巻第十二(上)
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大智度論釋初品中檀波羅蜜法施之餘(卷第十二)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


檀波羅蜜が満ちるとは?

【論】問曰。云何名檀波羅蜜滿。 問うて曰く、云何が、檀波羅蜜満つと名づく。
問い、
何故、
『檀波羅蜜』が、
『満ちた!』と、
『称するのですか?』。
  波羅蜜(はらみつ):梵語paaramitaa、巴梨語paaramii、また波羅蜜多、波囉弭多に作り、到彼岸、度彼岸、度無極、度、或は事究竟と訳す。生死の此岸より解脱涅槃の彼岸に到るを云う。蓋し梵語paaramitaaは、「彼岸」の義なる名詞paaraの業格単数paaramに、「到る」または「在り」の義なる動詞i、及び接尾辞tを加えたる形容詞paaram- i- tの tを、状態を示す接尾辞taa (paaram- i- taa) に代えたるものにして、即ち「彼岸に到達せる状態」または「終了」、「円満」の義を有するなり。また良賁の「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻上」には「梵に波囉弭多と云い、此には到彼岸と云う。声明論の分句釈に依れば波囉伊(上声)多と云う。伊多と言うは此岸と云うなり、波藍と言うは彼岸と云うなり。極智に乗じ此を離れて彼に到るに由るなり」と云えり。これ恐らく此の語を「彼岸」の義なる名詞paaramと「此処」の義なる不変詞idamとの合成語となせるものなるべし。また巴梨語のpaaramiiは、「最上の」または「終極の」の義なる形容詞paramaを女性名詞となせるものにして、此の名詞が合成語の末尾に在る時は、語末のiiを短音とし、之に接尾字taaを加えてpaarami- taaの形を用うるなり。<(望) 『大智度論巻6(下)注:波羅蜜』参照。
答曰。檀義如上說。波羅(秦言彼岸)蜜(秦言到)是名渡布施河得到彼岸。 答えて曰く、檀の義は、上に説けるが如し。波羅(秦に彼岸と言う)蜜(秦に到ると言う)、是れを布施の河を渡りて、彼岸に到ると名づく。
答え、
『檀の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
『波羅(彼岸)蜜()』は、
『布施』の、
『河』を、
『渡って!』、
『彼岸』に、
『到る!』という、
『意味である!』。
問曰。云何名不到彼岸。 問うて曰く、云何が、彼岸に到らずと名づくる。
問い、
『彼岸』に、
『到らない!』とは、
何ういう、
『意味ですか?』。
答曰。譬如渡河未到而還。名為不到彼岸。如舍利弗。於六十劫中行菩薩道。欲渡布施河。時有乞人來乞其眼。 答えて曰く、譬えば、河を渡りて、未だ到らずして還るが如きを、名づけて彼岸に到らずと為す。舎利弗の如きは、六十劫中に於いて菩薩道を行じ、布施の河を渡らんと欲するに、時に有る乞人来たりて、其の眼を乞えり。
答え、
譬えば、
『河』を、
『渡って!』、
未だ、
『到らない!』のに、
『還る!』ようなことを、
『彼岸』に、
『到らない!』と、
『称する!』。
例えば、
『舎利弗』などは、
『六十劫』中に、
『菩薩』の、
『道』を、
『行っており!』、
『布施』の、
『河』を、
『渡ろうとしていた!』が、
ある時、
有る、
『乞人』が来て、
其の、
『眼』を、
『乞うたのである!』。
舍利弗言。眼無所任。何以索之。若須我身及財物者當以相與。 舎利弗の言わく、『眼に任うる所無し。何を以ってか、之を索(もと)むる。若し我が身、及び財物を須(もと)むれば、当に以って相与うべし』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
『眼』には、
『役に立つ!』所が、
『無い!』のに、
何故、
『眼』を、
『求めるのか?』。
若し、
わたしの、
『身』や、
『財物』が、
『欲しい!』ならば、
皆、
お前に、
『与えよう!』、と。
  参考:『撰集百縁経巻4』:『(33)尸毘王剜眼施鷲緣  佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時諸比丘。安居欲竟。自恣時到。春秋二時。常來集會。聽佛說法。其中或有浣衣薰缽打染縫治。如是各各。皆有所營。時彼眾中。有一比丘。名曰尸婆。年老目瞑。坐地縫衣。不見紝針。作是唱言。誰貪福德。為我紝針。爾時世尊。聞比丘語。尋即往至。捉比丘手。索針欲貫。時老比丘。識佛音聲。白言。世尊如來。往昔三阿僧祇劫。修大慈悲。滿足六波羅蜜。具菩薩行。斷除結使。功德備足。自致作佛。今者何故猶於我所。求索福德。佛告比丘。由我昔來宿習不忘。故於汝所。猶修福德。時諸比丘聞佛世尊作是語已。即白佛言。如來往昔。於彼耆舊老比丘所。修何功德。願為解說。爾時世尊告諸比丘。汝等諦聽。吾當為汝分別解說。乃往過去無量世中。波羅奈國有王。名曰尸毘。治正國土。人民熾盛豐樂無極。時尸毘王常好惠施。賑給濟乏。於諸財寶頭目髓腦。來有乞者。終不吝惜。精誠感應。動天宮殿。不安其所。時天帝釋。作是念言。我此宮殿。有何因緣。動搖如是。將非我今命欲盡耶。作是念已。尋自觀察。見尸毘王。不惜財寶。有來乞者。皆悉施與。精誠感應。動我宮殿。物不安所。我今當往試其善心。為虛為實。即便化作一大鷲身。飛來詣王。啟白王言。我聞大王。好喜布施。不逆眾生。我今故來。有所求索。唯願大王。遂我心願。時王聞已。甚懷歡喜。即答鷲言。隨汝所求。終不吝惜。鷲白王言。我亦不須金銀珍寶及諸財物。唯須王眼。以為美膳。願王今者。見賜雙眼。時尸毘王。聞鷲語已。生大歡喜。手執利刀。自剜雙眼。以施彼鷲。不憚苦痛。無有毛髮悔恨之心。爾時天地。六種震動。雨諸天花。鷲白王言。汝今剜眼。用施於我。無悔恨耶。王答鷲言。我施汝眼。今者實無悔恨之心。鷲語王言。若無悔心。以何為證。王答鷲言。今施汝眼。無悔心者。當令我眼還復如故。作是誓已。時王雙眼。如前無異。鷲復釋身。讚言奇哉未曾有也。汝於今者。能捨難捨。為求釋梵轉輪聖王世俗榮樂。王答釋曰。我今不求釋梵及以轉輪世俗榮樂。以此施眼善根功德。使我來世得成正覺。度脫眾生。發是願已。時天帝釋。還詣天宮。佛告諸比丘。欲知彼時尸毘王者。則我身是。彼時鷲者。今老比丘是。由於彼時布施眼目不吝惜故。自致成佛。是故今者。猶於汝上。修於福德。尚無厭足。爾時諸比丘。聞佛所說。歡喜奉行』
  :乞眼譚は上の「撰集百縁経」の外、「仏本行経巻5」、「賢愚経巻6」等にも見られるが、このよく出来た舎利弗の本縁は見当たらない。
答言。不須汝身及以財物。唯欲得眼。若汝實行檀者以眼見與。 答えて言わく、『汝が身、及以(およ)び財物を須(もち)いず、唯だ眼を得んと欲す。若し、汝、実に檀を行ぜば、眼を以って与えられん』、と。
答えて、こう言った、――
お前の、
『身』や、
『財物』が、
『欲しいわけではない!』、
唯だ、
『眼』が、
『欲しいだけだ!』。
お前が、
若し、
本当に、
『檀』を、
『行っているならば!』、
『眼』を、
俺に、
『呉れるはずだ!』、と。
爾時舍利弗。出一眼與之。乞者得眼。於舍利弗前嗅之。嫌臭唾而棄地。又以腳蹋。 爾の時、舎利弗は、一眼を出して、之を与う。乞者は、眼を得て舎利弗の前に、之を嗅ぎ、臭いを嫌いて唾して、地に棄て、又脚を以って蹹(ふ)めり。
爾の時、
『舎利弗』は、
『一眼』を、
『剔出して!』、
『与えた!』。
『乞者』は、
『眼』を、
『得る!』と、
『舎利弗の前』で、
『臭』を、
『嗅ぎ!』、
其の、
『臭』を、
『嫌って!』、
『唾』を、
『吐きかける!』と、
『地』に、
『棄てて!』、
而も、
『脚』で、
『踏みつけた!』。
  (とう):ふみつける。踏に同じ。
舍利弗思惟言。如此弊人等難可度也。眼實無用而強索之。既得而棄又以腳蹋。何弊之甚。如此人輩不可度也。不如自調早脫生死。 舎利弗の思惟して言わく、『此の如き弊人等は、度すべきこと難し。眼は実に用無けれど、而も強いて之を索め、既に得たれば、之を棄て、又脚を以って蹹めり。何んたる弊の甚だしきかな。此の如き人輩(など)は、度すべからざるなり。自ら調えて、早く生死を脱るるに如かず。
『舎利弗』は、
思惟して、こう言った、――
此のような、
『悪人』等(たち)は、
『度される!』ことが、
『難しい!』、
『眼』には、
『実』に、
『用がない!』のに、
而も、
『強いて!』、
『欲しがり!』、
『眼』を、
『得たら!』、
『棄ててしまい!』、
その上、
『脚』で、
『踏みつけるとは!』、
何んという、
『悪』の、
『甚だしきかな!』。
此の、
『人』の、
『輩(たぐい)』は、
『度されようがない!』。
自ら、
『調えて!』、
早く、
『生死』を、
『脱(のが)れた!』、
『方がましだ!』、と。
  弊人(へいにん):弊は猶お悪の如し。即ち心情的な悪人。
思惟是已。於菩薩道退迴向小乘。是名不到彼岸。若能直進不退。成辦佛道。名到彼岸。 是れを思惟し已りて、菩薩道を退き、小乗に迴向せり。是れを彼岸に到らずと名づく。若し能く直だ進みて退かず、仏道を成辦すれば、彼岸に到ると名づく。
是のように、
思惟し已ると、――
『菩薩』の、
『道』より、
『退いて!』、
『心』を、
『小乗』に、
『迴(めぐ)らせた!』。
是れを、
『彼岸』に、
『到らなかった!』と、
『呼ぶのであり!』、
若し、
『菩薩の道』を、
『直進して!』、
『退却せず!』、
『仏の道』を、
『完成させた!』ならば、
是れを、
『彼岸』に、
『到る!』と、
『称するのである!』。
  成辦(じょうべん):梵語 niSpatti の訳。前進( going forth ) or 過去る( going out ), 齎される( being brought about ) or 影響される( effected ) , 完成( completion ) , 完了( consummation )等の義。
復次於事成辦亦名到彼岸。(天竺俗法凡造事成辦皆言到彼岸) 復た次ぎに、事に於いて成辦することも、亦た彼岸に到ると名づく(天竺の俗法は、凡そ事を造りて成辦するを、皆、彼岸に到ると言う)。
復た次ぎに、
『事』を、
『完成させる!』ことも、
亦た、
『彼岸』に、
『到る!』と、
『称する!』。
復次此岸名慳貪檀名河中。彼岸名佛道。 復た次ぎに、此岸を慳貪と名づけ、檀を河の中と名づけ、彼岸を仏の道と名づく。
復た次ぎに、
『此岸』を、
『慳(おし)んで!』、
『貪(むさぼ)る!』と、
『称し!』、
『檀』を、
『河』の、
『中ほど!』と、
『称し!』、
『彼岸』を、
『仏』の、
『道』と、
『称する!』。
復次有無見名此岸。破有無見智慧名彼岸。懃修布施是名河中。 復た次ぎに、有無の見を、此岸と名づけ、有無の見を破る智慧を、彼岸と名づけ、布施を懃修するは、是れを河中と名づく。
復た次ぎに、
『有、無の見』を、
『此岸』と、
『称し!』、
『有無の見』を、
『破る!』、
『智慧』を、
『彼岸』と、
『称し!』、
『布施』を、
『勤勉に!』、
『修める!』のを、
『河の中』と、
『称する!』。
復次檀有二種。一者魔檀二者佛檀。若為結使賊所奪憂惱怖畏。是為魔檀。名曰此岸。若有清淨布施。無結使賊無所怖畏得至佛道。是為佛檀。名曰到彼岸。是為波羅蜜。 復た次ぎに、檀には二種有り、一には魔の檀、二には仏の檀なり。若し結使の賊の奪う所と為りて、憂悩し、怖畏する、是れを魔の檀と為し、名づけて此岸と曰う。若し、清浄の布施有れば、結使の賊無く、怖畏する所無く、仏道に至るを得る、是れを仏の檀と為し、名づけて彼岸に到ると為し、是れを波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『檀』には、
『二種』有り、
一には、
『魔の檀』、
二には、
『仏の檀』である。
『魔の檀』とは、――
若し、
『結使』の、
『賊』に、
『奪われて!』、
『憂悩したり!』、
『怖畏する!』ならば、
是れは、
『魔の檀であり!』、
亦た、
『此岸』と、
『称する!』。
若し、
『清浄』な、
『布施』が、
『有って!』、
『結使』の、
『賊』が、
『無く!』、
『怖畏する!』所が、
『無ければ!』、
『仏』の、
『道』を、
『極めることができる!』ので、
是れを、
『仏』の、
『檀』と、
『称し!』、
『彼岸』に、
『到る!』と、
『称する!』が、
是れが、
『波羅蜜である!』。
如佛說毒蛇喻經中。有人得罪於王。王令掌護一篋。篋中有四毒蛇。王敕罪人令看視養育。 仏の「毒蛇喩經」中に説きたまえるが如し。有る人、罪を王に得れば、王は、一篋を掌護せしむ。篋中に四毒蛇有り。王は罪人に敕して、看視し養育せしむ。
『毒蛇喩経』中に、
『仏』は、こう説かれている、――
有る、
『人』が、
『王』に対して、
『罪』を、
『犯した!』ので、
『王』は、
『命じて!』、
『一篋(こばこ)』を、
『掌護させた!』。
『篋』中には、
『四匹』の、
『毒蛇』が、
『有った!』。
『王』は、
『罪人』に命じて、
『看護させて!』、
『養育させた!』。
  掌護(しょうご):手腕を以って捧げ護る。
  参考:『雑阿含経巻43(1172)』:『如是我聞。一時。佛住拘睒彌國瞿師羅園。爾時。世尊告諸比丘。譬如有四蚖蛇。凶惡毒虐。盛一篋中。時。有士夫聰明不愚。有智慧。求樂厭苦。求生厭死。時。有一士夫語向士夫言。汝今取此篋盛毒蛇。摩拭洗浴。恩親養食。出內以時。若四毒蛇脫有惱者。或能殺汝。或令近死。汝當防護。爾時。士夫恐怖馳走。忽有五怨。拔刀隨逐。要求欲殺。汝當防護。爾時。士夫畏四毒蛇及五拔刀怨。驅馳而走。人復語言。士夫。內有六賊。隨逐伺汝。得便當殺。汝當防護。爾時。士夫畏四毒蛇.五拔刀怨及內六賊。恐怖馳走。還入空村。見彼空舍。危朽腐毀。有諸惡物。捉皆危脆。無有堅固。人復語言。士夫。是空聚落當有群賊。來必奄害汝。爾時。士夫畏四毒蛇.五拔刀賊.內六惡賊.空村群賊。而復馳走。忽爾道路臨一大河。其水浚急。但見此岸有諸怖畏。而見彼岸安隱快樂。清涼無畏。無橋船可渡得至彼岸。作是思惟。我取諸草木。縛束成筏。手足方便。渡至彼岸。作是念已。即拾草木。依於岸傍。縛束成筏。手足方便。截流橫渡。如是士夫免四毒蛇.五拔刀怨.六內惡賊。復得脫於空村群賊。渡於浚流。離於此岸種種怖畏。得至彼岸安隱快樂。我說此譬。當解其義。比丘。篋者。譬此身色麤四大。四大所造精血之體。穢食長養。沐浴衣服。無常變壞危脆之法。毒蛇者。譬四大。地界.水界.火界.風界。地界若諍。能令身死。及以近死。水.火.風諍亦復如是。五拔刀怨者。譬五受陰。六內賊者。譬六愛喜。空村者。譬六內入。善男子。觀察眼入處。是無常變壞。執持眼者。亦是無常虛偽之法。耳.鼻.舌.身.意入處亦復如是。空村群賊者。譬外六入處。眼為可意.不可意色所害。耳聲.鼻香.舌味.身觸.意。為可意.不可意法所害。浚流者。譬四流。欲流.有流.見流.無明流。河者。譬三愛。欲愛.色愛.無色愛。此岸多恐怖者。譬有身。彼岸清涼安樂者。譬無餘涅槃。筏者。譬八正道。手足方便截流渡者。譬精進勇猛到彼岸。婆羅門住處者。譬如來.應.等正覺。如是。比丘。大師慈悲安慰弟子。為其所作。我今已作。汝今亦當作其所作。於空閑樹下。房舍清淨。敷草為座。露地.塚間。遠離邊坐。精勤禪思。慎莫放逸。令後悔恨。此則是我教授之法。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
此人思惟。四蛇難近。近則害人。一猶叵養。而況於四。便棄篋而走。王令五人拔刀追之。 此の人の思惟すらく、『四蛇には、近づき難く、近づけば、則ち人を害す。一すら猶お養いがたきに、況んや四に於いておや』、と。便ち篋を棄てて走れり。王は、五人をして、刀を抜いて之を追わしむ。
此の、
『人』は、こう思惟した、――
『四匹』の、
『蛇』には、
『近づき難い!』、
『近づけば!』、
『人』を、
『害するからだ!』。
『一匹』の、
『蛇すら!』、
『養いがたい!』のに、
況して、
『四匹』は、
『言うまでもない!』、と。
そこで、
『篋』を、
『棄てる!』と、
『逃走した!』。
『王』は、
『五人』に命じ、
『刀』を、
『抜かせて!』、
『罪人』を、
『追跡させた!』。
復有一人口言附順。心欲中傷而語之言。養之以理此亦無苦。其人覺之馳走逃命。至一空聚 復た、有る一人は、口には『附順せん』と言い、心には中傷せんと欲して、之に語りて、『之を養うこと、理を以ってすれば、亦た苦無し』、と言えり。其の人は、之を覚りて、馳走して命を逃(のが)れ、一空聚に至る。
復た、
有る、
『一人』は、
『口』では、
『お前の味方だ!』と、
『言った!』が、
『心』では、
『傷つけよう!』と、
『思い!』、
是の、
『人』に語って、こう言った、――
『蛇』を、
『養う!』のに、
『理』を、
『用いれば!』、
此れは、
まったく、
『苦労』は、
『無い!』、と。
其の、
『人』は、
此れに、
『気がついて!』、
『一目散に!』、
『走り!』、
『命令』を
『逃(のが)れて!』、
ある、
『空(無人)』の、
『聚落』に、
『至った!』。
  附順(ふじゅん):付き従う。附従。
  中傷(ちゅうしょう):傷つける。
  馳走(ちそう):一目散に走る
  逃命(とうめい):命令をのがれる。
  空聚(くうじゅ):無人の聚落。無人村。
有一善人方便語之。此聚雖空是賊所止處。汝今住此必為賊害慎勿住也。 有る一善人、方便して之に語らく、『此の聚は、空なりと雖も、是れ賊の止まる所の処なり。汝、今、此に住まらば、必ず、賊に害せられん。慎んで、住まる勿かれ』、と。
有る、
『一善人』が、
『方便して!』、こう語った、――
此の、
『聚落』は、
『空である!』が、
是れは、
『賊』の、
『止まる!』、
『処である!』。
お前が、
今、
此の、
『聚落』に、
『住まれば!』、
必ず、
『賊』に、
『殺されるだろう!』、
深く、
『用心して!』、
『住まらないようにしろ!』、と。
於是復去至一大河。河之彼岸即是異國。其國安樂坦然清淨無諸患難。於是集眾草木縛以為筏進。以手足竭力求渡。既到彼岸安樂無患。 是に於いて、復た去りて一大河に至る、河の彼岸は、即ち是れ異国なり。其の国は安楽、坦然、清浄にして、諸の患難無し。是に於いて衆の草木を集めて、縛り、以って筏と為して進む。手足を以って、力を竭(つ)くして、渡らんことを求む。既に彼岸に到れば安楽にして患無し。
そこで、
復た、
『去って!』、
『一大河』に、
『至った!』。
此の、
『河』の、
『彼岸』は、
『異国である!』。
其の、
『国』は、
『安楽であり!』、
『平坦であり!』、
『清浄であって!』、
諸の、
『災難』が、
『無い!』。
そこで、
多くの、
『草木』を、
『集めて!』、
『縛り!』、
『筏』を、
『作って!』、
『進むことにした!』。
『手足』で、
『力の限り!』、
『漕ぎまくり!』、
『心力』を、
『尽くして!』、
『渡ろうとした!』。
渡り已って、
『彼岸』に、
『到れば!』、
『安楽であり!』、
『災難もなかった!』。
  坦然(たんねん):平坦。
  患難(げんなん):災難。
王者魔王。篋者人身。四毒蛇者四大。五拔刀賊者五眾。一人口善心惡者。是染著空聚是六情。賊是六塵。一人愍而語之是為善師。大河是愛。筏是八正道。手足懃渡是精進。此岸是世間。彼岸是涅槃。度者漏盡阿羅漢。 王者とは、魔王なり。篋とは、人身なり。四毒蛇とは、四大なり。五抜刀の賊とは、五衆なり。一人口に善く、心に悪しき者とは、是れ染著なり。空聚とは、是れ六情なり。賊とは、是れ六塵なり。一人愍(あわれ)みて之に語るとは、是れ善師と為す。大河とは、是れ愛なり。筏とは、是れ八正道なり。手足を懃めて渡るとは、是れ精進なり。此岸とは、是れ世間なり。彼岸とは、是れ涅槃なり。度する者は、漏尽の阿羅漢なり。
『王』とは、
『魔王である!』。
『篋』とは、
『人身である!』。
『四毒蛇』とは、
『四大(地水火風)である!』。
『五抜刀の賊』とは、
『五衆(色受想行識)である!』。
『一人』の、
『口』は、
『善い!』が、
『心』が、
『悪い!』者とは、
是れは、
『染著である!』。
『空聚』とは、
『六情(眼耳鼻舌身意)である!』。
『賊』とは、
『六塵(色声香味触法)である!』。
『一人』が、
『哀れんで』、
是の、
『人』に、
『語る!』とは、
是れは、
『善い!』、
『師である!』。
『大河』とは、
『愛である!』。
『筏』とは、
『八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)である!』。
『手足』で、
『勤勉に!』、
『渡る!』とは、
『精進である!』。
『此岸』とは、
『世間である!』。
『彼岸』とは、
『涅槃である!』。
『渡る!』者とは、
『漏(煩悩)』の、
『尽きた!』、
『阿羅漢である!』。
  染著(せんじゃく):梵語 abhiSvaGga ( attachiment to , 愛著)等の訳。穢れた愛著( defiled attachment )、激しい執著、又は愛情( intense attachment or affection to )の義。
  (あい):梵語 tRSNaa の訳。渇き( thirst )、 渇望( desire )、 貪欲( avidity )等の義。
菩薩法中亦如是。若施有三礙。我與彼受所施者財。是為墮魔境界未離眾難。如菩薩布施三種清淨無此三礙得到彼岸。為諸佛所讚。是名檀波羅蜜。以是故名到彼岸。 菩薩法中にも、亦た是の如し。若しは、施に三礙有り。我れ与うると、彼れ受くると、施さるる者の財となり。是れを魔の境界に堕ちて未だ衆難を離れずと為す。菩薩の布施の三種清浄にして、此の三礙無くして、彼岸に到るを得るが如きは、諸仏に讃ぜられ、是れを檀波羅蜜と名づけ、是を以っての故に彼岸に到ると名づく。
『菩薩の法』中にも、
是のように、
若し、
『施』に、
『わたしが与える!』、
『彼れが受ける!』、
『施される者は財だ!』という、
『三つ!』の、
『礙(障害)』が、
『有れば!』、
是れは、
『魔』の、
『境界』に、
『堕ちて!』、
未だ、
『衆難』を、
『離れていない!』。
若し、
『菩薩』の、
『布施』が、
『三種(施者、受者、所施の財)』に、
『清浄であり!』、
此の、
『三礙』が、
『無くて!』、
『彼岸』に、
『到ることができた!』ならば、
諸の、
『仏』に、
『讃歎される!』ので、
是れを、
『檀波羅蜜』と、
『称し!』、
是の故に、
『彼岸』に、
『到る!』と、
『称する!』。
  (げ):梵語 aavaraNa の訳。 覆い隠す( the act of covering , hiding , concealing )、妨害、障害、遮断( an obstruction , interruption )の義、善法を障える者の意。『大智度論巻3下注:障』参照。
此六波羅蜜能令人渡慳貪等煩惱染著大海到於彼岸。以是故名波羅蜜。 此の六波羅蜜は、能く人をして、慳貪等の煩悩、染著の大海を渡りて、彼岸に到らしむ。是を以っての故に、波羅蜜と名づく。
此の、
『六波羅蜜』は、
『人』を、
『慳貪等の煩悩、染著』の、
『大海』を、
『渡らせて!』、
『彼岸』に、
『到らせる!』ので、
是の故に、
『波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰。阿羅漢辟支佛亦能到彼岸。何以不名波羅蜜。 問うて曰く、阿羅漢、辟支仏も、亦た能く彼岸に到る。何を以ってか、波羅蜜と名づけざる。
問い、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』も、
『彼岸』に、
『到ることができる!』のに、
何故、
『波羅蜜』と、
『呼ばれないのですか?』。
答曰。阿羅漢辟支佛渡彼岸。與佛渡彼岸。名同而實異。彼以生死為此岸。涅槃為彼岸。而不能渡檀之彼岸。 答えて曰く、阿羅漢、辟支仏の彼岸に渡ると、仏の彼岸に渡りたもうとは、名は同じなれど、実は異なり。彼れは生死を以って、此岸と為し、涅槃を以って、彼岸と為すも、檀の彼岸を渡る能わず。
答え、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』が、
『彼岸』に、
『渡る!』のと、
『仏』が、
『彼岸』に、
『渡られる!』のとは、
『彼岸に渡る!』と、
『呼ばれる!』のは、
『同じだが!』、
而し、
『実体』は、
『異なっている!』。
彼れは、
『生死』を、
『此岸だ!』と、
『思い!』、
『涅槃』を、
『彼岸だ!』と、
『思っている!』ので、
『檀』の、
『彼岸』に、
『渡ることはできない!』。
所以者何。不能以一切物一切時一切種布施。設能布施亦無大心。或以無記心或有漏善心。或無漏心施無大悲心。不能為一切眾生施。 所以は何んとなれば、一切の物を以って、一切の時、一切の種に布施する能わざればなり。設(たと)い能く布施するも、亦た大心無く、或いは無記心、或いは有漏の善心、或いは無漏心を以って施すも、大悲心無く、一切の衆生の為めに施す能わず。
何故ならば、
一切の、
『物(財、身、法)』を以って、
一切の、
『時』に、
一切の、
『種(天、人、畜生等)』に、
『施すことができず!』、
若し、
『布施した!』としても、
『大心』が、
『無いからである!』。
或いは、
『無記の心』や、
『有漏の善心』、
『無漏の心』で、
『施した!』としても、
若し、
『大悲心』が、
『無ければ!』、
一切の、
『衆生』に、
『施すことはできない!』。
菩薩施者知布施不生不滅無漏無為。如涅槃相。為一切眾生故施。是名檀波羅蜜。 菩薩の施者は、布施の不生、不滅、無漏、無為なること涅槃の相の如しと知り、一切の衆生の為めの故に施せば、是れを檀波羅蜜と名づく。
『菩薩』の、
『施者』は、
『布施』とは、
『不生不滅、無漏、無為であり!』、
『涅槃の相のようだ!』と、
『知り!』、
一切の、
『衆生』に、
『施す!』ので、
是れを、
『檀波羅蜜』と、
『称する!』。
復次有人言。一切物一切種內外物盡以布施不求果報。如是布施名檀波羅蜜。 復た次ぎに、有る人の言わく、『一切の物を、一切の種に、内外の物の尽くるまで、以って布施して、果報を求めず。是の如き布施を、檀波羅蜜と名づく』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
一切の、
『物』を、
一切の、
『種』に、
『内()』と、
『外()』との、
『物』が、
『尽きる!』まで、
『施して!』、
『果報』を、
『求めない!』ならば、
是のような、
『布施』を、
『檀波羅蜜』と、
『称する!』、と。
復次不可盡故名檀波羅蜜。所以者何。知所施物畢竟空如涅槃相。以是心施眾生。是故施報不可盡。名檀波羅蜜。 復た次ぎに、尽くすべからざるが故に、檀波羅蜜と名づく。所以は何んとなれば、施す所の物は、畢竟じて空なれば涅槃の相の如しと知り、是の心を以って、衆生に施す。是の故に施の報の尽くるべからざるを、檀波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
『尽くされない!』が故に、
『檀波羅蜜』と、
『呼ばれる!』。
何故ならば、
『施す!』所の、
『物』は、
『畢竟じて空であり!』、
『涅槃の相のようだ!』と、
『知り!』、
是の、
『心』を以って、
『衆生』に、
『施す!』ので、
是の故に、
『施』の、
『報』は、
『尽くされることがない!』、
是れを、
『檀波羅蜜』と、
『称する!』。
如五通仙人。以好寶物藏著石中。欲護此寶磨金剛塗之。令不可破。菩薩布施亦復如是。以涅槃實相智慧磨塗之布施。令不可盡。 五通仙人の、好き宝物を以って、石中に蔵著し、此の宝を護らんと欲し、金剛を磨きて、之に塗りて、破るべからざらしむるが如し。菩薩の布施も亦た復た是の如く、涅槃の実相を以って、智慧で磨いて之に塗り、布施をして、尽くすべからざらしむ。
例えば、
『五通の仙人』が、
『好い宝物』を、
『石』の、
『蔵』中に、
『隠し!』、
『金剛』を、
『磨いて!』、
『石』に、
『塗り!』、
『蔵』を、
『破られないようにする!』ように、
『菩薩』も、
まったく、
是のように、
『涅槃の実相』を、
『智慧』で、
『磨いて!』、
『塗り!』、
『布施』が、
『尽くされないようにする!』のである。
復次菩薩為一切眾生故布施。眾生數不可盡故。布施亦不可盡。 復た次ぎに、菩薩は、一切の衆生の為の故に布施すれば、衆生の数の尽くすべからざるが故に、布施も亦た尽くすべからず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『衆生』に、
『布施しよう!』と、
『思う!』が、
『衆生』の、
『数』は、
『尽くされることがない!』が故に、
『布施』も、
亦た、
『尽くされることがない!』。
復次菩薩為佛法布施。佛法無量無邊。布施亦無量無邊。以是故阿羅漢辟支佛雖到彼岸。不名波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は、仏法の為めに布施し、仏法は無量、無辺なれば、布施も亦た無量、無辺なり。是を以っての故に、阿羅漢、辟支仏は彼岸に到ると雖も、波羅蜜と名づけず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『仏』の、
『法の為め!』に、
『布施する!』が、
『仏』の、
『法』は、
『無量、無辺であり!』、
『布施』も、
亦た、
『無量、無辺である!』。
是の故に、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』が、
『彼岸』に、
『到っても!』、
『波羅蜜』と、
『呼ばれることはない!』。
問曰。云何名具足滿。 問うて曰く、云何が、具足して満つと名づくる。
問い、
何故、
『具足して!』、
『満ちる!』と、
『称するのですか?』。
答曰。如先說。菩薩能一切布施內外大小多少麤細著不著用不用。如是等種種物一切能捨。心無所惜。等與一切眾生。不作是觀大人應與小人不應與。出家人應與不出家人不應與。人應與禽獸不應與。於一切眾生平等心施。施不求報。又得施實相。是名具足滿。 答えて曰く、先に説けるが如く、菩薩は、能く一切を布施して、内外、大小、多少、麁細、著すると著せざると、用うると用いざると、是の如き等の種種の物は、一切を能く捨てて、心に惜む所無く、等しく一切の衆生に与え、、『大人には、応に与うべし、小人には、応に与うべからず』、『出家人には、応に与うべし、出家にあらざる人には、応に与うべからず。人には、応に与うべし、禽獣には、応に与うべからず』と、是の観を作さず、一切の衆生に於いて平等心もて施し、施して報を求めざれば、又施の実相を得。是れを具足して満つと名づく。
答え、
先に、
説いたように、――
『菩薩』は、
『一切』を、
『布施することができる!』。
『内であろうが、外であろうが!』、
『大であろうが、小であろうが!』、
『麁であろうが、細であろうが!』、
『著していようが、著していまいが!』、
『用があろうが、用がなかろうが!』、
是れ等の、
一切の、
『種種』の、
『物』を、
『捨てることができ!』、
『心』には、
『惜む!』所が、
『無く!』、
一切の、
『衆生』に、
『等しく!』、
『与える!』ので、
是の、――
『大人には与えるべきだが、小人に与えてはならない!』とか、
『出家人には与えるべきだが、出家人でなければ与えてはならない!』とか、
『人には与えるべきだが、禽獣には与えてはならない!』というような、
『衆生』を、
『観る!』ということを、
『作さず!』、
一切の、
『衆生』には、
『平等』の、
『心』で、
『施し!』、
『施しても!』、
『報』を、
『求めない!』ので、
又、
『施し!』の、
『実相』を、
『知ることもできる!』、
是れを、
『具足して!』、
『満ちる!』と、
『称する!』。
亦不觀時無晝無夜無冬無夏無吉無衰。一切時常等施心無悔惜。乃至頭目髓腦施而無吝。是為具足滿 亦た時を観ざれば、昼と無く夜と無く、冬と無く夏と無く、吉と無く衰と無く、一切の時に常に等しく施して、心に悔惜無く、乃至頭目、髄脳を施しても、吝(おし)むこと無ければ、是れを具足して満つと為す。
亦た、
『時』を、
『観ない!』ので、
『昼となく、夜となく!』、
『冬となく、夏となく!』、
『吉となく、衰となく!』、
一切の、
『時』に、
『常に!』、
『等しく!』、
『施して!』、
『悔やむ!』ことも、
『惜む!』ことも、
『無く!』、
乃至、
『頭目』、
『髄脳』を、
『施して!』、
『吝(おし)む!』ことが、
『無い!』、
是れを、
『具足して!』、
『満ちる!』と、
『称する!』。
復次有人言。菩薩從初發心乃至菩提樹下三十四心。於是中間名為布施具足滿。 復た次ぎに、有る人の言わく、『菩薩は、初発心より、乃至菩提樹の下の三十四心まで、是の中間に於けるを、名づけて、布施具足して満つと為す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』の、
『初めて!』、
『菩提心』を、
『発(おこ)した!』時より、
『菩提樹』下での、
『三十四刹那』の、
『心』まで、
是の、
『中間』の、
『布施』は、
常に、
『具足して!』、
『満ちる!』と、
『称される!』、と。
  三十四心(さんじゅうししん):三十四刹那の心の意。具さに三十四心断結成道を指す。即ち小乗菩薩の断結成道の時間に、八忍八智と九無間九解脱との三十四心の刹那あるを云う。「大毘婆沙論巻153」に、「ここを以って菩薩は三十四心の刹那に無上正等菩提を証得す。云何が名づけて三十四心の刹那と為す。謂わく菩薩先づ無所有処の染を離れ、後第四静慮の依りて、正性離生に入る。見道の中に於いて十五心の刹那あり、道類智の時を第十六と為す。即ちこれを有頂を断ずる加行と名づく。非想非非想処の染を離るるに、復た九無間道九解脱道あり、これを三十四心の刹那と名づく。菩薩はこれに依りて無上覚を証す」と云えるこれなり。これ即ち小乗の菩薩は、先づ八忍八智の十六心を以って、下八地の惑を断じ、次ぎに九無間九解脱の十八心を以って有頂地の惑を断じ、凡べて三十四心にして乃ち成道すとなすの意なり。蓋し婆沙等の意に依るに、菩薩未だ樹下に坐せざる已前に、有漏智を以って先づ下八地の修惑を断ず。然るに有漏智を以っては見惑及び有頂地の惑を断ずること能わず、故に金剛座に坐し将に成道せんと欲する時、無漏智を起し、三十四心を以って見惑及び有頂地の惑を断ずとなすなり。然るに若し大智度論の意に依らば、樹下に坐せざる已前は総じて煩悩を断ぜず、正しく金剛座に坐し、将に正覚を成ぜんとする時、八忍八智を以って見惑を断じ、九無間九解脱を以って思惑を断じ、三十四心を以って頓に三界の煩悩を断ずと為せり。「大智度論巻27」に、「道場に坐し後夜に至る時、一切の煩悩及び習を断ず」と云える即ちその意なり。「止観輔行伝弘決巻3ノ3」にはこの両説を和会し、「今且らく一意を以って鎖通して、二論をして理斉しからしめば、倶舎は修禅の時、已に惑を断じ畢りて、復た更に断ぜざるを取り、智論は余部に依りて、有漏をもて断ずと雖も、未だ名づけて断と為さざるなり」と云えり。かくの如く菩薩は三十四心にして成道すと雖も、縁覚は唯三十四心のみならず、見道を得已りて、具さに上八地の七十二品の無間解脱、即ち一百四十四心を起し、これを前の見道十六心に併せて、総じて一百六十心を以って菩提を成ず。頓証の声聞も亦た爾り。また若し大乗に依らば、五十四心、或は五十二心成道説あり。五十四心成道とは、十六心見道に二類あり、上下八諦の十六心と所取能取の十六心となり。合して三十二あり。これに九無間九解脱を加えて五十を得、更に三心相見道中の二心と、真見道中の一無間一解脱とを合して、総じて五十四心あるを云い、また五十二心成道とは、前の五十四心の中、三心相見道中の二心を除くなり。「成唯識論了義灯巻2本」に、「大乗に準じて説くに、五十四心あり。両種の十六心、並びに九無間九解脱道あり、五十心を成ず。三心見道の中に唯二心あり。但し惑障を分って上下と為して断ず、智障を断ぜざるが故なり。並びに真見に二あり、無間一、解脱一なり。或は五十二なり、三心見道中の上下二心を除く。二乗の人は非安立観を作さざるを以っての故なり」と云える即ちその意なり。また「成唯識論述記巻1末」、「倶舎論巻5」、「同光記巻21」、「同要解巻4」、「摩訶止観巻3上」等に出づ。<(望)
  八忍八智(はちにんはっち):八忍と八智との併称。即ち見道に於ける忍と智とに各八種あるを云う。八忍とは一に苦法智忍duHkhe dharma- jJaana- kSaantiH 、二に苦類智忍duHkhe'nvaya- jJaanakSaantiH 、三に集法智忍samudayedharma- jjaanakSaantiH 、四に集類智忍samudaye'nvaya- jJaana- kSaantiH 、五に滅法智忍nirodhedharma- jJaana- kSaantiH 、六に滅類智忍nirodhe'nvaya- jJaana- kSaantiH 、七に道法智忍maargedharma- jJaana- kSaantiH 、八に道類智忍maarge'nvaya- jJaana- kSaantiH なり。また八智とは一に苦法智duHkhedharma- jJaanam 、二に苦類智duHkhe'nvaya- jJnaanam 、三に集法智samudayedharma- jJaanam 、四に集類智samudaye'nvaya- jJaanam 、五に滅法智nirodhedharma- jJaanam 、六に滅類智nirodhe'nvaya- jJaanam 、七に道法智maargedharma- jJaanam 、八に道類智maarge'nvaya- jJaanam なり。「入阿毘達磨論巻上」に、「忍に八種あり、謂わく苦集滅道の法智忍、及び苦集滅道の類智忍なり。この八はこれ能く決定智を引く勝慧にして、苦等の四聖諦の理を忍可するが故に忍と為す」と云い、「倶舎論巻23」に、「世第一の無間に即ち欲界の苦を縁じて無漏の法忍を生じ、忍の次ぎに法智を生ず。次ぎに余界の苦を縁じて類忍と類智を生ず。集滅道諦を縁じて各四を生ずることも亦た然り。かくの如きの十六心を聖諦現観と名づく」と云えるこれなり。これ世第一法の無間に欲界の苦聖諦の境を縁じてこれを忍可する無漏の法智忍を生ずるを苦法智忍と名づけ、その無間に欲界の苦聖諦の境を縁じてこれを決了証知する無漏の法智生ずるを苦法智と名づけ、次ぎに上二界の苦聖諦の境を縁じてこれを忍可するを苦類智忍、次ぎにまた上二界の苦聖諦の境を縁じてこれを決了証知するを苦類智と名づけ、かくの如く余の三諦に於いても亦た各上下二界の境を縁じて忍と智とを生ずるが為に、四諦合して八忍八智の十六心あることを説けるものなり。この中、法忍及び類忍は共に無間道にして、例えば賊を駆るが如く、能く苦等の境を審察忍可して惑の得を断ずるを云い、法智及び類智は解脱道にして、譬えば賊を駆りて後戸を閉づるが如く、更に苦等の理を決了証知するを云うなり。また最初に欲界の苦等の理を忍可し、若しくは証知するが故にこれを法忍法智と名づけ、次ぎに上二界の苦等の理を忍可し、若しくはこれを証知するは、先の欲界の法に相似するが故に類忍類智と名づくるなり。但し已離欲者の入見道に在りては、必ずしも然らず。「大毘婆沙論巻196」に能厭と能離とに約し、四句を以って分別するが如し。またこの中、説一切有部に於いては前十五心を見道となし、大十六心を修道に摂するなり。また「雑阿毘曇心論巻5」、「倶舎論巻25」、「大乗阿毘達磨雑集論巻9」、「成唯識論巻9」、「倶舎論光記巻23」等に出づ。<(望)
  九無間(くむげん)、九解脱(くげだつ):即ち三界九地の修惑は、各地に九品の惑あれば、これを断ずる為の無間、解脱二道にも、また各九種の品あるを云う。『大智度論巻12(上)注:解脱道、九品惑、巻17(下)注:四道』参照。
  解脱道(げだつどう):梵語vimukti- maarga の訳。解脱を証する道の意。四道の一。即ち無間道断惑の後、択滅涅槃を証する最初の道を云う。「倶舎論巻25」に、「解脱道とは、謂わく已に断ずべき所の障を解脱して、最初に生ずる所なり」と云い、「大乗阿毘達磨雑集論巻9」に、「解脱道とは、謂わく此の道に由りて断煩悩所得の解脱を証す。所以は何ん、此の道に由りて能く煩悩永断所得の転依を証するが故なり」と云える是れなり。是れ即ち無間道に於いては所応断の障を断じ、解脱道に於いては、其の障を解脱して択滅を証するを説けるものなり。但し薩婆多部に於いては、無間道に尚お惑の得ありと立つるが故に、此の得を捨せんが為に更に解脱道を起すと説くと雖も、唯識大乗に在りては、無間道の時、既に惑の種を断じて必ず成就せずと説くが故に、更に解脱道を起すは、即ち其の期心別なるに由るとせり。「成唯識論巻9」に、「無間道の時、已に惑の種なくんば、何ぞ復た解脱道を起すを用うることを為すや。断惑と証滅と期心別なるが故なり。彼の品の麁重性を捨せんが為の故なり。無間道の時、惑の種なしと雖も、而も未だ彼の無堪任性を捨せず、此れを捨せんが為の故に解脱道を起す。及び此の品の択滅無為を証せんとなり」と云える即ち其の意なり。「同述記巻10本」には之を釈して二解となし、初解は無間道を断惑、解脱道を証滅とし、第二解は無間道を断惑、解脱道を捨証と為し、其の中、後解を勝とすと云えり。是れ所謂無間道断、解脱道捨証の説なり。又「成唯識論巻10」に、「二乗は鈍根なれば漸に障を断ずる時、必ず各別に無間と解脱とを起す。加行と勝進とは、或いは別、或いは総にす。菩薩は利根なれば、漸に障を断ずる位に、要ず別に無間と解脱とを起すに非ず。刹那刹那に能く断証するが故に、加行等の四は刹那刹那前後相望するに皆具に有るべし」と云えり。又此の道は加行道と共に有漏無漏に通じ、又一一の地の修惑を断ずるに、下下乃至上上の九品の別を立つるが故に、各九無間、九解脱あり。「倶舎論巻23」に、「所断の障が一一の地の中に各九品あるが如く、諸の能治の道たる無間と解脱とに九品あること亦た然り」と云える即ち其の説なり。又「大毘婆沙論巻64、90」、「倶舎論巻23」、「同光記巻25」、「阿毘達磨順正理論巻71」、「瑜伽師地論巻69」、「大乗義章巻9」、「大乗法苑義林章巻2末」、「成唯識論述記巻10末」等に出づ。<(望)『大智度論巻17(下)注:四道』参照。
  九品惑(くほんのわく):惑に九等の別を立つるの意。また九品煩悩に作る。即ち貪、瞋、慢、無明の四種の修惑を、麁細に就きて、上中下等の九品に分類するを云う。「倶舎論巻23」に、「失と徳とに如何が各九品を分つ謂わく根本の品に下中上あり、この三に各下中上の別を分つ。これに由りて失と徳とに各九品を分つ。謂わく下の下と、下の中と、下の上と、中の下と、中の中と、中の上と、上の下と、上の中と、上の上との品なり」と云えるこれなり。蓋し三界に総じて九地あり、欲界と四禅及び四無色なり。その中、欲界には具さに四種の修惑あり、四禅四無色には、瞋を除きて余の三惑あり。その各地の中に於いて、これ等の修惑を総じて上上乃至下下の九品に分つが故に、九地合して八十一品あり。これを八十一品の修惑と名づく。有漏、無漏の両断に通じ、凡夫も亦たその中の下八地七十二品を断ずることを得。もし聖者に就きてこれを言わば、修道位に欲界の前六品を断ずる者を第二果とし、欲界の九品を全断する者を第三果とし、上二界の七十二品を断ずる者を第四果と為す。またこの一品を断ずる毎に各無間、解脱の二道あり。即ち煩悩の得を断ずる位を無間道とし、断じ已りて相続する所得の智を解脱道とす。地地の障に九品あるが故に、能対治の道にも亦た九あり、これを九無間道、九解脱道と称す。無学の聖者が練根を修する時、亦た九無間、九解脱あり。また「大毘婆沙論巻81」、「倶舎論巻24」、「大乗義章巻17末」等に出づ。
復次七住菩薩得一切諸法實相智慧。是時莊嚴佛土教化眾生。供養諸佛得大神通。能分一身作無數身。一一身皆雨七寶華香幡蓋化作大燈。如須彌山。供養十方佛及菩薩僧。復以妙音讚頌佛德。禮拜供養恭敬將迎。 復た次ぎに、七住の菩薩は、一切の諸法の実相の智慧を得れば、是の時、仏土を荘厳して、衆生を教化し、諸仏を供養して、大神通を得、能く一身を分って、無数の身と作し、一一の身もて、皆、七宝、華香、幡蓋を雨ふらし、大灯の須弥山の如きを化作し、十方の仏、及び菩薩僧を供養し、復た妙音を以って、仏徳を讃頌し、礼拝、供養、恭敬、将迎す。
復た次ぎに、
『七住』の、
『菩薩』は、
一切の、
諸の、
『法』の、
『実相』という、
『智慧』を、
『得る!』ので、
是の時、
『仏』の、
『国土』を、
『荘厳して!』、
『衆生』を、
『教化し!』、
諸の、
『仏』を、
『供養して!』、
『大神通』を、
『得る!』と、
『一身』を、
『分けて!』、
『無数』の、
『身』と、
『作し!』、
『一一』の、
『身』は、
皆、
『七宝、華香、幢蓋』の、
『雨』を、
『降らし!』、
『須弥山のような!』、
『大灯』を、
『作って!』、
『十方』の、
『仏』と、
『菩薩僧』とを、
『供養する!』と、
『仏の徳』を、
『妙音』を以って、
『讃頌し!』、
『仏』と、
『菩薩僧』とを、
『礼拝し!』、
『供養し!』、
『恭敬し!』、
『歓迎する!』が、‥‥
  七住菩薩(しちじゅうのぼさつ):不退位の菩薩の称。『大智度論巻4下注:七住菩薩』参照。
  讃頌(さんじゅ):梵語 gita-paaTha の訳。詠唱する( to chant , to sing )の義。
  将迎(しょうげい):往く者を送り、来る者を迎えること。歓迎。
復次是菩薩。於一切十方無量餓鬼國中雨種種飲食衣被令其充滿。得滿足已。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。 復た次ぎに、是の菩薩は、一切の十方の無量の餓鬼国中に於いて、種種の飲食、衣被を雨ふらし、其れをして充満し、満足を得しめ已りて、皆をして、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
一切の、
『十方』の、
『無量』の、
『餓鬼』の、
『国』中に、
『種種』の、
『衣服、飲食』の、
『雨』を、
『降らして!』、
其れを、
『充満させ!』、
『満足』を、
『得させて!』、
皆に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発(おこ)させ!』、‥‥
復至畜生道中。令其自善無相害意。除其畏怖隨其所須各令充足。得滿足已。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。 復た畜生道中に至って、其れをして、自ら善ならしめ、相害する意を無からしめ、其れをして怖畏を除かしめて、其の須(もと)むる所に随いて、各に充足せしめ、満足を得しめ已りて、皆に、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
復た、
『畜生道』中に、
『至って!』、
其れに、
『自ら!』、
『善』を、
『行わせて!』、
『互い!』の、
『害意』を、
『無くさせ!』、
其の、
『心』より、
『畏怖する!』ことを、
『除いて!』、
其の、
『必要とする!』所を、
『充足させ!』、
『満足させて!』、
皆に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発させ!』、‥‥
於地獄無量苦中。能令地獄火滅湯冷。罪息心善除其飢渴。得生天上人中。以此因緣故皆發阿耨多羅三藐三菩提心。 地獄の無量の苦中に於いては、能く地獄の火をして滅せしめ、湯を冷めしめ、罪息(や)みて心善ならしめ、其の飢渴を除き、生を天上、人中に得しむれば、此の因縁を以っての故に、皆に、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
『地獄』の、
『無量』の、
『苦』中には、
『地獄』の、
『火』を、
『滅して!』、
『湯』を、
『冷まし!』、
『罪』を、
『終わらせ!』、
『心』を、
『善くして!』、
其の、
『飢渴』を、
『除き!』、
『生』を、
『天上、人中』に、
『得させて!』、
此の、
『因縁』の故に、
皆に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発させ!』、‥‥
若十方人貧窮者給之以財。富貴者施以異味異色令其歡喜。以此因緣故。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。 若し、十方の人なれば、貧窮の者には、之に給するに、財を以ってし、富貴の者には、施すに、異味、異色を以って、其れをして歓喜せしめ、此の因縁を以っての故に、皆に、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
若し、
『十方』の、
『人』ならば、
『貧窮』者には、
『財』を、
『供給し!』、
『富貴』者には、
『異味(珍しい味)』や、
『異色(珍しい色)』を、
『施して!』、
其の、
『人』を、
『歓喜させ!』、
此の、
『因縁』の故に、
皆に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発させ!』、‥‥
若至欲天中令其除卻天上欲樂。施以妙寶法樂令其歡喜。以此因緣故。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。 若し、欲天中に至れば、其れをして、天上の欲楽を除却せしめ、施すには、妙宝の法楽を以って、其れをして歓喜せしめ、此の因縁を以っての故に、皆をして、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
若し、
『欲天』中に、
『至れば!』、
其の、
『天上』の、
『欲の楽』を、
『除去させ!』、
『妙宝』の、
『法の楽』を、
『施して!』、
其れを、
『歓喜させ!』、
此の、
『因縁』の故に、
皆に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発させ!』、‥‥
  除却(じょきゃく):除去。取り除く。
至色天中除其樂著。以菩薩禪法而娛樂之。以此因緣故。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。如是乃至十住是名檀波羅蜜具足滿。 色天中に至りては、其の楽著を除き、菩薩の禅法を以って、之を娯楽せしめ、此の因縁のを以っての故に、皆をして、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。是の如き乃至十住は、是れを檀波羅蜜具足して満つと名づく。
『色天』中に、
『至れば!』、
其の、
『天楽』に、
『著する!』のを、
『除かせて!』、
『菩薩』の、
『禅法』を、
『娯楽させ!』、
此の、
『因縁』の故に、
皆に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発させ!』、
是のようにして、
乃至、
『十住』を、
『得る!』まで、
『布施する!』、
是れを、
『檀波羅蜜』が、
『具足して!』、
『満ちた!』と、
『称する!』。
復次菩薩有二種身。一者結業生身。二者法身。是二種身中檀波羅蜜滿。是名具足檀波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩には、二種の身有り、一には結業の生身、二には法身なり。是の二種の身中に、檀波羅蜜の満つる、是れを檀波羅蜜を具足すと名づく。
復た次ぎに、
『菩薩』には、
『二種』の、
『身』が有り、
一には、
『業』の、
『凝結した!』、
『生身(肉身)であり!』、
二には、
『法』という、
『身である!』。
是の、
『二種』の、
『身』中に、
『檀波羅蜜』が、
『満ち!』、
是れを、
『檀波羅蜜』を、
『具足する!』と、
『称する!』。
  結業(けつごう):過去の業の今に凝結せるを云う。
  生身(しょうじん):梵語janma- kaayaの訳。生まれた身の義。父母に依って生ぜられたる肉身を云う。『大智度論巻16下注:生身』参照。
  法身(ほっしん):梵語dharma- kaayaの訳。法の身の義。仏所説の正法及び仏所得の無漏法、並びに仏の自性たる真如如来蔵を云う。『大智度論巻16下注:法身』参照。
問曰。云何名結業生身檀波羅蜜滿。 問うて曰く、云何が、結業の生身にして、檀波羅蜜満つと名づくる。
問い、
何故、
『結業』の、
『生身』に、
『檀波羅蜜』が、
『満ちる!』と、
『称するのですか?』。
答曰。未得法身結使未盡。能以一切寶物頭目髓腦國財妻子內外所有。盡以布施心不動轉。 答えて曰く、未だ法身を得ずして、結使未だ尽きざるも、能く一切の宝物、頭目、髄脳、国財、妻子、内外の所有を以って、尽く以って布施するに、心、動転せざればなり。
答え、
未だ、
『法身』を、
『得ず!』、
『結使』も、
『尽きていない!』が、
一切の、
『宝物、頭目、髄脳、国財、妻子』、
『内外』の、
『有らゆる!』ものを、
『布施しても!』、
『心』が、
『動かず!』、
『転じないからである!』。
如須提拏太子(秦言好愛)以其二子布施婆羅門。次以妻施其心不轉。 須提拏太子の、其の二子を以って婆羅門に布施し、次いで妻を以って施せるも、其の心の転ぜざりしが如し。
例えば、こうである、――
『須提拏太子』は、
其の、
『二子』を、
『婆羅門』に、
『布施し!』、
次いで、
『妻』を、
『布施した!』が、
其の、
『心』が、
『転じる!』ことは、
『無かった!』。
  須提拏(しゅだいな):梵名sudaana 、また須大拏、須達拏、須提梨拏等に作り、善牙、善愛、好愛、善与、善施等に訳す。布施行を行ずるの意。本生経中の太子の名。
  参考:『六度集経巻2須大拏経』:『昔者葉波國王號曰濕隨。其名薩闍。治國以正。黎庶無怨。王有太子。名須大拏。容儀光世。慈孝難齊。四等普護。言不傷人。王有一子寶之無量。太子事親同之於天。有知之來。常願布施拯濟群生。令吾後世受福無窮。愚者不睹非常之變。謂之可保。有智之士照有五家。乃尚布施之士。十方諸佛緣一覺無所著尊靡不歎施為世上寶。太子遂隆普施。惠逮眾生。欲得衣食者應聲惠之。金銀眾珍車馬田宅無求不與。光馨遠被。四海咨嗟。父王有一白象。威猛武勢[跳-兆+辟]六十象。怨國來戰。象輒得勝。諸王議曰。太子賢聖無求不惠。遣梵志八人之太子所令乞白象。若能得之吾重謝子。受命即行。著鹿皮衣履屣執瓶。[肆-聿+支]杖遠涉歷諸郡縣千有餘里到葉波國。俱柱杖翹一腳向宮門立。謂衛士曰。吾聞太子布施貧乏潤逮群生。故自遠涉乞吾所乏衛士即入如事表聞。太子聞之欣然馳迎。猶子睹親。稽首接足慰勞之曰。所由來乎苦體如何。欲所求索以一腳住乎。對曰。太子德光周聞八方。上達蒼天下至黃泉。巍巍如太山靡不歎仰。卿為天人之子。吐言必信審。尚布施不違眾願者。今欲乞丐行蓮華上白象。象名羅闍和大檀。太子曰大善。唯上諸君金銀雜寶恣心所求。無以自難。即敕侍者。疾被白象金銀鞍勒牽之來矣。左持象勒。右持金甕。澡梵志手。慈歡授象。梵志大喜。即咒願竟。俱升騎象含笑而去。相國百揆靡不悵然。僉曰。斯象猛力之雄。國恃以寧。敵仇交戰。輒為震奔。而今惠讎國。將何恃。俱現陳曰。夫白象者。勢力能[跳-兆+辟]六十象。斯國卻敵之寶。而太子以惠重怨。中藏日虛。太子自恣布施不休。數年之間。臣等懼舉國妻子必為施惠之物矣。王聞其言慘然久而曰。太子好喜佛道。以賙窮濟乏慈育群生。為行之元首。縱得禁止假使拘罰斯為無道矣。百揆僉曰。切磋之教儀無失矣。拘罰為虐臣敢聞之。逐令出國置于田野。十年之間令慚自悔。臣等之願也。王即遣使者就誥之曰。象是國寶惠怨胡為。不忍加罰。疾出國去。使者奉命誥之如斯。太子對曰。不敢違天命。願乞布施濟乏七日出國無恨。使者以聞。王曰。疾去不聽汝也。使者反曰。王命不從。太子重曰。不敢違天命。吾有私財不敢侵國。使者又聞。王即聽之。太子欣然敕侍者。國中黎庶有窮乏者。勸之疾來。從其所欲恣之無違。國土官爵田宅財寶。幻夢之類靡不磨滅。兆民巨細奔詣宮門。太子以飲食衣被七寶諸珍。恣民所欲布施訖竟。貧者皆富。妻名曼坻。諸王之女。顏華[韙-是+光]耀。一國無雙。自首至足皆以七寶瓔珞。謂其妻曰。起聽吾言。大王徙吾著檀特山十年為限。汝知之乎。妻驚而起視太子淚出。且云。將有何罪乃見迸逐。捐國尊榮處深山乎。答其妻曰。以吾布施虛耗國內。名象戰寶以施怨家。王逮群臣恚逐我耳。妻即稱願使國豐熟。王臣兆民富壽無極。惟當建志於彼山澤成道弘誓矣。太子曰。惟彼山澤恐怖之處。虎狼害獸難為止矣。又有毒蟲魍魎斃鬼雷電霹靂風雨雲霧。其甚可畏。寒暑過度。樹木難依。蒺[卄/梨]礫石非卿所堪。爾王者之子生於榮樂長於中宮。衣則細軟。飲食甘美。臥則帷帳。眾樂聒耳。願則恣心。今處山澤。臥則草蓐。食則果蓏。非人所忍。何以堪之乎。妻曰。細靡眾寶帷帳甘美。何益於己。而與太子生離居乎。大王出時以幡為幟。火以煙為幟。婦人以夫為幟。吾恃太子猶孩恃親。太子在國布施四遠。吾輒同願。今當歷嶮而猶留守榮。豈仁道哉。儻有來乞不睹所天。心之感絕。必死無疑。太子曰。遠國之人來乞妻子。吾無逆心。爾為情戀儻違惠道都絕洪潤壞吾重任也。妻曰。太子布施睹世希有。當卒弘誓慎無倦矣。百千萬世無人如卿。逮佛重任吾不敢違也。太子曰善。即將妻子詣母辭別。稽首于地愍然辭曰。願捐重思。保寧玉體。國事鞅掌願數慈諫。無以自由枉彼天民。當忍不可忍含忍為寶。母聞訣辭顧謂侍曰。吾身如石心猶剛鐵。今有一子而見迸逐。吾何心哉。未有子時結願求嗣。懷妊之日如樹含華。日須其成。天不奪願令吾有子。今育成就而當生離乎。夫人嬪妾。嫉者快喜不復相敬。大子妻兒稽首拜退。宮內巨細靡不哽噎。出與百揆吏民哀訣。俱出城去。靡不竊云。大子國之聖靈眾寶之尊。二親何心而逐之乎。大子坐城外謝諸送者。遣之還居。兆民拜伏。僉然舉哀。或有[跳-兆+辟]踊呼天。音響振國。與妻進道。自知去本國遠。坐一樹下。有梵志自遠來乞。解身寶服妻子珠璣盡以惠之。令妻子昇車執轡而去。始欲就道。又逢梵志來從乞馬。以馬惠之。自於轅中挽車進道。又逢梵志來丐其車。即下妻子以車惠之。太子車馬衣裘身寶雜物。都盡無餘。令妻嬰女。己自抱男。處國之時施彼名象眾寶車馬。至見毀逐。未曾恚悔。和心相隨。歡喜入山。三七二十一日乃到檀特山中。太子睹山樹木茂盛流泉美水甘果備焉。鳧鴈鴛鴦遊戲其間。百鳥嚶嚶相和悲鳴。太子睹之謂其妻曰。爾觀斯山。樹木參天尟有折傷。群鳥悲鳴。每處有泉。眾果甚多以為飲食。唯道是務無以違誓。山中道士皆守節好學。有一道士名阿周陀。久處山間有玄妙之德。即與妻子詣之稽首。卻叉手立。向道士曰。吾將妻子來斯學道。願垂洪慈誨成吾志也。道士誨之。太子則焉。柴草為屋。結髮葌服。食果飲泉。男名耶利。衣小草服從父出入。女名罽拏延。著鹿皮衣從母出入。處山一宿。天為增泉其味重甘。生藥樹木名果茂盛。後有鳩留縣老貧梵志。其妻年豐。顏華端正。提瓶行汲。道逢年少遮要調曰。爾居貧乎無以自全。貪彼老財庶以歸居。彼翁學道內否不通教化之紀。希成一人。專愚[怡-台+龍]悷。爾將所貪乎。顏狀醜黑。鼻正匾[匚@虎]。身體繚戾。面皺脣[多*頁](丁可反)。言語蹇吃。兩目又青。狀類若鬼。舉身無好。孰不惡憎。爾為室家將無愧厭乎。婦聞調婿流淚而云。吾睹彼翁鬢鬚正白。猶霜著樹。朝夕希心欲其早喪未即從願。無如之何。歸向其婿如事具云。曰子有奴使妾不行汲。若其如今吾去子矣。婿曰。吾貧緣獲給使乎。妻曰。吾聞布施上士名須大拏。洪慈濟眾虛耗其國。王逮群臣。徙著山中。其有兩兒。乞則惠卿。妻數有言。愛婦難違。即用其言。到葉波國。詣宮門曰。太子安之乎。衛士上聞。王聞斯言。心結內塞。涕泣交流。有頃而曰。太子見逐。惟為斯輩。而今復來乎。請現勞徠問其所以。對曰。太子潤馨。遐邇詠歌。故遠歸命。庶自穌息。王曰。太子眾寶布施都盡。今處深山。衣食不充。何以惠子。對曰。德徽巍巍。遠自竭慕。貴睹光顏沒齒無恨也。王使人示其徑路。道逢獵士曰。子經歷諸山。寧睹太子不。獵士素知太子迸逐所由。勃然罵曰。吾斬爾首問太子為乎。梵志恧然而懼曰。吾必為子所殺矣。當權而詭之耳。曰王逮群臣令呼太子還國為王。答曰大善。喜示其處。遙見小屋。太子亦睹其來。兩兒睹之中心怛懼。兄弟俱曰。吾父尚施而斯子來。財盡無副。必以吾兄弟惠與之。攜手俱逃。母故掘蔭其埳容人。二兒入中以柴覆上。自相誡曰。父呼無應也。太子仰問請其前坐。果漿置前食果飲畢。慰勞之曰。歷遠疲倦矣。對曰。吾自彼來。舉身惱痛。又大飢渴。太子光馨。八方歎懿。巍巍遠照有如太山。天神地祇。孰不甚善。今故遠歸窮。庶延微命。太子惻然曰。財盡無惜矣。梵志曰。可以二兒給養吾老矣。答曰。子遠來求兒。吾無違心。太子呼焉。兄弟懼矣。又相謂曰。吾父呼求。必以惠鬼也。違命無應。太子隱其在埳。發柴睹之。兒出抱父戰慄涕泣。呼號且言。彼是鬼也。非梵志矣。吾數睹梵志。顏類未有若茲。無以吾等為鬼作食。吾母採果來歸何遲。今日定死為鬼所噉。母歸索吾。當如牛母索其犢子。狂走哀慟。父必悔矣。太子曰。自生布施未嘗微悔。吾以許焉。爾無違矣。梵志曰。子以普慈相惠。兒母歸者即敗子洪潤違吾本願。不如早去。太子曰。卿願求兒故自遠來。終不敢違。便可速邁。太子。右手沃澡。左手持兒。授彼梵志。梵志曰。吾老氣微。兒捨遁邁之其母所。吾緣獲之乎。太子弘惠縛以相付。太子持兒令梵志縛。自手執繩端。兩兒[跳-兆+辟]身宛轉父前。哀號呼母曰。天神地祇山樹諸神。一哀告吾母意云。兩兒以惠人。宜急捨彼果可一相見。哀感二儀。山神愴然。為作大響有若雷震。母時採果。心為忪忪。仰看蒼天不睹雲雨。右目[目*閏]左腋痒。兩乳湩流出相屬。母惟之曰。斯怪甚大。吾用果為。急歸視兒將有他乎。委果旋歸。惶惶如狂。帝釋念曰。菩薩志隆。欲成其弘誓之重任。妻到壞其高志也。化為師子當道而蹲。婦曰。卿是獸中之王。吾亦人中王子。俱止斯山。吾有兩兒皆尚微細。朝來未食須望我耳。師子避之。婦得進路。迴復於前化作白狼。婦辭如前。狼又避焉。又化為虎。適梵志遠。乃遂退矣。婦還睹太子獨坐。慘然怖曰。吾兒如之而今獨坐。兒常望睹吾以果歸。奔走趣吾。[跳-兆+辟]地復起。跳踉喜笑。曰母歸矣。飢兒飽矣。今不睹之。將以惠人乎。吾坐兒立各在左右。睹身有塵。競共拂拭。今兒不來。又不睹處。卿以惠誰。可早相語。禱祀乾坤。情實難云。乃致良嗣。今兒戲具。泥象泥牛泥馬泥豬雜巧諸物縱橫于地。睹之心感。吾且發狂。將為虎狼鬼[魅-未+勿]盜賊吞乎。疾釋斯結。吾必死矣。太子久而乃言。有一梵志來索兩兒云。年盡命微欲以自濟。吾以惠之。婦聞斯言。感踊[跳-兆+辟]地。宛轉哀慟流淚且云。審如所夢。一夜之中夢睹老[穴/老]貧窶梵志。割吾兩乳執之疾馳。正為今也。哀慟呼天。動一山間云。吾子如之當如行求乎。太子睹妻哀慟尤甚。而謂之曰。吾本盟爾隆孝奉遵。吾志大道。尚濟眾生。無求不惠。言誓甚明。而今哀慟以亂我心。妻曰。太子求道厥勞何甚。夫士家尊在于妻子之間。靡不自由。豈況人尊乎。願曰。所索必獲如一切智。帝釋諸天僉然議曰。太子弘道普施無蓋。試之以妻觀心如何。釋化為梵志來之其前曰。吾聞子懷以乾坤之仁。普濟群生布施無逆。故來歸情。子妻賢貞德馨遠聞。故來乞丐。儻肯相惠乎。答曰大善。以右手持水澡梵志手。左手提妻適欲授之。諸天稱壽莫不歎善。天地卒然大動。人鬼靡不驚焉。梵志曰止。吾不取也。答曰。斯婦豈有惡耶。婦人之惡斯都無有。婦人之禮斯為備首矣。然其父王唯有斯女。盡禮事婿不避塗炭。衣食趣可不求細甘。勤力精健顏華踰輩。卿取吾喜除患最善。梵志曰。婦之賢快誠如子言。敬諾受之。吾以寄子無以惠人。又曰。吾是天帝釋非世庸人也。故來試子。子尚佛慧影範難雙矣。今欲何願恣求必從。太子曰。願獲大富常好布施無貪踰今。令吾父王及國臣民思得相見。天帝釋曰善。應時不現。梵志喜獲其志行不覺疲。連牽兩兒欲得望使。兒王者之孫。榮樂自由。去其二親為繩所縛。結處皆傷。哀號呼母。鞭而走之。梵志晝寢。二兒迸逃。自沈池中。荷蒻覆上。水蟲編身。寤行尋求。又得兒矣。捶杖縱橫。血流丹地。天神愍念解縛愈傷。為生甘果令地柔軟。兄弟摘果。更相授噉。曰斯果之甘猶苑中果。斯地柔軟如王邊縕綖矣。兄弟相扶仰天呼母。涕泣流身。梵志所行。其地岑巖。礫石刺棘。身及足蹠。其瘡毒痛。若睹樹果。或苦且辛。梵志皮骨相連。兩兒肌膚光澤。顏色復故。歸到其家。喜笑且云。吾為爾得奴婢二人。自從所使。妻睹兒曰。奴婢不爾。斯兒端正。手足悅澤不任作勞。孚行衒賣。更買所使。又為妻使。欲之異國。天惑其路。乃之本土。兆民識焉。僉曰。斯太子兒也。大王孫矣。哽噎詣門上聞。王呼梵志將兒入宮。宮人巨細靡不噓唏。王呼欲抱。兩兒不就。王曰何以。兒曰。昔為王孫今為奴婢。奴婢之賤。緣坐王膝乎。問梵志曰。緣得斯兒。對之如事。曰賣兒幾錢。梵志未答。男孫勦曰。男直銀錢一千。特牛百頭。女直金錢二千牸牛二百頭。王曰。男長而賤。女幼而貴。其有緣乎。對曰。太子既聖且仁。潤齊二儀天下喜附。猶孩依親。斯獲天下之明圖。而見遠逐捐處山澤。虎狼毒蟲與之為鄰。食果衣草。雷雨震人。夫財幣草芥之類耳。坐見迸棄。故知男賤也。黎庶之女。苟以華色處在深宮。臥即縕綖。蓋以寶帳。衣天下之名服。食天下之貢獻。故女貴也。王曰。年八孩童有高士之論。豈況其父乎。宮人巨細聞其諷諫莫不舉哀。梵志曰。直銀錢一千。特牛牸牛各百頭。惠爾者善。不者自已。王曰諾。即雇如數。梵志退矣。王抱兩孫坐之于膝。王曰。屬不就抱。今來何疾乎。對曰。屬是奴婢。今為王孫。曰汝父處山何食自供。兩兒俱曰。薇菜樹果以自給耳。日與禽獸百鳥相娛。亦無愁心。王遣使者迎焉。使者就道。山中樹木俯仰屈伸。似有跪起之禮。百鳥悲鳴哀音感情。太子曰。斯者何瑞。妻臥地曰。父意解釋。使者來迎。神祇助喜。故興斯瑞。妻自亡兒臥地。使者到乃起拜王命矣。使者曰。王逮皇后捐食銜泣。身命日衰。思睹太子。太子左右顧望。戀慕山中樹木流泉。收淚昇車。自使者發舉國歡喜。治道掃除豫施帳幔。燒香散華伎樂幢蓋。舉國趍蹌。稱壽無量。大子入城頓首謝過。退勞起居。王復以國藏珍寶都付太子勸令布施。鄰國困民歸化首尾。猶眾川之歸海。宿怨都然。拜表稱臣。貢獻相銜。賊寇尚仁。偷賊競施。干戈戢藏。囹圄毀矣。群生永康。十方稱善。積德不休。遂獲如來無所著正真道最正覺道法御天人師獨步三界為眾聖王矣。佛告諸比丘。吾受諸佛重任誓濟群生。雖嬰極苦。今為無蓋尊矣。太子後終生兜術天。自天來下由白淨王生。今吾身是也。父王者阿難是。妻者俱夷是。子男羅云是。女者羅漢朱遲母是。天帝釋者彌勒是。射獵者優陀耶是。阿周陀者大迦葉是。賣兒梵志者調達是。妻者今調達妻旃遮是。吾宿命來勤苦無數。終不恐懼而違弘誓矣。以布施法為弟子說之。菩薩慈惠度無極行布施如是』
又如薩婆達王(秦言一切施)為敵國所滅。身竄窮林。見有遠國婆羅門來欲從己乞。自以國破家亡一身藏竄。愍其辛苦故。從遠來而無所得。語婆羅門言。我是薩婆達王。新王募人求我甚重。即時自縛以身施之。送與新王大得財物。 又薩婆達王は、敵国に滅ぼされて、身を窮林に竄(かく)るるに、遠国の婆羅門来たりて己より乞わんと欲する有るを見て、自ら国破れ、家亡び、一身蔵竄なれども、其の辛苦を愍むを以っての故に、遠くより来たりて、得る所無き婆羅門に語りて言わく、『我れは是れ薩婆達王なり。新王は、人を募りて、我れを求むること甚だ重し』、と。即時に自ら縛りて、身を以って、之に施し、新王に送り与えて、大いに財物を得せしめたり。
又、
『薩婆達王』は、
『敵国』に、
『滅亡させられて!』、
『身』を、
『密林』に、
『潜めていた!』が、
『婆羅門』が、
『遠国』より、
『来て!』、
『己に!』、
『乞おうとしている!』のを、
『見た!』。
自らは、
『国』が、
『破れて!』、
『家』が、
『亡くなり!』、
『一身』を、
『密林』に、
『隠していた!』が、
其の、
『婆羅門』の、
『辛苦する!』のを、
『哀れむ!』が故に、
『遠来して!』も、
『得る!』所の、
『無い!』、
『婆羅門』に語って、こう言った、――
『新王』が、
『人』を、
『募集して!』、
『わたしを!』、
『探し求めている!』のは、
『甚だ重んじている!』からだ、と。
即時に、
自らを、
『縛って!』、
『身』を、
『婆羅門』に、
『施し!』、
『新王』に、
『送り!』、
『与えさせて!』、
『大いに!』、
『財物』を、
『得させた!』。
  薩婆達(さばだつ):梵名sarvadaa 、また薩婆達多に作り、一切施と訳す。菩薩本縁経中の王の名。
  窮林(ぐうりん):奥深い林。
  蔵竄(ぞうざん):隠れる。
  参考:『菩薩本縁経巻上一切施品』:『一切諸菩薩  為利眾生故  捨棄己身命  猶如草糞穢  如我曾聞。過去有王名一切施。是王初生即向父母說如是言。我於一切無量眾生。尚能棄捨所重身命。況復其餘外物珍寶。是故父母敬而重之。為立名字字一切施。從其初生身與行施漸漸增長。譬如初月至十五日。其後不久父王崩背即承洪業。霸治國土如法。化民不[打-丁+王]萬姓。擁護自身不豫他事。終不侵陵他餘鄰國。鄰國若故來討罰之希能擒獲。救攝貧民給施以財。恭敬沙門婆羅門等。常以淨手施眾生食。口常宣唱與是人衣與是人食及與財寶。愛護是人瞻視是人。爾時菩薩常行如是善布施。時鄰國人民聞王功德悉來歸化。其土充滿間無空處。猶如山頂暴漲之水流注溝坑谿澗深處。亦如半月海水潮出。其國外來歸化之民。充滿側塞亦復如是。其餘鄰國漸失人民。各生瞋恨即共集議當共往討。作是議已尋嚴四兵來向其國。爾時邊方守禦之人遠來白王。鄰國怨賊今已相逼。猶如暴風黑雲惡雨。王即告言。卿等不應惱亂我心。即說偈言 鄰國所以  來討我國  正為人民  庫藏珍寶  快哉甚善  當相施與  我當捨之  出家學道  多有國土  為五欲故  侵奪人民  貯聚無厭  當知是王  命終之後  即墮地獄  畜生餓鬼  是故我今不能為身侵害眾生奪他財物以自免者。爾時大臣及諸人民各作是言。唯願大王。莫便捨去。臣等自能當御此敵。王且觀之。臣等今日當以五兵戟牟劍槊奮擊此賊足如暴風吹破雨雲。王即答言。咄哉卿等。吾已久知卿等於吾生大愛護尊重恭敬。亦知卿等勇健難勝雄猛武略策謀第一。但彼敵王今作此舉。都不為卿正為吾耳。假使彼來不損卿等。何得乃生如是惡心。吾久知此。五盛陰身為眾箭鏑。卿不知耶吾久為卿說。諸菩薩應於眾生生一子想。汝不應於他眾生所生瞋害心。畢定當知墮于地獄。是故應當一心修善。當說是時。賊已來至高聲大叫。王聞聲已即問群臣。此是何聲。諸群臣寮各懷悲感。舉聲哀號咸作是言。惡賊無辜多害人民。譬如惡雹傷害五穀。亦如猛火焚燒乾草。又如暴風吹拔大樹。又如師子殺害諸禽獸。怨賊殺害亦復如是。爾時諸臣不受王教。即各散出莊嚴四兵便逆共戰。軍無主將尋即退散。兵眾喪命不可稱計。時王登樓說如是言。因惡欲故令人行惡。如是諸欲猶如死尸行廁糞穢。如何為此而行惡耶。愚人貪國興諍競心。猶如眾鳥競諍段肉。是諸眾生常有怨憎謂老病死。云何不自觀察。是怨反更於他而生諍競。一切施王思是義時。敵國怨王即入宮中。王於爾時便從水竇逃入深山。至稠林中得免怨賊。其地清淨林木種種華果無量不可稱計。水清柔軟八味具足。眾鳥鳧鴈禽獸難計。王見是已心生歡喜。復作是言。吾今真實得離家過患。無量眾生常為老病死怖逼惱。今得此處清淨安樂快不可言。此林乃是修悲菩薩之所住處。亦是破壞四魔之人堅固牢城。我今已得清潔洗浴離眾垢故。我今與此眾鹿為伴。身心安隱極受上樂。爾時怨王得其國已。即便唱令求覓本王。若有能得一切施王若殺若縛將來至此。吾當重賞隨其所須一切給與。以其先時常自稱讚能行正法。呰毀吾等暴虐行惡。是故吾今欲得見之示其修善所得果報。爾時他方有一婆羅門。貧窮孤悴唯仰乞活。兼遇官事無所恃賴。聞王名字好行惠施。即從其國來欲造詣乞求所須。即於中路飢渴疲乏步息林中。即便譖言。是處寂靜聖人住處。亦是神仙離欲之人。求解脫者斷絕飲食。不畜奴婢不乘車馬。少欲知足食噉稗子諸根藥草。大悲心者之所住處。亦是一切飛鳥走獸無怖畏處。自在天王為令眾生見家過患故化是處。爾時一切施王聞是語已心生歡喜。便往見之共相問訊便命令坐。時婆羅門即便前坐坐已。一切施王便以所有眾味甘果而奉上之。既飽滿已王即問言。大婆羅門。是處可畏無有人民。是中唯是閑靜修道之人獨住之處。仁何緣來。婆羅門言。汝不應問我是事。汝是福德清淨之人。遠離家居牢獄繫縛。何緣問我如是之事。汝不應聞濁惡之聲。若他犯我我則犯他。若他奪我我則奪他。喪失財賄親族凋零。以在家故受如是事。大德。汝今已斷一切繫縛安住山林。如大龍象自在無礙。一切施菩薩即作是言。汝今發言清淨柔軟。何故不共於此住止。婆羅門言。若欲聞者我當為汝具陳說之。我本生處去此懸遠。薄祐所致遇王暴虐。猶如師子在鹿群中。終無一念慈善之心。我王暴虐亦復如是。於諸人民無有慈愍。有罪無罪唯貨是從。我從生來小心畏慎。曾無毫釐犯王憲制。橫收我家繫之囹圄。從我責索金錢五十。若能辦者我當赦汝居家罪戾。若不肯輸吾終不捨。要當繫縛幽執鞭撻。剋日下期當輸金錢。家窮貧苦無由能辦。曾聞此國一切施王。好行惠施攝護貧人。所行惠施無有斷絕。如春夏樹華果相續。亦如曠野清冷之水。渴人過遇自恣飲之。猶如大會無人遮止。我今略說。假使有人。人有千頭頭有千口。口有千舌舌解千義。欲歎是王所有功德不能得盡。彼王成就如是名德。我今居家遇王暴虐。橫羅罪戾更無恃賴。故欲造詣陳乞所須。然我心中常作此念。我今何時當到其所隨意乞求。若彼大王必見憐愍能給少多。我家可得全其生命。若不得者我亦不久當復殞歿。爾時菩薩聞是事已心悶[跳-兆+辟]地。猶如惡風崩倒大樹。時婆羅門即以冷水灑其王身還得穌息。時婆羅門復問。大仙汝聞我家受是苦惱心迷悶耶。是中清淨汝所愛樂能生悲心。我今遇之尚無愁苦。汝今何緣生是苦惱。王即答言。汝本發意欲造彼王。是汝薄相正值不在。汝今若往必不得見故令我愁。爾時婆羅門言。為何處去。施王答言。有敵國王來奪其國位。今者逃命在空山林。唯與禽獸而為等侶。時婆羅門聞是語已尋復悶絕。一切施王復以冷水灑之令悟。即慰喻言。汝今可坐且莫愁苦。婆羅門言。我於今日命必不全。所以者何。本所願求今悉滅壞。我何能起定當捨命。一切施王爾時即起慈悲之心。作如是念。可愍道士所願不果。譬如餓鬼遠望清水到已不獲心悶[跳-兆+辟]地。是婆羅門亦復如是。復更喚言。咄婆羅門。汝可起坐汝可起坐。一切施王即我身是。汝本欲見今得遇之何故愁苦。婆羅門問王。今善言慰喻於我有錢財耶。王即答言。我無錢財但有方便可能令汝大得珍寶。婆羅門言。云何方便。王復答言。我先聞彼怨家之言居我國。已於大眾中唱如是言。若有能得一切施王若斷其命撿繫將來。吾當重賞隨意所須。我從昔來未曾教人行於惡法。是故不令汝斬我頭。但以繩縛送詣彼王。所以者何。除身之外更無錢財。然我此身今得自在。幸可易財以相救濟。善哉善哉。婆羅門。吾今得利以不堅身易堅牢身。道士且觀設使我身在此命終。屍棄曠野草木無異。雖有禽獸而來食噉為何所利。今以如此灰土之身貿易乃得真金寶物。我復何情而當惜之。時婆羅門聞是語已。悲涕而言何有此理。所以者何。汝今乃是無上調御眾生父母。善為愛護大歸依處。能滅一切無量眾生所有怖畏。所作廣大不望相報。於諸眾生常生憐愍。能於闇世作大錠燎。我當云何破滅正法繫縛汝身送怨王耶。假使將王至彼怨所得獲金寶。我復何心舒手受之。假使受者手當落地。譬如男子為長養身噉父母肉。是人雖得存濟生命與怨何異。我亦如是設縛王身將送彼怨。雖多得財以贖家居我所不貴。時王答言。如此之言復何足計。汝若於我必生憐愍。我自束縛隨汝後行詣彼怨家。汝無罪咎我可得福。婆羅門言。敬如王命當隨意作。說是語已。王即自縛共婆羅門相隨至城。其王舊臣及諸人民。當見王時悉生驚怪。咄婆羅門。汝是羅剎非婆羅門。汝是羅剎非婆羅門。汝本實是暴惡鬼神。[(女/女)*干]偽詐現婆羅門像。無有悲心真是死魔常求殺人。汝今令此王身滅沒。猶如月蝕七日並照大海乾竭。無上法燈今日盡滅。旃陀羅種。汝今云何手不落地。汝身何故不陷入地。如師子王已死之後誰不能害。是一切施王久已遠離國城妻子倉庫珍寶一切。諍競退入深山。修寂滅行。於汝何怨。而將來此。舉城人民。同聲願言。諸大仙聖護世四王。願加威神擁護是王令全生命。時婆羅門聞是語已。心生怖畏。將一切施疾至王所。作如是言。大王當知我今已得一切施王。怨王見已心即生念。是王年壯身體姝好容貌端正其力難制。是婆羅門年在衰弊。形容枯悴顏貌醜惡其力無幾。云何能得是王將來。竊復生念。將非梵王自在天王。那羅延天。釋提桓因。四天王耶。怨王即問。誰為汝縛。婆羅門言。我自縛之。怨王詛言。遠去癡人。復更問言。汝將非以咒術之力而繫縛耶。汝身羸劣彼身端嚴猶如帝釋。云何能繫。假使有人自言。能吹須彌山王令如碎末是可信不。爾時怨王即告大臣。汝等當知今此難事。為是夢中是幻化耶。將非我心悶絕失志錯謬見乎。是老獼猴云何能縛帝釋身耶。諸臣當知豈可以藕根中絲懸須彌山耶。可以兔身渡大海耶。可以蚊[此/束]盡海底耶。時婆羅門聞是語已。即向怨王而說偈言 大王今當知  我實不能縛  是王慈悲故  為我而自來  如以網盛風  是事為甚難  正使天帝釋  亦復不能為  爾時怨王即向一切施王說如是言。汝以哀我故入深山谿谷林木空曠之處。唯與禽獸共相娛樂。少欲知足飲水食果。以草為敷不與我諍。然我怨心猶未得滅。我今自在能相誅戮。以何因緣來至此耶。爾時一切施王嬉怡微笑無有畏懼。身心容豫如師子王而作是言。汝不知耶。我身即名一切施王。我欲成就本誓願故。今來在此。有三因緣。一者為婆羅門而求錢財。二者以汝先募若得我身將來此者。當重賞之。三者我先誓願當一切施。是故我來欲捨身命。汝今當觀若我此身命終入地為何所益。我本所以逃入山林非以畏故。但為愛護諸眾生耳。汝今自在怨心未滅。我今來此隨意屠割而得除怨心則安隱。是故汝今應早為之。即說偈言 於怨生瞋恨  則自燋其心  譬如灰下火  猶能燒萬物  因心著瞋恚  命終墮地獄  猶如惡毒箭  中則身命滅  若瞋於怨憎  心不得寂靜  譬如痛目者  不能見正色  此身肉血成  骨髓肪膏腦  屎尿涕唾等  薄皮裹其上  是身如行廁  無主無有我  於王有何怨  而常生瞋恚  生老病死賊  常來侵王身  何故於是中  返生親友想  我身四大成  王身亦復然  今若見瞋者  是則為自瞋  是故大王不應生瞋。若故瞋者今得自在幸可隨意早見屠戮。先所開募可賞是人。我今必定捨命不悔。以是因緣願諸眾生能一切施及得捨名。爾時怨王聞是語已。從御座起合掌敬禮一切施王作如是言。唯願大王還坐本座。汝是法王正化之主。我是羅剎暴惡之人。汝是世燈為世父母。我是世間弊惡大賊。專行惡法劫奪他財。汝是法稱正法明鏡。我非法稱常欺誑他。猶如盲人不自見過。如我等輩罪過深重。是身久應陷入此地。所以遷延得至今日。實賴仁者執持故耳。今捨此地及以己身奉施仁者。一切施王即為怨王廣說法要。令其安住於正法中。大以財寶與婆羅門遣還本土。菩薩摩訶薩如是修行檀波羅蜜時。尚捨如是所重之身。況復外物所有財寶』
亦如月光太子出行遊觀。癩人見之要車白言。我身重病辛苦懊惱。太子嬉遊獨自歡耶。大慈愍念願見救療。太子聞之以問諸醫。醫言當須從生長大無瞋之人血髓。塗而飲之。如是可愈。 亦た月光太子の如きは、出行し遊観するに、癩人、之を見て車を要し、白して言さく、『我が身は、重病に辛苦、懊悩す。太子は、嬉遊して、独り自ら歓ぶや。大慈、愍念したまえ。願わくは救療せられんことを』、と。太子は、之を聞きて以って諸医に問うに、医の言わく、『当に生ずるより、長大するまで、無瞋の人の血髄を須(もち)いて塗り、之に飲ましむべし。是の如くすれば、愈ゆべし』、と。
亦た、
『月光太子』が、
『出行して!』、
『遊観した!』時のことである、――
『癩人』が、
『太子』を、
『見て!』、
『車』を、
『引留める!』と、
『太子』に白して、こう言った、――
『わたし』が、
『身』の、
『重病で!』、
『辛苦し!』、
『懊悩している!』のに、
『太子』は、
『嬉遊』して、
独り、
『自ら!』を、
『歓ばせていられるのか?』、
『大慈』を、
起こして、
『哀れみ!』、
『念じられよ!』。
願わくは、
『救い!』、
『療されよ!』、と。
『太子』が、
是れを、
『聞いて!』、
諸の、
『医師』に、
『問われる!』と、
『医師』は、
こう言った、――
『生まれてから!』、
『長大するまで!』、
『瞋らなかった!』、
『人から!』、
『血髄』を、
『求めて!』、
『塗り!』、
『癩人』に、
『飲ませよ!』。
是のようにすれば、
『癒えるだろう!』、と。
  月光太子(がっこうたいし):釈尊は過去世に在って太子と作り、月光太子と称す。「大智度論巻12」には、一日出遊せるに癩人の哀を求め救療を願えるに遇い、諸医に諮るに、生まれて長大するまで無瞋の人より、血髄を得て、これを塗って飲めば、愈ゆべしと言うを聞き、太子は身肉を除いて骨を破り、髄を出して病人に塗り、血を飲ましむと云えり。
  (よう):とめる。ひきとめる。まちぶせする。
  参考:『弥勒菩薩所問本願経』:『佛語賢者阿難。我本求佛道時勤苦無數。乃得無上正真之道。其事非一。佛言阿難。乃過世時。有王太子。號曰一切現義。端政姝好。從園觀而出道。見一人得疾困篤。見已有哀傷之心。問於病人。以何等藥得療即痊。病人答曰。唯王身血得療我病。爾時太子。即以利刀刺身出血。以與病者。至心施與意無悔恨。佛語阿難。爾時現義太子。即我身是。阿難。四大海水尚可升量。我身血施不可稱限。所以爾者求正覺故。佛語賢者阿難。乃往過世有王太子。號曰蓮花王。端正姝好威神巍巍。從園觀出遊道。見一人身體病癩。見已即有哀念心。問於病人。以何等藥療於汝病。病者答曰。得王身髓以塗我體其病乃愈。是時太子即破身骨。以得其髓持與病者。歡喜惠施心無悔恨。爾時太子即我身是。佛語阿難。四大海水尚可升量。身髓布施不可稱計』
太子念言。設有此人貪生惜壽何可得耶。自除我身無可得處。即命旃陀羅。令除身肉破骨出髓以塗病人以血飲之。 太子の念じて言わく、『設(たと)い、此の人の生を貪り、寿を惜む有らんに、何れにか、得べけんや。自ら我が身を除かば、得べき処無けん』、と。即ち旃陀羅に命じて、身の身肉を除きて、骨を破り、隨を出して、以って病人に塗り、血を以って、之に飲ましめたり。
『太子』は念じて、こう言った、――
設(たと)い、
此の、
『人のように!』、
『生』を、
『貪り!』、
『寿』を、
『惜む!』者が、
『有った!』としても、
何うして
『生』や、
『寿』が、
『得られよう?』。
自ら、
『わたしの!』、
『身』を、
『除けば!』、
『得られる!』、
『処』は、
『無いのだ!』、と。
『太子』は、
そこで、
『旃陀羅(屠殺人)』に、
『命じて!』、――
『身』より、
『肉』を、
『除いて!』、
『骨』を、
『破らせ!』、
『髄』を、
『出して!』、
『病人』に、
『塗らせ!』、
『血』を、
『病人』に、
『飲ませた!』。
如是等種種身。及妻子施而無吝如棄草木。觀所施物知從緣有。推求其實都無所得。一切清淨如涅槃相。乃至得無生法忍。是為結業生身行檀波羅蜜滿。 是の如き等の種種の身、及び妻子を施して、吝む無きこと、草木を棄つるが如く、施す所の物を観れば、縁に従りて有り、其の実を推求すれば、都(す)べて得る所無く、一切は清浄にして、涅槃の相の如しと知り、乃ち無生法忍を得るに至るまで、是れを結業の生身の檀波羅蜜を行じて満つと為す。
是れ等のように、
種種の、
『身』や、
『妻子』を、
『施して!』、
『草木』を、
『棄てるように!』、
『惜まず!』、
『施す!』所の、
『物』を観れば、――
『縁』に、
『従って!』、
『存在しており!』、
其の、
『実』を、
『推求しても!』、
何も、
『認識できない!』。
一切は、
『清浄であり!』、
『涅槃の相のようだ!』と、
『知って!』、
乃至、
『無生法忍』を、
『得る!』まで、
『施す!』ならば、
是れを、
『結業』の、
『生身』に、
『檀波羅蜜』が、
『満ちた!』と、
『言うのである!』。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語anutpattika-dharma-kSaantiの訳。即ち諸法に無生無滅の理を観て、これを諦忍し安住して動かざる心を云う。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
云何法身菩薩行檀波羅蜜滿。菩薩末後肉身得無生法忍。捨肉身得法身。於十方六道中。變身應適以化眾生。種種珍寶衣服飲食給施一切。又以頭目髓腦國財妻子內外所有盡以布施。 云何が、法身の菩薩の檀波羅蜜を行じて満つる。菩薩は、末後の肉身に、無生法忍を得るに、肉身を捨てて法身を得、十方の六道中に於いて、身を応に適すべく変じて、以って衆生を化し、種種の珍宝、衣服、飲食を、一切に給施し、又頭目、髄脳、国財、妻子、内外の所有を以って、尽く以って、布施す。
何のように、
『法身』の、
『菩薩』は、
『檀波羅蜜』を、
『行って!』、
『満たすのか?』。
『菩薩』は、
『最後』の、
『肉身』に、
『無生法忍』を、
『得る!』と、
『肉身』を、
『捨てて!』、
『法身』を、
『得!』、
『十方』の、
『六道』中に、
『身』を、
『適すべく!』、
『変じて!』、
其の、
『身』を以って、
『衆生』を、
『教化し!』、
種種の、
『珍宝、衣服、飲食』を、
『一切に!』、
『給施し!』、
又、
『頭目、髄脳、国財、妻子』、
『内、外』の、
『有らゆる!』ものを、
尽く、
『布施する!』のである。
譬如釋迦文佛。曾為六牙白象。獵者伺便以毒箭射之。諸象競至欲來蹈殺獵者。白象以身捍之。擁護其人愍之如子。諭遣群象徐問獵人。何故射我。答曰。我須汝牙。即時以六牙內石孔中血肉俱出。以鼻舉牙授與獵者。 例えば、釈迦文仏の如きは、曽て六牙の白象と為れば、猟者伺いて、便ち毒箭を以って、之を射たり。諸象競いて至り、来たりて猟者を踏み殺さんと欲す。白象は、身を以って、之を捍(ふせ)ぎ、其の人を擁護し、之を愍むこと子の如く、群象を諭し遣りて、徐(おもむろ)に猟人に問うらく、『何の故にか、我れを射る』、と。答えて曰わく、『我れは、汝が牙を須(もと)む』、と。即時に六牙を以って、石孔中に内(い)れ、血肉と倶に出し、鼻を以って牙を挙げ、猟者に授与せり。
譬えば、
『釈迦文仏』のようにである、――
かつて、
『六牙』の、
『白象』と、
『為られた!』時、
『猟者』が、
『伺っていて!』、
『毒箭』で、
『射る!』と、
『諸象』が、
『競って!』、
『猟者』に、
『至り!』、
『来て!』、
『猟者』を、
『踏み殺そうとした!』。
『白象』は、
『身』を以って、
『猟者』を、
『衛(まも)り!』、
其の、
『人』を、
『擁護して!』、
『子のように!』、
『猟者』を、
『愍れみ!』、
『群象』を、
『諭して!』、
『追いやる!』と、
『猟人』に、
こう問うた、――
何故、
わたしを、
『射たのか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしには、
お前の、
『牙』が、
『必要なのだ!』、と。
『白象』は、
即時に、
『石の孔』に、
『六牙』を、
『差し込む!』と、
『血肉』と、
『いっしょに!』、
『折り取り!』、
『鼻』で、
『牙』を、
『挙げて!』、
『猟者』に、
『授け!』、
『与えたのである!』。
  参考:『雑宝蔵経巻2六牙白象縁』:『昔舍衛國。有一大長者。生一女子。自識宿命。初生能語。而作是言。不善所作。不孝所作。無慚所作。惡害所作。背恩所作。作此語已。默然而止。此女生時。有大福德。即為立字。名之為賢。漸漸長大。極敬袈裟。以恭敬袈裟因緣。出家作比丘尼。不到佛邊。精勤修習。即得羅漢。悔不至佛邊。便往佛所。向佛懺悔。佛言。我於彼時。已受懺悔。諸比丘。疑怪問佛。此賢比丘尼。何以故從出家以來不見佛。今日得見佛懺悔。有何因緣。佛即為說因緣。昔日有六牙白象。多諸群眾。此白象有二婦。一名賢。二名善賢。林中遊行。偶值蓮花。意欲與賢。善賢奪去。賢見奪華。生嫉妒心。彼象愛於善賢。而不愛我。時彼山中有佛塔。賢常採花供養。即發願言。我生人中。自識宿命。并拔此白象牙取。即上山頭。自撲而死。尋生毘提醯王家作女。自知宿命。年既長大。與梵摩達王為婦。念其宿怨。語梵摩達言。與我象牙作床者我能活耳。若不爾者。我不能活。梵摩達王。即募獵者。若有能得象牙來者。當與百兩金。即時獵師。詐被袈袈。挾弓毒箭。往至象所。時象婦善賢。見獵師已。即語象王。彼有人來。象王問言。著何衣服。答言。身著袈裟。象王言。袈裟中必當有善無有惡也。獵師於是遂便得近。以毒箭射。善賢語其夫。汝言。袈裟中有善無惡。云何如此。答言。非袈裟過。乃是心中煩惱過也。善賢即欲害彼獵師。象王種種慰喻說法。不聽令害。又復畏五百群象必殺此獵師。藏著歧間。五百群象。皆遣遠去。問獵師言。汝須何物。而射於我。答言。我無所須。梵摩達王。募索汝牙。故來欲取。象言疾取。答言。不敢自取。如是慈悲。覆育於我。我若自手取。手當爛墮。白象即時。向大樹所。自拔牙出。以鼻絞捉。發願而與。以牙布施。願我將來。拔一切眾生三毒之牙。獵師取牙。便與梵摩達王。爾時夫人。得此牙已。便生悔心。而作是言。我今云何取此賢勝淨戒之牙。大修功德。而發誓言。願使彼將來得成佛時。於彼法中。出家學道。得阿羅漢。汝等當知。爾時白象者。我身是也。爾時獵師者。提婆達多是也。爾時賢者。今比丘尼是也。爾時善賢者。耶輸陀羅比丘尼是也』
雖曰象身用心如是。當知此象非畜生行報。阿羅漢法中都無此心。當知此為法身菩薩。 象の身なりと曰うと雖も、心を用うること是の如し。当に知るべし、此の象は、畜生の報を行ずるに非ずと。阿羅漢の法中には、都べて此の心無し。当に知るべし、此れを法身の菩薩と為すと。
『象』の、
『身である!』と、
『言っても!』、
是のように、
『心』を、
『用いるのである!』から、
当然、
こう知るべきである、――
此の、
『象』は、
『畜生の報』を、
『行っているのではない!』、と。
『阿羅漢の法』中には、
まったく、
此の、
『心』が、
『無い!』のであるから、
当然、
こう知るべきである、――
此れは、
『法身』の、
『菩薩である!』、と。
有時閻浮提人不知禮敬。耆舊有德。以言化之未可得度。是時菩薩自變其身。作迦頻闍羅鳥。 有る時、閻浮提の人は、礼敬するを知らず。耆旧の有徳なるもの、言を以って、之を化せんとするも、未だ度を得べからず。是の時、菩薩は自ら、其の身を変じて、迦頻闍羅鳥と作る。
有る時には、
『閻浮提』の、
『人』は、
『礼敬する!』ことを、
『知らなかった!』。
『長老』で、
『徳』の、
『有る!』者が、
是の、
『人』たちを、
『言葉』で、
『教化しようとした!』が、
未だ、
『度(済い!)』を、
『得させられなかった!』。
是の時、
『菩薩』は、
自らの、
『身』を、
『変じて!』、
『迦頻闍羅』という、
『鳥』に、
『作っていられた!』。
  礼敬(らいきょう):礼して敬う。
  耆旧(ぎく):長老。
  参考:『十誦律巻34』:『佛在王舍城。爾時諸比丘。互相輕慢無恭敬行。佛見諸比丘互相輕慢無恭敬行。以是因緣故。集比丘僧。問諸比丘。於汝等意云何。誰比丘應作上座。先受水先受飲食。有比丘答言。世尊。若比丘剎利種。以信出家剃除鬚髮服法衣。是人應先坐先受水先受飲食。復有比丘言。世尊。若比丘是婆羅門種。以信出家剃除鬚髮服法衣。是人應先坐先受水先受飲食。復有比丘言。世尊。若比丘毘舍種。以信出家剃除鬚髮服法衣。是人應先坐先受水先受飲食。復有比丘言。世尊。若比丘得阿羅漢漏盡。所作已辦捨離重擔。盡諸有結能具正智心得解脫。如是比丘。應先坐先受水先受飲食。復有比丘言。世尊。若比丘得阿那含。斷五下分結不還生此世界。如是比丘。應先坐先受水先受飲食。復有比丘言。世尊若比丘得斯陀含。斷三結三毒薄。一來生此世間得盡苦際。如是比丘。應先坐先受水先受飲食。復有比丘言。世尊。若比丘得須陀洹。斷三結不墮三惡道必至淨智。往來人天七死七生得盡苦際。如是比丘。應先坐先受水先受飲食。諸比丘雖種種說。不合佛意。佛語諸比丘。汝等當一心聽。誰比丘應先坐先受水先受飲食。爾時世尊說本生因緣。語諸比丘。過去世時。近雪山下。有三禽獸共住。一鵽二獼猴三象。是三禽獸。互相輕慢無恭敬行。是三禽獸同作是念。我等何不共相恭敬。若前生者。應供養尊重教化我等。爾時鵽與獼猴問象言。汝憶念過去何事。時是處有大蓽茇樹。象言。我小時行此。此樹在我腹下過。象鵽問獼猴言。汝憶念過去何事。答言。我憶小時。坐地捉此樹。頭按令到地。象語獼猴汝年大我。我當恭敬尊重汝。汝當為我說法。獼猴問鵽言。汝憶念過去何事。答言。彼處有大蓽茇樹。我時噉其子於此大便。乃生斯樹長大如是。是我所憶。獼猴語鵽。汝年大我。我當供養尊重汝。汝當為我說法。爾時象恭敬獼猴。從聽受法為餘象說。獼猴恭敬鵽。從聽受法為餘獼猴說。鵽為餘鵽說法。此三禽獸。先喜殺生偷奪他物邪婬妄語。斯諸禽獸咸作是念。我等何不捨殺生偷奪邪婬妄語惡業。作是念已。即捨殺盜邪婬妄語。畜生中無猶。具足行是四法。命終皆生天上。佛言。爾時鵽法廣行流布。顯現諸天世人。畜生等何故行善。不復侵食人穀。又作是念。畜生尚能相敬。何況我等。爾時世人皆相敬重。廣修鵽法奉行五戒。命終生天。佛語諸比丘。爾時鵽者。豈異人乎。則我身是。獼猴者舍利弗是。象者目連是。佛言。畜生無知。尚相恭敬行尊重法。自得大利亦利益他。何況汝等以信出家。剃除鬚髮服法衣。應相尊敬。』
是鳥有二親友。一者大象二者獼猴。共在必缽羅樹下住。自相問言。我等不知誰應為長。象言。我昔見此樹在我腹下。今大如是以此推之我應為長。獼猴言。我曾蹲地手挽樹頭以是推之我應為長。鳥言。我於必缽羅林中食此樹果。子隨糞出此樹得生。以是推之我應最長。 是の鳥に二親友有り、一には大象、二には獼猴なり。共に必鉢羅樹下に在りて住し、自ら相問うて言わく、『我等は、誰か応に長と為すべきを知らず』、と。象の言わく、『我れは、昔、此の樹を見るに、我が腹の下に在り。今大なること是の如し。此を以って之を推すに、我れは応に長為るべし』、と。獼猴の言わく、『我れ、曽て地に蹲(うづくま)りて、手に樹頭を挽けり。是を以って之を推すに、我れは、応に長為るべし』、と。鳥の言わく、『我れは、必鉢羅林中に於いて、此の樹の果を食い、子(たね)を糞に隨いて出せるに、此の樹は、生ずるを得たり。是を以って之を推すに、我れは応に最も長たるべし』、と。
是の、
『鳥』には、
『二親友』が有り、
一には、『大象』、
二には、『獼猴(さる)であった!』、
いっしょに、
『必鉢羅樹』の、
『樹下』に、
『住んでいた!』が、
互いに、
『自ら!』のことを、
『質問しあって!』、
こう言った、――
わたし達の、
誰が、
『年長なのか?』、
『分らないかなあ!』、と。
『象』が、
こう言った、――
わたしが、
昔、
此の、
『樹』を、
『見た!』ときには、
わたしの、
『腹』の、
『下にあった!』のに、
今は、
是のように、
『大きくなった!』。
是れから、
推してみるに、――
わたしが、
『年長のように!』、
『思えるのだが!』、と。
『彌猴』が、
こう言った、――
わたしは、
かつて、
『地』に、
『蹲(うづくま)り!』、
『手』で、
『樹の頭』を、
『引っ張ったことがある!』。
是れから、
推してみるに、――
わたしが、
『年長のように!』、
『思えるのだが!』、と。
『鳥』は、
こう言った、――
わたしは、
『必鉢羅樹』の、
『林』中で、
此の、
『樹の果』を、
『食い!』、
『子(たね)』を、
『糞』と、
『いっしょに!』、
『出した!』ので、
此の、
『樹』は、
『生えることができた!』。
是れから、
推してみるに、――
わたしが、
『最も!』、
『年長のはずだ!』、と。
  迦頻闍羅(かぴんじゃら):梵語kapiJjala 、また迦賓闍羅に作る。鷓鴣、鵽、雉等に訳す。<(丁)
  獼猴(みこう):猿の類。
  必鉢羅樹(ひつぱらじゅ):梵語pippala 、畢鉢羅樹、痺鉢羅樹等に作り、菩提樹と訳す。仏はこの樹下に於いて菩提を証せるが故に、菩提樹と称す。<(丁)
鳥復說言先生宿舊禮應供養。即時大象背負獼猴。鳥在猴上。周遊而行。一切禽獸見而問之。何以如此。答曰。以此恭敬供養長老。禽獸受化皆行禮敬。不侵民田不害物命。 鳥の復た説いて言わく、『先生、宿旧の礼は、応に供養すべし』、と。即時に大象は、背に獼猴を負い、鳥は猴上に在りて、周遊して行く。一切の禽獣見て、之に問わく、『何を以ってか、此の如き』、と。答えて曰わく、『此れを以って、長老を恭敬し、供養す』、と。禽獣は化を受けて、皆礼敬を行じ、民田を犯さず、物の命を害せず。
『鳥』は、
復た説いて、こう言った、
『先生』や、
『宿旧』に、
『礼する!』には、
『供養すべきだ!』、と。
即時に、
『大象』は、
『獼猴』を、
『背負い!』、
『鳥』は、
『獼猴』上に、
『飛び乗って!』、
『周囲』を、
『遊びながら!』、
『行った!』。
一切の、
『禽獣』は、
是れを、
見て、こう問うた、――
何を、
『思って!』、
『此のようにするのか?』、と。
答えて、こう言った、――
此のように、
『長老』を、
『恭敬し!』、
『供養するのです!』、と。
『禽獣』は、
『教化』を受けて、――
皆、
『礼敬する!』ことを、
『行い!』、
皆が、
『民』の、
『田』を、
『侵さず!』、
『物』の、
『命』を、
『殺さなくなった!』。
  宿旧(しゅくく):年長有徳の人。
  先生(せんしょう):年長で学問有る人。
眾人疑怪一切禽獸不復為害。獵者入林見象負獼猴獼猴戴鳥。行敬化物物皆修善傳告國人。人各慶曰。時將太平鳥獸而仁。人亦效之。皆行禮敬。自古及今化流萬世。當知是為法身菩薩。 衆人の疑いて、一切の禽獣の、復た害を為さざるを怪しめるに、猟者、林に入りて、象の獼猴を負い、獼猴の鳥を載せ、敬を行じ、物を化して、物は皆善を修むるを見、国人に伝えて告ぐれば、人は、各慶びて曰わく、『時は将に太平なり。鳥獣にして、仁なり』、と。人も亦た之に效(なら)いて、皆、礼敬を行じ、古より今に及んで、化は万世に流れたり。当に知るべし、是れを法身の菩薩と為すと。
『衆人』は、
疑い、怪しんだ、――
何故、
一切の、
『禽獣』は、
もう、
『害さなくなったのだろう?』、と。
『猟者』が、
『林』に入って、見た、――
『象』が、
『獼猴』を、
『背負い!』、
『獼猴』は、
『鳥』を、
『載せている!』のを、
『敬』が、
『行われて!』、
『生き物』が、
『教化され!』、
『生き物』が、
皆、
『善』を、
『修めている!』のを。
『猟者』が、
『国の人』に、
『伝えて!』、
『告げる!』と、
『人』は、
各、
慶んで、こう言った、――
『時』が、
『太平』に、
『為ったのだ!』、
『鳥獣』が、
『互いに!』、
『助けあっている!』、と。
『人』も、
亦た、
『鳥獣』に、
『見習って!』、
皆、
『礼敬』を、
『行い!』、
『古』より、
『今』に、
『及ぶまで!』、
『教化』が、
『万世』に、
『流れている!』のである。
当然、
こう知るべきである、――
是れこそ、
『法身』の、
『菩薩である!』、と。
  (にん):人と人と相互に為す所の友愛、互助、同情等の意。
復次法身菩薩一時之頃。化作無央數身。供養十方諸佛。一時能化無量財寶給足眾生。能隨一切上中下聲一時之頃。普為說法。乃至坐佛樹下。如是等種種名為法身菩薩行檀波羅蜜滿。 復た次ぎに、法身の菩薩は、一時の頃に、無央数の身を化作して、十方の諸仏を供養して、一時に、能く無量の財宝を化して、衆生に給足し、能く一切の上中下の声に隨いて、一時の頃に、普く為めに説法し、乃至仏樹下に坐するまでの、是の如き等の種種を名づけて、法身の菩薩の檀波羅蜜を行じて満つと為す。
復た次ぎに、
『法身』の、
『菩薩』は、
『一時の頃(あいだ)』に、
『無数』の、
『身』を、
『化作して!』、
『十方』の、
『諸仏』を、
『供養し!』、
『一時』に、
『無量』の、
『財宝』を、
『化作して!』、
『衆生』に、
『供給して!』、
『満足させ!』、
『一切』の、
『天上、人中、下界』の、
『声』を、
『聞いて!』、
『一時の頃』に、
『普く!』、
『説法する!』のであり、
乃至、
『仏』として、
『菩提樹』下に、
『坐る!』まで、
是れ等のような、
種種は、
『法身の菩薩』が、
『檀波羅蜜』を行って、
『満ちる!』と、
『称する!』。



三種の施物とは?

復次檀有三種一者物施二者供養恭敬施。三者法施。 復た次ぎに、檀には、三種有り、一には物の施、二には供養恭敬の施、三には法の施なり。
復た次ぎに、
『檀』には、
『三種』有り、
一には、
『物を施す!』、
二には、
『供養、恭敬を施す!』、
三には、
『法を施す!』。
云何物施。珍寶衣食頭目髓腦。如是等一切內外所有盡以布施。是名物施。 云何が物の施なる。珍宝、衣食、頭目、髄脳、是の如き等の一切の内外の所有を尽く以って布施する、是れを物の施と名づく。
『物を施す!』とは、
何をいうのか?――
例えば、
『珍宝』、
『衣食』、
『頭目』、
『髄脳』、
是れ等のような、
一切の、
『内』と、
『外』との、
『有らゆる!』、
『物』を、
尽く、
『布施する!』こと、
是れを、
『物を施す!』という。
恭敬施者。信心清淨恭敬禮拜。將送迎逆讚遶供養。如是等種種名為恭敬施。 恭敬の施とは、信心清浄にして恭敬、礼拜、将送、迎逆、讃遶、供養する、是の如き等の種種を名づけて、恭敬の施と為す。
『恭敬を施す!』とは、――
『信心』が、
『清浄となり!』、
『恭敬し!』、
『礼拜し!』、
『将送し!』、
『迎逆し!』、
『讃遶し!』、
『供養する!』こと、
是れ等のような、
種種を、
『恭敬を施す!』という。
  将送(しょうそう):いっしょに送って往くこと。
  迎逆(ぎょうぎゃく):門を出て迎えること。
  讃遶(さんにょう):讃歎して囲繞すること。
法施者為道德故。語言論議誦讀講說除疑問答授人五戒。如是等種種為佛道故施。是名法施。是三種施滿。是名檀波羅蜜滿。 法の施とは、道徳の為めの故に、語言、論義、誦読、講説、疑を除く、問答、人に五戒を授くる、是の如き等の種種の仏道の為めの故に施す、是れを法の施と名づけ。是の三種の施の満つる、是れを檀波羅蜜満つと名づく。
『法を施す!』とは、――
『道徳(正道)』の為めに、
『語言(談話)し!』、
『論義し!』、
『誦読し!』、
『講説し!』、
『疑を除き!』、
『問答し!』、
『人に五戒を授ける!』、
是れ等の、
種種の、
『仏』の、
『道』の為めに、
『施す!』こと、
是れを、
『法を施す!』といい、
是の、
『三種』に、
『施して!』、
『満ちる!』と、
是れを、
『檀波羅蜜』が、
『満ちる!』と、
『称する!』。
  道徳(どうとく):梵語菩提 bodhi の訳。正道の意。
  語言(ごごん):言葉を交わすこと。談話。
復次三事因緣生檀。一者信心清淨。二者財物。三者福田。 復た次ぎに、三事の因縁は、檀を生ず。一には信心の清浄、二には財物、三には福田なり。
復た次ぎに、
『三事』の、
『因縁』が、
『檀』を、
『生じる!』、――
一には、
『信心の清浄』、
二には、
『財物』、
三には、
『福田である!』。
心有三種。若憐愍。若恭敬。若憐愍恭敬。施貧窮下賤及諸畜生。是為憐愍施。施佛及諸法身菩薩等。是為恭敬施。若施諸老病貧乏阿羅漢辟支佛。是為恭敬憐愍施。 心には、三種有り、若しは憐愍、若しは恭敬、若しは憐愍恭敬なり。貧窮、下賎、及び諸の畜生に施す、是れを憐愍の施と為す。仏、及び諸の法身の菩薩等に施す、是れを恭敬の施と為す、若し諸の老病、貧乏なる阿羅漢、辟支仏に施せば、是れを恭敬憐愍の施と為す。
『心』には、
『三種』有り、
『憐愍』か、
『恭敬』か、
『憐愍恭敬である!』。
若し、
『貧窮』や、
『下賎』と、
『諸の畜生』に、
『施せば!』、
是れを、
『憐愍して施す!』という。
若し、
『仏』と、
『諸の法身の菩薩』等に、
『施せば!』、
是れを、
『恭敬して施す!』という。
若し、
『老病』か、
『貧乏』な、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏』に、
『施せば!』、
是れを、
『恭敬憐愍して施す!』という。
施物清淨非盜非劫以時而施。不求名譽不求利養。 施物は清浄にして、盗むに非ず、劫(うば)うに非ず、時を以って施し、名誉を求めず、利養を求めず。
『施物』は、
『清浄であり!』、――
『盗んだものでなく!』、
『奪ったものでなく!』、
『適切な時に施し!』、
『名誉を求めず!』、
『利養を求めない!』。
或時從心大得福德。或從福田大得功德。或從妙物大得功德。第一從心如四等心念佛三昧。以身施虎如是名為從心大得功德。 或いは、時に心に従いて、大いに福徳を得、或いは福田に従いて、大いに功徳を得、或いは妙物に従いて、大いに功徳を得。第一は、心に従うなり。四等心、念仏三昧、身を以って虎に施すが如き、是の如きを名づけて、心に従いて、大いに功徳を得と名づく。
或いは、
時に、
『心』に、
『従って!』、
『大いに!』、
『福徳(功徳)』を、
『得!』、
或いは、
『福田』に、
『従って!』、
『大いに!』、
『功徳』を、
『得!』、
或いは、
『妙物』に、
『従って!』、
『大いに!』、
『功徳』を、
『得る!』が、
『第一』の、
『福徳』は、――
『心』に、
『従って!』、
『得られ!』、
例えば、
『四等心』や、
『念仏三昧』や、
『身を虎に施す!』等であり、
是れを、
『心』に、
『従って!』、
『大いに!』、
『功徳』を、
『得る!』という。
  四等心(しとうしん):慈、悲、喜、捨の心の無量なるを云う。即ち所縁の境に従いて無量と云い、能起の心に従いて等と云う、平等に於いて、この心を起すを以っての故なり。<(丁)『大智度論巻8(下)注:四無量』参照。
  念仏三昧(ねんぶつさんまい):梵語buddhaanusmRti- samaadhiの訳。専ら仏を念じて入る三昧を云う。『大智度論巻1上注:念仏、大智度論巻17下注:定、同注:三摩鉢底、巻20上注:三昧』参照。
  参考:『賢愚経巻1』:『摩訶薩埵以身施虎品第二  如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊。乞食時到。著衣持缽。獨將阿難。入城乞食。時有一老母。唯有二男。偷盜無度。財主捕得。便將詣王。平事案律。其罪應死。即付旃陀羅。將至殺處。遙見世尊。母子三人。俱共向佛。叩頭求哀。唯願天尊。垂濟苦厄。救我子命。誠心款篤。甚可憐愍。如來慈矜。即遣阿難。詣王請命。王聞佛教。即便放之。得脫此厄。感戴佛恩。欣踊無量。尋詣佛所。頭面禮足。合掌白言。蒙佛慈恩。得濟餘命。唯願天尊。慈愍我等。聽在道次。佛即可之。告曰。善來比丘。鬚髮自墮。身所著衣。變成袈裟。敬心內發。志信益固。佛為說法。諸垢永盡。得阿羅漢道。其母聞法。得阿那含。爾時阿難。目見此事。歎未曾有。讚說如來若干德行。又復呰嗟。母子三人。宿有何慶。值遇世尊。得免重罪。獲涅槃安。一身之中。特蒙利益。何其快哉。佛告阿難。此三人者。非但今日蒙我得活。乃往過去。亦蒙我恩。而得濟活。阿難白佛。不審世尊。過去世中。濟活三人。其事云何。佛告阿難。乃往久遠阿僧祇劫。此閻浮提。有大國王。名曰摩訶羅檀囊。秦言大寶。典領小國。凡有五千。王有三子。其第一者。名摩訶富那寧。次名摩訶提婆。秦言大天。次名摩訶薩埵。此小子者。少小行慈。矜愍一切。猶如赤子。爾時大王。與諸群臣夫人太子。出外遊觀。時王疲懈。小住休息。其王三子。共遊林間。見有一虎適乳二子。飢餓逼切。欲還食之。其王小子。語二兄曰。今此虎者。酸苦極理。羸瘦垂死。加復初乳。我觀其志。欲自噉子。二兄答言。如汝所云。弟復問兄。此虎今者。當復何食。二兄報曰。若得新殺熱血肉者。乃可其意。又復問曰。今頗有人。能辦斯事救此生命。令得存不。二兄答言。是為難事。時王小子。內自思惟。我於久遠生死之中。捐身無數。唐捨軀命。或為貪欲。或為瞋恚。或為愚癡。未曾為法。今遭福田。此身何在。設計已定。復共前行。前行未遠。白二兄言。兄等且去。我有私緣。比爾隨後。作是語已。疾從本徑。至於虎所。投身虎前。餓虎口噤。不能得食。爾時太子。自取利木。刺身出血。虎得舐之。其口乃開。即噉身肉。二兄待之經久不還。尋跡推覓。憶其先心。必能至彼。餧於餓虎。追到岸邊。見摩訶薩埵死在虎前。虎已食之。血肉塗漫。自撲墮地。氣絕而死。經於久時。乃還穌活。啼哭宛轉。迷憒悶絕。而復還穌。夫人眠睡夢有三鴿。共戲林野。鷹卒捉得其小者食。覺已驚怖。向王說之。我聞諺言。鴿子孫者也。今亡小鴿。我所愛兒。必有不祥。即時遣人。四出求覓。未久之間。二兒已到。父母問言。我所愛子。今為所在。二兒哽噎。隔塞斷絕。不能出聲。經于久時。乃復出言。虎已食之。父母聞此。[跳-兆+辟]地悶絕而無所覺。良久乃穌。即與二兒夫人婇女。馳奔至彼死屍之處。爾時餓虎。食肉已盡。唯有骸骨。狼藉在地。母扶其頭。父捉其手。哀號悶絕。絕而復穌。如是經久時。摩訶薩埵。命終之後。生兜率天。即自生念。我因何行。來受此報。天眼徹視。遍觀五趣。見前死屍。故在山間。父母悲悼。纏綿痛毒。憐其愚惑。啼泣過甚。或能於此喪失身命。我今當往諫喻彼意。即從天下。住於空中。種種言辭。解諫父母。父母仰問。汝是何神。願見告示。天尋報曰。我是王子摩訶薩埵。我由捨身濟虎餓乏。生兜率天。大王當知。有法歸無。生必有終。惡墮地獄。為善生天。生死常塗。今者何獨沒於憂愁煩惱之海。不自覺悟懃修眾善。父母報言。汝行大慈。矜及一切。捨我取終。吾心念汝。荒塞寸絕。我苦難計。汝修大慈。那得如是。於時天人。復以種種妙善偈句。報謝父母。父母於是小得惺悟。作七寶函盛骨著中。葬埋畢訖。於上起塔。天即化去王及大眾。還自歸宮佛告阿難。爾時大王。摩訶羅檀那者。豈異人乎。今我父王閱頭檀是。時王夫人。我母摩訶摩耶是。爾時摩訶富那寧者。今彌勒是第二太子摩訶提婆者。今婆修蜜多羅是。爾時太子摩訶薩埵。豈異人乎。我身是也。爾時虎母今此老母是。爾時二子。今二人是。我於久遠。濟其急厄危頓之命。令得安全。吾今成佛。亦濟彼厄。令其永離生死大苦。爾時阿難一切眾會。聞佛所說。歡喜奉行』
福田有二種。一者憐愍福田二者恭敬福田。憐愍福田能生憐愍心。恭敬福田能生恭敬心。如阿輸伽(秦言無憂)王以土上佛。 福田には、二種有り、一には福田を憐愍し、二には福田を恭敬す。福田を憐愍すれば、能く憐愍の心を生じ、福田を恭敬すれば、能く恭敬の心を生ず。阿輸伽王の土を以って仏に上(ささ)ぐるが如し。
『福田』には、
『二種』有り、
一には、
『福田』を、
『憐愍し!』、
二には、
『福田』を、
『恭敬する!』。
『福田』を、
『憐愍すれば!』、
『憐愍』の、
『心』を、
『生じさせる!』し、
『福田』を、
『恭敬すれば!』、
『恭敬』の、
『心』を、
『生じさせる!』。
例えば、
『阿輸伽王』などは、
『仏』に、
『土』を、
『捧げたのである!』。
  阿輸伽(あしゅか):梵名azoka 、また阿輸迦、阿育等に作り、無憂と訳す。紀元前二百七十年頃、前印度を統一し、大いに仏教を保護せし王の名。かつて土を以って仏に施せる因縁に由り、大王と為れりとの伝説あり。『大智度論巻2(上)注:阿輸迦』参照。
  参考:『雑阿含経巻23』:『時。王請尊者優波崛入城。設種種座。請尊者就座。眾僧令往雞雀精舍。白尊者曰。尊者顏貌端正。身體柔軟。而我形體醜陋。肌膚麤澀。尊者說偈曰  我行布施時  淨心好財物  不如王行施  以沙施於佛  時。王以偈報曰  我於童子時  布施於沙土  今獲果如是  何況餘妙施  尊者復以偈讚曰  快哉善大王  布施諸沙土  無上福田中  植果無窮盡  時。阿育王告諸大臣。我以沙布施於佛。獲其果報如是。云何而不修敬於世尊。王復白優波崛言。尊者。示我佛所。說法.遊行處所。當往供養禮拜。為諸後世眾生攝受善根。而說偈言  示我佛說法  諸國及住處  供養當修敬  為後眾生故  尊者言。善哉。善哉。大王能發妙願。我當示王處所。為後眾生』
復次物施中。如一女人酒醉沒心誤以七寶瓔珞布施迦葉佛塔。以福德故生三十三天。如是種種名為物施。 復た次ぎに、施物中に、一女人の如きは、酒に酔うて心を没し、誤ちて七宝の瓔珞を以って、迦葉仏の塔に布施するに、福徳を以っての故に、三十三天に生ぜり。是の如き種種を名づけて、施物と為す。
復た次ぎに、
『物を施す!』中には、
例えば、
『一女人』などは、
『酒』に、
『酔って!』、
『心』を、
『没していた!』ので、
『誤って!』、
『七宝の瓔珞』を、
『迦葉仏の塔』に、
『供養した!』が、
是の、
『福徳』の故に、
『三十三天』に、
『生まれた!』。
是のような、
種種を、
『物を施す!』と、
『称する!』。
  参考:『雑宝蔵経巻5』:『天女本以華鬘供養迦葉佛塔緣  爾時釋提桓因。從佛聞法。得須陀洹。即還天上。集諸天眾。讚佛法僧。時有天女。頭戴華鬘。華鬘光明。甚大晃曜。共諸天眾。來集善法堂上。諸天之眾。見是天女。生希有心。釋提桓因。即便說偈。問天女言  汝作何福業  身如融真金  光色如蓮花  而有大威德  身出妙光明  面若開敷華  金色晃然照  以何業行得  願為我說之  爾時天女。說偈答言  我昔以華鬘  奉迦葉佛塔  今生於天上  獲是勝功德  生在於天中  報得金色身  釋提桓因。重復說偈。而讚嘆言  甚奇功德田  耘除諸穢惡  如是少種子  得天勝果報  誰當不供養  恭敬真金聚  誰不供養佛  上妙功德田  其目甚脩廣  猶如青蓮花  汝能興供養  無上第一尊  作少功德業  而獲如此容  爾時天女。即從天下。執持華蓋。來至佛所。佛為說法。得須陀洹。而還天上。諸比丘等。怪其所以。即問佛言。世尊。今此天女。作何功德。獲此天身。端政殊特。佛言。往古之時。以種種華鬘。供養迦葉佛塔。以是因緣。今獲此果』



捨てる所が無いとは?

問曰。檀名捨財。何以言具足無所捨法。 問うて曰く、檀を財を捨つと名づく。何を以ってか、『捨つる所無き法を具足す』、と言う。
問い、
『檀』とは、――
『財』を、
『捨てる!』の、
『意味である!』。
何故、
こう言うのですか?――
『捨てる!』所()が、
『無い!』という、
『法』を、
『具足する!』、と。
答曰。檀有二種。一者出世間。二者不出世間。今說出世間檀無相。無相故無所捨。是故言具足無所捨法。 答えて曰く、檀には、二種有り、一には出世間、二には出世間にあらず。今説かく、『出世間の檀は、無相なり。無相なるが故に捨つる所無し』、と。是の故に言わく、『捨つる所の法無きを具足す』、と。
答え、
『檀』には、
『二種』有り、
一には、
『出世間の檀』、
二には、
『出世間でない檀』である。
今は、こう説いた、――
『出世間』の、
『檀』は、
『無相であり!』、
『無相である!』が故に、
『檀』には、
『捨てる!』所が、
『無い!』、と。
是の故に、
こう言うのである、――
『捨てる!』所が、
『無い!』という、
『法』を、
『具足した!』、と。
復次財物不可得故。名為無所捨。是物未來過去空。現在分別無一定法。以是故言無所捨。 復た次ぎに、財物は不可得なるが故に名づけて、捨つる所無しと為す。是の物は、未来と過去とに空にして、現在にも分別すれば、一定法すら無し。是を以っての故に言わく、『捨つる所無し』、と。
復た次ぎに、
『財物』は、
『不可得(認識不能)であり!』、
故に、
『捨てる!』所が、
『無い!』と、
『称する!』。
是の、
『物』は、
『未来』と、
『過去』とに、
『空である!』ように、
『現在』も、
『分別すれば!』、
『定まった!』、
『法』は、
『一』も、
『無いのである!』。
是の故に、
『捨てる!』所は、
『無い!』と、
『言うのである!』。
復次以行者捨財時心念。此施大有功德。倚是而生憍慢愛結等。以是故言無所捨。以無所捨故無憍慢。無憍慢故愛結等不生。 復た次ぎに、行者の財を捨つる時、心に、『此の施には、大いに功徳有り。是れに倚りて、憍慢、愛結等を生ずればなり』と念ずるを以って、是を以っての故に言わく、『捨つる所無く、捨つる所の無きを以っての故に、憍慢無く、憍慢無きが故に、愛結等生ぜず』、と。
復た次ぎに、
『行者』が、
『財』を、
『捨てる!』時、
『心』に、こう念じる、――
此れを、
『施せば!』、
大いに、
『功徳』が、
『有る!』。
是れに、
『倚って!』、
『憍慢』や、
『愛結』等を、
『生じるからである!』、と。
是の故に、
こう言うのである、――
『捨てる!』所の、
『物』は、
『無い(存在しない)!』、
『捨てる!』所が、
『無い!』が故に、
『憍慢』が、
『無く!』、
『憍慢』が、
『無い!』が故に、
『愛結』等も、
『生じない!』、と。
  憍慢(きょうまん):梵語 adhi-maana 、又は abhi-maana の訳。自ら高ぶり他を下げすむ心状を云う。『大智度論巻49下注:憍、慢、憍慢』参照。
  愛結(あいけつ):梵語anunaya-saMyojanaの訳。九結の一。境に染著する貪煩悩を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻17下注:愛』参照。
復次施者有二種。一者世間人二者出世間人。世間人能捨財不能捨施。出世間人能捨財能捨施。何以故。以財物施心俱不可得故。以是故言具足無所捨法。 復た次ぎに、施者には二種有り、一には世間の人、二には出世間の人なり。世間の人は、能く財を捨つるも、施を捨つる能わず。出世間の人は、能く財を捨て、能く施を捨つ。何を以っての故に、財物、施心の、倶に不可得なるを以っての故なり。是を以っての故に言わく、『捨つる所の無き法を具足す』、と。
復た次ぎに、
『施者』には、
『二種』有り、
一には、
『世間の人』、
二には、
『出世間の人である!』。
『世間の人』は、
『財』を、
『捨てられる!』が、
『施』は、
『捨てられない!』。
『出世間の人』は、
『財』も、
『捨てられる!』し、
『施』も、
『捨てられる!』。
何故ならば、
『財物』も、
『施心』も、
『どちらも!』、
『不可得だからである!』。
是の故に、
こう言うのである、――
『捨てる!』所が
『無い!』という、
『法』を、
『具足する!』、と。
復次檀波羅蜜中。言財施受者三事不可得。 復た次ぎに、檀波羅蜜中に言わく、『財、施、受者の三事は不可得なり』、と。
復た次ぎに、
『檀波羅蜜』中には、
こう言っている、――
『財』と、
『施』と、
『受者』との、
『三事』は、
『不可得である!』、と。
問曰。三事和合故名為檀。今言三事不可得。云何名檀波羅蜜具足滿。今有財有施有受者。云何三事不可得。 問うて曰く、三事の和合の故に名づけて、檀と為すに、今は、『三事は不可得なり』、と言う。云何が、檀波羅蜜具足して満つと名づくる。今、財有り、施有り、受者有るに、云何が、三事は不可得なる。
問い、
『三事』の、
『和合』の故に、
『檀』と、
『称する!』のであるが、
今、
『三事』は、
『不可得である!』と、
『言っている!』のに、
何故、
『檀波羅蜜』が、
『具足して!』、
『満ちる!』と、
『称するのですか?』。
今、
『財』も、
『施』も、
『受者』も、
『有る!』のに、
何故、
『三事』が、
『不可得なのですか?』。
如所施疊實有。何以故。疊有名則有疊法。若無疊法亦無疊名。以有名故應實有疊。 施す所の畳の如きは、実に有り。何を以っての故に、畳に名有れば、則ち畳の法有り、若し畳の法無くんば、亦た畳の名も無けん。名有るを以っての故に、当に実に畳有るべし。
例えば、
『施される!』、
『畳()』などは、
『実』に、
『有る(存在する)!』。
何故ならば、
『畳』という、
『名』が、
『有れば!』、
『畳』という、
『法(名義=名に依って示されるもの)』が、
『有り!』、
若し、
『畳』という、
『法』が、
『無ければ!』、
『畳』という、
『名』も、
『無いからである!』。
則ち、
『畳』という、
『名』が、
『有る!』が故に、
『畳』という、
『法』も、
『有るはずである!』。
  :法とは、名(或いは言)と義(或いは色)との総称である。法は経に依って保持されるが如く、物は名に依って保持される、故に名と義とを総じて法と呼ぶのである。
復次疊有長有短麤細白黑黃赤。有因有緣有作有破有果報隨法生心。十尺為長五尺為短。縷大為麤縷小為細。隨染有色有縷為因。織具為緣。是因緣和合故為疊。 復た次ぎに、畳に長有り、短、麁、細、白、黒、黄、赤有り、因有り、縁有り、作有り、破有り、果報有り、法に隨いて心生じ、十尺を長と為し、五尺を短と為し、縷の大なるを麁と為し、縷の小なるを細と為し、染むるに隨いて、色有り、縷有ると因と為し、織具を縁と為し、是の因、縁和合するが故に、畳を為す。
復た次ぎに、
『畳(綿布)』には、
『長』も、
『有れば!』、
『短』も、
『麁』も、
『細』も、
『白』も、
『黒』も、
『黄』も、
『赤』も、
『有り!』、
『因』が、
『有り!』、
『縁』が、
『有り!』、
『作(作業)』が、
『有り!』、
『破(破壊)』が、
『有り!』、
『果報』が、
『有り!』、
各の、
『法』に、
『隨って!』、
『心』が、
『生じる!』ので、
『十尺』ならば、
『長い!』と、
『思い!』、
『五尺』ならば、
『短い!』と、
『思い!』、
『太い糸』ならば、
『粗い!』と、
『思い!』、
『細い糸』ならば、
『細かい!』と、
『思い!』、
『染める!』に、
『隨って!』、
『色』が、
『有り!』、
『糸』の、
『有る!』のが、
『因であり!』、
『織機』の、
『具わる!』のが、
『縁であり!』、
是の、
『因』と、
『縁』とが、
『和合する!』が故に、
『畳となる!』のである。
  (じょう):生糸に似た植物性の繊維で織られた甚だ軟らかい布の名。綿布。《南史》高昌國有草,實如繭,中絲爲細纑,名曰白。安子國人取以爲布,甚輭而白。亦作白氎。
  (る):いと。糸すじ。
人功為作人毀為破。御寒暑弊身體名果報。人得之大喜失之大憂。以之施故得福助道。若盜若劫戮之都市。死入地獄。如是等種種因緣。故知有此疊是名疊法。云何言施物不可得。 人の功を作と為し、人の毀を破と為し、寒暑を禦(ふせ)ぎ、身体を蔽うを果報と名づけ、人之を得て大いに喜び、之を失うて大いに憂うるに、之を以って施すが故に、福を得て道を助け、若しは盗み、若しは劫い、之を都市に戮(はづかし)むれば、死して地獄に入る。是の如き等の種種の因縁の故に、此に畳有れば、是れを畳と名づくる法なりと知る。云何が、『施物は不可得なり』と言う。
『人』の、
『功(はたらき)』を、
『作(作業)』と、
『呼び!』、
『人』が、
『毀(こわ)す!』のを、
『破る!』と、
『呼び!』、
『寒暑』を、
『防御して!』、
『身体』を、
『蔽う!』ものを、
『果報』と、
『呼んで!』、
『人』が、
『得れば!』、
『大いに!』、
『喜び!』、
『失えば!』、
『大いに!』、
『哀しむ!』ので、
是れを、
『施す!』が故に、
『福』を得て、
『道』を、
『助ける!』ことになり、
若し、
『盗んだり!』、
『奪ったり!』して、
『人』を、
『都市(市井)』に、
『辱めれば!』、
『死んで!』、
『地獄』に、
『入る!』ことになる。
是れ等の、
種種の、
『因縁』の故に、
此処に、
『畳』という、
『法(実体)』が、
『有れば!』、
是れが、
『畳』と、
『呼ばれる!』、
『法だ!』と、
『知るのである!』。
何故、こう言うのですか?――
『施される!』、
『物』は、
『不可得である!』。
  (く):はたらき。成し遂げた仕事の結果。成し遂げる。
  (ぎょ):ふせぐ。禦。
  (へい):おおう。蔽。
  (こう):うばう:強奪する。
  (りく):殺す。辱める。
答曰。汝言有名故有是事。不然。何以知之。名有二種有實有不實。 答えて曰く、汝が言わく、『名有るが故に有り』とは、是の事は然らず。何を以って、之を知る、名には二種有り、有るいは実、有るいは不実なり。
答え、
お前は、
こう言っているが、――
『物』は、
『名』が
『有る!』が故に、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
何故、
これが知れるかというと、――
『名』には、
『二種』、
『有り!』、
有るいは、
『実』の、
『名であり!』、
有るいは、
『実でない!』、
『名である!』。
不實名。如有一草名朱利。(朱利秦言賊也)草亦不盜不劫實非賊而名為賊。 不実の名は、有る一草を、朱利(盗賊)と名づくるが如し。草も亦た盗まず、劫わず、実に賊に非ざるに、名づけて賊と為す。
『実でない!』、
『名』とは、――
例えば、
有る、
『一草』を、
『朱利(盗賊)』と、
『呼ぶようなものである!』。
是の、
『草』は、
まったく、
『盗みもせず!』、
『奪いもせず!』、
実に、
『盗賊ではない!』のに、
是れを、
『盗賊』と、
『呼んでいる!』。
  朱利(しゅり):梵名caurii 、賊と訳す。草の名。
又如兔角龜毛。亦但有名而無實疊雖不如兔角龜毛無。然因緣會故有。因緣散故無。如林如軍是皆有名而無實。 又、兔角亀毛の如きも、亦た但だ名有りて、実無し。畳は、兔角亀毛の無きが如きにあらずと雖も、然も因縁会するが故に有り、因縁散ずるが故に無し。林の如き、軍の如きは、是れ皆、名有りて、実無し。
又、
例えば、
『兔の角』や、
『亀の毛』などは、
但だ、
『名』のみが、
『有って!』、
『実』は、
『無い!』。
『畳』は、
『兔の角』や、
『亀の毛』が、
『無い!』のと、
『同じではない!』が、
然し、
『因縁』が、
『集会する!』が故に、
『有る!』のであり、
『因縁』が、
『散会する!』が故に、
『無くなる!』ので、
例えば、
『林』や、
『軍』のように、
皆、
『名』のみが、
『有って!』、
『実』は、
『無い!』。
譬如木人雖有人名不應求其人法。疊中雖有名亦不應求疊真實。疊能生人心念因緣。得之便喜失之便憂。是為念因緣。 譬えば、木人は、人の名有りと雖も、応に其れに人法を求むべからざるが如し。畳中にも、名有りと雖も、又応に畳に真実を求むべからず。畳は、能く人心に念の因縁を生じ、之を得れば便ち喜び、之を失えば便ち憂う。是れを念の因縁と為す。
譬えば、
『木人』に、
『人』という、
『名』が、
『有った!』としても、
其れに、
『人』という、
『法』を、
『求めるべきでない!』ように、
『畳』中に、
『畳』という、
『名』が、
『有った!』としても、
『畳』に、
『真実()』を、
『求めるべきでない!』。
『畳』は、
『人心』に、
『念』という、
『因縁』を、
『生じさせて!』、
是れを、
『得れば!』、
『喜び!』、
是れを、
『失えば!』、
『哀しむ!』ので、
是れは、
『念』の、
『因縁である!』。
心生有二因緣。有從實而生。有從不實而生。如夢中所見如水中月。如夜見杌樹謂為人。如是名從不實中能令心生。是緣不定。不應言心生有故便是有。若心生因緣故有。更不應求實有。如眼見水中月。心生謂是月。若從心生便是月者則無復真月。 心生ずるに、二因縁有り、有るいは実に従いて生じ、有るいは不実に従いて生ず。夢中に見る所の如き、水中の月の如き、夜に杌樹を見て、謂いて人と為すが如き、是の如きを不実中に能く心をして生ぜしむと名づく。是の縁は不定なれば、応に『心の生ずること有るが故に、便ち是れ有り』と言うべからず。若し、心の生ずる因縁の故に有らば、更に応に実に有ることを求むべからず。眼に水中の月を見るに、心生じて、是れ月なりと謂うが如く、若し、心に従いて生ずれば、便ち是の月には、則ち復た真の月無し。
『心』が、
『生じる!』には、
『二因縁』が有り、――
有るいは、
『実』に、
『従って!』、
『心』が、
『生じ!』、
有るいは、
『実でない!』ものに、
『従って!』、
『心』が、
『生じる!』。
例えば、
『夢』中に、
『見た!』、
『物』や、
『水』中に、
『映った!』、
『月』や、
『夜』に、
『杌樹(切り株)』を、
『見て!』、
『人だ!』と、
『思う!』のは、
是れを、
『実でない!』中に、
『心』を、
『生じさせる!』と、
『呼ぶ!』が、
是の、
『心』の、
『縁じる!』所は、
『定まらない!』ので、
こう言うべきでない、――
『心』に、
『生じた!』、
『物』が、
『有る!』ということは、
故に、
是の、
『物』が、
『有るということだ!』、と。
若し、
『心』に、
『生じた!』という、
『因縁』の故に、
『有る!』としても、
更に、
『実』の、
『有る!』ことを、
『求めてはならない!』。
例えば、
『眼』に、
『水』中の、
『月』を、
『見て!』、
『心』が、
『生じ!』、
是れを、
『月だ!』と、
『思う!』ように、
若し、
『心』に、
『従って!』、
『生じた!』とすれば、
是の、
『月』には、
まったく、
『真の月』は、
『無い!』。
  杌樹(ごつじゅ):枝を全て刈り取られて、棒杭の如き状態の樹。
復次有有三種。一者相待有。二者假名有。三者法有。 復た次ぎに、有りには、三種有り、一には相待して有り、二には仮名して有り、三には法有り。
復た次ぎに、
『有る!』には、
『三種』有り、――
一には、
『相待して!』、  ――互いに待ちて有る!――
『有る!』、
二には、
『仮名』のみが、
『有る!』、
三には、
『法』が、
『有る!』である。
相待者如長短彼此等。實無長短亦無彼此。以相待故有名。長因短有短亦因長。彼亦因此此亦因彼。若在物東則以為西。在西則以為東。一物未異而有東西之別。此皆有名而無實也。如是等名為相待有。是中無實法。不如色香味觸等。 相待とは、長短、彼此等の如く、実に長短無く、亦た彼此無きに、相待するを以っての故に、名有り。長は短に因りて有り、短も亦た長に因る。彼れも亦た此れに因り、此れも亦た彼れに因る。若し物の東に在(お)れば、則ち以って西と無し、西に在れば、則ち以って東と為すも、一物にして未だ異ならざるに、東西の別有り。此れは皆、名有りて、実無きなり。是の如き等を名づけて、相待して有りと為す。是の中には、実の法無きこと、色香味触等にも如かず。
『相待する!』とは、
例えば、
『長、短』、
『彼れ、此れ』等は、
実に、
『長、短』も、
『彼れ、此れ』も、
『無い!』が、
互いに、
『待つ!』が故に、
『名』のみが、
『有る!』。
則ち、
『長』は、
『短』に、
『因って!』、
『有り!』、
『短』は、
『長』に、
『因って!』、
『有る!』。
亦た、
『彼れ』は、
『此れ』に、
『因って!』、
『有り!』、
『此れ』は、
『彼れ』に、
『因って!』、
『有る!』。
若し、
『物』の、
『東』に在()れば、
『物』は、
『西であり!』、
『物』の、
『西』に在れば、
『物』は、
『東である!』ように、
『物』は、
『一つ!』で、
『異ならない!』が、
『物』には、
『東西の別』が、
『有る!』。
此れは、
皆、
『名』のみ、
『有って!』、
『実』が、
『無い!』ので、
是れ等を、
『相待して!』、
『有る!』と、
『称する!』が、
是の中に、
『実』の、
『法』が、
『無い!』ことは、
『色、香、味、触』等に、
『無い!』ことにも、
『及ばない!』。
假名有者。如酪有色香味觸四事。因緣合故假名為酪。雖有不同因緣法有。雖無亦不如兔角龜毛無。但以因緣合故假名有。酪疊亦如是。 仮名して有りとは、酪の如きに、色、香、味、触の四事有りて、因縁合するが故に、仮名して、酪と為す。有りと雖も、因縁の法有るに同じからず、無しと雖も、亦た兔角、亀毛の無きに如かず。但だ因縁合するを以っての故に、仮名して酪有り。畳も亦た是の如し。
『仮名』が、、
『有る!』とは、――
例えば、
『酪』などは、
『色、香、味、触』の、
『四事』が、
『有り!』、
是の、
『四事』の、
『因縁』が、
『合する!』が故に、
『仮名して!』、
『酪』と、
『呼ぶのである!』が、
是の、
『酪』が、
『有る!』と、
『言っても!』、
『因縁の法』が、
『有る!』のと、
『同じではない!』し、
『酪』が、
『無い!』と、
『言っても!』、
『兔の角』や、
『亀の毛』が、
『無い!』のと、
『同じではない!』。
但だ、
『因縁』が、
『合する!』が故に、
『仮名』の、
『酪』が、
『有る!』のであり、
『畳』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次有極微色香味觸故。有毛分。毛分因緣故有毛。毛因緣故有毳。毳因緣故有縷。縷因緣故有疊。疊因緣故有衣。 復た次ぎに、極微の色、香、味、触有るが故に、毛の分有り、毛の分の因縁の故に、毛有り。毛の因縁の故に、毳有り。毳の因縁の故に縷有り。縷の因縁の故に畳有り。畳の因縁の故に衣有り。
復た次ぎに、
『極微』の、
『色、香、味、触』が、
『有る!』が故に、
『毛の分』が、
『有り!』、
『毛の分』の、
『因縁』の故に、
『毛』が、
『有り!』、
『毛』の、
『因縁』の故に、
『毳(にこげ)』が、
『有り! 』、
『毳』の、
『因縁』の故に、
『縷(いと)』が、
『有り!』、
『縷』の、
『因縁』の故に、
『畳(ぬの)』が
『有り!』、
『畳』の、
『因縁』の故に、
『衣』が、
『有る!』が、‥‥
  極微(ごくみ):梵語波羅摩拏paramaaNu の訳。最極微細の意。また極微塵paramaaNu- rajas と名づく。旧に隣虚と翻ず。虚無に隣るの意。即ち一切の色法を組成せる原素にして、更に分析すべからざる最極微細の色塵を云う。「大毘婆沙論巻136」に、「色の極少は謂わく一極微なり」と云い、また「極微はこれ最細の色にして、断截破壊貫穿すべからず、取捨乗履搏掣すべからず。長に非ず、短に非ず、方に非ず、円に非ず、正不正に非ず、高に非ず、下に非ず、細分あることなく、分析すべからず、覩見すべからず、聴聞すべからず、齅嘗すべからず、摩触すべからず。故に極微はこれ最細の色と説く」と云えるこれなり。これ即ち極微は最細の色にして、方分あることなく、また不可見にして触対すべからざるものなるを説けるなり。但し一極微は無方分なりと雖も、多微積集すれば則ち方分あり。七極微を微塵aNu- rajas と名づけ、七微塵を金塵loha- rajas (銅塵または鉄塵)と名づけ、七金塵を水塵ab- rajas と名づけ、七水塵を兎毛塵zaza- rajas と名づくるなり。有説は、七微塵を水塵と名づけ、七水塵を銅塵と名づけ、七銅塵を兎毛塵と名づけ、七兎毛塵を羊毛塵avi-rajasと名づけ、七羊毛塵を牛毛塵go-rajasと名づけ、七牛毛塵を隙遊塵vaataayanacchidra- rajas (または向遊塵)と名づくと云えり。隙遊塵は一に日光塵と称し、日光中に浮遊せる微細の塵を云う。この中、微塵は有方分にして六方中心あり。即ち七の極微は、四面と上下との六方及び中心に聚集して一の微塵を成ず。七の微塵積聚して一の金塵を成じ、乃至七の牛毛塵積聚して一の隙遊塵を成ず。極微は不可見なりと雖も、微塵以去は、即ち可見なり。「大毘婆沙論巻132」に、「極微はまさに不可見と言うべし、肉天眼の能く見る所に非ざるが故なり」と云い、「同巻136」に、「この七極微は一微塵を成ず。これ眼と眼識所取の色の中に、最も微細なる者なり。これ唯三種の眼のみ見る、一に天眼、二に転輪王眼、三に後有に住する菩薩眼なり」と云えるその意なり。また顕形等の色は、その極微各別にして各皆別体あり。故に「大毘婆沙論巻13」に、「問う、一の青極微ありとせんや不や。答う、有り。但し眼識の所取に非ず。もし一極微、青に非ずんば、衆微聚集するも亦た応に青に非ざるべし。黄等も亦た爾り。問う、長等の形の極微ありとせんや不や。答う、有り。但し眼識の所取に非ず。もし一極微、長等の形に非ずんば、衆微聚集するも亦た応に長等の形に非ざるべし」と云えり。但し前所引の「大毘婆沙論巻136」に、極微は長短、方円等に非ずと云うは、極微が眼の所見に非ざるに約して説く。今の文は眼所見已上の微に就き、実の体類あるが故に即ち長等を成ずることを示せるなり。十八界の中、五根五境の十色界は極微所成なり。無表は色と名づくと雖も、極微聚に非ず。また極微は一一には変礙なしと雖も、衆微積聚すれば即ち変礙あり。然るに五識の依縁は皆応に積聚すべし、故に現在独住の極微なく、恒に積聚するに由るが故に即ち変礙の義ありとなすなり。「倶舎論巻1」に、「一極微各処にして住することなし。衆微聚集して変礙の義成ず」と云い、「大毘婆沙論巻75」に、「極微一一に変礙なしと雖も、而も多く積集すれば即ち変礙あり」と云える即ちその意なり。但し一説は独住の極微ありと許す。「順正理論巻2」に述ぶる所の如し。また極微は能所相触ると雖も、而も実には互いに相触することなし。「倶舎論巻2」に依るに、迦湿弥羅国の毘婆沙師は説く、若し極微遍体相触せば、手相拊つ時、両手相糅して一体と成るべし。もし一分相触せば、即ち極微有分の過ありと。法救大徳は説く、一切の極微は実には相触せず、但だ無間なるに由りて仮に触の名を立つと。更に異説を挙げ、而して論主は自ら法救の説に左袒せり。かくの如く説一切有部に於いては極微を無方分とし、また極微並びに極微の和集せる十色界を共に実有となすと雖も、経量部は極微を有方分とし、また極微のみ実にして、余の和集の麁色は凡べて仮なりとし、その他、諸部の間に更に異説あり。「成唯識論述記巻2本」に、「然るに経部等は、極微は随って眼識等の十処の所摂なり。而もこれ仮に非ず、眼識等の得に非ず。和合を成ずるの色は眼等の境と為るが故なり。理を以って論ぜば、唯意識得にして応に法処に収むべし。実を以って仮に従えば色等の処に摂す。仮はこの実法を攬りて成ずるを以っての故なり。正理論中、経部と諍うに、法処に別に色ありと許さざる故に、法処の摂に非ざるなり。薩婆多は極微を随って色等の処に摂す。即ち和集の色等なり。細を麁に従えて摂するが故なり。大乗は極微は法処の仮色なり、眼等の積集色を成ずる能わざるが故なり。これに由りて応に四句を作りて分別すべし。経部は十処の麁は仮、細は実なり。大乗世俗には、麁は実、細は仮なり。薩婆多等は麁細倶に実なり。一説部等は麁細倶に仮なり」と云えるこれなり。但し薩婆多部中にもまた仮実に通ずるの説なきに非ず。「順正理論巻32」に論ずる所の如し。大乗に於いては極微の実有を非し、説一切有部及び経量部の所説を破せり。「成唯識論巻1」に、「彼の有対の色は定んで実有に非ず。能成の極微実有に非ざるが故なり。謂わく諸の極微にもし質礙あらば、応に瓶等の如く、これ仮にして実に非ざるべし。もし質礙なくんば、応に非色の如くなるべし。如何ぞ瓶衣等を集成すべけんや。また諸の極微にもし方分あらば必ず分析すべし、便ち実有に非ず。もし方分なくんば則ち非色の如し。云何ぞ和合して光を承け影を発すべけんや。日輪纔かに挙がりて、柱等を照らす時、東西の両辺に光と影と各現ず。光を承け影を発する処既に同じからざれば、所執の極微は定んで方分あるべし。またもし壁等の物を見触する時、唯この辺を得て、彼の分を得ず。既に和合せる物は即ち諸の極微なり、故にこの極微は必ず方分あり。また諸の極微は所住の処に随って必ず上下四方の差別あり。爾らずんば便ち共に和集の義なし。或は相涉入するも麁と成らざるべし。ここに由りて極微は定んで方分あり。有対の色は即ち諸の極微なりと執するに、もし方分なくんば応に障隔なかるべし。もし爾らば便ち障礙有対に非ず。この故に汝等が所執の極微は必ず方分あるべし。方分あるが故に即ち分析すべし、定んで実有に非ず」と云えるその意なり。蓋し大乗家の所説は、極微を法処所摂の仮色となし、意識の所縁にして、本質無く、即ち独影の仮境となすに在り。故に「成唯識論巻1」に、「麁色に実体ありと執する者の為に、仏は極微を説いてそれをして除析せしむ。諸色に実に極微ありと謂うには非ず。諸の瑜伽師は仮想の慧を以って、麁色の相に於いて漸次除析して、不可析に至るを仮に極微と説く。この極微は猶お方分ありと雖も、而も析すべからず。もし更にこれを析せば便ち空に似て現ぜん。名づけて色と為さず。故に極微はこれ色の辺際と説く」と云えり。また大乗にては、眼等の五識は自識の所変を以って所縁縁と為すとし、識変ずる時、量の大小に随って頓に一相を現じ、別に衆多の極微を変作して合して一物と為すに非ずとなすが故に、随って極微和集して以って色等の麁色を成ずることを許さざるなり。また「大智度論巻12」、「瑜伽師地論巻3、巻54」、「瑜伽論記巻2、巻28」、「観所縁縁論」、「唯識二十論」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「雑阿毘曇心論巻1」、「倶舎論巻12」、「順正理論巻8」、「倶舎論光記巻1の余、巻2、巻12」等に出づ。<(望)
  (ぜい):獣の細毛、鳥の腹毛。にこげ。
若無極微色香味觸因緣。亦無毛分。毛分無故亦無毛。毛無故亦無毳。毳無故亦無縷。縷無故亦無疊。疊無故亦無衣。 若し、極微の色、香、味、触の因縁無ければ、亦た毛の分無く、毛の分無きが故に亦た毛無く、毛無きが故に亦た毳無く、毳無きが故に亦た縷無く、縷無きが故に亦た畳無く、畳無きが故に亦た衣無し。
若し、
『極微』の、
『色、香、味、触』という、
『因縁』が、
『無ければ!』、
亦た、
『毛の分』も、
『無い!』、
『毛の分』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『毛』も、
『無い!』、
『毛』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『毳』も、
『無い!』、
『毳』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『縷』も、
『無い!』、
『縷』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『畳』も、
『無い!』、
『畳』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『衣』も、
『無い!』のである。
問曰。亦不必一切物皆從因緣和合故有。如微塵至細故無分。無分故無和合。疊麤故可破。微塵中無分。云何可破。 問うて曰く、亦た必ずしも、一切の物が、皆、因縁の和合に従うが故に有るにあらず。微塵の如きは至細なるが故に分無く、分無きが故に和合無く、畳は麁なるが故に破すべきも、微塵中には分無ければ、云何が破すべし。
問い、
だいたい、
一切の、
『物』が、
皆、
『必ずしも!』、
『因縁』の、
『和合』の故に、
『有るのではない!』、
例えば、
『微細』などは、
『極めて!』、
『細かい!』が故に、
『分』が、
『無く!』、
『分』が、
『無い!』が故に、
『和合』も、
『無い!』、
『畳』は、
『麁大である!』が故に、
『破られる!』が、
『微塵』中には、
『分』が、
『無い!』のに、
何故、
『破られるのですか?』。
答曰。至微無實強為之名。何以故麤細相待。因麤故有細。是細復應有細。 答えて曰く、至微にも実無く、強いて之を名と為すのみ。何を以っての故に、麁細相待すればなり。麁に因るが故に細有り。是の細にも復た応に細有るべし。
答え、
『至微(極微)』にも、
『実』は、
『無い!』、
強いて、
『至微』と、
『呼ぶだけである!』。
何故ならば、
『麁』と、
『細』とは、
『相待しており!』、
『麁』に、
『因る!』が故に、
『細』が、
『有り!』、
是の、
『細』よりも、
もっと、
『細』が、
『有るはずだからである!』。
復次若有極微色。則有十方分。若有十方分是不名為極微。若無十方分則不名為色。 復た次ぎに、若し極微の色有らば、則ち十方の分有らん。若し十方の分有れば、是れを名づけて、極微と為さず。若し十方の分無ければ、則ち名づけて色と為さず。
復た次ぎに、
若し、
『極微』の、
『色(物体)』が、
『有る!』ならば、
『十方』に、    ――十方に面が有るはず!――
『分』が、
『有るはずである!』。
若し、
『十方』の、
『分』が、
『有れば!』、
是れを、
『極微』とは、
『呼ばない!』。
若し、
『十方』の、
『分』が、
『無ければ!』、
是れを、
『色』とは、
『呼ばない!』。
復次若有極微則應有虛空分齊。若有分者則不名極微。 復た次ぎに、若し極微有らば、則ち応に虚空の分斉有るべし。若し分有れば、則ち極微と名づけず。
復た次ぎに、
若し、
『極微』が、
『有れば!』、
『虚空(空間)』の、     ――微細が虚空中に占有する体積分の隙間――
『分斉(少分)』が、
『有るはずである!』。
若し、
『分(体積)』が、
『有れば!』、
則ち、
『極微』とは、
『呼ばれない!』。
  分斉(ぶんさい):梵語 pariccheda の訳、少分、部分( cutting , severing , division )、隙間( separation )の義。
  虚空(こくう):梵語阿迦舎aakaaza の訳。空間( a free or open space )、真空( vacuity )の義。(一)七十五法の一、百法の一。無為法の一種なり。説一切有部、経量部等に於いてはこれを三無為の一とし、大衆等の四部並びに化地部の「本宗同義」は九無為の一とし、「大乗五蘊論」には四無為の一とし、「百法明門論」、「成唯識論巻2」等には六無為の一とし、「瑜伽師地論巻3」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」等には八無為の一と為せり。その解釈も諸部に依りて一定ならず。「倶舎論巻1」に、「虚空は但だ無礙を以って性と為す。無障に由るが故に、色は中に於いて行ず」と云えり。これ説一切有部の説なり。「同論宝疏巻1」にこれを釈して「虚空但以無礙為性とは余法に簡するなり。無礙の言は色法に簡す、色は有礙なるが故なり。但以の言は心心所及び不相応と二種の無為とに簡す。これ等の諸法は体無礙なること虚空に同じと雖も、更に別体あり。これ但だ無礙を以って性と為すに非ず。色於中行とは虚空の相を釈するなり。色はこれ礙法なり、空の中に於いて行ずるは空の無礙なるを顕わす。礙法の中に於いては行ずることを得ざるが故なり。無礙の法も空の中に於いて行ずれば無礙を顕わす、礙法の中に於いても亦た行ずることを得るが故なり。正理に釈して云わく、虚空は但だ無礙を以って性と為す。中に於いて諸法は最も極めて顕現するが故に虚空と名づく。これ即ち無障を以ってその相と為す。所有の大種及び造色聚は一切遍く覆障すること能わざるが故なり。或は所障に非ず亦た能障ならず、この故に説いて無障を相と為すと言うと。この論文に準ずるに、能所障に非ずとは空界の色に簡す。能障なしと雖もこれ所障なるが故なり。但だ無礙を以って性と為すことこの論と同じ」と云えり。これ即ち虚空は色法の如く有礙に非ず。また心心所等は無礙なりと雖も各別の体性あるが故に、但だ無礙を以って性と為すと言うべからず。空界の色は能障なしと雖も所障あるが故に、亦た無障を以って相と為すと言うべからず。唯虚空のみ但だ無礙を以って性と為すと説くことを得と云うの意なり。また「入阿毘達磨論」に、「有礙の物を容るるこれ虚空の相なり。この増上力にて彼れ生ずることを得るが故に、能く容受する所ある、これ虚空の性なるが故なり。此れ若し無くんば、諸の有礙の物は応に生ずることを得ざるべし、容るるもの無きが故なり。世尊説くが如き、梵志当に知るべし、風は虚空に依る。婆羅門曰わく、虚空は何に依る。仏復た告げて言わく、汝が問は理に非ず、虚空は無色無見無対なり。当に何をか所依とすべき。然るに光明あれば虚空了すべし。故に知りぬ、実に虚空無為あり」と云えり。蓋し虚空は謂わゆる空間なりと雖も、説一切有部に於いてはかくの如く別に実体ありとし、これを空界と区別し、即ち空界の為に近増上縁となるものを称すとせり。「大毘婆沙論巻75」に、「虚空は無為にして作用あることなし。然るに此れ能く種種の空界のために近増上縁と作る。彼の種種の空界は能く種種の大種のために近増上縁と作り、彼の種種の大種は能く有対の造色等のために近増上縁と作り、彼の有対の造色は能く心心所法のために近増上縁と作る。若し虚空なくんばかくの如き展転因果次第皆成立せず。此の失あること勿かれ。この故に虚空は体相実有なり、撥無すべからず」と云える即ちその意なり。然るに経量部に於いては虚空と空界との別を立てず、唯触るる所なきを称して虚空と名づく。別に実体あるに非ずとなせり。「倶舎論巻6」に経部師の説を挙げて、「唯触るる所なきを説いて虚空と名づく。謂わく暗中に於いて触対する所なければ、便ちこの説を作す、此れはこれ虚空なり」と云えるこれなり。大乗に於いては、虚空等の無為法は仮有にして、色心等に離れて別にその体あるに非ずと雖も、而も一には識変に依り、二には法性に依りて、仮にこれを有と施設す。謂わゆる識変に依るとは、かつて虚空の名を説くを聞き、数習分別の力に由りて、心等の生ずる時、色等の礙なき相現ずることあるを乃ち虚空と名づく。これ実に有為なりと雖も、所現の相は前後相似して変易あることなきが故に、仮に説いて常と為す。法性に依るとは、空無我所顕の真如は心言路絶すと雖も、その体は諸の障礙を離れたるが故に虚空と名づく。これ即ち余の択滅等に同じく、皆真如に依りて仮立する所なりとせり。「成唯識論巻2」等に論ずる所の如し。また「宗鏡録巻6」には、虚空に無障礙、周徧、平等、広大、無相、清浄、不動、有空、空空、無得の十義あることを説き、これを真如の理に比況せり。また印度外道中、口力論師は虚空を以って万物の真因と計し、虚空より風を生じ、乃至地より種種の薬草を生じ、薬草より五穀生命を生ず。後時に虚空に還没するを涅槃と名づく。虚空はこれ実、これ常、これ一にして、涅槃の因なりと説けり。「外道小乗涅槃論」に述ぶる所の如し。また「異部宗輪論」、「同述記」、「顕揚聖教論巻1、巻18」、「瑜伽師地論巻53」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻1」、「順正理論巻1」、「大乗義章巻2」、「百論疏巻下の中」、「成唯識論述記巻2末」、「雑集論述記巻5」、「倶舎論光記巻1、巻6」等に出づ。(二)空界の別称。六界の一。また空界の色と名づけ、或は前の虚空を無為虚空と称するに対し、有為虚空とも名づく。即ち隣阿伽色にして、内外の竅隙を云う。「倶舎論巻1」に、「諸有の門牕及び口鼻等の内外の竅隙を名づけて空界と為す。かくの如き竅隙は云何が応に知るべき。伝説すらく、竅隙は即ちこれ明闇なり。明闇を離れたる竅隙は取るべきに非ず。故に空界は明闇を体と為すと説く。応に知るべし、此の体は昼夜を離れず。即ち此れを説いて隣阿伽色と名づく。伝説すらく、阿伽は謂わく積聚の色なり、極めて能く礙を為すが故に阿伽と名づく。此の空界の色は彼れと相隣る、この故に説いて隣阿伽色と名づく。有説は阿伽は即ち空界の色なり。此の中、無礙の故に阿伽と名づく。即ち阿伽色は余の礙と相隣る。この故に説いて隣阿伽色と名づく」と云い、また「瑜伽師地論巻54」に、「明闇所摂の造色を説いて空界と名づく。此れに亦た二種あり、一に恒相続、二は不恒相続なり。若し諸の有情所居の処所の常闇常明なるを恒相続と名づけ、余の爾らざる処は恒相続に非ず。当に知るべし、此れ亦た色聚に依止す。また此の空界は光明に摂せらるれば、名づけて清浄と為し、隙穴に摂せらるれば不清浄と名づく」と云えるこれなり。空界と虚空との別に関しては多種あり。「大毘婆沙論巻75」に依るに、虚空は色に非ず、空界はこれ色なり。虚空は無見、空界は有見なり。虚空は無対、空界は有対なり。虚空は無漏、空界は有漏なり。虚空は無為、空界は有為なり。但し諸経に空界を虚空と称することあり。世尊、手を以って虚空を摩捫すと云い、或は鳥は虚空に帰ると云い、また虚空に鳥跡なしと云うが如き、皆並びに空界に於いて虚空の称を説けるものなりと云えり。また説一切有部に於いては、空界の色はかくの如く明闇を以って体とし、即ち実有なりとなすも、他の諸部に於いてはこれを否定せり。また「法蘊足論巻10」、「順正理論巻2」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻3」、「大乗義章巻2」、「百論疏巻下の中」、「倶舎論光記巻1余」、「瑜伽論記巻14下」等に出づ。
  :虚空に就いては、色の存在を許す空間を云う。蓋し虚空分斉とは極微の存在を許す空間を云い、極微の分と為す。
復次若有極微。是中有色香味觸作分。色香味觸作分。是不名極微。 復た次ぎに、若し極微有らば、是の中に色、香、味、触の作分有らん。色、香、味、触の作分は、是れを極微と名づけず。
復た次ぎに、
若し、
『極微』が、
『有れば!』、
是の中に、
『色、香、味、触』という、
『作(作用)』の、
『分』が、
『有るはずだが!』、
『色、香、味、触』の、
『作分』を、
『極微』とは、
『称しない!』。
  (さ):造る( create )。(1)梵語 iihate , karoti の訳、作る、行う、書く、設立、発表、完成( To make, to do. To write literature, compose music, create works of art, etc. To establish, to put forth, to finish )の義。(2)梵語 kriyaa の訳、機能、活動、特に道徳的影響に関しない純粋な行動( function, activity, esp. sheer action devoid of moral or ethical influence )の義。(3)梵語 karman の訳、 行為、行動、ふるまい( Act, deed, conduct )の義。(4)梵語 karaNa の訳、効果的原因( efficient causality )の義。(5)梵語 krtaa- katva , krtaa の訳、造られたもの、特に因縁の所造( That which has been made, formed or created, especially from conditions )の義。
以是推求微塵則不可得。如經言。色若麤若細若內若外。總而觀之無常無我。不言有微塵。是名分破空。 是を以って推求すれば、微塵は則ち得べからず。経に、『色の若しは麁、若しは細、若しは内、若しは外なる、総じて之を観れば、無常、無我なり』と言うが如く、『微塵有り』とは言わず、是れを分けて破る空と名づく。
是のように、推求すれば、――
『微塵』は、
『不可得であり!』、
『経』には、――
『色』は、
『麁であろうが!』、
『細であろうが!』、
『内であろうが!』、
『外であろうが!』、
総じて、
観察すれば、――
『無常であり!』、
『無我である!』とは、
『言っている!』が、
『色』の、
『微塵』が、
『有る!』とは、
『言っていない!』、
是れを、
『分けて破る!』、
『空』と、
『称する!』。
  微塵(みじん):梵語 aNu-rajas の訳。眼根所取の最も微細なる色量をいう。『大智度論巻5上注:微塵』参照。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻24善達品』:『何等為相。須菩提。有二種相。凡夫人所著處。何等為二。一者色相。二者無色相。須菩提。何等名色相。諸所有色若麤若細若好若醜皆是空。是空法中憶想分別著心取相。是名為色相。何等是無色相。諸無色法憶想分別著心取相故生煩惱。是名無色相。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。以方便力故教眾生遠離是相著。無相法中令不墮二法。所謂是相是無相。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。教眾生遠離相令住無相性中。』
復有觀空。是疊隨心有。如坐禪人。觀疊或作地或作水或作火或作風。或青或黃或白或赤或都空。如十一切入觀。 復た有るいは空を観るに、是の畳は、心に隨いて有り。坐禅人の畳を観るが如きは、或いは地と作り、或いは水と作り、或いは火と作り、或いは風と作り、或いは青、或いは黄、或いは白、或いは赤、或いは都べて空なること、十一切入の観の如し。
復た、
有るいは、
『空』を、
『観れば!』、――
是の、
『畳』は、
『心』に、
『隨って!』、
『有る(存在する)!』ので、
『坐禅人』などが、
『畳』を、
『観れば!』、――
或いは、
『地』や、
『水』や、
『火』や、
『風』と、
『作り!』、
或いは、
『青であったり!』、
『黄であったり!』、
『白であったり!』、
『赤であったり!』、
或いは、
皆、
『空であったり!』するので、
例えば、
『十一切入』に、
『入って!』、
『観るかのようである!』。
  十一切入(じゅういっさいにゅう):行者が定に入りて、地水火風、青黄赤白、識、空の十種の法が、一切処に遍満すとする観想をいう。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
如佛在耆闍崛山中。與比丘僧俱入王舍城。道中見大水。佛於水上敷尼師壇坐。告諸比丘。若比丘入禪心得自在。能令大水作地即成實地。何以故。是水中有地分故。如是水火風。金銀種種寶物即皆成實。何以故。是水中皆有其分。 仏の耆闍崛山中に在して、比丘僧と倶に、王舎城に入り、道中に大水を見たもうが如し。仏は、水上に尼師壇を敷いて坐し、諸の比丘に告げたまわく、『若し比丘、禅に入りて、心に自在を得ば、能く大水をして地と作して、即ち実の地を成ぜしめん。何を以っての故に、是の水中に地分有るが故なり。是の如く水、火、風、金銀、種種の宝物も、即ち皆実を成ぜしめん。何を以っての故に、是の水中には、皆其の分有ればなり』、と。
『仏』が、
『耆闍崛山』中に、
『在られた!』時のことである、――
『比丘僧』と、
『いっしょに!』、
『王舎城』に、
『入ろうとされた!』が、
『道』中に、
『大河』が、
『現われた!』。
『仏』は、
『大河』上に、
『尼師壇(坐具)』を、
『敷いて!』、
『坐られる!』と、
諸の、
『比丘』たちに、こう告げられた、――
若し、
『比丘』が、
『禅定』に入って、
『自在』を、
『得たならば!』、
『大河』を、
『地』に、
『作らせて!』、
『実』の、
『地』を、
『造らせることができる!』。
何故ならば、
是の、
『水』中には、
『地』の、
『分』が、
『有るからである!』。
是のように、
『水』や、
『火』や、
『風』や、
『金銀』、
『種種の宝物』も、
皆、
『実物』を、
『造らせることができる!』、
何故ならば、
是の、
『水』中には、
皆、
其の、
『分』が、
『有るからである!』、と。
  尼師壇(にしだん):梵語niSiidana 、即ち坐具と訳す。
  参考:『雑阿含経巻18(494)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。尊者舍利弗在耆闍崛山中。爾時。尊者舍利弗晨朝著衣持缽。出耆闍崛山。入王舍城乞食。於路邊見一大枯樹。即於樹下敷坐具。[僉*殳]身正坐。語諸比丘。若有比丘修習禪思。得神通力。心得自在。欲令此枯樹成地。即時為地。所以者何。謂此枯樹中有地界。是故。比丘得神通力。心作地解。即成地不異。若有比丘得神通力。自在如意。欲令此樹為水.火.風.金.銀等物。悉皆成就不異。所以者何。謂此枯樹有水界故。是故。比丘。禪思得神通力。自在如意。欲令枯樹成金。即時成金不異。及餘種種諸物。悉成不異。所以者何。以彼枯樹有種種界故。是故。比丘。禪思得神通力。自在如意。為種種物悉成不異。比丘當知。比丘禪思神通境界不可思議。是故。比丘。當勤禪思。學諸神通。舍利弗說是經已。諸比丘聞其所說。歡喜奉行』
復次如一美色。婬人見之以為淨妙心生染著。不淨觀人視之種種惡露無一淨處。等婦見之妒瞋憎惡目不欲見以為不淨。 復た次ぎに、一美色の如きに、婬人は、之を見て、以って浄妙と為し、心に染著を生ずるも、不浄観の人は、之に種種の悪露の、一の浄処無きを視る。等しく婦は、之を見て、妒瞋、憎悪し、目に見るを欲せず、以って不浄と為す。
復た次ぎに、
『一美人』の、
『肉体』であっても、――
『婬人』が、
これを、見れば、――
『浄妙である!』と、
『思って!』、
『心』に、
『染著』を、
『生じる!』し、
『不浄観の人』が、
これを、視れば、――
種種の、
『悪露』で、
『一浄処』すら、
『無い!』し、
『等しく!』、
『婦』が、
これを、見れば、――
『妬み!』と、
『瞋り!』に、
『憎悪して!』、
『目』には、
『見たい!』とも、
『思わない!』のに、
これを、
『不浄だ!』と、
『考える!』。
  美色(みしき):美人の肉体。
婬人觀之為樂。妒人觀之為苦。行人觀之得道。無豫之人觀之無所適莫。如見土木。 婬人は、之を観て楽と為し、妒人は、之を観て苦と為し、行人は、之を観て、道を得、無豫の人は、之を観て、適莫する所の無きこと、土木を見るが如し。
『婬人』が、
これを、観ると、――
『楽しみだ!』と、
『思い!』、
『妒人』が、
これを、観ると、――
『苦しみだ!』と、
『思い!』、
『行人』が、
これを、観ると、――
『道』を、
『得て!』、
『心』に、
『余裕の無い人』が、
これを、観ると、――
『好き!』も、
『嫌い!』も、
『無く!』、
まるで、
『土木』を、
『見るようである!』。
  無豫(むよ):心中に和悦無きさま。
  適莫(ちゃくまく):好むと憎む。好悪。
若此美色實淨。四種人觀皆應見淨。若實不淨。四種人觀皆應不淨。以是故知。好醜在心。外無定也。觀空亦如是。 若し、此の美色にして、実に浄ならば、四種の人観て、皆、応に浄を見るべし。若し、実に不浄ならば、四種の人観て、皆、応に不浄なるべし。是を以っての故に知る、『好醜は心に在りて、外に定まりたる無し。空を観るも、亦た是の如し』、と。
若し、
此の、
『美人』の、
『肉体』が、
『実』に、
『浄であれば!』、
『四種』の、
『人』が、
『観ても!』、――
皆が、
『浄だ!』と、
『見るはずであり!』、
若し、
『実』に、
『不浄ならば!』、
『四種』の、
『人』が、
『観ても!』、――
皆が、
『不浄だ!』と、
『見るはずである!』。
是の故に、
こう知る、――
『好である!』とか、
『醜である!』とかは、
『心』に、
『在って!』、
『外』には、
『定まった!』ものが、
『無い!』。
『空』を、
『観る!』のも、
亦た、
『是の通りだ!』、と。
復次是疊中有十八空相故觀之便空。空故不可得。如是種種因緣財物空。決定不可得。 復た次ぎに、是の畳中に、十八の空相有るが故に、之を観れば、便ち空なり。空なるが故に不可得なり。是の如き種種の因縁に、財物は空にして、決定して不可得なり。
復た次ぎに、
是の、
『畳』中には、
『十八種』の、
『空相』の、
『有る!』が故に、
是れを、
『観れば!』、
『空であり!』、
『空である!』が故に、
是の、
『畳』は、
『不可得である!』。
是のような、
種種の、
『因縁』により、
『財物』は、
『空であり!』、
『財物』は、
『決定して!』、
『不可得である!』。
  十八空相(じゅうはちのくうそう):空に十八種の別あるをいう。『大智度論巻31(上)』参照。



施す人が不可得であるとは?

云何施人不可得。如疊因緣。和合故有。分分推之疊不可得。施者亦如是。四大圍虛空名為身。是身識動作來往坐起。假名為人。分分求之亦不可得。 云何が、施人の不可得なる。畳の因縁の和合の故に有り、分分して之を推せば、畳は不可得なるが如く、施者も亦た是の如く、四大の、虚空を囲むを名づけて、身と為す。是の身に識動きて、来、往、坐、起を作すに、仮名して人と為すも、分分して之を求むれば、亦た不可得なり。
何故、
『施す!』、
『人』は、
『不可得なのか?』、――
例えば、
『畳』が、
『因縁』の、
『和合』の故に、
『有る!』が、
『分分して!』、
『推求すれば!』、
『畳』は、
『不可得であるように!』、
『施者』も、
是のように、
『四大』に、
『囲まれた!』、
『虚空』を、
『身』と、
『呼び!』、
是の、
『身』中に、
『識』が、
『動いて!』、
『来、往、坐、起』を、
『作す!』のを、
『仮名して!』、
『人だ!』と、
『思う!』が、
『分分して!』、
『求めれば!』、
『人』は、
『不可得である!』。
復次一切眾界入中我不可得。我不可得故施人不可得。何以故。我有種種名字。人天男女施人受人受苦人受樂人畜生等。是但有名而實法不可得。 復た次ぎに、一切の衆、界、入中に、我は不可得なり。我の不可得なるが故に、施人は不可得なり。何を以っての故に、我には、種種の名字有り、人、天、男、女、施人、受人、受苦人、受楽人、畜生等なり。是れ但だ、名のみ有りて、実法は不可得なり。
復た次ぎに、
一切の、
『五衆』、
『十八界』、
『十二入』中に、
『我』は、
『不可得であり!』、
『我』が、
『不可得である!』が故に、
『施す!』、
『人』も、
『不可得である!』。
何故ならば、
『我』には、
種種の、
『名字』が、
『有る!』が、
是の、
『人』、
『天』、
『男』、
『女』、
『施人』
『受人』、
『受苦人』、
『受楽人』
『畜生』等の、
『名字』は、
但だ、
『名』が、
『有るだけ!』で、
『実』の、
『法』は、
『不可得だからである!』。
  衆界入(しゅかいにゅう):五衆、十八界、十二入にして、総じて人の身心を云う。また陰界入、陰入界、陰入持、蘊処界とも称す。『大智度論巻5(上)注:三科』参照。
問曰。若施者不可得。云何有菩薩行檀波羅蜜。 問うて曰く、若し施者不可得ならば、云何が、菩薩有りて、檀波羅蜜を行ずる。
問い、
若し、
『施者』が、
『不可得である!』とすれば、
何故、
『菩薩』が、
『有って!』、
『檀波羅蜜』を、
『行うのですか?』。
答曰。因緣和合故有名字。如屋如車實法不可得。 答えて曰く、因縁の和合の故に、名字有り。屋の如く、車の如きの実法は不可得なればなり。
答え、
『因縁』の、
『和合』の故に、
『名字』が、
『有る!』ので、
例えば、
『屋』や、
『車』などの、
『実の法』は、
『不可得だからである!』。
問曰。云何我不可得。 問うて曰く、云何が、我の不可得なる。
問い、
何故、
『我』は、
『不可得なのですか?』。
答曰。如上我聞一時中已說。今當更說。佛說六識。眼識及眼識相應法共緣色。不緣屋舍城郭種種諸名。耳鼻舌身識亦如是。 答えて曰く、上の『我聞一時』中に已に説けるが如し。今当に更に説くべし。仏の説きたまわく、『六識の眼識、及び眼識相応の法は、共に色を縁ずるも、屋舎、城郭、種種の諸名を縁ぜず。耳鼻舌身の識も亦た是の如し。
答え、
上の、
『我聞一時』中に、
已に、
『説いた通りである!』が、
今、
更に、
『説くことにしよう!』、――
『仏』は、
こう説かれている、――
『六識』の、
『眼識』と、
『眼識相応の法』とは、
いっしょに、
『色』を、
『縁じる!』が、
『屋舎』や、
『城郭』という、
種種、
諸の、
『名』を、
『縁じるのではない!』。
『六識』の、
『耳識』、
『鼻識』、
『舌識』、
『身識』も、
『是の通りである!』。
  参考:『大方等大集経巻28』:『是法界中。無眼可見相。耳可聞相。鼻可嗅相。舌可別相。身可覺相。意可知相。法界眼識界。耳鼻舌身意識界。是法界中。無眼識知色。乃至無意識知法。法界色界法界非色作相。乃至法界亦復如是。』
意識及意識相應法。知眼知色知眼識。乃至知意知法知意識。是識所緣法皆空無我生滅故。不自在故。 意識、及び意識相応の法は、眼を知り、色を知り、眼識を知り、乃至意を知り、法を知り、意識を知るも、是の識の所縁の法は、皆空にして、無我なり。生滅の故にして、自在ならざるが故なり。
『意識』と、
『意識相応の法』とは、
『眼』や、
『色』や、
『眼識』を、
『知り!』、
乃至、
『意』や、
『法』や、
『意識』を、
『知る!』が、
是の、
『意識』に、
『縁じられる(知られる)!』、
『法』は、
皆、
『空であり!』、
『無我である!』、
何故ならば、
『生滅するからであり!』、
『自在でないからである!』。
無為法中亦不計我。苦樂不受故。是中若強有我法。應當有第七識識我。而今不爾。以是故知無我。 無為法中にも亦た、我を計せず。苦楽を受けざるが故なり。是の中に、若し強いて、我法有らしめば、応当に、第七の識有りて、我を識るべけんに、今は爾らず。是を以っての故に、無我なるを知る。
『無為法』中にも、
亦た、
『我』を、
『計ることはできない!』。
何故ならば、
『苦楽』を、
『受けないからである!』。
是の中に、
若し、
強いて、
『我』という、
『法』を、
『計ろう(存在させよう)!』とすれば、
当然、
『第七』の、
『識』が、
『有って!』、
『我』を、
『識るはずだが!』、
而し、
今は、
『そうなっていない!』。
是の故に、
こう知る、――
『無我である!』、と。
  (けい):はかる。測量する。謀略する。
問曰。何以識無我。一切人各於自身中生計我。不於他身中生我。若自身中無我。而妄見為我者。他身中無我亦應於他身而妄見為我。 問うて曰く、何を以ってか、無我なるを識る。一切の人は、各、自身中に我を計って生じ、他身中には我を生ぜず。若し自身中に我無く、而も妄見して我と為さば、他身中にも我無くして、亦た応に他身に於いて、妄見して我と為すべし。
問い、
何故、
『無我だ!』と、
『識るのですか?』。
一切の、
『人』は、
各、
『自身』中に、
『我』を、
『計って!』、
『生じ!』、
『他身』中には、
『我』を、
『生じない!』が、
若し、
『自身』中に、
『我』が、
『無い!』のに、
『妄見して!』、
『我だ!』と、
『思うのであれば!』、
亦た、
『他身』中に、
『我』が、
『無く!』ても、
『妄見』して、
『我だ!』と、
『思うはずです!』。
復次若內無我。色識念念生滅。云何分別知是色青黃赤白。 復た次ぎに、若し内に無我なれば、色の識は念念に生滅せん。云何が、分別して、是の色の青黄赤白を知らん。
復た次ぎに、
若し、
『内』に、
『我』が、
『無ければ!』、
『色』の、
『識』は、
『念念に!』、
『生滅する!』のに、
何故、
是の、
『色』を、
『分別して!』、
『青だ!』、
『黄だ!』、
『白だ!』、
『赤だ!』と、
『知るのですか?』。
復次若無我今現在人識。漸漸生滅。身命斷時亦盡諸行罪福。誰隨誰受。誰受苦樂誰解脫者。如是種種內緣故。知有我。 復た次ぎに、若し無我なれば、今現在の人の識は、漸漸に生滅すれば、身命の断ずる時には、亦た諸行の罪福も尽きん。誰か隨い、誰か受け、誰か苦楽を受け、誰か解説する者なる。是の如く種種に内を縁ずるが故に、我有るを知る。
復た次ぎに、
若し、
『我』が、
『無ければ!』、――
今、
『現在の人』の、
『識』は、
『漸漸に(次第に)!』、
『生滅する!』ので、
『身命』の、
『断じる!』時には、
亦た、
『諸行』の、
『罪福』も、
『尽きるだろう!』
誰が、
『罪福』に、
『隨うのか?』、
誰が、
『生』を、
『受けるのか?』、
誰が、
『苦楽』を、
『受けるのか?』、
誰が、
『解脱する!』者なのか?
是のように、
種種に、
『内()』を、
『縁じる(観察する)!』が故に、
『我』は、
『有る!』と、
『知るのである!』。
答曰。此俱有難。若於他身生計我者。復當言。何以不自身中生計我。 答えて曰く、此れ倶に難有り。若し、他身に我を計って生ぜば、復た当に言うべし、『何を以ってか、自身中に、我を計って生ぜざる』、と。
答え、
此れには、
皆、
『難』が、
『有る!』。
若し、
『他身』中に、
『我』を、
『計って!』、
『生じれば!』、
きっと、
こう言うことになるからだ、――
『自身』中に、
何故、
『我』を、
『計って!』、
『生じないのか?』、と。
  :架空の事を以って、証となすべからず。
復次五眾因緣生故空無我。從無明因緣生二十身見。是我見自於五陰相續生。以從此五眾緣生故。即計此五眾為我。不在他身以其習故。 復た次ぎに、五衆は、因縁生の故に空、無我にして、無明の因縁に従って、二十身見を生ず。是の我見は、自らを、五陰に於いて相続して生じ、此の五衆の縁に従って、生ずるを以っての故に、即ち、此の五衆を計って我と為すも、他身には在らず、其の習を以っての故なり。
復た次ぎに、
『五衆』は、
『因縁生である!』が故に、
『空であり!』、
『無我である!』が、
『無明』という、
『因縁』により、
『二十身見』を、
『生じる!』と、
是の、
『我見』が、
『自ら()!』を、
『五陰(五衆)』中に、
『相続して!』、  ――過去、現在、未来に相続して――
『生じる!』のであり、
此の、
『五衆』を、
『縁じて!』、
『生じる!』が故に、
此の、
『五衆』を、
『計って!』
『我だ!』と、
『思う!』。
『他身』に、
『我』が
『存在しない!』のは、
『我見』という、
『習(習慣)』が、
『我』を、
『五衆』に、
『計るからである!』。
  二十身見(にじゅうしんけん):二十の身見を云う。即ち「舎利弗阿毘曇論巻20」に、「何をか二十種の身見と謂う。或はある人の謂わく、色是我、色中有我、我是色有、色是我有なり、受想行識もまたかくの如し、これを二十種の身見と名づく」と云えるこれなり。この中、色是我とは、色は即ち我なりと云い、色中有我とは、色中に我有るも色即我ならざることを云い、我是色有とは、我は色の所有なることを云い、色是我有とは色は我の所有なることを云うなり。『大智度論巻5(下)注:六十二見』参照。
  五陰(ごおん):梵語 paJcasuupaadaana- skandheSu の訳。の五種に分類された、自分自身を取得する為めの行為( the act of taking for one's self , appropriating to one's self )の意。通常五衆、五蘊に同じ。
復次若有神者可有彼我。汝神有無未了而問彼我。其猶人問兔角。答似馬角。馬角若實有可以證兔角。馬角猶尚未了。而欲以證兔角。 復た次ぎに、若し神有らば、彼、我有るべし。汝が神の有無、未だ了(あき)らかならざるに、彼我を問わば、其れ猶お、人の兔角を問うに、馬の角に似たりと答うるがごとし。馬の角、若し実に有らば、以って兔角の証すべきも、馬の角、猶尚お未だ了らかならざるに、以って兔角を証せんと欲す。
復た次ぎに、
若し、
『神(我の主)』が、
『有れば!』、
『彼れ!』とか、
『我れ!』も、
『有るだろうが!』、
お前の、
『神』は、
『有る!』とも、
『無い!』とも、
未だ、
『了(あき)らかでない!』のに、
お前は、
『彼れ!』とか、
『我れ!』とかを、
『問うている!』。
其れは、
猶お、
『兔の角』を、
『人』が、
『問うた!』のに、
『馬の角』に、
『似ている!』と、
『答えるようなものだ!』。
若し、
『馬の角』が、
『実』に、
『有れば!』、
それで、
『兔の角』を、
『明かすこともできようが!』、
『馬の角』が、
未だ、
『了らかでない!』のに、
それで、
『兔の角』を、
『明かそうとしているのだ!』。
  (じん):梵語 puruSa の訳。外道所執の実我。『大智度論巻2下注:神、同巻22上注:神、数論』参照。
復次自於身生我故便自謂有神。汝言神遍亦應計他身為我以是故不應言自身中生計我心於他身不生。故知有神。 復た次ぎに、自らの、身に於いて我を生ずるが故に、便ち、自らに、『神有り』と謂う。汝が、『神は遍し』と言わば、亦た応に他身に計りて、我と為すべし。是を以っての故に、応に言うべからず、『自身中に、我心を計って生ずれば、他身に於いて生ぜず、故に神有るを知る』、と。
復た次ぎに、
自らの、
『身』中に、
『我』を、
『生じる!』が故に、
自らに、
『神』が、
『有る!』と、
『謂っている!』が、
お前が、
『神』は、
『遍在する!』と、
『言う!』ならば、
亦た、
『他身』中に、
『計って!』、
『我である!』と、
『思うはず!』であり、
是の故に、
こう言うべきでない、――
『自身』中に、
『我心』を、
『計って!』、
『生じた!』ので、
是の故に、
『他身』中には、
『我心』を、
『生じない!』。
故に、
『神』が、
『有る!』ことを、
『知る!』、と。
復次有人於他物中我心生。如外道坐禪人。用地一切入觀時。見地則是我我則是地。水火風空亦如是。顛倒故於他身中亦計我。 復た次ぎに、有る人は、他物中に於いて、我心を生ず。外道の坐禅人の如きは、地一切入を用いて、観る時、地は、則ち是れ我れなり、我れは、則ち是れ地なりと見て、水、火、風、空も亦た是の如し。顛倒の故に、他身中に於いて、亦た我を計るなり。
復た次ぎに、
有る人は、
『他物』中にも、
『我心』を、
『生じる!』。
例えば、
『外道』の、
『坐禅人』などが、
『地一切入』を、
『用いて!』、
『観る!』時には、
『顛倒』の故に、
『地』は、
『我れである!』、
『我れ』は、
『地である!』と、
『見るのであり!』、
『水、火、風、空』も、
亦た、
『是の通りである!』が、
『顛倒』の故に、
『他身』中にも、
亦た、
『我』を、
『計るのである!』。
復次有時於他身生我。如有一人受使遠行。獨宿空舍。夜中有鬼擔一死人來著其前。復有一鬼逐來瞋罵前鬼。是死人是我物。汝何以擔來。先鬼言是我物我自持來。後鬼言是死人實我擔來。二鬼各捉一手爭之。 復た次ぎに、有るいは時に、他身に於いて、我を生ず。有る一人の如し、使を受けて遠行し、独り空舎に宿れり。夜中有る鬼、一死人を擔(かつ)ぎ来たりて、其の前に著(お)けり。復た有る一鬼、逐うて来たりて、前の鬼を瞋罵すらく、『是の死人は、是れ我が物なり。汝は何を以ってか、擔ぎ来たる』、と。先の鬼の言わく、『是れ我が物なり。我れ自ら持ち来たれり』、と。後の鬼の言わく、『是の死人は、実に我れ擔ぎ来たれり』、と。二鬼は、各、一手を捉えて之を争う。
復た次ぎに、
時には、
『他身』に、
『我』を、
『生じることもある!』。
例えば、
有る、
『一人』のことである、――
『使命』を、
『受けて!』、
『遠くへ行き!』、
『空舎』に、
『独りで!』、
『宿ることになった!』。
夜中に、
有る、
『一鬼』が、
『一死人』を、
『擔(かつ)いで!』、
『来る!』と、
『その人』の、
『前に!』、
『置いた!』。
復た、
有る、
『一鬼』が、
『前の鬼』を、
『逐って!』、
『来る!』と、
『瞋って!』、
こう罵った、――
是の、
『死人』は、
『俺の物だ!』、
お前は、
何故、
『擔いで来たのだ!』、と。
『先の鬼』は、
こう言った、――
是れは、
『俺の物だ!』、
俺が、
『自分で!』、
『持って来たのだ!』、と。
『後の鬼』は、
こう言った、――
是の、
『死人』は、
本当に、
『俺が!』、
『擔いで来たのだ!』、と。
『二鬼』は、
各、
片方の、
『手』を、
『捉えて!』、
是の、
『死人』を、
『争った!』。
前鬼言此有人可問。後鬼即問。是死人誰擔來。是人思惟。此二鬼力大。若實語亦當死。若妄語亦當死。俱不免死何為妄語。語言。前鬼擔來。 前の鬼の言わく、『此に人有り、問うべし』、と。後の鬼の即ち問わく、『是の死人は、誰か擔ぎ来たれる』、と。是の人の思惟すらく、『此の二鬼は、力大なり。若し実語せば、亦た当に死すべし。若し妄語せば、亦た当に死すべし。倶に死を免れずんば、何んが妄語を為さん』と、語りて言わく、『前の鬼、擔ぎ来たれり』、と。
『前の鬼』が、
こう言った、――
此(ここ)にいる、
『人』に、
『聞けばよかろう!』、と。
『後の鬼』は、
すぐに、こう問うた、――
是の、
『死人』は、
『誰が』、
『擔いで来たのだ?』、と。
是の、
『人』は、こう思惟した、――
此の、
『二鬼』は、
『力』が、
『大きい!』。
若し、
『本当』を、
『言えば!』、
『当然、死ぬことになろう!』、
若し、
『嘘』を、
『言っても!』、
『やっぱり、死ぬことになろう!』、
『死』は、
『どちらにしても!』、
『免れないとすれば!』、
何の為めに
『嘘』を、
『言うのか?』、と。
そこで、こう言った、――
『前の鬼』が、
『擔いで来た!』、と。
後鬼大瞋。捉人手拔出著地。前鬼取死人一臂拊之即著。如是兩臂兩腳頭脅舉身皆易。於是二鬼共食所易人身拭口而去。 後の鬼は大いに瞋りて、人の手を捉え、抜き出して地に著けば、前の鬼、死人の一臂を取りて、之を拊(う)てば、即ち著く。是の如く両臂、両脚、頭、脇、身を挙げて皆易(か)う。是(ここ)に於いて、二鬼は共に易うる所の人身を食い、口を拭いて去れり。
『後の鬼』は、
大いに、
『瞋り!』、
『此の人』の、
『手』を、
『捉えて!』、
『抜き出す!』と、
『地』に、
『置いた!』。
『前の鬼』が、
『死人』の、
『一臂』を、
『取って!』、
『此の人』に、
『打ちつける!』と、
『すぐに付いた!』。
是のようにして、
『両臂』、
『両脚』、
『頭』、
『脇』と、
『身』を、
『挙げて!』、
皆、
『易()えてしまう!』と、
是の、
『状況』に、
『満足して!』、
『二鬼』は、
いっしょに、
『易えられた!』、
『人』の、
『身』を、
『食い!』、
『口』を、
『拭って!』、
『行ってしまった!』。
  (ふ):打つ。撫でる。
其人思惟。我人母生身眼見二鬼食盡。今我此身盡是他肉。我今定有身耶。為無身耶。若以為有盡是他身。若以為無今現有身。如是思惟。其心迷悶。譬如狂人。 其の人の思惟すらく、『我が人は、母身を生じ、眼に二鬼の食い尽くせるを見る。今我が此の身は、尽く是れ他の肉なり。我れに、今定んで身有りや、身無しと為すや。若し以って、有りと為さば、尽く是れ他身なり。若し以って無しと為さば、今現に身有り』、と。是の如く思惟し、其の心の迷悶すること、譬えば狂人の如し。
其の、
『人』は、こう思惟した、――
『わたし!』という、
『人』は、
『母』が、
『身』を、
『生んだ!』が、
『眼』に、
『見えた!』所では、
『二鬼』が、
『食い尽くしてしまった!』。
今、
『わたし!』の、
此の、
『身』は、
『他人』の、
『肉だ!』。
『わたし!』には、
今、
定めて、
『身』は、
『有るのだろうか?』、
それとも、
『身』は、
『無いのだろうか?』。
若し、
『有る!』とすれば、
尽く、
是れは、
『他人』の、
『身である!』、
若し、
『無い!』とすれば、
今、
現に、
『身』が、
『有る!』、と。
是のように、
思惟すると、――
其の、
『心』は、
まるで、
『狂人のように!』、
『迷悶した!』のである。
明朝尋路而去。到前國土見有佛塔眾僧。不論餘事但問己身為有為無。諸比丘問。汝是何人。答言。我亦不自知是人非人。即為眾僧廣說上事。 明朝、路を尋ねて去り、前の国土に到り、有る仏塔の衆僧に見(まみ)え、余事を論ぜず、但だ己が身の有りと為すや、無しと為すやを問う。諸の比丘の問わく、『汝は、是れ何なる人なりや』、と。答えて言わく、『我れも、亦た自らを、是れ人なりや、人に非ずやを知らず』、と。即ち衆僧の為めに、広く上の事を説く。
『明朝』、
『路』を、
『尋ねて!』、
『去り!』、
『前方』の、
『国土』に、
『到る!』と、
有る、
『仏塔』の、
『衆僧』に、
『会見して!』、
『他』の、
『事』は、
『論じずに!』、
但だ、
『自分の身』が、
『有るのか、無いのか?』だけを、
『問うた!』。
諸の、
『比丘』は、こう問うた、――
お前は、       ――お前は、誰だ?――
何のような、
『人か?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしにも、
『自分』が、
『人か、人でないのか?』が、
『分りません!』、と。
そして、
『衆僧』に、
『上の事』を、
『くわしく説明した!』。
諸比丘言。此人自知無我易可得度。而語之言。汝身從本已來恒自無我。非適今也。但以四大和合故計為我身。如汝本身與今無異。諸比丘度之為道斷諸煩惱。即得阿羅漢是為有時他身亦計為我。不可以有彼此故謂有我。 諸の比丘の言わく、『此の人は、自ら無我なるを知れば、易(たやす)く度を得べし』、而も之に語りて言わく、『汝が身は、本より已来、恒に自ら無我なり。適(たまた)ま今に非ず。但だ四大の和合を以っての故に、計って我が身と為す。汝が本の身の如きは、今と異無し』、と。諸の比丘は、之を度して道を為し、諸の煩悩を断ぜしむれば、即ち阿羅漢を得たり。是れを、『有るいは時に、他身を亦た計って、我と為せば、彼れと此れと有るを以っての故に、我有りと謂うべからず』と為す。
諸の、
『比丘』は、こう言った、――
此の、
『人』は、
自らに、
『我』の、
『無い!』ことを、
『知っている!』ので、
容易に、
『度せそうだ!』、と。
そして、
これに語って、こう言った、――
お前の、
『身』は、
『本より!』、
『恒に!』、
『自ら!』の、
『我』は、
『無い(存在しない)のだ!』、
『今のみ!』、
『偶然』、
『無いのではない!』。
但だ、
『四大(地水火風)』の、
『和合した!』ものを、
『計って!』、
『わたしの!』、
『身である!』と、
『思ったのだ!』。
例えば、
お前の、
『本の身』も、
『今の身』と、
『異なるものではない!』、と。
諸の、
『比丘』は、
此の、
『人』を、
『度して!』、
『道』を、
『行わせ!』、
諸の、
『煩悩』を、
『断じさせた!』ので、
此の、
『人』は、
すぐに、
『阿羅漢』を、
『得ることになった!』。
是れを、
こう称する、――
有るいは、
時に、
『他人』の、
『身』を、
『計って!』、
『自分だ!』と、
『思うこともある!』ので、
『彼れ!』と、
『此れ!』とが、
『有る!』からと、
『言って!』、
『我』が、
『有る!』と、
『思ってはならない!』、と。
復次是我實性決定不可得。若常相非常相自在相不自在相作相不作相色相非色相。如是等種種皆不可得。 復た次ぎに、是の我の実の性は、決定して不可得なり。若しは、常相、若しは非常相、自在相、不自在相、作相、不作相、色相、非色相なるも、是の如き等の種種は、皆、不可得なり。
復た次ぎに、
是の、
『我』の、
『実の性』は、
『決定して!』、
『不可得である!』。
若しは、
『常相だ!』としても、
若しは、
『非常相』、
『自在相』、
『不自在相』、
『作相』、
『不作相』、
『色相』、
『非色相』、
是れ等のような、
種種は、
皆、
『不可得なのである!』。
若有相則有法。無相則無法。我今無相則知無我。 若し、相有れば、則ち法有り、相無ければ、則ち法無しとせば、我に、今、相無ければ、則ち我無きを知る。
若し、
『相』が、
『有れば!』、
『法』が、
『有り!』、
『相』が、
『無ければ!』、
『法』も、
『無い!』とすれば、
今、
『我』には、
『相』が、
『無い!』ので、
『我』は、
『無い!』と、
『知ることになる!』。
若我是常不應有殺罪。何以故身可殺非常故。我不可殺。常故。 若し、我は是れ常ならば、応に殺罪有るべからず。何を以っての故に、身の殺すべきは、常に非ざるが故なり、我の殺すべからざるは、常なるが故なり。
若し、
『我』が、
『常ならば!』、
当然、
『殺罪』は、
『有るはずがない!』、
何故ならば、
『身』の、
『殺される!』のは、
『常でない!』からであり、
『我』が、
『殺されない!』のは、
『常だからである!』。
問曰。我雖常故不可殺。但殺身則有殺罪。 問うて曰く、我は常なるが故に殺すべからずと雖も、但だ身を殺せば、則ち殺罪有り。
問い、
『我』は、
『常である!』が故に、
『殺されない!』が、
但だ、
『身』を、
『殺せば!』、
『殺』という、
『罪』が、
『有る!』。
答曰。若殺身有殺罪者。毘尼中言。自殺無殺罪。罪福從惱他益他生。非自供養身自殺身故有罪有福。以是故毘尼中言。自殺身無殺罪。有愚癡貪欲瞋恚之咎。 答えて曰く、若し身を殺せば、殺罪有りとは、毘尼中に言わく、『自らを殺すは、殺罪無し』、と。罪福は、他を悩まし、他を益するに従いて生ず。自らの身を供養し、自らの身を殺すが故に、罪有り、福有るに非ず。是を以っての故に、毘尼中に言わく、『自ら身を殺すに、殺罪無く、愚癡、貪欲、瞋恚の咎有り』、と。
答え、
若し、
『身』を、
『殺せば!』、
『殺』の、
『罪』が、
『有る!』とは、――
『毘尼』中には、こう言っている、――
『自ら!』の、
『身』を、
『殺せば!』、
『殺』の、
『罪』は、
『無い!』、と。
何故ならば、
『罪』や、
『福』は、
『他』を、
『悩ましたり!』、
『他』を、
『益したり!』して、
『生じる!』のであり、
『自ら!』の、
『身』を、
『供養したり!』、
『自ら!』の、
『身』を、
『殺したり!』するが故に、
『罪』や、
『福』が、
『有るのではない!』。
是の故に、
『毘尼』中には、
こう言っているのである、――
『自ら!』の、
『身』を、
『殺しても!』、
『殺』の、
『罪』は、
『無い!』、
『愚癡』と、
『貪欲』と、
『瞋恚』との、
『咎』が、
『有るだけだ!』、と。
  参考:『十誦律巻52』:『問殺事第三  優波離問佛。若比丘以咒術。變身作畜生形。奪人命。得波羅夷不。答若自憶念我是比丘。得波羅夷。若不憶念偷蘭遮。問頗有比丘殺母得大福不得罪耶。答有。愛名為母。若殺得大福。不得罪也。問頗有比丘殺父得大福不得罪耶。答有。漏名為父。殺得大福不得罪也。問若比丘作方便欲殺母而殺非母。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。問若比丘作方便。欲殺非母。而自殺母。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。若比丘作方便。欲殺人而殺非人。得偷蘭遮。若比丘作方便。欲殺非人而殺人。得突吉羅。問若比丘作方便。欲殺阿羅漢。而殺非阿羅漢。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。問若比丘作方便。欲殺非阿羅漢。而殺阿羅漢。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。問若比丘實是阿羅漢比丘。謂非羅漢生惡心殺。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷。亦得逆罪。問若比丘實非阿羅漢比丘。謂是阿羅漢。生惡心殺。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷。不得逆罪。問有一女人棄加羅邏。一女人還取用。後生子。何者是母。答先者是也。問比丘殺何母。得波羅夷并逆罪耶。答殺先母得波羅夷并逆罪。問若是子欲出家應問何母。答應問後者。問頗比丘墮人胎不犯波羅夷耶。答有。若人懷畜生是。問頗比丘墮畜生胎犯波羅夷耶。答有。若畜生懷人是。問若比丘欲殺父母。方便作殺因緣。作已自投深坑。得波羅夷并逆罪耶。答父母先死比丘後死。得波羅夷并逆罪。若比丘先死父母後死。得偷蘭遮問頗比丘欲殺父母。方便作殺因緣。作已持刀自殺。得波羅夷并逆罪耶。答若父母先死比丘後死。得波羅夷并逆罪。若比丘先死父母後死。得偷蘭遮。問頗比丘殺父母不得波羅夷并逆罪耶。答有。若比丘病。父母來問訊。比丘經行倒父母上。父母若死。比丘無罪。又復比丘病。父母扶將歸家。比丘蹴蹶倒父母上。父母若死。比丘無罪。若比丘欲殺父母。心生疑。是父母非。若心定。知是父母殺。得波羅夷并逆罪。若生疑。是人非人。若心定。知是人殺。得波羅夷。若人捉賊欲將殺。賊得走去。若以官力。若聚落力。追逐是賊。比丘逆道來。追者問比丘言。汝見賊不。是比丘。先於賊有惡心瞋恨心。語言。我見在是處。以是因緣令賊失命。比丘得波羅夷。若人將眾多賊欲殺。是賊得走去。若以官力若聚落力追逐。是比丘逆道來。追者問比丘言。汝見賊不。是賊中或一人。是比丘所瞋恨者。比丘言。我見在是處。若得殺。非所瞋者偷蘭遮問。若比丘作非母想殺母。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷并逆罪。問比丘作母想殺非母。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷。不得逆罪。問若比丘非人想惡心殺人。得波羅夷不。答得波羅夷。問若比丘作人想惡心殺非人。得波羅夷不。答不得。得偷蘭遮。問頗比丘奪人命不得波羅夷耶。答有。自殺身無罪。若比丘戲笑打他。若死得突吉羅。未受具戒人作殺人方便。未受具戒人奪命。得突吉羅。未受具戒人作殺人方便。受具戒時奪命。得突吉羅。未受具戒人作殺人方便。受具戒人奪命。得波羅夷。受具戒時作殺人方便。受具戒時奪命。得突吉羅。受具戒時作殺人方便。受具戒已奪命。得波羅夷。受具戒人作殺人方便。受具戒人奪命。得波羅夷。受具戒人作殺人方便。非具戒人奪命。得偷蘭遮。問頗比丘殺人不得波羅夷耶。答有。若先破戒若賊住若先來白衣是。問頗有不受具戒人殺人得波羅夷耶。答有。與學沙彌是也』
若神常者不應死不應生。何以故汝等法神常。一切遍滿五道中。云何有死生。死名此處失。生名彼處出。以是故不得言神常。 若し神が常ならば、応に死すべからず、応に生ずべからず。何を以っての故に、汝等の法の、神は常にして、一切は、五道中に遍満すとせば、云何が、死生有らん。死を此処に失うと名づけ、生を彼処に出づと名づく。是を以っての故に、『神は常なり』と言うを得ず。
若し、
『神』が、
『常ならば!』、
『死ぬはずがない!』し、
『生まれるはずもない!』。
何故ならば、
お前達の、
『法』には、――
『神』は、
『常であり!』、
『一切の神』は、
『五道』中に、
『遍満する!』が、
何故、
『死』や、
『生』が、
『有るのか?』。
『死』とは、
此の、
『処』に、
『失われる!』ことであり、
『生』とは、
彼の、
『処』に、
『生まれる!』ことである。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『神』は、
『常である!』、と。
若神常者亦應不受苦樂。何以故苦來則憂樂至則喜。若為憂喜所變者則非常也。 若し神が常なれば、亦た応に苦楽を受けざるべし。何を以っての故に、苦来たれば則ち憂い、楽至れば則ち喜ぶも、若し憂と喜に変ぜらるれば、則ち常に非ざればなり。
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
亦た、
『苦、楽』を、
『受けるはずがない!』。
何故ならば、
『苦』が、
『来れば!』、
『憂えて!』、
『楽』が、
『至れば!』、
『喜ぶ!』が、
若し、
『憂い!』や、
『喜び!』が、
『神』を、
『変わらせる!』ならば、
『神』は、
『常でない!』。
若常應如虛空雨不能濕熱不能乾。亦無今世後世。 若し常なれば、応に虚空の如く、雨も湿すあたわず、熱も乾かす能わずして、亦た今世、後世無かるべし
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『虚空のように!』、
『雨』にも、
『湿されず!』、
『熱』にも、
『乾かされず!』、
亦た、
『今世』も、
『後世』も、
『無いはずである!』。
若神常者示不應有後世生今世死。 若し神が常ならば、応に後世に生じて、今世に死すること有るべからざるを示せ。
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『後世の生』も、
『今世の死』も、
『有るはずがない!』と、
『示してみよ!』。
若神常者則常有我見。不應得涅槃。 若し神が常ならば、則ち常に我見有らん、応に涅槃を得べからず。
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『常』に、
『我見』が、
『有るはずだ!』、
当然、
『涅槃』など、
『有るはずがない!』。
若神常者則無起無滅。不應有妄失。以其無神識無常故。有忘有失。是故神非常也。如是等種種因緣可知神非常相。 若し神が常ならば、則ち無起、無滅ならん、応に忘失有るべからず。其れに神無く、識の無常なるを以っての故に、忘有り、失有り。是の故に、神は常に非ず。是の如き等種種の因縁に、神の常相に非ざるを知るべし。
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『起る!』ことも、
『滅する!』ことも、
『無い!』ので、
『忘失』も、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
其れに、
『神』が、
『無く!』、
『識』が、
『無常なので!』、
是の故に、
『忘れる!』ことも、
『有り!』、
『失う!』ことも、
『有るからだ!』。
是の故に、
『神』は、
『常でない!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、
『神』は、
『常相ではない!』と、
『知ることができよう!』。
  妄失:他本に従いて、忘失に改む。
若神無常相者亦無罪無福。若身無常神亦無常。二事俱滅則墮斷滅邊。墮斷滅則無到後世受罪福者。若斷滅則得涅槃。不須斷結亦不用後世罪福因緣。如是等種種因緣可知神非無常。 若し神が無常相ならば、亦た罪無く、福無けん。若し身が無常ならば、神も亦た無常ならん。二事倶に滅すれば、則ち断滅の辺に堕し、断滅に堕すれば、則ち後世に到りて、罪福を受くる者無し。若し、断滅すれば、則ち涅槃を得て、結を断ずるを須(ま)たず、亦た後世の罪福の因縁を用いず。是の如き等の種種の因縁に、神の無常に非ざるを知るべし。
一方、
若し、
『神』が、
『無常の相』ならば、――
亦た、
『罪』も、
『福』も、
『無いことになる!』。
若し、
『身』が、
『無常ならば!』、
『神』も、
『無常だろう!』、
『身』と、
『神』との、
『二事』が、
『いっしょに!』、
『滅すれば!』、
『断滅』の、
『辺』に、
『堕ちる!』。
若し、
『断滅』に、
『堕ちれば!』、
『後世』に、
『到って!』、
『罪』や、
『福』を、
『受ける!』者が、
『無い!』。
若し、
『断滅ならば!』、
『涅槃』を、
『得る!』のに、
『結』を、
『断じる!』、
『必要がなく!』、
亦た、
『後世』の、
『罪』や、
『福』の、
『因縁』を、
『用いることもない!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう知ることができよう、――
『神』は、
『無常ではない!』、と。
若神自在相作相者。則應隨所欲得皆得。今所欲更不得。非所欲更得。若神自在。亦不應有作惡行墮畜生惡道中。 若し神が自在相、作相ならば、則ち応に得んと欲する所に隨いて、皆得ん。今、欲する所は更に得ず、欲する所に非ざれば、更に得。若し神が自在ならば、亦た応に悪行を作して、畜生、悪道中に堕ちること有るべからず。
若し、
『神』が、
『自在の相』や、
『作の相』ならば、――
『欲する!』所に、
『隨って!』、
皆、
『得られるはずだ!』が、
今、
『欲する!』所は、
『少しも!』、
『得られず!』、
『欲しない!』所は、
『大いに!』、
『得られる!』。
若し、
『神』が、
『自在ならば!』、――
亦た、
『悪行』を、
『作して!』、
『畜生』や、
『悪道』中に、
『堕ちる!』ことなど、
『有るはずがない!』。
復次一切眾生皆不樂苦。誰當好樂而更得苦。以是故知神不自在。亦不作。 復た次ぎに、一切の衆生は、皆、苦を楽しまず。誰か、当に楽を好みて、更に苦を得ん。是を以っての故に、神は自在ならずして、亦た不作なるを知る。
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『苦』を、
『楽しまない!』、
誰が、
『楽』を、
『好んで!』、
而も、
『苦』を、
『得ようとするのか?』。
是の故に、
こう知る、――
『神』は、
『自在でもなく!』、
『不作である!』、と。
  不作(ふさ):梵語 akaraNa の訳。非生産、非創出( not making )、非完成( not accomplishing )、行為の欠落( absence of action )等の義。
又如人畏罪故自強行善。若自在者。何以畏罪而自強修福。 又人の罪を畏るるが故に、自ら強いて善を行ずるが如きに、若し自在ならば、何を以ってか、罪を畏れて、自ら強いて福を修せん。
又、
例えば、
『人』は、
『罪』を、
『畏れる!』が故に、
自らに、
『強いて!』、
『善』を、
『行わせる!』が、
若し、
『自在ならば!』、――
何故、
『罪』を、
『畏れて!』、
自らに、
『強いて!』、
『福』を、
『修めさせるのか?』。
又諸眾生不得如意。常為煩惱愛縛所牽。如是等種種因緣。知神不自在不自作。 又諸の衆生は、如意を得ずして、常に煩悩、愛縛の牽く所と為る。是の如き等の種種の因縁に、神は自在ならずして、自作ならざるを知る。
又、
諸の、
『衆生』は、
『意の通り!』に、
『得られない!』ので、
常に、
『煩悩』や、
『愛縛』の為めに、
『悪趣』に、
『牽かれている!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう知ることになる、――
『神』は、
『自在でもなく!』、
『自作でもない!』、と。
  自在(じざい):梵語 sva- tantra の訳。自己依存、独立、わがまま、自由( self- dependence , independence , self- will , freedom )等の義。
  自作(じさ):梵語 sva- kRta の訳。自分自身によって造り上げられた、又は完成させられた、又は建立させられた、又は成立させられた、又は創造させられた( done or performed or built or composed or created or fixed by one's self )、自己創出された( self- created , one's own doing , self- made , self- constructed )等の義。
若神不自在不自作者。是為無神相。言我者即是六識更無異事。 若し神が、自在にあらず、自作にあらざれば、是れを神相無しと為し、我と言うは、即ち是れ六識と更に異なる事無し。
若し、
『神』が、
『自在でもなく!』、
『自作でもなければ!』、
是れには、
『神』の、
『相』が、
『無いことになり!』、
『我』と、
『言われる!』者も、
『六識』と、
『異なる事』は、
『無いことになる!』。
復次若不作者。云何閻羅王問罪人。誰使汝作此罪者。罪人答言。是我自作。以是故知非不自作。 復た次ぎに、若し、不作ならば、云何が、閻羅王の罪人に、『誰か、汝をして此の罪を為さしめし者なる』、と問うに、罪人答えて、『是れ我れ自ら作せり』、と言う。是を以っての故に、自作ならざるに非ざるを知る。
復た次ぎに、
若し、
『神』が、
『不作ならば!』、――
何故、
『閻羅王』は、
『罪人』に、こう問うて、――
誰が、
お前に、
『此の罪』を、
『作らせたのか?』、と。
『罪人』が答えて、こう言うのか?――
是の、
『罪』は、
わたしの、
『自作です!』、と。
是の故に、
こう知ることになる、――
『神』は、
『自作でないのでもない!』、と。
若神色相者是事不然。何以故。一切色無常故。 若し、神の色相ならば、是の事は然らず。何を以っての故に、一切の色は、無常なるが故なり。
若し、
『神』が、
『色』の、
『相だとすれば!』、
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
何故ならば、
一切の、
『色』は、
『無常だからである!』。
問曰。人云何言色是我相。 問うて曰く、人は、云何が、『色は、是れ我の相なり』、と言える。
問い、
『人』は、
何故、こう言うのですか?――
『色』とは、
『我』の、
『相である!』、と。
答曰。有人言。神在心中微細如芥子。清淨名為淨色身。更有人言如麥。有言如豆。有言半寸。有言一寸。初受身時最在前受。譬如像骨及其成身如像已莊。有言大小隨人身。死壞時此亦前出。如此事皆不爾也。 答えて曰く、有る人の言わく、『神は、心中に在りて、微細なること芥子の如く、清浄なれば、名づけて、浄なる色身と為す』、と。更に有る人の言わく、『麦の如し』、と。有るいは言わく、『豆の如し!』、と。有るいは言わく、『半寸なり』、と。有るいは言わく、『一寸なり。初めて身を受くる時、最も前に在りて受くること、譬えば像の骨の如し。其の身を成ずるに及んで、像の已に荘(かざ)るが如し』、と。有るいは言わく、『大小は、人の身に隨う。死して壊する時、此れ亦た前(さき)に出る』、と。此の如き事は、皆、爾らざるなり。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『神』は、
『心』中に、
『在って!』、
『芥子のよう!』に、
『微細であり!』、
『清浄』なので、
『浄い!』、
『色身』と、
『呼ばれる!』、と。
更に、
有る人は、こう言っている、――『麦のようだ!』、と。
有るいは、こう言っている、――『豆のようだ!』、と。
有るいは、こう言っている、――『半寸だ!』、と。
有るいは、こう言っている、――
『一寸である!』、
初めて、
『身』を、
『受ける!』時には、
最も、
『前()』に、
『受ける!』ので、
譬えば、
『像』の、
『骨のようであり!』、
其の、
『身』が、
『成長してくる!』と、
譬えば、
『像のように!』、
『装われる!』、と。
有るいは、こう言っている、――
『神』の、
『大小』は、
『人の身』の、
『大小』に、
『順じ!』、
『人』が、
『死んで!』、
『身』が、
『壊れる!』時、
此の、
『神』は、
『真っ先に!』、
『出る!』、と。
此のような、
『事』は、
皆、
『そうでない!』。
  (しょう):盛んに飾る。荘厳。
何以故。一切色四大所造。因緣生故無常。若神是色色無常神亦無常。若無常者如上所說。 何を以っての故に、一切の色は、四大所造、因縁生なるが故に、無常なり。若し、神は是れ色ならば、色は無常なれば、神も亦た無常ならん。若し、無常ならば、上に所説の如し。
何故ならば、
一切の、
『色』は、
『四大』の、
『造る!』所であり、
『因縁』の、
『生である!』が故に、
『無常だからである!』。
若し、
『神』が、
『色ならば!』、
『色』は、
『無常なので!』、
『神』も、
亦た、
『無常である!』。
若し、
『神』が、
『無常ならば!』、
上に、
『説いた通りである!』。
問曰。身有二種。麤身及細身。麤身無常細身是神。世世常去入五道中。 問うて曰く、身には、二種有り、麁身と、及び細身なり。麁身は無常なるも、細身は是れ神にして、世世に常に去りて、五道中に入る。
問い、
『身』には、
『二種』有り、
『麁身』と、
『細身である!』。
『麁身』は、
『無常である!』が、
『細身』は、
『神であり!』、
『世(現世)』から、
『世(未来世)』へ、
常に、
『去って!』、
『五道』中に、
『入る!』。
答曰。此細身不可得。若有細身應有處所可得。如五藏四體。一一處中求皆不可得。 答えて曰く、此の細身は不可得なり。若し細身有らば、応に処の得べき所有るべし。五蔵、四体の如きの一一の処中に求むるも、皆得べからず。
答え、
此の、
『細身』は、
『不可得である(認識できない)!』。
若し、
『細身』が、
『有れば!』、
『得られる(認識できる)!』、
『処』が、
『有るはずだ!』が、
例えば、
『五蔵』や、
『四体』などの、
『一一』の、
『処』に、
『求めても!』、
皆、
『得られない!』。
問曰。此細身微細。初死時已去。若活時則不可求得汝云何能見。又此細身非五情能見能知。唯有神通聖人乃能得見。 問うて曰く、此の細身は、微細にして、初めて死する時、已に去る。若し、活くる時なれば、則ち求めて得るべからず。汝、云何が、能く見ん。又、此の細身は、五情の能く見、能く知るに非ず。唯だ神通有る聖人にして、乃ち能く見るを得る。
問い、
此の、
『細身』は、
『微細であり!』、
初めて、
『死ぬ!』時には、
もう、
『去っている!』し、
『活きている!』時には、
『求めても!』、
『得られない!』ので、
お前なんかに、
何うして、
『見つけられよう!』。
亦た、
此の、
『細身』は、
『五情』で、
『知見されることはない!』が、
唯だ、
『神通』を、
『有する!』、
『聖人』ならば、
かろうじて、
『見ることができる!』。
答曰。若爾者與無無異。如人死時。捨此生陰入中陰中。是時今世身滅受中陰身。此無前後滅時即生。譬如蠟印印泥。泥中受印印即時壞。成壞一時亦無前後。 答えて曰く、若し爾らば、無と異無し。人の死する時の如きは、此の生陰を捨てて、中陰中に入るに、是の時、今世の身滅して、中陰の身を受くるに、此れに前後無く、滅する時に即ち生ず。譬えば、蝋印を泥に印するに、泥中に印を受くれば、印は即時に壊れ、成壊一時にして、亦た前後無きが如し。
答え、
若し、
そうならば、――
『無』と、
『異(ことなり)』が、
『無いことになる!』。
例えば、
『人』が、
『死ぬ!』時には、
此の、
『生陰』を、
『捨てて!』、
『中陰』中に、
『入る!』が、
是の時、
『今世』の、
『身』が、
『滅して!』、
『中陰』中の
『身』を、
『受ける!』。
此の、
『中陰の身』には、
『前』も、
『後』も、
『無く!』、
『生陰の身』が、
『滅する!』時、
『即時に!』、
『生じる!』。
譬えば、
『蝋』の、
『印』を、
『熱泥』中に、
『押す!』と、
『泥』中に、
『印』を、
『受けた!』時、
『印』が、
『即時』に、
『壊れる!』ので、
『成』と、
『懐』とが、
『一時』に、
『起って!』、
『前』も、
『後』も、
『無い!』のと、
『同じである!』。
  生陰(しょうおん):生者の陰身を云い、即ち五陰と同義なり。また生有、或いは本有とも称す。三有、或いは四有の一。『大智度論巻7(上)注:有、同巻12上注:四有』参照。
  中陰(ちゅうおん):此に死し、彼に生ずる、その中間に受くる陰形を云い、また中有と称す。四有の一。『大智度論巻4(下)注:中陰、同巻12上注:四有』参照。
  四有(しう):梵語 catvaaro bhavaaH の訳。四種の有の意。即ち有情の託胎結生より次の結生に至る間に、総じて四種の有を経るを云う。一に中有 antaraa- bhava 、二に生有 upapatti- bhava 、三に本有 puurva- kaala- bhava 、四に死有 maraNa- bhava なり。「成実論巻3」に、「又経中に四有を説く。本有、死有、中有、生有なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「総じて説くに有の体は是れ五取蘊なり。中に於いて位別分析して四と為す。一には中有は義前に説くが如し。二には生有は謂わく諸趣に於いて結生する刹那なり。三には本有は生の刹那を除きて死の前の余位なり、四には死有は謂わく最後の念なり。中有の前に次ぐ」と云い、又「大乗義章巻8本」に、「報分の始めて起るを名づけて生有と為し、命報の終に謝するを名づけて死有と為し、生の後、四の前を名づけて本有となす。死及び中に対するが故に説いて本と為す。両身の間に受くる所の陰形を名づけて中有と為す」と云える是れなり。是れ即ち死有と生有との中間の五蘊を中有と名づけ、託胎結生の刹那を生有と名づけ、結生の後より死の前に至る間を本有と名づけ、最後命終の刹那を死有と名づけたるなり。四有の時分の久近を論ぜば、生有と死有とは極めて短くして唯一念なり、本有と中有とは不定なり。中に就き本有は極短は唯一念に止まり、長きは億百千劫に至る。中有は異説あり、或いは極短は一念、極長は七日と云い、或いは七七日に至ると云い、或いは寿命不定なりと云い、或いは中有にも死生ありと云えり。三界に約して其の通局を論ぜば、「倶舎論巻9」に、「有色の有情は四有を具足す、若し無色に在りては中は闕けて三のみを具す」と云い、「大乗義章巻8本」には、「生死本有は遍く三界に通ず。中有は不定なり。小乗法の中には欲色界には有り、無色には則ち無し。大乗法の中には四空にも色あり、色あるを以っての故に亦た中陰あり」と云えり。又「大毘婆沙論巻60、巻68至70、巻192」、「瑜伽師地論巻1」、「同記巻1上」、「順正理論巻23」、「成唯識論巻1」、「倶舎論光記巻9」、「華厳経孔目章巻3」、「釈浄土群疑論巻2」等に出づ。<(望)
是時受中陰中有。捨此中陰受生陰有。汝言細身即此中陰。中陰身無出無入。譬如然燈生滅相續不常不斷。 是の時、中陰中の有を受け、此の中陰を捨てて、生陰の有を受く。汝の言える細身とは、即ち此の中陰なり。中陰の身には、出無く、入無く、譬えば、然灯の生滅相続して、常ならず、斷ならざるが如し。
是の時、
『中陰』中の、
『有』を、
『受ける!』と、
此の、
『中陰』を、
『捨てて!』、
『生陰』の、
『有』を、
『受ける!』。
お前の言う、
『細身』とは、
此の、
『中陰であり!』、
『中陰』という、
『身』には、
『出る!』者も、
『入る!』者も、
『無い!』ので、
譬えば、
『燃える!』、
『灯』の、
『生』と、
『滅』とが、
『相続して!』、
『常でもなく!』、
『斷でもない!』のと、
『同じである!』。
  (う):梵語 bhava 、又は bhaava の訳。存在の発端、誕生、生産、起原( coming into existence , birth , production , origin )の義。存在( being , existence )、存在する( existent )、存在するもの( a existent )等の意。
  :然灯の譬喩:燃える灯は、極短時間に存在して、前の存在と、後の存在とは異なるはずであるが、相続しているように見えることを云う。
佛言一切色眾。若過去未來現在。若內若外若麤若細皆悉無常。汝神微細色者。亦應無常斷滅。如是等種種因緣可知非色相。 仏の言わく、『一切の色衆は、若しは過去、未来、現在、若しは内、若しは外、若しは麁、若しは細なるも、皆悉く、無常なり』、と。汝が神も、微細の色なれば、亦た応に無常にして断滅すべし。是の如き種種の因縁に、色相に非ざるを知るべし。
『仏』は、
こう言われた、――
一切の、
『色衆』は、
『過去』も、
『未来』も、
『現在』も、
『内』も、
『外』も、
『麁』も、
『細』も、
皆、
悉くが、
『無常である!』、と。
お前の、
『神』が、
『微細』の、
『色である!』ならば、
亦た、
『無常であり!』、
『断滅するはずである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう知るはずである、――
『神』は、
『色』の、
『相ではない!』、と。
神非無色相。無色者四眾及無為。四眾無常故。不自在故。屬因緣故。不應是神。三無為中不計有神。無所受故。如是等種種因緣。知神非無色相。 神は無色相にも非ず。無色とは、四衆、及び無為なり。四衆は無常なるが故に、自在ならざるが故に、因縁に属するが故に、応に是れ神なるべからず。三無為中に、神有るを計らざるは、受くる所無きが故なり。是の如き等の種種の因縁に、神は無色の相に非ざるを知る。
『神』は、
『無色』の、
『相でもない!』。
『無色』とは、
『四衆(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)』と、
『三無為(択滅無為、非択滅無為、虚空無為)である!』が、
『四衆』は、
『無常である!』が故に、
『自在でない!』が故に、
『因縁に属する!』が故に、
是れは、
『神であるはずがない!』。
『三無為』中に、
『神』が、
『有る!』と、
『計らない!』のは、
『無為』には、
『受ける!』所が、
『無い!』からである。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう知ることになる、――
『神』は、
『無色』の、
『相でもない!』、と。
如是天地間若內若外。三世十方求我不可得。但十二入和合生六識。三事和合名觸。觸生受想思等心數法。 是の如く、天地の間の若しは内、若しは外の、三世十方に、我を求むるも、不可得なり。但だ、十二入和合して、六識を生じ、三事の和合を触と名づけ、触は、受、想、思等の心数法を生ず。
是のように、
『天、地の間』の、
『内』や、
『外』の、
『三世』、
『十方』に、
『我』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』。
但だ、
『十二入(六情、六塵)』の、
『和合』が、
『六識』を、
『生じ!』、
『三事(情、塵、識)』の、
『和合』を、
『触』と、
『呼び!』、
『触』が、
『受、想、思』等の、
『心数法』を、
『生じる!』。
是法中無明力故身見生。身見生故謂有神。是身見見苦諦苦法智及苦比智則斷。斷時則不見有神。 是の法中に、無明の力の故に、身見生ず。身見生ずるが故に、神有りと謂う。是の身見は、見苦諦の苦法智、及び苦比智なれば、則ち斷ず。斷ずる時は、則ち神有るを見ず。
是の、
『十二入』等の、
『法』中に、
『無明』の、
『力』の故に、
『身見』が、
『生じる!』が、
『身見』を、
『生じる!』が故に、
『神』が、
『有る!』と、
『思う!』。
是の、
『身見』は、
『見苦諦』の、
『苦法智』と、
『苦比智』とで、
『斷じられ!』、
『斷じられた!』時には、
『神』が、
『有る!』と、
『見ることはない!』。
  身見(しんけん):梵語 satkaaya- dRSTi の訳。自性、或いは独立性の存在を認める見解( the view of the existence of a personality or individuality )、自性を認める見解( identity-view )、独立した実体の存在を認める見解( view of the existence of independent entities )等の義。 五見の一。『大智度論巻7上注:見、同巻26上注:五見』参照。
  見苦諦(けんくたい):梵語 duHkha- darazana の訳。苦痛に関する崇高な真実を明確に認める/悟る( to perceive or realize the noble truth of suffering )の義。
  苦諦(くたい):梵語 duHkha- satya の訳。我々の受認するが如き存在は、所詮不満足なものでしかありえないと悟ること( the realization by Śākyamuni that existence as we normally perceive it cannot but be dissatisfactory )の意。四諦の一。『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
  苦法智(くほうち):欲界の苦諦を見て、煩悩を断ずる智慧。『大智度論巻12(上)注:八忍八智』参照。
  苦比智(くひち):上二界の苦諦を見て、煩悩を断ずる智慧。『大智度論巻12(上)注:八忍八智』参照。
汝先言若內無神色。識念念生滅。云何分別知色青黃赤白。 汝が先に言わく、『若し内に、神無くんば、色と識とは念念に生滅するに、云何が、分別して、色の青、黄、赤、白を知る』とは、――
お前は、
先に、こう言ったが、――
若し、
『内』に、
『神』が、
『無ければ!』、
『色』も、
『識』も、
『念念に!』、
『生じて!』、
『滅する!』のに、
何故、
『識』は、
『色』を分別して、
『青、黄、赤、白』を、
『知るのですか?』、と。
汝若有神亦不能獨知。要依眼識故能知。若爾者神無用也。眼識知色色生滅。相似生相似滅。然後心中有法生名為念。 汝に、若し神有るも、亦た独り知る能わず。要(かな)らず、眼識に依るが故に能く知る。若し爾らば、神に用無きなり。眼識は色を知り、色の生滅は、相似の生、相似の滅なり、然る後に心中に有る法生ず、名づけて念と為す。
お前に、
若し、
『神』が、
『有った!』としても、
亦た、
『独り!』では、
『知ることができず!』、
『眼識』に、
『依らなければ!』
『知ることができない!』。
若し、
そうならば、
『神』には、
『用(はたらき)』が、
『無い!』。
『眼識』は、
『色』を、
『知る!』が、
『色』の、
『生、滅』は、
其の、
『相似の生』と、
『相似の滅である!』。
その後、
『心』中に、
有る、
『法』が、
『生じて!』、
是れを、
『念』と、
『呼ぶ!』。
  (ゆう):梵語 vRtti の訳。普遍的習慣( general usage )、普通の行為( common practice )の義。梵語 kriyaa の訳。行為(doing)、遂行( performing )、実行( performance )、従事( occupation with )、仕事( business )、行為( act )、行為( action )、事業( undertaking )、活動( activity )、仕事( work )、労働( labour )等の義。
是念相有為法。雖滅過去是念能知。如聖人智慧力。能知未來世事。 是の念は、有為法を相し、過去に滅すと雖も、是の念は、能く知る。聖人の智慧の力の、能く未来世の事を知るが如し。
是の、
『念』は、
『有為法』を、
『相()る!』が、
『有為法』が、
『過去』に、
『滅しても!』、
是の、
『念』は、
『知ることができる!』。
譬えば、
『聖人』の、
『智慧』の、
『力』が、
『未来世』の、
『事』を、
『知るようなものである!』。
念念亦如是。能知過去法。若前眼識滅生後眼識。後眼識轉利有力。色雖暫有不住。以念力利故能知。以是事故雖念念生滅無常。能分別知色。 念念も亦た是の如く、能く過去の法を知る。若し前の眼識滅して、後の眼識を生ずれば、後の眼識転た利にして、力有り、色は、暫く有りて住せずと雖も、念力の利を以っての故に能く知る。是の事を以っての故に、念念に生滅して無常なりと雖も、能く分別して色を知る。
『念念(一瞬一瞬)』にも、
是のように、
『過去』の、
『法』を、
『知ることができる!』。
若し、
『前』の、
『眼識』が、
『滅して!』、
『後』の、
『眼識』が、
『生じた!』としても、
『後』の、
『眼識』が、
どんどん、
『利くなり!』、
『力』が、
『出てくる!』ので、
『色』の、
『有る!』のが、
『暫時のことで!』、
『住まらない!』としても、
『念力』の、
『利』の故に、
『色』を、
『知ることができる!』。
是の、
『事』の故に、
『色』が、
『念念に!』、
『生、滅して!』、
『無常であっても!』、
『色』を、
『分別して!』、
『知ることができる!』。
  念念(ねんねん):梵語 pratikSaNam の訳。一瞬毎に( at every moment )、継続して( continually )、継続した思考の瞬間( successive thought-moments )、毎瞬( every moment )等の義。
又汝言今現在人識新新生滅。身命斷時亦盡。諸行罪福誰隨誰受。誰受苦樂誰解脫者。 又汝が言わく、『今、現在の人の識は、新新に生、滅し、身命の斷ずる時には、亦た尽く。諸行の罪、福は、誰か隨い、誰か受け、誰か苦楽を受け、誰か解脱する者なる』、と。
又、
お前は、
こう言った、――
今、
『現在』の、
『人』の、
『識』は、
『新新に!』、
『生、滅する!』し、
『身』と、
『命』とが、
『断たれる!』時には、
『識』も、
『尽きる!』。
諸の、
『行い!』の、
『罪』と、
『福』とは、
誰が、
『業』に、
『隨い!』、
誰が、
『報』を、
『受け!』、
誰が、
『苦、楽』を、
『受け!』、
誰が、
『解脱するのか?』、と。
今當答汝。今未得實道。是人諸煩惱覆心。作生因緣業。死時從此五陰相續生五陰。譬如一燈更然一燈。 今、当に汝に答うべし、今、未だ実道を得ざれば、是の人は、諸の煩悩心を覆うて、生の因縁の業を作し、死する時には、此の五陰に従い、相続して、五陰を生ず。譬えば、一灯に更に一灯を然すが如し。
今、
お前に、答えることにしよう、――
今、
未だ、
『実』の、
『道』を、
『得ていなければ!』、
是の、
『人』は、
諸の、
『煩悩』に、
『心』を、
『覆われ!』、
『生の因縁』の、
『業』を、
『作る!』ので、
『死ぬ!』時に、
此の、
『五陰』に、
『従って!』、
『相続して!』、
『五陰』を、
『生じる!』。
譬えば、
『一灯』に、
『相続して!』、
更に、
『一灯』を、
『燃やすようなものである!』。
又如穀生。有三因緣地水種子。後世身生亦如是。有身有有漏業有結使。三事故後身生。 又、穀の生ずるに、三因縁の地、水、種子有るが如し。後世の身の生ずるも、亦た是の如く、身有り、有漏業有り、結使有り、三事の故に後身生ず。
又、
譬えば、
『穀』の、
『生じる!』のには、
『地』と、
『水』と、
『種子』との、
『三因縁』が、
『有るように!』、
『後世』に、
『身』が、
『生じる!』のも、
是のように、
『身』と、
『有漏の業』と、
『結使』との、
『三事』の、
『有る!』が故に、
『後世』に、
『身』が、
『生じるのである!』。
是中身業因緣不可斷不可破。但諸結使可斷。結使斷時雖有殘身殘業可得解脫。 是の中の身、業の因縁は、斷ずべからず、破すべからず、但だ諸結使は斷ずべし。結使斷ずる時、残身、残業有りと雖も、解脱を得べし。
是の中の、
『身』と、
『業』の、
『起こした!』、
『因縁』は、
『断つこともできず!』、
『破ることもできない!』が、
但だ、
諸の、
『結使』は、
『断つことができ!』、
『結使』が、
『断たれた!』時には、
『身』や、
『業』の、
『殘り!』が、
『有った!』としても、
『解脱』を、
『得ることができる!』。
如有穀子有地無水故不生。如是雖有身有業。無愛結水潤則不生。是名雖無神亦名得解脫。無明故縛。智慧故解。則我無所用。 穀子有り、地有り、水無きが故に生ぜざるが如く、是の如く、身有り、業有りと雖も、愛結の水の潤(うるお)すこと無ければ、生ぜず。是れを神無しと雖もと名づけ、亦た解脱を得と名づく。無明の故に縛られ、智慧の故に解けば、則ち我の用うる所無し。
譬えば、
『穀子』と、
『地』が、
『有っても!』、
『水』が、
『無ければ!』、
『生じない!』ように、
是のように、
『身』と、
『業』とが、
『有っても!』、
『愛結の水』が、
『潤さなければ!』、
『生じないのである!』。
是れを、
『神』は、
『無くても!』と、
『称し!』、
亦た、
『解脱』を、
『得る!』と、
『称する!』。
即ち、
『無明』の故に、
『縛られ!』、
『智慧』の故に、
『解く!』ので、
則ち、
『我』には、
『用いる(はたらく)!』所が、
『無い!』。
復次是名色和合假名為人。是人為諸結所繫。得無漏智慧爪解此諸結。是時名人得解脫。 復た次ぎに、是の名と色との和合を、仮名して人と為す。是の人は、諸結に繋がるるも、無漏の智慧の爪を得れば、此の諸結を解き、是の時、人は解脱を得と名づく。
復た次ぎに、
是の、
『人』とは、
『名』と、
『色』との、
『和合』を、
仮りに、
『人』と、
『呼ぶ!』が、
是の、
『人』は、
諸の、
『結』が、
『名()』と、
『色()』とを、
『繋いでいる!』のであり、
『無漏』の、
『智慧』の、
『爪』を、
『得て!』、
此の、
諸の、
『結』を、
『解いた!』ならば、
是の時、
『人』が、
『解脱した!』と、
『称する!』のである。
如繩結繩解。繩即是結。結無異法。世界中說結繩解繩。名色亦如是。名色二法和合假名為人。 縄結ぼり、縄解くるが如く、縄は、即ち是れ結にして、結に異法無く、世界中には、『縄を結び、縄を解く』と説けるが如く、名、色も亦た是の如く、名、色の二法和合して、仮名して、人と為す。
譬えば、
『縄が結ばり!』、
『縄が解ける!』ように、
『縄』は、
『結であり!』、
『結』には、
『異なる!』、
『法』は、
『無い!』。
『世界(世間)』中には、
『縄を結ぶ!』とか、
『縄を解く!』と、
『説かれている!』が、
『名色()』とは、
亦た、
是のように、
『名()』と、
『色()』との、
『二法』の、
『和合であり!』、
仮りに、
『人』と、
『称する!』のである。
是結使與名色不異。但名為名色結。名色解受罪福亦如是。雖無一法為人實。名色故受罪福果。而人得名。 是の結使は、名色と異ならず、但だ名づけて名色の結、名色の解と為す。罪福を受くるも亦た是の如し。一法として、人の実と為す無しと雖も、名色の故に、罪福の果を受け、而も人の名を得。
是の、
『結使』は、           
『名色』と、        
『異ならない!』が、   
但だ、
『名色(=人)』の、
『結』と、
『呼ばれ!』、
『名色』の、
『解』と、
『呼ばれるだけである!』。
『罪、福』を、
『受ける!』ことも、
是のように、
『名色』の、
『罪』と、
『呼ばれ!』、
『名色』の、
『福』と、
『呼ばれる!』が、
『一法』として、
『人の実体』と、
『呼ばれる!』ものは、
『無く!』、
『名色』の故に、
『罪福』の、
『果』を、
『受ける!』のであり、
而も、
『人』と、
『呼ばれる!』のである。
譬如車載物。一一推之竟無車實。然車受載物之名。人受罪福亦如是。名色受罪福而人受其名。受苦樂亦如是。如是種種因緣神不可得。 譬えば、車に物を載するが如し、一一之を推せば、竟(つい)に車の実無し。然も車は、物を載するの名を受く。人の罪福を受くるも、亦た是の如し。名色の罪福を受け、而も人は、其の名を受く。苦楽を受くるも、亦た是の如し。是の如く種種の因縁に、神は不可得なり。
譬えば、
『車』は、
『物』を、
『載せる!』が、
『車』というものを、
『一一』、
『推求する!』と、
やがて、
『車』の、
『実体』が、
『無くなる!』のに、
しかし、
『車』は、
『物を載せる!』と、
『言われ続ける!』。
『人』の、
『罪福』も、
是のように、
『名』と、
『色』とが、
『罪福』を、
『受ける!』のに、
而も、
『人』が、
『受ける!』と、
『言われ続ける!』のである。
『苦楽』を、
『受ける!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
是のように、
種種の、
『因縁』で、
『神』は、
『不可得である!』。
神即是施者。受者亦如是。汝以神為人。以是故施人不可得。受人不可得。亦如是如是種種因緣。是名財物施人受人不可得。 神は、即ち是れ施者なり。受者も、亦た是の如し。汝は、神を以って人と為す。是を以っての故に、施人は不可得なり、受人の不可得なることも、亦た是の如し。是の如き種種の因縁は、是れを財物、施人、受人は不可得なりと名づく。
『神』とは、
『施す!』者であり、
『受ける!』者も、
亦た、
『是の通りである!』。
お前は、
『神』は、
『人である!』と、
『思っている!』が、
是の故に、
『施す!』、
『人』は、
『不可得であり!』、
『受ける!』、
『人』も、
『是の通りである!』。
是のような、
種種の、
『因縁』は、
是れを、
『財物』も、
『施す人』も、
『受ける人』も、
『不可得である!』と、
『称する!』。
問曰。若施於諸法是如實相無所破無所滅無所生無所作。何以故。言三事破析不可得。 問うて曰く、若し、諸の法を施せば、是れ如実の相にして、破する所無く、滅する所無く、生ずる所無く、作す所無し。何を以っての故にか、三事は破析して、不可得なりと言う。
問い、
若し、
諸の、
『法』を、
『施す!』とすれば、
是れは、
『如実』の、
『相である!』から、
『破られる!』ことも、
『滅せられる!』ことも、
『生じさせられる!』ことも、
『作られる!』ことも、
『無い!』。
何故、こう言うのですか?――
『三事』は、
『割れて!』、
『折れた!』ので、
『不可得である!』、と。
答曰。如凡夫人。見施者見受者見財物。是為顛倒妄見。生世間受樂福盡轉還。 答えて曰く、凡夫人の、施者を見、受者を見、財物を見るが如きは、是れを顛倒し、妄見して、世間に生じ、楽を受くるも、福尽くれば、転じて還ると為す。
答え、
例えば、
『凡夫人』が、
『施者』、
『受者』、
『財物』を、
『見る!』ようなこと、
是れを、
こう言うのである、――
『顛倒し!』、
『妄見して!』、
『世間』に、
『生まれ!』、
『楽』を、
『受けた!』が、
『福』が、
『尽きれば!』、
『転じて!』、
『還る!』、と。
是故佛欲令菩薩行實道得實果報。實果報則是佛道。 是の故に、仏は、菩薩をして、実道を行じ、実の果報を得しめんと欲したもう。実の果報とは、則ち是れ仏道なり。
是の故に、
『仏』は、こう思われた、――
『菩薩』に、
『実』の、
『道』を、
『行わせて!』、
『実』の、
『果報』を、
『得させよう!』、と。
『実』の、
『果報』とは、
是れは、
『仏』の、
『道である!』。
佛為破妄見故。言三事不可得。實無所破。何以故。諸法從本已來畢竟空故。如是等種種無量因緣不可得。故名為檀波羅蜜具足滿。 仏は、妄見を破せんが為めの故に、『三事は、不可得なり』と言えるも、実に破する所無し。何を以っての故に、諸法は、本より已来、畢竟じて空なるが故なり。是の如き等の種種無量の因縁に、不可得なるが故に、名づけて檀波羅蜜具足して満つと為す。
『仏』は、
『妄見』を、
『破ろう!』と、
『思われた!』が故に、
『三事』は、
『不可得である!』と、
『言われた!』が、
『実』は、
『三事』には、
『破る!』所が、
『無い!』。
何故ならば、
諸の、
『法』は、
『本』より、
『畢竟じて!』、
『空だからである!』。
是れ等のような、
種種の、
無量の、
『因縁』に、
『檀波羅蜜』は、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『檀波羅蜜』が、
『具足して!』、
『満ちた!』と、
『称する!』。


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