云何施人不可得。如疊因緣。和合故有。分分推之疊不可得。施者亦如是。四大圍虛空名為身。是身識動作來往坐起。假名為人。分分求之亦不可得。 |
云何が、施人の不可得なる。畳の因縁の和合の故に有り、分分して之を推せば、畳は不可得なるが如く、施者も亦た是の如く、四大の、虚空を囲むを名づけて、身と為す。是の身に識動きて、来、往、坐、起を作すに、仮名して人と為すも、分分して之を求むれば、亦た不可得なり。 |
何故、
『施す!』、
『人』は、
『不可得なのか?』、――
例えば、
『畳』が、
『分分して!』、
『推求すれば!』、
『畳』は、
『不可得であるように!』、
『施者』も、
是のように、
『四大』に、
『囲まれた!』、
『虚空』を、
『身』と、
『呼び!』、
是の、
『身』中に、
『識』が、
『動いて!』、
『来、往、坐、起』を、
『作す!』のを、
『仮名して!』、
『人だ!』と、
『思う!』が、
『分分して!』、
『求めれば!』、
『人』は、
『不可得である!』。
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復次一切眾界入中我不可得。我不可得故施人不可得。何以故。我有種種名字。人天男女施人受人受苦人受樂人畜生等。是但有名而實法不可得。 |
復た次ぎに、一切の衆、界、入中に、我は不可得なり。我の不可得なるが故に、施人は不可得なり。何を以っての故に、我には、種種の名字有り、人、天、男、女、施人、受人、受苦人、受楽人、畜生等なり。是れ但だ、名のみ有りて、実法は不可得なり。 |
復た次ぎに、
一切の、
『五衆』、
『十八界』、
『十二入』中に、
『我』は、
『不可得であり!』、
『我』が、
『不可得である!』が故に、
『施す!』、
『人』も、
『不可得である!』。
何故ならば、
『我』には、
是の、
『人』、
『天』、
『男』、
『女』、
『施人』
『受人』、
『受苦人』、
『受楽人』
『畜生』等の、
『名字』は、
但だ、
『名』が、
『有るだけ!』で、
『実』の、
『法』は、
『不可得だからである!』。
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衆界入(しゅかいにゅう):五衆、十八界、十二入にして、総じて人の身心を云う。また陰界入、陰入界、陰入持、蘊処界とも称す。『大智度論巻5(上)注:三科』参照。 |
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問曰。若施者不可得。云何有菩薩行檀波羅蜜。 |
問うて曰く、若し施者不可得ならば、云何が、菩薩有りて、檀波羅蜜を行ずる。 |
問い、
若し、
何故、
『菩薩』が、
『有って!』、
『檀波羅蜜』を、
『行うのですか?』。
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答曰。因緣和合故有名字。如屋如車實法不可得。 |
答えて曰く、因縁の和合の故に、名字有り。屋の如く、車の如きの実法は不可得なればなり。 |
答え、
『因縁』の、
例えば、
『屋』や、
『車』などの、
『実の法』は、
『不可得だからである!』。
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問曰。云何我不可得。 |
問うて曰く、云何が、我の不可得なる。 |
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答曰。如上我聞一時中已說。今當更說。佛說六識。眼識及眼識相應法共緣色。不緣屋舍城郭種種諸名。耳鼻舌身識亦如是。 |
答えて曰く、上の『我聞一時』中に已に説けるが如し。今当に更に説くべし。仏の説きたまわく、『六識の眼識、及び眼識相応の法は、共に色を縁ずるも、屋舎、城郭、種種の諸名を縁ぜず。耳鼻舌身の識も亦た是の如し。 |
答え、
上の、
『我聞一時』中に、
已に、
『説いた通りである!』が、
今、
『仏』は、
こう説かれている、――
『六識』の、
『眼識』と、
『眼識相応の法』とは、
『屋舎』や、
『城郭』という、
種種、
諸の、
『名』を、
『縁じるのではない!』。
『六識』の、
『耳識』、
『鼻識』、
『舌識』、
『身識』も、
『是の通りである!』。
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参考:『大方等大集経巻28』:『是法界中。無眼可見相。耳可聞相。鼻可嗅相。舌可別相。身可覺相。意可知相。法界眼識界。耳鼻舌身意識界。是法界中。無眼識知色。乃至無意識知法。法界色界法界非色作相。乃至法界亦復如是。』 |
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意識及意識相應法。知眼知色知眼識。乃至知意知法知意識。是識所緣法皆空無我生滅故。不自在故。 |
意識、及び意識相応の法は、眼を知り、色を知り、眼識を知り、乃至意を知り、法を知り、意識を知るも、是の識の所縁の法は、皆空にして、無我なり。生滅の故にして、自在ならざるが故なり。 |
『意識』と、
『意識相応の法』とは、
『眼』や、
『色』や、
『眼識』を、
『知り!』、
乃至、
『意』や、
『法』や、
『意識』を、
『知る!』が、
是の、
『意識』に、
『縁じられる(知られる)!』、
『法』は、
皆、
『空であり!』、
『無我である!』、
何故ならば、
『生滅するからであり!』、
『自在でないからである!』。
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無為法中亦不計我。苦樂不受故。是中若強有我法。應當有第七識識我。而今不爾。以是故知無我。 |
無為法中にも亦た、我を計せず。苦楽を受けざるが故なり。是の中に、若し強いて、我法有らしめば、応当に、第七の識有りて、我を識るべけんに、今は爾らず。是を以っての故に、無我なるを知る。 |
『無為法』中にも、
亦た、
『我』を、
『計ることはできない!』。
何故ならば、
『苦楽』を、
『受けないからである!』。
是の中に、
若し、
強いて、
『我』という、
『法』を、
『計ろう(存在させよう)!』とすれば、
当然、
『第七』の、
『識』が、
『有って!』、
『我』を、
『識るはずだが!』、
而し、
是の故に、
|
計(けい):はかる。測量する。謀略する。 |
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問曰。何以識無我。一切人各於自身中生計我。不於他身中生我。若自身中無我。而妄見為我者。他身中無我亦應於他身而妄見為我。 |
問うて曰く、何を以ってか、無我なるを識る。一切の人は、各、自身中に我を計って生じ、他身中には我を生ぜず。若し自身中に我無く、而も妄見して我と為さば、他身中にも我無くして、亦た応に他身に於いて、妄見して我と為すべし。 |
問い、
何故、
『無我だ!』と、
『識るのですか?』。
一切の、
『人』は、
各、
若し、
『自身』中に、
『我』が、
『無い!』のに、
『妄見して!』、
『我だ!』と、
『思うのであれば!』、
亦た、
『他身』中に、
『我』が、
『無く!』ても、
『妄見』して、
『我だ!』と、
『思うはずです!』。
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復次若內無我。色識念念生滅。云何分別知是色青黃赤白。 |
復た次ぎに、若し内に無我なれば、色の識は念念に生滅せん。云何が、分別して、是の色の青黄赤白を知らん。 |
復た次ぎに、
若し、
何故、
是の、
『色』を、
『分別して!』、
『青だ!』、
『黄だ!』、
『白だ!』、
『赤だ!』と、
『知るのですか?』。
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復次若無我今現在人識。漸漸生滅。身命斷時亦盡諸行罪福。誰隨誰受。誰受苦樂誰解脫者。如是種種內緣故。知有我。 |
復た次ぎに、若し無我なれば、今現在の人の識は、漸漸に生滅すれば、身命の断ずる時には、亦た諸行の罪福も尽きん。誰か隨い、誰か受け、誰か苦楽を受け、誰か解説する者なる。是の如く種種に内を縁ずるが故に、我有るを知る。 |
復た次ぎに、
若し、
今、
『現在の人』の、
『識』は、
『漸漸に(次第に)!』、
『生滅する!』ので、
『身命』の、
『断じる!』時には、
亦た、
『諸行』の、
『罪福』も、
『尽きるだろう!』
誰が、
誰が、
誰が、
誰が、
『解脱する!』者なのか?
是のように、
種種に、
『内( 心)』を、
『縁じる(観察する)!』が故に、
『我』は、
『有る!』と、
『知るのである!』。
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答曰。此俱有難。若於他身生計我者。復當言。何以不自身中生計我。 |
答えて曰く、此れ倶に難有り。若し、他身に我を計って生ぜば、復た当に言うべし、『何を以ってか、自身中に、我を計って生ぜざる』、と。 |
答え、
此れには、
若し、
きっと、
こう言うことになるからだ、――
『自身』中に、
何故、
『我』を、
『計って!』、
『生じないのか?』、と。
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註:架空の事を以って、証となすべからず。 |
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復次五眾因緣生故空無我。從無明因緣生二十身見。是我見自於五陰相續生。以從此五眾緣生故。即計此五眾為我。不在他身以其習故。 |
復た次ぎに、五衆は、因縁生の故に空、無我にして、無明の因縁に従って、二十身見を生ず。是の我見は、自らを、五陰に於いて相続して生じ、此の五衆の縁に従って、生ずるを以っての故に、即ち、此の五衆を計って我と為すも、他身には在らず、其の習を以っての故なり。 |
復た次ぎに、
『五衆』は、
『因縁生である!』が故に、
『空であり!』、
『無我である!』が、
『無明』という、
『因縁』により、
『二十身見』を、
『生じる!』と、
是の、
『我見』が、
『自ら( 我)!』を、
『五陰( 五衆)』中に、
『相続して!』、 ――過去、現在、未来に相続して――
『生じる!』のであり、
此の、
『五衆』を、
『縁じて!』、
『生じる!』が故に、
此の、
『五衆』を、
『他身』に、
『我見』という、
『習( 習慣)』が、
『我』を、
『五衆』に、
『計るからである!』。
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二十身見(にじゅうしんけん):二十の身見を云う。即ち「舎利弗阿毘曇論巻20」に、「何をか二十種の身見と謂う。或はある人の謂わく、色是我、色中有我、我是色有、色是我有なり、受想行識もまたかくの如し、これを二十種の身見と名づく」と云えるこれなり。この中、色是我とは、色は即ち我なりと云い、色中有我とは、色中に我有るも色即我ならざることを云い、我是色有とは、我は色の所有なることを云い、色是我有とは色は我の所有なることを云うなり。『大智度論巻5(下)注:六十二見』参照。
五陰(ごおん):梵語 paJcasuupaadaana- skandheSu の訳。の五種に分類された、自分自身を取得する為めの行為( the act
of taking for one's self , appropriating to one's self )の意。通常五衆、五蘊に同じ。 |
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復次若有神者可有彼我。汝神有無未了而問彼我。其猶人問兔角。答似馬角。馬角若實有可以證兔角。馬角猶尚未了。而欲以證兔角。 |
復た次ぎに、若し神有らば、彼、我有るべし。汝が神の有無、未だ了(あき)らかならざるに、彼我を問わば、其れ猶お、人の兔角を問うに、馬の角に似たりと答うるがごとし。馬の角、若し実に有らば、以って兔角の証すべきも、馬の角、猶尚お未だ了らかならざるに、以って兔角を証せんと欲す。 |
復た次ぎに、
若し、
『神( 我の主)』が、
『有れば!』、
『彼れ!』とか、
『我れ!』も、
『有るだろうが!』、
お前の、
『神』は、
『有る!』とも、
『無い!』とも、
未だ、
『了(あき)らかでない!』のに、
お前は、
『彼れ!』とか、
『我れ!』とかを、
『問うている!』。
其れは、
猶お、
『兔の角』を、
『人』が、
『問うた!』のに、
『馬の角』に、
『似ている!』と、
『答えるようなものだ!』。
若し、
『馬の角』が、
『実』に、
『有れば!』、
それで、
『兔の角』を、
『明かすこともできようが!』、
『馬の角』が、
未だ、
『了らかでない!』のに、
それで、
『兔の角』を、
『明かそうとしているのだ!』。
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神(じん):梵語 puruSa の訳。外道所執の実我。『大智度論巻2下注:神、同巻22上注:神、数論』参照。 |
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復次自於身生我故便自謂有神。汝言神遍亦應計他身為我以是故不應言自身中生計我心於他身不生。故知有神。 |
復た次ぎに、自らの、身に於いて我を生ずるが故に、便ち、自らに、『神有り』と謂う。汝が、『神は遍し』と言わば、亦た応に他身に計りて、我と為すべし。是を以っての故に、応に言うべからず、『自身中に、我心を計って生ずれば、他身に於いて生ぜず、故に神有るを知る』、と。 |
復た次ぎに、
自らの、
自らに、
お前が、
『神』は、
『遍在する!』と、
『言う!』ならば、
亦た、
『他身』中に、
『計って!』、
『我である!』と、
『思うはず!』であり、
是の故に、
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復次有人於他物中我心生。如外道坐禪人。用地一切入觀時。見地則是我我則是地。水火風空亦如是。顛倒故於他身中亦計我。 |
復た次ぎに、有る人は、他物中に於いて、我心を生ず。外道の坐禅人の如きは、地一切入を用いて、観る時、地は、則ち是れ我れなり、我れは、則ち是れ地なりと見て、水、火、風、空も亦た是の如し。顛倒の故に、他身中に於いて、亦た我を計るなり。 |
復た次ぎに、
有る人は、
例えば、
『外道』の、
『坐禅人』などが、
『地一切入』を、
『用いて!』、
『観る!』時には、
『顛倒』の故に、
『地』は、
『我れである!』、
『我れ』は、
『地である!』と、
『見るのであり!』、
『水、火、風、空』も、
亦た、
『是の通りである!』が、
『顛倒』の故に、
|
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復次有時於他身生我。如有一人受使遠行。獨宿空舍。夜中有鬼擔一死人來著其前。復有一鬼逐來瞋罵前鬼。是死人是我物。汝何以擔來。先鬼言是我物我自持來。後鬼言是死人實我擔來。二鬼各捉一手爭之。 |
復た次ぎに、有るいは時に、他身に於いて、我を生ず。有る一人の如し、使を受けて遠行し、独り空舎に宿れり。夜中有る鬼、一死人を擔(かつ)ぎ来たりて、其の前に著(お)けり。復た有る一鬼、逐うて来たりて、前の鬼を瞋罵すらく、『是の死人は、是れ我が物なり。汝は何を以ってか、擔ぎ来たる』、と。先の鬼の言わく、『是れ我が物なり。我れ自ら持ち来たれり』、と。後の鬼の言わく、『是の死人は、実に我れ擔ぎ来たれり』、と。二鬼は、各、一手を捉えて之を争う。 |
復た次ぎに、
時には、
『他身』に、
『我』を、
『生じることもある!』。
例えば、
有る、
『一人』のことである、――
『使命』を、
『受けて!』、
『遠くへ行き!』、
『空舎』に、
『独りで!』、
『宿ることになった!』。
夜中に、
有る、
『一鬼』が、
『一死人』を、
『擔(かつ)いで!』、
『来る!』と、
『その人』の、
『前に!』、
『置いた!』。
復た、
有る、
『一鬼』が、
『前の鬼』を、
『逐って!』、
『来る!』と、
『瞋って!』、
こう罵った、――
是の、
『死人』は、
『俺の物だ!』、
お前は、
何故、
『擔いで来たのだ!』、と。
『先の鬼』は、
こう言った、――
是れは、
『俺の物だ!』、
俺が、
『自分で!』、
『持って来たのだ!』、と。
『後の鬼』は、
こう言った、――
是の、
『死人』は、
本当に、
『俺が!』、
『擔いで来たのだ!』、と。
『二鬼』は、
各、
片方の、
『手』を、
『捉えて!』、
是の、
『死人』を、
『争った!』。
|
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|
前鬼言此有人可問。後鬼即問。是死人誰擔來。是人思惟。此二鬼力大。若實語亦當死。若妄語亦當死。俱不免死何為妄語。語言。前鬼擔來。 |
前の鬼の言わく、『此に人有り、問うべし』、と。後の鬼の即ち問わく、『是の死人は、誰か擔ぎ来たれる』、と。是の人の思惟すらく、『此の二鬼は、力大なり。若し実語せば、亦た当に死すべし。若し妄語せば、亦た当に死すべし。倶に死を免れずんば、何んが妄語を為さん』と、語りて言わく、『前の鬼、擔ぎ来たれり』、と。 |
『前の鬼』が、
こう言った、――
此( ここ)にいる、
『人』に、
『聞けばよかろう!』、と。
『後の鬼』は、
すぐに、こう問うた、――
是の、
『死人』は、
『誰が』、
『擔いで来たのだ?』、と。
是の、
『人』は、こう思惟した、――
此の、
若し、
『本当』を、
『言えば!』、
『当然、死ぬことになろう!』、
若し、
『嘘』を、
『言っても!』、
『やっぱり、死ぬことになろう!』、
『死』は、
『どちらにしても!』、
『免れないとすれば!』、
何の為めに
『嘘』を、
『言うのか?』、と。
そこで、こう言った、――
『前の鬼』が、
『擔いで来た!』、と。
|
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後鬼大瞋。捉人手拔出著地。前鬼取死人一臂拊之即著。如是兩臂兩腳頭脅舉身皆易。於是二鬼共食所易人身拭口而去。 |
後の鬼は大いに瞋りて、人の手を捉え、抜き出して地に著けば、前の鬼、死人の一臂を取りて、之を拊(う)てば、即ち著く。是の如く両臂、両脚、頭、脇、身を挙げて皆易(か)う。是(ここ)に於いて、二鬼は共に易うる所の人身を食い、口を拭いて去れり。 |
『後の鬼』は、
大いに、
『瞋り!』、
『此の人』の、
『手』を、
『捉えて!』、
『抜き出す!』と、
『地』に、
『置いた!』。
『前の鬼』が、
『死人』の、
『一臂』を、
『取って!』、
『此の人』に、
『打ちつける!』と、
『すぐに付いた!』。
是のようにして、
『両臂』、
『両脚』、
『頭』、
『脇』と、
『身』を、
『挙げて!』、
皆、
『易(か)えてしまう!』と、
是の、
『状況』に、
『満足して!』、
『二鬼』は、
いっしょに、
『易えられた!』、
『人』の、
『身』を、
『食い!』、
『口』を、
『拭って!』、
『行ってしまった!』。
|
拊(ふ):打つ。撫でる。 |
|
|
|
其人思惟。我人母生身眼見二鬼食盡。今我此身盡是他肉。我今定有身耶。為無身耶。若以為有盡是他身。若以為無今現有身。如是思惟。其心迷悶。譬如狂人。 |
其の人の思惟すらく、『我が人は、母身を生じ、眼に二鬼の食い尽くせるを見る。今我が此の身は、尽く是れ他の肉なり。我れに、今定んで身有りや、身無しと為すや。若し以って、有りと為さば、尽く是れ他身なり。若し以って無しと為さば、今現に身有り』、と。是の如く思惟し、其の心の迷悶すること、譬えば狂人の如し。 |
其の、
『人』は、こう思惟した、――
『わたし!』という、
『人』は、
『眼』に、
『見えた!』所では、
『二鬼』が、
『食い尽くしてしまった!』。
今、
『わたし!』には、
今、
定めて、
『身』は、
『有るのだろうか?』、
それとも、
『身』は、
『無いのだろうか?』。
若し、
若し、
是のように、
思惟すると、――
其の、
『心』は、
まるで、
『狂人のように!』、
『迷悶した!』のである。
|
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|
明朝尋路而去。到前國土見有佛塔眾僧。不論餘事但問己身為有為無。諸比丘問。汝是何人。答言。我亦不自知是人非人。即為眾僧廣說上事。 |
明朝、路を尋ねて去り、前の国土に到り、有る仏塔の衆僧に見(まみ)え、余事を論ぜず、但だ己が身の有りと為すや、無しと為すやを問う。諸の比丘の問わく、『汝は、是れ何なる人なりや』、と。答えて言わく、『我れも、亦た自らを、是れ人なりや、人に非ずやを知らず』、と。即ち衆僧の為めに、広く上の事を説く。 |
『明朝』、
『路』を、
『尋ねて!』、
『去り!』、
『前方』の、
『国土』に、
『到る!』と、
有る、
『仏塔』の、
『衆僧』に、
『会見して!』、
『他』の、
『事』は、
『論じずに!』、
但だ、
『自分の身』が、
『有るのか、無いのか?』だけを、
『問うた!』。
諸の、
『比丘』は、こう問うた、――
お前は、 ――お前は、誰だ?――
何のような、
『人か?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしにも、
『自分』が、
『人か、人でないのか?』が、
『分りません!』、と。
そして、
『衆僧』に、
『上の事』を、
『くわしく説明した!』。
|
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|
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諸比丘言。此人自知無我易可得度。而語之言。汝身從本已來恒自無我。非適今也。但以四大和合故計為我身。如汝本身與今無異。諸比丘度之為道斷諸煩惱。即得阿羅漢是為有時他身亦計為我。不可以有彼此故謂有我。 |
諸の比丘の言わく、『此の人は、自ら無我なるを知れば、易(たやす)く度を得べし』、而も之に語りて言わく、『汝が身は、本より已来、恒に自ら無我なり。適(たまた)ま今に非ず。但だ四大の和合を以っての故に、計って我が身と為す。汝が本の身の如きは、今と異無し』、と。諸の比丘は、之を度して道を為し、諸の煩悩を断ぜしむれば、即ち阿羅漢を得たり。是れを、『有るいは時に、他身を亦た計って、我と為せば、彼れと此れと有るを以っての故に、我有りと謂うべからず』と為す。 |
諸の、
『比丘』は、こう言った、――
此の、
『人』は、
自らに、
『我』の、
『無い!』ことを、
『知っている!』ので、
容易に、
『度せそうだ!』、と。
そして、
これに語って、こう言った、――
お前の、
『身』は、
『本より!』、
『恒に!』、
『自ら!』の、
『我』は、
『無い(存在しない)のだ!』、
『今のみ!』、
『偶然』、
『無いのではない!』。
但だ、
『四大( 地水火風)』の、
『和合した!』ものを、
『計って!』、
『わたしの!』、
『身である!』と、
『思ったのだ!』。
例えば、
お前の、
『本の身』も、
『今の身』と、
『異なるものではない!』、と。
諸の、
『比丘』は、
此の、
『人』を、
『度して!』、
『道』を、
『行わせ!』、
諸の、
『煩悩』を、
『断じさせた!』ので、
此の、
『人』は、
すぐに、
『阿羅漢』を、
『得ることになった!』。
是れを、
こう称する、――
有るいは、
時に、
『他人』の、
『身』を、
『計って!』、
『自分だ!』と、
『思うこともある!』ので、
『彼れ!』と、
『此れ!』とが、
『有る!』からと、
『言って!』、
『我』が、
『有る!』と、
『思ってはならない!』、と。
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復次是我實性決定不可得。若常相非常相自在相不自在相作相不作相色相非色相。如是等種種皆不可得。 |
復た次ぎに、是の我の実の性は、決定して不可得なり。若しは、常相、若しは非常相、自在相、不自在相、作相、不作相、色相、非色相なるも、是の如き等の種種は、皆、不可得なり。 |
復た次ぎに、
是の、
『我』の、
『実の性』は、
『決定して!』、
『不可得である!』。
若しは、
『常相だ!』としても、
若しは、
『非常相』、
『自在相』、
『不自在相』、
『作相』、
『不作相』、
『色相』、
『非色相』、
是れ等のような、
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若有相則有法。無相則無法。我今無相則知無我。 |
若し、相有れば、則ち法有り、相無ければ、則ち法無しとせば、我に、今、相無ければ、則ち我無きを知る。 |
若し、
『相』が、
『相』が、
『無ければ!』、
『法』も、
『無い!』とすれば、
今、
『我』には、
『相』が、
『無い!』ので、
『我』は、
『無い!』と、
『知ることになる!』。
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若我是常不應有殺罪。何以故身可殺非常故。我不可殺。常故。 |
若し、我は是れ常ならば、応に殺罪有るべからず。何を以っての故に、身の殺すべきは、常に非ざるが故なり、我の殺すべからざるは、常なるが故なり。 |
若し、
『我』が、
『常ならば!』、
当然、
『殺罪』は、
『有るはずがない!』、
何故ならば、
『身』の、
『殺される!』のは、
『常でない!』からであり、
『我』が、
『殺されない!』のは、
『常だからである!』。
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問曰。我雖常故不可殺。但殺身則有殺罪。 |
問うて曰く、我は常なるが故に殺すべからずと雖も、但だ身を殺せば、則ち殺罪有り。 |
問い、
『我』は、
『常である!』が故に、
『殺されない!』が、
但だ、
『身』を、
『殺せば!』、
『殺』という、
『罪』が、
『有る!』。
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答曰。若殺身有殺罪者。毘尼中言。自殺無殺罪。罪福從惱他益他生。非自供養身自殺身故有罪有福。以是故毘尼中言。自殺身無殺罪。有愚癡貪欲瞋恚之咎。 |
答えて曰く、若し身を殺せば、殺罪有りとは、毘尼中に言わく、『自らを殺すは、殺罪無し』、と。罪福は、他を悩まし、他を益するに従いて生ず。自らの身を供養し、自らの身を殺すが故に、罪有り、福有るに非ず。是を以っての故に、毘尼中に言わく、『自ら身を殺すに、殺罪無く、愚癡、貪欲、瞋恚の咎有り』、と。 |
答え、
若し、
『身』を、
『殺せば!』、
『殺』の、
『罪』が、
『有る!』とは、――
『毘尼』中には、こう言っている、――
『自ら!』の、
『身』を、
『殺せば!』、
『殺』の、
『罪』は、
『無い!』、と。
何故ならば、
『罪』や、
『福』は、
『他』を、
『悩ましたり!』、
『他』を、
『益したり!』して、
『生じる!』のであり、
『自ら!』の、
『身』を、
『供養したり!』、
『自ら!』の、
『身』を、
『殺したり!』するが故に、
『罪』や、
『福』が、
『有るのではない!』。
是の故に、
『毘尼』中には、
こう言っているのである、――
『自ら!』の、
『身』を、
『殺しても!』、 『殺』の、
『罪』は、
『無い!』、
『愚癡』と、
『貪欲』と、
『瞋恚』との、
『咎』が、
『有るだけだ!』、と。
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参考:『十誦律巻52』:『問殺事第三 優波離問佛。若比丘以咒術。變身作畜生形。奪人命。得波羅夷不。答若自憶念我是比丘。得波羅夷。若不憶念偷蘭遮。問頗有比丘殺母得大福不得罪耶。答有。愛名為母。若殺得大福。不得罪也。問頗有比丘殺父得大福不得罪耶。答有。漏名為父。殺得大福不得罪也。問若比丘作方便欲殺母而殺非母。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。問若比丘作方便。欲殺非母。而自殺母。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。若比丘作方便。欲殺人而殺非人。得偷蘭遮。若比丘作方便。欲殺非人而殺人。得突吉羅。問若比丘作方便。欲殺阿羅漢。而殺非阿羅漢。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。問若比丘作方便。欲殺非阿羅漢。而殺阿羅漢。得波羅夷并逆罪耶。答不得。得偷蘭遮。問若比丘實是阿羅漢比丘。謂非羅漢生惡心殺。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷。亦得逆罪。問若比丘實非阿羅漢比丘。謂是阿羅漢。生惡心殺。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷。不得逆罪。問有一女人棄加羅邏。一女人還取用。後生子。何者是母。答先者是也。問比丘殺何母。得波羅夷并逆罪耶。答殺先母得波羅夷并逆罪。問若是子欲出家應問何母。答應問後者。問頗比丘墮人胎不犯波羅夷耶。答有。若人懷畜生是。問頗比丘墮畜生胎犯波羅夷耶。答有。若畜生懷人是。問若比丘欲殺父母。方便作殺因緣。作已自投深坑。得波羅夷并逆罪耶。答父母先死比丘後死。得波羅夷并逆罪。若比丘先死父母後死。得偷蘭遮問頗比丘欲殺父母。方便作殺因緣。作已持刀自殺。得波羅夷并逆罪耶。答若父母先死比丘後死。得波羅夷并逆罪。若比丘先死父母後死。得偷蘭遮。問頗比丘殺父母不得波羅夷并逆罪耶。答有。若比丘病。父母來問訊。比丘經行倒父母上。父母若死。比丘無罪。又復比丘病。父母扶將歸家。比丘蹴蹶倒父母上。父母若死。比丘無罪。若比丘欲殺父母。心生疑。是父母非。若心定。知是父母殺。得波羅夷并逆罪。若生疑。是人非人。若心定。知是人殺。得波羅夷。若人捉賊欲將殺。賊得走去。若以官力。若聚落力。追逐是賊。比丘逆道來。追者問比丘言。汝見賊不。是比丘。先於賊有惡心瞋恨心。語言。我見在是處。以是因緣令賊失命。比丘得波羅夷。若人將眾多賊欲殺。是賊得走去。若以官力若聚落力追逐。是比丘逆道來。追者問比丘言。汝見賊不。是賊中或一人。是比丘所瞋恨者。比丘言。我見在是處。若得殺。非所瞋者偷蘭遮問。若比丘作非母想殺母。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷并逆罪。問比丘作母想殺非母。得波羅夷并逆罪耶。答得波羅夷。不得逆罪。問若比丘非人想惡心殺人。得波羅夷不。答得波羅夷。問若比丘作人想惡心殺非人。得波羅夷不。答不得。得偷蘭遮。問頗比丘奪人命不得波羅夷耶。答有。自殺身無罪。若比丘戲笑打他。若死得突吉羅。未受具戒人作殺人方便。未受具戒人奪命。得突吉羅。未受具戒人作殺人方便。受具戒時奪命。得突吉羅。未受具戒人作殺人方便。受具戒人奪命。得波羅夷。受具戒時作殺人方便。受具戒時奪命。得突吉羅。受具戒時作殺人方便。受具戒已奪命。得波羅夷。受具戒人作殺人方便。受具戒人奪命。得波羅夷。受具戒人作殺人方便。非具戒人奪命。得偷蘭遮。問頗比丘殺人不得波羅夷耶。答有。若先破戒若賊住若先來白衣是。問頗有不受具戒人殺人得波羅夷耶。答有。與學沙彌是也』 |
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若神常者不應死不應生。何以故汝等法神常。一切遍滿五道中。云何有死生。死名此處失。生名彼處出。以是故不得言神常。 |
若し神が常ならば、応に死すべからず、応に生ずべからず。何を以っての故に、汝等の法の、神は常にして、一切は、五道中に遍満すとせば、云何が、死生有らん。死を此処に失うと名づけ、生を彼処に出づと名づく。是を以っての故に、『神は常なり』と言うを得ず。 |
若し、
『神』が、
『常ならば!』、
『死ぬはずがない!』し、
『生まれるはずもない!』。
何故ならば、
お前達の、
『法』には、――
『神』は、
『常であり!』、
『一切の神』は、
『五道』中に、
『遍満する!』が、
何故、
『死』とは、
『生』とは、
是の故に、
こう言うことはできない、――
『神』は、
『常である!』、と。
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若神常者亦應不受苦樂。何以故苦來則憂樂至則喜。若為憂喜所變者則非常也。 |
若し神が常なれば、亦た応に苦楽を受けざるべし。何を以っての故に、苦来たれば則ち憂い、楽至れば則ち喜ぶも、若し憂と喜に変ぜらるれば、則ち常に非ざればなり。 |
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
亦た、
『苦、楽』を、
『受けるはずがない!』。
何故ならば、
『苦』が、
『来れば!』、
『憂えて!』、
『楽』が、
『至れば!』、
『喜ぶ!』が、
若し、
『憂い!』や、
『喜び!』が、
『神』を、
『変わらせる!』ならば、
『神』は、
『常でない!』。
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若常應如虛空雨不能濕熱不能乾。亦無今世後世。 |
若し常なれば、応に虚空の如く、雨も湿すあたわず、熱も乾かす能わずして、亦た今世、後世無かるべし |
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『虚空のように!』、
『雨』にも、
『湿されず!』、
『熱』にも、
『乾かされず!』、
亦た、
『今世』も、
『後世』も、
『無いはずである!』。
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若神常者示不應有後世生今世死。 |
若し神が常ならば、応に後世に生じて、今世に死すること有るべからざるを示せ。 |
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『後世の生』も、
『今世の死』も、
『有るはずがない!』と、
『示してみよ!』。
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若神常者則常有我見。不應得涅槃。 |
若し神が常ならば、則ち常に我見有らん、応に涅槃を得べからず。 |
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『常』に、
『我見』が、
『有るはずだ!』、
当然、
『涅槃』など、
『有るはずがない!』。
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若神常者則無起無滅。不應有妄失。以其無神識無常故。有忘有失。是故神非常也。如是等種種因緣可知神非常相。 |
若し神が常ならば、則ち無起、無滅ならん、応に忘失有るべからず。其れに神無く、識の無常なるを以っての故に、忘有り、失有り。是の故に、神は常に非ず。是の如き等種種の因縁に、神の常相に非ざるを知るべし。 |
若し、
『神』が、
『常ならば!』、――
『起る!』ことも、
『滅する!』ことも、
『無い!』ので、
『忘失』も、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
其れに、
『神』が、
『無く!』、
『識』が、
『無常なので!』、
是の故に、
『忘れる!』ことも、
『有り!』、
『失う!』ことも、
『有るからだ!』。
是の故に、
『神』は、
『常でない!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、
『神』は、
『常相ではない!』と、
『知ることができよう!』。
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妄失:他本に従いて、忘失に改む。 |
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若神無常相者亦無罪無福。若身無常神亦無常。二事俱滅則墮斷滅邊。墮斷滅則無到後世受罪福者。若斷滅則得涅槃。不須斷結亦不用後世罪福因緣。如是等種種因緣可知神非無常。 |
若し神が無常相ならば、亦た罪無く、福無けん。若し身が無常ならば、神も亦た無常ならん。二事倶に滅すれば、則ち断滅の辺に堕し、断滅に堕すれば、則ち後世に到りて、罪福を受くる者無し。若し、断滅すれば、則ち涅槃を得て、結を断ずるを須(ま)たず、亦た後世の罪福の因縁を用いず。是の如き等の種種の因縁に、神の無常に非ざるを知るべし。 |
一方、
若し、
『神』が、
若し、
『身』が、
『無常ならば!』、
『神』も、
『無常だろう!』、
『身』と、
『神』との、
『二事』が、
『いっしょに!』、
『滅すれば!』、
『断滅』の、
『辺』に、
『堕ちる!』。
若し、
『断滅』に、
『堕ちれば!』、
『後世』に、
『到って!』、
『罪』や、
『福』を、
『受ける!』者が、
『無い!』。
若し、
『断滅ならば!』、
『涅槃』を、
『得る!』のに、
『結』を、
『断じる!』、
『必要がなく!』、
亦た、
『後世』の、
『罪』や、
『福』の、
『因縁』を、
『用いることもない!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう知ることができよう、――
『神』は、
『無常ではない!』、と。
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若神自在相作相者。則應隨所欲得皆得。今所欲更不得。非所欲更得。若神自在。亦不應有作惡行墮畜生惡道中。 |
若し神が自在相、作相ならば、則ち応に得んと欲する所に隨いて、皆得ん。今、欲する所は更に得ず、欲する所に非ざれば、更に得。若し神が自在ならば、亦た応に悪行を作して、畜生、悪道中に堕ちること有るべからず。 |
若し、
『神』が、
『自在の相』や、
『作の相』ならば、――
『欲する!』所に、
今、
『欲する!』所は、
『少しも!』、
『得られず!』、
『欲しない!』所は、
『大いに!』、
『得られる!』。
若し、
『神』が、
『自在ならば!』、――
亦た、
『悪行』を、
『作して!』、
『畜生』や、
『悪道』中に、
『堕ちる!』ことなど、
『有るはずがない!』。
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復次一切眾生皆不樂苦。誰當好樂而更得苦。以是故知神不自在。亦不作。 |
復た次ぎに、一切の衆生は、皆、苦を楽しまず。誰か、当に楽を好みて、更に苦を得ん。是を以っての故に、神は自在ならずして、亦た不作なるを知る。 |
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『苦』を、
『楽しまない!』、
誰が、
『楽』を、
『好んで!』、
而も、
『苦』を、
『得ようとするのか?』。
是の故に、
こう知る、――
『神』は、
『自在でもなく!』、
『不作である!』、と。
|
不作(ふさ):梵語 akaraNa の訳。非生産、非創出( not making )、非完成( not accomplishing )、行為の欠落( absence of action )等の義。 |
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又如人畏罪故自強行善。若自在者。何以畏罪而自強修福。 |
又人の罪を畏るるが故に、自ら強いて善を行ずるが如きに、若し自在ならば、何を以ってか、罪を畏れて、自ら強いて福を修せん。 |
又、
若し、
『自在ならば!』、――
何故、
自らに、
『強いて!』、
『福』を、
『修めさせるのか?』。
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又諸眾生不得如意。常為煩惱愛縛所牽。如是等種種因緣。知神不自在不自作。 |
又諸の衆生は、如意を得ずして、常に煩悩、愛縛の牽く所と為る。是の如き等の種種の因縁に、神は自在ならずして、自作ならざるを知る。 |
又、
諸の、
『衆生』は、
『意の通り!』に、
『得られない!』ので、
常に、
『煩悩』や、
『愛縛』の為めに、
『悪趣』に、
『牽かれている!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう知ることになる、――
『神』は、
『自在でもなく!』、
『自作でもない!』、と。
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自在(じざい):梵語 sva- tantra の訳。自己依存、独立、わがまま、自由( self- dependence , independence
, self- will , freedom )等の義。
自作(じさ):梵語 sva- kRta の訳。自分自身によって造り上げられた、又は完成させられた、又は建立させられた、又は成立させられた、又は創造させられた(
done or performed or built or composed or created or fixed by one's self
)、自己創出された( self- created , one's own doing , self- made , self- constructed
)等の義。 |
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若神不自在不自作者。是為無神相。言我者即是六識更無異事。 |
若し神が、自在にあらず、自作にあらざれば、是れを神相無しと為し、我と言うは、即ち是れ六識と更に異なる事無し。 |
若し、
『神』が、
『自在でもなく!』、
『自作でもなければ!』、
是れには、
『神』の、
『相』が、
『無いことになり!』、
『我』と、
『言われる!』者も、
『六識』と、
『異なる事』は、
『無いことになる!』。
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復次若不作者。云何閻羅王問罪人。誰使汝作此罪者。罪人答言。是我自作。以是故知非不自作。 |
復た次ぎに、若し、不作ならば、云何が、閻羅王の罪人に、『誰か、汝をして此の罪を為さしめし者なる』、と問うに、罪人答えて、『是れ我れ自ら作せり』、と言う。是を以っての故に、自作ならざるに非ざるを知る。 |
復た次ぎに、
若し、
『神』が、
『不作ならば!』、――
何故、
『閻羅王』は、
『罪人』に、こう問うて、――
誰が、
お前に、
『此の罪』を、
『作らせたのか?』、と。
『罪人』が答えて、こう言うのか?――
是の、
『罪』は、
わたしの、
『自作です!』、と。
是の故に、
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若神色相者是事不然。何以故。一切色無常故。 |
若し、神の色相ならば、是の事は然らず。何を以っての故に、一切の色は、無常なるが故なり。 |
若し、
『神』が、
『色』の、
『相だとすれば!』、
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
何故ならば、
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問曰。人云何言色是我相。 |
問うて曰く、人は、云何が、『色は、是れ我の相なり』、と言える。 |
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答曰。有人言。神在心中微細如芥子。清淨名為淨色身。更有人言如麥。有言如豆。有言半寸。有言一寸。初受身時最在前受。譬如像骨及其成身如像已莊。有言大小隨人身。死壞時此亦前出。如此事皆不爾也。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『神は、心中に在りて、微細なること芥子の如く、清浄なれば、名づけて、浄なる色身と為す』、と。更に有る人の言わく、『麦の如し』、と。有るいは言わく、『豆の如し!』、と。有るいは言わく、『半寸なり』、と。有るいは言わく、『一寸なり。初めて身を受くる時、最も前に在りて受くること、譬えば像の骨の如し。其の身を成ずるに及んで、像の已に荘(かざ)るが如し』、と。有るいは言わく、『大小は、人の身に隨う。死して壊する時、此れ亦た前(さき)に出る』、と。此の如き事は、皆、爾らざるなり。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
『神』は、
『心』中に、
『在って!』、
『芥子のよう!』に、
『微細であり!』、
『清浄』なので、
更に、
有る人は、こう言っている、――『麦のようだ!』、と。
有るいは、こう言っている、――『豆のようだ!』、と。
有るいは、こう言っている、――『半寸だ!』、と。
有るいは、こう言っている、――
『一寸である!』、
初めて、
『身』を、
『受ける!』時には、
最も、
『前(初)』に、
『受ける!』ので、
譬えば、
『像』の、
『骨のようであり!』、
其の、
『身』が、
『成長してくる!』と、
譬えば、
『像のように!』、
『装われる!』、と。
有るいは、こう言っている、――
此のような、
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荘(しょう):盛んに飾る。荘厳。 |
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何以故。一切色四大所造。因緣生故無常。若神是色色無常神亦無常。若無常者如上所說。 |
何を以っての故に、一切の色は、四大所造、因縁生なるが故に、無常なり。若し、神は是れ色ならば、色は無常なれば、神も亦た無常ならん。若し、無常ならば、上に所説の如し。 |
何故ならば、
一切の、
『色』は、
『四大』の、
『造る!』所であり、
『因縁』の、
『生である!』が故に、
『無常だからである!』。
若し、
『神』が、
『色ならば!』、
『色』は、
『無常なので!』、
『神』も、
亦た、
『無常である!』。
若し、
『神』が、
『無常ならば!』、
上に、
『説いた通りである!』。
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問曰。身有二種。麤身及細身。麤身無常細身是神。世世常去入五道中。 |
問うて曰く、身には、二種有り、麁身と、及び細身なり。麁身は無常なるも、細身は是れ神にして、世世に常に去りて、五道中に入る。 |
問い、
『身』には、
『二種』有り、
『麁身』と、
『細身である!』。
『麁身』は、
『無常である!』が、
『細身』は、
『神であり!』、
『世(現世)』から、
『世(未来世)』へ、
常に、
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答曰。此細身不可得。若有細身應有處所可得。如五藏四體。一一處中求皆不可得。 |
答えて曰く、此の細身は不可得なり。若し細身有らば、応に処の得べき所有るべし。五蔵、四体の如きの一一の処中に求むるも、皆得べからず。 |
答え、
此の、
『細身』は、
『不可得である(認識できない)!』。
若し、
『細身』が、
『有れば!』、
『得られる( 認識できる)!』、
『処』が、
『有るはずだ!』が、
例えば、
『五蔵』や、
『四体』などの、
『一一』の、
『処』に、
『求めても!』、
皆、
『得られない!』。
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問曰。此細身微細。初死時已去。若活時則不可求得汝云何能見。又此細身非五情能見能知。唯有神通聖人乃能得見。 |
問うて曰く、此の細身は、微細にして、初めて死する時、已に去る。若し、活くる時なれば、則ち求めて得るべからず。汝、云何が、能く見ん。又、此の細身は、五情の能く見、能く知るに非ず。唯だ神通有る聖人にして、乃ち能く見るを得る。 |
問い、
此の、
『細身』は、
『微細であり!』、
初めて、
『活きている!』時には、
『求めても!』、
『得られない!』ので、
お前なんかに、
亦た、
此の、
『細身』は、
『五情』で、
『知見されることはない!』が、
唯だ、
『神通』を、
『有する!』、
『聖人』ならば、
かろうじて、
『見ることができる!』。
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答曰。若爾者與無無異。如人死時。捨此生陰入中陰中。是時今世身滅受中陰身。此無前後滅時即生。譬如蠟印印泥。泥中受印印即時壞。成壞一時亦無前後。 |
答えて曰く、若し爾らば、無と異無し。人の死する時の如きは、此の生陰を捨てて、中陰中に入るに、是の時、今世の身滅して、中陰の身を受くるに、此れに前後無く、滅する時に即ち生ず。譬えば、蝋印を泥に印するに、泥中に印を受くれば、印は即時に壊れ、成壊一時にして、亦た前後無きが如し。 |
答え、
若し、
そうならば、――
『無』と、
『異(ことなり)』が、
『無いことになる!』。
例えば、
『人』が、
『死ぬ!』時には、
此の、
『生陰』を、
『捨てて!』、
『中陰』中に、
『入る!』が、
是の時、
『今世』の、
『身』が、
『滅して!』、
『中陰』中の
『身』を、
『受ける!』。
此の、
譬えば、
『蝋』の、
『印』を、
『熱泥』中に、
『押す!』と、
『泥』中に、
『印』を、
『受けた!』時、
『印』が、
『即時』に、
『壊れる!』ので、
『成』と、
『懐』とが、
『一時』に、
『起って!』、
『前』も、
『後』も、
『無い!』のと、
『同じである!』。
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生陰(しょうおん):生者の陰身を云い、即ち五陰と同義なり。また生有、或いは本有とも称す。三有、或いは四有の一。『大智度論巻7(上)注:有、同巻12上注:四有』参照。
中陰(ちゅうおん):此に死し、彼に生ずる、その中間に受くる陰形を云い、また中有と称す。四有の一。『大智度論巻4(下)注:中陰、同巻12上注:四有』参照。
四有(しう):梵語 catvaaro bhavaaH の訳。四種の有の意。即ち有情の託胎結生より次の結生に至る間に、総じて四種の有を経るを云う。一に中有
antaraa- bhava 、二に生有 upapatti- bhava 、三に本有 puurva- kaala- bhava 、四に死有 maraNa-
bhava なり。「成実論巻3」に、「又経中に四有を説く。本有、死有、中有、生有なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「総じて説くに有の体は是れ五取蘊なり。中に於いて位別分析して四と為す。一には中有は義前に説くが如し。二には生有は謂わく諸趣に於いて結生する刹那なり。三には本有は生の刹那を除きて死の前の余位なり、四には死有は謂わく最後の念なり。中有の前に次ぐ」と云い、又「大乗義章巻8本」に、「報分の始めて起るを名づけて生有と為し、命報の終に謝するを名づけて死有と為し、生の後、四の前を名づけて本有となす。死及び中に対するが故に説いて本と為す。両身の間に受くる所の陰形を名づけて中有と為す」と云える是れなり。是れ即ち死有と生有との中間の五蘊を中有と名づけ、託胎結生の刹那を生有と名づけ、結生の後より死の前に至る間を本有と名づけ、最後命終の刹那を死有と名づけたるなり。四有の時分の久近を論ぜば、生有と死有とは極めて短くして唯一念なり、本有と中有とは不定なり。中に就き本有は極短は唯一念に止まり、長きは億百千劫に至る。中有は異説あり、或いは極短は一念、極長は七日と云い、或いは七七日に至ると云い、或いは寿命不定なりと云い、或いは中有にも死生ありと云えり。三界に約して其の通局を論ぜば、「倶舎論巻9」に、「有色の有情は四有を具足す、若し無色に在りては中は闕けて三のみを具す」と云い、「大乗義章巻8本」には、「生死本有は遍く三界に通ず。中有は不定なり。小乗法の中には欲色界には有り、無色には則ち無し。大乗法の中には四空にも色あり、色あるを以っての故に亦た中陰あり」と云えり。又「大毘婆沙論巻60、巻68至70、巻192」、「瑜伽師地論巻1」、「同記巻1上」、「順正理論巻23」、「成唯識論巻1」、「倶舎論光記巻9」、「華厳経孔目章巻3」、「釈浄土群疑論巻2」等に出づ。<(望) |
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是時受中陰中有。捨此中陰受生陰有。汝言細身即此中陰。中陰身無出無入。譬如然燈生滅相續不常不斷。 |
是の時、中陰中の有を受け、此の中陰を捨てて、生陰の有を受く。汝の言える細身とは、即ち此の中陰なり。中陰の身には、出無く、入無く、譬えば、然灯の生滅相続して、常ならず、斷ならざるが如し。 |
是の時、
『中陰』中の、
『有』を、
『受ける!』と、
此の、
『中陰』を、
『捨てて!』、
『生陰』の、
『有』を、
『受ける!』。
お前の言う、
『細身』とは、
『中陰』という、
『身』には、
『出る!』者も、
『入る!』者も、
『無い!』ので、
譬えば、
『燃える!』、
『灯』の、
『生』と、
『滅』とが、
『相続して!』、
『常でもなく!』、
『斷でもない!』のと、
『同じである!』。
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有(う):梵語 bhava 、又は bhaava の訳。存在の発端、誕生、生産、起原( coming into existence , birth
, production , origin )の義。存在( being , existence )、存在する( existent )、存在するもの(
a existent )等の意。 |
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註:然灯の譬喩:燃える灯は、極短時間に存在して、前の存在と、後の存在とは異なるはずであるが、相続しているように見えることを云う。 |
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佛言一切色眾。若過去未來現在。若內若外若麤若細皆悉無常。汝神微細色者。亦應無常斷滅。如是等種種因緣可知非色相。 |
仏の言わく、『一切の色衆は、若しは過去、未来、現在、若しは内、若しは外、若しは麁、若しは細なるも、皆悉く、無常なり』、と。汝が神も、微細の色なれば、亦た応に無常にして断滅すべし。是の如き種種の因縁に、色相に非ざるを知るべし。 |
『仏』は、
こう言われた、――
一切の、
『色衆』は、
『過去』も、
『未来』も、
『現在』も、
『内』も、
『外』も、
『麁』も、
『細』も、
皆、
悉くが、
『無常である!』、と。
お前の、
『神』が、
『微細』の、
『色である!』ならば、
亦た、
『無常であり!』、
『断滅するはずである!』。
是れ等のような、
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神非無色相。無色者四眾及無為。四眾無常故。不自在故。屬因緣故。不應是神。三無為中不計有神。無所受故。如是等種種因緣。知神非無色相。 |
神は無色相にも非ず。無色とは、四衆、及び無為なり。四衆は無常なるが故に、自在ならざるが故に、因縁に属するが故に、応に是れ神なるべからず。三無為中に、神有るを計らざるは、受くる所無きが故なり。是の如き等の種種の因縁に、神は無色の相に非ざるを知る。 |
『神』は、
『無色』の、
『相でもない!』。
『無色』とは、
『四衆(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)』と、
『三無為(択滅無為、非択滅無為、虚空無為)である!』が、
『四衆』は、
『無常である!』が故に、
『自在でない!』が故に、
『因縁に属する!』が故に、
是れは、
『神であるはずがない!』。
『三無為』中に、
『神』が、
『有る!』と、
『計らない!』のは、
『無為』には、
『受ける!』所が、
『無い!』からである。
是れ等のような、
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如是天地間若內若外。三世十方求我不可得。但十二入和合生六識。三事和合名觸。觸生受想思等心數法。 |
是の如く、天地の間の若しは内、若しは外の、三世十方に、我を求むるも、不可得なり。但だ、十二入和合して、六識を生じ、三事の和合を触と名づけ、触は、受、想、思等の心数法を生ず。 |
是のように、
『天、地の間』の、
『内』や、
『外』の、
『三世』、
『十方』に、
『我』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』。
但だ、
『十二入( 六情、六塵)』の、
『三事( 情、塵、識)』の、
『触』が、
『受、想、思』等の、
『心数法』を、
『生じる!』。
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是法中無明力故身見生。身見生故謂有神。是身見見苦諦苦法智及苦比智則斷。斷時則不見有神。 |
是の法中に、無明の力の故に、身見生ず。身見生ずるが故に、神有りと謂う。是の身見は、見苦諦の苦法智、及び苦比智なれば、則ち斷ず。斷ずる時は、則ち神有るを見ず。 |
是の、
『十二入』等の、
『法』中に、
是の、
『身見』は、
『見苦諦』の、
『苦法智』と、
『苦比智』とで、
『斷じられ!』、
『斷じられた!』時には、
『神』が、
『有る!』と、
『見ることはない!』。
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身見(しんけん):梵語 satkaaya- dRSTi の訳。自性、或いは独立性の存在を認める見解( the view of the existence
of a personality or individuality )、自性を認める見解( identity-view )、独立した実体の存在を認める見解(
view of the existence of independent entities )等の義。 五見の一。『大智度論巻7上注:見、同巻26上注:五見』参照。
見苦諦(けんくたい):梵語 duHkha- darazana の訳。苦痛に関する崇高な真実を明確に認める/悟る( to perceive or realize
the noble truth of suffering )の義。
苦諦(くたい):梵語 duHkha- satya の訳。我々の受認するが如き存在は、所詮不満足なものでしかありえないと悟ること( the realization by Śākyamuni that existence as we normally perceive it cannot but be dissatisfactory )の意。四諦の一。『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
苦法智(くほうち):欲界の苦諦を見て、煩悩を断ずる智慧。『大智度論巻12(上)注:八忍八智』参照。
苦比智(くひち):上二界の苦諦を見て、煩悩を断ずる智慧。『大智度論巻12(上)注:八忍八智』参照。 |
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汝先言若內無神色。識念念生滅。云何分別知色青黃赤白。 |
汝が先に言わく、『若し内に、神無くんば、色と識とは念念に生滅するに、云何が、分別して、色の青、黄、赤、白を知る』とは、―― |
お前は、
先に、こう言ったが、――
若し、
『内』に、
『神』が、
『無ければ!』、
『色』も、
『識』も、
『念念に!』、
『生じて!』、
『滅する!』のに、
何故、
『識』は、
『色』を分別して、
『青、黄、赤、白』を、
『知るのですか?』、と。
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汝若有神亦不能獨知。要依眼識故能知。若爾者神無用也。眼識知色色生滅。相似生相似滅。然後心中有法生名為念。 |
汝に、若し神有るも、亦た独り知る能わず。要(かな)らず、眼識に依るが故に能く知る。若し爾らば、神に用無きなり。眼識は色を知り、色の生滅は、相似の生、相似の滅なり、然る後に心中に有る法生ず、名づけて念と為す。 |
お前に、
若し、
『神』が、
『有った!』としても、
亦た、
『独り!』では、
『知ることができず!』、
『眼識』に、
『依らなければ!』
『知ることができない!』。
若し、
そうならば、
『神』には、
『用(はたらき)』が、
『無い!』。
『眼識』は、
『色』を、
『知る!』が、
『色』の、
『生、滅』は、
其の、
『相似の生』と、
『相似の滅である!』。
その後、
『心』中に、
有る、
『法』が、
『生じて!』、
是れを、
『念』と、
『呼ぶ!』。
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用(ゆう):梵語 vRtti の訳。普遍的習慣( general usage )、普通の行為( common practice )の義。梵語 kriyaa の訳。行為(doing)、遂行( performing )、実行( performance )、従事( occupation with )、仕事( business )、行為( act )、行為( action )、事業( undertaking )、活動( activity )、仕事( work )、労働( labour )等の義。 |
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是念相有為法。雖滅過去是念能知。如聖人智慧力。能知未來世事。 |
是の念は、有為法を相し、過去に滅すと雖も、是の念は、能く知る。聖人の智慧の力の、能く未来世の事を知るが如し。 |
是の、
『念』は、
『有為法』を、
『相(み)る!』が、
『有為法』が、
『過去』に、
『滅しても!』、
是の、
『念』は、
『知ることができる!』。
譬えば、
『聖人』の、
『智慧』の、
『力』が、
『未来世』の、
『事』を、
『知るようなものである!』。
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念念亦如是。能知過去法。若前眼識滅生後眼識。後眼識轉利有力。色雖暫有不住。以念力利故能知。以是事故雖念念生滅無常。能分別知色。 |
念念も亦た是の如く、能く過去の法を知る。若し前の眼識滅して、後の眼識を生ずれば、後の眼識転た利にして、力有り、色は、暫く有りて住せずと雖も、念力の利を以っての故に能く知る。是の事を以っての故に、念念に生滅して無常なりと雖も、能く分別して色を知る。 |
『念念( 一瞬一瞬)』にも、
是のように、
『過去』の、
『法』を、
『知ることができる!』。
若し、
『前』の、
『眼識』が、
『滅して!』、
『後』の、
『眼識』が、
『生じた!』としても、
『後』の、
『眼識』が、
どんどん、
『利くなり!』、
『力』が、
『出てくる!』ので、
『色』の、
『有る!』のが、
『暫時のことで!』、
『住まらない!』としても、
『念力』の、
『利』の故に、
『色』を、
『知ることができる!』。
是の、
『事』の故に、
『色』が、
『念念に!』、
『生、滅して!』、
『無常であっても!』、
『色』を、
『分別して!』、
『知ることができる!』。
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念念(ねんねん):梵語 pratikSaNam の訳。一瞬毎に( at every moment )、継続して( continually )、継続した思考の瞬間(
successive thought-moments )、毎瞬( every moment )等の義。 |
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又汝言今現在人識新新生滅。身命斷時亦盡。諸行罪福誰隨誰受。誰受苦樂誰解脫者。 |
又汝が言わく、『今、現在の人の識は、新新に生、滅し、身命の斷ずる時には、亦た尽く。諸行の罪、福は、誰か隨い、誰か受け、誰か苦楽を受け、誰か解脱する者なる』、と。 |
又、
お前は、
こう言った、――
今、
『現在』の、
『人』の、
『身』と、
『命』とが、
『断たれる!』時には、
『識』も、
『尽きる!』。
諸の、
『行い!』の、
『罪』と、
『福』とは、
誰が、
『業』に、
『隨い!』、
誰が、
『報』を、
『受け!』、
誰が、
『苦、楽』を、
『受け!』、
誰が、
『解脱するのか?』、と。
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今當答汝。今未得實道。是人諸煩惱覆心。作生因緣業。死時從此五陰相續生五陰。譬如一燈更然一燈。 |
今、当に汝に答うべし、今、未だ実道を得ざれば、是の人は、諸の煩悩心を覆うて、生の因縁の業を作し、死する時には、此の五陰に従い、相続して、五陰を生ず。譬えば、一灯に更に一灯を然すが如し。 |
今、
お前に、答えることにしよう、――
今、
未だ、
是の、
『人』は、
諸の、
『煩悩』に、
『心』を、
『覆われ!』、
『生の因縁』の、
『業』を、
『作る!』ので、
『死ぬ!』時に、
此の、
『五陰』に、
『従って!』、
『相続して!』、
『五陰』を、
『生じる!』。
譬えば、
『一灯』に、
『相続して!』、
更に、
『一灯』を、
『燃やすようなものである!』。
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又如穀生。有三因緣地水種子。後世身生亦如是。有身有有漏業有結使。三事故後身生。 |
又、穀の生ずるに、三因縁の地、水、種子有るが如し。後世の身の生ずるも、亦た是の如く、身有り、有漏業有り、結使有り、三事の故に後身生ず。 |
又、
譬えば、
『穀』の、
『生じる!』のには、
『地』と、
『水』と、
『種子』との、
『三因縁』が、
『有るように!』、
『後世』に、
『身』が、
『生じる!』のも、
是のように、
『身』と、
『有漏の業』と、
『結使』との、
『三事』の、
『有る!』が故に、
『後世』に、
『身』が、
『生じるのである!』。
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是中身業因緣不可斷不可破。但諸結使可斷。結使斷時雖有殘身殘業可得解脫。 |
是の中の身、業の因縁は、斷ずべからず、破すべからず、但だ諸結使は斷ずべし。結使斷ずる時、残身、残業有りと雖も、解脱を得べし。 |
是の中の、
『身』と、
『業』の、
『起こした!』、
『因縁』は、
『断つこともできず!』、
『破ることもできない!』が、
但だ、
諸の、
『結使』は、
『断つことができ!』、
『結使』が、
『断たれた!』時には、
『身』や、
『業』の、
『殘り!』が、
『有った!』としても、
『解脱』を、
『得ることができる!』。
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如有穀子有地無水故不生。如是雖有身有業。無愛結水潤則不生。是名雖無神亦名得解脫。無明故縛。智慧故解。則我無所用。 |
穀子有り、地有り、水無きが故に生ぜざるが如く、是の如く、身有り、業有りと雖も、愛結の水の潤(うるお)すこと無ければ、生ぜず。是れを神無しと雖もと名づけ、亦た解脱を得と名づく。無明の故に縛られ、智慧の故に解けば、則ち我の用うる所無し。 |
譬えば、
『穀子』と、
『地』が、
『有っても!』、
『水』が、
『無ければ!』、
『生じない!』ように、
是のように、
『身』と、
『業』とが、
『有っても!』、
『愛結の水』が、
『潤さなければ!』、
『生じないのである!』。
是れを、
亦た、
即ち、
『無明』の故に、
『縛られ!』、
『智慧』の故に、
『解く!』ので、
則ち、
『我』には、
『用いる(はたらく)!』所が、
『無い!』。
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復次是名色和合假名為人。是人為諸結所繫。得無漏智慧爪解此諸結。是時名人得解脫。 |
復た次ぎに、是の名と色との和合を、仮名して人と為す。是の人は、諸結に繋がるるも、無漏の智慧の爪を得れば、此の諸結を解き、是の時、人は解脱を得と名づく。 |
復た次ぎに、
是の、
『人』とは、
『名』と、
『色』との、
『和合』を、
仮りに、
『人』と、
『呼ぶ!』が、
是の、
『人』は、
諸の、
『結』が、
『名( 心)』と、
『色( 身)』とを、
『繋いでいる!』のであり、
『無漏』の、
此の、
是の時、
『人』が、
『解脱した!』と、
『称する!』のである。
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如繩結繩解。繩即是結。結無異法。世界中說結繩解繩。名色亦如是。名色二法和合假名為人。 |
縄結ぼり、縄解くるが如く、縄は、即ち是れ結にして、結に異法無く、世界中には、『縄を結び、縄を解く』と説けるが如く、名、色も亦た是の如く、名、色の二法和合して、仮名して、人と為す。 |
譬えば、
『縄が結ばり!』、
『縄が解ける!』ように、
『縄』は、
『結であり!』、
『結』には、
『世界( 世間)』中には、
『縄を結ぶ!』とか、
『縄を解く!』と、
『説かれている!』が、
『名色( 人)』とは、
亦た、
是のように、
『名( 心)』と、
『色( 身)』との、
『二法』の、
『和合であり!』、
仮りに、
『人』と、
『称する!』のである。
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是結使與名色不異。但名為名色結。名色解受罪福亦如是。雖無一法為人實。名色故受罪福果。而人得名。 |
是の結使は、名色と異ならず、但だ名づけて名色の結、名色の解と為す。罪福を受くるも亦た是の如し。一法として、人の実と為す無しと雖も、名色の故に、罪福の果を受け、而も人の名を得。 |
是の、
『結使』は、
『名色』と、
『異ならない!』が、
但だ、
『名色( =人)』の、
『結』と、
『呼ばれ!』、
『名色』の、
『解』と、
『呼ばれるだけである!』。
『罪、福』を、
『受ける!』ことも、
是のように、
『名色』の、
『罪』と、
『呼ばれ!』、
『名色』の、
『福』と、
『呼ばれる!』が、
『一法』として、
『人の実体』と、
『呼ばれる!』ものは、
『無く!』、
『名色』の故に、
『罪福』の、
『果』を、
『受ける!』のであり、
而も、
『人』と、
『呼ばれる!』のである。
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譬如車載物。一一推之竟無車實。然車受載物之名。人受罪福亦如是。名色受罪福而人受其名。受苦樂亦如是。如是種種因緣神不可得。 |
譬えば、車に物を載するが如し、一一之を推せば、竟(つい)に車の実無し。然も車は、物を載するの名を受く。人の罪福を受くるも、亦た是の如し。名色の罪福を受け、而も人は、其の名を受く。苦楽を受くるも、亦た是の如し。是の如く種種の因縁に、神は不可得なり。 |
譬えば、
『車』は、
『物』を、
『載せる!』が、
『車』というものを、
しかし、
『車』は、
『物を載せる!』と、
『言われ続ける!』。
『人』の、
『罪福』も、
是のように、
『名』と、
『色』とが、
『罪福』を、
『受ける!』のに、
而も、
『人』が、
『受ける!』と、
『言われ続ける!』のである。
『苦楽』を、
『受ける!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
是のように、
|
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神即是施者。受者亦如是。汝以神為人。以是故施人不可得。受人不可得。亦如是如是種種因緣。是名財物施人受人不可得。 |
神は、即ち是れ施者なり。受者も、亦た是の如し。汝は、神を以って人と為す。是を以っての故に、施人は不可得なり、受人の不可得なることも、亦た是の如し。是の如き種種の因縁は、是れを財物、施人、受人は不可得なりと名づく。 |
『神』とは、
『施す!』者であり、
『受ける!』者も、
亦た、
『是の通りである!』。
お前は、
『神』は、
『人である!』と、
『思っている!』が、
是の故に、
『施す!』、
『人』は、
『不可得であり!』、
『受ける!』、
『人』も、
『是の通りである!』。
是のような、
種種の、
『因縁』は、
是れを、
『財物』も、
『施す人』も、
『受ける人』も、
『不可得である!』と、
『称する!』。
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問曰。若施於諸法是如實相無所破無所滅無所生無所作。何以故。言三事破析不可得。 |
問うて曰く、若し、諸の法を施せば、是れ如実の相にして、破する所無く、滅する所無く、生ずる所無く、作す所無し。何を以っての故にか、三事は破析して、不可得なりと言う。 |
問い、
若し、
諸の、
『法』を、
『施す!』とすれば、
是れは、
『如実』の、
『相である!』から、
『破られる!』ことも、
『滅せられる!』ことも、
『生じさせられる!』ことも、
『作られる!』ことも、
『無い!』。
何故、こう言うのですか?――
『三事』は、
『割れて!』、
『折れた!』ので、
『不可得である!』、と。
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答曰。如凡夫人。見施者見受者見財物。是為顛倒妄見。生世間受樂福盡轉還。 |
答えて曰く、凡夫人の、施者を見、受者を見、財物を見るが如きは、是れを顛倒し、妄見して、世間に生じ、楽を受くるも、福尽くれば、転じて還ると為す。 |
答え、
例えば、
『凡夫人』が、
『施者』、
『受者』、
『財物』を、
『見る!』ようなこと、
是れを、
こう言うのである、――
『顛倒し!』、
『妄見して!』、
『世間』に、
『生まれ!』、
『楽』を、
『受けた!』が、
『福』が、
『尽きれば!』、
『転じて!』、
『還る!』、と。
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是故佛欲令菩薩行實道得實果報。實果報則是佛道。 |
是の故に、仏は、菩薩をして、実道を行じ、実の果報を得しめんと欲したもう。実の果報とは、則ち是れ仏道なり。 |
是の故に、
『仏』は、こう思われた、――
『菩薩』に、
『実』の、
『道』を、
『行わせて!』、
『実』の、
『果報』を、
『得させよう!』、と。
『実』の、
『果報』とは、
是れは、
『仏』の、
『道である!』。
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佛為破妄見故。言三事不可得。實無所破。何以故。諸法從本已來畢竟空故。如是等種種無量因緣不可得。故名為檀波羅蜜具足滿。 |
仏は、妄見を破せんが為めの故に、『三事は、不可得なり』と言えるも、実に破する所無し。何を以っての故に、諸法は、本より已来、畢竟じて空なるが故なり。是の如き等の種種無量の因縁に、不可得なるが故に、名づけて檀波羅蜜具足して満つと為す。 |
『仏』は、
『妄見』を、
『破ろう!』と、
『思われた!』が故に、
『三事』は、
『不可得である!』と、
『言われた!』が、
『実』は、
何故ならば、
諸の、
『法』は、
『本』より、
『畢竟じて!』、
『空だからである!』。
是れ等のような、
種種の、
無量の、
『因縁』に、
是れを、
『檀波羅蜜』が、
『具足して!』、
『満ちた!』と、
『称する!』。
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