【經】爾時世尊出廣長舌相。遍覆三千大千世界。熙怡而笑。從其舌根出無量千萬億光是一一光化成千葉金色寶華。是諸華上皆有化佛結加趺坐。說六波羅蜜。眾生聞者必得阿耨多羅三藐三菩提。復至十方如恒河沙等諸佛世界皆亦如是 |
爾の時、世尊は、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界を覆い、熙怡として笑いたもうに、其の舌根より、無量千万億の光を出す。是の一一の光は化して、千葉の金色の宝華と成り、是の諸の華上には、皆化仏有りて、結加趺坐し、六波羅蜜を説きたまい、衆生の聞きたる者は、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得。復た十方の恒河沙に等しきが如き、諸仏の世界に至ること、皆、亦た是の如し。 |
爾の時、
『世尊』は、
『広長』の、
『舌相』を出して、
遍く、
『三千大千世界』を、
『覆いながら!』、
『熙怡』として、
『笑われる!』と、
其の、
『舌根』より、
是の、
『一一』の、
『光』は化して、
『千葉』の、
『金色』の、
『宝華』と、
『成り!』、
是の、
諸の、
『華』上には、
皆、
『化仏』が有り、
『結加趺坐』して、
『六波羅蜜』を、
『説いていた!』、
『衆生』の、
『聞いた!』者は、
必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』だろう。
復た、
『舌相』は、
『十方』の、
『恒河沙』ほどの、
『世界』に至るまで、
遍く、
『覆った!』のであるが、
皆、
まったく、
是の通りであった。
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熙怡(きい):熙、怡共に和らぎ喜ぶの意。和楽、喜悦。
葉(よう):はなびら。花弁。
結加趺坐(けっかふざ):坐禅時の坐法。『大智度論巻7(下)注:結跏趺坐』参照。 |
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【論】問曰。如佛世尊大德尊重。何以故。出廣長舌似如輕相。 |
問うて曰く、仏、世尊の如きは大徳にして尊重なり。何を以っての故にか、広長の舌を出して、軽相の如きに似せたもう。 |
問い、
『仏世尊』のような、
『大徳』は、
『尊重である!』はずなのに、
何故、
『広長』の、
『舌』を、
『出された!』のですか?
『軽々しい!』、
『相』に、
『似ています!』が。
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大徳(だいとく):梵語婆檀陀bhadantaの訳語。大いに徳行ある者の意。原、これを仏を称する名と為すも、律中に在りては則ち比丘の称と為す。「別訳雑阿含経巻1」に、「新学の比丘、諸比丘に白して言わく、大徳、諸の長老等は皆諸家に往くに、云何ぞ我を遮りて諸家に至らしめざる」と云い、「五分律巻3」に、「一比丘唱えて言わく、大徳僧聴け、この某甲比丘は和合僧を破らんが為に勤方便せり」と云い、また「有部毘奈耶雑事巻19」に、「二種の呼召の事あり、或は大徳と云い、或は具寿と云う。年少の苾芻はまさに老者を喚びて大徳と為すべく、老は少年を喚びて具寿と為すべし」と云えり。これ比丘中の長老を呼びて大徳となせるものなり。また特に仏或は菩薩を称して大徳と喚ぶことあり。「四分僧戒本」に、「毘婆尸、式棄、毘舎、拘留孫、拘那含牟尼、迦葉、釈迦文の諸世尊大徳は、我が為にこの事を説く」と云い、「大智度論巻2」に、「仏は二法満足するが故に一切の人に勝ると称す。余人は一切の人に勝らず。婆伽婆を有徳と名づくることは先に已に説けり。(中略)また婆檀陀と名づく、秦に大徳と言う。また尸梨伽那と名づく、秦に厚徳と言う。(中略)まさに諸天世人の供養を受くべし。かくの如き等は大徳厚徳と名づくることを得」と云い、また「入楞伽経巻9」に、「南大国中に於いて大徳比丘あり、龍樹菩薩と名づく」と云える如きこれなり。また「有部毘奈耶雑事巻38」、「大毘婆沙論巻6」、「異部宗輪論述記」、「翻梵語巻1」等に出づ。<(望)
尊重(そんじゅう):身分が尊く地位が重いの意。
軽相(きょうそう):賎相の意。
広長舌相(こうちょうぜっそう):梵語prabhuuta-jihvataa、またはprabhuuta-tanu-jivataaの訳。広長なる舌相の意。三十二相の一。略して広長舌とも名づく。即ち仏等の舌の軟薄広長なる相を云う。「中阿含巻41梵摩経」に、「広長舌とは、舌、口より出でて遍くその面を覆う。これを尊沙門瞿曇大人大人の相と謂う」と云い、「大般若波羅蜜多経巻573」に、「如来の舌相は軟薄広長にして、赤銅色の如し」と云い、また「観仏三昧海経巻1」に、「如来の広長舌相は、蓮華葉形にして、上色の五画五彩分明に、舌下に十脈あり、衆光流出し、舌相広長にして、遍くその面を覆う」と云い、同巻3に「云何が如来の広長舌相を観ずる。如来の舌はこれ十波羅蜜十善の報得なり。その舌根の下及び舌の両辺に二の宝珠あり、甘露を流注して舌根の上に渧たる。諸天世人と十地の菩薩には、この舌相なく、またこの味なし。舌上の五画は宝印文の如く、かくの如き上味は、印文の中に入りて上下に流注し、琉璃筒に入る。諸仏笑う時、その舌根を動かすに、この味力の故に舌より五光を出し、五色分明なり。仏を繞り七匝して、還って頂より入る。仏は舌を出す時、蓮華の葉の如し。上、髪際に至りて遍く仏の面を覆う。舌の下にまた衆の雑色の脈あり、かくの如き上味は流れて脈中に入る。その味力の故に変じて衆光と成る。十四の色あり、一一の光は上無量の世界を照す」云云と云えるこれなり。これ等は皆仏の舌相は広長にして、もし口よりこれを出さばよくその面を覆うとなすの説なり。「大智度論巻8」に、「この時仏は広長舌を出して、面上を覆うて髪際に至り、婆羅門に語りて言わく、汝経書を見るに、頗(も)しかくの如き舌あるの人にして而も妄語を作すや否やと。婆羅門言わく、もし人舌よく鼻を覆わば言に虚妄なし。何に況んや乃ち髪際に至るをや。我れ心に仏は必ず妄語せざるを信ず」と云うに依れば、広長舌相は即ち不妄語の表象として、古来婆羅門の間に伝えられたるものなるを見るべし。また「阿弥陀経」に、「恒河沙数の諸仏は、各その国に於いて広長舌相を出して、遍く三千大千世界を覆うて、誠実の言を説く」と云い、「摩訶般若波羅蜜経巻1」にも「世尊は広長舌相を出して、遍く三千大千国土を覆うて熙怡微笑し、その舌根より無量千万億の光を放つ」と云えり。これ仏の舌相は時ありて三千大千世界を覆うとなすなり。「大智度論巻8」に、「面を髪際に覆うは小信の為の故なり。今般若波羅蜜の大事興るが為の故に、広長舌相は三千大千世界を覆う」と云い、また「摩訶般若波羅蜜は甚深にして解し難く知り難く、信受すべきこと難し。この故に広長舌を出して証と為す。舌相かくの如くなれば、語は必ず真実なり」と云えり。これに依るに大事には即ち広長舌相を出して、三千大千世界を覆うものなるを知るべし。ただし大智度論にはかくの如くこの相を以って主として不妄語の象徴となすといえども、一面にはまた如来の辯説無窮にして、余人に超越せることを表せしものなるは明らかなり。彼の蘇東坡の悟道偈に「谿声便是広長舌、山色豈非清浄身、夜来八万四千偈、他日如何挙似人」と云えるは、谿声便ち広長舌と体達せる大悟の境を詠じたるものにして、即ち広長舌を説法の声と解したるなり。また「中阿含巻11三十二相経」、「勝天王般若波羅蜜経巻7」、「菩薩地持経巻10」、「大乗百福荘厳経」、「無上依経巻下」、「優婆夷浄行法門経巻下」、「僧伽羅刹所集経巻中」、「大毘婆沙論巻177」、「大智度論巻4」、「十住毘婆沙論巻8」、「瑜伽師地論巻49」、「法華経文句巻10下」等に出づ。<(望) |
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答曰。上三種放光。照十方眾生令得度脫。今欲口說摩訶般若波羅蜜。摩訶般若波羅蜜甚深難解難知難可信受。是故出廣長舌為證。舌相如是語必真實。 |
答えて曰く、上には、三種に光を放ちて、十方の衆生を照らし、度脱せんことを得しめたまえば、今は、口にて摩訶般若波羅蜜を説かんと欲したもう。摩訶般若波羅蜜は甚だ深く、難解、難知にして信受すべきこと難し。是の故に広長の舌を出して、証と為したまわく、『舌相の是の如きは、必ず真実を語る。』と。 |
答え、
上には、
『足下、及び身分』、
『毛孔』、
『常光』の、
『十方』の、
『衆生』を、
『照らす!』ことで、
『衆生』に、
『解脱』を、
『得させられた!』のである。
今は、
『口』に、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説こう!』と、
『思われた!』が、
『摩訶般若波羅蜜』は、
『甚だ深く!』、
『解し難く』、
『知り難い!』ので、
『信受した!』としても、
『可なり!』、
『難しい!』。
是の故に、
『広長』の、
『舌相』を、
『出す!』ことで、
『証拠とされた!』のである、――
『舌相』が、
是のような者は、
必ず、
『真実』を、
『語るのだ!』、と。
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如昔一時佛於舍婆提國受歲竟。阿難從佛遊行諸國。欲到婆羅門城。婆羅門城王。知佛神德能化眾人感動群心。今來到此誰復樂我便作制限若有與佛食聽佛語者。輸五百金錢。作制限後佛到其國。將阿難持缽入城乞食。城中眾人皆閉門不應。佛空缽而出。 |
昔、一時、仏の舎婆提国に於いて、受歳し竟りたまえるが如し。阿難は、仏に従いて、諸国に遊行し、婆羅門城に到らんと欲す。婆羅門城の王は、仏の神徳の能く衆生を化して、群臣を感動せしむることを知り、『今来たりて、此に到らば、誰か復た我れを楽しましめん』として、便ち制限を作さく、『若し、仏に食を与え、仏の語を聴く者有らば、五百金銭を輸(おさ)むべし』と。制限を作せる後、仏、其の国に到りたまい、阿難を将いて、鉢を持し、城に入りて、乞食したもうに、城中の衆人、皆、門を閉ざして、応ぜざれば、仏は鉢を空しうして、出でたまえり。 |
昔、
一時( あるとき)、
『仏』は、
『舎婆提国』で、
『歳』を、
『受けられる!』と、
『阿難』を従えて、
『諸国』を、
『遊行しながら!』、
『婆羅門』の、
『城』の、
『近くまで来られた!』。
『婆羅門城』の、
『王』は、
『仏』の、
『神徳』が、
『衆生』を、
『化導して!』、
『群心』を、
『感動させる!』ことを、
『知り!』、
今、
『仏』が来て、
此の、
『城』に、
『着いた!』ならば、
いったい、
誰が、
わたしを、
『楽しませる!』のか?と、
『思い!』、
是のような、
『制限』を作した、――
若し、
『仏』に、
『食』を、
『与えて!』、
『仏』の、
『語』を、
『聴いた!』ならば、
『五百』の、
『金銭』を、
『払え!』、と。
『仏』が、
其の、
『国』に、
『到着された!』、
『阿難』を将( ひき)いて、
『鉢』を、
『持ち!』、
『城』に入って、
『食』を、
『乞われた!』が、
『城』中の、
『衆人』は、
皆、
『門』を、
『閉ざして!』、
『応じなかった!』ので、
『仏』は、
『空』の、
『鉢』を、
『持ったまま!』、
『城』を、
『出られた!』。
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如昔(にょしゃく):むかし、往時。
受歳(じゅさい):比丘は夏安居の竟る自恣の日(即ち七月十五日)に法臈(ほうろう、比丘としての年齢)に一が加えられる。『大智度論巻3下注:受歳、同巻32下注:安居、自恣』参照。
舎婆提国(しゃばだいこく):舎婆提は梵名zraavastii。憍薩羅(梵kosala)国の王都、城内に祇園精舎あり、此の城内に於いて釈尊は、数乞食せられたりと伝う。『大智度論巻22上注:舎衛国』参照。
遊行(ゆぎょう):梵語gamana(出発)、caryaa(徘徊)、prakraanta(出立)等の訳。遊方行化の意。即ち諸方に遊歴して説法行化するを云う。「長阿含巻1大本経」に、「時に太子即便ち納受し、之と与に遊行して在在教化し、村より村に至り、国より国に至り、所至の処に恭敬して四事供養せられざるなし」と云い、「中阿含巻5師子吼経」に、「世尊、我れ人間に遊行せんと欲す。世尊告げて曰わく、舎梨子、汝欲する所に随って去れ。諸の未だ度せざる者は当に度を得しむべく、諸の未だ脱せざる者は当に脱を得しむべく、諸の未だ般涅槃せざる者は般涅槃を得しむべし」と云えり。是れ仏及び比丘等が人を度せんが為に諸方に遊行せしことを伝うるなり。又「有部毘奈耶出家事巻3」には五夏以上の苾芻にして、有犯を知り、無犯を知り、重罪を知り、軽罪を知り、及び鉢刺底木叉を持して能く宣説する者は人間に遊行し、随処に受学するを得るも、若し未だ五夏に満たざる者は、縦い三蔵に閑うと雖も往きて遊行受学すべからずと云い、又「増一阿含経巻25」には長期の遊行を制し、恒遊行の人に五の艱難あり、一に法教を誦せず、二に所誦の教を妄失し、三に定意を得ず、四に三昧を得るも復た之を忘失し、五に法を聞くも持する能わずと云えり。又遊行を一に飛錫と称することあり。「釈氏要覧巻下」に、「今僧の遊行を飛錫と嘉称す、此れ高僧隠峯が五台に遊び、淮西に出づるに、錫を擲げ空を飛びて往きしに因るなり。西天得道の僧の若きは、往来多くは是れ飛錫なり」と云える是れなり。又「長阿含巻2至4」等に出づ。<(望)
婆羅門城(ばらもんじょう):婆羅門を王と為す城市。
輸(ゆ):おさめる。送る。納入。輸送。税などを納める。
制限(せいげん):さだめる。制止。 |
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是時一家有一老使人。持破瓦器盛臭[泳-永+(米*番)]淀出門棄之。見佛世尊空缽而來。老使人見佛相好金色白毛肉髻丈光缽空無食。見已思惟。如此神人應食天廚。今自降身持缽行乞。必是大慈愍一切故。信心清淨欲好供養無由如願。慚愧白佛。思欲設供更不能得。今此弊食佛須者可取。 |
是の時、一家に一老使人有り、破れたる瓦器に臭き潘淀を盛りたるを持して、門を出で、之を棄てんとし、仏世尊の鉢を空しうして来るを見る。老使人の、仏の相好の金色、白毛、肉髻、丈光と、鉢の空しくして食無きを見るに、見已りて思惟すらく、『此の如き神人は、応に天廚にて食すべきを、今自ら身を降して、鉢を持し、行きて乞いたもうは、必ずや是れ大いに一切を慈愍せられんが故ならん。』と。信心、清浄にして、好んで供養せんことを欲するも、願の如くするに由無く、慚愧して、仏に白さく、『思いは、供を設けんと欲するも、更に得る能わず。今此の弊食を、仏須(もち)いたまわば、取るべし。』と。 |
是の時、
ある家の、
『一老使人』が、
『臭い!』、
『潘淀(米のとぎ汁)』が、
『盛られた!』、
『破れた!』、
『瓦器』を、
『持ち!』、
『門』を出て、
『潘淀』を、
『棄てよう!』としたが、
『仏世尊』が、
『鉢』を、
『空にして!』、
『来られる!』のを、
『見た!』。
『老使人』は、
『仏』の、
『相好』が、
『金色で、白毛であり!』、
『肉髻や、丈光が有る!』のに、
『鉢』が、
見てしまう!と、
こう思惟した、――
此のような、
『神人』は、
『天の廚( くりや)』で、
『食べる!』のが、
『相応しい!』。
今、
自ら、
『身』を降して、
『鉢』を、
『持ち!』、
『歩きながら!』、
『食』を、
『乞うていられる!』のは、
きっと、
是れは、
一切の、
『衆生』を、
『大いに!』、
『慈愍されたからだろう!』と。
『老使人』は、
『相好』を見て、
『信心』が、
『清浄になり!』、
『喜んで!』、
『供養したい!』と、
『思った!』が、
『願い通り!』にする、
『方法』が、
『無い!』、
『慚愧』しながら、
『仏』に、こう白した、――
思い!は、
『供養』を、
『設けたい!』のですが、
他に!は、
『得る!』だけの、
『力がありません!』、
今、
此の、
『粗末な!』、
『食』を、
『仏』が、
『必要とされる!』ならば、
『お取りください!』、と。
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使人(しにん):使用人。
瓦器(がき):瀬戸物の器。
註:[泳-永+(米*番)]淀(はんでん)は、他本には潘澱に作る。共に米のとぎ汁、白水なり。
肉髻(にっけい):頭頂の隆起。三十二相の一。
天廚(てんちゅう):天の廚房。諸天の為の台所。
慈愍(じみん):慈しんであわれむ。慈哀。
信心清浄(しんじんしょうじょう):信に相応する心の清浄なるを云う。『大智度論巻25(下)注:信心』参照。
弊食(へいじき):食うに堪えざる粗末な食。 |
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佛知其心信敬清淨。伸手以缽受其施食。佛時即笑出五色光普照天地。還從眉間相入。 |
仏は、其の心の信敬、清浄なるを知り、手を伸べて、鉢を以って、其の施食を受けたもう。仏は、時に即ち笑いて、五色の光を出し、普く天地を照らしたもうに、還って眉間相より入る。 |
『仏』は、
其の、
『心』の、
『手』を伸ばして!
『鉢』に、
其の、
『施食』を、
『受けられた!』。
『仏』が、
その時、
『笑われる!』と、
『五色』の、
『光』が、
『出て!』、
普く、
『天地』を、
『照らし!』、
還って、
『眉間相』より、
『入った!』。
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信敬(しんぎょう):信じうやまう。 |
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阿難合掌長跪白佛。唯然世尊。今笑因緣願聞其意 |
阿難の合掌し、長跪して仏に白さく、『唯然世尊、今の笑いたもう因縁の、願わくは其の意を聞かしめたまえ。』と。 |
『阿難』は、
『合掌』、
『長跪』して、
『仏』に、こう白した、――
どうか!
世尊!
今、
『お笑いになった!』、
『因縁』は、
何でしょうか?
願わくは、
其の、
『意(こころ)』を、
『お聞かせください!』、と。
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長跪(ちょうき):頭と両肘両膝を地に著けて礼する。
唯然(ゆいねん):ゐゐ然り。ただ然り。希望を伝える語、どうか。 |
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佛告阿難。汝見老女人信心施佛食不。阿難言見。 |
仏の阿難に告げたまわく、『汝は、老女人の信心の仏に食を施せるを見しや、不や。』と。阿難の言わく、『見たり。』と。 |
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
見たか?――
『老女人』の、
『信心』が、
『仏』に、
『食』を、
『施した!』のを。
『阿難』は、
こう言った、――
『見ました!』、と。
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佛言。是老女人施佛食故。十五劫中天上人間受福快樂不墮惡道。後得男子身出家學道。成辟支佛入無餘涅槃。 |
仏の言わく、『是の老女人は、仏に食を施せるが故に、十五劫中に天上人間の福と快楽を受けて、悪道に堕ちず。後に男子の身を得て、出家し、道を学んで、辟支仏と成り、無余涅槃に入らん。』と。 |
『仏』は、
こう言われた、――
是の、
『老女人』は、
『仏』に、
『食』を、
『施した!』が故に、
『十五劫』中、
『天上』や、
『人間』の、
『地獄』や、
『餓鬼』、
『畜生』という、
その後には、
『男子』の、
『身』を、
『得て!』、
『出家』して、
『道』を、
『学び!』、
『辟支仏』と成って、
『無余涅槃』に、
『入る!』だろう、と。
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爾時佛邊有一婆羅門。立說偈言
汝是日種剎利姓
淨飯國王之太子
而以食故大妄語
如此臭食報何重 |
爾の時、仏の辺に有る一婆羅門立ちて、偈を説いて言わく、
汝は是れ日種刹利の姓なる、
浄飯国王の太子なるも、
食を以っての故に大妄語せり、
此の如き臭き食の報の何ぞ重からん、と。
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爾の時、
『仏』の、
『辺』に、
『居た!』、
『一婆羅門』が立って、
『偈』を説いて、こう言った、――
お前は、
『日種』の、
『刹利姓』だろう!
『浄飯』とかいう、
『国王』の、
『太子』のくせに、
『食』の為に、
『大嘘』を、
『吐(つ)いたな!』、
此のような、
『臭い!』、
『食』の、
『報』が、
何うして、
それ程、
『重い!』ものか?と。
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日種(にちしゅ):釈尊の種族。釈迦五姓の一。『大智度論巻3(上)注:日種、仏五姓』参照。
刹利(せつり):王種。印度四姓の一。『大智度論巻32(下)注:刹利、四姓』参照。 |
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是時佛出廣長舌覆面上至髮際。語婆羅門言。汝見經書。頗有如此舌人而作妄語不。 |
是の時、仏は、広長の舌を出して面上を覆い、髪の際に至りて、婆羅門に語りて言わく、『汝は経書に、頗(すこぶ)る此の如き舌の人にして、妄語を作せるもの有りと見たりや、不や。』と。 |
是の時、
『仏』は、
『広長』の、
『舌』を、
『出して!』、
『髪際』まで、
『顔面』を、
『覆う!』と、
『婆羅門』に語って、こう言われた、――
あなたは、
『経書』に、
見たことがありますか?――
此のような、
『舌』の、
『人』は、
しばしば、
『嘘』を、
『吐く!』ことが、
『有る!』、と。
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頗有(はう)多く有る。しばしば有る。疑う詞。 |
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婆羅門言。若人舌能覆鼻言無虛妄。何況乃至髮際。我心信佛必不妄語。不解小施報多如是。 |
婆羅門の言わく、『若し人、舌もて能く鼻を覆わば、言に虚妄無し。何に況んや、乃至髪の際までをや。我が心より信ず、仏は必ず妄語せざるを。解せず、少施の報の多きこと此の如きを。』と。 |
『婆羅門』は、
こう言った、――
若し、
『人』が、
『舌』で、
『鼻』を、
『覆うことができた!』ならば、
『言う!』ことに、
『嘘』は、
『無い!』。
況して、
わたしは、
『心』より、
『仏』は、
絶対に、
是れほど、
『小さい!』、
『施』の、
『報』が、
『多い!』ということが、
『解らない!』のだ、と。
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佛告婆羅門。汝頗曾見世所希有難見事不。 |
仏の婆羅門に告げたまわく、『汝は頗る曽て、希有にして難見なる所の事を見しや、不や。』。 |
『仏』は、
『婆羅門』に、こう告げられた、――
あなたは、
是のような、
『事』を、
しばしば、
見たことがありませんか?――
『世』にも、
『希有であり!』、
『見難い!』ことを、と。
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婆羅門言見。我曾共婆羅門道中行。見一尼拘盧陀樹蔭覆賈客五百乘車。蔭猶不盡。是謂希有難見事也。 |
婆羅門の言わく、『見たり。我れは曽て、婆羅門と共に、道中を行くに、一尼拘盧陀樹の蔭に、賈客の五百乗の車を覆いて、蔭の猶お尽きざるを見る。是れ謂わゆる、希有にして難見の事なり。』と。 |
婆羅門は、
こう言った、――
見たことがある、――
わたしは、
かつて、
『婆羅門』と共に、
『道』中を、
『歩いている!』と、
ある、
『尼拘盧陀樹』の、
『蔭』が、
『賈客』の、
『五百』の、
『乗車』を、
『覆っていながら!』、
『蔭』は、
猶お、
『尽きていない!』のを、
『見たことがある!』。
是れは、
『希有であり!』、
『見難い!』、
『事だ!』と、
『謂えるだろう!』、と。
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尼拘盧陀樹(にくろだじゅ):巨容を呈する樹種の名。『大智度論巻8上注:尼拘律樹』参照。
尼拘律樹(にくりつじゅ):尼拘律nyagrodhaは梵名。また尼俱律、尼俱類、尼拘屢、尼拘律陀、尼拘盧陀、尼拘屢陀、尼俱類陀、尼俱盧陀、尼拘尼陀、尼拘陀、尼俱陀、或は諾瞿陀に作り、無節、縦広、四維、または多根と訳す。学名Ficus indica.榕樹(アコウ)に類せる桑科植物にして、印度各地及び錫蘭に産し、樹幹は端直にして、四周に張れる枝より多くの気根を垂下し、地に達すれば更にこれより根を生じて樹枝を支え、かくの如く漸次四方に延長滋蔓し、樹齢久しきものは大小数千本の気根を有し、面積数町歩の地を覆う。葉は長楕円形にして尖頭を有し、果は無花果に似て大さ拇指頭の如く、熟すれば赤色を呈し、内に無数の種子あり。材は天幕の支柱及び諸器具の横木等に用いらる。「慧林音義巻15」に、「尼拘陀は梵語、西国中の名なり。この樹は端直にして節なく、円満にして愛すべし。地を去ること三丈余にして方に枝葉あり、その子は微細にして柳花樹の如し。唐国にはこの樹なし。これを柳樹と言うは非なり」と云い、また同巻23に「尼拘律樹は、その樹葉柿の葉の如く、子は枇杷子に似たり。子の下に蒂(へた)を承くること柿の如し。然もその種類は老に耐え、諸の樹木に於いて最も能く高大なり」と云えり。また「大智度論巻8」には、仏はこの樹の高大にして樹蔭広く、能く五百の乗車を覆い、而もその種子は小にして芥子の三分の一に過ぎざるを示し、老女が浄信心を以って仏に供養するはその因小なりといえども、能く大果報を得るに比況せられたることを記し、「倶舎論巻6」にはまたこれを異熟因が能く多果を引くに譬説せり。中印度迦毘羅衛城南の尼拘律園は、仏陀成道の後帰郷し、父王等の為に説法せられし故地にして著名なり。また過去七仏中、第六迦葉仏はこの樹を以って道場樹となすなり。また「雑阿含経巻33」、「別訳雑阿含経巻8」、「長阿含巻1大本経」、「中阿含巻28瞿曇弥経」、「増一阿含経巻35」、「罪福報応経」、「無量寿経巻下」、「四分律巻34」、「高僧法顕伝」、「翻梵語巻9」、「大唐西域記巻6」、「玄応音義巻4、巻23、巻25」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻12」、「翻訳名義集巻3」等に出づ。<(望)
賈客(こきゃく):旅商人。隊商。 |
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佛言。此樹種子其形大小。答言。大如芥子三分之一。 |
仏の言わく、『此の樹の種子の、其の形は大なりや、小なりや。』と。答えて言わく、『大なるものも、芥子の如きの三分の一なり。』と。 |
『仏』は、
こう言われた、――
此の、
『樹』の、
『種子』は、
其の、
『形』は、
『大ですか?』、
『小ですか?』、と。
答えて言った、――
『大きい!』ものでも、
『芥子』の、
『三分の一ぐらいだな!』、と。
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佛言。誰當信汝言者。樹大乃爾而種子甚小。 |
仏の言わく、『誰か、当に汝の言を信ずべき者なる。樹の大なること、乃ち爾り、而も種子の甚だ小なるを。』と。 |
『仏』は、
こう言われた、――
誰が、
あなたの、
『言う!』ことなど、
『信じますか?』、
『樹』が、
『それほど!』、
『大きい!』のに、
『種子』は、
『甚だ!』、
『小さい!』などと、と。
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婆羅門言。實爾世尊。我眼見之非虛妄也。 |
婆羅門の言わく、『実に爾り、世尊。我が眼に之を見るに、虚妄に非ざるなり。』と。 |
『婆羅門』は、
こう言った、
実に、
そうだったのだ!
世尊!
わたしは、
『眼』で、
『それを見た!』のだから、
『嘘ではない!』、と。
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佛言。我亦如是。見老女人淨信心施佛得大果報亦如此。樹因少報多。又是如來福田良美之所致也。 |
仏の言わく、『我れも亦た是の如し。老女人の信心を浄めて、仏に施し、大果報を得ることも、亦た此の樹の因の少くして、報の多きが如し。又是れ如来の福田の良美の致す所なり。』と。 |
『仏』は、
こう言われた、――
わたしも、
是れと、
同じように、
見たのです、――
『老女人』が、
『信心』を浄めて、
『仏』に、
『施した!』のも、
亦た、
此の、
『樹』の、
『因』が、
『少ない!』のに、
『報』が、
『多い!』のと、
『同じ!』ことなのです。
又、
『如来』の、
『福田』という、
『良美(善良の美徳)』の、
『致す!』所でもあるのです、と。
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良美(ろうみ):勝れている。
所致(しょち):招く所。授ける所。 |
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婆羅門心開意解。五體投地悔過向佛。我心無狀愚不信佛。 |
婆羅門は心開きて、意解け、五体を地に投じて、過(あやまち)を仏に向かいて、『我が心無状にして、愚かにも仏を信ぜざりき。』と悔ゆ。 |
『婆羅門』は、
『心』が開けて、
『意』が、
『解けた!』ので、
『五体』を、
『地』に、
『投げて!』、
『過( あやまち)』を、
『仏』に向って、こう悔いた、――
わたしは、
『心』に、
『礼法』が、
『無く!』、
『愚か!』にも、
『仏』を、
『信じません!』でした、と。
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五体(ごたい):頭、及び両手両膝。
無状(むじょう):無礼、不作法。亡状。 |
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佛為種種說法。得初道果。即時舉手大發聲言。一切眾人甘露門開如何不出。 |
仏は為に、種種に法を説き、初の道果を得しむれば、即時に手を挙げて、大いに声を発して言わく、『一切の衆人、甘露門開けり、如何が出でざる。』と。 |
『仏』が、
『婆羅門』の為に、
種種に、
『法』を、
『説かれる!』と、
『婆羅門』は、
『初』の、
『道果』を、
『得て!』、
即時に、
『手』を挙げ、
『大声』を発して、
こう言った、――
一切の、
衆人( ひとびと)よ!
『甘露』の、
『門』が、
『開かれた!』のに、
何故、
『出てこないのだ!』、と。
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城中一切諸婆羅門。皆送五百金錢。與王迎佛供養。皆言得甘露味。誰當惜此五百金錢。眾人皆去制限法破。 |
城中の一切の諸の婆羅門は、皆、五百金銭を送りて、王に与え、仏を迎えて供養す。皆の言わく、『甘露味を得たり。誰か当に、此の五百金銭を惜むべき。』と。衆人皆去りて、制限の法破れたり。 |
『城』中の、
一切の、
諸の、
『婆羅門』は、
皆、
『王』に、
『五百の金銭』を、
『支払い!』、
『仏』を、
『出迎えて!』、
『供養する!』と、
皆、
こう言った、――
『甘露』の、
『味』を、
『得る!』というのに、
誰が、
此の、
『五百の金銭』を、
『惜むものか!』、と。
『衆人』が、
皆去り、
『仏』を、
『供養した!』ので、
『制限する!』、
『法』は、
『破れた!』。
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是婆羅門王。亦共臣民歸命佛法。城人一切皆得淨信。如是佛出廣長舌相。為不信者故。 |
是の婆羅門王も、亦た臣民と共に仏法に帰命す。城の人の一切は、皆、浄信を得たり。是の如く、仏の広長の舌相を出したもうは、不信の者の為の故なり。 |
是の、
『婆羅門』の、
『城』の、
『人』は、
一切が、
皆、
『信心』を、
『浄める!』ことが、
『できた!』のである。
是のように、
『仏』は、
『広長』の、
『舌相』を、
『出される!』のは、
『信じない!』者の為に、
『舌相』を、
『出される!』のである。
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帰命(きみょう):梵語南無namasの訳。巴梨namo、凡そ三義有り、一には身命を仏に帰趣する義、二には仏の教命に帰順する義、三には命根を一心の本元に還帰する義なり。総じて信心の至極なるを表する詞なり。<(望)或いは帰依(梵zaraNa)の義なるが如し。『大智度論巻4下注:帰依』参照。 |
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問曰。如為婆羅門出舌相覆面。今舌相光明。何以乃至三千大千世界。 |
問うて曰く、婆羅門の為に、舌相を出して面を覆いたもうが如くんば、今の舌相の光明は、何を以ってか、乃ち三千大千世界に至る。 |
問い、
若し、
『婆羅門』の為に、
『舌相』を出して、
『面』を、
『覆われた!』のであれば、
今の、
『舌相の光明』は、
何故、
『三千大千世界』までも、
『覆った!』のですか?
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答曰。覆面髮際。為小信故。今為般若波羅蜜大事興故。廣長舌相覆三千大千世界。 |
答えて曰く、面を髪の際まで覆いたもうは、小信の為の故なり。今は、般若波羅蜜の大事を興さんが為の故に、広長の舌相もて、三千大千世界を覆いたまえり。 |
答え、
『仏』が、
『面』を、
『髪の際』まで、
『覆われた!』のは、
『小さな!』、
『事』を、
『信じさせる!』為だからである。
今は、
『般若波羅蜜』という、
『大きな!』、
『事』を、
『興す!』為の故に、
『広長』の、
『舌相』で、
『三千大千世界』を、
『覆われた!』。
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問曰。是一城中人。盡得見此覆面舌相猶尚為難。何況今說摩訶般若波羅蜜。一切大會此及他方無量眾集而得盡見。又以人目所睹不過數里。今言遍三千大千世界。無乃大而難信。 |
問うて曰く、是の一城中の人すら、尽くは、此の面を覆える舌相を見るを得んこと、猶尚お難しと為す。何に況んや、今、摩訶般若波羅蜜を説かんとするに、一切の大会には、此(ここ)、及び他方の無量の衆の集まれり、而も尽くが見るを得んをや。又人の目を以って、睹(み)る所は、数里を過ぎず。今、『三千大千世界に遍し』と言わば、無乃(むしろ)大にして、信じ難し。 |
問い、
是の、
『一城』中の、
『人』が、
『尽く!』、
此の、
『面』を、
『覆った!』、
『舌相』を、
『見ることができた!』でしょうか?
尚お、
『難しいのではないか?』と、
『思われます!』。
況して、
今、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説こうとされた!』のですから、
一切の、
『大会』には、
此( ここ)や、
他方の、
無量の、
『衆(ひとびと)』が、
『集まります!』、
いったい、
『尽く!』が、
『見ることができた!』でしょうか?
又、
『人』の、
『目』の、
『見る!』所は、
『数里』に、
『過ぎません!』、
今、
『三千大千世界』を、
『覆う!』と、
『言う!』のは、
むしろ、
『大きすぎて!』、
『信じ難い!』のですが。
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睹(と):みる。見。
無乃(むない):むしろ。すなわち‥‥なからんや。 |
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答曰。佛以方便借其神力。能令一切皆見舌相覆此三千大千世界。若不加神力。雖復十住亦不知佛心。若加神力乃至畜生能知佛心。 |
答えて曰く、仏は、方便を以って、其の神力を借り、能く一切をして、皆に舌相の此の三千大千世界を覆うを見しめたもう。若し神力を加えざれば、復た十住と雖も、亦た仏心を知らざらん。若し神力を加うれば、乃至畜生までも、能く仏心を知らん。 |
答え、
『仏』の、
『方便』を以って、
其の、
『神力』を、
『借りて!』ならば、
一切の、
『大会』の、
『衆』に、
皆、
此の、
『三千大千世界』を、
『覆った!』、
『舌相』を、
『見せることができる!』だろう。
若し、
『神力』を、
『加えなかった!』ならば、
『十住』の、
『菩薩である!』としても、
『仏』の、
『心』は、
『知れない!』が、
若し、
『神力』を、
『加えた!』ならば、
乃至、
『畜生』ですら、
『仏』の、
『心』を、
『知ることができる!』だろう。
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十住(じゅうじゅう):菩薩の位階十種中の最上位。仏に差別無き位の菩薩を云う。『大智度論巻4下注:十住』参照。 |
参考:『大智度論巻40』:『復次有人謂十住菩薩與佛無有差別。如遍吉文殊師利觀世音等。具足佛十力功德等而不作佛。為廣度眾生故。』 |
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如般若波羅蜜後品中說。一切眾人皆見阿閦佛會。與眼作對。 |
般若波羅蜜の後の品中に説くが如きは、一切の衆人は、皆、阿閦仏の会を見るに、眼と対を作せり。 |
『般若波羅蜜』の、
『後の品』中に、こう説く通りである、――
一切の、
一切の、
『衆人』は、
皆、
『眼』を以って、
『阿閦仏』の、
『会』と、
『対した!』のである。
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参考:『摩訶般若波羅蜜経巻20累教品』:『何以故。菩薩摩訶薩善根勝一切聲聞辟支佛故。菩薩摩訶薩自欲得阿耨多羅三藐三菩提。亦示教利喜他人令得阿耨多羅三藐三菩提。阿難。如是菩薩行六波羅蜜。行四念處乃至行一切種智。增益善根若不得阿耨多羅三藐三菩提。無有是處。說是般若波羅蜜品時。佛在四眾中天人龍鬼神緊陀羅摩睺羅伽等。於大眾前而現神足變化。一切大眾皆見阿閦佛。比丘僧圍繞說法。大眾譬如大海水。皆是阿羅漢漏已盡無復煩惱皆得自在得俱解脫心解脫慧解脫。其心調柔譬如大象。所作已辦逮得己利。盡諸有結正智得解脫。一切心心數法中得自在。及諸菩薩摩訶薩無量功德成就。爾時佛攝神足。一切大眾不復見阿閦佛聲聞人菩薩摩訶薩。及其國土不與眼作對。何以故。佛攝神足故。』 |
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亦如佛說阿彌陀佛世界種種嚴淨。阿難言。唯願欲見。佛時即令一切眾會皆見無量壽佛世界嚴淨。見佛舌相亦復如是。 |
亦た仏の、阿弥陀仏の世界の種種の厳浄を説きたもうが如し、阿難の言わく、『唯、願わくは見んと欲す。』と。仏、時に即ち、一切の衆会をして、皆、無量寿仏の世界の厳浄を見しめたもう、と。仏の舌相を見るも、亦復た是の如し。 |
亦た、
『仏』は、
『阿弥陀仏』の、
『世界』の、
種種の、
『厳浄』を、
こう説かれている、――
『阿難』が、
こう言った、――
唯だ、
願わくは、
『見たい!』と、
『思います!』、と。
『仏』は、
その時、
一切の、
『衆会』の、
皆に、
『無量寿仏』の、
『世界』の、
『厳浄』を、
『見させられた!』、と。
『仏』の、
『舌相』を、
『見る!』ということも、
亦た、
まったく、
是の通りなのである。
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厳浄(ごんじょう):厳かに浄められたさま。 |
参考:『無量寿経巻下』:『佛告阿難。汝起更整衣服合掌恭敬。禮無量壽佛。十方國土諸佛如來。常共稱揚讚歎彼佛無著無閡。於是阿難起整衣服。正身西向。恭敬合掌五體投地。禮無量壽佛。白言世尊。願見彼佛安樂國土及諸菩薩聲聞大眾。說是語已。即時無量壽佛。放大光明。普照一切諸佛世界。金剛圍山。須彌山王。大小諸山。一切所有皆同一色。譬如劫水彌滿世界。其中萬物沈沒不現。滉瀁浩汗唯見大水。彼佛光明亦復如是。聲聞菩薩一切光明皆悉隱蔽。唯見佛光明耀顯赫。爾時阿難即見無量壽佛。威德巍巍如須彌山王。高出一切諸世界上。相好光明靡不照耀。此會四眾一時悉見。彼見此土亦復如是。爾時佛告阿難及慈氏菩薩。汝見彼國。從地已上至淨居天。其中所有微妙嚴淨。自然之物為悉見不。阿難對曰。唯然已見。汝寧復聞無量壽佛大音宣布一切世界化眾生不。阿難對曰。唯然已聞。』 |
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佛以廣長舌相。遍覆三千大千世界已。然後便笑。笑因緣如上說。 |
仏は、広長の舌相を以って、遍く三千大千世界を覆い已りて、然る後に便ち笑いたまえり。笑いの因縁は、上に説くが如し。 |
『仏』は、
『広長』の、
『舌相』を以って、
遍く、
『三千大千世界』を、
『覆われる!』と、
その後、
『わだかまることなく!』、
『笑われた!』のであるが、
『仏』の、
『笑われた!』、
『因縁』については、
上に、
『説いた通り!』である。
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問曰。前已出舌相光明。今何以故舌根復放光明。 |
問うて曰く、前に已に、舌相の光明を出したまえり。今は、何を以っての故にか、舌根より、復た光明を放ちたまえる。 |
問い、
前にも、
今は、
何故、
復た、
『舌根』より、
『光明』を、
『放たれた!』のですか?
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註:舌相光明:何の事か意図不明。舌相と光明か?舌相という光明か? |
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答曰。欲令一切得重信故。又以舌相色如珊瑚金光明淨共相發起故。復放光。 |
答えて曰く、一切をして、重ねて信を得しめんと欲したもうが故なり。又舌相の色の珊瑚の如きと、金光明の浄らかなると共に相発起するを以っての故に、復た光を放ちたまえり。 |
答え、
一切に、
『重ねて!』、
『信』を、
『得させたい!』と、
『思われた!』からである。
又、
『珊瑚のような!』、
『舌相』の、
『色』が、
『金色』の、
『光明』と、
共に、
『発起しあう!』だろうと、
『思われた!』が故に、
復た、
『光』を、
『放たれた!』のである。
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復次是諸光明變成千葉金色寶華。從舌相出此千葉金色寶華。光明徹照如日初出。 |
復た次ぎに、是の諸の光明は変じて、千葉の金色の宝華と成る。舌相より、此の千葉の金色の宝華を出すに、光明の徹照すること、日の初めて出づるが如し。 |
復た次ぎに、
是の、
諸の、
『光明』が変じて、
『千葉』の、
『金色』の、
『宝華』と、
『成った!』のであるが、
『舌相』より、
此の、
『千葉』、
『金色』の、
『宝華』が、
『出る!』と、
『光明』は、
『日』が、
『初めて出た!』ように、
『徹し照した!』のである。
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問曰。何以故。光明中變化作此寶華。 |
問うて曰く、何を以っての故に、光明中に変化して、此の宝華を作したまえる。 |
問い、
何故、
『光明』中に、
『変化』して、
此の、
『宝華』と、
『作った!』のですか?
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答曰。佛欲坐故。 |
答えて曰く、仏の、坐らんと欲したもうが故なり。 |
答え、
『仏』は、
『坐ろう!』と、
『思われた!』のである。
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問曰。諸床可坐何必蓮華。 |
問うて曰く、諸の床にも坐りたもうべし。何ぞ、必ずしも蓮華ならんや。 |
問い、
諸の、
『床』に、
『坐ればよい!』のに、
何故、
『蓮華』が、
『必要だった!』のですか?
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答曰。床為世界白衣坐法。 |
答えて曰く、床は、世界の白衣の坐法の為なり。 |
答え、
『床』に、
『坐る!』のは、
『世間』の、
『白衣』の、
『坐法』だからである。
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世界(せかい):梵語路迦lokaの訳。世は遷流の義、謂わく過、現、未時の遷行なり。界は謂わく東西南北の界畔を具するなり。即ち有情の依止する国土なり。また世間とも曰う。間を間隔の義と為す、故に界と義同じ。この二者は有情と国土に於いて通用すも、而も常に言いて国土と為す。「楞厳経巻4」に、「世を遷流と為し、界を方位と為す。汝今まさに知るべし、東西南北、上下を界と為し、過去未来現在を世と為すと」と云い、「名義集巻3」に、「間はこれ界と名異なり義同じ、間はこれ隔別間差、界はこれ界畔分斉なり」と云えるこれなり。<(望)
白衣(びゃくえ):梵語avadaata-vasanaの訳。白色の衣の義。転じて白衣を着するものを云う。即ち在俗の人の称なり。『大智度論巻26下注:白衣』参照。 |
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又以蓮華軟淨。欲現神力能坐其上令花不壞故。 |
又、蓮華の軟浄なるに、神力を現して、能く其の上に坐し、花をして壊れざらしめんと欲したもうを以っての故なり。 |
又、
『蓮華』は、
『軟らかく!』、
『浄らか!』なので、
『神力』で、
其の、
『花』の、
『上に!』、
『坐っても!』、
『花』が、
『壊されない!』ことを、
『現そうとされた!』からである。
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又以莊嚴妙法座故。 |
又、妙法の座を荘厳せんことを以っての故なり。 |
又、
『花』で、
『妙法』を、
『説く!』為の、
『座』を、
『荘厳したい!』と、
『思われた!』からである。
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又以諸華皆小。無如此華香淨大者。人中蓮華大不過尺。漫陀耆尼池。及阿那婆達多池中蓮華。大如車蓋。天上寶蓮華復大於此。是則可容結加趺坐。佛所坐華復勝於此百千萬倍。 |
又、諸の華は、皆小にして、此の華の如く香り、浄らかにして、大なる者無きを以ってなり。人中の蓮華は、大なるものも、尺を過ぎず。漫陀耆尼池、及び阿那婆達多池中の蓮華は、大なるもの車蓋の如し。天上の宝蓮華は、復た此れよりも大なれば、是れ則ち結加趺坐を容(い)るべし。仏の坐したもう所の華は、復た此れに勝ること百千万倍なり。 |
又、
諸の、
此の、
『華』のような、
『香り!』、
『浄らかさ!』、
『大きさ!』の、
『蓮華』は、
『無い!』からである。
『人』中の、
『蓮華』の、
『大きさ!』は、
『一尺』を、
『超えない!』し、
『漫陀耆尼池』や、
『阿那婆達多池』中の、
『蓮華』も、
『大きさ!』は、
『車蓋ぐらい!』である。
『天』上の、
『宝の蓮華』は、
此れより、
『大きい!』が、
是れは、
やっと、
『結加趺坐』を、
『容(い)れられる!』ぐらいであり、
『仏』の、
『坐られた!』、
『華』は、
此れより、
『百千万倍』も、
『勝れている!』のである。
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漫陀耆尼池(まんだぎにち):諸天の浴池の名。『大智度論巻8上注:曼陀吉尼池』参照。
曼陀吉尼池(まんだきちにち):曼陀吉尼は梵名mandaakinii、また摩陀延池、漫陀耆尼池、曼那吉儞池、曼陀枳尼、摩那摩池等に作る。喜馬拉雅山中に位する七湖の一なり。「南伝長老偈経(巴thera-gaathaa)673乃至688偈註」に拠るに、阿若憍陳如は嘗てこの湖付近の六牙(巴chaddanta)森林に住すること十二年、諸象の供養を受け、入滅前に於いて、竹林精舎に至りて釈尊に拝謁し、帰返して後まさに入滅す。「一切経音義巻41」には、曼陀吉尼池を梵語、即ち大龍象王浴池の名となせり。起世経及び立世阿毘曇論に依るに、皆この池は瞻部州大雪山の北に在り、善住象王所浴の所なりと説く。並べて経意に依りて推測するに、曼陀吉尼池はまさに諸天の浴池なるべし。また「十誦律巻26」等に出づ。<(望)
阿那婆達多池(あなばだったち):『大智度論巻7(下)注:阿耨達池』参照。 |
参考:『十誦律巻26』:『佛故在毘耶離國。是時飢餓乞食難得。有一居士。請佛及僧明日食。佛默然受。知佛受已。從坐起頭面禮佛足而歸。具種種多美飲食。時國吉日。清晨眾僧大得豬肉乾飯。諸比丘受思惟欲噉。居士供具已辦敷床座。遣人白佛時到。是時僧入其舍。佛自房住迎食分。僧坐訖。自行澡水下食。食已澡漱攝缽。持一小床坐僧前欲聽說法。上座說法已次第而出。諸比丘食訖不受殘食法。小食先受在精舍內。不知云何。以是事白佛。佛言。從今日聽如是飢餓時。比丘若食竟小食先受。不受殘食法聽噉。何等受小食。諸比丘早起受而不食是也。佛故在毘耶離。是時飢餓乞食難得。有一居士。請佛及僧明日食。佛默然受。知佛受已。從坐起頭面禮佛足還家。具種種餚膳辦已敷床褥。遣人白佛時到。爾時僧入其舍。佛自房住迎食分。居士白眾僧。大德是施早辦。僧等飽食。殘可持去須臾更食。諸比丘食飽。如居士言持殘食去。諸比丘食竟不受殘食法。所持殘食不知當云何。是事白佛。佛言。從今日聽飢餓時食竟持殘食去。若不受殘食法而食。何等是持食去。諸比丘食竟持殘食去。是名持食去食。有仙人字雞泥耶。取木果奉佛。佛言。雞泥耶。與僧作分。彼即與諸比丘。諸比丘言。我曹食竟不受殘食法。諸比丘不知云何。是事白佛。佛言。從今日飢饉時。諸比丘若食竟不受殘食法聽食。木果若胡桃栗枇杷。更有如是種種木果。是一切聽食。長老舍利弗熱血病。藥師語言。應食池物。舍利弗言。佛未聽我食池物。白佛。佛言。從今日聽食池物。長老大目犍連。至漫陀耆尼池中取藕。大如人髀極美。如淳淨白蜜。其汁如乳。以授舍利弗。舍利弗問。何處得來。目連言。至漫陀耆尼池中得來。舍利弗言。是池非人處。何誰授汝。目連言。非人授我。舍利弗言。佛未聽我非人授食噉。白佛。佛言。諸比丘從今日非人授聽食。是池物多得來。食殘與諸比丘。諸比丘不受。諸比丘言。我食竟不受殘食法。諸比丘不知云何。白佛。佛言。從今日飢餓時聽。諸比丘食竟。不受殘食法聽敢池物。何等池物。若蓮根蓮子菱芡雞頭子。如是種種池物聽食』 |
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又如此華華臺。嚴淨香妙可坐。 |
此の華の華台の如きは、厳浄の香妙なれば坐るべし。 |
又、
此の、
『華』の、
『華台』は、
『厳かで!』、
『浄らかな!』、
『香』が、
『妙なので!』、
『坐る!』のには、
『適しており!』、
『相応しい!』。
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華台(けだい):華のうてな。台は高殿、即ちウテナなり。 |
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復次劫盡燒時一切皆空。眾生福德因緣力故。十方風至相對相觸能持大水。 |
復た次ぎに、劫尽きて焼くる時、一切は、皆空し。衆生の福徳の因縁の力の故に、十方の風至りて、相対し、相触れて能く大水を持(たも)つ。 |
復た次ぎに、
『劫』の、
『尽きて!』、
『焼ける!』時、
一切は、
皆、
『空しくなる!』が、
『衆生』の、
『福徳』の、
『因縁』の、
『力』の故に、
『十方』より、
『風』が起り、
『対しあい!』、
『触れあって!』、
『大水』を、
『保持する!』ことが、
『可能となった!』。
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水上有一千頭人二千手足。名為韋紐。是人臍中出千葉金色妙寶蓮花。其光大明如萬日俱照。 |
水上に、一千頭の人の二千の手足なる有り、名づけて韋紐と為す。是の人、臍中より、千葉の金色の妙宝の蓮花を出す。其の光の大明なること、万の日の倶(とも)に照らすが如し。 |
『水』上に、
『一千の頭』と、
『二千の手足』の、
『人』がいて、
『韋紐』と、
『呼ばれていた!』。
是の、
『人』の、
『臍』中より、
『千葉』、
『金色』、
『妙宝』の、
『蓮花』が、
『出た!』が、
其の、
『光』の、
『大明』は、
『一万の日』が、
『照らす!』ようであった。
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韋紐(いちゅう):天名。印度神話上の創造神の名。また毘瑟笯等に作る。『大智度論巻8上注:毘瑟笯天』参照。
毘瑟笯天(びしぬてん):毘瑟笯viSNuは梵名。また毘瑟怒、毘捜紐、毘痩紐、尾瑟努、微瑟紐、吠史怒、吠卒怒、毘紐、毘細、毘留、韋紐、韋糅、葦紐、違紐、違細に作る。遍聞、遍勝、遍入、遍浄、或は幻惑と訳し、また一に訶梨hariとも称す。印度教の一派に於いて、宇宙創造の最高神格として崇祀する神を云う。元と太陽神にして、「利倶吠陀Rgveda,I,154
ヴィシヌ讃歌」には、この天は三歩を以って宇宙を闊歩し、その住所は高天に在り、甘露amRtaの泉涌出し、諸神及び祖霊はその中に住して享楽すと云えり。後恩寵の神として漸次広く崇拝せられ、梵書時代に及びて時に至上神となり、仏陀時代には既に大神と認められしものの如く、「雑阿含経巻49」に、毘痩紐veNDu天子は容色絶妙にして、身より諸の光明を放ち、仏所に詣りて如来を嘆美せしことを記せり。後マハーブハーラタmahaabhaarataに至り、梵天brahmanを創造神、湿婆zivaを破壊神となすに対し、毘瑟笯を以って護持神とし、この三神は一体三分trimuurtiにして、唯一実在の顕現に外ならざるものとなし、而も最初は湿婆と共に梵天の下位に在りしも、遂に至上神として梵天と同視せられ、これより湿婆を主神とする湿婆派zaivaに対し、毘瑟笯派vaiSNavaと称して印度教Hinduism中の一大分派となり、また時に湿婆と合祀せられてハリハラhari-
haraと併称せらるるに至れり。「大智度論巻10」に「毘紐天言わく、世間に大富貴名聞の人あり、皆これ我が身の威徳力の分なり。我れ能く世間を成就し、また能く世間を破壊す。世間の成壊は皆これ我が作なり」と云い、「雑譬喩経」に、「劫尽き焼く時一切皆空なり。衆生の福徳因縁力の故に十方より風至り、風風相次ぎて能く大水を持す。水上に一千頭の人あり、二千の手足あり、名づけて違細と為す。この人の臍中より千葉金色の蓮華を生じ、その光は大に明にして万日の倶に照すが如し。華中に人ありて結跏趺坐す、この人にまた無量の光明あり、名づけて梵天王と為す。心より八子を生じ、八子より天地人民を生ず」と云えるは、毘瑟笯を以って梵天の母とし、これを宇宙創造の至上神となせるものにして、即ちマハーブハーラタの説を伝えたるものというべし。またこの天の配偶神ラクシュミーlakSmiiと倶にヴァイクントハvaikuNThaと名づくる天国に住し、胸に輪相あり、四臂に螺貝、輪状武器、蓮華、及び棍棒を持ち、また身に弓、及び剣を帯び、腕と胸とに宝石を飾り、金翅鳥garuDaを御して、広く衆生を救度すと称せられ、「大智度論巻2」にもこれを伝えて、「韋紐天(秦に遍聞と言う)の如きは四臂に貝を捉り、輪を持して金翅鳥に騎る」と記し、「玄応音義巻23毘瑟笯天」の項には「この天は大威徳あり、金翅鳥に乗じて行く。行く時輪ありて以って前導を為し、破らんと欲せば即ち破り、能く当るものあることなし」と云えり。またこの天は屡地上に化現し、魚、鼈、野猪、人獅子となり、また矮人、斧羅摩parzu-
raama、羅摩raamaとなり、またクリシュナkRSNaとなり、また仏陀buddhaとなりて、毎に人類の苦難を救い、その末期にはまたカルキkalkiとなりて化現し、再び地上に正法を建立すべしと信ぜられたり。これ謂わゆる毘瑟笯の十大権化の説なり。またこの天の有する諸種の功徳を表せんが為に、真実者satya、不滅者acyuta、生命praaNa、医師vaidya、友suhRd、父pitR、恩寵者priyakRt、世界の薬bheSajaMjagatas、聖中の聖者pavitraM
pavitraaNaam等の異名を附し、マハーブハーラタにはまたその一千名を出し、「大日経疏巻10」にも、「毘紐天には衆多の別名あり、即ち是れ那羅延天の別名なり」と云えり。近時荻原雲来氏は阿弥陀amita仏の名は阿蜜㗚多amRta
即ち甘露の転化にして、且つ其の浄土なる須摩提suhaamatii (即ち極楽sukhaavatii)の称は、有甘露の義なるamRtavatii
より転じたるものなりとし、甘露は毘瑟笯の天国に涌出すると伝えらるるに基づき、阿弥陀仏思想を以って此の天に起原すとなsh、エリオットCharles
Eliot は、亦毘瑟笯の権化クリシュナの信仰は阿弥陀仏及び其の脇侍なる観音の信仰に類似せるものあるを指摘し、粗ぼ同時代に興起せし信仰なるべしとなせり。又バンダーカルBhandarkarに依るに、西暦三四世紀の頃、刹帝利種中よりヴァースデーヴァvaasudeva
(即ち婆数天)出でて、唯一神バガヴァットbhagavat の崇拜を創唱し、後其の徒バガヴァット派は遂に彼の婆数天を神格視し、之を那羅延、クリシュナ等と共に毘瑟笯の権化となすに及び、毘瑟笯天の崇拜は益盛なるに至れりと云えり。「玄応音義巻22」に毘瑟笯を婆数天の別名となせるは、蓋し此の消息を伝うるものなるが如し。後西暦第十一世紀以後、毘瑟笯派はラーマーヌジャraamaanuja 等の多数の分派を生じ、現今は印度教中最も有力なる宗派として土民の間に行われつつあり。又「金光明最勝王経巻9」、「仏母大孔雀明王経巻中」、「大日経巻1」、「大智度論巻8」、「中論巻1」、「百論巻上」、「玄応音義巻12、巻25」、「慧林音義巻6、巻26、巻35、巻45」等に出づ。<(望) |
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華中有人結加趺坐。此人復有無量光明。名曰梵天王。此梵天王心生八子。八子生天地人民。 |
華中にも、人有り、結加趺坐す。此の人にも、復た無量の光明有り、名づけて梵天王と曰う。此の梵天王の心より、八子を生じ、八子は、天地の人民を生ず。 |
『華』中にも、
此の、
『人』にも、
復た、
無量の、
『光明』が有り、
『梵天王』と、
『呼ばれた!』。
此の、
『梵天王』の、
『八子』は、
『天』と、
『地』との、
『人民』を、
『生んだ!』。
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梵天王(ぼんてんおう):色界初禅大梵天の主。また大梵天とも称す。『大智度論巻8上注:大梵天』参照
大梵天(だいぼんてん):大梵は梵名摩訶梵mahaa- brahman。また大梵天王、大梵王、大梵、梵天王、梵天、或は梵王と称す。梵はまた具さに梵覧摩、婆羅賀磨、勃嚂摩、或は梵摩に作り、寂静、清浄、浄潔、浄行、高浄、或は離欲と訳す。一に娑婆世界主brahmaa
sahaaMpati、世主天、或は梵童子brahmaa sanaMkumaaraとも名づく。色界初禅の頂に住する天なり。「長阿含巻14梵動経」に、「或はこの時、この劫初めて成ずるあり、余の衆生あり福尽き命尽き行尽き、光音天より命終して空の梵天中に生ず。便ち彼の処に於いて愛著の心を生じ、また余の衆生の共にここに生ぜんことを願う。この衆生既に愛著の願を生じおわるに、また余の衆生ありて命行福尽き、光音天に於いて命終して空の梵天中に来生す。その先に生まれたる衆生便ちこの念を作す、我れこの処に於いてこれ梵なり大梵なり。我れ自然に有り、能く我れを造る者なし。我れ尽く諸義を知り、千世界を典る。中に於いて自在にして最も尊貴と為す。能く変化を為し、微妙第一にして衆生の父たり。我れ独り先に有り、余の衆生は後に来る。後来の衆生は我れの化成する所なりと。その後の衆生またこの念を作す、彼れはこれ大梵なり、彼れ能く自ら造る。彼れを造る者なし」と云い、同巻16堅固経に「彼の梵天、比丘に報じて言わく、我れ四大は何に由りて永く滅するか知らず。今大梵天王あり、能く勝る者なく、千世界を統べ、富貴尊豪にして最も自在を得、能く物を造化す。これ衆生の父母なり。彼れ能く四大は何に由りて永く滅するかを知れり」と云い、「雑阿含経巻44」に、「瞿迦梨言わく、汝はこれ誰ぞ。梵天答えて言わく、娑婆世界の主梵天なり」と云えり。これ大梵天は自主独存にして一切衆生を生成し、千世界を統領すとなすの説なり。按ずるに大梵天は梵書時代以来の神格にして、爾後婆羅門によりて最も尊崇せられたる主神なり。蓋し印度に於いて利倶吠陀時代の末期には、祈祷主神brahmaNas-
patiを以って至上神となし、これを宇宙生成の原理となしたりしも、梵書時代の初めに至り生主神prajaapatiを最高神となし、尋いでまた梵の崇拝起り、即ち祈祷主神より進化せし神格にして、初め生主神の子としてその下位に在りしが、漸次勢力を得、後遂に生主神に代りて世界創造の原理となるに至れり。即ち宇宙は初め梵そのものなりしも、後梵は欲望を起して三界一切の万物を造り、諸神を以ってこれに配し、且つ自らその中に入りてこれを主宰し、また万物は凡べて皆梵に還入すべきものとなせり。後優波尼沙土時代に及びて、実有satya、知jJaana、妙楽aananda等の性能を備えたる唯一常住独存の絶対的原理として考察せられ、また我aatmanと同視せられて、謂わゆる梵我一如の説を生じ、優波尼沙土の中心思想をなすに至れり。蓋し梵は中性原理brahmanとして宇宙生成の説明原理たると同時に、またこの原理の顕現としての男性人格神brahmanの特質あり。これ謂わゆる梵天なり。優波尼沙土の主眼となせしも、而もまた梨倶吠陀以来の神格の影響を受け、これを人格神となさんとするの傾向を有し、遂に天界に数段の階層を分ち、彼の人格神たる大梵天をその最頂に置き、漸次他化自在天等の諸天をその下位に列せり。而してまた大梵天所在の世界を梵界brahma-
lokaと名づけ、その中に梵衆天brahma- paariSadya、梵輔天brahma- purohita等ありとし、これを総じて梵身天brahma-
kaayika、或は梵世天と称せり。然るに仏陀以前に一部の非婆羅門の間に於いて光音天等の思想を生じ、これを梵界に加上し、尋いでまたマハーブハーラタ時代に至り一体三分trimuurtiの説起こり、梵天brahmaaを以って毘瑟笯viSNu、湿婆zivaの二神と同体なりとし、而も最初に於いて梵天はその首位に在りしも、後遂に他の二神の下風に立つに至れり。彼の「外道小乗涅槃論」に、「摩醯首羅師はかくの如き説を作す、果はこれ那羅延の所作、梵天はこれ因にして摩醯首羅と一体三分なり。謂わゆる梵天、那羅延、摩醯首羅なり」と云い、また「大智度論巻8」に、「劫尽き焼かるる時、一切皆空なり。衆生の福徳因縁力の故に十方より風至り、相対相触して能く大水を持す。水上に一千頭の人あり、二千の手足あり、名づけて韋紐と為す。この人の臍中より千葉金色の妙宝蓮華を出し、その光大に明にして万日の倶に照す如し。華中に人ありて結跏趺坐す。この人にまた無量の光明あり、名づけて梵天王と曰う。この梵天王の心より八子を生じ、八子より天地人民を生ず」と云えるは、即ち梵天を以って摩醯首羅mahezvara、若しくは韋紐viSNuの下位に在りて世界万物を生成すとなすの意なるを見るべし。また仏教に於いては三界の説を唱え、これ等外道の諸天を欲色二界に配し、梵界を色界の初禅となし、これに三処、或は四処の別ありとなせり。「長阿含経巻20忉利天品」に、「色界の衆生に二十二種あり。一には梵身天、二には梵輔天、三には梵衆天、四には大梵天なり」と云い、「大智度論巻9」に、「梵世天とは生処に三種あり。一には梵衆天、諸の小梵の生処なり。二には梵輔天、貴梵の生処なり。三には大梵天、これを中間禅生処と名づく」と云えり。また阿含及び諸大乗経中には梵天は仏の為に教化せられ、また仏の説法を勧請し、毎にその会座に参じて法を聴受し、並びに仏等と法義を問答し、また帝釈と共に仏の付属を受けて国土を護持すとなせるもの甚だ多し。また「長阿含経巻1、巻4、巻5、巻11乃至13」、「中阿含経巻19、巻34」、「雑阿含経巻4、巻44」、「増一阿含経巻10、巻45」、「道行般若経巻3」、「大方等大集経巻51、巻55」、「普曜経巻7」、「大悲経巻1」、「方広大荘厳経巻10」、「法華経巻1」、「旧華厳経巻1」、「仏本行集経巻32、巻33」、「衆許摩訶帝経巻7」、「賢愚経巻1」、「義足経巻下」、「陀羅尼集経巻11」、「四分律巻32」、「五分律巻15」、「有部毘奈耶雑事巻38」、「大智度論巻9、巻35、巻38」、「大毘婆沙論巻98」、「雑阿毘曇心論巻2」、「立世阿毘曇論巻7」、「瑜伽師地論巻12、巻14」、「倶舎論巻8」、「順正理論巻21」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻12」等に出づ。<(望) |
参考:『雑譬喩経(比丘道略集)』:『劫盡燒時一切皆空。眾生福德因緣力故十方風至。風風相次能持大水。水上有一千頭人二千手足名為違細。是人臍中生千葉金色蓮華。其光大明如萬日俱照。華中有人結加趺坐。此人復有無量光明。名為梵天王心生八子。八子生天地人民。是梵天王於諸婬瞋已盡無餘。以是故言。若有人修禪淨行斷除婬欲。名為行梵道。佛轉法輪或名梵輪。是梵天王坐蓮花上。是故諸佛隨世俗故。於寶蓮花上結加趺坐。說六波羅蜜。聞此法者必至阿耨多羅三藐三菩提』 |
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是梵天王於諸婬瞋已盡無餘。以是故言。若有人修禪淨行斷除婬欲。名為行梵道。佛轉法輪或名法輪或名梵輪。 |
是の梵天王は、諸の婬、瞋に於いて已に尽くして、余無し。是を以っての故に言わく、『若し有る人、修禅、浄行して婬欲を断除せば、名づけて梵道を行ずと為し、仏の法輪を転じたもうに、或いは法輪と名づけ、或いは梵輪と名づく。』と。 |
是の、
是の故に、
こう言われている、――
若し、
有る人が、
『修禅』、
『浄行』して、
『婬欲』を、
『断除した!』ならば、
『梵( 梵天王)』の、
『道』を、
『行う!』という。
又、
『仏』の、
『転じられる!』、
『法輪』は、
或いは、
『法輪』とも、
『称する!』し、
或いは、
『梵輪』とも、
『称する!』、と。
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是梵天王坐蓮華上。是故諸佛隨世俗故。於寶華上結加趺坐。說六波羅蜜。聞此法者畢至阿耨多羅三藐三菩提。 |
是の梵天王は、蓮華上に坐す。是の故に、諸仏は、世俗に随うが故に、宝華上に結加趺坐して、六波羅蜜を説きたまい、此の法を聞く者は、畢(つい)に阿耨多羅三藐三菩提に至る。 |
是の、
『梵天王』は、
『蓮華』上に、
『坐っている!』が、
是の故に、
諸の、
『仏』は、
『世俗』に、
『随われる!』が故に、
『宝華』上に、
『結加趺坐』して、
『六波羅蜜』を、
『説かれる!』のであり、
此の、
『法』を、
『聞いた!』者は、
畢竟じて、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至る!』のである。
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問曰。釋迦文尼佛。化作無量千萬億諸佛。云何一時能說法耶。如阿毘曇說。一時無二心。若化佛語時化主應默。化主語時化亦應默。云何一時皆說六波羅蜜。 |
問うて曰く、釈迦文尼仏は、無量千万億の諸仏を化作したもうに、云何が、一時に、能く法を説きたもうや。阿毘曇に説くが如きは、『一時に二心無し。』と。若し化仏の語る時なれば、化主は、応に黙すべし。化主の語る時には、化は亦た応に黙すべし。云何が、一時に、皆、六波羅蜜を説く。 |
問い、
『釈迦文尼仏』は、
『無量千万億』の、
諸の、
『仏』を、
『化作された!』が、
是の、
諸の、
『化仏』は、
何故、
『一時』に、
『法』を、
『説くことができた!』のですか?
『阿毘曇』などには、
こう説いています、――
『一時』に、
『二心』は、
『無い!』、と。
若し、
『化仏』が、
其の、
『時』に、
『語られていた!』ならば、
『化主』は、
当然、
『黙っていられる!』はずであり、
『化主』が、
其の、
『時』に、
『語られていた!』ならば、
『化仏』は、
亦た、
当然、
『黙っていられる!』はずです。
何故、
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参考:『阿毘曇毘婆沙論巻5』:『如摩訶僧祇部說二心俱生。為止如是意故作此論。復次或有說者。言因緣無體性。今欲分明因緣體性故作此論。頗有二心展轉相因耶。答曰。無耶。所以者何。無有一人前後二心俱生。復有說者。言前者諸過去心無二俱生者。言後者諸未來心無二俱生者。是故答言。一人前後二心不俱生。復有說者。言前者除過去世。言後者除未來世。不俱者欲明現在一剎那無二心俱生。若作是說。無有一人前後二心俱生。此則止二心俱生者意。次作是說。非未來心與前心因。此則止後與前作因者意。復有說者。若作是說。無有一人前後二心俱生。此則止相應共有因義。次作是說。非未來心與前心因。此則止相似因一切遍因報因義。此中依五因作論故。答曰。無若依六因作論者。應答言有。以有所作因故。如二心二受二想二思二觸二作意二解脫二念二定二眼乃至二身二命根二身種類。如是等則無展轉因義』 |
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答曰。如此說者外道及聲聞變化法耳。如佛變化無量三昧力不可思議。是故佛自語時。無量千萬億化佛亦一時皆語。 |
答えて曰く、此の如く説くは、外道、及び声聞の変化の法なるのみ。仏の変化の如きは、無量の三昧の力にして、不可思議なり。是の故に、仏の自ら語りたもう時には、無量千万億の化仏も、亦た一時に、皆語るなり。 |
答え、
此の、
『阿毘曇』に、
『仏』の、
『変化』というものは、
『無量』の、
『三昧』の、
『力』であり、
『不可思議』の、
『法』である。
是の故に、
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又諸外道及聲聞化不能作化。如佛世尊化復作化。 |
又、諸の外道、及び声聞の化は、化を作すこと能わざるも、仏世尊の化の如きは、復た化を作す。 |
又、
諸の、
『外道』や、
『声聞』の、
『仏世尊』の、
『化』は、
復た、
『化』を、
『作ることができる!』。
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諸外道及聲聞。滅後不能留化。如佛世尊自身滅度後。復能留化如佛無異。 |
諸の外道、及び声聞は滅後に、化を留むる能わざるも、仏、世尊の如きは、自身の滅度の後にも、復た能く、化を留めて、仏の如く異なること無し。 |
諸の、
『外道』や、
『声聞』は、
『仏世尊』などは、
自ら、
『身』が、
『滅度した!』後にも、
復た、
『化』を、
『留められる!』のであり、
其の、
『化』は、
『仏にそっくり!』で、
『異が無い!』。
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復次阿毘曇中。一時無二心今佛亦如是。當化語時亦不有心。佛心念化欲令化語即便皆語。 |
復た次ぎに、阿毘曇中の、一時に二心無きこと、今の仏も、亦た是の如く、当に化の語る時、亦た心有るべからず。仏は、心に化を念じて、化をして語らしめんと欲したまえば、即便ち、皆語る。 |
復た次ぎに、
『阿毘曇』中の、
今、
『仏』も、
是のように、
『化』の、
『語る!』
『時』には、
『化』の、
『心』は、
『有るはずがない!』。
『仏』が、
『心』に、
『化』を、
『念じて!』、
『化』に、
『語らせよう!』と、
『思われる!』と、
『化』が、
『爾の通り!』に、
『語る!』からである。
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問曰。佛今欲說般若波羅蜜。何以令化佛說六波羅蜜。 |
問うて曰く、仏は、今、般若波羅蜜を説かんと欲したもうに、何を以ってか、化仏をして、六波羅蜜を説かしめたもう。 |
問い、
『仏』は、
今、
『般若波羅蜜』を、
『説こう!』と、
『思われた!』のに、
何故、
『化仏』に、
『六波羅蜜』を、
『説かせられた!』のですか?
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答曰。是六波羅蜜。及般若波羅蜜。一法無異。 |
答えて曰く、是の六波羅蜜、及び般若波羅蜜は、一法にして異なり無し。 |
答え、
是の、
『六波羅蜜』と、
『般若波羅蜜』とは、
『一法であり!』、
『異が無い!』。
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是五波羅蜜不得般若波羅蜜。不名波羅蜜。如檀波羅蜜。不得般若波羅蜜。沒在世界有盡法中。或得阿羅漢辟支佛道般涅槃。若得般若波羅蜜。共合是名波羅蜜。能至佛道。以是故般若波羅蜜。與六波羅蜜一法無異。 |
是の五波羅蜜は、般若波羅蜜を得ずんば、波羅蜜と名づけず。檀波羅蜜の如きも、般若波羅蜜を得ずんば、世界の有尽の法中に没在し、或いは阿羅漢、辟支仏道を得て般涅槃せん。若し般若波羅蜜を得れば、共に合して、是れを波羅蜜と名づけ、能く仏道に至る。是を以っての故に般若波羅蜜と、六波羅蜜とは一法にして、異なり無し。 |
是の、
『五波羅蜜』は、
『般若波羅蜜』を得なければ、
『波羅蜜』と、
『呼ばれない!』し、
『檀波羅蜜』なども、
『般若波羅蜜』を得なければ、
『世界』という、
『有尽』の、
『法』中に、
『没する!』のである。
或いは、
『阿羅漢』や、
『辟支仏道』を得て、
『般涅槃した!』としても、
若し、
『般若波羅蜜』を得たならば、
『共に!』、
『合する!』ことになり、
是れを、
『波羅蜜』と呼んで、
『仏』の、
『道』に、
『至ることができる!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜』と、
『六波羅蜜』とは、
『一法であり!』、
『異が無い!』のである。
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有尽(うじん):有限の意。
没在(もつざい):埋没の意。 |
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般若波羅蜜有二種。一者莊嚴。二者未莊嚴。如人著好瓔珞莊嚴其身。有人不著名未莊嚴。亦如國王將諸官從。是名王來。若無官從是名獨身。 |
般若波羅蜜には、二種有り、一には荘厳し、二には未だ荘厳せず。人の好き瓔珞に著して、其の身を荘厳するが如く、有る人は著せざれば、未だ荘厳せずと名づく。亦た国王の、諸の官従を将いれば、是れを王来たると名づけ、若し官従無くんば、是れを独身と名づくるが如し。 |
『般若波羅蜜』には、
『二種』有り、
一には、
『六波羅蜜』で、
『荘厳されており!』、
二には、
『荘厳されていない!』。
譬えば、
『人』は、
好もしい!、
『瓔珞』を、
『著けて!』、
其の、
『身』を、
『荘厳する!』ものであるが、
有る、
『人』が、
『瓔珞』を、
『著けていない!』と、
未だ、
『荘厳しない!』と、
『言われる』のと、
『同じである!』、
亦た、
『国王』などは、
諸の、
『官従(官人と従者)』を、
『将(ひき)いている!』ので、
是れを、
『王が来た!』と、
『称する!』のであるが、
若し、
『官従』が、
『無ければ!』、
是れを、
『独身( ひとりもの)が来た!』と、
『称する!』のと、
『同じである!』。
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官従(かんじゅう):官吏と侍従。
独身(どくしん):単身。 |
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如是東方如恒河沙等世界。乃至十方亦爾。 |
是の如きは、東方の恒河沙に等しきが如き世界、乃至十方も、亦た爾り。 |
是のように、
『東方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『世界』や、
乃至、
『十方』も、
亦た、
爾の通りである。
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問曰。若佛有如是大神力。無數千萬億化佛。乃至十方說六波羅蜜。度脫一切應盡得度不應有殘。 |
問うて曰く、若し仏に、是の如き大神力有りて、無数千万億の化仏の、乃至十方に六波羅蜜を説きて、一切を度脱したまえば、応に尽く度を得べく、応に殘り有るべからず。 |
問い、
若し、
『仏』に、
無数千万億の、
『化仏』が、
乃至、
『十方』に、
『六波羅蜜』を、
『説かれており!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱されている!』のであれば、
当然、
『尽く!』が、
『度』を、
『得たはず!』であり、
『殘』は、
『有るはずがない!』。
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答曰。有三障。三惡道中眾生不能解知。人中天上若大小若大老若大病。及上無色無想天。皆不能聞不能知 |
答えて曰く、三障有り。三悪道中の衆生は、解知する能わず。人中、天上の、若しは大いに小(おさな)き、若しは大いに老いたる、若しは大いに病める、及び上の無色無想天は、皆、聞くこと能わず、知ること能わず。 |
答え、
『三障』が有り、
『三悪道』中の、
『衆生』は、
『理解することも』、
『識知することもできない!』。
『人』中や、
『天』上の、
『大いに幼い!』者や、
『大いに老いた!』者、
『大いに病んだ!』者、
及び、
上の、
『無色界』の、
『無想天』も、
皆、
『聞くこともできず!』、
『知ることもできない!』。
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三障(さんしょう):梵語triiNy aavaranaaniの訳。三種の障礙の意。聖道及び聖道の加行善根を障うる三種の重障を云う。また三重障とも名づく。一に煩悩障kleza-avaraNa、二に業障karma-avaraNa、三に異熟障vipaaka-avaraNaなり。異熟障を報障、または果報障と名づく。「発智論巻11」に、「説の如く三障とは、謂わく煩悩障、業障、異熟障なり。云何が煩悩障なる、謂わく一本性に熾然たる貪瞋癡の煩悩を具足すること有るが如し。かくの如きに由るが故に厭離を生じ難く、教誨すべきこと難く、開悟すべきこと難く、免離を得ること難く、解脱を得ること難し。云何が業障なる、謂わく五無間業なり。云何が異熟障なる、謂わく諸の有情処たる那落迦と傍生と鬼界と北拘盧洲と無想天処となり」と云えるこれなり。この中、数行の煩悩を煩悩障と名づく。「倶舎論巻17」に依るに、凡そ煩悩に二種あり、一には数行、謂わく恒起の煩悩なり。二には猛利、謂わく上品の煩悩なり。中に就きただ数行のものを煩悩障と名づくと云えり。これ即ち煩悩の恒起せるは伏除すべきこと難く、能く聖道を障うるが故に、特に立てて煩悩障となすなり。業障とは五無間業なり、また五逆と名づく。また能く聖道を障えて入ることを得ざらしむるが故に、立てて業障となすなり。異熟障とは三悪趣の全と、人趣の中の北洲と、天趣の中の無想天とを云う。これ等の異熟は、聖道及び聖道の加行善根を障うるが故に、立てて異熟障となすなり。ただし「大般涅槃経巻11」には、この中の北洲と無想天とを除き、代うるに誹謗正法と、一闡提とを以ってせり。三障の軽重に関しては異説あり。一解は煩悩と業との二障は皆重く、異熟障は軽し。五無間を造る者は定んで地獄に堕し、惑障を起す者は悪趣に堕するが故に、共に入聖することを得ず。即ち第二生の内に治すべからざるが故に名づけて重と為す。異熟障は、この生に受け已れば、第二生に至りて入聖することを得べし、故に名づけて軽と為すと云い、一解は、煩悩は能く業を引くに由るが故に、業障は煩悩障より軽く、また業障は異熟を引くに由るが故に、異熟障は業障よりも軽しとせり。またこの中、業障は人の三洲に限り、異熟障は北洲と無想天と及び三悪趣とに通じ、煩悩障は具さに五趣に通ずるなり。また「仏名経巻1」、「大毘婆沙論巻115」、「大智度論巻5」、「成実論巻8」、「顕揚聖教論巻3」、「雑阿毘曇心論巻3」、「順正理論巻43」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」等に出づ。<(望) |
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問曰。諸能聞能知者。何以不皆得道。 |
問うて曰く、諸の能く聞き、能く知る者は、何を以ってか、皆は道を得ざる。 |
問い、
諸の、
『聞くことができ!』、
『知ることのできる!』者は、
何故、
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答曰。是亦不應盡得道。何以故。結使業障故。有人於結使重常為結使覆心。以是故不盡得道。 |
答えて曰く、是れも亦た、応に尽くは、道を得るべからず。何を以っての故に、結使の業障(さ)うるが故なり。有る人は、結使の重きに於いて、常に結使の為に、心を覆わる。是を以っての故に、尽くは道を得ず。 |
答え、
是れも、
尽くが、
『道』を、
『得られるはずがない!』、
何故ならば、
『結使』の、
『業』が、
『邪魔する!』からである。
有る人は、
是の故に、
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業障(ごっしょう):聖道を障礙する身口意に由って造作する所の不善業。
重(じゅう):ふかい。深。 |
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問曰。當令十方諸佛。亦應遣化說六波羅蜜。我等亦無三障。何以不聞。 |
問うて曰く、当今の十方の諸仏も、亦た応に化を遣して、六波羅蜜を説かしめ、我等にも、亦た三障無かるべし。何を以ってか、聞かざる。 |
問い、
当今も、
十方の、
諸の、
『仏』は、
当然、
『化仏』を遣して、
『六波羅蜜』を、
『説かれている!』はずであり、
わたし達にも、
『三障』は、
『無い!』はずなのに、
何故、
『聞かない!』のですか?
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註:当令は、他本に従い当今に改める。 |
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答曰。當今眾生生在惡世。則入三障中。 |
答えて曰く、当今の衆生は悪世に生ずれば、則ち三障中に入る。 |
答え、
当今の、
『衆生』は、
『悪世』に、
『生じた!』のであり、
当然、
『三障』中に、
『入っている!』。
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在(ざい):~に。於。 |
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生在佛後。不善業報。或有世界惡罪業障。或有厚重結使障。墮在佛後。人多為厚重結使所障。或婬欲薄而瞋恚厚。瞋恚薄而婬欲厚。婬欲薄而愚癡厚。愚癡薄而瞋恚厚。如是等展轉互有厚薄。 |
仏後に生ずるは、不善業の報なり。或いは世界の悪罪の業障有り、或いは厚重なる結使の障有りて、仏後に堕す。人の多くは、重厚なる結使の障うる所なり。或いは婬欲薄くして、瞋恚厚し、瞋恚薄くして、婬欲厚し、婬欲薄くして、愚癡厚し、愚癡薄くして瞋恚厚し。是の如き等展転として、互いに厚きと、薄きと有り。 |
『仏』の、
『滅後』に、
『生まれる!』のは、
『不善』の、
『業』の、
『報』であり、
或いは、
『世界』の、
『悪罪の業』が、
『邪魔する!』ことも、
『有り!』、
或いは、
『厚重』の、
『結使』が、
『邪魔する!』ことも、
『有って!』、
『仏』の、
『滅後』に、
『堕ちる!』。
『人』の、
『多く!』は、
『重厚』の、
『結使』に、
『邪魔されており!』、
或いは、
『婬欲』は、
『薄い!』が、
『瞋恚』が、
『厚い!』とか、
或いは、
『瞋恚』は、
『薄い!』が、
『婬欲』が、
『厚い!』とか、
或いは、
『婬欲』は、
『薄い!』が、
『愚癡』が、
『厚い!』とか、
或いは、
『愚癡』は、
『薄い!』が、
『瞋恚』が、
『厚い!』とか、
是れ等のように、
『結使』は、
次々と、
『組』を、
『替えながら!』、
互いに、
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是結使障故。不聞不知化佛說法。不見諸佛光明。何況得道。 |
是の結使の障うるが故に、化仏の説法を聞かず、知らず、諸仏の光明を見ず。何に況んや、道を得るをや。 |
是の、
『結使』が、
『邪魔する!』が故に、
『化仏』が、
『法』を、
『説く!』のを、
『聞くこともなく!』、
『知ることもなく!』、
諸の、
『仏』の、
『光明』を、
『見ない!』のであり、
況して、
『道』を、
『得るはずがない!』のである。
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譬如日出盲人不見。便謂世間無有日月。日有何咎。又如雷電震地聾人不聞。聲有何過。 |
譬えば日の出づるを、盲人は見ずして、便ち世間に日月有ること無しと謂うが如きは、日に何なる咎か有らん。又雷電の地を震わすに、聾人は聞かざるが如き、声に何の過か有らん。 |
譬えば、
『日』が、
『出た!』ことなど、
『盲人』は、
『見たことがない!』ので、
こう謂うだろう、――
『世間』には、
『日』や、
『月』が、
『有った!』ことなど、
『無い!』と。
『日』には、
いったい、
何の、
『咎』が、
『有るのだろう?』。
又、
『雷電』が、
『地』を、
『震わせている!』のに、
『聾人』には、
『聞こえなかった!』としても、
『音声』には、
いったい、
何の、
『過』が、
『有るのだろう?』。
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今十方諸佛常說經法。常遣化佛至十方世界。說六波羅蜜。罪業盲聾故不聞法聲。以是故不盡聞見。雖復聖人有大慈心。不能令皆聞皆見。若罪欲滅福將生者。是時乃得見佛聞法 |
今、十方の諸仏は、常に経法を説き、常に化仏を遣して、十方の世界に至り、六波羅蜜を説かしめたもうも、罪業の盲聾の故に、法声を聞かず。是を以っての故に、尽くは、聞見えざるなり。復た聖人に大慈心有りと雖も、皆をして聞かしめ、皆をして見しむる能わず。若し罪、滅せんと欲して、福将に生じんとせば、是の時に乃ち仏を見て、法を聞くことを得ん。 |
今、
十方の、
諸の、
『仏』は、
常に、
『経法』を、
『説かれており!』、
常に、
『化仏』を、
『十方の世界』に、
『遣して!』、
『六波羅蜜』を、
『説かれている!』が、
『衆生』は、
『悪罪』の、
『業』という、
『盲聾』の故に、
『法』の、
『声』を、
『聞かない!』のであり、
是の故に、
尽くは、
『聞いたり!』、
『見たりしない!』のである。
復た、
『聖人』には、
『大慈心』が有るが、
皆には、
『聞かせられない!』し、
皆には、
『見せられない!』。
若し、
『罪』が、
『滅しようとしていて!』、
『福』が、
『生じようとしている!』ならば、
是の時、
ようやく、
『仏』を、
『見ることができ!』、
『法』を、
『聞くことができる!』だろう。
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