巻第十二(下)
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大智度論釋初品中檀波羅蜜法施之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


菩薩の布施は檀波羅蜜を生じる

復次若菩薩行檀波羅蜜。能生六波羅蜜。是時名為檀波羅蜜具足滿。 復た次ぎに、若し菩薩、檀波羅蜜を行じて、能く六波羅蜜を生ずれば、是の時を名づけて、檀波羅蜜具足して満つと為す。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
『檀波羅蜜』を行って、
『六波羅蜜』を、
『生じることができれば!』、
是の時を、
『檀波羅蜜』が、
『具足して(完全に)!』、
『満ちる!』と、
『称する!』。
  (だん):梵語 daana 、又檀那に作り、施、布施と訳す、与える行為( the act of giving )、嫁にやる( giving in marriage )、捧げる( giving up )、伝達( communicating )、分け与える(imparting )、教える( teaching )、払い戻す( paying back )、返還する( restoring )、付け加える( adding )、附加( addition )、贈与( donation )、贈物( gift )、贈物を提供する( to offer a gift )、贈物を授ける( to bestow a gift )、供物( oblation )、 施し物( liberality )、賄賂( bribery )、切り落とす( cutting off )、分割する( splitting )割り当てる(dividing )等の義。与える( to give )、差し出す( to offer )、贈与、寄附( donate )、授ける( to bestow )、慈善( charity )、施し物( alms )の意。
云何布施生檀波羅蜜。 云何が、布施は、檀波羅蜜を生ずる。
何故、
『布施』は、
『檀波羅蜜』を、
『生じるのか?』、――
檀有下中上。從下生中從中生上。若以飲食麤物軟心布施。是名為下。習施轉增能以衣服寶物布施。是為從下生中。施心轉增無所愛惜。能以頭目血肉國財妻子盡用布施。是為從中生上。 檀には下、中、上有り、下に従って中を生じ、中に従って上を生ず。若し飲食、麁物を以って、軟心の布施すれば、是れを名づけて、下と為し、施を習いて、転た増し、能く衣服、宝物を以って布施すれば、是れを下に従って中を生ずと為し、施心転た増して、愛惜する所無く、能く頭目、血肉、国財、妻子を以って、尽く用いて布施すれば、是れを中に従りて上を生ずと為す。
『檀』には、
『下、中、上』が有り、
『下』より
『中』を、
『生じ!』、
『中』より、
『上』を、
『生じる!』。
若し、
『飲食』や、
『麁物(粗末な物)』を、
『用いる!』、
『軟心(同情心)』の、
『布施』ならば、
『下』と、
『称し!』、
『習慣的な!』、
『施し!』を、
『次第に!』、
『増して!』、
『衣服』や、
『宝物』を、
『布施できれば!』、
是れは、
『下』より、
『中』を、
『生じた!』のであり、
『施心』が、
『次第に!』、
『増して!』、
『愛惜する!』所の、
『心』が、
『無くなり!』、
『頭目、血肉、国財、妻子』を、
『尽く!』、
『用いて!』、
『布施できれば!』、
是れは、
『中』より、
『上』を、
『生じた!』のである。
  軟心(なんしん):容易に感動させられる心。梵語 anukampaa- citta? の訳、又憐愍心と訳す。同情/共感する( to sympathize with )心、哀れみ深い/気の毒に思う( compassionate )心の義。 
  施心(せしん):梵語 daana- chitta の訳。与える意志( mind of giving )の意。
  愛惜(あいしゃく):梵語 aparityakta の訳。捨て去られない、放棄されない等の義。別離の悲しみ( sorrow of parting )、別れをしぶる( to be reluctant to separate from )、手放すのを望まない( unwilling to give up )等の意。
  所愛惜(あいしゃくするところ):愛惜される物に非ず、愛惜する心の意。
如釋迦牟尼佛初發心時。作大國王名曰光明。求索佛道少多布施。轉受後身作陶師。能以澡浴之具及石蜜漿。布施異釋迦牟尼佛及比丘僧。其後轉身作大長者女。以燈供養憍陳若佛。如是等種種名為菩薩下布施。 釈迦牟尼仏の如し。初発心の時、大国の王と作りて、名を光明と曰い、仏道を求索して、少多の布施し、転(うた)た後身を受けて、陶師と作り、能く澡浴の具、及び石蜜の漿を以って、異なる釈迦牟尼仏、及び比丘僧に布施し、その後身を転じて、大長者の女と作り、灯を以って、憍陳若仏を供養したまえり。是の如き等の種種を名づけて、菩薩の下の布施と為す。
例えば、
『釈迦牟尼仏』の場合は、――
初めて、
『菩提心』を発(おこ)された時、
『大国』の、
『王』と作って、
『光明』と、
『呼ばれ!』、
『仏』の、
『道』を求めて、
『少しばかり!』を、
『布施する!』と、
転じて、
『後身』を受けて、
『陶師』と作り、
『澡浴の具(澡缶)』と、
『石蜜の漿』とを、
『異なる(別の)!』、
『釈迦牟尼仏と比丘僧』に、
『布施し!』、
その後、
『身』を転じて、
『大長者の女(むすめ)』と作ると、
『灯』を、
『憍陳若仏』に、
『供養された!』、
是れ等のような、
種種を、
『菩薩』の、
『下の布施』と、
『称する!』。
  求索(ぐさく):探す( to seek out )、梵語 paryeSTi の訳、探索( searching for )の義、又は梵語 abhinandin の訳、喜ぶ( rejoicing at )、望む( wishing )、渇望する( desiring )等の義。又梵語 arthika の訳、何かを欲する( wanting anything )の義。etc.。
  石蜜漿(しゃくみつのしょう):梵語 phaaNita の訳。砂糖黍、及びその他の植物を搾って濃縮した汁( the inspissated juice of the sugar cane and other plants )の義。
如釋迦文尼佛。本身作長者子。以衣布施大音聲佛。佛滅度後起九十塔。後更轉身作大國王。以七寶蓋供養師子佛。後復受身作大長者。供養妙目佛上好房舍及七寶妙華。如是等種種名為菩薩中布施。 釈迦文尼仏の如し。本、身を長者子と作し、衣を以って、大音声仏に布施し、仏の滅度の後に九十の塔を起て、後に更に身を転じて大国の王と作り、七宝の蓋を以って、師子仏を供養し、後に復た身を受けて、大長者と作り、妙目仏を供養して、好き房舎、及び七宝の妙華を上(ささ)げたまえり。是の如き等の種種を名づけて、菩薩の中の布施と為す。
例えば、
『釈迦文尼仏』の場合は、――
本、
『身』を、
『長者の子』と作って、
『大音声仏』に、
『衣』を、
『布施し!』、
『仏』の、
『滅度された!』後には、
『九十の塔』を、
『起(たて)られた!』が、
後、更に、
『身』を転じて、
『大国の王』と作り、
『七宝の蓋(かさ)』で、
『師子仏』を、
『供養し!』、
後、復た、
『身』を受けて、
『大長者』と作り、
『妙目仏』を、
『供養して!』、
『好い房舎』と、
『七宝の妙華』を、
『捧げられた!』。
是れ等の、
種種を、
『菩薩』の、
『中の布施』と、
『称する!』。
如釋迦牟尼佛本身。作仙人見憍陳若佛端政殊妙便從高山上自投佛前。其身安隱在一面立。又如眾生喜見菩薩。以身為燈供養日月光德佛。如是等種種不惜身命供養諸佛。是為菩薩上布施。是名菩薩三種布施。 釈迦文尼仏の如し。本の身を、仙人と作りて、憍陳若仏の端政、殊妙なるを見て、便ち高山上より、自ら仏前に投ぜしに、其の身安隠にして、一面に在りて立ちたまえり。又衆生喜見菩薩の如し。身を以って灯と為し、日月光徳仏を供養したまえり。是の如き等の種種の身命を惜まず、諸仏を供養する、是れを菩薩の上の布施と名づけ、是れを菩薩の三種の布施と名づく。
例えば、
『釈迦牟尼仏』の場合は、――
本、
『身』を、
『仙人』と作り、
『憍陳若仏』が、
『端政(端正)であり!』、
『殊妙である!』のを、
『見る!』と、
すぐに、
『高山』より、
自ら、
『身』を、
『仏前』に、
『投じられた!』が、
其の、
『身』は、
『安隠であり!』、
『壁』の、
『一面』に、
『立たれた!』。
又、
『衆生喜見菩薩』の場合は、――
『身』を、
『用いて!』、
『灯』を、
『作り!』、
其の、
『灯』で、
『日月光徳仏』を、
『供養された!』。
是れ等のように、
種種に、
『身命』を、
『惜まずに!』、
諸の、
『仏』を、
『供養すれば!』、
是れを、
『菩薩』の、
『上の布施』と、
『称する!』。
是れが、
『菩薩』の、
『三種』の、
『布施である!』。
  端政(たんじょう):端正。美しく整うの意。梵語 abhiruupa の訳。相応する( corresponding with )、適合する( conformable to )、心地よい( pleasing )、容貌の整った( handsome )、美しい( beautiful )、賢い( wise )、博学な( learned )、お月様( the moon )等の義。
若有初發佛心布施眾生亦復如是。初以飲食布施。施心轉增能以身肉與之。先以種種好漿布施。後心轉增能以身血與之。 若し、初めて仏心を発して、布施する衆生有らば、亦復た是の如く初めに飲食を以って布施すれば、施心転た増すに、能く身の肉を以って、之に与え、先に種種の好漿を以って布施すれば、後に心転た増して、能く身血を以って、之に与う。
若し、
有る、
『衆生』が、
初めて、
『仏心(菩提心)』を、
『発(おこ)して!』、
『布施する!』のも、
復た、
是の通りであり、
初めに、
『飲食』を、
『用いて!』、
『布施すれば!』、
『施心』が、
『次第に!』、
『増して!』、
『身』の、
『肉』を、
『施することができ!』、
先に、
種種の、
『好漿(果汁)』を、
『布施すれば!』、
後に、
『心』が、
『次第に!』、
『増して!』、
『身』の、
『血』を、
『布施することができる!』。
  仏心(ぶっしん):仏の心( buddha mind , the mind of buddha , the enlightened mind)、大慈悲心( the mind of great compassion )、即ち梵語 bodhi- citta の訳、又菩提心、発菩提心と訳す。菩提、便ち仏の境界を得んと欲する意志。◎外見でなく、真実に留まる精神( the mind that abides in the real and not the seeming )。◎先天的に知覚力を有する生物に所有される仏の心( the innate mind of buddha possessed by sentient beings );仏性に相似する( same as 佛性 (Skt. buddhaazaya: 仏の座[ resting-place, bed, seat ]の義、仏意、仏心と訳す ) )。
先以紙墨經書布施。及以衣服飲食四種供養供養法師。後得法身為無量眾生。說種種法而為法施。如是等種種從檀波羅蜜中。生檀波羅蜜。 先に、紙、墨、経書を以って布施し、及び衣服、飲食、四種の供養を以って、法師を供養すれば、後に法身を得て、無量の衆生の為めに、種種の法を説いて、法施を為す。是の如く種種に、檀波羅蜜中より、檀波羅蜜を生ず。
先に、
『紙』や、
『墨』や、
『経書』を、
『用いて!』、
『布施したり!』、
『衣服』や、
『飲食』、
『臥具』、
『薬湯』の、
『四種の供養』を、
『用いて!』、
『法師』を、
『供養すれば!』、
後に、
『法身』を、
『得る!』と、
無量の、
『衆生』の為めに、
種種の、
『法』を、
『説いて!』、
『法』が、
『施される!』。
是れ等のように、
種種に、
『檀波羅蜜』中より、
『檀波羅蜜』を、
『生じるのである!』。
  法身(ほっしん):法の身( dharma- body )、梵語 dharma- kaaya の訳、現実の身( reality body )、真実の身( truth body )、戒法の身( law body )等の意。◎一般的に大乗の教に於いては、法身は完全なる存在について名づけられ、存在の全て――真実性の実体、又は永久の原理としての仏――の示現であるとされ( In general Mahāyāna teaching, the Dharma- body is a name for absolute existence, the manifestation of all existences— the true body of reality, or Buddha as eternal principle )、その本質的な身は、純粋であり、区別の為めの目印[差別相]を有せず、空と相似である( the body of essence that is pure, possesses no marks of distinction, and is the same as emptiness )。その法身は、三身[法身、報身、応身]の一であり、その全宇宙的仏の身体、――即ち真実の示現である身体は、形態を欠いており( The Buddha's body of the universe— the body of truth that lacks form )、有らゆる事物の基礎である( The basis of all things )。◎大乗信仰の本生譚に於ける法身は、仏法蔵[法蔵]と同等であると看做される( In texts such as the Awakening of Mahāyāna Faith the Dharma- body is seen as being equivalent to the tathāgatagarbha )が、それは又一つの精神と同一のものと看做されている( it is also identified with the one mind )。◎有部に於いては、仏の二身の一であり、他の一は仏の肉身である生身である( In Sarvâstivāda, one of the two bodies of the Buddha, with the other being his physical body )。又仏の正法、或いは法の功徳である十力であるとも理解される( Also understood as the correct teaching of the Buddha, or the meritorious dharma of the ten powers )。◎法蔵( A collection of dharmas )。◎禅法に於いて、法身は純粋な法の世界を有しており、大円鏡智に相応する( In Yogâcāra theory, the Dharma- body possesses the pure Dharma- world, as well as the Great Perfect Mirror Wisdom )。◎身としての法(教)が、仏の肉身に対比されている。『大智度論巻5下注:法身』参照。



菩薩の布施は尸羅波羅蜜を生じる

云何菩薩布施生尸羅波羅蜜。 云何が、菩薩の布施は、尸羅波羅蜜を生ずる。
何故、
『菩薩』の、
『布施』は、
『尸羅波羅蜜』を、
『生じるのか?』。
  尸羅(しら):梵語 ziila 、戒、持戒と訳す、個人の習慣( habit )、社会的慣習( custom )、慣習( usage )、生まれつき、又は後に身につけた生活、行動、行為、品行、性癖、性向、性質、性質(しばしば習慣的、慣れた、性向、病み付き、実践等に等しい)、良い性癖又は性質、道徳的行為、高潔、道徳、敬虔、美徳( natural or acquired way of living or acting, practice, conduct, disposition, tendency, character, nature (often = " habituated " or " accustomed " or " disposed " or " addicted to ", " practising " ) good disposition or character, moral conduct, integrity, morality, piety, virtue )の義。行動の規律( behavioral discipline )、道徳( morality )の意。比丘、比丘尼に対する不道徳行為の禁止( the prohibitions against immoral behavior that are practiced by monks and nuns )の意。
菩薩思惟眾生不布施故。後世貧窮。以貧窮故劫盜心生。以劫盜故而有殺害。以貧窮故不足於色。色不足故而行邪婬。又以貧窮故為人下賤。下賤畏怖而生妄語。如是等貧窮因緣故。行十不善道。 菩薩の思惟すらく、『衆生は、布施せざるが故に、後世に貧窮し、貧窮を以っての故に、劫盗の心生じ、劫盗を以っての故に、有るいは殺害し、貧窮を以っての故に、色を不足し、色不足するが故に、邪淫を行ず。又貧窮を以っての故に、人に下賎せられ、下賎なれば畏怖して、妄語を生ず。是の如き等貧窮の因縁の故に、十不善道を行ず。
『菩薩』は、
こう思惟する、――
『衆生』は、
『布施しない!』が故に、
『後世』に、
『貧窮となり!』、
『貧窮』の故に、
『劫盗の心』が、
『生じ!』、
『劫盗する!』が故に、
『殺害する!』ことも、
『有る!』。
『貧窮する!』が故に、
『色(肉体の美)』が、
『不足し!』、
『色の不足する!』が故に、
『邪婬』を、
『行う!』。
又、
『貧窮』の故に、
『人』に、
『下賎され!』、
『下賎されれば!』、
『人』を、
『畏怖する!』が故に、
『妄語』を、
『生じる!』。
是れ等のように、
『貧窮』の、
『因縁』の故に、
『十不善道(殺,盗,邪婬,妄語,両舌,悪口,綺語,貪,瞋,癡)』を、
『行う!』。
  貧窮(びんぐ):貧に窮する。
  劫盗(ごうとう):奪い盗む。
  下賎(げせん):見下して賎しむ、
  怖畏(ふい):上の者を怖れる。
  妄語(もうご):嘘。
  十不善道(じゅうふぜんどう):十悪業。『大智度論巻4(下)注:十悪、巻8(下)注:十善』参照。
若行布施生有財物。有財物故不為非法。何以故五塵充足無所乏短故。 若し、布施を行じて、財物有るを生ずれば、財物有るが故に、非法を為さず。何を以っての故に、五塵充足して、乏短する所無きが故なり。
若し、
『布施』を、
『行えば!』、
『財物』を、
『生じて!』、
『所有する!』ことになり、
『財物』を、
『所有する!』が故に、
『非法』を、
『行わない!』。
何故ならば、
『五塵(色,声,香,味,触)』が、
『充足すれば!』、
『物』の、
『不足する!』ことが、
『無いからである!』。
  五塵(ごじん):欲心を生ずる五種の物。即ち色声香味触の五境を云う。
  乏短(ぼうたん):不足。乏少。充足の対語。
如提婆達。本生曾為一蛇。與一蝦蟆一龜在一池中共結親友。其後池水竭盡。飢窮困乏無所控告。時蛇遣龜以呼蝦蟆。 提婆達の如し。本生じて、曽て一蛇と為り、一蝦蟇、一亀と、一池中に共に結びて親友たり。その後、池の水渇して尽くるに、飢窮困乏して、控告する所無し。時に蛇は、亀を遣して、以って蝦蟇を呼ぶ。
例えば、
『提婆達』の場合は、――
『本の生』に、
曽て、
『一蛇』と、
『為り!』、
『一蝦蟇』、
『一亀』と、
『いっしょに!』、
『一池』中に、
『結びついて!』、
『親友となっていた!』。
その後、
『池』の、
『水』が、
『竭()れて!』、
『尽きてしまう!』と、
『蛇』は、
『飢窮し(飢えて)!』、
『困乏した(苦しんだ)!』が、
『控告する(訴える)!』所が、
『無かった!』。
その時、
『蛇』は、
『亀』を、
『遣(つかわ)して!』、
『蝦蟇』を、
『呼ぼうとした!』。
  蝦蟇(がま):ひきがえる。
  飢窮(きぐう):飢えて窮する。
  困乏(こんぼう):貧窮して疲労する。
  控告(こうこく):訴えて告げる。
  参考:『根本説一切有部毘奈耶破僧事巻17』:『復次佛告諸苾芻等。如是提婆達多。不知恩義亦不知恩德。汝等諦聽。我為汝說。乃往昔時有非時七日大雨不止。其鼠狼投入穴內。鼠亦入其穴中。後有毒蛇。覓避雨處亦入其穴。然而鼠狼欲害其鼠。于時毒蛇報。鼠狼曰。汝及我等遭大苦厄。汝等勿生相損害心。各自安住。其毒蛇等各立名號。毒蛇名愛君。鼠狼名有喜。鼠名恒河受。其愛君及有喜等告恒河受言。汝是勤健。當為我向餘處求覓飲食將來。其鼠性行質直心意賢善。為彼蛇及鼠狼勤來覓食。未迴來間。鼠狼報蛇言曰。彼若求食不得空來。我即食伊。其蛇聞是語已遂作是念。此鼠狼今遭此苦難。由欲擬害彼鼠。我今恐彼求食不得空來。決定被食我今預須報彼鼠知。作是念已即便附信報鼠令知作如是言。其鼠狼作如是言。如鼠無食空來必定食汝。其鼠苦求食飲不得。作是思惟。我今食既不得空去。必定食我。其鼠復附信與蛇。以頌報曰 若人儉少無悲心  飢火逼迫遂生急  汝大有恩報此語  我今無復更來親  佛告諸苾芻等其鼠者。豈異人乎。我身是也。其鼠狼者。提婆達多是也。』
蝦蟆說偈以遣龜言
 若遭貧窮失本心 
 不惟本義食為先 
 汝持我聲以語蛇 
 蝦蟆終不到汝邊
蝦蟇の偈を説いて、以って亀を遣して言わく、
若し貧窮に遭うて、本心を失わば、
本義を惟(おも)わずして、食を先と為さん、
汝我が声を持ちて、以って蛇に語れ、
蝦蟇は終に、汝が辺に到らず、と。
『蝦蟇』は、
『偈』を、
『説く!』と、
『亀』を、
『遣して!』、
こう言った、――
若し、
『貧窮』に、
『遭()えば!』、
『本心』を、
『失い!』、
『本』の、
『義理』を、
『忘れて!』、
『先に!』、
『食物』を、
『思うのだろう!』。
お前は、
わたしの、
『声』を、
『忘れずに!』、
『蛇』に、
こう語れ、――
『蝦蟇』は、
『絶対に!』、
あなたの、
『お側へは!』、
『参りません!』、と。
  :蛇は飢窮に遭い、親交を忘れて、蝦蟇を食おうとする。
若修布施後生有福無所短乏。則能持戒無此眾惡。是為布施能生尸羅波羅蜜。 若し、布施を修すれば、後生に福有りて、短乏する所無ければ、則ち能く戒を持して、此の衆悪無し。是れを布施は、能く尸羅波羅蜜を生ずと為す。
若し、
『布施』を、
『修めていれば!』、
『後世』に、
『福』が、
『有って!』、
『不足する!』ことが、
『無くなる!』ので、
則ち、
『持戒して!』、
此のような、
『衆悪(多くの悪)』を、
『無くすことができる!』。
是れは、
『布施』が、
『尸羅波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
復次布施時能令破戒諸結使薄。益持戒心令得堅固。是為布施因緣增益於戒。 復た次ぎに、布施する時には、能く破戒の諸の結使をして、薄れしめ、持戒の心を益さしめて、堅固を得しむ。是れを布施の因縁は、戒を増益すと為す。
復た次ぎに、
『布施する!』時、
『破戒』の、
『諸の結使』を、
『薄くさせる!』ので、
『持戒』の、
『心』を、
『増して!』、
『心』に、
『堅固』を、
『得させる!』が、
是れは、
『布施』の、
『因縁』が、
『戒』を、
『増益したのである!』。
復次菩薩布施。常於受者生慈悲心。不著於財自物不惜。何況劫盜。慈悲受者何有殺意。如是等能遮破戒。是為施生戒。 復た次ぎに、菩薩の布施は、常に受者に於いて、慈悲心を生じ、財に於いては著せずして、自ら物を惜まず。何に況んや劫盗するをや。受者を慈悲するに、何ぞ殺意有らん。是の如き等は、能く破戒を遮すれば、是れを施は戒を生ずと為す。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『布施』は、
常に、
『受者』に、
『向っては!』、
『慈悲心』を、
『生じ!』、
『財』に、
『対しては!』、
『愛著せず!』、
『自ら!』の、
『物』を、
『惜まない!』ので、
況()して、
『劫盗するはずがない!』。
『受者』に、
『向って!』、
『慈悲心』を、
『生じる!』者が、
何故、
『殺意』を、
『有するのか?』。
是れ等のように、
『布施』は、
『破戒』を、
『遮(さえぎ)ることができる!』が、
是れは、
『布施』が、
『戒』を、
『生じたのである!』。
若能布施以破慳心。然後持戒忍辱等易可得行。 若し、能く布施して以って慳心を破せば、然る後に持戒、忍辱等は、易(たやす)く行ずるを得べし。
若し、
『布施して!』、
『慳心』を、
『破れば!』、
その後に、
『持戒』や、
『忍辱』等を、
『容易に!』、
『行うことができる!』。
  慳心(けんしん):物惜しみすること( sotinginess )、財産を手放して、他人に分け与えることを望まない精神の情態( a state of mind wherein one does not want to part with one's possessions and give them to another )、梵語 maatsarya- citta の訳、嫉妬( envy , jealousy )、不満足( displeasure , dissatisfaction )の心の義。
如文殊師利。在昔過去久遠劫時。曾為比丘入城乞食。得滿缽百味歡喜丸。 文殊尸利の如し。在昔、過去の久遠劫の時、曽て、比丘と為りて、城に入りて、乞食し、鉢に、百味の歓喜丸を満たすを得たり。
例えば、
『文殊尸利』の場合は、――
在昔(むかし)、
『過去』の、
『久遠劫の時』、
かつて、
『比丘』と為り、
『城』に、
『入って!』、
『乞食した!』ところ、
『鉢』に、
『百味の歓喜丸』を、
『満たすことができた!』。
  在昔(ざいしゃく):むかしに於いて。むかし。往昔。
  歓喜丸(かんきがん):また歓喜団と称す。酥、麺、蜜、薑(はじかみ)等を和して製したる食物の名。「大般涅槃経巻39」に、「酥、麺、蜜、薑、胡椒、蓽茇、葡萄、胡桃、柘榴、桵子、かくの如きを和合して歓喜丸と名づく」と云い、「大智度論巻93」に、「百種の薬草、薬果をもて歓喜丸を作り、これを百味と名づく」と云い、「大日経疏巻7」に、「歓喜丸は応に蘇を以って諸餅を煮、糅うるに衆味及び三種の辛薬等を以ってし、種種に荘厳ならしむ」と云い、また「十誦律巻35」には、胡麻歓喜丸、石蜜歓喜丸、蜜歓喜丸等の名を出せり。密教にては、これを曼荼羅の諸尊に供え、また歓喜天の供物となせり。「大使呪法経」に、蘇油を以って歓喜団及び蘿蔔等の菓を作り、銅器に盛りてこれを毘那夜迦に供養すと云い、大聖歓喜双身大自在天毘那夜迦王帰依念誦供養法に「此の像の前に小円檀を作り、餚膳、飲供、酒薬、蘿蔔、歓喜団等を設けて迎請す」と云えるこれなり。またこれを他の蘿蔔及び酒の二種と共に三毒の煩悩を表すとし、これを供養して三毒を転ずるの意を示せるものとなせり。即ち「乳味鈔巻9」に、「団は貪煩悩なり、智度論第十七巻にこれを食するものは、媱食熾盛なる因縁を挙ぐ。蘿蔔は瞋煩悩なり、その味辛きが故に。酒は癡煩悩なり、飲めば輒ち迷乱するが故に。蓋し今は三毒即ち三転の義を明す、故にこれを用うるなり」と云えるその義なり。我が邦にてはこれを団喜、或は御団と称し、信者に与えて食せしむれば、即ち所願成就すと伝えつつあり。また「百喩経巻3五百歓喜丸喩」、「大宝広博楼閣善住秘密陀羅尼経巻中註」、「覚禅鈔聖天の巻」等に出づ。
城中一小兒追而從乞不即與之。乃至佛圖手捉二丸而要之言。汝若能自食一丸。以一丸施僧者當以施汝。即相然可。以一歡喜丸布施眾僧。然後於文殊師利許受戒發心作佛。 城中の一小児、追うて従いて乞うに、即ち之を与えず、乃(すなわ)ち仏図に至りて、手に二丸を捉りて、之に要(もと)めて言わく、『汝、若し能く自ら一丸を食し、一丸を以って僧に施さば、当に以って汝に施すべし』、と。即ち相然可し、一歓喜丸を以って、衆僧に施し、然る後に、文殊尸利の許(もと)に於いて受戒し、発心して、仏と作れり。
『城』中の
『一小児』が、
『後』を、
『追い!』、
『文殊尸利』より、
『歓喜丸』を、
『乞うた!』が、
『文殊尸利』は、
すぐには、
『与えず!』、
やがて、
『仏塔』に、
『至って!』、
ようやく、
『手』に、
『二丸』を、
『捉()り!』、
『小児』に、
『要(もと)めて!』、こう言った、――
お前が、
『一丸』を、
『自分で!』、
『食い!』、
『一丸』を、
『僧』に、
『施すことができれば!』、
これを、
『お前に!』、
『施そう!』、と。
『小児』は、
すぐに、同意して、――
『一丸』を、
『僧たち』に、
『布施した!』のであるが、
その後、
『文殊尸利の許(もと)』に、
『戒』を、
『受ける!』と、
『発心して!』、
『仏』と、
『作ったのである!』。
  仏図(ぶっと):梵語stuupa、浮図、浮頭、塔婆、偸婆、窣堵波、卒塔婆、塔等に作り、高く土石を積みて、以って聖者の遺骨を蔵せる者なり。即ち寺院を指す。<(丁)
  (よう):要求、請求すること。
  然可(ねんか):同意する。
如是布施能令受戒發心作佛。是為布施生尸羅波羅蜜。 是の如く布施は、能く受戒、発心して、仏と作らしむれば、是れを布施は、尸羅波羅蜜を生ずと為す。
是のように、
『布施』は、
『戒』を、
『受けさせ!』、
『発心させて!』、
『仏』と、
『作らせることができる!』が、
是れは、
『布施』が、
『尸羅波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
復次布施之報得四事供養好國善師無所乏少。故能持戒。 復た次ぎに、布施の報は、四事の供養と、好国、善師を得て、乏少する所無きが故に、能く持戒す。
復た次ぎに、
『布施』の、
『報』として、――
『四事の供養(飲食、衣服、臥具、湯薬)』や、
『好い国(乞食に容易な国)』や、
『善い師(正法を教える師)』を、
『得て!』、
『物』として、
『不足する!』ことが、
『無い!』ので、
故に、
『持戒することができる!』。
又布施之報其心調柔。心調柔故能生持戒。能生持戒故從不善法中能自制心。如是種種因緣。從布施生尸羅波羅蜜。 又布施の報は、其の心調柔ならしめ、心調柔なるが故に、能く持戒を生じ、能く持戒を生ずるが故に、不善法中より、能く自ら心を制す。是の如き種種の因縁に、布施より、尸羅波羅蜜を生ず。
又、
『布施の報』は、
其の、
『心』を、
『調柔にし!』、
『心』が、
『調柔である!』が故に、
『持戒』を、
『生じることができ!』、
『持戒』を、
『生じることができる!』が故に、
『不善法』中より、
『心』を、
『自制することができる!』。
是のような、
種種の、
『因縁』で、
『布施』より、
『尸羅波羅蜜』を、
『生じるのである!』。
  調柔(ちょうにゅう):順応性のある( pliant , pliable )。梵語 karmaNya の訳、柔軟で順応性があること( To be flexible and adaptable )の義。



菩薩の布施は羼提波羅蜜を生じる

云何布施生羼提波羅蜜。 云何が、布施は、羼提波羅蜜を生ずる。
何故、
『布施』が、
『羼提波羅蜜』を、
『生じるのか?』。
  羼提(せんだい):梵語 kSaanti 、忍辱と訳す、生む、苦痛に堪える( to bear )、辛抱強く我慢する( endure )、我慢する( stand, put up with )等の義。『大智度論巻14(上)注:忍辱』参照。
菩薩布施時受者逆罵。若大求索若不時索。或不應索而索。是時菩薩自思惟言。我今布施欲求佛道。亦無有人使我布施。我自為故云何生瞋。如是思惟已而行忍辱。是名布施生羼提波羅蜜。 菩薩は、布施する時、受者逆に罵り、若しくは大いに求索し、若しくは不時に索(もと)め、或いは応に索むべからざるに索む。是の時、菩薩の自ら思惟して言わく、『我れ今布施して、仏道を求めんと欲し、亦た人の、我れをして布施せしむる有る無く、我れは自らの為めの故なり。云何が瞋を生ぜんや』、と。是の如く思惟し已りて、忍辱を行ず。是れを布施は、羼提波羅蜜を生ずと名づく。
『菩薩』は、
『布施する!』時、――
『受者』が、
『逆らって!』、
『罵ったり!』、
若しくは、
『大いに!』、
『求索したり!』、
若しくは、
『不時である!』のに、
『索(もと)めたり!』、
或いは、
『索めるべきでない!』のに、
『索めたりする!』が、
是の時、
『菩薩』は、
自ら、
『思惟して!』、こう言う、――
わたしは、
今、
『布施して!』、
『仏』の、
『道』を、
『求めようとしている!』。
亦た、
わたしに、
『強いて!』、
『布施させよう!』とする、
『人』も、
『存在しない!』。
わたしは、
『自ら!』の、
『為めの故に!』、
『布施している!』のだ、と。
是のように、
『思惟してしまう!』と、――
『菩薩』は、
『忍辱』を、
『行う!』ので、
是れを、
『布施』が、
『羼提波羅蜜』を、
『生じる!』と、
『称する!』。
  不時(ふじ):又非時とも云う。不適切(不作法)な時( improper/ inappropriate time )の意。梵語 akaala の訳、不適切な時/時期( the inproper time or season for )、悪い時( a wrong or bad time )等の義、或いは梵語 asamaya の訳、義務がない( non- obligation )、 契約/合意の欠如( absence of contract or agreement )、不適切な時間( unseasonableness )、不適当/不都合な時( unfit or unfavourable time )の義。
  無有(むう):無い。不存在。不具有。梵語 abhaava の訳。不実在、無、欠如( non- existence , nullity , absence )等の義。
復次菩薩布施時。若受者瞋惱。便自思惟。我今布施內外財物。難捨能捨。何況空聲而不能忍。若我不忍所可布施則為不淨。譬如白象入池澡浴。出已還復以土坌身。布施不忍亦復如是。如是思惟已行於忍辱。如是等種種布施因緣生羼提波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は、布施する時、若し受者瞋悩すれば、便ち自ら思惟すらく、『我れは今、内外の財物を布施して、捨て難きを能く捨つ。何に況んや、空声をして、而も忍ぶ能わざらんや。若し我れ忍ばざれば、布施すべき所は、則ち不浄と為す。譬えば、白象の池に入りて澡浴し、出で已りて、還って復た土を以って、身を坌(けが)すが如し。布施して忍ばざるも、亦復た是の如し』、と。是の如く思惟し已りて、忍辱を行ず。是の如き等の種種の布施の因縁は、羼提波羅蜜を生ず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『布施する!』時、
若し、
『受者』が、
『瞋って!』、
『悩ませた!』としても、
自ら、
こう思惟する、――
わたしは、
今、
『内、外』の、
『財物』を、
『布施しており!』、
『捨て難い!』、
『物』も、
『捨てられる!』。
況して、
『空である!』、
『声』を、
『忍べないはずがない!』。
若し、
わたしが、
『声』を、
『忍ばなければ!』、
則ち、
『布施された!』、
『物』は、
『不浄である!』。
譬えば、
『白象』が、
『池』中に、
『入って!』、
『澡浴しても!』、
『池』を、
『出たとたんに!』、
『土』で、
『身』を、
『汚すように!』、
『布施しても!』、
『忍ばなければ!』、
『是れと同じことである!』、と。
是のように、
『思惟して!』、――
『忍辱』を、
『行う!』ので、
是れ等のような、
種種の、
『布施』の、
『因縁』は、
『羼提波羅蜜』を、
『生じるのである!』。
  (ふん):埃まみれにする。



菩薩の布施は毘梨耶波羅蜜を生じる

云何布施生毘梨耶波羅蜜。 云何が、布施は、毘梨耶波羅蜜を生ずる。
何故、
『布施』は、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『生じるのか?』、――
  毘梨耶(びりやはらみつ):梵語viirya の訳。毘梨耶( viirya )は剛毅( manliness )、勇気( valour )、強さ( strength )、力( power )、エネルギー( energy )、男性的活力( manly vigour )、精力( virility )、男盛りの精液( semen virile )、薬効( efficacy (of medicine ) )等の義。即ち他の五波羅蜜を実践する時、進趣して不撓不屈、能く懈怠を対治して善法を生長するを云う。『大智度論巻4(上)注:六波羅蜜、巻15(下)注:精進』参照。
菩薩布施時常行精進。何以故。菩薩初發心時功德未大。爾時欲行二施充滿一切眾生之願。以物不足故。懃求財法以給足之。 菩薩は、布施する時、常に精進を行ず。何を以っての故に、菩薩は、初発心の時、功徳未だ大ならざれば、爾の時、二施を行じて、一切の衆生の願を充満せんと欲するも、物の足らざるを以っての故に、懃めて財、法を求めて、以って之に給足すればなり。
『菩薩』は、
『布施する!』時、
常に、
『精進』を、
『行っている!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
初めて、
『発心した!』時には、
未だ、
『功徳』が、
『大きくない!』ので、
爾の時、
『財、法』の、
『二施』を、
『行って!』、
『一切の衆生』の、
『願』を、
『充足させよう!』としても、
『物』が、
『不足している!』。
故に、
『財』と、
『法』とを、
『苦労して!』、
『求め!』、
それを、
『用いて!』、
『衆生』に、
『給足させる!』からである。
  (ごん):つとめて。勤。苦労。勤勉。
如釋迦文尼佛本身。作大醫王療一切病不求名利。為憐愍眾生故。病者甚多力不周救。憂念一切而不從心。懊惱而死即生忉利天上。自思惟言。我今生天。但食福報無所長益。即自方便自取滅身。捨此天壽生婆迦陀龍王宮中為龍太子。 釈迦文尼仏の如し。本の身を、大医王と作して、一切の病を療して名利を求めず、衆生を憐愍するが為めの故なり。病者は甚だ多く、力は周く救うにあらず、一切を憂念するも、心に従わざれば、懊悩して死し、即ち忉利天上に生ず。自ら思惟して言わく、『我れは今、天に生ずるも、但だ福報を食うて、長益する所無し』、と。即ち自ら方便し、自ら身を滅するを取りて、此の天寿を捨て、婆迦陀龍王の宮中に生じて、龍の太子と為れり。
例えば、
『釈迦文尼仏』の場合は、――
本、
『大医王』の、
『身』と作って、
一切の、
『病』を、
『治療していながら!』、
『名利』を、
『求めなかった!』のは、
『衆生』を、
『憐愍していた!』からであるが、
『病者』は、
『甚だ多く!』、
『力』は、
『周(あまね)く!』、
『救うほどではなかった!』ので、
一切の、
『衆生』を、
『憂いて!』、
『念じながらも!』、
『心』に、
『従って!』、
『救うことができず!』、
ついに、
『懊悩して!』、
『死んだのである!』が、
すぐに、
『忉利天』上に、
『生まれて!』、
自ら、こう思惟した、――
わたしは、
今、
『天』上に、
『生まれた!』が、
但だ、
『福報』を、
『無駄に!』、
『食うばかりで!』、
『自ら!』を、
『長じる!』ことも、
『無く!』、
『他』を、
『益する!』ことも、
『無い!』、と。
そこで、
自ら、
『方便して!』、
自らの、
『身』に、
『滅()』を、
『取らせ!』、
此の、
『天』の、
『寿』を、
『捨てて!』、
『婆迦陀龍王』の、
『宮』中に、
『生まれ!』、
『龍』の、
『太子』と、
『為った!』。
  長益(ちょうやく):増長、利益。自ら長じ、他を益すること。
  婆迦陀龍王(ばかだりゅうおう):不明。また婆伽陀龍王とも云う。
其身長大父母愛重。欲自取死就金翅鳥王。鳥即取此龍子。於舍摩利樹上吞之。父母嗥咷啼哭懊惱。 其の身長大し、父母愛重するに、自ら死を取りて、金翅鳥王に就かんと欲す。鳥、即ち此の龍子を取りて、舎摩梨樹上に於いて、之を呑めば、父母、嗥咷、啼哭して懊悩す。
『龍の子』は、
其の、
『身』が、
『成長するにつけ!』、
『父母』は、
『愛し!』、
『重んじた!』が、
自らは、
『死』を、
『取ろう!』と、
『思って!』、
『金翅鳥』の、
『王』に、
『近づいた!』。
『鳥』は、
すぐに、
此の、
『龍の子』を、
『取って!』、
『舎摩梨樹』上で、
『呑込んだ!』。
『父』も、
『母』も、
『涙を流し!』、
『号泣して!』、
『懊悩した!』。
  長大(ちょうだい):成長。生長。
  (しゅう):つく。親近。接近。
  舎摩利樹(しゃまりじゅ):梵語zaabari 、また舎摩梨樹に作る。「大智度論巻27」に、「譬えば、空地に樹あり、舎摩梨と名づく、枝葉広大、衆鳥集宿す。一鴿、後に来たりて一枝上に住するに、その枝、即時に圧折す。沢神の樹神に問わく、大鳥の鵰鷲も、皆能く住持す、何ぞ小鳥に至り、便ち勝えざる。答えて云わく、この鳥は、わが怨家の尼俱盧樹由り来たり。彼の樹葉を食い、来たりて我が上に栖み、必ず当りて放糞するに、子、地に堕つ、即ち悪樹復た生じて、害を為すこと必ず大なり、この故に、この一鴿に於いて大いに憂畏を懐き、寧ろ一枝を捨てて、余の大なる者を全からしめん、と。菩薩も、またかくの如し、諸の外道、魔衆、及び諸の結使、悪業に於いて、畏るる所無きも、阿羅漢、辟支仏に於いては然らず。何を以っての故に、声聞、辟支仏は、菩薩の辺に於いて、また彼の鴿の如く、大乗心を敗壊して、永く仏の業を滅すればなり」、と云えり。<(丁)
  嗥咷(こうとう):号泣。
  啼哭(たいこく):声を上げて泣く。
龍子既死生閻浮提中。為大國王太子。名曰能施。生而能言。問諸左右。今此國中有何等物。盡皆持來以用布施。眾人怪畏皆捨之走。 龍子既に死して閻浮提中に生じ、大国の王の太子と為り、名を能施と曰う。生まれながらにして、能く言い、諸の左右に問わく、『今、此の国中に何等の物か有る。尽く皆、持ち来たりて、以って布施に用いん』、と。衆人、怪しみ畏れて、皆之を捨てて走れり。
『龍の子』は、
『死ぬ!』と、
『閻浮提』中に、
『生まれて!』、
『大国』の、
『王』の、
『太子となり!』、
『能施』という、
『名』が、
『付けられた!』が、
『子』は、
『生まれながらにして!』、
『口を利くことができ!』、
『左右の侍者』に、
こう問うた、――
今、
此の、
『国』中には、
何れだけの、
『物』が、
『有るのか?』。
皆、
『尽く!』、
『持って来い!』。
其れを、
『用いて!』、
『布施をしよう!』、と。
『衆人(人々)』は、
『怪しみ!』、
『畏れて!』、
此の、
『太子』を、
『捨てて!』、
『逃げ去った!』。
其母憐愛獨自守之。語其母言。我非羅剎眾人何以故走。我本宿命常好布施。我為一切人之檀越。母聞其言以語眾人。眾人即還母好養育。及年長大自身所有盡以施盡。至父王所索物布施。父與其分復以施盡。見閻浮提人貧窮辛苦。思欲給施而財物不足。便自啼泣問諸人言。作何方便當令一切滿足於財。 其の母は憐愛して、独り自ら之を守るに、其の母に語りて言わく、『我れは、羅刹に非ざるに、衆人、何を以っての故にか、走る。我が本の宿命は、常に、布施を好めり。我れは、一切の人の檀越と為らん』、と。母は、其の言を聞き、以って衆人に語れば、衆人即ち還れり。母は好く養育し、年長大するに及び、自身の所有を尽く以って施し尽くし、父王の所の至りて、物を索めて布施す。父、其の分を与うれば、復た以って施し尽くし、閻浮提の人の貧窮にして、辛苦するを見るに、思いは、給施せんと欲するも、財物足らず、便ち自ら啼泣して、諸人に問うて言わく、『何なる方便を作さば、当に一切をして財に満足せしむべき』、と。
其の、
『母』は、
『憐れみ!』、
『愛して!』、
独り、
自ら、
其の、
『子』を、
『守っている!』と、
其の、
『母』に語って、こう言った、――
わたしは、
『羅刹(悪鬼)ではない!』のに、
何故、
『衆人』は、
『逃げるのですか?』。
わたしの、
本の、
『宿命(前世の生)』は、
常に、
『布施』を、
『好んでいました!』。
わたしは、
一切の、
『人』の、
『檀越(施主)』と、
『為りたいのです!』、と。
『母』が、
其の、
『語』を、
『聞いて!』、
それを、
『衆人』に、
『語る!』と、
『衆人』は、
すぐに、
『還ってきた!』。
『母』が、
『好く!』、
『養育して!』、
『年』が、
『熟して!』、
『長大する!』と、
『自身』の、
『所有』を、
『尽く!』、
『施しつくして!』、
『父王』にも、、
『物』を、
『索(もと)めて!』、
『布施した!』。
『父』が、
其の、
『分』を、
『与える!』と、
それを、
『すっかり!』、
『施してしまい!』、
『閻浮提の人』を、
『見てみる!』と、
『貧窮して!』、
『辛苦していた!』ので、
『思い!』は、
『給施したい!』が、
『財物』が、
『不足している!』。
そこで、
自ら、
『泣きながら!』、
諸の、
『人』に問うて、こう言った、――
何のような、
『方便』を、
『作せば!』、
一切を、
『財』に、
『満足させられるのか?』、と。
  羅刹(らせつ):梵語 raakSasa 、悪鬼の義。『大智度論巻23上注:羅刹』参照。
  檀越(だんおつ):主要な寄付者( chief donor )、梵語 daanapati 、施主と訳す、後援者( a benefactor )、慈善家( almsgiver )、保護者( patron )の義。即ち僧衆に飲食、衣服等を与える在家の信者の中、主なる者の意。『大智度論巻22上注:檀越』参照。
  啼泣(たいきゅう):声をあげて無く。
諸宿人言。我等曾聞有如意寶珠。若得此珠則能隨心所索無不必得。 諸の宿人の言わく、『我等曽て、如意宝珠有りと聞けり。若し此の珠を得れば、則ち能く心の索むる所に隨いて、必ずしも得ざること無し』、と。
諸の、
『宿老』は、こう言った、――
わたし達は、
かつて、
『如意宝珠』が、
『有る!』と、
『聞いております!』。
若し、
此の、
『珠』を、
『得たならば!』、
『心』の、
『索めるがまま!』に、
『物』として、
『得られない!』ということが、
『有りません!』、と。
  宿人(しゅくにん):老人。宿老。
菩薩聞是語已白其父母。欲入大海求龍王頭上如意寶珠。父母報言。我唯有汝一兒耳。若入大海眾難難度。一旦失汝我等亦當何用活為。不須去也。我今藏中猶亦有物當以給汝。 菩薩は、是の語を聞き已りて、其の父母に白さく、『大海に入りて、龍王の頭上の如意宝珠を求めんと欲す』、と。父母の報(こた)えて言わく、『我れは、唯だ汝の一児有るのみ。若し大海に入らば、衆難ありて、度(わた)り難し。一旦、汝を失わば、我等も亦た、当に活くるを用って、何をか為すべき。去ることを須(もち)いざれ。我れ今、蔵中に猶お亦た物有れば、当に以って汝に給すべし』、と。
『菩薩』は、
是の、
『語』を、
『聞いて!』、
其の、
『父母』に、こう白した、――
『大海』に、
『入って!』、
『龍王』の、
『頭』上の、
『如意宝珠』を、
『求めたい!』と、
『思います!』と。
『父母』は報(こた)えて、
こう言った、――
わたしには、
唯だ、
お前、
『一児』が、
『有るのみだ!』。
若し、
『大海』に、
『入れば!』、
『難』が、
『多く!』、
『渡る!』ことも、
『難しい!』、
いったん、
お前を、
『失えば!』、
わたし達は、
『活きていた!』としても、
『何になろう?』、
絶対に、
『去ってはならない!』。
わたしの、
『蔵』中には、
今、
猶お、
『物』が、
『有る!』、
これを、
『お前に!』、
『与えよう!』、と。
  参考:『十誦律巻25』:『諸人言:「沙門億耳!汝何以不入大海?」答言:「我入大海作何等?是中多諸恐怖,百千人去,時一得還。」是諸商客激厲言:「何等人仰他活命,乃至婬女仰他活命?若人求作布施福德,是事善好。」諸商客如是激厲,沙門億耳信受欲去,到父母所辭欲入海。時父母說諸怖事,欲令變悔以制留之:「人為財故入大海,我家中多諸寶物,汝用布施作福,七世不盡,何為入海?」時不隨父母語,父母語諸貴人:「佐我留億耳。」時諸大官、長者、居士、億財主、大富薩薄,如是貴人留之不隨。父母知其意正,則聽令去。於是乘象振鈴,遍告聚落令言:「沙門億耳欲入大海,我作薩薄誰欲共去?」是人福德,五百商人皆悉樂從。彼國土法,作薩薄者,要出二十萬金錢,十萬辦舡、十萬辦資糧。莊嚴竟已,下舡著水中,以七枚繩繫,日日唱言:「誰能捨父母、兄弟、姊妹、妻子、閻浮提種種樂,及捨樂壽。誰欲得金銀、摩尼、琉璃,種種寶物七世隨用布施作福者,共入大海?」如是日日唱,日斷一繩,如是斷六繩,殘第七繩待伊勒風(晉言「好隨風」)。既得伊勒風,斷第七繩,舡疾勝箭,是薩薄福德威力。是舡疾到寶渚,勅語諸商客言:「取諸寶物載使滿舡,莫令大重。」取寶物竟得伊勒風,是時舡去疾勝于箭,還閻浮提。向王薩薄聚落,有二道:水道、陸道。沙門億耳語諸商人:「何道去?」諸人言:「陸道去。」時有空澤,是中夜住,語諸商人:「我曾聞賊來劫諸商客,若前殺薩薄,則諸商客無所成辦。若不殺薩薄,則以錢物力、若自身力、若以他力,必能得賊。我當餘處宿去,時當喚我。」諸人言:「爾。」億耳驅驢別處宿,是諸商客夜半發去,人人相覺,竟不喚億耳。後夜大風雨墮,億耳覺喚諸商客,商客無人應者,億耳如是思惟:「奈何諸人棄我去耶?」即逐去。是道多沙土,風雨流漫路無遺跡,仰驢嗅跡而前。』
兒言。藏中有限。我意無量。我欲以財充滿一切令無乏短。願見聽許。得遂本心使閻浮提人一切充足。父母知其志大。不敢制之。遂放令去。 児の言わく、『蔵中に限り有れど、我が意は無量なり。我れは、財を以って、一切を充満せしめ、乏短無からしめんと欲す。願わくば聴許せられよ。本心を遂ぐるを得れば、閻浮提の人をして、一切充足せしめん』、と。父母は、其の志の大なることを知り、敢て之を制せず、遂に放ちて、去らしむ。
『児』は、こう言った、――
『蔵の中』は、
『限り!』が、
『有る!』のに、
わたしの、
『意(願意)』は、
『無量です!』。
わたしは、
『財』を、
『用いて!』、
一切を、
『充足させ!』、
『不足する!』ことを、
『無くそう!』と、
『思います!』。
願わくは、
『聴いて!』、
『お許しください!』。
『本心』を、
『果たすことができれば!』、
『閻浮提』の、
一切の、
『人』を、
『充足させるつもりです!』、と。
『父母』は、
其の、
『志』の、
『大きい!』ことを、
『知った!』ので、
これ以上は、
『敢て!』、
『制しようとせず!』、
ついに、
『自由に!』、
『去らせることにした!』。
  (けん):らる。られる。受け身を表わす詞。
  聴許(ちょうこ):聴きて之を許す。聴き容れる。許容する。
  (すい):とげる。実現する。成功する。ついに。とうとう。是に於いて。
  (ほう):はなつ。自由にさせる。
是時五百賈客。以其福德大。人皆樂隨從。知其行日集海道口。菩薩先聞婆伽陀龍王頭上有如意寶珠。問眾人言。誰知水道至彼龍宮。 是の時、五百の賈客は、其の福徳の大なるを以って、人は、皆随従せんことを楽(ねが)い、其の行日を知りて、海道口に集まる。菩薩は、先に婆伽陀龍王の頭上に、如意宝珠有るを聞き、衆人に問うて言わく、『誰か、水道の彼の龍宮に至るまでを知らんや』、と。
是の時、
『五百の賈客』は、
其の、
『福徳』が、
『大きい!』が故に、
『人』は、
皆、
『楽しんで!』、
『随従しようとして!』、
其の、
『旅立ち!』の、
『日』を、
『知る!』と、
『海道』の、
『口』に、
『集まった!』。
『菩薩』は、
先に、こう聞いていた、――
『婆伽陀龍王』の、
『頭』上に、
『如意宝珠』が、
『有る!』、と。
それで、
『衆人』に問うて、こう言った、――
誰か、
『水道』を、
『知らないか?』、
彼の、
『龍宮』に、
『至るまでを!』、と。
  賈客(こきゃく):商人。梵語 saartha の訳。目的/職業を持つ( having an object or business )、その目的を達成した者( anything that has attained its object )、目的を達成した( successful (as a request) )、財産を持つ( having property )、富裕な( opulent )、裕福な( wealthy )等の義。商人( a merchant )、実業家( businessman )の意。或いは梵語 saartha- vaaha の訳、又商主と訳す、隊商の指導者、又は案内人( the leader or conductor of a caravan )、商人( a merchant )、貿易業者( trader )の義。
  (ぎょう):ねがう。その事に対して歓喜し願望する。
有一盲人名陀舍。曾以七反入大海中具知海道。菩薩即命共行。答曰。我年既老兩目失明。曾雖數入今不能去。 有る一盲人を、陀舎と名づけ、曽て、七反、大海中に入れるを以って、具(つぶさ)に海道を知れり。菩薩は、即ち命じて共に行かしむ。答えて曰く、『我れは、年既に老いて、両目失明せり。曽て数(しばしば)入ると雖も、今は去る能わず』、と。
『陀舎』と、
『呼ばれる!』、
『盲人』が、
『有り!』、
かつては、
『七返』、
『大海』中に、
『入った!』ので、
『具(つぶさ)に!』、
『海道』を、
『知っているという!』。
そこで、
『菩薩』は、
こう命じた、――
『いっしょに!』、
『行こう!』、と。
『陀舎』は答えて、こう言った、――
わたしは、
『年』が、
『老いており!』、
『両眼』も、
『失明しております!』ので、
かつて、
『しばしば!』、
『入りました!』が、
今は、
『行くことができません!』、と。
菩薩語言。我今此行不自為身。普為一切求如意寶珠。欲給足眾生令身無乏。次以道法因緣而教化之。汝是智人何得辭耶。我願得成豈非汝力。 菩薩の語りて言わく、『我が今の此の行は、自ら身の為めにあらず。普く一切の為めに、如意宝珠を求め、衆生に給足して、身をして乏しきこと無からしめ、次いで、道法の因縁を以って、之を教化せんと欲す。汝は、是れ智人なり。何ぞ辞するを得んや。我が願の成ぜんことを得るは、豈(あ)に汝の力に非ずや』、と。
『菩薩』は語って、
こう言った、――
わたしの、
今の、
此の、
『行(旅行)』は、
自らの、
『身の為めではない!』。
普く、
一切の、
『衆生』の為めに、
『如意宝珠』を、
『求めて!』、
『衆生』に、
『財』を、
『供給して!』、
『満足させ!』、
『身』の、
『不足』を、
『無くし!』、
次いで、
『道法』の、
『因縁』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『教化しよう!』と、
『思っているのだ!』。
お前のような、
『智人』が、
何うして、
『辞退できよう?』。
わたしの、
『願い!』の、
『成就することができる!』のは、
『お前の力ではないのか?』、と。
陀舍聞其要言。欣然同懷語菩薩言。我今共汝俱入大海我必不全。汝當安我尸骸著大海之中金沙洲上。 陀舎は、其の要言を聞いて、欣然として懐(おもい)を同じうし、菩薩に語りて言わく、『我れは今、汝と共に、倶に大海に入るも、我れは、必ず全うせざらん。汝は、当に我が尸骸を安じて、大海の中の金沙の洲上に著(お)くべし。
『陀舎』は、
其の、
『要請』の、
『言葉』を、
『聞いて!』、
『欣然として!』、
『懐い!』を、
『同じうする!』と、
『菩薩』に語って、
こう言った、――
わたしは、
今、
『あなた!』と、
『共に!』、
いっしょに、
『大海』に、
『入ります!』が、
わたしには、
必ず、
『行(旅行)』を、
『全うできませんでしょう!』。
あなたは、
こう為さらなくてはなりません、――
わたしの、
『尸骸』を、
『大海の中』の、
『金沙の洲』上に、
『安置してください!』、と。
行事都集斷第七繩。船去如駝到眾寶渚。眾賈競取七寶各各已足。語菩薩言。何以不取。菩薩報言。我所求者如意寶珠。此有盡物我不須也。汝等各當知足知量無令船重不自免也。 行の事都(す)べて集まりて、第七縄を断つ。船の去ること、駝の如くして、衆宝の渚に至る。衆賈競いて、七宝を取り、各各已に足れば、菩薩に語りて言わく、『何を以ってか取らざる』、と。菩薩の報えて言わく、『我が求むる所は、如意宝珠なり。此に有る尽くの物は、我れ須いざるなり。汝等、各、当に足るを知り、量を知りて、船をして重からしめて、自ら免れざること無かれ』、と。
『旅行』の、
『準備』が、
『すっかり!』、
『調う!』と、
いよいよ、
『第七の綱』が、
『切って落とされ!』、
『船』は、
『駱駝のよう!』に、
『疾かに!』、
『去り!』、
『衆宝』の、
『渚』に、
『到った!』。
『賈客たち』は、
『競って!』、
『七宝』を、
『取り!』、
各各、
『已に!』、
『満足する!』と、
『菩薩』に語って、こう言った、――
何故、
『取らないのか?』、と。
『菩薩』は報えて、
こう言った、――
わたしの、
『求める!』所の、
『物』は、
『如意宝珠である!』。
此(ここ)に、
『有る!』、
『物』は、
尽く、
わたしには、
『必要ない!』。
お前たちは、
各、
『足る!』を、
『知り!』、
『量』を、
『知って!』、
『自ら!』、
『逃げられない!』ほど、
『船』を、
『重くするな!』、と。
  行事(ぎょうのこと):旅行に関する諸事。
  (じゅう):成る。
  第七縄(だいしちじょう):船を岸壁に繋ぐ最後の縄。
  (だ):駱駝。
是時眾賈白菩薩言。大德。為我咒願令得安隱。於是辭去。 是の時、衆賈の菩薩に白して言わく、『大徳、我が為めに咒願して、安隠を得しめたまえ』、と。是に於いて辞して去れり。
是の時、
『賈客たち』は、
『菩薩』に白して、こう言った、――
大徳!
わたしの為めに、
『安隠』を、
『祈ってください!』、と。
そして、
『別れを告げて!』、
『去っていった!』。
陀舍是時語菩薩言。別留艇舟當隨是別道而去。待風七日。博海南岸至一險處。當有絕崖棗林枝皆覆水。大風吹船船當摧覆。汝當仰板棗枝可以自濟。我身無目於此當死。過此隘岸當有金沙洲。可以我身置此沙中。金沙清淨是我願也。 陀舎、是の時、菩薩に語りて言わく、『別に艇舟を留め、当に是の別の道に従うて去るべし。風を待つこと七日、海の南岸を博(え)て、一険処に至らん。当に絶崖に棗の林有りて、枝は皆水を覆うべし。大風、船を吹きて、船当に摧け覆るべし。汝は、当に板を仰(たよ)るべし。棗の枝あり、以って自ら済うべし。我が身に眼無ければ、此に於いて当に死すべし。此の隘き岸を過ぐるに、当に金沙の洲有るべし。以って、我が身を此の沙中に置くべし。金沙の清浄なる、是れ我が願なり。
『陀舎』は、
是の時、
『菩薩』に語って、こう言った、――
『別に!』、
『小舟』を、
『留めておき!』、
是れとは、
『別の道』を、
『行きなさい!』。
『風』を、
『待ちながら!』、
『七日する!』と、
『海』の、
『南岸』が、
『見えてきて!』、
『一険処』に、
『至るでしょう!』。
『断崖』には、
『棗(なつめ)』の、
『林』が、
『有り!』、
『枝』が、
『水』を、
『覆っています!』。
『大風』が、
『船』を、
『吹きます!』ので、
『船』は、
『摧(くだ)けて!』、
『覆(くつがえ)るはず!』ですが、
あなたは、
『板』に、
『頼らなくてはなりません!』。
『棗』の、
『枝』が、
『有ります!』ので、
それで、
『自ら!』を、
『救ってください!』。
わたしの、
『身』には、
『眼』が、
『有りません!』ので、
此の、
『処』で、
『死ぬことになります!』が、
此の、
『狭い!』、
『岸』を、
『過ぎる!』と、
『金沙()』の、
『洲(しま)』が、
『有るはずです!』。
わたしの、
『身』は、
此の、
『沙の中』に、
『置いてください!』。
『金沙』の、
『清浄さ!』が、
『わたしの願いです!』、と。
  艇舟(ていしゅう):小舟。
  (はく):自己の行動を以って獲得するをいう。博取、博得の如し。
  絶崖(ぜつがい):断崖。
  棗林(そうりん):なつめの林。
  (ぎょう):たよる。依頼。
  (さい):すくう。救済。
即如其言。風至而去。既到絕崖。如陀舍語。菩薩仰板棗枝得以自免。置陀舍屍安厝金地。於是獨去如其先教。深水中浮七日。至垒咽水中行七日。垒腰水中行七日。垒膝水中行七日。泥中行七日。見好蓮華鮮潔柔軟。 即ち、其の言の如く、風至りて去り、既に絶崖に到れば、陀舎の語の如く、菩薩は板を仰りに棗の枝を以って、自ら免るるを得、陀舎の屍を置きて、金地に安厝せり。是に於いて、独り去り、其の先に教うるが如く、深水中に浮かぶこと七日、咽に斉しきに至りて、水中を行くこと七日、腰に斉しき水中を行くこと七日、膝に斉しき水中を行くこと七日、泥中を行くこと七日にして、好き蓮華の鮮潔、柔軟なるを見る。
はたして、
其の
『言葉のように!』、
『風』が、
『吹きだして!』、
『出発し!』、
ようやく、
『断崖』に、
『到る!』と、
『陀舎』の、
『語ったように!』、
『菩薩』は、
『板』を、
『頼って!』、
『棗』の、
『枝』を、
『手に捉り!』、
『自ら!』を、
『災難』から、
『逃れさすことができた!』ので、
『陀舎』の、
『屍骸』を、
『金沙』中に、
『安置して!』、
『葬る!』と、
是れより、
『独りで!』、
『先に!』、
『教えられたように!』、
『深い!』、
『水』中を、
『七日間』、
『浮き!』、
『水』が、
『咽』に、
『斉(ひと)しくなる!』と、
其の中を、
『七日間』、
『歩き!』、
『腰』に、
『斉しい!』、
『水』中を、
『七日間』、
『歩き!』、
『膝』に、
『斉しい!』、
『水』中を、
『七日間』、
『歩き!』、
『泥』中を、
『七日間』、
『歩く!』と、
『好もしく!』、
『鮮潔で!』、
『柔軟な!』、
『蓮華』が、
『見えてきた!』。
  安厝(あんさく):屍骸を安置して葬る。
  (るい):墼。練り固めて未だ焼かない土を積み重ねて墼と為し牆を作る。今、他本に従いて、斉に改む。
自思惟言。此華軟脆當入虛空三昧。自輕其身行蓮華上七日。見諸毒蛇念言。含毒之虫甚可畏也。即入慈心三昧。行毒蛇頭上七日。蛇皆擎頭授與菩薩令蹈上而過。過此難已見有七重寶城。有七重塹。塹中皆滿毒蛇有三大龍守門。 自ら思惟して言わく、『此の華は軟らかくして脆し。当に虚空三昧に入るべし』、と。自ら、其の身を軽うして蓮華上を行くこと七日、諸の毒蛇を見るに、念じて言わく、『含毒の虫は、甚だ畏るべし』、と。即ち慈心三昧に入りて、毒蛇の頭上を行くこと七日、蛇は皆頭を擎(かか)げて、菩薩に授与し、上を踏んで過ぎしむ。此の難を過ぎ已りて、七重の宝城有り、七重の塹有るを見る。塹中には、皆、毒蛇満ちて、三大龍の守れる門有り。
『菩薩』は、
自ら、
『思惟して!』、こう言った、――
此の、
『華』は、
『軟らかく!』、
『脆(もろ)い!』、
『虚空三昧』に、
『入ることにしよう!』、と。
自ら、
其の、
『身』を、
『軽くして!』、
『蓮華』上を、
『七日間』、
『歩く!』と、
諸の、
『毒蛇』が、
『見えてきた!』ので、
『念じて!』、こう言った、――
『毒』を、
『含んだ!』、
『蛇』は、
『甚だ畏れられている!』、と。
そこで、
『慈心三昧』に、
『入り!』、
『毒蛇』の、
『頭』上を、
『七日間』、
『歩いた!』。
『蛇』は、
皆、
『頭』を、
『擎(かか)げて!』、
『菩薩』に、
『授与し!』、
『菩薩』に、
『頭』上を、
『踏ませて!』、
『過ぎさせた!』。
此の、
『難』を、
『過ぎる!』と、
『七重』の、
『宝城』の、
『有る!』のが、
『見えてきた!』。
『七重』の、
『塹(ほり)』が、
『有り!』、
『塹』中には、
皆、
『毒蛇』が、
『満ちており!』、
『三大龍』の、
『守る!』、
『門』が、
『有った!』。
龍見菩薩形容端政相好嚴儀。能度眾難得來至此念言。此非凡夫必是菩薩大功德人。即聽令前逕得入宮。 龍は、菩薩の形容の端政、相好、厳儀にして、能く、衆難を度し、来たるを得て、此に至れるを見て、念じて言わく、『此れは凡夫に非ず、必ず是れ菩薩の大功徳の人ならん』、と。即ち聴(ゆる)して、逕(こみち)を前(すす)みて、宮に入るを得しむ。
『龍』は、
『菩薩』の、
『形容』が、
『端政であり!』、
『相が好ましく!』、
『儀(振舞い)が厳かで!』、
『衆難』を、
『渡って!』、
『来て!』、
此(ここ)まで、
『到達した!』のを、
『見る!』と、
『念じて!』、こう言った、――
此れは、
『凡夫ではあるまい!』、
必ず、
『菩薩』の、
『大功徳』の、
『人だろう!』、と。
そこで、
『許可して!』、
『逕(こみち)』を、
『進ませ!』、
『宮』に、
『入れるようにした!』。
  相好(そうごう):好もしい容貌。
  厳儀(ごんぎ):厳かな振舞い。
龍王夫婦喪兒未久猶故哀泣。見菩薩來龍王婦有神通。知是其子。兩乳汁流出。命之令坐。而問之言。汝是我子。捨我命終生在何處。 龍王夫婦は、児を喪(うしな)いて未だ久しからざれば、猶お故(もと)のごとく哀泣せるに、菩薩の来たるを見る。龍王の婦、神通有れば、是れ其の子なるを知り、両乳より汁流出するに、之に命じて坐せしめ、之に問うて言わく、『汝は、是れ我が子なり。我れを捨てて、命終るに、生じて何処に在りや』、と。
『龍王』の、
『夫婦』は、
未だ、
『子』を、
『喪(うしな)って!』、
『久しくない!』ので、
猶お、
『故(もと)のように!』、
『哀しんで!』、
『泣いていた!』ところ、
『菩薩』が、
『来る!』のが、
『見えた!』。
『龍王』の、
『婦』は、
『神通』が、
『有り!』、
其れが、
『子である!』ことを、
『知って!』、
『両乳』より、
『乳汁』が、
『流れでた!』ので、
其の、
『子』に、
『命じて!』、
『坐らせ!』、
『問うて!』、こう言った、――
お前は、
『わたしの!』、
『子である!』、
わたしを、
『捨てて!』、
『命』を、
『終えた!』が、
いったい、
『何処に!』、
『生まれたのか?』、と。
菩薩亦自識宿命。知是父母而答母言。我生閻浮提上。為大國王太子。憐愍貧人飢寒勤苦不得自在故。來至此欲求如意寶珠。 菩薩は、亦た自ら宿命を識りて、是の父母なるを知り、母に答えて言わく、『我れは、閻浮提上に生じて、大国の王の太子と為り、貧人の飢寒を憐愍し、勤苦するも、自在を得ざるが故に来たりて、此に至り、如意宝珠を求めんと欲す』、と。
『菩薩』も、
自ら、
『宿命』を、
『識って!』、
是れが、
『父母である!』ことを、
『知り!』、
『母』に答えて、こう言った、――
わたしは、
『閻浮提』上に、
『生まれて!』、
『大国の王』の、
『太子』と、
『為り!』、
『貧しい人』の、
『飢寒』を、
『憐愍して!』、
『勤苦しました!』が、
『自在にならない!』が故に
『来て!』、
此の、
『宮』に、
『至りました!』、
『如意宝珠』を、
『求めたい!』と、
『思います!』、と。
  勤苦(ごんく):苦しむ/悩む( to suffer )、梵語 duHkha の訳、容易ならざること/苦痛/悲嘆/心配事/困難( uneasiness, pain, sorrow, trouble, difficulty )の義、或いは梵語 parikleza の訳、辛苦/苦痛/悩み/疲労( hardship, pain, trouble, fatigue )の義。苦しませられる/悩まされる( is afflicted )、努力する( to exert oneself, endeavor )、世俗の辛苦に逆らって励む( strive against the suffering and pain of the world )、堪え難い努力/苦行/禁欲行為( difficult exertion; penance; austerities )等の意、又懃苦にも作る。
  欲求(よくぐう):欲念と要求。
母言。汝父頭上有此寶珠以為首飾。難可得也。必當將汝入諸寶藏。隨汝所欲必欲與汝。汝當報言。其餘雜寶我不須也。唯欲大王頭上寶珠。若見憐愍願以與我。如此可得。 母の言わく、『汝が父の頭上に、此の宝珠有り、以って首飾と為したまえば、得べきこと難し。必ず当に、汝を将(ひき)いて、諸の宝蔵に入り、汝が欲する所に隨いて、必ず汝に与えんと欲したもうべし。汝は当に答えて言うべし、其の余の雑宝を、我れは須いず。唯だ大王の頭上の宝珠を欲す、若し憐愍を見せたまわば、願わくは、以って我れに与えたまえ、と。此の如くせば得べけん』、と。
『母』は、
こう言った、――
お前の、
『お父さん』の、
『頭』上に、
此の、
『宝珠』は、
『有る!』が、
『首飾』に、
『為()ていられる!』ので、
『得られた!』としても、
『難しいでしょう!』。
必ず、
お前を、
『将(ひき)いて!』、
諸の、
『宝蔵』に、
『入り!』、
お前の、
『欲する!』がままに、
必ず、
『お前に!』、
『与えようとされる!』でしょう。
お前は、
『報えて!』、こう言わねばなりません、――
唯だ、
『大王』の、
『頭』上の、
『宝珠のみ!』を、
『欲します!』。
若し、
『憐愍』を、
『見せられる!』ならば、
願わくは、
『わたくしに!』、
『お与えください!』と、
此のようにすれば、
『宝珠』を、
『得られるでしょう!』、と。
即往見父。父大悲喜歡慶無量。愍念其子遠涉艱難乃來至此。指示妙寶隨意與汝須者取之。菩薩言。我從遠來願見大王。求王頭上如意寶珠。若見憐愍當以與我。若不見與不須餘物。 即ち往きて父に見(まみ)ゆ。父の大いに悲喜し、歓慶すること無量なり。其の子の遠く艱難を渉りて、乃ち来たりて此に至れるを愍念し、妙宝を指示し、『意に隨いて、汝に与えん。須むれば之を取れ』、と。菩薩の言わく、『我れは、遠くより来たり、願わくは大王に見えて、王の頭上の如意宝珠を求めん。若し憐愍を見せたまわば、当に以って我れに与えたもうべし。若し与えられずんば、余の物を須いず』、と。
『菩薩』は、
すぐに、
『往って!』、
『父』に、
『見えた!』が、
『父』は、
『大いに!』、
『悲しんだり!』、
『喜んだり!』して、
『無量に!』、
『歓楽し!』、
『喜慶し!』、
『哀れんで!』、こう念じた、――
此の、
『子』は、
『遠く!』より、
『艱難』を、
『渉りながら!』、
ようやく、
『来て!』、
『此(ここ)に!』、
『至ったのだ!』、と。
『妙宝』を、
『指』で、
『示しながら!』、こう言った、――
『意のまま!』に、
『お前に!』、
『与えよう!』。
『欲しい!』、
『物』を、
『取りなさい!』、と。
『菩薩』は、
こう言った、――
わたしは、
『遠く!』より、
『来ました!』。
願わくは、
『大王』に、
『見(まみ)えて!』、
『王の頭』上の、
『如意宝珠』を、
『求めることです!』。
若し、
『憐愍』を、
『見せられる!』ならば、
『わたくしに!』、
『お与えくださるはずです!』が、
若し、
『見せられなければ!』、
『他の物』は、
『必要ありません!』、と。
  歓慶(かんきょう):歓楽喜慶。
  艱難(かんなん):災難と困難。
  (ぐ):もとめる。熱心に請求する。
龍王報言。我唯有此一珠常為首飾。閻浮提人薄福下賤不應見也。菩薩白言。我以此故。遠涉艱難冒死遠來。為閻浮提人薄福貧賤。欲以如意寶珠濟其所願。然後以佛道因緣而教化之。 龍王の報えて言わく、『我れには、唯だ此の一珠のみ有りて、常に首飾と為す。閻浮提の人は、薄福、下賎なれば、応に見るべからざるなり』、と。菩薩の白して言わく、『我が、此れを以っての故に、遠く艱難を渉り、死を冒して、遠く来たれるは、閻浮提の人の、薄福、貧賤なるが為めに、如意宝珠を以って、其の願う所を済い、然る後に、仏道の因縁を以って、之を教化せんと欲すればなり』、と。
『龍王』は報えて、
こう言った、――
わたしは、
唯だ、
此の、
『一珠』を、
『有するのみで!』、
常に、
『首飾にしている!』が、
閻浮提の人は、
『福が薄く!』、
『下賎である!』により、
到底、
『見る!』ことは、
『適(かな)うまい!』、と。
『菩薩』は白して、
こう言った、――
わたくしが、
此の、
『珠』の故に、
遠く、
『海』の、
『艱難』を、
『渉り!』、
『死』を、
『冒(おか)して!』、
『来ました!』のは、
『閻浮提の人』は、
『福』が、
『薄く!』、
『貧しく!』、
『賎しい!』が為めに、
『如意宝珠』を、
『用いて!』、
其の、
『願う!』所を、
『済い!』、
その後、
『仏道』の、
『因縁』を、
『用いて!』、
之を、
『教化しよう!』と、
『思ったからです!』、と。
龍王與珠而要之言。今以此珠與汝。汝既去世當以還我。答曰。敬如王言。 龍王は、珠を与え、之に要して言わく、『今、此の珠を以って、汝に与えん。汝、既に世を去らば、当に以って我れに還すべし』、と。答えて曰く、『敬って、王言の如し』、と。
『龍王』は、
『菩薩』に、
『珠』を、
『与えながら!』、
『要(もと)めて!』、こう言った、――
今、
此の、
『珠』を、
『お前に!』、
『与えよう!』。
お前が、
『世』を、
『去った!』ときは、
必ず、
『還すように!』、と。
答えて、こう言った、――
敬って、
『王』の、
『言われたように!』、
『致します!』、と。
菩薩得珠飛騰虛空。如屈伸臂頃到閻浮提。人王父母見兒吉還。歡悅踊躍抱而問言。汝得何物。答言。得如意寶珠。問言。今在何許。白言。在此衣角裏中。 菩薩は、珠を得て、虚空に飛騰し、臂を屈伸するが如き頃(あいだ)に、閻浮提に到る。人王の父母、児の吉(よ)く還るを見て、歓悦踊躍して抱き、問うて言わく、『汝は、何物をか得たれり』、と。答えて言わく、『如意宝珠を得たり』、と。問うて言わく、『今は、何許(いづこ)に在りや』、と。白して言わく、『此の衣の角の裏中に在り』、と。
『菩薩』は、
『珠』を、
『得て!』、
『虚空』に、
『飛騰する!』と、
『臂』を、
『屈伸する!』ほどの、
『時間』で、
『閻浮提』に、
『到った!』。
『人王』の、
『父母』は、
『児』が、
『めでたく還った!』のを、
『見て!』、
『歓悦し!』、
『踊躍して!』、
『抱きながら!』、
問うて、こう言った、――
お前の、
『得た!』のは、
何のような、
『物か?』、と。
答えて、こう言った、――
『如意宝珠』を、
『得ました!』、と。
問うて、こう言った、――
今は、
何処に、
『在るのか?』、と。
白して、こう言った、――
此の、
『衣の角』の、
『裏(うち)』中に、
『在ります!』、と。
父母言。何其泰小。白言。在其神德不在大也。白父母言。當敕城中內外掃灑燒香。懸繒幡蓋持齋受戒。明日清旦以長木為表以珠著上。 父母の言わく、『何んが其の泰小なる』、と。白して言わく、『其の神徳に在りて、大なるに在らざるなり』、と。父母に白して言わく、『当に城中の内外に勅したまいて、掃灑し、焼香し、繒(きぬ)、幡、蓋を懸け、持斎、受戒せしめて、明日の清旦に長木を以って、表と為し、珠を以って上に著けしめたもうべし』、と。
『父母』は、
こう言った、――
何と、
『小さいことだ!』、と。
白して、こう言った、――
其の、
『神徳』に、
『本質』が、
『在ります!』、
『大きさ!』に、
『在るでのはありません!』、と。
『菩薩』は、
『父母』に白して、こう言った、――
『城』中の、
『内、外』に、
『勅命して!』、
『掃き清めて!』、
『香を焼()き!』、
『繒(あやぎぬ)、幡、蓋を懸けさせ!』、
『持斎させて!』、
『戒』を、
『受けさせ!』、
『明日』の、
『早朝』には、
『長い木材』を、
『立てて!』、
『表(標識)とさせ!』、
その上に、
『珠』を、
『置かせてください!』、と。
  泰小(たいしょう):極小。甚だ小さい。
  掃灑(そうしゃ):掃き清めて水を打つ。
  持斎(じさい):僧に在っては、午後に食せざるを云い、俗人に在っては、八戒斎等を護って身口意を清浄に持つを云う。この中、八戒斎に就きて、一に不殺、二に不盗、三に不婬、四に不妄語、五に不飲酒、六に不飾塗香、七に不歌舞観聴、八に不坐臥高広大床、及び非時食を云う。また「大智度論巻13」に出づ。
  清旦(しょうたん):早朝。
菩薩是時自立誓願。若我當成佛道度脫一切者。珠當如我意願出一切寶物。隨人所須盡皆備有。 菩薩は、是の時、自ら誓願を立つらく、『若し我れ、当に仏道を成じて、一切を度脱すべくんば、珠は、当に我が意願の如く、一切の宝物を出して、人の須うる所に隨いて、尽く、皆、備有すべし』、と。
『菩薩』は、
是の時、
自ら、
『誓願』を、こう立てた、――
若し、
わたしが、
『仏』の、
『道』を、
『成就して!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱するはず!』であれば、
『珠』は、
わたしの、
『意願のように!』、
一切の、
『宝物』を、
『出して!』、
『人』の、
『必要とする!』所の、
『物』を、
尽く、
皆、
『具備させるだろう!』、と。
是時陰雲普遍雨種種寶物。衣服飲食臥具湯藥。人之所須一切具足。至其命盡常爾不絕。如是等名為菩薩布施生精進波羅蜜。 是の時、陰雲、普遍(あまね)く、種種の宝物、衣服、飲食、臥具、湯薬を雨ふらして、人の須うる所の一切具足し、其の命の尽くるに至るまで、常に爾くして絶えず。是の如き等を名づけて、菩薩の布施は、精進波羅蜜を生ずと為す。
是の時、
『陰雲(厚い雲)』が、
普遍(あまね)く、
種種の、
『宝物』、
『衣服』、
『飲食』、
『臥具』、
『湯薬』を、
『雨ふらし!』、
『人』の、
『必要とする!』所の、
一切の、
『物』が、
『具足して!』、
其の、
『命』の、
『尽きる!』に、
『至るまで!』、
常に、
爾のように、
『雨ふらして!』、
『絶えることがなかった!』。
是れ等を、
『菩薩』の、
『布施』は、
『精進波羅蜜』を、
『生じる!』と、
『称する!』。



菩薩の布施は禅波羅蜜を生じる

云何菩薩布施生禪波羅蜜。 云何が、菩薩の布施は、禅波羅蜜を生ずる。
何故、
『菩薩』の、
『布施』は、
『禅波羅蜜』を、
『生じるのか?』、――
  (ぜん):瞑想/黙想( meditation )、梵語褝那 dhyaana 、静慮と訳す、精神の集中( concentration )、瞑想的精神の集中( meditative concentration )の意。瞑想( meditation )、思考( thought )、熟考( reflection )、特に深く宗教的な熟考( especially profound and religious contemplation )の義。考える( to think of )、想像する( imagine )、熟考する( contemplate )、思いを凝らす( meditate on )、思い出す( call to mind , recollect )等の義を有する動詞語根 dhyai より派生せる語。
菩薩布施時能除慳貪。除慳貪已因此布施而行一心漸除五蓋。能除五蓋是名為禪。 菩薩は、布施する時、能く慳貪を除き、慳貪を除き已れば、此の布施に因りて、一心を行じ、漸く五蓋を除く。能く五蓋を除かば、是れを名づけて、禅と為す。
『菩薩』は、
『布施する!』時、
『慳貪』を、
『除くことができる!』が、
『慳貪』を、
『除いてしまえば!』、
此の、
『布施』の、
『因縁』で、
『一心』を、
『行って!』、
漸(ようや)く、
『五蓋(貪欲、瞋恚、随眠、掉悔、疑法)』を、
『除くことができる!』。
是の、
『五蓋(修行の障礙)』を、
『除くことができる!』ということ、
是れを、
『禅』と、
『称するのである!』。
  一心(いっしん):一つの心( one mind )、梵語 ananya- citta の訳、他に何もない(no other , not another )、同一の( not different , identical , self )、第二の無い( not having a second )、単一の( unique )、他にない( not more than one )、唯一の( sole )、他に何もない( having no other (object) )、散らされない( undistracted )、他のものに誘惑されない( not attached or devoted to any one else )等の心の状態の義。心を目的以外の事に向けないの意。禅の異名なるが如し。
  五蓋(ごがい):心を覆う蓋の如き、五法。即ち善法を妨ぐる貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑法を云う。『大智度論巻31(下)注:五蓋』参照。
復次心依布施入於初禪。乃至滅定禪。 復た次ぎに、心は、布施に依りて、初禅、乃至滅定禅に入る。
復た次ぎに、
『心』は、
『布施』に、
『依って!』、
『初禅、乃至滅定禅(滅尽定)』に、
『入る!』。
  初禅(しょぜん):四禅中の第一。即ち覚観喜楽を有す。『大智度論巻7(下)注:四禅』参照。
  滅定禅(めつじょうぜん):四無色定と、四禅と共に滅するの意。梵語nirodha-samaapattiの訳の如し。滅尽定 、即ち無所有処の染を離れたる者の所入の定を云う。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
云何為依。若施行禪人時心自念言。我以此人行禪定故。淨心供養。我今何為自替於禪。即自歛心思惟行禪。 云何が、依らるる。若し、行禅の人に施す時なれば、心に自ら念じて言わく、『我れは、此の人の禅定を行ずるを以っての故に、心を浄めて供養せり。我れは、今、何んが自ら替りて、禅を為さんや』、と。即ち、自ら心を斂(おさ)めて、思惟し禅を行ず。
何故、
『布施』は、
『依られるのか?』、――
若し、
『禅を行う!』、
『人』に、
『施した!』時には、
『心』に、
自ら、
『念じて!』、こう言う、――
わたしは、
此の、
『人』が、
『禅定』を、
『行っていた!』が故に、
『心』を、
『浄めて!』、
『供養したのだ!』。
わたしは、
今、
何のようにして、
自ら、
『替わって!』、
『禅』を、
『行おうか?』、と。
そこで、
自ら、
『心』を、
『収斂し(抑制し)!』、
『思惟して!』、
『禅』を、
『行うのである!』。
  (たい):かわる。代理、代( in behalf of , replace , take the place of )。
  (れん):散らばったものを摂める/集める( collect )、心を抑制する( restrain )。
若施貧人念此宿命。作諸不善不求一心不修福業今世貧窮。以是自勉修善一心以入禪定。 若し、貧人に施せば、念ずらく、『此の宿命は、諸の不善を作して、一心を求めず、福業を修せずして、今世に貧窮なり』、と。是を以って、自ら修善、一心に勉め、以って禅定に入る。
若し、
『貧人』に、
『施す!』ならば、
こう念じる、――
此の、
『貧人』の、
『宿命』は、
『諸の不善』を、
『作すばかり!』で、
『一心』を、
『求めず!』、
『福業』を、
『修めなかった!』ので、
『今世』に、
『貧』が、
『窮(きわ)まったのだ!』、と。
是の故に、
自ら、
『修善』と、
『一心』とに、
『勉励して!』、
それで、
『禅定』に、
『入るのである!』。
  宿命(しゅくみょう):過去世の生命。
  福業(ふくごう):価値/報酬のある行動/行為( meritorious activity/ action )、梵語 puNya karman の訳、善良/清浄な行為/作業の義。後世に福報を受ける業の意。
如說。喜見轉輪聖王八萬四千小王來朝。皆持七寶妙物來獻。王言我不須也。汝等各可自以修福。 説の如し。喜見転輪聖王の八万四千の小王、来朝するに、皆、七宝の妙物を持ち来たりて献ず。王の言わく、『我れは須いざるなり。汝等、各、自ら以って、福を修むべし』、と。
例えば、こう説かれている、――
『喜見転輪聖王』の、
『八万四千』の、
『小王』が、
『来朝した!』が、
皆、
『七宝の妙物』を、
『持参して!』、
『献じた!』。
『王』は、
こう言った、――
わたしには、
『必要でない!』。
お前達は、
各、
自らの、
『福』を、
『修める!』のに、
『用いよ!』、と。
  来朝(らいちょう):臣が王に謁見しに来ること。
諸王自念。大王雖不肯取。我等亦復不宜自用。即共造工立七寶殿。殖七寶行樹作七寶浴池。於大殿中造八萬四千七寶樓。樓中皆有七寶床座。雜色被枕置床兩頭。懸繒幡蓋香熏塗地。眾事備已。白大王言。願受法殿寶樹浴池。 諸王の自ら念ずらく、『大王は、敢て取りたまわずと雖も、我等も亦復た宜しく自ら用うべからず』、と。即ち共に造工して、七宝の殿を立て、七宝の行樹を殖え、七宝の浴池を作し、大殿中には八万四千の七宝の楼を造り、楼中には、皆、七宝の床座を有りて、雑色の被枕を床の両頭に置き、繒、幡、蓋を懸けて香を熏じに地に塗り、衆事備え已りて、大王に白して言さく、『願わくは、法殿、宝樹、浴池を受けたまえ』、と。
諸の、
『王たち』は、
自ら、こう念じた、――
『大王』は、
『受取る!』ことを、
『拒絶された!』が、
わたし達も、
自ら、
『用いる!』のは、
『宜しくない!』、と。
そこで、
いっしょに、
『工作して!』、――
『七宝』の、
『大殿』を、
『建立し!』、
『七宝』の、
『並木』を、
『殖え!』、
『七宝』の、
『浴池』を、
『作り!』、
『大殿』中には、
『八万四千』の、
『七宝の楼(高殿)』を、
『建造し!』、
『楼』中には、
皆、
『七宝の床座』を、
『置き!』、
『床座の両頭(両端)』には、
『雑色』の、
『枕と蒲団』を、
『置き!』、
『繒、幡、蓋』を、
『懸けて!』、
『香』を、
『薫らせ!』、
『地に塗り!』、
『衆事(万事)』が、
『調って!』、
『備わる!』と、――
『大王』に白して、
こう言った、――
願わくは、
『法殿、宝樹、浴池』を、
『お受けください!』、と。
  不肯(ふこう):あえてせず。拒絶を表わす。
  不宜(ふぎ):よろしくせず。不適合を表わす。
  造工(ぞうく):建造、工作。
  行樹(ぎょうじゅ):並木。
  被枕(ひちん):布団と枕。
  両頭(りょうづ):両端。
  法殿(ほうでん):法を執行する殿。または法を講じる殿。
  参考:『中阿含経巻14大善見王経』。
王默然受之。而自念言。我今不應先處新殿以自娛樂。當求善人諸沙門婆羅門等先入供養。然後我當處之。即集善人先入寶殿。種種供養微妙具足。 王は黙然として之を受け、自ら念じて言わく、『我れは今、応に先に新殿に処して以って、自ら娯楽すべからず。当に善人の諸の沙門、婆羅門等を求めて、先に入れて供養し、然る後に、我れ当に之に処すべし』、と。即ち、善人を集めて、先に宝殿に入れ、種種に供養すること微妙にして具足せり。
『王』は、
『黙然として!』、
之を、
『受ける!』と、
自ら、
『念じて!』、こう言った、――
わたしは、
今、
先に、
『新殿』に、
『入って!』、
『自ら!』を、
『楽しませてはならない!』。
『善人』の、
諸の、
『沙門、婆羅門』を、
『求め!』、
先に、
『入れて!』、
『供養し!』、
その後、
わたしが、
『身』を、
『置くとしよう!』、と。
そこで、
『善人』を、
『集めて!』、
先に、
『宝殿』に、
『入れて!』、
種種に、
『供養した!』が、
それは、
『微妙であり!』、
『具足したものであった!』。
  (しょ):おる。身を置く。
諸人出已王入寶殿登金樓坐銀床。念布施除五蓋攝六情卻六塵受喜樂入初禪。次登銀樓坐金床入二禪。次登毘琉璃樓坐頗梨寶床入三禪。次登頗梨寶樓坐毘琉璃床入四禪。獨坐思惟終竟三月。 諸の人の出で已るに、王は宝殿に入りて、金の楼に登り、銀の床に坐し、布施を念じて、五蓋を除き、六情を摂(おさ)めて、六塵を却(しりぞ)け、喜楽を受けて初禅に入れり。次に銀の楼に登り、金の床に坐して二禅に入り、次に毘琉璃の楼に登り、頗梨宝の床に坐して三禅に入り、次に頗梨宝の楼に登り、毘琉璃の床に坐して四禅に入り、独り坐して思惟すること、終(つい)に三月を竟(おわ)れり。
諸の、
『人』が、
『出てしまう!』と、
『王』は、
『宝殿』に、
『入り!』、
『金の楼』に、
『登り!』、
『銀の床』に、
『坐り!』、
『布施』を、
『念じて!』、
『五蓋(貪欲、瞋恚、随眠、掉悔、疑法)』を、
『除き!』、
『六情(眼、耳、鼻、舌、身、意)』を、
『摂(おさ)め!』、
『六塵(色、声、香、味、触、法)』を、
『却(しりぞ)ける!』と、
『喜』と、
『楽』とを、
『受けて!』、
『初禅』に、
『入った!』。
次いで、
『銀の楼』に、
『登り!』、
『金の床』に、
『坐って!』、
『二禅』に、
『入り!』、
次いで、
『毘琉璃(青玉)の楼』に、
『登り!』、
『頗梨宝(水晶)の床』に、
『坐って!』、
『三禅』に、
『入り!』、
次いで、
『頗梨宝の楼』に、
『登り!』、
『毘琉璃の床』に、
『坐って!』、
『四禅』に、
『入り!』、
独り、
『坐って!』、
『思惟していた!』ので、
とうとう、
『三ヶ月』が、
『過ぎた!』。
  (しょう):おさめる。捕捉。しっかり捉まえて逃げられないようにする。他に吸取、代理、迫近の意。
玉女寶后與八萬四千諸侍女俱。皆以白珠名寶瓔珞其身。來白大王。久違親覲。敢來問訊。 玉女宝の后は、八万四千の諸の侍女と倶に、皆、白珠の名宝を以って、其の身に瓔珞をかけ、来たりて大王に白すらく、『久しく、親覲に違えば、敢て来たりて問訊す』、と。
『玉女宝の后(きさき)』は、
『八万四千』の、
諸の、
『侍女』と、
『いっしょに!』、
皆、
『白珠』の、
『名宝』の、
『瓔珞』を、
其の、
『身』に、
『著けて!』、
『来る!』と、
『大王』に、こう白した、――
久しく、
『お目見えする!』ことが、
『適(かな)いません!』ので、
敢て、
『来て!』、
『御挨拶いたします!』、と。
  玉女宝(ぎょくにょほう):転輪聖王の后。転輪聖王七宝中の一。『大智度論巻7(上)注:七宝』参照。
  親覲(しんごん):親しくまみえる。覲は君主に朝見すること。
  問訊(もんじん):安否を訊ねて挨拶すること。
  (い):たがう。守らない。遵守しない。背く。反する。
王告諸妹。汝等各當端心。當為知識勿為我怨。玉女寶后垂淚而言。大王何為謂我為妹。必有異心願聞其意。云何見敕當為知識勿為我怨。 王の告ぐらく、『諸妹、汝等、各当に心を端(ただ)しうすべし。当に知識と為(た)るべく、我が怨(あだ)と為ること勿(な)かれ』、と。玉女宝の后の涙を垂らして言わく、『大王は、何を為してか、我れを謂いて妹と為したもう。必ず、異心有るべし。願わくは、其の意を聞かせたまえ。云何が、当に知識為るべく、我が怨為ること勿かれと勅せらるるや』、と。
『王』は、
こう告げた、――
諸妹!
お前達は、
『心』を、
『端(ただ)さなくてはならない!』。
わたしの、
『知識(善友)となり!』、
『怨(あだ)となるな!』、と。
『玉女宝の后』は、
『涙』を、
『垂しながら!』、
こう言った、――
大王!
わたしを、
『妹!』と、
『お呼びになります!』のは、
『何うされたからでしょうか?』。
必ず、
『お心』を、
『変わられた!』に、
『相違ありません!』。
願わくは、
其の、
『お心』を、
『お聞かせください!』。
わたしの、
『知識となれ!』、
『怨となるな!』と、
何故、
『お命じになったのでしょうか?』、と。
  知識(ちしき):善き親友。
  (まい):自己より年少、同輩の女性に対する呼称。
  (たん):正しい。歪曲、傾斜しないこと。品行方正で正直なこと。
王告之言。汝若以我為世因緣。共行欲事以為歡樂。是為我怨。若能覺悟非常知身如幻。修福行善絕去欲情。是為知識。諸玉女言敬如王敕。說此語已各遣令還。 王の、之に告げて言わく、『汝が、若し我れを以って世の因縁と為し、共に欲事を行じて、以って歓楽と為さば、是れを我が怨と作す。若し能く非常を覚悟して、身は幻の如しと知り、福を修め、善を行じて、欲情を絶去すれば、是れを知識と為す』、と。諸の玉女の言わく、『敬って、王勅の如くせん』、と。此の語を説き已りて、各を遣(や)りて、還らしむ。
『王』は、
『玉女宝の后』に告げて、こう言った、――
お前が、
若し、
わたしを、
『世間』の、
『楽』の、
『因縁である!』と、
『思い!』、
共に、
『欲事』を、
『行って!』、
其れを、
『歓楽である!』と、
『思うならば!』、
是れは、
わたしの、
『怨である!』。
若し、
『世間』は、
『非常である!』と、
『覚悟して!』、
『身』は、
『幻のようだ!』と、
『知り!』、
『福』の、
『業』を、
『修めて!』、
『善』の、
『事』を、
『行い!』、
『欲情』を、
『拒絶して!』、
『去らせる!』ならば、
是れは、
わたしの、
『知識である!』、と。
諸の、
『玉女』は、
こう言った、――
敬って、
『王』の、
『お命じになったとおりにします!』、と。
『王』は、
此の、
『語』を、
『説きおわる!』と、
各を、
『追いやって!』、
『還らせた!』、
諸女出已王登金樓坐銀床行慈三昧。登銀樓坐金床行悲三昧。登毘琉璃樓坐頗梨床行喜三昧。登頗梨寶樓坐毘琉璃床行捨三昧。是為菩薩布施生禪波羅蜜。 諸女出で已るに、王は、金の楼に登り、銀の床に坐して慈三昧を行じ、銀の楼に登り、金の床に坐して悲三昧を行じ、毘琉璃の楼に登り、頗梨の床に坐して喜三昧を行じ、頗梨宝の楼に登り、毘琉璃の床に坐して捨三昧を行じたり。是れを菩薩の布施は、禅波羅蜜を生ずと為す。
諸の、
『女』が、
『出てゆく!』と、
『王』は、
『金の楼』に、
『登り!』、
『銀の床』に、
『坐って!』、
『慈三昧』に、
『入り!』、
『銀の楼』に、
『登り!』、
『金の床』に、
『坐って!』、
『悲三昧』に、
『入り!』、
『毘琉璃の楼』に、
『登り!』、
『頗梨の床』に、
『坐って!』、
『喜三昧』に、
『入り!』、
『頗梨宝の楼』に、
『登り!』、
『毘琉璃の床』に、
『坐って!』、
『捨三昧』に、
『入ったのである!』が、
是れは、
『菩薩』の、
『布施』が、
『禅波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
  慈三昧悲三昧喜三昧捨三昧:慈、悲、喜、捨の四無量心を行ずるの意。『大智度論巻8(下)注:四無量』参照。



菩薩の布施は般若波羅蜜を生じる

云何菩薩布施生般若波羅蜜。 云何が、菩薩の布施は、般若波羅蜜を生ずる。
何故、
『菩薩』の、
『布施』は、
『般若波羅蜜』を、
『生じるのか?』、――
  般若(はんにゃ):賢明であること( wisdom )、認識/認知の鋭敏さ( cognitive aquity )、梵語 prajJaa 、知る/知っていること( to know )、理解すること(特に方法、又は行動の形態を)( understand ( esp. a way or mode of action ) )、はっきり認める( discern )、識別する( distinguish )、聞き知る( know about )、精通している( be acquainted with (acc. )  )、発見する( to find out , discover )、知覚する/気づく( perceive )、習得する( learn )等の義。特に、従属的な生起、無自性、空等を認識する仏教徒の智慧であり、( Especially the Buddhist wisdom that is based on a realization of dependent arising, no- self, emptiness, etc.— )、その智慧は諸の悩の種を消して、悟りをもたらすことができる( the wisdom that is able to extinguish afflictions and bring about enlightenment )。
菩薩布施時。知此布施必有果報而不疑惑。能破邪見無明。是為布施生般若波羅蜜。 菩薩は、布施する時、此の布施には、必ず果報有ることを知りて、疑惑せざれば、能く邪見の無明を破す。是れを布施は、般若波羅蜜を生ずと為す。
『菩薩』は、
『布施する!』時、
此の、
『布施』には、
必ず、
『果報』が、
『有る!』と、
『知っている!』ので、
『布施』を、
『疑うこともなく!』、
『惑うこともなく!』、
『邪見』や、
『無明』を、
『破ることができる!』。
是れは、
『布施』が、
『般若波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
復次菩薩布施時能分別知。不持戒人若鞭打拷掠閉繫。枉法得財而作布施。生象馬牛中。雖受畜生形負重鞭策羇靽乘騎。而常得好屋好食。為人所重以人供給。 復た次ぎに、菩薩は布施する時、能く分別して知るらく、『持戒せざる人が、若し鞭打、拷掠、閉繋、枉法し、財を得て、布施を作せば、象、馬、牛中に生じて、畜生の形を受けて、負重、鞭策、羈靽、乗騎ありと雖も、常に好屋と好食とを得、人の重んずる所と為って、以って人供給す』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『布施する!』時、
『分別して!』、こう知る、――
『持戒しない!』、
『人』が、
若し、
『鞭打(鞭で打つ!)』、
『拷掠(拷問する!)』、
『閉繋(閉じ込める!)』、
『枉法(法を曲げる!)』して、
『得た!』、
『財』を、
『用いて!』、
『布施した!』ならば、
是の、
『人』は、
『象』、
『牛』、
『馬』中に、
『生まれる!』ことになり、
『畜生』の、
『形』を、
『受けて!』、
『負重(荷を負う!)』、
『鞭策(鞭で打たれる!)』、
『羈靽(杙に繋がれる!)』、
『乗騎(背に乗られる!)』が、
『有った!』としても、
常に、
『好屋』と、
『好食』を、
『得ることができ!』、
『人』に、
『重んじられて!』、
『供給されるのだ!』、と。
  鞭打(べんだ):鞭で打ち、棒で打つこと。
  拷掠(こうりゃく):拷問。
  閉繋(へいけい):監禁、繋縛。
  枉法(おうほう):法を曲げること。
  鞭策(べんさく):長短の鞭で打つこと。
  羈靽(きはん):馬を繋ぐこと。
  乗騎(じょうき):車を挽くことと、背に乗ること。
又知惡人多懷瞋恚。心曲不端而行布施當墮龍中。得七寶宮殿妙食好色。 又知るらく、『悪人は多く瞋恚を懐き、心曲がりて端しからず、而も布施を行ずれば、当に龍中に堕し、七宝の宮殿、好食、好色を得』、と。
又、こう知ることになる、――
『悪人』は、
『多く!』が、
『瞋恚』を、
『懐いて!』、
『心』が、
『曲がって!』、
『正しくない!』が、
是の、
『悪人』が、
『布施』を、
『行えば!』、
『龍』中に、
『堕ちて!』、
『七宝の宮殿』と、
『好食』、
『好色』を、
『得ることができる!』、と。
又知憍人多慢瞋心布施。墮金翅鳥中。常得自在。有如意寶珠以為瓔珞。種種所須皆得自恣無不如意。變化萬端無事不辦。 又知るらく、『憍る人は、慢と瞋の心多くして、布施すれば、金翅鳥中に堕して、常に自在を得、如意宝珠有りて、以って瓔珞と為し、種種の須うる所は、皆得て、自ら恣(ほしいまま)にして、如意ならざる勿く、変化万端、事として辦ぜざる無し』、と。
又、こう知る、――
『憍る!』、
『人』が、
『慢』と、
『瞋』との、
『多い!』、
『心』で、
『布施すれば!』、
『金翅鳥』中に、
『堕ちる!』が、
常に、
『自在』を、
『得て!』、
有る、
『如意宝珠』を、
『瓔珞としており!』、
種種の、
『必要な!』、
『物』は、
『皆、得られて!』、
自ら、
『恣(ほしいまま)にして!』、
『意のままでない!』ことが、
『無く!』、
『変化』の、
『事』は、
『万端(何でも!)』、
『処理できない!』、
『事』が、
『無い!』。
  (べん):処理/対処( transact , manege , deal with , carry out )、処分( punish )、備置( prepare )等の義。
又知宰官之人。枉濫人民不順治法而取財物。以用布施墮鬼神中。作鳩槃茶鬼。能種種變化五塵自娛。 又知るらく、『宰官の人、人民の順治せざる法を枉濫して財物を取り、以って布施に用うれば、鬼神中に堕ちて、鳩槃荼鬼と作り、能く種種に、五塵を変化して、自ら楽しむ』、と。
又、こう知る、――
『宰官の人』が、
『人民』の、
『順治しない(承伏しない)!』、
『法』を、
『曲げたり!』、
『濫発したり!』して、
『財物』を、
『取り!』、
其れを、
『用いて!』、
『布施すれば!』、
『鬼神』中に、
『堕ちて!』、
『鳩槃荼鬼』と作り、
種種に、
『五塵』を、
『変化して!』、
自らを、
『娯ませるのだ!』、と。
  宰官(さいかん):大臣。
  枉濫(おうらん):枉法恣肆たること。法を曲げて自制しないこと。
  順治(じゅんじ):順従して大いに治まること。社会の秩序が井然として安定すること。
  鳩槃荼(くばんだ):梵語 kumbhaaNDa 、また弓槃荼、究槃荼、恭畔荼、拘槃荼、俱槃荼、吉槃荼、拘辦荼、鳩満拏等に作り、甕形鬼、冬瓜鬼と訳す。人の精気を噉う鬼神なり。<(丁)
又知多瞋佷戾嗜好酒肉之人。而行布施墮地夜叉鬼中。常得種種歡樂音樂飲食。 又知るらく、『多瞋、佷戾にして、酒肉を嗜好する人が、布施を行ずれば、地の夜叉鬼中に堕ちて、常に種種の歓楽、音楽、飲食を得』、と。
又、こう知る、――
『瞋が多く!』、
『狂暴残忍で!』、
『酒肉を好む!』、
『人』が、
『布施』を、
『行えば!』、
『地』上の、
『夜叉鬼』中に、
『堕ちて!』、
常に、
種種の、
『歓楽』や、
『音楽』、
『飲食』を、
『得るのだ!』、と。
  佷戾(こんれい):狂暴悪辣にして異常残忍なるをいう。
  夜叉(やしゃ):梵語yakSa に作り、八部衆の一、鬼類なり。『大智度論巻25(下)注:夜叉』参照。
又知有人剛愎強梁。而能布施車馬代步。墮虛空夜叉中。而有大力所至如風。 又知るらく、『有る人、剛愎、強梁にして、能く車馬を布施して、代わりて歩けば、虚空の夜叉中に堕ちて、而も大力有りて至る所風の如し』、と。
又、こう知る、――
有る、
『人』が、
『強情、執拗で!』、
『屈強、粗暴であり!』、
而も、
『車、馬』を、
『布施して!』、
『代りに!』、
『歩くことができれば!』、
『虚空』の、
『夜叉』中に、
『堕ちて!』、
『大力』を、
『有し!』、
『風のように!』、
『至ることができる!』、と。
  剛愎(ごうふく):剛情で、執拗に己の意見に固執する。
  強梁(ごうりょう):屈強にして粗暴、残忍なるをいう。
  代歩(だいぶ):歩くに代える。又代わりて歩く。
又知有人妒心好諍。而能以好房舍臥具衣服飲食布施故。生宮觀飛行夜叉中。有種種娛樂便身之物。如是種種當布施時能分別知。是為菩薩布施生般若。 又知るらく、『有る人、妒心にして諍を好み、而も好き房舎、臥具、衣服、飲食を以って、布施するが故に、宮観飛行の夜叉中に生じて、種種の娯楽、便身の物有り』、と。是の如く種種に、布施する時に当りて、能く分別して知る。是れを菩薩の布施は、般若を生ずと為す。
又、こう知る、――
有る、
『人』は、
『嫉妬』の、
『心』で、
『諍(いさか)い!』を、
『好む!』が、
『好い!』、
『房舎』や、
『臥具』、
『衣服』、
『飲食』を
『用いて!』、
『布施する!』が故に、
『宮観飛行』の、
『夜叉』中に、
『生まれて!』、
種種の、
『娯楽』や、
『身の回りの便利な用具』を、
『有することになる!』、と。
是のように、
『布施する!』時に、
『当って!』、
『布施』を、
『分別して!』、
『知ることができれば!』、
是れは、
『菩薩』の、
『布施』が、
『般若』を、
『生じたのである!』。
  妒心(としん):ねたみ/嫉妬( jealousy , enby )、梵語 iirSyaa の訳、又嫉心と訳す、"ねたみ"又は他の成功に我慢できない( envy or impatience of another's success )の意。
  便身之具(べんしんのぐ):身の回りの便利な用具。
復次布施飲食得力色命樂瞻。 復た次ぎに、飲食を布施すれば、力、色、命、楽、膽を得。
復た次ぎに、
『飲食』を、
『布施すれば!』、
『力(活力)』と、
『色(身体)』と、
『命(寿命)』と、
『楽(安楽)』と、
『膽(勇気)』とを、
『得る!』。
  :理に従って膽に改む。
  (たん):胆。勇敢( bravery )、勇気(courage)、胆嚢(gallbladder)。
  参考:『増一阿含経巻24』:『(一一)聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。若檀越施主惠施之日。得五事功德。云何為五。一者施命。二者施色。三者施安。四者施力。五者施辯。是謂為五。復次。檀越施主施命之時。欲得長壽。施色之時。欲得端正。施安之時。欲得無病。施力之時。欲令無能勝。施辯之時。欲得無上正真之辯。比丘當知。檀越施主惠施之日。有此五功德。爾時。世尊便說此偈  施命色及安  力辯為第五  五功德已備  後受無窮福  智者當念施  除去貪欲心  今身有名譽  生天亦復然  若有善男子.善女人。欲得五功德者。當行此五事。如是。諸比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『過去現在因果経巻3』:『爾時世尊。即便咒願。今所布施。欲令食者。得充氣力。當令施者。得色得力。得膽得喜。安快無病。終保年壽。諸善鬼神。恒隨守護。飯食布施。斷三毒根。將來當獲三堅法報。聰明智慧。篤信佛法。在在所生。正見不昧。現世之中。父母妻子。親戚眷屬。皆悉熾盛。無諸災怪不吉祥事。門族之中。若有命過墮惡道者。當令以今所施之福還生人天。不起邪見。增進功德。常得奉近。諸佛如來。得聞妙說。見諦得證。所願具足』
  参考:『大智度論巻3』:『如佛語檀越。施食時與五事。命色力樂[目*善]。食不能必與五事。有人大得飲食而死。有人得少許食而活。食為五事因。是故佛言施食得五事。如偈說 斷食死無疑  食者死未定  以是故佛說  施食得五事』。
  参考:『十住毘婆沙論巻6』:『問曰。汝先說知以身支節布施及外物布施所得果報。今可說所得果報。答曰。寶頂經中無盡意菩薩第三十品檀波羅蜜義中說。菩薩立願須食者施食。令我得五事報。一者得壽命。二者得膽。三者得樂。四者得力。五者得色。』
若布施衣服得生知慚愧。威德端正身心安樂。 若し、衣服を布施すれば、生まれながらに慚愧を知るを得て、威徳端正にして、身心安楽なり。
若し、
『衣服』を、
『布施すれば!』、
『生まれながら!』にして、
『慚愧』を、
『知ることができる!』ので、
『威(刑罰)』と、
『徳(恩賞)』とが、
『端正(厳正)であり!』、
『身』も、
『心』も、
『安楽である!』。
  威徳(いとく):威勢と徳政、即ち刑罰と恩賞の意。
若施房舍則得種種七寶宮觀。自然而有五欲自娛。 若し、房舎を施せば、則ち種種の七宝の宮観を得て、自然に、五欲有りて、自ら娯む。
若し、
『房舎』を、
『施せば!』、
種種の、
『七宝』の、
『宮観』を、
『得て!』、
『自然に!』、
『五欲』が、
『有って!』、
『自ら!』を、
『娯ませる!』。
  五欲(ごよく):五種の欲望( five desires )、梵語 paJca- kaama ( -guNa ) の訳、眼、耳、鼻、舌、身の対象、即ち五境[色声香味触]に執著して起る五種の欲望(Five kinds of desire that arise from attachment to the objects of eyes, ears, nose, tongue, and body) をいう。凡夫の欲望(The desires of regular people. )の意。又、是れ等の欲望の原因となる感覚の中の五種の対象を指して(Also a reference to the five objects themselves in the sense that they are the cause of these desires )、色欲( form )、声欲( sound )、香欲( fragrance )、味欲( flavor )、触欲( tactility )という。又或いは五種の欲望である( the five desires of )財欲( wealth )、色欲( sex )、飲食欲( food )、名欲( fame )、睡眠欲( sleep )をいう。
若施井池泉水種種好漿。所生則得無飢無渴五欲備有。 若し、井池、泉水、種種の好漿を施せば、生ずる所は、則ち飢無く、渇無く、五欲を備有す。
若し、
『井池』、
『泉水』、
『種種の好漿(果汁)』を、
『施せば!』、
『生まれる!』所には、
『飢え!』も、
『渇き!』も、
『無く!』、
『五欲』が、
『具備している!』。
若施橋船及諸履屣。生有種種車馬具足。 若し、橋、船、及び諸の履屣を施せば、生まれながらにして、種種の車馬有りて具足す。
若し、
『橋』や、
『船』や、
『諸の履物』を、
『施せば!』、
生まれながら、
『種種の車、馬』が、
『有り!』
『具足している!』。
  履屣(りし):靴、下駄等のはきもの。履物。
若施園林則得豪尊。為一切依止。受身端政心樂無憂。如是等種種。人中因緣布施所得。 若し、園林を施せば、則ち豪尊を得て、一切の依止と為り、身には端政を受けて、心楽しんで憂無し。是の如き等の種種の人中の因縁は、布施の所得なり。
若し、
『園林』を、
『施せば!』、
『豪勢』と、
『尊貴』とを、
『得て!』、
一切に、
『依止せられ(頼られ)!』、
『身』には、
『端政』を、
『受けて!』、
『心』は、
『楽しんで!』、
『憂が無い!』。
是れ等の
種種の、
『人』中の、
『因縁』は、
『布施』の、
『所得である!』。
  豪尊(ごうそん):豪勢尊貴。
  依止(えし):基礎/根拠( basis )、当に依拠すべきものの意。梵語 aazraya の訳、何物かに従属されるもの(that to which anything is annexed )、又は何物かに密接に結び付けられるもの( or with which anything is closely connected )、又は何物かに頼られたり、休息されるもの( or on which anything depends or rests )、座席( seat )、休み場所( resting-place )、家( dwelling )、避難所( asylum , place of refuge , shelter )、頼る( depending on )、恃む( having recourse to )、援助( help , assistance )、保護( protection )等の義。又は梵語 adhiSThaana の訳、援助する( standing by )、手近な( being at hand )、近寄る( approach )、立つ又は寄りかかる( standing or resting upon )、基礎/根拠/土台( a basis, base )、戦車上の戦士の立つ場所( the standing- place of the warrior upon the car )、場所/敷地/邸宅/住居/座席( a position, site, residence, abode, seat )、定住/町( a settlement, town )、監督する/統治/権威/権力( standing over, government, authority, power )、慣例/規則( a precedent, rule )、祝福( a benediction )等の義。又梵語 nizraya の訳、避難所( refuge )、資源( resource )等の義。「大般涅槃経巻6」には、一に法に依って人に依らず、二に義に依って語に依らず、三に智に依って識に依らず、四に了義経に依って不了義経に依らずの四依止を説く。
若人布施修作福德。不好有為作業生活。則得生四天王處。 若し、人、布施して、作福の徳を修め、有為、作業の生活を好まざれば、則ち四天王処に生ずるを得。
若し、
『人』が、
『布施』して、
『作福』の、
『徳』を、
『修めて!』、
『有為』の、
『作業の生活』を、
『好まなければ!』、
則ち、
『四天王』の、
『天処』に、
『生まれることができる!』。
  作福(さふく):称讃に値する価値/報酬を作る( to create merit )、梵語 puNya- kriyaa の訳、善い、又は称讃に値する行為( a good or meritorious action )の義。未来世の果報を生じる善業を作るの意。
  (とく):属性/特質( attribute )又は報酬/福報( merit )、梵語 guNa の訳、一本の糸、又は綱、又はより糸( a single thread or strand of a cord or twine )、栄冠( a garland )、弓の弦( a bow-string )、腱( a sinew )、楽器の弦(the string of a musical instrument, chord )、[数学]乗数/係数( a multiplier, co-efficient )、区分/種/種類( subdivision, species, kind )、品質/特質/特性/特色( a quality, peculiarity, attribute or property )等の義、高潔な性質、又は賢人の勝れた特質( the virtuous qualities, or superior traits of a sage )の意。
若人布施。加以供養父母及諸伯叔兄弟姊妹。無瞋無恨不好諍訟。又不喜見諍訟之人。得生忉利天上焰摩兜術化自在他化自在。如是種種分別布施。是為菩薩布施生般若。 若し、人、布施して、加うるに父母、及び諸の伯叔兄弟姉妹を供養するを以ってし、無瞋、無恨にして、諍訟を好まず、又諍訟の人を見るを喜ばざれば、忉利天上、焔摩、兜術、化自在、他化自在に生ずるを得。是の如く、種種に布施を分別し、是れを菩薩の布施は、般若を生ずと為す。
若し、
『人』が、
『布施する!』に、
加えて、
『父、母』や、
『諸の伯叔、兄弟、姉妹』を、
『供養し!』、
『瞋(いかり!)』も、
『恨(うらみ!)』も、
『無く!』、
『諍訟(論争)』を、
『好まず!』、
『諍訟の人』を、
『見る!』ことを、
『喜ばない!』ならば、
『忉利天』上や、
『焔摩、兜術、化自在、他化自在天』上に、
『生まれることができる!』。
是のように、
種種に、
『布施』を、
『分別した!』が、
是れは、
『菩薩』の、
『布施』が、
『般若』を、
『生じたのである!』。
  諍訟(じょうしょう):口論( to quarrel )、梵語 vivaada の訳、 感情的に論争/口論する( a dispute, quarrel )、~に関して争う( contest between or with or about, regarding )、法律的論争( contest at law, legal dispute )、訴訟(litigation, lawsuit )等の義。外道の法と内法との優劣を競うて論争し、或いは内法と内法とで優劣を競うて論争するの意。
若人布施心不染著。厭患世間求涅槃樂。是為阿羅漢辟支佛布施。若人布施為佛道為眾生故。是為菩薩布施。如是等種種布施中分別知。是為布施生般若波羅蜜。 若し人、布施して、心に染著せず、世間を厭患して、涅槃の楽を求むれば、是れを阿羅漢、辟支仏の布施と為す。若し人、布施して仏道の為め、衆生の為めの故なれば、是れを菩薩の布施と為す。是の如き等の種種の布施中に分別して、知る、是れを布施は般若波羅蜜を生ずと為す。
若し、
『人』が、
『布施して!』、
『心』に、
『染著せず!』、
『世間』を、
『厭患して!』、
『涅槃の楽』を、
『求める!』ならば、
是れは、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』の、
『布施である!』。
若し、
『人』が、
『布施して!』、
『仏道の為め!』や、
『衆生の為め!』ならば、
是れは、
『菩薩』の、
『布施である!』。
是れ等のように、
種種の、
『布施』を、
『分別して!』、
『知った!』ならば、
是れは、
『布施』が、
『般若波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
復次菩薩布施時。思惟三事實相。如上說。如是能知是為布施生般若波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は、布施する時、三事の実相の、上に説けるが如きを思惟して、是の如く能く知れば、是れを布施は、般若波羅蜜を生ずと為す。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『布施する!』時、
『三事(施者、受者、所施事物)』の、
『実相』が、
上に、
『説かれた通りである!』ことを、
『思惟して!』、
是のように、
『知ることができれば!』、
是れは、
『布施』が、
『般若波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
復次一切智慧功德因緣。皆由布施。如千佛始發意時。種種財物布施諸佛。或以華香或以衣服。或以楊枝布施而以發意。如是等種種布施。是為菩薩布施生般若波羅蜜
大智度論卷第十二
復た次ぎに、一切の智慧の功徳の因縁は、皆、布施に由る。千仏の始めて発意の時、種種の財物を、諸仏に布施するに、或いは華香を以って、或いは衣服を以って、或いは楊枝を以って布施し、以って発意したもうが如し。是の如き等の種種の布施は、是れを菩薩の布施は般若波羅蜜を生ずと為す。
大智度論巻第十二
復た次ぎに、
一切の、
『智慧』の、
『功徳』の、
『因縁』は、
皆、
『布施』を、
『通して!』、
『得られる!』、
例えば、
『千仏』が、
初めて、
『発意する!』時には、
種種の、
『財物』を、
諸の、
『仏』に、
『布施され!』、
或いは、
『華香』を、
『布施し!』、
或いは、
『衣服』を、
『布施し!』、
或いは、
『楊枝』を、
『布施して!』、
それで、
『発意される!』のであるが、
是のような、
種種の、
『布施』は、
是れが、
『菩薩』の、
『布施であり!』、
『般若波羅蜜』を、
『生じるのである!』。

大智度論巻第十二
  功徳(くどく):美点( merit(s) )、梵語 puNya の訳、さい先の良い( auspicious, propitious )、公平/公正な( fair )、人を喜ばせる( pleasant )、善良な( good )、正義の( right )、高潔な( virtuous )、称讃に値する( meritorious )、清潔な( pure )、神聖な( holy, sacred )の義。幸運、美徳、幸運、善良( Blessedness, virtue, fortune, goodness )の意。特別な美徳、価値ある特質( Excellent virtue, valuable quality )にして、善行に従って蓄積された( that which is accumulated according to one's good actions )ものの意。過失に対す( the opposit of a fault )。良い運命を齎す原因/美徳の根本( The causes of good destiny; virtuous roots )、仏の智慧を獲得する為めの必要な資財( The necessary materials for attaining the Buddha's enlightenment )の意。又梵語 guNa の訳、称讃さるべき特質の義、「德」の頃参照。即ち総じて人を喜ばせ、福を獲得せしむる智力の意。
  千仏(せんぶつ):千の仏( thousand buddhas )の義、過去、未来、現在の劫中に、各千の仏有りて、釈迦牟尼を現在劫中第四の仏と為す( Each of the past, present, and future kalpas has a thousand buddhas; Śākyamuni is the fourth buddha in the present kalpa )。


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