巻第六(上)
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大智度初品中十喩釋論第十一(第六卷)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


幻の如し

【經】解了諸法如幻如焰如水中月如虛空如響如犍闥婆城如夢如影如鏡中像如化 諸の法は幻の如し、焔の如し、水中の月の如し、虚空の如し、響の如し、犍闥婆城の如し、夢の如し、影の如し、鏡中の像の如し、化の如しと解了す。
諸の、
『法』は、
『幻のようである!』、
『焔のようである!』、
『水中の月のようである!』、
『虚空のようである!』、
『響のようである!』、
『犍闥婆城のようである!』、
『夢のようである!』、
『影のようである!』、
『鏡中の像のようである!』、
『化のようである!』と、
『解了(了解)している!』。
  十喩(じゅうゆ):十種の比喩の意。(一)諸法空の理を解せしめんが為に説ける十種の比喩をいう。一に幻(梵maayaa)、二に焔(梵mariici)、三に水中月(梵udaka- candra)、四に虚空(梵aakaaza)、五に響(梵pratizrutkaa)、六に揵闥婆城(梵gandharva- nagara)、七に夢(梵svapna)、八に影(梵pratibhaasa)、九に鏡中像(梵pratibimba)、十に化(梵nirmita)なり。「大品般若経巻1序品」に、「諸法を解了すること幻の如く、焔の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、揵闥婆城の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化の如し」と云えるこれなり。「大智度論巻6」にこれを解するによるに、この中、幻とは、また幻事に作る。即ち幻師が象馬等の種種の物を幻作するに、その実なしといえども而も色の見るべく、声の聞くべきあるをいう。これ諸法は空なりといえども、可見可聞にして錯乱せざるに喩えるなり。焔とは、また陽焔、熱時炎、或は野馬とも名づく、即ち日光の時、風ありて塵を動かすが所以に、曠野の中に野馬の如きを見、若しくは男相、女相の如きものを見るをいう。これ煩悩が諸行の塵を熱して、人をして生死の曠野中に転ぜしむるに喩えたるなり。水中の月とは、また単に水月とも称す。月は実に虚空の中に在りて、ただその影を水中に現ずるをいう。これ実相の月は、如法の性、実際の虚空中に在り、而も凡夫の心の水中には、ただ我、我所の相のみを現ずるに喩えたるなり。虚空とは、ただ名のみありて実なく、可見の法に非ざれども、遠視するが所以に、眼光を転じて縹色を見るをいう。これ諸法は空にして所有なきも、凡夫は無漏の実智慧に遠きが故に、実相を棄てて男女屋舎等の種種の雑物を見るに喩えたるなり。響とは、また響声に作る。深山峡谷の中、若しくは絶澗中に於いて語声、打声等を発すれば、声に従って更に声あるをいう。これ諸法は空にして、ただ誑相のみあるに喩えたるなり。揵闥婆城とは、また尋香城と称す。日初めて出づる時、城門宮殿等に行人の出入するを見るも、日転た高ければ転た滅し、即ち眼に見るべきも、実あることなきをいう。これ無智の人の空なる陰界入中に吾我、及び諸法を見、婬瞋の心を起して四方に狂走し、顛倒懊悩するも、智慧を以って我なく実法なしと知らば、顛倒の欲息むに喩えたるなり。夢とは、また夢境に作る。夢中に於いて実事なきに実ありと謂い、覚めおわりて無なるを知るをいう。これ凡夫は、諸の結使に著するも、道を得れば乃ちその実なきを知るに喩えたるなり。影とは、また光影に作る。光映ずれば則ち現れ、映ぜざれば則ち無きをいう。これ煩悩ありて正見の光を遮せば、我相法相の影現るるに喩えたるなり。鏡中像とは、また鏡像に作る。鏡中の像は、鏡の作すに非ず、面の作すに非ず、鏡に執する者の作すに非ず、また自然の作すに非ず、因縁なきに非ざるをいう。これ諸法の空にして実なく、不生不滅にして凡人の眼を誑惑するに喩えたるなり。化とは、また変化、変化事、或は等変化に作る。諸の神通の人は神力の故に、天龍鬼神の輩は生報の力を得るが故に、また色界の生報は定力を修するが故に、共によく諸物を変化し、また化人の生老病死なく、化生の定物なきが如くなるをいう。これ諸法は、皆空にして生住滅なきに喩えたるなり。「大智度論巻6」には空に難解の空と易解の空とを分別し、今は易解の有空を以って難解の空に喩えたるなりとなし、また前の九喩は、空を説きて諸法の有を破し、後の一喩は、空の不生不滅を以って空を説けるものなりと云えり。蓋しこの十喩は、広く諸の般若に揚ぐる所なるも、その説少しく異同あり。また「光讃般若経巻1」、「大般若経巻1、37、45、401」、「大仏頂首楞厳経巻8」等に出づ。(二)十種の事象を以って人身の空無常なるに喩えたるもの。一に聚沫、二に泡、三に炎、四に芭蕉、五に幻、六に夢、七に影、八に響、九に浮雲、十に電なり。「維摩経巻上方便品」に、「諸の仁者、かくの如きの身は、明智の者の怙まざる所なり。この身は聚沫の撮摩すべからざるが如し、この身は泡の如く久しく立つを得ず、この身は炎の如く渇愛より生じ、この身は芭蕉の如く堅あることなく、この身は幻の如く顛倒より起り、この身は夢の如く虚妄の見たる、この身は影の如く業縁より現じ、この身は響の如く諸の因縁に属し、この身は浮雲の如く須臾に変滅し、この身は電の如く念念住せず」と云えるこれなり。就中、聚沫とは、聚沫の実有るに似たるも、撮摩すれば散じて無に帰するを、人身の有に似たるも縁来たれば毀壊するに喩え、泡とは、渇せる者の陽炎を見て惑うて水となせるを、身を渇愛する者が四大の仮の和合を見て迷うて身と計するに喩え、芭蕉とは、芭蕉のただ皮葉のみありて実なきを、人のただ四大の仮の和合にして実なきに喩え、幻とは、幻を見て人なり等となすを、顛倒して四大を身なりと計するに喩え、夢とは、夢心に由りて夢事を見るも実には夢事なきを、顛倒の心に由りてこの身ありと見るも実に身なきに喩え、影とは、光を遮するが故に影あるを、過去の業縁に由りて現在の身あるに喩え、響とは、響の諸因縁に由りて形声を生ずるを、過去の惑業、及び現在の父母の遺体等の因縁に由りて身あるに喩え、浮雲とは、浮雲の俄に色を異にし、須臾に変散するを、人身が眴息の間に成長し、乃至老病死滅に帰するに喩え、電とは、雲電の無常にして虚偽不真なるを、身の速滅不住に喩えたるなり。また諸の経論にはこの種の比喩を説けるもの少なからず。また「大方等大集経巻47」、「大般若経巻598」、「成実論巻12」、「大宝積経巻128」、「中論巻4」、「心明経」、「旧華厳経巻7」、「長者法志妻経」、「大般若経468」、「大乗入楞伽経巻2、3」、「菩薩善戒経巻6」、「菩薩地持経巻2」、「能断金剛般若波羅蜜多経」、「大般若経巻3、11、48、291、411」等に出づ。<(望)
  揵闥婆城(けんだつばじょう):梵語gandharva- nagaraの訳。又乾闥婆城、健達縛城、巇達縛城等に作り、また略して婆城、乾達城、乾城に作り、意訳して尋香城と為す。意は実体無く、空中に出現せる楼閣、山川、林野を指す。伝うる所は、乾闥婆神(梵gandharva)の空中に化現する所の城郭に係わるが故に乾闥婆城と称し、或は海上、沙漠、及び熱帯の原野中、空気の密度に差異を産出せる時、光線の折射に由り出現せる海市蜃楼を指す。経典は常にこれを以って不実の法を比喩せり。「大智度論巻6」にはこれに就き「眼に見るべきも、実有ること無し、これを揵闥婆城と名づく」と云えり。<(望)
  (け):(一)梵語saadhya(成就、達成の意)の訳。衆生を教導し、それをして転化改変せしむるを指す。即ち普通に謂う所の教誨、勧化(勧入正道)、化導、化益(利益教化)、化度(教化済度)等なり。他人を教化する者を称して、能化と為し、教化を被る者を称して、所化と為し、仏を則ち化主と為す。仏の一定の方式を以ってせず、衆生の機根に随順して教化するを称して、適化無方と為し、また縁に随うて適宜の教導を作すを称して、随縁化物(物は衆生を指す)と作し、漸漸に順にこれに当る方法を以って衆生を教化するを称して、順化と為し、不服の衆生に対して違逆の方法を以って教化するを称して、逆化と為す。「大乗本生心地観経巻3」、「成唯識論巻10」等に出づ。(二)梵語nirmitaの訳。変化、変化所作、化身の義なり。即ち仏、菩薩が身を変じて他の物に化し、その身を以って衆生を教化するをいう。「阿弥陀経」に、「また次ぎに、舎利弗、彼の国には常に種種の奇妙雑色の鳥有り、白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命の鳥、この諸の衆鳥は、昼夜六時に和雅の音を出し、その音は五根五力、七菩提分、八聖道分、かくの如き法を演暢す。その土の衆生、この音を聞きおわりて皆悉く仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。舎利弗、汝、謂うなかれ、この鳥は、実に罪報の所生なりと。所以は何んとなれば、彼の国土には、三悪趣の無ければなり。舎利弗、その仏の国土は、なお三悪道の名すら無し、何に況んや、実有るをや。この諸の衆鳥は、皆これ阿弥陀仏の、法音をして宣流せしめんと欲する、変化の所作なり」と云えるこれなり。<(望)
【論】是十喻為解空法故。 是の十喩は、空法を解せんが為の故なり。
是の、
『十喩』は、
『空』という、
『法』を、
『理解する!』為の故に、
『喩(たと)えた!』。
問曰。若一切諸法空如幻。何以故。諸法有可見可聞可嗅可嘗可觸可識者。若實無所有不應有可見乃至可識。 問うて曰く、若し、一切の諸法は、空にして幻の如きなれば、何を以っての故にか、諸法に可見、可聞、可嗅、可嘗、可触、可識なる者有る。若し実に、所有無くんば、応に可見、乃至可識有るべからず。
問い、
若し、
一切の、
諸の、
『法』が、
『空であり!』、
『幻のよう!』ならば、
何故、
諸の、
『法』は、
『可見、可聞、可嗅、可嘗、可触、可識』の者を、
『有する!』のですか?
若し、
実に、
『法』に、
『有する!』所が、
『無かった!』ならば、
当然、
『可見、乃至可識』の者を、
『有しない!』はずです?
復次若無而妄見者。何以不見聲聞色。若皆一等空無所有。何以有可見不可見者。以諸法空故如一指第一甲無第二甲亦無。何以不見第二甲。獨見第一甲。以是故知。第一甲實有故可見。第二甲實無故不可見。 復た次ぎに、若し、無きを妄見せば、何を以ってか、声を見、色を聞かざる。若し、皆、一等に空にして、所有無くんば、何を以ってか、可見と、不可見の者と有る。諸法の空なるを以っての故に、如(まさ)に一指に第一の甲無く、第二の甲も、亦た無かるべし。何を以ってか、第二の甲のみを見ずして、独り第一の甲のみを見る。是を以っての故に知る、第一の甲は、実に有るが故に可見なるも、第二の甲は実に無きが故に不可見なり。
復た次ぎに、
若し、
『無い!』のに、
『妄見した!』とすれば、
何故、
『声』が、
『見えず!』、
『色』が、
『聞こえない!』のですか?
若し、
皆、
一等に、
『空であり!』、
『有する!』所が、
『無い!』ならば、
何故、
『可見』の、
『空』と、
『不可見』の、
『空』とが、
『有る!』のですか?
諸の、
『法』は、
『空である!』が故に、
当然、
『一指』に、
『第一』の、
『爪』も、
『無く!』、
『第二』の、
『爪』も、
『無いはず!』です。
何故、
『第二』の、
『爪』は、
『見えない!』のに、
『第一』の、
『爪』のみが、
『見える!』のですか?
是の故に、
こう知るはずです、――
『第一』の、
『爪』は、
『実に有る!』が故に、
『見ることができ!』、
『第二』の、
『爪』は、
『実に無い!』が故に、
『見ることができない!』と。
  (にょ):まさに云々すべし。当。
  (こう):手足の爪。
答曰。諸法相雖空。亦有分別可見不可見。 答えて曰く、諸法の相は、空なりと雖も、亦た可見と、不可見とを分別すること有り。
答え、
諸の、
『法』の、
『相』は、
『空である!』が、
亦た、
『可見』、
『不可見』の、
『分別(差別)』を、
『有する!』。
譬如幻化象馬及種種諸物。雖知無實。然色可見聲可聞。與六情相對不相錯亂。諸法亦如是。雖空而可見可聞不相錯亂。 譬えば、幻化の象馬、及び種種の諸物は、実無きを知ると言えども、然も色の可見と、声の可聞とは、六情と相対して、相錯乱せず。諸法も亦た是の如く、空なりと雖も、可見、可聞にして、相錯乱せず。
譬えば、
『幻』や、
『化』の、
『象、馬、及び種種の諸物』に、
『実』が、
『無い!』と、
『知った!』としても、
然し、
『幻』や、
『化』中の、
『色』の、
『可見』や、
『声』の、
『可聞』は、
『六情(六根)』と、
『相対する!』ので、
『互いに!』、
『錯乱しない!』。
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『空であり!』ながら、
『可見』や、
『可聞』であっても、
『互いに!』、
『錯乱しない!』のである。
  六情(ろくじょう):旧訳の経に多く六根を謂いて六情と曰えるは、根に情識有るを以っての故なり。是れ意の一にして当体の名と為すは、意根を以って心法と為すが故なり。他の五者は、情識を生ずるが故に所生の果に従って而も名づけて情と為す。「金光明経巻5」に、「心の六情に処するは、鳥に網を投ずるが如く、其の心の在在すること、常に諸根に処して、諸塵に随逐す」と云い、「普賢観経」に、「懺悔六情根」と云い、「大智度論巻40」に、「眼等の六情を名づけて内身と為し、色等の五塵を名づけて外心と為す」と云える是れなり。<(丁)
  参考:『金光明経巻1』:『是身虛偽 猶如空聚 六入村落 結賊所止 一切自住 各不相知 眼根受色 耳分別聲 鼻嗅諸香 舌嗜於味 所有身根 貪受諸觸 意根分別 一切諸法 六情諸根 各各自緣 諸塵境界 不行他緣 心如幻化 馳騁六情 而常妄想 分別諸法 猶如世人 馳走空聚 六賊所害 愚不知避 心常依止 六根境界 各各自知 所伺之處 隨行色聲 香味觸法 心處六情 如鳥投網 其心在在 常處諸根 隨逐諸塵 無有暫捨 身空虛偽 不可長養 無有諍訟 亦無正主 從諸因緣 和合而有 無有堅實 妄想故起 業力機關 假為空聚 地水火風 合集成立 隨時增減 共相殘害 猶如四蛇 同處一篋 四大蚖蛇‥‥』
如德女經說。德女白佛言。世尊。如無明內有不。佛言不。 『徳女経』に説くが如し、徳女の仏に白して言さく、『世尊、無明の如き、内に有りや、不や』と。仏の言わく、『不なり』と。
例えば、
『徳女経』には、
こう説いている、――
『徳女』は、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
『無明』とやらは、
『内』に、
『有る!』のでしょうか?と。
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうではない!と。
  参考:『有徳女所問大乗経』:『爾時有德婆羅門女。心生歡喜。益加恭敬。即白佛言。世尊。我聞如來於波羅奈仙人住處施鹿林中。轉妙法輪。未知世尊所轉法輪說於何法。佛告之言。有德女。我轉法輪。說無明緣行。行緣識。識緣名色。名色緣六處。六處緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死憂悲苦惱。無明滅則行滅。行滅則識滅。識滅則名色滅。名色滅則六處滅。六處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦惱滅。有德女。此是如來於波羅奈仙人住處施鹿林中所轉法輪。一切世間。若沙門。若婆羅門。若天魔梵。悉無有能如法轉者。爾時有德婆羅門女白佛言。世尊。所言無明為內有耶。為外有乎。佛言不也。有德女言。世尊。若於內外無有無明。云何得有無明緣行。復次世尊。有他世法。而來至於今世以不。佛言不也。有德女復白佛言。世尊。無明行相是實有耶。佛言不也。無明自性從於虛妄分別而生。非真實生。從顛倒生。非如理生。有德女復白佛言。世尊。若如是者則無無明。云何得有諸行生起。於生死中受諸苦報。世尊。如樹無根則無枝葉華果等物。如是無明無自性故。行等生起定不可得。佛言。有德女。一切諸法皆畢竟空。凡愚迷倒不聞空義。設得聞之無智不了。由此具造種種諸業。既有眾業諸有則生。於諸有中備受眾苦。第一義諦無有諸業。亦無諸有而從業生及以種種眾苦惱事。有德女。如來應正等覺。隨順世間。廣為眾生演說諸法。欲令悟解第一義故。有德女。第一義者。亦隨世間而立名字。何以故。實義之中能覺所覺。一切皆悉不可得故。有德女。譬如諸佛化作於人。此所化人。復更化作種種諸物。其所化人虛誑不實。所化之物亦無實事。此亦如是。所造諸業虛誑不實。從業有生亦無實事。爾時有德女復白佛言。世尊。如我解佛所說之義。今者如來所轉法輪。是虛空法輪。性空法輪。出離法輪。通達法輪。不思議法輪。無能轉者法輪。無等法輪。如實法輪。無生法輪。無自性法輪。無相法輪。世尊。如此法輪如來已轉。作是語已。即以兩手捧栴檀香末。散佛足上而作是言。世尊。願我以此善根之力。於當來世。能轉如是種種法輪』
外有不。佛言不。 外に有りや不や。仏の言わく、『不なり』と。
『外』に、
『有る!』のでしょうか?。
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうではない!と。
內外有不。佛言不。 内外に有りや不や。仏の言わく、『不なり』と。
『内外』に、
『有る!』のでしょうか?。
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうではない!と。
世尊。是無明從先世來不。佛言不。 世尊、是の無明は、先世より来たりや不や。仏の言わく、『不なり』と。
世尊!
是の、
『無明』は、
『先世』より、
『来た!』のでしょうか?。
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうではない!と。
從此世至後世不。佛言不。 此の世より、後世に至るや不や。仏の言わく、『不なり』と。
『此の世』より、
『後の世』に、
『至る!』でしょうか?。
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうではない!と。
是無明有生者滅者不。佛言不。 是の無明に、生者、滅者有りや不や。仏の言わく、『不なり』と。
是の、
『無明』には、
『生者』や、
『滅者』が、
『有る!』のでしょうか?。
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうでない!と。
有一法定實性是名無明不。佛言不。 有る一法の定実の性、是れを無明と名づくるや不や。仏の言わく、『不なり』と。
有る、
『一法』の、
『定実(真実)』の、
『性』は、
是れを、
『無明』と、
『呼ぶ!』のでしょうか?
『仏』は、
こう言われた、――
いや、そうではない!と。
爾時德女復白佛言。若無明無內無外亦無內外。不從先世至今世今世至後世。亦無真實性者。云何從無明緣行。乃至眾苦集。 爾の時、徳女の復た仏に白して言さく、『若し、無明は、内に無く、外に無く、亦た内外に無く、先世より今世に至りて、今世より後世に至らず、亦た真実の性も無くんば、云何が無明の行を縁ずるより、乃至衆苦集まる。
爾の時、
『徳女』は、復た、
『仏』に白して、こう言った、――
若し、
『無明』が、
『内』にも、
『外』にも、
『内外』にも、
『無く!』、
『先世』より、
『今世』に、
『至らず!』、
『今世』より、
『後世』に、
『至らず!』、
亦た、
『真実』の、
『性』も、
『無い!』とすれば、
何のようにして、
『無明』は、
『行』を、
『縁じる!』より、
乃至、
『衆(あまた)』の、
『苦』が、
『集まる!』のでしょうか?
世尊。譬如有樹若無根者。云何得生莖節枝葉華果。 世尊、譬えば、有る樹(たちき)に、若し根無くんば、云何が、茎節、枝葉、華果を生ずるを得ん』と。
世尊!
譬えば、
『樹(たちき)』に、
若し、
『根』が、
『無かった!』ならば、
何のようにして、
『茎節、枝葉、華果』を、
『生じられる!』のでしょうか?と。
佛言諸法相雖空。凡夫無聞無智故。而於中生種種煩惱。煩惱因緣作身口意業。業因緣作後身。身因緣受苦受樂。 仏の言わく、『諸法の相は、空なりと雖も、凡夫は無聞、無智なるが故に、中に於いて種種の煩悩を生じ、煩悩は、身口意業を作す因縁となり、業は、後身を作す因縁となり、身は、苦を受け、楽を受くる因縁となる。
『仏』は、
こう言われた、――
諸の、
『法』の、
『相』は、
『空である!』が、
『凡夫』は、
『無聞、無智である!』が故に、
是の、
『法』の中に、
種種の、
『煩悩』を、
『生じる!』のであるが、
『煩悩』は、
『身、口、意の業』を、
『作る!』、
『因縁であり!』、
『業』は、
『後の身』を、
『作る!』、
『因縁であり!』、
『身』は、
『苦、楽』を、
『受ける!』、
『因縁である!』。
是中無有實作煩惱。亦無身口意業。亦無有受苦樂者。 是の中には実に煩悩を作る有ること無く、亦た身口意の業無く、亦た苦楽を受くる者有ること無し。
是の中には、
『実』に、
『煩悩』を、
『作る!』者は、
『無く!』、
亦た、
『身、口、意』の、
『業』も、
『無く!』、
亦た、
『苦、楽』を、
『受ける!』者も、
『無い!』。
譬如幻師幻作種種事。於汝意云何。是幻所作內有不。答言不。 譬えば、幻師の幻の、種種の事を作すが如し。汝の意に於いて云何。是の幻の所作は内に有りや不や。答えて言わく、『不なり』と。
譬えば、
『幻師』の、
『幻』は、
種種の、
『事(仕事)』を、
『作す!』が、
あなたの、
『意(きもち)』では、
何うか?
是の、
『幻』の、
『作す!』所は、
『幻』の、
『内』に、
『有る!』のか?。
答えて、
こう言った、――
いいえ、そうではありません!と。
外有不。答言不。 外に有りや不や。答えて言わく、『不なり』と。
『外』に、
『有る!』のか?。
答えて、
こう言った、――
いいえ、そうではありません!と。
內外有不。答言不。 内外に有りや不や。答えて言わく、『不なり』と。
『内外』に、
『有る!』のか?。
答えて、
こう言った、――
いいえ、そうではありません!と。
從先世至今世今世至後世不。答言不。 先世より今世に至り、今世より後世に至るや不や。答えて言わく、『不なり』と。
『先世』より、
『今世』に、
『至り!』、
『今世』より、
『後世』に、
『至る!』のか?。
答えて、
こう言った、――
いいえ、そうではありません!と。
幻所作有生者滅者不。答言不。 幻の作す所に、生者、滅者有りや不や。答えて言わく、『不なり』と。
『幻』の、
『作す!』所には、
『生者』や、
『滅者』が、
『有る!』のか?。
答えて、
こう言った、――
いいえ、そうではありません!と。
實有一法是幻所作不。答言不。 実に、一法有りて、是れ幻の作す所なりや不や。答えて言わく、『不なり』と。
『実』に、
『一法』が、
『有った!』として、
是れは、
『幻』の、
『作す!』所だろうか?
答えて、
こう言った、――
いいえ、そうではありません!と。
佛言汝頗見頗聞幻所作妓樂不。答言。我亦聞亦見。 仏の言わく、『汝は、幻の作す所の妓楽を頗る見、頗る聞くや不や』と。答えて言わく、『我れは、亦た聞き、亦た見る』と。
『仏』は、
こう言われた、――
あなたは、
『幻』の、
『作す!』所の、
『妓楽』を、
しばしば、
『見たり!』、
『聞いたり!』するのか?と。
答えて、
こう言った、――
わたしは、
『聞いたり!』、
『見たり!』します、と。
  妓楽(ぎがく):歌舞音曲。伎楽。
  (は):すこぶる。かなり。程度の多いこと。
佛問德女。若幻空欺誑無實。云何從幻能作伎樂。 仏の徳女に問いたまわく、『若し幻は、空、欺誑にして、実無くんば、云何が、幻に従いて、能く伎楽を作す』と。
『仏』は、
『徳女』に、こう問われた、――
若し、
『幻』が、
『空であり!』、
『欺誑であり!』、
『幻』には、
『実』が、
『無い!』とすれば、
何のような、
『幻』により、
『伎楽(音楽)』を、
『作すことができる!』のですか?と。
  欺誑(ごこう):いつわり。
德女白佛。世尊。是幻相爾雖無根本而可聞見。 徳女の仏に白して言さく、『世尊、是の幻の相は、爾(しか)くして、根本無しと雖も、而も聞見すべし』と。
『徳女』は、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
是の、
『幻』の、
『相』は、
『爾の通り!』であり、
『幻』には、
『根本』が、
『無い!』のですが、
而し、
『見たり!』、
『聞いたりできる!』のです、と。
佛言。無明亦如是。雖不內有不外有。不內外有。不先世至今世今世至後世。亦無實性。無有生者滅者。而無明因緣諸行生。乃至眾苦陰集。 仏の言わく、『無明も、亦た是の如く、内に有らず、外に有らず、内外に有らず、先世より今世に至り、今世より後世に至らず、亦た実の性無く、生者、滅者有ること無しと雖も、而も無明は、諸行の生ずる因縁にして、乃至衆苦陰集す。
『仏』は、
こう言われた、――
『無明』も、
亦た、
是のように、
『内』にも、
『外』にも、
『内外』にも、
『有るのでなく!』、
『先世』より、
『今世』に、
『至らず!』、
『今世』より、
『後世』にも、
『至らず!』、
亦た、
『実』の、
『性』は、
『無く!』、
『生者』や、
『滅者』も、
『無い!』のであるが、、
而し、
『無明』は、
『諸行』の、
『生じる!』、
『因縁であり!』、
乃至、
『衆』の、
『苦』が、
『陰集(積集)する!』のである。
  諸行(しょぎょう):梵語saMskaaraの訳。十二因縁の第二支。行為、活動の義。意は無明、便ち未学習の状態より、種種の知識、経験を集めるに至るをいう。
  陰集(おんじゅう):つみかさなってあつまる。積集。
如幻息幻所作亦息無明亦爾。無明盡行亦盡。乃至眾苦集皆盡。 幻が息めば、幻の所作も亦た息むが如く、無明も亦た爾り。無明尽くれば、行も亦た尽き、乃至衆苦の集も、皆尽く。
『幻(幻師)』が、
『息(やす)む!』と、
『幻』の、
『作す!』所も、
『息む!』ように、
『無明』も、
亦た、
是のように、
『無明』が、
『尽きる!』と、
『行』も、
亦た、
『尽きて!』、
乃至、
衆の、
『苦』の、
『集まり!』が、
皆、
『尽きる!』のである、と。  ――徳女経 終り――
復次是幻譬喻。示眾生一切有為法空不堅固。 復た次ぎに、是の幻の譬喩は、衆生に、一切の有為法は、空にして、堅固ならざるを示す。
復た次ぎに、
是の、
『幻の譬喩』は、
『衆生』に、こう示している、――
一切の、
『有為法』は、
『空であり!』
『堅固ではない!』と。
如說一切諸行如幻欺誑小兒。屬因緣不自在不久住。是故說諸菩薩知諸法如幻。 『一切の諸行は、幻の小児を欺誑するが如く、因縁に属すれば、自在にあらず、久住せず』と説くが如し。是の故に説かく、『諸の菩薩は、諸法の幻の如くなるを知る』と。
例えば、
こう説かれている、――
一切の、
諸の、
『行(有為法)』は、
『幻』が、
『小児』を、
『誑(たぶらか)す!』ようであり、
『因縁』に、
『属する!』ので、
『自在でもなく!』、
『久住することもない!』、と。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、知っている、――
諸の、
『法』は、
『幻のようである!』と。
  諸行(しょぎょう):(一)一切の有為法を指し、謂わゆる行(梵saMskaara)にして、即ち因縁の和合に由る造作の義なり。根本仏教の中には、諸行と一切、諸法とは同義なるも、部派仏教には則ち諸行は僅かに有為法を指し、而も一切、諸法は僅かに有為法を指さすのみならずまた無為法を包含す。因縁の形成に依存する有為法は並べて永久不変に非ずして、時に常に変化流動する者(即ち無常なり)なるが故に諸行無常と謂う。「北本涅槃経巻14」に説ける無常偈の「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」の諸行もまたこの義なり。また「倶舎論巻22」、「中論観行品」等に出づ。(二)菩提に到達する為の身口意の所作に於ける善行を指し、また万行に作る。行(梵caryaa)、乃ち動作、行為の意に依る。<(佛)
  久住(くじゅう):永久にとどまる。
  参考:『増一阿含経巻18』:『大王當知。人身之法猶如雪揣。要當歸壞。亦如土坏。同亦歸壞不可久保。亦如野馬幻化。虛偽不真。亦如空拳。以誑小兒。』



焔の如し

如炎者。炎以日光風動塵故。曠野中見如野馬。無智人初見謂之為水。 炎の如しとは、炎は、日光、風動、塵を以っての故に、曠野中に、野馬の如きを見る。無智の人は、初めて見るに、之を謂いて水と為す。
『炎のようだ!』とは、――
『炎』は、
『日光、風動、塵』を以っての故に、
『曠野』の中に、
『野馬のような!』ものが、
『見える!』ことであるが、
『無智』の、
『人』が、
『初めて!』、
『見る!』と、
之を、
『水だ!』と、
『思う!』からである。
  (えん):ほのお、ほむら。焔。
  野馬(やめ):馬の一種。かげろう。春の発陽の気が空に見ゆるに、野馬の走るさまに似たるが故に、之を亦た野馬という。遊気、陽炎。
男相女相亦如是。結使煩惱日光。熱諸行塵邪憶念風。生死曠野中轉。無智慧者謂為一相為男為女。是名如炎。 男相、如相も亦た是の如く、結使、煩悩の日光は、諸行の塵、邪憶念の風を熱して、生死の曠野に転ず。智慧無き者は、謂いて一相と為し、男と為し、女と為す。是れを炎の如しと名づく。
『男相』や、
『女相』も、
亦た、
是のように、
『結使』や、
『煩悩』の、
『日光』が、
『諸行』の、
『塵』や、
『邪憶念』の、
『風』を、
『熱して!』、
『生死』という、
『曠野』の中を、
『転がす!』と、
『智慧』の、
『無い!』者は、
是れを、
こう謂う、――
『一相()である!』とか、
『男だ!』とか、
『女だ!』とかと。
是れを、
『炎のようだ!』と、
『称する!』のである。
復次若遠見炎想為水。近則無水想。 復た次ぎに、若し、遠く炎を見れば、想うて水と為すも、近づけば、則ち水の想無し。
復た次ぎに、
若し、
遠くに!、
『炎』を、
『見る!』と、
是れを、
『水だ!』と、
『想う!』のであるが、
近づく!と、
『水だ!』と、
『想う!』ことは、
『無くなる!』。
無智人亦如是。若遠聖法不知無我。不知諸法空。於陰界入性空法中。生人相男相女相。近聖法則知諸法實相。是時虛誑種種妄想盡除。以是故說。諸菩薩知諸法如炎。 無智の人も、亦た是の如く、若し聖法を遠ざかれば、無我を知らず、諸法の空なるを知らず、陰界入なる性空の法中に於いて、人相、男相、女相を生じ、聖法に近づけば、則ち諸法の実相を知り、是の時、虚誑、種種の妄想尽く除こる。是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、諸法は炎の如しと知る』と。
『無智』の、
『人』も、
亦た、
是のように、
若し、
『聖法』を、
『遠くにする!』時には、
諸の、
『法』中に、
『我』が、
『無い!』ことを、
『知らない!』し、
諸の、
『法』は、
『空である!』とも、
『知らない!』が、
『聖法』に、
『近づく!』と、
則ち、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』ことになり、
是の時、
『虚誑(嘘の皮)』や、
『種種の妄想』が、
『尽く!』
『除かれる!』ので、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、こう知っている、――
諸の、
『法』は、
『炎のようだ!』と。
  陰界入(おんかいにゅう):五陰、十八界、十二入の総称。又三科とも称す。『大智度論巻5上注:三科、五蘊、十二処、十八界』参照。



水中の月の如し

如水中月者。月實在虛空中影現於水。實法相月。在如法性實際虛空中。而凡天人心水中。有我我所相現。以是故名如水中月。 水中の月の如しとは、月は実に、虚空中に在りて、影を水に現わす。実法の相なる月は、如、法性、実際の虚空中に在りて、而も凡人の心の水中に、我我所有りの相現る。是を以っての故に、水中の月の如しと名づく。
『水』中の、
『月のようだ!』とは、――
『月』は、
『実』に、
『虚空』中に、
『在る!』のに、
『影』が、
『水』中に、
『現われる!』。
『実』の、
『法』の、
『相』である、
『月』は、
『如、法性、実際』という、
『虚空』中に、
『在る!』のに、
『凡人』の、
『心』という、
『水』中には、
『我、我所』が、
『有る!』という、
『相()』が、
『現われる!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『水』中の、
『月のようだ!』と。
  :凡天人は他本に従い、凡人に改む。
復次如小兒見水中月歡喜欲取。大人見之則笑。 復た次ぎに、小児、水中の月を見て、歓喜して取らんと欲するに、大人、之を見て、則ち笑うが如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『小児』は、
『水』中に、
『月』を、
『見る!』と、
『歓喜』して、
『取ろう!』と、
『思う!』が、
『大人』は、
之を、
『見る!』と、
『笑う!』のである。
無智人亦如是。身見故見有吾我。無實智故見種種法。見已歡喜欲取諸相男相女相等。諸得道聖人笑之。 無智の人も、亦た是の如く、身見の故に、吾我有りと見、実智無きが故に、種種の法を見、見已りて歓喜して、諸相の男相、女相等を取らんと欲するも、諸の得道の聖人は、之を笑う。
『無智』の、
『人』も、
亦た、
是のように、
『身見』の故に、
『吾我』が、
『有る!』と、
『見たり!』、
『実智』が、
『無い!』が故に、
種種の、
『法』を、
『見る!』のであるが、
『見已る!』と、
『歓喜』して、
諸の、
『相』を、
『取ろうとして!』、
『男相』や、
『女相』を、
『取る!』ので、
諸の、
『道を得た!』、
『聖人』が、
『笑う!』のである。
  身見(しんけん):五見の一。我及び我所に執して、身心は有りと唱うるもの。『大智度論巻26上注:五見、同巻41下注:十結』参照。
如偈說
 如水中月炎中水 
 夢中得財死求生 
 有人於此實欲得 
 是人癡惑聖所笑
偈に説くが如し、
水中の月、炎中の水、
夢中に財を得、死に生を求むるが如きを、
有る人は、此れに於いて実に得んと欲す、
是の人は、癡惑なれば聖の笑う所なり。
『偈』に、説く通りである、――
例えば、
『水中の月』、
『炎中の水』、
『夢中に得た財』、
『死中の生』を、
有る人は、
此れを、
『実』に、
『得よう!』とするが、
是の人は、
『癡惑』であり、
『聖人』の、
『笑う所』である。
復次譬如靜水中見月影。攪水則不見。 復た次ぎに、譬えば静水中に月影を見るも、水を撹(かきみだ)せば、則ち見えざるが如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『静水』に、
『月』の、
『影』が、
『見えた!』としても、
『水』を、
『撹(かきみだ)す!』と、
『見えなくなる!』のである。
無明心靜水中。見吾我憍慢諸結使影。實智慧杖攪心水。則不見吾我等諸結使影。以是故說。諸菩薩知諸法如水中月。 無明の心の静水中に、吾我、憍慢、諸の結使の影を見るも、実の智慧の杖もて、心の水を撹せば、則ち吾我等の諸の結使の影を見ず。是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、諸法は水中の月の如しと知る』と。
『無明』という、
『心』の、
『静水』中には、
『吾我、憍慢』という、
諸の、
『結使』の、
『影』を、
『見る!』が、
『実』の、
『智慧』という、
『杖』で、
『心』の、
『水』を、
『撹す!』と、
則ち、
『吾我』等の、
諸の、
『結使』の、
『影』が、
『見えなくなる!』ので、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、こう知っている、――
諸の、
『法』は、
『水』中の、
『月のようだ!』と。



虚空の如し

如虛空者。但有名而無實法。虛空非可見法。遠視故眼光轉見縹色。 虚空の如しとは、但だ名のみ有りて、実法無し。虚空は、可見の法に非ざるも、遠視するが故に、眼光転じて、縹色を見る。
『虚空のようだ!』とは、――
但だ、
『名』が、
『有る!』のみで、
『実』の、
『法』が、
『無い!』ことをいう。
『虚空』は、
『可見』の、
『法でない!』が、
『虚空』を、
『遠く!』まで、
『視る!』が故に、
『眼』に入る!、
『光』が、
転じて、
『縹色(淡青色)』を、
『見る!』のである。
  遠視(おんし):遠くまで視る。
  縹色(ひょうしき):はなだいろ。淡青色。
  眼光(げんこう):眼にはいる光。眼識。
諸法亦如是空無所有。人遠無漏實智慧故。棄實相見彼我男女屋舍城郭等種種雜物。心著 諸法も亦た是の如く、空にして所有無きも、人は、無漏の実の智慧を遠ざくるが故に、実相を棄てて、彼我、男女、屋舎、城郭等の種種の雑物を見て、心著す。
諸の、
『法』も、
是のように、
『有する!』所が、
『無い!』のに、
『人』は、
『無漏』の、
『実』の、
『智慧』を、
『遠ざける!』が故に、
『実』の、
『相』を、
『捨てて!』、
『法』中に、
『彼我、男女、屋舎、城郭』等の、
『種種の雑物』の、
『相』を、
『見る!』ので、
『心』が、
『法』に、
『著する!』のである。
如小兒仰視青天謂有實色。有人飛上極遠而無所見。以遠視故謂為青色。諸法亦如是。以是故說如虛空。 小児の、青天を仰視して、実の色有りと謂うに、有る人は、極めて遠くまで、飛上するも、見る所無し。遠視を以っての故に、謂いて青色と為すが如きは、諸法も、亦た是の如し。是を以っての故に説かく、『虚空の如し』と。
譬えば、
『小児』が、
『青天』を、
『仰視して!』、
『実』の、
『色』が、
『有る!』と、
『謂う!』ので、
有る人が、
『極めて!』、
『遠く!』まで、
『飛び上がった!』が、
やはり、
『見る!』所は、
『無かった!』。
『遠視した!』が故に、
『青色だ!』と、
『思った!』のである。
諸の、
『法』も、
亦た、
是の通りである。
是の故に、
こう説く、――
『虚空のようだ!』と。
復次如虛空性常清淨。人謂陰曀為不淨。 復た次ぎに、虚空の性は、常に清浄なるも、人は、陰曀を謂いて、不浄と為すが如し。
復た次ぎに、
例えば、
『虚空』の、
『性』は、
『常に!』、
『清浄である!』のに、
『人』は、
こう謂っている、――
『陰曀(曇天)』は、
『不浄である!』と。
  陰曀(おんあい):くもりぞら。
諸法亦如是。性常清淨婬欲瞋恚等曀故。人謂為不淨。 諸法も、亦た是の如く、性は常に清浄なるも、婬欲、瞋恚等の曀(かげり)の故に、人は謂いて不浄と為す。
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『性』は、
『常に!』、
『清浄である!』のに、
『婬欲、瞋恚』等の、
『曀(かげり)』の故に、
『人』は、
こう謂う、――
『不浄である!』と。
如偈說
  如夏月天雷電雨 
  陰雲覆曀不清淨 
  凡夫無智亦如是 
  種種煩惱常覆心 
  如冬天日時一出 
  常為昏氣雲蔭曀 
  雖得初果第二道 
  猶為欲染之所蔽 
  若如春天日欲出 
  時為陰雲所覆曀 
  雖離欲染第三果 
  餘殘癡慢猶覆心 
  若如秋日無雲曀 
  亦如大海水清淨 
  所作已辦無漏心 
  羅漢如是得清淨
偈に説くが如し、
夏月の天の、雷電の雨ふり、
陰雲覆曀して、清浄ならざるが如く、
凡夫の無智も、亦た是の如く、
種種の煩悩、常に心を覆う。
冬天の日の、時に一出するも、
常に昏気の雲に、蔭曀せらるるが如く、
初果、第二道を得たりと雖も、
猶お欲染の為に蔽わる。
若しは春天の、日の出でんと欲するに、
時に、陰雲の為に、覆曀さるるが如く
欲染を離れて、第三果なりと雖も、
余残の癡慢、猶お心を覆う。
若しは秋の日の、雲曀無く、
亦た大海水の如く、清浄なるが如く、
所作已に辦じたる、無漏心の、
羅漢は是の如く、清浄を得たり。
『偈』に、
こう説く通りである、――
『夏』の、
『青空』に、
『雷鳴』が轟き!、
『稲妻』が光り!、
『雨』が降り出す!と、
『空』には、
『暗雲』が、
『立ちこめる!』ので、
『清浄ではなくなる!』。
『凡夫』の、
『無智』も、
亦た、
是のように、
種種の、
『煩悩』が、
常に、
『心』を、
『覆っている!』。
『冬』の、
『空』は、
時には、
『日』の、
『出ることもある!』が、
常に、
『日暮れ!』の、
『気配』が、
『漂い!』、
『雲』に、
『覆われて!』、
『暗い!』。
『初果(須陀洹)』や、
『第二(斯陀含)』の、
『道』を、
『得た!』者も、
是のように、
猶お、
『欲』の、
『染垢』に、
『蔽われている!』。
『春』の、
『空』は、
已に、
『日』が、
『出ようとしている!』が、
時には、
『暗雲』に、
『覆われる!』。
『欲』の、
『汚染』を、
『離れて!』、
『第三』の、
『果』を、
『得た!』者も、
亦た、
是のように、
余残の、
『愚癡、憍慢』に、
猶お、
『心』が、
『覆われる!』。
『秋』の、
『空』は、
『一日』中、
『一雲』も、
『無く!』、
『大海』の、
『水のように!』、
『清浄である!』、
『作すべき事』を、
已に、
『作した!』、
『阿羅漢』の、
『無漏の心』は、
是のように、
『清浄である!』と。
  陰雲(おんうん):暗い雲。
  覆曀(ふくあい):覆ってかげにする。
  昏気(こんけ):日暮れの気配。
  蔭曀(おんあい):雲の蔭に入って暗い。
  所作(しょさ):作すべき事。
  已辦(いべん):すでに作した。
復次虛空無初無中無後。諸法亦如是。 復た次ぎに、虚空には初無く、中無く、後無し。諸法も、亦た是の如し。
復た次ぎに、
『虚空』には、
『初』も、
『中』も、
『後』も、
『無い!』が、
諸の、
『法』も、
亦た、
是の通りである。
復次如摩訶衍中佛語須菩提。虛空無前世亦無中世亦無後世。諸法亦如是。彼經此中應廣說。是故說諸法如虛空。 復た次ぎに、摩訶衍中に仏の須菩提に語りたまえるが如し、『虚空には、前世無く、亦た中世無く、亦た後世無し。諸法も、亦た是の如し』と。彼の経は、此の中に応に広く説くべし。是の故に説かく、『諸法は、虚空の如し』と。
復た次ぎに、
『摩訶衍』中に、
『仏』は、
『須菩提』に、こう語られた、――
『虚空』には、
『前世』も、
『中世』も、
『後世』も、
『無い!』が、
諸の、
『法』も、
亦た、
是の通りである、と。
彼の、
『経』は、
此の中にも、
広く、説くだろう!。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『虚空のようだ!』と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6等空品』:『佛告須菩提。汝所言衍與空等。如是如是。須菩提。摩訶衍與虛空等。須菩提。如虛空無東方。無南方西方北方四維上下。須菩提。摩訶衍亦如是。無東方。無南方西方北方四維上下。須菩提。如虛空非長非短非方非圓。須菩提。摩訶衍亦如是。非長非短非方非圓。須菩提。如虛空非青非黃非赤非白非黑。摩訶衍亦如是。非青非黃非赤非白非黑。以是故。說摩訶衍與空等。須菩提。如虛空非過去非未來非現在。摩訶衍亦如是。非過去非未來非現在。以是故。說摩訶衍與空等。須菩提。如虛空不增不減。摩訶衍亦如是。亦不增亦不減。須菩提。如虛空無垢無淨。摩訶衍亦如是無垢無淨。須菩提。如虛空無生無滅無住無異。摩訶衍亦如是無生無滅無住無異。須菩提。如虛空非善非不善非記非無記。摩訶衍亦如是。非善非不善非記非無記。以是故。說摩訶衍與空等。如虛空無見無聞無覺無識。摩訶衍亦如是無見無聞無覺無識。如虛空不可知不可識。不可見不可斷。不可證不可修。摩訶衍亦如是。不可知不可識。不可見不可斷。不可證不可修。以是故。說摩訶衍與空等。如虛空非染相非離相。摩訶衍亦如是。非染相非離相。如虛空不繫欲界不繫色界不繫無色界。摩訶衍亦如是。不繫欲界不繫色界不繫無色界。如虛空無初發心亦無二三四五六七八九第十心。摩訶衍亦如是。無初發心乃至無第十心。如虛空無乾慧地性人地八人地見地薄地離欲地已作地。摩訶衍亦如是。無乾慧地乃至已辦地。如虛空無須陀洹果無斯陀含果無阿那含果無阿羅漢果。摩訶衍亦如是。無須陀洹果乃至無阿羅漢果。如虛空無聲聞地無辟支佛地無佛地。摩訶衍亦如是。無聲聞地乃至佛地。以是故。說摩訶衍與虛空等。如虛空非色非無色。非可見非不可見。非有對非無對。非合非散。摩訶衍亦如是。非色非無色。非可見非不可見。非有對非無對。非合非散。以是故。說摩訶衍與空等。須菩提。如虛空非常非無常非樂非苦非我非無我。摩訶衍亦如是。非常非無常非樂非苦非我非無我。以是故說摩訶衍與空等。』
問曰。虛空實有法。何以故。若虛空無實法者。若舉若下若來若往若屈若申若出若入等有所作。應無有以無動處故。 問うて曰く、虚空には実に法有り。何を以っての故に、若し、虚空に実の法無くんば、若しは挙げ、若しは下げ、若しは来たり、若しは往き、若しは屈し、若しは伸ばし、若しは出し、若しは入る等の有らゆる所作は、応に有ること無かるべし。道処無きを以っての故なり。
問い、
『虚空』には、
『実』に、
『法』が、
『有る!』。
何故ならば、
若し、
『虚空』に、
『実』の、
『法(場所)』が、
『無ければ!』、
『挙げたり!』、
『下げたり!』、
『来たり!』、
『往ったり!』、
『屈んだり!』、
『伸びたり!』、
『出たり!』、
『入ったり!』等の、
『有する!』、
『所作(動作)』が、
『無い!』はずだ。
何故ならば、
『動く!』、
『処(虚空)』が、
『無い!』からである。
  :物の存在する場所、或いは動く場所としての、間隙は一切法(七十五法)中の所摂にあらず。
答曰。若虛空法實有。虛空應有住處。 答えて曰く、若し、虚空の法、実に有らば、虚空にも、応に住処有るべし。
答え、
若し、
『虚空』という、
『法』が、
『実』に、
『有った!』とすれば、
『虚空』には、
当然、
『住処』が、
『有るはず!』である。
何以故。無住處則無法。若虛空在孔穴中住。是為虛空在虛空中住。以是故不應孔中住。若在實中住是實非空則不得住無所受故。 何を以っての故に、住処無きは、則ち法無きなり。若し、虚空、孔穴中に在りて、住せば、是れ虚空は、虚空中に在りて住すと為す。是を以っての故に、応に孔中に住すべからず。若し実中に在りて住せば、是の実は空に非ざれば、則ち住するを得ず。受くる所無きが故なり。
何故ならば、
『住する!』、
『処(場所)』が、
『無い!』ということは、
則ち、
『法』が、
『無い!』からである。
若し、
『虚空』が、
『穴』の中に、
『住する!』ならば、
『虚空』が、
『虚空』の中に、
『住する!』ことになる。
是の故に、
『穴』の中に、
『住するはずがない!』。
若し、
『虚空』が、
『実(虚空の対)』中に、
『住する!』ならば、
是の、
『実』が、
『空でない!』かぎり、
『住することができない!』。
何故ならば、
『受ける!』所が、
『無い!』からである。
復次汝言住處是虛空。如石壁實中無有住處。若無住處則無虛空。以虛空無住處故無虛空。 復た次ぎに、汝が言わく、『住処は、是れ虚空なり』とは、石壁の如き実中に、住処有ること無し。若し住処無くんば、則ち虚空無し。虚空に住処無きを以っての故に、虚空無し。
復た次ぎに、
お前は、
こう言った、――
『住する!』、
『処』は、
『虚空である!』と。
譬えば、
『石壁』のような、
『実』中には、
『住する!』、
『処』が、
『無い!』が、
若し、
『住する!』、
『処』が、
『無い!』とすれば、
則ち、
『虚空』が、
『無い!』ことになり、
『虚空』には、
『住する!』、
『処』が、
『無い!』ので、
故に、
『虚空』が、
『無い!』ということになる。
復次無相故無虛空。諸法各各有相。相有故知有法。 復た次ぎに、相無きが故に、虚空無し。諸法には、各各相有り。相有るが故に、法有るを知る。
復た次ぎに、
『虚空』には、
『相』が、
『無い!』ので、
故に、
『虚空』は、
『無い!』。
諸の、
『法』は、
各各、
『相』を、
『有する!』。
『法』には、
『相』が、
『有る!』が故に、
『法』が、
『有る!』と、
『知る!』のである。
如地堅相水濕相火熱相風動相識識相慧解相世間生滅相涅槃永滅相。是虛空無相故無。 地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相、識の識相、慧の解相、世間の生滅相、涅槃の永滅相の如し。是の虚空は、相無きが故に無し。
例えば、
『地』の、
『堅い!』、
『相』、
『水』の、
『湿った!』、
『相』、、
『火』の、
『熱い!』、
『相』、
『風』の、
『動く!』、
『相』、
『識』の、
『識る!』、
『相』、
『慧』の、
『解る!』、
『相』、
『世間』の、
『生滅』の、
『相』、
『涅槃』の、
『永滅』の、
『相』であるが、
是の、
『虚空』は、
『相』が、
『無い!』ので、
故に、
『法』が、
『無い!』のである。
問曰。虛空有相汝不知故言無。無色處是虛空相。 問い、虚空には相有り。汝は知らざるが故に無しと言う。無色処は、是れ虚空の相なり。
問い、
『虚空』には、
『相』が、
『有る!』のに、
お前は、
『知らない!』が故に、
『無い!』と、
『言う!』のである。
『無色処』が、
『虚空』の、
『相である!』。
  無色処(むしきじょ):『大智度論巻6上注:無色界』参照。
  無色界(むしきかい):梵語aaruupya-dhaatuの訳語にして、色法無き界の意。三界の一。また無色天、或は無色行天とも名づく。即ち色想を厭患して無色定を修する者の生ずべき方処、色質無き天処をいう。「倶舎論巻8」に、「無色界の中には都て処あることなく、色法なきを以って方処あることなし。過去未来と無表と無色とは方所に住せず、理決然なるが故なり。ただ異熟生の差別に四あり、一に空無辺処、二に識無辺処、三に無所有処、四に非想非非想処なり。かくの如き四種を無色界と名づく。この四は処に上下あるに由るに非ず、ただ生に由るが故に勝劣殊あり。また如何が彼に方処なきを知るや、謂わくこの処に於いて彼の定を得る者は、命終して即ちこの処に於いて生ずるが故なり。また彼より没して欲色に生ずる時、即ちこの処に於いて中有起こるが故なり」と云えるこれなり。これこの界には都て色なく、別の方処なきが故に無色界と名づけ、また処所の高下なきも、異熟生の勝劣差別に由りて空無辺処(梵aakazaanantyaayatana)、識無辺処(梵vijJaanaanantyaayatana)、無所有処(梵aakiJcanyaayatana)、非想非非想処(梵naivasaMjJaanaasaMjJaayatana)の四処の異あることを説けるものなり。この中、前の三は定の加行に依り、後の一はその定相の昧劣なるに依りてその名を立つ。かくの如く、この界には総じて四処あるが故に、また四無色界、或は四無色とも称するなり。またこの界に生ずる有常は色質を有せず、ただ受想行識の四蘊を以ってその体と為し、衆同分、及び命根互いに相依りて転じて心等をして相続せしむるものなりとし、男根を成就せざるも皆男身にして、空無辺処は二万劫、識無辺処は四万劫、無所有処は六万劫、非想非非想処は八万劫の寿量を有すと為すなり。ただし「経量部」に於いては、別に衆同分等の所依あることなしとし、また「大毘婆沙論巻83」には、分別論者は無色界中にもなお細色ありと説くと云えり。また「立世阿毘曇論巻6、7」、「大毘婆沙論巻98、137、145」、「倶舎論巻11、28」等に出づ。<(望)
答曰。不爾。無色是名破色。更無異法如燈滅更無法。以是故無有虛空相。 答えて曰く、爾らず。無色とは、是れを色を破れば、更に異法無しと名づく。灯滅すれば、更に法無きが如し。是を以っての故に、虚空の相有ること無し。
答え、
そうではない!。
『無色』とは、
『色』という、
『法』を、
『破る!』と、
他には、
『別の!』、
『法』が、
『無い!』ことをいう。
譬えば、
『灯』が、
『滅する!』と、
もう、
『灯』という、
『法』は、
『無い!』のである。
是の故に、
『虚空』の、
『相』は、
『無い!』。
復次是虛空法無。何以故。汝因色故。以無色處是虛空相。若爾者色未生時。則無虛空相。 復た次ぎに、是の虚空に法無し。何を以っての故に、汝は、色に因るが故に、無色処を以って、是れ虚空の相なり。若し爾らば、色の未だ生ぜざる時、則ち虚空の相無ければなり。
復た次ぎに、
是の、
『虚空』に、
『法』は、
『無い!』。
何故ならば、
お前は、
『色』を、
『因とする!』が故に、
『色』が、
『無い!』という、
『処』を以って、
是れを、
『虚空』という、
『法』の、
『相』だとする。
若し、
そうならば、
『色』が、
未だ、
『生じない!』時には、
『虚空』の、
『相』も、
『無い!』はずである。
復次汝謂色是無常法虛空是有常法。色未有時應先有虛空法。以有常故。 復た次ぎに、汝が謂わく、『色は、是れ無常の法、虚空は、是れ有常の法なり』と。色の未だ有らざる時にも、応に先に虚空の法有るべし。有常なるを以っての故なり。
復た次ぎに、
お前は、
こう謂っている、――
『色』は、
『無常であり!』、
『虚空』は、
『有常である!』と。
若し、
『色』が、
未だ、
『無い!』時にも、
当然、
『虚空』という、
『法』は、
『有る!』はずだ。
何故ならば、
『虚空』が、
『有常』だからである。
若色未有則無無色處。若無無色處則無虛空相。若無相則無法。以是故虛空但有名而無實。 若し色、未だ有らざれば、則ち無色処も無し。若し無色処無ければ、則ち虚空の相無し。若し相無ければ、則ち法無し。是を以っての故に、虚空とは、但だ名のみ有りて、実無し。
若し、
『色』が、
未だ、
『無い!』とすれば、
則ち、
『無色』の、
『処』も、
『無い!』。
若し、
『無色』の、
『処』が、
『無い!』とすれば、
則ち、
『虚空』の、
『相』も、
『無い!』。
若し、
『相』が、
『無い!』とすれば、
則ち、
『法』は、
『無い!』はずだ。
是の故に、
『虚空』には、
但だ、
『名』が、
『有る!』のみで、
而も、
『実』は、
『無い!』のである。
如虛空諸法亦如是。但有假名而無實。以是故諸菩薩知諸法如虛空。 虚空の如く、諸法も亦た是の如く、但だ仮名のみ有りて、而も実無し。是を以っての故に、諸の菩薩は、諸法は虚空の如しと知る。
『虚空のように!』、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
但だ、
『仮名』のみが、
『有って!』、
而も、
『実』は、
『無い!』。
是の故に、
諸の、
『菩薩』は、こう知るのである、――
諸の、
『法』は、
『虚空のようだ!』と。



響の如し

如響者。若深山狹谷中。若深絕澗中。若空大舍中。若語聲。若打聲從聲有聲名為響。 響の如しとは、若しは深山の峡谷中に、若しは深き絶澗中に、若しは空の大舎中に、若しは語声、若しは打声の、声に従うて声有り、名づけて響と為す。
『響のようだ!』とは、――
『深山の峡谷』の中、
『深い絶澗』の中、
『空の大舎』の中に於いて、
『語る!』、
『声』に従って、
有る、
『声』が、
『聞こえ!』、
『打つ!』、
『声』に従って、
有る、
『声』が、
『聞こえる!』。
是れが、
『響』である。
  絶澗(ぜっけん):遠く離れた谷。絶谷。
  大舎(だいしゃ):大きな屋舎。
  (こう):梵語pratizrutkaaの訳。反響(an echo、reverberation)の義。
無智人。謂為有人語聲。智者心念。是聲無人作。但以聲觸故更有聲名為響。響事空能誑耳根。 無智の人は、謂いて『有る人の語る声なり』と為す。智者の心に念ずらく、『是の声は、人の作無く、但だ声の触るるを以っての故に、更に声有るを、名づけて響と為す』と。響の事は、空なるも、能く耳根を誑す。
『無智の人』は、
こう謂う、――
『人』の、
『語る!』、
『声』が、
『有る!』と。
『智者』は、
『心』に、こう思っている、――
是の、
『声』に、
『人』の、
『作(動作)』は、
『無い!』。
但だ、
『声』が、
『触れる!』を以って、
故に、
更に、
『声』が、
『有る!』のであり、
是れを、
『響』と、
『称する!』のであると。
『響』の、
『事(行為)』は、
『空であり!』、
但だ、
『耳根』を、
『誑すのみ!』である。
  (さ):梵語kaara、或いはkaraNaの訳。動作(an act、action)の義。所作、能作の意。
  (じ):梵語karaNaの訳。(善悪の)行為(an act、deed)の義。
如人欲語時。口中風名憂陀那。還入至臍觸臍響出。響出時觸七處退。是名語言。 人の語らんと欲するが如き時、口中の風を、憂陀那と名づく。還り入りて臍に至り、臍に触るるに響出づ。響の出づる時、七処に触れて退く、是れを語言と名づく。
『人』が、
『語ろう!』とする時の、
『口』中の、
『風』を、
『憂陀那(発声)』といい、
『風』が、
『還入して!』、
『臍』に、
『至り!』、
『臍』に、
『触れる!』と、
『響』が、
『出る!』、
『響』は、
『出る!』時に、
『項、齗(はぐき)、歯、唇、舌、咽、胸』の、
『七処』に、
『触れながら!』、
『退く!』、
是れが、
『語言(ことば)』である。
  憂陀那(うだな):梵語udaanaの訳。又鄔陀南、烏陀南、烏拕南、鄔駄南、嗢陀南、優陀那、優檀那、憂陀那、憂檀那、鬱陀那等に作り、自然、法句、歎、撰録、自説、又は無問自説等と訳す。九分教の一、十二部経の一。仏が弟子の問を待たず、その心鏡に映ぜしままを直に吐露したるものをいう。梵ud-aanaは元と気息の義なるも、転じて感興によりて自然に発する声を意味し、更に感興のままに仏の説き出せる語(多くは偈頌)を指して、かく呼ぶに至りしものの如し。「大毘婆沙論巻126」には「自説とは如何。謂わく諸経の中、憂と喜との事に因りて世尊自ら説くなり」と云い、必ずしも感興のみに因るに非ずして、憂事(例えば老夫婦を見る)等に因ることもありとし各その例を挙げ、また「大智度論巻33」には三種を分ち、仏の自説と、諸天の須菩提に対する讃頌の如きと、及び仏涅槃の後に仏弟子の偈、婆羅門の偈を抄集して、無常品、婆羅門品等となせるものと、これ等を皆優陀那と名づくとなせり。「婆沙論」はその内容に就き、「智度論」はその説者に関しての区別なり。また「大般涅槃経巻15」、「瑜伽師地論巻25」、「大乗義章巻1」等に出づ。<(望)
  七処(しちじょ):項、齗、歯、唇、舌、咽、胸を云う。
如偈說
 風名憂檀那  觸臍而上去 
 是風七處觸  項及齗齒脣 
 舌咽及以胸  是中語言生 
 愚人不解此  惑著起瞋癡 
 中人有智慧  不瞋亦不著 
 亦復不愚癡  但隨諸法相 
 曲直及屈申  去來現語言 
 都無有作者  是事是幻耶 
 為機關木人  為是夢中事 
 我為熱氣悶  有是為無是 
 是事誰能知  是骨人筋纏 
 能作是語聲  如融金投水
以是故言諸菩薩知諸法如響。
偈に説くが如し、
風を憂檀那と名づけ、臍に触れて上に去る、
是の風は七処に触るる、項、及び齗、歯、唇と、
舌、咽、及び胸を以って、是の中に語言生ず。
愚人は此を解せずして、惑い著して瞋、癡を起こし、
中人は智慧有りて、瞋らず、亦た著せず、
亦復た愚癡ならずして、但だ諸法の相に随う。
曲直し、及び屈伸し、去来して語言を現わすも、
都べて作者有る無ければ、是の事は是れ幻なりや、
機関木人と為(せ)んや、是れを夢中の事と為んや。
我れ、熱気に悶ゆるが為なりや、
是れ有りや、是れを無しと為んや、
是の事を誰か能く知らん、是の骨人は筋を纏いて、
能く是の語声を作すも、融金を水に投ぜしが如きを。
是を以っての故に言わく、『諸の菩薩は、諸法は響の如しと知る』と。
『偈』に、こう説く通りである、――
『風』を、
『憂陀那(発声)』と称し、
『臍』に触れて、
『上』に去る。
是の、
『風』は、
『七処』に、
『触れる!』、
『項、齗(はぐき)、歯、唇、舌、咽、胸』の、
是の中に、
『語言(ことば)』が、
『生じる!』。
『愚人』は、
此の、
『理』が、
『解らない!』ので、
是の、
『風』に、
『惑い!』、
『著して!』、
『瞋』と、
『癡』とを、
『起こし!』、
『中人』は、
『智慧』が有り、
『瞋ることもなく!』、
『著することもなく!』、
亦復た、
『愚癡(邪見)でもない!』ので、
但だ、
諸の、
『法』の、
『相』に、
『随う!』だけだ。
『風』は、
『曲直し!』、
『屈伸し!』、
『去来して!』、
『語言』を、
『現わす!』が、
都()べて、
『作者』が、
『無い!』。
是の、
『事』は、
『幻』だろうか?
『機械仕掛け!』の、
『木人』だろうか?
是れは、
『夢』中の、
『事』だろうか?
わたしが、
『熱気』に、
『悶えている!』ので、
『聞こえる!』のだろうか?
是れは、
『有る!』のだろうのか?
是れは、
『無い!』のだろうか?
是の、
『事』を、
誰が、
『知っている!』のだろう、――
是の、
『骨人』が、
『筋』を、
『纏っている!』だけで、
是の、
『語言』を、
『話せる!』などと、
而も、
是れが、
『融金』を、
『水』に、
『投じた!』のと、
『同じだ!』などと。
是の故に、
こう言う、――
諸の、
『菩薩』は、こう知る、――
諸の、
『法』は、
『響のようである!』と。
  機関(きかん):活動の仕かけを施した機械。
  (にょ):接続の助辞。して。しかも。而。



犍闥婆城の如し

如犍闥婆城者。日初出時見城門樓櫓宮殿行人出入。日轉高轉滅。此城但可眼見而無有實。是名揵闥婆城。 犍闥婆城の如しとは、日の初めて出づる時には、城門、楼櫓、宮殿、行人の出入を見るも、日の転(うた)た高うなりて、転た滅す。此の城は、但だ眼見すべきも、実有ること無し、是れを犍闥婆城と名づく。
『犍闥婆城のようだ!』とは、――、
『日』の、
『出初め!』の時には、
『城門、楼櫓、宮殿、行人の出入』が、
『見える!』が、
『日』が、
次第に、
『高くなる!』と、
次第に、
『滅する!』。
此の、
『城』等は、
但だ、
『眼』には、
『見える!』が、
而し、
『実』が、
『無い!』。
是れが、
『犍闥婆城』である。
  犍闥婆城(けんだつばじょう):梵語gandharva-nagaraの訳。楽神の城市の義。走馬燈の如く移り変わる幻影の意。
  楼櫓(るろ):物見櫓。古代軍中にて敵を望見するに用いたる無蓋のやぐら。
  行人(ぎょうにん):往き来する人。旅人。
有人初不見揵闥婆城。晨朝東向見之。意謂實樂疾行趣之。轉近轉失日高轉滅。飢渴悶極見熱氣如野馬。謂之為水疾走趣之轉近轉滅。疲極困厄至窮山狹谷中。大喚啼哭聞有響應。謂有居民求之疲極而無所見。思惟自悟渴願心息。 有る人は、初め犍闥婆城を見ず、晨朝に東に向いて、之を見、意に、『実に楽し』と謂いて、疾かに行きて、之に趣くも、転た近づけば、転た失い、日高くなりて、転た滅す。飢渴し悶え極まりて、熱気を見るに野馬の如し。之を謂いて水と為し、疾かに走りて、之に趣くも、転た近づけば、転た滅す。疲れ極まり困厄して、山の峡谷中に至りて窮まる。大喚、啼哭するに、響の応(こた)うる有るを聞きて、居民有りと謂い、之を求むるも、疲れ極まりて、見る所無ければ、思惟して自ら悟るに、渇きと願心と息(や)めり。
有る人は、
『初め』は、
『犍闥婆城』を、
『見なかった!』が、
『晨朝』に、
『東』に向う!と、
之が、
『見えてきた!』、
『意(こころ)』に、
『実』に、
『楽しそうだ!』と、
『思い!』、
『疾(はや)く!』、
『歩いて!』、
之に、
『趣こうとする!』が、
『近づく!』につれ、
次第に、
『見えなくなり!』、
『日』が、
『高くなる!』頃には、
ついに、
『消えてしまった!』。
『飢え!』と、
『渇き!』との、
『悶え』が、
『極まる!』と、
『熱気』が、
『野馬のよう!』に、
『見えてきて!』、
之を、
『水だ!』と、
『思うようになり!』、
『疾く!』、
『走って!』、
之に、
『趣こうとする!』が、
『近づく!』につれ、
次第に、
『消えていった!』。
『疲れ!』が、
『極まり!』、
『苦しみ!』、
『悩んで!』、
『歩いてゆく!』と、
『山』の、
『峡谷』中に至って、
『道』が、
『窮まった!』。
『大声』で、
『助け!』を、
『喚()んだり!』、
『大声』で、
『哭(なげ)き!』、
『叫んでいる!』と、
『響』が有り、
『応(こた)える!』のが、
『聞こえた!』。
『居民(住民)』が、
『居るのだ!』と、
『思い!』、
之を、
『探して!』、
『求めた!』が、
『疲れ!』が、
『極まって!』も、
『見る!』所が、
『無い!』。
『思惟』して、
自ら、
『愚かさ!』を、
『悟る!』と、
『渇き!』も、
『願う!』、
『心』も、
『息()んだ!』のである。
  困厄(こんやく):わざわい、災難。苦しみなやむ。困難。災難に困窮する。
  大喚(だいかん):梵語vikruSTaの訳。大声を挙げて助を求めるの義。
  啼哭(たいこく):梵語rudita、或いはprabala-ruditaの訳。泣き叫ぶの義。
無智人亦如是。空陰界入中見吾我及諸法。婬瞋心著。四方狂走求樂自滿。顛倒欺誑窮極懊惱。若以智慧知無我無實法者。是時顛倒願息。 無智の人も、亦た是の如く、空なる陰界入中に、吾我、及び諸法を見、婬瞋の心著して、四方に狂走し、楽を求めて、自ら満たさんとするも、顛倒と欺誑とに窮極し、懊悩す。若し智慧を以って、我無く、実法無きを知れば、是の時顛倒の願息む。
『無智』の、
『人』も、
亦た、
是のように、
『空』の、
『陰界入』中に、
『吾我、及び諸法』を、
『見る!』ので、
『婬心』や、
『瞋心』が、
『吾我、及び諸法』に、
『著して!』、
『四方』に、
『狂走して!』、
『楽』を、
『追い求め!』、
自ら、
『満たそう!』とするが、
『顛倒(妄想)』や、
『欺誑(錯覚)』の、
『楽』を、
『求め!』て
『心』が、
『疲労し』、
『懊悩する!』のである。
若し、
『智慧』を以って、
『我』は、
『無く!』、
『諸法』も、
『無い!』と、
『知った!』ならば、
是の時、
『顛倒』や、
『願い!』の、
『心』が、
『息む!』ことになる。
  顛倒(てんどう):梵語viparyaasaの訳。妄想の義。身受心法の四念処中に於いて、身の不浄なるを浄と為し、受は苦なるを楽と為し、心は無常なるを常と為し、法は無我なるを有我と為すが如き顛倒せる妄想を云う。『大智度論巻18上注:四顛倒』参照。
  欺誑(ごこう):梵語vaJcanaの訳。錯覚、幻覚、妄想等の義、或いは詐欺的不正行為の義。
  窮極(ぐうごく):梵語paryaadaanaの訳。限界、終止の義、或いは疲労、消耗、疲労困憊の義。
  懊悩(おうのう):梵語citta-piiDaaの訳。心の苦痛、不快感の義。
復次揵闥婆城非城。人心想為城。凡夫亦如是非身想為身非心想為心。 復た次ぎに、犍闥婆城は城に非ず、人の心に想いて、城と為すのみ。凡夫も、亦た是の如く、身に非ざるを、想うて身と為し、心に非ざるを、想うて心と為す。
復た次ぎに、
『犍闥婆城』は、
『城でない!』のに、
『人』が、
『心』に、
『城だ!』と、
『想う!』のであるが、
『凡夫』の、
『人』も、
亦た、
是のように、
『身でない!』のに、
『身だ!』と、
『想い!』、
『心でない!』のに、
『心だ!』と、
『想う!』のである。
問曰。一事可知何以多喻。 問うて曰く、一事にて知るべし。何を以ってか、多く喩うる。
問い、
『一事』でも、
『知れる!』ものを、
何故、
『多く!』、
『喩える!』のですか?
答曰。我先已答。是摩訶衍如大海水。一切法盡攝。摩訶衍多因緣故。多譬喻無咎。 答えて曰く、我れは先に已に答えたり。是の摩訶衍は、大海水の如く、一切の法を尽く摂す。摩訶衍の因縁は、多きが故に、多く譬喩するも咎無し。
答え、
わたしは、
先に、
已に、こう答えた、――
是の、
『摩訶衍』は、
『大海』の、
『水のよう!』に、
一切の、
『法』を、
『摂する(収める)!』ので、
『摩訶衍』の、
『因縁』は、
『多い!』、
故に、
『多く!』、
『譬喩しても!』、
則ち、
『咎』は、
『無い!』のである、と。
復次是菩薩甚深利智故。種種法門種種因緣種種喻壞諸法。為人解故應多引喻。 復た次ぎに、是の菩薩は、甚深の利智なるが故に、種種の法門、種種の因縁、種種の喩に、諸法を壊(やぶ)り、人の解せんが為の故に、応に多く喩を引くべし。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『甚深』の、
『利根』と、
『智慧』との故に、
『種種の法門』、
『種種の因縁』、
『種種の譬喩』を、
『説いて!』、
諸の、
『法』を、
『壊(やぶ)る!』のであり、
『人』に、
『所説』を、
『解らせよう!』と、
『思う!』が故に、
当然、
『多く!』、
『譬喩』を、
『引く!』のである。
復次一切聲聞法中無揵闥婆城喻。有種種餘無常喻。色如聚沫受如泡想如野馬。行如芭蕉識如幻及幻網。經中空譬喻。以是揵闥婆城喻異故。此中說。 復た次ぎに、一切の声聞法中に、犍闥婆城の喩無く、種種の余の無常の喩有り、『色は聚沫の如し、受は泡の如し、想は野馬の如し、行は芭蕉の如し、識は幻の如し』となり。及び『幻網経』中の空の譬喩なり。是の犍闥婆城の喩の異なるを以っての故に、此の中に説けり。
復た次ぎに、
一切の、
『声聞法』中には、
『犍闥婆城』の、
『喩』が、
『無くて!』、
余の、
種種の、
『無常の喩』が、
『有り!』、
例えば、――
『色』は、
『聚沫(水沫)のようだ!』、
『受』は、
『泡のようだ!』、
『想』は、
『野馬のようだ!』、
『行』は、
『芭蕉のようだ!』、
『識』は、
『幻のようだ!』等である。
及び、
『幻網経』中に、
『空』の、
『譬喩がある!』。
是の、
『犍闥婆城』の、
『喩』は、
『異なる(別である)!』が故に、
此の中に、
『説く!』のである。
  幻網経(げんもうきょう):不明。但し「阿毘達磨順正理論巻50」に依れば、「又幻網中に説かく、非有を縁じて見るが故に云々」の記事あり。
  参考:『普曜経巻8』:『佛告王曰。天下有眼未必色故也。觀色無常。痛痒想行識亦復無常。無常苦空非身之義。非我非彼。未有好道如樂色者。明士達之。色如聚沫。痛痒如泡。思想如芭蕉。行亦如夢。識喻如幻。三界如化。一切無常不可久保。』
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻20摂五品』:『須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩住禪那波羅蜜取檀那波羅蜜。佛言。菩薩摩訶薩住禪那波羅蜜離諸欲離惡不善法。有覺有觀離生喜樂。入初禪第二第三第四禪。入慈悲喜捨乃至非有想非無想處。住禪那波羅蜜中心不亂。行二施以施眾生法施財施。自行二施教他行二施。讚歎二施法。歡喜讚歎行二施者。持是功德與眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。不向聲聞辟支佛地。是為菩薩住禪那波羅蜜。取檀那波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住禪那波羅蜜取尸羅波羅蜜。佛言。菩薩住禪那波羅蜜。不生婬慾瞋恚愚癡心。不生惱他心。但修行一切智相應心。持是功德與眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。不向聲聞辟支佛地。是為菩薩住禪那波羅蜜取尸羅波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住禪那波羅蜜取羼提波羅蜜。佛言。菩薩住禪那波羅蜜。觀色如聚沫。觀受如泡。觀想如野馬。觀行如芭蕉。觀識如幻。作是觀時。見五陰無堅固相作是念。割我者誰。截我者誰。誰受誰想誰行誰識。誰罵者誰受罵者。誰生瞋恚。是為菩薩住禪那波羅蜜取羼提波羅蜜。世尊云何菩薩摩訶薩住禪那波羅蜜取毘梨耶波羅蜜。佛言。菩薩住禪那波羅蜜。離欲離惡不善法。有覺有觀離生喜樂。入初禪第二第三第四禪。是諸禪及支不取相。生種種神通。履水如地入地如水。如先說。天耳聞二種聲。若天若人。知他心。若攝心若亂心。乃至有上心無上心。憶種種宿命。如先說。以天眼淨過人眼。見眾生乃至如業受報。如先說。菩薩住是五神通。從一佛國至一佛國。親近供養諸佛種善根。成就眾生淨佛國土。持是功德與眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。是為菩薩住禪那波羅蜜取毘梨耶波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住禪那波羅蜜取般若波羅蜜』
問曰。聲聞法中以城喻身。此中何以說揵闥婆城喻。 問うて曰く、声聞法中に城を以って、身に喩う。此の中には、何を以ってか、犍闥婆城の喩を説く。
問い、
『声聞法』中には、
『城』を以って、
『身』を、
『喩える!』が、
此の中には、
何故、
『犍闥婆城』を以って、
『喩える!』のですか?
  参考:『中阿含経巻1城喩経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。如王邊城七事具足。四食豐饒。易不難得。是故王城不為外敵破。唯除內自壞。云何王城七事具足。謂王邊城造立樓櫓。築地使堅。不可毀壞。為內安隱。制外怨敵。是謂王城一事具足。復次。如王邊城掘鑿池塹。極使深廣。修備可依。為內安隱。制外怨敵。是謂王城二事具足。復次。如王邊城周匝通道。開除平博。為內安隱。制外怨敵。是謂王城三事具足。復次。如王邊城集四種軍力象軍.馬軍.車軍.步軍。為內安隱。制外怨敵。是謂王城四事具足。復次。如王邊城豫備軍器弓.矢.鉾.戟。為內安隱。制外怨敵。是謂王城五事具足。復次。如王邊城立守門大將。明略智辯。勇毅奇謀。善則聽入。不善則禁。為內安隱。制外怨敵。是謂王城六事具足。復次。如王邊城築立高墻。令極牢固。泥塗堊灑。為內安隱。制外怨敵。是謂王城七事具足也。云何王城四食豐饒。易不難得。謂王邊城水草樵木。資有豫備。為內安隱。制外怨敵。是謂王城一食豐饒。易不難得。復次。如王邊城多收稻穀及儲畜麥。為內安隱。制外怨敵。是謂王城二食豐饒。易不難得。復次。如王邊城多積[禾*占]豆及大小豆。為內安隱。制外怨敵。是謂王城三食豐饒。易不難得。復次。如王邊城畜酥油.蜜及甘蔗.糖.魚.鹽.脯肉。一切具足。為內安隱。制外怨敵。是謂王城四食豐饒。易不難得。如是王城七事具足。四食豐饒。易不難得。不為外敵破。唯除內自壞。如是。若聖弟子亦得七善法。逮四增上心。易不難得。是故聖弟子不為魔王之所得便。亦不隨惡不善之法。不為染污所染。不復更受生也。云何聖弟子得七善法。謂聖弟子得堅固信。深著如來。信根已立。終不隨外沙門.梵志。若天.魔.梵及餘世間。是謂聖弟子得一善法。復次。聖弟子常行慚恥。可慚知慚。惡不善法穢汙煩惱。受諸惡報。造生死本。是謂聖弟子得二善法。復次。聖弟子常行羞愧。可愧知愧。惡不善法穢汙煩惱。受諸惡報。造生死本。是謂聖弟子得三善法。復次。聖弟子常行精進。斷惡不善。修諸善法。恒自起意。專一堅固。為諸善本。不捨方便。是謂聖弟子得四善法。復次。聖弟子廣學多聞。守持不忘。積聚博聞。所謂法者。初善.中善.竟亦善。有義有文。具足清淨。顯現梵行。如是諸法廣學多聞。翫習至千。意所惟觀。明見深達。是謂聖弟子得五善法。復次。聖弟子常行於念。成就正念。久所曾習。久所曾聞。恒憶不忘。是謂聖弟子得六善法。復次。聖弟子修行智慧。觀興衰法。得如此智。聖慧明達。分別曉了。以正盡苦。是謂聖弟子得七善法也。云何聖弟子逮四增上心。易不難得。謂聖弟子離欲.離惡不善之法。有覺.有觀。離生喜.樂。逮初禪成就遊。是謂聖弟子逮初增上心。易不難得。復次。聖弟子覺.觀已息。內靜.一心。無覺.無觀。定生喜.樂。逮第二禪成就遊。是謂聖弟子逮第二增上心。易不難得。復次。聖弟子離於喜欲。捨無求遊。正念正智而身覺樂。謂聖所說.聖所捨.念.樂住.空。逮第三禪成就遊。是謂聖弟子逮第三增上心。易不難得。復次。聖弟子樂滅.苦滅。喜.憂本已滅。不苦不樂.捨.念.清淨。逮第四禪成就遊。是謂聖弟子逮第四增上心。易不難得。如是。聖弟子得七善法。逮四增上心。易不難得。不為魔王之所得便。亦不隨惡不善之法。不為染污所染。不復更受生。如王邊城造立樓櫓。築地使堅。不可毀壞。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子得堅固信。深著如來。信根已立。終不隨外沙門。梵志。若天.魔.梵及餘世間。是謂聖弟子得信樓櫓。除惡不善。修諸善法也。如王邊城掘鑿池塹。極使深廣。修備可依。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子常行慚恥。可慚知慚。惡不善法穢汙煩惱。受諸惡報。造生死本。是謂聖弟子得慚池塹。除惡不善。修諸善法也。如王邊城周匝通道。開除平博。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子常行羞愧。可愧知愧。惡不善法穢污煩惱。受諸惡報。造生死本。是謂聖弟子得愧平道。除惡不善。修諸善法也。如王邊城集四種軍力象軍.馬軍.車軍.步軍。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子常行精進。斷惡不善。修諸善法。恒自起意。專一堅固。為諸善本。不捨方便。是謂聖弟子得精進軍力。除惡不善。修諸善法也。如王邊城豫備軍器弓.矢.鉾.戟。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子廣學多聞。守持不忘。積聚博聞。所謂法者。初善.中善.竟亦善。有義有文。具足清淨。顯現梵行。如是諸法廣學多聞。翫習至千。意所惟觀。明見深達。是謂聖弟子得多聞軍器。除惡不善。修諸善法也。如王邊城立守門大將。明略智辯。勇毅奇謀。善則聽入。不善則禁。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子常行於念。成就正念。久所曾習。久所曾聞。恒憶不忘。是謂聖弟子得念守門大將。除惡不善。修諸善法也。如王邊城築立高牆。令極牢固。泥塗堊灑。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子修行智慧。觀興衰法。得如此智。聖慧明達。分別曉了。以正盡苦。是謂聖弟子得智慧牆。除惡不善。修諸善法也。如王邊城水草樵木。資有豫備。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子離欲.離惡不善之法。有覺.有觀。離生喜.樂。逮初禪成就遊。樂住無乏。安隱快樂。自致涅槃也。如王邊城多收稻穀及儲畜麥。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子覺.觀已息。內靜.一心。無覺.無觀。定生喜.樂。逮第二禪成就遊。樂住無乏。安隱快樂。自致涅槃也。如王邊城多積[禾*占]豆及大小豆。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子離於喜欲。捨無求遊。正念正智而身覺樂。謂聖所說.聖所捨.念.樂住.空。逮第三禪成就遊。樂住無乏。安隱快樂。自致涅槃也。如王邊城畜酥油.蜜及甘蔗.糖.魚.鹽.脯肉。一切充足。為內安隱。制外怨敵。如是。聖弟子樂滅.苦滅。喜.憂本已滅。不苦不樂.捨.念.清淨。逮第四禪成就遊。樂住無乏。安隱快樂。自致涅槃。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。』
  参考:『仏説旧城喩経』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。與大眾俱。爾時佛告諸苾芻言。苾芻。我於往昔未證阿耨多羅三藐三菩提時。獨止一處心生疑念。何因世間一切眾生受輪迴苦。謂生老死。滅已復生。由彼眾生不如實知。是故不能出離生老死苦。我今思念此老死苦從何因有。復從何緣有此老死。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。今此老死因生而有。復從生緣而有老死。知此法已。又復思惟。生何因有。復以何緣有此生法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。生因有起。復從有緣起此生法。知此法已。又復思惟有因何起。復以何緣起此有法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。有因取起。復從取緣起此有法。知此法已。又復思惟取何因有。復從何緣有此取法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。取因愛有。復從愛緣有此取法。知此法已。又復思惟愛何因有。復以何緣有此愛法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。愛因受有。復從受緣有此愛法。知此法已。又復思惟受何因有。復以何緣有此受法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。受因觸有。復從觸緣有此受法。知此法已。又復思惟觸何因有。復以何緣有此觸法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。觸因六處有。復從六處緣有此觸法。知此法已。又復思惟。今此六處何因而有。復從何緣有六處法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。而彼六處因名色有。從名色緣有六處法。知此法已。又復思惟。今此名色何因而有。復從何緣有此名色。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。而彼名色因識而有。復從識緣有名色法。知此法已。又復思惟識何因有。復以何緣有此識法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。如是識法因名色有。從名色緣有此識法。唯此識緣能生諸行。由是名色緣識。識緣名色。名色緣六處。六處緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死憂悲苦惱。是故一大苦蘊集。知此法已。又復思惟。以何因故得無老死。何法滅已得老死滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無生法即無老死。生法滅已老死亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無生法得無。何法滅已生法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無有法即無生法。有法若滅生法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無有法不起。何法滅已有法得滅作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無取法有法即無。取法滅已有法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無取法得無。何法滅已取法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無愛法即無取法。愛法滅已取法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無得無愛法。何法滅已愛法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。受法若無愛法即無。受法滅已愛法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無受法得無。何法滅已受法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。觸法若無受法即無。觸法滅已受法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無觸法即無。何法滅已觸法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。六處若無觸法得無。六處滅已觸法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無六處得無。何法滅已六處亦滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。名色若無六處得無。名色滅已六處亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無名色得無。何法滅已名色亦滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。識法若無名色即無。識法滅已名色亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無識法得無。何法滅已識法亦滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。行法若無識法即無。行法若滅識法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無行法得無。何法滅已行法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。無明若無行法即無。無明滅已行法亦滅。由是無明滅則行滅。行滅則識滅。識滅則名色滅。名色滅則六處滅。六處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦惱滅。由是一大苦蘊滅。一一了知如是法已。又復思惟。我今已履佛所行道。已被昔人所被之甲。已到昔人涅盤之城。佛復告言。諸苾芻。譬如有人欲遠所詣。即履昔人所行之道。又被昔人所被之甲。乃尋昔人舊所都城。或行深山或行曠野。行之不已到彼舊城。其城廣大乃是往昔王之所都。而此都城嚴麗依然。池沼園苑皆悉殊好。人之見者心無厭捨。是人見已。即自思惟。我今迴還詣於本國。具以斯事上奏於王。既至本國即奏王曰。大王當知。我被昔人所被之甲。乃履昔人所行之道或行深山或行曠野。行之不已到一舊城。其城廣大。乃是往昔王之都聚。而彼城隍嚴麗依然。池沼園苑皆悉殊好。人所見者心無厭捨。大王。宜應往彼都止。王聞語已。即允所奏。乃與臣佐尋都彼城。而彼都城由王居止。轉更嚴麗人民熾盛豐樂倍常。諸苾芻。我亦如是。履於諸佛舊所行道。被於諸佛所被舊甲。行詣諸佛涅盤舊城。諸苾芻。何謂舊道。何謂舊甲。何謂舊城。即是過去諸佛所行八正之道。所謂正見正思惟正語正業正命正精進正念正定。諸苾芻。此八正道。是即舊道是即舊甲是即舊城。先佛所行我亦履踐。乃可得見彼老死集。是故我證得老死滅。乃至觀見生有取愛受觸六處名色識等皆滅。又觀行集亦令行滅。行法滅已無明亦滅。無明滅已即無所觀。是時我以自神通力成等正覺。諸苾芻。我所宣說如是正法。汝等精勤。應如是學應如是行。記念修習成諸梵行。天上人間宣布法化。廣為眾生作大利益。乃至苾芻尼優婆塞優婆夷婆羅門外道尼乾子等。亦應如是修習宣布。廣為眾生作大利益。爾時世尊說是經已。一切大眾聞佛所說信受奉行』
答曰。聲聞法中城喻眾緣實有。但城是假名。揵闥婆城眾緣亦無。如旋火輪但惑人目。 答えて曰く、声聞法中の城の喩は、衆縁実に有りて、但だ城の是れ仮名なるのみと。犍闥婆城は、衆縁の、亦た無きこと、旋火輪の但だ人の眼を惑わすが如し。
答え、
『声聞法』中の、
『城』は、
こう『喩える!』のである、――
『衆縁(衆材)』は、
『実』に、
『有り!』、
但だ、
『城』は、
『仮名』のみが、
『有る!』と。
『犍闥婆』の、
『城』には、
『衆縁』も、
亦た、
『無い!』のであり、
『旋火輪』が、
『人』の、
『目』を、
『惑わす!』のと同じである。
  旋火輪(せんかりん):梵語alaata-cakraの訳。旋回する炬(a whirling firebrand)の義。
聲聞法中為破吾我故以城為喻。此中菩薩利根深入諸法空中故。以揵闥婆城為喻。以是故。說如揵闥婆城。 声聞法中には、吾我を破らんが為の故に、城を以って喩と為すも、此の中の菩薩は、利根にして、諸法の空中に深入するが故に、犍闥婆城を以って喩と為す。是を以っての故に説かく、『犍闥婆城の如し』と。
『声聞法』中には、
『吾我』を、
『破る!』為の故に、
『城』を、
『喩とする!』が、
此の中の、
『菩薩』は、
『利根であり!』、
諸の、
『法』の、
『空』中に、
『深く入る!』が故に、
『犍闥婆』の、
『城』を以って、
『喩とする!』のである。
是の故に、
こう説く、――
『犍闥婆城のようだ!』と。



夢の如し

如夢者。如夢中無實事謂之有實。覺已知無而還自笑。人亦如是。諸結使眠中實無而著。得道覺時乃知無實亦復自笑。以是故言如夢。 夢の如しとは、夢中に実無きが如きに、之を実有りと謂い、覚め已りて無きことを知り、還って自ら笑う。人も、亦た是の如く、諸結使の眠中に、実は無けれども、而も著す。道を得て覚むる時、乃ち実無きを知り、亦復た自ら笑う。是を以っての故に言わく、『夢の如し』と。
『夢のようだ!』とは、――
『夢』中に、
『実』の、
『事』が、
『無い!』のに、
之を、
『実』が、
『有る!』と、
『思い!』、
『覚めた!』時、
『実』が、
『無かった!』と、
『知って!』、
還ってまた、
『自ら』を、
『笑う!』。
『人』も、
亦た、
是のように、
諸の、
『結使』の、
『眠』中には、
『実』が、
『無い!』のに、
『著していた!』が、
『道』を、
『得て!』、
『覚めた!』時、
乃ち(ようやく)、
『実』が、
『無かった!』と、
『知り!』、
亦復た、
『自ら』を、
『笑う!』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『夢のようだ!』と。
復次夢者眠力故無法而見。人亦如是。無明眠力故。種種無而見有。所謂我我所男女等。 復た次ぎに、夢とは、眠の力の故に、法無くして見る。人も、亦た是の如く、無明の眠の力の故に、種種に無なるを、有りと見る。謂わゆる我、我所、男、女等なり。
復た次ぎに、
『夢』とは、
『眠』の、
『力』の故に、
『法』が、
『無くても!』、
『見る!』ことをいうが、
『人』も、
亦た、
是のように、
『無明』という、
『眠』の、
『力』の故に、
種種に、
『無い!』ものを、
『有る!』と、
『見る!』、
謂わゆる、
『我、我所、男、女』等である。
復次如夢中無喜事而喜。無瞋事而瞋。無怖事而怖。三界眾生亦如是。無明眠故不應瞋而瞋。不應喜而喜。不應怖而怖。 復た次ぎに、夢中には喜事無くして喜び、瞋事無くして瞋り、怖事無くして怖るるが如く、三界の衆生も、亦た是の如く、無明の眠の故に、応に瞋るべからざるに、瞋り、応に喜ぶべからざるに、喜び、応に怖るべからざるに、怖る。
復た次ぎに、
『夢』中には、
『喜ぶべき!』、
『事』が、
『無い!』のに、
『喜び!』、
『瞋るべき!』、
『事』が、
『無い!』のに、
『瞋り!』、
『怖るべき!』、
『事』が、
『無い!』のに、
『怖れる!』が、
『三界』の、
『衆生』も、
亦た、
是のように、
『無明』の、
『眠』の故に、
『瞋るべきでない!』、
『事』を、
『瞋り!』、
『喜ぶべきでない!』、
『事』を、
『喜び!』、
『怖れるべきでない!』、
『事』を、
『怖れる!』。
復次夢有五種。若身中不調。若熱氣多則多夢見火見黃見赤。若冷氣多則多見水見白。若風氣多則多見飛見黑。又復所聞見事。多思惟念故則夢見。或天與夢欲令知未來事故。是五種夢皆無實事而妄見。 復た次ぎに、夢には、五種有り。若しは身中の調わざるとき、若しは熱気多きときには、則ち多く夢に、火を見、黄を見、赤を見る。若し冷気多きときには、則ち多く水を見、白を見る。若し風気多きときには、則ち多く飛を見、黒を見る。又復た聞見する所の事を、多く思惟し念ずるが故に、則ち夢に見る。或いは天、夢に与(あずか)りて、未来の事を知らしめんと欲するが故なり。是の五種の夢は、皆、実事無きに、妄見す。
復た次ぎに、
『夢』には、
『五種』有り、
若し、
『身』中が、
『調わない!』とか、
『熱気が多い!』とかであれば、
則ち、
『多く!』の、
『夢』に、
『火』や、
『黄』や、
『赤』を、
『見る!』。
若し、
『身』中に、
『冷気が多い!』時には、
則ち、
『多く!』の、
『夢』に、
『水』や、
『白』を、
『見る!』。
若し、
『身』中に、
『風気が多い!』時には、
則ち、
『多く!』の、
『夢』に、
『飛(羽虫)』や、
『黒』を、
『見る!』。
又復た、
『見聞する!』所の、
『事』を、
『多く!』、
『思惟して!』、
『念じる!』が故に、
則ち、
『夢』に、
『見る!』。
或いは、
『天』が、
『夢』を見せて、
『未来』の、
『事』を、
『知らそう!』とするが故に、
『見る!』。
是の、
『五種』の、
『夢』は、
皆、
『実』の、
『事』が、
『無い!』が、
而も、
『夢』中に、
『事』を、
『妄見する!』のである。
  (ひ):羽虫。禽鳥。
人亦如是。五道中眾生。身見力因緣故。見四種我。色陰是我。色是我所。我中色色中我。如色受想行識亦如是。四五二十。得道實智慧覺已知無實。 人も、亦た是の如く、五道中の衆生は、身見の力の因縁の故に、四種の我を、『色陰は、是れ我なり』、『色は、是れ我所なり』、『我中に色あり』、『色中に我あり』と見る。色の如く、受想行識も亦た是の如ければ、四五の二十あり。道を得て、実の智慧覚め已れば、実無きことを知る。
『人』も、
亦た、
是のように、
『五道』中の、
『衆生』は、
『身見』の、
『力』という、
『因縁』の故に、
『四種』の、
『我』を、
『見る!』、
謂わゆる、
『色陰が、我である!』、
『色が、我所である!』、
『我中に、色がある!』、
『色中に、我がある!』であり、
『色』のように、
『受、想、行、識』も、
亦た、
是の通りなので、
『五、四の二十』である。
若し、
『道』を得て、
『実』の、
『智慧』が、
『覚める!』と、
こう知ることになる、――
『我』に、
『実』は、
『無い!』と。
  身見(しんけん):梵語satkaaya-dRSTiの訳。五邪見の一。人格の存在に関する異教的邪見の義。我、及び我所の存在に執するを云う。『大智度論巻35下注:五見』参照。
  参考:『雑阿含経巻5(109)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。譬如池水方五十由旬。深亦如是。其水盈滿。復有士夫。以毛.以草。或以指爪。以渧彼水。諸比丘。於意云何。彼士夫水渧為多。池水為多。比丘白佛。彼士夫以毛.以草。或以指爪。所渧之水少。少不足言。池水甚多。百千萬倍。不可為比。如是。諸比丘。見諦者所斷眾苦。如彼池水。於未來世。永不復生。爾時。世尊說是法已。入室坐禪。時。尊者舍利弗於眾中坐。世尊入室去後。告諸比丘。未曾所聞。世尊今日善說池譬。所以者何。聖弟子具足見諦。得無間等果。若凡俗邪見.身見.根本身見.集身見.生身見起。謂憂慼隱覆。慶吉保惜.說我.說眾生.說奇特矜舉。如是眾邪悉皆除滅。斷除根本。如折多羅樹。於未來世更不復生。諸比丘。何等為見諦聖弟子斷上眾邪。於未來世永不復起。愚癡無聞凡夫見色是我.異我.我在色.色在我。見受.想.行.識。是我.異我.我在識.識在我。云何見色是我。得地一切入處正受。觀已。作是念。地即是我。我即是地。我及地唯一無二。不異不別。如是水.火.風.青.黃.赤.白一切入處正受。觀已。作是念。行即是我。我即是行。唯一無二。不異不別。如是於一切入處。一一計我。是名色即是我。云何見色異我。若彼見受是我。見受是我已。見色是我所。或見想.行.識即是我。見色是我所。云何見我中色。謂見受是我。色在我中。又見想.行.識即是我。色在我中。云何見色中我。謂見受即是我。於色中住。入於色。周遍其四體。見想。行。識是我。於色中住。周遍其四體。是名色中我。云何見受即是我。謂六受身。眼觸生受。耳.鼻.舌.身.意觸生受。此六受身一一見是我。我是受。是名受即是我。云何見受異我。謂見色是我。受是我所。謂想.行.識是我。受是我所。是名受異我。云何見我中受。謂色是我。受在其中。想.行.識是我。受在其中。云何見受中我。謂色是我。於受中住。周遍其四體。想.行.識是我。於受中住。周遍其四體。是名受中我。云何見想即是我。謂六想身。眼觸生想。耳.鼻.舌.身.意觸生想。此六想身一一見是我。是名想即是我。云何見想異我。謂見色是我。想是我所。識是我。想是我所。是名想異我。云何見我中想。謂色是我。想在中住。受.行.識是我。想在中住。云何見想中我。謂色是我。於想中住。周遍其四體。是名想中我。云何見行是我。謂六思身。眼觸生思。耳.鼻.舌.身意觸生思。於此六思身一一見是我。是名行即是我。云何見行異我。謂色是我。行是我所。受.想.識是我。行是我所。是名行異我。云何見我中行。謂色是我。行在中住。受.想.行.識是我。行在中住。是謂我中行。云何見行中我。謂色是我。於行中住。周遍其四體。謂受.想.識是我。於行中住。周遍其四體。是名行中我。云何見識即是我。謂六識身。眼識.耳.鼻.舌.身.意識身。於此六識身一一見是我。是名識即是我。云何見識異我。見色是我。識是我所。見受.想.行是我。識是我所。是名識異我。云何見我中識。謂色是我。識在中住。受.想.行是我。識在中住。是名我中識。云何識中我。謂色是我。於識中住。周遍其四體。受.想.行是我。於識中住。周遍其四體。是名識中我。如是聖弟子見四真諦。得無間等果。斷諸邪見。於未來世永不復起。所有諸色。若過去.若未來.若現在.若內.若外.若麤.若細.若好.若醜.若遠.若近。一向積聚。作如是觀。一切無常.一切苦.一切空.一切非我。不應愛樂.攝受.保持。受.想.行.識亦復如是。不應愛樂.攝受.保持。如是觀。善繫心住。不愚於法。復觀精進。離諸懈怠。心得喜樂。身心猗息。寂靜捨住。具諸道品。修行滿足。永離諸惡。非不消煬.非不寂滅。滅而不起.減而不增.斷而不生。不生.不取.不著。自覺涅槃。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。舍利弗說是法時。六十比丘不受諸漏。心得解脫。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。不應言夢無實。何以故識心得因緣。便生夢中識。有種種緣。若無此緣云何生識。 問うて曰く、応に、『夢に、実無し』と言うべからず。何を以っての故に、心に因縁を得たるを識りて、便ち夢中に識を生ずれば、種種の縁有り。若し、此の縁無くんば、云何が、識を生ぜん。
問い、
当然、
こう言うべきでない!――
『夢』には、
『実』が、
『無い!』と。
何故ならば、
『心』に、
『得た!』、
『因縁』を、
『識る!』から、
『夢』中に、
『識』を、
『生じる!』のであり、
『夢』には、
種種の、
『縁』が、
『有る!』。
若し、
此の、
『縁』が、
『無かった!』ならば、
何のようにして、
『識』を、
『生じる!』のですか?
答曰。無也不應見而見。夢中見人頭有角。或夢見身飛虛空。人實無角身亦不飛。是故無實。 答えて曰く、無きなり。応に見るべからざるに、見ればなり。夢中には、人の頭に角有るを見、或いは夢に、身の虚空を飛ぶを見るも、人には、実に角無く、身も亦た飛ばず。是の故に、実無し。
答え、
『夢』に、
『実』は、
『無い!』。
当然、
『見るべきでない!』のに、
『見る!』からである。
『夢』中には、
『人』の、
『頭』に、
『角』が、
『有る!』と、
『見たり!』、
或いは、
『身』が、
『虚空』を、
『飛ぶ!』ことを、
『見る!』が、
而し、
『人』には、
『実』に、
『角』が、
『無く!』、
『身』も、
亦た、
『飛ばない!』ので、
是の故に、
『実』が、
『無い!』のである。
問曰。實有人頭餘處亦實有角。以心惑故見人頭有角。實有虛空亦實有飛者。以心惑故自見身飛非無實也。 問うて曰く、実に、人には頭有り、余の処にも、亦た実に角有り。心の惑えるを以っての故に、人の頭に角有るを見る。実に虚空有り、亦た実に飛ぶ者有り。心の惑えるを以っての故に、自ら身の飛ぶを見れば、実無きに非ざるなり。
問い、
『実』に、
『人』には、
『頭』が、
『有り!』、
余の処には、
『実』に、
『角』が、
『有る!』ので、
『心』が、
『惑う!』が故に、
『人』の、
『頭』は、
『角』が、
『有る!』ことを、
『見る!』のであり、
『実』に、
『虚空』が、
『有り!』、
亦た、
『実』に、
『飛ぶ!』者も、
『有る!』ので、
『心』が、
『惑う!』が故に、
『自ら』の、
『身』が、
『飛ぶ!』のを、
『見る!』のである。
『夢』に、
『実』が、
『無いわけではない!』。
答曰。雖實有人頭雖實有角。但人頭生角者是妄見。 答えて曰く、実に人の頭有りと雖も、実に角有りと雖も、但だ人の頭に、角を生ずれば、是れ妄見なり。
答え、
『実』に、
『人』には、
『頭』が、
『有り!』、
『実』に、
『角』も、
『有る!』が、
但だ、
『人』の、
『頭』に、
『角』が、
『生えた!』となれば、
是れは、
『妄見である!』。
問曰。世界廣大先世因緣種種不同。或有餘國人頭生角。或一手一足有一尺人有九頭人人有角何所怪。 問うて曰く、世界は広大にして、先世の因縁は種種不同なり。或いは有る余の国の人は、頭に角を生じ、或いは一手、一足ならん、有るいは一尺の人ならん、有るいは九頭の人ならん。人に角有りとも、何の怪しむ所ぞ。
問い、
『世界』は、
『広大』であり、
『先世』の、
『因縁』は、
種種、
『不同である!』。
或いは、
有る、
余の国の、
『人』は、
『頭』に、
『角』が、
『生えている!』だろう。
或いは、
『一手』、
『一足』や、
有るいは、
『一尺』の、
『人』かも、
『知れない!』し、
有るいは、
『九頭』の、
『人』かも、
『知れない!』。
若し、
『人』の、
『頭』に、
『角』が、
『有った!』としても、
何うして、
『怪しまれなくてはならない!』のですか?
答曰。若餘國人有角可爾。但夢見此國所識人有角則不可得。 答えて曰く、若し、余の国の人に、角有れば、爾るべし。但だ、此の国の識る所なる人を、夢に見て、角有らば、則ち得べからざればなり。
答え、
若し、
余の国の、
『人』に、
『角』が、
『有る!』となれば、
爾れも、
『有るだろう!』。
但だ、
此の国に、
『識る!』所の、
『人』を、
『夢』に、
『見て!』、
『頭』に、
『角』が、
『有った!』ならば、
則ち、
『有得ない!』のである。
復次若人夢見虛空邊方邊時邊。是事云何有實。何處無虛空無方無時。以是故夢中無而見有。 復た次ぎに、若し人、夢に虚空の辺、方の辺、時の辺を見ば、是の事に、云何が実有らん。何処にか、虚空無く、方無く、時無き。是を以っての故に、夢中には、無なるを、有りと見る。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『夢』に、
『虚空の辺』、
『四方の辺』、
『時の辺』を、
『見た!』とすれば、
是の、
『事』に、
何のような、
『実』が、
『有る!』というのか?
何処に、
『虚空』や、
『四方』や、
『時』が、
『無い!』というのか?
是の故に、
『夢』中には、
『実』が、
『無い!』のに、
『有る!』と、
『見る!』のである。
汝先言無緣云何生識。雖無五塵緣。自思惟念力轉故。法緣生。 汝は先に言えり、『縁無くんば、云何が識を生ぜん』と。五塵の縁無しと雖も、自ら思惟し念ずる力の転ずるが故に、法と縁と生ずるなり。
お前は、
先に、こう言った、――
『縁』が、
『無い!』のに、
何うして、
『識』を、
『生じる!』のか?と。
『五塵』という、
『縁』が、
『無かった!』としても、
自ら、
『思惟して!』、
『念じる!』、
『力』が、
『識()』を、
『転じる!』が故に、
『法』という、
『縁』が、
『生じる!』のである。
若人言有二頭因語生想。夢中無而見有亦復如是。諸法亦爾。諸法雖無而可見可聞可知。 若しは、人の言わく、『二頭有り』と。語に因り、想を生じて、夢中に、無きを有りと見ることも、亦復た是の如し。諸法も亦た爾り、諸法は、無しと雖も、見るべく、聞くべく、知るべし。
若しは、
『人』が、
『頭』は、
『二つ有る!』と、
『言った!』ので、
『語(ことば)』に因って、
『想』を、
『生じて!』、
『夢』中に、
『無い!』のに、
『有る!』と、
『見る!』のも、
亦復た、
是の通りである。
諸の、
『法』も、
亦た、
爾のように、
諸の、
『法』が、
『無い!』ときにも、
『見ることもでき!』、
『聞くこともでき!』、
『知ることもできる!』のである。
如偈說
 如夢如幻  如揵闥婆 
 一切諸法  亦復如是
以是故說諸菩薩知諸法如夢。
偈に説くが如し、
夢の如く幻の如く、犍闥婆の如し、
一切の諸法も、亦復た是の如し。
是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、諸法の夢の如きを知る』と。
『偈』に、こう説く通りである、――
『夢』か、
『幻』か、
『犍闥婆のようだ!』、
一切の、
諸の、
『法』も、
亦復た、
是の通りだ!と。
是の故に、
こう説く、――
諸の、
『菩薩』は知っている!――、
諸の、
『法』は、
『夢のようだ!』と。



影の如し

如影者。影但可見而不可捉。諸法亦如是。眼情等見聞覺知實不可得。 影のごとしとは、影は、但だ見るべくして、捉らうべからず。諸法も、亦た是の如く、眼情等は、見聞、覚知するも、実を得べからず。
『影のようだ!』とは、――
『影』は、
但だ、
『見ることができる!』だけで、
『捉えることはできない!』。
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『眼情(眼根)』等が、
『見聞したり!』、
『覚知する!』が、
『法』中に、
『実』は、
『得られない!』のである。
如偈說
 是實知慧  四邊叵捉 
 如大火聚  亦不可觸 
 法不可受  亦不應受
偈に説くが如し、
是の実を知る慧も、四辺は捉えがたし、
大火聚の如く、亦た触るべからず、
法は受くべからず、亦た応に受くべからず。
『偈』に、こう説く通りである、――
是の、
『実』を、
『知る!』、
『智慧』にも、
『四辺』を、
『取る!』ことは、
『できない!』、
『大火聚』のように、
『触れる!』ことも、
『できない!』、
『法』は、
『受ける!』ことが、
『できない!』が、
亦た、
『受ける!』に、
『ふさわしくない!』と。
復次如影映光則現不映則無。諸結煩惱遮正見光。則有我相法相影。 復た次ぎに、影の、光を映せば、則ち現われ、映さざれば、則ち無きが如く、諸結、煩悩の、正見の光を遮れば、則ち我相、法相の影有り。
復た次ぎに、
『影』が、
『光』の、
『映る!』ときには、
『現われ!』、
『光』の、
『映らない!』ときには、
『無い!』ように、
諸の、
『結使』や、
『煩悩』が、
『正見』の、
『光』を、
『遮る!』ので、
則ち、
『我相』や、
『法相』の、
『影』が、
『有る!』のである。
  (よう):うつす。うつる。はえる。光輝の反射をいう。明。照。
復次如影人去則去人動則動人住則住。善惡業影亦如是。後世去時亦去。今世住時亦住。報不斷故罪福熟時則出。 復た次ぎに、影の、人去れば、則ち去り、人動けば、則ち動き、人住まれば、則ち住まるが如く、善悪の業の影も、亦た是の如く、後世に去る時には、亦た去り、今世に住まる時には、亦た住まり、報の断ぜざるが故に、罪福の熟する時には、則ち出づるなり。
復た次ぎに、
『影』は、
『人』が、
『去る!』と、
『去り!』、
『人』が、
『動く!』と、
『動き!』、
『人』が、
『住まる!』と、
『住まる!』ように、
『善悪』の、
『業』の、
『影』も、
亦た、
是のように、
『人』が、
『後世』に、
『去る!』時に、
『去り!』、
『今世』に、
『住まる!』時には、
『住まる!』ので、
『業』の、
『報』は、
『断たれない!』、
故に、
『罪福』の、
『報』が、
『熟する!』時、
則ち、
『出てくる!』のである。
如偈說
 空中亦逐去  山石中亦逐 
 地底亦隨去  海水中亦入 
 處處常隨逐  業影不相離
以是故說諸法如影。
偈に説くが如し、
空中にも亦た逐うて去り、山石中にも亦た逐い、
池底にも亦た随うて去り、海水中にも亦た入り、
処処常に随逐して、業の影は相離れず。
是を以っての故に説かく、『諸法は、影の如し』と。
『偈』に、こう説く通りである、――
『空』中にも、
『逐うて!』、
『行き!』、
『山石』中にも、
『後に!』、
『随い!』、
『池底』にも、
『随うて!』、
『入り!』、
『海水』中にも、
『逐うて!』、
『入る!』、
何処であろうと、
常に、
『後を!』、
『逐い!』、
『業』の、
『影』は、
『離れない!』と。
是の故に、
こう説く、――
諸の、
『法』は、
『影のようだ!』と。
復次如影空無。求實不可得。一切法亦如是空無有實。 復た次ぎに、影の空にして無く、実を求めて得べからざるが如く、一切の法も、亦た是の如く、空にして、実有ること無し。
復た次ぎに、
譬えば、
『影』が、
『空』にして、
『無く!』、
『影』に、
『実』を、
『求めても!』、
『得られない!』ように、
一切の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『空であって!』、
『実』が、
『無い!』、
問曰。影空無有實是事不然。何以故。阿毘曇說。云何名色入。青黃赤白黑縹紫光明影等。及身業三種作色。是名可見色入。汝云何言無。 問うて曰く、影は空にして、実有ること無しとは、是の事然らず。何を以っての故に、阿毘曇の説かく、『云何が、色入の名づくる。青、黄、赤、白、黒、縹、紫、光、明、影等、及び身業の三種の作色、是れを可見の色入と名づく』と。汝は、云何が、『無し』と言う。
問い、
『影』が、
『空』で、
『実』が、
『無い!』という、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何故ならば、
『阿毘曇』に、こう説くからである、――
何を、
『色入』と、
『称する!』のか?
謂わゆる、
『青、黄、赤、白、黒、縹(淡青色)、紫、光、明、影』等、及び、
『身業』の、
『三種(善、悪、無記)』の、
『作色』は、
是れを、
『可見』の、
『色入』と、
『称する!』と。
あなたは、
何故、
こう言うのですか?――
『無い!』と。
  作色(さしき):梵語vijJapti(-ruupa)の訳。新に表色と訳す。人をして知らしむる(report、to make known)の義。表示する色の意。自心を表示して他をして知らしむる一種の形色にして、即ち身の屈伸動作を云う。『大智度論巻13上注:表色、無表色』参照。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻8』:『色入有二十一種。所謂青黃赤白長短方圓適不適高下。光影明闇。煙雲塵霧虛空色。問曰。為緣一色能生眼識。為緣多色能生眼識。若緣一色能生眼識者。此云何通。如說眼能緣五色。若緣多色能生眼識者。云何不有二覺意。有二覺意。則有多體。答曰。緣一種色。能生眼識。問曰。若然者。能緣五色云何通。尊者和須蜜。答曰。於緣捷疾故。佛說俱緣。如旋火輪。而實不匝。以捷疾故。而似輪像。彼亦如是。尊者佛陀提婆說曰。於色不決了故言俱緣。如觀樹林葉。有種種諸色。彼亦如是。復有說者。如五色。能生一色。見一色時。名見五色。復次若諸色集聚。則見多色生一識若諸色別異。則見一色生一識。
聲入有八種有內大因聲。有外大因聲。內大因聲有二種。有適意不適意。外大因聲亦如是。有眾生數。有非眾生數。眾生數有二種。適意不適意。非眾生數亦如是。為緣一聲能生耳識。為緣多聲能生耳識。若但緣一聲能生耳識者。如今一時能聞五樂聲。亦聞多人誦聲。若緣多聲生耳識者。云何不有二心。乃至廣說。答曰。應作是說。緣一聲生耳識。問曰。若然者。不於一時聞五樂聲及多人誦聲耶。答曰。五樂聲多人誦聲。同是一聲。能生耳識。復有說者。若諸聲聚集。則緣多聲。能生一識。若聲別異。則緣一聲。而生一識。
香入有四種。有好有惡。好有二種。有等有增減。惡香亦爾。問曰。為緣一香能生鼻識。為緣多香能生鼻識。若緣一香生鼻識者。如今一時能嗅百種和香。若緣多香生鼻識者。云何不有二心。乃至廣說。答曰。應作是說。緣一香能生鼻識。問曰。若然者。不能一時嗅百種香耶。答曰。或有說者。百種香能生一種香。生於鼻識。如是說者好。如多香聚集。則嗅多香。生於一識。若香別異。則嗅一香。能生一識。
味入有六種。甜酢鹹辛苦澹。問曰。為緣一味能生舌識。為緣多味能生舌識。若緣一味能生舌識者。如今一時能嘗百味歡喜丸等。若緣多味能生舌識者。云何不有二心。乃至廣說。答曰。應作是說。緣於一味。能生舌識。問曰。若然者。不能一時嘗百味歡喜丸耶。答曰。或有說者。百味歡喜丸。能生一種味。生於舌識。如是說者好。如多味聚集。則嘗多味。生於一識。若味別異。則嘗一味生於一識。
觸入有十一種。四大澀滑輕重冷飢渴。問曰。為緣一觸能生身識。為緣多觸能生身識。答曰。十一種觸。能生十一種身識。復有說者。五觸能生一身識。如四大及滑。生一身識。如是四大。乃至及渴。生一身識。問曰。若然者。云何不名總緣境界。答曰。同一觸入故。不名總緣境界。評曰。不應作是說。如前說者好。問曰。為嗅嘗覺身中香味觸。不若嗅嘗覺身中香味觸者。云何檀越所施。而有果報。復云何不於一切時嗅嘗覺耶。若嗅嘗覺外香味觸。外香味觸。與內香味觸。無有因義。答曰。應作是說。能緣內香味觸。問曰。若然者。云何檀越所施。而有果報。云何不一切時嗅嘗覺耶。答曰外香味觸。能發內香味觸。以是事故。名之為食。復有說者。亦嗅嘗覺觸。內入外入。若時覺內則不知外。覺外則不知內。問曰。內香味觸。體無增減。云何嗅嘗覺觸。答曰。彼法雖無增減。亦為識所緣所知。
法入有七種。無作假色受想行虛空數緣滅非數緣滅。問曰。為緣一法生意入。為緣多法生意入。答曰。一法亦生。二三乃至多法亦生。唯除自體相應共有。餘一切法。能生意識。曾聞菩薩六識猛利。為知幾所法名為猛利。答曰。菩薩宮邊。有阿泥盧頭舍。舍中次第行列。然五百燈。菩薩爾時於自宮中。不見彼燈及與燈焰。但見其光。知然五百燈。若一燈滅時。菩薩作是言。彼五百燈中。一燈已滅。以是事故。言眼識猛利。阿泥盧頭舍中。有五百伎女。作樂歌舞。菩薩聞聲。知有五百伎女中或琴弦絕。或時睡眠不彈琴時。菩薩亦知。是名耳識猛利。菩薩宮中。常燒百種和香。菩薩嗅之。便知是百種香。彼合香者。欲試菩薩。於百種中。或增或減。若燒香時。菩薩亦知本有百種今增爾所種減爾所種。是名鼻識猛利。菩薩食時。常有百味歡喜丸。彼諸使人。於百味中。或增或減。菩薩即知。以是事故。名舌識猛利。菩薩洗浴時。侍者奉劫波育[疊*毛]。菩薩觸時。即便知彼織[疊*毛]師身有熱病。以是事故。名身識猛利。菩薩意根。於一切法。而無罣礙。以是事故。名意識猛利』
復次實有影有因緣故。因為樹緣為明。是二事合有影生。云何言無。若無影。餘法因緣有者亦皆應無。 復た次ぎに、実に影有り、因縁有るが故なり。因を樹と為し、縁を明と為す、是の二事合して、影の生ずる有り。云何が、『無し』と言う。若し、影無くんば、余の法の因縁有る者も、亦た皆応に無かるべし。
復た次ぎに、
『実』に、
『影』は、
『有る!』、
何故ならば、
『因縁』を、
『有する!』からである。
譬えば、
『因』を、
『樹!』とし、
『縁』を、
『明!』とすれば、
是の、
『二つ!』の、
『事』が、
『合する!』が故に、
有る、
『影』が、
『生じる!』のである。
何故、
『無い!』と、
『言う!』のですか?
若し、
『影』が、
『無ければ!』、
余の、
『法』も、
『因縁』の、
『有る!』者は、
亦た、
当然、
皆、
『無いはず!』です。
復次是影色可見。長短大小麤細曲直形動影亦動。是事皆可見。以是故應有。 復た次ぎに、是の影の色は、可見の長短、大小、麁細、曲直にして、形、動けば、影も、亦た動く。是の事は、皆、可見なり。是を以っての故に、応に有るべし。
復た次ぎに、
是の、
『影』という、
『色』は、
『可見』の、
『長短』、
『大小』、
『麁細』、
『曲直』であり、
『形(本体)』が、
『動く!』時には、
『影』も、
亦た、
『動く!』が、
是の、
『事』は、
皆、
『可見である!』。
是の故に、
『影』は、
当然、
『有るはず!』です。
答曰影實空無。汝言阿毘曇中說者。是釋阿毘曇義人所作說。一種法門人不體其意。執以為實。 答えて曰く、影は、実に空にして、無し。汝が言う阿毘曇中の説とは、是れ、阿毘曇の義を釈する人の作せる所なり。一種の法門を説く人は、其の意を体せざるに、執して以って実と為す。
答え、
『影』は、
『実』に、
『空であり!』、
『無である!』。
お前の言う!、
『阿毘曇』中の、
『説』とは、
是れは、
『阿毘曇』の、
『義』を、
『釈する!』、
『人』の、
『作す!』所である。
『法門』を、
『一種しか!』、
『説かない!』、
『人』は、
其の、
『法』の、
『体意(旨趣)』を、
『深く!』、
『了解しない!』ので、
『法』の、
『文句』に、
『著して!』、
『実だ!』と、
『思う!』のである。
  体意(たいい):体は接納の義。意を体す。その旨意を了解してよく守ること。
如鞞婆沙中說。微塵至細不可破不可燒。是則常有。復有三世中法。未來中出至現在。從現在入過去。無所失。是則為常。又言諸有為法新新生滅不住。若爾者是則為斷滅相。何以故。先有今無故。如是等種種異說違背佛語。不可以此為證 鞞婆沙中の如きに説かく、『微塵の至細は、破るべからず、焼くべからず』と、是れ則ち常有なり。復た有るは、『三世中の法は、未来中より出でて、現在に至り、現在より過去に入るも、失う所無し』と、是れ則ち常と作す。又言わく、『諸の有為法は新新として生滅して住せず』と。若し爾らば、是れ則ち断滅の相と為す。何を以っての故に、先に有り、今無きが故なり。是の如き等は、種種の異説にして、仏語に違背すれば、此を以って、証と為すべからず。
『鞞婆沙(阿毘曇の註釈書)』中に、
こう説く通りである、――
『微塵の至細(極微)』は、
『破ることもできず!』、
『焼くこともできない!』と。
是れは、
『常有である!』。
復た、こう有る、――
『三世』中の、
『法』は、
『未来世』中より出て、
『現在』に、
『至り!』、
『現在』より、
『過去』に、
『至る!』ので、
則ち、
『失う!』所が、
『無い!』と。
是れは、
則ち、
『常である!』。
又、こう言う、――
諸の、
『有為法』は、
『新新』として、
『生、滅する!』ので、
『住まらない!』と。
若し、
そうならば、
是れは、
『断滅』という、
『相である!』。
何故ならば、
先に、
『有った!』ものが、
今、
『無い!』からである。
是れ等は、
種種の、
『異説(外道の説)』であり、
『仏』の、
『語(ことば)』に、
『違背する!』ので、
此れを以って、
『証(証拠)』と、
『為すべきでない!』。
  鞞婆娑(びばしゃ):梵語vibhaaSaaの訳語にして、また鼻婆沙、毘婆沙、毘頗沙等に作り、訳して広説、勝説、異説等に為す。ここには乃ち『阿毘達磨大毘婆沙論200巻』を指す。
  微塵(みじん):梵語aNu-raja或はaNu-rajasの訳。眼根所取の最も微細なる色量をいう。『大智度論巻5上注:微塵』参照。
  至細(しさい):微塵中の至極微細なるもの、即ち一切の色法を組成せる原素にして、更に分析すべからざる色を云う。又極微(梵pramaaNu-rajas)と名づく。『大智度論巻12上注:極微』参照。
  新新(しんしん):次第にあたらしくなるさま。
  異説(いせつ):梵語anyathaa-bhaaSaNaの訳。異なる説の義。外道の説の意。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻75』:『復作是說。有變礙相名有色相。問若有變礙相名有色相者。過去未來極微無表既無變礙應無色相。若無色相體應非色。答彼亦是色得色相故。謂過去色雖今無變礙而曾有變礙。未來色雖今無變礙而當有變礙極微一一雖無變礙而多積集即有變礙。無表自體雖無變礙而彼所依有變礙故亦名變礙。所依者何謂四大種。所依有變礙故無表亦可說有變礙。如樹動時影亦隨動。』
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻76』:『復有三法。謂過去未來現在法。問何故作此論。答為止他宗顯正理故。謂或有執。世與行異。如譬喻者分別論師。彼作是說。世體是常行體無常。行行世時如器中果。從此器出轉入彼器。亦如多人從此舍出轉入彼舍。諸行亦爾。從未來世入現在世。從現在世入過去世。為止彼意顯世與行體無差別。謂世即行行即是世。故大種蘊作如是說。世名何法。謂此增語所顯諸行。復有愚於三世自性。謂撥無過去未來。執現在是無為法。為止彼意顯過去未來體相實有。及顯現在是有為法。所以者何。若過去未來非實有者。應無成就及不成就。如第二頭第三手第六蘊第十三處第十九界。無有成就及不成就。過去未來法亦應爾。既有成就及不成就。故知實有過去未來。又應詰彼撥無過去未來體者。若有異熟因在現在世時。彼所得果當言在何世。過去耶未來耶現在耶。若言在過去應說有過去。若言在未來應說有未來。若言在現在應說異熟因果同時。如是便違伽他所說 作惡不即受  非如乳成酪  猶灰覆火上  愚蹈久方燒  若言彼果不在三世彼應無果。以異熟果非無為故。若無果者因亦應無。如第二頭第三手等。若有異熟果在現在世時。彼所酬因當言在何世。過去耶未來耶現在耶。若言在過去應說有過去。若言在未來應說有未來。若言在現在應說異熟因果同時。如是便違前所引頌。若言彼因不在三世。彼應無因。以異熟因非無為故。若無因者果亦應無。如第二頭第三手等。復次若過去未來非實有者。應無出家受具戒義。如有頌言 若執無過去  應無過去佛  若無過去佛  無出家受具』
影今異於色法。色法生必有香味觸等。影則不爾是為非有。 影は、今、色法に異なる。色法生ずれば、必ず香味触等有り。影は、則ち爾らず。是れを有に非ずと為す。
『影』は、
今即ち、
『色法』と、
『異なる!』、
『色法』が、
『生じる!』と、
必ず、
『香、味、触』等を、
『有する!』が、
『影』は、
則ち、
そうでない!ので、
是れは、
『有ではない!』。
如瓶二根知眼根身根。影若有亦應二根知。而無是事以是故影非有實物。但是誑眼法。如捉火[火*曹]疾轉成輪非實。 瓶の如きは、二根知る、眼根、身根なり。影が、若し有らば、亦た応に二根知るべし。而れども是の事無し。是を以っての故に、影は、実の物を有するに非ず。但だ、是れ眼を誑す法なり。火㷮を捉えて、疾かに転じて、輪を成ずるも、実に非ざるが如し。
『瓶』などは、
『二根』の、
『眼根、身根』で、
『知る!』ので、
『影』が、
若し、
『有った!』ならば、
亦た、
当然、
『二根』で、
『知るはず!』である。
而し、
是の、
『事』は、
『無い!』ので、
是の故に、
『影』は、
『実』の、
『物』を、
『有することはなく!』、
但だ、
『眼』を、
『誑す!』、
『法でしかない!』。
譬えば、
『火㷮』を、
『手』に捉って、
『疾かに!』、
『転じる!』と、
『輪』を、
『成す!』が、
『実でない!』のと同じである。
  火㷮(かそう):木の燃え残り。
影非有物若影是有物。應可破可滅。若形不滅影終不壞。以是故空。 影は、物を有するに非ず。若し影にして、是れ物を有せば、応に破すべく、滅すべし。若し形滅せざれば、影は終に壊せず。是を以っての故に、空なり。
『影』は、
『物』を、
『有することはない!』。
若し、
『影』が、
『物』を、
『有する!』ものならば、
当然、
『破れたり!』、
『滅したりする!』はずであり、
若し、
『形』が、
『滅していない!』ならば、
『影』は、
『終に!』、
『壊れない!』。
是の故に、
『影』という、
『法』は、
『空』なのである。
復次影屬形不自在故空。雖空而心生眼見。以是故說諸法如影。 復た次ぎに、影は、形に属し、自在ならざるが故に、空なり。空なりと雖も、心に生じて、眼に見ゆ。是を以っての故に説かく、『諸法は、影の如し』と。
復た次ぎに、
『影』は、
『形』に、
『属して!』、
『自在でない!』ので、
故に、
『空である!』、
『空』である!が、
『心』に、
『生じる!』ので、
故に、
『眼』に、
『見える!』、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『影のようだ!』と。



鏡中の像の如し

如鏡中像者。如鏡中像非鏡作非面作。非執鏡者作。亦非自然作。亦非無因緣。 鏡中の像の如しとは、鏡中の像の如きは、鏡の作に非ず、面の作に非ず、鏡を執(と)る者の作に非ず、亦た自然の作にも非ず、亦た因縁無きにも非ず。
『鏡』中の、
『像のようだ!』とは、――
『鏡』中の、
『像』というものは、
『鏡』の、
『所作でもなく!』、
『面』の、
『所作でもなく!』、
『鏡』を、
『手にする!』者の、
『所作でもなく!』、
亦た、
『自然』の、
『所作でもなく!』、
亦た、
『因縁』が、
『無いのでもない!』。
  (さ):梵語kriyaaの訳。(function)機能、働き、作用の義。善悪の業の意を含まない。又時に所作とも訳す。
何以非鏡作。若面未到鏡則無像。以是故非鏡作。 何を以ってか、鏡の作に非ざる。若し、面、未だ到らざれば、鏡には、則ち像無し。是を以っての故に、鏡の作に非ず。
何故、
『鏡』の、
『所作でない!』のか?
若し、
『面』が、
未だ、
『到らない!』時は、
『鏡』には、
『像』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『鏡』の、
『所作ではない!』。
何以非面作。無鏡則無像。 何を以ってか、面の作に非ざる。鏡無ければ、則ち像無ければなり。
何故、
『面』の、
『所作でない!』のか?
若し、
『鏡』が、
『無ければ!』、
則ち、
『像』が、
『無い!』からである。
何以非執鏡者作。無鏡無面則無像。 何を以ってか、鏡を執る者の作に非ざる。鏡無く、面無ければ、則ち像無ければなり。
何故、
『鏡』を、
『手にする!』者の、
『所作でない!』のか?
若し、
『鏡』も、
『面』も、
『無ければ!』、
則ち、
『像』が、
『無い!』からである。
何以非自然作。若未有鏡未有面則無像。像待鏡待面然後有。以是故非自然作。 何を以ってか、自然の作に非ざる。若し、未だ鏡有らず、未だ面有らざれば、則ち像無し。像は、鏡を待ち、面を待ちて、然る後に有り。是を以っての故に、自然の作に非ず。
何故、
『自然』の、
『所作でない!』のか?
若し、
『鏡』も、
『面』も、
『無かった!』ならば、
則ち、
『像』が、
『無い!』からである。
『像』は、
『鏡』や、
『面』を、
『待って!』、
『待った!』、
『後に!』、
『有る!』ので、
是の故に、
『自然』の、
『所作でない!』。
何以非無因緣。若無因緣應常有。若常有。若除鏡除面亦應自出。以是故非無因緣。 何を以ってか、因縁無きに非ざる。若し、因縁無くんば、応に常有なるべし。若し、常有ならば、若しは鏡を除き、面を除きても、亦た応に自ら出づべし。是を以っての故に、因縁無きに非ず。
何故、
『因縁』が、
『無いのでもない!』のか?
若し、
『因縁』が、
『無かった!』ならば、
当然、
『常有である!』。
若し、
『常有』ならば、
『鏡』や、
『面』を、
『除いても!』、
亦た、
当然、
『自ら!』、
『出るはず!』である。
是の故に、
『因縁』が、
『無いのでもない!』。
諸法亦如是非自作非彼作非共作非無因緣。 諸法も、亦た是の如く、自らの作に非ず、彼れの作に非ず、共なる作に非ず、因縁無きに非ず。
諸の、
『法(身心)』も、
亦た、
是のように、
『自ら!』の、
『所作でもなく!』、
『彼れ(天、人)!』の、
『所作でもなく!』、
『自、他』、
『共の!』、
『所作でもなく!』、
『因縁』が、
『無いでもない!』。
云何非自作我不可得故。一切因生法不自在故。諸法屬因緣故。是以非自作。 云何が、自らの作に非ざる、我は得べからざるが故なり。一切の因生の法は、自在ならざるが故に、諸法は、因縁に属するが故に、是を以って、自らの作に非ざるなり。
何故、
『自ら!』の、
『所作でない!』のか?
何故ならば、
『我』が、
諸の、
『法』中に、
『得られない!』が故に、
一切の、
『因生(因縁生)』の、
『法』は、
『自在でない!』が故に、
諸の、
『法』は、
『因縁』に、
『属する!』が故に、
是の故に、
『自ら!』の、
『所作でなはない!』。
亦非他作者。自無故他亦無。若他作則失罪福力。 亦た他の作にも非ずとは、自ら無きが故に、他も亦た無ければなり。若し、他の作なれば、則ち罪福の力を失う。
亦た、
『他』の、
『所作でもない!』とは、――
即ち、
『自ら!』が、
『無い!』が故に、
『他も!』、
亦た、
『無い!』からであり、
若し、
『他』の、
『所作』ならば、
即ち、
『罪、福』の、
『力』を、
『失う!』からである。
他作有二種。若善若不善。若善應與一切樂。若不善應與一切苦。若苦樂雜以何因緣故與樂。以何因緣故與苦。 他の作には、二種有り、若しは善、若しは不善なり。若し、善なれば、応に一切の楽に与(あずか)るべし。若し不善なれば、応に一切の苦に与るべし。若し、苦楽雑わらば、何の因縁を以っての故に、楽に与り、何の因縁を以っての故に、苦に与る。
『他』の、
『作(所作)』には、
『二種』有り、
『善(善人)』か、
『不善(悪人)』である。
若し、
『善』ならば、
一切の、
『楽』に、
『与(あずか)るはず!』であり、
若し、
『不善』ならば、
一切の、
『苦』に、
『与るはず!』である。
若し、
『苦』と、
『楽』とが、
『雑っていた!』とすれば、
何の、
『因縁』を以っての故に、
『楽』に、
『与り!』、
何の、
『因縁』を以っての故に、
『苦』に、
『与る!』のか?
若共有二過故。自過他過。 若し、共なれば、二過有るが故なり。自らの過と、他の過となり。
『自、他』、
『共の!』、
『所作でない!』とは、
若し、
『共の!』、
『所作』ならば、
『二』の、
『過(過失)』が、
『有る!』からである。
謂わゆる、
『自ら』と、
『他』との、
『過である!』。
若無因緣生苦樂。人應常樂離一切苦。若無因緣。人不應作樂因除苦因。一切諸法必有因緣。愚癡故不知。 若し、因縁無くして、苦楽を生ぜば、人は、応に楽を常とし、一切の苦を離るべし。若し、因縁無くんば、人は、応に楽の因を作して、苦の因を除かざるべし。一切の諸法には、必ず因縁有るも、愚癡の故に、知らず。
若し、
『因縁』が、
『無い!』のに、
『苦、楽』を、
『生じる!』ならば、
『人』は、
当然、
『楽』を、
『常として!』、
一切の、
『苦』を、
『離れるはず!』である。
若し、
『因縁』が、
『無かった!』ならば、
『人』は、
当然、
『楽』の、
『因』を、
『作るはずがなく!』、
『苦』の、
『因』を、
『除くはずもない!』。
一切の、
諸の、
『法』には、
『必然的に!』、
『因縁』が、
『有る!』が、
『愚癡』の故に、
『有る!』ことを、
『知らない!』のである。
譬如人從木求火從地求水從扇求風。如是等種種各有因緣。 譬えば、人は、木より火を求め、地より、水を求め、扇より、風を求むるが如く、是の如き等の種種、各は、因縁を有す。
譬えば、
『人』が、
『木』より、
『火』を、
『求め!』、
『地』より、
『水』を、
『求め!』、
『扇』より、
『風』を、
『求める!』ように、
是れ等のような、
種種、
各各は、
『因縁』を、
『有する!』のである。
是苦樂和合因緣是苦樂和合因緣。生先世業因今世若好行若邪行緣。從是得苦樂。是苦樂種種因緣。以實求之無人作無人受。空五眾作空五眾受。 是の苦楽は、和合の因縁生なり。先世の業の因と、今世の若しは好行、若しは邪行の縁と、是れによりて、苦楽を得。是の苦楽の種種の因縁は、実を以って、之を求むれば、人の作す無く、人の受くる無し。空なる五衆作して、空なる五衆受くるのみ。
是の、
『苦、楽』は、
『和合した!』、
『因縁』が、
『生じる!』。
即ち、
『先世』の、
『業』の、
『因』と、
『今世』の、
『好行、邪行』の、
『縁』との、
是の、
『因、縁』より、
『苦、楽』を、
『得る!』のであるが、
是の、
『苦、楽』の、
『因、縁』も、
此の中に、
『実』を、
『求めた!』ならば、
此の、
『因、縁』を、
『作る!』、
『人』も、
『無く!』、
『受ける!』、
『人』も、
『無い!』。
則ち、
『空』の、
『五衆』が、
『作り!』、
『空』の、
『五衆』が、
『受ける!』のである。
  :是苦樂和合因緣是苦樂和合因緣。生:他本に従い、苦樂和合因緣生に改む。
無智人得樂婬心愛著。得苦生瞋恚。是樂滅時更求欲得。 無智の人は、楽を得れば、婬心愛著し、苦を得れば、瞋恚を生じて、是の楽の滅する時には、更に求めて得んと欲す。
『無智』の、
『人』は、
『楽』を、
『得る!』と、
『婬心(欲望)』が、
『愛して!』、
『著する!』のであり、
『苦』を、
『得る!』と、
『瞋恚』を、
『生じる!』のであるが、
是の、
『楽』が、
『滅する!』時には、
更に、
『求めて!』、
『得よう!』と、
『思う!』のである。
  婬心(いんしん):梵語kaama-cittaの訳。欲心。好色な心(lustful mind)の義。欲望、渇望、強欲(A desirous or covetous state of mind)の意。
如小兒見鏡中像心樂愛著愛著失已破鏡求索。智人笑之。失樂更求亦復如是。亦為得道聖人所笑。以是故說諸法如鏡中像。 小児の、鏡中の像を見て、心に楽しみ、愛著するも、失い已らば、鏡を破りて求索するに、智人の、之を笑うが如し。楽を失いて、更に求むるは、亦復た是の如ければ、亦た得道の聖人の笑う所と為す。是を以っての故に説かく、『諸法は鏡中の像の如し』と。
例えば、
『小児』が、
『鏡』中の、
『像』を見て、
『心』に、
『楽しみ!』、
『愛し!』、
『著していた!』が、
『鏡』中の、
『像』を、
『見失う!』と、
『鏡』を破って、
『像』を、
『探し求めた!』ので、
『智人』が、
之を
『見て!』、
『笑った!』のであるが、
『楽』を、
『失って!』、
『更に!』、
『求める!』のも、
亦た復た、
是のように、
『道』を得た!、
『聖人』に、
『笑われる!』のである。
是の故に、
こう説く、――
諸の、
『法』は、
『鏡』中の、
『像のようだ!』と。
  :愛著愛著失已:他本に従い、愛著失已に改む。
復次如鏡中像。實空不生不滅誑惑凡人眼。一切諸法亦復如是。空無實不生不滅。誑惑凡夫人眼。 復た次ぎに、鏡中の像は、実に空、不生不滅にして、凡人の眼を誑惑するが如く、一切の諸法も、亦復た是の如く、空にして、実無く、不生不滅なるも、凡夫人の眼を誑惑す。
復た次ぎに、
『鏡』中の、
『像』は、
『実』に、
『空』、
『不生不滅である!』のに、
『凡人』の、
『眼』を、
『誑惑する!』ように、
一切の、
諸の、
『法』も、
亦復た、
是のように、
『空』で、、
『実』が、
『無く!』、
『不生不滅である!』のに、
『凡夫人』の、
『眼』を、
『誑惑する!』のである。
  誑惑(こうわく):たぶらかしまどわす。
問曰。鏡中像從因緣生。有面有鏡有持鏡人有明。是事和合故像生。因是像生憂喜亦作因亦作果。云何言實空不生不滅。 問うて曰く、鏡中の像は、因縁より生ず。面有り、鏡有り、鏡を持つ人有り、明有りて、是の事の和合の故に、像生じ、是の像に因りて、憂喜を生じて、亦た因を作し、亦た果を作す。云何が、『実に空にして、不生不滅なり』と言う。
問い、
『鏡』中の、
『像』は、
『因縁』より、
『生じる!』。
『面』と、
『鏡』と、
『鏡を持つ人』と、
『明』とが、
『有り!』、
是の、
『事』が、
『和合する!』ので、
故に、
『像』が、
『生じ!』、
是の、
『像』に因って、
『憂、喜』を、
『生じて!』、
亦た、
『因』や、
『果』を、
『作る!』のである。
何故、
こう言うのですか?――
『実』に、
『空であり!』、
『不生不滅である!』と。
答曰。從因緣生不自在故空。若法實有。是亦不應從因緣生。何以故若因緣中。先有因緣則無所用。若因緣中。先無因緣亦無所用。 答えて曰く、因縁より生ずれば、自在ならざるが故に、空なり。若し、法にして、実に有らば、是れも亦た、応に因縁より生ずべからず。何を以っての故に、若し因縁中に、先に因縁有らば、則ち、用うる所無し。若し因縁中に、先に因縁無ければ、亦た用うる所無ければなり。
答え、
『因縁』より、
『生じる!』と、
『自在でない!』が故に、
『空である!』。
若し、
『法』が、
『実』に、
『有る!』ならば、
是れは、
当然、
『因縁』より、
『生じるはずがない!』。
何故ならば、
若し、
『因縁』中に、
先に、
『因縁』が、
『有った!』ならば、
則ち、
『用いる!』所が、
『無い!』。
若し、
先に、
『因縁』が、
『無かった!』ならば、
亦た、
『用いる!』所が、
『無い!』からである。
譬如乳中若先有酪是乳非酪因。酪先有故。 譬えば、乳中に若し先に酪有らば、是の乳は、酪の因に非ず。酪は、先に有るが故なり。
譬えば、
『乳』中に、
若し、
『先に!』、
『酪』が、
『有った!』ならば、
是の、
『乳』は、
『酪』の、
『因でない!』。
『酪』は、
『先に!』、
『有る!』からである。
若先無酪如水中無酪。是乳亦非因。 若し、先に酪無きこと、水中に酪無きが如くんば、是の乳も、亦た因に非ず。
若し、
『先に!』、
『酪』が、
まるで、
『水』中に、
『酪』が、
『無い!』ように、
『無かった!』とすれば、
是の、
『乳』は、
亦た、
『因でない!』。
若無因而有酪者。水中何以不生酪。 若し因無くして、而も酪有らば、水中に何を以ってか、酪を生ぜざる。
若し、
『因縁』が、
『無い!』のに、
而も、
『酪』が、
『有った!』とすれば、
『水』中には、
何故、
『酪』を、
『生じない!』のか?
若乳是酪因緣。乳亦不自在。乳亦從因緣生乳從牛有。牛從水草生。如是無邊皆有因緣。 若し、乳は、是れ酪の因縁なれば、乳も亦た、自在ならず、乳も亦た因縁より生ずればなり。乳は、牛より有り、牛は、水草より生ず。是の如きは辺無くして、皆、因縁有り。
若し、
『乳』が、
『酪』の、
『因縁である!』ならば、
『乳』は、
亦た、
『自在でなく!』、
亦た、
『因縁』より、
『生じる!』。
『乳』は、
『牛』という、
『因縁』より、
『有る!』のであり、
『牛』は、
『水草』より、
『生じる!』、
是のように、
『無辺』であり、
皆、
『因縁』を、
『有する!』のである。
以是故因緣中。果不得言有。不得言無。不得言有無。不得言非有非無。諸法從因緣生無自性如鏡中像。 是を以っての故に、因縁中の、果は、『有り』と言うを得ず。『無し』と言うを得ず。『有無』と言うを得ず。『非有非無』と言うを得ず。諸法は、因縁より生じて、自性無きこと、鏡中の像の如し。
是の故に、
『因縁』中には、
『果』が、
『有る!』とも、
『言えず!』、
『果』が、
『無い!』とも、
『有無!』とも、
『非有非無!』とも、
『言えない!』、
諸の、
『法』は、
『因縁』より、
『生じて!』、
『自性』が、
『無い!』ので、
譬えば、
『鏡』中の、
『像』と、
『同じである!』。
  参考:『中論巻3観因果品』:『中論觀因果品第二十(二十四偈)  問曰。眾因緣和合現有果生故。當知是果從眾緣和合有。答曰 若眾緣和合  而有果生者  和合中已有  何須和合生  若謂眾因緣和合有果生。是果則和合中已有。而從和合生者。是事不然。何以故。果若先有定體。則不應從和合生。問曰。眾緣和合中雖無果。而果從眾緣生者。有何咎。答曰 若眾緣和合  是中無果者  云何從眾緣  和合而果生  若從眾緣和合則果生者。是和合中無果。而從和合生。是事不然。何以故。若物無自性。是物終不生復次 若眾緣和合  是中有果者  和合中應有  而實不可得  若從眾緣和合中有果者。若色應可眼見。若非色應可意知。而實和合中果不可得。是故和合中有果。是事不然。復次 若眾緣和合  是中無果者  是則眾因緣  與非因緣同  若眾緣和合中無果者。則眾因緣即同非因緣。如乳是酪因緣。若乳中無酪。水中亦無酪。若乳中無酪則與水同。不應言但從乳出。是故眾緣和合中無果者。是事不然。問曰。因為果作因已滅。而有因果。無如是咎。答曰 若因與果因  作因已而滅  是因有二體  一與一則滅  若因與果作因已而滅者是因則有二體。一謂與因。二謂滅因。是事不然。一法有二體故。是故因與果作因已而滅。是事不然。問曰。若謂因不與果作因已而滅。亦有果生。有何咎。答曰 若因不與果  作因已而滅  因滅而果生  是果則無因  若是因不與果。作因已而滅者。則因滅已而果生。是果則無因。是事不然。何以故。現見一切果。無有無因生者。是故汝說因不與果作因已而滅亦有果生者。是事不然。問曰。眾緣合時而有果生者。有何咎。答曰 若眾緣合時  而有果生者  生者及可生  則為一時俱  若眾緣合時有果生者。則生者可生即一時俱。但是事不爾何以故。如父子不得一時生。是故汝說眾緣合時有果生者。是事不然。問曰。若先有果生。而後眾緣合。有何咎。答曰 若先有果生  而後眾緣合  此即離因緣  名為無因果  若眾緣未合。而先有果生者。是事不然。果離因緣故。則名無因果。是故汝說眾緣未合時先有果生者。是事則不然。問曰。因滅變為果者。有何咎。答曰 若因變為果  因即至於果  是則前生因  生已而復生  因有二種。一者前生。二者共生。若因滅變為果。是前生因應還更生。但是事不然。何以故。已生物不應更生。若謂是因即變為果。是亦不然。何以故。若即是不名為變。若變不名即是。問曰。因不盡滅但名字滅。而因體變為果。如泥團變為瓶。失泥團名而瓶名生。答曰。泥團先滅而有瓶生。不名為變。又泥團體不獨生。瓶盆甕等皆從泥中出。若泥團但有名。不應變為瓶。變名如乳變為酪。是故汝說因名雖滅而變為果。是事不然。問曰。因雖滅失而能生果。是故有果。無如是咎。答曰 云何因滅失  而能生於果  又若因在果  云何因生果  若因滅失已。云何能生果。若因不滅而與果合。何能更生果。問曰。是因遍有果而果生。答曰 若因遍有果  更生何等果  因見不見果  是二俱不生  是因若不見果。尚不應生果。何況見。若因自不見果。則不應生果。何以故。若不見果。果則不隨因。又未有果。云何生果若因先見果。不應復生。果已有故。復次 若言過去因  而於過去果  未來現在果  是則終不合  若言未來因  而於未來果  現在過去果  是則終不合  若言現在因  而於現在果  未來過去果  是則終不合  過去果不與過去未來現在因合。未來果不與未來現在過去因合。現在果不與現在未來過去因合。如是三種果。終不與過去未來現在因合。復次 若不和合者  因何能生果  若有和合者  因何能生果  若因果不和合則無果。若無果云何因能生果。若謂因果和合時因能生果者。是亦不然。何以故。若果在因中。則因中已有果。云何而復生。復次 若因空無果  因何能生果  若因不空果  因何能生果  若因無果者。以無果故因空。云何因生果。如人不懷妊。云何能生子。若因先有果。已有果故不應復生。復次今當說果 果不空不生  果不空不滅  以果不空故  不生亦不滅  果空故不生  果空故不滅  以果是空故  不生亦不滅  果若不空。不應生不應滅。何以故。果若因中先決定有。更不須復生。生無故無滅。是故果不空故。不生不滅。若謂果空故有生滅。是亦不然。何以故。果若空。空名無所有。云何當有生滅。是故說果空故不生不滅。復次今以一異破因果 因果是一者  是事終不然  因果若異者  是事亦不然  若因果是一  生及所生一  若因果是異  因則同非因  若果定有性  因為何所生  若果定無性  因為何所生  因不生果者  則無有因相  若無有因相  誰能有是果  若從眾因緣  而有和合生  和合自不生  云何能生果  是故果不從  緣合不合生  若無有果者  何處有合法  是眾緣和合法。不能生自體。自體無故云何能生果。是故果不從緣合生。亦不從不合生。若無有果者。何處有合法』
如偈說
 若法因緣生  是法性實空 
 若此法不空  不從因緣有 
 譬如鏡中像  非鏡亦非面 
 亦非持鏡人  非自非無因 
 非有亦非無  亦復非有無 
 此語亦不受  如是名中道
以是故說諸法如鏡中像。
偈に説くが如し、
若し法にして因縁生なれば、是の法性は実の空なり、
若し此の法にして不空なれば、因縁より有らず。
譬えば鏡中の像の、鏡に非ず、亦た面に非ず、
亦た鏡を持つ人に非ず、自らに非ず無因に非ざるが如し。
有に非ず亦た無に非ず、亦復た有無に非ず、
此の語も亦た受けず、是の如きを中道と名づく。
是を以っての故に説かく、『諸法は、鏡中の像の如し』と。
『偈』に、こう説く通りである、――
若し、
『法』が、
『因縁』の、
『生』ならば、
是の、
『法』の、
『性』は、
『実』の、
『空である!』。
若し、
此の、
『法』が、
『空でない!』ならば、
『因縁』により、
『有るはずがない!』。
譬えば、
『鏡』中の、
『像』が、
『鏡でもなく!』、
『面でもなく!』、
『鏡を持つ人でもなく!』、
『自らでもなく!』、
『無因でもない!』ように、
諸の、
『法』は、
『有でもなく!』、
『無でもなく!』、
『有無でもなく!』が、
是のようにいう、
『語』を、
『受けることもない!』、
是れを、
『中道』と、
『称する!』と。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『鏡』中の、
『像のようだ!』と。



化の如し

如化者。十四變化心。初禪二欲界初禪。二禪三欲界初禪。二禪三禪四欲界初禪二禪三禪。四禪五欲界初禪二禪三禪四禪。 化の如しとは、十四変化心なり。初禅の二は、欲界と初禅なり。二禅の三は、欲界、初禅と、二禅なり。三禅の四は、欲界、初禅、二禅と、三禅なり。四禅の五は、欲界、初禅、二禅、三禅と、四禅なり。
『化のようだ!』とは、――
『十四』の、
『変化する!』、
『心である!』。
則ち、
『初禅』の、
『二変化心』とは、
『欲界』と、
『初禅』である。
『二禅』の、
『三変化心』とは、
『欲界』、
『初禅』と、
『二禅』である。
『三禅』の、
『四変化心』とは、
『欲界』、
『初禅』、
『二禅』と、
『三禅』である。
『四禅』の、
『五変化心』とは、
『欲界』、
『初禅』、
『二禅』、
『三禅』と、
『四禅』である。
  十四変化心(じゅうしへんげしん):十四種の能変化の心の意。又十四化心とも名づく。即ち神境智証通を得ることに由りて引発せらるる能変化の心に総じて十四種有ることをいう。「倶舎論巻27」に、「神境通の果の能変化心は力能く一切の化事を化生す。これに十四あり、謂わく根本四静慮の生に差別あるに依るが故なり。初静慮に依るに二の化心あり、一に欲界の摂、二に初静慮なり。第二静慮に三の化心あり、二種は前の如し、二静慮を加う。第三に四あり、第四に五あり。謂わく各自と下となり。理の如く思うべし。諸の果の化心は自と上地とに依り、必ず下に依ることなし。下地の定心は上果を生ぜず、勢力劣なるが故なり」と云えるこれなり。これ蓋し四根本静慮を修して神境智証通を得、これを所依として種種の変化の事を化現せんとする時、その能変化の心は各自地と下地とに於いて用あるが故に、初静慮には初静慮と欲界との二に化心、第二静慮には自地と初静慮と欲界との三心、第三静慮には自地と前の三心、第四静慮にはまた自地と前の四心とあり、総じて十四種の化心有ることを説けるものなり。即ち欲界及び初静慮繋に各四、第二静慮繋に三、第三静慮繋に二、第四静慮繋に一あるなり。またこの中、欲界の所変化の事は声を除きてただ色香味触の四なり、色界の所変化の事は、色界には段食無きが故に香味を除き、ただ色と触との二なり。また自身他身を化作するには各自地の能変化の心に依り、異地の心に依らず。もし化語を発せしむるが如きは化主の能変化の心に依り、必ず初静慮の能発語心を以ってこれを発す。またこれ等の能変化心は修得なればただ無記なり。天龍等の能変化心が生得にして善等の三性に通ずるに同じからず。また「大毘婆沙論巻135」には、これ等の所変化の事に皆大種及び所造の色ありとなせり。ただし小乗中にはかくの如く能変化心を十四種となせるも、大乗には四静慮各皆欲界及び四静慮の化を起し得るとし、凡べて二十種の能変化心ありとす。「大乗義章巻15」に、「小乗は上地の度に於いて化を現ずる能わざるを以っての故にただ十四あり。二十と言うは、菩薩は四禅に依りて通を発するに一一皆能く五地の化を為す、謂わゆる欲界乃至四禅の故に二十あり。良に菩薩は神通自在なるを以っての故に能くかくの如し」と云えるその意なり。また「阿毘曇心論巻5」、「雑阿毘曇心論巻7」、「順正理論巻76」等に出づ。<(望)
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻27』:『論曰。神境通果能變化心力能化生一切化事。此有十四。謂依根本四靜慮生有差別故。依初靜慮有二化心。一欲界攝。二初靜慮。第二靜慮有三化心。二種如前。加二靜慮。第三有四。第四有五。謂各自下。如理應思諸果化心依自上地必無依下。下地定心不生上果。勢力劣故。第二定等果下地化心對初定等果上地化心由依及行亦得名勝。如得靜慮化心亦然。果與所依俱時得故。諸從靜慮起果化心。此心必無直出觀義。謂從淨定起初化心。此後後心從自類起。此前前念生自類心。最後化心還生淨定。故此從二能生二心。非定果心無記性攝。不還入定有直出義。如從門入還從門出。諸所化事由自地心。無異地化心起餘地化故。化所發言通由自下。謂欲初定化所發言。此言必由自地心起。上化起語由初定心。上地自無起表心故。若一化主起多化身。要化主語時諸化身方語。言音詮表一切皆同故。有伽他作如是說 一化主語時  諸所化皆語  一化主若默  諸所化亦然  此但說餘佛則不爾。佛諸定力最自在故。與所化語容不俱時。言音所詮亦容有別。發語心起化心既無。應無化身。化如何語。由先願力留所化身後起餘心發語表業。故雖化語二心不俱。而依化身亦得發語。非唯化主命現在時能留化身令久時住。亦有令住至命終後。即如尊者大迦葉波留骨瑣身至慈尊世。唯堅實體可得久留。故迦葉波不留肉等。有餘師說。願力留身必無有能令至死後。飲光尊者留骨瑣身。由諸天神持令久住。初習業者由多化心方能化生一所化事。習成滿者由一化心隨欲化生多少化事。如是十四能變化心皆是修得。無記性攝。即是通果無記攝義。餘生得等能變化心通善不善無記性攝。如天龍等能變化心。彼亦能為自他身化。於十色處化九除聲。理實無能化為根者。然所化境不離根故。言化九處亦無有失。天眼耳言為目何義。頌曰 天眼耳謂根  即定地淨色  恒同分無缺  取障細遠等』
是十四變化心。作八種變化。一者能作小乃至微塵。二者能作大乃至滿虛空。三者能作輕乃至如鴻毛。四者能作自在能以大為小以長為短如是種種。五者能有主力。(有大力人無所下故言有主力)六者能遠到。七者能動地。八者隨意所欲盡能得。一身能作多身多身能作一。石壁皆過履水蹈虛手捫日月能轉四大。地作水水作地火作風風作火石作金金作石是變化。 是の十四変化心は、八種の変化を作す。一には、能く小と作ること、乃至微塵なり。二には、能く大と作ること、乃至虚空を満たす。三には、能く軽と作ること、乃至鴻毛の如し。四には、能く自在と作る。能く大を以って小と為し、長を以って短と為し、是の如きこと種種なり。五には、能く主力有り(大力有る人に、下る所無きが故に、主力有りと言う)。六には、能く遠く到る。七には、能く地を動かす。八には、意の欲する所に随うて、尽く能く得。一身にして、能く多身と作り、多身にして、能く一と作る。石壁は、皆過ぎ、水を履み、虚を蹈みて、手に日月を捫(な)づ。能く四大を転じて、地を水と作し、水を地と作し、火を風と作し、風を火と作し、石を金と作し、金を石と作す。是れ変化なり。
是の、
『十四変化』の、
『心』は、
『八種』に、
『変化する!』、――
一には、
『小さく!』なり、
乃至、
『微塵』と、
『作る!』。
二には、
『大きく!』なり、
乃至、
『虚空』を、
『満たす!』。
三には、
『軽く!』なり、
乃至、
『鴻毛のよう!』に、
『作る!』。
四には、
『大きい!』者を、
『小さく!』したり、
『長い!』者を、
『短く!』したり、
是のような、
種種の、
『変化』を、
『自在』に、
『作すことができる!』。
五には、
『君主』の、
『力』を、
『有することができる!』。
六には、
『遠く!』へ、
『到ることができる!』。
七には、
『地』を、
『動かすことができる!』。
八には、
『意』の、
『欲する!』所に、
『随い!』、
『尽く!』が、
『可能となる!』。
謂わゆる、
『一身』から、
『多身』と、
『作ることができる!』。
『多身』から、
『一身』と、
『作ることができる!』。
『石』の、
『壁』を、
『通過したり!』、
『水』や、
『虚空』を、
『履んだり!』、
『手』で、
『日月』を、
『撫でることができる!』。
『四大』を、
『転じることができる!』、
謂わゆる、
『地』を、『水』と作し!、
『水』を、『地』と作し!、
『火』を、『風』と作し!、
『風』を、『火』と作し!、
『石』を、『金』と作し!、
『金』を、『石』と作す!。
是れが、
『変化である!』。
  鴻毛(こうもう):水鳥の羽毛。鴻は白鳥、又は大雁の如し。
  (もん):なでる。撫。とる、つかむ。捉。
  主力(しゅりき):梵語vaazin?の訳。君主の力を有する(to have sovereign power)の義。自在力、得、自在力等と訳す。
復有四種。欲界藥物寶物幻術能變化諸物。諸神通人神力故能變化諸物。天龍鬼神輩得生報力故。能變化諸物。色界生報修定力故。能變化諸物。 復た四種有り、欲界の薬物、宝物、幻術は能く諸物を変化す。諸の神通人は、神力の故に能く、諸物を変化す。天龍鬼神の輩は、生報の力を得るが故に能く、諸物を変化す。色界の生報の修定の力の故に能く、諸物を変化す。
復た、
『四種』の、
『変化』が有り!、
一には、
『欲界』の、
『薬物、宝物、幻術』は、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
二には、
諸の、
『神通』の、
『人』は、
『神力』の故に、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
三には、
『天、龍、鬼神の輩』は、
『生報』の、
『力』を、
『得ている!』が故に、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
四には、
『色界』の、
『生報』は、
『修定』の、
『力』の故に、
諸の、
『物』を、
『変化することができる!』。
  生報(しょうぼう):梵語upapadya-vedaniiyaの訳。生得の受の義。前世の業に起因する生まれながらの報。現法、後報と共に三報の一。『大智度論巻24上注:三報』参照。
如化人無生老病死。無苦無樂異於人生。以是故空無實。一切諸法亦如是皆無生住滅。以是故說諸法如化。 化人の生老病死無く、苦無く、楽無きが如きは、人の生に異なる。是を以って、空にして実無し。一切の諸法も、亦た是の如く、皆生住滅無し。是を以っての故に説かく、『諸法は化の如し』と。
『化人』には、、
『生、老、病、死』が、
『無く!』、
『苦』や、
『楽』が、
『無い!』ところは、
『人』の、
『生』と、
『異なる!』。
是の故に、
『空』であり、
『実』が、
『無い!』。
一切の、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
皆、
『生、住、滅』が、
『無い!』ので、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
復次化生無定物。但以心生便有所作皆無有實。人身亦如是本無所因。但從先世心生今世身。皆無有實。以是故說諸法如化。 復た次ぎに、化生に、定物無く、但だ心に生ずるを以って、便ち所作有れば、皆、実有ること無し。人身も、亦た是の如く、本の因たる所無く、但だ、先世の心より生ずる今世の身なれば、皆、実有ること無し。是を以っての故に説かく、『諸法は、化の如し』と。
復た次ぎに、
『化』の、
『生』には、
『定まった!』、
『物』が、
『無く!』、
但だ、
『心』の、
『生である!』ことを以って、
便ち、
『作す!』所を、
『有する!』が、
皆、
『実』が、
『無い!』。
『人』の、
『身』も、
亦た、
是のように、
『本』より、
『因となる!』所が、
『無く!』、
但だ、
『先世』の、
『心』より、
『今世』の、
『身』を、
『生じる!』のみで、
皆、
『実』が、
『無い!』。
是の故に、
こう説く、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
如變化心滅則化滅。諸法亦如是因緣滅果亦滅。不自在如化事。雖實空能令眾生生憂苦瞋恚喜樂癡惑。諸法亦如是。雖空無實能令眾生起歡喜瞋恚憂怖等。以是故。說諸法如化。 変化心滅すれば、則ち化滅するが如く、諸法も、亦た是の如く、因縁滅すれば、果も亦た滅して、自在ならず。化の事の、実に空なりと雖も、能く衆生をして、憂苦、瞋恚、喜楽、癡惑を生ぜしむるが如く、諸法も、亦た是の如く、空にして、実無しと雖も、能く衆生をして、歓喜、瞋恚、憂怖等を生ぜしむ。是を以っての故に説かく、『諸法は化の如し』と。
『変化』の、
『心』が、
『滅する!』と、
則ち、
『化』も、
『滅する!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『因縁』が、
『滅する!』と、
亦た、
『果』も、
『滅する!』ので、
則ち、
『自在でない!』。
『化』の、
『事(動作)』が、
『実』に、
『空であり!』ながら、
『衆生』をして、
『憂苦、瞋恚、喜楽、癡惑』を、
『生じさせる!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『実』に、
『空であり!』ながら、
『衆生』をして、
『歓喜、瞋恚、憂怖』等を、
『起こさせる!』。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
復次如變化生法。無初無中無後。諸法亦如是。如變化生時無所從來。滅亦無所去。諸法亦如是。 復た次ぎに、変化生の法に初無く、中無く、後無きが如く、諸法も、亦た是の如し。変化の生時に、従って来たる所の無く、滅も、亦た去る所無きが如く、諸法も、亦た是の如し。
復た次ぎに、
『変化』の、
『生じる!』、
『法』には、
『初』も、
『中』も、
『後』も、
『無い!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是の通りである。
『変化』は、
『生時』に、
『従って来る!』所が、
『無く!』、
『滅時』に、
『去る!』所が、
『無い!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是の通りである。
復次如變化相清淨如虛空無所染著。不為罪福所汚。諸法亦如是。如法性如如。如真際自然常淨。 復た次ぎに、変化の相の清浄にして、虚空の如く、染著する所無く、罪福に汚されざるが如く、諸法も、亦た是の如く、如の法性、如の如、如の真際は自然に常に浄なり。
復た次ぎに、
『変化』の、
『相』が、
『清浄で!』、
『虚空のよう!』に、
『染著する!』所が、
『無く!』、
『罪』や、
『福』に、
『汚されない!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『如』という、
『法』の、
『性』や、
『如』や、
『真際』は、
『自然であり!』、
『常に!』、
『清浄である!』。
  (にょ):『大智度論巻6上注:真如』参照。
  如如(にょにょ):『大智度論巻6上注:真如』参照。
  法性(ほうしょう):梵語dharmataaの訳。法の体性の意、即ち諸法の真実如常なる本性をいう。「雑阿含経巻30」に、「如来出世するも、及び出世せざるも法性は常住なり。彼の如来は自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す」と云えり。これ如来は自ら法性を覚知して等正覚を成ぜられたることを説けるものなり。「大智度論巻32」に、「諸法の如に二種あり、一には各各相、二には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。かくの如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如く、地もし実にこれ堅相ならば、何を以っての故に膠蝋等は火と会する時その自性を捨て、神通あるの人は地に入ること水の如くなるや。また木石を分散すれば則ち堅相を失し、また地を破して以って微塵となし、方を以って塵を破せば終に空に帰してまた堅相を失す。かくの如く推求するに地相は則ち不可得なり。もし不可得ならばそれ実に皆空なり、空は則ちこれ地の実相なり。一切の別相も皆またかくの如し、これを名づけて如となす。法性とは前に各各法空と説くが如き、空に差品有るこれを如となし、同じく一空となすこれを法性となす。この法性にまた二種あり、一には無著の心を用って諸法を分別するに各自ら性あるが故なり、二には無量の法に名づく、謂わゆる諸法の実相なり。(中略)また次ぎに、水の性は下流するが故に、海に会帰して合して一味となるが如く、諸法もまたかくの如く、一切の総相別相は皆法性に帰して同じく一相となる。これを法性と名づく」と云えり。これ諸法に各各相と実相との二種あり、堅等の各各の相はこれを推求するに則ち不可得なり、不可得ならばそれ実に皆空なるが故に、空を諸法の実相となすことを説き、就中、空に差品有るを如と名づけ、総相別相同じく皆一空に帰するを法性と名づくることを明にせるなり。また大智度論の連文に「かくの如きを行じおわりて無量法性の中に入る。法性とは法を涅槃と名づく、不可壊不可戯論の法なり。性を名づけて本分種となす。黄石の中に金の性あり、白石の中に銀の性あり。かくの如く一切世間の法の中に皆涅槃の性あり。諸仏賢聖は智慧方便持戒禅定を以って教化引導してこの涅槃の法性を得しむ。利根の者は即ちこの諸法は皆これ法性なりと知る。譬えば神通の人はよく瓦石を変じて皆金となさしむるが如し。鈍根の者は方便分別してこれを求めて乃ち法性を得。譬えば大冶の石を鼓して然る後金を得るが如し」と云い、また同巻37に、「法性とは諸法の実相なり。身中の無明と諸結使とを除き、清浄の実観を以って諸法の本性を得るを名づけて法性と為す。性は真実に名づく」と云えり。これ即ち法性は黄石中に金の性あるが如く、諸法本然の実性に名づけたるものにして、清浄の実観を以ってまさに乃ち得べきものなるを示したるなり。また「大宝積経巻52般若波羅蜜多品」に法性の相を説き「舎利子、何等をかこれ諸法の実性と為す。舎利子、謂わゆる変異あることなく、増益あることなく、作なく不作なく、住せず根本なし。かくの如き相はこれを法性と名づく。またまた一切処に於ける通照平等、諸平等の中の善住平等、不平等中の善住平等、諸の平等不平等の中に於ける妙善平等、かくの如き等はこれを法性と名づく。また法性とは分別あることなく、所縁あることなく、一切法に於いて決定究竟の体相を証得す。かくの如きを名づけて諸法の実性となす」と云い、また「宝雨経巻9」に菩薩は十種の法性を証得することを説き「菩薩は十種の法を成就して勝義善巧を得。何等をか十と為す。一には無生法性を証得し、二には不滅法性を証得し、三には不壊法性を証得し、四には不入不出法性を証得し、五には超過言語所行法性を証得し、六には無言説法性を証得し、七には離戯論法性を証得し、八には不可説法性を証得し、九には寂静法性を証得し、十には聖者法性を証得す。何を以っての故に、善男子、勝義諦は不生不滅無入無出にして言路を超過し、文字の取るに非ざるが故に、戯論の証に非ざるが故に、言説すべからず、湛然寂静にして諸の聖者の自内の所証なるを以ってなり。善男子、諸の如来もしは出現することあるも、もしは出現せざるも、その勝義の理は常住不壊なるを以ってなり」と云い、「仏地経論巻5」にも十地の菩薩は順次に諸相増上喜愛、乃至修殖無量功徳究竟等の十種の平等法性を証得すと云えり。これ法性は平等平等にして変異増減あることなく、また不生不滅湛然寂静にして言説すべからず、ただ聖者自内証の境地なることを明にするの意なり。また「大般若経巻569法性品」には如来の法性を説き「如来の法性は有情類の蘊界処の中に在り。無始よりこのかた展転相続するも煩悩に染まず、本性清浄なり。諸の心意識は縁起する能わず、余の尋伺等も分別する能わず、邪念思惟は縁慮する能わず。邪念を遠離して無明生ぜず、この故に十二縁起に従わず。説いて無相と名づく。所作の法に非ず、無生、無滅、無辺、無尽にして自相常住なり。(中略)この諸の菩薩はこの二縁に由りて方便善巧して法性を観知するに、かくの如く法性は無量無辺なり。諸の煩悩の隠覆する所となり、生死の流に随って六道に沈没し、長夜に輪転し、有情に随うが故に有情性と名づく」と云えり。これ如来の法性は本性清浄なることを説けるものにして、即ち法性と如来蔵とを同義となせるものなるが如し。「大乗義章巻1如法性実際義」に、「法性と言うは論に言わく実相なり、体は清浄なりといえども煩悩と合するを名づけて不浄となす、煩悩を息除せば本の清浄を得るなり。浄はこれ一切諸法の体性なるが故に法性という」と云い、また「大乗起信論義疏巻上之上」に、「法性と言うはこの真有の自体を法と名づく、恒沙の仏法満足する義なるが故なり。非改を性と名づく、理体常なるが故なり」と云い、「大乗止観法門巻1」に自性清浄心をまた真如、仏性、法身、如来蔵、法界、法性と名づくと云えるは、共に法性を以って如来蔵の義に解せるものというべし。されど一般には法性と如来蔵等とを区別し、法性は広く一切法の実性を指すとなすなり。「大乗起信論義記巻上」に、「衆生数の中に在りては名づけて仏性となし、非衆生数の中に在りては名づけて法性となす」と云える即ちその意なり。また「大品般若経巻21、巻24」、「勝天王般若波羅蜜経巻3」、「円覚経」、「中論巻4観涅槃品」、「大智度論巻28、巻31、巻62、巻67、巻82、巻87、巻89」、「菩薩地持経巻1」、「瑜伽師地論巻45、巻72、巻73」、「成唯識論巻2」、「大般涅槃経集解巻9」、「大乗義章巻中」、「摩訶止観巻1上、巻5下」、「大乗玄論巻3」、「成唯識論述記巻2末、巻9末」等に出づ。<(望)
  真如(しんにょ):梵語tathaataa、或はbhuuta- tathataaの訳語にして、真実にして如常なるの意なり。また如如、如実、或は単に如とも名づく。即ち諸法の真実如常の性をいう。「雑阿含経巻12」に、「縁起の法はわが所作に非ず、また余人の作にも非ず。然も彼の如来世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界は常住なり。彼の如来は自らこの法を覚して、等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。謂わゆるこれあるが故に彼あり、これ起こるが故に彼起こる。謂わく無明に縁りて行あり、乃至純大苦聚集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚滅す」と云い、また「同巻21」に、「如来応等正覚の所知所見は、三種の離熾然清浄超出の道を説き、一乗道を以って衆生を浄め、憂苦を離れ苦悩を越えて真如の法を得」と云えり。これ縁起生死の法は仏の所作に非ず、また余人の作にも非ず。法界常住にして変易無きを名づけて真如と称したるなり。また「異部宗輪論」に化他部の本宗同義として九無為の説を挙げ、「無為法に九種あり、一に択滅、二に非択滅、三に虚空、四に不動、五に善法真如、六に不善法真如、七に無記法真如、八に道支真如、九に縁起真如なり」と云い、また「顕揚聖教論巻1」には八無為を説き、「無為とはこれに八種あり、謂わく虚空、非択滅、択滅、不動、想受滅、善法真如、不善法真如、無記法真如なり」と云えり。これ善、不善、無記の三性、及び八正道支並びに生死縁起等の理法が真実にして恒久不変たるを真如と名づけたるなり。また「異部宗輪論」に大衆部等の四部の本宗同義を挙げ、「無為法に九種あり、一に択滅、二に非択滅、三に虚空、四に空無辺処、五に識無辺処、六に無所有処、七に非想非非想処、八に縁起支性、九に聖道支性なり」と云えり。この中、縁起支性は前の縁起真如、聖道支性は即ち道支真如なり。また「解深密経巻3」、「大乗荘厳経論巻12」、「仏地経論巻7」等には七種の真如を説けり。七種とは一に流転真如、二に実相真如、三に了別真如、四に安立真如、五に邪行真如、六に清浄真如、七に正行真如なり。この中、流転真如は縁起流転の無始無終の性をいい、実相真如は一切法人法二無我の性をいい、了別真如は一切行唯識の性をいい、第四以下安立、邪行、清浄、及び正行の四種は順次に苦、集、滅、道の四聖諦を指すなり。就中、初の流転真如は前の化他部等の縁起真如に当り、最後の正行真如はまた即ち彼の道支真如に当たれるを見るべし。七種真如の解釈に関しては両説あり、一説は、実相真如は一切法一味の実性を真如と名づけたるものなるも、流転乃至正行等の六種は、その自体の如く自性を失わざるを名づけて真如となす。即ち縁起流転は大自在等を因とするに非ず、分別と依他との因縁によりて起こるものにして、その理法の真実不虚なるを流転真如と名づけ、乃至八正道等は苦滅の道にして、その理法の真実不虚なるを正行真如と名づくとす。これ「大乗荘厳経論巻12」等に出せる説にして、即ち流転即真如、乃至正行即真如となすの意なり。一説は、流転乃至正行等の六種は、その自体即ち真如と名づくべきに非ず、真如は一味平等の実性を意味するが故に、彼の流転の実性、乃至正行の実性を称して流転真如乃至正行真如と名づくとす。これ「仏地経論巻7」等に出せる説にして、実相真如を除き、他の六種真如を皆依主釈の得名となすの意なり。この中、初説は縁起等の理法の真実恒久なるを真如と名づけたるものにして、上の「雑阿含経」所説の意に合する所ありというべし。また「仏地経論巻7」には真如に二種乃至十種等の多種の別あることを明し「真如は即ちこれ諸法の実性にして無顛倒の性なり。一切法と不一不異にして体は唯一味なるも、相に随って多を分つ。或は二種と説く、謂わく生空無我と法空無我となり。真如は実に空無我の性に非ず、分別を離るるが故に、戯論を絶するが故なり。ただ空無我観を修習し、真如を障うる我我所執を滅するに由りて証得す、故に空無我と名づく。或は三種と説く、謂わく善と不善と無記となり。真如はこれこの三法の真実性なるが故なり。或は四種と説く、謂わく三界繋と不繋となり。真如はこれこの四法の真実性なるが故なり。或は五種と説く、謂わく心真如、広説乃至無為真如(即ち心、心所、色、心不相応、及び無為)なり。またこれ五法の真実性なるが故なり。或は六種と説く、謂わく色真如、広説乃至無為真如なり(色、受、想、行、識、及び無為)、五蘊と無為との真実性なるが故なり。或は七種と説く、一に流転真如、謂わく一切行の無始世来流転の実性なり。(中略)七に正行真如、謂わく諸の有為無漏の善法道諦の実性なり。或は八種と説く、謂わく不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去の八遣相門所顕の真如なり。或は九種と説く、謂わく九品の道に九品の障を除きて顕す所の真如なり。或は十種と説く、謂わく十地に於いて十の無明を除き顕す所の真如にして、即ち十法界なり。摂大乗に広く名相を辯ずるが如し。かくの如く増数して乃至究尽せば、一切の法門は皆これ真如差別の相なり。而も真如の体は一に非ず多に非ず、分別して言説するも皆辯ずること能わず。一切の虚妄顛倒を離るるに由りて仮に真如と名づけ、よく一切の善法の所依となるを仮に法界と名づけ、損減の謗を離るるを仮に実有と名づけ、増益の謗を離るるを仮に空無と名づけ、分析推求するに諸法は虚仮なるも、極めてここに至るも更に度るべからず、ただこれこれのみ真なるを仮に実際と名づけ、これ無分別最勝聖智所証の境界なるを仮に勝義と名づく」と云えり。蓋し部派仏教に於いては、主として縁起もしくは道支等の理法の真実如常なるを名づけて真如と称したるも、解深密経等に至り別に一切法一味の実相真如を説き、これを万有の実性、恒久不変の存在となせるは真如論の一大発展なりというべし。また「成唯識論巻9」には、「この諸法の勝義は亦た即ちこれ真如なり。真は謂わく真実にして虚妄に非ざるを顕し、如は謂わく如常にして変易無きを表す。謂わくこれ真実にして、一切の位に於いて常如にしてその性たり、故に真如という。即ちこれ湛然として虚妄ならざる義なり。亦たの言はこれにまた多名あることを顕す。謂わく法界、及び実際等と名づく。余論の中には義に随って広く釈するが如し。この性は、即ちこれ唯識の実性なり。謂わく唯識の性に略して二種あり、一には虚妄、謂わく遍計所執なり。二には真実、謂わく円成実性なり。虚妄に簡せんが為に実性の言を説く、また二性あり、一には世俗、謂わく依他起なり。二には勝義、謂わく円成実なり。世俗に簡せんが為の故に実性と説く」と云えり。これに依るに実相真如は虚妄分別の法を離れたる人法二無我の性に名づけたるものにして、即ち遍依円三性の中の円成実性を意味するものなるを知るべし。また「大乗起信論」には真如を以って衆生心の実体となし、「一切法は本より已来言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして変異あること無く、破壊すべからず。ただこれ一心なるが故に真如と名づく。一切の言説は仮名にして実無し、ただ妄念に随って不可得なるが故なり。真如の言もまた相あること無し、謂わく言説の極にして、言に因りて言を遣る。この真如の体は遣るべきものあること無し、一切法は尽く皆真なるを以っての故なり。また立つべからず、一切法皆同じく如なるを以っての故なり。まさに知るべし、一切法は説くべからず、故に名づけて真如となす」と云えり。これ真如は離言の法体にして、即ち言説の相を離れ、心縁の相を離れ、ただ根本無分別智の所証なることを明し、かつ真如の語は言に因りて他の言を遮えんが為に立てたるものにして、仮名を執すべからずと為すの意なり。また彼の論に言説に依りて真如を分別するに、如実空、如実不空の二義ありとし、その体妄念を離れて畢竟空なるを如実空とし、自体儼存して無漏の性功徳を具足するを如実不空と名づくと云えり。これ謂う所の依言真如の説なり。また「金光明経」等には如来の法身は真如を以って自性となすことを説き、これを名づけて真如法身と称せり。「合部金光明経巻1三身分別品」に、「云何が菩薩摩訶薩は法身を了別する。一切の諸の煩悩等の障を滅除せんと欲するが為に、一切の諸の善法を具足せんと欲するが為の故に、ただ如如と如如の智とあるを、これを法身と名づく」と云えるこれなり。また「十八空論」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「仏地経論巻6」、「成唯識論巻2」、「梁訳摂大乗論釈巻14」、「大般若経巻296」、「金光明最勝王経巻2」、「仏性論巻4」、「唐訳摂大乗論釈巻9」、「解深密経巻3」、「入楞伽経巻4」、「唐訳摂大乗論釈巻8」、「梁訳摂大乗論巻下」、「成唯識論巻10」等に出づ。<(望)
  真際(しんさい):即ち真如実際の略称なり。相対差別の相に断絶し、平等一如の真如法性を呈現する理体なり。「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」に、「諸の法性の即ち真実なるを以っての故に、無来無去、無生無滅にして、真際等の法性に同じく、無二無別なり」と云えるこれなり。<(望)
  実際(じっさい):梵語bhuuta-koTiの訳語にして、真実際の意、即ち虚妄を離絶せる境地にして、即ち涅槃の実証をいう。「大品般若経巻25実際品」に、「仏須菩提に告ぐ、菩薩は實際の為の故に般若波羅蜜を行ず。須菩提、實際と衆生際と異ならば、菩薩は般若波羅蜜を行ぜず。須菩提、実際と衆生際と異ならず、ここを以っての故に菩薩摩訶薩は、衆生を利益せんが為の故に般若波羅蜜を行ず。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、実際法を壊せざるを以って衆生を実際の中に立つ」と云い、「大智度論巻32」に、「実際とは法性を以って実と為し、証の故に際と為す。阿羅漢を名づけて実際に住すと為すが如し。(中略)實際は即ちこれ涅槃なり」と云い、また「中論巻4観涅槃品」に、「究竟じて世間と涅槃の実際無生際とを推求するに、平等不可得なるを以って毫釐の差別無し」と云えるこれなり。また「楞伽阿跋多羅宝経巻2」、「金光明最勝王経巻1」、「大智度論巻90」、「大乗義章巻1」等に出づ。<(望)
  参考:『維摩詰所説経巻3』:『爾時世尊問維摩詰。汝欲見如來。為以何等觀如來乎。維摩詰言。如自觀身實相。觀佛亦然。我觀如來。前際不來後際不去今則不住。不觀色不觀色如。不觀色性。不觀受想行識。不觀識如。不觀識性。非四大起。同於虛空。六入無積。眼耳鼻舌身心已過不在三界。三垢已離順三脫門。具足三明與無明等。不一相不異相。不自相不他相。非無相非取相。不此岸不彼岸不中流。而化眾生。觀於寂滅亦不永滅。不此不彼。不以此不以彼。不可以智知。不可以識識。無晦無明無名無相。無強無弱非淨非穢。不在方不離方。非有為非無為。無示無說。不施不慳。不戒不犯。不忍不恚。不進不怠。不定不亂。不智不愚。不誠不欺。不來不去。不出不入。一切言語道斷。非福田非不福田。非應供養非不應供養。非取非捨。非有相非無相。同真際等法性。不可稱不可量。過諸稱量。非大非小。非見非聞非覺非知。離眾結縛。等諸智同眾生。於諸法無分別。一切無失。無濁無惱。無作無起無生無滅。無畏無憂無喜無厭無著。無已有無當有無今有。不可以一切言說分別顯示。世尊。如來身為若此。作如是觀。以斯觀者名為正觀。若他觀者名為邪觀』
譬如閻浮提四大河。一河有五百小河屬。是水種種不淨。入大海水中皆清淨。 譬えば閻浮提の四大河は、一河に五百小河の属する有りて、是の水種種に不浄なるも、大海水中に入れば、皆清浄なるが如し。
譬えば、
『閻浮提』の、
『四大河』は、
『一河』につき、
『五百』の、
『小河』が、
『属する!』ので、
是の、
『水』は、
『種種に!』、
『不浄である!』が、
『大海水』中に、
『入る!』と、
皆、
『清浄である!』ように、
諸の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『種種に!』、
『不浄である!』が、
『如』という、
『大海水』中に、
『入る!』と、

『清浄となる!』のである。
  四大河(しだいが):閻浮提に在る四個の大河をいう。一に殑伽(梵gaGgaa)、二に信度(梵sindh、またはsindhu)、三に斯多(梵ziita、またはsiitii)、四に縛芻(梵vakSuまたはikSu)なり。「長阿含経巻18閻浮提洲品」に、「阿耨達池の東に恒伽河あり、牛口より出で、五百河を従えて東海に入る。阿耨達池の南に新頭河あり、師子口より出で、五百河を従えて南海に入る。阿耨達池の西に婆叉河あり、馬口より出で、五百河を従えて西海に入る。阿耨達池の北に斯陀河あり、象口より出で、五百河を従えて北海に入る」と云い、「阿毘曇毘婆沙論巻2」に、「また四大河あり、阿耨達池より出でて大海に流趣す。一を恒伽と名づけ、二を辛頭と名づけ、三を博叉と名づけ、四を私陀と名づく。彼の恒伽河は金象の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して東海に流趣す。彼の辛頭河は銀牛の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して南海に流趣す。彼の博叉河は琉璃馬の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して西海に流趣す。彼の私陀河は頗梨師子の口より出で、阿耨達池を繞ること一匝して北海に流趣す。彼の恒伽河に四大河あり、以って眷属と為す、一を夜摩那、二を薩羅由、三を阿夷羅跋提、四を摩醯と名づく。彼の辛頭河にまた四大河あり、以って眷属と為す、一を毘婆奢と名づく、二を伊羅跋提と名づく、三を奢多頭と名づく、四を毘徳多と名づく。彼の博叉河に四大河あり、以って眷属と為す、一を婆那と名づけ、二を毘多羅尼と名づけ、三を朋偖と名づけ、四を究仲婆と名づく。彼の私陀河にもまた四大河あり、以って眷属と為す。一を薩梨と名づけ、二を毘摩と名づけ、三を那提と名づけ、四を毘寿波婆と名づく。この中、ただ広大にして名字ある者を説けり。然るに彼の四河に各五百の眷属あれば、合して二千ありて大海に流趣す」と云えるこれなり。就中、殑伽河は、また兢伽、恒伽、恒迦、強伽、或は恒に作り、生天、天堂来等の異名あり。これ現今のガンヂスGanges河にして、ネパールの西北ガンゴートリGangotri付近にその源を発し、ヂュムナJumna、グムチGumuti、ゴーグラGogra、ソンSon、ガンダクGandak、クシKusi、ヂャムナJamuna等の諸河を併せてベンゴール湾に注ぐ。「阿毘曇毘婆沙論」に眷属して掲ぐる四河の中、夜摩那yamanaaは現今のヂャムナ、薩羅由sarayuはゴーグラ、阿夷羅跋提airaavatii(またはaciravatii)はラプチrapti(上のゴーグラ河の支流、ただしその位置に関しては異説あり)、摩醯maahiiはガンダク河の支流に当れり。次ぎに信度河はまた新頭、辛頭、私頭、信陀等に作り、験と訳す。これ現今のインダスIndus河にして、その源を西蔵の西南隅なるカイラスKailas(梵名kailaasa)山の南に発し、カーブルKabul、パンヂナドPanjnad(梵名paJca-nadii)等の諸河を併せてアラビア海に注ぐ。パンヂナド河の上流は謂わゆる五河Panjab地方にして、ストレヂSutlej、ビァスBias、ラーヴィRavi、チェナーブChenab、及びヂェーラムJhelumの五河あり。「阿毘曇毘婆沙論」に眷属として掲ぐる四河の中、毘婆奢vipaazaaは現今のビァス、伊羅跋提iraatatiiはラーヴィ、奢多頭zatadruはストレヂ、毘徳多bitastaはヂェーラム河に当れり。次ぎに斯多河はまた私多、私陀、斯陀、死陀、悉陀、斯頭、徙多、枲多等に作り、冷と訳す。その位置に関し、チョーマCsoma de Koros及びデイN.L.Deyは、斯多河は現今のヤクサルテスJaxartes河に想定し、マハーブハーラタmahaabhaarataに斯多河はシャカドヴィーパzakadviipaを貫流すと云うに相符すとなせり。蓋しヤクサルテス河は漢史の謂わゆる薬殺水にして、その源をイシクIssyk湖南の高原に発し、西北阿拉爾Aral海に注ぐ。然るに「大唐西域記巻12」、「玄応音義巻25」、「慧琳音義巻39」等にはまた異説を掲げ、孰れか是なるか詳にせず。次ぎに縛芻河は、また嚩芻、婆輸、婆槎、婆叉、薄叉、薄捜、博叉、和叉等に作り、胸と訳す。これ現今のオキサスOxus河にして、その源をパミール高原の南東に発して西北に向かい、阿拉爾海に射る。漢史の謂わゆる嬀水、または烏滸水これなり。ただし「阿毘曇毘婆沙論」に斯多河、及び縛芻がの眷属として掲ぐる各四河の名は、ヤクサルテス、または葉爾羗、及びオキサス河の何れの支流中にもこれを見いだすを得ず。この四大河の方向及び水源の獣名等に関しては諸経論の記する所互いに異ありて終に詳にせず。またヘディンS.Hedinに依れば、ストレヂ河は象口Langchenkabat、ブラフマプトラ河は師子口Singikabab、カルナリ河は孔雀口Mapchakambaより出づと云えり。蓋しこの四河は、カイラス山付近のマナサロワルManasarowar(梵名maanasa- sarovara)及びラカスRakasの二湖、またはその付近に水源を有するが故に、前記四大河阿耨達池同一流出の説は、或はこの事実を神話化せしものならん。また「増一阿含経巻21」には、これ等の四大河が海に入れば各本名を失い、ただ海とのみ名づけらるるを、刹利、婆羅門、長者、及び居士種が出家帰仏せば、また本姓無く、ただ沙門釈迦子と呼ばるるに譬え、「大智度論巻59」には、またこれを以って布施等の諸法が般若波羅蜜の中に至れば、皆一相にして差別無きことに喩同せり。また「起世経巻1」、「起世因本経巻1」、「大楼炭経巻1」、「増一阿含経巻21、34、45」、「大毘婆沙論巻2」、「大智度論巻7、59」、「倶舎論巻11」、「倶舎釈論巻8」、「順正理論巻31」、「瑜伽師地論巻2」、「翻梵語巻9」、「玄応音義巻24」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
問曰。不應言變化事空。何以故。變化心亦從修定得。從此心作種種變化。若人若法是化有因有果云何空。 問うて曰く、応に、『変化の事は、空なり』と言うべからず。何を以っての故に、変化の心も、亦た修定より得て、此の心より、種種の変化を作せばなり。若しは人、若しは法の是れ化なれば、因有り、果有り、云何が空ならん。
問い、
当然、
こう言うべきではない!――
『変化』の、
『事(作用)』は、
『空である!』と。
何故ならば、
『変化』の、
『心』も、
亦た、
『修定』より、
『得る!』のであり、
此の、
『心』より、
種種の、
『変化』を、
『作す!』からである。
若し、
『人』か、
『法』が、
『化である!』ならば、
是れには、
『因』も、
『果』も、
『有る!』のである。
何うして、
『空だ!』と、
『言う!』のですか?
答曰。如影中已答。今當更答。此因緣雖有變化果空。 答えて曰く、影中の如きに、已に答えたり。今、当に更に答うべし。此の因縁は、有りと雖も、変化の果は空なればなり。
答え、
『影』の中などに、
已に、
答えた!が、
今、
更に、
答えるとしよう、――
是の、
『化』の、
『因縁』が、
『有った!』としても、
『変化』という、
『果』が、
『空だ!』からである。
  参考:『大智度論巻6』:『復次如影空無。求實不可得。一切法亦如是空無有實。問曰。影空無有實是事不然。何以故。阿毘曇說。云何名色入。青黃赤白黑縹紫光明影等。及身業三種作色。是名可見色入。汝云何言無。復次實有影有因緣故。因為樹緣為明。是二事合有影生。云何言無。若無影。餘法因緣有者亦皆應無。復次是影色可見。長短大小麤細曲直形動影亦動。是事皆可見。以是故應有。答曰影實空無。汝言阿毘曇中說者。是釋阿毘曇義人所作說。一種法門人不體其意。執以為實。如鞞婆沙中說。微塵至細不可破不可燒。是則常有。復有三世中法。未來中出至現在。從現在入過去。無所失。是則為常。又言諸有為法新新生滅不住。若爾者是則為斷滅相。何以故。先有今無故。如是等種種異說違背佛語。不可以此為證影今異於色法。色法生必有香味觸等。影則不爾是為非有。如瓶二根知眼根身根。影若有亦應二根知。而無是事以是故影非有實物。但是誑眼法。如捉火[火*曹]疾轉成輪非實。影非有物若影是有物。應可破可滅。若形不滅影終不壞。以是故空。復次影屬形不自在故空。雖空而心生眼見。以是故說諸法如影。』
如口言無所有。雖心生口言。不可以心口有故。所言無所有。便是有。若言有第二頭第三手。雖從心口生。不可言有頭有手。 口の言に所有無きが如し。心に生じて、口に言うと雖も、心口を以って有りとすべからざるが故に、言う所に所有無けれども、便ち是れ有り。若し、第二の頭、第三の手有りと言わば、心より口に生ずと雖も、『頭有り、手有り』と言うべからず。
譬えば、
『口』の、
『言(ことば)』に、
『有する!』所が、
『無い!』のと同じである。
『心』に生じて、
『口』で、
『言った!』としても、
『心』や、
『口』に、
『言』が、
『有る!』からといって、
『言』に、
『有する!』所が、
『有るはずがない!』。
故に、
『言う!』所に、
『有する!』所が、
『無く!』ても、
即ち、
『言』は、
『有る!』のである。
若し、
『第二の頭』や、
『第三の手』が、
『有る!』と、
『言った!』として、
『心』より、
『口』に、
『生じた!』からといって、
『頭』や、
『手』が、
『有る!』と、
『言うべきでない!』。
  便是(べんぜ):即ち。とりもなおさず。
如佛說。觀無生從有生得脫。依無為從有為得脫。雖觀無生法無。而可作因緣。無為亦爾。 仏の説きたもうが如し、『無生を観て、有生より脱るるを得、無為に依りて、有為より脱るるを得』と。無生の法に無を観ると雖も、而も因縁と作るべし。無為も亦た爾り。
『仏』が、
こう説かれた通りである、――
『無生』の、
『法』を、
『観る!』ことで、
『有生』の、
『法』より、
『解脱できる!』。
『無為』の、
『法』に、
『依る!』ことで、
『有為』の、
『法』より、
『解脱できる!』と。
即ち、
『無生』の、
『法』は、
『無い!』と、
『観る!』のであるが、
而も、
是の、
『法』は、
『因縁』と、
『作る!』のであり、
『無為』も、
亦た、
是の通りである。
  参考:『大智度論巻15』:『無常者。五眾生住滅故無常相。汝何以言常無常皆不實。答曰。聖人有二種語。一者方便語。二者直語。方便語者。為人為因緣故。為人者為眾生說。是常是無常。如對治悉檀中說。若說無常。欲拔眾生三界著樂。佛思惟。以何令眾生得離欲。是故說無常法。如偈說 若觀無生法  於生法得離  若觀無為法  於有為得離』
變化雖空亦能生心因緣。譬如幻焰等九譬喻。雖無能生種種心。 変化は、空なりと雖も、能く心に因縁を生ず。譬えば、幻、焔等の九譬喩は、無しと雖も、能く種種の心を生ずるが如し。
『変化』は、
『空である!』が、
『心』に、
『因縁』を、
『生じることができる!』。
譬えば、
『幻、焔』等の、
『九譬喩』は、
『無であり!』ながら、
種種の、
『心』を、
『生じられる!』のと同じである。
復次是化事於六因四緣中求不可得。是中六因四緣不相應故空。 復た次ぎに、是の化の事は六因、四縁中に求めて得べからず。是の中に六因、四縁は相応せざるが故に空なり。
復た次ぎに、
是の、
『化』の、
『事』を、
『六因、四縁』中に、
『求めても!』、
『得られない!』、
是の中には、
『六因、四縁』が、
『相応しない!』が故に、
『空である!』。
  六因(ろくいん):能作因、俱有因、同類因、相応因、遍行因、異熟因。『大智度論巻2(上)注:六因』、『阿毘達磨倶舎論巻6』参照。
  四縁(しえん):因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁。『大智度論巻2(上)注:四縁』、『阿毘達磨倶舎論巻7』参照。
復次空不以不見為空。以其無實用故言空。以是故言諸法如化。 復た次ぎに、空は、見えざるを以って、空と為すにあらず。其の実の用無きを以っての故に、『空なり』と言う。是を以っての故に言わく、『諸法は化の如し』と。
復た次ぎに、
『空』とは、
『見えない!』ことを以って、
『空だ!』と、
『言うのではない!』。
其の、
『実』の、
『用(働き)』が、
『無い!』ことを以って、
故に、
『空だ!』と、
『言う!』のである。
是の故に、
こう言う、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。
問曰。若諸法十譬喻皆空無異者。何以但以十事為喻。不以山河石壁等為喻。 問うて曰く、若し諸法の十譬喩にして、皆空に異なり無くんば、何を以ってか、但だ十事を以って、喩と為し、山河、石壁等を以って、喩と為さざる。
問い、
若し、
諸の、
『法』の、
『十』の、
『譬喩』が、
皆、
『空』と、
『異ならない!』ならば、
何故、
但だ、
『十』の、
『事』のみを以って、
『喩とし!』、
『山河』や、
『石壁』等の、
『事』を以って、
『喩としない!』のですか?
答曰。諸法雖空而有分別。有難解空。有易解空。今以易解空喻難解空。 答えて曰く、諸法は、空なりと雖も、分別有り。難解の空有り、易解の空あり。今は、易解の空を以って、難解の空を喩う。
答え、
諸の、
『法』は、
『空である!』が、
而も、
『分別(差別)』が、
『有る!』。
謂わゆる、
『難解の空』と、
『易解の空』である。
今は、
『易解の空』を以って、
『難解の空』を、
『喩えた!』のである。
復次諸法有二種。有心著處有心不著處。以心不著處解心著處。 復た次ぎに、諸法には二種有り、心の著する処有り、心の著せざる処有り。心の著せざる処を以って、心の著する処を解く。
復た次ぎに、
諸の、
『法』には、
『二種』有り、
謂わゆる、
『心』の、
『著する!』、
『処()』と、
『心』の、
『著さない!』、
『処』である。
今は、
『心』の、
『著さない!』、
『処』を、
『用いて!』、
『心』の、
『著する!』、
『処』を、
『解説する!』のである。
問曰。此十譬喻。何以是心不著處。 問うて曰く、此の十譬喩は、何を以ってか、是れ心の著せざる処なる。
問い、
此の、
『十』の、
『譬喩』は、
何故、
『心』の、
『著さない!』、
『処』なのですか?
答曰。是十事不久住易生易滅故。以是故是心不著處。 答えて曰く、是の十事は、久住せずして、易生、易滅なるが故なり。是を以っての故に、是れ心の著せざる処なり。
答え、
是の、
『十』の、
『事』は、
『久住しない!』ので、
『生じ易く!』、
『滅し易い!』。
是の故に、
是れは、
『心』の、
『著さない!』、
『処である!』。
復次有人知十喻誑惑耳目法。不知諸法空故。以此喻諸法。 復た次ぎに、有る人は、『十喩は、耳目を誑惑する法なり』と知るも、『諸法は空なり』と知らざるが故に、此を以って、諸法を喩う。
復た次ぎに、
有る人は、
『十喩』は、
『耳』や、
『目』を、
『誑惑する!』、
『法だ!』と、
『知っている!』が、
諸の、
『法』が、
『空である!』とは、
『知らない!』が故に、
此の、
『十喩』を以って、
諸の、
『法』を、
『喩える!』のである。
若有人於十譬喻中。心著不解種種難論以此為有。是十譬喻不為其用。應更為說餘法門。 若しは有る人は、十譬喩中に於いて、心著して、解けざれば、種種に難論して、此を以って有と為さば、是の十譬喩は、其の用を為さず。応に、更に為に余の法門を説くべし。
若し、
有る人が、
『十』の、
『譬喩』中に、
『心』が、
『著して!』、
『解けなかった!』ならば、
此の、
『譬喩』中に、
種種に、
『難じたり!』、
『論じたり!』して、
此の、
『譬喩』を、
『有り!』と、
『為す!』だろう。
是の、
『十』の、
『譬喩』は、
其の、
『用』を、
『為さない!』のであるから、
当然、
更に、
余の、
『法門』を、
『説かなければならない!』。
  (ゆう):動作、起用の意。『大智度論巻6上注:作用』参照。
  作用(さゆう):梵語kaaraNa、kaaritra、kriyaa、vyaapaara等の訳。動作、起用の意。また略して用ともいう。乃ち物に具わる働きなり。「大毘婆沙論巻39」に、「法の未来なるは未だ作用あらず、もし現在に至らば便ち作用あり。もし過去に入らば作用すでに息むが故に転変あり」と云い、「倶舎論巻5」に、「生の作用は未来に在り、現在にすでに生ずれば、更に生ぜざるが故なり。諸法生じおわりて正に現在する時、住等の三相の作用まさに起こる。生の用の時に余の三用あるに非ず」と云い、また「成唯識論巻2」に、「有生滅とは、もし法常に非ざればよく作用ありて習気を生長す、乃ちこれ能熏なり。これ無為は前後不変にして生長の用無きが故に、能熏に非ざるを遮す」と云える即ちその例なり。これ作用は、三世有為法の中、ただ現在法にのみ有りて、過去と未来法とには無く、また四相の現在する時、まさに起こるものなることを明し、また無為法は生住異滅の四相を離れ、世の為に宣流せらるるものに非ざるが故に、すべて作用なきことを説けるものなり。また「大乗起信論」、「同義記巻下本」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末、3本」、「同了義灯巻4本」、「倶舎論光記巻5」等に出づ。<(望)
問曰。若諸法都空不生不滅。是十譬喻等種種譬喻種種因緣論議。我已悉知為空。若諸法都空不應說是喻。若說是喻是為不空。 問うて曰く、若し、諸法は、都べて空にして、不生不滅ならば、是の十の譬喩等の種種の譬喩、種種の因縁の論義は、我れ已に悉く知りて、空と為さん。若し、諸法は、都べて空ならば、応に是の喩を説くべからず。若し是の喩を説かば、是れを不空と為さん。
問い、
若し、
諸の、
『法』が、
都べて、
『空であり!』、
『不生不滅だ!』とすれば、
是の、
『十の譬喩』等の、
種種の、
『譬喩』や、
『因縁の論義』を、
わたしは、
已に、
悉く、
『空だ!』と、
『知っている!』。
若し、
諸の、
『法』が、
『都べて!』、
『空だ!』とすれば、
当然、
是の、
『十喩』を、
『説くべきでない!』。
若し、
是の、
『喩』を、
『説く!』のであれば、
是れは、
『空でない!』と、
『言うべきである!』。
答曰。我說空破諸法有。今所說者若說有先已破。若說無不應難。 答え、我れ、空を説きて、諸法の有を破る。今説く所も、若し有りと説かば、先に已に破る。若し無しと説かば、応に難ずべからず。
答え、
わたしは、
『空』を、
『説いて!』、
諸の、
『法』の、
『有』を、
『破った!』。
今の、
『説く!』所も、
若し、
『有る!』と、
『説けば!』、
先に、
已に、
『破っている!』。
若し、
『無い!』と、
『説けば!』
『難じるべきでない!』。
譬如執事比丘。高聲舉手唱言眾皆寂靜。是為以聲遮聲非求聲也。 譬えば、執事の比丘の声を高め、手を挙げて言わく、『衆は、皆、寂静なれ』と。是れを声を以って、声を遮し、声を求めるに非ずと為すが如し。
譬えば、
『執事』の、
『比丘』が、
『高声』に、
『手』を、
『挙げて!』、
こう言うのと同じである、――
衆よ!
皆、
『寂静にせよ!』と。
是れは、
『声』を以って、
『声』を、
『遮った!』のであり、
『声』を以って、
『声』を、
『求めたのではない!』。
  執事(しつじ):梵語vaiyaavRtya-karaの訳。僧団内の事務等を委託されて司る者の意。『大智度論巻22上注:執事』参照。
以是故雖說諸法空不生不滅。愍念眾生故。雖說非有也。以是故說諸法如化 是を以っての故に、『諸法は空にして、不生不滅なり』と説くと雖も、衆生を愍念するが故にして、説くと雖も有るに非ざるなり。是を以っての故に説かく、『諸法は化の如し』と。
是の故に、
諸の、
『法』は、
『空であり!』、
『不生不滅である!』と、
『説いた!』としても、
『衆生』を、
『愍念する!』からであり。
『説いた!』としても、
其の、
『法』が、
『有るわけではない!』。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『化のようだ!』と。


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