如化者。十四變化心。初禪二欲界初禪。二禪三欲界初禪。二禪三禪四欲界初禪二禪三禪。四禪五欲界初禪二禪三禪四禪。 |
化の如しとは、十四変化心なり。初禅の二は、欲界と初禅なり。二禅の三は、欲界、初禅と、二禅なり。三禅の四は、欲界、初禅、二禅と、三禅なり。四禅の五は、欲界、初禅、二禅、三禅と、四禅なり。 |
『化のようだ!』とは、――
『十四』の、
『変化する!』、
『心である!』。
則ち、
『初禅』の、
『二変化心』とは、
『欲界』と、
『初禅』である。
『二禅』の、
『三変化心』とは、
『欲界』、
『初禅』と、
『二禅』である。
『三禅』の、
『四変化心』とは、
『欲界』、
『初禅』、
『二禅』と、
『三禅』である。
『四禅』の、
『五変化心』とは、
『欲界』、
『初禅』、
『二禅』、
『三禅』と、
『四禅』である。
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十四変化心(じゅうしへんげしん):十四種の能変化の心の意。又十四化心とも名づく。即ち神境智証通を得ることに由りて引発せらるる能変化の心に総じて十四種有ることをいう。「倶舎論巻27」に、「神境通の果の能変化心は力能く一切の化事を化生す。これに十四あり、謂わく根本四静慮の生に差別あるに依るが故なり。初静慮に依るに二の化心あり、一に欲界の摂、二に初静慮なり。第二静慮に三の化心あり、二種は前の如し、二静慮を加う。第三に四あり、第四に五あり。謂わく各自と下となり。理の如く思うべし。諸の果の化心は自と上地とに依り、必ず下に依ることなし。下地の定心は上果を生ぜず、勢力劣なるが故なり」と云えるこれなり。これ蓋し四根本静慮を修して神境智証通を得、これを所依として種種の変化の事を化現せんとする時、その能変化の心は各自地と下地とに於いて用あるが故に、初静慮には初静慮と欲界との二に化心、第二静慮には自地と初静慮と欲界との三心、第三静慮には自地と前の三心、第四静慮にはまた自地と前の四心とあり、総じて十四種の化心有ることを説けるものなり。即ち欲界及び初静慮繋に各四、第二静慮繋に三、第三静慮繋に二、第四静慮繋に一あるなり。またこの中、欲界の所変化の事は声を除きてただ色香味触の四なり、色界の所変化の事は、色界には段食無きが故に香味を除き、ただ色と触との二なり。また自身他身を化作するには各自地の能変化の心に依り、異地の心に依らず。もし化語を発せしむるが如きは化主の能変化の心に依り、必ず初静慮の能発語心を以ってこれを発す。またこれ等の能変化心は修得なればただ無記なり。天龍等の能変化心が生得にして善等の三性に通ずるに同じからず。また「大毘婆沙論巻135」には、これ等の所変化の事に皆大種及び所造の色ありとなせり。ただし小乗中にはかくの如く能変化心を十四種となせるも、大乗には四静慮各皆欲界及び四静慮の化を起し得るとし、凡べて二十種の能変化心ありとす。「大乗義章巻15」に、「小乗は上地の度に於いて化を現ずる能わざるを以っての故にただ十四あり。二十と言うは、菩薩は四禅に依りて通を発するに一一皆能く五地の化を為す、謂わゆる欲界乃至四禅の故に二十あり。良に菩薩は神通自在なるを以っての故に能くかくの如し」と云えるその意なり。また「阿毘曇心論巻5」、「雑阿毘曇心論巻7」、「順正理論巻76」等に出づ。<(望) |
参考:『阿毘達磨倶舎論巻27』:『論曰。神境通果能變化心力能化生一切化事。此有十四。謂依根本四靜慮生有差別故。依初靜慮有二化心。一欲界攝。二初靜慮。第二靜慮有三化心。二種如前。加二靜慮。第三有四。第四有五。謂各自下。如理應思諸果化心依自上地必無依下。下地定心不生上果。勢力劣故。第二定等果下地化心對初定等果上地化心由依及行亦得名勝。如得靜慮化心亦然。果與所依俱時得故。諸從靜慮起果化心。此心必無直出觀義。謂從淨定起初化心。此後後心從自類起。此前前念生自類心。最後化心還生淨定。故此從二能生二心。非定果心無記性攝。不還入定有直出義。如從門入還從門出。諸所化事由自地心。無異地化心起餘地化故。化所發言通由自下。謂欲初定化所發言。此言必由自地心起。上化起語由初定心。上地自無起表心故。若一化主起多化身。要化主語時諸化身方語。言音詮表一切皆同故。有伽他作如是說 一化主語時 諸所化皆語 一化主若默 諸所化亦然 此但說餘佛則不爾。佛諸定力最自在故。與所化語容不俱時。言音所詮亦容有別。發語心起化心既無。應無化身。化如何語。由先願力留所化身後起餘心發語表業。故雖化語二心不俱。而依化身亦得發語。非唯化主命現在時能留化身令久時住。亦有令住至命終後。即如尊者大迦葉波留骨瑣身至慈尊世。唯堅實體可得久留。故迦葉波不留肉等。有餘師說。願力留身必無有能令至死後。飲光尊者留骨瑣身。由諸天神持令久住。初習業者由多化心方能化生一所化事。習成滿者由一化心隨欲化生多少化事。如是十四能變化心皆是修得。無記性攝。即是通果無記攝義。餘生得等能變化心通善不善無記性攝。如天龍等能變化心。彼亦能為自他身化。於十色處化九除聲。理實無能化為根者。然所化境不離根故。言化九處亦無有失。天眼耳言為目何義。頌曰 天眼耳謂根 即定地淨色 恒同分無缺 取障細遠等』 |
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是十四變化心。作八種變化。一者能作小乃至微塵。二者能作大乃至滿虛空。三者能作輕乃至如鴻毛。四者能作自在能以大為小以長為短如是種種。五者能有主力。(有大力人無所下故言有主力)六者能遠到。七者能動地。八者隨意所欲盡能得。一身能作多身多身能作一。石壁皆過履水蹈虛手捫日月能轉四大。地作水水作地火作風風作火石作金金作石是變化。 |
是の十四変化心は、八種の変化を作す。一には、能く小と作ること、乃至微塵なり。二には、能く大と作ること、乃至虚空を満たす。三には、能く軽と作ること、乃至鴻毛の如し。四には、能く自在と作る。能く大を以って小と為し、長を以って短と為し、是の如きこと種種なり。五には、能く主力有り(大力有る人に、下る所無きが故に、主力有りと言う)。六には、能く遠く到る。七には、能く地を動かす。八には、意の欲する所に随うて、尽く能く得。一身にして、能く多身と作り、多身にして、能く一と作る。石壁は、皆過ぎ、水を履み、虚を蹈みて、手に日月を捫(な)づ。能く四大を転じて、地を水と作し、水を地と作し、火を風と作し、風を火と作し、石を金と作し、金を石と作す。是れ変化なり。 |
是の、
『十四変化』の、
『心』は、
『八種』に、
『変化する!』、――
一には、
二には、
三には、
四には、
『大きい!』者を、
『小さく!』したり、
『長い!』者を、
『短く!』したり、
是のような、
種種の、
『変化』を、
『自在』に、
『作すことができる!』。
五には、
『君主』の、
『力』を、
『有することができる!』。
六には、
七には、
八には、
『意』の、
『欲する!』所に、
『随い!』、
『尽く!』が、
『可能となる!』。
謂わゆる、
『一身』から、
『多身』と、
『作ることができる!』。
『多身』から、
『一身』と、
『作ることができる!』。
『石』の、
『壁』を、
『通過したり!』、
『水』や、
『虚空』を、
『履んだり!』、
『手』で、
『日月』を、
『撫でることができる!』。
『四大』を、
『転じることができる!』、
謂わゆる、
『地』を、『水』と作し!、
『水』を、『地』と作し!、
『火』を、『風』と作し!、
『風』を、『火』と作し!、
『石』を、『金』と作し!、
『金』を、『石』と作す!。
是れが、
『変化である!』。
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鴻毛(こうもう):水鳥の羽毛。鴻は白鳥、又は大雁の如し。
捫(もん):なでる。撫。とる、つかむ。捉。
主力(しゅりき):梵語vaazin?の訳。君主の力を有する(to have sovereign power)の義。自在力、得、自在力等と訳す。 |
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復有四種。欲界藥物寶物幻術能變化諸物。諸神通人神力故能變化諸物。天龍鬼神輩得生報力故。能變化諸物。色界生報修定力故。能變化諸物。 |
復た四種有り、欲界の薬物、宝物、幻術は能く諸物を変化す。諸の神通人は、神力の故に能く、諸物を変化す。天龍鬼神の輩は、生報の力を得るが故に能く、諸物を変化す。色界の生報の修定の力の故に能く、諸物を変化す。 |
復た、
『四種』の、
『変化』が有り!、
一には、
二には、
諸の、
『神通』の、
『人』は、
『神力』の故に、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
三には、
『天、龍、鬼神の輩』は、
『生報』の、
『力』を、
『得ている!』が故に、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
四には、
『色界』の、
『生報』は、
『修定』の、
『力』の故に、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
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生報(しょうぼう):梵語upapadya-vedaniiyaの訳。生得の受の義。前世の業に起因する生まれながらの報。現法、後報と共に三報の一。『大智度論巻24上注:三報』参照。 |
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如化人無生老病死。無苦無樂異於人生。以是故空無實。一切諸法亦如是皆無生住滅。以是故說諸法如化。 |
化人の生老病死無く、苦無く、楽無きが如きは、人の生に異なる。是を以って、空にして実無し。一切の諸法も、亦た是の如く、皆生住滅無し。是を以っての故に説かく、『諸法は化の如し』と。 |
『化人』には、、
『生、老、病、死』が、
『無く!』、
『苦』や、
『楽』が、
『無い!』ところは、
『人』の、
『生』と、
『異なる!』。
是の故に、
一切の、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
皆、
『生、住、滅』が、
『無い!』ので、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
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復次化生無定物。但以心生便有所作皆無有實。人身亦如是本無所因。但從先世心生今世身。皆無有實。以是故說諸法如化。 |
復た次ぎに、化生に、定物無く、但だ心に生ずるを以って、便ち所作有れば、皆、実有ること無し。人身も、亦た是の如く、本の因たる所無く、但だ、先世の心より生ずる今世の身なれば、皆、実有ること無し。是を以っての故に説かく、『諸法は、化の如し』と。 |
復た次ぎに、
『化』の、
『生』には、
但だ、
『心』の、
『生である!』ことを以って、
便ち、
『作す!』所を、
『有する!』が、
皆、
『実』が、
『無い!』。
『人』の、
『身』も、
亦た、
是のように、
『本』より、
『因となる!』所が、
『無く!』、
但だ、
『先世』の、
『心』より、
『今世』の、
『身』を、
『生じる!』のみで、
皆、
『実』が、
『無い!』。
是の故に、
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如變化心滅則化滅。諸法亦如是因緣滅果亦滅。不自在如化事。雖實空能令眾生生憂苦瞋恚喜樂癡惑。諸法亦如是。雖空無實能令眾生起歡喜瞋恚憂怖等。以是故。說諸法如化。 |
変化心滅すれば、則ち化滅するが如く、諸法も、亦た是の如く、因縁滅すれば、果も亦た滅して、自在ならず。化の事の、実に空なりと雖も、能く衆生をして、憂苦、瞋恚、喜楽、癡惑を生ぜしむるが如く、諸法も、亦た是の如く、空にして、実無しと雖も、能く衆生をして、歓喜、瞋恚、憂怖等を生ぜしむ。是を以っての故に説かく、『諸法は化の如し』と。 |
『変化』の、
『心』が、
『滅する!』と、
則ち、
『化』も、
『滅する!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『因縁』が、
『滅する!』と、
亦た、
『果』も、
『滅する!』ので、
則ち、
『自在でない!』。
『化』の、
『事( 動作)』が、
『実』に、
『空であり!』ながら、
『衆生』をして、
『憂苦、瞋恚、喜楽、癡惑』を、
『生じさせる!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『実』に、
『空であり!』ながら、
『衆生』をして、
『歓喜、瞋恚、憂怖』等を、
『起こさせる!』。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
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復次如變化生法。無初無中無後。諸法亦如是。如變化生時無所從來。滅亦無所去。諸法亦如是。 |
復た次ぎに、変化生の法に初無く、中無く、後無きが如く、諸法も、亦た是の如し。変化の生時に、従って来たる所の無く、滅も、亦た去る所無きが如く、諸法も、亦た是の如し。 |
復た次ぎに、
『変化』の、
『生じる!』、
『法』には、
『初』も、
『中』も、
『後』も、
『無い!』ように、
諸の、
『変化』は、
『生時』に、
『従って来る!』所が、
『無く!』、
『滅時』に、
『去る!』所が、
『無い!』ように、
諸の、
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復次如變化相清淨如虛空無所染著。不為罪福所汚。諸法亦如是。如法性如如。如真際自然常淨。 |
復た次ぎに、変化の相の清浄にして、虚空の如く、染著する所無く、罪福に汚されざるが如く、諸法も、亦た是の如く、如の法性、如の如、如の真際は自然に常に浄なり。 |
復た次ぎに、
『変化』の、
『相』が、
『清浄で!』、
『虚空のよう!』に、
『染著する!』所が、
『無く!』、
『罪』や、
『福』に、
『汚されない!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『如』という、
『法』の、
『性』や、
『如』や、
『真際』は、
『自然であり!』、
『常に!』、
『清浄である!』。
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如(にょ):『大智度論巻6上注:真如』参照。
如如(にょにょ):『大智度論巻6上注:真如』参照。
法性(ほうしょう):梵語dharmataaの訳。法の体性の意、即ち諸法の真実如常なる本性をいう。「雑阿含経巻30」に、「如来出世するも、及び出世せざるも法性は常住なり。彼の如来は自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す」と云えり。これ如来は自ら法性を覚知して等正覚を成ぜられたることを説けるものなり。「大智度論巻32」に、「諸法の如に二種あり、一には各各相、二には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。かくの如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如く、地もし実にこれ堅相ならば、何を以っての故に膠蝋等は火と会する時その自性を捨て、神通あるの人は地に入ること水の如くなるや。また木石を分散すれば則ち堅相を失し、また地を破して以って微塵となし、方を以って塵を破せば終に空に帰してまた堅相を失す。かくの如く推求するに地相は則ち不可得なり。もし不可得ならばそれ実に皆空なり、空は則ちこれ地の実相なり。一切の別相も皆またかくの如し、これを名づけて如となす。法性とは前に各各法空と説くが如き、空に差品有るこれを如となし、同じく一空となすこれを法性となす。この法性にまた二種あり、一には無著の心を用って諸法を分別するに各自ら性あるが故なり、二には無量の法に名づく、謂わゆる諸法の実相なり。(中略)また次ぎに、水の性は下流するが故に、海に会帰して合して一味となるが如く、諸法もまたかくの如く、一切の総相別相は皆法性に帰して同じく一相となる。これを法性と名づく」と云えり。これ諸法に各各相と実相との二種あり、堅等の各各の相はこれを推求するに則ち不可得なり、不可得ならばそれ実に皆空なるが故に、空を諸法の実相となすことを説き、就中、空に差品有るを如と名づけ、総相別相同じく皆一空に帰するを法性と名づくることを明にせるなり。また大智度論の連文に「かくの如きを行じおわりて無量法性の中に入る。法性とは法を涅槃と名づく、不可壊不可戯論の法なり。性を名づけて本分種となす。黄石の中に金の性あり、白石の中に銀の性あり。かくの如く一切世間の法の中に皆涅槃の性あり。諸仏賢聖は智慧方便持戒禅定を以って教化引導してこの涅槃の法性を得しむ。利根の者は即ちこの諸法は皆これ法性なりと知る。譬えば神通の人はよく瓦石を変じて皆金となさしむるが如し。鈍根の者は方便分別してこれを求めて乃ち法性を得。譬えば大冶の石を鼓して然る後金を得るが如し」と云い、また同巻37に、「法性とは諸法の実相なり。身中の無明と諸結使とを除き、清浄の実観を以って諸法の本性を得るを名づけて法性と為す。性は真実に名づく」と云えり。これ即ち法性は黄石中に金の性あるが如く、諸法本然の実性に名づけたるものにして、清浄の実観を以ってまさに乃ち得べきものなるを示したるなり。また「大宝積経巻52般若波羅蜜多品」に法性の相を説き「舎利子、何等をかこれ諸法の実性と為す。舎利子、謂わゆる変異あることなく、増益あることなく、作なく不作なく、住せず根本なし。かくの如き相はこれを法性と名づく。またまた一切処に於ける通照平等、諸平等の中の善住平等、不平等中の善住平等、諸の平等不平等の中に於ける妙善平等、かくの如き等はこれを法性と名づく。また法性とは分別あることなく、所縁あることなく、一切法に於いて決定究竟の体相を証得す。かくの如きを名づけて諸法の実性となす」と云い、また「宝雨経巻9」に菩薩は十種の法性を証得することを説き「菩薩は十種の法を成就して勝義善巧を得。何等をか十と為す。一には無生法性を証得し、二には不滅法性を証得し、三には不壊法性を証得し、四には不入不出法性を証得し、五には超過言語所行法性を証得し、六には無言説法性を証得し、七には離戯論法性を証得し、八には不可説法性を証得し、九には寂静法性を証得し、十には聖者法性を証得す。何を以っての故に、善男子、勝義諦は不生不滅無入無出にして言路を超過し、文字の取るに非ざるが故に、戯論の証に非ざるが故に、言説すべからず、湛然寂静にして諸の聖者の自内の所証なるを以ってなり。善男子、諸の如来もしは出現することあるも、もしは出現せざるも、その勝義の理は常住不壊なるを以ってなり」と云い、「仏地経論巻5」にも十地の菩薩は順次に諸相増上喜愛、乃至修殖無量功徳究竟等の十種の平等法性を証得すと云えり。これ法性は平等平等にして変異増減あることなく、また不生不滅湛然寂静にして言説すべからず、ただ聖者自内証の境地なることを明にするの意なり。また「大般若経巻569法性品」には如来の法性を説き「如来の法性は有情類の蘊界処の中に在り。無始よりこのかた展転相続するも煩悩に染まず、本性清浄なり。諸の心意識は縁起する能わず、余の尋伺等も分別する能わず、邪念思惟は縁慮する能わず。邪念を遠離して無明生ぜず、この故に十二縁起に従わず。説いて無相と名づく。所作の法に非ず、無生、無滅、無辺、無尽にして自相常住なり。(中略)この諸の菩薩はこの二縁に由りて方便善巧して法性を観知するに、かくの如く法性は無量無辺なり。諸の煩悩の隠覆する所となり、生死の流に随って六道に沈没し、長夜に輪転し、有情に随うが故に有情性と名づく」と云えり。これ如来の法性は本性清浄なることを説けるものにして、即ち法性と如来蔵とを同義となせるものなるが如し。「大乗義章巻1如法性実際義」に、「法性と言うは論に言わく実相なり、体は清浄なりといえども煩悩と合するを名づけて不浄となす、煩悩を息除せば本の清浄を得るなり。浄はこれ一切諸法の体性なるが故に法性という」と云い、また「大乗起信論義疏巻上之上」に、「法性と言うはこの真有の自体を法と名づく、恒沙の仏法満足する義なるが故なり。非改を性と名づく、理体常なるが故なり」と云い、「大乗止観法門巻1」に自性清浄心をまた真如、仏性、法身、如来蔵、法界、法性と名づくと云えるは、共に法性を以って如来蔵の義に解せるものというべし。されど一般には法性と如来蔵等とを区別し、法性は広く一切法の実性を指すとなすなり。「大乗起信論義記巻上」に、「衆生数の中に在りては名づけて仏性となし、非衆生数の中に在りては名づけて法性となす」と云える即ちその意なり。また「大品般若経巻21、巻24」、「勝天王般若波羅蜜経巻3」、「円覚経」、「中論巻4観涅槃品」、「大智度論巻28、巻31、巻62、巻67、巻82、巻87、巻89」、「菩薩地持経巻1」、「瑜伽師地論巻45、巻72、巻73」、「成唯識論巻2」、「大般涅槃経集解巻9」、「大乗義章巻中」、「摩訶止観巻1上、巻5下」、「大乗玄論巻3」、「成唯識論述記巻2末、巻9末」等に出づ。<(望)
真如(しんにょ):梵語tathaataa、或はbhuuta- tathataaの訳語にして、真実にして如常なるの意なり。また如如、如実、或は単に如とも名づく。即ち諸法の真実如常の性をいう。「雑阿含経巻12」に、「縁起の法はわが所作に非ず、また余人の作にも非ず。然も彼の如来世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界は常住なり。彼の如来は自らこの法を覚して、等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。謂わゆるこれあるが故に彼あり、これ起こるが故に彼起こる。謂わく無明に縁りて行あり、乃至純大苦聚集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚滅す」と云い、また「同巻21」に、「如来応等正覚の所知所見は、三種の離熾然清浄超出の道を説き、一乗道を以って衆生を浄め、憂苦を離れ苦悩を越えて真如の法を得」と云えり。これ縁起生死の法は仏の所作に非ず、また余人の作にも非ず。法界常住にして変易無きを名づけて真如と称したるなり。また「異部宗輪論」に化他部の本宗同義として九無為の説を挙げ、「無為法に九種あり、一に択滅、二に非択滅、三に虚空、四に不動、五に善法真如、六に不善法真如、七に無記法真如、八に道支真如、九に縁起真如なり」と云い、また「顕揚聖教論巻1」には八無為を説き、「無為とはこれに八種あり、謂わく虚空、非択滅、択滅、不動、想受滅、善法真如、不善法真如、無記法真如なり」と云えり。これ善、不善、無記の三性、及び八正道支並びに生死縁起等の理法が真実にして恒久不変たるを真如と名づけたるなり。また「異部宗輪論」に大衆部等の四部の本宗同義を挙げ、「無為法に九種あり、一に択滅、二に非択滅、三に虚空、四に空無辺処、五に識無辺処、六に無所有処、七に非想非非想処、八に縁起支性、九に聖道支性なり」と云えり。この中、縁起支性は前の縁起真如、聖道支性は即ち道支真如なり。また「解深密経巻3」、「大乗荘厳経論巻12」、「仏地経論巻7」等には七種の真如を説けり。七種とは一に流転真如、二に実相真如、三に了別真如、四に安立真如、五に邪行真如、六に清浄真如、七に正行真如なり。この中、流転真如は縁起流転の無始無終の性をいい、実相真如は一切法人法二無我の性をいい、了別真如は一切行唯識の性をいい、第四以下安立、邪行、清浄、及び正行の四種は順次に苦、集、滅、道の四聖諦を指すなり。就中、初の流転真如は前の化他部等の縁起真如に当り、最後の正行真如はまた即ち彼の道支真如に当たれるを見るべし。七種真如の解釈に関しては両説あり、一説は、実相真如は一切法一味の実性を真如と名づけたるものなるも、流転乃至正行等の六種は、その自体の如く自性を失わざるを名づけて真如となす。即ち縁起流転は大自在等を因とするに非ず、分別と依他との因縁によりて起こるものにして、その理法の真実不虚なるを流転真如と名づけ、乃至八正道等は苦滅の道にして、その理法の真実不虚なるを正行真如と名づくとす。これ「大乗荘厳経論巻12」等に出せる説にして、即ち流転即真如、乃至正行即真如となすの意なり。一説は、流転乃至正行等の六種は、その自体即ち真如と名づくべきに非ず、真如は一味平等の実性を意味するが故に、彼の流転の実性、乃至正行の実性を称して流転真如乃至正行真如と名づくとす。これ「仏地経論巻7」等に出せる説にして、実相真如を除き、他の六種真如を皆依主釈の得名となすの意なり。この中、初説は縁起等の理法の真実恒久なるを真如と名づけたるものにして、上の「雑阿含経」所説の意に合する所ありというべし。また「仏地経論巻7」には真如に二種乃至十種等の多種の別あることを明し「真如は即ちこれ諸法の実性にして無顛倒の性なり。一切法と不一不異にして体は唯一味なるも、相に随って多を分つ。或は二種と説く、謂わく生空無我と法空無我となり。真如は実に空無我の性に非ず、分別を離るるが故に、戯論を絶するが故なり。ただ空無我観を修習し、真如を障うる我我所執を滅するに由りて証得す、故に空無我と名づく。或は三種と説く、謂わく善と不善と無記となり。真如はこれこの三法の真実性なるが故なり。或は四種と説く、謂わく三界繋と不繋となり。真如はこれこの四法の真実性なるが故なり。或は五種と説く、謂わく心真如、広説乃至無為真如(即ち心、心所、色、心不相応、及び無為)なり。またこれ五法の真実性なるが故なり。或は六種と説く、謂わく色真如、広説乃至無為真如なり(色、受、想、行、識、及び無為)、五蘊と無為との真実性なるが故なり。或は七種と説く、一に流転真如、謂わく一切行の無始世来流転の実性なり。(中略)七に正行真如、謂わく諸の有為無漏の善法道諦の実性なり。或は八種と説く、謂わく不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去の八遣相門所顕の真如なり。或は九種と説く、謂わく九品の道に九品の障を除きて顕す所の真如なり。或は十種と説く、謂わく十地に於いて十の無明を除き顕す所の真如にして、即ち十法界なり。摂大乗に広く名相を辯ずるが如し。かくの如く増数して乃至究尽せば、一切の法門は皆これ真如差別の相なり。而も真如の体は一に非ず多に非ず、分別して言説するも皆辯ずること能わず。一切の虚妄顛倒を離るるに由りて仮に真如と名づけ、よく一切の善法の所依となるを仮に法界と名づけ、損減の謗を離るるを仮に実有と名づけ、増益の謗を離るるを仮に空無と名づけ、分析推求するに諸法は虚仮なるも、極めてここに至るも更に度るべからず、ただこれこれのみ真なるを仮に実際と名づけ、これ無分別最勝聖智所証の境界なるを仮に勝義と名づく」と云えり。蓋し部派仏教に於いては、主として縁起もしくは道支等の理法の真実如常なるを名づけて真如と称したるも、解深密経等に至り別に一切法一味の実相真如を説き、これを万有の実性、恒久不変の存在となせるは真如論の一大発展なりというべし。また「成唯識論巻9」には、「この諸法の勝義は亦た即ちこれ真如なり。真は謂わく真実にして虚妄に非ざるを顕し、如は謂わく如常にして変易無きを表す。謂わくこれ真実にして、一切の位に於いて常如にしてその性たり、故に真如という。即ちこれ湛然として虚妄ならざる義なり。亦たの言はこれにまた多名あることを顕す。謂わく法界、及び実際等と名づく。余論の中には義に随って広く釈するが如し。この性は、即ちこれ唯識の実性なり。謂わく唯識の性に略して二種あり、一には虚妄、謂わく遍計所執なり。二には真実、謂わく円成実性なり。虚妄に簡せんが為に実性の言を説く、また二性あり、一には世俗、謂わく依他起なり。二には勝義、謂わく円成実なり。世俗に簡せんが為の故に実性と説く」と云えり。これに依るに実相真如は虚妄分別の法を離れたる人法二無我の性に名づけたるものにして、即ち遍依円三性の中の円成実性を意味するものなるを知るべし。また「大乗起信論」には真如を以って衆生心の実体となし、「一切法は本より已来言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして変異あること無く、破壊すべからず。ただこれ一心なるが故に真如と名づく。一切の言説は仮名にして実無し、ただ妄念に随って不可得なるが故なり。真如の言もまた相あること無し、謂わく言説の極にして、言に因りて言を遣る。この真如の体は遣るべきものあること無し、一切法は尽く皆真なるを以っての故なり。また立つべからず、一切法皆同じく如なるを以っての故なり。まさに知るべし、一切法は説くべからず、故に名づけて真如となす」と云えり。これ真如は離言の法体にして、即ち言説の相を離れ、心縁の相を離れ、ただ根本無分別智の所証なることを明し、かつ真如の語は言に因りて他の言を遮えんが為に立てたるものにして、仮名を執すべからずと為すの意なり。また彼の論に言説に依りて真如を分別するに、如実空、如実不空の二義ありとし、その体妄念を離れて畢竟空なるを如実空とし、自体儼存して無漏の性功徳を具足するを如実不空と名づくと云えり。これ謂う所の依言真如の説なり。また「金光明経」等には如来の法身は真如を以って自性となすことを説き、これを名づけて真如法身と称せり。「合部金光明経巻1三身分別品」に、「云何が菩薩摩訶薩は法身を了別する。一切の諸の煩悩等の障を滅除せんと欲するが為に、一切の諸の善法を具足せんと欲するが為の故に、ただ如如と如如の智とあるを、これを法身と名づく」と云えるこれなり。また「十八空論」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「仏地経論巻6」、「成唯識論巻2」、「梁訳摂大乗論釈巻14」、「大般若経巻296」、「金光明最勝王経巻2」、「仏性論巻4」、「唐訳摂大乗論釈巻9」、「解深密経巻3」、「入楞伽経巻4」、「唐訳摂大乗論釈巻8」、「梁訳摂大乗論巻下」、「成唯識論巻10」等に出づ。<(望)
真際(しんさい):即ち真如実際の略称なり。相対差別の相に断絶し、平等一如の真如法性を呈現する理体なり。「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」に、「諸の法性の即ち真実なるを以っての故に、無来無去、無生無滅にして、真際等の法性に同じく、無二無別なり」と云えるこれなり。<(望)
実際(じっさい):梵語bhuuta-koTiの訳語にして、真実際の意、即ち虚妄を離絶せる境地にして、即ち涅槃の実証をいう。「大品般若経巻25実際品」に、「仏須菩提に告ぐ、菩薩は實際の為の故に般若波羅蜜を行ず。須菩提、實際と衆生際と異ならば、菩薩は般若波羅蜜を行ぜず。須菩提、実際と衆生際と異ならず、ここを以っての故に菩薩摩訶薩は、衆生を利益せんが為の故に般若波羅蜜を行ず。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、実際法を壊せざるを以って衆生を実際の中に立つ」と云い、「大智度論巻32」に、「実際とは法性を以って実と為し、証の故に際と為す。阿羅漢を名づけて実際に住すと為すが如し。(中略)實際は即ちこれ涅槃なり」と云い、また「中論巻4観涅槃品」に、「究竟じて世間と涅槃の実際無生際とを推求するに、平等不可得なるを以って毫釐の差別無し」と云えるこれなり。また「楞伽阿跋多羅宝経巻2」、「金光明最勝王経巻1」、「大智度論巻90」、「大乗義章巻1」等に出づ。<(望) |
参考:『維摩詰所説経巻3』:『爾時世尊問維摩詰。汝欲見如來。為以何等觀如來乎。維摩詰言。如自觀身實相。觀佛亦然。我觀如來。前際不來後際不去今則不住。不觀色不觀色如。不觀色性。不觀受想行識。不觀識如。不觀識性。非四大起。同於虛空。六入無積。眼耳鼻舌身心已過不在三界。三垢已離順三脫門。具足三明與無明等。不一相不異相。不自相不他相。非無相非取相。不此岸不彼岸不中流。而化眾生。觀於寂滅亦不永滅。不此不彼。不以此不以彼。不可以智知。不可以識識。無晦無明無名無相。無強無弱非淨非穢。不在方不離方。非有為非無為。無示無說。不施不慳。不戒不犯。不忍不恚。不進不怠。不定不亂。不智不愚。不誠不欺。不來不去。不出不入。一切言語道斷。非福田非不福田。非應供養非不應供養。非取非捨。非有相非無相。同真際等法性。不可稱不可量。過諸稱量。非大非小。非見非聞非覺非知。離眾結縛。等諸智同眾生。於諸法無分別。一切無失。無濁無惱。無作無起無生無滅。無畏無憂無喜無厭無著。無已有無當有無今有。不可以一切言說分別顯示。世尊。如來身為若此。作如是觀。以斯觀者名為正觀。若他觀者名為邪觀』 |
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譬如閻浮提四大河。一河有五百小河屬。是水種種不淨。入大海水中皆清淨。 |
譬えば閻浮提の四大河は、一河に五百小河の属する有りて、是の水種種に不浄なるも、大海水中に入れば、皆清浄なるが如し。 |
譬えば、
『閻浮提』の、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『種種に!』、
『不浄である!』が、
『如』という、
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四大河(しだいが):閻浮提に在る四個の大河をいう。一に殑伽(梵gaGgaa)、二に信度(梵sindh、またはsindhu)、三に斯多(梵ziita、またはsiitii)、四に縛芻(梵vakSuまたはikSu)なり。「長阿含経巻18閻浮提洲品」に、「阿耨達池の東に恒伽河あり、牛口より出で、五百河を従えて東海に入る。阿耨達池の南に新頭河あり、師子口より出で、五百河を従えて南海に入る。阿耨達池の西に婆叉河あり、馬口より出で、五百河を従えて西海に入る。阿耨達池の北に斯陀河あり、象口より出で、五百河を従えて北海に入る」と云い、「阿毘曇毘婆沙論巻2」に、「また四大河あり、阿耨達池より出でて大海に流趣す。一を恒伽と名づけ、二を辛頭と名づけ、三を博叉と名づけ、四を私陀と名づく。彼の恒伽河は金象の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して東海に流趣す。彼の辛頭河は銀牛の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して南海に流趣す。彼の博叉河は琉璃馬の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して西海に流趣す。彼の私陀河は頗梨師子の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して北海に流趣す。彼の恒伽河に四大河あり、以って眷属と為す、一を夜摩那、二を薩羅由、三を阿夷羅跋提、四を摩醯と名づく。彼の辛頭河にまた四大河あり、以って眷属と為す、一を毘婆奢と名づく、二を伊羅跋提と名づく、三を奢多頭と名づく、四を毘徳多と名づく。彼の博叉河に四大河あり、以って眷属と為す、一を婆那と名づけ、二を毘多羅尼と名づけ、三を朋偖と名づけ、四を究仲婆と名づく。彼の私陀河にもまた四大河あり、以って眷属と為す。一を薩梨と名づけ、二を毘摩と名づけ、三を那提と名づけ、四を毘寿波婆と名づく。この中、ただ広大にして名字ある者を説けり。然るに彼の四河に各五百の眷属あれば、合して二千ありて大海に流趣す」と云えるこれなり。就中、殑伽河は、また兢伽、恒伽、恒迦、強伽、或は恒に作り、生天、天堂来等の異名あり。これ現今のガンヂスGanges河にして、ネパールの西北ガンゴートリGangotri付近にその源を発し、ヂュムナJumna、グムチGumuti、ゴーグラGogra、ソンSon、ガンダクGandak、クシKusi、ヂャムナJamuna等の諸河を併せてベンゴール湾に注ぐ。「阿毘曇毘婆沙論」に眷属して掲ぐる四河の中、夜摩那yamanaaは現今のヂャムナ、薩羅由sarayuはゴーグラ、阿夷羅跋提airaavatii(またはaciravatii)はラプチrapti(上のゴーグラ河の支流、ただしその位置に関しては異説あり)、摩醯maahiiはガンダク河の支流に当れり。次ぎに信度河はまた新頭、辛頭、私頭、信陀等に作り、験と訳す。これ現今のインダスIndus河にして、その源を西蔵の西南隅なるカイラスKailas(梵名kailaasa)山の南に発し、カーブルKabul、パンヂナドPanjnad(梵名paJca-nadii)等の諸河を併せてアラビア海に注ぐ。パンヂナド河の上流は謂わゆる五河Panjab地方にして、ストレヂSutlej、ビァスBias、ラーヴィRavi、チェナーブChenab、及びヂェーラムJhelumの五河あり。「阿毘曇毘婆沙論」に眷属として掲ぐる四河の中、毘婆奢vipaazaaは現今のビァス、伊羅跋提iraatatiiはラーヴィ、奢多頭zatadruはストレヂ、毘徳多bitastaはヂェーラム河に当れり。次ぎに斯多河はまた私多、私陀、斯陀、死陀、悉陀、斯頭、徙多、枲多等に作り、冷と訳す。その位置に関し、チョーマCsoma
de Koros及びデイN.L.Deyは、斯多河は現今のヤクサルテスJaxartes河に想定し、マハーブハーラタmahaabhaarataに斯多河はシャカドヴィーパzakadviipaを貫流すと云うに相符すとなせり。蓋しヤクサルテス河は漢史の謂わゆる薬殺水にして、その源をイシクIssyk湖南の高原に発し、西北阿拉爾Aral海に注ぐ。然るに「大唐西域記巻12」、「玄応音義巻25」、「慧琳音義巻39」等にはまた異説を掲げ、孰れか是なるか詳にせず。次ぎに縛芻河は、また嚩芻、婆輸、婆槎、婆叉、薄叉、薄捜、博叉、和叉等に作り、胸と訳す。これ現今のオキサスOxus河にして、その源をパミール高原の南東に発して西北に向かい、阿拉爾海に射る。漢史の謂わゆる嬀水、または烏滸水これなり。ただし「阿毘曇毘婆沙論」に斯多河、及び縛芻がの眷属として掲ぐる各四河の名は、ヤクサルテス、または葉爾羗、及びオキサス河の何れの支流中にもこれを見いだすを得ず。この四大河の方向及び水源の獣名等に関しては諸経論の記する所互いに異ありて終に詳にせず。またヘディンS.Hedinに依れば、ストレヂ河は象口Langchenkabat、ブラフマプトラ河は師子口Singikabab、カルナリ河は孔雀口Mapchakambaより出づと云えり。蓋しこの四河は、カイラス山付近のマナサロワルManasarowar(梵名maanasa-
sarovara)及びラカスRakasの二湖、またはその付近に水源を有するが故に、前記四大河阿耨達池同一流出の説は、或はこの事実を神話化せしものならん。また「増一阿含経巻21」には、これ等の四大河が海に入れば各本名を失い、ただ海とのみ名づけらるるを、刹利、婆羅門、長者、及び居士種が出家帰仏せば、また本姓無く、ただ沙門釈迦子と呼ばるるに譬え、「大智度論巻59」には、またこれを以って布施等の諸法が般若波羅蜜の中に至れば、皆一相にして差別無きことに喩同せり。また「起世経巻1」、「起世因本経巻1」、「大楼炭経巻1」、「増一阿含経巻21、34、45」、「大毘婆沙論巻2」、「大智度論巻7、59」、「倶舎論巻11」、「倶舎釈論巻8」、「順正理論巻31」、「瑜伽師地論巻2」、「翻梵語巻9」、「玄応音義巻24」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望) |
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問曰。不應言變化事空。何以故。變化心亦從修定得。從此心作種種變化。若人若法是化有因有果云何空。 |
問うて曰く、応に、『変化の事は、空なり』と言うべからず。何を以っての故に、変化の心も、亦た修定より得て、此の心より、種種の変化を作せばなり。若しは人、若しは法の是れ化なれば、因有り、果有り、云何が空ならん。 |
問い、
当然、
こう言うべきではない!――
『変化』の、
『事(作用)』は、
『空である!』と。
何故ならば、
『変化』の、
『心』も、
亦た、
『修定』より、
『得る!』のであり、
此の、
『心』より、
種種の、
『変化』を、
『作す!』からである。
若し、
『人』か、
『法』が、
『化である!』ならば、
是れには、
何うして、
『空だ!』と、
『言う!』のですか?
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答曰。如影中已答。今當更答。此因緣雖有變化果空。 |
答えて曰く、影中の如きに、已に答えたり。今、当に更に答うべし。此の因縁は、有りと雖も、変化の果は空なればなり。 |
答え、
『影』の中などに、
已に、
答えた!が、
今、
更に、
答えるとしよう、――
是の、
『化』の、
『因縁』が、
『有った!』としても、
『変化』という、
『果』が、
『空だ!』からである。
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参考:『大智度論巻6』:『復次如影空無。求實不可得。一切法亦如是空無有實。問曰。影空無有實是事不然。何以故。阿毘曇說。云何名色入。青黃赤白黑縹紫光明影等。及身業三種作色。是名可見色入。汝云何言無。復次實有影有因緣故。因為樹緣為明。是二事合有影生。云何言無。若無影。餘法因緣有者亦皆應無。復次是影色可見。長短大小麤細曲直形動影亦動。是事皆可見。以是故應有。答曰影實空無。汝言阿毘曇中說者。是釋阿毘曇義人所作說。一種法門人不體其意。執以為實。如鞞婆沙中說。微塵至細不可破不可燒。是則常有。復有三世中法。未來中出至現在。從現在入過去。無所失。是則為常。又言諸有為法新新生滅不住。若爾者是則為斷滅相。何以故。先有今無故。如是等種種異說違背佛語。不可以此為證影今異於色法。色法生必有香味觸等。影則不爾是為非有。如瓶二根知眼根身根。影若有亦應二根知。而無是事以是故影非有實物。但是誑眼法。如捉火[火*曹]疾轉成輪非實。影非有物若影是有物。應可破可滅。若形不滅影終不壞。以是故空。復次影屬形不自在故空。雖空而心生眼見。以是故說諸法如影。』 |
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如口言無所有。雖心生口言。不可以心口有故。所言無所有。便是有。若言有第二頭第三手。雖從心口生。不可言有頭有手。 |
口の言に所有無きが如し。心に生じて、口に言うと雖も、心口を以って有りとすべからざるが故に、言う所に所有無けれども、便ち是れ有り。若し、第二の頭、第三の手有りと言わば、心より口に生ずと雖も、『頭有り、手有り』と言うべからず。 |
譬えば、
『口』の、
『言( ことば)』に、
『有する!』所が、
『無い!』のと同じである。
『心』に生じて、
『口』で、
『言った!』としても、
『心』や、
『口』に、
『言』が、
『有る!』からといって、
『言』に、
『有する!』所が、
『有るはずがない!』。
故に、
『言う!』所に、
『有する!』所が、
『無く!』ても、
即ち、
『言』は、
『有る!』のである。
若し、
『第二の頭』や、
『第三の手』が、
『有る!』と、
『言った!』として、
『心』より、
『口』に、
『生じた!』からといって、
『頭』や、
『手』が、
『有る!』と、
『言うべきでない!』。
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便是(べんぜ):即ち。とりもなおさず。 |
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如佛說。觀無生從有生得脫。依無為從有為得脫。雖觀無生法無。而可作因緣。無為亦爾。 |
仏の説きたもうが如し、『無生を観て、有生より脱るるを得、無為に依りて、有為より脱るるを得』と。無生の法に無を観ると雖も、而も因縁と作るべし。無為も亦た爾り。 |
『仏』が、
こう説かれた通りである、――
『無生』の、
『法』を、
『観る!』ことで、
『有生』の、
『法』より、
『解脱できる!』。
『無為』の、
『法』に、
『依る!』ことで、
『有為』の、
『法』より、
『解脱できる!』と。
即ち、
『無生』の、
『法』は、
『無い!』と、
『観る!』のであるが、
而も、
是の、
『無為』も、
亦た、
是の通りである。
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参考:『大智度論巻15』:『無常者。五眾生住滅故無常相。汝何以言常無常皆不實。答曰。聖人有二種語。一者方便語。二者直語。方便語者。為人為因緣故。為人者為眾生說。是常是無常。如對治悉檀中說。若說無常。欲拔眾生三界著樂。佛思惟。以何令眾生得離欲。是故說無常法。如偈說 若觀無生法 於生法得離 若觀無為法 於有為得離』 |
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變化雖空亦能生心因緣。譬如幻焰等九譬喻。雖無能生種種心。 |
変化は、空なりと雖も、能く心に因縁を生ず。譬えば、幻、焔等の九譬喩は、無しと雖も、能く種種の心を生ずるが如し。 |
『変化』は、
『空である!』が、
『心』に、
『因縁』を、
『生じることができる!』。
譬えば、
『幻、焔』等の、
『九譬喩』は、
『無であり!』ながら、
種種の、
『心』を、
『生じられる!』のと同じである。
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復次是化事於六因四緣中求不可得。是中六因四緣不相應故空。 |
復た次ぎに、是の化の事は六因、四縁中に求めて得べからず。是の中に六因、四縁は相応せざるが故に空なり。 |
復た次ぎに、
是の、
『化』の、
『事』を、
『六因、四縁』中に、
『求めても!』、
『得られない!』、
是の中には、
『六因、四縁』が、
『相応しない!』が故に、
『空である!』。
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六因(ろくいん):能作因、俱有因、同類因、相応因、遍行因、異熟因。『大智度論巻2(上)注:六因』、『阿毘達磨倶舎論巻6』参照。
四縁(しえん):因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁。『大智度論巻2(上)注:四縁』、『阿毘達磨倶舎論巻7』参照。 |
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復次空不以不見為空。以其無實用故言空。以是故言諸法如化。 |
復た次ぎに、空は、見えざるを以って、空と為すにあらず。其の実の用無きを以っての故に、『空なり』と言う。是を以っての故に言わく、『諸法は化の如し』と。 |
復た次ぎに、
『空』とは、
『見えない!』ことを以って、
『空だ!』と、
『言うのではない!』。
其の、
『実』の、
『用(働き)』が、
『無い!』ことを以って、
故に、
『空だ!』と、
『言う!』のである。
是の故に、
こう言う、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
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問曰。若諸法十譬喻皆空無異者。何以但以十事為喻。不以山河石壁等為喻。 |
問うて曰く、若し諸法の十譬喩にして、皆空に異なり無くんば、何を以ってか、但だ十事を以って、喩と為し、山河、石壁等を以って、喩と為さざる。 |
問い、
若し、
諸の、
『法』の、
『十』の、
『譬喩』が、
皆、
『空』と、
『異ならない!』ならば、
何故、
但だ、
『十』の、
『事』のみを以って、
『喩とし!』、
『山河』や、
『石壁』等の、
『事』を以って、
『喩としない!』のですか?
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答曰。諸法雖空而有分別。有難解空。有易解空。今以易解空喻難解空。 |
答えて曰く、諸法は、空なりと雖も、分別有り。難解の空有り、易解の空あり。今は、易解の空を以って、難解の空を喩う。 |
答え、
諸の、
『法』は、
『空である!』が、
而も、
『分別(差別)』が、
『有る!』。
謂わゆる、
『難解の空』と、
『易解の空』である。
今は、
『易解の空』を以って、
『難解の空』を、
『喩えた!』のである。
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復次諸法有二種。有心著處有心不著處。以心不著處解心著處。 |
復た次ぎに、諸法には二種有り、心の著する処有り、心の著せざる処有り。心の著せざる処を以って、心の著する処を解く。 |
復た次ぎに、
諸の、
『法』には、
『二種』有り、
謂わゆる、
『心』の、
『著する!』、
『処(法)』と、
『心』の、
『著さない!』、
『処』である。
今は、
『心』の、
『心』の、
『著する!』、
『処』を、
『解説する!』のである。
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問曰。此十譬喻。何以是心不著處。 |
問うて曰く、此の十譬喩は、何を以ってか、是れ心の著せざる処なる。 |
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答曰。是十事不久住易生易滅故。以是故是心不著處。 |
答えて曰く、是の十事は、久住せずして、易生、易滅なるが故なり。是を以っての故に、是れ心の著せざる処なり。 |
答え、
是の、
『十』の、
『事』は、
『久住しない!』ので、
『生じ易く!』、
『滅し易い!』。
是の故に、
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復次有人知十喻誑惑耳目法。不知諸法空故。以此喻諸法。 |
復た次ぎに、有る人は、『十喩は、耳目を誑惑する法なり』と知るも、『諸法は空なり』と知らざるが故に、此を以って、諸法を喩う。 |
復た次ぎに、
有る人は、
『十喩』は、
『耳』や、
『目』を、
『誑惑する!』、
『法だ!』と、
『知っている!』が、
諸の、
『法』が、
『空である!』とは、
『知らない!』が故に、
此の、
『十喩』を以って、
諸の、
『法』を、
『喩える!』のである。
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若有人於十譬喻中。心著不解種種難論以此為有。是十譬喻不為其用。應更為說餘法門。 |
若しは有る人は、十譬喩中に於いて、心著して、解けざれば、種種に難論して、此を以って有と為さば、是の十譬喩は、其の用を為さず。応に、更に為に余の法門を説くべし。 |
若し、
有る人が、
『十』の、
『譬喩』中に、
『心』が、
『著して!』、
『解けなかった!』ならば、
此の、
是の、
『十』の、
『譬喩』は、
其の、
『用』を、
『為さない!』のであるから、
当然、
更に、
余の、
『法門』を、
『説かなければならない!』。
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用(ゆう):動作、起用の意。『大智度論巻6上注:作用』参照。
作用(さゆう):梵語kaaraNa、kaaritra、kriyaa、vyaapaara等の訳。動作、起用の意。また略して用ともいう。乃ち物に具わる働きなり。「大毘婆沙論巻39」に、「法の未来なるは未だ作用あらず、もし現在に至らば便ち作用あり。もし過去に入らば作用すでに息むが故に転変あり」と云い、「倶舎論巻5」に、「生の作用は未来に在り、現在にすでに生ずれば、更に生ぜざるが故なり。諸法生じおわりて正に現在する時、住等の三相の作用まさに起こる。生の用の時に余の三用あるに非ず」と云い、また「成唯識論巻2」に、「有生滅とは、もし法常に非ざればよく作用ありて習気を生長す、乃ちこれ能熏なり。これ無為は前後不変にして生長の用無きが故に、能熏に非ざるを遮す」と云える即ちその例なり。これ作用は、三世有為法の中、ただ現在法にのみ有りて、過去と未来法とには無く、また四相の現在する時、まさに起こるものなることを明し、また無為法は生住異滅の四相を離れ、世の為に宣流せらるるものに非ざるが故に、すべて作用なきことを説けるものなり。また「大乗起信論」、「同義記巻下本」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末、3本」、「同了義灯巻4本」、「倶舎論光記巻5」等に出づ。<(望) |
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問曰。若諸法都空不生不滅。是十譬喻等種種譬喻種種因緣論議。我已悉知為空。若諸法都空不應說是喻。若說是喻是為不空。 |
問うて曰く、若し、諸法は、都べて空にして、不生不滅ならば、是の十の譬喩等の種種の譬喩、種種の因縁の論義は、我れ已に悉く知りて、空と為さん。若し、諸法は、都べて空ならば、応に是の喩を説くべからず。若し是の喩を説かば、是れを不空と為さん。 |
問い、
若し、
諸の、
『法』が、
都べて、
『空であり!』、
『不生不滅だ!』とすれば、
是の、
『十の譬喩』等の、
種種の、
『譬喩』や、
『因縁の論義』を、
わたしは、
已に、
悉く、
『空だ!』と、
『知っている!』。
若し、
諸の、
『法』が、
『都べて!』、
『空だ!』とすれば、
当然、
是の、
『十喩』を、
『説くべきでない!』。
若し、
是の、
『喩』を、
『説く!』のであれば、
是れは、
『空でない!』と、
『言うべきである!』。
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答曰。我說空破諸法有。今所說者若說有先已破。若說無不應難。 |
答え、我れ、空を説きて、諸法の有を破る。今説く所も、若し有りと説かば、先に已に破る。若し無しと説かば、応に難ずべからず。 |
答え、
わたしは、
今の、
『説く!』所も、
若し、
『有る!』と、
『説けば!』、
先に、
已に、
『破っている!』。
若し、
『無い!』と、
『説けば!』
『難じるべきでない!』。
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譬如執事比丘。高聲舉手唱言眾皆寂靜。是為以聲遮聲非求聲也。 |
譬えば、執事の比丘の声を高め、手を挙げて言わく、『衆は、皆、寂静なれ』と。是れを声を以って、声を遮し、声を求めるに非ずと為すが如し。 |
譬えば、
『執事』の、
『比丘』が、
『高声』に、
『手』を、
『挙げて!』、
こう言うのと同じである、――
衆よ!
皆、
『寂静にせよ!』と。
是れは、
『声』を以って、
『声』を、
『遮った!』のであり、
『声』を以って、
『声』を、
『求めたのではない!』。
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執事(しつじ):梵語vaiyaavRtya-karaの訳。僧団内の事務等を委託されて司る者の意。『大智度論巻22上注:執事』参照。 |
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以是故雖說諸法空不生不滅。愍念眾生故。雖說非有也。以是故說諸法如化 |
是を以っての故に、『諸法は空にして、不生不滅なり』と説くと雖も、衆生を愍念するが故にして、説くと雖も有るに非ざるなり。是を以っての故に説かく、『諸法は化の如し』と。 |
是の故に、
諸の、
『法』は、
『空であり!』、
『不生不滅である!』と、
『説いた!』としても、
『衆生』を、
『愍念する!』からであり。
『説いた!』としても、
其の、
『法』が、
『有るわけではない!』。
是の故に、
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