【經】如實巧度 |
如実に巧みに度す。 |
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度(ど):梵語paaramitaaの訳。渡す、渡るの意。生死を海に譬え、自ら生死の海を渡り、また人をも渡す、これを度と謂う。また梵語波羅蜜を訳して度と曰えり。生死の海を渡る行法なり。『大智度論巻6下注:波羅蜜』参照。
波羅蜜(はらみつ):梵語paaramitaa、巴梨語paaramiiの音訳にして、また波羅蜜多、波囉弭多に作り、到彼岸、度彼岸、度無極、度、或は事究竟と訳す。生死の此岸より解脱涅槃の彼岸に到るをいう。その名義に関し、「菩薩内習六波羅蜜経」に、「波羅は生死より得度すと為し、蜜を無極と為す」と云い、「大智度論巻12」に、「波羅は秦に彼岸と言い、蜜は秦に到と言う。(中略)天竺の俗法には凡べて事成辦に造(いた)るを皆到彼岸と言う。(中略)生死を以って此岸と為し、涅槃を彼岸と為す」と云い、「聖仏母般若波羅蜜多九頌精義論巻上」に、「彼岸とは辺際の義、到とは往到なり」と云い、智顗の「仁王護国般若経疏巻1」に、「波羅蜜はここに事究竟と云い、また到彼岸と云う」と云えり。蓋し梵語paaramitaaは、「彼岸」の義なる名詞paaraの業格単数paaramに、「到る」または「在り」の義なる動詞i及び接尾字taa(paaram-
i- taa)に代えたるものにして、即ち「彼岸に到達せる状態」または「終了」、「円満」の義を有するなり。また良賁の「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻上」には「梵に波囉弭多と云い、ここには到彼岸と云う。声明論の分句釈に依れば波囉伊(上声)多と云う。伊多と言うは此岸と云うなり。波藍と言うは彼岸と云うなり。極智に乗じ此を離れて彼に到るに由るなり」と云えり。これ恐らくこの語を「彼岸」の義なるpaaramと「此岸」の義なる不変詞idamとの合成語となせるものなるべし。また巴梨語のpaaramiiは、「最上の」または「終極の」の義なる形容詞paramaを女性名詞となせるものにして、この名詞が合成語の末尾に在る時は、語末のiiを短音とし、これに接尾字taaを加えてpaaarami-taaの形を用うるなり。「弥勒菩薩所問経論巻8」には、波羅蜜の語は已到と当到とに通ずとし、「彼岸に到るが故に波羅蜜の義と名づく。また諸仏如来はすでに彼岸に到るを波羅蜜と名づけ、初地の菩薩はその畢竟じて彼岸に到るを以っての故に波羅蜜と名づけ、諸の菩薩は畢竟じて彼岸の行を得るを以って波羅蜜と名づく。この故に如来は経の中に説いて言わく、彼の行に随順するを波羅蜜と名づくと。彼の処は未だ彼岸の義を決定せざるを以っての故なり。この故に如来は無尽意所問経の中に説く、満足して菩薩行を行ずるを波羅蜜の義と名づけ、快く深智満足するを波羅蜜の義と名づくと」と云えり。これ仏は已到、菩薩は当到なることを明せるなり。また「梁訳摂大乗論釈巻9」には到彼岸に三種の別ありとし「一には所修の行に随って究竟して余なきを到彼岸と為す。世間及び二乗もまた所修の行に応ずることあるも、これを修すること尽きざるが故に到彼岸に非ず。二には衆流は海に帰するを極と為すが如く、施等もまた爾り、真如に入るを以って究竟と為す。即ち真如に入るを以って到彼岸と為す。世間及び二乗は施等を修すといえども、よく真如に入ること能わざるが故に到彼岸に非ず。三にはまさに無等の果を得べきを以って到彼岸と為す。更に別の果のこの果に勝るものなく、諸果の中の上たるが故に彼岸と名づく。世間及び二乗は施等を修すといえども、この果を求めざるが故に到彼岸に非ず。菩薩所修の彼岸は皆この三義を具す、故に通じて波羅蜜と称す」と云えり。これ所修の行、所入の理及び所得の果皆究竟なるが故に、即ち波羅蜜と名づくることを設けるものなり。また「解深密経巻4」には波羅蜜と名づくるに、無染著、無顧恋、無罪過、無分別、正迴向の五因縁ありとし、「金光明最勝王経巻4」には、波羅蜜に修習勝利、乃至無所著無所見無患累等の十七義ありと云い、「大宝積経巻53」には、一切所知諸妙善法能到彼岸、乃至於菩薩蔵差別法門正安住義等の二十義ありとし、「同巻115無尽慧菩薩会」には、門示超過一切声聞独覚所行故、乃至転十二種法転故の三十義を挙げたり。また此岸彼岸の義に関し、「大乗義章巻12六波羅蜜義」に二義を出し、「第一にはよく生死の此岸を捨てて究竟涅槃の彼岸に到る。前度の中の果度と相似す。第二にはよく生死涅槃有相の此岸を捨てて平等無相の彼岸に到る。前度の中の自性清浄度とその義相似す。その両義を具するを到彼岸と名づく」と云い、「大品経遊意」には三義を出し「第一は小乗を此岸と為し、大乗を彼岸と為す。何となれば小乗の人の為に委曲に授教するも、未だ広遠に及ばざるを名づけて此岸と為し、大根の人の為に大乗満教を説くを彼岸と名づく。檀波羅蜜を中流と為し、この行の果に至るを名づけて度と為す。(中略)第二双は魔を此岸と為し、仏を彼岸と為す。中流は前の如し。第三双は世間を此岸と為し、涅槃を彼岸と為す。受はこれ生死の河にして、八正華を中流と為すなり。成論師は有相を此岸と為し、無相を彼岸と為し、生死を此岸と為し、涅槃を彼岸と為し、衆惑を此岸と為し、種智を彼岸と為す」と云い、また「大慧度経宗要」には四義を出し、「一には生死の此岸より涅槃の彼岸に到るが故に到彼岸と名づく。(中略)二には有相の此岸より無相の彼岸に到るが故に到彼岸と名づく。(中略)三には未満智の此岸より究竟智の彼岸に到るが故に到彼岸と名づく。(中略)四には有此岸の岸より無彼岸の岸に到り、到る所無きが故に到彼岸と名づく」と云えり。以って諸家の説を見るべし。また諸経論には波羅蜜に六種、十種及び四種等の別あることを説けり。六種とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜にして、主として諸部の般若経にこれを説き、十種とは前の六種に智、願、神力、法の四種を加えたるものにして、「華厳経離世間品」、「金光明最勝王経最浄地陀羅尼品」等に出す所なり。四種とは常楽我淨にして、「勝鬘経顛倒真実章」に、「如来の法身はこれ常波羅蜜、楽波羅蜜、我波羅蜜、浄波羅蜜なり」と云い、「観普賢菩薩行法経」に、「釈迦牟尼を毘盧遮那遍一切処と名づけ、その仏の住処を常寂光と名づく。常波羅蜜所摂成の処、我波羅蜜所安立の処、楽波羅蜜滅受想の処、浄波羅蜜不住身心相の処なり」と云える即ちその説なり。また「賢劫経巻2至巻6」には、六波羅蜜を開いて総じて二千一百の諸度無極ありとなせり。また「大乗菩薩蔵正法経巻38」、「大智度論巻53」、「瑜伽師地論巻49行品」、「梁訳摂大乗論巻中」、「倶舎論巻18」、「金剛仙論巻1」等に出づ。<(望) |
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【論】有外道法。雖度眾生不如實度。何以故。種種邪見結使殘故 |
有る外道の法は、衆生を度すと雖も、如実に度せず。何を以っての故に、種種の邪見、結使の残るが故なり。 |
有る、
『外道』の、
『法』は、
『衆生』を、
『度した!』としても、
『如実』に、
『衆生』を、
『度すことはない!』。
何故ならば、
『度した!』はずの、
『衆生』に、
種種の、
『邪見』や、
『結使』が、
『残る!』からである。
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二乘雖有所度。不如所應度。何以故。無一切智方便心薄故。 |
二乗にも度す所有りと雖も、応に度すべき所の如くにあらず。何を以っての故に、一切智無く、方便心薄きが故なり。 |
『二乗』にも、
『度す!』所の、
『衆生』が、
『有る!』が、
『度すべき!』所の、
『衆生』のままに、
『度すのではない!』。
何故ならば、
『二乗』は、
『一切智』が、
『無く!』、
『方便』の、
『心』が、
『薄い!』からである。
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註:二乗は心が柔軟でなく、方便を以って衆生を度すことを知らぬが故なり。 |
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唯有菩薩能如實巧度。譬如渡師一人以浮囊草筏渡之。一人以方舟而渡。二渡之中相降懸殊。菩薩巧渡眾生亦如是。 |
唯だ菩薩のみ有りて、能く如実に巧みに度す。譬えば、渡師の一人は、浮嚢草の筏を以って、之を渡り、一人は方舟を以って渡るに、二渡の中相降すこと懸殊なるが如し。菩薩の巧みに衆生を渡すも、亦た是の如し。 |
唯だ、
『菩薩』ならば、
『如実に!』、
『巧みに!』、
『度す!』ということも、
『有る!』のである。
譬えば、
『渡師( 渡河の師))』の、
『一人』は、
『浮嚢草の筏』で、
『渡し!』、
『一人』は、
『方舟』で、
『渡す!』とするならば、
『二人』の、
『渡師』中、
『相手を降す!』ことに於いて、
『差異がある!』が、
『菩薩』が、
『衆生』を、
『度す!』ということも、
亦た、
是の通りなのである。
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浮嚢草(ふのうそう):能く水に浮く草。
方舟(ほうしゅう):もやい舟。二隻並べて繋いだ舟。舫舟。
相降(そうごう):あいくだす。降伏させる。
懸殊(けんしゅ):遙かに違う。非常な差がある。 |
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復次譬如治病苦藥針炙痛而得差。如有妙藥名蘇陀扇陀。病人眼見眾病皆愈。除病雖同優劣法異。 |
復た次ぎに、譬えば治病の苦薬、針炙の、痛めども差(い)ゆるを得ると、有る妙薬の蘇陀扇陀と名づくるが如きの、病人眼に見れば、衆病皆愈ゆるとは、病を除くこと、同じと雖も、優劣の法を異にするが如し。 |
復た次ぎに、
譬えば、
『治病』の、
『苦い薬』や、
『針( 鍼)』や、
『炙( 灸)』の、
『痛い!』けれども、
『差(癒)すことができる!』のと、
『妙薬』の、
『蘇陀扇陀』の、
『病人』が、
『眼』に、
『見た!』だけで、
『衆病』が、
皆、
『癒える!』のとは、
『病』を、
『除く!』ことは、
『同じ!』であるが、
『法』の、
『優、劣』は、
『異なる!』のである。
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苦薬(くやく):にがい薬。
針炙(しんしゃ):治病のはりときゅう。針灸。他本には針灸の如く見ゆ。
蘇陀扇陀(そだせんだ):梵名sudhasyandaの音訳にして良薬の名なり。「大智度論巻6」に伝えて、病人眼にこの薬を見れば、各種の疾病即ち痊癒を得と説けり。<(丁) |
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聲聞菩薩教化度人亦復如是。苦行頭陀初中後夜勤心坐禪。觀苦而得道聲聞教也。 |
声聞、菩薩の教化、度人も、亦復た是の如し。苦行の頭陀、初中後夜の勤心の坐禅は、苦を観じて道を得る、声聞の教なり。 |
『声聞』と、
『菩薩』との、
『教化』や、
『度人』も、
亦復た、
是の通りである。
『苦行』の、
『頭陀』や、
『初、中、後夜』に於ける、
『勤心』の、
『坐禅』は、
則ち、
『苦』を観て、
『道』を、
『得る!』ものであり、
『声聞』の、
『教』である。
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頭陀(づだ):梵語dhuuta。振り払われたの義。煩悩を除く行の意。即ち乞食等の比丘の為すべき行をいう。『大智度論巻3上注:頭陀、同巻42下注:頭陀』参照。 |
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觀諸法相無縛無解心得清淨菩薩教也。 |
諸法の相の無縛、無解を観て、心に清浄を得るは、菩薩の教なり。 |
諸の、
『法』の、
『相』には、
『縛』も、
『解』も、
『無い!』と、
『観て!』、
『心』に、
『清浄』を、
『得る!』は、
『菩薩』の、
『教』である。
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如文殊師利本緣。文殊師利白佛。大德。昔我先世過無量阿僧祇劫。爾時有佛名師子音王。佛及眾生壽十萬億那由他歲。佛以三乘而度眾生。國名千光明。其國中諸樹皆七寶成。樹出無量清淨法音空無相無作不生不滅無所有之音。眾生聞之心解得道。 |
文殊師利の本縁の如し。文殊師利の仏に白さく、『大徳、昔、我が先世の無量阿僧祇劫を過ぎて、爾の時、仏の師子音王と名づくる有り、仏、及び衆生の寿は十万億那由他歳にして、仏は三乗を以って、衆生を度し、国を千光明と名づく。其の国中の諸樹は、皆、七宝成ぜり。樹より、無量の清浄の法音、空、無相、無作、不生不滅、無所有の音を出し、衆生は、之を聞きて心解け、道を得。 |
『文殊師利』の、
『本縁』に依れば、
こうである、―― 『文殊師利』は、
『仏』に、こう白した、――
大徳!
昔、
爾の時、
『師子音王』という、
『仏』が有り、
『仏、及び衆生』の、
『寿』は、
『十万億那由他歳』で、
『仏』は、
『国』を、
『千光明』と、
『称していました!』、
其の、
『国』中の、
諸の、
『樹( たちき)』は、
『樹』は、
『無量』の、
『清浄』な、
『法音』や、
『空、無相、無作』、
『不生不滅、無所有』を、
『衆生』は、
之を、
『聞いて!』、
『心が解け!』、、
『道』を、
『得ることができました!』。
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文殊師利(もんじゅしり):梵名maJjuzriiの訳。又曼殊室利、満祖室哩に作り、略して文殊と称し、意訳して妙徳、妙吉祥、妙楽、法王子等に為し、又文殊師利童真、孺童文殊菩薩、文殊菩薩等と称す。般若経典と関係甚だ深く、或はそれを謂いて已成の仏なりと為す。「首楞厳三昧経巻下」には、「過去久遠劫に龍種上如来、南方平等世界に於いて無上正等覚を成じ、寿四百四十万歳にして涅槃に入る、彼の仏即ち今の文殊師利法王子なり」と云い、或はそれを実在の人物なりと謂いて、「大智度論巻1」に慈氏、妙徳菩薩等は出家の菩薩、観世音菩薩等は他方世界より来たると云い、弥勒に同じくこの土の出家の菩薩と為せるのみならず、「文殊師利般涅槃経」には「この菩薩、舎衛国多羅聚落梵徳婆羅門の家に生まる、生時には屋宅を蓮花の如く化し、その母の右脅由り出生す。後に釈迦牟尼仏の所に至りて出家学道す」と謂えり。この外、また文殊菩薩を説いて諸仏菩薩の父母なる者と為し、一般には文殊師利菩薩と称して、普賢菩薩と同じく釈迦仏の脅侍と為し、分別して仏智、仏慧の別徳を表示す。乗る所の師子は、その猛威を象徴す。文殊菩薩の浄土に関して、経典記載の説法有ること一ならず。「文殊師利仏土厳浄経巻下」、「大宝積経巻60文殊師利授記会」によれば、この菩薩は往昔那由他阿僧祇劫より以来、十八種の大願を発して、仏国を厳浄し、当来に成仏して称するに普現如来と為し、その仏土は南方に在りて、離塵垢心世界、無垢世界、清浄無垢宝寘世界と号すとなせり。「悲華経巻3諸菩薩本授記品」、「法華経巻4提婆達多品」等もまた相同じきが如し。又「新華厳経巻12如来名号品」によれば、東方十仏刹微塵数の世界を過ぎて一金色世界有り、その仏を号して不動智と為すとし、この世界の菩薩は、即ち文殊師利なり。また「文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経」、「阿闍世往経巻上」、「菩薩瓔珞経巻4四諦品」、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経巻1」、「旧華厳経巻29菩薩住処品」等に出づ。<(佛)
本縁(ほんえん):梵語jaatakaの訳。前世の因縁を云う。通常成仏の因縁を本生と訳し、弟子の縁を本縁と訳す。 |
参考:『諸法無行経巻下』:『‥‥爾時佛告文殊師利。汝先世住初發意地。未入如是諸法相時。為起何障礙罪。汝今說之。當來世假名菩薩聞汝所說障礙之罪。當自守護。文殊師利白佛言。唯然世尊。我當自說障礙之罪。惟聞之者當有憂怖。然其能滅業障之罪。亦於一切法中得無礙慧。世尊。過去無量無邊不可思議阿僧祇劫。爾時有佛號師子吼鼓音王如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。其佛壽命十萬億那由他歲。以三乘法而度眾生。國名千光明。其國樹木皆七寶成。其樹皆出如是法音。所謂空音無相音無作音。無生音無所有音無取相音。以是諸法之音令眾生得道。其師子吼鼓音王佛初會說法。九十九億聲聞弟子皆得阿羅漢。諸漏已盡捨諸重擔。逮得己利盡諸有結。以正智得解脫。菩薩眾亦九十九億。皆得無生法忍。能善入種種法門。親近供養若干百千萬億諸佛。亦為若干百千萬億諸佛之所稱歎。能度若干百千萬億無量眾生。能生無量陀羅尼門。能起無量百千萬億三昧門。及餘新發菩薩意者不可稱數。其佛國土無量莊嚴說不可盡。彼佛住世教化已訖入無餘涅槃。滅度之後法住六萬歲。諸樹法音皆不復出。爾時有菩薩比丘名曰喜根。時為法師質直端正。不壞威儀不捨世法。爾時眾生普皆利根樂聞深論。其喜根法師於眾人前。不稱讚少欲知足細行獨處。但教眾人諸法實相。所謂一切法性即貪欲之性。貪欲性即是諸法性。瞋恚性即是諸法性。愚癡性即是諸法性。其喜根法師以是方便教化眾生。眾生所行皆是一相各不相是非。所行之道心無瞋癡。以無瞋礙因緣故疾得法忍。於佛法中決定不壞。世尊。爾時復有比丘法師行菩薩道。名曰勝意。其勝意比丘護持禁戒。得四禪四無色定行十二頭陀。世尊。是勝意比丘有諸弟子。其心輕動樂見他過。世尊。後於一時勝意菩薩入聚落乞食。誤到喜根弟子家。見舍主居士子。即到其所敷座而坐。為居士子。稱讚少欲知足細行。說無利語過。讚歎遠眾樂獨行者。又於居士子前說喜根法師過失。是比丘不實以邪見道教化眾生。是雜行者。說婬欲無障礙瞋恚無障礙愚癡無障礙。一切諸法皆無障礙。是居士子利根得無生法忍。即語勝意比丘大德。汝知貪欲為是何法。勝意言。居士。我知貪欲是煩惱。居士子言。大德。是煩惱為在內在外耶。勝意言。不在內不在外。大德。若貪欲不在內不在外。不在東西南北四維上下十方者即是無生若無生者云何言若垢若淨。爾時勝意比丘瞋恚不喜。從座起去作如是言。是喜根比丘以妄語法多惑眾人。是人以不學入音聲法門故。聞佛音聲則喜。聞外道音聲則瞋。於梵行音聲則喜。於非梵行音聲則瞋。以不學入音聲法門故。於淨音聲則喜。於垢音聲則瞋。以不學入音聲法門故。於聖道音聲則喜。於凡夫音聲則礙。以不學入音聲法門故。於樂音聲則喜。於苦音聲則礙。以不學入音聲法門故。於出家音聲則喜。於在家音聲則礙。以不學入音聲法門故。於出世間音聲則喜。於世間音聲則礙。以不學入音聲法門故。於布施則生利想。於慳則生礙想。以不學佛法故。於持戒則生利想。於毀戒則生礙想。以不學佛法故。是時勝意比丘。出其舍已還到所止。眾僧中見喜根菩薩。語眾人言。是比丘多以虛妄邪見教化眾生。所謂婬欲非障礙瞋恚非障礙愚癡非障礙。一切法非障礙。爾時喜根菩薩作是念。是比丘今者必當起於障礙罪業。我今當為說如是深法。乃至令作修助菩提道法因緣。爾時喜根菩薩於眾僧前。說是諸偈 貪欲是涅槃 恚癡亦如是 ‥‥說是諸偈法時。三萬諸天子得無生法忍。萬八千人漏盡解脫。即時地裂勝意比丘墮大地獄。以是業障罪因緣故。百千億那由他劫。於大地獄受諸苦毒。從地獄出。七十四萬世常被誹謗。若干百千劫乃至不聞佛之名字。自是已後還得值佛。出家學道而無志樂。於六十三萬世常反道入俗。亦以業障餘罪故。於若干百千世諸根闇鈍。世尊。爾時喜根法師於今東方。過十萬億佛土有國名寶莊嚴。於中得阿耨多羅三藐三菩提。號勝曰光明威德王如來應供正遍知。於今現在。其勝意比丘今我身是。‥‥』 |
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時師子音王佛。初會說法九十九億人得阿羅漢道。 |
時の師子音王仏の初会の説法に、九十九億の人が阿羅漢道を得たり。 |
その時の、
『師子音王仏』の、
『初会』の、
『説法』では、
『九十九億』の、
『人』が、
『阿羅漢』の、
『道(果)』を、
『得ました!』。
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菩薩眾亦復如是。是諸菩薩一切皆得無生法忍。入種種法門。見無量諸佛。恭敬供養能度無量無數眾生。得無量陀羅尼門。能得無量種種三昧。初發心新入道門菩薩不可稱數。 |
菩薩衆も、亦復た是の如し。是の諸の菩薩は、一切皆、無生法忍を得て、種種の法門に入り、無量の諸仏に見(まみ)えて、恭敬供養し、能く無量無数の衆生を度し、無量の陀羅尼門を得て、能く無量の種種の三昧を得、初めて発心し、新たに道門に入れる菩薩は、称数すべからず。 |
『菩薩衆』も、
亦復た、
是のような、
『九十億』の、
『人衆』でしたが、、
是の、
諸の、
『菩薩』は、
一切が、
皆、
『無生法忍』を得て、
種種の、
『法門』に、
『入っており!』、
諸の、
無量の、
無量、
無数の、
『衆生』を、
『度すことができ!』、
無量の、
『陀羅尼門』を得て、
無量の、
種種の、
『三昧』を、
『得ることができました!』が、
初めて、
『発心』した!、
『菩薩』や、
新たに、
『道』の、
『門』に、
『入った!』、
『菩薩』の、
『数』は、
『称えられない!』ほどでした。
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無生法忍(むしょうほうにん):梵語anutpattika- dharma- kSaantiの訳。現象の無起を自覚することに基づいて、受容することの義。一切法の不生を認識し、受容すること。『大智度論巻5上注:無生法忍』参照。 |
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是佛土無量莊嚴說不可盡。時佛教化已訖。入無餘涅槃。法住六萬歲。諸樹法音亦不復出。 |
是の仏土の無量の荘厳は説きて尽くすべからず。時に仏は教化已に訖(おわ)りて、無余涅槃に入りたまえるに、法の住すること六万歳にして、諸樹の法音も、亦た復た出でず。 |
是の、
『仏』の、
『国土』の、
『荘厳』は、
『説いて!』も、
『尽くすことができません!』。
ある時、
『仏』は、
『教化』を終えて、
『無余涅槃』に、
『入られました!』が、
『法』が、
『世間』に、
『六万歳』、
『住まった!』後には、
もう、
諸の、
『樹』も、
『法音』を、
『出さなくなりました!』。
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爾時有二菩薩比丘。一名喜根二名勝意。 |
爾の時、二菩薩比丘有り、一を喜根と名づけ、二を勝意と名づく。 |
爾の時、
『二菩薩比丘』が有り、
一を、
『喜根』、
二を、
『勝意』と、
『称しました!』。
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是喜根法師。容儀質直不捨世法。亦不分別善惡。 |
是の喜根法師は、容儀質直にして、世法を捨てず、亦た善悪を分別せず。 |
是の、
『喜根法師』は、
『容儀』が、
『率直』、
『正直』であり!ながら、
『世間』の、
『法』を、
『捨てず!』、
亦た、
『善、悪』の、
『分別もしませんでした!』。
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容儀(ようぎ):態度、ふるまい。
質直(しつじき):梵語aarjavaの訳。正直にして率直の義。 |
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喜根弟子聰明樂法好聞深義。其師不讚少欲知足。不讚戒行頭陀。但說諸法實相清淨。語諸弟子一切諸法婬欲相瞋恚相愚癡相。此諸法相即是諸法實相無所罣礙。 |
喜根の弟子は聡明にして、法を楽しみ、好んで深義を聞く。其の師は、少欲知足を讃ぜず、戒行、頭陀を讃ぜず、但だ諸法の実相の清浄を説き、諸の弟子に語らく、『一切の諸法の婬欲相、瞋恚相、愚癡相、此の諸法の相、即ち是れ諸法の実相にして、罣礙する所無し。』と。 |
『喜根』の、
『弟子』は、
『聡明』で、
『法』を、
『楽しみ!』、
『深義』を、
『聞く!』ことを、
『好みました!』が、
其の、
『師』は、
『少欲、知足』や、
『戒行、頭陀』を、
『讃じず!』に、
但だ、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『説いて!』、
諸の、
『弟子』に、こう語りました、――
一切の、
諸の、
『法』の、
『婬欲相』、
『瞋恚相』、
『愚癡相』は、
此の、
諸の、
則ち、
諸の、
『法』の、
『実相』であり!、
『道』を、
『罣礙(障礙)』する!所は、
『無い!』のだ、と。
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頭陀(づだ):梵語dhuuta。振り払うの義。修治の意。『大智度論巻6下注:十二頭陀行』参照。
十二頭陀行(じゅうにづだぎょう):梵語dvaadaza- dhuuta- guNaaHの訳。又十二頭陀、十二頭陀法、十二誓行、十二杜多功徳、頭陀十二法行とも称す。頭陀は振り払うの義にして修治等と訳す。即ち身心を修治して煩悩の塵垢を振り払うの意なり。これに十二種あるをいう。一に在阿蘭若処(梵aaraNyaka)、二に常行乞食(梵yathaa- saMstarika)、三に次第乞食(梵paiNDapaatika)、四に受一食法(梵ekaasanika)、五に節量食(梵naamatika、またはnaamaMtika)、六に中後不得飲漿(梵khalu- pazcaad- bhaktika)、七に著弊納衣(梵paaMzukuulika)、八に但三衣(梵trai- ciivarika)、九に塚間住(梵zmaazaanika)、十に樹下止(梵vRkSa- muulika)、十一に露地坐(梵aabhyavakaazika)、十二に但坐不臥(梵naiSadika)なり。「増一阿含経巻3弟子品」に、「十二頭陀難得の行は、謂わゆる大迦葉比丘これなり」と云い、「十二頭陀経」に、「仏迦葉に告ぐ、阿蘭若の比丘は二著を遠離し、形心清浄にして頭陀法を行ぜよ。この法を行ずる者に十二事あり、一には阿蘭若処に在り、二には常に乞食を行じ、三には次第に乞食し、四には一食法を受け、五には食を節量し、六には中後漿を飲むを得ず、七には弊衲衣を著し、八には但三衣、九には塚間に住し、十には樹下に止まり、十一には露地に坐し、十二には但坐して臥せず」と云えるこれなり。この中、在阿蘭若処とはまた無事処坐、空寂処住とも称す。遠く聚落を逃れて空閑寂静の処に住し、憒鬧を離れ、欲塵を遠離して道を求むるをいう。常行乞食とはまた単に乞食と称す。諸の貪求を離れて他の請を受けず、常に乞食を行じ、食を得れば好悪の念なく、得ざるもまた嫌恨の心を生ぜざるをいう。次第乞食とは家の貧富を択ばず、次第に行歩して食を乞うをいう。受一食法とはまた一坐食、或は一受食とも称す。日にただ一食を受くるを云う。これ数数食すれば一心に道を修するを妨ぐるが故なり。節量食とはまた一揣食、不過食とも称す。即ち一食中に於いてその量を節するをいう。もし意を恣にして飲噉し、腹満ち気張れば道業を妨損するが故なり。中後不得飲漿とはまた過中不飲漿、食後不受非時飲食とも名づく。中食を過ぎて後漿を飲まざるをいう。もしこれを飲まば心に楽著を生じて、一心に善法を修習すること能わざるが故なり。著弊納衣とはまた著糞掃衣、或は持糞衣とも称す。陳旧廃棄の物を拾得し、これを浣濯して衲衣と作し、以って寒露を凌ぐをいう。もし新好の衣を貪らば、則ち多く追求して道行を損するが故なり。但三衣とはただ安陀会、鬱多羅僧、僧伽梨の三衣を持し、多からず少なからざるをいう。塚間住とはまた屍林住、或は死人間住とも名づく。塚間に住して死屍の臭爛狼藉し、または火焼き鳥啄むを見て無常苦空の観を為し、以って三界を厭離するを云う。樹下止とは塚間に於いて得道せざれば、仏の所行の如く樹下に至りて思惟求道するを云う。露地住とはまた空地住、顕路処居住、或は常居適露とも名づく。露地に坐して心を明利ならしめ、以って空定に入るをいう。これ樹下に在ればその蔭涼に愛著し、また雨漏湿冷に、鳥屎身を汗し、或は毒虫の擾せらるることあるが為なり。但坐不臥とはまた常坐不臥、或は単に常坐に作る。常に坐して安臥せざるをいう。もし安臥せば諸の煩悩の賊常にその便を伺うを慮るが故なり。この十二の中、著弊納衣と但三衣の二は衣に関し、常行乞食、次第乞食、受一食法、節量食及び中後不得飲漿の五は食に関し、在阿蘭若処、塚間住、樹下止及び露地坐の四は処に関し、但坐不臥は威儀に関するものにして、各それ等に於いて専心すべしとなすの意なり。ただし頭陀行は諸経論に多く十二と為すも、また十三或は十六等の説あり。「瑜伽師地論巻25」に、「杜陀の功徳は或は十二種、或は十三種あり。乞食の中に於いて分ちて二種と為す、一には随得乞食、二には次第乞食なり。(中略)まさに知るべし、この中、もし乞食に差別性無きに依らばただ十二種あり、もし乞食に差別性あるに依らば便ち十三あり」と云い、また「有部毘奈耶巻18」、「解脱道論巻2頭陀品」等には十三杜陀を挙げ、「大乗義章巻15十二頭陀義分別」には、具に十六頭陀行を細別せり。また南方所伝には多く十三を出せり。また「大品般若経巻14両通品」、「大般若経巻440」、「法集名数経」、「大智度論巻25、68」、「十住毘婆沙論巻16」、「四分律行事鈔巻下三」等に出づ。<(望) |
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以是方便教諸弟子入一相智。 |
是の方便を以って、諸の弟子を教えて、一相の智に入れしむ。 |
是の、
『方便』を以って、
諸の、
『弟子』を教え、
『一相』という!、
『智』に、
『悟入させていました!』。
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時諸弟子於諸人中無瞋無悔心不悔故得生忍。得生忍故則得法忍。於實法中不動如山。 |
時に諸の弟子は、諸人中に於いて、瞋無く、悔無く、心に悔いざるが故に、生忍を得。生忍を得るが故に、則ち法忍を得て、実法中に於いて動かざること山の如し。 |
その時の、
諸の、
『弟子』は、
諸の、
『人』中に於いて、
『瞋る!』ことも、
『悔いる!』ことも、
『無く!』、
『心』に、
『悔いない!』が故に、
『生忍』を、
『得た!』のであるが、
『生忍』を、
『得た!』が故に、
則ち、
『法忍』を、
『得ている!』ので、
『実』の、
『法』中に於いて、
『山のよう!』に、
『動かせません!』。
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勝意法師持戒清淨。行十二頭陀。得四禪四無色定。 |
勝意法師は、持戒清浄にして、十二頭陀を行じ、四禅、四無色定を得。 |
『勝意法師』は、
『持戒』して、
『清浄』に、
『十二頭陀』を、
『行い!』、
『四禅』と、
『四無色定』とを、
『得ていました!』。
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四禅(しぜん):梵語catvaari dhyaanaaniの訳語。四種の禅定の義。色界の禅定に四種の別有るの意。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
四無色定(しむしきじょう):梵語catasra aaruupya- samaapattayaHの訳。四種の無色定の意。空無辺処等の四無色を思惟する定を云う。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。 |
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勝意諸弟子鈍根。多求分別是淨是不淨。心即動轉。 |
勝意の諸の弟子は、鈍根にして、多く、『是れは浄なり。』、『是れは不浄なり。』と分別することを求め、心は即ち動転す。 |
『勝意』の、
諸の、
『弟子』は、
『鈍根』で、
『多く!』が、
『是れは浄である!』とか、
『是れは不浄である!』とか、
『分別する!』ことを、
『追求していた!』ので、
『心』が、
『動転しており!』、
『落ち着きません!』。
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勝意異時入聚落中。至喜根弟子家於坐處坐。讚說持戒少欲知足行頭陀行閑處禪寂。訾毀喜根言。是人說法教人入邪見中。是說婬欲瞋恚愚癡無所罣礙相。是雜行人非純清淨。 |
勝意は、異時に聚落中に入り、喜根の弟子の家に至り、坐処に坐して、持戒、少欲、知足、頭陀を行じ、閑処の禅寂を行ずるを讃じて説き、喜根を呰毀して言わく、『是の人は法を説き、人に教えて、邪見中に入れしむ。是れは婬欲、瞋恚、愚癡には、罣礙する所の相無しと説く。是れは雑行の人にして、純清浄に非ず。』と。 |
『勝意』は、
有る時、
『聚落』中に入って、
『喜根』の、
『弟子』の、
『家』に、
『至る!』と、
『坐処』に、
『坐して!』、
『持戒』や、
『少欲知足』、
『頭陀を行い!』、
『閑処で禅寂を行う!』ことを、
『讃じて!』、
『説く!』と、
『喜根』を、
『毀呰( 非難)』して、
こう言いました、――
是の、
『人』は、
『法』を説き、
『人』に、
『教えて!』、
『邪見』中に、
『入らせている!』。
是れは、
是れは、
『善、不善』を、
『純ら!』、
『清浄』のみを、
『行う!』、
『人ではない!』と。
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異時(いじ):梵語anyatraの訳、別の機会にの義。或いはsamayenaの訳、適当な時にの義。
閑処(げんじょ):静かな処。
禅寂(ぜんじゃく):禅定。瞑想中に心を一処に繋けて動じないこと。
毀呰(きし):梵語avarNaの訳。讃歎(varNa)の否定語。人を讃歎せずして、非難し、悪く言うこと。 |
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是弟子利根得法忍。問勝意言。大德。是婬欲法名何等相。 |
是の弟子の利根にして、法忍を得たるが、勝意に問うて言わく、『大徳、是の婬欲法を、何等の相とぞ名づくる。』と。 |
是の、
『喜根』の、
『弟子』は、
『利根』で、
『法忍』を、
『得ていた!』ので、
『勝意』に問うて、こう言いました、――
大徳!
是の、
『婬欲』の、
『法』とは、
何のような、
『相』でしょうか?と。
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答言。婬欲是煩惱相。 |
答えて言わく、『婬欲は、是れ煩悩の相なり。』と。 |
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問言。是婬欲煩惱在內耶在外耶。 |
問うて言わく、『是の婬欲の煩悩は、内に在りや、外に在りや。』と。 |
問うて、こう言いました、――
是の、
『婬欲』という!、
『煩悩』は、
『内』に、
『在りますか?』、
『外』に、
『在りますか?』と。
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答言。是婬欲煩惱不在內不在外。若在內不應待外因緣生。若在外於我無事不應惱我。 |
答えて言わく、『是の婬欲の煩悩は、内に在らず、外に在らず。若し内に在らば、応に外の因縁の生ずるを待つべからず。若し外に在らば、我れに於いて事無く、応に我れを悩ますべからず。』と。 |
答えて、こう言いました、――
是の、
『婬欲』という!、
『煩悩』は、
『内』に、
『在るのでもなく!』、
『外』に、
『在るのでもない!』。
若し、
『内』に在れば、
『外』の、
『因縁』の、
『生じる!』のを、
『待つはずがない!』し、
若し、
『外』に在れば、
『わたし!』に於いては、
『事』が、
『無い!』のであるから、
『わたし!』を、
『悩ますはずがない!』と。
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居士言。若婬欲非內非外非東西南北四維上下來。遍求實相不可得。是法即不生不滅。若無生滅相。空無所有。云何能作惱。 |
居士の言わく、『若し婬欲は内に非ず、外に在らず、東西南北、四維上下より来たるに非ず、遍く実相を求めて、得べからざれば、是の法は、即ち不生不滅なり。若し生滅相無ければ、空にして所有無し。云何が、能く悩を作さん。 |
『居士』は、
こう言った、――
若し、
『婬欲』が、
『内でもなく!』、
『外でもなく!』、
『東西南北』、
『四維上下』より、
『来たのでもなく!』、
遍く、
『実相』を、
『求めて!』、
『得られなければ!』、
是の、
『法』は、
『不生不滅』である。
若し、
『生滅』という!、
『相』が、
『無ければ!』、
『空』であり、
『有する!』所が、
『無い!』はずである。
何故、
|
居士(こじ):梵語gRha-patiの訳。巴梨語gaha-pati、家長、家主、長者の義。亦た財に居し、或は家に居する士の意とす。即ち毘舎種(梵vaizya)の豪富なる者、または家の居して得を蘊む有道の士をいう。蓋し経律中に居士と云うは、即ち四姓の中の毘舎種の豪富なる者を称す。「中阿含巻1水喩経」に、「刹利、梵志、居士、工師」と云い、「長阿含経巻22世本縁品」に、「婆羅門種、居士種、首陀羅種」と云い、「大品般若経巻1」に、「刹利大姓、婆羅門大姓、居士大家」と云い、「放光般若経巻1」に、「尊者家、梵志大姓家、迦羅越家」と云える如き皆その例なり。また「註維摩経巻2」に、「什曰わく、外国には白衣の多財富楽なる者を名づけて居士と為す。肇曰わく、銭を積む一億にして居士の里に入る」と云い、また「五分律巻21」に、「問うて言わく、汝各幾ばくの財ありてか居士たることを得たる。第一人言わく、わが銭十三億あり、第二人言わく、われに十四億あり、第三人言わく、われに十四億あり、また一の無価の摩尼珠あり、第四人言わく、われに二十億あり、また五百の摩尼珠、一の摩尼宝牀あり」と云い、また「妙経文句私志記巻3」に、「居士は即ち毘舎なり、ここに商賈という。謂わくこれ商賈財貨の種姓なり。古にまた翻じて居士と為す。居とは積なり、謂わく財貨を居積する士夫の故なり」と云えるは、また皆毘舎種の豪富なるものを指して居士となすの説なり。然るに「大智度論」等には、別にまた居家有道の士をも称すとせり。即ち彼の「論巻98」に、「居士とは真にこれ居舎の士にして、四姓中の居士に非ず」と云い、また「維摩経義記巻2」に、「居士に二あり、一には広く資産を積み、財に居するの士を名づけて居士と為し、二には家に在りて道を修する居家の道士を名づけて居士と為す」と云えるこれなり。また「十誦律巻6」、「維摩経略疏巻3」、「維摩経文疏巻9」等に出づ。<(望) |
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勝意聞是語已。其心不悅不能加答。從座而起說如是言。喜根多誑眾人著邪道中。 |
勝意は、是の語を聞き已りて、其の心悦ばざるも、答えを加うる能わず。座より起ちて、説きて是の如く言えり、『喜根は、多く衆人を誑して、邪道中に著(お)けり。』と。 |
『勝意』は、
是の、
『語( ことば)』を聞く!と、
其の、
『心』は、
『悦ばなかった!』が、
『答』を、
『加えることができず!』、
『座』を起つ!と、
こう説いて、言った、――
『喜根』は、
『多く!』の、
『衆人』を誑して、
『邪道』中に、
『置いた!』ものだ、と。
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是勝意菩薩未學音聲陀羅尼。聞佛所說便歡喜。聞外道語便瞋恚。聞三不善則不歡悅。聞三善則大歡喜。聞說生死則憂聞涅槃則喜。從居士家至林樹間入精舍中。語諸比丘。當知。喜根菩薩是人虛誑多令人入惡邪中。何以故。其言婬恚癡相。及一切諸法皆無礙相。 |
是の勝意菩薩は、未だ音声陀羅尼を学ばざれば、仏の説きたもう所を聞けば、便(すなわ)ち歓喜し、外道の語を聞けば、便ち瞋恚し、三不善を聞けば、則ち歓悦せず、三善を聞けば、則ち大歓喜し、生死を説くを聞けば、則ち憂え、涅槃を聞けば、則ち喜ぶ。居士の家より、林樹の間に至りて精舎中に入り、諸比丘に語らく、『当に知るべし、喜根菩薩、是の人は虚誑して、多く人をして、悪邪中に入れしむ。何を以っての故に、其れ婬恚癡の相、及び一切の諸法は、皆、無礙の相なりと言えばなり。 |
是の、
『勝意菩薩』は、
未だ、
『音声陀羅尼』を、
『学んでいなかった!』ので、
『仏』の、
『説かれた!』所を、
『聞けば!』、
『歓喜し!』、
『外道』の、
『貪、瞋、癡』という、
『不貪、不瞋、不癡』という、
『生死』の、
『苦』を、
『説く!』のを、
『聞けば!』、
『憂い!』、
『涅槃』の、
『楽』を、
『説く!』のを、
『聞けば!』、
『喜ぶ!』のでしたが、
『居士の家』より、
『林樹の間』に至り!、
『精舎』中に、
『入る!』と、
諸の、
『比丘』に語って、こう言った、――
知ってください!、――
『喜根菩薩』という!、
是の、
『人』は、
何故ならば、
其れは、
こう言っているのです、――
『婬、恚、癡の相』、
及び、
一切の、
諸の、
『法』の、
『相』は、
皆、
『無礙(障礙しない!)』の、
『相』である!と。
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音声陀羅尼(おんじょうだらに):梵語陀羅尼(dhaaraNii)は種種の善法を集めて、能く散ぜざらしむる法の意。即ち他人の讃誉、呰毀の語言を聞いても、心に歓喜、瞋恚を生じざる法を云う。
虚誑(ここう):うそをついてだます。欺誑。 |
参考:『長阿含巻8衆集経』:『諸比丘。如來說三正法。謂三不善根。一者貪欲。二者瞋恚。三者愚癡。復有三法。謂三善根。一者不貪。二者不恚。三者不癡。』 |
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是時喜根作是念。此人大瞋為惡業所覆當墮大罪。我今當為說甚深法。雖今無所得。為作後世佛道因緣。 |
是の時、喜根の是の念を作さく、『此の人は大いに瞋りて、悪業の為に覆われ、当に大罪に墮つべし。我れは今、当に為に甚深の法を説くべし。今得る所無しと雖も、後世の仏道を作す因縁と為らん。』と。 |
是の時、
『喜根』は、
是の念を作した、――
此の、
『人』は、
『大いに!』、
『瞋っている!』が、
『悪業』に覆われて、
『大罪』に、
『堕ちることになろう!』。
わたしは、
今、
此の、
『人』の為に、
『甚だ深い!』、
『法』を、
『説くことにしよう!』。
『今世』に、
『得る!』所が、
『無い!』としても、
『後世』の、
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是時喜根集僧。一心說偈
婬欲即是道 恚癡亦如是
如此三事中 無量諸佛道
若有人分別 婬怒癡及道
是人去佛遠 譬如天與地
道及婬怒癡 是一法平等
若人聞怖畏 去佛道甚遠
婬法不生滅 不能令心惱
若人計吾我 婬將入惡道
見有無法異 是不離有無
若知有無等 超勝成佛道 |
是の時、喜根は僧を集めて、一心に偈を説けり、
婬欲は即ち是れ道なり、恚癡も亦た是の如し、
此の如き三事中に、無量の諸仏の道あり。
若し有る人、婬怒癡及び道を分別せば、
是の人は仏を去ること遠く、譬えば天と地との如し。
道及び婬怒癡は、是れ一法にして平等なりと、
若し人聞きて怖畏せば、仏道を去ること甚だ遠し。
婬法は生滅せざれば、心をして悩ましむ能わず、
若し人吾我を計せば、婬将いて悪道に入れしむ。
有無の法に異を見れば、是れ有無を離れざるも、
若し有無の等しきを知らば、超勝にして仏道を成ぜん。
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是の時、
『喜根』は、
『僧』中の、
『衆』を、
『集める!』と、
『一心』に、
『偈』を、こう説きました、――
『婬欲』は、
『道』であり!、
此のような、
若し、
有る人が、
『婬、怒、癡』と、
『道』とを、
『分別する!』ならば、
是の人は、
『仏』より、
『遠く!』、
『去り!』、
譬えば、
『天』と、
『地』とのようだ!。
『道』は、
『婬、怒、癡』と、
『一法』であり!、
『平等』である!と、
『人』が、
『聞いて!』、
『怖畏する!』ならば、
『仏』の、
『道』より、
『甚だ遠く!』、
『去ろうとしている!』。
『婬』という!、
『法』は、
『生滅しない!』ので、
『心』を、
『悩ませる!』、
『能力がない!』が、
若し、
『人』が、
『吾我』が、
『有る!』と、
『妄想する!』ならば、
『婬』は、
『人』を将( ひき)いて、
『悪道』に、
『入れる!』だろう。
『有、無』の、
『法』は、
『異なる!』と、
『見る!』ならば、
是れは、
『有、無』を、
『離れていない!』が、
若し、
『有、無』は、
『等しい!』と、
『知る!』ならば、
『超勝( 最勝)』となり!、
『仏道』を、
『成じる!』だろう、と。
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計吾我(けごが):我れ有りと妄想するを云う。『大智度論巻6下注:計我』参照。
計我(けが):梵語aham itiの訳。我れと思うの義。吾我有りと妄想するの意。
超勝(ちょうしょう):梵語abhy- ud- gataの訳。(名声などが)広まるの義。最勝。 |
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說如是等七十餘偈。時三萬諸天子得無生法忍。萬八千聲聞人。不著一切法故。皆得解脫。 |
是の如き等の七十余偈を説く。時に三万の諸の天子は、無生法忍を得、万八千の声聞人は、一切法に著せざるが故に、皆、解脱を得。 |
是のような、
『七十余偈』を、
『説きます!』と、
その時、
『三万』の、
諸の、
『天子』は、
『無生法忍』を、
『得ました!』し、
『一万八千』の、
『声聞人』は、
一切の、
『法』に、
『著さない!』が故に、
皆、
『解脱』を、
『得ました!』。
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是時勝意菩薩。身即陷入地獄受無量千萬億歲苦。出生人中七十四萬世常被誹謗。無量劫中不聞佛名。是罪漸薄得聞佛法。出家為道而復捨戒。如是六萬三千世常捨戒。無量世中作沙門。雖不捨戒諸根闇鈍。 |
是の時、勝意菩薩は、身即ち地獄に陥入して、無量千万億歳の苦を受け、人中に出生して、七十四万世に常に誹謗を被り、無量劫中に仏の名すら聞かざるに、是の罪漸く薄れて仏の法を聞くを得て、道の為に出家するも、復た戒を捨て、是の如く六万三千世に常に戒を捨て、無量世中に沙門と作り、戒を捨てずと雖も、諸根闇鈍なり。 |
是の時、
『勝意菩薩』の、
『身』は、
『地獄』に、
『陥入』して、
『無量百千万億歳』の、
『苦』を、
『受け!』、
『人』中に、
『出生』して、
『七十四万世』に、
『常に!』、
『誹謗せられ!』、
『無量劫』中に、
『仏』の、
『名』すら、
『聞かず!』、
是の、
『罪』が、
『漸(ようや)く!』、
『薄れて!』、
『仏』の、
『法』を、
『聞くことができます!』と、
『道』の為に、
『出家しました!』が、
やっぱり、
『戒』を、
『捨てまして!』、
是のようにして、
『六万三千世』に、
常に、
『戒』を、
『捨てていました!』が、
『無量世』中に至って、
『沙門』と、
『作る!』と、
もう、
『戒』を、
『捨てません!』が、
諸の、
『根』は、
『闇鈍』のままでした。
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沙門(しゃもん):梵語zramaNa。仏道に出家せる者を云う。『大智度論巻22上注:沙門』参照。 |
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是喜根菩薩於今東方。過十萬億佛土作佛。其土號寶嚴。佛號光踰日明王。 |
是の喜根菩薩は、今に於いて、東方、十万億の仏土を過ぎて仏と作り、其の土を宝厳と号し、仏を光踰日明王と号す。 |
是の、
『喜根菩薩』は、
今、
『東方』に、
『十万億』の、
『仏土』を、
『過ぎた!』所で、
『仏』と、
『作り!』、
其の、
『土』を、
『宝厳』といい、
『仏』を、
『光踰日明王』と、
『称します!』。
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文殊師利言。爾時勝意比丘我身是也。我觀爾時受是無量苦。 |
文殊師利の言わく、『爾の時の勝意比丘とは、我が身是れなり。我れ、爾の時の受を観るに、是れ無量の苦なり。』 |
『文殊師利』は、
こう言った、――
爾の時の、
『勝意比丘』とは、
わたしは、
爾の時の、
『受(苦楽の別)』を、
『観てみます!』と、
是れは、
『無量』の、
『苦』でした!。
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文殊師利復白佛。若有人求三乘道。不欲受諸苦者。不應破諸法相而懷瞋恚。 |
文殊師利の復た仏に白さく、『若し有る人、三乗の道を求めて、諸の苦を受くるを欲せざれば、応に諸法の相を破りて、而も瞋恚を懐くべからず。』と。 |
『文殊師利』は、
復た、
『仏』に、こう白した、――
若し、
有る人が、
『三乗』の、
『道』を、
『求めながら!』、
諸の、
『苦』を、
『受けたくない!』ならば、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『破りながら!』、
而も、
『空』中に、
『瞋恚』を、
『懐いてはなりません!』と。
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佛問文殊師利。汝聞諸偈得何等利。 |
仏の文殊師利に問いたまわく、『汝は、諸の偈を聞いて、何等の利を得たるや。』と。 |
『仏』は、
『文殊師利』に、こう問われた、――
お前は、
諸の、
『偈』を、
『聞いた!』が、
何かの、
『利』を、
『得ましたか?』と。
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答曰。我聞此偈得畢眾苦。世世得利根智慧。能解深法巧說深義。於諸菩薩中最為第一。如是等名巧說諸法相。是名如實巧度
大智度論卷第六 |
答えて曰く、『我れは、此の偈を聞きて、衆苦の畢(おわ)るを得、世世に利根の智慧を得て、能く深法を解し、巧みに深義を説きて、諸の菩薩中に於いて、最も第一と為れり。』と。是の如き等を、諸法の相を巧みに説くと名づけ、是れを如実に巧みに度すと名づく。
大智度論巻第六 |
『文殊師利』は、
こう答えた、――
わたしは、
此の、
『偈』を聞いて、
衆(あまた)の、
『苦』を、
『尽くすことができ!』、
世世に、
『利根』の、
『智慧』を得て、
深く、
『法』を、
『理解し!』、
巧みに、
『深義』を、
『説き!』、
諸の
『菩薩』中に於いて、
最も、
『第一』と、
『為りました!』と。
是れ等を、
是れを、
大智度論巻第六 |
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