巻第十(上)
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大智度初品中十方菩薩來釋論第十五之餘(卷第十)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


宝積仏、普明に因縁を説く

【經】寶積佛報普明言。善男子。西方度如恒河沙等世界。有世界名娑婆。是中有佛。號釋迦牟尼。今現在欲為諸菩薩摩訶薩說般若波羅蜜。是其神力。 宝積仏の普明に報(こた)えて言わく、『善男子、西方に恒河沙に等しきが如き世界を度(わた)りて、世界有り、娑婆と名づく。是の中に仏有り、釈迦牟尼と号し、今現在、諸の菩薩摩訶薩の為めに、般若波羅蜜を説かんと欲す。是れ其の神力なり』、と。
『宝積仏』は、
『普明』に答えて、こう言われた、――
善男子!
『西方』の、
『恒河沙』ほどの、
『世界』を、
『渡った!』、
『処』に、
『娑婆』をいう、
『世界』が、
『有る!』、
是の中に、
『釈迦牟尼』という、
『仏』が、
『有って!』、
今現在、
諸の、
『菩薩摩訶薩』の為めに、
『般若波羅蜜』を、
『説いている!』が、
是れは、
其の、
『神力である!』、と。
  娑婆(しゃば):梵名sahaa 、又はsabhaa 、又沙訶、沙呵、娑呵、索訶、沙捊、沙桴等に作る。堪忍、忍、能忍、雑会、雑悪、或は恐畏等と訳す。又具さに沙訶楼陀 sahaa- loka- dhaatu と云う。楼陀は世界の義なり。即ち釈尊所化の土たる此の世界を云う。「如来独証自誓三昧経」に、「仏土あり、名づけて沙呵と曰う。(漢に忍界と言う)其の仏を能仁如来無所著至真過四道不受平等覚と名づく。法律神足仏言を以って教えて仏事を作さしむ」と云い、「放光般若経巻1」に、「西方極遠に世界あり、沙訶と名づく。其の仏を釈迦文と号す、今現在にして諸の菩薩の為めに般若波羅蜜を説く」と云い、「阿弥陀経」に、「釈迦牟尼仏は能く甚難希有の事を為し、能く娑婆国土の五濁悪世の劫濁見濁煩悩濁業障濁命濁の中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為めに是の一切世間難信の法を説く」と云い、又「悲華経巻5」に、「此の仏の世界を娑婆と名づくべし、何の因縁の故に名づけて娑婆と曰うや。是の諸の衆生は三毒及び諸の煩悩を忍受す、是の故に彼の界を名づけて忍土と曰う」と云える是れなり。是れ皆釈尊出現の世界を娑婆と名づくるの意にして、恐らくは元と閻浮提、又は一四天下の称呼として用いられたるものなるべし。然るに「大智度論巻4」、「瑜伽師地論巻38」等に、一仏は一の三千大千世界を以って其の所化の土となすと説くに及び、娑婆は遂に百億須弥山世界の総称たるに至れり。「大唐西域記巻1」に、「索訶世界三千大千国土は一仏の化摂たるなり。今一の日月の照臨する所の四天下は三千大千世界の中に拠る。諸仏世尊は皆此に垂化し、生を現じ滅を現じて聖を導き凡を導く」と云える即ち其の意なり。又娑婆は梵天所領の世界として考察せられ、「法華経巻1序品」には、「娑婆世界の主梵天王、尸棄大梵、光明大梵等、其の眷属万二千の天子と倶なり」と云い、「大般若経巻570現相品」に、「堪忍界の主たる持髻梵王」と云い、又「瑜伽師地論巻37」に、「索訶界の主大梵天王は自然に来下し、慇懃に世間を哀愍して正法を宣説せんことを勧請す」と云えり。是れ梵天創造説に基づき、梵天を以って此の世界の主となすに至りしものなるべし。娑婆の語義に関しては、「法華義疏巻2」に、「娑婆世界は此に雑悪と云い、亦た雑会と云う」と云い、「法華経文句巻2下」に、「娑婆は此に忍と翻ず。其の土の衆生は十悪に安んじて出離を肯んぜず、人に従って土に名づくるが故に称して忍となす。(中略)亦雑雑と名づく、九道雑りて共居すればなり」と云い、又「玄応音義巻3」に、「沙訶は又娑訶楼陀と云い、或は娑婆と云う皆訛なり。正しくは索訶と云う、此に能忍と云い、或は堪忍と言う。一に雑会世界と云う」と云い、「慧琳音義巻27」には、「娑婆は索訶なり、唐に堪忍と云う。怨嫉多きも聖者は中に於いて労倦を堪耐して、而も教化を行ずるが故に堪忍と名づくるなり」と云えり。之に依るに娑婆の訳語には古来堪忍及び雑会の両説ありしを見るべし。就中、堪忍は梵語 sahaa の訳語にして、此の語は、「忍ぶ」又は「堪う」の義なる動詞sahより来たれる女性名詞なれば、其の訳は即ち当れりというべし。雑会は梵語 sabhaa の訳語なるが如く、此の語には集会等の義あるが故に、雑会又は雑雑と訳したるものなるべし。「如来独証自誓三昧経」、「放光般若経」等の古経に沙呵の音訳を挙げ、又忍等の訳語を出せるは其の原語がsahaa なりしことを証するものというべく、又「法華経」等に娑婆の音訳を挙げ、又其の注疏に雑会等の訳語を出せるは、恐らく当時の原本には sabhaa の字を有せしが為めなるべし。「修行本起経巻上」に、沙桴は漢に恐畏国土と言うとあり。恐畏は梵語 bhaya の訳なるべく、而して今沙桴と音写せるに依れば、其の原音は恐らく sabhaya (畏あるの意)なるべしと推せらる。語尾の ya は往往省略せらるることあれば、(随宜説と訳せらるる saMdhaabhaaSya なる語が saMdhaaya- bhaaaSya の略せられたるなるが如く)今 sabhaa、 若しくは sabhaをsabhaya と同視して恐畏と訳したるものと見るを得べし。若し然りとすればsabhaaなる語も古くより用いられたるものとせざるべからず。「悉曇要訣巻3」に、「問う、娑婆世界とは梵にsahaに作り、此に堪忍と云う。所以に新訳に娑訶と云い、或は索訶と云う。此の音正なるべし。此の界の主を法華経、阿弥陀経の梵本に倶にsahaaMpatiiと云い、宝積に娑含鉢底と云い、翻梵語に娑の呼は能忍、鉢底は主なりと云い、楞伽阿跋多羅宝経に、娑呵世界は沙訶は訳して能忍と言うと云い、中陰経に娑呵世界と云い、放光経2に娑訶世界と云えり。娑婆の音は相叶わざるに似たり、豈に古訳の大謬に非ずや。答う、娑婆と言うはsabhaに作るべし、sahaに作り乍ら而も娑婆の音を呼ぶに非ず。何ぞ必ずしも謬と云わんや。二義あるべし、一にはha、 bha の二字は字形相近し、書写の人謬りて書する歟。此の一條のみに非ず、諸の相似の字は多分互用す。(中略)二にはsa 字を本となし字を加えて堪忍の義を成ず、加うる所の字同じからざるも堪忍の義は違することなし。 sah は是れ忍の義なり。(中略)若し前代方言未だ融せず、伝訳に謬ありと言わば、天竺の三蔵は梵字に謬り叶うべからず。但だ漢語の謬なるべし。何ぞ同じく堪忍と云わんや。若し中国の正音に達せずと云わば、前代に豈に中天の三蔵なからんや」と云えり。是れ亦索訶sahaa の外に娑婆sabhaa なる語ありとし、旧訳家は後者に依りしものなるが故に、必ずしも之を誤謬となすべからざるを説けるものなり。蓋し娑婆は五濁の世界にして、其の中の衆生は剛強難化なりと雖も、而も之を化度することによりて菩薩の大行を成ずることを得るが故に、一面より言わば菩薩の好個の修行場となすべし。「維摩経巻下香積仏品」に、「此の娑婆世界に十事の善法あり、諸余の浄土に有ることなき所なり。何等をか十となす、布施を以って貧窮を摂し、浄戒を用って毀禁を摂し、忍辱を以って瞋恚を摂し、精進を以って懈怠を摂し、禅定を以って乱意を摂し、智慧を以って愚癡を摂し、除難の法を説きて八難の者を度し、大乗の法を以って小乗を楽う者を度し、諸の善根を以って無徳の者を済い、常に四摂を以って衆生を成就す。是れを十となす」と云い、又「無量寿経巻下」に、「此に於いて善を修すること十日十夜すれば、他方諸仏の国中に於いて善をなすこと千歳なるに勝れり」と云える如き皆其の意を説けるものなり。又「大般泥洹経巻1」、「大品般若経巻1」、「楞伽阿跋多羅宝経巻4」、「旧華厳経巻29」、「大孔雀明王経巻下」、「有部毘奈耶破僧事巻10」、「翻梵語巻8」、「華厳経探玄記巻4」、「希麟音義巻9」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
【論】問曰。佛譬如須彌山不為大海水波所動。今何以答普明。是則動相攝心則無語。散心則有說。說法從覺觀生。覺觀麤事。佛不應有此麤事 問うて曰く、仏は、譬えば須弥山の、大海の水波に動かされざるが如し。今は、何を以ってか、普明に答えたもう。是れ則ち動相なり。心を摂すれば、則ち語無く、心を散ずれば、則ち説有り。説法は、覚観より生じ、覚観は麁事なり。仏は、応に此の麁事有るべからず。
問い、
『仏』は、
譬えるならば、――
『須弥山』が、
『大海』の、
『波浪』にも、
『動かされない!』ようなものです。
『仏』は、
今、
何故、
『普明』に、
『答えられた!』のですか?
是れは、
『動き!』の、
『相です!』。
『心』を、
『摂する(とりしまる)!』者には、
『語る!』ことが、
『無く!』、
『心』を、
『散ずる!』者に、
『説く!』ことが、
『有る!』のです。
『法』を、
『説く!』とは、
『覚(感覚)』とか、
『観(観察)』という、
『疎略』の、
『事』より、
『生じます!』が、
『仏』に、
此のような、
『疎略』の、
『事』の、
『有るはずがありません!』。
  水波(すいは):なみ。波浪。
  覚観(かくかん):覚と観との総称。覚は梵語vitarka の訳。事理に対する粗略の思考を云う。 観は梵語vicaara の訳。即ち細なる心の思考にして、諸法の名義等を思惟する精神作用なり。『大智度論巻17下注:覚、観』参照。
答曰。佛雖入深禪定。不為世事所動。今以大慈悲心憐愍眾生。為之說法斷疑。 答えて曰く、仏は、深き禅定に入りて、世事に動かされずと雖も、今は、大慈悲の心を以って、衆生を憐愍し、之が為に法を説きて、疑を断じたもう。
答え、
『仏』は、
『深い!』、
『禅定』に、
『入られている!』ので、
『世』の、
『事』には、
『動かされない!』が、
今は、
『大きな!』、
『慈悲』の、
『心』で、
『衆生』を、
『憐愍し!』、
『法』を、
『説いて!』、
『衆生』の、
『疑』を、
『断じられる!』のである。
如須彌山王小風則不能動。若隨藍風至則大動散。佛亦如是有大慈悲風來憐愍心動。散身無數入五道教化眾生。或作天身乃至畜生。 須弥山王の小風なれば、則ち動かす能わざるも、若し随藍の風至らば、則ち大いに動散するが如し。仏も亦た是の如く、大慈悲の風来たらば、憐愍の心の動じて、身を無数に散じて、五道に入り、衆生を教化したもうこと有れば、或いは天の身、乃至畜生と作りたもう。
『須弥山王』は、
『小さな!』、
『風』では、
『動かすことができない!』が、
若し、
『随藍(台風)』という、
『風』が、
『来れば!』、
『大いに!』、
『動いたり!』、
『散じたりする!』ように、
『仏』も、
是のように、
有る、
『大慈悲』という、
『風』が、
『来れば!』、
『憐愍』の、
『心』が、
『動き!』、
『身』を、
『無数』に
『散じて!』、
『五道』に、
『入って!』、
『五道』の、
『衆生』を、
『教化される!』、
或いは、
『天』の、
『身』と、
『作り!』、
乃至、
『畜生』の、
『身』と、
『作られる!』のである。
  随嵐(ずいらん):梵語vairambhaka、大風、暴風と訳す。『大智度論巻4(下)注:随藍』参照。
復次佛實不動常入禪定。先世福德因緣故。身邊出聲應物如響。如天伎樂自然發聲。 復た次ぎに、仏は、実に動かず、常に禅定に入りたもうも、先世の福徳の因縁の故に、身辺より声を出して、物に応ずること響の如く、天の伎楽の自然に声を発すが如し。
復た次ぎに、
『仏』は、
実には、
『動かれず!』、
常に、
『禅定』に、
『入っていられる!』が、
『先世』の、
『福徳』の、
『因縁』の故に、
『身』の、
『辺』より、
『声』が
『出て!』、
『響(こだま)』のように、
『物()』に、
『応じる!』。
譬えば、
『天』の、
『伎楽(音楽)』が、
『自然』に、
『声()』を、
『発する!』のと、
『同じである!』。
又如摩尼珠隨人所欲種種與之。若欲衣被飲食音樂。自恣所須自然皆得。佛亦如是。從其身邊諸毛孔中。自然有聲隨心說法。是中佛無憶想亦無分別。 又、摩尼珠の、人の欲する所に随うて、種種に之を与えて、若し衣服、飲食、音楽を欲すれば、自らの恣(ほしいまま)に、須(もと)むる所を、自然に皆得るが如し。仏も亦た是の如く、其の身辺の諸の毛孔中より、自然に声有りて、心に随うて、法を説くも、是の中の仏には、憶想無く、亦た分別無し。
又、
『摩尼珠』などは、
『人』の、
『欲する!』所に、
『随って!』、
種種に、
此の、
『欲する!』所を、
『与える!』ので、
若し、
『衣服』、
『飲食』、
『音楽』を、
『欲した!』としても、
恣(ほしいまま)に、
『自ら!』の、
『須(もと)める』所が、
皆、
『自然に!』、
『得られる!』のであるが、
『仏』も、
是のように、
其の、
『身の辺』の、
諸の、
『毛孔』中より、
『自然』に、
『声』が、
『有って!』、
『心』に、
『随って!』、
『法』を、
『説く!』のであるが、
是の中の、
『仏』には、
『憶想する!』ことも、
『無く!』、
亦た、
『分別する!』ことも、
『無い!』。
  摩尼(まに):梵語maNi、 訳して珠、宝珠と作す、珠玉の総称なるも、一般の伝説に依れば、摩尼には、災難、疾病を消除し、及び濁水を澄清にし、水色を改変する徳有り。また梵語cintaa-maNi、 音訳して真陀摩尼、振多摩尼、震多摩尼と為し、意訳して如意宝、如意珠に作り、また如意摩尼、摩尼宝珠、末尼宝、無価宝珠に作る。凡そ所求有らば、この珠は皆よくこれを出すの意にして、故に如意宝珠と称す。或は摩尼は摩竭魚の脳中より取り出す所なりと云い、或は帝釈天所持物の砕け落ちて来たるなりと云い、また仏舎利の所変なりと云えり。また千手観音の四十手中、右手に即ち日精摩尼を持し、左手に則ち月精摩尼を持す。日精摩尼は、また日摩尼に作り、自然に光熱を発出し照明すべき摩尼と為し、月精摩尼は、また月光摩尼、明月摩尼、明月真珠、月愛珠に作り、人の熱悩を除き、清涼を予うべしと為す。経論中には諸種の摩尼有り、即ち「大毘婆沙論巻102」には、末尼宝には光明末尼、清水末尼、方等末尼、無価末尼、如意珠等の五種を挙げ、「旧華厳経巻47」には、青琉璃摩尼、夜光摩尼、日蔵摩尼、月幢摩尼、妙蔵摩尼、大灯摩尼等を挙げ、「大方等大集経巻47」には、帝釈毘楞伽摩尼、諸天登祚所著摩尼、梵天光幢摩尼、梵天艶光摩尼等を挙ぐ。また「遺日摩尼経」、「北本大般涅槃経巻12」、「大品般若経巻10」、「旧華厳経巻59」、「起世経巻2転輪聖王品」、「大智度論巻59」、「慧琳音義巻27」等に出づ。<(望)
如說密跡金剛經中。佛有三密。身密語密意密。一切諸天人皆不解不知。 密跡金剛経中に説くが如く、仏には三密の身密、語密、意密有るも、一切の諸の天、人は皆解せず、知らず。
例えば、
『密跡金剛経』中に、
こう説く通りである、――
『仏』には、
『三つ!』の、
『秘密』の、
『業』が、
『有り!』、
謂わゆる、
『身密』と、
『語密』と、
『意密』とである!が、
一切の、
諸の、
『天、人』は、
皆、
『解らない!』し、
『知らない!』。
  三密(さんみつ):梵語triiNi guhyaaniの訳語。秘密の三業の意。即ち一に身密kaaya-guhya、二に口密vaag-guhya、三に意密mano-guhyaを云う。口密はまた語密とも称し、意密はまた心密とも称す。これに顕教、密教それぞれの解釈あり。(一)凡そ顕教に説く所とは、凡慮の測得する能わざる仏の三業を称して、三密と為す。「大智度論巻10」に依れば、身密とは如来は大会中に処すに、衆の仏の身色及び身長を見ること不同にして、即ち大神変を現わすに至るまで、皆不可思議なり。語密とは仏の法を説く時、或は一里、或は十里、或は百千万里の外に皆仏の音声を聞くを得、また同一の会の中に於いて、或は布施を説くを聞き、或は持戒を説くを聞く等、各各心に随うて聞く所は、皆不可思議なり。意密とは仏は常に寂定に処すも、凡夫の思惟観察する所は皆不可思議なり。(二)密教に於いては、仏の三業を以って体、相、用三大中の用大(真如の作用)に属し、その作用は甚深微細にして凡慮の及ばざる所と為し、等覚十地もまた見聞する能わず、故に三密と称し、衆生の三業と相応してよく不思議の業用を成就す。衆生の三業はただ仏の三業に契合するのみに非ずして、且つその中に於いて含摂し、また衆生心中に隠秘する本性は仏の三密に同ず、即ち衆生の三業の実相は皆これ六大法性の作用にして、仏の三業と相を同じうす、故にまた三密と称す。衆生の三密中、行者の手を本尊の印契と作すより、乃に行、住、坐、臥等に至る一切の事業は皆身密と称し、行者の口に真言を誦すより、乃ち一切の語言等の口業に至るまで、皆語密と称し、行者の心に本尊を観るより、乃ち随事の起念に至る一切の事業は、皆身密と称す。衆生の三業の仏の三密に相応することを称して三密用大と為し、六大体大、四曼相大と合して三大と称す。また「大宝積経巻10金剛力士会」、「金剛頂瑜伽中略出念誦経巻1」、「菩提心論」、「大日経疏巻1」等に出づ。<(佛)
  参考:『大宝積経巻10密迹金剛力士会第三之三』:『密跡力士謂寂意曰。諦聽諦聽善思念之。今當敷演如來祕要。有三事。何謂為三。一曰身密。二曰口密。三曰意密何謂身密。如來於斯無所思想。亦不惟念。普現一切威儀禮節。或有諸天人民。自喜經行。見睹如來經行之時。諸天人民心自念言。世尊為上。斯等逮見如來身密。佛之所念亦不思望。一切眾生睹見如來至真妙德威儀。若諸天人喜坐。見如來坐。若諸天人喜臥。見如來臥。若喜聽經見如來說經。若喜寂靜見如來默然。若喜禪思見如來三昧。若天人民目視不眴者。見如來目未曾眴。若意自在有喜光者。便見如來光無所閡。喜紫金色者。亦見紫磨金色。‥‥』
有一會眾生。或見佛身黃金色白銀色諸雜寶色。有人見佛身一丈六尺。或見一里十里百千萬億乃至無邊無量遍虛空中。如是等名身密。 有る一会の衆生の、或いは仏身を見ること、黄金色、白銀色、諸の雑宝色なりと。有る人は、仏身を一丈六尺なりと見、或いは一里、十里、百千万億、乃至無辺無量にして、虚空中に遍しと見る。是の如き等を身密と名づく。
『身密』とは、――
有る、
『一つ!』の、
『会』の、
『衆生』でも、
『仏』の、
『身』を、
或いは、
『黄金の色だ!』とか、
『白銀の色だ!』とか、
『諸の雑宝の色だ!』と、
『見たり!』、
有る人は、
『仏』の、
『身』を、
『一丈六尺だ!』と、
『見たり!』、
或いは、
『一里だ!』、
『十里だ!』、
『百千万億、乃至無辺無量だ!』、
『虚空中に遍く満ちる!』と、
『見る!』。
是れ等を、
『秘密』の、
『身』の、
『業である!』という。
語密者。有人聞佛聲一里。有聞十里百千萬億無數無量遍虛空中。有一會中或聞說布施。或有聞說持戒。或聞說忍辱精進禪定智慧。如是乃至十二部經。八萬法聚。各各隨心所聞是名語密。 語密とは、有る人は、仏の声を一里と聞き、有るいは十里、百千万億、無数無量、虚空中に遍しと聞き、有る一会中は、布施を説くを聞き、或いは有るは持戒を説くを聞き、或いは忍辱、精進、禅定、智慧を説くを聞き、是の如く乃至十二部経の八万法聚を、各各心に随って聞く所を、是れを語密と名づく。
『語密』とは、――
有る人は、
『仏』の、
『声』が、
『一里』、
『先に!』、
『聞こえ!』、
或いは、
『十里』の、
『百千万億』、
『無数無量』、
『遍く虚空中に満ちる!』と、
『聞こえる!』。
有る、
『一つ!』の、
『会』中でも、
或いは、
『布施』を、
『説いている!』と、
『聞こえたり!』、
或いは、
『持戒』を、
『説いている!』と、
『聞こえたり!』、
或いは、
『忍辱』、
『精進』、
『禅定』、
『智慧』、
是のような、
乃至、
『十二部経』、
『八万法聚』まで、
『心』に、
『随って!』、
『聞こえたりする!』所、
是れ等を、
『秘密』の、
『語』の、
『業である!』という。
是時目連心念。欲知佛聲近遠。即時以己神足力。至無量千萬億佛世界而息。聞佛音聲如近不異。所息世界其佛與大眾方食。 是の時、目連の心に念ずらく、『仏の声の近遠を知らんと欲す』、と。即時に、己の神足の力を以って、無量千万億の仏の世界に至りて息(やす)み、仏の音声を聞けば、近きが如くして異ならず。息む所の世界の其の仏、大衆と与(とも)に、方に食したもう。
是の時、
『目連』は、
『心』に、
こう念じた、――
『知りたいものだ!』、――
いったい、
『仏の声』は、
『近いのか?』、
『遠いのか?』と。
即時に、
『神足』の、
『力』で、
『無量千万億』の、
『仏』の、
『世界』を、
『渡る!』と、
『息(やす)んで!』、
『仏』の、
『音声』を、
『聞いた!』が、
『音声』は、
『近いよう!』で、
『異ならなかった!』。
『目連』の、
『息んだ!』、
『世界』では、
其の、
『世界』の、
『仏』が、
ちょうど、
『大衆』と、
『食事をしていられた!』。
  目連(もくれん):神足第一の仏弟子。仏の十大弟子の一。『大智度論巻2上注:摩訶目伽連』参照。
  参考:『増一阿含経巻29(2)』:『爾時。諸比丘自相謂言。世尊口自記。我聲聞中神足第一者。目連比丘是也。然今日不如舍利弗。爾時。諸比丘起輕慢想於目連所。是時。世尊便作是念。此諸比丘生輕慢之想向目連。受罪難計。告目連曰。現汝神力使此眾見。無令大眾起懈怠想。目連對曰。如是。世尊。是時。目連禮世尊足。即於如來前沒不現。往詣東方七恒河沙佛土。有佛名奇光如來.至真.等正覺。出現彼土。是時。目連以凡常之服往詣彼土。在缽盂緣上行。又彼土人民。形體極大。是時。諸比丘見目連已。自相謂言。汝等視此虫。正似沙門。是時。諸比丘復持示彼佛。唯然。世尊。今有一虫。正似沙門。爾時。奇光如來告諸比丘曰。西方去此七恒河沙。彼土世界。佛名釋迦文如來.至真.等正覺。出現於世。是彼弟子。神足第一。爾時。彼佛告目連曰。此諸比丘起輕慢意。現汝神足。使大眾見之。目連對曰。如是。世尊。是時。目連聞佛教已。以缽盂絡盛彼五百比丘至梵天上。是時。目連以左腳登須彌山。以右腳著梵天上。爾時。便說此偈 常當念勤加  修行於佛法  降伏魔眾怨  如鉤調於象  若能於此法  能行不放逸  當盡苦原際  無復有眾惱  是時。目連以此音響。遍滿祇洹精舍。諸比丘聞已。往白世尊。目連為住何處而說此偈世尊告曰。此目連比丘去此佛土七恒河沙。正在東方。以繩絡盛彼五百比丘。左腳登須彌山。右腳著梵天上。而說此偈』
彼土人大。目連立其缽緣。彼佛弟子問其佛言。此人頭虫從何所來。著沙門被服而行。 彼の土の人は大きくして、目連の、其の鉢の縁に立つに、彼の仏の弟子、其の仏に問うて言わく、『此の人頭の虫は、何所(いづく)より来たれる。沙門の被服を著けて、行く』、と。
彼の、
『世界』の、
『人』は、
『大きい!』ので、
『目連』は、
其の、
『鉢』の、
『縁(ふち)』に、
『立った!』のであるが、
彼の、
『仏』の、
『弟子』は、
其の、
『仏』に問うて、こう言った、――
此の、
『人頭』の、
『虫』は、
『何処から!』、
『来たのですか?』。
『沙門(出家)』の、
『被服(衣服)』を、
『著けて!』、
『鉢』の、
『縁』を、
『歩いています!』が、と。
其佛報言。勿輕此人。此是東方過無量佛土。有佛名釋迦牟尼。此是彼佛神足弟子。 其の仏の報(こた)えて言わく、『此の人を軽んずる勿(な)かれ。此れは是れ東方に、無量の仏土を過ぎて、仏有り、釈迦牟尼と名づく。此れは是れ彼の仏の神足の弟子なり』、と。
其の、
『仏』は答えて、こう言われた、――
此の、
『人』を、
『軽んじるな!』。
此れは、
『東方』に、
『無量』の、
『仏土』を、
『過ぎる!』と、
『釈迦牟尼』という、
『仏』が、
『有り!』、
此れは、
其の、
『仏』の、
『神足』の、
『弟子である!』、と。
彼佛問目度伽略子。汝何以來此。 彼の仏の目度伽略子に問いたまわく、『汝は、何を以ってか、此に来たれる』、と。
彼の、
『仏』は、
『目連』に、こう問われた、――
お前は、
何故、
此の、
『世界』に、
『来たのか?』、と。
  目度伽略子(もくどがりゃくし):梵名maudgalyaayanaの音訳。即ち仏十大弟子の一、目乾連なり。『大智度論巻2(上)注:摩訶目伽連』参照。
目連答言。我尋佛音聲故來至此。 目連の答えて言わく、『我れは仏の音声を尋ぬるが故に、来たりて此に至れり』、と。
『目連』は答えて、こう言った、――
わたしは、
『仏』の、
『音声』を、
『尋ねる!』が故に、
『来て!』、
『此処に!』、
『至りました!』、と。
彼佛告目連。汝尋佛聲過無量億劫。不能得其邊際。 彼の仏の目連に告げたまわく、『汝は、仏の声を尋ぬること、無量億劫を過ぐるとも、其の辺際を得る能わず』、と。
彼の、
『仏』は、
『目連』に、こう告げられた、――
お前は、
『仏』の、
『声』を、
『尋ねて!』、
『無量億』の、
『劫』を、
『過ごした!』としても、
其の、
『辺際』を、
『得られない!』だろう、と。
復次佛出世為斷眾生疑故為說法。此不應難。如不應問曰何以除闇。佛亦如是。不應問佛何以故答。 復た次ぎに、仏は、世に出でて、衆生の疑を断ずる為めの故に、法を説きたまえば、此れは、応に難ずべからず。応に問うて、『何を以ってか、闇を除く』と曰うべからざるが如し。仏も亦た是の如く、応に『仏は、何を以っての故にか、答えたもう』、と問うべからず。
復た次ぎに、
『仏』は、
『世』に、
『出られる!』と、
『衆生』の、
『疑』を、
『断じる!』為めに、
『法』を、
『説かれる!』。
此れを、
『法』を、
『説くから!』と、
『難じてはならない!』。
譬えば、
何故、
『闇』を、
『除くのか?』と、
『問うべきでないように!』。
『仏』も、
是のように、
何故、
『答えられるのか?』とは、
『問うべきでない!』。
  :法を説くが故に、名づけて仏と為す。
問曰。諸佛等故名為等覺。今何以稱言是彼神力。 問うて曰く、諸仏は等しきが故に、名づけて等覚と為す。今は、何を以ってか、称して、『是れ彼の神力なり』と言う。
問い、
諸の、
『仏』は、
『等しい!』が故に、
『等覚』と、
『称する!』。
今は、
何故、こう言うのか?――
是れは、
彼の、
『釈迦牟尼』という、
『仏』の、
『神力である!』、と。
  等覚(とうがく):(一)又等正覚に作る。仏の十号の一。即ち仏を指す。菩薩の修行の至極位の称と為す。等覚の意は、正に等しき覚と為し、即ち遍悟する所の真理の、諸仏の所悟の菩提の内容と相等しければなり。(二)内容上は仏と相等しきに在り、而も実際上は修行の仏に比して略ぼ遜れること一籌なる者を称して、等覚と為す。故に菩薩の修行階位五十二中の第五十一位に位す。六種性の第五。等覚は又等正覚と称す(意に、正覚と相等しき覚と為す)、有上士(妙覚の仏陀を称して無上士と為し、此れに対して、等覚を則ち有上士と称す)、一生補処(意に謂わく、次の一生にして将に仏と成るべし)、金剛心(金剛の如き堅固の心、能く煩悩を摧破す)、極に隣りす。等覚の菩薩の成仏の前、凡夫位に在る時の、真理を照らす修行に比して、此れを「重玄の門に入る」と謂う。又「仁王般若経巻下受持品」、「菩薩瓔珞本業経巻上賢聖学観品」、「華厳経探玄記巻14」、「四教義巻6」、「大乗義章巻17末」等に出づ。<(佛)
答曰。示無吾我彼此滅嫉慢故。 答えて曰く、吾我と彼此無く、嫉慢を滅せるを示さんが故なり。
答え、
『我、我所』も、
『彼、此』も、
『無い!』ことと、
『嫉妬』も、
『慢心』も、
『滅した!』ことを、
『示された!』のである。
  吾我(ごが):梵語aatman(神我、自己)、ahaM- kaara(自我意識)等の訳。我我所。漢詞吾我は、吾も我も一人称の代名詞であるが、古くは吾を主に主格、所有格に用い、我を所有格、目的格に用いたるも、後混用されるに至った。吾は我の自称にして、より親密な関係を表すように見える。
復次世界有天。常求尊勝憍慢法故。自言天地人物是我化作。 復た次ぎに、世界の有る天は、常に尊勝を求め、憍慢の法の故に、自ら言わく、『天、地、人、物は、是れ我が化作なり』、と。
復た次ぎに、
『世界』の、
有る、
『天』は、
常に、
『尊勝(支配者)である!』ことを、
『求める!』ような、
『憍(おごり)』と、
『慢(あなどり)』の、
『法(習慣)』の故に、
自ら、
こう言っている、――
『天』や、
『地』や、
『人』や、
『物』は、
わたしが、
『神通力』で、
『作ったのだ!』、と。
  尊勝(そんしょう):梵語vijayinの訳。勝利、征服者の意。
  化作(けさ):梵語adhinirmaa、adhinirmita等の訳。超越して作るの義。神通力で作るの意。
如梵天王。謂諸梵言我作汝等。 梵天王の諸の梵を謂って言わく、『我れは汝等を作れり』、との如し。
例えば、
『梵天王』は、
諸の、
『梵天』について、こう言っている、――
わたしが、
『お前達を』、
『作ったのだ!』、と。
毘紐天言。世間有大富貴名聞人。皆是我身威德力分。我能成就世間。亦能破壞世間。世間成壞皆是我作。 毘紐天の言わく、『世間に有る、大富貴、名聞の人は、皆、是れ我が身の威徳力の分なり。我れは能く、世間を成就し、亦た能く世間を破壊す。世間の成壊は、皆、是れ我が作すなり』、と。
『毘紐天』は、
こう言っている、――
『世間』に、
『有る!』、
『大富貴』や、
『名聞』の、
『人』は、
皆、
わたしの、
『威徳』の、
『力』の、
『分である!』。
わたしは、
『世間』を、
『成就することもでき!』、
『破壊することもできる!』。
『世間』が、
『成就する!』のも、
『破壊される!』のも、
皆、
『わたし!』の、
『作す!』ことである、と。
  毘紐天(びちゅうてん):梵名viSNu。印度神話上の創造神の名。『大智度論巻8上注:毘瑟笯天』参照。
有如是天破因緣法相。諸佛實語不破因緣法相故。言是彼佛神力 是の如き天有りて、因縁の法相を破るも、諸仏の実語は、因縁の法相を破らざるが故に、『彼の仏の神力なり』、と言えり。
是のような、
『天』が有って、
『因縁』の、
『法相』を、
『破っている!』が、
諸の、
『仏』の、
『実語』は、
『因縁』の、
『法相』を、
『破らない!』が故に、
こう言われたのである、――
彼の、
『釈迦牟尼』という、
『仏』の、
『神力だ!』、と。



普明、釈迦牟尼仏を供養せんとす

【經】是時普明菩薩白寶積佛言。世尊。我今當往見釋迦牟尼佛禮拜供養。及見彼諸菩薩摩訶薩紹尊位者。皆得陀羅尼及諸三昧。於諸三昧而得自在 是の時、普明菩薩の宝積仏に白して言さく、『世尊、我れは今、応に往きて釈迦牟尼仏に見え、礼拜供養し、及び彼の菩薩摩訶薩の尊位を紹(つ)ぐ者に見ゆべし、皆、陀羅尼、及び諸の三昧を得て、諸の三昧に於いて、自在を得たり』、と。
是の時、
『普明菩薩』は、
『宝積仏』に白して、こう言った、――
世尊!
わたしは、
今、
『往って!』、
『釈迦牟尼仏』に、
『会い!』、
『礼拜し!』、
『供養して!』、
及び、
彼の、
諸の、
『菩薩摩訶薩』という、
『尊位』を、
『紹()ぐ!』者にも、
『会ってきましょう!』、
皆、
『陀羅尼』と、
諸の、
『三昧』を、
『得て!』、
諸の、
『三昧』中に、
『自在』を、
『得ている!』からです、と。
  尊位(そんい):仏の位を尊んでいう。
【論】問曰。若諸佛持戒禪定智慧度人皆等。是普明菩薩何以欲來見釋迦牟尼佛。 問うて曰く、若し諸仏の持戒、禅定、智慧の人を度すこと、皆等しければ、是の普明菩薩は、何を以ってか、来たりて釈迦牟尼仏に見えんことを欲する。
問い、
若し、
諸の、
『仏』は、
『持戒』や、
『禅定』や、
『智慧』で、
『人』を、
『度す!』ことが、
皆、
『等しい!』とすれば、
是の、
『普明菩薩』は、
何故、
来て、
『釈迦牟尼仏』に、
『会おうとする!』のですか?
答曰。諸菩薩常欲見佛無厭足。聽法無厭足。見諸菩薩僧無厭足。諸菩薩於世間法皆以厭患。於上三事心無厭足。 答えて曰く、諸の菩薩は、常に仏に見えんと欲して、厭足する無く、法を聴いて、厭足する無く、諸の菩薩僧に見えて、厭足する無し。諸の菩薩は、世間の法に於いて、皆以って厭患するも、上の三事に於いては、心に厭足する無し。
答え、
諸の、
『菩薩』は、
常に、
『仏』に、
『会いたい!』と、
『思って!』、
『仏』に、
『飽き足りる!』ことが、
『無く!』、
常に、
『法』を、
『聴きたい!』と、
『思って!』、
『法』に、
『飽き足りる!』ことが、
『無く!』、
常に、
諸の、
『菩薩僧』に、
『会いたい!』と、
『思って!』、
『菩薩僧』に、
『飽き足りる!』ことが、
『無い!』。
諸の、
『菩薩』は、
『世間』の、
『法(事物)』には、
皆、
『飽いて!』、
『鬱陶しく思う!』が、
上の、
『三事』には、
『飽き足りる!』ことが、
『無い!』のである。
  厭患(えんげん):いといわずらう。うっとうしくおもう。幻滅する。
如手居士。從淨居天來欲見佛。其身微細沒失。譬如消蘇不得立地。 手居士の如きは、淨居天より来たりて、仏に見えんと欲し、其の身微細になりて、没失せること、譬えば、消蘇の地に立つを得ざるが如し。
例えば、
『手居士』などは、
『淨居天』より、
来て、
『仏』に、
『会いたい!』と、
『思っていた!』が、
『仏』に、
『会う!』と、
其の、
『身』が、
『小さくなって!』、
『地に没んだ!』。
譬えば、
『消蘇(ヨーグルト)』のように、
『地』に、
『立てなくなった!』のである。
  手居士(しゅこじ):また曠野長者、手天子と称す。「雑阿含経巻22(594)」に依れば、曠野長者、かつて人間の時、三法に厭足無きが故に、身壊し命終して無熱天に生ぜり。この中、三法とは即ち見仏無厭足、仏法無厭足、供養衆僧無厭足を云う。また「有部毘奈耶巻47」、「阿毘達磨大毘婆沙論巻29」、「阿毘曇毘婆沙論巻16」、「成実論巻7」等に出づ。
  消蘇(しょうそ):溶けた蘇、半液体状のヨーグルトの類、生蘇。蘇は酥、即ちバター、チーズの類。諸経論に依れば乳より酪を作し、酪より生蘇を作し、生蘇より熟蘇を作し、熟蘇より醍醐を作すと云えり。
  参考:『雑阿含経巻22(594)』:『如是我聞。一時。佛住曠野精舍。時。有曠野長者疾病命終。生無熱天。生彼天已。即作是念。我今不應久於此住不見世尊。作是念已。如力士屈申臂頃。從無熱天沒。現於佛前。時。彼天子天身委地。不能自立。猶如酥油委地。不能自立。如是。彼天子天身細軟。不自持立。爾時。世尊告彼天子。汝當變化作此麤身。而立於地。時。彼天子即自化形。作此麤身。而立於地。於是。天子前禮佛足。退坐一面。爾時。世尊告手天子。汝手天子。本於此間為人身時。所受經法。今故憶念不悉忘耶。手天子白佛言。世尊。本所受持。今悉不忘。本人間時。有所聞法。不盡得者。今亦憶念。如世尊善說。世尊說言。若人安樂處。能憶持法。非為苦處。此說真實。如世尊在閻浮提。種種雜類。四眾圍遶。而為說法。彼諸四眾聞佛所說。皆悉奉行。我亦如是。於無熱天上。為諸天人大會說法。彼諸天眾悉受修學。佛告手天子。汝於此人間時。於幾法無厭足故。而得生彼無熱天中。手天子白佛。世尊。我於三法無厭足故。身壞命終。生無熱天。何等三法。我於見佛無厭故。身壞命終生無熱天。我於佛法無厭足故。生無熱天。供養眾僧無厭足故。身壞命終。生無熱天。時。手天子即說偈言 見佛無厭足  聞法亦無厭  供養於眾僧  亦未曾知足  受持賢聖法  調伏慳著垢  三法不知足  故生無熱天  時。手天子聞佛所說。歡喜隨喜。即沒不現』
佛語手居士。汝化作麤身觀此地相。居士即如佛言。化作麤身觀念此地相。頭面禮佛足一面立。 仏の手居士に語りたまわく、『汝、麁身を化作して、此の地相を観よ』、と。居士は、即ち仏の言の如く、麁身を化作して、此の地相を観念し、頭面に仏の足を礼して、一面に立てり。
『仏』は、
『手居士』に、こう語られた、――
お前は、
『大きな!』、
『身』を、
『変化して!』、
『作り!』、
此の、
『地』の、
『相』を、
『観よ!』、と。
『手居士』は、
即時に、
『仏』の言われたように、――
『大きな!』、
『身』を、
『変化して!』、
『作り!』、
此の、
『地』の、
『相』を、
『観念し!』、
『頭面』に、
『仏』の、
『足』を、
『礼して!』、
『壁』の、
『一面』に、
『立った!』。
佛問居士。汝幾事無厭生淨居天。 仏の居士に問いたまわく、『汝は幾ばくの事をか、厭うこと無く、淨居天に生ずる』、と。
『仏』は、
『居士』に、こう問われた、――
お前は、
幾つの、
『事』に、
『飽くことなく!』、
『淨居天』に、
『生まれたのか?』、と。
答言。我三事無厭生淨居天。一見諸佛供養無厭。二聽法無厭。三供給僧無厭。 答えて言わく、『我れは三事に厭うこと無くして、淨居天に生ぜり。一には諸仏に見えて、供養するに厭うこと無く、二には法を聴きて厭うこと無く、三には僧に供給して厭うこと無し』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
『三つ!』の、
『事』に、
『飽くことなく!』、
『淨居天』に、
『生まれました!』、
一には、
諸の、
『仏』に、
『会って!』、
『飽くことなく!』、
『供養し!』、
二には、
『法』を、
『飽くことなく!』、
『聴き!』、
三には、
『僧』に、
『飽くことなく!』、
『供給しました!』。
如佛在閻浮提。四部眾常隨逐佛聽法問法。是我淨居諸天。亦常從我聽法問法。聲聞猶尚聽法無厭足。何況法性身菩薩。 仏に閻浮提に在(ましま)すに、四部衆の常に仏に随逐して、法を聴き、法を問うが如く、是の我が浄居の諸天も、亦た常に、我れに従いて、法を聴き、法を問う。声聞すら、猶尚お法を聴いて厭足無し。何に況んや、法性身の菩薩をや。
例えば、
『仏』が、
『閻浮提』に、
『在(ましま)す!』時、
『四部衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)』が、
常に、
『仏』に、
『随逐して!』、
『法』を、
『聴いたり!』、
『問うたりする!』ように、
是の、
わたしの、
『浄居』の、
『諸天』も、
『常に!』、
『わたし!』に、
『従って!』、
『法』を、
『聴いたり!』、
『問うたりしています!』。
『声聞』の、
『諸天』すら、
猶お、
『法』を、
『飽かずに!』、
『聴く!』のですから、
況して、
『法性』の、
『身である!』、
『菩薩』は、
『言うまでもありません!』、と。
以是故普明菩薩。來見釋迦牟尼佛。 是を以っての故に、普明菩薩は来たりて、釈迦牟尼仏に見えたり。
是の故に、
『普明菩薩』が、
『来て!』、
『釈迦牟尼仏』に、
『会った!』のである。
及見此間諸菩薩摩訶薩紹尊位者。皆得陀羅尼及諸三昧。如先讚菩薩品中說。 及び此の間の諸の菩薩摩訶薩の尊位を紹ぐ者に見ゆ、皆、陀羅尼、及び諸三昧を得とは、先の『讃菩薩品』註に説けるが如し。
及び、
此の、
『世界』の、
諸の、
『菩薩摩訶薩』の、
『尊位』を、
『紹ぐ!』者に、
『会った!』が、
皆、
『陀羅尼』と、
諸の、
『三昧』を、
『得ていた!』とは、――
先に、
『讃菩薩品』中に、
『説いた通り!』である。
於諸三昧而得自在者。問曰。如佛一人一切三昧中得自在。何以言菩薩亦一切三昧中得自在。 諸の三昧に於いて、而も自在を得とは、問うて曰く、仏一人のみ、一切の三昧中に、自在を得るが如きは、何を以ってか、『菩薩も、亦た一切の三昧中に、自在を得』と言う。
諸の、
『三昧』中に、
『自在』を、
『得ていた!』とは、――
問い、
若し、
『仏』、
『一人』のみが、
『一切』の、
『三昧』中に、
『自在』を、
『得られた!』とすれば、
何故、
こう言うのですか?――
『菩薩』も、
『一切』の、
『三昧』中に、
『自在』を、
『得ている!』、と。
答曰。有二種三昧。一者佛三昧。二者菩薩三昧。是諸菩薩於菩薩三昧中得自在。非佛三昧中。 答えて曰く、二種の三昧有り。一には、仏の三昧、二には、菩薩の三昧なり。是の諸の菩薩は、菩薩の三昧中に、自在を得て、仏の三昧中に非ず。
答え、
『二種』の、
『三昧』が有り、
一には、
『仏』の、
『三昧』であり、
二には、
『菩薩』の、
『三昧』である!。
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『菩薩』の、
『三昧』中に於いて、
『自在』を、
『得た!』のであり、
『仏』の、
『三昧』中に、
『自在』を、
『得たのではない!』。
如說諸佛要集經中。文殊尸利欲見佛集。不能得到。諸佛各還本處。文殊尸利到諸佛集處。有一女人近彼佛坐入三昧。 『諸仏要集経』中に説くが如く、文殊尸利は、仏の集まるを見んと欲するも、到るを得る能わずして、諸仏は、各、本処に還りたまえり。文殊尸利、諸仏の集まる処に到るに、一女人の彼の仏の近くに坐して、三昧に入りたる有り。
例えば、
『諸仏要集経』中に、こう説いている、――
『文殊尸利』は、
『仏』の、
『集まる!』のを、
『見たい!』と、
『思った!』が、
其の、
『処』に、
『到ることができなかった!』。
諸の、
『仏』が、
各の、
『本処』へ、
『還ってしまって!』から、
『文殊尸利』が、
諸の、
『仏』の、
『集まる!』、
『処』に、
『着いてみる!』と、
有る、
『一り!』の、
『女人』が、
其の、
『処』の、
『仏』の、
『近く!』に、
『坐り!』、
『三昧』に、
『入っていた!』。
  諸仏要集経(しょぶつようじゅうきょう):2巻、大略以下の如し、東方普光世界天王如来の所に、釈迦仏及び他方の諸仏集り、諸仏の要集を講説す。文殊菩薩は諸仏の要集を聴かんが為、娑婆世界より彼の普光国に到るに、天王如来の辺に一女人有り、離意と名づけ、結跏趺坐せり。天王如来は文殊を試さんが為に彼れをして鉄囲山に立たしめ、文殊は集会に到ることを得ず。文殊は自ら独りこの険地に在るも、彼の女人は坐してここに在らざるを怪しみ、遂に思惟すらく、諸の如来の法は未だ曽て相抂げず、諸仏は等心を衆生に向けたまえり。寧ろこの鉄囲山頂に於いて四意を修めて止め定意正受せんと。また念ずらく、何をか意止と謂う、謂わく意有ること無く諸法を念ぜず、諸法は無処にしてまた住する無きに非ず。何をもってか住する無き、処する所無きが故に、これ誰か本末を究暢して諸法を遣らんや。所可住の処もまた所住無し、謂わゆる無意にしてまた無所念なりと。文殊師利かくの如く思惟しおわるに、四万二千の諸天子等、その所に到りて足下に稽首し、諸の天の華香を雨ふらして文殊を供養し、遷って一面に住す。以下に光明幢天子、天王如来、棄諸陰菩薩、離意女等と諸仏の要集を種種に問答せる所詳述せり。
  参考:『諸仏要集経』:『‥‥所以宣傳佛所講者。欲以愍傷度眾生故。佛無要集亦不分別。亦不講論要集之義。天王如來。講說於此佛諸要集經典義時。普光世界。萬二千菩薩皆悉逮得無所從生法忍。時諸菩薩都不自見若干億佛。但睹一佛天王如來。於是文殊師利住忍世界。心自念言。今日十方各恒沙等諸佛世尊。悉來集會東方佛土天王佛所。普共頒宣佛要集法。吾寧可往詣彼世界。奉見諸佛諮受經典。吾常周行至於十方。稽首諸佛聽所說法。於今悉集會一佛土。是時難值希未曾有。如是比像無上聖土。顯出於世。不可再遇難可見聞。‥‥文殊師利如伸臂頃須臾之間。從忍世界忽然不現。至普光土天王佛所。於時文殊皆繞三千大千世界至于七匝。稽首諸佛卻住一面。爾時天王如來右面。有一女人名曰離意。結跏趺坐。以普月離垢光明三昧正受。時天王佛心自念言。文殊師利諸佛所歎。深奧忍辱行於空慧。無能逮者。虛靜寂寞以為功勳。今從忍界興心念來。墮大顛倒。極受吾我而有所趣。當退立之鐵圍山頂。‥‥文殊師利復自念言。此何瑞應而有此變。於大眾會自然住斯。離意女人。坐於天王如來之右。不徙彼女獨移吾身。又彼女人。將無德本純淑無侶。深入法忍總持無底。踰於我乎。所以者何。不遣彼女反遷我矣。‥‥文殊師利。普至十方無央數億百千垓土。尋復還住鐵圍山頂。自思惟言。諸佛世尊所立聖旨。威神無量道慧高遠。不可攀喻。吾之神足所不能及。不可作力與講神足。所以者何。諸佛說法終不虛妄。獨步十方而無儔匹。悉是我身之不及耳。至使不得聽受說法。諸如來法未曾相枉諸佛等心向於眾生。寧可於此鐵圍山頂修四意止定意正受。文殊師利又心念言。何謂意止。謂無有意不念諸法。諸法無處亦非無住。以何無住。無處所故。是誰為究暢本末遣諸法乎。所可住處亦無所住。是為住處。是四意止住無所住。所謂無意亦無所念。文殊師利遵修於是四意止時。四萬二千諸天子等。往到其所稽首足下。雨諸天華香供養文殊。遷住一面。時有天子名光明幢。問文殊曰。向者何定修何道行。這興起乎。文殊答曰。天子於今反問我言。以何等定而遵修行今乃興起。所行定者。諸佛大聖所不得處。聲聞亦然。以是定意而遵修行。因斯所行。使諸眾生婬怒癡俱吾奉此行。‥‥文殊師利。問天王佛。今此女子。發無上正真道心以來久如。所行寂寞誓願高遠。定意若斯。佛言。發無上正真道意以來。不可計也。勤力懷信常無放逸。施戒忍精進一心智慧。具足佛道。所行已備。隨諸佛教。於過去佛殖眾德本。供養無數億百千垓諸大聖尊。文殊師利。今此女子從三昧起。仁可問之。發道意來。為能久如。當見發遣。於是文殊師利。聞佛教詔。即從坐起。到其女所。至心彈指。謦揚大音。欲令女起。其女寂靜三昧不興。‥‥』
文殊尸利入禮佛足已。白佛言。云何此女人得近佛坐而我不得。 文殊尸利は入りて、仏の足を礼し已り、仏に白して言さく、『云何が、此の女人、仏に近づきて坐するを得、我れは得ざる』、と。
『文殊尸利』は、
『入って!』、
『仏』の、
『足』に、
『礼する!』と、
『仏』に白して、こう言った、――
此の、
『女人』は、
『仏』に、
『近づいて!』、
『坐ることができた!』のに、
何故、
わたしには、
『仏』に、
『近づく!』ことが、
『できなかったのですか?』、と。
佛告文殊尸利。汝覺此女人令從三昧起。汝自問之。 仏の文殊尸利に告げたまわく、『汝、此の女人を覚して、三昧より起たしめ、汝自ら之に問え』、と。
『仏』は、
『文殊尸利』に、こう告げられた、――
お前は、
此の、
『女人』を、
『覚()まして!』、
『三昧』より、
『起()たせよ!』。
お前、
自らが、
此の、
『女人』に、
『問え!』、と。
文殊尸利即彈指覺之。而不可覺。以大聲喚亦不可覺。捉手牽亦不可覺。又以神足動三千大千世界。猶亦不覺。文殊尸利白佛言。世尊。我不能令覺。 文殊尸利は、即ち指を弾いて、之を覚すも、覚すべからず。大声を以って喚(よ)ぶも、亦た覚すべからず。手を捉りて牽くも、亦た覚すべからず。又、神足を以って、三千大千世界を動かすも、猶お亦た覚めず。文殊尸利の仏に白して言さく、『世尊、我れは、覚めしむ能わず』、と。
『文殊尸利』は、
そこで、
『指』を、
『弾いて!』、
『覚まそうとした!』が、
『覚ませなかった!』、
『大声』で、
『喚()んで!』も、
『覚ませなかった!』、
『手』を、
『捉()って!』、
『牽()いて!』も、
『覚ませなかった!』、
又、
『神足』で、
『三千大千世界』を、
『動かした!』が、
『猶お(まだ)!』、
『覚ませなかった!』。
『文殊尸利』は、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
わたしには、
『覚ますことができません!』、と。
是時佛放大光明照下方世界。是中有一菩薩。名棄諸蓋。即時從下方出。來到佛所頭面禮佛足一面立。 是の時、仏は大光明を放って、下方世界を照らすに、是の中の有る一菩薩の、棄諸蓋と名づくる、即時に下方より出で来たりて、仏所に到り、頭面に仏の足を礼して、一面に立つ。
是の時、
『仏』が、
『大光明』を、
『放って!』、
『下方』の、
『世界』を、
『照らされる!』と、
是の中に有る、
『一り!』の、
『棄諸蓋』と、
『称する!』、
『菩薩』が、
即時に、
『下方』の、
『世界』より、
『出てきて!』、
『仏』の、
『足』に、
『礼する!』と、
『壁』の、
『一面』に、
『立った!』。
佛告棄諸蓋菩薩。汝覺此女人。即時彈指此女從三昧起。 仏の棄諸蓋菩薩に告げたまわく、『汝、此の女人を覚せ』、と。即時に指を弾いて、此の女を三昧より起たしむ。
『仏』が、
『棄諸蓋』に、こう告げられた、――
お前は、
此の、
『女人』を、
『覚めさせよ!』、と。
『棄諸蓋』は、
即時に、
『指』を、
『弾いて!』、
此の、
『女人』を、
『三昧』より、
『起たせた!』。
文殊尸利白佛言。以何因緣。我動三千大千世界。不能令此女起。棄諸蓋菩薩一彈指便從三昧起。 文殊尸利の仏に白して言さく、『何の因縁を以ってか、我れ、三千大千世界を動かして、此の女をして、起たしむ能わざるに、棄諸蓋菩薩は、一たび指を弾いて、即ち三昧より起たしむ』、と。
『文殊尸利』は、
『仏』に白して、こう言った、――
何のような、
『因縁』の故に、
わたしが、
『三千大千世界』を、
『動かしても!』、
此の、
『女』を、
『起たせられない!』のに、
『棄諸蓋菩薩』は、
『一たび!』、
『指』を、
『弾くだけで!』、
此の、
『女』を、
『起たせられたのですか?』、と。
佛告文殊尸利。汝因此女人。初發阿耨多羅三藐三菩提意。是女人因棄諸蓋菩薩。初發阿耨多羅三藐三菩提意。以是故汝不能令覺。 仏の文殊尸利に告げたまわく、『汝は、此の女人に因りて、初めて、阿耨多羅三藐三菩提の意を発し、是の女人は、棄諸蓋菩薩に因りて、初めて阿耨多羅三藐三菩提の意を発せり。是を以っての故に、汝には、覚めしむ能わず。
『仏』は、
『文殊尸利』に、こう告げられた、――
お前は、
此の、
『女人』に、
『因()って!』、
初めて、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『意』を、
『発(おこ)した!』が、
是の、
『女人』は、
『棄諸蓋菩薩』に、
『因って!』、
初めて、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『意』を、
『発した!』。
是の故に、
お前には、
此の、
『女人』を、
『覚ませない!』のである。
汝於諸佛三昧中功德未滿。是諸菩薩三昧中得自在。佛三昧中少多入而未得自在故耳 汝は、諸仏の三昧中には、功徳未だ満たず、是れ諸菩薩の三昧中に自在を得るも、仏の三昧中には、少多入るのみにして、未だ自在を得ざるが故なるのみ。
お前は、
諸の、
『仏』の、
『三昧』中に、
未だ、
『功徳』が、
『満ちていない!』。
お前は、
諸の、
『菩薩』の、
『三昧』中には、
『自在』を、
『得ている!』が、
『仏』の、
『三昧』中には、
『少しばかり!』、
『入るだけ!』で、
未だ、
『自在』を、
『得ていない!』ということだ、と。



宝積仏、普明に千葉金色の蓮華を託す

【經】佛告普明。欲往隨意宜知是時。爾時寶積佛以千葉金色蓮華與普明菩薩。而告之曰。善男子。汝以此華散釋迦牟尼佛上。生彼娑婆世界諸菩薩難勝難及。汝當一心遊彼世界 仏の普明に告げたまわく、『往かんと欲すれば、意に随いて、宜しく是の時なるを知るべし』、と。爾の時、宝積仏は、千葉の金色の蓮華を以って普明菩薩に与え、而も之に告げて曰わく、『善男子、汝は、此の華を釈迦牟尼仏上に散ずべし。彼の娑婆世界に生ずる、諸の菩薩には勝ち難く、及び難し。汝は、当に一心に彼の世界に遊ぶべし』、と。
『仏』は、
『普明』に、こう告げられた、――
『往こう!』と、
『思った!』ならば、
『意のままにせよ!』。
是れが、
『時だ!』と、
『知るがよい!』、と。
爾の時、
『宝積仏』は、
『千葉』の、
『金色』の、
『蓮華』を、
『普明菩薩』に、
『与える!』と、
こう告げて、言われた、――
善男子!
お前は、
此の、
『華』を、
『釈迦牟尼仏』上に、
『散らせよ!』。
彼の、
『娑婆世界』に、
『生まれた!』、
諸の、
『菩薩』には、
『勝ち難く!』、
『及び難い!』。
お前は、
『一心』に、
彼の、
『世界』に、
『遊ぶがよかろう!』、と。
【論】問曰。佛何以言欲往隨意宜知是時。 問うて曰く、仏は、何を以ってか、『往かんと欲すれば、意に随いて、宜しく是の時なるを知るべし』、と言う。
問い、
『仏』は、
何故、こう言われたのですか?――
『往こう!』と、
『思った!』ならば、
『意のままにせよ!』。
是れが、
『時だ!』と、
『知るがよい!』、と。
答曰。佛於弟子愛斷故。於弟子中心不著故。 答えて曰く、仏は弟子に於いて、愛断ずるが故に、弟子中に於いて、心著せざるが故なり。
答え、
『仏』は、
『弟子』に於いては、
『愛』が、
『断たれている!』が故に、
『弟子』中に、
『心』が、
『著さない!』からである。
復次是菩薩未得一切智。未得佛眼故。心中少多有疑。謂釋迦牟尼佛功德大所益或勝。是故語言欲往隨意。 復た次ぎに、是の菩薩は、未だ一切智を得ず、未だ仏眼を得ざるが故に、心中に、少多の疑有りて、謂わく、『釈迦牟尼仏の功徳大なるも、益する所は、或いは勝れん』、と。是の故に語りて言わく、『往かんと欲すれば、意に随え』、と。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『一切智』も、
『仏眼』も、
『得ていない!』ので、
故に、
『心』に、
『少し!』、
『疑』が、
『有って!』、
こう思った、――
『釈迦牟尼仏』の、
『功徳()』は、
『大きい!』だろうが、
或いは、
『利益(働き)』は、
『わたしの方』が、
『勝るかもしれない!』、と。
是の故に、
『普明』に語って、こう言われたのである、――
『往こう!』と、
『思った!』ならば、
『意のままにせよ!』、と。
復次是菩薩遙見釋迦牟尼佛身小。心生小慢言。彼佛不如是。故佛語。汝往莫觀佛身勿念世界。但聽佛說法。 復た次ぎに、是の菩薩は、遙かに釈迦牟尼仏の身の小なるを見て、心に小慢を生じて言わく、『彼の仏は、是れに如かず』、と。故に仏の語りたまわく、『汝は往きても、仏身を観る莫かれ、世界を念ずる勿かれ。但だ仏の法を説くを聴け』、と。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
遙かに、
『釈迦牟尼仏』の、
『身』が、
『小さく!』、
『見えた!』ので、
『心』に、
『小さな!』、
『慢』を、
『生じて!』、
こう言った、――
彼の、
『仏(釈迦牟尼)』は、
是の、
『仏(香積)』に、
『及ばない!』、と。
故に、
『仏』は、
こう語られたのである、――
お前は、
『往っても!』、
彼の、
『仏』の、
『身』を、
『観てはならない!』。
彼の、
『仏』の、
『世界』を、
『想像してはならない!』。
但だ、
彼の、
『仏』の、
『説かれる!』、
『法』のみを、
『聴け!』、と。
復次是世界離娑婆世界極遠最在東邊。是諸菩薩聞釋迦牟尼佛所說諸法相。與寶積佛說諸法相正同。便言世界雖遠法相不異。增益大信心轉堅固。 復た次ぎに、是の世界は、娑婆世界を離るること、極めて遠く、最も東の辺に在り。是の諸の菩薩は、釈迦牟尼仏に説かるる諸法の相と、宝積仏の説く諸法の相と正しく同じきを聞かば、便ち『世界は遠しと雖も、法相は異ならず』、と言いて、大信を増益し、心転た堅固ならん。
復た次ぎに、
是の、
『世界(多宝)』は、
『娑婆世界』を、
『極めて!』、
『遠く!』、
『離れており!』、
『最も!』、
『東の辺』に、
『在る!』が、
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『釈迦牟尼仏』の、
『説かれる!』所の、
諸の、
『法の相』を、
『聞いて!』、
正しく、
『宝積仏』の、
『説かれる!』、
諸の、
『法の相』と、
『同じであった!』ならば、
こう言うだろう、――
『世界』は、
『遠くても!』、
『法の相』は、
『異ならない!』と。
そこで、
『大きな!』、
『信』を、
『増益し!』、
『心』が、
『益々!』、
『堅固になる!』のである。
復次先世因緣故。雖遠處生應來聽法。譬如繩繫雀腳雖復遠飛攝之則還。 復た次ぎに、先世の因縁の故に、遠処に生ずと雖も、応に来たりて法を聴くべし。譬えば、縄を雀の脚に繋くれば、復た遠く飛ぶと雖も、之を摂すれば、則ち還るが如し。
復た次ぎに、
『先世』の、
『因縁』の故に、
『遠い!』、
『処』に、
『生まれた!』としても、
当然、
『来て!』、
『法』を、
『聴くはず!』である。
譬えば、
『縄』を、
『雀』の、
『脚』に、
『繋()ければ!』、
『雀』が、
『遠く!』まで、
『飛んだ!』としても、
『縄』を、
『摂(おさ)める!』だけで、
『雀』が、
『還ってくるように!』。
復次是娑婆世界中菩薩。見普明遠來聽法。便作是念。彼從遠來。況我生此世界中而不聽法。如是種種因緣。是故佛言欲往隨意宜知是時。 復た次ぎに、是の娑婆世界中の菩薩は、普明の遠くより来たりて、法を聴かんとするを見るに、便ち是の念を作さん、『彼れは遠くより来たれり。況んや、我れは此の世界中に生じて、法を聴かざらんや』、と。是の如き種種の因縁ありて、是の故に仏の言わく、『往かんと欲すれば、意に随いて、宜しく是の時なるを知るべし』、と。
復た次ぎに、
是の、
『娑婆世界』中の、
『菩薩』は、
『普明』が、
『遠く!』より、
『来て!』、
『法』を、
『聴こうとする!』のを、
『見る!』と、
是の念を作すだろう、――
彼れは、
『遠く!』より、
『来て!』、
『法』を、
『聴こうとしている!』、
況して、
わたしは、
此の、
『世界』に、
『生まれた!』のに、
『法』を、
『聴かないことがあろうか?』、と。
是のような、
種種の、
『因縁』で、
是の故に、
『仏』は、
こう言われたのである、――
『往こう!』と、
『思った!』ならば、
『意のままにせよ!』、
是れが、
『時だ!』と、
『知るがよい!』、と。
問曰。諸佛力等更不求福。何故以華為信。 問うて曰く、諸仏の力は等しくして、更に福を求めたまわず。何の故にか、華を以って、信と為す。
問い、
諸の、
『仏』は、
『力』が、
『等しく!』、
更に、
『福』を、
『求められることはない!』のに、
何故、
『信(手みやげ)』の、
『華』を、
『遣(おく)られた!』のですか?
答曰。隨世間法行故。如二國王力勢雖同亦相贈遺。 答えて曰く、世間の法に随いて、行いたもうが故なり。二国の王の力勢同じと雖も、亦た相贈遺するが如し。
答え、
『世間』の、
『法(習慣)』に、
『随って!』、
『行われた!』。
譬えば、
『二り!』の、
『国王』は、
『力勢』が、
『同じ!』であっても、
『互いに!』、
『贈物』を、
『遣りあう!』のと、
『同じである!』。
復次示善軟心故以華為信。世間法中使從遠來必應有信。佛隨世法是故致信。 復た次ぎに、善軟の心を示さんが故に、華を以って信と為したもう。世間法中に、使が、遠くより来たれば、必ず応に、信有るべし。仏は世法に随うが故に、信を致したまえり。
復た次ぎに、
『心』が、
『善軟である!』と、
『示す!』為めに、
『信』として、
『華』を、
『遣られた!』。
『世間』の、
『法』中には、
『使者』が、
『遠く!』より、
『来た!』ならば、
必ず、
『信』が、
『有るはず!』である。
『仏』も、
『世間』の、
『法』に、
『随われた!』ので、
故に、
『信』を、
『遣られた!』。
復次諸佛恭敬法故供養於法。以法為師。何以故。三世諸佛皆以諸法實相為師。 復た次ぎに、諸仏は、法を恭敬したもうが故に、法を供養し、法を以って師と為したもう。何を以っての故に、三世の諸仏は、皆、諸法の実相を以って、師と為したまえばなり。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
『法』を、
『恭敬される!』が故に、
『法』を、
『供養して!』、
『師とされる!』。
何故ならば、
『三世の諸仏』は、
皆、
諸の、
『法の実相』を、
『師とされる!』からである。
問曰。何以不自供養身中法。而供養他法。 問うて曰く、何を以ってか、自らの、身中の法を供養せず、他の法を供養したもう。
問い、
何故、
『自ら!』の、
『身』中の、
『法』を、
『供養されず!』、
『他!』の、
『仏』の、
『法』を、
『供養される!』のですか?
答曰。隨世間法。如比丘欲供養法寶。不自供養身中法。而供養餘持法知法解法者。佛亦如是雖身中有法。而供養餘佛法。 答えて曰く、世間の法に随いたまえばなり。比丘の法宝を供養せんと欲するに、自ら身中の法を供養せず、余の法を持し、法を知り、法を解する者を供養するが如く、仏も亦た是の如く、身中に法有りと雖も、余の仏の法を供養したもう。
答え、
『世間』の、
『法(習慣)』に、
『随われた!』のである。
譬えば、
『比丘』が、
『法宝』を、
『供養しよう!』と、
『思う!』と、
『自ら!』の、
『身』中の、
『法』を、
『供養せず!』、
『他!』の、
『法』を、
『持(たも)つ!』者や、
『知る!』者や、
『解釈する!』者を、
『供養する!』ように、
『仏』も、
是のように、
『自ら!』の、
『身』中にも、
『法』は、
『有る!』が、
『他!』の、
『仏』の、
『法』を、
『供養される!』のである。
問曰。如佛不求福德。何以故供養。 問うて曰く、仏の如きは、福徳を求めたまわざるに、何を以ってか、供養したもう。
問い、
若し、
『仏』が、
『福徳』を、
『求めない!』ならば、
何故、
『供養される!』のですか?
答曰。佛從無量阿僧祇劫中。修諸功德常行諸善。不但求報敬功德故而作供養。 答えて曰く、仏は、無量阿僧祇劫中より、諸の功徳を修め、常に諸の善を行いたまえば、但だ報を求め、功徳を敬うが故に、供養を作したまわず。
答え、
『仏』は、
『無量阿僧祇劫』中に、
諸の、
『功徳』を、
『修めて!』、
常に、
諸の、
『善』を、
『行われた!』のであって、
但だ、
『報』を、
『求めたり!』、
『功徳』を、
『敬われる!』が故に、
『供養』を、
『作されるのではない!』。
如佛在時有一盲比丘。眼無所見而以手縫衣時針紝脫。便言。誰愛福德為我紝針。 仏の在(ましま)せる時の如し、有る一盲比丘、眼に見る所無きに、手を以って衣を縫う時、針より紝脱す。便ち言わく、『誰か、福徳を愛するや、我が為めに紝を針にさせ』、と。
例えば、
『仏』が、
『世』に、
『在()られた!』時のことである、――
有る、
『一り!』の、
『盲比丘』は、
『眼』には、
『何も!』、
『見えなかった!』が、
『手』で、
『衣』を、
『縫っていた!』時、
『針』より、
『糸』が、
『抜けおちた!』ので、
こう言った、――
誰が、
『福徳』を、
『愛する?』
わたしの為めに、
『針』に、
『糸を通せ!』、と。
  (にん):はたいと。針孔に通った糸。
  参考:『撰集百縁経巻4(33)』:『尸毘王剜眼施鷲緣  佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時諸比丘。安居欲竟。自恣時到。春秋二時。常來集會。聽佛說法。其中或有浣衣薰缽打染縫治。如是各各。皆有所營。時彼眾中。有一比丘。名曰尸婆。年老目瞑。坐地縫衣。不見紝針。作是唱言。誰貪福德。為我紝針。爾時世尊。聞比丘語。尋即往至。捉比丘手。索針欲貫。時老比丘。識佛音聲。白言。世尊如來。往昔三阿僧祇劫。修大慈悲。滿足六波羅蜜。具菩薩行。斷除結使。功德備足。自致作佛。今者何故猶於我所。求索福德。佛告比丘。由我昔來宿習不忘。故於汝所。猶修福德。時諸比丘聞佛世尊作是語已。即白佛言。如來往昔。於彼耆舊老比丘所。修何功德。願為解說。爾時世尊告諸比丘。汝等諦聽。吾當為汝分別解說。乃往過去無量世中。波羅奈國有王。名曰尸毘。治正國土。人民熾盛豐樂無極。時尸毘王常好惠施。賑給濟乏。於諸財寶頭目髓腦。來有乞者。終不吝惜。精誠感應。動天宮殿。不安其所。時天帝釋。作是念言。我此宮殿。有何因緣。動搖如是。將非我今命欲盡耶。作是念已。尋自觀察。見尸毘王。不惜財寶。有來乞者。皆悉施與。精誠感應。動我宮殿。物不安所。我今當往試其善心。為虛為實。即便化作一大鷲身。飛來詣王。啟白王言。我聞大王。好喜布施。不逆眾生。我今故來。有所求索。唯願大王。遂我心願。時王聞已。甚懷歡喜。即答鷲言。隨汝所求。終不吝惜。鷲白王言。我亦不須金銀珍寶及諸財物。唯須王眼。以為美膳。願王今者。見賜雙眼。時尸毘王。聞鷲語已。生大歡喜。手執利刀。自剜雙眼。以施彼鷲。不憚苦痛。無有毛髮悔恨之心。爾時天地。六種震動。雨諸天花。鷲白王言。汝今剜眼。用施於我。無悔恨耶。王答鷲言。我施汝眼。今者實無悔恨之心。鷲語王言。若無悔心。以何為證。王答鷲言。今施汝眼。無悔心者。當令我眼還復如故。作是誓已。時王雙眼。如前無異。鷲復釋身。讚言奇哉未曾有也。汝於今者。能捨難捨。為求釋梵轉輪聖王世俗榮樂。王答釋曰。我今不求釋梵及以轉輪世俗榮樂。以此施眼善根功德。使我來世得成正覺。度脫眾生。發是願已。時天帝釋。還詣天宮。佛告諸比丘。欲知彼時尸毘王者。則我身是。彼時鷲者。今老比丘是。由於彼時布施眼目不吝惜故。自致成佛。是故今者。猶於汝上。修於福德。尚無厭足。爾時諸比丘。聞佛所說。歡喜奉行』
是時佛到其所語比丘。我是愛福德人。為汝紝針來。 是の時、仏は、其所に到りて、比丘に語りたまわく、『我れは是れ福徳を愛する人なり。汝が為に紝を針にささん、来たれ』、と。
是の時、
『仏』が、
其の、
『処』に、
『来られて!』、
『比丘』に、こう語られた、――
わたしは、
『福徳』を、
『愛する!』
『人だ!』。
お前の為めに、
『針』に、
『糸』を、
『通そう!』、
『針』と、
『糸』を、
『持ってこい!』、と。
是比丘識佛聲。疾起著衣禮佛足白佛言。佛功德已滿。云何言愛福德。 是の比丘は、仏の声を識りて、疾かに起ち、衣を著けて、仏の足に礼し、仏に白して言さく、『仏の功徳は已に満ちたり。云何が、福徳を愛すと言える』、と。
是の、
『比丘』は、
『仏』の、
『声』を、
『識る!』と、
『疾か!』に、
『床』より、
『起ち!』、
『仏』の、
『足』に、
『礼して!』、
『仏』に白して、こう言った、――
『仏』の、
『功徳』は、
『満ちております!』のに、
何故、
『福徳』を、
『愛する!』と、
『言われる!』のですか?と。
佛報言。我雖功德已滿。我深知功德恩功德果報功德力。令我於一切眾生中得最第一。由此功德。是故我愛。 仏の報(こた)えて言わく、『我が功徳、已に満ちて、我れは深く功德の恩、功徳の果報、功徳の力を知ると雖も、我れをして、一切の衆生中に、最も第一なるを得しむるは、此の功徳に由る、是の故に我れは愛す』、と。
『仏』は、
答えて、こう言われた、――
わたしの、
『功徳』は、
『満ちており!』、
わたしは、
深く、
『功徳の恩恵』や、
『功徳の果報』や、
『功徳の力用』を、
『知っている!』が、
わたしに、
一切の、
『衆生』中の、
『最も!』、
『第一にした!』は、
此の、
『功徳』に、
『由ってである!』。
是の故に、
わたしは、
『功徳』を、
『愛するのだ!』、と。
佛為此比丘讚功德已。次為隨意說法。是比丘得法眼淨肉眼更明。 仏の、此の比丘の為めに、功徳を讃じ已りて、次に為めに、意に随うて、法を説きたまえるに、是の比丘は、法眼の浄まると、肉眼の更に明るきを得たり。
『仏』が、
此の、
『比丘』の為めに、
先づ、
『功徳』を、
『讃えられ!』、
次いで、
『意のままに!』、
『法』を、
『説かれる!』と、
是の、
『比丘』は、
『法眼』が、
『浄められた!』ばかりか、
更に、
『肉眼』までが、
『明るくなった!』。
復次佛雖功德已滿更無所須。為教化弟子故。語之言。我尚作功德汝云何不作。 復た次ぎに、仏の功徳は、已に満ちて、更に須(もと)むる所無しと雖も、弟子を教化したまわんが為めの故に、之に語りて言わく、『我れすら、尚お功徳を作す。汝は、云何が作さざる』、と。
復た次ぎに、
『仏』の、
『功徳』は、
已に、
『満ちており!』、
更に、
『須(もと)める!』所が、
『無い!』としても、
『弟子』を、
『教化する!』為めの故に、
『語って!』、こう言われるのである、――
わたしさえ、
『功徳』の、
『業』を、
『作している!』のだ、
お前は、
何故、
『作さない?』、と。
如伎家百歲老翁而舞。有人呵之言。老翁年已百歲何用是舞。翁答。我不須舞。但欲教子孫故耳。 伎家の百歳の老翁の舞うが如きに、有る人、之を呵して言わく、『老翁は、年已に百歳なり。何に用いんとて、是れを舞う』、と。翁の答うらく、『我れは舞うを須(もち)いず。但だ、子孫に教えんと欲するが故なるのみ』、と。
例えば、
『伎家(舞踏家)』の、
『百歳』の、
『老翁』が、
『舞っている!』と、
有る人が、
『呵(しか)って』、こう言った、――
『老翁』は、
『年』が、
『百歳にもなる!』のに、
是のように、
『舞うて!』、
『何うされるのか?』、と。
『翁』が、こう答えた、――
わたしには、
『舞うたとて!』、
『何うにもならない!』が、
『子』や、
『孫』に、
『教える!』為めに、
『舞うている!』のだ、と。
佛亦如是。功德雖滿。為教弟子作功德故。而作供養。 仏も亦た是の如く、功徳、満つと雖も、弟子に教えて、功徳を作さしめんが為めの故に、供養を作したもう。
『仏』も、
是のように、
『功徳』は、
『満ちている!』が、
『弟子』に、
『教えて!』、
『功徳』の、
『業』を、
『作させる!』為めの故に、
『自ら!』、
『供養』を、
『作して!』、
『教えられる!』のである。
問曰。若爾者佛何以不自遙散釋迦牟尼佛上。而遣人供養。 問うて曰く、若し爾らば、仏は、何を以ってか、自ら遙かに、釈迦牟尼仏上に散じたまわず、人を遣して供養したもう。
問い、
若し、
そうならば、
『仏』は、
何故、
『自ら!』、
遙かに、
『華』を、
『釈迦牟尼仏』上に、
『散かずに!』、
『人』を、
『遣して!』、
『釈迦牟尼仏』を、
『供養される!』のですか?
答曰。為此間諸菩薩信普明故。 答えて曰く、此の間の諸の菩薩に、普明を信ぜしめんが為めの故なり。
答え、
此の、
『間(娑婆世界)』の、
諸の、
『菩薩』に、
『普明』を、
『信じさせよう!』と、
『思われた!』のである。
復次佛所遣使。水火兵毒百千種害終不能傷。道里懸遠欲令安隱故。 復た次ぎに、仏の遣さるる所の使は、水、火、兵、毒もて、百千種に害するも、終(つい)に傷つくる能わざるも、道里懸(はるか)に遠ければ、安隠ならしめんと欲したもうが故なり。
復た次ぎに、
『仏』に、
『遣された!』、
『使者』は、
『水』や、
『火』や、
『兵』や、
『毒』で、
『百千種』に、
『害した!』としても、
『傷つけることはできない!』が、
『道』の、
『里程』が、
『懸けはなれて!』、
『遠い!』ので、
『使者』を、
『安隠にさせよう!』と、
『思われた!』が故に、
『華』を、
『遣して!』、
『一心にさせられた!』のである。
問曰。何故不以好寶深經若佛菩薩寶(言此寶諸天所不見能出種種妙物如摩尼珠寶故曰名佛寶)為信。而以蓮華蓮華小物何足為信。 問うて曰く、何の故にか、好宝、深経の、若しは仏菩薩の宝を以って(此の宝と言えるは諸天の見ざる所にして、能く種種の妙物を出すこと、摩尼宝珠の如きなるが故に曰いて、仏宝と名づく)信と為さず、蓮華を以ってしたもう。蓮華は小物なれば、何んが信と為すに足らん。
問い、
何故、
『好宝』や、
『深経』のような、
『仏、菩薩』の、
『宝』を、
『信』として、
『遣らず!』、
『蓮華』を、
『信』として、
『遣られた!』のですか?
『蓮華』のような、
『小さな!』、
『物』が、
何うして、
『信』として、
『遣る!』に、
『足る!』のですか?
答曰。佛不須物。佛寶天寶尚亦不須。何況人寶。以不須故不遣。亦以佛自等有故不遣。深經亦爾。 答えて曰く、仏は、物を須めたまわず。仏宝、天宝すら、尚お亦た須めず。何に況んや、人の宝をや。須めざるを以っての故に、遣されず。亦た、仏は、自ら等しく有したもうを以っての故に、遣されず。深経も、亦た爾り。
答え、
『仏』は、
『物』を、
『須(もと)められない!』。
『仏』や、
『天』の、
『宝』すら、
尚お、
『須められない!』のに、
況して、
『人』の、
『宝』など、
『須められるはずがない!』。
『仏』は、
自ら、
『須められない!』が故に、
『物』を、
『遣られず!』、
亦た、
『仏』は、
自らも、
『等しく!』、
『有する!』が故に、
『物』を、
『遣られない!』のであり。
『深経』も、
亦た、
『是の通り!』である。
復次諸經於佛則無甚深。甚深之稱出自凡人。凡人所疑於佛無礙。凡人所難佛皆易之。 復た次ぎに、諸の経も、仏には、則ち甚深なる無し。甚深の称は、凡人より出づ。凡人の疑う所も、仏には無礙なり。凡人の難とする所も、仏には皆之易(たやす)し。
復た次ぎに、
諸の、
『経』も、
『仏』には、
『甚だ深い!』ものは、
『無い!』。
『甚だ深い!』という、
『称(ほめことば)』は、
『凡人』より、
『出た!』ものである。
『凡人』の、
『疑う!』所も、
『仏』には、
『礙(さわり)』が、
『無い!』。
『凡人』の、
『難しいとする!』所も、
『仏』には、
『皆!』、
『易しい!』。
復次華香清妙宜為供養。如人獻贈必以異物。 復た次ぎに、華香の清妙なるは、宜しく供養さるべし。人の献贈するには、必ず異物を以ってするが如し。
復た次ぎに、
『華香』は、
『清妙』であり、
『供養する!』に、
『適している!』。
譬えば、
『人』が、
『物』を、
『贈る!』とき、
必ず、
『珍しい!』、
『物』を、
『贈る!』のと、
『同じ!』である。
問曰。何故正以蓮華不以餘物。 問うて曰く、何の故にか、正しく蓮華を以ってし、余物を以ってせざる。
問い、
何故、
正しく、
『蓮華であって!』、
『他の物ではない!』のですか?
答曰。供養唯以華香幡蓋。華有二事有色有香。 答えて曰く、供養するには、唯だ華香、幡蓋を以ってす。華に二事有り、色有り、香有り。
答え、
『供養する!』のは、
唯だ、
『華香』と、
『幡蓋のみ!』である。
『華』には、
『二つ!』の、
『事』が、
『有る!』、
謂わゆる、
『色』と、
『香』とである。
問曰。餘華亦有香有色。何故唯以蓮華供養。 問うて曰く、余の華にも、香有り、色有り。何の故にか、唯だ蓮華を以って供養する。
問い、
他の、
『華』にも、
『香』や、
『色』が、
『有る!』のに、
何故、
唯だ、
『蓮華のみ!』を、
『供養する!』のですか?
答曰。如華手經中說。十方佛皆以華供養釋迦文佛。 答えて曰く、華手経中に説くが如し。『十方の仏は、皆華を以って、釈迦文仏を供養す』、と。
答え、
『華手経』中に、こう説く通りである、――
『十方』の、
『仏』は、
皆、
『華』で、
『釈迦文仏』を、
『供養した!』、と。
  参考:『仏説華手経巻1』:『爾時網明白彼佛言。唯然世尊。我欲詣彼娑婆世界供養禮覲釋迦牟尼佛。及見彼土具足莊嚴諸菩薩眾。彼佛報言。汝自知時。當以一心遊于彼國。所以者何。彼諸菩薩威德難勝。一寶嚴佛以眾蓮華與網明言。汝以是華供養彼佛。并稱我意致敬問訊。少惱少病起居輕利氣力安耶。網明菩薩禮彼佛足右遶三匝。即與無數菩薩大眾前後圍遶。如大力士屈伸臂頃。於彼國土忽然不現。到此世界行詣竹園。頂禮佛足而白佛言。唯然世尊。我是網明。佛言善哉。今汝安隱。網明菩薩頭面禮已卻住一面。白世尊曰。一寶嚴佛問訊世尊。少惱少病起居輕利氣力安耶。以此蓮華奉上世尊。』
復次蓮華有三種。一者人華二者天華三者菩薩華。人華大蓮華十餘葉。天華百葉。菩薩華千葉。 復た次ぎに、蓮華には三種有り、一には人の華、二には天の華、三には菩薩の華なり。人の華の大なる蓮華は、十余葉なり。天の華は百葉なり。菩薩の華は千葉なり。
復た次ぎに、
『蓮華』には、
『三種』有り、
一には、
『人の華』、
二には、
『天の華』、
三には、
『菩薩の華』である。
『人』の、
『華』は、
『大きな!』、
『蓮華』でも、
『十余葉!』、
『天』の、
『華』は、
『百葉!』、
『菩薩』の、
『華』は、
『千葉!』である。
彼世界中多有金色光明千葉蓮華。娑婆世界中。唯有化華千葉。無水生者。以是故遣是蓮華千葉金色。如上舌相中說。 彼の世界中には、多く金色の光明の千葉の蓮華有り、娑婆世界中には、唯だ化華の千葉なる有りて、水生の者無し。是を以っての故に、是の蓮華を遣りたまえり。千葉の金色は、上の舌相中に説けるが如し。
彼の、
『世界』中に、
『多く!』、
『有る!』のは、
『金色』の、
『光明』の、
『千葉』の、
『蓮華』である!が、
『娑婆世界』中に、
『唯だ!』、
『有る!』のは、
『化』の、
『千葉』の、
『蓮華』のみであり!、
『水』に、
『生じる!』者は、
『無い!』。
是の故に、
是の、
『蓮華』を、
『遣られた!』のである。
『千葉の金色』は、
上の、
『舌相』中に、
『説いた通り!』である。
  参考:『大智度論巻8』:『復次是諸光明變成千葉金色寶華。從舌相出此千葉金色寶華。光明徹照如日初出。問曰。何以故。光明中變化作此寶華。答曰。佛欲坐故。問曰。諸床可坐何必蓮華。答曰。床為世界白衣坐法。又以蓮華軟淨。欲現神力能坐其上令花不壞故。又以莊嚴妙法座故。又以諸華皆小。無如此華香淨大者。人中蓮華大不過尺。漫陀耆尼池。及阿那婆達多池中蓮華。大如車蓋。天上寶蓮華復大於此。是則可容結加趺坐。佛所坐華復勝於此百千萬倍。又如此華華臺。嚴淨香妙可坐。復次劫盡燒時一切皆空。眾生福德因緣力故。十方風至相對相觸能持大水。水上有一千頭人二千手足。名為韋紐。是人臍中出千葉金色妙寶蓮花。其光大明如萬日俱照。華中有人結加趺坐。此人復有無量光明。名曰梵天王。此梵天王心生八子。八子生天地人民。是梵天王於諸婬瞋已盡無餘。以是故言。若有人修禪淨行斷除婬欲。名為行梵道。佛轉法輪或名法輪或名梵輪。是梵天王坐蓮華上。是故諸佛隨世俗故。於寶華上結加趺坐。說六波羅蜜。聞此法者畢至阿耨多羅三藐三菩提。』
問曰。佛何以令普明以華散佛上。 問うて曰く、仏は、何を以ってか、普明をして、華を仏上に散ぜしめたまえる。
問い、
『仏』は、
何故、
『普明』に、
『命じて!』、
『華』を、
『仏』上に、
『散()かせられた!』のですか?
答曰。供養法華香幡蓋。幡蓋應上乾香應燒。濕香應塗地。末香及華應散。 答えて曰く、供養の法は、華、香、幡蓋なり。幡蓋は、応に上(あ)ぐべし。乾香は、応に焼くべし。湿香は応に地に塗るべし。末香、及び華は、応に散くべし。
答え、
『供養』の、
『法』は、
『華』、
『香』、
『幡蓋』であるが、
『幡蓋』は、
『上げる!』のに、
『適し!』、
『乾香』は、
『焼く!』のに、
『適し!』、
『湿香』は、
『地に塗る!』のに、
『適し!』、
『末香』と、
『華』とは、
『散く!』のに、
『適する!』からである。
問曰。何以不供奉而已而自散上。 問うて曰く、何を以ってか、供奉するのみならず、自ら上に散ずる。
問い、
何故、
『供奉する(ささげる)だけでなく!』、
自ら、
『上』に、
『散くのですか?』。
答曰。手自供養是身業。軟言問訊是口業。能起身口業是意業。是三業得功德牢固。與佛道作因緣。 答えて曰く、手もて、自ら供養す、是れ身業なり。軟言もて、問訊す、是れ口業なり。能く身口の業を起す、是れ意業なり。是の三業もて、功徳の牢固なるを得て、仏道の与(ため)に因縁と作る。
答え、
『手』で、
『自ら!』、
『供養する!』のが、
『身業』である!、
『軟言(優しいことば)』で、
『問訊(挨拶)する!』のが、
『口業』である!、
『身業』と、
『口業』を、
『起す!』ものが、
『意業』である!。
是の、
『三業』は、
『功徳』が、
『牢固(堅固)になる!』ことを、
『得て!』、
『仏』の、
『道』を、
『行く!』為めの、
『因縁』と、
『作って!』、
『寄与する!』。
問曰。何以言汝當一心敬慎。娑婆世界中諸菩薩難及難勝。 問うて曰く、何を以ってか、『汝は、応に一心に敬慎すべし。娑婆世界中の諸の菩薩には及び難く勝ち難し』と言う。
問い、
何故、こう言うのですか?――
お前は、
『一心』に、
『敬って!』、
『慎まなければならない!』、
『娑婆世界』中の、
諸の、
『菩薩』には、
『及び難く!』、
『勝ち難い!』のだから、と。
答曰。佛辟支佛阿羅漢一切諸賢聖。皆一心敬慎。 答えて曰く、仏、辟支仏、阿羅漢、一切の諸の賢聖は、皆一心に敬慎なり。
答え、
『仏』や、
『辟支仏』、
『阿羅漢』という、
一切の、
諸の、
『賢聖』は、
皆、
『一心』に、
『敬い!』、
『慎んでいる!』。
魔若魔民及內身結使。種種先世罪報皆是賊。近此諸賊故應一心敬慎。 魔若しくは魔民、及び内身の結使、種種の先世の罪報は、皆是れ賊なり。此の諸の賊に近づくが故に、応に一心に敬慎すべし。
『魔』や、
『魔』の、
『民』と、
『内』の、
『身』の、
『結使(煩悩)』と、
種種の、
『先世』の、
『罪報』は、
皆、
『賊である!』が、
此の、
諸の、
『賊』に、
『近づく!』が故に、
『一心』に、
『敬って!』、
『慎むべき!』である。
譬如入賊中行不自慎護為賊所得。以是故言一心敬慎以遊彼界。 譬えば、賊中に入りて行くに、自ら慎んで、護らざれば、賊の得る所と為るが如し。是の故に言わく、『一心に敬慎して、以って彼の界に遊べ』、と。
譬えば、
『賊』中に、
『入って!』、
『行く!』とき、
自ら、
『慎んで!』、
『護らなければ!』、
『賊』に、
『取得される!』のと、
『同じである!』。
是の故に、
こう言うのである、――
『一心』に、
『敬い!』、
『慎んで!』、
彼の、
『世界』に、
『遊べ!』、と。
復次以人心多散如狂如醉。一心敬慎則是諸功德初門。攝心得禪。便得實智慧。得實智慧便得解脫。得解脫便得盡苦。如是事皆從一心得。 復た次ぎに、人心の多く散ずること、狂うが如く、酔うが如きなるを以って、一心に敬慎なるは、則ち是れ諸の功徳の初門なり。心を摂して禅を得れば、便ち実の智慧を得。実の智慧を得れば、便ち解脱を得。解脱を得れば、便ち苦を尽くすを得。是の如き事は、皆、一心に従りて得るなり。
復た次ぎに、
『人』の、
『心』は、
『多く!』、
『散乱して!』、
まるで、
『狂っている!』か、
『酔ったよう!』であるので、
故に、
『一心』に、
『敬い!』、
『慎む!』ことは、
諸の、
『功徳』の、
『初門』である!。
『心』を、
『摂して(取り締まって)!』、
『禅(静慮)』を、
『得れば!』、
『実の智慧』を、
『得られる!』、
『実の智慧』を、
『得れば!』、
『解脱』を、
『得られる!』、
『解脱』を、
『得れば!』、
『苦』を、
『尽くすことができる!』。
是のような、
『事』は、
皆、
『一心』に、
『随従して!』、
『得られる!』のである。
如佛般涅槃後一百歲有一比丘。名優波鞠。得六神通阿羅漢。當爾時世為閻浮提大導師。 仏の般涅槃後の一百歳の如きに、一比丘有り、優波鞠と名づけ、六神通を得たる阿羅漢なり。爾の時世に当りて、閻浮提の大導師と為す。
例えば、
『仏』の、
『般涅槃』の、
『一百年』後に、
『優波鞠』という、
『一り!』の、
『比丘』が、
『有り!』、
『六神通』を、
『得た!』、
『阿羅漢』であったが、
爾の、
『時』の、
『世』に於いては、
『閻浮提』の、
『大導師』であった!。
  優波鞠(うぱきく):付法蔵の第四祖の名。『大智度論巻10上注:優波毱多』参照。
  優波毱多(うぱきくた):梵名upagupta、また憂波毱多、優波笈多、優波掘多、鄔波毱多、優波毱提、優波毱、憂波毱、優波崛に作る。近護、近蔵、または大護と訳す。付法蔵の第四祖。阿育王の帝師として知らる。摩突羅国毱多長者の子にして、性慈愍を好み聡慧にして辯才あり。商那和修その法器たるを見、因りて繋念の法を教え、もし不浄心を起さば黒石を左辺に著け、浄心を起さば白石を有辺に著くべきを以ってせしに、初めは黒石偏に多かりしも、次ぎに黒白相等しく、七日満つる所に及んで唯だ白石のみあり。和修即ち為に四聖真諦を宣説するに、時に応じて須陀洹果を逮得せり。次いでまた婬女婆須達多を度するに因んで、諸法苦空無常を観じ、時に応じて阿那含果を得、具戒を受け已りて即時に阿羅漢道を得たりと。時に阿育王は毱多が摩突羅国優留曼荼山那羅拔利阿蘭若処に在りて、衆の為に説法すと聞き、自ら往きて観んと欲す。毱多その居処の隘小なるを以って、衆を困苦せしめんことを恐れ、自ら一万八千の大衆と倶に舟行して花氏城に至り、王の為に説法し、且つ仏陀の旧跡を指示して悉く塔を起さしめ、また広く舎利弗、目連、大迦葉、阿難等の諸大弟子の塔をも供養せしめたりと云う。「阿育王伝巻3」には、仏は曽て摩突羅国に於いて阿難に対し、我が百年の後、此の国に憂波毱多と名づくるあり、禅法を教授すること声聞中最も第一たり、相好なしといえども化度すること我れの如しと宣せられたりと記せり。兎に角その教化の盛なりしは事実にして、多くの衆生を解脱せしめ、阿羅漢を得る者ある毎に長さ四寸の籌を投じ、後終に籌は積んで長三十六尺、広二十四尺の石室内に満つるに至れりと。化縁已に畢り、法を提多迦に付して滅度を取れり。「倶舎論光記巻5」には毱多に「理目足論」の著ありというも、事実詳ならず。蓋し北伝にはかくの如く毱多を以って付法蔵の第四祖とし、種種教化の事蹟を伝うるも、南伝には全くその名を録せず。これに関し近来の学者中には、「善見律毘婆沙巻1」等に阿育王の師として掲ぐる目犍連子帝須moggaliputta-tissaを毱多と同人とし、目犍連子帝須の名は、仏弟子大目犍連並びに舎利弗の姓なる帝須を併せ取りしものにして、即ち毱多が此の二大弟子の得を兼ぬるものとして世人に附したる敬称なるべしとするものあるに至れり。これ頗る興味ある推測なるも、未だ他にこれを確認すべき文献を見ず。また「雑阿含経巻23、巻25」、「阿育王伝巻4、巻5、巻6」、「阿育王経巻8、巻9、巻10」、「大悲経巻2」、「大荘厳論経巻9」、「賢愚経巻13」、「達摩多羅禅経巻上」、「有部毘奈耶雑事巻40」、「大智度論巻10、巻26」、「大毘婆沙論巻135」、「付法蔵因縁伝巻3、巻4」、「大唐西域記巻4」、「仏祖統紀巻5」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  参考:『付法蔵因縁伝巻3』:『‥‥爾時有一老比丘尼。年百二十。曾見如來。優波鞠多知彼見佛。欲至其所。尋遣使者告比丘尼。尊者鞠多欲來相見。時比丘尼即以一缽盛滿中油。置戶扇後。憂波鞠多到其所止。當入房時棄油數渧。共相慰問然後就坐。問言大姊。世尊在時諸比丘輩。威儀進止其事云何。比丘尼言。昔佛在世六群比丘。最為麤暴。雖入此房未曾遣我一渧之水。大德今者智慧高勝。世人號為無相好佛。然入吾房棄油數渧。以是觀之。佛在時人定為奇妙。憂波鞠多聞是語已。甚自悔責極懷慚愧。比丘尼言。大德不應自生恥恨。如佛言曰。我滅度後初日眾生勝二日者。三日之人益復卑劣。如是展轉福德衰耗。愚癡闇鈍善法羸損。況今大德去佛百年。雖復為作非威儀事。正得其宜何足為怪。爾時鞠多而問之言。姊見如來。其事云何。比丘尼曰。昔佛在世我年二十始欲行嫁。失一金釵墮深草中。求之不得。復以燈燭遍照推覓。求之至疲了無彷彿。正值如來遊行而過。金光晃耀如百千日。幽闇之處普皆大明。微細諸物而悉顯現。尋見我釵因即取之。以斯緣故吾得見佛。‥‥』
彼時有一比丘尼。年百二十歲。此比丘尼年小時見佛。優波鞠來入其舍。欲問佛容儀。先遣弟子。 彼の時に一比丘尼有り、年は百二十歳なり。此の比丘尼は、年小(わか)き時、仏に見えたれば、優波鞠来たりて、其の舎に入り、仏の容儀を問わんと欲して、先に弟子を遣す。
彼の時、
『一り!』の、
『比丘尼』が有り、
『年』は、
『百二十歳』であった。
此の、
『比丘尼』は、
『年』の、
『少(わか)い!』時、
『仏』を、
『見たことがある!』ので、
『優波鞠』は、
『来て!』、
其の、
『舎(いえ)』に、
『入り!』、
『仏』の、
『容儀』を、
『問おう!』と、
『思って!』、
先に、
『弟子』を、
『遣した!』。
弟子語比丘尼。我大師優波鞠。欲來見汝問佛容儀。 弟子の比丘尼に語らく、『我が大師優波鞠、来たりて汝に見え、仏の容儀を問わんと欲す』、と。
『弟子』は、
『比丘尼』に、こう語った、――
わたしの、
『大師』の、
『優波鞠』は、
『来て!』、
『お前に!』、
『会われ!』、
『仏』の、
『容儀』を、
『問いたい!』と、
『思っていられる!』、と。
是時比丘尼。以缽盛滿麻油著戶扇下試之。知其威儀詳審以不。 是の時、比丘尼は、鉢を以って、麻油を盛りて満て、戸扇の下に著(お)き、之を試して、其の威儀の以って詳審なるや、不やを知らんとす。
是の時、
『比丘尼』は、
『麻油』を、
『山盛りにした!』、
『鉢』を、
『扉』の、
『下』に、
『置いて!』、
『優波鞠』を、
『試し!』、
『優波鞠』の、
『威儀』は、
『心配り!』が、
『されているか、どうか?』を、
『知ろうとした!』。
  戸扇(こせん):排して入る扉。
  威儀(いぎ):身の動作。行儀作法。
  詳審(しょうしん):心配りの行きとどくこと。
優波鞠入徐排戶扇麻油小棄。坐已問比丘尼。汝見佛不。容儀何似。為我說之。 優波鞠は入りて、徐(おもむろ)に戸扇を排(お)して麻油を小し棄(こぼ)し、坐し已りて、比丘尼に問わく、『汝は、仏を見るや不や。容儀は何に似たもう。我が為めに之を説け』、と。
『優波鞠』は、
『入りながら!』、
『徐(おもむろ)に!』、
『扉』を、
『排()して!』、
『麻油』を、
『少し!』、
『棄(こぼ)す!』と、
『坐って!』、
『比丘尼』に、こう問うた、――
お前は、
『仏』を、
『見たのか、どうか?』。
『仏』の、
『容貌』や、
『威儀』は、
何に、
『似ていられた?』、
わたしに、
此の、
『事』を、
『説け!』、と。
比丘尼答。我爾時年小見佛來入聚落。眾人言佛來。我亦隨眾人出見光明便禮。頭上金釵墮地在大闇林下。佛光明照之幽隱皆見即時得釵。我自是後乃作比丘尼。 比丘尼の答うらく、『我れは、爾の時年小きも、仏来たりて、聚落に入りたもうを見る。衆人の仏来たもうと言うに、我れも、亦た衆人に随いて出で、光明を見て、便ち礼せるに、頭上の金釵、地に堕ち、大闇林の下に在り。仏の光明、之を照らすに、幽隠皆見え、即時に釵を得れば、我れは、是れより後、乃ち比丘尼と作れり』、と。
『比丘尼』は、
こう答えた、――
わたしは、
爾の時、
『年』が、
『若うございました!』が、
『仏』が、
『来られて!』、
『聚落』に、
『入られる!』のを、
『見ました!』。
大勢の、
『人』たちが、
『仏』が、
『来られたぞ!』と、
『言うておりました!』ので、
わたしも、
『人』に、
『随って!』、
『出てみます!』と、
『光明』が、
『見えました!』。
そこで、
『お辞儀をいたしました!』ところ、
『頭』上より、
『金』の、
『釵(かんざし)』が、
『抜けて!』、
『地』に、
『堕ちたのでございます!』。
『真っ暗な!』、
『闇』の、
『林でございました!』が、
『仏』の、
『光明』が、
『照らします!』と、
『暗がり』が、
皆、
『見えました!』ので、
すぐに、
『釵』が、
『見つかりました!』。
わたしくは、
是の、
『時』より、
『後』、
やっと、
『比丘尼』と、
『作れたのでございます!』、と。
優波鞠更問。佛在世時比丘威儀禮法何如。 優波鞠の更に問わく、『仏の在世の時、比丘の威儀、礼法は何如(いかん)』、と。
『優波鞠』は、
更に、こう問うた、――
『仏』の、
『世』に、
『在(ましま)した!』時、
『比丘』の、
『威儀』や、
『礼法』は、
『何うであった?』、と。
答曰。佛在時六群比丘無羞無恥最是弊惡。威儀法則勝汝。今日何以知之。六群比丘入戶不令油棄。此雖弊惡知比丘儀法。行住坐臥不失法則。汝雖是六神通阿羅漢不如彼也。 答えて曰わく、『仏の在せる時、六群比丘は無羞無恥にして、最も是れ弊悪なりしが、威儀の法は、則ち汝の今日に勝れり。何を以ってか、之を知る。六群比丘は、戸に入るに、油をして棄(こぼ)れしめず。此れは、弊悪なりと雖も、比丘の儀法を知り、行住坐臥に、法則を失わず。汝は、是れ六神通の阿羅漢なりと雖も、彼れには如かざるなり』、と。
答えて、こう言った、――
『仏』の、
『在した!』時の、
『六群比丘』は、
『無羞』、
『無恥』で、
最も、
『弊悪(劣悪)でございました!』が、
『威儀』の、
『法』では、
『今日』の、
『あなた』よりも、
『勝れていました!』。
何故、
『知ったか』、と申しますと、――
『六群比丘』は、
『戸』に、
『入る!』にも、
『油』を、
『棄すようなことはございません!』。
此れは、
『弊悪でございます!』が、
『比丘』の、
『威儀』の、
『法』を、
『知っておりました!』ので、
『行、住、坐、臥』に、
『法則』を、
『失うことはございませんでした!』。
あなたは、
『六神通』の、
『阿羅漢』なのに、
彼等には、
『及ばないのでございます!』、と。
  六群比丘(ろくぐんびく):梵語SaD- vargiika- bhikSuの訳。一群を成せる六人の比丘の意。また六衆苾芻に作り、単に六群とも称す。即ち仏在世の時、常に党を成して非威儀を事とし、為に多く制戒の因縁となりし六人の悪行比丘を云う。 一に難陀nanda、 二に跋難陀upananda、 三に迦留陀夷kalo-odaayin、 四に闡那chanda、五に阿説迦azvaka、 六に弗那跋punar- vasuなり。この中、難陀はまた難途に、跋難陀は鄔波難陀に、闡那は車匿に作り、また阿説迦は阿湿婆に作り、馬宿、或は馬師と訳し、弗那跋は富那婆娑、或は補捺婆素迦に作り、満宿と訳す。「四分律巻6」に、「世尊はその時この因縁を以って比丘僧を集め、無数の方便を以って六群比丘を呵責し、(中略)六群比丘は癡人なり、多種の有漏処に最初に戒を犯ず」と云い、また「薩婆多毘尼毘婆沙巻4」に、「六群比丘とは一に難途、二に跋難陀、三に迦留陀夷、四に闡那、五に馬宿、六に満宿なり。云わく、二人は漏尽を得て無余涅槃に入る、一は迦留陀夷、二は闡那なり。二人は天上に生ず、また云わく二人は重戒を犯ず。また云わく犯ぜず。もし重を犯ぜば天に生ずることを得ざるなり。一は難途、二は跋難陀なり。二人は悪道に堕して龍中に生ず。一は馬宿、二は満宿なり。二人は善く算数陰陽変運を解す。一は難途、二は跋難陀なり。二人は深く射道に通ず、一は迦留陀夷、二は闡那なり。二人は音楽を善くし種種戯笑す、一は馬宿、二は満宿なり。二人は説法論議を善くす、一は難途、二は跋難陀なり。二人は深く阿毘曇を解す、一は迦留陀夷、二は闡那なり。二人は事事皆能くし、また説法論議に巧みに、また阿毘曇を解す、一は馬宿、二は満宿なり。また云わく、この六人は、法として通ぜざるものなく、三蔵十二部経に通達し、内は法の梁棟となり、外は仏法の大護となる。二人は多欲なり、一は難途、二は跋難陀なり。二人は多瞋なり、一は馬宿、二は満宿なり。二人は多癡なり、一は迦留陀夷、二は闡那なり。また云わく、三人は多欲なり、一は難陀、二は跋難陀、三は迦留陀夷なり。二人は多瞋なり、一は馬宿、二は満宿なり。一人は多癡なり、闡那これなりと。五人はこれ釈種子王種なり、難途、跋難陀、馬宿、満宿、闡那なり。一はこれ婆羅門種なり、迦留陀夷なり。六人は倶にこれ豪族にして共に相影響し、相与に友となりて仏教を宣通す」と云えるこれなり。これこの六比丘は共に豪族にして互いに相友となり、藝に通じ法に達するも貪瞋癡強く、為に多く犯戒し、屡仏の為に呵責せられたることを伝うるなり。四分律には「僧残法第十一以下八戒」、「捨堕法第一以下三戒」、「単堕法第二以下四十戒」、「提舎尼法第二戒」、「衆学法第一以下九十八戒」、総じて一百五十戒は六群比丘の非威儀に由りて制せられたるものとし、また別に難陀は「単堕法第二十二以下二戒」、跋難陀は「捨堕法第六以下十五戒」、「単堕法第三十七以下六戒」、「衆学法第九十五戒」、迦留陀夷は「僧残法第一以下四戒」、「不定法の二戒」、「捨堕法第五戒」、「単堕法第九以下八戒」、闡陀は「僧残法第七以下二戒」、「単堕法第十二以下五戒」、阿説迦及び弗那跋は「僧残法第十二戒」の立制の縁となれりと云えり。また「善見律毘婆沙巻14」には、馬師と満宿とを六群比丘中の上首なりとし、「十誦律巻14」、「摩訶僧祇律巻17」等には難陀、跋難陀を兄弟とし、「鼻奈耶巻2」には馬師、弗那跋を目揵連の弟子とし、目揵連が執杖梵志の為に打殺せられし時、この二比丘は瞋りてまた彼の梵志を殺せしことを記せり。但し六群比丘の名は諸伝によりて不同あり、「摩訶僧祇律巻7及び巻15」等には難陀、跋難陀を除きて三文陀達多、摩醯沙達多を加え、且つこれ等は提婆達多破僧の時、皆その伴党となれりと云い、巴梨文律蔵vinaya- piTaka、及び本生jaataka等にはassaji(阿説迦)、punabbasu(弗那跋)、paNDuka、 lohitaka、 mettiya、 bhummajaの六師となせり。 また別に六群比丘尼あり、「四分律巻12」に、「時に六群比丘尼はかくの如き事を見て極めて大に歓喜す」と云えるこれなり。六群比丘に同じく常に非律儀を行じ、屡仏の譴責を蒙る。但しその名を伝えず。また「五分律巻2」、「善見律毘婆沙巻10」等に出づ。<(望)
優波鞠聞是語大自慚愧。 優波鞠は、是の語を聞いて、大いに自ら慚愧せり。
『優波鞠』は、
是のように、
『語る!』のを、
『聞いて!』、
大いに、
『自ら!』を、
『慚愧した!』。
以是故言一心敬慎。一心敬慎善人相也。 是を以っての故に言わく、『一心に敬慎せよ。一心に敬慎するは、善人の相なり』、と。
是の故に、
こう言うのである、――
『一心』に
『敬って!』、
『慎め!』、
『一心』に、
『敬って!』、
『慎む!』のは、
『善人』の、
『相である!』ぞ、と。
復次何以故言一心敬慎。是菩薩難勝難及難破難近。 復た次ぎに、何を以ってか、言わく『一心に敬慎せよ』、と。是の菩薩には、勝ち難く、及び難く、破り難く、近づき難ければなり。
復た次ぎに、
何故、
こう言ったのか?――
『一心』に、
『敬って!』、
『慎め!』
是の、
『菩薩』には、
『勝ち難く!』、
『及び難く!』、
『破り難く!』、
『近づき難い!』からである。
譬如大師子王難勝難破。亦如白象王及龍王。如大火焰。皆難可近。是菩薩大福德智慧力故。若人欲勝欲破是不可得正可自破。是故言難近。 譬えば、大師子王には、勝ち難く、破り難きが如く、亦た白象王、及び龍王の如き、大火焔の如きにも、皆近づくべきこと難し。是の菩薩は、大福徳の智慧力の故に、若し人勝たんと欲し、破らんと欲するも、是れを得べからず、正しく自ら破るべし。是の故に言わく、『近づき難し』、と。
譬えば、
『大師子王』には、
『勝ち難く!』、
『及び難いように!』、
亦た、
『白象王』や、
『龍王』や、
『大火焔』などにも、
皆、
『近づこう!』とすれば、
『難しいように!』、
是の、
『菩薩』は、
『大きな!』、
『福徳』の、
『智慧』の、
『力』の故に、
若し、
『人』が、
『勝とうとしたり!』、
『破ろうとしても!』、
『そうはならず!』に、
正しく、
『自ら!』を、
『破ることになる!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『近づき難い(及び難い)!』、と。
問曰。一切大菩薩皆大功德智慧利根一切難近。何以獨言娑婆世界中菩薩難近。 問うて曰く、一切の大菩薩は、皆大功徳、智慧、利根ありて、一切は近づき難し。何を以ってか、独り、『娑婆世界中の菩薩には、近づき難し』、と言う。
問い、
一切の、
『大菩薩』は、
皆、
『大功徳』、
『智慧』、
『利根』があり、
一切は、
『近づき難い!』。
何故、
独り、こう言うのですか?――
『娑婆世界』中の、
『菩薩』には、
『近づき難い!』と。
答曰。實如所言。但以多寶世界中菩薩遠來。見此世界不如石沙穢惡。菩薩身小。一切眾事皆亦不如。必生輕慢。是故佛言一心敬慎。彼諸菩薩難近。 答えて曰く、実に言う所の如し。但だ多宝世界中の菩薩の遠く来たりて、此の世界を見るに、石沙の穢悪にも如(し)かず、菩薩の身は小さく、一切の衆事、皆亦た如かずして、必ず憍慢を生ずるを以って、此の故に、仏の言わく、『一心に敬慎せよ。彼の諸の菩薩には近づき難し』、と。
答え、
実に、
『言われる通り!』だが、
但だ、
『多宝世界』中の、
『菩薩』は、
『遠く!』、
『来て!』、
此の、
『娑婆世界』を、
『見る!』と、
此の、
『世界』は、
『石』や、
『砂』の、
『穢らしい!』ことでも、
『多宝世界』に、
『及ばない!』し、
『菩薩』の、
『身』の、
『小さい!』ことでも、
『及ばない!』。
一切の、
『多く!』の、
『事』が、
皆、
『多宝世界』に、
『及ばない!』ので、
必ず、
『軽慢』を、
『生じる!』。
是の故に、
『仏』は、
こう言われたのである、――
『一心』に、
『敬って!』、
『慎め!』、
彼の、
『世界』の、
諸の、
『菩薩』には、
『近づき難い!』、と。
復次樂處生人。多不勇猛不聰明少智慧。如鬱怛羅衛人。以大樂故無出家無受戒。諸天中亦爾。 復た次ぎに、楽処に生ずる人は、多く勇猛ならず、聡明ならず、智慧少し。鬱怛羅衛の人の、大楽を以っての故に、出家無く、受戒無く、諸天中も亦た爾るが如し。
復た次ぎに、
『楽処』に、
『生まれた!』、
『人』は、
『多く!』が、
『勇猛でもなく!』、
『聡明でもなく!』、
『智慧も少い!』。
例えば、
『鬱怛羅衛』の、
『人』は、
『大楽である!』が故に、
『出家する!』者も、
『受戒する!』者も、
『無い!』のと、
『同じ!』である。
諸の、
『天』も、
亦た、
『そうである!』。
  鬱怛羅衛(うったらえ):梵語uttarakuru、須弥山の北の大洲。また北瞿盧洲と称す。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
是娑婆世界中是樂因緣少。有三惡道老病死。土地自活法難。以是故易得厭心。見老病死至心大厭患。見貧窮人知先世因緣所致心生大厭。以是故智慧根利。 是の娑婆世界中は、是れ楽の因縁少なく、三悪道、老病死有りて、土地は、自活の法難し。是を以っての故に、厭心を得易く、老病死を見ては、心に大いに厭患するに至り、貧窮の人を見ては、先世の因縁の致す所を知り、心に大厭を生ず。是を以っての故に、智慧根利なり。
是の、
『娑婆世界』中には、
『楽』の、
『因縁』が、
『少ない!』のに、
『三悪道』や、
『老病死』の、
『苦』が、
『有り!』、
『土地』は、
『自活の法(仕方)』が、
『難しい!』。
是の故に、
『厭心』を、
『得る!』ことも、
『易しい!』。
『老病死』を、
『見れば!』、
『心』は、
大いに、
『厭い!』、
『患うことになり!』、
『貧窮』の、
『人』を、
『見れば!』、
『先世』の、
『因縁』の、
『致す(招く)!』所を、
『知って!』、
大きな、
『厭心』を、
『生じる!』。
是の故に、
『娑婆世界』中の、
『人』の、
『智慧』は、
『根本』が、
『利(利発)である!』。
彼間菩薩七寶世界種種寶樹。心念飲食應意即得。如是生厭心難。是故智慧不能大利。 彼の間の菩薩は、七宝の世界、種種の宝樹、心に飲食を念ずれば、意に応じて、即ち得るも、是の如きは、厭心を生ずること難く、是の故に智慧は、大いに利なる能わず。
彼の、
『世界』の、
『菩薩』は、
『七宝の世界』や、
『種種の宝樹』や、
『心』に、
『飲食』を、
『念じる!』だけで、
『意』に、
『応じて!』、
『得られる!』ので、
是のようであれば、
『厭心』を、
『生じる!』ことが、
『難しく!』、
是の故に、
『智慧』は、
『大いに!』は、
『利発になれない!』。
譬如利刀著好飲食中。刀便生垢。飲食雖好而與刀不相宜。若以石磨之脂灰瑩治垢除刀利。是菩薩亦如是。生雜世界中利智難近。如人少小勤苦多有所能。亦多有所堪。又如養馬不乘則無所任。 譬えば、利刀は好き飲食中に著かば、刀に便ち垢を生じ、飲食は好しと雖も、刀の与(ため)には相宜しからず、若し石を以って之を磨き、脂と灰もて瑩治すれば、垢除こりて、刀利きが如し。是の菩薩も亦た是の如く、雑世界中に生じて、利智なれば、近づき難し。人の少(わか)くして、小(すこ)しく勤苦すれば、多く能くする所有り、亦た多く堪うる所有るが如し。又馬を養うも、乗らざれば、則ち任うる所無きが如し。
譬えば、
『利い!』、
『刀』でも、
『好い!』、
『飲食』中に、
『着ければ!』、
『刀』に、
『垢(さび)』を、
『生じる!』ので、
『飲食』が、
『好く!』ても、
『刀』には、
『宜しくない!』のであり、
若し、
『石』で、
『刀』を、
『磨いたり!』、
『脂』や、
『灰』で、
『艶』を、
『出せば!』、
『垢』は、
『除かれて!』、
『刀』は、
『利くなる!』ように、
『菩薩』も、
是のように、
『粗雑な!』、
『世界』中に、
『生まれた!』が故に、
『利智であり!』、
『近づき難い!』。
譬えば、
『少(わか)い!』ときから、
『小(すこ)しでも!』、
『勤苦(苦労)した!』ならば、
『能くする(できる)』所の、
『事』も、
『多くなり!』、
『堪えられる!』、
『仕事』も、
『多くなったり!』、
又、
『馬』を、
『養っても!』、
『乗らなければ!』、
『走る!』ことに、
『任()えられない!』のと、
『同じである!』。
  瑩治(ようじ):光沢を出させる。
復次是娑婆世界中菩薩。多方便故難近。餘處不爾。 復た次ぎに、是の娑婆世界中の菩薩は、多く方便するが故に、近づき難し。余の処は爾らず。
復た次ぎに、
是の、
『娑婆世界』中の、
『菩薩』は、
『多く!』の、
『方便をする!』が故に、
『近づき難い!』が、
余の、
『処』の、
『菩薩』は、
『そうでない!』。
如佛說我自憶念宿世。一日施人千命度眾生故。雖諸功德六波羅蜜一切佛事具足。而不作佛。恒以方便度脫眾生以是事故。是娑婆世界中菩薩難近 仏の説きたもうが如し、『我れは自ら宿世を憶念するに、一日に人に千の命を施し、衆生を度するが故に、諸の功徳、六波羅蜜、一切の仏事を具足すと雖も、仏と作らず、恒に方便を以って衆生を度脱せり』、と。是の事を以っての故に、是の娑婆世界中の菩薩には、近づき難し。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
わたしは、
自ら、
『宿世』の、
『記憶』を、
『想いだしてみる!』と、――
『菩薩』として、
『一日』ごとに、
『人』に、
『千』の、
『命』を、
『施して!』、
『衆生』を、
『度する!』為めに、
諸の、
『功徳』や、
『六波羅蜜』を、
『具足する!』等、
一切の、
『仏』としての、
『事(義務)』を、
『具足していた!』が、
『仏』と、
『作ることはなく!』、
恒に、
『方便』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『度脱していた!』、と。
是の、
『事』の故に、
是の、
『娑婆世界』中の、
『菩薩』には、
『近づき難い!』のである。



普明、諸の出家在家の菩薩等と共に発つ

【經】爾時普明菩薩從寶積佛受千葉金色蓮花。與無數出家在家菩薩及諸童男童女。俱共發引 爾の時、普明菩薩は、宝積仏より千葉の金色の蓮花を受け、無数の出家、在家の菩薩、及び諸の童男童女と倶共(とも)に発引す。
爾の時、
『普明菩薩』は、
『宝積仏』より、
『千葉』の、
『金色』の、
『蓮花』を、
『受ける!』と、
『無数』の、
『出家』と、
『在家』の、
『菩薩』や、
諸の、
『童男、童女』と、
共に、
『出発して!』、
『引率した!』。
  発引(ほついん):出発と引率。
【論】問曰。是普明菩薩大力神通故應能來。是出家在家菩薩。及童男童女云何自致。多寶世界最在東邊道里悠遠。是自用力行為寶積佛力。是普明菩薩力耶。為釋迦牟尼佛力。 問うて曰く、是の普明菩薩は、大力の神通の故に、応に能く来たるべし。是の出家、在家の菩薩、及び童男、童女は、云何が自ら致す。多宝世界は、最も東辺に在りて、道里悠遠なり。是れ自ら力を用いて行くや、宝積仏の力と為すや。是れ普明菩薩の力なりや、釈迦牟尼仏の力と為すや。
問い、
是の、
『普明菩薩』は、
自らの、
『大力』の、
『神通』の故に、
当然、
『来ることができる!』が、
是の、
『出家』と、
『在家』の、
『菩薩』や、
『童男』、
『童女』は、
何故、
『自ら!』を、
『送り届けることができた!』のですか?
『多宝世界』は、
最も、
『東』の、
『辺(ほとり)』に、
『在って!』、
『道』の、
『里程』は、
『遙かに遠い!』のに、
是の、
『童男』、
『童女』たちは、
『自ら!』の、
『力』を、
『用いて!』、
『行く!』のですか?
『宝積仏』の、
『力』を、
『用いて!』、
『行く!』のですか?
それとも、
『普明菩薩』の、
『力』を、
『用いる!』のですか?
『釈迦牟尼仏』の、
『力』を、
『用いる!』のですか?
  (ち):いたす。おくる。送り届ける。
  悠遠(ゆうおん):はるかに遠い。
答曰。盡是四種人力。是出家居家菩薩。或是不退五通成就菩薩。四如意足好修先世釋迦牟尼佛因緣。亦自用己力。 答えて曰く、尽く、是の四種の人の力なり。是の出家、居家の菩薩は、或いは是れ不退、五通成就の菩薩にして、四如意足もて、好く先世に釈迦牟尼仏の因縁を修めたるらん。亦た自ら己が力を用うるなり。
答え、
尽く、
是の、
『四種』の、
『人』の、
『力』である!。
是の、
『出家』と、
『居家』の、
『菩薩』は、
或いは、
『不退』と、
『五通』を、
『成就した!』、
『菩薩であり!』、
『四如意足』を以って、
好く、
『先世』に、
『釈迦牟尼仏』の、
『因縁』を、
『修めて!』、
亦た
自ら、
『己(おのれ)』の、
『力』を、
『用いた!』のだろう。
  四如意足(しにょいそく):四種の神用を現起する定。即ち欲求(欲)、心念(心)、精進(勤)、観照(観)四法の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起するを云う。『大智度論巻5上注:四如意足、同巻18下注:四神足』参照。
亦是普明菩薩力。何以故。是中力勢薄者。是普明菩薩力故得來。 亦た是れ普明菩薩の力なり。何を以っての故に、是の中の力勢の薄き者は、是れ普明菩薩の力の故に、来たるを得ればなり。
亦た、
是れは、
『普明菩薩』の、
『力でもある!』。
何故ならば、
是の中の、
『力勢』の、
『薄い!』者は、
是の、
『普明菩薩』の
『力』の故に、
『来ることができた!』からである。
如轉輪聖王飛上天。時四種兵及諸宮觀畜獸一切皆飛。轉輪聖王功德大故。能令一切隨而飛從。此亦如是。力勢薄者以普明菩薩力故皆亦得來。 転輪聖王の飛びて、天に上る時、四種の兵、及び諸の宮観、畜獣、一切皆飛ぶが如し。転輪聖王の功徳の大なるが故に、能く一切をして、随いて、飛従せしむればなり。此れも亦た是の如く、力勢の薄き者は、普明菩薩の力を以っての故に、皆亦た来たるを得。
例えば、
『転輪聖王』が、
『飛んで!』、
『天』に、
『上る!』時には、
『四種兵(象兵、馬兵、車兵、歩兵)』と、
諸の、
『宮観』や、
『畜獣』の、
一切が、
『皆!』、
『飛ぶ!』のであるが、
『転輪聖王』の、
『功徳』は、
『大きい!』が故に、
『一切』に、
『随従して!』、
『飛ばせられる!』のであり、
此れも、
亦た、
是のように、
『力勢』の、
『薄い!』者も、
『普明菩薩』の、
『力』を、
『用いた!』が故に、
皆が、
『来ることができた!』のである。
  四種兵(ししゅひょう):転輪聖王の主兵臣に将いらるる四種の兵、即ち象兵、馬兵、車兵、歩兵を云う。『大智度論巻10上注:四兵、同巻21下注:転輪聖王』参照。
  四兵(しひょう):梵語catur- aGga- bala、 又はcatur- aGgin、 catur- aGgiNiiの訳。巴梨語 catur- aGginii、印度古代に於ける四種の組織を有する軍兵を云う。又四軍、四部兵、或いは四兵衆catur- aGga- balaaH kaayaaH とも称す。一に象兵hasti- kaaya(巴hatthi- kaaya)、二に馬兵azva- kaaya(巴assa- kaaya)、三に車兵ratha- kaaya(巴同じ)、四に歩兵patti- kaaya(巴同じ)なり。「長阿含巻4遊行経」に、「時に波婆国の諸末羅は、即ち国中に下して四種の兵、象兵馬兵車兵歩兵を厳にす」と云い、「福力太子因縁経巻3」に、「是れに由りて諸王は共に一処に会し、各四兵を領す。所謂象馬車歩兵なり」と云い、「中阿含巻13烏鳥喩経」に、「転輪王珠宝を試みんと欲する時、便ち四種の軍を集む。象軍、馬軍、車軍、歩軍なり」と云い、「摩訶僧祇律巻18」に、「軍に四種あり、象軍、馬軍、車軍、歩軍なり。象軍とは四人象足を護る、是れを象軍と名づく。馬軍とは八人馬足を護る、是れを馬軍と名づく。車軍とは十六人車を護る、是れを車軍と名づく。歩軍とは三十二人兵杖を執持す、是れを歩軍と名づく。是れを四種の軍と名づく」と云える是れなり。又「大唐西域記巻2」に、「国の戦士は驍雄選を畢え、子父業を伝えて遂に兵術を窮む。居れば則ち宮盧を周衞し、征すれば則ち奮旅して前鋒たり。凡そ四兵あり、歩馬車象なり。象は則ち被するに堅甲を以ってし、牙に利距を施す。一将安乗して其の節度を授け、両卒左右にして之れが駕馭を為す。車は乃ち駕するに駟馬を以ってし、兵帥居乗し、列卒周衞し、輪を扶け轂を挟む。馬軍は禦を散じ北ぐるを逐い命に奔る。歩軍は軽捍敢勇なるを選に充て、大樐を負い長戟を執り、或いは刀剣を持して前奮行陣す。凡そ諸の戎器は鋒鋭ならざるなく、所謂矛盾、弓矢、刀剣、鉞斧、戈殳、長矟、輪索の属にして皆世習なり」とあり。之に依るに玄奘旅行当時にも尚お其の制の行われたるを知るべし。又「長阿含巻1大本経」、「同巻18転輪聖王品」、「大楼炭経巻2転輪王品」、「大般涅槃経巻下」、「頻婆娑羅王経」、「賢愚経巻9」、「金光明最勝王経巻6」、「四分律巻16」、「有部毘奈耶巻37」等に出づ。<(望)
亦是寶積佛力。及釋迦牟尼光明照之。若自無力但釋迦牟尼佛光明照之。亦應能來。何況有三。 亦た是れ宝積仏の力、及び釈迦牟尼の光明之を照らせばなり。若し自らに力無くとも、但だ釈迦牟尼仏の光明、之を照らさば、亦た応に能く来たるべし。何に況んや、三有るをや。
亦た、
是れは、
『宝積仏』の、
『力』と、
『釈迦牟尼仏』の、
『光明』が、
『照らした!』からである。
若し、
自らに、
『力』が、
『無くても!』、
但だ、
『釈迦牟尼仏』の、
『光明』が、
『照らすだけ!』でも、
『来られるはず!』である、
況して、
『三つ!』も、
『力』が、
『有れば!』、
『尚更であろう!』。
問曰。是普明菩薩何不獨來。而多將眾人。 問うて曰く、是の普明菩薩は、何ぞ独り来たらず、而も多くの衆人を将(ひき)いる。
問い、
是の、
『普明菩薩』は、
何故、
『独り!』、
『来ない!』で、
多くの、
『衆人』を、
『将(ひき)いてきた!』のですか?
答曰。翼從所宜故。譬如國王出時必有營從。 答えて曰く、翼従の宜しき所なるが故なり。譬えば、国王の出づる時には、必ず営従あるが如し。
答え、
『翼従』は、
『適切』な、
『事だから!』である。
譬えば、
『国王』が、
『外に!』、
『出る!』時には、
必ず、
『従者』が、
『有る!』のと、
『同じ!』である。
  翼従(よくじゅう):梵語anuyaatrikaの訳。随行する(形容詞)、又は随行者の義。漢詞は鳥の翼のように、左右に随うこと。又左右に随う従者。
  営従(ようじゅう):梵語parivaaraの訳。取り巻き、従者の意。
復次是普明菩薩。及釋迦牟尼佛因緣人故。所以者何。彼大眾中二眾共來。是故知有因緣者來。無因緣者住。 復た次ぎに、是の普明菩薩は、釈迦牟尼仏の因縁に及ぶ人なるが故なり。所以は何んとなれば、彼の大衆中の二衆共に来たればなり。是の故に知る、因縁有る者は来たり、因縁無き者は住まると。
復た次ぎに、
是の、
『普明菩薩』は、
『釈迦牟尼仏』の、
『因縁』に、
『及ぶ(連なる)!』、
『人だから!』である。
何故ならば、
彼の、
『大衆』中の、
『二衆(出家、在家)』が、
『共に!』、
『来た!』からである。
是の故に、
こう知るのである、――
『釈迦牟尼仏』に、
『因縁』の、
『有る!』者は、
『来て!』、
『因縁』の、
『無い!』者は、
『来ない!』、と。
  (ぎゅう):およぶ。つらなる。連。
問曰。是菩薩何以故。與諸在家出家童男童女俱來。 問うて曰く、是の菩薩は、何を以っての故にか、諸の在家、出家、童男、童女と、倶に来たる。
問い、
是の、
『菩薩』は、
何故、
諸の、
『在家、出家、童男、童女』と、
『倶に!』、
『来た!』のですか?
答曰。佛弟子七眾。比丘比丘尼學戒尼沙彌沙彌尼優婆塞優婆夷。優婆塞優婆夷是居家。餘五眾是出家。出家在家中更有二種。若大若小。小者童男童女。餘者為大。 答えて曰く、仏の弟子は七衆の比丘、比丘尼、学戒尼、沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷なり。優婆塞、優婆夷は是れ居家にして、余の五衆は是れ出家なり。出家、在家中に更に二種有り、若しは大、若しは小なり。小の者は童男、童女なり。余の者を大と為す。
答え、
『仏』の、
『弟子』は、
『七衆』の、
『比丘』、
『比丘尼』、
『学戒尼』、
『沙弥』、
『沙弥尼』、
『優婆塞』、
『優婆夷』である。
是の中、
『優婆夷』と、
『優婆塞』の、
『二衆』は、
『居家であり!』、
余の、
『五衆』は、
『出家である!』。
『出家』と、
『在家』中にも、
更に、
『二種』有り、
『大きい!』者と、
『小さい!』者である。
『小さい!』者とは、
『童男』と、
『童女』をいい、
余の者は、
『大きい!』者である。
問曰。大者應行。小者何以能來。 問うて曰く、大なる者は、応に行くべし。小なる者は、何を以ってか、能く来たる。
問い、
『大きい!』者は、
『行く!』に、
『適する!』が、
『小さい!』者が、
何故、
『来れた!』のですか?
答曰。在功德不在大小。若失功德利行不善法雖老而小。若有功德利行善法雖小而大。 答えて曰く、功徳の在るは、大、小に在らず。若し功徳の利なるを失い、不善法を行ずれば、老いたりと雖も、小なり。若し功徳の利なる有りて、善法を行ずれば、小なりと雖も、大なり。
答え、
『功徳』が、
『在る!』のは、
『大きい!』とか、
『小さい!』とかに、
『在るのではない!』。
若し、
『功徳』に、
『利(するど)さ!』を、
『失い!』、
『不善』の、
『法』を、
『行えば!』、
『老いた!』者も、
『小さく!』、
若し、
『功徳』に、
『利さ!』が、
『有り!』、
『善』の、
『法』を、
『行えば!』、
『小(わかい)』者でも、
『大きい!』からである。
復次此小者遠來。人見則歎。小而能爾為法遠來。亦顯佛法小大皆得奉行。外道法中婆羅門得行其法。非婆羅門不得行。 復た次ぎに、此の小なる者の遠く来たらば、人は見て則ち、『小なるに、能く爾(しか)く法の為めに、遠く来たれる』、と歎じて、亦た仏法には、小も大も皆、奉行することを得ることを顕わさん。外道の法中には婆羅門なれば、其の法を行ずるを得るも、婆羅門に非ざれば、行ずるを得ず。
復た次ぎに、
此の、
『小さな!』者が、
『遠く!』より、
『来た!』のを、
『人』が、
『見る!』と、
こう歎じるだろう、――
『小さい!』のに、
このように、
『法』の、
『為めに!』、
『遠く!』から、
『来られたものだ!』、と。
則ち、
『仏』の、
『法』には、
『小さい!』者も、
『大きい!』者も、
皆、
『奉行することができる!』のだと、
『顕わす!』ことになるが、
『外道』の、
『法』は、
『婆羅門であれば!』、
其の、
『法』を、
『行うことができる!』が、
『婆羅門でなければ!』、
其の、
『法』を、
『行うことができない!』のである。
  奉行(ぶぎょう):誠実と敬意を以って行うことを云う。
佛法無大無小無內無外。一切皆得修行。譬如服藥以除病為主。不擇貴賤大小 仏法には大も無く、小も無く、内も無く、外も無く、一切は皆、修行するを得。譬えば、薬を服(の)むは、以って病を除くを主と為し、貴賎、大小を択ばざるが如し。
『仏』の、
『法』には、
『小(こども)』も、
『大(おとな)』も、
『内(仏弟子)』も、
『外(外道)』も、
『無く!』、
『一切』が、
『皆(誰でも)!』、
『修行することができる!』。
譬えば、
『薬』を、
『服む!』のは、
『病』を、
『除く!』ことが、
『主(本分)』であって、
『貴賎』や、
『大小』を、
『択ばない!』のと、
『同じである!』。



普明等、皆東方の諸仏を供養する

【經】皆供養恭敬尊重讚歎東方諸佛 皆、東方の諸仏を供養、恭敬、尊重、讃歎す。
皆は、
『東方』の、
諸の、
『仏』を、
『供養し!』、
『恭敬し!』、
『尊重し!』、
『讃歎した!』。
【論】問曰。若皆供養東方諸佛諸佛甚多。何時當訖得來此間。 問うて曰く、若し皆、東方の諸仏を供養せば、諸仏は甚だ多し。何れの時にか、当に訖(おわ)りて、此の間に来るを得べき。
問い、
若し、
皆が、
『東方』の、
諸の、
『仏』を、
『供養した!』ならば、
諸の、
『仏』は、
『甚だ多い!』ので、
何時、
『訖(おわ)って!』、
此の、
『世界』に、
『来ることができる!』のですか?
答曰。是諸菩薩非作人天法供養。自行菩薩供養法。 答えて曰く、是の諸の菩薩は、人天の法を作して供養するにあらず、自ら菩薩の供養法を行ずるなり。
答え、
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『人』や、
『天』の、
『法(儀式)』を、
『作して!』、
『供養するのではない!』。
自ら、
『菩薩』の、
『供養する!』、
『法』を、
『行う!』のである。
菩薩供養法。身入禪定其身直進。從其身邊出無量身。化作種種供養之物滿諸佛世界。譬如龍王行時從身出水普雨天下。 菩薩の供養法とは、身は禅定に入りて、其の身直進し、其の身の辺より、無量の身を出し、種種の供養の物を化作して、諸の仏世界を満つるなり。譬えば、龍王の行く時、身より水を出して、普く天下に雨ふらすが如し。
『菩薩』の、
『供養する!』、
『法』とは、――
『身』が、
『禅定』に、
『入る!』と、
其の、
『身』は、
『真直ぐ!』、
『進みながら!』、
『身』の、
『辺』より、
『無量』の、
『身』を、
『出して!』、
『種種』の、
『供養の物』を、
『化作し!』、
諸の、
『仏の世界』を、
『満たす!』ことである。
譬えば、
『龍王』が、
『行く!』時、
『身』より、
『水』を、
『出して!』、
普く、
『天下』に、
『雨ふらす!』のと、
『同じである!』。
問曰。此諸菩薩欲詣釋迦牟尼佛。何以中道供養諸佛。 問うて曰く、此の諸の菩薩は、釈迦牟尼仏を詣でんと欲す。何を以ってか、中道に、諸仏を供養する。
問い、
此の、
諸の、
『菩薩』は、
『釈迦牟尼仏』に、
『詣でたい!』と、
『思っている!』のに、
何故、
『中道』に於いて、
諸の、
『仏』を、
『供養する!』のですか?
答曰。諸佛第一福田。若供養者得大果報。 答えて曰く、諸仏は第一の福田なればなり。若し供養せば、大果報を得ん。
答え、
諸の、
『仏』は、
『第一』の、
『福田』である。
若し、
『供養すれば!』、
『得る!』、
『果報』も、
『大きい!』からである。
譬如人廣修田業為多得穀故。諸菩薩見諸佛供養得佛果報。是故供養。 譬えば、人の、広く田業を修むるは、多くの穀を得る為なるが故なるが如く、諸菩薩は、諸仏を見えて供養すれば、仏の果報を得。是の故に供養するなり。
譬えば、
『人』が、
『広く!』、
『田』の、
『業(仕事)』を、
『修める!』のは、
『多く!』の、
『穀』を、
『得る!』、
『為めであるように!』、
諸の、
『菩薩』も、
諸の、
『仏』に、
『会って!』、
『供養すれば!』、
『仏』という、
『果報』を、
『得られる!』ので、
是の故に、
『供養する!』のである。
復次菩薩常敬重於佛。如人敬重父母。諸菩薩蒙佛說法。得種種三昧種種陀羅尼種種神力。知恩故廣供養。 復た次ぎに、菩薩の、常に仏を敬重すること、人の父母を敬重するが如し。諸の菩薩は、仏の説法を蒙りて、種種の三昧、種種の陀羅尼、種種の神力を得れば、恩を知るが故に、広く供養す。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
常に、
『仏』を、
『敬ったり!』、
『重んじたり!』して、
譬えば、
『人』が、
『父母』を、
『敬って!』、
『重んじる!』ようであるのは、
諸の、
『菩薩』は、
『仏』の、
『説かれる!』、
『法』を、
『蒙(こうむ)って!』、
種種の、
『三昧』を、
『得たり!』、
種種の、
『陀羅尼』を、
『得たり!』、
種種の、
『神力』を、
『得る!』からであり、
『菩薩』は、
『仏』の、
『恩』を、
『知る!』が故に、
『仏』を、
『広く!』、
『供養する!』のである。
如法華經中藥王菩薩。從佛得一切變現色身三昧。作是思惟我當云何供養佛及法華三昧。 法華経中の薬王菩薩の如きは、仏より、一切変現色身三昧を得て、是の思惟を作さく、『我れは当に、云何が、仏、及び法華三昧を供養すべき』、と。
例えば、
『法華経』中の、
『薬王菩薩』などは、
『仏』より、
『一切変化色身三昧』を、
『得る!』と、
是のような、
『思惟』を作した、――
わたしは、
何のように、
『仏』や、
『法華三昧』を、
『供養すればよいのか?』、と。
  参考:『妙法蓮華経巻6薬王菩薩本事品』:『爾時彼佛。為一切眾生喜見菩薩及眾菩薩諸聲聞眾。說法華經。是一切眾生喜見菩薩樂習苦行。於日月淨明德佛法中。精進經行一心求佛。滿萬二千歲已。得現一切色身三昧。得此三昧已心大歡喜。即作念言。我得現一切色身三昧。皆是得聞法華經力。我今當供養日月淨明德佛及法華經。即時入是三昧。於虛空中雨曼陀羅華摩訶曼陀羅華。細末堅黑栴檀。滿虛空中如雲而下。又雨海此岸栴檀之香此香六銖。價直娑婆世界。以供養佛。作是供養已。從三昧起。而自念言。我雖以神力供養於佛。不如以身供養。即服諸香。栴檀。薰陸。兜樓婆。畢力迦。沈水。膠香。又飲瞻蔔諸華香油。滿千二百歲已。香油塗身。於日月淨明德佛前。以天寶衣而自纏身。灌諸香油。以神通力願。而自然身。光明遍照八十億恒河沙世界。其中諸佛同時讚言。善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如來。若以華香瓔珞燒香末香塗香天繒幡蓋及海此岸栴檀之香。如是等種種諸物供養。所不能及。假使國城妻子布施亦所不及。善男子。是名第一之施。於諸施中最尊最上。以法供養諸如來故。作是語已而各默然。其身火燃千二百歲。過是已後其身乃盡。一切眾生喜見菩薩。作如是法供養已。命終之後。復生日月淨明德佛國中。於淨德王家。結加趺坐忽然化生。』
即時飛到天上。以三昧力雨七寶華香幡蓋供養於佛。出三昧已意猶不足。於千二百歲。服食眾香飲諸香油。然後以天白疊纏身而燒。自作誓言。使我身光明照八十恒河沙等佛世界。 即時に飛びて、天上に到り、三昧の力を以って、七宝の華香、幡蓋を雨ふらして、仏を供養し、三昧より出已りて、意は猶お足らず、千二百歳に於いて、衆香を服食し、諸の香油を飲み、然る後に天の白畳を以って身に纏いて焼き、自ら誓を作して言わく、『我が身の光明をして、八十恒河沙に等しき仏世界を照らしめよ』、と。
即時に、
『飛んで!』、
『天上』に、
『到る!』と、
『三昧』の、
『力』で、
『七宝』の、
『華香』、
『幡蓋』を、
『雨ふらして!』、
『仏』を、
『供養した!』が、
『三昧』より、
『出てみる!』と、
『意』は、
猶お、
『不足していた!』ので、
『千二百年の間』、
『多く!』の、
『香』を、
『食い!』、
諸の、
『香油』を、
『飲んで!』、
そうした後に、
『天』の、
『白畳(白布)』を、
『身』に、
『纏(まと)って!』、
『焼く!』と、
自ら、
『誓』を作して、こう言った、――
わたしの、
『身』の、
『光明』に、
『八十恒河沙』に、
『等しい!』、
『仏』の、
『世界』を、
『照させよ!』、と。
  白畳(びゃくじょう):白い布。また白氎とも云う。
是八十恒河沙等世界中。諸佛讚言。善哉善哉善男子。以身供養是為第一勝。以國城妻子供養百千萬倍。不可以譬喻為比。於千二百歲身然不滅。 是の八十恒河沙に等しき世界中の、諸仏の讃じて言わく、『善い哉、善い哉、善男子、身を以って供養するは、是れを第一に勝れたりと為す。国城、妻子を以って供養するに、百千万倍、譬喩を以っては、比と為すべからず』、と。千二百歳に於いて、身は然(も)えて滅せず。
是の、
『八十恒河沙』に、
『等しい!』、
『世界』中の、
諸の、
『仏』は、
『讃じて!』、こう言われた、――
善いぞ!
善いぞ!
善男子!
『身』を以って、
『供養する!』のは、
『第一』に、
『勝る!』、
『国城』や、
『妻子』を以って、
『供養する!』ことの、
『百千万倍!』、
『譬喩』を、
『用いては!』、
『比べられないほどである!』、と。
是の、
『身』は、
『千二百年間』、
『然()えつづけ!』、
『消えることはなかった!』。  ――以上法華経――
復次是供養佛。得無量名聞福德利益。諸不善事皆悉滅除。諸善根得增長。今世後世常得供養報。久後得作佛。 復た次ぎに、是の仏を供養するは、無量の名聞、福徳、利益を得て、諸の不善の事は皆悉く滅除し、諸の善根の増長するを得て、今世、後世に常に、供養の報を得、久しき後には、仏と作るを得。
復た次ぎに、
是の、
『仏』を、
『供養する!』者は、
無量の、
『名聞』と、
『福徳』と、
『利益』を、
『得て!』、
諸の、
『不善の事』は、
皆、
『悉く!』が、
『滅除し!』、
諸の、
『善根』の、
『増長する!』を、
『得て!』、
『今世、後世』に、
『供養』の、
『報』を、
『得て!』、
『久しい後』に、
『仏』と、
『作る!』ことを、
『得る!』。
如是供養佛得種種無量利。以是故諸菩薩供養佛 是の如く、仏を供養すれば、種種無量の利を得。是を以っての故に、諸の菩薩は、仏を供養するなり。
是のように、
『仏』を、
『供養すれば!』、
種種、
無量の、
『利』を、
『得られる!』ので、
是の故に、
諸の、
『菩薩』は、
『仏』を、
『供養する!』のである。



釈迦牟尼仏の所に到り、頭面に足を礼す

【經】持諸華香。瓔珞。末香澤香燒香塗香。衣服幢蓋。向釋迦牟尼佛所。到已頭面禮佛足一面立。 諸の華香、瓔珞、末香、沢香、焼香、塗香、衣服、幡蓋を持して、釈迦牟尼仏の所に向い、到り已りて頭面に仏の足を礼し、一面に立てり。
諸の、
『華香、瓔珞、末香、沢香、焼香、塗香、衣服、幢蓋』を、
『持って!』、
『釈迦牟尼仏の所』に、
『向い!』、
『到着する!』と、
『頭面』に、
『仏』の、
『足』を、
『礼して!』、
『壁』の、
『一面』に、
『立った!』。
【論】問曰。應言禮。何以名頭面禮足。 問うて曰く、当に『礼す』と言うべし。何を以ってか、『頭面に足を礼す』と名づくる。
問い、
『礼する!』と、
『言うべき!』なのに、
何故、
こう言うのですか?――
『頭面』に、
『足』を、
『礼した!』、と。
答曰。人身中第一貴者頭。五情所著而最在上故。足第一賤。履不淨處最在下故。是故以所貴禮所賤。貴重供養故。 答えて曰く、人身中、第一に貴きは、頭なり。五情の著する所にして、最も上に在るが故なり。足は第一に賎し。不浄の処を履みて、最も下に在るが故なり。是の故に、貴ぶ所を以って、賎しむ所を礼せり。貴び重んじて供養するが故なり。
答え、
『人』の、
『身』中に、
『第一』に、
『貴い!』のは、
『頭である!』、
『五情(眼、耳、鼻、舌、身)』の、
『著する(帰する)』所であり、
『最も!』、
『上』に、
『在る!』からである。
『第一』に、
『賎しい!』のは、
『足である!』、
『不浄の処』を、
『履()み!』、
『最も!』、
『下』に、
『在る!』からである。
是の故に、
『貴ばれる!』、
『頭』で、
『賎しまれる!』、
『足』を、
『礼する!』のは、
『貴んで!』、
『重んじる!』という、
『供養だから!』である。
復次有下中上禮。下者揖。中者跪。上者稽首。頭面禮足是上供養。以是故佛毘尼中。下坐比丘兩手捉上坐兩足。以頭面禮。 復た次ぎに、下、中、上の礼有り。下の者は揖し、中の者は跪き、上の者は稽首す。頭面にて足を礼するは、是れ上の供養なり。是を以っての故に、仏の毘尼中に『下坐の比丘は、両手に上坐の両足を捉りて、頭面を以って礼せよ』、となり。
復た次ぎに、
『礼法』には、
『下』と、
『中』と、
『上』とが、
『有り!』、
『下』は、
『会釈して!』、
『礼し!』、
『中』は、
『跪いて!』、
『礼し!』、
『上』は、
『稽首して!』、
『礼する!』。
『頭面』で、
『足』を、
『礼する!』のは、
『上』の、
『供養である!』。
是の故に、
『仏』は、
『毘尼』中に、こう言われた、――
『下坐』の、
『比丘』は、
『上坐』の、
『両足』を、
『捉って!』、
『頭面』で、
『礼せよ!』、と。
  (ゆう):拱手して上下左右にする礼法。会釈。
  (き):ひざまづく。両膝を地に著きて、尻を足跟(かかと)に著けるを坐といい、其の腰と股を直にするを跪と云う。
  稽首(けいしゅ):両手両膝と頭を地に著ける礼法を云う。
  毘尼(びに):梵語vinaya、律蔵と訳す。比丘戒を集めしもの。『大智度論巻24下注:律』参照。
  参考:『四分律巻59』:『爾時世尊在王舍城。時優波離。從坐起偏露右肩右膝著地合掌白佛言。年少比丘。在上座比丘前懺悔。有幾法。佛告優波離。有五法。偏露右肩脫革屣禮足右膝著地合掌。應說罪名種性作如是語。我某甲比丘。犯如是如是罪。從長老懺悔。上座應答言。自責汝心生厭離。彼人答言爾。年少比丘。在上座前懺悔。應以是五法。優婆離復問。年少客比丘。禮上座舊比丘。應以幾法。佛告言。年少客比丘。應以五法禮上座舊比丘。應偏露右肩脫革屣右膝著地捉上座兩足言。大德我和南。是為五法。年少舊比丘。禮客上座比丘亦如是。有五種人不應禮。自言犯邊罪犯比丘尼賊心受戒破二道黃門。是為五。復有五法。殺父殺母殺阿羅漢破僧惡心出佛身血。是為五。比丘復有五種威儀不應禮。若大便若小便若露身若剃髮時若說法時。是為五。復有五。若嚼楊枝若洗口若食若飲若食果。是為五。』
問曰。四種身儀若坐若立若行若臥。何以故一面立。 問うて曰く、四衆の身儀は、若しは坐し、若しは立ち、若しは行き、若しは臥す。何を以っての故にか、一面に立つ。
問い、
『四種』の、
『身』の、
『威儀』とは、――
則ち、
『坐る!』か、
『立つ!』か、
『行く!』か、
『臥せる!』かである。
何故、
『一面』に、
『立つ!』のですか?
答曰。為來故不應行。為恭敬供養故不應臥。此事易明何足問耶。應問或坐或立。坐者於供養不重。立者恭敬供養法。 答えて曰く、来たりと為さんが故には、応に行くべからず。恭敬、供養すと為さんが故には、応に臥すべからず。是の事は明らめ易し、何ぞ問うに足らんや。応に、或いは坐し、或いは立つを問うべし。坐せば、供養に於いて重んぜず、立てば、恭敬、供養の法なり。
答え、
『来る!』と、
『言った!』ならば、
『行くはずがない!』、
『恭敬し!』、
『供養する!』と、
『言った!』ならば、
『臥せるはずがない!』。
此の、
『事』は、
『容易に!』、
『説明できる!』、
何うして、
『問う!』に、
『足ろうか?』。
当然、
こう問うべきである、――
何故、
『坐るのか?』とか、
『立つのか?』、と。
『坐って!』、
『供養すれば!』
『重んじたことにならない!』。
『立って!』、
『恭敬し!』、
『供養する!』のが、
『法である!』。
復次佛法中。諸外道出家及一切白衣來到佛所皆坐。外道他法輕佛故坐。白衣如客是故坐。一切五眾身心屬佛。是故立。 復た次ぎに、仏法中に、諸の外道の出家、及び一切の白衣来たりて、仏所に到れば、皆坐す。外道は、他法にして仏を軽んずるが故に坐し、白衣は客の如ければ、是の故に坐す。一切の五衆の身心は、仏に属すれば、是の故に立つ。
復た次ぎに、
『仏』の、
『法』中には、
諸の、
『外道』の、
『出家』と、
一切の、
『白衣(俗人)』は、
『仏』の、
『所(居処)』に、
『来る!』と、
皆、
『坐る!』というのが、
『法(習慣)である!』が、
『外道』は、
『他法(仏法以外)』であって、
『仏』を、
『軽んじる!』が故に、
『坐り!』、
『白衣』は、
『客』に、
『似ている!』ので、
是の故に、
『坐る!』のである。
一切の、
『五衆(比丘、比丘尼、学戒尼、沙弥、沙弥尼)』は、
『身』も、
『心』も、
『仏』に、
『属する!』ので、
是の故に、
『立つ!』のである。
若得道諸阿羅漢。如舍利弗目連須菩提等所作已辦。是故聽坐。 若し、道を得たる諸の阿羅漢の、舎利弗、目連、須菩提等の如きは、作す所已に辦じたれば、是の故に坐すを聴(ゆる)す。
若し、
『道』を、
『得た!』、
諸の、
『阿羅漢』の、
例えば、
『舎利弗』や、
『目連』や、
『須菩提』等であれば、
已に、
『作すべき!』、
『事』が、
『作されている!』ので
是の故に、
『坐る!』ことが、
『聴(ゆる)される!』。
餘雖得三道亦不聽坐。大事未辦。結賊未破故。 余は、三道を得たりと雖も、亦た坐るを聴さず。大事未だ辦ぜず、結の賊未だ破れざるが故なり。
諸の、
『阿羅漢』以外は、
『三道(見道、修道、無学道)』を、
『得ていても!』、
『坐る!』ことが、
『聴されない!』のは、
未だ、
『大きな!』、
『事』が、
『作されていない!』からであり、
『結(煩悩)』の、
『賊』が、
『破られていない!』からである。
  三道(さんどう):種種の惑を断ずる階梯に見道、修道、無学道の三種の別あるを云う。『大智度論巻18下注:三道』参照。
譬如王臣大有功勳故得坐。是諸菩薩中。雖有白衣以從遠來供養佛故立 譬えば、王臣の大いに勲功有るが故に坐するを得るが如し。是の諸の菩薩中に、白衣有りと雖も、遠くより来たりて、仏を供養するを以っての故に立てり。
譬えば、
『王』の、
『臣』の、
『勲功』が、
『大いに!』、
『有った!』が故に、
『坐る!』ことを、
『聴される!』のと、
『同じである!』。
是の、
諸の、
『菩薩』中にも、
『白衣』は、
『有った!』が、
『仏』を、
『供養する!』為め、
『遠く!』から、
『来た!』が故に、
『立っていた!』。



宝積仏は、釈迦牟尼仏に問訊を致す

【經】白佛言。寶積如來致問世尊。少惱少患興居輕利氣力安樂不。又以此千葉金色蓮華供養世尊 仏に白して言さく、『宝積如来、問を世尊に致すらく、少悩少患、興居軽利にして、気力安楽なりや不やと。又此の千葉、金色の蓮華を以って、世尊を供養せよとなり』、と。
『仏』に白して、
こう言った、――
『宝積如来』より、
『問(挨拶)』が、
『届けられました!』、――
『悩(なやみ)』や、
『患(わずらい)』は、
『少のうございますか?』、
『興(たつこと)』と、
『居(すわること)』とは、
『軽利ですか?』、
『気力』は、
『安楽ですか?』、と。
又、
此の、
『千葉』、
『金色』の、
『蓮華』を以って、
『世尊』を、
『供養せよ!』とのことです、と。
  軽利(きょうり):かるくするどい。
【論】問曰。寶積佛一切智。何以方問訊釋迦牟尼佛。少惱少患興居輕利氣力安樂不。 問うて曰く、宝積仏は、一切智なり。何を以ってか、方に釈迦牟尼仏に問訊すべきこと、『少悩少患、興居軽利にして、気力安楽なりや不や』と。
問い、
『宝積仏』は、
『一切智である!』のに、
何故、
こんな風に、
『釈迦牟尼仏』に、
『訊ねなくてはならない!』のですか?――
『悩』や、
『患』は、
『少ないですか?』、
『興』や、
『居』は、
『軽利ですか?』、
『気力』は、
『安楽ですか?』、と。
  問訊(もんじん):梵語pratisaMmodanaの訳。問い訊ぬるの義、敬礼法の一種。即ち合掌曲躬して安否を問うを云う。『大智度論巻2上注:問訊』参照。
答曰。諸佛法爾。知而故問。如毘尼中。達貳迦比丘作赤色瓦窟。佛見已知而問阿難。此作何物。 答えて曰く、諸仏の法は爾り、知りて故(ことさら)に問いたもう。毘尼中、達貳迦比丘の、赤色の瓦窟を作れるが如し。仏見已りて、知りたもうに、阿難に問いたまわく、『此れは何物をか、作れる』、と。
答え、
諸の、
『仏』の、
『法』は、
『そうである!』、
『仏』は、
『知っていても!』、
『知らない!』かのように、
『問われる!』のである。
例えば、
『毘尼』中に、こう説く通りである、――
『達貳迦比丘』が、
『赤色』の、
『煉瓦』で、
『窟(房舎)』を、
『作った!』ところ、
『仏』は、
『見る!』と、
『知っていられる!』のに、
『阿難』に、こう問われた、――
此れは、
何のような、
『物』として、
『作ったのか?』、と。
  達貳迦(たつにか):梵名dhanikaa、仏の弟子。また檀貳迦、檀尼迦、但尼迦、陀尼迦等に作る。「四分律巻1」等に依れば、この比丘は本と陶家の子なり。善く泥を和して作りて全て瓦屋と成し、柴薪牛屎及び草を取りて、これを焼くに、色の赤きこと火の如しと云い、また、その瓶沙王の守材人を欺騙して材木を盗取せるに因り、仏は不与取他人財物の戒を制したまえりと云えり。また「十誦律巻1」、「摩訶僧祇律巻3」、「善見律毘婆沙巻8」、「根本説一切有部毘奈耶巻2」、「根本薩婆多部律摂巻2」等に出づ。<(佛)
  (くつ):坐禅をする処。房舎。
  参考:『四分律巻1』:『爾時世尊。遊羅閱城耆闍崛山中。時羅閱城中有比丘字檀尼迦陶師子。在閑靜處止一草屋。彼比丘入村乞食。後有取薪人破其草屋持歸。比丘乞食還作是念。我今獨在閑靜處自取草木作屋。入村乞食。後取薪柴人破我屋持歸。我今自有技藝。寧可和泥作全成瓦屋。時彼比丘即便和泥作全成瓦屋。取柴薪牛屎燒之。屋成色赤如火。爾時世尊從耆闍崛山下。遙見此舍色赤如火。見已知而故問。諸比丘此是何等赤色。諸比丘白佛言。世尊。有一比丘名檀尼迦陶師子。獨處閑靜住一草屋。乞食後諸取薪人破其屋持歸。彼還見舍破即作是念。我自有技藝今寧可作全成瓦屋於中止住。即便作之。是其屋色赤如是。爾時世尊以無數方便呵責彼比丘言。汝所為非。非威儀非沙門法非淨行非隨順行所不應為。云何檀尼迦比丘陶師子。自作此屋大集柴薪牛屎而燒之。我常無數方便說慈愍眾生。云何癡人。自作泥屋聚積柴薪牛屎而燒之。自今已去不得作赤色全成瓦屋。作者突吉羅。爾時世尊敕諸比丘。汝等共集相率速詣檀尼迦屋所打破。時諸比丘即如佛教往詣打破。時檀尼迦見諸比丘破屋已便作是語。我有何過而破我屋。諸比丘答曰。汝無有過亦不憎汝。我向受世尊教故來破汝屋耳。檀尼迦比丘言。若世尊教敕者正是其宜。爾時摩竭國瓶沙王有守材人。與此檀尼迦比丘少小親厚知識。時檀尼迦比丘往至守材人所語言。汝知不耶。王瓶沙與我材木。我今須材便可與我。彼人言。若王與者好惡多少隨意自取。王所留要材比丘輒取斫截持去。時有一大臣統知城事。至材坊見王所留要材斫截狼藉。見已即問守材人言。此王所留要材誰斬截持去。守材人言。是檀尼迦比丘。來至我所而作是言。王與我材。今須材用便可見與。我尋報言。王與汝材恣意取之。時比丘即入材坊斫截持去。時大臣聞此語已即嫌王言。云何以此要材與比丘。幸自更有餘材可以與之。而令此比丘斫截要材持去。時大臣往至王所白言。大王。先所留要材云何乃與比丘令斫截持去。幸自更有餘材可以與之。何故壞此好材。王報言。我都不自憶以材與人。若有憶者語我。時大臣即攝守材人來將詣王所。時守材人遙見檀尼迦比丘語言。大德。以汝取材故今攝我去。汝可來為我決了。慈愍故。比丘報言。汝但去我正爾往。時檀尼迦比丘後往王所在前默然而住。王即問言。大德。我實與汝材不。比丘答言。實與我材。王言。我不憶與汝材。汝可為我作憶念。比丘報言。王自憶不。初登位時口自發言。若我世時於我境內。有沙門婆羅門知慚愧樂學戒者。與而取不與不取與而用不與不用。從今日沙門婆羅門草木及水聽隨意用。不得不與而用自今已去。聽沙門婆羅門草木及水隨意用。王言大德。我初登位時實有如是語。王言大德。我說無主物不說有主物。大德應死。王自念言。我剎利王水澆頭種。云何以少材而斷出家人命。是所不應爾時王以無數方便訶責比丘已。敕諸臣放此比丘去。即如王教放去。後諸臣皆高聲大論不平。王意云何。如此死事但爾呵責而放也。時羅閱城中有諸居士不信樂佛法眾者。皆譏嫌言。沙門釋子無有慚愧無所畏懼不與而取。外自稱言。我知正法。如是何有正法。尚取王材何況餘人。我等自今已往勿復親近沙門釋子禮拜問訊供養恭敬。無使入村勿復安止。時諸比丘聞諸少欲知足行頭陀知慚愧樂學戒者。嫌責檀尼迦。云何偷瓶沙王材木耶。爾時諸比丘往至佛所頭面禮足已在一面坐。以此因緣具白世尊。世尊爾時以此因緣集比丘僧。知而故問。檀尼迦比丘。汝審爾王不與材而取不答言。實爾世尊。世尊爾時以無數方便訶責檀尼迦比丘言。汝所為非。非威儀非沙門法非淨行非隨順行。所不應為。云何檀尼迦王不與材而取。我無數方便稱歎與者當取取者當用。汝今云何王不與材而取耶』
阿難白佛。是陶家子出家。字達貳迦。作小草舍常為放牛人所壞。三作三破。是故作此瓦舍。 阿難の仏に白さく、『是れ陶家の子出家して、達貳迦と字(な)づけ、小さき草舎を作れるに、常に放牛人に壊(やぶ)らるること、三たび作りて、三たび破らるれば、是の故に、此の瓦舎を作れり』、と。
『阿難』は、
『仏』に、こう白した、――
是れは、
『陶家』の、
『子』で、
『出家して!』、
『達貳迦』と、
『呼ばれています!』が、
『小さな!』、
『草』の、
『舎』を、
『作った!』ところ、
常に、
『放牛人』に、
『壊されて!』、
『三たび!』、
『作っては!』、
『破られました!』ので、
是の故に、
此の、
『煉瓦』の、
『舎』を、
『作りました!』、と。
佛語阿難。破此瓦窟。何以故。外道輩當言。佛大師在時漏處法出。如是等處處知而故問。 仏の阿難に語りたまわく、『此の瓦の窟を破れ。何を以っての故に、外道の輩当に言うべし、仏大師の在る時すら、漏処法出づと』、と。是の如き等の故に、処処に知りて、故に問いたまえり。
『仏』は、
『阿難』に、こう語られた、――
此の、
『煉瓦』の、
『窟(房舎)』を、
『破れ!』。
何故ならば、
『外道の輩』が、
必ず、こう言うからである、――
『仏』という、
『大きな!』、
『師』の、
『在()られる!』時すら、
『漏(煩悩)』の、
『処()る!』、
『法(習慣)』が、
『出ている!』と、と。
是れ等のように、
処処に、
『知っていても!』、
『知っていない!』かのように、
『問われる!』のである。
  漏処法(ろじょほう):漏の処(お)る法の意。漏は煩悩を指し、即ち煩悩の対象となる法を云う。
  参考:『十誦律巻26』:『佛在舍衛國。佛身中冷氣起。藥師言。應服三辛粥。佛告阿難。辦三辛粥。阿難受敕。即入舍衛城。乞胡麻粳米摩沙豆小豆。合煮和三辛以粥上佛。佛知故問問阿難。誰煮此粥。答言我。佛告阿難。汝持是粥。棄著無草地無虫水中。何以故。若外道梵志見如是事。必作是語。諸沙門釋子。師在時漏處法出。阿難受敕。即持粥棄著無草地無虫水中。佛以是因緣集僧。集僧已告諸比丘。從今大比丘煮食不應噉。若噉得突吉羅罪。內宿內煮內宿外煮外宿內煮自煮不應噉。若噉得突吉羅罪』
復次佛雖一切智。隨世界法。世人問訊佛亦問訊。佛人中生受人法。寒熱生死與人等。問訊法亦應等。 復た次ぎに、仏は、一切智なりと雖も、世界法に随い、世人問訊すれば、仏も亦た問訊したもう。仏は、人中に生まれて、人法を受け、寒熱、生死は、人と等しければ、問訊の法も、亦た応に等しかるべし。
復た次ぎに、
『仏』は、
『一切智である!』が、
『世間』の、
『法』に、
『随われる!』ので、
『世間』の、
『人』が、
『問訊すれば!』、
『仏』も、
亦た、
『問訊される!』のであるが、
『仏』は、
『人』中に、
『生まれて!』、
『人』としての、
『法(肉身)』を、
『受け!』、
『寒熱』や、
『生死』は、
『人』に、
『等しい!』ので、
当然、
『問訊』という、
『法』も、
『等しいはず!』である。
復次世界中大貴大賤不應相問訊。佛等力故應相問訊。 復た次ぎに、世界中に大貴、大賎は応に相問訊すべからざるも、仏は、等しき力の故に、応に相問訊すべし。
復た次ぎに、
『世界中(世間)』には、
『大貴』と、
『大賎』とは、
『互いに!』、
『問訊するはずがない!』が、
『仏』は、
『力』が、
『等しい!』が故に、
『互いに!』、
『問訊するはずである!』。
復次是多寶世界清淨莊嚴。佛身色像光明亦大。若不問訊人謂輕慢。又復欲示佛世界身色光明種種雖勝。智慧神力俱等無異。是故問訊。 復た次ぎに、是の多宝世界は清浄に荘厳されて、仏身の色像、光明も亦た大なり。若し問訊せずば、人は、軽慢なりと謂わん。又復た仏の世界、身色、光明種種に勝れたりと雖も、智慧、神力は倶に等しく、異無きことを示さんと欲し、是の故に、問訊したもう。
復た次ぎに、
是の、
『多宝』という、
『世界』は、
『清浄』に、
『荘厳されており!』、
『仏身』の、
『色像』や、
『光明』も、
『大きい!』ので、
若し、
『問訊しなければ!』、
『人』は、
『軽慢だ!』と、
『謂うかもしれない!』。
又復た、
『仏』の、
『世界』、
『色身』、
『光明』等が、
『種種に!』、
『勝れていた!』としても、
『智慧』と、
『神力』は、
皆、
『等しく!』して、
『異ならない!』ということを、
『示そう!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
『問訊される!』のである。
問曰。何以問少病少惱不。 問うて曰く、何を以ってか、『少病、少悩なりや不や』と問う。
問い、
何故、
『病』や、
『悩』が、
『少ないか?』と、
『問うのですか?』。
答曰。有二種病。一者外因緣病。二者內因緣病。 答えて曰く、二種の病有り、一には外の因縁の病、二には内の因縁の病なり。
答え、
『病』には、
『二種』有り、
一には、
『外』の、
『因縁』の、
『病であり!』、
二には、
『内』の、
『因縁』の、
『病である!』。
外者寒熱飢渴兵刃刀杖墜落堆壓。如是等種種外患名為惱。內者飲食不節臥起無常四百四病。如是等種種名為內病。 外とは、寒熱、飢渴、兵刃、刀杖、墜落、推圧の、是の如き等の種種の外の患を名づけて、悩と為す。内とは、飲食に節せず、臥起に常無き、四百四の病、是の如き等の種種を名づけて、内の病と為す。
『外』の、
『病』とは、
『寒熱、飢渴、兵刃、刀杖、墜落、推圧』など、
是れ等の、
種種の、
『外』の、
『患』を、
『悩』と、
『呼び!』、
『内』の、
『病』とは、
『飲食』に、
『節制しない!』とか、
『臥起』が、
『常でない!』ことにより、
『起る!』所の、
『四百四』の、
『病』など、
是れ等の
種種を、
『内』の、
『病』と、
『呼ぶ!』のである。
如此二病有身皆苦。是故問少惱少患不。 此の二病の身に有るが如きは、皆苦なり。是の故に問わく、『少悩、少患なりや不や』、と。
此の、
『二つ!』の、
『病』が、
『身』に、
『有る!』時などは、
皆、
『苦である!』、
是の故に、
『悩』や、
『患』が、
『少ないか?』と、
『問う!』のである。
問曰。何以不問無惱無病。而問少惱少患。 問うて曰く、何を以ってか、無悩、無病なるを問わずに、少悩、少患なるを問う。
問い、
何故、
『悩』や、
『病』が、
『無いか?』と、
『問わず!』に、
『悩』や、
『患』が、
『少ないか?』と、
『問う!』のですか?
答曰。聖人實知身為苦本無不病時。何以故。是四大合而為身。地水火風性不相宜。各各相害。 答えて曰く、聖人の実に知りたまわく、『身を苦の本と為し、病まざる時無し』、と。何を以っての故に、是の四大合するを、身と為すに、地水火風の性の相宜しからずして、各各相害すればなり。
答え、
『聖人』は、
実に、こう知っていられるからである、――
『身』とは、
『苦』の、
『本である!』が故に、
『病まない!』、
『時』は、
『無い!』、と。
何故ならば、
『身』とは、
『四大』の、
『集合である!』が、
『地、水、火、風』という、
『性』は、
『互いに!』、
『適応しない!』ので、
各各が、
『互いに!』、
『害する!』からである。
譬如疽瘡無不痛時。若以藥塗可得少差。而不可愈。人身亦如是。常病常治。治故得活。不治則死。以是故不得問無惱無病。 譬えば、疽瘡の痛まざる時無く、若し薬を以って塗るも、少しく差(い)ゆるを得べきも、愈ゆるべからざるが如し。人の身も亦た是の如く、常に病み、常に治り、治るが故に活くるを得、治らざれば則ち死す。是を以っての故に、無悩、無病を問うを得ず。
譬えば、
『疽瘡(ふきでもの)』は、
『痛まない!』、
『時』が、
『無く!』、
『薬』を、
『塗った!』としても、
『少し!』は、
『癒える!』こともあるが、
『完全』には、
『癒える!』ことが、
『無い!』のと、
『同じように!』、
『人』の、
『身』も、
是のように、
常に、
『病んだり!』、
『治ったり!』して、
『治った!』が故に、
『活きられ!』、
『治らなかった!』が故に、
『死ぬ!』ので、
是の故に、
『病』や、
『悩』が、
『無いか?』と、
『問うことはできない!』のである。
  疽瘡(そそう):悪性のふきでもの。癰疽。瘡は皮膚病の総称。
外患常有風雨寒熱為惱故。復有身四威儀坐臥行住。久坐則極惱。久臥久住久行皆惱。以是故問少惱少患。 外の患の、常に有るは、風雨、寒熱に悩さるるが故なり。復た身の四威儀の坐、臥、行、住有りて、久しく坐せば、則ち悩を極め、久しく臥し、久しく住し、久しく行くも、皆悩なり。是を以っての故に少悩、少患なるを問う。
『外』の、
『患』が、
『常に!』、
『有る!』のは、
『風雨』や、
『寒熱』に、
『悩まされる!』からであるが、
復た、
『身』には、
『四つ!』の、
『坐、臥、行、住』という、
『威儀』が、
『有り!』、
『久しく!』、
『坐っていれば!』、
『悩』を、
『極める!』し、
『久しく!』、
『臥せていても!』、
『住まっていても!』、
『歩いていても!』、
皆、
『悩む!』ことになるので、
是の故に、
こう問うのである、――
『悩』や、
『患』は、
『少ないか?』、と。
問曰。問少惱少患則足。何以復言興居輕利。 問うて曰く、少悩と少患とを問えば、則ち足る。何を以ってか、復た興居の軽利を言う。
問い、
『悩』や、
『患』が、
『少ないか?』と、
『問えば!』、
『足る!』のに、
何故、
復た、
こう言うのですか?――
『興(おきあがる!)』ことや、
『居(すわる!)』ことは、
『軽利ですか?』と。
答曰。人雖病差未得平復。以是故問興居輕利。 答えて曰く、人は、病差(い)ゆと雖も、未だ平復を得ず。是の故に興居の軽利を問うなり。
答え、
『人』は、
『病』が、
『愈えていても!』、
『回復まではしていない!』。
是の故に、
こう問うのである、――
『興』と、
『居』とは、
『軽利ですか?』と。
問曰。何以故言氣力安樂不。 問うて曰く、何を以っての故にか、『気力安楽なりや不や』、と言う。
問い、
何故、
こう言うのですか?――
『気力』は、
『安楽ですか?』、と。
答曰。有人病差雖能行步坐起。氣力未足不能造事施為攜輕舉重故。問氣力。有人雖病得差能舉重攜輕。而未受安樂。是故問安樂不。 答えて曰く、有る人は、病差えて、能く行き、歩き、坐り、起つと雖も、気力未だ足らずして、造事、施為し、輕きを携え、重きを挙ぐる能わざるが故に、気力を問う。有る人は、病の差ゆるを得て、能く重きを挙げ、軽きを携うと雖も、未だ安楽を受けざれば、是の故に、『安楽なりや不や』、と問う。
答え、
有る人は、
『病』が、
『癒えて!』、
『動いたり!』、
『歩いたり!』、
『坐ったり!』、
『起ったりできる!』が、
『気力』が、
『足らない!』ので、
『起業することもできず!』、
『経営することもできず!』、
『軽い物を携えることもできず!』、
『重い物を挙げることもできない!』が故に、
『気力』を、
『問い!』、
有る人は、
『病』が、
『癒えて!』、
『重い物を挙げることもでき!』、
『軽い物を携えることもできる!』が、
未だ、
『安楽でない!』が故に、
『安楽ですか?』と、
『問う!』のである。
  造事(ぞうじ):事を作す、事を為す。造作。造為。
  施為(せい):事を行う。行為。加えて為す。
問曰。若無病有力。何以未受安樂。 問うて曰く、若し病無く、力有れば、何を以ってか、未だ安楽を受けざる。
問い、
若し、
『病』が、
『無く!』て、
『力』が、
『有る!』ならば、
何故、
未だ、
『安楽』を、
『受けない!』のですか?
答曰。有人貧窮恐怖憂愁。不得安樂。以是故問得安樂不。 答えて曰く、有る人は、貧窮、恐怖、憂愁して、安楽を得ず、是を以っての故に、『安楽を得るや不や』、と問う。
答え、
有る人は、
『貧窮していたり!』、
『恐怖していたり!』、
『憂愁していたり!』で、
『安楽』を、
『得られない!』ので、
是の故に、
『安楽』を、
『得たかどうか?』と、
『問う!』。
復次有二種問訊法。問訊身問訊心。若言少惱少病興居輕利及氣力。是問訊身。若言安樂不。是問訊心。 復た次ぎに、二種の問訊法有りて、身を問訊し、心を問訊す。若し、少悩、少病、興居の軽利、及び気力を言わば、是れ身を問訊し、若し、『安楽なりや不や』と言わば、是れ心を問訊するなり。
復た次ぎに、
『問訊』の、
『法』には、
『二種』有り、
『身』を、
『問訊する!』ことと、
『心』を、
『問訊する!』ことである。
若し、
『悩は少ないか?』とか、
『病は少ないか?』とか、
『興居は軽利か?』とか、
『気力はどうか?』と、
『問えば!』、
是れは、
『身』を、
『問訊した!』のであり、
若し、
『安楽かどうか?』と、
『問えば!』、
是れは、
『心』を、
『問訊した!』のである。
種種內外諸病名為身病。婬欲瞋恚嫉妒慳貪憂愁怖畏等。種種煩惱九十八結五百纏。種種欲願等。名為心病。是一一病問訊故。言少惱少病興居輕利氣力安樂不。 種種の内外の諸病を名づけて、身病と為し、婬欲、瞋恚、嫉妬、慳貪、憂愁、怖畏等の、種種の煩悩、九十八の結、五百の纏、種種の欲願等を名づけて、心病と為し、是の一一の病を問訊するが故に、『悩少なく、病少なく、興居軽利にして、気力安楽なりや不や』と言う。
種種の、
『内』と、
『外』の、
諸の、
『病』を、
『身病』と、
『称し!』、
『婬欲』、
『瞋恚』、
『嫉妬』、
『慳貪』、
『憂愁』、
『怖畏』等の、
種種の、
『煩悩』や、
『九十八』の、
『結』、
『五百』の、
『纏』、
種種の、
『欲願』等を、
『心病』と、
『称する!』のであるが、
是の、
『一一』の、
『病』を、
『問訊する!』が故に、
こう言うのである、――
『悩は少ないか?』、
『病は少ないか?』、
『興居は軽利か?』、
『気力は安楽か?』、と。
問曰。人問訊則應爾。諸天尚不應如此問訊。何況於佛。 問うて曰く、人の問訊すること、則ち応に爾るべし。諸天すら、尚お応に此の如く問訊すべからず。何に況んや、仏に於いてをや。
問い、
『人』が、
『問訊する!』ならば、
当然、
『そうであるべき!』だが、
諸の、
『天』すら、
尚お、
『此のようには!』、
『問訊するはずがない!』、
況して、
『仏』ならば、
『尚更であろう?』。
答曰。佛身二種。一神通變化身。二父母生身。父母生身受人法故不如天。是故應如人法問訊。 答えて曰く、仏身に二種あり、一には神通変化の身、二には父母の生ずる身なり。父母の生ずる身は、人法を受くるが故に、天に如かず。是の故に、応に人法の如く問訊すべし。
答え、
『仏』の、
『身』には、
『二種』有り、
一には、
『神通』で、
『変化した!』所の、
『身であり!』、
二には、
『父母』より、
『生じた!』、
『身である!』。
『父母』より、
『生じた!』、
『身』は、
『人』としての、
『法()』を、
『受ける!』が故に、
『天』に、
『及ばない!』。
是の故に、
『仏』は、
当然、
『人』としての、
『身であるか!』のように、
『問訊される!』のである。
問曰。一切賢聖心無所著。不貪身不惜壽不惡死不悅生。若如是者何用問訊。 問うて曰く、一切の賢聖の心には、著する所無ければ、身を貪らず、寿を惜まず、死を悪(にく)まず、生を悦ばず。若し是の如き者なれば、何にか、問訊を用うる。
問い、
一切の、
『賢聖』は、
『心』に、
『著する!』所が、
『無い!』ので、
『身』を、
『貪らず!』、
『寿』を、
『惜まず!』、
『死』を、
『悪(にく)まず!』、
『生』を、
『悦ばない!』。
若し、
是のような者ならば、
何うして、
『問訊』を、
『用いる!』のですか?
答曰。隨世界法故。受人法問訊。遣問訊亦以人法。千葉金色蓮華如上說 答えて曰く、世界法に随うが故に、貧法を受けて問訊するなり。問訊を遣(おく)ることも、亦た人法を以ってなり。千葉の金色の蓮華は、上に説けるが如し。
答え、
『世間』の、
『法(習慣)』に、
『随う!』が故に、
『人』としての、
『法』を、
『受けて!』、
『問訊する!』のであり、
『人』を、
『遣して!』、
『問訊する!』のも、
『人』としての、
『法』を、
『用いる!』からである。
『千葉』の、
『金色』の、
『蓮華』については、
上に、
『説く通り!』である。


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