巻第九(上)
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大智度初品中放光釋論之餘(卷第九)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


光明の色像巍巍として、十方の世界に至る

【經】爾時世尊在師子座上坐。於三千大千世界中其德特尊。光明色像威德巍巍。遍至十方如恒河沙等諸佛世界。譬如須彌山王光色殊特眾山無能及者 爾の時、世尊は師子座上に坐したもうに、三千大千世界中に於いて、其の徳は特に尊く、光明の色像は威徳巍巍たりて、遍く十方の恒河沙に等しきが如き、諸仏の世界に至れり。譬えば、須弥山王の光色殊特にして、衆山の能く及ぶ者無きが如し。
爾の時、
『世尊』は、
『師子座』に、
『坐っていられた!』が、
其の、
『徳』は、
『三千大千世界』中に、
『特に!』、
『尊く!』、
『光明』の、
『色像』は、
『威徳』が、
『巍巍としており(山のよう)!』、
『十方』の、
『恒河沙』ほどの、
諸の、
『仏世界』に、
『遍く至った!』。
譬えば、
『須弥山王』の、
『光色』が、
『殊特であり!』、
『衆山』に、
『及ぶ!』者が、
『無い!』ようであった。
  (ざい):に。於に同じ。
  巍巍(ぎぎ):高きこと山の如き状態。
【論】問曰。佛以何力故。於一切眾生中其德特尊光明威德巍巍乃如是耶。如轉輪聖王諸天聖人。亦有大力光明威德。何以獨言佛德特尊。 問うて曰く、仏は何の力を以っての故にか、一切の衆生中に於いて、其の徳特に尊く、光明の威徳巍巍たること、乃ち是の如しや。転輪聖王の如き、諸天、聖人にも、亦た大力、光明、威徳有るに、何を以ってか、独り、仏の徳を特に尊しと言う。
問い、
『仏』は、
何のような、
『力』に、
『因って!』、
一切の、
『衆生』中に、
其の、
『徳』が、
『特に!』、
『尊かったり!』、
『光明』の、
『威徳』が、
『巍巍とされていたり!』して、
そして、
是のように、
『成られた!』のですか?
例えば、
『転輪聖王』のような、
諸の、
『天』や、
『聖人』にも、
『大力』や、
『光明』や、
『威徳』が、
『有る!』のに、
何故、
独り、
『仏』のみを、
其の、
『徳』が、
『特に尊い!』と、
『言う!』のですか?
答曰。此諸賢聖雖有光明威德有量有限。譬如眾星日光既出則沒不現。 答えて曰く、此の諸の賢聖にも、光明、威徳有りと雖も、有量有限なればなり。譬えば、衆星の日光既に出づれば、則ち没して現われざるが如し。
答え、
此の、
諸の、
『賢聖』も、
『光明』や、
『威徳』を、
『有する!』が、
『有量、有限』だからである。
譬えば、
『衆星』は、
『日光』が出る!と、
『没して!』、
『現われない!』のと同じである。
  賢聖(けんじょう):賢者と聖者との総称。『大智度論巻4上注:賢聖』参照。
佛從無量阿僧祇劫集大功德。一切具足因緣大故果報亦大。餘人無此。 仏は、無量阿僧祇劫より、大功徳を集め、一切具足せる因縁の大なるが故に、果報も亦た大なり。余人には此れ無し。
『仏』は、
『無量阿僧祇劫』の間、
常に、
『大功徳』を、
『集めて!』、
一切の、
『功徳』を、
『具足された!』が、
其の、
『因縁(由縁)』が、
『大である!』が故に、
『果報』も、
亦た、
『大である!』。
余の、
『人』には、
此の、
『因縁、果報』が、
『無い!』。
復次佛世世修諸苦行無量無數。頭目髓腦常施眾生。豈唯國財妻子而已。 復た次ぎに、仏は、世世に諸の苦行を修めて、無量無数の頭目、髄脳を常に衆生に施したまえり。豈に唯だ国財、妻子のみならんや。
復た次ぎに、
『仏』は、
世世、
諸の、
『苦行』を、
『修めて!』、
無量、無数の、
『頭目、髄脳』を、
常に、
『衆生』に、
『施された!』、
唯だ、
『国財、妻子』のみを、
『衆生』に、
『施された!』のではない。
一切種種戒種種忍種種精進種種禪定。及無比清淨不可壞不可盡智慧。世世修行已具足滿。此果力故得不可稱量殊特威神。以是故言因緣大故果報亦大。 一切の種種の戒、種種の忍、種種の精進、種種の禅定、及び無比、清浄、不可壊、不可尽の智慧を世世に修行し、已に具足して満てる、此の果力の故に、不可称量の殊特の威神を得たまえり。是を以っての故に言わく、『因縁大なるが故に、果報も亦た大なり』と。
一切の、
種種の、
『持戒』、
『忍辱』、
『精進』、
『禅定』と、
及び、
『無比であり!』、
『清浄であり!』、
『壊されることのない!』、
『尽くすことのできない!』、
『智慧』とを、
『世世に!』、
『修行して!』、
已に、
『具足して!』、
『満たされた!』という、
此の、
『因縁』の、
『果報』の、
『力』の故に、
『無量』、
『殊特』の、
『威神』を、
『得られた!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『因縁』が、
『大である!』が故に、
『果報』も、
亦た、
『大である!』、と。
問曰。若佛神力無量威德巍巍不可稱說。何以故受九罪報。 問うて曰く、若し仏の神力無量にして、威徳巍巍たること、称説すべからずんば、何を以っての故にか、九罪報を受けたまえる。
問い、
若し、
『仏』の、
『神力』が、
『無量である!』ことや、
『威徳』が、
『巍巍たる!』ことが、
『称えきれないほどだ!』とすれば、
『仏』は、
何故、
『九罪報』を、
『受けられた!』のですか?
  九罪報(くざいほう):過去の業因より、仏の受けられし九種の罪報。『大智度論巻9上注:九悩』参照。
  九悩(くのう):又仏九悩、九厄、九横、九難、九罪報、九種罪報等に作る。仏の過去の業障に因り、成道の後に受けられし因果報応の九種の災難をいう。即ち、一に、仏は昔婆羅門の子火鬘となり、瓦師の子護喜と相善たり、護喜はかつて数火鬘を邀えて迦葉如来を拝見せんとす、然れども火鬘は何を用ってかこの髠道人を見んとの悪言を以って、三たび拒めり、この因縁に由りて「六年苦行」の報応を受く。二に、仏は昔博戯の浪人となり、かつて婬女鹿相を辟支仏の日常修道せる園中に誘いて娯楽せり、後に鹿相女を殺して、辟支仏に禍を嫁せり、故に「孫陀利の謗」の報応を受く。三に、仏は昔商賈主となり、船を争うに因りて格戦し、矛鑹を以って別の一商賈主の脚を穿ち命終を致せり、故に乞食の時に於いて、「木槍に足趺を穿徹する」の報応を受く。四に、仏は昔婆羅門たりし時、かつて比婆葉如来及び比丘衆の槃頭王の供養を受けしを妒み、遂に悪言を発し、並びにその五百の童子に教えて彼等を罵らしめ、須って馬麦を食わしめたり、故に仏及び五百羅漢は毘蘭邑に於ける時、「馬麦を食うこと九十日」の報応を受く。五に、昔時に釈種族は池の中の魚を捕殺し、仏は一童子となりて、かつて杖を以って魚頭を打てり、故に「琉璃王の釈種を殺す」の報応を受く。六に、「乞食空鉢」、仏はかつて婆羅門受楽に入りて乞食するも得ずして、鉢を空にして返る。七に、仏は昔、一比丘となり、無勝比丘の善幻婦の供養を受くるを妒むに因り、遂に無勝は善幻と通ずと謗れり、これに由りて仏は法を説ける時、「旃陀女、盂を腹に繋けて毀謗誣賴する」の報応を受く。八に、仏は昔須摩提となり、その異母弟と財産を分くるを欲せざるに因り、遂に高崖に於いてその弟を推落し、石を投げて撃殺せり、故に「提婆達多、石を以って仏を撃つ」の報応を受く。九に、仏は阿羅婆伽林中に於いて、冬至前後の八夜、凍寒に堪えず、曽ねて三衣を索め寒を禦ぐ。また「興起行経」にはこの詳細を説き、「大智度論巻9」にはこれを略して説き、またその一部は「長阿含巻2遊行経」、「雑阿含経巻39、巻44」、「増一阿含経巻26、巻47」、「義足経巻下」、「菩薩従兜術天降神母胎広普経巻7」、「十誦律巻26」、「有部毘奈耶薬事巻18」、「摩訶僧祇律巻31」等に出づ。<(佛)
一者梵志女孫陀利謗。五百阿羅漢亦被謗。 一には、梵志女孫陀利謗りて、五百の阿羅漢も亦た謗らる。
一には、
『梵志の女(むすめ)』の、
『孫陀利』が、
『仏』を、
『謗り!』、
『五百』の、
『阿羅漢』も、
『謗られた!』。
  孫陀利(そんだり):梵名sundariの音訳。また須陀利、酸陀利、酸陀難提に作り、好首、或は可愛と訳す。仏を誹謗せんが為に外道に謀殺されし婬女の名。仏かつて舎衛国祇園精舎に在りし時、その徳望既に高く、国王人民挙りて仏を供養し、また諸外道を尊重する者なし。時に国中の外道これを嫉み、謀りて仏を毀けんと欲し、婬女孫陀利をして強いて朝暮に仏所に至り、また屡精舎に往来せしめ、諸人為に仏及び諸弟子の持戒徳行を疑うに至れり。後諸外道は更に孫陀利を殺害してその尸を祇樹に埋め、王宮に至りて彼の所在を知らずと揚言す。王その女は常に何処に在りしやと問うに、常に沙門瞿曇の所を往来せりと答えたるを以って、王は即ち吏兵を遣して祇樹の間を捜索し、果たして孫陀利の死屍を得たり。ここに於いて悪声里巷に満ち、比丘等城に入りて乞食するも、人遙かにこれを見て罵辱し、また供養する者なし。時に仏諸比丘に告げて曰わく、我れこの妄謗を被るも七日を過ぎざるのみと。乃ち阿難をして城に入りて法を説かしめ、為に諸里皆漸く実なきを覚り、後その外道の所為なること露見するに及び、王大いに怒りて諸外道を国外に放逐せりと云えるこれなり。「興起行経巻上孫陀利宿縁経」、及び「孛経抄」等に各孫陀利過去の宿縁を説けり。また「六度集経巻5釈家畢罪経」、「仏五百弟子自説本起経世尊品」、「義足経巻上須陀利経」、「菩薩処胎経巻7行品」、「大智度論巻25」等に出づ。<(望)
二者旃遮婆羅門女。繫木盂作腹謗佛。 二には、旋遮婆羅門女、木盂を繋けて腹と作し、仏を謗る。
二には、
『旋遮婆羅門の女』が、
『木盂(たらい)』を繋けて、
『腹』を、
『作り!』、
『仏』を、
『謗った!』。
  旃遮婆羅門女(せんじゃばらもんにょ):仏の為めに妊めりと称して仏を誹謗せし外道女の名。『大智度論巻9下注:旋遮』参照。
  旋遮(せんしゃ):梵名ciJcaa、巴梨名同じ。又旃闍、栴遮、栴闍、氈遮、戦遮、或いは旋に作り、又旃遮摩那ciJca maanavikaとも称し、栴遮摩那、栴遮摩、遮摩那祇、栴酌迦、旋酌迦に作る。仏の為めに妊めりと称して仏を誹謗せし外道女の名。仏九悩の一。又懐槃女子とも名づく。仏曽て舎衛国祇樹給孤獨園に在り、大衆に囲遶せられて説法し給いし時、世尊を毀辱せんと欲し、自ら懐に木盂を繋ぎ、衣を以って之を覆うて仏所に至り、大衆の中に在りて声を揚げて曰わく、此の説法の人は口に無量の義を出すと雖も、我れと通じて懐妊せしむ。腹中の児は即ち釈種なりと。邪見の者は之を信じ、貞固の者は以って仏を誹謗すとなす。時に天帝釈は其の疑を除かんと欲し、化して白鼠となりて盂の糸を齧断し、糸断の声大衆を震動す。爾の時、衆中の一人起ちて木盂を持して曰わく、是れ汝の児なるやと。時に地自ら裂けて女は阿鼻獄中に堕せりと云える是れなり。「高僧法顕伝」並びに「大唐西域記巻6」には、給孤獨園の附近に其の遺跡ありとなせるも、「生経巻1栴闍摩暴志謗仏経」等には、之を本生話として記述せり。又「六度集経巻5」、「出曜経巻10誹謗品」、「菩薩処胎経巻7行品」、「仏五百弟子自説本起経世尊品」、「有部毘奈耶薬事巻16」、「大毘婆沙論巻35」、「大智度論巻2」、「翻梵語巻6」等に出づ。<(望)
  木盂(もくう):木のたらい。
三者提婆達推山壓佛傷足大指。 三には、提婆達、山を推して、仏を圧し、足の大指を傷つく。
三には、
『提婆達』が、
『仏』を、
『岩』で、
『圧殺しよう!』とし、
『足』の、
『大指』を、
『傷つけた!』。
  提婆達(だいばだつ):梵名devadatta。巴梨名同じ、破僧を為せし悪比丘の名。。『大智度論巻24(下)注:提婆達多』参照。
四者迸木刺腳。 四には、迸木脚を刺す。
四には、
『迸木(木槍)』に、
『脚』を、
『刺された!』。
  迸木(ひょうもく):涌く木の意。逆茂木(サカモギ)?他本には多く木槍と為す。
五者毘樓璃王興兵殺諸釋子佛時頭痛。 五には、毘楼璃王、兵を興して、諸の釈子を殺せし時、頭痛したまえり。
五には、
『毘楼璃王』が、
『兵』を興して、
諸の、
『釈子』を、
『殺戮した!』時、
『頭痛された!』。
  毘楼璃王(びるりおう):梵名viruuDhaka憍薩羅国の王。『大智度論巻9下注:毘琉璃王』参照。
  毘琉璃王(びるりおう):毘琉璃viruuDhakaは梵名。また毘盧宅迦、毘盧釈迦、毘流離、毘流勒、毘流他、毘楼璃、毘楼勒、鞞留羅、維楼黎、維楼勒、毘盧、流離、琉璃、瑠璃に作り、増長、または長と訳し、或は悪生王とも云う。憍薩羅kosalaa国の王にして、即ち波斯匿prasenajit王の太子(「法句譬喩経巻2悪行品」には第二子)なり。その名称の由来に関し、「瑠璃王経」には「産育の初め瑠璃宝と倶なり、因って以って号と為す」と云い、「増一阿含経巻26」には、波斯匿王は迦毘羅国の釈種に欺かれ、摩訶男の婢の生める女を迎えて第一夫人となし、尋いで一男を挙ぐるに及び、相師をして字を立てしむるに、相師は初め夫人を求むる時、諸釈共に諍い、或は与うべしと言い、或は与うべからずと言い、彼此流離せしが故に毘流離と名づくべしと語りしに由るとし、また「有部美奈耶雑事巻7」には、波斯匿王が大名(摩訶男)の婢の女勝鬘を立てて夫人となせし時、王の母がこの女は必ず我が憍薩羅城を喪すものなりと予記せしを以って、後一男を生むに及び、母の予記に従って悪生と名づけたるものなりと云えり。王の生涯に関しては、迦毘羅城攻略、釈種鏖殺の一事のみ専ら喧伝せらる。「増一阿含経巻26」に、王は長じて八歳に及び、父波斯匿王の命により迦毘羅城摩訶男の舎に至りて射術を学ぶ。偶ま城中の諸釈種は新講堂を造り、仏を請じて供養せんとするに会し、王は五百の童子と共に、講堂に往き師子座に昇る。諸釈種これを怒りて門外に逐い、婢子なりと罵りしを以って、王は深くこれを恨み、父王の死後、自ら王位に即き、(「法句譬喩経」には年二十の時、父王を退け、兄を伐ちて即位すと)好苦梵志子の勧めにより、兵を将いて迦毘羅城を滅ぼさんとす。時に仏は一枯樹下に坐し、親族の廕の故に外人に勝ると説き給いしを聞き、王は軍を返したりしが、後また兵を迦毘羅城に進めし時、目乾連は神力を以ってこれを他方世界に擲著せんとせしも、仏は釈種の宿縁を説きてこれを止め給いしにより、王は遂に迦毘羅城中に乱入し、城民を捕えて脚を地中に埋め、暴象をしてこれを蹈ましめ、摩訶男を始め、釈種九千九百九十万人を鏖殺し、流血河を成せりと云う。王はまた五百の端正なる釈女を捕え、これを弄ばんとせしも、彼女等は峻拒したるを以って、その手足を切りて深坑中に著け、尋いで舎衛城に還り、祇陀太子が諸妓女と娯楽するを見、怒りてこれを殺す。時に仏は諸比丘を将いて迦毘羅城に至り、五百の釈女の為に説法し、それをして法眼浄を得て天上に生ぜしめ、更に舎衛城に往き、王及び兵衆は却後七日にして尽く消滅すべしと予記せらる。然るに第七日に及び事なかりしを以って、王は阿脂羅河の側に於いて諸の兵衆及び婇女と娯楽せしに、夜半暴風疾雨起こり、悉く水の為に漂没せられ、王は死して阿鼻地獄に入り、その宮殿もまた天火に焼かれたりと云えり。「五分律巻21」、「四分律巻41」、「義足経巻下維楼勒王経」等にもまた略ぼ同一記事を掲ぐ。また「中阿含巻59一切智経、巻60愛生経」、「六度集経巻5釈家畢罪経」、「賢愚経巻3微妙比丘尼品、巻12檀弥離品」、「法句譬喩経巻1双要品」、「出曜経巻3、巻25」、「興起行経巻上頭痛宿縁経」、「大般涅槃経巻19」、「大仏頂首楞厳経巻8」、「有部苾芻尼毘奈耶巻2」、「大毘婆沙論巻83」、「大智度論巻9」等に出づ。<(望)
六者受阿耆達多婆羅門請而食馬麥。 六には、阿耆達多婆羅門の請を受けて、馬麦を食いたまえり。
六には、
『阿耆達多婆羅門』の、
『請』を受けて、
『馬麦』を、
『食われた!』。
  阿耆達多(あぎだった):梵名agnidatta。舎衛国の一婆羅門王の名。仏を請したるも、五欲に耽るを以って、城門を閉じ、仏をして飢渴せしめたるを以って知らる。『大智度論巻9上注:馬麦』参照。
  馬麦(めみゃく):馬に食わせる麦。仏、嘗て阿耆達王の請を受け、彼の国に至りて夏安居を結ぶも、偶ま災荒して穀米昴貴なり、乃ち販馬人の供養を受けて五百比丘と共に馬麦を三月食い給えり。仏十難の一と為す。「仏本起経巻下仏食馬麦品」に、「時に於いて、仏波和離国より、千二百五十比丘と倶に、祇樹給孤獨園に還る。この時、舎衛国界の中間に、郡あり随蘭然と名づくるに婆羅門あり、阿耆達と名づく、多智明慧、居富無比、阿難の祁祁家に往詣し、論議の事訖るに、須達に問うて曰わく、今この都下に、頗る神人の師宗すべき者有りや不やと。須達答えて曰わく、子は未だ聞かざるや、釈種の王子、道の為に出家して、道成りて仏と号するを。身色相好、世の見る所に非ず、法戒雅正にして心垢を照除し、神通明達して衆生の原を知る。諸天龍神も、奉承せざるなく、毎に法言を説いて精義神に入る、吾が蛍燭の能く宣陳する所に非ずと。阿耆達、仏の聖徳を聞いて、五情内に慘し、即ち問うて曰わく、仏の今の所在は見るを得べしや不やと。答えて曰わく、近く祇洹に在りて真言を開広すと。明日阿耆達は、祇洹に往詣し、門に入りて仏の威神光明を見るに、敬心内に発る、前みて仏足を礼し、却って一面に坐す。仏為に法を説き給えば、歓喜踊躍して、即便ち退席し、仏及び比丘を請ずらく、化を垂れて照臨すること一時三月たり給えと。仏、神旨を以って往古の因縁を知り、黙然として請を受く。阿耆達、仏の許可を得て、辞退して国に還る。ここに於いて阿耆達、家に還りて、極世の珍美を厳供せり。この日、世尊、五百の比丘僧と、随蘭然に往詣す。時に阿耆達、天魔迷惑するに、五欲を耽荒す、一には宝飾、二には女楽、三には衣食、四には栄利、五には色欲なり、後堂に退入して、門士に告勅すらく、客を通すを得ず、一時三月、尊卑を問わず、吾が教うること有るを須てと。如来、門に到るも、閉じて通ぜず、即ち舎辺の大叢樹の下に止まる。仏、比丘僧に告げ給う、この郡は既に飢え、人は道を好まず、各各自ら便ち利に随うて分衛せよと。舎利弗は勅を受けて独り忉利天上に昇り、日に食すること自然なり。衆僧は分衛して、三日空しく還る。時に馬師あり、阿難に問う、朝行きて分衛し、何を以ってか空しく還ると。阿難答えて曰わく、この国饑荒して、また福を信ぜずと。馬師、而して曰わく、今、馬麦あり、願わくは、用って仏及び衆弟子に施せと、麦を減じて仏及び比丘僧に飯せり。阿難、その麦の分を得て鉢を以ってこれを受け、心に悲痛を用う、諸天の名味、国王の供膳も、毎にその味を謂って口を尊ぶべからず。今、この麦は甚だ麁悪と為す、何んが忍んでこれを持し、仏に供養せんやと。所得の麦を持して一老母に告ぐ、仏は至尊にして法御上聖なり、今仏に飯せんと欲す。請う母これを熟せ、功徳は無量なりと。母阿難に答う、吾れに今匆務あり、為すこと得る能わずと。比居せる一母、聞いて仏の尊きを歎じ、馳出して求索すれば、阿難これに授く。即ち時に熟せしめ、仏食して咒願す。阿難心結び、仏はこれを解かんと欲す、余の飯施は百味の香美を与うるも、世の所有に非ずと。阿難、意解けて曰わく、如来の妙徳は不可思議なりと。この時、世尊、跋耆国に詣らんと欲し、先に阿難を使わし往きて阿耆達に告げしむ。阿難、教を受けて即便ち往きて告ぐ。阿耆達、阿難の来るを見るも、意はなお未だ悟らず、即ち阿難に問う、如来は今所在たりやと。阿難報じて曰わく、世尊はここに在りてより、爾来三月なり。前に卿の請を受く。尊に二言なく、一時は已に竟れり。別れを告ぐればまさに去るべしと。阿耆達、仏と垂れたまいし化を聞くも、乃ち供養無く、悲怖交も至る。即ち馳せて仏に詣り、頭面に礼を作して、自ら言を陳ぶ、愚癡の罪覆いて、言信を違失せり。願わくは仏慈悲、原とよりその重きを恕したまえと。仏梵志に告げたまわく、汝が至心を明せと。阿耆達歓喜して前みて仏に白して言さく、願わくは七日留まり、供養を叙するを得たまえと。仏歳の至るまでを以って、即便ちこれを可し給う。云々」と云えるこれなり。また「大方便仏報恩経巻3」、「仏本行経巻1」、「興起行経巻上」、「大方広善巧方便経巻4」、「大宝積経巻28」、「蓮華面経巻下」、「大方等大集経巻19」、「弥沙塞部和醯五分律巻1」、「四分律巻1」、「十誦律巻14、巻26」、「有部毘奈耶薬事巻10」、「善見律毘婆沙巻5」、「鼻奈耶巻8」、「大智度論巻3、巻9、巻26、巻27、巻38、巻84」、「十住毘婆沙論巻10」等に出づ。<(望)
七者冷風動故脊痛。 七には、冷風動くが故に、脊痛したまえり。
七には、
『冷い!』、
『風』が、
『吹く!』たびに、
『脊骨』が、
『痛まれた!』。
八者六年苦行。 八には、六年苦行したまえり。
八には、
『六年』間、
『苦行された!』。
九者入婆羅門聚落乞食不得空缽而還。 九には、婆羅門聚落に入り、乞食して得ず、空鉢にして還りたまえり。
九には、
『婆羅門』の、
『聚落』に入って、
『食』を、
『乞われた!』が、
『得られず!』、
『鉢』を、
『空にして!』、
『還られた!』。
復有冬至前後八夜寒風破竹索三衣禦寒。 復た有る冬至の前後八夜、寒風竹を破るに、三衣を索めて、寒を禦ぎたまえり。
復た、
有る、
『冬至』の、
『前後』の、
『八夜』、
『寒風』が、
『竹』を、
『破る!』ほどであったが、
『仏』は、
『三衣』を索めて、
『寒』を、
『防がれた!』。
  参考:『十誦律巻27』:『佛知諸比丘畜多衣。多衣妨行道欲作齊限。告阿難言。吾欲向維耶離國遊行。阿難受敕尋從。既到會值冬節。八夜寒風破竹。佛時著一割截衣。初夜空地經行。初夜過中夜來。佛身寒告阿難。持第二割截衣來。阿難即取衣授佛。佛取衣著。中夜空地經行。中夜過後夜來。佛身寒告阿難。持第三割截衣來。阿難即授衣。佛取衣著空地經行。佛思惟。諸比丘爾所衣足。是夜過已。佛以是因緣集僧。集僧已告諸比丘。從今聽三衣。不應少不應多。苦少畜得突吉羅罪。』
又復患熱阿難在後扇佛。如是等世界小事佛皆受之。 又復た熱を患いたもうに、阿難、後に在りて、仏を扇げり。是の如き等の世界の小事を、仏は、皆、之を受けたまえり。
復た、
『熱』の、
『病』を、
『患われた!』時には、
『阿難』が、
『後から!』、
『扇いだ!』こともある。
是れ等の、
『世間的』な、
『小事』を、
『仏』は、
『皆!』、
『受けられた!』。
若佛神力無量。三千大千世界。乃至東方恒河沙等諸佛世界。南西北方四維上下。光明色像威德巍巍。何以故受諸罪報。 若し仏の神力無量にして、三千大千世界、乃ち東方の恒河沙等の諸仏の世界、南西北方四維上下に至るまで、光明の色像の威徳巍巍たれば、何を以っての故にか、諸の罪報を受けたまえる。
若し、
『仏』の、
『神力』が、
『無量であり!』、
『三千大千世界(十億の世界)』ばかりか、
『東方』の、
『恒河沙』ほどもある、
諸の、
『仏』の、
『世界』や、
『南、西、北方、四維、上、下』の
『恒河沙』ほどもある、
諸の、
『仏』の、
『世界』に至るまで、
『光明』の、
『色像』の、
『威徳』を、
『巍巍』として、
『輝かすことができた!』ならば、
『仏』は、
何故、
諸の、
『罪報』を、
『受けられた!』のですか?
答曰。佛在人中生人父母。受人身力一指節力勝千萬億那由他白象力。神通力無量無數不可思議。 答えて曰く、仏は人中に在りて生まれ、人の父母より、人身を受けたまえど、力は、一指節の力すら、千万億那由他の白象の力に勝れ、神通力は無量、無数、不可思議なり。
答え、
『仏』は、
『人』中に生まれて、
『人』の、
『父』と、
『母』より、
『人』の、
『身』を、
『受けられた!』が、
『力』は、
『一』の、
『指節』の、
『力』すら、
『千万億那由他』の、
『白象』の、
『力』に、
『勝り!』、
『神通』の、
『力』は、
『無量、無数、不可思議である!』。
是淨飯王子厭老病死苦。出家得佛道。是人豈受罪報為寒熱等所困。如佛神力不可思議。不可思議法中。何有寒熱諸患。 是の浄飯王の子は、老病死の苦を厭うて出家し、仏道を得たまえり。是の人にして、豈に罪報を受け、寒熱等の為に困ぜられんや。仏の神力の不可思議なるが如く、不可思議の法中に、何んが、寒熱の諸患有らんや。
是の、
『浄飯王』の、
『子』は、
『老、病、死』の、
『苦』を、
『厭うて!』、
『出家』し、
『仏道』を、
『得られた!』、
是のような、
『人』が、
何うして、
『罪報』を受け、
『寒、熱』等に、
『困らせられる!』だろうか?
『仏』の、
『神通』の、
『力』が、
『不可思議である!』ように、
『仏』という、
『不可思議』の、
『法(肉体)』中に、
何うして、
『寒、熱』のような、
諸の、
『患(わずらい)』が、
『有ろうか?』、。
復次佛有二種身。一者法性身。二者父母生身。 復た次ぎに、仏には、二種の身有り、一には法性の身、二には父母の生ぜし身なり。
復た次ぎに、
『仏』には、
『二種』の、
『身』が有り、
一には、
『法性』という、
『身であり!』、
二には、
『父』と、
『母』との、
『生んだ!』、
『身である!』。
  法性(ほっしょう):梵語dharmataaの訳。法の体性の意、即ち諸法の真実如常なる本性をいう。『大智度論巻6上注:法性』参照。
是法性身滿十方虛空無量無邊。色像端正相好莊嚴。無量光明無量音聲。聽法眾亦滿虛空。(此眾亦是法性身非生死人所得見也)常出種種身種種名號種種生處種種方便度眾生。常度一切無須臾息時。如是法性身佛。能度十方世界眾生。 是の法性の身は、十方の虚空に満ちて、無量無辺なり。色像は端正にして、相好荘厳し、無量の光明、無量の音声ありて、聴法の衆も、亦た虚空に満つ。常に種種の身、種種の名号、種種の生処、種種の方便を出して、衆生を度し、常に一切を度して、須臾の息む時も無し。是の如き法性の身の仏は、能く十方の世界の衆生を度す。
是の、
『法性』の、
『身』は、
『十方』の、
『虚空』に、
『満ちて!』、
『無量』、
『無辺である!』、
『色像』は、
『端正』で、
『三十二相、八十種好』が、
『荘厳している!』、
『光明』と、
『音声』とは、
『無量である!』が、
『聴法』の、
『衆(人々)』も、
『虚空』に、
『満ちている!』。
是の、
『法性』の、
『身』は、
常に、
種種の、
『身(天、人、畜生)』や、
『名号(菩薩、仏、聖人、凡夫、畜生)』、
『生処(天上、人間、畜生)』、
『方便』を、
『現出して!』、
『衆生』を、
『度し!』、
常に、
『一切』の、
『衆生』を、
『度して!』、
『須臾(一瞬)』も、
『息(やす)む!』時が、
『無い!』。
是のような、
『法性』の、
『身』の、
『仏』は、
『十方の世界』の、
『衆生』を、
『度すことができる!』。
  須臾(しゅゆ):梵語刹那kSaNaの訳。極めて短時間をいう。一説に瞬きする間。
  :丹注して「此の衆も亦た是れ法性の身にして、生死の人の所得の身に非ず」と云う、是れ甚だ誤解せりと言うべし。法性の義は道理というに等しく、法性の身とは、道理を以って身に喩うるのみ。道理は、世界の有らゆる処に遍在して、自然に顕れざるべからず、故に道理の身は十方に満つと云い、聴法の衆は虚空に満つと云う。但だ此の説法は誰にも、容易には聴きうるものに非ざるが故に、「大智度論巻30」には、「是の如き法性身の仏に、所説の法有り、十住の菩薩を除きて、三乗の人は、皆持する能わず。唯だ十住の菩薩の不可思議の方便智力有りて、悉く能く聴受す」と云えり。
受諸罪報者是生身佛。生身佛次第說法如人法。以有二種佛故受諸罪無咎。 諸の罪報を受くる者は、是れ生身の仏なり。生身の仏の次第に説法すること、人法の如し。二種の仏有るを以っての故に、諸の罪を受くるも、咎無し。
諸の、
『罪報』を、
『受ける!』者は、
『生まれた!』、
『身』の、
『仏である!』。
『生まれた!』、
『身』の
『仏』は、
『次第に(順を踏んで)!』に、
『説法する!』ので、
譬えば、
『人』という!、
『法()』のようである。
『仏』には、
『二種』の、
『身』が、
『有る!』が故に、
諸の、
『罪』を、
『受ける!』と、
『言っても!』、
『咎』は、
『無い!』。
復次佛即得道時。一切不善法盡斷。一切善法皆成就。云何今實有不善法報可受。但憐愍未來世眾生故。現方便受此諸罪。 復た次ぎに、仏は、即ち道を得たまいし時、一切の不善法は尽く断じ、一切の善法は、皆成就せり。云何が、今実に不善法の報の受くべき有る。但だ未来世の衆生を憐愍するが故に、方便を現して、此の諸罪を受けたもうのみ。
復た次ぎに、
『仏』は、
もはや、
『道』を、
『得られた!』時には、
一切の、
『不善法』は、
『尽く!』、
『断じ!』、
一切の、
『善法』は、
『皆』、
『成就された!』のに、
何故、
今、
実に、
『不善法』の、
『報』を、
『受けられる!』ようなことが、
『有る!』のか?
但だ、
『未来世』の、
『衆生』を、
『憐愍される!』が故に、
『方便』の、
『生身』を、
『世間』に、
『現して!』、
此の、
『諸の罪』を、
『受けられた!』のである。
復次如阿泥盧豆。與一辟支佛食故。受無量世樂。心念飲食應意即得。何況佛世世割肉出髓以施眾生。而乞食不得空缽而還。以是事故知佛方便。為度眾生故受此諸罪。 復た次ぎに、阿泥盧陀の如きは、一辟支仏に食を与えたるが故に、無量世の楽を受け、心に飲食を念ずれば、意に応じて、即ち得。何に況んや、仏は世世に、肉を割きて髄を出し、以って衆生に施せるに、而も乞食して得ず、鉢を空しうして還るをや。是の事を以っての故に知る、仏は方便して、衆生を度せんが為の故に、此の諸罪を受けたまえり。
復た次ぎに、
『阿泥盧陀』などは、
『一』の、
『辟支仏』に、
『食』を、
『与えた!』が故に、
『無量』の、
『世』の、
『楽』を、
『受け!』、
『心』に、
『飲食』を、
『念ずれば!』、
『意』のままに、
『飲食』を、
『得る!』のである。
況して、
『仏』は、
『世世』に、
『肉』を割いて、
『髄』を、
『出し!』、
『衆生』に、
『施された!』のに、
而も、
『食』を、
『乞うて!』も、
『得られず!』、
『鉢』を、
『空しうして!』、
『還られた!』というのか?
是の事を以って、
こう知ることになる、――
『仏』は、
『方便して!』、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思われた!』が故に、
此の、
『諸の罪』を、
『受けられた!』のである。
  阿泥盧陀(あにるだ):梵名aniruddha、巴梨anuruddha。仏十大弟子の一。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
云何方便憐愍 云何が方便して憐愍する。
何故、
『方便して!』、
『憐愍された!』のか?
未來世五眾佛弟子施福薄故。乞種種自活之具不能得。諸白衣言。汝衣食不能得。有病不能除。何能得道以益於人。 未来世の五衆の仏弟子は、施福の薄きが故に、種種の自活の具を乞うて、得る能わざれば、諸の白衣の言わく、『汝は衣食を得る能わず、病有るも、除く能わず。何ぞ能く道を得て、以って人を益せん』、と。
『未来』の、
『世』の、
『五衆』の、
『仏弟子』は、
『施す!』
『因縁』の、
『福』が、
『薄い!』が故に、
種種の、
『自活の具』を、
『乞うても!』、
『得られない!』ので、
諸の、
『白衣(俗人)』は、
こう言うだろう、――
お前は、
『食』を、
『乞うても!』、
『得られず!』、
『病』が、
『有っても!』、
『除けない!』、
何うして、
『道』を得て、
『人』を、
『益することができよう?』、と。
  五衆(ごしゅ):出家の衆に五種の別あるの意。また出家の五衆、五衆仏弟子とも名づく。一に比丘bhikSu、 二に比丘尼bhikSuNii、 三に式叉摩那zikSamaana、 四に沙弥zraamaNera、 五に沙弥尼zraamaNerikaaなり。「大智度論巻10」に、「優婆塞、優婆夷はこれ居家なり。余の五衆はこれ出家なり」と云い、「四分律行事鈔資持記巻中一之一」に、「出俗の五衆が世の良田たる所以は、実に戒体に由るなり」と云えるこれなり。この中、比丘とは、また苾芻等に作り、乞士等と訳す。比丘尼とは、また苾芻尼等に作り、乞士女等と訳す。即ち十誦律、四分律等の具足戒を受けし男女なり。沙弥は息慈、息悪、行慈等と訳す、息悪行慈の義なり、また梵に室羅魔拏洛迦、室末那伊洛迦に作り、勤策男等に訳す、その大僧により策励を加えらるの意なり。即ち已に十戒を受け、未だ具足戒を受けざる、年齢七歳以上、二十歳未満に在る出家の男子なり。沙弥尼は、また室羅摩拏理迦に作り、勤策女等に訳す、女性の沙弥なり。式叉摩那とは、具さに式叉摩那尼と称し、学法女或は正学女と訳す、沙弥尼にして具足戒を受けんと欲する者は、十八歳より二十歳に至る満二年間、別に六法を学して胎の有無を験し、且つ行及び道心の堅固なるを試して、出家生活に習行せしむ、これを式叉摩那尼と為す。また沙弥沙弥尼の十戒とは、即ち一に不殺生、二に不偸盗、三に不婬、四に不妄語、五に不飲酒、六に不著華鬘好香塗身、七に不歌舞倡伎、亦不往観聴、八に不得坐高広大床上、九に不得非時食、十に不得捉銭金銀宝物を云い、また式叉摩那の六法とは、「四分律巻27」に依るに、一に不作不浄行(不婬)、二に不盗取五銭、三に不断人命、四に自不称得上人法、五に不過中食(不得非時食)、六に不飲酒なり。またこの五衆に、六に優婆塞upaasaka、七に優婆夷upaasikaaの在家の二衆を加えて七衆、または道俗の七衆、七衆仏弟子と称することあり。優婆塞、優婆夷とは、即ち近事男、近事女と訳し、仏法に帰依して五戒を受持する男女を云う。また「四分律巻1」、「摩訶僧祇律巻2、巻24」、「十誦律巻6」、「五分律巻1」、「瑜伽師地論巻53」、「倶舎論巻14」、「順正理論巻36」、「菩薩戒義疏巻下」、「翻訳名義集巻3」等に出づ。<(望)
是五眾當答。我等雖無活身小事。有行道福德。我等今日眾苦。是先身罪報。今之功德利在將來。我等大師佛入婆羅門聚落乞食。尚亦不得空缽而還。佛亦有諸病。釋子畢罪時佛亦頭痛。何況我等薄福下人。 是の五衆は当に答うべし、『我等に、活身の小事無しと雖も、道を行ずる福徳有り。我等が今日の衆苦は、是れ先身の罪報にして、今の功徳の利は、将来に在り。我等が大師の仏すら、婆羅門の聚落に入りて、乞食したもうに、尚お亦た得ずして、鉢を空しうして、還りたまえり。仏すら、亦た諸病有り、釈子の罪を畢(お)えんとする時、仏も亦た頭痛したまえり。何に況んや、我等が薄福の下人をや。
是の、
『五衆』は、
こう答えるはずである、――
わたし達には、
『身』を、
『活かす!』ような、
『小事』は、
『無い!』が、
『道』を、
『行う!』という、
『福徳』が、
『有る!』、
わたし達の、
『今日』の、
『衆苦』は、
『先』の、
『身』の、
『罪報』であり、
『今』の、
『功徳』の、
『利得』は、
『将来』に、
『在る!』。
わたし達の、
『大師』である!、
『仏』すら、
尚お、
『婆羅門』の、
『聚落』に
『入られた!』時には、
『食』を、
『乞うても!』、
『得られず!』に、
『鉢』を、
『空しうして!』、
『還られた!』、
『仏』には、
亦た、
諸の、
『病』も、
『有った!』、
『釈子(釈迦族)』が、
『罪』の、
『報』を、
『終えよう!』とした時、
『仏』も、
『頭』を、
『痛まれた!』のである。
況して、
わたし達は、
『福』の、
『薄い!』、
『下人である!』、
『苦』を、
『受ける!』のも、
『当然ではないか?』、と。
諸白衣聞已瞋心則息。便以四種供養供給比丘。身得安隱坐禪得道。是為方便故非實受罪。 諸の白衣は聞き已りて、瞋心則ち息み、便ち四種の供養を以って、比丘に供給すれば、身に安隠を得て、坐禅して道を得たらん。是れを方便の故に実に罪を受くるに非ずと為す。
諸の、
『白衣』は、
『聞いて!』、
『心』の、
『怒り!』が、
『息み!』、
『四種の供養(衣服、飲食、臥具、湯薬)』を以って、
『比丘』に、
『供給した!』ので、
『比丘』は、
『身』に、
『安隠』を、
『得て!』、
『坐禅して!』、
『道』を、
『得ることができた!』。
是れを、
『方便』の故に、
『罪』を、
『受ける!』が、
『実でない!』というのである。
  四種供養(ししゅくよう):仏乃至比丘等を供養する四種の物の意。即ち衣服、飲食、臥具、湯薬を云う。『大智度論巻33(上)注:四事供養、供養』参照。
如毘摩羅詰經中說。佛在毘耶離國。是時佛語阿難。我身中熱風氣發。當用牛乳。汝持我缽乞牛乳來。阿難持佛缽。晨朝入毘耶離。至一居士門立。 毘摩羅詰経中に説くが如し。仏は、毘耶離国に在せり。是の時、仏の阿難に語りたまわく、『我が身中に、熱、風の気発(おこ)れり。当に牛乳を用うべし。汝は我が鉢を持して、牛乳を乞うて来たれ』、と。阿難は、仏の鉢を持して、晨朝、毘耶離に入り、一居士の門に至りて立てり。
例えば、
『毘摩羅詰(維摩)経』中に、
こう説く通りである、――
『仏』が、
『毘耶離国』に、
『居られた!』時のことである。
是の時、
『仏』は、
『阿難』に、こう語られた、――
わたしの、
『身』中に、
『熱病』か、
『風病』の、
『気配』が、
『発(おこ)った!』、
『牛乳』を、
『用いねばなるまい!』。
お前は、
わたしの、
『鉢』を、
『持って!』、
『牛乳』を、
『乞うて!』、
『来い!』、と。
『阿難』は、
『仏』の、
『鉢』を、
『持つ!』と、
『晨朝(早朝)』、
『城』中に、
『入り!』、
『一居士』の、
『門前』に、
『立った!』。
  毘耶離国(びやりこく):梵名vaizaaliの音訳。中印度の国名。仏滅後一百年にて七百の賢聖の第二結集の処。この国内の種族を離車(梵licchavii)という。『大智度論巻2上注:吠舍釐国』参照。
  (ねつ):梵語pittaの訳、胆汁の義。熱、冷、風三病の一。又熱病、熱気、火病とも訳す。
  (ふう):梵語vaataの訳、風の義。熱、冷、風三病の一。又風病、風気とも訳す。
  居士(こじ):梵語gRha-patiの訳。家長、家主、長者の義なり。また財に居し、或は家に居する士の意とす。即ち毘舎種(梵vaizya)の豪富なる者、または家の居して得を蘊む有道の士をいう。『大智度論巻6下注:居士』参照。
  参考:『維摩詰所説経巻1』:『佛告阿難。汝行詣維摩詰問疾。阿難白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔時世尊身小有疾當用牛乳。我即持缽詣大婆羅門家門下立。時維摩詰來謂我言。唯阿難。何為晨朝持缽住此。我言。居士。世尊身小有疾當用牛乳。故來至此。維摩詰言。止止阿難。莫作是語。如來身者金剛之體。諸惡已斷眾善普會。當有何疾當有何惱。默往阿難。勿謗如來。莫使異人聞此麤言。無令大威德諸天及他方淨土諸來菩薩得聞斯語。阿難。轉輪聖王以少福故尚得無病。豈況如來無量福會普勝者哉。行矣阿難。勿使我等受斯恥也。外道梵志若聞此語當作是念。何名為師。自疾不能救而能救諸疾。仁可密速去勿使人聞。當知阿難。諸如來身即是法身非思欲身。佛為世尊過於三界。佛身無漏諸漏已盡。佛身無為不墮諸數。如此之身當有何疾當有何惱。時我世尊實懷慚愧。得無近佛而謬聽耶。即聞空中聲曰。阿難。如居士言。但為佛出五濁惡世。現行斯法度脫眾生。行矣阿難。取乳勿慚。世尊。維摩詰智慧辯才為若此也。是故不任詣彼問疾。如是五百大弟子。各各向佛說其本緣。稱述維摩詰所言。皆曰不任詣彼問疾』
是時毘摩羅詰在是中行。見阿難持缽而立。問阿難。汝何以晨朝持缽立此。 是の時、毘摩羅詰は、是の中に在りて行き、阿難の鉢を持して立つを見て、阿難に問わく、『汝は、何を以ってか、晨朝、鉢を持して此に立つ』、と。
是の時、
『毘摩羅詰』は、
是の中で、
『歩いていた!』が、
『阿難』が、
『鉢』を持って、
『立っている!』のを、
『見る!』と、
『阿難』に、
こう問うた、――
あなたは、
何故、
『晨朝』、
『鉢』を持って、
『此(ここ)に!』、
『立っているのか?』、と。
阿難答言。佛身小疾當用牛乳。故我到此。 阿難の答えて言わく、『仏身小(すこ)しく疾(や)めり。当に牛乳を用うべし。故に我れは、此に到れり』、と。
『阿難』は答えて、
こう言った、――
『仏』の、
『身』が、
『小(すこ)し!』、
『疾んでいる!』ので、
『牛乳』を、
『用いることになった!』、
それで、
わたしは、
『此に!』、
『来たのです!』、と。
毘摩羅詰言。止止阿難。勿謗如來。佛為世尊已過一切諸不善法。當有何疾。勿使外道聞此麤語。彼當輕佛便言。佛自疾不能救安能救人。 毘摩羅詰の言わく、『止めよ、止めよ、阿難。如来を謗る勿かれ。仏を、世尊と為すは、已に一切の諸の不善法を過ぎたればなり。当に何の疾か有るべき。外道をして、此の麁語を聞かしむる勿かれ。彼れは当に、仏を軽んじて、便ち言わん、仏は自ら疾んで、救う能わず、安(いづ)くんぞ、能く人を救わん』、と。
『毘摩羅詰』は、
こう言った、――
止めよ!
止めよ!
阿難!。
『如来』を、
『謗っては!』、
『ならない!』。
『仏』が、
『世』に、
『尊ばれる!』のは、
一切の、
『不善法』を、
『過ぎてしまわれた!』からだ。
何んな、
『疾(やまい)』も、
『有るはずがなかろう?』。
『外道』に、
此のような、
『麁語(粗忽な言葉)』を、
『聞かせては!』、
『なるまい!』。
彼れは、
『仏』を、
『軽んじて!』、
こう言うに決まっている、――
『仏』は、
『自らの!』、
『疾すら!』、
『救うことができない!』、
何うして、
『人』を、
『救えよう?』、と。
阿難言。此非我意。面受佛敕當須牛乳。 阿難の言わく、『此れは我が意に非ず。面じて仏の勅を受く、当に牛乳を須(もち)うべしと』、と。
『阿難』は、
こう言った、――
此れは、
わたしの、
『意ではない!』、
『仏』に、
『対面して!』、
『勅(おしえ)』を、こう受けたのだ、――
『仏』には、
『牛乳』が、
『必要である!』、と。
毘摩羅詰言。此雖佛敕是為方便。以今五惡之世故。以是像度脫一切。若未來世有諸病比丘。當從白衣求諸湯藥。白衣言。汝自疾不能救。安能救餘人。 毘摩羅詰の言わく、『此れは、仏の勅なりと雖も、是れを方便と為す。今は、五悪の世なるを以っての故に、是の像(かたち)を以って、一切を度脱したまえり。若しは、未来世にも、諸の病比丘有らん、当に白衣より、諸の湯薬を求むべし。白衣の言わく、『汝、自ら疾んで、救う能わず。安んぞ、能く余人を救わん』、と。
『毘摩羅詰』は、
こう言った、――
此れは、
『仏』の、
『勅であった!』としても、
『方便である!』、
今は、
『五悪(殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒)』の、
『世である!』が故に、
是の、
『疾(やまい)』の、
『像(類似のすがた)』を、
『用いて!』、
一切の、
『人』を、
『度脱される!』のだ。
若しは、
『未来』の、
『世』にも、
諸の、
『病んだ!』、
『比丘』が、
『有り!』、
『白衣』より、
諸の、
『薬湯』を、
『求めなくては!』、
『ならなくなる!』だろうが、
『白衣』は、
こう言うかも知れない、――
あなたは、
『自ら!』の、
『疾』すら、
『救えない!』のに、
何うして、
『余の人』の、
『病』を、
『救えるのか?』、と。
  五悪之世(ごあくのよ):五悪は殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒なり。蓋し五悪の世とは、五濁中衆生の道力の衰える衆生濁を云うが如し。『大智度論巻8(上):注:五濁』参照。
諸比丘言。我等大師。猶尚有病。況我等身如艸芥能不病耶。以是事故諸白衣等。以諸湯藥供給比丘。使得安隱坐禪行道。 諸の比丘の言わく、『我等が大師すら、猶お尚お、病有り。況んや、我等が身の、草芥の如きの能く病まざるをや』、と。是の事を以っての故に、諸の白衣等は、諸の湯薬を以って、比丘に供給し、安隠を得て、坐禅して、道を行ぜしむ。
諸の、
『比丘』は、
こう言うだろう、――
わたし達の、
『大師』すら、
猶お、
『病まれた!』ことが、
『有った!』。
況して、
わたし達のような、
『草芥のような!』者が、
『病まずにいられる!』だろうか?と。
是の事を以っての故に、
諸の、
『白衣』達は、
諸の、
『湯薬』を以って、
『比丘』に、
『供給し!』、
『比丘』に、
『身』の、
『安隠』を、
『得させて!』、
『坐禅させ!』、
『道』を、
『行わせる!』のである。
  草芥(そうかい):くさと、ごみ。
有外道仙人。能以藥艸咒術除他人病。何況如來一切智德。自身有病而不能除。汝且默然持缽取乳。勿令餘人異學得聞知也。 有る外道の仙人は、能く薬草、咒術を以って、他人の病を除く。何に況んや、如来は、一切の智徳あるに、自らの身に病有りて、而も除く能わざらんや。汝は、且く黙然として、鉢を持し、乳を取れ。余人の異学をして、聞知を得しむる勿かれ』、と。
有る、
『外道』の、
『仙人』は、
『薬草』や、
『咒術』を以って、
『他人』の、
『病』を、
『除くことができる!』。
況して、
『如来』には、
一切の、
『智慧』と、
『功徳』とを、
『有していられる!』のに、
自らの
『身』に、
『病』が、
『有りながら!』、
『除けないことがあろうか?』。
あなたは、
しばらく、
『黙って!』、
『鉢』を持ち、
『乳』を、
『お取りなさい!』、
『余の人』や、
『異学の者』に、
『聞いたり!』、
『知ったり!』、
『させてはならない!』、と。
以是故知佛為方便非實病也。諸罪因緣皆亦如是。以是故言佛其德特尊光明色像威德巍巍 是を以っての故に知る、仏の方便を為したもうは、実の病に非ず。諸罪の因縁も、皆、亦た是の如し。是を以っての故に言わく、『仏の其の徳は、特に尊く、光明の色像は、威徳巍巍たり』、と。
是の故に、
こう知る、――
『仏』は、
『方便』を、
『為された!』のであり、
是れは、
『実』の、
『病ではない!』。
諸の、
『罪』の、
『因縁』も、
是の通りである、と。
是の故に、
こう言う、――
『仏』の、
其の、
『徳』は、
『特に!』、
『尊く!』、
『光明』の、
『色像』の、
『威徳』は、
『巍巍としている!』、と。



世尊は常身を示し、諸天は天華を携えて仏所に至る

【經】爾時世尊以常身示此三千大千世界一切眾生。是時首陀會天梵眾天他化自在天化自樂天兜率陀天夜磨天三十三天四天王天。及三千大千世界人與非人。以諸天華天瓔珞天澤香天末香天青蓮華赤蓮華白蓮華紅蓮華天樹葉香持詣佛所 爾の時、世尊は、常身を以って、此の三千大千世界の一切の衆生に示したもう。是の時、首陀会天、梵衆天、他化自在天、化自楽天、兜率陀天、夜磨天、三十三天、四天王天、及び三千大千世界の人と、非人とは、諸の天の華、天の瓔珞、天の沢香、天の末香、天の青蓮華、赤蓮華、白蓮華、紅蓮華、天の樹葉の香を以って持し、仏所に詣(いた)る。
爾の時、
『世尊』が、
『常身』を以って、
此の、
『三千大千世界』の、
一切の、
『衆生』に、
『示される!』と、
是の時、
『首陀会天』、
『梵衆天』、
『他化自在天』、
『化自楽天』、
『兜率陀天』、
『夜磨天』、
『三十三天』、
『四天王天』の、
『諸天』と、
『三千大千世界』の、
『人』と、
『非人』とは、
諸の、
『天の華』や、
『天の瓔珞』、
『天の沢香』、
『天の末香』と、
『天の青蓮華、赤蓮華、白蓮華、紅蓮華』と、
『天の樹葉』との、
『香』を持って、
『仏の所』に、
『至った!』。
  首陀会天(しゅだえてん):色界第四禅天の別称。『大智度論巻9上注:五淨居天』参照
  五淨居天(ごじょうごてん):淨居は梵語首陀跋婆 zuddhaavaasaの訳。また秫陀婆娑私、首陀会、首陀穂等に作る。聖者の居住する五種の天の意。また五淨居処、五那含天、五不還天と云い、略して五淨居、或は単に淨居とも名づく。即ち不還果の聖者が凡夫と共住するを厭い、また災患を離れて静に法楽に住せんが為に、第四静慮を雑修して受生する色界の天処を云う。一に無煩天avRha、また阿惟潘、阿鞞麗舎、阿浮呵那に作り、不煩、不広、無造、無広、無繁、愛勝、御辞、無所触、無悕望とも訳す。二に無熱天 atapa、また阿答和、阿陀波、阿答波に作り、不熱、不焼、無熱、近際、離辞とも訳す。三に善見天 sudRza、また須提舎、修提舎に作り、妙見、善観、快見、無比、仮使とも訳す。四に善現天 sudarzana、また須陀施尼、須提舎那に作り、色、大善見、善好見とも訳す。五に色究竟天akaniSTha、また阿迦膩吒、阿迦尼吒に作り、一善、一究竟、無小、無結愛とも訳す。「集異門足論巻14」に、「五淨居天とは云何が五と為す。答う、一に無煩天、二に無熱天、三に善現天、四に善見天、五に色究竟天なり」と云い、「倶舎論巻24」に、「雑修五品に由りて生に五淨居あり」と云えるこれなり。この中、雑修に五品ありとは、下品、中品、上品と上勝品と上極品とを云う。初に無漏、次ぎに有漏、後に復た無漏を起し、三心現前して静慮を成備するを下品とし、六心現前するを中品とし、九心現前するを上品とし、十二心現前するを上勝品とし、十五心現前して静慮を成備するを即ち上極品とす。かくの如き五品の雑修静慮は、その次第の如く無煩、無熱、善現、善見、色究竟の五淨居の果を感ず。但し能感の力に関しては異説あり、「倶舎論巻24」に両説を挙ぐ。一説は無漏の勢力能く中間の有漏を薫修して、以ってこの勝果を感ぜしむと云い、一説は信進念定慧の五根が、次第の如く増上するに由りて以って五淨居を感ずとなせり。「大毘婆沙論巻175」、並びに「順正理論巻65」に更に諸説を出せり。蓋し五淨居は元と三天として数えられたるが如く、「四阿鋡暮抄解巻下」に、淨居とは修提舎(sudRza 善見天)、須提舎那(sudarzana 善好見天)、鞞首陀(vizuddha 清浄天)なり。淨居は諸結の尽くるに名づく、これ功徳の名なるのみ。また清浄に阿鞞麗舎 avRha(無所触)、阿答波 atapa(無熟)、阿迦膩吒 akaniSTha(一究竟)の三天あり。清浄を分ちて三となすが故に五淨居地と名づくと云えり。これに依るに無煩等の三天は清浄天より開したるものなるを見るべし。また「長阿含経巻20」、「中阿含経巻9」、「起世経巻8」、「起世因本経巻8」、「仏本行集経巻9」、「光明童子因縁経巻1」、「如来不思議秘密大乗経巻8」、「首楞厳経巻9」、「小品般若経巻2」、「大般若波羅蜜多経巻402、403」、「仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経巻4」、「旧華厳経巻12」、「新華厳経巻21、巻69」、「金光明最勝王経巻3」、「法集名数経」、「有部尼陀那目得迦巻1」、「大毘婆沙論巻136」、「立世阿毘曇論巻6」、「大智度論巻64」、「順正理論巻21」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻31」、「彰所知論巻上」等に出づ。<(望)
  梵衆天(ぼんしゅてん):梵名brahma- kaayika。色界初禅三天中の初天。『大智度論巻22下注:天』参照。
  他化自在天(たけじざいてん):梵名paramirmita- vaza- vartin。六欲天の第六。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
  化自楽天(けじらくてん):梵名nirmaaNa- rati。六欲天の第五。『大智度論巻9上注:化楽天』参照。
  兜率陀天(とそつだてん):梵名tuSita。六欲天の第四。『大智度論巻9上注:兜率天』参照。
  夜磨天(やまてん):梵名yaama。六欲天の第三。『大智度論巻9上注:夜摩天』参照。
  三十三天(さんじゅうさんてん):梵名trayastriMza。六欲天の第二。『大智度論巻9上注:忉利天』参照。
  四天王天(してんのうてん):梵名caatur- mahaaraajakaayika- deva。六欲天の第一。『大智度論巻9上注:四王天』参照。
【論】問曰。佛何以故。以常身示此三千大千世界中一切眾生。 問うて曰く、仏は何を以っての故にか、常身を以って、此の三千大千世界中の一切の衆生に示したまえる。
問い、
『仏』は、
何故、
『常身(肉身)』を以って、
此の、
『三千大千世界』中の、
一切の、
『衆生』に、
『示された!』のですか?
答曰。佛欲說摩訶般若波羅蜜。入三昧王三昧。從足下相輪光明上至肉髻光焰大明。 答えて曰く、仏は、摩訶般若波羅蜜を説かんと欲して、三昧王三昧に入りたもうに、足下の相輪の光明より、上は肉髻の火焔に至るまで、大いに明るし。
答え、
『仏』が、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説こう!』として、
『三昧王三昧』に、
『入られる!』と、
『足下』の、
『相輪』の、
『光明』より、
『頭上』の、
『肉髻』の、
『火焔』に至るまで、
皆、
『大いに!』、
『明るくなった!』。
譬如劫盡燒時諸須彌山王隨次燃盡。是光明遍滿三千大千世界。乃至十方恒河沙等諸佛世界。皆悉大明。眾生見者畢至阿耨多羅三藐三菩提。 譬えば、劫尽きて焼くる時、諸の須弥山王の随次燃え尽くるが如く、是の光明は、遍く三千大千世界、乃至十方の恒河沙に等しき諸仏の世界を満てて、皆、悉く大いに明るし。衆生の見る者は、畢(つい)に阿耨多羅三藐三菩提に至る。
譬えば、
『劫』が、
『尽きて!』、
『焼ける!』時、
諸の、
『須弥山王』が、
次々と、
『焼けて!』、
『尽きる!』ように、
是の、
『光明』は、
遍く、
『三千大千世界』、
乃至、
『十方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏の世界』を、
『満たした!』ので、
皆、
『大いに!』、
『明るくなり!』、
『衆生』の、
『見た!』者は、
尽く、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至った!』のである。
  随次(ずいじ):次をおう。逐次。つぎつぎと。
  :諸の須弥山王云々:劫の尽くる時、三千大千世界の一時に焼けるを云う。
是佛欲說般若波羅蜜。初神力。第二一切毛孔皆悉微笑。第三放常光明面各一丈。第四舌相遍覆三千大千世界而笑。第五入師子遊戲三昧。三千大千世界六反震動。第六佛坐師子座。現最勝身光明色像。威德巍巍。以此神力感動眾生。其有信者皆至阿耨多羅三藐三菩提。 是れ仏の般若波羅蜜を説かんと欲したまえる初の神力なり。第二には、一切の毛孔、皆悉く微笑せり。第三には、常光明の面、各一丈なるを放ちたまえり。第四には、舌相もて、遍く三千大千世界を覆うて、笑いたまえり。第五には、師子遊戯三昧に入りたもうに、三千大千世界は六反震動せり。第六には、仏の師子座に坐して、最勝の身を現したまえるに、光明の色像は威徳巍巍たり。此の神力を以って、衆生を感動したもうに、其の有信の者は、皆、阿耨多羅三藐三菩提に至る。
是れは、
『仏』が、
『般若波羅蜜』を、
『説こうとされた!』時の、
『初』の、
『神力である!』が、
『第二』には、
『仏』の、
一切の、
『毛孔』が、
皆、
『悉く!』、
『微笑した!』、
『第三』には、
『仏』が、
『常光明』を、
『放たれる!』と、
『八面』の、
『各々』は、
『一丈あった!』、
『第四』には、
『仏』は、
『舌相』で、
遍く、
『三千大千世界』を、
『覆って!』、
『笑われた!』、
『第五』には、
『仏』が、
『師子遊戯三昧』に、
『入られる!』と、
『三千大千世界』が、
『六反』、
『震動した!』、
『第六』には、
『仏』が、
『師子座』に坐して、
『最勝』の、
『身』を、
『現される!』と、
『光明の色像』は、
『威徳』が、
『巍巍としていた!』。
『仏』が、
此の、
『六種』の、
『神力』を以って、
『衆生』を、
『感動される!』と、
其れを、
『信じた!』者は、
皆、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至る!』のである。
其中疑者示常身便得信解。而各說言。今所見者是佛真身。以佛力故此三千大千世界中人。見佛常身遠近無礙。 其の中を疑う者には、常身を示したまえば、便ち信解を得て、各説きて言わく、『今、見し所は、是れ仏の真の身なり』、と。仏の力を以っての故に、此の三千大千世界中の人は、仏の常身を見るに、遠近無礙なり。
其の中を、
『疑う!』者には、
『常身』を、
『示される!』と、
便ち(たちどころに)、
『信じて!』、
『理解するようになり!』、
各は説いて、
こう言ったのである、――
今、
『見た!』所は、
真の、
『仏』の、
『身である!』、と。
『仏』の、
『力』の故に、
『三千大千世界』中の、
『人』は、
『仏』の、
『常身』を、
『見た!』のであるが、
『近すぎる!』とか、
『遠すぎる!』というような、
『礙(さわり)』は、
『無かった!』。
是時三千大千世界眾生皆大歡喜言。此真是佛身。佛初生時初成佛時初轉法輪時。皆以此身如是思惟。此真是佛身。 是の時、三千大千世界の衆生は、皆大いに歓喜して言わく、『此れは、真に是れ仏の身なり』と。仏の初めて生まれたまいし時、初めて仏と成りたまいし時、初めて法輪を転じたまいし時、皆は、此の身を以って、是の如く思惟すらく、『此れは真に是れ仏の身なり』、と。
是の時、
『三千大千世界』の、
『衆生』は、
皆、
『大いに!』、
『歓喜して!』、
こう言った、――
此れは、
真(まこと)に、
『仏』の、
『身である!』、と。
『仏』が、
初めて(此より始まるの意)、
『生まれられた!』時、
初めて、
『仏』と、
『成られた!』時、
初めて、
『法輪』を、
『転じられた!』時、
皆、
此の、
『身』を以って、
是のように、
思惟したのである、――
此の、
『身』は、
真に、
『仏』の、
『身である!』、と。
問曰。何以故。名為淨居天梵世天。 問うて曰く、何を以っての故にか、名づけて淨居天、梵世天と為す。
問い、
何故、
『淨居天』や、
『梵世天』と、
『呼ばれる!』のですか?
答曰。第四禪有八種。五種是阿那含住處。是名淨居。三種凡夫聖人共住。過是八處。有十住菩薩住處。亦名淨居。號大自在天王。 答えて曰く、第四禅には、八種有り、五種は、是れ阿那含の住所、是れを浄居と名づく。三種は、凡夫と聖人と共住す。是の八処を過ぎて、十住の菩薩の住所有り、亦た浄居と名づけ、大自在天王と号す。
答え、
『第四禅』には、
『八種』有り、
『五種(無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天)』は、
『阿那含』の、
『住処』であり!、
『三種(無曇天、福生天、広果天)』は、
『凡夫』と、
『聖人』との、
『共通』の、
『住処』である!。
是の、
『八処』を、
『過ぎる!』と、
『十住』の、
『菩薩』の、
『住処』が有り、
亦た、
『浄居』とか、
『大自在天王』と、
『呼ばれている!』。
  第四禅(だいしぜん)梵語caturtha-dhyaanaの訳。色界四禅中の第四処。『大智度論巻7下注:第四禅』参照。
  阿那含(あなごん):梵語anaagaamin。声聞四果の第三。『大智度論巻18下注:阿那含』参照。
  十住(じゅうじゅう):十住位中の第十位。補処の菩薩の位。『大智度論巻4下注:十住』参照。
  :一説に諸天とは、下から順に次ぎの如し。四天王天、三十三天、夜摩天、兜率天、楽変化天、他化自在天、以上の六天は欲界に属す。梵衆天、梵輔天、大梵天は色界初禅天に属す。少光天、無量光天、極光浄天は色界第二禅天に属す。少浄天、無量浄天、遍浄天は色界第三禅天に属す。無曇天、福生天、広果天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天、または阿迦尼吒天は色界第四禅天に属す。空無辺処天、識無辺処天、無所有天、非想非非想処天、または有頂天は無色界天に属す。
梵世天者生處有三種。一者梵眾天。諸小梵生處。二者梵輔天。貴梵生處。三者大梵天。是名中間禪生處。 梵世天とは、生処に三種有り、一には梵衆天、諸の小梵の生処なり、二には梵輔天、貴梵の生処なり、三には大梵天、是れは中間禅と名づくる生処なり。
『梵世天』には、
『三種』の、
『生処』が有り、
一の、
『梵衆天』は、
諸の、
『小梵』の、
『生処』である。
二の、
『梵輔天』は、
『貴梵』の、
『生処』である。
三の、
『大梵天』は、
『中間禅(初禅と二禅の中間)』と、
『称する!』、
『生処』である!。
  梵世天(ぼんせてん):梵名brahma-loka。梵天の住所。色界初禅。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  中間禅(ちゅうげんぜん):大梵天王所得の禅定。『大智度論巻9上注:中間静慮』参照。
  中間静慮(ちゅうげんじょうりょ):梵語dhyaana-antaraの訳。また中間三昧、中間定、中間禅とも名づく。大梵天王所得の禅定なり。色界、無色界を通じて八地あり、毎一地に各近分定と根本定とあり、その中、初禅地の近分定と根本定とは、尋と伺との心所相応し、第二禅以上の七地の近分定と根本定とは則ち尋と伺と皆相応せずして、至極寂静なり。然るにその中間に、唯伺の心所のみ相応し、尋の心所の相応せざる禅定あり、これを中間定と名づけ、これを修むる者は、初禅天の頂上に在りて大梵天王と為す、彼は常にこの禅定に住す。<(望)
問曰。離欲是同。何以故有貴賤異處。 問うて曰く、欲を離るること、是れ同じなり。何を以っての故にか、貴賎、処を異にする。
問い、
『欲』を、
『離れる!』ことは、
『同じ!』なのに、
何故、
『貴』と、
『賎』とで、
『生処』が、
『異なる!』のですか?
答曰。初禪三種。下中上。若修下禪生梵眾。若修中禪生梵輔。若修上禪生大梵。 答えて曰く、初禅は、三種上、中、下なり。若し下禅を修むれば、梵衆に生じ、若し中禅を修むれば、梵輔に生じ、若し上禅を修むれば、大梵に生ず。
答え、
『初禅天』に、
『生まれる!』為めの、
『禅定』は、
『上、中、下』の、
『三種』である。
若し、
『下』の、
『禅定』を修めれば、
『梵衆天』に、
『生まれ!』、
『中』の、
『禅定』を修めれば、
『梵輔天』に、
『生まれ!』、
『上』の、
『禅定』を修めれば、
『大梵天』に、
『生まれる!』。
慈行亦如是。如妙眼師念言。我為眾人說法皆生梵天中。我今不應與弟子同處。當修上慈。修上慈故生大梵天中。 慈行も亦た是の如し。妙眼師の念じて言うが如し、『我れは、衆人の為めに、法を説きて、皆、梵天中に生ぜり。我れは、今応に弟子と、処を同じうすべからず。当に、上慈を修めて、上慈を修むるが故に、大梵天中に生ずべし』、と。
『慈』を、
『行う!』ことも、
亦た、
是の通りである、――
例えば、
『妙眼』という、
『外道の師』は念じて、こう言っている、――
わたしが、
『衆人』の為めに、
『法』を、
『説いた!』ので、
皆、
『梵天』中に、
『生まれた!』。
わたしは、
今、
『弟子』と、
『生処』を、
『同じうすべきではない!』。
『上』の、
『慈』を、
『修めて!』、
『上』の、
『慈』を、
『修めた!』が故に、
『大梵天』中に、
『生まれるとしよう!』、と。
  妙眼師(みょうげんし):梵天に生ずる法を教示せる外道大師の名。
  参考:『中阿含巻2七日経』:『昔有大師名曰善眼。為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足。善眼大師有無量百千弟子。善眼大師為諸弟子說梵世法。若善眼大師為說梵世法時。諸弟子等有不具足奉行法者。彼命終已。或生四王天。或生三十三天。或生[火*僉]摩天。或生兜率哆天。或生化樂天。或生他化樂天。若善眼大師為說梵世法時。諸弟子等設有具足奉行法者。彼修四梵室。捨離於欲。彼命終已。得生梵天。彼時善眼大師而作是念。我不應與弟子等同俱至後世共生一處。我今寧可更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。彼時善眼大師則於後時更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。善眼大師及諸弟子學道不虛。得大果報』
復次第一清淨心故。生大梵天中。 復た次ぎに、第一の清浄心なるが故に、大梵天中に生ず。
復た次ぎに、
『心』が、
『第一に!』、
『清浄である!』が故に、
『大梵天』中に、
『生まれる!』。
問曰。何以故於四禪中。但說初後不說中間。 問うて曰く、何を以っての故にか、四禅中に於いて、但だ初、後のみを説いて、中間を説かざる。
問い、
何故、
『四禅』中に、
『初(初禅(梵世))』、
『後(第四禅(浄居))』のみを、
『説いて!』、
『中間(第二、第三禅)』を、
『説かない!』のですか?
答曰。初門離欲難故。最後微妙難得故。中間易入故不說。 答えて曰く、初門は欲を離るること難きが故に、最後は微妙にして得難きが故に、中間は入り易きが故に説かず。
答え、
『初門(初禅)』は、
『欲』を、
『離れる!』ことが、
『難しい!』が故に、
『説き!』、
『最後(四禅)』は、
『微妙であり!』、
『得る!』ことが、
『難しい!』が故に、
『説いた!』が、
『中間(二、三禅)』は、
『入る!』ことが、
『易しい!』が故に、
『説かなかった!』のである。
復次言梵世已攝色界。以第四禪第一妙故別說。 復た次ぎに、梵世と言えば、已に色界を摂し、第四禅は、第一に妙なるを以っての故に、別に説けり。
復た次ぎに、
『梵世』と言えば、
已に、
『色界(初禅、乃至四禅)』を、
『含んでいる!』が、
『第四禅』は、
『第一に!』、
『微妙である!』が故に、
『別に!』、
『説いた!』のである。
復次以人多識梵天不識餘天。是故但說梵天。以淨居天常憐愍眾生常勸請佛故。 復た次ぎに、人は、多く梵天を識り、余の天を知らざるを以って、是の故に、但だ梵天を説き、淨居天は、常に衆生を憐愍して、常に仏を勧請するを以っての故なり。
復た次ぎに、
『人』は、
多くが、
『梵天』を、
『識っている!』が、
『余の天』を、
『識らない!』ので、
是の故に、
但だ、
『梵天』のみを、
『説き!』、
『淨居天』は、
常に、
『衆生』を、
『憐愍して!』、
常に、
『仏』を、
『勧請する!』ので、
是の故に、
『別に!』、
『説いた!』のである。
復次佛說法聲至梵天。佛得道時諸天展轉唱告乃至淨居天。以是故說初後不說中間。 復た次ぎに、仏、法を説きたもうに、声は梵天に至り、仏、道を得たもう時、諸天は展転と唱えて告げ、乃ち淨居天に至る。是を以っての故に、初と後とを説き、中間を説かず。
復た次ぎに、
『仏』が、
『法』を、
『説かれる!』と、
『声』は、
『梵天』にまで、
『至り!』、
『仏』が、
『道』を、
『得られた!』時には、
諸の、
『天』が、
次々と、
『唱え!』、
『伝えて!』、
乃ち、
『淨居天』にまで、
『至る!』ので、
是の故に、
『初』と、
『後』とを、
『説いて!』、
『中間』を、
『説かなかった!』のである。
復次梵天近欲界故應聞。淨居天是色界主。是故應聞。譬如守門人識客。客至其主主則識之。中間無事故不說。 復た次ぎに、梵天は、欲界に近きが故に、応に聞くべし。淨居天は、是れ色界の主なり、是の故に、応に聞くべし。譬えば、守門人、客を識りて、客、其の主に至れば、主は、則ち之を識るが如く、中間には事無きが故に説かず。
復た次ぎに、
『梵天』は、
『欲界』に、
『近い!』が故に、
『仏』が、
『常身』を、
『示された!』と、
『聞くはず!』であり、
『淨居天』は、
『色界』の、
『主である!』ので、
是の故に、
『常身』を、
『示された!』と、
『聞くはず!』である。
譬えば、
『守門人』が、
『客』を、
『認識する!』と、
『客』は、
其の、
『主の所』に、
『至る!』のであるが、
『主』は、
そこで、
之が、
『客である!』と、
『認識する!』のと同じように、
『中間』は、
『事(仕事)』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『説かない!』のである。
復次二禪大喜三禪大樂。喜樂放逸是故不說。 復た次ぎに、二禅は大いに喜び、三禅は大いに楽しむ。喜楽放逸なれば、是の故に説かず。
復た次ぎに、
『二禅』は、
『大いに!』、
『喜ぶ!』し、
『三禅』は、
『大いに!』、
『楽しむ!』ので、
『喜』と、
『楽』とが、
『放逸である!』、
是の故に、
『説かない!』。
問曰。何以名他化自在。 問うて曰く、何を以ってか、他化自在と名づくる。
問い、
何故、
『他化自在』と、
『呼ばれる!』のですか?
答曰。此天奪他所化而自娛樂。故言他化自在。化自樂者。自化五塵而自娛樂故。言化自樂。兜率名知足天。夜摩名善分天。第二名三十三天。最下天是四天王諸天。 答えて曰く、此の天は、他の化する所を奪いて、自ら娯楽するが故に、他化自在と言う。化自楽とは、自ら五塵を化して、自ら娯楽するが故に、化自楽と言う。兜率とは、足るを知る天なり。夜摩を善分の天と名づく。第二を三十三天と名づけ、最下の天は、是れ四天王の諸天なり。
答え、
此の、
『天』は、
『他』の、
『化作する!』所を、
『奪って!』、
自ら、
『娯楽する!』が故に、
こう言うのである、――
『他』の、
『化(所化)』を、
『自在にする!』、と。
『化自楽』とは、
自ら、
『五塵(色声香味触)』を、
『化作して!』、
自ら、
『娯楽する!』が故に、
こう言うのである、――
『化作して!』、
『自ら!』、
『楽しむ!』、と。
『兜率』は、
『足る!』を、
『知る!』、
『天』と、
『称する!』。
『夜摩』は、
『全ての!』、
『時』が、
『善分である!』と、
『称する!』。
『第二天』を、
『三十三天』と、
『称する!』。
『最下の天』は、
『四天王』の、
『諸の天』である!。
  他化自在天(たけじざいてん):他化自在は梵語波羅尼蜜和耶越致para-nirmita-vaza-vartinの訳。また波羅尼蜜和耶拔致、波羅尼蜜、波囉維摩婆奢、娑舎跋提に作り、他化楽天、他化自転天、化応声天と翻じ、或は単に自在天、他化天と云い、また第六天とも称す。六欲天の一。即ち化楽天の上、欲界の最上第六位に位する天なり。「立世阿毘曇論巻6」に、「云何が第六天を波囉維摩婆奢と名づくる。他の化作する所の宮殿園林、一切の楽具の中に於いて自在の計を作し、これはこれ我が所なりと。中に於いて楽を受く、故に波羅維摩婆奢と名づく」と云い、「倶舎論巻11」に、「諸の有情の楽うて他化の諸の妙欲の境を受くるあり。彼れ他化の妙欲の境の中に於いて自在に転ず。謂わく第六の他化自在天なり」と云い、また「大智度論巻9」に、「この天は他の所化を奪いて自ら娯楽す、故に他化自在と言う」と云えるこれなり。これこの天は他の化作せる欲境を自在に受用し、自ら楽を受くるが故に他化自在と名づくることを明にせるなり。この天界には優鉢羅花等の水生花及び解脱花等の陸生花あり。また焔摩、兜率、化楽等の諸天に同じく閻浮提に勝るもの三事あり、一に長寿、二に端正、三に多楽なり。就中、寿は人間の千六百歳を以って一日一夜とし、これを算して万六千歳に至る。但し中夭の者あり。身長は十六由旬、或は一拘盧舎半なり。衣は長さ三十二由旬、広さ十六由旬、重さ半銖あり。自然の食を食し、男女は互いに相視て婬を成ずと云う。またこの天は魔王の住処なりとせられ、「修行本起経巻下出家品」に、「六天を典して魔王となる」と云い、「大智度論巻10」に、「魔王は常に来たりて仏を嬈す。またこれ一切欲界中の主なり、夜摩天、兜率陀天、化楽天は皆魔王に属す。(中略)魔はこれ他化自在天なり」と云い、また「彰所知論巻上」に、「他化自在天は他の化を受用するを謂って他化自在と曰う。彼の中の天王は威徳自在にして、即ちこれ魔王なり」と曰えり。但し魔王の住処は彼の天中の高処に別に存するが如く、「長阿含経巻20忉利天品」には、他化自在天の上に別に縦広六千由旬の魔の天宮ありと云い、「瑜伽師地論巻4」には、魔羅天宮は他化自在天の所摂なるも、而もその処所は髙勝なりと云えり。また諸経中、諸仏浄土の荘厳を叙述するに当り、この天を引例するもの少なからず。即ち「大阿弥陀経巻上」に阿弥陀仏国には自然万種の物あり、百味飲食の意に随って自然に前に在ること、譬えば第六天上の自然の物の如しと云い、「海龍王経巻4法供養品」に、海龍王成仏の時、その法音声世界の衣服飲食は第六天人の所居の如しと云い、「大哀経巻8往古品」に、離垢光如来の浄土の諸天人民の被服飲食は、なお第六自在天の所居の如しと云い、「商主天子所問経」に、商主天子成仏の時、その清浄世界の衆生受楽の果報はなお他化自在天の如しと云い、「大方等大集経巻11海慧菩薩品」に、無辺光如来の世界の荘厳厳飾は彼の他化自在天宮の如しと云い、また「説無垢称経巻1序品」に、譬えば他化自在天宮に無量の宝功徳荘厳あるが如く、我が世尊釈迦牟尼仏の土の厳浄にして、無量の宝功徳荘厳あるを見ることもまたまたかくの如しと云える皆その例なり。また大乗諸経中にはこの天宮を会処として説法せられたるものあり、即ち華厳経七処八会中の第六他化自在天宮会、般若四処十六会中の第十会他化自在天宮説般若理趣分の如きこれなり。また「大楼炭経巻4」、「起世経巻1、巻7」、「立世阿毘曇論巻7」、「大毘婆沙論巻136」、「倶舎論巻8」、「同光記巻8、巻11」等に出づ。<(望)
  化自楽天(けじらくてん):欲界第五天の名。『大智度論巻9上注:化楽天』参照。
  化楽天(けらくてん):化楽は梵語尼摩羅nirmaaNaratiの訳。また修涅密陀sunirmaaNarati(善化楽)に作る。また泥摩羅提羅維摩羅眼に作り、或は化自在天、化自楽天、不憍楽天、楽無慢天、無貢高天、楽変化天とも訳す。六欲天の一。即ち兜率天の上、他化自在天の下に在る天の名。「大智度論巻9」に、「化自楽は自ら五塵を化して自ら娯楽するが故に化楽と言う」と云い、また「倶舎論巻11」に、「諸の有情の楽って自化の諸の妙欲の境を受くるあり。彼れ自化の妙欲の境の中に於いて自在にして転ず。謂わく唯第五の楽変化天なり」と云えるこれなり。これに依るにこの天は自ら好んで諸妙欲の境界を化作し、而も自ら娯楽するが故に、名づけて化自楽等と称するを知るべし。この天界には嗢鉢羅花等の水生花、阿提目多迦花等の陸生花あり。夜摩、兜率、他化自在の諸天に同じく三事の閻浮提に勝るるものあり。一は長寿、二は端正、三は多楽なり。その寿は人間の八百歳を以って一日一夜とし、八千歳なり。身長は八由旬にして、身に常光あり。衣は長さ十六由旬、闊さ八由旬、重さ一迦利沙十六分の一あり。婚姻ありて男は娶り女は嫁す。互いに相熟視し、或は唯互いに相向かって笑えば、即ち交媾を成じ、児は男女の膝上より化生し、その初生の者は人間の十二歳の童の如し。常に須陀の味を以って麁段食と為し、諸の覆蓋等を微細食と為すと云う。また「長阿含経巻20」、「起世経巻7」、「立世阿毘曇論巻6」、「大毘婆沙論巻136」、「瑜伽師地論巻4、巻5」、「玄応音義巻3、巻23」等に出づ。<(望)
  兜率天(とそつてん):兜率tuSitaは梵名。また都率、兜術、兜率陀、兜率哆、兜牽陀、都史多、睹史多、兜駛多に作り、知足、妙足、喜足、或は喜楽と訳す。六欲天の一。即ち夜摩天の上、欲界六天の第四位に位する天なり。「立世阿毘曇論巻6」に、「云何が第四天を兜率陀天と名づくる。歓楽飽満し、その資具に於いて自ら満足を知り、八聖道に於いて知足を生ぜず。故に説いて名づけて兜率陀天と名づく」と云い、「仏地経論巻5」に、「都史多天は後身の菩薩、中に於いて教化し、多く喜足を修するが故に喜足と名づく」と云えるこれなり。これこの天はその資具に於いて自ら満足するを知り、また最後身の菩薩その中に於いて教化するが故に、知足或は喜足と名づくることを明にせるなり。この天は閻浮提より三十二万由旬、夜摩天より十六万由旬を距つる上層に位し、虚空密雲の上に在り、縦広八万由旬にして、最後身の菩薩の住処と信ぜられ、釈尊も閻浮降生以前はこの天に住し、弥勒は現にまた補処の菩薩としてこの天界に在りとせらるる所なり。「弥勒上生兜率天経」に弥勒がこの天に上生せし時の光景を敍し、彼の処に五百万億の天子あり、一生補処の菩薩の為に弘誓の願を発して五百万億の宝宮を化作し、一一の宝宮に七重の垣あり、一一の垣は七宝の所成にして、一宝より五百億の光明を出し、一一の光明中に五百億の蓮華あり、皆五百億の七宝行樹を化作し、一一の樹葉に五百億の宝色あり、五百億の閻浮檀金の光を放ち、光中より五百億の諸天宝女を出し、女は各樹下に住立して、五百億の宝及び無数の瓔珞の妙音楽を出すものを執り、楽音中に不退転地法輪の行を演説す。また一一の垣墻の高さは六十二由旬、厚さ十四由旬にして五百億の龍王これを囲繞し、一一の龍王は五百億の七宝行樹を雨して垣上を荘厳し、自然に風ありてその樹を吹動し、樹相振触して苦空無常無我諸波羅蜜を演説す等と云えり。またその天人は手を執りて以って陰陽を成じ、初生の児は閻浮提の人の八歳(または三四歳、或は九歳)の如く、七日に至りて成人し、身長は四由旬、衣は長さ八由旬、広さ四由旬、重さ一銖半あり。天の四千歳を以ってその定寿とす、即ち彼の天の一昼夜は閻浮提の四百歳に当るを以って、その四千歳は閻浮提の五十七億六千万歳に相当するなり。またこの天は諸仏浄土の荘厳を叙述するに当り引例せらるること少なからず。即ち「大宝積経巻12密迹金剛力士会」に、密迹金剛力士成仏の時、その普浄世界の有らゆる諸業は兜率天の如く、被服飲食宮殿園観交露楼閣も等しくして異なしと云えるが如きこれなり。また「長阿含経巻20忉利天品、巻21三災品」、「増一阿含経巻44」、「大楼炭経巻4」、「起世経巻1、巻7」、「弥勒下生経」、「方広大荘厳経巻1兜率天宮品」、「大毘婆沙論巻136」、「大智度論巻9、巻10」、「立世阿毘曇論巻7」、「瑜伽師地論巻5」、「倶舎論巻8、巻11」、「順正理論巻31」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「雑阿毘曇心論巻2」、「彰所知論巻上」等に出づ。<(望)
  夜摩天(やまてん):夜摩yaamaは梵名。また夜磨、焔摩、炎摩、蘇夜摩、須焔摩、須炎摩、須燄、須炎、或は炎、燄、塩、艶、豔に作り、善時分、善時、善分、時分、妙善、唱楽と訳し、一に離諍天とも云う。六欲天の一、即ち欲界六天の第三に位する天なり。「正法念処経巻36」に、「彼の三十三天已上に於いてまた一切法勝の堂あり、法の果報勝れ光明勝妙なり、夜摩天と名づく」と云い、「立世阿毘曇論巻6」に、「云何が第三天を名づけて夜摩と為す。日夜時節分分度時にかくの如きの言を説く、咄なる哉、不可思議の歓楽やと。故に夜摩と名づく」と云い、「仏地経論巻5」に、「夜摩天とは謂わくこの天中には随時に楽を受く、故に時分と名づく」と云い、「慧苑音義巻上」に、「須夜摩。須は善なり、夜摩は時なり。言わく彼の諸天は光明赫奕として昼夜別たず、但だ華の開合を看て以ってその時を分つ。已に明暗の時に非ざるが故に善時天と曰うなり」と云えるこれなり。これこの天界は光明赫奕として昼夜別たず、その中の諸天は分分度時に不可思議の歓楽を受くることを説けるものなり。また「彰所知論巻上」に三十三天は阿修羅と共に諍うも、この天は諍を離るるが故に離諍天と名づくと云えり。即ち最初の空居天にして、閻浮提より十六万由旬、忉利天より八万由旬を距つる上層の空中に住し、その縦広八万由旬ありと称せらる。また「正法念処経巻36」にその構造荘厳等を叙述し、この天は虚空に住し、虚空中の有らゆる雲聚が風の為に持せらるるが如し。勢力乃至林光明等の三十二地あり、その高さ五千由旬なり。天王を牟修楼陀と名づけ、身量五由旬あり。また高さ一万由旬の清浄等の四大山及び種種の諸山あり、多くの天花を以って荘厳し、種種の河池、百千の園林ありて周匝囲遶す。河池には勝妙の蓮華あり、園林に諸の天女ありて喜笑歌舞し、その他無量の功徳を成就し、天衆は種種の快楽を受け、その勝妙なること忉利天の能く及び所に非ずと云えり。寿は人間の二百歳を以って一昼夜となし二千歳なり。身長は二由旬(一に四分の三俱盧舎、或は半俱盧舎)、衣は長さ四由旬、広さ二由旬、重さ三銖あり、婚姻の事あり、男は娶り女は嫁す。互いに相近づき、或は纔かに相抱きて即ち陰陽を成じ、児は男女の膝上より化生し、その初生の者は閻浮提の三四歳(一に七歳)の童の如く、生じ已りて身形速かに成満し、常に浄搏食を食し、洗浴衣服を細滑食と為すと云う。蓋しこの天の主なる夜摩は吠陀以来信ぜられたる神にして、彼の天界は死者の往くべき処なりとせられ、歓楽に充ちたる光明の世界として、夙に印度民族の憧憬する所なりしが如し。後彼の夜摩は死者の審判官として鬼趣または地獄の主となり、閻魔王と称せらるることとなりしも、その天界はなお空中の上層に在りと信ぜられ、仏教に混入するに及びてこれを六欲天の第三位に置くに至りしなり。また「長阿含経巻18、巻20、巻21」、「正法念処経巻37乃至63」、「旧華厳経巻10」、「大毘婆沙論巻134、巻136」、「三法度論巻下」、「雑阿毘曇心論巻2」、「大智度論巻9、巻54」、「立世阿毘曇論巻7」、「瑜伽師地論巻4、巻5」、「倶舎論巻11」、「順正理論巻31」等に出づ。<(望)
  三十三天(さんじゅうさんてん):欲界第二天の名。『大智度論巻9上注:忉利天』参照。
  忉利天(とうりてん):忉利traayastriMzaは梵名、またはtrayastriMza。また多羅夜登陵舎、怛唎耶、怛唎奢に作り、三十三と訳す。欲界六天の第二。天帝釈所居の天界にして須弥山の頂上に在り。四方に各八天、中央善見城を合わせて総じて三十三天あり。「正法念処経巻25」に、「四天王天を観じ已らば、三十三天所住の地を観ずべし。(中略)何等か三十三なる。一には名づけて住善法堂天と曰い、二には住峯天と名づけ、三には住山頂天と名づけ、四には善見城天と名づけ、五には鉢私地天と名づけ、六には住俱吒天と名づけ、七には雑殿天と名づけ、八には住歓喜園天と名づけ、九には光明天と名づけ、十には波利耶多樹園天と名づけ、十一には険岸天と名づけ、十二には十雑険岸天と名づけ、十三には十摩尼蔵天と名づけ、十四には旋行地天と名づけ、十五には金殿天と名づけ、十六には鬘影処天と名づけ、十七には住柔軟地天と名づけ、十八には雑荘厳天と名づけ、十九には如意地天と名づけ、二十には微細行天と名づけ、二十一には歌音喜楽天と名づけ、二十二には威徳輪天と名づけ、二十三には月行天と名づけ、二十四には閻摩沙羅天と名づけ、二十五には速行天と名づけ、二十六には影照天と名づけ、二十七には智慧行天と名づけ、二十八には衆分天と名づけ、二十九には住輪天と名づけ、三十には上行天と名づけ、三十一には威徳顔天と名づけ、三十二には威徳燄輪天と名づけ、三十三には清浄天と名づく。かくの如きは三十三天なり」と云い、「立世阿毘曇心論巻6」に、「云何が第二天を名づけて忉利天と為す。三十三天王この中に於いて帝王と為り、王位自在なるが故に説いて忉利天と為す」と云えるこれなり。これこの天中に三十三処の別あるが故に、三十三天と名づくることを説けるものなり。その構造荘厳等に関しては、「倶舎論巻11」に、「三十三天は迷盧の頂に住す。その頂の四面各八十千にして、下の四辺とその量別なし。有余師説く、周八十千なり、別に四辺を説かば各唯二万なりと。山頂の四角に各一峯あり、その高広の量は各五百あり。藥叉神あり、金剛手と名づく。中に於いて止住して諸天を守護す。山頂の中に於いて宮あり、善見と名づく。面は二千半、周万踰繕那、金城の量は高さ一踰繕那半なり。その地平坦にしてまた真金の所成なり、倶に百一の雑宝を用いて厳飾す。地触るるに柔軟なること妬羅綿の如く、践躡の時に於いて足に随って高下す。これ天帝釈所都の大城なり。その城中に於いて殊勝の殿あり、種種の妙宝具足荘厳して余の天宮を蔽う、故に殊勝と名づく。面は二百五十、周千踰繕那なり。これを城中の諸の可愛事と謂う。城外の四面に四苑荘厳せり、これ彼の諸天の共に遊戯する処なり。一に衆車苑、二に麁悪苑、三に雑林苑、四に喜林苑なり。これを外飾と為して大城を荘厳す。四苑の四辺に四の妙池あり、中間各苑を去ること二十踰繕那なり。これ彼の諸天の勝遊戯処にして、諸天は彼に於いて捔勝し歓娯す。城外の東北に園生樹あり、これ三十三天が欲楽を受くる勝所なり。盤根深広にして五十踰繕那あり、聳幹上昇し、枝條傍布し、高広の量等しく百踰繕那なり。挺葉開華妙香芬馥し、順風に薫ぜば百踰繕那に満ち、もし逆風の時もなお五十に遍ず。(中略)外の西南の角に善法堂あり、三十三天時に集り、彼に於いて如法不如法の事を詳論す」と云えり。但し「長阿含経巻20忉利天品」等に説く所は、これと少しく異あり、即ち彼の経には、三十三天城は縦広八万由旬の大城にして、五百由旬毎に城門を置き、一一の門に五百の鬼神ありて三十三天を衛護す。中に七重の小城あり、縦広六万由旬にして、上に楼閣台観園林浴池等を設け、小城の外に中間に伊羅鉢龍宮あり。またその善見城内に善法堂あり、中に天帝釈の御座を敷く。堂に四門を開き、北に帝釈宮殿を構え、皆七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹を以って七重に周匝厳飾す。善見城の東南西北に麁渋(一に麁堅)、昼楽(一に楽昼)、雑(一に憒乱)、大喜(一に歌舞)の四園林あり。その中、麁渋、昼楽両園の中間に難陀池あり、雑、大喜両園の中間に昼度樹あり、皆善見城より階道を以って通ずることを得と云えり。またこの天人の身長は一由旬、衣は長さ二由旬、広さ一由旬、重さ六銖あり。天の千歳を以ってその寿とし、浄搏食を食し、男娶女嫁の事あり、身身相近づき気を以って陰陽を成ずと云う。蓋し忉利天は帝釈即ち因陀羅の住処として、古くより印度民族の間にその信仰行われ、仏母摩訶摩耶は歿後この天に生じたるを以って、仏は一夏昇天して母の為に説法し、尋いで下天せられんとする時、帝釈は天子に命じて金銀瑠璃の三道の宝階を化作せしめ、仏は中央瑠璃階より、梵天及び諸の色天は右面の金階より、帝釈及び諸の欲天は左面の銀階より降下せりと伝えらる。また諸経中、諸仏浄土の荘厳を叙述するに当り、この天を引例するもの少なからず。即ち「道行般若経巻6恒竭優婆夷品」に、我が刹中の人の願う所、索むる所の食をして悉く前に在らしむること、忉利天上の飲食の如くならしめんと云い、「阿閦仏国経巻上」に、その仏刹の人民は念ずる所に随って食即ち自然に前に在ること、譬えば忉利天人の如しと云い、また「大阿弥陀経巻下」に阿弥陀仏国の界辺に自然の七宝城あり、飲食を得んと欲せば意に応じて皆至り、その城中の快楽は譬えば第二忉利天上の自然の物の如しと云える皆その例なり。また「長阿含巻3遊行経」、「中阿含巻1昼度樹経、巻55持斎経」、「雑阿含経巻19、巻23、巻45」、「増一阿含経巻28、巻33、巻37」、「大楼炭経巻4」、「園生樹経」、「義足経巻下」、「超日明三昧経巻下」、「仏昇忉利天為母説法経」、「正法念処経巻26乃至巻35」、「法華三昧経」、「七女経」、「有部毘奈耶雑事巻36」、「大毘婆沙論八巻10」、「立世阿毘曇論巻2、巻3」、「大智度論巻9、巻56」、「仏地経論巻5」、「彰所知論巻上」等に出づ。<(望)
  四天王天(してんのうてん):欲界六天中の初天。『大智度論巻9上注:四王天』参照。
  四王天(しおうてん):梵名caatur-mahaa-raajikaa-devaaHの訳。また四天王天、四大王衆天、或は四大天王衆天と名づく。六欲天の一。四天王の住する天の意。即ち、多聞、持国、増長、広目の四天王及びその眷属天衆の住する処を云う。「長阿含巻20世紀経四天王品」に須弥山王の東千由旬に提頭賴吒(dhRtaraaSTra、持国)天王あり。城を賢上と名づく、縦広六千由旬なり。その城に七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝せる校飾は七宝を以って成り、乃至無数の衆鳥相和して鳴く。また須弥山の南千由旬に毘楼勒(viruuDhaka、増長)天王あり、城を善見と名づく。須弥山の西千由旬に毘楼婆叉(viruupaakSa、広目)天王あり、城を周羅善見と名づく。須弥山の北千由旬に毘沙門(vaizravaNa、多聞)天王あり、王に三城あり、一を可畏と名づけ、二を天敬と名づけ、三を衆帰と名づく。縦広等は具さに賢上城の如し。宝階道あり、各城互いに相通ずることを得。またその天の身長は半由旬、衣は長さ一由旬、広さ半由旬、重さ半両なりと云えり。また「正法念処経巻22」、「大楼炭経巻3」、「起世経巻6」、「起世因本経巻6」、「倶舎論巻11」、「大毘婆沙論巻172」、「立世阿毘曇論巻4」、「順正理論巻31」、「彰所知論巻上」等に出づ。<(望)
須彌山高八萬四千由旬。上有三十三天城。 須弥山は高さ八万四千由旬、上に三十三の天城有り。
『須弥山』は、
高さが、
『八万四千由旬』であり!、
上に、
『三十三』の、
『天』の、
『城』を、
『有する!』。
  須弥山(しゅみせん):須弥sumeruは梵語。また蘇迷盧、須弥盧、須弥留、修迷楼等に作り、或は須弥山王と称し、略して弥楼meru、迷盧とも云う。妙光、好高、好光、或は安明と訳す。一世界の中央に聳立せる大高山の名。「長阿含経巻18閻浮提洲品」に、「仏、比丘に告ぐ、今この大地は深さ十六万八千由旬にして、その辺は無際なり。地は水に止まる。水の深さは三千三十由旬にしてその辺は無際なり。水は風に止まる。風の深さは六千四十由旬にして、その辺は無際なり。比丘、その大海の水の深さは八万四千由旬にしてその辺は無際なり。須弥山王は海水の中に入ること八万四千由旬、海水の上に出づること高さ八万四千由旬なり。下根は地に連なり、多く地分を固む。その山は直上して阿曲のあること無く、種種の樹を生じ、樹より衆香を出し、香は山林に遍し。多くの諸賢聖大神妙天の居止する所なり。その山の下基には純ら金沙あり。その山の四面に四埵出づることあり、高さ七百由旬なり。雑色間厠し七宝の成ずる所、四埵は斜めに低れ、曲がりて海上に臨めり。須弥山王に七宝の階道あり、その下の階道の広さは六十由旬なり、道の両辺を挟んで七重の宝牆、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。(中略)また須弥山王の中級の階道は広さ四十由旬なり、道を挟んで両辺に七重の宝牆あり。(中略)上級の階道は広さ二十由旬なり。道の両辺を挟んで七重の宝牆、欄楯七重、羅網七重、行樹七重あり。乃至無数の衆鳥相和して鳴くことまた中階の如し。仏、比丘に告ぐ、その下の階道に鬼神ありて住す、名づけて迦楼羅足と曰う。その中の階道に鬼神ありて住す、名づけて持鬘と曰う。その上の階道に鬼神ありて住す、名づけて喜楽と曰う。その四埵の高さは四万二千由旬なり。四天大王の所居の宮殿にして七重の宝城、欄楯七重、羅網七重、行樹七重、諸宝鈴あり。乃至無数の衆鳥相和して鳴くことまたまたかくの如し。須弥山頂には三十三天の宮あり、宝城七重、欄楯七重、羅網七重、行樹七重あり。乃至無数の衆鳥相和して鳴く」と云えり。これ須弥山は海水に入ること八万四千由旬、海水を出づることまた八万四千由旬にして種種の樹を生じ、またその四面の四埵に四天大王の宮殿あり、上中下の三級の階道にはその両辺に宝牆欄楯等あり、諸鬼神その中に住し、その頂上に三十三天宮あり、即ち帝釈天の居住処なることを説けるものなり。また「立世阿毘曇論巻2数量品」に依れば、この世界は須弥山を以って中心と為し、外囲に八大山、八大海ありて順次環繞す。この世界の地は形相団円にして、銅の燭盤の如く、陶家の輪の如く、この世界の地もまたまたかくの如し。なお燭盤の辺縁の隆起するが如く、その鉄囲山もまたまたかくの如し。譬えば燭盤の中央聳起するが如く、その世界の中に須弥山王あることもまたまたかくの如しと云い、即ち須弥山は周遭を須弥海の為に環繞せられ、高さ八万由旬、基底は四方形を呈し、周囲は三十二万由旬あり、これに継いで八山に周囲を環繞せられ、山と山との間を隔てて七海を著く。八山とは順に由乾陀yugandhaara、伊沙陀iiSaadhara、訶羅置khadiraka、脩騰娑sudarzana、阿沙干那azvakarNa、毘那多vinataka、尼民陀nimiJdhara、鉄囲山cakravaaDaなり。七海の前六海の名称は、即ちその環繞する所の山に随うて名を得。第七山の外に鹹海あり、その外に鉄囲山あり、その鹹海の中に四大洲ありて、弗婆提、瞿陀尼、閻浮提、鬱単越と名づけ、各鹹海の中に於いて東西南北の四方に位することを説けり。また「長阿含経巻18閻浮提洲品、巻19乃至巻22」、「大楼炭経巻5災変品」、「雑阿含経巻16」、「正法念処経巻18」、「大毘婆沙論巻69」、「大智度論巻9」、「瑜伽師地論巻2」、「倶舎論巻11、巻12」等に出づ。<(望)
須彌山邊有山。名由揵陀羅。高四萬二千由旬。此山有四頭。頭各有城。四天王各居一城。 須弥山の辺に山有り、由揵陀羅と名づけ、高さ四万二千由旬なり。此の山に、四頭有り、頭に各城有り、四天王は、各一城に居す。
『須弥山』の、
『周辺』にも、
『由揵陀羅』という、
『山』が、
『有り!』、
其の、
『高さ!』は、
『四万二千由旬』である!。
此の、
『山』には、
『四』の、
『頭()』が有る!。
各々の、
『頭』には、
『城』が有り!、
『四天王』は、
各、
此の中の、
『一城』に、
『居住』している!。
  由揵陀羅(ゆごんだら):須弥山を環繞する八山中の最も内に位する山の名。『大智度論巻9上注:由乾陀』参照。
  由乾陀(ゆけんだ):梵名yugaMdhaaraの音訳。また由乾陀、遊乾陀羅、遊揵陀羅、踰健達羅、由揵陀羅、等に作り、持双と訳す。<(望)
夜摩等諸天七寶地。在虛空中有風持之令住。乃至淨居亦復如是。 夜摩等の諸天は、七宝の地にして、虚空中に在り、風之を持して、住(とど)めしむ。乃至浄居も亦た是の如し。
『夜摩』等の、
諸の、
『天』の、
『七宝』の、
『地』は、
『虚空』中に在り、
『風』に、
『保持されて!』、
『住(とど)まっている!』。
乃至、
『浄居』まで、
まったく、
是の通りである。
如是諸天見佛身清淨大光明。淨持諸供具水陸諸華。陸地生華須漫提為第一。水中生華青蓮華為第一。若樹生華若蔓生華。是諸名華種種異色種種香熏。各持天華來詣佛所。以此諸華色好多香柔軟細滑。是故以此為供養具。 是の如き諸天、仏身の清浄なると、大光明の浄きを見て、諸の供具と、水陸の諸華を持す。陸地に生ずる華は、須漫提を第一と為し、水中に生ずる華は、青蓮華を第一と為す。若しは樹に生ずる華、若しは蔓に生ずる華あり、是の諸の名華は、種種に色を異にし、種種の香を熏ず。各は、天華を持し来たりて、仏所に詣(いた)る。此の諸の華は色好もしく、多く香りて、柔軟、細滑なり。是の故に、此れを以って、供養の具と為せり。
是のような、
諸の、
『天』は、
『仏』の、
『身』が、
『清浄である!』ことを、
『見て!』、
『大光明』が、
『浄い!』ことを、
『見る!』と、
諸の、
『供養』の、
『具』として、
『水、陸』の、
諸の、
『華』を、
『携えた!』。
『陸地』に、
『生じる!』、
『華』ならば、
『須漫提』が、
『第一』である!。
『水中』に、
『生じる!』、
『華』ならば、
『青蓮華』が、
『第一』である!。
『樹』に、
『生じる!』、
『華』や、
『蔓』に、
『生じる!』、
『華』にも、
種種の、
『珍しい!』、
『色』があり、
種種の、
『香』が、
『薫る!』が、
各々は、
『天』の、
『華』を、
『携えて!』、
『来る!』と、
『仏』の、
『所』に、
『至った!』。
此の、
諸の、
『華』は、
『色』が、
『好ましく!』、
『香』が、
『多く!』、
『柔軟』であり、
『繊細』なので、
是の故に、
此れを、
『供養』の、
『具』と、
『為した!』のである。
  供具(くぐ):また供物とも云い、仏菩薩に供える香花、飲食、幡蓋等の諸の供養の具を指す。
  須漫提(しゅまんだい):不明。「翻梵語巻10」に、「須漫提花、訳して曰わく、須は好なり、漫提は湖なり」とあるのみ。或は蘇末那sumana?また蘇摩那、蘇蔓那、須摩那、須曼那等に作る。「玄応音義巻21」に、「蘇末那、旧に蘇磨那と云う、花色黄白にしてまた甚だ香る。大樹を作ず、纔かに高さ三四尺、四垂して蓋に似る」と云えり。
云何為天華。天華芬熏香氣逆風。 云何が、天の華と為す。天の華は、芬薫たる香気、風に逆らう。
『天』の、
『華』とは、
何のようなものか?
『天』の、
『華』は、
『芬薫とした!』、
『香気』が、
『風』に、
『逆らって!』、
『薫る!』。
  芬薫(ふんくん):好い香気のかおるさま。
諸天瓔珞懸在佛上。天澤香以塗佛地。天末香以散佛上。 諸の天の瓔珞は、懸りて仏上に在り、天の沢香は、以って仏の地に塗り、天の末香は、以って仏上に散ず。
諸の、
『天』の、
『瓔珞』は、
『仏の上』に、
『懸かり!』、
『天』の、
『沢香』は、
『仏の地』に、
『塗られ!』、
『天』の、
『末香』は、
『仏の上』に、
『散()かれた!』。
天蓮華青赤紅白。何以無黃。黃屬火。火非水華所宣故。 天の蓮華は青、赤、紅、白なり。何を以ってか、黄無き。黄は、火に属し、火は、水華の宜しき所に非ざるが故なり。
『天』の、
『蓮華』は、
『青』か、
『赤』か、
『紅』か、
『白』である!。
何故、
『黄』が、
『無い!』のか?
『黄』は、
『火』に、
『属す!』が、
『火』は、
『水中』の、
『華』に、
『宜しくない!』からである。
天寶蓮華琉璃為莖。金剛為臺。閻浮那陀金為葉。柔軟且香。并天樹葉香持詣佛所。 天の宝蓮華は瑠璃の茎と為し、金剛を台と為し、閻浮那陀金を葉と為す。柔軟にして且つ香(かぐわ)しければ、天樹の葉の香しきと併せて持し、仏所に詣れり。
『天』の、
『宝の蓮華』は、
『瑠璃』が、
『茎』と、
『為()り!』、
『金剛』が、
『台(うてな)』と、
『為り!』、
『閻浮那陀金』が、
『葉』と、
『為った!』ものであるが、
『柔軟』にして、
且()つ、
『香(かぐわ)しい!』ので、
『天』の、
『樹の葉』の、
『香しい!』ものと、
『併せて!』、
『携え!』、
『仏』の、
『所』へ、
『至った!』のである。
  閻浮那陀金(えんぶなだごん):最高品位の金の名。『大智度論巻9上注:閻浮檀金』参照。
  閻浮檀金(えんぶだんこん):梵名jambuunada-suvarNa。梵語閻浮檀jambuu-nadaは、また閻浮那檀、閻浮那陀、閻浮捺陀、染部捺陀、瞻部捺陀、剡浮那他、閻浮那提等に作る。閻浮は樹の名。捺陀は江の義。即ち閻浮樹の間を流るる河の意にして、閻浮檀金はその河より産する沙金を云う。「大智度論巻35」に、「この洲の上にこの樹林あり。林中に河あり、底に金沙あり、名づけて閻浮檀金となす」とあり。また「大品般若経疏巻3」に、「洲中に閻浮林あり。林中、この樹最も長ずる所、故に名と為す。樹下に河あり、底に金沙あり、閻浮檀金と名づく」と云い、また「慧苑音義巻上」に、「閻浮檀金は、具さには正しく染部捺陀という。これはこれ西域の河の名なり。その河の近くに閻浮捺陀樹あり、その金は彼の河中より出づ。これ則ち河は樹に因りて以って称を立て、金は河に由りて以って名を得。或は曰わく、閻浮果の汁は物に点ずれば金と成る。河に流入するに因りて石を染めてこの閻浮檀金を成ず。その色赤黄にして兼ねて紫燄気を帯べるなり」と云える皆同説なり。然るに「起世経巻1閻浮洲品」に、「この樹下に閻浮檀金聚あり、高さ二十由旬なり。この勝金は閻浮樹の下より出づ。この故に名づけて閻浮那檀となす。閻浮那檀金とはこれに依りて名を得」と云い、また「玄応音義巻21」には「瞻部樹は半ば陸地に臨み、半ば海中に臨む。この海水の底に金あり、水極めて深きも、然も金色徹して水上に出づ。もし転輪王出世すれば、諸の夜叉神この金を取り、将来博易するが故に人間にこれ有り。もし暗中に著けば闇即ち滅す」と云い、これを河中の沙金となさず。蓋し閻浮河は、印度の神話に恒伽の七支流の一に数えらるるものにして、元と実在の河名に非ざるが如く、随って閻浮檀金もまた恐らく閻浮樹王と倶に須弥四洲の説に付帯して起これる想像上のものなるべし。「観無量寿経」に、「無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金の色の如し」と云い、「観弥勒菩薩上生兜率天経」に、「一一の宝色に五百億の閻浮檀金の光あり」と云い、また「法華経巻3授記品」に当来大迦葉成仏の時、閻浮那提金光如来と号すべきことを説けり。この中、法華経の梵文には唯jambuunada-prabhaasa(閻浮那提の光)とありて金の字なく、マハーブハーラタmahaabhaarata等に於いても、kuveraの蓮池をjambuunada-saras(金池)とし、また金の字を置かず。されば梵本にては特に金の字を挙げずして、閻浮河の金の義をあらわしたるものとすべく、随って漢訳の閻浮檀金中、金の字は重複せるものというべし。また「起世因本経巻1」、「慧琳音義巻11、巻25、巻27」、「翻訳名義集巻7」、「翻梵語巻8、巻10」等に出づ。<(望)
問曰。若諸天供養應持天華。人及非人云何得天華。 問うて曰く、若し諸の天、供養せば、応に天の華を持すべし。人及び非人は、云何が、天の華を得ん。
問い、
若し、
諸の、
『天』が、
『華』を、
『供養した!』ならば、
当然、
『天』の、
『華』を、
『携えたはず!』ですが、
『人』や、
『非人』は、
何のようにして、
『天』の、
『華』を、
『得た!』のですか?
答曰。佛以神足放大光明地六種震動。諸天雨種種妙華。滿三千大千世界。以供養佛。是人非人或取此華而以供養。 答えて曰く、仏の、神足を以って、大光明を放ちたまい、地、六種に震動せるに、諸天は、種種の妙華を雨ふらして、三千大千世界を満て、以って仏を供養す。是の人、非人は、或いは此の華を取りて、以って供養しつらん。
答え、
『仏』が、
『神足』を以って、
『大光明』を、
『放たれ!』、
『地』が、
『六種』に、
『震動する!』と、
諸の、
『天』が、
種種の、
『妙華』を、
『雨のように!』、
『降らして!』、
『三千大千世界』を、
『華』で、
『満たし!』、
『仏』を、
『供養した!』のであるが、
是の、
『人』や、
『非人』は、
此の、
『華』を、
『取って!』、
『仏』を、
『供養した!』のだろう。
復次天竺國法名諸好物皆名天物。是人華非人華。雖非天上華。以其妙好故名為天華。是故言人非人持諸天華。是則無咎 復た次ぎに、天竺国の法に、諸の好物名づけて、皆天物と名づく。是の人の華、非人の華は、天上の華に非ずと雖も、其の妙好なるを以っての故に、名づけて天華と為す。是の故に、『人、非人は諸の天の華を持す』、と言えども、是れに則ち咎無し。
復た次ぎに、
『天竺国』の、
『法()』として、
諸の、
『好い物』を、
『呼ぶ!』のに、
皆、
『天の物』と、
『呼んでいる!』。
是の、
『人の華』や、
『非人の華』も、
其の、
『妙好である!』が故に、
『天の華』と、
『称した!』のだろう。
是の故に、
『人』や、
『非人』が、
諸の、
『天の華』を、
『携えた!』と、
『言った!』としても、
則ち、
『咎』は、
『無い!』。



諸天は、仏上に天華を散らす

【經】是諸天華乃至天樹葉香以散佛上 是の諸の天の華、乃至天の樹葉の香を以って、仏の上に散ず。
是の、
諸の、
『天の華、乃至天の樹葉』の、
『香』を以って、
『仏の上』に、
『散()いた!』。
【論】問曰。何以以華散佛身上。 問うて曰く、何を以ってか、華を以って、仏身上に散ずる。
問い、
何故、
『華』を以って、
『仏』の、
『身の上』に、
『散いた!』のですか?
答曰。恭敬供養故。 答えて曰く、恭敬し、供養するが故なり。
答え、
『恭敬して!』、
『供養した!』からである。
又佛光照皆遙見佛。心大歡喜供養佛故。皆以諸華而散佛上。 又仏の光照らせば、皆、遙かに仏を見て、心に大いに歓喜し、仏を供養するが故に、皆、諸の華を以って、仏の上に散ぜり。
又、
『仏』の、
『光』が、
『照らす!』と、
皆は、
『遙かに!』、
『仏』を、
『見た!』のだが、
『心』が、
『大いに!』、
『歓喜して!』、
『仏』を、
『供養した!』ので、
是の故に、
皆は、
諸の、
『華』を以って、
『仏の上』に、
『散いた!』のである。
復次佛於三界第一福田。以是故華散佛上 復た次ぎに、仏は、三界に於いて第一の福田なり。是を以っての故に、華を、仏上に散ぜり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『三界』中に、
『第一』の、
『福田』である!ので、
是の故に、
『華』を、
『仏の上』に、
『散いた!』のである。



散華は化して、虚空上に華台と成る

【經】所散寶華於此三千大千世界上在虛空中化成大臺 散ずる所の宝華は、此の三千大千世界上に於いて、虚空中に在りて、大台を化成す。
『散かれた!』、
『宝の華』は、
此の、
『三千大千世界』上の、
『虚空』中に、
『変化して!』、
『大きな!』、
『台』と、
『成った!』。
【論】問曰。何以化作此臺在虛空中。 問うて曰く、何を以ってか、化して、此の台と作り、虚空中に在る。
問い、
何故、
『華』は、
『変化して!』、
此の、
『虚空』中の、
『台』と、
『作った!』のですか?
答曰。所散華少而化為大臺。以示眾生因少果多。 答えて曰く、散ずる所の華は少なけれど、化して大台と為り、以って衆生に因少なく果の多きを示せり。
答え、
『散かれた!』、
『華』は、
『少ない!』が、、
『変化して!』、
『大きな!』、
『台』と、
『為った!』。
是れを以って、
『衆生』に、
『因』は、
『少なくても!』、
『果』は、
『多いぞ!』と、
『示された!』のである。
問曰。何以故臺在虛空中住而不墮落。 問うて曰く、何を以っての故にか、台は、虚空中に在りて住まり、堕落せざる。
問い、
何故、
『台』は、
『虚空』中に、
『住まって!』、
『墜落しない!』のですか?
答曰。佛以神力。欲示眾生令知佛為福田得報不失。乃至成佛其福不滅 答えて曰く、仏は、神力を以って衆生に示し、仏を福田と為さんに、報を得て失わず、乃至成仏まで、其の福は滅せずと知らしめんと欲したまえり。
答え、
『仏』が、
『神力』を以って、
『衆生』に、
『示された!』のは、
こう、
『知らせたい!』と、
『思われた!』からである――
『仏』を、
『福田である!』と、
『思う!』ならば、
其の、
『報』は、
『失われず!』に、
『得ることができ!』、
乃至、
『衆生』が、
『仏』と、
『成る!』まで、
其の、
『福』は、
『滅しない!』、と。



華台の辺には瓔珞を垂し、華蓋は大千世界に満ちた

【經】是華臺邊垂諸瓔珞雜色華蓋五色繽紛。是諸華蓋瓔珞遍滿三千大千世界 是の華の台は、辺に諸の瓔珞を垂し、雑色の華を蓋として、五色繽紛なり。是の諸の華の蓋と瓔珞とは、遍く三千大千世界に満てり。
是の、
『華の台』は、
『辺』には、
諸の、
『瓔珞』を、
『垂し!』、
『色』を、
『雑(まじ)えた!』、
『華』の、
『蓋(かさ)』は、
『五色』が、
『繽紛としていた!』。
是の、
諸の、
『華』の、
『蓋』と、
『瓔珞』とは、
遍く、
『三千大千世界』を、
『満たした!』。
  繽紛(ひんぷん):雑り乱れる。
【論】問曰。若佛自有神力。何以因所散華而變為臺。 問うて曰く、若し仏に、自ら神力有らば、何を以ってか、散じたる所の華に因って、変じて台と為せる。
問い、
若し、
『仏』に、
自らの、
『神力』が、
『有った!』ならば、
何故、
『散かれた!』、
『華』に、
『因り!』、
『変じて!』、
『台』と、
『為された!』のですか?
答曰。欲令人心信清淨故。是人見所供養變成此臺心大歡喜。因歡喜故得大福德 答えて曰く、人の心をして、信清浄ならしめんと欲したもうが故なり。是の人は、供養せる所の変じて、此の台と成るを見るに、心大に歓喜して、歓喜するに因るが故に、大福徳を得。
答え、
『人』の、
『心』の、
『信』を、
『清浄にしよう!』と、
『思われた!』からである。
是の、
『人』は、
『供養された!』、
『華』が、
『変じて!』、
此の、
『台』と、
『成る!』のを、
『見て!』、
『心』に、
『大いに!』、
『歓喜する!』のであるが、
是の、
『歓喜する!』ことに、
『因る!』が故に、
『大きな!』、
『福徳』を、
『得る!』のである。



華蓋と瓔珞の厳飾の故に、大千世界は皆金色と作る

【經】以是華蓋瓔珞嚴飾故。此三千大千世界皆作金色。及十方如恒河沙等諸佛世界皆亦如是 是の華の蓋と、瓔珞を以って厳飾するが故に、此の三千大千世界は、皆、金色と作り、及び十方の恒河沙にも等しきが如き、諸の仏の世界も、皆亦た是の如し。
是の、
『華』の、
『蓋』と、
『瓔珞』とが、
『厳かに!』、
『飾った!』ので、
此の、
『三千大千世界』は、
皆、
『金色』と、
『作り!』、
及び、
『十方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『仏』の、
『世界』も、
皆、
亦た、
是の通りであった。
【論】有人言。轉輪聖王四世界主。梵天王千世界主。佛三千大千世界主。是語非實。以是故佛所變化乃至十方恒河沙等諸佛世界 有る人の言わく、『転輪聖王は、四世界の主なり。梵天王は、千世界の主なり。仏は、三千大千世界の主なり』、と。是の語は、実に非ず。是を以っての故に、仏の変化したもう所は、乃ち十方の恒河沙に等しき、諸の仏の世界に至れり。
有る人は、
こう言っている、――
『転輪聖王』は、
『四』の、
『世界』の、
『主である!』。
『梵天王』は、
『千』の、
『世界』の、
『主である!』。
『仏』は、
『三千大千(十億)』の、
『世界』の、
『主である!』、と。
是の、
『語(ことば)』は、
『実でない!』、
是の故に、
『仏』の、
『変化された!』所が、
『十方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』、
諸の、
『仏』の、
『世界』に、
『至った!』のである。



仏は、わたしの為めにのみ法を説く

【經】爾時三千大千世界。及十方眾生各各自念。佛獨為我說法不為餘人 爾の時、三千大千世界、及び十方の衆生の各各の、自ら念ずらく、『仏は、独り我が為めにのみ、法を説きたまいて、余人の為めにあらず』、と。
爾の時、
『三千大千世界、及び十方』の、
『衆生』の、
各各は、
自らについて、
こう思った、――
『仏』は、
独り、
『わたしだけ!』の為めに、
『法』を、
『お説きになった!』、
『余の人』の為めに、
『法』を、
『お説きになったのではない!』、と。
【論】問曰。佛以一身示三千大千世界及十方。今諸眾生何以各各見佛在前說法。 問うて曰く、仏は、一身を以って、三千大千世界、及び十方に示したもうに、今、諸の衆生は、何を以ってか、各各、仏を前に在りて、法を説きたもうと見る。
問い、
『仏』は、
『一』の、
『身』を以って、
『三千大千世界、及び十方』の、
『衆生』に、
『示された!』が、
今、
諸の、
『衆生』は、
何故、
各各が、こう見たのですか?――
『仏』は、
『前に!』、
『在()られて!』、
『法』を、
『説いていられる!』、と。
答曰。佛有二種神力。 答えて曰く、仏には、二種の神力有り。
答え、
『仏』には、
『二種』の、
『神力』が、
『有る!』。
一者一處坐說法。令諸眾生遠處皆見遠處皆聞。 一には、一処に坐して、法を説き、諸の衆生をして、遠き処に、皆見しめ、遠き処に、皆聞かしむ。
一には、
『一処』に、
『坐って!』、
『法』を、
『説き!』、
諸の、
『衆生』には、
皆、
『遠い処』に、
『見させたり!』、
皆、
『遠い処』に、
『聞かせたり!』する。
二者佛在一處說法。能令一一眾生各自見佛在前說法。譬如日出影現眾水。 二には、仏は、一処に在りて、法を説き、能く一一の衆生をして、各各、仏を前に在りて、法を説きたもうと見しむ。譬えば、日の出づるに、影の衆水に現るるが如し。
二には、
『仏』は、
『一処』に於いて、
『法』を、
『説かれる!』が、
『一一』の、
『衆生』の、
『各各』に、
『仏』が、
『自らの』、
『前に』、
『在られて!』、
『法』を、
『説かれている!』ように、
『見させる!』ことである。
譬えば、
『日』が、
『出る!』と、
『影』が、
『衆水』に、
『現れる!』のと同じである。
復次眾生不同。有人見佛身遍三千大千世界而得淨信。有人各各見佛在前說法。得心清淨信樂歡喜。以是故佛今各各在前而為說法 復た次ぎに、衆生は同じからず。有る人は、仏の身を、遍く三千大千世界に見て、浄信を得、有る人は、各各仏は、前に在りて法を説きたもうと見て、心に清浄を得て、信じ楽しんで歓喜す。是を以っての故に、仏は、今各各の前に在りて、為めに法を説きたまえり。
復た次ぎに、
『衆生』は、
各各、
『同じではない!』、
有る人は、
『仏』の、
『身』が、
遍く、
『三千大千世界』に、
『満ちている!』と、
『見て!』、
『信心』の、
『清浄』を、
『得る!』が、
有る人は、
各各が、
『仏』が、
『前』に、
『在られて!』、
『法』を、
『説かれている!』と、
『見て!』、
『心』に、
『清浄』を得、
『信じ!』、
『楽しんで!』、
『歓喜する!』ので、
是の故に、
『仏』は、
今、
各各の、
『前』に、
『在られて!』、
各各の為めに、
『法』を、
『説かれた!』。



口の光に照らされ、大千世界の衆生は互いに見交わした

【經】爾時世尊在師子座熙怡而笑。光從口出遍照三千大千世界。以此光故。此間三千大千世界中眾生。皆見東方恒河沙諸佛及僧。彼間恒河沙等世界中眾生。亦見此間三千大千世界中釋迦牟尼佛及諸大眾。南西北方四維上下亦復如是 爾の時、世尊は、師子座に在りて、熙怡として笑いたまえば、光、口より出でて遍く、三千大千世界を照らし、此の光を以っての故に、此の間の三千大千世界中の衆生は、皆、東方に恒河沙の諸の仏、及び僧を見、彼の間の恒河沙に等しき世界中の衆生も、亦た此の間の三千大千世界中の釈迦牟尼仏、及び諸の大衆を見る。南西北方、四維上下も亦た復た是の如し。
爾の時、
『世尊』が、
『師子座』で、
『熙怡として(ニッコリと)!』、
『笑われる!』と、
『光』が、
『口』より、
『出て!』、
遍く、
『三千大千世界』を、
『照らした!』。
此の、
『光』を以っての故に、
『此の間()』の、
『三千大千世界』の、
『衆生』は、
皆、
『東方』に、
『恒河沙』ほどの、
諸の、
『仏』と、
『僧』とを、
『見ることができ!』、
『彼の間』の、
『恒河沙』ほどの、
『世界』中の、
『衆生』も、
亦た、
『此の間』の、
『三千大千世界』中の、
『釈迦牟尼仏』と、
『諸の大衆』とを、
『見ることができた!』。
『南西北方、四維上下』も、
亦た、
是の通りである。
  熙怡(きい):やわらぎよろこぶ。
【論】問曰。佛上已多放光明。今以何故復放斯光。 問うて曰く、仏は、上に已に多くの光明を放ちたまえり。今は、何を以っての故にか、亦た斯(こ)の光を放ちたもう。
問い、
『仏』は、
上に、
已に多く、
『光明』を、
『放っていられる!』、
今は、
何故、
復た、
此のような、
『光』を、
『放たれた!』のですか?
答曰。先放光明各各有事如先說。今以彼此眾會兩未相見故。以光明神力。令彼此世界一切大會兩得相見。 答えて曰く、先の光明を放ちたもうに、各各事有ること、先に説けるが如し。今は、彼此の衆会、両(ふたつ)ながら未だ相見(まみ)えざるが故に、光明の神力を以って、彼此の世界の一切の大会をして、両ながら、相見ゆることを得しめたまえり。
答え、
先に、
『放たれた!』、
『光明』は、
各各に、
『事(仕事)』が、
『有った!』、
先に、
『説いた!』通りである。
今は、
『彼の間』と、
『此の間』との、
『衆会』は、
両者とも、
未だ、
『会見したことがない!』が故に、
『光明』の、
『神力』を以って、
『彼の間』と、
『此の間』との、
一切の、
『大会』をして、
『両者』を、
『会見させられた!』のである。
問曰。如弟子中天眼第一大阿羅漢長老阿泥盧豆。暫觀見小千世界。諦觀見二千世界。大辟支佛暫觀見二千世界。諦觀見三千大千世界。今一切人云何能見東方恒河沙等諸佛世界。 問うて曰く、弟子中の天眼第一なる大阿羅漢の長老阿泥盧陀は、暫く観れば、小千世界を見、諦(あき)らかに観れば、二千世界を見る。大辟支仏は、暫く観れば、二千世界を見、諦らかに観れば、三千大千世界を見る。今の一切の人は、云何が能く、東方の恒河沙に等しき諸仏の世界を見る。
問い、
例えば、
『弟子』中の、
『天眼第一』であり、
『大阿羅漢』である、
『長老阿泥盧陀』は、
『暫時(ざっと)』、
『観察した!』だけで、
『小千(一千)』の、
『世界』を、
『見ることができ!』、
『審らかに』、
『観察した!』ときには、
『二千(百万)』の、
『世界』を、
『見ることができる!』し、
『大辟支仏』は、
『暫時』、
『観察した!』だけで、
『二千』の、
『世界』を、
『見ることができ!』、
『審らかに』、
『観察する!』と、
『三千大千(十億)』の、
『世界』を、
『見ることができる!』。
今の、
『一切の人』は、
何故、
『東方』の、
『恒河沙』ほどの、
『諸仏』の、
『世界』を、
『見ることができる!』のですか?
答曰。是佛神力令彼得見。非眾生力也。設阿羅漢及辟支佛等。亦以佛力故所見無限。 答えて曰く、是れ仏の神力の、彼れをして、見るを得しむ。衆生の力には非ざるなり。設(たと)い阿羅漢、及び辟支仏等なりとも、亦た仏の力を以っての故に、見る所に限り無し。
答え、
是れは、
『仏』の、
『神力』が、
彼の、
『衆生』に、
『見る!』ことを、
『会得させた!』からである。
設(たと)え、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』などでも、
『仏』の、
『神力』に依れば、、
『見る!』所に、
『限り!』は、
『無い!』。
譬如轉輪聖王飛行。一切營從及諸象馬眾畜皆亦隨去。今佛神力故。眾生雖在遠處亦得相見。 譬えば、転輪聖王飛行するに、一切の営従、及び諸の象馬、衆畜、皆亦た随って去るが如く、今、仏の神力の故に、衆生は、遠処に在りと雖も、亦た相見ゆるを得。
譬えば、
『転輪聖王』が、
『飛行する!』と、
一切の、
『陣営』や、
『従者』や、
及び、
諸の、
『象馬』、
『衆畜』まで、
皆、
『随って!』、
『行く!』ように、
今は、
『仏』の、
『神力』の故に、
『衆生』は、
『遠処』に在っても、
『互いに!』、
『見交わすことができた!』のである。
  営従(ようじゅう):陣営と従者との総称。
又如般舟三昧力故。雖不得天眼而見十方。佛眼耳無礙。 又、般舟三昧の如き力の故に、天眼を得ずと雖も、十方の仏を見て、眼、耳無礙なり。
又、
『般舟三昧(見仏三昧)』などの、
『力』の故に、
『天眼』を、
『得なくても!』、
『十方』の、
『仏』を、
『見ることができ!』、
『眼』と、
『耳』とには、
『礙(さわり)』が、
『無い!』。
  般舟三昧(はんじゅうさんまい):梵名pratyutpanna- buddha- saMmukha- avasthita- samaadhi。十方現在仏悉在前立定、現在仏悉在前立三昧、現在仏面住定意、或は一切仏現前三昧と訳す。現在仏が面前に在りて住する三昧の意にして、即ち見仏定を云う。「般舟三昧経巻上問事品」に、「仏、颰陀和菩薩に告ぐ、一の法行あり、常にまさに習持すべく、常にまさに守りてまた余の法に随わざるべし。諸の功徳の中に最第一なり。何等をか第一の法行となすや、この三昧を現在仏悉在前立三昧と名づく」と云い、「大智度論巻33」に、「般舟経に般舟三昧力を以っての故に、未だ天眼を得ずといえども、而も能く十方現在の諸仏を見ると説くが如し」と云い、また「十住毘婆沙論巻12助念仏三昧品」に、「まさに知るべし般舟三昧を成ずるを得たることを。三昧成ずるが故に諸仏を見ることを得」と云えるこれなり。これこの三昧を行ぜば能く十方現在の諸仏を見ることを得べきを説けるものなり。「般舟三昧経巻上行品」にその行法を明し、比丘比丘尼優婆塞優婆夷ありて、西方須摩提国に阿弥陀仏現在し、衆菩薩に囲繞せられて説法すと聞き、乃ち持戒完具し、独り一処に止まりて一心に彼の阿弥陀仏を念じ、もしは一昼夜、もしは七日七夜せんに、七日を過ぎて後、彼の仏を見ることを得べし。但し覚時に於いては見ず、夢中に於いてこれを見る。また天眼を以って徹視せず、天耳を以って徹聴せず、また神足を以って彼の仏刹に到るに非ず、或は命終の後、彼に生じて見るに非ず。即ちこの処に坐して彼の仏を見、その所説の法を聞くなり。譬えば羅閲祇国の三人あり、堕舎利国に三の婬女あるを聞き、各これを思念して夢中に彼の婬女の所に往き共に棲宿するが如し。かくの如く孰れの方の仏を念ずるも、また皆能くこれを見ることを得べしと云い、且つこの三昧は仏の威神力、三昧力、本功徳力に由りて成ずるものなりと説き、また同四事品に三月の間、弾指の頃も世間の思想あることなく、三月の間、弾指の間も臥出することを得ず。三月の間、経行して休息あることなく、坐することを得ず、唯飲食左右(即ち便利)を除く。三月の間、人の為に経を説き、衣服飲食を望まず。この四事を以ってせば、速かにこの三昧を成ずることを得べしとなせり。支那に於いては廬山慧遠始めて社を結びて衆と共にこの法を行じ、智顗はこれを常行三昧と名づけて摩訶止観進修の一法となし、善導、慧日、承遠、法照等はまた皆この法を勧めて往生の業となし、爾来支那日本に亘りて頗るその法の盛行せしを見るなり。蓋しこの三昧に由らば、必ず見仏することを得べきも、前引「般舟三昧経」に定中見仏を以って多く夢中の所見に比するに依り、廬山慧遠はもし夢中の所見に等しとせば、夢はこれ凡夫の境界なるが故に、所見の仏は唯即ち我が想の所造なるべく、随ってその仏に対して問難するも疑網を決する能わざるべしとなし、書を遣してこれを羅什に質したるに、羅什は夢を持って喩となしたるは、禅定の法を信ぜざる者の為に且らく説示せしに過ぎず。念仏三昧には凡そ三種あり、一には菩薩自ら或は天眼天耳を得、或は十方の仏所に飛到し、仏を見て問難して諸の疑網を断ず。二に自ら神通なきも常に阿弥陀仏等の現在諸仏を念じ、心を一処に住せしむれば、即ち仏を見て疑う所を請問するを得べし。三には念仏を学習する者の中に或は離欲あり、或は未離欲あり、また仏像を見るもの、生身を見るもの、或は過去未来現在の諸仏を見るもの等あり。この三種の中、初の一は自ら神通を得て見仏し、後の二は神通を得ず、唯専念の法に依りて見仏するものにして、皆夢中の所見に同じからずと云い、また且つ諸仏の身には決定の相なく、皆衆縁より生じ、畢竟空寂にして夢の如く化の如くなるが故に、これを夢中の所見に比したるものなりとなせり。広く「大乗義章」に論ずる所の如し。また「般舟三昧経」、「拔陂菩薩経」、「大方等大集経賢護分巻1、巻2」、「坐禅三昧経巻下」、「大智度論巻7」等に出づ。<(望)
亦如劫盡燒時一切眾生自然皆得禪定得天眼天耳。佛以神力故。令一切眾生皆得遠見亦復如是。 亦た劫尽きて焼くる時、一切の衆生は、自然に皆、禅定を得て、天眼、天耳を得るが如く、仏の神力を以って、一切の衆生をして、皆遠く見るを得しむるも、亦復た是の如し。
亦た、
例えば、
『劫』が、
『尽きて!』、
『焼ける!』時、
一切の、
『衆生』は、
皆、
自然に、
『禅定』を得て、
『天眼』と、
『天耳』とを、
『得る!』ように、
『仏』が、
『神力』を以っての故に、
一切の、
『衆生』に、
皆、
『遠くまで!』、
『見る!』ことを、
『得させられる!』のも、
亦た、
是の通りである。
爾時世尊在師子座而笑。笑如先說。餘未說者今當說。 爾の時、世尊は、師子座に在りて、笑いたもう。笑いは、先に説けるが如し。余は未だ説かざれば、今当に説くべし。
爾の時、
『世尊』は、
『師子座』で、
『笑われた!』とは、――
『笑われる!』、
『因縁』は、
先に、
『説いた!』通りである。
その他は、
未だ、
『説かなかった!』ので、
今、
『説くことになった!』。
問曰。此間眾生。遠見彼方是佛神力。彼間眾生亦見此方是誰力耶。 問うて曰く、此の間の衆生の、遠く彼方を見るは、是れ仏の神力ならん。彼の間の衆生も、亦た此方を見る、是れ誰の力なりや。
問い、
『此の間』の、
『衆生』が、
遠く、
『彼方』を、
『見る!』、
是れが、
『仏』の、
『神力』ならば、
『彼の間』の、
『衆生』も、
亦た、
『此方』を、
『見る!』が、
是れは、
誰の、
『力ですか?』。
答曰。是釋迦牟尼佛力。令彼得見此間三千大千世界。及見釋迦牟尼佛并一切眾會。南西北方四維上下。亦復如是 答えて曰く、是れ釈迦牟尼仏の力の、彼れをして、此の間の三千大千世界を見、及び釈迦牟尼仏、並びに一切の衆会を見るを得しむなり。南西北方、四維上下も、亦復た是の如し。
答え、
是れは
『釈迦牟尼仏』の、
『力』が、
彼の、
『衆生』に、
『此の間』の、
『三千大千世界』を、
『見たり!』、
及び、
『釈迦牟尼仏』や、
『一切の衆会』を、
『見る!』ことを、
『得させる!』のであり、
『南西北方、四維上下』も、
亦た、
是の通りである。


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