巻第八(下)
home

大智度初品中放光釋論第十四之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


三悪八難の衆生は解脱して、天上に生まれる

【經】是三千大千世界中地獄餓鬼畜生及八難處。即時解脫得生天上。從四天王天處乃至他化自在天處 是の三千大千世界中の地獄、餓鬼、畜生、及び八難処は、即時に解脱し、天上の四天王天処より、乃至他化自在天処に生まるるを得。
是の、
『三千大千世界』中の、
『地獄』、
『餓鬼』、
『畜生』と、
『八難処』の、
『衆生』は、
『即時に!』、
『解脱し!』て、
『天上』の、
『四天王天処、乃至他化自在天処』に、
『生まれる!』ことを、
『得た!』。
  八難処(はちなんじょ):道を得る能わざる八の難処の意。『大智度論巻8下注:八難』参照。
  八難(はちなん):梵語aSTaavakSaNaaHの訳。八種の難処の意。また八難処、八難解法、八無暇、八不閑、八非時、八悪、或は八不聞時節とも名づく。即ち梵行を修し、菩提の道に向う能わざる難処に八種あるを云う。一に地獄naraka、二に畜生tiryaJc、三に餓鬼preta、四に長寿天diirgha-ayurdeva、五に辺地pratyanta- janapada、六に聾盲瘖唖indriya- vaikalya、七に世智辯聡mithyaa- darzana、八に仏前仏後tathaagataanaam anutpaadaHなり。「長阿含巻9十上経」に、「云何が八難解法なる。謂わく八の不閑は梵行を修するを妨ぐ。云何が八なる、如来至真は世に出現して微妙の法を説き、寂滅無為にして菩提の道に向かわしむるも、人あり地獄の中に生ぜば、これを不閑処と為す。梵行を修することを得ず。如来至真は世に出現して微妙の法を説き、寂滅無為にして菩提の道に向かわしむるも、而も衆生あり、畜生の中、餓鬼の中、長寿天の中、辺地の無識無仏法処に在らばこれを不閑処と為す。梵行を修することを得ず。如来至真等正覚は世に出現して微妙の法を説き、寂滅無為にして菩提の道に向かわしむるに、或は衆生ありて中国に生ずるも、而も邪見ありて顛倒の心を懐き、悪行を成就せば必ず地獄に入る。これを不閑処と為す。梵行を修することを得ず。如来至真等正覚は世に出現して微妙の法を説き、寂滅無為にして菩提の道に向かわしむるに、或は衆生ありて中国に生ずるも、聾盲瘖唖にして法を聞くことを得ず、これを不閑処と為す。梵行を修することを得ず。如来至真等正覚世間に出でず、能く微妙の法を説き、寂滅無為にして菩提の道に向かわしむることあることなければ、而も衆生ありて中国に生じ、諸根具足して聖教を受くるに堪うるも、而も仏に値わざれば梵行を修行することを得ず。これを八不閑処と為す」と云えるこれなり。この中、地獄、畜生、餓鬼の三塗は報障深重にして聖に会うことを得ず、衆苦に逼悩せられて梵行を修する能わざるが故にこれを難とし、色無色界の諸天は命報長く、寂静安隠にして、その中の有情は多くこれを以って涅槃となし、また仏法の求むべきものなきが故にこれを難とし、辺地の鬱単越洲は楽報殊勝にして苦事なく、而も無識無仏法なれば厭離して出過を求め、梵行を修する能わざるが故にこれを難とし、盲聾瘖唖は諸根具せず、縦い中国に生ずるも聖を観ず、聖法を聞かず、聖法を諮受せず、聖に入るに堪えざるが故にこれを難とし、世智辯聡の者は中国に生ずるも邪見に陥り、妄執深くして廻し難きが故にこれを難とし、仏前仏後は仏に値遇せざれば、出離の道を知らず、聖を求むる心なきが故にこれを難となすなり。「大乗義章巻8末」に依るに、この中、三塗及び盲聾瘖唖は苦障、長寿天及び鬱単越は楽障、世智辯聡は悪増、仏前仏後は善微なるが故に難となすと云い、また三塗及び盲聾瘖唖は苦報、長寿天及び鬱単越は楽報にして、共に報に就いて難を説き、また世智辯聡は煩悩の分に就き、仏前仏後は煩悩業報の三分に収めず、ただ仏法に遇わざれば出を求むるに由なきが故に難となすと云えり。またこの八難の対治に関しては、「増一阿含経巻16」に、「八関斎の法を奉持せば三悪趣に堕せず、この功徳を持って地獄餓鬼畜生の八難の中に入らず」と云い、「大智度論巻13」に、「八戒を受行し諸の仏法を随学するを名づけて布薩と為す。この布薩の福報を持って生生に三悪八難に堕せざらんことを願ず」と云い、また「潅頂経巻12」に、薬師瑠璃光仏の本願功徳を聞かば、八菩薩の来迎を蒙り、八難を経ずして西方阿弥陀仏国に生ずることを得んと云えり。また「大般涅槃経巻23」には、仏世難遇、正法難聞、善心難生、難生中国、難得人身、諸根難具と六難処ありと云えり。この中、仏世難遇、正法難聞は仏前仏後及び長寿天の難に当り、善心難生は世智辯聡に当り、難生中国は辺地に当り、難得人身は三塗に当り、諸困難具は聾盲瘖唖に当り、八難とその旨相同じきが如し。また「中阿含巻29八難経」、「尸迦羅越六方礼経」、「出曜経巻8」、「法雲経巻5」、「五苦章句経」、「維摩経巻下香積仏品」、「梵網経巻下」、「潅頂経巻11」、「成実論巻2四法品」、「玄応音義巻22」、「慧林音義巻28」等に出づ。<(望)
【論】問曰。若佛入師子遊戲三昧。能令地獄餓鬼畜生及餘八難皆得解脫。生四天處乃至他化自在天者。復何用修福行善乃得果報。 問うて曰く、若し、仏、師子遊戯三昧に入りて、能く地獄、餓鬼、畜生、及び余の八難をして、解脱を得、四天処、乃至他化自在天に生まれしめたまわば、復た何んが、修福、行善を用いて、乃ち果報を得ん。
問い、
若し、
『仏』が、
『師子遊戯三昧』に入り、
『地獄』、
『餓鬼』、
『畜生』と、
『八難処』の、
『衆生』を、
皆、
『解脱させ!』て、
『四天処、乃至他化自在天』に、
『生まれさせることができた!』ならば、
いったい、
何の為に、
『修福』や、
『行善』を、
『用いて!』、
ようやく、
『果報』を、
『得る!』のですか?
答曰。此如上說。福德多者見光得度。罪垢深者地動乃悟。 答えて曰く、此れは、上に、『福徳多き者は、光を見て、度を得、罪垢深き者は、地動いて、乃ち悟る』と説けるが如し。
答え、
此れは、
上に、説いた通りである、――
『福徳』の、
『多い!』者は、
『光』を、
『見る!』だけで、
『度』を、
『得ることができる!』が、
『罪垢』の、
『深い!』者は、
『地』が、
『動いて!』、
ようやく、
『悟る!』のである、と。
譬如日出照蓮華池。熟者先開生者未敷。佛亦如是。先放光明。福熟智利先得解脫。其福未熟智心不利是故未得。佛大慈悲等度一切無憎愛也。 譬えば、日出でて、蓮華の池を照らすに、熟せる者は先に開き、生の者は、未だ敷(ひら)かざるが如し。仏も、亦た是の如く、先に光明を放ちたもうに、福熟して、智利きは、先に解脱を得、其の福の未だ熟せず、智心利ならざるは、是の故に未だ得ず。仏の大慈悲は、等しく一切を度して、憎愛無ければなり。
譬えば、
『日』が出て、
『蓮華』の、
『池』を、
『照らす!』と、
『熟した!』者は、
『先に!』、
『開く!』が、
『熟さない!』者は、
『未だ!』、
『開かない!』ように、
『仏』も、
是のように、
先に、
『光明』を、
『放たれる!』と、
『福』が、
『熟して!』、
『智』の、
『利い!』者は、
『先に!』、
『解脱』を、
『得る!』が、
『福』が、
『熟さず!』、
『智心』の、
『利くない!』者は、
是の故に、
『解脱』を、
『得られない!』。
『仏』の、
『大慈悲』は、
『日』が、
『照らす!』ように、
一切を、
『等しく!』、
『度す!』のであり、
一切に、
『憎、愛』が、
『無い!』からである。
亦如樹果人動其樹熟者先墮。佛亦如是。是三千大千世界如樹。動之者佛。先度者果熟。未度者果生。 亦た、樹果の、人其の樹を動かすに、熟せる者は先に墮つるが如し。仏も亦た是の如く、是の三千大千世界は、樹の如く、之を動かす者は仏なり。先に度する者は、果熟し、未だ度せざる者は、果生なり。
亦た、
『樹果』は、
『人』が、
其の、
『樹』を、
『動かす!』と、
『熟した!』者から、
『先に!』、
『堕ちる!』ように、
『仏』も、
是のように、
是の、
『三千大千世界』を、
『樹』とすれば、
之を、
『動かす!』者は、
『仏であり!』、
先に、
『度す!』者は、
『果』が、
『熟した!』からであり、
未だ、
『度さない!』者は、
『果』が、
『熟さない!』からである。
問曰。何以故。善心因緣。生欲界天不生色界及無色界。 問うて曰く、何を以っての故にか、善心の因縁は、欲界天に生じ、色界、及び無色界に生ぜざる。
問い、
何故、
『善心』は、
『欲界天』に、
『生じる!』、
『因縁であり!』、
『色界』や、
『無色界』には、
『生じない!』のですか?
答曰。佛欲度此眾生令得道證。無色界中以無身故。不可為說法。色界中則無厭心難可得道。禪樂多故慧心則鈍。 答えて曰く、仏は、此の衆生を度して、道の証を得しめんと欲したもうも、無色界中には、身無きを以っての故に、為に法を説くべからず、色界中には、厭心無く、道を得べきこと難く、禅には楽多きが故に、慧心は、則ち鈍し。
答え、
『仏』は、
此の、
『衆生』を度して、
『道』の、
『証』を、
『得させよう!』と、
『思われた!』が、
『無色界』中には、
『身』が、
『無い!』が故に、
その為に、
『法』を、
『説くことができない!』し、
『色界(四禅)』中には、
『厭心』が、
『無い!』ので、
『道』を、
『得る!』ことが、
『難しく!』、
『禅』には、
『楽』が、
『多い!』が故に、
『慧心』が、
『鈍い!』からである。
復次佛以神通感動。令此三千大千世界地皆柔軟。眾生心信得歡喜故生欲界天。不行四禪及四空定故。不得生色無色界。 復た次ぎに、仏の、神通を以って感動し、此の三千大千世界の地をして、皆柔軟ならしめたもうに、衆生、心に信じて、歓喜を得るが故に、欲界天に生じ、四禅、及び四空定を行ぜざるが故に、色、無色界に生ずるを得ず。
復た次ぎに、
『仏』が、
『神通』を以って、
此の、
『三千大千世界』の、
『地』を、
『感動し!』、
皆、
『柔軟にならせられる!』と、
『衆生』は、
『心』より、
『信じて!』、
『歓喜』を得た!が故に、
『欲界天』に、
『生まれた!』のであり、
『四禅』も、
『四空定』も、
『行わなかった!』が故に、
『色界』や、
『無色界』には、
『生まれられなかった!』のである。
  感動(かんどう):感応して動揺する(させる)。
  四禅(しぜん):色界の四静慮。『大智度論巻5上注:禅、巻7下注:四禅』参照。
  四空定(しくうじょう):無色界四処の定。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
  四無色定(しむしきじょう):梵語catasra aaruupya- samaapattayaHの訳。四種の無色定の意。また四空定とも名づく。即ち空無辺処等の四無色を思惟する定を云う。一に空無辺処定、二に識無辺処定、三に無所有処定、四に非想非非想処定なり。「法蘊足論巻8無色品」に、「その時、世尊は苾芻衆に告ぐ、四無色あり。何等をか四となす、謂わく苾芻ありて諸の色想を超え、有対の相を滅し、種種の想を思惟せず、無辺の空に入り、空無辺処に具足して住す。これを第一と名づく。また苾芻あり、一切種の空無辺処を超えて無辺の識に入り、識無辺処に具足して住す。これを第二と名づく。また苾芻あり、一切種の識無辺処を超えて無所有に入り、無所有処に具足して住す。これを第三と名づく。また苾芻あり、一切種の無所有処を超えて非想非非想処に具足して住す。これを第四と名づく。(中略)無辺の空に入りて空無辺処に具足して住すとは、云何が空無辺処定の加行なる、何の加行を修して空無辺処定に入るや。謂わくこの定に於いて初修業の者は、先づまさに第四静慮を思惟して麁苦障となすべし、次ぎにまさに空無辺処を思惟して静妙離となすべし。彼れその時に於いてもし心散乱し、余境に馳流して一趣なること能わず、念を守りて一縁に住せしめ、空無辺処定を修すること能わず。これを斉(かぎ)りて未だ空無辺処定の加行と名づけず、また未だ空無辺処定に入ると名づけず。彼れもしその時自心を摂録し、散乱して余境に馳流せざらしめ、よく一趣にして念を一縁に住せしめ、空無辺処定の想を思惟し修習す。かくの如く思惟して発動精進し、勇健勢猛熾盛にして制し難く、励意息まざる、これを空無辺処定の加行と名づけ、また空無辺処定に入ると名づく。彼れこの道に於いて已修習多修習を生ずるが故に、便ち心をして住し等住し近住し安住せしめ、一趣の等持にして二なく退なし。これに斉りて名づけて已入空無辺処定となす。またこの定中の諸の心意識を空無辺処定の俱有の心と名づけ、諸の思、等思、乃至造心意業を空無辺処定の俱有の意業と名づけ、諸の心勝解、已勝解、常勝解を空無辺処定の俱有の勝解と名づけ、またこの定中のもしは受、もしは想、乃至もしは慧等を空無辺処定の俱有の諸法と名づく。かくの如きの諸法をまた空無辺処定と名づく。一切種の空無辺処を超ゆとは、謂わく彼れその時、空無辺処の想に於いて超越し、等しく超越するが故に、超一切種空無辺処と名づく。無辺の識に入り識無辺処に具足して住すとは、云何が識無辺処定の加行なる、何の加行を修して識無辺処定に入るや。謂わくこの定に於いて初修業の者は、先づまさに空無辺処を思惟して麁苦障となすべし、次ぎにまさに識無辺処を思惟して静妙離となすべし。余は広く説くこと空無辺処の如し。一切の識無辺処を超ゆとは、謂わく彼れその時、識無辺処の想に於いて超越し、等しく超越するが故に超一切種識無辺処と名づく。無所有に入り、無所有処に具足して住すとは、云何が無所有処定の加行なる、何の加行を修して無所有処定に入るや。謂わくこの定に於いて初修業の者は、先づまさに識無辺処を思惟して麁苦障となすべし。次ぎにまさに無所有処を思惟して静妙離となすべし。余は広く説くこと空無辺処の如し。一切種の無所有処を超ゆとは、謂わく彼れその時、無所有処の想に於いて超越し、等しく超越するが故に超一切種無所有処と名づく。非想非非想処に具足して住すとは、云何が非想非非想処定の加行なる、何の加行を修して非想非非想処定に入るや。謂わくこの定に於いて初修業の者は、先づまさに無所有処を思惟して麁苦障となすべし、次ぎにまさに非想非非想処を思惟して静妙離となすべし。余は広く説くこと空無辺処の如し」と云い、また「大智度論巻17」に、「一切の色相を過ぎて別相を念ぜず、有対の相を滅して無辺虚空処に入ることを得。行者この念を作さく、もし色なくんば則ち飢渇寒熱の苦なし。この身色は麁重弊悪虚誑非実なり、先世の因縁和合してこの身を報得す、種種の苦悩の所住処なり。云何がまさにこの身の患を免るることを得べき。まさにこの身中の虚空を観じ、常に身は空にして籠の如く甑の如しと観ずべし。常に念じて捨てざれば、則ち色を度することを得てまた身を見ず。内身の空なるが如く外の色もまた爾り。この時、能く無量無辺の空を観ず。この観を得已らば苦なく楽なく、その心転た増して、鳥の瓶中に閉著せられたるも、瓶破れて出づることを得たるが如し。これを空処定とんづく。この空は無量無辺にして、識を以ってこれを縁ずるに、縁多ければ則ち散じて能く定を破す。行者、虚空を観じ、受想行識は病の如く癰の如く瘡の如く刺の如く、無常苦空無我なり、欺誑に和合すれば則ち有なるもこれ実に非ざるなりと縁ず。かくの如く念じ已りて、虚空縁を捨してただ識を縁ず。(云何)而も現前の識を縁じ、過去未来の無量無辺の識を縁ず。この識の無量無辺なること虚空の無量無辺なるが如し、これを識処定と名づく。この識無量無辺にして、識を以ってこれを縁ずるに、識多ければ則ち散じて能く定を破す。行者、この識を観じ、受想行識は病の如く癰の如く瘡の如く刺の如く、無常苦空無我なり。欺誑に和合して有なるも、実に非ざるなりと縁ず。かくの如く観じ已れば則ち識相を破す。これ識処を呵して無所有処を讃ず。諸の識相を破して、心を繋けて無所有の中に在り。これを無所有処定と名づく。無所有処に受想行識は病の如く癰の如く瘡の如く刺の如く、無常苦空無我なり、欺誑に和合して有るも、実有に非ざるなりと縁ず。かくの如く無想処は癰の如く、有想処は病の如く瘡の如く刺の如く、第一妙処はこれ非有想非無想なりと思惟す。問うて曰わく、非有想非無想処に受想行識あり。云何が非有想非無想と言うや、答えて曰わく、この中に想あるも微細にして覚し難し、故に謂って非有想と為す。想あるが故に無想に非ず」と云えるこれなり。この中、空無辺処定とはまた空処定と名づく。即ち第四静慮を超越して、眼識相応の色想、耳等の四識相応の有対想、及び所有の不善想、乃至定を障うる一切の想を滅し、空無辺の相を思惟してこれに安住するを云い、識無辺処定とはまた識処定と名づく、即ち空無辺処を超えて更に識無辺の相を思惟し、これに安住することを云い、無所有処定とはまた少処定と名づく、即ち識無辺処を超えてその識相を破し、無所有の相を思惟してこれに安住するを云い、非想非非想処定とはまた非有想非無想定と名づく、無所有処を超えて更に非想非非想の相を思惟し、具足してこれに安住するを云う。即ち明勝の想なきが故に滅尽定に異なり、無想に非ざるが故に無想定に同じからざるなり。またこれを総じて無色と名づくるは、空無辺処の近分に於いては第四静慮の色相を縁じてこれを厭離するが故になお色相ありといえども、余の近分及び四根本に於いては凡べて色想なきが故なり。また下三無色は加行に就いてその名を立て、非想非非想処は定の自相に依りて名づけたるなり。「倶舎論巻28」に、「下三無色はその次第の如く加行を修する時、無辺の空及び無辺の識と無所有とを思うが故に三の名を建立す。第四の名を立つるは想の昧劣なるに由る、謂わく明勝の想なければ非想の名を得、昧劣の想あるが故に非非想と名づくるなり」と云えるその意なり。また下三無色には各味、浄、無漏の三等至あるも、有頂はその相昧劣なるが故にただ味浄の二の等至あるに過ぎず。故に「倶舎論巻28」に、「有頂の等至はただ二種あり、この地は昧劣にして無漏なきが故なり」と云えり。また「中阿含巻24大因経」、「坐禅三昧経巻下」、「品類足論巻7」、「大毘婆沙論巻74、巻83、巻84」、「大智度論巻20」、「顕揚聖教論巻2」、「禅法要解巻下」、「大乗義章巻13」等に出づ。<(望)
問曰。五眾無常空無我。云何生天人中。誰死誰生者。 問うて曰く、五衆は、無常にして、空、無我なり。云何が、天、人中に生ずる。誰か死して、誰か生まるる者なる。
問い、
『五衆』は、
『無常であり!』、
『空』、
『無我』です!
何故、
『天、人』中に、
『生まれる!』のですか?
誰が、
『死んで!』、
誰が、
『生まれる!』のですか?
答曰。是事讚菩薩品中已廣說。今當略答。汝言五眾無常空無我者。是般若波羅蜜中五眾。無有常無常有空無空有我無我。 答えて曰く、是の事は、『讃菩薩品』中に、已に広く説けり。今、当に略して答うべし。汝が言う、『五衆は、無常、空、無我なり』とは、是れ般若波羅蜜中には、五衆には有常無常、有空無空、有我無我無し。
答え、
是の事は、
『讃菩薩品』中に、
已に、
広く説いた!が、
今、
略して、答えよう!――
お前は、
こう言った、――
『五衆』は、
『無常』、
『空』、
『無我』である!と、
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『五衆』には、
『有常、無常』、
『有空、無空』、
『有我、無我』は、
『無い!』のである。
  参考:『大智度論巻4』:『復次菩薩以方便力。現入五道受五欲引導眾生。若在阿羅漢上。諸天世人當生疑怪。是故後說』
若如外道求索實我。是不可得但有假名。種種因緣和合而有。有此名字。 若し、外道の如く、実我を求索せば、是れは得べからずして、但だ仮名のみ有り。種種の因縁の和合にして有りとは、此の名字有り。
若し、
『外道』のように、
『実』の、
『我』を、
『求索した!』としても、
是の、
『我』を、
『得ることはできず!』、
但だ、
『仮名』が、
『有るのみ!』であり、
種種の、
『因縁』が、
『和合して!』、
『有る!』とは、
此の、
『名字』が、
『有る!』のである。
譬如幻人相殺人見其死。幻術令起人見其生。生死名字有而無實。世界法中實有生死。實相法中無有生死。 譬えば、幻人相殺せば、人は、其の死を見、幻術起たしむれば、人は、其の生を見るが如く、生死には、名字有りて、実無し。世界法中には、実に生死有るも、実相の法中には、生死を有するもの無し。
譬えば、
『幻』の、
『人』が、
『殺し合う!』と、
『人』は、
其の、
『死』を、
『見る!』し、
『幻』の、
『術』で、
『起たせる!』と、
『人』は、
其の、
『生』を、
『見る!』ように、
『生死』には、
『生死』という、
『名字』が、
『有る!』のみで、
『生死』という、
『実』は、
『無い!』のである。
『世界』という、
『法』中には、
『実』に、
『生死』が、
『有る!』が、
『実相』という、
『法』中には、
『生死』を、
『有する!』者が、
『無い!』。
  幻人(げんにん):幻術所造の人。
  世界法(せかいほう):世間の事。『大智度論巻2下注:世間、世界、巻6下注:世界、巻8下注:世間法』参照。
復次生死人有生死。不生死人無生死。 復た次ぎに、生死の人には、生死有り。生死せざる人には、生死無し。
復た次ぎに、
『生死する!』、
『人』には、
『生死』が、
『有る!』が、
『生死しない!』、
『人』には、
『生死』が、
『無い!』。
何以故。不生死人以大智慧能破生相。如說偈言
 佛法相雖空  亦復不斷滅 
 雖生亦非常  諸行業不失 
 諸法如芭蕉  一切從心生 
 若知法無實  是心亦復空 
 若有人念空  是則非道行 
 諸法不生滅  念有故失相 
 有念墮魔網  無念則得出 
 心動故非道  不動是法印
何を以っての故に、生死せざる人は、大智慧を以って、能く生相を破ればなり。偈に説いて、言うが如し、――
仏法の相は空なりと雖も、亦復た断滅せず、
生も亦た常に非ずと雖も、諸の行業は失われず。
諸法は芭蕉の如く、一切は心より生じ、
若し法に実無きを知らば、是の心も亦復た空なり。
若し有る人空を念ずれば、是れ則ち道に非ざる行なり、
諸法の生滅せざるに、念有るが故に相を失えばなり。
念有らば魔網に堕し、念無ければ則ち出づるを得、
心動ずるが故に道に非ざるも、動ぜざれば是れ法印なり。
何故ならば、
『生死しない!』、
『人』は、
『大智慧』を以って、
『生』という、
『相』を、
『破ることができる!』からである。
『偈』に説いて言えば、この通りである、――
『仏』の、
『法』という、
『相』は、
『空である!』が、
亦復た、
『断滅しない!』、
『生』の、
『相』は、
『常でない!』が、
諸の、
『行業』が、
『失われない!』からである。
諸の、
『法』は、
『芭蕉』のよう!に、
一切は、
『心』より、
『生じる!』が、
『法』には、
『実』が、
『無い!』と、
『知った!』ならば、
是の、
『心』も、
亦復た、
『空である!』。
若し、
有る人が、
『空』を、
『心』に、
『念じた!』ならば、
是れは、
『道』を、
『行うのではない!』、
諸の、
『法』の、
『相』は、
『生滅しない!』が、
『念』有るが故に、
『相』を、
『失う!』。
『念』の、
『有る!』者は、
『魔網』に、
『堕ち!』、
『念』の、
『無い!』者は、
『魔網』より、
『出られる!』、
『心』の、
『動く!』者は、
『道でない!』所を、
『行き!』、
『心』の、
『動かない!』者は、
『法印(通行証)』を、
『得る!』。
  法相(ほうそう):諸法は一性なるも相を殊にし、殊別相は外由り見るべし、これを法相と謂う。「維摩経巻1仏国品」に、「善く法相を解し、衆生の根を知る」と云い、「大乗義章巻2」に、「一切の世諦の有為、無為は通じて法相と名づく」と云えるこれなり。<(丁)
  法印(ほういん):妙法の印璽なり。妙法は真実にして不動不変なるが故に称して印と為す。また妙法は王の印の如く通達無礙なるが故に、これを印という。また仏の正法を証明せんが為の故に印という。また諸仏と心と心と相い伝え相い印可するが故に法印という。該ねて仏法を摂して三種の法印を立て、称して三法印という。「大智度論巻23」に、「仏法の印を得るが故に通達無礙なり、王印を得たれば則ち留難する所無きが如し。問うて曰わく、何等かこれ仏法の印なる。答えて曰わく、仏法の印に三種有り、一には一切の有為法は念念に生滅して皆無常なり、二には一切の法は無我なり、三には寂滅は涅槃なり」と云い、同巻20に、「もし分別憶想せば則ちこれ魔羅網なり。動ぜず依止せざる、これ則ち法印と為す」と云い、「嘉祥法華疏巻6」に、「通じて印と言うは、印して諸法の移改せざるを定む」と云い、「法華経巻2譬喩品」に、「汝舎利弗、我がこの法印は世間を利益せんと欲するが為の故に説く」と云えるこれなり。<(丁)



諸の天、人は自ら宿命を識り、仏所に来詣する

【經】是諸天人自識宿命皆大歡喜。來詣佛所頭面禮佛足。卻住一面 是の諸の天人は、自ら宿命を識れば、皆、大いに歓喜し、仏所に来詣して、頭面に仏足を礼し、却って一面に住せり。
是の、
諸の、
『天、人』は、
自らの、
『宿命』を
『識っている!』ので、
皆、
大歓喜して、
『仏』の、
『住所』に、
『来詣する!』と、
『頭面』に、
『仏足』を、
『礼拜した!』後、
『壁の一面』に、
『退いて!』、
『住まった!』。
【論】問曰。諸天生時有三事自知。知所從來處。知所修福田處。知本所作福德。是人生時。無此三事。云何識宿命。 問うて曰く、諸天は生ずる時、三事の自ら知る有り、従って来たる所の処を知り、修せる所の福田の処を知り、本作す所の福徳を知る。是の人は生ずる時に、此の三事無くんば、云何が宿命を識る。
問い、
諸の、
『天』ならば、
『生まれた!』時には、
『三事』が有って、
『自ら!』を、
『知っている!』。
謂わゆる、
自ら、
何処より、
『来たのか?』を、
『知っており!』、
自ら、
何処の、
『福田』で、
『修行したのか?』を、
『知っており!』、
自ら、
本、
何のような、
『福徳』を、
『作したのか?』を、
『知っている!』。
是の、
『人』は、
『生まれた!』時、
此の、
『三事』が、
『無い!』のに、
何故、
『宿命』を、
『識っている!』のですか?
答曰。人道不定或有識者有不識者。 答えて曰く、人道は定まらず、或いは識る者有り、識らざる者有り。
答え、
『人道』は、
『不定であり!』、
或いは、
『識る!』者も、
『有り!』、
或いは、
『識らない!』者も、
『有る!』。
復次假佛神力則識宿命。 復た次ぎに、仏の神力を仮れば、則ち宿命を識る。
復た次ぎに、
『仏』の、
『神力』を、
『借りた!』ならば、
則ち、
『宿命』を、
『識ることになる!』。
問曰。諸天有報五神通。自識宿命能到佛所。人雖蒙佛神力得知宿命。所住處遠。云何能至佛所。 問うて曰く、諸天には、報の五神通有りて、自ら宿命を識り、能く仏所に到るも、人は、仏の神力を蒙りて、宿命を知るを得と雖も、所住の処は遠し。云何が、能く仏所に至る。
問い、
諸の、
『天』ならば、
『報』の、
『五神通』を、
『有する!』ので、
自ら、
『宿命』を、
『識り!』、
『仏』の、
『住所』に、
『到ることもできる!』が、
『人』は、
『仏』の、
『神力』を蒙り、
『宿命』を、
『知ることができた!』としても、
『所住』の、
『処』は、
『遠い!』。
何故、
『仏』の、
『住所』に、
『至ることができた!』のですか?
  五神通(ごじんづう):神足、天眼、天耳、他心、宿命通の総称。『大智度論巻16下注:五通』参照。
答曰。或有人生報得神通。如轉輪王聖人等。或有人假佛神力。 答えて曰く、或いは有る人は、生まれながら、神通を報得すること、転輪王、聖人等の如し。或いは有る人は、仏の神力を仮る。
答え、
或いは、
有る人は、
生まれながら、
『神通』を、
『報得している!』、
例えば、
『転輪王』や、
『聖人』等である。
或いは、
有る人は、
『仏』の、
『神力』を、
『借りた!』のである。
  報得(ほうとく):梵語vipaaka-jaの訳。果実が熟したものを得るが如く、果報が熟して得たの意。
問曰。人生十月三年乳餔十歲後能自出。今蒙佛威神三惡八難皆得解脫。生天人中即至佛所。天則可爾。人法未成。云何得來。 問うて曰く、人は、生まるるに十月、三年乳餔し、十歳の後、能く自ら出づ。今、仏の威神を蒙りて、三悪、八難、皆解脱を得、天人中に生じて、即ち仏所に至れり。天なれば、則ち爾るべし。人法は未だ成らず、云何が、来るを得る。
問い、
『人』は、
『生まれる!』までが、
『十月』、
『三年』、
『乳餔して!』、
『十年』後、
自ら、
『家』を、
『出ることができる!』、
今、
『仏』の、
『威神』を、
『蒙り!』、
『三悪』や、
『八難』の、
『衆生』が、
皆、
『解脱』を、
『得て!』、
『天』や、
『人』中に、
『生まれる!』と、
即時に、
『仏所』に、
『至った!』。
『天』に、
『生まれた!』者は、
爾うだった!としても、
『人』としての、
『法(五衆)』が、
未だ、
『成立していない!』のに、
何故、
『仏所』に、
『来ることができた!』のですか?
  乳餔(にゅうほ):乳で養う。
答曰。五道生法各各不同。諸天地獄皆化生。餓鬼二種生。若胎若化生。人道畜生四種生。卵生濕生化生胎生。 答えて曰く、五道の生法は、各各不同にして、諸天、地獄は、皆化生なり。餓鬼は二種に生じ、若しは胎、若しは化生なり。人道、畜生は四種に生じ、卵生、湿生、化生、胎生なり。
答え、
『五道』の、
『生ずる!』、
『法』は、
各各、
『不同であり!』、
諸の、
『天』や、
『地獄』は、
皆、
『化生』である。
『餓鬼』は、
二種に生じ、
『胎生』か、
『化生』である。
『人道』や、
『畜生』は、
四種に生じ、
『卵生』か、
『湿生』か、
『化生』か、
『胎生』である。
  卵生(らんしょう):梵語aNDa-jaの訳。四生の一。鳥の如く卵殻より生ずるを云う。『大智度論巻8下注:四生』参照。
  胎生(たいしょう):梵語jaraayu-jaの訳。四生の一。人の如く胎蔵より生ずるを云う。『大智度論巻8下注:四生』参照。
  湿生(しっしょう):梵語saMsveda-jaの訳。四生の一。虫の如く湿気より生ずるを云う。『大智度論巻8下注:四生』参照。
  化生(けしょう):梵語upapaadukaの訳。四生の一。所託なく忽然として有るを云う。『大智度論巻8下注:四生』参照。
  四生(ししょう):梵語catasro yomayaHの訳。巴梨語catasso yoniyo、衆生の産生に関する四種の別。即ち三界六道の衆生の産生を類別するに総じて四種あるを云う。一に卵生aNDa-ja(巴梨語同じ)、二に胎生jaraayu-ja(巴jalaabu-ja)、三に湿生saMsveda-ja(巴saMseda-ja)、四に化生upapaaduka(巴upapaatika)なり。「増一阿含経巻17」に、「此の四生あり、云何が四と為す、所謂卵生、胎生、湿生、化生なり。彼れ云何が名づけて卵生と為す、所謂卵生とは鶏雀烏鵲孔雀蛇魚蟻子の属は皆是れ卵生なり。是れを謂って名づけて卵生と為す。彼れ云何が名づけて胎生と為す、所謂人及び畜生より二足虫に至る、是れを謂って名づけて胎生と為す。彼れ云何が名づけて因縁生と為す、所謂腐肉中の虫、厠中の虫、尸中の虫の如き、是の如きの属は皆名づけて因縁生と為す。彼れ云何が名づけて化生と為す、所謂諸天、大地獄、餓鬼、若しは人、若しは畜生、是れを謂って名づけて化生と為す」と云い、又「倶舎論巻8」に、「云何が卵生なる、謂わく有情の類生ずるに、卵殻よりす、是れを卵生と名づく。鵝と孔雀と鸚鵡と雁等の如し。云何が胎生なる、謂わく有情の類生ずるに胎蔵よりす、是れを胎生と名づく。象と馬と牛と猪と羊と驢等の如し。云何が湿生なる、謂わく有情の類生ずるに湿気よりす、是れを湿生と名づく。虫と飛蛾と蚊と蚰蜒等の如し。云何が化生なる、謂わく有情の類生ずるに所託なし、是れを化生と名づく。那洛迦と天と中有等の如し。具根無欠にして支分頓に生じ、無にして歘ち有るが故に名づけて化と為す。人と傍生との趣は各四種を具す、人の卵生とは謂わく世羅と鄔波世羅との鶴卵より生じたると、鹿母所生の三十二子と、般闍羅王の五百子等の如し。人の胎生とは今世の人の如し。人の湿生とは曼駄多と遮盧と鄔波遮盧と鴿鬘と菴羅衛等の如し。人の化生とは唯劫初の人なり。傍生の三種は共に現見する所なり。化生は龍と揭路荼等の如し。一切の地獄と諸天と中有とは皆唯化生なり。鬼趣は唯胎と化との二種に通ず」と云える是れなり。是れ即ち鳥の如く卵殻より生ずるものを卵生とし、人の如く胎蔵より生ずるものを胎生とし、虫の如く湿気より生ずるものを湿生とし、所託なくして忽ち有るを化生と名づけたるなり。又此の中、若し勝劣を判ぜば化生を以って最勝とし、多少を論ぜば亦化生を最多とす。何となれば鬼畜人の三趣の少分、及び地獄諸天の二趣の全分、並びに一切の中有は皆化生なるを以ってなり。又「長阿含経巻19」、「増一阿含経巻19、25」、「集異門足論巻9」、「大毘婆沙論巻120」、「雑阿毘曇心論巻8」、「順正理論巻22」、「大乗義章巻8本」、「倶舎論光記巻8」、「翻訳名義集巻17」等に出づ。<(望)
卵生者如毘舍佉彌伽羅母三十二子(毘舍佉母生三十二卵。卵剖生三十二男。皆為力士。彌伽羅大兒字也。此母人得三道果)如是等名卵生。 卵生とは、毘舎佉弥伽羅母の三十二子(毘舎佉母、三十二卵を生じ、卵剖(わ)れて三十二男を生じ、皆、力士と為る。弥伽羅は大児の字なり。此の母人は、三道の果を得たり)の如し。是の如き等を卵生と名づく。
『卵生』とは、
例えば、
『毘舎佉弥伽羅母』の、
『三十二子』である!。
是れ等を、
『卵生』という。
  毘舎佉弥伽羅母(びしゃきゃみがらも):大施主の名。『大智度論巻8下注:鹿子母』参照。
  鹿子母(ろくしも):梵語蜜利伽羅磨多mRgaara- maatRの訳。また弥佉羅母、弥迦羅長者母に作り、鹿母とも訳す。本名を毘舎佉vizaakhaaと称し、一に鼻奢佉に作り、また毘舎佉母と云い、或は毘捨佉弥伽羅母vizaakhaa mRgaara- maatR、毘舎佉無畏羅母、毘舎佉鹿子母、鹿子母毘舎佉とも称す。鴦伽aGga国長者の女なり。「巴梨文法句経註dharmmapadaTThakathaa」に依るに、毘舎佉は鴦伽国長者文荼meNDakaの子ドハナンヂャヤdhanaJjayaの家に生まれ、容色殊勝に、仏の遊化に遇いて預流果を証し、後父に随って娑鷄多saaketaに移り、舎衛城弥伽羅migaaraの子分那婆陀那puNNavaddhanaに嫁す。時に価九億銭の衣を著け、父より内の火を外に持ち出すべからず等の十誡を受け、八居士を従えて婚家に至り、遂に舅弥伽羅をして仏に帰せしむ。弥伽羅これを喜び、汝は今より以後吾が母なりと語りしに由り、弥伽羅母即ち鹿子母と呼ばれ、後彼れは鹿紐migajaalaを生めりと云えり。また「摩訶僧祇律巻7」に、「毘舎佉鹿母に三十二子あり、また三十二児(孫?)あり。婦は悉く福徳の吉相成就す。この時、毘舎佉鹿母は常に児子を教誡す」と云い、「大智度論巻8」には「毘舎佉母は三十二卵を生み、卵割れて三十二男を生じ、皆力士と為る」と云えり。これ鹿子母に三十二子ありしことを伝うるなり。またこの婦は聴明にして浄信あり、常に布施を行じたるが如く、「四分律巻10」に依るに、彼れは仏に清浄の願を聴さんことを請い、即ち客比丘に食を与え、遠行の比丘に食を与え、病比丘に食を与え、病比丘に随病薬を与え、看病人の為に食を与え、比丘に粥を与え、雨浴衣を与え、水浴衣を与うるの八願(五分律巻5には更に衣食湯薬を比丘に供養するの一願を加う)を発し、仏時に汝は聡明にして信楽ある檀越なりと歎ぜられしことを記し、また「阿羅漢具徳経」には「恒に衆僧に於いて常に布施を行ずるは、毘舎佉母烏波薩吉これなり」と云えり。また「法句経註」にこの婦は婚時に著したる九億銭の衣を喜捨して精舎を建立せんことを請い、仏の聴許を得、目揵連をして工事を監せしめ、九月を経て成り、重層にして上下各五百室あり、これを東園pubbaaraama精舎と名づけ、また講堂を鹿子母講堂migaara- maatu- paasaadaと称したることを記せり。「中阿含巻55持斎経(visaakha- sutta)」は、仏がこの講堂に於いて鹿子母の為に演説せられし経なり。この他諸経律中にこの精舎を会処として説法せられしもの少なからず。また「中阿含経巻58」、「大般涅槃経巻1、巻32」、「四分律巻42」、「五分律巻11」、「摩訶僧祇律巻16」、「大毘婆沙論巻124」、「立世阿毘曇論巻1」、「倶舎論巻8」、「翻梵語巻5」、「玄応音義巻18」、「慧林音義巻25、巻26」等に出づ。<(望)
濕生者如揜羅婆利(揜烏甘反)婬女頂生轉輪聖王。如是等名濕生。 湿生とは、揜羅婆利(揜は烏甘反なり)婬女の頂より、転輪聖王を生ぜしが如し。是の如き等を湿生と名づく。
『湿生』とは、
例えば、
『揜羅婆利』という、
『婬女』の、
『頂(頭頂)』より、
『生まれた!』、
『転輪聖王』である!。
是れ等を、
『湿生』という。
  揜羅婆利(あんらばり):また菴婆羅婆利という。揜は烏甘反(う+かん=あん)。『大智度論巻8下注:菴婆羅婆利』参照。
  菴婆羅婆利(あんばらばり):梵名aamrapaalii、また菴婆婆利、菴婆羅婆提、阿梵和利、阿范和利、阿凡和利、阿梵婆羅、或は菴婆羅女、菴没羅女、菴羅女、菴樹女に作り、また訳して㮈女、奈女とも云う。菴没羅園を仏に奉施せし女なり。「柰女耆婆経」に依るに、維耶離国梵志苑中に奈(即ち菴没羅)樹あり、その樹の瘤節より諸枝を生じ、その形偃盋の如し。一梵志あり、これを怪しみ、桟閣を作り登りてこれを視るに、枝上偃盋の中に池水あり、清く且つ香しく、衆華ありて彩色鮮明なり。その下に一女児あり、梵志これを養い名づけて奈女とという。年十五、容色端正にして、その名遠国に聞こゆ。七王あり争うてこれを聘せんとす。梵志大いに懼れ、乃ち女を高楼の上に置き、七王に告げて曰わく、これ我が女に非ず、菴羅樹の生ぜし所なり。もし一王に与えんか、六王必ず怒らん。今楼上に在り、希わくは諸王評議して得べきものはこれを取れと。即夜、頻婆沙羅王は伏竇の中に入りて楼に登り共に宿す。女に謂って曰わく、もし男を生まばまさに我れに還すべしと。因って手にせる金鐶の印を脱ぎ、これを女に附して去る。後奈女果たして男子を挙ぐ、耆婆これなり。年甫めて八才にして印鐶を持して王に見ゆ。王以って太子となす。然るに二年の後夫人韋提希、阿闍世を生む。耆婆因って太子の位をこれに譲り、医術を学び後名医となれり。奈女その後仏に帰依し、所衛の園林を以って仏に奉施せりと云い、「四分律巻39」等には毘舎離城に住し、婬女として名声頗る高かりしことを記せり。また「出曜経巻3」には彼女の容姿を記して「時に阿梵和利は羽宝の車を厳飾し、自ら厳荘校飾沐浴澡洗し、香華芬薫として往きて仏所に至り、頭面に足を礼し、一面に在りて住す。この時衆多の比丘は愛欲未だ断ぜず、凡夫地に在り。阿梵和利の来たりて仏所に至るを見て皆愛欲を興し、不浄想を起す。仏その意を知って即ちこれに告げて曰わく、云何が比丘、阿梵和利は四大形を受け、臭処穢汚一の貪すべきなし。比丘まさに知るべしと」と云えり。また「㮈女祇城因縁経」、「温室洗浴衆僧経」、「雑阿含経巻24」、「長阿含経巻2」、「仏般涅槃経巻上」、「四分律巻39、巻40」、「五分律巻20」、「有部毘奈耶雑事巻36」、「大智度論巻17」、「仏所行讃巻4」、「大唐西域記巻7」、「玄応音義巻1」、「翻梵語巻5」等に出づ。<(望)
  頂生転輪王(ちょうしょうてんりんおう):印度の伝説上の王。『大智度論巻8下注:頂生王』参照。
  頂生王(ちょうしょうおう):梵語文陀竭muurdhagataの訳。またはmuurdhaata、或は文荼伽に作り、略して頂とも云う。また一に梵語曼駄多maandhaatR、或はmandhaatR、maandhaata、漢訳曼陀多、曼荼多、慢他多、摩陀多、或は単に曼陀に作り、我持、我養、持我、持養、持食、楽養、持戒、我嬭、または最勝とも訳す。印度太古の転輪聖王なり。「起世経巻10」に依るに、王は転輪王烏逋沙他uposatha(斎戒、静斎、或は長浄と訳す)の子にして、彼の頂上の肉皰より生じ、端正殊特にして三十二相を具し、生誕の時自ら声を発して摩陀多maandhaataa(即ち持我)と唱え、長じて神通を具足し、大威力ありて四大洲を統治し、その寿無量なり。後右髀の皰より一童子を生み、これを髀生と名づけたりと云い、また「中阿含巻11四洲経」には王は聡明にして七宝を成就し、千子具足し、閻浮洲を統領するに刀杖を以ってせず、専ら法を以って教令し、衆をして能く安楽を得しめ、また大如意足、大威徳あり、宮中に於いて宝を雨ふらすこと七日、積もりて膝に至る。尋いで西方瞿陀尼、東方弗婆鞞陀提、北方鬱単越の諸洲に至り、四種の軍を以ってこれを統御し、後三十三天に昇りてその法堂に入るに、天帝釈はその座の半を与えて坐せしむ。時に王の光色形貌威儀衣服都て帝釈と異なることなく、ただその眼眴のみ異あり。ここに於いて王は帝釈を逐うて更にその半座をを奪い、忉利天王たらんとするや、忽ちにして如意足を失い、閻浮洲に墜落して極重病を生ず。既にして命終に臨みて諸臣に対し、我れ閻浮洲を得、四大洲を得、五欲の楽を得、諸天の集会を見るも皆意に満足せず、茲に命終を取ると告げたりと云い、而してその時の王は即ち釈尊自身なりとなせり。蓋し頂生王は印度太古の王にして、「長阿含経巻22世本縁品」、「仏本行集経巻4賢劫王種品」、「四分律巻31」、「梵文大事mahaavastu,I」等には、閻浮提初代の民主より第五世の王なりとし、「大楼炭経巻6」には第四世とし、「起世経巻10」、「起世因本経巻10」、「衆許摩訶帝経巻1」、「有部毘奈耶破僧事巻1」等には第六世とし、「島史diipavaMsa,iii」、「大史mahaavaMsa,ii」等には第七世とし、「彰所知論巻上」には成劫の初の閻浮提に五王あり、次いで五転輪王出づとし、初代より静斎に至るまでの五世を成劫の五王と名づけ、頂生王は第六世にして、即ち転輪王の第一世なりとせり。また王の所住の都城に関し、「大宝積経巻76菩薩見宝会四転輪王品」にはこれを阿踰闍ayodhyaaと名づけ、その都城は東西十二由旬、南北七由旬あり。王はその中に於いて月出、毘琉璃蔵、日威徳起の三殿を造ると云い、「有部毘奈耶薬事巻11」には、自来城(即位の時、師子の座及び傘蓋等求めずして自然に来るより名づく)とし、「善見律毘婆沙巻8」には「初劫に慢他多王、瞿食陀王、かくの如き聖王を初とし、この地に於いて舎宅を立つ。故に王舍と名づく」と云い、これを王舎城となせり。また王の名称に関し、これを頂生muurdhagataと名づけたることは、前引起世経等に父王烏逋沙他の頂上の肉皰より生じたるが為なりとし、「大毘婆沙論巻120」、「倶舎論巻8」等にはこの事由によりて王を四生の中の湿生となせり。また曼駄多maandhaataの称は、起世経に王生誕の時自ら唱えたる語なりとし、「有部毘奈耶破僧事巻1」には、王の生後、六万の夫人はこれを見て皆愛念を生じ、各各我れ養わんと言いしに依り、持養と名づけたるものなりとなせり。また「中阿含巻15転輪王経、巻53癡慧地経」等に出せる刹利頂生王は、これに各相当する「巴梨文中部経cakkavatti- siihanaada- suttanata, baalapaNDita- sutta」等にこれを刹利潅頂khattiya- muddha- avasittaとなせり。これ潅頂の法によりて即位せし刹利種嫡統の王を意味するものなるが如く、彼の頂生muudhagataの伝説は、或はこの潅頂の説より転ぜしものに非ざるかを疑うべきものあり。また「中阿含巻34喩経、福経、巻52調御地経」、「増一阿含経巻8」、「頂生王故事経」、「文陀竭王経」、「頂生王因縁経巻1至巻6」、「賢愚経巻13頂生王品」、「六度集経巻4頂生聖王経」、「大般涅槃経巻12」、「十二遊経」、「仏所行讃巻1、巻2」、「仁王般若波羅蜜経巻下護国品」、「有部毘奈耶薬事巻12」、「倶舎論巻27」、「経律異相巻24」、「翻梵語巻4」、「法苑珠林巻43転輪王篇」、「倶舎論光記巻8、巻27」、「玄応音義巻25」、「慧林音義巻70」、「倶舎論法義巻8」等に出づ。<(望)
化生者。如佛與四眾遊行。比丘尼眾中有比丘尼。名阿羅婆。地中化生。及劫初生時人皆化生。如是等名為化生。 化生とは、仏の四衆と遊行したもうに、比丘尼衆中の有る比丘尼を阿羅婆と名づけ、地中より化生せり。及び劫初に生ずる時の人は、皆化生す。是の如き等を名づけて、化生と為す。
『化生』とは、
『仏』は、
『四衆(比丘、比丘尼、沙弥、沙弥尼)』と、
『遊行されていた!』が、
『比丘尼衆』中の、
有る、
『阿羅婆』と呼ばれる!、
『比丘尼』は、
『地』中より、
『化生した!』。
及び、
『生時』が、
『劫初』の、
『人』は、
皆、
『化生する!』。
是れ等が、
『化生』である。
  阿羅婆(あらば):委細不明。
胎生者。如常人生。 胎生とは、常の人の生の如し。
『胎生』とは、
例えば、
常(通常)の、
『人』の、
『生』である。
化生人即時長大能到佛所。有人報得神通故能到佛所。 化生の人は、即時に長大して、能く仏所に到る。有る人は、報得の神通の故に、能く仏所に到る。
『化生』の、
『人』は、
即時に、
『長大(成長)する!』ので、
『仏所』に、
『到ることができる!』し、
有る、
『人』は、
『報得』の、
『神通』の故に、
『仏所』に、
『到ることができる!』。
復次佛借神通力故。能到佛所 復た次ぎに、仏より、借る神通の力の故に、能く仏所に到る。
復た次ぎに、
『仏』より、
『借りた!』、
『神通』の、
『力』の故に、
『仏所』に、
『到ることができる!』。



十方の三悪、八難が解脱を得て、天上に生まれた

【經】如是十方如恒河沙等世界地皆六種震動。一切地獄餓鬼畜生及餘八難處。即得解脫得生天上。齊第六天 是の如く、十方の恒河沙に等しきが如き世界の地は、皆六種に震動し、一切の地獄、餓鬼、畜生、及び余の八難処は、即ち解脱を得て、天上に生ずるを得、第六天に斉(そろ)えり。
是のように、
『十方』の、
『恒河沙』に、
『等しい!』ほどの、
『世界』の、
『地』が、
皆、
『六種』に、
『震動する!』と、
一切の、
『地獄』、
『餓鬼』、
『畜生』と、
及び、
余の、
『八難処』の、
『衆生』は、
即時に、
『解脱』を得て、
『天上』に、
『生まれることができ!』、
皆、
『第六天(他化自在天)』に、
『斉(そろ)った!』。
  第六天(だいろくてん):欲界の第六最頂天を云う。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
【論】問曰。三千大千世界無量無數眾生甚多。何以復及十方。如恒河沙等世界眾生。 問うて曰く、三千大千世界の無量、無数の衆生は甚だ多し。何を以ってか、復た十方の、恒河沙に等しきが如き世界の衆生に及べる。
問い、
『三千大千世界』ですら、
『無量、無数』の、
『衆生があり!』、
『甚だ多い!』。
何故、
復た、
『十方』の、
『恒河沙』に、
『等しい!』ほどの、
『衆生』にまで、
『及んだ!』のですか?
答曰。佛力無量。雖度三千大千世界眾生。猶以為少。以是故復及十方。 答えて曰く、仏の力は無量なれば、三千大千世界の衆生を度すと雖も、猶お以って、少と為す。是を以っての故に、復た十方に及べり。
答え、
『仏』の、
『力』は、
『無量』であり!、
『三千大千世界』の、
『衆生』を、
『度す!』ことすら、
猶お、
『少ない!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
復た、
『十方』に、
『及んだ!』のである。
問曰。若釋迦文尼佛以大神力廣度十方。復何須餘佛。 問うて曰く、若し釈迦文尼仏にして、大神力を以って、広く十方を度したまえば、復た何んが、余の仏を須(ま)たん。
問い、
若し、
『釈迦文尼仏』が、
『大神力』を以って、
広く、
『十方』を、
『度された!』ならば、
復た、
何故、
余の、
『仏』を、
『必要とする!』のですか?
答曰。眾生無量。不一時熟故。 答えて曰く、衆生は無量にして、一時に熟せざるが故なり。
答え、
『衆生』は、
『無量』であり、
『熟す!』のが、
『一時ではない!』からである。
又眾生因緣各各不同。如聲聞法中說。舍利弗因緣弟子。除舍利弗。諸佛尚不能度。何況餘人。 又衆生の因縁は、各各不同なり。声聞法中に説けるが如く、舎利弗の因縁の弟子は、舎利弗を除けば、諸仏すら、尚お度す能わず。何に況んや、余人をや。
又、
『衆生』の、
『因縁』は、
各各、
『同じではない!』。
例えば、
『声聞法』中には、
こう説かれている、――
『舎利弗』の、
『因縁』で、
『弟子(仏弟子)』と、
『作った!』者は、
『舎利弗』を除けば、
諸の、
『仏』すら、
尚お、
『度す!』ことが、
『できない!』。
況して、
『余人』は、
『言うまでもない!』、と。
復次今但說東方一恒河沙等。不說若二三四乃至千萬億恒河沙等諸世界。 復た次ぎに、今は、但だ『東方には、一の恒河沙に等しき』と説いて、『若しは二、三、四、乃至千万億の恒河沙に等しき諸の世界』とは説かず。
復た次ぎに、
今は、
但だ、
『東方』には、
『一』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』と、
『説いた!』が、
若しは、
『二』や、
『三』や、
『四、乃至千万億』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』、
諸の、
『世界』とは、
『説いていない!』。
又以世界無邊無量。若有邊有量眾生可盡。以是故十方無量世界諸佛應度 又、世界は無辺、無量なるも、若し有辺、有量の衆生なれば、尽くすべきを以って、是を以っての故に、十方の無量の世界の諸仏なれば、応に度すべし。
又、
『世界』は、
『無辺』、
『無量』である!が、
若し、
『有辺』、
『有量』の、
『衆生』ならば、
『尽くすこともできる!』ので、
是の故に、
『十方』の、
『無量』の、
『世界』の、
諸の、
『仏』が、
『度す!』のが、
『相応しい!』のである。



盲者は視るを得、聾者は聴くを得た

【經】爾時三千大千世界眾生。盲者得視。聾者得聽。啞者能言。狂者得正。亂者得定。裸者得衣。飢渴者得飽滿。病者得愈。形殘者得具足 爾の時、三千大千世界の衆(もろもろ)の生盲者は視るを得、聾者は聴くを得、唖者は能く言い、狂者は正を得、乱者は定を得、裸者は衣を得、飢渴者は飽満を得、病者は愈ゆるを得、形残者は具足するを得たり。
爾の時、
『三千大千世界』の、
諸の、
『生盲者』は、
『視ることができた!』、
『聾者』は、
『聴くことができた!』、
『唖者』は、
『言うことができた!』、
『狂者』は、
『正気』を、
『得た!』、
『乱者』は、
『定』を、
『得た!』、
『裸者』は、
『衣』を、
『得た!』、
『飢渴者』は、
『飽満』を、
『得た!』、
『病者』は、
『治癒』を、
『得た!』、
『形残者』は、
『具足』を、
『得た!』。
  生盲(しょうもう):梵語jaaty-andhaの訳。生まれながらの盲を云う。andhaは盲を指す。
  (じょう):梵語三昧samaadhiの訳。内境と外境とが一体となる、心の安定にして不動なる精神状態を云う。『大智度論巻17下注:定』参照。
  形残(ぎょうざん):身体不具。
  参考:『大般若経巻401』:『以佛神力六種變動。時彼世界諸惡趣等一切有情皆離苦難從彼捨命。得生人中及六欲天。皆憶宿住歡喜踊躍。各於本界同詣佛所頂禮佛足時此三千大千世界及餘十方殑伽沙等世界有情。盲者能視聾者能聽。啞者能言狂者得念。亂者得定。貧者得富。露者得衣飢者得食。渴者得飲病者得除愈。醜者得端嚴。形殘者得具足。根缺者得圓滿。迷悶者得醒悟。疲頓者得安適』
  参考:『放光般若経巻1』:『爾時三千大千國土,諸盲者得視、聾者得聽、啞者能言、傴者得申、拘躄者得手足、狂者得正、亂者得定、病者得愈、飢渴者得飽滿、羸者得力、老者得少、裸者得衣』
  :「三千大千世界衆生盲者」に就き、「大品」類本の「大般若経巻401」には、「三千大千世界及餘十方殑伽沙等世界有情盲者」と云いて「有情(衆生)」はあれど、「生盲」なく、「放光般若経巻1」には、「三千大千国土諸盲者」と云いて、「衆生」を「諸」に代えて、「生盲」なし。之を推すに、「生盲jaaty-andha」は、仏教特有の語にして、本より漢語には非ざるが故に、漢訳の多くは、「盲者andha」を用いたものとも考えられる。「大智度論」に於いて、「盲者」と「生盲」と別けて説くのは、その証拠ではなかろうか。或いは何等かの錯誤が入って、「衆生、盲者」を「衆、生盲者」の如く訓み違えた者があり、その者の創作が入ったとすれば、此に於いて「大智度論」に異本のないのが、尋常のこととも思われない。又上の訓み違えは漢語特有のものであるが故に、羅什が誤ったものとも考えられないし、本無い言葉を敢て創作したとも考え難い。恐らく、「大般若」は、敢て別にする必要がないが故に、より普通の「盲者」に取ったものと思われる。又「有情(衆生)」の有無に関しては、無くても意味は通じる、恐らく梵語にても同様の事情であろうと想像できる。
【論】問曰。眾生苦患有百千種。若佛神力何以不遍令得解脫。 問うて曰く、衆生の苦患には、百千種有り。若し、仏に神力あらば、何を以ってか、遍く解脱を得しめざる。
問い、
『衆生』の、
『苦患』には、
『百、千種』が、
『有る!』。
若し、
『仏』が、
『神力』を、
『用いられた!』ならば、
何故、
遍く、
『解脱』を、
『得させなかった!』のですか?
答曰。一切皆救。今但略說麤者。如種種結使略說為三毒。 答えて曰く、一切を、皆救いたまえるに、今は但だ、麁なる者を略説す。種種の結使を略説すれば、三毒と為るが如し。
答え、
一切を、
皆、
『救われた!』が、
今は、
但だ、
略して、
『大きな!』者のみを、
『説いた!』のである。
例えば、
種種の、
『結使』も、
略説すれば、
『三毒』と、
『言われる!』のと同じである。
問曰。但言盲者得視則足。何以故言生盲。 問うて曰く、但だ『盲者は視るを得』と言えば、則ち足る。何を以っての故にか、『生盲』と言う。
問い、
但だ、
こう言えば足る、――
『盲者』は、
『視ることができた!』と。
何故、
『生盲』と、
『言う!』のですか?
  生盲(しょうもう):生まれながらの盲者。
答曰。生盲者先世重罪故。重罪者猶尚能令得視。何況輕者。 答えて曰く、生盲の者は、先世の重罪の故なり。重罪の者すら、猶尚お能く視るを得る。何に況んや軽者をや。
答え、
『生まれながら!』の、
『盲者』とは、
『先世』の、
『重罪』の、
『故(せい)』である。
『重罪』の者すら、
猶尚お、
『視る!』ことを、
『得た!』。
況んや、
『軽罪』の者は、
『言うまでもない!』。
問曰。云何先世重罪而令生盲。 問うて曰く、云何が、先世の重罪にして、生盲ならしむ。
問い、
何のような、
『先世』の、
『重罪』が、
『生盲にさせる!』のですか?
答曰。若破眾生眼若出眾生眼。若破正見眼言無罪福。是人死墮地獄。罪畢為人從生而盲。 答えて曰く、若しは、衆生の眼を破り、若しは、衆生の眼を出し、若しは、正見の眼を破りて、『罪福は無し』と言えば、是の人は死して、地獄に堕ち、罪畢(おわ)りて人と為らば、生まれてより、盲とならん。
答え、
若しは、
『衆生』の、
『眼』を、
『破壊したり!』、
『衆生』の、
『眼』を、
『剔出したり!』、
若しは、
『正見』の、
『眼』を、
『破壊して!』、
『罪福』は、
『無い!』と、
『言ったり!』すれば、
是の、
『人』は、
『死んで!』、
『地獄』に、
『堕ち!』、
『罪』が終って、
『人』と、
『為る!』が、
『生まれた!』時より、
『盲となる!』のである。
若復盜佛塔中火珠及諸燈明。若阿羅漢辟支佛塔珠及燈明。若餘福田中奪取光明。如是等種種先世業因緣故失明。 若しは、復た仏塔中の火珠、及び諸の灯明、若しくは阿羅漢、辟支仏の塔の珠、及び灯明を盗み、若しくは余の福田中より、光明を奪い取る、是の如き等の種種の先世の業の因縁の故に、失明す。
若しくは、
『仏』の、
『塔(舎利塔)』中より、
諸の、
『火珠』や、
『灯明』を、
『盗む!』、
若しくは、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』の、
『塔』より、
『珠』や、
『灯明』を、
『盗む!』、
若しくは、
余の、
『福田』中より、
『光明』を、
『奪い取る!』、
是れ等の、
種種の、
『先世』の、
『業』の、
『因縁』の故に、
『失明』する!。
  火珠(かじゅ):梵語taijasaの訳。光を発するもの、若しくは光を含むものの義。塔上の宝珠を云う。
今世若病若打故失明。是今世因緣。 今世に、若しは病み、若しは打つが故に失明する、是れ今世の因縁なり。
『今世』に、
『病んだり!』、
『打ったり!』するが故に、
『失明』すれば、
是れは、
『今世』の、
『因縁』である!。
復次九十六種眼病。闍那迦藥王所不能治者。唯佛世尊能令得視。 復た次ぎに、九十六種の眼病は、闍那迦薬王の治する能わざる所なるも、唯だ仏世尊のみ、能く視るを得しめたもう。
復た次ぎに、
『九十六種』の、
『眼病』は、
『闍那迦薬王』にも、
『治せない!』が、
唯だ、
『仏世尊』ならば、
『視えるよう!』に、
『させることができる!』。
復次先令得視。後令得智慧眼。聾者得聽亦如是。 復た次ぎに、先に、視るを得しめ、後には、智慧の眼を得しむ。聾者の聴くを得るも、亦た是の如し。
復た次ぎに、
先に、
『視る!』ことを、
『得させ!』て、
後に、
『智慧』の、
『眼』を、
『得させる!』のである。
『聾者』が、
『聴く!』ことを、
『得る!』のも、
亦た、
是の通りである。
問曰。若有生盲何以不說生聾。 問うて曰く、若し生盲有らば、何を以ってか、生聾を説かざる。
問い、
若し、
『生盲』が有れば、
何故、
『生聾』を、
『説かない!』のですか?
答曰。多有生盲生聾者少。是故不說。 答えて曰く、多く生盲有るも、生聾の者は少し。是の故に説かず。
答え、
『生盲』は、
『多く!』、
『有る!』が、
『生聾』の者は、
『少ない!』ので、
是の故に、
『説かない!』。
問曰。以何因緣故聾。 問うて曰く、何の因縁を以っての故に、聾なる。
問い、
何の、
『因縁』の故に、
『聾となる!』のですか?
答曰。聾者是先世因緣。師父教訓不受不行而反瞋恚。以是罪故聾。 答えて曰く、聾者は是れ先世の因縁なり。師父の教訓を受けず、行わずして、反って瞋恚す、是の罪を以っての故に聾となる。
答え、
『聾者』は、
『先世』の、
『因縁』である!が、
若し、
『師父』の、
『教訓』を、
『受けもせず!』、
『行いもせず!』して、
反って、
『瞋恚』すれば、
是の、
『罪』の故に、
『聾となる!』。
從次截眾生耳若破眾生耳。若盜佛塔僧塔諸善人福田中揵稚鈴貝及鼓。故得此罪。如是等種種先世業因緣。 復た次ぎに、衆生の耳を截(き)り、若しくは衆生の耳を破り、若しくは仏塔、僧塔、諸の善人、福田中より、揵稚、鈴、貝、及び鼓を盗むが故に、此の罪を得。是の如き等は種種の先世の業の因縁なり。
復た次ぎに、
『衆生』の、
『耳』を、
『切ったり!』、
『破ったり!』するとか、
『仏の塔』や、
『僧の塔』など、
諸の、
『善人』の、
『福田』中より、
『揵稚()』や、
『鈴』や、
『貝』、
『鼓』などを、
『盗んだ!』が故に、
此の、
『罪』を得る!。
是れ等が、
種種の、
『先世』の、
『因縁』である。
  :従次は他本に従い、復次に改む。
  揵稚(けんち):梵語gaNDii、或いはghaNTaa。鐘。鉄板、或いは他の金属の板を打ち鳴らして時を知らせるもの。
今世因緣若病若打。如是等是今世因緣得聾。 今世の因縁は、若しは病み、若しは打つ、是の如き等は、是れ今世の因縁にて、聾を得るなり。
『今世』の、
『因縁』は、
『病んだり!』、
『打ったり!』で、
是のような、
『今世』の、
『因縁』で、
『聾』を得る。
問曰。啞者不能言。作何等罪故啞。 問うて曰く、唖者の言う能わざるは、何等の罪を作せるが故に、唖となる。
問い、
『唖者』が、
『物』を、
『言わない!』とは、
何のような、
『罪』の故に、
『唖となる!』のですか?
答曰。先世截他舌或塞其口。或與惡藥令不得語。 答えて曰く、先世に他の舌を截り、或いは其の口を塞ぎ、或いは悪薬を与えて、語るを得ざらしむ。
答え、
『先世』に、
『他』の、
『舌』を、
『切った!』とか、
或いは、
其の、
『口』を、
『塞ぐ!』とか、
或いは、
『悪薬』を与えて、
『物』を、
『語れなくした!』。
或聞師教父母教敕。斷其語非其教。 或いは師の教、父母の教勅を聞かず、其の語を断ち、其の教を非とす。
或いは、
『師』や、
『父母』の、
『教』や、
『教勅』を、
『聞かずに!』、
其の、
『語』を、
『中断させたり!』、
其の、
『教』を、
『非難した!』。
或作惡邪人不信罪福破正語。地獄罪出生世為人啞不能言。如是種種因緣故啞。 或いは悪邪の人と作りて、罪福を信ぜず、正語を破り、地獄の罪より出て、世に生まれて人と為れば、唖となりて、言う能わず。是の如き種種の因縁の故に唖となる。
或いは、
『悪邪』の、
『人』と作って、
『罪福』を、
『信じず!』に、
『正語』を、
『誹謗して!』、
『破壊した!』者は、
『地獄』の、
『罪』を出て、
『人』と、
『為っても!』、
『唖』であって、
『物』が、
『言えない!』。
是のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『唖となる!』のである。
問曰。狂者得正云何為狂。 問うて曰く、狂者の正を得るとは、云何が狂と為る。
問い、
『狂者』が、
『正気』を、
『得る!』とは、
何故、
『狂』と、
『為る!』のですか?
答曰。先世作罪。破他坐禪破坐禪舍。以諸咒術咒人。令瞋鬥諍婬欲。 答えて曰く、先世の作罪は、他の坐禅を破り、坐禅の舎を破り、諸の咒術を以って、人を呪い、瞋り、闘い、諍い、婬欲せしむ。
答え、
『先世』に、
『作す!』、
『罪』は、――
『他人』の、
『坐禅』を、
『破る!』とか、
『坐禅』の、
『屋舎』を、
『破る!』とか、
諸の、
『咒術』を以って、
『人』に、
『咒をかけ!』、
『瞋らせる!』、
『闘わせる!』、
『諍わせる!』、
『婬欲させる!』とかである。
今世諸結使厚重。如婆羅門失其福田。其婦復死。即時狂發裸形而走。 今世には、諸の結使の厚く重ければなり。婆羅門の、其の福田を失い、其の婦も復た死せるに、即時に狂発りて、裸形にて走るが如し。
『今世』ならば、
諸の、
『結使』が、
『厚く!』、
『重い!』からである。
例えば、
『婆羅門』が、
其の、
『福田』を、
『失い!』、
更に、
其の、
『婦』までも、
『失った!』ので、
即時に、
『狂』が発って、
『裸形』で、
『走り回った!』ようなものである。
又如翅舍伽憍曇比丘尼。本白衣時七子皆死。大憂愁故失心發狂。 又、翅舎伽憍曇比丘尼の、本白衣の時、七子皆死して、大いに憂愁せるが故に、心を失いて、狂を発せるが如し。
又、
『翅舎伽憍曇』という、
『比丘尼』などは、
本、
『白衣(俗人)』の時、
『七子』が、
皆、
『死んでしまい!』、
大いに、
『憂愁』した!が故に、
『心』を失って、
『狂』を、
『発した!』ことがある。
  翅舎伽憍曇比丘尼(きしゃかきょうどんびくに):又吉離舎瞿曇弥比丘尼に作る。
  参考:『雑阿含巻45(1200経)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。有吉離舍瞿曇彌比丘尼。住舍衛國王園精舍比丘尼眾中。晨朝著衣持缽。至舍衛城乞食。食已。還精舍。舉衣缽。洗足畢。持尼師壇。著肩上。入安陀林。於一樹下結跏趺坐。入晝正受。時。魔波旬作是念。今沙門瞿曇住舍衛國祇樹給孤獨園。時。吉離舍瞿曇彌比丘尼住舍衛國王園精舍比丘尼眾中。晨朝著衣持缽。入舍衛城乞食。食已。還精舍。舉衣缽。洗足畢。持尼師壇。著肩上。入安陀林。於一樹下結跏趺坐。入晝正受。我今當往。為作留難。即化作年少。容貌端正。往至吉離舍瞿曇彌比丘尼所。而說偈言 汝何喪其子 涕泣憂愁貌 獨坐於樹下 何求於男子 時。吉離舍瞿曇彌比丘尼作是念。為誰恐怖我。為人。為非人。為姦狡者。如是思惟。生決定智。惡魔波旬來嬈我耳。即說偈言 無邊際諸子 一切皆亡失 此則男子邊 已度男子表 不惱不憂愁 佛教作已作 一切離愛苦 捨一切闇冥 已滅盡作證 安隱盡諸漏 已知汝弊魔 於此自滅去 時。魔波旬作是念。吉離舍瞿曇彌比丘尼已知我心。愁憂苦惱。即沒不現』
有人大瞋不能自制成大癡狂。 有る人は、大いに瞋りて、自ら制する能わず、大癡の狂と成れり。
有る人は、
大いに、
『瞋った!』ので、
『自ら!』を、
『制することができず!』、
『大癡(おおたわけ)』の、
『狂』と、
『成った!』。
有愚癡人惡邪故。以灰塗身拔髮裸形狂癡食糞。 有る愚癡の人は、悪邪なるが故に、灰を以って身に塗り、髪を抜き、裸形、狂癡にして、糞を食う。
有る、
『愚癡』の、
『人』は、
『悪邪である!』が故に、
『身』には、
『灰』を、
『塗りたくり!』、
『髪』を抜き、
『裸形』の、
『狂癡』となって、
『糞』を、
『食っている!』。
有人若風病若熱病病重成狂。 有る人は、若しや風病、若しは熱病の病重くして、狂と成る。
有る人は、
『風病』や、
『熱病』の、
『病』が、
『重くなって!』、
『狂』と、
『成った!』。
有人惡鬼所著。或有人癡飲雨水而狂。如是失心如是種種名為狂。得見佛故狂即得正。 有る人は、悪鬼に著かれて、或いは有る人は癡(おろか)にして、雨水を飲みて、狂となる。是の如く心を失い、是の如き種種を名づけて、狂と為すに、仏に見ゆるを得るが故に、狂は即ち正を得。
有る人は、
『悪鬼』に、
『著かれた!』、
或いは、
有る人は、
『愚癡』であり、
『雨水』を、
『飲んで!』、
『狂となった!』。
是のように、
『心』を、
『失う!』ことであり、
是のような、
種種を、
『狂』と、
『呼ぶ!』のであるが、
『仏』を、
『見る(出会う)!』ことを、
『得た!』が故に、
『狂』は、
即時に、
『正気』を、
『得た!』のである。
問曰。亂者得定狂則是亂。以何事別。 問うて曰く、乱者は、定を得とは、狂は、則ち是れ乱なり。何事を以ってか別にする。
問い、
『乱者』は、
『定』を、
『得る!』とは、――
『狂』とは、
則ち、
『乱』である!。
何のような、
『事』を以って、
『乱』と、
『狂』とを、
『区別する!』のですか?
答曰。有人不狂而心多散亂。志如獼猴不能專住是名亂心。 答えて曰く、有る人は、狂ならずして、心多く散乱す。志は、彌猴の如く、専住すること能わず。是れを乱心と名づく。
答え、
有る人は、
『狂ではない!』が、
『心』が、
『多く!』、
『散乱している!』。
『志(心の趣向する所)』が、
『彌猴(さる)のように!』、
『専ら!』、
『住まることができない!』ので、
是れを、
『乱』の、
『心』と、
『称する!』のである。
復有劇務匆匆心著眾事。則失心力不堪受道。 復た有るは劇務匆匆にして、心、衆事に著せば、則ち心力を失いて、力は道を受くるに堪えず。
復た、
有る人は、
『務』が、
『劇しく!』、
『多忙であり!』、
『心』が、
『衆事』に、
『著する!』ので、
『心』が、
『力』を、
『失い!』、
『道』を、
『受ける!』に、
『堪えられない!』。
問曰。亂心有何因緣。 問うて曰く、乱心には、何なる因縁か有る。
問い、
『乱心』には、
何のような、
『因縁』が、
『有る!』のですか?
答曰。善心轉薄隨逐不善。是名心亂。 答えて曰く、善心、転(うた)た薄るるに、不善を随逐す、是れを心乱ると名づく。
答え、
『善心』が、
次第に、
『薄れる!』と、
『不善』を、
『随逐する(追う)!』ようになる、
是れを、
『心』が、
『乱れる!』と、
『称する!』。
復次是人不觀無常。不觀死相不觀世空。愛著壽命計念事務種種馳散。是故心亂。 復た次ぎに、是の人、無常を観ずして、死の相を観ず、世の空なるを観ず、寿命に愛著し、事務を計念して種種に馳散せば、是の故に、心乱れん。
復た次ぎに、
是の、
『人』が、
『無常』を、
『観ない!』、
『死』という、
『相』を、
『観ない!』、
『世間』が、
『空である!』と、
『観ない!』とか、
『寿命』を、
『愛して!』、
『著したり!』、
『事務』を、
『計画し!』、
『念じたり!』して、
『心』が、
種種に、
『馳散した!』ならば、
是の故に、
『心』が、
『乱れる!』ことになる。
復次不得佛法中內樂。外求樂事隨逐樂因。是故心亂。如是亂人得見佛故其心得定。 復た次ぎに、仏法中に内楽を得ず、外に楽事を求めて、楽因を随逐せば、是の故に、心乱れん。是の如く乱るる人の、仏を見るを得るが故に、其の心に定を得るなり。
復た次ぎに、
『仏』の、
『法』中に、
『内楽(心の楽)』を、
『得ない!』で、
『外』に、
『楽事』を、
『求め!』、
『楽』の、
『因(もと)』を、
『随逐する(追う)!』ならば、
是の故に、
『心』は、
『乱れる!』ことになる。
是のような、
『心』の、
『乱れた!』、
『人』が、
『仏』を、
『見る!』ことを、
『得た!』が故に、
其の、
『心』に、
『定』を、
『得た!』のである。
問曰。先言狂者得正。今言裸者得衣。除狂云何更有裸。 問うて曰く、先には、『狂者は、正を得』と言い、今は、『裸者は、衣を得』と言う。狂を除いて、云何が、更に裸有る。
問い、
先に、
こう言った、――
『狂者』は、
『正気』を、
『得た!』と。
今は、
こう言っている、――
『裸者』は、
『衣』を、
『得た!』と。
『狂』を除いて、
更に、
何のような、
『裸』が、
『有る!』のですか?
答曰。狂有二種。一者人皆知狂。二者惡邪故自裸人不知狂。 答えて曰く、狂には二種有り、一には、人は皆、狂なるを知る。二には、悪邪なるが故に、自ら裸となるも、人は、狂なるを知らず。
答え、
『狂』には、
『二種』有り、
一には、
『人』は、
皆、
『狂である!』と、
『知っている!』。
二には、
『心』が、
『悪(不善)であり!』、
『邪(不正)である!』が故に、
『自ら!』、
『裸となる!』が、
『人』は、
誰も、
『狂である!』と、
『知らない!』。
如說南天竺國中有法師。高坐說五戒義。是眾中多有外道來聽。 説の如し、南天竺国中の有る法師、高坐して、五戒の義を説けり。是の衆中に、多く、外道の来聴する有り。
例えば、
こう説かれている、――
『南天竺国』中の、
有る、
『法師』が、
『高坐』より、
『五戒』の、
『義(意味)』を、
『説いていた!』。
是の、
『衆』中には、
『外道』の、
『来聴している!』者が、
『多かった!』。
  五戒(ごかい):梵語paJca ziilaaniの訳。五種の戒の意。(一)在家男女の受持すべき五種の制戒を云う。また優婆塞五戒、或は優婆塞戒とも名づく。一に殺生praaNa- atipaata、二に偸盗、また不与取adattaadaana、三に邪婬kaama- mithyaacaara、また非梵行a- brahama- caryaa、欲邪行に作る。四に妄語mRSaa- vaada、また虚誑語に作る。五に飲酒suraa- maireya- madya- paanaなり。また「雑阿含経巻33」に、「云何が優婆塞戒具足と名づくる。仏、摩訶男に告ぐ、優婆塞は殺生、不与取、邪淫、妄語、飲酒を離れて作すことを楽わず。摩訶男、これを優婆塞戒具足と名づく」と云い、「増一阿含経巻20」に、「長者報じて言わく、何者かこれ五大施なる。目連報じて言わく、一には殺生を得ず、これを名づけて大施と為す。長者まさに形寿を尽くすまでこれを修行すべし。二には不盗を名づけて大施と為す、まさに形寿を尽くすまでこれを修行すべし。不婬不妄語不飲酒、まさに形寿を尽くすまで而もこれを修行すべし」と云えるこれなり。この中、殺生とは衆生を殺すの罪を説いて、而もこれを制す、即ち「大智度論巻13」に、「また次ぎに、他を殺せば殺罪を得。自らの身を殺すに非ず、心に衆生と知りて而も殺す、これを殺罪と名づけ、夜中に人を見るに謂いて杌樹と為し、而も殺すが如きにはあらず。故(ことさら)に生を殺さば殺罪を得、故ならざるに非ざればなり。(中略)殺生に十罪有り、何等をか十と為す、一には心に常に毒を懐いて、世世に絶えず。二には衆生憎悪して、眼に見るを喜ばず。三には常に悪念を懐いて悪事を思惟す。四には衆生これを畏るること蛇虎を見るが如し。五には睡る時、心怖れ覚めてまた安んぜず。六には常に悪夢あり。七には命終の時、狂い怖れて死を悪む。八には短命の業因縁を種う。九には身壊れ、命終して、泥棃の中に堕す。十には若し出でて人と為りては、常にまさに短命なるべし。行者、心に念ぜよ。一切の命あるもの、乃ち昆虫に至るまで、皆自ら身を惜む、云何が衣服、飲食を以って自らの為の故に衆生を殺さん」と云えるこれなり。不与取とは与えられざる物を取る罪を説いて、而もこれを制す、即ち同連文に「与えざるを取るとは、他の物と知り、盗心を生じて物を取り、去りて本処を離れ、物を我れに属す、これを盗と名づけ、若し作さざればこれを不盗と名づく。その余の方便、計校は乃ち手に捉らば、未だ地を離れざるに至るまで、これを助盗の法と名づく。(中略)与えざるを取るに十罪あり、何等をか十と為す。一には物の主、常に瞋る。二には重く疑う。三には非時に行じて籌量せず。四には悪人に朋党して賢善を遠離す。五には善相を破る。六には罪を官に得、七には財物没入す。八には貧窮の業因縁を得、九には死して地獄に入る。十には若し出でて人と為りては勤苦して財を求め、五家の共にする所、若しは王、若しは賊、若しは火、若しは水、若しは不愛の子の用、乃至蔵埋してまた失す」と云えり。邪婬とは正常ならざる婬事の罪を説いて、而もこれを制す、即ち同じく「若し女人の父母、兄弟、姉妹、夫主、児子、世間の法、王法に守護せらるるを、若し犯す者有ればこれを邪婬と名づく。若し守護せずといえども、法を以って守と為す有り。何をか法守と云う。一切の出家の女人と、在家の一日戒を受くると、これを法守と名づく、若しくは力を以ってし、若しくは財を以ってし、若しくは誑惑し、若しくは自ら妻の授戒する有り、或は娠、乳児有り、非道、かくの如く犯す者を名づけて邪婬と為す。(中略)邪婬に十罪あり、何等をか十と為す。一には常に婬せらるる所の夫主はこれを危害せんと欲す。二には夫婦穆じからざず、常に共に闘諍す。三には諸の不善法日日に増長し、諸の善法に於いて日日に損減す。四には身を守護せず、妻子孤寡なり。五には財産日に耗る。六には諸の悪事有りて常に人の為に疑わる。七には親属知識の愛喜せざる所なり。八には怨家の業因縁を種う。九には身壊れ、命終し、死して地獄に入る。十には若し出でて女人と為りては、多人共に夫と為り、若し男子と為りては、婦貞潔ならず」と云えり。妄語とは偽りて語る罪を説いて、而もこれを制す、即ち同じく「妄語とは、不浄心もて他を誑さんと欲し、実を覆い隠して異語を出し、口業を生ず、これを妄語と名づく。妄語の罪は言声に従い、相解するにより生ず。若し相解せざれば、実語ならずといえども妄語の罪無し。この妄語は、知るを知らずと言い、知らざるを知ると言い、見るを見ずと言い、見ざるを見ると言い、聞くを聞かずと言い、聞かざるを聞くと言う、これを妄語と名づく。(中略)妄語に十罪有り、何等をか十と為す。一には口気臭し。二には善神これを遠ざかり、非人便りを得。三には実語有りといえども、人信受せず。四には智人謀議して常に参預せず。五には誹謗せられ、醜悪の声周く天下に聞こゆ。六には人の敬せざる所にして、教勅有りといえども、人承用せず。七には常に憂愁多し。八には誹謗の業因縁を種う。九には身壊し、命終して、まさに地獄に堕すべし。十には若し出でて人と為りては、常に誹謗せらる」と云えり。飲酒とは酒を飲む罪を説いて、而もこれを制す、即ち同じく「不飲酒とは、酒に三種有り、一には穀酒、二には果酒、三には薬草酒なり。(中略)かくの如き等は、能く人をして、心動き、放逸ならしむ。これを名づけて酒と為し、一切はまさに飲むべからず。これを不飲酒と名づく。(中略)酒に三十五失有り、何等か三十五なる。一には現在世に財物虚しく竭く。何を以っての故に、人酒を飲んで酔えば、心に節限なく、用を費やすこと度なきが故なり。二には衆病の門なり。三には闘諍の本なり。四には裸露にして恥なし。五には醜名悪声にして、人の敬わざる所なり。六には智慧を覆い没す。七にはまさに得らるべき物を得ず、已に得る所の物を散失す。八には伏匿の事を、尽く人に向うて説く。九には種種の事業廃して成辦せず。十には酔は愁の本と為る。何を以っての故に、酔の中に失すること多く、醒め已りて慚愧憂愁すればなり。十一には身力転た少し。十二には身色壊る。十三には父を敬うことを知らず。十四には母を敬うことを知らず。十五には沙門を敬わず。十六には婆羅門を敬わず。十七には伯叔及び尊長を敬わず。何を以っての故に、酔悶恍惚として別つ所なきが故なり。十八には仏を尊敬せず。十九には法を敬わず。二十には僧を敬わず。二十一には悪人と朋党す。二十二には賢善を疎縁す。二十三には破戒の人と作る。二十四には無慚無愧なり。二十五には六情を守らず。二十六には色を縦にして放逸なり。二十七には人の憎悪する所にして、これを見ることを喜ばず。二十八には貴重の親属及び諸の知識の共に擯棄する所なり。二十九には不善の法を行ず。三十には善法を棄捨す。三十一には明人智士の信用せざる所なり。何を以っての故に、酒は放逸なるが故なり。三十二には涅槃を遠離す。三十三には狂癡の因縁を種う。三十四には身壊れ、命終して、悪道泥黎の中に堕つ。三十五には若し人と為ることを得ては所生の処常にまさに狂駭なるべし」と云えり。また「増一阿含経巻20」には、「夫れ清信士の法は戒を限るに五あり、その中、能く一戒二戒三戒四戒を持し、乃至五戒皆まさにこれを持すべし。まさに再三能持者に問うてこれを持せしむべし」と云えり。蓋し仏制を案ずるに、初はただ仏法僧に帰依する在家の人を優婆塞と名づけたるも、戒を制せらるるに及んで、更に不殺等の五戒をも受持すべきことを教え、遂に三帰五戒を受持する在家の人をまさに優婆塞と称するに至りしものの如し。「増一阿含経巻20」に、「世尊、諸比丘に告ぐ、今より已後、優婆塞に五戒及び三自帰を授くることを聴す」と云い、「優婆塞戒経巻3」に、「優婆塞に或は一分あり、或は半分あり、或は無分あり、或は多分あり、或は満分あり。もし優婆塞にして、三帰を受け已りて五戒を受けず、これを優婆塞と名づく。もし三帰を受けて一戒を受持す、これを一分と名づけ、三帰を受け已りて二戒を受持す、これを少分と名づけ、もし三帰を受け二戒を持し已りて、もし一戒を破す、これを無分と名づけ、もし三帰を受けて三四戒を受持す、これを多分と名づけ、もし三帰を受けて五戒を受持す、これを満分と名づく」と云える即ちその意なり。但し経量部に於いては、ただ三帰を受けば即ち優婆塞と成ると説くといえども、説一切有部にては必ず先づ三帰を受け後に五戒を具受するを要すとなせり。「毘尼母経巻1」に、「優婆塞とは止だ三帰に在るのみならず、更に五戒を加えて、始めて名づけて優婆塞と為すことを得るなり」と云い、また「倶舎論巻14」に、「但だ三帰を受けば即ち近事を成ずとやせん。外国の諸師説く、唯だこれのみにて即ち成ずと。迦湿弥羅国の諸論師言わく、近事律儀を離れては則ち近事に非ず」と云える即ちその義なり。また五戒の分受具受に関しても異説あり。前引の増一阿含経並びに優婆塞戒経等の文は共に分受を許すのみならず、「大智度論巻13」にも「この五戒に五種の受あり、五種の優婆塞と名づく。一には一分行優婆塞、二には少分行優婆塞、三には多分行優婆塞、四には満行優婆塞、五には断婬優婆塞なり。一分行とは五戒の中に於いて一戒を受くるも、四戒を受持すること能わず、少分行とはもしは二戒を受け、もしは三戒を受く。多分行とは四戒を受く。満行とは尽く五戒を持す。断婬とは五戒を受け已りて師の前に更に自誓を作して言わく、我れ自婦に於いてまた媱を行ぜずと。これを五戒と名づく」と云い、その他、「大般涅槃経巻34」、「菩薩瓔珞本業経巻下」、「成実論巻8」、「倶舎論巻15」等にもまた皆分受の説を出せり。然るに説一切有部に在りては、優婆塞は必ず五戒を具受すべしと為し、その分受を許さず。故に「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」に、「問うて曰わく、凡そ優婆塞戒を受くるに、設い五戒を具受すること能わず、もし一戒乃至四戒を受くるも、戒を受得するや不や。答えて曰わく、得ず。もし得ずんば経に説くことあり。少分優婆塞、多分優婆塞、満分優婆塞と。この義云何。答えて曰わく、この説を作す所以は、持戒の功徳の多少を明さんと欲すればなり。かくの如き受戒の法ありと言わざるなり」と云い、「倶舎論巻14」に、「もし諸の近事皆律儀を具せば、何に縁りてか世尊は、四種あり、一に能く一分を学す、二に能く少分を学す、三に能く多分を学す、四に能く満分を学すと言うや。謂わく能持に約するが故にこの説を作す。能く先の所受を持するが故に能学の説を説く。爾らずんばまさに一分等を受くと言うべし。理実には受に約せば等しく律儀を具す、律儀を具するを以っての故に近事と名づく」と云えり。「大毘婆沙論巻124」、「雑阿毘曇心論巻10」等また皆これに同じ。以ってその異説を見るべし。また五戒の中、前の四は性戒にして有情の境に発得し、後の一は遮戒にして非情の境に発得すとし、また前の三は身を防ぎ、次の一は口を防ぎ、後の一は通じて身口を防ぎ、前の四を護るとするの説あり。「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」に、「問うて曰わく、優婆塞の五戒は幾ばくかこれ実罪、幾ばくかこれ遮罪なる。答えて曰わく、四はこれ実罪、飲酒の一戒はこれ遮罪なり。飲酒を四罪と同類とし、結して五戒を為すことを得る所以は、飲酒はこれ放逸の本にして、能く四戒を犯ずるを以ってなり。(中略)衆生の上に於いて四戒を得し、非衆生の上に於いて不飲酒戒を得す」と云える即ちその意なり。(二)また在家男女の受持すべき五種の制戒。一に殺生、二に偸盗、三に邪淫、四に両舌、悪口、妄言、綺語、五に飲酒なり。「潅頂経巻1」に、「我れまさに更に汝に五戒の法を授くべし。仏言わく、第一に不殺、第二に不盗、第三に不邪淫、第四に不両舌悪口妄言綺語、第五に不飲酒なり」と云い、また「優婆塞五戒威儀経」に、「離欲の優婆塞は、具さに五戒を行じて身の四悪を遠離す。一に殺、二に盗、三に婬、四に飲酒なり。口の五悪を遠離す、一に妄語、二に悪口、三に両舌、四に無義語、五に綺語なり」と云えるこれなり。これ第四に総じて口業の悪を摂したるものにして、十悪の説より転じたるものというべし。「四天王経」にもまたこの五戒の説を挙げ、「無量寿経巻下」にも五悪としてこれを出せり。(三)在家菩薩の受持すべき五種の制戒。一に不奪生命、二に不与取、三に虚妄語、四に欲邪行、五に邪見なり。「大日経巻6受方便学処品」に、「不奪生命戒、及び不与取、虚妄語、欲邪行、邪見等を持す。これを在家五戒の句と名づく」と云えるこれなり。これ通途の五戒中、不飲酒を除き、不邪見を加えたるなり。「大日経疏巻18」にこれを釈し「菩薩に二種あり、謂わく在家出家なり。この五戒の句は、即ち在家菩薩の所持なり」と云い、また「声聞経の如き、俗人に五戒を持せしむる所以は身口を防護して見諦に入らしめんが為の故なり。今この中にもまた爾り。この五句を、戒を以って方便と為して而もこれを防護し、真言の行を成じて而も見諦を得しむ。直だ在家の菩薩のみに非ず、然かもこの五句は諸の出家の者も皆共に行ずるなり」と云えり。また「増一阿含経巻7」、「雑阿含経巻31」、「鴦崛髻経」、「優婆塞戒経巻6」、「優婆塞五戒相経」、「瑜伽師地論巻54」、「順正理論巻36」、「大乗義章巻12」等に出づ。<(望)
是時國王難曰。若如所說。有人施酒及自飲酒得狂愚報。當今世人應狂者多正者少。而今狂者更少不狂者多。何以故爾。 是の時、国王の難じて曰わく、『若し所説の如く、有る人、酒を施し、及び自ら酒を飲むに、狂愚の報を得ば、当今の人に、応に狂なる者多く、正なる者少なかるべし。而るに、今狂なる者は更に少く、狂ならざる者は多し。何を以っての故にか、爾(しか)る』と。
是の時、
『国王』は難じて、
こう言った、――
若し、
『説かれた!』ように、
有る、
『人』が、
『酒』を、
『人』に、
『施したり!』、
『酒』を、
『自ら!』、
『飲んだり!』して、
『狂愚』の、
『報』を、
『得る!』ならば、
当今の、
『世人』に、
『狂った!』者が、
『多く!』、
『狂わない!』者は、
『少ない!』はずだ。
而(しか)し、
今、
『狂った!』者は、
『思ったより!』、
『少なく!』、
『狂わない!』者が、
『多い!』。
何故、
爾()うなのか?と。
是時諸外道輩言善哉。斯難甚深。是禿高坐必不能答。以王利智故。 是の時、諸の外道の輩の言わく、『善き哉、斯(こ)の難は、甚だ深し。是の禿は高坐するも、必ず答う能わざらん。王の利智を以っての故なり』と。
是の時、
諸の、
『外道の輩()』は、
こう言った、――
善いぞ!
斯()の
『難(問難)』は、
『甚だ深い!』。
是の、
『禿(ハゲアタマ)』は、
『高座』の上で、
必ず、
『答えられず!』に、
『立ち往生する!』だろう。
『王』の、
『智慧』が、
『利い!』からだ、と。
  禿(とく):梵語muNDakaの訳。剃髪した者の義。剃髪の出家衆を誹謗する為の語。
是時法師以指指諸外道。而更說餘事。王時即解。 是の時、法師、指を以って諸の外道を指して、更に余事を説けば、王は時に即ち解せり。
是の時、
『法師』が、
『指』を以って、
諸の、
『外道』を、
『指しながら!』、
更に、
『余の事』を、
『説く!』と、
『王』は、
その時、
『急速に!』、
『理解した!』。
諸外道語王言。王難甚深是不知答。恥所不知而但舉指更說餘事。 諸の外道の王に語りて言わく、『王の難の甚だ深きに、是れ答うるを知らず。知らざる所を恥じて、但だ指を挙げ、更に余事を説けり』と。
諸の、
『外道』は、
『王』に語って、
こう言った、――
『王』の、
『難』が、
『余りに!』、
『深い!』ので、
是の、
『法師』には、
『答え!』が、
『分らない!』、
『分らない!』ことを、
恥じて、
但だ、
『指』を、
『挙げ!』、
更に、
『余の事』を、
『説いている!』のだ、と。
王語外道。高坐法師指答已訖。將護汝故不以言說。向者指汝言。汝等是狂狂不少也。 王の外道に語らく、『高坐の法師は、指もて答え、已に訖(おわ)れり。汝を将(ひき)いて護るが故に、言を以って説かざるのみ。向(さき)には、汝を指して言わく、『汝等は、是れ狂なり。狂は少なからざるなり』と。
『王』は、
『外道』に、こう語った、――
『高坐』の、
『法師』は、
『指』を以って、
『答えた!』のであり、
已に、
『答え!』、
『終っている!』。
お前たちを、
『将(ひき)いて!』、
『護ろうとした!』が故に、
『言葉』では、
『説かなかった!』のだ。
先ほどは、
お前たちを、
指して、こう言った、――
お前たちは、
『狂』である!、
『狂』は、
『少なくはない!』のだ、と。
汝等以灰塗身裸形無恥。以人髑髏盛糞而食。拔頭髮臥刺上倒懸熏鼻。冬則入水夏則火炙。如是種種所行非道皆是狂相。 汝等は、灰を以って身に塗り、裸形にして恥じる無く、人の髑髏を以って、糞を盛りて食い、頭髪を抜き、刺上に臥し、倒懸して鼻を熏し、冬なれば、則ち水に入り、夏なれば、則ち火に炙る。是の如き種種の所行は、道に非ず、皆是れ狂の相なり。
お前たちは、
『灰』を以って、
『身』に、
『塗り!』、
『裸形』で、
『恥じる!』ことも、
『無く!』、
『人』の、
『髑髏』に盛った!、
『糞』を、
『食い!』、
『頭髪』を抜いて、
『刺の上』に、
『寝転び!』、
『逆さ吊り!』になって、
『鼻』を、
『熏(いぶ)し!』、
『冬』には、
『水』に、
『入り!』、
『夏』には、
『火』に、
『炙る!』、
是のような、
種種の
『所行』は、
『道でなく!』、
皆、
『狂』の、
『相』である!。
  倒懸(とうけん):逆さに懸る。逆さ吊りになる。
復次汝等法以賣肉賣鹽即時失婆羅門法。於天祠中得牛布施。即時賣之自言得法。牛則是肉。是誑惑人豈非失耶。 復た次ぎに、汝等が法には、肉を売り、塩を売るを以って、即時に婆羅門の法を失うに、天祠中に於いて、牛の布施を得れば、即時に之を売りて、自ら、『法を得たり』と言う。牛は、則ち是れ肉なり。是れ人を誑惑す、豈に失に非ずや。
復た次ぎに、
お前たちの、
『法』には、
『肉』や、
『塩』を、
『売る!』者は、
即時に、
『婆羅門』の、
『法』を、
『失う!』とするが、
『天祠』中に於いて、
『牛』の、
『布施』を、
『得る!』と、
即時に、
『牛』を、
『売りはらって!』、
自ら、
『法』を、
『得た!』と、
『言っている!』。
『牛』は、
『肉』である!
是れは、
『人』を、
『誑惑した(だました)!』のだ、
何うして、
『法』を、
『失わない!』はずがあろう。
  天祠(てんし):天を祀る処。神社。
  失法(しっぽう):法にたがう。違法。
  得法(とくほう):法にしたがう。順法。
又言入吉河水中罪垢皆除。是為罪福無因無緣。賣肉賣鹽此有何罪。入吉河水中言能除罪。若能除罪亦能除福。誰有吉者。如此諸事無因無緣。強為因緣。是則為狂。 又言わく、『吉河の水中に入れば、罪垢は、皆除こる』と。是れを、罪福は無因、無縁なりと為す。肉を売り、塩を売るも、此れに何の罪か有らん。吉河の水中に入りて、『能く罪を除く』と言うも、若し能く罪を除かば、亦た能く福をも除かん。誰か、吉を有する者なる。此の諸の事の、無因、無縁なるを、強いて因縁を為すが如き、是れを則ち狂と為す。
又、
こう言っている、――
『吉河』の、
『水』中に、
『入る!』だけで、
『罪垢』が、
皆、
『除かれる!』と。
是れは、
『罪、福』は、
『無因』、
『無縁』ということだ!。
『肉』を、
『売ろう!』が、
『塩』を、
『売ろう!』が、
此れに、
何のような、
『罪』が、
『有るのか?』。
『吉河』の、
『水』中に入って、
『罪』を、
『除けた!』と、
『言う!』のは、
若し、
『水』に、
『罪』を、
『除ける!』ならば、
亦た、
『福』をも、
『除ける!』ということだ。
誰が、
『吉』を、
『有するのだ?』。
此の、
『吉河』の、
『事』は、
『無因』、
『無縁』なのに、
強いて、
『因縁』を、
『言う!』、
是れを、
『狂』と、
『呼ぶ!』のだ。
  吉河(きちが):殑伽gaGgaa、即ちガンジス河の意。外道の、此の河に於いて沐浴すれば、一切の罪を洗い流せると執するが故に、此の河を吉兆の河と呼ぶに依る。
如是種種狂相。皆是汝等法師將護汝故指而不說。是名為裸形狂。 是の如き種種の狂の相は、皆是れ汝等の法師の、汝を将いて護らんが故に、指して説かざりしなり』と。是れを名づけて、裸形の狂と為す。
是のような、
種種の、
『狂』の、
『相』は、
皆、
お前たちの、
『法師』が、
お前たちを、
『将いて!』、
『護ろうとする!』が故に、
『指』を、
『指す!』のみで、
『説かなかった!』ものなのだ、と。
是れを、
『裸形』の、
『狂』と、
『呼ぶ!』のである。
復次有人貧窮無衣。或弊衣藍縷以佛力故令其得衣。 復た次ぎに、有る人は、貧窮にして、衣無く、或いは弊衣、襤褸なるも、仏の力を以っての故に、其れをして、衣を得しむ。
復た次ぎに、
有る人は、
『貧窮(貧乏)』で、
『衣』が、
『無い!』とか、
或いは、
『弊衣(破れ衣)』、
『襤褸(ぼろ布)』である!が、
『仏』の、
『力』を、
『用いた!』が故に、
其れに、
『衣』を、
『得させた!』のである。
  弊衣(へいえ):破れた衣。
  藍縷(らんる):他本に従い、繿縷に改む。ぼろ布。襤褸。
問曰。飢者得飽渴者得飲。云何飢渴。 問うて曰く、飢者は飽を得、渇者は飲を得とは、云何が飢渴なる。
問い、
『飢者』は、
『飽満』を、
『得た!』、
『渇者』は、
『飲物』を、
『得た!』とは、――
何故、
『飢えたり!』、
『渇いたり!』するのですか?
答曰。福德薄故。先世無因今世無緣。是故飢渴。 答えて曰く、福徳薄きが故に、先世には因無く、今世には縁無し。是の故に飢渴す。
答え、
『福徳』が、
『薄い!』が故に、
『先世』には、
『飲食』の、
『因』が、
『無く!』、
『今世』には、
『飲食』の、
『縁』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『飢えたり!』、
『渇いたり!』するのである。
復次是人先世奪佛阿羅漢辟支佛食及父母所親食。雖值佛世猶故飢渴。以罪重故。 復た次ぎに、是の人は、先世に仏、阿羅漢、辟支仏の食、及び、父母、親しむ所の食を奪えば、仏の世に値(あ)うと雖も、猶お故に飢渴す。罪の重きを以っての故なり。
復た次ぎに、
是の、
『人』は、
『先世』に、
『仏』や、
『阿羅漢』、
『辟支仏』の、
『食』を、
『奪った!』とか、
『父母』や、
『親戚』の、
『食』を、
『奪った!』が故に、
『仏』の、
『世』に値()っても、
猶お、
『飢えたり!』、
『渇いたり!』する。
何故ならば、
『罪』が、
『重い!』からである。
問曰。今有惡世生人得好飲食。值佛世生而更飢渴。若罪人不應生值佛世。若福人不應生惡世。何以故爾。 問うて曰く、今、有る悪世に生まるる人は、好き飲食を得、仏に値う世に生まるるは、而も更に飢渴す。若し罪人なれば、応に仏に値う世に生まるべからず。若し福人なれば、応に悪世に生ずべからず。何を以っての故にか、爾(しか)る。
問い、
今、
有る人は、
『悪世』に、
『生まれた!』のに、
『好い!』、
『飲食』を、
『得ることができ!』、
有る人は、
『仏に値う!』、
『世』に、
『生まれた!』のに、
まだ、
『飢えたり!』、
『渇いたり!』している。
若し、
『不善業』の、
『罪人』ならば、
当然、
『仏に値う!』、
『善世』に、
『生まれるはずがない!』し、
若し、
『善業』の、
『福人』ならば、
当然、
『悪世』に、
『生まれるはずがない!』。
何故、
そうなるのですか?
答曰。業報因緣各各不同。或有人有見佛因緣。無飲食因緣。或有飲食因緣。無見佛因緣。 答えて曰く、業報の因縁は、各各不同にして、或いは有る人には、仏を見る因縁有るも、飲食の因縁無く、或いは飲食の因縁有るも、仏を見る因縁無し。
答え、
『業報』の、
『因縁』は、
各各、
『同じではない!』、
或いは、
有る人は、
『仏』を、
『見る!』、
『因縁』を、
『有しながら!』、
『飲食』を、
『得る!』、
『因縁』が、
『無い!』。
或いは、
『飲食』を、
『得る!』、
『因縁』は、
『有る!』が、
『仏』を、
『見る!』、
『因縁』は、
『無い!』。
譬如黑蛇。而抱摩尼珠臥。有阿羅漢人乞食不得。 譬えば、黒蛇にして、摩尼珠を抱きて臥せ、有る阿羅漢は、人なるも乞食して得ざるが如し。
譬えば、
『黒蛇』が、
『摩尼珠』を、
『抱いて!』、
『臥せていたり!』、
有る人は、
『阿羅漢』なのに、
『食』を、
『乞うて!』、
『得られない!』のと同じである。
又如迦葉佛時。有兄弟二人出家求道。一人持戒誦經坐禪。一人廣求檀越修諸福業。至釋迦文佛出世。一人生長者家。一人作大白象。力能破賊。 又、迦葉仏の時、有る兄弟二人の出家して道を求むるが如し。一人は持戒、誦経、坐禅し、一人は広く檀越を求めて、諸の福業を修む。釈迦文仏の出世に至りて、一人は長者の家に生まれ、一人は大白象と作りて、力は能く賊を破る。
又、
『迦葉仏』の時、
有る、
『兄弟』の、
『二人』が、
『出家』して、
『道』を、
『求めた!』のと同じである、――
一人は、
一心に、
『持戒し!』、
『誦経し!』、
『坐禅していた!』が、
一人は、
広く、
『檀越』を、
『求める!』と、
諸の、
『福業』を、
『修めていた!』。
『釈迦文仏』の、
『出世』の時、
一人は、
『長者』の、
『家』に、
『生まれた!』が、
一人は、
『大白象』と作って、
『力』は、
『賊()』を、
『破る!』に、
『任えられた!』。
  檀越(だんおち):梵語daanapatiにして施主と訳す。また陀那鉢底に作り、陀那daanaはまた檀那、或は檀に作りて施と訳し、鉢底patiを主と訳す。越を施の功徳と為し、已に貧窮の海を越すの義なり。「南海寄帰内法伝巻1」には「梵に陀那鉢底と云い、訳して施主と為す。陀那はこれ施、鉢底はこれ主なり。而も檀越と言うは、本より正訳に非ず、略して那字を去り、上の陀音を取り転じ名づけて檀と為し、更に越字を加う。意は檀を行ずるに由り自ら貧窮を越度するをいい、妙釋の然りといえども、終に正本に乖けり」と云えり。<(望)
長者子出家學道。得六神通阿羅漢。而以薄福乞食難得。 長者の子は、出家して学道して、六神通の阿羅漢を得るも、福の薄きを以って、乞食して得難し。
『長者』の、
『子』は、
『出家し!』、
『道』を、
『学んで!』、
『六神通』の、
『阿羅漢』を、
『得た!』が、
『福が薄い!』ので、
『乞食しても!』、
『得難かった!』。
他日持缽入城乞食遍不能得。到白象廄中。見王供象種種豐足。語此象言。我之與汝俱有罪過。象即感結三日不食。 他日、鉢を持ちて城に入り、乞食するも遍く得る能わず、白象の厩中に到りて、王の象に供するを見るに、種種豊足せり。此の像に語りて言わく、『我れは、之れ汝と倶に罪過有り』と。象は、即ち感結ぼれて三日食わず。
ある日、
『鉢』を持って、
『城』に、
『入り!』、
遍く、
『乞食した!』が、
『得られず!』に、
『白象』の、
『厩』中に、
『到って!』、
『王』に、
『供されて!』、
『種種』に、
『豊足する!』、
『象』を、
『見る!』と、
此の、
『象』に語って、こう言った、――
わたしにも、
お前にも、
倶(とも)に、
『罪過』が、
『有ったのだな!』、と。
『象』は、
『感情』が結ぼれて、
『三日』、
『食わなくなった!』。
守象人怖求覓道人。見而問言。汝作何咒令王白象病不能食。 守象人は怖れて、道人を求覓し、見て問うて言わく、『汝は、何なる咒を作してか、王の白象をして、病みて食う能わざらしむ』と。
『守象人』は怖れて、
『道人』を、
『探し求め!』、
『見る!』と、
『道人』に問うて、こう言った、――
お前は、
何のような、
『咒』を、
『使って!』、
『王』の、
『白象』を、
『病ませ!』、
『食えなくさせた!』のか?と。
答言。此象是我先身時弟。共於迦葉佛時出家學道。我但持戒誦經坐禪不行布施。弟但廣求檀越作諸布施。不持戒不學問。以其不持戒誦經坐禪故今作此象。大修布施故飲食備具種種豐足。我但行道不修布施故。今雖得道乞食不能得。以是事故因緣不同。雖值佛世猶故飢渴。 答えて言わく、『此の象は、是れ我が先の身の時の弟なり。共に迦葉仏の時、出家学道せしに、我れは但だ持戒、誦経、坐禅して、布施を行ぜず、弟は、但だ広く、檀越を求めて、諸の布施を作せるも、持戒せず、学門せざれば、其の持戒、誦経、坐禅せざるを以っての故に、今、此の象と作りて、大いに布施を修めしが故に、飲食備具して、種種に豊足せり。我れは、但だ道を行じて、布施を修めざるが故に、今、道を得と雖も、乞食して、得る能わず』と。是の事を以っての故に、因縁は同じからず、仏の世に値うと雖も、猶お故(もと)のごとく飢渴す。
答えて、こう言った、――
此の、
『象』は、
わたしの、
先の、
『身』の時には、
『弟』であった!。
共に、
『迦葉仏』の時、
『出家して!』、
『道』を、
『学んだ!』が、
わたしは、
但だ、
『持戒し!』、
『誦経し!』、
『坐禅した!』のみで、
『布施』を、
『行わなかった!』し、
弟は、
但だ、
広く、
『檀越(大施主)』を求め、
『得た!』所の、
『財物』を以って、
諸の、
『布施』を、
『作した!』のみで、
『持戒もしなかった!』し、
『学門もしなかった!』ので、
其の、
『持戒、誦経、坐禅しなかった!』が故に、
今は、
此の、
『象』と、
『作り!』、
大いに、
『布施を修めた!』が故に、
『飲食』を具備して、
『種種に!』、
『豊足している!』、
わたしは、
但だ、
『道』を行う!のみで、
『布施』を、
『修めなかった!』が故に、
今は、
『道』を得て、
『乞食』しても、
『得られない!』のである、と。
是の事を以っての故に、
『因縁』は、
『同じではなく!』、
『仏』の、
『世』に、
『値った!』としても、
猶お、
故(もと)のように、
『飢えたり!』、
『渇いたり!』するのである。
  猶故(ゆうこ):なおもとのごとく、まだ以前と同じように。
問曰。此諸眾生云何飽滿。 問うて曰く、此の諸の衆生は、云何が飽満する。
問い、
此の、
諸の、
『衆生』は、
何故、
『飽満した!』のですか?
答曰。有人言。佛以神力變作食令得飽滿。 答えて曰く、有る人の言わく、『仏は、神力を以って、食を変作し、飽満を得しめたり』と。
答え、
有る人は、
こう言っている、――
『仏』が、
『神力』を以って、
『食』を、
『変じて!』、
『作り!』、
『飽満』を、
『得させた!』のである、と。
復有人言。佛光觸身令不飢渴。譬如如意摩尼珠。有人心念則不飢渴。何況值佛。 復た有る人の言わく、『仏の光が、身に触るれば、飢渴せざらしむ。譬えば、如意摩尼珠の如し。有る人は、心に念ずれば、則ち飢渇せず。何に況んや、仏に値うをや』と。
復た、
有る人は、
こう言っている、――
『仏』の、
『光』が、
『身』に、
『触れる!』ことで、
『飢渴させない!』のである。
譬えば、
『如意摩尼珠』と同じである、とか、
有る人は、
『心』に、
『念じた!』だけで、
『飢渴しない!』、
況して、
『仏』に、
『値った!』のだから、と。
病者得愈。病有二種。先世行業報故。得種種病。今世冷熱風發故。亦得種種病。 病者は愈を得とは、病に二種有り、先世の行業の報の故に、種種の病を得、今世の冷、熱の風発るが故に、亦た種種の病を得。
『病者』が、
『治癒』を、
『得た!』とは、――
『病』には、
『二種』有り、
先世には、
『行業』の、
『報』の故に、
種種の、
『病』を、
『得る!』し、
今世には、
『冷、熱』の、
『風』が発る!が故に、
種種の、
『病』を、
『得る!』。
今世病有二種。一者內病。五藏不調結堅宿疹。二者外病。奔車逸馬堆壓墜落。兵刃刀杖種種諸病。 今世の病に、二種有り、一には、内の病にして、五臓不調の結堅せる宿疹なり。二には、外の病にして、奔車、逸馬、堆圧、墜落、兵刃、刀杖の種種の諸病なり。
今世の、
『病』には、
二種有り、
一には、
『内の病』で、
『五臓』の、
『不調』が、
『結堅した!』、
『宿疹である!』。
二には、
『外の病』で、
『奔車』や、
『逸馬』、
『堆圧』、
『墜落』、
『兵刃』、
『刀杖』等の、
種種の、
諸の、
『病である!』。
  結堅(けつけん):凝り固まる。
  宿疹(しゅくちん):持病。
  奔車(ほんしゃ):暴走する車。
  逸馬(いつめ):逃げた馬。
  堆圧(ついあつ):重い物に潰される。
  兵刃(ひょうじん):兵と刃。
  刀杖(とうじょう):武器。
問曰。以何因緣得病。 問うて曰く、何なる因縁を以ってか、病を得る。
問い、
何のような、
『因縁』を以って、
『病』を、
『得る!』のですか?
答曰。先世好行鞭杖拷掠閉繫種種惱故。今世得病。 答えて曰く、先世に好んで、鞭杖、拷掠、閉繋を行い、種種に悩ませたるが故に、今世に病を得。
答え、
先世に、
好んで、
『鞭杖』、
『拷掠』、
『閉繋』等を、
『行い!』、
種種に、
『悩ませた!』が故に、
今世に、
『病』を、
『得る!』のである。
  鞭杖(べんじょう):鞭と棒。
  拷掠(こうりゃく):拷問。
  閉緊(へいきん):監禁と緊縛。
現世病不知將身。飲食不節臥起無常。以是事故得種種諸病。如是有四百四病。以佛神力故。令病者得愈。 現世の病は、身を将(やしな)うことを知らず、飲食を節せず、臥起に常無くんば、是の事を以っての故に、種種の諸病を得。是の如きに、四百四病有り。仏の神力を以っての故に、病者をして、愈を得しむ。
現世に、
『病む!』のは、
『身』を、
『養う!』ことを、
『知らず!』に、
『飲食』を、
『節制しない!』とか、
『臥起』が、
『定まらない!』とか、
是のような、
『事』を以っての故に、
種種に、
諸の、
『病』を、
『得る!』。
是のように、
『四百四』の、
『病』が、
『有る!』が、
『仏』の、
『神力』を以っての故に、
『病者』に、
『治癒』を、
『得させた!』のである。
  将身(しょうしん):身を養う。
  不節(ふせつ):節度がない。
  臥起(がき):横になると起き上がると。
  無常(むじょう):決まりが無い。無規則。
如說。佛在舍婆提國有一居士。請佛及僧於舍飯食。 説の如し。仏、舎婆提国に在せるに、有る一居士、仏、及び僧を請うて、舎に於いて、飯食せしむ。
例えば、
こう説かれている、――
『仏』が、
『舎婆提国』に居られた時、
有る、
『一居士』が、
『仏』と、
『僧』とを、
『請うて!』、
『舎(客館)』に於いて、
『飯食』を、
『与えた!』。
  (しゃ):いえ。客館。家。
佛住精舍迎食有五因緣。一者欲入定。二者欲為諸天說法。三者欲遊行觀諸比丘房。四者看諸病比丘。五者若未結戒欲為諸比丘結戒。 仏の精舎に住まりて、食を迎えたもうに、五因縁有り、一には、定に入らんと欲す。二には、諸天の為に法を説かんと欲す。三には、遊行して、諸の比丘の房を観んと欲す。四には、諸の病比丘を看る。五には、若しは未だ結戒せざるに、諸の比丘の為に結戒せんと欲す。
『仏』が、
『精舎』に住まって、
『食』を、
『迎えられる!』には、
『五種』の、
『因縁』が有り、
一には、
『定』に、
『入ろう!』と、
『思われた!』。
二には、
諸の、
『天』の為に、
『法』を、
『説こう!』と、
『思われた!』。
三には、
『遊行』して、
諸の、
『比丘』の、
『房舎』を、
『観たい!』と、
『思われた!』。
四には、
諸の、
『病んだ!』、
『比丘』を、
『看ていられた!』。
五には、
若しは、
未だ、
『戒』を、
『結んでいない!』ので、
諸の、
『比丘』の為に、
『戒』を、
『結ぼう!』と、
『思われた!』である。
是時佛手持戶排入諸比丘房。見一比丘。病苦無人瞻視。臥大小便。不能起居。 是の時、仏は、手に戸を持ち、排(お)して、諸の比丘の房に入りたまえるに、一比丘の病に苦しむも、人の瞻視する無く、臥したまま大小便して、起居する能わざるを見たまえり。
是の時、
『仏』は、
『手』で、
『戸』を、
『排()しながら!』、
諸の、
『比丘』の、
『房舎』に、
『入られていた!』が、
『一比丘』が、
『病』に、
『苦しんでいる!』のに、
『看病する!』、
『人』が、
『無く!』、
『臥した!』まま、
『大小便』して、
『起居できない!』のを、
『見られた!』。
  瞻視(せんし):見る。
佛問比丘。汝何所苦獨無人看。 仏の比丘に問いたまわく、『汝は何の苦しむ所にしてか、独り、人の看る無き』と。
『仏』は、
『比丘』に、こう問われた、――
お前は、
何故、
『苦しんでいる!』のに、
誰も、
『看る!』、
『人』が、
『無い!』のだ?と。
比丘答言。大德。我性嬾。他人有病。初不看視。是故我病他亦不看。 比丘の答えて言わく、『大徳、我が性は嬾にして、他人に病有るも、初より看視せず。是の故に、我れ病むも、他も亦た看ず』と。
『比丘』は答えて、こう言った、――
大徳!
わたしは、
『性』が、
『怠け者!』ですので、
他人に、
『病』が有っても、
『初めから!』、
『看たことがありません!』。
是の故に、
わたしが、
『病んでいても!』、
『他人』は、
『看てくれない!』のです、と。
  (らん):おこたる。怠ける。
佛言。善男子我當看汝。時釋提婆那民盥水。佛以手摩其身。摩其身時。一切苦痛即皆除愈身心安隱。 仏の言わく、『善男子、我れ、当に汝を看るべし』と。時に、釈提婆那民、水を盥(たらい)にくみ、仏は手を以って、其の身を摩(な)でたもうに、其の身を摩づる時、一切の苦痛は、即ち皆除き愈え、身心安穏たり。
『仏』は、
こう言われた、――
善男子!
わたしが、
お前を、
『看ることにしよう!』、と。
その時、
『釈提婆那民(帝釈)』が、
『盥(たらい)』に、
『水』を、
『汲む!』と、
『仏』は、
『手』を以って、
其の、
『身』を、
『摩(な)でられた!』。
其の、
『身』を、
『摩でられた!』時、
一切の、
『苦痛』は、
皆、
『除かれて!』、
『愈え!』、
『身』も、
『心』も、
『安隠になった!』。
  釈提婆那民(しゃくだいばなみん):また釈迦提婆因陀羅、釈提桓因等に作る。帝釈天なり。
是時世尊安徐扶此病比丘起。將出房澡洗著衣。安徐將入更與敷褥令坐。 是の時、世尊は安徐として、此の病比丘を扶け起し、将(ひき)いて房より出で、澡洗して、衣を著けしめ、安徐として将いて入り、更に与(ため)に褥を敷いて、坐せしめたまえり。
是の時、
『世尊』は、
徐(おも)むろに、
此の、
『病比丘』を、
『扶(たす)け』、
『起して!』、
『手』を引いて、
『房』を、
『出られ!』、
『澡洗』して、
『衣』を、
『著けさせる!』と、
ゆっくり、
『手』を引いて、
『房』に、
『入り!』、
『褥』を、
『 更(あらた)に!』、
『敷かれて!』、
その上に、
『坐らせられた!』。
  安徐(あんじょ):安隠徐徐。ゆっくり慌てず。
  将出(しょうしゅつ):手を引いて出る。
  将入(しょうにゅう):手を引いて入れる。
  澡洗(そうせん):あらう。洗い浄める。
佛語病比丘。汝久來不勤求。未得事令得。未到時令到。未識事令識。受諸苦患如是。方當更有大苦。 仏の、病比丘に語りたまわく、『汝は久しきより来(このかた)、勤求せざれば、未だ得ざる事を得しめ、未だ到らざる時を到らしめ、未だ識らざる事を識らしめんに、諸の苦患を受くること是の如く、方当(まさ)に更に大苦有るべし。
『仏』は、
『病比丘』に、こう語った、――
お前は、
『道』を、
『求めなくなってから!』、
『久しい!』が、
未だ、
『得ない!』、
『事』を、
『得させ!』、
未だ、
『到らない!』、
『時』を、
『到らせ!』、
未だ、
『識らない!』、
『事』を、
『識らせる!』としよう。
お前が、
『道』を、
『求めなくなってから!』、
『久しい!』が故に、
諸の、
『苦患』を、
『受けている!』ように、
是のように、
正しく、
更に、
『大苦』を、
『受けるはず!』である、と。
  勤求(ごんぐ):つとめて求める。道を求めるに努めて懈怠せざるを云う。
  方当(ほうとう):まさに~すべし。正しく~となるはずだ。
比丘聞已心自思念。佛恩無量神力無數。以手摩我苦痛即除身心快樂。以是故佛以神力令病者得愈。 比丘は聞き已りて、心に自ら思念すらく、『仏恩は無量にして、神力は無量なり。手を以って我れを摩づるに、苦痛即ち除こり、身心快楽なり』と。是を以っての故に、仏は、神力を以って、病者をして、愈を得しめたもう。
『比丘』は聞き已ると、
『心』に、自らこう思った、――
『仏』の、
『恩』は、
『無量』であり!、
『神力』は、
『無数』である!。
『手』を以って、
わたしを、
『摩でられる!』と、
即時に、
『苦痛』が、
『除かれ!』て、
『身』も、
『心』も、
『快く!』、
『楽になった!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『神力』を以って、
『病者』に、
『治癒』を、
『得させられる!』のである。
形殘者得具足。云何名形殘者。若有人先世破他身截其頭斬其手足。破種種身分。或破壞佛像毀佛像鼻及諸賢聖形像。或破父母形像。以是罪故受形多不具足 形残者は、具足を得とは、云何が、形残者と名づくる。若し有る人、先世に他の身より、其の頭を截(き)り、其の手足を斬り、種種の身分を破り、或いは仏像を破壊し、仏像の鼻、及び諸の賢聖の形像を毀(こぼ)ち、或いは父母の形像を破らば、是の罪を以っての故に、形を受くるに、多くは具足せず。
『形残者』は、
『具足する!』を、
『得る!』とは、――
何故、
『形残者』と、
『呼ばれる!』のですか?
若し、
有る人が、
先世に、
『他』の、
『身』より、
其の、
『頭』を、
『斬りおとす!』とか、
其の、
『手足』を、
『斬りおとす!』、
種種の、
『身の分』を、
『破壊する!』とか、
或いは、
『仏』の、
『像』を、
『破壊する!』とか、
『仏』の、
『像の鼻』や、
諸の、
『賢聖』の、
『形像』を、
『破壊する!』とか、
或いは、
『父母』の、
『形像』を、
『破壊する!』ならば、
是の、
『罪』を以っての故に、
『形』を、
『受けた!』時、
多くは、
『具足しない!』のである。
復次不善法報受身醜陋。若今世被賊或被刑戮。種種因緣以致殘毀。或風寒熱病身生惡瘡體分爛壞。是名形殘。蒙佛大恩皆得具足。 復た次ぎに、不善法の報は、身の醜陋を受く。若しくは今世に、賊を被(こうむ)る、或いは刑戮を被りて、種種の因縁を以って、残毀を致す。或いは風、寒、熱の病、身に悪瘡を生じて、体分爛壊せば、是れを形残と名づけ、仏の大恩を蒙りて、皆、具足を得。
復た次ぎに、
『不善法』の、
『報』は、
『身』に、
『醜陋(醜悪)』を、
『受ける!』。
若しくは、
『今世』に、
『賊(殺害)』を、
『被(こうむ)り!』、
或いは、
『刑戮(刑罰)』を、
『被り!』、
種種の、
『因縁』を以って、
『残毀(残害)』を、
『招き!』、
或いは、
『風』、
『寒』、
『熱』等の、
『病』で、
『身』に、
『悪瘡』を、
『生じ!』、
『体』の、
『部分』が、
『爛壊する!』。
是れを、
『形残』と、
『呼ぶ!』のであるが、
『仏』の、
『大恩』を蒙り、
皆、
『具足する!』ことを、
『得る!』のである。
  不善法(ふぜんぽう):梵語akuzala-dharmaの訳、梵語kuzalaは正当、適切、良好、賢明等の義。即ち理に違いて現世、及び未来世の身を損害する法、就中特に殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒の五戒五法、又は殺生、偸盗、邪婬、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、愚癡の十不善業道十法を云う。又『大智度論1上注:善、不善、巻8下注:五戒、十善』参照。
  醜陋(しゅうる):醜悪。
  (ぞく):そこなう。いためつける。害。賊害。殺害。
  刑戮(けいりく):刑罰。
  残毀(ざんき):殺害、傷害。
  爛壊(らんえ):爛れて傷つく。
譬如祇洹中奴。字犍抵。(揵抵秦言續也)是波斯匿王兄子。端正勇健心性和善。王大夫人見之心著。即微呼之欲令從己。 譬えば、祇桓中の奴の犍抵と字(な)づくるが如し(犍抵を秦には、続と言うなり)。是れ波斯匿王の兄の子にして、端正、勇健なるに、心性も和善なれば、王の大夫人、之を見て心著し、即ち微(ひそか)に之を呼びて、己に従わしめんと欲す。
譬えば、
『祇桓』中の、
『奴僕』で、
『犍抵』と、
『呼ばれていた!』者がそうである。
是れは、
『波斯匿王』の、
『兄の子』であり、
『端正』、
『勇健』にして、
『心』の、
『性』も、
『和善であった!』が、
『王』の、
『大夫人』が、
是の、
『犍抵』を見て、
『心』に、
『著し!』、
そこで、
微(ひそか)に、
『呼んで!』、
自分に、、
『従わそう!』と、
『思った!』。
  祇洹(ぎおん):寺院名。また祇園精舎、祇樹給孤獨園ともいう。『大智度論巻7(下)注:祇樹給孤獨園』参照。
  (ぬ):梵語daasa、或いはceTaの訳。奴僕、召使の義。
  揵抵(こんだい):梵名ghaNTin、祇園精舎の奴の字。訳して続という。続生の義。「大智度論巻8」に依るに、本、波斯匿王の兄の子なり。容色の美なるに、王の夫人、私にこれを呼び、己に従わしめんと欲す。揵抵聴さず。夫人、大いに怒りて王に讒す。王、大いに怒り、節節に体躯を解いて塚間に棄つ。命未だ絶えざる頃、仏、その辺に到りて、光明もて身を照せば、平復することまた故の如し。仏為に法を説くに、即ち第三果を得て言わく、我が身すでに破れたるに、仏我が命を続ぐ、我れまさにこの形寿を尽くして、仏、及び比丘僧に布施せんと。即ち祇園に来たりて、終身奴と為る。これ続生の名の因縁なり。<(望)
  波斯匿王(はしのくおう):梵名prasenajit、舎衛国の王。『大智度論巻2(下)注:波斯匿王』参照。
犍抵不從。夫人大怒向王讒之反被其罪。王聞即節節解之棄於塚間。命未絕頃其夜虎狼羅剎來欲食之。 犍抵の従わざれば、夫人は大いに怒りて、王に向かいて、之を讒(そし)り、反って其の罪を被(き)せしむ。王聞きて、即ち節節に之を解(と)きて、塚間に棄つ。命の未だ絶えざる頃、其の夜、虎狼、羅刹来たりて、之を食わんと欲す。
『犍抵』が、
『夫人』に、
『従わなかった!』ので、
『夫人』は、
大いに、
怒りながら!、
『王』に向って、
之を、
『讒(そし)り!』、
反って、
其の、
『罪』を、
『被()せた!』。
そこで、
『王』は、
其の、
『節節』を、
『切り離し!』、
之を、
『塚間(墓場)』に、
『棄てさせた!』。
『犍抵』の、
『命』が、
『未だ!』、
『絶えない!』頃、
其の、
『夜になる!』と、
『虎』や、
『狼』や、
『羅刹(悪鬼)』が来て、
之を、
『食おうとした!』。
  (ざん):そしる。他人を陥れる為に、事実を曲げて告げる。讒言。
  塚間(ちょうげん):墓場。死体を捨てる場所。
  羅刹(らせつ):梵語raakSasa、悪鬼の通名。『大智度論巻23上注:羅刹』参照。
是時佛到其邊光明照之。身即平復其心大喜。佛為說法即得三道。佛牽其手將至祇洹。 是の時、仏は、其の辺に到り、光明もて之を照らして、身を即ち平復せしめ、其の心をして、大いに喜ばしむ。仏は、為に法を説きて、即ち三道を得しめたもう。仏は其の手を牽(ひ)きて将(ひき)い、祇桓に至らしむ。
是の時、
『仏』は、
其の辺に到り、
之を、
『光明』で、
『照らして!』、
其の、
『身』を、
『即座に!』、
『平復させ!』、
其の、
『心』を、
『大いに!』、
『喜ばせられた!』。
『仏』が、
其の為に、
『法』を、
『説かれて!』、
即座に、
『三道』を、
『得させられる!』と、
『仏』は、
其の、
『手』を引いて、
『祇桓』まで、
『導かれた!』。
  平復(ひょうぶく):回復。
是人言我身已破已棄。佛續我身今當盡此形壽以身布施佛及比丘僧。 是の人の言わく、『我が身、已に破れ已に棄つらるるに、仏は我が身を続(つ)ぎたまえり。今は当に、此の形寿を尽くすまで、身を以って仏、及び比丘僧に施すべし』と。
是の人は、
こう言った、――
わたしの、
『身』は、
已に、
『破られ!』、
『棄てられていた!』ものを、
『仏』が、
『身』を、
『継いでくださった!』。
今は、
此の、
『形寿』を、
『尽くす!』まで、
『仏』と、
『比丘僧』とに、
『身』を以って、
『施すことにします!』、と。
  形寿(ぎょうじゅ):身体と寿命。
明日波斯匿王聞如是事來至祇洹語犍抵言。向汝悔過。汝實無罪枉相刑害。今當與汝分國半治。 明日、波斯匿王は、是の事を聞きて、来たりて祇桓に至り、犍抵に語りて言わく、『汝に向かいて過(あやまち)を悔いん。汝には、実に罪無きに、枉(ま)げて相刑害せり。今は、当に汝が与(ため)に国を分け、半ばを治めしめん』と。
日が明けると、
『波斯匿王』は、
是のような、
『事』を、
『聞いた!』ので、
わざわざ、
『祇桓』に、
『至り!』、
『犍抵』に語って、こう言った、――
お前に向って、
『過(あやまち)』を、
『悔いよう!』。
お前は、
『実』に、
『罪』が、
『無かった!』のに、
『実』を曲げて、
お前を、
『刑害した!』。
お前には、
今、
『国』を、
『分けて!』、
『与え!』、
此の、
『国』を、
『半分づつ!』、
『治める!』ことにしよう、と。
犍抵言我已厭矣。王亦無罪。我宿世殃咎罪報應爾。我今以身施佛及僧不復還也。 犍抵の言わく、『我れは已に厭えり。王にも、亦た罪無し。我が宿世の殃咎、罪報は応に爾るべし。我れは、今、身を以って、仏、及び僧に施せるに、復た還らじ』と。
『犍抵』は、
こう言った、――
わたしは、
『世』を、
『厭うております!』し、
『王』にも、
『罪』は、
『有りません!』。
わたしの、
『宿世』の、
『殃咎(災禍)』と、
『罪報』とは、
きっと、
『そうだった!』のでしょう。
わたしは、
今、
『仏』と、
『僧』に、
『身』を以って、
『施してしまいました!』ので、
もう、
『還ることはありません!』、と。
  (い):そうだ、と言い切る言葉。断定の辞。
  宿世(しゅくせ):過去世。前世。
  殃咎(おうく):わざわいととがめ。災禍。
如是若有眾生形殘不具足者。蒙佛光明即時平復。是故言乃至形殘皆得具足。蒙佛光明即時平復 是の如く、若し有る衆生、形残にして、具足せずんば、仏の光明を蒙りて、即時に平復す。是の故に言わく、『乃至形残も、皆、具足するを得』、と。仏の光明を蒙れば、即時に平復するなり。
是のように、
若し、
有る、
『衆生』が、
『形残者』で、
『具足していなかった!』としても、
『仏』の、
『光明』を、
『蒙れば!』、
即時に、
『平復する!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
乃至、
『形残者』まで、
皆、
『具足する!』ことを、
『得た!』、と。
『仏』の、
『光明』を、
『蒙った!』が故に、
即時に、
『平復した!』のである。



一切の衆生は皆、等心を得て相視る

【經】一切眾生皆得等心相視。如父如母如兄如弟如姊如妹。亦如親親及善知識。是時眾生等行十善業道淨修梵行。無諸瑕穢惔然快樂。譬如比丘入第三禪。皆得好慧持戒自守不嬈眾生 一切の衆生は、皆等心を得て、相見ること、父の如く、母の如く、兄の如く、弟の如く、姉の如く、妹の如く、亦た親親、及び善知識の如し。是の時、衆生は等しく、十善業道を行い、浄く梵行を修め、諸の瑕穢無く、惔然として、快楽なり。譬えば、比丘の第三禅に入るが如く、皆、好慧を得て、持戒を自ら守り、衆生を嬈(なや)ましめず。
一切の、
『衆生』は、
皆、
『等心』を得て、
互いを、
『父』や、
『母』や、
『兄』や、
『弟』や、
『姉』や、
『妹』のように!、
亦た、
『親戚』や、
『善知識』のように!、
『視つめた!』。
是の時、
『衆生』は、
等しく、
『十善業』の、
『道』を、
『行い!』、
浄く、
『梵(清浄)』の、
『行』を、
『修めた!』ので、
諸の、
『瑕(きず)』や、
『穢(よごれ)』が、
『無くなり!』、
『無欲』に、
『恬淡』として、
『快楽』であった!。
譬えば、
『比丘』が、
『第三禅』に、
『入った!』ように、
皆が、
『好慧』を得た!ので、
『持戒』して、
『自ら』を、
『罪』から、
『守り!』、
『衆生』を、
『悩ませなかった!』。
  等心(とうしん):梵語sama-cittaの訳。平衡にして傾かざる心の義。怨親平等無差別の傾かざる心の意。平等心。『大智度論巻19下注:平等』参照。
  親親(しんしん):親属、親戚。
  善知識(ぜんちしき):梵語kalyaaNa-mitraの訳。有益な友、或いは仲間の義。
  瑕穢(けえ):きずと汚れ。欠点。
  惔然(たんねん):無欲、恬淡。
  十善業道(じゅうぜんごうどう):また十善と称す。十種の善行の意、即ち不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語、不貪、不瞋、不邪見なり。
  十善(じゅうぜん):十種の善の意。十悪に対す。具さに十善業daza kuzala- karmaaniと云い、また十善道、十善業道、十善根本業道、或は十白業道daza zukla- karma- pathaaHとも称す。即ち身口意の三妙行中、最も顕勝なるものを開して身三口四意三の十種の善行となせるものを云う。一に不殺生praaNa- atighaataad virati、二に不偸盗adatta- adaanaad virati、三に不邪淫kaaama- mithyaacaaraad virati、四に不妄語mRSaavaadaat prativirati、五に不悪口paaruSyaat prativirati、六に不両舌paizunyaat prativirati、七に不綺語saMbhinna- pralaapaat prativirati、八に不貪欲abhidhyaayaaH prativirati、九に不瞋恚vyaapaadaat prativirati、十に不邪見mithyaa- dRSteH prativiratiなり。「中阿含巻3伽弥尼経」に、「この十善業道は白にして白報あり。自然に昇上して必ず善処に至る」と云い、「雑阿含経巻37」に、「十善業跡の因縁の故に、身壊し命終して天上に生ずることを得」と云い、また「集異門足論巻3」に、「三妙行とは、謂わく身妙行、語妙行、意妙行なり。身妙行とは云何、答う断生命を離れ、不与取を離れ、欲邪行を離るるなり。また次ぎに断生命を離れ、不与取を離れ、非梵行を離るるなり。また次ぎに諸の学の身業、諸の無学の身業、諸の善の非学非無学の身業を総じて身妙行と名づく。語妙行とは云何、答う虚誑語を離れ、離間語を離れ、麁悪語を離れ、雑穢語を離るるなり。また次ぎに諸の学の語業、諸の無学の語業、諸の善の非学非無学の語業を総じて語妙行と名づく。意妙行とは云何、答う無貪、無瞋、正見なり。また次ぎに諸の学の意業、諸の無学の意業、諸の善の非学非無学の意業を総じて意妙行と名づく」と云えるこれなり。「新華厳経巻35」に十善の相を委説し「菩薩は離垢地に住して性自ら一切の殺生を遠離し、刀杖を蓄えず、怨恨を懐かず、有慚有愧にして仁恕具足し、一切衆生の有命の者に於いて常に利益慈念の心を生ず。これ菩薩はなお悪心もて諸の衆生を悩さず、何に況んや他に於いて衆生想を起し、故らに重意を以って而も殺害を行ぜんをや。性不偸盗とは、菩薩は自の資財に於いて常に止足を知り、他の慈恕に於いて侵損することを欲せず、もし物の他に属するには他物の想を起し、終にこれに於いて而も盗心を生ぜず。乃至草葉も与えられざれば取らず、何に況んやその余の資生の具をや。性不邪淫とは、菩薩は自妻に於いて足ることを知り、他妻を求めず、他の妻妾、他の所護の女、親族、媒定、及び法の所護たるものに於いて、なお貪染の心を生ぜず。何に況んや事に従わんをや、況んや非道に於いてをや。性不妄語とは、菩薩は常に実語、真語、時語を作し、乃至夢中にもまた忍んで覆蔵の語を作し、無心にも作すことを欲せず、何に況んや故らに犯ぜんをや。性不両舌とは、菩薩は諸の衆生に於いて離間の心なく、悩害の心なし。この語を将って彼れを破せんが為の故に、而も彼れに向かって説かず、彼の語を将ってこれを破せんが為の故に而もこれに向かって説かず。未だ破せざる者は破せしめず、已に破する者は増長ならしめず、離間を喜ばず、離間を楽わず、離間語を作さず、離間語を説かず。若しは実にも、若しは不実にもなり。性不悪口とは、謂わゆる毒害語、麁獷語、苦他語、令他瞋恨語、現前語、不現前語、鄙悪語、庸賎語、不可楽聞語、聞者不悦語、瞋忿語、如火焼火語、怨結語、熱悩語、不可愛語、不可楽語、能壊自身他身語、かくの如き等の語は皆悉く捨離し、常に潤沢語、柔軟語、悦意語、可楽聞語、聞者喜悦語、善入人心語、風雅典則語、多人愛楽語、多人悦楽語、身心踊悦語を作すなり。性不綺語とは、菩薩は常に思審語、時語、実語、義語、法語、順道理語、巧調伏語、随時籌量決定語を作す。これ菩薩は乃至戯笑にだもなお常に思審す、何に況んや故らに散乱の言を出さんや。性不貪欲とは、菩薩は他の財物、他の所資用に於いて貪心を生ぜず、願わず求めざるなり。性離瞋恚とは、菩薩は一切の衆生に於いて常に慈心、利益心、哀愍心、歓喜心、和潤心、摂受心を起し、永く瞋恨怨害熱悩を捨して、常に順行仁慈祐益を思うなり。また離邪見とは、菩薩は正道に住して占卜を行ぜず、悪戒を取らず、心見正直にして誑りなく諂なく、仏法僧に於いて決定の信を起す、仏子、菩薩摩訶薩はかくの如く十善業道を護持して常に間断なきなり」と云えり。以ってその一一の行相を見るべし。またこの十善は総相戒と称せらる。「大智度論巻46」に、「十善を総相戒と為す。別相に無量の戒あり、(中略)十善道を説かば則ち一切戒を摂す」と云えるこれなり。故にまた古来これを十善戒、十善法戒、十善性戒、十根本戒等と名づくるなり。またこの十善修行の果報に関しては、前引雑阿含経の文に天上に生ずることを得とし、「新華厳経巻35」の連文には「十善業道はこれ人天乃至有頂処の受生の因なり。またこの上品の十善業道は智慧を以って修習し、心狭劣なるが故に、三界を怖るるが故に、大悲を闕くが故に、他に従うて声を聞きて解了するが故に声聞乗を成ず。またこの上品の十善業道は修治清浄にして、他の教に従わず、自ら覚悟するが故に、大悲方便具足せざるが故に、甚深の因縁法を悟解するが故に独覚乗を成ず。またこの上品の十善業道は修治清浄にして、心広く無量なるが故に、悲愍を具足するが故に、方便の所摂なるが故に、大願を発生するが故に、衆生を捨てざるが故に、諸仏の大地を希求するが故に、菩薩の諸地を浄治するが故に、一切の諸度を浄修するが故に菩薩広大の行を成ず。またこの上上の十善業道は一切種清浄なるが故に、乃至十力四無畏を証するが故に一切の仏法皆成就することを得」と云えり。これ下品の十善は人天の果を感じ、中品の十善は三乗の果を感じ、上上品の十善は仏果を成ずることを説けるものなり。また「仁王般若波羅蜜多経巻上菩薩教化品」には「十善の菩薩は大心を発して長く三界の苦輪海に別る。中下品の善は粟散王、上品の十善は鉄輪王なり」と云い、「菩薩瓔珞本業経巻下釈義品」には「この人また十善を行じ、若しは一劫二劫三劫に十信を修すれば六天の果報を受く。上善に三品あり、上品は鉄輪王にして一天下を化し、中品は粟散王、下品は人中の王にして一切の煩悩を具足し、無量の善業を集む。また退ありまた出あり、もし善知識に値いて仏法を学せば、若しは一劫二劫してまさに住位に入る」と云えり。これ下品の十善を人中の王、中品の十善を粟散王、上品の十善を鉄輪王の因となすの説なり。また「中阿含経巻4」、「増一阿含経巻43、巻44」、「雑阿含経巻28」、「正法念処経巻1、巻2」、「受十善戒経」、「大薩遮尼乾子所説経巻3」、「大日経巻6」、「占察善悪業報経巻上」、「大毘婆沙論巻112、巻113」、「中論巻3観業品」、「成実論巻90善道品」、「瑜伽師地論巻8」、「倶舎論巻17」、「同光記巻17」、「十地経論巻4」、「弥勒所問経論巻4、巻5」、「順正理論巻41」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻23」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」等に出づ。
  梵行(ぼんぎょう):梵語brahma- caryaa、意訳して浄行と名づく。即ち道俗二衆所修の清浄行なり。梵天の婬欲を断ずるを以って、婬欲を離るるを故に梵行と称す。これに反し、婬欲を行ずる法を即ち非梵行と称す。婆羅門は一生を将って分けて四期と為し、その中、第一期を即ち梵行期(梵brahma- caarin)と称し、この期間に於いて、その生活に不婬の戒を遵守し、並に吠陀、祭儀等を学べば、仏教に於いても不婬、諸戒を受持するを以って称して梵行と為す。また「長阿含巻9十上経」には、禅を具足し、八解脱中に於いて逆順に遊行するを以って称して梵行具足と為し、「大方等大集経巻7不眴菩薩品」、「大宝積経巻86大神変会」等には、八正道を以って梵行と為し、「北本大般涅槃経巻15梵行品」には慈悲喜捨等の四無量心を以って梵行と為し、並びに知法、知義、知時、知足、自知、知衆、知尊卑の七善法に住するを梵行具足と称す。凡そこれは皆広義の梵行なり。また「増一阿含経巻30」、「瑜伽師地論巻29」等に出づ。<(望)
  第三禅(だいさんぜん):色界第三禅相当の定を指す。無覚無観にして而も定生の喜を離れ、但だ身楽を知るの境地。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
【論】問曰。是諸眾生未離欲無禪定。不得四無量心。云何得等心。 問うて曰く、是の諸の衆生は、未だ欲を離れざれば、禅定無く、四無量心を得ず。云何が、等心を得る。
問い、
是の、
諸の、
『衆生』は、
未だ、
『欲』を離れず!、
『欲界』に、
『住まる!』ので、
『色界』の、
『禅定』が、
『無く!』、
『四無量(四禅に於ける慈悲喜捨無量)』の、
『心』を、
『得ていない!』。
何故、
『等(禅による平衡)』の、
『心』を、
『得られた!』のですか?
  四無量心(しむりょうしん):慈悲喜捨の心の無量なるを云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  四無量(しむりょう):梵語catvaary apramaaNaaniの訳。四種の無量の意。また四無量心、四等心、或は四等とも名づく。即ち無量の衆生を縁じ、それをして楽を得、苦を離れしめんと思惟し、各その等至に入るを云う。一に慈無量maitry- apramaaNa、二に悲無量karuNa- apramaaNa、三に喜無量mudita- apramaaNa、四に捨無量upekSa- apramaaNaなり。「中阿含巻21説処経」に、「阿難、我れ本と汝の為に四無量を説けり。比丘は心と慈と倶にして、一方に遍満して成就して遊び、かくの如く二三四方四維上下一切に普周す。心と悲と倶にして、結なく怨なく恚なく諍なく、極広甚大無量にして善修し、一切世間に遍満して成就して遊ぶ。かくの如き悲喜の心と捨と倶にして、結なく怨なく恚なく諍なく、極広甚大無量にして善修し、一切の世間に遍満して成就して遊ぶ。阿難、この四無量は汝まさに諸の年少の比丘のために説いて以って彼に教うべし。若し諸の年少の比丘のために説いてこの四無量を教えば、彼れ便ち安隠を得、力を得、楽を得て身心煩熱せず、終身梵行を行ぜん」と云い、また「増一阿含経巻21」に、「四等心あり。云何が四となす、慈悲喜護なり。何等を以っての故に名づけて梵堂となすや、比丘まさに知るべし、梵天梵あり、千無与等者、無過上者と名づく、千の国界を統ぶ。これ彼れの堂なるが故に名づけて梵堂となす。比丘、この四梵堂の所有の力勢は能くこの千の国界を観ず、この故に名づけて梵堂となす。この故に諸の比丘、若し比丘ありて欲界の天を度し、無欲の地に処せんと欲せば、彼の四部の衆はまさに求めて方便してこの四梵堂を成ずべし」と云えるこれなり。この中、梵堂とは梵語brahama- vihaaraの訳にして、即ちこの慈等を修することによりて欲界天を度し、梵処に住し得べしとなすの意なり。蓋し四梵堂の説は元と外道婆羅門の間に唱えられたるものなるが如く、「雑阿含経巻27」に諸の外道もまたこの説をなすと云えり。されば仏陀は彼の説を転用し、これを諸弟子の間に教授せられたるものというべし。「大智度論巻20」にこれに関する阿毘曇の解釈を挙げ「もし十方の衆生を念じて楽を得しめんとする時、心数法の中に生ずる法を名づけて慈となす。この慈と相応する受想行識衆、この法と起こる身業口業、及び不相応の諸行のこの法と和合するを皆名づけて慈となす。慈の為の故にこの法生ず。慈を以って主となす、この故に慈に名を得。譬えば一切の心心数法は皆これ後世の業因縁なりといえども、而も但だ思に名を得るが如し。作業の中に於いて思は最も有力なる故なり。悲喜捨もまたかくの如し。この慈は色界に在り、或は有漏、或は無漏、或は可断、或は不可断なり。また根本禅中、また禅の中間にも在り。三根と相応し、苦根と憂根とを除く。かくの如き等は阿毘曇分別の説なり」と云えり。これ蓋し無量の衆生を縁じて楽を得しめんと思惟し、慈等至に入るを慈無量と名づけ、無量の衆生を縁じて苦を離れしめんと思惟し、悲等至に入るを悲無量と名づけ、無量の衆生をして離苦得楽せしめば豈快哉ならずやと思惟し、喜等至に入るを喜無量と名づけ、無量の衆生平等平等にして親怨あることなしと思惟し、捨等至に入るを捨無量と名づく。共に慈等並びに慈等相応の受想行識、並びに彼の等起の身語業及び心不相応行を以って共に体となすなり。「倶舎論巻29」に四無量は四障を対治するものなるを説き、「無量に四あり、一に慈、二に悲、三に喜、四に捨なり。無量とは無量の有情を縁となすが故に、無量の福を引くが故に、無量の果を感ずるが故なり。これ何に縁るが故に唯だ四種あるや、四種の多行の障を対治するが故なり。何をか四障と謂う、謂わく諸の瞋と害と不欣慰と欲と貪瞋となり。これを治するに次の如く慈等を建立す」と云えり。これ慈無量は瞋を対治し、悲無量は害を対治し、喜無量は不欣慰を対治し、捨無量は欲界の貪瞋を対治すとなすの意なり。またその依地に関しては、喜無量は喜受の摂なるが故に初二静慮に依り、余の三種は通じて四静慮及び未至と中間の六地に依るなり。或は四無量は有漏の根本静慮の摂にして、諸惑の得を断ぜざるが故に、未至を除きて唯五地に依るとし、或は広く定不定地を摂し、欲界地、四根本及び近分并びに中間の十地に通ずとなせり。蓋し小乗に在りてはかくの如く唯無量の衆生を縁じて慈等の心を起すべしとなせるも、大乗に於いては広く衆生縁、法縁、無縁の三種の地を説くが故に、その説自ら同じからざるあり。「大智度論巻20」に、「無尽意菩薩の問の中に慈に三種ありと説く、一に衆生縁、二に法縁、三に無縁なり。(中略)久しく行じて深愛楽を得、愛と憎と中との三種の衆生は正等にして異なることなく、十方五道の衆生の中に一の慈心を以ってこれを視ること、父の如く母の如く、兄弟姉妹子姪知識の如く、常に好事を求めて利益安隠を得しめんと欲し、かくの如きの心遍く十方衆生の中に満つ。かくの如き慈心を衆生縁と名づく。多くは凡夫人の行処にして、或は有学の人の未だ漏尽せざる者に在り。法縁を行ずるは諸の漏尽の阿羅漢と辟支仏と諸仏となり。この諸の聖人は吾我の相を破し、一異の相を滅するが故に、但だ因縁に従って相続して生ずる諸欲を観じ、慈を以って衆生を念ずる時、和合の因縁相続の生は但だ空なり、五衆即ちこれ衆生にしてこの五衆を念ずるに慈念を以ってす。衆生はこの法の空なるを知らず、而も常に一心に楽を得んことを欲す、聖人これを愍み意に随って楽を得しむ。世俗の法の為の故なり。名づけて法縁となす。無縁とはこの慈は但だ諸仏にのみ有り。何を以っての故に諸仏の心は有為無為の性の中に住せず、過去世未来現在世に依止せず、諸縁の不実顛倒虚誑なるを知るが故に心に所縁なし。仏は衆生のこの諸法実相を知らず、五道に往来して心諸法に著し分別取捨するを以って、この諸法実相の智慧を以って衆生をしてこれを得しむ、これを無縁と名づく」と云い、また「瑜伽師地論巻44」に、「諸の菩薩に略して三種の四無量を修するあり、一に有情縁無量、二に法縁無量、三に無縁無量なり。もし諸の菩薩その三聚に於いて一切の有情を安立して以って無苦無楽有苦有楽と為し、その最初の楽を欲求する者に於いて与楽の増上意楽を発起し、普く十方を縁じて無倒有情の勝解に安住し、慈と倶なる心を修するを、常に知るべしこれを有情縁の慈と名づく。もし諸の菩薩唯法想増上の意楽に住して、正しく唯法にして、仮に有情と説くと観じ、慈と倶なる心を修するを、まさに知るべしこれを法縁の慈と名づく。もし諸の菩薩の諸法に於いて分別を遠離し、慈と倶なる心を修するを、まさに知るべし即ちこれを無縁の慈と名づく。有情縁法縁無縁の三慈の差別の如く、悲喜捨の三もまさに知るべしまた爾り」と云える即ちその説なり。この中、衆生縁とは凡夫及び有学の人の起す所にして、即ち一切衆生を縁じて怨親の別なく、普く利益を得しめんと欲するを云い、法縁とは無学、或は辟支仏等の起す所にして、慈念を以って五蘊の法を縁じ、人空を知らざる者を愍みて楽を得しめんとするを云い、無縁とは唯諸仏の所行にして、即ち仏は実相に住して無分別なるが故に心に所縁なく、唯衆生をしてこの実相の智慧を得せしめんとするを云う。悲喜捨に於いてもまたかくの如く、所縁に於いて異あるが故にこれを各三種に分別するを得るなり。また「長阿含巻8散陀那経」、「中阿含巻21説処経」、「未曽有因縁経巻上」、「弥勒菩薩所問経巻7」、「品類足論巻7」、「解脱道論巻8」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「成実論巻12」、「大乗荘厳経論巻9」、「顕揚聖教論巻4」、「十地経論巻5」、「順正理論巻79」、「禅法要解巻上」、「大乗義章巻11」等に出づ。<(望)
答曰。是等非禪中等。是於一切眾生中。無怨無恚。以此等故善心相視。 答えて曰く、是の等は、禅中の等に非ず。是れは、一切の衆生中に於いて、怨無く、恚無く、此の等を以っての故に、善心もて相視るなり。
答え、
是の、
『等』は、
『四禅』中の、
『等ではない!』。
是れは、
一切の、
『衆生』中に於いて、
『怨()』や、
『恚()』が、
『無い!』ことをいい、
此の、
『等』を以っての故に、
『善心』で、
『互いに!』、
『視つめあった!』のである。
復次等心者。經中有言。云何等心相視如父母是名等心。 復た次ぎに、等心とは、経中に、『云何が、等心もて相視る。父母の如し』と言う有り。是れを等心と名づく。
復た次ぎに、
『等心』とは、――
『経』中には、
こう言っている、――
何を、
『等心』で、
『互いに!』、
『視つめあった!』と云うのですか?。
例えば、
『父のように!』、
『母のように!』である、と。
是れを、
『等心』を、
『称する!』のである。
問曰。視一切眾生便是父母兄弟姊妹不。 問うて曰く、一切の衆生を視るに、便ち是れ父母、兄弟、姉妹なりや不や。
問い、
一切の、
『衆生』を、
『視てみる!』と、
便ち、
是の、
『衆生』が、
『父母』、
『兄弟』、
『姉妹であった!』のですか?
答曰。不也。見老者如父母。長者如兄。少者如弟。姊妹亦爾。等心力故皆如親親。 答えて曰く、不なり。老いたる者は父母の如し、長じたる者は兄の如し、少(わか)き者は弟の如しと見る。姉妹も亦た爾り。等心の力の故に、皆、親親の如きなり。
答え、
そうではない!
『老者』は、
『父母』のよう!に、
『年長者』は、
『兄』のよう!に、
『年少者』は、
『弟』のよう!に、
『見る!』のであり、
『姉妹』も、
亦た、
そうである。
『等心』の、
『力』の故に、
皆が、
『親戚のよう!』に、
『見える!』のである。
問曰。云何非父母言父母。乃至非親親言親親。不墮妄語耶。 問うて曰く、云何が、父母に非ざるを、『父母』と言い、乃至親親に非ざるを、『親親』と言いて、妄語に堕ちざるや。
問い、
何故、
『父母でない!』のに、
『父母である!』と、
『言い!』、
乃至、
『親戚でない!』のに、
『親戚である!』と、
『言って!』、
『妄語』の、
『罪』に、
『堕ちない!』のですか?
答曰。一切眾生無量世中。無非父母兄弟姊妹親親者 答えて曰く、一切の衆生は、無量世中には、父母、兄弟、姉妹、親親に非ざる者無し。
答え、
一切の、
『衆生』は、
『無量世』中には、
『父母、兄弟、姉妹、親戚でない!』者など、
『無い!』からである。
復次實法相中無父母兄弟。人著吾我顛倒計故。名為父母兄弟。今以善心力故相視如父如母非妄語也。 復た次ぎに、実の法相中には、父母、兄弟無く、人の吾我に著し、顛倒して計するが故に、名づけて、父母、兄弟と為す。今、善心の力を以っての故に、相視ること、父の如く、母の如くなるも、妄語には非ざるなり。
復た次ぎに、
『実』の、
『法相』中には、
『父母、兄弟』は、
『無い!』のであり、
『人』が、
『吾我』に、
『著し!』、
『顛倒』して、
『吾我』が、
『有る!』と、
『計する!』が故に、
是れを、
『父母、兄弟』と、
『称する!』のである。
今は、
『善心』の、
『力』を以っての故に、
互いに、
『父』や、
『母』のように!、
『視つめあった!』としても、
『妄語ではない!』。
  顛倒(てんどう):梵語viparyaasaの訳。ひっくり返ったの義。無常、苦、無我、不浄なるに常、楽、我、浄と見る等、顛倒せる見解を有するを云う。『大智度論巻18上注:四顛倒』参照。
  (け):梵語parikalpayati、又はparikalpitaの訳。執著、分別、期待、決断、想像等の義。そうであると堅く思うこと。
復次如人以義相親非父事之為父。非母事之為母。兄弟兒子亦復如是。 復た次ぎに、人の義を以って、相親しむが如きは、父に非ざるも、之に事(つか)えて、父と為し、母に非ざるも、之に事えて、母と為し、兄弟、児子も、亦復た是の如し。
復た次ぎに、
例えば、
『人』が、
『義(義理)』を以って、
『互いに!』、
『親しむ!』のと同じである。
『父でない!』のに、
事(つか)えて!、
『父だ!』と、
『思い!』、
『母でない!』のに、
事えて、
『母だ!』と、
『思い!』、
『兄弟』や、
『児子』も、
まったく、
是の通りである。
如人有子行惡黜而棄之。他姓善行養以為子。如是相視則為等心。如說偈
 視他婦如母  見他財如火 
 一切如親親  如是名等見
人に子有るも、行い悪しくば、黜(しりぞ)けて、之を棄て、他姓の善行なるを養い、以って子と為すが如く、是の如く相視れば、則ち等心と為す。偈に説くが如し、
他の婦を視れば母の如く、他の財を視れば火の如し、
一切は親親の如しと、是の如きを等しく見ると名づく。
例えば、
『人』に、
『子』が有った!としても、
『行い!』の、
『悪い!』者は、
退けて、
之を、
『棄て!』、
『他人』の、
『姓』であっても、
『行い!』の、
『善い!』者は、
養って、
『子だ!』と、
『思う!』ように、
是のように、
互いに、
『視た!』ならば、
是れを、
『等心』と、
『称する!』。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『他』の、
『婦』は、
『母のようだ!』と、
『見れば!』、
『心』に、
『邪婬』は、
『起らない!』、
『他』の、
『財』は、
『火のようだ!』と、
『見れば!』、
『心』に、
『貪欲』は、
『起らない!』。
一切の、
『人』は、
『親戚のようだ!』と、
『見た!』ならば、
是れを、
『等心』で、
『見る!』と、
『称する!』。
  (ちゅち):しりぞける。はなつ。おう。さる。排出。擯去。邪魔者を追い出すこと。
是時眾生等行十善業道者。身業道三種。不殺不盜不邪婬。 是の時、衆生は等しく、十善業道を行うとは、身業の道に三種、不殺、不盗、不邪婬なり。
是の時、
『衆生』は、
『等しく!』、
『十善業』の、
『道』を、
『行う!』とは、――
『身業』の、
『道』は、
『三種』、
『殺さない!』、
『盗まない!』、
『邪婬しない!』である。
口業道四種。不妄語不兩舌不惡口不綺語。 口業の道は四種、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語なり。
『口業』の、
『道』は、
『四種』、
『妄語しない!』、
『両舌しない!』、
『悪口しない!』、
『綺語しない!』である。
意業道三種不貪不惱害不邪見。 意業の道は三種、不貪、不悩害、不邪見なり。
『意業』の、
『道』は、
『四種』、
『貪らない!』、
『悩害しない!』、
『邪見しない!』である。
自不殺生不教他殺。讚不殺者。見人不殺。代其歡喜。乃至邪見亦有四種。 自ら生を殺さず。他を教えて殺さしめず。殺さざる者を讃ず。人の殺さざるを見るに、其れに代りて歓喜す。乃至邪見まで、亦た四種有り。
『殺さない!』とは、
謂わゆる、
『自ら!』、
『生(衆生)』を、
『殺さない!』、
『他人』に命じて、
『生』を、
『殺させない!』、
『殺さない!』という、
『事』を、
『讃える!』、
『他人』が、
『殺さなかった!』のを、
『見た!』ならば、
其れに、
『代って!』、
『喜ぶ!』であり、
乃至、
『邪見しない!』まで、
是の、
『四種』が有る!。
問曰。後三業道非業。前七業道亦業。云何言十善業道。 問うて曰く、後の三業の道は、業に非ず。前の七業の道は、亦た業なり。云何が、『十善業の道』と言う。
問い、
後の、
『三業』の、
『道(不貪、不恚、不疑)』は、
『業でない!』し、
前の、
『七業』の、
『道(不殺、不盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語)』は、
『業である!』。
何故、
『十善業』の、
『道』と、
『言う!』のですか?
  (ごう):梵語karmanの訳。造作の義、謂わゆる行為、所作、行動、作用、意志等の身心の活動の意。即ち善悪の果報を来たらしむる能力を指す。『大智度論巻31下注:業』参照。
  業道(ごうどう):梵語kaarma-maarga、又はkaarma-pathaの訳。業の道路の義。
答曰。沒少從多故通名業道。後三雖非業能起業。又復為業故生。是故總名業道。 答えて曰く、少なきを没して、多きに従うが故に、通じて業道と名づく。後の三は、業に非ずと雖も、能く業を起す。又復た業を為すが故に生ず。是の故に総じて業道と名づく。
答え、
『少数』を捨てて、
『多数』に、
『従う!』が故に、
通じて、
『業の道』と、
『称した!』のであり、
後の、
『三』は、
『業でない!』としても、
『業』を、
『起すものである!』が故に、
又復た、
『業』を、
『為すため!』に、
『生じる!』ので、
是の故に、
総じて、
『業の道』と、
『称する!』のである。
淨修梵行無諸瑕穢者。問曰。上說行十善業道。此理已足。今何以復言淨修梵行。 浄く、梵行を修めて、諸の瑕穢無しとは、問うて曰く、上に十善業道を行ずるを説けば、此の理は已に足れり。今は、何を以ってか、復た『浄く、梵行を修む』と言う。
浄く、
『梵(清浄)』の、
『行』を、
『修めた!』とは、――
問い、
上に、
『十善業』の、
『道』を、
『説いている!』ので、
此の、
『理』は、
已に、
『足りている!』。
今は、
いったい、
何故、
浄く、
『梵行』を、
『修めた!』と、
『言う!』のですか?
答曰。有人行十善業道不斷婬。今更讚此行梵天行。斷除婬欲故。言淨修梵行。 答えて曰く、有る人は、十善業道を行じて、婬を断ぜざれば、今更に、此の梵天の行を行ずるを讃ず。婬欲を断除せしが故に、『浄く、梵行を修む』と言えり。
答え、
有る人は、
『十善業』の、
『道』を、
『行う!』が、
『婬』を、
『断じていない!』ので、
今、
更(あらた)に、
此の、
『梵天』の、
『行』を、
『行う!』ことを、
『讃じて!』、
『婬欲』を、
『断除した!』が故に、
浄く、
『梵行』を、
『修めた!』と、
『言う!』のである。
無諸瑕穢者。行婬之人身惡名臭。以是故讚斷婬人言無諸瑕穢。 諸の瑕穢無しとは、婬を行ずる人の身の悪なるを、臭と名づく。是を以っての故に、婬を断ずる人を、讃じて言わく、『諸の瑕穢無し』と。
諸の、
『瑕穢』が、
『無い!』とは、――
『婬』を、
『行う!』、
『人』の、
『身』の、
『悪(不善)』を、
『臭い!』と、
『称する!』ので、
是の故に、
『婬』を、
『断じた!』、
『人』を讃えて、こう言うのである、――
諸の、
『瑕(きず)』や、
『穢(よごれ)』が、
『無い!』、と。
惔然快樂者。問曰。此何等樂。 惔然として快楽なりとは、問うて曰く、此れ何等をか楽しむ。
『惔然(恬淡)』として、
『快く!』、
『楽しい!』とは、――
問い、
此れは、
何のように、
『楽しい!』のですか?
答曰。是樂二種。內樂涅槃樂。是樂不從五塵生。譬如石泉水自中出不從外來。心樂亦如是。行等心修梵行。得十善業道清淨無穢。是名內樂。 答えて曰く、是の楽は二種にして、内の楽と涅槃の楽となり。是の楽は、五塵より生ぜず。譬えば石泉の水は、中より出でて、外より来たらざるが如く、心の楽も、亦た是の如く、等心を行じ、梵行を修め、十善業の道を得れば、清浄にして穢無し、是れを内の楽と名づく。
答え、
是の、
『楽』は、
『二種』であり、
『内の楽』と、
『涅槃の楽』である。
是の、
『楽』は、
『五塵(色声香味触)』より、
『生じない!』。
譬えば、
『石泉』の、
『水』が、
『中』より、
『出て!』、
『外』より、
『来ない!』ように、
『心』の、
『楽』も、
是のように、
『等心』を、
『行い!』、
『梵行』を、
『修め!』て、
『十善業』の、
『道』を、
『得た!』ので、
『清浄』となり、
『瑕穢』が、
『無い!』のである。
是れを、
『内』の、
『楽』と、
『称する!』。
  石泉(しゃくせん):石中より涌く水。
  五塵(ごじん):梵語paGca-viSayaの訳。又五境と訳す。色声香味触の五種の境界の意。漢訳に際し、能く心を汚す者なるが故に五塵と為す。
問曰。此樂何界繫。欲界繫色界繫無色界繫耶。 問うて曰く、此の楽は、何界の繋なりや。欲界繋なりや、色界繋なりや、無色界繋なりや。
問い、
此の、
『楽』は、
何のような、
『界の繋(煩悩)』ですか?
『欲界の繋』ですか?
『色界の繋』ですか?
『無色界の繋』ですか?
  (け):梵語granthaの訳。繋属、繋縛の意。即ち衆生を将って迷惑の世界に束縛し、自由を得ざらしむる者にして、煩悩の異名なり。三界の煩悩はよく有漏の諸法を将って、各別に三界に繋縛す、因って、三界に繋縛するを即ち称して界繋と為し、或は三界繋と称す。分別してこれを言わば、法の欲界に繋在する者を称して欲界繋と無し、色界に繋在する者を称して色界繋と為し、無色界に繋在する者を称して無色界繋と為す。これ乃ち所繋の法に就いて言うなり。「倶舎論巻2」に、「繋は謂わく繋属、即ち被縛の義なり。欲界の所繋には十八を具足す、色界の所繋には唯十四種なり」と云い、また「大毘婆沙論巻145」に、「もし法の欲界に繋在するを欲界繋と名づけ、色界に繋在するを色界繋と名づけ、無色界に繋在するを無色界繋と名づく。牛の柱等に繋在するを柱等の繋と名づくるが如し」と云えり。これ欲界等に繋属する法を欲界繋等の名づくるものにして、即ち所繋の法に就いて説きたるなり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻7」に、「繋に四種あり、謂わく貪欲身繋、瞋恚身繋、戒禁取身繋、此実執取身繋なり。能く定意性の身を障礙するを以っての故に名づけて繋と為す。所以は何ん、これ能く定心自性の身を障うるに由るが故に繋と名づく。色身を障うるには非ず。何を以っての故に、能く四種の心の乱因と為るが故なり」と云えり。これ貪欲等の四は共に心をして散乱せしめ、能く定意性の身を障うるが故に、名づけて繋となせるものにして、即ち能繋の定障に就いて説きたるなり。また三界有漏の一一の法は、皆貪等の煩悩の為に縛せらる。この縛を断ずるを即ち択滅涅槃と為す。「倶舎論巻1」に、「択滅は謂わく離繋なり、繋の事に随いて各別なり」と云える即ちその意なり。また「大毘婆沙論巻52」、「瑜伽師地論巻84」、「成唯識論巻5」、「同述記巻5本」、「倶舎論光記巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論述記巻8」等に出づ。<(望)『大智度論巻7上注:界繋』参照。
答曰。是樂欲界繫亦不繫。非色無色界繫。今言譬如比丘入第三禪。若是色界繫不應言。譬如。以是事故知。非色界繫。 答えて曰く、是の楽は、欲界の繋、亦た不繋にして、色、無色界の繋に非ず。今、言わく、『譬えば、比丘の第三禅に入りたるが如く』と。若し、是れ色界の繋ならば、応に、『譬えば如し』と言うべからず。是の事を以っての故に知るらく、『色界の繋には非ず』と。
答え、
是の、
『楽』は、
『欲界』の、
『繋』か、
『不繋』であり、
『色、無色界』の、
『繋ではない!』。
今、
こう言った、――
譬えば、
『比丘』が、
『第三禅』に、
『入ったようだ!』、と。
若し、
是れが、
『色界』の、
『繋』ならば、
当然、
譬えば、
『色界のようだ!』とは、
『言うはずがない!』ので、
是の故に、
『色界』の、
『繋ではない!』と、
『知る!』のである。
  不繋(ふけ):梵語apratisaMyuktaの訳。三界の繋に非ざる、或いは三界の繋縛無き状態を云う。
此欲界心生喜樂一切滿身。譬如煖蘇漬身柔軟和樂。 此の欲界の心に喜楽を生じて、一切の身に満つ。譬えば煖(あたたか)なる蘇に身を漬けて、柔軟、和楽なるが如し。
此の、
『欲界』の、
『心』に、
『喜楽』を、
『生じて!』、
一切の、
『身』を、
『満たした!』。
譬えば、
『煖(あたたか)な!』、
『蘇(澄ましバター)』に、
『身』を
『漬ける!』と、
『身』が、
『柔軟になり!』、
『和楽する!』のと同じである。
  (そ):梵語ghee、又はghRtaの訳。澄ましバターの意。
不繫者得般若波羅蜜相觀諸法不生不滅。得實智慧心無所著。無相之樂是為不繫。 不繋とは、般若波羅蜜を得たる相なり。諸法の不生、不滅なるを観、実の智慧を得て、心に著する所無き、無相の楽なり。是れを不繋と為す。
『不繋』とは、――
『般若波羅蜜』を、
『得た!』という、
『相である!』。
諸の、
『法』は、
『不生、不滅である!』と、
『観て!』、
『実』の、
『智慧』を、
『得!』、
『心』に、
『著する!』所の、
『無い!』、
『無相の楽』を、
『不繋』と、
『称する!』のである。
問曰。佛言涅槃第一樂。何以言第三禪樂。 問うて曰く、仏の言わく、『涅槃は第一の楽なり』と。何を以ってか、『第三禅の楽』と言う。
問い、
『仏』は、
こう言われた、――
『涅槃』は、
『第一』の、
『楽である!』、と。
何故、
こう言うのですか?――
『涅槃』は、
『第三禅』の、
『楽である!』、と。
答曰。有二種樂。有受樂有受盡樂。受盡樂一切五眾盡更不生。是無餘涅槃樂。能除憂愁煩惱心中歡喜。是名樂受。 答えて曰く、二種の楽有り、有るは受の楽なり、有るは受の尽くる楽なり。受の尽くる楽は、一切の五衆は、尽く更に生ぜずして、是れ無余涅槃の楽なり。能く憂愁、煩悩を除きて、心中に歓喜すれば、是れを楽受と名づく。
答え、
『楽』には、
『二種』有り、
有るいは、
『受』に、
『因る!』、
『楽であり!』、
有るいは、
『受』の、
『尽きた!』、
『楽である!』。
『受』の、
『尽きた!』、
『楽』には、
一切の、
『五衆(色受想行識)』が、
尽く、
『更(あらた)に!』、
『生じない!』ので、
是れは、
『無余涅槃』であるが、
是れは、
『憂愁』や、
『煩悩』を、
『除くことができ!』、
『心』中に、
『歓喜する!』ので、
是れを、
『楽』の、
『受』と、
『称する!』。
  楽受(らくじゅ):梵語sukha-vedanaaの訳。快楽、幸福等を感受するを云う。三受の一。五受の一。『大智度論巻8下注:五受、巻19上注:三受』参照。
如是樂受滿足在第三禪中。以是故言譬如第三禪樂。 是の如き楽受の満足は、第三禅中に在り。是を以っての故に言わく、『譬えば、第三禅の楽の如し』と。
是のような、
『楽受』を、
『満足する!』のは、
『第三禅』中に於いてであり、
是の故に、
こう言うのである、――
譬えば、
『第三禅』の、
『楽のようだ!』と。
問曰。初禪二禪亦有樂受。何以故但言第三禪。 問うて曰く、初禅、二禅にも、亦た楽受有り。何を以っての故にか、但だ、第三禅のみを言う。
問い、
『初禅』にも、
『二禅』にも、
『楽受』が、
『有る!』のに、
何故、
但だ、
『第三禅』のみを、
『言う!』のですか?
答曰。樂有上中下。下者初禪。中者二禪。上者三禪。 答えて曰く、楽には上中下有り、下とは、初禅なり、中とは、二禅なり、上とは、三禅なり。
答え、
『楽』には、
『上』、
『中』、
『下』が、
『有り!』、
『下』は、
『初禅』の、
『楽』、
『中』は、
『二禅』の、
『楽』、
『上』は、
『三禅』の、
『楽である!』。
初禪有二種。樂根喜根。五識相應樂根。意識相應喜根。 初禅には、二種有り、楽根と、喜根なり。五識は楽根に相応し、意識は喜根に相応す。
『初禅』には、
『二種』有り、
『楽根(楽受)』と、
『喜根(喜受)』とである。
『五識(眼識、乃至身識)』は、
『楽根』に、
『相応し!』、
『意識』は、
『喜根』に、
『相応する!』。
  楽根(らくこん):又楽受とも云う。五受の一。『大智度論巻8下注:五受』参照。
  喜根(きこん):又喜受とも云う。五受の一。『大智度論巻8下注:五受』参照。
  五受(ごじゅ):梵語paJca vedanaaHの訳。五衆の覚受の意。(一)随触を領納覚受するに五種の別あるを云う。一に苦受duHkha- vedanaa、二に楽受sukha- v.、三に憂受daurmanasya- v.、四に喜受saumanasya- v.、五に捨受upekSaa- v.なり。またこの五受は衆生をして雑染を感ぜしむるに増上の力用あるが故に立てて五根と為し、また五受根とも称す。謂わゆる苦根、楽根、憂根、喜根、捨根なり。「倶舎論巻3」に、「身は謂わく身受なり、身に依りて起るが故なり。即ち五識相応の受なり。不悦と言うはこれ損悩の義なり。身受の内に於いてよく損悩するものを名づけて苦根と為す。言う所の悦とはこれ摂益の義なり。即ち身受の内に能く摂益するものを名づけて楽根と為す。及び第三定の心相応受の能く摂益するものをまた楽根と名づく。第三定の中には身受あることなし。五識なきが故に心悦を楽と名づく。即ちこの心悦は第三定を除いて下の三地に於いては名づけて喜根と為す。第三静慮は心悦安静にして喜貪を離るるが故に唯楽根と名づく。下三地の中には心悦麁動にして喜貪あるが故に、唯喜根と名づく。意識と相応して能く損悩する受はこれ心不悦なれば、名づけて憂根と曰う。中は謂わく非悦非不悦なり、即ちこれ不苦不楽受なり。この処中の受を名づけて捨根と為す」と云えるこれなり。これ即ち五識相応の身不悦の受を苦受、意識相応の心不悦の受を憂受、五識相応の身悦及び第三静慮の意識相応の心悦を楽受、初二禅及び欲界の意識相応の心悦を喜受、身心に於いて悦不悦に非ざるを捨受と名づくることを明せるなり。また「大集法門経巻下」、「阿毘達磨発智論巻14」、「大毘婆沙論巻142」、「成実論巻6」、「順正理論巻9」、「成唯識論巻5」、「大明三蔵法数巻21」等に出づ。(二)受の自性、相応等を分別するに五種の別あるを云う。一に自性受savabhaava- vedaniiyataa、二に相応受samprayukta- v.、三に所縁受aalambana- v.、四に異熟受vipaaka- v.、五に現前受sammukhii- bhaava- v.なり。「倶舎論巻15」に、「総じて順受を説くに略して五種あり、一に自性順受とは謂わく一切の受なり。契経に説くが如し、楽受を受くる時、実の如く楽受を受くと了知すと。乃至広く説く。二に相応順受とは謂わく一切の触なり。契経に説くが如し、順楽受触と。乃至広く説く。三に所縁順受とは謂わく一切の境なり。契経に説くが如し、眼は色を見已るに、唯色を受けて色貪を受けずと。乃至広く説く。色等はこれ受の所縁なるに由るが故なり。四に異熟順受とは謂わく異熟を感ずるの業なり。契経に説くが如し、順現受業と。乃至広く説く。五に現前順受とは謂わく正しく現行する受なり。契経に言うが如し、楽受を受くる時、二受便ち滅すと。乃至広く説く。この楽受現在前する時、余の受ありて能くこの楽受を受くるに非ず。但だ楽受の自体現前するに拠りて即ち説いて名づけて楽受を受くと為す」と云えるこれなり。この中、自性受とは即ち受の心所にして、前の苦楽等の諸受を云い、相応受とは前の苦楽等の諸受に相応する触の心所を云い、所縁受とはまた境界受と名づく。即ち前の苦楽等の諸受の境界となるものを云い、異熟受とはまた報受と名づく。即ち異熟を感ずる諸業を云い、現前受とは前の苦楽等の諸受の中、正しく現行するものを云うなり。また「大毘婆沙論巻115」、「雑阿毘曇心論巻3」、「順正理論巻40」、「倶舎論光記巻15」等に出づ。<(望)
二禪中意識相應喜根。 二禅中の意識は、喜根に相応す。
『二禅』中の、
『意識』は、
『喜根』に、
『相応する!』。
三禪意識相應樂根。一切三界中。除三禪更無意識相應樂根。是五識不能分別。不知名字相。 三禅の意識は、楽根に相応す。一切の三界中に、三禅を除けば、更に意識相応の楽根無く、是れ五識の分別する能わず、相に名字(な)づくるを知らず。
『三禅』中の、
『意識』は、
『楽根』に、
『相応する!』。
一切の、
『三界』中に、
『三禅』を除けば、
更に、
『意識』に相応する!、
『楽根』は、
『無い!』のであり、
是の、
『楽根』は、
『五識』には、
『楽根』として、
『分別できず!』、
『相』に、
『名づける!』ことも、
『知らない!』。
眼識生如彈指頃。意識已生。以是故五識相應樂根。不能滿足樂。意識相應樂根。能滿足樂。 眼識生じて、弾指の如き頃に、意識は已に生ず。是を以っての故に、五識相応の楽根は、楽を満足する能わず、意識相応の楽根は、能く楽を満足す。
『眼識』が、
『生じる!』と、
『弾指の頃(極めて短時間)』に、
『意識』が、
『生じ已る!』。
是の故に、
『五識』に、
『相応する!』、
『楽根』は、
『楽』を、
『満足できず!』、
『意識』に、
『相応する!』、
『楽根』が、
『楽』を、
『満足する!』のである。
以是故三禪中。諸功德少樂多故。無背捨勝處一切入。過是三禪更無樂。以是故言譬如比丘入第三禪。 是を以っての故に、三禅中には、諸の功徳少なく、楽多きが故に、背捨、勝処、一切入無く、是の三禅を過ぐれば、更に楽無し。是を以っての故に、言わく、『譬えば、比丘の第三禅に入るが如し』、と。
是の故に、
『三禅』中には、
諸の、
『功徳』が、
『少なく!』、
『楽』が、
『多い!』ので、
故に、
『八背捨』や、
『八勝処』、
『十一切入』等の、
『定』が、
『無く!』、
是の、
『三禅』を過ぎれば、
更に、
『楽』は、
『無い!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
譬えば、
『比丘』が、
『第三禅』に、
『入ったようだ!』、と。
一切眾生皆得好慧。持戒自守不嬈眾生者。問曰。何以故。次樂後言皆得好慧。 一切の衆生は、皆、好慧を得、持戒を自ら守りて、衆生を嬈ませずとは、問うて曰く、何を以っての故にか、楽の後に次いで、『皆、好慧を得』と言う。
一切の、
『衆生』は、
皆、
『好慧』を得た!ので、
『持戒』して、
『自ら』を、
『罪』から、
『守り!』、
『衆生』を、
『悩ませなかった!』、とは、――
問い、
何故、
『楽』の、
『後』に、
『次いで(続いて)』、
こう言うのですか?――
皆、
『好慧』を、
『得た!』、と。
答曰。人未得樂能作功德。既得樂已心著樂多故。不作功德。是故樂後次第心得好慧。 答えて曰く、人は、未だ楽を得ずんば、能く功徳を作すも、既に楽を得已れば、心の楽に著すること多きが故に、功徳を作さず。是の故に、楽の後に次第して、心に好慧を得るなり。
答え、
『人』は、
未だ、
『楽』を、
『得ていない!』間は、
『功徳』を、
『作すことができる!』が、
既に、
『楽』を、
『得てしまう!』と、
『心』が、
『楽』に
『著する!』ことが、
『多くなる!』ので、
故に、
『功徳』を、
『作さなくなる!』、
是の故に、
『楽』の、
『後に!』、
『次第して!』、
『心』に、
『好慧』を、
『得る!』のである。
好慧者。持戒自守不嬈眾生。 好慧とは、持戒して自ら守り、衆生を嬈せざるなり。
『好慧』とは、
『持戒』して、
『自ら』を、
『罪』から、
『守り!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』からである。
問曰。持戒是名自守亦名不嬈眾生。何以故。復言自守不嬈眾生耶。 問うて曰く、持戒を、是れ自ら守ると名づけ、亦た衆生を嬈ませずと名づく。何を以ってか、復た、『自ら守り、衆生を嬈ませず』と言えるや。
問い、
『持戒』とは、
是れは、
『自ら』を、
『罪』から、
『守る!』ことであり、
亦た、
『衆生』を、
『悩ませない!』ことである。
何故、
重ねて、こう言うのですか?――
『自ら』を、
『罪』から、
『守り!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』、と。
答曰。身口善是名持戒。撿心就善是名自守。亦名不嬈眾生。 答えて曰く、身口の善は、是れを持戒と名づけ、心を撿(おさ)めて善に就く、是れを自ら守ると名づけ、亦た衆生を嬈ませずと名づく。
答え、
『身』と、
『口』の、
『行い!』を、
『善くする!』こと、
是れを、
『持戒』と、
『称する!』。
『心』を
『取り締まって!』、
『善』に、
『就ける!』こと、
是れを、
『自ら』を、
『守る!』と、
『称し!』、
亦た、
『衆生』を、
『悩ませない!』と、
『称する!』。
  撿心(けんしん):心の放逸を取り締まる。
一切諸功德。皆戒身定身慧身所攝。言好持戒是戒身攝。好自守者是定身攝。不嬈眾生禪中慈等諸功德。是慧身攝。 一切の諸の功徳は、皆、戒身、定身、慧身の摂する所なり。持戒を好むと言わば、是れ戒身の摂なり。自ら守るを好まば、是れ定身の摂なり。衆生を嬈ませざるは、禅中の慈等の諸の功徳にして、是れ慧身の摂なり。
一切の、
諸の、
『功徳』は、
皆、
『戒身』か、
『定身』か、
『慧身』の、
『摂する!』所であり、
『持戒』を、
『好む!』と言えば、
是れは、
『戒身』に、
『摂せられる!』し、
『自ら』を、
『守る!』ことを、
『好む!』のは、
是れは、
『定身』に、
『摂せられる!』し、
『衆生』を、
『悩ませない!』のは、
『禅』中の、
『慈』等の、
諸の、
『功徳』であり!、
是れは、
『慧身』に、
『摂せられる!』。
  戒身(かいしん):五分法身の一。無漏の身語二業を云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  定身(じょうしん):五分法身の一。無学の三三昧を云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  慧身(えしん):五分法身の一。無学の正見知を云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  五分法身(ごぶんほっしん):無漏の五蘊を具えたる法身の意。無漏の五蘊、または無等等五蘊asamasama- paJca- skandhaとも云う。即ち一に戒身ziila- skandha、二に定身samaadhi-s.、三に慧身prajJnaa- s.、四に解脱身vimukti-s.、五に解脱知見身vimukti- jJaana- darzana- s.なり。「雑阿含経巻47」に、「学法満ぜずして、戒身定身慧身解脱身解脱知見身を具足せしめんと欲せば、この処あることなし」と云い、「増一阿含経巻29」に、「もし比丘、戒身定身慧身解脱身解脱知見身具足せば、便ち天龍鬼神の為に供養せらる」と云い、「雑阿含経巻24」に、「彼の舎利弗は所受の戒身を持って涅槃するや、定身慧身解脱身解脱知見身(を持って)涅槃するや」と云い、また「菩薩瓔珞本業経巻上」に、「謂わゆる五分法身とは、戒は形の非を除き、定は心乱なく、慧は想の処を悟り、解脱は累なく、累なければ一切衆生無縛を知見す。解脱を知見するが為の故に、諸法は虚空無二なるが故なり」と云えるこれなり。これ無学聖者の身中に成就する所の戒等の五種の功徳法を名づけて法身となせるものなり。五分法身の名称に関しては、「大乗義章巻20本」に、「この五種分別せるを分と名づく。また分はこれ因なり、この五種は身を成ずるの因なり。故に名づけて分と為す。法は自体に名づく。この五種は無学の自体なり、故に名づけて法と為す。また法はこれその軌則の義なり、この五種は身を成ずるの軌なるが故に名づけて法と為す。身とはこれ体なり、この五は仏の体なり。故に名づけて身と為す。また徳の聚積をまた名づけて身と為す」と云えり。これ即ち戒定慧等の五種の法は、無学聖者の自体なることを明す意なり。この中、戒身とは、また戒蘊、戒衆、戒品とも名づく。即ち無漏の身語業を云い、定身とは、また定蘊、定衆、定品とも名づく。即ち無学の三三昧を云い、慧身とは、また慧蘊、慧衆、慧品とも名づく。即ち無学の正見知を云い、解脱身とは、また解脱蘊、解脱衆、解脱品とも名づく。即ち尽無生の無学の正見相応の勝解を云い、解脱知見身とは、また解脱所見身、解脱知見蘊、解脱知見衆、解脱知見品とも名づく。即ち尽無生智を云うなり。「倶舎論光記巻一之余」に、「云何が無学の戒蘊なる。答う、無漏の身語業を無学の戒蘊と名づく。云何が無学の定蘊なる。答う、無学の三三摩地なり。謂わく空無願無相なり。云何が無学の慧蘊なる。答う、無学の正見知なり。云何が無学の解脱蘊なる。答う、無学の作意と相応する心にして、已勝解、今勝解、常勝解なり。謂わく尽無生の無学の正見相応の勝解なり。云何が無学の解脱知見蘊なる。答う、尽無生智なり」と云える即ちその意なり。また「大乗義章巻20本」には、これを仏に約して説き「この五種は義因果に通ず。経の中には多く無学に就きてこれを説く。無学の中、統べて大小に通ず。今仏徳を論ずるに、言う所の戒とは行方便に拠りて防禁するを戒と名づく。諸過を防禁して永く起こらざらしむ。実に就いて以って論ぜば、法身体浄にして過として起すべきなし、故に名づけて戒と為す。言う所の定とは、行方便に拠りて乱を息め縁に住す。これを目づけて定と為す。実に就いて辨ぜば、真心体寂にして自性不動なり、故に名づけて定と為す。言う所の慧とは、行方便に拠りて観達するを慧と名づく。実に就いて以って論ぜば、真心体明にして自性に闇なし。これを目づけて慧と為す。解脱と言うは、行方便に拠りて縛を免るるを脱と名づく。実に就いて辨ぜば自体に累なし、故に解脱と曰う。解脱知見とは、行方便に拠りて己が出累を知るを解脱知見と名づく。実に就いて以って論ぜば、自実を証窮して本と染なしと知るを解脱知見と名づく」と云えり。これ大乗所説の性浄法身の義に依り、五分をその徳相として説明せるものにして、倶舎等の説に同じからざるを知るべし。またこの中、「倶舎論巻1」には初の一を色蘊の摂、余の四を行蘊の摂とし、「仏地経論巻4」にはまた前の三を因、後の二を果となせり。また「雑阿含経巻42」、「増一阿含経巻2、巻18」、「長阿含経巻9」、「生経巻2」、「僧伽羅刹所集経巻下」、「観普賢菩薩行法経」、「大毘婆沙論巻33、巻74」、「大智度論巻21、巻22、巻87」、「成実論巻1」、「大乗阿毘達磨雑集論巻10」、「尊勝仏頂瑜伽法軌儀巻上」、「注維摩詰経巻3」等に出づ。<(望)
問曰。亦無有人言不好持戒者。今何以言好持戒。 問うて曰く、亦た人の『持戒を好まず』と言う者の有ること無し。今は、何を以ってか、持戒を好むと言う。
問い、
有る人が、
『持戒』を、
『好まない!』と、
『言う!』ことなど、
『無い!』のに、
今は、
何故、
『持戒』を、
『好む!』と、
『言う!』のですか?
答曰。有如婆羅門著世界法者。言捨家好持戒。是為斷種人。 有る婆羅門の如く、世界法に著する者の言わく、『家を捨てて、持戒を好むは、是れ断種人と為す』と。
答え、
有る、
『婆羅門』のように、
『世界法(世俗法)』に、
『著する!』者は、
こう言っている、――
『家』を捨てて、
『持戒』を、
『好む!』ならば、
是れは、
『種(種族)』を、
『断つ!』、
『人である!』、と。
  世界法(せかいほう):有為有漏の諸法を云う。『大智度論巻8下注:世間法』参照。
  世間法(せけんぼう):梵語loka- dharmaの訳。また世間法に作る。惑業因縁所生の三界有情、非情等一切の法を云い、これ等の諸法は皆有為有漏無常、四諦中の苦、集二諦にして世間法に属す。一切の世間法中、利、衰、毀、誉、称、譏、苦、楽の八者を以って、特に称して八世間法と為し、また八風と称す。<(佛)
  断種人(だんしゅにん):断種は梵語biija-graama-paatanaの訳。種族を殺すの義。一族を断絶させる人を云う。
又以自力得財廣作功德如是有福。出家乞食自身不給。何能作諸功德。如是為呵好持戒。 又自力を以って、財を得、広く功徳を作す、是の如きには福有り。出家し乞食して、自ら身に給せざれば、何ぞ能く、諸の功徳を作さん。是の如きを、持戒を好むを呵すと為す。
又、
こう言っている、――
自らの、
『力』を以って、
『財』を、
『得て!』、
広く、
『功徳』を、
『作す!』、
是のような者には、
『福(福報)』が、
『有る!』が、
『出家』し、
『乞食』して、
自らの、
『身』にすら、
『給しない!』者に、
何うして、
諸の、
『功徳』を、
『作すことができる!』、と。
是のようなものは、
『持戒』を、
『好む!』者を、
『呵した!』のである。
亦有著世界治法道人。呵好自守者言。人當以法治世。賞善罰惡法不可犯。不捨尊親立法濟世所益者大。何用獨善其身自守無事。世亂而不理人急而不救。如是名為呵好自守。 亦た、有る世界の治法に著する道人の、自らを守るを好む者を呵して言わく、『人は、当に法を以って、世を治むべし。善を賞し、悪を罰する法は、犯すべからず。尊親を捨てずして、法を立て、世を済(すく)えば、益する所は大なり。何んが、独り其の身を善くし、自らを守りて事無く、世乱れて理(おさ)めず、人の急なるも救わざるを用いん』、と。是の如きを名づけて、自ら守るを好むを呵すと為す。
亦た、
有る、
『世界(世俗)』の、
『治法(法治)』に、
『著する!』、
『道人』は、
自らを、
『守る!』ことを、
『好む!』者を呵して、
こう言っている、――
『人』は、
当然、
『法(法律)』を以って、
『世』を、
『治めるべき!』であり、
『善を賞()め!』て、
『悪を罰する!』、
『法』は、
『犯すべきでない!』。
『尊き親』を捨てずに、
『法』を立てて、
『世』を、
『済(すく)った!』ならば、
『益する!』所が、
『大きい!』のに、
何故、
独り、
其の、
『身』を、
『善くする!』のみで、
自らを守って、
『事(仕事)』を、
『無くし!』、
『世』が、
『乱れても!』、
『正そうとせず!』、
『人』が、
『急(救いを求める)であっても!』、
『救おうとしない!』のか?と。
是れなどを、
『自ら守る!』ことを、
『好む!』者を、
『呵す!』という。
亦有人呵好不嬈眾生者言。有怨不能報有賊不能繫。惡人不能治。有罪無以肅。不能卻患救難。默然無益何用此為。如是為呵好不嬈眾生。 亦た有る人の、衆生を嬈ませざることを好む者を呵して言わく、『怨有りて、報ゆる能わず、賊有りて、繋(つな)ぐ能わず、悪人を治する能わず、罪有るも、以って粛する無く、患を却(しりぞ)けて難を救う能わず、黙然として、無益なるに、此れを用いて何(いか)に為んや。是の如く、衆生を嬈まさざるを好むを呵すと為す。
亦た、
有る人は、
『衆生』を、
『悩まさない!』ことを、
『好む!』者を呵して、
こう言っている、――
『怨()』が、
『有る!』のに、
『報いられない!』、
『賊(盗賊)』が、
『有る!』のに、
『繋(つな)げられない!』、
『悪い!』、
『人』なのに、
『治められない!』、
『罪』が有る!のに、
『粛す(取り締まる)!』、
『方法』が、
『無い!』、
『患()』を退けて、
『難(災難)』を、
『救うこともできない!』、
『黙然としている!』ことは、
『益』が、
『無い!』のに、
何故、
此れを、
用いるのか?、と。
是れを、
『衆生』を、
『悩まさない!』ことを、
『好む!』者を、
『呵す!』という。
  (しゅく):いましめる。戒。粛清は取り締まって不正を除くをいう。
如說
 人而無勇健  何用生世間 
 親難而不救  如木人在地
如是等種種不善語。名為呵不嬈眾生。
説の如し、
人にして勇健無くんば、何を用ってか世間に生ずる、
親難ずるに救わずんば、木人の地に在るが如し。
是の如き等の種種の不善語を名づけて、衆生を嬈ませざるを呵すと為す。
例えば、
こう説く通りである、――
『人』でありながら、
『勇健』が、
『無い!』者など、
何の為に、
『世間』に、
『生まれてきた!』のだか、
『親』が、
『難儀している!』のに、
『救わない!』者など、
『地』に、
『木人』が、
『在るようなものだ!』、と。
是れ等の、
種種の、
『不善の語』を、
『衆生』を、
『悩ませない!』者を、
『呵す!』というのである。
  木人(もくにん):梵語kaaSTha-puruSaの訳。木造の人の義。
是諸天人皆得好慧持戒自守不嬈眾生。行是善法身心安隱無所畏難。無熱無惱。有好名善譽。人所愛敬。是為向涅槃門。 是の諸の天、人は皆、好慧を得て、持戒して自ら守り、衆生を嬈ませず。是の善法を行ずれば、身心安穏にして、畏るる所の難無く、熱無く、悩無く、好名善誉有りて、人に愛敬せらる。是れを涅槃に向う門と為す。
是の、
諸の、
『天、人』は、
皆、
『好慧』を得て、
『持戒』して、
『自ら』を、
『罪』から、
『守り!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』。
是の、
『善法』を行えば、
『身』も、
『心』も、
『安隠となり!』、
『畏れる!』所の、
『難(災難)』も、
『無く!』、
『熱くなる!』ことも、
『悩む!』ことも、
『無くなり!』、
『好名』も、
『善誉』も、
『有り!』、
『人』に、
『愛されて!』、
『敬われる!』ので、
是れを、
『涅槃』に、
『向う!』、
『門』というのである。
命欲終時見福德。心喜無憂無悔。若未得涅槃。生諸佛世界若生天上。以是故言得好慧持戒自守不嬈眾生
大智度論卷第八
命の終らんと欲する時には、福徳を見て、心喜びて憂無く、悔無く、未だ涅槃を得ざるものも、諸の仏世界に生まれ、若しくは天上に生るれば、是を以っての故に、『好慧を得て、持戒して自ら守り、衆生を嬈ませず』と言えり。
大智度論巻第八
『命』が、
『終ろうとする!』時、
『心』は、
『喜び!』、
『心』には、
『憂(うれい)』も、
『悔(くい)』も、
『無く!』、
若し、
未だ、
『涅槃』を、
『得ていなかった!』としても、
諸の、
『仏』の、
『世界』に、
『生まれ!』、
若しくは、
『天上』に、
『生まれる!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『好慧』を得て、
『持戒』して、
『自ら』を、
『罪』から、
『守り!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』、と。

大智度論巻第八


著者に無断で複製を禁ず。
Copyright(c)2015 AllRightsReserved