巻第七(上)
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大智度初品中佛土願釋論第十三(卷第七)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


願うて、無量の諸仏の世界を受ける

【經】願受無量諸佛世界 願うて、無量の諸の仏世界を受く。
願って、
無量の、
諸の、
『仏世界』を、
『受ける(もらい受ける)!』。
  仏世界(ぶっせかい):梵語buddha- kzetra、或いはbuddha- lokadhaatu等の訳。仏の領域、或いは仏の世界等の義。
【論】諸菩薩見諸佛世界無量嚴淨發種種願。有佛世界都無眾苦。乃至無三惡之名者。菩薩見已自發願言。我作佛時世界無眾苦。乃至無三惡之名亦當如是。 諸の菩薩は、諸の仏世界の無量に厳浄なるを見て、種種の願を発す。有る仏世界は、都べて衆苦無く、乃至三悪の名すら無ければ、菩薩は見已りて、自ら願を発して言わく、『我が仏と作る時には、世界に衆苦無く、乃至三悪の名すら無きこと、亦た当に是の如くなるべし。』と。
諸の、
『菩薩』は、
諸の、
『仏世界』が、
無量に、
『厳浄である!』ことを、
『見て!』、
種種の、
『願』を、
『発(おこ)す!』のである、――
有る、
『仏世界』には、
都()べて、
『衆苦』が、
『無く!』、
乃至、
『三悪』は、
其()の、
『名』すら、
『無かった!』ので、
『菩薩』は、
其の、
『世界』を、
『見る!』と、
『願』を発して、こう言った、――
わたしが、
『仏』と、
『作った!』時、
『世界』には、
『多く!』の、
『苦』が、
『無いだろう!』、
『三悪』は、
其の、
『名』すら、
『有ってはならぬ!』、
当然、
是の、
『世界』と、
『同じであるべきだ!』と。
  厳浄(ごんじょう):梵語upazobhita(装飾された)、parizuddha(積み荷をおろした)、parizodhana(掃除された)等の訳。厳かに装飾されて、清浄になったの意。
  (と):すべて。総。
  衆苦(しゅく):あまたの苦しみ。多くの苦しみ。
  乃至(ないし):大より小に至るその中間を省略する辞。
  三悪(さんあく):三種の悪道の意。又三悪道、三悪趣とも云う。即ち地獄、餓鬼、畜生の総称なり。
有佛世界七寶莊嚴。晝夜常有清淨光明無有日月。便發願言。我作佛時世界常有嚴淨光明亦當如是。 有る仏世界は、七宝荘厳して、昼夜、常に清浄の光明有れば、日月有ること無し。便ち願を発して言わく、『我が仏と作る時には、世界には常に厳浄の光明あること、亦た当に是の如くなるべし。』と。
有る、
『仏世界』は、
『七宝』が、
『荘厳していた!』ので、
『昼夜』に、
常に、
『清浄』の、
『光明』が、
『有り!』、
『日月』が、
『無かった!』ので、
そこで、
『願』を発して、こう言った、――
わたしが、
『仏』と、
『作った!』時、
『世界』には、
常に、
『厳浄』の、
『光明』が、
『無くてはならぬ!』、
当然、
是の、
『世界』と、
『同じであるべきだ!』と。
  七宝(しっぽう):梵語septa ratnaaniの訳にして、即ち七種の宝の意なり。(一)世間に貴ぶ七種の宝玉をいう。一に金(梵suvarNa)、二に銀(梵ruupya)、三に琉璃(梵vaiduurya)、四に玻璃(梵sphaTika)、五に硨磲(梵musaara- galva)、六に赤珠(梵rohita- mukta)、七に瑪瑙(梵azmagarbha)なり。「称讃浄土仏摂受経」に、「七宝と言うは一には金、二には銀、三には吠琉璃、四には頗胝迦、五には赤真珠、六には阿湿摩揭拉婆宝、七には牟婆落揭拉婆宝なり」と云い、また「長阿含経巻18閻浮提洲品」、「大楼炭経巻1閻浮利品」、「起世本因経巻1閻浮洲品」、「阿弥陀経」、及び「大智度論巻10」等ににも皆この七を出せり。また「法華経受記品」には「金、銀、琉璃、硨磲、瑪瑙、真珠、玫瑰の七宝合成す」と云い、「無量寿経巻上」に、「その国土は自然に七宝の金、銀、琉璃、珊瑚、琥珀、瑪瑙、硨磲もて合成す。(中略)またその国土は七宝の諸樹世界に周満す、金樹、銀樹、琉璃樹、玻璃樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、硨磲樹なり。(中略)また講堂、精舎、宮殿、楼観は皆七宝荘厳して自然に化成す。また真珠、明月摩尼、衆宝を以って交露と為しその上を覆蓋す。内外の左右に諸浴池あり、或は十由旬、或は二十三十乃至百千由旬なり、縦広深浅皆一等にして八功徳水湛然盈満し、清浄香潔にして味は甘露の如し、黄金の池には底に白銀の沙、白銀の池には底に黄金の沙、水精の池には底に琉璃の沙、琉璃の池には底に水精の沙、珊瑚の池には底に琥珀の沙、琥珀の池には底に珊瑚の沙、車璩の池には底に瑪瑙の沙、瑪瑙の池には底に車璩の沙、白玉の池には底に紫金の沙、紫金の池には底に白玉の沙、或は二宝、三宝、乃至七宝、転た共に合成す。(中略)もし食を欲せん時には七宝の応器自然に前に在り、金、銀、琉璃、車璩、瑪瑙、珊瑚、琥珀、明月真珠、かくの如き衆鉢随意に至りて、百味の飲食自然に盈満す」と云えるその例なり。また「大品般若経巻7常啼品」にも七宝の名とは別に、或は黄金、白銀、硨磲、瑪瑙、珊瑚、琉璃、玻璃、紅色真珠、或は金、銀、琉璃、硨磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、玻璃、真珠等の七種、八種、九種を挙ぐ。(二)転輪聖王の具有する七種の宝をいう。即ち七種王宝(梵cakravartinaaM septa ratnaani)なり。一に輪宝(梵cakra-ratna)、二に象宝(梵hasti- ratna)、三に馬宝(梵azva- ratna)、四に珠宝(梵maNi- ratna)、五に女宝(梵strii- ratna)、六に居士宝(梵gRhapati- ratna)、七に主兵臣宝(梵pariNaayaka- ratna)なり。「長阿含経巻3」に、「何等をか七宝と謂う。一に金輪宝、二に白象宝、三に紺馬宝、四に神珠宝、五に玉女宝、六に居士宝、七に主兵宝なり」と云い、「旧華厳経巻43」に、「波羅蜜は金輪、諸通を象宝と為し、神足を馬宝と為し、浄慧を無上珠、妙行を女宝と為し、四摂宝は蔵臣、方便は主兵宝なり」と云えるこれなり。また「長阿含経巻1、巻6転輪聖王修行経、巻7、巻13、巻18」、「中阿含巻11七宝経、巻13説本品、巻30教曇彌経、巻40阿蘭那経」、「増一阿含経巻48」、「大楼炭経巻1、巻3」、「起世経巻2」、「仏開解梵志阿颰経」、「起世因本経巻1、巻3」、「輪王七宝経」、「頂生王故事経」、「弥勒大成仏経」、「大宝積経巻14」、「大薩遮尼乾子経巻3」等に出づ。<(望)
有佛世界一切眾生皆行十善有大智慧。衣被飲食應念而至。便發願言。我作佛時世界中眾生衣被飲食亦當如是。 有る仏世界の一切の衆生は、皆、十善を行いて大智慧有れば、衣被、飲食は、念に応じて至る。便ち願を発して言わく、『我が仏と作る時には、世界中の衆生の衣服、飲食は、亦た当に是の如くなるべし。』と。
有る、
『仏世界』の、
一切の、
『衆生』は、
『十善』を行って、
『大智慧』を、
『有していた!』ので、
『衣服、飲食』は、
『念』に、
『応じて!』、
『到来した!』。
そこで、
『願』を発して、こう言った、――
わたしが、
『仏』と、
『作った!』時には、
『世界』中の、
『衆生』の、
『衣服、飲食』も、
亦た、
是の、
『世界』と、
『同じであるべきだ!』と。
  衣被(えひ):きもの。衣服。
  (し):いたる。くる。到来する。
有佛世界純諸菩薩如佛色身三十二相光明徹照。乃至無有聲聞辟支佛名亦無女人。一切皆行深妙佛道。遊至十方教化一切。便發願言。我作佛時世界中眾生亦當如是。 有る仏世界は純ら諸の菩薩にして、仏の如く色身には三十二相ありて、光明徹照し、乃至声聞、辟支仏の名すら有ること無く、亦た女人も無く、一切は、皆、深妙の仏道を行い、遊びて十方に至り、一切を教化すれば、便ち願を発して言わく、『我れ仏と作る時には、世界中の衆生も、亦た当に是の如くなるべし。』と。
有る、
『仏世界』は、
純(もっぱ)ら、
諸の、
『菩薩』のみで、
『仏』のような!、
『色身』の、
『三十二相』からは、
『光明』が、
『徹照していた!』が、
乃至、
『声聞』や、
『辟支仏』は、
其の、
『名』すら、
『無かった!』し、
亦た、
『女人』も、
『無く!』、
一切は、
皆、
『深妙』の、
『仏道』を、
『行い!』、
『十方』に、
『遊んで!』、
『至る!』と、
『一切』の
『衆生』を、
『教化していた!』ので、
そこで、
『願』を発して、こう言った、――
わたしが、
『仏』と、
『作った!』時には、
『世界』中の、
『衆生』も、
亦た、
是の、
『世界』と、
『同じであるべきだ!』と。
  色身(しきしん):梵語ruupa- kaayaの訳。物質的身体の義。肉身。
  三十二相(さんじゅうにそう):仏のみ有する所の勝れた身体的特徴。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
  光明徹照(こうみょうてっしょう):梵語aalokataaの訳。光明の力が強く、物を徹し照らすの意。
  声聞(しょうもん):梵語舎羅婆迦zraavakaの訳語にして、声を聞く者の意、また弟子とも訳す。二乗の一、三乘の一、縁覚または菩薩に対す。即ち仏の声教を聞きて証悟する出家の弟子をいう。「長阿含経巻1」に、「如来は大智あり、微妙独尊にして止観具足し、最正覚を成ず。群生を愍むが故に世に在りて成道し、四真諦を以って声聞の為に説く」と云い、「雑阿含経巻31」に、「一切の諸衆、如来の声聞衆を最も第一と為す」と云い、「思益梵天所問経巻2難問品」に、「声聞は声に因りて解を得」と云い、「大方等大集経巻3」に、「声聞の人は他に従いて聞くが故に解脱す」と云い、また同巻12に「声聞は声に著するが故に声聞と名づく」と云い、「大乗理趣六波羅蜜多経巻2陀羅尼護持国界品」に、「他に従って正法を説く声を聞き、勝解修行して自ら涅槃を求む、これを声聞と名づく」と云い、「仏地経論巻2」に、「仏の言音を聞きて聖道に入るが故に声聞と名づく」と云い、また「顕揚聖教論巻13」並びに「瑜伽師地論巻82」に、「声聞とは、謂わく他に従って正法の音声を聴聞するが故に声聞と名づく。またよく他をして正法の声を聞かしむるが故に声聞と名づく」と云えるこれなり。これ皆即ち縁覚が無仏の世に出でて無師独悟するに対し、声聞は仏の声教を聞きて入聖得果するものなることを顕すの意なり。また「大乗義章巻17本」に更にその名義を委釈し「声聞の名義は汎く解するに三あり。一には得道の因縁に就きてこれを釈す、如来所説の言教を声と名づけ、声を飡して悟解するが故に声聞という。故に地論(旧華厳経巻24十地品、十地経論巻4)に言わく、他に従って声を聞き、通達するが故に声聞と名づくと。二には所観の法門に就きて以って釈す、地論(十地経論巻4)に説くが如し、わが衆生等はただ名あるが故にこれを説いて声と為す、声に於いて悟解するが故に声聞というと。三には化他の記説に就きて以って釈す、法華(法華経巻2信解品)に説くが如し、仏道の声を以って一切に聞かしむ、故に声聞というと。三の中、前の二はこれ声聞なり。後の一は菩薩にして義に随って以って名づく」と云えり。蓋し声聞は主として仏在世の諸弟子を指せるものにして、四諦の理を観じ、三十七道品を修し、見修二惑を断じて次第に四沙門果を聖得し、また無余涅槃に入らんことを期する者を云うなり。即ち「大智度論巻27」に、「声聞の道に四種あり、苦道、集道、滅道、道道なり。また四沙門果の道あり」と云えるこれなり。また大乗には声聞に種種の別を認め、「大乗入楞伽経巻2」に声聞乗に自証聖智殊勝相(梵pratyaatma- aarya- aadhigama- vizeSa- lakSaNa)と分別執著自性相(梵bhaava- vikalpa- svabhaava- aabhiniveza- lakSaNa)との二種の別あることを説き「云何が自証聖智殊勝相なる。謂わく明に苦、空、無常、無我の諸諦の境界を見て離欲寂滅するが故に、蘊界処のもしは自、もしは共なる外の不壊相に於いて如実に了知するが故に心一境に住す。一境に住しおわれば禅、解脱、三昧の道果を獲て出離することを得、自証聖智の境界の楽に住す。未だ習気及び不思議変易の死を離れず。これを声聞乗の自証聖智境界相と名づく。(中略)云何が分別取著自性相なる。謂わゆる堅湿煖動青黄赤白、かくの如き等の法は作者より生ずるに非ずと知り、然も教理に依りて自共相を見て分別執著す。これを声聞乗の分別執著相と名づく」と云えり。これ声聞は禅、解脱、三昧の道果を獲て自証聖智の境界の楽に住するも、未だ習気及び変易生死を離れず、また外道の作者生等の執を離るるも、なお法執分別の執著あることを指摘せるなり。また「入楞伽経巻4」には声聞に決定寂滅(梵zamaaikaayanamaarga- pratilambhika)と、発菩提願善根忘善根(梵bodhipraNidhaana- aabhyasta- kuzalamuula- saMmuuDha)と、化応化(梵nirmita- nairmaaNika)の三種ありとなせり。就中、決定寂滅は彼本来ただ下劣の種性なるが故に、一向に慈悲薄弱なるが故に、一向に衆苦を怖畏するが故に、諸仏の施設せる種種の勇猛加行方便化導を蒙るといえども、終に道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を証得すること能わざる者をいい、発菩提願善根忘善根は菩提に回向せる菩薩にして、すでに煩悩障を解脱しおわり、もし諸仏等の覚悟を蒙る時は所知障に於いて、その心またまさに解脱を得べきものなるも、彼最初に自らの利益の為に修行加行して煩悩障を脱するに由り、この故に如来は彼を施設して声聞種性と為せる者なり、また化応化とは、諸仏の大衆会を荘厳せんが為に方便して声聞を化作するを云うなり。また同経巻9には退菩薩と増上慢と寂滅との三種の声聞を説き、更に同経巻9に応化(梵nirmita)と願生(梵praMidhaana- ja)と離諸貪癡垢(梵raaga-dveza- visaMyukta)の三種の声聞を出し、「瑜伽師地論巻73」にはまた声聞に変化と誓願と法性の三種の別ありとなせり。就中、瑜伽の三種とは彼の論の「云何が声聞乗を立つるや、謂わく三の因縁の故なり。一に変化の故に、二に誓願の故に、三に法性の故なり。変化の故にとは、謂わく彼彼の所化の勢力に随い、如来は変化の声聞を化作す。誓願の故にとは、謂わく補特伽羅(梵pudgala、旧訳に人、或は衆生といい、新訳には数取趣という)ありて声聞乗に於いてすでに誓願を発す、即ち彼を建立して以って声聞と為す。法性の故にとは、謂わく補特伽羅ありて本性已来慈悲薄弱、諸の苦事に於いて深く怖畏を生ず。この二因に由りて利他の事に於いて深く愛楽せず、この事の為に生死に処せんことを楽うに非ず。彼この法性に安住するに由るが故に立てて声聞と為す。また法性を覚するが故なり。謂わく一切の安立諦の中に於ける多分の修習は、怖畏行に転ず。この因縁に由りて証得円満す」と云えり。ただしかくの如き等は皆大乗経論中に於ける所説にして、即ち大乗の教義に基づく分類に係り、諸部の阿含並びに発智六足等の緒論に於いては、固よりこれ等の別を認めず、ただこの中の決定寂滅の謂わゆる趣寂声聞の一種を以って、即ち声聞と名づくるに過ぎざるなり。また「大宝積経巻88」、「大方等大集経巻12」、「大般若経巻511」、「十住毘婆沙論巻1序品」、「顕揚聖教論巻6、巻16」、「大乗荘厳経論巻1、巻5、巻12」、「梁訳摂大乗論釈巻15」、「大宝積経論巻3」、「十地経論巻4」、「成唯識論巻3」、「大般涅槃経義記巻1上」、「無量寿経疏巻上(慧遠)」等に出づ。<(望)
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語pratyeka- buddha、又辟支伽等に作り、縁覚と訳す。『大智度論巻18(上)注:縁覚』参照。
  参考:『仏説無量寿経巻上』:『佛告阿難。法藏比丘說此頌已。而白佛言。唯然世尊。我發無上正覺之心。願佛為我廣宣經法。我當修行攝取佛國清淨莊嚴無量妙土。令我於世速成正覺。拔諸生死勤苦之本。佛語阿難。時世自在王佛。告法藏比丘。如所修行莊嚴佛土。汝自當知。比丘白佛。斯義弘深非我境界。唯願世尊廣為敷演諸佛如來淨土之行。我聞此已。當如說修行成滿所願。爾時世自在王佛。知其高明志願深廣。即為法藏比丘而說經言。譬如大海。一人斗量經歷劫數。尚可窮底得其妙寶。人有至心精進求道不止會當剋果。何願不得。於是世自在王佛。即為廣說二百一十億諸佛剎土天人之善惡國土之粗妙。應其心願悉現與之。時彼比丘聞佛所說嚴淨國土。皆悉睹見超發無上殊勝之願。其心寂靜志無所著。一切世間無能及者。具足五劫。思惟攝取莊嚴佛國清淨之行。阿難白佛。彼佛國土壽量幾何。佛言。其佛壽命四十二劫。時法藏比丘。攝取二百一十億諸佛妙土清淨之行。如是修已詣彼佛所。稽首禮足遶佛三匝合掌而住。白言世尊。我已攝取莊嚴佛土清淨之行。佛告比丘。汝今可說宜知是時。發起悅可一切大眾。菩薩聞已修行此法。緣致滿足無量大願。比丘白佛。唯垂聽察。如我所願當具說之。設我得佛。國有地獄餓鬼畜生者。不取正覺。設我得佛。國中人天。壽終之後。復更三惡道者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不悉真金色者。不取正覺。設我得佛。國中人天。形色不同有好醜者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不悉識宿命。下至知百千億那由他諸劫事者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不得天眼。下至見百千億那由他諸佛國者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不得天耳。下至聞百千億那由他諸佛所說。不悉受持者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不得見他心智。下至知百千億那由他諸佛國中眾生心念者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不得神足。於一念頃下至不能超過百千億那由他諸佛國者。不取正覺。設我得佛。國中人天。若起想念貪計身者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不住定聚。必至滅度者。不取正覺。設我得佛。光明有能限量。下至不照百千億那由他諸佛國者。不取正覺。設我得佛。壽命有能限量。下至百千億那由他劫者。不取正覺。設我得佛。國中聲聞有能計量。乃至三千大千世界眾生緣覺。於百千劫悉共計挍知其數者。不取正覺。設我得佛。國中人天。壽命無能限量。除其本願脩短自在。若不爾者。不取正覺。設我得佛。國中人天。乃至聞有不善名者。不取正覺。設我得佛。十方世界無量諸佛。不悉諮嗟稱我名者。不取正覺。設我得佛。十方眾生至心信樂。欲生我國乃至十念。若不生者不取正覺。唯除五逆誹謗正法。設我得佛。十方眾生發菩提心修諸功德。至心發願欲生我國。臨壽終時。假令不與大眾圍遶現其人前者。不取正覺。設我得佛。十方眾生聞我名號係念我國殖諸德本。至心迴向欲生我國。不果遂者。不取正覺。設我得佛。國中人天。不悉成滿三十二大人相者。不取正覺。設我得佛。他方佛土諸菩薩眾來生我國。究竟必至一生補處。除其本願自在所化。為眾生故被弘誓鎧。積累德本度脫一切。遊諸佛國修菩薩行。供養十方諸佛如來。開化恒沙無量眾生。使立無上正真之道。超出常倫。諸地之行。現前修習普賢之德。若不爾者不取正覺。設我得佛。國中菩薩。承佛神力供養諸佛。一食之頃不能遍至無量無數億那由他諸佛國者不取正覺。設我得佛。國中菩薩。在諸佛前現其德本。諸所求欲供養之具。若不如意者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩不能演說一切智者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩不得金剛那羅延身者。不取正覺。設我得佛。國中人天。一切萬物嚴淨光麗。形色殊特窮微極妙無能稱量。其諸眾生。乃至逮得天眼。有能明了辨其名數者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩。乃至少功德者。不能知見其道場樹無量光色高四百萬里者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩。若受讀經法諷誦持說。而不得辯才智慧者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩。智慧辯才若可限量者。不取正覺。設我得佛。國土清淨。皆悉照見十方一切無量無數不可思議諸佛世界。猶如明鏡睹其面像。若不爾者。不取正覺。設我得佛。自地以上至于虛空。宮殿樓觀池流華樹。國土所有一切萬物。皆以無量雜寶百千種香而共合成。嚴飾奇妙超諸人天。其香普薰十方世界。菩薩聞者皆修佛行。若不爾者。不取正覺。設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界眾生之類。蒙我光明觸其體者。身心柔軟超過人天。若不爾者。不取正覺。設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界眾生之類。聞我名字。不得菩薩無生法忍諸深總持者。不取正覺。設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界。其有女人聞我名字。歡喜信樂發菩提心厭惡女身。壽終之後復為女像者。不取正覺。設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界諸菩薩眾。聞我名字。壽終之後常修梵行至成佛道。若不爾者。不取正覺。設我得佛。十方無量不可思議諸佛世界諸天人民。聞我名字。五體投地稽首作禮。歡喜信樂修菩薩行。諸天世人莫不致敬。若不爾者。不取正覺。設我得佛。國中人天。欲得衣服隨念即至。如佛所讚應法妙服自然在身。若有裁縫染治浣濯者。不取正覺。設我得佛。國中人天。所受快樂。不如漏盡比丘者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩。隨意欲見十方無量嚴淨佛土。應時如願。於寶樹中皆悉照見。猶如明鏡睹其面像。若不爾者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字至于得佛。諸根缺陋不具足者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字。皆悉逮得清淨解脫三昧。住是三昧一發意頃。供養無量不可思議諸佛世尊。而不失定意。若不爾者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字。壽終之後生尊貴家。若不爾者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字。歡喜踊躍。修菩薩行具足德本。若不爾者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字。皆悉逮得普等三昧。住是三昧至于成佛。常見無量不可思議一切如來。若不爾者。不取正覺。設我得佛。國中菩薩。隨其志願所欲聞法自然得聞。若不爾者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字。不即得至不退轉者。不取正覺。設我得佛。他方國土諸菩薩眾。聞我名字。不即得至第一第二第三法忍。於諸佛法不能即得不退轉者。不取正覺』
如是等無量佛世界種種嚴淨願皆得之。以是故名願受無量諸佛世界。 是の如き等の無量の仏世界の種種の厳浄を、願うて皆、之を得れば、是を以っての故に、願うて無量の諸の仏世界を受くと名づく。
是れ等のような、
無量の、
『仏世界』の、
『種種の!』、
『厳浄』を、
皆、
『得よう!』と、
『願う!』ので、
是の故に、
願って、
無量の、
諸の、
『仏世界』を、
『受ける!』というのである。
問曰。諸菩薩行業清淨自得淨報。何以要須立願然後得之。譬如田家得穀豈復待願。 問うて曰く、諸の菩薩は、行業清浄にして、自ら浄報を得。何を以ってか、要(かな)らず願を立つるを須(ま)って、然る後に之を得る。譬えば、田家の穀を得るに、豈(あ)に復た願を待たんや。
問い、
諸の、
『菩薩』は、
『行業』が、
『清浄』であり、
自ら、
『浄い!』、
『果報』を、
『得る!』はずである。
何故、
要(かなら)ず、
『願』を、
『立てる!』のを、
『須()って!』、
その後、
『果報』を、
『得る!』のですか?
譬えば、
『田家』が、
『穀』を、
『得る!』のに、
いったい、
何うして、
『願』を、
『待たなくてはならない!』のですか?
  行業(ぎょうごう):梵語karmanの訳。業とも訳す。後世の果報を引く行為。『大智度論巻23上注:業』参照。
答曰。作福無願無所摽。立願為導御能有所成。譬如銷金隨師所作金無定也。 答えて曰く、福を作すに、願無くんば、摽する所無し。願を立てて、導御と為せば、能く成ずる所有らん。譬えば、銷金は、師の作す所に随って、金に定まることの無きが如し。
答え、
『福』の、
『業』を、
『作す!』時、
若し、
『願』が無ければ、
『摽する!』所()が、
『無い!』のと同じである。
若し、
『願』を立てて、
『導御(道案内)』とすれば、
『成す!』所を、
『有することもできよう!』。
譬えば、
『溶けた!』、
『金』は、
『工師』の、
『作す!』所に、
『随い!』、
『金』に、
『定まった!』、
『形』が、
『無くなる!』のと同じである。
  (ひょう):たかくあげる。標挙。告示する。標。
  導御(どうぎょ):みちびきてひきいる。道案内。
  (しょう):とかす。溶融。金属をとかすこと。
如佛所說有人修少施福修少戒福不知禪法。聞人中有富樂人心常念著。願樂不捨。命終之後生富樂人中。 仏の説きたもう所の如し、『有る人、少しの施福、少しの戒福を修めて、禅法を知らず、人中に富楽の人有りと聞いて、心に常に念著し、願楽して捨てざれば、命終の後、富楽の人中に生ぜり。
『仏』は、
こう説かれたことがある、――
有る人は、
『少しばかり!』の、
『戒福』と、
『施福』とを、
『修めた!』のみで、
『禅法』を、
『知らなかった!』が、
『人』中には、
『富楽の人』が、
『有る!』と、
『聞き!』、
『心』に、
常に、
『念じて!』、
『著し!』、
『願楽して!』、
『捨てない!』ので、
命終の後に、
『富楽の人』の中に、
『生じた!』。
  施福(せふく):梵語daana- puNyaの訳。幸運をもたらす布施の意。
  戒福(かいふく):梵語ziila- puNya?の訳。幸運をもたらす持戒の意。
  願楽(がんぎょう):梵語prarthanaaの訳。祈願の義。
復有人修少施福修少戒福不知禪法。聞有四天王天處三十三天夜摩天兜率陀天化樂天(專念色欲化來從己)他化自在天。(此天他化色欲與之行欲展轉如是故名他化自在)心常願樂命終之後各生其中。此皆願力所得。 復た有る人は、少しの施福を修め、少しの戒福を修め、禅法を知らず、四天王天処、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天有りと聞き、心に常に願楽すれば、命終の後、各、其の中に生ぜり。』と。此れ皆、願力の得る所なり。
復た、
有る人は、
『少しばかり!』の、
『施福』と、
『戒福』とを、
『修めた!』のみで、
『禅法』を、
『知らなかった!』が、
『四天王天処、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天』が、
『有る!』と、
『聞いて!』、
『心』に、
常に、
『願楽していた!』ので、
命終の後に、
各の、
『天』中に、
『生まれた!』、と。
此れは、
皆、
『願』の、
『力』の、
『得る!』所である。
  参考:『大智度論巻32』:『復次布施時以願因緣故生天上。如經說。有人少行布施持戒不知禪定。是人聞有四天王天心常志願。佛言。是人命終生四天上必有是處。乃至他化自在天亦如是。』
菩薩亦如是。修淨世界願然後得之。以是故知因願受勝果。 菩薩も、亦た是の如く、世界を浄むることを修むるに、願うて然る後に之を得るなり。是を以っての故に知る、願に因りて、勝果を受くと。
『菩薩』も、
是のように、
『世界』を、
『浄めよう!』と、
『修める!』には、
『世界』の、
『浄まる!』ことを、
『願うて!』、
その後に、
『浄まった!』、
『世界』を、
『得る!』のである。
是の故に、
こう知る、――
『願』を、
『因』として、
『勝れた!』、
『果』を、
『受ける!』のだ、と。
復次莊嚴佛世界事大。獨行功德不能成故要須願力。譬如牛力雖能挽車。要須御者能有所至。淨世界願亦復如是。福德如牛願如御者。 復た次ぎに、仏世界を荘厳する事は大なれば、独り功徳を行えば、成ること能わざるが故に、要(かな)らず願力を須(ま)つ。譬えば、牛の力は、能く車を挽(ひ)くと雖も、要らず、御者を須って、能く至る所有るが如し。世界を浄むる願も、亦復た是の如く、福徳は牛の如く、願は御者の如し。
復た次ぎに、
『仏世界』を、
『荘厳する!』、
『事(仕事)』は、
『大である!』ので、
『独り!』で、
『功徳(善行)』を、
『行おう!』とすれば、
則ち、
『成功する!』ことは、
『不可能である!』、
故に、
要(かな)らず、
『願』の、
『力』を、
『須()たなくてはならない!』。
譬えば、
『牛』の、
『力』は、
『車』を、
『挽()くことができる!』としても、
要らず、
『御者』を須って、
『至る!』ことが、
『可能となる!』ように、
『世界』を、
『浄めたい!』と、
『願う!』ことも、
亦た、
是ように、
『福徳』は、
『牛』と、
『同じ!』、
『願』は、
『御者』と、
『同じ!』なのである。
  功徳(くどく):功とは福利の功能、この功能は善行の徳と為すが故に徳という。また徳とは得なり。功を修むるに所得有るが故に功徳という。「大乗義章巻9」に、「福徳と言うは、善く資潤福利の行を能くする人なり、故に名づけて福と為す。福利とはこれその善行の家徳なり、清冷なる等の如きはこれ水の家徳なり。功徳と言うは、功とは功能と謂い、よく資潤福利の功有り、故に名づけて功と為す。この功はこれその善行の家徳なり、名づけて功徳と為す」と云えるこれなり。<(丁)
問曰。若不作願不得福耶。 問うて曰く、若し願を作さざれば、福を得ざるや。
問い、
若し、
『願』を作さなければ、
『福』を、
『得られない!』のですか?
答曰。雖得不如有願。願能助福常念所行福德增長。 答えて曰く、得と雖も、願有るに如(し)かず。願は、能く福を助け、常に所行を念ずれば、福徳増長す。
答え、
『福』を、
『得た!』としても、
『願』が、
『有る!』には、
『及ばない!』。
『願』は、
『福』を、
『助けることができる!』、
常に、
『行う!』所()を念じて、
『福徳』が、
『増長する!』からである。
問曰。若作願得報。如人作十惡不願地獄。亦不應得地獄報。 問うて曰く、若し願を作して、報を得ば、人の十悪を作して、地獄を願わざるが如きも、亦た応に、地獄の報を得べからず。
問い、
若し、
『願』を作して、
『報』を、
『得られる!』とすれば、
例えば、
『人』が、
『十悪』を作しても、
『地獄』を、
『願わなかった!』ならば、
亦た、
『地獄』の、
『報』を、
『得るはずがない!』ということですか?
答曰。罪福雖有定報。但作願者修少福有願力故得大果報。 答えて曰く、罪福には、定報有りと雖も、但だ願を作す者は、少しの福を修むるにも、願力有るが故に、大果報を得。
答え、
『罪福』には、
『定まった!』、
『報』が、
『有る!』が、
但だ、
『願』を、
『作す!』者は、
『少し!』の、
『福』の、
『行』を、
『修める!』だけで、
『願』の、
『力』の故に、
『得る!』、
『果報』が、
『大きい!』のである。
如先說罪中報苦。一切眾生皆願得樂無願苦者。是故不願地獄。以是故福有無量報。罪報有量。 先に、罪中の報苦を説けるが如く、一切の衆生は、皆、楽を得んことを願い、苦を願う者無ければ、是の故に地獄を願わず。是を以っての故に、福には無量の報有るも、罪の報は有量なり。
先に、
『罪』中の、
『報』である!、
『苦』を、
『説いた!』ように、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『楽』を、
『得たい!』と、
『願う!』ものであり、、
『苦』を、
『願う!』者は、
『無い!』、
是の故に、
『地獄』を、
『願わない!』のであるが、
是の故に、
『福』の、
『報』は、、
『無量』に、
『有る!』のに、
『罪』の、
『報』は、
『有量』なのである。
有人言。最大罪在阿鼻地獄。一劫受報。最大福在非有想非無想處。受八萬大劫報。諸菩薩淨世界願。亦無量劫入道得涅槃。是為常樂。 有る人の言わく、『最大の罪は阿鼻地獄に在りて、一劫の報を受け、最大の報は非有想非無想処に在りて、八万大劫の報を受く。諸の菩薩の世界を浄むる願も、亦た無量劫の道に入りて得る涅槃、是れを常楽と為す。』と。
有る人は、
こう言っている、――
『最大』の、
『罪』は、
『阿鼻地獄』に於いて、
『一劫』の、
『苦報』を、
『受ける!』ことであり、
『最大』の、
『福』は、
『非有想非無想処』に於いて、
『八万大劫』の、
『楽報』を、
『受ける!』ことである。
諸の、
『菩薩』の、
『世界』を、
『浄める!』、
『願』も、
亦た、
『無量劫』に、
『道』に、
『入った!』後に、
『得る!』所の、
『涅槃』を、
『願う!』のであり、
是の、
『涅槃』を、
『常楽』と、
『称する!』のである、と。
  阿鼻地獄(あびじごく):阿鼻aviiciは梵語。無間の義。地獄中最深部に在る地獄の名。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  非有想非無想処(ひうそうひむそうじょ):無色界最上位に存する天の名。『大智度論巻8下注:四無色定、同巻18上注:無色界』参照。
問曰。如泥黎品中謗般若波羅蜜罪。此間劫盡復至他方泥黎中。何以言最大罪受地獄中一劫報。 問うて曰く、泥黎品中の如くんば、般若波羅蜜を毀謗する罪は、此の間の劫尽きて、復た他方の泥黎中に至る。何を以ってか、『最大の罪は、地獄中に一劫の報を受く。』と言う。
問い、
例えば、
『泥黎(地獄)品』中には、こうある、――
『般若波羅蜜』を、
『毀謗する!』、
『罪』は、
此の、
『世界』の、
『泥黎』中に於いて、
『劫』が、
『尽きる!』と、
復た、
『他方』の、
『泥黎』中に、
『至る!』ことになる、と。
何故、
こう言うのですか?――
『最大』の、
『罪』は、
『地獄』中に於いて、
『一劫』の、
『報』を、
『受ける!』ことである、と。
  泥黎(ないり):梵語niraya。又泥犁、泥梨、泥梨耶等に作り、訳して地獄と作す。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  毀謗(きぼう):謗って傷つける。
  参考:『摩訶般若波羅蜜巻11信毀品』:『須菩提。有菩薩摩訶薩多見諸佛若無量百千萬億。從諸佛所行布施持戒忍辱精進一心智慧。皆以有所得故。是菩薩聞說深般若波羅蜜時。便從眾中起去。不恭敬深般若波羅蜜及諸佛。是菩薩今在此眾中坐。聞是甚深般若波羅蜜。不樂故便捨去。何以故。是善男子善女人等。先世聞深般若波羅蜜時棄捨去。今世聞深般若波羅蜜亦棄捨去。身心不和是人種愚癡因緣業種是愚癡因緣罪故。聞說深般若波羅蜜呰毀。呰毀深般若波羅蜜故。則為呰毀過去未來現在諸佛一切智一切種智。是人毀呰三世諸佛一切智故起破法業。破法業因緣集故。無量百千萬億歲墮大地獄中。是破法人輩從一大地獄至一大地獄。若火劫起時。至他方大地獄中生在彼間。從一大地獄至一大地獄。彼間若火劫起時。復至他方大地獄中生在彼間。從一大地獄至一大地獄。如是遍十方。彼間若火劫起故從彼死。破法業因緣未盡故。還來是間大地獄中生此間。亦從一大地獄至一大地獄受無量苦。此間火劫起時。復生十方他國土。生畜生中。受破法罪業苦。如地獄中說。重罪轉薄或得人身。生盲人家生旃陀羅家。生除廁擔死人種種下賤家。若無眼若一眼若眼瞎。無舌無耳無手。所生處無佛無法無佛弟子處。何以故。種破法業積集厚重具足故受是果報。』
答曰。佛法為眾生故有二道教化。一者佛道二者聲聞道。 答えて曰く、仏法は、衆生の為の故に、二道の教化有り。一には、仏道、二には声聞道なり。
答え、
『仏法』は、
『衆生』の為の故に、
『教化』には、
『二』の、
『道』が、
『有る!』、
一には、
『仏』の、
『道』による、
『教化』、
二には、
『声聞』の、
『道』による、
『教化』である。
聲聞道中作五逆罪人。佛說受地獄一劫。菩薩道中破佛法人。說此間劫盡復至他方受無量罪。 声聞道中には、五逆罪を作す人を、仏は、『地獄の一劫を受く。』と説き、菩薩道中の、仏法を破る人を、『此の間に劫尽きて、復た他方に至りて、無量の罪を受く。』と説きたまえり。
『声聞道』中に、
『五逆罪』を、
『作す!』、
『人』を、
『仏』は、
こう説かれた、――
『地獄』に於いて、
『一劫』を、
『受ける!』と。
『菩薩道』中に、
『仏法』を、
『破る!』、
『人』を、
こう説かれた、――
此の、
『世界』に於いて、
『劫』が、
『尽きる!』と、
復た、
『他方』に至って、
『無量の罪』を、
『受ける!』ことになる。』と。
  五逆罪(ごぎゃくざい):恩田徳田を毀壊する五衆の罪業を云う。『大智度論巻24上注:五逆』参照。
聲聞法最第一福。受八萬劫。菩薩道中大福。受無量阿僧祇劫。以是故福德要須願。是名願受無量諸佛世界 声聞法の最も第一の福は、八万劫を受け、菩薩道中の大福は、無量阿僧祇劫を受く。是を以っての故に、福徳には、要らず願を須ち、是れを願うて、無量の諸の仏世界を受くと名づく。
『声聞法』の、
『最大』、
『第一』の、
『福』とは、
『八万劫』の、
『楽』を、
『受ける!』ことであり、
『菩薩道』中の、
『最大』の、
『福』とは、
『無量阿僧祇劫』の、
『楽』を、
『受ける!』ことである。
是の故に、
『福徳』には、
要らず、
『願』を、
『須つべきであり!』、
是れを、
『願って!』、
無量の、
諸の、
『仏世界』を、
『受ける!』と、
『称する!』のである。



念仏三昧に入り、常に仏を前にする

【經】念無量佛土諸佛三昧常現在前 無量の仏土の諸仏を念ずる三昧に、常に前に現われたもう。
無量の、
『仏土』の、
諸の、
『仏』を、
『念じる!』、
『三昧』中に、
常に、
『仏』は、
『前に!』、
『現われる!』。
  仏土(ぶつど):仏に属する国土の意。『大智度論巻7上注:浄土』参照。
  浄土(じょうど):清浄なる国土、または仏の刹土の意、具さに清浄土、清浄国土、清浄仏刹といい、また淨刹、浄国、浄邦、淨域、淨世界、淨妙土、妙土、仏土、仏刹、仏国、仏界等と称す。即ち諸仏因位の本願に酬うて成立せられたる清浄荘厳の国土をいう。その名義に関しては、「大乗玄論巻5」に、「浄土とは蓋しこれ諸仏菩薩の所栖にして、衆生の帰する所なり」と云い、「諸経要集巻1」に、「世界の皎潔なるこれを目して淨と為し、即ち淨の所居なるこれを名づけて土と為す。故に摂論に云わく、所居の土に五濁なく、頗梨柯等の如きを清浄土と名づく」と云い、また「大乗義章巻19」に、「浄土と言うは、経中に或時は名づけて仏刹と為し、或は仏界と称し、或は仏国と云い、或は仏土と言い、或はまた説いて浄刹、浄界、浄国、浄土と為す。刹とはこれ天竺の人の語にして此方には翻なし。蓋し乃ち処処の別名なり。仏に約して処を辨ずるが故に仏刹と云う。仏世界とは世は謂わく世間の国土境界にして、衆生を盛る処を器世間と名づく。界はこれ界別なり、仏所居の処は余人に異なるが故に界別と名づく。また仏は化に随って住処各異なるをまた界別と名づく。仏に約して界を辨ずるを仏世界と名づく。仏国と言うは人を摂するの所、これを目して国と為し、仏に約して国を辨ずるが故に仏国と名づく。仏土と言うは、身を安ずるの処これを号して土と為し、仏に約して土を辨じて名づけて仏土と為す。もしその国を論ぜば、王の領するものは有り、王ならざるは無し。土は即ち爾らず。身あれば皆有り。刹と界とはその義則ち通ず。これに雑穢なきが故に悉く浄と名づく」と云えり。以ってその多名義なるを見るべし。按ずるに浄土は専ら大乗経中に於いて宣説する所にして、灰身滅智無余涅槃を理想とする小乗教にはその説なし。即ち六波羅蜜の修行者たる菩薩が自ら成仏の可能を信じ、夙に浄仏国土成就衆生の誓願を起し、無量永劫に功を積み徳を累ねて以って建立する所の荘厳清浄の世界に名づけたるなり。「放光般若経巻19建立品」に、「菩薩は云何がよく仏土を浄むるや、仏言わく、菩薩初発意より已来、常に身口意を浄め、并びに余人を化して身口意を浄めしむ。(中略)この故に菩薩は衆悪を捨ておわりて自ら六波羅蜜を行じ、また人を勧進して六波羅蜜を行ぜしめ、この功徳を持って衆生と共に仏国浄を求む」と云い、「無量寿経巻上」に、「時に世饒王仏、法蔵比丘に告げたまわく、汝が修行する所の荘厳仏土は汝自らまさに知るべし。比丘、仏に白さく、この義弘深にしてわが境界に非ず。ただ願わくは世尊、広く為に諸仏如来の浄土の行を敷演せよ、われこれを聞きおわりて、まさに説の如く修行して所願を成満すべし」と云い、また「悲華経巻2大施品」に、「諸の菩薩等は願力を以っての故に、清浄の土を取り五濁の悪を離る」と云い、「大智度論巻7」に、「仏世界を荘厳するは事大にして、独り功徳を行ずるもよく成ずること能わず。要らず願力を須うべし。譬えば牛力の車を挽くといえども、要らず御者を須ってよく至る所あるが如し。浄世界の願もまたまたかくの如し。福徳は牛の如く、願は御者の如し」と云えり。これ等は皆浄土が諸仏の因位に於ける浄仏国土の本願に酬うて成立せられたるものなることを明にせるなり。また「阿閦物国経巻上」、「阿弥陀経」、「大般涅槃経巻24光明遍照高貴徳王菩薩品」、「文殊師利仏土厳浄経巻下」、「観世音菩薩受記経」、「悲華経巻4」、「法華経巻2譬喩品、巻3授記品」、「兜沙経」、「大乗宝月童子問法経」、「放光般若経巻1放光品」、「宝網経」、「滅十方冥経」、「旧華厳経巻4如来名号品」、「大方等大集経巻1瓔珞品」、「観仏三昧海経巻10念十方仏品」、「観薬王薬上二菩薩経」、「大宝積経巻101功徳宝華敷菩薩会」、「称讃如来功徳神呪経」、「潅頂随願往生十方浄土経」、「仏名経巻1」、「五千五百仏名神呪除障滅罪経巻1」、「称讃浄土仏摂受経」、「不思議功徳諸仏所護念経」、「諸仏集会陀羅尼経」等には、皆各十方または六方等に恒河沙等の諸仏の浄土の存在することを説けり。またこの他にも浄土に関する記述は甚だ多く、「十地経論巻3」、「梁訳摂大乗論巻15」、「金剛仙論巻4」、「往生論註巻下」、「安楽集巻上」、「同記巻5」、「大乗玄論巻5」、「観無量寿経義疏」、「成唯識論述記巻10末」、「釈浄土群疑論巻1」等に出づ。<(望)
  在前(ざいぜん):前に。於前。
【論】無量佛土名十方諸佛土。念佛三昧名十方三世諸佛。常以心眼見如現在前。 無量の仏土を、十方の諸の仏土に名づけ、念仏三昧を、十方の諸仏を、常に心眼を以って見るに、前に現われたもうが如し。
『無量の仏土』とは、
『十方の仏土』とも、
『称する!』。
『念仏三昧』とは、
『十方』の、
『三世』の、
諸の、
『仏』を、
常に、
『心眼』を以って、
『見る!』ので、
前に、
『現われた!』ように、
『見える!』。
問曰。云何為念佛三昧。 問うて曰く、云何が、念仏三昧と為す。
問い、
何を、
『念仏三昧』と、
『称する!』のですか?
  念仏三昧(ねんぶつさんまい):念仏は梵語buddhaanusmRtiの訳、繰り返し仏を憶想するの義。便ち仏の色身、及び功徳等を常に念ずる三昧を云う。『大智度論巻1上注:念仏、同巻9上注:般舟三昧、同巻17下注:定、同注:三摩鉢底、同巻20上注:三昧』参照。
答曰。念佛三昧有二種。一者聲聞法中。於一佛身心眼見滿十方。二者菩薩道於無量佛土中。念三世十方諸佛。以是故言念無量佛土諸佛三昧常現在前。 答えて曰く、念仏三昧には、二種有り、一に、声聞法中には、一仏身を、心眼もて、十方に満つると見る。二に、菩薩道には、無量の仏土中に、三世十方の諸仏を念ず。是を以っての故に言わく、『無量の仏土の諸仏を念ずる三昧に、常に前に現われたもう。』と。
答え、
『念仏三昧』には、
『二種』有り、
一に、
『声聞法』中には、
『一』の、
『仏身』を、
『心眼』で、
『十方』に、
『満ちるかのよう!』に、
『見る!』こと、
二に、
『菩薩道』中には、
『無量』の、
『仏土』中の、
『三世』、
『十方』の、
諸の、
『仏』を、
『見る!』ことである。
是の故に、
こう言う、――
『無量』の、
『仏土』の、
諸の、
『仏』を、
『念じる!』、
『三昧』中に、
常に、
『仏』は、
『前に!』、
『現われる!』と、
問曰。如菩薩三昧種種無量。何以故。但讚是菩薩念佛三昧常現在前。 問うて曰く、菩薩の三昧の種種無量なるが如きに、何を以っての故にか、但だ、是の菩薩の念仏三昧のみを、『常に前に現われたもう』と讃ずる。
問い、
『菩薩の三昧』は、
『種種』に、
『無量』なのに、
何故、
但だ、
是の、
『菩薩』の、
『念仏』という、
『三昧』のみを、
こう讃じるのですか?――
『仏』が、
常に、
『前に!』、
『現われる!』と。
答曰。是菩薩念佛故。得入佛道中。以是故念佛三昧常現在前。 答えて曰く、是の菩薩は、仏を念ずるが故に、仏道中に入るを得れば、是を以っての故に、念仏三昧に、常に前に現われたもう。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『仏』を、
『念じる!』が故に、
『仏』の、
『道』中に、
『入ることができた!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『念じる!』、
『三昧』中に、
常に、
『前に!』、
『現われる!』のである。
復次念佛三昧。能除種種煩惱及先世罪。餘諸三昧有能除婬。不能除瞋有能除瞋不能除婬。有能除癡不能除婬恚。有能除三毒。不能除先世罪。是念佛三昧能除種種煩惱種種罪。 復た次ぎに、念仏三昧は、能く種種の煩悩、及び先世の罪を除く。余の諸の三昧は、有るいは能く婬を除くも、瞋を除く能わず。有るいは能く瞋を除くも、婬を除く能わず。有るいは能く癡を除くも、婬、恚を除く能わず。有るいは能く三毒を除くも、先世の罪を除く能わず。是の念仏三昧は、能く種種の煩悩、種種の罪を除く。
復た次ぎに、
『念仏三昧』は、
種種の、
『煩悩』や、
先世の、
『罪』を、
『除くことができる!』。
余の、
『諸の三昧』は、
有るいは、
『婬』を、
『除ける!』が、
『瞋』を、
『除けない!』、
有るいは、
『瞋』を、
『除ける!』が、
『婬』を、
『除けない!』、
有るいは、
『癡』を、
『除ける!』が、
『婬、恚』を、
『除けない!』、
有るいは、
『三毒』を、
『除ける!』が、
『先世の罪』を、
『除けない!』のであるが、
是の、
『念仏三昧』は、
種種の、
『煩悩』や、
『罪』を、
『除くことができる!』。
復次念佛三昧有大福德能度眾生。是諸菩薩欲度眾生。諸餘三昧無如此念佛三昧福德能速滅諸罪者。 復た次ぎに、念仏三昧には、大福徳有りて、能く衆生を度す。是の諸の菩薩は、衆生を度せんと欲するも、諸余の三昧には、此の念仏三昧の福徳の如く、能く速かに諸罪を滅する者無し。
復た次ぎに、
『念仏三昧』には、
『大きな!』、
『福徳』が、
『有る!』ので、
『衆生』を、
『度する!』ことが、
『可能である!』。
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『衆生』を、
『度したい!』と、
『思っている!』のに、
諸の、
『余の三昧』には、
此の、
『念仏三昧』のように、
速かに、
『諸罪』を、
『滅することのできる』者が、
『無い!』のである。
  (ど):梵語paaramitaaの訳、横切るの義、或いはpaaragataの訳、彼岸に渡るの義。生死海を横切り、彼岸に渡る、亦たは渡すの意。
如說。昔有五百估客入海採寶。值摩伽羅魚王開口。海水入中船去駃疾。 説の如し、昔、五百の估客有り、海に入りて、宝を採らんとするに、摩伽羅魚の王の口を開けるに値(あ)う。海水、中に入りて、船の去ること駃疾たり。
例えば、
『説』によれば、――
有る、
『五百』の、
『估客(貿易商)』が、
『海』に入って、
『宝』を、
『採っている!』と、
『摩伽羅魚の王』が、
『口』を、
『開いている!』のに、
『遭遇した!』。
『海水』が、
『口』中に、
『流入しており!』、
『船足』が、
『にわかに!』、
『速くなった!』。
  估客(こきゃく):商人、旅商人。
  摩伽羅魚(まがらぎょ):巨大なる魚。『大智度論巻7上注:摩竭魚』参照。
  摩竭魚(まかつぎょ):摩竭は梵語makaraにして、また摩伽羅魚、麼迦羅魚に作り、意訳して大魚、大体魚、鯨魚、巨鼇と為す。経論中の多処に記載する大魚なり。これの視らるることあり、即ち鱷、鯊魚、海豚等と同類と為す。或は仮想中の魚なり。印度神話中には、これを以って水神(梵varuNa)の坐騎と為し、愛神(梵kaama- deva)所執の旗上にもまた摩竭魚の図有り。また十二宮の一にして、摩竭宮と称す。その頭部と前肢は羚羊に似て、身体と尾部は則ち魚形を呈す。<(佛)
  駃疾(けしつ):はやくはしる。快速。
  参考:『雑譬喩経(30)』:『昔有五百賈客。乘船入海欲求珍寶。值摩竭魚出頭張口欲食眾生。時日少風而船去如箭。薩薄主語眾人言。船去太疾可捨帆下沈。輒如所言捨帆下沈。船去轉駛而不可止。薩薄主問樓上人言。汝見何等。我見上有兩日出。下有白山中有黑山。薩薄主驚言。此是大魚當奈何哉。我與汝等今遭困厄。入此魚腹無復活理。汝等各隨所事一心求之。於是眾人各隨所奉。一心歸命求脫此厄。所求愈篤船去愈疾。須臾不止當入魚口。於是薩薄主告諸人言。我有大神號名為佛。汝等各捨本所奉一心稱之。時五百人俱發大聲稱南無佛。魚聞佛名自思惟言。今日世間乃復有佛。我當何忍傷害眾生。適思惟已即便閉口。水皆倒流轉遠魚口。五百賈人一時得脫。此魚前身曾為道人。以罪故受此魚身。既聞佛名聲尋憶宿命。是故思惟善心即生。此明五百賈人。但一心念佛暫稱名號。即得解脫彌天之難。況復受持念佛三昧。重罪令薄薄者令滅。如此之應未足為多』
船師問樓上人。汝見何等。答言。見三日出白山羅列。水流奔趣如入大坑。船師言。是摩伽羅魚王開口。一是實日兩日是魚眼。白山是魚齒。水流奔趣。是入其口。我曹了矣。各各求諸天神以自救濟。 船師の楼上の人に問わく、『汝、何等をか、見る。』と。答えて言わく、『三日、白山の羅列に出づるを見る。水流、奔趣し、大坑に入るが如し。』と。船師の言わく、『是れ摩伽羅魚王の口を開きたるなり。一は是れ実の日、両日は、是れ魚の眼、白山は、是れ魚の歯なり。水流の奔趣するは、是れ其の口に入るなり。我曹、了(おわ)れり。各各、諸の天神に求めて、以って自ら救済せよ。』と。
『船師』は、
『楼(マスト)』上の、
『人』に向って、こう問うた、――
お前には、
『何か!』、
『見えないか?』、と。
答えて、こう言った、――
『三つ』の、
『日』が、
『白い!』、
『山』の、
『羅列』より、
『出ようとしている!』のが、
『見える!』。
『海水』が、
『奔流』となって、
『大坑』に、
『入っている!』、と。
『船師』は、
こう言った、――
是れは、
『摩伽羅魚の王』が、
『口』を、
『開いている!』のだ。
『一つ』の、
『日』は、
『実』の、
『日』だが、
『二つ』の、
『日』は、
是の、
『魚』の、
『目玉』だ!。
『白い!』、
『山』は、
是の、
『魚』の、
『歯』だ!。
『海水』が、
『奔流』となって、
其の、
『口』に、
『入っている!』。
俺たちは、
もう、
お仕舞いだ!。
お前たちは、
各各、
『天神』に祈って、
『自ら!』を、
『救済せよ!』と。
  船師(せんし):船長。
  楼上(るじょう):物見台。
  羅列(られつ):並びつらなるさま。
  奔趣(ほんしゅ):はしりおもむく。流れの急なさま。
  大坑(だいきょう):大洞窟。
  我曹(がそう):われら。我等。
  救済(くさい):すくう。災より救う。賑済。
是時諸人各各求其所事都無所益。中有五戒優婆塞語眾人言。吾等當共稱南無佛。佛為無上能救苦厄。 是の時、諸人は、各各、其の事(つか)うる所に求むるも、都(す)べて益する所無し。中に五戒の優婆塞有り、衆人に語りて言わく、『吾等は、当に共に、南無仏と称(とな)うべし。仏を無上と為し、能く苦厄を救いたもう。』と。
是の時、
諸の、
『人』は、
各各、
其の、
『仕える!』所の、
『天神』に、
『祈った!』が、
都()べて、
『益する!』所の、
『功験』が、
『無かった!』。
諸の、
『人』中の、
有る、
『五戒』の、
『優婆塞』は、
『衆人』に、
こう言った、――
わたし達は、
共に、
『南無仏』と、
『称(とな)えましょう!』。
『仏』は、
『無上』の、
『人』です!
わたし達を、
『苦厄』から、
『救うことができるでしょう!』と。
  五戒(ごかい):仏教を信奉する男女の受持すべき五種の戒を云う。即ち不殺、不盗、不邪婬、不妄語、不飲酒なり。『大智度論巻8下注:五戒』参照。
  優婆塞(うばそく):梵語upaasaka、仏教を信奉する者の中、在俗の男を云う。四衆の一。『大智度論巻3下注:優婆塞』参照。
  南無(なむ):梵語namas。巴梨語namo、又南无、南牟、那摩、那謨、萳忙、納莫、納慕、娜謨、那莫に作り、帰依、帰命、恭敬、信従、敬礼、或いは帰礼と訳す。即ち仏又は三宝等に帰順敬礼の意を表するに用う。「礼す」の義なる梵語語根namに後接字asを加えたる名詞なり。「増一阿含経巻47」に、「復た提婆達兜は最後命終の時、和悦の心を起して南無と称するに由るが故に、後辟支仏と作り、名を号して南無と曰う」と云い、「法華経巻1方便品」に、「一たび南無仏と称せば皆已に仏道を成ず」と云い、又「観無量寿経」に、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」と云える其の例なり。「玄応音義巻6」に、「南無は或いは南謨に作り、或いは那莫と云う。皆帰礼を以って之を訳す。和南と言うは訛なり。正しくは煩淡と言い、或いは槃淡と言う。此に礼と云うなり。或いは帰命と言うは、訳人義をもて命の字を安ずるなり」と云えり。但し「法華経文句巻4下」には、南無に度我、驚怖、帰命等の義ありとし、善導の「観経玄義分」には帰命、及び発願廻向の義ありと云えり。又「翻梵語巻1」、「大乗法苑義林章巻4」、「釈門帰敬義巻下」、「慧琳音義巻22、27」、「翻訳名義集巻11」、「釈氏要覧巻中」等に出づ。<(望)
眾人一心同聲稱南無佛。是魚先世是佛破戒弟子。得宿命智。聞稱佛聲心自悔悟。即便合口。船人得脫。以念佛故。能除重罪濟諸苦厄。何況念佛三昧 衆人は、一心に声を同じうして、『南無仏』と称うるに、是の魚は、先世には、是れ仏の破戒の弟子にして、宿命智を得れば、仏を称うる声を聞いて、心に自ら悔悟し、即便(すなわ)ち口を合わして、船の人は、脱(のが)るるを得たり。仏を念ずるを以っての故に、能く重罪を除きて、諸の苦厄を済(すく)う、何に況んや、仏を念ずる三昧をや。
『衆人』は、
『一心』に、
『声』を、
『同じう!』して、
こう称えた、――
『仏』に、
『南無(帰依)せん!』と。
是の、
『魚』は、
『先世』に、
『仏』の、
『破戒』の、
『弟子』であり!、
『宿命』の、
『智慧』を、
『得ていた!』ので、
『仏』を、
『称える!』、
『声』が、
『聞こえてくる!』と、
『自ら!』、
『悔やんで!』、
『悟り!』、
即座に、
『口』を、
『合わせて!』、
『船』の、
『人』は、
『脱(のが)れることができた!』。
『仏』を、
『念じる!』ことを以って、
故に、
『重罪』が除かれて、
諸の、
『苦厄』を、
『済(すく)うことができた!』、
況して、
『仏』を、
『念じる!』、
『三昧』は、
『言うまでもない!』。
  宿命智(しゅくみょうち):過去世の事を知る智慧。五通の一。『大智度論巻16下注:五通』参照。
  所事(しょじ):奉仕すべき者。信奉する神。
  悔悟(けご):くいてさとる。
復次佛為法王菩薩為法將。所尊所重唯佛世尊。是故應常念佛。 復た次ぎに、仏を法王と為し、菩薩を法将と為して、尊ぶ所、重んずる所は、唯だ仏世尊なり。是の故に、応に常に仏を念ずべし。
復た次ぎに、
『仏』は、
『法』の、
『王』であり!、
『菩薩』は、
『法』の、
『将』である!が、
『尊ばれたり!』、
『重んじられる!』のは、
唯だ、
『仏』という、
『世尊』のみである。
是の故に、
常に、
『仏』を、
『念じなくてはならない!』。
復次常念佛得種種功德利。譬如大臣特蒙恩寵常念其主。菩薩亦如是。知種種功德無量智慧皆從佛得。知恩重故常念佛。 復た次ぎに、常に仏を念ずれば、種種の功徳の利を得。譬えば、大臣の特に恩寵を蒙りて、常に其の主を念ずるが如し。菩薩も、亦た是の如く、種種の功徳、無量の智慧は、皆、仏より得と知り、恩の重きを知るが故に、常に仏を念ず。
復た次ぎに、
『仏』を、
『常に!』、
『念じる!』のは、
種種の、
『功徳』という!、
『利』を、
『得る!』からである。
譬えば、
『大臣』が、
特に、
『恩寵』を、
『蒙る!』のは、
常に
其の、
『主』を、
『念じている!』からであるが、
『菩薩』も、
亦た、
是のように、
『種種の功徳』や、
『無量の智慧』は、
皆、
『仏』より、
『得る!』と、
『知り!』、
『恩』の、
『重い!』ことを、
『知る!』が故に、
常に、
『仏』を、
『念じる!』のである。
汝言云何常念佛不行餘三昧者。今言常念亦不言不行餘三昧。行念佛三昧多故言常念。 汝が言わく、『云何が、常に仏を念じて、余の三昧を行ぜざる。』と。今に言わく、『常に念じて、亦た余の三昧を行ぜずと言わず。念仏三昧を行ずることの多きが故に、常に念ずと言えり。』と。
お前は、
こう言った、――
何故、
常に、
『仏』を、
『念じて!』、
余の、
『三昧』を、
『行わないのか?』と。
今、
こう言おう、――
常に、
『仏』を、
『念じている!』が、
亦た、
『余の三昧』を、
『行わない!』とは、
『言わない!』、
『念仏三昧』を、
『行う!』ことが、
『多い!』が故に、
常に、
『念じる!』と、
『言った!』のである、と。
復次先雖說空無相無作三昧。未說念佛三昧。是故今說 復た次ぎに、先には、空、無相、無作三昧を説くと雖も、未だ念仏三昧を説かざれば、是の故に今説く。
復た次ぎに、
先には、
『空、無相、無作三昧』を、
『説いた!』が、
未だ、
『念仏三昧』を、
『説いていなかった!』ので、
是の故に、
『今』、
『説く!』のである。



無量の諸仏を請うことができる

【經】能請無量諸佛 能く無量の諸仏を請(こ)う。
無量の、
『諸仏』を、
『請()うことができる!』。
  (しょう):梵語nimantritaの訳。呼びかける、召喚、招集、招待の義。施主が僧中の比丘を食に招くこと。『大智度論巻2下注:請、同巻22上注:僧物』参照。
【論】請有二種。一者佛初成道。菩薩夜三晝三六時禮請。偏袒右肩合掌言。十方佛土無量諸佛初成道時未轉法輪。我某甲請一切諸佛。為眾生轉法輪度脫一切。 請には、二種有り、一には、仏の初の成道に、菩薩は、夜三たび昼三たび、六時に礼請し、偏に右肩を袒(はだぬ)ぎ、合掌して言わく、『十方の仏土の無量の諸仏は、初の成道の時、未だ法輪を転じたまわざれば、我れ某甲、一切の諸仏に請いたてまつれり、衆生の為に法輪を転じて、一切を度脱したまえと。』と。
『請』には、
『二種』有り、
一には、
『仏』の、
『初』の、
『成道』の時、
『菩薩』は、
『夜』に、
『三たび!』、
『昼』に、
『三たび!』、
『六時』に、
『礼拜』して、
『請う!』のであるが、
『右肩』を、
『偏(ひとえ)に!』、
『袒(はだぬ)ぐ!』と、
『合掌』して、こう言うのである、――
十方の、
『世界』の、
無量の、
『諸仏』は、
『初』の、
『成道』の時、
未だ、
『法輪』を、
『転じられませんでした!』ので、
わたくし、
『某甲(なにがし)』が、
一切の、
『諸仏』に向って、こう請いました、――
『衆生』の為に、
『法輪』を、
『転じて!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱したまえ!』と。
  成道(じょうどう):仏道を成ずるの意。又成仏、得仏、得道、或いは成正覚とも名づく。八相の一。即ち菩薩修行円満して無上道を成ずるを云う。「過去現在因果経巻3」に、「菩薩受け已りて敷きて以って座と為し、草上に於いて結跏趺坐すること、過去仏所坐の法の如くし、而も自ら誓って言わく、正覚を成ぜずんば此の座を起たじと。我れ亦是の如く此の誓を発する時、天龍鬼神皆悉く歓喜し、清涼の好風四方より来たり、禽獣響を息め、樹は條を鳴らさず、遊雲飛塵皆悉く澄浄なり。知る是れ菩薩必ず道を成ずるの相なり。爾の時、菩提樹下に在りて誓言を発する時、天龍八部皆悉く歓喜し、虚空の中に於いて踊躍して讃歎す」と云い、又「増一阿含経巻23」に、「是の時、我れ復た是の念を作す、過去久遠恒沙の諸仏成道の処は何の所に在りとせんやと。是の時、虚空の神天住して上に在りて我れに語りて曰わく、賢士当に知るべし、過去恒沙の諸仏世尊は道樹の清涼なる樹下に坐して成仏を得たりと。時に我れ復た是の念を作す、何の処に坐して仏道を成ずることを得とせんや、坐せりや、立てりやと。是の時、諸天復た来たりて我れに告げて是の説を作す、過去恒沙の諸仏世尊は草蓐に坐し、然る後に成仏すと。是の時、我れを去る遠からず吉祥梵志あり、側に在りて草を刈る。(中略)爾の時、吉祥は躬自ら草を執りて樹王の所に詣る。吾れ即ち其の上に坐して正身正意結跏趺坐し、念を繋けて前に在り。爾の時、貪欲意解して諸の悪法を除き、有覚有観にして心を初禅に遊ばしめ、有覚有観除尽して心を二三禅に遊ばしめ、護念清浄憂喜除尽して心を四禅に遊ばしむ。我れ爾の時、清浄の心を以って諸の結使を除き、無所畏を得、自ら宿命無数来の変を識る。(中略)我れ三昧の心清浄にして瑕穢なきを以って、有漏尽きて無漏を成じ、心解脱し、智慧解脱し、生死已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辦じて更に復た胎を受けじと。如実に之を知りて即ち無上正真の道を成ず」と云える是れなり。是れ釈尊が六年苦行の後、菩提樹下吉祥草の上に坐して無上正真の道を成ぜられたることを説けるものなり。但し大乗経論中には是の如き樹下成道を以って応身成仏の相を示現せるものとなし、仏の法身は色究竟天摩醯首羅智処に於いて成仏するものとなせり。「十地経論巻1」に、「二種の利益とは、現報利益は仏の位を受くるが故なり、後報利益は摩醯首羅の智処に生ずるが故なり。経にいうが如き、正しく一切仏位を受くるが故に、一切世間最高大の身を得るが故に」と云い、「入大乗論巻下」に、「始め初地より乃ち十地に至り、淨居天に在り正覚を成ず」と云える即ち皆其の説なり。又釈尊成道の年載に関しては異説あり。「十二遊経」、「仏本行集経巻10相師占看品」、「有部毘奈耶雑事巻20」、「毘婆沙論巻14」、「島史diipavaMsa,iii」、及び「大史mahaavaMsa,ii」等には三十五歳の時とし、「道行般若経巻10」、「大明度経巻6」等には三十歳とし、「大般泥洹経巻下」には三十一歳となせり。又其の月日に関し、「長阿含経巻4」、「過去現在因果経巻3」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」等には二月八日とし、「仏本行集経巻25向菩提樹品」には二月十六日とし、「方等般泥洹経」、「潅洗仏形像経」等には四月八日とし、「大唐西域記巻8」には吠舎佉月後半八日即ち唐暦三月八日とし、又上座部は同後半十五日即ち三月十五日となすと云えり。又支那にては古来臘八成道の説あり。又「中阿含巻56羅摩経」、「太子瑞応本起経巻下」、「普曜経巻6行道禅思品」、「同諸天賀成仏道品」、「方広大荘厳経巻9成正覚品」、「仏本行集経巻30成無上道品」、「四分律巻31」、「大毘婆沙論巻103」、「大乗起信論」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  :菩薩は空中に行ずれば、諸菩薩に固有の人格無し。
二者諸佛欲捨無量壽命入涅槃時。菩薩亦夜三時晝三時。偏袒右肩合掌言。十方佛土無量諸佛。我某甲請令久住世間無央數劫。度脫一切利益眾生。是名能請無量諸佛。 二には、諸仏の無量の寿命を捨てて、涅槃に入らん欲する時、菩薩は、亦た夜三時昼三時に、偏に右肩を袒ぎ、合掌して言わく、『十方の仏土の無量の諸仏に、我れ某甲請うて、世間に久住すること無央数劫、一切を度脱して、衆生を利益せしめん。』と。是れを能く無量の諸仏を請うと名づく。
二には、
『諸仏』が、
無量の、
『寿命』を捨てて、
『涅槃』に、
『入ろう!』とする時、
『菩薩』は、
亦た、
『夜』の、
『三時(みたび)』、
『昼』の、
『三時』に、
『右肩』を、
『偏に!』、
『袒ぐ!』と、
『合掌』して、こう言う、――
十方の、
『仏土』の、
無量の、
『諸仏』に、
わたくし、
『某甲』が、こう請う!――
『世間』に、
『無央数(無量)劫』、
『久住し!』、
一切を、
『度脱』して、
『衆生』を、
『利益したまえ!』、と。
是れを、
無量の、
『諸仏』を、
『請うことができる!』というのである。
問曰。諸佛之法法應說法廣度眾生。請與不請法自應爾。何以須請。若於自前面請諸佛則可。今十方無量佛土諸佛亦不自見。云何可請。 問うて曰く、諸仏の法は、法として、応に法を説いて、広く衆生を度すべし。請うと請わざると、法は自ら応に爾(しか)るべし。何を以ってか、請を須(ま)つ。若し、自ら前面に於いて、諸仏を請わば、則ち可(よ)からん。今、十方の無量の仏土の諸仏は、亦た自ら見るにあらざるに、云何が、請うべき。
問い、
諸の、
『仏』の、
『法(定法)』は、――
『法(原則)』として、
当然、
『法』を説いて、
広く、
『衆生』を、
『度すべき!』である。
『請われようが!』、
『請われまいが!』、
『法』として、
『自ら!』、
『そうあるべき!』です。
何故、
『請』を、
『須()つ!』のですか?
若し、
自ら、
『前面』に於いて、
『諸仏』を、
『請うた!』ならば、
則ち、
『それもよい!』でしょう、
今、
『十方』の、
無量の、
『諸仏』を、
『自ら!』、
『見ていない!』のに、
何のように、
『請えばよい!』のですか?
答曰。諸佛雖必應說法不待人請。請者亦應得福。如大國王雖多美膳有人請者必得恩福。錄其心故。 答えて曰く、諸仏は、必ず応に法を説くべくして、人の請を待たずと雖も、請う者は、亦た応に福を得べし。大国の王は、美膳多しと雖も、有る人請えば、必ず恩福を得るが如し、其の心に録(しる)すが故なり。
答え、
諸の、
『仏』は、
必ず、
『法』を、
『説かれるはず!』であり、
『人』が、
『請う!』のを、
『待たれない!』が、
『請う!』者は、
当然、
『福』を、
『得るはず!』である。
譬えば、
『大国』の、
『王』には、
『美膳』が、
『多いはず!』であるが、
有る、
『人』が、
『来臨』を、
『請うた!』ならば、
必ず、
『恩福』を、
『得る!』ことになるのは、
其の、
『心』に、
『記録される!』からである。
又如慈心念諸眾生令得快樂。眾生雖無所得。念者大得其福。請佛說法亦復如是。 又、慈心もて、諸の衆生を念じて、快楽を得しめんとすれば、衆生は、得る所無しと雖も、念ずる者は、大いに其の福を得ん。仏の説法を請うも、亦復た是の如し。
又、
『慈心』で、
諸の、
『衆生』を念じて、
『快楽』を、
『得させよう!』とすれば、
『衆生』に、
『得る!』所が、
『無かった!』としても、
『念じる!』者は、
其の、
『福』を、
『大いに得る!』のである。
『仏』に、
『法』を、
『説くよう!』、
『請う!』のも、
亦復た、
是れと同じである。
復次有諸佛無人請者。便入涅槃而不說法。如法華經中多寶世尊。無人請故便入涅槃。後化佛身及七寶塔。證說法華經故。一時出現。 復た次ぎに、有る諸の仏は、人の請う者無くんば、便ち涅槃に入りて、法を説きたまわず。法華経中の多宝世尊の如きは、人の請う無きが故に、便ち涅槃に入り、後に仏身、及び七宝の塔を化して、法華経を説くを証せんが故に、一時に出現せり。
復た次ぎに、
有る、
諸の、
『仏』は、
『人』に、
『請う!』者が、
『無い!』時には、
便ち、
『涅槃』に入って、
『法』を、
『説かれない!』。
例えば、
『法華経』中の、
『多宝世尊』などは、
『人』に、
『請う!』者が、
『無かった!』が故に、
すぐに、
『涅槃』に、
『入られた!』が、
後に、
『法華経』が、
『説かれた!』と、
『証する!』為の故に、
『仏の身』と、
『七宝の塔』とを化して、
『一時に!』、
『出現させた!』のである。
  参考:『妙法蓮華経巻4見塔品』:『爾時佛前有七寶塔。高五百由旬。縱廣二百五十由旬。從地踊出住在空中。種種寶物而莊校之。五千欄楯龕室千萬。無數幢幡以為嚴飾。垂寶瓔珞。寶鈴萬億而懸其上。四面皆出多摩羅跋栴檀之香。充遍世界。其諸幡蓋。以金銀琉璃車磲馬腦真珠玫瑰七寶合成。高至四天王宮。三十三天。雨天曼陀羅華供養寶塔。餘諸天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩[目*侯]羅伽人非人等千萬億眾。以一切華香瓔珞幡蓋伎樂。供養寶塔恭敬尊重讚歎。爾時寶塔中出大音聲歎言。善哉善哉。釋迦牟尼世尊。能以平等大慧教菩薩法佛所護念妙法華經為大眾說。如是如是。釋迦牟尼世尊。如所說者。皆是真實。』
亦如須扇多佛。弟子本行未熟便捨入涅槃。留化佛一劫以度眾生。 亦た須扇多仏の如きは、弟子の本行未だ熟せざれば、便ち捨てて、涅槃に入り、化仏を留むること一劫、以って衆生を度したまえり。
亦た、
『須扇多仏』などは、
『弟子』の、
『本行(過去世の修行)』が、
『熟していなかった!』ので、
するりと、
『弟子』を捨てて、
『涅槃』に、
『入られた!』が、
『化仏』を、
『一劫』、
『留め置いて!』、
それで、
『衆生』を、
『度された!』のである。
  須扇多仏(しゅせんたぶつ):仏名。須扇多は梵語suzaanta、意訳して甚浄に作る。即ち「玄応音義巻3」に、「須扇頭仏、また須扇多仏といい、晋には甚浄という」と云い、また「大品般若経巻23六喩品」に、「須菩提、譬えば須扇多仏の如きは阿耨多羅三藐三菩提を得て、三乘の転法輪を為せども、菩薩の記を得る者無ければ、化して仏と作りおわりて、身の寿命を捨てて無余涅槃に入れり」と云えるこれなり。<(丁)
  本行(ほんぎょう):梵語puurva- caryaの訳。過去世の修行の意。
今是釋迦文尼佛。得道後五十七日寂不說法。自言我法甚深難解難知。一切眾生縛著世法無能解者。不如默然入涅槃樂。是時諸菩薩及釋提桓因梵天王諸天合掌敬禮。請佛為諸眾生初轉法輪。佛時默然受請。後到波羅奈鹿林中轉法輪。如是云何言請無所益。 今、是の釈迦文尼仏は、得道の後、五十七日寂として、法を説かず、自ら言わく、『我が法は、甚だ深く、解し難く知り難し。一切の衆生は世法に縛著して、能く解する者無し。黙然として、涅槃の楽に入るに如(し)かず。』と。是の時、諸の菩薩、及び釈提桓因、梵天王の諸天は合掌、敬礼して、仏を請わく、『諸の衆生の為に初の法輪を転じたまえ。』と。仏は、時に黙然として請を受けたまい、後に波羅奈に到りて、鹿林中に法輪を転じたまえり。是の如きを、云何が、『請に益する所無し。』と言う。
今の、
是の、
『釈迦文尼仏』は、
『得道』の後、
『五十七日』寂黙して、
『法』を、
『説かず!』、
自ら、
こう言われた、――
わたしの、
『法』は、
『甚だ深く!』、
『解し難く!』、
『知り難い!』のに、
一切の、
『衆生』は、
『世間』の、
『法』に、
『縛られて!』、
『著しており!』、
わたしの、
『法』を、
『理解できる!』者は、
『無い!』、
むしろ、
『黙然』として、
『涅槃』に、
『入ってしまおう!』と。
是の時、
諸の、
『菩薩』や、
『釈提桓因、梵天王の諸天』は、
『合掌』、
『敬礼』して、
『仏』に、
こう請うた、――
『衆生』の為に、
初の、
『法輪』を、
『転じたまえ!』、と。
『仏』は、
『黙然(許諾のしるし)』として、
『請』を、
『受けられ!』、
後に、
『波羅奈』の、
『鹿林』中に到り、
『法輪』を、
『転じられた!』のである。
是の通りなのに、
何故、
こう言うのか?――
『請』には、
『益する!』所が、
『無い!』と。
  得道(とくどう):聖道又は無上道を得るの意。又得度とも云う。「中阿含巻29請請経」に、「未だ得道せざる者は其れをして得道せしむ」と云い、「大智度論巻3」に、「是の時、浄飯王は子を愛念するが故に、常に使を遣して消息を知らんと欲し、我が子は得道せしや不や、若しは病み、若しは死せしやを問訊せしむ」と云い、又「同巻27」に、「復た次ぎに菩薩摩訶薩、是の法位の中に入らば、復た凡夫の数に堕せず、名づけて得道の人と為す。一切世間の事は其の心を壊せんと欲するも動ぜしむること能わず、三悪趣の門を閉じて諸の菩薩の数中に堕し、初めて菩薩の家に生ず」と云える是れなり。是れ無漏の聖道、又は菩薩の無生法忍、並びに無上菩提を得たるを皆得道と称したるなり。得道の因縁に関しては、「大智度論巻34」に、「仏身は無量阿僧祇にして種種同じからず、仏あり衆生の為に説法して得道せしむる者あり、仏あり無量の光明を放ち、衆生之に遇わば而も得道する者あり、神通変化を以って其の心を指示するに而も得道する者あり、仏あり但だ色身を現ずるに而も得道する者あり、仏あり遍身の毛孔より衆の妙香を出し、衆生之を聞きて而も得道する者あり、仏あり食を以って衆生に与えて得道せしむる者あり、仏あり衆生但だ念ずれば而も得道する者あり、仏あり能く一切草木の声を以って仏事を作し、衆生をして得道せしむる者あり、仏あり衆生名を聞きて而も得道する者あり」と云い、又「同論巻7」に放光得道に関し、「若し光明に値いて便ち得道せば、仏には大慈あり、何を以って常に光明を放ちて一切をして得道せしめず、何ぞ持戒禅定智慧を須って然る後得道するや。答えて曰わく、衆生は種種の因縁により得度同じからず、禅定にて得度する者あり、持戒説法にて得度する者あり、光明身に触れて而も得度する者あり。譬えば城に多門あり、入処各各なるも至処異ならざるが如し」と云えり。以って得道の因縁に種種の異あるを見るべし。又「同論巻8」には得道は必ず欲界身に依るべきことを明し、「仏此の衆生を度して道を証することを得しめんと欲するに、無色界の中には身なきを以っての故に為に説法すべからず。色界の中には則ち厭心なければ得度すべきこと難く、禅楽多きが故に慧心則ち鈍なり」と云えり。是れ「倶舎論巻24」に、見道は但だ欲界身に依ることを説き、「何に縁りて上界には必ず見道なきや。且らく無色の中には正聞なきが故に、又彼の界中には下を縁ぜざるが故なり。色界の異生は勝定の楽に著し、又苦受なければ厭を生ぜざるが故なり。厭あることなければ能く見道を得するに非ず」と云うの説に合するを見るべし。又「大智度論巻18、33、35、93」、「雑阿毘曇心論巻5」、「倶舎論巻23」等に出づ。<(望)
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):具さには梵語釈迦提婆因陀羅sakra kevaanaamindraと称し、即ち忉利天の主にして、天帝釈、或は帝釈天とも称す。『大智度論巻3(上)注:釈提桓因』参照。
  梵天王(ぼんてんのう):梵語mahaabrahman。色界初禅大梵天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
  波羅奈(はらな):具さに梵語波羅奈斯vaaraNasiと称し、恒伽流域の国名なり。中に鹿野苑精舎在りたり。『大智度論巻2(上)注:波羅奈国、巻3(上)注:十六大国』参照。
  鹿林(ろくりん):梵名mRgadaavaの訳。中印度波羅奈国に在りし園林の名。『大智度論巻26上注:鹿野苑』参照。
  黙然(もくねん):仏は許諾の時、ことばを発せず、但だ黙然として聴くのみの意。『大智度論巻41下注:黙然』参照。
復次佛法等觀眾生。無貴無賤無輕無重。有人請者。為其請故便為說法。雖眾生不面請佛。佛常見其心亦聞彼請。假令諸佛不聞不見。請佛亦有福德。何況佛悉聞見而無所益。 復た次ぎに、仏の法は、等しく衆生を観れば、貴無く、賎無く、軽無く、重無く、人の請う者有らば、其の請の為の故に、便ち為に法を説きたまえば、衆生、面じて仏を請わずと雖も、仏は、常に其の心を見、亦た彼の請を聞きたもう。仮令(たとい)、諸仏は聞かず、見たまわずとも、仏を請わば、亦た福徳有らん。何に況んや、仏は悉く聞きて見たもうに、益する所無からんや。
復た次ぎに、
『仏』の
『法(定法)』は、
『衆生』を、
『等しく!』、
『観る!』ことであり、
『貴ぶ!』ことも、
『賎しむ!』ことも、
『軽んじる!』ことも、
『重んじる!』ことも、
『無い!』ので、
有る、
『人』が、
『請うた!』ならば、
其の、
『請』の為の故に、
すぐに、
『法』を、
『説かれる!』のであり、
『衆生』が、
『仏』を、
『請う!』時、
『対面しなかった!』としても、
『仏』は、
常に、
其の、
『心』を見て、
彼れの、
『請』を、
『聞かれている!』。
仮令(たとい)、
諸の、
『仏』が、
『聞いていられず!』、
『見ていられなかった!』としても、
『仏』を、
『請う!』ことには、
『福徳』が、
『有る!』のであり、
況して、
『仏』は、
悉くを、
『聞いていられ!』、
『見ていられる!』のであるから、
何うして、
『益する!』所の、
『無いことがあろう!』。
問曰。既知請佛有益。何以正以二事請。 問うて曰く、既に、仏を請うには、益有るを知る。何を以ってか、正しく、二事を以って請う。
問い、
もう、
『仏』を、
『請う!』のに、
『益』が、
『有る!』ことを、
『知りました!』。
何故、
正しく、
『二事』を以って、
『仏』を、
『請う!』のですか?
答曰。餘不須請。此二事要必須請。若不請而說。有外道輩言。體道常定何以著法多言多事。以是故須請而說。 答えて曰く、余は、請を須たず。此の二事は、要必(かなら)ず請を須つ。若し請わざるに、説かば、有る外道の輩は言わん、『道を体すれば、常に定まれり。何を以ってか、法に著して、多言多事なる。』と。是を以っての故に、請を須って説きたもう。
答え、
余の、
『事』は、
『請』を、
『須たない!』が、
此の、
『二事』は、
絶対に、
『請』を、
『須たなくてはならない!』。
若し、
『請われず!』に、
『法』を、
『説く!』ならば、
有る、
『外道の輩』は、
こう言うだろう、――
『道』を、
『体得した!』者に、
『法』は、
『常に!』、
『定まっている!』。
何故、
『法』に著して、
『言(ことば)』や、
『事(しごと)』が、
『多い!』のか?と。
是の故に、
『請』を須って、
『法』を、
『説かれる!』のである。
若有人言若知諸法相不應貪壽。久住世間而不早入涅槃。以是故須請。若不請而說。人當謂佛愛著於法欲令人知。以是故要待人請而轉法輪。 若しは、有る人言わん、『若し、諸法の相を知らば、応に寿を貪り、世間に久住して、早く涅槃に入らざるべからず。』と。是を以っての故に、請を須つ。若し請わざるに、説かば、人は、当に謂うべし、『仏は、法に愛著して、人をして、知らしめんと欲す。』と。是を以っての故に、要らず、人の請を待ちて、法輪を転じたもう。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
諸の、
『法』の、
『相』を、
『知った!』ならば、
当然、
『寿』を貪り、
『世間』に、
『久しく!』、
『住まって!』、
『涅槃』に、
『早く!』、
『入らないはずがない!』。
是の故に、
『請』を、
『須って!』、
『説かれる!』のである。
若し、
『請わない!』のに、
『法』を、
『説いた!』ならば、
『人』は、
こう謂うはずである、――
『仏』は、
『法』に、
『愛著している!』ので、
『人』にも、
『法』を、
『知らせたい!』のだろう、と。
是の故に、
要らず、
『人』が、
『請う!』のを、
『待って!』、
その後、
『法輪』を、
『転じられる!』のである。
諸外道輩自著於法。若請若不請而自為人說。佛於諸法不著不愛。為憐愍眾生故。有請佛說者佛便為說。諸佛不以無請而初轉法輪。 諸の外道の輩は、自ら法に著して、若しは請う、若しは請わざるに、自ら人の為に説く。仏は諸法に於いて著せず、愛せず、衆生を憐愍したもうが為の故に、仏に説くを請う者有らば、仏は便ち為に説きたもう。諸仏は、請無きを以っては、初めて法輪を転じたまわず。
諸の、
『外道の輩』は、
自ら、
『法』に、
『著する!』ので、
『請われても!』、
『請われなくても!』、
自ら、
『人』の為に、
『説く!』のであるが、
『仏』は、
諸の、
『法』を、
『著することもなく!』、
『愛することもなく!』、
但だ、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故にのみ、
有る、
『仏』に、
『説く!』ことを、
『請う!』者の為に、
すぐに、
『法』を、
『説かれる!』のであり、
諸の、
『仏』は、
『請』が、
『無ければ!』、
初の、
『法輪』を、
『転じられない!』のである。
如偈說
 諸佛說何實 
 何者是不實 
 實之與不實 
 二事不可得 
 如是真實相 
 不戲於諸法 
 憐愍眾生故 
 方便轉法輪
偈に説くが如し、
諸仏は、何なる実をか説きたもう、
何者なるか、是れ実にあらざる、
之を実とすると、実とせざると、
二事は、得べからず。
是の如き真実の相は、
諸法に戲れず、
衆生を憐愍するが故に、
方便して、法輪を転じたもう。
『偈』に説くとおりである、――
諸の、
『仏』が、
何のような、
『実』を、
『説かれた!』というのか?
何者を、
『実でない!』と、
『説かれた!』のか?
之が、
『実であろう!』と、
『実でなかろう!』と、
『二事』は、
『共に!』、
『得られない!』。
是のような、
『真実』の、
『相』は、
諸の、
『法』に、
『戲れたのではない!』、
但だ、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
『方便』の、
『法輪』を、
『転じられた!』のだ。
復次佛若無請而自說法者。是為自顯自執法。應必答十四難。今諸天請佛說法。但為斷老病死無戲論處。是故不答十四難無咎。以是因緣故須請而轉法輪。 復た次ぎに、仏は、若し請無くして、自ら法を説きたまわば、是れを、自ら、自らの法に執するを顕すと為し、応に必ず、十四難に答えたもうべし。今、諸天の仏に法を説きたまわんことを請えるは、但だ、老病死を断ぜんが為にして、戯論の処無し。是の故に、十四難に答えたまわずとも、咎無し。是の因縁を以っての故に、請を須ちて、法輪を転じたもう。
復た次ぎに、
『仏』が、
若し、
『請』が、
『無い!』のに、
自ら、
『法』を、
『説かれた!』ならば、
是れは、
自ら、
『法』に、
『執している!』ことを、
自ら、
『顕した!』ことになり、
当然、
『十四難』にも、
『答えられたはず!』である。
今、
『諸天』が、
『法』を、
『説くよう!』、
『請うた!』のは、
但だ、
『老病死』を、
『断じる!』為であり、
是の、
『法』には、
『戯論する!』ような、
『処』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『十四難』に、
『答えなくても!』、
『咎』は、
『無い!』、
是の、
『因縁』を以っての故に、
『請』を、
『須って!』、
『法輪』を、
『転じられる!』のである。
  十四難(じゅうしなん):答える意味の無い十四の難問。又十四無記ともいう。『大智度論巻2(下)記事:十四難、同巻7上注:十四無起』参照。
  十四無記(じゅうしむき):十四種の記答せざるものの意。また十四不可記、十四難とも名づく。即ち外道が顛倒の見を以って問難せる十四事に対し、捨置して答えざるをいう。十四種とは一に世間常、二に世間無常、三に世間亦常亦無常、四に世間非常非無常、五に世間有辺、六に世間無辺、七に世間亦有辺亦無辺、八に世間非有辺非無辺、九に如来死後有、十に如来死後無、十一に如来死後亦有亦非有、十二に如来死後非有非非有、十三に命身一、十四に命身異なり。「雑阿含経巻34」に、「その時、婆蹉種出家(梵vacchagotta paribbaajaka)は、仏所に来詣して世尊のために面相問訊し、問訊しおわりて退いて一面に坐し、仏に白して言さく、瞿曇、云何が瞿曇はかくの如きの見、かくの如きの説を作し、世間は常なり、これはこれ真実にして余は則ち虚妄となすや。仏、婆蹉種出家に告ぐ、われかくの如きの見、かくの如きの説を作さず、世間は常なり、これ則ち真実にして余は則ち虚妄なりと。云何が瞿曇、かくの如きの見、かくの如きの説を作すや、世間は無常なり、常無常なり、非常非無常なり。有辺なり、無辺なり、辺無辺なり、非辺非無辺なり。命即ちこれ身、命異身異なり。如来有後死、無後死、有無後死、非有非無後死なりと。仏は婆蹉種出家に告ぐ、われかくの如きの見、かくの如きの説を作さず、乃至非有非無後死なり」と云い、また「大智度論巻2」に、「問うて曰わく、十四難答えず、故に知る一切智人に非ず。何等か十四難なる、世界及び我は常なり、世界及び我が無常なり、世界及び我は亦有常亦無常なり、世界及び我は亦非有常亦非無常なり。世界及び我は有辺なり、無辺なり、亦有辺亦無辺なり、亦非有辺亦非無辺なり。死後、神の後世に去るあり、神の後世に去るなし、亦有神去亦無神去、死後亦非有神去亦非無神去なり。この身これ神、身異神異なり。もし仏は一切智人ならば、この十四難何を以って答えざるや。答えて曰わく、この事は実なきが故に答えず、諸法有常はこの理なく、諸法断もまたこの理なし。この故を以って仏答えず。譬えば人の牛角を搾りて幾升の乳を得るやと問うが如く、これ非問たり、まさに答うべからず」と云えるこれなり。これ外道が虚妄無実の事を問うにより、仏は即ちこれに対して答えざりしことを説けるものにして、四記答の中の捨置記答なり。この中、世間常とは外道が世間及び我は常住すると執するをいい、世間無常とは世間及び我は無常と執するをいい、世間亦常亦無常とは世間及び我に各麁細あり、その中、麁なるものは無常、細なるものは常と執するをいい、世間非常世間非無常とは、前の亦常亦無常は二倶に過あるが故にこれを非するをいう。ただし我あるを非とせず。世間有辺とは、世間及び我は有辺なりと執するものにして、即ち世間にはその起こるに始あり、また我は芥子の如く、或は微塵の如く分限ありと執するをいい、世間無辺とは世間に原始なく、その法はまた広多無量にして辺際なく、また我は虚空に遍じて処として有らざることなしと執するをいい、世間亦有辺亦無辺とは、世間は有辺亦無辺なり、また我の麁なるものは有辺、細なるものは無辺なりと執するをいい、世間非有辺非無辺とは、前の亦有辺亦無辺は二倶に過あるが故にこれを非するをいう。如来死後有とは即ち如来にして、前世より来たりてこの間に生ずるが如く、死後また去りて後世に向うことかくの如しと執するを云い、如来死後無とは即ち不如去にして、前世より来たりてこの間に生ずるも、死後断滅して前の如く去らずと執するをいい、如来死後亦有亦非有とは、身と我と合して人となる、我は前世より来たるが如く死後また去りて後世に向うも、身は断滅して後世に向かわずと執するをいい、如来死後非有非非有とは、前の亦有亦非有は二倶に過あるが故に、こえを非するをいう。ただし我の有を非するに非ず。命身一とは、身は即ち命(我)にして、命と身と一なりと執するをいい、命身異とは、身は麁なるが故に滅し、命は細なるが故に滅せず、即ちこの二は異なりと執するを云うなり。総じてこれ等は外道の断常一異等の妄見より生ずる邪執を挙げたるものにして、その中、前の十二は有無等の四句に約し、後の二は一異に約して分別せるなり。「新華厳経巻21」には、前の十二の中に就き更に世間と我とを分別して十六種となし「何等をか無記の法となす、謂わく世間は有辺なり、世間は無辺なり、世間は亦有辺亦無辺なり、世間は非有辺非無辺なり。世間は有常なり、せけんは無常なり。世間は亦有常亦無常なり、世間や非有常非無常なり。如来は滅後有なり、如来は滅後無なり、如来は滅後亦有亦無なり、如来は滅後非有非無なり。我及び衆生は有なり、我及び衆生は無なり、我及び衆生は亦有亦無なり、我及び衆生は非有非無なり」と云えり。また「増一阿含経巻43」、「大品般若経巻14」、「大般涅槃経巻39」、「大智度論巻7」、「顕揚聖教論巻6」、「倶舎論巻19」、「大乗義章巻6」、「華厳経探玄記巻6」等に出づ。<(望)
復次佛在人中生。用大人法故。雖有大悲不請不說。若不請而說。外道所譏。以是故初要須請。 復た次ぎに、仏は人中に生じて、大人法を用うるが故に、大悲有りと雖も、請わざれば説きたまわず。若し請わざるに説きたまわば、外道の譏(そし)る所とならん。是を以っての故に、是を以っての故に、初めに要らず、請を須ちたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
『人』中に、
『生まれられた!』ので、
『大人(大物)』の、
『法』を、
『用いられる!』が故に、
『大悲』が有っても、
『請わない!』時には、
『説かれない!』。
若し、
『請わない!』のに、
『説いた!』ならば、
『外道』に、
『譏(そし)られる!』だろう。
是の故に、
初めに、
要らず、
『請』を、
『須たれる!』のである。
  大人(だいにん):梵語mahaa- puruSaの訳。大人物、或いは著名人の義。
又復外道宗事梵天。梵天自請則外道心伏。 又復た外道は、梵天を宗事するに、梵天自ら、請わば、則ち外道は心伏せん。
又復た、
『外道』は、
『梵天』を、
『宗事している!』ので、
『梵天』が、
『自ら!』、
『請うた!』ならば、
則ち、
『外道』を、
『心伏させる!』ことになろう。
  宗事(しゅうじ):崇め仕えること。
復次菩薩法。晝三時夜三時常行三事。一者清旦偏袒右肩合掌禮十方佛言。我某甲。若今世若過世無量劫。身口意惡業罪。於十方現在佛前懺悔。願令滅除不復更作。中暮夜三亦如是。 復た次ぎに、菩薩法は、昼の三時と夜の三時に常に三事を行う。一には、清旦に、偏に右肩を袒ぎて合掌し、十方の仏を礼して言わく、『我れ某甲、若しは今世、若しは過世の無量劫の身口意の悪業の罪を、十方の現在の仏前に於いて、懺悔せん、願わくは滅除せしめて、復た更に作さざらしめたまえ。』と。中、暮と、夜の三も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『法』には、
『昼の三時』と、
『夜の三時』と、
常に、
『三事』を、
『行う!』のであるが、
一には、
『清旦(昼の一)』に、
『右肩』を、
『偏に!』、
『袒いで!』、
『合掌』し、
『十方』の、
『仏』を、
『礼して!』、
こう言う、――
わたくし、
『某甲』は、
『今世』や、
『過去世』の、
『無量劫』の、
『身口意』の、
『悪業』の、
『罪』を、
『十方』の、
『現在』の、
『仏』の、
『前』に於いて、
『懺悔します!』、
願わくは、
『罪』を、
『滅除して!』、
『新たな!』、
『罪』を、
『作らせないようさせたまえ!』と。
『中(昼の二)』と、
『暮(昼の三)』と、
『夜の三時』も、
亦た、
是の通りである。
  清旦(しょうたん):早朝。昼の第一時。
  懺悔(さんげ):過去の非を悔謝して其の忍容を請うの意。『大智度論巻2上注:懺悔』参照。
  (ちゅう):日中。昼の第二時。
  (ぼ):日没。昼の第三時。
二者念十方三世諸佛所行功德及弟子眾所有功德。隨喜勸助。 二には、十方の三世の諸仏の所行の功徳、及び弟子衆の所有の功徳を念じて、随喜し、勧助す。
二には、
『十方』の、
『三世』の、
『諸仏』の、
『行う!』所の、
『功徳』を念じて、
『随喜』し、
『勧助』して、
及び、
『弟子衆』の、
『有する!』所の、
『功徳』を念じて、
『随喜』し、
『勧助』する!。
  随喜(ずいき):梵語anumodanaの訳。巴梨語同じ。賛同の義。随順して歓喜するの意。即ち他の作せる善根功徳に就き従順して心に歓喜を生ずるを云う。「大品般若経巻11随喜品」に、「是の菩薩摩訶薩は福徳を随喜し、一切衆生と之を共にして阿耨多羅三藐三菩提に迴向せば、その福は最上第一最妙無上にして、与に等しきものなし」と云い、「法華経巻6随喜功徳品」に、「如来の滅後に若し比丘比丘尼優婆塞優婆夷、及び余の智者の若しは長、若しは幼なるあり、是の経を聞きて随喜し已り、法会より出でて余処に至り、若しは僧坊、若しは空閑の地、若しは城邑巷陌聚落田里に在りて、其の所聞の如く父母宗親善友知識の為に方に随って演説せんに、是の諸人等聞き已り、随喜して復た行きて転教し、余人聞き已りて亦随喜して転教し、是の如く展転し、第五十に至らん。(中略)阿逸多、是の如く第五十の人の展転して法華経を聞き、随喜せる功徳は尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況んや最初会中に於いて聞きて随喜せる者をや。其の福復た勝ること無量無辺阿僧祇にして比すことを得べからず」と云える是れなり。「大智度論巻61」に随喜の義を解し、「随喜の福徳とは身口業を労して諸の功徳を作さず、但だ心の方便を以って他の修福を見て、随って歓喜して是の念を作さく、一切衆生の中に能く福を修し道を行ずる者を最も殊勝と為す。若し福徳を離るるの人は畜生と与に同じく三事を行ず、三事とは婬欲と飲食と戦闘となり。能く福徳を修行し道を行ずるの人は、一切の衆生に共に尊重愛敬せらる。譬えば熱時に清浄なる満月は楽仰せざることなきが如く、亦大会の集まるを告げ、伎楽餚饌畢く備わらざることなく、遠近の諸人咸く共に欣びて赴くが如し。修福の人も又復た是の如し。(中略)諸の菩薩摩訶薩は十方三世の諸仏及び菩薩声聞辟支仏、及び一切修福の衆生の布施持戒修定慧に於いて、此の福徳の中に於いて随喜福徳を生ず。是の故に随喜と名づく。(中略)問うて曰く、仏道を求むる者、何を以って自ら功徳を作さず、而も心に随喜を行ずるや。答えて曰く、諸の菩薩は方便力を以って、他の勤労して作せる功徳に能く中に於いて随喜を起さば、福徳は自作の者に勝る。復た次ぎに随喜の福徳は即ち是れ実の福徳なり。所以は何ん、過去仏を念ずるは即ち是れ念仏三昧なり。亦是れ六念の中の念仏念法念僧、念戒念捨念天等なり。清浄戒を行ずるに因りて禅定に入り、畢竟智慧を起して和合するが故に能く正随喜を起す。是の故に但だ随喜するのみに非ず、亦是れ実法を行ず」と云えり。是れ福徳を行ずるの人は諸人の尊重愛敬する所となることを説き、又彼の福徳を随喜すれば其の功徳は自作者に勝り、且つ随喜の福徳は即ち実徳なることを明にしたるものなり。又「法華玄賛巻10」には随喜に通別の二種あることを説き、他の所作の福を見聞覚知して皆随って歓喜するを通随喜とし、五十功徳の説に依りて、特に法華経を聞いて随って歓喜するを別随喜となすと云い、又大小二乗の随喜の不同を説き、大乗の随喜は広く三世十方仏及び弟子に通ずるも、小乗は唯三世仏に局り、大乗は法身の功徳を随喜するも、小乗は唯迹身の功徳に限り、大乗は薩婆若に廻向して一切智に趣くも小乗には此の事なく、大乗は漏無漏に通ずるも小乗は唯有漏心に局るとなし、又随喜は正しく化他門なりと雖も、自ら嫉妬煩悩を除き、福徳を求めんと欲するが故に亦自行門にも通ずと云えり。又随喜は五悔の一にして、「修懺要旨」に、「随喜は則ち他の修善を嫉むの愆を滅す」と云い、天台家には又之を五品弟子位の初品となせり。又「大般涅槃経巻1寿命品」、「大乗三聚懺悔経」、「瑜伽師地論巻44」、「摩訶止観巻7下」、「同輔行伝弘決巻7四」、「法華経文句巻10上」、「法華経玄賛巻10本」、「観経散善義」等に出づ。<(望)
  勧助(かんじょ):梵語pariNaamayatの訳。喜んで容認するの義。他人の善行を勧め助けるの意。随喜。
三者勸請現在十方諸佛初轉法輪。及請諸佛久住世間無量劫度脫一切。菩薩行此三事功德無量轉近得佛。以是故須請 三には、現在の十方の諸仏に、初めて法輪を転ぜんことを勧請し、及び諸仏に世間に久住すること無量劫にして、一切を度脱せんことを請う。菩薩は、此の三事を行う功徳無量なれば、転(うた)た近づきて、仏を得る。是を以っての故に、請を須つ。
三には、
『現在』の、
『十方』の、
『諸仏』に、
初の、
『法輪』を、
『転じられる!』よう、
『請い!』、
及び、
『諸仏』に、
『世間』に、
『無量劫』、
『久住して!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱せられる!』ことを、
『請う!』。
『菩薩』は、
此の、
『三事』を、
『行う!』と、
『功徳』が、
『無量であり!』、
次第に、
『仏』を、
『得る!』ことに、
『近づく!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『請』を、
『須たれる!』のである。



種種の見、纏と、諸の煩悩を断つことができる

【經】能斷種種見纏及諸煩惱 能く種種の見、纏、及び諸の煩悩を断つ。
種種の、
『見』と、
『纏』と、
諸の、
『煩悩』とを、
『断つことができた!』。
  (けん):梵語達利瑟致dRSTiの訳語にして、観視の義、或は推度の義なり。「大毘婆沙論巻95」に見を釈するに所説あり、その中、一説に見に四事あり、一に観視とはよく所応取の境を観視するをいい、二に決度とは性猛利にして、よく所応取の境を決度するをいい、三に堅執とは自境に於いて堅固に僻執し、聖道の剱に非ざれば捨てしむる能わざるをいい、四に深入とは所縁に於いて鋭利に深入すること、針の泥に堕するが如くなるをいうと云い、また一説には照燭、推求の二事あるを見と名づくと云えり。「倶舎論巻2」に、「眼の全はこれ見なり、法界の一分の八種はこれ見なり。余は皆見に非ず。何等をか八と為す、謂わく身見等の五染汚見と、世間の正見と、有学の正見と、無学の正見となり。法界の中に於いてこの八はこれ見なり。諸余は見に非ず」と云えり。この中、眼の全とは眼界の全分をいう。眼は色に対してこれを観照するの用あるが故に、即ち総て見と名づく。ただしかくの如く眼根よく見るを云うは、即ち世友の説にして、これを根見家と称す。即ち説一切有部の正義なり。然るに法救は眼識よく見るとす、これ識見家なり。また妙音は眼識相応の慧よく見るとし、譬喩者は眼識同時の心心所法和合してよく見ると為せり。法界の一分たる八見の中、五汚染見とは身、辺、邪、取、戒の五見をいい、世間の正見とは意識相応の善の有漏慧をいい、有学の正見とは有学身中の諸の無漏見をいい、無学の正見とは無学身中の諸の無漏見をいう。これ皆慧の性にして、審慮を先とし決度するが故に見と名づく。余の五識と倶なる慧、及び尽無生智等は、推度に非ざるが故に見と名づけず。総じてこれを云わば、眼根と無漏の忍とは見にして智に非ず。有学の無間と解脱との二道は皆見なり、無学果を得る時、所作すでに辨じ加行止息するが故に、見を無間道となし、智を解脱道となす。後に勝功徳を起す時、また推度あるが故に即ち見あるなり。またこの中、眼を見と名づくるは、観視または照燭の義に由り、身、辺等を見と名づくるは、並びに上の四義及び二義に由るなり。また「成唯識論巻2」に見分を釈して「ここに見と言うは、これ能縁の義なり」と云い、同述記巻3上に「ここに見と言うは、よく境を縁ずるの義なり、心心所に通ず。推求の義には非ず。推求の義はただ慧の能たるが故なり」と云えるは、広く八識心王及び心所の能縁の行相を称したるものにして、恐らく観視の義に相当するものなるべし。また諸経論に主として推度の意に依りて、多く諸見を分別せり。即ち「大般涅槃経巻27」、「大智度論巻7」等に断常二見を説き、「増一阿含経巻7」に有無の二見を挙げ、その中、有見に欲有見、色有見、無色有見の三種、無見に有常見、無常見、有断滅見、無断滅見、有辺見、無辺見、有身見、無身見、有命見、無命見、異身見、異命見等の別ありとし、また「成実論巻15智相品」には世間出世間の二の正見を明し、「大乗起信論」には人我、法我の二見を説き、「大毘婆沙論巻95」、「大智度論巻7」等には身、辺、邪、取、戒の五見を出し、「梵網六十二見経」には六十二見の説を為し、「十巻楞伽経巻1」には百八見を列ね、その他、染汚見、不染汚見、善見、悪見、空見、知見、慧見、現見、真見、妄見等の称あり。また「大般涅槃経巻25」、「品類足論巻3」、「大毘婆沙論巻13、巻49、巻94」、「成実論巻10」、「雑阿毘曇心論巻1、巻4」、「倶舎論巻19」、「成唯識論巻6」、「大乗義章巻6」等に出づ。<(望)『大智度論巻3(下)注:見』参照。
  (てん):梵語paryavasthaanaの訳語にして、纏縛の義なり。即ち心を纏縛して修善を障礙する随煩悩をいう。「入阿毘曇心論巻上」に、「身心の相続を纏縛するが故に名づけて纏と為す」と云い、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」に、「数数増益して心を纏繞するが故に纏と名づく。この諸纏数数増益して、一切の観行者の心を纏繞するに由り、善品を修するに於いて障礙と為るが故なり」と云えるこれなり。蓋し一切の煩悩には皆纏の義あるも、その中、諸経論には勝なるものを立てて纏となし、その数同じからず。即ち「雑阿含経巻33、巻35」には貪欲、瞋恚、睡眠、掉挙、悔、疑の六種を以って纏となし、「品類足論巻1」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」等には、惛沈、睡眠、掉挙、悪作、嫉、慳、無慚、無愧の八種を以って纏となし、「倶舎論巻21」等には、この八種に忿と覆とを加えて十纏となせり。就中、十纏は欲漏の四十一、欲暴流の二十九法に摂せらる。これ即ち惛沈、掉挙の二は三界繋なるも、余は皆ただ欲界繋の随煩悩なるが故なり。また「倶舎論巻19」には経部の説を挙げ「煩悩の睡位を説きて随眠と名づく、覚位の中に於いては即ち纏と名づくるが故なり。何をか名づけて睡と為す、謂わく現行せずして種子随逐するなり。何をか名づけて覚と為す、謂わく諸の煩悩現起して心を纏するなり」と云えり。これ煩悩の種子位を随眠と名づけ、これに対し現行位を纏となすの説なり。また「大毘婆沙論巻48、巻50」、「瑜伽師地論巻89」、「雑阿毘曇心論巻4」、「順正理論巻54」、「倶舎論光記巻21」、「雑集論述記巻8」等に出づ。<(望)『大智度論巻3(下)注:纏』参照。
  諸の煩悩:『大智度論巻3(下)注:煩悩』参照。
【論】見有二種。一者常二者斷。常見者見五眾常心忍樂。斷見者見五眾滅心忍樂。一切眾生多墮此二見中。菩薩自斷此二。亦能除一切眾生二見令處中道。 見には二種有り、一には常、二には断なり。常見とは、五衆の常を見て、心に忍(みと)め楽しむ。断見とは、五衆の滅を見て、心に忍め楽しむ。一切の衆生は、多く此の二見中に堕す。菩薩は、自ら此の二を断ち、亦た能く一切の衆生の二見を除きて、中道に処(お)らしむ。
『見』には、
『二種』有り、
一には、『常!』、
二には、『断!』である。
『常見』とは、
『五衆(色受想行識)』の、
『常(常住)』を、
『見て!』、
『心』に、
『忍(みと)めて!』、
『楽しむ!』ことをいい、
『断見』とは、
『五衆』の、
『滅(断滅)』を、
『見て!』、
『心』に、
『忍めて!』、
『楽しむ!』ことをいう。
一切の、
『衆生』は、
多くが、
此の、
『二見』中に、
『堕ちている!』が、
『菩薩』は、
自ら、
此の、
『二見』を、
『断ち!』、
亦た、
一切の、
『衆生』の、
『二見』を、
『除いて!』、
『衆生』を、
『中道』に、
『処()らせることができる!』。
  忍楽(にんらく):容認して楽しむ。
復有二種見。有見無見。 復た二種の見有り、有見と無見となり。
復た、
『見』には、
『二種』有り、
一には、『有見』、
二には、『無見』である。
  (う):梵語bhavaの訳語にして、異熟の果体、及びよくこれを引く業等をいう。「大毘婆沙論巻60」に、有の語に多種の義あることを説き、欲有、色有、無色有並びに本有、死有、中有、生有等の有は衆同分及び随衆同分の有情数の五蘊を指すと云い、また有は一切の有漏法を意味すとし、識食よく後有をして生起せしむと説くが如きは、即ち結生の心及び眷属を名づけて有とし、業よく後有をして相続せしむ、これを有と名づくと説くが如きは、即ち後有を引く思を名づけて有とし、取は有に縁たりと説くが如きは、阿毘達磨の諸論師は時分の五蘊を名づけて有となすとし、尊者妙音はよく後有を引く諸業を有と名づくとす。また地獄有、傍生有、鬼界有、天有、人有、業有、中有の七有の中、初の五有は五趣を名づけて有とし、業有は彼の五趣の因なるが故に有とし、中有は彼の方便なるが故に有とす。また諸業の欲界繋なるものは取を縁となしてよく後生に趣く等を欲有となすと説くは、即ち業及び異熟を名づけて有となすなりと云えり。これに依るに有には多種の義あるも、主として有情異熟の果体たる衆同分(有情をして同等類似の果報を得しむる因)及び随衆同分の有情数の五蘊を指し、またこの異熟の果を引くべき諸業をも有と名づけたるを知るべし。「倶舎論巻9」に、「よく当有の果を牽く業を積集す、この位を有と名づく。この業力に由りて、これより捨命して正しく当有を結す」と云い、また「成唯識論巻8」に、「愛と取と合して能引の業種を潤し、及び所引の因転ずるを名づけて有となす。倶によく近く後有の果を有するが故なり」と云えるは、共に即ち当果を引くべき業を有と名づけたるなり。十二因縁中にはこれを立てて有支とす。また三界中に於いて特に色無色の二界、或はただ無色界を称して有と呼ぶことあり、即ち上二界の貪を有貪、上二界の煩悩を有漏、また無色界の愛を有愛と名づくる如きその例なり。これ外道凡夫等が上二界の天を執して解脱の想をなすが故に、その執情を遮遣し、彼の処は即ち有漏迷界なるを示さんとするの意に出でたるなり。また有の語は無または空に対し、諸法の存在を顕すの意にも用いらる。「成唯識論巻2」に、「且らく定有の法に略して三種あり、一に現所知の法なり、色心等の如し。二に現に受用する法なり、瓶衣等の如し。かくの如きの二法は世共に有と知る。因成を待たず。三に作用ある法なり、眼耳等の如し。彼彼の用に由りてこれ有なりと証知す」と云い、同巻8に「依他起性は、(中略)聚集相続の分位の性の故に、説いて仮有と為す」と云い、また「円成実性はただこれ実有なり。他縁に依りて施設せざるが故に」と云えり。これ等は諸法の存在を名づけて有とし、且つその中に仮有実有等の別ありとなすの説なり。ただしこの中、真如即ち円成実性は、この体遍常にして生滅なく、諸法の実性として存在するが故に実有というも、説一切有部の謂わゆる三世実有等の意に同じからず。故に唯識家にては特にこれを妙有、または真有と称せり。また「集異門足論巻4」、「大毘婆沙論巻192」、「倶舎論巻19」、「阿毘達磨順正理論巻45」、「成唯識論巻9」、「大智度論巻3」、「大乗義章巻8」等に出づ。<(望)
  (む):梵語abhavaの訳。有に非ざるを云う。有に対す。
復有三種見。一切法忍一切法不忍一切法亦忍亦不忍。 復た三種の見有り、一切法を忍む、一切法を忍めず、一切の法を亦た忍め、亦た忍めず。
復た、
『見』には、
『三種』有り、
一切の、
『法』を、
『容認する!』、
一切の、
『法』を、
『容認しない!』、
一切の、
『法』を、
『容認することもあり!』、
『容認しないこともある!』。
  (にん):梵語kSaantiの訳。忍耐の義。容認、忍従、順忍等の意。
  不忍(ふにん):梵語akSaantiの訳。忍無きの義。忍に対す。
復有四種見。世間常世間無常世間亦常亦無常世間亦非常亦非無常。我及世間有邊無邊亦如是。有死後如去。有死後不如去。有死後如去不如去。有死後亦不如去亦不不如去。 復た四種の見有り、世間は常なり、世間は無常なり、世間は亦た常にして、亦た無常なり、世間は亦た常に非ずして、亦た無常に非ず。我、及び世間の有辺、無辺も亦た是の如し。死後の如去有り、死後の如去ならざる有り、死後の如去と、如去にあらざると有り、死後に有るは、亦た如去にあらずして、亦た如去にあらざるにあらず。
復た、
『見』には、
『四種』が有り、
『世間』は、
『常である!』、
『無常である!』、
『常のこともあり!』、『無常のこともある!』、
『常でもなく!』、『無常でもない!』、
『我、及び世間』は、
『有辺である!』、
『無辺である!』、
『有辺のこともあり!』、『無辺のこともある!』、
『有辺でもなく!』、『無辺でもない!』、
『死後』に有るのは、
『如去である!』、
『如去でない!』、
『如去のことももあり!』、『如去でないこともある!』、
『如去でもなく!』、『如去でないでもない!』。
  如去(にょこ):梵語tathaagataの訳。是の如く去れり。或いは実相中に去りし者の意。『大智度論巻42下注:如来』参照。
  四句分別(しくふんべつ):梵語caatuS- koTika- vikalpaの訳。即ち一切法をA、B二法に約するとき、四句を ( 1 ) A 、 ( 2 ) B 、 ( 3 ) 亦A亦B ( Both A and B ( A or B ) ) 、 ( 4 ) 非A非B ( Neither A nor B ( nonA and nonB ) ) となし、是れを四句分別と称す。即ち相待する二法、謂わゆる非有を無となし、非無を有となすが如き、或いは非常を無常となし、非無常を常となすが如き、是の如き二法の分別に関し、上記の四法はその分別の総体を能く摂す。故に是れを四句分別と名づく。『大智度論巻1上注:四句分別』参照。
  参考:『小品般若経巻5小如品』:『復次須菩提。如來因般若波羅蜜。知眾生諸出沒。云何知出沒。眾生所起出沒皆依色生。依受想行識生。何等是諸出沒。所謂我及世間常。是見依色。依受想行識。我及世間無常。常無常非常非無常。是見依色。依受想行識。世間有邊。世間無邊。有邊無邊。非有邊非無邊。是見依色。依受想行識。死後如去。死後不如去。死後如去不如去。死後非如去非不如去。是見依色。依受想行識。身即是神。是見依色。依受想行識。身異神異。是見依色。依受想行識。如是須菩提。如來因般若波羅蜜。知眾生諸出沒。』
 
復有五種見。身見邊見邪見見取戒取。如是等種種諸見。乃至六十二見斷。 復た五種の見有り、身見、辺見、邪見、見取、戒取なり。是の如き等の種種の諸見、乃至六十二見を断てり。
復た、
『見』には、
『五種』有り、
『身見』と、
『辺見』と、
『邪見』と、
『見取』と、
『戒取』である。
是れ等の、
種種の、
諸の、
『見』は、
『六十二見』に、
『至るまで!』、
『断たれた!』。
  身見(しんけん):梵語satkaaya- dRSTiの訳。我の存在の有無等に関する見解。五見の一。十使の一。『大智度論巻35下注:五見、同巻41下注:十結』参照。
  辺見(へんけん):梵語anta- graaha- dRSTiの訳。死後の存在の有無等に関する見解。五見の一。十使の一。『大智度論巻35下注:五見、同巻41下注:十結』参照。
  邪見(じゃけん):梵語mithyaa- dRSTiの訳。因果の道理を否定する見解。五見の一。十使の一。『大智度論巻35下注:五見、同巻41下注:十結』参照。
  見取(けんしゅ):梵語dRSTi- paraamarzaの訳。自見に対する執著。五見の一。十使の一。『大智度論巻35下注:五見、同巻41下注:十結』参照。
  戒取(かいしゅ):梵語ziila- vrata- paraamarzaの訳。持戒に対する執著。五見の一。十使の一。『大智度論巻35下注:五見、同巻41下注:十結』参照。
  六十二見(ろくじゅうにけん):外道の所執に総じて六十二種の別あるを云う。『大智度論巻5下注:六十二見』参照。
如是諸見種種因緣生。種種智門觀。種種師邊聞。如是種種相能為種種結使作因。能與眾生種種苦。是名種種見。見義後當廣說。 是の如き諸の見は、種種の因縁の生、種種の智門の観、種種の師辺の聞にして、是の如き種種の相は、能く種種の結使の為の因と作り、能く衆生に、種種の苦を与う。是れを種種の見と名づく。見の義は、後に当に広く説くべし。
是のような、
諸の、
『見』は、
種種の、
『因縁』より、
『生じ!』、
種種の、
『智門』より、
『観て!』、
種種の、
『師の辺』に、
『聞く!』ものであるが、
是のような、
種種の、
『相』が、
種種の、
『結使』の為の、
『因』と、
『作る!』のであり、
『衆生』に、
種種の、
『苦』を、
『与える!』のであり、
是れを、
種種の、
『見』と、
『称する!』のである。
『見』の、
『義』は、
『後に!』、
『広く説く!』ことになろう。
纏者十纏。瞋纏覆罪纏睡纏眠纏戲纏掉纏無慚纏無愧纏慳纏嫉纏。 纏とは、十纏にして瞋纏、覆罪纏、睡纏、眠纏、戲纏、掉纏、無慚纏、無愧纏、慳纏、嫉纏なり。
『纏』とは、
『十纏』であり、
『瞋纏(怒り)』、
『覆罪纏(罪をかくす)』、
『睡纏(善法に於いて怠惰)』、
『眠纏(心が煩悩に覆われて愚昧となる)』、
『戲纏(悪を作して追悔する)』、
『掉纏(心を擾乱して寂静ならざらしむ)』、
『無慚纏(悪を作すに自ら顧みて恥じない)』、
『無愧纏(悪を作すに他に観られて恥じない)』、
『慳纏(財及び法を施すに悋著する)』、
『嫉纏(他の興盛なるを喜ばない)』である。
  十纏(じってん):十種の纏の意、即ち貪等の随眠より等流して纏縛すること最も重き十種の随煩悩をいう。一に無慚(梵aahriikya)、二に無愧(梵an- apatraapya)、三に嫉(梵iirSyaa)、四に慳(梵maatsarya)、五に悔(梵kaukRtya)、六に睡眠(梵middha)、七に掉挙(梵auddhatya)、八に惛沈(梵styaana)、九に忿(梵krodha)、十に覆(梵mrakSa)なり。「大毘婆沙論巻47」に、「随眠に由るが故に十纏を引起す」と云い、「倶舎論巻21」に、「纏に八あり、無慚愧と嫉と慳と、并びに悔と眠及び掉挙と惛沈となり。或は十あり、忿と覆とを加う」と云えるこれなり。この中、無慚とは諸の功徳及び有徳の者に於いて敬崇なく、却ってこれを忌難し、自ら顧みて恥なきをいい、無愧とは罪に於いて怖れず、他に観待して恥なきをいい、嫉とは他の興盛の事に於いて心をして喜ばざらしむるをいい、慳とは財及び法を施さず、心をして悋著ならしむるをいい、悔とは悪所作を縁じて追悔する中、染汚の性なるものをいい、睡眠とは心をして昧略ならしむる中、染汚の性なるものをいい、掉挙とは心をして寂静ならざらしむるをいい、惛沈とは善法に於いて身心をして無堪住ならしむるをいい、忿とは瞋及び害を除き、有情非情に於いて心をして憤発せしむるをいい、覆とは自己の罪過を覆蔵するをいうなり。この中、無慚無愧は大不善地法、嫉と慳とは小煩悩地法、悔及び眠は不定地法、掉挙及び惛沈は大煩悩地法の所摂なり。また無慚と慳及び掉挙は貪の等流、無愧と眠及び惛沈は無明の等流、嫉と忿とは瞋の等流、悔は疑の等流なり。覆に関しては異説あり、ある説は貪の等流、ある説は癡の等流、如是説者は二の等流なりとす。「大毘婆沙論巻47」に、「まさにこの説を作すべし、これ二の等流なり。或は名利を貪りて自罪を覆蔵し、或は無知に由りて罪を覆蔵するが故なり」と云えるその意なり。またその所断に関し「倶舎論巻21」に、無慚等の五は二部の煩悩と相応して起こるが故に見修所断に通じ、余の嫉、慳、悔、忿、覆の五は、自在起なるが故にただ修所断なりとなせり。また「大智度論巻7」に、「纏とは十纏、瞋纏、覆罪纏、睡纏、眠纏、戯纏、掉纏、無慚纏、無愧纏、慳纏、嫉纏なり」と云えるは、この中、瞋纏は上に所載の忿に、覆罪纏は覆に、睡纏は惛沈に、眠纏は睡眠に、戯纏は悔に、掉纏は掉挙に、無慚纏は無慚に、無愧纏は無愧に、慳纏は慳に、嫉纏は嫉に相応するものにして、特に悔に就きて大智度論にこれを戯纏と為せるは、蓋し悔とは善悪の所作を悔ゆるをいい、即ちその行いの戯に似たるを以って、かくの如く云えるものなり。また「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻50」、「雑阿毘曇心論巻4」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「大智度論巻7」、「順正理論巻54」、「大乗義章巻6」、「倶舎論光記巻21」等に出づ。<(望)
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻26』:『纏者十纏。謂忿乃至無愧。忿纏。[怡-台+疾]纏依於恚。覆纏或有說依於愛者。所以者何。以愛故覆藏其罪。或有說依無明。所以者何。以無知覆藏其罪。睡纏眠纏無慚纏依無明。掉纏慳纏無愧纏依愛。悔纏依疑。』
復次一切煩惱結繞心故。盡名為纏。 復た次ぎに、一切の煩悩は、心を結繞するが故に、尽く名づけて、纏と為す。
復た次ぎに、
一切の、
『煩悩』は、
『心』に、
『結繞する(つきまとう)!』が故に、
尽くを、
『纏』と、
『称する!』。
  結繞(けつにょう):梵語parivaaryaの訳。結びついてつきまとうの義。
煩惱者能令心煩能作惱故。名為煩惱。煩惱有二種。內著外著。內著者五見疑慢等。外著者婬瞋等。無明內外共。 煩悩とは、能く心をして煩(わずら)わしめ、能く悩を作すが故に、名づけて煩悩と為す。煩悩には、二種有り、内に著し、外に著す。内に著すとは、五見、疑、慢等なり。外に著すとは、婬、瞋等なり。無明は内外共あり。
『煩悩』は、
『心』を、
『煩(わずら)わしくさせ!』、
『悩ませる!』ので、
故に、
『煩悩』と、
『称する!』。
『煩悩』には、
『二種』有り、
『内』に、
『著する!』、
『煩悩』と、
『外』に、
『著する!』、
『煩悩』である。
『内』に、
『著する!』、
『煩悩』とは、
『五見(身見、辺見、邪見、見取、戒取)』と、
『疑』と、
『慢』等である。
『外』に、
『著する!』、
『煩悩』とは、
『婬』、
『瞋』等である。
『無明』は、
『内』と、
『外』と、
『共通』の、
『煩悩』である。
  (ぎ):梵語vicikitsaaの訳。錯誤、疑惑、疑問等の義。因果の理に迷惑するの意。『大智度論巻3下注:疑』参照。
  (まん):梵語maanaの訳。慢心、傲慢等の義。他に対して自ら挙恃するの意。『大智度論巻49下注:慢』参照。
復有二種結。一屬愛二屬見。 復た二種の結有り、一には、愛に属し、二には、見に属す。
復た、
『結』には、
『二種』有り、
一には、
『愛』に、
『属する!』、
『結』、
二には、
『見』に、
『属する!』、
『結』である。
  (けつ):梵語saMyojanaの訳語、結集の義、結縛の義にして、即ち煩悩の異名なり。煩悩の因と為りて生死に結集するが故に結といい、衆生を繋縛して解脱せしめざるが故に結という。即ち生死の因と為すなり。<(丁)『大智度論巻3(下)注:結』参照。
復有三種屬婬屬瞋屬癡。是名煩惱。 復た三種有り、婬に属し、瞋に属し、癡に属す、是れを煩悩と名づく。
復た、
『三種』有り、
『婬()』に、
『属する!』もの、
『瞋()』に、
『属する!』もの、
『癡(無明)』に、
『属する!』もの、
是れを、
『煩悩』と、
『称する!』。
纏者有人言十纏。有人言五百纏。 纏とは、有る人は、十纏と言い、有る人は、五百纏と言う。
『纏』を、
有る人は、
『十纏』だ!と、
『言い!』、
有る人は、
『五百纏』だ!と、
『言っている!』。
煩惱名一切結使。結有九結。使有七。合為九十八結。 煩悩を、一切の結、使と名づく。結には九結有り、使には、七有り、合して九十八結と為す。
『煩悩』とは、
一切の、
『結』と、
『使』である。
『結』には、
『九結』が有り、
謂わゆる、
『愛結』、『恚結』、『慢結』、『疑結』、『見結』、『取結』、『嫉結』、『見結』である。
『使』には、
『七使』が有り、
謂わゆる、
『欲愛使』、『瞋恚使』、『慢使』、『見使』、『疑使』、『有欲使』、『無明使』である。
『総合』すれば、
『九十八結』が有る。
  使(し):煩悩の異名。喩えに就き以って煩悩に名づく。世の公使の罪人に随逐しこれを繋縛するが如く、煩悩もまた行人に随逐し、三界に繋縛して出離せしめず、故に使と名づく。また使とは、駆役の義なり、煩悩はよく人を駆役するが故にこれを使という。「大乗義章巻6」に、「使とは地論に説くが如く、随逐繋縛の義にして、これを名づけて使と為す。蓋し乃ち喩に就き以って煩悩に名づく。世の公使の罪人に随逐し便ち繋縛することを得るが如く、煩悩もまた然り、久しく行人に随い、三有に繋縛して出離せしめず、故に名づけて使と為す。毘曇成実もまたこの説に同じ。故に雑心に、使の随逐すること空行の影の水行に随う(鳥の魚を逐う)が如しと云い、成実に説きて、使の随逐すること母の子に随うが如しと言うなり。」と云えるこれなり。<(丁)『大智度論巻3(下)注:使』参照。
  九結(くけつ):九種の結縛を云う。即ち愛、恚、慢、癡、見、取、疑、嫉、慳なり。『大智度論巻3下注:九結』参照。
  七使(しちし):人を使役して三界に繋縛せしむる煩悩に七種の別あるを云う。即ち欲愛使(欲染使)、瞋恚使、慢使、見使、疑使、有欲使、無明使なり。『大智度論巻2上注:七使』参照。
  九十八結(くじゅうはちけつ):又九十八随眠、九十八使ともいう。『大智度論巻7上注:九十八随眠』参照。
  九十八随眠(くじゅうはちずいみん):九十八種の随眠の意。又九十八使、九十八結ともいう。煩悩の異名。常に人に随逐するが故に、之を隨と謂い、其の状態の幽微難知なること眠性の如くなるが故に之を眠と謂う。即ち貪、瞋、癡、慢、疑、身、辺、邪、取、戒の十随眠を三界五部(見苦、見集、見滅、見道、修)に配当せるもの。即ち欲界見苦所断に十種、見集及び見滅所断に七種(身、辺、戒を除く)、見道所断に八種(身、辺を除く)、並びに欲界修所断に四種(貪、瞋、癡、慢)、合して欲界に三十六種あり、色無色界には瞋なきが故に、五部にこれを減じて、各三十一種あり、故に計九十八種を成ず。即ち見惑八十八使に修惑の十随眠を加えたるなり。「品類足論巻3」、「阿毘達磨発智論巻5」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「大毘婆沙論巻46」、「倶舎論巻19」等に出づ。<(丁)
如迦旃延子阿毘曇義中說。十纏九十八結為百八煩惱。犢子兒阿毘曇中結使亦同。纏有五百。如是諸煩惱。菩薩能種種方便自斷。亦能巧方便斷他人諸煩惱。 迦旃延子阿毘曇義中に説くが如きは、『十纏、九十八結を百八煩悩と為す。』と。犢子児阿毘曇中の結使も亦た同じく、『纏に五百有り。』とす。是の如き諸の煩悩を、菩薩は、能く種種の方便もて、自ら断ち、亦た能く巧みに方便して、他人の諸の煩悩をも断たしむ。
例えば、
『迦旃延子阿毘曇義』中には、
こう説く、――
『十纏』と、
『九十八結』とを、
『百八煩悩』と、
『称する!』、と。
『犢子児阿毘曇(舎利弗阿毘曇論?)』中の、
『結使』も、亦た同じように、――
『纏』には、
『五百』を、
『有する!』とする。
是のような、
諸の、
『煩悩』を、
『菩薩』は、
種種の、
『方便』で、
『自ら!』も、
『煩悩』を、
『断ち!』、
亦た、
巧みな、
『方便』で、
『他人』の、
諸の、
『煩悩』をも、
『断たせる!』のである。
  参考:『阿毘曇甘露味論巻上』:『三界有百八煩惱。九十八結十纏是煩惱何處生。是說有漏法。亦名受陰及煩惱處。』
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻26』:『三漏。欲漏有漏無明漏。問曰。此三漏體性是何。答曰。有百八種。欲漏有四十一種。欲愛有五種。恚有五種。慢有五種。見有十二種。疑有四種。纏有十種。此四十一種。是欲漏體。有漏有五十二種。愛有十種。慢有十種。疑有八種。見有二十四種。此五十二種。是有漏體。無明漏有十五種。欲界無明有五。色界無明有五。無色界無明有五此十五種。是無明漏體。此百八種。是三漏體。亦名百八煩惱。波伽羅那經亦說。云何欲漏。答言。除欲界繫無明。諸餘欲界繫結縛使垢纏。是名欲漏。云何有漏。除色無色界繫無明。諸餘色無色界繫結縛使垢纏。是名有漏。云何無明漏。答言。三界無知。是名無明漏。無明漏。是三界無知。如是說者好。若作是說。云何無明漏。答言。緣三界無知。作是說者。則不攝無漏緣使。所以者何。無漏緣使。不緣在三界法。』
如佛在時三人。為伯仲季。聞毘耶離國婬女人。名菴羅婆利。舍婆提有婬女人。名須曼那。王舍城婬女人。名優缽羅槃那。 仏の在時の三人の如きを、伯、仲、季と為す。毘耶離国の婬女人を、菴羅婆利と名づけ、舎婆提の有る婬女人を、須曼那と名づけ、王舎城の婬女人を、優鉢羅槃那と名づく。
例えば、
『仏』の、
『在世』時には、
『三人』は、
『伯()』と、
『仲(次兄)』と、
『季()』と、
『呼ばれていた!』が、
『毘耶離国』に聞こえた、
『婬女人』を、
『菴羅婆利』と、
『称し!』、
『舎婆提』の、
有る、
『婬女人』を、
『須曼那』と、
『称し!』、
『王舎城』の、
『婬女人』を、
『優鉢羅槃那』と、
『称した!』。
  伯仲季(はくちゅうき):伯を長兄となし、仲を次兄となし、季を末弟となす。また伯仲叔季を長男、次男、三男、四男となす。
  毘耶離(びやり):梵名vaizaali。中印度の国名。仏滅後一百年にて七百の賢聖の第二結集の処。この国内の種族を離車(梵licchavii)という。『大智度論巻2上注:吠舍釐国』参照。
  菴羅婆利(あんらばり):梵名aamrapaalii。巴梨名ambapaalii、女人の名。『大智度論巻8下注:菴婆羅婆利』参照。
  舎婆提(しゃばだい):梵名zraavastii、又舎衛国と称す。即ち憍薩羅(梵kosala)国の王都、城内に祇園精舎あり、此の城内に於いて釈尊は、数乞食せられたりと伝う。『大智度論巻22(上)注:舎衛国』参照。
  須曼那(しゅまんな):梵名sumanaa。女人の名。
  優鉢羅槃那(うっぱらぱんな):梵名utpala- varNaa。女人の名。
  参考:『大方等大集経賢護分巻1』:『復次賢護。譬如世間若男若女遠行他國。於睡夢中見本居家。時實不知為晝為夜。而亦不知為內為外。是人爾時。所有眼根墻壁石山終不能障。乃至幽冥黑闇亦不為礙也。賢護。菩薩摩訶薩心無障礙亦復如是。當正念時於彼所有佛剎中間。凡是一切須彌山王及鐵圍山大鐵圍山。乃至自餘諸黑山等。不能與此眼根為障。而亦不能覆蔽此心。然是人者其實未得天眼能見彼佛。亦無天耳聞彼法音。復非神通往彼世界。又亦不於此世界沒生彼佛前。而實但在此世界中。積念熏修久觀明利故。終得睹彼阿彌陀如來應等正覺。僧眾圍遶菩薩會中。或見自身在彼聽法。聞已憶念受持修行。或時復得恭敬禮拜尊承供養彼阿彌陀如來應等正覺已。是人然後起此三昧。其出觀已次第思惟。如所見聞為他廣說。復次賢護。如此摩伽陀國有三丈夫。其第一者。聞毘耶離城有一婬女名須摩那。彼第二人聞有婬女名菴羅波離。彼第三人聞有婬女名蓮華色。彼既聞已各設方便。繫意懃求無時暫廢。然彼三人實未曾睹如是諸女。直以遙聞即興欲心專念不息。後因夢已在王舍城。與彼女人共行欲事。欲事既成求心亦息。希望既滿遂便覺寤。寤已追念夢中所行。如所聞見如所證知。如是憶念來詣汝所。具為汝說者。汝應為彼方便說法隨順教化。令其得住不退轉地。究竟成就阿耨多羅三藐三菩提。彼於當來必得成佛。號曰善覺如來應供等正覺明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。如是三人既得忍已。還復憶念往昔諸事了了分明也。』
有三人各各聞人讚三女人端正無比。晝夜專念心著不捨。便於夢中夢與從事。覺已心念。彼女不來我亦不往而婬事得辦。 有る三人は、各各、人の三女人の端正無比なるを讃ずるを聞いて、昼夜専念し、心著して捨てず、便ち夢中に、与(とも)に事に従うを夢み、覚め已りて、心に念ずらく、『彼の女は来たらず、我れも亦た往かざるに、婬事の辦ずるを得。』と。
有る、
『三人』は、
各各、
『人』が、
『三女人』の、
『端正』にして、
『無比』なることを、
『讃える!』のを、
『聞いて!』、
『昼夜』に、
『専ら!』、
『念じていた!』が、
『心』が、
『著して!』、
『捨てなかった!』ので、
隧に、
『夢』中に於いて、
『与(とも)に』、
『事』を、
『務めている!』のを、
『夢にみた!』が、
『夢』から、
『覚める!』と、
こう念じた、――
彼の、
『女』は、
『来なかった!』し、
わたしも、
亦た、
『往かなかった!』のに、
『婬事』を、
『成す!』ことが、
『出来た!』と。
  従事(じゅうじ):事をつとめる。事にたずさわる。
因是而悟。一切諸法皆如是耶。於是往到颰陀婆羅菩薩所問是事。 是れに因りて、悟るらく、『一切の諸法は、皆是の如くなるや。』と。是に於いて、往きて颰陀婆羅菩薩の所に到り、是の事を問えり。
是れに因って、
こう悟った、――
一切の、
諸の、
『法』は、
皆、
『是の通り!』だろうか?と。
是に於いて、
『颰陀婆羅菩薩』の所に往き、
是の、
『事』を、
『問うてみた!』。
  颰陀婆羅菩薩(ばっだばらぼさつ):梵名bhadra- paalaは、また跋陀婆羅、颰陀和等に作り、賢護、賢守、善守と訳す。王舎城の出にして優婆塞の菩薩なり。「般舟三昧経巻上問事品」に、「その時菩薩あり、颰陀和と名づく、五百の菩薩と倶なり。皆五戒を持して晡時に仏所に至り、前んで頭面を以って仏足に著け、却って一面に坐す」と云い、「大品般若経巻1序品」に、「その名を颰陀婆羅菩薩(秦に善守と言う)、剌那伽羅菩薩(秦に宝積と言う)、導師菩薩、那羅達菩薩、星得菩薩、水天菩薩、主天菩薩、大意菩薩、益意菩薩、増意菩薩、不虚見菩薩、善進菩薩、勢勝菩薩、常勤菩薩、不捨精進菩薩、日蔵菩薩、不欠菩薩、観世音菩薩、文殊師利菩薩(秦に妙徳と言う)、執宝印菩薩、常挙手菩薩、弥勒菩薩という。かくの如き等の無量千万億那由他の諸の菩薩摩訶薩は、皆これ補処にて尊位を紹ぐ者なり」と云えるこれなり。また「大方等大集経賢護分」、「思益梵天所問経巻1」、「光讃般若経巻1」、「観弥勒菩薩上生兜率天経」、「大法積経巻109」等に出づ。<(望)
颰陀婆羅答言。諸法實爾。皆從念生。如是種種。為此三人方便巧說諸法空。是時三人即得阿鞞跋致。 颰陀婆羅の答えて言わく、『諸法は実に爾(しか)り。皆、念より生ず。』と。是の如く種種に、此の三人の為に、方便して、巧みに諸法の空を説けば、是の時、三人は、即ち、阿鞞跋致を得たり。
『颰陀婆羅菩薩』は答えて、
こう言った、――
諸の、
『法』は、
『実』に、
『是の通りである!』。
皆、
『念』より、
『生じる!』のだ、と。
是のように、
種種に、
此の、
『三人』の為に、
『方便』を以って、
『巧みに!』、
諸の、
『法』が、
『空である!』ことを、
『説いた!』ので、
是の時、
『三人』は、
たちまち、
『阿鞞跋致(不退)』を、
『得た!』のである。
  阿鞞跋致(あびばっち):梵語avinivartaniiya。不退と訳す。菩薩の地位より退転せざるを云う。『大智度論巻36上注:阿鞞跋致』参照。
是諸菩薩亦復如是。為諸眾生種種巧說法。斷諸見纏煩惱。是名能斷種種見纏及諸煩惱 是の諸の菩薩も、亦復た是の如く、諸の衆生の為に、種種に巧みに法を説きて、諸の見、纏、煩悩を断たしむ。是れを能く種種の見、纏、及び諸の煩悩を断つと名づく。
是の、
諸の、
『菩薩』も、
是のように、
諸の、
『衆生』の為に、
巧みに!、
『法』を、
『説いて!』、
諸の、
『見、纏、煩悩』を、
『断たせる!』ので、
是れを、
種種の、
『見、纏、及び諸の煩悩』を、
『断つことができる!』と、
『称する!』のである。



遊戯して、百千の三昧を出生する

【經】遊戲出生百千三昧 遊戯して百千の三昧を出生す。
『遊戯』して、
『百千』の、
『三昧』を、
『出生』する!。
  遊戯(ゆげ):梵語vikriiDitaの訳。児戯の義。子供の遊ぶが如く、楽々として困難を伴わざるを云う。
【論】諸菩薩禪定心調。清淨智慧方便力故。能生種種諸三昧何等為三昧。善心一處住不動。是名三昧。 諸の菩薩は、禅定に心調い、清浄なる智慧と、方便の力の故に、能く種種の諸の三昧を生ず。何等をか、三昧と為す。善心の一処に住まりて、動かざる、是れを三昧と名づく。
諸の、
『菩薩』は、
『禅定』に、
『心』が、
『調っている!』ことと、
『清浄』の、
『智慧』と、
『方便』の、
『力』の故に、
種種の、
諸の、
『三昧』を、
『生じることができる!』。
何のようなものを、
『三昧』と、
『称する!』のか?
『三昧』とは、
『善心』が、
『一処』に、
『住まって!』、
『動かない!』ことであり、
是れを、
『三昧』と、
『称する!』のである。
復有三種三昧。有覺有觀無覺有觀無覺無觀三昧。 復た三種の三昧有り、有覚有観、無覚有観、無覚無観三昧なり。
復た、
『三昧』には、
『三種』有り、
『有覚有観三昧』と、
『無覚有観三昧』と、
『無覚無観三昧』とである。
  覚観(かくかん):覚は梵語vitarkaの訳語にして、新訳には尋に作る。心所の名なり。即ち尋求推度の精神作用にして、また即ち事理に対しての粗略の思考を指す。観は梵語vicaaraの訳語にして、新訳には伺に作り、心所の名なり。即ち細なる心の思考にして、諸法の名義等を思惟する精神作用なり。「大智度論巻23」に、「この覚観は三昧を嬈乱す、ここを以っての故に、この二事を説き、善なりといえども而もこれ三昧の賊にして、捨離すべきこと難し。(中略)麁心の相を覚と名づけ、細心の相を観と名づく」と云えり。<(望)
  三三昧(さんさんまい):梵語trayaH samaadhayaHの訳語にして、三種の三昧の意なり。また三三摩地、三三摩提、三等持、或は三定とも名づく。(一)一に空三昧(梵zunyataa- samaadhi)、二に無相三昧(梵animitta-s.)、三に無願三昧(梵apraNihita-s.)なり。無願三昧をまた無作三昧に作る。「大品般若経巻1」に、「空三昧無相三昧無作三昧」と云い、「無量寿経巻上」に、「声聞縁覚の地を超越して空無相無願三昧を得」と云い、「増一阿含経巻16」に、「この三三昧あり、云何が三と為す、空三昧、無願三昧、無相三昧なり。彼れ云何が名づけて空三昧と為す。謂わゆる空とは一切諸法皆悉く空虚なりと観ずる、これを謂って空三昧と為す。彼れ云何が名づけて無相三昧と為す、謂わゆる無相とは一切諸法に於いて都て想念なく、また不可見なる、これを謂って無相三昧と為す。云何が名づけて無願三昧と為す、謂わゆる無願とは一切諸法に於いてまた願求せざる、これを謂って無願三昧と為す。かくの如く比丘、この三三昧を得ざることあらば、久しく生死に在りて自ら覚悟する能わず」と云えるこれなり。蓋し三三昧の解釈に就いては緒論の説不同あり、「大毘婆沙論巻104」には「三縁に由るが故にただ三を建立す、一に対治の故に、二に期心の故に、三に所縁の故なり」と云えり。対治の故にとは、空三摩地は対治に約して建立せしものにして、即ち有身見の近対治なるを云う。謂わゆる非我の行相を以って我の行相を対治し、空の行相を以って我所の行相を対治するなり。期心の故にとは、無願三摩地は諸の修行者の期心に約して建立せしものにして、即ち三有の法を願わざるを言う。所縁の故にとは、無相三摩地は所縁に就いて建立せしものにして、即ちこの定の所縁は色等の十相を離るるを云うなり。また「倶舎論巻28」には「空三摩地は、謂わく空と非我との二種の行相と相応する等持なり。無相三摩地は、謂わく滅諦を縁ずる四種の行相と相応する等持なり。涅槃は十相を離るるが故に無相と名づく。彼を縁ずる三摩地に無相の名を得。十相とは何ぞ、謂わく色等の五と男女の二種と三有為の相となり。無願三摩地は、謂わく余の諦を縁ずる十種の行相と相応する等持なり。非常と苦と因とは厭患すべきが故に、道は船筏の如く必ず捨つべきが故に、よく彼を縁ずる定に無願の名を得。皆現の所対を超過せんが為の故なり。空と非我との二相は厭捨する所に非ず、涅槃の相と相似するを以っての故なり。この三に各二種あり、謂わく浄及び無漏なり。世と出世の等持は別なるが故なり。世間の摂なる者は十一地に通じ、出世の摂なる者はただ九地に通ず」と云えり。これ行相差別に依りて三三摩地を建立するの説なり。即ち四諦十六行相の中、苦諦の下の空と非我との二種の行相と相応する等持を空三摩地と名づく。また滅諦涅槃を縁ずる滅諍妙離の四種の行相と相応する等持を無相三摩地と名づく。涅槃は色声香味触の五と、男女の二種と、生異滅の三有為相と、即ち合して十相を離るるが故に名づけて無相と為す。今この三摩地は即ち彼の無相を縁ずるが故に、また無相三摩地と称す。また苦諦四行相の中の苦と非常との二行相と、集諦の因集生緣の四行相と、道諦の道如行出の四行相と、即ち合して十種の行相と相応する等持を無願三摩地と名づく。十種の行相の中、非常と苦と及び集諦の四行相は共に厭患すべく、道諦は無漏なりといえども、なお船筏の如く、必ずまさに捨つべきが故に、彼を縁ずる三摩地を無願三摩地と称す。これ皆現前の所対たる苦集道の境を超越して以って涅槃に至らんが為の故なり。ただし苦諦の中の空と非我との相は、涅槃の相に相似するが故に、今厭捨する所に非ず。またこの三三摩地に各浄と無漏との二種あり。浄とは有漏世間の善なり、無漏とは出世なり。この中、世間所摂の等持は、欲界と未至と中間と四根本と四無色との十一地に通じ、出世所摂の等持は、欲界と有頂とを除きて世の九地に通ずとなすの意なり。また「瑜伽師地論略纂巻5」、「大毘婆沙論巻104」、「瑜伽論記巻4下」等に智及び根、依身等の諸門に就き広く分別せり。  また三の重等持あり。一に空空三昧(梵zuunyataa- zunyata- samaadhi)、二に無願無願三昧(梵apraNihita- apraNihita-s.)、三に無相無相三昧(梵aanimita- animita-s.)なり。「倶舎論巻28」に、「この三等持は、前の空等を縁じて空等の相を取るが故に空空等の名を立つ。空空等持は、前の無学の空三摩地を縁じて彼の空相を取る。空相は厭に順ずること非我よりも勝るるが故なり。無願無願は、前の無学の無願等持を縁じて非常の相を取る。苦と因等とを取らざることは無漏の相に非ざるが故なり。道等を取らざることは厭捨せんが為の故なり。無相無相は即ち無学の無相三摩地の非択滅を縁じて境と為す。無漏法には択滅なきを以っての故なり。ただ静相のみを取り滅妙離に非ず。非常の滅に濫ずるが故に、これ無記の性なるが故に、離繋果に非ざるが故なり。この三等持はただこれ有漏なり、聖道を厭うが故なり。無漏は然らず。ただ三洲の人の不時解脱のみよくかくの如きの重三摩地を起す。十一地に依り、七近分を除く。謂わく欲と未至と八の本と中間となり」と云えるこれなり。この中、空空三摩地とは、先に無学の等持を起して五取蘊に於いて空相を思惟し、後殊勝の善根相応の等持を起して、前の無学の空三摩地を縁じて空の相を思惟するを云う。即ち空に於いて空を取るが故に空空と名づく。譬えば死屍を焼くには杖を以って廻転す、屍すでに尽きおわらば杖もまた焼くべきが如し。ただしこの重空等持は、空の行相の後に起して、即ちまた還って空の行相と相応す。ただこれ最もよく厭捨するに順ずるが故に空の相を取る。非我はかくの如くならざれば非我の相を取らず。無願無願三摩地とは、先に無学の等持を起して五取蘊の中に於いて非常の相を思惟し、後殊勝の善根相応の等持を起して、前の無学の無願三摩地を縁じて非常の相を思惟するを云う。無願に於いて願わざるを無願無願と名づく。ただ非常の相を取ることは、よく縁じて道を厭捨すべきが故なり。苦及び因集生縁は相を取らざることは、これ等は倶に無漏の相に非ざるが故なり。即ち聖道は苦に非ざれば苦の相を取らず、聖道の三有を招くこと能わざるが故に因集生縁の四相を取らず。また道如行出の相を取らざることは、彼を厭捨せんが為なり。もし彼の相を取らば還って聖道を欣うべく、厭背すべからざるが故なり。無相無相三摩地とは、先に無学の等持を起して択滅の中に於いて静相を思惟し、後殊勝の善根相応の等持を起し、即ち無学の無相三摩地の非択滅を縁じ、これを境と為して静の相を思惟するを云う。無相の滅に於いてまた観じて無相と為すが故に無相無相と名づく。ただ静の相を取ることは止息を顕わさんが為なり。余の滅妙離に非ざることは、もし滅を観ぜば非常に濫ずるが故になり。また非択滅は永く一切を解脱するに非ざるが故なり。また非択滅は無記なるが故に妙に非ず、彼を証得すといえども、なお縛随うが故に離に非ず、故にただ静の相を取るなり。またこの重三等持は、倶舎等に於いては、聖道に於いて厭捨を生ずるものと為すが故に、ただこれ有漏にして無漏の定に非ず、ただ無学の不時解脱のみ起して余に非ずと説くも、大乗に於いてはその説に殊あり。またこの三三昧の次第には不同あり、或は空無相無願と次第し、或は空無願無相と次第す。「大乗義章巻2」には、三義に約してその次第の不同を分別せり。一に修入の次第に約せば、先ず無願を説きて生死を厭わしめ、次ぎに無相を説きて涅槃を求めしめ、後に空門を説きてそれをして契証せしむ。二に終成本末の次第に依らば、空はこれ徳の本なるが故に先に菩薩先づこれを観ず。空を見るに由るが故に、生死を以って貪求すべきを見ず、故に次ぎに無願を宣説し、空の義を証し生死を見ざるに由りて、便ち涅槃無相に相応するが故に、次ぎに無相を宣説するなり。三に所空の体相用の次第に依らば、先づ空門を説きて諸法の体を空じ、次ぎに無相を説きて諸法の相を空じ、次ぎに無作を説きて諸法の用を空ずと云えり。以って次第不同の義旨を考うべし。また「長阿含経巻9、巻10」、「増一阿含経巻39」、「旧華厳経巻25」、「大般涅槃経巻25」、「発智論巻10」、「大毘婆沙論巻105、巻183」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「大智度論巻20」、「成実論巻12」、「瑜伽師地論巻12」、「十地経論巻8」、「雑阿毘曇心論巻7、巻8」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻39」、「順正理論巻79」、「大乗阿毘達磨雑集論巻11」、「仏地経論巻1」、「成唯識論巻8」、「注維摩詰経巻4」等に出づ。  (二)一に有覚有観三昧、二に無覚有観三昧、三に無覚無観三昧なり。また有尋有伺三摩地(梵savitarka- savicaara- samaadhi)、無尋唯伺三摩地(avitarka- vicaara- maatra-s.)、無尋無伺三摩地(梵avitarka- avicaara-s.)に作る。新旧両訳の不同なり。「大品般若経巻1」に、「三三昧とは、有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧なり」と云い、「中阿含経巻17」に、「われまさに三定を修学すべし、有覚有観定を修学し、無覚少観定を修学し、無覚無観定を修学す」と云えるこれなり。「倶舎論巻28」に、「有尋有伺三摩地とは、謂わく尋伺と相応する等持なり。これ初静慮及び未至の摂なり。無尋唯伺三摩地とは、謂わく唯伺と相応する等持なり。これ即ち静慮中間地の摂なり。無尋無伺三摩地とは、謂わく尋伺と相応するに非ざる等持なり。これ第二静慮の近分より乃至非想非非想の摂なり」と云えり。この中、心の麁なる性を尋と名づけ、細なる性を伺と名づく。有尋有伺三摩地は尋伺と相応する等持にして、有尋有伺地たる初静慮及び未至に摂し、無尋唯伺三摩地は唯伺と相応する等持にして、無尋唯伺地たる静慮中間の摂なり。無尋無伺三摩地は尋伺と相応せざる等持にして、第二静慮の近分以上、乃至非想非非想の摂なり。また「大智度論巻23」に、「問うて曰わく、三昧相応の心数法は乃至二十あり、何を以っての故に、ただ覚観と説くや。答えて曰わく、この覚観は三昧を嬈乱す、ここを以っての故にこの二事を説く。善なりといえども、而もこの三昧の賊は捨離すべきこと難し。ある人言わく、心に覚観あらば三昧なし。ここを以っての故に、仏は有覚有観三昧を説く。ただし牢固の覚観ならず、力小微ならば、この時、三昧あることを得べし。この覚観はよく三昧を生じ、またよく三昧を壊す。譬えば風よく雨を生じ、またよく雨を壊するが如し。三種の善覚観はよく初禅を生ず。初禅を得る時、大歓喜の覚観を発するが故に心散じて還って失す。ここを以っての故にただ覚観を説く」と云えり。これ即ち悪覚は三昧を妨げ、善覚はよく三昧門を開くことを説けるものなり。また「雑阿含経巻18」、「集異門足論巻6」、「大毘婆沙論巻52、巻90、巻145」、「瑜伽師地論巻12」、「雑阿毘曇心論巻7」、「順正理論巻79」等に出づ。<(望)
復有四種三昧。欲界繫三昧色界繫三昧無色界繫三昧不繫三昧。 復た四種の三昧有り、欲界繋の三昧、色界繋の三昧、無色界繋の三昧、不繋の三昧なり。
復た、
『三昧』には、
『四種』有り、
『欲界繋の三昧』、
『色界繋の三昧』、
『無色界繋の三昧』、
『不繋の三昧』である。
  欲界繋(よっかいけ):衆生を欲界に繋縛する法の意。『大智度論巻7上注:界繋』参照。
  色界繋(しきかいけ):衆生を欲界に繋縛する法の意。『大智度論巻7上注:界繋』参照。
  無色界繋(むしきかいけ):衆生を欲界に繋縛する法の意。『大智度論巻7上注:界繋』参照。
  不繋(ふけ):衆生を三界に繋縛せざる法の意。『大智度論巻7上注:界繋、同巻8下注:繋』参照。
  界繋(かいけ):界に拘繋せらるるの意。即ち欲界色界無色界の三界に繋在する法を云う。「大毘婆沙論巻52」に、「欲に繋在するが故に欲界繋と名づけ、色に繋在するが故に色界繋と名づけ、無色に繋在するが故に無色界繋と名づく。牛馬等の柱に繋在し、或いは栓に在るを柱等の繋と名づくるが如し」と云い、又「同巻145」に、「若し法あり、欲界の阿賴耶の為に蔵せられ、摩摩异多に執せらるるを欲界繋と名づけ、色無色界の阿賴耶の為に蔵せられ、摩摩异多に執せらるるを色無色界繋と名づく。阿賴耶とは謂わく愛なり、摩摩异多とは謂わく見なり」と云える是れなり。又「同巻50」に九十八随眠に就き界繋を分別し、欲界繋に三十六随眠、色無色界繋に各三十一随眠ありとし、「倶舎論巻2」には十八界に就き分別し、欲界の所繋には十八界全く具足す。色界の所繋は、香味の二境と鼻舌の二識とを除いて余の十四界なり。無色界の中には十の色界なく、従って依縁なきが故に五識もなく、又色欲を離れて生ずるが故に、所繋は唯意根と法境と及び意識との三のみなりとし、又「同巻3」には二十二根に就き分別し、後の三無漏根は不繋の法なるが故に之を除き、余の十九根は欲界繋なり。更に男女憂苦の四を除く余の十五根は色界繋に通じ、更に五色根と及び喜楽の七を除く余の八根は無色界繋に通ずと云えり。唯識にては三界九地の法を繋縛するは、第六識相応の倶生の煩悩なりとし、諸識の界繋を分別して、鼻舌の二識は唯欲界に在りて色無色の二界に通ぜず。眼耳身の三識は欲界と初禅とに在りて二禅已上にはなく、随って二禅已上には唯だ六、七、八の三識のみあり。無色界には色法なきが故に、第八識三種の境の中には唯だ種子を縁ずるものとせり。又「顕揚聖教論巻18」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」、「倶舎論巻8、19」、「同光記巻2、3、8、19」、「同宝疏巻2、3、8、19」、「成唯識論巻4」、「同述記巻3本、4本、4末」、「大乗義章巻7」、「百法問答鈔巻4」等に出づ。<(望)『大智度論巻8下注:繋』参照。
是中所用菩薩三昧如先說。於佛三昧中未滿。勤行勤修故。言能出生。 是の中に用うる所の菩薩の三昧は、先に説けるが如く、仏の三昧中に於いては、未だ満たざるも、勤行、勤修するが故に、『能く出生す。』と言う。
是の中に、
『用いる!』、
『菩薩』の、
『三昧』を、
先に説いたように、――
『仏』の、
『三昧』中に於いて、
『菩薩』は、
未だ、
『修行』を、
『満たしていない!』が、
『菩薩』は、
勤めて、
『菩薩』の、
『三昧』を、
『修行している!』が故に、
こう言ったのである、――
種種の、
諸の、
『三昧』を、
『出生することができる!』と。
問曰。諸菩薩何以故。出生遊戲是百千種三昧。 問うて曰く、諸の菩薩は、何を以っての故にか、是の百千種の三昧を出生して、遊戯する。
問い、
諸の、
『菩薩』は、
何故、
是の、
『百千種』の、
『三昧』を、
『出生して!』、
『遊戯する!』のですか?
答曰。眾生無量心行不同有利有鈍。於諸結使有厚有薄。是故菩薩行百千種三昧。斷其塵勞。 答えて曰く、衆生の無量の心行は、不同にして、利有り、鈍有り、諸の結使に於いては、厚有り、薄有り。是の故に、菩薩は、百千種の三昧を行うて、其の塵労を断つ。
答え、
『衆生』の、
『心』の、
『行()』は、
『無量』であり、
『不同』なので、
『根』には、
『利』も、
『鈍』も有り、
『心』に積もった、
諸の、
『結使』は、
『厚い!』者も、
『薄い!』者も有る。
是の故に、
『菩薩』は、
『百千種』の、
『三昧』を、
『行って!』、
『衆生』の、
『心』に積もった、
『塵労』を、
『断除する!』のである。
  心行(しんぎょう):心の作用を云う。『大智度論巻6下注:心行』参照。
  塵労(じんろう):心を汚し身心を労乱せしむるものの意。煩悩の異名。
譬如為諸貧人欲令大富。當備種種財物。一切備具。然後乃能濟諸貧者。 譬えば、諸の貧人の為に、大富ならしめんと欲せば、当に種種の財物を備うべく、一切を備具して、然る後に、乃ち能く諸の貧者を済うが如し。
譬えば、
諸の、
『貧人』を、
『大いに!』、
『富ませたい!』と思えば、
当然、
種種の、
『財物』を、
『備えなくてはならない!』、
一切の、
『財物』を、
『備具』して、
その後、
ようやく、
諸の、
『貧者』を、
『済うことができる!』のと同じである。
又復如人欲廣治諸病。當備種種眾藥。然後能治。菩薩亦如是。欲廣度眾生故。行種種百千三昧。 又復た人は、広く諸の病を治せんと欲せば、当に種種の衆薬を備うべく、然る後に、能く治するが如し。菩薩も、亦た是の如く、広く衆生を度せんと欲するが故に、種種百千の三昧を行う。
又復た、
譬えば、
『人』が、
諸の、
『病』を、
『広く!』、
『治そう!』と思えば、
当然、
種種の、
『衆薬』を、
『備えなくてはならず!』、
その後に、
『病』を、
『治すことができる!』ように、
『菩薩』も、
亦た、
是のように、
『衆生』を、
『広く!』、
『度そう!』と思うが故に、
種種の、
『百千』の、
『三昧』を、
『行う!』のである。
問曰。但當出生此三昧。何以故復遊戲其中。 問うて曰く、但だ、当に此の三昧を出生すべし。何を以ってか、復た其の中に遊戯する。
問い、
但だ、
此の、
『三昧』を、
『出生すればよい!』のに、
何故、
いったい、
其の、
『三昧』中に、
『遊戯する!』のですか?
答曰。菩薩心生諸三昧。欣樂出入自在。名之為戲。非結愛戲也。 答えて曰く、菩薩は、心に諸の三昧を生じ、出入を欣楽して自在なり。之を名づけて戯と為し、結愛の戯に非ず。
答え、
『菩薩』は、
『心』に、
諸の、
『三昧』を、
『生じる!』と、
自在に、
『出入して!』、
『欣楽する!』ので、
之を、
『戯(たわむれる!)』と、
『称する!』のであり、
之は、
『愛』を、
『結ぶ!』ような、
『戯ではない!』。
  欣楽(ごんぎょう):喜び楽しむ。欣悦喜楽。
戲名自在。如師子在鹿中自在無畏。故名為戲。 戯を、自在と名づく。師子の鹿中に在りて、自在にして、無畏なるが如きが故に、名づけて戯と為す。
『戯』とは、
『自在である!』ことを、
『称する!』のである。
譬えば、
『師子』が、
『鹿』中に於いて、
『自在であり!』、
『無畏である!』ようなので、
故に、
『戯』と、
『称する!』のである。
是諸菩薩於諸三昧有自在力能出能入亦能如是。 是の諸の菩薩の、諸の三昧に於いて、自在の力を有し、能く出で、能く入ることも、亦た能く是の如くす。
是の、
諸の、
『菩薩』も、
諸の、
『三昧』に於いて、
『自在である!』という、
『力』を、
『有する!』のであり、
『出ることができる!』とか、
『入ることができる!』とかも、
亦復た、
是の通りなのである。
  :亦能如是は、他本に従いて、亦復如是に改む。
餘人於三昧中能自在入。不能自在住自在出。有自在住。不能自在入自在出。有自在出。不能自在住自在入。有自在入自在住。不能自在出。有自在住自在出。不能自在入。 余人は、三昧中に於いて、能く自在に入るも、自在に住まり、自在に出る能わず。有るは自在に住まるも、自在に入り、自在に出る能わず。有るは自在に出るも、自在に住まり、自在に入る能わず。有るは自在に入り、自在に住まるも、自在に出る能わず。有るは自在に住まり、自在に出るも、自在に入る能わず。
『余の人』は、
『三昧』中に於いて、
有る者は、
『入る!』ことは、
『自在にできる!』が、
『住まる!』ことと、
『出る!』こととは、
『自在にできない!』。
有る者は、
『住まる!』ことは、
『自在にできる!』が、
『入る!』ことと、
『出る!』こととは、
『自在にできない!』、
有る者は、
『出る!』ことは、
『自在にできる!』が、
『住まる!』ことと、
『入る!』こととは、
『自在にできない!』、
有る者は、
『入る!』ことも、
『住まる!』ことも、
『自在にできる!』が、
『出る!』ことは、
『自在にできない!』。
有る者は、
『住まる!』ことも、
『出る!』ことも、
『自在にできる!』が、
『入る!』ことは、
『自在にできない!』。
是諸菩薩能三種自在故。言遊戲出生百千三昧 是の諸の菩薩は、能く三種に自在なるが故に、言わく、『遊戯して、百千の三昧を出生す。』と。
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『入、出、住』の、
『三種』に、
『自在にできる!』が故に、
こう言うのである、――
『百千』の、
『三昧』を、
『遊戯して!』、
『出生する!』と。



諸の菩薩は、是れ等の無量の功徳を成就する

【經】諸菩薩如是等無量功德成就 諸の菩薩は、是の如き等の無量の功徳成就せり。
諸の、
『菩薩』は、
是れ等の、
無量の、
『功徳』が、
『成就している!』。
【論】是諸菩薩共佛住。欲讚其功德無量億劫不可得盡。以是故言無量功德成就 是の諸の菩薩は、仏と共に住まれば、其の功徳を讃ぜんと欲するも、無量億劫にも、尽くすことを得べからず。是を以っての故に言わく、『無量の功徳成就せり。』と。
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『仏』と、
『共に!』、
『住まっている!』のであるから、
其の、
『功徳』を、
『讃じよう!』と、
『無量億劫』、
『讃じた!』としても、
『讃じ尽くすことができない!』、
是の故に、
こう言うのである。
『無量』の、
『功徳』が、
『成就している!』と。



颰陀婆羅菩薩等、補処の二十二菩薩

【經】其名曰颰陀婆羅菩薩。(秦言善守)剌那伽羅菩薩。(秦言寶積)導師菩薩。那羅達菩薩。星得菩薩。水天菩薩。主天菩薩。大意菩薩。益意菩薩。增意菩薩。不虛見菩薩。善進菩薩。勢勝菩薩。常勤菩薩。不捨精進菩薩。日藏菩薩。不缺意菩薩。觀世音菩薩。文殊尸利菩薩。(秦言妙德)執寶印菩薩。常舉手菩薩。彌勒菩薩。如是等無量千萬億那由他諸菩薩摩訶薩。皆是補處紹尊位者 其の名を、颰陀婆羅菩薩(秦に善守と言う)、刺那伽羅菩薩(秦に宝積と言う)、導師菩薩、那羅達菩薩、星得菩薩、水天菩薩、主天菩薩、大意菩薩、益意菩薩、増意菩薩、不虛見菩薩、善進菩薩、勢勝菩薩、常勤菩薩、不捨精進菩薩、日蔵菩薩、不欠意菩薩、観世音菩薩、文殊師利(秦に妙徳と言う)菩薩、執宝印菩薩、常挙手菩薩、弥勒菩薩、是の如き等の無量千万億那由他の諸の菩薩摩訶薩は、皆、是れ補処にして、尊位を紹(つ)ぐ者なり。
其の、
『名』を、
『颰陀婆羅(ばっだばら)菩薩』、
『刺那伽羅(らながら)菩薩』、
『導師(どうし)菩薩』、
『那羅達(らなだつ)菩薩』、
『星得(しょとく)菩薩』、
『水天(すいてん)菩薩』、
『主天(しゅてん)菩薩』、
『大意(だいい)菩薩』、
『益意(やくい)菩薩』、
『増意(ぞうい)菩薩』、
『不虛見(ふこけん)菩薩』、
『善進(ぜんしん)菩薩』、
『勢勝(せいしょう)菩薩』、
『常勤(じょうごん)菩薩』、
『不捨精進(ふしゃしょうじん)菩薩』、
『日蔵(にちぞう)菩薩』、
『不欠意(ふけつい)菩薩』、
『観世音(かんぜおん)菩薩』、
『文殊師利(もんじゅしり)菩薩』、
『執宝印(しゅうぼういん)菩薩』、
『常挙手(じょうこしゅ)菩薩』、
『弥勒(みろく)菩薩』といい、
是れ等の、
無量千万億那由他の、
諸の、
『菩薩摩訶薩』は、
皆、
『補処』であり、
『尊位』を、
『紹()ぐ!』者であった。
  補処(ふしょ):前の仏の既に滅せし後に、仏と成りて其の処を補う、是れを補処と名づく。即ち前の仏に嗣いで仏と成る菩薩なり。又一生を隔てて仏と成るを、則ち之を一生補処と謂うなり。又此の位を名づけて等覚と為し、弥勒は即ち釈迦如来の補処の菩薩なり。「維摩詰経巻上」に、「弥勒は一生補処に在り」と云い、「大智度論巻7」に、「弥勒菩薩はまさに補処と称すべし」と云える是れなり。<(丁)
【論】如是等諸菩薩。共佛住王舍城耆闍崛山中。 是の如き等の諸の菩薩は、仏と共に、王舎城の耆闍崛山中に住まれり。
是れ等の、
諸の、
『菩薩』は、
『仏』と共に、
『王舎城』の、
『耆闍崛山』中に、
『住まっていた!』のである。
  耆闍崛山(ぎじゃくっせん):梵語gRdhrakuuTaの音訳にして、鷲頭山、霊鷲山と意訳す。中印度摩竭陀国王舎城の東北に在り、釈尊説法の地なり。『大智度論巻3(上)』参照。
問曰。如是菩薩眾多。何以獨說二十二菩薩名。 問うて曰く、是の如き菩薩は衆多なり。何を以ってか、独り、二十二菩薩の名を説く。
問い、
是のような、
『菩薩』の、
『衆(あつまり)』は、
『多い!』のに、
何故、
『二十二』の、
『菩薩の名』のみを、
『説く!』のですか?
  (しゅ):多くの人。三人以上の人。
答曰。諸菩薩無量千萬億說不可盡。若都說者。文字所不能載。 答えて曰く、諸の菩薩は無量千万億なれば、説きて尽くすべからず。若し都て説かば、文字の載する能わざる所なり。
答え、
諸の、
『菩薩』は、
『無量千万億』であり、
『説いても!』、
『尽くすことができない!』。
若し、
『都()べて!』を、
『説いた!』としても、
『文字』として、
『記載する!』ことは、
『不可能である!』。
  :菩薩は空中に住すれば、其の名を挙ぐと雖も、一一の名を以って示す所は、一人格としての菩薩に非ず、其の事蹟ありと雖も、一菩薩に帰すれば当らず。即ち六波羅蜜を行ずる時、皆、菩薩と名づくるを得、故に一個人としての個性を有する菩薩を大乗に於いては必要となさざるを知るべし。
復次是中二種菩薩。居家出家。善守等十六菩薩。是居家菩薩。颰陀婆羅居士菩薩。是王舍城舊人。寶積王子菩薩。是毘耶離國人。星得長者子菩薩。是瞻波國人。導師居士菩薩。是舍婆提國人。那羅達婆羅門菩薩。是彌梯羅國人。 復た次ぎに、是の中に二種の菩薩ありて、居家と出家となり。善守等の十六菩薩は、是れ居家の菩薩なり。颰陀婆羅居士菩薩は、是れ王舎城の旧人なり。宝積王子菩薩は、是れ毘耶離国の人なり。星得長者子菩薩は、是れ瞻婆国の人なり。導師居士菩薩は、是れ舎婆提国の人なり。那羅達婆羅門菩薩は、是れ弥梯羅国の人なり。
復た次ぎに、
是の中の、
『菩薩』には、
『二種』有り、
『居家』と、
『出家』である。
『居家』の、
『菩薩』は、
『善守(颰陀婆羅)』等の、
『十六菩薩』であり、
『颰陀婆羅(善守)』という、
『居士』の、
『菩薩』は、
『王舎城』の、
『旧人』である。
『宝積(剌那伽羅)』という、
『王子』の、
『菩薩』は、
『毘耶離国』の、
『人』である。
『星得』という、
『長者子』の、
『菩薩』は、
『瞻婆国』の、
『人』である。
『導師』という、
『居士』の、
『菩薩』は、
『舎婆提国』の、
『人』である。
『那羅達』という、
『婆羅門』の、
『菩薩』は、
『弥梯羅国』の、
『人』である。
  居家(こけ):梵語gaarha-sthaの訳。家庭を根拠と為すの義。
  居士(こじ):梵語vaizyaの訳。印度四姓中の第三吠舎を云い、商人、職人等を指す。
  旧人(くにん):古い家柄の人。
  毘耶離(びやり):梵名vaizaaliの音訳。中印度の国名。『大智度論巻2上注:吠舍釐国』参照。
  瞻婆(せんば):梵名campaa。鴦伽aGga国の首都。『大智度論巻3上注:十六大国』参照。
  弥梯羅(みていら):梵名mithila、又蜜稀羅に作る。毘提訶videha国の都城。『大智度論巻3上注:十六大国』参照。
水天優婆塞菩薩慈氏妙德菩薩等。是出家菩薩。觀世音菩薩等從他方佛土來。若說居家。攝一切居家菩薩。出家他方亦如是。 水天優婆塞菩薩、慈氏、妙徳菩薩等は、是れ出家の菩薩なり。観世音菩薩等は、他方の仏土より来たれり。若し、居家と説かば、一切の居家の菩薩を称す。出家、他方も、亦た是の如し。
『水天』という、
『優婆塞』の、
『菩薩』や、
『慈氏(弥勒)』や、
『妙徳(文殊師利)』という、
『菩薩』等は、
『出家』の、
『菩薩』である。
『観世音』という、
『菩薩』等は、
『他方』の、
『仏土』より、
『来た!』、
『菩薩』である。
若し、
『居家』と説けば、
一切の、
『居家』の、
『菩薩』を、
『摂する!』。
『出家』や、
『他方』も、
亦た、
是の通りである。
問曰。善守菩薩有何殊勝。最在前說。若最大在前。應說遍吉觀世音得大勢菩薩等。若最小在前。應說肉身初發意菩薩等。 問うて曰く、善守菩薩は何なる殊勝有りてか、最も前に在りて説く。若し最も大なる前に在れば、応に遍吉、観世音、得大勢菩薩等を説くべし。若し最も小なる前に在れば、応に肉身の初発意の菩薩等を説くべし。
問い、
『善守』という、
『菩薩』は、
何のような、
『殊勝の事』を、
『有する!』が故に、
最も、
『前に!』、
『説く!』のですか?
若し、
最も、
『大きい!』ものを、
『前に!』、
『説く!』ならば、
当然、
『遍吉(普賢)』、
『観世音』、
『得大勢(勢至)』等の、
『菩薩』を、
『前に!』、
『説くべき!』であり、
最も、
『小さい!』ものを、
『前に!』、
『説く!』ならば、
当然、
『肉身』の、
『初発意』等の、
『菩薩』を、
『前に!』、
『説くべき!』です。
答曰。不以大不以小。以善守菩薩是王舍城舊人。白衣菩薩中最大。佛在王舍城。欲說般若波羅蜜。以是故最在前說。 答え、大なるを以ってせず、小なるを以ってせず。善守菩薩は、是れ王舎城の旧人にして、白衣の菩薩中の最大なるを以って、仏は、王舎城に在りて、般若波羅蜜を説かんと欲したもうに、是を以っての故に、最も前に在りて説きたまえり。
答え、
『大きい!』ことを以って、
『前に!』、
『説くのでもなく!』、
『小さい!』ことを以って、
『前に!』、
『説くのでもない!』。
『善守』という、
『菩薩』は、
『王舎城』の、
『旧人』であり、
『白衣(俗人)』の、
『菩薩』中の、
『最大』である!が、
『仏』は、
『王舎城』に於いて、
『般若波羅蜜』を、
『説こうとされた!』ので、
是の故に、
『最も前に!』、
『説かれた!』のである。
復次是善守菩薩。無量種種功德。如般舟三昧中。佛自現前讚其功德。 復た次ぎに、是の善守菩薩の、無量の種種の功徳は、『般舟三昧』中の如きは、仏自ら現前して、其の功徳を讃えたまえり。
復た次ぎに、
是の、
『善守』という、
『菩薩』の、
『無量』の、
種種の、
『功徳』は、
例えば、
『般舟三昧経』中などに、
『仏』、
自らが、
『前に!』、
『現われて!』、
其の、
『功徳』を、
『讃えられている!』。
  参考:『般舟三昧経巻2擁護品』:『颰陀和菩薩。羅鄰那竭菩薩。憍曰兜菩薩。那羅達菩薩。須深菩薩。摩訶須薩和菩薩。因坻達菩薩。和倫調菩薩。見佛所說。是八菩薩皆大歡喜。持五百劫波育錦衣。持珍寶布施。持身自歸供養佛。佛語阿難。是颰陀和等。於五百菩薩人中之師。常持中正法。合會隨順教莫不歡喜者。歡樂心。隨時心。清淨心卻欲心。是時五百人皆叉手立佛前颰陀和菩薩白佛言。菩薩持幾事得是三昧。天中天。佛言。菩薩有四事疾得是三昧。何等為四。一者不信餘道。二者斷愛欲。三者如法行。四者無所貪生。是為四。菩薩疾得是三昧。佛告颰陀和。若有菩薩學是三昧者。若持若誦若守。今世即自得五百功德。譬如颰陀和慈心比丘終不中毒。終不中兵。火不能燒。入水不死。帝王不能得其便。如是菩薩守是三昧者。終不中毒。終不中兵。終不為火所燒。終不為水所沒。終不為帝王得其便。譬如颰陀和劫盡壞燒時。持是三昧菩薩者。正使墮是火中火即為滅。』
問曰。若彌勒菩薩應稱補處。諸餘菩薩何以復言紹尊位者。 問うて曰く、若し弥勒菩薩なれば、応に補処と称すべし。諸余の菩薩は、何を以ってか、復た『尊位を紹ぐ者』と言う。
問い、
若し、
『弥勒菩薩』ならば、
『補処』と、
『称すべき!』ですが、
諸の、
『余の菩薩』を、
復た、
何故、
こう言うのですか?――
『尊位』を、
『紹()ぐ!』者と。
  弥勒菩薩(みろくぼさつ):弥勒は梵名maitreya。一生補処の菩薩の名。『大智度論巻1上注:弥勒菩薩』参照。
答曰。是諸菩薩。於十方佛土皆補佛處 答えて曰く、是の諸の菩薩は、十方の仏土に於いて、皆、補処なればなり。
答え、
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『十方』の、
『仏土』に於いて、
皆、
『補処』だからである!
  :十方に無数無量の世界あり、応に中に於いて皆仏の興出あるべし。故に無量の補処の菩薩あり。


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