巻第七(下)
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大智度初品中放光釋論第十四
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


結跏趺坐して、三昧王三昧に入る

【經】爾時世尊自敷師子座。結加趺坐。直身繫念在前。入三昧王三昧。一切三昧悉入其中 爾の時、世尊は、自ら師子の座を敷き、結跏趺坐して、身を直(ただ)し、念を前に在(お)いて懸け、三昧王三昧に入りたまえり。一切の三昧は、悉く其の中に入る。
爾の時、
『世尊』は、
自ら、
『師子』の、
『座』を、
『敷き!』、
『結跏趺坐』して、
『身』を、
『直(ただ)し!』、
『念』を、
『前』に、
『懸ける!』と、
『三昧王三昧』に、
『入られた!』。
一切の、
『三昧』の、
『悉く!』が、
其の、
『三昧』中に、
『入っている!』。
  師子座(ししざ):梵語siMhaasanaの訳。巴梨語siihaasana、獅子(ライオン)の座の義。又師子牀、或いは猊座とも名づく。仏又は大徳等の所坐の牀座を云う。「長阿含巻17沙門果経」に、「今仏は高堂の上に在り、前に明灯あり。世尊は師子座に処して南面して坐す」と云い、「大品般若経巻1」に、「爾の時、世尊、自ら師子座を敷き結跏趺坐す」と云い、又「大般涅槃経巻上」に、「時に王は即ち説法殿上に上りて師子座に登り、一切来衆も亦皆四宝の座に坐す」と云い、「有部毘奈耶巻28」に、「仏言わく、応に二三の上座を除き、応に坐して経を誦すべしと。爾の時に当り彼の法師をして威粛乏少し、威厳足らざらしむ。仏言わく、上座の処に於いて師子座を置き、其れをして誦経せしめよと。登陟の時、稍上下し難し。仏言わく、若し是れ定処ならば応に甎を用いて蹋道と為すべし、若し処不定ならば応に木梯を為すべしと」と云える皆其の例なり。師子座の如何なるものなるやに関しては、「大智度論巻7」に、「何を以って師子座と名づくるや、仏が師子を化作すとせんや、実の師子の来るとせんや。金銀木石にて師子を作るとせんや。又師子は善獣に非ざるが故に仏の須いざる所なり。亦因縁なきが故に応に来たるべからず。答えて曰く、是れ号して師子と名づくるも実の師子に非ざるなり。仏は人中の師子たり、仏所坐の処は若しは牀、若しは地、皆師子座と名づく」と云えり。是れ師子を以って仏に喩えたるものとし、仏の所坐の処を悉く師子座と称すとなすの説なり。然るに師子座が必ずしも仏の所坐処に限らざることは、前引「毘奈耶」の文に法師をして師子座に上らしむと云い、又「大智度論巻7」に、「今は国王の坐処も亦師子座と名づく」と云い、又「同巻2」に、「是の時阿難、僧を礼し已りて師子の牀に坐す。時に大迦葉此の偈を説いて言わく、仏は聖師子王、阿難は是れ仏子なり、師子座の処に坐す」と云うに依りて知るを得べし。又按ずるに「シャーンディッルヤ・ウパニシャッドzaaNDiyoopaniSad第1篇第3章」に、所謂坐法中の師子坐を説き、「右の大腿を左の踝を以って、同様に左の大腿を右の踝を以って固定し、又両手は両膝に載せ、手指は真直ぐに伸ばし、顔色はこれを明にし、完く心を統一して鼻端を凝視す。かかる獅子坐siMhaasanaは常に観行者に依りて重んぜられん」と云えり。仏、及び大徳は常に恐らく此の坐法を用いたるを以って、遂に転じて其の座所を師子座と称するに至りしものならんかを疑うべきものあり。但し或時代の後には特種の高座を指したるが如く、前引「毘奈耶」の文に「登陟の時稍上下し難し」と云い、又「分別功徳論巻1」に、「阿難即時に坐に昇る、座とは師子座なり。経に師子座に喩うる所以は、獅子は獣中の主にして、常に高地に居りて卑下に処せず、故に高座に喩うるなり」と云えるは共に高座を師子座と名づけたるものというべし。又「法華経巻6」、「旧華厳経巻50」、「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」、「金剛頂瑜伽中略出念誦経巻1」等に出づ。<(望)
  結加趺坐(けっかふざ):結跏趺坐に同じ。『大智度論巻7下注:結跏趺坐』参照。
  結跏趺坐(けっかふざ):跏趺は足の甲を股に懸くるの意、足首を累ね足裏を上に向けて斉える坐法をいう。即ち通常坐禅の時の坐法なり。「阿毘曇毘婆沙論巻21」に、「問うて曰わく、一切の威儀尽くる中に道を行ずるが如きに、何なる故にただ結跏趺坐を説く。答えて曰わく、或はある説は、これはこれ旧に行われたる法なり。所以は何んとなれば、過去恒河沙の諸仏及び仏弟子は尽くこの法を行ずと。またある説は、よく他人の恭敬心を生ずるが故なり、もし結跏趺坐せば、悪覚を起すもなお他人に恭敬の心を生ず、この故に他人の恭敬心を生ぜんと欲するが故なりと。またある説は、この法はこれ世俗愛欲の法に非ざるが故なり、余の威儀は世俗これを用う。また次ぎに、この法は、よく三種の菩提道を生ずるが故なり、声聞、辟支仏、仏の菩提なり。余の威儀を以ってしては得ず、ただこれを以って得るのみ。また次ぎに、この法は道を行ずる時、随順安穏なり、余の威儀に非ざるが故なり。また次ぎに、この法はよく魔軍を壊す、仏世尊の結跏趺坐してよく煩悩及び天魔の軍を破るが如し。また次ぎに、この法はよく天人の心に適可するが故なり。また次ぎに、この法は外道と共ならざるが故なり、余の威儀は外道と共なり。云何が結跏趺坐と名づくる。尊者波奢の説いて曰わく、跏趺坐とは両足を累ねて境界を正観するに則ち定に随順することを得れば跏趺して坐すなりと」と云えり。<(望)
  繋念在前(けねんざいぜん):念を前に在るものに繋くるの意なり。「阿毘曇毘婆沙論巻21」に、「云何が繋念在前なる。面上の故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、煩悩を背するに後に在り、寂滅を正観するに前に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、生死を背にするに後に在り、涅槃を正観するに前に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、色等の境界を背にするに後に在り、所縁を正観するに前に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、念を繋くるに眼の中間に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、勝慧力を以って境界を正観するに念念散ぜざるが故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、念と不貪と倶に境界に縁ず、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに念を繋くるに眉の中間に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく」と云えり。蓋し、心眼のよく境界を現前するが故に念を繋くるに前に在りというなり。<(望)
  三昧王三昧(さんまいおうさんまい):梵語smaadhi-raaja-samaadhiの訳。一切の三昧中の王の意。即ち空三昧なるが如し。『大智度論巻5(下)注:三昧王三昧』参照。
【論】問曰。佛有侍者及諸菩薩。何以故自敷師子座。 問うて曰く、仏には、侍者、及び諸の菩薩有り。何を以っての故にか、自ら師子の座を敷きたまえる。
問い、
『仏』には、
『侍者』や、
『諸の菩薩』が、
『有る!』のに、
何故、
自ら、
『師子の座』を、
『敷かれたのですか?』。
答曰。此是佛所化成。欲以可適大眾。以是故阿難不能得敷。 答えて曰く、此れは是れ仏の化成したもう所にして、以って大衆に適わしむべけんことを欲したもう。是を以っての故に、阿難には、敷くことを得る能わず。
答え、
此の、
『師子の座』は、
『仏』の、
『化成された!』所であり、
此の、
『師子の座』を以って、
『大衆』に、
『適応しよう!』と、
『思われた!』。
是の故に、
『阿難』には、
『敷く!』ことが、
『適わなかったのである!』。
  化成(けじょう):仏菩薩が神力を以って変化し、種種の事物を造作するをいう。また化ともいう。『大智度論巻7下注:化』参照。
  (け):(一)梵語nirmitaの訳語にして、改転、または改変の義。徳教を以って物の風を改転するの意。「法華経巻1序品」に、「皆一乗の法を説き、無量の衆生を化して仏道に入らしむ」と云い、「大乗本生心地観経巻3」に、「能化所化、地に随って増し、各本縁に随って所属と為す。或は一菩薩を多仏化し、或は多菩薩を一仏化す」と云えるその例なり。この中、仏はよく菩薩を化するが故にこれを能化とし、菩薩は仏の為に化せらるるが故に所化と称す。また仏は広く一切を化すといえども、而も過去の本縁に随って所属の菩薩等各同じからず。故に多仏にして一菩薩を化するあり、これを共化と名づけ、一仏にして多菩薩を化するあり、これを不共化と名づく。「成唯識論巻10」に、「諸の如来の所化の有情に随って共不共あり、所化共ずる者には、同処同時に諸仏各変じて身と為し、土と為し、形状相似して相障礙せず、展転相雑して増上縁となり、所化の生の自識をして変現せしめ、一土に於いて一の仏身ありて為に神通を現じ、法を説きて饒益すと謂わしむ。不共の者に於いてはただ一仏変ず。諸の有情類は、無始時来種性法爾として更に相繋属す。或は多、一に属し、或は一、多に属す。故に所化の生に共不共あり」と云えるまたその意なり。また人を化するの意にて化物、或は化他と云い、教えて善に遷らしむるの意にて教化、勧めて正道に入らしむるの意にて勧化、これを導くの意にて化導、これを益するの意にて化益、教を施すの意にて施化、蒙を啓くの意にて開化、その用を化用、その風を化風、その主を化主、身の化を化身、語の化を語化、意の化を意化、大乗を以って化するを大化、小乗を以って化するを小化、如来一代の教化を一化、化物の為に説く所の教法を化法、その儀式を化儀、施化の大意を化意、度脱せしむるを化度、その因縁を化縁、化縁の及ぶ所を化境と云い、また順縁を以って化するを順化、逆縁を以って化するを逆化と称する皆その意なり。(二)改変して他の物となるの意。具さに変化と称し、また化作、化現とも云う。「観仏三昧海経巻3」に、「身の諸の毛孔より金色の光を出し、この一一の光化して化仏と成り、なお金山の如し」と云い、「観無量寿経」に、「その光化して百宝色の鳥となり、和鳴哀雅にして常に念仏念法念僧を讃ず」と云える如きこれなり。就中、仏が地前凡夫等の為に仏形を現じて利益の事を為すを変化身、または応化身、応化仏等と称し、五趣の有情の為に鬼畜等の身を現ずるを化身と云い、無而忽有の仏形を化仏、菩薩形を化菩薩、人形を化人、鳥形を化鳥等と云い、一時に機に応じて土を変現するを化土、または変化土と称し、能変化の心を化心、所変化の事を化事と云い、また胎卵湿に依らず忽爾として生ずるを化生、神を他界に遷すの意にて遷化、方便化現するの意にて権化、実事に非ざるの意にて幻化と称する如きその類なり。<(望)
復次佛心化作。故言自敷。 復た次ぎに、仏は、心に化作したもうが故に、『自ら敷く』と言えり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『心』を以って、
『師子座』を、
『化作された!』ので、
故に、
『自ら!』、
『敷く!』と、
『言うのである!』。
  化作(けさ):仏菩薩が神力を以って変化し、種種の身、また種種の事物を造作するをいう。『大智度論巻7下注:化』参照。
問曰。何以名師子座。為佛化作師子。為實師子來。為金銀木石作師子耶。又師子非善獸故。佛所不須。亦無因緣故不應來。 問うて曰く、何を以ってか、師子座と名づくる、仏の師子を化作したもうが為なりや、実の師子の来たるが為なりや、金銀木石の師子を作すが為なりや。又師子は、善獣に非ざるが故に、仏の須いたまわざる所なれば、亦た因縁無きが故に、応に来たるべからず。
問い、
何故、
『師子』の、
『座』と、
『称するのですか?』、
『仏』が、
『師子』を、
『化作されたからですか?』、
『実』の、
『師子』が、
『来たからですか?』、
『金、銀』や、
『木、石』で、
『師子』を、
『作ったからですか?』、
又、
『師子』は、
『善い!』、
『獣ではない!』ので、
『仏』は、
『師子』を、
『須(もち)いられません!』、
『師子』は、
『因縁』が、
『無い!』ので、
『来れなかったはずです!』。
答曰。是號名師子非實師子也。佛為人中師子。佛所坐處若床若地皆名師子座。譬如今者國王坐處亦名師子座。 答えて曰く、是れを号して、師子と名づくるも、実の師子には非ざるなり。仏は、人中の師子なれば、仏の所坐の処は、若しは床、若しは地なりとも、皆、師子座と名づく。譬えば、今は、国王の坐処も、亦た師子座と名づくるが如し。
答え、
是れを、
『呼んで!』、
『師子』と、
『称する!』が、
『実』の、
『師子ではない!』。
『仏』は、
『人』中の、
『師子である!』ので、
『仏』の、
『坐られる!』、
『処』は、
『床であろう!』と、
『地であろう!』と、
皆、
『師子』の、
『座』と、
『称する!』。
譬えば、
『今』では、
『国王』の、
『坐る!』、
『処』も、
亦た、
『師子』の、
『座』と、
『称するようなものである!』。
復次王呼健人。亦名人師子。人稱國王亦名人師子。 復た次ぎに、王は、健やかなる人を呼んで、亦た人の師子と名づけ、人は、国王を称して、亦た人の師子と名づく。
復た次ぎに、
『王』は、
『健人』を、
『人の師子』と、
『呼び!』、
『人』は、
『国王』を、
『人の師子』と、
『呼ぶ!』。
  健人(ごんにん):梵語zuuraの訳。強力で勇敢な人、英雄等の義。
又如師子四足獸中獨步無畏。能伏一切。佛亦如是。於九十六種道中。一切降伏無畏故。名人師子。 又、師子は四足獣中に独歩して無畏なれば、能く一切を伏するが如く、仏も、亦た是の如く、九十六種道中に於いて、一切を降伏して、無畏なるが故に、人の師子と名づく。
又、
『師子』が、
『四足獣』中に於いて、
『独歩して!』、
『無畏である!』ように、
『仏』も、
是のように、
『九十六種』の、
『外道』中に於いて、
一切を、
『降伏して!』、
『無畏である!』が故に、
『人』の、
『師子』と、
『称する!』。
  降伏(ごうぶく):降し従える。降参せしむるの意。
  九十六種道(くじゅうろくしゅどう):また九十六種外道ともいう。昔名を挙げたる外道に六師あり、即ち一に富蘭那迦葉、二に末伽梨拘賒梨子、三に刪闍耶毘羅胝子、四に阿耆多翅舎欽婆羅、五に迦羅鳩駄迦旃延、六に尼揵陀若提子なり。これに各十五の弟子あり、各自道を示す、故にこれを九十六種外道と称す。この中、富蘭那迦葉(ふらんなかしょう)は、一切の法は断滅の性にして空なり、故に君臣、父子、忠孝の道なしと云い、末伽梨拘賒梨子(まかりくしゃりし)は、道は求むべからず、ただ生死に劫数を経て自ら苦際を尽くすのみ、譬えば糸玉を高山の上より転ずれば糸の尽くるにより、自ら止むが如しと云い、阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたきしゃきんばら)は、現世に苦を受くるに因るが故に後世に楽を受くと為して身に弊衣を著け、五熱に身を炙れり、迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんねん)は、諸法はまた有相また無相なりと為して、人、物を見て有りやと問うには無しと答え、無しやと問うには有りと答えたり、尼揵陀若提子(にけんだにゃくだいし)は、苦楽の罪福は尽く前世に由ると為し、必ずこれを受くれば今道を行うも、以ってこれを断ずること能わずと云えり。<(望)『大智度論巻3(上)注:六師外道』参照。
問曰。多有坐法。佛何以故唯用結加趺坐。 問うて曰く、多く坐法有り。仏は、何を以っての故にか、唯結跏趺坐を用いたもう。
問い、
『坐法』は、
『多く!』、
『有る!』のに、
『仏』は、
何故、
『結跏趺坐』を、
『用いられるのですか?』。
答曰。諸坐法中結加趺坐最安隱不疲極。此是坐禪人坐法。攝持手足心亦不散。又於一切四種身儀中最安隱。此是禪坐取道法坐。魔王見之其心憂怖。 答えて曰く、諸の坐法中に、結跏趺坐は最も安隠にして、疲極せざればなり。此れは是れ坐禅人の坐法にして、手足を摂持すれば、心も亦た散ぜず。又一切の四種の身儀中に於いて、最も安隠なれば、此れは是れ禅の坐、取道法の坐にして、魔王は、之を見て、其の心憂怖す。
答え、
諸の、
『坐法』中、
『結跏趺坐』は、
最も、
『安隠であり!』、
『疲極しない!』ので、
此れは、
『坐禅人』の、
『坐法である!』。
何故ならば、
『手、足』を、
『しっかりと!』、
『保持する!』ので、
『心』も、
亦た、
『散乱しないからである!』。
又、
一切の、
『四種の身儀(行、住、坐、臥)』中に、
最も、
『安隠であり!』、
此れは、
『禅』の、
『坐であり!』、
『取道』の、
『法』中の、
『坐である!』ので、
『魔王』が
此の、
『結跏趺坐』を、
『見る!』と、
其の、
『心』が、
『憂愁するのである!』。
  疲極(ひごく):つかれきわまる。
  取道法(しゅどうほう):道を獲得する法。
如是坐者出家人法。在林樹下結加趺坐。眾人見之皆大歡喜。知此道人必當取道。如偈說
 若結加趺坐  身安入三昧 
 威德人敬仰  如日照天下 
 除睡嬾覆心  身輕不疲懈 
 覺悟亦輕便  安坐如龍蟠 
 見畫加趺坐  魔王亦愁怖 
 何況入道人  安坐不傾動
以是故結加趺坐。
是の如き坐者は、出家人の法には、林樹の下に在りて、結跏趺坐すれば、衆人、之を見て、皆大いに歓喜し、此の道人の、必ず当に道を取るべきことを知る。偈に説くが如し、
若し結跏趺坐すれば、身は安らかに三昧に入り、
威徳は人の敬仰すること、日の天下を照らすが如し。
睡嬾の心を覆うを除けば、身軽うして疲懈せず、
覚悟すること亦た軽便に、安坐すること龍の蟠まるが如し。
画かれたる跏趺坐を見れば、魔王は亦た愁怖す、
何に況んや道に入りたる人の、安坐して傾動せざるをや。
是を以っての故に、結跏趺坐したもう。
是のように、
『坐す!』者が、
『出家人の法』に依り、
『林樹』下に、
『結跏趺坐する!』と、
『衆人』は、
之を見て、
皆、
『大いに!』、
『歓喜し!』、
此の、
『道人』は、
必ず、
『道』を、
『獲得する!』だろうと、
『知る!』。
『偈』に説く!通りである、――
若し、
『結跏趺坐』すれば、
『身』は、
『安らかに!』、
『三昧』に、
『入る!』、
『人』は、
其の、
『威徳』を、
『敬い!』、
『仰ぐ!』だろう、
譬えば、
『日』が、
『天下』を、
『照らすように!』。
『結跏趺坐』は、
『心』を、
『覆う!』、
『睡嬾』を、
『除く!』、
『身』は、
『軽やかに!』、
『疲れも!』、
『懈りもしない!』、
『覚悟』も、
亦た、
『軽やかに!』、
『くつろいで!』、
『安坐』すれば、
『龍』が、
『蟠(わだか)まるようだ!』。
『結跏趺坐』は、
『画かれた!』ものを、
『見た!』だけで、
『魔王』は、
『愁えて!』、
『怖れる!』、
況して、
『道』に、
『入った!』、
『人』が、
『安坐』して、
『傾きも!』、
『動きもしないのだから!』。
  敬仰(きょうごう):敬いあおぐ。
  睡嬾(ずいらん):居眠りして怠けること。
  疲懈(ひけ):疲れて怠けること。
  覚悟(かくご):道を悟ること。
  軽便(きょうべん):軽やかにくつろぐ。
  安坐(あんざ):安らかにすわる。
  (ぼん):わだかまる。とぐろをまく。
  愁怖(しゅうふ):うれいておそれる。
  傾動(きょうどう):かたむきうごく。
復次佛教弟子。應如是坐。有外道輩。或常翹足求道。或常立。或荷足。如是狂狷心沒邪海形不安隱。以是故佛教弟子。結加趺直身坐。 復た次ぎに、仏は、弟子に、『応に是の如く坐すべし』と教えたもう。有る外道の輩は、或いは常に足を翹(つまだ)ちて、道を求め、或いは常に立ち、或いは足を荷(にな)う。是の如き狂狷は、心、邪海に没すれば、形、安隠ならず。是を以っての故に、仏は弟子に、『跏趺を結び、身を直して坐せ』と教えたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『弟子』に、こう教えられた、――
是のように、
『坐るべき!』である、と。
有る、
『外道の輩』は、
或いは、
常に、
『足』を、
『翹(つまだ)ちて!』、
『道』を、
『求め!』、
或いは、
常に、
『立ち!』、
或いは、
『足』を、
『肩に!』、
『荷う!』のであるが、
是のような、
『狂狷(狂信)』の、
『心』は、
『邪海』に、
『没しており!』、
『形』は、
『安らか!』でも、
『穏やかでもない!』。
是の故に、
『仏』は、
『弟子』に、
こう教えられた!のである、――
『跏趺』を、
『結び!』、
『身』を、
『直(ただ)して!』、
『坐れ!』と。。
  狂狷(ごうけん):徒らに理想に走って実行が伴わず、思慮が乏しくかたくななこと。狂は志が極めて高く進趣の気象に富むが行の疎略なこと。狷は知識の未だ及ばない所はあるが、守る所が堅固であり断固として不善を為さないこと。即ち狂信。
  跏趺(かふ):足の甲を股に懸けること。『大智度論巻7下注:結跏趺坐』参照。
何以故。直身心易正故。其身直坐則心不嬾。端心正意繫念在前。若心馳散攝之令還。欲入三昧故。種種馳念皆亦攝之。如此繫念入三昧王三昧。 何を以っての故に、身を直せば、心を正し易きが故に、其の身を直して坐せば、則ち心、嬾(おこた)らず。端心正意にして、念を前に繋(か)くれば、若し心馳散せば、之を摂(と)りて還らしむ。三昧に入らんと欲するが故に、種種に馳せる念は、皆、亦た之を摂(おさ)む。此の如く、念を繋けて、三昧王三昧に入る。
何故ならば、
『身』を、
『端せば!』、
『心』を、
『正し易いからである!』。
其の、
『身』を、
『直して!』、
『坐れば!』、
則ち、
『心』が、
『嬾(おこた)らない!』ので、
『心、意』を、
『正し!』、
『念』を、
『前に繋()けて!』、
『見張れば!』、
若し、
『心』が、
『馳()せ!』、
『散じた!』としても、
之を、
『捉えて!』、
『還らせることができる!』。
『三昧』に、
『入ろう!』と、
『思う!』が故に、
種種に、
『馳散した!』、
『念』を、
亦た、
『皆!』、
『摂(おさ)める!』のであり、
此のようにして、
『念』を
『前』に、
『繋けて!』、
『三昧王三昧』に、
『入るのである!』。
  (らん)おこたる。怠。
  端心正意(たんしんしょうい):心と意志とを正す。
  馳散(ちさん):はしってちらばる。
  馳念(ちねん):念をはす。思いをはしらす。
云何名三昧王三昧。是三昧於諸三昧中最第一自在能緣無量諸法。如諸人中王第一。王中轉輪聖王第一。一切天上天下佛第一。此三昧亦如是。於諸三昧中最第一。 云何が、三昧王三昧と名づくる。是の三昧は、諸の三昧中に最も第一にして、自在に能く無量の諸法を縁ずればなり。諸人中には、王第一なり、王中には、転輪聖王第一なり、一切の天上天下に、仏第一なるが如く、此の三昧も、亦た是の如く、諸の三昧中に、最も第一なり。
何故、
『三昧王三昧』と、
『称するのか?』。
是の、
『三昧』は、
諸の、
『三昧』中に、
『最も!』、
『第一であり!』、
『無量』の、
諸の、
『法』を、
『自在に!』、
『縁じられるからである!』。
譬えば、
諸の、
『人』中には、
『王』が、
『第一であり!』、
『王』中には、
『転輪聖王』が、
『第一であり!』、
一切の、
『天上、天下』には、
『仏』が、
『第一である!』ように、
此の、
『三昧』も、
是のように、
諸の、
『三昧』中に、
『最も!』、
『第一なのである!』。
問曰。若以佛力故。一切三昧皆應第一。何以故獨稱三昧王為第一。 問うて曰く、若し仏力を以っての故なれば、一切の三昧は、皆、応に第一なるべし。何を以っての故にか、独り、三昧王を称して、第一と為す。
問い、
若し、
『仏』の、
『力である!』が故に、
一切の、
『三昧』は、
皆、
『第一のはずです!』。
何故、
『三昧王』だけが、
独り、
『第一である!』と、
『称されるのですか?』。
答曰。雖應以佛神力故佛所行諸三昧皆第一。然諸法中應有差降。如轉輪聖王眾寶。雖勝一切諸王寶。然此珍寶中自有差別貴賤懸殊。 答えて曰く、応に仏の神力を以っての故に、仏の所行の諸三昧は、皆第一なるべしと雖も、然れども諸法中には、応に差降有るべし。転輪聖王の衆宝は、一切の諸王の宝に勝ると雖も、然れども此の珍宝中には、自ら差別有りて、貴賎の懸殊なるが如し。
答え、
『仏』の、
『神力』を
『用いた!』、
『三昧である!』が故に、
『仏』の、
『行われる!』所の、
諸の、
『三昧』は、
皆、
『第一のはず!』であるが、
然し、
諸の、
『法』中には、
当然、
『差降(等級差別)』が、
『有るはず!』であり、
譬えば、
『転輪聖王』の、
『衆宝(輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、居士宝、主兵臣宝)』は、
一切の、
諸の、
『王』の、
『宝』に、
『勝る!』が、
此の、
『珍宝』中には、
自ら、
『差別』が有り、
『貴賎』が、
『懸け隔たるようなものである!』。
  神力(じんりき):梵語prabhaavaの訳。超自然的力の義。仏所有の超自然力を云う。
  差降(さこう):等級の差別。
  懸殊(けんしゅ):遙かに違う。非常な差がある。
  転輪聖王(てんりんじょおう):天下を領する聖王。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
是三昧王三昧。何定攝何等相。有人言。三昧王三昧名為自在相。善五眾攝。在第四禪中。 是の三昧王三昧は、何なる定にか摂し、何等か相なる。有る人の言わく、『三昧王三昧を名づけて、自在の相と為し、善の五衆に摂して、第四禅中に在り。
是の、
『三昧王三昧』は、
何のような、
『定』に、
『摂するのか?』、
何のような、
『相なのか?』。
有る人は、
こう言っている、――
『三昧王』という!、
『三昧』は、
『自在』という
『相であり!』、
『善』の、
『五衆』に、
『摂し!』、
『第四禅』中に、
『在る!』。
何以故。一切諸佛於第四禪中。行見諦道得阿那含。即時十八心中得佛道。在第四禪中捨壽。於第四禪中起入無餘涅槃。第四禪中有八生住處背捨勝處。一切入多在第四禪中。第四禪名不動。無遮禪定法。欲界中諸欲遮禪定心。初禪中覺觀心動。二禪中大喜動。三禪中大樂動。四禪中無動。 何を以っての故に、一切の諸仏は、第四禅中に於いて、見諦道を行じて、阿那含を得、即時に十八心中に仏道を得、第四禅中に在りて寿を捨て、第四禅中に起ちて、無余涅槃に入りたもう。第四禅中には、八生住処、背捨、勝処有りて、一切入の多くは、第四禅中に在り。第四禅を不動と名づけ、遮るもの無き禅定の法なり。欲界中には、諸欲、禅定の心を遮り、初禅中には覚観の心動き、二禅中には、大喜動き、三禅中には、大楽動き、四禅中には、動くもの無し。
何故ならば、
一切の、
諸の、
『仏』は、
『第四禅』中に、
『見諦道』を行って、
『阿那含』を、
『得る!』と、
即時に、
『十八心』中に、
『仏道』を、
『得て!』、
『第四禅』中に、
『寿』を、
『捨て!』、
『第四禅』中に起って、
『無余涅槃』に、
『入られる!』し、
『第四禅』中には、
『八生住処』、
『八背捨』、
『八勝処』が、
『有り!』、
『十一切入』も、
『多く!』が、
『第四禅』中に、
『有る!』。
『第四禅』を、
『不動』と、
『称する!』が、
『遮る!』者の、
『無い!』、
『禅定法だからである!』。
『欲界』中には、
諸の、
『欲』が、
『禅定の心』を、
『遮り!』、
『初禅』中には、
『覚、観』の、
『心』が、
『動き!』、
『二禅』中には、
『大喜』が、
『動き!』、
『三禅』中には、
『大楽』が、
『動く!』が、
『四禅』中には、
『動く!』者が、
『無い!』。
  第四禅(だいしぜん):梵語caturtha-dhyaanaの訳。新訳には第四静慮に作る。四禅の第四なり。「大乗阿毘達磨雑集論巻9」によれば、この禅定は具さに捨清浄、念清浄、不苦不楽受、心一境性等の四支あり。この禅定中に於いて、出入息、第三禅定の貪、楽、楽作意、定下劣性等の五種の修道の障難に対治すべし。この禅定を修習して、第四禅天に生ずる果報を得べし、この天は色界四禅天の最高処に属す。その中に無雲、福生、広果、無煩、無熱、善現、善見、色究竟等の八天あり、即ち(一)無曇天とは、この天は雲層密合処の上に位し、故にこの天より開始す、雲地の軽薄なること猶星の散ずるが如し。(二)福生天とは、異生凡夫の勝福を具有せば、まさにこの天に往生することを得べし。(三)広果天とは、色界諸天の中に於いて、この天は乃ち異生凡夫の往生する所にして最も殊勝の処と為す。(四)無煩天とは、この天の中に於いて繁雑紛乱の事物或は現象あることなし。またこの天の天衆の無色界に趣入することを求めざるを以っての故に、この天をまた称して無求天と為す。(五)無熱天とは、この天の人はすでによく上中品の障を伏除し、意は調柔を楽い、諸の熱悩を離る、故に無熱と称す。(六)善現天とは、この天の人はすでに雑修の善品の定を得、果徳を以ってこれを彰現す、故に善現と称す。(七)善見天とは、この天の人はすでに修定の障を離るること、微細の余品中に至り、凡そ見る所あらば、皆極清徹なり、故に善見と称す。(八)色究竟天とは、この天はすでに衆苦の所依たる身の最後辺に到り、また即ち色天中の最後を有し、この天を過ぐれば則ち無色天と為す。この外に、第四禅天に関する依処、身量及び寿量等の果報有り、また「長阿含経巻20」、「大毘婆沙論巻136」、「倶舎論巻8、巻11」、「立世阿毘曇論巻3、巻7」、「阿毘達磨順正理論巻21」、「大智度論巻7」等の載する所なり。<(佛)
  四禅(しぜん):梵語catvaari dhyaanaaniの訳語。禅は梵語褝那(dhyaana)の略、静慮と訳す。故にまた四静慮とも名づく。即ち色界の静慮に四種の別あるを云う。一に初禅(梵prathama-dhyaana)、二に第二禅(梵dvitiiya-dhyaana)、三に第三禅(梵tRtiiya-dhyaana)、四に第四禅(梵caturtha-dhyaana)なり。「長阿含経巻8衆集経」に、「また四法あり、謂わく四禅なり。ここに於いて比丘は欲悪不善の法を除き、有覚有観にして離生の喜楽あり、初禅に入る。有覚観を滅して内信一心に、無覚無観にして定生の喜楽あり、第二禅に入る。喜を離れて捨を修し、進を念じて自ら身楽を知る。諸聖の所求を憶念し、楽を捨てて第三禅に入る。苦楽の行を離れて先づ憂喜を滅し、不苦不楽捨念清浄にして第四禅に入る」と云い、「雑阿含経巻17」に、「初禅正受の時言語寂滅し、第二禅正受の時覚観寂滅し、第三禅正受の時喜心寂滅し、第四禅正受の時出入息寂滅す」と云えるこれなり。蓋し禅は静慮の義にして、即ち寂静に由りてよく審慮し、如実に了知するの謂なり。然るに審慮は慧を以って体となすが故に、他の定も皆また静慮と名づくべしといえども、この四は静慮の義最も勝れたるを以って独り禅の名を得るなり。「倶舎論巻28」に、「この宗の審慮は慧を以って体となす。もし爾らば諸の等持も皆まさに静慮と名づくべし。爾らず、ただ勝れたるに、まさにこの名を立つ。世間の言に光を発するを日と名づくるも、蛍燭等にもまた日の名を得るに非ざるが如し。静慮は如何ぞ独り名づけて勝となすや、諸の等持の内にただこれのみ支を摂す。止観均行にして最もよく審慮し、現法楽住及び楽通行の名を得るが故に、この等持を独り静慮と名づく」と云えり。これに依るに色界の四禅はよく尋伺喜楽等の諸の静慮支を摂し、止(奢摩他)と観(毘鉢舎那)と均行して最もよく審慮するが故に、特に立てて四静慮と名づくるものなるを知るべし。就中、四禅の別を生ずることはその静慮支に不同あるに由るなり。「倶舎論巻28」に、「もし一境性はこれ静慮の体ならば、何の相に依りて初二三四を立つるや。伺と喜と楽とを具するを建立して初となす、これに由りてすでにまた尋を具するの義を明かす。必ず俱行するが故なり、煙と火との如し。伺に喜楽あるも而も尋と倶ならざるには非ず。漸に前の支を離るるに二三四を立つ。伺を離れて二あると、二を離れて楽のみあると、具さに三種を離るるとにして、その次第の如し。故に一境性を分ちて四種となす」と云える即ちこれなり。これを詳言せば初禅に尋と伺と喜と楽と心一境性との五支を摂し、二禅に内等浄と喜と楽と心一境性との四支を摂し、三禅に行捨と正念と正慧と受楽と心一境性との五支を摂し、四禅に行捨と念清浄と非苦楽受と心一境性との四支を摂し、総じて十八支あり。ただし実支の体はただ十一種にして、即ち初禅の五支と、二禅の内等浄と、三禅の浄と念と慧及び楽の四と、四禅の捨受となり。この中、初禅の尋と伺と喜と楽と心一境性の五支を摂すとは、静慮の体は心一境性即ち三摩地なるが故に、四静慮共に皆これを以ってその自性とす。尋伺は旧訳に覚観と翻ず、即ち心の麁分別の性を尋または覚と名づけ、心の細分別の性を伺または観と名づく。初禅にはなお尋伺の二ありて未だ麁細の分別を離れざるが故に、これを有尋有伺または有覚有観と称す。喜楽の二は、初禅は欲界の悪を離れて心に喜受、身に楽受を観ずることを説けるものにして、これを離生喜楽と名づくるなり。二禅に内等浄と喜と楽と心一境性との四支を摂すとは、心一境性は上に述ぶるが如く二禅の自性支なり。内等浄とは、二禅はすでに初禅の尋伺塵濁の法を離れて内の信相明浄なるが故に内等浄と名づく。即ち無尋無伺無覚無観なり。喜楽とは、この定に依りて勝れたる喜楽を生ずることを説けるものにして、これを定生喜楽と名づくるなり。三禅に行捨と正念と正慧と受楽と心一境性との五支を摂すとは、心一境性は前に述ぶる如く静慮の自性なり。行捨とは、三禅は前の軽安を捨して不苦不楽に住するを云い、正念正慧とは正念正知に住して自地の喜楽に耽らず、進んで上地の勝法を欣ぶを云い、受楽とは二禅の喜楽を離るるもなお自地の妙楽あるを云う。故にこれを離喜妙楽地と称するなり。四禅に行捨と念清浄と非苦楽受と心一境性との四支を摂すとは、心一境性は前の如く静慮の自性なり。行捨とは四禅はまた三禅に同じく喜楽を捨するを云い、念清浄とは捨念極善清浄にしてその相顕了なるを云い、非苦楽受とは更に三禅の楽を離れて平等非苦非楽に住するを云う。故にこれを捨念清浄と称するなり。「大乗阿毘達磨雑集論巻9」には静慮支を三種に分類し、初禅五支の中、尋と伺とを対治支、喜と楽とを利益支、心一境性を自性支とし、二禅四支の中、内等浄を対治支、喜と楽とを利益支、心一境性を自性支とし、三禅五支の中、捨と正念と正知とを対治支、楽を利益支、心一境性を自性支とし、四禅四支の中、捨清浄と念清浄とを対治支、不苦楽受を利益支、心一境性を自性支となせり。以って支の義用を見るべし。また「顕揚聖教論巻19」には四静慮に依りて対治せらるる障を説き、初禅は貪恚害尋と苦と憂と犯戒及び散乱の五障を治し、二禅は初静慮の貪と尋伺と苦と掉及び定下劣性の五障を治し、三禅は第二静慮の貪と喜と踊躍及び定下劣性の四障を治し、四禅は入出息と第三静慮の貪と楽と楽作意と定下劣性との五障を治す」と云えり。これを要するに欲愛を遠離し、心寂静にしてよく審慮し、尋伺ありて喜楽の情態に住するを初禅とし、尋伺を離れ、信相明浄にして喜楽の情態に在るを二禅とし、喜楽を離れ、正念正知にして自地の妙楽に住するを三禅とし、身心の楽を離脱し、不苦不楽に住して極善清浄なるを名づけて四禅となすなり。またこの四禅の入門となる定を近分定と称し、これに対し四禅を根本定と名づく。就中、初禅の近分たる未至定は根本定に同じく尋伺と相応するが故に有尋有伺なり。二禅以上の近分はまた根本定に同じく共に尋伺なきが故に無尋無伺なり。大梵の因たる中間定は初禅に勝るるも、なお二禅に及ばず、尋なきも伺あるが故に無尋唯伺なり。またこの中、未至と近分の浄等至と根本の無漏等至とはよく諸惑を断ずるも、中間定には(味等の三等至あるも)断惑の義なし。また下の初二三静慮には尋と伺と苦と楽と憂と喜と入出息との八災患あるが故にこれを有動定と名づけ、これに対し第四静慮は八災患の所動に非ざるが故に不動定と名づく。また初禅には発業と相応する尋伺あるが故によく見聞触し、また語業を起すことあるも、二禅以上は尋伺なきが故に言語等なし。もし語等を起さんと欲する時は下地の識を借るなり。これを借起識または借識と名づく。またこの四禅は四無量心等の依地となる。即ち四無量心に就いてこれを言わば、喜無量心は喜受の摂なるが故に初二静慮に依り、余の三無量心は総じて六地に依りて瞋害等の四障を離る。また八解脱に就いて言わば、初の二は初二静慮と未至及び中間に依りて得し、第三の浄解脱は第四静慮に依りて得し、余は四無色と滅尽定とに依る。八勝処に就いて言わば、初の四勝処は初二静慮に依り、後の四は第四静慮に依る。総じて四禅は各地に於いて惑の能対治の道となると共に、また余の諸定の依地となるなり。按ずるに禅定は印度宗教史を通じて各時代に見る所の重要なる修行法の一にして、仏陀もまたこれを以って最も主要なる行法となし、成道及び涅槃に際しても共に四禅の法に依られたり。されど禅定を分類することは諸ウパニシャットの未だ説かざる所にして、恐らく仏陀時代に至りて唱えられたるものなるべし。「過去現在因果経巻3」等に、仏陀成道以前阿羅邏仙人の処に至りて四禅の法を受けたりというに依れば、当時この法は外道の間に行われたるものなるを知るべきが如し。また色界四禅天はこの四禅を修する者の生ずべき処とせられ、四禅を定静慮と名づくるに対して、彼の諸天を生静慮と称す。恐らく四禅諸天の建立は四禅説成立の結果として、その後に至り更に唱道せられたるものなるべし。また「長阿含経巻4遊行経、巻6転輪聖王修行経、巻12清浄経、同自歓喜経、巻13阿摩昼経」、「中阿含巻1城喩経、巻42分別観法経、巻56晡利多経」、「仏本行集経巻22」、「仏所行讃巻3」、「集異門足論巻6」、「品類足論巻7」、「法蘊足論巻6、巻7」、「雑阿毘曇心論巻7」「甘露味論巻下」、「大毘婆沙論巻80至巻86、巻161至165」、「大智度論巻17」、「瑜伽師地論巻11、巻12」、「倶舎論巻29」、「花葉聖教論巻2」、「順正理論巻77」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻38」、「出三蔵記集巻6」、「法界次第初門巻上之下」、「大乗法苑義林章巻3末」、「倶舎論光記巻28、巻29」等に出づ。<(望)
  見諦道(けんたいどう):無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位を云う。『大智度論巻7下注:見道』参照。
  見道(けんどう):梵語darZana-maargaの訳。又見諦、見道、見諦道と称す。修行の階位にして、修道、無学道と合わせて三道と称す。即ち無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位なり。見道以前を凡夫と無し、見道に入りて以後を則ち聖者と為す。その次、見道の後、更に具体の自相に対して反復して加行し、以って修習する位は即ちこれ修道なり、見道と合わせて有学道と称す。これに相対する無学道はまた無学位、無学果、無学地と作し、意はすでに究竟の最高悟境に入り、而もすでに学ぶ所無きに達する位なり。小乗に依れば、三賢、四善根等の準備的修行を修むるを以って始と為し、よく無漏智を生じて見道に趣入す。大乗は則ち初地を以って見道に入ると為し、故に菩薩の初地を称して見道と為し、第二地以上を修道と為し、第十地の仏果に与るに至りてまさに無学道と称すべし。また「倶舎論巻23」、「大毘婆沙論巻3、巻54、巻75」、「成実論巻1、巻15」、「雑阿毘曇心論巻5」、「阿毘達磨順正理論巻73」、「成唯識論巻6、巻9」、「瑜伽師地論巻55」、「顕揚聖教論巻17」、「大乗阿毘達磨雑集論巻9」等に出づ。<(佛)『大智度論巻3(下)注:三道』参照。
  阿那含(あなごん):梵語anaagaaminの音訳にして、不還と意訳す。即ち小乗四果の中の第三果。この生をおえてまた欲界の生を受けざる位。『大智度論巻2(上):四向、四果』参照。
  十八心(じゅうはっしん):即ち九無間道、並びに九解脱道の総称なり。三界九地の修惑は、各地に九品の惑あれば、これを断ずる無間道、解脱道も、また各九種あり、これを九無間道、九解脱道と称す。『大智度論巻12(上)注:九無間、九解脱、九品惑』参照。
  八生住処(はちしょうじゅうしょ):第四禅中の八の生処の意。即ち無曇、福生、広果、無煩、無熱、善現、善見、色究竟等の諸生処を云う。『大智度論巻7下注:第四禅』参照。
  背捨(はいしゃ):八種の定力に由りて色貪等の心を棄背することを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  勝処(しょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  一切入(いっさいにゅう):勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周遍して間隙なしと観ずるを云う。『大智度論巻十一上注:十遍処』参照。
復次初禪火所燒。二禪水所及。三禪風所至。四禪無此三患。無出入息捨念清淨。 復た次ぎに、初禅は、火の焼く所、二禅は、水の及ぼす所、三禅は、風の至る所なるも、四禅には、此の三の患無く、出入息無く、念を捨てて清浄なり。
復た次ぎに、
『初禅』は、
『火』の、
『焼く!』所、
『二禅』は、
『水』の、
『及ぼす!』所、
『三禅』は、
『風』の、
『至る!』所であるが、
『四禅』には、
此の、
『三種』の、
『患(わずらい)』が、
『無く!』、
『出、入』する!、
『息』も、
『無く!』、
『念』を、
『捨てて!』、
『清浄である!』。
  参考:『鞞婆沙論巻9』:『或曰。念離內外嬈亂故。初禪內有嬈亂覺觀如火。如此內有嬈亂。外嬈亂亦及火所燒。二禪內有嬈亂者喜如水。如此內嬈亂。外嬈亂亦及水所漬溺。三禪內有嬈亂者。出息入息如刀風。如此內嬈亂。外嬈亂亦及風所吹。四禪內無嬈亂。如此內無嬈亂。外嬈亂亦不及。是謂念離內外嬈亂故。』
以是故三昧王三昧。應在第四禪中。如好寶物置之好藏。 是を以っての故に、三昧王三昧は、応に第四禅中に在るべきこと、好き宝物は、之を好き蔵に置くが如し。
是の故に、
『三昧王三昧』は、
『第四禅』中に、
『在るべき!』であり、
譬えば、
『好い!』、
『宝物』は、
『好い!』、
『蔵』に、
『置かれるようなものである!』。
更有人言。佛三昧誰能知其相。一切諸佛法。一相無相無量無數不可思議。諸餘三昧尚不可量不可數不可思議。何況三昧王三昧。 更に有る人の言わく、『仏の三昧を、誰か能く、其の相を知らん。一切の諸仏の法は、一相、無相、無量無数不可思議なり。諸余の三昧すら、尚お不可量、不可数、不可思議なり、何に況んや、三昧王三昧をや。
更に、
有る人は、こう言っている、――
『仏』の、
『三昧』は、
誰が、
其の、
『相』を、
『知ることができよう?』。
一切の、
諸の、
『仏』の、
『法』は、
『一相』であり!、
『無相』であり!、
『無量、無数、不可思議』である!。
諸の、
『余の三昧』すら、
尚お、
『不可量、不可数、不可思議』である!、
況して、
『三昧王三昧』は、
『言うまでもなかろう!』。
如此三昧唯佛能知。如佛神足持戒尚不可知。何況三昧王三昧。 此の三昧の如きは、唯だ仏のみ能く知りたもう。仏の神足、持戒の如きすら、尚お、知るべからず。何に況んや、三昧王三昧をや。』と。
此の、
『三昧』などは、
唯だ、
『仏』のみが、
『知ることができる!』。
例えば、
『仏』の、
『神足』や、
『持戒』すら、
尚お、
『知ることができない!』のであり、
況して、
『三昧王三昧』などは、
『尚更であろう!』と。
復次三昧王三昧諸一切三昧皆入其中。故名三昧王三昧。譬如閻浮提眾川萬流皆入大海。亦如一切民人皆屬國王。 復た次ぎに、三昧王三昧に、諸の一切の三昧は、皆、其の中に入るが故に、三昧王三昧と名づく。譬えば閻浮提の衆川、万流の、皆、大海に入るが如し。亦た一切の民人の、皆、国王に属するが如し。
復た次ぎに、
『三昧王三昧』は、
一切の、
諸の、
『三昧』が、
皆、
其の中に、
『入る!』ので、
故に、
『三昧王三昧』と、
『称する!』。
譬えば、
『閻浮提』の、
『衆川・万流』は、
皆、
『大海』に、
『入り!』、
亦た、
一切の、
『民、人』は、
皆、
『国王』に、
『属するようなものである!』。
問曰。佛一切智無所不知。何以故入此三昧王三昧。然後能知。 問うて曰く、仏の一切智は、知らざる所無し。何を以っての故にか、此の三昧王三昧に入りて、然る後に能く知る。
問い、
『仏』の、
『一切智』は、
『知らない!』所が、
『無いのです!』が、
何故、
此の、
『三昧王三昧』に、
『入って!』、
その後に、
『知る!』ことが、
『出来るのですか?』
答曰。欲明智慧從因緣生故。止外道六師輩言我等智慧一切時常有常知故。以是故言佛入三昧王三昧故知。不入則不知。 答えて曰く、智慧の因縁より生ずることを明さんと欲したもうが故なり。外道の六師の輩の、『我等が智慧は、一切の時に常に有り、常に知る』と言えるを、止めんが故に、是を以っての故に、『仏は、三昧王三昧に入るが故に知り、入らざれば、則ち知らず。』と言えり。
答え、
『智慧』は、
『因縁』より、
『生じる!』ことを、
『明そう!』と、
『思われた!』からであり、
『外道の六師の輩』が、
我等の、
『智慧』は、
『一切の!』時に、
『常に有り!』、
『常に知る!』と、
『言っている!』のを、
『止めよう!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
こう言われたのである、――
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入る!』が故に、
『知る!』のであるから、
『三昧王三昧』に、
『入らない!』時には、
『知らない!』、と。
問曰。若如是者佛力減劣。 問うて曰く、若し是の如くんば、仏の力は、減劣ならん。
問い、
若し、
そうならば、
『仏』の、
『力』は、
『少なくて!』、
『劣るのですか?』
  減劣(げんれつ):少なく劣る。
答曰。入是三昧王三昧時不以為難。應念即得。非如聲聞辟支佛諸小菩薩方便求入。 答えて曰く、是の三昧王三昧に入る時、以って難しと為さず、念に応じて、即ち得。声聞、辟支仏、諸の小菩薩の方便して入るを求むるが如きに非ず。
答え、
是の、
『三昧王三昧』に、
『入る!』時、
『難しい!』とは、
『思われない!』のであり、
『念ずれば!』、
『即時に!』、
『得られる!』のであるから、
『声聞、辟支仏、諸の小菩薩』が、
『入ろう!』と、
『方便して!』、
『求める!』のとは、
『違うである!』。
復次入是三昧王三昧中。令六神通通徹十方無限無量。 復た次ぎに、是の三昧王三昧中に入り、六神通をして、十方の無限無量に通徹せしむ。
復た次ぎに、
是の、
『三昧王三昧』中に入って、
『六神通』を、
『十方』の、
『無限』、
『無量』の、
『世界』に、
『通徹させる!』のである。
復次佛入三昧王三昧。種種變化現大神力。若不入三昧王三昧而現神力者。有人心念。佛用幻力咒術力。或是大力龍神力。或是天非是人。 復た次ぎに、仏は、三昧王三昧に入り、種種に変化して、大神力を現したもう。若し、三昧王三昧に入らずして、神力を現したまわば、有る人は、心に、『仏は幻の力、呪術の力を用いたもう。或いは是れ大力の龍神の力なり。或いは是れ天にして、是れ人には非ざるなり。』と。
復た次ぎに、
『仏』は、
『三昧王三昧』に入り、
種種に、
『変化して!』、
『大神力』を、
『現される!』のである。
若し、
『三昧王三昧』に、
『入らずに!』、
『神力』を、
『現された!』ならば、
有る人は、
心に、こう念じるだろう、――
『仏』は、
『幻』か、
『呪術』の、
『力』を、
『用いられている!』、
或いは、
『大力』の、
『龍神』の、
『力だろうか?』、
或いは、
『仏』は、
『天であって!』、
『人ではないのだろうか?』、と。
何以故。一身出無量身。種種光明變化故。謂為非人。斷此疑故佛入三昧王三昧。 何を以っての故に、一身より、無量の身、種種の光明を出して、変化するが故に謂いて、『人に非ず』と為せばなり。此の疑を断ぜんが故に、仏は三昧王三昧に入りたもう。
何故ならば、
『一身』より、
『無量の身』や、
『種種の光明』を、
『出して!』、
『変化させる!』が故に、
謂って、
『人ではない!』と、
『思う!』からであり、
此の、
『疑』を、
『断とうとする!』が故に、
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入られるである!』。
復次佛若入餘三昧中。諸天聲聞辟支佛或能測知。雖言佛神力大而猶可知。敬心不重。以是故入三昧王三昧中。一切諸眾聖乃至十住菩薩不能測知。不知佛心何所依何所緣。以是故佛入三昧王三昧。 復た次ぎに、仏が、若し余の三昧中に入りたまいて諸天、声聞、辟支仏も、或いは能く測知せば、仏の神力は大なりと言うと雖も、尚お知るべくして、敬心は重からざらん、是を以っての故に、三昧王三昧中に入りたもう。一切の諸の衆聖、乃至十住の菩薩も、測知する能わず、仏心は、何所にか依り、何所をか縁ずるを知らず、是を以っての故に、仏は三昧王三昧に入りたもう。
復た次ぎに、
『仏』が、
若し、
『余の三昧』中に、
『入られた!』ならば、
諸の、
『天』や、
『声聞』、
『辟支仏』も、
或いは、
『測ったり!』、
『知ることができる!』だろう。
『仏』の、
『神力』が、
『大である!』と、
『言っても!』、
猶お、
『他』に、
『知られる!』ようでは、
『敬う!』、
『心』も、
『重いはずがない!』。
是の故に、
『仏』が、
『三昧王三昧』中に、
『入られる!』と、
一切の、
諸の、
『衆聖、乃至十住の菩薩』には、
『測ったり!』、
『知ることができない!』し、
『仏』の、
『心』は、
『何に!』、
『依るのか?』、
『心』は、
『何を!』、
『縁じるのか?』も、
『知ることができない!』、
是の故に、
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入られる!』のである。
  測知(しきち):はかりしる。
  敬心(きょうしん):うやまうこころ。
  十住(じゅうじゅう):又十地とも云う。仏と同等の菩薩の位。『大智度論巻4(下)注:三乗共十地』参照。
  所依(しょえ):梵語aazrayaの訳。依託せらるるものの意。即ち法の生起する為に親しくその所託となるものを云う。「成唯識論巻4」に、「諸の心心所は皆有所依なり。然るに彼の所依に総じて三種あり、一に因縁依は謂わく自の種子なり。諸の有為法は皆この依に託す、自の因縁を離れては必ず生ぜざるが故なり。二に増上縁依は謂わく内の六処なり。諸の心心所は皆この依に託す、俱有根を離れては必ず転ぜざるが故なり。三に等無間縁依とは謂わく前滅の意なり。諸の心心所は皆この依に託す、開導根を離れては必ず起こらざるが故なり。ただ心心所のみ三の所依を具し、有所依と名づく。所余の法には非ず」と云えるこれなり。これ法の所依に総じて三種あることを明し、就中、心心所法のみただこの三種を具するが故に、即ち有所依と名づくることを説けるものなり。この中、因縁依とはまた種子依と名づく。諸の有為法の生ずる因となるものにして、即ち諸法各自の種子を云い、増上縁依とはまた俱有依と名づく、心心所法の転ずる所依となるものにして、即ち内の六処を云い、等無間縁依とはまた開導依と名づく、心心所法の現起する所依となるものにして、即ち前滅の意を云うなり。ただし四縁の中、ただ因縁等の三縁を以って所依の体とし、所縁縁を挙げざる理由に関し、「成唯識論掌中枢要巻下本」に、「何故に四縁の三を所依と名づけ、所縁縁の体を所依と名づけざるや、勝れたるものを依と名づく、勢相親近するなり。所縁縁は疎なり、この故に立てず。因は則ち是なるべきも依の義は即ち非なり」と云えり。これ所縁縁は疎なるが故に、立てて所依となさざることを明にせるなり。また前引「成唯識論巻4」の連文に諸識の俱有依を明せる中、有義は前説は皆理に応ぜず、未だ所依と依との別を了せざるが故なり。依は謂わく一切の有生滅の法は、因に杖り縁に託して而も生じ住することを得。諸の所杖託を皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。もし法の決定し、境を有し、主と為り、心心所をして自の所縁を取らしむるは乃ちこれ所依にして、即ち内の六処なり。余は有境と定と為主とに非ざるが故なり。これただ王の如し。臣等の如きには非ず。故に諸の聖教にはただ心心所のみを有所依と名づく。色等の法には非ず、所縁なきが故なり。ただ心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心の所依と為すとは説かず。彼は主に非ざるが故なり。然るに有る処に依を所依と為し、或は所依を依と為すと説くは、皆随宜の仮説なりと云えり。これ依と所依とを峻別し、一切有生滅の法の所杖託たる因縁等を依と名づけ、ただ諸識の俱有依に就き、その所杖託となるものを所依と名づくべしとなすの説なり。この中、決定とは必ずこれに依らざれば生ずることなきを云い、境を有すとは四大及び種子等を簡別せるものにして、即ち必ず所取の境を有すべきを云い、主となるとは心所法を簡別せるものにして、即ち自在力ありて余法をして生ぜしむべきものなるを云い、心心所をして自の所縁を取らしむとは、所依の体に上の三義を具するが故に、能依の心心所法をしてよく自の所縁を取らしむるを云う。即ち内の六処はこの四義を具するが故に、通じて諸八識の俱有所依の体たることを得るを明にするの意なり。ただし諸経論には単に広く物の依止となるものを所依と名づくるの例少なからず。「瑜伽師地論巻99」に梵行者の安住すべき所依として、村田所依、居処所依、補特伽羅所依、諸衣服等資具所依、威儀所依の五種を挙げ、「顕揚聖教論巻2」に行者の依準すべきものに、法、義、了義、及び智の四種あることを明し、また諸宗の教旨に正所依傍所依の経論等ありとなせる如き即ち皆その例なり。また「大毘婆沙論巻127」、「雑阿毘曇心論巻2」、「倶舎論巻4、巻6」、「瑜伽師地論巻1、巻55、巻99」、「顕揚聖教論巻19」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻4末」等に出づ。<(望)
  所縁(しょえん):心の縁ずる対象。色等の六境をいう。
復次佛有時放大光明現大神力。如生時得道時初轉法輪時諸天聖人大集會時若破外道時。皆放大光明。今欲現其殊特故。放大光明令十方一切天人眾生及諸阿羅漢辟支佛菩薩皆得見知以是故入三昧王三昧。 復た次ぎに、仏は有る時には、大光明を放って、大神力を現したまう。生まるる時、道を得たる時、初めて法輪を転ずる時、諸の天、聖人の大いに集会する時、若しくは外道を破る時に、皆大光明を放ちたもうが如し。今、其の殊特を現さんと欲するが故に、大光明を放ちて、十方の一切の天、人の衆生、及び諸の阿羅漢、辟支仏、菩薩をして、皆、見知するを得しめたまわんと、是を以っての故に、三昧王三昧に入りたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
有るいは時に、
『大光明』を放って、
『大神力』を、
『現される!』。
譬えば、
『生まれた!』時、
『道を得た!』時、
『初めて法輪を転じた!』時、
『諸の天、聖人が大いに集会した!』時、
若しくは、
『外道を破った!』時などには、
皆、
『大光明』を、
『放たれる!』。
今も、
其のような、
『殊特の事』を、
『現そう!』と、
『思われた!』が故に、
『大光明』を放って、
『十方』の、
『一切の』、
『天、人の衆生』と、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏、菩薩』に、
皆、
『見知する!』ことを、
『得させられた!』。
是の故に、
『三昧王三昧』に、
『入られたのである!』。
復次光明神力有下中上。咒術幻術能作光明變化下也。諸天龍神報得光明神力中也。入諸三昧。以今世功德心力。放大光明現大神力上也。以是故佛入三昧王三昧。 復た次ぎに、光明、神力には下、中、上有り。呪術、幻術の、能く光明、変化を作すは、下なり。諸天、龍神の報得の光明、神力は、中なり。諸の三昧に入り、今世の功徳の心力を以って、大光明を放ち、大神力を現すは、上なり。是を以っての故に、仏は三昧王三昧に入りたもう。
復た次ぎに、
『光明』や、
『神力(変化)』には、
『下、中、上』が、
『有る!』。
『呪術』や、
『幻術』で、
『光明』や、
『変化』を、
『作す!』のは、
『下』であり!、
『諸の天、龍』が、
『光明』や、
『神力』という、
『果報』を、
『得る!』のは、
『中』であり!、
『諸の三昧』に入り、
『今世』の、
『功徳』の、
『心力』が、
『大光明』や、
『大神力』を、
『放ったり!』、
『現したり!』するのは、
『上である!』。
是の故に、
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入られた!』。
問曰。如諸三昧各各相。云何一切三昧悉入其中。 問うて曰く、諸の三昧の如きは、各各の相あり。云何が、一切の三昧の、悉く、其の中に入る。
問い、
諸の、
『三昧』などは、
各各が、
『相』を、
『有する!』、
何故、
一切の、
『三昧』が、
悉く、
其の中に、
『入るのですか?』。
答曰。得是三昧王三昧時。一切三昧悉得故。言悉入其中。是三昧力故。一切諸三昧皆得無量無數不可思議。以是故名為入。 答えて曰く、是の三昧王三昧を得る時、一切の三昧を悉く得るが故に、悉く其の中に入ると言い、是の三昧の力の故に、一切の諸の三昧は、皆、無量無数不可思議を得。是を以っての故に、名づけて入ると為す。
答え、
是の、
『三昧王三昧』を、
『得る!』時には、
一切の、
『三昧』を、
『悉く!』、
『得る!』が故に、
其の中に、
『悉く!』、
『入る!』と、
『言う!』のであり、
是の、
『三昧』の、
『力』の故に、
一切の、
諸の、
『三昧』が、
皆、
『無量、無数、不可思議』の、
『相』を、
『得る!』ので、
是の故に、
『入る!』と、
『称する!』。
復次入是三昧王三昧中。一切三昧欲入即入。 復た次ぎに、是の三昧王三昧中に入れば、一切の三昧は、入らんと欲すれば、即ち入る。
復た次ぎに、
是の、
『三昧王三昧』中に、
『入った!』ならば、
一切の、
『三昧』には、
『入ろう!』と、
『思う!』だけで、
『即座に!』、
『入ることができる!』。
復次入是三昧王三昧。能觀一切三昧相。如山上觀下。 復た次ぎに、是の三昧王三昧に入れば、能く一切の三昧の相を観ること、山の上より、下を観るが如し。
復た次ぎに、
是の、
『三昧王三昧』に、
『入った!』ならば、
一切の、
『三昧』の、
『相』を、
『観ることができる!』、
譬えば、
『山の上』より、
『下』を、
『観るようなものである!』。
復次佛入是三昧王三昧中。能觀一切十方世界。亦能觀一切眾生。以是故入三昧王三昧 復た次ぎに、仏は、是の三昧王三昧中に入りて、能く、一切の十方の世界を観、亦た能く、一切の衆生を観たもう。是を以っての故に、三昧王三昧に入る。
復た次ぎに、
『仏』は、
是の、
『三昧王三昧』中に、
『入る!』と、
一切の、
十方の、
『世界』を、
『観ることができ!』、
一切の、
『衆生』を、
『観ることができる!』ので、
是の故に、
『三昧王三昧』に、
『入られるのである!』。



身を挙げて、微笑する

【經】爾時世尊從三昧安庠而起。以天眼觀視世界舉身微笑 爾の時、世尊は、三昧より安庠として、起ち、天眼を以って、世界を観視し、身を挙げて微笑したもう。
爾の時、
『世尊』は、
『三昧』より、
『静かに!』、
『起たれる!』と、
『天眼』を以って、
『世界』を、
『観視し!』、
『身』を、
『挙げて!』、
『微笑された!』。
  安庠(あんじょう):梵語dhiiraの訳。又安詳に作る。勇敢、冷静、沈着等の義。
【論】問曰。云何世尊入三昧王三昧。無所施作而從定起觀視世界。 問うて曰く、云何が、世尊は、三昧王三昧に入りたもうに、施作する所無く、定より起ちて、世界を観視したもう。
問い、
何故、
『世尊』は、
『三昧王三昧』に、
入りながら、
『作す!』所、
『無く!』、
『定(三昧)』より、
起って、
『世界』を、
『観視されたのですか?』。
  施作(せさ):梵語pratipadの訳。行う、遂行するの義。
答曰。佛入是三昧王三昧。一切佛法寶藏悉開悉看。是三昧王三昧中觀已自念。我此法藏無量無數不可思議。然後從三昧安庠而起。以天眼觀眾生。知眾生貧苦。 答えて曰く、仏は、是の三昧王三昧に入りて、一切の仏法の宝蔵を、悉く開け、悉く看たまい、是の三昧王三昧中に観已りて、自ら、『我が、此の法蔵は、無量、無数、不可思議なり』と念じたまい、然る後に、三昧より安庠として、起ち、天眼を以って、衆生を観たまい、衆生の貧苦を知りたもう。
答え、
『仏』は、
是の、
『三昧王三昧』に入って、
一切の、
『仏法』の、
『法蔵』を、
悉く、
『開けたり!』、
『看たりされた!』が、
是の、
『三昧王三昧』中に、
一切の、
『仏法』を、
『観てしまわれる!』と、
自ら、
こう念じられた、――
わたしの、
此の、
『法蔵』は、
『無量、無数、不可思議である!』と。
その後、
『三昧』より、
『静かに!』、
『起たれる!』と、
『天眼』を以って、
『衆生』を、
『観察し!』、
『衆生』の、
『貧苦』を、
『知られたである!』。
此法藏者從因緣得。一切眾生皆亦可得。但坐癡冥不求不索。以是故舉身微笑。 『此の法蔵は、因縁より得たれば、一切の衆生も、皆、亦た得べし。但だ癡冥に坐して、求めず、索めざるのみ』と。是を以っての故に、身を挙げて微笑したまえり。
此の、
『法蔵』は、
『因縁』により、
『得た!』ものであり、
一切の、
『衆生』にも、
『皆が』、
『得られるはず!』である。
但だ、
『愚癡』の、
『闇冥』中に、
『坐して!』、
『法』を、
『探し!』、
『求めない!』ので、
是の故に、
『身』を、
『挙げて!』、
『微笑されたである!』。
  求索(ぐさく):梵語paryeSTiの訳。世間の物を求めて努力するの義。探し求める。
問曰。佛有佛眼慧眼法眼勝於天眼。何以用天眼觀視世界。 問うて曰く、仏には、仏眼、慧眼、法眼有りて、天眼に勝れたり。何を以ってか、天眼を用いて、世界を観視したまえる。
問い、
『仏』には、
『仏眼』、
『慧眼』、
『法眼』が有って、
『天眼』よりも、
『勝れている!』。
何故、
『天眼』を用いて、
『世界』を、
『観視されたのですか?』。
答曰。肉眼所見不遍故。慧眼知諸法實相。法眼見是人以何方便行何法得道。佛眼名一切法現前了了知。 答えて曰く、肉眼の見る所は、遍からざるが故なり。慧眼は、諸法の実相を知り、法眼は、是の人は、何なる方便を以って、何なる法を行じて、道を得るやを見、仏眼は、一切の法を、現前に了了と知るに名づく。
答え、
『肉眼』は、
『見る!』所が、
『遍くない!』からであるが、
『慧眼』は、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』ものであり、
『法眼』は、
是の、
『人』は、
何のような、
『方便』を、
『用いて!』、
何のような、
『法』を、
『行わせれば!』、
『道』を、
『得られる!』のかを、
『見る!』ものであり、
『仏眼』は、
一切の、
『法』を、
『現前』に、
『了了と(はっきりと)!』、
『知るからである!』。
今天眼緣世界及眾生無障無礙。餘眼不爾。慧眼法眼佛眼雖勝。非見眾生法。欲見眾生唯以二眼。肉眼天眼。以肉眼不遍有所障故。用天眼觀。 今、天眼は、世界、及び衆生を縁じて、障無く、礙無きも、余の眼は爾らず。慧眼、法眼、仏眼は、勝れたりと雖も、衆生を見る法に非ず。衆生を見んと欲すれば、唯だ二眼を以ってすべし、肉眼と天眼となり。肉眼の遍からずして、障うる所有るを以っての故に、天眼を用いて観る。
今、
『天眼』は、
『世界』と、
『衆生』とを、
『縁じて(観て)』、
『障礙する!』所が、
『無い!』が、
『余の眼』は、
そうでない!、
『慧眼』、
『法眼』、
『仏眼』は、
『勝れている!』が、
『衆生』を、
『見る!』為の、
『法ではないからである!』。
『衆生』を、
『見よう!』と、
『思えば!』、
唯だ、
『二眼』を、
『用いるよりない!』、
謂わゆる、
『肉眼』と、
『天眼である!』。
『肉眼』の、
『見る!』所は、
『遍くなく!』、
『遮られて!』、
『見えない!』所が、
『有る!』が故に、
『天眼』を、
『用いて!』、
『観るのである!』。
問曰。今是眼在佛。何以名為天眼。 問うて曰く、今、是の眼は、仏に在り。何を以ってか、名づけて天眼と為す。
問い、
今、
是の、
『眼』は、
『仏』に、
『在る!』のに、
何故、
『天』の、
『眼』と、
『称するのですか?』。
答曰。此眼多在天中。天眼所見不礙山壁樹木。若人精進持戒禪定行力得。非是生分。以是故名為天眼。 答えて曰く、此の眼は、多く天中に在ればなり。天眼の見る所は、山、壁、樹木に礙えられず。若し人、持戒、禅定に精進なれば、行力もて得ん、是れ生分に非ざればなり。是を以っての故に、名づけて天眼と為す。
答え、
此の、
『眼』は、
『多く!』が、
『天』中に、
『在るからである!』。
『天眼』の、
『見る!』所は、
『山、壁、樹木』に、
『礙えられない!』が、
若し、
『人』が、
『持戒』や、
『禅定』に、
『精進』すれば、
『行力』を、
『用いて!』、
『得ることができる!』のであり、
是れは、
『生まれながら!』の、
『分ではない!』。
是の故に、
『天眼』と、
『称する!』。
  行力(ぎょうりき):梵語caryaa-balaの訳。精進して得る所の実践の力の義。
復次人多貴天以天為主。佛隨人心。以是故名為天眼。 復た次ぎに、人は、多く天を貴び、天を以って主と為す。仏は、人心に随いて、是を以っての故に、名づけて天眼と為す。
復た次ぎに、
『人』は、
『多く!』が、
『天』を、
『貴び!』、
『天』を、
『主だ!』と、
『思っている!』ので、
『仏』は、
『人』の、
『心』に、
『随い!』、
是の故に、
『天眼』と、
『呼ばれたのである!』。
復次天有三種。名天生天淨天。名天天王天子是也。生天釋梵諸天是也。淨天佛辟支佛阿羅漢是也。 復た次ぎに、天には三種有り、名天、生天、浄天なり。名天は、天王、天子是れなり。生天は、釈梵の諸天是れなり。浄天は、仏、辟支仏、阿羅漢是れなり。
復た次ぎに、
『天』には、
『三種』有り、
『名天(名のみの天)』、
『生天(生まれながらの天)』、
『浄天(清浄なるが故の天)』である。
『名天』とは、
『天王(四天王天)』や、
『天子』が、
是れである。
『生天』とは、
『釈(釈提桓因、三十三天の主)』や、
『梵(大梵天、初禅天の主)』が、
是れである。
『浄天』とは、
『仏』や、
『辟支仏』、
『阿羅漢』が、
是れである。
  参考:『大智度論巻5』:『天眼通者。於眼。得色界四大造清淨色。是名天眼。天眼所見。自地及下地六道中眾生諸物。若近若遠若覆若細諸色無不能照。見天眼有二種。一者從報得。二者從修得。是五通中天眼從修得非報得。何以故。常憶念種種光明得故。復次有人言。是諸菩薩輩得無生法忍力故。六道中不攝。但為教化眾生故。以法身現於十方。三界中未得法身菩薩。或修得或報得。問曰。是諸菩薩功德。勝阿羅漢辟支佛。何以故。讚凡夫所共小功德天眼。不讚諸菩薩慧眼法眼佛眼。答曰有三種天。一假號天二生天三清淨天。轉輪聖王諸餘大王等。是名假號天。從四天王天乃至有頂生處。是名生天。諸佛法身菩薩辟支佛阿羅漢。是名清淨天。是清淨天修得天眼。是謂天眼通。』
淨天中尊者是佛。今言天眼亦無咎也。 浄天中の尊き者は、是れ仏なれば、今、天眼と言うも、亦た咎無きなり。
『浄天』中の、
『尊き!』者が、
『仏である!』ので、
今、
『天』の、
『眼』と、
『言った!』としても、
亦た、
『咎』は、
『無い!』。
天眼觀視世界者。以世界眾生常求安樂而更得苦心著吾我。是中實無吾我。眾生常畏苦而常行苦。如盲人求好道反墮深坑。如是等種種觀已舉身微笑。 天眼もて世界を観視すれば、世界の衆生は、常に安楽を求むるを以って、而も更に苦を得。心は吾我に著すれど、是の中には、実に吾我無し。衆生は、常に苦を畏れて、而も常に苦を行ず。盲人の好道を求めて、反って深坑に墮つるが如し。是の如き等の種種に観已りて、身を挙げて微笑したまえり。
『天眼』で、
『世界』を、
『観視してみる!』と、――
『世界』の、
『衆生』は、
常に、
『安楽』を、
『求める!』ことを以って、
更に、
『苦』を、
『得ている!』。
『衆生』の、
『心』は、
『吾我』に、
『著している!』が、
是の、
『吾我』と、
『信ずる!』所の中に、
『実』に、
『吾我』は、
『無い!』。
『衆生』は、
常に、
『苦』の、
『果』を、
『畏れながら!』、
常に、
『苦』の
『業』を、
『行っている!』。
譬えば、
『盲人』が、
『好い!』、
『道』を、
『求めながら!』、
『深い!』、
『坑』に、
『堕ちるようなものである!』。
是のように、
種種に、
『観察された!』後、
『身』を、
『挙げて!』、
『微笑された!』。
問曰。笑從口生或時眼笑。今云何言一切身笑。 問うて曰く、笑いは、口より生じ、或いは時に眼も笑う。今は、云何が、一切の身もて笑うと言える。
問い、
『笑い!』は、
『口』より、
『生じるか?』、
或いは、
時に、
『眼』が、
『笑うかです!』。
今は、
何故、
『一切の身』が、
『笑う!』と、
『言うのですか?』。
答曰。佛世界中尊得自在。能令一切身如口如眼故。皆能笑。 答えて曰く、仏は、世界中の尊にして、自在を得たまえば、能く一切の身をして、口の如く、眼の如くならしめたもうが故に、皆、能く笑うなり。
答え、
『仏』は、
『世界』中の、
『尊者』として、
『自在』を、
『得られている!』ので、
一切の、
『身』を、
『口』や、
『眼のようにさせる!』ことができ、
故に、
『皆が』、
『笑うことができる!』。
復次一切毛孔皆開故名為笑。由口笑歡喜故。一切毛孔皆開。 復た次ぎに、一切の毛孔は、皆開くが故に、名づけて笑うと為す。口の笑いて歓喜するに由るが故に、一切の毛孔、皆開くなり。
復た次ぎに、
一切の、
『毛孔』は、
皆、
『開く!』が故に、
是れを、
『笑う!』と、
『称する!』。
『口』が、
『笑って!』、
『歓喜する!』が故に、
一切の、
『毛孔』が、
皆、
『開くのである!』。
問曰。佛至尊重何以故笑。 問うて曰く、仏は、至尊にして、重し。何を以っての故にか、笑いたまえる。
問い、
『仏』は、
『尊』の、
『至り(極み)!』で、
『重々しい!』はずなのに、
何故、
『軽々しく!』、
『笑われたのですか?』。
答曰。如大地不以無事及小因緣而動。佛亦如是。若無事及小因緣則不笑。今大因緣故一切身笑。 答えて曰く、大地の如きは、無事、及び少因縁を以っては、動かず。仏も、亦た是の如く、若し無事、及び少因縁なれば、則ち笑いたまわず。今、大因縁の故に、一切の身もて笑いたもう。
答え、
譬えば、
『大地』などは、
『事』が、
『無い!』か、
『因縁』が、
『小さい!』と、
『動かない!』のであるが、
『仏』も、
是のように、
若し、
『事』が、
『無い!』か、
『因縁』が、
『小さい!』時には、
『笑われない!』。
今は、
『因縁』が、
『大きい!』が故に、
一切の、
『身』が、
『笑ったのである!』。
云何為大。佛欲說摩訶般若波羅蜜。無央數眾生當續佛種。是為大因緣。 云何が、大と為す。仏の、摩訶般若波羅蜜を説かんと欲したもうに、無央数の衆生は、当に仏の種を続ぐべし。是れを大因縁と為す。
何故、
『大きい!』と、
『称する!』のか?
『仏』が、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説こう!』と、
『思われた!』ので、
『無数』の、
『衆生』が、
『仏の種』を、
『続ぐことになった!』、
是れを、
『因縁』が、
『大きい!』と、
『称する!』。
復次佛言。我世世曾作小虫惡人。漸漸集諸善本。得大智慧。今自致作佛。神力無量最上最大。一切眾生亦可得爾。云何空受勤苦而墮小處。以是故笑。 復た次ぎに、仏の言わく、『我れは、世世に曽て、小虫、悪人と作り、漸漸に諸の善本を集めて、大智慧を得、今、自ら致して、仏と作り、神力は無量にして、最上最大なり。一切の衆生も、亦た爾ることを得べし。云何が、空しく勤苦を受け、小処に堕ちん。是を以っての故に、笑いたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
こう言われた、――
わたしは、
世世に、
曽て、
『小虫』や、
『悪人』と、
『作りながら!』、
漸漸(次第)に、
諸の、
『善』の、
『根本』を、
『集めて!』、
『大きな!』、
『智慧』を、
『得た!』ので、
今、
自ら、
『致して(招いて)』、
『仏』と、
『作ることができ!』、
『仏』の、
『神力』は、
『無量、最上、最大である!』。
一切の、
『衆生』も、
『そうなる!』ことが、
『できるはずである!』。
何故、
『空しく!』、
『勤苦』を、
『受けながら!』、
『小さな(下劣な)!』、
『処』に、
『堕ちようとするのか?』、と。
是の故に、
『笑われたのである!』。
  勤苦(ごんく):梵語duHkhaの訳。苦痛、悲哀、苦難等の義。
  小処(しょうじょ):つまらない処。下劣な処。悪趣。
復次有小因大果小緣大報。如求佛道讚一偈一稱南無佛燒一捻香。必得作佛。何況聞知諸法實不生不滅不不生不不滅。而行因緣業亦不失。以是事故笑。 復た次ぎに、小因大果、小縁大報なる有り。仏道を求めて、一偈を散じ、南無仏と一称し、一捻の香を焼(た)くが如きも、必ず仏と作るを得る。何をか況んや、諸法は、実に不生、不滅、不不生不不滅にして、而も因縁を行じて、業も亦た失われざるを聞知するをや。是の事を以っての故に、笑いたまえり。
復た次ぎに、
『小因大果』とか、
『小縁大報』という、
『事』が、
『有る!』が、
例えば、
『仏』の、
『道』を求めて、
『一偈』を、
『讃えたり!』、
『南無仏』と、
『一称したり!』、
『香』を、
『一つまみ』、
『焼()く!』なども、
必ず、
『仏』と、
『作ることができる!』。
況して、
諸の、
『法』は、
実に、
『不生』、
『不滅』、
『不不生不不滅である!』が、
而し、
『因縁』を、
『行えば!』、
『業』は、
『決して!』、
『失われない!』ということを、
『聞いたり!』、
『知ったり!』すれば、
尚更であり!、
是の故に、
『笑われた!』。
復次般若波羅蜜相清淨如虛空。不可與不可取。佛種種方便光明神德。欲教化一切眾生令心調柔。然後能信受般若波羅蜜。以是故因笑放光。 復た次ぎに、般若波羅蜜の相は、清浄にして虚空の如く、与えるべからず、取るべからず。仏は、種種の方便と、光明の神徳もて、一切の衆生を教化して、心をして調柔ならしめ、然る後に、能く般若波羅蜜を信受せしめんと欲したまい、是を以っての故に、笑いに因りて、光を放ちたまえり。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜』の、
『相』は、
『清浄』であり、
『虚空』のように、
『与えることも!』、
『取ることもできない!』ので、
『仏』は、
『種種の方便』と、
『光明の神徳』を以って、
一切の、
『衆生』を、
『教化』して、
『心』を、
『調柔にし!』、
その後、
『般若波羅蜜』を、
『信受できるよう!』に、
『させたい!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
『笑われて!』、
『光』が、
『放たれた!』。
笑有種種因緣。有人歡喜而笑。有人瞋恚而笑。有輕人而笑。有見異事而笑。有見可羞恥事而笑。有見殊方異俗而笑。有見希有難事而笑。 笑いには、種種の因縁有り。有る人は、歓喜して笑い、有る人は、瞋恚して笑い、有るは、人を軽んじて笑い、有るは、異事を見て笑い、有るは、羞恥すべき事を見て笑い、有るは、殊方の異俗を見て笑い、有るは、希有の難事を見て笑う。
『笑い!』には、
種種の、
『因縁』が、
『有る!』。
有る人は、
『歓喜する!』と、
『笑う!』、
有る人は、
『瞋恚する!』と、
『笑う!』、
有る人は、
『人』を、
『軽んじる!』と、
『笑う!』、
有る人は、
『異事(珍しい事)』を、
『見る!』と、
『笑う!』、
有る人は、
『恥ずかしい事』を、
『見る!』と、
『笑う!』、
有る人は、
『地方の風俗』を、
『見る!』と、
『笑う!』、
有る人は、
『希有の難事』を、
『見る!』と、
『笑う!』。
今是第一希有難事。諸法相不生不滅。真空無字無名無言無說。而欲作名立字為眾生說令得解脫。是第一難事。 今は、是れ第一の希有の難事なり。諸法の相は、不生不滅、真空、無字、無名、無言、無説なるに、名を作り、字を立てて、衆生の為に説いて、解脱を得しめんと欲するは、是れ第一の難事なり。
今は、
『第一』の、
『希有』の、
『難事である!』。
諸の、
『法』の、
『相』は、
『不生』、
『不滅』、
『真空』、
『無字』、
『無名』、
『無言』、
『無説』なのに、
而も、
『名』や、
『字』を、
『作ったり!』、
『立てたり!』して、
『衆生』の為に、
『説いて!』、
『解脱』を、
『得させようとする!』、
是れこそ、
『第一』の、
『難事である!』。
譬如百由旬大火聚有人負乾草入火中過不燒一葉。是甚為難。 譬えば、百由旬の大火聚に、有る人、乾草を負うて、火中に入り、過ごして、一葉すら焼かざれば、是れを甚だ難しと為すが如し。
譬えば、
『百由旬(1000km)』の、
『大火聚』が、
『有った!』として、
有る人が、
『乾草』を負うて、
『火』中に、
『入り!』、
『通り過ぎた!』後、
『一葉』すら、
『焼けなかった!』ならば、
是れを、
『甚だ!』、
『難しい!』と、
『称する!』。
佛亦如是。持八萬法眾名字草。入諸法實相中。不為染著火所燒。直過無礙。是為甚難。以是難事故笑。如是種種希有難事故。舉身微笑 仏も、亦た是の如く、八万の法衆の名字の草を持ち、諸法の実相中に入りて、染著の火に焼かれず、直に過ぐること無礙なれば、是れを甚だ難しと為す。是の難事を以っての故に笑いたまい、是の如き種種の希有の難事の故に、身を挙げて微笑したまえり。
『仏』も、
是のように、
『八万』の、
『法衆』という、
『名字』の、
『乾草』を、
『持ち!』、
諸の、
『法』の、
『実相』中に、
『入られる!』が、
『染著』という、
『火』に、
『焼かれず!』、
直ちに、
『通り過ぎて!』、
『無礙である!』ので、
是れを、
『甚だ!』、
『難しい!』と、
『称する!』のであり、
是の、
『難しい!』、
『事(仕事)』の故に、
『笑われ!』、
是のような、
種種の、
『希有』の、
『難しい!』、
『事』の故に、
『身』を、
『挙げて!』、
『笑われたのである!』。



足下の千輻相輪より、光明を放つ

【經】從足下千輻相輪中放六百萬億光明 足下の千輻相輪中より、六百万億の光明を放ちたもう。
『足下千輻相輪』中より、
『六百万億』の、
『光明』を、
『放たれた!』。
  足下千輻相輪(そくげせんぷくそうりん):梵語cakraaNka-paadataaの訳。足裏に存する千輻輪の印相。三十二相の一。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
【論】問曰。佛何以故先放身光。 問うて曰く、仏は、何を以っての故にか、先に身光を放ちたまえる。
問い、
『仏』は、
何故、
先に、
『身光』を、
『放たれたのですか?』。
  身光(しんこう):梵語kaaya-prabhaaの訳。身体より発する光の義。
答曰。上笑因緣中已答。今當更說。有人見佛無量身放大光明。心信清淨恭敬故。知非常人。 答えて曰く、上の、笑いの因縁中に、已に答えたり。今、当に更に説くべし。有る人は、仏の、無量に身より、大光明を放たるるを見て、心信清浄となり、恭敬するが故に、常人に非ざるを知る。
答え、
上の、
『笑い!』の、
『因縁』中に、
『答えてある!』が、
今、
更に、説くことにしよう、――
有る人は、
『仏』の、
『身』より、
無量に、
『光明』が、
『放たれる!』のを、
『見て!』、
『心』が、
『信頼し!』、
『清浄になる!』が故に、
『仏』は、
『常人でない!』と、
『知るからである!』。
  信清浄(しんしょうじょう):梵語zraddhaa-vizuddhiの訳。信頼して清浄となるの義。
復次佛欲現智慧。光明神相故。先出身光。眾生知佛身光既現。智慧光明亦應當出。 復た次ぎに、仏は、智慧の光明の神相を現さんと欲するが故に、先に身光を出したまえば、衆生は、仏の身光の既に現れたるに、智慧の光明も、亦た応当に出づべきことを知る。
復た次ぎに、
『仏』が、
『智慧』という、
『光明』の、
『神相』を、
『現そう!』と、
『思われた!』が故に、
先に、
『身』の、
『光』を、
『出される!』と、
『衆生』は、
こう知る!のである、――
『仏身』より、
『光』が、
『現れた!』のであるから、
『智慧』の、
『光明』も、
『出るはずだ!』、と。
復次一切眾生常著欲樂。五欲中第一者色。見此妙光心必愛著。捨本所樂令其心漸離欲。然後為說智慧。 復た次ぎに、一切の衆生は、常に欲楽に著し、五欲中に第一は、色なり、此の妙光を見れば、心必ず愛著し、本の楽しむ所を捨つれば、其の心をして、漸く欲を離れしめ、然る後に、為に智慧を説く。
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』は、
常に、
『欲』の、
『楽しみ!』に、
『著する!』ものであり、
『五欲』中の、
『第一』は、
『色である!』。
若し、
『衆生』が、
此の、
『妙なる!』、
『光』を、
『見れば!』、
『心』が、
『必ず!』、
『愛著し!』、
『本』の、
『楽しむ!』所を、
『捨てる!』ので、
其の、
『心』を、
ゆっくり!と、
『欲』を、
『離れさせてから!』、
ようやく、
『智慧』を、
『説くのである!』。
問曰。其餘天人亦能放光。佛放光明有何等異。 問うて曰く、其の余の天、人も、亦た能く、光を放つ。仏の、光明を放つと、何等の異か有らん。
問い、
その他の、
『天、人』も、
亦た、
『光』を、
『放つことができる!』が、
『仏』が、
『光明』を、
『放たれる!』のと、
何のような、
『異なり!』が、
『有るのですか?』。
答曰。諸天人雖能放光有限有量。日月所照唯四天下。佛放光明滿三千大千世界。三千大千世界中出。遍至下方。餘人光明唯能令人歡喜而已。佛放光明能令一切聞法得度。以是為異。 答えて曰く、諸の天、人は、能く光を放つと雖も、有限有量にして、日月の照らす所は、唯だ四天下なるも、仏、光明を放ちたまえば、三千大千世界に満ちて、三千大千世界中より出で、遍く下方に至る。余人の光明は、唯だ能く、人をして歓喜せしむるのみ。仏光明を放ちたまえば、能く一切をして、法を聞かしめ、度を得しむ。是を以って異と為す。
答え、
諸の、
『天、人』は、
『光』を、
『放つことができる!』が、
『有限、有量であり!』、
『日、月』の、
『照らす!』所も、
『唯だ!』、
『四天下のみ!』であるが、
『仏』の、
『放たれる!』、
『光明』は、
『三千大千世界』を、
『満たして!』、
『三千大千世界』中より、
『出る!』と、
『下方世界』に、
『遍く!』、
『至る!』のである。
余の、
『人』の、
『光明』は、
唯だ、
『人』を、
『歓喜させるのみ!』であるが、
『仏』の、
『放たれる!』、
『光明』は、
『一切』に、
『法』を聞かせて、
『道』を、
『得させる!』。
是れが、
『異なり!』である。
問曰。如一身中。頭為最上。何以故先從足下放光。 問うて曰く、一身中の如きは、頭を最上と為す。何を以っての故にか、先に足下より、光を放ちたまえる。
問い、
『一身』中などでは、
『頭』を、
『最上』とする!。
何故、
先に、
『足下』より、
『光』を、
『放たれたのですか?』。
答曰。身得住處皆由於足。 答えて曰く、身の、住処を得るは、皆、足に由ればなり。
答え、
『身』が、
『住(とど)まる!』為の、
『処』を、
『得る!』のは、
皆、
『足』に、
『由るからである!』。
復次一身中雖頭貴而足賤。佛不自貴光不為利養。以是故於賤處放光。 復た次ぎに、一身中には、頭が貴く、足は賎しと雖も、仏は、自らの光を貴ばれず、利養の為にされざれば、是を以っての故に、賎しき処に於いて、光を放ちたまえり。
復た次ぎに、
『一身』中には、
『頭』が、
『貴く!』、
『足』は、
『賎しい!』としても、
『仏』は、
『自ら!』の、
『光』を、
『貴ばれない!』し、
『自ら!』を、
『利養する!』為の、
『光でもない!』ので、
是の故に、
『賎しい!』、
『処』から、
『光』を、
『放たれた!』。
  利養(りよう):利を以って身を養うの意。「法華経巻1序品」に、「利養に貪著す」と云い、「菩薩戒経巻下」に、「利養の為の故に、名聞の為の故に、悪しく求め多く求む」と云い、「大智度論巻5」に、「この利養の法は賊の如く、功徳の本を壊す。譬えば天雹の五穀を傷害するが如く、利養、名聞もまたかくの如く、功徳の苗を壊して増長せざらしむ。仏の譬喩に説きたもうが如く、毛縄もて人を縛るに膚を断ち、骨を截るが如く、利養を貪る人は功徳の本を断つこと、またまたかくの如し」と云えるこれなり。<(丁)
復次諸龍大蛇鬼神從口中出光。毒害前物。若佛口放光明眾生怖畏。是何大光。復恐被害。是故從足下放光。 復た次ぎに、諸龍、大蛇、鬼神は、口中より光を出し、毒もて、前の物を害す。若し、仏が口より、光明を放ちたまわば、衆生は、『是れ何の大光ぞ。』と怖畏して、復た害せられんことを恐る。是の故に、足下より、光を放ちたまえり。
復た次ぎに、
諸の、
『龍』や、
『大蛇』、
『鬼神』たちは、
『口』中より、
『光』を、
『出して!』、
『毒』で、
『前の物』を、
『害する(殺す)』ので、
若し、
『仏』が、
『口』から、
『光明』を、
『放たれる!』と、
『衆生』は、
是れは、
何の、
『大光だろう?』と、
『怖畏して!』、
復た、
『害される!』ことを、
『恐れる!』だろう。
是の故に、
『足下』から、
『光』を、
『放たれた!』。
問曰。足下六百萬億光明。乃至肉髻是皆可數。三千大千世界尚不可滿。何況十方。 問うて曰く、足下の六百万億の光明、乃至肉髻は、是れ皆数うべし。三千大千世界は、尚お満つべからず。何に況んや、十方をや。
問い、
『足下』の、
『六百万億』の、
『光明』、
乃至、
『肉髻』の、
『光明』は、
皆、
『数えることができる!』ので、
『三千大千世界』すら、
『満たせない!』だろう。
況して、
『十方』を、
『満たせるはずがない!』。
  肉髻(にくけい):梵名烏瑟膩沙uSNiiSaの訳。仏頂上に有る一肉団の、髻状の如きを云う。三十二相の一。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
答曰。此身光是諸光之本。從本枝流無量無數。譬如迦羅求羅虫。其身微細得風轉大。乃至能吞食一切。光明亦如是。得可度眾生轉增無限 答えて曰く、此の身光は、諸の光の本にして、本より、枝流は無量、無数なり。譬えば迦羅求羅虫は、其の身微細なるも、風を得れば転た大となり、乃至能く一切を呑食す。光明も、亦た是の如く、度すべき衆生を得て、転た増すこと無限なり。
答え、
此の、
『身光』は、
諸の、
『光』の、
『本であり!』、
『本』より、
無量、
無数の、
『枝』が、
『流れる!』。
譬えば、
『迦羅求羅』という、
『虫』は、
其の、
『身』が、
『微細でありながら!』、
『風』を、
『得る!』ごとに、
『どんどん!』、
『大きくなり!』、
やがては、
『一切』を、
『呑込んで!』、
『食ってしまう!』が、
『光明』も、
亦た、
是のように、
『度すべき!』、
『衆生』を、
『得る!』ごとに、
『どんどん!』、
『無限』に、
『増すのである!』。
  迦羅求羅虫(からぐらちゅう):迦羅求羅は梵名(kalaakula)、また迦羅咎羅に作る。黒木虫と訳す。「大智度論巻7」に、「譬えば迦羅求羅虫はその身微細なれども、風を得ば転た大となり、よく一切を呑食する如し。光明もまたかくの如く、度すべき衆生を得れば転た増して限りなし」と云えるこれなり。「往生論註巻下」にこれを引いて、安楽浄土に往生せし衆生が出世善根を成就して正定聚に入るに譬え、「摩訶止観巻5上」には、またこれを昏散の病起こるによりて、弥よ止観の明静を益すに比せり。迦羅求羅の言語は審らかにせざるも、もし梵語kRkalaasaの音訳とすれば、蜥蜴の一種chameleonなり。また「翻梵語巻7」に出づ。蓋し大山椒魚なるが如し。<(望)



一切の身分より、光明を放つ

【經】足十指兩踝兩[跳-兆+尃]兩膝兩髀腰脊腹背臍心胸德字肩臂手十指項口四十齒鼻兩孔兩眼兩耳白毫相肉髻。各各放六百萬億光明 足の十指、両(ふたつ)の踝(くるぶし)、両の膞(はぎ)、両の膝、両の髀(もも)、腰、脊、腹、背、臍、心、胸の徳字、肩、臂、手の十指、項、口の四十歯、鼻の両孔、両の眼、両の耳、白毫相、肉髻の、各各より、六百万億の光明を放ちたまえり。
『足の十指』、
『両踝(くるぶし)』、
『両膞(はぎ)』、
『両膝』、
『両髀(もも)』、
『腰』、
『脊骨』、
『腹』、
『背中』、
『臍』、
『心臓』、
『胸の徳字』、
『肩』、
『臂』、
『手の十指』、
『項』、
『口の四十歯』、
『鼻の両孔』、
『両眼』、
『両耳』、
『白毫相』、
『肉髻』の、
各各より、
『六百万億』の、
『光明』を、
『放たれた!』。
  徳字(とくじ):梵語svastikaの訳。吉祥ある物、縁起物の義、或いは卍字の義。仏の胸毛の卍字の如きなるを云う。
  白毫相(びゃくごうそう):梵語uurNaa-kezaの訳。仏の眉間にあるうず高く巻いた白毛。三十二相の一。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
【論】問曰。足下光明。能照三千大千及十方世界。何用身分各各放六百萬億光明。 問うて曰く、足下の光明は、能く三千大千、及び十方の世界を照らす。何を用ってか、身分の各各より、六百万億の光明を放ちたまえる。
問い、
『足下』の、
『光明』すら、
『三千大千世界』や、
『十方の世界』を、
『照らすことができる!』のに、
『身分』の、
各各より、
『六百万億』の、
『光明』を、
『放って!』、
何に、
『用いられるのですか?』。
答曰。我先言足下光明照下方餘方不滿。是故更放身分光明。 答えて曰く、我れは先に、『足下の光明は、下方を照らすも、余方を満てず。』と言えり。是の故に、更に身分の光明を放ちたまえり。
答え、
わたしは、
先に、こう言ったのだ!――
『足下』の、
『光明』は、
『下方』を、
『照らした!』が、
『余方』は、
『満たさなかった!』と。
是の故に、
更に、
『身分』の、
『光明』を、
『放たれた!』。
有人言。一切身分足為立處故最大。餘不爾。是故佛初放足下六百萬億光明以示眾生。如三十二相中初種足下安住相。一切身分皆有神力。 有る人の言わく、『一切の身分に、足を立処と為すが故に、最大なり。余は爾らず。是の故に、仏は初に、足下の六百万億の光明を放って、以って衆生に示したまえり。三十二相中には、初に足下安住相を種えたまえるが如く、一切の身分には、皆、神力有り。』と。
有る人は、
こう言っている、――
一切の、
『身分』に、
『足』は、
『立つ処』である!が故に、
『最大』である!が、
『その他』は、
『そうでない!』ので、
『仏』は、
『初』に、
『足下』より、
『六百万億』の、
『光明』を、
『放って!』、
それを、
『衆生』に、
『示された!』のである。
例えば、
『三十二相』中の、
『初』に、
『足下安住相』を、
『種えられた!』ように、
一切の、
『身分』は、
皆、
『神力』を、
『有する!』、と。
  足下安住相(そくげあんじゅうそう):梵語su-pratiSThita-paadaの訳。仏の足下の平坦なることをいう。三十二相の一。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
問曰。依何三昧。依何神通。何禪定中。放此光明。 問うて曰く、何なる三昧に依り、何なる神通に依り、何なる禅定中に、此の光明を放ちたまえる。
問い、
何のような、
『三昧』や、
『神通』に、
『依り!』、
何のような、
『禅定』中に、
『入って!』、
此の、
『光明』を、
『放たれたのですか?』。
答曰。三昧王三昧中放此光明。六通中如意通。四禪中第四禪。放此光明。第四禪中火勝處火。一切入此中放光明。 答えて曰く、三昧王三昧中に、此の光明を放ち、六通中の如意通、四禅中の第四禅により、此の光明を放ち、第四禅中の火勝処、火一切入の、此の中に光明を放ちたまえり。
答え、
『三昧王三昧』中に、
此の、
『光明』を、
『放ち!』、
『六神通』中の、
『如意通』と、
『四禅』中の、
『第四禅』に於いて、
此の、
『光明』を、
『放ち!』、
『第四禅』中の、
『火勝処』と、
『火一切入』中に、
此の、
『光明』を、
『放たれる!』。
  如意通(にょいつう):梵語Rddhi-vazitaaの訳、或いはRddhi-paadaとも云い、神足通と訳す。物の移動、変化等に関する不可思議の通力をいう。六神通の一。『大智度論巻18下注:六神通』参照。
  火勝処(かしょうじょ):八勝処中の第七赤勝処を指すが如し。「観音義疏巻上」に、「八勝処中に火勝処あり」と云い、「観音経義疏記巻1」に、「八勝処とは、一には内に色相有り、外に色を観ること少なり、二には内に色相有り、外に色を観ること多なり、三には内に色相無く、外に色を観ること少なり、四には内に色相無く、外に色を観ること多なり、此の四句は未だ皆云わず、若しは好、若しは醜なる、是れを勝知勝見と名づく。五には、地勝処、六には、水勝処、七には火勝処、八には風勝処、此れを縁ずる中に於いて、転変自在にして、観心淳熟なること前の八色に勝るが故なり」と云える是れならん。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  火一切入(かいっさいにゅう):十一切入中の第三火一切入を指す。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  参考:『鞞婆沙論巻12』:『鞞婆沙八除入處第三十七  八除入者。云何為八。此比丘內有色想觀外色少。若好若醜彼色壞已知壞已見。作如是想。此初除入。復次比丘內有色想觀外色無量。若好若醜彼色壞已知壞已見。作如是想。此二除入。復次比丘內無色想觀外色少。若好若醜彼色壞已知壞已見。作如是想。此三除入。復次比丘內無色想觀外色無量。若好若醜彼色壞已知壞已見。作如是想此四除入。復次比丘內無色想觀外色。青青色青見青光。無量無量淨。意愛意樂無厭。如青蓮花。青青色青見青光。如成就波羅奈衣。極擣熟令悅澤。青青色青見青光。如是比丘內無色想觀外色青青色青見青光。無量無量淨。意愛意樂無厭。彼色壞已知壞已見。作如是想。此五除入。復次比丘內無色想觀外色黃黃色黃見黃光。無量無量淨。意愛意樂無厭。如迦羅尼。黃黃色黃見黃光。如成就波羅奈衣。極擣熟令悅澤。黃黃色黃見黃光。如是比丘內無色想觀外色。黃黃色黃見黃光。無量無量淨。意愛意樂無厭。彼色壞已知壞已見。作如是想。此六除入。復次比丘內無色想觀外色。赤赤色赤見赤光。無量無量淨。意愛意樂無厭。如頻頭迦羅花。赤赤色赤見赤光。如成就波羅奈衣。極擣熟令悅澤。赤赤色赤見赤光。如是比丘內無色想觀外色。赤赤色赤見赤光。無量無量淨。意愛意樂無厭。彼色壞已知壞已見。作如是想。此七除入。復次比丘內無色想觀外色。白白色白見白光。無量無量淨。意愛意樂無厭。如明星白白色白見白光。如成就波羅奈衣。極擣熟令悅澤。白白色白見白光。如是比丘內無色想觀外色。白白色白見白光。無量無量淨。意愛意樂無厭。彼色壞已知壞已見。作如是想。此八除入。問曰。八除入有何性。答曰。無貪善根性。彼相應法共有法總五陰性。界者。或欲界繫。或色界繫。地者。初四除入初禪二禪地。後四除入第四禪地。何以故。謂從初解脫二解脫。或初四除入故從淨解脫成後四除入故。依者。盡依欲界。行者。初四除入不淨行。後四除入淨行。緣者。盡緣欲界欲界中色入緣。意止者。是身意止。智者。雖性非智。但等智相應。定者。非定。痛者。初四除入喜根相應。後四除入護根相應。問曰。當言過去耶。當言未來耶。當言現在耶。答曰。當言過去。當言未來。當言現在。問曰。當言過去緣耶。當言未來緣耶。當言現在緣耶。答曰。當言過去緣。當言未來緣。當言現在緣。問曰。當言名緣耶。當言義緣耶。答曰。當言名緣。當言義緣。問曰。當言己意緣耶。當言他意緣耶。答曰。當言己意緣。當言他意緣。此是除入性。已種相身所有自然。說性已。當說行。何以故說除入。除入有何義。答曰。緣壞故名為除入。如所說。能壞處所者。是故世尊說除入。是謂緣壞故名為除入。八除入者。云何為八。此比丘內有色想觀外色少者。少自在故。少緣故。名為少好者。謂色青黃赤白悅澤名為好。醜者。謂色青黃赤白不悅澤名為醜。彼色壞已知壞已見者。彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。如大家已有奴責數自在教敕自在。如是彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。是故說彼色壞已知壞已見。作如是想者。如是修彼想也。是故說作如是想。此初除入。初者次第數便有初。次順數便有初。復次次第正受便有初故曰初。除入者何所除入。當正受時壞色故曰除入。復次比丘內有色想觀外色無量者。自在無量故。緣無量故。名為無量。好者。謂色青黃赤白悅澤名為好。醜者。謂色青黃赤白不悅澤名為醜。彼色壞已知壞已見者。彼色中離欲斷欲度欲。便名壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。如大家已有奴呵責自在教敕自在。如是彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。是故說彼色壞已知壞已見。如是作想者。如是修彼想也。是故說作如是想。此二除入。二者。次第數便有二。次順數便有二。復次次第正受便有二。故曰二。除入者。何所除入。當正受時壞色故曰除入。復次比丘內無色想觀外色少者。自在少故。緣少故。名為少好者。謂色青黃赤白悅澤名為好。醜者。謂色青黃赤白不悅澤名為醜。彼色壞已知壞已見者。彼色中離欲斷欲度欲便名壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。如大家已有奴呵責自在教敕自在。如是彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。是故說彼色壞已知壞已見。作如是想者。如是修彼想也。是故說作如是想。此三除入。三者。次第數便有三。次順數便有三。復次次第正受便有三。故曰三。除入者何所除入。當正受時壞色故曰除入。復次比丘內無色想觀外色無量者。自在無量故。緣無量故。名為無量。好者。謂色青黃赤白悅澤名為好。醜者。謂色青黃赤白不悅澤名為醜。彼色壞已知壞已見者。彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。如大家已有奴呵責自在教敕自在。如是彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。是故說彼色壞已知壞已見。作如是想者。如是修彼想也。是故說作如是想。此四除入。四者。次第數便有四。次順數便有四。復次次第正受便有四。故曰四。除入者何所除入。當正受時壞色故曰除入。復次比丘內無色想觀外色青者。現青想現青種現青聚。是故說青。色者。如此色青如是彼色形亦青。是故說青色。青見者。眼行眼境界眼光。是故說青見青光者。青光青明青焰。是故說青光。無量者。無量無邊不可計。是故說無量。無量淨者。如彼色無量。如是彼色中淨亦無量。是故說無量淨。意愛者。彼色愛喜好喜念。是故說意愛。意樂者。意樂著自娛。是故說樂。無厭者。樂欲忍。是故說無厭。如青蓮花青青色青見青光。如成就波羅捺衣。極擣熟令悅澤。青青色青見青光。如是比丘內無色想觀外色青。青色青見青光。如是無量無量淨。意愛意樂無厭。彼色壞已知壞已見者。彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。如大家已有奴呵責自在教敕自在。如是彼色中離欲斷欲度欲。便壞已知壞已見。呵責自在教敕自在。是故說彼色壞已知壞已見。作如是想者。如是修彼想也。是故說作如是想。此五除入。五者。次第數便有五。次順數便有五。復次次第正受便有五。故曰五。除入者何所除入。當正受時壞色。故曰除入。如青除入。黃赤白除入亦如是。問曰。何以故無色不立除入。答曰。佛世尊於法真諦。餘真無能過。彼盡知諸法相盡知行。謂有除入相彼立除入。謂無除入相彼不立除入。或曰。除入者能壞色。以故名為除入。無色中無色可壞。以故彼不立除入。廣說八除入處盡』
  参考:『鞞婆沙論巻12』:『鞞婆沙十一切入處第三十八  十一切入者。云何為十。此比丘地一切入。一思惟上下諸方無二無量。水一切入。火一切入。風一切入。青一切入。黃一切入。赤一切入。白一切入。無量空處一切入。無量識處一切入。十思惟上下諸方無二無量。問曰。十一切入有何性。答曰。初八無貪善根性。無量空處無量識處一切入四陰性。界者。初八色界繫。無量空處無量識處一切入者。無色界繫。地者。初八一切入根本第四禪。何以故。從淨解脫成八一切入故。無量空處一切入即無量空處地。無量識一切入即無量識處地。依者。一切依欲界。行者。八一切入淨行。無量空處無量識處一切入不施設行。緣者。初八一切入欲界緣。無量空處無量識處一切入無色界緣。意止者。初八一切入身意止。無量空處無量識處一切入三意止。智者。初八一切入雖性非智。但等智相應。無量空處無量識處一切入是等智。定者。非定。痛者。一切護根相應。問曰。當言過去耶。當言未來耶。當言現在耶答曰。當言過去。當言未來。當言現在。問曰。當言過去緣耶。當言未來緣耶。當言現在緣耶。答曰。當言過去緣。當言未來緣。當言現在緣。問曰。當言名緣耶。當言義緣耶。答曰。當言名緣。當言義緣。問曰。當言己緣耶。當言他緣耶。答曰。當言己緣。當言他緣。此是十一切入性。己種相身所有自然。說性已。當說行。何以故說一切入。一切入有何義。答曰。普緣故名一切入。十一切入者。此比丘地一切入者。普緣故一思惟。一者。次第數便有一。順次數便有一。復次次第正受便有一。上下者。上即上方。下即下方。諸方者。四方及四維也。無二者。不俱不散。無量者。無量無限不可計。水一切入。火一切入。風一切入。青一切入。黃一切入。赤一切入。白一切入。無量空處無量識處一切入。無量一切入者。普緣故。十思性者。次第數便有十。順次數便有十。復次次第正受便有十。上下者。上即上方。下即下方。諸方者。四方及四維。無二者。不俱不散。無量者。無量不可限不可計。問曰。無所有處非想非不想處。何以故不立一切入。答曰。佛世尊於法真諦。餘真無能過上。彼盡知諸法相盡知行。謂有一切入相立一切入。謂無一切入相不立一切入。或曰。無量行故無量空處無量識處立一切入。無所有處非想非不想處無無量行。是故不立一切入。問曰。此中說上下及諸方。八一切入應爾。上下及諸方無量空處無量識處一切入。無地不可見。何以故說上下及諸方。答曰。彼雖無上下。正受故可得上下。謂彼行正受者。或上或下或中。是故說上下。如契經說諸賢行地。一切正受者作是念。謂地即是我。謂我即是地。我與地一無二。問曰。此云何如是行地一切正受者。謂地計是我。答曰。行正受者曾行正受故說。如本曾作沙門故以沙門為名。曾阿練阿練為名。曾戒律戒律為名。曾法師法師為名。如是行正受者。曾行正受故說。問曰。三禪何以故不立解脫除入一切入。答曰。三禪樂一切生死中最妙。行者著彼樂不求此善根以故爾。問曰。若爾者何以故三禪中有神通變化。答曰。如是彼中或有善根或無。莫令彼地善根空。或曰。此神通變化能長養樂。非是損解脫除入一切入。於樂是損非是長養。以是故三禪不立解脫除入一切入。問曰。解脫除入一切入何差別。答曰。解脫者令不向門。除入者壞於緣。一切入者普緣解脫除入一切入。是謂差別。廣說十一切入處盡』
復次佛初生時初成佛時初轉法輪時。皆放無量光明滿十方。何況說摩訶般若波羅蜜時而不放光。 復た次ぎに、仏の初生の時、初の成仏の時、初の転法輪の時には、皆、無量の光明を放ちて、十方を満てたもう。何に況んや、摩訶般若波羅蜜を説く時に、光を放ちたまわざるをや。
復た次ぎに、
『仏』は、
『初生の時』、
『初の成仏の時』、
『初の転法輪の時』には、
皆、
『無量の光明』を放って、
『十方』を、
『満たされる!』のである。
況()して、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説く!』時に、
『光』を、
『放たれないはずがあろうか?』。
譬如轉輪聖王珠寶。常有光明照王軍眾四邊各一由旬。佛亦如是。眾生緣故。若不入三昧恒放常光。何以故。佛眾法寶成故 譬えば、転輪聖王の珠宝の如きは、常に光明有りて、王の軍衆を照らすこと、四辺に各一由旬なり。仏も、亦た是の如く、衆生を縁ずるが故に、若し三昧に入りたまわずとも、恒に常光を放ちたもう。何を以っての故に、仏は、衆法の宝の成ずるが故なり。
譬えば、
『転輪聖王』の、
『珠宝』などは、
常に、
『光明』が有って、
『王の軍衆』を、
『照らしている!』が、
『四辺』に、
各各、
『一由旬である!』。
『仏』も、
亦た、
是のように、
『衆生』を、
『縁じられる!』が故に、
若し、
『三昧』に、
『入られなかった!』としても、
恒に、
『常光』を、
『放たれている!』。
何故ならば、
『仏』は、
『衆法の宝』が、
『成就しているからである!』。



光明は恒河沙等の世界を、遍く照す

【經】從是諸光出大光明。遍照三千大千世界。從三千大千世界遍照東方如恒河沙等諸世界。南西北方四維上下亦復如是。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。 是の諸の光より、大光明を出して、遍く三千大千世界を照らし、三千大千世界より、遍く東方の恒河沙等の諸の世界を照らし、南西北方、四維上下も、亦復た是の如し。若し有る衆生、斯の光に遇わば、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ん。
是の、
諸の、
『光』より、
『大光明』が出て、
遍く、
『三千大千世界』を、
『照らし!』、
『三千大千世界』より、
遍く、
『東方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』、
諸の、
『世界』を、
『照らし!』、
『南、西、北方、四維、上、下』も、
亦復た、
是の通りであった。
若し、
有る、
『衆生』が、
斯()の、
『光』に、
『遇った!』ならば、
必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』だろう。
【論】問曰。如火相上焰水相下潤風相傍行。是光明火氣應當上去。云何遍滿三千大千世界及十方世界。 問うて曰く、火相は、焔を上げ、水相は、潤を下し、風相は傍を行くが如く、是の光明の火気は、応当に上に去るべし。云何が、遍く三千大千世界、及び十方の世界を満てる。
問い、
例えば、
『火』の、
『相』は、
『焔』を、
『上げ!』、
『水』の、
『相』は、
『潤(うるおい)』を、
『下し!』、
『風』の、
『相』は、
『傍(かたわら)』を、
『行く!』ように、
是の、
『光明』の、
『火気』は、
当然、
『上』に、
『去るはず!』である。
何故、
遍く、
『三千大千世界』や、
『十方の世界』を、
『満たすのですか?』。
答曰。光明有二種。一者火氣。二者水氣。日珠火氣月珠水氣。火相雖焰上。而人身中火上下遍到。日火亦爾。是故夏月地水盡熱。以是故知火不皆上。 答えて曰く、光明には二種有り、一には火気、二には水気なり。日珠は火気、月珠は水気なり。火相は、焔を上ぐと雖も、人身中の火は、上下に遍く到る。日の火も、亦た爾り。是の故に、夏月の地、水は尽く熱し。是を以っての故に、火も、皆は上らざるを知る。
答え、
『光明』には、
『二種』有り、
一には、
『火気』、
二には、
『水気』である。
『日』の、
『珠』は、
『火気』、
『月』の、
『珠』は、
『水気』である。
『火』の、
『相』は、
『焔』を、
『上げる!』が、
『人』の、
『身』中の、
『火』は、
『上、下』に、
『遍く到る!』し、
『日』の、
『火』も、
亦た、
爾の通りである。
是の故に、
『夏月(夏期)』の、
『地』や、
『水』は、
『尽く!』、
『熱いのである!』。
是の故に、
こう知る、――
『火』は、
皆が!、
『上るのではない!』と。
  日珠(にちじゅ):日球。
  月珠(がつじゅ):月球。
復次是光明佛力故。遍至十方。譬如強弓遣箭隨所向至。 復た次ぎに、是の光明は、仏の力なるが故に、遍く十方に至る。譬えば、強弓もて箭を遣れば、向う所に随いて至るが如し。
復た次ぎに、
是の、
『光明』は、
『仏』の、
『力』である!が故に、
遍く、
『十方』に、
『至る!』のである。
譬えば、
『強弓』を以って、
『箭()』を、
『遣()れば』、
『向う!』所に、
『随って!』、
『至るようなものである!』。
問曰。何以先照東方。南西北後。 問うて曰く、何を以ってか、先に東方を照らし、南西北は後なる。
問い、
何故、
先に、
『東方』を、
『照らし!』、
後に、
『南、西、北』を、
『照らすのですか?』。
答曰。以日出東方為上故。佛隨眾生意先照東方。 答えて曰く、日の東方に出づるを以って、上と為すが故に、仏も衆生の意に随って、先に東方を照らしたまえり。
答え、
『日』が、
『東方』に、
『出る!』が故に、
『東方』が、
『上位』と、
『されている!』。
『仏』は、
『衆生』の、
『意(こころ)』に随って、
先に、
『東方』を、
『照らされた!』。
復次俱有一難。若先照南方。當言何以不先照東西北方。若先照西方北方亦爾。 復た次ぎに、倶に一難有り。若し先に南方を照らさば、当に、『何を以ってか、先に東西北方を照らさざる。』と言い、若し先に西方、北方を照らさば、亦た爾るべし。
復た次ぎに、
倶に(どれもこれも)、
『一難(詰責)』を、
『有する!』。
若し、
先に、
『南方』を、
『照らした!』ならば、
こう言うはずである、――
何故、
先に、
『東、西、北方』を、
『照さないのか?』、と。
若し、
先に、
『西方』や、
『北方』を、
『照らした!』としても、
亦た、
爾の通りであろう。
問曰。光明幾時當滅。 問うて曰く、光明は、幾(いく)ばくの時にか、当に滅すべき。
問い、
『光明』は、
何れぐらいの時を、
『過ぎてから!』、
『滅することになるのですか?』。
答曰。佛用神力欲住便住。捨神力便滅。佛光如燈神力如脂。若佛不捨神力光不滅也 答えて曰く、仏は、神力を用いて、住まらしめんと欲したまえば、便(すなわ)ち住まり、神力を捨てたまえば、便ち滅す。仏の光は、灯の如く、神力は、脂の如し。若し仏、神力を捨てたまわざれば、光も滅せざるなり。
答え、
『仏』は、
『神力』を、
『用いられる!』ので、
『住(とど)めよう!』とすれば、
『住まり!』、
『神力』を、
『捨てられる!』と、
『滅する!』。
『仏』の、
『光』は、
『灯』に、
『似ており!』、
『神力』は、
『脂』に、
『似ている!』。
若し、
『仏』が、
『神力』を、
『捨てられる!』と、
『光』も、
亦た、
『滅する!』。



光明は出て、復た恒河沙等の世界を過ぎる

【經】光明出過東方如恒河沙等世界。乃至十方亦復如是 光明は出でて、東方に恒河沙等の如き世界を過ぎ、乃至十方も、亦復た是の如し。
『光明』は出て、
『東方』に、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『世界』を、
『過ぎる!』。
乃至、
『十方』も、
亦復た、
是の通りである。
【論】問曰。云何為三千大千世界。 問うて曰く、云何が、三千大千世界と為す。
問い、
何が、
『三千大千世界ですか?』。
答曰。佛雜阿含中分別說。千日千月千閻浮提千衢陀尼千鬱怛羅越千弗婆提千須彌山千四天王天處千三十三天千夜摩天千兜率陀天千化自在天千他化自在天千梵世天千大梵天。是名小千世界。名周利。 答えて曰く、仏は雑阿含中に分別して説きたまわく、『千の日、千の月、千の閻浮提、千の衢陀尼、千の鬱多羅越、千の弗婆提、千の須弥山、千の四天王天処、千の三十三天、千の夜摩天、千の兜率陀天、千の化自在天、千の他化自在天、千の梵世天、千の大梵天、是れを小千世界と名づけ、周利と名づく。
答え、
『仏』は、
『雑阿含』中に、
『分別』して、
こう説かれている、――
『千の日』、
『千の月』、
『千の閻浮提』、
『千の衢陀尼』、
『千の鬱多羅越』、
『千の弗婆提』、
『千の須弥山』、
『千の四天王天処』、
『千の三十三天』、
『千の夜摩天』、
『千の兜率陀天』、
『千の化自在天』、
『千の他化自在天』、
『千の梵世天』、
『千の大梵天』、
是れを、
『小千世界』といい、
『周利()』と、
『呼ぶ!』。
  周利(しゅり):梵語cuuDika、小と訳す。又saahasra- cuuDikaとも云い、小千と訳す。小千世界の意。
  三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):梵語tri- saahastra- mahaa- saahasraaH loka- dhaatavaHの訳。四禅天に依りて覆わるる世界の総称にして、即ち大千世界を云う。また三千世界、一大三千大千世界、或は一大三千世界とも名づく。三千世界とは、小千世界(梵saahasra- cuuDika- loka- dhaatu)、中千世界(梵dvi- saahasra- madhyama- loka- dhaatu)、大千世界(梵mahaa- saahasra- loka- dhaatu)なり。「雑阿含経巻16」に、「小千世界より数満じて千に至る、これを中千世界と名づく。(中略)中千世界より数満じて千に至る、これを三千大千世界と名づく」と云い、また「倶舎論巻11」に、「四大洲と日月と蘇迷盧と欲天と梵世と各一千なるを一小千界と名づく。この小千の千倍せるを説きて一の中千と名づけ、この千倍せるは大千なり」と云えるこれなり。この中、日月須弥山四大洲及び四王等の六天を含める欲界と、梵衆梵補及び大梵の三天より成る色界初禅とを総じて一世界と名づけ、千の一世界を一の小千世界と名づく。「雑阿含経巻16」に依るに、一の小千世界には、千の日、千の月、千の須弥山、千の弗婆提、千の閻浮提、千の拘耶尼、千の鬱単越、千の四天王、千の三十三天、千の炎魔天、千の兜率天、千の化楽天、千の他化自在天、千の梵天ありと云い、「長阿含経巻18」には、一の小千世界に千の日月、千の須弥山、四千の天下、四千の大天下、四千の海水、四千の大海、四千の龍、四千の大龍、四千の金翅鳥、四千の大金翅鳥、四千の悪道、四千の大悪道、四千の王、四千の大王、七千の大樹、八千の大泥梨、十千の大山、千の閻羅王、千の四天王、千の忉利天、千の焔摩天、千の兜率天、千の化自在天、千の他化自在天、千の梵天ありと云えり。また千の小千世界を総じて中千世界と名づく。百万の日月、百万の須弥山、百万の四天下、百万の六欲天、百万の初禅天及び千の二禅天あり。千の中千世界を大千世界と名づく。百億の日月、百億の須弥山、百億の四天下、百億の六欲天、百億の初禅天、百億の二禅天及び千の三禅天あり。今三千世界と云うは、この小千中千大千の三の千世界を指し、また大千と言うは即ち三千の中の大の千世界を指すなり。故に三千大千世界の語は、一の大千世界を意味するものなるを知るべし。また「増一阿含経巻9」、「雑阿含経巻19」、「大楼炭経巻1」、「起世経巻1」、「起世因本経巻1」、「大毘婆沙論巻134」、「大智度論巻7、巻9」、「瑜伽師地論巻2」、「順正理論巻31」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻16」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」、「仏地経論巻6」、「倶舎論光記巻11」、「同宝疏巻11」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  参考:『雑阿含巻16(424)経』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告諸比丘。如日遊行。照諸世界。乃至千日千月。照千世界.千須彌山.千弗婆提.千閻浮提.千拘耶尼.千鬱單越.千四天王.千三十三天.千炎魔天.千兜率天.千化樂天.千他化自在天.千梵天。是名小千世界。此千世界。中間闇冥。日月光照。有大德力。而彼不見。其有眾生。生彼中者。不見自身分。時。有異比丘從座起。整衣服。為佛作禮。合掌白佛言。世尊。如世尊說。是大闇冥。復更有餘大闇冥處過於此耶。佛告比丘。有大闇冥過於此者。謂沙門.婆羅門於苦聖諦不如實知。乃至墮於生.老.病.死.憂.悲.惱苦大闇冥中。是名比丘有大闇冥過於世界中間闇冥。是故。比丘。於四聖諦未無間等者。當勤方便。起增上欲。學無間等。佛說此經已。時諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
以周利千世界為一。一數至千名二千中世界。 周利千世界を以って一と為し、一より数えて千に至るを、二千中世界と名づく。
『周利千(小千)』の、
『世界』を、
『一』として、
『周利』を、
『一』より、
『千』まで、
『数える!』と、
『二千中』の、
『世界』と、
『呼ぶ!』。
以二千中世界為一。一數至千名三千大千世界。初千小二千中第三名大千。千千重數故名大千。二過復千故言三千。是合集名百億日月乃至百億大梵天。是名三千大千世界。是一時生一時滅。 二千中世界を以って、一と為し、一より数えて、千に至るを、三千大千世界と名づく。初の千は小なり、二の千は中なり、第三を大千と名づく。千を千重ねて数うるが故に、大千と名づく。二を過ぎて千を復(かさ)ぬる故に、三千と言い、是の合集を、百億の日月、乃至百億の大梵天と名づけ、是れを三千大千世界と名づけて、是れ一時に生じ、一時に滅す。
『二千中』の、
『世界』を、
『一』として、
『二千中』を、
『一』より、
『千』まで、
『数える!』と、
是れを、
『三千大千』の、
『世界』と、
『称する!』。
『初』の、
『千』を、
『小』といい、
『二』の、
『千』を、
『中』といい、
『第三』の、
『千』を、
『大千』というのであるが、
『千』を、
『千』、
『重ねて!』、
『数える!』が故に、
『大千』といい、
『二』を、
『過ぎて!』、
『千』を、
『重ねる!』が故に、
是れを、
『三千』と、
『言う!』。
是の、
『三千』の、
『合集』とは、
『百億』の、
『日月、乃至大梵天』であり、
是れを、
『三千大千世界』と、
『呼ぶ!』のであるが、
是れは、
『一時(同時)』に、
『生じて!』、
『一時』に、
『滅する!』、
『単位である!』。
  大千(だいせん):梵語mahaa(大)-saahasra(千)。千を千重ねたるものの義。
  (ふく):かさねる。くりかえす。
  小千世界:梵語saahasrika(千)-cuuDika(小)-lokadhaatu(世界)。
  二千中世界:梵語dvi(二)-saahasra(千)-madhiyama(中)-lokadhaatu(世界)。
  三千大千世界:梵語tri(三)-saahasra(千)-mahaasaahasra(大千)-lokadhaatu(世界)。
有人言。住時一劫滅時一劫還生時一劫。是三千大千世界。大劫亦三種破。水火風。小劫亦三種破。刀病飢。 有る人の言わく、『住する時一劫、滅する時一劫、還(ま)た生ずる時一劫、是の三千大千世界の大劫は、亦た三種に破る、水、火、風なり。小劫も、亦た三種に破る、刀、病、飢なり。
有る人は、
こう言っている、――
『住する!』、
『時』が、
『一劫』、
『滅する!』、
『時』が、
『一劫』、
『還()た生じる!』、
『時』が、
『一劫』、
是の、
『三千大千世界』の、
『大劫』は、
亦た、
『火、水、風』の、
『三種』に、
『破れ!』、
『小劫』も、
亦た、
『刀、病、飢』の、
『三種』に、
『破れる!』。
  (こう):梵語kalpa。巴梨語kappa、具さに劫波、劫跋、劫簸、劫﨟波、羯臘波に作る。劫は其の略なり。分別の義。又分別時分、分別時節、或いは長時、大時、又は単に時と訳す。極大なる時限の意なり。「大毘婆沙論巻135」に、「何が故に劫と名づくる、劫は是れ何の義ぞや。答う、時分を分別するが故に名づけて劫と為す。謂わく刹那、臘縛、無呼栗多の時分を分別して以って昼夜を成じ、昼夜の時分を分別して以って半月、時、年を成じ、半月等の時分を分別して以って劫を成ず。劫は是れ分別時分中の極なるを以っての故に総名を得」と云い、又「大智度論巻38」に、「時中の最小なるものは六十念中の一念なり。大時を劫と名づく」と云い、吉蔵の「法華論疏巻上」に、「劫は是れ時の通名なり。但し経中に天地の始終を取り、其の通称を立てて名づけて之を劫と為す。日月昼夜は其の別名を受く」と云えり。之に依るに劫は元と一時期の意なるも、普通に其の極大なる時限を取りて名づけて劫と称したるものなるを知るべし。劫の分類に関しては諸論に多説あり。「大智度論巻38」に、「劫に二種あり、一を大劫と為し、二を小劫と為す」と云い、「妙法蓮華経憂波提舎」に、「復た五種の劫を示現す、一には夜、二には昼、三には月、四には時、五には年なり」と云い、「大毘婆沙論巻135」に、「劫に三種あり、一に中間劫、二に成壊劫、三に大劫なり」と云い、「倶舎論巻12」に劫に壊劫、成劫、中劫、大劫の四種ありと云い、「彰所知論巻上」に、「劫に六種あり、一に中劫、二に成劫vivarta- kalpa、三に住劫vivarta-sthaayi- kalpa、四に壊劫saMvarta- kalpa、五に空劫saMvarta- sthaayi- kalpa、六に大劫mahaa- kalpaなり」と云い、又「瑜伽師地論略纂巻1下」には劫に凡そ九種の別ありとし、「一に日月歳数とは、法華論に言わく、昼夜月時年と。此れを以って数と為す。菩薩地に亦言わく、劫に二種あり、一には是れ日月歳数、二には是れ阿僧祇なりと。二に増減劫とは即ち是れ飢病刀の小の三災劫なり。名づけて中劫と為す。三に二十劫を一劫と為す、即ち梵衆天の寿量なり。四に四十劫を一劫と為す、即ち梵前益天の寿量なり。五に六十劫を一劫と為す、即ち大梵天の寿量なり。六に八十劫を一劫と為す、即ち火災劫なり。七に七火を一劫と為す、即ち水災劫なり。八に七水を一劫と為す、即ち風災劫なり。九に三大阿僧祇劫とは、華厳経第二十四阿僧祇品に依るに百二十数あり、第一百二十を一阿僧祇と名づく」と云えり。以って劫の種別の多般なるを見るべし。又諸経論に小劫中劫大劫の目あり。就中、小劫中劫は共に梵語antara- kalpaの訳にして、大劫は即ちmahaa- kalpaの翻なり。羅什訳の「法華経」に所所に小劫と云い、法意訳の「提婆達多品」に中劫と称せるは、共にantara- kalpaの訳なり。又「大楼炭経巻5」に刀兵等の三災を三小劫と為すに対し、「起世経巻9」等には之を三種中劫とし、又「立世阿毘曇論巻9」に八十小劫を一大劫と為すに対し、「大毘婆沙論巻135」等に八十中劫を一大劫と為せる如きも、共に亦antara- kalpaの訳と認むるを得べし。但し「大智度論巻38」に、「復た有る人言わく、時節歳数を名づけて小劫となす」と云い、又窺基の「瑜伽論劫章頌」に、「日月歳時を小劫に収む」と云えるは、即ち日月歳時を名づけて小劫となすの説にして、「婆沙」等の中劫とは其の時量固より同じからず。之に依るに旧の小劫には自ら二種の別あるを知るべし。蓋し劫は時の期限を意味するものにして、其の分類も亦是の如く多種なりと雖も、其の中、長時の劫は多く世界の成立及び破壊等の経過に関連して説明せらるるを見るなり。前引の「大毘婆沙論」に劫を中間劫、成壊劫、及び大劫の三種とし、又「倶舎論」等に成劫住劫壊劫空劫の四種となせる如き皆即ち其の説なり。就中、「大毘婆沙論巻135」に、中間劫に亦減劫、増劫、増減劫の三種ありとし、就中、減劫とは人寿無量歳より減じて十歳に至る間を云い、増劫とは人寿十歳より増して八万歳に至る間を云い、増減劫とは人寿十歳より増して八万歳に至り、復八万歳より減じて十歳に至る間を云うとす。蓋し此の三種の劫は、住劫二十中劫の差別を示せるものにして、「大毘婆沙論巻135」に、「成じ已りて住の中に二十中劫あり、初の一は唯減、後の一は唯増、中間の十八は亦増亦減なり」と云い、「倶舎論巻12」には、「此の洲の人寿は、無量時を経て住劫の初に至りて寿方に漸く減じ、無量より減じて極十年に至るを、即ち初の一住中劫と為す。此の後の十八は皆増減あり。謂わく十年より増して八万に至り、復八万より減じて十年に至る。爾るを乃ち名づけて第二の中劫と為す。次後の十七も例して皆是の如し。十八の後に於いて十歳より増して極めて八万歳に至るを第二十劫と名づく。一切の劫増は八万を過ぐることなく、一切の劫減は唯極十年なり」と云えり。之に依るに住劫二十中劫の中、初の第一劫は即ち減劫、後の第二十劫は即ち増劫、中間の十八劫は即ち増減劫なるを知るべし。但し劫の時量は各中劫相等し。即ち初の減劫は有情福勝るるが故に、下ること極めて遅く、後の増劫は有情福劣なるが故に、上ること極めて遅く、中間の十八は上下交も遅疾あるが故に、此の三劫の量は互いに相等しとす。是れ所謂小乗の説なり。若し「瑜伽師地論巻2」に依らば二十中劫各皆増減あり。即ち彼の論に「是の如く二十減二十増合して四十増減にして即ち住劫を出づ」と云える是れなり。「大乗阿毘達磨蔵集論巻6」には、「世界成じ已りて、一中劫は初唯減、一中劫は後唯増、十八中劫は亦増亦減なり」と云える是れなり。「瑜伽論略纂巻1」に之を釈して、「対法論に一中劫は初唯減、一中劫は後唯増と説くは、住劫の初は八万に始まり、漸く減じて十に至り、後増して八万に至るを一住劫と名づく。是の如く二十にして方に住劫満ず。第二十住劫は増して八万に至りて方に満の名を立つ。此れより以後は命漸漸に損するを名づけて壊劫と為す。其の住劫の中、初劫の初半は唯減、後劫の後半は唯増なるが故に、一中劫初唯減、一中劫後唯増と言う。即ち二十劫皆増減あり。小乗の後劫は唯増にして減なく、初劫は唯減にして増なく、最後に於いて増のみなるに同じからず」と云えり。之に依るに大乗家には二十各皆増減ありと立つるが故に、「婆沙」等の如く三種劫の別を論ぜず、即ち中劫を以って各唯一の増減劫となせるものなるを見るべし。若し又「優婆塞戒経巻7」に依らば、「十歳より増して八万歳に至り、八万歳より減じて還って十年に至る。是の如く増減して十八反に満つるを一中劫と名づく」と云えり。是れ一種の異説なり。又此の中劫の中には定んで皆三災現ずることあり、三災とは刀兵災、疾疫災、饑饉災なり。之を小の三災と名づく。然るに災の現ずる時限等に就きては異説あり。「大毘婆沙論巻134」に依るに、各中劫の中に劫減じ、人寿極十歳に至る毎に乃ち此の三災現ず。就中、刀兵災とは、其の時人心瞋毒増上して、相見れば則ち猛利の害心を起し、手に随って執る所皆利刀となり、各兇狂を逞しくして互いに相残害するを云う。七日七夜にして即ち止む。疾疫災とは、刀兵災の後、非人毒を吐いて疾疫流行し、遇えば輒ち命終して救療し難きを云う。七月七日七夜にして即ち止む。饑饉災とは疾疫災の後、天龍忿恚して甘雨を降さず、是れに由りて饑饉し、人多く命終するを云う。七年七月七日七夜にして即ち止むと云えり。「雑阿毘曇心論巻11」、「倶舎論巻12」等亦皆之に同じ。但し「瑜伽師地論巻2」に依るに、災の時日は「婆沙」等に異ならざるも、人寿三十歳の時に倹災(即ち饑饉災)起り、二十歳の時に病災起り、十歳の時に刀災起るとせり。是れ共に一劫中に三災並び起るとなすの説なり。然るに「立世阿毘曇論巻9」には、「住劫二十小劫の中、第一劫減じ、人寿十歳の時に大疾疫災起り、第二劫人寿十歳の時に大刀兵災起り、第三劫人寿十歳の時に大飢餓災起り、共に七日にして一時に息滅す。乃至是の如く一劫の中に次第に一災起る。今は第九の減劫なるが故に当に大飢餓災起ることあるべしと云えり。是れ一劫一災の説なり。「大楼炭経巻5」、「起世経巻9」等にも亦刀兵、飢饉、疾疫の三劫を列ね、刀兵は人寿十歳の時に起り、七日にして止むと云うも、余の二劫に関しては其の委細を説くことなし。「優婆塞戒経巻7」に、「穀貴三災、疾病三災、刀兵一災を一小劫と名づく」と云えるは、亦一種の異説なり。諸経論の中には大の三災劫に対して、此の三災を小の三災劫と名づけ、又三種中劫と称せり。若し「婆沙」等の如く一劫中に三災並び起ると説かば、住劫二十中劫は各尽く小の三災劫なり。若し「立世阿毘曇論」の如く別劫に次第に一災起ると説かば、第一劫は疾疫劫rogaantara- kalpa、第二劫は刀兵劫zastraantara- k.、第三劫は飢饉劫durbhikSaantara- k.、乃至第十九劫は疾疫劫と称すべし。住劫に是の如く二十中劫あり。壊劫、空劫、成劫にも亦各二十中劫あり、合して八十中劫なり。但し壊空成の三劫には減増の別なしと雖も、而も其の時量は住劫と等しきに由り、彼れに準じて各二十中劫と為すなり。又此の八十中劫を名づけて一大劫と称す。一大劫は即ち成住壊空の四劫を総括し、世界の一始終の期間なり。「立世阿毘曇論巻9」に、「一小劫を名づけて一劫と為し、二十小劫を亦一劫と名づけ、四十小劫を亦一劫と名づけ、六十小劫を亦一劫と名づけ、八十小劫を一大劫と名づく」と云えり。此の中、一小劫は新訳の所謂一中劫にして、即ち一増一減なり。二十小劫は即ち住の一劫にして、梵衆天の寿量なり。四十小劫は成住二劫にして、即ち梵輔天の寿量なり。六十小劫は成住壊の三劫にして、即ち大梵天の寿量なり。八十小劫は成住壊空の四劫にして、即ち天地の一始終なり。諸経の中に一劫と説くも、其の時量差別是の如く同じからざるを見るべし。又壊劫の時、器世界を壊するに火水風の三災あり。小の三災に対して、之を大の三災と名づく。就中、火災は七の日輪現ずるに由りて興り、風猛焔を吹いて悉く初禅以下を焚焼す。水災は雨霖に由りて起り、悉く第二禅以下を浸潤す。風災は風の相撃に由りて生じ、悉く第三禅以下を飄散す。此の三災の生起する次第は、初の壊劫の時に火災起りて初禅以下の器世界を壊し已り、空成住の三劫を過ぎて次の壊劫の時に亦火災起り、乃至是の如く七たび火災起りて、毎に初禅已下を焚焼す。七火の後、次の壊劫の時に当り、更に水災起りて二禅以下の器世界を浸潤す。一水の後、復七火あり。乃至是の如く七の水災を満じ、更に復七火起るの後、一の風災ありて第三禅以下の器世界を飄散す。総じて八回の七の火災と、一回の七の水災と、一の風災とあり。之を六十四転大劫と名づく。是の如く初禅已下の器世界は、一大劫を経る毎に之を壊し、第二禅は八大劫毎に之を壊し、第三禅は六十四大劫毎に一たび之を壊す。色界中、第四禅のみは三災の為に壊せらるることなし。是の故に初禅大梵天の寿量は六十中劫即ち一大劫(空劫二十を除く)、第二禅天の寿量は八大劫、第三禅天の寿量は六十四大劫なり。此の中、一の大劫を火災劫と称し、七の火災劫を水災劫と称し、七の水災劫を風災劫と称するなり。「優婆塞戒経巻7」に、「水火の二災各五段過ぎて一の風災あり、五風災過ぐるを一大劫と名づく」と云えるは亦一種の異説なり。又前の大劫の累ねて十百千と為し、乃至積んで阿僧祇の数に至るを一阿僧祇劫asaMkhyeya- kalpaと名づけ、復積んで三に至るを三阿僧祇劫と名づく。但し其の計量に関しては異説あり、「大毘婆沙論巻177」に四説を挙ぐ。一説は中劫を積んで阿僧企耶に至るを一阿僧祇劫となすと云い、一説は成劫を積むと云い、一説は壊劫を積むと云い、如是論者は今の如く大劫を積むと云えり。又「菩薩地持経巻9」には、「劫に二種あり、一には日月昼夜時節歳数無量なるが故に阿僧祇と名づく。二には大劫無量なるが故に阿僧祇と名づく」と云えり。此の中、後説は「婆沙」の正義に同じく、前説は歳数劫に約して説けるものなり。蓋し通論するに、劫の時限は悠久にして算数を以って之を計ること難し。故に「長阿含経巻21三災品」に、「四事あり、長久無量無限にして日月歳数を以って称計すべからざるなり。云何が四と為す、一には世間災漸く起り、此の世を壊する時、中間長久無量無限にして、日月歳数を以って称計すべからざるなり。二には此の世間壊し已り、中間空曠にして世間あることなく、長久逈遠にして日月歳数を以って称計すべからざるなり。三には天地初めて起りて向に成ぜんと欲する時、中間長久にして日月歳数を以って称計すべからざるなり。四には天地成じ已りて久住して壊せず、日月歳数を以って称計すべからざるなり」と云えり。是れ即ち成住壊空の四劫の長久無限なるを説けるものなり。又「雑阿含経」には芥子劫磐石劫の説を出せり。即ち彼の「経巻34」に、「譬えば鉄城あり、方一由旬にして、高下も亦爾り。中に芥子を満つ。人あり百年に一芥子を取りて其の芥子を尽くすも、劫は猶お竟らざるが如し」と云い、又「大石山の不断不壊にして、方一由旬なるが如き、若し士夫あり、迦尸kaaziの劫貝を以って百年に一たび払い、之を払うて已まず、石山遂に尽くるも劫猶お竟らず」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻135」、「大智度論巻5、38」等にも亦此の譬喩を引けり。此の中、前者を芥子劫sarSapopama- kalpaと名づけ、後者を磐石劫parvatopama- kalpaと名づく。但し「大智度論」には此の中の一由旬を改めて百由旬に作り、之を大劫の時量と称せり。又「菩薩瓔珞本業経巻下」に、「譬えば一里二里乃至十里の石の如き、方広亦然り。天衣の重さ三銖なるを以って、人中の日月歳数により、三年に一たび払い、此の石乃ち尽くるを一小劫と名づく。若し一里二里乃至四十里なるも亦小劫と名づく。又八十里の石、方広も亦然り。梵天の衣重さ三銖なるを以って、即ち梵天中の百宝光明明珠を日月歳数と為し、三年に一たび払い、此の石乃ち尽くるを一中劫と名づく。又八百里の石、方広亦然り。淨居天の衣重さ三銖なるを以って、即ち淨居天の千宝光明鏡を日月歳数と為し、三年に一たび払い、此の石乃ち尽く。故に一大阿僧祇劫と名づく。仏子、劫数とは所謂一里二里乃至十里の石尽くるを一里劫、二里劫と名づけ、五十里の石尽くるを五十里劫と名づけ、百里の石尽くるを百里劫と名づけ、千里の石尽くるを名づけて千里劫と為し、万里の石尽くるを名づけて万里劫と為す」と云い、又「大蔵法数巻32」には、草木、沙細、芥子、砕塵、払石の五大劫の名を出せり。是れ亦皆劫の時量の悠久無限なるを説けるものなり。又チルダースR.C.Childersの「巴梨辞書」に依るに、劫に空劫、不空劫の二種ありとし、就中、不空劫を又仏陀劫と名づく。之に五種の別あり、一に堅劫saara- kalpa、此の劫中に一仏出世す。二に醍醐劫maNDa- k.、此の劫中に二仏出世す。三に妙劫vara- k.、此の劫中に三仏出世す。四に堅醍醐劫saara-maNDa- k.、此の劫中に四仏出世す。五に賢劫bhadra- k.、又大賢劫と名づく。此の劫中に迦羅鳩村駄、羯諾迦牟尼、迦葉波、釈迦牟尼、及び弥勒の五仏出世すと云い、又「賢劫経」等には、現在賢劫中に千仏出現することを説き、「三劫三千仏縁起」、「大乗本生心地観経巻1」等には、過去荘厳劫、現在賢劫、未来星宿劫の三劫の中に各千仏出世すと為し、「過去荘厳劫千仏名経」、「現在賢劫千仏名経」、「未来星宿経千仏名経」等に具さに其の名号を出せり。又「賢劫経巻8」に依るに、賢劫千仏出現の後、六十五劫の間仏なく、次に大名称劫あり、諸仏出現す。此の劫の後、八十劫の間、亦都べて仏なく、次に喩星宿劫あり、諸仏出現す。此の劫の後、三百劫の間亦仏の興るものなく、次に重清浄劫あり、諸仏出現すと云えり。劫の名称更に多し。今悉く枚挙するに遑あらざるなり。又「長阿含経巻1」、「起世因本経巻9」、「中阿含経巻2」、「立世阿毘曇論巻7」、「倶舎釈論巻9」、「順正理論巻32」、「大智度論巻7」、「法華玄論巻5」、「法華経玄賛巻2末」、「倶舎論光記巻12」、「華厳経探玄記巻15」、「法苑珠林巻1」、「瑜伽論記巻1下」、「四分律疏飾宗義記巻10末」、「大日経疏巻2」、「止観補行伝弘決巻1之1」、「仏祖統紀巻30」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻18、27」等に出づ。<(望)
  大劫(だいこう):梵語mahaa-kalpaの訳。宇宙の生成より生滅に至る成、住、滅、空劫の総名。『大智度論巻7下注:劫』参照。
  小劫(しょうこう):梵語antara-kalpaの訳。八十小劫を一大劫と為し、各二十小劫を成、住、滅、空劫と為す時限を云う。『大智度論巻7下注:劫』参照。
此三千大千世界。在虛空中。風上水水上地地上人。須彌山有二天處。四天處三十三天處。餘殘夜摩天等。福德因緣七寶地。風舉空中乃至大梵天皆七寶地皆在風上。 此の三千大千世界は、虚空中に在り、風は水を上(の)せ、水は地を上せ、地は人を上す。須弥山には、二天処有り、四天処、三十三天処なり。余残の夜摩天等の福徳の因縁の七宝の地は、風が、空中に挙げ、乃至大梵天も、皆七宝の地にして、皆風の上に在り。
此の、
『三千大千世界』は、
『虚空』中に在り、
『風』は、
『水』を、
『上()せ!』、
『水』は、
『地』を、
『上せ!』、
『地』は、
『人』を、
『上せている!』。
『須弥山』には、
『二』の、
『天処』が、
『有り!』、
謂わゆる、
『四天王天の処』と、
『三十三天の処』である。
『余残』の、
『夜摩天』等の、
『福徳の因縁』の、
『七宝の地』は、
『風』が、
『空』中に、
『挙げており!』、
乃至、
『大梵天』まで、
皆、
『七宝』の、
『地』であり、
皆、
『風の上』に、
『在る!』。
是三千大千世界光明遍照。照竟餘光過出。照東方如恒河沙等諸世界南西北方四維上下亦復如是。 是の三千大千世界を、光明は遍く照し、照らし竟りて、余の光は過ぎて出でて、東方の恒河沙等の如き諸の世界を照らす。南西北方四維上下も、亦復た是の如し。
是の、
『三千大千世界』を、
『光明』は、
『遍く!』、
『照らし!』、
『照らし竟る!』と、
余の、
『光』は過ぎ出て、
『東方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
諸の、
『世界』を、
『照らした!』。
『南、西、北方、四維、上、下』も、
亦復た、
是の通りである。
問曰。是光遠照云何不滅。 問うて曰く、是の光は、遠く照らすに、云何が滅せざる。
問い、
是の、
『光』は、
『遠く!』まで、
『照らした!』のに、
何故、
『滅しない!』のですか?
答曰。光明以佛神力為本。本在故不滅。譬如龍泉。龍力故水不竭。是諸光明以佛心力故。遍照十方中間不滅。 答えて曰く、光明は、仏の神力を以って、本と為す。本在るが故に滅せず。譬えば、龍泉は、龍の力の故に水竭(か)れざるが如し。是の諸の光明は、仏の心力を以っての故に、遍く十方を照して、中間に滅せざるなり。
答え、
『光明』は、
『仏』の、
『神力』を、
『本とする!』ので、
『本』が、
『在る!』が故に、
『滅しない!』のである。
譬えば、
『龍泉』が、
『龍の力』の故に、
『水』が、
『竭()れない!』ように、
是の、
諸の、
『光明』も、
『仏の心力』の故に、
『十方』を、
『遍く!』、
『照らして!』、
『中間』に、
『滅しない!』のである。
  龍泉(りゅうせん):龍の所住の泉池。
問曰。如閻浮提中種種大河。亦有過恒河者。何以常言恒河沙等。 問うて曰く、閻浮提中の種種の大河の如きには、亦た恒河に過ぐる者有り。何を以ってか、常に、恒河沙に等しと言う。
問い、
『閻浮提』中の、
種種の、
『大河』には、
亦た、
『恒河』に、
『過ぎる!』者が、
『有る!』はずである。
何故、
常に、
『恒河沙』にも、
『等しい!』と、
『言うのですか?』。
答曰。恒河沙多。餘河不爾。 答えて曰く、恒河沙は多く、余の河は爾らざればなり。
答え、
『恒河』は、
『沙(すな)』が、
『多い!』が、
『余の河』は、
『そうでない!』からである。
復次是恒河是佛生處遊行處。弟子眼見故以為喻。 復た次ぎに、是の恒河は、是れ仏の生処にして、遊行の処にして、弟子も眼に見るが故に、以って喩(たとえ)と為す。
復た次ぎに、
是の、
『恒河』は、
『仏』の、
『生じた処』、
『遊行の処』、
『弟子』の、
『眼』に、
『見る処』なので、
故に、
『喩(たとえ)』と、
『為された!』。
復次佛出閻浮提。閻浮提四大河北邊出。入四方大海中。北邊雪山中。有阿那婆達多池。是池中有金色七寶蓮華。大如車蓋。阿那婆達多龍王。是七住大菩薩。 復た次ぎに、仏は閻浮提に出でたまい、閻浮提の四大河は、北辺より出でて、四方の大海中に入り、北辺の雪山中に、阿那婆達多池有り。是の池中に、金色の七宝の蓮花有り、大なること車蓋の如し。阿那婆達多の龍王は、是れ七住の菩薩なり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『閻浮提』に、
『出られた!』が、
『閻浮提』の、
『北辺』より、
『四大河』が出て、
『四方』の、
『大海』中に、
『入り!』、
『北辺』の、
『雪山』には、
『阿那婆達多』という、
『池』が、
『有る!』。
是の、
『池』中には、
『金色』の、
『七宝』の、
『蓮華』が有り!、
『車蓋のように!』、
『大きく!』、
『阿那婆達多』の、
『龍王』は、
『七住』の、
『菩薩である!』。
  四大河(しだいが):『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう):『大智度論巻4下注:阿那婆達多龍王』参照。
  車蓋(しゃがい):車を覆う円蓋。
  七住(しちじゅう):又七地とも云う。三乗共十地中の第七地已作地にして、乃ち仏地を成就せる菩薩の意なり。『大智度論巻4下注:三乗共十地、巻19上注:十地』参照。
  阿那婆達多池(あなばだったち):閻浮洲四大河の発源池。『大智度論巻7下注:阿耨達池』参照。
  阿耨達池(あのくたつち):阿耨達(anavatapta)は梵名。また阿那達、阿那婆答多、阿那婆踏多、阿那婆達多、阿那跋達多、或は阿耨に作る。無熱悩、無熱、または小与と訳す。池の名。即ち無熱池、または阿耨大泉と称するものにして、古伝の謂わゆる閻浮洲四大河の発源地なるものこれなり。「大毘婆沙論巻5」、「倶舎論巻11」等に依るに、大雪山の北、香酔山の南に大池水あり、無熱悩と名づく。周囲八百里あり(倶舎論には縦広正等にして、面毎に各五十踰繕那の量ありと)、金、銀、琉璃、頗胝を以ってその岸を飾る。金沙弥満し、清波晈鏡たり。大地の菩薩あり、願力を以って龍王と化し、その中に潜居して清冷の水を出し、以って瞻部州に給す。ここを以って東面銀牛の口より殑伽河を出し、南面金象の口より信度河を出し、西面琉璃馬の口より縛芻河を出し、北面頗胝師子の口より徒多河を出す。各池を繞り、一匝して海に入る等と云えり。これ頗る古代の伝説にして、西洋諸国の耶蘇教徒の間にも伝えられたるが如く、彼の聖書に見ゆる四大霊河は即ちこれと同種の説話なるべし。近世民俗学者の説く所に依るに、これ太古アーリヤ人の未だ東西に分れざる以前、パミルpamir高原に同住したる頃よりの伝説ならんと云えり。さればこの四大河の発源地たる阿耨達池は、パミル即ち支那に謂う所の葱嶺山に存するか。或る学者はヒマラヤ山中に在る殑伽河の水源を即ちそれなりとし、また或る者は、西蔵に存するマナサロワルmanasarowar湖のことならんと云えり。是非輒く定むべからず。阿育王がその子摩哂陀に托して錫蘭王に贈れる貴重品の中に、阿耨達池水ありしと云うより見るも、古来印度に於ける河流崇拝の観念と結合して、この池の非常に尊崇せられたりしを知るべし。また「長阿含経巻18」、「大楼炭経巻1」、「起世経巻1」、「雑阿含経巻23」、「菩薩本行経巻上」、「大般涅槃経巻2」、「四分律巻33」、「善見律毘婆沙巻1」、「大毘婆沙論巻133」、「大智度論巻3、巻7」、「大唐西域記巻1」、「玄応音義巻22」、「慧琳音義巻1、巻25、巻27」、「翻訳名義集巻7」、「翻梵語巻9」等に出づ。<(望)
是池四邊有四流水。東方象頭南方牛頭西方馬頭北方師子頭。東方象頭出恒河。底有金沙。南方牛頭出辛頭河。底亦有金沙。西方馬頭出婆叉河。底亦有金沙。北方師子頭出私陀河。底亦有金沙。是四河皆出北山。恒河出北山入東海。辛頭河出北山入南海。婆叉河出北山入西海。私陀河出北山入北海。 是の池の四辺に四流水有り、東方を象頭、南方を牛頭、西方を馬頭、北方を師子頭という。東方の象頭は恒河を出し、底に金沙有り。南方の牛頭は辛頭河を出し、底に亦た金沙有り。西方の馬頭は婆叉河を出し、底に亦た金沙有り。北方の師子頭は私陀河を出し、底に亦た金沙有り。是の四河は、皆北山より出づ。恒河は北山を出でて東海に入り、辛頭河は北山を出でて南海に入り、婆叉河は北山を出でて西海に入り、私陀河は北山を出でて北海に入る。
是の、
『池』の、
『四辺』に、
『四流水()』が、
『有り!』、
『東方』の、
『流水』を、
『象頭』といい、
『南方』の、
『流水』を、
『牛頭』といい、
『西方』の、
『流水』を、
『馬頭』といい、
『北方』の、
『流水』を、
『師子頭』という。
『東方』の、
『象頭』より、
『恒河』を、
『出して!』、
『底』は、
『金沙』である!。
『南方』の、
『牛頭』は、
『辛頭河』を、
『出して!』、
『底』は、
亦た、
『金沙』である!。
『西方』の、
『馬頭』は、
『婆叉河』を、
『出して!』、
『底』は、
亦た、
『金沙』である!。
『北方』の、
『師子頭』は、
『私陀河』を、
『出して!』、
『底』は、
亦た、
『金沙』である!。
是の、
『四河』は、
皆、
『北山』より、
『出る!』。
『恒河』は、
『北山』を出る!と、
『東海』に、
『入る!』。
『辛頭河』は、
『北山』を出る!と、
『南海』に、
『入る!』。
『婆叉河』は、
『北山』を出る!と、
『西海』に、
『入る!』。
『私陀河』は、
『北山』を出る!と、
『北海』に、
『入る!』。
  象頭(ぞうづ):東方の流出口の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  牛頭(ごづ):南方を流出口の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  馬頭(めづ):西方の流出口の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  師子頭(ししづ):北方の流出口の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  恒伽河(ごうがが):東に流れる河の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  辛頭河(しんづが):南に流れる河の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  婆叉河(ばしゃが):西に流れる河の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
  私陀河(しだが):北に流れる河の名。『大智度論巻6上注:四大河』参照。
是四河中恒河最大。四遠諸人經書。皆以恒河為福德吉河。若入中洗者諸罪垢惡皆悉除盡。以人敬事此河皆共識知故以恒河沙為喻。 是の四河中に恒河は最大なり。四遠の諸人の経書には、皆、恒河を以って、福徳の吉河と為す。若し中に入りて洗わば、諸の罪、垢、悪、皆悉く除こり尽くす。人の此の河を敬って事(つか)え、皆共に識知するを以っての故に、恒河沙を以って、喩と為す。
是の、
『四河』中に、
『恒河』は、
『最大』であり!、
『遠方』の、
『四方』の、
諸の、
『人』の、
『経書』にも、
皆、
『恒河』を、
『福徳』の、
『吉河である!』とし、
若し、
『恒河』中に入って、
『身』を、
『洗う!』ならば、
諸の、
『罪、垢(煩悩)、悪』は、
皆、
『悉く!』、
『除かれる!』とする。
『人』は、
此の、
『恒河』を、
『敬い!』、
『事(つか)えており!』、
皆、
共に、
之を、
『識知する!』が故に、
此の、
『恒河沙』を、
『喩とした!』。
復次餘河名字喜轉。此恒河世世不轉。以是故以恒河沙為喻。不取餘河。 復た次ぎに、余の河の名字は、喜んで転ずるも、此の恒河は、世世に転ぜず。是を以っての故に、恒河沙を以って喩と為し、余の河を取らず。
復た次ぎに、
余の、
『河』は、
『名字』を、
『喜んで!』、
『転じる(変える)!』が、
此の、
『恒河』は、
『世世に!』、
『転じない!』ので、
是の故に、
『恒河沙』を、
『喩』と、
『為して!』、
余の、
『河』を、
『取らないのである!』。
問曰。恒河中沙為有幾許。 問うて曰く、恒河中の沙は、幾許(いくばく)か有りと為すや。
問い、
『恒河』中の、
『沙』は、
何れぐらい、
『有る!』と、
『思っているのですか?』。
答曰。一切算數所不能知。唯有佛及法身菩薩能知其數。佛及法身菩薩。一切閻浮提中。微塵生滅多少皆能數知。何況恒河沙。 答えて曰く、一切の算数の知る能わざる所にして、唯だ仏、及び法身の菩薩の能く、其の数を知る有るのみ。仏、及び法身の菩薩は、一切の閻浮提中の微塵の生滅、多少を、皆能く数え知る。何に況んや、恒河沙をや。
答え、
一切の、
『算数』の、
『知る!』ことの、
『できない!』所であり、
唯だ、
『仏』と、
『法身の菩薩』のみが、
其の、
『数』を、
『知る!』ことが、
『できる!』。
『仏』と、
『法身の菩薩』は、
一切の、
『閻浮提』中の、
『微塵』の、
『生滅』や、
『多少』を、
皆、
『数えて!』、
『知ることができる!』ので、
況して、
『恒河』の、
『沙』ぐらいは、
『言うまでもない!』。
  法身(ほっしん):梵語dharma- kaayaの訳。法の身の義。仏の正法より生ぜし身の意。『大智度論巻5下注:法身』参照。
如佛在祇桓外林中樹下坐。有一婆羅門來到佛所。問佛。此樹林有幾葉。佛即時便答有若干數。婆羅門心疑誰證知者。 仏の、祇桓の外の林中の樹下に坐したもうが如し。有る一婆羅門来たりて、仏の所に至り、仏に、『此の樹林には、幾ばくの葉か有らん』と問えるに、仏は即時に、便ち『若干(そこばく)の数有り』と答えたまえり。婆羅門の心に疑わく、『誰か、知るを証する者なる。』と。
例えば、
『仏』が、
『祇桓精舍』外の、
『林』中の
『樹の下』に、
『坐っていられた!』時のこと、
有る、
『婆羅門』が来て、
『仏の所』に、
『到り!』、
『仏』に、
こう問うた、――
此の、
『樹林』には、
何枚の、
『葉』が、
『有るのか?』、と。
『仏』は、
即時に、こう答えられた、――
何々枚の、
『葉』が、
『有る!』、と。
『婆羅門』は、
『心』に、こう疑った、――
誰が、
『知る!』ことを、
『証(あか)すのか?』、と。
  祇桓(ぎおん):舎衛城の南に在りし精舎の名。『大智度論巻7下注:祇樹給孤獨園』参照
  祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん):梵名jetavana- anaathapiNDadasya- araama、また祇園阿難邠坻阿藍、祇園阿難邠低阿藍、逝多林給孤獨園、祇氏之樹給孤獨聚等に作り、略して祇陀婆那、逝多飯那、祇洹精舎、祇園精舎、耆陀精舎、祇陀園、祇陀樹林、祇陀林、祇洹林、祇桓寺、祇樹、祇園とも云う。松林、または勝林等と訳す。祇樹は即ち祇陀所有の樹林(梵jeta- vana)の略、給孤獨園は長者給孤獨(梵anaathapiNDada)所献の僧園の義なり。舎衛城の南に在りし僧園の名。仏陀説法の遺蹟として最も著わる。「孛経抄」、「大般涅槃経巻29」、「五分律巻25」等に依るに、舎衛城の長者須達は夙に孤独を憐れみ、布施を好みて、給孤獨長者と称せられしが、帰仏の後舎衛城の付近に精舎を建立して、仏及び僧を請ぜんとし、地を相するに、祇陀太子所有の園林に如くものなし。その地平正にして八十頃あり、樹木鬱茂し、城を去ること遠からず、また近からず。因りてこれを買わんと欲し、太子に面して請うこと甚だ勉む。太子惜みてこれを許さず。遂に戯れて曰わく、もし金を以ってその地に布き満たさば、即ちこれを謙与すべしと。長者大いに喜び、直ちに宝蔵を開いて金を運び来たらんとす。太子驚いて曰わく、前言は戯れのみ。長者曰わく、太子は妄語すべからずと。乃ち金を象に駄してこれを地に布き、少しく未だ満たざるあり。時に太子思惟すらく、仏は誠に良田なり、宜しく善種を植うべしと。因りて相語りて長者はその地を、太子はその樹を仏に奉施し、且つ金の満たざりし地に精舎を建立せしことを記せり。これ祇樹給孤獨園の称ある所以なり。その結構に就いては、「五分律巻25」に経行処、講堂、温室、食堂、廚房、浴舎、及び諸房舎ありと云い、南方所伝には、この外に物置、廁、井戸、蓮池、病室等を挙げ、精舎の中央に仏殿たる香室(梵gandhakuTi)を造営し、その周囲に八十の小房を作れりと云えり。以って当時の壮観を想見するに足るべし。また「阿育王経巻2」に、阿育王は親しくこの地に至り、舎利弗、目揵連、迦葉、婆駒羅、阿難等の諸大弟子の塔を礼拝せしことを記せり。また「高僧法顕伝」に、「城(舎衛城)の南門を出でて千二百歩、道の西に長者須達は精舎を起せり。精舎は東に向かって、門を開く。門戸の両辺に二の石柱あり、左柱は上に輪形を作り、右柱は上に牛形を作る。精舎の左右には池流清浄にして、樹林なお茂り、衆華色を異にし、蔚然として観つべし、即ち謂わゆる祇洹精舎なり。(中略)祇洹精舎は本と七層あり、諸国王人民競うて供養を興し、繒幡蓋を懸け、華を散じ香を焼き、灯を燃やし明を続けて日日絶えず。鼠あり灯炷を銜み幡蓋を焼き、遂に精舎に及びて七重都て尽く。乃至共に精舎を治して両重と作すことを得たり」と云い、また精舎を繞りて十八僧伽藍あり、僧尽く住したりしも、ただ一処のみ空なりと云えり。また「大唐西域記巻6室羅伐悉底国の條には、「城南五六里にして逝多林あり、これ給孤獨園なり。勝軍王の大臣善施、仏の為に精舎を立つ。昔伽藍たりしも、今すでに荒廃せり。東門の左右に各石柱を建つ、高さ七十余尺あり。左柱には輪相をその端に鏤し、右柱には牛形をその上に刻す。并びに無憂王の建つる所なり。室宇傾圯し、ただ故基を余すのみ。独り一の甎室巋然として独存す。中に仏像あり、昔如来三十三天に昇りて、母の為に説法せられたる後、勝軍王は出愛王が檀像仏を刻せしを聞き、乃ちこの像を造る」等と記せり。これに依るに法顕以後、彼の精舎は大いに荒廃に帰したるを見るべし。また「雑阿含経巻23」、「増一阿含経巻49」、「法句譬喩経巻1」、「中本起経巻下」、「賢愚経巻10」、「阿育王伝巻2」、「八大霊塔名号経」、「四分律巻50」、「十誦律巻34」、「有部毘奈耶破僧事巻8」、「大智度論巻3」、「法苑樹林巻39」等に出づ。<(望)
  参考:『根本説一切有部毘奈耶破僧事巻13』:『爾時世尊。從王舍城往室羅筏城。至誓多林中住。具壽阿難陀。著衣持缽入室羅筏城乞食。時有一婆羅門。於中路逢阿難陀。作是念云。我先聞此沙門喬答摩弟子善能占相。今應試之。為解不解。便問阿難陀曰。今此路傍勝葉波林。凡有幾葉。阿難陀報曰。有如許百如許千如許萬如許拘胝。報已便去。時彼婆羅門。即於林中取一把葉數之。知有七百七十七葉。棄之林外默然而住。時阿難陀乞食已。復還歸來由於舊路。彼婆羅門問曰。聖者。今此林中凡有幾葉。報曰。前者有如許百千萬拘胝。今者欠七百七十七葉。時婆羅門聞此報已。歎甚希有善解算數。』
婆羅門去至一樹邊。取一樹上少葉藏。還問佛。此樹林定有幾葉。即答今少若干葉。如其所取語之。婆羅門知已心大敬信。求佛出家後得阿羅漢道。以是故知。佛能知恒河沙數。 婆羅門は去りて、一樹の辺に至り、一樹上の少しの葉を取りて蔵(かく)し、還って仏に問わく、『此の樹林には、定んで幾ばくの葉か有らん。』と。即ち、『今は、若干の葉を少(か)けり。』と答えて、其の取る所の如きを、之に語りたまえり。婆羅門は、知り已りて、心に大に敬信し、仏に求めて出家し、後に阿羅漢道を得たり。是を以っての故に知るらく、『仏は、能く恒河沙の数を知りたもう。』と。
『婆羅門』は去って、
『一樹』の、
『辺』に、
『至り!』、
『一樹』上より、
『葉』を、
少しばかり、
『取って!』、
『蔵(かく)す!』と、
還って、
『仏』に、
こう問うた、――
此の、
『樹林』には、
何枚の、
『葉』が、
『有る!』と、
『確言できるのか?』、と。
『仏』は、
即座に、
今は、
何々枚の、
『葉』が、
『少なくなった!』と、
其の、
『婆羅門』の、
『取った!』所を、
『語られる!』と、
『婆羅門』は、
『仏』の、
『力』を、
『知った!』ので、
『心』に、
大いに、
『敬い!』、
『信じて!』、
『仏』に、
『求めて!』、
『出家し!』、
後に、
『阿羅漢道』を、
『得たのである!』。
是の故に、
こう知る、――
『仏』は、
『恒河』の、
『沙の数』を、
『知っていられる!』と。
問曰。有幾許人。值佛光明必得阿耨多羅三藐三菩提。若值光明便得道者。佛有大慈。何以不常放光明令一切得道。何須持戒禪定智慧。然後得道。 問うて曰く、幾許の人有りてか、仏の光明に値い、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ん。若し光明に値いて、便ち道を得ば、仏には大慈有り、何を以ってか、常に光明を放って、一切をして、道を得しめざる。何ぞ、持戒、禅定、智慧を須(ま)って、然る後に道を得る。
問い、
何れだけの、
『人』が、
『仏』の、
『光明』に、
『値()って!』、
必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』のですか?
若し、
『光明』に、
『値って!』、
やすやすと、
『道』を、
『得られる!』ものならば、
『仏』には、
『大慈』が、
『有る!』のに、
何故、
常に、
『光明』を、
『放って!』、
一切に、
『度』を、
『得させられないのですか?』。
何故、
『持戒』や、
『禅定』や、
『智慧』を、
『待って!』、
その後に、
『道』を、
『得なくてはならないのですか?』。
答曰。眾生種種因緣得度不同。有禪定得度者。有持戒說法得度者。有光明觸身而得度者。 答えて曰く、衆生の種種の因縁は、度を得ること同じからず。禅定もて、度を得る者有り、持戒、説法もて度を得る者有り、光明身に触れて度を得る者有り。
答え、
『衆生』の、
種種の、
『因縁』は、
『度』を、
『得る!』ことも、
『同じではない!』。
有る者は、
『禅定』で、
『度』を、
『得る!』、
有る者は、
『持戒』や、
『説法』で、
『度』を、
『得る!』、
有る者は、
『光明』が、
『身』に触れて、
『度』を、
『得る!』。
譬如城有多門。入處各各至處不異。有人光明觸身而得度者。有若見光明若觸身不得度者 譬えば、城に、多くの門が有り、入る処の各各に、至る処の異なるが如し。有る人は、光明身に触れて、度を得る者なり。有るは、若しは光明を見、若しは身に触るれど、度を得ざる者なり。
譬えば、
『城』に、
『多く!』の、
『門』が、
『有り!』、
『入る!』、
『門』の、
各各は、
『至る!』、
『処』が、
『異なる!』ように、
有る人は、
『光明』が、
『身』に、
『触れる!』と、
『度』を、
『得る!』が、
有る者は、
『光明』を、
『見たり!』、
『光明』が、
『身』に、
『触れたり!』しても、
『度』を、
『得ることはない!』。



身の毛孔を挙げて、皆微笑する

【經】爾時世尊舉身毛孔皆亦微笑。而放光明遍照三千大千世界。復至十方如恒河沙等世界。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提 爾の時、世尊は、身の毛孔を挙げて、皆、亦た微笑したまい、光明を放って、遍く三千大千世界を照らし、復た十方の恒河沙にも等しきが如き世界に至らしめたもうに、若し衆生の斯の光に遇う者有らば、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ん。
爾の時、
『世尊』は、
『身』の、
『毛孔』を挙げて、
皆で、
『微笑される!』と、
『光明』を放って、
遍く、
『三千大千世界』を、
『照らされ!』、
復た、
『十方』の、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『世界』に、
『至らせて!』、
『照らされた!』。
若し、
有る、
『衆生』が、
斯()の、
『光』に、
『遇った!』ならば、
必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』。
【論】問曰。上已舉身微笑。今何以故復一切毛孔皆笑。 問うて曰く、上に已に、身を挙げて微笑したまえり。今、何を以っての故にか、復た一切の毛孔もて、皆笑いたまえる。
問い、
上に、
已に、
『身』を、
『挙げて!』、
『微笑されている!』のに、
今、
何故、
一切の、
『毛孔』で、
皆、
『笑われたのですか?』。
答曰。舉身微笑是麤分。今一切毛孔皆笑是細分。 答えて曰く、身を挙げて微笑するは、是れ麁分なり。今、一切の毛孔もて、皆笑いたまえるは、是れ細分なり。
答え、
上の、
『身』を
『挙げて!』、
『微笑された!』のは、
是れは、
『麁(粗雑)』の、
『分』であり!、
今の、
一切の、
『毛孔』で、
皆、
『笑われた!』のは、
是れは、
『細(繊細)』の、
『分である!』。
復次先舉身微笑光明有數。今一切毛孔皆笑。有光明而無數。 復た次ぎに、先の身を挙げての微笑の光明は、数有り、今の一切の毛孔の皆笑うに有る光明は無数なり。
復た次ぎに、
『身』を、
『挙げて!』、
『微笑された!』時に、
有する!
『光明』には、
『数』が、
『有る!』が、
今の、
一切の、
『毛孔』が、
皆、
『笑う!』時に、
有する!、
『光明』には、
『数』が、
『無い!』。
復次先舉身光明。所未度者。今值毛孔光明。即便得度。 復た次ぎに、先の身を挙げての光明の、未だ度せざる所の者も、今の、毛孔の光明に値わば、即便ち度を得ん。
復た次ぎに、
先の、
『身』を、
『挙げて!』の、
『光明』にも、
未だ、
『度せられなかった!』者も、
今の、
『毛孔』の、
『光明』に、
『値えば!』、
すぐさま、
『度』を、
『得るはずである!』。
譬如搖樹取果。熟者前墮。若未熟者。更須後搖。又如捕魚前網不盡後網乃得。笑因緣如上說
大智度論卷第七
譬えば、樹を揺すりて、果を取らんに、熟せる者は前に堕ち、若し未だ熟せざる者ならば、更に後の揺すりを須つが如し。又、魚を捕らんとして、前の網の尽きざるに、後の網にて、乃ち得るが如し。笑いの因縁は、上に説けるが如し。
大智度論巻第七
譬えば、
『樹』を揺すって、
『果』を、
『捕ろう!』とすれば、
『熟した!』者は、
『前に!』、
『堕ちる!』が、
未だ、
『熟さない!』者は、
更に、
『揺する!』のを、
『須()つようなものである!』。
又、
『魚』を、
『捕る!』時、
前の、
『網』が、
『尽きていない!』のに、
後の、
『網』で、
『得るようなものである!』。
『笑われた!』、
『因縁(原因)』は、
前に、
『説いた通りである!』。

大智度論巻第七


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