食なるべし。(中略)若し比丘、非時に食せば波夜提なり。(中略)非時とは、若し時過ぐること髪瞬の如くなるも、若しは草葉を過ぐるも、これを非時と名づく」と云えるこれなり。これ蓋し出家は午時一食を以って法となすべきことを説けるものなり。之に依りて古来僧に食を供するを斎と云い、また法要等に之を行うを斎会と称せり。「大仏頂首楞厳経巻1」に、「波斯匿王は其の父王の忌日の為に斎を営む」と云い、「梵網経巻下」に、「父母兄弟和上阿闍梨亡滅の日、及び三七日乃至七七日には、亦た応に大乗の経律を読誦し講説し、斎会して福を求むべし」と云えり。また「増一阿含経巻47」、「斎経」、「大方便仏報恩経巻6」、「大智度論巻13」、「倶舎論巻14」、「四分律行事鈔資持記巻下三之四」等に出づ。
後佛出世教語之言。汝當一日一夜如諸佛持八戒過中不食。是功德將人至涅槃。 後に仏世に出でて、之を教語して言わく、『汝、当に一日一夜、諸仏の如く、八戒を持ち、中過ぎては食わざるべし。是の功徳は、人を将(ひき)いて、涅槃に至らん』、と。
後に、
『仏』が、
『世』に、
『出られる!』と、
之を、
『教えて!』、こう言われた、――
お前は、
『一日一夜』、
諸の、
『仏』のように、
『八戒』を、
『持ちながら!』、
『午後』に、
『食ってはならない!』。
是の、
『功徳』は、
『人』を、
『将(ひき)いて!』、
『涅槃』に、
『至るだろう!』、と。
如四天王經中佛說。月六齋日使者太子及四天王。自下觀察眾生布施持戒孝順父母。少者便上忉利以啟帝釋。帝釋諸天心皆不悅言。阿修羅種多諸天種少。若布施持戒孝順父母多者。諸天帝釋心皆歡喜說言。增益天眾減損阿修羅。 『四天王経』中に仏の説きたまえるが如し、月の六斎日には、使者、太子、及び四天王、自ら下りて、衆生を観察し、布施、持戒、父母に孝順なることの、少なければ、便ち忉利に上りて、以って帝釈に啓(もう)す。帝釈、諸天の心、皆悦ばずして、言わく、『阿修羅の種は多く、諸天の種は少なし』、と。若し布施、持戒、父母に孝順なること多ければ、諸天、帝釈の心は、皆歓喜し、説(よろ)こんで、言わく、『天衆を増益し、阿修羅を減損せり』、と。
例えば、
『四天王経』中に、
『仏』は、こう説かれている、――
『月』の、
『六斎日』には、
『四天王の使者』と、
『四天王の太子』と、
『四天王』とが、
自ら、
『下って!』、
『衆生』を
『観察し!』、
若し、
『布施』や、
『持戒』や、
『父母に孝順である!』ことが、
『少なければ!』、
すぐに、
『忉利天(三十三天)』に、
『上って!』、
『帝釈(三十三天の主)』に、
『報告する!』と、
『帝釈』と、
『諸天』とは、
皆、
『心』に、
『悦ばずに!』、
こう言う、――
『阿修羅』の、
『種』が、
『多くなり!』、
『諸天』の、
『種』は、
『少なくなった!』、と。
若し、
『布施』や、
『持戒』や、
『父母に孝順である!』ことが、
『多ければ!』、
『諸天』と、
『帝釈』とは、
皆、
『心』に、
『歓喜し!』、
『悦んで!』、
こう言う、――
『天衆』は、
『益々増え!』、
『阿修羅』は、
『減損している!』、と。
  (けい):もうす。のべる。陳述する。
  参考:『長阿含経巻20』:『佛告比丘。半月三齋云何為三。月八日齋.十四日齋.十五日齋。是為三齋。何故於月八日齋。常以月八日。四天王告使者言。汝等案行世間。觀視萬民。知有孝順父母.敬順沙門.婆羅門.宗事長老.齋戒布施.濟諸窮乏者不。爾時。使者聞王教已。遍案行天下。知有孝順父母.宗事沙門.婆羅門.恭順長老.持戒守齋.布施窮乏者。具觀察已。見諸世間不孝父母.不敬師長.不修齋戒.不濟窮乏者。還白王言。天王。世間孝順父母.敬事師長.淨修齋戒.施諸窮乏者。甚少。甚少。爾時。四天王聞已。愁憂不悅。答言。咄此為哉。世人多惡。不孝父母。不事師長。不修齋戒。不施窮乏。減損諸天眾。增益阿須倫眾。若使者見世間有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.布施貧乏者。則還白天王言。世間有人孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.施諸窮乏者。四天王聞已。即大歡喜。唱言。善哉。我聞善言。世間乃能有孝順父母。敬事師長。勤修齋戒。布施貧乏。增益諸天眾。減損阿須倫眾。何故於十四日齋。十四日齋時。四天王告太子言。汝當案行天下。觀察萬民。知有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.布施貧乏者不。太子受王教已。即案行天下。觀察萬民。知有孝順父母.宗事師長.勤修齋戒.布施貧乏者。具觀察已。見諸世間有不孝順父母.不敬師長.不修齋戒.不施貧乏者。還白王言。天王。世間孝順父母.敬順師長.淨修齋戒.濟諸貧乏者。甚少。甚少。四天王聞已。愁憂不悅言。咄此為哉。世人多惡。不孝父母。不事師長。不修齋戒。不濟窮乏。減損諸天眾。增益阿須倫眾。太子若見世間有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.布施貧乏者。即還白王言。天王。世間有人孝順父母.敬順師長.勤修齋戒.施諸貧乏者。四天王聞已。即大歡喜。唱言。善哉。我聞善言。世間能有孝事父母。宗敬師長。勤修齋戒。布施貧乏。增益諸天眾。減損阿須倫眾。是故十四日齋。何故於十五日齋。十五日齋時。四天王躬身自下。案行天下。觀察萬民。世間寧有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.布施貧乏者不。見世間人多不孝父母。不事師長。不勤齋戒。不施貧乏。時。四天王詣善法殿。白帝釋言。大王。當知世間眾生多不孝父母。不敬師長。不修齋戒。不施貧乏。帝釋及忉利諸天聞已。愁憂不悅言。咄此為哉。世人多惡。不孝父母。不敬師長。不修齋戒。不施窮乏。減損諸天眾。增益阿須倫眾。四天王若見世間有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.布施貧乏者。還詣善法堂。白帝釋言。世人有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒布施貧乏者。帝釋及忉利諸天聞是語已。皆大歡喜。唱言。善哉。世間乃有孝順父母.敬事師長.勤修齋戒.布施貧乏者。增益諸天眾。減損阿須倫眾。是故十五日齋戒。是故有三齋。』
是時釋提婆那民見諸天歡喜。說此偈言
 六日神足月  受持清淨戒 
 是人壽終後  功德必如我
是の時、釈提婆那民の諸天の歓喜を見て、此の偈を説いて言わく、
六日神足月にして、清浄戒を受持せば、
是の人は寿終りて後、功徳は必ず我が如し。
是の時、
『釈提婆那民(帝釈の名)』は、
『諸天』の、
『歓喜する!』のを、
『見て!』、
此の、
『偈』を、
『説いて!』、こう言った、――
『神足月』の、
『六日』、
『清浄戒』を、
『受持する!』ならば、
是の、
『人』は、
『寿』の、
『終った!』後、
必ず、
『功徳』は、
『わたしのようだろう!』、と。
  釈提婆那民(しゃくだいばなみん):梵語 zakra devaanaam- indra、略して帝釈と称す。『大智度論巻3(上)注:釈提桓因』参照。
  神足月(じんそくがつ):また神変月と称し、正、五、九の三長斎月の異名なり。この月は、諸天、神足を以って四天下に巡行するが故に神足月、或は神変月と曰う。「雑阿含経巻40」に、「月の八日十四日十五日及び神変月に於いて受戒、布薩す」と云い、「同巻41」に、「汝等諸瞿曇、法斎日及び神足月に於いて、斎戒を受持し、功徳を修むるや不や」と云い、「大智度論巻13」に、「六日神足月に、清浄戒を受持す」と云い、「不空羂索神変真言経」に、「此の法を修する者は、当に十方の一切諸仏に於いて、神通月に修せよ、謂わゆる正月、五月、九月の白月一日より十五日に至る」と云えるこれなり。<(丁)
佛告諸比丘。釋提桓因不應說如是偈。所以者何。釋提桓因三衰三毒未除。云何妄言持一日戒功德福報必得如我。若受持此戒心應如佛。是則實說。諸大尊天歡喜因緣故。得福增多。 仏の諸の比丘に告げたまわく、『釈提桓因は、応に是の如き偈を説くべからず。所以は何んとなれば、釈提桓因は、三衰、三毒未だ除こらざればなり。云何が妄言すらく、一日戒を持つ功徳の福報は、必ず我が如きを得んと。若し此の戒を受持せば、心は、応に仏の如くなるべし』、と。是れ則ち実に、諸の大尊天の歓喜する因縁を説きたまえるが故に、福を得ること増々多し。
『仏』は、
諸の、
『比丘』に、こう告げられた、――
『釈提桓因』は、
是のような、
『偈』を、
『説くべきではなかったのだ!』。
何故ならば、
『釈提桓因』は、
『三衰(病、老、死)』、
『三毒(貪、瞋、癡)』が、
未だ、
『除かれていない!』のに、
何故、
『妄言して!』、こう説くのか?――
『一日戒』を、
『受持する!』、
『功徳』の、
『福報』は、
必ず、
『わたしのように!』、
『得られるだろう!』、と。
若し、
此の、
『戒』を、
『受持すれば!』、
『心』は、
『仏』と、
『同じはずである!』、と。
是れは、
則ち、
実に、
『大尊天(蓋し梵天を云う)』の、
『歓喜する!』、
『因縁』を、
『説かれた!』のであり、
故に、
『得る!』、
『福』も、
『増々多い!』のである。
復次此六齋日。惡鬼害人惱亂一切。若所在丘聚郡縣國邑。有持齋受戒行善人者。以此因緣惡鬼遠去。住處安隱。以是故六日持齋受戒得福增多。 復た次ぎに、此の六斎日には、悪鬼人を害して、一切を悩乱すれば、若し所在の丘聚、郡県、国邑に、持斎、受戒、行善の人有らば、此の因縁を以って、悪鬼は遠く去り、住処安隠ならん。是を以っての故に、六日に、斎を持し、戒を受くれば、得る福は増々多し。
復た次ぎに、
此の、
『六斎日』は、
『悪鬼』が、
『人』を、
『害して!』、
一切を、
『悩乱する!』が、
若し、
『所住』の、
『丘聚』や、
『郡県』や、
『国邑』に、
『持斎し!』、
『受戒し!』、
『善を行う!』、
『人』が、
『有れば!』、
此の、
『因縁』を以って、
『悪鬼』は、
『遠く去り!』、
『住処』が、
『安隠になる!』ので、
是の故に、
『六斎日』に、
『斎』を、
『持てば!』、
『得る!』、
『福』は、
『増々多い!』のである。
  丘聚(くじゅ):自然に形成された小山のむれ。
  郡県(ぐんけん):古代地方行政の区画。大を県、小を郡と云う。
  国邑(こくおう):国都。
問曰。何以故諸惡鬼神輩。以此六日惱害於人。 問うて曰く、何を以っての故にか、悪鬼神の輩は、此の六日を以って、人を悩害する。
問い、
何故、
諸の、
『悪鬼神の輩』は、
此の、
『六斎日』に、
『人』を、
『悩害するのですか?』。
答曰。天地本起經說。劫初成時有異梵天王子。諸鬼神父。修梵志苦行。滿天上十二歲。於此六日。割肉出血以著火中。以是故諸惡鬼神。於此六日輒有勢力。 答えて曰く、『天地本起経』に説かく、劫初めて成る時、異なる梵天王の子、諸の鬼神の父有り、梵志の苦行を修むること、天上の十二歳を満ち、此の六日に於いて、肉を割き、血を出して、以って火中に著く。是を以っての故に、諸の悪鬼神、此の六日に於いて、輒(すなわ)ち、勢力有り、と。
答え、
『天地本起経』には、
こう説いている、――
『劫(世界)』が、
『初めて!』、
『成った!』時、
異なる、
『梵天王』が有り、
『子』は、
諸の、
『鬼神』の、
『父であった!』、
『梵志』の、
『苦行』を、
『修めながら!』、
『十二年』が、
『満ちる!』まで、
此の、
『六日』には、
『肉』を、
『割いて!』、
『血』を、
『出し!』、
『血』を、
『火』中に、
『投じていた!』、と。
是の故に、
諸の、
『悪鬼神』は、
此の、
『六日になる!』と、
たちまち、
『勢力』を、
『回復する!』のである。
  
問曰。諸鬼神父。何以於此六日割身肉血以著火中。 問うて曰く、諸の鬼神の父は、何を以ってか、此の六日に於いて、身肉を割き、血を以って火中に著くる。
問い、
諸の、
『鬼神の父』は、
何故、
此の、
『六日』に、
『身』の、
『肉』を、
『割いて!』、
『血』を、
『火』中に、
『投じるのですか?』。
答曰。諸神中摩醯首羅神最大第一。諸神皆有日分。摩醯首羅。一月有四日分。八日二十三日十四日二十九日。餘神一月有二日分。月一日十六日月二日十七日。其十五日三十日屬一切神。摩醯首羅為諸神主。又得日多故數其四日為齋。二日是一切諸神日。亦數以為齋。是故諸鬼神。於此六日輒有力勢 答えて曰く、諸神中に、摩醯首羅神は最大第一なり。諸神は、皆、日分有り、摩醯首羅は一月に、四日分有り、八日、二十三日、十四日、二十九日なり。余の神は、一月に二日分有り、月の一日と十六日、月の二日と十七日なり。其の十五日と三十日には、一切の神を属す。摩醯首羅は、諸神の主為れば、又得る日も多し、故に其の四日を数えて、斎と為し、二日は、是れ一切の諸神の日なれば、亦た数えて以って斎と為す。是の故に諸の鬼神は、此の六日に於いて、輒ち力勢有り。
答え、
諸の、
『神』中に、
『摩醯首羅』は、
『最大であり!』、
『第一である!』。
諸の、
『神』には、
皆、
『日分(忌日分)』が、
『有る!』が、
『摩醯首羅』は、
『一月』当り、
『四日分』が有り、
『月』の、
『八日(白月八日)、二十三日(黒月八日)』と、
『十四日(白月十四日)、二十九日(黒月十四日)』である。
他の、
『神』は、
『一月』当り、
『二日分』が有り、
『月』の、
『一日(白月一日)』と、
『十六日(黒月一日)』とか、
『月』の、
『二日(白月二日)』と、
『十七日(黒月二日)』とかであり、
其の、
『十五日(白月十五日)』と、
『三十日(黒月十五日)』とには、
一切の、
『神』が、
『所属する!』。
『摩醯首羅』は、
諸の、
『神』の、
『主である!』ので、
又、
『得た!』、
『日』も、
『多い!』が故に、
其の、
『四日』を、
『数えて!』、
『斎(忌日)とし!』、
『二日』は、
一切の、
『神』の、
『日である!』ので、
亦た、
其れを、
『数えて!』、
『斎とする!』。
是の故に、
諸の、
『鬼神』は、
此の、
『六日』には、
たちまち、
『力勢』を、
『盛り返す!』のである。
  摩醯首羅(まけいしゅら):梵名 mahezvara、また莫醯伊湿伐羅、摩醯伊湿伐羅に作る。摩醯を大、伊湿伐羅を自在と訳して、即ち大自在と称す。色界頂上の天神名なり。「慧苑音義巻上」に、「摩醯首羅、正しくは摩醯湿伐羅と云う。摩醯と言うは、此に大と云うなり、湿伐羅とは自在なり。謂わく、この天王は三千大千世界の中に自在を得るが故なりと」と云い、「大智度論巻2」に、「摩醯首羅天は、秦に大自在と言う、八臂三眼にして白牛に騎る」と云えり。<(丁)
復次諸鬼神父於此六日割肉出血以著火中。過十二歲已。天王來下語其子言。汝求何願。答言。我求有子。 復た次ぎに、諸の鬼神の父は、此の六日に於いて、肉を割き、血を出して、以って火中に著くること、十二歳を過ぎ已るに、天王来下して、其の子に語りて言わく、『汝は、何なる願をか求むる』、と。答えて言わく、『我れは子有らんことを求む』、と。
復た次ぎに、
諸の、
『鬼神の父』は、
此の、
『六日』、
『肉』を、
『割いて!』、
『血』を、
『出し!』、
『血』を、
『火』中に、
『投じていた!』が、
『十二年』が、
『過ぎた!』。
『天王』が、
『下って来る!』と、
其の、
『子』に語って、こう言った、――
お前は、
何のような、
『願』を、
『求めているのか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『子』が、
『有るように!』、
『求めています!』、と。
天王言。仙人供養法。以燒香甘果諸清淨事。汝云何以肉血著火中。如罪惡法。汝破善法樂為惡事。令汝生惡子噉肉飲血。當說。是時火中有八大鬼出。身黑如墨髮黃眼赤有大光明。 天王の言わく、『仙人の供養法は、焼香、甘果、諸の清浄の事を以ってす。汝は、云何が、肉血を以って、火中に著くる、罪悪法の如きを以ってす。汝は、善法を破り、楽しんで悪事を為せば、汝をして、悪子を生ぜしめ、肉を噉い、血を飲ましめん』、と。説くに当りて、是の時、火中に八大鬼の出づる有り、身の黒きこと墨の如く、髪は黄に、眼は赤く、大光明有り。
『天王』は、
こう言った、――
『仙人』を、
『供養する!』、
『法』は、――
『焼香』や、
『甘い果実』や、
『諸の清浄事』を、
『用いて!』、
『供養するのである!』が、
お前は、
何故、
『肉』や、
『血』を、
『火』中に、
『投じる!』ような、
『罪悪のような!』、
『法』を、
『用いたのか?』。
お前は、
『善法』を、
『破り!』、
『楽しんで!』、
『悪事』を、
『為した!』。
お前には、
『悪子』を、
『生じさせ!』、
『肉』を、
『噉わせ!』、
『血』を、
『飲ませてやろう!』、と。
説いている、ちょうどその時、――
『火』中に、
『八大鬼』が、
『出現した!』、――
『身』は、
『墨のように!』、
『黒く!』、
『髪』は、
『黄色く!』、
『眼』は、
『赤くて!』、
『大光明』を、
『放っていた!』。
一切鬼神皆從此八鬼生。以是故。於此六日割身肉血以著火中而得勢力。如佛法中日無好惡。隨世惡日因緣故。教持齋受八戒。 一切の鬼神は、皆、此の八鬼より生ずれば、是を以っての故に、此の六日に於いて、身より肉血を割き、以って火中に著くれば、勢力を得。仏法中の如きには、日の好悪無けれども、世の悪日の因縁に隨うが故に、教えて、斎を持し、八戒を受けしむ。
一切の、
『鬼神』は、
皆、
此の、
『八鬼』より、
『生じた!』ので、
是の故に、
此の、
『六日』に、
『身』より、
『割いて!』、
『肉』と
『血』とを、
『火』中に、
『投じる!』と、
『勢力』を、
『得るのである!』。
『仏』の、
『法』中には、
『日』に、
『好い!』も、
『悪い!』も、
『無い!』が、
『世間』の、
『悪日』という、
『因縁』に、
『隨う!』が故に、
こう教えるのである、――
『斎』を、
『持って!』、
『八戒』を、
『受けよ!』と。



五戒と一日戒との比較

問曰。五戒一日戒何者為勝。 問うて曰く、五戒と、一日戒とは、何れの者をか、勝と為す。
問い、
『五戒』と、
『一日戒』とでは、
何れが、
『勝るのですか?』。
答曰。有因緣故二戒俱等。但五戒終身持。八戒一日持。又五戒常持時多而戒少。一日戒時少而戒多。 答えて曰く、因縁有るが故に、二戒は倶に等し。但だ五戒は、終身持ち、八戒は一日持つ。又五戒は常に持てば、時は多くして、戒は少なし。一日戒は、時は少なくして、戒は多し。
答え、
『因縁』が、
『有る!』ので、
『二戒』は、
『どちらも!』、
『等しい!』が、
但だ、
『五戒』は、
『終身』、
『持つものであり!』、
『八戒』は、
『一日』、
『持つものであり!』、
又、
『五戒』は、
『常に!』、
『持つ!』ので、
『時』は、
『多い!』が、
『戒』は、
『少なく!』、
『一日戒』は、
『時』は、
『少ない!』が、
『戒』は、
『多い!』。
復次若無大心雖復終身持戒。不如有大心人一日持戒也。譬如軟夫為將。雖復將兵終身。智勇不足卒無功名。若如英雄奮發禍亂立定。一日之勳功蓋天下。 復た次ぎに、若し大心無ければ、復た終身戒を持つと雖も、大心有る人の、一日戒を持つに如かず。譬えば、軟夫、将と為れば、復た兵を将いて終身なりと雖も、智勇不足すれば、卒(つい)に功名無きが如く、若しは英雄奮発すれば、禍乱立ちどころに定まりて、一日の勲功天下を蓋(おお)うが如し。
復た次ぎに、
若し、
『大心』が、
『無ければ!』、
『終身』、
『持戒した!』としても、
『大心』が、
『有って!』、
『一日』、
『持戒する!』、
『人』には、
『及ばない!』。
譬えば、
『軟弱な人』が、
『将』と、
『為って!』、
『終身』、
『兵』を、
『将(ひき)いた!』としても、
『智慧』も、
『勇気』も、
『不足する!』ので、
終に、
『功名』が、
『無く!』、
若しくは、
『英雄』が、
『奮発すれば!』、
立ちどころに、
『禍乱』を、
『平定して!』、
『一日』の、
『勲功』が、
『天下』を、
『蓋うようなものである!』。
  立定(りゅうじょう):たちどころに( immediately )定まる。決定。
是二種戒。名居家優婆塞法。居家持戒凡有四種。有下中上。有上上。 是の二種の戒を、居家優婆塞法と名づく。居家の持戒には、凡そ四種有り、下、中、上なる有り、上の上有り。
是の、
『二種』の、
『戒』を、
『居家優婆塞の法』と、
『称する!』が、
『居家』の、
『持戒』には、
凡そ、
『四種』有り、
『下』と、
『中』と、
『上』とが、
『有り!』、
『上の上』が、
『有る!』。
下人持戒為今世樂故。或為怖畏稱譽名聞故。或為家法曲隨他意故。或避苦役求離危難故。如是種種是下人持戒。 下の人の持戒は、今世の楽の為なるが故、或いは怖畏、称誉、名聞の為の故、或いは家法の為に、曲げて他の意に隨うが故、或いは苦役を避け、危難を離れんことを求むるが故なり。是の如き種種は、是れ下人の持戒なり。
『下の人』の、
『持戒』とは、――
『今世』の、
『楽』を、
『求めようとする!』為の故であり、
或いは、
『怖畏』、
『称誉』、
『名聞』の為の故、
或いは、
『家法』の為に、
『自ら!』の、
『意』を、
『曲げて!』、
『他!』の、
『意』に、
『隨う!』が故、
或いは、
『苦役』を、
『避けたり!』、
『危難』を、
『離れよう!』と、
『求める!』為の故である。
是のような、
種種は、
『下の人』の、
『持戒である!』。
中人持戒。為人中富貴歡娛適意。或期後世福樂。剋己自勉為苦。日少所得甚多。如是思惟堅固持戒。譬如商人遠出深入得利必多。持戒之福令人受後世福樂亦復如是。 中の人の持戒は、人中の富貴、歓娯、適意の為にして、或いは、後世の福楽を期して、『己に剋(か)ち、自ら勉めて苦を為せば、日は少なくとも、得る所は甚だ多し』と、是の如く思惟して堅固に持戒す。譬えば、商人の遠く出で、深く入りて、利を得れば必ず多きが如し。持戒の福の、人をして、後世の福楽を受けしむるも、亦復た是の如し。
『中の人』の、
『持戒』とは、――
『人』中の、
『富貴』や、
『歓楽』や、
『適意(意にかなうこと)』の為であり、
或いは、
『後世』の、
『福楽』を、
『期待して!』、――
『己』に、
『剋()ち!』、
自ら、
『勉めて!』、
『苦行すれば!』、
『日』は、
『少なくとも!』、
『得る!』所は、
『甚だ多い!』と、
是のように、
『思惟して!』、
『堅固に!』、
『持戒するものである!』。
譬えば、
『商人』が、
『遠く!』、
『他国』へ、
『出て!』、
『深く!』、
『海』に、
『入れば!』、
『得る!』所の、
『利』は、
『必ず多い!』ように、
『持戒の福』が、
『人』に、
『後世』の、
『福楽』を、
『受けさせる!』のも、
亦復た、
『是の通りなのである!』。
上人持戒為涅槃故。知諸法一切無常故。欲求離苦常樂無為故。 上の人の持戒は、涅槃の為の故に、諸法の一切無常なるを知るが故に、離苦、常楽、無為を求めんと欲するが故なり。
『上の人』の、
『持戒』は、
『涅槃』の為の故に、
諸の、
『法』は、
一切が、
『無常である!』と、
『知る!』が故に、
『離苦』、
『常楽』、
『無為』を、
『求めよう!』と、
『思った!』が故である。
復次持戒之人其心不悔。心不悔故得喜樂。得喜樂故得一心。得一心故得實智。得實智故得厭心。得厭心故得離欲。得離欲故得解脫。得解脫故得涅槃。如是持戒為諸善法根本。 復た次ぎに、持戒の人は、其の心悔いずして、心悔いざるが故に、喜楽を得、喜楽を得るが故に、一心を得、一心を得るが故に、実智を得、実智を得るが故に、厭心を得、厭心を得るが故に、離欲を得、離欲を得るが故に、解脱を得、解脱を得るが故に、涅槃を得る。是の如き持戒は、諸の善法の根本と為す。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
其の、
『心』に、
『悔いることがない!』。
『心』に、
『悔いない!』が故に、
『喜楽』を、
『得る!』、
『喜楽』を、
『得る!』が故に、
『一心』を、
『得る!』、
『一心』を、
『得る!』が故に、
『実智』を、
『得る!』、
『実智』を、
『得る!』が故に、
『厭心』を、
『得る!』、
『厭心』を、
『得る!』が故に、
『離欲』を、
『得る!』、
『離欲』を、
『得る!』が故に、
『解脱』を、
『得る!』、
『解脱』を、
『得る!』が故に、
『涅槃』を、
『得る!』ので、
是のような、
『持戒』は、
『善法』の、
『根本なのである!』。
復次持戒為八正道初門入道初門必至涅槃 復た次ぎに、持戒は、八正道の初門と為し、道の初門に入らば、必ず、涅槃に至る。
復た次ぎに、
『持戒』は、
『八正道』の、
『初門であり!』、
『道』の、
『初門』に、
『入れば!』、
必ず、
『涅槃』に、
『至るのである!』。



大智度論釋初品中讚尸羅波羅蜜義第二十三


出家

問曰。如八正道。正語正業在中。正見正行在初。今何以言戒為八正道初門。 問うて曰く、八正道は、正語、正業は中に在り、正見、正行は初に在るが如きに、今は何を以ってか、『戒を、八正道の初門と為す』と言える。
問い、
『八正道』では、――
『正語』や、
『正業』は、
『中』に、
『在り!』、
『正見』や、
『正行』が、
『初』に、
『在る!』のに、
何故、
こう言うのですか?――
『戒』は、
『八正道』の、
『初門である!』、と。
答曰。以數言之大者為始。正見最大。是故在初。 答えて曰く、数を以って之を言えば、大なる者を始と為す。正見は、最大なれば、是の故に初に在り。
答え、
『数()』で言えば、――
『大きい!』者から、
『始められる!』ので、
『正見』は、
『最大である!』が故に、
『初』に、
『在る!』。
復次行道故以見為先。諸法次第故戒在前。譬如作屋棟梁雖大以地為先。 復た次ぎに、道を行くが故に、見を以って先と為すも、諸法の次第の故に戒は、前に在り。譬えば、屋を作るに、棟と梁とは、大なりと雖も、地を以って先と為すが如し。
復た次ぎに、
『道』を、
『行く!』が故には、
『見』を、
『先にする!』が、
『諸法』の、
『次第』の故には、
『戒』が、
『前である!』。
譬えば、
『屋』を、
『作る!』のに、
『棟』や、
『梁』は、
『大である!』が、
『地』を、
『先にする!』のと、
『同じである!』。
上上人持戒憐愍眾生。為佛道故。以知諸法求實相故。不畏惡道不求樂故。如是種種。是上上人持戒。 上上の人の持戒は、衆生を憐愍して、仏道の為の故にして、諸法を知るを以って、実相を求むるが故、悪道を畏れず、楽を求めざるが故なり。是の如き種種は、是れ上上の人の持戒なり。
『上上の人』の、
『持戒』は、――
『衆生』を、
『憐愍して!』、
『仏』の、
『道』の為の故に、
諸の、
『法』を、
『知る!』ことを、
『用いて!』、
『実相』を、
『求める!』為の故に、
『悪道』を、
『畏れず!』、
『楽道』を、
『求めない!』が故に、
『持戒するのである!』。
是のような、
種種が、
『上上の人』の、
『持戒である!』。
是四總名優婆塞戒。出家戒亦有四種。一者沙彌沙彌尼戒。二者式叉摩那戒。三者比丘尼戒。四者比丘僧戒。 是の四は、総じて優婆塞戒と名づけ、出家戒にも亦た四種有り、一には沙弥、沙弥尼戒、二には式叉摩那戒、三には比丘尼戒、四には比丘僧戒なり。
是の、
『四戒』は、
総じて、
『優婆塞』の、
『戒である!』が、
『出家の戒』にも、
亦た、
『四種』有り、
一には、
『沙弥、沙弥尼の戒』、
二には、
『式叉摩那の戒』、
三には、
『比丘尼の戒』、
四には、
『比丘僧の戒である!』。
問曰。若居家戒得生天上。得菩薩道亦得至涅槃。復何用出家戒。 問うて曰く、若し居家の戒もて、天上に生ずるを得、菩薩道を得て、亦た涅槃に至るを得れば、復た何にか、出家の戒を用いる。
問い、
若し、
『居家の戒』で、
『天上』に、
『生まれることができ!』、
『菩薩』の、
『道』を、
『得て!』、
『涅槃』に、
『至ることができる!』とすれば、
いったい、
『出家の戒』は、
何に、
『用いるのですか?』。
答曰。雖俱得度然有難易。居家生業種種事務。若欲專心道法家業則廢。若欲專修家業道事則廢。不取不捨乃應行法。是名為難。若出家離俗絕諸紛亂。一向專心行道為易 答えて曰く、倶に度を得と雖も、然るに難易有り。居家の生業には種種の事務あれば、若し道法に専心せんと欲すれば、家業は、則ち廃る。若し家業を専修せんと欲すれば、道の事則ち廃る。取らず、捨てずして、乃(すなわ)ち行法に応ず。是れを名づけて難しと為す。若し出家し、俗を離れて、諸の紛乱を絶えて、一向専心して道を行ずるを、易しと為す。
答え、
どちらも、
『度』を、
『得られる!』が、
然し、
『難、易』が、
『有る!』、――
『居家』は、
『生業(なりわい)』の、
種種の、
『仕事』と、
『業務』とで、
若し、
『道法』に、
『専心しよう!』と、
『思えば!』、
則ち、
『家業』を、
『廃することになる!』し、
若し、
『家業』を、
『専修しよう!』と、
『思えば!』、
則ち、
『道事』を、
『廃することになる!』が、
『道法』と、
『家業』とを、
『取りもせず!』、
『捨てもせず!』して、
ようやく、
『法』を、
『行う!』のに、
『適応できる!』ので、
是れを、
『難しい!』と、
『称するのである!』。
若し、
『出家して!』、
『俗』を、
『離れ!』、
諸の、
『紛乱』を、
『絶やして!』、
『一向』に、
『専心して!』、
『道』を、
『行う!』とすれば、
是れは、
『易しい!』。
復次居家憒鬧多事多務。結使之根眾惡之府。是為甚難。若出家者。譬如有人出在空野無人之處而一其心。無思無慮內想既除。外事亦去。 復た次ぎに、居家の憒鬧にして、多事多務なるは、結使の根、衆悪の府なれば、是れを甚だ難しと為す。若し出家すれば、譬えば有る人出でて、空野、無人の処に在りて、其の心を一にすれば、思無く、慮無く、内の想も既に除こりて、外事も亦た去るが如し。
復た次ぎに、
『居家』の、
『憒鬧(煩乱、喧噪)』と、
『多事』、
『多務』は、――
『結使』の、
『根であり!』、
『衆悪』の、
『府である!』ので、
是れは、
『甚だ難しい!』が、
若し、
『出家すれば!』、
譬えば、
有る人が、
『空野』とか、
『無人の処』に、
『出て!』、
其の、
『心』を、
『一にすれば!』、
『思慮』が、
『無くなって!』、
『内』の、
『想』が、
『除かれる!』ので、
『外』の、
『事』も、
『去るようなものである!』。
  憒鬧(けにょう):煩乱( worry )と喧噪( noisy )。
如偈說
 閑坐林樹間  寂然滅眾惡 
 恬澹得一心  斯樂非天樂 
 人求富貴利  名衣好床褥 
 斯樂非安隱  求利無厭足 
 納衣行乞食  動止心常一 
 自以智慧眼  觀知諸法實 
 種種法門中  皆以等觀入 
 解慧心寂然  三界無能及
以是故知出家修戒行道為易。
偈に説くが如し、
林樹の間に閑かに坐せば、寂然として衆悪滅して、
恬澹として一心を得る、斯(こ)の楽は天の楽に非ず。
人は富、貴、利、名、衣と好き床褥を求むるも、
斯の楽は安隠に非ず、利を求むれば厭足する無し。
衲衣にて行きて乞食すれば、動止心は常に一なり、
自ら智慧の眼を以って、諸法の実を観知す。
種種の法門中、皆、等観を以って入れば、
解慧の心寂然たりて、三界に能く及ぶ無し。
是を以っての故に知る、出家して戒を修め、道を行ずるを、易しと為すと。
例えば、
『偈』に説く通りである、――
『林樹の間』に、
『閑(しず)かに!』、
『坐れば!』、
『寂然として!』、
『衆悪』が、
『滅せられ!』、
『恬淡として!』、
『心』が、
『統一される!』が、
斯の、
『楽』は、
『天の楽ではない!』。
『人』は、
『富貴』、
『利益( benefit, favourable )』、
『名誉』、
『衣服』、
『好い床褥』を、
『求める!』が、
斯の、
『楽』は、
『安隠でない!』、
『利』を、
『求めれば!』、
『飽き足りる!』ことが、
『無いからだ!』。
『衲衣(糞掃衣)』を、
『著けて!』、
『歩きながら!』、
『乞食すれば!』、
『動く!』も、
『止まる!』も、
『常に!』、
『一心となり!』、
『自ら!』を、
『智慧の眼』で、
『観察して!』、
『諸法』の、
『実体』を、
『知る!』。
種種の、
『法門』中に、
『等観して!』、
『入れば!』、
『解脱した!』、
『智慧』の、
『心』は、
『寂然として!』、
『三界』に、
『及ぶ!』者は、
『無い!』。
是の故に、こう知る、――
『出家して!』、
『戒』を、
『修めたり!』、
『道』を、
『行う!』ことは、
『易しい!』、と。
  閑坐(げんざ):静にすわる。
  恬澹(てんたん):恬淡。清静淡泊。心の無欲なるを云う。
  床褥(しょうにく):寝台と布団。
  納衣(のうえ):また衲衣に作る。
  衲衣(のうえ):また納衣、糞掃衣、弊衲衣、五衲衣、百衲衣に作る。即ち世人の棄つる処の朽壊破砕衣の片を以って、修補縫綴して製成する所の法衣なり。比丘は少欲知足にして、世間の栄顕を遠離するが故に、この衣を著く。糞掃衣は衣材に就いて名づけ、衲衣は製法に就いて説く。また比丘は常に自らを老衲、布衲、衲僧、衲子、小衲等と称し、僧衆を呼びて衲衆と為すは、皆衲衣の義に取著す。また「十誦律巻39」、「大乗義章巻15頭陀義」、「慧琳音義巻11」に出づ。<(佛)、『大智度論巻1(下)注:袈裟』参照。
  等観(とうかん):平等であると黙想すること( contemplation of equality )、梵語 sama- darzin, sam- anu- √(paz) 等の訳、偏らずに傍観する/有らゆる事物を公平に看る( looking impartially on, regarding all things impartially )の義、有らゆる事物は平等であると見ること、例えば空、想像上の/実体の無いもののように、或いは有らゆる存在に差別は無いと見ること、あたかも人が彼れの子を視るように( The beholding of all things as equal, e.g. as 空 unreal, or immaterial; or of all beings without distinction, as one beholds one's child )の意。
  (げ):解放/解脱( emancipation )の義、梵語 mokSa, vimokSa, mocana, parimocana 等の訳、解脱/自由に/解放された( to be emancipated, liberated, released )の意。目覚めさせられた/目覚めた( to be awakened, awakening )、理解/知識/疑惑の解決( understanding, knowledge; dissolving doubt )等の意。
  (え):梵語 prajJaa の訳、洞察力/識別力/理解( Insight, discernment, understanding )、認識能力( cognitive acuity )の義、即ち事物や、彼等の根底にある信条を識別する能力、及び疑問を決断すること( the power to discern things and their underlying principles and to decide the doubtful )、特に世俗的認識から差別されるべき上位の認知作用( Esp. superior cognitive function as distinguished from mundane cognition )、相対と絶対とを識別し、疑惑を断ずる精神作用( The mental function of discriminating the relative and the absolute, cutting off doubt )の意。
  慧心(えしん):賢明な思考( wise thoughts )、梵語 aajJaa- citta の訳、心配/知覚/注意/理解する( to mind, perceive, notice, understand )、或いは指図/命令/指導する( to order, command, direct )心/思考の義。
復次出家修戒。得無量善律儀。一切具足滿。以是故白衣等應當出家受具足戒。 復た次ぎに、出家して戒を修むれば、無量の善律儀を得て、一切具足して満つ。是を以っての故に、白衣も等しく、応当に出家して、具足戒を受くべし。
復た次ぎに、
『出家して!』、
『戒』を、
『修めれば!』、
無量の、
『善律儀( saMvara:糧食( provisions )』を、
『得ることになり!』、
『道』を、
『行く!』為の、
一切が、
『具足して!』、
『満ちる!』ので、
是の故に、
『白衣』も、
等しく、
『出家して!』、
『具足戒』を、
『受けるべきである!』。
  善律儀(ぜんりつぎ):善なる律儀の意。また単に律儀 saMvara、或は善戒とも名づく。悪律儀 asaMvara に対す。即ち律儀を受くる者の得する無表を云う。「倶舎論巻14」に、「無表に略して三あり、一には律儀、(中略)悪戒の相続を能く遮し能く滅す、故に律儀と名づく」と云い、「同巻15」に、「悪戒に住する者、或は有時に不作の思を起して刀網等を捨すと雖も、若し諸の善律儀を受得せずんば、諸の不律儀を棄捨すべきことなし」と云い、また「四分律行事鈔巻中一」に、「悪法の善を禁ずる之を名づけて律と為し、殺を楽いて前に生ぜし行の此の法に順ずる之を名づけて儀と為す、若し善律儀に就かば反じて解する即ちこれなり」と云えるこれなり。これ別解脱律儀は諸の不律儀を遮し、定共及び道共の律儀は欲纏の悪戒を断じ、且つ能起の惑を断ずるが故に、此の三種を総じて名づけて善律儀となすの意なり。また「大毘婆沙論巻96」に善律儀は唯欲色二界に在りて無色定に通ぜざることを明し、「復た次ぎに悪戒を対治するが故に善戒あり。無色界定は諸の悪戒を対治すること能わざるが故に善戒なし。所以は何ん、諸の悪戒の法は唯欲界にのみあり。無色は欲に於いて四遠を具するが故に対治すること能わず。云何が四遠なる、一に所依遠、二に所縁遠、三に行相遠、四に対治遠なり。故に無色定は正語等の三種の戒支無し」と云えり。これ無色定は欲界の悪戒に対して四遠あるが故にこれを対治すること能わず、随って善戒あることなしとなすの意なり。また「大毘婆沙論巻117」、「雑阿毘曇心論巻3」、「順正理論巻36、巻39」、「大乗義章巻12」、「菩薩戒義疏巻上」、「倶舎論光記巻14、巻15」等に出づ。<(望)また、律儀とは、律法儀式、戒律を指す。善律儀とは、即ち受戒者の所得の無表色を指し、防非止悪の功能有り。比丘戒、比丘尼戒、六法、沙彌戒、沙弥尼戒、優婆塞戒、優婆夷戒、八斎戒等別解脱律儀は、能く各種の不律儀を遮止し、定共戒及び道共戒の二者は、能く欲纏の悪戒、及び能起悪戒の煩悩を断ず、この三者は総称して善律儀と為す。「大毘婆沙論巻96」に拠るに、善律儀は僅かに欲、色二界に於いて在り、無色界に於いては存せず。此れ、三界の中に、僅かに欲界、色界に在りて各種の悪戒の法を具有するに因り、無色界は則ち欲界の悪戒に相対するに因りて、「所依遠、所縁遠、行相遠、対治遠等の四遠の作用を具有するが故に、悪戒の法無し」と言い、既に悪戒無く、亦た謂わゆる対治の事無く、之に随って亦た善戒無しと言うべし。また「大毘婆沙論巻117」、「倶舎論巻14、巻15」、「雑阿毘曇心論巻3」、「順正理論巻36、巻39」、「四分律刪繁補闕行事鈔巻中一」、「大乗義章巻12」等に出づ。<(佛)
復次佛法中出家法第一難修。如閻浮呿提梵志問舍利弗。於佛法中何者最難。舍利弗答曰。出家為難。又問。出家有何等難。答曰。出家樂法為難。既得樂法復何者為難。修諸善法難。以是故應出家。 復た次ぎに、仏法中に、出家の法は、第一に修め難し。閻浮呿提梵志の舎利弗に問えるが如し、『仏法中に於いて、何者か、最も難し』、と。舎利弗の答えて曰わく、『出家を難しと為す』、と。又問わく、『出家には、何等の難きことか有る』、と。答えて曰わく、『出家して、法を楽しむことを難しと為す』、と。『既に法を楽しむを得れば、復た何者をか、難しと為す』。『諸の善法を修むること難し』と。是を以っての故に、応に出家すべし。
復た次ぎに、
『仏法』中には、
『出家の法』が、
『第一に!』、
『修め難い!』。
例えば、
『閻浮呿提梵志』は、
『舎利弗』に、
こう問うている、――
『仏法』中には、
何が、
『最も!』、
『難しいのか?』、と。
『舎利弗』は、
答えて、こう言った、――
『出家する!』ことが、
『難しい!』と、
『思われる!』、と。
又、こう問うた、――
『出家した!』ならば、
何のような、
『難しさ!』が、
『有るのか?』、と。
答えて、こう言った、――
『出家しても!』、
『法』を、
『楽しむ!』ことは、
『難しい!』、と。
又、こう問うた、――
『法』を、
『楽しんだ!』として、
まだ、
何か、
『難しい!』ことが、
『有るのか?』、と。
答えて、こう言った、――
諸の、
『善法』を、
『修める!』ことが、
『難しい!』、と。
是の故に、
『出家すべきである!』。
  参考:『雑阿含経巻18』:『如是我聞。一時。佛住摩竭提國那羅聚落。爾時。尊者舍利弗亦在摩竭提國那羅聚落。時。有外道出家名閻浮車。是舍利弗舊善知識。來詣舍利弗。問訊.共相慰勞已。退坐一面。問舍利弗言。賢聖法.律中。有何難事。舍利弗告閻浮車。唯出家難。云何出家難。答言。愛樂者難。云何愛樂難。答言。樂常修善法難。復問。舍利弗。有道有向。修習多修習。常修善法增長耶。答言。有。謂八正道。謂正見.正志.正語.正業.正命.正方便.正念.正定。閻浮車言。舍利弗。此則善道。此則善向。修習多修習。於諸善法常修習增長。舍利弗。出家常修習此道。不久疾得盡諸有漏。時。二正士共論議已。各從座起而去』
復次若人出家時。魔王驚愁言。此人諸結使欲薄。必得涅槃墮僧寶數中。 復た次ぎに、若し人、出家すれば、時に魔王の驚き愁えて言わく、『此の人の諸の結使は、薄れんと欲す、必ず涅槃を得て、僧宝の数中に堕ちん』、と。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『出家した!』ならば、
その時、
『魔王』は、
『驚き!』、
『愁えて!』、こう言うだろう、――
此の、
『人』の、
諸の、
『結使』が、
『薄れようとしている!』、
必ず、
『涅槃』を、
『得て!』、
『僧宝の数』中に、
『堕ちてしまうだろう!』、と。
復次佛法中出家人。雖破戒墮罪。罪畢得解脫。如優缽羅華比丘尼本生經中說。佛在世時。此比丘尼得六神通阿羅漢。入貴人舍常讚出家法。語諸貴人婦女言。姊妹可出家。諸貴婦女言。我等少壯容色盛美持戒為難。或當破戒。 復た次ぎに、仏法中の出家人は、破戒して罪に堕つと雖も、罪畢(おわ)れば解脱を得。『優鉢羅華比丘尼本生経』中に説けるが如し、仏の在世時、此の比丘尼は六神通を得たる阿羅漢となり、貴人の舎に入りて、常に出家の法を讃じて、諸の貴人の婦女に語りて言わく、『姉妹、出家すべし』、と。諸の貴婦女の言わく、『我等少壮にして、容色盛美なれば、持戒を難しと為す。或いは当に破戒すべし』、と。
復た次ぎに
『仏法』中に、
『出家人』は、
『破戒して!』、
『罪』に、
『堕ちた!』としても、
『罪』が、
『終れば!』、
『解脱』を、
『得ることができる!』。
例えば、
『優鉢羅華比丘尼本生経』中には、こう説かれている、――
『仏』の、
『在世の時』、
此の、
『比丘尼』は、
『六神通』を、
『得た!』、
『阿羅漢となり!』、
『貴人』の、
『舎』に、
『入って!』、
常に、
『出家の法』を、
『讃歎して!』、
諸の、
『貴人の婦女』に、
語って、こう言っていた、――
姉妹!
『出家なさいまし!』、と。
諸の、
『貴婦女』は、こう言った、――
わたし達は、
『若くて!』、
『美貌も!』、
『衰えていません!』、
『持戒する!』ことは、
『難しい!』と、
『思います!』、
きっと、
『破戒することになりましょう!』、と。
  優鉢羅華比丘尼(うぱらけびくに):阿羅漢比丘尼の名。『大智度論巻11(上)注:蓮華色比丘尼』参照。
比丘尼言。但出家破戒便破。問言。破戒當墮地獄。云何可破。答言。墮地獄便墮。諸貴婦女笑之言。地獄受罪云何可墮。 比丘尼の言わく、『但だ出家して、戒を破らば便ち破れ』、と。問うて言わく、『破戒すれば、当に地獄に堕つべし。云何が破るべき』、と。答えて言わく、『地獄に堕ちなば、便ち堕ちよ』、と。諸の貴女の之を笑うて言わく、『地獄には、罪を受けん。云何が墮つべき』。
『比丘尼』は、
こう言った、――
但だ、
『出家して!』、
『戒』を、
『破る!』なら、
『破る!』で、
あっさり、
『破りましょう!』、と。
問うて、こう言った、――
『戒』を、
『破れば!』、
『地獄』に、
『堕ちますのに!』。
何故、
『破ってもいい!』って、
『仰有るの?』。
答えて、こう言った、――
『地獄』に、
『堕ちる!』なら、
『堕ちる!』で、
あっさり、
『堕ちましょう!』、と。
『諸の貴婦女』は、
『笑って!』、こう言った、――
『地獄』では、
『罪』を、
『受けますのに!』、
何故、
『堕ちてもいい!』って、
『仰有るの?』、と。
比丘尼言。我自憶念本宿命。時作戲女著種種衣服而說舊語。或時著比丘尼衣以為戲笑。以是因緣故。迦葉佛時作比丘尼。自恃貴姓端政。心生憍慢而破禁戒。破戒罪故墮地獄受種種罪。受罪畢竟值釋迦牟尼佛。出家得六神通阿羅漢道。 比丘尼の言わく、『我れ自ら本の宿命を憶念するに、時には戯女と作りて、種種の衣服を著け、旧語を説き、或いは時に比丘尼の衣を著けて、以って戯笑されたるに、是の因縁を以っての故に、迦葉仏の時には、比丘尼と作りたるも、自ら貴姓と端政なるを恃みて、心に憍慢を懐きて禁戒を破り、破戒の罪の故に地獄に堕ちて、種種の罪を受け、罪を受け畢竟りて、釈迦牟尼仏に値い、出家して六神通の阿羅漢の道を得たり。
『比丘尼』は、
こう言った、――
わたくしは、
自ら、
『本』の、
『宿命』を、
『憶念してみます!』と、――
時には、
『道化の女』と、
『作って!』、
種種の、
『衣服』を、
『著けて!』、
古い、
『物語など!』を、
『説いたりしていたのです!』が、
或る時、
『比丘尼』の、
『衣』を、
『著けて!』、
それで、
『道化をしていました!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『迦葉仏の時』には、
『比丘尼』と、
『作りながら!』、
自らの、
『貴姓である!』ことや、
『端政である!』ことを、
『恃(たの)んで!』、
『心』に、
『憍慢』を、
『生じ!』、
『禁戒』を、
『破る!』と、
『戒』を、
『破った!』、
『罪』の故に、
『地獄』に、
『堕ちて!』、
種種の、
『罪』を、
『受け!』、
『罪』を、
『受け畢る!』と、
『釈迦牟尼仏』に、
『値って!』、
『出家し!』、
『六神通』の、
『阿羅漢の道』を、
『得たのです!』。
  戯女(けにょ):女道化。
  旧語(くご):昔の話。
  戯笑(けしょう):冗談を言うて笑う。
以是故知。出家受戒。雖復破戒以戒因緣故。得阿羅漢道。若但作惡無戒因緣不得道也。 是を以っての故に知る、出家して受戒すれば、復た破戒すと雖も、戒の因縁を以っての故に、阿羅漢道を得るも、若し但だ悪を作して、戒の因縁無くんば、道を得ず』、と。
是の故に、
こう知ります、――
『出家』して、
『戒』を、
『受ければ!』、
復た、
『戒』を、
『破った!』としても、
『戒』の、
『因縁』の故に、
『阿羅漢道』を、
『得られる!』が、
若し、
但だ、
『悪』を、
『作して!』、
『戒』の、
『因縁』が、
『無ければ!』、
『道』を、
『得ることはない!』、と。
我乃昔時世世墮地獄。地獄出為惡人。惡人死還入地獄都無所得。今以此證知出家受戒。雖復破戒以是因緣可得道果。 我は、乃昔の時、世世に地獄に堕ち、地獄を出づれば悪人と為り、悪人死すれば、還って地獄に入りたるも、都(す)べて所得無し。今此を以って証知すらく、『出家して受戒すれば、復た破戒すと雖も、是の因縁を以って、道果を得』、と。
わたしは、
昔、
『世世』に、
『地獄』に、
『堕ち!』、
『地獄』を、
『出れば!』、
『悪人』と、
『為り!』、
『悪人』が、
『死ねば!』、
還って、
『地獄』に、
『入り!』、
結局、
何も、
『得られませんでした!』が、
今、
此の、
『事』を以って、こう証知しました、――
『出家して!』、
『戒』を、
『受ければ!』、
復た、
『戒』を、
『破った!』としても、
是の、
『因縁』の故に、
『仏道』の、
『果』を、
『得ることができる!』、と。
  乃昔(ないしゃく):むかし。先前。往日。
復次如佛在祇洹。有一醉婆羅門。來到佛所求作比丘。佛敕阿難與剃頭著法衣。醉酒既醒驚怪己身忽為比丘即便走去。諸比丘問佛。何以聽此醉婆羅門作比丘。 復た次ぎに、仏の祇桓に在せるが如き、有る一酔婆羅門来たりて、仏所に到り、比丘と作らんことを求む。仏は、阿難に勅して、与(ため)に頭を剃りて、法衣を著けしむ。酔うたる酒既に醒めぬれば、己の身の忽(たちま)ち比丘と為りたるを驚き怪しみて、便ち走り去れり。諸の比丘の仏に問わく、『何を以ってか、此の酔婆羅門を聴(ゆる)して、比丘と作らしめたまえる』、と。
復た次ぎに、
例えば、
『仏』が、
『祇桓』に居られると、――
有る、
『酔った!』、
『一婆羅門』が来て、
『仏の所』に到り、
『比丘』に、
『作りたい!』と、
『求めた!』。
『仏』は、
『阿難』に、こう命じられた、――
其の、
『頭』を、
『剃って!』、
『法衣』を、
『著けさせよ!』と。
『婆羅門』は、
『酔っていた!』、
『酒』が、
『醒める!』と、
『己の身』が、
『突然』、
『比丘』と、
『為っている!』ので、
『驚いて!』、
『怪しみながら!』、
『走り去った!』。
諸の、
『比丘』が、
『仏』に、こう問うた、――
何故、
此の、
『酔った!』、
『婆羅門』に、
『聴(ゆる)して!』、
『比丘』と、
『作らせられたのですか?』、と。
佛言。此婆羅門無量劫中初無出家心。今因醉故暫發微心。以是因緣故後當出家得道。如是種種因緣。出家之利功德無量。以是故白衣雖有五戒不如出家。 仏の言わく、『此の婆羅門は、無量劫中に、初より出家の心無きも、今酔うに因るが故に、暫く微心を発せり。是の因縁を以っての故に、後に当に出家して道を得べし』、と。是の如き種種の因縁に、出家の利と功徳は無量なり。是を以っての故に、白衣に五戒有りと雖も、出家には如かざるなり。
『仏』は、
こう言われた、――
此の、
『婆羅門』は、
『無量劫』中に、
初より、
『出家の心』が、
『無かった!』が、
今、
『酔うた!』、
『因縁』の故に、
突然、
『微かな心』を、
『発すことができた!』。
是の、
『因縁』の故に、
後に、
『出家して!』、
『道』を、
『得ることになろう!』、と。
是のような、
種種の、
『因縁』で、
『出家』の、
『利益』と、
『功徳』とは、
『無量であり!』、
是の故に、
『白衣』には、
『五戒』が、
『有った!』としても、
『出家』には、
『及ばない!』のである。
  (ざん):しばらく。短時間( temporary )。突然( suddenly )。



出家の律儀

是出家律儀有四種。沙彌沙彌尼式叉摩那比丘尼比丘。 是の出家の律儀には、四種有り、沙弥と沙弥尼、式叉摩那、比丘尼、比丘なり。
是の、
『出家』の、
『律儀』には、
『四種』有り、
『沙弥と沙弥尼』、
『式叉摩那』、
『比丘尼』、
『比丘である!』。
云何沙彌沙彌尼。出家受戒法。白衣來欲求出家。應求二師。一和上。一阿闍梨。和上如父阿闍梨如母。以棄本生父母。當求出家父母。著袈裟剃除鬚髮。應兩手捉和上兩足。何以捉足。天竺法以捉足。為第一恭敬供養。阿闍梨應教十戒。如受戒法。沙彌尼亦如是。唯以比丘尼為和上。 云何が、沙弥、沙弥尼の出家受戒の法なる。白衣来たりて、出家を求めんと欲すれば、応に二師を求むべし、一は和上、一は阿闍梨なり。和上は父の如く、阿闍梨は母の如し。本の生ぜし父母を棄つるを以って、当に出家の父母を求むべし。袈裟を著け、鬚髪を剃除し、応に両手に和上の両足を捉るべし。何を以ってか、足を捉る。天竺の法に、足を捉るを以って、第一の恭敬、供養と為せばなり。阿闍梨は、応に十戒を教うべきこと、受戒法の如し。沙弥尼も亦た是の如きも、唯だ比丘尼を以って和上と為す。
『沙弥、沙弥尼』の、
『出家、受戒の法』とは、
何のようなものか?、――
『白衣』が来て、
『出家』を、
『求めよう!』と、
『思えば!』、
『二師』を、
『求めなくてはならない!』、
『一人』は、
『和上であり!』、
『一人』は、
『阿闍梨である!』。
『和上』は、
『父』に、
『似ており!』、
『阿闍梨』は、
『母』に、
『似ている!』。
本、
『生まれた!』所の、
『父』と、
『母』とを、
『棄てた!』ので、
『出家』の、
『父』と、
『母』とを、
『求めなくてはならない!』。
『白衣』は、
『袈裟』を、
『著けて!』、
『鬚(ひげ)』と、
『髪(かみ)』とを、
『剃り除いたならば!』、
『両手』で、
『和上の両足』を、
『捉らなくてはならない!』。
何故、
『両足』を、
『捉るのか?』、――
『天竺の法』には、
『両足』を、
『捉る!』ことが、
『第一』の、
『恭敬であり!』、
『供養だからである!』。
『阿闍梨』が、
『十戒』を、
『教えなくてはならない!』が、
『受戒の法』と、
『同じである!』。
『沙弥尼』も、
亦た、
『是の通りである!』が、
唯だ、
『比丘尼』を、
『和上とするだけである!』。
  和上(わじょう):梵語 upaadyaaya、また和尚と云う。
  和尚(かしょう):西域語の転訛。梵名鄔波駄耶 upaadyaaya、また和上、和闍、和社、殟社、鶻社、烏社に作る。近誦、親教師、力生、依学等と訳す。受戒の人の為に師表となる者を云う。即ち戒和尚なり。「大智度論巻13」に、「何をか沙弥沙弥尼の出家受戒の法と云う。白衣来たりて出家を求めんと欲せば、応に二師を求むべし。一は和上、一は阿闍梨なり。和上は父の如く、阿闍梨は母の如し。本生の父母を捨つるを以って当に出家の父母を求むべし」と云い、また「四分律巻33」に、和尚及び阿闍梨の起原を説き、「根本説一切有部百一羯磨巻1」に、鄔波駄耶に二種あり、一は即ち十学処を与え、他は即ち近円を授くと云えるもの即ちこれなり。和尚の語に就きては、「根本説一切有部百一羯磨巻1」の夾註に「鄔波駄耶は訳して親教師と云う。和上と云うは、即ちこれ西方時俗の語にしてこれ典語に非ず。然るに諸経律の梵本には皆鄔波駄耶と言うなり」と云い、「玄応音義巻14」に、「和上とは、菩薩内戒経に和闍に作るは、皆于闐国等の訛なり。応に郁波弟耶夜と言うべし、此には近誦と云う。(中略)また鄔波拕耶は此に親教と云い、旧訳には知罪知無罪と云い、名づけて和上と為すなり」と云えり。また「沙弥塞羯磨本」、「四分律巻39」等に出づ。<(望)
  阿闍梨(あじゃり):梵語 aacaarya、巴梨 aacariya、また阿舎梨、阿祇利、阿祇黎、阿闍黎、阿遮利夜、阿遮利耶、阿遮梨耶に作る。また略して闍梨とも云う。規範師、又は正行と訳す。弟子を教授し、その規則軌範たるべき師を云う。「玄応音義巻21」に、「阿遮利耶は此に規範師と云う。義訳して正行と云う。或は云わく、善法の中に於いて教授して知らしむるを阿闍梨と名づく」とあり。元と婆羅門が弟子を引入して之に吠陀等の儀則を教示する者を称したりしが、後仏教教団にも之を採用するに至れり。「四分律巻34」に和尚命終して人の教うるなく、教授を被らざるを以って威儀を案ぜず、著衣斉整ならず、乞食如法ならず、処処に不浄の食を受け、婆羅門の聚会法と異なることなし。世尊言わく、今より已去、阿闍梨あるを聴し、弟子あるを聴す。阿闍梨は弟子に於いて当に児の如く想うて展転相教え、展転相奉事すべしと云えるこれなり。「四分律行事鈔巻上之三」には、阿闍梨に出家、受戒、教授、受経、依止の五種の別ありとし、「慧苑音義巻上」には羯磨、威儀、依止、受経、十戒の五種を挙げ、また西域に別に君持阿闍梨ありと云い、「四分律刪補随機羯磨巻上」には、律の中に凡べて六種の阿闍梨ありとし、剃髪、出家、受経、教授、羯磨及び依止の名を出せり。この中、剃髪阿闍梨とは剃髪の師を云い、出家阿闍梨とは即ち十戒阿闍梨にして、出家得度の時十戒を授くる師を云い、受戒阿闍梨とは即ち羯磨阿闍梨にして、具足戒を受くる時、為に羯磨を為すの師を云い、教授阿闍梨とは、即ち威儀阿闍梨にして、具足戒を受くる時、威儀を教授する師を云い、受経阿闍梨とは経を読み、若しくは義を説き、乃至一の四句偈を受習する師を云い、依止阿闍梨とは之に依止し、乃至一宿も住することを得しむる師を云うなり。また「大日経巻5阿闍梨真実智品」、「四分律巻39」、「五分律巻16」、「四分律行事鈔巻上」等に出づ。<(望)
  十戒(じっかい):十種の戒の意。沙弥、及び沙弥尼の受持すべき十戒。又沙弥戒、沙弥尼戒とも云う。即ち勤策律儀、及び勤策女律儀なり。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不婬泆戒、四に不妄語戒、五に不飲酒戒、六に不塗飾香鬘戒、七に不歌舞観聴戒、八に不坐高広大牀戒、九に不非時食戒、十に不蓄金銀宝戒なり。「沙弥十戒法并威儀」に、「我れ某甲、和上某甲に因り、仏に隨いて出家し、俗服を捨てて袈裟を著す。形寿を尽くすまで殺生せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで盗まず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで婬せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで妄語せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで飲酒せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで香華鬘を著けず、香を身に塗らず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで歌舞倡伎せず、往きて観聴せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで高広大床に坐せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで非時に食せず、沙弥戒を持たん。形寿を尽くすまで生像金銀宝物を捉持せず、沙弥戒を持たん」と云い、又「沙弥尼離戒文」に、「十戒あり、一に形寿を尽くすまで、殺生するを得ず、人をして殺生せしむるを得ざれ。二に形寿を尽くすまで、盗むを得ず、人をして盗ましむるを得ざれ。三に形寿を尽くすまで、婬するを得ず、人をして婬せしむるを得ざれ。四に形寿を尽くすまで、嫁するを得ず、人をして嫁せしむるを得ざれ。五に形寿を尽くすまで、妄語するを得ず、人をして妄語せしむるを得ざれ。六に形寿を尽くすまで、歌舞するを得ず、人をして歌舞せしむるを得ざれ、筝を弾じ笛を吹くことを得ざれ。七に形寿を尽くすまで、香華脂粉を著くるを得ず、人をして脂粉を著けしむるを得ざれ。八に形寿を尽くすまで、高好刻鏤の床上に臥するを得ず、人をして好床を作りて臥せしむるを得ざれ。九に形寿を尽くすまで、飲酒するを得ず、人をして飲酒せしむるを得ざれ。十に形寿を尽くすまで、日中を過ぎて復た食するを得ず、人をして食せしむるを得ざれ」と云える是れなり。此の中、初の五戒は優婆塞所持の五戒に同じきも、優婆塞戒に在りては第三を不邪婬戒となすを異とし、又前の九戒は八斎戒に同じと雖も、八斎戒には今の第六、第七を合して一戒となすを異とす。又第十不蓄金銀宝戒は三十捨堕中の第十八、九十単堕中の第八十二にして、独り出家に限り制するなり。又「沙弥十戒儀則経」、「沙弥尼戒経」、「大愛道比丘尼経巻上」、「文殊尸利問経巻上世間戒品」、「倶舎論巻14」、「同光記巻14」、「大蔵法数巻56」等に出づ。<(望)
式叉摩那受六法二歲。 式叉摩那は、六法を受くること二歳なり。
『式叉摩那』は、
『六法』を、
『二年間』、
『受けなくてはならない!』。
  六法(ろっぽう):沙弥尼にして具足戒を受けんと欲する者は、十八歳より二十歳に至る満二年間、別に六法を学して、その間に胎の有無を験し、且つ行及び道心の堅固なるを試して、出家生活に習行せしむ、これを式叉摩那と為す。式叉摩那の学する六法とは、一に不作不浄行(不婬)、二に不盗取五銭、三に不断人命、四に自不称得上人法、五に不過中食(不得非時食)、六に不飲酒なり。<(望)、『大智度論巻9(上)注:五衆』参照。
問曰。沙彌十戒便受具足戒。比丘尼法中。何以有式叉摩那。然後得受具足戒。 問うて曰く、沙弥は十戒にして、便ち具足戒を受く。比丘尼法中には、何を以ってか、式叉摩那有りて、然る後に、具足戒を受くるを得る。
問い、
『沙弥』は、
『十戒だけで!』、
すぐに、
『具足戒(二百五十戒)』を、
『受けられる!』のに、
『比丘尼法』中には、
何故、
『式叉摩那』が、
『有って!』、
その後、
『具足戒』を、
『受けなくてはならないのですか?』。
答曰。佛在世時。有一長者婦。不覺懷妊出家受具足戒。其後身大轉現。諸長者譏嫌比丘。因此制。有二歲學戒受六法。然後受具足戒。 答えて曰く、仏の在世の時、有る一長者婦、懐妊を覚えずして出家し、具足戒を受くるも、其の後、身の大なること転た現るれば、諸の長者、比丘を譏嫌す。此れを制するに因りて、二歳の戒を学びて、六法を受くる有り、然る後に具足戒を受く。
答え、
『仏』の、
『在世の時』、
有る、
『一長者の婦』が、
『懐妊』を、
『自覚せず!』に、
『出家』して、
『具足戒』を、
『受けた!』が、
その後、
『身』が、
『大きくなった!』のが、
『はっきりしてきた!』ので、
諸の、
『長者たち』は、
『比丘』を、
『譏嫌するようになった!』。
此の、
『事』を、
『制した!』、
『因縁』で、
『二年間』、
『戒を学び!』、
『六法を受けた!』後、
『具足戒』を、
『受けるのである!』。
  譏嫌(きげん):非難し嫌悪する。
問曰。若為譏嫌。式叉摩那豈不致譏。 問うて曰く、若し、譏嫌さるれば、式叉摩那は、豈に譏(そし)りを致さざるや。
問い、
若し、
『譏嫌された!』とすれば、
『式叉摩那』は、
何故、
『譏嫌』を、
『招かないのですか?』。
答曰。式叉摩那未受具足戒。譬如小兒亦如給使。雖有罪穢人不譏嫌。是名式叉摩那受六法。 答えて曰く、式叉摩那は、未だ具足戒を受けざれば、譬えば小児の如き、亦たは給使の如く、罪穢有りと雖も、人は譏嫌せず。是れを式叉摩那と名づけ、六法を受く。
答え、
『式叉摩那』は、
未だ、
『具足戒』を、
『受けていない!』ので、
譬えば、
『小児』か、
『給使』のように、
『罪の穢』が、
『有った!』としても、
『人』は、
『譏嫌しない!』のと、
『同じである!』。
是れを、
『式叉摩那』といい、
『六法』を、
『受ける!』。
是式叉摩那有二種。一者十八歲童女受六法。二者夫家十歲得受六法。若欲受具足戒應二部僧中。用五衣缽盂。比丘尼。為和上及教師。比丘為戒師。餘如受戒法。 是の式叉摩那には、二種有り、一には十八歳の童女の六法を受くる、二には夫の家にて十歳なれば、六法を受くるを得。若し具足戒を受けんと欲すれば、応に二部僧中に、五衣と鉢盂とを用いて、比丘尼を和上、及び教師と為し、比丘を戒師と為すべし。余は受戒法の如し。
是の、
『式叉摩那』には、
『二種』有り、
一には、
『童女』が、
『十八歳で!』、
『六法』を、
『受ける!』、
二には、
『夫』の、
『家族として!』、
『十歳になれば!』、
『六法』を、
『受けることができる!』。
若し、
『具足戒』を、
『受けよう!』と、
『思えば!』、
『二部』の、
『僧』中に、
『五衣』と、
『鉢盂』とを、
『用意し!』、
『比丘尼』を、
『和上』と、
『教師とし!』、
『比丘』を、
『戒師としなくてはならず!』、
その他は、
『受戒法』と、
『同じである!』。
  二部僧(にぶそう):比丘僧及び比丘尼僧を云う。
  五衣(ごえ):梵語 paJca ciivaraaNiの訳。五種の衣の意。また尼五衣とも称す。即ち比丘尼の著用すべき五種の衣を云う。一に僧伽梨saNghaaTi、二に鬱多羅僧 uttara- asaGgha、三に安陀会 antarvaasa、四に僧祇支 saMkakSikaa、五に厥修羅 kusuula(kusuulika)なり。「南海寄帰内法伝巻2尼衣喪制」に、「尼に五衣あり、一に僧伽知、二に嗢呾羅僧伽、三に安呾婆娑、四に僧脚崎、五に裙なり。四衣の儀軌は大僧と異ならず、唯裙片のみ別なる処あり。梵に俱蘇洛迦と云う、訳して篅衣と為す」と云えるこれなり。この中、前の三は謂わゆる比丘の三衣にして、諸律に説く所一定せりと雖も、後の二衣に関しては異説あり。即ち「十誦律巻46」、「根本説一切有部百一羯磨巻2」等には、今の如く覆肩衣、厥修羅の二種とし、「摩訶僧祇律巻30」、「五分律巻29」等には覆肩衣、雨衣(または水浴衣)とし、「摩訶僧祇律巻38」には僧祇支、浴衣(または雨浴衣)とし、「四分律巻27、巻48」には、僧祇支、覆肩衣の二種となせり。蓋し厥修羅 kusuulaは米を盛る円器にして、篅衣と訳し、尼の下裙を称す。これその形状より附せられたる名称なるが如し。然るに此の語は、洗浴の義なる kSaalaとその音相類するを以って、或は浴衣と訳せられ、また kuzala神の司る雨 varSaをkuzalaと称することあるより、或は雨衣と訳せられたるものならんか。されば浴衣、または雨衣等と訳するは正しからずというべく、即ち覆肩衣及び篅衣を後の二衣となすべし。四分律に祇支、覆肩の二衣を挙げ、厥修羅を除けるは、恐らく誤訳たるを免れず。「南海寄帰内法伝巻2」に、「梵本を准𢮦するに覆肩衣の名なし。即ちこれ僧脚崎衣にして、此れ乃ち祇支の本号なり。既に裙を道わず、多くはこれ伝訳の参差なり」と云い、また「四分律疏飾宗義記巻5末」に、「覆肩衣とは梵に僧脚崎と云う、此に掩腋衣と云う。即ち僧祇支なり。翻じて覆肩衣となすこれなり。量は前説の如し。旧に祇支に作る。偏に左袖に安じ、下は連裙に作る。復た祇支の外に別に覆肩衣を立つるは誤なり」と云えるによりて知るを得べし。また「四分律行事鈔巻下」、「四分律刪補随機羯磨巻下」等に出づ。<(望)
  鉢盂(はちう):はち。具さに梵語鉢多羅 paatra、また缽盂に作り、盂は漢語、鉢(缽)は梵語なり。食を受くる為の器の意。<(佛)
  羯磨(かつま):梵語 karma、業、所作、事、辦事、または辦事作法と訳す。即ち聖法を秉して前事を辨得し、必ず成済の功あるを云う。即ち一種の宣告式なり。『大智度論巻3(下)注:羯磨』参照。
  教師(きょうし):即ち阿闍梨と云う。『大智度論巻13(下)注:阿闍梨』参照。
  戒師(かいし):即ち羯磨師、羯磨阿闍梨と云う。
  羯磨阿闍梨(かつまあじゃり):梵名 karma- aacaarya、戒場に於いて、作礼乞戒等の規式を受者に指南し、羯磨を秉する阿闍梨を云う。また羯磨師とも名づく。「僧羯磨巻上」に、「今大徳を請じて羯磨阿闍梨と為す。願わくは大徳、我が為に羯磨阿闍梨と作れ。我れ大徳に依るが故に大戒を得受す」と云い、「同疏済縁記巻3之三」に、「教授、羯磨は即ち具戒を授くる者なり」と云えるこれなり。また「四分律巻39」、「同行事鈔巻上三」、「同資持記巻上三之三」等に出づ。<(望)、『大智度論巻13(下)注:阿闍梨』参照。
略說則五百戒。廣說則八萬戒。第三羯磨訖。即得無量律儀。成就比丘尼。 略説すれば、則ち五百戒、広説すれば、則ち八万戒なるも、第三羯磨訖(おわ)れば、即ち無量の律儀を得て、比丘尼を成就す。
『比丘尼』の、
『戒』は、
略せば、
『五百戒』を、
『説き!』、
広くは、
『八万戒』を、
『説かねばならない!』が、
『第三』の、
『羯磨(宣告)』が、
『終了すれば!』、
即ち、
『無量』の、
『律儀(悪を遮止する!)』を、
『得て!』、
『比丘尼として!』、
『成就することになる!』。
比丘則有三衣缽盂。三師十僧如受戒法。略說二百五十。廣說則八萬。第三羯磨訖。即得無量律儀法。是總名為戒。是為尸羅
大智度論卷第十三
比丘なれば、則ち三衣、鉢盂、三師、十僧有ること、受戒法の如し。略説すれば、二百五十、広説すれば、則ち八万なり。第三羯磨訖れば、即ち無量の律儀法を得。是れを総じて名づけて、戒と為し、是れを尸羅と為す。
大智度論巻第十三
『比丘』には、
則ち、
『三衣』と、
『鉢盂』と、
『三師』と、
『十僧』が、
『有る!』ことは、
『受戒の法』と、
『同じである!』。
『比丘』の、
『戒』は、
略して、
『二百五十戒』を、
『説き!』、
広ければ、
『八万戒』を、
『説かねばならない!』が、
『第三』の、
『羯磨』が、
『終了すれば!』、
即ち、
『無量』の、
『律儀の法』を、
『得る!』。
是れを、
総じて、
『戒』と、
『呼んでいる!』が、
是れが、
『尸羅である!』。

大智度論巻第十三
  三衣(さんえ):三種の法衣。『大智度論巻2(上)注:三衣』参照。
  三師十僧(さんしじっそう):また三師七証と称す。
  三師七証(さんししちしょう):三師と七証師との併称。また十師、或は十僧とも称す。即ち具足戒を授くる時、戒場に参会すべき十人の師僧を云う。戒和上と羯磨師と教授師とを三師と称し、七人の尊証師を七証と名づく。「四分律巻31」に、「今より已去、十人を満じて当に具足戒を授くべきことを聴す」と云い、「十誦律巻21」に、「十僧現前し、白四羯磨して具足戒を受くることを聴す」と云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」に、「凡そ具戒は功徳深重なり、多縁多力を以ってせずんば致得するに由なし。この故に三師十僧白四羯磨し、而して後に得するなり」と云えるこれなり。これ蓋し大戒授受の軌式にして、三師七証を満ぜざれば作法得戒するを得ざるを説けるものなり。また「毘尼母経巻1」、「五分律巻17」、「摩訶僧祇律巻24」、「四分律刪補随機羯磨巻上」、「四分律行事鈔資持記巻上三之三」等に出づ。<(望)


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