巻第十一(下)
大智度論釋初品中檀相義第十九
1.檀の相:内外の布施
大智度論釋初品中檀波羅蜜法施義第二十
1.檀の相:法の布施
home

大智度論釋初品中檀相義第十九
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


檀の相:内外の布施

問曰。云何名檀。 問うて曰く、云何が、檀と名づくる。
問い、
何を、
『檀(布施)』と、
『称する!』のですか?
  (だん):梵語檀那daanaの略。布施、或は単に施と訳す。『大智度論巻11下注:布施』参照。
  檀那(だんな):梵語daana。布施、或は単に施と訳す。『大智度論巻11下注:布施』参照。
  布施(ふせ):梵語daanaの訳。また柁那、或は檀に作り、単に施とも訳す。六念の一。四摂法の一。六波羅蜜の一。十波羅蜜の一。即ち無貪の心を以って仏、及び僧並びに貧窮の人に衣食等を施与するを云う。「中阿含巻30福田経」に、「世中の学無学あり、尊ぶべく奉敬すべし。彼れ能くその身を正しくし、口意もまたまた然り。居士(即ち給孤獨長者)よ、これ良田なり、彼れに施さば大福を得ん」と云い、「同巻14大天㮈林経」に、尼弥王の本生を説き、「月の八日、十四日、十五日に布施を修行し、諸の貧窮の沙門、梵志、貧窮の孤独遠来乞者に施すに、飲食衣被車乗華鬘散華塗香屋舎床褥氍氀綩綖給使明灯を以ってす」と云い、また「増一阿含経巻4護心品」に、「長者対えて曰わく、かくの如し世尊、恒に貧乏に布施す。四城門に於いて広く布施し、また家中に在りて所須を給与すと。(中略)長者、汝は当に大果報を獲、大名称を得べし」と云えるこれなり。これ仏弟子及び貧窮の人に布施せば大果報を得べきことを説けるものなり。また「阿毘曇甘露味論巻上布施持戒品」に、「云何が布施なる。自ら財物を持ちて施与す、三種の為の故なり。自ら身の為にするが故に、他人の為にするが故に、彼我の為にするが故なり。塔寺仏辟支仏阿羅漢を供養するは自ら身の為にするが故なり、衆生に施与するは、他人の為にするが故なり、布施して人に与うるは彼我の為の故なり」と云い、且つ所施の福田に仏菩薩阿羅漢等の大福田、老病聾盲等の貧苦田、仏菩薩の老病聾盲等の大徳貧苦田の三種の別あることを説けり。これ即ち布施には自身及び他人並びに彼我の為にするの別あり、また所施の人に大徳と貧苦と大徳貧苦との三種福田の異あることを明にしたるものなり。蓋し布施は元と仏が優婆塞等に対して勧進せられたる行法にして、即ち衣食等を大徳及び貧窮の人に施与するをその本義となすと雖も、後時代を経、また大乗に於いてこれを六波羅蜜の一となすに及び、更に法施の説を生じ、また本生経中に仏が身命を惜まず、頭目髄脳等を施与せられたることを説くにより、布施の意義は頗る拡大するに至れり。「増一阿含経巻20声聞品」に、「如来は二種の施を説く、法施及び財施なり」と云い、「大般若経巻569」に、「財施は竭くることあるも、法施は窮まりなし」と云い、「大智度論巻29」に、「仏法に二種の施あり、法施と財施となり。出家の人は多く応に法施すべく、在家の人は多く応に財施すべし」と云い、また「菩薩地持経巻4施品」に、「一切施とは略説するに二種の施物あり、一には内物、二には外物なり。菩薩の身を捨つるこれを内施と名づけ、吐を食する衆生の為に食し已りて吐いて施す、これを内外施と名づけ、上の所説を除くこれを外施と名づく」と云える皆即ちその説なり。この中、法施とは自ら法を惜まず、他の為に正法を演説し、彼等をして功徳利益を得しむるを云う。「大般若経巻469」に、法施に世間の法施、出世の法施の二種ありとし、不浄観、持息念、四静慮、四無量、四無色定、五神通等の法を演説するを世間法施と名づけ、三十七菩提分法及び三解脱門等の聖法を演説するを出世法施と名づくと云い、また「同巻569」に法施は財施に勝ることを説き「財施は但だ能く世間の果を得るのみ。人天の楽果は曽て得るも還た失し、今暫く得と雖も而も後必ず退す。もし法施を以ってせば未だ曽て得ざるものをを得、謂わゆる涅槃なり。定んで退の義なし」と云い、また「金光明最勝王経巻3」にも、「その法施には五の勝利あるに由る。云何が五と為す、一には法施には自他を兼ね利するも財施は爾らず。二には法施は能く衆生をして三界を出でしむるも、財施の福は欲界を出でず。三には法施は能く法身を浄むるも、財施は但だ唯色を増長するのみ。四には法施は無窮なるも、財施は尽くることあり。五には法施は能く無明を断ずるも、財施は唯貪愛を伏するのみ」と云えり。以って法施の徳の尊重せられたるを見るべし。また「大智度論巻14」に更に無畏施の説を出し、「檀に三種あり、一には財施、二には法施、三には無畏施なり。持戒自撿して一切衆生の財物を侵さず、これを財施と名づく。衆生見る者その所行を慕い、また為に説法してそれをして開悟せしめ、また自ら思惟して我れ当に堅く浄戒を持し、一切衆生のために供養の福田と作り、諸の衆生をして無量の福を得しめんと。かくの如き種種を名づけて法施と為す。一切の衆生皆死を畏る、戒を持して害せず、これ則ち無畏施なり」と云い、「菩薩地持経巻4施品」に、「此世他世楽施は略説するに九種あり、謂わく財施と法施と無畏施なり。財施とは勝妙清浄にして、如法に慳垢蔵積垢を調伏するが故に布施を修行す。慳垢を調伏せば執著心を捨て、蔵積垢を調伏せば受用執著を捨つ。無畏施とは謂わく師子虎狼王賊水火等の種種の恐怖を救いて得度せしむ。法施とは不顛倒に法を説き、具足して法を説き、人に禁戒を授くるなり」と云い、また「梁訳摂大乗論釈巻9」に、「法施は他の心を利益し、法施に由るが故に他の聞慧等の善根生ずることを得。財施は他の身を利益し、無畏施は他の身心を利益す。また次ぎに、財施に由りて悪に向うことある者を引いて善に帰せしめ、無畏施に由りて彼れを摂して眷属と成らしめ、法施に由りて彼れの善根を生じ、及び成熟し解脱せしむ」と云えり。これ師子虎狼王賊水火等の危難に遇い、為に身心恐怖する者を救うを無畏施と名づけ、これを財法二施と共に菩薩必須の布施行となしたるなり。また「菩薩善戒経巻1序品」には、在家の菩薩は財法二施を修習し、出家の菩薩は筆施、墨施、経施、説法施の四施を修行し、得無生忍の菩薩は施、大施、無上施の三施を具足すべしと云い、「宝雲経巻1」には、法施、無畏施、財施、不望報施、憐愍施、不軽心施、尊重施、恭敬承事施、不求有施、清浄施の十法を成就するを檀波羅蜜具足と名づくと云い、「旧華厳経巻12十無尽蔵品」には、修習施、最後難施、内施、外施、内外施、一切施、過去施、未来施、現在施、究竟施の十施を挙げ、「布施経」には、信重心施、依時施、常行施、親手施、為他施、依教施、妙色具施、浄妙香具施、上味施、如法尊重施、広大心施、美食施、漿飲施、衣服施、住処施、臥具施、象馬車輦施、湯薬施、経法施、華果施、花鬘施、香施、傘蓋施、鈴鐸施、音楽施、燃灯施、繒綵疋帛施、以香水灑如来塔廟、以香水浴如来身、以香油塗飾仏像、以香水施浴衆僧、慈心施、悲心施、喜心施、捨心施、種種施、無住無相心施の三十七種を出し、「瑜伽師地論巻39施品」には、布施に総じて自性施、一切施、難行施、一切門施、善士施、一切種施、遂求施、此世他施楽施、清浄施の九種ありとし、就中、一切施に有財無財施、法施、無礙解施、勝意楽施、障対治智施、増上意楽勝解施の六種、難行施に三種、一切門施に四種、善士施に五種、一切種施に十三種、遂求施に八種、此世他施楽施に九種、清浄施に十種の別ありとなせり。蓋し布施は施者受者及び施物の共に清浄なるを要し、これに由りて方に大果報を得となすなり。「中阿含巻47瞿曇弥経」、「分別布施経」、「大般涅槃経巻24」等に施者及び受者の心の浄不浄に依りて四句を分別し、施者浄受者不浄、施者不浄受者浄、施受倶浄、施受俱不浄の別ありとし、「弥勒菩薩所問経論巻6」に、不浄の中に怖畏施、求報恩施の二種、浄の中に敬重心施、慈悲心施の二種ありと云い、また「大品般若経巻1序品」に、「施人受人財物不可得なるが故に、能く檀波羅蜜を具足す」と云い、「阿毘曇甘露味論巻上」に、「思と田と物と好なれば好報を得ん。云何が思好なる、信浄にして与えて供養す。云何が田好なる、三種の田あり。(中略)大徳田には恭敬心にて大報を得、貧苦田には憐愍心にて大報を得、大徳貧苦田には恭敬憐愍心にて大報を得るなり。これを福田好となす。云何が物好なる、不殺他、不偸不奪不繋不鞭不欺不誑の浄物を多少に随って随時に布施す。これを物好と為す」と云える皆即ちその説なり。また凡そ布施は無貪を性となすものにして、「大智度論巻33」に、「飲食等の物は布施に非ず、飲食等の物を以って与うる時、心中に生ずる法を捨と名づく、慳心と相違す。これを布施と名づく」と云い、「浄唯識論巻9」に、「施は無貪及び彼の所起の三業とを以って性と為す」と云えり。また「優婆塞戒経巻2自利利他品」には施と施波羅蜜とを分別し、声聞縁覚一切の凡夫外道異見並びに菩薩の初二阿僧祇劫所行の施は、施にして波羅蜜に非ず。菩薩の第三阿僧祇劫所行の施は施にして亦た波羅蜜なりと云えり。また「中阿含巻39須達多経」、「増一阿含経巻9」、「大品般若経巻7無生品」、「放光般若経巻15六度相摂品」、「大般若経巻579至巻583布施波羅蜜多分」、「大宝積経巻41陀那波羅蜜多品」、「決定毘尼経」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻4」、「解深密経巻4」、「大智度論巻4、巻11、巻12、巻40、巻45、巻66、巻94」、「百論巻上」、「大乗荘厳経論巻8」、「摂大乗論本巻中」、「大乗阿毘達磨雑集論巻8、巻12」、「倶舎論巻18」等に出づ。<(望)又以下の梵語も布施と訳す:[daakSiNaa]:a fee or present to the officiating priest聖職者に対する支払い ;a gift贈物, donation寄附;Donation to the priest聖職者に対する寄附。 [tyaaga]:discharging,giving up供養, resigning譲渡, gift贈物, donation寄附, distribution配給。 [anupradaana]:a gift贈物, donation寄附。 [parityaagin]:forsake棄捨、放棄。 [pradaana]:a gift贈物, donation寄附, an offering提供。 [atisarga]、[datta]、[daanaM dattam]、[daana- prada]、[deya]、[niryaatayati]。
答曰。檀名布施心相應善思。是名為檀。 答えて曰く、檀を、布施と名づけ、心相応の善思なり。是れを名づけて、檀と為す。
答え、
『檀』を、
『布施』と、
『呼び!』、
『心(心王)』に、
『相応する!』、
『善の思念』を
『檀』と、
『称する!』。
  心相応(しんそうおう):心法と倶に生起するの意。
  善思(ぜんし):梵語su- manasikRta、su- vicintita、sv- abhyuuhita等の訳。健全な思考(wholesome thinking)の義。
  (し):梵語cetanaaの訳。造作の義。心所の名。七十五法の一。百法の一。即ち境に於いて審慮し、心心所をして造作せしむる精神作用を云う。『大智度論巻20上注:思』参照。
  :善く思念すれば、当然布施するはずだ。
有人言。從善思起身口業。亦名為檀。 有る人の言わく、『善思より、身口の業を起すも、亦た名づけて、檀と為す』、と。
有る人は、こう言っている、――
『善い!』、
『思念』より、
『起る!』、
『身』と、
『口』の、
『業』も、
亦た、
『檀』と、
『称する!』、と。
有人言。有信有福田有財物三事和合時。心生捨法能破慳貪。是名為檀。 有る人の言わく、『信有り、福田有り、財物有りて、三事和合する時、心に捨法を生じて、能く慳貪を破す、是れを名づけて、檀と為す』、と。
有る人は、こう言っている、――
『信』と、
『福田』と、
『財物』とが、
『有れば!』、
『三つ!』の、
『事』が、
『和合する!』ので、
是の時、
『心』に、
『捨』という、
『法(有為法)』が、
『生じて!』、
『慳(おしみ)』と、
『貪(むさぼり)』とを、
『破る!』ので、
是れを、
『檀』と、
『称する!』、と。
  (しゃ):梵語憂畢叉upekSaaの訳。平静、または無関心の義。(一)心所の名。また行捨とも名づく。十大善地法の一。十一善心所の一。心をして平等正直にして、寂静に住せしむる精神作用を云う。「品類足論巻3」に、「捨とは云何ん、謂わく身平等心平等、身正直心正直にして、無警覚にして寂静に住する、これを名づけて捨となす」と云い、「倶舎論巻4」に、「心平等性にして、無警覚の性なるを説きて名づけて捨となす」と云えるこれなり。また「成唯識論巻6」には「云何が行捨なる、精進と三根とが心をして平等正直にして無功用に住せしむるを性となし、掉挙を対治して静住するを業となす。謂わく、即ち四の法が心をして掉挙等の障を遠離し、静住せしむるを捨と名づく。平等正直にして無功用に住する初中後の位に捨の差別を辨ず。不放逸は先づ雑染を除くに由りて、捨復た心をして寂静にして住せしむ。これ別体なし、不放逸の如く彼の四法を離れて相用なきが故なり。能く寂静ならしむるは即ち四の法なるが故に、寂静ならしむる所は即ち心等なるが故なり」と云えり。これ唯識大乗に於いては、説一切有部の如く捨に別体あるを認めず、精進及び無貪無瞋無癡の四法が心をして掉挙等の障を離れ、寂静にして住せしむるを名づけて捨となせるものにして、前の倶舎等の説と異あるを見るべし。また大乗に於ける捨の意義に就いては、「大乗理趣六波羅蜜多経巻9」に、「菩薩摩訶薩の捨を修すること無量なれど、総じて三種あり、云何が三となす、一には煩悩捨、二には護自他捨、三には時非時捨なり。云何が煩悩捨と名づくる、もし恭敬に遇うも心は高挙せず、設い憍慢に遇うも鄙卑賤せず、得利に喜ばず、失利に憂えず、毀罵に瞋らず、讃もまた喜ぶこと無く、称揚も欣ばず、譏を聞くも恚らず、苦難の時に遭うも空無我を観じ、悦楽の事至るも恒に無常を観じ、所愛の境に於いても貪著無く、設い謙恨を見てもまた瞋を生ぜず、怨に於いても親に於いても、持戒にも破戒にもその心平等にして、身命、財に於いても慳吝を生ぜず、これ則ち煩悩大捨なり。云何が名づけて護自他捨と為す。菩薩摩訶薩は、もし人の来るありて節節支解するも、菩薩は彼れに於いて瞋恨心無し。かくの如き菩薩は身語中に於いて未だ嘗て変易せず、これを名づけて捨と為す。また乞叉(二合、上声)多とは、これを双義、及び瘡痕義と名づく、謂わく眼の色に及ぶなり。二人あり、菩薩の所に於いて、一人は打罵し、一は則ち香塗す、菩薩はこれを観じて等心に二無し。瘡痕義とは、菩薩これを観ずるに、第一義中には誰をか打者と為し、誰をか塗者と為す、損益を見ずまた彼我も無く、自他を害せず、これを名づけて捨と為す。眼根色境の双義は既に然り、耳声、鼻香、舌味、身触、意法の、寂滅平等なること、亦た復たかくの如し。毀讃は、我が六根に及ぶも、第一義中には無傷無害なり、故に名づけて捨と為す。設い傷害を被るも、また他を損ぜず、これを名づけて捨と為す。或は自他を護りて倶に傷損無し、これを名づけて捨と為す。利非利に於いて常に爾く一心にして自他を害すること無し、故に名づけて捨と為す。常に自ら覚察して他人の心を護り、諍訟を離る、また名づけて捨と為す。復た深く観察して是非有ること無し、これを名づけて捨と為す。かくの如きを名づけて護自他捨と為す。云何が名づけて時非時捨と為す。もし諸の有情、教誨を受けず、法器に非ずんば、菩薩は瞋らず、非時捨と名づく。声聞人の四聖諦を観ずるに於いて、苦法忍を獲て羅漢果に趣くも、菩薩障えず、非時捨と名づく。布施を行ずる時は且らく持戒を止め、浄戒を修する時は且らく施を止め、忍辱、精進、禅定、智慧も亦た復たかくの如し、非時捨と名づく。もし諸法に於いては応に事を成就すべく、決定して応に作すべく、精進、勇猛、長時、無惓、無暇、無退にして労苦を辞せず、乃ち事の畢るに至るまで、方に故に捨つべし、これを時捨と名づけ、かくの如きを名づけて時非時捨と名づく」と云えるに依って、まさに知るべし。また「大毘婆沙論巻95」、「瑜伽師地論巻29」等には、七覚支の中の捨覚支を以って奢摩他品の所摂となせるも、「大般涅槃経巻30」には奢摩他毘鉢舎那の異相を見ざるを捨と名づくとせり。即ち彼の文に「もし色相を取るも、色の常無常相を観ずる能わざる、これを三昧と名づけ、もし能く色の常無常相を観ずる、これを慧相と名づけ、三昧と慧と等しく一切法を観ずる、これを捨相と名づく。(中略)また奢摩他とは名づけて寂静と曰う、能く三業をして寂静を成ぜしむるが故なり。また奢摩他とは名づけて遠離と曰う、能く衆生をして五欲を離れしむるが故なり。また奢摩他とは能清と曰う、能く貪欲瞋恚愚癡の三濁の法を清むるが故なり。この義を以っての故に、故に定相と名づく。毘婆舎那は名づけて正見となし、亦た了見と名づけ、名づけて能見となし、名づけて遍見と曰い、次第見と名づけ、別相見と名づく。これを名づけて慧となす。憂畢叉とは名づけて平等と曰い、亦た不諍と名づけ、亦た不観と名づけ、亦た不行と名づく。これを名づけて捨となす」と云えるその説なり。また「大毘婆沙論巻42」、「成実論巻6」、「顕揚聖教論巻1」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻25」、「順正理論巻11」、「大乗義章巻10」、「倶舎論光記巻4」等に出づ。(二)三受の一。五受の一。また捨受、不苦不楽受aduhkhaasukha- vedanaa、或は不苦不楽覚とも名づく。即ち中容の境を領納することによりて生ずる処中の覚受を云う。「大毘婆沙論巻143」に、「不苦不楽受は、唯不明利不軽躁にして安住するが故に合して一を立つ」と云い、「倶舎論巻3」に、「中は謂わく非悦非不悦なり、これ即ち不苦不楽受なり。この処中の受を名づけて捨根となす」と云い、「成唯識論巻5」に、「中容の境相を領し、身に於いて心に於いて、逼に非ず悦に非ざるを不苦不楽受と名づく」と云えるこれなり。これ不苦不楽の処中の受を捨と名づけたるなり。静慮支の中には、第四静慮の四支中に非苦楽受あり、これ第四静慮は唯捨受に順ずるが故なり。また「大毘婆沙論巻115」に三受業を三界九地に配する中、広果繋の善業及び無色界繋の善業を以って順不苦不楽受業となせり。これ欲界及び下三静慮地には順不苦不楽受業なしとするの意なり。また「成実論巻6辯三受品」には「雑阿含経巻17」の意に依り、楽受は貪、苦受は瞋、捨受は無明の為に使わるることを明し、「不苦不楽受はその相寂滅なること無色定の如し。寂滅なるを以っての故に煩悩細行す、凡夫は中に於いて解脱の想を生ず。この故に仏はこの中に無明使ありと説く」と云えり。また八識の中、前六識は皆三受と相応するも、第七第八の二識は唯捨受とのみ相応す。これ第八識はその行相極めて微細にして、違順の境相を分別すること能わず、また第七識は恒に内門に転じて転易なく、変異受と相応せざるに由るなり。また「中阿含巻58法楽比丘尼経」、「発智論巻14」、「大毘婆沙論巻142」、「成唯識論巻3、巻5」、「大乗義章巻7」、「倶舎論光記巻3、巻28」等に出づ。(三)捨失の意。得に対す。即ち已に得せるものを今捨失するを云う。不成就と同義なり。「大毘婆沙論巻63」に、「かくの如き九遍知は誰か幾ばくか捨し、誰か幾ばくか得する。答う諸の有情あり、捨なく得なし、謂わく諸の異生なり」と云い、また「大毘婆沙論巻117」に、「不律儀に住する者にして八戒斎を受くる時は、不律儀を捨して律儀を得す。明旦に至る時、律儀を捨するも不律儀を得せず。律儀を得するが故に不律儀を捨し、分斉極まるが故にまた律儀を捨す。この故に非律儀非不律儀と名づく」と云えるその例なり。また「雑阿毘曇心論巻4」、「倶舎論巻21」、「順正理論巻56」、「倶舎論光記巻21」等に出づ。<(望)
譬如慈法觀眾生樂而心生慈。布施心數法亦復如是。三事和合心生捨法能破慳貪。 譬えば、慈法の、衆生の楽なるを観るに、心に慈を生ずるが如く、布施の心数法も、亦復た是の如く、三事和合するに、心に捨法を生じて、能く慳貪を破するなり。
譬えば、
『慈』という、
『法』は、――
『衆生』の、
『楽』を、
『観て!』、
『心』に、
『慈』を、
『生じる!』が、
『布施』という、
『心数法』も、
亦た、
是のように、
『信』と、
『福田』と、
『財物』という、
『三事』が、
『和合する!』と、
『心』に、
『捨』という、
『法』が、
『生じて!』、
『慳』や、
『貪』を、
『破る!』のである。
  (じ):梵語maitrii、 亦たはmaitryaの訳、 friendship友情、 benevolence博愛、 good will善意等の義。衆生を愛念して楽を与うるの意。『大智度論巻24上注:慈悲』参照。
檀有三種。或欲界繫或色界繫或不繫。(丹本注云聖人行施故名不繫)心相應法隨心行共心生。非色法能作緣。 檀には、三種有り、或いは欲界繋、或いは色界繋、或いは不繋なり(丹本に注して云わく、聖人の行ずる施の故に、不繋と名づく)。心相応の法、随心の行、共心の生にして、色法に非ずして、能く縁と作る。
『檀』には、
『三種』有り、
或いは、
『欲界』に、
『繋縛する!』、
『檀であり!』、
或いは、
『色界』に、
『繋縛する!』、
『檀であり!』、
或いは、
『三界』に、
『繋縛しない!』、
『檀である!』。
『檀』は、
『心』に、
『相応する!』、
『法(有為法)であり!』、
『心』に、
『随順する!』、
『行()であり!』、
『心』と、
『共に!』、
『生じ!』、
『色法(物質)でなく!』、
『道』の、
『縁』と、
『作ることができる!』。
  (け):繋縛の義。『大智度論巻8下注:繋』参照。
  心相応法(しんそうおうほう):五位中の心法に相応する法なり、即ち心所法、或は色法、心法、心所法を総称して云う。『大智度論巻11上注:五位』参照。
  随心行(ずいしんぎょう):心法に随って生起する行蘊、即ち意触に随って生ずる思、即ち分別思量の意。『大智度論巻20下注:随心行、同巻11下注:行、同巻14上注:心所有法』参照。
非業業相應隨業行共業生。非先世業報生。二種修行修得修。二種證身證慧證。若思惟斷。若不斷。二見斷欲界色界盡見斷。有覺有觀法凡夫聖人共行。如是等阿毘曇中廣分別說。 業に非ず、業相応にして、随業の行、共業の生なり。先世の業報の生に非ず、二種の修の行修、得修にして、二種の証の身証、慧証なり。若しは思惟断、若しは不断にして、二見断ず(欲界、色界の見を尽く断ず)。有覚有観の法にして、凡夫、聖人の共行なり。是の如き等、阿毘曇中に広く分別して説けり。
『檀』は、
『業でない!』が、
『業』に、
『相応する!』、
『法であり!』、
『業』に、
『随順する!』、
『行であり!』、
『業』と、
『共に!』、
『生じる!』。
『檀』は、
『先世』の、
『業報』の、
『生でなく!』、
『二種』に、
『修める!』、
謂わゆる、
『行修』と、
『得修であり!』、
『二種』に、
『証する!』、
謂わゆる、
『身証』と、
『慧証である!』。
『檀』は、      ――即ち煩悩惑に属す――
『思惟断か!』、
『不断か!』、
『二種の見断(欲界所断、色界所断)である!』。
『檀』は、
『有覚有観』の、
『法であり!』、
『凡夫』も、
『聖人』も、
『共に!』、
『行う!』。
是れ等は、
『阿毘曇』中に、
広く!、
『分別して!』、
『説かれている!』。
  (ごう):梵語羯磨karmanの訳。造作の義にして、即ち有情の身語意の造作を云い、また種種の異熟の果報を得る因となるべきものを云う。『大智度論巻31下注:業』参照。
  (ぎょう):(一)梵語caryaa、或はcaritaの訳。動作、行為の意、また悟境に到達する為に作す所の修業、或は行法を云う。(二)梵語saMskaara、巴梨saNkharaの訳。または作成等の義。これに二義あり、一に十二因縁の一、二に五蘊の一なり。一に十二因縁の一とは、現在の果を招くべき過去の諸業を云う。「倶舎論巻9」に、「宿の諸業を行と名づく」と云い、「成唯識論巻8」に、「この中、無明とは、唯能く正しく後世を感ずる善悪の業を発するもののみを取る。即ち彼れが所発を乃ち名づけて行となす。此れに由りて一切の順現受業と別受当業とは皆行支に非ず」と云えるこれなり。これ即ち異熟の総報を感ずる過去の身口意三業を名づけて行支となすの意なり。二に五蘊の一とは、即ち行蘊を云う。「雑阿含経巻3」に、「云何が行受陰なる、謂わく六思身なり。何をか六と為す、謂わく眼触所生の思、乃至意触所生の思なり。これを行受陰と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に、「前及び後の色と受と想と識とを除き、余の一切の行を名づけて行蘊となす。然るに薄伽梵は契経の中に於いて六思身を行蘊となすと説くことは、最勝なるに由るが故なり。所以は何ん、行は造作に名づく。思はこれ業の性にして、造作の義強し。故に最勝となす。この故に仏は、もし能く有漏有為を造作するを行取蘊と名づくと説く」と云えるこれなり。これ蓋し倶舎等に於いては、思は業の性にして造作の義強きが故に、経に六思身を以って行蘊となすと説くといえども、行は唯思のみに非ず、色受想及び識の四蘊を除き、他の四十四の心所及び十四不相応法を総称すべきものとなすの意なり。然るに経部及び大乗に於いては、唯六思身を以って行蘊とし余法を説かず。これ思は造作の性にして、独り行と名づけらるべきものとなすに由るなり。十二因縁中の行支もその体は恐らく思にして、これに由りて導引摂養せられたる諸行をも総称せるものなるべし。(三)梵語gamanaの訳。即ち進行、歩行の義。行住座臥の行は即ちこの義なり。また「大毘婆沙論巻74」、「雑阿毘曇心論巻1」、「阿毘達磨順正理論巻2」、「大乗阿毘達磨集論巻1」、「同雑集論巻1」等に出づ。<(望)
  行修(ぎょうしゅ)、得修(とくしゅ):行修はかつて得し所を現前に修むるを云い、得修は未だ曽て得ざる所を今得るを云う。即ち「大智度論巻17」に、「修に二種あり、一には得修、二には行修なり。得修は本と得ざる所を今得と名づけ、未来世には自ら事を修め、亦た余事をも修む。行修はかつて得ざるに現前に於いて修め、未来にも亦た爾うして余を修めず」と云えるこれなり。
  身証(しんしょう)、慧証(えしょう):身証とは梵語kaaya- saakSinの訳。巴梨語kaaya- sakkhin。 身中に証得するの意。七聖の一。二十七賢聖の一。又身証那含、或いは身証不還とも名づく。即ち不還果中の利根の人が滅尽定に依りて似涅槃法を得するを云う。「大毘婆沙論卷152」に、「世尊は身に作証するを安立して想受滅解脱と名づく。無心なるを以っての故に、身に在りて心に非ず、身力の所起にして心力の起に非ず。是の故に世尊は説きて身証と為す」と云い、「倶舎論巻24」に、「不還の者、若し身中に於いて滅定の得あらば転じて身証と名づく。謂わく不還の者、身に似涅槃法を証得するに由るが故に身証と名づく。如何が彼れを説きて但だ身証と名づくる。心無なるを以っての故に、身に依りて生ずるが故なり。理実には応に言うべし、彼れ滅定より起ちて、先より未だ得ざりし有識身の寂静を縁じ、便ち是の念を作す、此の滅尽定を最も寂静となす、極めて涅槃に似たりと。是の如く身の寂静を証得するが故に身証と名づく。得及び智現前するに由りて身の寂静を証得するが故なり」と云える是れなり。此の中、身証と得名に関し両説あり、即ち説一切有部に於いては、滅尽定は無心なるが故に、身中に其の定の得を生ずるを身証と名づくとし、之に対し経量部に於いては出定の後、滅尽定の寂静なるを縁じ、之を以って極めて涅槃法に似たりとなし、得及び智現前することによりて身の寂静を証得するを名づけて身証となすなり。又「成唯識論了義灯巻1末」に、「問う云何が身証と名づくる、答う身証と言うは、薩婆多の云わく、此の定を得ば六識行ぜず、唯色根及び命のみあり。此の身の辺に於いて得ありて此の滅定を得するを以っての故に身証と言う。問う何ぞ命根に依らざる、答う非色非心は還って非色非心に依るべからざればなり。若し大乗師は身の辺に別の得ありて得すと言わず。但だ滅定を得る者の理を得すること更に親しく身根の境を取るが如きを顕し、喩に従えて名となし名づけて身証となす。問う有部の如きは欲色に身根あり、此に依って滅を得するを身証と名づくべし。答う無色には実に身根なく、滅定に入らざるをもて身証なしと雖も、大乗には既に別に無色にも亦身証ありと證することを得」と云えり。之に依るに大乗にては譬喩に約して身証の名を立つとなせるを見るべし。又「雑阿毘曇心論卷5」、「成実論卷1」、「顕揚聖教論巻3」、「倶舎論巻25」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻13」、「大乗義章卷17本」、「倶舎論光記巻24」等に出づ。<(望)慧証とは、仏の意に已に解脱せるを慧に従いて、自ら証するを云う。即ち「長阿含十報法経巻下」に、「十には仏は已に縛結尽きて縛結せしむる有ること無しと為し、意に已に解脱し、慧に従いて脱を行ぜりと為し、法を見て自ら慧証し、更に知るらく、受止みて、生を尽くし行を竟りて、所行已に足りて、復た世間を往来することなく、已に世を度せりと、有るが如く知る、是れを十力と為す」と云える是れなり。
  見断(けんだん):又見所断、見諦断とも称す。三断の一。即ち見道位に於いて四諦の理を見て断ずべき煩悩の意。『大智度論巻20(下)注:三断、見所断、巻32(下)注:見惑』参照。
  思惟断(しゆいだん):又修所断とも称す。三断の一。修道位に於いて思惟修習して断ずべき煩悩の意。『大智度論巻20(下)注:三断、修所断』参照。
  不断(ふだん):又非所断とも称す。三断の一。其の体無漏にして、断ぜらるべきものに非ざるの意。『大智度論巻20(下)注:三断、非所断』参照。
  有覚有観(うかくうかん):初禅已下には覚と観とを有するの意。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  参考:『善法要偈卷上』:『何者名慈法。答曰。愛念眾生皆見受樂。是心相應法行陰所攝名為慈法。或色界繫或不繫。心數法。心共生。隨心行。非色法。非是業。業相應。業共生。隨業行。非報生。是應修得修行修。應證身證慧證。或思惟斷或不斷。或有覺有觀。或無覺有觀。或無覺無觀。或有喜或無喜。或有出入息或無出入息。或賢聖或凡夫。或樂受相應。或不苦不樂受相應非道品。先緣相後緣法。在四禪亦餘地。緣無量眾生故名為無量。清淨故。慈念故。憐愍利益故。名為梵行梵乘。能到梵世名為梵道。是過去諸佛常所行道。』
  参考:『長阿含十報法経巻下』:『佛十力。何謂為十力。一者佛為處處如有知當爾不爾處不處如有知從慧行得自知。是為一力。二者佛為過去未來現在行罪處本種殃如有知。是為二力。三者佛為一切在處受行如有知自更慧行得知是。是為三力。四者佛為棄解定行亦定知從是縛亦知從是解亦知從是起如有有知。是為四力。五者佛為如心願他家他人如有知。是為五力。六者佛為雜種無有量種天下行如是有知。是為六力。七者佛為他家他根具不具如有知。是為七力。八者佛為無有量分別本上頭至更自念如有知。是為八力。九者佛為天眼已淨過度人間見人往來死生如有知。是為九力。十者佛為已縛結盡無有使縛結。意已解脫從慧為行脫見法自慧證。更知受止盡生竟行所行已足。不復往來世間已度世如有知。是為十力』
  :「欲界色界尽見断」の七字、他本に従いて、本文より除く。
復次施有二種。有淨有不淨。 復た次ぎに、施には二種有り、有るは浄、有るは不浄なり。
復た次ぎに、
『施』には、
『二種』有り、
有るいは、
『浄い!』、
『施し!』、
有るいは、
『不浄な!』、
『施し!』である。
不淨施者直施無所為。 不浄の施とは、直(た)だ施して、為す所無し。
『不浄』の、
『施し!』とは、――
ひたすら、
『施す!』が、
『結果』が、
『出ない!』。
  所為(しょい):成果。
或有為求財故施。 或いは、財を求めらるること有るが故に、施す。
或いは、
有る者は、
『財』を、
『求められた!』が故に、
『施す!』。
或愧人故施。 或いは、人に愧づるが故に施す。
或いは、
有る者は、
『人』に、
『恥ずかしい!』が故に、
『施す!』。
或為嫌責故施。 或いは、謙責せらるるが故に施す。
或いは、
有る者は、
『嫌われたり!』、
『責められたりする!』が故に、
『施す!』。
  嫌責(けんしゃく):疑い責める。
或畏懼故施。 或いは、畏懼するが故に施す。
或いは、
有る者は、
『相手を!』、
『恐れる!』が故に、
『施す!』。
  畏懼(いく):畏れはばかり、おじけづく。
或欲取他意故施。 或いは他の意を取らんと欲するが故に施す。
或いは、
有る者は、
『他人』の、
『意』を、
『汲む!』が故に、
『施す!』。
或畏死故施。 或いは死を畏るるが故に施す。
或いは、
有る者は、
『死』を、
『恐れる!』が故に、
『施す!』。
或狂人令喜故施。 或いは、狂人をして、喜ばしめんが故に施す。
或いは、
有る者は、
『狂人』を、
『喜ばせたい!』が故に、
『施す!』。
或自以富貴故應施。 或いは、自ら富貴なるを以っての故に、応に施すべし。
或いは、
有る者は、
自ら、
『富貴である!』と、
『思う!』が故に、
当然、
『施すはずである!』。
或諍勝故施。 或いは、勝ちを諍(あらそ)うが故に施す。
或いは、
有る者は、
『他人』と、
『勝ち!』を、
『諍(あらそ)う!』が故に、
『施す!』。
或妒瞋故施。 或いは妒瞋の故に施す。
或いは、
有る者は、
『他人』の、
『名声』を、
『妬んだり!』、
『瞋ったり!』するが故に、
『自分』も、
『施す!』。
或憍慢自高故施。 或いは、憍慢、自高の故に施す。
或いは、
有る者は、
『憍り!』、
『慢(あなど)って!』、
『大物振る!』が故に、
『施す!』。
或為名譽故施。 或いは、名誉の為めの故に施す。
或いは、
有る者は、
『名声』と、
『栄誉』を、
『高めたい!』が故に、
『施す!』。
或為咒願故施。 或いは、咒願の為めの故に施す。
或いは、
有る者は、
『咒願』を、
『為そうとして!』、
『施す!』。
或解除衰求吉故施。 或いは、哀を解除して吉を求めんが故に施す。
或いは、
有る者は、
『悲哀』を、
『解いて!』、
『除き!』、
『吉祥』を、
『求める!』が故に、
『施す!』。
或為聚眾故施。 或いは、衆を聚(あつ)めんが為めの故に施す。
或いは、
有る者は、
『人々』を、
『集めたい!』が故に、
『施す!』。
或輕賤不敬施。如是等種種名為不淨施。 或いは、軽賎し、敬わずして施す。是の如き等、種種を名づけて、不浄の施と為す。
或いは、
有る者は、
『軽んじ!』、
『賎しみ!』、
『敬わない!』が故に、
『施す!』。
是れ等のような、
種種を、
『不浄の!』、
『施し!』と、
『称する!』。
淨施者。與上相違名為淨施。 浄施とは、上と相違するを、名づけて浄施と為す。
『浄い!』、
『施し!』とは、――
『上』と、
『相違する!』ものを、
『浄い!』、
『施し!』と、
『称する!』。
復次為道故施。清淨心生無諸結使。不求今世後世報。恭敬憐愍故。是為淨施。 復た次ぎに、道の為めの故に施せば、清浄心に生じて、諸の結使無く、今世、後世の報を求めず、恭敬し、憐愍するが故に、是れを浄施と為す。
復た次ぎに、
『道』を、
『求める!』が故に、
『施す!』とすれば、――
『心』に、
『清浄』が、
『生じて!』、
諸の、
『結使』が、
『無くなり!』、
『今世』や、
『後世』の、
『報』を、
『求めず!』、
『三宝』を、
『恭敬して!』、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
是れを、
『浄い!』、
『施し!』と、
『称するのである!』。
淨施是趣涅槃道之資糧。是故言為道故施。若未得涅槃時施。是人天報樂之因。 浄施は、是れ涅槃に趣く道の資糧なり。是の故に言わく、『道の為めの故に施す』、と。若し未だ涅槃を得ざる時の施は、是れ人天の報楽の因なり。
『浄施』は、
『涅槃』に、
『趣く!』時の、
『道』中の、
『資糧(旅費)であり!』、
是の故に、
こう言う、――
『道』の、
『為め!』の故に、
『施す!』、と。
若し、
未だ、
『涅槃』を、
『得ない!』時に、
『施す!』ならば、
是れは、
『人、天の果報』の、
『楽』の、
『因となる!』。
淨施者如華瓔珞初成未壞香潔鮮明。為涅槃淨施得果報香亦復如是。 浄施とは、華の瓔珞の初めて成りて、未だ壊れず、香潔、鮮明なるが如く、涅槃の為めに浄施して得る、果報の香も亦復た是の如し。
『浄施』とは、
譬えば、
『新鮮』な、
『華の瓔珞』は、
『香』が、
『清潔であり!』、
『色』が、
『鮮明である!』が、
『涅槃』の為めに、
『浄施して!』、
『得た!』、
『果報の香』も、
『是の通り!』なのである。
如佛說。世有二人為難得。一者出家中非時解脫比丘。二者在家白衣能清淨布施。 仏の説きたもうが如し、『世に二人有りて、得難きと為す、一には出家中の非時解脱比丘、二には在家白衣にして、能く清浄の布施する』、と。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『世間』には、
『得難い!』、
『人』が、
『二り!』、
『有る!』。
一には、
『出家』中に、
『非時解脱』の、
『比丘』は、
『得難い!』、
二には、
『在家、白衣』中に、
『清浄』の、
『布施する!』者は、
『得難い!』、と。
  非時解脱(ひじげだつ)、時解脱(じげだつ):梵語asamaya- vimuktaの訳。時に依らざる解脱の義。阿羅漢の解脱に二種あり、阿羅漢の根性愚鈍なれば、好時、好縁を待って解脱す、これを時解脱といい、根性利根なれば、必ずしも好時、好縁を待たず、意のままに定に入りて解脱す、これを非時解脱、或は不時解脱と云う。
是淨施相乃至無量世。世世不失。譬如券要終無失時。 是の浄施の相は、乃至無量世まで、世世に失われざること。譬えば、券要の終に失う時の無きが如し。
是の、
『浄施』の、
『相』が、
乃至、
『無量世』まで、
『世世』に、
『失われない!』のは、
譬えば、
『債券の効力』が、
終に、
『失う!』時が、
『無い!』のと、
『同じである!』。
  券要(けんよう):債券、手形、証券。
是布施果因緣和合時便有。譬如樹得時節會。便有華葉果實若時節未至有因而無果。 是の布施の果は、因縁和合する時に便ち有ること、譬えば、樹の時節に会うを得て、便ち華葉、果実有り、若し時節未だ至らざれば、因有るも、果無きが如し。
是の、
『布施』の、
『果』が、
『有る!』のは、
『因縁』の、
『和合する!』、
『時である!』が、
譬えば、
『樹』が、
『時節』に、
『会うことができれば!』、
『華葉』も、
『果実』も、
『有る!』が、
未だ、
『時節』が、
『至らなければ!』、
『因』が、
『有っても!』、
『果』が、
『無い!』のと、
『同じである!』。
是布施法。若以求道能與人道。何以故結使滅名涅槃。 是の布施の法は、若し以って道を求むれば、能く人に道を与う。何を以っての故に、結使の滅するを涅槃と名づくればなり。
是の、
『布施』という、
『法』は、――
若し、
是の、
『布施』を以って、
『道』を、
『求める!』ならば、
『人』に、
『道』を、
『与えることができる!』。
何故ならば、
『結使』が、
『滅する!』ことを、
『涅槃』と、
『称するからである!』。
當布施時。諸煩惱薄故。能助涅槃。 布施する時に当りては、諸の煩悩薄きが故に、能く涅槃を助く。
是の、
『布施する!』、
『時に!』、
『当っては!』は、――
諸の、
『煩悩』が、
『薄れる!』が故に、
『涅槃』の、
『道』中を、
『助けることができる!』。
於所施物中不惜故。除慳 施す所の物中に於いて、惜まざるが故に、慳を除く。
『施す!』所の、
『物』を、
『惜まない!』が故に、
『心』中より、
『慳』が、
『除かれる!』。
敬念受者故。除嫉妒 受者を敬念するが故に、嫉妬を除く。
『受ける!』者を、
『敬い!』、
『念じる!』が故に、
『心』中より、
『嫉妬』が、
『除かれる!』。
直心布施故。除諂曲。 直心に布施するが故に、諂曲を除く。
『心』を、
『直くして!』、
『布施する!』が故に、
『心』中より、
『諂曲(ひねくれ)』が、
『除かれる!』。
  諂曲(てんごく):上にへつらい、理を曲げる。
一心布施故。除調 一心に布施するが故に、調を除く。
『一心』に、
『布施する!』が故に、
『心』中より、
『調(あざけり)』が、
『除かれる!』。
  調(ちょう):たわむれ。からかい。あざけり、嘲笑。
深思惟施故。除悔。 深く思惟して、施すが故に、悔を除く。
『深く!』、
『思惟して!』、
『施す!』が故に、
『心』中より、
『悔(後悔)』が、
『除かれる!』。
觀受者功德故。除不恭敬。 受者の功徳を観るが故に、不恭敬を除く。
『受ける!』者の、
『功徳(行善の徳)』を、
『観る!』が故に、
『心』中より、
『不恭敬』が、
『除かれる!』。
自攝心故。除不慚。 自ら心を摂するが故に、不慚を除く。
『心』を、
『自ら!』、
『取り締まる!』が故に、
『心』中より、
『不慚(無恥)』を、
『除く!』。
  不慚(ふざん):面目を失って、恥じる。
知人好功德故。除不愧。 人の功徳を好むを知るが故に、不愧を除く。
『人』が、
『功徳』を、
『好む!』のを、
『知る!』が故に、
『心』中より、
『不愧』を、   ――功徳の少なきを恥じる!――
『除く!』。
  不愧(ふき):自ら醜さを、恥じる。
不著財物故。除愛。 財物に著せざるが故に、愛を除く。
『財物』に、
『著さない!』が故に、
『心』中より、
『愛(貪愛)』を、
『除く!』。
  (あい):梵語tRSNaaの訳。渇愛、欲望の義。十二因縁の一。又anunaya- saMyojanaの訳。愛結と訳す。境に貪著するを云う。九結の一。『大智度論巻3下注:愛、同巻17下注:愛』参照。
慈愍受者故。除瞋。 受者を慈愍するが故に、瞋を除く。
『受ける!』者を、
『慈しみ!』、
『哀れむ!』が故に、
『心』中より、
『瞋(いかり)』を、
『除く!』。
  (しん):梵語pratighaの訳、hindrance(妨害) , obstruction(障害) , resistance(抵抗) , opposition(反対), anger(怒り) , wrath(激怒) , enmity(敵意)等の義、又はdveSaの訳、hatred(憎悪) , dislike(嫌悪) , repugnance(反感) , enmity to(敵意)等の義。心所の名。七十五法の一。百法の一。又恚、怒、瞋恚或いは瞋怒とも名づく。即ち有情に対して憎恚する精神作用を云う。『大智度論巻18上注:瞋』参照。
恭敬受者故。除憍慢。 受者を恭敬するが故に、憍慢を除く。
『受ける!』者を、
『恭しく!』、
『敬う!』が故に、
『心』中より、
『憍慢』を、
『除く!』。
  憍慢(きょうまん):梵語adhi-maanaの訳。自ら高ぶり他を下げすむ心状を云う。『大智度論巻49下注:憍、慢、憍慢』参照。
知行善法故。除無明。 善法を行うを知るが故に、無明を除く。
『善法』を、
『行う!』ことを、
『知る!』が故に、
『心』中より、
『無明』を、
『除く!』。
  無明(むみょう):梵語a-vidyaaの訳。ignorance (無知、学ばないこと), spiritual ignorance(精神的無知) , ignorance together with non-existence(不存在と一緒にいて気づかない無知)の義。十二因縁の一。癡に同じ。即ち事理に於いて愚にして之に了達せざる精神情態を云う。『大智度論巻15下注:無明』参照。
信有果報故。除邪見。 果報有るを信ずるが故に、邪見を除く。
『果報』が、
『有る!』ことを、
『信じる!』が故に、
『心』中より、
『邪見』を、
『除く!』。
  邪見(じゃけん):梵語mithyaa- dRSTiの訳。巴梨語micchaa- diTThi、邪曲なる見解の意。五見の一。十悪の一。十随眠の一。正見に対す。即ち善悪因果の理法を撥無する僻邪の見解を云う。「中阿含巻4波羅牢経」に、「邪見を断じて正見を得るに至れば、彼れ便ち自ら我れ十悪業道を断じて十善業道を念ずと見る」と云い、「入阿毘達磨論巻上」に、「若し決定して業なく、業果なく、解脱なく、解脱を得るの道なしと執して実事を撥無す。此の染汚の慧を邪見と名づく」と云い、「倶舎論巻19」に、「実有の体の苦等の諦中に於いて、見を起して撥無するを名づけて邪見となす」と云い、「成唯識論卷6」に、「邪見とは謂わく因と果と作用と実事とを謗じ、及び四見に非ざる諸余の邪執なり」と云える是れなり。又「大毘婆沙論卷49」に邪見は無を以って其の行相となすことを説き、「問う、若し然らば五見は皆邪推度なり、何ぞ独り此れを説きて邪見となすや。答う、別の行相に依りて此の名を立つるが故なり。別の行相とは謂わく無の行相なり。若し此れに依らずして名を立てば、則ち応に五種は皆邪見と名づくべし、五見は皆是れ邪推度なるが故なり。然るに無の行相は過患尤も重きが故に、唯此れに依りて邪見の名を立つ」と云い、又邪見は事を壊し、因果三宝等を謗じ、法恩生恩の二恩を壊し、法怨生怨の二怨を起し、現量を壊する暴悪の見なるが故に別名を立つと云えり。又「成唯識論巻6」の連文に、「此の見の差別は、諸の見趣の中に前際を執する二の無因論と四の有辺等と不死矯乱と、及び後際を計する五の現涅槃等なり。或いは自在と世主と釈と梵と及び余の物類とは常恒にして易らずと計し、或いは自在等は是れ一切物の因なりと計し、或いは横に諸の邪解脱を計するあり、或いは非道を妄執して道となすあり。諸の是の如き等を皆邪見に摂す」と云えり。是れ蓋し外道の諸見の中、二の無因論は集諦下、五の現法涅槃等は滅諦下、辺有辺等の四は苦滅の二諦下、自在世主等の計は苦諦下、妄執非道等は道諦下、不死矯乱は通じて四諦下の邪見なることを説き、総じて邪見は四諦の理に於いて邪推度し、之を撥無するものを明らかにせるなり。又「法蘊足論巻1、10」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「成実論巻7邪行品」、「同巻10邪見品」、「瑜伽師地論巻8」、「仏性論巻3」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「倶舎論光記巻19」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)
知決定有報故除疑。如是等種種不善諸煩惱。布施時悉皆薄。種種善法悉皆得。 決定して報有るを知るが故に疑を除く。是の如き等の種種の不善、諸の煩悩は、布施する時に悉く皆薄れ、種種の善法を悉く皆得。
『決定して!』、
『報』が、
『有る!』と、
『知る!』が故に、
『心』中より、
『疑』が、
『除かれる!』。
是れ等の、
種種の、
『不善』や、
諸の、
『煩悩』は、
『布施する!』時には、
悉く、
『皆!』、
『薄れて!』、
種種の、
『善法』を、
悉く、
『皆!』、
『得る!』。
  (ぎ):梵語vicikitsaaの訳。error(過失), mistake(誤解), doubt(疑惑), uncertainty(不確実), question(疑問), inquiry(質問)等の義。心所の名。七十五法の一。百法の一。迷悟因果の理に対して、猶豫して決定せざる精神作用を云う。「大毘婆沙論巻50」に、「苦等の四諦に於いて猶豫す」と云い、「成唯識論巻6」に、「諸の諦理に於いて猶豫するを性とし、能く不義の善品を障うるを業とす」と云える是れなり。倶舎にては之を不定地法に摂し、又六随眠、十随眠の一とし、唯識にては六根本煩悩の一となせり。但し疑は汎く之を論ずるに二種の別あり、一は随眠性の疑結にして、他は所謂処非処の疑なり。「大毘婆沙論巻50」に、「人あり遠く竪てる物を見て便ち猶豫を生じ、杌か人か、設し彼れは是れ人ならば、男とせんか女とせんかと。或いは二道を見て便ち猶豫を生じ、是れ所往の路か、復た非たるかと。二の衣鉢を見て亦猶豫を生じ、是れ我が所有か他の所用かというが如き、或いは此等は是れ実の疑結かと疑う。彼の疑をして決定を得しめんと欲するが故に、今此の疑は但だ是れ欲界の無覆無記の邪智を体となし、真の疑結に非ざることを顕す。真の疑結とは、謂わく苦等の四諦に於いて猶豫す」と云えり。是れ竪物を見て杌か人かと疑うが如きは、欲界無覆無記の邪智にして真の疑結に非ず、真の疑結は即ち苦等の四諦に於いて猶豫するを称すとなすの意なり。又「成唯識論巻4」に、「所縁の事に於いて亦猶豫するは煩悩の疑に非ず。人か杌かと疑うが如し」と云い、「異部宗輪論述記」に、「疑に二種あり、一に随眠性の疑は阿羅漢已に断ず。二に処非処の疑は阿羅漢未だ断ぜず、独覚も此に於いて猶お成就す」と云えるは、皆亦理に迷う随眠性の疑結と、事に於いて猶豫する処非処の疑とを区別せるものなるを知るべし。又浄土門にては疑を信に対する語とし、疑心を去りて信心を起すべきことを説けり。「十住毘婆沙論巻5易行品」に、「疑えば則ち華開けず。信心清浄なるものは、華開けて則ち仏を見る」と云い、又「選択本願念仏集巻上」に、「生死の家には疑を以って所止となし、涅槃の城には信を以って能入となす」と云える其の例なり。是れ即ち疑は猶豫の心にして決定を闕くものなるが故に、之を打開して其の信心を一決せしむるを要となすの意なり。又「大毘婆沙論巻196」、「瑜伽師地論巻58」、「倶舎論巻4」、「同光記巻4」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)
布施時六根清淨善欲心生。善欲心生故。內心清淨。觀果報功德故。信心生。身心柔軟故。喜樂生。喜樂生故。得一心。得一心故。實智慧生。如是等諸善法悉皆得。 布施する時の六根は清浄にして、善の欲心生じ、善の欲心生ずるが故に、内心清浄に、果報の功徳を観るが故に信心生じ、身心柔軟なるが故に喜楽生じ、喜楽生ずるが故に一心を得、一心を得るが故に実の智慧生ず。是の如き等、諸の善法を悉く皆得。
『布施する!』時には、
『六根』が、
『清浄となって!』、
『善』の、
『欲心』が、
『生じ!』、
『善』の、
『欲心』が、
『生じる!』が故に、
『内心』が、
『清浄になって!』、
『果報』の、
『功徳』を、
『観!』、
『果報』の、
『功徳』を、
『観る!』が故に、
『信心』が、
『生じて!』、
『身心』が、
『柔軟になる!』が故に、
『喜楽』が、
『生じ!』、
『喜楽』が、
『生じる!』が故に、
『心』が、
『一つになり!』、
『心』が、
『一つになる!』が故に、
『実』の、
『智慧』を、
『得る!』。
是れ等のように、
諸の、
『善法』を、
悉く、
『皆!』、
『得るのである!』。
復次布施時。心生相似八正道。信布施果故。得正見。正見中思惟不亂故。得正思惟。清淨說故得正語。淨身行故。得正業。不求報故。得正命。懃心施故。得正方便。念施不廢故。得正念。心住不散故。得正定。如是等相似三十七品善法心中生。 復た次ぎに、布施する時、心に相似の八正道を生ず、布施の果を信ずるが故に、正見を得、正見中に思惟して乱れざるが故に、正思惟を得、清浄に説くが故に、正語を得、身行を浄むるが故に、正業を得、報を求めざるが故に、正命を得、心を懃めて施すが故に、正方便を得、施を念じて廃せざるが故に、正念を得、心住して散ぜざるが故に、正定を得。是の如き等の三十七品に相似せる善法、心中に生ず。
復た次ぎに、
『布施する!』時には、
『心』に、
『相似』の、
『八正道』を、
『生じる!』、――
則ち、
『布施』の、
『果』を、
『信じる!』が故に、
『正見』を、
『得る!』、
『正見』中に、
『思惟する!』ので、
『乱れない!』が故に、
『正思惟』を、
『得る!』、
『清浄』な、
『心』で、
『説く!』が故に、
『正語』を、
『得る!』、
『清浄』な、
『身』の、
『行い!』の故に、
『正業』を、
『得る!』、
『活命』に、
『報(報酬)』を、
『求めない!』が故に、
『正命』を、
『得る!』、
『心』を、
『懃めて(委曲をつくして)!』、
『施す!』が故に、
『正方便(正精進)』を、
『得る!』、
『施す!』ことを、
『念じて!』、
『廃さない!』が故に、
『正念』を、
『得る!』、
『心』を、
『住めて!』、
『散らさない!』が故に、
『正定』を、
『得る!』。
是れ等のように、
『三十七品』に、
『相似した!』、
『善法』が、
『心』中に、
『生じる!』。
  八正道(はっしょうどう):涅槃に至る道相に正見、正思惟、正語、正業、正命、正方便、正念、正定の八種の別あるの意。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  三十七品(さんじゅうしちほん):涅槃に至る三十七種の修行項目。即ち四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道を云う。『大智度論巻1上:三十七品、同巻2下注:四念処、同巻3下注:二十二根、七覚分、八正道、同巻5上注:四如意足、同巻19』参照。
  :報を求めざるが故に、正命を得とは、比丘の医業、作業、占星、呪術等を以って活命の資を求むるを邪命となし、乞食を以って如法に活命するを正命となすを云う。『大智度論巻3下注:四食』参照。
復次有人言。布施是得三十二相因緣。 復た次ぎに、有る人の言わく、『布施は、是れ三十二相を得るの因縁なり』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『布施』は、
『三十二相』を、
『得る!』、
『因縁である!』、と。
  三十二相(さんじゅうにそう):『大智度論巻4上、同巻29下』参照。
  参考:『大智度論巻4』:『諸相師言。地天太子實有三十二大人相。若在家者當作轉輪王。若出家者當成佛。王言。何等三十二相。相師答言。一者足下安平立相。足下一切著地間無所受。不容一針。二者足下二輪相千輻輞轂三事具足。自然成就不待人工。諸天工師毘首羯磨不能化作如是妙相。問曰。何以故不能。答曰。是毘首羯磨。諸天工師不隱沒智慧。是輪相善業報。是天工師生報得智慧。是輪相行善根智慧得。是毘首羯磨一世得。是智慧。是輪相從無量劫智慧生。以是故毘首羯磨不能化作。何況餘工師。三者長指相。指纖長端直。次第傭好指節參差。四者足跟廣平相。五者手足指縵網相。如鴈王張指則現不張則不現。六者手足柔軟相。如細劫波毳勝餘身分。七者足趺高滿相。以足蹈地不廣不狹。足下色如赤蓮華。足指間網及足邊色如真珊瑚。指爪如淨赤銅。足趺上真金色。足趺上毛青毘琉璃色。其足嚴好。譬如雜寶屐種種莊飾。八者伊泥延膊相。如伊泥延鹿膊隨次傭纖。九者正立手摩膝相。不俯不仰以掌摩膝。十者陰藏相。譬如調善象寶馬寶。問曰。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提。時諸弟子何因緣見陰藏相。答曰。為度眾人決眾疑故示陰藏相。復有人言。佛化作馬寶象寶示諸弟子言。我陰藏相亦如是。十一者身廣長等相。如尼拘盧陀樹。菩薩身齊為中四邊量等。十二者毛上向相。身有諸毛生。皆上向而[禾*犀]。十三者一一孔一毛生相。毛不亂青琉璃色。毛右靡上向。十四者金色相。問曰何等金色。答曰。若鐵在金邊則不現。今現在金比佛在時金則不現。佛在時金比閻浮那金則不現。閻浮那金比大海中轉輪聖王道中金沙則不現。金沙比金山則不現。金山比須彌山則不現。須彌山金比三十三諸天瓔珞金則不現。三十三諸天瓔珞金比焰摩天金則不現。焰摩天金比兜率陀天金則不現。兜率陀天金比化自在天金則不現。化自在天金比他化自在天金則不現。他化自在天金比菩薩身色則不現。如是色是名金色相。十五者丈光相。四邊皆有一丈光。佛在是光中端嚴第一。如諸天諸王寶光明淨。十六者細薄皮相。塵土不著身。如蓮華葉不受塵水。若菩薩在乾土山中經行。土不著足。隨藍風來吹破土山。令散為塵乃至一塵不著佛身。十七者七處隆滿相。兩手兩足兩肩項中七處。皆隆滿端正色淨勝餘身體。十八者兩腋下隆滿相。不高不深。十九者上身如師子相。二十者大直身相。於一切人中身最大而直。二十一者肩圓好相。一切治肩無如是者。二十二者四十齒相。不多不少餘人三十二齒。身三百餘骨。頭骨有九。菩薩四十齒。頭有一骨。菩薩齒骨多頭骨少。餘人齒骨少頭骨多。以是故異於餘人身。二十三者齒齊相。諸齒等無麤無細不出不入。齒密相人不知者謂為一齒。齒間不容一毫。二十四者牙白相。乃至勝雪山王光。二十五者師子頰相。如師子獸中王平廣頰。二十六者味中得上味相。有人言。佛以食著口中。是一切食皆作最上味。何以故。是一切食中有最上味因故。無是相人不能發其因故。不得最上味。復有人言。若菩薩舉食著口中。是時咽喉邊兩處。流注甘露和合諸味。是味清淨故。名味中得上味。二十七者大舌相。是菩薩大舌從口中出覆一切面分。乃至髮際。若還入口口亦不滿。二十八者梵聲相。如梵天王五種聲從口出。其一深如雷。二清徹遠聞聞者悅樂。三入心敬愛。四諦了易解。五聽者無厭。菩薩音聲亦如是。五種聲從口中出。迦陵毘伽聲相。如迦陵毘伽鳥聲可愛。鼓聲相。如大鼓音深遠。二十九者真青眼相。如好青蓮華。三十者牛眼睫相。如牛王眼睫長好不亂。三十一者頂髻相。菩薩有骨髻如拳等在頂上。三十二者白毛相。白毛眉間生不高不下。白淨右旋舒長五尺。相師言。地天太子三十二大人相如是。菩薩具有此相。』
  参考:『大智度論巻29』:『問曰。云何布施等得三十二相。答曰。如檀越布施時。受者得色力等五事益身故。施者具手足輪相。如檀波羅蜜中廣說。戒忍等亦如是。各各具三十二相。何等是三十二相。一者足下安立相。餘如讚菩薩品中說。問曰。以何因緣得足下安立相。答曰。佛世世一心堅固持戒。亦不令他敗戒以是業因緣故得是初相。初相者自於法中無能動者。若作轉輪聖王。自於國土無能侵者。以如法養護人民及出家沙門等。以是業因緣故。得千輻輪相。是轉法輪初相。若作轉輪聖王。得轉輪寶。離殺生業因緣故得長指相。離不與取業因緣故。得足跟滿相。以四攝法攝眾生業因緣故。得手足縵網相。以上妙衣服飲食臥具。供養尊長業因緣故。得手足柔軟相。修福轉增業因緣故。得足趺高相一一孔一毛生相毛上向相。如法遣使為福和合因緣。及速疾誨人故。得妙踹相如伊泥延鹿王。如法淨物布施。不惱受者故。得平立手過膝相方身相如尼拘盧陀樹。多修慚愧及斷邪婬。以房舍衣服覆蓋之物。用布施故。得陰藏相如馬王。修慈三昧信淨心多。及以好色飲食衣服臥具布施故。得金色相大光相。常好問義供給所尊及善人故。得肌皮細軟相。如法斷事不自專執。委以執政故。得上身。如師子相腋下滿相肩圓相。恭敬尊長迎逆侍送故。得身體直廣相。布施具足充滿故。得七處滿相。一切捨施無所遺惜故。得方頰車相。離兩舌故。得四十齒相齒齊相齒密相。常修行慈好思惟故。得白牙無喻相。離妄語故。得舌廣薄相。美食布施不惱受者故。得味中最上味相。離惡口故。得梵聲相。善心好眼視眾生故。得眼睫紺青相眼睫如牛王相。禮敬所尊及自持戒。以戒教人故。得肉髻相。所應讚歎者而讚歎故。得眉間白毛相。是為用聲聞法三十二相業因緣。摩訶衍中三十二相業因緣者。』
所以者何。施時與心堅固。得足下安立相。 所以は何んとなれば、施す時の、与うる心堅固なれば、足下安立相を得。
何故ならば、――
『施す!』時には、
『与える!』、
『心』が、
『堅固となる!』が故に、  ――堅固:地の相――
『足下安立相』を、  ――足下安立相:堅固の喩――
『得る!』。
布施時。五事圍繞受者。是眷屬業因緣故。得足下輪相。 布施する時、五事、受者を囲繞すれば、是れ眷属の業の因縁なるが故に、足下輪相を得。
『布施する!』時、
『命、色、力、楽、辯』の、
『五事』が、
『受ける!』者を、
『囲繞する!』が、  ――囲繞:眷属・弟子の相――
是れは、
『眷属(弟子)にならせる!』、
『業』の、
『因縁である!』が故に、
『足下輪相』を、  ――足下輪相:転法輪の喩――
『得る!』。
  五事(ごじ):布施して得る命、色、力、楽、辯の五種の功徳を云う。即ち「増一阿含経巻24」に、「もし檀越施主恵施の日には、五事の功徳を得。云何が五と為す、一には命を施す、二には色を施す、三には安を施す、四には力を施す、五には辯を施す」と云い、また「大智度論巻3」に、「施食の時、五事に与る、命、色、力、楽、辯なり」と云えるこれなり。
大勇猛力施故。得足跟廣平相。 大勇猛力もて施すが故に、足跟広平相を得。
『大勇猛』の、
『力』で、
『施す!』が故に、
『足跟広平相』を、  ――足跟広平相:力士の相――
『得る!』。
  足跟(そくこん):かかと。
施攝人故。得手足縵網相。 施して、人を摂するが故に、手足縵網相を得。
『施して!』、
『人』を、
『摂取する!』が故に、
『手足縵網相』を、  ――手足縵網相:一網打尽の喩――
『得る!』。
美味飲食施故。得手足柔軟七處滿相。 美味なる飲食を施すが故に、手足柔軟、七処満相を得。
『美味な!』、
『飲食』を、
『施す!』が故に、
『手足柔軟相』と、    ――手足柔軟相:看病の喩――
『七処満相』とを、    ――七処満相:飽満の喩――
『得る!』。
施以益命故。得長指身不曲大直相。 施は、命を益すを以っての故に、長指、身不曲大直相を得。
『施し!』は、
『命』を、
『益す!』が故に、
『長指相』と、    ―― 長指相:看病の喩、慈悲の相 ――
『身不曲大直相』を、  ――身不曲大直相:長寿の喩――
『得る!』。
施時言我當相與。施心轉增故。得足趺高毛上向相。 施す時、『我れ当に相与うべし』、と言うに、施心転た増すが故に、足趺髙、毛上向相を得。
『施す!』時に、
わたしは、
之を、
『与えなくてはならない!』と、
『言う!』と、
『施す!』、
『心』が、
『どんどん!』、
『増す!』が故に、
『足趺髙相』と、    ――足趺髙相:隆盛の喩――
『毛上向相』とを、   ――毛上向相:増上の喩――
『得る!』。
施時受者求之一心好聽。慇懃約敕令必疾得故。得伊泥延[跳-兆+專]相。 施す時、受者は之を求めて、一心に好く聴き、慇懃にして、約勅すれば、必ず疾かに得しむるが故に、伊泥延膞相を得。
『施す!』時、
『受ける!』者は、
之を、
『求めて!』、
『一心』に、
『好く!』、
『聴き!』、
『ていねいに!』、
『勅(おしえ)』に、
『随う!』ので、
必ず、
『疾かに!』、
『法』を、
『得させられる!』が故に、
『伊泥延膞相』を、    ――伊泥延膞相:疾速の喩――
『得る!』。
  慇懃(おんごん):ていねい。委曲をつくす。
  約勅(やくちょく):誡に順ずる。命令に随う。
  伊泥延膞相(いにえんせんそう):梵語aiNeya- jaGghataaの訳。鹿のように繊細な脚相。
不瞋不輕求者故。得臂長過膝相。 求むる者を瞋らず、軽んぜざるが故に、臂長過膝相を得。
『求める!』者を、
『瞋らず!』、
『軽んじない!』が故に、
『臂長過膝相』を、  ――臂が長く、膝に届く:謙譲の相――
『得る!』。
如求者意施不待言故。得陰藏相。 求むる者の意の如くに施して、言を待たざるが故に、陰蔵相を得。
『求める!』者の、
『意のとおり!』に、
『施して!』、
『言(ことば)』を、
『待たない!』が故に、
『陰蔵相』を、    ――陰蔵相:無言の喩――
『得る!』。
好衣服臥具金銀珍寶施故。得金色身相薄皮相。 好き衣服、臥具、金銀、珍宝を施すが故に、金色身相、薄皮相を得。
『好い!』、
『衣服』、
『臥具』、
『金銀』、
『珍宝』を、
『施す!』が故に、
『金色身相』と、     ――金色身相:金銀の喩――
『薄皮相』とを、     ――薄皮相:透明な宝石の喩――
『得る!』。
布施令受者獨得自在用。故。得一一孔一毛生眉間白毫相。 布施は、受者をして、独り自在の用を得しむるが故に、一一孔一毛生、眉間白毫相を得。
『布施すれば!』、
『受ける!』者が、
『独り!』で、
『自在に!』、
『用いられる!』が故に、
『一一孔一毛相』と、   ――一一孔一毛相:独り用いるの喩――
『眉間白毫相』とを、   ――眉間白毫:一毛:独尊の喩――
『得る!』。
求者求之即言。當與以是業故。得上身如師子肩圓相。 求むる者は、之を求めて即ち、『当に与うべし』と言い、是の業を以っての故に、上身如師子、肩円相を得。
『求める!』者が、
之を、
『求めて!』、
『与えよ!』と、
『言う!』ので、
是の、
『業』の故に、
『上身如師子相』と、  ――師子:王者の喩――
『肩円相』とを、     ――肩円:勇者の喩――
『得る!』。
病者施藥飢渴者與飲食故。得兩腋下滿最上味相。 病者に薬を施し、飢渴者に飲食を与うるが故に、両腋下満、最上味相を得。
『病んだ!』者には、
『薬』を、
『施し!』、
『飢渴する!』者には、
『飲食』を、
『与える!』が故に、
『両腋下満相』と、  ――両肩の間に肉が満ちる:荷擔の相――
『最上味相』とを、  ――最上味相:飲食の喩――
『得る!』。
  両腋下円満相(りょうえきげえんまんそう):梵語citaantaraaMzataaの訳。両肩の間に肉が満ちて平らかなる(the having the place between the shoulders well filled out)の意。
施時勸人行施而安慰之。開布施道故。得肉髻相。身圓如尼拘盧相。 施す時、人にも勧めて施を行ぜしめ、之を安慰し、布施の道を開くが故に、肉髻相、身円如尼拘盧相を得。
『施す!』時には、
『人』にも、
『勧めて!』、
『施し!』を、
『行わせ!』、
是の、
『人』を、
『元気づけて!』、
『布施』の、
『道』を、
『開かせる!』が故に、
『肉髻相』と、         ――肉髻:人に教えるの相――
『身円如尼拘盧相』とを、  ――尼倶盧樹:蔭を以って安慰するの相――
『得る!』。
  安慰(あんに):梵語aazvaasaniiyaの訳。元気づける(to be refreshed or cheered up)の義。
  尼拘盧(にくろ):巨樹の名。尼拘盧陀。
有乞求者意欲與時。柔軟實語必與不虛故。得廣長舌相梵音聲相如迦陵毘伽鳥聲相。 乞求する者有りて、意に与えんと欲する時、柔軟に、『必ず与えん』と実語して、虚しからざるが故に、広長舌相、梵音声相、如迦陵毘伽鳥声相を得。
『乞うて!』、
『求める!』者が、
『有り!』、
『意』に、
『与えよう!』と、
『思う!』時、
『柔軟』に、
『必ず与えよう!』と、
『実語して!』、
『虚偽でない!』が故に、
『広長舌相』と、    ――広長舌相:不虚偽の喩――
『梵音声相』と、    ――梵音声相:清浄声の喩――
『迦陵毘伽鳥声相』とを、  ――迦陵毘伽鳥声相:喜楽安慰の喩――
『得る!』。
  迦陵毘伽(かりょうびが):天上に住する妙音声の鳥。
施時如實語利益語故。得師子頰相。 施す時、如実の語、利益の語の故に、師子頬相を得。
『施す!』時、
『如実』と、    ――如実語、利益語:王者の相――
『利益』とを、
『語る!』が故に、
『師子頬相』を、  ――師子頬相:王語の喩――
『得る!』。
施時恭敬受者心清淨故。得牙白齒齊相。 施す時、受者を恭敬して、心清浄なるが故に、牙白歯斉相を得。
『施す!』時、
『受ける!』者を、
『恭しく!』、
『敬って!』、
『心』が、
『清浄である!』が故に、
『牙白相』と、    ――牙白相:微笑の相――
『歯斉相』とを、   ――歯斉相:清浄の喩――
『得る!』。
施時實語和合語故。得齒密相四十齒相。 施す時の実語、和合語の故に、歯密相、四十歯相を得。
『施す!』時、
『実』と、
『和合』とを、
『語る!』が故に、
『歯密相』と、    ――歯密相:実語の喩――
『四十歯相』とを、 ――四十歯相:和合の喩――
『得る!』。
施時不瞋不著等心視彼故。得青眼相眼睫如牛王相。是為種三十二相因緣。 施す時、瞋らず、著せずして、等心に彼れを視るが故に、青眼相、眼睫如牛王相を得、是れを三十二相の因縁を種うと為す。
『施す!』時、
『瞋らず(憎まず)!』、
『著さず(愛さず)!』、
『心』を、
『等しく!』して、
『彼れ!』を、
『視る!』が故に、
『青眼相』と、        ――青眼相:等心の喩――
『眼睫如牛王相』とを、  ――眼睫如牛王相:等視衆生の喩――
『得る!』。
  等心(とうしん):梵語sama-cittaの訳。平衡にして傾かざる心の義。怨親平等無差別の傾かざる心の意。平等心。『大智度論巻19下注:平等』参照。
復次以七寶人民車乘金銀燈燭房舍香華布施故。得作轉輪王七寶具足。 復た次ぎに、七宝、人民、車乗、金銀、灯燭、房舎、香華を以って布施するが故に、転輪聖王と作りて、七宝具足するを得。
復た次ぎに、
『七宝』、
『人民』、
『車乗』、
『金銀』、
『灯燭』、
『房舎』、
『香華』を、
『布施する!』が故に、
『転輪聖王』と、
『作って!』、
『七宝』を、
『具足することができる!』。
   七宝(しっぽう):(一)世間の貴ぶ七種の宝なる金、銀、琉璃、玻璃、硨磲、赤珠、馬瑙と、及び(二)転輪聖王に属す七種の宝の輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、居士宝、主兵臣宝とを云う。『大智度論巻7上注:七宝』参照。
復次施得時故。報亦增多。如佛說。施遠行人遠來人。病人看病人。風寒眾難時施。是為時施。 復た次ぎに、施すに時を得るが故に、報も亦た増々多し。仏の説きたもうが如く、遠行の人、遠来の人、病人、看病人に施し、寒風衆難の時に施す、是れを時に施すと為す。
復た次ぎに、
『施す!』に、
『時』を、
『得る!』が故に、
『報』も、
『増々!』、
『多くなる!』。
『仏』は、
こう説かれている、――
『遠行の人』、
『遠来の人』、
『病人』、
『看病人』、
『寒風』、
『多くの難儀』等の、
『時』に、
『施す!』ならば、
是れは、
『時』に、
『施した!』のである、と。
  遠行(おんぎょう):遠くへ行く。
  遠来(おんらい):遠くより来る。
  風寒(ふうかん):風と寒さ。
  衆難(しゅなん):多くの難儀。
  時施(じせ):時を得た施し。
復次布施時隨土地所須施故。得報增多。 復た次ぎに、布施の時、土地の須(もと)むる所に随いて施すが故に、得る報も増々多し。
復た次ぎに、
『布施する!』時、
『土地』の、
『必要とする!』所に、
『随って!』、
『施す!』が故に、
『報』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
復次曠路中施故。得福增多。 復た次ぎに、曠路中に施すが故に、得る福も増々多し。
復た次ぎに、
『曠路(荒野)』中で、
『施す!』が故に、
『福』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
  曠路(こうろ):荒れ野の中の道。
常施不廢故。得報增多。 常に施して、廃せざるが故に、得る報も増々多し。
常に、
『施して!』、
『廃さない!』が故に、
『報』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
如求者所欲施故。得福增多。 求むる者の欲する所の如く、施すが故に、得る福は増々多し。
『求める!』者の、
『欲する!』所のように、
『施す!』が故に、
『福』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
施物重故。得福增多。 施物の重きが故に、得る福は増々多し。
『施された!』、
『物』が、
『貴重である!』が故に、
『福』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
如以精舍園林浴池等若施善人故。得報增多。若施僧故。得報增多。若施者受者俱有德故。(丹注云如菩薩及佛慈心布施是為施者若施佛及菩薩阿羅漢辟支佛是為受者故)得報增多。 精舎、園林、浴池等を以って、若しは善人に施すが故に、得る報の増々多きが如く、若しは、僧に施すが故に、得る報は増々多し。若し施者、受者倶に有徳なるが故に(丹注に云わく、菩薩、及び仏の慈心もて布施するが如き、是れを施者と為し、若しは仏、及び菩薩、阿羅漢、辟支仏に施すに、是れを受者と為すが故なり)、得る報は増々多し。
例えば、
『精舎、園林、浴池』等を、
『善人』に、
『施して!』、
『得る!』、
『報』が、
『増々多い!』ように、
『僧』に、
『施して!』、
『得る!』、
『報』も、
『増々多く!』、
『施す!』者と、
『受ける!』者との、
『どちらにも!』、
『徳』が、
『有る!』ならば、
『得る!』、
『報』は、
『増々多い!』。
種種將迎恭敬受者故。得福增多。 種種に、受者を将迎し、恭敬するが故に、得る福は増々多し。
種種に、
『受ける!』者を、
『送迎し!』、
『恭敬する!』が故に、
『福』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
  将迎(しょうげい):手をひいて送り迎えすること。送迎。
難得物施故。得福增多。 得難き物を施すが故に、得る福は増々多し。
『得難い!』、
『物』を、
『施す!』が故に、
『福』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
隨所有物盡能布施故。得福增多。 有する所に随いて物を尽く能く布施するが故に、得る福は増々多し。
『有する!』所に、
『随って!』、
『物』を、
『尽く!』、
『布施できる!』が故に、
『福』を、
『増々多く!』、
『得る!』。
  :有する所に随う:心に随わざるの意。
譬如大月氏弗迦羅城中有一畫師。名千那。到東方多刹陀羅國。客畫十二年得三十兩金。持還本國於弗迦羅城中。聞打鼓作大會聲。往見眾僧。信心清淨即問維那。此眾中幾許物。得作一日食。 譬えば、大月氏の弗迦羅城中に、一画師有り、千那と名づく、東方の多刹陀羅国に到りて、客画すること十二年、三十両の金を得、持ちて本国に還らんとするに、弗迦羅城中に於いて、鼓を打ちて、大会を作すの声を聞き、往きて衆僧を見るに、信心清浄となりて、即ち維那に問わく、『此の衆中に幾許(いくばく)の物ありてか、一日の食を作すを得る』、と。
譬えば、こうである、――
『大月氏』の、
『弗迦羅城』中に、
『一り!』の、
『画師』が有り、
『千那』と、
『呼ばれていた!』が、
『東方』の、
『多刹陀羅国』に、
『到り!』、
『十二年間』、
『客画して!』、
『三十両』、
『金』を、
『得た!』ので、
『持って!』、
『本国』に、
『還ろうとした!』が、
『弗迦羅城』中に於いて、
『鼓』を、
『打って!』、
『大会』を、
『作すぞ!』と、
『唱える!』、
『声』を、
『聞き!』、
『往って!』、
『衆僧(比丘の集まり)』を、
『見る!』と、
『信心』が、
『清浄となり!』、
『維那(執事)』に、こう問うた、――
此の、
『衆()』中には、
何れほどの、
『物』が、
『有れば!』、
一日の、
『食』を、
『作ることができますか?』、と。
  大月氏(だいげっし):西域に存在せし国の名。『大智度論巻9下注:大月氏』参照。
  弗迦羅(ふから):梵名、大月氏国の城の名。委細不明。「大荘厳論経」には弗羯羅衛puStaraavatii国と称す。
  千那(せんな):梵名干那karNa?、 弗迦羅の画師。委細不明。「大荘厳論経」には羯那と称す。或は干那を千那に誤って作りしものならん。
  多刹陀羅(たせつだら):梵名。弗迦羅の東方の国名。委細不明。「大荘厳論経」には石室(梵名takSazilaa)国に作る。
  客画(きゃくが):雇われて画くこと。
  維那(いな):梵名羯磨陀那karmadaana、寺中の事務を司る者を云う。維は漢語にして綱維の義、那は羯磨陀那の那を取る。また綱維、次第、授事、知事、悦衆、寺護等と称す。「南海寄帰内法伝巻4」に、「授事者、梵に羯磨陀那と云う、陀那はこれ授なり、羯磨はこれ事にして、意に衆雑事を以って人に指授するを道う。旧に維那となすは非なり。維はこれ周語、意に綱維を道い、那はこれ梵音、略して羯磨陀を去るなり」と云えるに依って、その義を知るべし。<(丁)
  衆僧(しゅそう):梵語僧伽saMgha、比丘の集団(group of monks)、或いは多くの比丘(many monks)の義。3ー4人以上の比丘、又は比丘尼の集団を云う。
  参考:『大荘厳論経巻4』:『復次無戀著心一切能施。得大名稱現  世獲報。是故應施不應吝著。我昔曾聞。弗羯羅衛國有一畫師。名曰羯那。有作因緣詣石室國。既至彼已詣諸塔寺。為畫一精舍得三十兩金。還歸本國會值諸人造般遮于瑟。生信敬心。問知事比丘。明日誰作飲食。答言。無有作者。復問。彼比丘一日之食須幾許物。答言。須三十兩金。時彼畫師即與知事比丘三十兩金。與彼金已還歸于家。其婦問言。汝今客作為何所得。夫答婦言。我得三十兩金用施福會。其婦聞已甚用忿恚。便語諸親稱說夫過。所得作金盡用施會。無有遺餘用營家業。爾時諸親即將彼人。詣斷事處而告之曰。錢財叵得役力所獲。不用營家及諸親里。盡用營設於諸福會。時斷事官聞是事已。問彼人言。竟為爾不。答言實爾。時斷事官聞是事已生希有想。即便讚言。善哉丈夫。脫己衣服并諸瓔珞及以鞍馬。盡賜彼人。而說偈言 久處貧窮苦  傭作得錢財  不用營生業  以施甚為難  雖復有財富  資生極豐廣  若不善觀察  不能速施與  遠觀察後身  知施有果報  勇猛能捨財  離於慳塵垢  有是行法人  持施使不沒  時彼畫師聞此偈已歡喜踊躍。著其衣服乘此鞍馬便還其家。時彼家人見著盛服乘馬至門。謂是貴人。心懷畏懼。閉門藏避。畫師語言。我非他人是汝夫主。其婦語言。汝是貧人於何得是鞍馬服乘。爾時其夫以偈答言 善女汝今聽  我當隨實說  今雖捨施僧  施設猶未食  譬如未下種  芽莖今已生  福田極良美  果報方在後  此僧淨福田  誰不於中種  意方欲下種  芽生眾所見  時婦聞已得淨信心。即說偈言 如佛之所說  施僧得大果  如今所布施  真得施處所  敬心施少水  果報過大海  一切諸眾中  佛僧最第一  開意方欲施  華應已在前』
維那答曰。三十兩金足得一日食。即以所有三十兩金付維那。為我作一日食。我明日當來。 維那の答えて曰わく、『三十両金あれば、一日の食を得るに足る』、と。即ち有する所の三十両金を以って、維那に付すらく、『我が為めに、一日の食と作せ、我れは明日、当に来たるべし』、と。
『維那』は答えて、こう言った、――
『三十両』の、
『金』が、
『有れば!』、
『一日』の、
『食』を、
『得る!』に、
『足る!』、と。
そこで、
『有する!』所の、
『三十両』の、
『金』を、
『維那』に、
『預けて!』、
こう言った、――
わたしの為めに、
『一日』の、
『食』を、
『作りなさい!』。
わたしは、
『明日』、
『来ましよう!』、と。
空手而歸。其婦問曰。十二年作得何等物。答言。我得三十兩金。即問三十兩金今在何所。答言。已在福田中種。婦言。何等福田。答言施與眾僧。 空手にて帰るに、其の婦の問うて曰わく、『十二年作して、何等の物か得る』、と。答えて言わく、『我れは、三十両の金を得たり』、と。即ち問わく、『三十両の金は、今何所にか在る』、と。答えて言わく、『已に福田中に在りて種えたり』、と。婦の言わく、『何等か福田なる』と。答えて言わく、『施して、衆僧に与えたり』、と。
『千那』が、
『空手』で、
『家』に、
『帰る!』と、
其の、
『婦』が問うて、こう言った、――
『十二年間』、
『働いて!』、
何れだけの、
『物』を、
『得たのですか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『三十両』の、
『金』を、
『得た!』、と。
そこで、こう問うた、――
『三十両』の、
『金』は、
今、
『何所に!』、
『在るのですか?』、と。
答えて、こう言った、――
已に、
『福田』中に、
『種えてきた!』、と。
『婦』は、こう言った、――
何のような、
『福田ですか?』、と。
答えて、こう言った、――
『衆僧』に、
『施して!』、
『与えた!』、と。
婦便縛其夫送官治罪斷事。大官問。以何事故。 婦は、便ち其の夫を縛り、官に送りて、罪を治せんとす。断事の大官の問わく、『何事を以っての故なりや』、と。
『婦』は、
其の、
『夫』を、
『縛る!』と、
『官』に、
『送って!』、
『罪』を、
『正そうとした!』。
『断事の大官』は、
こう問うた、――
何のような、
『事』を以っての故に、
『罪』を、
『正したいのか?』、と。
  治罪(じざい):罪を取り締まる。
  断事(だんじ):事を断ずる。判事。
婦言我夫狂癡。十二年客作得三十兩金。不憐愍婦兒盡以與他人。依如官制輒縛送來。 婦の言わく、『我が夫は、狂癡なり。十二年客作して、三十両金を得たるに、婦児を憐愍せずして、尽く以って他人に与えたり。官制に依如して、輒(すなわ)ち縛りて送り来たれり。
『婦』は、こう言った、――
わたしの、
『夫』は、
『狂(気がおかしい)か!』、
『癡(たわけ)です!』、
『十二年』も、
『客作して!』、
『三十両』の、
『金』を、
『得た!』のに、
『婦児』を、
『憐愍せず(あわれまず)!』、
それを、
『他人』に、
『与えてしまいました!』ので、
『官制(法律)』を、
『頼りに!』、
『随うよりありません!』。
そこで、
『縛って!』、
『連れてきたのです!』、と。
  狂癡(ごうち):狂人の愚か者。
  客作(きゃくさ):雇われて仕事する。
  依如(えにょ):頼って随う。
  官制(かんせい):役所の規制。法律。
  憐愍(れんみん):あわれむ。
  婦児(ふに):妻子。
大官問其夫。汝何以不供給婦兒。乃以與他。 大官の其の夫に問わく、『汝は、何を以ってか、婦児に供給せず、乃ち以って他に与うる』、と。
『大官』は、
其の、
『夫』に、こう問うた、――
お前は、
何故、
『婦児』に、
『供給しない!』ものを、
『他人』に、
『与えたのか?』、と。
答言。我先世不行功德。今世貧窮受諸辛苦。今世遭遇福田。若不種福後世復貧。貧貧相續無得脫時。我今欲頓捨貧窮。以是故盡以金施眾僧。 答えて言わく、『我れは先世に功徳を行わざれば、今世に貧窮となりて、諸の辛苦を受けたるに、今世に福田に遭遇す。若し福を種えざれば、後世も復た貧ならん。貧貧相続すれば、脱を得る時無けん。我れは今、貧窮を頓捨せんと欲すれば、是を以っての故に、尽く、金を以って衆僧に施せり』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『先世』に、
『功徳』を、
『行わなかった!』ので、
『今世』に、
『貧窮』して、
諸の、
『辛苦』を、
『受けておりました!』ところ、
『今世』に、
『福田』に、
『遭遇しました!』。
若し、
『福』を、
『種えなければ!』、
『後世』は、
『復た!』、
『貧しいでしょう!』、
『貧しさ!』から、
『貧しさ!』へと、
『相続すれば!』、
『貧しさ!』から、
『脱れられる!』時が、
『有りません!』。
わたしは、
今、
『貧窮』を、
『捨てよう!』と、
『思いました!』ので、
是の故に、
すっかり、
『金』を、
『衆僧』に、
『施したのです!』、と。
  頓捨(とんしゃ):疾かに捨てる。さっぱりと捨てる。
大官是優婆塞信佛清淨。聞是語已讚言。是為甚難。懃苦得此少物盡以施僧。汝是善人。即脫身瓔珞及所乘馬并一聚落以施貧人。而語之言。汝始施眾僧。眾僧未食是為穀子未種。牙已得生。大果方在後身 大官は、是れ優婆塞にして、仏を信じて清浄なれば、是の語を聞き已りて、讃じて言わく、『是れ甚だ難しと為す、懃苦して得たる此の少物を、尽く以って僧に施す。汝は是れ善人なり』、と。即ち身より脱ぎし瓔珞、及び所乗の馬、並びに一聚落を以って、貧人に施し、之に語りて言わく、『汝は、始めて衆僧に施し、衆僧未だ食わざれば、是れを穀子を未だ種えざるに、牙は已に生ずるを得と為す。大果は、方(まさ)に後身に在らん』、と。
『大官』は、
『優婆塞であり!』、
『仏』を、
『信じて!』、
『清浄であった!』ので、
是の、
『語』を、
『聞く!』と、
『讃じて!』、
こう言った、――
是れは、
『甚だ!』、
『為し難いことである!』、
『苦労して!』、
『得た!』、
『少し!』の、
『物』を、
『尽く!』、
『僧』に、
『施すとは!』。
お前は、
『善い!』、
『人である!』、と。
そして、
『身』より、
『脱いだ!』、
『瓔珞』と、
『乗っていた!』、
『馬』と、
併せて、
『一つ!』の、
『聚落』とを、
是の、
『貧しい!』、
『人』に、
『施す!』と、
是の、
『人』に、
『語って!』、
こう言った、――
お前は、
『衆僧』に、
『施したばかり!』だし、
『衆僧』は、
未だ、
『食っていない!』のだから、
是れは、こういうことになるな、――
『穀子(もみ)』を、
未だ、
『種えない!』のに、
『芽』は、
已に、
『生えることができた!』、と。
『大きな!』、
『果』は、
『後世』の、
『身』に、
『在ることだろう!』、と。
  懃苦(ごんく):苦労。
  穀子(こくし):たねもみ、種籾。
以是故言。難得之物盡用布施其福最多。 是を以っての故に言わく、『得難き物を尽く用って布施すれば、其の福は最も多し』、と。
是の故に、
こう言うのである、――
『得難い!』、
『物』を、
『尽く!』、
『施す!』ならば、
其の、
『福』は、
『最も多い!』、と。
復次有世間檀。有出世間檀。有聖人所稱譽檀。有聖人所不稱譽檀。有佛菩薩檀。有聲聞檀。 復た次ぎに、世間の檀有り、出世間の檀有り、聖人に称誉せらるる檀有り、聖人に称誉せられざる檀有り、仏、菩薩の檀有り、声聞の檀有り。
復た次ぎに、
『世間』の、
『檀』が、
『有り!』、
『出世間』の、
『檀』が、
『有り!』、
『聖人』に、
『称誉される!』、
『檀』が、
『有り!』、
『聖人』に、
『称誉されない!』、
『檀』が、
『有り!』、
『仏、菩薩』の、
『檀』が、
『有り!』、
『声聞』の、
『檀』が、
『有る!』。
何等世間檀。凡夫人布施。亦聖人作有漏心布施。是名世間檀。 何等か、世間の檀なる。凡夫人の布施、亦た聖人の作す有漏心の布施、是れを世間の檀と名づく。
『世間』の、
『檀』とは、
何のようなものか?――
則ち、
『凡夫人』の、
『布施である!』が、
亦た、
『聖人』の、
『作す!』、
『有漏心』の、
『布施』も、
『世間』の、
『檀』と、
『称する!』。
復次有人言。凡夫人布施。是為世間檀。聖人雖有漏心布施。以結使斷故。名出世間檀。何以故。是聖人得無作三昧故。 復た次ぎに、有る人の言わく、『凡夫人の布施は、是れ世間の檀と為す。聖人は、有漏心の布施なりと雖も、結使断ずるを以っての故に、出世間の檀と名づく。何を以っての故に、是の聖人は、無作三昧を得たるが故なり』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『凡夫人』の、
『布施』は、
『世間』の、
『檀である!』が、
『聖人』は、
『有漏心』の、
『布施であっても!』、
『結使』が、
『断じている!』が故に、
『出世間』の、
『檀である!』。
何故ならば、
是の、
『聖人』は、
『無作三昧』を、
『得ている!』からである、と。
  無作三昧(むささんまい):身を空じて何物も作さないと観ずる三昧。『大智度論巻5上注:三三昧、同巻20上』参照。
復次世間檀者不淨。出世間檀者清淨。 復た次ぎに、世間の檀は、不浄にして、出世間の檀は清浄なり。
復た次ぎに、
『世間』の、
『檀』は、
『不浄であり!』、
『出世間』の、
『檀』は、
『清浄である!』。
二種結使。一種屬愛一種屬見。為二種結使所使。是為世間檀。無此二種結使。是為出世間檀。 二種の結使あり、一種は愛に属し、一種は見に属す。二種の結使の使う所と為る、是れを世間の檀と為し、此の二種の結使無ければ、是れを出世間の檀と為す。
『結使』には、
『二種』有り、――
一種は、
『愛』に、
『従属し!』、
一種は、
『見』に、
『従属する!』。
是の、
『二種』の、
『結使』に、
『使われる!』、
『布施!』を、
『世間』の、
『檀』と、
『称し!』、
此の、
『二種』の、
『結使』の、
『無い!』、
『布施』を、
『出世間』の、
『檀』と、
『称する!』。
  (けん):梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。観視、推度の義にして、眼の所見に由りて或いは推想し、某事に対して一定の見解を産生するを云う。『大智度論巻3下注:見、同巻7上注:見』参照。
若三礙繫心是為世間檀。何以故。因緣諸法實無吾我。而言我與彼取。是故名世間檀。 若し三礙、心に繋(か)かれば、是れを世間の檀と為す。何を以っての故に、因縁の諸法には、実に吾我無きに、而も言わく、『我れは与え、彼れは取る』、と。是の故に、世間の檀と名づく。
若し、
『三種』の、
『障礙(施者、受者、所施の財物)』が、
『心』を、
『繋縛する!』ならば、
是れは、
『世間』の、
『檀である!』。
何故ならば、
『因縁』に、
『生じさせられた!』、
諸の、
『法』は、
実に、
『吾我』が、
『無い!』のに、
こう言うからである、――
わたしが、
『与え!』、
彼れが、
『取る!』、と。
是の故に、
『世間』の、
『檀』と、
『称する!』。
復次我無定處。我以為我彼以為非。彼以為我我以為非。以是不定故無實我也。 復た次ぎに、我には、定まりたる処無し。我れを以って、我と為せば、彼れを以って非と為し、彼れを以って我と為せば、我れを以って非と為す。是の定まらざるを以っての故に、実の我無し。
復た次ぎに、
『我』には、
『定まった!』、
『処(所在)』が、
『無い!』。
何故ならば、
『わたし!』を、
『我である!』と、
『考える!』ならば、
『彼れ!』を、
『我でない!』と、
『考えたことになる!』し、
『彼れ!』を、
『我である!』と、
『考える!』ならば、
『わたし!』を、
『我でない!』と、
『考えたことになる!』、
是の、
『我』の、
『処』が、
『定まらない!』が故に、
『実』の、
『我』は、
『無いのである!』。
所施財者從因緣和合有。無有一法獨可得者。 施す所の財とは、因縁和合に従りて有り。一法として、独り得べき者有ること無し。
『施す!』所の、
『財』とは、――
『因縁』の、
『和合』により、
『有る!』ので、
『単独』で、
『認識できる!』ものは、
『一つ!』の、
『法』すら、
『有ったことがない!』。
如絹如布。眾緣合故成。除絲除縷則無絹布。諸法亦如是。一相無相相常自空。人作想念計以為有。顛倒不實是為世間檀。 絹の如き、布の如きは、衆縁合するが故に成じ、糸を除き、縷を除けば、則ち絹、布なし。諸法も亦た是の如く、一相、無相にして、相は常に自ら空なるも、人は想念を作して、計するを以って有りと為せば、顛倒にして不実なり、是れを世間の檀と為す。
譬えば、
『絹布』とか、
『麻布』は、
『多く!』の、
『縁』が、
『和合する!』が故に、
『成立する!』のであり、
若し、
『生糸』や、
『麻糸』を、
『除けば!』、
『絹布』も、
『麻布』も、
『存在しない!』のであるが、
諸の、
『法』も、
是のように、
『無相』という、
『一相』であり、
其の、
『相』は、
常に、
『自ら!』、
『空である!』のに、
『人』は、
『想(想像)』と、
『念(思念)』とを、
『作して!』、
諸の、
『法』が、
『有ってほしい!』と、
『計る(謀る)!』が、
是の、
『想念』は、
『顛倒しており!』、
『不実である!』ので、
是れを、
『世間』の、
『檀』と、
『称する!』。
  (けん):絹の織物。
  (ふ):麻の織物。
  (し):いと、糸。きいと、生糸。撚糸。
  (る):いと、不撚糸。線。
心無三礙實知法相心不顛倒。是為出世間檀。 心に、三礙無く、法相を知りて、心顛倒せざる、是れを出世間の檀と為す。
『心』に、
『三つ!』の、
『障礙』が、
『無く!』、
『法』の、
『相(空、無、一)』を、
『知って!』、
『心』が、
『顛倒しない!』ならば、、
是れを、
『出世間』の、
『檀』と、
『称する!』。
出世間檀為聖人所稱譽。世間檀聖人所不稱譽。 出世間の檀は、聖人の称誉する所と為し、世間の檀は、聖人の称誉せざる所なり。
『出世間』の、
『檀』は、
『聖人』に、
『称誉される!』が、
『世間』の、
『檀』は、
『聖人』に、
『称誉されない!』。
復次清淨檀。不雜結垢如諸法實相。是聖人所稱譽。不清淨雜結使顛倒心著。是聖人所不稱譽。 復た次ぎに、清浄の檀は、結垢を雑(まじ)えず、諸法の実相の如し。是れ聖人の称誉する所なり。清浄ならずして、結使を雑え、顛倒の心著すれば、是れ聖人の称誉せざる所なり。
復た次ぎに、
『清浄な!』、
『檀』には、
『結使』の、
『垢』が、
『雑(まじ)らず!』、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『似ている!』ので、
是れは、
『聖人』に、
『称誉される!』が、
『清浄でない!』、
『檀』には、
『結使』が、
『雑り!』、
『顛倒した!』、
『心』が、
『著する!』ので、
是れは、
『聖人』に、
『称誉されない!』。
復次實相智慧和合布施。是聖人所稱譽。若不爾者聖人所不稱譽。 復た次ぎに、実相の智慧の和合せる布施は、是れ聖人の称誉する所なり。若し爾らざれば、聖人の称誉せざる所なり。
復た次ぎに、
『実相』の、
『智慧』が、
『布施』に、
『和合する!』ならば、
是れは、
『聖人』に、
『称誉される!』が、
若し、
そうでなければ、
『聖人』に、
『称誉されない!』。
復次不為眾生。亦不為知諸法實相故施。但求脫生老病死。是為聲聞檀。為一切眾生故施。亦為知諸法實相故施。是為諸佛菩薩檀。 復た次ぎに、衆生の為めにあらず、亦た諸法の実相を知らんが為めの故に施すにあらず、但だ生老病死を脱れんことを求む、是れを声聞の檀と為す。一切の衆生の為めの故に施す、亦た諸法の実相を知らんが為めの故に施す、是れを諸仏菩薩の檀と為す。
復た次ぎに、
『衆生』を、
『思う!』が故に、
『施すのでもなく!』、
亦た、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』為めの故に、
『施すのでもなく!』、
但だ、
『生老病死』を、
『脱れる!』ことを、
『求める!』為めの故に、
『施す!』ならば、
是れを、
『声聞』の、
『檀』と、
『称する!』。
一切の、
『衆生』を、
『思う!』が故に、
『施し!』、
亦た、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』為めの故に、
『施す!』ならば、
是れを、
諸の、
『仏、菩薩』の、
『檀』と、
『称する!』。
於諸功德不能具足。但欲得少許分。是為聲聞檀。一切諸功德欲具足滿。是為諸佛菩薩檀。 諸の功徳に於いて、具足する能わず、但だ少許の分を得んと欲する、是れを声聞の檀と為し、一切の諸の功徳を具足して満てんと欲する、是れを諸仏菩薩の檀と為す。
諸の、
『功徳』を、
『具足して!』、
『満たすことができず!』、
但だ、
『少しばかり!』の、
『分』を、
『得よう!』と、
『思う!』ならば、
是れを、
『声聞』の、
『檀』と、
『称し!』、
一切の、
諸の、
『功徳』を、
『具足して!』、
『満たそう!』と、
『思う!』ならば、
是れを、
諸の、
『仏、菩薩』の、
『檀』と、
『称する!』。
畏老病死故施。是為聲聞檀。為助佛道為化眾生不畏老病死。是為諸佛菩薩檀。是中應說菩薩本生經。 老病死を畏るるが故に施す、是れを声聞の檀と為し、仏道を助けんが為め、衆生を化せんが為めに、老病死を恐れざる、是れを諸仏菩薩の檀と為す。是の中には、応に『菩薩本生経』を説くべし。
『老病死』を、
『畏れる!』が故に、
『施す!』ならば、
是れを、
『声聞』の、
『檀』と、
『称し!』、
『仏』の、
『道』を、
『助ける!』為めや、
『衆生』を、
『化する!』為めに、
『老病死』を、
『畏れず!』に、
『施す!』ならば、
是れを、
諸の、
『仏、菩薩』の、
『檀』と、
『称する!』。
是の中には、
『菩薩本生経』を、
『説くのが!』、
『相応しいであろう!』。
  菩薩本生経:『菩薩本縁経巻上毘羅摩品』、『仏説三帰五戒慈心厭離功徳経』、『増一阿含経巻19』等参照。
如說阿婆陀那經中。昔閻浮提中有王。名婆薩婆。 阿婆陀那経中に説けるが如し、昔閻浮提中に王有りて、婆薩婆と名づく。
『阿婆陀那経』中には、こう説かれている、――
昔、
『閻浮提』中に、
『王』が有り、
『婆薩婆』と、
『呼ばれていた!』。
  阿婆陀那(あばだな):梵名avadaana、阿波陀那、阿波陁那等に作り譬喩と訳す。十二部経の一。
  婆薩婆(ばさば):王名。委細不明。
  参考:『仏説三帰五戒慈心厭離功徳経』:『聞如是。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。佛為阿那邠邸長者說過去久遠有梵志名毗羅摩。饒財多寶若布施時。用八萬四千金缽盛滿碎銀。八萬四千銀缽盛滿碎金。復以八萬四千金銀澡罐。復以八萬四千牛。皆以金銀覆角。復以八萬四千玉女莊嚴具足。復以八萬四千臥具眾綵自覆。復以八萬四千衣裳。復以八萬四千象馬。皆以金銀鞍勒。復以八萬四千房舍布施。復於四城門中布施。隨其所欲皆悉與之。復以一房舍施招提僧。如上施福不如受三自歸。所以然者。受三歸者。施一切眾生無畏。是故歸佛法僧。其福不可計量也。如上布施及受三歸福復不如受五戒福。受五戒者。功德滿具其福勝也。如上布施及受三歸五戒福。復不如彈指頃慈念眾生福也。如上布施及受三歸五戒慈念眾生福。復不如起一切世間不可樂想福。所以然者。起一切世間不可樂想福。能令行者滅生死苦。終成佛道故其福最勝也。爾時長者聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『菩薩本縁経巻上毘羅摩品』:『爾時毘羅摩菩薩即以右手執持澡灌。以大慈悲熏修其心。憐愍一切諸眾生故。涕泣流淚而作是念。我今所施不為梵王摩醯首羅釋提桓因。假使更有勝是三者亦不悕求。唯求佛道欲利眾生斷諸煩惱。我今當捨己身妻子奴婢僕使珍寶舍宅。唯求解脫不求生死。我今所施柔軟女人。願諸眾生於未來世。悉得斷除所有貪欲。今我所施五種牛味。願諸眾生。於未來世常能惠施他人法味。今我所施如是敷具。願諸眾生。於未來世悉得如來金剛坐處。我今所施種種珍寶。願諸眾生。於未來世悉得如來七菩提寶。作是語已。從上坐所循行澡水而水不下。猶如慳人不肯布施。爾時菩薩即作是念。今此澡水何緣不下。復作是念。將非我願未來之世不得成耶。誰之遮制令水不下。將非此中無有大德。其餘不應受我供耶。或我所施不周普耶。或是我僕使不歡喜耶。將非此中有殺生耶。我今定知不困眾生。我今所施亦是時施亦不觀採是受非受。而此灌水何緣不下。爾時菩薩見婆羅門為此諸女生貪嫉心而起瞋恨。各各說言。彼女端正我應取之汝不應取。彼牛肥壯我應取之汝不應取。金銀盤粟乃至珍寶亦復如是。爾時菩薩見諸婆羅門貪心諍物互相瞋恚。即作是言。是諸受者貪欲瞋恚愚癡亂心不能堪受。如是供養如車軸折。輻輞破壞不任運載。我亦如是。種子良善而田薄惡。以此受者心不善故令是澡水不肯流下。我今雖作如是布施。亦無有人教我令發阿耨多羅三藐三菩提心。而我自為一切眾生故發是心。今當自試。若我審能愍眾生者灌水當下。即以左手執罐瀉之。水即流下菩薩右手。諸婆羅門見是事已各生慚愧。離所施物修行梵行。諸婆羅門尋共稽首。求請菩薩以為和尚。菩薩憐愍即便受之。教令修學四無量心。以是因緣命終即得生梵天上。令無量眾生發阿耨多羅三藐三菩提心。菩薩摩訶薩行檀波羅蜜時。不見此是福田此非福田。亦不分別多親少疑。是故菩薩若布施時。或多或少或好或惡。應以一心清淨奉上莫於受者生下劣心』
爾時有婆羅門菩薩。名韋羅摩。是國王師。教王作轉輪聖王法。 爾の時、婆羅門菩薩有り、韋羅摩と名づけ、是れ国王の師にして、王に教えて、転輪聖王の法を作さしむ。
爾の時、
『婆羅門』の、
『菩薩』が有り、
『韋羅摩』と、
『呼ばれていた!』が、
是れは、
『国王』の、
『師であり!』、
『王』に、
『教えて!』、
『転輪聖王』の、
『法』を、
『行わせた!』。
  韋羅摩(いらま):婆羅門菩薩の名。種種の本縁経には、また毘羅摩と称す。
  毘羅摩(びらま):婆羅門、又は梵志、或は菩薩の名。また韋羅摩と称し、久遠の過去世に於いて莫大なる布施を為せるを以って知らる。
韋羅摩財富無量珍寶具足。作是思惟。人謂我為貴人財富無量。饒益眾生今正是時應當大施。富貴雖樂一切無常。五家所共令人心散輕泆不定。譬如獼猴不能暫住。人命逝速疾於電滅。人身無常眾苦之藪。以是之故應行布施。 韋羅摩は、財富無量にして、珍宝具足すれば、是の思惟を作さく、『人の、我れを謂わく、貴人にして、財富無量、衆生を饒益すと為す。今は正に是の時なり、応当に大施すべし。富貴は、楽なりと雖も、一切は無常にして、五家の共にする所、人心をして散ぜしめ、軽泆、不定ならしむ。譬えば彌猴の暫くも住むる能わざるが如し。人命の逝(ゆ)くこと速く、電(いなづま)の滅するよりも疾かなり。人身は無常にして、衆苦の藪なり。是を以っての故に、応に布施を行ずべし。
『韋羅摩』は、
『財』も、
『富』も、
『無量であり!』、
『珍宝』も、
『具足していた!』が、
是の、
『思惟』を作した、――
『人』は、
わたしを、こう謂っている、――
『貴人であり!』、
『財』は、
『富んで!』、
『無量であり!』、
『衆生』を、
『豊かに!』、
『利益する!』、と。
今は、
正しく、
是の、
『時期である!』、――
『大いに!』、
『施さなくてはならない!』。
『富んで!』、
『貴ければ!』、
『楽である!』が、
一切は、
『無常であり!』、
『王、賊、火、水、悪子』という、
『五家』の、
『共有する!』所である。
『富貴』は、
『人心』を、
『散じさせ!』、
『放逸にし!』、
『定まらせない!』、
譬えば、
『人心』を、
『彌猴のようにして!』、、
『暫くも!』、
『住まらせないのだ!』。
『人』の、
『命』は、
『迅速に!』、
『逝()き!』、
『電(いなづま)』が、
『滅する!』よりも、
『疾かである!』。
『人』の、
『身』は、
『無常であり!』、
『多く!』の、
『苦』の、
『藪(くさむら)である!』。
是の故に、
『布施』を、
『行わなければならない!』、と。
  軽泆(きょういつ):軽々しく気ままなさま。放逸。
  五家所共(ごけしょぐう):世の財物は、王と、賊、火、水、悪子等の五家の共有物にして、独りこれを用うること能わず。即ち、「大智度論巻11」に、「富貴は楽と雖も、一切は無常にして、五家の共にする所、人心をして散ぜしめ、軽泆不定なり」と云い、「同巻13」に、「勤苦して財を求むるも、五家の共にする所なり。若しは王、若しは賊、若しは火、若しは水、若しは不愛の子用いて、乃ち蔵埋するに至り、また失う」と云えるこれなり。<(丁)
  獼猴(みこう):猿の類。
如是思惟已自作手疏。普告閻浮提諸婆羅門及一切出家人。願各屈德來集我舍。欲設大施 是の如く思惟し已りて、自ら手疏を作し、普く閻浮提の諸婆羅門、及び一切の出家人に告ぐらく、『願わくは、各徳を屈して、我が舎(いえ)に来集したまえ、大施を設けんと欲す』、と。
是のように、
『思惟する!』と、
自ら、
『手疏(てがみ)』を、
『書き!』、
普く、
『閻浮提』の、
諸の、
『婆羅門』と、
一切の、
『出家人』とに、こう告げた、――
願わくは、
各、
『威徳』を、
『屈して!』、
わたしの、
『舎(いえ)』に、
『お集まりください!』。
『大きな!』、
『施会』を、
『設けたいと思います!』、と。
  手疏(しゅそ):手書きの文書。
滿十二歲。飯汁行船以酪為池。米麵為山蘇油為渠。衣服飲食臥具湯藥。皆令極妙 十二歳を満つるまでは、飯、汁の船を行(や)るに、酪を以って池と為し、米、麺を山と為し、蘇油を渠と為し、衣服、飲食、臥具、湯薬は、皆極妙ならしむ。
『十二年間』は、
『酪(ヨーグルト)』の、
『池』や、
『米』や、
『麺(パン)』の、
『山』や、
『蘇油(澄ましバター)』の、
『渠』を、
『飯』や、
『汁』の、
『船』が、
『行きかい!』、
『衣服』、
『飲食』、
『臥具』、
『湯薬』は、
皆、
『微妙』を、
『極めさせた!』。
  (めん):麦粉による製品。うどん、パンの類。
  (らく):梵語dadhiの訳。クリーム(cream)の義。ヨーグルト(yoghurt)の意。熱せられた乳より造る濃厚で酸味ある飲料、食物、治療薬、予防薬として貴重せらる(A thick, sour drink made from heated milk which is highly esteemed as a food and as a remedy or preventive. )。
  蘇油(そゆ):梵語sarpir- maNDaの訳。バターオイル(ghee)の義。又醍醐とも云う。『大智度論巻11下注:醍醐』参照。
  醍醐(だいご):梵語sarpir- maNDaの訳。バターオイル(ghee)の義。最も微妙、美味にして滋養豊富なる乳製品の意。現代的感覚では、「収穫物中の粋」とも言うべきもの(The most delicate, tastiest, richest product of milk. Can be understood in the modern sense of 'cream of the crop.' )。
過十二歲。欲以布施。八萬四千白象犀甲金飾珞。以名寶建大金幢。四寶莊嚴。 十二歳を過ぎて、欲するに布施を以ってすらく、八万四千の白象には、犀甲を金飾し、珞は名宝を以ってし、大金幢を建て、四宝荘厳す。
『十二年』が、
『過ぎた!』が、
『欲した!』のは、
『布施する!』ことであった、――
『八万四千』の、
『白象』には、
『犀甲』を、
『金』で、
『飾り!』、
『瓔珞』を、
『名宝』で、
『飾り!』、
『大きな!』、
『金幢(金の柱)』を、
『立てて!』、
『四つ!』の、
『宝(金、銀、琉璃、玻璃)』で、
『荘厳した!』。
  犀甲(さいこう):犀の皮の鎧。
  (らく):玉飾り。
  (どう):種種の絲帛を以って荘厳せる標柱。吹き流しを以って荘厳せる柱、又は塔の如きを云う。
  四宝(しほう):金、銀、琉璃、頗梨。
八萬四千馬。亦以犀甲金飾。四寶交絡。 八万四千の馬には、亦た犀甲を金飾し、四宝交絡す。
『八万四千』の、
『馬』にも、
亦た、
『犀甲』を、
『金』で、
『飾り!』、
『四つ!』の、
『宝』を、
『絡(から)めた!』。
  交絡(きょうらく):真珠等の玉飾りが絡まり交わること。
八萬四千車。皆以金銀琉璃頗梨寶飾。覆以師子虎豹之皮。若白劍婆羅寶[車*憲]雜飾以為莊嚴。 八万四千の車には、皆、金銀、琉璃、頗梨の宝を以って飾り、覆うには、師子、虎、豹の皮を以ってし、若しくは白剣婆羅の宝幰に雑飾せるを以って、荘厳と為す。
『八万四千』の、
『車』は、
皆、
『金、銀、琉璃、頗梨』の、
『宝』で、
『飾られ!』、
『師子、虎、豹』の、
『皮』で、
『覆ったり!』、
『白い!』、
『剣婆羅(毛織物)』の、
『宝幰(宝石を鏤めた幌)』で、
『覆ったりし!』、
『雑宝』で、
『飾って!』、
『荘厳された!』。
  剣婆羅(けんばら):毛織物の如し。『大智度論巻11下注:欽婆羅』参照。
  欽婆羅(きんばら):梵語kambala、「慧琳音義巻25」に、「欽婆羅衣、毛絲雑織、これ外道の所服なり」と云い、「西域記巻2」に、「頷(墟厳反)鉢羅、織細羊毛なり」と云えるこれなり。<(丁)
  宝[車*憲](ほうけん):他本に従い宝幰に改む。即ち宝石をちりばめたる幌なり。
八萬四千四寶床。雜色綩綖種種茵蓐柔軟細滑以為挍飾。丹枕錦被置床兩頭。妙衣盛服皆亦備有。 八万四千の四宝の床は雑色綩綖たりて、種種の茵蓐の柔軟、細滑なるを以って、校飾と為し、丹枕、錦被を床の両頭に置き、妙衣、盛服は皆、亦た備有せり。
『八万四千』の、
『四つ!』の、
『宝』の、
『床』は、
『色』を、
『雑(まじ)えて!』、
『幾重にもかさなり!』、
種種の、
『柔軟で!』、
『細滑(なめらか)な!』、
『茵蓐(しとね)』で、
『校飾され!』、
『丹枕(あかいまくら)』や、
『錦被(にしきのおおい)』が、
『床の両端』に、
『置かれ!』、
『妙衣(すばらしい衣)』や、
『盛服(正装の礼服)』も、
皆、
『備わっていた!』。
  綩綖(おんえん):布地が幾重にも襞をなすさま。
  茵蓐(いんにく):しとね。蒲団。
  校飾(きょうじき):梵語samalaMkRtaの訳。立派に装飾された(highly decorated)、美しく装われた(well adorned)の義。
  丹枕(たんちん):赤い枕。
  錦被(きんぴ):錦の掛け蒲団。
  盛服(じょうふく):正装の礼服。
八萬四千金缽盛滿銀粟。銀缽盛金粟。琉璃缽盛頗梨粟。頗梨缽盛琉璃粟。 八万四千の金の鉢には銀の粟を盛満し、銀の鉢には金の粟を盛り、琉璃の鉢には、頗梨の粟を盛り、頗梨の鉢には、琉璃の粟を盛る。
『八万四千』の、
『金』の、
『鉢』には、
『銀』の、
『粟』を、
『山盛りにし!』、
『銀』の、
『鉢』には、
『金』の、
『粟』を、
『山盛りにし!』、
『琉璃』の、
『鉢』には、
『頗梨』の、
『粟』を、
『山盛りにし!』、
『頗梨』の、
『鉢』には、
『琉璃』の、
『粟』を、
『山盛りにした!』。
  盛満(じょうまん):山盛りにする。
八萬四千乳牛。牛出乳一斛。金飾其[跳-兆+甲]角衣以白疊。 八万四千の乳牛は、牛ごとに乳を一斛出し、其の甲角を金飾して、衣には白畳を以ってす。
『八万四千』の、
『乳牛』は、
『牛』ごとに、
『乳』を、
『一斛(約20リットル)』、
『出し!』、
其の、
『甲角』を、
『金』で、
『飾り!』、
『衣』には、
『白畳(白い綿布)』を、
『用いた!』。
  (こく):一斛は十斗、百升。周制にては今の19.4リットル。
  [跳-兆+甲]角(こうかく):他本に従い甲角に改む。即ち牛の角に被せる甲なり。
  白畳(びゃくじょう):白い上等の綿布。
八萬四千美女端正福德。皆以白珠名寶瓔珞其身。略舉其要如是。種種不可勝記。 八万四千の美女は、端正の福徳ありて、皆、白珠、名宝を以って、其身の瓔珞となす。略して、其の要を挙ぐれば是の如し、種種は、記すに勝(た)うべからず。
『八万四千』の、
『美女』は、
『端正』の、
『福徳』があり、
皆、
『白珠』と、
『名宝』との、
『瓔珞』で、
其の、
『身』を、
『飾った!』。
略して、
其の、
『要点』を、
『挙げる!』ならば、
是の通りであるが、
種種に、
『挙げれば!』、
『記す!』に、
『任えられない!』。
爾時婆羅婆王及八萬四千諸小國王。并諸臣民豪傑長者。各以十萬舊金錢贈遺勸助。設此法祠具足施已。 爾の時、婆羅婆王、及び八万四千の諸の小国の王、並びに諸の臣民、豪傑、長者は、各十万の旧(ふる)き金銭を以って贈遺し、勧助すれば、此に法祠を設けて、具足して施し已れり。
爾の時、
『婆羅婆王』と、
『八万四千』の、
諸の、
『小国』の、
『王』と、
諸の、
『臣民、豪傑、長者』は、
各、
『十万』の、
『旧(ふる)い!』、  ――家に伝わる――
『金銭』を、
『贈遺して!』、
『勧助した!』ので、
此(ここ)に、
『法祠(寺院)』を、
『設ける!』ことで、
完全に、
『施し!』が、
『終った!』。
  贈遺(ぞうい):物を贈る。
  勧助(かんじょ):勧め助ける。
  法祠(ほうし):梵語dharma-gRha?の訳。法を祠る家の義。寺院。
釋提婆那民來語韋羅摩菩薩。說此偈言
 天地難得物  能喜悅一切 
 汝今皆以得  為佛道布施
釈提婆那民の来たりて韋羅摩菩薩に語り、此の偈を説いて言わく、
天地に得難き物は、能く一切を喜悦せしむ、
汝は今皆得たるを以って、仏道の為めに布施せり。
『釈提婆那民』が来て、
『韋羅摩菩薩』に語り、
『偈』を説いて、こう言った、――
『天、地』に、
『得難い!』、
『物』は、
一切を、
『喜ばせ!』、
『楽しませる!』が、
お前は、
『今!』、
『得た!』ものを
皆、
『仏道』の為めに、
『布施した!』、と。
  釈提婆那民(しゃくだいばなみん):梵語zakra devaanaam- indra、略して帝釈と称す。『大智度論巻3上注:釈提桓因』参照。
爾時淨居諸天現身而讚。說此偈言
 開門大布施  汝所為者是 
 憐愍眾生故  為之求佛道
爾の時、浄居の諸天の身を現して讃じ、此の偈を説いて言わく、
門を開いて大いに布施す、汝の為せる所は是れ、
衆生を憐愍するが故なり、之を仏道を求むと為す
爾の時、
『浄居』の、
諸の、
『天』が、
『身』を、
『現して!』、
『讃じる!』と、
此の、
『偈』を説いて、こう言った、――
『門』を、
『開いて!』、
『大いに!』、
『布施した!』が、
お前の、
『為した!』所は、
『衆生』を、
『憐愍するからである!』、
之を、
『仏』の、
『道』を、
『求めるという!』、と。
  浄居(じょうご):五浄居天、即ち色界第四禅天の有する五天を指す。
是時諸天作是思惟。我當閉其金瓶令水不下。所以者何。有施者無福田故。 是の時、諸天の是の思惟を作さく、『我れは当に、其の金瓶を閉ざして、水をして、下らざらしむべし。所以は何んとなれば、施者有るも、福田無きが故なり』、と。
是の時、
諸の、
『浄居天』は、
是の思惟を作した、――
わたし達は、
『金瓶』を、
『閉ざして!』、
『水』を、
『注げなくしよう!』。
何故ならば、
『施す!』者は、
『有る!』が、
『受ける!』、
『福田』が、
『無いからだ!』、と。
  金瓶(こんびょう):梵語sauvarNa- bhRGgaaraの訳。金の壷(golden jar)の義。水を注いで、祝福する儀式に用いる。
是時魔王語淨居天。此諸婆羅門。皆出家持戒清淨入道。何以故乃言無有福田。 是の時、魔王の淨居天に語らく、『此の諸の婆羅門は、皆、出家、持戒して、清浄の道に入る。何を以っての故に、乃ち福田有ること無しと言う』、と。
是の時、
『魔王』が、
『淨居天』に、こう語った、――
此の、
諸の、
『婆羅門』たちは、
皆、
『出家!』、
『持戒して!』、
『清浄に!』、
『道』に、
『入った!』者である。
何故、
こう言うのか?――
『受ける!』、
『福田』が、
『無い!』、と。
淨居天言。是菩薩為佛道故布施。今此諸人皆是邪見。是故我言無有福田。 淨居天の言わく、『仏道を為すが故に布施せるも、今、此の諸人は、皆是れ邪見なり。是の故に我れは、福田の有ること無しと言えり』、と。
『淨居天』は、
こう言った、――
是の、
『菩薩』は、
『仏』の、
『道』の為めに、
『布施した!』が、
今、
此の、
諸の、
『婆羅門』たちは、
皆、
『邪見である!』、
是の故に、
わたしは、
こう言ったのだ、――
『受ける!』、
『福田』が、
『無い!』、と。
魔王語天言。云何知是人為佛道故布施。 魔王の天に語りて言わく、『云何が、是の人の、仏道を為すが故に布施するを知る』、と。
『魔王』は、
『淨居天』に語って、こう言った、――
何故、こう知るのか?――
是の、
『人』は、
『仏』の、
『道』の為めに、
『布施した!』、と。
是時淨居天化作婆羅門身。持金瓶執金杖。至韋羅摩菩薩所語言。汝大布施難捨能捨欲求何等。欲作轉輪聖王七寶千子王四天下耶。 是の時、淨居天は、婆羅門の身を化作して、金瓶を持ち、金杖を執りて、韋羅摩菩薩の所に至り、語りて言わく、『汝が、大いに布施して、捨て難きを能く捨つるは、何等をか求めんと欲するや、転輪聖王と作りて、七宝と、千子と、四天下に王たるを欲するや』、と。
是の時、
『淨居天』は、
『化して!』、
『婆羅門』の、
『身』を、
『作し!』、
『金瓶』と、
『金杖』とを、
『手』に、
『持って!』、
『韋羅摩菩薩の所』に、
『至る!』と、
語って、こう言った、――
お前は、
『大いに!』、
『布施して!』、
『捨て難き!』を、
『捨てることができた!』が、
何を、
『求めよう!』と、
『思ったのか?』、
『転輪聖王』と、
『作って!』、
『七宝』や、
『千子』や、
『四天下』の、
『王となる!』ことを、
『思ったのか?』、と。
菩薩答言。不求此事。 菩薩の答えて言わく、『此の事を求めず』、と。
『菩薩』は答えて、こう言った、――
此のような、
『事』は、
『求めない!』、と。
汝求釋提婆那民。為八千那由他天女主耶。答言不。 『汝は、釈提婆那民の、八千那由他の天女の主為(た)らんことを求めたりや』、答えて言わく、『不なり』、と。
お前は、
『釈提婆那民』と、
『作って!』、
『八千那由他』の、
『天女』の、
『主となる!』ことを、
『求めたのか?』、
答えて、こう言った、――
『そうではない!』、と。
汝求六欲天主耶。答言不。 『汝は、六欲天の主を求めたりや』、答えて言わく、『不なり』、と。
お前は、
『六欲天』の、
『主となろう!』と、
『求めたのか?』、
答えて、こう言った、――
『そうではない!』、と。
汝求梵天王主三千大千世界為眾生祖父耶。答言不。汝欲何所求。 『汝は、梵天王の、三千大千世界に主たりて、衆生の祖父為らんと求めたりや』、答えて言わく、『不なり』、と。 『汝の欲するは、何の求むる所ぞ』。
お前は、
『梵天王』と、
『作って!』、
『三千大千世界』の、
『主となり!』、
『衆生』の、
『祖父になりたい!』と、
『求めたのか?』、
答えて、こう言った、――
『そうではない!』、と。
お前の、
『求める!』所とは、
何を、
『思っているのか?』、と。
是時菩薩。說此偈言
 我求無欲處  離生老病死 
 欲度諸眾生  求如是佛道
是の時、菩薩の、此の偈を説いて言わく、
我が求むるは無欲の処に、生老病死を離れて、
諸の衆生を度せんと欲す、是の如き仏道を求めたり。
是の時、
『菩薩』は、
此の、
『偈』を説いて、こう言った、――
わたしの、
『求める!』のは、――
『無欲』の、
『処』で、
『生老病死』を、
『離れ!』、
諸の、
『衆生』を、
『度したい!』と、
『思う!』、
是のような、
『仏』の、
『道』を、
『求めたのだ!』、と。
化婆羅門言。布施主。佛道難得當大辛苦。汝心軟串樂。必不能求成辦此道。如我先語。轉輪聖王釋提婆那民六欲天王梵天王是易可得。不如求此。 化の婆羅門の言わく、『布施主よ、仏道は得がたく、当に大辛苦なるべし。汝が心は軟なれど、楽を串(つらぬ)けば、必ず此の道を成辦することを求むる能わず。我が先に語るが如き、転輪聖王、釈提婆那民、六欲天王、梵天王は、是れ易(たやす)く得べければ、此れを求むるに如かず』、と。
『化』の、
『婆羅門』は、こう言った、――
布施主よ!
『仏』の、
『道』は、
『得難く!』、
『大いに辛苦するだろう!』。
お前の、
『心』は、
『柔軟だが!』、
『楽に慣れている!』ので、
必ず、
此の、
『道』を、
『求めても!』、
『成功しないだろう!』。
わたしが、
先に、
『説いたような!』、
『転輪聖王』や、
『釈提婆那民』、
『六欲天王』、
『梵天王』ならば、
『容易に!』、
『得られるだろう!』。
此れを、
『求める!』のが、
『いちばんだ!』。
  (かん):つらぬく、連ねて貫く。なれる、慣。ならう、習。
菩薩答言。汝聽我一心誓
 假令熱鐵輪  在我頭上轉 
 一心求佛道  終不懷悔恨 
 若使三惡道  人中無量苦 
 一心求佛道  終不為此轉
菩薩の答えて言わく、『汝聴け、我れは一心に誓わん、
仮りに熱鉄の輪をして、我が頭上に在りて転ぜしむるも、
一心に仏道を求むれば、終に悔恨を懐かず。
若しは三悪道人中の、苦をして無量ならしむるも、
一心に仏道を求むれば、終に此の為めに転ぜず。
『菩薩』は答えて、こう言った、――
お前は、
『聴け!』、
わたしは、
『一心』に、
『誓おう!』、――
仮令(たとい)、
『熱い!』、
『鉄』の、
『輪』を、
わたしの、
『頭上』で、
『転がそう!』と、
『一心』に、
『仏』の、
『道』を、
『求めて!』、
終に、
『悔み!』や、
『恨み!』を、
『懐くことはない!』。
若しは
『三悪道』や、
『人道』中に、
無量の、
『苦』を、
『受けさせよう!』と、
『一心』に、
『仏』の、
『道』を、
『求めて!』、
終に、
此の為めに、
『転じない!』、と。
  悔恨(けこん):悔みと恨み。
化婆羅門言。布施主。善哉善哉求佛如是。便讚偈言
 汝精進力大  慈愍於一切 
 智慧無罣礙  成佛在不久
化の婆羅門の言わく、『布施主よ、善い哉、善い哉、仏を求むること是の如し』、と。便ち讃じて、偈に言わく、
汝が精進力は大にして、一切を慈愍し、
智慧には罣礙無く、仏と成りて在ること久しからず。
『化』の、
『婆羅門』は、こう言った、――
布施主よ!
善いことだ!
善いことだ!
『仏』を、
是のように、
『求める!』のは、と。
そして、
『偈』に讃じて、こう言った、――
お前の、
『精進』は、
『力』が、
『大きく!』、
一切の、
『衆生』を、
『慈愍する!』、
お前の、
『智慧』に、
『罣礙(障害)』が、
『無い!』、
『久しからず!』、
『仏』と、
『成ろう!』、と。
  罣礙(けいげ):網もて覆わるるが如き障礙。
是時天雨眾華供養菩薩。諸淨居天閉瓶水者即隱不現。菩薩是時至婆羅門上座前。以金瓶行水。水閉不下 是の時、天は衆華を雨ふらして、菩薩を供養し、諸の淨居天は瓶の水を閉ざしたれば、即ち隠れて現われず。菩薩は、是の時、婆羅門の上座の前に至り、金瓶を以って行水せんとするも、水閉じて下らず。
是の時、
『天』は、
『多く!』の、
『華』を、
『雨ふらして!』、
『菩薩』を、
『供養し!』、
諸の、
『淨居天』は、
『瓶』の、
『水』を、
『閉ざす!』と、
『隠れて!』、
『見えなくなった!』。
『菩薩』は、
是の時、
『婆羅門』の、
『上坐』の、
『前』に、
『至り!』、
『金瓶』を、
『持って!』、
『行水した!』が、
『水』は、
『閉ざされいて!』、
『出なかった!』。
  行水(ぎょうずい):神仏に祈るとき、水を浴びて身を浄めること。
眾人疑怪。此種種大施一切具足。布施主人功德亦大。今何以故瓶水不下。 衆人の疑い怪しむらく、『此の種種の大施は、一切具足し、布施の主人の功徳も亦た大なり。今は何を以っての故にか、瓶水の下らざる』、と。
『多く!』の、
『人』が、
『疑って!』、こう怪しんだ、――
此の、
種種の、
『大施』には、
一切が、
『具足している!』し、
『布施主』の、
『功徳』も、
『大きい!』。
今は、
何故、
『瓶』より、
『水』が、
『出ないのだろうか?』、と。
菩薩自念。此非他事。將無我心不清淨耶。得無施物不具足乎。何以致此。自觀祠經十六種書清淨無瑕。 菩薩の自ら念ずらく、『此れは他の事に非ず。将(はた)、我が心に清浄ならざる無けんや。施物の具足せざること無きを得んや。何を以ってか、此れを致す』、と。自ら、祠経十六種の書を観るも、清浄にして瑕無し。
『菩薩』は、
自ら、こう念じた、――
此れは、
『他の!』、
『事ではない!』。
わたしの、
『心』に、
『清浄でない!』ところは、
『無かっただろうか?』、
『施物』が、
『具足しない!』ことは、
『無かっただろうか?』。
何が、
此の、
『事』を、
『招いたのだろうか?』、と。
自ら、
『祠経』の、
『十六種』の、
『書』を、
『観てみた!』が、
『清浄であり!』、
『瑕(きず)』は、
『無かった!』。
  将無(しょうむ):"莫非"に同じ。
  得無(とくむ):"莫非"に同じ。
  祠経十六種書(しきょうじゅうろくしゅしょ):天祠の作法を記せる経。委細不明。
是時諸天語菩薩言。汝莫疑悔。汝無不辦。是諸婆羅門惡邪不淨故也。即說偈言
 是人邪見網  煩惱破正智 
 離諸清淨戒  唐苦墮異道
以是故水閉不下。如是語已忽然不現。
是の時、諸天の菩薩に語りて言わく、『汝、疑悔する莫かれ。汝に辦ぜざること無し。是れ諸の婆羅門の悪邪にして、不浄なるが故なり』、と。即ち偈を説いて言わく、
是の人の邪見の網と、煩悩は正智を破り、
諸の清浄戒を離れて、唐しく苦しんで異道に堕ちん。
是を以っての故に、水を閉ざして下らしめず』、と。是の如く語り已りて、忽然として現われず。
是の時、
諸の、
『天』は、
『菩薩』に語って、こう言った、――
お前は、
『疑ったり!』、
『悔やんだりするな!』。
お前には、
『不備』は、
『無かった!』。
是の、
諸の、
『婆羅門』が、
『悪邪であり!』、
『不浄だった!』のだ、と。
そして、
『偈』を説いて、こう言った、――
是の、
『婆羅門』の、
『邪見の網』と、
『煩悩の垢』は、
『正智』を、
『破る!』、
諸の、
『清浄』な、
『戒』を、
『離れ!』、
唐(むな)しく、
『苦しんで!』、
『異道(外道)』に、
『堕ちる!』。
是の故に、
『水』を、
『閉ざして!』、
『出させなかったのだ!』、と。
是のように、
『語る!』と、
『忽然として(突然)!』、
『見えなくなった!』。
  (とう):むなしく。
爾時六欲天放種種光明照諸眾會。語菩薩而說偈言
 邪惡海中行  不順汝正道 
 諸受施人中  無有如汝者
說是語已忽然不現。
爾の時、六欲天は、種種の光明を放って、諸の衆会を照らし、菩薩に語りて、偈を説いて言わく、
邪悪の海中を行き、汝が正道に順ぜず、
諸の施を受くる人中に、汝に如く者の有ること無し。
是の語を説き已りて、忽然として現われず。
爾の時、
『六欲天』は、
種種の、
『光明』を、
『放って!』、
多くの、
『会』を、
『照らす!』と、
『菩薩』に、
『語りかけ!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
『邪悪』の、
『海』中を、
『行く!』者は、
お前の、
『正道』には、
『随順しない!』。
諸の、
『施』を、
『受ける!』、
『人』中には、
お前に、
『及ぶ!』者は、
『無い!』、と。
是のように、
『語る!』と、
『忽然として!』、
『見えなくなった!』。
是時菩薩聞說此偈自念。會中實自無有與我等者。水閉不下其將為此乎。即說偈言
 若有十方天地中 
 諸有好人清淨者 
 我今歸命稽首禮 
 右手執瓶灌左手 
 而自立願我一人 
 應受如是大布施
是時瓶水踊在虛空從上來下而灌其左手。
是の時、菩薩は、此の偈を説くを聞きて、自ら念ずらく、『会中には、実に自ら、我れと等しき者の有ること無し。水の閉ぢて下らざるは、其れ将(は)た此れが為なるか』、と。即ち、偈を説いて言わく、
若し有らゆる十方の天地中に、
諸の好人の清浄なる者有らば、
我れは今帰命して稽首礼せん、
右手に瓶を執り左手に潅いで、
自ら願を立つらく、我れ一人、
応に是の如き大布施を受くべしと。
是の時、瓶水踊りて虚空に在り、上より下に来たりて、其の左手に潅ぐ。
是の時、
『菩薩』は、
此の、
『偈』の、
『説かれる!』のを、
『聞いて!』、
自ら、こう念じた、――
『会』中には、
当然、
わたしと、
『等しい!』者は、
『無い!』。
『水』が、
『閉じて!』、
『出てこない!』のは、
はたして、
『此の為めだろうか?』、と。
そこで、
『偈』を説いて、こう言った、――
若し、
有らゆる、
『十方』の、
『天地』中に、
諸の、
『好人』が、
『有って!』、
『清浄ならば!』、
わたしは、
今、
『帰命し!』、
『稽首礼しよう!』と、
右手に、
『瓶』を、
『執って!』、
左手に、
『潅(そそ)ぎながら!』、
自ら、
『願』を、こう立てる、――
わたし、
『一人』が、
是のような、
『大布施』を、
『受ける!』に、
『ふさわしい!』、と。
是の時、
『瓶』の、
『水』は、
『虚空』に、
『踊り!』、
『上』より、
『下』に、
『来る!』と、
其の、
『左手』に、
『潅いだ!』。
  稽首礼(けいしゅらい):頭を相手の脚に著ける礼。
是時婆薩婆王。見是感應心生恭敬。而說偈言
 大婆羅門主  清琉璃色水 
 從上流注下  來墮汝手中
是の時、婆薩婆王は、是の感応を見て、心に恭敬を生じ、偈を説いて言わく、
大婆羅門の主、浄き琉璃色の水が、
上より流れて下に注ぎ、来たりて汝が手中に墮つ。
是の時、
『婆薩婆王』は、
是の、
『瓶水』の、
『感応する!』のを、
『見て!』、
『心』に、
『恭敬』を、
『生じ!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
大婆羅門の主よ!
『清い!』、
『琉璃色』の、
『水』が、
『上』より、
『流れて!』、
『下』に、
『注ぎ!』、
あなたの、
『手』の、
『中に!』、
『堕ちました!』、と。
  感応(かんおう):感じ応ずること。相手の心を察知して反応すること。
是時大婆羅門眾恭敬心生。合手作禮歸命菩薩。 是の時、大婆羅門衆は恭敬の心生じて、手を合せ、礼を作して、菩薩に帰命せり。
是の時、
『大婆羅門』たちは、
『恭敬』の、
『心』が、
『生じて!』、
『手』を、
『合せ!』、
『礼』を、
『作して!』、
『菩薩』に、
『帰命した!』。
菩薩是時說此偈言
 今我所布施  不求三界福 
 為諸眾生故  以用求佛道
說此偈已。一切大地山川樹木皆六返震動。
菩薩は、是の時、此の偈を説いて言わく、
今、我が布施する所は、三界の福を求めず、
諸の衆生の為めの故に、以って用いて仏道を求む。
此の偈を説き已るに、一切の大地、山川、樹木は皆六反に震動せり。
『菩薩』は、
是の時、
此の、
『偈』を説いて、こう言った、――
今、
わたしの、
『布施する!』所は、
『三界』の、
『福』を、
『求めない!』、
諸の、
『衆生』の為めに、
是れを、
『用いて!』、
『仏道』を、
『求める!』。
此の、
『偈』が、
『説かれる!』と、
一切の、
『大地、山川、樹木』は、
皆、
『六反』、
『震動した!』。    ――本生 財物の因縁 終り――
韋羅摩本謂此眾應受供養故與。既知此眾無堪受者。今以憐愍故。以所受物施之。如是種種檀本生因緣。是中應廣說。是為外布施。 韋羅摩は本、『此の衆は、応に供養を受くべきが故に与う』、と謂えるも、既に此の衆には、受くるに堪うる者の無きを知り、今、憐愍を以っての故に、受くる所の物を以って、之に施せり。是の如き種種の檀は、本生の因縁なり。是の中にも、応に広く説くべし。是れを外の布施と為す。
『韋羅摩』は、
本は、こう謂っていたが、――
此の、
『衆(人々)』は、
『供養』を、
『受ける!』に、
『ふさわしい!』が故に、
『与える!』、と。
既に、こう知ったので、――
此の、
『衆』には、
『受ける!』に、
『堪えられる!』者が、
『無い!』、と。
今は、
『憐愍』を以って、
此の、
『衆』の、
既に、
『受けた!』所の、
『物』を、
『施したのである!』。
是のような、
種種の、
『檀』は、
『本生』の、
『因縁である!』が、
是の中にも、
『広く!』、
『説くはずである!』。
是れを、
『外(財物等)』の、
『布施』と、
『称する!』。
云何名內布施。不惜身命施諸眾生。 云何が、内の布施なる。身命を惜まず、諸の衆生に施す。
何を、
『内』の、
『布施というのか?』、――
『身命』を、
『惜まず!』に、
諸の、
『衆生』に、
『施すことである!』。
如本生因緣說。釋迦文佛本為菩薩為大國王時。世無佛無法無比丘僧。是王四出求索佛法。了不能得。 本生の因縁に説くが如し、釈迦文仏、本菩薩為りて、大国の王為りし時、世に仏無く、法無く、比丘僧無し。是の王、四たび出でて仏法を求索するも、了(つい)に得る能わず。
例えば、
『本生』の、
『因縁』には、こう説かれている、――
『釈迦文仏』は、
本、
『菩薩であり!』、
『大国の王であった!』が、
世に、
『仏』も、
『法』も、
『比丘僧』も、
『無かった!』ので、
是の、
『王』は、
『四たび!』、
『出て!』、
『仏法』を、
『求索した!』が、
終に、
『得ることができなかった!』。
  求索(ぐさく):探し求める。
時有一婆羅門言。我知佛偈。供養我者當以與汝。 時に、有る一りの婆羅門の言わく、『我れ、仏の偈を知る。我れを供養せば、当に以って、汝に与うべし』、と。
その時、
有る、
『一り!』の、
『婆羅門』が、こう言った、――
わたしは、
『仏』の、
『偈』を、
『知っている!』、
わたしを、
『供養した!』ならば、
それを、
『お前に!』、
『与えよう!』、と。
王即問言。索何等供養。答言。汝能就汝身上。破肉為燈炷供養我者。當以與汝。 王の即ち問うて言わく、『何等の供養をか索(もと)むる』、と。答えて言わく、『汝、能く汝が身上に就いて、肉を破りて灯炷と為し、我れを供養せば、当に以って汝に与うべし』、と。
『王』は、
問うて、こう言った、――
何のような、
『供養』を、
『求めるのか?』、と。
答えて、こう言った、――
お前が、
お前の、
『身』より、
『肉』を、
『破って!』、
『灯芯』を、
『作り!』、
それで、
わたしを、
『供養するならば!』、
その、
『偈』を、
お前に、
『与えよう!』、と。
  身上(しんじょう):からだ。
  灯炷(とうしゅ):灯芯。
王心念言。今我此身危脆不淨。世世受苦不可復數。未曾為法今始得用甚不惜也。如是念已喚旃陀羅。遍割身上以作燈炷。而以白疊纏肉酥油灌之。一時遍燒舉身。火燃。乃與一偈。 王の心に念じて言わく、『今、我が此の身は危脆、不浄にして、世世に苦を受くること、復た数うべからず。未だ曽て、法の為めにせず、今始めて、用を得。甚だ惜まざるなり』、と。是の如く念じ已りて、旃陀羅を喚(よ)び、遍く身上を割かしめて、以って灯炷と作し、而も白畳を以って肉に纏い、酥油を之に潅いで、一時に遍く挙身を焼けり。火燃ゆるに、乃ち一偈を与う。
『王』は、
『心』に念じて、こう言った、――
今、
わたしの、
此の、
『身』は、
『脆(もろ)く!』、
『不浄であり!』、
世世に、
『苦』を、
『受ける!』ことも、
『数えられないほどなのに!』、
未だ、
かつて、
『法』の、
『為めになったことがない!』。
今、
始めて、
『役』に、
『立つことができる!』のだから、
少しも、
『惜しくはない!』、と。
是のように念じると、
『旃陀羅』を、
『呼んで!』、
遍く、
『身』を、
『割かせる!』と、
それで、
『灯芯』を、
『作り!』、
そして、
『白布』を、
『身』に、
『纏って!』、
これに、
『酥油』を、
『潅ぎ!』、
一時に、
『全身』を、
『焼いた!』。
『婆羅門』は、
『火』が、
『然えはじめる!』と、
ようやく、
『王』に、
『一偈』を、
『与えた!』。   ――本生 灯炷の因縁 終り――
  危脆(きぜい):危うくもろい。
  旃陀羅(せんだら):梵名zuudra、また首陀羅に作り、印度四姓の一にして奴隷階級、主に殺生を業とす。『大智度論巻32下注:四姓』参照。
  白畳(びゃくじょう):白い上等の綿布。
  挙身(こしん):全身。
又復釋迦文佛本作一鴿在雪山中。 又復た釈迦文仏は、本一わの鴿と作りて、雪山中に在り。
又、
『釈迦文仏』は、
本、
『一わ!』の、
『鴿(はと)』と、
『作って!』、
『雪山』中に、
『在()られた!』。
時大雨雪。有一人失道窮厄辛苦。飢寒并至命在須臾。 時に大いに雪を雨ふらすに、有る一人、道を失いて、窮厄し辛苦し、飢えと寒さと并せて至り、命の在ること須臾ならんとす。
その時、
『雪』が、
『大いに!』、
『降った!』ので、
有る、
『一り!』の、
『人』が、
『道』を、
『失って!』、
『厄を窮め!』、
『辛苦する!』に、
『飢え!』と、
『寒さ!』と、
『いっしに!』、
『至り!』、
『命』も、
『わずかの間』に、
『極まろうとした!』。
  雨雪(うせつ):雪がふる。
  窮厄(ぐうやく):難儀をきわめる。
  辛苦(しんく):くるしむ。
  須臾(しゅゆ):暫時。
鴿見此人即飛求火。為其聚薪然之。又復以身投火施此飢人。 鴿は、此の人を見て、即ち飛びて火を求め、其の為に薪を聚(あつ)めて、之を然(もや)し、又復た身を以って火に投じて、此の飢えた人に施せり。
『鴿』は、
此の、
『人』を、
『見る!』と、
すぐに、
『飛んで!』、
『火』を、
『求め!』、
其の為めに、
『薪』を、
『集めて!』、
『燃やし!』、
その上、
『身』を、
『火』に、
『投じて!』、
此の、
『飢えた!』、
『人』に、
『施した!』。   ――本生 鴿の因縁 終り――
如是等頭目髓腦給施眾生。種種本生因緣經此中應廣說。如是等種種是名內布施。如是內外布施無量。是名檀相 是の如き等、頭目、髄脳を、衆生に給施すること、種種の本生因縁経の、此の中に応に広く説くべし。是の如き等の種種は、是れを内の布施と名づけ、是の如き内外に布施すること無量なるを、是れを檀の相と名づく。
是れ等の、
『頭目、髄脳』を、
『衆生』に、
『給施する!』ようなことは、
種種の、
『本生因縁経』中に、
『広く!』、
『説かれているはずである!』が、
是れ等の
種種を、
『内』の、
『布施』と、
『称し!』、
是のような、
『内』と、
『外』との、
『布施』が、
『無量である!』ならば、
是れを、
『檀の相』と、
『呼ぶのである!』。



大智度論釋初品中檀波羅蜜法施義第二十
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


檀の相:法の布施

問曰。云何名法布施。 問うて曰く、云何が、法の布施と名づくる。
問い、
何を、
『法』の、
『布施』と、
『称するのですか?』。
答曰。有人言。常以好語有所利益。是為法施。 答えて曰く、有る人の言わく、『常に好語を以って、利益する所有れば、是れを法施と為す』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
常に、
『好もしく!』、
『語る!』ことで、
『利益する!』所が、
『有る!』ならば、
是れを、
『法施』と、
『称する!』、と。
復次有人言。以諸佛語妙善之法。為人演說。是為法施。 復た次ぎに、有る人の言わく、『諸仏の語りたまえる、妙善の法を以って、人の為に演説すれば、是れを法施と為す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
諸の、
『仏』の、
『語られた!』、
『妙善の法』を、
『人』の為めに、
『演説する!』ならば、
是れを、
『法施』と、
『称する!』、と。
復次有人言。以三種法教人。一修妒路二毘尼三阿毘曇。是為法施。 復た次ぎに、有る人の言わく、『三種の法を以って、人に教う、一には修妒路、二には毘尼、三には阿毘曇なり。是れを法施と為す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『三種』の、
『法』を、
『人』に、
『教える!』、
謂わゆる、
一には、
『修妒路(経蔵)』、
二には、
『毘尼(律蔵)』、
三には、
『阿毘曇(論蔵)』である。
是れを、
『法施』と、
『称する!』、と。
復次有人言。以四種法藏教人。一修妒路藏二毘尼藏三阿毘曇藏四雜藏。是為法施。 復た次ぎに、有る人の言わく、『四種の法蔵を以って、人に教う、一には修妒路蔵、二には毘尼蔵、三には阿毘曇蔵、四には雑蔵なり。是れを法施と為す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『四種』の、
『法蔵』を、
『人』に、
『教える!』、
謂わゆる、
一には、
『修妒路蔵』、
二には、
『毘尼蔵』、
三には、
『阿毘曇蔵』、
四には、
『雑蔵』である。
是れを、
『法施』と、
『称する!』、と。
復次有人言。略說以二種法教人。一聲聞法二摩訶衍法。是為法施。 復た次ぎに、有る人の言わく、『略説して、二種の法を以って、人に教う、一には声聞の法、二には摩訶衍の法なり、是れを法施と為す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
略説すれば、――
『二種』の、
『法』を、
『人』に、
『教える!』、
謂わゆる、
一には、
『声聞の法』、
二には、
『摩訶衍の法』である。
是れを、
『法施』と、
『称する!』、と。
問曰。如提婆達呵多等。亦以三藏四藏聲聞法摩訶衍法教人。而身入地獄是事云何。 問うて曰く、提婆達、呵多等の如きも、亦た三蔵、四蔵、声聞法、摩訶衍法を以って、人に教え、而も身は地獄に入る、是の事は、云何。
問い、
例えば、
『提婆達』や、
『呵多』等も、
亦た、
『三蔵』や、
『四蔵』、
『声聞の法』、
『摩訶衍の法』を、
『人』に、
『教えていた!』が、
『身』は、
『地獄』に、
『入った!』。
是の、
『事』は、
『何故ですか?』。
  提婆達(だいばだつ):梵名提婆達多devadattaの略。僧を破り、仏に傷つけし悪比丘なり。『大智度論巻3上注:提婆達多』参照。
  呵多(かた):また訶多に作れるが如し。
  訶多(かた):妄語をなせる比丘の名。即ち、「大智度論巻11」に、「問うて曰く、提婆達、呵多等もまた三蔵、四蔵、声聞法、摩訶衍法を人に教え、而も身は地獄に入る」と云い、「大智度論巻34」には、「或は地獄に堕すとは、提婆達、瞿迦梨、訶多釈子等の如し」と云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻9」に、「また呵多比丘の如きは、無慚無愧にして戒を破れば、見聞疑罪なり。この人は自ら、我れにこの罪ありと言い、後に我れにこの罪無しと言う。もし僧にして、この人に憶念毘尼を与うれば、これを非法と名づく」と云い、「善見律毘婆沙巻15」に、「妄語戒中、訶多は、これはこれ大徳の名なり。釈種の出家は八万人あり、訶多もまたその中に在り。性、談論を好み、外道と論議する時、自ら理屈を知れば、便ち前語に違反し、もし外道好語する時は、便ち迴して己が語と為し、自ら理僻を知りて、これ外道の語なりと言う。もし時を剋(さだ)めて外道と論議せんとすれば、外道には中後にまさに論議すべしと言い、自らは中前に来たりて、諸の檀越に語りて、即時に論議すべしと言い、自ら高座に上り、諸の檀越に語りて、外道那んぞ来たらざるを得ん、必ずまさに我れを畏れたるべし、この故に来たらずと言いて、自ら高座を下りて去る。中後に外道来たりて、比丘を覓むるも得ざれば、便ち呵責して、沙門釈子は正法を知ると言いて、云何が故らに妄語すると言えり」と伝える是れなり。
答曰。提婆達邪見罪多。呵多妄語罪多。非是為道清淨法施。但求名利恭敬供養。惡心罪故提婆達生入地獄。呵多死墮惡道。 答えて曰く、提婆達は邪見の罪多く、呵多は妄語の罪多ければ、是れを道の為めの清浄の法施に非ず、但だ名利、恭敬、供養を求むる、悪心の罪の故に、提婆達は生きながら、地獄に入り、呵多は死して悪道に堕せり。
答え、
『提婆達』は、
『邪見』の、
『罪』が、
『多く!』、
『呵多』は、
『妄語』の、
『罪』が、
『多い!』ので、
是れは、
『道』を、
『求める!』為めの、
『清浄』の、
『法施ではない!』。
但だ、
『名利』や、
『恭敬』、
『供養』のみを、
『求める!』、
『悪心』という、
『罪』の故に、
『提婆達』は、
『生きながら!』、
『地獄』に、
『入り!』、
『呵多』は、
『死んで!』、
『悪道』に、
『堕ちたのである!』。
復次非但言說名為法施。常以淨心善思。以教一切是名法施。譬如財施不以善心不名福德法施亦爾。不以淨心善思則非法施。 復た次ぎに、但だ言説を名づけて、法施と為すに非ず。常に浄心を以って善思し、以って一切を教う、是れを法施と名づく。譬えば、財施の、善心を以ってせざれば、福徳と名づけざるが如し。法施も亦た爾く、浄心を以って善思せざれば、則ち法施に非ず。
復た次ぎに、
但だの、
『言説』を、
『法施』と、
『称するのではない!』、
常に、
『浄心』を以って、
『善』を、
『思い!』、
一切の、
『衆生』に、
『教える!』ので、
是れを、
『法施』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『財施』が、
『善心』で、
『施さなければ!』、
『福徳』と、
『呼ばれない!』のと、
『同じである!』。
『法施』も、
そうであり、
『浄心』で、
『善』を、
『思わなければ!』、
是れを、
『法施』とは、
『呼ばないのである!』。
復次說法者。能以淨心善思讚歎三寶。開罪福門示四真諦。教化眾生令入佛道。是為真淨法施。 復た次ぎに、法を説く者は、能く浄心を以って、善思し、三宝を讃歎して、罪福の門を開き、四真諦を示して、衆生を教化し、仏道に入れしむれば、是れを真浄の法施と為す。
復た次ぎに、
『法』を、
『説く!』者が、
『浄心』を以って、
『善』を、
『思い!』、
『三つ!』の、
『宝(仏、法、比丘僧)』を、
『讃歎して!』、
『罪』と、
『福』との、
『門』を、
『開き!』、
『四つ!』の、
『真諦(苦、集、滅、道)』を、
『示して!』、
『衆生』を、
『教化し!』、
『仏』の、
『道』に、
『入らせる!』ならば、
是れを、
『真に!』、
『浄い!』、
『法施』と、
『称する!』。
復次略說法有二種。一者不惱眾生善心慈愍。是為佛道因緣。二者觀知諸法真空。是為涅槃道因緣。 復た次ぎに、略説すれば、法には二種有り、一には、衆生を悩ませずして、善心もて慈愍す、是れを仏道の因縁と為す。二には、諸法の真空なるを観て知る、是れを涅槃の道の因縁と為す。
復た次ぎに、
略説すれば、
『法』には、
『二種』有り、
一には、
『衆生』を、
『悩ますことなく!』、
『善心』で、
『衆生』を、
『慈愍する!』ならば、
是れは、
『仏』の、
『道』の、
『因縁である!』。
二には、
『観察して!』、
諸の、
『法』は、
『真空である!』と、
『知る!』ならば、
是れは、
『涅槃』の、
『道』の、
『因縁である!』。
在大眾中興愍哀心說此二法。不為名聞利養恭敬。是為清淨佛道法施。 大衆中に在りて、愍哀の心を興し、此の二法を説いて、名聞、利養、恭敬の為にせざれば、是れを清浄の仏道の法施と為す。
『大衆』中に於いて、
『愍哀する!』、
『心』を、
『興して!』、
此の、
『二つ!』の、
『法』を、
『説き!』、
『名聞』や、
『利養』、
『恭敬』の為めに、
『法』を、
『説かなければ!』、
是れは、
『清浄な!』、
『仏』の、
『道』の、
『法施である!』。
如說。阿輸伽王一日作八萬佛圖。雖未見道於佛法中少有信樂。日日請諸比丘入宮供養。日日次第留法師說法。 説の如し、阿輸迦王は、一日にして、八万の仏図を作れば、未だ仏法中に道を見ずと雖も、少しは信楽すること有りて、日日諸の比丘を請じて、宮に入れしめて供養し、日日次第に法師を留めて、法を説かしむ。
例えば、こう説かれている、――
『阿輸伽王』は、
『一日』で、
『八万』の、
『仏図(仏塔)』を、
『作った!』ほどで、
未だ、
『仏法』中に、
『道』を、
『見なかった!』が、
少しは、
『信じたり!』、
『楽しんだりする!』ことが、
『有り!』、
『日日』、
諸の、
『比丘』を、
『請じて!』、
『宮』中で、
『供養し(食事をさせ)!』、
『日日』、
次第に(順序を定めて)、
『法師』を、
『引き留めて!』、
『法』を、
『説かせた!』。
  阿輸伽王(あしゅかおう):また梵名阿輸伽azokaは、また阿輸迦、阿育等に作り、無憂と訳す。西紀前321年頃、印度に創立せる孔雀王朝の旃陀掘多大王(Chandragupta)の孫、紀元前270年頃、前印度を統一し、大に仏教を保護して、これをして各地に宣布せしむ。『大智度論巻2上注:阿輸迦、同巻30上注:阿育王』参照。
  仏図(ぶつづ):仏塔。
  信楽(しんぎょう):所聞の法に信順して、これを愛楽するを云う。
  参考:『大荘厳経巻10(55)』:『復次若人讚佛得大果報。為諸眾人之  所恭敬。是故應當勤心讚敬。我昔曾聞。迦葉佛時有一法師為眾說法。於大眾中讚迦葉佛。以是緣故命終生天。於人天中常受快樂。於釋迦文佛般涅槃後百年。阿輸伽王時。為大法師得羅漢果。三明六通具八解脫。常有妙香。從其口出。時彼法師去阿輸伽王不遠。為眾說法。口中香氣達於王所。王聞香氣心生疑惑。作是思惟。彼比丘者為和妙香含於口耶。香氣乃爾。作是念已。語比丘言。開口。時比丘開口都無所有。復語漱口。既漱口已猶有香氣。比丘白王。何故語我張口漱口。時王答言。我聞香氣心生疑故。使汝張口及以漱口。香氣踰盛。惟有此香口無所有。王語比丘願為我說。比丘微笑。即說偈言 大地自在者  今當為汝說  此非沈水香  復非花葉莖  栴檀等諸香  和合能出是  我生希有心  而作如是言  由昔讚迦葉  便獲如是香  彼佛時已合  與新香無異  晝夜恒有香  未曾有斷絕  王言。大德久近得此香。比丘答曰。久已得之。王今善聽。往昔過去有佛名曰迦葉。我於彼時精勤修集而得此香。時王聞已生希有心。而問比丘。我猶不悟。唯願解說。時彼比丘而白王言。大王。至心善聽。我於迦葉佛時作說法比丘在大眾前。生歡喜心讚歎彼佛。即說偈言 金色身晃曜  歡喜生讚歎  因此福德力  在在受生處  身身隨此業  常有如此香  勝於優缽羅  及以瞻蔔香  香氣既充塞  聞者皆欣悅  如飲甘露味  服之無厭足  爾時大王聞斯語已。身毛皆豎。而作是言。嗚呼讚佛功德乃獲是報。比丘答言。大王。勿謂是果受報如此。復說偈言 名稱與福德  色力及安樂  已有此功德  人無輕賤者  威光可愛樂  意志深弘廣  能離諸過惡  皆由讚佛故  如斯之福報  賢智乃能說  受身既以盡  獲於甘露跡  爾時大王復問比丘。讚佛功德其事云何。爾時比丘說偈答言 我於大眾中  讚佛實功德  由是因緣故  名稱滿十方  說佛諸善業  大眾聞歡喜  形貌皆熙怡  由前讚佛故  顏色有威光  說法得盡苦  彼如來所說  與諸修善者  作樂因緣故  得樂之果報  云何名之佛  說言有十力  諸有得此法  不為人所輕  況諸說法者  昇於法座上  讚立佛功德  降伏諸外道  以讚佛德故  獲於上妙身  便為諸人說  可樂之正道  以是因緣故  猶如秋滿月  為眾之所愛  讚歎佛實德  窮劫猶難盡  假使舌消澌  終不中休廢  常作如是心  世世受生處  言說悉辯了  說佛自然智  增長眾智慧  以是因緣故  所生得勝智  說一切世間  皆是業緣作  聞已獲諸善  由離諸惡故  生處離諸過  貪瞋我見等  如油注熱鐵  皆悉消涸盡  如此等諸事  何處不適意  我以因緣箭  壞汝諸網弓  復已言辯父  思惟善說母  爾時大王聞斯偈已。即起合掌。而作是言。所說極妙善入我心。王說偈言 聞說我意解  歎佛功德果  略而言說之  常應讚歎佛  以何因緣而說此事。為說法者得大果報。諸有說法應生喜心』
有一三藏年少法師。聰明端正次應說法。在王邊坐。口有異香。 一りの三蔵の年少の法師の聡明端正なる有り、次いで応に説法すべく、王の辺に在りて坐するに、口に異香有り。
有る、
『一り!』の、
『三蔵』の、
『年少』の、
『法師』は、
『聡明であり!』、
『端正であった!』、
是の、
『法師』は、
次に、
『法』を、
『説くことになっていた!』ので、
『王』の、
『辺』に、
『坐っていた!』が、
『口』に、
『異香』が、
『有った!』。
  三蔵(さんぞう):経蔵、律蔵、論蔵の総称、及びそれ等に通達せる者の称。
  異香(いこう):不思議な香。
王甚疑怪謂為不端。欲以香氣動王宮人。語比丘言。口中何等開口看之。即為開口了無所有。與水令漱香氣如故。 王は甚だ疑怪し、謂いて『端(ただ)しからず、香気を以って、王宮の人を動かさんと欲す』と為し、比丘に語りて言わく、『口中は、何等かなる、口を開けて之を看ん』、と。即ち為めに口を開くれば、了らかに有る所無し。水を与えて、漱(すす)がしむるも、香気は故(もと)の如し。
『王』は、
甚だ、
『疑い!』、
『怪しんで!』、
こう思った、――
嘘くさいぞ!
『香気』を、
『用いて!』、
『王宮』の、
『人』を、
『動かそうというのか?』、と。
そして、
『比丘』に語って、こう言った、――
『口』中に、
何か、
『有るのか?』、
『口』を、
『開け!』、
『看てやろう!』、と。
そこで、
『王』の為めに、
『口』を、
『開いた!』が、
何も、
『無い!』ことは、
『明了だった!』。
『水』を、
『与えて!』、
『嗽(すす)がせても!』、
『香気』は、
『故(もと)のままだった!』。
王問。大德新有此香舊有之耶。比丘答言。如此久有非適今也。 王の問わく、『大徳、新に此の香有りや、旧(むかし)より之有りや』、と。比丘の答えて言わく、『此の如きは、久しく有り。適(たまた)ま今なるに非ず』、と。
『王』は、
こう問うた、――
大徳!
此の、
『香』は、
『新しく!』、
『有るのか?』、
それとも、
『旧(むかし)より!』、
『有るのか?』、と。
『比丘』は答えて、こう言った、――
此のような、
『香』は、
『久しく!』、
『有る!』、
たまたま、
『今!』、
『有るのではない!』、と。
又問有此久如。比丘以偈答言
 迦葉佛時  集此香法 
 如是久久  常若新出
又問わく、『此れ有ること久如たりや』、と。比丘の偈を以って答えて言わく、
迦葉仏の時、此の香法を集め、
是の如く久久なれば、常に新たに出づるが若(ごと)し。
又、
問うた、――
此れが、
『有るようになって!』、
『久しいのか?』、と。
『比丘』は、
『偈』で答えて、こう言った、――
『迦葉仏の時』より、
此の、
『香法(香物)』を、
『集めた!』が、
是のように、
『久しく!』、
『集めた!』ので、
常に、
『新しく!』、
『出るようになった!』、と。
  久如(くにょ):ひさしい。
  迦葉仏(かしょうぶつ):梵名kaazyapa budda。釈尊以前の仏にして、過去七仏中の第六仏。
  久久(くく):非常に長い間。
王言。大德略說未解。為我廣演。 王の言わく、『大徳、略して説くも、未だ解せず、我が為めに広く演(の)べよ』、と。
『王』は、
こう言った、――
大徳!
『略して!』、
『説かれた!』が、
まだ、
『解らない!』、
わたしの為めに、
『詳しく!』、
『説け!』、と。
  演説(えんぜつ):種種の譬喩、因縁等を敷き演べて説くこと。
答言。王當一心善聽我說。我昔於迦葉佛法中作說法比丘。常在大眾之中歡喜演說。迦葉世尊無量功德諸法實相。無量法門慇懃讚歎教誨一切。自是以來常有妙香從口中出。世世不絕恒如今日。而說此偈
 草木諸華香  此香氣超絕 
 能悅一切心  世世常不滅
答えて言わく、『王よ、当に一心に善く、我が説を聴くべし。我れは昔、迦葉仏の法中に、説法の比丘と作りて、常に大衆の中に在りて、歓喜して、迦葉世尊の無量の功徳と、諸法の実相とを演説し、無量の法門もて、慇懃に讃歎して、一切を教誨せり。是れより以来、常に妙香有りて、口中より出で、世世に絶えずして、恒に今日の如し』、と。而して此の偈を説かく、
草木の諸の華香に、此の香気は超絶し、
能く一切の心を悦ばしめ、世世に常に滅せず。
答えて、こう言った、
王よ!
一心に、
善く!、
わたしの、
『説』を、
『聴け!』。
わたしは、
昔、
『迦葉仏』の、
『法』中に於いて、
『説法の比丘』と、
『作り!』、
常に、
『大衆』中に、
『在って!』、
『歓喜しながら!』、
『迦葉世尊』の、
『無量』の、
『功徳』と、
諸の、
『法』の、
『実相』とを、
『演説し!』、
無量の、
『法門』で、
『丁寧に!』、
『讃歎して!』、
一切の、
『衆生』を、
『教え!』、
『誨(さと)してきた!』が、
是れより以来、
常に、
有る、
『妙香』が、
『口』中に、
『出でて!』、
『世世』に、
『絶えることなく!』、
恒に、
『今日』と、
『同じであった!』、と。
そして、
此の、
『偈』を説いた、――
『草、木』の、
諸の、
『華香』に、
此の、
『香気』は、
『超絶し!』、
一切の、
『心』を、
『悦ばせる!』が、
世世に、
『常に!』、
『滅することがない!』、と。
  慇懃(おんごん):丁寧に心をこめてすること。
  教誨(きょうけ):教えてさとすこと。
于時國王愧喜交集。白比丘言。未曾有也。說法功德大果乃爾。 時に于(お)いて国王は愧喜交(こもご)も集まり、比丘に白して言わく、『未曽有なり。説法の功徳と大果は、乃ち爾り』、と。
その時より、
『国王』は、
『恥ずかしさ!』と、
『喜ばしさ!』とが、
『交互に集まり!』、
『比丘』に白して、こう言った、――
未曽有である!
『法』を、
『説いた!』、
『功徳』と、
『大果』とが、
『それほどだったとは!』、と。
  (う):おいて。より。於。
  愧喜(きき):恥ずかしさと喜ばしさ.
比丘言。此名為華。未是果也。 比丘の言わく、『此れを名づけて華と為す。未だ是れ果にあらざるなり』、と。
『比丘』は、
こう言った、――
此れは、
『華』と、
『称する!』、
未だ、
『果ではない!』、と。
王言其果云何願為演說。 王の言わく、『其の果は、云何。願わくは為に演説せよ』、と。
『王』は、
こう言った、――
其の、
『果』とは、
『何をいうのか?』、
願わくは、
『わたしの為め!』に、
『演説してくれ!』、と。
答言。果略說有十。王諦聽之。即為說偈言
 大名聞端政  得樂及恭敬 
 威光如日月  為一切所愛 
 辯才有大智  能盡一切結 
 苦滅得涅槃  如是名為十
答えて言わく、『果を略説すれば十有り。王よ、之を諦聴せよ』、と。即ち為めに偈を説いて言わく、
大いに名聞、端正ありて、楽及び恭敬を得、
威光は日月の如くして、一切に愛さる。
辯才と大智と有りて、能く一切の結を尽くし、
苦滅して涅槃を得、是の如きを名づけて十と為す。
答えて、こう言った、――
『果』を、
略説すれば、
『十』、
『有る!』。
王よ!
之を、
『諦(あきらか)に!』、
『聴け!』、と。
そして、
『王』の為めに、
『偈』を説いて、こう言った、――
大いなる、
『名聞』と、
『端正』とが、
『有り!』、
『楽』と、
『恭敬』とを、
『得て!』、
『威厳』の、
『光』は、
『日月のように!』、
『皆に愛され!』、
『辯才』と、
『大智』とが、
『有り!』、
『結』を、
皆、
『尽くして!』、
『苦』を、
『滅し!』、
『涅槃』を、
『得る!』、
是れを、
『十』の、
『果』と、
『称する!』、と。
  諦聴(たいちょう):明らかに聴く。
  端政(たんじょう):端正。
王言。大德。讚佛功德云何而得如是果報。 王の言わく、『大徳、仏の功徳を讃ずるに、云何が、是の如き果報を得る』、と。
『王』は、
こう言った、――
大徳!
何故、
『仏』の、
『功徳』を、
『讃じる!』と、
是のような、
『果報』を、
『得るのか?』、と。
爾時比丘以偈答曰
 讚佛諸功德  令一切普聞 
 以此果報故  而得大名譽 
 讚佛實功德  令一切歡喜 
 以此功德故  世世常端正 
 為人說罪福  令得安樂所 
 以此之功德  受樂常歡豫 
 讚佛功德力  令一切心伏 
 以此功德故  常獲恭敬報 
 顯現說法燈  照悟諸眾生 
 以此之功德  威光如日曜 
 種種讚佛德  能悅於一切 
 以此功德故  常為人所愛 
 巧言讚佛德  無量無窮已 
 以此功德故  辯才不可盡 
 讚佛諸妙法  一切無過者 
 以此功德故  大智慧清淨 
 讚佛功德時  令人煩惱薄 
 以此功德故  結盡諸垢滅 
 二種結盡故  涅槃身已證 
 譬如澍大雨  火盡無餘熱
爾の時、比丘の偈を以って答えて曰く、
仏の諸の功徳を讃じて、一切をして普く聞かしむれば、
此の果報を以っての故に、大名誉を得たり。
仏の実の功徳を讃じて、一切をして歓喜せしむれば、
此の功徳を以っての故に、世世に常に端正なり。
人の為に罪福を説いて、安楽の所を得しむれば、
此の功徳を以って、楽を受けて常に歓予せり。
仏の功徳の力を讃じて、一切の心をして伏せしむれば、
此の功徳を以っての故に、常に恭敬の報を獲(え)たり。
説法の灯を顕現して、諸の衆生を照悟すれば、
此の功徳を以って、威光は日曜の如し。
種種に仏の徳を讃じて、能く一切を悦ばしむれば、
此の功徳を以っての故に、常に人の愛する所と為れり。
巧言もて仏の徳を無量にして無窮なるのみと讃じたれば、
此の功徳を以っての故に、辯才は尽くすべからず。
仏の諸の妙法の、一切に過ぐる者無きを讃ずれば、
此の功徳を以っての故に、大智慧清浄なり。
仏の功徳を讃ずる時、人の煩悩をして薄れしむれば、
此の功徳を以っての故に、結尽きて諸の垢滅し、
二種の結の尽くるが故に、涅槃を身に已に証すること、
譬えば大雨を澍(そそ)ぎて、火尽き余熱無きが如し。
爾の時、
『比丘』は、
『偈』で答えて、こう言った、――
『仏』の、
諸の、
『功徳』を、
『讃じて!』、
一切に、
『普く!』、
『聞かせた!』ので、
此の、
『果報』の故に、
『大きな名誉』を、
『得たのである!』。
『仏』の、
実の、
『功徳』を、
『讃じて!』、
一切を、
『歓喜させた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
世世に、
『常に!』、
『端正である!』。
『人』の為めに、
『罪、福』の、
『別ある!』ことを、
『説いて!』、
『安楽』の、
『所(天上)』を、
『得させた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
『楽』を、
『得て!』、
常に、
『歓予(歓喜)する!』。
『仏』の、
『功徳』の、
『力』を、
『説いて!』、
一切の、
『心』を、
『屈伏させた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
常に、
『恭敬の報』を、
『得る!』。
『法』を、
『説いて!』、
『灯』を、
『顕現し!』、
諸の、
『衆生』を、
『照らして!』、
『悟らせた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
『威厳』の、
『光』は、
『日』が、
『曜(かがや)く!』のと、
『同じである!』。
『仏』の、
『徳』を、
種種に、
『讃じて!』、
一切を、
『悦ばせた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
常に、
『人』に、
『愛される!』。
『仏』の、
『徳』は、
『無量であり!』、
『無窮でしかない!』と、
『巧みな!』、
『言葉』で、
『讃じた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
『辯才』の、
『尽きたことがない!』。
『仏』の、
諸の、
『妙法』は、
一切に、
『過ぎる者が無い!』と、
『讃じた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
『大智慧』が、
『清浄となった!』。
『仏』の、
『功徳』を、
『讃じる!』時、
『人』の、
『煩悩』を、
『薄れさせた!』ので、
此の、
『功徳』の故に、
『結』が、
『尽きて!』、
諸の、
『垢』が、
『滅し!』、
『二種』の、
『結(愛結、見結)』が、
『尽きた!』が故に、
『涅槃』を、
『身』に、
『証したのである!』。
譬えば、
『大雨』が、
『降りそそいで!』、
『火』が、
『尽き!』、
『余残』の、
『熱』も、
『無くなったように!』、と。
  歓予(かんよ):歓喜。悦予。
  心伏(しんぷく):心服。
  巧言(きょうごん):巧みなことば。
  照悟(しょうご):真理の光もて愚癡の闇を照らし、衆生をして悟らしむ。
  二種結(にしゅけつ):愛に属すと、見に属すを云う。「大智度論巻7初品中仏土願釈論第十三」に、「また二種の結あり、一は愛に属し、二は見に属す」と云えるこれなり。
重告王言。若有未悟今是問時。當以智箭破汝疑軍。 重ねて、王に告げて言わく、『若し未だ悟らざること有らば、今は是れ問う時なり。当に智の箭を以って、汝が疑の軍を破るべし』、と。
重ねて、
『王』に告げて、こう言った、――
若し、
未だ、
『明了でない!』ことが、
『有れば!』、
今こそ、
『問うべき!』、
『時である!』、
わたしの、
『智』の、
『箭()』で、
お前の、
『疑』の、
『軍』を、
『破ってやろう!』、と。
  智箭(ちせん):智慧を箭(や)に譬える。
  疑軍(ぎぐん):疑を軍隊に譬える。
王白法師。我心悅悟無所疑也。大德福人善能讚佛。如是等種種因緣說法度人。名為法施。 王の法師に白さく、『我が心は悦悟して疑う所無きなり。大徳は福人なり、善く能く、仏を讃じたまえり』、と。是の如き等の種種の因縁もて、説法して、人を度すを名づけて、法施と為す。
『王』は、
『法師』に、こう白した、――
わたしの、
『心』は、
『悦んで!』、
『悟り!』、
『心』に、
『疑う!』所は、
『無い!』。
大徳は、
『福徳の人だ!』、
『善く(うまく)!』、
『仏』を、
『讃えられた!』、と。
是れ等のように、
種種の、
『因縁』で、
『説法し!』、
『人』を、
『度す!』ならば、
是れを、
『法施』と、
『呼ぶのである!』。
問曰。財施法施何者為勝。 問うて曰く、財施と法施と、何れの者か、勝ると為す。
問い、
『財施』と、
『法施』とでは、
何れが、
『勝るのですか?』。
答曰。如佛所言二施之中法施為勝。所以者何。財施果報在欲界中。法施果報或在三界。或出三界。 答えて曰く、仏の言う所の如きには、二施の中には、法施を勝ると為す。所以は何んとなれば、財施の果報は、欲界中に在り、法施の果報は或いは三界に在り、或いは三界を出づればなり。
答え、
『仏』の、
『言われた!』所では、こうである――
『二つ!』の、
『施』中には、
『法施』が、
『勝る!』と。
何故ならば、
『財施』の、
『果報』は、
『欲界』中に、
『在る!』が、
『法施』の、
『果報』は、
或いは、
『三界』中に、
『在り!』、
或いは、
『三界』を、
『出るからである!』。
復次口說清淨深得理中。心亦得之故出三界。 復た次ぎに、口に説いて清浄なれば、深く理中を得て、心も亦た之を得るが故に三界を出づ。
復た次ぎに、
『口』に、
『説いて!』、
『清浄ならば!』、
『理』の中に、
『深く!』、
『得る(識る)!』ので、
『心』も、
之を、
『得る!』が故に、
『三界』を、
『出るのである!』。
復次財施有量。法施無量。財施有盡。法施無盡。譬如以薪益火其明轉多。 復た次ぎに、財施には量有り、法施には量無し。財施には尽くる有り、法施には尽くる無し。譬えば、薪を以って火に益せば、其の明の転た多きが如し。
復た次ぎに、
『財施』には、
『量』が、
『有る!』が、
『法施』には、
『量』が、
『無い!』。
『財施』は、
『尽きる!』ことが、
『有る!』が、
『法施』は、
『尽きる!』ことが、
『無い!』。
譬えば、
『薪』を、
『火』に、
『益せば!』、
其の、
『明(あかり)』が、
増々、
『多くなる!』のと、
『同じである!』。
復次財施之報淨少垢多。法施之報垢少淨多。 復た次ぎに、財施の報は浄少なく、垢多し。法施の報は垢少く、浄多し。
復た次ぎに、
『財施』は、
『浄い!』、
『報』が、
『少なく!』、
『汚れた!』、
『報』が、
『多い!』が、
『法施』は、
『汚れた!』、
『報』が、
『少なく!』、
『浄い!』、 
『報』が、
『多い!』。
復次若作大施必待眾力。法施出心不待他也。 復た次ぎに、若し大施を作さば、必ず衆力を待つも、法施は心より出でて、他を待たず。
復た次ぎに、
若し、
『大施(財施)』を、
『作す!』とすれば、
必ず、
『多く!』の、
『力』を、
『必要とする!』が、
『法施』は、
『心』より、
『出る!』ので、
『他』の、
『力』を、
『必要としない!』。
復次財施能令四大諸根增長。法施能令無漏根力覺道具足。 復た次ぎに、財施は、能く四大の諸根をして、増長せしめ、法施は、能く無漏の根、力、覚、道を具足せしむ。
復た次ぎに、
『財施』は、
『四大』の、
『造る!』所の、
諸の、
『根(眼耳鼻舌身)』を、
『増長させる!』が、
『法施』は、
『無漏』の、
『五根(信、精進、念、定、慧)』、
『五力(信、精進、念、定、慧)』、
『七覚(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)』、
『八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)』を、
『具足させる!』。
  根力覚道(こんりきかくどう):五根、五力、七覚支、八正道。
復次財施之法。有佛無佛世間常有。如法施者唯有佛世乃當有耳。是故當知法施甚難。 復た次ぎに、財施の法は、有仏、無仏の世間に常に有るも、法施の如き者は、但だ有仏の世にのみ、乃ち当に有るべし。是の故に、当に知るべし、法施は甚だ難しと。
復た次ぎに、
『財施』の、
『法』は、
『仏』が、
『有ろうと!』、
『無かろうと!』、
『世間』には、
『常に!』、
『有る!』が、
『法施』であれば、
唯だ、
『仏』の、
『有る!』、
『世にのみ!』、
ようやく、
『有るだけである!』。
是の故に、
当然、知るべきであるが、――
『法施』とは、
『甚だ!』、
『為し難い!』のである。
云何為難。乃至有相辟支佛不能說法。直行乞食飛騰變化而以度人。 云何が、難しと為す。乃至有相すら、辟支仏には、法を説く能わず。直(た)だ乞食を行じて、飛騰し、変化して、以って人を度すのみ。
何故、
『難しい!』というのか?――
『辟支仏』には、
乃至、
『有相』の、
『法』すら、
『説くことができず!』、
直()だ、
『乞食』を、
『行う!』時、
『飛騰したり!』、
『変化したりして!』、
それで、
『人』を、
『度すからである!』。
復次從法施中能出生財施。及諸聲聞辟支佛菩薩及佛。 復た次ぎに、法施中より、能く財施、及び諸の声聞、辟支仏、菩薩、及び仏を出生す。
復た次ぎに、
『法施』中より、
『財施』を、
『出生させ!』、
諸の、
『声聞』や、
『辟支仏』、
『菩薩』に、
『及び!』、
『仏』を、
『出生させる!』までに、
『及ぶからである!』。
復次法施能分別諸法。有漏無漏法。色法無色法。有為無為法。善不善無記法。常法無常法。有法無法。一切諸法實相清淨不可破不可壞。 復た次ぎに、法施は、能く諸法の有漏、無漏の法、色法、無色法、有為、無為の法、善、不善、無記の法、常法、無常の法、有法、無法、一切の諸法の実相は、清浄にして、破るべからず、壊すべからざるを分別すればなり。
復た次ぎに、
『法施』は、
諸の、
『法』を、
『分別するからである!』、
謂わゆる、
『有漏』や、
『無漏』の、
『法』、
『色』と、
『無色』の、
『法』、
『有為』と、
『無為』の、
『法』、
『善』、
『不善』、
『無記』の、
『法』、
『常』と、
『無常』の、
『法』、
『有』と、
『無』の、
『法』を、
『分別し!』、
一切の、
諸の、
『法の実相』は、
『清浄であり!』、
『破ることもできず!』、
『壊すこともできない!』と、
『分別する!』。
如是等法略說則八萬四千法藏。廣說則無量。如是等種種。皆從法施分別了知。以是故法施為勝。 是の如き等の法を、略説すれば則ち八万四千の法蔵、広説すれば、則ち無量なり。是の如き等の種種は、皆、法施より分別し了知すれば、是を以っての故に、法施を勝れたりと為す。
是れ等の、
『法』は、
『略説すれば!』、
『八万四千』の、
『法蔵であり!』、
『広説すれば!、
『無量』の、
『法蔵である!』が、
是れ等の、
種種の、
『法蔵』は、
皆、
『法施』により、
『分別され!』、
『了知された!』ものであり、
是の故に、
『法施』を、
『勝る!』と、
『言うのである!』。
是二施和合名之為檀。行是二施願求作佛。則能令人得至佛道。何況其餘。 是の二施の和合は、之を名づけて、檀と為し、是の二施を行じて、仏と作ることを願求すれば、則ち能く人をして、仏道に至るを得しむ。何に況んや、其の余をや。
是の、
『二つ!』の、
『施』の、
『和合』、
之を、
『檀』と、
『称する!』が、
是の、
『二つ!』の、
『施』を、
『行って!』、
『仏』と、
『作る!』ことを、
『願求すれば!』、
『人』に、
『仏の道』を、
『極めさせられる!』のであり、
況して、
『他の道』は、
『言うまでもない!』。
問曰。四種捨名為檀。所謂財捨法捨無畏捨煩惱捨。此中何以不說二種捨。 問うて曰く、四種の捨を名づけて、檀と為す。謂わゆる財捨、法捨、無畏捨、煩悩捨なり。此の中には、何を以ってか、二種の捨を説かざる。
問い、
『四種』の、
『捨』を、
『檀』と、
『称する!』が、
謂わゆる、
『財捨』、
『法捨』、
『無畏捨』、
『煩悩捨である!』。
此の中には、
何故、
『二種』の、
『捨』を、
『説かないのですか?』。
  (しゃ):梵語upekSAの訳、見逃す(overlooking)、無視(disregard)、無頓着(negligence)、無関心(indifference)、軽視(contempt)、放棄( abandonment)等の義、或いは梵語tyaagaの訳、離れる(leaving)、放棄する(abandoning)、見捨てる(forsaking)、断念する(quitting)、荷を下ろす(discharging)、、辞任する(resigning)、贈物(gift)、寄附(donation)、配布(distribution)等の義。『大智度論巻11下注:捨』参照。
  無畏捨(むいしゃ):梵語abhaya- tyaagaの訳。また施無畏とも称す。『大智度論巻11下注:施無畏』参照。
  施無畏(せむい):梵語abhaya-daanaの訳。無畏を施すの意。また無畏捨、無畏施とも称す。施の一種。即ち種種の怖畏を抜済するを云う。「法華経巻7普門品」に、「この観世音菩薩は怖畏急難の中に於いて能く無畏を施す。この故にこの娑婆世界に皆これを施無畏者abhayaMdadaと為す」と云い、「瑜伽師地論巻39」に、「無畏施とは謂わく師子虎狼鬼魅等の畏を済拔し、王賊等の畏を抜済し、水火等の畏を抜済するなり」と云えるこれなり。これ仏菩薩は種種の威力方便を以って師子虎狼水火盗賊等の諸の怖畏を抜済し、以って衆生に安慰を施すことを設くるものなり。また「大宝積経巻82郁伽長者会」、「千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経」、「大智度論巻11」等に出づ。<(望)
  煩悩捨(ぼんのうしゃ):「大乗理趣六波羅蜜多経巻9」に云える、三種の捨の中の一、謂わゆる一に煩悩捨、二に護自他捨、三に時非時捨なり。この中、煩悩捨に就いては、例えば恭敬に遇うて高挙せず、憍慢に遇うて卑賤せざるが如き、諸法に於ける平等心を云う。『大智度論巻11下注:捨』参照。
答曰。無畏捨與尸羅無別故不說。有般若故不說煩惱捨。若不說六波羅蜜。則應具說四捨
大智度論卷第十一
答えて曰く、無畏捨は、尸羅と別無きが故に、説かず。般若有るが故に、煩悩捨を説かず。若し六波羅蜜を説かざれば、則ち応に具(つぶさ)に、四捨を説くべし。
大智度論巻第十一
答え、
『無畏捨』は、
『尸羅(持戒)』と、
『別』が、
『無い!』が故に、
『説かない!』し、
『煩悩捨』は、
『般若(智慧)』が、
『説く!』が故に、
『説かない!』。
若し、
『六波羅蜜』を、
『説かなければ!』、
具(つぶさ)に、
『四つ!』の、
『捨』を、
『説くことになろう!』。

大智度論巻第十一


著者に無断で複製を禁ず。
Copyright(c)2015 AllRightsReserved