巻第十一(上)
大智度論釋初品中舍利弗因緣第十六
1.舎利弗の因縁
2.一切種を以って一切法を知る
3.舎利弗の問うた理由
大智度論釋初品中檀波羅蜜義第十七
4.般若波羅蜜の定義
大智度論釋初品中讚檀波羅蜜義第十八
5.檀の利益
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大智度論釋初品中舍利弗因緣第十六(卷第十一)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


舎利弗の因縁

【經】佛告舍利弗 仏の舎利弗に告げたまわく、
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
【論】問曰。般若波羅蜜是菩薩摩訶薩法。佛何以故告舍利弗而不告菩薩。 問うて曰く、般若波羅蜜は、是れ菩薩摩訶薩の法なり。仏は何を以っての故にか、舎利弗に告げて、而も菩薩には告げたまわざる。
問い、
『般若波羅蜜』は、
『菩薩摩訶薩』の、
『法』である!。
『仏』は、
何故、
『舎利弗』には、
『告げられた!』が、
而(しか)し、
『菩薩』には、
『告げられなかった!』のですか?
答曰。舍利弗於一切弟子中智慧最第一。如佛偈說
 一切眾生智  唯除佛世尊 
 欲比舍利弗  智慧及多聞 
 於十六分中  猶尚不及一
答えて曰く、舎利弗は、一切の弟子中の智慧最も第一なり。仏の偈に説きたまえるが如し、
一切の衆生の智は、唯だ仏世尊を除いて、
舎利弗の智慧、及び多聞を比せんと欲すれば、
十六分中の、猶尚お一にも及ばず。
答え、
『舎利弗』の、
『智慧』は、
一切の、
『弟子』中に、
『最も!』、
『第一だから!』である。
例えば、
『仏』は、
『偈』で、こう説かれた、――
一切の、
『衆生』の、
『智』は、
唯だ、
『仏世尊』を、
『除いて!』、
『舎利弗』の、
『智慧』と、
『多聞』の、
『十六分の一』にも、
『猶尚お(とうてい)』、
『及ばない!』、と。
  参考:『雑阿含経巻22(593)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。給孤獨長者疾病命終。生兜率天。為兜率天子。作是念。我不應久住於此。當往見世尊。作是念已。如力士屈申臂頃。於兜率天沒。現於佛前。稽首佛足。退坐一面。時。給孤獨天子身放光明。遍照祇樹給孤獨園。時。給孤獨天子而說偈言 於此祇桓林  仙人僧住止  諸王亦住此  增我歡喜心  深信淨戒業  智慧為勝壽  以此淨眾生  非族姓財物  大智舍利弗  正念常寂默  閑居修遠離  初建業良友  說此偈已。即沒不現。爾時。世尊其夜過已。入於僧中。敷尼師壇。於眾前坐。告諸比丘。今此夜中。有一天子。容色絕妙。來詣我所。稽首我足。退坐一面。而說偈言 於此祇桓林  仙人僧住止  諸王亦住此  增我歡喜心  深信淨戒業  智慧為勝壽  以此淨眾生  非族姓財物  大智舍利弗  正念常寂默  閑居修遠離  初建業良友  爾時。尊者阿難白佛言。世尊。如我解世尊所說。給孤獨長者生彼天上。來見世尊。然彼給孤獨長者於尊者舍利弗極相敬重。佛告阿難。如是。如是。阿難。給孤獨長者生彼天上。來見於我。爾時。世尊以尊者舍利弗故。而說偈言 一切世間智  唯除於如來  比舍利弗智  十六不及一  如舍利弗智  天人悉同等  比於如來智  十六不及一  佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次舍利弗智慧多聞有大功德。年始八歲誦十八部經。通解一切經書義理。 復た次ぎに、舎利弗の智慧、多聞には、大功徳有り。年始めて八歳にして、十八部の経を誦し、一切の経書の義理に通達せり。
復た次ぎに、
『舎利弗』の、
『智慧』と、
『多聞』には、
『大きな!』、
『功徳(ちから)』が、
『有り!』、
『年』が、
『八歳になった!』、
『始め!』には、
『十八部』の、
『経』を、
『誦(諳誦)し!』、
一切の、
『経書』の、
『義理(意味)』に、
『通達していた!』。
  十八部経(じゅうはちぶのきょう):印度外道の経書に十八種の別あるをいう。『大智度論巻2下注:十八大経、同巻25上注:十八大経』参照。
是時摩伽陀國有龍王兄弟。一名姞利二名阿伽羅。降雨以時國無荒年。人民感之。常以仲春之月一切大集至龍住處。為設大會作樂談義終此一日。自古及今斯集未替。遂以龍名以名此會。 是の時、摩伽陀国に龍王の兄弟の一には姞利と名づけ、二には阿伽羅と名づくる有り、雨を降らして以って時の国に荒年無ければ、人民之を感じて、常に仲春の月を以って、一切大いに集まりて龍の住処に至り、為めに大会を設けて、楽を作し、義を談じて、此の一日を終うること、古より、今に及ぶまで、斯の集まり未だ替らざれば、遂に龍の名を以って、此の会に名づけたり。
是の時、
『摩伽陀国』には、
『姞利(きり)』と、
『阿伽羅(あがら)』と、
『呼ばれる!』、
『龍』の、
『兄弟』が、
『有って!』、
『雨』を、
『降らしていた!』ので、
『当時』の、
『国』には、
『荒年』が、
『無く!』、
『人民』は、
此の、
『龍王』に、
『感謝して!』、
常に、
『仲春(旧暦2月)の月』に、
一切が、
『大いに!』、
『集まり!』、
『龍』の、
『住む!』、
『処』に、
『大会』を、
『設けて!』、
『音楽』を、
『奏でたり!』、
『義(言葉の意味)』を、
『談じたり!』しながら、
此の、
『一日』を、
『終えた!』のであるが、
古(いにしえ)より、
『今』に、
『至るまで!』、
此の、
『集まり!』が、
『廃されることはなかった!』ので、
遂(つい)に、
『龍』の、
『名』を以って、
此の、
『会』を、
『呼ぶようになった!』。
  摩伽陀国(まがだこく):摩伽陀は梵名magadha、中印度の古国の名。『大智度論巻1上注:摩揭陀国』参照。
  姞利(きり):梵名kRmi?、又はgiri?。龍王の名。
  阿伽羅(あがら):梵名agala?、又はagra?。龍王の名。
  (たい):かわる。廃する。
此日常法敷四高座。一為國王。二為太子。三為大臣。四為論士。 此の日の常法は、四高座を敷けり。一には国王の為め、二には太子の為め、三には大臣の為め、四には論士の為めなり。
此の、
『日』の、
『常法』として、
『四つ!』の、
『高座』が、
『敷かれた!』。
一には、
『国王の為め!』、
二には、
『太子の為め!』、
三には、
『大臣の為め!』、
四には、
『論士の為め!』である。
爾時舍利弗以八歲之身。問眾人言。此四高座為誰敷之。眾人答言。為國王太子大臣論士。 爾の時、舎利弗の、八歳の身を以って、衆人に問うて曰く、『此の四高座は、誰が為めに之を敷く』、と。衆人の答えて言わく、『国王、太子、大臣、論士が為めなり』、と。
爾の時、
『舎利弗』は、
『八歳』の、
『身でありながら!』、
『衆人(ひとびと)』に問うて、こう言った、――
此の、
『四つ!』の、
『高座』は、
『誰の為に!』、
『敷かれたのですか?』、と。
『衆人』は答えて、こう言った、――
『国王』と、
『太子』と、
『大臣』と、
『論士の為めだ!』、と。
是時舍利弗觀察時人婆羅門等。神情瞻向無勝己者。便昇論床結跏趺坐。眾人疑怪。或謂愚小無知。或謂智量過人。雖復嘉其神異。而猶各懷自矜。恥其年小不自與語。皆遣年少弟子傳言問之。 是の時、舎利弗は時の人、婆羅門等を観察し、神情もて瞻向するに己に勝る者無ければ、便ち論床に昇りて結加趺坐す。衆人疑怪して、或いは、『愚小にして無知なり』と謂い、或いは、『智量人に過ぎたり』と謂いて、復た其の神異を嘉すと雖も、猶お各、自矜を懐き、其の年小を恥じて、自ら与(とも)に語らず、皆年少の弟子を遣して、言を伝えて、之に問わしむ。
是の時、
『舎利弗』は、
その折の、
『人』や、
『婆羅門』等を、
『観察し!』、
『精妙な!』、
『心』で、
『眺めた!』が、
『自分』よりも、
『勝れた!』者は、
『無かった!』、
そこで、
『論義の座』に、
『昇って!』、
『結跏趺坐した!』。
『衆人』は、
『疑い!』、
『怪しんで!』、
或いは、
『愚かな!』、
『子供だから!』、
『知らないのだ!』と、
『謂い!』、
或いは、
『智慧の量』が、
『人』よりも、
『多いのだ!』と、
『謂い!』、
其の、
『奇妙な!』、
『仕業』を、
『褒めた!』が、
而し、
猶お、
自らの、
『矜(プライド)』を、
『懐いて!』、
其れが、
『年少である!』のを、
『恥じ!』、
自ら、
『いっしょに!』、
『語ろうとせず!』、
皆、
『年少』の、
『弟子』を、
『遣(つかわ)し!』、
『言葉』を、
『伝えて!』、
『問わせた!』。
  神情(じんじょう):神妙なる心情。霊妙なる心。
  瞻向(せんこう):臨み観る。
  結跏趺坐(けっかふざ):梵語paryaGka、又はparyaGka-baddha(-bandha)等の訳。地に坐る時、両脚を交差させる仏教徒の坐法。跏趺は足の甲を股に懸くるの意、足首を累ね足裏を上に向けて斉える坐法をいう。『大智度論巻7下注:結跏趺坐』参照。
  神異(じんい):神妙奇異。人間をこえるわざ。不思議。
  自矜(じきょう):自ら矜持する。自負。
  年小(ねんしょう):年が若い。年少。
  年少(ねんしょう):年が若い。年小。
  時人(じにん):その折の人。
其答酬旨趣辭理超絕。時諸論師歎未曾有。愚智大小一切皆伏。王大歡喜即命有司。封一聚落常以給之。王乘象輿振鈴告告宣示一切十六大國六大城中無不慶悅。 其の答酬の旨趣、辞理超絶なるに、時の諸論師は未曽有なりと歎じ、愚智大小一切は皆伏すれば、王大いに歓喜し、即ち有司に命じて、一聚落を封じ、常に以って之に給せしむ。王、象輿に乗りて鈴を振りて吉を告げ、一切に宣示すれば、十六大国、六大城中に、慶悦せざる無し。
『舎利弗』の、
『答酬(受け答え!)』は、
『旨趣(意味)』も、
『辞理(論理)』も、
『超絶していた!』ので、
その時の、
諸の、
『論師』たちは、
『未曽有である!』と、
『詠嘆し!』、
『暗愚の人』も、
『智慧の人』も、
『年長の人』も、
『年少の人』も、
一切は、
『皆!』、
『感服した!』。
『王』は、
『大いに!』、
『歓喜』して、
『官吏』に、
『命じ!』、
『舎利弗』に、
『一聚落』を、
『与えて!』、
常に、
『年貢』を、
『供給させる!』と、
『王』が、
『象の輿(こし)』に、
『乗って!』、
『鈴』を、
『振り!』、
『吉報』を、
『告げて!』、
『宣示した!』ので、
『十六大国』や、
『六大城』中には、
『慶悦しない!』者が、
『無かった!』。
  答酬(とうしゅう):受け答え。応答。
  旨趣(ししゅ):意味。
  辞理(じり):言葉使いと、論理のすじ。
  有司(うし):官吏。古代、官を設け職を分くるに、各専司有るが故に有司と称す。
  象輿(ぞうよ):象に載する所の輿。
  告告:他本に従い告吉に改める。
  十六大国(じゅうろくだいこく):『大智度論巻3上注:十六大国』参照。
  六大城(ろくだいじょう):『大智度論巻9下注:六大城』参照。
  慶悦(きょうえつ):祝い喜ぶ。
是時告占師子名拘律陀。姓大目揵連。舍利弗友而親之。舍利弗才明見重。目揵連豪爽最貴。此二人者才智相比德行互同。行則俱遊住則同止。少長繾綣結要終始。後俱厭世出家學道作梵志弟子。 是の時、告占師の子を拘律陀と名づけ、姓は大目揵連なり。舎利弗は、之を友として親しめり。舎利弗は才明るくして重んぜられ、目揵連は豪爽にして最も貴し。此の二人は、才智相比(なら)び、徳行互いに同じければ、行けば則ち倶に遊び、住(とど)まれば則ち同じく止まる。少長繾綣とし、結要して終始するに、後に倶に世を厭い、出家学道して、梵志の弟子と作れり。
是の時、
『告占師(婆羅門)』の、
『子』を、
『拘律陀』と、
『呼び!』、
『姓』は、
『大目揵連であった!』が、
『舎利弗』は、
此の、
『拘律陀』を、
『親友としていた!』。
『舎利弗』は、
『才智明晰』で、
『重んじられ!』、
『目揵連』は、
『豪毅爽快』で、
『高貴であった!』。
此の、
『二人』は、
『才智』も、
『徳行』も、
『同じぐらい!』であり、
『歩く!』時も、
『止まる!』時も、
『いっしょに!』、
『遊んでおり!』、
『若いとき!』も、
『長じてから!』も、
『終始』、
『纏わりついていた!』が、
後に、
いっしょに、
『世』を、
『厭って!』、
『家』を、
『出る!』と、
『道』を、
『学ぶ!』為めに、
『梵志の弟子』と、
『作った!』。
  告占師(ごうせんし):占って告げる師。占師。
  拘律陀(くりだ):梵名kolidaに作り、また摩訶目伽連、大目乾連、目連等と称す。仏の十大弟子の一。『大智度論巻2上注:摩訶目伽連』参照。
  (けん):~らる。受け身の辞。
  豪爽(ごうそう):豪毅爽快。
  少長(しょうちょう):若き時と長じたる時。
  繾綣(けんかん):纏わり付いて離れないさま。
  結要(けつよう):腰を結びつけたような深い交際。
情求道門久而無徵。以問於師。師名刪闍耶。而答之言。自我求道彌歷年歲。不知為有道果無耶。我非其人耶而亦不得。 道門を情求して久しくするも徵無く、以って師に問えり。師を刪闍耶と名づけ、之に答えて言わく、『我れより道を求めて、年歳を弥歴するも、道果の有りや無しやを知らず』、と。『我れは其の人に非ざるや』も、亦た得ず。
『道』の、
『門』を、
『心より!』、
『求めた!』が、
『久しく!』しても、
『徵(きざし)』すら、
『無かった!』ので、
それを、
『師』に、
『問うた!』。
『師』は、
『刪闍耶』と、
『呼ばれていた!』が、
『二人』に答えて、こう言った、――
わたしより、
『道』を、
『求めて!』、
『年歳』を、
『どれほど!』、
『過ぎようと!』、
『道果』が、
『有るのか?』、
『無いのか?』、
わたしの、
『知ったことではない!』、と。
亦た、
わたしたちは、
其の、
『人ではないということか?』と、
『問うても!』、
やはり、
『答え!』は、
『得られなかった!』。
  情求(じょうぐ):志して求める。志求。真心で求める。
  弥歴(みりゃく):年月を重ねる。
  刪闍耶(さんじゃや):具さには刪闍夜毘羅胝子saMjaya- vairaTiiputraに作り、六師外道の一。懐疑論、又は消極主義を標せるが如し。『大智度論巻3上注:六師外道』参照。
他日其師寢疾。舍利弗在頭邊立。大目連在足邊立。喘喘然其命將終。乃愍爾而笑。二人同心俱問笑意。 他日、其の師は、疾(やまい)に寝(い)ね、舎利弗は、頭の辺に在りて立ち、大目揵連は足の辺に立てり。喘喘然として、其の命将(まさ)に終らんとするに、乃(すなわ)ち愍爾として笑うに、二人は心を同じうして、倶に笑意を問えり。
他の日、
其の、
『師』が、
『疾(やまい)』に、
『寝た!』ので、
『舎利弗』が、
『頭の辺』に、
『立ち!』、
『大目揵連』が、
『足の辺』に、
『立っている!』と、
『師』は、
ぜいぜいと、
『息』を、
『喘がせて!』、
今にも、
『命』が、
『終ろうとする!』時、
ようやく、
『哀れんで!』、
『笑った!』。
『二人』は、
『心』を、
『同じうする!』と、
いっしょに、
『笑い!』の、
『意味』を、
『問うた!』。
  喘喘然(ぜんぜんねん):ぜいぜいと喘ぐさま。
  愍爾(みんじ):不憫に思うさま。哀れむさま。
師答之言。世俗無眼為恩愛所侵。我見金地國王死。其大夫人自投火[卄/積]求同一處。而此二人行報各異生處殊絕。 師の之に答えて言わく、『世俗には眼無く、恩愛の為めに侵さる。我れは金地国の王死して、其の大夫人の自ら火[卄/積]に投ぜしを見る。同一の処を求むるも、此の二人は、行報各異なれば、生処も殊絶せり』と。
『師』は、
『二人』に答えて、こう言った、――
『世俗』には、
『眼』が、
『無い!』ので、
常に、
『恩愛(親親の情愛)』に、
『侵されている!』。
わたしには、
見えているのだ、――
『金地国』の、
『王』が、
『死ぬ!』と、
其の、
『大夫人(王妃)』が、
自ら、
『火』中に、
『身』を、
『投じて!』、
『同一』の、
『処』に、
『生まれようとした!』のが。
此の、
『二人』は、
『行業』の、
『果報』が、
『異なっている!』ので、
『生まれる!』、
『処』も、
『異なっている!』のに、と。
  金地国(こんじこく):梵名svarNabhuumiに作り、西紀前三世紀、阿育王、華子城に於いて第三結集を行いし後、伝道師を各地に派遣せし時、鬱怛羅uttara、須那迦sonaka、二人の仏教を伝えし地として、名有る国なり。「賢愚経巻7」に、「一時仏、舎衛国祇樹給孤獨園に在り、その時、国王を波斯匿と名づく。時に于いて南方に国有り、名を金地と為し、その王を劫賓寧と字づく。王に太子有り、摩訶劫賓寧と名づく。その父崩背し、太子位を嗣ぐ、体性聡明、大力勇健、統ぶる所の国土は三万六千なり、云々」と云えり。また「善見律毘婆沙巻2」、「大智度論巻11」等に出づ。<(丁)
  [(草-早)/積](しゃく):積聚せる薪。
  行報(ぎょうほう):行業の果報。
  殊絶(しゅぜつ):懸け隔たる。
是時二人筆受師語。欲以驗其虛實。後有金地商人。遠來摩伽陀國。二人以疏驗之果如師語。乃憮然歎曰。我等非其人耶。為是師隱我耶。二人相與誓曰。若先得甘露要畢同味。 是の時、二人は、師の語を筆受し、以って其の虚実を験(ため)さんと欲するに、後に有る金地の商人、遠く摩伽陀国に来たれば、二人の疏を以って之を験すに、果して師の語の如くなれば、乃ち憮然として、歎じて曰わく、『我等は其の人に非ずや。是れ師の我れに隠したるや』、と。二人の相与(とも)に誓うて曰わく、『若し先に甘露を得たらん、要(かな)らず畢(つい)に味わうを同じうせん』、と。
是の時、
『二人』は、
『師』の、
『語』を、
『筆受して!』、
其の、
『虚実』を、
『験(ため)そう!』と、
『思った!』。
後に、
『金地国』の、
有る、
『商人』が、
『遠く!』の、
『摩伽陀国』に、
『来る!』と、
『二人』は、
此の、
『疏(書付け)』を以って、
『師』の、
『言葉』を、
『験した!』が、
『果して!』、
『師』の、
『語った通りであった!』。
『二人』は、
がっかりして、こう言った、――
わたしたちは、
其の、
『人ではなかったということか?』。
是れを、
『師』は、
わたしたちに、
『隠していたのだろうか?』、と。
『二人』は、
互いに誓いながら、こう言った、――
若し、
先に、
『甘露』の、
『法』を、
『得たとしても!』、
要(かな)らず、
皆、
『味わう!』のは、
『同じにしよう!』、と。
  (そ):箇条書き。書付け。
  憮然(むねん):失意の状態。がっかりして。
  (ひつ):みな。皆。
是時佛度迦葉兄弟千人。次遊諸國到王舍城頓止竹園。二梵志師聞佛出世。俱入王舍城欲知消息。 是の時、仏は、迦葉兄弟と千人を度し、次いで諸国に遊び、王舎城に到りて、竹園に頓止したまえるに、二梵志師は、仏の世に出でたもうを聞きて、倶に王舎城に入り、消息を知らんと欲す。
是の時
『仏』は、
『迦葉兄弟』と、
『千人の弟子』とを、
『度される!』と、
次に、
諸の、
『国』に、
『遊びながら!』、
『王舎城』に到って、
『竹園』に、
『住(とど)まられた!』。
『二人』の、
『梵志師(婆羅門師)』は、
『仏』が、
『世』に、
『出られた!』と、
『聞いて!』、
いっしょに、
『王舎城』に、
『入り!』、
『仏』の、
『消息』を、
『知ろうとした!』。
  迦葉兄弟(かしょうきょうだい):漚楼頻螺迦葉uruvilvaa- kaazyapa、那提迦葉nadii-k.、伽耶迦葉gayaa-k.の迦葉三兄弟。また三迦葉とも称す。本、事火外道を信奉し、その頭上に結髪すること螺髻形なれば、故にまた螺髪梵志jaTilaと称す。三兄弟は弟子千人を領して、摩竭陀国に住す、時に名望有る長老たるが故に、四方より帰信雲集せり。後に仏、種種の神通を示現して化度したまい、遂に仏弟子と成るに及び、火を祭る器具を皆尼連禅河に投ぜり。また「中阿含経巻11」、「普曜経巻8」、「中本起経巻上」、「仏所行讃巻4」、「五分律巻16」、「四分律巻32」等に出づ。<(佛)、『大智度論巻3上:迦葉三兄弟』参照。
  竹園(ちくおん):即ち迦蘭陀竹園(梵名kaaraNDa- veNuuvana)、また竹園精舎とも称し、王舎城辺の精舎を指す。『大智度論巻3上注:竹園』参照。
  頓止(とんし):駐留。停留。
爾時有一比丘。名阿說示。(五人之一)著衣持缽入城乞食。舍利弗見其儀服異容諸根靜默。就而問言。汝誰弟子師是何人。 爾の時、一比丘の阿説示と名づくる有り、衣を著け、鉢を持して、城に入り、乞食す。舎利弗、其の儀服の異容たると、諸根の静黙たるを見るに、就(よ)りて問うて言わく、『汝は、誰が弟子にして、師は是れ何人ぞ』、と。
爾の時、
『阿説示』と、
『呼ばれる!』、
『一り!』の、
『比丘』が、
『有り!』、
『身』に、
『衣』を、
『著()け!』、
『手』に、
『鉢』を、
『持つ!』と、
『城』に、
『入って!』、
『乞食していた!』。
『舎利弗』は、
其の、
『威儀』を、
『正した!』、
『服装(法服)』が、
『異容であり!』、
諸の、
『根(眼耳鼻舌身意)』が、
『静黙である!』のを、
『見て!』、
『側に寄り!』、
『比丘』に問うて、こう言った、――
お前は、
誰の、
『弟子で!』、
お前の、
『師』は、
『何という!』、
『人か?』、と。
  阿説示(あせつじ):巴梨名assaji、梵名azvajit、 azvaka、また阿湿縛氏多、阿輸波踰祇多、阿湿縛伐多、阿首婆耆、阿輸波祇、阿捨婆耆、阿奢踰時、阿溼婆恃、阿奢婆闍、阿湿波誓、阿摂哆、阿闍都、阿輸実、阿湿薄迦、阿説可、阿湿婆、阿湿繋、跋智致、舎婆耆、頞脾、頞鞞、安陛、阿鞞、阿輸、阿摂等に作り、馬勝、馬星、馬師、または調馬と訳す。五比丘の一。威儀端正を以って名あり。「増一阿含経巻3」に、「我が声聞中第一比丘、威容端正行歩庠序たるは、謂わゆる馬師比丘これなり」と云えり。「仏本行集経巻25、巻34、巻48」等に依れば、初め阿若憍陳如等と共に悉多太子の苦行に親侍し、後これを捨てしが、鹿苑初転法輪に於いて帰仏し、証悟することを得たり。曽て王舎城竹園精舎に在りし時、一衣一鉢、城中に行乞せしに、その威儀進退頗る度に合せしかば、衆人これを見て、これ必ず釈種子ならんとし、歎賞措かず。時に舎利弗は久しく勤苦修道するも、なお心中の安慰を得ず。遇ま阿説示に邂逅して、その容止威儀の殊勝なるに服し、その師の誰なるか、その教の何なるかを問うに、彼れ即ち縁起法頌を説いて曰く、「諸法の因より生ずるもの、彼の法は因に随って滅す。因縁滅すれば即ち道なり。大師の説かくの如し」と。舎利弗これを聞いて遂に仏の許に至り、弟子の列に加われりと。また「大毘婆沙論巻129」に依るに、阿説示は嘗て室羅筏城誓多林に在りて、諸の四大種は何の処に滅するやを知らず。入定して次第に大梵天に至り、梵王に面してこれを問うに、彼れまたこれを知らず、而も矯乱答をなして師を衆外に引出せしことを記せり。これ諂、誑の二煩悩が初禅にも通ずる事例として諸論に引用せらるる所なり。また「仏所行讃巻3、巻4」、「過去現在因果経巻3、巻4」、「方広大荘厳経巻6、巻12」、「普曜経巻4、巻8」、「仏本行経」、「中本起経巻上」、「四分律巻32、巻33」、「五分律巻15、巻16」、「有部毘奈耶雑事巻27、巻30」、「大智度論巻11、巻18」等に出づ。<(望)
  儀服(ぎふく):威儀を正した服装。比丘は城中に入るとき大衣を身に著けて威儀を正す。
  異容(いよう):普通でない容子。
  (しゅう):つく。そばに行く。そばに寄る。
答言。釋種太子厭老病死苦出家。學道得阿耨多羅三藐三菩提。是我師也。 答えて言わく、『釈種の太子、老病死の苦を厭うて、家を出で、道を学びて阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。是れ我が師なり』、と。
答えて、こう言った、――
『釈種』の、
『太子』が、
『老、病、死』の、
『苦』を、
『厭い!』、
『家』を、
『出て!』、
『道』を、
『学び!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られました!』。
是れが、
わたしの、
『師です!』、と。
舍利弗言。汝師教授為我說之。即答偈曰
 我年既幼稚  學日又初淺 
 豈能宣至真  廣說如來義
舎利弗の言わく、『汝が師の教え授くる、我が為めに之を説け』、と。即ち答えて偈に曰わく、
我が年既に幼稚なるも、学日又初めて浅し、
豈に能く至真を宣べて、広く如来の義を説かんや。
『舎利弗』は、
こう言った、――
お前の、
『師』の、
『教え!』、
『授けた!』所を、
わたしに、
『説いてくれ!』、と。
そこで、『偈』を答えて、こう言った、――
わたしの、
『年』は、
『もとより!』、
『幼稚です!』が、
『学び!』の、
『日』も、
『初まったばかりです!』。
何うして、
『真実』を、
『宣べたり!』、
『如来の義』を、
『広く!』、
『説くことができましょう?』、と。
  (き):すでに。おえる。もとより。訖。
  至真(ししん):真のいたり。真実。
舍利弗言。略說其要。 舎利弗の言わく、『略して、其の要を説け』、と。
『舎利弗』は、
こう言った、――
略して、
其の、
『要(かなめ)』を、
『説け!』、と。
爾時阿說示比丘。說此偈言
 諸法因緣生  是法說因緣 
 是法因緣盡  大師如是說
爾の時、阿説示比丘の此の偈を説いて言わく、
諸法は因縁により生じ、是の法は因縁なりと説き、
是の法は因縁により尽くと、大師は是の如く説きたもう。
爾の時、
『阿説示比丘』は、
『偈』を説いて、こう言った、――
諸の、
『法』は、
『因縁』により、
『生じ!』、
是の、
『法』が、
『因縁である!』と、
『説かれ!』、
是の、
『法』は、
『因縁』により、
『尽きる!』と、
『大師』は、
是のように、
『説かれました!』、と。
舍利弗聞此偈已即得初道。還報目連。目連見其顏色和悅迎謂之言。汝得甘露味耶。為我說之。舍利弗即為其說向所聞偈。 舎利弗は、此の偈を聞き已りて、即ち初道を得れば、還って目連に報ず。目連は、其の顔色の和悦なるを見て、迎えて之に謂って言わく、『汝、甘露味を得たりや。我が為めに之を説け』、と。舎利弗は即ち其れが為めに、向(さき)に聞きし所の偈を説く。
『舎利弗』は、
此の、
『偈』を、
『聞く!』と、
すぐに、
『初道』を、
『得た!』ので、
還って、
『目連』に、
『知らせた!』。
『目連』は、
『舎利弗』の、
『顔色』が、
『和み!』、
『悦ぶ!』のを、
『見ながら!』、
『迎えて!』、
『舎利弗』に、
こう言った、――
お前は、
『甘露』の、
『味』を、
『識ったのだな?』。
わたしにも、
其の、
『味』を、
『説け!』、と。
『舎利弗』は、
すぐに、
先ほど、
『聞いばかり!』の、
『偈』を、
『目連』に、
『説いた!』。
目連言。更為重說。即復為說。亦得初道。 目連の言わく、『更に為めに重ねて説け』、と。即ち復た為めに説くに、亦た初道を得たり。
『目連』は、
こう言った、――
もう一回、
『説いてくれ!』、と。
そこで、
復た、
『説く!』と、
『目連』も、
亦た、
『初道』を、
『得たのである!』。
二師與二百五十弟子俱到佛所。佛遙見二人與弟子俱來。告諸比丘。汝等見此二人在諸梵志前者不。 二師は、二百五十の弟子と倶に、仏所に到れり。仏の遙かに二人の弟子と倶に来たるを見、諸の比丘に告げたまわく、『汝等、此の二人の、諸の梵志の前に在る者を見るや不や』、と。
『二り!』の、
『師(舎利弗、目連)』は、
『二百五十』の、
『弟子』を、
『引き連れて!』、
『仏の所』に、
『到った!』。
『仏』は、
遙かに、
『二人』が、
『弟子』を、
『引き連れて!』、
『来る!』のを、
『見る!』と、
諸の、
『弟子』に、こう告げられた、――
お前たちは、
見たか?――
此の、
『二人』が、
諸の、
『梵志』を、
『引き連れて!』、
『来るのを!』、と。
諸比丘言。已見。 諸の比丘の言わく、『已に見たり』、と。
諸の、
『比丘』は、
こう言った、――
『見ました!』、と。
佛言。是二人者。是我弟子中智慧第一神足第一。弟子 仏の言わく、『是の二人とは、是れ我が弟子中の智慧第一と、神足第一の弟子なり』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
是の、
『二人』とは、
わたしの、
『弟子』中の、
『智慧』が、
『第一』の、
『弟子!』と、
『神足』が、
『第一』の、
『弟子である!』、と。
大眾俱來以漸近佛。既到稽首在一面立俱白佛言。世尊。我等於佛法中欲出家受戒。 大衆は、倶に来たりて、以って漸く仏に近づき、既に到りて稽首し、一面に在りて立ち、倶に仏に白して言さく、『世尊、我等、仏法中に出家し、受戒せんと欲す』、と。
『大衆』は、
揃って、
『来た!』が、
ゆっくりと、
『仏』に、
『近づきながら!』、
『仏の所』に、
『到り!』、
『稽首して!』、
『壁』の、
『一面』に、
『立つ!』と、
皆、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
わたし達は、
『仏』の、
『法』中に、
『出家し!』、
『戒』を、
『受けたい!』と、
『思います!』、と。
佛言。善來比丘。即時鬚髮自落法服著身。衣缽具足受成就戒。 仏の言わく、『善く来たり、比丘』、と。即時に鬚髪を自ら落とし、法服を身に著けて、衣鉢具足し、成就戒を受く。
『仏』は、
こう言われた、――
『善く!』、
『来た!』、
『比丘!』、と。
『大衆』は、
即時に、
『髭(ひげ)』と、
『髪(かみ)』とを、
『自ら!』、
『落とし!』、
『法服』を、
『身』に、
『著け!』、
『衣』と、
『鉢』とを、
『具足し!』、
『成就戒(具足戒)』を、
『受けた!』。
  成就戒(じょうじゅかい):涅槃を成就する戒の意。即ち具足戒なり。
  具足戒(ぐそくかい):梵語鄔波三鉢那upasaMpannaの訳、原義は完成に向かっての意、涅槃に親近するの義なり。即ち比丘及び比丘尼の受くる所の戒にして、戒品具足し、沙弥所受の十戒等の如き未具足に非ざるが故に、この称あり。この戒を大別するに波羅夷paaraajika、僧残saMgha- avazeSa、不定aniyata、捨堕naiHsargika- paayattika、単堕paayattika、波羅提提舎尼pratidezaniiya、衆学zaikSadharma、滅諍adhikaraNa- zamathaの八種あり。然るに諸律にこれ等の戒数を説くことやや同じからず。就中、比丘戒に関し、四分律には波羅夷に四、僧残に十三、不定に二、捨堕に三十、単堕に九十、波羅提提舎尼に四、衆学に一百、滅諍に七を列ね、総じて二百五十戒とす。十誦律には衆学に一百七を立て、総じて二百五十七戒とし、五分律にては、単提に一を増し九十一となすが故に、総じて二百五十一戒あり。摩訶僧祇律には、単堕に九十二、衆学に唯六十六を立て、総じて二百十八戒とし、善見律毘婆沙にては、衆学を七十五となすが故に総じて二百二十五戒を成し、巴梨戒本には、単堕に九十二、衆学に七十五ありとなすを以って総じて二百二十七戒とし、西蔵戒本には、衆学に百七ありとなすを以って総じて二百五十七戒となるなり。また比丘尼戒に関し、四分律には、波羅夷に八、僧残に十七、捨堕に三十、単堕に百七十八、波羅提提舎尼に八、衆学に一百、滅諍に七を立て、凡べて三百四十八戒とし、十誦律には、衆学に一百七を立て、総じて三百五十五戒とし、五分律には、単堕に二百十を立て、総じて三百八十戒とし、摩訶僧祇律には、僧残を欠き、単堕に百四十一、衆学に六十四を立つるを以って総じて二百七十七戒あり。善見律毘婆沙及び巴梨戒本には、単堕に百六十六、衆学に七十五を立つるが故に、総じて三百十一戒あり。西蔵戒本には、僧残に二十、捨堕に三十三、単堕に百八十、波羅提提舎尼に十一、衆学に百十二を立つるが故に、総じて三百七十一戒あり。かくの如く具足して諸戒を受くるを以って、これを具足戒と名づくるなり。凡そこれ等の具足戒を受けんと欲する者は、少壮にして能く事に当るに堪え、身体強健にして諸根具足し、病患聾盲等の衆患なく、身器清浄にして、辺罪、犯比丘尼、賊住等の雑過なく、出家の相を具し、髪を剃り袈裟を被り、而して既に沙彌戒を受けたる者に限り、またその年齢は、満二十歳以上、七十歳未満をその本制となす。「四分律巻34」に、「年未だ二十に満たざる者には具足戒を授くべからず。何を以っての故にか、もし年未だ二十に満たざれば、寒熱、飢渇、風雨、蚊虻、毒虫を忍ぶに堪えず、及び悪言を忍ばず、もし身に種種の苦痛あれば忍ぶに堪えず、また持戒及び一食に堪えず、もし度して出家し具足戒を受けしむれば、まさに法の如く治すべし。阿難まさに知るべし、年二十に満たば如上の衆事に堪忍せん」と云い、また「善見律毘婆沙巻2」に阿育王子摩哂陀受具の事を記し「目揵連子帝須を和尚となし、摩訶提婆阿闍梨となりて十戒を授け、大徳末闡提阿闍梨となりて具足戒を与う。この時、摩哂陀年二十に満つ。即ち具足戒を受け、戒壇の中に於いて三達智を得、六神通を具し、漏尽き羅漢となる」と云えるに見てその制を知るべし。また「毘尼母経巻1」、「十誦律巻21」、「五分律巻16」、「摩訶僧祇律巻43」、「根本説一切有部百一羯磨巻1」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」等に出づ。<(望)
過半月後佛為長爪梵志說法。時舍利弗得阿羅漢道。 半月を過ぎて後、仏は、長爪梵志の為めに法を説きたまい、時に舎利弗は、阿羅漢道を得たり。
『半月』が、
『過ぎた!』後、
『仏』は、
『長爪梵志』に、
『法』を、
『説かれた!』が、
その時(その頃)、
『舎利弗』は、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得た(識った)!』。
  長爪梵志(ちょうそうぼんし):長爪は梵名diirgha- nakhaの訳。又摩訶倶郗羅mahaa- kauSThilaとも称し、大膝と訳す。舎利弗の舅(おじ)。本梵志たりしも、舎利弗に従って仏に帰順す。『大智度論巻1、巻3上注:長爪梵志』参照。
所以半月後得道者。是人當作逐佛轉法輪師。應在學地現前自入諸法種種具知。是故半月後得阿羅漢道。 半月の後に道を得たる所以(ゆえ)とは、是の人は、当に仏を逐うて転法輪の師と作るべければ、応に学地に在りて、現前に自ら諸法に入り、種種に具に知るべし。是の故に、半月の後に、阿羅漢道を得たり。
『半月』後に、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得た!』、
『理由』とは、――
是の、
『人』は、
『仏』に、
次いで、
『転法輪』の、
『師』と、
『作らなくてはならない!』が、
当然、
『学地』に於いて、
『現前に(現実に)!』、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『入ったり!』、
種種に、
『具体的に!』、
『知らなくてはならなかった!』ので、
是の故に、
『半月』後に、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得たのである!』。
  学地(がくじ):阿羅漢の位を無学地と称し、それ以外の須陀洹乃至阿那含の聖者を学地と称す。即ち三道中の見諦道、思惟道を云う。『大智度論巻3下注:三道』参照。
如是等種種功德甚多。是故舍利弗雖是阿羅漢。佛以是般若波羅蜜甚深法。為舍利弗說。 是の如き等の種種の功徳甚だ多く、是の故に舎利弗は、是れ阿羅漢なりと雖も、仏は是の般若波羅蜜の甚深の法を以って、舎利弗の為めに説きたまえり。
是れ等のように、
種種の、
『功徳』が、
『舎利弗』には、
『甚だ多い!』ので、
是の故に、
『舎利弗』は、
『阿羅漢である!』が、
『仏』は、
是の、
『般若波羅蜜』という、
『甚だ深い!』、
『法』を、
『舎利弗』の為めに、
『説かれた!』のである。
  甚深(じんじん):甚だ深い。
問曰。若爾者何以初少為舍利弗說。後多為須菩提說。若以智慧第一故應為多說。復何以為須菩提說。 問うて曰く、若し爾(しか)らば、何を以ってか、初の少しを、舎利弗の為めに説き、後の多くを、須菩提の為めに説きたまえる。若し智慧第一なるを以っての故なれば、応に為に多く説きたもうべし。復た何を以ってか、須菩提の為めに説きたまえる。
問い、
若し、
そうならば、
何故、
『初』の、
『少し!』を、
『舎利弗』の為めに、
『説き!』、
『後』の、
『多く!』を、
『須菩提』の為めに、
『説かれたのですか?』。
若し、
『智慧』が、
『第一である!』が故に、
『説かれた!』とすれば、
当然、
『舎利弗』の為めに、
『多く!』、
『説かれたはずです!』。
いったい、
何故、
『須菩提』の為めに、
『多く!』、
『説かれたのですか?』。
  須菩提(しゅぼだい):梵名subhuuti、また須浮帝、須扶提、蘇部底、藪浮帝修、浮帝、蘇補底、或は須楓に作る。善現、善実、善吉、善業、或は空生と訳す。十大弟子の一。舎衛国婆羅門の子なり。「中阿含巻43拘楼痩無諍経」に、「須菩提族姓子は、無諍道を以って後に於いて法を知ること法の如し」と云い、また「大毘婆沙論巻179」、「大智度論巻53」等には、師は無諍三昧に住すること第一なりと云えり。帰仏の因縁に関しては、「撰集百縁経巻10須菩提悪性縁」の條に、師は舎衛国負棃婆羅門の子にして、名を負棃(bhuuti)と云い、また端正殊妙なるが故に須菩提と名づく。智慧聡明にして及ぶ者なし。初め悪性にして眼に見る所悉く瞋罵せざるはなく、遂に父母親属の厭患する所となり、家を捨てて山林に入る。時に山神あり、師を導いて祇洹に到り仏に謁せしむ。仏為に瞋恚の過患を説くに、師乃ち自ら悔責して罪咎を懺悔し、豁然として須陀洹果を得、尋いで阿羅漢果を証せりと云えり。これ仏に帰して瞋心を止め、遂に得道せしを以って、名づけて無諍第一となせしものなるべし。然るに唐法邃撰の「譬喩経巻1(経律異相巻13並びに玄応音義巻13所引)」には、舎衛国に大長者あり、鳩留と名づく。空中天に祈りて一男を設け、須菩提と名づく。色像第一、聡明にして辯才あり、貴賎に推敬せらる。一日食を索むるにその母、婢をして食器を洗いて空ならしめ、食なしと答う。然るに師その器を開くに、中に自然香美の百味の食あり、共に食して皆安隠なるを得たり。父母兄弟始めてその非凡なるを知り、尋いで仏菩薩大衆を請じて食を設くるに、師は自ら出家せんことを求め、父の許を得、仏に随って祇洹に赴き、即ち沙門となりて阿羅漢果を証せりと云い、また「法華経文句巻2上」には、師の生まれし時、家中の倉庫筺篋器皿一切皆空となりしに依りて空生と名づけ、空行を修せしが故に善業と名づくと云えり。これ等は師が解空第一と称せられしより起こりたる伝説なるべし。また「増一阿含経巻28」に依るに、仏は一夏忉利天に上り、尋いで閻浮里地に降下せられし時、師は適ま耆闍崛山中に在りて衣裳を縫えり。即ち座より起ちて仏を礼せんとせしが、その時思えらく、如来の形は何者なりや、世尊はこれ眼耳鼻舌身意とせんや、往きて見ん者はまたこれ地水火風とせんや。一切諸法は皆悉く空寂にして造なく作なし。諸法皆悉く空寂ならば、何者かこれ我なる。我れ今真の法聚に帰命すと。則ち還た坐して衣を縫う。時に世尊は、善業は先づ仏を礼せり、最初にして過ぐる者なし、空無解脱門はこれ礼仏の義なりと讃ぜられたりと云い、また「同巻6」には、釈提桓因が一日師の苦患を問いしに対し、師は一切の所有は皆空に帰し、我なく人なく寿なく命なく士なく夫なく形なく像なく男なく女なしと答えたることを記し、また「同巻3弟子品」には、「恒に空定を楽しみ、空の義を分別するは謂わゆる須菩提比丘これなり。志空寂微妙の徳業に在るはまた須菩提比丘なり」と云えり。これ等は師の解空の徳を嘆じたるなり。諸部の般若に皆師が般若波羅蜜を説けりとなせるは、即ちこの説に基づけるものなるを知るべし。また「阿羅漢具徳経」、「賢愚経巻6富那奇縁品」、「大智度論巻5、巻11」、「注維摩詰経巻3」等に出づ。<(望)
  摩訶般若波羅蜜経:吉蔵の「大品経義略序」に、初の六品は仏自ら宗を開き、舎利弗を対告として上根の人の為に説き、第七三仮品以下の三十八品は須菩提に命じて中根の人の為に説かしめ、第四十五聞持品以下の四十六品は重ねて下根の諸天及び人の為に説けるものなりとなせり。<(望)
答曰。舍利弗佛弟子中智慧第一。須菩提於弟子中。得無諍三昧最第一。無諍三昧相常觀眾生不令心惱多行憐愍。諸菩薩者弘大誓願以度眾生憐愍相同。是故命說 答えて曰く、舎利弗は仏弟子中の智慧第一にして、須菩提は弟子中の無浄三昧を得ること最も第一なり。無浄三昧の相は、常に衆生を観るも、心をして悩ましめざれば、多くは憐愍を行じ、諸の菩薩は、大誓願を弘くして、以って衆生を度すれば、憐愍の相同じなり。是の故に命じて説かしめたまえり。
答え、
『舎利弗』は、
『仏』の、
『弟子』中の、
『智慧』が、
『第一であり!』、
『須菩提』は、
『弟子』中の、
『無浄三昧を得る!』ことに於いて、
『最も!』、
『第一である!』。
『無浄三昧』の、
『相』とは、
常に、
『衆生』を、
『観察して!』、
『衆生』の、
『心』を、
『悩ませない!』ことであり、
『多く!』は、
『憐愍(哀れみ!)』を、
『行う!』ことであるが、
諸の、
『菩薩』ならば、
弘く、
『大誓願』を
『起して!』、
『衆生』を、
『度す!』ので、
『憐愍』という、
『相』は、
『同じである!』、
是の故に、
『須菩提』に、
『命じて!』、
『説かせられた!』。
  無諍三昧(むじょうさんまい):梵語araNa- samaadhi、空理に住して他と無諍なる三昧をいう。仏弟子中、解空第一の須菩提は最も空理を解す、故に弟子中の所得の無諍三昧に於いて最も第一となす。即ち、「大品般若経巻3勧学品第八」に、「その時、須菩提は仏に白して言さく、世尊、菩薩摩訶薩は檀那波羅蜜を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜、般若波羅蜜を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし、眼乃至意を知らんと欲せば、色乃至法を知らんと欲せば、眼識乃至意識を知らんと欲せば、眼触乃至意触を知らんと欲せば、眼触因縁生の受乃至意触因縁生の受を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。(中略)舎利弗の須菩提に語らく、云何が心相の常浄と名づく。須菩提の言わく、もし菩薩、この心相は婬怒癡と不合不離、諸の纏流縛、若しくは諸の結使、一切の煩悩と不合不離、声聞、辟支仏の心と不合不離なりと知れば、舎利弗、これを菩薩の心相の常浄と名づくと。舎利弗の須菩提に語らく、この無心相の心有りや不や。須菩提の舎利弗に報えて言わく、無心相中に、有心相、無心相を得べしや不や。舎利弗の言わく、得べからず。須菩提の言わく、もし得べからずんば、まさにこの無心相の心有りや不やと問うべからず。舎利弗の復た問わく、何等かこれ無心相なる。須菩提の言わく、諸法の不壊、不分別は、これを無心相と名づく。舎利弗の復た問わく、須菩提、但だこの心のみ不壊、不分別なりや、色もまた不壊、不分別、乃ち仏道に至るまで不壊、不分別なりや。須菩提の言わく、もし能く心相の不壊、不分別を知れば、この菩薩は亦た能く色乃至仏道の不壊、不分別を知る。その時、慧命舎利弗は須菩提を讃えて言わく、善哉善哉、汝は真にこれ仏子なり、仏の口より生じ、見法より生じ、法化より生ず。法分を取りて財分を取らず、法の中に自ら信じて身に証を得。仏の所説の如く、無諍三昧を得たる中に汝は最も第一なり、実に仏の挙ぐる所の如し」と云えるこれなり。また「悲華経巻4、7」、「大乗悲芬陀利経巻1、3、7」、「小品般若経巻1」、「仏母出生法蔵般若波羅蜜多経」、「金剛般若経」、「旧華厳経巻9、16」、「大宝積経巻102」、「南本涅槃経巻15、30」、「北本涅槃経巻14、28」、「大方等大集経巻3、12」、「維摩詰所説経巻上」、「大智度論巻1、11、17、26、29、32、41、43、53、60、87、100」等に出づ。<(望)
復次是須菩提好行空三昧。如佛在忉利天夏安居受歲已還下閻浮提。 復た次ぎに、是の須菩提は、好んで空三昧を行ず。仏の、忉利天に在りて、夏安居し、受歳し已りて、還(ま)た閻浮提に下りたまえるが如し。
復た次ぎに、
『須菩提』は、
好んで、
『空三昧』を、
『行うから!』である。
例えば、
『仏』が、
『忉利天』に於いて、
『夏安居し!』、
『受歳して!』、
還()た、
『閻浮提』に、
『下られた!』のであるが、――
  夏安居(げあんご):雨期の三ヶ月を定住して過ごすこと。『大智度論巻2上注:夏安居』参照。
  受歳(じゅさい):夏安居の終りに法臈(比丘としての年齢)に一を加うること。
爾時須菩提於石窟中住自思惟。佛從忉利天來下。我當至佛所耶。不至佛所耶。又念言。佛常說。若人以智慧眼觀佛法身。則為見佛中最。 爾の時、須菩提は、石窟中に住して、自ら思惟すらく、『仏、忉利天より来たりて下りたもう。我れは当に仏所に至るべしや、仏所に至らざるべしや』、と。又念じて言わく、『仏は常に説きたまえり。若し人、智慧の眼を以って、仏の法身を観れば、則ち仏を見る中の最と為すと』、と。
爾の時、
『須菩提』は、
『石窟』中に、
『住まって!』、
自ら、こう思惟した、――
『仏』が、
『忉利天』より、
『下って!』、
『来られる!』。
わたしは、
『仏の所』に、
『至って!』、
『迎えるべきだろうか?』、
『仏の所』には、
『至らず!』に、
『迎えるべきだろうか?』、と。
又念じて、こう言った、――
『仏』は、
常に、こう説かれている、――
若し、
『人』が、
『智慧』という、
『眼』で、
『仏』の、
『法身』を、
『観る!』ならば、
『仏』を、
『見る!』中では、
『最も勝れている!』、と。
  法身(ほっしん):梵語dharma- kaaya、tathaagata- dharma- kaayaの訳。肉身の仏に対する語、即ち仏所説の法自体を云う。『大智度論巻5下注:法身』参照。
是時以佛從忉利天下故。閻浮提中四部眾集。諸天見人人亦見天。座中有佛及轉輪聖王諸天大眾。眾會莊嚴先未曾有。 是の時、仏の忉利天より下りたもうを以っての故に、閻浮提中の四部の衆集まれば、諸の天は人を見、人も亦た天を見る。座中には、仏及び転輪聖王、諸天の大衆有りて、衆会を荘厳すること、先には未曽有なり。
是の時、
『仏』が、
『忉利天』より、
『下って!』、
『来られる!』が故に、
『閻浮提』中の、
『四部の衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)』が、
『集まり!』、
諸の、
『天』は、
『人』を、
『見ることになり!』、
『人』も、
『天』を、
『見たのである!』。
『座』中には、
『仏』や、
『転輪聖王』や、
『諸天の大衆』が、
『有って!』、
『多く!』の、
『会』を、
『荘厳した!』のであるが、
先より、
未だ、
『かつて!』、
『無かった!』ことである。
須菩提心念。今此大眾雖復殊特勢不久停。磨滅之法皆歸無常。因此無常觀之初門。悉知諸法空無有實。作是觀時即得道證。 須菩提の心に念ずらく、『今の此の大衆は、復た殊特の勢と雖も、久しくは停まらず、磨滅の法は、皆、無常に帰す』、と。此の無常観の初門に因りて、悉く諸法の空にして、実有ること無きを知り、是の観を作せる時、即ち道の証を得たり。
『須菩提』は、
『心』に、こう念じた、――
今の、
此の、
『大衆』の、
『特殊な!』、
『勢力』でも、
『久しくは!』、
『停まらない!』。
『磨滅する!』、
『法』は、
皆、
『無常』に、
『帰するのだ!』、と。
『須菩提』は、
此の、
『無常観』という、
『初門』に、
『因って!』、
悉くを、こう知った、――
諸の、
『法』は、
『空であり!』、
『実』が、
『有った!』ことは、
『無い!』、と。
是れを、
『観た!』時、
『須菩提』は、
『道』の、
『証(確信)』を、
『得たのである!』。
  磨滅之法(まめつのほう):磨滅する事物の意。
  道証(どうしょう):道を得たとはっきり悟ること。
爾時一切眾人。皆欲求先見佛禮敬供養。有華色比丘尼。欲除女名之惡。便化為轉輪聖王及七寶千子。眾人見之皆避坐起去。化王到佛所已還復本身為比丘尼。最初禮佛。 爾の時、一切の衆人は、皆、先を求めて仏を見て、礼敬し、供養せんと欲するに、華色比丘尼有り、女名の悪を除かんと欲し、便ち化して転輪聖王、及び七宝、千子と為れば、衆人、之を見て、皆避けて坐より起ちて去る。化王、仏所に到り已りて、還(ま)た本の身に復(かえ)り、比丘尼と為りて、最初に仏を礼せり。
爾の時、
一切の、
『衆人』は、
皆、
『先』を、
『争って!』、
『仏』に、
『見(まみ)えて!』、
『敬礼し!』、
『供養したい!』と、
『思っていた!』が、
中に、
『華色比丘尼』が、
『有り!』、
『女』という、
『悪名』を、
『除きたい!』と、
『思っていた!』ので、
『転輪聖王』に、
『化して!』、
『為り!』、
『七宝』や、
『千子』も、
『化して!』、
『作った!』。
『衆人』は、
『華色比丘尼』の、
『化した!』、
『転輪聖王』や、
『七宝』や、
『千子』を、
『見る!』と、
皆、
『避けて!』、
『坐』より、
『起ち!』、
『去っていった!』。
『華色比丘尼』の、
『化した!』、
『転輪聖王』は、
『仏の所』に、
『到る!』と、
還()た、
『本の身』に、
『復(もど)り!』、
『比丘尼』と、
『為って!』、
『最初に!』、
『仏』を、
『礼した!』。
  華色比丘尼(けしきびくに):具さに蓮華色比丘尼と称す。
  蓮華色比丘尼(れんげしきびくに):蓮華色は梵名utpalavarNaaの訳。また蓮華鮮、専華色、華色とも訳し、或は梵漢併挙して優鉢羅色、嗢鉢羅色、優婆羅華とも称す。仏弟子の比丘尼なり。初め鬱禅国人に嫁して懐妊し、父母の家に還りて一女を産む。時にその夫来たりて蓮華色の母と私通するを見、母子一夫を同じくするを不倫となし、産む所の女を捨てて波羅捺城に至り、一長者に迎えられてその婦となる。後長者大に財宝を得、鬱禅国に至りて治生し、適ま蓮華色の産む所の女を見てこれを喜び、百千両金を与えて婦となし、共に携えて波羅捺国に帰る。蓮華色時にその女の生家父母等の名を問い、我が子なることを知り、再び母子一夫を共にするを歎じ、遂に家を捨てて羅閲城迦蘭陀竹園に至り、仏を拝し法を聞きて法眼浄を得、摩訶波闍波提の所に到りて出家し、遂に阿羅漢果を逮得せりと云う。これ「四分律巻6」、「五分律巻4」等に記する所なり。出家以後の事蹟に関し、「四分律巻19」、「十誦律巻19」等に、彼の尼は嘗て舎衛城に入りて行乞し、得る所の食を悉く比丘に与えて自ら取らざりしを以って、飢迫りて路傍に倒る。時に長者過ぎてこれを見、伴いて家に還り所須を供給す。仏これを聞き、諸比丘に対して親里に非ざる比丘尼より食を受くることを制せられたりと記し、また「毘奈耶巻6」、「十誦律巻6」、「有部毘奈耶巻19」等には、尼が嘗て安和林中樹下に於いて端身正坐せし時、五百の群賊あり、その威儀清浄なるを見て信心を生じ、高価の氎を以って一串の肉を裹み、樹上に懸著す。尼乃ち彼の肉を持して祇園中に到りて衆に与え、また好氎を六群比丘に施与し、自ら弊衣を著す。仏これを聞きまた比丘を集め、非親里の比丘尼より衣を得ることを制せられたりと云い、また「大智度論巻13」には、尼は六神通を得て貴人の舎に出入し、常に婦女に対して出家の法を讃ぜしことを記し、「増一阿含経巻28」、「雑阿含経巻23」等には、仏が忉利天に昇りて母の為に説法し、下天せられんとする時、尼は転輪聖王の身を化作し、空より来至して仏を迎え、尋いで本形に復して礼仏せりと云えり。後明を失したるが如く、「生経巻4比丘尼現変経」には、尼が舎衛城に住せし時、凶衆あり来たりて侵淩せんとせしにより、乃ち両目を脱して彼の掌中に著け、以ってその欲心を制したりと云い、「有部毘奈耶雑事巻32」にも亦た略ぼ同説を出し、これを王舎城の婆羅門となし、「大智度論巻14」、「有部毘奈耶破僧事巻10」等には、提婆達多が仏を害せんと企てし時、尼はこれを呵せしに依り、達多怒りて拳を以ってその頭頂を打ち、為に眼目出でて遂に死せりと云えり。また「阿羅漢具徳経」には、「能く善行を行じ、威徳過ぐるものなきは蓮花色苾芻尼これなり」と記し、「生経巻4」、「増一阿含経巻3」には神足第一なりとし、「毘尼母経巻5」には六通具足すと云えり。また「義足経巻下」、「増一阿含経巻4」、「雑阿含経巻45」、「別訳雑阿含経巻12」、「大宝積経巻1」、「四分律巻12」、「有部毘奈耶巻30」、「薩婆多部律摂巻14」等に出づ。<(望)
  参考:『法句譬喩経巻1』:『昔佛在羅閱祇耆闍崛山中。時城內有婬女人。名曰蓮華。姿容端正國中無雙。大臣子弟莫不尋敬。爾時蓮華善心自生。欲棄世事作比丘尼。即詣山中就到佛所。未至中道有流泉水。蓮華飲水澡手。自見面像容色紅輝頭髮紺青。形貌方正挺特無比。心自悔曰。人生於世形體如此。云何自棄行作沙門。且當順時快我私情。念已便還。佛知蓮華應當化度。化作一婦人端正絕世。復勝蓮華數千萬倍尋路逆來。蓮華見之心甚愛敬。即問化人從何所來。夫主兒子父兄中外皆在何許。云何獨行而無將從。化人答言從城中來欲還歸家。雖不相識寧可共還。到泉水上坐息共語不。蓮華言善。二人相將還到水上。陳意委曲。化人睡來枕蓮華膝眠。須臾之頃忽然命絕。[月*逢]脹臭爛腹潰蟲出。齒落髮墮肢體解散。蓮華見之心大驚怖。云何好人忽便無常。此人尚爾我豈久存。故當詣佛精進學道。即至佛所五體投地。作禮已訖具以所見向佛說之。佛告蓮華。人有四事不可恃怙。何謂為四。一者少壯會當歸老。二者強健會當歸死。三者六親聚歡娛樂會當別離。四者財寶積聚要當分散。於是世尊即說偈言 老則色衰  所病自壞  形敗腐朽  命終其然  是身何用  洹漏臭處  為病所困  有老死患  嗜欲自恣  非法是增  不見聞變  壽命無常  非有子恃  亦非父兄  為死所迫  無親可怙  蓮華聞法欣然解釋。觀身如化命不久停。唯有道德泥洹永安。即前白佛願為比丘尼。佛言善哉頭髮自墮。即成比丘尼。思惟止觀即得羅漢。諸在坐者聞佛所說莫不歡喜』
是時佛告比丘尼非汝初禮。須菩提最初禮我。所以者何。須菩提觀諸法空是為見佛法身。得真供養供養中最。非以致敬生身為供養也。 是の時、仏の比丘尼に告げたまわく、『汝、初めて礼するに非ず。須菩提、最も初めに我れを礼せり。所以は何んとなれば、須菩提は、諸法の空を観ずればなり。是れを仏の法身を見ると為し、真の供養を得たり。供養中の最なるは、敬を生身に致すを以って供養と為すに非ず』、と。
是の時、
『仏』は、
『比丘尼』に、こう告げられた、――
お前が、
『初めて!』、
『礼したのではない!』。
『須菩提』が、
わたしを、
『礼する!』、
『最初である!』。
何故ならば、
『須菩提』は、
諸の、
『法』の、
『空』を、
『観た!』からである。
是れは、
『仏』の、
『法身』を、
『見る!』という、
『真』の、
『供養』を、
『識った!』のである。
『供養』中の、
『最も!』、
『勝れた!』、
『供養』とは、
『生身』に、
『敬』を、
『致す!』ことを、
『供養』と、
『為すものではない!』、と。
以是故言須菩提常行空三昧。與般若波羅蜜空相相應。以是故佛命令說般若波羅蜜 是を以っての故に言わく、『須菩提は、常に空三昧を行ずれば、般若波羅蜜の空相と相応す』、と。是を以っての故に、仏は命じて、般若波羅蜜を説かしめたまえり。
是の故に、
こう言ったのである、――
『須菩提』は、
常に、
『空三昧』を、
『行っている!』ので、
『般若波羅蜜』という、
『空相』と、
『相応する!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『須菩提』に、
『命じて!』、
『般若波羅蜜』を、
『説かせられた!』のである。
復次佛以眾生信敬阿羅漢諸漏已盡。命之為說。眾得淨信故。諸菩薩漏未盡。若以為證諸人不信。以是故與舍利弗須菩提共說般若波羅蜜。 復た次ぎに、仏は、衆生の阿羅漢の諸漏已に尽きたるを信敬するに、之に命じて為めに説かしむれば、衆に浄信を得しむるを以っての故なり。諸の菩薩の漏は未だ尽きざれば、若し以って証を為さば、諸人信ぜず。是を以っての故に、舎利弗、須菩提と共に般若波羅蜜を説きたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
こう思われたのである、――
『衆生』は、
諸の、
『漏』の、
『尽きた!』、
『阿羅漢』を、
『信じて!』、
『敬う!』ので、
『阿羅漢』に、
『命じて!』、
『般若波羅蜜』を、
『説かせた!』ならば、
『衆生』は、
『浄い!』、
『信心』を、
『得るはずだ!』。
諸の、
『菩薩』の、
『漏』は、
未だ、
『尽きていない!』ので、
若し、
『菩薩』を、
『用いて!』、
『証(保証)』を、
『為した!』としても、
諸の、
『人』は、
『信じないだろう!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『舎利弗』や、
『須菩提』と、
共同して、
『般若波羅蜜』を、
『説かれた!』のである。
問曰。何以名舍利弗為是父母所作字。為是依行功德立名。 問うて曰く、何を以ってか、舎利弗と名づくる。是れ父母の作す所の字(あざな)と為すや、是れ功徳を行ずるに依って立つる名と為すや。
問い、
何故、
『舎利弗』と、
『呼ばれるのですか?』。
是れは、
『父、母』の、
『作った!』、
『字(呼び名)ですか?』、
是れは、
『功徳』を、
『行う!』に、
『依って!』、
『立てられた!』、
『名ですか?』。
答曰。是父母所作名字。於閻浮提中。第一安樂有摩伽陀國。是中有大城名王舍。王名頻婆娑羅。有婆羅門論議師。名摩陀羅。王以其人善能論故。賜封一邑去城不遠。 答えて曰く、是れ父母の作す所の名字なり。閻浮提中の第一に安楽なるに、摩伽陀国有り。是の中に大城有りて、王舍と名づけ、王を頻婆娑羅と名づく。婆羅門の論議師有り、摩陀羅と名づく。王は、其の人の善く論を能くするが故に、一邑の城を去ること遠からざるを賜いて封ず。
答え、
是れは、
『父、母』の、
『作った!』、
『名字である!』。
『閻浮提』中に、
『第一』に、
『安楽な!』、
『摩伽陀』という、
『国』が、
『有る!』が、
是の中に、
『大城』が有り、
『王舍』と、
『呼ばれていた!』、
『王』を、
『頻婆娑羅』と、
『称した!』。
『摩陀羅』と、
『称する!』、
『婆羅門』の、
『論議師』が有り、
『王』は、
其の、
『人』が、
『論』を、
『善くする!』が故に、
其の、
『人』に、
『城』から、
『遠くない!』、
『一邑』を、
『与えて!』、
『封じた!』。
  頻婆娑羅(びんばしゃら):梵名bimbisaara、摩竭陀国王の名。『大智度論巻3上注:頻婆娑羅』参照。
  摩陀羅(まだら):舎利弗の祖父。
是摩陀羅遂有居家婦生一女。眼似舍利鳥眼。即名此女為舍利。次生一男。膝骨麤大名拘郗羅。(拘郗羅秦言大膝也) 是の摩陀羅は、遂に居家と婦と有りて、一女を生ず。眼の舎利鳥に似たれば、即ち此の女を名づけて、舎利と為す。次に一男を生じ、膝骨麁大なれば、拘郗羅と名づく。
是の、
『摩陀羅』は、
遂に、
『居家(住居)』と、
『婦』とを、
『有して!』、
『一り!』の、
『女(むすめ)』を、
『生んだのである!』が、
『眼』が、
『舎利鳥』に、
『似ていた!』ので、
此の、
『女』を、
『舎利』と、
『呼ぶことにした!』。
次に、
『一り!』の、
『男(むすこ)』を、
『生み!』、
『膝』の、
『骨』が、
『麁大(粗大)であった!』ので、
是れを、
『拘郗羅(大きな膝)』と、
『呼んだ!』。
  居家(こけ):梵語gRha- sthaの訳、家主、家を所有する者の義。又gRhaの訳、住居の義。
  拘郗羅(くちら):梵名mahaa-kauSThila、大膝と訳す。舎利弗の叔父。長爪梵志と称す。『大智度論巻1上、巻3上注:長爪梵志』参照。
  舎利鳥(しゃりちょう):梵名舎利zaariは鳥の名。また舎利弗の母を舎利と名づく。『大智度論巻2下注:舎利弗』参照。
是婆羅門既有居家畜養男女。所學經書皆已廢忘又不業新。 是の婆羅門は、既に居家有りて、男女を畜養すれば、学ぶ所の経書を、皆已に廃忘し、又業新ならず。
是の、
『婆羅門(摩陀羅)』は、
既に、
『居住する!』、
『家』が、
『有り!』、
『男』と、
『女』も、
『畜(たくわ)え!』、
『養っていた!』ので、
前に、
『学んだ!』、
『経書』を、
皆、
『棄てて!』、
『忘れてしまい!』、
又、
『業(学業)』を、
『新にすることもなかった!』。
  廃忘(はいもう):廃止忘却。
是時南天竺有一婆羅門大論議師字提舍。於十八種大經皆悉通利。 是の時、南天竺に一婆羅門の大論議師有り、提舎と字(な)づけて、十八種の大経に皆悉く通利せり。
是の時、
『南天竺』に、
『一り!』の、
『婆羅門』の、
『大論議師』が、
『有り!』、
『提舎』と、
『呼ばれていた!』が、
是の、
『婆羅門』は、
『十八種』の、
『大経』に、
皆、
『悉く!』、
『通利していた!』。
  提舎(だいしゃ):梵名tiSya、吉兆、幸運等の義。舎利弗の父の名。
是人入王舍城。頭上戴火以銅鍱腹。人問其故。便言我所學經書甚多恐腹破裂。是故鍱之。 是の人は、王舎城に入るに、頭上に火を載せ、銅を以って腹に鍱せり。人、其の故を問えば、便ち言わく、『我が学びし所の経書は、甚だ多く、腹の破裂するを恐れて、是の故に、之を鍱す。
是の、
『人』が、
『王舎城』に、
『入ってくる!』とき、
『頭』上には、
『火』を、
『載せ!』、
『腹』には、
『銅板』を、
『巻いていた!』ので、
『人』が、
其の、
『故(わけ)』を、
『問う!』と、
こう言った、――
わたしの、
『学んだ!』所の、
『経書』は、
『甚だ多い!』ので、
『腹』が、
『破裂する!』のを、
『恐れて!』、
是の故に、
『銅板』を、
『腹』に、
『巻いているのだ!』、と。
  (しょう):板金。板金をまく。
又問。頭上何以戴火。答言。以大闇故。 又、『頭上には、何を以ってか、火を載する』と問うに、答えて言わく、『大闇なるを以っての故なり』、と。
又、
こう問うと、――
『頭』上には、
何故、
『火』を、
『載せているのか?』、と。
答えて、
こう言った、――
『闇』が、
『大きいからだ!』、と。
眾人言。日出照明何以言闇。答言。闇有二種。一者日光不照。二者愚癡闇蔽。今雖有日明而愚癡猶黑。 衆人の言わく、『日出でて照明するに、何を以ってか闇と言う』、と。答えて言わく、『闇には二種有り、一には日光の照らさざる、二には愚癡の闇に蔽(おお)わる。今、日の明有りと雖も、愚癡は猶お黒し』、と。
『衆人』は、
こう言った、――
『日』が、
『出ていれば!』、
『照らして!』、
『明るい!』のに、
何故、
『闇だ!』と、
『言うのか?』、と。
答えて、言った、――
『闇』には、
『二種』有り、
一には、
『日』の、
『光』が、
『照らさず!』、
二には、
『愚癡』の、
『闇』が、
『蔽うからだ!』。
今、
『日』が、
『有って!』、
『明るい!』だけに、
『愚癡』は、
『尚更!』、
『黒々としている!』、と。
眾人言。汝但未見婆羅門摩陀羅。汝若見者腹當縮明當闇。是婆羅門逕至鼓邊打論議鼓。 衆人の言わく、『汝は、但だ、未だ婆羅門の摩陀羅を見ず。汝若し見ば、腹は正に縮んで、明も当に闇となるべし』、と。是の婆羅門逕(ただち)に、鼓の辺に至りて、論義の鼓を打てり。
『衆人』は、
こう言った、――
お前は、
まだ、
『婆羅門』の、
『摩陀羅』を、
『見ていないからだ!』。
お前が、
若し、
『摩陀羅』を、
『見たならば!』、
『腹』は、
『縮んでしまい!』、
『明(あかり)』も、
『闇となるだろうよ!』、と。
是の、
『婆羅門』は、
直ちに、
『鼓(たいこ)』の、
『辺(ほとり)』に、
『至り!』、
『論義』の、
『鼓』を、
『打ちならした!』。
  (きょう):ただちに、直。近道。
國王聞之問是何人。眾臣答言。南天竺有一婆羅門名提舍大論議師。欲求論處故打論鼓。 国王の之を聞きて問わく、『是れ何人ぞや』、と。衆臣の答えて言わく、『南天竺に一婆羅門有り、提舎と名づくる大論議師なり、論処を求めんと欲するが故に、論鼓を打てり』、と。
『国王』は、
之を聞いて、こう問うた、――
是れは、
何のような、
『人なのか?』、と。
『衆臣』は、
答えて、こう言った、――
『南天竺』に、
『一り!』の、
『婆羅門』が、
『有り!』、
『提舎』と、
『呼ばれる!』、
『大論議師です!』が、
『論義』の、
『処(対象)』を、
『求めよう!』と、
『思った!』が故に、
『論義』の、
『鼓』を、
『打ち鳴らしている!』のです、と。
王大歡喜即集眾人而告之曰。有能難者與之論議。 王は大に歓喜して、即ち衆人を集め、之に告げて曰わく、『能く難ずる者有らば、之と論義せよ』、と。
『王』は、
大いに、
『歓喜して!』、
すぐに、
『衆人』を、
『集める!』と、
告げて、こう言った、――
『難ずる!』、
『力』の、
『有る!』者は、
此の、
『人』と、
『論義せよ!』、と。
  (なん):論難。論議してやりこめる。
摩陀羅聞之自疑。我以廢忘又不業新。不知我今能與論不。僶俛而來。於道中見二特牛方相觝觸。心中作想。此牛是我彼牛是彼。以此為占知誰得勝。此牛不如便大愁憂而自念言。如此相者我將不如。 摩陀羅の之を聞いて自ら疑うらく、『我れは、廃忘するを以って、又業新ならざれば、我れ今、能く与(とも)に論ずるや、不やを知らず』、と。僶俛にして来たるに、道中に二特牛の相觝觸するを見て、心中に想を作さく、『此の牛は、是れ我れなり。彼の牛は、是れ彼れなり。此れを以って占と為し、誰か勝ちを得るを知らん』、と。此の牛如(し)かざれば、便(すなわ)ち大いに憂愁し、自ら念じて言わく、『此の相の如くんば、我れも将(まさ)に如かざるべし』、と。
『摩陀羅』は、
之を聞いて、自らを疑った――
わたしは、
『学問』を、
『棄てて!』、
『忘れてしまい!』、
『学問』の、
『業』も、
『新しくない!』ので、
わたしには、
今、
『論義』に、
『堪えられるかどうか?』も、
『分らない!』、
わずかの間に、
『論義』の、
『処』に、
『至った!』のであるが、
『道』中、
『二頭』の、
『牡牛』が、
『角を突きあわせている!』のを、
『見て!』、
『心』中、こう思った、――
此方(こちら)の、
『牛』が、
『わたしだ!』、
彼方(あちら)の、
『牛』が、
『彼れだ!』、
此れで、
『占って!』、
誰が、
『勝つのか?』を、
『知ろう!』、と。
果して、
此方の、
『牛』は、
彼方の、
『牛』に、
『及ばなかった!』ので、
大いに、
『愁い!』、
自らを念じて、こう言った、――
此の、
『相』の、
『通りならば!』、
わたしは、
『やっぱり!』、
『及ばないということか!』、と。
  僶俛(みんめん):わずかの間。俯仰の間。又はげみつとめる、勉強。
  (らい):くる。いたる、至。
  特牛(とくご):牡牛。
  觝觸(たいそく):角を突き合わせる。
  (しょう):まさに~べし、当。なお、尚。
欲入眾時見有母人挾一瓶水正在其前躄地破瓶。復作是念。是亦不吉甚大不樂。 衆に入らんと欲する時、有る母人、一瓶の水を挟めるを見るに、正しく其の前に在りて地に躄(たお)れ、瓶を破れり。復た是の念を作さく、『是れも復た不吉なり』と。甚だ大いに楽しからず。
『摩陀羅』が、
『衆』中に、
『入ろうとする!』時、
有る、
『母人』が、
『一瓶』の、
『水』を、
『腋』に、
『挟んでいる!』のが、
『見えた!』が、
ちょうど、
其の、
『前』で、
『地』に、
『倒れ!』、
『瓶』を、
『割ってしまった!』。
『摩陀羅』は、
復たしても、是の念を作した、――
是れも、
やっぱり、
『不吉だ!』、と。
そして、
甚だ、
『大いに!』、
『楽しくなかった!』。
  (ひゃく):たおれる、倒。足がもつれて倒れる。
既入眾中見彼論師。顏貌意色勝相具足。自知不如。事不獲已與共論議。論議既交便墮負處。 既に衆中に入りて、彼の論師を見るに、顔貌、意、色に勝相具足すれば、自ら如かざるを知る。事の獲(え)已らざるに、与共(とも)に論義す。論義既に交わり、便ち負処に堕つ。
『摩陀羅』が、
『衆』中に、
『入って!』、
彼の、
『論師』を、
『見た!』ところ、
彼れの、
『顔貌』にも、
『意欲』にも、
『顔色』にも、
『勝相』が、
『具足していた!』ので、
自ら、
『及ばない!』ことを、
『知った!』、
『摩陀羅』は、
『事』に、
『宜しき!』を、
『得ない!』まま、
『共に!』、
『論義した!』が、
『論義』が、
『交わった!』と、
『思った!』時には、
もう、
『負処』に、
『堕ちてしまった!』。
  顔貌(げんみょう):顔容。
  意色(いしき):心と身。
  勝相(しょうそう):勝者の相。
  負処(ふしょ):勝負に負けること。
王大歡喜。大智明人遠入我國。復欲為之封一聚落。 王は、『大智明の人、遠く我が国に入れり』と、大いに歓喜し、亦た之が為に、一聚落を封ぜんと欲す。
『王』は、
大いに、歓喜して、――
『大智明』の、
『人』が、
『遠く!』より、
わたしの、
『国』に、
『入ってくれた!』、と。
復たしても、
此の、
『人』を、
『一聚落』に、
『封じたい!』と、
『思った!』。
諸臣議言。一聰明人來便封一邑。功臣不賞但寵語論。恐非安國全家之道。今摩陀羅論議不如。應奪其封以與勝者。若更有勝人復以與之。 諸臣の議して言わく、『一聡明なる人来たらば、便ち一邑を封ぜんに、功臣を賞せずして、但だ語論のみを寵せば、恐らく国を安んじ、家を全うする道に非ず。今摩陀羅は、論義如かず、応に其の封を奪いて、以って勝者に与うべし。若し更に勝つ人有らば、復た以って之に与えん』と。
諸の、
『臣』は、
審議して、こう言った、――
『一り!』の、
『聡明な!』、
『人』が、
『来た!』ならば、
『一つ!』の、
『邑(むら)』に、
是の、
『人』を、
『封じる!』として、
若し、
『功労ある!』、
『臣』を、
『賞めず!』に、
但だ、
『論ずる!』、
『語(ことば)』のみを、
『寵愛する!』ならば、
恐らくは、
『国家』を、
『安全にする!』、
『道ではないだろう!』。
今、
『摩陀羅』は、
『論義して!』、
『及ばなかった!』のだから、
其の、
『封地』を、
『奪って!』、
『勝者』に、
『与えるべきだろう!』。
若し、
更に、
『勝つ!』、
『人』が、
『有った!』ならば、
復た、
其の、
『封地』を、
此の、
『人』に、
『与えよう!』、と。
王用其言即奪與後人。 王は、其の言を用いて、即ち奪いて後の人に与えたり。
『王』は、
其の、
『言(ことば)』を、
『用いて!』、
すぐに、
『摩陀羅』より、
『封地』を、
『奪い!』、
『後の人』に、
其の、
『邑』を、
『与えた!』。
是時摩陀羅語提舍言。汝是聰明人。我以女妻汝。男兒相累今欲遠出他國以求本志。 是の時、摩陀羅の提舎に語りて言わく、『汝は、是れ聡明の人なり。我れは女を以って、汝に妻(めあわ)せ、男児も相累(わずら)わせん。今、遠く他国に出で、以って本の志を求めんと欲す』、と。
是の時、
『摩陀羅』は、
『提舎』に語って、こう言った、――
お前は、
『聡明な!』、
『人だ!』。
わたしの、
『女』を、
『お前に!』、
『妻(めあわ)せた!』なら、
『男児』も、
『お前を!』、
『患わすとしよう!』。
今は、
『遠く!』、
『他国』へ、
『出て!』、
『本』の、
『志』を、
『求めたい!』、と。
  (るい):わずらわす。患。煩労。付託。
提舍納其女為婦。其婦懷妊夢見一人。身被甲冑手執金剛。摧破諸山而在大山邊立。覺已白其夫言。我夢如是。 提舎は、其の女を納(い)れて、婦と為すに。其の婦、懐妊して夢に見るらく、『一人、身に甲冑を被(こうむ)り、手に金剛を執り、諸山を摧破して、大山の辺に在りて立つ』。覚め已りて、其の夫に白して言わく、我が夢は是の如しと。
『提舎』は、
其の、
『女』を、
『納()れて!』、
『婦とする!』と、
其の、
『婦』は、
『懐妊して!』、
『夢を見た!』、――
『一り!』の、
『人』が、
『身』には、
『甲冑』を、
『被()け!』、
『手』には、
『金剛』を、
『執り!』、
諸の、
『山』を、
『摧(くじ)いたり!』、
『破ったりしていた!』が、
而し、
『大山』の、
『辺』では、
『立っていた!』と。
『覚める!』と、
其の、
『夫』に白して、こう言った、――
わたしの、
『夢』は、
『是の通りでした!』、と。
  金剛(こんごう):梵名 、巴梨名vajiraの訳。また伐闍羅、跋闍羅、跋折羅、嚩日囉、伐折羅、跋日羅に作る。即ち金中の最剛の義なり。経論中には常に金剛を以って武器及び宝石に比喩するも、ほぼ常に武器の譬喩に用う。金剛を以って武器の比喩と為すは、乃ちその堅固、鋭利にして、よく一切を摧砕し、且つ万物のよく破壊する所に非ざるに因る。また、即ち帝釈、及び密迹力士所持の武器を称して金剛杵と為すは、その何物にも破壊せられず、而も一切を摧破すること、なお金剛の如ければなり。故に経論中には、常に金剛堅固、金剛不壊、金剛身、金剛頂、金剛心と出でて、金剛の如き堅固なる菩提心等の比喩とす。<(佛)
提舍言。汝當生男。摧伏一切諸論議師。唯不勝一人當與作弟子。 提舎の言わく、『汝は、当に男を生むべし。一切の諸の論議師を摧伏して、唯だ一人に勝てず、当に与(ため)に弟子と作るべし。
『提舎』は、こう言った、――
お前は、
『男』を、
『生むだろう!』。
其の、
『男』は、
一切の、
諸の、
『論議師』を、
『屈伏させた!』が、
唯だ、
『一人』には、
『勝てず!』、
其の、
『人』の、
『弟子』と、
『作るだろう!』、と。
舍利懷妊。以其子故。母亦聰明大能論議。 舎利は懐妊するに、其の子を以っての故に、母も亦た聡明にして、大いに能く論義せり。
『舎利』が、
『懐妊する!』と、
其の、
『子』を、
『懐妊した!』が故に、
『母』も、
亦た、
『聡明となり!』、
『大いに!』、
『義』を、
『論じることができた!』。
其弟拘郗羅與姊談論每屈不如。知所懷子必大智慧。未生如是何況出生。即捨家學問至南天竺不剪指爪。讀十八種經書皆令通利。 其の弟の拘郗羅は、姉と談論して、毎(つね)に屈して如かざれば、懐ける所の子の必ず大智慧あらん、未だ生ぜざるに是の如し、何に況んや、出生せんをやと知り、即ち家を捨てて学問し、南天竺に至りて、指の爪を剪(き)らず、十八種の経書を読みて、皆通利ならしむ。
其の、
『弟』の、
『拘郗羅』は、
『姉』と、
『談論する!』と、
毎(つね)に、
『屈して!』、
『及ばない!』ので、
こう知った、――
『姉』の、
『懐く!』所の、
『子』は、
必ず、、
『智慧』が、
『大きいはずだ!』、
未だ、
『生まれてもいない!』のに、
『是れほどでは!』、
況して、
『出生した!』ならば、
『何うなることか?』、と。
そこで、
『家』を、
『捨てて!』、
『学問し!』、
『南天竺』に至る!と、
『指』の、
『爪』も、
『切らずに!』、
『十八種』の、
『経書』を、
『読んで!』、
皆に、
『通利(明通鋭利)した!』。
是故時人號為長爪梵志。姊子既生七日之後。裹以白疊以示其父。其父思惟我名提舍。逐我名字字為憂波提舍。(憂波秦言逐提舍星名) 是の故に、時の人は号して、長爪梵志と為す。姉の子は、既に生まれて七日の後、白畳を以って裹(つつ)み、以って其の父に示す。其の父の思惟すらく、『我が名は提舎なり。我が名字を逐うを字(な)づけて、憂波提舎と為さん』、と。
是の故に、
当時の、
『人』は、
『拘郗羅』を、
『長爪梵志』と、
『呼んだ!』のであるが、
『姉』の、
『子』は、
『生まれて!』、
『七日目に!』、
『白畳(白布)』に、
『包まれて!』、
其の、
『父』に、
『示された!』、
其の、
『父』は、
こう思惟した、――
わたしの、
『名』は、
『提舎である!』、
わたしの、
『名』を、
『襲って!』、
是れを、
『憂波提舎』と、
『呼ぶことにしよう!』、と。
  白畳(びゃくじょう):白い布。
  憂波提舎(うぱだいしゃ):梵名upatiSya、幸運という人の子の名(Name of a son of tiSya)。
是為父母作字。眾人以其舍利所生。皆共名之為舍利弗。(弗秦言子) 是れを父母の作せる字と為す。衆人は、其の舎利の所生なるを以って、皆共に、之を名づけて、舎利弗と為す。
是の、
『憂波提舎』が、
『父母』の、
『作った!』、
『名である!』が、
『衆人』は、
其れが、
『舎利』より、
『生まれた!』ので、
皆、
一様に、
『舎利弗』と、
『呼んでいる!』。
  舎利弗(しゃりほつ):梵名zaariputra、舎利の子の意。
復次舍利弗世世本願。於釋迦文尼佛所作智慧第一弟子。字舍利弗。是為本願因緣名字。以是故名舍利弗。 復た次ぎに、舎利弗の世世の本願は、釈迦文尼仏の所に於いて、智慧第一の弟子と作り、舎利弗と字づけんとなり。是れを本願の因縁の名字と為す。是を以っての故に、舎利弗と名づく。
復た次ぎに、
『舎利弗』の、
『世世』の、
『本願』は、――
『釈迦文尼仏の所』に於いて、
『智慧第一』の、
『弟子』と、
『作って!』、
『舎利弗』と、
『呼ばれたい!』ということであり、
是れが、
『本願』の、
『因縁』の、
『名字である!』。
是の故に、
『舎利弗』と、
『呼ばれている!』。
問曰。若爾者何以不言憂波提舍。而但言舍利弗。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、憂波提舎と言わず、但だ舎利弗と言う。
問い、
若し、
そうならば、
何故、
『憂波提舎』と、
『言わないで!』、
但だ、
『舎利弗』と、
『言うのですか?』。
答曰。時人貴重其母。於眾女人中聰明第一。以是因緣故稱舍利弗 答えて曰く、時の人は、其の母を貴重すればなり。衆(あまた)の女人中、聡明第一なれば、是の因縁を以っての故に、舎利弗と称せり。
答え、
当時の、
『人』は、
其の、
『母』を、
『貴び!』、
『重んじた!』からである。
多くの、
『女人』中に、
『舎利弗』の、
『母』は、
『聡明なる!』こと、
『第一であり!』、
是の、
『因縁』の故に、
『舎利弗』と、
『称した!』のである。



一切種を以って一切法を知る

【經】菩薩摩訶薩欲以一切種知一切法。當習行般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、一切の種を以って、一切の法を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。
『菩薩摩訶薩』は、
一切の、
『種』を、
『用いて!』、
一切の、
『法』を、
『知ろう!』と、
『思う!』ならば、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習って!』、
『行わなければならない!』。
  (しゅ):梵語aakaaraの訳。形状、状態、容姿、表情等の義(form , figure , shape , stature , appearance , external gesture or aspect of the body , expression of the face (as furnishing a clue to the disposition of mind))。又梵語biijakaの訳、種子(seed)、目録(list)等の義。
  一切種(いっさいしゅ):梵語sarvaakaara、又はsarvabiijakaの訳。全形体、有らゆる方法の義(in all forms , in every way)。
  (ほう):梵語dharma、或いはdharmanの訳。確立、安定、法規、法律、慣習、任務、権利、正義(しばしば罰の同義語として)、美徳、道徳、宗教的義務等の義(which is established or firm , steadfast decree , statute , ordinance , law , usage , practice , customary observance or prescribed conduct , duty , right , justice (often as a synonym of punishment) , virtue , morality , religion , religious merit , good works)。蓋し仏教に於いては、名字及び其の指す所の事物、乃至経書及び其の指す所の意義を示す。即ち名・義の総称である。
  一切法(いっさいほう):梵語sarvadharmaの訳。有らゆる要素、存在、事物、現象等の義(All of the constituent elements of existence, all states of existence, all phenomena, all things. )、万物。
【論】菩薩摩訶薩義。如先讚菩薩品中說。 菩薩摩訶薩の義は、先の「讃菩薩品」中に説けるが如し。
『菩薩摩訶薩』の、
『義(意味)』は、
先に、
『讃菩薩品』中に、
『説いた通りである!』。
問曰。云何名一切種。云何名一切法。 問うて曰く、云何が、一切の種と名づけ、云何が、一切の法と名づくる。
問い、
何を、
一切の、
『種』と、
『呼び!』、
何を、
一切の、
『法』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。智慧門名為種。有人以一智慧門觀有以二三十百千萬乃至恒河沙等阿僧祇智慧門觀諸法。 答えて曰く、智慧の門を名づけて、種と為す。有る人は一の智慧門を以って観じ、有るいは二、三、十、百、千、万、乃至恒河沙等の阿僧祇の智慧門を以って、諸法を観ず。
答え、
『智慧』の、
『門』を、
『種』と、
『称する!』。
有る、
『人』は、
『一つ!』の、
『智慧』の、
『門』より、
『観察し!』、
有るいは、
『二つ!』とか、
『三つ!』、
『十お!』、
『百!』、
『千!』、
『万!』、
乃至、
『恒河沙』に、
『等しい!』、
『阿僧祇(無数)』の、
『智慧』の、
『門』より、
諸の、
『法(名+事物、乃至経+意義)』を、
『観察する!』。
  阿僧祇(あそうぎ):梵語asaMkhya、無数と訳す。
今以一切智慧門。入一切種觀一切法。是名一切種。 今、一切の智慧門を以って、一切の種に入り、一切の法を観る、是れを一切種と名づく。
今、
一切の、
『智慧』の、
『門』より、
一切の、
『種』に、
『入り(識り)!』、
一切の、
『法』を、
『観る!』ならば、
是れを、
一切の、
『種』と、
『称する!』。
如凡夫人三種觀。欲求離欲離色故。觀欲色界麤惡誑惑濁重。 凡夫人の三種の観の如きは、欲を離れ、色を離るるを求めんと欲するが故に、欲、色界の麁悪、誑惑、濁重を観る。
例えば、
『凡夫人』の、
『三種』の、
『観』は、
『欲界』と、
『色界』を、
『離れよう!』と、
『求める!』為めの故に、
『欲界』と、
『色界』中に、
『麁悪』、
『誑惑』、
『濁重』を、
『観察する!』。
佛弟子八種觀。無常苦空無我。如病如癰如箭入體惱患。是八種觀入四聖諦中。為十六行之四。 仏弟子の八種の観は、無常、苦、空、無我、病の如き、癰の如き、箭の体に入りたるが如きと、悩患となり。是の八種の観は、四聖諦中に入りて、十六行と為るの四なり。
『仏弟子』の、
『八種』の、
『観』は、
『無常だ!』、
『苦だ!』、
『空だ!』、
『無我だ!』、
『病のようだ!』、
『癰のようだ!』、
『箭が体に入ったようだ!』、
『悩患だ!』と、
『観察する!』が、
是の、
『八種』の、
『観』は、
『四聖諦(苦、集、滅、道)』中に、
『入って!』、
『十六行』と、
『為る!』、
『四種である!』。
  十六行(じゅうろくぎょう):具さに四諦十六行相という。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同注:十六特勝』参照。
  四諦十六行相(したいじゅうろくぎょうそう):梵名ScDazabhir aakaarair visaaritaani catvaary aarya- satyaaniの訳。観行者の加行位に於いて四諦を観ずるに用うる各四行相を云う。即ち苦諦を観ずるに非常anitya、苦duHkha、空zuunya、非我anaatmakaの四行相、集諦を観ずるに因hetu、集samudaya、生prabhava、縁pratyaya、滅諦を観ずるに滅nirodha、静zaanta、妙praNiita、離niHsaraNa、道諦を観ずるに道maarga、如nyaaya、行pratipatti、出nairyaaNikaの四行相を用うるなり。十六行相の名義に関しては、「大毘婆沙論巻79」に両解を出せり。その第一解に依るに、苦諦の四行相の中、苦は傷痛逼迫すること恰も重擔を荷うが如く、聖心に違逆すと観ずるを云い、非常は諸の有為法は唯現在一刹那のみ能く所作あり、及び衆縁に繋属して方に所作あるものなりと観ずるを云い、空は我所見に違するを云い、非我は我見に違するを云う。集諦の四行相の中、因は種子の法の如しと観ずるを云い、集は能く等しく果を出現すと観ずるを云い、生は続起あらしむるを云い、縁は埿団輪縄水等の衆縁和合して瓶を成辦するが如く、能く成辦する所あるを云う。滅諦の四行相の中、滅は五取蘊の永く尽くるを云い、静は有為の相息むを云い、妙は善にして且つ常なるを云い、離は最極安隠なるを云う。道諦の四行相の中、道は邪道に違害するを云い、如は非理に違害するを云い、行は涅槃の宮に趣くを云い、出は永く生死を超度するを云うとなせり。また「倶舎論巻26」に更に一解を出し、苦諦の中、生滅するが故に非常とし、聖心に違するが故に苦とし、此に於いて我なきを空とし、自体非我なるを非我とす。集諦の中、現の総我を執して、総の自体の欲を起すは、苦に於いて初因なるが故にこれを因とし、当の総我を執して、総の後有の欲を起すは、苦に於いて等しく招集するが故に名づけて集となし、当の別我を執して別の後有の欲を起すは、苦に於いて別の縁となるが故に名づけて縁とし、続生の我を執して続生時の欲を起し、或は造業の我を執して造業時の欲を起すは、苦に於いて能く近く生ずるが故に名づけて生となす。滅諦の中、流転断ずるを滅とし、衆苦息むを静とし、更に上なきを妙とし、不退転なるを離とす。道諦の中、世間の正道の如くなるを道とし、如実に転ずるを如とし、定んで能く趣くを行とし、永く三有を離るるを出となすと云い、また十六行相を修するの意を説きて「常と楽と我所と我との見を治せんが為の故に非常苦空非我の行相を修し、無因と一因と変因と知先因との見を治せんが為の故に因集生縁の行相を修し、解脱はこれ無なりとの見を治せんが為の故に滅の行相を修し、解脱はこれ苦なりとの見を治せんが為の故に静の行相を修し、静慮及び等至の楽はこれ妙なりとの見を治せんが為の故に妙の行相を修し、解脱はこれ数退堕し、永に非ずとの見を治せんが為の故に離の行相を修し、無道と邪道と余道と退道との見を治せんが為の故に道如行出の行相を修す」と云えり。以って観行者の行相次第及びその意旨を観るべし。<(望)『大智度論巻2上注:四諦』参照。
十六者。觀苦四種。無常苦空無我。觀苦因四種。集因緣生。觀苦盡四種。盡滅妙出。觀道四種道正行跡。 十六とは、苦を観ずる四種は、無常、苦、空、無我なり。苦の因を観ずる四種は、集、因、縁、生なり。苦の尽を観ずる四種は、尽、滅、妙、出なり。道を観ずる四種は、道、正、行、跡なり。
『十六種』の、
『行』とは、
『苦』を、
『観察する!』、
『四種』は、
『無常(非常)』、
『苦』、
『空』、
『無我(非我)』である。
『苦』の、
『因』を、
『観察する!』、
『四種』は、
『集()』、
『因()』、
『縁()』、
『生()』である。
『苦』の、
『尽きる!』ことを、
『観察する!』、
『四種』は、
『尽()』、
『滅()』、
『妙』、
『出()』である。
『苦滅』の、
『道』を、
『観察する!』、
『四種』は、
『道』、
『正()』、
『行』、
『跡()』である。

四聖諦十六行相(倶舎論巻26に依る)
1 非常 anitya irregular不規則 , unusual非常 , unstable不安定 , uncertain不確実。
2 duHkha uneasiness不安 , pain苦痛 , sorrow悲哀 , trouble悩乱 , difficulty困難。
3 zuunya empty vacant空虚 (as a look or stare) , absent不在 , absentminded , having no certain object or aim 確実な物も目的も無い, distracted惑乱。
4 非我 anaatmaka unreal架空の、虚妄の。
5 hetu " impulse 衝動" , motive動機 , cause原因 , cause of 原因となる, reason for 理由となる。
6 samudaya the aggregate of the constituent elements or factors of any being or existence存在の要因を集める。
7 prabhava production生産 , source , origin起原 , cause of existence存在の原因 (as father or mother , also " the Creator ") , birthplace , springing or rising or derived from 生起。
8 pratyaya belief firm conviction , trust , faith , assurance保証 or certainty of 確実にする。fundamental notion or idea 基礎となる認知。
9 nirodha suppression or annihilation of pain 苦痛の絶滅。
10 zaanta appeased安慰 , pacified平和 , tranquil平穏 , calm冷静 , free from passions情熱からの解放 , undisturbed乱されない。
11 praNiita led forwards 善導, advanced前進、進歩 , brought齎される , offered提供される , conveyed運ばれる。
12 niHsaraNa departure出発 , death final beatitude死、最終的至福。
13 maarga a way道 , manner行儀 method方法 , custom慣習 , usage慣習。
14 nyaaya an original type原型 , standard標準 , method方法 , rule規則 , a general or universal rule原理 , model , axiom公理 , system体系 , plan , manner ,a system of philosophy delivered by gautama釈尊より齎された哲学的体系。
15 pratipatti gaining利得 , obtaining獲得 , acquiring習得 , perception認識 , observation観察 , ascertainment確認 , knowledge知識 , intellect知性。
16 nairyaaNika treating of the manner of dying 死に関する対処法 , conducive to emancipation解放への資助。
出入息中復有十六行。一觀入息。二觀出息。三觀息長息短。四觀息遍身。五除諸身行。六受喜。七受樂。八者受諸心行。九無作喜。十心作攝。十一心作解脫。十二觀無常。十三觀散壞。十四觀離欲。十五觀滅。十六觀棄捨。 出入する息中にも、復た十六行有り。一には入息を観る、二には出息を観る、三には息の長と息の短を観る、四には息の身に遍きを観る、五には諸の身の行を除く、六には喜を受く、七には楽を受く、八には諸の心行を受く、九には無作にして喜び、十には心に摂を作し、十一には心に解脱を作し、十二には無常を観じ、十三には散壊を観じ、十四には離欲を観じ、十五には滅を観じ、十六には棄捨を観ず。
『出、入する!』、
『息』中にも、
『十六種』の、
『行』が、
『有る!』、――
一には、
『入る!』、
『息』を、
『観察する!』、
二には、
『出る!』、
『息』を、
『観察する!』、
三には、
『長い!』、
『息』と、
『短い!』、
『息』を、
『観察する!』、
四には、
『息』が、
『全身』に、
『迴る!』のを、
『観察する!』、
五には、
諸の、
『身』の、
『行(うごき)』を、
『観察する!』、
六には、
『喜び!』を、
『受ける(覚る)!』、
七には、
『楽しみ!』を、
『受ける!』、
八には、
諸の、
『心』の、
『行(うごき)』を、
『受ける(識る)!』、
九には、
『作(作為)』、
『無くして!』、
『喜ぶ!』、
十には、
『心』に、
『摂(散乱を取り締まる)』を、
『作す!』、
十一には、
『心』に、
『解脱』を、
『作す!』、
十二には、
『心』の、
『無常』を、
『観察する!』、
十三には、
『心』が、
『散壊する!』のを、
『観察する!』、
十四には、
『心』が、
『欲』を、
『離れる!』のを、
『観察する!』、
十五には、
『心』中より、
『行』の、
『滅する!』のを、
『観察する!』、
十六には、
『心』が、
『一切』を、
『棄捨する!』のを、
『観察する!』、
  十六行(じゅうろくぎょう):又数息観、十六特勝とも称す。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同注:十六特勝』参照。
  十六特勝(じゅうろくとくしょう):数息観中の最も殊勝となす十六種の観法なり。数息観とは、即ち息の出入を数えて散乱を制馭するを以って、精神をして統一せしむる法なり。その内容、細目、順序、解釈に関して、諸経論の説法に不同なる有り、その中「大智度論巻11」に依れば、一に観入息、二に観出息、三に観息長息短、四に観息遍身、五に除諸身行、六に受喜、七に受楽、八に受諸心行、九に無作喜、十に心作摂、十一に心作解脱、十二に観無常、十三に観散壊、十四に観離欲、十五に観滅、十六に観棄捨を挙げ、「成実論巻14出入息品」に依れば、一に念息長、二に念息短、三に念息遍身、四に除身行、五に覚喜、六に覚楽、七に覚心行、八に除心行、九に覚心、十に令心喜、十一に令心摂、十二に令心解脱、十三に無常行、十四に断行、十五に離行、十六に滅行を挙ぐ。その一一の義に関して、「成実論巻14」には、「阿那波那十六行とは、謂わく出入息のもしは長、もしは短を念ず、息の遍身を念じて諸の身行、覚喜覚楽の心行を除く、心行を除いて出入息を念じ、覚心に心をして喜ならしめ、心をして摂ならしめ、心をして解脱せしめ、出入息を念じて無常に随いて観じ、断離滅に随いて観ず。出入息のもしは長、もしは短を念ずとは、問うて曰く、云何が息の長短と名づく。答えて曰く、人の山に上るが如し、もし重を擔わば疲乏の故に息短し。行者もまた爾り、麁心中に在ればその時則ち短し。麁心とは則ち謂わゆる躁疾散乱の心なり。息長しとは、行者細心中に在れば、則ち息長し。所以は何んとなれば、心細に随うが故に息もまた細に随う。即ちこの人の疲極止るが故に息則ち細に随うが如し。その時則ち長息なり。遍身とは行者は身の虚なるを信解すれば則ち一切の毛孔に風の行き出入するを見る。身行を除くとは、行者は境界力を得て心安隠なるが故に麁息則ち滅し、その時、行者は身に憶処を具う。覚喜とはこの人はこの定法に従りて心に大喜を生じ、本より喜有りといえどもかくの如きこと能わず。その時、名づけて覚喜と為す。覚楽とは、喜従り楽生ず。所以は何んとなれば、もし心に喜を得れば、身は則ち調適なり。身調適なれば則ち猗楽を得。経中に説くが如く、心喜なるが故に身を猗せ、身を猗するが故に則ち楽を受く。覚心行とは、喜の過患を以って能く貪を生ずるを見るが故なり。貪はこれ心行にして、心従り起こるが故に、受の中に貪を生ずるを以っての故に、受はこれ心行なりと見る。心行を除くとは、行者は受従り貪過を生ずと見、除滅するが故に、心は則ち安隠なり。また麁受を滅除するが故に心行を除くと説く。覚心とは、行者は受味を除くが故に、心の寂滅し、不没不掉を見るも、この心は或は時に還た没す。その時、喜ならしむ。もし心還た掉なれば、その時摂ならしむ。もし二法を離るれば、その時応に捨つべし。故に心を解脱せしむと説く。行者は、かくの如く心の寂定なるが故に、無常行を生じ、無常行を以って、諸の煩悩を断ず、これを断行と名づく。煩悩の断の故に心は則ち遠離す、これを離行と名づく。心の離るるを以っての故に、一切の滅を得、これを滅行と名づく。かくの如く次第に解脱を得。故に重力行念出入息と名づく」と云えり。『大智度論巻17下注:数息観』参照。

 数息観(成実論巻14出入息品に依る)
1 念息長 行者麁心の中に在りて躁疾散乱するが故に其の息短なり
2 念息短 行者細心の中に在るが故に其の息細長なり
3 念息遍身 身の虚なるを信解すれば、一切の毛孔に風行出入するを見る
4 除身行 境界力を得ば、心安隠なるが故に麁息滅する
5 覚喜 此の定法によりて心に大喜を生じる
6 覚楽 心に喜を得ば身調適にして猗楽を得る
7 覚心行 喜能く貪を生ずるの過患を見る
8 除心行 貪を生ずる受を除滅せば心則ち安隠にして亦た麁受を滅除する
9 覚心 受味を除くが故に心の寂滅なるを見て、没せず掉せず
10 令心喜 心若し没せば、栄発して喜ばしむ
11 令心摂 心若し掉せば、之を摂持せしむ
12 令心解脱 若し没掉の二法を離るれば、則ち二辺を捨離するが故に心をして解脱せしむ
13 無常行 心寂定なるが故に、諸法の生滅を見て無常行を生じる
14 断行 無常行を以って諸の煩悩を断じる
15 離行 煩悩断ずるが故に心に厭離を生じる
16 滅行 心離するが故に一切滅を得る
復有六種念。念佛者。佛是多陀阿伽陀阿羅呵三藐三佛陀。如是等十號。五念如後說。 復た六種の念有り、念仏とは、仏は、是れ多陀阿伽陀、阿羅訶、三藐三仏陀なりと、是の如き等の十号なり。五念は後に説くが如し。
復た、
『六種』の、
『念』が、
『有る!』。
『念仏』とは、
『仏』は、
『多陀阿伽陀(如来)であり!』、
『阿羅訶(応供)であり!』、
『三藐三仏陀()であり!』、
是れ等の、
『十』の、
『号である!』と、
『念じる!』ことである。
『五種』の、
『念』は、
『後に説くつもり!』である。
  六念(ろくねん):念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天を云う。『大智度論巻21下釈八念義』参照。
世智出世智阿羅漢辟支佛菩薩佛智。如是等智慧知諸法。名為一切種。 世智、出世智、阿羅漢、辟支仏、菩薩、仏の智、是の如き等の智慧もて、諸法を知るを名づけて、一切種と名づく。
『世間』や、
『出世間』の、
『智』、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』、
『菩薩』、
『仏』の、
『智』、
是れ等の、
種種の、
『智慧』を以って、
諸の、
『法』を、
『知る!』ことを、
一切の、
『種』と、
『称する!』。
  :譬えば会社に於ける実務は、種種のプログラムを用いて遂行されるが如く、一切種も亦た是の如く種種の智を以って、諸法を知る。
一切法者。識所緣法是一切法。所謂眼識緣色耳識緣聲鼻識緣香舌識緣味身識緣觸意識緣法。緣眼緣色緣眼識耳聲鼻香舌味身觸亦如是。乃至緣意緣法緣意識。是名一切法。是為識所緣法。 一切法とは、識の所縁の法は、是れ一切法なり。所謂眼識は色を縁じ、耳識は声を縁じ、鼻識は香を縁じ、舌識は味を縁じ、身識は触を縁じ、意識は法を縁じ、眼を縁じ、色を縁じ、眼識を縁じ、耳、声、鼻、香、舌、味、身、触も亦た是の如く、乃至意を縁じ、法を縁じ、意識を縁ずる、是れを一切法と名づけ、是れを識所縁の法と為す。
一切の、
『法』とは、――
『識』の、
『縁じる(覚知する)!』所の、
『法』、
是れを、
一切の、
『法』と、
『称する!』。
謂わゆる、
『眼識』は、
『色』を、
『縁じ!』、
『耳識』は、
『声』を、
『縁じ!』、
『鼻識』は、
『香』を、
『縁じ!』、
『舌識』は、
『味』を、
『縁じ!』、
『身識』は、
『触』を、
『縁じ!』、
『意識』は、
『法』を、
『縁じ!』、
『眼』と、
『色』と、
『眼識』とを、
『縁じ!』、
『耳、声』、
『鼻、香』、
『舌、味』、
『身、触』も、
亦た、
是の通りであり、
乃至、
『意』と、
『法』と、
『意識』とを、
『縁じる!』が、
是れを、
一切の、
『法』と、
『称し!』、
是れが、
『識』の、
『縁じる!』所の、
『法である!』。
復次智所緣法是一切法。所謂苦智知苦集智知集盡智知盡道智知道世智知苦集盡道及虛空非數緣滅。是為智所緣法。 復た次ぎに、智の所縁の法は、是れ一切法なり。謂わゆる苦智は苦を知り、集智は集を知り、尽智は尽を知り、道智は道を知り、世智は苦、集、尽、道、及び虚空、非数縁滅を知る、是れを智の所縁の法と為す。
復た次ぎに、
『智』の、
『縁じる(知る)!』所の、
『法』、
是れを、
一切の、
『法』と、
『称する!』。
謂わゆる、
『苦智』は、
『苦』を、
『知り!』、
『集智』は、
『集』を、
『知り!』、
『尽智(滅智)』は、
『尽()』を、
『知り!』、
『道智』は、
『道』を、
『知り!』、
『世智』は、
『苦、集、尽、道、及び虚空(無為法)、非数縁滅(無為法)』を、
『知る!』、
是れが、
『智』の、
『縁じる!』所の、
『法である!』。
  苦智集智尽智道智世智:即ち十智の一。『大智度論巻2上注:十智』参照。
  虚空非数縁滅:即ち三智の一。『大智度論巻31上注:三無為』参照。
復次二法攝一切法。色法無色法。可見法不可見法。有對法無對法。有漏無漏有為無為。心相應心不相應。業相應業不相應。(丹注云心法中除思餘盡相應業即是思故除)近法遠法等。如是種種二法攝一切法。(丹注云現在及無為是名近法未來過去是名遠法) 復た次ぎに、二法に一切法を摂す。色法と無色法、可見法と不可見法、有対法と無対法、有漏と無漏、有為と無為、心相応と心不相応、業相応と業不相応(丹注に云わく、心法中より思を除いて余は尽く相応なり。業は即ち是れ思なるが故に除くと)、近法と遠法等、是の如き種種の二法に一切法を摂す(丹注に云わく、現在、及び無為は、是れを近法と名づけ、未来、過去は是れを遠法と名づくと)。
復た次ぎに、
『二法』中に、
一切の、
『法』を、
『摂する(包含する)!』。
謂わゆる、
『色』や、
『無色』という、
『法』に、
『可見』や、
『不可見』との、
『法』に、
『有対(可見の義を耳乃至意にまで敷延せるを云う)』や、
『無対(不可見の義を耳乃至意にまで敷延せるを云う)』という、
『法』に、
『有漏』や、
『無漏』という、
『法』に、
『有為』や、
『無為』という、
『法』に、
『心相応』や、
『心不相応』という、
『法』に、
『業(思?)相応』や、
『業不相応』という、
『法』に、
『近』や、
『遠』という、
『法』に、
是れ等の、
種種の、
『二法』中に、
一切の、
『法』を、
『摂する!』。
  可見不可見有漏無漏有為:『大智度論巻2上各注』参照。
  心相応心不相応:『大智度論巻5上注:心相応法、心不相応法、巻28下注:五法』参照。
復次三種法攝一切法。善不善無記。學無學非學非無學。見諦斷思惟斷不斷。復有三種法。五眾十二入十八界持如是等種種三法。盡攝一切法。 復た次ぎに、三種の法に一切法を摂す。善と不善と無記、学と無学と非学非無学、見諦断と思惟断と不断、復た三種の法有り、五衆と十二入と十八界持、是の如き等の種種の三法に尽く一切法を摂す。
復た次ぎに、
『三種』の、
『法』中に、
一切の、
『法』を、
『摂する!』、
謂わゆる、
『善』や、
『不善』や、
『無記』という、
『法』に、
『学』や、
『無学』や、
『非学非無学』という、
『法』に、
『見諦断』や、
『思惟断』や、
『不断』という、
『法』に、
復た、
『三種』の、
『法』が有り、
謂わゆる、
『五衆』や、
『十二入』や、
『十八界持』という、
『法』に、
是れ等の、
種種の、
『三種』の、
『法』中に、
尽く、
一切の、
『法』を、
『摂する!』。
  不善無記:『大智度論巻2上注:有善、不善、無記』参照。
  無学非学非無学:『大智度論巻1上各注』参照。
  見諦断思惟断不断:『大智度論巻20下』参照。
  五衆十二入十八界持:『大智度論巻1下注:三科、巻5上注:三科』参照
復有四種法。過去未來現在法。非過去未來現在法。欲界繫法色界繫法無色界繫法不繫法。因善法因不善法因無記法非因善不善無記。法緣緣法緣不緣法緣緣不緣緣法亦非緣緣非不緣緣法。如是等四種法攝一切法。 復た四種の法有り、過去と未来と現在の法と過去未来現在に非ざる法、欲界繋の法と色界繋の法と無色界繋の法と不繋の法、善に因る法と不善に因る法と無記に因る法と善不善無記に因るに非ざる法、縁縁の法、縁不縁の法、縁縁不縁縁の法、亦た非縁縁非不縁縁の法、是の如き等の四種の法に一切法を摂す。
復た、
『四種』の、
『法』が有り、
謂わゆる、
『過去』や、
『未来』や、
『現在』という、
『法』と、
『過去』でも、
『未来』でも、
『現在でもない!』、
『法』、
『欲界繋』や、
『色界繋』や、
『無色界繋』や、
『不繋』という、
『法』、
『善』や、
『不善』や、
『無記』に、
『因る!』、
『法』と、
『善』にも、
『不善』にも、
『無記』にも、
『因らない!』、
『法』、
『縁』を、
『縁じる!』、
『法』と、
『縁』を、
『縁じない!』、
『法』と、
『縁』を、
『縁じたり!』、
『縁じなかったり!』する、
『法』と、
『縁』を、
『縁じることもなく!』、
『縁じないこともない!』、
『法』、
是れ等の
種種の、
『四種』の、
『法』中に、
一切の、
『法』を、
『摂する!』。
  欲界繋色界繋無色界繋不繋:『大智度論巻27上、巻28下注』参照。
  因善因不善因無記等:『大智度論巻27上注』参照。
有五種法。色心心相應心不相應無為法。如是等種種五法攝一切法。 五種の法有り、色、心、心相応、心不相応、無為法なり、是の如き等の種種の五法に一切法を摂す。
復た、
『五種』の、
『法』が有り、
謂わゆる、
『色法』と、
『心法』と、
『心相応法』と、
『心不相応法』と、
『無為法』である。
是れ等の
種種の、
『五種』の、
『法』中に、
一切の、
『法』を、
『摂する!』。
  色法心法心相応法心不相応法無為法:この中、心相応法に就いては『大智度論巻24下注:心所法』、心不相応法に就いては『大智度論巻5上注:心不相応行』、無為法に就いては『大智度論巻31上注:三無為』、それ以外に就いては『大智度論巻11上注:五位』参照。
  五位(ごい):五等の位次の意。有為無為一切の法を五等の位次に類別するを云う。また五事、五法、或は五品とも名づく。一に色法ruupa- dharma、二に心法citta- dh.、三に心所有法caitasika- dh.、四に心不相応法citta- viprayukta- dh.、五に無為法asaMskRta- dh.なり。「品類足論巻1辯五事品」に、「五法あり、一に色、二に心、三に心所法、四に心不相応行、五に無為なり」と云えるこれなり。これ即ち小乗有部の所立にして、倶舎論等には更にこれを七十五種の法に分類せり。謂わゆる色法に十一種、心法に一種、心所法に四十六種、心不相応行法に十四種、無為法に三種あり。合して七十五法を成ず。もし唯識大乗に依らば、その次第少しく異に、且つ分って百法と為せり。「瑜伽師地論巻100」に、「一切の事は、要を以ってこれを言わば、一に心事、二に心所有法事、三に色事、四に心不相応行事、五に無為事なり」と云い、また「大乗百法明門論」に、「一切法とは略して五種あり、一には心法、二には心所有法、三には色法、四には心不相応行法、五には無為法なり。一切最勝の故に、これと相応するが故に、二の所現の影なるが故に、三の分位差別なるが故に、四の所顕示なるが故にかくの如く次第す」と云えるこれなり。中に就き、心法に八種、心所有法に五十一種、色法に十一種、心不相応行法に二十四種、無為法に六種あり。故に合して百法を成ず。但しこの中、有部に在りては、心心所法は色法に杖托して起こるが故に、色心心所の次第と為し、唯識家に於いては、色法を以って心心所法の所現の影像となすを以って、心心所色の次第を立てたるなり。また「五事毘婆沙論」、「倶舎論巻4」、「順正理論巻10」、「成唯識論巻7」等に出づ。<(望)
  事理五法(じりごほう):一切の事理の諸法は、ただ心法、心所法、色法、不相応法、無為法の五種有るに過ぎず。一に心法とは心の本体、識の自相(倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立つ)を云う。二に心所法とは上の八識と相応して起る所(受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)を云う。三に色法とは上の心法と心所法の所変(倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)を云う。四に不相応法とは上の三法に従属せず、上の三法のある部分の位を仮りて設くる所(得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)を云う。五に無為法とは上の四法の実性(択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立つ)を云う。<(丁)
有六種法。見苦斷法見習盡道斷法思惟斷法不斷法。如是等種種六法。乃至無量法攝一切法。是為一切法。 六種の法有り、見苦断法、見習、尽、道断法、思惟断法、不断法なり。是の如き等の種種の六法、乃至無量の法に一切法を摂す。是れを一切法と為す。
復た、
『六種』の、
『法』が有り、
謂わゆる、
『苦』を、
『見て!』、
『断じる!』、
『法』と、
『習()』、
『尽()』、
『道』を、
『見て!』、
『断じる!』、
『法』と、
『思惟して!』、
『断じる!』、
『法』と、
『断じない!』という、
『法』と、
是れ等の、
種種の、
『六種』の、
『法』中に、
及び、
無量の、
『法』中に、
一切の、
『法』を、
『摂する! 、
是れを、
一切の、
『法』と、
『称する!』。
問曰。諸法甚深微妙不可思議。若一切眾生尚不能得知。何況一人欲盡知一切法。譬如有人欲量大地及數大海水渧欲稱須彌山欲知虛空邊際。如是等事皆不可知。云何欲以一切種知一切法。 問うて曰く、諸法は甚深微妙にして不可思議なり。若し一切の衆生すら、尚お知るを得る能わざれば、何に況んや、一人にして尽く一切法を知らんと欲するをや。譬えば有る人、大地を量り、及び大海の水渧を数えんと欲し、須弥山を称(はか)らんと欲し、虚空の辺際を知らんと欲するが如し。是の如き等の事は、皆知るべからず。云何が、一切種を以って、一切法を知らんと欲する。
問い、
諸の、
『法』は、
『甚だ深く!』、
『微妙であり!』、
『不可思議である!』。
若し、
一切の、
『衆生』が、
『力』を、
『集めても!』、
尚お、
『知ることはできまい!』、
況して、
『一人』で、
尽く、
一切の、
『法』を、
『知ろうとしても!』、
とうてい、
『無理である!』。
譬えば、
有る、
『人』が、
『大地』を、
『量ろうしたり!』、
『大海』の、
『水滴』を、
『数えようとしたり!』、
『須弥山』を、
『称(はか)ろうとしたり!』、
『虚空』の、
『辺際』を、
『知ろうとしても!』
是れ等の、
『事』は、
皆、
『知ることができない!』のに、
何故、
一切の、
『種』を、
『用いて!』、
一切の、
『法』を、
『知ろうとするのですか?』。
  水渧(すいたい):水滴。
答曰。愚癡闇蔽甚大苦。智慧光明最為樂。 答えて曰く、愚癡の闇の蔽えるは、甚だ大苦なれば、智慧の光明を最も楽と為せばなり。
答え、
『愚癡』の、
『闇』に、
『蔽われる!』ことは、
『甚だ!』、
『大きな!』、
『苦であり!』、
『智慧』の、
『光明』を、
『最も!』、
『楽』と、
『為すからである!』。
一切眾生皆不用苦。但欲求樂。是故菩薩求一切第一大智慧。一切種觀欲知一切法。 一切の衆生は、皆、苦を用いず、但だ楽を求めんと欲す。是の故に菩薩は、一切に第一なる大智慧を求め、一切種の観に、一切法を知らんと欲す。
一切の、
『衆生』は、
皆、
『苦』に、
『用はなく!』、
但だ、
『楽』のみを、
『求めようとしている!』。
是の故に、
『菩薩』は、
一切に、
『第一』の、
『大智慧』を、
『求め!』、
一切の、
『種(智慧門)』より、
『観察して!』、
一切の、
『法』を、
『知りたい!』と、
『思う!』。
是菩薩發大心。普為一切眾生求大智慧。是故欲以一切種一切法。 是の菩薩は大心を発して、普く一切の衆生の為めに、大智慧を求む。是の故に、一切種、一切法を以ってせんことを欲するなり。
是の、
『菩薩』は、
『大心』を、
『発(おこ)して!』、
普く、
一切の、
『衆生』の為めに、
『大智慧』を、
『求める!』ので、
是の故に、
一切の、
『種』を、
『用いて!』、
一切の、
『法』を、
『知ろうとする!』のである。
如醫為一人二人。用一種二種藥則足。若欲治一切眾生病者。當須一切種藥。薩亦如是。欲度一切眾生故。欲知一切種一切法。 医は、一人、二人の為めには、一種、二種の薬を用うれば、則ち足るも、若し一切の衆生の病を治せんと欲せば、当に一切種の薬を須(もち)うべきが如く、菩薩も亦た是の如く、一切の衆生を度せんと欲するが故に、一切種、一切法を知らんと欲するなり。
譬えば、
『医者』が、
『一人』か、
『二人』の、
『病』を、
『治す!』為めには、
『一種』か、
『二種』の、
『薬』で、
『足る!』が、
若し、
一切の、
『衆生』の、
『病』を、
『治そうとする!』ならば、
一切の、
『種類』の、
『薬』を、
『用いなければならない!』。
『菩薩』も、
是のように、
一切の、
『衆生』を、
『度したい!』と、
『思う!』が故に、
一切の、
『種』と、
『法』とを、
『知りたい!』と、
『思う!』のである。
  (さつ):他本に従い、菩薩に改む。
如諸法甚深微妙無量。菩薩智慧亦甚深微妙無量。先答破一切智人中已廣說。如函大蓋亦大。 諸法の甚深微妙にして無量なるが如く、菩薩の智慧も亦た甚深微妙にして無量なり。先に、「一切智人」中に答破し、已に広く説かく、『函大なれば、蓋も亦た大なるが如し』と。
諸の、
『法』は、
『甚だ深く!』、
『微妙であり!』、
『無量である!』ように、
『菩薩の智慧』も、
『甚だ深く!』、
『微妙であり!』、
『無量である!』。
先に、
『答えて!』、
『一切智の人』中に、
『破った!』が、
已に、
広く、こう説いている、――
譬えば、
『函』が、
『大きければ!』、
『蓋』も、
亦た、
『大きいのだ!』、と。
  参考:『大智度論巻2婆伽婆釈論第四』:『問曰。所知處無量故。無一切智人。諸法無量無邊。多人和合尚不能知。何況一人。以是故無一切智人。答曰。如諸法無量。智慧亦無量無數無邊。如函大蓋亦大。函小蓋亦小。』
復次若不以理求一切法則不可得。若以理求之則無不得。 復た次ぎに、若し理を以ってせざれば、一切法を求むるも、則ち得べからず。若し理を以って之を求むれば、則ち得ざる無し。
復た次ぎに、
若し、
『理』を、
『用いなければ!』、
一切の、
『法』は、
『求めても!』、
『得られない!』が、
若し、
『理』を、
『用いて!』、
『求めた!』ならば、
『得られない!』、
『法』は、
『無いだろう!』。
  (り):梵語nyaayaの訳。原理、原則(an original type , standard , method , rule , a general or universal rule )、法的手続き(legal proceeding)、論理的推論(a logical or syllogistic argument or inference)等の義。
譬如鑽火以木則火可得。析薪求火火不可得。如大地有邊際。自非一切智人無大神力則不能知。若神通力大則知此三千大千世界地邊際。 譬えば、火を鑽(き)るに木を以ってすれば、則ち火を得べきも、薪を析(さ)きて火を求むれば、火を得べからざるが如し。大地に辺際有るも、自ら一切智の人に非ずして、大神力無ければ、則ち知ること能わざるが如きは、若し神通力大なれば、則ち此の三千大千世界の地の辺際を知る。
譬えば、
『火』を、
『鑽()る!』のに、
『木』を、
『用いて!』、
『鑽れば!』、
『火』を、
『得られる!』が、
『薪』を、
『割いて!』、
『火』を、
『求めても!』、
『火』は、
『得られない!』のと、
『同じである!』。
若し、
『大地』に、
『辺際』が、
『有った!』としても、
自らが、
『一切智』の、
『人でもなく!』、
『大神力』も、
『無かったならば!』、
則ち、
『辺際』を、
『知ることはできない!』が、
若し、
『神通力』が、
『大きければ!』、
此の、
『三千大千世界』の、
『地』の、
『辺際!』を、
『知るだろう!』。
  (さん):木床に、細い棒を錐揉みして火を得ること。
今此大地在金剛上。三千大千世界四邊則虛空。是為知地邊際。欲稱須彌山亦如是。欲量虛空非不能量。虛空無法故不可量 今、此の大地は、金剛の上に在り、三千大千世界の四辺は則ち虚空なり。是れを地の辺際を知ると為す。須弥山を称らんと欲するも亦た是の如し。虚空は量らんと欲せば、量ること能わざるに非ず、虚空には法無きが故に、量るべからず。
今、
此の、
『大地』は、
『金剛』の、
『上』の、
『在り!』、
『三千大千世界』の、
『四辺』は、
『虚空である!』が、
是れを、
『地』の、
『辺際』を、
『知る!』と、
『称する!』のである。
『須弥山』の、
『重さ!』を、
『称ろうとする!』のも、
『是の通りである!』。
『虚空』の、
『容量』は、
『量ろうとすれば!』、
『量る!』、
『力がないのではない!』が、
『虚空』には、
『法()』が、
『無い!』が故に、
『量れない!』。



舎利弗の問うた理由

【經】舍利弗。白佛言。世尊。菩薩摩訶薩云何欲以一切種知一切法。當習行般若波羅蜜 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、云何が、一切種を以って、一切法を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべき』、と。
『舎利弗』は、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何故、
一切の、
『種』を、
『用いて!』、
一切の、
『法』を、
『知ろうとする!』ならば、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行しなければならないのですか?』、と。
  習行(じゅうぎょう):永続的実践。梵語abhyaasa、実践(to practice)、練習(to train)、錬磨(to cultivate)、届く(reaching to )、広がる(pervading)、永続的習慣的修練(repeated or permanent exercise , discipline , use , habit , custom)等の義。
【論】問曰。佛欲說般若波羅蜜故。種種現神變。現已即應便說。何以故令舍利弗問而後說。 問うて曰く、仏は、般若波羅蜜を説かんと欲するが故に、種種に神変を現わしたまえば、現し已れば、即ち応に便ち説きたもうべし。何を以っての故にか、舎利弗をして問わして後に説きたまえる。
問い、
『仏』は、
『般若波羅蜜』を、
『説こう!』と、
『思われた!』が故に、
種種に、
『神変』を、
『現された!』のであるから、
現してしまえば、
『疾かに!』、
『説かれるはずである!』。
何故、
『舎利弗』に、
『問わせた!』後に、
『説かれたのですか?』。
答曰。問而後說。佛法應爾。 答えて曰く、問うて後に説くこと、仏の法は、応に爾るべし。
答え、
『問われた!』、
『後に!』、
『説かれた!』が、
『仏』の、
『法(manner)』では、
『そうでなくてはならない!』。
復次舍利弗知般若波羅蜜甚深微妙無相之法難解難知。自以智力種種思惟。若觀諸法無常。是般若波羅蜜耶。不是耶。不能自了。以是故問。 復た次ぎに、舎利弗は、般若波羅蜜の甚深微妙の無相の法にして、難解難知なるを知り、自ら智力を以って、『若し諸法の無常を観ずれば、是れ般若波羅蜜なりや、是れならざるや』と、種種に思惟するも、自ら了する能わず。是を以っての故に問えり。
復た次ぎに、
『舎利弗』は、
『般若波羅蜜』が、
『甚だ深く!』して、
『微妙なる!』、
『無相の法』であり、
『理解し難く!』、
『知り難い!』ことを、
『知っていた!』が、
自らの、
『智慧』の、
『力』を、
『用いて!』、――
若し、
諸の、
『法』の、
『無常』を、
『観察した!』ならば、
是の、
『智慧』は、
『般若波羅蜜だろうか?』、
『般若波羅蜜ではないのだろうか?』と、
種種に、
『思惟した!』が、
自らの、
『力』では、
『明らかにできなかった!』ので、
是の故に、
『仏』に、
『問うた!』のである。
復次舍利弗非一切智。於佛智慧中。譬如小兒。 復た次ぎに、舎利弗は、一切智に非ずして、仏の智慧中に於いては、譬えば小児の如し。
復た次ぎに、
『舎利弗』の、
『智慧』は、
『一切智ではない!』ので、
『仏』の、
『智慧』中には、
『小児』と、
『同じである!』。
如說阿婆檀那經中。佛在祇洹住晡時經行。舍利弗從佛經行。 阿婆檀那経中に説けるが如し、仏は祇桓に在りて住し、晡時に経行したまい、舎利弗は、仏に従いて経行せり。
『阿婆檀那経(譬喩経)』中に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『祇桓(精舎名)』に、
『住(とど)まり!』、
『夕方』に、
『経行されていた!』が、
『舎利弗』も、
『仏』に、
『従って!』、
『経行していた!』。
  阿婆檀那(あばだな):梵名avadaana、また阿波陀那に作り、譬喩と訳す。十二部経の一。『大智度論巻4上注:十二部経』参照。
  晡時(ほじ):日の暮れ時。夕方。
  経行(きょうぎょう):梵語caGkramaNaの訳、周囲を歩くこと(to walk around)、特定の場所を沈黙してゆっくり歩くことを云う、特に食事、労働、坐禅を終えた後、睡気を覚す為めに取る。習慣的に長時間の坐禅(瞑想)の間に行われる(to quietly and slowly walk around a certain area, especially to take a break after eating, hard work or sitting meditation, to clear up drowsiness. Customarily done in between long periods of meditation. )、坐禅(瞑想)の時、睡気を防ぐために附近を歩くこと(to walk about when meditating to prevent sleepiness; also as exercise to keep in health.)。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻83』:『現樂影者。曾聞世尊與舍利子一處經行。時有一鳥為鷹所逐。怖急便趣舍利子影。怖猶不止舉身戰慄。復越佛影身心坦然。時舍利子合掌白佛。如何此鳥至我影中猶有恐懼。纔至佛影。心無驚怖身不戰慄。世尊告言。汝六十劫修不害意。我於三大無數劫中修不害意。汝有害習。我已永斷故令如是。時世皆言。乃至小鳥佛慈蔭故令怖畏除。此中慈蔭謂現樂影。』
是時有鷹逐鴿。鴿飛來佛邊住。佛經行過之影覆鴿上。鴿身安隱怖畏即除不復作聲。後舍利弗影到鴿。便作聲戰怖如初。 是の時、鷹有り鴿(はと)を逐う。鴿飛び来たりて、仏の辺に住す。仏経行したもうに、之を過ぎ、影鴿の上を覆うも、鴿の身は安隠にして、怖畏即ち除(のぞ)こり、復た声を作さず。後に舎利弗の影、鴿に到るに、便ち声を作して、戦怖すること初の如し。
是の時、
有る、
『鷹』が、
『鴿(はと)』を、
『逐っていた!』。
『鴿』は、
『飛んで来る!』と、
『仏』の、
『辺(ほとり)』に、
『住(とど)まった!』。
『仏』が、
『経行して!』、
『鴿』の、
『辺』を、
『通られる!』と、
『影』が、
『鴿』の、
『上』を、
『覆(おお)った!』が、
『鴿』の、
『身』は、
『安隠であり!』、
『恐れ!』が、
『除かれていた!』ので、
少しも、
『声』を、
『立てなかった!』が、
後に、
『舎利弗』の、
『影』が、
『鴿』に、
『到る!』と、
また、
『声』を、
『立て!』
前のように、
『恐れて!』、
『戦(おのの)いた!』。
  鴿(こう):はと、クゥクゥと鳴く鳩。
舍利弗白佛言。佛及我身俱無三毒。以何因緣佛影覆鴿。鴿便無聲不復恐怖。我影覆上鴿便作聲戰慄如故。 舎利弗の仏に白して言さく、『仏、及び我が身には、倶に三毒無し。何の因縁を以ってか、仏の影鴿を覆うても、鴿は便ち声無く、復た恐怖せざるに、我が影上を覆えば、鴿も便ち声を作して、戦慄すること故(もと)の如くなる』、と。
『舎利弗』は、
『仏』に白して、こう言った、――
『仏』と、
わたしの、
『身』は、
どちらにも、
『三毒(貪、瞋、癡)』が、
『無い!』のに、
何のような、
『因縁』で、
『仏』の、
『影』が、
『鴿』を、
『覆う!』と、
『鴿』は、
『声』も、
『無く!』、
少しも、
『恐れなかった!』のに、
わたしの、
『影』が、
『上』を、
『覆う!』と、
『鴿』は、
すぐさま、
『声』を、
『立てて!』、
故(もと)のように、
『戦いて!』、
『振るえたのですか?』、と。
佛言。汝三毒習氣未盡。以是故汝影覆時恐怖不除。汝觀此鴿宿世因緣幾世作鴿。 仏の言わく、『汝が三毒は習気未だ尽きず。是を以っての故に、汝が影の覆う時、恐怖除こらず。汝、此の鴿の宿世の因縁を観よ、幾ばくの世にか鴿と作るや』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
お前の、
『三毒』は、
『習気(残気)』が、
『尽きていない!』、
是の故に、
お前の、
『影』が、
『覆う!』時、
『鴿』の、
『恐れ!』が、
『除かれないのだ!』。
お前は、
此の、
『鴿』の、
『過去の世』の、
『因縁』を、
『観よ!』、
此の、
『鴿』は、
何れほどの、
『世』に、
『鴿』と、
『作っていたのか?』、と。
  習気(じっけ):梵名vaasanaa、の訳。無意識に心中に残る何等かの印象(the impression of anything remaining unconsciously in the mind)。慣習の気分の意。また煩悩習、余習、残気と云い、或は単に習とも称す。即ち数数煩悩を現起したるに由りて熏成せられたる余習を云う。「大品般若経巻1序品」に、「一切種智を以って煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし」と云い、「大般若経巻55」に、「一切の煩悩の習気相続を永断して便ち仏地に住す」と云い、「大智度論巻27」に、これを釈して「煩悩習とは煩悩の残気に名づく。もし身業口業の智慧に随わずして煩悩より起こるに似、他の心を知らざる者は、その所起を見て不浄心を生ずるも、これ実の煩悩には非ず。久しく煩悩を習うが故に、かくの如きの業を起す。譬えば久しく脚を鏁(つな)がれたる人の卒かに解脱を得るに、行く時、鏁あることなしと雖も、猶お習在ることあるが如し。乳母の衣久故して垢著くに、淳灰を以って浄浣せば垢あることなしと雖も、垢気は猶お在るが如し。衣は聖人の心の如く、垢は諸の煩悩の如し。智慧の水を以って、浣うと雖も、煩悩の垢気猶お在り。かくの如く諸余の賢聖は、能く煩悩を断ずと雖も、習を断ずること能わず。難陀は婬欲の習の故に阿羅漢道を得と雖も、男女大衆の中に於いて坐するに、眼先づ女衆を視て而も与に言語説法するが如し」と云えり。これ煩悩正使を断ずるも、その余習尚お残留するを習気と名づけたるものにして、難陀の淫習、舎利弗及び摩訶迦葉の瞋習、卑陵伽婆跋の慢習、摩頭婆私吒の跳戯習、憍梵波提の牛業習等は即ちその物なるを示し、仏には正使と共にその習気も亦た永断せらるるものなるを明にせるなり。また「大毘婆沙論巻9」には、「不染汗は声聞独覚は能く断尽すと雖も猶お現行す。唯如来のみありて畢竟じて起こらず、煩悩と習気と倶に永断するが故なり」と云えり。また習気の種類を分別することあり、例えば「旧華厳経巻40離世間品」には、第十地の菩薩に菩提心習気、善根習気、教化衆生習気、見仏習気、於清浄土受生習気、菩薩行習気、大願習気、波羅蜜習気、出生平等法習気、種種分別境界習気の十種の習気あることを云えるが如し。また「旧華厳経巻26」、「大智度論巻2」、「大毘婆沙論巻16」、「顕揚聖教論巻9」、「順正理論巻28」、「瑜伽師地論巻52」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「成唯識論巻2、巻8」等に出づ。<(望)
舍利弗即時入宿命智三昧。觀見此鴿從鴿中來。如是一二三世乃至八萬大劫常作鴿身。過是已往不能復見。 舎利弗は、即時に宿命智三昧に入り、此の鴿を観見するに、鴿中より来たり、是の如く一、二、三世、乃至八万大劫常に鴿の身と作り、是れを過ぎて已往は、復た見る能わず。
『舎利弗』は、
即時に、
『宿命智三昧』に、
『入って!』、
此の、
『鴿』を、
『観察してみる!』と、
此の、
『鴿』は、
『鴿』中より、
『来ていた!』、
是のように、
此の、
『鴿』は、
『一世』、
『二世』、
『三世』より、
『八万大劫』に、
『至るまで!』、
常に、
『鴿』の、
『身』と、
『作っていた!』が、
是れより、
『以前』は、
もう、
『見る!』、
『力がなかった!』。
  已往(いおう):その先。
舍利弗從三昧起白佛言。是鴿八萬大劫中常作鴿身。過是已前不能復知。 舎利弗の三昧より起ちて、仏に白して言さく、『是の鴿は、八万大劫中に常に鴿の身を作し、是れを過ぎて已前は、復た知る能わず』、と。
『舎利弗』は、
『三昧』より、
『起つ!』と、
『仏』に白して、こう言った、――
是の、
『鴿』は、
『八万大劫』中に、
常に、
『鴿』の、
『身』と、
『作っておりました!』が、
是れを、
『過ぎて!』、
『已前』は、
『もう知ることができせん!』、と。
佛言。汝若不能盡知過去世。試觀未來世此鴿何時當脫。 仏の言わく、『汝、若し尽くは、過去世を知る能わざれば、試しに未来世を観よ、此の鴿は、何時にか、当に脱すべきや』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
お前が、
若し、
『過去世』を、
『尽くは!』、
『知ることができなければ!』、
試しに、
『未来世』を、
『観てみよ!』、
此の、
『鴿』は、
何時になれば、
『鴿の身』を、
『脱れられるのか?』、と。
舍利弗即入願智三昧。觀見此鴿一二三世乃至八萬大劫未脫鴿身。過是已往亦不能知。從三昧起白佛言。我見此鴿從一世二世乃至八萬大劫未免鴿身。過此已往不復能知。我不知過去未來齊限。不審此鴿何時當脫。 舎利弗は即ち願智三昧に入りて、此の鴿を観見することの一、二、三世乃至八万大劫なるも、未だ鴿の身を脱せず。是れを過ぎて已往は、亦た知る能わざれば、三昧より起ちて仏に白して言さく、『我れ此の鴿を見ること一世、二世、乃至八万大劫なるも、未だ鴿の身を免れず。此れを過ぎて已往は、復た知る能わず。我れは過去と未来の斉限を知らざれば、不審なり、此の鴿は何れの時にか当に脱るるべきや』、と。
『舎利弗』は、
すぐに、
『願智三昧』に、
『入って!』、
此の、
『鴿』を、
『観た!』が
『一世』、
『二世』、
『三世』より、
乃至、
『八万大劫』を、
『過ぎても!』、
まだ、
『鴿』の、
『身』を、
『脱れていず!』、
是れを、
『過ぎて!』、
『以後』は、
『もう知ることができなかった!』ので、
『三昧』より、
『起つ!』と、
『仏』に白して、こう言った、――
わたしは、
此の、
『鴿』を、
『見ました!』が、
『一世』、
『二世』、
乃至、
『八万大劫』を、
『過ぎても!』、
まだ、
『鴿』の、
『身』を、
『免(まぬか)れず!』、
此れを、
『過ぎて!』、
『以後』は、
『もう知ることができません!』。
わたしには、
『過去』や、
『未来』の、
『斉限(際限)』を、
『知ることができません!』が、
いったい、
此の、
『鴿』は、
『何時(いつ)!』、
『免れるのでしょうか?』、と。
  斉限(さいげん):斉は同、同じきのきわまり。際限。
  不審(ふしん):覚束なくおもうこと。
佛告舍利弗。此鴿除諸聲聞辟支佛所知齊限。復於恒河沙等大劫中常作鴿身。罪訖得出。輪轉五道中後得為人。經五百世中乃得利根。是時有佛度無量阿僧祇眾生。然後入無餘涅槃。遺法在世是人作五戒優婆塞。從比丘聞讚佛功德。於是初發心願欲作佛。然後於三阿僧祇劫。行六波羅蜜。十地具足得作佛。度無量眾生已而入無餘涅槃。 仏の舎利弗に告げたまわく、『此の鴿は、諸の声聞、辟支仏の知る所の斉限を除きて、復た恒河沙等の大劫中に常に鴿の身と作り、罪訖りて出づるを得、五道中に輪転せし後、人と為るを得て、五百世を経る中に、乃(すなわ)ち利根を得、是の時、仏有りて、無量阿僧祇の衆生を度して、然る後に無余涅槃に入るに、遺法、世に在れば、是の人、五戒の優婆塞と作り、比丘より仏の功徳を讃うるを聞きて、是(ここ)に於いて初めて心を発(おこ)し、願うて仏と作らんことを欲し、然る後の三阿僧祇劫に於いて、六波羅蜜を行じ、十地具足して、仏と作るを得、無量の衆生を度し已りて、無余涅槃に入らん』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
此の、
『鴿』は、
諸の、
『声聞、辟支仏』の、
『知る!』所の、
『斉限』を、
『過ぎて!』、
まだ、
『恒河沙』に、
『等しい!』、
『大劫』中に、
常に、
『鴿』の、
『身』と、
『作り!』、
『罪』が、
『終って!』、
『鴿』の、
『身』より、
『出る!』と、
『五道』中を、
『輪転した!』後、
『人』と、
『為ることができ!』、
『五百世』を、
『経る!』中に、
ようやく、
『利根』を、
『得た!』。
是の時、
有る、
『仏』が、
『無量阿僧祇』の、
『衆生』を、
『度して!』、
その後、
『無余涅槃』に、
『入られる!』と、
『世』には、
『法』が、
『遺された!』。
此の、
『人』は、
『五戒』の、
『優婆塞』と、
『作って!』、
『比丘』より、
『仏の功徳』を、
『讃える!』のを、
『聞いた!』ので、
是の時、
初めて、
『発心して!』、
『仏』と、
『作ろう!』と、
『願い!』、
その後の、
『三阿僧祇劫』に、
常に、
『六波羅蜜』を、
『行って!』、
『十地』が、
『具足して!』、
『仏』に、
『作れる!』と、
『無量』の、
『衆生』を、
『度して!』、
『無余涅槃』に、
『入る!』のである、と。
  (じょ):のぞく、去。ひらく、開通。
是時舍利弗向佛懺悔白佛言。我於一鳥尚不能知其本末。何況諸法。我若知佛智慧如是者。為佛智慧故。寧入阿鼻地獄。受無量劫苦不以為難。如是等於諸法中不了故問 是の時、舎利弗の仏に向かいて懺悔し、仏に白して言さく、『我れは一鳥すら、尚お其の本末を知る能わず、何に況んや、諸法をや。我れ若し、仏の智慧の是の如きを知らば、仏の智慧の為めの故に、寧ろ阿鼻地獄に入りて、無量劫の苦を受くるとも、以って難しと為(せ)ず』、と。是の如き等、諸法中に於いて、了ならざるが故に問えり。
是の時、
『舎利弗』は、
『仏』に、
『向って!』、
『懺悔し!』、
『仏』に白して、こう言った、――
わたしは、
『一鳥』すら、
尚お、
其の、
『本末』を、
『知ることができません!』、
況して、
諸の、
『法』は、
『尚更です!』。
わたしが、
若し、
『仏』の、
『智慧』が、
『是のようだ!』と、
『知っていた!』ならば、
『仏』の、
『智慧』を、
『求める!』為めの故に、
『苦』を、
『勤める!』よりは、
寧ろ、
『阿鼻地獄』に入って、
『無量劫』の、
『苦』を、
『受けた!』としても、
其れを、
『難しい!』とは、
『思わなかったでしょう!』、と。
是れ等のように、
『舎利弗』は、
諸の、
『法』に於いて、
『明らかでなかった!』が故に、
『問うた!』のである。



大智度論釋初品中檀波羅蜜義第十七
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


般若波羅蜜の定義

【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中。以無所捨法具足檀波羅蜜。施者受者及財物不可得故 仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、不住の法を以って、般若波羅蜜中に住し、捨つる所無きの法を以って、檀波羅蜜を具足す、施者、受者及び財物の得べからざるが故に』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『住(とど)まらない!』という、
『法』を以って、
『般若波羅蜜』中に、
『住まり!』、
『捨てる!』所は、
『無い!』という、
『法』を以って、
『檀波羅蜜』を、
『具足する!』、
何故ならば、
『施者』も、
『受者』も、
『財物』も、
『得られない(識別できない)!』からである。
  不可得(ふかとく):梵語an- upalambhaの訳。梵語upalambha(知覚する(perceiving) , 確認する(ascertaining) , 認識する(recognition)等)の否定。所得すべからざるの意。可得に対す。即ち推求するも所得すべからざるを云う。「大品般若経巻2三仮品」に、「菩薩は般若波羅蜜を行ずるに、色の義不可得、受想行識の義不可得、乃至無作の義も不可得なり。当にこの学般若波羅蜜を作すべし」と云い、「大乗本生心地観経巻8観心品」に、「諸法の内性も不可得、諸法の外相も不可得、諸法の中間も都べて不可得なり」と云えるこれなり。これ一切法には決定の性なく、随って其の自相を推求するも遂に所得すべきものなきを明にせるなり。又「大品般若経巻5問乗品」に、不可得空の義を説き、「何等をか不可得空と名づくる、これ不可得空は非常非滅の故なり。何を以っての故に、性自爾なればなり。これを不可得空と名づく」と云い、「大乗義章巻48空義」に、「不可得空とは、生死涅槃一切の諸法は性相寂滅し、求むるも得べからざるが故に名づけて空と為す。中に於いて三あり、一には彼の陰界入の中に於いて我を求むるも得がたし、之を名づけて空と為す。二には彼の諸の因縁の中に於いて法の自性を求むるも得べからず、故に之を名づけて空と為す。五指の中に拳を求むるも得がたきが如し。三には法の因縁を求むるも亦た得べからず、之を名づけて空となす。問うて曰わく、小智の故に法を求むるも得ずとせんや。実無の故に法を求むるも得ずとせんや。論に自ら釈して言わく、法は実に無なるが故に求むるも得べからずと」と云えり。これ即ち陰界入の中に於いて我を求むるも、我は実に無なるが故に得べからず。因縁の中に於いて法の自性を求むるも、自性は実に無なるが故に得べからず。法の因縁を求むるも、因縁は実に無なるが故に亦得べからず。故に不可得空と名づくとなすの意なり。又「大般涅槃経巻18」に、「諸仏世尊に二種の法あり、一には世法、二には第一義法なり。世法には則ち壊滅あり、第一義法は則ち壊滅せず。(中略)復た二種あり、一には可得、二には不可得なり。可得の法には則ち壊滅あり、不可得なるは壊滅あることなし」と云えり。これ世諦可得の法は無常にして壊滅あり、第一義不可得の法は常住にして壊滅なきことを説けるものなり。又「大品般若経巻12遍歎品、巻19度空品、巻20嘱累品、巻21三慧品、巻24四摂品」、「四不可得経」、「大智度論巻41、巻45、巻74、巻79」、「中論巻1観去来品、巻2観合品、巻3観有無品、同観時品、巻4顛倒品、同観邪見品」、「百論巻上捨罪福品」、「中観論疏巻20」、「大乗義章巻18」、「法華経文句巻3下、巻9上」、「諸経要集巻12」等に出づ。<(望)
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1』:『佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中。以無所捨法應具足檀那波羅蜜。施者受者及財物不可得故。』
【論】問曰。般若波羅蜜是何等法。 問うて曰く、般若波羅蜜や、是れ何等の法なる。
問い、
『般若波羅蜜』とは、
何のような、
『法ですか?』。
答曰。有人言。無漏慧根。是般若波羅蜜相。 答えて曰く、有る人の言わく、『無漏の慧根、是れ般若波羅蜜の相なり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『無漏』の、
『慧根』が、
『般若波羅蜜』の、
『相である!』、と。
何以故。一切慧中第一慧。是名般若波羅蜜。無漏慧根是第一。以是故無漏慧根。名般若波羅蜜。 何を以っての故に、一切の慧中に第一の慧なる、是れを般若波羅蜜と名づけ、無漏の慧根は、是れ第一なり。是を以っての故に、無漏の慧根を般若波羅蜜と名づく。
何故ならば、
一切の、
『慧』中に、
『第一の慧』を、
『般若波羅蜜』と、
『称する!』が、
『無漏』の、
『慧』は、
『第一』の、
『慧である!』ので、
是の故に、
『無漏』の、
『慧』を、
『般若波羅蜜』と、
『称する!』のである。
問曰。若菩薩未斷結。云何得行無漏慧。 問うて曰く、若し菩薩、未だ結を断ぜざれば、云何が、無漏の慧を行ずるを得る。
問い、
若し、
『菩薩』が、
未だ、
『結』を、
『断じていない!』とすれば、
何故、
『無漏』の、
『慧』を、
『行うことができるのですか?』。
答曰。菩薩雖未斷結。行相似無漏般若波羅蜜。是故得名行無漏般若波羅蜜。 答えて曰く、菩薩は未だ結を断ぜずと雖も、行相は、無漏の般若波羅蜜に似たり、是の故に無漏の般若波羅蜜を行ずと名づくるを得。
答え、
『菩薩』は、
未だ、
『結』を、
『断じていなくても!』、
『六波羅蜜』を、
『行う!』、
『相』が、
『無漏』の、
『般若波羅蜜』に、
『似ている!』、
是の故に、
『無漏』の、
『般若波羅蜜』を、
『行う!』と、
『称することができる!』。
譬如聲聞人。行暖法頂法忍法世間第一法。先行相似無漏法。後易得生苦法智忍。 譬えば、声聞人の、暖法、頂法、忍法、世間第一法を行ずるに、先の行相の無漏法に似たれば、後に易(たやす)く苦法智忍を生ずるを得るが如し。
譬えば、
『声聞人』が、
次第に、
『暖法』、
『頂法』、
『忍法』、
『世間第一法』を、
『行う!』と、
先に、
『行った!』、
『法』の、
『相』が、
『無漏』の、
『法』に、
『似ている!』ので、
後の、
『法』が、
『易(たやす)く!』、
『得られ!』、
『苦法智忍』を、
『生じられる!』のと、
『同じである!』。
  煖法(なんぽう)、頂法(ちょうぼう)、忍法(にんぽう)、世間第一法(せけんだいいっぽう):総じて四善根位と称す。見道以前に四諦を観じ、十六行相を修むる中の四種の階位。『大智度論巻3下注:四善根位』参照。
  苦法智忍(くほうちにん):十六心、八忍中の一、また苦法忍と称す。即ち、欲界の苦諦を観て、その見惑を断ずる無間道の智にして、また苦法智の因なり。『大智度論巻2下注:十六心、巻28下』参照。
復有人言菩薩有二種。有斷結使清淨。有未斷結使不清淨。斷結使清淨。菩薩能行無漏般若波羅蜜。 復た有る人の言わく、『菩薩には二種有り、有るいは結使を断じて清浄なり、有るいは未だ結使を断ぜずして清浄ならず。結使を断じて清浄なる菩薩は、能く無漏の般若波羅蜜を行ず』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』には、
『二種』有り、
有る、
『菩薩』は、
『結使』を、
『断じて!』、
『清浄である!』が、
有る、
『菩薩』は、
『結使』を、
『断じず!』、
『清浄でない!』。
是の、
『結使』を、
『断じて!』、
『清浄な!』、
『菩薩』は、
『無漏』の、
『般若波羅蜜』を、
『行うことができる!』、と。
問曰。若菩薩斷結清淨。復何以行般若波羅蜜。 問うて曰く、若し菩薩が、結を断じて清浄なれば、復た何を以ってか、般若波羅蜜を行ずる。
問い、
若し、
『菩薩』が、
『結』を、
『断じて!』、
『清浄ならば!』、
いったい、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『行うのですか?』。
答曰。雖斷結使。十地未滿未莊嚴佛土未教化眾生。是故行般若波羅蜜。 答えて曰く、結使を断ずと雖も、十地を未だ満てず、未だ仏土を荘厳せず、未だ衆生を教化せざれば、是の故に般若波羅蜜を行ず。
答え、
『結使』を、
『断じた!』が、
未だ、
『十地(仏地)』の、
『功徳』が、
『満ちず!』、
未だ、
『仏』の、
『国土』を、
『荘厳せず!』、
未だ、
『国土』の、、
『衆生』を、
『教化していない!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行う!』のである。
復次斷結有二種。一者斷三毒。心不著人天中五欲。二者雖不著人天中五欲。於菩薩功德果報五欲。未能捨離。如是菩薩應行般若波羅蜜。 復た次ぎに、結を断ずるに二種有り、一には三毒を断じて、心は人天中の五欲に著せず、二には人天中の五欲に著せずと雖も、菩薩の功徳の果報の五欲に於いては、未だ捨離せず、是の如きの菩薩は、応に般若波羅蜜を行ずべし。
復た次ぎに、
『結使』を、
『断じる!』には、
『二種』有り、
一には、
『声聞』が、
『三毒』を、
『断じて!』、
『人、天』中の、
『五欲(色声香味触)』に、
『著さない!』こと。
二には、
『人、天』中の、
『五欲』には、
『著さない!』が、
『菩薩』の、
『功徳』という、
『果報(仏国土)』の、
『五欲(荘厳)』は、
未だ、
『捨離していない!』こと。
是のような、
『菩薩』は、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『行うはず!』である。
譬如長老阿泥盧豆。在林中坐禪時。淨愛天女等。以淨妙之身來試阿泥盧豆。 譬えば、長老阿尼廬豆の林中に在りて、坐禅する時、浄愛天女等、浄妙の身を以って来たりて、阿泥盧陀を試したるが如し。
譬えば、こうである、――
『長老阿尼廬豆』が、
『林』中に於いて、
『坐禅している!』時、
『浄愛天女』等が来て、
『浄妙』の、
『身』を以って、
『阿泥盧陀』の、
『心』を、
『試そうとした!』。
  阿尼廬豆(あにるだ):梵名aniruddhaに作り、また阿[少/兔]楼駄、阿那律に作る。仏十大弟子の一。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
阿泥盧豆言。諸姊作青色來不用雜色。欲觀不淨不能得觀。黃赤白色亦復如是。時阿泥盧豆。閉目不視。語言。諸姊遠去。 阿泥盧陀の言わく、『諸姉、青色を作して来たれ。雑色は用いず。不浄を観んと欲するも、観を得る能わず。黄、赤、白色も亦復た是の如し』、と。時に阿尼廬豆は、目を閉じて視ずして、語りて言わく、『諸姉、遠く去れ』、と。
『阿泥盧陀』は、
こう言った、――
諸姉(姉さんがた)!
『青い!』、
『色』に、
『作りなさい!』。
『他の!』、
『色』に、
『用はない!』。
『不浄な!』、
『色』を、
『観たい!』と、
『思っても!』、
『観た!』、
『感覚』が、
『得られないのだから!』。
『黄』や、
『赤』や、
『白い!』、
『色』も、
『同じだよ!』、と。
そして、
『阿泥盧陀』は、
『目』を、
『閉ざして!』、
『視ずに!』、
語って、こう言った、――
諸姉!
『遠くへ!』、
『去ってくれ!』、と。
  不浄(ふじょう):人身の不浄をいう。『大智度論巻1上注:不浄観、巻21上釈不浄義』参照。
  青色(しょうしき):十一切処中の青色観。一切処に青色を観ずる行法。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  十一切処(じゅういっさいじょ):また十一切入、十徧処とも称す。
  十徧処(じっぺんじょ):梵語dazakRtsnaayatanaani、十種の遍(徧)処の意。また十一切入、十一切処、十徧入、或は十徧処定とも名づく。即ち勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周遍して間隙なしと観ずるを云う。一に地遍処pRthivii-kRtsnaayatana、二に水遍処ap- kR.、三に火遍処tejas-kR.、四に風遍処vaayu-kR.、五に青遍処niila-kR.、六に黄遍処piita-kR.、七に赤遍処lohita-kR.、八に白遍処avadaata-kR.、九に空遍処aakaaza-kR.、十に識遍処vijJaana-kR.なり。「大毘婆沙論巻85」に、「十遍処とは謂わく青黄赤白地水火風空無辺処識無辺処なり」と云い、「倶舎論巻29」に、「遍処に十あり、謂わく周遍して地水火風青黄赤白及び空と識との二無辺処を観ず。一切処に於いて周遍観察して間隙あることなし、故に遍処と名づく」と云えるこれなり。この中、初に地遍処とはまた地大遍処定、或は地大遍一切処定とも名づく。即ち地大が一切処に周遍して間隙あることなしと観ずるを云う。二に水遍処とは、また水大遍処、或は水大遍一切処定とも名づく。即ち水大が一切処に周遍して間隙あることなしと観ずるを云う。三に火遍処とはまた火大遍処定、或は火大遍一切処定とも名づく。即ち火大が一切処に周遍して間隙あることなしと観ずるを云う。乃ち風、青、黄、赤、白に至るまでかくの如し。九に空遍処とは、また空無辺処、或は空無尽遍一切処とも名づく。即ち空が一切処に周遍して間隙あることなしと観ずるを云う。十に識遍処とは、また識無辺処、或は識無尽遍一切処とも名づく。即ち識が一切処に周遍して間隙あることなしと観ずるを云うなり。これ観行者は、已に八解脱及び八勝処に依りて色等に於いて浄相を得、且つ所観の中に転変自在なりといえども、未だ周遍ならざるが故に更にこの定を修せしむるなり。「解脱道論巻9五通品」に、「彼の坐禅人は、かくの如く心を以って虚空一切入を修行し、第四禅に入り安詳として出づるに壁を徹過し墻を徹過し山を徹過す。已に転じて転を成じ、智を以って受持するにこれ当に虚空と成るべし。已に虚空と成らば彼の坐禅人は虚空に於いて壁を徹過し墻を徹過し山を徹過し、行くに障礙せず、猶お虚空の如し。(中略)彼の坐禅人はかくの如く心を以って地一切入を修行し、第四禅に入り安詳として出づるに水の隔を作すを転じ、智を以って受持するにこれ当に地と成るべし、已に地と成らば彼の坐禅人は水に於いて行くに障礙せず、性の地を行くが如し」云々と云えり。これ一切入に於ける周遍自在の相を明にせるなり。「大智度論巻28」に神通と一切入との相違を説き「問うて曰わく、もし然らば一切入と何等の異あるや。答えて曰わく、一切入はこれ神通の初道なり。先に已に一切入と背捨と勝処にその心を柔伏せば、然る後神通に入り易し。また次ぎに、一切入の中には一身に自ら地変じて水となるを見るも、余人は見ず。神通は則ち然らず、自ら実にこれ水なりと見、他人もまた実水を見るなり。問うて曰わく、一切入は亦たこれ大定なり、何を以ってこの実水をして己身他人皆見せしむること能わざるや。答えて曰わく、一切入は観処広く、但だ能く一切をしてこれ水相ならしむるも、而も実にこれ水ならしむること能わず。神通は一切に遍ずること能わざるも、而も能く地をして転じて水となり、便ちこれ実水ならしむ。ここを以っての故に二の定力各別なり」と云えり。以ってその異を知るべし。またこの十遍処の自性等に関し、「大毘婆沙論巻85」に前の八遍処は貪を対治するが故に無貪善根を以ってその自性と為し、兼ねて亦た相応随転を取らば、欲界は四蘊を以って自性となし、色界は五蘊を以って自性と為し、また後の二遍処は倶に四蘊を以って自性と為す。また前の八遍処は色界、後の二遍処は無色界なり。即ち前の八は色界第四静慮、第九は無色界空無辺処、第十は同識無辺処に在り。また前の八は唯欲界身に依り、後の二は通じて三界身に依り、また前の八は唯欲界の色処を縁じ、後の二は各自地の四蘊を縁じ、また前の八は身念住、後の二は法念住と倶にして、総じて十遍処は世俗智の摂なりと云えり。また「大般涅槃経巻30師子吼品」には、この中の火遍処を除きて第十に無所有一切処三昧を加え、これを十遍処となせり。「大乗義章巻14」には、これを会通し、「彼は事火婆羅門の為の故にかくの如きの説を作す。もし当に火一切処を宣説せば、彼の邪見を増すべし。ここを以ってこれを去る。無所有処は多識なしと雖も、少識なきに非ず。十数を成ずるが為の故に通じてこれを説きて一切処と為す」と云えり。以ってその説意を見るべし。また「中阿含巻59第一得経、巻60例経」、「発智論巻18」、「集異門足論巻19」、「解脱道論巻4至巻6」、「成実論巻13」、「瑜伽師地論巻12」、「顕揚聖教論巻4」、「順正理論巻80」、「大乗阿毘達磨雑集論巻13」等に出づ。<(望)
是時天女即滅不現。天福報形猶尚如是。何況菩薩無量功德果報五欲。 是の時、天女は即ち滅して現われず。天の福報の形すら、猶お是の如し。何に況んや、菩薩の無量の功徳の果報の五欲をや。
是の時、
『天女』は、
すぐに、
『滅して!』、
『見えなくなった!』。
『声聞人』は、
是のような、
『天』の、
『福報』の、
『形』すら、
猶お、   ――小を示して――
是のように、
『著さない!』のであるから、
況して、   ――大に及ぶ――
『菩薩』の、
『無量』の、
『功徳』に、
『因る!』、
『果報』の、
『五欲』に、
『著するはずがない!』。
  :果報の五欲:例えば極楽国土を無量の七宝樹木、衆鳥の妙音を以って荘厳するが如し。
又如甄陀羅王。與八萬四千甄陀羅。來到佛所彈琴歌頌以供養佛。 又甄陀羅王の、八万四千の甄陀羅と来たりて仏の所に到り、琴を弾じて歌頌し、以って仏を供養せるが如し。
又、
『甄陀羅』の、
『王』が、
『八万四千』の、
『甄陀羅』と、
『いっしょに!』、
『仏の所』に来て、
『琴』を、
『弾じ!』、
『歌』を、
『歌って!』、
『功徳を讃え!』、
それで、
『仏』を、
『供養した!』のであるが、――
  甄陀羅(きんだら):梵名kiMnara、また緊陀羅、緊那羅等に作り、人非人、疑神、歌神と訳す。八部衆の一、楽神なり。『大智度論巻30上注:甄陀羅』参照。
  歌頌(かじゅ):梵語gita-pAThaの訳。功徳を讃える詩を歌う(暗唱する)こと。
  参考:『大樹緊那羅王所問経巻1』:『大樹緊那羅王當鼓琴時。佛大眾中人王眾等。比丘比丘尼優婆塞優婆夷。天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩[目*侯]羅伽。釋梵護世若人非人。及離欲者。唯除菩薩不退轉者。其餘一切諸大眾等。聞是琴聲及諸樂音。各不自安從座起舞。時諸一切聲聞大眾。聞琴樂音不能堪耐。各從座起。放捨威儀誕貌逸樂。如小兒舞戲不能自持。爾時天冠菩薩。語是一切諸大聲聞大迦葉等。汝諸大德已離煩惱。得八解脫見四聖諦。云何今者各捨威儀如彼小兒舉身動舞。於時大德諸聲聞等答言。善男子。我於是中不得自在。何以故。由是琴音。我等各各不安樂坐。其體動舞不能自持。所有心念不能令住。爾時天冠菩薩。語大德迦葉言。如何耆年少欲知足。修行頭陀常樂空靜。天人阿修羅敬汝如塔。大德云何不能持身猶小兒舞。云何不護是大眾心。大迦葉言。善男子。如旋嵐大風吹諸樹木藥草叢林。彼無有力能自安持。非彼本心之所欲樂。然彼鼓動。不能自持。善男子。今此大樹緊那羅王。鼓作琴樂妙歌和順。諸簫笛音鼓動我心。如旋嵐風吹諸樹身。不能自持。是善丈夫。誓願威勢福德神力。於諸聲聞及諸緣覺。所有威德彼為殊勝。爾時天冠菩薩語大迦葉。汝今觀是不退菩薩威德勢力。彼琴樂音不能令其動搖驚揚。大德迦葉。誰見如是而當不發無上正真菩提道心。何以故。今有無量智所有威力不如琴聲。令如是等大威德人。聞是琴聲不能自持。其向大乘不退轉者。不能令動。』
爾時須彌山王及諸山樹木。人民禽獸一切皆舞。佛邊大眾乃至大迦葉。皆於座上不能自安。 爾の時、須弥山王、及び諸の山、樹木、人民、禽獣の一切は、皆舞い、仏の辺の大衆、乃至大迦葉も、皆、座上に於いて、自ら安んずる能わず。
爾の時、
『須弥山王』や、
諸の、
『山』や、
『樹木』、
『人民』、
『禽獣』の、
一切は、
皆、
『舞い!』、
『仏の辺』の、
『大衆』は、
『大迦葉に至る!』まで、
皆、
『座』の、
『上』で、
『動揺し!』、
自らを、
『安らかに!』、
『落ち着かせられなかった!』。
是時天須菩薩。問長老大迦葉。耆年舊宿行十二頭陀法之第一。何以在座不能自安。 是の時、天須菩薩の長老大迦葉に問わく、『耆年、旧宿は十二頭陀法を行じて、第一なり。何を以ってか、座に在りて、自ら安んずる能わざる』、と。
是の時、
『天須菩薩』が、
『長老大迦葉』に、こう問うた、――
長老!
『旧宿(長老)』は、
『十二頭陀の法』を、
『行って!』、
『第一だが!』、
何故、
『座』上に於いて、
自らを、
『安らかにできないのですか?』、と。
  耆年(ぎねん):老人、長老と曰うに同じ。
  旧宿(くしゅく):老人、長老と曰うに同じ。
  天須菩薩(てんしゅぼさつ):また天鬚菩薩、或は天冠菩薩とも称するも如し。委細不明。
  十二頭陀(じゅうにづだ):乞食に於ける十二種の行法。『大智度論巻6下注:十二頭陀』参照。
大迦葉言。三界五欲不能動我。是菩薩神通功德果報力故。令我如是。非我有心不能自安也。譬如須彌山四邊風起不能令動。至大劫盡時毘藍風起如吹爛草。 大迦葉の言わく、『三界の五欲は、我れを動ずる能わず。是れ菩薩の神通の功徳の果報の力の故に、我れをして是の如し。我れに心有りて、自ら安んずること能わざるに非ず。譬えば須弥山の四辺より、風起るも、動ぜしむること能わず、大劫の尽くる時に至りて、毘嵐の風起れば、爛草を吹くが如くなるが如し。
『大迦葉』は、
こう言った、――
『三界』の、
『五欲』は、
わたしを、
『動かせない!』が、
是れは、
『菩薩』の、
『功徳』の、
『果報』の、
『力である!』が故に、
わたしを、
是のように、
『動かすのだ!』。
わたしに、
有る、
『心』が、
『自ら』を、
『落ち着かせないのではない!』。
譬えば、
『須弥山』は、
『四辺』より、
『風』が、
『起っても!』、
『動かされない!』が、
『大劫』の、
『尽きる!』時には、
『毘嵐』の、
『風』が、
『起って!』、
『爛草』のように、
『吹き飛ばされる!』のと、
『同じことだ!』、と。
  毘嵐(びらん):梵名具さに毘藍婆vairambhakaに作り、また随藍に作る。即ち劫初、劫末に起こる猛烈な大風を云う。『大智度論巻4下注:随藍』参照。
  爛草(らんそう):腐敗せる草。
以是事故知。二種結中一種未斷。如是菩薩等應行般若波羅蜜。 是の事を以っての故に知る、二種の結中、一種を未だ断ぜざる、是の如き菩薩なれば等しく、応に般若波羅蜜を行ずべし。
是の事の故に、
こう知る、――
『二種』の、
『結』中に、
未だ、
『一種』を、
『断じていない!』、
是のような、
『菩薩』ならば、
皆、
『等しく!』、
『般若波羅蜜』を、
『行うはずである!』、と。
  :菩薩の菩提心は有漏の心なることを明かす。
是阿毘曇中。如是說。復有人言。般若波羅蜜是有漏慧。何以故。菩薩至道樹下乃斷結。先雖有大智慧有無量功德。而諸煩惱未斷。是故言菩薩般若波羅蜜是有漏智慧。 是れを阿毘曇中には、是の如く説けり、復た有る人の言わく、『般若波羅蜜は、是れ有漏の慧なり。何を以っての故に、菩薩は道樹下に至りて、乃ち結を断ず。先に大智慧有り、無量の功徳有りと雖も、諸の煩悩は未だ断ぜず。是の故に言わく、菩薩の般若波羅蜜は、是れ有漏の智慧なり』、と。
是れを、
『阿毘曇』中には、以下のように説く、――
復た、
有る人は、こう言っている、――
『般若波羅蜜(菩薩の慧)』は、
『有漏』の、
『慧である!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
『道樹』の、
『下(もと)』に、
『至って!』、
ようやく、
『結』を、
『断じた!』のである。
先に、
『大きな智慧』や、
『無量の功徳』が、
『有った!』としても、
未だ、
諸の、
『煩悩』は、
『断たれていない!』。
是の故に、
こう言うのである、――
『菩薩』の、
『般若波羅蜜』は、
『有漏』の、
『智慧である!』、と。
復有人言。從初發意乃至道樹下。於其中間所有智慧。是名般若波羅蜜。成佛時是般若波羅蜜。轉名薩婆若。 復た有る人の言わく、『初発意より、乃至道樹下まで、其の中間の有らゆる智慧は、是れを般若波羅蜜と名づけ、成仏の時是の般若波羅蜜転じて、薩婆若と名づく』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、
『初発意』より、
乃至、
『道樹』下までの、
其の、
『中間』の、
有らゆる、
『智慧』を、
『般若波羅蜜』と、
『称し!』、
『仏』と、
『成る!』時、
是の、
『般若波羅蜜』が、
『転じて!』、
『薩婆若(一切智)』と、
『呼ばれるのである!』、と。
  薩婆若(さばにゃ):梵名sarvajJa(全知(all-knowing , omniscient)の義)に作り、また薩般若、薩芸然、薩婆若多(梵sarvajJataa)等に作り、一切智と訳す。内外の一切の法相を了知する智にして、即ち仏智を指して云う。<(佛)
復有人言。菩薩有漏無漏智慧。總名般若波羅蜜。何以故。菩薩觀涅槃行佛道。以是事故。菩薩智慧應是無漏。以未斷結使事未成辦故。應名有漏。 復た有る人の言わく、『菩薩の有漏、無漏の智慧を、総じて般若波羅蜜と名づく。何を以っての故に、菩薩は、涅槃を観て、仏道を行ずれば、是の事を以っての故に、菩薩の智慧は、応に是れ無漏なるべし。未だ結使を断ぜず、事の未だ成辦せざるを以っての故に、応に有漏と名づくべし』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』の、
『有漏』と、
『無漏』の、
『智慧』を、
総じて、
『般若波羅蜜』と、
『称する!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
『涅槃』を、
『観察し!』、
『仏』の、
『道』を、
『行う!』ので、
是の、
『事』の故に、
『菩薩』の、
『智慧』は、
『無漏でなくてはならない!』が、
『菩薩』は、
未だ、
『結使』を、
『断じず!』、
未だ、
『事』が、
『成辦しない!』が故に、
是の、
『智慧』は、
『有漏』と、
『呼ぶべきである!』、と。
  成辦(じょうべん):準備完了、諸事具足。成就。
復有人言。菩薩般若波羅蜜。無漏無為不可見無對。 復た有る人の言わく、『菩薩の般若波羅蜜は、無漏、無為、不可見、無対なり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』の、
『般若波羅蜜』は、
『無漏』、
『無為』、
『不可見』、
『無対である!』、と。
復有人言。是般若波羅蜜不可得相。若有若無若常若無常若空若實。是般若波羅蜜。非陰界入所攝。非有為非無為非法非非法。無取無捨不生不滅。出有無四句。適無所著。 復た有る人の言わく、『是の般若波羅蜜は、不可得の相にして、若しは有、若しは無、若しは常、若しは無常、若しは空、若しは実なり。是の般若波羅蜜は、陰界入の所摂に非ず、有為に非ず、無為に非ず、法に非ず、非法に非ず、取無く、捨無く、不生不滅にして、有無の四句を出で、適(まさ)に著する所無し。
復た、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『般若波羅蜜』は、
『不可得』の、
『相』であり、
『有でもあり!』、
『無でもあり!』、
『常でもあり!』、
『無常でもあり!』、
『空でもあり!』、
『実でもある!』、
是れが、
『般若波羅蜜である!』。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『五陰』、
『十二入』、
『十八界』には、
『含まれず!』、
『有為でも、無為でもなく!』、
『法でも、非法でもなく!』、
『取られる!』ことも、
『捨てられる!』ことも、
『無く!』、
『不生不滅であり!』、
『有、無』の、
『四句』を、
『出ている!』ので、
正しく、
『著する(取り付く)!』所が、
『無い!』。
  有無四句(うむのしく):(1)有 、 (2)無 、 (3)亦有亦無 ( 有or無 ) 、 (4)非有非無 (非有and非無 (即ち非(有or無) ) ) の四種に一切法を摂す。
譬如火焰四邊不可觸以燒手故。般若波羅蜜相亦如是。不可觸以邪見火燒故。 譬えば、火焔の四辺の、触るべからざること、手を焼くを以っての故なるが如し。般若波羅蜜の相も亦た是の如く、触るべからず。邪見の火の焼くを以っての故なり。
譬えば、
『火焔』の、
『四辺』に、
『触れられない!』のは、
『手を焼くから!』であるが、
『般若波羅蜜』の、
『相』にも、
是のように、
『触れられない!』のは、
『邪見』の、
『火』が、
『焼くからである!』、と。
問曰。上種種人說般若波羅蜜。何者為實。 問うて曰く、上に種種の人の般若波羅蜜を説くに、何者か、実と為す。
問い、
上に、
種種の、
『人』が、
『般若波羅蜜』を、
『説いた!』が、
誰の、
『説く!』、
『般若波羅蜜』が、
『実ですか?』。
答曰。有人言各各有理皆是實。如經說。五百比丘各各說二邊及中道義。佛言。皆有道理。 答えて曰く、有る人の言わく、『各各に理有り、皆是れ実なり』、と。経に説けるが如し、『五百の比丘の各各は、二辺、及び中道の義を説く。仏の言わく、皆道理有りと』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
各各には、
『理』が、
『有る!』ので、
皆、
『実である!』、と。
例えば、
『経』に、こう説く通りである、――
『五百』の、
『比丘』が、
各各、
『二辺』と、
『中道』の、
『義(意味)』を、
『説いた!』が、
『仏』は、
こう言われた、――
皆に、
『道理』が、
『有る!』、と。
  参考:『雑阿含経巻43(1164)』:『如是我聞。一時。佛住波羅奈國仙人住處鹿野苑中。時。有眾多比丘集於講堂。作如是論。諸尊。如世尊說波羅延低舍彌德勒所問 若知二邊者  於中永無著  說名大丈夫  不顧於五欲  無有煩惱鎖  超出縫紩憂  。諸尊。此有何義。云何邊。云何二邊。云何為中。云何為縫紩。云何思。以智知。以了了。智所知。了所了。作苦邊。脫於苦。有一答言。六內入處是一邊。六外入處是二邊。受是其中。愛為縫紩。習於受者。得彼彼因。身漸轉增長出生。於此即法。以智知。以了了。智所知。了所了。作苦邊。脫於苦。復有說言。過去世是一邊。未來世是二邊。現在世名為中。愛為縫紩。習近此愛。彼彼所因。身漸觸增長出生。乃至脫苦。復有說言。樂受者是一邊。苦受者是二邊。不苦不樂是其中。愛為縫紩。習近此愛。彼彼所得。自身漸觸增長出生。乃至作苦。復有說言。有者是一邊。集是二邊。受是其中。愛為縫紩。如是廣說。乃至脫苦。復有說言。身者是一邊。身集是二邊。愛為縫紩。如是廣說。乃至脫苦。復有說言。我等一切所說不同。所謂向來種種異說。要不望知。云何世尊有餘之說。波羅延低舍彌德勒所問經。我等應往具問世尊。如世尊所說。我等奉持。爾時。眾多比丘詣世尊所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。向諸比丘集於講堂。作如是言。於世尊所說波羅延低舍彌德勒所問經。所謂二邊。乃至脫苦。有人說言。內六入處是說一邊。外六入處是說二邊。受是其中。愛為縫紩。如前廣說。悉不決定。今日故來請問世尊。具問斯義。我等所說。誰得其義。佛告諸比丘。汝等所說。皆是善說。我今當為汝等說有餘經。我為波羅延低舍彌德勒有餘經說。謂觸是一邊。觸集是二邊。受是其中。愛為縫紩。習近愛已。彼彼所得。身緣觸增長出生。於此法。以智知。以了了。智所知。了所了。作苦邊。脫於苦。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
有人言。末後答者為實。所以者何。不可破不可壞故。若有法如毫氂許有者。皆有過失可破。若言無亦可破。此般若中有亦無無亦無非有非無亦無。如是言說亦無。 有る人の言わく、『末後に答うる者を、実と為す。所以は何んとなれば、破すべからず、壊すべからざるが故なり。若し法有りと、毫氂の如きを有りと許さば、皆過失有りて破すべし。若し無しと言わんにも、亦た破すべし。此の般若中には、有も亦た無く、無も亦た無く、非有非無も亦た無く、是の如きの言説も亦た無し』、と。
有る人は、
こう言っている、――
最後に、
『答えた!』者が、
『実である!』、
何故ならば、
『破られず!』、
『壊れない!』からである。
若し、
有る、
『法』を、
『毫氂ぐらい!』でも、
『有る!』と、
『認めれば!』、
皆、
『過失』が、
『有って!』、
『破られる!』だろう。
若し、
『無い!』と、
『言った!』としても、
『破られる!』だろう。
此の、
『般若』中には、
『有る!』も、
『無い!』も、
『無く!』、
『有るでもなく!』、
『無いでもない!』も、
亦た、
『無く!』、
是のような、
『言説』も、
亦た、
『無い!』。
  毫氂(ごうり):極めて短小なるを云う。毫は寸の千分の一。氂は分の十分の一、毫の十倍。
是名寂滅無量無戲論法。是故不可破不可壞。是名真實般若波羅蜜。最勝無過者。 是れを寂滅、無量、無戯論の法と名づけ、是の故に破すべからず、壊すべからず。是れを真実の般若波羅蜜と名づけ、最勝にして過ぐる者無し。
是れを、
『寂滅』、
『無量』、
『無戯論』の、
『法』と、
『呼び!』、
是の故に、
『破れもせず!』、
『壊れもしない!』ので、
是れを、
『真実』の、
『般若波羅蜜』と、
『呼び!』、
『最勝であり!』、
是れに、
『過ぎる!』者は、
『無い!』、と。
如轉輪聖王降伏諸敵而不自高。般若波羅蜜亦如是。能破一切語言戲論。亦不有所破。 転輪聖王の、諸敵を降伏して、自らを高くせざるが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く、能く一切の語言、戯論を破すも、亦た破す所を有せず。
譬えば、
『転輪聖王』が、
諸の、
『敵』を、
『降伏させても!』、
自らを、
『高くしない!』ように、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
一切の、
『語言』、
『戯論』を、
『破りながら!』、
亦た、
『破る!』所(能破)の、
『語言』や、
『戯論』を、
『有しない!』のである。
復次從此已後品品中種種義門。說般若波羅蜜。皆是實相。 復た次ぎに、此れより已後、品品中にの種種の義門に説く、般若波羅蜜は、皆是れ実相なり。
復た次ぎに、
此れ以後、
『品品』中の、
種種の、
『義の門』で、
『説かれる!』、
『般若波羅蜜』は、
皆、
『実相』を、
『説いている!』。
以不住法住般若波羅蜜中。能具足六波羅蜜。問曰。云何名不住法住般若波羅蜜中能具足六波羅蜜。 不住法を以って、般若波羅蜜中に住して、能く六波羅蜜を具足すとは、問うて曰く、云何が、不住法と名づけ、般若波羅蜜中に住し、能く六波羅蜜を具足する。
『住まらない!』という、
『法』を以って、
『般若波羅蜜』中に、
『住まれば!』、
『六波羅蜜』を、
『具足することができる!』とは、――
問い、
何を、
『住まらない!』、
『法』と、
『呼べば!』、
『般若波羅蜜』中に、
『住まりながら!』、
『六波羅蜜』を、
『具足できるのですか?』。
答曰。如是菩薩觀一切法非常非無常。非苦非樂非空非實。非我非無我。非生滅非不生滅。 答えて曰く、是の如き菩薩の一切の法を観ずらく、『常に非ず、無常に非ず、苦に非ず、楽に非ず、空に非ず、実に非ず、我に非ず、無我に非ず、生滅するに非ず、生滅せざるに非ず』、と。
答え、
是のような、
『菩薩』は、
一切の、
『法』を、こう観る、――
『常ではない!』し、
『無常でもない!』、
『苦ではない!』し、
『楽でもない!』、
『空ではない!』し、
『実でもない!』、
『我ではない!』し、
『無我でもない!』、
『生滅するではない!』し、
『生滅しないでもない!』、と。
如是住甚深般若波羅蜜中。於般若波羅蜜相亦不取。是名不住法住。若取般若波羅蜜相。是為住法住 是の如く甚深の般若波羅蜜中に住して、般若波羅蜜の相をも亦た取らざる、是れを不住法に住すと名づく。若し般若波羅蜜の相を取らば、是れを住法に住すと為す。
是のように、
『甚だ深い!』、
『般若波羅蜜』中に、
『住まり!』ながらも、
亦た、
『般若波羅蜜』の、
『相』を、
『取らない!』、
是れを、
『住まらない!』、
『法』中に、
『住まる!』と、
『称し!』、
若し、
『般若波羅蜜』の、
『相』を、
『取る!』ならば、
是れを、
『住まる!』、
『法』中に、
『住まる!』と、
『称する!』。
問曰。若不取般若波羅蜜相。心無所著。如佛所言一切諸法欲為其本。若不取者。云何得具足六波羅蜜。 問うて曰く、若し般若波羅蜜の相を取らずんば、心に著する所無し。仏の言う所の如きは、『一切の諸法を、其の本為らんと欲す』、となり。若し取らずんば、云何が、六波羅蜜を具足するを得ん。
問い、
若し、
『般若波羅蜜』の、
『相』を、
『取らなければ!』、
『心』に、
『著する!』所が、
『無くなる!』としても、
例えば、
『仏』は、
こう言われている、――
一切の、
諸の、
『法』を、
其の、
『本だ!』と、
『思いたい!』、と。
若し、
『般若波羅蜜』の、
『相』を、
『取らなければ!』、
何故、
『六波羅蜜』を、
『具足できるのですか?』。
  参考:『中阿含巻28(113)諸法本経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。若諸異學來問汝等。一切諸法以何為本。汝等應當如是答彼。一切諸法以欲為本。彼若復問。以何為和。當如是答。以更樂為和。彼若復問。以何為來。當如是答。以覺為來。彼若復問。以何為有。當如是答。以思想為有。彼若復問。以何為上主。當如是答。以念為上主。彼若復問。以何為前。當如是答。以定為前。彼若復問。以何為上。當如是答。以慧為上。彼若復問。以何為真。當如是答。以解脫為真。彼若復問。以何為訖。當如是答。以涅槃為訖。是為比丘欲為諸法本。更樂為諸法和。覺為諸法來。思想為諸法有。念為諸法上主。定為諸法前。慧為諸法上。解脫為諸法真。涅槃為諸法訖。是故比丘當如是學。習出家學道心。習無常想。習無常苦想。習苦無我想。習不淨想。習惡食想。習一切世間不可樂想。習死想。知世間好惡。習如是想心。知世間習有。習如是想心。知世間習.滅.味.患.出要如真。習如是想心。若比丘得習出家學道心者。得習無常想。得習無常苦想。得習苦無我想。得習不淨想。得習惡食想。得習一切世間不可樂想。得習死想。知世間好惡。得習如是想心。知世間習有。得習如是想心。知世間習.滅.味.患.出要如真。得習如是想心者。是謂比丘斷愛除結。正知正觀諸法已。便得苦邊。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰。菩薩憐愍眾生故。先立誓願我必當度脫一切眾生。以精進波羅蜜力故。雖知諸法不生不滅如涅槃相。復行諸功德。具足六波羅蜜。 答えて曰く、菩薩は衆生を憐愍するが故に、先に、『我れは、必ず当に一切の衆生を度脱すべし』、と誓願を立て、精進波羅蜜の力を以っての故に、諸法の不生不滅にして、涅槃の相の如くなるを知ると雖も、復た諸の功徳を行じて、六波羅蜜を具足す。
答え、
『菩薩』は、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
先に、誓願を立てて、――
わたしは、
必ず、
一切の、
『衆生』を、
『度脱するだろう!』と。
『精進波羅蜜』の、
『力』を、
『用いる!』が故に、
こう知りながら、――
諸の、
『法』は、
『不生不滅であり!』、
『涅槃のようだ!』と。
やっぱり、
諸の、
『功徳』を、
『求めて!』、
『修行しながら!』、
『六波羅蜜』を、
『具足する!』のである。
所以者何。以不住法住般若波羅蜜中故。是名不住法住般若波羅蜜中 所以は何んとなれば、不住法を以って、般若波羅蜜中に住するが故なり、是れを不住法もて、般若波羅蜜中に住すと名づく。
何故ならば、
『住まらない!』という、
『法』を以って、
『般若波羅蜜』中に、
『住まる!』からである。
是れを、
『住まらない!』という、
『法』を以って、
『般若波羅蜜』中に、
『住まる!』と、
『称する!』。



大智度論釋初品中讚檀波羅蜜義第十八
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


檀の利益

問曰。檀有何等利益故。菩薩住般若波羅蜜中。檀波羅蜜具足滿。 問うて曰く、檀には、何等の利益が有るが故に、菩薩は般若波羅蜜中に住して、檀般羅蜜具足して満つる。
問い、
『檀』に、
何のような、
『利益』を、
『有する!』が故に、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』中に、
『住まって!』、
『檀波羅蜜』が、
『具足して!』、
『満ちるのですか?』。
答曰。檀有種種利益。 答えて曰く、檀には種種の利益有り。
答え、
『檀』には、
種種の、
『利益』が、
『有る!』。
檀為寶藏常隨逐人。 檀を宝蔵と為し、常に人を随逐す。
『檀』は、
『宝』の、
『蔵である!』、
常に、
『人』の、
『後を逐うてくる!』。
檀為破苦能與人樂。 檀を苦を破ると為し、能く人に楽を与う。
『檀』は、
『苦』を、
『破り!』、
『人』に、
『楽』を、
『与えられる!』。
檀為善御開示天道。 檀を善御と為し、天道を開示す。
『檀』は、
『善い!』、
『御者である!』、
『天』への、
『道』を、
『開き示す!』。
  善御(ぜんぎょ):善良なる御者。
檀為善府攝諸善人。(施攝善人與為因緣故言攝) 檀を善府と為し、諸の善人を摂す(施は善人を摂し、与(あずか)って因縁と為るが故に摂すと言う)。
『檀』は、
『善い!』、
『都(みやこ)である!』、
諸の、
『善い!』、
『人』を、
『包み込む!』。
  善府(ぜんぷ):善良なる都。
檀為安隱臨命終時心不怖畏。 檀を安隠と為し、命終の時に臨んで、心怖畏せず。
『檀』は、
『安隠である!』、
『命』の、
『終る!』時に、
『臨んでも!』、
『心』は、
『恐れない!』。
檀為慈相能濟一切。 檀を慈相と為し、能く一切を済う。
『檀』は、
『慈相である!』、
一切を、
『済うことができる!』。
檀為集樂能破苦賊。 檀を楽を集むと為す、能く苦の賊を破る。
『檀』は、
『楽』を、
『集め!』、
『苦』の、
『賊』を、
『破ることができる!』。
檀為大將能伏慳敵。 檀を大将と為す、能く慳の敵を伏す。
『檀』は、
『大将である!』、
『慳(ものおしみ)』という、
『敵』を、
『伏することができる!』。
檀為妙果天人所愛。 檀を妙果と為す、天人の愛する所なり。
『檀』は、
『妙なる!』、
『果(このみ)である!』、
『天』にも、
『人』にも、
『愛される!』。
檀為淨道賢聖所遊。 檀を浄道と為す、賢聖の遊ぶ所なり。
『檀』は、
『浄い!』、
『道である!』、
『賢者』や、
『聖者』の、
『遊ぶ所だ!』。
檀為積善福德之門。 檀を積善と為す、福徳の門なり。
『檀』は、
『善』を、
『積むことだ!』、
『福徳』の、
『門である!』。
檀為立事聚眾之緣。 檀を立事と為す、衆を聚(あつ)むる縁なり。
『檀』は、
『事』を、
『起すことだ!』、
『衆人』を、
『集める!』、
『縁となる!』。
檀為善行愛果之種。 檀を善行と為す、愛果の種なり。
『檀』は、
『善い!』、
『行いである!』、
『楽しい!』、
『果(このみ)』の、
『種(たね)だ!』。
  愛果(あいか):梵語iSTa-phalaの訳。楽果。楽しい結果(pleasant effect)、善業の果報として齎される楽しい結果(enjoyable results that occur as a result of one's prior good activities.)。
檀為福業善人之相。 檀を福業と為す、善人の相なり。
『檀』とは、
『福』を、
『齎す!』、
『業である!』、
『善い!』、
『人』の、
『相だ!』。
檀破貧窮斷三惡道。 檀は貧窮を破り、三悪道を断つ。
『檀』は、
『貧窮』の、
『因』を、
『破り!』、
『三悪(地獄、餓鬼、畜生)』の、
『道』を、
『断つ!』。
檀能全護福樂之果。 檀は能く福楽の果を全護す。
『檀』は、
『福』や、
『楽』という、
『果』を、
『全うして!』、
『護ることができる!』。
  全護(ぜんご):傷つけないように護る。
檀為涅槃之初緣。 檀を涅槃の初縁と為す。
『檀』は、
『涅槃』の、
『初』の、
『縁である!』。
入善人聚中之要法。 善人の聚中に入る要法なり。
『檀』は、
『善人』の、
『集まり!』に、
『入る!』為めの、
『要(かなめ)』の、
『法である!』。
稱譽讚歎之淵府。 称誉と讃歎の淵府なり。
『檀』は、
『称讃』と、
『讃歎』の、
『集まる!』、
『都会である!』。
  淵府(えんぷ):人の集る都。都会。
入眾無難之功德。 衆に入りて難無き功徳なり。
『檀』は、
『衆』中に、
『入っても!』、
『難』を、
『無くする!』、
『功徳()である!』。
心不悔恨之窟宅。 心の悔恨せざる窟宅なり。
『檀』は、
『心』が、
『悔やむこともなく!』、
『恨むこともない!』、
『安隠な!』、
『窟(ほらあな)であり!』、
『宅(すまい)である!』。
善法道行之根本。 善法にして道行の根本なり。
『檀』は、
『善い!』、
『法であり!』、
『道』と、
『行い!』の、
『根本である!』。
種種歡樂之林藪。 種種の歓楽の林藪なり。
『檀』は、
種種の、
『歓び!』と、
『楽しみ!』の、
『林』や、
『藪(やぶ)である!』。
  林藪(りんそう):林と藪。
富貴安隱之福田。 富貴と安隠の福田なり。
『檀』は、
『富貴』や、
『安隠』という、
『福』を、
『刈入れる!』、
『田である!』。
  福田(ふくでん):梵語puNya- kSetraの訳、聖地、巡礼の場所(a holy place , a place of pilgrimage)の義。福を生ずべき田の意。即ち田の能く物を産するが如く、之に施せば能く福を生ずるものを云う。『大智度論巻3下注:福田』参照。
得道涅槃之津梁。 道と涅槃を得る津梁なり。
『檀』は、
『道』や、
『涅槃』を、
『得る!』為めの、
『渡し場』か、
『橋である!』。
  津梁(しんりょう):渡し場と橋。
聖人大士智者之所行。 聖人、大士、智者の行う所なり。
『檀』は、
『聖人』、
『大士』、
『智者』によって、
『行われる!』。
餘人儉德寡識之所效。 余人の倹徳寡識の效(なら)う所なり。
『檀』は、
その他の、
『功徳』や、
『知識』が、
『少ない!』者の、
『学ぶものだ!』。
  倹徳(けんとく):少い徳。
  寡識(かしき):少い知識。
  (ぎょう):ならう。学ぶ。
復次譬如失火之家。黠慧之人明識形勢。及火未至急出財物。舍雖燒盡財物悉在。更修室宅。 復た次ぎに、譬えば失火の家を、黠慧の人は、明らかに形勢を識り、火の未だ至らざるに及んで、急ぎ財物を出せば、舎(いえ)焼け尽くすと雖も、財物は悉く在り、更に室宅を修むるが如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『家』に、
『火』が、
『出た!』時、
『智慧』の、
『人』は、
『形勢』を、
『明らかに!』、
『識って!』、
未だ、
『火』の、
『至らない!』
『内に!』、
『財物』を、
『急いで!』、
『出す!』ので、
『家屋』は、
『焼け!』、
『尽きても!』、
『財物』は、
『悉く!』、
『残っていて!』、
『室宅』を、
『新しく!』、
『整えられる!』。
  黠慧(げちえ):智慧。智慧に抜け目の無いこと。
  室宅(しったく):奥の間と居間。
  (しゅう):かざる、修飾。ととのえる、整理。
好施之人亦復如是。知身危脆財物無常修福及時。如火中出物後世受樂。亦如彼人更修宅業福慶自慰。 好施の人も亦復た是の如く、身の危脆にして、財物の無常なるを知り、福を修めて時に及べば、火中に物を出すが如く、後世に楽を受け、亦た彼の人の更に宅業を修むるが如く、福慶自ら慰む。
『施』を、
『好む!』、
『人』も、
亦た、
是のように、
『身』の、
『危うく!』、
『脆い!』ことや、
『財物』の、
『無常』を、
『知って!』、
『福』の、
『業』を、
『修めながら!』、
『時』の、
『至る!』のを、
『待つ!』ので、
譬えば、
『火』中より、
『物』を、
『出すように!』、
『後世』に、
『楽』を、
『受け!』、
亦た、
彼の、
『人』が、
自らの、
『財物』で、
『宅業(家事)』を、
『整えた!』ように、
『福慶(福報)』で、
『自ら!』を、
『慰める!』。
  危脆(きぜい):危うくもろい。
  (ぎゅう):~に及んで。~の時に。
  及時(ぎゅうじ):時に及んで。然るべき時に。為すべき時に。為し得べき時に。
  宅業(たくごう):住居に関する仕事。
  福慶(ふくぎょう):幸福、慶賀。幸いと喜び。
愚惑之人但知惜屋匆匆營救。狂愚失智不量火勢猛風絕焰土石為焦。翕響之間蕩然夷滅。屋既不救財物亦盡。飢寒凍餓憂苦畢世。 愚惑の人は、但だ屋を惜しむことを知りて、匆匆と救を営み、狂愚にして智を失い、火勢を量らず、猛風焔を絶えて、土石為めに焦(こ)げ、翕響の間に蕩然として夷滅すれば、屋は既に救わず、財物も亦た尽き、飢寒、凍餓の憂苦ありて世を畢(お)う。
『家』から、
『火』を、
『出した!』時、
『愚惑』の、
『人』は、
但だ、
『家屋』を、
『惜む!』ことを、
『知る!』のみで、
慌てて、
『家屋』を、
『救おう!』と、
『謀(はか)る!』が、
『狂ったのか?』、
『愚かなのか?』、
『智』を、
『失って!』、
『火』の、
『勢(いきおい)』を、
『量らず!』、
『猛烈な!』、
『風』が、
『焔』を、
『吹きあげる!』と、
『土』も、
『石』も、
『焼け焦げて!』、
『僅かの間』に、
『家屋』は、
『跡形もない!』、
『家屋』を、
『救えなかった!』上に、
更に、
『財物』までも、
『尽きてしまい!』、
『飢餓』と、
『寒凍』に、
『憂い苦しんで!』、
『世を終える!』。
  匆匆(そうそう):慌てふためくさま。
  営救(ようぐ):救を謀る。
  狂愚(こうぐ):狂人と愚人。
  絶焔(ぜつえん):絶は’たゆ’と訓むも、焔を極めるの意。
  翕響(きゅうごう):僅かの時間。
  蕩然(とうねん):跡形も無きさま。
  夷滅(いめつ):跡形も無くす。
慳惜之人亦復如是。不知身命無常須臾叵保。而更聚歛守護愛惜。死至無期忽焉逝沒。形與土木同流。財與委物俱棄。亦如愚人憂苦失計。 慳惜の人も亦復た是の如く、身命の無常にして、須臾も保ちがたきを知らず、更に聚斂、守護して愛惜するも、死の至るには期無く、忽焉として、逝没すれば、形は土木と同じく流れ、財と委物と倶に棄つれば、亦た愚人の憂苦して計を失うが如し。
『物』を、
『惜む!』、
『人』も、
亦た、
是のように、
『身』や、
『命』が、
『無常であり!』、
『束の間』も、
『保ち難い!』ことを、
『知らない!』ので、
『財物』を、
『集めて!』、
『護り!』、
『愛惜する!』が、
『死』の、
『至る!』のに、
『期日』は、
『無く!』、
『突然』、
『死ぬ!』と、
『形(身体)』は、
『土』や、
『木』と、
『いっしょに!』、
『流され!』、
『財産』も、
『倉庫』に、
『積まれた!』、
『物品』も、
『何もかも!』、
『捨てることになり!』、
亦たもや、
『愚人』が、
『憂いて!』、
『苦しんだ!』のと、
『同じように!』、
『計画』を、
『失うことになる!』。
  慳惜(けんじゃく):物惜しみすること。
  須臾(しゅゆ):梵語無呼栗多muhuurtaの訳。暫時とも云う。短時間の意なり。「倶舎論巻12」に依れば、無呼栗多は一昼夜の三十分の一となせり。
  聚斂(じゅれん):集め収める。
  忽焉(こつえん):たちまち、突然。
  逝没(ぜもつ):死没。
  委物(いもつ):倉庫に積まれた物。
  失計(しっけい):計画を失う。もくろみが外れる。
復次大慧之人有心之士。乃能覺悟知身如幻財不可保。萬物無常唯福可恃。將人出苦津通大道。 復た次ぎに、大慧の人、有心の士は、乃(すなわ)ち能く、身は幻の如く、財は保つべからず、万物は無常にして、唯だ福のみを恃(たの)むべく、人を将(ひき)いて、苦の津を出づれば、大道に通づるを知る。
復た次ぎに、
『大慧の人』や、
『有心の士』ならば、
なんとか、
覚悟して、こう知っている、――
『身』は、
『幻のようであり!』、
『財』は、
『保ちがたく!』、
『万物』は、
『無常なので!』、
唯だ、
『福』のみを、
『恃むべきだが!』、
『人』を、
『将(ひき)いて!』、
『苦』の、
『津(みなと)』を、
『出帆すれば!』、
『大きな!』、
『道』に、
『通じるだろう!』、と。
復次大人大心能大布施。能自利己。小人小心不能益他。亦不自厚。 復た次ぎに、大人の大心は、能く大布施し、能く自ら己を利するも、小人の小心は、他を益する能わず、亦た自らを厚くせず。
復た次ぎに、
『大人(摩訶薩埵)』の、
『大心』は、
『大いに!』、
『布施して!』、
自ら、
『己自身』を、
『利益するものである!』が、
『小人』の、
『小心』は、
『他』を、
『利益しない!』ので、
自ら、
『己自身』を、
『厚くするものではない!』。
復次譬如勇士見敵必期吞滅。智人慧心深得悟理。慳賊雖強亦能挫之必令如意。遇良福田值好時節(時應施之時也遇而不施是名失時)覺事應心能大布施。 復た次ぎに、譬えば勇士の敵を見て、必ず呑滅せんと期するが如く、智人の慧心は、深く理を悟ることを得て、慳の賊強しと雖も、亦た之を挫いて、必ず意の如くならしめ、良き福田に遇い、好き時節に値えば(時は之に施す時に応ずるなり。遇うて施さざれば、是れを時を失すと名づく)、事を覚りて、心に応じ、能く大布施す。
復た次ぎに、
譬えば、
『勇士』が、
『敵』を、
『見る!』と、
必ず、
『呑滅(全滅)しよう!』と、
『決意する!』ように、
『智人』の、
『慧心』も、
深く、
『理』を、
『悟って!』、
『理解している!』ので、
『慳』の、
『賊』が、
『強くても!』、
之を、
『挫(くじ)いて!』、
『思い通りにし!』、
『良い!』、
『福田』に、
『遇い!』、
『好い!』、
『時節(金運、財運)』に、
『値()えば!』、
『事』を、
『覚った!』、
『心』に、
『応じて!』、
『大きく!』、
『福田』に、
『施すことができる!』。
復次好施之人為人所敬。如月初出無不愛者。好名善譽周聞天下人所歸仰一切皆信。 復た次ぎに、好施の人は、人に敬わるること、月の初めて出づるが如く、愛せざる者の無く、好名、善誉周(あまね)く天下に聞こえ、人に帰仰されて、一切は皆信ず。
復た次ぎに、
『施し!』を、
『好む!』、
『人』は、
『人』に、
『敬われる!』ので、
まるで、
『出たばかり!』の、
『月』を、
『愛さない!』、
『人』が、
『無いようであり!』、
『好名(名声)』と、
『善誉(称誉)』が、
周(あまね)く、
『天下』に、
『聞こえて!』、
『人』に、
『帰依され!』、
『仰視されて!』、
一切の、
『人』が、
皆、
『信じる!』。
  帰仰(きごう):帰依、仰視。
好施之人貴人所念賤人所敬。命欲終時其心不怖。如是果報今世所得。譬如樹華大果無量。後世福也。 好施の人は、貴人には念ぜられ、賎人には敬われ、命の終らんと欲する時にも、其の心は怖れず。是の如き果報は、今世に所得なり。譬えば、樹の華大なれば、果無量なるが如きは、後世の福なり。
『施し!』を、
『好む!』、
『人』は、
『高貴』の、
『人』には、
『心に掛けられ!』、
『卑賎』の、
『人』には、
『敬われ!』、
『命』が、
『終ろうとする!』時にも、
其の、
『心』は、
『恐れない!』。
是のような、
『果報』は、
『今世』に、
『得られる!』が、
譬えば、
『樹(たちき)』の、
『華』が、
『大きければ!』、
『果(このみ)』も、
『無量である!』ように、
『後世』にも、
『福』の、
『果報がある!』。
生死輪轉往來五道無親可恃。唯有布施若生天上人中得清淨果皆由布施。象馬畜生得好櫪養。亦是布施之所得也。 生死に輪転し、五道を往来するに親の恃むべき無く、唯だ布施有るのみ。若しは天上、人中に生じて、清浄の果を得るは、皆、布施に由り、象馬、畜生となりて、好き櫪養を得るも、亦た是れ布施の所得なり。
『生、死』中に、
『輪転しながら!』、
『五道』を、
『往来する!』者には、
『恃むべき!』、
『親戚』も、
『無く!』、
唯だ、
『布施』のみが、
『有る!』。
若し、
『天上、人中』に、
『生まれた!』ならば、
『清浄な!』、
『果報』を、
『得る!』のは、
皆、
『布施』によって、
『得る!』。
若し、
『象馬、畜生』中に、
『生まれた!』ならば、
『好い!』、
『飼い葉』を、
『得る!』のも、
やはり、
『布施』によって、
『得る!』のである。
  櫪養(りゃくよう):飼い葉。櫪は飼い葉桶。
布施之德富貴歡樂。持戒之人得生天上。禪智心淨無所染著得涅槃道。 布施の徳は富貴、歓楽なるも、持戒の人は、天上に生ずるを得て、禅智の心浄ければ、染著する所無く、涅槃の道を得。
『布施』の、
『徳(所得)』は、
『富貴』と、
『歓楽である!』が、
『持戒の人』ならば、
『天上』に、
『生まれることができ!』、
『禅』と、
『智』の、
『心』が、
『浄ければ!』、
『染著する!』所の、
『五欲』を、
『離れて!』、
『涅槃』の、
『道』を、
『得る!』。
布施之福是涅槃道之資糧也。念施故歡喜。歡喜故一心。一心觀生滅無常觀生滅無常故得道。 布施の福は、是れ涅槃の道の資糧なり。施を念ずるが故に歓喜し、歓喜するが故に一心なり。一心に生滅の無常なるを観じ、生滅の無常なるを観ずるが故に道を得るなり。
『布施』の、
『福』は、
『涅槃』の、
『道()』の、
『資糧(もとで)』である。
『施』を、
『念じる!』が故に、
『歓喜し!』、
『歓喜する!』が故に、
『一心となれば!』、
『一心』に、
『生滅』の、
『無常』を、
『観察し!』、
『一心』に、
『生滅』の、
『無常』を、
『観察する!』が故に、
『涅槃』の、
『道』を、
『得る!』のである。
如人求蔭故種樹。或求華或求果故種樹。布施求報亦復如是。今世後世樂如求蔭。聲聞辟支佛道如華。成佛如果。是為檀種種功德 人の蔭を求むるが故に、樹を種え、或いは華を求め、或いは果を求むるが故に樹を植うるが如し。布施に、報を求むるも亦復た是の如し。今世と後世の楽は、蔭を求むるが如し。声聞、辟支仏の道は華の如し。仏と成るは、果の如し。是れを檀の種種の功徳と為す。
譬えば、
『人』が、
『蔭』を、
『求める!』が故に、
『樹』を、
『種えたり!』、
『華』や、
『果』を、
『求める!』が故に、
『樹』を、
『種える!』が、
『布施して!』、
『報』を、
『求める!』のも、
是れと、
『同じでように!』、
『今世』や、
『後世』の、
『楽』は、
『蔭』を、
『求めた!』のであり、
『声聞』や、
『辟支仏』の、
『道』は、
『華』を、
『求めた!』のであり、
『仏』と、
『成る!』のは、
『果』を、
『求めた!』のである。
是れが、
『檀』の、
種種の、
『功徳である!』。


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