【經】爾時世尊自敷師子座。結加趺坐。直身繫念在前。入三昧王三昧。一切三昧悉入其中 |
爾の時、世尊は、自ら師子の座を敷き、結跏趺坐して、身を直(ただ)し、念を前に在(お)いて懸け、三昧王三昧に入りたまえり。一切の三昧は、悉く其の中に入る。 |
爾の時、
『世尊』は、
自ら、
『師子』の、
『座』を、
『敷き!』、
『結跏趺坐』して、
『身』を、
『直(ただ)し!』、
『念』を、
『前』に、
『懸ける!』と、
『三昧王三昧』に、
『入られた!』。
一切の、
『三昧』の、
『悉く!』が、
其の、
『三昧』中に、
『入っている!』。
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師子座(ししざ):梵語siMhaasanaの訳。巴梨語siihaasana、獅子(ライオン)の座の義。又師子牀、或いは猊座とも名づく。仏又は大徳等の所坐の牀座を云う。「長阿含巻17沙門果経」に、「今仏は高堂の上に在り、前に明灯あり。世尊は師子座に処して南面して坐す」と云い、「大品般若経巻1」に、「爾の時、世尊、自ら師子座を敷き結跏趺坐す」と云い、又「大般涅槃経巻上」に、「時に王は即ち説法殿上に上りて師子座に登り、一切来衆も亦皆四宝の座に坐す」と云い、「有部毘奈耶巻28」に、「仏言わく、応に二三の上座を除き、応に坐して経を誦すべしと。爾の時に当り彼の法師をして威粛乏少し、威厳足らざらしむ。仏言わく、上座の処に於いて師子座を置き、其れをして誦経せしめよと。登陟の時、稍上下し難し。仏言わく、若し是れ定処ならば応に甎を用いて蹋道と為すべし、若し処不定ならば応に木梯を為すべしと」と云える皆其の例なり。師子座の如何なるものなるやに関しては、「大智度論巻7」に、「何を以って師子座と名づくるや、仏が師子を化作すとせんや、実の師子の来るとせんや。金銀木石にて師子を作るとせんや。又師子は善獣に非ざるが故に仏の須いざる所なり。亦因縁なきが故に応に来たるべからず。答えて曰く、是れ号して師子と名づくるも実の師子に非ざるなり。仏は人中の師子たり、仏所坐の処は若しは牀、若しは地、皆師子座と名づく」と云えり。是れ師子を以って仏に喩えたるものとし、仏の所坐の処を悉く師子座と称すとなすの説なり。然るに師子座が必ずしも仏の所坐処に限らざることは、前引「毘奈耶」の文に法師をして師子座に上らしむと云い、又「大智度論巻7」に、「今は国王の坐処も亦師子座と名づく」と云い、又「同巻2」に、「是の時阿難、僧を礼し已りて師子の牀に坐す。時に大迦葉此の偈を説いて言わく、仏は聖師子王、阿難は是れ仏子なり、師子座の処に坐す」と云うに依りて知るを得べし。又按ずるに「シャーンディッルヤ・ウパニシャッドzaaNDiyoopaniSad第1篇第3章」に、所謂坐法中の師子坐を説き、「右の大腿を左の踝を以って、同様に左の大腿を右の踝を以って固定し、又両手は両膝に載せ、手指は真直ぐに伸ばし、顔色はこれを明にし、完く心を統一して鼻端を凝視す。かかる獅子坐siMhaasanaは常に観行者に依りて重んぜられん」と云えり。仏、及び大徳は常に恐らく此の坐法を用いたるを以って、遂に転じて其の座所を師子座と称するに至りしものならんかを疑うべきものあり。但し或時代の後には特種の高座を指したるが如く、前引「毘奈耶」の文に「登陟の時稍上下し難し」と云い、又「分別功徳論巻1」に、「阿難即時に坐に昇る、座とは師子座なり。経に師子座に喩うる所以は、獅子は獣中の主にして、常に高地に居りて卑下に処せず、故に高座に喩うるなり」と云えるは共に高座を師子座と名づけたるものというべし。又「法華経巻6」、「旧華厳経巻50」、「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」、「金剛頂瑜伽中略出念誦経巻1」等に出づ。<(望)
結加趺坐(けっかふざ):結跏趺坐に同じ。『大智度論巻7下注:結跏趺坐』参照。
結跏趺坐(けっかふざ):跏趺は足の甲を股に懸くるの意、足首を累ね足裏を上に向けて斉える坐法をいう。即ち通常坐禅の時の坐法なり。「阿毘曇毘婆沙論巻21」に、「問うて曰わく、一切の威儀尽くる中に道を行ずるが如きに、何なる故にただ結跏趺坐を説く。答えて曰わく、或はある説は、これはこれ旧に行われたる法なり。所以は何んとなれば、過去恒河沙の諸仏及び仏弟子は尽くこの法を行ずと。またある説は、よく他人の恭敬心を生ずるが故なり、もし結跏趺坐せば、悪覚を起すもなお他人に恭敬の心を生ず、この故に他人の恭敬心を生ぜんと欲するが故なりと。またある説は、この法はこれ世俗愛欲の法に非ざるが故なり、余の威儀は世俗これを用う。また次ぎに、この法は、よく三種の菩提道を生ずるが故なり、声聞、辟支仏、仏の菩提なり。余の威儀を以ってしては得ず、ただこれを以って得るのみ。また次ぎに、この法は道を行ずる時、随順安穏なり、余の威儀に非ざるが故なり。また次ぎに、この法はよく魔軍を壊す、仏世尊の結跏趺坐してよく煩悩及び天魔の軍を破るが如し。また次ぎに、この法はよく天人の心に適可するが故なり。また次ぎに、この法は外道と共ならざるが故なり、余の威儀は外道と共なり。云何が結跏趺坐と名づくる。尊者波奢の説いて曰わく、跏趺坐とは両足を累ねて境界を正観するに則ち定に随順することを得れば跏趺して坐すなりと」と云えり。<(望)
繋念在前(けねんざいぜん):念を前に在るものに繋くるの意なり。「阿毘曇毘婆沙論巻21」に、「云何が繋念在前なる。面上の故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、煩悩を背するに後に在り、寂滅を正観するに前に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、生死を背にするに後に在り、涅槃を正観するに前に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、色等の境界を背にするに後に在り、所縁を正観するに前に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、念を繋くるに眼の中間に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、勝慧力を以って境界を正観するに念念散ぜざるが故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに、念と不貪と倶に境界に縁ず、故に念を繋くるに前に在りと名づく。また次ぎに念を繋くるに眉の中間に在り、故に念を繋くるに前に在りと名づく」と云えり。蓋し、心眼のよく境界を現前するが故に念を繋くるに前に在りというなり。<(望)
三昧王三昧(さんまいおうさんまい):梵語smaadhi-raaja-samaadhiの訳。一切の三昧中の王の意。即ち空三昧なるが如し。『大智度論巻5(下)注:三昧王三昧』参照。 |
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【論】問曰。佛有侍者及諸菩薩。何以故自敷師子座。 |
問うて曰く、仏には、侍者、及び諸の菩薩有り。何を以っての故にか、自ら師子の座を敷きたまえる。 |
問い、
『仏』には、
何故、
自ら、
『師子の座』を、
『敷かれたのですか?』。
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答曰。此是佛所化成。欲以可適大眾。以是故阿難不能得敷。 |
答えて曰く、此れは是れ仏の化成したもう所にして、以って大衆に適わしむべけんことを欲したもう。是を以っての故に、阿難には、敷くことを得る能わず。 |
答え、
此の、
『師子の座』は、
此の、
『師子の座』を以って、
『大衆』に、
『適応しよう!』と、
『思われた!』。
是の故に、
『阿難』には、
『敷く!』ことが、
『適わなかったのである!』。
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化成(けじょう):仏菩薩が神力を以って変化し、種種の事物を造作するをいう。また化ともいう。『大智度論巻7下注:化』参照。
化(け):(一)梵語nirmitaの訳語にして、改転、または改変の義。徳教を以って物の風を改転するの意。「法華経巻1序品」に、「皆一乗の法を説き、無量の衆生を化して仏道に入らしむ」と云い、「大乗本生心地観経巻3」に、「能化所化、地に随って増し、各本縁に随って所属と為す。或は一菩薩を多仏化し、或は多菩薩を一仏化す」と云えるその例なり。この中、仏はよく菩薩を化するが故にこれを能化とし、菩薩は仏の為に化せらるるが故に所化と称す。また仏は広く一切を化すといえども、而も過去の本縁に随って所属の菩薩等各同じからず。故に多仏にして一菩薩を化するあり、これを共化と名づけ、一仏にして多菩薩を化するあり、これを不共化と名づく。「成唯識論巻10」に、「諸の如来の所化の有情に随って共不共あり、所化共ずる者には、同処同時に諸仏各変じて身と為し、土と為し、形状相似して相障礙せず、展転相雑して増上縁となり、所化の生の自識をして変現せしめ、一土に於いて一の仏身ありて為に神通を現じ、法を説きて饒益すと謂わしむ。不共の者に於いてはただ一仏変ず。諸の有情類は、無始時来種性法爾として更に相繋属す。或は多、一に属し、或は一、多に属す。故に所化の生に共不共あり」と云えるまたその意なり。また人を化するの意にて化物、或は化他と云い、教えて善に遷らしむるの意にて教化、勧めて正道に入らしむるの意にて勧化、これを導くの意にて化導、これを益するの意にて化益、教を施すの意にて施化、蒙を啓くの意にて開化、その用を化用、その風を化風、その主を化主、身の化を化身、語の化を語化、意の化を意化、大乗を以って化するを大化、小乗を以って化するを小化、如来一代の教化を一化、化物の為に説く所の教法を化法、その儀式を化儀、施化の大意を化意、度脱せしむるを化度、その因縁を化縁、化縁の及ぶ所を化境と云い、また順縁を以って化するを順化、逆縁を以って化するを逆化と称する皆その意なり。(二)改変して他の物となるの意。具さに変化と称し、また化作、化現とも云う。「観仏三昧海経巻3」に、「身の諸の毛孔より金色の光を出し、この一一の光化して化仏と成り、なお金山の如し」と云い、「観無量寿経」に、「その光化して百宝色の鳥となり、和鳴哀雅にして常に念仏念法念僧を讃ず」と云える如きこれなり。就中、仏が地前凡夫等の為に仏形を現じて利益の事を為すを変化身、または応化身、応化仏等と称し、五趣の有情の為に鬼畜等の身を現ずるを化身と云い、無而忽有の仏形を化仏、菩薩形を化菩薩、人形を化人、鳥形を化鳥等と云い、一時に機に応じて土を変現するを化土、または変化土と称し、能変化の心を化心、所変化の事を化事と云い、また胎卵湿に依らず忽爾として生ずるを化生、神を他界に遷すの意にて遷化、方便化現するの意にて権化、実事に非ざるの意にて幻化と称する如きその類なり。<(望) |
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復次佛心化作。故言自敷。 |
復た次ぎに、仏は、心に化作したもうが故に、『自ら敷く』と言えり。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『心』を以って、
『師子座』を、
『化作された!』ので、
故に、
『自ら!』、
『敷く!』と、
『言うのである!』。
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化作(けさ):仏菩薩が神力を以って変化し、種種の身、また種種の事物を造作するをいう。『大智度論巻7下注:化』参照。 |
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問曰。何以名師子座。為佛化作師子。為實師子來。為金銀木石作師子耶。又師子非善獸故。佛所不須。亦無因緣故不應來。 |
問うて曰く、何を以ってか、師子座と名づくる、仏の師子を化作したもうが為なりや、実の師子の来たるが為なりや、金銀木石の師子を作すが為なりや。又師子は、善獣に非ざるが故に、仏の須いたまわざる所なれば、亦た因縁無きが故に、応に来たるべからず。 |
問い、
何故、
『師子』の、
『座』と、
『称するのですか?』、
『仏』が、
『師子』を、
『化作されたからですか?』、
『実』の、
『師子』が、
『来たからですか?』、
『金、銀』や、
『木、石』で、
『師子』を、
『作ったからですか?』、
又、
『師子』は、
『善い!』、
『獣ではない!』ので、
『仏』は、
『師子』を、
『須(もち)いられません!』、
『師子』は、
『因縁』が、
『無い!』ので、
『来れなかったはずです!』。
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答曰。是號名師子非實師子也。佛為人中師子。佛所坐處若床若地皆名師子座。譬如今者國王坐處亦名師子座。 |
答えて曰く、是れを号して、師子と名づくるも、実の師子には非ざるなり。仏は、人中の師子なれば、仏の所坐の処は、若しは床、若しは地なりとも、皆、師子座と名づく。譬えば、今は、国王の坐処も、亦た師子座と名づくるが如し。 |
答え、
是れを、
『呼んで!』、
『師子』と、
『称する!』が、
『実』の、
『師子ではない!』。
『仏』は、
『人』中の、
『師子である!』ので、
『仏』の、
『坐られる!』、
『処』は、
『床であろう!』と、
『地であろう!』と、
皆、
譬えば、
『今』では、
亦た、
『師子』の、
『座』と、
『称するようなものである!』。
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復次王呼健人。亦名人師子。人稱國王亦名人師子。 |
復た次ぎに、王は、健やかなる人を呼んで、亦た人の師子と名づけ、人は、国王を称して、亦た人の師子と名づく。 |
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健人(ごんにん):梵語zuuraの訳。強力で勇敢な人、英雄等の義。 |
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又如師子四足獸中獨步無畏。能伏一切。佛亦如是。於九十六種道中。一切降伏無畏故。名人師子。 |
又、師子は四足獣中に独歩して無畏なれば、能く一切を伏するが如く、仏も、亦た是の如く、九十六種道中に於いて、一切を降伏して、無畏なるが故に、人の師子と名づく。 |
又、
『師子』が、
『四足獣』中に於いて、
『独歩して!』、
『無畏である!』ように、
『仏』も、
是のように、
『九十六種』の、
『外道』中に於いて、
一切を、
『降伏して!』、
『無畏である!』が故に、
『人』の、
『師子』と、
『称する!』。
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降伏(ごうぶく):降し従える。降参せしむるの意。
九十六種道(くじゅうろくしゅどう):また九十六種外道ともいう。昔名を挙げたる外道に六師あり、即ち一に富蘭那迦葉、二に末伽梨拘賒梨子、三に刪闍耶毘羅胝子、四に阿耆多翅舎欽婆羅、五に迦羅鳩駄迦旃延、六に尼揵陀若提子なり。これに各十五の弟子あり、各自道を示す、故にこれを九十六種外道と称す。この中、富蘭那迦葉(ふらんなかしょう)は、一切の法は断滅の性にして空なり、故に君臣、父子、忠孝の道なしと云い、末伽梨拘賒梨子(まかりくしゃりし)は、道は求むべからず、ただ生死に劫数を経て自ら苦際を尽くすのみ、譬えば糸玉を高山の上より転ずれば糸の尽くるにより、自ら止むが如しと云い、阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたきしゃきんばら)は、現世に苦を受くるに因るが故に後世に楽を受くと為して身に弊衣を著け、五熱に身を炙れり、迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんねん)は、諸法はまた有相また無相なりと為して、人、物を見て有りやと問うには無しと答え、無しやと問うには有りと答えたり、尼揵陀若提子(にけんだにゃくだいし)は、苦楽の罪福は尽く前世に由ると為し、必ずこれを受くれば今道を行うも、以ってこれを断ずること能わずと云えり。<(望)『大智度論巻3(上)注:六師外道』参照。 |
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問曰。多有坐法。佛何以故唯用結加趺坐。 |
問うて曰く、多く坐法有り。仏は、何を以っての故にか、唯結跏趺坐を用いたもう。 |
問い、
『坐法』は、
『多く!』、
『有る!』のに、
『仏』は、
何故、
『結跏趺坐』を、
『用いられるのですか?』。
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答曰。諸坐法中結加趺坐最安隱不疲極。此是坐禪人坐法。攝持手足心亦不散。又於一切四種身儀中最安隱。此是禪坐取道法坐。魔王見之其心憂怖。 |
答えて曰く、諸の坐法中に、結跏趺坐は最も安隠にして、疲極せざればなり。此れは是れ坐禅人の坐法にして、手足を摂持すれば、心も亦た散ぜず。又一切の四種の身儀中に於いて、最も安隠なれば、此れは是れ禅の坐、取道法の坐にして、魔王は、之を見て、其の心憂怖す。 |
答え、
諸の、
『坐法』中、
『結跏趺坐』は、
最も、
『安隠であり!』、
『疲極しない!』ので、
此れは、
何故ならば、
『手、足』を、
『しっかりと!』、
『保持する!』ので、
『心』も、
亦た、
『散乱しないからである!』。
又、
一切の、
『四種の身儀( 行、住、坐、臥)』中に、
最も、
『安隠であり!』、
此れは、
『禅』の、
『坐であり!』、
『取道』の、
『法』中の、
『坐である!』ので、
『魔王』が
此の、
『結跏趺坐』を、
『見る!』と、
其の、
『心』が、
『憂愁するのである!』。
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疲極(ひごく):つかれきわまる。
取道法(しゅどうほう):道を獲得する法。 |
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如是坐者出家人法。在林樹下結加趺坐。眾人見之皆大歡喜。知此道人必當取道。如偈說
若結加趺坐 身安入三昧
威德人敬仰 如日照天下
除睡嬾覆心 身輕不疲懈
覺悟亦輕便 安坐如龍蟠
見畫加趺坐 魔王亦愁怖
何況入道人 安坐不傾動
以是故結加趺坐。 |
是の如き坐者は、出家人の法には、林樹の下に在りて、結跏趺坐すれば、衆人、之を見て、皆大いに歓喜し、此の道人の、必ず当に道を取るべきことを知る。偈に説くが如し、
若し結跏趺坐すれば、身は安らかに三昧に入り、
威徳は人の敬仰すること、日の天下を照らすが如し。
睡嬾の心を覆うを除けば、身軽うして疲懈せず、
覚悟すること亦た軽便に、安坐すること龍の蟠まるが如し。
画かれたる跏趺坐を見れば、魔王は亦た愁怖す、
何に況んや道に入りたる人の、安坐して傾動せざるをや。
是を以っての故に、結跏趺坐したもう。 |
是のように、
『坐す!』者が、
『出家人の法』に依り、
『林樹』下に、
『結跏趺坐する!』と、
『衆人』は、
此の、
『道人』は、
必ず、
『道』を、
『獲得する!』だろうと、
『知る!』。
『偈』に説く!通りである、――
若し、
『結跏趺坐』すれば、
『結跏趺坐』は、
『心』を、
『身』は、
『軽やかに!』、
『疲れも!』、
『懈りもしない!』、
『覚悟』も、
亦た、
『軽やかに!』、
『くつろいで!』、
『安坐』すれば、
『龍』が、
『蟠(わだか)まるようだ!』。
『結跏趺坐』は、
『画かれた!』ものを、
『見た!』だけで、
況して、
『道』に、
『入った!』、
『人』が、
『安坐』して、
『傾きも!』、
『動きもしないのだから!』。
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敬仰(きょうごう):敬いあおぐ。
睡嬾(ずいらん):居眠りして怠けること。
疲懈(ひけ):疲れて怠けること。
覚悟(かくご):道を悟ること。
軽便(きょうべん):軽やかにくつろぐ。
安坐(あんざ):安らかにすわる。
蟠(ぼん):わだかまる。とぐろをまく。
愁怖(しゅうふ):うれいておそれる。
傾動(きょうどう):かたむきうごく。 |
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復次佛教弟子。應如是坐。有外道輩。或常翹足求道。或常立。或荷足。如是狂狷心沒邪海形不安隱。以是故佛教弟子。結加趺直身坐。 |
復た次ぎに、仏は、弟子に、『応に是の如く坐すべし』と教えたもう。有る外道の輩は、或いは常に足を翹(つまだ)ちて、道を求め、或いは常に立ち、或いは足を荷(にな)う。是の如き狂狷は、心、邪海に没すれば、形、安隠ならず。是を以っての故に、仏は弟子に、『跏趺を結び、身を直して坐せ』と教えたまえり。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『弟子』に、こう教えられた、――
是のように、
『坐るべき!』である、と。
有る、
『外道の輩』は、
或いは、
常に、
『足』を、
『翹( つまだ)ちて!』、
『道』を、
『求め!』、
或いは、
或いは、
是のような、
『狂狷( 狂信)』の、
『心』は、
『邪海』に、
『没しており!』、
『形』は、
『安らか!』でも、
『穏やかでもない!』。
是の故に、
『仏』は、
『弟子』に、
こう教えられた!のである、――
『跏趺』を、
『結び!』、
『身』を、
『直(ただ)して!』、
『坐れ!』と。。
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狂狷(ごうけん):徒らに理想に走って実行が伴わず、思慮が乏しくかたくななこと。狂は志が極めて高く進趣の気象に富むが行の疎略なこと。狷は知識の未だ及ばない所はあるが、守る所が堅固であり断固として不善を為さないこと。即ち狂信。
跏趺(かふ):足の甲を股に懸けること。『大智度論巻7下注:結跏趺坐』参照。 |
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何以故。直身心易正故。其身直坐則心不嬾。端心正意繫念在前。若心馳散攝之令還。欲入三昧故。種種馳念皆亦攝之。如此繫念入三昧王三昧。 |
何を以っての故に、身を直せば、心を正し易きが故に、其の身を直して坐せば、則ち心、嬾(おこた)らず。端心正意にして、念を前に繋(か)くれば、若し心馳散せば、之を摂(と)りて還らしむ。三昧に入らんと欲するが故に、種種に馳せる念は、皆、亦た之を摂(おさ)む。此の如く、念を繋けて、三昧王三昧に入る。 |
何故ならば、
『身』を、
『端せば!』、
『心』を、
『正し易いからである!』。
其の、
『身』を、
『直して!』、
『坐れば!』、
則ち、
『心』が、
『嬾(おこた)らない!』ので、
『心、意』を、
『正し!』、
『念』を、
『前に繋(か)けて!』、
『見張れば!』、
若し、
『心』が、
『馳(は)せ!』、
『散じた!』としても、
之を、
『捉えて!』、
『還らせることができる!』。
『三昧』に、
『入ろう!』と、
『思う!』が故に、
種種に、
『馳散した!』、
『念』を、
亦た、
『皆!』、
『摂(おさ)める!』のであり、
此のようにして、
『念』を
『前』に、
『繋けて!』、
『三昧王三昧』に、
『入るのである!』。
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嬾(らん)おこたる。怠。
端心正意(たんしんしょうい):心と意志とを正す。
馳散(ちさん):はしってちらばる。
馳念(ちねん):念をはす。思いをはしらす。 |
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云何名三昧王三昧。是三昧於諸三昧中最第一自在能緣無量諸法。如諸人中王第一。王中轉輪聖王第一。一切天上天下佛第一。此三昧亦如是。於諸三昧中最第一。 |
云何が、三昧王三昧と名づくる。是の三昧は、諸の三昧中に最も第一にして、自在に能く無量の諸法を縁ずればなり。諸人中には、王第一なり、王中には、転輪聖王第一なり、一切の天上天下に、仏第一なるが如く、此の三昧も、亦た是の如く、諸の三昧中に、最も第一なり。 |
何故、
是の、
『三昧』は、
諸の、
『三昧』中に、
『最も!』、
『第一であり!』、
『無量』の、
諸の、
『法』を、
『自在に!』、
『縁じられるからである!』。
譬えば、
諸の、
『人』中には、
『王』が、
『第一であり!』、
『王』中には、
『転輪聖王』が、
『第一であり!』、
一切の、
『天上、天下』には、
『仏』が、
『第一である!』ように、
此の、
『三昧』も、
是のように、
諸の、
『三昧』中に、
『最も!』、
『第一なのである!』。
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問曰。若以佛力故。一切三昧皆應第一。何以故獨稱三昧王為第一。 |
問うて曰く、若し仏力を以っての故なれば、一切の三昧は、皆、応に第一なるべし。何を以っての故にか、独り、三昧王を称して、第一と為す。 |
問い、
若し、
『仏』の、
『力である!』が故に、
一切の、
何故、
『三昧王』だけが、
独り、
『第一である!』と、
『称されるのですか?』。
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答曰。雖應以佛神力故佛所行諸三昧皆第一。然諸法中應有差降。如轉輪聖王眾寶。雖勝一切諸王寶。然此珍寶中自有差別貴賤懸殊。 |
答えて曰く、応に仏の神力を以っての故に、仏の所行の諸三昧は、皆第一なるべしと雖も、然れども諸法中には、応に差降有るべし。転輪聖王の衆宝は、一切の諸王の宝に勝ると雖も、然れども此の珍宝中には、自ら差別有りて、貴賎の懸殊なるが如し。 |
答え、
『仏』の、
『神力』を
『用いた!』、
『三昧である!』が故に、
『仏』の、
然し、
諸の、
『法』中には、
当然、
『差降(等級差別)』が、
『有るはず!』であり、
譬えば、
『転輪聖王』の、
『衆宝(輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、居士宝、主兵臣宝)』は、
一切の、
諸の、
此の、
『珍宝』中には、
自ら、
『差別』が有り、
『貴賎』が、
『懸け隔たるようなものである!』。
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神力(じんりき):梵語prabhaavaの訳。超自然的力の義。仏所有の超自然力を云う。
差降(さこう):等級の差別。
懸殊(けんしゅ):遙かに違う。非常な差がある。
転輪聖王(てんりんじょおう):天下を領する聖王。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。 |
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是三昧王三昧。何定攝何等相。有人言。三昧王三昧名為自在相。善五眾攝。在第四禪中。 |
是の三昧王三昧は、何なる定にか摂し、何等か相なる。有る人の言わく、『三昧王三昧を名づけて、自在の相と為し、善の五衆に摂して、第四禅中に在り。 |
是の、
『三昧王三昧』は、
何のような、
『定』に、
『摂するのか?』、
何のような、
『相なのか?』。
有る人は、
こう言っている、――
『三昧王』という!、
『三昧』は、
『自在』という
『相であり!』、
『善』の、
『五衆』に、
『摂し!』、
『第四禅』中に、
『在る!』。
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何以故。一切諸佛於第四禪中。行見諦道得阿那含。即時十八心中得佛道。在第四禪中捨壽。於第四禪中起入無餘涅槃。第四禪中有八生住處背捨勝處。一切入多在第四禪中。第四禪名不動。無遮禪定法。欲界中諸欲遮禪定心。初禪中覺觀心動。二禪中大喜動。三禪中大樂動。四禪中無動。 |
何を以っての故に、一切の諸仏は、第四禅中に於いて、見諦道を行じて、阿那含を得、即時に十八心中に仏道を得、第四禅中に在りて寿を捨て、第四禅中に起ちて、無余涅槃に入りたもう。第四禅中には、八生住処、背捨、勝処有りて、一切入の多くは、第四禅中に在り。第四禅を不動と名づけ、遮るもの無き禅定の法なり。欲界中には、諸欲、禅定の心を遮り、初禅中には覚観の心動き、二禅中には、大喜動き、三禅中には、大楽動き、四禅中には、動くもの無し。 |
何故ならば、
一切の、
諸の、
『仏』は、
『第四禅』中に、
『見諦道』を行って、
『阿那含』を、
『得る!』と、
即時に、
『十八心』中に、
『仏道』を、
『得て!』、
『第四禅』中に、
『寿』を、
『捨て!』、
『第四禅』中に起って、
『無余涅槃』に、
『入られる!』し、
『第四禅』中には、
『八生住処』、
『八背捨』、
『八勝処』が、
『有り!』、
『十一切入』も、
『多く!』が、
『第四禅』中に、
『有る!』。
『第四禅』を、
『不動』と、
『称する!』が、
『遮る!』者の、
『無い!』、
『禅定法だからである!』。
『欲界』中には、
諸の、
『欲』が、
『禅定の心』を、
『遮り!』、
『初禅』中には、
『二禅』中には、
『三禅』中には、
『四禅』中には、
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第四禅(だいしぜん):梵語caturtha-dhyaanaの訳。新訳には第四静慮に作る。四禅の第四なり。「大乗阿毘達磨雑集論巻9」によれば、この禅定は具さに捨清浄、念清浄、不苦不楽受、心一境性等の四支あり。この禅定中に於いて、出入息、第三禅定の貪、楽、楽作意、定下劣性等の五種の修道の障難に対治すべし。この禅定を修習して、第四禅天に生ずる果報を得べし、この天は色界四禅天の最高処に属す。その中に無雲、福生、広果、無煩、無熱、善現、善見、色究竟等の八天あり、即ち(一)無曇天とは、この天は雲層密合処の上に位し、故にこの天より開始す、雲地の軽薄なること猶星の散ずるが如し。(二)福生天とは、異生凡夫の勝福を具有せば、まさにこの天に往生することを得べし。(三)広果天とは、色界諸天の中に於いて、この天は乃ち異生凡夫の往生する所にして最も殊勝の処と為す。(四)無煩天とは、この天の中に於いて繁雑紛乱の事物或は現象あることなし。またこの天の天衆の無色界に趣入することを求めざるを以っての故に、この天をまた称して無求天と為す。(五)無熱天とは、この天の人はすでによく上中品の障を伏除し、意は調柔を楽い、諸の熱悩を離る、故に無熱と称す。(六)善現天とは、この天の人はすでに雑修の善品の定を得、果徳を以ってこれを彰現す、故に善現と称す。(七)善見天とは、この天の人はすでに修定の障を離るること、微細の余品中に至り、凡そ見る所あらば、皆極清徹なり、故に善見と称す。(八)色究竟天とは、この天はすでに衆苦の所依たる身の最後辺に到り、また即ち色天中の最後を有し、この天を過ぐれば則ち無色天と為す。この外に、第四禅天に関する依処、身量及び寿量等の果報有り、また「長阿含経巻20」、「大毘婆沙論巻136」、「倶舎論巻8、巻11」、「立世阿毘曇論巻3、巻7」、「阿毘達磨順正理論巻21」、「大智度論巻7」等の載する所なり。<(佛)
四禅(しぜん):梵語catvaari dhyaanaaniの訳語。禅は梵語褝那(dhyaana)の略、静慮と訳す。故にまた四静慮とも名づく。即ち色界の静慮に四種の別あるを云う。一に初禅(梵prathama-dhyaana)、二に第二禅(梵dvitiiya-dhyaana)、三に第三禅(梵tRtiiya-dhyaana)、四に第四禅(梵caturtha-dhyaana)なり。「長阿含経巻8衆集経」に、「また四法あり、謂わく四禅なり。ここに於いて比丘は欲悪不善の法を除き、有覚有観にして離生の喜楽あり、初禅に入る。有覚観を滅して内信一心に、無覚無観にして定生の喜楽あり、第二禅に入る。喜を離れて捨を修し、進を念じて自ら身楽を知る。諸聖の所求を憶念し、楽を捨てて第三禅に入る。苦楽の行を離れて先づ憂喜を滅し、不苦不楽捨念清浄にして第四禅に入る」と云い、「雑阿含経巻17」に、「初禅正受の時言語寂滅し、第二禅正受の時覚観寂滅し、第三禅正受の時喜心寂滅し、第四禅正受の時出入息寂滅す」と云えるこれなり。蓋し禅は静慮の義にして、即ち寂静に由りてよく審慮し、如実に了知するの謂なり。然るに審慮は慧を以って体となすが故に、他の定も皆また静慮と名づくべしといえども、この四は静慮の義最も勝れたるを以って独り禅の名を得るなり。「倶舎論巻28」に、「この宗の審慮は慧を以って体となす。もし爾らば諸の等持も皆まさに静慮と名づくべし。爾らず、ただ勝れたるに、まさにこの名を立つ。世間の言に光を発するを日と名づくるも、蛍燭等にもまた日の名を得るに非ざるが如し。静慮は如何ぞ独り名づけて勝となすや、諸の等持の内にただこれのみ支を摂す。止観均行にして最もよく審慮し、現法楽住及び楽通行の名を得るが故に、この等持を独り静慮と名づく」と云えり。これに依るに色界の四禅はよく尋伺喜楽等の諸の静慮支を摂し、止(奢摩他)と観(毘鉢舎那)と均行して最もよく審慮するが故に、特に立てて四静慮と名づくるものなるを知るべし。就中、四禅の別を生ずることはその静慮支に不同あるに由るなり。「倶舎論巻28」に、「もし一境性はこれ静慮の体ならば、何の相に依りて初二三四を立つるや。伺と喜と楽とを具するを建立して初となす、これに由りてすでにまた尋を具するの義を明かす。必ず俱行するが故なり、煙と火との如し。伺に喜楽あるも而も尋と倶ならざるには非ず。漸に前の支を離るるに二三四を立つ。伺を離れて二あると、二を離れて楽のみあると、具さに三種を離るるとにして、その次第の如し。故に一境性を分ちて四種となす」と云える即ちこれなり。これを詳言せば初禅に尋と伺と喜と楽と心一境性との五支を摂し、二禅に内等浄と喜と楽と心一境性との四支を摂し、三禅に行捨と正念と正慧と受楽と心一境性との五支を摂し、四禅に行捨と念清浄と非苦楽受と心一境性との四支を摂し、総じて十八支あり。ただし実支の体はただ十一種にして、即ち初禅の五支と、二禅の内等浄と、三禅の浄と念と慧及び楽の四と、四禅の捨受となり。この中、初禅の尋と伺と喜と楽と心一境性の五支を摂すとは、静慮の体は心一境性即ち三摩地なるが故に、四静慮共に皆これを以ってその自性とす。尋伺は旧訳に覚観と翻ず、即ち心の麁分別の性を尋または覚と名づけ、心の細分別の性を伺または観と名づく。初禅にはなお尋伺の二ありて未だ麁細の分別を離れざるが故に、これを有尋有伺または有覚有観と称す。喜楽の二は、初禅は欲界の悪を離れて心に喜受、身に楽受を観ずることを説けるものにして、これを離生喜楽と名づくるなり。二禅に内等浄と喜と楽と心一境性との四支を摂すとは、心一境性は上に述ぶるが如く二禅の自性支なり。内等浄とは、二禅はすでに初禅の尋伺塵濁の法を離れて内の信相明浄なるが故に内等浄と名づく。即ち無尋無伺無覚無観なり。喜楽とは、この定に依りて勝れたる喜楽を生ずることを説けるものにして、これを定生喜楽と名づくるなり。三禅に行捨と正念と正慧と受楽と心一境性との五支を摂すとは、心一境性は前に述ぶる如く静慮の自性なり。行捨とは、三禅は前の軽安を捨して不苦不楽に住するを云い、正念正慧とは正念正知に住して自地の喜楽に耽らず、進んで上地の勝法を欣ぶを云い、受楽とは二禅の喜楽を離るるもなお自地の妙楽あるを云う。故にこれを離喜妙楽地と称するなり。四禅に行捨と念清浄と非苦楽受と心一境性との四支を摂すとは、心一境性は前の如く静慮の自性なり。行捨とは四禅はまた三禅に同じく喜楽を捨するを云い、念清浄とは捨念極善清浄にしてその相顕了なるを云い、非苦楽受とは更に三禅の楽を離れて平等非苦非楽に住するを云う。故にこれを捨念清浄と称するなり。「大乗阿毘達磨雑集論巻9」には静慮支を三種に分類し、初禅五支の中、尋と伺とを対治支、喜と楽とを利益支、心一境性を自性支とし、二禅四支の中、内等浄を対治支、喜と楽とを利益支、心一境性を自性支とし、三禅五支の中、捨と正念と正知とを対治支、楽を利益支、心一境性を自性支とし、四禅四支の中、捨清浄と念清浄とを対治支、不苦楽受を利益支、心一境性を自性支となせり。以って支の義用を見るべし。また「顕揚聖教論巻19」には四静慮に依りて対治せらるる障を説き、初禅は貪恚害尋と苦と憂と犯戒及び散乱の五障を治し、二禅は初静慮の貪と尋伺と苦と掉及び定下劣性の五障を治し、三禅は第二静慮の貪と喜と踊躍及び定下劣性の四障を治し、四禅は入出息と第三静慮の貪と楽と楽作意と定下劣性との五障を治す」と云えり。これを要するに欲愛を遠離し、心寂静にしてよく審慮し、尋伺ありて喜楽の情態に住するを初禅とし、尋伺を離れ、信相明浄にして喜楽の情態に在るを二禅とし、喜楽を離れ、正念正知にして自地の妙楽に住するを三禅とし、身心の楽を離脱し、不苦不楽に住して極善清浄なるを名づけて四禅となすなり。またこの四禅の入門となる定を近分定と称し、これに対し四禅を根本定と名づく。就中、初禅の近分たる未至定は根本定に同じく尋伺と相応するが故に有尋有伺なり。二禅以上の近分はまた根本定に同じく共に尋伺なきが故に無尋無伺なり。大梵の因たる中間定は初禅に勝るるも、なお二禅に及ばず、尋なきも伺あるが故に無尋唯伺なり。またこの中、未至と近分の浄等至と根本の無漏等至とはよく諸惑を断ずるも、中間定には(味等の三等至あるも)断惑の義なし。また下の初二三静慮には尋と伺と苦と楽と憂と喜と入出息との八災患あるが故にこれを有動定と名づけ、これに対し第四静慮は八災患の所動に非ざるが故に不動定と名づく。また初禅には発業と相応する尋伺あるが故によく見聞触し、また語業を起すことあるも、二禅以上は尋伺なきが故に言語等なし。もし語等を起さんと欲する時は下地の識を借るなり。これを借起識または借識と名づく。またこの四禅は四無量心等の依地となる。即ち四無量心に就いてこれを言わば、喜無量心は喜受の摂なるが故に初二静慮に依り、余の三無量心は総じて六地に依りて瞋害等の四障を離る。また八解脱に就いて言わば、初の二は初二静慮と未至及び中間に依りて得し、第三の浄解脱は第四静慮に依りて得し、余は四無色と滅尽定とに依る。八勝処に就いて言わば、初の四勝処は初二静慮に依り、後の四は第四静慮に依る。総じて四禅は各地に於いて惑の能対治の道となると共に、また余の諸定の依地となるなり。按ずるに禅定は印度宗教史を通じて各時代に見る所の重要なる修行法の一にして、仏陀もまたこれを以って最も主要なる行法となし、成道及び涅槃に際しても共に四禅の法に依られたり。されど禅定を分類することは諸ウパニシャットの未だ説かざる所にして、恐らく仏陀時代に至りて唱えられたるものなるべし。「過去現在因果経巻3」等に、仏陀成道以前阿羅邏仙人の処に至りて四禅の法を受けたりというに依れば、当時この法は外道の間に行われたるものなるを知るべきが如し。また色界四禅天はこの四禅を修する者の生ずべき処とせられ、四禅を定静慮と名づくるに対して、彼の諸天を生静慮と称す。恐らく四禅諸天の建立は四禅説成立の結果として、その後に至り更に唱道せられたるものなるべし。また「長阿含経巻4遊行経、巻6転輪聖王修行経、巻12清浄経、同自歓喜経、巻13阿摩昼経」、「中阿含巻1城喩経、巻42分別観法経、巻56晡利多経」、「仏本行集経巻22」、「仏所行讃巻3」、「集異門足論巻6」、「品類足論巻7」、「法蘊足論巻6、巻7」、「雑阿毘曇心論巻7」「甘露味論巻下」、「大毘婆沙論巻80至巻86、巻161至165」、「大智度論巻17」、「瑜伽師地論巻11、巻12」、「倶舎論巻29」、「花葉聖教論巻2」、「順正理論巻77」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻38」、「出三蔵記集巻6」、「法界次第初門巻上之下」、「大乗法苑義林章巻3末」、「倶舎論光記巻28、巻29」等に出づ。<(望)
見諦道(けんたいどう):無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位を云う。『大智度論巻7下注:見道』参照。
見道(けんどう):梵語darZana-maargaの訳。又見諦、見道、見諦道と称す。修行の階位にして、修道、無学道と合わせて三道と称す。即ち無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位なり。見道以前を凡夫と無し、見道に入りて以後を則ち聖者と為す。その次、見道の後、更に具体の自相に対して反復して加行し、以って修習する位は即ちこれ修道なり、見道と合わせて有学道と称す。これに相対する無学道はまた無学位、無学果、無学地と作し、意はすでに究竟の最高悟境に入り、而もすでに学ぶ所無きに達する位なり。小乗に依れば、三賢、四善根等の準備的修行を修むるを以って始と為し、よく無漏智を生じて見道に趣入す。大乗は則ち初地を以って見道に入ると為し、故に菩薩の初地を称して見道と為し、第二地以上を修道と為し、第十地の仏果に与るに至りてまさに無学道と称すべし。また「倶舎論巻23」、「大毘婆沙論巻3、巻54、巻75」、「成実論巻1、巻15」、「雑阿毘曇心論巻5」、「阿毘達磨順正理論巻73」、「成唯識論巻6、巻9」、「瑜伽師地論巻55」、「顕揚聖教論巻17」、「大乗阿毘達磨雑集論巻9」等に出づ。<(佛)『大智度論巻3(下)注:三道』参照。
阿那含(あなごん):梵語anaagaaminの音訳にして、不還と意訳す。即ち小乗四果の中の第三果。この生をおえてまた欲界の生を受けざる位。『大智度論巻2(上):四向、四果』参照。
十八心(じゅうはっしん):即ち九無間道、並びに九解脱道の総称なり。三界九地の修惑は、各地に九品の惑あれば、これを断ずる無間道、解脱道も、また各九種あり、これを九無間道、九解脱道と称す。『大智度論巻12(上)注:九無間、九解脱、九品惑』参照。
八生住処(はちしょうじゅうしょ):第四禅中の八の生処の意。即ち無曇、福生、広果、無煩、無熱、善現、善見、色究竟等の諸生処を云う。『大智度論巻7下注:第四禅』参照。
背捨(はいしゃ):八種の定力に由りて色貪等の心を棄背することを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
勝処(しょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
一切入(いっさいにゅう):勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周遍して間隙なしと観ずるを云う。『大智度論巻十一上注:十遍処』参照。 |
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復次初禪火所燒。二禪水所及。三禪風所至。四禪無此三患。無出入息捨念清淨。 |
復た次ぎに、初禅は、火の焼く所、二禅は、水の及ぼす所、三禅は、風の至る所なるも、四禅には、此の三の患無く、出入息無く、念を捨てて清浄なり。 |
復た次ぎに、
『初禅』は、
『火』の、
『焼く!』所、
『二禅』は、
『水』の、
『及ぼす!』所、
『三禅』は、
『風』の、
『至る!』所であるが、
『四禅』には、
此の、
『三種』の、
『患(わずらい)』が、
『無く!』、
『出、入』する!、
『息』も、
『無く!』、
『念』を、
『捨てて!』、
『清浄である!』。
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参考:『鞞婆沙論巻9』:『或曰。念離內外嬈亂故。初禪內有嬈亂覺觀如火。如此內有嬈亂。外嬈亂亦及火所燒。二禪內有嬈亂者喜如水。如此內嬈亂。外嬈亂亦及水所漬溺。三禪內有嬈亂者。出息入息如刀風。如此內嬈亂。外嬈亂亦及風所吹。四禪內無嬈亂。如此內無嬈亂。外嬈亂亦不及。是謂念離內外嬈亂故。』 |
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以是故三昧王三昧。應在第四禪中。如好寶物置之好藏。 |
是を以っての故に、三昧王三昧は、応に第四禅中に在るべきこと、好き宝物は、之を好き蔵に置くが如し。 |
是の故に、
『三昧王三昧』は、
『第四禅』中に、
『在るべき!』であり、
譬えば、
『好い!』、
『宝物』は、
『好い!』、
『蔵』に、
『置かれるようなものである!』。
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更有人言。佛三昧誰能知其相。一切諸佛法。一相無相無量無數不可思議。諸餘三昧尚不可量不可數不可思議。何況三昧王三昧。 |
更に有る人の言わく、『仏の三昧を、誰か能く、其の相を知らん。一切の諸仏の法は、一相、無相、無量無数不可思議なり。諸余の三昧すら、尚お不可量、不可数、不可思議なり、何に況んや、三昧王三昧をや。 |
更に、
有る人は、こう言っている、――
『仏』の、
『三昧』は、
誰が、
一切の、
諸の、
『仏』の、
『法』は、
『一相』であり!、
『無相』であり!、
『無量、無数、不可思議』である!。
諸の、
『余の三昧』すら、
尚お、
『不可量、不可数、不可思議』である!、
況して、
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如此三昧唯佛能知。如佛神足持戒尚不可知。何況三昧王三昧。 |
此の三昧の如きは、唯だ仏のみ能く知りたもう。仏の神足、持戒の如きすら、尚お、知るべからず。何に況んや、三昧王三昧をや。』と。 |
此の、
例えば、
『仏』の、
『神足』や、
『持戒』すら、
尚お、
『知ることができない!』のであり、
況して、
『三昧王三昧』などは、
『尚更であろう!』と。
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復次三昧王三昧諸一切三昧皆入其中。故名三昧王三昧。譬如閻浮提眾川萬流皆入大海。亦如一切民人皆屬國王。 |
復た次ぎに、三昧王三昧に、諸の一切の三昧は、皆、其の中に入るが故に、三昧王三昧と名づく。譬えば閻浮提の衆川、万流の、皆、大海に入るが如し。亦た一切の民人の、皆、国王に属するが如し。 |
復た次ぎに、
『三昧王三昧』は、
一切の、
諸の、
『三昧』が、
皆、
其の中に、
『入る!』ので、
故に、
『三昧王三昧』と、
『称する!』。
譬えば、
『閻浮提』の、
『衆川・万流』は、
皆、
『大海』に、
『入り!』、
亦た、
一切の、
『民、人』は、
皆、
『国王』に、
『属するようなものである!』。
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問曰。佛一切智無所不知。何以故入此三昧王三昧。然後能知。 |
問うて曰く、仏の一切智は、知らざる所無し。何を以っての故にか、此の三昧王三昧に入りて、然る後に能く知る。 |
問い、
『仏』の、
『一切智』は、
『知らない!』所が、
『無いのです!』が、
何故、
此の、
『三昧王三昧』に、
『入って!』、
その後に、
『知る!』ことが、
『出来るのですか?』
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答曰。欲明智慧從因緣生故。止外道六師輩言我等智慧一切時常有常知故。以是故言佛入三昧王三昧故知。不入則不知。 |
答えて曰く、智慧の因縁より生ずることを明さんと欲したもうが故なり。外道の六師の輩の、『我等が智慧は、一切の時に常に有り、常に知る』と言えるを、止めんが故に、是を以っての故に、『仏は、三昧王三昧に入るが故に知り、入らざれば、則ち知らず。』と言えり。 |
答え、
『智慧』は、
『因縁』より、
『生じる!』ことを、
『明そう!』と、
『思われた!』からであり、
『外道の六師の輩』が、
我等の、
『智慧』は、
『一切の!』時に、
『常に有り!』、
『常に知る!』と、
『言っている!』のを、
『止めよう!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
こう言われたのである、――
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入る!』が故に、
『知る!』のであるから、
『三昧王三昧』に、
『入らない!』時には、
『知らない!』、と。
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問曰。若如是者佛力減劣。 |
問うて曰く、若し是の如くんば、仏の力は、減劣ならん。 |
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答曰。入是三昧王三昧時不以為難。應念即得。非如聲聞辟支佛諸小菩薩方便求入。 |
答えて曰く、是の三昧王三昧に入る時、以って難しと為さず、念に応じて、即ち得。声聞、辟支仏、諸の小菩薩の方便して入るを求むるが如きに非ず。 |
答え、
是の、
『三昧王三昧』に、
『入る!』時、
『難しい!』とは、
『思われない!』のであり、
『念ずれば!』、
『即時に!』、
『得られる!』のであるから、
『声聞、辟支仏、諸の小菩薩』が、
『入ろう!』と、
『方便して!』、
『求める!』のとは、
『違うである!』。
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復次入是三昧王三昧中。令六神通通徹十方無限無量。 |
復た次ぎに、是の三昧王三昧中に入り、六神通をして、十方の無限無量に通徹せしむ。 |
復た次ぎに、
是の、
『三昧王三昧』中に入って、
『六神通』を、
『十方』の、
『無限』、
『無量』の、
『世界』に、
『通徹させる!』のである。
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復次佛入三昧王三昧。種種變化現大神力。若不入三昧王三昧而現神力者。有人心念。佛用幻力咒術力。或是大力龍神力。或是天非是人。 |
復た次ぎに、仏は、三昧王三昧に入り、種種に変化して、大神力を現したもう。若し、三昧王三昧に入らずして、神力を現したまわば、有る人は、心に、『仏は幻の力、呪術の力を用いたもう。或いは是れ大力の龍神の力なり。或いは是れ天にして、是れ人には非ざるなり。』と。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『三昧王三昧』に入り、
種種に、
『変化して!』、
『大神力』を、
『現される!』のである。
若し、
『三昧王三昧』に、
『入らずに!』、
『神力』を、
『現された!』ならば、
有る人は、
心に、こう念じるだろう、――
『仏』は、
『幻』か、
『呪術』の、
『力』を、
『用いられている!』、
或いは、
或いは、
『仏』は、
『天であって!』、
『人ではないのだろうか?』、と。
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何以故。一身出無量身。種種光明變化故。謂為非人。斷此疑故佛入三昧王三昧。 |
何を以っての故に、一身より、無量の身、種種の光明を出して、変化するが故に謂いて、『人に非ず』と為せばなり。此の疑を断ぜんが故に、仏は三昧王三昧に入りたもう。 |
何故ならば、
『一身』より、
『無量の身』や、
『種種の光明』を、
『出して!』、
『変化させる!』が故に、
謂って、
『人ではない!』と、
『思う!』からであり、
此の、
『疑』を、
『断とうとする!』が故に、
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入られるである!』。
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復次佛若入餘三昧中。諸天聲聞辟支佛或能測知。雖言佛神力大而猶可知。敬心不重。以是故入三昧王三昧中。一切諸眾聖乃至十住菩薩不能測知。不知佛心何所依何所緣。以是故佛入三昧王三昧。 |
復た次ぎに、仏が、若し余の三昧中に入りたまいて諸天、声聞、辟支仏も、或いは能く測知せば、仏の神力は大なりと言うと雖も、尚お知るべくして、敬心は重からざらん、是を以っての故に、三昧王三昧中に入りたもう。一切の諸の衆聖、乃至十住の菩薩も、測知する能わず、仏心は、何所にか依り、何所をか縁ずるを知らず、是を以っての故に、仏は三昧王三昧に入りたもう。 |
復た次ぎに、
『仏』が、
若し、
『余の三昧』中に、
『入られた!』ならば、
諸の、
『天』や、
『声聞』、
『辟支仏』も、
或いは、
『測ったり!』、
『知ることができる!』だろう。
『仏』の、
『神力』が、
『大である!』と、
『言っても!』、
猶お、
『他』に、
『知られる!』ようでは、
『敬う!』、
『心』も、
『重いはずがない!』。
是の故に、
『仏』が、
一切の、
諸の、
『衆聖、乃至十住の菩薩』には、
『測ったり!』、
『知ることができない!』し、
『仏』の、
『心』は、
『何に!』、
『依るのか?』、
『心』は、
『何を!』、
『縁じるのか?』も、
『知ることができない!』、
是の故に、
『仏』は、
『三昧王三昧』に、
『入られる!』のである。
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測知(しきち):はかりしる。
敬心(きょうしん):うやまうこころ。
十住(じゅうじゅう):又十地とも云う。仏と同等の菩薩の位。『大智度論巻4(下)注:三乗共十地』参照。
所依(しょえ):梵語aazrayaの訳。依託せらるるものの意。即ち法の生起する為に親しくその所託となるものを云う。「成唯識論巻4」に、「諸の心心所は皆有所依なり。然るに彼の所依に総じて三種あり、一に因縁依は謂わく自の種子なり。諸の有為法は皆この依に託す、自の因縁を離れては必ず生ぜざるが故なり。二に増上縁依は謂わく内の六処なり。諸の心心所は皆この依に託す、俱有根を離れては必ず転ぜざるが故なり。三に等無間縁依とは謂わく前滅の意なり。諸の心心所は皆この依に託す、開導根を離れては必ず起こらざるが故なり。ただ心心所のみ三の所依を具し、有所依と名づく。所余の法には非ず」と云えるこれなり。これ法の所依に総じて三種あることを明し、就中、心心所法のみただこの三種を具するが故に、即ち有所依と名づくることを説けるものなり。この中、因縁依とはまた種子依と名づく。諸の有為法の生ずる因となるものにして、即ち諸法各自の種子を云い、増上縁依とはまた俱有依と名づく、心心所法の転ずる所依となるものにして、即ち内の六処を云い、等無間縁依とはまた開導依と名づく、心心所法の現起する所依となるものにして、即ち前滅の意を云うなり。ただし四縁の中、ただ因縁等の三縁を以って所依の体とし、所縁縁を挙げざる理由に関し、「成唯識論掌中枢要巻下本」に、「何故に四縁の三を所依と名づけ、所縁縁の体を所依と名づけざるや、勝れたるものを依と名づく、勢相親近するなり。所縁縁は疎なり、この故に立てず。因は則ち是なるべきも依の義は即ち非なり」と云えり。これ所縁縁は疎なるが故に、立てて所依となさざることを明にせるなり。また前引「成唯識論巻4」の連文に諸識の俱有依を明せる中、有義は前説は皆理に応ぜず、未だ所依と依との別を了せざるが故なり。依は謂わく一切の有生滅の法は、因に杖り縁に託して而も生じ住することを得。諸の所杖託を皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。もし法の決定し、境を有し、主と為り、心心所をして自の所縁を取らしむるは乃ちこれ所依にして、即ち内の六処なり。余は有境と定と為主とに非ざるが故なり。これただ王の如し。臣等の如きには非ず。故に諸の聖教にはただ心心所のみを有所依と名づく。色等の法には非ず、所縁なきが故なり。ただ心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心の所依と為すとは説かず。彼は主に非ざるが故なり。然るに有る処に依を所依と為し、或は所依を依と為すと説くは、皆随宜の仮説なりと云えり。これ依と所依とを峻別し、一切有生滅の法の所杖託たる因縁等を依と名づけ、ただ諸識の俱有依に就き、その所杖託となるものを所依と名づくべしとなすの説なり。この中、決定とは必ずこれに依らざれば生ずることなきを云い、境を有すとは四大及び種子等を簡別せるものにして、即ち必ず所取の境を有すべきを云い、主となるとは心所法を簡別せるものにして、即ち自在力ありて余法をして生ぜしむべきものなるを云い、心心所をして自の所縁を取らしむとは、所依の体に上の三義を具するが故に、能依の心心所法をしてよく自の所縁を取らしむるを云う。即ち内の六処はこの四義を具するが故に、通じて諸八識の俱有所依の体たることを得るを明にするの意なり。ただし諸経論には単に広く物の依止となるものを所依と名づくるの例少なからず。「瑜伽師地論巻99」に梵行者の安住すべき所依として、村田所依、居処所依、補特伽羅所依、諸衣服等資具所依、威儀所依の五種を挙げ、「顕揚聖教論巻2」に行者の依準すべきものに、法、義、了義、及び智の四種あることを明し、また諸宗の教旨に正所依傍所依の経論等ありとなせる如き即ち皆その例なり。また「大毘婆沙論巻127」、「雑阿毘曇心論巻2」、「倶舎論巻4、巻6」、「瑜伽師地論巻1、巻55、巻99」、「顕揚聖教論巻19」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻4末」等に出づ。<(望)
所縁(しょえん):心の縁ずる対象。色等の六境をいう。 |
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復次佛有時放大光明現大神力。如生時得道時初轉法輪時諸天聖人大集會時若破外道時。皆放大光明。今欲現其殊特故。放大光明令十方一切天人眾生及諸阿羅漢辟支佛菩薩皆得見知以是故入三昧王三昧。 |
復た次ぎに、仏は有る時には、大光明を放って、大神力を現したまう。生まるる時、道を得たる時、初めて法輪を転ずる時、諸の天、聖人の大いに集会する時、若しくは外道を破る時に、皆大光明を放ちたもうが如し。今、其の殊特を現さんと欲するが故に、大光明を放ちて、十方の一切の天、人の衆生、及び諸の阿羅漢、辟支仏、菩薩をして、皆、見知するを得しめたまわんと、是を以っての故に、三昧王三昧に入りたもう。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
有るいは時に、
『大光明』を放って、
『大神力』を、
『現される!』。
譬えば、
『生まれた!』時、
『道を得た!』時、
『初めて法輪を転じた!』時、
『諸の天、聖人が大いに集会した!』時、
若しくは、
『外道を破った!』時などには、
皆、
『大光明』を、
『放たれる!』。
今も、
其のような、
『殊特の事』を、
『現そう!』と、
『思われた!』が故に、
『大光明』を放って、
『十方』の、
『一切の』、
『天、人の衆生』と、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏、菩薩』に、
皆、
『見知する!』ことを、
『得させられた!』。
是の故に、
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復次光明神力有下中上。咒術幻術能作光明變化下也。諸天龍神報得光明神力中也。入諸三昧。以今世功德心力。放大光明現大神力上也。以是故佛入三昧王三昧。 |
復た次ぎに、光明、神力には下、中、上有り。呪術、幻術の、能く光明、変化を作すは、下なり。諸天、龍神の報得の光明、神力は、中なり。諸の三昧に入り、今世の功徳の心力を以って、大光明を放ち、大神力を現すは、上なり。是を以っての故に、仏は三昧王三昧に入りたもう。 |
復た次ぎに、
『光明』や、
『神力( 変化)』には、
『下、中、上』が、
『有る!』。
『呪術』や、
『幻術』で、
『諸の天、龍』が、
『諸の三昧』に入り、
『今世』の、
『功徳』の、
『心力』が、
『大光明』や、
『大神力』を、
『放ったり!』、
『現したり!』するのは、
『上である!』。
是の故に、
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問曰。如諸三昧各各相。云何一切三昧悉入其中。 |
問うて曰く、諸の三昧の如きは、各各の相あり。云何が、一切の三昧の、悉く、其の中に入る。 |
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答曰。得是三昧王三昧時。一切三昧悉得故。言悉入其中。是三昧力故。一切諸三昧皆得無量無數不可思議。以是故名為入。 |
答えて曰く、是の三昧王三昧を得る時、一切の三昧を悉く得るが故に、悉く其の中に入ると言い、是の三昧の力の故に、一切の諸の三昧は、皆、無量無数不可思議を得。是を以っての故に、名づけて入ると為す。 |
答え、
是の、
『三昧王三昧』を、
『得る!』時には、
一切の、
『三昧』を、
『悉く!』、
『得る!』が故に、
其の中に、
『悉く!』、
『入る!』と、
『言う!』のであり、
是の、
『三昧』の、
『力』の故に、
一切の、
諸の、
『三昧』が、
皆、
『無量、無数、不可思議』の、
『相』を、
『得る!』ので、
是の故に、
『入る!』と、
『称する!』。
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復次入是三昧王三昧中。一切三昧欲入即入。 |
復た次ぎに、是の三昧王三昧中に入れば、一切の三昧は、入らんと欲すれば、即ち入る。 |
復た次ぎに、
是の、
一切の、
『三昧』には、
『入ろう!』と、
『思う!』だけで、
『即座に!』、
『入ることができる!』。
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復次入是三昧王三昧。能觀一切三昧相。如山上觀下。 |
復た次ぎに、是の三昧王三昧に入れば、能く一切の三昧の相を観ること、山の上より、下を観るが如し。 |
復た次ぎに、
是の、
一切の、
『三昧』の、
『相』を、
『観ることができる!』、
譬えば、
『山の上』より、
『下』を、
『観るようなものである!』。
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復次佛入是三昧王三昧中。能觀一切十方世界。亦能觀一切眾生。以是故入三昧王三昧 |
復た次ぎに、仏は、是の三昧王三昧中に入りて、能く、一切の十方の世界を観、亦た能く、一切の衆生を観たもう。是を以っての故に、三昧王三昧に入る。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
是の、
『三昧王三昧』中に、
『入る!』と、
一切の、
十方の、
『世界』を、
『観ることができ!』、
一切の、
『衆生』を、
『観ることができる!』ので、
是の故に、
『三昧王三昧』に、
『入られるのである!』。
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