巻第六(下)
大智度初品中十喩釋論第十一
1.無礙の無所畏を得る
2.衆生の心の趣く所を知る
大智度初品中意無礙釋論第十二
1.意に罣礙無し
2.大忍が成就する
3.如実に巧みに度す
home

大智度初品中十喩釋論第十一
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


無礙の無所畏を得る

【經】得無礙無所畏 無礙の無所畏を得。
『無礙』の、
『無所畏』を、
『得ている!』。
  無礙(むげ):梵語anaavaraNaの訳。障礙が無いことを云う。『大智度論巻5上注:無礙』参照。
  無所畏(むしょい):梵語vaizaaradyaの訳。熟練、或いは仏の自信の義。即ち仏、菩薩は四種の無所畏を得るが故に、説法に当りて怖畏する所なく勇猛安穏なるをいう。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
【論】種種眾界入因緣中。心無礙無盡無滅。是為無礙無所畏。 種種の衆、界、入の因縁中に、心は無礙、無尽、無滅なり、是れを無礙、無所畏と為す。
種種の、
『衆(五衆)』、
『界(十八界)』、
『入(十二入)』の、
『因縁(観察)』中に、
『心』が、
『無礙』、
『無尽』、
『無滅』である!ならば、
是れを、
『無礙』の、
『無所畏』である!。
  (しゅ):梵語skandhaの訳。集合、積集の義。色、受、想、行、識の総称。『大智度論巻1上注:五衆:参照。
  (かい):梵語dhaatuの訳。環境、世界の義。眼等の六根、色等の六境、及び眼識等の六識の総称。『大智度論巻1上注:十八界』参照。
  (にゅう):梵語aayatanaの訳。入口の義。眼等の六根、色等の六境の総称。『大智度論巻1上注:五衆』参照。
問曰。如先說諸菩薩於無量眾中無所畏。今何以更說無礙無所畏。 問うて曰く、先に説けるが如きは、諸の菩薩は、無量の衆中に於いて無所畏となり。今は何を以ってか、更に無礙の無所畏を説く。
問い、
先には、
こう説いている、――
諸の、
『菩薩』は、
『無量』の、
『衆(大衆)』中に於いて、
『無所畏』である!と。
今は、
何故、
更に、こう説くのですか?――
『無礙』の、
『無所畏』である!と。
答曰。先說無所畏因。今說無所畏果。於諸大眾乃至菩薩眾中。說法無盡論議無減心無疑難。已得無礙無所畏故。 答えて曰く、先には無所畏の因を説き、今は無所畏の果を説けり。諸の大衆、乃至菩薩衆中に於いて、説法して無尽、論義して無減、心に疑難無ければ、已に無礙の無所畏を得たるなり。
答え、
先には、
『無所畏』の、
『因』を、
『説き!』、
今は、
『無所畏』の、
『果』を、
『説いた!』のである。
諸の、
『大衆、及び菩薩衆』中に於いて、
『法』を、
『説いて!』、
『無尽』であり!、
『議』を、
『論じて!』、
『無減』であり!、
『心』に、
『疑難』が、
『無い!』ということは、
已に、
『無礙』の、
『無所畏』を、
『得た!』ということである。
復次如先說於無量眾中無所畏。不知以何等力故無畏。以是故更說無所畏以得無礙力故。 復た次ぎに、先に説けるが如きは、無量の衆中に於いて無所畏なるも、何等の力を以っての故に、無畏なるやを知らず。是を以っての故に、更に説かく、『無所畏は、無礙の力を得るを以っての故なり。』と。
復た次ぎに、
先には、
『無量の衆』中に於いて、
『無所畏』である!と、
『説いた!』が、
何のような、
『力』を以っての故に、
『無所畏』である!かは、
『知らない!』。
是の故に、
更に、こう説くのである、――
『無所畏』は、
『無礙』という、
『力』を、
『得た!』からである、と。
問曰。若諸菩薩。亦有無礙無所畏。佛與菩薩有何等異。 問うて曰く、若し諸の菩薩も、亦た無礙の無所畏を有せば、仏と菩薩と何等の異か有らん。
問い、
若し、
諸の、
『菩薩』にも、
亦た、
『無礙』の、
『無所畏』が、
『有る!』ならば、
『仏』は、
『菩薩』と、
何のような、
『異(ちがい)』が、
『有る!』のですか?
答曰。如我先說。諸菩薩自有無所畏力故。於諸法中無所畏。非佛無所畏。 答えて曰く、我が先に説けるが如き、諸の菩薩の自ら無所畏の力を有するが故に、諸法中に於いて無所畏なるは、仏の無所畏に非ず。
答え、
わたしが、
先に、説いたような、――
諸の、
『菩薩』が、
自ら、
『無所畏』の為の、
『力』を、
『有する!』が故に、
諸の、
『法』に於いて、
『無所畏』である!のは、
『仏』の、
『無所畏ではない!』。
復次無礙法有二種。一者一切處二者非一切處。非一切處名如入一經書乃至百千經書中無礙。若入一眾若入百千眾中無所畏。 復た次ぎに、無礙の法には、二種有り、一には一切の処、二には一切の処に非ず。一切処に非ずとは、一経、乃至百千の経書中に入りて無礙なる、若しは一衆に入りて、若しは百千の衆中に入りて、無所畏なるが如きに名づく。
復た次ぎに、
『無礙』という、
『法』には、
『二種』有り、
一には、
『一切の処であり!』、
二には、
『一切の処ではない!』。
『一切の処でない!』とは、――
例えば、
『一経、乃至百千の経書』中に、
『悟入して!』、
『無礙』である!か、
若しくは、
『一衆、乃至百千の衆』中に、
『入って!』、
『無所畏』である!。
諸菩薩亦如是。自智慧中無礙非佛智慧。 諸の菩薩も、亦た是の如く、自ら智慧中に無礙なるも、仏の智慧に非ず。
諸の、
『菩薩』の、
『無礙』も、
是のように、
自らの、
『智慧』中に於いて、
『無礙』である!が、
『仏』の、
『智慧』中に、
『無礙』ではない!。
如佛放缽時五百阿羅漢及彌勒等諸菩薩皆不能取。諸菩薩亦如是。自力中無礙。佛智慧力中有礙。以是故說諸菩薩得無礙無所畏 仏の鉢を放りたまえる時、五百の阿羅漢、及び弥勒等の諸の菩薩は、皆取る能わざるが如し。諸の菩薩も、亦た是の如く、自らの力の中に無礙なるも、仏の智慧の力中には、礙有り。是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、無礙の無所畏を得。』と。
例えば、
『仏』が、
『鉢』を、
『放られた!』時、
『五百』の、
『阿羅漢、及び弥勒等の諸菩薩』は、皆、
『取ることができなかった!』が、
諸の、
『菩薩』も、
亦た、
是のように、
『自ら』の、
『力』中には、
『無礙』であっても、
『仏』の、
『智慧の力』中には、
『有礙』である!ので、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、
『無礙』の、
『無所畏』を、
『得ている!』、と。
  参考:『仏説放鉢経』:『佛在舍衛祇洹精舍。時與諸菩薩。無央數比丘比丘尼。優婆塞優婆夷諸天王釋梵。及阿須倫鬼神龍。諸人非人。無央數悉會坐。佛說菩薩法無央劫勤苦泥犁。禽獸薜荔。一切憂勞。十方布施。金銀珍寶車馬奴婢。及妻子頭目肌肉。皆不愛惜。用施十方人。勤苦故。時忉利天上二百天子前世作菩薩道未堅。在佛所聞求道勤苦。皆念道劇難得。心便轉求羅漢辟支佛道。佛知是諸天子意欲轉。便化作一人。端正無比。令持百味飯至佛所。前長跪叉手作禮白佛言。願佛哀我受此飯。佛便受之。坐中有菩薩在佛前坐。字文殊師利。白佛言。當念故恩。座中諸菩薩。悉聞展轉相問。文殊師利。前世有何等恩。施於佛而復欲得佛飯。佛即捨缽于地。便下入地中。乃至賴毘羅耶佛剎。剎名波陀沙。缽懸止空中現。彼剎中諸菩薩見之。起前長跪白佛。是懸缽從何所來。亦不墮地。彼佛言。且待須臾。當見菩薩威神變化。爾時釋迦文佛告摩訶目揵連。行求索缽。摩訶目揵連即入八千三昧。遍入八千佛剎視不見。即還白佛言。求索缽了不知處。佛告舍利弗。汝復行求索。舍利弗入萬三昧。下行過萬佛剎求缽不得。即還白佛言。我下行過萬佛剎求缽了不見。佛復令摩訶迦葉行求索缽。摩訶迦葉便入萬二千三昧。復下過萬二千佛剎。求索缽不得。還白佛言。我求索缽了不見。舍利弗白彌勒菩薩言。仁者。高才功德已滿智慧備足次當來佛。當知缽處彌勒菩薩語舍利弗言。我雖次當來佛功德成滿其行具足。不知文殊師利菩薩。譬如十方恒邊沙佛剎。滿中萬物草木。及爾所菩薩。不能知佛一步之中所念何等。文殊師利菩薩知深三昧。獨文殊師利菩薩。能知佛缽處。舍利弗即起前至佛所。長跪叉手白佛。願令文殊師利菩薩行求索缽。佛語文殊師利。汝行求缽來。文殊自念。舍利弗當不起於坐而致缽來。即入三昧。譬如日出光明無所不照。菩薩入三昧者。十方無所不至。文殊內手從袈裟裏下探過十佛剎。手指諸節其一節放千萬光明出。一光明端各有一蓮花。蓮花上有一菩薩坐皆如文殊。其下剎有佛蓮花上菩薩者。皆持釋迦文佛聲謝諸佛。復持文殊聲遙為諸佛作禮。如文殊手。逮至賴毘羅耶佛剎。剎中諸菩薩白佛言。是手何等。亦不見邊。亦不見際。賴毘羅耶佛語諸菩薩言。上無數佛剎。剎名沙訶樓陀。佛字釋迦文。前有坐菩薩字文殊。最尊光明智慧難可當。作變化如是。諸菩薩白佛言。今我等欲共得見釋迦文佛及文殊。賴毘羅耶佛。即放額上千億光明出。照中央無數佛剎。一至釋迦剎。諸菩薩問佛。今有是大火光煙出。須臾頃便火出。是火泥犁火耶。佛言。莫作是語。是非泥犁火。釋迦剎名沙訶樓陀。是中火也。諸菩薩問佛言。是沙訶樓陀剎者。何因名沙訶樓陀。有是火。佛語諸菩薩。沙訶樓陀剎者。雜惡三毒婬劮瞋怒愚癡。諸菩薩白佛言。沙訶樓陀剎中諸菩薩。忍辱不瞋怒者作是為可。佛語諸菩薩。釋迦剎中人。罵詈菩薩輕是撾捶者。菩薩忍辱終不加瞋怒。慈哀十方人欲令度脫。皆是菩薩威神所加。菩薩忍辱之恩。故名沙訶樓陀。諸菩薩白佛言。我等聞是大歡喜。得不生釋迦剎弊人之處。賴毘羅耶佛告諸菩薩。莫說是語不可。沙訶樓陀剎中諸菩薩意。佛言。我為汝曹說。東方佛字頭意。剎名訶波離摩坻陀惹。頭意佛剎中菩薩。行六度悉具足。不如沙訶樓陀剎中菩薩行六度一日一夜。念十方勤苦皆使度脫。何以故。沙訶樓陀剎中作行勤苦。譬如一佛剎壞敗時火燒其剎。有人著新衣從東方來入火中。從火中至西方。其身出不燒是難不。諸菩薩言。甚難天中天。佛言。沙訶樓陀剎中菩薩。一日一夜所行。罵詈輕易之。菩薩忍辱終不瞋怒。譬如是人行火中。身不燒之難。尚不及是菩薩。若百倍千倍萬倍億倍。諸菩薩等二萬人前白佛。願欲上至沙訶樓陀剎。供養釋迦文佛。及文殊師利菩薩等。賴毘羅耶佛語諸菩薩。若欲至沙訶樓陀剎者先治汝意。譬如地得香花好物不喜。得屎尿涕唾膿血惡露亦不瞋。佛言。我何因為若曹說是語。釋迦文佛剎中有菩薩。先世多供養諸佛者。人有急性者。意善之事但口教急用。今世惡故。諸菩薩白佛言。沙訶樓陀剎諸菩薩。先世多供養諸佛求道大久。何緣生沙訶樓陀弊惡人處。佛告諸菩薩。有二因緣。今世生沙訶樓陀剎。本前世與釋迦文佛。俱行索佛故世世相隨。復有菩薩。宿命有惡不盡故生彼惡世。諸菩薩白佛。今是諸菩薩。生沙訶樓陀剎。何因緣得除宿命之惡。佛言。善男子善女人。生沙訶樓陀剎。索菩薩道。生貧家舍。用是故除宿命惡。又多病者復除宿命之惡。又遭遇父母兄弟妻子病瘦死亡憂愁感傷用是故復除宿命之殃又遭逢縣官恐怖棄捐父母家室財產亡逃憂愁。用是故復除宿命之殃惡。若有一旦失財業窮厄。用是故復除宿命之殃惡。若在惡國中生。本為他國所攻敗壞。奔走愁憂無聊。用是故復除宿命之殃惡。若生弊惡人中貧賤面目醜陋。形癃盲聾不屬逮人。父母兄弟妻子宗親皆共憎之。是人愁憂用是故復除宿命之殃惡。若聞有善道歡喜。欲索明師教告經道開心從受。不得明師便愁憂。用是故復除宿命之殃惡。若復遙聞遠方有師高明智慧通達。欲往從受經學。身體病瘦手足拘攣不可動搖。錢用乏少又無伴侶便不可行。念之愁憂。用是故復除宿命之殃惡。若有人行求善師。欲從學受經。道師大明達皆知道要。弟子愚癡無慧意不開解。便自愁憂。用是故復除宿命之殃惡。若有善師欲教弟子世間之事開語經道。弟子愚癡不能忍辱。便棄捐師去。後歸念師法戒大歡喜意悔愁憂。用是故復除宿命之殃惡若有求菩薩道者。臥出夢中見怨家持刀兵追逐怖恐夢中恐懅復除宿命之惡。若有菩薩道家善男子善女人宿命殃惡未盡。死當入泥犁中勤苦一劫。得善師教悔過一日一夜者。頭痛身熱諸病悉除盡。不復入泥犁中。賴毘羅耶佛語適竟。文殊師利下手探缽。賴毘羅耶佛剎。及中央無央數佛剎。上至釋迦文佛剎皆大震動。一切人皆令驚怖。舍利弗起前。長跪叉手白佛言。今以何因緣震動如是。莫不驚恐者佛語舍利弗。今是地震動者。文殊師利探缽。是故震動。舍利弗問佛言。缽在何所止。佛言。缽乃在下。過無數佛剎有佛。字賴毘羅耶。其剎名波陀沙。缽止是中。舍利弗白佛言。今諸菩薩阿羅漢。及諸天人阿須倫鬼神龍。欲見下方賴毘羅耶佛剎及中央諸佛剎。欲見文殊師利變化取缽。時佛便放足下百億光明。悉照十方無數諸佛剎土。如是悉遍見賴毘羅耶佛剎諸菩薩。見文殊師利變化取缽。時諸菩薩天人阿須倫鬼神龍皆大歡喜。諸阿羅漢皆大愁毒淚出。各自言。菩薩尚能變化。在所作為乃爾。何況佛威神光明難可當。我等寧入泥犁中百劫。後出聞菩薩法便奉行。何憂不得我願。賴毘羅耶佛剎中諸菩薩。及中央諸佛剎土菩薩無央數。皆來上至釋迦文佛所。諸菩薩各自念言。到釋迦文佛所供養。中有菩薩散花覆一佛剎。有菩薩散香。有菩薩散天衣。有菩薩散金銀珍寶。有菩薩作音樂聲。一佛剎中如是諸菩薩。皆前持頭面著地。為佛作禮已卻坐。文殊師利菩薩。探缽來出坐中。諸菩薩阿羅漢諸天人阿須倫鬼神龍莫不歡喜。舍利弗起前長跪叉手白佛言。文殊師利有何等恩施與佛。今何因緣。言當念故恩。佛語舍利弗。乃前世無數劫。時有佛字羅陀那祇。有六萬比丘阿羅漢。七億二千萬人諸菩薩中有一菩薩。字惹那羅耶。朝起入城分衛得滿缽。來還從街上行。有一乳母抱長者子。字惟摩羅波休。息沙門持缽便下。乳母抱趣沙門所。沙門以石蜜餅授與小兒。小兒噉之大美。便隨沙門去。乳母逐護之。小兒噉盡。盡便還故。意欲還去沙門復取餅授之。兒噉餅逐隨沙門出城到佛所。見佛端正身有三十二相八十種好。視之無厭。見諸菩薩比丘大歡喜。沙門便教小兒澡手漱口。便持缽餅與小兒令飯佛。汝今得安隱後得其福。小兒取授缽餅。持至佛前。以手接餅著佛缽中。復過與諸菩薩比丘僧。皆悉滿足食飽餅缽如故。如是飯佛菩薩及比丘僧七日。小兒大歡喜。自說我日持一餅飯佛菩薩及比丘僧。七日飯滿我必得福。因是一功德得佛。佛語諸菩薩阿羅漢言。此是本時恩也。惹那羅耶菩薩。今文殊是也。時小兒維摩羅波休者。我身是也。今我得佛。有三十二相八十種好。威神尊貴度脫十方一切眾生者。皆文殊師利之恩。本是我師。前過去無央數諸佛。皆是文殊師利弟子。當來者亦是其威神恩力所致譬如世間小兒有父母。文殊者佛道中父母也。佛說是經時。忉利天上二百菩薩自念。佛本文殊所教化。令作功德成佛。文殊何以故。在佛前不成佛耶。佛言。文殊深入善權廣化眾生故未取道。佛告諸菩薩及比丘四眾。前二百天人菩薩欲悔取二乘者。見文殊變化吾應報恩。今皆更發無上心修菩薩道。後世皆當作佛。佛說經已。諸菩薩比丘僧。諸天人阿須倫鬼神龍。皆大歡喜起為佛作禮 佛說放缽經』
  放鉢経(ほうはちきょう):布施の因縁の滅せざるを説く経。[大意]:仏は、諸菩薩等の大衆中に於いて無央数劫勤苦の布施等の菩薩法を説く、時に忉利天上の二百の天子は菩薩道の劇難を念じて阿羅漢、辟支仏に退転せんとす。仏は、其れを治せんが為に一人を化作し、百味の飯を持して、仏を供養せしむ。時に文殊師利菩薩、仏前に在りて昔の恩を想い出させませと白す、大衆は悉く展転して、文殊師利の前世に何等の恩施を仏に被らしめて、今仏の飯を得んと欲するやを相問う。仏が、鉢を地下に放捨するに、鉢は深く地中に入り、賴毘羅耶仏の国に到り、空中に懸る。仏は摩訶目揵連に鉢を求索せしむ、目揵連は八千の三昧に入りて、八千の仏刹に於いて求索せるも、其の処を知らず。次いで舎利弗、摩訶迦葉に求索せしむるも、皆、悉く其の処を知らず。最後に文殊師利に命ずるに、文殊は衣の下に手を入れ、地中深く探って、鉢を取りて還る。その時、賴毘羅耶仏は是れに因りて諸の菩薩の弟子に釈迦牟尼仏の菩薩の忍辱の勝れたるを説き、釈迦牟尼仏は曽て文殊師利より種種の恩施を受けて、因りて文殊を師と為したる本生を説く。



衆生の心の趣く所を知る

【經】悉知眾生心行所趣。以微妙慧而度脫之。 悉く、衆生の心行の趣く所を知り、微妙の慧を以って、之を度脱す。
悉く、
『衆生』の、
『心行()』の、
『趣く!』所を、
『知り!』、
『微妙』の、
『慧』を以って、
『衆生』を、
『度脱』する!。
  心行(しんぎょう):梵語citta-caryaの訳。意は心の作用、活動、行為、行を指し、意訳して想、或は思と為す。即ち「大毘婆沙論巻26」に、「また彼の経に説く、われはすでに喜の入出息むを覚り、われはすでに喜の入出息むを覚ると了知す。われはすでに楽の入出息むを覚り、われはすでに楽の入出息むを覚ると了知す。われはすでに心行の入出息むを覚り、われはすでに心行の入出の息むを覚ると了知す。われはすでに心行を止めて入出息み、われはすでに心行を止めて入出息むと了知す、と。まさに知るべし、この中、喜を覚るとは、初二静慮地の喜を観るなり。楽を覚るとは、第三静慮地の楽を観るなり。心行を覚るとは、想及び思を観るなり。心行を止むとは、謂わく心行をして漸漸微細ならしめ、乃ち不生に至るなり」と云えるこれなり。<(望)
【論】問曰。云何悉知眾生心行。 問うて曰く、云何が、悉く、衆生の心行を知る。
問い、
何のように、
悉く、
『衆生』の、
『心行』を、
『知る!』のですか?
答曰。知眾生心種種法中處處行。如日光遍照。菩薩悉知眾生心行有所趣向。而教之 答えて曰く、衆生の心の種種の法中を知りて、処処に行ず。日光の遍く照らすが如く、菩薩は、悉く、衆生の心行の趣向する所有るを知り、之を教う。
答え、
『衆生』の、
『心』の、
『種種の法(心数法)』中を、
『知り!』、
『処処』に、
『行う!』のである。
『日光』が、
『遍く!』、
『照らす!』ように、
『菩薩』は、
『悉く!』、
『衆生』の、
『心行』の有する!、
『趣向する!』所を、
『知り!』、
その後、
『衆生』を、
『教える!』のである。
言。一切眾生趣有二種。一者心常求樂。二者智慧分別能知好惡。 一切の衆生の趣きと言うは、二種有り、一には、心は常に楽を求む。二には、智慧の分別して、能く好悪を知る。
一切の、
『衆生』の、
『趣向』と、
『言う!』には、
『二種』有り、
一には、
『心』に、
常に、
『楽』を、
『求める!』。
二には、
『智慧』で、
分別して、
『好、悪』を、
『知る!』。
汝莫隨著心。當隨智慧當自責心。 汝は、著心に随う莫かれ、当に智慧に随うべく、当に自ら心を責むべし。
お前は、
『著する!』、
『心』に、
『随ってはならない!』、
『智慧』に随って、
自ら、
『心』を、
『責めなくてはならない!』。
汝無數劫來集諸雜業而無厭足。而但馳逐世樂不覺為苦。 汝は、無数劫より来(このかた)、諸の雑業を集めて厭足無く、但だ世楽を馳逐して、苦と為るを覚らず。
お前は、
『無数劫』以来、
諸の、
『雑業(善、不善業)』を、
『集めて!』、
『厭足』する!ことが、
『無い!』。
但だ、
『世間』の、
『楽』を、
『馳逐』する!のみで、
『世間』は、
『苦』である!ことを、
『覚らない!』。
  厭足(えんそく):あきたりる。あく。
  馳逐(ちちく):はせおう。走り回って追いかける。
汝不見世間貪樂致患五道受生。皆心所為誰使爾者。 汝は、世間の貪楽の患を致すを見ず。五道に受生するは、皆、心の所為なり、誰か爾らしむる者なる。
お前は、
『世間』に、
『貪楽』すれば、
『災患』を、
『招く!』ことを、
『見ない!』。
『五道』に、
『受生』する!のは、
皆、
『心』の、
『為す!』所である。
誰が、
『そうする!』と、
『思う!』のか?
汝如狂象蹈藉殘害無所拘制。誰調汝者。若得善調則離世患。 汝は、狂象の蹈藉、残害するも、拘制する所無きが如し。誰か汝を調うる者なる。若し善く調うるを得ば、則ち世の患を離れん。
お前は、
『狂象』が、
『蹈藉』し、
『残害』する!のに、
『拘制』する!所が、
『無い!』のと同じだ。
誰か、
お前を、
『調えない!』のか?
若し、
『善く!』、
『調うことができた!』ならば、
則ち、
『世』の、
『患』を、
『離れる!』だろう。
  蹈藉(とうしゃく):踏みつぶしてむちゃくちゃにする。
  残害(ざんがい):残酷に殺す。
  拘制(くせい):とらえおさえる。拘束。
當知處胎不淨。苦厄猶如地獄。既生在世老病死苦憂悲萬端。若生天上。當復墮落三界無安。汝何以樂著。 当に知るべし、胎に処するは不浄にして、苦厄は、猶お地獄の如し。既に生じて、世に在らば、老病死苦の憂悲万端なり。若し天上に生ぜば、当に復た堕落すべし。三界に安き無し、汝は何を以ってか、楽に著する。
こう知るべきである、――
『世間』の、
『胎』に、
『処する!』ことは、
『不浄』であり!、
『苦厄』は、
『地獄』よりも、
『酷い!』。
既に、
『世間』に在れば、
『老病死の苦』や、
『憂悲』は、
『万端』である。
若し、
『天上』に生まれても、
復た、
『墜落』する!だろう。
『三界』に、
『安処』は、
『無い!』のである。
お前は、
何故、
『楽』に、
『著している!』のか?
  万端(まんたん):有らゆる事物の前後の端。
如是種種呵責其心誓不隨。汝是為菩薩知眾生心行。 是の如く、種種に其の心を呵責し、誓って汝に随わしめず。是れを菩薩は、衆生の心行を知ると為す。
是のような、
種種に、
其の、
『心』を、
『呵責』して、
お前に、
『随わせない!』。
是れが、
『菩薩』は、
『衆生』の、
『心行』を、
『知る!』である。
問曰。云何名以微妙慧而度脫之。是中云何名微妙慧。云何名麤智慧。 問うて曰く、云何が、微妙の慧を以って、之を度脱すと名づくる。是の中に、云何が、微妙の慧と名づけ、云何が、麁なる智慧と名づくる。
問い、
『微妙』の、
『慧』を以って、
『衆生』を、
『度脱する!』とは、
何を、
『言う!』のですか?
是の中に、
何を、
『微妙』の、
『慧』と、
『呼び!』、
何を、
『麁(粗雑)』の、
『智慧』と、
『呼ぶ!』のですか?
答曰。世界巧慧是名麤智慧行。施戒定是名微妙慧。 答えて曰く、世界の巧慧は、是れを麁の智慧と名づけ、施、戒、定を行ずる、是れを微妙の慧と名づく。
答え、
『世界』の、
『巧みな!』、
『慧』は、
是れを、
『麁』の、
『智慧』といい、
『施、戒、定』を、
『行う!』、
『慧』は、
是れを、
『微妙』の、
『慧』という。
復次布施智是為麤慧。戒定智是名微妙慧。 復た次ぎに、布施の智は、是れを麁の慧と為し、戒定の智は、是れを微妙の慧と名づく。
復た次ぎに、
『布施』の、
『智』は、
『麁』の、
『慧』である!が、
『戒、定』の、
『智』は、
『微妙』の、
『慧』である!。
復次戒定智是為麤慧。禪定智是名微妙慧。 復た次ぎに、戒定の智は、是れを麁慧と為し、禅定の智は、是れを微妙の智と名づく。
復た次ぎに、
『戒定』の、
『智』は、
『麁』の、
『慧』である!が、
『禅定』の、
『智』は、
『微妙』の、
『慧』である!。
  戒定(かいじょう):持戒に心が定まりて動かざるの用あるの意。
  禅定(ぜんじょう):禅は梵語褝那dhyaanaの音訳の略称にして、意は専注して熟慮することを指し、思惟修、或は静慮と意訳し、定は梵語三昧samaadhiの意訳にして、意は心を一対象に専注して散乱せしめざるを指す。或は褝那dhyaanaの音訳の定を以ってその意訳と為し、梵漢並称して禅定と作すと謂う。また色界の四禅と無色界の四定を合して四禅八定と称す。<(佛)
復次禪定智是為麤慧。無猗禪定是名微妙慧。 復た次ぎに、禅定の智は、是れを麁慧と為し、無猗の禅定は、是れを微妙の慧と名づく。
復た次ぎに、
『禅定』の、
『智』は、
『麁』の、
『慧』である!が、
『無猗(智慧を拠り所とせざる)』の、
『禅定』は、
『微妙』の、
『慧』である!。
  無猗禅定(むいぜんじょう):無猗は梵語apratiprazrabdhi?の訳、間断無きの意。禅定の智慧に依りて発動せざるをいう。
復次取諸法相是為麤慧。於諸法相不取不捨。是名微妙慧。 復た次ぎに、諸法の相を取るは、是れを麁慧と為し、諸法の相を取らず、捨てざるは、是れを微妙の慧と名づく。
復た次ぎに、
諸の、
『法』の、
『相(空を含む)』を、
『取る!』のは、
『麁』の、
『慧』である!が、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『取らず、捨てず!』は、
『微妙』の、
『慧』である!。
復次破無明等諸煩惱。得諸法相。是名麤慧。入如法相者。譬如真金不損不失。亦如金剛不破不壞。又如虛空無染無著。是名微妙慧。 復た次ぎに、無明等の諸の煩悩を破り、諸法の相を得る、是れを麁慧と名づけ、如の法相に入りたる者の、譬えば真金の損せず、失せざるが如く、亦た金剛の破らず、壊せざるが如く、又虚空の無染、無著なるが如き、是れを微妙の慧と名づく。
復た次ぎに、
『無明』等の、
諸の、
『煩悩』を、
『破り!』、
諸の、
『法相』を、
『得る!』のは、
『麁』の、
『慧』である!が、
『如』の、
『法相』に、
『悟入した!』者が、
譬えば、
『真金』のように、
『損失せず!』、
『金剛』のように、
『破壊せず!』、
『虚空』のように、
『染著』する!ことが、
『無い!』こと、
是れが、
『微妙』の、
『慧』である!。
如是等無量微妙慧。菩薩自得復教眾生。以是故說諸菩薩悉知眾生心行所趣。以微妙慧而度脫之 是の如き等の無量の微妙の慧を、菩薩は自ら得て、復た衆生に教う。是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、悉く衆生の心行の趣く所を知り、微妙の慧を以って、之を度脱す。』と。
是れ等の、
『無量』の、
『微妙』の、
『慧』を、
『菩薩』は、
自ら、
『得て!』、
復た、
『衆生』にも、
『教える!』ので、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、
悉く、
『衆生』の、
『心行』の、
『趣く!』所を、
『知り!』、
『微妙』の、
『慧』を以って、
『衆生』を、
『度脱』する!と。



大智度初品中意無礙釋論第十二
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


意に罣礙無し

【經】意無罣礙 意に罣礙無し。
『意』には、
『罣礙(障礙)』が、
『無い!』。
【論】云何名意無罣礙。菩薩於一切怨親非怨非親人中等心無有礙。 云何が、意に罣礙無しと名づくる。菩薩は、一切の怨、親、非怨非親人中に於いて、等心に、礙有ること無し。
何故、
『意』には、
『罣礙』が、
『無い!』というのか?
『菩薩』は、
一切の、
『怨』、
『親』、
『非怨非親』の、
『人』中に於いて、
『等心』を、
『妨礙する!』者が、
『無い!』からである。
  等心(とうしん):梵語sama-cittaの訳。平等心。傾かない心の義。怨親、彼此、彼我等を等しく視ることをいう。『大智度論巻19下注:平等』参照。
  :等心は妨礙されない。
復次一切世界眾生中。若來侵害心不恚恨。若種種恭敬亦不喜悅。 復た次ぎに、一切の世界の衆生中に、若し来たりて侵害するも、心は恚恨せず、若し種種に恭敬するも、亦た喜悦せず。
復た次ぎに、
一切の、
『世界』の、
『衆生』中に、
若し、
有る者が、
『来て!』、
『侵害した!』としても、
『心』は、
『恚恨せず!』、
若し、
種種に、
『恭敬した!』としても、
『喜悦しない!』。
  :来たりて侵害するも、即ち遠き因縁有り、種種に恭敬するも、亦た遠き因縁有り。何等の因縁をか、恚恨し、又喜悦せん。
如偈說
 諸佛菩薩  心不愛著 
 外道惡人  心不憎恚
如是清淨名為意無罣礙。
偈に説くが如し、
諸の仏菩薩も、心に愛著せず、
外道の悪人も、心に憎恚せず。
是の如く清浄なるを、名づけて意に罣礙無しと為す。
『偈』に、説く通りである、――
諸の、
『仏』、
『菩薩』にも、
『心』は、
『愛著せず!』、
『外道』の、
『悪人』にも、
『心』は、
『憎恚しない!』。
是のような、
『清浄』を、
『意』に、
『罣礙がない!』という。
  憎恚(ぞうい):憎み怒る。
復次於諸法中心無礙。 復た次ぎに、諸法中に於いて、心に無礙なり。
復た次ぎに、
諸の、
『法』中に於いて、
『心』は、
『無礙(自由)』である!。
問曰。是菩薩未得佛道。未得一切智。云何於諸法中心無礙。 問うて曰く、是の菩薩は、未だ仏道を得ず、未だ一切智を得ず。云何が、諸法中に於いて、心に無礙なる。
問い、
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『仏道』を、
『得ていない!』ので、
未だ、
『一切智』を、
『得ていない!』。
何故、
諸の、
『法』中に於いて、
『心』が、
『無礙』なのですか?
答曰。是菩薩得無量清淨智慧故。於諸法中心無礙。 答えて曰く、是の菩薩は、無量の清浄の智慧を得たるが故に、諸法中に於いて、心に無礙なり。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『無量』の、
『清浄』の、
『智慧』を、
『得ている!』が故に、
諸の、
『法』中に於いて、
『心』が、
『無礙』である!。
問曰。諸菩薩未得佛道故。不應有無量智。有殘結故。不應有清淨智。 問うて曰く、諸の菩薩は、未だ仏道を得ざるが故に、応に無量の智有るべからず。残結有るが故に、応に清浄の智有るべからず。
問い、
諸の、
『菩薩』は、
未だ、
『仏道』を、
『得ていない!』が故に、
当然、
『無量の智』を、
『有するはずがない!』し、
殘り!の、
『結(煩悩)』を、
『有する!』が故に、
当然、
『清浄の智』を、
『有するはずがない!』。
答曰。是諸菩薩非三界中結業肉身。皆得法身自在過老病死。憐愍眾生故。在世界中行為莊嚴佛土教化眾生。已得自在欲成佛能成。 答えて曰く、是の諸の菩薩は、三界中の結業の肉身に非ず、皆、法身を得て、自在に老病死を過ごし、衆生を憐愍するが故に、世界中に在りて行じ、仏土を荘厳せんが為に衆生を教化し、已に自在を得たれば、成仏せんと欲すれば、能く成ずるなり。
答え、
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『三界』中に、
『業』が、
『結んで!』、
『生じた!』、
『肉身』ではなく!、
皆、
『法身』を得て、
『自在』に、
『老、病、死』を、
『過ごし!』、
『衆生』を、
『憐愍』する!が故に、
『世界』中に於いて、
『修行』し、
『仏土』を、
『荘厳』する!為に、
『衆生』を、
『教化』し、
已に、
『自在』を、
『得ている!』ので、
『成仏したければ!』、
『成仏できる!』のである。
  荘厳(しょうごん):梵語vyuuhaの訳。諸種の衆宝雑華宝蓋幢幡瓔珞等を布列し、以って道場または国土等を荘飾厳浄するをいう。「旧華厳経巻1世間浄眼品」に、「一時、仏は摩竭提国寂滅道場に在りて始めて正覚を成ず。その地は金剛にして具足厳浄し、衆宝雑華を以って荘厳と為し、上妙の宝輪円満清浄に、無量の妙色種種に荘厳することなお大海の如し」と云い、「大品般若経巻1序品」に、「その時、この三千大千国土は皆成じて宝花と為りて遍く地を覆い、繒の幡蓋を懸け、香樹花樹皆悉く荘厳す」と云えるこれなり。また「旧華厳経巻10明法品」に菩薩の十種の荘厳を説き「何等をか十と為す、色身荘厳はまさに随って示現し、語言荘厳は衆の疑惑を除いて悉く歓喜せしめ、意行荘厳は一念の中に於いて諸の正受に入り、仏刹荘厳は一切の諸の煩悩の跡を滅除し、光明荘厳は普く十方を照し、眷属荘厳はよく勝衆を集めて悉く歓喜せしめ、神力荘厳はその所応に随って自在に示現し、仏教荘厳は皆よく諸の黠慧の者を摂取し、涅槃地荘厳は一処に成道するも、悉くよく充満して十方に示現し、持法荘厳は衆に随い説きに随い、その器量に随いて而も説法す」と云い、また「同巻38離世間品」には、力荘厳、無為荘厳、義荘厳、法荘厳、願荘厳、行荘厳、仏刹荘厳、妙音荘厳、受持荘厳、変化荘厳の十種を挙げ、「同巻41離世間品」には、大慈荘厳、大悲荘厳、大願荘厳、迴向荘厳、功徳荘厳、波羅蜜荘厳、智慧荘厳、方便荘厳、一切智心堅固不乱荘厳、決定荘厳の十種を出し、また「大方等大集経巻17虚空蔵菩薩品」には菩薩の二十大誓荘厳を説き「未だ度せざる者を度せんが為に大誓荘厳す。大船舫に乗ずるが故なり。未だ解せざる者を解せしめんが為に大誓荘厳す、虚妄の顛倒を脱するが故なり。未だ安んぜざる者を安んぜしめんが為に大誓荘厳す、無畏の道に安止するが故なり。未だ涅槃を得ざる者に涅槃を得しめんが為に大誓荘厳す、五陰の重擔を捨つるが故なり。常に勤めて衆生に給足せんが為に大誓荘厳す、精進して懈怠せざるが故なり。無量の生死を捨てざらんが為に大誓荘厳す、疲厭せざるが故なり。一切の諸仏を悦可せしめんが為に大誓荘厳す、現前に供養し恭敬するが故なり。一切の仏法を受持せんが為に大誓荘厳す、三宝の種を断ぜしめざるが故なり。一切の所聞を受持して忘れざらんが為に大誓荘厳す、陀羅尼を得るが故なり。善く説法して一切の衆生を悦可せしめんが為に大誓荘厳す、辯才を得るが故なり。無量の功徳資糧を集めんが為に大誓荘厳す、相好を成就するが故なり。一切の善知識を悦可せしめんが為に大誓荘厳す、所行を堅固にするが故なり。馳散の心を遮せんが為に大誓荘厳す、諸禅解脱三昧を生ずるが故なり。阿練若処に在りて身命を捨離せんが為に大誓荘厳す、六神通を得るが故なり。大師子吼して畏懼する所無からんと欲するが為に大誓荘厳す、現前に無我の法を得るが故なり。一切の世界に至らんと欲するが為に大誓荘厳す、一切の諸法は幻の如く夢の如く影の如くなるを知らんと欲するが故なり。普く照して一切の世界を厳飾せんが為に大誓荘厳す、浄戒衆受持成就の力の故なり。如来の十力を成就せんが為に大誓荘厳す、諸波羅蜜を満足するが故なり。四無所畏を得んが為に大誓荘厳す、所説の如く行ずるが故なり。尽く十八不共法を得んが為に大誓荘厳す、所聞の菩薩地の法の如く戯論せざるが故なり」と云えり。これ等は皆菩薩が因位に大誓願を発して利益衆生の為に身命を惜まず、粉骨砕身して功徳を積累し、以ってその身を厳飾するを荘厳と名づけたるなり。また「仏本行修経巻6上託兜率品下」に、「檀度はこれ法の明門なり、念念に相好を成就し、仏土を荘厳す、慳貪の諸衆生を教化するが故に」と云い、「大品般若経巻6発趣品」に、「云何が菩薩は世間の無量の懃苦を受けて以って厭と為さざる。諸の善根備具するが故に、よく衆生を成就して仏土を荘厳し、乃ち薩婆若を具足するに至るまで、終に疲厭せず、これを無量の懃苦を受けて以って厭と為さずと名づく」と云い、「大智度論巻6」に、「問うて曰わく、諸の菩薩は未だ仏道を得ざるが故に、まさに無量の智有るべからず、残結有るが故に、まさに清浄の智有るべからず。答えて曰わく、この諸の菩薩は三界中の結業の肉身に非ず、皆法身を得て自在、老病死を過ぎ、衆生を憐愍するが故に、世界の中に在りて仏土を荘厳せんが為に衆生を教化す」と云えるが如きは、衆生を教化し清浄ならしむるを以って仏国土の荘厳と為せるものなり。蓋し衆生を教化して仏国土を清浄ならしむるは阿耨多羅三藐三菩提を得んがなり。<(望)
問曰。如法身菩薩則與佛無異。何以名為菩薩。何以禮佛聽法。若與佛異。云何有無量清淨智。 問うて曰く、法身の菩薩なれば、則ち仏と異無し。何を以ってか、名づけて菩薩と為す。何を以ってか、仏を礼し、法を聴く。若し仏と異ならば、云何が、無量の清浄の智を有する。
問い、
『法身』の、
『菩薩』ならば、
則ち、
『仏』と、
『異』が、
『無い!』。
何故、
『菩薩』と、
『称する!』のですか?
何故、
『仏』を礼して、
『法』を、
『聴く!』のですか?
若し、
『仏』と、
『異なる!』ならば、
何故、
『無量』の、
『清浄』の、
『智』を、
『有する!』のですか?
答曰。是菩薩雖為法身無老病死。與佛小異。 答えて曰く、是の菩薩は、法身を為して、老病死無しと雖も、仏と小(すこ)しく異なる。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『法身』として、
『老病死』が、
『無い!』としても、
『仏』とは、
『小(すこ)し!』、
『異なる!』。
譬如月十四日。眾人生疑若滿若不滿。菩薩如是雖能作佛能說法。然未實成佛。佛如月十五日滿足無疑。 譬えば月の十四日は、衆人の若しは満てり、若しは満てずと疑を生ずるが如し。菩薩は、是の如く能く仏と作りて、能く法を説くと雖も、然るに未だ実に成仏せず。仏は、月の十五日の満足なるが如く、疑無し。
譬えば、
『月』の、
『十四日』に、
『衆人』が、
『満ちたか?』、
『満ちていないか?』と
『疑』を、
『生じる!』ように、
『菩薩』は、
是のように、
『仏』と、
『作る!』ことも、
『法』を、
『説く!』ことも、
『可能である!』が、
然し、
未だ、
『実』に、
『仏』と、
『成ったわけではない!』。
『仏』は、
『月』の、
『十五日』が、
『満足』である!ように、
『実』に、
『疑』が、
『無い!』のである。
復次無量清淨有二種。一者實有量。於不能量者。謂之無量。 復た次ぎに、無量の清浄には、二種有り、一には、実は有量なるも、量る能わざる者に於いて、之を無量と謂う。
復た次ぎに、
『無量』の、
『清浄』には、
『二種』有り、
一には、
『実』は、
『量』を、
『有する!』が、
『量る!』、
『能力のない!』者の間に於いて、
『無量だ!』と、
『謂う!』のである。
譬如海水如恒河沙等。人不能量名為無量。於諸佛菩薩非為無量。菩薩無量清淨智亦復如是。於諸天人及聲聞辟支佛所不能量。名為無量智。 譬えば、海水の如き、恒河沙の如き等の、人の量る能わざるを、名づけて無量と為すも、諸仏、菩薩に於いて、無量と為すに非ず。菩薩の無量の清浄の智も、亦復た是の如く、諸の天人、及び声聞、辟支仏に於いて、量る能わざる所なれば、名づけて無量の智と為す。
譬えば、
『海水』や、
『恒河沙』等のように、
『人』には、
『量る!』、
『能力がない!』ので、
『無量』と、
『称する!』が、
諸の、
『仏』や、
『菩薩』に於いては、
『無量』と、
『称しない!』のである。
『菩薩』の、
『無量』の、
『清浄』の、
『智』も、
亦復た、
是のように、
諸の、
『天、人、及び声聞、辟支仏』に於いては、
『量る!』、
『能力のない!』所なので、
『無量』の、
『智』と、
『称する!』。
菩薩得無生道時諸結使斷故。得清淨智。 菩薩は、無生の道を得る時、諸の結使断ずるが故に、清浄の智を得。
『菩薩』は、
『無生』という!、
『道』を、
『得る!』時、
諸の、
『結使』が、
『断たれる!』が故に、
『清浄』の、
『智』を、
『得る!』のである。
問曰。若爾時已斷諸結。成佛時復何所斷。 問うて曰く、若し爾の時に、已に諸結を断ぜば、成仏の時には、復た何んが断ずる所なる。
問い、
若し、
爾の時、
已に、
諸の、
『結』を、
『断じていた!』ならば、
『成仏』の時には、
いったい、
何を、
『断じる!』のですか?
答曰。是清淨有二種。一者得佛時除結都盡得實清淨。二者菩薩捨肉身得法身時。斷諸結清淨。 答えて曰く、是の清浄には、二種有り、一には仏を得る時、結を除きて都べて尽き、実の清浄を得。二には、菩薩の肉身を捨てて、法身を得る時、諸の結を断じて、清浄なり。
答え、
是の、
『清浄』には、
『二種』有り、
一には、
『得仏(成仏)』の時、
『結』を除いて、
『都べて!』を、
『尽くし!』、
『実』の、
『清浄』を、
『得る!』こと。
二には、
『菩薩』が、
『肉身』を捨てて、
『法身』を、
『得る!』時、
諸の、
『結』を、
『断じる!』が故に、
『清浄』である!こと。
譬如一燈能除闇得有所作更有大燈倍復明了。 譬えば、一灯は、能く闇を除きて、作す所有るも、更に大灯有らば、倍して復た明了なるが如し。
譬えば、
『一灯』でも、
『闇』を、
『除くことができる!』ので、
『作す!』所を、
『有する!』が、
更に、
『大灯』が有れば、
前に、
『倍して!』、
『明了にする!』のである。
佛及菩薩斷諸結使亦復如是。菩薩所斷雖曰已斷。於佛所斷猶為未盡。是名得無量清淨智。故於諸法中意無罣礙 仏、及び菩薩の、諸の結使を断ずるも、亦復た是の如く、菩薩の断ずる所を、已に断ぜりと曰うと雖も、仏の断ずる所に於いては、猶お未だ尽くさずと為す、是れを、無量の清浄の智を得るが故に、諸法の中に於いて、意に罣礙無しと名づく。
『仏』と、
『菩薩』との、
諸の、
『結使』を、
『断じる!』ということも、
亦復た、
是のように、
『菩薩』が、
『断じた!』所を以って、
已に、
『断じた!』と、
『言った!』としても、
『仏』の、
『断じられた!』所に於いては、
猶お、
『未だ!』、
『尽くしていない!』のであり、
是れを、
『無量』の、
『清浄』の、
『智』を、
『得た!』が故に、
諸の、
『法』中に於いて、
『意』に、
『罣礙』が、
『無い!』というのである。



大忍が成就する

【經】大忍成就 大忍成就す。
『大忍』が、
『成就している!』。
【論】問曰。先已說等忍法忍。今何以故復說大忍成就。 問うて曰く、先に、已に等忍、法忍を説けり。今は、何を以っての故にか、復た、大忍の成就を説ける。
問い、
先に、
已に、
『等忍(衆生を等しく忍ぶ)』と、
『法忍(法を等しく忍ぶ)』を、
『説いた!』。
今は、
何故、
復た、
『大忍』の、
『成就』を、
『説く!』のですか?
  参考:『大智度論巻5』:『已得等忍者。問曰。云何等云何忍。答曰。有二種等。眾生等法等。忍亦二種眾生忍法忍。云何眾生等。一切眾生中等心等念等愛等利。是名眾生等。問曰。慈悲力故於一切眾生中。應等念。不應等觀。何以故。菩薩行實道不顛倒如法相。云何於善人不善人大人小人人及畜生。一等觀。不善人中實有不善相。善人中實有善相。大人小人人及畜生亦爾。如牛相牛中住。馬相馬中住。牛相非馬中。馬相非牛中。馬不作牛故。眾生各各相。云何一等觀而不墮顛倒。答曰。若善相不善相是實。菩薩應墮顛倒。何以故破諸法相故以諸法非實。善相非實不善相非多相非少相。非人非畜生非一非異。以是故汝難非也。‥‥』
答曰。此二忍增長名為大忍。 答えて曰く、此の二忍の増長を名づけて、大忍と為す。
答え、
此の、
『二忍(等忍、法忍)』が、
『増長』する!と、
『大忍』と、
『称する!』のである。
  (にん):忍辱、忍耐、堪忍、忍許、忍可、安忍等の意なり。即ち他人の侮辱、悩害等を受くるも瞋心を生ぜず、或は自身苦に遇いて心を動ぜず、真理を証悟して、心を理上に安住す。経論の載する所に依れば、忍には多種の分類有り。「大智度論巻6」に依るに、生忍と法忍とを説き、衆生の迫害或は優遇を受くといえども、仍ってその違順の境に執せずして忍じ、また衆生に初、中、後の別無きを観、衆生の上に在りて空理を体認するも、断、常二見に堕せず、邪見に陥らざる、これ即ち生忍(また衆生忍と作す)なり、一切の事物の実相を体認して空と為し、心をこの真理の上に安住して動ぜざる、これ即ち法忍(また無生法忍と作す)なり。然るに「同論巻14、15」の説く所にはやや差異有りて謂わく、衆生の迫害、礼遇に耐うるを称して生忍と為し、心法(即ち瞋恚、憂愁等心に属す者)、非心法(即ち寒、暑、風、雨、飢、渇、老、病、死等心に属せざる者)に対する忍耐を称して法忍と為す。<(佛)
  忍辱(にんにく):梵語羼提kSaantiの訳。又乞叉底に作り、又安忍、或は忍と訳す。六波羅蜜の一、十波羅蜜の一なり。即ち心よく安住して他の侮辱悩害等を堪忍するをいう。「長阿含経巻21戦闘品」に、「われその時に於いて忍辱を修習して行卒暴ならず、常にまたよく忍辱の者を称讃す。もし有智の人、わが道を弘めんと欲せばまさに忍默を修むべし。忿諍を懐くこと勿れ」と云い、「増一阿含経巻44十不善品」に、「忍辱を第一となす、仏は無畏を最なりと説く。以って鬚髪を剃り、他を害するを沙門となさず」と云い、また「仏遺教経」に、「忍の徳たる、持戒苦行も及ぶ能わざる所なり。よく忍を行う者は乃ち名づけて有力の大人となす。もしそれ歓喜して悪罵の独を忍受すること、甘露を飲むが如くなる能わざる者は、入道智慧の人と名づけざるなり」と云えるこれなり。これ他の毀辱を受くるも、忿怨を起して報復を図ることなく、忍默して相諍わざるを忍辱と名づけたるなり。その名義に関しては、「瑜伽師地論巻57」に、「云何が忍辱なる、謂わく三種の行相に由る。まさに知るべし、一に忿怒せず、二に怨を報ぜず、三に悪を懐かず」と云い、「摂大乗論本巻中」に、「よく忿怒怨讐を滅尽し、及びよく自他の安穏に善住するが故に名づけて忍となす」と云い、また「大乗義章巻12」に、「羼提と言うはこれに忍辱と名づく。他人毀を加うるこれを名づけて辱となし、辱に於いてよく安んずるこれを目して忍となす」と云えり。蓋し梵語kSaantiは「耐う」或は「静に保つ」の義なる語根kSamより来たれる女性名詞にして、即ち忍耐または安忍の意なり。凡そ忍は世間出世間並びに大乗小乗等に於いて共に尊ぶべき法となすといえども、就中、大乗にては特にこれを重んじ、六波羅蜜の随一とし、菩薩の修むべき必須の要行となせり。「大智度論巻6」に忍に生忍(等忍)、法忍の二種あることを説き、もし衆生ありて種種に悪を加うるも心瞋恚せず、また種種に恭敬供養するも心に歓喜せず、衆生には初無く、また中後無しと観じて常断の二辺に堕せず、邪見を生ぜざるを生忍と名づけ、甚深の法の中に於いて心に罣礙無きを法忍と名づくと云い、また「同巻14」及び「同巻15」に更にこれを委説し、もし悪口罵詈に遇い、刀杖を加えらるるも、思惟して罪福業の因縁を知り、諸法は畢竟空にして我無く我所無しと了し、力よく報ずることを得るも悪心及び悪口業を起さず。これに依りて忍智牢固なることを得とし、また恭敬供養するもこれを愛せず、瞋罵打害するもこれを瞋らず、婬欲の女人を忍ぶを生忍と名づけ、供養恭敬の法及び瞋悩婬欲の法を忍び、また内の六情に於いて著せず、外の六塵に於いて受けず、よくこの二に於いて分別を作さず、諸法の実相を観じて心信転ぜざるを法忍と名づくと云えり。これ即ち衆生の瞋罵打害に遇うも瞋らず、恭敬供養を受くるも喜ばず、我無く我所無しと了してこれを忍受するを生忍とし、分別執著を離れ、甚深の法の中に於いて安忍するを法忍と名づけたるものにして、般若大乗の説に基づき、忍辱の意義を拡大転釈せしものというべし。また諸経論に忍の功徳利益に関し記述せるもの甚だ多く、「大宝積経巻78」には「忍辱は十力の本、諸仏神通の原なり。無礙智大悲も皆忍を以って本となし、四諦、念、正勤、根、力、覚、道分も皆忍を以って本となす」と云い、「大智度論巻30」に、「忍は一切出家の力となり、よく諸悪を伏し、よく衆中に於いて奇特の事を現す。忍はよく守護して施戒をして毀たざらしめ、忍は大鎧となりて衆兵を加えず、忍は良薬となりてよく悪毒を除き、忍は善勝となり生死の嶮道に於いて安穏にして患なからしめ、忍は大蔵となりて貧に施し、人を善くする無極の大宝なり。忍は大舟となり、よく生死の此岸を渡りて涅槃の彼岸に至り、忍は從瞿(即ち砥石なり)となりてよく諸の徳を瑩明す」と云えるこれなり。また「中阿含経巻17」、「正法念処経巻60」、「大般若経巻366、589」、「大品般若経巻1」、「六度集経巻5」、「大般涅槃経巻下」、「法雲経巻巻1」、「優婆塞戒経巻7」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻6」、「法華経巻4」、「大方広十輪経巻7」、「新華厳経巻58」、「首楞厳経巻上」、「大宝積経巻45」、「大方等大集経巻12、14、50、54」、「菩薩瓔珞本業経巻下」、「四分律巻59」、「集異門足論巻13」、「解脱道論巻8」、「施設論巻5」、「大智度論巻81」、「大乗阿毘達磨雑集論巻12」、「大乗荘厳経論巻8」、「瑜伽師地論巻13、37、92」、「菩薩地持経巻2、6」、「発菩提心論巻上」、「大乗起信論」等に出づ。<(望)
復次等忍在眾生中一切能忍。柔順法忍於深法中忍。此二忍增長。作證得無生忍。最後肉身悉見十方諸佛化現在前於空中坐。是名大忍成就。 復た次ぎに、等忍は、衆生中に在りて、一切を能く忍び、柔順の法忍は、深法中に於いて忍ぶ。此の二忍増長して、証を作し、無生忍を得、最後の肉身に、悉く十方の諸仏化現して、前に在り、空中に坐したもうを見る、是れを大忍成就と名づく。
復た次ぎに、
『等忍』は、
『衆生』中に於いて、
『一切』を、
『忍ぶ!』ことであり、
『柔順』の、
『法忍』は、
『深法』中に於いて、
『一切』を、
『忍ぶ!』ことであるが、
此の、
『二忍』が、
『増長』して、
『証』を、
『得る!』と、
『無生』という!、
『忍』を、
『得る!』ことになり、
『最後』の、
『肉身』に於いて、
悉く、
『十方』の、
諸の、
『仏』が、
『化し!』て、
『前に!』、
『現われ!』、
『空』中に、
『坐していられる!』のを、
『見る!』。
是れが、
『大忍(大いに認める!)』の、
『成就』である!。
  (しょう):梵語adhigamaの訳語、如実に体得するの意、即ち正法に従って修習し以って真理に悟入するをいう。「倶舎論巻25」に、「実の如く四聖諦の理を覚知するが故に名づけて証と為す」と云い、「大乗義章巻9」に、「言う所の証とは乃ちこれ知得の別名なり。実に平等を観じて如に契うを証と名づく」と云い、「勝鬘宝窟巻中末」に、「縁観相応これを目して証と為す。これ則ち内外並びに冥じ、縁観倶に寂す」と云えるこれなり。これ皆真理に契会し悟入するを証と名づけたるなり。また「大乗起信論」に、「また相の取るべきもの有ることなし、離念の境界はただ証とのみ相応するを以っての故なり」と云い、「大乗義章巻9」に、「証を得るの時、諸法の如を証するも、証の外に更に名相の得べきものなし。知んぬ、また何を用って実証を表彰せん。この故に証行は一向に不説なり。良に可説は偏に教に在るを以っての故なり」と云えり。これ証悟の境地は文字語言のよく詮ずる所に非ざるを示すの意なり。また証は理に契会し悟入するの意なるを以って、契証、証契、証会、証悟、証入と熟字し、その境地はただ自己の体験なるの意に依り、己証、内証、或は自内証と云い、能証に約して証智、または証知と云い、修因に対して証得、または証果と云い、教法または教道に対して証法、または証道と云い、その他、修証、教行証等の目あり。<(望)
譬如聲聞法中煖法增長名為頂法頂法增長名為忍法。更無異法增長為異。等忍大忍亦復如是。 譬えば声聞法中に、煖法の増長するを名づけて、頂法と為し、頂法の増長するを名づけて、忍法と為し、更に異法の増長して、異と為る無し。等忍、大忍も、亦復た是の如し。
譬えば、
『声聞法』中の、
『煖法』の、
『増長』した!ものを、
『頂法』といい、
『頂法』の、
『増長』した!ものを、
『忍法』という!が、
更に、
『増長』して!、
『異』と、
『為る!』ような、
『異なる!』、
『法』は、
『無い!』。
『等忍』と、
『大忍』も、
亦復た、
是の通りである。
  煖法(なんぽう):梵語uSma-gataの訳。熱を得るの義。四聖諦の理を得て、熱中するの意。見道以前の位階の名。四善根位の第一。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  頂法(ちょうぼう):梵語muurdhaavasthaaの訳。頂上に位するの義。進退の際に処るの意。見道以前の位階の名。四善根位の第二。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  忍法(にんぽう):梵語kSaanty-avasthaaの訳。忍耐に位するの義。四諦の理を明了に認めるの意。見道以前の位階の名。四善根位の第三。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
復次有二種忍。生忍法忍。 復た次ぎに、二種の忍有り、生忍と法忍となり。
復た次ぎに、
『忍』には、
『二種』有り、
『生忍』と、
『法忍』とである。
生忍名眾生中忍。如恒河沙劫等。眾生種種加惡心不瞋恚。種種恭敬供養心不歡喜。 生忍は、衆生中の忍と名づけ、恒河沙の如き劫等に、衆生、種種に悪心を加うるも、心に瞋恚せず、種種に恭敬、供養するも、心に歓喜せず。
『生忍』は、――
『衆生』中の、
『忍』と、
『称し!』、
『恒河沙』ほどの、
『劫』に、
『等しい!』間
『衆生』が、
種種に、
『悪心』を加えても、
『心』に、
『瞋恚せず!』、
種種に、
『恭敬』し、
『供養』しても、
『心』に、
『歓喜しない!』ことである。
復次觀眾生無初。若有初則無因緣。若有因緣則無初若無初亦應無後。何以故初後相待故。 復た次ぎに、衆生に、初無きを観る。若し初有らば、則ち因縁無けん。若し因縁有らば、則ち初無けん。若し初無ければ、亦た応に後も無かるべし。何を以っての故に、初と後とは相待つが故なり。
復た次ぎに、
『生忍』とは、――
『衆生』には、
『初』が、
『無い!』と、
『観察する!』ことである。
若し、
『初』が有れば、
則ち、
『因縁』は、
『無い!』ことになるが、
若し、
『因縁』が有れば、
則ち、
『初』は、
『無い!』はずである。
若し、
『初』が無ければ、
亦た、
『後』も、
『無い!』はずである。
何故ならば、
『初』と、
『後』とは、
『相(互いに!)』、
『待つ!』からである。
  参考:『大智度論巻31』:『無始空者世間若眾生若法皆無有始。如今生從前世因緣有。前世復從前世有。如是展轉無有眾生始。法亦如是。何以故。若先生後死則不從死故生。生亦無死。若先死後有生則無因無緣。亦不生而有死。以是故。一切法則無有始』、『大智度論巻31(下)』参照。
若無初後中亦應無。如是觀時不墮常斷二邊。用安隱道觀眾生不生邪見。是名生忍。甚深法中心無罣礙是名法忍。 若し、初と後と無くんば、中も亦た応に無かるべし。是の如く観る時には常、断の二辺に堕ちず、安隠の道を用いて、衆生を観れば、邪見を生ぜず。是れを生忍と名づけ、甚深の法中に、心に罣礙無き、是れを法忍と名づく。
若し、
『初』と、
『後』とが、
『無ければ!』、
亦た、
『中』も、
『無い!』はずである。
是のように、
『衆生』には、
『初、後、中』が、
『無い!』と、
『観る!』時、
『常、断』の、
『二見』に、
『堕ちず!』に、
『安隠』の、
『道』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『観察』する!ので、
『邪見』を、
『生じない!』、
是れを、
『生忍』と、
『称し!』、
若し、
『甚深』の、
『法』中に於いて、
『心』に、
『罣礙』が、
『無ければ!』、
是れを、
『法忍』と、
『称する!』。
問曰。何等甚深法。 問うて曰く、何等か、甚深の法なる。
問い、
何のような、
『甚深』の、
『法』ですか?
答曰。如先甚深法忍中說。 答えて曰く、先の甚深の法忍中に説けるが如し。
答え、
例えば、
先の、
『甚深』の、
『法忍』中に、
『説く!』通りである。
  参考:『大智度論巻5』:『【經】度甚深法忍【論】云何甚深法。十二因緣是名甚深法。如佛告阿難。是十二因緣法甚深難解難知。復次依過去未來世生六十二邪見網永離。是名甚深法。如佛語比丘。凡夫無聞若欲讚佛所讚甚小。所謂若讚戒清淨。若讚離諸欲。若能讚是甚深難解難知法。是為實讚佛。是中梵網經應廣說。復次三解脫門。是名甚深法。如佛說般若波羅蜜中諸天讚言。世尊是法甚深。佛言甚深法者空則是義。無作無相則是義。復次解一切諸法相。實不可破不可動。是名甚深法。復次除內心想智力。但定心諸法清淨實相中住。譬如熱氣盛非黃見黃。心想智力故。於諸法轉觀。是名淺法。譬如人眼清淨無熱氣。如實見黃是黃。如是除內心想智力。慧眼清淨見諸法實相。譬如真水精黃物著中則隨作黃色。青赤白色皆隨色變。心亦如是凡夫人內心想智力故。見諸法異相。觀諸法實相非空非不空不有非不有。是法中深入不轉無所罣礙。是名度深法忍。度名得甚深法。具足滿無所礙。得度彼岸。是名為度』
復次甚深法者。於十二因緣中展轉生果。因中非有果亦非無果。從是中出。是名甚深法。 復た次ぎに、甚深の法とは、十二因縁中に於いて、展転として果を生ずるも、因中に果有るに非ず、亦た果無きに非ずして、是の中より出づる、是れを甚深の法と名づく。
復た次ぎに、
『甚深』の、
『法』とは、――
『十二因縁』中に於いては、
『展転(次々)』と、
『果』を、
『生じる!』が、
『因』中に、
『果』は、
『有るのでもなく!』、
『無いのでもない!』。
是の中より、
『出る!』、
『法』を、
『甚深』の、
『法』と、
『称する!』のである。
復次入三解脫門空無相無作。則得涅槃常樂故。是名甚深法。 復た次ぎに、三解脱門の空、無相、無作に入れば、則ち涅槃の常楽を得るが故に、是れを甚深の法と名づく。
復た次ぎに、
『三解脱門』の、
『空』、
『無相』、
『無作』に、
『入る!』者は、
『涅槃』という!、
『常楽』を、
『得る!』が故に、
是れを、
『甚深』の、
『法』と、
『称する!』。
  三解脱門(さんげだつもん):梵語triiNi vimokSa- mukhaaniの訳。解脱に至る門に空、無相、無作の三種の別ありの意。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
  空解脱門(くうげだつもん):梵語zuunyaataa- vimokSa- mukhamの訳。我は空なりの意。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
  無相解脱門(むそうげだつもん):梵語aanimittaM vimokSa- mukhamの訳。無我に男女等の相無しの意。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
  無作解脱門(むさげだつもん):梵語apraNihitaM vimokSa- mukhamの訳。無我に所作、所願無しの意。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
復次觀一切法非空非不空非有相非無相非有作非無作。如是觀中心亦不著。是名甚深法。 復た次ぎに、一切の法は、空に非ず、不空に非ず、有相に非ず、無相に非ず、有作に非ず、無作に非ずと観て、是の如き観中にも、心は亦た著せざる、是れを甚深の法と名づく。
復た次ぎに、
一切の、
『法』は、
『空でもなく、不空でもない!』、
『有相でもなく、無相でもない!』、
『有作でもなく、無作でもない!』と、
『観て!』、
是のような、
『観』中にも、
『心』は、
『著さない!』ならば、
是れを、
『甚深』の、
『法』と、
『称する!』。
如偈說
 因緣生法  是名空相 
 亦名假名  亦名中道 
 若法實有  不應還無 
 今無先有  是名為斷 
 不常不斷  亦不有無 
 心識處滅  言說亦盡
於此深法信心無礙不悔不沒。是名大忍成就
偈に説くが如し、
因縁生の法は、是れを空相と名づく、
亦た仮名と名づけ、亦た中道と名づく。
若し法にして実有ならば、応に無に還るべからず、
今無くして先に有らば、是れを名づけて断と為す。
不常不断にして、亦た有無にあらず、
心識の処滅すれば、言説も亦た尽く。
此の深法に於いて、信心無礙にして悔いず、没せざる、是れを大忍成就と名づく。
『偈』に、
こう説く通りである、――
『因縁』より、
『生じる!』、
『法』は、
是れを、
『空相』とも、
『仮名』とも、
『中道』ともいう。
若し、
『法』が、
『実』に、
『有る!』ならば、
『無』に、
『還るはずがない!』ので、
是れは、
『常』である!。
『法』が、
『今』、
『無くて!』、
『先に!』、
『有る!』とすれば、
是れは、
『断』である!。
『断でもなく!』、
『常でもない!』、
亦た、
『有でもなく!』、
『無でもない!』、
是のような、
『深法』中には、
『心識』の、
『処』が、
『滅して!』、
『言説』も、
亦た、
『尽きる!』。
此の、
『深法』に於いて、
『信心』に、
『礙(さわり)』が、
『無く!』、
『悔ゆることもなく!』、
『没することもない!』、
是れを、
『大忍』の、
『成就』と、
『称する!』。



如実に巧みに度す

【經】如實巧度 如実に巧みに度す。
『如実』に、
『巧みに!』、
『度する!』。
  (ど):梵語paaramitaaの訳。渡す、渡るの意。生死を海に譬え、自ら生死の海を渡り、また人をも渡す、これを度と謂う。また梵語波羅蜜を訳して度と曰えり。生死の海を渡る行法なり。『大智度論巻6下注:波羅蜜』参照。
  波羅蜜(はらみつ):梵語paaramitaa、巴梨語paaramiiの音訳にして、また波羅蜜多、波囉弭多に作り、到彼岸、度彼岸、度無極、度、或は事究竟と訳す。生死の此岸より解脱涅槃の彼岸に到るをいう。その名義に関し、「菩薩内習六波羅蜜経」に、「波羅は生死より得度すと為し、蜜を無極と為す」と云い、「大智度論巻12」に、「波羅は秦に彼岸と言い、蜜は秦に到と言う。(中略)天竺の俗法には凡べて事成辦に造(いた)るを皆到彼岸と言う。(中略)生死を以って此岸と為し、涅槃を彼岸と為す」と云い、「聖仏母般若波羅蜜多九頌精義論巻上」に、「彼岸とは辺際の義、到とは往到なり」と云い、智顗の「仁王護国般若経疏巻1」に、「波羅蜜はここに事究竟と云い、また到彼岸と云う」と云えり。蓋し梵語paaramitaaは、「彼岸」の義なる名詞paaraの業格単数paaramに、「到る」または「在り」の義なる動詞i及び接尾字taa(paaram- i- taa)に代えたるものにして、即ち「彼岸に到達せる状態」または「終了」、「円満」の義を有するなり。また良賁の「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻上」には「梵に波囉弭多と云い、ここには到彼岸と云う。声明論の分句釈に依れば波囉伊(上声)多と云う。伊多と言うは此岸と云うなり。波藍と言うは彼岸と云うなり。極智に乗じ此を離れて彼に到るに由るなり」と云えり。これ恐らくこの語を「彼岸」の義なるpaaramと「此岸」の義なる不変詞idamとの合成語となせるものなるべし。また巴梨語のpaaramiiは、「最上の」または「終極の」の義なる形容詞paramaを女性名詞となせるものにして、この名詞が合成語の末尾に在る時は、語末のiiを短音とし、これに接尾字taaを加えてpaaarami-taaの形を用うるなり。「弥勒菩薩所問経論巻8」には、波羅蜜の語は已到と当到とに通ずとし、「彼岸に到るが故に波羅蜜の義と名づく。また諸仏如来はすでに彼岸に到るを波羅蜜と名づけ、初地の菩薩はその畢竟じて彼岸に到るを以っての故に波羅蜜と名づけ、諸の菩薩は畢竟じて彼岸の行を得るを以って波羅蜜と名づく。この故に如来は経の中に説いて言わく、彼の行に随順するを波羅蜜と名づくと。彼の処は未だ彼岸の義を決定せざるを以っての故なり。この故に如来は無尽意所問経の中に説く、満足して菩薩行を行ずるを波羅蜜の義と名づけ、快く深智満足するを波羅蜜の義と名づくと」と云えり。これ仏は已到、菩薩は当到なることを明せるなり。また「梁訳摂大乗論釈巻9」には到彼岸に三種の別ありとし「一には所修の行に随って究竟して余なきを到彼岸と為す。世間及び二乗もまた所修の行に応ずることあるも、これを修すること尽きざるが故に到彼岸に非ず。二には衆流は海に帰するを極と為すが如く、施等もまた爾り、真如に入るを以って究竟と為す。即ち真如に入るを以って到彼岸と為す。世間及び二乗は施等を修すといえども、よく真如に入ること能わざるが故に到彼岸に非ず。三にはまさに無等の果を得べきを以って到彼岸と為す。更に別の果のこの果に勝るものなく、諸果の中の上たるが故に彼岸と名づく。世間及び二乗は施等を修すといえども、この果を求めざるが故に到彼岸に非ず。菩薩所修の彼岸は皆この三義を具す、故に通じて波羅蜜と称す」と云えり。これ所修の行、所入の理及び所得の果皆究竟なるが故に、即ち波羅蜜と名づくることを設けるものなり。また「解深密経巻4」には波羅蜜と名づくるに、無染著、無顧恋、無罪過、無分別、正迴向の五因縁ありとし、「金光明最勝王経巻4」には、波羅蜜に修習勝利、乃至無所著無所見無患累等の十七義ありと云い、「大宝積経巻53」には、一切所知諸妙善法能到彼岸、乃至於菩薩蔵差別法門正安住義等の二十義ありとし、「同巻115無尽慧菩薩会」には、門示超過一切声聞独覚所行故、乃至転十二種法転故の三十義を挙げたり。また此岸彼岸の義に関し、「大乗義章巻12六波羅蜜義」に二義を出し、「第一にはよく生死の此岸を捨てて究竟涅槃の彼岸に到る。前度の中の果度と相似す。第二にはよく生死涅槃有相の此岸を捨てて平等無相の彼岸に到る。前度の中の自性清浄度とその義相似す。その両義を具するを到彼岸と名づく」と云い、「大品経遊意」には三義を出し「第一は小乗を此岸と為し、大乗を彼岸と為す。何となれば小乗の人の為に委曲に授教するも、未だ広遠に及ばざるを名づけて此岸と為し、大根の人の為に大乗満教を説くを彼岸と名づく。檀波羅蜜を中流と為し、この行の果に至るを名づけて度と為す。(中略)第二双は魔を此岸と為し、仏を彼岸と為す。中流は前の如し。第三双は世間を此岸と為し、涅槃を彼岸と為す。受はこれ生死の河にして、八正華を中流と為すなり。成論師は有相を此岸と為し、無相を彼岸と為し、生死を此岸と為し、涅槃を彼岸と為し、衆惑を此岸と為し、種智を彼岸と為す」と云い、また「大慧度経宗要」には四義を出し、「一には生死の此岸より涅槃の彼岸に到るが故に到彼岸と名づく。(中略)二には有相の此岸より無相の彼岸に到るが故に到彼岸と名づく。(中略)三には未満智の此岸より究竟智の彼岸に到るが故に到彼岸と名づく。(中略)四には有此岸の岸より無彼岸の岸に到り、到る所無きが故に到彼岸と名づく」と云えり。以って諸家の説を見るべし。また諸経論には波羅蜜に六種、十種及び四種等の別あることを説けり。六種とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜にして、主として諸部の般若経にこれを説き、十種とは前の六種に智、願、神力、法の四種を加えたるものにして、「華厳経離世間品」、「金光明最勝王経最浄地陀羅尼品」等に出す所なり。四種とは常楽我淨にして、「勝鬘経顛倒真実章」に、「如来の法身はこれ常波羅蜜、楽波羅蜜、我波羅蜜、浄波羅蜜なり」と云い、「観普賢菩薩行法経」に、「釈迦牟尼を毘盧遮那遍一切処と名づけ、その仏の住処を常寂光と名づく。常波羅蜜所摂成の処、我波羅蜜所安立の処、楽波羅蜜滅受想の処、浄波羅蜜不住身心相の処なり」と云える即ちその説なり。また「賢劫経巻2至巻6」には、六波羅蜜を開いて総じて二千一百の諸度無極ありとなせり。また「大乗菩薩蔵正法経巻38」、「大智度論巻53」、「瑜伽師地論巻49行品」、「梁訳摂大乗論巻中」、「倶舎論巻18」、「金剛仙論巻1」等に出づ。<(望)
【論】有外道法。雖度眾生不如實度。何以故。種種邪見結使殘故 有る外道の法は、衆生を度すと雖も、如実に度せず。何を以っての故に、種種の邪見、結使の残るが故なり。
有る、
『外道』の、
『法』は、
『衆生』を、
『度した!』としても、
『如実』に、
『衆生』を、
『度すことはない!』。
何故ならば、
『度した!』はずの、
『衆生』に、
種種の、
『邪見』や、
『結使』が、
『残る!』からである。
二乘雖有所度。不如所應度。何以故。無一切智方便心薄故。 二乗にも度す所有りと雖も、応に度すべき所の如くにあらず。何を以っての故に、一切智無く、方便心薄きが故なり。
『二乗』にも、
『度す!』所の、
『衆生』が、
『有る!』が、
『度すべき!』所の、
『衆生』のままに、
『度すのではない!』。
何故ならば、
『二乗』は、
『一切智』が、
『無く!』、
『方便』の、
『心』が、
『薄い!』からである。
  :二乗は心が柔軟でなく、方便を以って衆生を度すことを知らぬが故なり。
唯有菩薩能如實巧度。譬如渡師一人以浮囊草筏渡之。一人以方舟而渡。二渡之中相降懸殊。菩薩巧渡眾生亦如是。 唯だ菩薩のみ有りて、能く如実に巧みに度す。譬えば、渡師の一人は、浮嚢草の筏を以って、之を渡り、一人は方舟を以って渡るに、二渡の中相降すこと懸殊なるが如し。菩薩の巧みに衆生を渡すも、亦た是の如し。
唯だ、
『菩薩』ならば、
『如実に!』、
『巧みに!』、
『度す!』ということも、
『有る!』のである。
譬えば、
『渡師(渡河の師))』の、
『一人』は、
『浮嚢草の筏』で、
『渡し!』、
『一人』は、
『方舟』で、
『渡す!』とするならば、
『二人』の、
『渡師』中、
『相手を降す!』ことに於いて、
『差異がある!』が、
『菩薩』が、
『衆生』を、
『度す!』ということも、
亦た、
是の通りなのである。
  浮嚢草(ふのうそう):能く水に浮く草。
  方舟(ほうしゅう):もやい舟。二隻並べて繋いだ舟。舫舟。
  相降(そうごう):あいくだす。降伏させる。
  懸殊(けんしゅ):遙かに違う。非常な差がある。
復次譬如治病苦藥針炙痛而得差。如有妙藥名蘇陀扇陀。病人眼見眾病皆愈。除病雖同優劣法異。 復た次ぎに、譬えば治病の苦薬、針炙の、痛めども差(い)ゆるを得ると、有る妙薬の蘇陀扇陀と名づくるが如きの、病人眼に見れば、衆病皆愈ゆるとは、病を除くこと、同じと雖も、優劣の法を異にするが如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『治病』の、
『苦い薬』や、
『針()』や、
『炙()』の、
『痛い!』けれども、
『差()すことができる!』のと、
『妙薬』の、
『蘇陀扇陀』の、
『病人』が、
『眼』に、
『見た!』だけで、
『衆病』が、
皆、
『癒える!』のとは、
『病』を、
『除く!』ことは、
『同じ!』であるが、
『法』の、
『優、劣』は、
『異なる!』のである。
  苦薬(くやく):にがい薬。
  針炙(しんしゃ):治病のはりときゅう。針灸。他本には針灸の如く見ゆ。
  蘇陀扇陀(そだせんだ):梵名sudhasyandaの音訳にして良薬の名なり。「大智度論巻6」に伝えて、病人眼にこの薬を見れば、各種の疾病即ち痊癒を得と説けり。<(丁)
聲聞菩薩教化度人亦復如是。苦行頭陀初中後夜勤心坐禪。觀苦而得道聲聞教也。 声聞、菩薩の教化、度人も、亦復た是の如し。苦行の頭陀、初中後夜の勤心の坐禅は、苦を観じて道を得る、声聞の教なり。
『声聞』と、
『菩薩』との、
『教化』や、
『度人』も、
亦復た、
是の通りである。
『苦行』の、
『頭陀』や、
『初、中、後夜』に於ける、
『勤心』の、
『坐禅』は、
則ち、
『苦』を観て、
『道』を、
『得る!』ものであり、
『声聞』の、
『教』である。
  頭陀(づだ):梵語dhuuta。振り払われたの義。煩悩を除く行の意。即ち乞食等の比丘の為すべき行をいう。『大智度論巻3上注:頭陀、同巻42下注:頭陀』参照。
觀諸法相無縛無解心得清淨菩薩教也。 諸法の相の無縛、無解を観て、心に清浄を得るは、菩薩の教なり。
諸の、
『法』の、
『相』には、
『縛』も、
『解』も、
『無い!』と、
『観て!』、
『心』に、
『清浄』を、
『得る!』は、
『菩薩』の、
『教』である。
如文殊師利本緣。文殊師利白佛。大德。昔我先世過無量阿僧祇劫。爾時有佛名師子音王。佛及眾生壽十萬億那由他歲。佛以三乘而度眾生。國名千光明。其國中諸樹皆七寶成。樹出無量清淨法音空無相無作不生不滅無所有之音。眾生聞之心解得道。 文殊師利の本縁の如し。文殊師利の仏に白さく、『大徳、昔、我が先世の無量阿僧祇劫を過ぎて、爾の時、仏の師子音王と名づくる有り、仏、及び衆生の寿は十万億那由他歳にして、仏は三乗を以って、衆生を度し、国を千光明と名づく。其の国中の諸樹は、皆、七宝成ぜり。樹より、無量の清浄の法音、空、無相、無作、不生不滅、無所有の音を出し、衆生は、之を聞きて心解け、道を得。
『文殊師利』の、
『本縁』に依れば、
こうである、――
『文殊師利』は、
『仏』に、こう白した、――
大徳!
昔、
わたしの、
『先世』の、
『無量阿僧祇劫』の時、
爾の時、
『師子音王』という、
『仏』が有り、
『仏、及び衆生』の、
『寿』は、
『十万億那由他歳』で、
『仏』は、
『三乗』を以って、
『衆生』を、
『度し!』、
『国』を、
『千光明』と、
『称していました!』、
其の、
『国』中の、
諸の、
『樹(たちき)』は、
皆、
『七宝』で、
『成り!』、
『樹』は、
『無量』の、
『清浄』な、
『法音』や、
『空、無相、無作』、
『不生不滅、無所有』を、
『説く!』、
『法音』を、
『出しており!』、
『衆生』は、
之を、
『聞いて!』、
『心が解け!』、、
『道』を、
『得ることができました!』。
  文殊師利(もんじゅしり):梵名maJjuzriiの訳。又曼殊室利、満祖室哩に作り、略して文殊と称し、意訳して妙徳、妙吉祥、妙楽、法王子等に為し、又文殊師利童真、孺童文殊菩薩、文殊菩薩等と称す。般若経典と関係甚だ深く、或はそれを謂いて已成の仏なりと為す。「首楞厳三昧経巻下」には、「過去久遠劫に龍種上如来、南方平等世界に於いて無上正等覚を成じ、寿四百四十万歳にして涅槃に入る、彼の仏即ち今の文殊師利法王子なり」と云い、或はそれを実在の人物なりと謂いて、「大智度論巻1」に慈氏、妙徳菩薩等は出家の菩薩、観世音菩薩等は他方世界より来たると云い、弥勒に同じくこの土の出家の菩薩と為せるのみならず、「文殊師利般涅槃経」には「この菩薩、舎衛国多羅聚落梵徳婆羅門の家に生まる、生時には屋宅を蓮花の如く化し、その母の右脅由り出生す。後に釈迦牟尼仏の所に至りて出家学道す」と謂えり。この外、また文殊菩薩を説いて諸仏菩薩の父母なる者と為し、一般には文殊師利菩薩と称して、普賢菩薩と同じく釈迦仏の脅侍と為し、分別して仏智、仏慧の別徳を表示す。乗る所の師子は、その猛威を象徴す。文殊菩薩の浄土に関して、経典記載の説法有ること一ならず。「文殊師利仏土厳浄経巻下」、「大宝積経巻60文殊師利授記会」によれば、この菩薩は往昔那由他阿僧祇劫より以来、十八種の大願を発して、仏国を厳浄し、当来に成仏して称するに普現如来と為し、その仏土は南方に在りて、離塵垢心世界、無垢世界、清浄無垢宝寘世界と号すとなせり。「悲華経巻3諸菩薩本授記品」、「法華経巻4提婆達多品」等もまた相同じきが如し。又「新華厳経巻12如来名号品」によれば、東方十仏刹微塵数の世界を過ぎて一金色世界有り、その仏を号して不動智と為すとし、この世界の菩薩は、即ち文殊師利なり。また「文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経」、「阿闍世往経巻上」、「菩薩瓔珞経巻4四諦品」、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経巻1」、「旧華厳経巻29菩薩住処品」等に出づ。<(佛)
  本縁(ほんえん):梵語jaatakaの訳。前世の因縁を云う。通常成仏の因縁を本生と訳し、弟子の縁を本縁と訳す。
  参考:『諸法無行経巻下』:『‥‥爾時佛告文殊師利。汝先世住初發意地。未入如是諸法相時。為起何障礙罪。汝今說之。當來世假名菩薩聞汝所說障礙之罪。當自守護。文殊師利白佛言。唯然世尊。我當自說障礙之罪。惟聞之者當有憂怖。然其能滅業障之罪。亦於一切法中得無礙慧。世尊。過去無量無邊不可思議阿僧祇劫。爾時有佛號師子吼鼓音王如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。其佛壽命十萬億那由他歲。以三乘法而度眾生。國名千光明。其國樹木皆七寶成。其樹皆出如是法音。所謂空音無相音無作音。無生音無所有音無取相音。以是諸法之音令眾生得道。其師子吼鼓音王佛初會說法。九十九億聲聞弟子皆得阿羅漢。諸漏已盡捨諸重擔。逮得己利盡諸有結。以正智得解脫。菩薩眾亦九十九億。皆得無生法忍。能善入種種法門。親近供養若干百千萬億諸佛。亦為若干百千萬億諸佛之所稱歎。能度若干百千萬億無量眾生。能生無量陀羅尼門。能起無量百千萬億三昧門。及餘新發菩薩意者不可稱數。其佛國土無量莊嚴說不可盡。彼佛住世教化已訖入無餘涅槃。滅度之後法住六萬歲。諸樹法音皆不復出。爾時有菩薩比丘名曰喜根。時為法師質直端正。不壞威儀不捨世法。爾時眾生普皆利根樂聞深論。其喜根法師於眾人前。不稱讚少欲知足細行獨處。但教眾人諸法實相。所謂一切法性即貪欲之性。貪欲性即是諸法性。瞋恚性即是諸法性。愚癡性即是諸法性。其喜根法師以是方便教化眾生。眾生所行皆是一相各不相是非。所行之道心無瞋癡。以無瞋礙因緣故疾得法忍。於佛法中決定不壞。世尊。爾時復有比丘法師行菩薩道。名曰勝意。其勝意比丘護持禁戒。得四禪四無色定行十二頭陀。世尊。是勝意比丘有諸弟子。其心輕動樂見他過。世尊。後於一時勝意菩薩入聚落乞食。誤到喜根弟子家。見舍主居士子。即到其所敷座而坐。為居士子。稱讚少欲知足細行。說無利語過。讚歎遠眾樂獨行者。又於居士子前說喜根法師過失。是比丘不實以邪見道教化眾生。是雜行者。說婬欲無障礙瞋恚無障礙愚癡無障礙。一切諸法皆無障礙。是居士子利根得無生法忍。即語勝意比丘大德。汝知貪欲為是何法。勝意言。居士。我知貪欲是煩惱。居士子言。大德。是煩惱為在內在外耶。勝意言。不在內不在外。大德。若貪欲不在內不在外。不在東西南北四維上下十方者即是無生若無生者云何言若垢若淨。爾時勝意比丘瞋恚不喜。從座起去作如是言。是喜根比丘以妄語法多惑眾人。是人以不學入音聲法門故。聞佛音聲則喜。聞外道音聲則瞋。於梵行音聲則喜。於非梵行音聲則瞋。以不學入音聲法門故。於淨音聲則喜。於垢音聲則瞋。以不學入音聲法門故。於聖道音聲則喜。於凡夫音聲則礙。以不學入音聲法門故。於樂音聲則喜。於苦音聲則礙。以不學入音聲法門故。於出家音聲則喜。於在家音聲則礙。以不學入音聲法門故。於出世間音聲則喜。於世間音聲則礙。以不學入音聲法門故。於布施則生利想。於慳則生礙想。以不學佛法故。於持戒則生利想。於毀戒則生礙想。以不學佛法故。是時勝意比丘。出其舍已還到所止。眾僧中見喜根菩薩。語眾人言。是比丘多以虛妄邪見教化眾生。所謂婬欲非障礙瞋恚非障礙愚癡非障礙。一切法非障礙。爾時喜根菩薩作是念。是比丘今者必當起於障礙罪業。我今當為說如是深法。乃至令作修助菩提道法因緣。爾時喜根菩薩於眾僧前。說是諸偈 貪欲是涅槃  恚癡亦如是  ‥‥說是諸偈法時。三萬諸天子得無生法忍。萬八千人漏盡解脫。即時地裂勝意比丘墮大地獄。以是業障罪因緣故。百千億那由他劫。於大地獄受諸苦毒。從地獄出。七十四萬世常被誹謗。若干百千劫乃至不聞佛之名字。自是已後還得值佛。出家學道而無志樂。於六十三萬世常反道入俗。亦以業障餘罪故。於若干百千世諸根闇鈍。世尊。爾時喜根法師於今東方。過十萬億佛土有國名寶莊嚴。於中得阿耨多羅三藐三菩提。號勝曰光明威德王如來應供正遍知。於今現在。其勝意比丘今我身是。‥‥』
時師子音王佛。初會說法九十九億人得阿羅漢道。 時の師子音王仏の初会の説法に、九十九億の人が阿羅漢道を得たり。
その時の、
『師子音王仏』の、
『初会』の、
『説法』では、
『九十九億』の、
『人』が、
『阿羅漢』の、
『道()』を、
『得ました!』。
菩薩眾亦復如是。是諸菩薩一切皆得無生法忍。入種種法門。見無量諸佛。恭敬供養能度無量無數眾生。得無量陀羅尼門。能得無量種種三昧。初發心新入道門菩薩不可稱數。 菩薩衆も、亦復た是の如し。是の諸の菩薩は、一切皆、無生法忍を得て、種種の法門に入り、無量の諸仏に見(まみ)えて、恭敬供養し、能く無量無数の衆生を度し、無量の陀羅尼門を得て、能く無量の種種の三昧を得、初めて発心し、新たに道門に入れる菩薩は、称数すべからず。
『菩薩衆』も、
亦復た、
是のような、
『九十億』の、
『人衆』でしたが、、
是の、
諸の、
『菩薩』は、
一切が、
皆、
『無生法忍』を得て、
種種の、
『法門』に、
『入っており!』、
諸の、
無量の、
『仏』に出会って、
『恭敬』し、
『供養』して、
無量、
無数の、
『衆生』を、
『度すことができ!』、
無量の、
『陀羅尼門』を得て、
無量の、
種種の、
『三昧』を、
『得ることができました!』が、
初めて、
『発心』した!、
『菩薩』や、
新たに、
『道』の、
『門』に、
『入った!』、
『菩薩』の、
『数』は、
『称えられない!』ほどでした。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語anutpattika- dharma- kSaantiの訳。現象の無起を自覚することに基づいて、受容することの義。一切法の不生を認識し、受容すること。『大智度論巻5上注:無生法忍』参照。
是佛土無量莊嚴說不可盡。時佛教化已訖。入無餘涅槃。法住六萬歲。諸樹法音亦不復出。 是の仏土の無量の荘厳は説きて尽くすべからず。時に仏は教化已に訖(おわ)りて、無余涅槃に入りたまえるに、法の住すること六万歳にして、諸樹の法音も、亦た復た出でず。
是の、
『仏』の、
『国土』の、
『荘厳』は、
『説いて!』も、
『尽くすことができません!』。
ある時、
『仏』は、
『教化』を終えて、
『無余涅槃』に、
『入られました!』が、
『法』が、
『世間』に、
『六万歳』、
『住まった!』後には、
もう、
諸の、
『樹』も、
『法音』を、
『出さなくなりました!』。
爾時有二菩薩比丘。一名喜根二名勝意。 爾の時、二菩薩比丘有り、一を喜根と名づけ、二を勝意と名づく。
爾の時、
『二菩薩比丘』が有り、
一を、
『喜根』、
二を、
『勝意』と、
『称しました!』。
是喜根法師。容儀質直不捨世法。亦不分別善惡。 是の喜根法師は、容儀質直にして、世法を捨てず、亦た善悪を分別せず。
是の、
『喜根法師』は、
『容儀』が、
『率直』、
『正直』であり!ながら、
『世間』の、
『法』を、
『捨てず!』、
亦た、
『善、悪』の、
『分別もしませんでした!』。
  容儀(ようぎ):態度、ふるまい。
  質直(しつじき):梵語aarjavaの訳。正直にして率直の義。
喜根弟子聰明樂法好聞深義。其師不讚少欲知足。不讚戒行頭陀。但說諸法實相清淨。語諸弟子一切諸法婬欲相瞋恚相愚癡相。此諸法相即是諸法實相無所罣礙。 喜根の弟子は聡明にして、法を楽しみ、好んで深義を聞く。其の師は、少欲知足を讃ぜず、戒行、頭陀を讃ぜず、但だ諸法の実相の清浄を説き、諸の弟子に語らく、『一切の諸法の婬欲相、瞋恚相、愚癡相、此の諸法の相、即ち是れ諸法の実相にして、罣礙する所無し。』と。
『喜根』の、
『弟子』は、
『聡明』で、
『法』を、
『楽しみ!』、
『深義』を、
『聞く!』ことを、
『好みました!』が、
其の、
『師』は、
『少欲、知足』や、
『戒行、頭陀』を、
『讃じず!』に、
但だ、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『説いて!』、
諸の、
『弟子』に、こう語りました、――
一切の、
諸の、
『法』の、
『婬欲相』、
『瞋恚相』、
『愚癡相』は、
此の、
諸の、
『法』の、
『相』は、
則ち、
諸の、
『法』の、
『実相』であり!、
『道』を、
『罣礙(障礙)』する!所は、
『無い!』のだ、と。
  頭陀(づだ):梵語dhuuta。振り払うの義。修治の意。『大智度論巻6下注:十二頭陀行』参照。
  十二頭陀行(じゅうにづだぎょう):梵語dvaadaza- dhuuta- guNaaHの訳。又十二頭陀、十二頭陀法、十二誓行、十二杜多功徳、頭陀十二法行とも称す。頭陀は振り払うの義にして修治等と訳す。即ち身心を修治して煩悩の塵垢を振り払うの意なり。これに十二種あるをいう。一に在阿蘭若処(梵aaraNyaka)、二に常行乞食(梵yathaa- saMstarika)、三に次第乞食(梵paiNDapaatika)、四に受一食法(梵ekaasanika)、五に節量食(梵naamatika、またはnaamaMtika)、六に中後不得飲漿(梵khalu- pazcaad- bhaktika)、七に著弊納衣(梵paaMzukuulika)、八に但三衣(梵trai- ciivarika)、九に塚間住(梵zmaazaanika)、十に樹下止(梵vRkSa- muulika)、十一に露地坐(梵aabhyavakaazika)、十二に但坐不臥(梵naiSadika)なり。「増一阿含経巻3弟子品」に、「十二頭陀難得の行は、謂わゆる大迦葉比丘これなり」と云い、「十二頭陀経」に、「仏迦葉に告ぐ、阿蘭若の比丘は二著を遠離し、形心清浄にして頭陀法を行ぜよ。この法を行ずる者に十二事あり、一には阿蘭若処に在り、二には常に乞食を行じ、三には次第に乞食し、四には一食法を受け、五には食を節量し、六には中後漿を飲むを得ず、七には弊衲衣を著し、八には但三衣、九には塚間に住し、十には樹下に止まり、十一には露地に坐し、十二には但坐して臥せず」と云えるこれなり。この中、在阿蘭若処とはまた無事処坐、空寂処住とも称す。遠く聚落を逃れて空閑寂静の処に住し、憒鬧を離れ、欲塵を遠離して道を求むるをいう。常行乞食とはまた単に乞食と称す。諸の貪求を離れて他の請を受けず、常に乞食を行じ、食を得れば好悪の念なく、得ざるもまた嫌恨の心を生ぜざるをいう。次第乞食とは家の貧富を択ばず、次第に行歩して食を乞うをいう。受一食法とはまた一坐食、或は一受食とも称す。日にただ一食を受くるを云う。これ数数食すれば一心に道を修するを妨ぐるが故なり。節量食とはまた一揣食、不過食とも称す。即ち一食中に於いてその量を節するをいう。もし意を恣にして飲噉し、腹満ち気張れば道業を妨損するが故なり。中後不得飲漿とはまた過中不飲漿、食後不受非時飲食とも名づく。中食を過ぎて後漿を飲まざるをいう。もしこれを飲まば心に楽著を生じて、一心に善法を修習すること能わざるが故なり。著弊納衣とはまた著糞掃衣、或は持糞衣とも称す。陳旧廃棄の物を拾得し、これを浣濯して衲衣と作し、以って寒露を凌ぐをいう。もし新好の衣を貪らば、則ち多く追求して道行を損するが故なり。但三衣とはただ安陀会、鬱多羅僧、僧伽梨の三衣を持し、多からず少なからざるをいう。塚間住とはまた屍林住、或は死人間住とも名づく。塚間に住して死屍の臭爛狼藉し、または火焼き鳥啄むを見て無常苦空の観を為し、以って三界を厭離するを云う。樹下止とは塚間に於いて得道せざれば、仏の所行の如く樹下に至りて思惟求道するを云う。露地住とはまた空地住、顕路処居住、或は常居適露とも名づく。露地に坐して心を明利ならしめ、以って空定に入るをいう。これ樹下に在ればその蔭涼に愛著し、また雨漏湿冷に、鳥屎身を汗し、或は毒虫の擾せらるることあるが為なり。但坐不臥とはまた常坐不臥、或は単に常坐に作る。常に坐して安臥せざるをいう。もし安臥せば諸の煩悩の賊常にその便を伺うを慮るが故なり。この十二の中、著弊納衣と但三衣の二は衣に関し、常行乞食、次第乞食、受一食法、節量食及び中後不得飲漿の五は食に関し、在阿蘭若処、塚間住、樹下止及び露地坐の四は処に関し、但坐不臥は威儀に関するものにして、各それ等に於いて専心すべしとなすの意なり。ただし頭陀行は諸経論に多く十二と為すも、また十三或は十六等の説あり。「瑜伽師地論巻25」に、「杜陀の功徳は或は十二種、或は十三種あり。乞食の中に於いて分ちて二種と為す、一には随得乞食、二には次第乞食なり。(中略)まさに知るべし、この中、もし乞食に差別性無きに依らばただ十二種あり、もし乞食に差別性あるに依らば便ち十三あり」と云い、また「有部毘奈耶巻18」、「解脱道論巻2頭陀品」等には十三杜陀を挙げ、「大乗義章巻15十二頭陀義分別」には、具に十六頭陀行を細別せり。また南方所伝には多く十三を出せり。また「大品般若経巻14両通品」、「大般若経巻440」、「法集名数経」、「大智度論巻25、68」、「十住毘婆沙論巻16」、「四分律行事鈔巻下三」等に出づ。<(望)
以是方便教諸弟子入一相智。 是の方便を以って、諸の弟子を教えて、一相の智に入れしむ。
是の、
『方便』を以って、
諸の、
『弟子』を教え、
『一相』という!、
『智』に、
『悟入させていました!』。
時諸弟子於諸人中無瞋無悔心不悔故得生忍。得生忍故則得法忍。於實法中不動如山。 時に諸の弟子は、諸人中に於いて、瞋無く、悔無く、心に悔いざるが故に、生忍を得。生忍を得るが故に、則ち法忍を得て、実法中に於いて動かざること山の如し。
その時の、
諸の、
『弟子』は、
諸の、
『人』中に於いて、
『瞋る!』ことも、
『悔いる!』ことも、
『無く!』、
『心』に、
『悔いない!』が故に、
『生忍』を、
『得た!』のであるが、
『生忍』を、
『得た!』が故に、
則ち、
『法忍』を、
『得ている!』ので、
『実』の、
『法』中に於いて、
『山のよう!』に、
『動かせません!』。
勝意法師持戒清淨。行十二頭陀。得四禪四無色定。 勝意法師は、持戒清浄にして、十二頭陀を行じ、四禅、四無色定を得。
『勝意法師』は、
『持戒』して、
『清浄』に、
『十二頭陀』を、
『行い!』、
『四禅』と、
『四無色定』とを、
『得ていました!』。
  四禅(しぜん):梵語catvaari dhyaanaaniの訳語。四種の禅定の義。色界の禅定に四種の別有るの意。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  四無色定(しむしきじょう):梵語catasra aaruupya- samaapattayaHの訳。四種の無色定の意。空無辺処等の四無色を思惟する定を云う。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
勝意諸弟子鈍根。多求分別是淨是不淨。心即動轉。 勝意の諸の弟子は、鈍根にして、多く、『是れは浄なり。』、『是れは不浄なり。』と分別することを求め、心は即ち動転す。
『勝意』の、
諸の、
『弟子』は、
『鈍根』で、
『多く!』が、
『是れは浄である!』とか、
『是れは不浄である!』とか、
『分別する!』ことを、
『追求していた!』ので、
『心』が、
『動転しており!』、
『落ち着きません!』。
勝意異時入聚落中。至喜根弟子家於坐處坐。讚說持戒少欲知足行頭陀行閑處禪寂。訾毀喜根言。是人說法教人入邪見中。是說婬欲瞋恚愚癡無所罣礙相。是雜行人非純清淨。 勝意は、異時に聚落中に入り、喜根の弟子の家に至り、坐処に坐して、持戒、少欲、知足、頭陀を行じ、閑処の禅寂を行ずるを讃じて説き、喜根を呰毀して言わく、『是の人は法を説き、人に教えて、邪見中に入れしむ。是れは婬欲、瞋恚、愚癡には、罣礙する所の相無しと説く。是れは雑行の人にして、純清浄に非ず。』と。
『勝意』は、
有る時、
『聚落』中に入って、
『喜根』の、
『弟子』の、
『家』に、
『至る!』と、
『坐処』に、
『坐して!』、
『持戒』や、
『少欲知足』、
『頭陀を行い!』、
『閑処で禅寂を行う!』ことを、
『讃じて!』、
『説く!』と、
『喜根』を、
『毀呰(非難)』して、
こう言いました、――
是の、
『人』は、
『法』を説き、
『人』に、
『教えて!』、
『邪見』中に、
『入らせている!』。
是れは、
『婬欲、瞋恚、愚癡』には、
『罣礙する!』所の、
『相』が、
『無い!』と、
『説いている!』。
是れは、
『善、不善』を、
『雑えて!』、
『行う!』、
『人である!』が、
『純ら!』、
『清浄』のみを、
『行う!』、
『人ではない!』と。
  異時(いじ):梵語anyatraの訳、別の機会にの義。或いはsamayenaの訳、適当な時にの義。
  閑処(げんじょ):静かな処。
  禅寂(ぜんじゃく):禅定。瞑想中に心を一処に繋けて動じないこと。
  毀呰(きし):梵語avarNaの訳。讃歎(varNa)の否定語。人を讃歎せずして、非難し、悪く言うこと。
是弟子利根得法忍。問勝意言。大德。是婬欲法名何等相。 是の弟子の利根にして、法忍を得たるが、勝意に問うて言わく、『大徳、是の婬欲法を、何等の相とぞ名づくる。』と。
是の、
『喜根』の、
『弟子』は、
『利根』で、
『法忍』を、
『得ていた!』ので、
『勝意』に問うて、こう言いました、――
大徳!
是の、
『婬欲』の、
『法』とは、
何のような、
『相』でしょうか?と。
答言。婬欲是煩惱相。 答えて言わく、『婬欲は、是れ煩悩の相なり。』と。
答えて、こう言いました、――
『婬欲』は、
『煩悩』の、
『相』である!と。
問言。是婬欲煩惱在內耶在外耶。 問うて言わく、『是の婬欲の煩悩は、内に在りや、外に在りや。』と。
問うて、こう言いました、――
是の、
『婬欲』という!、
『煩悩』は、
『内』に、
『在りますか?』、
『外』に、
『在りますか?』と。
答言。是婬欲煩惱不在內不在外。若在內不應待外因緣生。若在外於我無事不應惱我。 答えて言わく、『是の婬欲の煩悩は、内に在らず、外に在らず。若し内に在らば、応に外の因縁の生ずるを待つべからず。若し外に在らば、我れに於いて事無く、応に我れを悩ますべからず。』と。
答えて、こう言いました、――
是の、
『婬欲』という!、
『煩悩』は、
『内』に、
『在るのでもなく!』、
『外』に、
『在るのでもない!』。
若し、
『内』に在れば、
『外』の、
『因縁』の、
『生じる!』のを、
『待つはずがない!』し、
若し、
『外』に在れば、
『わたし!』に於いては、
『事』が、
『無い!』のであるから、
『わたし!』を、
『悩ますはずがない!』と。
居士言。若婬欲非內非外非東西南北四維上下來。遍求實相不可得。是法即不生不滅。若無生滅相。空無所有。云何能作惱。 居士の言わく、『若し婬欲は内に非ず、外に在らず、東西南北、四維上下より来たるに非ず、遍く実相を求めて、得べからざれば、是の法は、即ち不生不滅なり。若し生滅相無ければ、空にして所有無し。云何が、能く悩を作さん。
『居士』は、
こう言った、――
若し、
『婬欲』が、
『内でもなく!』、
『外でもなく!』、
『東西南北』、
『四維上下』より、
『来たのでもなく!』、
遍く、
『実相』を、
『求めて!』、
『得られなければ!』、
是の、
『法』は、
『不生不滅』である。
若し、
『生滅』という!、
『相』が、
『無ければ!』、
『空』であり、
『有する!』所が、
『無い!』はずである。
何故、
『悩み!』と、
『作ることができる!』のですか?
  居士(こじ):梵語gRha-patiの訳。巴梨語gaha-pati、家長、家主、長者の義。亦た財に居し、或は家に居する士の意とす。即ち毘舎種(梵vaizya)の豪富なる者、または家の居して得を蘊む有道の士をいう。蓋し経律中に居士と云うは、即ち四姓の中の毘舎種の豪富なる者を称す。「中阿含巻1水喩経」に、「刹利、梵志、居士、工師」と云い、「長阿含経巻22世本縁品」に、「婆羅門種、居士種、首陀羅種」と云い、「大品般若経巻1」に、「刹利大姓、婆羅門大姓、居士大家」と云い、「放光般若経巻1」に、「尊者家、梵志大姓家、迦羅越家」と云える如き皆その例なり。また「註維摩経巻2」に、「什曰わく、外国には白衣の多財富楽なる者を名づけて居士と為す。肇曰わく、銭を積む一億にして居士の里に入る」と云い、また「五分律巻21」に、「問うて言わく、汝各幾ばくの財ありてか居士たることを得たる。第一人言わく、わが銭十三億あり、第二人言わく、われに十四億あり、第三人言わく、われに十四億あり、また一の無価の摩尼珠あり、第四人言わく、われに二十億あり、また五百の摩尼珠、一の摩尼宝牀あり」と云い、また「妙経文句私志記巻3」に、「居士は即ち毘舎なり、ここに商賈という。謂わくこれ商賈財貨の種姓なり。古にまた翻じて居士と為す。居とは積なり、謂わく財貨を居積する士夫の故なり」と云えるは、また皆毘舎種の豪富なるものを指して居士となすの説なり。然るに「大智度論」等には、別にまた居家有道の士をも称すとせり。即ち彼の「論巻98」に、「居士とは真にこれ居舎の士にして、四姓中の居士に非ず」と云い、また「維摩経義記巻2」に、「居士に二あり、一には広く資産を積み、財に居するの士を名づけて居士と為し、二には家に在りて道を修する居家の道士を名づけて居士と為す」と云えるこれなり。また「十誦律巻6」、「維摩経略疏巻3」、「維摩経文疏巻9」等に出づ。<(望)
勝意聞是語已。其心不悅不能加答。從座而起說如是言。喜根多誑眾人著邪道中。 勝意は、是の語を聞き已りて、其の心悦ばざるも、答えを加うる能わず。座より起ちて、説きて是の如く言えり、『喜根は、多く衆人を誑して、邪道中に著(お)けり。』と。
『勝意』は、
是の、
『語(ことば)』を聞く!と、
其の、
『心』は、
『悦ばなかった!』が、
『答』を、
『加えることができず!』、
『座』を起つ!と、
こう説いて、言った、――
『喜根』は、
『多く!』の、
『衆人』を誑して、
『邪道』中に、
『置いた!』ものだ、と。
是勝意菩薩未學音聲陀羅尼。聞佛所說便歡喜。聞外道語便瞋恚。聞三不善則不歡悅。聞三善則大歡喜。聞說生死則憂聞涅槃則喜。從居士家至林樹間入精舍中。語諸比丘。當知。喜根菩薩是人虛誑多令人入惡邪中。何以故。其言婬恚癡相。及一切諸法皆無礙相。 是の勝意菩薩は、未だ音声陀羅尼を学ばざれば、仏の説きたもう所を聞けば、便(すなわ)ち歓喜し、外道の語を聞けば、便ち瞋恚し、三不善を聞けば、則ち歓悦せず、三善を聞けば、則ち大歓喜し、生死を説くを聞けば、則ち憂え、涅槃を聞けば、則ち喜ぶ。居士の家より、林樹の間に至りて精舎中に入り、諸比丘に語らく、『当に知るべし、喜根菩薩、是の人は虚誑して、多く人をして、悪邪中に入れしむ。何を以っての故に、其れ婬恚癡の相、及び一切の諸法は、皆、無礙の相なりと言えばなり。
是の、
『勝意菩薩』は、
未だ、
『音声陀羅尼』を、
『学んでいなかった!』ので、
『仏』の、
『説かれた!』所を、
『聞けば!』、
『歓喜し!』、
『外道』の、
『語』を、
『聞けば!』、
『瞋恚し!』、
『貪、瞋、癡』という、
『三不善』を、
『聞けば!』、
『歓悦せず!』、
『不貪、不瞋、不癡』という、
『三善』を、
『聞けば!』、
『大歓喜し!』、
『生死』の、
『苦』を、
『説く!』のを、
『聞けば!』、
『憂い!』、
『涅槃』の、
『楽』を、
『説く!』のを、
『聞けば!』、
『喜ぶ!』のでしたが、
『居士の家』より、
『林樹の間』に至り!、
『精舎』中に、
『入る!』と、
諸の、
『比丘』に語って、こう言った、――
知ってください!、――
『喜根菩薩』という!、
是の、
『人』は、
『虚誑(うそをつく)して!』、
『多く!』の、
『人』を、
『悪邪』中に、
『入れています!』。
何故ならば、
其れは、
こう言っているのです、――
『婬、恚、癡の相』、
及び、
一切の、
諸の、
『法』の、
『相』は、
皆、
『無礙(障礙しない!)』の、
『相』である!と。
  音声陀羅尼(おんじょうだらに):梵語陀羅尼(dhaaraNii)は種種の善法を集めて、能く散ぜざらしむる法の意。即ち他人の讃誉、呰毀の語言を聞いても、心に歓喜、瞋恚を生じざる法を云う。
  虚誑(ここう):うそをついてだます。欺誑。
  参考:『長阿含巻8衆集経』:『諸比丘。如來說三正法。謂三不善根。一者貪欲。二者瞋恚。三者愚癡。復有三法。謂三善根。一者不貪。二者不恚。三者不癡。』
是時喜根作是念。此人大瞋為惡業所覆當墮大罪。我今當為說甚深法。雖今無所得。為作後世佛道因緣。 是の時、喜根の是の念を作さく、『此の人は大いに瞋りて、悪業の為に覆われ、当に大罪に墮つべし。我れは今、当に為に甚深の法を説くべし。今得る所無しと雖も、後世の仏道を作す因縁と為らん。』と。
是の時、
『喜根』は、
是の念を作した、――
此の、
『人』は、
『大いに!』、
『瞋っている!』が、
『悪業』に覆われて、
『大罪』に、
『堕ちることになろう!』。
わたしは、
今、
此の、
『人』の為に、
『甚だ深い!』、
『法』を、
『説くことにしよう!』。
『今世』に、
『得る!』所が、
『無い!』としても、
『後世』の、
『仏道』を、
『作す!』、
『因縁』と、
『為るだろう!』と。
是時喜根集僧。一心說偈
 婬欲即是道  恚癡亦如是 
 如此三事中  無量諸佛道 
 若有人分別  婬怒癡及道 
 是人去佛遠  譬如天與地 
 道及婬怒癡  是一法平等 
 若人聞怖畏  去佛道甚遠 
 婬法不生滅  不能令心惱 
 若人計吾我  婬將入惡道 
 見有無法異  是不離有無 
 若知有無等  超勝成佛道
是の時、喜根は僧を集めて、一心に偈を説けり、
婬欲は即ち是れ道なり、恚癡も亦た是の如し、
此の如き三事中に、無量の諸仏の道あり。
若し有る人、婬怒癡及び道を分別せば、
是の人は仏を去ること遠く、譬えば天と地との如し。
道及び婬怒癡は、是れ一法にして平等なりと、
若し人聞きて怖畏せば、仏道を去ること甚だ遠し。
婬法は生滅せざれば、心をして悩ましむ能わず、
若し人吾我を計せば、婬将いて悪道に入れしむ。
有無の法に異を見れば、是れ有無を離れざるも、
若し有無の等しきを知らば、超勝にして仏道を成ぜん。
是の時、
『喜根』は、
『僧』中の、
『衆』を、
『集める!』と、
『一心』に、
『偈』を、こう説きました、――
『婬欲』は、
『道』であり!、
『恚、癡』も、
亦た、
是の通りだ!。
此のような、
『三事』中には、
『無量』の、
『諸仏』の、
『道』がある!。
若し、
有る人が、
『婬、怒、癡』と、
『道』とを、
『分別する!』ならば、
是の人は、
『仏』より、
『遠く!』、
『去り!』、
譬えば、
『天』と、
『地』とのようだ!。
『道』は、
『婬、怒、癡』と、
『一法』であり!、
『平等』である!と、
『人』が、
『聞いて!』、
『怖畏する!』ならば、
『仏』の、
『道』より、
『甚だ遠く!』、
『去ろうとしている!』。
『婬』という!、
『法』は、
『生滅しない!』ので、
『心』を、
『悩ませる!』、
『能力がない!』が、
若し、
『人』が、
『吾我』が、
『有る!』と、
『妄想する!』ならば、
『婬』は、
『人』を将(ひき)いて、
『悪道』に、
『入れる!』だろう。
『有、無』の、
『法』は、
『異なる!』と、
『見る!』ならば、
是れは、
『有、無』を、
『離れていない!』が、
若し、
『有、無』は、
『等しい!』と、
『知る!』ならば、
『超勝(最勝)』となり!、
『仏道』を、
『成じる!』だろう、と。
  計吾我(けごが):我れ有りと妄想するを云う。『大智度論巻6下注:計我』参照。
  計我(けが):梵語aham itiの訳。我れと思うの義。吾我有りと妄想するの意。
  超勝(ちょうしょう):梵語abhy- ud- gataの訳。(名声などが)広まるの義。最勝。
說如是等七十餘偈。時三萬諸天子得無生法忍。萬八千聲聞人。不著一切法故。皆得解脫。 是の如き等の七十余偈を説く。時に三万の諸の天子は、無生法忍を得、万八千の声聞人は、一切法に著せざるが故に、皆、解脱を得。
是のような、
『七十余偈』を、
『説きます!』と、
その時、
『三万』の、
諸の、
『天子』は、
『無生法忍』を、
『得ました!』し、
『一万八千』の、
『声聞人』は、
一切の、
『法』に、
『著さない!』が故に、
皆、
『解脱』を、
『得ました!』。
是時勝意菩薩。身即陷入地獄受無量千萬億歲苦。出生人中七十四萬世常被誹謗。無量劫中不聞佛名。是罪漸薄得聞佛法。出家為道而復捨戒。如是六萬三千世常捨戒。無量世中作沙門。雖不捨戒諸根闇鈍。 是の時、勝意菩薩は、身即ち地獄に陥入して、無量千万億歳の苦を受け、人中に出生して、七十四万世に常に誹謗を被り、無量劫中に仏の名すら聞かざるに、是の罪漸く薄れて仏の法を聞くを得て、道の為に出家するも、復た戒を捨て、是の如く六万三千世に常に戒を捨て、無量世中に沙門と作り、戒を捨てずと雖も、諸根闇鈍なり。
是の時、
『勝意菩薩』の、
『身』は、
『地獄』に、
『陥入』して、
『無量百千万億歳』の、
『苦』を、
『受け!』、
『人』中に、
『出生』して、
『七十四万世』に、
『常に!』、
『誹謗せられ!』、
『無量劫』中に、
『仏』の、
『名』すら、
『聞かず!』、
是の、
『罪』が、
『漸(ようや)く!』、
『薄れて!』、
『仏』の、
『法』を、
『聞くことができます!』と、
『道』の為に、
『出家しました!』が、
やっぱり、
『戒』を、
『捨てまして!』、
是のようにして、
『六万三千世』に、
常に、
『戒』を、
『捨てていました!』が、
『無量世』中に至って、
『沙門』と、
『作る!』と、
もう、
『戒』を、
『捨てません!』が、
諸の、
『根』は、
『闇鈍』のままでした。
  沙門(しゃもん):梵語zramaNa。仏道に出家せる者を云う。『大智度論巻22上注:沙門』参照。
是喜根菩薩於今東方。過十萬億佛土作佛。其土號寶嚴。佛號光踰日明王。 是の喜根菩薩は、今に於いて、東方、十万億の仏土を過ぎて仏と作り、其の土を宝厳と号し、仏を光踰日明王と号す。
是の、
『喜根菩薩』は、
今、
『東方』に、
『十万億』の、
『仏土』を、
『過ぎた!』所で、
『仏』と、
『作り!』、
其の、
『土』を、
『宝厳』といい、
『仏』を、
『光踰日明王』と、
『称します!』。
文殊師利言。爾時勝意比丘我身是也。我觀爾時受是無量苦。 文殊師利の言わく、『爾の時の勝意比丘とは、我が身是れなり。我れ、爾の時の受を観るに、是れ無量の苦なり。』
『文殊師利』は、
こう言った、――
爾の時の、
『勝意比丘』とは、
わたしの、
『身』が、
是れです!。
わたしは、
爾の時の、
『受(苦楽の別)』を、
『観てみます!』と、
是れは、
『無量』の、
『苦』でした!。
文殊師利復白佛。若有人求三乘道。不欲受諸苦者。不應破諸法相而懷瞋恚。 文殊師利の復た仏に白さく、『若し有る人、三乗の道を求めて、諸の苦を受くるを欲せざれば、応に諸法の相を破りて、而も瞋恚を懐くべからず。』と。
『文殊師利』は、
復た、
『仏』に、こう白した、――
若し、
有る人が、
『三乗』の、
『道』を、
『求めながら!』、
諸の、
『苦』を、
『受けたくない!』ならば、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『破りながら!』、
而も、
『空』中に、
『瞋恚』を、
『懐いてはなりません!』と。
佛問文殊師利。汝聞諸偈得何等利。 仏の文殊師利に問いたまわく、『汝は、諸の偈を聞いて、何等の利を得たるや。』と。
『仏』は、
『文殊師利』に、こう問われた、――
お前は、
諸の、
『偈』を、
『聞いた!』が、
何かの、
『利』を、
『得ましたか?』と。
答曰。我聞此偈得畢眾苦。世世得利根智慧。能解深法巧說深義。於諸菩薩中最為第一。如是等名巧說諸法相。是名如實巧度
大智度論卷第六
答えて曰く、『我れは、此の偈を聞きて、衆苦の畢(おわ)るを得、世世に利根の智慧を得て、能く深法を解し、巧みに深義を説きて、諸の菩薩中に於いて、最も第一と為れり。』と。是の如き等を、諸法の相を巧みに説くと名づけ、是れを如実に巧みに度すと名づく。
大智度論巻第六
『文殊師利』は、
こう答えた、――
わたしは、
此の、
『偈』を聞いて、
衆(あまた)の、
『苦』を、
『尽くすことができ!』、
世世に、
『利根』の、
『智慧』を得て、
深く、
『法』を、
『理解し!』、
巧みに、
『深義』を、
『説き!』、
諸の
『菩薩』中に於いて、
最も、
『第一』と、
『為りました!』と。
是れ等を、
『巧みに!』、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『説く!』といい、
是れを、
『如実』に、
『巧みに!』、
『度す!』という。

大智度論巻第六


著者に無断で複製を禁ず。
Copyright(c)2014 AllRightsReserved