【經】能請無量諸佛 |
能く無量の諸仏を請(こ)う。 |
無量の、
『諸仏』を、
『請(こ)うことができる!』。
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請(しょう):梵語nimantritaの訳。呼びかける、召喚、招集、招待の義。施主が僧中の比丘を食に招くこと。『大智度論巻2下注:請、同巻22上注:僧物』参照。 |
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【論】請有二種。一者佛初成道。菩薩夜三晝三六時禮請。偏袒右肩合掌言。十方佛土無量諸佛初成道時未轉法輪。我某甲請一切諸佛。為眾生轉法輪度脫一切。 |
請には、二種有り、一には、仏の初の成道に、菩薩は、夜三たび昼三たび、六時に礼請し、偏に右肩を袒(はだぬ)ぎ、合掌して言わく、『十方の仏土の無量の諸仏は、初の成道の時、未だ法輪を転じたまわざれば、我れ某甲、一切の諸仏に請いたてまつれり、衆生の為に法輪を転じて、一切を度脱したまえと。』と。 |
『請』には、
『二種』有り、
一には、
『仏』の、
『初』の、
『成道』の時、
『菩薩』は、
『夜』に、
『三たび!』、
『昼』に、
『三たび!』、
『六時』に、
『礼拜』して、
『請う!』のであるが、
『右肩』を、
『偏(ひとえ)に!』、
『袒(はだぬ)ぐ!』と、
『合掌』して、こう言うのである、――
十方の、
『世界』の、
無量の、
『諸仏』は、
『初』の、
『成道』の時、
未だ、
『法輪』を、
『転じられませんでした!』ので、
わたくし、
『某甲( なにがし)』が、
一切の、
『諸仏』に向って、こう請いました、――
『衆生』の為に、
『法輪』を、
『転じて!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱したまえ!』と。
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成道(じょうどう):仏道を成ずるの意。又成仏、得仏、得道、或いは成正覚とも名づく。八相の一。即ち菩薩修行円満して無上道を成ずるを云う。「過去現在因果経巻3」に、「菩薩受け已りて敷きて以って座と為し、草上に於いて結跏趺坐すること、過去仏所坐の法の如くし、而も自ら誓って言わく、正覚を成ぜずんば此の座を起たじと。我れ亦是の如く此の誓を発する時、天龍鬼神皆悉く歓喜し、清涼の好風四方より来たり、禽獣響を息め、樹は條を鳴らさず、遊雲飛塵皆悉く澄浄なり。知る是れ菩薩必ず道を成ずるの相なり。爾の時、菩提樹下に在りて誓言を発する時、天龍八部皆悉く歓喜し、虚空の中に於いて踊躍して讃歎す」と云い、又「増一阿含経巻23」に、「是の時、我れ復た是の念を作す、過去久遠恒沙の諸仏成道の処は何の所に在りとせんやと。是の時、虚空の神天住して上に在りて我れに語りて曰わく、賢士当に知るべし、過去恒沙の諸仏世尊は道樹の清涼なる樹下に坐して成仏を得たりと。時に我れ復た是の念を作す、何の処に坐して仏道を成ずることを得とせんや、坐せりや、立てりやと。是の時、諸天復た来たりて我れに告げて是の説を作す、過去恒沙の諸仏世尊は草蓐に坐し、然る後に成仏すと。是の時、我れを去る遠からず吉祥梵志あり、側に在りて草を刈る。(中略)爾の時、吉祥は躬自ら草を執りて樹王の所に詣る。吾れ即ち其の上に坐して正身正意結跏趺坐し、念を繋けて前に在り。爾の時、貪欲意解して諸の悪法を除き、有覚有観にして心を初禅に遊ばしめ、有覚有観除尽して心を二三禅に遊ばしめ、護念清浄憂喜除尽して心を四禅に遊ばしむ。我れ爾の時、清浄の心を以って諸の結使を除き、無所畏を得、自ら宿命無数来の変を識る。(中略)我れ三昧の心清浄にして瑕穢なきを以って、有漏尽きて無漏を成じ、心解脱し、智慧解脱し、生死已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辦じて更に復た胎を受けじと。如実に之を知りて即ち無上正真の道を成ず」と云える是れなり。是れ釈尊が六年苦行の後、菩提樹下吉祥草の上に坐して無上正真の道を成ぜられたることを説けるものなり。但し大乗経論中には是の如き樹下成道を以って応身成仏の相を示現せるものとなし、仏の法身は色究竟天摩醯首羅智処に於いて成仏するものとなせり。「十地経論巻1」に、「二種の利益とは、現報利益は仏の位を受くるが故なり、後報利益は摩醯首羅の智処に生ずるが故なり。経にいうが如き、正しく一切仏位を受くるが故に、一切世間最高大の身を得るが故に」と云い、「入大乗論巻下」に、「始め初地より乃ち十地に至り、淨居天に在り正覚を成ず」と云える即ち皆其の説なり。又釈尊成道の年載に関しては異説あり。「十二遊経」、「仏本行集経巻10相師占看品」、「有部毘奈耶雑事巻20」、「毘婆沙論巻14」、「島史diipavaMsa,iii」、及び「大史mahaavaMsa,ii」等には三十五歳の時とし、「道行般若経巻10」、「大明度経巻6」等には三十歳とし、「大般泥洹経巻下」には三十一歳となせり。又其の月日に関し、「長阿含経巻4」、「過去現在因果経巻3」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」等には二月八日とし、「仏本行集経巻25向菩提樹品」には二月十六日とし、「方等般泥洹経」、「潅洗仏形像経」等には四月八日とし、「大唐西域記巻8」には吠舎佉月後半八日即ち唐暦三月八日とし、又上座部は同後半十五日即ち三月十五日となすと云えり。又支那にては古来臘八成道の説あり。又「中阿含巻56羅摩経」、「太子瑞応本起経巻下」、「普曜経巻6行道禅思品」、「同諸天賀成仏道品」、「方広大荘厳経巻9成正覚品」、「仏本行集経巻30成無上道品」、「四分律巻31」、「大毘婆沙論巻103」、「大乗起信論」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望) |
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註:菩薩は空中に行ずれば、諸菩薩に固有の人格無し。 |
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二者諸佛欲捨無量壽命入涅槃時。菩薩亦夜三時晝三時。偏袒右肩合掌言。十方佛土無量諸佛。我某甲請令久住世間無央數劫。度脫一切利益眾生。是名能請無量諸佛。 |
二には、諸仏の無量の寿命を捨てて、涅槃に入らん欲する時、菩薩は、亦た夜三時昼三時に、偏に右肩を袒ぎ、合掌して言わく、『十方の仏土の無量の諸仏に、我れ某甲請うて、世間に久住すること無央数劫、一切を度脱して、衆生を利益せしめん。』と。是れを能く無量の諸仏を請うと名づく。 |
二には、
『諸仏』が、
無量の、
『寿命』を捨てて、
『涅槃』に、
『入ろう!』とする時、
『菩薩』は、
亦た、
『夜』の、
『三時(みたび)』、
『昼』の、
『三時』に、
『右肩』を、
『偏に!』、
『袒ぐ!』と、
『合掌』して、こう言う、――
十方の、
わたくし、
『某甲』が、こう請う!――
『世間』に、
『無央数(無量)劫』、
『久住し!』、
一切を、
『度脱』して、
『衆生』を、
『利益したまえ!』、と。
是れを、
無量の、
『諸仏』を、
『請うことができる!』というのである。
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問曰。諸佛之法法應說法廣度眾生。請與不請法自應爾。何以須請。若於自前面請諸佛則可。今十方無量佛土諸佛亦不自見。云何可請。 |
問うて曰く、諸仏の法は、法として、応に法を説いて、広く衆生を度すべし。請うと請わざると、法は自ら応に爾(しか)るべし。何を以ってか、請を須(ま)つ。若し、自ら前面に於いて、諸仏を請わば、則ち可(よ)からん。今、十方の無量の仏土の諸仏は、亦た自ら見るにあらざるに、云何が、請うべき。 |
問い、
諸の、
『仏』の、
『法(定法)』は、――
『法( 原則)』として、
当然、
『法』を説いて、
広く、
『衆生』を、
『度すべき!』である。
『請われようが!』、
『請われまいが!』、
『法』として、
『自ら!』、
『そうあるべき!』です。
何故、
『請』を、
『須(ま)つ!』のですか?
若し、
自ら、
『前面』に於いて、
『諸仏』を、
『請うた!』ならば、
則ち、
『それもよい!』でしょう、
今、
『十方』の、
無量の、
『諸仏』を、
『自ら!』、
『見ていない!』のに、
何のように、
『請えばよい!』のですか?
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答曰。諸佛雖必應說法不待人請。請者亦應得福。如大國王雖多美膳有人請者必得恩福。錄其心故。 |
答えて曰く、諸仏は、必ず応に法を説くべくして、人の請を待たずと雖も、請う者は、亦た応に福を得べし。大国の王は、美膳多しと雖も、有る人請えば、必ず恩福を得るが如し、其の心に録(しる)すが故なり。 |
答え、
諸の、
『仏』は、
必ず、
『法』を、
『説かれるはず!』であり、
『人』が、
『請う!』のを、
『待たれない!』が、
『請う!』者は、
当然、
『福』を、
『得るはず!』である。
譬えば、
『大国』の、
『王』には、
『美膳』が、
『多いはず!』であるが、
有る、
『人』が、
『来臨』を、
『請うた!』ならば、
必ず、
『恩福』を、
『得る!』ことになるのは、
其の、
『心』に、
『記録される!』からである。
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又如慈心念諸眾生令得快樂。眾生雖無所得。念者大得其福。請佛說法亦復如是。 |
又、慈心もて、諸の衆生を念じて、快楽を得しめんとすれば、衆生は、得る所無しと雖も、念ずる者は、大いに其の福を得ん。仏の説法を請うも、亦復た是の如し。 |
又、
『慈心』で、
諸の、
『衆生』を念じて、
『快楽』を、
『得させよう!』とすれば、
『衆生』に、
『得る!』所が、
『無かった!』としても、
『念じる!』者は、
其の、
『福』を、
『大いに得る!』のである。
『仏』に、
『法』を、
『説くよう!』、
『請う!』のも、
亦復た、
是れと同じである。
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復次有諸佛無人請者。便入涅槃而不說法。如法華經中多寶世尊。無人請故便入涅槃。後化佛身及七寶塔。證說法華經故。一時出現。 |
復た次ぎに、有る諸の仏は、人の請う者無くんば、便ち涅槃に入りて、法を説きたまわず。法華経中の多宝世尊の如きは、人の請う無きが故に、便ち涅槃に入り、後に仏身、及び七宝の塔を化して、法華経を説くを証せんが故に、一時に出現せり。 |
復た次ぎに、
有る、
諸の、
『仏』は、
『人』に、
『請う!』者が、
『無い!』時には、
便ち、
『涅槃』に入って、
『法』を、
『説かれない!』。
例えば、
『法華経』中の、
『多宝世尊』などは、
『人』に、
『請う!』者が、
『無かった!』が故に、
すぐに、
『涅槃』に、
『入られた!』が、
後に、
『法華経』が、
『説かれた!』と、
『証する!』為の故に、
『仏の身』と、
『七宝の塔』とを化して、
『一時に!』、
『出現させた!』のである。
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参考:『妙法蓮華経巻4見塔品』:『爾時佛前有七寶塔。高五百由旬。縱廣二百五十由旬。從地踊出住在空中。種種寶物而莊校之。五千欄楯龕室千萬。無數幢幡以為嚴飾。垂寶瓔珞。寶鈴萬億而懸其上。四面皆出多摩羅跋栴檀之香。充遍世界。其諸幡蓋。以金銀琉璃車磲馬腦真珠玫瑰七寶合成。高至四天王宮。三十三天。雨天曼陀羅華供養寶塔。餘諸天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩[目*侯]羅伽人非人等千萬億眾。以一切華香瓔珞幡蓋伎樂。供養寶塔恭敬尊重讚歎。爾時寶塔中出大音聲歎言。善哉善哉。釋迦牟尼世尊。能以平等大慧教菩薩法佛所護念妙法華經為大眾說。如是如是。釋迦牟尼世尊。如所說者。皆是真實。』 |
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亦如須扇多佛。弟子本行未熟便捨入涅槃。留化佛一劫以度眾生。 |
亦た須扇多仏の如きは、弟子の本行未だ熟せざれば、便ち捨てて、涅槃に入り、化仏を留むること一劫、以って衆生を度したまえり。 |
亦た、
『須扇多仏』などは、
『弟子』の、
『本行(過去世の修行)』が、
『熟していなかった!』ので、
するりと、
『弟子』を捨てて、
『涅槃』に、
『入られた!』が、
『化仏』を、
『一劫』、
『留め置いて!』、
それで、
『衆生』を、
『度された!』のである。
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須扇多仏(しゅせんたぶつ):仏名。須扇多は梵語suzaanta、意訳して甚浄に作る。即ち「玄応音義巻3」に、「須扇頭仏、また須扇多仏といい、晋には甚浄という」と云い、また「大品般若経巻23六喩品」に、「須菩提、譬えば須扇多仏の如きは阿耨多羅三藐三菩提を得て、三乘の転法輪を為せども、菩薩の記を得る者無ければ、化して仏と作りおわりて、身の寿命を捨てて無余涅槃に入れり」と云えるこれなり。<(丁)
本行(ほんぎょう):梵語puurva- caryaの訳。過去世の修行の意。 |
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今是釋迦文尼佛。得道後五十七日寂不說法。自言我法甚深難解難知。一切眾生縛著世法無能解者。不如默然入涅槃樂。是時諸菩薩及釋提桓因梵天王諸天合掌敬禮。請佛為諸眾生初轉法輪。佛時默然受請。後到波羅奈鹿林中轉法輪。如是云何言請無所益。 |
今、是の釈迦文尼仏は、得道の後、五十七日寂として、法を説かず、自ら言わく、『我が法は、甚だ深く、解し難く知り難し。一切の衆生は世法に縛著して、能く解する者無し。黙然として、涅槃の楽に入るに如(し)かず。』と。是の時、諸の菩薩、及び釈提桓因、梵天王の諸天は合掌、敬礼して、仏を請わく、『諸の衆生の為に初の法輪を転じたまえ。』と。仏は、時に黙然として請を受けたまい、後に波羅奈に到りて、鹿林中に法輪を転じたまえり。是の如きを、云何が、『請に益する所無し。』と言う。 |
今の、
是の、
『釈迦文尼仏』は、
『得道』の後、
『五十七日』寂黙して、
『法』を、
『説かず!』、
自ら、
こう言われた、――
わたしの、
『法』は、
『甚だ深く!』、
『解し難く!』、
『知り難い!』のに、
一切の、
『衆生』は、
『世間』の、
わたしの、
むしろ、
『黙然』として、
『涅槃』に、
『入ってしまおう!』と。
是の時、
諸の、
『菩薩』や、
『釈提桓因、梵天王の諸天』は、
『合掌』、
『敬礼』して、
『仏』に、
こう請うた、――
『衆生』の為に、
初の、
『法輪』を、
『転じたまえ!』、と。
『仏』は、
『黙然( 許諾のしるし)』として、
『請』を、
『受けられ!』、
後に、
『波羅奈』の、
『鹿林』中に到り、
『法輪』を、
『転じられた!』のである。
是の通りなのに、
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得道(とくどう):聖道又は無上道を得るの意。又得度とも云う。「中阿含巻29請請経」に、「未だ得道せざる者は其れをして得道せしむ」と云い、「大智度論巻3」に、「是の時、浄飯王は子を愛念するが故に、常に使を遣して消息を知らんと欲し、我が子は得道せしや不や、若しは病み、若しは死せしやを問訊せしむ」と云い、又「同巻27」に、「復た次ぎに菩薩摩訶薩、是の法位の中に入らば、復た凡夫の数に堕せず、名づけて得道の人と為す。一切世間の事は其の心を壊せんと欲するも動ぜしむること能わず、三悪趣の門を閉じて諸の菩薩の数中に堕し、初めて菩薩の家に生ず」と云える是れなり。是れ無漏の聖道、又は菩薩の無生法忍、並びに無上菩提を得たるを皆得道と称したるなり。得道の因縁に関しては、「大智度論巻34」に、「仏身は無量阿僧祇にして種種同じからず、仏あり衆生の為に説法して得道せしむる者あり、仏あり無量の光明を放ち、衆生之に遇わば而も得道する者あり、神通変化を以って其の心を指示するに而も得道する者あり、仏あり但だ色身を現ずるに而も得道する者あり、仏あり遍身の毛孔より衆の妙香を出し、衆生之を聞きて而も得道する者あり、仏あり食を以って衆生に与えて得道せしむる者あり、仏あり衆生但だ念ずれば而も得道する者あり、仏あり能く一切草木の声を以って仏事を作し、衆生をして得道せしむる者あり、仏あり衆生名を聞きて而も得道する者あり」と云い、又「同論巻7」に放光得道に関し、「若し光明に値いて便ち得道せば、仏には大慈あり、何を以って常に光明を放ちて一切をして得道せしめず、何ぞ持戒禅定智慧を須って然る後得道するや。答えて曰わく、衆生は種種の因縁により得度同じからず、禅定にて得度する者あり、持戒説法にて得度する者あり、光明身に触れて而も得度する者あり。譬えば城に多門あり、入処各各なるも至処異ならざるが如し」と云えり。以って得道の因縁に種種の異あるを見るべし。又「同論巻8」には得道は必ず欲界身に依るべきことを明し、「仏此の衆生を度して道を証することを得しめんと欲するに、無色界の中には身なきを以っての故に為に説法すべからず。色界の中には則ち厭心なければ得度すべきこと難く、禅楽多きが故に慧心則ち鈍なり」と云えり。是れ「倶舎論巻24」に、見道は但だ欲界身に依ることを説き、「何に縁りて上界には必ず見道なきや。且らく無色の中には正聞なきが故に、又彼の界中には下を縁ぜざるが故なり。色界の異生は勝定の楽に著し、又苦受なければ厭を生ぜざるが故なり。厭あることなければ能く見道を得するに非ず」と云うの説に合するを見るべし。又「大智度論巻18、33、35、93」、「雑阿毘曇心論巻5」、「倶舎論巻23」等に出づ。<(望)
釈提桓因(しゃくだいかんいん):具さには梵語釈迦提婆因陀羅sakra kevaanaamindraと称し、即ち忉利天の主にして、天帝釈、或は帝釈天とも称す。『大智度論巻3(上)注:釈提桓因』参照。
梵天王(ぼんてんのう):梵語mahaabrahman。色界初禅大梵天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
波羅奈(はらな):具さに梵語波羅奈斯vaaraNasiと称し、恒伽流域の国名なり。中に鹿野苑精舎在りたり。『大智度論巻2(上)注:波羅奈国、巻3(上)注:十六大国』参照。
鹿林(ろくりん):梵名mRgadaavaの訳。中印度波羅奈国に在りし園林の名。『大智度論巻26上注:鹿野苑』参照。
黙然(もくねん):仏は許諾の時、ことばを発せず、但だ黙然として聴くのみの意。『大智度論巻41下注:黙然』参照。 |
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復次佛法等觀眾生。無貴無賤無輕無重。有人請者。為其請故便為說法。雖眾生不面請佛。佛常見其心亦聞彼請。假令諸佛不聞不見。請佛亦有福德。何況佛悉聞見而無所益。 |
復た次ぎに、仏の法は、等しく衆生を観れば、貴無く、賎無く、軽無く、重無く、人の請う者有らば、其の請の為の故に、便ち為に法を説きたまえば、衆生、面じて仏を請わずと雖も、仏は、常に其の心を見、亦た彼の請を聞きたもう。仮令(たとい)、諸仏は聞かず、見たまわずとも、仏を請わば、亦た福徳有らん。何に況んや、仏は悉く聞きて見たもうに、益する所無からんや。 |
復た次ぎに、
『仏』の
『法( 定法)』は、
『衆生』を、
『等しく!』、
『観る!』ことであり、
『貴ぶ!』ことも、
『賎しむ!』ことも、
『軽んじる!』ことも、
『重んじる!』ことも、
『無い!』ので、
有る、
『人』が、
『請うた!』ならば、
其の、
『請』の為の故に、
すぐに、
『法』を、
『説かれる!』のであり、
『衆生』が、
『仏』を、
『請う!』時、
『対面しなかった!』としても、
『仏』は、
常に、
其の、
『心』を見て、
彼れの、
『請』を、
『聞かれている!』。
仮令( たとい)、
諸の、
『仏』が、
『聞いていられず!』、
『見ていられなかった!』としても、
『仏』を、
『請う!』ことには、
『福徳』が、
『有る!』のであり、
況して、
『仏』は、
悉くを、
『聞いていられ!』、
『見ていられる!』のであるから、
何うして、
『益する!』所の、
『無いことがあろう!』。
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問曰。既知請佛有益。何以正以二事請。 |
問うて曰く、既に、仏を請うには、益有るを知る。何を以ってか、正しく、二事を以って請う。 |
問い、
もう、
『仏』を、
『請う!』のに、
『益』が、
『有る!』ことを、
『知りました!』。
何故、
正しく、
『二事』を以って、
『仏』を、
『請う!』のですか?
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答曰。餘不須請。此二事要必須請。若不請而說。有外道輩言。體道常定何以著法多言多事。以是故須請而說。 |
答えて曰く、余は、請を須たず。此の二事は、要必(かなら)ず請を須つ。若し請わざるに、説かば、有る外道の輩は言わん、『道を体すれば、常に定まれり。何を以ってか、法に著して、多言多事なる。』と。是を以っての故に、請を須って説きたもう。 |
答え、
余の、
此の、
『二事』は、
絶対に、
『請』を、
『須たなくてはならない!』。
若し、
『請われず!』に、
『法』を、
『説く!』ならば、
有る、
『外道の輩』は、
こう言うだろう、――
『道』を、
『体得した!』者に、
『法』は、
『常に!』、
『定まっている!』。
何故、
『法』に著して、
『言( ことば)』や、
『事( しごと)』が、
『多い!』のか?と。
是の故に、
『請』を須って、
『法』を、
『説かれる!』のである。
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若有人言若知諸法相不應貪壽。久住世間而不早入涅槃。以是故須請。若不請而說。人當謂佛愛著於法欲令人知。以是故要待人請而轉法輪。 |
若しは、有る人言わん、『若し、諸法の相を知らば、応に寿を貪り、世間に久住して、早く涅槃に入らざるべからず。』と。是を以っての故に、請を須つ。若し請わざるに、説かば、人は、当に謂うべし、『仏は、法に愛著して、人をして、知らしめんと欲す。』と。是を以っての故に、要らず、人の請を待ちて、法輪を転じたもう。 |
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
諸の、
『法』の、
『相』を、
『知った!』ならば、
当然、
『寿』を貪り、
『世間』に、
『久しく!』、
『住まって!』、
『涅槃』に、
『早く!』、
『入らないはずがない!』。
是の故に、
『請』を、
『須って!』、
『説かれる!』のである。
若し、
『請わない!』のに、
『法』を、
『説いた!』ならば、
『人』は、
こう謂うはずである、――
『仏』は、
『法』に、
『愛著している!』ので、
『人』にも、
『法』を、
『知らせたい!』のだろう、と。
是の故に、
要らず、
『人』が、
『請う!』のを、
『待って!』、
その後、
『法輪』を、
『転じられる!』のである。
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諸外道輩自著於法。若請若不請而自為人說。佛於諸法不著不愛。為憐愍眾生故。有請佛說者佛便為說。諸佛不以無請而初轉法輪。 |
諸の外道の輩は、自ら法に著して、若しは請う、若しは請わざるに、自ら人の為に説く。仏は諸法に於いて著せず、愛せず、衆生を憐愍したもうが為の故に、仏に説くを請う者有らば、仏は便ち為に説きたもう。諸仏は、請無きを以っては、初めて法輪を転じたまわず。 |
諸の、
『外道の輩』は、
『請われても!』、
『請われなくても!』、
『仏』は、
諸の、
『法』を、
『著することもなく!』、
『愛することもなく!』、
但だ、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故にのみ、
有る、
『仏』に、
『説く!』ことを、
『請う!』者の為に、
すぐに、
『法』を、
『説かれる!』のであり、
諸の、
『仏』は、
『請』が、
『無ければ!』、
初の、
『法輪』を、
『転じられない!』のである。
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如偈說
諸佛說何實
何者是不實
實之與不實
二事不可得
如是真實相
不戲於諸法
憐愍眾生故
方便轉法輪 |
偈に説くが如し、
諸仏は、何なる実をか説きたもう、
何者なるか、是れ実にあらざる、
之を実とすると、実とせざると、
二事は、得べからず。
是の如き真実の相は、
諸法に戲れず、
衆生を憐愍するが故に、
方便して、法輪を転じたもう。
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『偈』に説くとおりである、――
諸の、
『仏』が、
何のような、
『実』を、
『説かれた!』というのか?
何者を、
『実でない!』と、
『説かれた!』のか?
之が、
『実であろう!』と、
『実でなかろう!』と、
『二事』は、
『共に!』、
『得られない!』。
是のような、
『真実』の、
『相』は、
諸の、
『法』に、
『戲れたのではない!』、
但だ、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
『方便』の、
『法輪』を、
『転じられた!』のだ。
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復次佛若無請而自說法者。是為自顯自執法。應必答十四難。今諸天請佛說法。但為斷老病死無戲論處。是故不答十四難無咎。以是因緣故須請而轉法輪。 |
復た次ぎに、仏は、若し請無くして、自ら法を説きたまわば、是れを、自ら、自らの法に執するを顕すと為し、応に必ず、十四難に答えたもうべし。今、諸天の仏に法を説きたまわんことを請えるは、但だ、老病死を断ぜんが為にして、戯論の処無し。是の故に、十四難に答えたまわずとも、咎無し。是の因縁を以っての故に、請を須ちて、法輪を転じたもう。 |
復た次ぎに、
『仏』が、
若し、
『請』が、
『無い!』のに、
自ら、
『法』を、
『説かれた!』ならば、
是れは、
自ら、
『法』に、
『執している!』ことを、
自ら、
『顕した!』ことになり、
当然、
『十四難』にも、
『答えられたはず!』である。
今、
『諸天』が、
『法』を、
『説くよう!』、
『請うた!』のは、
但だ、
『老病死』を、
『断じる!』為であり、
是の、
『法』には、
『戯論する!』ような、
『処』が、
『無い!』ので、
是の故に、
是の、
『因縁』を以っての故に、
『請』を、
『須って!』、
『法輪』を、
『転じられる!』のである。
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十四難(じゅうしなん):答える意味の無い十四の難問。又十四無記ともいう。『大智度論巻2(下)記事:十四難、同巻7上注:十四無起』参照。
十四無記(じゅうしむき):十四種の記答せざるものの意。また十四不可記、十四難とも名づく。即ち外道が顛倒の見を以って問難せる十四事に対し、捨置して答えざるをいう。十四種とは一に世間常、二に世間無常、三に世間亦常亦無常、四に世間非常非無常、五に世間有辺、六に世間無辺、七に世間亦有辺亦無辺、八に世間非有辺非無辺、九に如来死後有、十に如来死後無、十一に如来死後亦有亦非有、十二に如来死後非有非非有、十三に命身一、十四に命身異なり。「雑阿含経巻34」に、「その時、婆蹉種出家(梵vacchagotta
paribbaajaka)は、仏所に来詣して世尊のために面相問訊し、問訊しおわりて退いて一面に坐し、仏に白して言さく、瞿曇、云何が瞿曇はかくの如きの見、かくの如きの説を作し、世間は常なり、これはこれ真実にして余は則ち虚妄となすや。仏、婆蹉種出家に告ぐ、われかくの如きの見、かくの如きの説を作さず、世間は常なり、これ則ち真実にして余は則ち虚妄なりと。云何が瞿曇、かくの如きの見、かくの如きの説を作すや、世間は無常なり、常無常なり、非常非無常なり。有辺なり、無辺なり、辺無辺なり、非辺非無辺なり。命即ちこれ身、命異身異なり。如来有後死、無後死、有無後死、非有非無後死なりと。仏は婆蹉種出家に告ぐ、われかくの如きの見、かくの如きの説を作さず、乃至非有非無後死なり」と云い、また「大智度論巻2」に、「問うて曰わく、十四難答えず、故に知る一切智人に非ず。何等か十四難なる、世界及び我は常なり、世界及び我が無常なり、世界及び我は亦有常亦無常なり、世界及び我は亦非有常亦非無常なり。世界及び我は有辺なり、無辺なり、亦有辺亦無辺なり、亦非有辺亦非無辺なり。死後、神の後世に去るあり、神の後世に去るなし、亦有神去亦無神去、死後亦非有神去亦非無神去なり。この身これ神、身異神異なり。もし仏は一切智人ならば、この十四難何を以って答えざるや。答えて曰わく、この事は実なきが故に答えず、諸法有常はこの理なく、諸法断もまたこの理なし。この故を以って仏答えず。譬えば人の牛角を搾りて幾升の乳を得るやと問うが如く、これ非問たり、まさに答うべからず」と云えるこれなり。これ外道が虚妄無実の事を問うにより、仏は即ちこれに対して答えざりしことを説けるものにして、四記答の中の捨置記答なり。この中、世間常とは外道が世間及び我は常住すると執するをいい、世間無常とは世間及び我は無常と執するをいい、世間亦常亦無常とは世間及び我に各麁細あり、その中、麁なるものは無常、細なるものは常と執するをいい、世間非常世間非無常とは、前の亦常亦無常は二倶に過あるが故にこれを非するをいう。ただし我あるを非とせず。世間有辺とは、世間及び我は有辺なりと執するものにして、即ち世間にはその起こるに始あり、また我は芥子の如く、或は微塵の如く分限ありと執するをいい、世間無辺とは世間に原始なく、その法はまた広多無量にして辺際なく、また我は虚空に遍じて処として有らざることなしと執するをいい、世間亦有辺亦無辺とは、世間は有辺亦無辺なり、また我の麁なるものは有辺、細なるものは無辺なりと執するをいい、世間非有辺非無辺とは、前の亦有辺亦無辺は二倶に過あるが故にこれを非するをいう。如来死後有とは即ち如来にして、前世より来たりてこの間に生ずるが如く、死後また去りて後世に向うことかくの如しと執するを云い、如来死後無とは即ち不如去にして、前世より来たりてこの間に生ずるも、死後断滅して前の如く去らずと執するをいい、如来死後亦有亦非有とは、身と我と合して人となる、我は前世より来たるが如く死後また去りて後世に向うも、身は断滅して後世に向かわずと執するをいい、如来死後非有非非有とは、前の亦有亦非有は二倶に過あるが故に、こえを非するをいう。ただし我の有を非するに非ず。命身一とは、身は即ち命(我)にして、命と身と一なりと執するをいい、命身異とは、身は麁なるが故に滅し、命は細なるが故に滅せず、即ちこの二は異なりと執するを云うなり。総じてこれ等は外道の断常一異等の妄見より生ずる邪執を挙げたるものにして、その中、前の十二は有無等の四句に約し、後の二は一異に約して分別せるなり。「新華厳経巻21」には、前の十二の中に就き更に世間と我とを分別して十六種となし「何等をか無記の法となす、謂わく世間は有辺なり、世間は無辺なり、世間は亦有辺亦無辺なり、世間は非有辺非無辺なり。世間は有常なり、せけんは無常なり。世間は亦有常亦無常なり、世間や非有常非無常なり。如来は滅後有なり、如来は滅後無なり、如来は滅後亦有亦無なり、如来は滅後非有非無なり。我及び衆生は有なり、我及び衆生は無なり、我及び衆生は亦有亦無なり、我及び衆生は非有非無なり」と云えり。また「増一阿含経巻43」、「大品般若経巻14」、「大般涅槃経巻39」、「大智度論巻7」、「顕揚聖教論巻6」、「倶舎論巻19」、「大乗義章巻6」、「華厳経探玄記巻6」等に出づ。<(望) |
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復次佛在人中生。用大人法故。雖有大悲不請不說。若不請而說。外道所譏。以是故初要須請。 |
復た次ぎに、仏は人中に生じて、大人法を用うるが故に、大悲有りと雖も、請わざれば説きたまわず。若し請わざるに説きたまわば、外道の譏(そし)る所とならん。是を以っての故に、是を以っての故に、初めに要らず、請を須ちたもう。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『人』中に、
『生まれられた!』ので、
『大人( 大物)』の、
『法』を、
『用いられる!』が故に、
『大悲』が有っても、
『請わない!』時には、
『説かれない!』。
若し、
『請わない!』のに、
『説いた!』ならば、
『外道』に、
『譏(そし)られる!』だろう。
是の故に、
初めに、
要らず、
『請』を、
『須たれる!』のである。
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大人(だいにん):梵語mahaa- puruSaの訳。大人物、或いは著名人の義。 |
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又復外道宗事梵天。梵天自請則外道心伏。 |
又復た外道は、梵天を宗事するに、梵天自ら、請わば、則ち外道は心伏せん。 |
又復た、
『外道』は、
『梵天』を、
『宗事している!』ので、
『梵天』が、
『自ら!』、
『請うた!』ならば、
則ち、
『外道』を、
『心伏させる!』ことになろう。
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宗事(しゅうじ):崇め仕えること。 |
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復次菩薩法。晝三時夜三時常行三事。一者清旦偏袒右肩合掌禮十方佛言。我某甲。若今世若過世無量劫。身口意惡業罪。於十方現在佛前懺悔。願令滅除不復更作。中暮夜三亦如是。 |
復た次ぎに、菩薩法は、昼の三時と夜の三時に常に三事を行う。一には、清旦に、偏に右肩を袒ぎて合掌し、十方の仏を礼して言わく、『我れ某甲、若しは今世、若しは過世の無量劫の身口意の悪業の罪を、十方の現在の仏前に於いて、懺悔せん、願わくは滅除せしめて、復た更に作さざらしめたまえ。』と。中、暮と、夜の三も亦た是の如し。 |
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『法』には、
『昼の三時』と、
『夜の三時』と、
常に、
『三事』を、
『行う!』のであるが、
一には、
『清旦( 昼の一)』に、
『右肩』を、
『偏に!』、
『袒いで!』、
『合掌』し、
『十方』の、
『仏』を、
『礼して!』、
こう言う、――
わたくし、
『某甲』は、
『今世』や、
『過去世』の、
『無量劫』の、
『身口意』の、
『悪業』の、
『罪』を、
『十方』の、
『現在』の、
願わくは、
『罪』を、
『滅除して!』、
『新たな!』、
『罪』を、
『作らせないようさせたまえ!』と。
『中( 昼の二)』と、
『暮( 昼の三)』と、
『夜の三時』も、
亦た、
是の通りである。
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清旦(しょうたん):早朝。昼の第一時。
懺悔(さんげ):過去の非を悔謝して其の忍容を請うの意。『大智度論巻2上注:懺悔』参照。
中(ちゅう):日中。昼の第二時。
暮(ぼ):日没。昼の第三時。 |
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二者念十方三世諸佛所行功德及弟子眾所有功德。隨喜勸助。 |
二には、十方の三世の諸仏の所行の功徳、及び弟子衆の所有の功徳を念じて、随喜し、勧助す。 |
二には、
『十方』の、
『三世』の、
『諸仏』の、
『行う!』所の、
『功徳』を念じて、
『随喜』し、
『勧助』して、
及び、
『弟子衆』の、
『有する!』所の、
『功徳』を念じて、
『随喜』し、
『勧助』する!。
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随喜(ずいき):梵語anumodanaの訳。巴梨語同じ。賛同の義。随順して歓喜するの意。即ち他の作せる善根功徳に就き従順して心に歓喜を生ずるを云う。「大品般若経巻11随喜品」に、「是の菩薩摩訶薩は福徳を随喜し、一切衆生と之を共にして阿耨多羅三藐三菩提に迴向せば、その福は最上第一最妙無上にして、与に等しきものなし」と云い、「法華経巻6随喜功徳品」に、「如来の滅後に若し比丘比丘尼優婆塞優婆夷、及び余の智者の若しは長、若しは幼なるあり、是の経を聞きて随喜し已り、法会より出でて余処に至り、若しは僧坊、若しは空閑の地、若しは城邑巷陌聚落田里に在りて、其の所聞の如く父母宗親善友知識の為に方に随って演説せんに、是の諸人等聞き已り、随喜して復た行きて転教し、余人聞き已りて亦随喜して転教し、是の如く展転し、第五十に至らん。(中略)阿逸多、是の如く第五十の人の展転して法華経を聞き、随喜せる功徳は尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況んや最初会中に於いて聞きて随喜せる者をや。其の福復た勝ること無量無辺阿僧祇にして比すことを得べからず」と云える是れなり。「大智度論巻61」に随喜の義を解し、「随喜の福徳とは身口業を労して諸の功徳を作さず、但だ心の方便を以って他の修福を見て、随って歓喜して是の念を作さく、一切衆生の中に能く福を修し道を行ずる者を最も殊勝と為す。若し福徳を離るるの人は畜生と与に同じく三事を行ず、三事とは婬欲と飲食と戦闘となり。能く福徳を修行し道を行ずるの人は、一切の衆生に共に尊重愛敬せらる。譬えば熱時に清浄なる満月は楽仰せざることなきが如く、亦大会の集まるを告げ、伎楽餚饌畢く備わらざることなく、遠近の諸人咸く共に欣びて赴くが如し。修福の人も又復た是の如し。(中略)諸の菩薩摩訶薩は十方三世の諸仏及び菩薩声聞辟支仏、及び一切修福の衆生の布施持戒修定慧に於いて、此の福徳の中に於いて随喜福徳を生ず。是の故に随喜と名づく。(中略)問うて曰く、仏道を求むる者、何を以って自ら功徳を作さず、而も心に随喜を行ずるや。答えて曰く、諸の菩薩は方便力を以って、他の勤労して作せる功徳に能く中に於いて随喜を起さば、福徳は自作の者に勝る。復た次ぎに随喜の福徳は即ち是れ実の福徳なり。所以は何ん、過去仏を念ずるは即ち是れ念仏三昧なり。亦是れ六念の中の念仏念法念僧、念戒念捨念天等なり。清浄戒を行ずるに因りて禅定に入り、畢竟智慧を起して和合するが故に能く正随喜を起す。是の故に但だ随喜するのみに非ず、亦是れ実法を行ず」と云えり。是れ福徳を行ずるの人は諸人の尊重愛敬する所となることを説き、又彼の福徳を随喜すれば其の功徳は自作者に勝り、且つ随喜の福徳は即ち実徳なることを明にしたるものなり。又「法華玄賛巻10」には随喜に通別の二種あることを説き、他の所作の福を見聞覚知して皆随って歓喜するを通随喜とし、五十功徳の説に依りて、特に法華経を聞いて随って歓喜するを別随喜となすと云い、又大小二乗の随喜の不同を説き、大乗の随喜は広く三世十方仏及び弟子に通ずるも、小乗は唯三世仏に局り、大乗は法身の功徳を随喜するも、小乗は唯迹身の功徳に限り、大乗は薩婆若に廻向して一切智に趣くも小乗には此の事なく、大乗は漏無漏に通ずるも小乗は唯有漏心に局るとなし、又随喜は正しく化他門なりと雖も、自ら嫉妬煩悩を除き、福徳を求めんと欲するが故に亦自行門にも通ずと云えり。又随喜は五悔の一にして、「修懺要旨」に、「随喜は則ち他の修善を嫉むの愆を滅す」と云い、天台家には又之を五品弟子位の初品となせり。又「大般涅槃経巻1寿命品」、「大乗三聚懺悔経」、「瑜伽師地論巻44」、「摩訶止観巻7下」、「同輔行伝弘決巻7四」、「法華経文句巻10上」、「法華経玄賛巻10本」、「観経散善義」等に出づ。<(望)
勧助(かんじょ):梵語pariNaamayatの訳。喜んで容認するの義。他人の善行を勧め助けるの意。随喜。 |
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三者勸請現在十方諸佛初轉法輪。及請諸佛久住世間無量劫度脫一切。菩薩行此三事功德無量轉近得佛。以是故須請 |
三には、現在の十方の諸仏に、初めて法輪を転ぜんことを勧請し、及び諸仏に世間に久住すること無量劫にして、一切を度脱せんことを請う。菩薩は、此の三事を行う功徳無量なれば、転(うた)た近づきて、仏を得る。是を以っての故に、請を須つ。 |
三には、
『現在』の、
『十方』の、
『諸仏』に、
初の、
『法輪』を、
『転じられる!』よう、
『請い!』、
及び、
『諸仏』に、
『世間』に、
『無量劫』、
『久住して!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱せられる!』ことを、
『請う!』。
『菩薩』は、
此の、
次第に、
『仏』を、
『得る!』ことに、
『近づく!』ので、
是の故に、
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