巻第十(下)
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大智度初品中十方菩薩來釋論第十五之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


釈迦牟尼仏、東方の諸仏を華を散いて供養する

【經】爾時釋迦牟尼佛受是千葉金色蓮華已。散東方恒河沙等世界中佛 爾の時、釈迦牟尼仏は、是の千葉金色の蓮華を受け已りて、東方の恒河沙に等しき世界中の仏に散じたもう。
爾の時、
『釈迦牟尼仏』は、
是の、
『千葉』の、
『金色』の、
『蓮華』を、
『受けて!』、
『東方』の、
『恒河沙ほど!』の、
『世界』の、
『仏』に、
『散()かれた!』。
【論】問曰。佛無勝如今何以故。向東方諸佛散華供養。 問うて曰く、仏には勝如するもの無し。今は、何を以っての故にか、東方の諸仏に向かいて華を散じて供養したもう。
問い、
『仏』を、
『凌ぐ!』者は、
『無い!』のに、
今は、
何故、
『東方』の、
諸の、
『仏』に、
『向い!』、
『華』を、
『散いて!』、
『供養された!』のですか?
  勝如(しょうにょ):凌ぐ。
如佛初得道時。自念人無所尊則事業不成。今十方天地誰可尊事者。我欲師而事之。 仏の初めて道を得たまえる時、自ら念じたまえるが如し、『人に尊ぶ所無ければ、則ち事業成ぜず。今十方の天地に、誰か尊び事(つか)うべき者なる。我れは、師して之に事えんと欲す』、と。
例えば、こうである、――
『仏』は、
初めて、
『道』を、
『得られた!』時、
自ら、こう念じたれた、――
『人』は、
『尊敬する!』所が、
『無い!』と、
則ち、
『事』を、
『作しても!』、
『成就しない!』。
今、
『十方』の、
『天』と、
『地』との、
誰に、
『尊び!』、
『事(つか)えればよいのか?』
わたしは、
之(これ)を、
『師』として、
『事えたいものだ!』、と。
  尊事(そんじ):尊び奉侍すること。
  (し):法を人に習うこと。
是時梵天王等諸天白佛。佛為無上。無過佛者。 是の時、梵天王等の諸天の仏に白さく、『仏を無上と為し、仏に過ぐる者無し』、と。
是の時、
『梵天王』等の、
諸の、
『天』は、
『仏』に、こう白した、――
『仏』は、
『無上です!』、
『仏』に、
『過ぎる!』者は、
『無いのです!』、と。
佛亦自以天眼觀三世十方天地中無勝佛者。心自念言。我行摩訶般若波羅蜜。今自致作佛。是我所尊即是我師。我當恭敬供養尊事是法。譬如有樹名為好堅。是樹在地中百歲枝葉具足。一日出生高百丈。是樹出已欲求大樹以蔭其身。 仏も、亦た自ら天眼を以って、三世十方の天、地中に仏に勝る者の無きを観て、心に自ら念じて言わく、『我れは摩訶般若波羅蜜を行じて、今、自ら致して、仏と作る。是れ我が尊ぶ所にして、即ち是れ我が師なり。我れは当に是の法を恭敬し、供養し、尊事すべし。譬えば有る樹の名づけて、好堅と為すが如し。是の樹は、地中に在ること百歳にして、枝葉具足し、一日にして出生すれば、高さ百丈なり。是の樹出で已るに、大樹を求めて、以って其の身を蔭にせんと欲す。
『仏』も、
自ら、
『天眼』を以って、
『三世』の、
『十方』の、
『天、地』中を、
『観られた!』が、
『仏』に、
『勝る!』者は、
『無かった!』ので、
『心』に、
自ら、こう念じて言われた、――
わたしは、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『行って!』、
今、
『仏』と、
『作る!』に、
『至った!』。
是の、
『摩訶般若波羅蜜』は、
わたしの、
『尊ぶ!』所であり、
即ち、
わたしの、
『師である!』。
わたしは、
是の、
『法』を、
『恭敬し!』、
『供養し!』、
『尊事すべき!』である。
譬えば、こうである、――
有る、
『樹』は、
『好堅』と、
『呼ばれている!』。
是の、
『樹』は、
『百年間』、
『地』中に、
『在って!』、
『枝』や、
『葉』が、
『具足する!』と、
『一日』で、
『出生して!』、
『高さ!』が、
『百丈にもなる!』のに、
是の、
『樹』は、
『地』上に、
『出る!』と、
『大樹』を、
『求めて!』、
其の、
『身』を、
『蔭にしよう!』と、
『思った!』。
是時林中有神語好堅樹言。世中無大汝者。諸樹皆當在汝蔭中。 是の時、林中の有る神の好堅樹に語りて言わく、『世中に、汝より大なる者無し。諸樹は皆、当に汝が蔭中に在るべし』、と。
是の時、
『林』中の、
有る、
『神』が、
『好堅樹』に語って、こう言った、――
『世』の中には、
お前より、
『大きな!』者は、
『無い!』。
諸の、
『樹』は、
『皆!』、
お前の、
『蔭』の中に、
『在るべきだ!』、と。
佛亦如是。無量阿僧祇劫在菩薩地中。生一日於菩提樹下金剛座處坐。實知一切諸法相得成佛道。是時自念。誰可尊事以為師者。我當承事恭敬供養。 仏も亦た是の如く、無量阿僧祇劫、菩薩の地中に在りて生じ、一日にして、菩提樹下の金剛座に於いて処坐し、実に一切の諸の法相を知りて、仏道を成ずるを得るに、是の時、自ら念ずらく、『誰か、尊事して、以って師と為すべき者なる。我れは当に承事し、恭敬、供養すべし』、と。
『仏』も、
是のように、
『無量阿僧祇』、
『菩薩』という、
『地』中に、
『在って!』、
『生まれ!』、
『一日』、
『菩提樹』下の、
『金剛』の、
『座』に、
『処坐して!』、
実に、
一切の、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『知り!』、
『仏』の、
『道』を、
『成就された!』のであるが、
是の時、
自ら、こう念じられた、――
誰が、
『師』として、
『尊事すべき!』者だろう?
わたしは、
『承事し!』、
『恭敬し!』、
『供養しなくてはならない!』、と。
  承事(じょうじ):仕事を承わる。尊事、奉侍に同じ。
時梵天王等諸天白佛言。佛為無上。無過佛者。 時に梵天王等の諸天の仏に白して言さく、『仏を無上と為し、仏に過ぐる者無し』、と。
その時、
『梵天王』等の、
諸の、
『天』は、
『仏』に白して、こう言った、――
『仏』は、
『無上です!』、
『仏』に、
『過ぎる!』者は、
『有りません!』、と。
今何以故復供養東方諸佛。 今は、何を以っての故にか、復た東方の諸仏を供養したもう。
今、
いったい、
何故、
『東方』の、
諸の、
『仏』を、
『供養されるのですか?』。
答曰。佛雖無上三世十方天地中無過佛者。而行供養。供養有上中下。下於己者而供養之是下供養。供養勝己是上供養。供養與己等者是中供養。諸佛供養是中供養。 答えて曰く、仏は無上にして、三世十方の天、地中に仏に過ぐる者無しと雖も、供養を行じたもう。供養に上、中、下有り。己より下なる者なるも、之を供養する、是れ下の供養なり。己に勝るものを供養する、是れ上の供養なり。己と等しき者を供養する、是れ中の供養なり。諸仏を供養するは、是れ中の供養なり。
答え、
『仏』は、
『無上であり!』、
『三世』の、
『十方』の、
『天、地』中に、
『仏』に、
『過ぎる!』者が、
『無い!』としても、
『仏』は、
『供養される!』。
『供養』には、
『上』、
『中』、
『下』が有り――、
『己(おのれ)』より、
『下る!』者であっても、
『供養する!』、
是れは、
『下』の、
『供養である!』。
『己』に、
『勝る!』者を、
『供養する!』、
是れは、
『上』の、
『供養である!』、
『己』に、
『等しい!』者を、
『供養する!』、
是れは、
『中』の、
『供養である!』。
諸の、
『仏』を、
『供養する!』のは、
是れは、
『中』の、
『供養である!』。
如大愛道比丘尼。與五百阿羅漢比丘尼等。一日中一時入涅槃。是時諸得三道優婆塞舉五百床。四天王舉佛乳母大愛道床。 大愛道比丘尼の、五百の阿羅漢比丘尼と等しく、一日中、一時に涅槃に入りたるが如し。是の時、諸の三道を得たる優婆塞、五百の床を挙げ、四天王は、仏の乳母大愛道の床を挙ぐ。
例えば、
『大愛道比丘尼』は、
『五百』の、
『阿羅漢』の、
『比丘尼』と、
『等しく!』、
『同じ日』、
『同じ時』に、
『涅槃』に、
『入った!』が、
是の時、
諸の、
『三道(見道、修道、無学道)』を、
『得た!』、
『優婆塞』が、
『五百』の、
『床』を、
『挙げ!』、
『四天王』が、
『仏』の、
『乳母大愛道』の、
『床』を、
『挙げた!』。
  大愛道比丘尼(だいあいどうびくに):仏の姨母瞿曇弥の比丘尼となりたる後の尊称。『大智度論巻2上注:瞿曇弥、巻10下注:摩訶波闍波提』参照。
  摩訶波闍波提(まかはじゃはだい):梵名mahaa-prajaapatii、また摩訶波闍婆底、摩訶鉢刺闍鉢底、摩訶簸羅闍鉢提、摩訶卑耶和題、或は単に波闍波提、鉢邏闍鉢底に作り、大愛道、愛道、大勝生主、大生主、または大世主と訳す。一に摩訶簸邏闍鉢提瞿曇弥mahaaprajaapatii-gautamiiと称し、また大愛道瞿曇弥、瞿曇弥大愛、或は略して瞿曇弥とも云う。瞿曇弥とは釈迦族瞿曇gautama姓の女の義なり。天臂devadaha城善覚subhuuti王の女にして、即ち仏母摩訶摩耶の妹なり。梵文大事mahaavastuに依るに、善覚王に摩耶、摩訶摩耶、乃至摩訶波闍波提の七女ありとし、「仏本行集経巻5賢劫王種品」には、意、無比意、大意、乃至摩訶波闍波提の八女ありとし、共に瞿曇弥を以って善覚王の季女となせり。釈尊降誕の後、幾ばくもなく仏母摩訶摩耶は崩殂せられたるを以って、瞿曇弥は即ち代りて釈尊を愛撫し養育せられたり。「普曜経巻2欲生時三十二瑞品」に、「今太子は転たまさに長大すべし、誰か能く養育して長大ならしめんかと。皆和して共に議するに、唯大愛道能く育せん、慈心にして燥を推して湿に居り、飲食乳哺して長大ならしめんのみ。大愛道は太子の姨母にして、清浄にして失なし、これ能く常に遠離せざるに堪任せん」と云えり。「方広大荘厳経巻3誕生品」、「過去現在因果経巻1」、「仏本行集経巻11姨母養育品」等にもまた同じく太子養育の事を記述せり。また浄飯王に婚して難陀を生みたることは、「十二遊経」に、「白浄王に二子あり、その大なるを悉達と名づけ、その小子を難陀と名づく。菩薩の母を摩耶と名づけ、難陀の母を瞿曇弥と名づく」と云い、また「雑阿含経巻38」、「摩訶僧祇律巻18」等に難陀は仏の姨母大愛道の子なりと云うに依りて知るを得べし。後浄飯王崩ぜられしを以って、出家して正法律を受けんと欲し、仏所に詣でてこれを請うも許したまわず。時に阿難は姨母養育の恩の鴻大なるを陳べ、三たび懇請せしにより、仏遂に八敬法を制してその出家を聴許し、仏教僧団に於ける最初の比丘尼となれり。これ「中阿含巻28瞿曇弥経」、「大愛道比丘尼経」、及び「四分律巻48」等に伝うる所なり。また「雑阿含経巻11に、「摩訶波闍波提比丘尼は、五百比丘尼のために前後に囲繞せられて仏所に来詣す」と云い、「増一阿含経巻3比丘尼品」に、「我が声聞中第一の比丘尼は、久しく出家して学し、国王に敬せらるるは謂わゆる大愛道瞿曇弥比丘尼これなり」と云えり。これに依るに出家の後久しく道を学し、また多数の比丘尼を指導し、その上首として恭敬せられしを知るなり。その入寂に関しては、「増一阿含経巻50大愛道般涅槃品」に、瞿曇弥は仏の滅度を取りたもうを見るに忍びず、即ち仏涅槃の三月以前に結跏趺坐し、初禅より漸次四禅に入りて捨命す。時に欲界の諸天涕零して悲泣し、仏為にその舎利を供養したまえりと云えり。さればその寿は極めて長かりしものというべし。また「増一阿含経巻9」、「中本起経巻下」、「賢愚経巻3、巻12」、「四分律巻12」、「五分律巻29」、「有部毘奈耶破僧事巻4」、「大唐西域記巻6」等に出づ。<(望)
  三道(さんどう):修行の三位階。即ち見道、修道、無学道を指す。『大智度論巻18下注:三道』参照。
佛自在前擎香爐燒香供養。佛語比丘。汝等助我供養乳母身。 仏は、自ら前に在りて、香炉を擎(かか)げ、香を焼(た)きて供養したまえり。仏の比丘に語りたまわく、『汝等、我れを助けて、乳母の身を供養せしめよ』、と。
『仏』は、
自ら、
『大愛道』の、
『前』に於いて、
『香炉』を、
『擎(かか)げ!』、
『香』を、
『焼()いて!』、
『供養された!』。
『仏』は、
こう語られた、――
お前たちは、
わたしを、
『助けて!』、
わたしに、
『乳母』の、
『身』を、
『供養させよ!』、と。
爾時諸阿羅漢比丘。各各以神足力。到摩梨山上。取牛頭栴檀香薪。助佛作[卄/積]。是為下供養。以是故雖不求果。而行等供養。 爾の時、諸の阿羅漢比丘は、各各神足の力を以って、摩梨山上に到りて牛頭栴檀香の薪を取り、仏を助けて、[卄/積]を作さしめたり。是れを下の供養と為す。是を以っての故に、果を求めずに行うと雖も、供養に等し。
爾の時、
諸の、
『阿羅漢比丘』は、
各各、
『神足』の、
『力』を以って、
『摩梨山』上に、
『到り!』、
『牛頭栴檀香』の、
『薪』を、
『取る!』と、
『仏』を、
『助けて!』、
『薪』を、
『井桁』に、
『組ませた!』。
是れが、
『下』の、
『供養である!』。
是の故に、
『仏』は、
『果』を、
『求めずに!』、
『行われた!』が、
是れは、
『供養』に、
『等しい!』。
  摩梨山(まりせん):牛頭栴檀という香木を産する山の名。『大智度論巻2上注:摩梨山』参照。
  牛頭栴檀(ごづせんだん):上等の香木の名。『大智度論巻2上注:牛頭栴檀』参照。
  [卄/積](しゃく):荼毘の為に井桁に組んだ薪。
復次唯佛應供養佛。餘人不知佛德。如偈說
 智人能敬智  智論則智喜 
 智人能知智  如蛇知蛇足
以是故諸佛一切智。能供養一切智。
復た次ぎに、唯だ仏のみ、応に仏を供養したもうべし。余人は、仏の徳を知らざればなり。偈に説くが如し、
智人は能く智を敬う、智もて論じ則ち智もて喜ぶ、
智人は能く智を知る、蛇の蛇足を知るが如し。
是を以っての故に、諸仏の一切智のみ、能く一切智を供養す。
復た次ぎに、
唯だ、
『仏』のみが、
『仏』を、
『供養する!』に、
『ふさわしい!』。
他の、
『人』は、
『仏』の、
『徳』を、
『知らない!』からである。
『偈』に、こう説く通りである、――
『智』の、
『人』のみが、
『智』を、
『敬うことができる!』、
『智』を、
『用いて!』、
『論じる!』とは、
『智』を、
『用いて!』、
『喜ぶ!』ことだ。
『智』の、
『人』のみが、
『智』を、
『知ることができる!』、
譬えば、
『蛇』のみが、
『蛇の足』を、
『知るように!』。
是の故に、
諸の、
『仏』の、
『一切智』のみが、
『一切智』を、
『供養できる!』のである。
復次是十方佛世世勸助釋迦牟尼佛。如七住菩薩。觀諸法空無所有不生不滅。如是觀已於一切世界中心不著。欲放捨六波羅蜜入涅槃。 復た次ぎに、是の十方の仏は、世世に釈迦牟尼仏を勧助したまえり。七住の菩薩の如きは、諸法の空、無所有、不生不滅を観じ、是の如く観じ已りて、一切の世界中に於いて、心著せず、六波羅蜜を放捨して、涅槃に入らんと欲したもう。
復た次ぎに、
是の、
『十方』の、
『仏』は、
『世世』に、
『釈迦牟尼仏』を、
『勧進し!』、
『助力してきた!』。
例えば、
『釈迦牟尼仏』が、
『七住(不退位)』の、
『菩薩』のとき、
諸の、
『法』の、
『空』、
『無所有』、
『不生不滅』を、
『観察された!』が、
是のように、
諸の、
『法』を、
『観察してしまう!』と、
一切の、
『世界』中の、
『法』に、
『心』が、
『著さず!』、
『六波羅蜜』すら、
『放捨して!』、
『涅槃』に、
『入ろうとされた!』。
  勧助(かんじょ):すすめてたすける。勧進助力。
  七住菩薩(しちじゅうのぼさつ):不退位の菩薩の称。『大智度論巻4下注:七住菩薩』参照。
譬如人夢中作筏渡大河水。手足疲勞生患厭想。在中流中夢覺已自念言。何許有河而可渡者。是時勤心都放。菩薩亦如是立七住中得無生法忍。心行皆止欲入涅槃。 譬えば、人、夢中に筏を作りて大河水を渡り、手足疲労して、患厭想を生ずるに、中流中に在りて、夢より覚め已りて、自ら念じて言わく、『何許(いくばく)の河の、而も渡るべき者有らん』、と。是の時、勤心都(す)べて放たる。菩薩も亦た是の如く、七住中に立ちて、無生法忍を得るに、心行皆止まりて、涅槃に入らんと欲す。
譬えば、こういうことである、――
『人』が、
『夢』中に、
『筏』を、
『作って!』、
『大きな!』、
『河川』を、
『渡っていた!』が、
『手脚』が、
『疲労して!』、
『患厭(いやになる!)』の、
『想(おもい)』が、
『生じた!』。
『中流』に於いて、
『夢』より、
『覚める!』と、
自ら、こう念じて言った、――
何れほどの
『渡らなければならぬ!』、
『河』が、
『有るというのだ?』、と。
是の時、
『勤苦』の、
『心』は、
『都()べて!』、
『解き放たれた!』。
是の、
『菩薩』も、
是の通りであった、――
『七住』中に、
『立って!』、
『無生法忍』を、
『得る!』と、
『心』の、
『行(はたらき!)』が、
皆、
『止まる!』ので、
『涅槃』に、
『入ろう!』と、
『思った!』のである。
  無生法忍(むしょうほうにん):諸法の無生無滅の理を観て、之に安住すること。『大智度論巻5上注:無生法忍』参照。
爾時十方諸佛。皆放光明照菩薩身。以右手摩其頭語言。善男子勿生此心。汝當念汝本願欲度眾生。汝雖知空眾生不解。汝當集諸功德教化眾生共入涅槃。汝未得金色身三十二相八十種隨形好無量光明三十二業。汝今始得一無生法門。莫便大喜。 爾の時、十方の諸仏は、皆光明を放ちて、菩薩の身を照し、右手を以って其の頭を摩でたまい、語りて言わく、『善男子、此の心を生ずる勿(な)かれ。汝は当に汝の本願いて、衆生を度せんと欲せしを念ずべし。汝は、空を知ると雖も、衆生を解せず。汝は、当に諸の功徳を集めて、衆生を教化し、共に涅槃に入るべし。汝は未だ、金色身、三十二相、八十種随形好、無量の光明の三十二業を得ず。汝は、今始めて、一無生の法門を得るのみ、便ち大喜する莫(な)かれ』、と。
爾の時、
『十方』の、
諸の、
『仏』は、
皆、
『光明』を放って、
『菩薩』の、
『身』を、
『照らし!』、
『右手』で、
『菩薩』の、
『頭』を、
『摩でる!』と、
『菩薩』に語って、こう言われた、――
善男子!
此の、
『心』を、
『生じてはならない!』。
お前は、
『本』の、
『願』を、
『念じよ!』――、
『衆生』を、
『度したい!』と、
『思ったではないか?』。
お前は、
『空』を、
『知った!』が、
『衆生』を、
『理解していない!』。
お前は、
諸の、
『功徳』を、
『集めて!』、
『衆生』を、
『教化し!』、
『衆生』と、
『いっしょに!』、
『涅槃』に、
『入るがよい!』。
お前は、
未だ、
『金色の身』も、
『三十二の相』も、
『八十の随形好』も、
『無量の光明』も、
『三十二の業』も、
『得ていない!』。
お前は、
今、
『無生』という、
『一つ!』の、
『法門』を、
『得たぐらい!』で、
『大いに!』、
『喜んでいてはならない!』、と。
  八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう):また八十種好ともいう。更に三十二相を細別して八十種の好を為す。随形好とは三十二相に随う好の意なり。これに諸種の説ありて同じからず、今「大品般若経巻24四摂品」、「法界次第巻下之下」等に依るに、一には頂相を見る者無し、仏頂の上の内鬘は、これを仰げば則ち愈高し、遂にその頂上を見ざることを云う、二には鼻高くして孔を現さず、三には眉は初月の如し、四には耳輪垂埵す、五には身は堅実にして那羅延の如し、六には骨際は鉤鎖の如し、七には身は一時迴旋して象王の如し、八には行時に足の地を去ること四寸、而も印文を現す、九には爪は赤銅の如き色にして薄く潤沢なり、十には膝骨は堅く円好なり、十一には身は清潔なり、十二には身は柔軟なり、十三には身は曲がらず、十四には指は円く繊細なり、十五には指文は蔵覆す、十六には脈は深く現る、十七には踝は現れず、十八には身は潤沢なり、十九には身は自ら持ちて逶迤ならず、二十には身は満足す、二十一には容儀備足す、二十二には容儀満足す、二十三には住処に安んじてよく動く者無し、二十四には威は一切に振う、二十五には一切の衆生これを見て楽しむ、二十六には面は長大ならず、二十七には容貌を正して色を撓めず、二十八には面具して満足す、二十九には唇は頻婆果の色の如し、三十には言音は深遠なり、三十一には臍は深くして円好なり、三十二には毛は右旋す、三十三には手足満足す、三十四には手足は意の如し、三十五には手文は明直なり、三十六には手文長し、三十七には手文断たず、三十八には一切の悪心の衆生も見れば和悦す、三十九には面は広くして殊好なり、四十には面の浄満なること月の如し、四十一には衆生の意に随うて和悦し与に語らう、四十二には毛孔より香気を出す、四十三には口より無上香を出す、四十四には儀容は師子の如し、四十五には進止は象王の如し、四十六には行相は鵝王の如し、四十七には頭は摩陀那果の如し、四十八には一切の声分具足す、四十九には四牙は白利なり、五十には舌色赤し、五十一には舌は薄し、五十二には毛は紅色なり、五十三には毛は軟浄なり、五十四には眼は広長なり、五十五には死門の相具す、五十六には手足赤白にして蓮華の如き色なり、五十七には臍は出でず、五十八には腹は現れず、五十九には細き腹なり、六十には身は傾動せず、六十一には身は重きを持す、六十二にはその身は大なり、六十三には身は長し、六十四には手足は軟浄にして滑沢なり、六十五には四辺の光長は一丈なり、六十六には光は身を照して行く、六十七には等しく衆生を視る、六十八には衆生を軽んぜず、六十九には衆生の音声に随うて不増不減なり、七十には法を説いて著せず、七十一には衆生の語言に随うて法を説く、七十二には音を発して衆の声に応う、七十三には次第に因縁を以って法を説く、七十四には一切の衆生は相を観るも尽くす能わず、七十五には観て厭足せず、七十六には髪は長好なり、七十七には髪は乱れず、七十八には髪は好もしく旋す、七十九には髪の色は青珠の如し、八十には手足には有徳の相ありと云えり。また「大般若経巻381」、「方広大荘厳経巻3誕生品」、「大薩遮尼乾子所説経巻6」、「坐禅三昧経巻上」、「十住毘婆沙論巻9念仏品」、「大乗百福荘厳経」、「瑜伽師地論巻49」、「大智度論巻26、巻89」等に出づ。<(丁)
  三十二業(さんじゅうにごう):如来の有すべき三十二種の勝業を云う。即ち「大方等大集経巻3」に依りて略説すれば、一には如来は能く是処非処を知る。是れ即ち例えば、非処とは若し身口意の悪を造作して安楽を受くるを得ば、是の処有ること無く、是れを非処と名づけ、身口意の善を造作して、楽果を受くれば、斯れに是の処有れば、是れを是処と名づくるが如し。二には如来世尊は、善く去来現在の衆生の有らゆる諸業を知り、業を知り、報を知り、恩を知り、処を知る。三には如来世尊は、諸の衆生の種種の欲と解とを知る。四には如来は悉く無量の世界の若しは修善の行、若しは行悪の法、若しは無礙の行を知る。五には如来は善く一切衆生の諸根の利鈍を知る。六には如来は真実に至処の道を知る。七には如来は禅、解脱、三昧、煩悩の解脱を知る。八には如来は善く自身の有らゆる過去世の業を知る。九には如来の天眼は清浄微妙にして、諸衆生の生滅堕落を知る。十には如来世尊は諸漏尽きて、畢竟じて解脱せるを知る。十一には如来は四無所畏を具足す。十二には如来は真実に諸漏永尽し、是の故に唱言すらく我れは諸漏尽きたりと。十三には如来は真実に遮道の法を説く。十四には如来は実に聖道の畢竟なるを説く。十五には如来は身業に過失有ること無し。十六には如来は天、人、魔、梵、沙門、婆羅門と諍訟を生ぜず。十七には如来の心には忘誤有ること無し。十八には如来は真実に定心ならざる無し。十九には如来は真実に種種の想無し。二十には如来の智に従う捨心は、捨を知らざる無し。二十一には如来の欲業は無増無減なり。二十二には如来の精進に休息有ること無し。二十三には如来の念心に増減有ること無し。二十四には如来の三昧は一切法に於いて平等無減なれば、是の故に諸仏は一切に平等なり。二十五には如来の智慧は常にして減少すること無く、是の智力を以って一切法を知り、能く衆生の意趣に随いて法を説き、無礙智を得て一切義を知り、一切字を知り、一切句を知り、無量劫に於いて一句法を演じ、無量義を出して一切の疑を断ず。二十六には如来の解脱は減少すること有ること無し。二十七には如来の身業は智慧に随いて行ず。二十八には如来の口業は智慧に随いて行ず。二十九には如来の意業は智慧に随いて行ず。三十には如来の智慧は過去世を知り、其の智は無礙にして、亦た障うる者無し。三十一には如来の智慧は未来世を知り、其の智は無礙にして、亦た障うる者無し。三十二には如来の智慧は現在世を知り、其の智は無礙にして、亦た障うる者無し等と云えり。即ち是れ如来の十力を開いて三十二種に為したるものなるが如し。
是時菩薩聞諸佛教誨。還生本心行六波羅蜜以度眾生。如是等初得佛道時得是佐助。 是の時、菩薩は、諸の仏の教誨を聞いて、還って本心を生じ、六波羅蜜を行じて、以って衆生を度せり。是の如き等、初めて仏の道を得たる時に、是の佐助を得。
是の時、
『菩薩』は、
諸の、
『仏』の、
『教誨』を、
『聞いて!』、
還()た、
『本』の、
『心』を、
『生じる!』と、
『六波羅蜜』を、
『行って!』、
『衆生』を、
『度された!』。
是れ等は、
『菩薩』が、
『初めて!』、
『道』を、
『得た!』時、
是の、
『助力』を、
『得たのである!』。
  教誨(きょうかい):おしえさとすこと。
  佐助(さじょ):たすける。輔佐助力。
又佛初得道時心自思惟。是法甚深眾生愚蒙薄福。我亦五惡世生。今當云何念已我當於一法中作三分。分為三乘以度眾生。作是思惟時。十方諸佛皆現光明讚言善哉善哉。我等亦在五惡世中。分一法作三分以度眾生。 又、仏の初めて道を得たまえる時、心に自ら思惟すらく、『是の法は甚深なるに、衆生は愚蒙薄福なり。我れも亦た五悪の世に生まる。今当に云何がすべき』、と。念じ已りたまわく、『我れは、当に一法中に於いて、三分と作すべし。分ちて三乗と為して、以って衆生を度せん』、と。是の思惟を作したもう時、十方の諸仏は皆、光明を現わし、讃じて言わく、『善い哉、善い哉、我等も亦た五悪の世中に在りて、一法を分ちて三分と作し、以って衆生を度したり』、と。
又、
『仏』は、
初めて、
『道』を、
『得た!』時、
『心』に、
自ら、こう思惟された、――
是の、
『法』は、
『甚だ!』、
『深い!』のに、
『衆生』は、
『愚かで!』、
『曚(くら)く!』、
『福が薄い!』。
わたしも、
亦た、
『五悪(殺、盗、邪淫、妄語、飲酒)』の、
『世』に、
『生まれた!』。
今は、
『何うすべきか?』。
そして、こう念じられた、――
わたしは、
是の、
『一つ!』の、
『法』を、
『三つ!』に、
『分けよう!』。
『分けて!』、
『三つ!』の、
『乗(乗り物)』を、
『造り!』、
それで
『衆生』を、
『度(わた)すことにしよう!』、と。
是のように、思惟された時、――
『十方』の、
諸の、
『仏』は、
皆、
『光明』を、
『現わす!』と、
讃じて、こう言われた、――
善いぞ!
善いぞ!
わたしたちも、
『五悪』の、
『世』に、
『生まれた!』時には、
『一法』を、
『三つ!』に、
『分けて!』、
それで、
『衆生』を、
『度したのだ!』、と。
是時佛聞十方諸佛語聲即大歡喜。稱言南無佛。 是の時、仏は、十方の諸仏の語声を聞いて、即ち大歓喜し、称えて言わく、『南無仏』、と。
是の時、
『仏』は、
『十方』の、
諸の、
『仏』の、
『語る!』、
『声』を、
『聞く!』と、
『大歓喜して!』、
『仏』を、
『称えて!』、こう言った、――
『南無(敬意を示す挨拶のことば)!』、
『仏!』、と。
  南無(なむ):梵語namas、尊敬の念を表わす挨拶のことば(reverential salutation)、帰依、帰命等に訳す。『大智度論巻7上注:南無』参照。
如是十方佛處處勸助為作大利。知恩重故。以華供養十方佛。最上福德無過此德。何以故是華寶積佛功德力所生。非是水生華。 是の如く、十方の仏は処処に勧助して、為めに大利を作したまえば、恩の重きを知りたもうが故に、華を以って十方の仏を供養したまえば、最上の福徳なること、此の徳に過ぐる無し。何を以っての故に、是の華は、宝積仏の功徳力の生ずる所にして、是れ水生の華に非ざればなり。
是のように、
『十方』の、
『仏』は、
『菩薩』を、
処処に、
『勧(すす)め!』、
『助けて!』、
その為めに、
『大利』を、
『作される!』ので、
『菩薩』は、
『恩』の、
『重い!』ことを、
『知る!』が故に、
『華』を以って、
『十方の仏』を、
『供養される!』のであるが、
是れは、
『最上』の、
『福徳であり!』、
此の、
『徳』に、
『過ぎる!』者は、
『無い!』のである。
何故ならば、
是の、
『華』は、
『宝積仏』の、
『功徳の力』が、
『生じさせた!』者で、
『水』が、
『生じさせた!』、
『華ではない!』からである。
  勧助(かんじょ):すすめたすける。勧進助力。
普明是十住法身菩薩。送此華來上釋迦牟尼佛。釋迦牟尼佛知十方佛是第一福田故以供養。是福倍多。何以故。佛自供養佛故。 普明は是れ十住法身の菩薩にして、此の華を送り来たりて、釈迦牟尼仏に上(ささ)ぐ。釈迦牟尼仏は、十方の仏は、是れ第一の福田なるが故に以って供養すれば、是の福の倍して多きことを知りたまえり。何を以っての故に、仏自ら、仏を供養したもうが故なり。
『普明』は、
『十住』の、
『法身』の、
『菩薩である!』が、
此の、
『華』に、
『付き添って!』、
『来て!』、
『釈迦牟尼仏』に、
『上(ささ)げる!』と、
『釈迦牟尼仏』は、
こう知られた、――
『十方』の、
『仏』こそ、
『第一』の、
『福田である!』が故に、
此の、
『華』を、
『供養すれば!』、
是の、
『福』は、
『倍増する!』、と。
何故ならば、
『仏』が、
自ら、
『仏』を、
『供養された!』からである。
  十住菩薩(じゅうじゅうのぼさつ):ほぼ仏に等しい菩薩を云う。即ち「光讃経巻7十住品」に依れば、「復た次ぎに須菩提、菩薩摩訶薩の第十住を行ずとは、十二事に於いて悉く具足す、何をか十二と謂う、無量の処に擁護を設けて、衆の願う所に随いて得しむる所と為る(一)。口に演説する所は、諸の天、竜神、揵沓和、阿須倫、迦樓羅、真陀羅、摩烋勒、其の音を聞きて、各各解了す(二)、辯才も是の如し(三)。胞胎の衆事(四)、種姓の尊貴(五)、所生の処の眷属(六)、国土(七)、国(八)を棄て、家(九)を捐てて、仏樹に詣り(十)、清浄具足し(十一)、一切を徳は皆備悉すと名づく(十二)。是れを十二と為す。復た次ぎに須菩提、第十の菩薩摩訶薩とは、即ち謂わく是れ仏なりと」と云える、即ち是れなり。『大智度論巻4下注:十住』参照。
  参考:『光讃経巻7十住品』:『佛告須菩提。如汝所言。何謂菩薩摩訶薩為摩訶衍三拔致。如是須菩提。菩薩摩訶薩行六波羅蜜。入於道地。云何菩薩入於道地。入一切諸法。無來亦無所去。無去亦無所壞。一切諸法不可知處亦無想念。行十道地不見道地。何謂菩薩行十道地者。是菩薩摩訶薩行第一住者。當行十事。何謂為十。修治志性不為顛倒。修治愍哀除去眾想。等心眾生不得眾生。行布施事受者無異。敬善知識無有輕慢。求法為業而無所得。慇懃出學無所貪慕。求於佛身不想相好。開闡法事悉於眾生無所希望。棄除貢高則於諸法而無所著。口之所言至誠為業。是為十事。須菩提。菩薩摩訶薩行第一道地也。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第二住者。當行八法。何謂為八。其戒清淨。而有反復能知報恩。住於忍力常行歡喜。不捨眾生勤於大哀。受尊長教。其出家者。視如世尊。行波羅蜜。慕求善權。是為八事。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第三住者。行五法。何謂為五。博問無厭不著文字。開化法施無衣食想。淨於佛土勸眾德本。亦無所望。是為五事。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第四住者。當行十法終不為捨。何謂為十。不捨閑居。志在少求。而知止足。不離宴坐。不毀禁戒。不厭受欲。不止滅度。一切所有施而不惜。而不怯弱。於諸所有而無所慕。是為十事。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第五住者。當棄八事。何謂為八。棄捐家居。離比丘尼。捨棄動性。不貪功德。捨於睡臥。離於瞋爭。不自稱譽。不毀他人。是為八事。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第六住者。以具六法。何謂為六。謂六波羅蜜。不為六法。不求聲聞。無緣覺想。不念於小。見貧乞者心色和悅。有所施與不以憂慼心不懷恨。是為六事。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第七住者。為以離二十法。何謂二十。無所受。無吾我。不計人。不有命。不念壽。不念常。不著斷滅。無諸想著。離因緣見。不倚諸陰。不慕諸種。捨於諸種。捨於諸入。無三界想。不著於佛。不著於法。不著聖眾。護禁捨見不猗念空。捨諸邪見無所染污。是為二十事。當復具足二十法事。何謂二十。曉了於空。不證無相。惠無所願。淨於三場。愍哀眾生。不見眾生。無所輕慢。等觀諸法。體解法義。無所分別。曉了真正。亦無所著。無從生忍。講說一品。滅除眾想。棄捐塵勞。寂然離邪。其心調定。不離智慧。無有卒暴。是為二十。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第八住者。以為具足四法。何謂為四。入眾生心神通自樂。現諸佛土隨所觀察。具成己土稽首諸佛。以真諦觀諸佛之身。是為四法。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第九住者。當復具足四法。何謂為四。曉了諸根成諸佛土。慇懃奉修於幻三昧。順化眾生令其造德本處於淳淑。為眾示現具足之身為說道義。是為四事。復次須菩提。菩薩摩訶薩行第十住者。於十二事悉具足。何謂十二。為無量處而設擁護。隨眾所願各令得所。口所演說諸天龍神揵沓和阿須倫迦樓羅真陀羅摩烋勒。聞其音各各解了。辯才如是。胞胎眾事。種姓尊貴。所生之處。眷屬國土。棄國捐家。詣於佛樹。清淨具足一切名德。皆為備悉。是為十二。復次須菩提。第十菩薩摩訶薩者。即謂是佛。 』
佛法中有四種布施。一施者清淨受者不淨。二施者不淨受者清淨。三施者清淨受者亦淨。四施者不淨受者不淨。 仏法中には、四種の布施有り、一には施者清浄にして、受者不浄なり。二には施者不浄にして、受者清浄なり。三には施者清浄にして、受者も亦た浄なり。四には施者不浄にして、受者も不浄なり。
『仏』の、
『法』中には、
『四種』の、
『布施』が有る、――
一には、
『施者』は、
『清浄である!』が、
『受者』が、
『不浄である!』、
二には、
『施者』は、
『不浄である!』が、
『受者』は、
『清浄である!』、
三には、
『施者』は、
『清浄である!』が、
『受者』も、
『清浄である!』、
二には、
『施者』も、
『不浄であり!』、
『受者』も、
『不浄である!』。
今施東方諸佛。是為二俱清淨。是福最大。以是故佛自供養十方佛。 今、東方の諸仏に施すは、是れを二倶に清浄と為し、是の福は最大なり。是を以っての故に仏は、自ら十方の仏に供養したまえり。
今、
『東方』の、
諸の、
『仏』に、
『施された!』が、
是れは、
『二つ!』ながら、
『どちらも!』、
『清浄であり!』、
是の、
『福』は、
『最も!』、
『大きい!』ので、
是の故に、
『仏』は、
自ら、
『十方の仏』を、
『供養された!』のである。
問曰。一切聖人不受報果。後更不生。云何言是施福最大。 問うて曰く、一切の聖人は、報の果を受けざれば、後に更に生ぜず。云何が、『是の施の福は最大なり』と言う。
問い、
一切の、
『聖人』は、
『報』としての、
『果』を、
『受けない!』ので、
後に、
『更に!』、
『生まれることはない!』。
何故、
こう言うのですか?――
是の、
『施』の、
『福』は、
『最も大きい!』、と。
答曰。是福雖無人受其相自大。若有人受者其報無量。 答えて曰く、是の福は、人の受くる無しと雖も、其の相は自ら大なり。若し人の受くる者有らば、其の報は無量ならん。
答え、
是の、
『福』は、
『受ける!』、
『人』が、
『無く!』ても、
其の、
『相』は、
『自ずから!』、
『大きい!』。
若し、
有る、
『人』が、
『受けた!』ならば、
其の、
『報』は、
『無量であろう!』。
諸聖人知有為法皆無常空故。捨入涅槃是福亦捨。譬如燒金丸。雖眼見其好不可以手觸。燒人手故。 諸の聖人は、有為法は皆、無常にして、空なりと知るが故に、捨てて涅槃に入りたまえば、是の福も亦た捨てたもう。譬えば金の丸を焼けば、眼には其の好もしきを見ると雖も、手を以って触るるべからざるは、人の手を焼くが故なるが如し。
諸の、
『聖人』は、
こう知っていられる、――
『有為法』は、
皆、
『無常であり!』、
『空である!』と。
故に、
是れを、
『捨てて!』、
『涅槃』に、
『入られる!』ので、
是の、
『福』も、
亦た、
『捨てられる!』。
譬えば、こうである、――
『金』の、
『丸(たま)』を、
『焼けば!』、
『眼』には、
其れが、
『好もしく!』、
『見えた!』としても、
其れに、
『手』で、
『触れられない!』のは、
其れが、
『人の手』を、
『焼くからである!』。
復次如人有瘡則須藥塗。若無瘡者藥無所施。人有身亦如是。常為飢渴寒熱所逼。亦如瘡發。以衣被飲食溫煖將適。如藥塗瘡。 復た次ぎに、人に瘡有れば、則ち薬を須(も)って塗るも、若し瘡無ければ、薬には施す所無きが如し。人に身有るも亦た是の如く、常に飢渴、寒熱に逼らるれば、亦た瘡の発(おこ)るが如く、衣被、飲食、温煖を以って、将(しばら)く適(かな)うは、薬を瘡に塗るが如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『人』は、
『瘡(きず)』が、
『有れば!』、
『薬』を、
『用いて!』、
『塗るべき!』だが、
若し、
『瘡』が、
『無ければ!』、
『薬』には、
『施す(役立つ)!』所が、
『無い!』ように、
『人』の、
『身』も、
是のように、
常に、
『飢渴』や、
『寒熱』に、
『逼られる!』のは、
亦た、
『瘡』が、
『発(おこ)る!』のと、
『同じであり!』、
『衣服』や、
『飲食』、
『温煖』が、
『少しのあいだ!』、
『適(かな)う!』のは、
『瘡』に、
『薬』を、
『塗る!』のと、
『同じである!』。
  (そう):きず。皮膚病の総称。
  (しょう):しばらく。且。
如愚癡人。為貪藥故不用除瘡。若其無瘡藥亦無用。諸佛以身為瘡。捨放身瘡故亦不受報藥。以是故雖有大福亦不受報 愚癡の人の如きは、薬を貪らんが為めの故に、瘡を除くに用いず。若し其れに瘡無ければ、薬にも、亦た用無し。諸仏は、身を以って、瘡と為し、身の瘡を捨放したもうが故に、亦た報の薬をも受けたまわず。是を以っての故に、大福有りと雖も、亦た報を受けず。
譬えば、
『愚癡』の、
『人』などは、
『薬』を、
『貪ろう!』と、
『思う!』が故に、
『瘡』を、
『除く!』ことに、
『用いない!』が、
若し、
『瘡』が、
『無かった!』ならば、
『薬』には、
もう、
『用』は、
『無い!』のである。
諸の、
『仏』は、
『身』を、
『瘡だ!』と、
『思っていられる!』が故に、
『身』という、
『瘡』を、
『放捨される!』ので、
故に、
『報』という、
『薬』も、
『受けられない!』。
是の故に、
『大きな!』、
『福』が、
『有った!』としても、
やっぱり、
『報』は、
『受けられない!』のである。



散かれた華が、諸仏の世界に満ちる

【經】所散蓮華滿東方如恒河沙等諸佛世界 散ずる所の蓮華は、東方の恒河沙にも等しきが如き諸仏の世界を満てり。
『散()かれた!』、
『蓮華』は、
『東方』の、
『恒河沙』に、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏の世界』を、
『満たした!』。
【論】問曰。華少而世界多云何滿。 問うて曰く、華少なくして、世界は多し。云何が満てる。
問い、
『華』は、
『少ない!』のに、
而も、
『世界』は、
『多い!』。
何故、
『満たした!』のですか?
答曰。佛神通力故。如上八種。自恣變化法大能令小小能令大。輕能令重重能令輕。自在無礙隨意所到。能動大地所願能辦。諸大聖人皆得是八種自在。 答えて曰く、仏の神通力の故なり。上の八種に、自ら変化の法を恣(ほしいまま)にするが如くんば、大なるを、能く小ならしめ、小なるを、能く大ならしめ、軽なるを、能く重ならしめ、重なるを、能く軽ならしめ、自在に無礙ならしめ、到る所を意に随わしめ、能く大地を動かしめ、願う所を能く辦ぜしむ。諸の大聖人は、皆、是の八種の自在を得たもう。
答え、
『仏』の、
『神通』の、
『力』に、
『依る!』、
上の、
『八種』の、
『神通』の、
『力』で、
自ら、
『変化の法』を、
『恣(ほしいまま)にされた!』のである、――
則ち、
『大』を、
『変じて!』、
『小にする!』、
『小』を、
『変じて!』、
『大にする!』、
『軽』を、
『変じて!』、
『重にする!』、
『重』を、
『変じて!』、
『軽にする!』、
『自在』に、
『礙(さわり)』を、
『無くする!』、
『到る!』所を、
『意』に、
『随(したが)わせる!』、
『大地』を、
『動かす!』、
『願う!』所を、
『辦じさせる(具足させる)!』である。
諸の、
『大聖人』は、
皆、
是の、
『八種』の、
『自在』を、
『得ている!』。
是故佛能以小華滿東方如恒河沙等世界。又復以示眾生。未來福報。如此少華滿東方世界。又勸東方菩薩言。殖福於佛田中。所得果報亦如此華彌滿無量土。汝雖遠來應當歡喜。遇此大福田果報無量 是の故に、仏は、能く小華を以って、東方の恒河沙に等しきが如き世界を満て、又復た以って衆生に示すらく、『未来の福報は此の少しの華もて、東方の世界を満てるが如し』と、又東方の菩薩に勧めて言わく、『福を仏田中に殖(う)うれば、所得の果報も亦た此の華の如く、無量の土に弥満す。汝、遠く来たりと雖も、応当に歓喜すべし。此の大福田に遇う果報は無量なればなり』、と。
是の故に、
『仏』は、
『小さな!』、
『華』を、
『用いて!』、
『東方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『世界』を、
『満たされる!』と、
又復た、
『衆生』に、
こう示された、――
『未来』の、
『福』の、
『報』は、
此の、
『少し!』の、
『華』が、
『東方』の、
『世界』を、
『満たす!』のと、
『同じである!』、と。
又、
『東方』の、
『菩薩』に勧めて、こう言われた、――
『福』を、
『仏』という、
『福田』中に、
『種えて!』、
『得る!』所の、
『果報』は、
此の、
『華』と、
『同じように!』、
『無量』の、
『国土』を、
『遍く!』、
『満たす!』。
お前は、
『遠く!』より、
『来た!』が、
其の、
『勤苦』に、
『歓喜せよ!』。
此の、
『大きな!』、
『福田』に、
『遇った!』ならば、
其の、
『果報』は、
『無量なのだから!』、と。
  弥満(みまん):遍く満たす。遍く満ちる。



一一の華上に菩薩が有り、皆六波羅蜜を説く

【經】一一華上皆有菩薩。結加趺坐說六波羅蜜。聞此法者畢至阿耨多羅三藐三菩提 一一の華上には、皆菩薩有りて、結加趺坐し、六波羅蜜を説けり。此の法を聞かば、畢(つい)に阿耨多羅三藐三菩提に至らん。
『一一』の、
『華』上には、
『菩薩』が有り、
『結加趺坐』して、
『六波羅蜜』を、
『説いていた!』。
此の、
『法』を、
『聞く!』者は、
畢(つい)には、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至るだろう!』。
【論】問曰。上佛以舌相光明。化作千葉寶華。一一華上皆有坐佛。今何以故一一華上皆有坐菩薩。 問うて曰く、上に仏は舌相の光明を以って、千葉の宝華を化作し、一一の華上には皆、坐せる仏有り。今は何を以っての故にか、一一の華上に、皆坐せる菩薩有る。
問い、
上に、
『仏』が、
『舌相』の、
『光明』を、
『用いて!』、
『千葉』の、
『宝華』を、
『化作される!』と、
『一一』の、
『華』上には、
皆、
『坐った!』、
『仏』が、
『有った!』。
今は、
何故、
『一一』の、
『華』上には、
皆、
『坐った!』、
『菩薩』が、
『有るのですか?』。
答曰上是佛所化華故有坐佛。此是普明菩薩所供養華。是故有坐菩薩。 答えて曰く、上は、是れ仏の化する所の華なるが故に、坐せる仏有り。此れは是れ普明菩薩の供養する所の華なれば、是の故に坐せる菩薩有り。
上は、
『仏』の、
『化された!』所の、
『華である!』が故に、
『坐った!』、
『仏』が、
『有った!』が、
此れは、
『普明菩薩』の、
『供養する!』所の、
『華である!』。
是の故に、
『坐った!』、
『菩薩』が、
『有った!』のである。
復次上諸眾生。應見坐佛得度。今此眾生應見坐菩薩得度。結加趺坐說六波羅蜜。聞此法者畢至阿耨多羅三藐三菩提。如先說 復た次ぎに、上の諸衆生は、応に坐せる仏を見て度を得べく、今の此の衆生は、応に坐せる菩薩を見て度を得べし。結跏趺坐して、六波羅蜜を説き、此の法を聞く者は畢に阿耨多羅三藐三菩提に至ること、先に説くが如し。
復た次ぎに、
上の、
諸の、
『衆生』は、
『坐った!』、
『仏』を、
『見る!』ことが、
『度』を、
『得る!』に、
『ふさわしく!』、
今の、
此の、
『衆生』は、
『坐った!』、
『菩薩』を、
『見る!』ことが、
『度』を、
『得る!』に、
『ふさわしい!』からである。
『結跏趺坐』して、
『六波羅蜜』を、
『説き!』、
此の、
『法』を、
『聞く!』者は、
畢に、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至る!』とは、――
先に、
『説く通りである!』。



諸の菩薩及び童男童女、頭面に仏足を礼する

【經】諸出家在家菩薩及諸童男童女頭面禮釋迦牟尼佛足。各以供養具供養恭敬尊重讚歎釋迦牟尼佛。是諸出家在家菩薩及諸童男童女。各各以善根福德力故。得供養釋迦牟尼佛多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀 諸の出家、在家の菩薩、及び諸の童男、童女は頭面に釈迦牟尼仏の足を礼して、各供養の具を以って、釈迦牟尼仏を供養、恭敬、尊重、讃歎せり。是の諸の出家、在家の菩薩、及び諸の童男、童女は、各各善根の福徳力を以っての故に、釈迦牟尼仏、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀を供養するを得たり。
諸の、
『出家』と、
『在家』の、
『菩薩』と、
諸の、
『童男』、
『童女』は、
『頭面』に、
『釈迦牟尼仏』の、
『足』を、
『礼し!』、
各、
『供養の具』を以って、
『釈迦牟尼仏』を、
『供養し!』、
『恭敬し!』、
『尊重し!』、
『讃歎した!』。
是の、
諸の、
『出家』と、
『在家』の、
『菩薩』と、
諸の、
『童男』、
『童女』とは、
各各、
『善根』の、
『福徳』の、
『力』を、
『用いた!』が故に、
『釈迦牟尼仏』という、
『多陀阿伽度』、
『阿羅呵』、
『三藐三仏陀』を、
『供養する!』、
『機会を得た!』のである。
  多陀阿伽度(ただあかど):梵名tathaagata、如来、如去と訳す。仏の十号の一。また多陀阿伽陀等に作る。『大智度論巻2下注:多陀阿伽陀』参照。
  阿羅呵(あらか):梵名arhat、応供と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:阿羅呵』参照。
  三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ):梵名samyak- saMbuddha、正遍知、等正覚等と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:三藐三仏陀』参照。
【論】如說偈
 諸聖所來道  佛亦如是來 
 實相及所去  佛亦爾無異 ◎
 諸聖如實語  佛亦如實說 
 以是故名佛  多陀阿伽度 ◎
 忍鎧心堅固  精進弓力強 
 智慧利勁箭  破憍慢諸賊 ◎
 應受天世人  一切諸供養 
 以是故名佛  以為阿羅訶 ◎
 正知苦實相  亦實知苦集 
 知苦滅實相  亦知苦滅道 ◎
 真正解四諦  定實不可變 
 是故十方中  號三藐三佛 ◎
 得微妙三明  清淨行亦具 
 是故號世尊  鞞闍遮羅那 ◎
 解知一切法  自得妙道去 
 或時方便說  愍念一切故 ◎
 滅除老病死  令到安隱處 
 以是故名佛  以為修伽陀 ◎
 知世所從來  亦知世滅道 
 以是故名佛  為路迦鞞陀 ◎
 禪戒智等眼  無及況出上 
 以是故名佛  為阿耨多羅 ◎
 大悲度眾生  軟善教調御 
 以是故名佛  富樓沙曇藐 ◎
 智慧無煩惱  說最上解脫 
 以是故名佛  提婆摩㝹舍 ◎
 三世動不動  盡及不盡法 
 道樹下悉知  是故名為佛 ◎
偈に説くが如し、
諸聖の来たる所の道を、仏も亦た是の如く来たり、
実相及び去る所は、仏も亦た爾して異ること無し。
諸聖は如実に語り、仏も亦た如実に説く、
是を以っての故に、仏多陀阿伽度と名づく。
忍の鎧もて心堅固なり、精進の弓は力強し、
智慧の利勁なる箭は、憍慢の諸賊を破る。
応に天と世人の、一切の諸の供養を受くべし、
是の故に仏を名づけて、以って阿羅訶と為す。
正に苦の実相を知り、亦た実に苦の集を知る、
苦の滅の実相を知り、亦た苦の滅の道を知る。
真に正しく四諦を解き、定んで実に変ずべからず、
是の故に十方の中に、三藐三仏と号す。
微妙の三明を得て、清浄の行も亦た具う、
是の故に世尊、鞞闍遮羅那と号す。
一切法を解きて知り、自ら妙道を得て去る、
或いは時に方便して説くは、一切を愍念するが故なり。
老病死を滅除して、安隠処に到らしむ、
是を以っての故に仏を名づけて、以って修伽陀と為す。
世の従いて来たる所を知り、亦た世を滅する道を知る、
是を以っての故に仏を名づけて、路迦鞞陀と為す。
禅戒智の等しき眼は、及ぶ無く況んや上に出でんをや、
是を以っての故に仏を名づけて、阿耨多羅と為す。
大悲もて衆生を度し、軟善の教もて調御す、
是を以っての故に仏を名づけて、富楼沙曇藐と為す。
智慧に煩悩無く、最上の解脱を説く、
是を以っての故に仏を、提婆魔㝹舎と名づく。
三世の動と不動、尽及び不尽の法は、
道樹の下に悉く知る、是の故に名づけて仏と為す。
『偈』に、こう説く通りである、――
諸の、
『聖人』の、
『来られた!』、
『道』は、
『仏』も、
『同じように!』、
『来られた!』、
諸の、
『聖人』の、
『説かれた!』、
『実相』と、
『去る!』所は、
『仏』も、
『同じように!』、
『異なり!』が、
『無い!』。
諸の、
『聖人』は、
『如実』に、
『語られた!』が、
『仏』も、
『如実』に、
『説かれる!』、
是の故に、
『仏』を、
『多陀阿伽度(如来、如去)』と、
『呼ぶ!』。
『忍』という、
『鎧』で、
『心』が、
『堅固になり!』、
『精進』という、
『弓』は、
『力』が、
『強い!』、
『智慧』という、
『利く!』、
『強い!』、
『箭()』を以って、
『憍慢』という、
諸の、
『賊』を、
『破る!』のは、
『天』や、
『世人』の、
一切の、
諸の、
『供養』を、
『受ける!』に、
『ふさわしい!』、
是の故に、
『仏』を、
『阿羅訶(応供)』と、
『呼ぶ!』。
『苦』の、
『実相』を、
『正しく!』、
『知って!』、
『苦』を、
『集める!』者の、
『実』を、
『知る!』、
『苦』の、
『滅した!』、
『実相』を、
『知り!』、
『苦』を、
『滅する!』
『道』をも、
『知る!』。
『四諦』という、
『真実』の、
『正しい!』、
『理解』は、
『実』が、
『定まっていて!』、
『変えられない!』、
是の故に、
『十方』中に、
『三藐三仏(正遍知)』と、
『呼ばれる!』。
『三明(宿命明、天眼明、漏尽明)』という、
『微妙(な力)』を、
『得て!』、
『清浄』の、
『行い!』も、
『具足した!』、
是の故に、
『仏』を、
『鞞闍遮羅那(明行具足)』と、
『呼ぶ!』。
一切の、
『法』を、
『理解して!』、
『知り!』、
自ら、
『微妙の道』を、
『得て!』、
『去る!』、
或いは、
時に、
『方便』の、
『法』を、
『説く!』のは、
一切の、
『衆生』を、
『哀れんで!』、
『念じるからだ!』。
『老、病、死』という、
『苦』を、
『滅除して!』、
『安隠な!』、
『処』に、
『到らせる!』、
是の故に、
『仏』を、
『修伽陀(善逝)』と、
『呼ぶ!』。
『世』に、
何処から、
『来たのか?』を、
『知っている!』し、
『世』を、
『滅する!』、
『道』も、
『知っている!』、
是の故に、
『仏』を、
『路迦鞞陀(世間解)』と、
『呼ぶ!』。
『禅定』と、
『持戒』と、
『智慧』との、
『分』の、
『等しい!』、
『眼』は、
『天、人』中に、
『及ぶ!』者が、
『無い!』、
況して、
『上に出る!』者など、
『有るはずがない!』、
是の故に、
『仏』を、
『阿耨多羅(無上士)』と、
『呼ぶ!』。
『大悲』で、
『衆生』を、
『度し!』、
『善く!』、
『軟らかい!』、
『教』で、
『調御する!』、
是の故に、
『仏』を、
『富楼沙曇藐(調御丈夫)』と、
『呼ぶ!』。
『智慧』に、
『煩悩』が、
『無い!』ので、
『最上』の、
『解脱』を、
『説く!』、
是の故に、
『仏』を、
『提婆魔㝹舎(天人教師)』と、
『呼ぶ!』。
『三世』中の、
『動、不動(動かせるものと、動かせないもの)の法』、
『尽、不尽(尽くせるものと、尽くせないもの)の法』を、
『道樹』下に、
『悉く!』、
『知る!』、
是の故に、
『仏』と、
『呼ばれる!』。
  利勁(りきょう):利くつよい。
  三明(さんみょう):宿命、天眼、漏尽の三事に於いて通達無礙なる智明を云う。『大智度論巻16下注:三明』参照。
  鞞闍遮羅那(びじゃしゃらな):また鞞侈遮羅那三般那(vidyaa-caraNa-saMpanna)に作り、明行足と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:鞞侈遮羅那三般那』参照。
  修伽陀(しゅかだ):梵名sugata、善逝と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:修伽陀』参照。
  路迦鞞陀(ろかびだ):また路迦憊(lokavid)に作り、世間解と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:路迦憊』参照。
  阿耨多羅(あのくたら):梵名anuttara、無上士と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:阿耨多羅』参照。
  富楼沙曇藐(ふるしゃどんみゃく):また富楼沙曇藐婆羅提(puruSa-damya-saarathi)に作り、調御丈夫と訳す。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:富楼沙曇藐婆羅提』参照。
  提婆魔㝹舎(だいばまぬしゃ):また舎多提婆魔㝹舎喃(zaastaa devamanuSyaanaam)に作り、天人師と訳す。『大智度論巻2下:舎多提婆魔㝹舎喃』参照。
  動不動法(どうふどうのほう):欲界中の法は無常の故に動法と為し、上二界中の法は長久の故に不動法と名づく。「遺教経」に、「一切世間動不動の法は、皆是れ敗壊不安の想なり」と曰い、「注維摩詰経巻5」に、「什云わく、凡夫の行に三種有り、善、不善、無動の行なり。無動の行は色無色界の行なり。上二界は寿命劫数長久なれば、外道以って有常と為す、不動の義なり」と曰う。<(丁)
  尽不尽法(じんふじんのほう):尽(梵語kSaya)は滅尽の意、不尽(akSaya)は不滅の意。



釈迦牟尼仏、南西北方の諸仏の世界を度す

【經】南方度如恒河沙等諸佛世界。其土最在邊。世界名離一切憂。佛號無憂德。菩薩名離憂。 南方にも、恒河沙に等しきが如き諸仏の世界を度したまえり。其の土の最も辺に在る世界を離一切憂と名づけ、仏を無憂徳と名づけ、菩薩を離憂と名づく。
『釈迦牟尼仏』は、
復た次ぎに、
『南方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏』の、
『世界』を、
『度された!』。
其の、
『土』の、
『最も!』、
『辺(ほとり)』に、
『在る!』、
『世界』を、
『離一切憂』と、
『称し!』、
『仏』を、
『無憂徳』と、
『呼び!』、
『菩薩』を、
『離憂』と、
『称する!』。
西方度如恒河沙等諸佛世界。其世界最在邊。世界名滅惡。佛號寶山。菩薩名儀意。 西方にも、恒河沙にも等しきが如き諸仏の世界を度したまえり。其の世界の最も辺に在る、世界を滅悪と名づけ、仏を宝山と号し、菩薩を儀意と名づく。
『西方』にも、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏』の、
『世界』を、
『度された!』。
其の、
『世界』の、
『最も!』、
『辺』に、
『在る!』、
『世界』を、
『滅悪』と、
『称し!』、
『仏』を、
『宝山』と、
『呼び!』、
『菩薩』を、
『儀意』と、
『称する!』。
北方度如恒河沙等諸佛世界。其世界最在邊。世界名勝。佛號勝王。菩薩名得勝。 北方にも、恒河沙にも等しきが如き諸仏の世界を度したまえり。其の世界の最も辺に在る、世界を勝と名づけ、仏を勝王と号し、菩薩を得勝と名づく。
『北方』にも、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏』の、
『世界』を、
『度された!』。
其の、
『世界』の、
『最も!』、
『辺』に、
『在る!』、
『世界』を、
『勝』と、
『称し!』、
『仏』を、
『勝王』と、
『呼び!』、
『菩薩』を、
『得勝』と、
『称する!』。
下方度如恒河沙等諸佛世界。其世界最在邊。世界名善。佛號善德。菩薩名華上。 下方にも、恒河沙にも等しきが如き諸仏の世界を度したまえり。其の世界の最も辺に在る、世界を善と名づけ、仏を善徳と号し、菩薩を華上と名づく。
『下方』にも、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏』の、
『世界』を、
『度された!』。
其の、
『世界』の、
『最も!』、
『辺』に、
『在る!』、
『世界』を、
『善』と、
『称し!』、
『仏』を、
『善徳』と、
『呼び!』、
『菩薩』を、
『華上』と、
『称する!』。
上方度如恒河沙等諸佛世界。其世界最在邊世界名喜。佛號喜德。菩薩名得喜。如是一切皆如東方 上方にも、恒河沙にも等しきが如き諸仏の世界を度したまえり。其の世界の最も辺に在る、世界を喜と名づけ、仏を喜徳と号し、菩薩を得喜と名づく。是の如きの一切は、皆、東方の如し。
『上方』にも、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏』の、
『世界』を、
『度された!』。
其の、
『世界』の、
『最も!』、
『辺』に、
『在る!』、
『世界』を、
『喜』と、
『称し!』、
『仏』を、
『喜徳』と、
『呼び!』、
『菩薩』を、
『得喜』と、
『称する!』。
是のような、
一切は、
皆、
『東方』と、
『同じようであった!』。
【論】問曰。如佛法中。實無諸方名。何以故。諸五眾十二入十八界中所不攝。四法藏中亦無說方。是實法因緣求亦不可得。今何以故。此中說十方諸佛十方菩薩來。 問うて曰く、仏法中の如きには、実に諸方の名無し。何を以っての故に、諸の五衆、十二入、十八界中に摂せざる所なればなり。四法蔵中にも亦た方を説くこと無し。是れ実法の因縁を求むるも、亦た得べからず。今は、何を以っての故にか、此の中に、十方の諸仏、十方の菩薩来たりと説ける。
問い、
『仏』の、
『法』中などは、
実に、
諸の、
『方(東西南北)』の、
『名』が、
『無い!』。
何故ならば、
諸の、
『五衆(色受想行識)』中にも、
『十二入(色等六塵、及び眼等の六情)』中にも、
『十八界(六塵、六情、及び眼識等の六識)』中にも、
『方』の、
『名』は、
『含まれず!』、
『四法蔵(有為法、及び三無為法)』中にも、
『方』の、
『説』が、
『無い!』。
実に、
『方』という、
『法』の、
『因縁』を、
『求めても!』、
『得られない!』のである。
今は、
何故、
此の中に、こう説くのですか?――
『十方』の、
『諸仏』や、
『十方』の、
『菩薩』が、
『来られた!』、と。
  (ほう):梵語dizの訳語なり。唯識二十四不相応行法の一。即ち空間の分位関係にして色法に於いて彼此相待する分斉をいう。『顕揚聖教論巻1』に「方とは謂わゆる諸の色行に遍ずる分斉の性なり」、といい、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」に「方とは謂わゆる即ち東西南北四維上下に於いて因果差別するを仮に立てて方と作す。何を以っての故にか、即ち十方に於いて因果遍満するを仮に方と説くが故なり。まさに知るべし、この中にはただ色法所摂の因果を説くのみ。無色の法の遍布する所の処には功能無きが故なり」と云える是れなり。<(望)
  四法蔵(しほうぞう):不詳。蓋し理に依れば、有為法及び三無為法の総称の如し。諸方、若し有為法なれば、即ち、「大智度論巻31」に、「問うて曰く、仏法の中の若きには、方無く、三無為の虚空、智縁尽、非智縁尽にも、亦た摂せられず。何を以ってか、方有り、亦た是れ常なり、これ無為法なり、因縁の生法に非ず、作法に非ず、微細の法なり、と言う」と云える是れなり。諸方は説一切有部に於いては無為法中に摂すと為すべきも、一一名を挙げざれば実に信ずべからずの意なり。或いは、「大智度論巻11」に、「復た次ぎに有る人の言わく、四種の法蔵を以って人に教う、一には修妒路蔵、二には毘尼蔵、三には阿毘曇蔵、四には雑蔵」と云える是れなるか。
  三無為(さんむい):梵語tri- asaMskRtaの訳語にして、即ち虚空、択滅、非択滅等の三種の無為法を指し、乃ち小乗説一切有部の無為法に対する分類なり。無為法とは謂わゆる真空寂滅の理にして、本は造作無きことを指せり。即ち(一)虚空無為(梵aakaazaasaMskRta):虚空とは即ち無礙を以って性と為し、一体不可分にして、また所得の法に非ず。蓋し真理、真如は虚空の如くして、一切の諸法を容受し、一切の処に遍満するを指す。(二)択滅無為(梵pratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta):また数滅無為、数縁尽、智縁尽に作る。即ち択とは事物の道理を簡択する智慧の力にして、数とは智慧の法数(有為の法にして、諸数多きが故に、総じて名づけて数と為す)にして、択と同じ意なり。蓋し智慧の簡択力に依って煩悩を断つ一種の滅諦なり。これを択滅と謂うは、その滅は択に依って得ればなり。この滅の体は即ち涅槃と為す。(三)非択滅無為(梵apratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta):また非数滅無為、非数縁尽、非智縁尽、声聞人の証果の後に、諸惑また続いて起こらず、自然に寂滅の空理を契悟して簡択を仮りざるを指す。<(佛)
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻1』:『論曰。說一切法略有二種。謂有漏無漏。有漏法云何。謂除道諦餘有為法。所以者何。諸漏於中等隨增故。緣滅道諦諸漏雖生。而不隨增故非有漏。不隨增義隨眠品中自當顯說。已辯有漏。無漏云何。謂道聖諦及三無為。何等為三。虛空二滅。二滅者何。擇非擇滅。此虛空等三種無為及道聖諦。名無漏法。所以者何。諸漏於中不隨增故。於略所說三無為中。虛空但以無礙為性。由無障故色於中行。擇滅即以離繫為性。諸有漏法遠離繫縛證得解脫。名為擇滅。擇謂簡擇即慧差別。各別簡擇四聖諦故。擇力所得滅名為擇滅。如牛所駕車名曰牛車。略去中言故作是說。一切有漏法同一擇滅耶。不爾。云何隨繫事別。謂隨繫事量。離繫事亦爾。若不爾者於證見苦所斷煩惱滅時。應證一切所斷諸煩惱滅。若如是者。修餘對治則為無用。依何義說滅無同類。依滅自無同類因義亦不與他。故作是說。非無同類。已說擇滅。永礙當生得非擇滅。謂能永礙未來法生。得滅異前名非擇滅。得不因擇但由闕緣。如眼與意專一色時餘色聲香味觸等謝。緣彼境界五識身等。住未來世畢竟不生。由彼不能緣過去境。緣不具故得非擇滅。於法得滅應作四句。或於諸法唯得擇滅。謂諸有漏過現生法。或於諸法唯非擇滅。謂不生法無漏有為。或於諸法俱得二滅。謂彼不生諸有漏法。或於諸法不得二滅。謂諸無漏過現生法。如是已說三種無為。前說除道餘有為法。是名有漏。』
  参考:『大乗阿毘達磨雑集論巻2』:『方者。謂即於東西南北四維上下因果差別假立為方。何以故。即於十方因果遍滿假說方故。當知此中唯說色法所攝因果。無色之法遍布處所無功能故』
答曰。隨世俗法所傳故說方。求方實不可得。 答えて曰く、世俗の法の伝うる所に随うが故に方を説くも、方を求むれば、実を得べからず。
答え、
『世俗』の、
『法』の、
『伝える!』所に、
『随う!』が故に、
『方』を、
『説かれた!』が、
『実』の、
『法』中に、
『方』を、
『求めても!』、
『得られない!』。
問曰。何以言無方。汝四法藏中不說。我六法藏中說。汝眾入界中不攝。我陀羅驃中攝。 問うて曰く、何を以ってか、方無しと言う。汝が四法蔵中に説かざるも、我が六法蔵中には説けり。汝が、衆、入、界中には摂せざるも、我が陀羅驃中には摂せり。
問い、
何故、
こう言うのですか?――
『方』は、
『無い!』、と。
あなた方の、
『四法蔵』中には、
『方』を、
『説いていない!』が、
わたしたちの、
『六法蔵(実、徳、業、同、異、和合)』中には、
『方』が、
『説かれています!』。
あなた方の、
『衆、入、界』中には、
『方』を、
『含んでいない!』が、
わたしたちの、
『陀羅驃(第一実句義)』中には、
『方』が、
『含まれています!』。
  六法蔵(ろくほうぞう):即ち実、徳、業、同、異、和合の六句義の客観的存在を認め、その離合により万有は生成壊滅すとなす外道十六宗の一勝論派の建立せる所の説。『大智度論巻10下注:勝論』参照。
  陀羅驃(だらひょう):梵名dravya 、物質、物を構成する実質的内容(substance)の義。即ち有と訳し、また物、事、実、体、実有等の義なり。勝論派六句義の一、実句義を指す。『大智度論巻10下注:勝論』参照。
  勝論(しょうろん):梵語吠世史迦vaizeSika の訳、また通常「かつろん」と訓ず。また吠世色迦、鞞崽迦、毗世師、毗舎師、衛世師に作り、最勝、或は異勝論とも訳す。緒論に超勝せる論の意。または勝人所造の論の意なりとす。外道四執の一。外道十六宗の一。二十種外道の一。即ち優楼佉uluuka の創唱せし学派を云う。近時はまたこれを称して印度六派哲学の一となせり。その所立の宗義は、優楼佉は六句義を建立し、各その客観的存在を認め、これ等諸句義の集合離散によりて万有は生成壊滅すとなせり。 六句義とは、一に実句義dravya- padaartha、 二に徳句義guNa-p.、 三に業句義karma- p.、 四に同句義saamaanya- p.、 五に異句義vizeSa- p.、 六に和合句義samavaaya-p.にして、本典吠世史迦薩多羅vaizeSika- suutra (即ち勝論経)に詳説する所なり。後慧月はこれを開き、有能、無能、俱分、無説の四句義を加えて十句義となせり。就中、諸法の実体を第一実句義と名づけ、これに地、水、火、風、空、時、方、我、意の九種の別を立て、その中、地等の四大は特に各常住なる極微paramaaNuより成り、その集合によりて一切の物質を形成すとなし、次ぎにこれ等実句義の属性功能を第二徳句義と名づけ、勝論経にはこれに色、香、味、触、数、量、別体、合、離、彼体、此体、覚、楽苦、欲、瞋、勤、勇の十七徳ありとし、十句義論には更に重体、液体、潤、行、法、非法、声の七を加えて、総じて二十四徳となせり。実体の運動を第三業句義と名づけ、これに取、捨、屈、伸、行の五種の別ありとし、また有性を第四同句義となし、九実相互をして、別異あらしむる因を第五異句義となし、またこれ等の実、徳、業、同、異をして不離相属ならしむる因を第六和合句義となせり。これ勝論経の所説なり。十句義論に於いては、この他に実、徳、業が決定して各自果を造る因を第七有能句義と名づけ、これ等が決定して多の余果を造らざる因を第八無能句義と称し、一の法体をして亦同亦異の両用あらしむる因を第九俱分句義と名づけ、また無を第十無説句義となし、これに未生無、已滅無、更互無、不会無、畢竟無の五無ありとなすなり。要するにその所説は多元論にして、極微説、実我論、三世実有論、因中無果説なりと云うべく、また声論に対して声無常を主張せり。「外道小乗四宗論」に、「一切法異とは外道毗世師論師の説なり」と云い、「外道小乗涅槃論」に、「外道毗世師論師はかくの如きの説を作す、謂わく地、水、火、風、虚空の微塵物、功徳、業、勝等の十種の法は常なるが故に、和合して一切世間の知無知の物を生じ二微塵より次第に一切法を生ず。彼者なくば和合者なく、和合者なければ即ちこれ離散す。離散は即ちこれ涅槃なり。この故に毗世師論師は説く、微塵はこれ常にして能く一切の物を生ず、これ涅槃の因なりと」と云い、「百論巻上破神品」に、「迦毗羅、優楼迦等は言わく、神及び諸法は有なり」と云い、「同疏巻上之中」に、「所説の経を衛世師と名づく、十万偈あり。六諦を明す。因中無果、神覚異の義、これを以って宗と為す」と云い、「大乗法苑義林章巻1本」に計時外道と共にこれを去来実有論に摂し「去来世あることなお現在の如し。実にして仮に非ず」と云い、また「因明入正理論」に、「自教相違とは、勝論師が声を立てて常と為すが如し」と云えるは、皆その学説の一班を伝えたるものと云うべし。また「大般涅槃経巻21」、「大荘厳論経巻1」、「大毘婆沙論巻113、巻142」、「広百論本」、「百論」、「百字論」、「外道小乗四宗論」、「外道小乗涅槃論」、「中論釈(青目)」、「百論釈(婆数)」、「成唯識論巻1」、「成実論巻2一切有無品」、「勝宗十句義論(慧月)」、「入大乗論巻上」、「無生摂大乗論釈巻1」、「仏性論巻1」、「成実論巻3四大仮品、四大実有品、巻5香相品、触相品」等に出づ。<(望)
是方法常相故。有相故。亦有亦常。如經中說。日出處是東方。日沒處是西方。日行處是南方日不行處是北方。 是の方の法は、常相の故に、有相の故に、亦た有、亦た常なり。経中に説くが如し、『日の出づる処、是れ東方なり、日の没する処、是れ西方なり、日の行く処、是れ南方なり、日の行かざる処、是れ北方なり。
是の、
『方』という、
『法』は、
『常相』の故に、
『有相』の故に、
是れは、
『有であり!』、
『常なのです!』。
例えば、
『経』に、こう説く通りです、――
『日』の、
『出る!』、
『処』が、
『東方である!』、
『日』の、
『没する!』、
『処』が、
『西方である!』、
『日』の、
『運行する!』、
『処』が、
『南方である!』、
『日』の、
『運行しない!』、
『処』が、
『北方である!』。
日有三分合。若前合若今合若後合。隨方日分。初合是東方。南方西方亦如是。日不行處是無分。 日に、三分有りて合す。若しは前に合し、若しは今合し、若しは後に合するは、方に随う日の分なり。初めに合するは、是れ東方なり。南方、西方も亦た是の如し。日の行かざる処は、是れに分無し。
『日』には、
『三つ!』の、
『分』が、
『有って!』、
各が、
『方』と、
『合する!』、
『方』に、
『随いながら!』、
『日』の、
『前』の、
『分』が、
『合し!』、
『今』の、
『分』が、
『合し!』、
『後』の、
『分』が、
『合する!』。
『日』の、
『分』の、
『初』は、
『東方』に、
『合する!』が、
『南方』、
『西方』も、
亦た、
是の通りである。
『日』の、
『行かない!』、
『処』には、
是の、
『分』が、
『無い!』。
彼間此間彼此是方相。若無方無彼此。彼此是方相。而非方。 彼の間と、此の間と、彼れと此れと、是れ方の相なり。若し方無ければ、彼れも此れも無し。彼れと此れと、是れ方の相にして、方に非ず』、と。
例えば、
『彼の間(あそこ)』、
『此の間(ここ)』、
『彼(あっち)』、
『此(こっち)』は、
『方』の、
『相であり!』、
若し、
『方』が、
『無ければ!』、
『彼』も、
『此』も、
『無いことになる!』。
是の、
『彼』とか、
『此』というのは、
『方』の、
『相である!』が、
而し、
『方ではない!』、と。
答曰。不然。須彌山在四域之中。日繞須彌照四天下。鬱怛羅越日中。是弗婆提日出。於弗婆提人是東方。弗婆提日中。是閻浮提日出。於閻浮提人是東方。是實無初。 答えて曰く、然らず、須弥山、四域の中に在りて、日、須弥を繞(めぐ)りて、四天下を照らす。鬱怛羅越の日中は、是れ弗婆提には日出なり。弗婆提の人に於いては、是れ東方なればなり。弗婆提の日中は、是れ閻浮提の日出なり、閻浮提の人に於いては、是れ東方なればなり。是れに実に初無し。
答え、
そうでない!
『須弥山』は、
『四つ!』の、
『界域』の、
『中心』に、
『在り!』、
『日』は、
『須弥山』を、
『繞(めぐ)って!』、
『四つ!』の、
『天下』を、
『照らす!』ので、
『鬱怛羅越(北の大洲)』の、
『日』が、
『中天にあれば!』、
『弗婆提(東の大洲)』の、
『日』は、
『出ようとしている!』。
『鬱怛羅越』は、
『弗婆提』の、
『人』には、
『東方だから!』である。
『弗婆提』の、
『日』が、
『中天にあれば!』、
『閻浮提』の、
『日』は、
『出ようとしている!』、
『弗婆提』は、
『閻浮提』の、
『人』には、
『東方だから!』である。
是のように、
実に、
『日』には、
『初』が、
『無く!』、
故に、
『方』も、
『無い!』。
  鬱怛羅越(うったらおつ):梵名uttara- kuru、即ち須弥山の北の在る大洲を云う。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
  弗婆提(ふばだい):梵名puurva- videha、即ち須弥山の東に在る大洲を云う。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
  閻浮提(えんぶだい):梵名jambu- dviipa、即ち吾人の所住なる須弥山の南に在る大洲を云う。『大智度論巻1上注:大洲』参照。
何以故。一切方皆東方。皆南方。皆西方。皆北方。汝言日出處是東方。日行處是南方。日沒處是西方。日不行處是北方。是事不然。 何を以っての故に、一切の方は、皆東方、皆南方、皆西方、皆北方なればなり。汝が言わく、『日の出づる処、是れ東方なり。日の行く処、是れ南方なり。日の没する処、是れ西方なり。日の行かざる処、是れ北方なり』と。是の事は然らず。
何故ならば、
一切の、
『方』は、
皆が、
『東方であり!』、
皆が、
『南方であり!』、
皆が、
『西方であり!』、
皆が、
『北方だから!』である。
お前は、こう言った、――
『日』の、
『出る!』、
『処』が、
『東方である!』、
『日』の、
『行く!』、
『処』が、
『南方である!』、
『日』の、
『没する!』、
『処』が、
『西方である!』、
『日』の、
『行かない!』、
『処』が、
『北方である!』、と。
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
復次有處日不合。是為非方。無方相故。 復た次ぎに、有る処は、日と合せず。是れを方に非ずと為す。方の相無きが故なり。
復た次ぎに、
有る、
『処』が、
『日』と、
『合しない!』とすれば、
是れは、
『方でない!』。
何故ならば、
『方』の、
『相』が、
『無い!』からである。
問曰。我說一國中方相。汝以四國為難。以是故東方非無初。 問うて曰く、我れは、一国中の方の相を説けるに、汝は、四国を以って、難と為せり。是を以っての故に、東方に初無きに非ず。
問い、
わたしは、
『一つ!』の、
『国』中の、
『方の相』を、
『説いた!』のに、
あなたは、
『四つ!』の、
『国』を以って、
『難じよう!』と、
『思っている!』。
是の故に、
『東方』に、
『日』の、
『初』の、
『分』が、
『無いということはない!』。
答曰。若一國中日與東方合。是為有邊。有邊故無常。無常故是不遍。以是故。方但有名而無實 答えて曰く、若し一国中に日と東方と合すれば、是れを有辺と為す。有辺なるが故に無常なり。無常なるが故に是れ遍からず。是を以っての故に、方は但だ名のみ有りて、実無し。
答え、
若し、
『一つ!』の、
『国』中だけで、
『日』が、
『東方』と、
『合する!』ならば、
是れには、
『辺』が、
『有る!』、
若し、
『辺』が、
『有れば!』、
是れは、
『無常である!』、
若し、
『無常ならば!』、
『遍在しない!』。
是の故に、
『方』には、
但だ、
『名』のみが、
『有り!』、
而も、
『実』は、
『無い!』のである。



三千大千世界、宝華に変じて地を覆う

【經】爾時是三千大千世界變成為寶華。遍覆地懸繒幡蓋。香樹華樹皆悉莊嚴 爾の時、是の三千大千世界は変成して、宝華と為り、遍く地を覆うて、繒、幡、蓋を懸け、香樹、華樹、皆悉く荘厳す。
爾の時、
是の、
『三千大千世界』は、
『変成し!』、
『宝華となって!』、
遍く、
『地』を、
『覆う!』と、
『空』中には、
『繒(きぬ)』や、
『幡』や、
『蓋』が、
『懸けられ!』、
『地』を、
『香樹』や、
『華樹』が、
皆、
『悉く!』、
『荘厳した!』。
【論】問曰。此誰神力令地為寶。 問うて曰く、此れは誰の神力にてか、地をして宝と為らしむる。
問い、
此れは、
誰の、
『神力』を以って、
『地』を、
『宝』に、
『変成させたのですか?』。
答曰。是佛無量神力變化所為。有人咒術幻法。及諸鬼神龍王諸天等。能變化少物。令三千大千世界皆為珍寶。餘人及梵天王皆所不能。 答えて曰く、是れ仏の無量の神力の変化して為す所なり。有るいは人の咒術、幻法、及び諸の鬼神、龍王、諸天等も、能く少しの物を変化するも、三千大千世界をして、皆、珍宝と為らしむるは、余人、及び梵天王の皆、能わざる所なり。
答え、
是れは、
『仏』の、
『無量』の、
『神力』が、
『変化させた!』のである。
有るいは、
『人』の、
『咒術』や、
『幻法』、
及び、
諸の、
『鬼神』、
『龍王』、
諸の、
『天』等も、
『少し!』の、
『物』ならば、
『変化させられる!』が、
『三千大千世界』を、
皆、
『珍宝』に、
『変化させる!』のは、
他(仏以外)の、
『人』や、
『梵天王』には、
『不可能である!』。
佛入四禪中十四變化心。能令三千大千世界華香樹木一切土地皆悉莊嚴。一切眾生皆悉和同心轉為善。 仏は四禅中に入りたもうに、十四変化心は、能く三千大千世界の華香、樹木をして、一切の土地を、皆悉く荘厳せしめたまえば、一切の衆生は、皆悉く和同し、心を転じて善と為る。
『仏』が、
『四つ!』の、
『禅』中に、
『入られる!』と、
『仏』の、
『十四』の、
『変化する!』、
『心』が、
『三千大千世界』の、
『華香』、
『樹木』に、
『命じて!』、
一切の、
『土地』を、
皆、
『悉く!』、
『荘厳させ!』、
一切の、
『衆生』は、
皆が、
『悉く!』、
『和み!』、
『同じて!』、
『心』を、
『善』に、
『転じる!』。
  十四変化心(じゅうしへんげしん):十四種の能変化の心の意。即ち四禅中に生ずる十四種の能変化の心なり。「大智度論巻6」に、「十四変化心とは、初禅に二あり、欲界と初禅なり、二禅に三あり、欲界、初禅、二禅なり、三禅に四あり、欲界、初禅、二禅、三禅なり、四禅に五あり、法界、初禅、二禅、三禅、四禅なり」と云える是れなり。『大智度論巻6上注:十四変化心』参照。
何以故。莊嚴此世界。為說般若波羅蜜故。亦為十方諸菩薩客來及諸天世人故莊嚴。 何を以っての故に、此の世界を荘厳するは、般若波羅蜜を説かんが為めの故に、亦た十方の諸の菩薩の客来たり、及び諸天世人の為めの故に荘厳したまえり。
何故ならば、
此の、
『世界』を、
『荘厳する!』のは、
『般若波羅蜜』を、
『説こうとした!』為めであり、
亦た、
『十方』より、
諸の、
『菩薩』の、
『客』が、
『来る!』ので、
諸の、
『天』や、
『世人』の為めに、
『荘厳する!』からである。
如人請貴客。若一家請則莊嚴一家。一國主則莊嚴一國。轉輪聖王則莊嚴四天下。梵天王則莊嚴三千大千世界。佛為十方無量恒河沙等諸世界中主。是諸他方菩薩及諸天世人客來故。 人の貴客を請ずるに、若し一家請ずれば、則ち一家を荘厳し、一国の主なれば、則ち一国を荘厳し、転輪聖王なれば、則ち四天下を荘厳し、梵天王なれば、則ち三千大千世界を荘厳するが如く、仏は、十方の無量の恒河沙に等しき諸の世界中の主為(た)れば、是の諸の他方の菩薩、及び諸の天、世人の客来たるが故なり。
例えば、――
『人』が、
『貴客』を、
『請じる(招待する)!』とき、
若し、
『一家』の、
『主』が、
『請じた!』ならば、
則ち、
『一家』を、
『荘厳し!』、
若し、
『一国』の、
『主』が、
『請じた!』ならば、
則ち、
『一国』を、
『荘厳し!』、
若し、
『転輪聖王』が、
『請じた!』ならば、
則ち、
『四天下』を、
『荘厳し!』、
若し、
『梵天王』が、
『請じた!』ならば、
則ち、
『三千大千世界』を、
『荘厳する!』ように、
『仏』は、
『十方』の、
『無量』の、
諸の、
『世界』中の、
『主であり!』、
是の、
諸の、
『他方』の、
『菩薩』や、
諸の、
『天』や、
『世人』の、
『客』が、
『来る!』ので、
是の故に、
『三千大千世界』を、
『荘厳した!』のである。
亦為此彼眾人見此變化莊嚴。則生大心生清淨歡喜心。從大心發大業。從大業得大報。受大報時更生大心。如是展轉增長。得成阿耨多羅三藐三菩提。以是故變此世界皆悉為寶。 亦た此彼の衆人の為めに、此の変化の荘厳を見(あらわ)したまえば、則ち大心を生じ、清浄の歓喜心を生じ、大心より大業を発し、大業より大報を得て、大報を受くる時に、更に大心を生じ、是の如く展転増長して、阿耨多羅三藐三菩提を成ずるを得。是を以っての故に此の世界を変化して、皆悉く宝と為したまえり。
亦た、
『此(ここ)』と、
『彼(かしこ)』の、
『多く!』の、
『人』に、
此のように、
『変化して!』、
『荘厳する!』のを、
『見せた!』ならば、
則ち、
『大心』を、
『生じて!』、
『清浄』な、
『歓喜心』を、
『生じ!』、
此の、
『大心』に、
『従って!』、
『大業(大きな仕事)』を、
『発(おこ)し!』、
『大業』に、
『従って!』、
『大報』を、
『受ける!』ことになり、
『大報』を、
『受ける!』時には、
更に、
『大心』を、
『生じる!』ので、
是のように、
『展転して(次々と)!』、
『増長しながら!』、
やがて、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成じることになる!』。
是の故に、
此の、
『世界』を、
皆悉く、
『宝』に、
『変化された!』のである。
云何名寶。寶有四種。金銀毘琉璃頗梨。 云何が、宝と名づく。宝に四種有り、金、銀、毘琉璃、頗梨なり。
何を、
『宝』と、
『呼ぶのか?』。
『宝』には、
『四種』有り、
『金』と、
『銀』と、
『毘琉璃』と、
『頗梨』である。
  毘琉璃(びるり):梵語vaiDuurya、青乃至緑の宝石(a blue- green gem)を云う。
  頗梨(はり):梵語sphaTika、水晶(crystal、quarts)を云う。
更有七種寶金銀毘琉璃頗梨車磲馬瑙赤真珠。(此珠極貴非是珊瑚) 更に七種の宝有り、金、銀、毘琉璃、頗梨、車磲、馬瑙、赤真珠なり(此の珠は極めて貴く、是れ珊瑚に非ず)。
更に、
『七種』の、
『宝』が有る、――
『金』、
『銀』、
『毘琉璃』、
『頗梨』、
『硨磲』、
『馬瑙』、
『赤真珠』である。
  七宝(しっぽう):『大智度論巻7上注:七宝』参照。
  車磲(しゃこ):梵名musaara- galva、珊瑚の類(a kind of coral)を云う。
  馬瑙(めのう):梵名azma- garbha、エメラルド(an emerald)を云う。
  赤真珠(しゃくしんじゅ):梵名lohita- mukti、"蓮の特質(色)の(lotus hued)"の意、高価な石(a kind of precious stone)、或いは梵名padma- raaga、ルビー(a ruby)を云う。
更復有寶。摩羅伽陀(此珠金翅鳥口邊出綠色能辟一切毒)因陀尼羅(天青珠)摩訶尼囉(大青珠)缽摩羅伽(赤光珠)越闍(金剛)龍珠如意珠玉貝珊瑚琥珀等種種名為寶。 更に復た宝有り、摩羅伽陀(此の珠は金翅鳥の口の辺に出で、緑色にして、能く一切の毒を辟(さ)く)、因陀尼羅(天の青珠なり)、摩訶尼囉(大青珠なり)、鉢摩羅伽(赤光珠なり)、越闍(金剛なり)、龍珠、如意珠、玉貝、珊瑚、琥珀等の種種を名づけて、宝と為す。
更に、
まだ、
『宝』が有り!、
『摩羅伽陀』、
『因陀尼羅』、
『摩訶尼囉』、
『鉢摩羅伽』、
『越闍』、
『龍珠』、
『如意珠』、
『真珠貝』、
『珊瑚』、
『琥珀』等の、
種種を、
『宝』と、
『呼んでいる!』。
  摩羅伽陀(まらがだ):梵名maarakata、緑色宝(like an emerald)を云う。「玄応音義巻21」に、「末羅羯多、または磨羅伽多と言い、緑色宝なり、大論に云わく、金翅鳥の口辺に出づ、よく諸毒を避くと」と云えり。<(丁)
  因陀尼羅(いんだにら):梵名indranilamuktaa、また因陀羅尼羅目多、因陀羅尼羅に作り、帝釈の青珠の意なり。「玄応音義巻23」に、「梵に因陀羅尼羅目多と言うは、これ帝釈の宝にして、また青色を作す。その最勝を以っての故に、帝釈青と称す。或は解して云わく、帝釈所居の処、波利質多羅樹下の地はこれその宝なるが故に帝釈青と名づくと。目多はこれを珠と云い、この宝を以って珠と為すなり」と云い、「慧苑音義巻下」に、「因陀羅尼羅、因陀羅、これを帝なり、主なりと云い、尼羅は青なり、宝の中の最尊第一の故に青主と曰う」と云い、「大智度論巻10」に、「因陀尼羅、天の青珠なり」と云えるこれなり。<(丁)
  摩訶尼囉(まかにら):梵名mahaanila、また摩訶尼羅、摩訶泥羅に作り、訳して大青と曰う。帝釈の真珠なり。「大智度論巻10」に、「因陀尼羅(天青珠)、摩訶尼羅(大青珠)」と云い、「玄応音義巻23」に、「摩訶泥羅、これを大青と云う、これ帝釈所用の宝なり」と云えり。<(丁)
  鉢摩羅伽(ぱまらが):梵名padmaraaga、訳して赤光珠と曰う。即ち蓮華色を呈するものの意にして、今はこれを赤色の宝石謂わゆるrubyとす。「翻訳名義集巻3」に、「大論にはこれを赤光珠と云い、仏地論には赤蟲所出にして、或は珠体なり、名づけて赤珠と為すと云い、智論には真珠は魚腹中蛇脳中に出づと云い、漢書には珠は蚌中の陰精なり、月の陰盈に随って虚し」と云えり。<(丁)
  越闍(おつじゃ):梵名vajra、訳して金剛と為す。「大智度論巻10」に、「越闍(金剛)龍珠如意珠」と云えるこれなり。蓋しこれ謂わゆる武器としての金剛、金剛杵に非ずして、宝石としての謂わゆる金剛石diamondなり。<(丁)
  玉貝(ぎょくばい):梵名zaGkha?、法螺貝(a conch-shell)を云う。
是寶有三種。有人寶天寶菩薩寶。 是の宝には三種有り、有るいは人の宝、天の宝、菩薩の宝なり。
是の、
『宝』には、
『三種』有り、
有るいは、
『人の宝』、
『天の宝』、
『菩薩の宝』である!。
人寶力少唯有清淨光色。除毒除鬼除闇。亦除飢渴寒熱種種苦事。 人の宝は力少く、唯だ清浄の光色有りて、毒を除き、鬼を除き、闇を除き、亦た飢渴、寒熱、種種の苦事を除くのみ。
『人の宝』は、
『力』が、
『少ない!』ので、
唯だ、
『清浄』の、
『光』と、
『色』とが、
『有って!』、
『毒』や、
『鬼』や、
『闇』を、
『除いたり!』、
亦た、
『飢渴』や、
『寒熱』や、
『種種の苦事』を、
『除く!』のみである。
天寶亦大亦勝常隨逐天身。可使令可共語。輕而不重。 天の宝は、亦た大、亦た勝れ、常に天の身を随逐し、使令すべく、共に語るべく、軽くして重からず。
『天の宝』は、
『大きくて!』、
『勝れており!』、
常に、
『天』の、
『身』に、
『付き従う!』ので、
『天』は、
『使令したり!』、
『共に語ることができ!』、
『軽く!』て、
『重くない!』。
菩薩寶勝於天寶。能兼有人寶天寶事。又能令一切眾生知死此生彼因緣本末。譬如明鏡見其面像。 菩薩の宝は天の宝に勝り、能く人の宝、天の宝の事を兼有し、又能く一切の衆生をして、此に死し、彼に生ずる因縁の本末を知らしむること、譬えば、明鏡に其の面像を見るが如し。
『菩薩の宝』は、
『天の宝』より、
『勝れており!』、
『人の宝』や、
『天の宝』の、
『有する!』、
『事()』を、
『兼ねることができる!』。
又、
一切の、
『衆生』に、
『何処で死んで!』、
『何処に生まれるのか?』、
其の、
『因縁』の、
『本末』を、
『知らしめる!』ので、
譬えば、
『明鏡』に、
其の、
『面像』を、
『映して!』、
『見る!』ようである。
復次菩薩寶勝能出種種法音。若為首飾寶冠。則雨十方無量世界諸佛上幢幡華蓋種種供養之具。以供養佛。 復た次ぎに、菩薩の宝は勝れて、能く種種の法音を出し、若し首飾、宝冠と為せば、則ち十方の無量の世界の諸仏の上に、幢幡、華蓋、種種の供養の具を雨ふらして、以って仏を供養す。
復た次ぎに、
『菩薩の宝』が、
『勝れている!』のは、
種種の、
『法』の、
『音(こえ)』を、
『出すことができ!』、
若し、
『首飾』や、
『宝冠』に、
『拵えた!』ならば、
『十方』の、
『無量』の、
『世界』の、
『諸仏』の上に、
『幢幡』、
『華蓋』、
『種種の供養の具』を、
『雨ふらして!』、
『仏』を、
『供養する!』からである。
又雨衣被臥具生活之物。種種眾事隨眾生所須。皆悉雨之給施眾生。如是等種種眾寶。以除眾生貧窮苦厄。 又衣被、臥具、生活の物を雨ふらし、種種の衆事は、衆生の須(もと)むる所に随いて、皆悉く、之を雨ふらして、衆生に給施す。是の如き等の種種の衆宝を以って、衆生の貧窮、苦厄を除く。
又、
『衣被(衣服)』、
『臥具』、
『生活の物資』を、
『雨ふらしたり!』、
『種種の多くの物』を、
『衆生』の、
『求める!』所に、
『随って!』、
皆、
『雨ふらしたり!』して、
『衆生』に、
『給施する!』。
是れ等のような、
『種種の多くの宝』を以って、
『衆生』の、
『貧窮』や、
『苦厄』を、
『除く!』のである。
問曰。是諸珍寶從何處出。 問うて曰く、是の諸の珍宝は、何処より出づる。
問い、
是の、
諸の、
『珍しい!』、
『宝』は、
『何処から!』、
『出るのですか?』。
答曰。金出山石沙赤銅中。真珠出魚腹中竹中蛇腦中。龍珠出龍腦中。珊瑚出海中石樹。生貝出虫甲中。銀出燒石。餘琉璃頗梨等皆出山窟中。 答えて曰く、金は山の石沙の赤銅中に出で、真珠は魚腹中、竹中、蛇の脳中に出で、龍珠は、龍の脳中に出で、珊瑚は海中に出づる石樹なり、玉貝は虫甲中に出で、銀は焼石に出で、余の琉璃、頗梨等は、皆山窟中に出づ。
答え、
『金』は、
『山』の、
『石』や、
『沙(すな)』中の、
『赤銅』中に、
『出る!』、
『真珠』は、
『魚』の、
『腹』中にも、
『出る!』し、
『竹』の中や、
『蛇』の、
『脳』中にも、
『出る!』、
『龍珠』は、
『龍』の、
『脳』中に、
『出る!』、
『珊瑚』は、
『海』中に、
『出た!』、
『石』の、
『樹である!』、
『玉貝』は、
『虫』の、
『甲羅』中に、
『出る!』、
『銀』は、
『焼けた!』、
『石』中に、
『出る!』、
他の、
『琉璃』や、
『頗梨』等は、
皆、
『山』の、
『洞窟』中に、
『出る!』。
  生貝(しょうばい):他本に従い、玉貝に改む。
如意珠出自佛舍利。若法沒盡時。諸舍利皆變為如意珠。譬如過千歲冰化為頗梨珠。如是等諸寶是人中常寶。 如意珠は、仏の舎利より出で、若し法没尽したる時なれば、諸の舎利は皆変じて、如意珠と為る。譬えば千歳を過ぎたる氷の化して、頗梨珠と為るが如し。是の如き等の諸の宝は、是れ人中の常の宝なり。
『如意珠』は、
『仏』の、
『舎利』より、
『出る!』。
『法』が、
若し、
『滅して!』、
『尽きようとする!』時など、
諸の、
『舎利』が、
皆、
『如意珠』に、
『変じる!』、
譬えば、
『氷』が、
『千年』を、
『過ぎる!』と、
『頗梨珠』に、
『変化する!』のと、
『同じである!』。
是れ等の、
諸の、
『宝』は、
『人』中の、
『常の!』、
『宝である!』。
佛所莊嚴一切世界是最殊勝。諸天所不能得。何以故。是從大功德所生。 仏の荘厳したもう所の一切の世界は、是れ最も殊勝にして、諸天の得る能わざる所なり。何を以っての故に、是れ大功徳より生ずる所なればなり。
『仏』が、
『荘厳された!』、
一切の、
『世界』は、
『最も!』、
『殊勝であり!』、
諸の、
『天』の、
『得られる!』、
『世界ではない!』。
何故ならば、
是れは、
『大功徳』より、
『生じた!』、
『世界だから!』である。
種種華幡如先說。香樹者名阿伽樓(蜜香樹)多伽樓(木香樹)栴檀。如是等種種香樹。華樹名占匍(黃華樹)阿輸迦(無憂花樹)婆呵迦羅(赤華樹)如是等種種華樹 種種の華、幡は、先に説けるが如し。香樹とは、阿伽楼(蜜香樹)、多伽楼(木香樹)、栴檀と名づけ、是の如き等の種種の香樹なり。華樹とは、占匍(黄華樹)、阿輸迦(無憂花樹)、婆呵迦羅(赤華樹)と名づけ、是の如き等の種種の華樹なり。
種種の、
『華』や、
『幡』は、
先に、
『説いた通り!』である。
『香樹』とは、
『阿伽楼(蜜香樹)』とか、
『多伽楼(木香樹)』、
『栴檀』と、
『称する!』、
是れ等のような、
種種の、
『香樹である!』。
『華樹』とは、
『占匍(黄華樹)』とか、
『阿輸迦(無憂花樹)』、
『婆呵迦羅(赤華樹)』と、
『称する!』、
是れ等のような、
種種の、
『華樹である!』。
  阿伽楼(あがる):梵名aguru、agaru、また阿伽嚧に作り、訳して香樹と曰う。沈香なり。「翻訳名義集巻3」に、「阿伽嚧、或は悪掲嚕と云う。これは沈香を云う。華厳に云わく、阿那婆達多池辺に沈水香を出し、蓮華蔵と名づく、それは一円に香りて麻子の如き大さなり。もし以ってこれを焼かば、香気は遍く閻浮提界に薫ずと。異物誌に云わく、日南国に出で、取らんと欲せばまさに樹を斫りて壊すべし、地に著きて積むこと久しくして、外朽爛するに、その心の堅き者は水に置けば則ち没む、沈香と曰う。その次ぎに心に在る白き間の甚だしくは精堅ならざるは、これを水中に置けば、不沈不浮、水と平らかなり、名づけて[木*箋]と曰う」と云えるこれなり。<(丁)
  多伽楼(たがる):梵名tagaraka、また多掲羅、多伽羅、多伽婁に作る。香名なり。「最勝王経巻7」に、「零凌香、多伽楼」と云い、「玄応音義巻1」に、「多伽羅香、根香と云う」と云い、「同巻20」に、「多伽婁香、また多伽楼に作り、訳して木香相と曰い、一に不没香に作る」と云い、「慧琳音義巻3」に、「多掲羅、香名なり、正しくは蘗羅と云い、即ち零凌香なり」と云えるこれなり。<(丁)
  占匍(せんぽ):梵名campaka、また瞻波、占婆、瞻婆、瞻蔔、瞻博、旃波迦、瞻博迦、睒婆に作り、訳して金色花樹と曰い、樹名なり。その花に香気ありて遠く薫る。「玄応音義巻21」に、「瞻博花、旧に旃簸迦と言い、或は瞻波花に作り、また瞻匐に作り、また占婆花に作り、皆方夏の差のみ。これを金色花と云えるは、大論に黄花樹と云えばなり。樹形高大にして花もまた甚だ香しく、その気は風を逐うて弥遠し」と云い、「玄応音義巻2」に、「睒婆また覢婆に作り、同じく式染反なり、これを訳して木綿と云う」と云えり。<(丁)
  阿輸迦(あしゅか):梵名azoka、また阿述迦に作り、また阿輸伽、阿叔迦、阿舒迦に作り、訳して無憂と曰う。樹名。阿輸迦樹、無憂樹とも云い、仏はこの樹下に於いて生じたまえり。<(丁)
  婆呵迦羅(ばかから):華樹の名。「槃梵語巻10」に、「婆呵迦羅、論に曰わく、同じく華樹なりと」と云い、「多羅葉記」に、「婆呵迦羅、論に云わく華樹なりと」と云うのみ。



譬えば華積世界、普華世界のようだ

【經】譬如華積世界普華世界。妙德菩薩善住意菩薩。及餘大威神諸菩薩。皆在彼住 譬えば華積世界、普華世界の如し。妙徳菩薩、善住意菩薩、及び余の大威神の諸菩薩、皆彼に在りて住す。
譬えば、
『華積世界』や、
『普華世界のようであった!』。
『妙徳菩薩』や、
『善住意菩薩』や、
その他の、
『大威神』の、
諸の、
『菩薩』が、
皆、
彼(かしこ)の、
『世界』に、
『住している!』。
  妙徳菩薩(みょうとくぼさつ):文殊師利(maJjuzri)菩薩の訳名。『大智度論巻33上注:文殊師利』参照。
【論】問曰。何以言譬如華積世界。 問うて曰く、何を以ってか、『華積世界の如し』と言う。
問い、
何故、こう言うのですか?――
譬えば、
『華積世界のようである!』、と。
答曰。彼世界常有淨華。此世界變化一時故。以喻也。譬喻法以小喻大。如人面好譬如滿月。 答えて曰く、彼の世界は常に浄華有るも、此の世界の変化は一時なるが故に、以って喩たるなり。譬喩法は、小を以って、大に喩う。人の面の好もしきを、満月の如しと譬うるが如し。
答え、
彼の、
『世界』には、
常に、
『浄華』が、
『有る!』が、
此の、
『世界』の、
『変化』の、
『華』は、
『一時である!』が故に、
彼の、
『世界』を以って、
『喩えた!』のである。
『譬喩の法』は、――
『小さな!』、
『物』を、
『大きな!』、
『物』で、
『譬える!』ので、
例えば、
『人』の、
『面』の、
『好もしさ!』を、
即ち、
『満月のようだ!』と、
『譬える!』のである。
問曰。更有十方諸清淨世界。如阿彌陀佛安樂世界等。何以故。但以普華世界為喻。 問うて曰く、更に十方の諸の清浄世界有り。阿弥陀仏の安楽世界等の如し。何を以っての故にか、但だ普華世界を以って、喩えと為す。
問い、
更に、
『十方』には、
諸の、
『清浄な!』、
『世界』が、
『有る!』、
例えば、
『阿弥陀仏』の、
『安楽世界』等が、
『有る!』のに、
何故、
但だ、
『普華世界』を以って、
『喩えるのですか?』。
  阿弥陀仏(あみだぶつ):梵名amita-buddha、また阿弥多、阿弭跢、阿弭嚲、に作る。無量の義なり。西方極楽世界の教主の名。また阿弥多廋amitaayus、阿弥多廋斯、或は阿弥多婆amitaabha、阿弥嚲皤の称あり。就中、廋斯aayusは寿の義、婆aabhaは光明の義なれば、阿弥多廋を訳して無量寿、阿弥多婆を訳して無量光となせり。「阿弥陀経」に、「彼の仏を何故に阿弥陀と号するや。舎利弗、彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照すに障礙する所なし。この故に号して阿弥陀となす。また舎利弗、彼の仏の寿命及びその人民(の寿命)は無量無辺阿僧祇劫なり。故に阿弥陀と名づく」と云えり。これに依るに彼の仏を阿弥陀amita即ち無量と号することは、彼の仏の光明の無量なると、並びに彼の仏及びその国人の寿命の無量無辺阿僧祇劫なるとに由ることを知るを得べし。もし然りとすれば、光明無量、寿命無量は、彼の仏を阿弥陀と号する理由を明らかにせしに止まるものと謂うべし。然るに梵文「阿弥陀経」並びに「称讃浄土仏摂受経」には、何故に彼の仏を無量寿と名づくるやと問い、その答に、彼の如来及び諸の有情の寿命は無量無数大劫なり。故に彼の如来を無量寿と名づくといい、また彼の仏を何故に無量光と名づくるやと問い、その答に、彼の如来は恒に無量無辺の妙光を放ちて、遍く一切の十方仏土を照し、仏事を施作して障礙あることなし。故に彼の如来を無量光と名づくと云えり。もし之に依らば、彼の仏は最初より無量寿、無量光の名称を有せしものといわざるべからざるも、上の羅什訳「阿弥陀経」には唯だ阿弥陀といいて、無量寿、無量光の名称を挙げざるのみならず、また無量寿といえば寿命無量、無量光といえば光明無量の義既に明らかなるを以って、別に問答を施して彼の名称の意義を闡明するの要なしと謂うべし。且つ今の説の如くならば、彼の仏に最初より両名ありとせざるべからざるも、一仏に両名ありという如き、他にその例を見ず。「般舟三昧経」、「大阿弥陀経」、「維摩詰経」等の古経に皆唯だ阿弥陀の称号をかかげて、無量寿、無量光の名称を出さざるを以って考うるに、彼の仏の原名は単に阿弥陀即ち無量なることを知ると同時に、無量寿、無量光の称号は、その後彼の原名の有する意義を取りて、更に之に命名せしものと認めざるべからず。また「平等覚経」には、彼の仏を無量清浄仏と号せり。後出「阿弥陀仏偈」に、「世界名清浄得仏号無量」といい、「称讃浄土仏摂受経」に、彼の界中には唯だ無量清浄の喜楽のみあり、故に名づけて極楽世界となすというに依るに、彼の無量清浄仏の名称は、その国土の清浄荘厳が無量なるより起こりしものなるを察するを得べし。さればこれまた阿弥陀の原名中に含蓄されたる一種の意義を取りて、彼の仏の一名となせるのものというべし。蓋し阿弥陀仏は今より十劫以前に成道し、現に西方極楽世界に在りて、大衆の為に説法しつつありと信ぜらるる仏なり。「無量寿経巻上」に依るに、過去久遠無量劫に錠光如来世に興出し、次ぎに光遠等の五十二仏相次いで出世し、次ぎに世自在王如来世に出現せし時、国王あり、彼の仏の説法を聞きて心に歓喜を生じ、尋いで無上菩提の心を発して、王位を棄てて沙門となり、号して法蔵という。世自在王如来の所に詣でて頌を以って彼の仏を讃歎し、自ら浄仏国土の法を修行せんと欲するの意あることを演ぶるに、仏は即ち二百十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説き、またその心願に応じて、悉くそれ等の諸刹土を現じてこれを見せしむ。時に法蔵比丘は仏の所説を聞き、また彼の諸仏の刹土を睹見して、無上殊勝の願を超発し、五劫の間思惟してそれ等の諸刹土につき選択し、再び彼の仏の所に詣でて四十八の大願を演べ、それより兆載永劫の間に功を積み徳を累ねて、遂に十劫以前に正覚を成ぜられたりとなせり。「大阿弥陀経」等の異釈の諸経に記する所も之に異ならざるも、過去仏の数並びに法蔵所発の本願の数及びその願文等は互いに同じからず。また「悲華経巻2」には、弥陀の因位を無諍念と名づくる転輪聖王となし、師仏を宝蔵如来とし、指導者を釈迦の前身にして而も宝蔵如来の父なる宝海梵志とし、観音、勢至、文殊、普賢、阿閦等を王の千子の一とし、また「阿弥陀鼓音声王陀羅尼経」には、弥陀の父は月上転輪聖王にして、母を殊勝妙顔と名づけ、子を月明と名づく等と云い、「法華経巻3」には、弥陀、阿閦、釈迦等を共に大通智勝仏の十六王子の一人とし、その他、「慧印三昧経」、「無量門微密持経」、「賴陀和羅所問徳光経」、「決定総持経」、「賢劫経巻1、巻3」、「済諸方等学経」、「大法炬陀羅尼経巻17」等にも、また皆弥陀因位の各種の本生譚を記載せり。蓋し阿弥陀仏の崇拝は去来最も盛にして、独り支那、西藏、朝鮮、日本に於いて然るのみならず、印度及び西域等にもまた曽ては広く弘通せられたるが如く、現存大乗経論中、弥陀または極楽の事を散説せるもの凡そ二百余部あり。これ彼の仏の本願及びその浄土に関する教義が深く人心に投じたる結果と認めざるべからず。「般舟三昧経巻上」には阿弥陀仏の身に三十二相あり、光明徹照して端正無比なりといい、「観無量寿経」には、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金の色の如く、仏身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は右に旋りて宛転して五須弥山の如く、仏眼は青白分明にして四大海水の如し。身の諸の毛孔より光明を演出すること須弥山の如く、その円光は百億三千大千世界の如し。その身に八万四千の相あり、一一の相の中に各八万四千の随形好あり、一一の好の中にまた八万四千の光明あり、一一の光明は遍く十方の世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨てずと云えり。また「十住毘婆沙論巻5易行品」、「無量寿経優婆提舎」、「往生論註」、「観経疏(善導)」等に出づ。
答曰。阿彌陀佛世界不如華積世界。何以故。法積比丘佛雖將至十方觀清淨世界。功德力薄不能得見上妙清淨世界。以是故世界不如。 答えて曰く、阿弥陀仏の世界は、華積世界に如かず。何を以っての故に、法積比丘は、仏将(ひき)いて十方に至り、清浄世界を観せしむと雖も、功徳力薄く、上妙の清浄世界を見ることを得る能わず。是を以っての故に、世界は如かざるなり。
答え、
『阿弥陀仏』の、
『世界』は、
『華積世界』に、
『及ばない!』からである。
何故ならば、
『法積比丘(阿弥陀仏の菩薩名)』は、
『仏(世自在王仏)』に、
『将(ひき)いられて!』、
『十方』に、
『至り!』、
『清浄な!』、
『世界』を、
『観察した!』が、
『功徳』の、
『力』が、
『薄い!』が故に、
『上妙』の、
『清浄な!』、
『世界』を、
『見て取るだけ!』の、
『力がなかった!』。
是の故に、
『阿弥陀仏』の、
『世界』は、
『及ばない!』のである。
  法積比丘(ほうしゃくびく):梵名dharmaakara、また法蔵菩薩と称す。阿弥陀仏の因位の名。『大智度論巻10下注:阿弥陀仏、同注:法蔵菩薩』参照。
  法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ):法蔵は梵語曇摩迦留dharmaakaraの訳。阿弥陀仏因位発願の時の名。また曇摩迦に作り、法宝蔵、法処、法積、若しくは作法とも訳し、或は法蔵比丘と称す。「無量寿経巻上」に、過去久遠無量劫に錠光如来世に出興し、次ぎに光遠等の五十二佛相次いで出世し、次ぎに世自在王如来の時に国王あり、彼の仏の説法を聞いて無上正真道意を発し、王位を棄てて沙門となり、号して法蔵と曰う。高才勇哲にして世と超異し、尋いで二百十億の諸仏の刹土を見て心中の所願を選択し、四十八の大願を発すと云えるこれなり。名称の意義に関し、吉藏の「無量寿経義疏」に、「能く仏法を蘊蓄するに在るが故に法蔵と曰う」と云い、玄一の「無量寿経記巻上」に、「所聞の法教を護持して失わざるが故に法蔵と名づく」と云えり。蓋し梵語dharmaakaraは法の積聚、若しくは法の本源処の義なるが故に、今の経には法蔵と訳し、「平等覚経巻1」には法宝蔵、「大宝積経巻17無量寿如来会」には法処、「大智度論巻50」には法積と翻ぜり。「大乗無量寿荘厳経巻上」にこれを作法となせるは、恐らく梵語dharma-kaara(法作)の対訳なるべし。また「悲華経巻2」には弥陀因位に国王たりし時の名を無諍念王、出家の時の名を無量清浄とし、観音勢至等の千子ありと云い、玄一の「無量寿経記巻上」には因位の王名を龍珍王とし、禄波那即ち観音、洗沢河即ち勢至と共に入山修道せしことを記せり。
復次當佛變化此世界時。正與華積世界相似。以是故言譬如華積世界。 復た次ぎに、仏の此の世界を変化したもう時に当りて、正しく華積世界と相似す。是を以っての故に言わく、『譬えば華積世界の如し』、と。
復た次ぎに、
『仏』が、
此の、
『世界』を、
『変化された!』時に、
『想像された!』のは、
正しく、
『華積世界』に、
『相似していたはず!』である。
是の故に、
こう言う、――
譬えば、
『華積世界のようだ!』、と。
問曰。更有餘大菩薩。如毘摩羅詰觀世音遍吉菩薩等。何以不言此諸菩薩在彼住。而但言文殊尸利善住意菩薩。 問うて曰く、更に余の大菩薩有り。毘摩羅詰、観世音、遍吉菩薩等の如し。何を以ってか、此の諸の菩薩、彼に在りて住すと言わず、但だ、文殊尸利、善住意菩薩のみを言う。
問い、
更に、
譬えば、
『毘摩羅詰』や、
『観世音』、
『遍吉菩薩』等のような、
他の、
『大菩薩』が、
『有る!』のに、
何故、
こう言わずに、――
此の、
諸の、
『菩薩』が、
彼の、
『世界』に、
『住している!』、と。
但だ、
こう言うのですか?――
『文殊尸利や!』、
『善住意菩薩が!』、と。
  毘摩羅詰(びまらきつ):梵名vimalakiirti、また鼻磨羅難利帝、維摩詰等に作り、訳して無垢称、浄名、滅垢鳴等と為す。仏の在家の弟子にして、乃ち中印度毘舎離城(vaizaalii)の長者、俗塵に在りといえども、大乗に精通し、出家の弟子といえどもなお及ぶ能わざる者有り。「維摩経」に依れば、彼れは嘗て病むと称するも、但だその病はこれ「衆生病むを以って、この故に我れ病む」と云うのみ、仏の文殊菩薩等に令して前に往きて病を探らしむるを待ち、彼れは即ち種種の問答を以って、空、無相等の大乗の深義を掲示すと云えり。<(佛)
  遍吉菩薩(へんきちぼさつ):梵名邲輸跋陀vizvabhadra、また三曼多跋陀羅samantabhadraに作り、或は普賢と訳し、或は遍吉と為し、一切諸仏の理徳、定徳、行徳を主り、文殊の智徳、証徳と相対す。即ち理智一双、行証一双、三昧般若一双なり。<(丁)『大智度論巻33上注:普賢菩薩』参照。
答曰。是遍吉菩薩一一毛孔常出諸佛世界及諸佛菩薩。遍滿十方。以化眾生無適住處。文殊尸利分身變化入五道中。或作聲聞或作緣覺或作佛身。 答えて曰く、是の遍吉菩薩は、一一の毛孔より、常に諸の仏世界、及び諸の仏菩薩を出して、遍く十方を満て、以って衆生を化するも、適住する処無し。文殊尸利は身を分って変化し、五道中に入り、或いは声聞と作り、或いは縁覚と作り、或いは仏身を作す。
答え、
是の、
『遍吉菩薩』は、
『一一』の、
『毛孔』より、
常に、
諸の、
『仏世界』や、
諸の、
『仏菩薩』を、
『出す!』と、
遍く、
『十方』を、
『満たして!』、
『衆生』を、
『化度する!』ので、
『適住する!』、
『処』は、
『無い!』。
『文殊尸利』は、
『分身』を、
『変化して!』、
『五道』中に、
『入る!』と、
或いは、
『声聞』と、
『作り!』、
或いは、
『縁覚(辟支仏)』と、
『作り!』、
或いは、
『仏身』と、
『作る!』。
  適住(てきじゅう):安便に住する。
如首楞嚴三昧經中說。文殊師利菩薩。過去世作龍種尊佛。七十二億世作辟支迦佛。是可言可說。遍吉菩薩。不可量不可說住處不可知。若住應在一切世界中住。是故不說。 首楞厳三昧経中に説くが如き、『文殊尸利菩薩は、過去世に龍種尊仏と作り、七十二億世に辟支迦仏と作る』とは、是れは可言、可説なり。遍吉菩薩は不可量、不可説にして、住処は不可知なり。若し住すれば、応に一切の世界中に在りて住すべし。是の故に説かず。
例えば、
『首楞厳三昧経』中には、こう説く、――
『文殊尸利菩薩』は、
『過去世』に、
『龍種尊仏』と、
『作り!』、
『七十二億世』に、
『辟支仏』と、
『作る!』、と。
是のような、
『過去世』や、
『量』は、
『言うことができ!』、
『説くことができる!』が、
『遍吉菩薩』の、
『過去世』は、
『量ることもできず!』、
『説くこともできず!』、
『住処』は、
『知ることができない!』。
若し、
『住する!』とすれば、
一切の、
『世界』中に、
『住するはず!』であり、
是の故に、
『説かない!』のである。
  参考:『仏説首楞厳三昧経巻2』:『爾時文殊師利法王子。知此二百菩薩有懈退心。欲還發起令得阿耨多羅三藐三菩提。亦欲教化會中天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩[目*侯]羅伽等故。白佛言。世尊。我念過去劫名照明。我於其中三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。爾時一切眾會心皆生疑。若入涅槃不應復還生死相續。今文殊師利。何故作如是言。世尊。我念過世劫名照明。我於其中三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。是事云何。爾時舍利弗承佛神旨。白佛言。世尊。若人已得入於涅槃不應復有生死相續。云何文殊師利。入涅槃已還復出生。佛言。汝可問之文殊師利。自當答汝。時舍利弗。問文殊師利言。若人已得入於涅槃。於諸有中不復相續。汝今云何而作是說。世尊。我念過去照明劫中。三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。此義云何。文殊師利言。如來現在。是一切知者。一切見者。真實語者。不欺誑者。世間天人無能誑者。我所說者佛自證知。我若異說則為誑佛。舍利弗。彼時照明劫中。有佛出世號曰弗沙。利益世間諸天人已入於涅槃。是佛滅後法住十萬歲。法滅之後其中眾生。於辟支佛有度因緣。假使百千億佛。為之說法不信不受。唯皆可以辟支佛身威儀法則而得度脫。是諸眾生皆共志求辟支佛道。是時無有辟支佛出。是諸眾生無處得種善根因緣。我於爾時為教化故自稱我身是辟支佛。隨諸國土城邑聚落。皆知我身是辟支佛。我時皆為現辟支佛形色威儀。是諸眾生深心恭敬。皆以飲食供養於我。我受食已。觀其本緣所應聞法。為解說已。身飛虛空猶如鴈王。是時眾生皆大歡喜。以恭敬心頭面禮我。而作是言。願使我等於未來世皆得法利如今是人。舍利弗。以是因緣成就無量無數眾生令種善根。我時觀察知諸人眾供養我食生懈厭心。即時告言。我涅槃時至。百千眾生聞是語已。各持華香雜香蘇油。來至我所。我於爾時入滅盡定。以本願故。不畢竟滅。是諸眾生謂我命終。供養我故以香薪[卄/積]而燒我身。謂我實滅。我時復至異國大城。自稱我是辟支佛身。其中眾生亦以飲食來供養我。我於其中示入涅槃。亦謂我滅。皆來供養共燒我身。如是舍利弗。我於爾時滿一小劫。三百六十億世。作辟支佛身示入涅槃。於諸大城。一一皆以辟支佛乘。度脫三十六億眾生。舍利弗。菩薩如是。以辟支佛乘。入於涅槃而不永滅。文殊師利說是語時。三千大千世界六種震動。光明遍照。千億諸天供養文殊師利法王子。雨諸天華。皆作是言。是實希有。我等今日得大善利。見佛世尊。及見文殊師利法王子。又聞說是首楞嚴三昧。世尊。文殊師利法王子。成就如是未曾有法。住何三昧能現如是未曾有法。佛告諸天。文殊師利法王子住首楞嚴三昧。能作如是希有難事。菩薩住此三昧。為作信行而不隨他信。亦作法行。而於法相轉於法輪不退不失。亦作八人。於諸無量阿僧祇劫。為八邪者而行於道作須陀洹。為生死水漂流眾生。不入法位作斯陀含。遍現其身於諸世間。作阿那含。亦復來還教化眾生作阿羅漢。亦常精進求學佛法亦作聲聞。以無礙辯為人說法作辟支佛。為欲教化因緣眾生示入涅槃。三昧力故還復出生。諸天子。菩薩住是首楞嚴三昧。皆能遍行諸賢聖行。亦隨其地有所說法而不住中。諸天聞佛說如是義。悉皆涕淚而作是言。世尊。若人已入聲聞辟支佛位。永失是首楞嚴三昧。世尊。人寧作五逆重罪。得聞說是首楞嚴三昧。不入法位作漏盡阿羅漢。所以者何。五逆罪人聞是首楞嚴三昧。發阿耨多羅三藐三菩提心已。雖本罪緣墮在地獄。聞是三昧善根因緣還得作佛。世尊。漏盡阿羅漢猶如破器。永不堪任受是三昧。世尊。譬如有人施蘇油蜜。多有人眾持種種器。中有一人用心不固破所持器。雖詣所施蘇油蜜所無所能益。但得自飽不能持還施與餘人。是中有人持器完堅。既得自飽亦持滿器施與他人。蘇油蜜者是佛正法。所持器破但得自足。不能持還施他人者。即是聲聞及辟支佛。持完器者即是菩薩。身自得足亦能持與一切眾生。是時二百天子。心欲退轉於阿耨多羅三藐三菩提者。從諸天子聞是語已。及聞文殊師利法王子不可思議功德勢力。更以深心發阿耨多羅三藐三菩提。不復隨先退轉之心。皆白佛言。我等乃至危害失命不捨是心。亦終不捨一切眾生。世尊。唯願我等聞是首楞嚴三昧善根因緣。當得菩薩十力。何等十。於菩提心得堅固力。於不可思議佛法得深信力。多聞得不忘力。往來生死得無疲力。於諸眾生得堅大悲力。於布施中得堅捨力。於持戒中得不壞力。於忍辱中得堅受力。魔不能壞得智慧力。於諸深法得信樂力。爾時佛告堅意菩薩。若有眾生於今現在若我滅後。聞是首楞嚴三昧能信樂者。當知是人悉皆得是菩薩十力』
復次及諸大威神菩薩者。亦應總說遍吉等諸大菩薩 復た次ぎに、及び諸の大威神の菩薩とは、亦た応に総じて、遍吉等の諸の大菩薩を説くべし。
復た次ぎに、
及び、
諸の、
『大威神』の、
『菩薩』とは、――
亦た、
当然、
『遍吉』等の、
諸の、
『大菩薩』を、
『総じて!』、
『説いたはず!』である。



仏は、一切の世界が皆集まったことを知った

【經】爾時佛知一切世界若天世界若魔世界若梵世界。若沙門若婆羅門及天。若揵闥婆人阿修羅等。及諸菩薩摩訶薩。紹尊位者一切皆集 爾の時、仏は知りたまえり、一切の世界の若しは天世界、若しは魔世界、若しは梵世界、若しは沙門、若しは婆羅門、及び天、若しは揵闥婆、人、阿修羅等、及び諸の菩薩摩訶薩の尊位を紹(つ)ぐ者の一切が皆集まれりと。
爾の時、
『仏』は、こう知られた、――
一切の、
『世界』である!、
『天の世界』や、
『魔の世界』や、
『梵の世界』や、
『沙門』や、
『婆羅門』や、
『天』と、
『揵闥婆』や、
『人』や、
『阿修羅』等と、
諸の、
『菩薩摩訶薩』という、
『尊位』を、
『紹()ぐ!』者との、
一切が、
皆、
『集まった!』、と。
  揵闥婆(けんだつば):梵名gandharva、また乾闥婆等に作り、香神と訳す。『大智度論巻3上注:八部衆、同巻25下注:乾闥婆』参照。
  阿修羅(あしゅら):梵名asura、戦闘を事とする鬼類の一。六道の一。『大智度論巻25上注:阿修羅』参照。
【論】問曰。佛神力無量。一切十方眾生。若盡來在會者。一切世界應空。若不來者。佛無量神力有所不能。 問うて曰く、仏の神力無量にして、一切の十方の衆生、若し尽く来たりて、会に在らば、一切の世界は、応に空(むな)しかるべし。若し来たらずんば、仏の無量の神力には、能わざる所有らん。
問い、
『仏』の、
『神力』が、
『無量であった!』としても、
若し、
一切の、
『十方の衆生』の、
尽くが、
『会』に、
『来た!』ならば、
一切の、
『世界』は、
『空っぽとなる!』ので、
若し、
尽くは、
『会』に、
『来なかった!』とすれば、
『仏』の、
『神力』は、
『無量である!』が、
『仏』には、
『出来ない!』ことが、
『有るとなりませんか?』。
答曰。不應盡來。何以故。諸佛世界無邊無量。若盡來者便為有邊。又復十方各各有佛。亦說般若波羅蜜。如彼般若波羅蜜四十三品中。十方面各千佛現皆說般若波羅蜜。以是故不應盡來。 答えて曰く、応に尽くは来たるべからず。何を以っての故に、諸仏の世界は無量、無辺なればなり。若し尽く来たらば、便ち有辺と為らん。又復た十方の各各に仏有りて、亦た般若波羅蜜を説きたもう。彼の般若波羅蜜の四十三品中の如きは、『十方面に各千仏現われて、皆般若波羅蜜を説く』と。是を以っての故に、応に尽くは来たるべからず。
答え、
当然、
尽くは、
『来たはずがない!』。
何故ならば、
諸の、
『仏』の、
『世界』は、
『無辺無量だから!』である。
若し、
尽くが、
『来た!』とすれば、
即ち、
『有辺ということになる!』。
又それに、
『十方』には、
各各の、
『仏』が、
『有り!』、
亦た、
『般若波羅蜜』を、
『説かれているから!』でもある。
例えば、
『般若波羅蜜四十三品』中には、こう説いている、――
『十』の、
『方面』の、
各各に、
『仏』が、
『現われて!』、
『見えていた!』が、
皆、
『般若波羅蜜』を、
『説かれていた!』、と。
是の故に、
尽くは、
『来たはずがない!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻12無作品第四十三』:『爾時佛神力故。三千大千世界中諸四天王天三十三天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天梵身天梵輔天梵眾天大梵天。少光天乃至淨居天。是一切諸天以天栴檀華遙散佛上。來詣佛所頭面禮佛足卻住一面。爾時四天王天。釋提桓因及三十三天。梵天王乃至諸淨居天。佛神力故見東方千佛說法。亦如是相如是名字說是般若波羅蜜品。』
問曰。若有十方諸佛皆說般若波羅蜜。十方諸菩薩何以故來。 問うて曰く、若し十方に諸仏有りて、皆般若波羅蜜を説かば、十方の諸菩薩は、何を以っての故にか、来たる。
問い、
若し、
『十方』に、
諸の、
『仏』が、
『有って!』、
皆が、
『般若波羅蜜』を、
『説かれている!』とすれば、
『十方』の、
諸の、
『菩薩』は、
何故、
『来たのですか?』。
答曰。如普明菩薩來章中已說。與釋迦牟尼佛因緣故來。 答えて曰く、普明菩薩来たる章中に已に説けるが如く、釈迦牟尼仏との因縁の故に来たり。
答え、
『普明菩薩の来た章』中に、
已に、説いたように、――
『釈迦牟尼仏』との、
『因縁』が、
『有った!』が故に、
『来た!』のである。
復次是諸菩薩本願故。若有說般若波羅蜜處。我當聽受供養。是以遠來欲以身力積功德故。亦以示諸眾生我從遠來供養法故。云何汝在此世界而不供養。 復た次ぎに、是れ諸の菩薩の本の願の故なればなり。若し般若波羅蜜を説く処有らば、我れは当に聴受して供養すべし、と。是れ遠く来たるを以って、身力を以って功徳を積まんと欲せんが故なり。亦た以って諸の衆生に、『我れは遠くより来たるは、法を供養せんが故なり。云何が汝は、此の世界に在りて、而も供養せざる』、と示せり。
復た次ぎに、
是れは、
諸の、
『菩薩』の、
『本』の、
『願だから!』である、――
若し、
『般若波羅蜜』を、
『説く!』、
『処』が、
『有れば!』、
わたしは、
必ず、
『聴受して!』、
『供養しよう!』、と。
是れは、
『遠く!』より、
『来る!』という、
『事』で、
『身』の、
『力』を、
『用いる!』が故に、
『功徳』を、
『積みたい!』と、
『思ったから!』であるが、
亦た、
諸の、
『衆生』に、こう示したのでもある、――
わたしが、
『遠く!』より、
『来た!』のは、
『法』を、
『供養する!』為めであるが、
お前は、
此の、
『世界』に、
『居りながら!』、
何故、
『法』を、
『供養しないのか?』、と。
問曰。佛於法不著。何以故。七現神力而令眾生大集。 問うて曰く、仏は法に著したまわざるに、何を以っての故にか、七たび神力を現わして、衆生をして大いに集まらしめたもう。
問い、
『仏』は、
『法』に、
『著されない!』のに、
何故、
『七たび!』、
『力』を、
『現して!』、
『衆生』を、
『大いに!』、
『集められた!』のですか?
  :七現神力:蓋し以下の如し。一に、三昧王三昧を起ちて身の三十二相より各六百億の光を放つ。二に、一一の身の毛孔を挙げて光を放つ。三に、常光は遍く三千大千国土を照す。四に、長広の舌相は遍く三千大千国土を覆い、舌根より無量千万億の光を放ち、一一の光は千葉の宝華と成り、華上に化仏有りて六波羅蜜を説く。五に、師子遊戯三昧に入って三千大千国土を感動し、地を六種に震動せしむ。六に、常身を三千大千国土の衆生に示し、口より光を出して三千大千国土を照す。七に、普明菩薩に華を送らしめ、東方の諸仏の世界を華で満たす。
答曰。是般若波羅蜜。甚深難知難解不可思議。是故廣集諸大菩薩。令新發意者心得信樂。譬如小人所語不為人信。貴重大人人必信受。 答えて曰く、是の般若波羅蜜は、甚だ深く、知り難く、解し難く、不可思議なればなり。是の故に、広く諸の大菩薩を集めて、新発意の者をして、心に信楽を得しめたまえり。譬えば、小人の語る所は、人に信ぜられざるも、貴重の大人なれば、人は必ず信受するが如し。
答え、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『甚だ深く!』、
『知り難く!』、
『解し難く!』、
『不可思議だから!』である。
是の故に、
広く、
諸の、
『大菩薩』を、
『集めて!』、
新に、
『意』を、
『発(おこ)した!』者の、
『心』に、
『信じる!』ことと、
『楽しむ!』こととを、
『得させられた!』のである。
譬えば、
『小人』の、
『語る!』所は、
『人』に、
『信用されない!』が、
『貴重』の、
『大人』の、
『語る!』所は、
『人』に、
必ず、
『信受される!』のと、
『同じである!』。
問曰。何以故言若天世界若魔世界若梵世界。但應言天世界人世界則足。何以故。十號中言天人師。以是故應言天人而已。 問うて曰く、何を以っての故にか、『若しは天の世界、若しは魔の世界、若しは梵の世界』と言う。但だ応に、『天の世界、人の世界』と言わば、則ち足るべし。何を以っての故に、十号中に『天と人との師』と言えばなり。是を以っての故に、応に『天と人と』、とのみ言うべし。
問い、
何故、
こう言うのですか?――
『天の世界』や、
『魔の世界』や、
『梵の世界』、と。
但だ、
こう言えば、足るはずです、――
『天の世界』、
『人の世界』、と。
何故ならば、
『仏』の、
『十号』中に、
こう言うからです、――
『天』と、
『人』との、
『師である!』、と。
是の故に、
当然、こう言うべきです、――
『天』と、
『人』のみだ!と。
答曰。諸天有天眼天耳利根智慧多自知來。以是故言天世界。 答えて曰く、諸天には天眼、天耳、利根、智慧有りて、多く自ら来たるを知る、是を以っての故に言わく、『天の世界』、と。
答え、
諸の、
『天』には、
『天眼』や、
『天耳』や、
『利根』や、
『智慧』が、
『有る!』ので、
『多く!』が、
自ずから、
『来るべきである!』ことを、
『知っている!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『天の世界』、と。
問曰。若天世界已攝魔梵。何以故別說若魔若梵。 問うて曰く、若し天世界なれば、已に魔と梵とを摂す。何を以っての故に、別に、『若しは魔、若しは梵』と説く。
問い、
若し、
『天の世界』と、
『説けば!』、
已に、
『魔』も、
『梵』も、
『含まれる!』のに、
何故、
別に、こう説くのですか?――
『魔や!』、
『梵が!』、と。
答曰。天中有三大主。釋提婆那民二處天主。魔王六欲天主。梵世界中大梵天王為主。 答えて曰く、天中には三大主有り。釈提婆那民は二処の天主なり。魔王は六欲天の主なり。梵世界中には大梵天王を主と為す。
答え、
『天』中には、
『三(みた)り!』の、
『大主』が、
『有る!』。
則ち、
『釈提婆那民(帝釈天)』は、
『四天王天』と、
『三十三天』との、
『二天処』の、
『主である!』。
『魔王(他化自在天主)』は、
『六欲天』の、
『主である!』。
『大梵天王』は、
『梵世界(梵身、梵輔、梵衆、大梵天の総称)』中の、
『主である!』。
  釈提婆那民(しゃくだいばなみん):梵名sakra kevaanaamindra、また釈提桓因に作る。即ち三十三天の主。『大智度論巻2上注:釈提桓因』参照。
  梵世界(ぼんせかい):梵名brahma- loka、色界初禅に、梵身天、梵輔天、梵衆天、大梵天の四天あり、是の総称を梵世界と称す。又「大智度論巻10」に依れば、「梵を離欲清浄と名づく、今梵世界と言えば、已に総じて色界諸天を説けり」と云う、当に知るべし。『大智度論巻1上注:色界』参照。
問曰。如夜魔天兜率陀天化樂天皆有主。何以但有三主。 問うて曰く、夜摩天、兜率陀天、化楽天には、皆主有り。何を以ってか、但だ三主のみ有る。
問い、
『夜摩天』や、
『兜率陀天』や、
『化楽天』などにも、
皆、
『主』が、
『有る!』のに、
何故、
但だ、
『三り!』の、
『主』のみが、
『有るのですか?』。
  夜摩天(やまてん):梵名yaama、欲界第三天の名。『大智度論巻9上注:夜摩天』参照。
  兜率陀天(とそつだてん):梵名tuSita、欲界第四天の名。『大智度論巻9上注:兜率天』参照。
  化楽天(けらくてん):梵名nirmaaNarati、欲界第五天の名。『大智度論巻9上注:化楽天』参照。
答曰。釋提婆那民依地住。佛亦在地住。常來佛所大有名稱人多識故。魔王常來嬈佛。又是一切欲界中主。夜摩天兜率陀天化樂天皆屬魔王。 答えて曰く、釈提婆那民は、地に依って住し、仏も亦た、地に在りて、住したまえば、常に仏所に来たれば、大いに名称有りて、人の多く識るが故なり。魔王は常に来たりて、仏を嬈(なやま)す、又是れ一切の欲界中の主にして、夜摩天、兜率陀天、化楽天は皆、魔王に属すればなり。
答え、
『釈提婆那民』は、
『地(須弥山頂)』に、
『依って!』、
『住している!』が、
『仏』も、
亦た、
『地』に、
『住していられる!』ので、
『釈提婆那民』は、
常に、
『仏』の、
『居られる!』所に、
『来ており!』、
大いに、
『名称(名のあがること)』が、
『有る!』が故に、
多くの、
『人』に、
『識られている!』。
『魔王』は、
常に、
『来て!』、
『仏』を、
『嬈(なや)まし!』、
又、
是れは、
一切の、
『欲界』中の、
『主』として、
『夜摩天』や、
『兜率陀天』や、
『化楽天』が、
皆、
『魔王』に、
『属する!』からである。
復次天世界則三界天皆攝是天中。一切欲界魔為主。是故別說。 復た次ぎに、天の世界とは、則ち三界の天にして、皆、是の天中に摂し、一切の欲界の魔を、主と為す。是の故に別に説けり。
復た次ぎに、
『天の世界』には、
則ち、
『三界』の、
『天』は、
皆、
是の、
『天の世界』中に、
『含まれることになる!』が、
一切の、
『欲界』には、
則ち、
『魔』が、
『主である!』。
是の故に、
『別に!』、
『説かれた!』。
復次魔常嬈佛。今來聽般若波羅蜜。餘人增益信故。 復た次ぎに、魔は常に仏を嬈せるに、今来たりて、般若波羅蜜を聴けば、余人は信を増益するが故なり。
復た次ぎに、
『魔』は、
常に、
『仏』を、
『嬈ましている!』のに、
今、
『来て!』、
『般若波羅蜜』を、
『聴いていた!』とすれば、
他の、
『人』の、
『信』が、
『増益する!』からである。
問曰。色界中大有天。何以但言梵世界集。 問うて曰く、色界中には、大いに天有り。何を以ってか、但だ梵世界のみ集まると言う。
問い、
『色界』中には、
大いに、
『天』が、
『有る!』のに、
何故、
但だ、こう言うのですか?――
『梵の世界』が、
『集まる!』、と。
答曰。上諸天無覺觀不喜散心。又難聞故。梵世界有四識易聞故。又梵世界近故。 答えて曰く、上の諸天には、覚観無く、喜ばざれば、散心にして又聞き難きが故なり。梵世界は四識有りて、聞き易きが故に、又梵世界は近きが故なり。
答え、
上の、
諸の、
『天』には、
『覚(知覚)』も、
『観(観察)』も、
『無く(第二禅以上)』、
『喜ばない(第三禅以上)』し、
『散心(第四禅)である!』ので、
又、
『法』を、
『聞き難い!』からである。
『梵世界』には、
『四識(覚、観、喜、楽)』が、
『有って!』、
『聞き易い!』し、
又、
『梵世界』は、
『近い!』からでもある。
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻2』:『論曰。繫謂繫屬即被縛義。欲界所繫具足十八。色界所繫唯十四種。除香味境及鼻舌識。除香味者段食性故。離段食欲方得生彼。除鼻舌識無所緣故』
復次梵名離欲清淨。今言梵世界。已總說色界諸天。 復た次ぎに、梵を離欲清浄と名づく。今、梵世界と言えば、已に総じて、色界の諸天を説く。
復た次ぎに、
『梵』を、
『欲を離れて!』、
『清浄である!』と、
『呼ぶ!』ならば、
今、
『梵の世界』と、
『言えば!』、
已に、
『色界』の、
『諸天』を、
『総じて説く!』ことになる。
復次餘天未有人民。劫初生時梵天王獨在梵宮寂漠無人。其心不悅而自生念。此間何以不生人民。 復た次ぎに、余の天には、未だ人民有らざるに、劫の初の生ずる時、梵天王は独り、梵宮に在りて、寂漠として、人無し。其の心は悦ばずして、自ら念を生ずらく、『此の間に、何を以ってか、人民を生ぜざる』、と。
復た次ぎに、
他の、
『天(梵世界)』に、
未だ、
『人民』が、
『無く!』、
『劫』に、
初めて、
『人民』が、
『生まれた!』時、――
『梵天王』は、
独り、
『梵宮』中に、
『在った!』が、
『梵宮』は、
『寂漠として!』、
『無人であった!』ので、
其の、
『心』は、
『悦ばず!』、
自ら、念が生じた、――
此の、
『世間』には、
何故、
『人民』が、
『生まれないのか?』、と。
  寂漠(じゃくまく):静かで声の無いこと。
是時光音天命盡者應念來生。梵王便自生念。此諸天先無隨我念故生。我能生此諸天。 是の時、光音天の命尽くる者、念に応じて来たりて生ず。梵王、便ち自ら念を生ずらく、『此の諸の天は、先に無く、我が念に随うが故に生ず。我れは能く、此の諸天を生ぜり』、と。
是の時、
『光音天』の、
『命』の、
『尽きた!』者が、
此の、
『念』に、
『応じて!』、
此の、
『世界』に、
『来て!』、
『生まれた!』ので、
『梵天王』は、
自ら、
『念』が、生じた、――
此の、
諸の、
『天』は、
『先には!』、
『無かった!』のに、
わたしの、
『念』に、
『随って!』、
『生まれた!』。
わたしが、
此の、
諸の、
『天』を、
『生じさせたのだ!』、と。
  光音天(こうおんてん):梵名aabhaasvaraの訳。色界第二禅天中の第四頂天の名。『大智度論巻1上注:色界』参照。
諸天是時亦各自念。我從梵王生。梵王是我父也。以是故但說梵世界。 諸天は、是の時亦た各自ら念ずらく、『我れは、梵王より生ぜり。梵王は、是れ我が父なり』、と。是を以っての故に、但だ梵世界のみを説く。
諸の、
『天』は、
是の時、
亦た、
各自に、
こう念じた、――
わたしは、
『梵天王』より、
『生まれた!』。
『梵天王』は、
わたしの、
『父なのだ!』、と。
是の故に、
但だ、
『梵の世界』のみを、
『説く!』のである。
復次二禪三禪四禪天。於欲界見佛聽法。若勸助菩薩。眼識耳識身識皆在梵世界中取。以是故別說梵世界。 復た次ぎに、二禅、三禅、四禅天は、欲界に於いて、仏を見、法を聴き、若しは菩薩を勧助し、眼識、耳識、身識は、皆梵世界中に在りて取る。是を以っての故に、別して梵世界を説く。
復た次ぎに、
『二禅(無覚、無観、有喜、有楽)』や、
『三禅(無覚、無観、無喜、有楽)』や、
『四禅(無覚、無観、無喜、無楽)』は、
『欲界』に於いて、
『仏』を、
『見たり!』、
『法』を、
『聞いたりして!』、
或いは、
『菩薩』を、
『勧めて!』、
『助ける!』し、
『眼識』や、
『耳識』や、
『身識』は、
皆、
『梵世界(初禅=有覚、有観、有喜、有楽)』中に於いて、
『取る!』ので、
是の故に、
『梵世界』を、
『別にして!』、
『説くのである!』。
問曰。何以故獨說諸沙門婆羅門。不說國王及長者諸餘人眾。 問うて曰く、何を以っての故にか、独り諸の沙門、婆羅門を説いて、国王、及び長者、諸余の人衆を説かざる。
問い、
何故、
諸の、
『沙門』や、
『婆羅門』のみを、
『説いて!』、
『国王』や、
『長者』や、
『その他の人々』を、
『説かない!』のですか?。
答曰。智慧人有二分。沙門婆羅門。出家名沙門。在家名婆羅門。餘人心存世樂。是故不說。婆羅門多學智慧求福。出家人一切求道。是故但說沙門婆羅門。 答えて曰く、智慧の人に、二分有り、沙門と婆羅門となり。出家を沙門と名づけ、在家を婆羅門と名づく。余の人は、心が世楽に存り、是の故に説かず。婆羅門は多くが智慧を学んで福を求め、出家人は、一切が道を求む。是の故に但だ、沙門と婆羅門とのみを説く。
答え、
『智慧の人』には、
『二つ!』の、
『分』が、
『有り!』、
即ち、
『沙門』と、
『婆羅門』とである。
『出家』を、
『沙門』と、
『呼び!』、
『在家』を、
『婆羅門』と、
『呼ぶ!』。
『他の人』は、
『心』が、
『世間』の、
『楽』に、
『存る!』ので、
是の故に、
『説かない!』。
『婆羅門』は、
多くが、
『智慧』を、
『学んで!』、
『福』を、
『求める!』が、
『沙門』は、
一切が、
『道』を、
『求めている!』。
是の故に、
但だ、
『沙門』と、
『婆羅門』のみを、
『説くのである!』。
在家中七世清淨。生滿六歲皆受戒名婆羅門。是沙門婆羅門中。有道德智慧。以是故說。 在家中に七世にして清浄なれば、生じて六歳を満つるに、皆、戒を受けて婆羅門と名づく。是の娑門と、婆羅門中には、道、徳、智慧有れば、是を以っての故に説く。
『在家』中に、
『清浄』に、
『七世』を、
『過ごした!』者は、
『生まれて!』、
『満六歳になる!』と、
皆、
『戒』を、
『受けて!』、
『婆羅門』と、
『呼ばれることになる!』。
是の、
『沙門』と、
『婆羅門』は、
『道(方法)』も、
『徳(威力)』も、
『智慧』も、
『有る!』ので、
是の故に、
『説かれた!』。
問曰。先已說天世界。今何以復說天。 問うて曰く、先に已に『天の世界』を説く。今は何を以ってか、復た『天』を説く。
問い、
先に、
已に、
『天の世界』を、
『説いた!』のに、
今、
何故、
復たしても、
『天』を、
『説くのですか?』。
答曰。天世界是四天王忉利天。魔是他化自在天。梵是色界。 答えて曰く、天の世界は、是れ四天王天、忉利天なり。魔は、是れ他化自在天なり。梵は、是れ色界なり。
答え、
『天の世界』とは、
『四天王天』と、
『忉利天(三十三天)である!』、
『魔の世界』とは、
『他化自在天である!』、
『梵の世界』とは、
『色界である!』。
今說天是欲界中夜摩兜率陀化樂愛身天等。愛身在六天上。形色絕妙故言愛身。 今、『天』と説くは、欲界中の夜摩、兜率陀、化楽、愛身天等なり。愛身は、六天の上に在り、形色絶妙なるが故に『愛身』と言う。
今、
『天』と説かれたのは、――
『欲界』中の、
『夜摩』、
『兜率陀』、
『化楽』、
『愛身天』等である。
『愛身』は、
『六欲天』の、
『上』に、
『在り!』、
『形色』が、
『絶妙である!』が故に、
『愛身(ハンサム)』と、
『呼ばれている!』。
  愛身天(あいしんてん):梵名sudRza(sudRzはwell looking、handsomeの義)の訳、又善現天、善見天等に訳す。六欲天の上に在り、可愛身を有するが故に愛身天と称す。「大智度論巻10」に、「愛身は六天の上に在り、形色絶妙の故に愛身と言う」と云い、「経律異相巻1」に、「他化自在天第六 他化自在天宮もまた風輪の持つ所と為して虚空中に在り。王を自在に転た多の所化を集め自ら娯楽すと名づけ、愛身天と名づけ、欲界中に於いて独り自在を得、身長は十六由旬、衣は長さ三十二由旬、広さ十六由旬、衣の重さ半銖、寿は天の万六千歳より少し出でて多く減ず、食は下天の如し、また婚姻有り、暫く視て欲を成ず(楼炭経に云わく、ただ念ずれば便ち成ずと、三法度経に云わく、女と共に各深く染著し、相視て欲を成ず、もし一染せざれば成ぜず、ただ人間の如く相抱持するを楽しむのみ。他人の所化を見るが故に他化を言うが如し)その天、初めて生ずれば人の七歳の如し、自ら宿命を識る、布施、持戒を以って悪を棄つるが故なり。自然に飲食、衣服、玉女の事うること並びに前に同じ。光明に勝化楽有り。(長阿含経第二十巻に出で、また華厳、大智論、楼炭経に出づ)と云えり。蓋し、他化自在天王は魔王に非ざる時ありて、称して愛身天と名づくるが如し。
問曰。何以但說揵闥婆。不說諸餘鬼神及龍王。 問うて曰く、何を以ってか、但だ揵闥婆を説いて、諸余の鬼神、及び龍王を説かざる。
問い、
何故、
但だ、
『揵闥婆』のみを、
『説いて!』、
他の、
『鬼神』や、
『龍王』を、
『説かないのですか?』。
答曰。是揵闥婆是諸天伎人隨逐諸天。其心柔軟福德力小減諸天 答えて曰く、是の揵闥婆は、是れ諸天の伎人にして、諸天に随逐し、其の心柔軟なるも、福徳力は、諸天に小減す。
答え、
是の、
『揵闥婆』は、
諸の、
『天』の、
『伎人(楽人)として』、
諸の、
『天』に、
『付き従っている!』。
其の、
『心』は、
『柔軟である!』が、
『福徳』の、
『力』は、
諸の、
『天』より、
『少ない!』。
  小減(しょうげん):少ない。
諸鬼神。鬼神道中攝。龍王畜生道中攝。甄陀羅亦是天伎皆屬天。與天同住共坐飲食。伎樂皆與天同。 諸の鬼神は、鬼神道中に摂し、龍王は畜生道中に摂す。甄陀羅も、亦た是れ天の伎にして、皆天に属し、天と同じく住し、共に坐して飲食し、伎楽も、皆、天と同じうす。
諸の、
『鬼神』は、
『鬼神道(餓鬼道)』中に、
『含まれ!』、
『龍王』は、
『畜生道』中に、
『含まれる!』。
『甄陀羅』も、
『天』の、
『伎人として!』、
皆、
『天』に、
『属して!』、
『天』と、
『同居し!』、
『天』と、
『いっしょに!』、
『坐して!』、
『飲食し!』、
『伎楽(音楽)』も、
皆、
『天』と、
『いっしょにする!』。
  龍王(りゅうおう):梵名naagaの訳。八部衆の一。多く水中に住して雲を呼び、雨を起すと信ぜられたる蛇形の鬼類を云う。『大智度論巻25下注:龍』参照。
  甄陀羅(きんだら):梵名kiMnara、また緊那羅に作る。八部衆の一、楽神なり。『大智度論巻3上注:八部衆』参照。
是揵闥婆王名童籠磨。(秦言樹)是揵闥婆甄陀羅恒在二處住。常所居止在十寶山間。有時天上為諸天作樂。此二種常番休上下。 是の揵闥婆王を童籠磨と名づく。是の揵闥婆、甄陀羅は恒に、二処に在りて住し、常に居止する所は、十宝山の間に在り。有るいは時に天上にて、諸天の為めに楽を作す。此の二種は常に番休し上下す。
是の、
『揵闥婆』の、
『王』を、
『童籠磨』と、
『呼ぶ!』が、
是の、
『揵闥婆』と、
『甄陀羅』とは、
恒に、
『天』と、
『地』との、
『二処』に、
『居住し!』、
恒に、
『住処』は、
『十宝山』の、
『間である!』が、
有るいは、
『時』に、
『天』上で、
諸の、
『天』の為めに、
『伎楽』を、
『作している!』。
此の、
『二種』は、
常に、
『交代で!』、
『休みながら!』、
『天』と、
『地』とを、
『上下している!』。
  童籠磨(どうろうま):梵名druma、 即ち樹木の意。揵闥婆王の名。即ち「この揵闥婆王を童籠磨(秦に樹と言う)と名づく」と云えるこれなり。蓋し、「新華厳経巻1世主妙荘厳品」に、「また無量の乾闥婆王あり、謂わゆる持国dhRtaraaSTra 乾闥婆王、樹光drumakiMnaraprabha 乾闥婆王、浄目zucinetraratisaMbhava 乾闥婆王、華冠puSpadrumakusmitamakuTa 乾闥婆王、普音raticaraNasamantasvara 乾闥婆王、楽揺動妙目pramuditapralamhasunayana 乾闥婆王、妙音師子幢manojJarutasiMhadhvaja 乾闥婆王、普放宝光明samantaratnakiraNamuktaprabha 乾闥婆王、金剛樹華幢vajradrumakesaradhvaja 乾闥婆王、楽普現荘厳sarvavyuuharatisvabhaavanayasaMdarzana 乾闥婆王なり」と云えるを見れば、この乾闥婆王は甚だ多く、恐らくはこの内の一なりとも言いがたし。
  十宝山(じゅうほうせん):「旧華厳経巻27十地品」に、「仏子、これ菩薩の十地なり、仏智に因るが故に而も差別有り、大地に因りて十大山王有るが如し。何等か十なる、謂わゆる、雪山王、香山王、軻梨羅山王、仙聖王、由乾陀山王、馬耳山王、尼民陀羅山王、斫迦羅山王、宿慧山王、須弥山王なり」と云えるこれなり。また同じく、この中に就き、「雪山王の如きは、一切の薬草集りてその中に在りて尽くすべからず、菩薩もまたかくの如く、歓喜地に住せば、一切世間の経書、技芸、文頌、咒術集り、その中に在りて窮尽すること有ること無し。香山王の如きは、一切の諸香集り、その中に在りて尽くすべからず、菩薩もまたかくの如く、離垢地に住せば、持戒頭陀、威儀の助法集り、その中に在りて窮尽すること有ること無し。軻梨羅山王の如きは、ただ宝を以って成り、諸妙華を集むるに、取りて尽くすべからず、菩薩もまたかくの如く、明地に於いて住せば、一切の世間の禅定、神通、解脱、三昧を集め、問うて尽くすべからず。仙聖仙王の如きは、ただ宝を以って成り、多く五通の聖人有りて窮尽すべからず、菩薩もまたかくの如く、焔地に於いては、衆生をして道に入らしむる因縁を集め、種種に問難して窮尽すべからず。由乾陀山王の如きは、ただ宝を以って成り、夜叉、大神を集めて窮尽すべからず、菩薩もまたかくの如く、難勝地に住せば、一切の自在、如意、神通を集め、説いて尽くすべからず。馬耳山王の如きは、ただ宝を以って成り、衆妙果を集めて、取りて尽くすべからず、菩薩もまたかくの如く、現前地に住せば、深き因縁の法を集め、声聞果を説いて窮尽すべからず。尼民陀羅山王の如きは、ただ宝を以って成り、一切の大力の龍神を集めて窮尽すべからず、菩薩もまたかくの如く、遠行地に住せば、種種の方便、智慧を集め、辟支仏道を説いて窮尽すべからず。斫迦羅山王の如きは、ただ宝を以って成り、心の自在なる者を集めて、窮尽すべからず、菩薩もまたかくの如く、不動地に住せば、一切の菩薩の自在の道を集め、世間の性を説いて窮尽すべからず。宿慧山王の如きは、ただ宝を以って成り、大神力の諸阿修羅を集めて、窮尽すること有ること無し、菩薩もまたかくの如く、善慧地に住せば、転た衆生の行智を集め、世間の相を説いて窮尽すべからず。須弥山王の如きは、ただ宝を以って成り、諸天神を集めて、窮尽すること有ること無し、菩薩もまたかくの如く、法雲地に住せば、如来の十力、四無所畏を集め、諸仏の法を説いて窮尽すべからず。この十宝山は、同じく大海に在り、大海水に因るも差別の相有り、菩薩の十地もまたかくの如く、同じく仏智に在りて、一切智に因るが故に差別の相有り」と云えるは、その十山の宝山たる所以を説き、並びに菩薩の十地に就いて説けるものなり。
  番休(ばんきゅう):代わる代わる休む。
人在四天下生。生有四種。極長壽乃至無量歲。極短壽乃至十歲。 人は、四天下に在りて生まれ、生に四種有り、極めて長寿なるは、乃至無量歳、極めて短寿なるは、乃至十歳なり。
『人』は、
『四天下』に、
『生まれる!』が、
『生(生まれ方)』に、
『四種(卵生、胎生、湿生、化生)』、
『有り!』、
『寿命』の、
極めて、
『長い!』者は、
『無量歳』に、
『至り!』、
極めて、
『短い!』者は、
『十歳』にも、
『至らない!』。
阿修羅惡心鬥諍。而不破戒大修施福。生在大海邊住。亦有城郭宮殿。 阿修羅は、悪心もて闘諍するも、戒を破らず、大いに施福を修め、生じては大海の辺に在りて住し、亦た城郭、宮殿有り。
『阿修羅』は、
『悪心(にくむこころ)』で、
『闘諍する!』が、
而し、
『戒』を、
『破ることがなく!』、
大いに、
『施福』を、
『修めて!』、
『生まれながらに!』、
『大海』の、
『辺』に、
『居住しており!』、
亦た、
『城郭』や、
『宮殿』を、
『有している!』。
是阿修羅王。名毘摩質多婆梨羅睺羅。如是等名阿修羅王。 是の阿修羅の王を、毘摩質多、婆梨、羅睺羅と名づけ、是の如き等を阿修羅王と名づく。
是の、
『阿修羅』の、
『王』を、
『毘摩質多』とか、
『婆梨』とか、
『羅睺羅』と、
『称する!』が、
是れ等を、
『阿修羅王』と、
『呼ぶ!』。
  阿修羅(あしゅら):梵名asura、 即ち六道の一、また八部衆の一にして常に戦闘を好む。『大智度論巻30上注:阿修羅』参照。
  毘摩質多(びましった):梵名vimalacitra、 また毘摩質多羅、吠摩質呾利に作り、訳して浄心、綺画、宝飾等に為す。阿修羅王の名。乾闥婆の女を娶りて舎脂夫人を生じ、帝釈に嫁せば、即ち帝釈の舅なり。<(丁)
  婆梨(ばり):梵名vaari、 また婆利、波利に作り、水の別名なり。<(丁)
  羅睺羅(らごら):梵名raahula、 また羅睺、羅呵に作る。四大阿修羅王の一、羅睺阿修羅raahuasura 王なり。「増一阿含経巻3阿須倫品」に依るに、阿須倫(即ち阿修羅)の形は広長八万四千由旬、口は縦広千由旬なり。もし日を触犯せんと欲する時は、倍して十六万八千由旬の身を化し、日月の前に往くに日月王これを見て恐怖を懐き、また光明あらず。阿須倫の形は甚だ畏るべきが故なり。されど日月は威徳あるが故に、遂に阿須倫の為に捉らえられざることを記せり。これ謂わゆる羅睺羅阿修羅にして、印度にては日月蝕は、この羅睺羅阿修羅が日月を触犯せし結果なりと信ぜられたるが故なり。また「長阿含経巻20阿須倫品」に羅呵(即ち羅睺羅)阿須倫の住処等を詳説せる中、羅呵阿須倫城は須弥山の北、大海の水底に在り、縦広八万由旬にして七宝を以って合成せり。中に王の小城あり、名づけて輪輸摩跋吒と云う。その城内に講堂を立つ、七尸利娑と名づく。堂の周囲に四の園林あり、東を沙羅、南を極妙、西を睒摩、北を楽林と云う。羅呵阿須倫王、時にもし沙羅園に詣りて遊観せんと欲し、毘摩質多阿須輪王を念ずれば、毘摩質多即ち至り、波羅呵阿須輪王を念ずれば、波羅呵即ち至り、睒摩羅阿須輪王を念ずれば、睒摩羅即ち至りて共に相娯楽すと云い、「同経巻21戦闘品」には、羅呵阿須輪王は、忉利天、及び日月諸天が常に虚空に在りて、その頂上を遊行するを見て大瞋恚を起し、日月を取って自らこれを耳璫となさんと欲し、即ち捶打阿須輪、舎摩梨阿須輪、毘摩質多阿須輪、大臣阿須輪及び小阿須輪を具し、行く行く難陀等の龍王、伽楼羅鬼神、持華鬼神、常楽鬼神及び四天王を敗り、進んで天帝釈等と共に戦闘することを記せり。「起世経巻8」、「起世因本経巻8」、並びに「大楼炭経巻5」等に出す所もまた略ぼこれに同じ。また「起世経巻5阿修羅品」、「正法念処経巻18至巻21」、「雑阿含経巻40」等多数の経論に出づ。また羅睺羅、羅云、羅雲、羅吼羅、羅睺、曷羅怙、何羅怙羅、羅怙羅に作り、覆障、障月、執月と訳し、仏の嫡子をこれに由りて名づく。仏十大弟子の一。釈尊出家以前の子にして、妃耶輸陀羅yazodharaa の生む所なり。その生誕に関し、「仏本行集経巻55羅睺羅因縁品」、「衆許摩訶帝経巻6」、「有部毘奈耶破僧事巻5及び巻12」等に胎に在ること六年、成道の夜に生まるとなすも、「仏本行集経巻55」の一説には出家前二年に生まるとなし、「太子瑞応本起経巻上」には納妃の後六年とし、その他また同十年となすの説あり。尋いで仏成道後初めて迦毘羅城に帰還するのみぎり、十五歳にて出家す。舎利弗を和上となして彼れの沙弥となり、遂に阿羅漢果を成ず、十大弟子の中に在りては密行第一と為す。その名に就きて羅睺羅阿修羅王の障蝕月の時に生ずるを以っての故に羅睺羅と名づく。また六年、母胎に障蔽さるるが故に名づく、羅睺羅の就きを執りてこれを障蔽するに及ぶの義なり。<(望)
如說一時羅睺羅阿修羅王欲噉月。月天子怖疾到佛所。說偈言
 大智成就佛世尊 
 我今歸命稽首禮 
 是羅睺羅惱亂我 
 願佛憐愍見救護
説の如し、一時、羅睺羅阿修羅王、月を噉(くら)わんと欲するに、月の天子怖れて、疾かに仏所に到り、偈を説いて言わく、
大智成就せる仏世尊に、
我れは今帰命して稽首礼せん、
是の羅睺羅我れを悩乱す、
願わくは仏憐愍して救護せられよ。
こう説かれている、――
ある時、
『羅睺羅』という、
『阿修羅王』が、
『月』を、
『噉(くら)おう!』と、
『思った!』。
『月』の、
『天子』は、
『怖れて!』、
『疾かに!』、
『仏の所』に、
『到り!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
『大智』を、
『成就された!』、
『仏世尊よ!』、
わたしは、
今、
『帰命して!』、
『稽首礼します!』。
是の、
『羅睺羅』は、
わたしを、
『悩ませ!』、
『乱しています!』、
願わくは、
仏よ!、
わたしを、
『憐愍して!』、
『救護してください!』、と。
  稽首礼(けいしゅらい):首を地に著くる礼儀。
  参考:『別訳雑阿含経巻9(167)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時羅睺羅阿脩羅王。手障於月。時月天子。極大驚怖。身毛為豎。往詣佛所。頂禮佛足。即說偈言 如來大精進  我今歸命禮  能於一切處  悉皆得解脫  今遭大艱難  願作我歸依  世間之善逝  應供阿羅漢  我今來歸依  如來愍世間  使彼羅[目*侯]羅  自然放捨我  爾時世尊說偈答曰 月處虛空中  能滅一切闇  有大光明照  清白悉明了  月是世明燈  羅睺應速放  羅睺聞偈已  心中懷戰慄  流汗如沐浴  即速放彼月  時跋羅蒲盧旃。見阿脩羅王速疾放月。即說偈言 汝何故驚懼  速疾放於月  身汗如沐浴  掉動如病者  時阿脩羅復說偈言 我聞佛說偈  若不放月者  頭當破七分  終不見安樂  時跋羅蒲盧旃復說偈言 佛出未曾有  見者得安隱  阿修聞說偈  即時放於月』
佛與羅睺羅而說偈言
 月能照闇而清涼 
 是虛空中大燈明 
 其色白淨有千光 
 汝莫吞月疾放去
仏の羅睺羅の与(ため)に偈を説いて言わく、
月の能く闇を照らして清涼なること、
是れ虚空中の大灯明なり。
其の色は白浄にして千光有り、
汝月を呑むこと莫く疾かに放去せよ。
『仏』は、
『羅睺羅』に、
『偈』を説いて、こう言われた、――
『月』は、
『闇を照らして!』、
『清涼である!』、
是れは、
『虚空』中の、
『大灯明である!』。
其の、
『色』は、
『白く!』、
『浄く!』、
『千』の、
『光』が、
『有る!』、
お前は、
『月』を、
『呑まずに!』、
『解放せよ!』、と。
  放去(ほうこ):放はゆるしてはなつの意、去はすておくの意。釈放。放棄。
是時羅睺羅怖懅流汗即疾放月。婆梨阿修羅王見羅睺羅惶怖放月。說偈問曰
 汝羅睺羅何以故 
 惶怖戰慄疾放月 
 汝身流汗如病人 
 心怖不安乃如是
是の時、羅睺羅は怖懅し汗を流して、即ち疾かに月を放てり。婆梨阿修羅王、羅睺羅の惶怖して月を放てるを見て、偈を説いて問うて曰わく、
汝羅睺羅よ何を以っての故にか、
惶怖戦慄して疾かに月を放てる。
汝が身は汗を流すこと病人の如く、
心怖れて安からざるも乃ち是の如し。
是の時、
『羅睺羅』は、
『怖れて!』、
『汗』を、
『流しながら!』、
『即座に!』、
『月』を、
『放った!』。
『婆梨阿修羅王』は、
『羅睺羅』が、
『怖れて!』、
『月』を、
『放つ!』のを、
『見る!』と、
『偈』を説いて、こう問うた、――
お前!
羅睺羅よ!
何故、
『恐ろしさ!』に、
『振えながら!』、
『慌てて!』、
『月』を、
『放ったのか?』。
お前は、
『身』から、
『汗』を、
『流している!』が、
まるで、
『病人のようだ!』。
『心』も、
『怖れて!』、
『不安そうだ!』、と。
  怖懅(ふご):おそれる。
  惶怖(おうふ):おそれる。
羅睺羅爾時說偈答曰
 世尊以偈而敕我 
 我不放月頭七分 
 設得生活不安隱 
 以故我今放此月
羅睺羅の爾の時偈を説いて答えて曰わく、
世尊は偈を以って、我れに勅したまえり、
我れ月を放たずば、頭七分して、
設(たと)い生活を得とも安隠ならざらん、
以っての故に我れは今此の月を放てり。
『羅睺羅』は、
爾の時、
『偈』を説いて、こう答えた、――
『世尊』は、
『偈』を以って、
わたしに、
『命じられた!』。
若し、
わたしが、
『月』を、
『放たなければ!』、
わたしの、
『頭』は、
『七つ!』に、
『割れるだろう!』、
設(たと)い、
『生活できた!』としても、
『安隠ではあるまい!』。
是の故に、
わたしは、
今、
『此の月』を、
『放つのだ!』、と。
婆梨阿修羅王說偈
 諸佛甚難值  久遠乃出世 
 說此清淨偈  羅睺即放月
婆梨阿修羅王の偈を説かく、
諸仏には甚だ値い難し、久遠にして乃ち世に出づと、
此の清浄の偈を説きて、羅睺は即ち月を放てり。
『婆梨阿修羅王』は、
その様子を、
『偈』に、こう説いた、――
諸の、
『仏』には、
『甚だ!』、
『値()い難い!』、
久遠にして、
ようやく、
『世』に、
『出られるのだから!』と、
此の、
『清浄な!』、
『偈』を、
『説きながら!』、
『羅睺』は、
『月』を、
『放ってやった!』、と。
問曰。何以不說地獄畜生餓鬼。 問うて曰く、何を以ってか、地獄、畜生、餓鬼を説かざる。
問い、
何故、
『地獄』や、
『畜生』や、
『餓鬼』を、
『説かないのですか?』。
答曰。地獄大苦心亂不能受法。畜生愚癡覆心不能受化。餓鬼為飢渴火燒身故不得受法。 答えて曰く、地獄は大苦に心乱れて、法を受くる能わず。畜生は愚癡に心を覆われて、化を受くる能わず。餓鬼は飢渴の火に身を焼かるるが故に、法を受くるを得ず。
答え、
『地獄』は、
『大苦』に、
『心』が、
『乱れる!』ので、
『法』を、
『受ける!』だけの、
『力がない!』。
『畜生』は、
『愚癡』が、
『心』を、
『覆っている!』ので、
『化』を、
『受ける!』だけの、
『力がない!』。
『餓鬼』は、
『飢渴の火』に、
『身』を、
『焼かれる!』ので、
『法』を、
『受ける!』、
『機会がない!』。
復次畜生餓鬼中。少多有來聽法者。生福德心而已不堪受道。是故不說。 復た次ぎに、畜生、餓鬼中にも、少多の来て法を聴く者有りて、福徳の心を生ずるのみにして、道を受くるに堪えず。是の故に説かず。
復た次ぎに、
『畜生』や、
『餓鬼』中にも、
『来て!』、
『法』を、
『聴く!』者が、
『少しは!』、
『有る!』が、
『福徳』の、
『心』を、
『生じるだけで!』、
『道』を、
『受ける!』には、
『堪えられない!』ので、
是の故に、
『説かない!』。
問曰。若爾者揵闥婆阿修羅亦不應說。何以故。鬼神道中已攝故。 問うて曰く、若し爾らば、揵闥婆、阿修羅も、亦た応に説くべからず。何を以っての故に、鬼神道中に已に摂するが故なり。
問い、
若し、
そうならば、
『揵闥婆』や、
『阿修羅』も、
当然、
『説くべきではない!』。
何故ならば、
『鬼神道』中に、
已に、
『含まれている!』からである。
  鬼神(きじん):鬼を六趣の一となし、神を八部の通称と為す。威有るを鬼と云い、能有るを神と云う。「金光明経文句巻6」に、「鬼とは威なり、能く他をしてその威を畏れしむるなり。神とは能なり、大力の者は能く山を移し海を填め、小力の者は能く隠顕変化す」と云い、「金光明経巻3」には「鬼神品」と云い、「最勝王経巻9」には「諸天藥叉護持品」と云えるが如く、諸天藥叉yakSaの類は即ち鬼神なり。「釈摩訶衍論」に、「鬼并びに及び神、云何が差別す、身を障うるを鬼とし、心を障うるを神とす」と云い、また「長阿含経巻20」に、「仏の比丘に告ぐらく、一切の人民所居の舎宅に、皆鬼神有りて、空なる者の有ること無し。(中略)凡そ諸鬼神は、皆所依に随い、即ち以って名と為す。人に依るを人と名づけ、村に依るを村と名づけ、(中略)河に依るを河と名づくと。仏の比丘に告ぐらく、一切の樹木は極小なること車軸の如き者も、皆鬼神の依止有り、空なる者の有ること無し。一切の男子女子は初始めて生まれし時より、皆逐神有りて、随逐し擁護す、もしその死の時、彼の守護鬼はその精気を取り、その人は則ち死す」と云えるが如きものも、即ち鬼神なるべし。<(丁)『大智度論巻25下注:夜叉』参照。
答曰。佛不說攝。今何以言攝。此是迦旃延子等說。 答えて曰く、仏は摂すと説きたまわず。今は何を以ってか、摂すと言う。此れは是れ迦旃延子等の説なり。
答え、
『仏』が、
『含まれる!』と、
『説かれない!』のに、
今は、
何故、
『含まれている!』と、
『言うのか?』。
此の、
『説』は、
『迦旃延子』等の、
『説である!』。
  迦旃延子(かせんねんし):梵名kaatyaayani- putra、 また迦旃延、摩訶迦旃延等と称す。仏の十大弟子の一、論議第一。「阿毘曇八揵度論」、「阿毘達磨発智論」の著者。『大智度論巻2上注:摩訶迦旃延』参照。
如阿修羅力與天等。或時戰鬥勝天。揵闥婆是諸天伎。與天同受福樂。有智慧能別好醜。何以不得受道法。 阿修羅の力は、天と等しく、或いは時に戦闘して天に勝てり。揵闥婆は、是れ諸天の伎にして、天と同じく福楽を受け、智慧有りて、能く好醜を別つ。何を以ってか、道法を受くるを得ざる。
『阿修羅』は、
『力』が、
『天』と、
『等しい!』ので、
或いは、
『時として!』、
『戦闘すれば!』、
『天』に、
『勝つこともある!』。
『揵闥婆』は、
諸の、
『天』の、
『伎(楽人)として!』、
『天』と、
『同じように!』、
『福楽』を、
『受け!』、
『智慧』が、
『有って!』、
『好醜』を、
『分別することができる!』、
何故、
『道』の、
『法』を、
『受けられない!』と、
『思うのか?』。
如雜阿含天品中說。富那婆藪鬼神母。佛遊行宿其處。 『雑阿含天品』中に説くが如し、富那婆数なる鬼神母あり、仏、遊行して、其の処に宿りたまえり。
『雑阿含天品』中に、こう説く通りである、――
『富那婆数』という、
『鬼神』の、
『母がいた!』が、
『仏』は、
『遊行して!』、
其の、
『家』に、
『宿られた!』。
  富那婆数(ふなばす):梵名punarvasu、 また富那婆修、富那婆蘇に作り、星の名なり、唐に弗宿と云うべし。これを仮りて鬼神の名とす。「宝星陀羅尼経巻4」には「富那婆蘇(唐に弗宿と言う)星に生ずる者は、左脅下に於いて、まさに黒疵有れば、財穀具足すれども智慧少し」と云えり。
  参考:『雑阿含経巻49(1322)』:『如是我聞。一時。佛在摩竭提國人間遊行。與大眾俱。到富那婆藪鬼子母住處宿。爾時。世尊為諸比丘說四聖諦相應法。所謂苦聖諦.苦集聖諦.苦滅聖諦.苦滅道跡聖諦。爾時。富那婆藪鬼母。兒富那婆藪及鬼女鬱多羅。二鬼小兒夜啼。時。富那婆藪鬼母教其男女故。而說偈言 汝富那婆藪  鬱多羅莫啼  令我得聽聞  如來所說法  非父母能令  其子解脫苦  聞如來說法  其苦得解脫  世人隨愛欲  為眾苦所迫  如來為說法  令破壞生死  我今欲聞法  汝等當默然  時富那婆藪  鬼女鬱多羅  悉受其母語  默然而靜聽  語母言善哉  我亦樂聞法  此正覺世尊  於摩竭勝山  為諸眾生類  演說脫苦法  說苦及苦因  苦滅滅苦道  從此四聖諦  安隱趣涅槃  母今但善聽  世尊所說法  時。富那婆藪鬼母即說偈言 奇哉智慧子  善能隨我心  汝富那婆藪  善歎佛導師  汝富那婆藪  及汝鬱多羅  當生隨喜心  我已見聖諦  時。富那婆藪鬼母說是偈時。鬼子男女隨喜默然』
爾時世尊說上妙法甘露。女男二人啼泣。母為說偈止之
 汝鬱怛羅勿作聲 
 富那婆藪亦莫啼 
 我今聞法得道證 
 汝亦當得必如我
以是事故知。鬼神中有得道者。
爾の時、世尊は上妙の法の甘露なるを説きたもうに、女、男二人、啼泣せり。母は為めに偈を説いて、之を止む、
汝鬱怛羅よ声を作す勿(な)かれ、
富那婆数も亦た啼(な)かず、
我れは今法を聞きて道の証を得たり、
汝も亦た当に必ず我が如きを得べし。
是の事を以っての故に知る、鬼神中にも道を得る者有るを。
爾の時、
『世尊』が、
『上妙の法』の、
『甘露』を、
『説かれる!』と、
『富那婆数』の、
『女(むすめ)』と、
『男(むすこ)』との、
『二人』が、
『声を挙げて!』、
『泣き出した!』。
『母』は、
『二人』の為めに、
『偈』を、
『説いて!』、
『泣く!』のを、
『止めさせた!』、――
お前!
鬱怛羅よ!
『声』を、
『あげるな!』。
富那婆数も、
『泣く!』のを、
『止めた!』。
わたしは、
今、
『法』を、
『聞いて!』、
はっきりと、
『道』を、
『理解した!』。
お前も、
きっと、
『わたしのように!』、
『理解するだろう!』、と。
是の、
『事』の故に、
こう知ることができる、――
『鬼神』中にも、
『道』を、
『得る!』者が、
『有るのだ!』、と。
  女男(にょなん):娘と息子。
  啼泣(たいきゅう):涙を流し声を挙げて泣きつづける。
  鬱怛羅(うったら):鬼神の名。梵名uttara 、上位、高級(upper、superior)等の義。
復次摩訶衍中。密跡金剛力士於諸菩薩中勝。何況餘人。如屯崙摩甄陀羅王揵闥婆王。至佛所彈琴讚佛。三千世界皆為震動。乃至摩訶迦葉不安其坐。如此人等云何不能得道。 復た次ぎに、摩訶衍中には、密迹金剛力士は、諸の菩薩中に於いて勝れり。何に況んや、余人をや。屯崙摩の如き、甄陀羅王、揵闥婆王は、仏所に至りて、琴を弾じて仏を讃うるに、三千世界は、皆為めに震動すれば、乃至摩訶迦葉も、其の坐に安んぜず。此の人等の如き、云何が道を得る能わざらん。
復た次ぎに、
『摩訶衍』中には、
『密迹金剛力士』は、
諸の、
『菩薩』中に、
『勝れている!』。
況して、
『他の人』は、
『言うまでもない!』。
『屯崙摩(童籠磨)』などの、
『甄陀羅王』や、
『揵闥婆王』が、
『仏の所』に、
『至って!』、
『琴を弾じながら!』、
『仏を讃える!』と、
『三千世界』が、
皆、
『震動させられる!』ので、
『摩訶迦葉』のような、
『阿羅漢』までが、
其の、
『坐』に、
『安んじていられない!』。
此の、
『屯崙摩』等を、
何故、こう言うのか?――
『道』を、
『得る!』だけの、
『力がない!』と。
  密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし):梵名guhyapaada- vajra- saNDa、 即ち仏法を守護する夜叉神なり。また執金剛神、密迹金剛、金剛力士等に作る。
  屯崙摩(とんろんま):梵名druma、 甄陀羅王の名。「大智度論巻10」に、「屯崙摩甄陀羅王、乾闥婆王は、仏の所に至り、琴を弾いて仏を讃ず」と云えり。『大智度論巻10下注:童籠磨』参照。
如諸阿修羅王龍王。皆到佛所問佛深法。佛隨其問而答深義何以言不能得道。 諸の阿修羅王、龍王の如きは、皆、仏所に到りて、仏に深法を問い、仏は其の問に随いて、深義を答えたもう。何を以ってか、道を得る能わずと言う。
諸の、
『阿修羅王』や、
『龍王』などは、
皆、
『仏の所』に、
到って、
『仏』に、
『深い!』、
『法』を、
『問う!』と、
『仏』は、
其の、
『問う!』に、
『随って!』、
『深い!』、
『義』を、
『答えられる!』。
何故、
こう言うのか?――
『道』を、
『得る!』だけの、
『力がない!』、と。
問曰。於五道眾生中。佛是天人師不說三惡道。以其無福無受道分故。是諸龍鬼皆墮惡道中。 問うて曰く、五道の衆生中に於いて、仏は是れ天人の師にして、三悪道を説きたまわず。其の福無く、道を受くる分の無きを以っての故に、是の諸の龍、鬼は、皆悪道中に墮つればなり。
問い、
『天、人、餓鬼、畜生、地獄』の、
『五道』の、
『衆生』中に於いて、
『仏』は、
『天』と、
『人』との、
『師である!』から、
『餓鬼』、
『畜生』、
『地獄』の、
『三悪道』を、
『説かれなかったのだ!』。
『三悪道』の、
『衆生』は、
其の、
『福』が、
『無く!』、
『道』を、
『受ける!』為めの、
『福』の、
『分』も、
『無い!』が故に、
是の、
諸の、
『龍』や、
『鬼』は、
皆、
『悪道』中に、
『堕ちている!』からである。
答曰。佛亦不分明說五道。說五道者是一切有部僧所說。婆蹉弗妒路部僧說有六道。 答えて曰く、仏は、亦た分明に五道を説きたまわず。五道を説く者は、是れ一切有部の僧の所説なり。婆蹉弗妒路部の僧は、六道有りと説けり。
答え、
『仏』は、
そもそも、
『五道』を、
『明らかには!』、
『分けて!』、
『説かれなかった!』。
『五道』の、
『説』は、
『一切有部』の、
『僧』の、
『説いた!』所であり、
『婆蹉弗妒路部(犢子部)』の、
『僧』は、
『六道』が、
『有る!』と、
『説いている!』。
  一切有部(いっさいうぶ):小乗部派中、最も有力な一派の名。『大智度論巻1上注:説一切有部』参照。
  婆蹉弗妒路(ばしゃふとろ):梵名vatsiputriiya、 また婆蹉富多羅等に作り、犢子部と訳し、小乗二十部の一。仏滅後二百年頃、説一切有部より派生せる小乗の一派なり。外道の如く実我を立つるにより小乗外道、内外道となす。『大智度論巻21下注:犢子部』参照。
復次應有六道。何以故。三惡道一向是罪處。若福多罪少。是名阿修羅揵闥婆等生處應別。以是故應言六道。 復た次ぎに、応に六道有るべし。何を以っての故に、三悪道は、一向に是れ罪処なればなり。若し福多く、罪少きは、是れを阿修羅、揵闥婆等と名づくれば、生処は応に別なるべし。是を以っての故に、応に六道と言うべし。
復た次ぎに、
当然、
『六道』が、
『有るはず!』である。
何故ならば、
『三悪道』とは、
『一向に(もっぱら)!』、
『罪報』の、
『処だから!』である。
若し、
『福』が、
『多く!』、
『罪』の、
『少ない!』者を、
是れを、
『阿修羅』とか、
『揵闥婆』と、
『呼ぶ!』とすれば、
『生まれる!』、
『処』も、
『別でなくてはならない!』。
是の故に、
『六道』と、
『言うべき!』である。
復次三惡道亦有受道。福少故言無。及諸菩薩紹尊位者如先說
大智度論卷第十
復た次ぎに、三悪道も、亦た道を受くる有り。福少なきが故に、無しと言う。及び諸の菩薩の尊位を紹ぐ者は、先に説けるが如し。
大智度論巻第十
復た次ぎに、
『三悪道』にも、
『道』を、
『受ける!』者が、
『有る!』が、
『道』を、
『受ける!』為めの、
『福』が、
『少ない!』が故に、
こう言うのである、――
『無い!』、と。
及び、
諸の、
『菩薩』の、
『尊位』を、
『紹ぐ!』者とは、――
先に、
『説いた通り!』である。

大智度論巻第十


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