巻第十三(上)
大智度論釋初品中尸羅波羅蜜義第二十一
 1.持戒、破戒の相
大智度論釋初品中戒相義第二十二之一
 2.殺、不殺の相
 3.盗、不盗の相
 4.邪淫、不邪婬の相
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大智度論釋初品中尸羅波羅蜜義第二十一(卷第十三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


持戒、破戒の相

【經】罪不罪不可得故。應具足尸羅波羅蜜 罪と、罪ならざると不可得の故に、応に尸羅波羅蜜を具足すべし。
『罪であるのか?』、
『罪でないのか?』は、
『知ることができない!』が故に、
『尸羅波羅蜜』を、
『具足すべきである!』。
  不可得(ふかとく):得られない( unobtainable )、◯梵語 ampalabhya, anupalambha, anupalabdhi, anupalabdha 等の訳、知覚/認識の欠落( non- perception, non- recognition )の義、知ることのできない/不可知の( Unknowable )/いかに探し求めようとも、決して知り得ない事物( That which cannot be known, no matter how hard one seeks )/仏教に於いては、有形にして、変化しない、それ自身の実体は、有らゆる存在の中に於いて、見つける/認めることができない( In Buddhism, a concrete, unchanging self- entity cannot be found in all of existence )の意。◯得られない/知覚されない/明了にされない( unobtained, unperceived, unascertained )の義、不可能な/成し遂げられない( Impossible, unattainable, unachievable )の意。
  尸羅波羅蜜(しらはらみつ):梵語 ziila- paaramitaa、持戒波羅蜜とも称す。尸羅は、原、動詞語根ziil(~を好む、~に従事するの義)由り転じ来たれる名詞にして、行為、習慣、性格、道徳、敬虔、美徳等の諸義を含有し、六波羅蜜中の戒行と為す。乃ち仏の制定せらるる所にして、弟子をして受持せしめ、以って防過止悪の用と為す。<(佛)
  六波羅蜜(ろくはらみつ):梵語 SaTpaaramitta、具さに六波羅蜜多とも称し、六度、六度無極、或は六到彼岸と訳す。彼岸に到達すべき勝行に六種の別あることを云う。一に檀那波羅蜜 daana- paaramitaa、二に尸羅波羅蜜 ziila- p.、三に羼提波羅蜜 kSaanti- p.、四に毘梨耶波羅蜜 viirya- p.、五に褝那波羅蜜 dhyaana- p.、六に般若波羅蜜 prajJaa- p.なり。「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩は不住の法を以って般若波羅蜜の中に住し、無所捨の法を以って応に檀那波羅蜜を具足すべし、施者、受者、及び財物は不可得なるが故なり。罪不罪は不可得なるが故に応に尸羅波羅蜜を具足すべし、心動ぜざるが故にまさに羼提波羅蜜を具足すべし、身心精進して懈怠せざるが故に応に毘梨耶波羅蜜を具足すべし、不乱不味なるが故に応に褝那波羅蜜を具足すべし、一切法に於いて著せざるが故に応に般若波羅蜜を具足すべし」と云えるこれなり。この中、檀那波羅蜜はまた檀波羅蜜、陀那波羅蜜に作り、布施波羅蜜、施波羅蜜、或は布施度無極と名づく。即ち財施、無畏施、法施を行じ、能く慳貪を対治し、貧窮を除くを云う。尸羅波羅蜜はまた尸波羅蜜に作り、持戒波羅蜜、戒波羅蜜、或は戒度無極と名づく。即ち律儀戒、摂善法戒、饒益有情戒を持し、能く悪業を対治し、身心清涼なるを云う。羼提波羅蜜はまた羼底波羅蜜、羼波羅蜜に作り、忍辱波羅蜜、安忍波羅蜜、忍波羅蜜、或は忍辱度無極と名づく。耐怨害忍、安受苦忍、諦察法忍を修し、能く瞋恚を対治し、その心安住するを云う。毘梨耶波羅蜜はまた毘離耶波羅蜜、惟逮波羅蜜に作り、精進波羅蜜、進波羅蜜、或は精進度無極と名づく。被甲精進、方便精進、饒益有情精進を行じ、能く懈怠を対治し、善法を生長するを云う。褝那波羅蜜はまた禅波羅蜜、持訶那波羅蜜に作り、禅定波羅蜜、静慮波羅蜜、或は禅度無極と名づく。現法楽住静慮、引発神通静慮、饒益有情静慮を修し、能く乱意を対治し、内意を摂持するを云う。般若波羅蜜はまた般羅若波羅蜜に作り、智慧波羅蜜、慧波羅蜜、或は明度無極と名づく。縁世俗慧、縁勝義慧、縁有情慧を得、愚癡を対治し、諸法の実相を暁了するを云うなり。六波羅蜜の次第に関し、「大乗荘厳経論巻7」には前後、下上、麁細の三由を挙げ、前後とは資財を顧みざるに由るが故に戒を持し、戒を持し已りて能く忍辱を起し、忍辱已りて能く精進を起し、精進已りて能く禅定を起し、禅定已りて能く真法を解す。下上とは下は施、上は戒、乃至下は定、上は智なり。麁細とは麁は施、細は戒、乃至麁は定、細は智なりと云い、「解深密経巻4」には六波羅蜜を立つるに二由ありとし、一に前の三は有情を饒益す、即ち布施に由るが故に、資具を摂受して有情を饒益し、持戒に由るが故に、損害逼迫悩乱を行ぜずして有情を饒益し、忍辱に由るが故に、彼の損害逼迫悩乱に於いて能く忍受し有情を饒益す。二に後の三は諸の煩悩を対治す、即ち精進に由るが故に、未だ一切の煩悩を永伏せず、亦た未だ一切の随眠を永害せずと雖も、能く勇猛に諸の善品を修して煩悩の為に傾動せられず、静慮に由るが故に永く煩悩を伏し、般若に由るが故に永く随眠を害すと云えり。また此の六波羅蜜は戒定慧三学の所摂にして、「解深密経巻4」には、施戒忍の三を増上戒学、禅を増上心学、般若を増上慧学の所摂、進を三学に通ずとし、「菩薩地持経巻10」には進を亦た増上戒学の所摂となせり。また「解深密経巻4」、「菩薩地持経巻1」には、施戒忍の三を福徳資糧、般若を智慧資糧、進禅の二を福智の両資糧に通ずとなし、「優婆塞戒経巻2」には、施戒進の三を福荘厳、忍禅慧の三を智荘厳となせり。蓋し六波羅蜜は、菩薩修行の方規として大乗諸経論に広説せらるる所なりと雖も、説一切有部に於いては唯施戒進及び般若の四波羅蜜を説くに過ぎず、「大毘婆沙論巻178」に、「外国師は説く、六波羅蜜多ありと。謂わく前の四に於いて忍と静慮を加う。迦湿弥羅国の緒論師は言わく、後の二波羅蜜多は即ち前の四の所摂なり。謂わく忍は戒の中に摂在し、静慮は般若に摂在す。戒慧満ずる時、即ち彼れを満と名づくるが故なり。復た別に六波羅蜜多を説くことあり、謂わく前の四に於いて聞及び忍を加う」と云えり。之に依るに迦湿弥羅の緒論師は唯四波羅蜜を説き、外国師は今の六波羅蜜の説を成し、更にまた四波羅蜜に聞及び忍を加えて六波羅蜜となすの説ありしを知るなり。また「六度集経」、「大般若経巻579至巻600」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻5至巻10」、「優婆塞戒経巻1、巻4至巻7」、「旧華厳経巻5」、「大法炬陀羅尼経巻10」、「大智度論巻11至巻18」、「瑜伽師地論巻39至巻43」、「大乗荘厳経論巻8」、「梁訳摂大乗論巻10」、「大乗阿毘達磨雑集論巻11、巻12」、「定唯識論巻9」、「大乗義章巻12」等に出づ。<(望)
【論】尸羅(秦言性善)好行善道不自放逸。是名尸羅。或受戒行善或不受戒行善。皆名尸羅。 尸羅(秦に性善と言う)とは、善き道を行くを好みて、自ら放逸せず、是れを尸羅と名づけ、或いは受戒して善を行い、或いは、受戒せずして、善を行う、皆、尸羅と名づく。
『尸羅』を、
『性善』という、――
『善い道』を、
『行く!』ことを、
『好んで!』、
『自ら』を、
『放逸にしない!』こと、
是れを、
『尸羅』と、
『称する!』。
或いは、
『受戒して!』、
『善』を、
『行う!』ことも、
或いは、
『受戒せずに!』、
『善』を、
『行う!』ことも、
皆、
『尸羅』と、
『称する!』。
  尸羅(しら):梵語 ziila 、持戒と訳す、良い性癖の義、行動の規律の意。『大智度論巻12下注:尸羅』参照。
  受戒(じゅかい):警告を受取る/容認する( to receive, or accept, the pricepts )、具に梵語 ziila- saMvara- samaadaana の訳、善行と、自制とを完全に身に負うこと( taking fully or entirely moral conduct and forbearance upon one's self )の義。『大智度論巻1上注:受戒』参照。
尸羅者。略說身口律儀有八種。不惱害不劫盜不邪婬不妄語不兩舌不惡口不綺語不飲酒及淨命。是名戒相。若不護放捨。是名破戒。破此戒者墮三惡道中。若下持戒生人中。中持戒生六欲天中。上持戒又行四禪四空定。生色無色界清淨天中。 尸羅とは、略説すれば、身口の律儀にして、八種有り。不悩害、不劫盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不飲酒、及び浄命、是れを戒相と名づく。若し護らずして、放捨すれば、是れを破戒と名づく。是の戒を破れば、三悪道中に堕ち、若し下の持戒なれば、人中に生じ、中の持戒なれば、六欲天中に生じ、上の持戒、又は四禅、四空定を行ぜば、色、無色界の清浄天中に生ず。
『尸羅』とは、
『略説』すれば、
『身、口の律儀』が、
『八種』、
『有り!』、
謂わゆる、
『悩害しない!』こと、
『劫盗しない!』こと、
『邪婬しない!』こと、
『妄語しない!』こと、
『両舌しない!』こと、
『悪口しない!』こと、
『綺語しない!』こと、
『飲酒しない!』ことと、
及び、
『浄命であり!』、
是れを、
『戒の相』と、
『称する!』。
若し、
是れを、
『護らないで!』、
『放捨すれば!』、
是れを、
『破戒』と、
『称する!』。
此の、
『戒』を、
『破れば!』、
『三悪道』中に、
『堕ちる!』が、
若し、
『下』の、
『持戒』ならば、
『人』中に、
『生まれ!』、
『中』の、
『持戒』は、
『六欲天』中に、
『生まれ!』、
『上』の、
『持戒』か、
『四禅』や、
『四空定』を、
『行えば!』、
『色、無色界の清浄な天』中に、
『生まれる!』。
  律儀(りちぎ):◯抑制する( to restrain )、梵語 saMvara の訳、禁戒とも訳す、規制する/抑圧する/防止する/撃退する/抵抗する( To control, suppress, prevent, ward off, resist; restraint )の義、本ジャイナ教の用語にして、後に仏教に取り入れられた。悪事を抑えて、善行を行う( To suppress evil and do good action )、道徳的規律を通して不善の行いを抑制する( To suppress evil activity through moral discipline )。又◯儀式( an observance )、梵語 vrata の訳、命令/法律/法令( command, law, ordinance )の義。宗教的誓約、又は実践/有らゆる宗教的儀式/称讃すべき信仰又は禁欲行為/宗教上の誓約/規則/実践的修行( a religious vow or practice, any pious observance, meritorious act of devotion or austerity, solemn vow, rule, holy practice )の意。『大智度論巻22下注:律儀』参照。
  悩害(のうがい):悩まして害する。殺害、殺生。
  劫盗(ごうとう):奪い盗む。偸盗。
  浄命(じょうみょう):比丘の四種の邪命法を離れたる清浄の活命、これを浄命と云う。即ち八正道中の正命なり。また清浄の心を以って生命と為す、これを浄命と謂う。「維摩経菩薩品」に、「正しく善法を行じて、浄命に起つ」と云い、註に、「肇曰わく、凡そ行ずる所善にして、邪心を以って命とせず」と云い、「不思議疏上」に、「浄命とは、少欲知足の行なり」と云えるこれなり。<(丁)
  浄命(じょうみょう):清潔な暮らし( pure livelihood )、梵語 parizuddhaajiiva, zuddhaaajiiva の訳、清潔な生活( cleaned/purified livilihood )の義、又正命と訳す、即ち比丘の生活( Same as right livelihood 正命, i.e. that of the monk )又無垢、又は平静な心の生活( Also the life of a pure or unperturbed mind )の意。
  邪命(じゃみょう):比丘が、乞食を以って如法に自活せず、如法ならざる事を作して生活するを、謂いて邪命と為す。「大智度論巻3」に依るに、此れに四種有り、一に下口食、謂わゆる田園に種植し湯薬を和合し、以って衣食を求めて自ら活命す、二に仰口食、謂わゆる仰ぎて星宿、日月、風雨、雷電、霹靂を観る術、数学を以って衣食を求め、自ら活命す、三に方口食、謂わゆる豪勢に曲媚し、四方に通使し、巧言して多く求め、以って自ら活命す、四に維口食、維を四維と為す、謂わゆる種種の咒術、卜算、吉凶を学び、以って衣食を求めて、自ら活命するなり。<(丁)
  邪命(じゃみょう):悪い暮らし( wrong livelihood )、梵語 mityaajiiva の訳、即ち、仏教徒以外の、或いは比丘としては適切でない、生計の得方、例えば、手仕事、占星術、その機知/甘言/魅力を以って雇われること等( Non-Buddhist or improper ways of obtaining a living on the part of a monk, e.g., by doing work with his hands, by astrology, his wits, flattery, magic, etc )、乞食、或いは施しを求めることは、是認された生計を得る為の方法である( Begging, or seeking alms, was the orthodox way of obtaining a living )。
  放捨(ほうしゃ):解放して見捨てる。放逸。
  四禅(しぜん):色界に有する四種の禅定。『大智度論巻7(下)注:四禅』参照。
  四空定(しくうじょう):無色界の四種の禅定、また四無色定とも称す。『大智度論巻8(下)注:四無色定』参照。
上持戒有三種。下清淨持戒得阿羅漢。中清淨持戒得辟支佛。上清淨持戒得佛道。不著不猗不破不缺聖所讚愛。如是名為上清淨持戒。 上の持戒には、三種有り、下の清浄持戒は、阿羅漢を得、中の清浄持戒は、辟支仏を得、上の清浄持戒は、仏道を得るも、著せず、猗らず、破らず、欠かざれば、聖の讃じ、愛する所なり。是の如きを上の清浄持戒と為す。
『上』の、
『持戒』には、
『三種』有り、
『下』の、
『清浄持戒』は、
『阿羅漢』を、
『得!』、
『中』の、
『清浄持戒』は、
『辟支仏』を、
『得!』、
『上』の、
『清浄持戒』は、
『仏道』を、
『得る!』が、
是の
『戒』に、
『著することもなく!』、
『倚ることもなく!』、
『破ることもなく!』、
『欠くこともない!』ので、
『聖人』に、
『讃じられ!』、
『愛される!』、
是れを、
『上』の、
『清浄持戒』と、
『称する!』。
  (い):よる。よりかかる。倚に同じ。偏する( biased )、寄りかかる( to lean on )、依拠/依存する( to rely on )等の意。
若慈愍眾生故。為度眾生故。亦知戒實相故心不猗著。如此持戒將來令人至佛道。如是名為得無上佛道戒。 若し、衆生を慈愍するが故に、衆生を度せんが為の故に、亦た戒の実相を知るが故に心猗著せず。此の如き持戒は、将来、人をして仏道に至らしむ。是の如きを名づけて、無上の仏道を得る戒と為す。
若し、
『衆生』を、
『慈愍する!』が故に、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思う!』が故に、
亦た、
『戒』の、
『実相』を、
『知る!』が故に、
是の、
『戒』に、
『心』が、
『倚ることもなく!』、
『著することもない!』ならば、
此のような、
『持戒』は、
将来、
『人』を、
『仏道』に、
『至らせる!』ので、
是のようなものを、
『無上の仏道』を、
『得る!』為めの、
『戒』と、
『称する!』。
  慈愍(じみん):梵語 dayaa の訳、切実な同情心( compassion )の義、又哀れみを垂れる( to take pity on )の義。又◯ karuNaa の訳、哀れみ、又は切実な同情心に基づく( causing pity or compassion )の義。衆生に対して哀れみの心を起こすの意。
若人求大善利。當堅持戒如惜重寶。如護身命。何以故譬如大地一切萬物有形之類。皆依地而住。戒亦如是戒為一切善法住處。 若し人、大善利を求むれば、当に堅く持戒して、重宝を惜むが如く、身命を護るが如くすべし。何を以っての故に、譬えば、大地は、一切の万物、有形の類の、皆、地に依って住するが如く、戒も、亦た是の如し。戒は、一切の善法の為めの住処なればなり。
若し、
『人』が、
『大きな!』、
『善利』を、
『求める!』ならば、
当然、
『堅く!』、
『持戒して!』、
譬えば、
『重宝』を、
『惜むようにし!』、
又、
『身命』を、
『護るようにすべきである!』。
何故ならば、
譬えば、
『大地』は、
一切の、
『万物』や、
『有形の類』が、
皆、
『地』に、
『依拠して!』、
『住するように!』、
『戒』も、
是のように、
一切の、
『善い!』、
『法』の、
『住処だからである』。
復次譬如無足欲行無翅欲飛無船欲渡。是不可得。若無戒欲得好果亦復如是。 復た次ぎに、譬えば足無きに、行かんと欲し、翅無きに、飛ばんと欲し、船無きに、渡らんと欲すれば、是れ得べからざるが如く、若し戒無きに、好果を得んと欲すれば、亦復た是の如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『足』が、
『無い!』のに、
『歩きたい!』とか、
『翅(はね)』が、
『無い!』のに、
『飛びたい!』とか、
『船』が、
『無い!』のに、
『渡りたい!』のであれば、
是れは、
『不可能である!』ように、
若し、
『戒』が、
『無い!』のに、
『好果』を、
『得よう!』とすれば、
是れも、
やっぱり、
『同じように!』、
『不可能である!』。
若人棄捨此戒。雖山居苦行食果服藥。與禽獸無異。或有人但服水為戒。或服乳或服氣或剃髮或長髮。或頂上留少許髮。或著袈裟或著白衣或著草衣或木皮衣。或冬入水或夏火炙。若自墜高巖若於恒河中洗。若日三浴再供養火。種種祠祀種種咒願受行苦行。以無此戒空無所得。 若し、人、此の戒を棄捨せば、山居して、苦行し、果を食い、薬を服むと雖も、禽獣と異無けん。或いは、有る人は、但だ水を服むを戒と為し、或いは乳を服み、或いは気を服み、或いは剃髪し、或いは長髪し、或いは頂上に少許の髪を留め、或いは袈裟を著け、或いは白衣を著け、或いは草衣、或いは木皮の衣を著け、或いは冬に水に入り、或いは夏に火に炙り、若しは自ら高巌より墜ち、若しは恒河中に洗い、若しは日に三たび浴し、再び火を供養して、種種に祀を祠り、種種に咒願し、行を受けて苦行せんに、此の戒無きを以って、空しく所得無けん。
若し、
『人』が、
此の、
『戒』を、
『棄捨すれば!』、
たとえ、
『山に居て!』、
『苦行し!』、
『果を食い!』、
『薬草を服んだ!』としても、
『禽獣』と、
『異ならない!』。
或いは、
有る人は、
『水』を、
『服む!』ことを、
『戒だ!』と、
『思い!』、
或いは、
『乳』を、
『服む!』ことや、
『気』を、
『服む!』ことを、
『戒だ!』と、
『思い!』、
或いは、
『剃髪』や、
『長髪』や、
或いは、
『頂上』に、
『少しの髪』を、
『留める!』ことや、
或いは、
『袈裟』を、
『著けたり!』、
或いは、
『白衣』を、
『著けたり!』、
或いは、
『草の衣』や、
『木皮の衣』を、
『著ける!』ことを、
『戒だ!』と、
『思い!』、
或いは、
『冬』に、
『水』に、
『入ったり!』、
『夏』に、
『火』に、
『炙ったり!』、
若しくは、
『高巌』より、、
『自ら!』、
『堕ちたり!』、
若しくは、
『恒河』中に、
『身』を、
『洗ったり!』、
若しくは、
『日』に、
『三たび!』、
『水』を、
『浴び!』、
『再び!』、
『火』を、
『供養して!』、
種種に、
『祠(ほこら)』を、
『祀(まつ)り!』、
種種に、
『願』を、
『呪(まじな)い!』
『行』を、
『受けて(命じられて)!』、
『苦行した!』としても、
此の、
『戒』が、
『無ければ!』、
『苦行』の、
『果』は、
『空しく!』、
『行』に、
『得る!』所は、
『無い!』。
  祠祀(しし):神をまつる、祭祀。祠( 祠、 temple )を祀(まつ、 to sacrifice )る。
  受行(じゅぎょう):神をまつるに必要な行を受ける。
若有人雖處高堂大殿好衣美食。而能行此戒者得生好處。及得道果。 若しは、有る人は、高堂大殿に処して、好衣、美食すと雖も、能く此の戒を行ずれば、好処に生ずるを得て、道果を得るに及ぶ。
若し、
有る人が、
『高堂』や、
『大殿』を、
『住居とし!』、
『好い!』、
『衣』を、
『著け!』、
『美い!』、
『食』を、
『食った!』としても、
此の、
『戒』を、
『行えば!』、
『好い!』、
『処』に、
『生まれて!』、
『仏道』の、
『果』を、
『得ることになる!』。
若貴若賤若小若大。能行此淨戒皆得大利。若破此戒無貴無賤無大無小。皆不得隨意生善處。 若しは貴、若しは賎、若しは小、若しは大なるも、能く此の浄戒を行ぜば、皆大利を得。若し此の戒を破れば、貴と無く、賎と無く、大と無く、小と無く、皆、随意に善処に生ずるを得ず。
若し、
有る人が、
『貴かろうと!』、
『賎しかろうと!』、
『小だろうが!』、
『大だろうが!』、
此の、
『浄戒』を、
『行えば!』、
皆、
『大利』を、
『得るのである!』が、
若し、
此の、
『戒』を、
『破れば!』、
即ち、
『貴、賎』、
『大、小』の、
『区別』、
『無く!』、
皆、
『意』に、
『隨って!』、
『善い!』、
『処』に、
『生まれることはできない!』。
復次破戒之人。譬如清涼池而有毒蛇不中澡浴。亦如好華果樹而多逆刺。若人雖在貴家生身體端政廣學多聞。而不樂持戒無慈愍心。亦復如是 復た次ぎに、破戒の人は、譬えば清涼なる池に、毒蛇有りて、澡浴に中(あた)らざるが如く、亦た好華果の樹に、逆刺多きが如し。若し人、貴家に生じ、身体端政にして、広学多聞なりと雖も、持戒を楽しまず、慈愍の心無きも、亦復た是の如し。
復た次ぎに、
『破戒の人』は、
譬えば、
『清涼な!』、
『池』に、
『毒蛇』が、
『有る!』ので、
『澡浴』に、
『適合しない!』のと、
『同じであり!』、
亦た、
『好い!』、
『華果樹』に、
『逆刺が多い!』のと、
『同じである!』。
若し、
『人』が、
『高貴』の、
『家』に、
『生まれて!』、
『身体』が、
『端正であり!』、
『智慧』が、
『広学であり!』、
『多聞であった!』としても、
『持戒』を、
『楽しまず!』、
『慈愍の心』が、
『無ければ!』、
『毒蛇の池』や、
『逆刺の果樹』と、
『同じである!』。
  不中(ふちゅう):不適合。不適当。中は、適合する( fit exactly )の意。
  逆刺(ぎゃくし):人を拒む刺(とげ)。
  (ざい):於いて。
  端政(たんじょう):梵語 abhiruupa の訳、又端正、端厳、妙色、可愛、美、容色端正、形貌端厳等にも訳す、人好きのする/顔立ちの好い/美しい( pleasing, handsome, beautiful )、賢い( wise )、調和する/適合する( corresponding with, conformable to )等の義。
如偈說
 貴而無智則為衰 
 智而憍慢亦為衰 
 持戒之人而毀戒 
 今世後世一切衰
偈に説くが如し、
貴なれど無智なれば、則ち為めに衰え、
智なれど憍慢なれば、亦た為に衰う、
持戒の人にして、戒を毀(やぶ)れば、
今世と後世との、一切に衰う
『偈』に、説く通りである、――
『高貴』の、
『人』が、
『無智ならば!』、
『無智』が、
是の、
『人』を、
『衰えさせる!』。
『智慧』の、
『人』が、
『憍慢ならば!』、
『憍慢』が、
是の、
『人』を、
『衰えさせる!』。
『持戒』の、
『人』が、
『戒』を、
『毀犯すれば!』、
『今世』と、
『後世』の、
『一切に!』、
『衰える!』。
人雖貧賤。而能持戒勝於富貴。而破戒者 人は、貧賤なりと雖も、能く持戒すれば、富貴にして、破戒の者に勝る。
『人』は、
『貧しく!』、
『賎しくても!』、
『持戒する!』ならば、
『富んで!』、
『貴くても!』、
『破戒する!』者に、
『勝る!』。
華香木香不能遠聞。持戒之香周遍十方。 華香、木香は、遠く聞こゆる能わざるも、持戒の香は、十方に周遍す。
『華』や、
『木』の、
『香』は、
『遠くまでは!』、
『聞こえない!』が、
『持戒』という、
『香』は、
『十方に!』、
『周遍する!』。
持戒之人具足安樂。名聲遠聞天人敬愛。現世常得種種快樂。若欲天上人中富貴長壽。取之不難。持戒清淨所願皆得。 持戒の人は、安楽と、名声の遠く聞こゆると、天人の敬愛を具足して、現世には、常に種種の快楽を得、若し天上、人中に富貴、長寿ならんと欲すれば、之を取ること難からず、持戒して清浄なれば、所願を皆得。
『持戒』の、
『人』は、
『安楽』や、
『名声が遠く聞こえる!』ことや、
『天人に敬愛される!』ことを、
『具足して!』、
『現世』には、
常に、
『種種の快楽』を、
『得て!』、
若し、
『天上』や、
『人中』の、
『富貴』や、
『長寿』を、
『欲した!』としても、
之を、
『取る!』ことは、
『難しくない!』、
『持戒』という、
『清浄さ!』が、
『願う!』所を、
皆、
『得させるからである!』。
復次持戒之人。見破戒人刑獄考掠種種苦惱。自知永離此事以為欣慶。若持戒之人。見善人得譽名聞快樂。心自念言。如彼得譽。我亦有分。 復た次ぎに、持戒の人は、破戒の人の刑獄、拷掠に種種に苦悩するを見て、自ら此の事を永く離るるを知り、以って欣慶と為す。若し、持戒の人、善人の誉と名聞、快楽を得るを見れば、心に自ら念じて言わく、『彼れの誉を得たるが如く、我れにも亦た分有り』、と。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『破戒の人』が、
『刑罰』、
『牢獄』、
『拷掠』で、
種種に、
『苦悩する!』のを、
『見れば!』、
自ら、
『此の事』を、
『永く!』、
『離れた!』ことを、
『知る!』ので、
其れを、
『欣んで!』、
『目出たく思い!』、
『善人』が、
『名誉』と、
『名聞』と、
『安楽』を、
『得た!』のを、
『見れば!』、
『心』に、
自ら、こう念じる、――
彼れが、
『名誉』を、
『得たように!』、
わたしにも、
『幾分か!』が、
『有るのだ!』、と。
  刑獄(ぎょうごく):刑罰と牢獄。
  考掠(こうりゃく):むち打つ。拷問。拷掠。
  欣慶(ごんきょう):笑い喜び、めでたく思う。
持戒之人壽終之時刀風解身筋脈斷絕。自知持戒清淨心不怖畏。 持戒に人は、寿の終る時、刀風身を解きて、筋脈断絶するに、自ら持戒して清浄なるを知り、心に怖畏せず。
『持戒の人』は、
『寿命』の、
『終る!』時、
『刀の風』が、
『身』を、
『解き!』、
『筋と脈』とが、
『断絶する!』が、
自ら、
『持戒して!』、
『清浄である!』のを、
『知っている!』ので、
『心』に、
『怖畏することがない!』。
如偈說
 大惡病中  戒為良藥 
 大恐怖中  戒為守護 
 死闇冥中  戒為明燈 
 於惡道中  戒為橋樑 
 死海水中  戒為大船
偈に説くが如し、
大悪病中には、戒を良薬と為し、
大恐怖中には、戒を守護と為し、
死の闇冥中には、戒を明灯と為し、
悪道中に於いては、戒を橋梁と為し、
死の海水中には、戒を大船と為す
『偈』に、説く通りである、――
『大悪病』中には、
『戒』は、
『良薬である!』、
『大恐怖』中には、
『戒』は、
『守護である!』、
『死の闇冥』中には、
『戒』は、
『明灯である!』、
『悪道』中には、
『戒』は、
『橋梁である!』、
『死の海水』中には、
『戒』は、
『大船である!』、と。
  恐怖(くふ):おそれ。
  闇冥(あんみょう):くらやみと、薄暗がり。
復次持戒之人。常得今世人所敬養心樂不悔。衣食無乏。死得生天後得佛道。 復た次ぎに、持戒の人は、常に今世の人に敬養せらるるを得、心楽しんで悔いず、衣食に乏しき無く、死すれば、天に生ずるを得て、後に仏道を得。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
常に、
今世には、
『人』に、
『敬われて!』、
『養われることができ!』、
『心』は、
『楽しんで!』、
『悔いることなく!』、
『衣食』の、
『乏しい!』ことも、
『無く!』、
死ねば、
『天』に、
『生まれることができて!』、
後には、
『仏』の、
『道』を、
『得る!』。
  敬養(きょうよう):恭敬と供養。
持戒之人無事不得。破戒之人一切皆失。 持戒の人は、事の得ざる無きに、破戒の人は、一切を皆失う。
『持戒の人』には、
『得られない!』、
『事』が、
『無い!』が、
『破戒の人』は、
『一切を!』、
皆、
『失う!』。
  参考:『衆経撰雑譬喩巻上』:『持戒之人無事不得。破戒之人一切皆失。譬如有人常供養天。其人貧窮四方乞求。供養經十二年。求索富貴人心既志。天愍此人自現其身。而問之曰。汝求何等。我求富貴。欲令心之所願一切皆得。天與一器名曰德瓶。而語之言。君所願者悉從此瓶出。其人得以隨意所欲無不得。得如意已具作好舍象馬車乘。七寶具足供給賓客事事無乏。客問之言。汝先貧窮今日云何得如此富。答言。我得天瓶。天瓶中出此種種物。故富如是。客言。出瓶。見視其所出物。即為出瓶。瓶中引出種種諸物。其人驕逸捉瓶起舞。執之不固失手破瓶。一切諸物俱時滅去。』
譬如有人常供養天。其人貧窮一心供養滿十二歲求索富貴。天愍此人自現其身而問之曰。汝求何等。答言。我求富貴。欲令心之所願一切皆得。 譬えば、有る人の常に天を供養したるが如し。其の人は、貧窮なれど、一心に供養すること、十二歳を満てて、富貴ならんことを求索せり。天、此の人を愍れみ、自ら其の身を現して、之に問うて曰わく、『汝は、何等をか求むる』、と。答えて言わく、『我れは富貴を求む、心の願う所をして、一切を皆得んことを欲す』、と。
譬えば、こうである、――
有る、
『人』が、
常に、
『天』を、
『供養していた!』。
其の、
『人』は、
『貧窮していた!』が、
『一心に!』、
『天』を、
『供養し!』、
『十二年』を、
『満たして!』、
『富貴』を、
『求めた!』ので、
『天』は、
此の、
『人』を、
『愍(あわ)れんで!』、
其の、
『身』を、
『現す!』と、
此の、
『人』に
問うて、こう言った、――
お前は、
何のようなものを、
『求めているのか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『富貴』を、
『求めております!』、
『心』の、
『願う!』所を、
皆、
『得たい!』と、
『思っているのです!』、と。
  求索(ぐさく):探し求める。捜尋( seek )/索取・要求( ask for )。
  (みん):あわれむ/同情する( pity, sympathize with )。哀愍。
  何等(がとう):なんら。どのようなもの( what kind )。
天與一器名曰德瓶。而語之言。所須之物從此瓶出。其人得已應意所欲無所不得。得如意已具作好舍象馬車乘。七寶具足。供給賓客事事無乏。 天は、一器の名づけて、徳瓶と曰うを与え、之に語って言わく、『須うる所の物は、此の瓶より出でん』、と。其の人は、得已りて、意の欲する所に応じて、得ざる所無く、意の如く得已りて、好舎を具作し、象馬、車乗、七宝具足するに、賓客に供給して、事事に乏しき無し。
『天』は、
『徳瓶』という、
『一器』を、
『与える!』と、
此の、
『人』に語って、こう言った、――
『欲しい!』、
『物』は、
此の、
『瓶』より、
『出る!』、と。
其の、
『人』は、
『瓶を得て!』、
『意』の、
『欲するがままに!』、
『得られない!』、
『物』が、
『無く!』
『意のままに!』、
『得てしまう!』と、
『好い舎(いえ)』を、
『準備し!』、
『象馬』、
『車乗』、
『七宝』を、
『具足させ!』、
『賓客』に、
『供給しても!』、
『事事』に、
『欠乏する!』ことが、
『無かった!』。
  如意(にょい):意の如く。思い通りに( as one wishes )。梵語 chandatas 等の訳、望みに応じて( according to the wish of )の義。又◯如意宝珠、梵語 cintaa- maNi の訳、意向の宝石の義、その所有者の有らゆる願望を叶える伝説的な宝石( " thought-gem ", a fabulous gem supposed to yield its possessor all desires )を指す。
  具作(ぐさ):作って備える。備具。
客問之言。汝先貧窮。今日所由得如此富。答言。我得天瓶。瓶能出此種種眾物故富如是。 客の之に問うて言わく、『汝は、先に貧窮なりしに、今日の由る所、此の如きの富を得たりや』、と。答えて言わく、『我れは天の瓶を得たり。瓶、能く此の種種の衆物を出すが故に、富むこと是の如し』、と。
『客』は、
其の、
『人』に、
問うて、こう言った、――
あなたは、
先には、
『貧窮であった!』のに、
今日は、
何故、
此のような、
『富』を、
『得られたのですか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『天』の、
『瓶』を、
『得たからです!』。
『瓶』が、
此の、
種種の、
『物たち!』を、
『出すことができる!』ので、
是のように、
『富んだのです!』、と。
客言。出瓶見示并所出物。即為出瓶。瓶中引出種種眾物。其人憍泆立瓶上舞。瓶即破壞。一切眾物亦一時滅。 客の言わく、『瓶を出して見示し、出す所の物を並べよ』、と。即ち為めに瓶を出し、瓶中より、種種の衆物を引き出せり。其の人は、憍泆して、瓶上に立ちて舞えば、瓶は即ち破壊し、一切の衆物も、亦た一時に滅せり。
『客』は、こう言った、――
『瓶』を、
『出して!』、
『見せ!』、
『出てくる!』、
『物たち!』を、
『並べなさい!』、と。
そこで、
『瓶』を、
『取り出して!』、
『瓶』中より、
『種種の物』を、
『引き出した!』が、
其の、
『人』が、
『不注意』にも、
『瓶』上に、
『立って!』、
『舞う!』と、
『瓶』は、
即座に、
『破壊して!』、
『一切の!』、
『物たち』も、
一時に、
『消えた!』。
  憍泆(きょういつ):梵語 mada, mada- pramaada 等の訳、憍逸とも訳す、傲慢を伴う酩酊( intoxicated with arrogance )の義、理由の無い自負心/不注意/図々しさ( Wanton conceit, carelessness; presumptuousness )の意。
持戒之人亦復如是。種種妙樂無願不得。若人破戒憍泆自恣亦如彼人破瓶失物。 持戒の人も、亦復た是の如く、種種の妙楽を、願うて得ざること無きも、若し人、破戒して憍泆、自恣せば、亦た彼の人の瓶を破り、物を失えるが如し。
『持戒の人』も、
亦た、
是のように、
種種の、
『妙楽』は、
『願って!』、
『得られない!』ものが、
『無い!』が、
若し、
『人』が、
『破戒して!』、
『不注意になり!』、
『好き放題にすれば!』、
彼の、
『人』が、
『瓶』を、
『破って!』、
『物』を、
『失った!』のと、
『同じことになるのである!』。
  自恣(じし):好き放題( self-indulgence )、梵語 pravaraNa の訳、有らゆる宗教的儀式、又は式典( any religious ceremony or observance )、上記への召喚/招集/実施( a call, summons, invocation )等の義。◯夏安居の終に行われる後悔の儀式、即ち修行者たちが、先の静養中の努力の内容を心中に顧みて、積極的に彼等の罪を告白して後悔する儀式である( A ceremony of repentance performed at the end of the summer meditation retreat 夏安居, wherein practitioners sincerely reflect on the content of their efforts during the previous retreat, and proactively confess and repent their sins )/夏安居(雨期)の終の馬鹿騒ぎ( the festivities at the end of the rainy season )、転じて、自己本位の方法で行う/自分の望むがままに取る/自らの好みに追随する( To act in a selfish way, taking whatever one wants, to follow one's own bent )の意となる。
復次持戒之人名稱之香。今世後世周滿天上及在人中。 復た次ぎに、持戒の人の名称の香は、今世、後世に天上、及び人中に在りて周満す。
復た次ぎに、
『持戒の人』の、
『名称(名声)』の、
『香』は、
『今世、後世』の、
『天上、人中』に、
『周く!』、
『満ちる!』。
復次持戒之人。人所樂施不惜財物。不修世利而無所乏得生天上。十方佛前入三乘道而得解脫。唯種種邪見。持戒後無所得。 復た次ぎに、持戒の人は、人の楽しむ所を施して、財物を惜まず、世利を修めざるも、乏しき所無く、天上に生ずるを得、十方の仏前に、三乗の道に入りて、解脱を得。唯だ種種の邪見の持戒は、後の所得無し。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『人』の、
『楽しむ!』所を、
『施して!』、
『財物』を、
『惜まず!』、
『世間』の、
『利』を、
『修めない!』が、
『欠乏する!』所も、
『無く!』、
『天上』に、
『生』を、
『得て!』、
『十方』の、
『仏前』に於いて、
『三乗』の、
『道』に、
『入り!』、
『解脱』を、
『得ることができる!』。
唯だ、
種種の、
『邪見』の、
『持戒の人』は、
後にも、
『得る!』所が、
『無い!』。
復次若人雖不出家。但能修行戒法。亦得生天。 復た次ぎに、若し人、出家せずと雖も、但だ能く戒法を修行すれば、亦た天に生ずるを得。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『出家しなかった!』としても、
但だ、
『戒法』を、
『修行しておれば!』、
亦た、
『天』に、
『生まれることができる!』。
若人持戒清淨行禪智慧。欲求度脫老病死苦此願必得。 若し人、持戒清浄にして、禅と智慧を行い、老病死の苦を度脱せんことを欲求せば、此の願は必ず得。
若し、
『人』が、
『持戒して!』、
『清浄であり!』、
『禅』と、
『智慧』とを、
『修行しながら!』、
『老病死の苦』を、
『度脱したい!』と、
『欲求する!』ならば、
此の、
『願』は、
『必ず叶う!』。
持戒之人雖無兵仗眾惡不加。持戒之財無能奪者。持戒親親雖死不離。持戒莊嚴勝於七寶。以是之故。當護於戒如護身命如愛寶物。 持戒の人は、兵杖無しと雖も、衆悪を加えざらしむ。持戒の財は、能く奪う者無し。持戒の親親は、死すと雖も離れず。持戒の荘厳は、七宝に勝る。是を以っての故に、当に戒を護ること、身命を護るが如く、宝物を愛するが如くすべし。
『持戒』の、
『人』は、
『兵杖』が、
『無くても!』、
『衆悪』を、
『加えられない!』。
『持戒』の、
『財』は、
『奪うことのできる!』者が、
『無い!』。
『持戒』の、
『親親』は、
『死んでも!』、
『離れない!』。
『持戒』で、
『荘厳すれば!』、
『七宝』にも、
『勝る!』。
是の故に、
『戒』を、
『護る!』ことは、
譬えば、
『身命』を、
『護るように!』、
『宝物』を、
『愛するように!』すべきである。
  兵仗(ひょうじょう):武器。
  衆悪(しゅあく):多くの嫌なこと。
  親親(しんしん):親族。
破戒之人受苦萬端。如向貧人破瓶失物。以是之故應持淨戒。 破戒の人は、苦を受くること万端にして、向(さき)の貧人の瓶を破りて、物を失うが如し。是を以っての故に、応に浄戒を持すべし。
『破戒の人』の、
『受ける!』、
『苦』は、
『万端であり!』、
譬えば、
先ほどの、
『貧人』が、
『瓶』を、
『破って!』、
『物』を、
『失った!』のと、
『同じである!』。
是の故に、
当然、
『清浄』の、
『戒』を、
『持(たも)つべきである!』。
復次持戒之人。觀破戒人罪應自勉勵一心持戒。 復た次ぎに、持戒の人は、破戒の人の罪を観て、応に自ら勉励し、一心に持戒すべし。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『破戒の人』が、
『罪』を、
『受ける!』のを、
『観る!』につけ、
自ら、
『勉励して!』、
『一心』に、
『持戒しなくてはならない!』。
云何名為破戒人罪。破戒之人人所不敬。其家如塚人所不到。 云何が、名づけて破戒の人の罪と為す。破戒の人は、人の敬わざる所にして、其の家は塚の如く、人の到らざる所なり。
何を、
『破戒の人』の、
『罪』と、
『呼ぶのか?』、――
『破戒の人』は、
『人』に、
『敬われず!』、
其の、
『家』は、
『墓場のように!』、
『人』が、
『寄りつかない!』。
破戒之人失諸功德。譬如枯樹人不愛樂。 破戒の人は、諸の功徳を失い、譬えば、枯樹を、人は愛楽せざるが如し。
『破戒の人』は、
諸の、
『功徳』を、
『失う!』ので、
『人』は、
『愛することもなく!』、
『楽しむこともない!』、
譬えば、
『枯れ樹のようである!』。
破戒之人如霜蓮花人不喜見。 破戒の人は、霜の蓮華の如く、人は、見ることを喜ばず。
『破戒の人』は、
『霜枯れた!』、
『蓮華のように!』、
『人』は、
『見る!』のを、
『喜ばない!』。
破戒之人惡心可畏譬如羅剎。 破戒の人の、悪心畏るべきこと、譬えば羅刹の如し。
『破戒の人』の、
『悪心』は、
譬えば、
『悪鬼のように!』、
『畏れられる!』。
破戒之人人不歸向。譬如渴人不向枯井。 破戒の人に、人の帰向せざること、譬えば、渇ける人の、枯井に向わざるが如し。
『破戒の人』に、
『人』は、
『帰向しない!』。
譬えば、
『渇いた人』でも、
『枯れ井戸』には、
『向わない!』のと、
『同じである!』。
  帰向(きこう):帰依( inclination ):ある一特殊方面に投合する( agree )状態、性質、或いは行動の傾向、或いは趨勢。心を寄せる。なつく。帰服。帰順。
破戒之人心常疑悔。譬如犯事之人常畏罪至。 破戒の人は、心に常に疑悔すること、譬えば、犯事の人の、常に罪の至るを畏るるが如し。
『破戒の人』は、
『心』に、
常に、
『疑って!』、
『悔やむ!』。
譬えば、
『犯事の人』が、
常に、
『罪』を、
『畏れる!』のと、
『同じである!』。
  疑悔(ぎけ):疑って悔やむ。
  犯事(ぼんじ):法律、職分等を犯す。仕事に誤ちを犯す。
破戒之人如田被雹不可依仰。 破戒の人は、田に雹を被るが如く、依仰すべからず。
『破戒の人』は、
譬えば、
『田』が、
『雹』を、
『被る!』のと、
『同じように!』、
『人』が、
『寄り付くこともなく!』、
『仰ぎ見ることもない!』。
  依仰(えぎょう):身を寄せて仰ぎ見る。
破戒之人譬如苦瓜。雖形似甘種而不可食。 破戒の人は、譬えば苦瓜の、形は甘種に似たりと雖も、食うべからざるが如し。
『破戒の人』は、
譬えば、
『苦瓜』が、
『形』は、
『甘種』に、
『似ている!』が、
而し、
『食えない!』のと、
『同じである!』。
破戒之人如賊聚落不可依止。 破戒の人は、賊の聚落の如く、依止すべからず。
『破戒の人』は、
譬えば、
『賊』の、
『聚落のように!』、
『依止すべきでない!』。
  依止(えし):梵語 aazraya の訳、当に頼りにすべきものの意。『大智度論巻12下注:依止』参照。
破戒之人譬如大病人不欲近。 破戒の人は、譬えば大病人の、近づくを欲せざるが如し。
『破戒の人』は、
譬えば、
『大病人』には、
『近づきたくない!』のと、
『同じである!』。
破戒之人不得免苦。譬如惡道難可得過。 破戒の人は、苦を免るるを得ざること、譬えば悪道の過ぐるを得べきこと難きが如し。
『破戒の人』が、
『苦』を、
『免れられない!』のは、
譬えば、
『悪道』が、
『過ごし難い!』のと、
『同じである!』。
破戒之人不可共止。譬如惡賊難可親近。 破戒の人は、共に止まるべからざること、譬えば、悪賊の親近すべきこと難きが如し。
『破戒の人』とは、
『いっしょに!』、
『止まれない!』、
譬えば、
『悪賊』には、
『親近しがたい!』のと、
『同じである!』。
破戒之人譬如大坑行者避之。 破戒の人は、譬えば大坑の如く、行者は、之を避く。
『破戒の人』は、
譬えば、
『大坑であり!』、
『行く者』は、
之を、
『避ける!』。
破戒之人難可共住譬如毒蛇。 破戒の人の、共に住すべきことの難きこと、譬えば毒蛇の如し。
『破戒の人』が、
『いっしょに!』、
『住まりがたい!』のは、
譬えば、
『毒蛇』と、
『同じだからである!』。
破戒之人不可近觸譬如大火。 破戒の人の、近づきて触るべからざること、譬えば大火の如し。
『破戒の人』には、
『近づきがたい!』、
譬えば、
『大火』と、
『同じである!』。
破戒之人譬如破船不可乘渡。 破戒の人は、譬えば破船の如く、乗りて渡るべからず。
『破戒の人』は、
譬えば、
『破れた!』、
『船』と、
『同じように!』、
『乗って!』、
『渡ることができない!』。
破戒之人譬如吐食不可更噉。 破戒の人は、譬えば吐食の如く、更に噉うべからず。
『破戒の人』は、
譬えば、
『吐かれた!』、
『食』が、
もう、
『食えない!』のと、
『同じである!』。
破戒之人在好眾中。譬如惡馬在善馬群。 破戒の人は、好衆中に在りては、譬えば悪馬の善馬の群に在るが如し。
『破戒の人』が、
『好い!』、
『人々の中』に、
『在る!』のは、
譬えば、
『善馬の群』に、
『悪馬』が、
『在る!』のと、
『同じである!』。
破戒之人與善人異。如驢在牛群。 破戒の人の、善人と異なること、驢の牛の群に在るが如し。
『破戒の人』は、
『善人』と、
『異なる!』。
譬えば、
『牛の群』に
『驢馬』が、
『在る!』のと、
『同じである!』。
破戒之人在精進眾。譬如儜兒在健人中。 破戒の人の、精進の衆に在るは、譬えば儜児の健人中に在るが如し。
『破戒の人』が、
『精進の衆』中に、
『在る!』のは、
譬えば、
『健全な人々』の中に、
『虚弱児』が、
『在る!』のと、
『同じである!』。
  儜児(ねいに):虚弱児。儜は懦弱、柔弱。
破戒之人雖似比丘。譬如死屍在眠人中。 破戒の人は、比丘に似たりと雖も、譬えば死屍の眠れる人中に在るが如し。
『破戒の人』は、
『比丘』に、
『似ている!』が、
譬えば、
『眠った人』の中に、
『死屍』が、
『在る!』のと、
『同じである!』、
破戒之人譬如偽珠在真珠中。 破戒の人は、譬えば偽珠の、真珠中に在るが如し。
『破戒の人』は、
譬えば、
『真の珠』中に、
『偽の珠』が、
『在る!』のと、
『同じである!』、
破戒之人譬如伊蘭在栴檀林。 破戒の人は、譬えば伊蘭の栴檀の林に在るが如し。
『破戒の人』は、
譬えば、
『栴檀の林』に、
『伊蘭』が、
『在る!』のと、
『同じである!』。
  伊蘭(いらん):梵名 eraavaNa、また伊羅、黳羅、堙羅那等に作る。樹名。花は愛すべきも、気味甚だ悪く、その悪臭は四十里に及ぶ。経論中には、多く伊蘭を以って煩悩に喩え、栴檀の妙香を以って菩提に比す。<(丁)
破戒之人雖形似善人內無善法。雖復剃頭染衣次第捉籌名為比丘。實非比丘。 破戒の人は、形は善人に似たりと雖も、内に善法無く、復た剃頭、染衣して、次第に籌を捉り、名づけて比丘と為すと雖も、実には比丘に非ず。
『破戒の人』は、
『形』は、
『善人』に、
『似ている!』、
『内』に、
『善法』が、
『無く!』、
復た、
『頭』を、
『剃り!』、
『衣』を、
『染めて!』、
次第に、
『籌(点呼標)』を、
『捉る!』ので、
『比丘』と、
『呼ばれる!』が、
『実に!』は、
『比丘でない!』。
  (ちゅう):梵語舎羅 zalaakaa、竹、木、銅、鉄、牙、角、骨等を以って作成されたる細棒にして、粗小指の如し。僧の布薩の時、以って参集せる僧衆の人数を計算するに用う、或は表決の時に於いてこれを用う。<(佛)
破戒之人若著法衣。則是熱銅鐵鍱以纏其身。若持缽盂則是盛洋銅器。若所噉食則是吞燒鐵丸。飲熱洋銅。若受人供養供給。則是地獄獄鬼守之。若入精舍則是入大地獄。若坐眾僧床榻。是為坐熱鐵床上。 破戒の人、若し法衣を著くれば、則ち是れ熱き銅鉄の鍱(うすがね)を以って、其の身に纏うなり。若し鉢盂を持すれば、則ち是れ洋銅を器に盛れるなり。若し噉う所の食あれば、則ち是れ焼けたる鉄丸を呑み、熱せる洋銅を飲むなり。若し、人の供養、供給を受くれば、則ち是れ地獄の獄鬼、之を守るなり。若し精舎に入れば、則ち大地獄に入るなり。若し衆僧の床榻に坐すれば、是れを熱鉄の床上に坐すと為す。
『破戒の人』が、
若し、
『法衣』を、
『著けた!』ならば、
則ち、
是れは、
『熱い銅、鉄の薄板』を、
其の、
『身』に、
『纏ったのである!』。
若し、
『鉢盂』を、
『持った!』ならば、
則ち、
是れは、
『器』に、
『溶けた銅』を、
『盛ったのである!』。
若し、
『食』を、
『食った!』ならば、
則ち、
是れは、
『焼けた!』、
『鉄丸』を、
『呑み!』、
『熱い!』、
『溶けた銅』を、
『飲むのである!』。
若し、
『人』の、
『供養』や、
『供給』を、
『受けた!』ならば、
則ち、
是れは、
『地獄』の、
『獄鬼』に、
『守られているのである!』。
若し、
『精舎』に、
『入った!』ならば、
則ち、
是れは、
『大地獄』に、
『入ったのである!』。
若し、
『衆僧』の、
『床榻』に、
『坐った!』ならば、
則ち、
是れは、
『熱鉄』の、
『床』上に、
『坐ったのである!』。
  (よう):金属の板金。
  鉢盂(はちう):はち。鉢。
  洋銅(ようどう):溶けたる銅。流銅。
  噉食(たんじき):食う。
  床榻(しょうとう):椅子。寝台。
復次破戒之人。常懷怖懅如重病人常畏死至。亦如五逆罪人。心常自念我為佛賊。藏覆避隈如賊畏人。歲月日過常不安隱。 復た次ぎに、破戒の人は、常に怖懅を懐きて、重病人の常に死の至るのを畏るるが如し。亦た五逆の罪人の、心に常に自ら、『我れは仏の賊為り』と念じ、蔵覆し、避隈すること、賊の人を畏るるが如くして、歳、月、日は過ぐれども、常に安隠ならざるが如し。
復た次ぎに、
『破戒の人』は、
常に、
『怖懅(恐怖)』を、
『懐いている!』ので、
譬えば、
『重病人』が、
常に、
『死ぬ!』ことを、
『畏れている!』のと、
『同じであり!』、
亦た、
『五逆の罪人』が、
『心』に、
常に、
自ら、こう念じて、――
わたしは、
『仏』の、
『賊である!』、と。
『罪』を、
『蔵覆し!』、
『避隈して!』、
譬えば、
『賊』が、
『人』を、
『畏れるように!』、
『歳』や、
『月』や、
『日』が、
『過ぎても!』、
常に、
『安隠でない!』。
  怖懅(ふご):怖れ慌てる。恐怖。
  蔵覆(ぞうふく):罪を覆いかくす。
  避隈(ひわい):隅に避ける。
破戒之人雖得供養利樂是樂不淨。譬如愚人供養莊嚴死屍。智者聞之惡不欲見。如是種種無量。破戒之罪不可稱說。行者應當一心持戒 破戒の人は、供養の利を得て楽なりと雖も、是の楽の不浄なること、譬えば愚癡の人の、死屍を供養して、荘厳するが如し。智者は之を聞くに、悪みて見んと欲せず。是の如き種種無量の破戒の罪は、称説すべからず。行者は応当に一心に持戒すべし。
『破戒の人』は、
『供養の利』を、
『得て!』、
『楽であった!』としても、
是の、
『楽』は、
『不浄である!』。
譬えば、
『愚人』が、
『死屍』を、
『荘厳して!』、
『供養した!』としても、
『智者』は、
之を、
『聞いて!』、
『嫌悪し!』、
之を、
『見たくない!』のと、
『同じである!』。
是のような、
種種、
無量の、
『破戒の罪』は、
『検討して!』、
『説くこともできない!』。
『行者』は、
『一心』に、
『持戒すべきである!』。
  称説(しょうせつ):陳述。比較検討して述べる。



大智度論釋初品中戒相義第二十二之一


殺、不殺の相

問曰。已知如是種種功德果報。云何名為戒相。 問うて曰く、已に是の如き種種の功徳と果報を知れり。云何が、名づけて戒相と為す。
問い、
已に、
是のような、
種種の、
『持戒』の、
『功徳』と、
『果報』とを、
『知った!』。
何を、
『戒の相』と、
『言うのですか?』。
答曰。惡止不更作。若心生若口言若從他受。息身口惡是為戒相。 答えて曰く、悪を止めて、更に作さざるなり。若しは心に生じ、若しは口に言い、若しは他より受くる、身口の悪を息む、是れを戒相と為す。
答え、
『悪』を、
『止めて!』、
更に、
『悪』を、
『作さない!』ことである。
『悪』が、
若しは、
『心』に、
『生じたり!』、
若しは、
『口』に、
『言ったり!』、
若しは、
『他人』より、
『受けた(唆された)!』とき、
『身』と、
『口』の、
『悪』を、
『息めた!』ならば、
是れを、
『戒の相』と、
『呼ぶのである!』。
云何名為惡。若實是眾生。知是眾生發心欲殺而奪其命。生身業有作色。是名殺生罪。其餘繫閉鞭打等。是助殺法。 云何が、名づけて悪と為す。若し実に是れ衆生なるに、是れ衆生なりと知り、心を発して、殺さんと欲し、而も其の命を奪い、身業を生じて、作色有れば、是れを殺生の罪と名づけ、其の余の繋閉、鞭打等は、是れ助殺の法なり。
何を、
『悪』と、
『称するのか?』、――
若し、
『実』に、
是れが、
『衆生である!』とき、
是れを、
『衆生である!』と、
『知りながら!』、
『殺したい!』という、
『心』を、
『起こして!』、
其の、
『命』を、
『奪う!』と、
『身業(殺業)』が、
『生じて!』、
『作色(意図的な行為)』が、
『有る!』ので、
是れを、
『殺生の罪』と、
『称する!』。
其の他の、
『繋閉』や、
『鞭打』等は、
『殺』を、
『助ける!』、
『法である!』。
  作色(さしき):意図より起りたる殺、盗等の行動。『大智度論巻13上注:表色』参照。
  表色(ひょうしき):表出性の色/形態( expressive form )、梵語vijJapti- ruupa の訳、又作色と訳す、露出性の色( disclosive form )の義、有相、有対、可見にして、心より起る行為、善悪倶に有るが、主として殺害、鞭打等の遮止すべき悪行をいう。◯無表色[把握されない色]に対す( in contradistinction to avijñapti-rūpa (unapprehended form) )。有る行動を起こす意図を他人に明白にし、或いは観察できるようにする、例えば談話、又は身振りのような行動( Activity that makes evident or observable by others the intention motivating the action, such as speech acts or physical gestures )。有る種のダンス、又は有る威嚇的身振りに於いて、好例を見出だすことができよう( A good example might be seen in a dance, or a menacing gesture )。無表色に於いては、其の意図は、他に対して隠されたままであり、又は観察不可能である( The intention remains hidden from others or unobservable in avijñapti-rūpa )。是のように、一般的には、例えば行く、坐る、取る、捨てる、曲げる、伸ばす等のような、位置、或いは動きの側面に関して言及する( Thus, in general, it refers to positional or motive aspects, such as walking, sitting, taking, refusing, bending, stretching, etc )。表業の同義語である。◯三色の一、他の二種は顕色、即ち青黃赤白、光影、明暗、煙雲塵露、虛空等の色、及形色、即ち有形の相、可見にして,長短、方圓、粗細、高下等の如き色である( One of the three subcategories of form 色, the other two being color 顯色 and shape 形色 shape, long, short, etc )[三蔵法数巻11五蘊論,(1)顯色,即明顯可見之色,如青黃赤白、光影、明暗、煙雲塵露、虛空等色。(2)形色,即有形相可見者,如長短、方圓、粗細、高下等。(3)表色,即所行之事有相對之表相可見者,如行住坐臥、取捨、屈伸。]。◯心所法中には、その意図は分類されない( In its classification as a mental factor, it does not have its own seeds )。別に『大智度論巻13上注:表色』あり。
復次殺他得殺罪。非自殺身 復た次ぎに、他を殺せば、殺罪を得、自ら身を殺すに非ず。
復た次ぎに、
『他』を、
『殺せば!』、
『殺罪』を、
『得る!』が、
『自ら!』の、
『身』を、
『殺しても!』、
『殺罪ではない!』。
心知眾生而殺。是名殺罪。不如夜中見人謂為杌樹而殺者。 心に、衆生と知りて殺せば、是れを殺罪と名づけ、夜中に、人を見て、謂いて杌樹と為して、殺す者の如きにあらず。
『心』に、
是れは、
『衆生である!』と、
『知って!』、
『殺す!』ならば、
是れを、
『殺罪』と、
『称する!』が、
『夜』中に、
『人』を、
『見て!』、
是れは、
『杌樹である!』と、
『思って!』、
『殺した!』とすれば、
是れは、
『殺罪』と、
『同じではない!』。
  杌樹(ごつじゅ):枝葉を切り払い、幹のみ残せる樹。
故殺生得殺罪。非不故也。 故(ことさ)らに生を殺せば、殺罪を得う、故ならざるに非ざるなり。
『故意に!』、
『衆生』を、
『殺せば!』、
『殺罪』を、
『得る!』が、
『故意でなければ!』、
『殺罪ではない!』。
快心殺生得殺罪非狂癡。 心を快くして生を殺せば、殺罪を得、狂癡なるに非ず。
『心』を、
『快くして!』、
『衆生』を、
『殺せば!』、
『殺罪』を、
『得る!』が、
『心』が、
『狂癡であって!』、
『殺す!』のは、
『殺罪ではない!』。
  快心(かいしん):満足。
  狂癡(ごうち):狂人と、癡人。
命根斷是殺罪。非作瘡 命根を断ず、是れ殺罪なり、瘡を作るに非ず。
『命根』を、
『断つ!』ことが、
『殺罪であり!』、
『瘡(きず)』を、
『作る!』のは、
『殺罪ではない!』。
  命根(みょうこん):梵語 jiiviteendriya、即ち衆生の寿命。倶舎、唯識には、これを以って心不相応行法の一と為し、また倶舎七十五法の一、唯識百法の一と為す。過去の仰由り引生する所にして、衆生の身心在りて一期(此の世に受生してより、以って死亡に至る)相続する間に在り、煖(体温)と識とを維持する者にして、その体を寿と作す。これを言い換うれば、煖と識とに依りて一期の間、維持する者を、即ち称して命根と為す。<(佛)『大智度論巻61下注:命根』参照。
身業是殺罪。非但口教敕 身業は、是れ殺罪なり、但だ口に教勅するには非ず。
『身業』が、
『殺罪である!』。
但だ、
『殺業』が、
『無く!』、
『口』で、
『教勅しただけ!』ならば、
『殺罪ではない!』。
  (ちょく):目上が目下に命ずることば。命令。
口教是殺罪。非但心生如是等名殺罪。不作是罪名為戒。 口に教うれば、是れ殺罪なり、但だ心に生ずるに非ず。是の如き等を殺罪と名づけ、是の罪を作さざるを、名づけて戒と為す。
『口』で、
『教えて!』、
『殺業』が、
『生じれば!』、
是れは、
『殺罪である!』が、
但だ、
『心』に、
『殺意』を、
『生じただけで!』、
『殺業』が、
『生じた!』としても、
『殺罪ではない!』。
是れ等を、
『殺罪』と、
『称し!』、
是の、
『罪』を、
『作さない!』ことを、
『戒』と、
『称する!』。
若人受戒心生口言。我從今日不復殺生。若身不動口不言。而獨心生自誓。我從今日不復殺生。是名不殺生戒。 若し人、受戒して、心生じ、口に、『我れは、今日より、復た生を殺さず』と言い、若しは身動かず、口に言わずして、独り心生じて、自ら、『我れは、今日より、復た生を殺さず』と誓えば、是れを不殺生戒と名づく。
若し、
『人』が、
『受戒して!』、
『心』が、
『生じ!』、
『口』に、こう言うか、――
わたしは、
『今日』より、
ふたたび、
『生』を、
『殺さない!』、と。
若しくは、
『身』は、
『動かず!』、
『口』には、
『言わなくても!』、
『心』に、
自ら、こう誓うならば、――
わたしは、
『今日』より、
ふたたび、
『生』を、
『殺さない!』、と。
是れを、
『不殺生の戒』と、
『称する!』。
有人言。是不殺生戒或善或無記。 有る人の言わく、『是の不殺生戒は、或いは善、或いは無起なり』、と。
有る人は、
こう言っている、――
是の、
『不殺生戒』は、
或いは、『善であり!』、
或いは、『無記である!』、と。
問曰。如阿毘曇中說。一切戒律儀皆善。今何以言無記。 問うて曰く、阿毘曇中に説くが如きは、一切の戒、律儀は、皆善なりと。今は何を以ってか、無記を言う。
問い、
『阿毘曇』中などは、こう説いている、――
一切の、
『戒』と、
『律儀』とは、
皆、
『善である!』、と。
今は、
何故、こう言うのですか?――
『無記である!』、と。
答曰。如迦栴延子阿毘曇中言一切善。如餘阿毘曇中言。不殺戒或善或無記。何以故。若不殺戒常善者。持此戒人應如得道人常不墮惡道。以是故或時應無記。無記無果報故。不生天上人中。 答えて曰く、迦旃延子阿毘曇中の如きは、一切は善なりと言うも、余の阿毘曇中の如きには、不殺戒は或いは善、或いは無記なりと言えり。何を以っての故に、若し不殺戒にして、常に善ならば、此の戒を持する人は、応に得道の人の如く、常に悪道に堕せざるべし。是を以っての故に、或いは時に、応に無記なるべし。無記は、果報無きが故に、天上、人中にも生ぜず。
答え、
『迦旃延子阿毘曇』中などは、
こう言っているが、――
一切は、
『善である!』、と。
その他の『阿毘曇』中などには、
こう言っている、――
『不殺の戒』は、
或いは、『善であり!』、
或いは、『無記である!』、と。
何故ならば、
若し、
『不殺の戒』が、
『常に!』、
『善である!』ならば、
此の、
『戒』を、
『持つ!』、
『人』は、
『道』を、
『得た!』、
『人』と、
『同じように!』、
常に、
『悪道』に、
『堕ちることがない!』、
是の故に、
或いは、
時には、
『無記のはず!』であり、
若し、
『無記ならば!』、
『果報』が、
『無い!』が故に、
『天上』や、
『人中』には、
『生まれない!』。
  迦旃延子阿毘曇(かせんねんしあびどん):迦旃延の造、「八揵度阿毘曇」の異名。『大智度論巻2(上)注:八揵度阿毘曇』参照。
問曰。不以戒無記故墮地獄。更有惡心生故墮地獄。 問うて曰く、戒の無記なるを以っての故に、地獄に堕すにあらず。更に悪心の生ずる有るが故に、地獄に堕するなり。
問い、
『戒』が、
『無記である!』が故に、
『地獄』に、
『堕ちるのではない!』。
更に、
有る、
『悪心』が、
『生じた!』ので、
是の故に、
『地獄』に、
『堕ちるのである!』。
答曰。不殺生得無量善法。作無作福常日夜生故。若作少罪有限有量。何以故。隨有量而不隨無量。以是故知。不殺戒中或有無記。 答えて曰く、不殺生は、無量の善法を得、作無作の福、常に日夜に生ずるが故に、若しは少罪を作すも、有限有量なり、何を以っての故に、有量に隨いて、無量に隨わざればなり。是を以っての故に知る、不殺戒中にも、或いは無記有り。
答え、
『不殺生』は、
『無量』の、
『善法』を、
『得る!』。
『不殺生』は、
『作(外に表れた!)』と、
『無作(外に表れない!)』との、
『福』が、
常に、
『日夜』に、
『生じて!』、
『無量である!』が故に、
若し、
『少罪』を、
『作した!』としても、
『有限であり!』、
『有量である!』、
何故ならば、
『少罪』は、
『有量』の、
『心』に、
『隨い!』、
『無量』には、
『隨わないからである!』。
是の故に、
こう知る、――
『不殺の戒』中にも、  
或いは、
『無記』が、
『有る!』、と。
  作無作(さむさ):戒律の語。新訳にはこれを表無表と謂い、旧訳にはこれを作無作と謂う。作とは、身口の造作の義なり、表とは、身口の表彰の義なり。成実論には、これを教無教と謂う、人の身口の作業を教示する義なり。また作を無作に対して有作とも称し、即ち有相と同義なり。「伝通記雑鈔巻5」に、「旧訳の経論には有作無作と云い、新訳の経論には安立非安立と云う。安立とは有作の義なり、非安立とは無作の義なり」と云えり。また、有作とは、猶「有為」と言うべし、謂わゆる因縁所生の法なり。無作とは、無因縁の造作を云う、無為と言うが如し。<(丁)
復次有人不從師受戒。而但心生自誓。我從今日不復殺生。如是不殺或時無記。 復た次ぎに、有る人は、師に従うて受戒せず、但だ心に生じて、自ら誓うらく、『我れは、今日より、復た生を殺さず』、と。是の如き不殺は、或いは無記なり。
復た次ぎに、
有る人は、
『師』より、
『戒』を、
『受けずに!』、
但だ、
『心』が、
『生じて!』、
自ら、こう誓うのみである、――
わたしは、
『今日』より、
ふたたび、
『生』を、
『殺さない!』、と。
是のような、
『不殺生』は、
或いは、
時に、
『無記である!』。
問曰。是不殺戒何界繫。 問うて曰く、是の不殺戒は、何なる界の繋なり。
問い、
是の、
『不殺の戒』は、
何の、
『界』の、
『繋ですか?』。
答曰。如迦栴延子阿毘曇中言一切受戒律儀。皆欲界繫。 答えて曰く、迦旃延子阿毘曇中の如きに言わく、『一切の受戒、律儀は、皆、欲界繋なり』、と。
答え、
『迦旃延子阿毘曇』中などには、
こう言っている、――
一切の、
『受戒』や、
『律儀』は、
皆、
『欲界』の、
『繋である!』、と。
餘阿毘曇中言。或欲界繫或不繫。以實言之應有三種。或欲界繫或色界繫或無漏。殺生法雖欲界。不殺戒應隨殺在欲界。但色界不殺。無漏不殺遠遮故。是真不殺戒。 余の阿毘曇中に言わく、『或いは欲界繋、或いは不繋なり』、と。実を以って之を言わば、応に三種有るべし、或いは欲界繋、或いは色界繋、或いは無漏なり。殺生の法は、欲界なりと雖も、不殺戒は、応に殺に随うて、欲界のみに在るべし、但だ色界の不殺、無漏の不殺は、遠く遮するが故に、是れ真の不殺戒なり。
その他の、『阿毘曇』中などには、
こう言っている、――
或いは、
『欲界繋であり!』、
或いは、
『不繋である!』、と。
『実』を言えば、――
『不殺の戒』には、
『三種』、有るはずであり、――
或いは、
『欲界繋であり!』、
或いは、
『色界繋であり!』、
或いは、
『無漏である!』。
『殺生』という、
『法』は、
『欲界』の、
『法である!』が、
『不殺』という、
『戒』も、
『殺生』に、
『隨って!』、
『欲界』に、
『在るはずである!』が、
但だ、
『色界』の、
『不殺』と、
『無漏』の、
『不殺』とは、
『殺生』を、
『遠く!』から、
『遮る!』が故に、
是れが、
『真』の、
『不殺戒である!』。
復次有人不受戒。而從生已來不好殺生。或善或無記是名無記。是不殺生法非心非心數法亦非心相應。或共心生或不共心生。 復た次ぎに、有る人は、受戒せざるも、生じて已来、殺生を好まざれば、或いは善、或いは無記なれば、是れを無記と名づく。是の不殺生の法は、心なるに非ず、心数法に非ず、亦た心相応に非ず、或いは心と共に生じ、或いは心と共に生ぜず。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『戒』を、
『受けない!』が、
『生まれつき!』、
『殺生』を、
『好まない!』ので、
是れは、
或いは、
『善である!』か、
或いは、
『無記である!』ので、
是れを、
『無記』と、
『称するのである!』。
是の、
『不殺生』という、
『法』は、――
『心でもなく!』、
『心数法でもなく!』、
『心相応法でもない!』が、
或いは、
『心』と、
『共に!』、
『生じ!』、
或いは、
『心』と、
『共に!』、
『生じない!』。
  (しん):心の本体、識の自相を云う。『大智度論巻11(上)注:五位、事理五法』参照。
  心数法(しんじゅほう):心と相応して起こる受、想、思等の法。『大智度論巻11(上)注:五位、事理五法』参照。
  心相応(しんそうおう):心と相応して起こる法。五法中より心不相応法と無為法とを除き、残りの色法、心法、心所法を云う。『大智度論巻5(上)注:心相応行』参照。
  五法(ごほう):五位、事理五法とも称して、一切法を五種に分類す。即ち、一に色法、心法と心所法の所変、物質的なるものを云い、倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一を立つ。二に心法、また心、心王とも称す。心の本体、識の自相、五蘊の内の識蘊、主体的な心の働きを云い、倶舎には唯一の心王を立て、唯識には眼等の八種の心王を立つ。三に心所法、また心所、心数法とも称す。細々した心の働きを云い、上の八識と相応して起る、即ち受、想、思、触、欲、慧、念等を云う。倶舎には四十六を立て、唯識には五十一を立つ。四に不相応行法、また不相応、不相応法、不相応行とも称す。上の三法に従属せず、心とも色とも相応せざる働き、即ち、物が生じたり滅したりする力を云う。また、上の三法のある部分の位を仮りて設くる説もあり、それには得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎には十四を立て、唯識には二十四を立つ。五に無為法、上の四法の実性にして因縁和合の所造に非ず、生滅せざるものを云い、択滅、非択滅、虚空等、倶舎には三を立て、唯識には六を立つ。
迦栴延子阿毘曇中言。不殺生是身口業。或作色或無作色。或時隨心行或不隨心行。(丹注云隨心行定共戒不隨心意五戒)非先世業報。二種修應修。二種證應證。(丹注云身證慧證)思惟斷一切欲界最後得見斷時斷。凡夫聖人所得是色法。或可見或不可見法。或有對法或無對法。有報法有果法。有漏法有為法有上法。(丹注云非極故有上)非相應因。如是等分別是名不殺戒。 迦旃延子阿毘曇中に言わく、『不殺生は、是れ身、口の業にして、或いは作色、或いは無作色なり。或いは時に随心の行、或いは随心にあらざる行なり(丹注に云わく、随心行は定共戒なり、心意に隨わざるは、五戒なり)。先世の業報に非ず。二種の修を応に修すべく、二種の証を応に証すべし(丹注に云わく、身証、慧証なり)。思惟にて一切を断じ、欲界の最後に見断を得る時断ず。凡夫と聖人の所得にして、是れ色法の、或いは可見、或いは不可見の法、或いは有対の法、或いは無対の法、有報の法、有果の法、有漏の法、有為の法、有上の法なり(丹注に云わく極に非ざるが故に有上なり)。相応因に非ず』、と。是の如き等の分別、是れを不殺戒と名づく。
『迦旃延子阿毘曇』中には、
こう言っている、――
『不殺生』とは、――
『身』と、
『口』の、
『業であり!』、
或いは、
『作色(外に表れるもの)であり!』、
或いは、
『無作色(外に表れないもの)であり!』、
或るいは、
時には、
『心行(心の動き)』に、
『隨う!』が、
或いは、
『心行』に、
『隨わない!』、
『先世』の、
『業』の、
『報でなく!』、
『二種』の、
『修(得修、行修)』で、
『修めるべきであり!』、
『二種』の、
『証(身証、慧証)』で、
『証すべきであり!』、
『思惟道』で、
『一切が!』、
『断じられる!』が、
『欲界の最後』に、
『見断』を、
『得た!』時にも、
『断じられ!』、
『凡人』と、
『聖人』との、
『所得である!』。
是れは、
『色法であって!』、
或いは、
『可見である!』か、
或いは、
『不可見であり!』、
或いは、
『有対(五根の対象)の法である!』か、
或いは、
『無対(意根のみの対象)の法であり!』、
『有報の法であり!』、
『有果の法であり!』、
『有漏の法であり!』、
『有為の法であり!』、
『有上の法である!』が、
『相応因ではない!』、と。
是れ等のような、
『分別』、
是れを、
『不殺の戒』と、
『称する!』。
  作色(さしき)無作色(むさしき):新訳にいう表色、無表色なり。受戒の時、受者の身口を以って受戒の相を外に表すが如きを作色と云い、この表業を縁として満身の四大所造の色体を無作色と云う。
  表色(ひょうしき):表示する色の意。自心を表示して他をして知らしむる一種の形色にして、即ち身の屈伸動作を云う。「大毘婆沙論巻122」に、「形の了すべくして顕に非ずとは、謂わく身表色なり」と云い、「瑜伽師地論巻1」に、「彼の所縁とは謂わく色にして有見有対なり。此れに復た多種あり、略説せば三あり、謂わく顕色と形色と表色なり。(中略)表色とは謂わく取捨屈伸行住座臥、かくの如き等の色なり。また(中略)表色とは謂わく即ち此の積集の色生滅相続し、変異の因に由り、先に生ぜし処に於いて復た重ねて生ぜずして異処に転じ、或は無間、或は有間、或は近、或は遠にして差別して生じ、或は即ち此の処に於いて変異して生ず。是れを表色と名づく」と云えるこれなり。これ有情の身が行住座臥屈伸動作することによりて種種の行状姿態を生ずるを表色と名づけたるなり。説一切有部に於いては、これを顕形二色の中の形色の所摂となすも、唯識家にては顕形二色の外に別に表色を立て、色に総じて三種ありとなすなり。また「成唯識論了義灯巻2末」に、唯色処中に於いてのみ表色を立て、声処中にはこれを別立せざる所以を明し、「問う、何故に色の中には別に表色を立て、声の中には何故に表色を立てざるや。答う、色法は顕現なり、故に別に表を立つ、声の相は知り難し、故に別に立てず。方円長短も類して亦た知るべし。また解す、色の中の形色は表に非ざるものあれば、色の中に別に表を立つ。声の中の情名は必ずこれ表なり、表に非ざるものなきが故に別に立てず」と云えり。これ形色中には表に非ざるものあるが故に別に表色を立つるも、声の中の有情名は皆表示あるが故に、声処中には別に表色を立てざるの意を明にせるなり。また「大毘婆沙論巻75」、「倶舎論巻1」、「顕揚聖教論巻1」、「成唯識論巻1」、「同述記巻2本」等に出づ。<(望)
  無表色(むひょうしき):梵語 a- vijJapti -ruupa の訳。表示する能わざる色の意。また無作色、或は不更色と訳し、略して無表、無作、または無教と称す。七十五法の一。即ち身中に相続恒転して防非止悪若しくはこれに反する功能を有する無見無対の色法を云う。「入阿毘達磨論巻上」に、「無表色とは、謂わく能く自ら諸の心心所の転変差別を表するが故に名づけて表と為す、彼れと同類なるも而も表すること能わざるが故に無表と名づく。此れ相似に於いて遮止の言を立つ、刹帝利等に於いて非婆羅門等と説くが如し。無表の相とは謂わく心を表する大種の差別に由り、睡眠と覚と乱と不乱心、及び無心位に於いて善不善の色相続して転ずることあり、積集すべからず。是れ能く苾芻等を建立するの因なり」と云い、また「倶舎論巻1」に、「無表色の相は、今次ぎに当に説くべし。頌に曰わく、乱心無心等に随流して浄不浄なり、大種所造の性なり、此れに由りて無表と説く。論じて曰わく、乱心とは謂わく此の余の心なり、無心とは謂わく無想及び滅尽定に入るなり、等の言は不乱と有心とを顕示す。相似相続するを説いて随流と名づけ、善と不善とを浄不浄と名づく。諸得の相似相続に簡せんが為に、この故に復た大種の所造と言う。毘婆沙に説く、造はこれ因の義なり、謂わく生等の五種の因となるが故なり。立名の因を顕すが故に由此と言う、無表は色業を以って性となすこと有表業の如しと雖も、而も表示して他をして了知せしむるに非ず、故に無表と名づく」と云えるこれなり。これ無表は四大種所造にして、色業を以って性となすこと身語の有表業の如くなるも、これを表示して他に了知せしむる能わざるが故に無表と名づくることを説き、また此の無表に浄不浄の別あり、有心無心、睡眠及び覚時、並びに其の善不善と同性の不乱心、同性ならざる乱心の位にも常に相似相続して転ずることを示し、即ち善戒、悪戒の体にして、防非止悪若しくはこれに反する功能あるものなることを明にするの意なり。この中、無表に浄不浄の二種ありとは、善心等起の無表を浄とし、不善心等起の無表を不浄となせるものにして、即ち無記の無表なきことを顕す。「倶舎論巻13」に、「無表は唯善不善性に通じ、無記あることなし。所以は何ぞ、無記心の勢力は微劣にして、強業を引発して生ぜしめ、因滅する時も果仍お続起すべきこと能わざるを以ってなり」と云える即ち其の意なり。就中、善心等起の無表はこれを律儀と名づく、これ悪戒の相続を能く遮し、能く滅す。不善心等起の無表を不律儀と名づく、これ善戒の相続を能く遮し、能く滅す。また此の二に非ざるものを非律儀非不律儀と名づく。初の律儀に亦た別解脱律儀、静慮律儀、無漏律儀の三あり。別解脱律儀は謂わゆる欲界の戒にして、即ち作礼乞戒の身語表業に由りて得する無表を云う。これに苾芻、苾芻尼、正学、勤策、勤策女、近事、近事女、近住の八種の律儀あり。各尽形寿若しくは一日一夜を要期し、僧伽等に随って五、八、十、具の戒を受得す。「倶舎論巻14」に、「受戒の時、初の表無表は別別に種種の悪を棄捨す、故に初の別捨の義に依りて別解脱の名を立つ。即ち爾の時に於いて所作究竟すれば、業暢の義に依りて業道の名を立つ。(中略)第二念より乃至未だ捨せざる別解脱と名づけず、別解律儀と名づけ、業道と名づけず、名づけて後起となす」と云い、「順正理論巻2」に、「善心の等起を浄の無表と名づけ、相似相続を説いて律儀となす」と云えり。これ受戒の時、初刹那の表無表は別別に諸悪を棄捨するが故に別解脱又は根本業道と名づけ、第二念以後は唯無表のみ相似相続するが故に、但だ律儀又は後起と名づくることを説けるものなり。静慮律儀は謂わゆる色界の戒にして、即ち静慮地の心を得るに由りて得する無表を云い、無漏律儀は謂わゆる無漏戒にして、即ち無漏を得たる聖者の成就する所の無表を云うなり。此の静慮及び無漏の二は随心転の戒にして、唯静慮及び無漏の心と俱生し、別解脱律儀の如く乱心又は無心に転ずることなし。次ぎに不律儀は、謂わゆる悪戒にして、又悪律儀と名づけ、即ち不律儀の家に生在し、又は余家に生ずるも活命の為に要期して殺等の事を受くる時これを得す。非律非不律儀は又処中とも名づけ、即ち律儀の如く五、八、十、具の戒を受くるに非ず、また不律儀の如く活命を要期して悪戒を得するにも非ず、但だ用若しくは重行等に由りて得する無表を称したるものにして、その体は亦た善不善を出でざるなり。蓋し説一切有部に於いては無表は皆四大種の所造にして実色なりとし、これを十一種の色の中に摂するなり。就中、欲界の戒は、初念の無表は現在の大種を親所依として生ず、故にこの能造の大種には具さに生、依、立、持、養の五因の義あり。第二念以後の無表は過去の初念の大種を親転因とし、各現身の大種を疎依として随転すとなす。即ち輪を地に転ずるに手を親転因とし、地を随転依となすが如し。但し色界の戒は随心転なるが故に共に必ず同時の大種所造なり。無色界には大種なきが故に無表も亦た無し。「順正理論巻2」に、「諸師は咸くこの説を作す、諸の所造の色に二種の依あり、一に生起依、二に力転依なり。聖の無色に生ずるは力転依に由る、大種無きが故なり。無漏の無表は復た成就すと雖も、而も現行せず」と云えり。また説一切有部に於いて唯色を以って戒体となすに関し、「大毘婆沙論巻140」に、「何故に戒体は唯色なるや。答う、悪色の起こるを遮するが故なり。またこれ身語業の性なるが故に、身語二業は色を体と為すが故なり。問う、何故に意業は戒に非ざるや。答う、親しく悪戒を遮すること能わざるが故なり。問う、何故に悪戒は意業に非ざるや。答う、未離欲の者は皆不善の意業を成就す、彼れ豈に悉く犯戒、或は不律儀と名づけんや。この故に悪戒は意業に非ず。また善の意業も若しこれ善戒ならば、則ち応に一切の善を断ぜざる者は悉く律儀に住すと名づくべし。彼れ皆善の意業を成就するが故なり」と云えり。これ戒体は身語業の性なれば唯色を以ってその体と為すべく、若し意業を以って戒体とせば親しく悪戒を遮する能わず、また種種の難あることを明にせるなり。かくの如く説一切有部に於いては無表を以って実色となすも、成実家にはこれを非色非心として心不相応行蘊に摂し、経量部並びに大乗唯識家にては、その実有を認めず、強勝なる思の心所が善悪の表業を発して熏成する種子の上に仮立し、また「菩薩瓔珞本業経」等には心法を以って戒体とし、別に無表ありと言わず。その他古来異説する所少なからず。また「大乗義章巻7」には「成実論巻8九業品」の説に依り、無作に形俱、心俱、要期、悕望、作俱、従用、事在、異縁、助縁の九種の別ありとし、五戒出家戒等を形俱の無作、定道二戒等を心俱の無作、八戒等を要期の無作、期限を作さずして自ら悕心に従うを悕望の無作、善悪業を造作する時の如きを作俱の無作、橋梁等を作りて人の受用するに随って生ずるを従用の無作、塔厠等を造作して壊せざる間の善を事在の無作、書を以って口業を成ずるが如きを異縁の無作、他を教えて自ら罪福を得しむるが如きを助縁の無作となすと云えり。また「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻119、巻122」、「雑阿毘曇心論巻3」、「倶舎論巻15」、「順正理論巻35、巻36」、「成実論巻7、巻8」、「大乗成業論」、「成唯識論巻1」、「菩薩戒経義疏巻上」、「倶舎論光記巻13」、「大乗法苑義林章巻3末」等に出づ。<(望)
  随心行(ずいしんぎょう):心行、即ち分別、思量に随って生起する法の意。『大智度論巻20(下)注:随心行』参照。
  定共戒(じょうぐかい):定と共に生ずる戒の意。二戒の一、三戒の一、四戒の一、若しくは五戒の一なり。「優婆塞戒経巻7」に、「また復た戒を学と名づく、調伏心、智慧、諸根を学すれば、この故に学と名づく。善男子、或は時に、ある人は一戒を具足す、謂わゆる波羅提木叉戒なり、或は二戒を具し、定共戒を加う、或は三戒を具し、無漏戒を加う、或は四戒を具し、摂根戒を加う、或は五戒を具し、無作戒を具す。善男子、波羅提木叉は現在に得、定共戒は三世の中に得」と云い、「大智度論巻22」に、「念戒とは、戒に二種有り、有漏戒、無漏戒なり、有漏にも、また二種有り、一には律儀戒、二には定共戒なり」と云い、また「阿毘曇甘露味論巻上」に、「無教に三種あり、一には無漏、二には定共、三には戒律儀なり。云何が無漏戒なる、正語、正業、正命なり。云何が定共戒なる、禅を得て欲、悪法を離る。云何が戒律儀なる、受戒の時、善有漏の身口行を得」と云えるこれなり。また静慮生律儀とも名づく。初禅、二禅等の諸の禅定に入りて、則ち禅定と共に生じて、自然に防非、止悪の戒体にして、身口の所作の尽く律儀に契うを云う。「倶舎論巻14」に、「静慮生とは、謂わゆるこの律儀は、静慮より生じ、或は静慮に依る。若し静慮を得れば、定はこの律儀を成ず」と云い、「七十五法名目」に、「静慮律儀、また定共戒とも名づく、定と同時なるが故なり」と云えるこれなり。<(丁)
  二種修(にしゅのしゅ):即ち得修、及び行修なり。『大智度論巻11(下)注:得修、行修』参照。
  二種証(にしゅのしょう):即ち身証、慧証なり。丹注に依る。
  思惟断(しゆいだん):また修道、思惟道とも称し、見道、無学道と共に三道の一。『大智度論巻2(上)注:見諦断、思惟断、巻3(下)注:三道』参照。
  見断(けんだん):また見諦断、見道とも称し、修道、無学道と共に三道の一。『大智度論巻2(上)注:三道』参照。
  有対法(うたいほう)、無対法(むたいほう):対象に拘束される法を有対、拘束されない法を無対と称す。『大智度論巻2(上)注:有対、無対』参照。
  有上法(うじょうほう):最極に非ざる法なり。丹注に依る。
  相応因(そうおういん):六因の一。同時相応の心心所法が更に互いに展転して因となるを云う。『大智度論巻32(上)注:六因』参照。
問曰。八直道中戒亦不殺生。何以獨言不殺生戒有報有漏。 問うて曰く、八直道中の戒も、亦た不殺生なり。何を以ってか、独り、『不殺生戒は、有報、有漏なり』と言える。
問い、
『八正道(無漏道)』中の、
『戒(正業)』も、
亦た、
『不殺生である!』。
何故、
勝手に、こう言うのか?――
『不殺生の戒』は、
『有報であり!』、
『有漏である!』、と。
  八直道(はちじきどう):八種の直に涅槃に趣く道の意、即ち八正道:正見、正思惟、正語、正業、正命、正方便、正念、正定をいう。『大智度論巻18上:八正道』参照。
答曰。此中但說受戒律儀法。不說無漏戒律儀。 答えて曰く、此の中には、但だ受戒の律儀の法を説いて、無漏戒の律儀は説かず。
答え、
此の中には、
但だ、
『受戒』の、
『律儀』を、
『説いたのであり!』、
『無漏戒』の、
『律儀』を、
『説いたのではない!』。
復次餘阿毘曇中言。不殺法常不逐心行。非身口業。不隨心業行。或有報或無報非心相應法或有漏或無漏。是為異法。餘者皆同。 復た次ぎに、余の阿毘曇中に言わく、『不殺の法は、常に心行を逐わず、身口の業に非ず、不随心の業行にして、或いは有報、或いは無報、心相応法に非ず、或いは有漏、或いは無漏なり』、と。是れを異法と為し、余は皆同じなり。
復た次ぎに、
その他の、『阿毘曇』中には、
こう言っている、――
『不殺の法』は、
常に、
『心行』に、
『随逐せず!』、
『身』と、
『口』の、
『業でもなく!』、
『心』に、
『隨わない!』、
『行業であり!』、
或いは、
『有報であり!』、
或いは、
『無報であり!』、
『心相応』の、
『法ではなく!』、
或いは、
『有漏であり!』、
或いは、
『無漏である!』、と。
是れが、
『迦旃延子阿毘曇』と、
『異なった!』、
『法()であり!』、
その他は、
皆、
『迦旃延子阿毘曇』と、
『同じである!』、
復有言。諸佛賢聖不戲論諸法。(丹注云種種異說名為戲也)現前眾生各各惜命。是故佛言。莫奪他命。奪他命世世受諸苦痛。眾生有無後當說。 復た有るいは言わく、『諸仏、賢聖は、諸法を戯論したまわず(丹注に云わく、種種の異説を名づけて、戯と為す)。現前の衆生は、各各命を惜めり。是の故に仏は、他の命を奪う莫かれ、他の命を奪わば、世世に諸の苦痛を受くと言えり』、と。衆生の有無は、後に当に説くべし。
復た、
有る人は、こう言っている、――
諸の、
『仏』や、
『賢聖』は、
諸の、
『法』を、
『戯論されない!』が、
現前の、
『衆生』は、
各各、
『命』を、
『惜しむ!』ので、
是の故に、
『仏』は、
こう言われるのである、――
『他』の、
『命』を、
『奪うな!』。
『他』の、
『命』を、
『奪えば!』、
『世世』に、
諸の、
『苦痛』を、
『受けるぞ!』、と。
『衆生』の、
『有、無』については、
『後に!』、
『説くことになろう!』。
問曰。人能以力勝人并國殺怨。或田獵皮肉所濟處大。令不殺生得何等利。 問うて曰く、人は、能く力の人に勝るを以って、国を併せて、怨を殺す。或いは田猟し、皮肉の済う所の処は大なり。不殺生せしめて、何等の利か得ん。
問い、
『人』は、
『人』より、
『勝れた!』、
『力』を、
『用いて!』、
『国』を、
『併合したり!』、
『怨賊』を、
『殺したりできる!』し、
或いは、
『田猟した!』、
『皮』や、
『肉』は、
『役立つ!』、
『処』が、
『大きい!』。
『不殺生させる!』ことで、
何のような、
『利』が、
『得られるのですか?』。
  (さい):すくう。渡る/困苦の人に幇助を加える/補助する( cross a river, aid, help )。
  田猟(でんろう):狩猟( hunt )、野生の鳥獣を捕捉すること。
答曰。得無所畏安樂無怖。我以無害於彼故。彼亦無害於我。以是故無怖無畏。好殺之人雖復位極人王。亦不自安。如持戒之人。單行獨遊無所畏難。 答えて曰く、無所畏と、安楽と、無怖を得。我れは、彼れを害すること無きを以っての故に、彼れも、亦た我れを害すること無し。是を以っての故に、無怖、無畏なり。殺を好む人は、復た位人王に極まると雖も、亦た自らを安んぜず。持戒の人の如きは、単行、独遊して、畏難する所無し。
答え、
『無所畏』と、
『安楽』と、
『無怖』とを、
『得させられる!』。
謂わゆる、――
わたしは、
彼れを、
『害する(殺す)!』ことは、
『無い!』が故に、
彼れも、
わたしを、
『害する!』ことは、
『無い!』、と。
是の故に、
『恐怖する!』ことも、
『怖畏する!』ことも、
『無いのである!』、
『殺生』を、
『好む!』、
『人』は、――
たとえ、
『位』が、
『人王』に、
『極まった!』としても、
亦た、
『自らを!』、
『安んじられない!』が、
『持戒』の、
『人』などは、――
『単独で!』、
『遊行しても!』、
『畏れる!』ような、
『難儀』は、
『無い!』。
  畏難(いなん):困難を畏れる( be afraid of difficulty )。
復次好殺之人。有命之屬皆不喜見。若不好殺。一切眾生皆樂依附。 復た次ぎに、殺を好む人を、有命の属は、皆見るを喜ばず。若し殺を好まざれば、一切の衆生は、皆楽しんで依附す。
復た次ぎに、
『殺生』を、
『好む!』、
『人』を、――
『命』を、
『有する!』、
『属』は、
皆、
『見る!』のを、
『喜ばない!』が、
若し、
『殺生』を、
『好まなければ!』、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『楽しんで!』、
『従属する(なつく)!』。
  依附(えふ):附著する/付属物となる( become an appendage to )、依頼する/従属する( depend on, attach oneself to )。
復次持戒之人。命欲終時其心安樂無疑無悔。若生天上若在人中常得長壽。是為得道因緣。乃至得佛住壽無量。 復た次ぎに、持戒の人は、命の終らんと欲する時、其の心安楽にして、疑無く、悔無く、若しは天上に生じ、若しは人中に在りて、常に長寿を得れば、是れを道を得る因縁と為して、乃至仏を得れば、寿を住すること無量なり。
復た次ぎに、
『持戒の人』は、
『命』の、
『終ろうとする!』時にも、
其の、
『心』は、
『安楽』で、
『疑うことも無く!』、
『悔やむことも無く!』、
若し、
『天上』か、
『人中』に、
『生まれた!』としても、
常に、
『長寿』を、
『得る!』ので、
是れが、
『道』を、
『得る!』、
『因縁となり!』、
乃至、
『仏』を、
『得る!』まで、
『寿』を、
『無量に!』、
『住めることができる!』。
復次殺生之人。今世後世受種種身心苦痛。不殺之人無此眾難。是為大利。 復た次ぎに、殺生の人は、今世、後世に種種の身心の苦痛を受くるも、不殺の人は、此の衆難無ければ、是れを大利と為す。
復た次ぎに、
『殺生の人』は、
『今世』と、
『後世』に、
種種の、
『身心の苦痛』を、
『受ける!』が、
『不殺の人』には、
此の、
『衆難』が、
『無い!』ので、
是れが、
『大利である!』。
復次行者思惟。我自惜命愛身。彼亦如是與我何異。以是之故不應殺生。 復た次ぎに、行者の思惟すらく、『我れは、自ら命を惜み、身を愛す。彼れも亦た是の如く、我れと何んが異る』、と。是を以っての故に、応に殺生すべからず。
復た次ぎに、
『行者』は、こう思惟する、――
わたしは、
自ら、
『命』を、
『惜んで!』、
『身』を、
『愛する!』。
彼れも、
亦た、
是の通りである!。
わたしと、
何が、
『異なろう?』、と。
是の故に、
『行者』は、
当然、
『殺生するはずがない!』のである。
復次若人殺生者。為善人所訶怨家所嫉。負他命故常有怖畏為彼所憎。死時心悔當墮地獄若畜生中。若出為人常當短命。 復た次ぎに、若し人、殺生すれば、善人の訶する所、怨家の嫉む所と為り、他の命を負うが故に、常に怖畏有りて、彼れの憎む所と為り、死する時には、心悔やみて、当に地獄、若しくは畜生中に堕ち、若し出でて人と為るも、常に当に短命なるべし。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『殺生すれば!』、
『善人』には、
『叱られ!』、
『怨家』には、
『嫌悪され!』、
『他』の、
『命』を、
『負う!』が故に、
常に、
『怖畏』を、
『懐いて!』、
『彼れに!』、
『憎まれ!』、
『死ぬ!』時には、
『心』に、
『悔いながら!』、
『地獄』か、
『畜生』中に、
『堕ち!』、
若し、
『出て!』、
『人』と、
『為った!』としても、
常に、
『命』は、
『短い!』。
  (しつ):ねたむ。嫉妬する/憎恨する( to envy, hate )。
  (か):喧しく叱る/ののしる/悪態をつく( scold loudly, curse, abuse )。
復次假令後世無罪。不為善人所訶怨家所嫉。尚不應故奪他命。何以故。善相之人所不應行。何況兩世有罪弊惡果報。 復た次ぎに、仮令(たとい)、後世に罪無くして、善人の訶する所、怨家の嫉む所と為らずとも、尚お応に故(ことさら)に他の命を奪うべからず。何を以っての故に、善相の人の、応に行うべからざる所なればなり。何に況んや、両世に罪と弊悪なる果報有るをや。
復た次ぎに、
若し、
『後世』に、
『罪』が、
『無く!』、
『善人』に、
『叱られず!』、
『怨家』に、
『嫉まれない!』としても、
尚お、
『故意に!』、
『他』の、
『命』を、
『奪うべきではない!』。
何故ならば、
『善相』の、
『人』は、
『殺生など!』、
『行うはずがない!』からである。
況して、
『今世』と、
『後世』に、
『罪』という、
『弊悪(醜悪)な果報』とが
『有るので!』、
『尚更である!』。
復次殺為罪中之重。何以故人有死急不惜重寶。但以活命為先。 復た次ぎに、殺を罪中の重しと為す。何を以っての故に、人に死の急なる有れば、重宝を惜まず、但だ活命を以って、先と為せばなり。
復た次ぎに、
『殺』は、
『罪』中に、
『重い!』、
『罪である!』。
何故ならば、
『人』は、
『死』の、
『急(切迫)』が、
『有れば!』、
『高価な!』、
『宝も!』、
『惜しまない!』、
但だ、
『活命する!』ことのみが、
『優先する!』のである。
  (じゅう):高価な。
譬如賈客入海採寶。垂出大海其船卒壞珍寶失盡。而自喜慶舉手而言。幾失大寶。眾人怪言。汝失財物裸形得脫。云何喜言幾失大寶。答言。一切寶中人命第一。人為命故求財。不為財故求命。 譬えば、賈客の、海に入りて宝を採るが如し。大海に出づるに垂(なんな)んとして、其の船卒(にわ)かに壊れ、珍宝を失い尽くすも、自ら喜慶して、手を挙げて言わく、『幾(ほとん)ど大宝を、失わんとす』、と。衆人怪しみて言わく、『汝は、財物を失い、裸形にて、脱るるを得たり。何んが喜びて、幾ど大宝を失わんとすと言えり』、と。答えて言わく、『一切の宝中、人命は第一なり。人は、命の為めの故に財を求め、財の為めの故に命を求めず』と。
譬えば、こうである、――
『賈客』が、
『海』に、
『入って!』、
『宝』を、
『採ろうとして!』、
『大海』に、
『出ようとする!』時、
其の、
『船』が、
『壊れて!』、
『宝』を、
『尽く!』、
『失ったのである!』が、
自らを、
『慶祝し!』、
『手』を、
『挙げて!』、
こう言った、――
ほとんど、
『大きな!』、
『宝』を、
『失うところであった!』、と。
『衆人』は、
怪しんで、こう言った、――
お前は、
『財物』を、
『失い!』、
『裸形』で、
『やっと!』、
『脱れられた!』のに、
何故、
『喜んで!』、こう言うのか?――
ほとんど、
『大きな!』、
『宝』を、
『失うところであった!』、と。
答えて、こう言った、――
一切の、
『宝』中には、
『人』の、
『命』が、
『第一である!』。
『人』は、
『命』の為めの故に、
『財』を、
『求める!』が、
『財』の為めの故に、
『命』を、
『求めるのではない!』、と。
  賈客(こきゃく):商人。
  喜慶(ききょう):喜んでめでたいと思う。慶祝。
  (き):ほとんど。もう少しで。
以是故。佛說十不善道中殺罪最在初。五戒中亦最在初。 是を以っての故に、仏の説きたまえる十不善道中には、殺罪は最も初に在り、五戒中にも、亦た最も初に在り。
是の故に、
『仏』の、
『説かれた!』、
『十不善道』中には、
『殺罪』が、
『最初』に、
『在り!』、
『五戒』中にも、
『殺罪』が、
『最初』に、
『在る!』。
若人種種修諸福德。而無不殺生戒則無所益。何以故。雖在富貴處生勢力豪強。而無壽命誰受此樂。 若し人、種種に諸の福徳を修するも、不殺生の戒無くんば、則ち益する所無し。何を以っての故に、富貴の処に在りて、生まれながらに勢力、豪強なりと雖も、寿命無ければ、誰か、此の楽を受けん。
若し、
『人』が、
種種に、
諸の、
『福徳』を、
『修めた!』としても、
而も、
『不殺生の戒』が、
『無ければ!』、
則ち、
『役立つ!』所が、
『無い!』。
何故ならば、
『富貴の処』で、
『生まれながらに!』、
『勢力』が、
『豪強だった!』としても、
『寿命』が、
『無ければ!』、
誰が、
『此の楽』を、
『受けるのか?』。
以是故知。諸餘罪中殺罪最重。諸功德中不殺第一。 是の故に知る、諸余の罪中、殺罪は最も重く、諸の功徳中に、不殺は第一なり。
是の故に、
こう知る、――
諸の、
『罪』中には、
『殺罪』が、
『最も重く!』、
諸の、
『功徳』中には、
『不殺』が、
『第一である!』、と。
世間中惜命為第一。何以知之。一切世人甘受刑罰刑殘考掠以護壽命。 世間中には、命を惜むこと、第一と為す。何を以ってか、之を知る、一切の世人は、刑罰、刑残、拷掠を甘受して、以って寿命を護ればなり。
『世間』中に、
『惜まれる!』のは、
『命』が、
『第一である!』。
何故、
これを知るのか?――
一切の、
『世人』は、
『刑罰』や、
『刑残』、
『拷掠』を、
『甘受してでも!』、
『寿命』を、
『護ろう!』と、
『思うからである!』。
  刑罰(ぎょうばつ):刑は身体を傷つけ、罰は鞭打つの意。
  刑残(ぎょうざん):死刑に近き厳酷の刑罰。
  考掠(こうりゃく):拷掠に同じ。打つ。
復次若有人受戒心生。從今日不殺一切眾生。是於無量眾生中。已以所愛重物施與。所得功德亦復無量。 復た次ぎに、若しは、有る人、戒を受くるに心の生ずらく、『今日より、一切の衆生を殺さず』、と。是れ無量の衆生中に於いて、已に愛し、重んずる所の物を以って施与すれば、得る所の功徳も亦復た無量なり。
復た次ぎに、
若し、
有る人が、
『戒』を、
『受けて!』、
『心』を、
『生じたとする!』、――
今日より、
『一切の!』、
『衆生』を、
『殺さないぞ!』、と。
是れは、
已に、
『無量の!』、
『衆生』中に、
『愛され!』、
『重んじられる!』、
『物()』を、
『施与したことになり!』、
是の故に、
『得られる!』、
『功徳』も、
亦た、
『同じように!』、
『無量なのである!』。
如佛說有五大施。何等五。一者不殺生是為最大施。不盜不邪婬不妄語不飲酒亦復如是。 仏の説きたもうが如し、『五大施有り、何等か五なる、一には不殺生、是れを最大の施と為す、不盗、不邪婬、不妄語、不飲酒も亦復た是の如し』、と。
例えば、
『仏』は、こう説かれた、――
『五大施』が有る、――
何のような、五か?
一には、
『不殺生』、
是れは、
『最大』の、
『施である!』、
『不盗』、
『不邪婬』、
『不妄語』、
『不飲酒』も、
亦た、
是の通りである、と。
復次行慈三昧其福無量。水火不害刀兵不傷。一切惡毒所不能中。以五大施故所得如是。 復た次ぎに、慈三昧を行えば、其の福無量にして、水火も害せず、刀兵も傷つけず、一切の悪毒の中(あ)つる能わざる所なるに、五大施を以っての故に得る所も是の如し。
復た次ぎに、
『慈三昧』を、
『行えば!』、
其の、
『福』が、
『無量であり!』、
『水』や、
『火』も、
『害せず!』、
『刀』や、
『兵』も、
『傷つけず!』、
一切の、
『悪毒』にも、
『中()てられない!』が、
『五大施』の故に、
『得る!』所の、
『福徳』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次三世十方中尊佛為第一。如佛語難提迦優婆塞。 復た次ぎに、三世、十方中の尊は、仏を第一と為すに、仏の難提迦優婆塞に語りたまえるが如し。
復た次ぎに、
『三世』の、
『十方』中に、
『尊ばれる!』者として、
『仏』が、
『第一である!』が、
『仏』は、
『難提迦優婆塞』に、こう語られている、――
  (そん):梵語 aarya の訳、非常に尊敬される人( a man highly esteemed )の義。
  難提迦(なんだいか):梵名 nandika、釈氏長者名。また難提優婆塞、釈氏難提等と称す。「起世経巻10」に、「諸比丘、浄飯王は二子を生ず、一を悉達多と名づけ、二を難陀と名づく、白飯の二子は、一を帝沙と名づけ、二は難提迦なり、云々」と云う。また「雑阿含経巻30(855~858)」等に出づ。
  泥梨(ないり):梵語 niraya、また泥黎、泥犁等に作り、地獄と訳す。<(丁)
  参考:『雑阿含経巻30』:『(八五五)如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。有難提優婆塞來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。白佛言。世尊。若聖弟子於此五根一切時不成就者。為放逸。為不放逸。佛告難提。若於此五根一切時不成就者。我說此等為凡夫數。若聖弟子不成就者。為放逸。為不放逸。難提。若聖弟子於佛不壞淨成就。而不上求。不於空閑林中。若露地坐。晝夜禪思。精勤修習。勝妙出離。饒益隨喜。彼不隨喜已。歡喜不生。歡喜不生已。身不猗息。身不猗息已。苦覺則生。苦覺生已。心不得定。心不得定者。是聖弟子名為放逸。於法.僧不壞淨。聖戒成就亦如是說。如是。難提。若聖弟子成就於佛不壞淨。其心不起知足想。於空閑林中。樹下露地。晝夜禪思。精勤方便。能起勝妙出離隨喜。隨喜已。生歡喜。生歡喜已。身猗息。身猗息已。覺受樂。覺受樂已。心則定。若聖弟子心定者。名不放逸。法.僧不壞淨。聖戒成就亦如是說。佛說此經已。難提優婆塞聞佛所說。歡喜隨喜。從座起。禮佛足而去。(八五六)如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。有釋氏難提來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。白佛言。世尊。若聖弟子於四不壞淨一切時不成就者。是聖弟子為是放逸。為不放逸。佛告釋氏難提。若於四不壞淨一切時不成就者。我說是等為外凡夫數。釋氏難提。若聖弟子放逸.不放逸。今當說。廣說如上。佛說此經已。釋氏難提聞佛所說。歡喜隨喜。從座起。作禮而去。(八五七)如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。前三月夏安居竟。有眾多比丘集於食堂。為佛縫衣。如來不久作衣竟。當著衣持缽出精舍。人間遊行。時。釋氏難提聞眾多比丘集於食堂。為佛縫衣。如來不久作衣竟。著衣持缽。人間遊行。釋氏難提聞已。來詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。我今四體支解。四方易韻。先所聞法。今悉迷忘。聞眾多比丘集於食堂。為世尊縫衣言。如來不久作衣竟。著衣持缽。人間遊行。是故我今心生大苦。何時當復得見世尊及諸知識比丘。佛告釋氏難提。汝見佛.若不見佛。若見知識比丘.若不見。汝當隨時修習五種歡喜之處。何等為五。汝當隨時念如來事。如來.應.等正覺.明行足.善逝.世間解.無上士.調御丈夫.天人師.佛.世尊。法事.僧事.自持戒事.自行世事。隨時憶念。我得己利。我於慳垢眾生所。當多修習離慳垢住。修解脫施.捨施.常熾然施.樂於捨。平等惠施。常懷施心。如是。釋氏難提。此五支定若住.若行.若坐.若臥。乃至妻子俱。常當繫心此三昧念。佛說此經已。釋氏難提聞佛所說。歡喜隨喜。作禮而去(八五八)如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。前三月夏安居。時。有釋氏難提聞佛於舍衛國祇樹給孤獨園。前三月結夏安居。聞已。作是念。我當往彼。并復於彼造作供養眾事。供給如來及比丘僧。即到彼。三月竟。時。眾多比丘集於食堂。為世尊縫衣。而作是言。如來不久作衣竟。著衣持缽。人間遊行。時。釋氏難提聞眾多比丘集於食堂。言。如來不久作衣竟。著衣持缽。人間遊行。聞已。來詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。我今四體支解。四方易韻。先所受法。今悉迷忘。我聞世尊人間遊行。我何時當復更見世尊及諸知識比丘。佛告釋氏難提。若見如來.若不見。若見知識比丘.若不見。汝當隨時修於六念。何等為六。當念如來.法.僧事.自所持戒.自所行施。及念諸天。佛說此經已。釋氏難提聞佛所說。歡喜隨喜。作禮而去』
殺生有十罪。何等為十。一者心常懷毒世世不絕。二者眾生憎惡眼不喜見。三者常懷惡念思惟惡事。四者眾生畏之如見蛇虎。五者睡時心怖覺亦不安。六者常有惡夢。七者命終之時狂怖惡死。八者種短命業因緣。九者身壞命終墮泥梨中。十者若出為人常當短命。 殺生には、十罪有り、何等か十と為す、一には、心に常に毒を懐きて、世世に絶えず。二には、衆生は憎悪して、眼に見るを喜ばず。三には、常に悪念を懐きて、悪事を思惟す。四には、衆生の之を畏るること、蛇虎を見るが如し。五には、睡時にも心怖れ、覚めて亦た安からず。六には、常に悪夢有り。七には、命終の時、狂怖して死を悪む。八には、短命の業の因縁を種う。九には、身壊れ、命の終われば、泥梨中に堕つ。十には、若し出でて、人と為れば、常に当に短命なるべし。
『殺生』には、
『十罪』が、
『有る!』、
何のような、
『十か?』――
一には、
『心』に、
常に、
『毒』を、
『懐いて!』、
世世に、
『尽きることがない!』。
二には、
『衆生』は、
『憎悪して!』、
『眼』に、
『見る!』ことを、
『喜ばない!』。
三には、
常に、
『悪念』を、
『懐いて!』、
『悪事』を、
『思惟する!』。
四には、
『衆生』は、
之を、
『蛇』か、
『虎』を、
『見るように!』、
『畏れる!』。
五には、
『睡る!』時、
『心』が、
『怖れ!』、
『覚めても!』、
『不安である!』。
六には、
常に、
『悪夢』が、
『有る!』。
七には、
『命』の、
『終る!』時、
『狂い!』、
『怖れて!』、
『死』を、
『憎悪する!』。
八には、
『短命になる!』ような、
『業』の、
『因縁』を、
『種える!』。
九には、
『身』が、
『壊れて!』、
『命』が、
『終る!』と、
『地獄』中に、
『堕ちる!』。
十には、
若し、
『地獄』より、
『出て!』、
『人』と、
『為っても!』、
常に、
『短命である!』、と。
  (ぜつ):断、尽、極。
復次行者心念。一切有命乃至昆虫皆自惜身。云何以衣服飲食。自為身故而殺眾生。 復た次ぎに、行者の心に念ずらく、『一切の、命有る、乃至昆虫まで、皆自ら身を惜む。何んが、衣服、飲食を以って、自らの身の為めの故に、而も衆生を殺さん』、と。
復た次ぎに、
『行者』は、
『心』に、こう念じる、――
一切の、
『命』を、
『有する!』者は、
乃至、
『昆虫まで!』、
皆、
自らの、
『身』を、
『惜しむ!』。
何故、
『衣服』や、
『飲食』として、
『用い!』、
自らの、
『身』の為めの故に、
『衆生』を、
『殺すのか?』、と。
復次行者當學大人法。一切大人中佛為最大。何以故。一切智慧成就十力具足。能度眾生常行慈愍。持不殺戒自致得佛。亦教弟子行此慈愍。行者欲學大人行故亦當不殺。 復た次ぎに、行者は、当に大人の法を学ぶべし、一切の大人中には、仏を最大と為す。何を以っての故に、一切の智慧成就して、十力具足し、能く衆生を度して、常に慈愍を行じ、不殺戒を持して、自ら致して仏を得、亦た弟子に教えて、此の慈愍を行ぜしむればなり。行者は、大人の行を学ばんと欲するが故に、亦た当に不殺なるべし。
復た次ぎに、
『行者』は、
『大人』の、
『法』を、
『学ぶべきである!』が、
一切の、
『大人』中には、
『仏』が、
『最大である!』。
何故ならば、
一切の、
『智慧』が、
『成就して!』、
『十力』が、
『具足し!』、
『衆生』を、
『度すことができて!』、
常に、
『慈愍』を、
『行い!』、
『不殺』の、
『戒』を、
『持って!』、
自らも、
『仏』を、
『得る!』ことを、
『現し!』、
亦た、
『弟子』に、
『教えて!』、
此の、
『慈愍』を、
『行わせるからである!』。
『行者』は、
『大人』の、
『行い!』を、
『学ぼう!』と、
『思うのである!』が故に、
当然、
『不殺でなければならない!』。
  (ち):いたす。招引/招致( present, cause )、送給( send, deliver )、努力( devote oneself efforts to )。
問曰。不侵我者殺心可息。若為侵害強奪逼迫。是當云何。 問うて曰く、我れを侵さざれば、殺心息むべし。若し侵害、強奪、逼迫せらるれば、是れを当に云何にすべし。
問い、
わたしを、
『侵害しなければ!』、
『殺心』も、
『息むでしょうが!』、
若し、
『侵害され!』、
『強奪され!』、
『逼迫されたら!』、
是れを、
『何うすればよいのですか?』。
答曰。應當量其輕重。若人殺己先自思惟。全戒利重全身為重。破戒為失喪身為失。如是思惟已。知持戒為重全身為輕。 答えて曰く、応当に其の軽重を量るべし。若し人、己を殺さば、先に、自ら思惟すらく、『戒を全うするの利重しや、身を全うするを重しと為すや。戒を破るを失うと為すや、身を喪うを失うと為すや』、と。是の如く思惟し已らば、『戒を持つを重しと為し、身を全うするを軽しと為す』を知らん。
答え、
当然、
其の、
『軽い!』と、
『重い!』とを、
『量るべきである!』。
若し、
『人』が、
『己を!』、
『殺そうとする!』ならば、
先に、
自らを、こう思惟しなくてはならない、――
『戒』を、
『全うする!』、
『利』が、
『重いのか?』、
『身』を、
『全うする!』、
『利』が、
『重いのか?』。
『戒』を、
『破る!』のが、
『誤ちだろうか?』、
『身』を、
『喪う!』のが、
『誤ちだろうか?』、と。
是のように、思惟すれば、
こう知るだろう、――
『戒』を、
『持つ!』ことが、
『重く!』、
『身』を、
『全うする!』ことは、
『軽い!』、と。
若苟免全身身何所得。是身名為老病死藪。必當壞敗。若為持戒失身其利甚重。 若し苟(いやしく)も免れて、身を全うすれば、身に何の得る所ぞ。是の身を名づけて、老病死の藪と為し、必ず当に壊敗すべし。若し戒を持たんが為めに、身を失うとも、其の利は、甚だ重し。
若し、
軽々しく、
『身』を、
『免れて!』、
『全うした!』としても、
『身』が、
何を、
『得るというのだろう?』。
是の、
『身』は、
『老、病、死』の、
『藪』と、
『呼ばれており!』、
必ず、
『腐敗して!』、
『破戒するものだ!』。
若し、
『持戒する!』為めに、
『身』を、
『失った!』としても、
其の、
『利』は、
『甚だ重いのである!』。
又復思惟。我前後失身世世無數。或作惡賊禽獸之身。但為財利諸不善事。今乃得為持淨戒故。不惜此身捨命持戒。勝於毀禁全身。百千萬倍不可為喻。如是定心應當捨身。以護淨戒。 又復た思惟すらく、『我が前後に身を失うこと、世世に無数なり。或いは悪賊、禽獣の身と作り、但だ財利と、諸の不善事を為すのみ。今、乃ち浄戒を持せんが為の故に、此の身を惜まず、命を捨つるを得。持戒すれば、禁を毀(やぶ)りて身を全うするに勝ること、百千万倍にして、喩と為すべからず』、と。是の如く心を定めて、応当に身を捨てて、以って浄戒を護るべし。
又、こうも思惟するだろう、――
わたしは、
『前世』にも、
『後世』にも、
『身』を、
『失っており!』、
『世世』に、
『無量に!』、
『失っている!』。
或いは、
『悪賊』や、
『禽獣』の、
『身』と、
『作って!』、
但だ、
『財利』や、
諸の、
『不善事』を、
『為すのみであった!』が、
今、
ようやく、
『浄戒』を、
『持つ!』為めの故に、
此の、
『身』を、
『惜まず!』、
『命』を、
『捨てる!』、
『機会を得た!』。
『持戒』は、
『破戒して!』、
『身』を、
『全うする!』より、
『百千万倍』でも、
『喩(たとえ)られない!』ほど、
『勝れている!』、と。
是のように、
『心』を、
『定めたならば!』、
『身』を、
『捨てて!』、
『浄戒』を、
『護るべきである!』。
  毀禁(きこん):禁戒をやぶる。破戒に同じ。
如一須陀洹人。生屠殺家年向成人。應當修其家業而不肯殺生。父母與刀并一口羊閉著屋中。而語之言。若不殺羊。不令汝出得見日月生活飲食。 一須陀洹の人の如し、屠殺の家に生まれて、年、成人するに向かいて、応当に其の家業を修むべきに、肯(あえ)て殺生せず。父母、刀と、並びに一口の羊を与えて、屋中に閉著して、之に語りて言わく、『若し羊を殺さざれば、汝をして出でて日月を見ること、生活、飲食することを得しめざらん』、と。
例えば、こうである、――
『一須陀洹の人』は、
『屠殺』の、
『家』に、
『生まれてた!』ので、
『年』が、
『成人』に、
『向う!』と、
其の、
『家』の、
『業』を、
『修めることになっていた!』が、
どうしても、
『殺生』を、
『納得しなかった!』。
『父母』は、
『刀』と、
『一頭の羊』を、
『与える!』と、
『小屋』の中に、
『閉じ込め!』、
語って、こう言った、――
若し、
『羊』を、
『殺さなければ!』、
お前は、
『小屋』を、
『出て!』、
『日の目』を、
『見られないばかりか!』、
『活きては!』、
『物』を、
『食わせないぞ!』、と。
  (こう):さきに、以前に。なんなんとす、近づく。むかう、臨む。
  (こう):量詞。いくつかの物品、家畜、人等に用いる。
  (こう):うべなう。あえて~する。同意する/~する意志がある/承諾する( agree, be willing to, consent )。
兒自思惟言。我若殺此一羊。便當終為此業。豈以身故為此大罪。便以刀自殺。父母開戶見。羊在一面立兒已命絕。當自殺時即生天上。 児の、自ら思惟して言わく、『我れ、若し此の一羊を殺さば、便ち当に終に、此れを業と為すべし。豈に、身を以っての故に、此の大罪を為さんや』、と。便ち刀を以って自殺す。父母、戸を開きて見るに、羊のみ、一面に在りて立ち、児は已に命絶え、自殺の時に当りて、即ち天上に生ぜり。
『児』は、
自ら思惟して、こう言った、――
わたしが、
若し、
此の、
『一羊』を、
『殺した!』ならば、
もはや、
此れを、
『業』と、
『為すことになろう!』。
何うして、
此の、
『身』の為めに、
『大罪』を、
『犯せようか?』、と。
そこで、
『刀』を、
『持って!』、
『自殺した!』。
『父母』が、
『戸』を、
『開いて!』、
『見てみる!』と、
『羊』のみが、
『壁際』に、
『立ちつくしており!』、
『児』は、
已に、
『命』が、
『絶えていた!』。
『自殺した!』時、
ただちに、
『天上』に、
『生まれたからである!』。
  (に):児女の父母に対する自称。父母の児女に対する呼称。
若如此者是為不惜壽命全護淨戒。如是等義是名不殺生戒。 若し、此の如くすれば、是れを寿命を惜まず、浄戒を護って全うすと為す。是の如き等の義は、是れを不殺生の戒と名づく。
若し、
此の、
『人のようにすれば!』、
是れは、
『寿命』を、
『惜まずに!』、
『浄戒』を、
『護って!』、
『全うしたのである!』。
是れ等のような、
『義』を、
『不殺生の戒』と、
『称する!』。



盗、不盗の相

不與取者。知他物生盜心。取物去離本處物屬我。是名盜。若不作是名不盜。其餘方便計挍。乃至手捉未離地者名助盜法。 不与取とは、他の物と知りて、盗心を生じ、物を取りて去り、本処を離れて、物、我れに属す、是れを盗と名づけ、若し作さざれば、是れを不盗と名づく。其の余の方便、計挍、乃至手に捉るも、未だ地を離れざれば、助盗の法と名づく。
『不与取』とは、
『他』の、
『物である!』と、
『知りながら!』、
『盗心』を、
『生じて!』、
『物』を、
『取って!』、
『去り!』、
『物』が、
『本処』を、
『離れ!』、
『物』が、
『わたしに!』、
『属すれば!』、
是れを、
『盗』と、
『称し!』、
若し、
『作さなければ!』、
『不盗』と、
『称する!』。
その他の、
『方便』や、
『計挍』、
乃至、
『手』で、
『捉った!』が、
『物』が、
『地』を、
『離れなかった!』まで、
是れを、
『助盗の法』と、
『称する!』。
  不与取(ふよしゅ):梵語 adattaadaana の訳、与えざる所を取る( taking that which has not been given )の義、偷盗の一形態( A form of theft )、十悪の第二( The second of the ten evil actions )。
  計挍(けきょう):計校に同じ。計算し得失を比較する。打算。計画、策略。
財物有二種。有屬他有不屬他。取屬他物是為盜罪。屬他物亦有二種。一者聚落中二者空地。此二處物。盜心取得盜罪 財物には、二種有り、有るいは他に属し、有るいは他に属せず。他に属する物を取れば、是れを盗罪と為す。他に属する物にも、亦た二種有り、一には聚落中、二には空地なり。此の二処の物を、盗心もて取れば、盗罪を得。
『財物』には、
『二種』有り、
有るいは、
『他』に、
『属する!』、
『物であり!』、
有るいは、
『他』に、
『属さない!』、
『物である!』。
『他』に、
『属する!』、
『物』を、
『取る!』、
是れが、
『盗罪である。』。
『他』に、
『属する!』、
『物』にも、
『二種』有り、
一には、
『聚落』中の、
『物であり!』、
二には、
『空地』の、
『物である!』。
此の、
『二処』の、
『物』を、
『盗心』を、
『生じて!』、
『取れば!』、
『盗罪』を、
『得ることになる!』。
  空地(くうじ):誰も使っていない土地。
若物在空地當撿挍。知是物近誰國。是物應當有屬不應取。如毘尼中說種種不盜。是名不盜相。 若し、物、空地に在れば、当に検挍して、是の物は、誰が国に近きかを知り、是の物に、応当に属有るべくんば、応に取るべからず。毘尼中の如きには、種種の不盗を説けば、是れを不盗の相と名づく。
若し、
『物』が、
『空地』に、
『在れば!』、
『検討すべきである!』、――
是の、
『物』は、
誰の、
『国』に、
『近いか?』を、
『知った!』上で、
是の、
『物』に、
『所属』が、
『有ったとなれば!』、
当然、
『取るべきではない!』。
『毘尼』中などには、
種種の、
『不盗』が、
『説かれている!』が、
是れを、
『不盗の相』と、
『称する!』。
  検挍(けんきょう):検校に同じ。しらべて考える。検討。
問曰。不盜有何等利。 問うて曰く、不盗なれば、何等の利か有る。
問い、
『不盗』には、
何のような、
『利』が、
『有るのですか?』。
答曰。人命有二種。一者內。二者外。若奪財物是為奪外命。何以故。命依飲食衣被等故活。若劫若奪是名奪外命。 答えて曰く、人命には、二種有り、一には内、二には外なり。若し、財物を奪えば、是れを、外の命を奪うと為す。何を以っての故に、命は、飲食、衣被等に依るが故に活く。若しは劫(うば)い、若しは奪えば、是れを外の命を奪うと名づく。
答え、
『人』の、
『命』には、
『二種』有り、
一には、
『内』の、
『命であり!』、
二には、
『外』の、
『命である!』が、
若し、
『財物』を、
『奪えば!』、
是れは、
『外』の、
『命』を、
『奪ったのである!』。
何故ならば、
『命』は、
『飲食』や、
『衣被』等に、
『依る!』が故に、
『活きる!』ので、
若し、
『強取したり!』、
『強奪したり!』すれば、
是れを、
『外』の、
『命を奪う!』と、
『称するからである!』。
  (こう):うばう。強取。掠奪(かすめてうばう)。強奪(しいてうばう)。
如偈說
 一切諸眾生  衣食以自活 
 若奪若劫取  是名劫奪命
以是事故有智之人不應劫奪。
偈に説くが如し、
一切の諸の衆生は、衣食を以って自活す、
若しは奪い若しは劫取す、是れを命を劫奪すと名づく
是の事を以っての故に、智有る人は、応に劫奪すべからず。
『偈』に、説く通りである、――
一切の、
諸の、
『衆生』は、
『衣食』を以って、
『自らを!』、
『活かす!』。
若し、
『奪ったり!』、
『劫(かす)めたり!』すれば、
是れを、
『命』を、
『劫奪した!』と、
『称する!』、と。
是の、
『事』の故に、
『智』を、
『有する!』、
『人』は、
当然、
『劫奪するはずがない!』。
復次當自思惟。劫奪得物以自供養。雖身充足會亦當死。死入地獄。家室親屬雖共受樂。獨自受罪。亦不能救。已得此觀應當不盜。 復た次ぎに、当に自ら思惟すべし、『劫奪して物を得、以って自らを供養せば、身は充足すと雖も、会(かなら)ず、亦た当に死すべし。死すれば地獄に入りて、家室、親属は共に楽を受くと雖も、独り自ら罪を受け、亦た救う能わず』、と。已に此の観を得たれば、応当に盗まざるべし。
復た次ぎに、
自ら、こう思惟すべきである、――
『劫奪』して、
『得た!』、
『物』で、
『自ら!』を、
『供養すれば!』、
『身』は、
『充足する!』が、
『必ず!』、
『死なねばならず!』、
『死ねば!』、
『地獄』に、
『入るだろう!』、
『妻子』や、
『親属』たちは、
『共に!』、
『楽』を、
『受けてきた!』が、
『自ら!』、
『独りで!』、
『罪』を、
『受けることになれば!』、
『もはや!』、
『救うこともできない!』、と。
已に、
此のように、
『観察できた!』ならば、
当然、
『盗まないはずである!』。
  (え):かならず。応当[義務/当然/適当]( should, ought to )、必然( certainly )。
  家室(けしつ):妻子/家族/家属( family )。
  親属(しんぞく):親類/親戚/血縁を有する人/姻戚関係にある人( relatives )。
  応当(おうとう):するはずだ。義務/当然/適当( ought to, should, must )。
復次是不與取有二種。一者偷。二者劫。此二共名不與取。於不與取中盜為最重。何以故。一切人以財自活。而或穿踰盜取是最不淨。何以故。無力勝人畏死。盜取故。劫奪之中盜為罪重。 復た次ぎに、是の不与取には、二種有り、一には偷(ぬす)む、二には劫うなり。此の二は共に、不与取と名づけ、不与取中には、盗を最も重しと為す。何を以っての故に、一切の人は、財を以って自活するに、或いは穿踰して盗取すれば、是れ最も不浄なればなり。何を以っての故に、力人に勝りて、死を畏れ、盗取するもの無きが故に、劫奪の中に、盗を罪重しと為す。
復た次ぎに、
是の、
『不与取』には、
『二種』有り、
一には、
『偷(窃盗)であり!』、
二には、
『劫(強奪)である!』
是の、
『二』は、
共に、
『不与取』と、
『称する!』。
『不与取』中には、
『盗(偷盗)』の、
『罪』が、
『最も重い!』。
何故ならば、
一切の、
『人』は、
『財』を以って、
『自ら!』を、
『活かしている!』が、
而も、
或いは、
『壁に穴を開けたり!』、
『塀を乗り越えたり!』して、
『盗み!』、
『取る!』のであるから、
是れは、
『最も!』、
『不浄である!』。
何故ならば、
『力』が、
『人』に、
『勝れている!』のに、
『死』を、
『畏れたり!』、
『盗んで!』、
『取る!』者は、
『無い!』が故に、
『劫奪』中には、
『盗む!』、
『罪』を、
『重いとするからである!』。
  (ちゅう):ぬすむ。竊(ひそ)かに取る。
  (とう):ぬすむ。不正等な手段を用いて取る、或いは謀って取る。
  穿踰(せんゆ):壁に穴を開けたり、塀を乗り越える。
  盗取(とうしゅ):竊かに取る。或いは掠奪する。
如偈說
 飢餓身羸瘦  受罪大苦劇 
 他物不可觸  譬如大火聚 
 若盜取他物  其主泣懊惱 
 假使天王等  猶亦以為苦
偈に説くが如し、
飢餓に身は羸痩すとも、罪を受くれば大苦劇し、
他の物には触るべからず、譬えば大火聚の如し。
若し他の物を盗み取らば、其の主は泣きて懊悩す、
たとい天王に等しくとも、猶お亦た以って苦と為さん。
『偈』に、こう説く通りである、――
『飢餓』に、
『身』が、
『弱り!』、
『痩せた!』としても、
『罪』を、
『受ければ!』、
『大苦!』が、
『劇しい!』、
『他』の、
『物』に、
『触れてはならない!』、
譬えば、
『大火聚』と、
『同じように!』。
若し、
『盗んで!』、
『他』の、
『物』を、
『取れば!』、
其の、
『主』は、
『泣いて!』、
『懊悩するだろう!』、
たとい、
『天王』に、
『等しく!』とも、
猶お、
『苦しく!』、
『思うだろう!』。
  羸痩(るいそう):弱って痩せている。
  大火聚(だいかじゅ):大火事。
  懊悩(おうのう):悩みもだえる。
殺生人罪雖重。然於所殺者是賊。偷盜人於一切有物人中賊。若犯餘戒。於異國中有不以為罪者。若偷盜人。一切諸國無不治罪。 殺生の人は罪重しと雖も、然し殺さるる者に於いて、是れ賊なり。偷盗の人は、一切の物を有する人中の賊なり。若し余の戒を犯せば、異国中に於いては、以って罪と為さざる者有り。若し偷盗の人なれば、一切の諸国に、治罪せざる無し。
『殺生』の、
『人』の、
『罪』は、
『重いのである!』が、
然し、
『殺された!』者に於いての、
『賊でしかない!』。
『偷盗』の、
『人』は、
『物』を、
『所有する!』ような、
一切の、
『人』に於いて、
『賊である!』。
若し、
その他の、
『戒』を、
『犯した!』としても、
『異国』中には、
『罪と為らない!』者も、
『有る!』が、
若し、
『偷盗』の、
『人』ならば、
一切の、
諸の、
『国』中に、
『治罪しない!』、
『国』は、
『無い!』。
  治罪(じざい):法に依って罪を治める。
問曰。劫奪之人。今世有人讚美其健。於此劫奪何以不作。 問うて曰く、劫奪の人は、今世に、有る人は、其の健を讃美す。此の劫奪に於いては、何を以ってか作さざる。
問い、
『劫奪する!』、
『人』を、
『今世』の、
有る、
『人』は、
其の、
『強さ!』を、
『讃美します!』。
此の、
『劫奪』は、
何故、
『讃美されないのですか?』。
  劫奪(こうだつ):梵語 動詞語根√(muS) の訳、略奪する/強奪する/掠奪する/( to plunder, to threaten, to loot, to rob )の義。
  (ごん):健全( robust )、強健( strong )、健康( healthy )。
答曰。不與而盜是不善相。劫盜之中雖有差降俱為不善。譬如美食雜毒惡食雜毒。美惡雖殊雜毒不異。亦如明闇蹈火晝夜雖異燒足一也。 答えて曰く、与えざるに盗るは、是れ不善の相なり。劫盗中に、差降有りと雖も、倶に不善と為す。譬えば美食に毒を雑うると、悪食に毒を雑うるとは、美、悪殊なりと雖も、毒を雑うること異ならざるが如し。亦た明と闇とに火を蹈むに、昼夜異なりと雖も、足を焼くこと一なるが如し。
答え、
『与えない!』のに、
『盗めば!』、
是れは、
『不善』の、
『相である!』。
『劫盗』中にも、
『等級』の、
『差別』が、
『有る!』が、
倶に、
『不善である!』。
譬えば、こういうことである、――
『美食』に、
『毒』が、
『雑った!』のと、
『悪食』に、
『毒』が、
『雑った!』のとは、
『美』と、
『悪』とが、
『異なる!』が、
『毒』が、
『雑った!』ことでは、
『異ならない!』、
亦た、
『明くても!』、
『闇くても!』、
『火』を、
『踏めば!』、
『昼』と、
『夜』とは、
『異なる!』が、
『足』を、
『焼く!』ことでは、
『一つである!』。
  差降(しゃこう):等級、或いは品位の差別。
今世愚人不識罪福二世果報。無仁慈心。見人能以力相侵強奪他財。讚以為強。 今世の愚人は、罪福は二世の果報なることを識らざれば、仁慈の心無く、人の能く、力を以って相侵し、他の財を強奪するを見て、讃ずるに、以って強しと為す。
『今世』の、
『愚人』は、
『罪、福』は、
『二世』の、
『果報である!』ことを、
『識らず!』、
『仁慈』の、
『心』を、
『無くしている!』ので、
『人』が、
『力』で、
『他』を、
『侵し!』、
『他』の、
『財』を、
『強奪すれば!』、
其れを、
『讃じて!』、
『強い!』と、
『言う!』。
  仁慈(にんじ):慈悲心/慈愛( benevolence, loving kindness )、特に、より高位の者より、より下位の者に授けられるもの( esp. that bestowed from one in a higher position to one in a lower position )、慈愛と同じ。◯慈愛/慈悲( Charity, tender mercy )。
諸佛賢聖慈愍一切。了達三世殃禍不朽。所不稱譽。以是故知劫盜之罪俱為不善。善人行者之所不為。 諸仏、賢聖は一切を慈愍して、三世に殃禍の朽ちざるを了達すれば、称誉せざる所なり。是を以っての故に知る、劫盗の罪は、倶に不善と為し、善人の行者の為さざる所なりと。
諸の、
『仏』や、
『賢聖』は、
一切の、
『生』を、
『慈愍し!』、
『劫盗』は、
『三世』の、
『殃禍であり!』、
『朽ちることがない!』と、
『知っていられる!』ので、
『称誉されることはない!』。
是の故に、こう知る、――
『劫盗』の、
『罪』は、
皆、
『不善である!』、
『善人』の、
『行者』の、
『為さない!』所である、と。
  殃禍(おうか):わざわい。災禍。罪過。
如佛說。不與取有十罪。何等為十。一者物主常瞋。二者重疑(丹注云重罪人疑)三者非行時不籌量。四者朋黨惡人遠離賢善。五者破善相。六者得罪於官。七者財物沒入。八者種貧窮業因緣。九者死入地獄。十者若出為人勤苦求財。五家所共若王若賊若火若水若不愛子用。乃至藏埋亦失。 仏の説きたまえるが如く、不与取には十罪有り、何等か、十と為す、一には、物の主、常に瞋る。二には、疑を重ぬ(丹注に云わく、罪人の疑を重ぬ)。三には、行時に非ざれば、籌量せず。四には、悪人と朋党し、賢善を遠離す。五には善相を破る。六には、罪を官に得。七には、財物没入す。八には、貧窮の業の因縁を種う。九には、死して地獄に入る。十には、若し出でて、人と為り、勤苦して財を求むるも、五家の共にする所となり、若しは王、若しは賊、若しは火、若しは水、若しは愛せざる子用い、乃至埋蔵するも、亦た失う。
例えば、
『仏』は、こう説かれた、――
『不与取』には、
『十罪』が、
『有る!』。
何のような、
『十か?』、――
一には、
『物』の、
『所有主』が、
常に、
『瞋る!』。
二には、
『罪、福』の、
『果報』について、
『疑い!』を、
『重ねる!』。
三には、
『旅行』の、
『時でなければ!』、
『計画』を、
『立てない!』。
四には、
『悪人』を、
『朋党として!』、
『賢善』を、
『遠離する!』。
五には、
『善人』の、
『相』を、
『破る!』。
六には、
『罪』を、
『官府』に、
『得る!』。
七には、
『財物』が、
『沒入する!』。
八には、
『貧窮となる!』ような、
『業』の、
『因縁』を、
『種える!』。
九には、
『死んで!』、
『地獄』に、
『入る!』。
十には、
若し、
『地獄』より、
『出て!』、
『人』と、
『為り!』、
『勤苦して!』、
『財』を、
『求めても!』、
『五家』に、
『共有となり!』、
『王』や、
『賊』や、
『火』や、
『水』や、
『愛さない子』に、
『使用され!』、
乃至、
『埋蔵しても!』、
『失われる!』。
  行時(ぎょうじ):梵語 gamana- samaya の訳、旅行の時( time of traveling )の意。
  籌量(ちゅうりょう):計算する( reckoning )、計画と準備( plan and prepare )、◯梵語 gaNanaa, √(tul) の訳、量る/計る/数える/計算する( To weigh, measure; count, calculate )、思考する/推測する( considering, supposing )の義。◯梵語 tulayati, tulayitvaa の訳、評価/査定する( To evaluate, assess )の義。
  朋党(ほうとう):党派/結社( clique, cabal )、多くは権利を争奪せんが為めに、己に異なるものを排斥し、互いに相勾結して成る集団。



邪淫、不邪婬の相

邪婬者。若女人為父母兄弟姊妹夫主兒子世間法王法守護。若犯者是名邪婬。 邪婬とは、若しは女人は、父母、兄弟、姉妹、夫主、児子、世間の法、王法の為めに守護されんに、若し犯さば、是れを邪婬と名づく。
『邪婬』とは、――
若し、
『女人』が、
『父母、兄弟、姉妹、夫主、児子』や、
『世間の法』や、
『王の法』に、
『守護されている!』のに、
若し、
『犯せば!』、
是れを、
『邪婬』と、
『称する!』。
若有雖不守護以法為守。云何法守。一切出家女人在家。受一日戒。是名法守。 若しは有るいは、守護せずと雖も、法を以って、守らる。云何が法守る。一切の出家の女人と、在家の一日戒を受けたる、是れを法守ると名づく。
若し、
有るいは、
『守護されていなくても!』、
『法』で、
『守られている!』。
何のように、
『法』が、
『守るのか?』、――
一切の、
『出家』の、
『女人』と、
『在家』でも、
『一日戒』を、
『受けていれば!』、
是れを、
『法』に、
『守られる!』と、
『称する!』。
若以力若以財若誑誘若自有妻受戒有娠乳兒非道。如是犯者名為邪婬。如是種種乃至以華鬘與婬女為要。如是犯者名為邪婬。如是種種不作。名為不邪婬。 若しは力を以って、若しは財を以って、若しは誑誘し、若しは自ら妻有るに、受戒、有娠、乳児、非道なるに、是の如きを犯せば、名づけて邪婬と為す。是の如きの種種、乃至華鬘を婬女に与えて、要を為し、是の如く犯せば、名づけて邪婬と為し、是の如き種種を作さざれば、名づけて不邪婬と為す。
若しは、
『力』とか、
『財』を、
『用いる!』か、
或いは、
『誑誘する!』か、
若しくは、
自ら、
『妻』が有るが、
『受戒の時』、
『有娠の時』、
『乳児の時』、
若しくは、
『非道で!』、
是れを、
『犯せば!』、
『邪婬』と、
『称する!』。
是のような、
種種と、
『乃至華鬘』を、
『婬女』に、
『与える!』ことで、
『求めて!』、
是れを、
『犯す!』ことまでを、
『邪婬』と、
『称する!』。
是のような、
種種を、
『作さなければ!』、
『不邪婬』と、
『称する!』。
  誑誘(こうゆ):たぶらかして誘う。
  有娠(うしん):妊娠。
  非道(ひどう):非理の道の意。口道、或いは大小便道を指す。
  (いよう):求める。要求、必要( demand, need, want )。
  参考:『十誦律巻57』:『佛在毘耶離。爾時須提那迦蘭陀子比丘作是念。佛結戒斷婬欲先作無罪。我多作婬欲。不知我何處是先何處非先。如是心生疑悔。是事白佛。佛言。是須提那迦蘭陀子比丘。未結戒前一切婬欲不犯。問佛說狂人不犯。齊何名狂。佛言。有五相名狂人。親里死盡故狂。財物失盡故狂田業人民失盡故狂。或四大錯亂故狂。或先世業報故狂。比丘雖有是五狂相。若自知我是比丘作婬欲。得波羅夷。若不自知不犯。問比尼中說散亂心不犯。云何名散亂心。佛言。有五種因緣。令心散亂。為非人所打故心散亂。或非人令心散亂。或非人食心精氣故心散亂。或四大錯故心散亂。或先世業報故心散亂。比丘有是五種散亂心。自覺是比丘。犯波羅夷。若不自覺知不犯。問佛言。病壞心人不犯。云何名病壞心人。有五種病壞心。或風發故病壞心。或熱發故病壞心。或冷發故病壞心。或三種俱發故病壞心。或時節氣發故病壞心。比丘有是五種病壞心。若自覺是比丘。得波羅夷。若不自知不犯。有跋耆子比丘。是比丘不還戒戒羸不出到自家作婬欲已。還生信心故出家。作是念。我當問諸比丘。我還得受具足戒。當出家作比丘。若不得當止。是人問諸比丘。比丘以是事白佛。佛言。若比丘不還戒戒羸不出。自至家作婬欲。是人不得受具足戒。隨今日是戒應如是說。若比丘入比丘法。不反戒戒羸不出。作婬欲乃至共畜生。得波羅夷。有一比丘。作道想非道中作婬欲。心生疑。我將無得波羅夷耶。是事白佛。佛言。道中道想作婬欲。得波羅夷。道中非道想。亦得波羅夷。道中疑亦得波羅夷。非道中非道想。得偷蘭遮。非道道想得偷蘭遮。非道中疑亦得偷蘭遮。道者。小便道大便道口道。若令入大便道中。得波羅夷。入小便道中。得波羅夷。入口道中。得波羅夷。比丘於象作婬欲。若觸肌得波羅夷。若不觸偷蘭遮。若不觸出精。僧伽婆尸沙。牛馬駱駝驢騾豬羊犬猿猴獐鹿鵝鴈孔雀雞等亦如是。若觸波羅夷。若不觸偷蘭遮。若不觸出精。僧伽婆尸沙。有一比丘。常婬欲發。語善知識。我婬欲常發憂惱。不能自止。得一女人共作婬欲可休。知識語言。便可作去。即隨知識語作婬欲。知識比丘心生疑悔。我將不得波羅夷耶。以是事白佛。佛言。不犯波羅夷。得偷蘭遮罪。長老優波離問佛言。世尊。偷蘭遮。云何懺悔除滅。佛言。有四種偷蘭遮。有偷蘭遮罪從波羅夷生重。有偷蘭遮罪從波羅夷生輕。有偷蘭遮從僧伽婆尸沙生重。有偷蘭遮從僧伽婆尸沙生輕。優波離。從波羅夷生重偷蘭遮。應一切僧前悔過除滅。從波羅夷生輕偷蘭遮。應出界外四比丘眾悔過除滅。從僧伽婆尸沙生重偷蘭遮。亦出界外四比丘眾悔過除滅。從僧伽婆尸沙生輕偷蘭遮。一比丘悔過除滅』
問曰。人守人瞋法守破法應名邪婬。人自有妻何以為邪。 問うて曰く、人守れば、人を瞋らせ、法守れば、法を破る、応に邪淫と名づくべし。人に自ら、妻有るに、何を以ってか、邪と為す。
問い、
『人』が、
『守れば!』、
『人』を、
『瞋らせ!』、
『法』が、
『守れば!』、
『法』を、
『破る!』となれば、
当然、
『邪婬』と、
『称すべきです!』が、
『人』が、
自ら、
『妻』を、
『所有している!』のに、
何故、
『邪なのですか?』。
答曰。既聽受一日戒。墮於法中。本雖是婦今不自在。過受戒時則非法守。 答えて曰く、既に一日戒を受くるを聴(ゆる)せば、法中に堕つ。本は、是れ婦なりと雖も、今は自在ならず。受戒の時を過ぐれば、則ち法に守らるるに非ず。
答え、
既に、
『一日戒』を、
『受ける!』ことを、
『許可すれば!』、
『法』の、
『所有』中に、
『堕ちた!』のであり、
本は、
『婦であっても!』、
『今は!』、
『自在でない!』。
『受戒』の、
『期間』が、
『過ぎれば!』、
『法』に、
『守られない!』。
  一日戒(いちにちかい):また八戒、近住律儀とも称し、一日一夜を限りて俗人の受くる戒なり。即ち「大智度論巻13」に依るに、一には不殺生、二には不盗、三には不婬、四には不妄語、五には不飲酒、六には不坐高大床上、七には不著華瓔珞、不香油塗身、不著香薫衣、八には不自歌舞作楽、不往観聴を云う。
  参考:『大智度論巻13』:『如諸佛盡壽不殺生。我某甲一日一夜。不殺生亦如是。如諸佛盡壽不盜。我某甲一日一夜。不盜亦如是。如諸佛盡壽不婬。我某甲一日一夜不婬亦如是。如諸佛盡壽不妄語。我某甲一日一夜不妄語亦如是。如諸佛盡壽不飲酒。我某甲一日一夜不飲酒亦如是。如諸佛盡壽不坐高大床上。我某甲一日一夜。不坐高大床上亦如是。如諸佛盡壽不著花瓔珞。不香塗身不著香熏衣。我某甲一日一夜。不著花瓔珞不香塗身不著香熏衣亦如是。如諸佛盡壽不自歌舞作樂亦不往觀聽。我某甲一日一夜。不自歌舞作樂不往觀聽亦如是』
有娠婦人以其身重。厭本所習。又為傷娠。乳兒時婬其母乳則竭。又以心著婬欲不復護兒。 有娠の婦人は、其の身の重きを以って、本習う所を厭い、又娠を傷つけらる。乳児の時、其の母を婬すれば、乳則ち竭(かわ)く。又、心が婬欲に著するを以って、復た児を護らず。
『妊娠中の婦人』は、
其の、
『身』が、
『重い!』ので、
本は、
『習慣であった!』ことも、
『嫌になる!』。
又、
『妊娠』が、
『妨げられる!』。
『乳児の時』に、
其の、
『母』を、
『婬すれば!』、
『乳』が、
『止まる!』し、
又、
『心』が、
『婬欲』に、
『著する!』ので、
もう、
『児』を、
『護らなくなる!』。
  (しょう):さまたげる。妨礙。
非道之處則非女根女心不樂。強以非理故名邪婬。是事不作名為不邪婬。 非道の処は、則ち女根に非ざれば、女心は楽しまず。強うるに、非理を以ってするが故に、邪婬と名づけ、是の事を作さざるを、名づけて不邪婬と為す。
『非道の処』とは、
『女根でない!』ので、
『女心』は、
『楽しまない!』、
『非理』の、
『事』を、
『強いる!』が故に、
是れを、
『邪婬』と、
『称し!』、
是の、
『事を作さない!』のを、
『不邪婬』と、
『称する!』。
問曰。若夫主不知不見不惱。他有何罪。 問うて曰く、若し夫主、知らず、見ず、悩まざれば、他に何の罪か有る。
問い、
若し、
『夫主』が、
『知ることもなく!』、
『見ることもなく!』、
『悩むこともなければ!』、
他に、
何のような、
『罪』が、
『有るのですか?』。
答曰。以其邪故既名為邪。是為不正。是故有罪。 答えて曰く、其の邪なるを以っての故に、既に名づけて、邪と為し、是れを不正と為す。是の故に、罪有り。
答え、
其れが、
『邪である!』が故に、
既に、
『邪』と、
『呼ばれている!』が、
是れは、
『不正だからであり!』、
是の故に、
『罪』が、
『有る!』。
復次此有種種罪過。夫妻之情異身同體。奪他所愛破其本心。是名為賊。 復た次ぎに、此には、種種の罪過有り。夫妻の情は、身を異にするも、体を同じうすれば、他の愛する所を奪わば、其の本心を破る、是れを名づけて、賊と為す。
復た次ぎに、
此れには、
種種の、
『罪過』が、
『有る!』、――
『夫』と、
『妻』との、
『感情』は、
『身』を、
『異にしながら!』、
『体()』は、
『同じであり!』、
若し、
『他』の、
『愛する!』所を、
『奪えば!』、
其の、
『本の心』を、
『破ることになる!』ので、
是れを、
『賊』と、
『称するのである!』。
  (じょう):愛情( affection )、感情( feeling )、色情( love, passion )。
復有重罪。惡名醜聲為人所憎少樂多畏。或畏刑戮又畏夫主傍人所知多懷妄語。聖人所呵罪中之罪(丹注云婬罪邪婬破戒故名罪中之罪) 復た重罪有り。悪名、醜声は、人の憎む所と為り、楽しみ少なく、畏るること多し。或いは刑戮を畏れ、又夫主、傍人に知らるるを畏れ、多くは妄語を懐く。聖人の呵する所の罪中の罪なり(丹注に云わく婬罪は、邪婬と破戒との故に罪中の罪と名づく)。
復た、
『重罪』が、
『有る!』、――
『悪名』や、
『醜声』で、
『人』には、
『憎まれ!』、
『楽しみ!』は、
『少なく!』、
『畏れ!』は、
『多く!』、
或いは、
『刑罰』や、
『処刑』を、
『畏れ!』、
或いは、
『夫主』や、
『近くの人』に、
『知られる!』のを、
『畏れ!』、
『多く!』の、
『妄語』の、
『罪』を、
『懐く!』ので、
『聖人』には、
『罪』中の、
『罪だ!』と、
『叱られる!』。
  刑戮(ぎょうりく):刑罰、或いは処刑( punishment and execution )。
  醜声(しゅうしょう):醜聞。
復次婬劮之人當自思惟。我婦他妻同為女人。骨肉情態彼此無異。而我何為橫生惑心隨逐邪意邪婬之人。破失今世後世之樂。(好名善譽身心安樂今世得也。生天得道涅槃之利後世得也) 婬劮の人は、当に自ら思惟すべし、『我が婦も、他の妻も、同じく女人と為す。骨肉、情態、彼れ此れ異なり無し。而るに我れは、何を為さんとてか、横ざまに惑心を生じて、邪意に随逐す。邪婬の人は、今世、後世の楽を破りて失わん(好名、善誉、身心の安楽は今世の得なり。天に生じて道を得る涅槃の利は後世の得なり)』、と。
復た次ぎに、
『婬劮の人』は、
自ら、こう思惟しなくてはならない、――
わたしの、
『婦』も、
他の、
『妻』も、
『同じく!』、
『女人であり!』、
『骨肉、情態』も、
『彼れ!』と、
『此れ!』とに、
『異なり!』は、
『無い!』、
而し、
わたしは、
何を思って、――
『横暴にも!』、
『惑心』を、
『生じて!』、
『邪意』に、
『随逐しているのだろう?』。
『邪婬の人』は、
『今世、後世』の、
『楽』が、
『破れて!』、
『失われるのに!』、と。
  婬劮(いんいつ):淫逸に同じ。淫蕩。淫乱。恣縦逸楽。~をほしいままにする( indulge in )、浪費する/放蕩する( dissipate )。
  (おう):よこざまに。勢力を恃みて理に順ぜざるをいう。一切を顧みない( steel one's heart )。
復次迴己易處以自制心。若彼侵我妻我則忿恚。我若侵彼彼亦何異。恕己自制故應不作。 復た次ぎに、己を迴らして、処を易(か)え、以って自ら心を制せん。若し彼れ、我が妻を侵さば、我れは則ち忿恚せん。我れ若し彼れを侵さば、彼れも亦た何ぞ異ならん。己を恕して、自ら制するが故に、応に作さざるべし。
復た次ぎに、
己の、
『心』を、
『迴らせて!』、
自らの、
『心』を、
『制しよう!』、――
若し、
彼れが、
わたしの、
『妻』を、
『侵せば!』、
わたしは、
『忿恚するだろう!』。
わたしが、
若し、
彼れを、
『侵せば!』、
彼れも、
何うして、
『異なろうか?』。
己を、
『寛大にすれば!』、
故に、
『邪婬』などは、
『作さないはずだ!』。
  恕己(じょこ):自己の仁愛の心を拡充せしむること。
復次如佛所說。邪婬之人後墮劍樹地獄眾苦備受。得出為人。家道不穆。常值婬婦邪僻殘賊邪婬為患。譬如蝮蛇亦如大火。不急避之禍害將及。 復た次ぎに、仏の説きたもう所の如し、邪婬の人は、後に剣樹地獄に堕ちて、衆苦は受くるに備う。出でて人と為るを得れば、家道穆(むつま)じからず、常に婬婦に値(あ)い、邪僻、残賊の邪婬を患と為す。譬えば、蝮蛇の如く、亦た大火の如く、急いで之を避けずんば、禍害将に及ばんとす。
復た次ぎに、
『仏』の、説かれた通りである、――
『邪婬の人』は、
後に、
『剣樹』の、
『地獄』に、
『堕ち!』、
『衆苦』が、
『受ける!』者に、
『備えている!』。
出て、
『人』と、
『為っても!』、
『家族』の、
『状況』は、
『穆(むつま)じくなく!』。
常に、
『淫乱な!』と、
『女』と、
『出会って!』、
『婦()とする!』ので、
『邪悪で!』、
『残虐な!』、
『賊』の、
『邪婬』に、
『患わされる!』、
譬えば、
『蝮蛇』や、
『大火』のように、
『急いで!』
『避けない!』と、
『禍害(わざわい)』が、
『及ぶのである!』。
  家道(けどう):家族の[経済的]状況( family [financial] situation )。家境。
  (ぼく):むつまじい( harmonious )。和睦。
  邪僻(じゃひゃく):心のねじ曲がった。
  残賊(ざんぞく):殺心を懐く者。
  蝮蛇(ふくだ):まむし。毒蛇。
如佛所說。邪婬有十罪。一者常為所婬夫主欲危害之。二者夫婦不穆常共鬥諍。三者諸不善法日日增長。於諸善法日日損減。四者不守護身妻子孤寡。五者財產日耗。六者有諸惡事常為人所疑。七者親屬知識所不愛喜。八者種怨家業因緣。九者身壞命終死入地獄。十者若出為女人多人共夫。若為男子婦不貞潔。如是等種種因緣不作。是名不邪婬。 仏の説きたもう所の如し、邪婬に十罪有り、一には、常に婬せらるる夫主は、之を危害せんと欲す。二には、夫婦穆じからずして、常に共に闘諍す。三には、諸の不善の法、日日に増長し、諸の善法に於いては、日日に損減す。四には、身を守護せざれば、妻子孤寡す。五には、財産日に耗(へ)る。六には、有らゆる諸の悪事を、常に人に疑わる。七には、親属、知識に愛し喜ばれず。八には、怨家の業の因縁を種う。九には、身壊れ、命終りて、死すれば、地獄に入る。十には、若し出でて、女人と為れば、多人と夫を共にし、若し男子と為れば、婦は貞潔ならず。是の如き等の種種の因縁を作さざる、是れを不邪婬と名づく。
譬えば、
『仏』の説かれたのは、こうである、――
『邪婬』には、
『十罪』有る、――
一には、
常に、
『婬された!』、
『夫主』が、
『危害』を、
『加えようとする!』。
二には、
『夫婦』は、
『穆じくなく!』、
常に、
『共に!』、
『闘諍する!』。
三には、
諸の、
『不善』の、
『法』が、
『日日』に、
『増長し!』、
『善』の、
『法』は、
『日日』に、
『損減する!』。
四には、
『身』を、
『守護しない!』ので、
『妻』は、
『寡婦となり!』、
『子』は、
『孤児となる!』。
五には、
『財産』が、
『日日』に、
『消耗する!』。
六には、
諸の、
『悪事』が、
『有れば!』、
常に、
『人』に、
『疑われる!』。
七には、
『親属』も、
『知識』も、
『愛さず!』、
『喜ばない!』。
八には、
『怨家(かたき)』の、
『業』の、
『因縁』を、
『種える!』。
九には、
『身』が、
『壊れ!』、
『命』が、
『終って!』、
『死ぬ!』と、
『地獄』に、
『入る!』。
十には、
『地獄』を、
『出て!』、
若し、
『女人』と為れば、
『夫』は、
『多くの人』と、
『共同であり!』、
若し、
『男子』と為れば、
『婦』は、
『貞潔でない!』。
是のような、
種種の、
『因縁』を、
『作さなければ!』、
是れを、
『不邪婬』と、
『称する!』。
  闘諍(とうじょう):力や、口を以って争う。
  孤寡(こか):孤児と寡婦。
  怨家(おんけ):かたき。仇家。仇敵。


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