巻第五(下)
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大智度初品中菩薩功德釋論第十
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


言は、必ず信受される

【經】言必信受 言は、必ず信受さる。
『言(ことば)』は、
必ず、
『信受される!』。
【論】天人龍阿修羅等。及一切大人。皆信受其語。是不綺語報故。 天、人、龍、阿修羅等、及び一切の大人は、皆、其の語を信受す。是れ不綺語の報の故なり。
『天、人、龍、阿修羅』等と、
一切の、
『大人』は、
皆、
其の、
『語』を、
『信受する!』。
何故ならば、
是れが、
『不綺語(冗談を言わない)』の、
『報だから!』である。
  綺語(きご):梵語saMbhinna-pralaapaの訳。邪心を以って正しからざる言語を弄するを云う。十悪の一。又雑穢語、或いは無義語とも称す。『大智度論巻26下注:綺語』参照。
諸綺語報者。雖有實語一切人皆不信受如偈說
 有墮餓鬼中  火炎從口出 
 四向發大聲  是為口過報 
 雖復多聞見  在大眾說法 
 以不誠信業  人皆不信受 
 若欲廣多聞  為人所信受 
 是故當至誠  不應作綺語
諸の綺語の報とは、実語有りと雖も、一切の人は、皆、信受せず。偈に説くが如し、
餓鬼中に堕つる有り、火炎口より出で、
四もに向かいて大声を発す、是れを口の過の報と為す。
復た多く聞見して、大衆に在りて説法すと雖も、
誠信の業ならざるを以って、人は皆信受せず。
若し広く多く聞き、人に信受せられんと欲せば、
是の故に当に至誠なるべく、応に綺語を作すべからず。
諸の、
『綺語』の、
『報』とは、――
たまたま、
『実語』が有った!としても、
一切の、
『人』は、
誰も、
『信受しない!』。
『偈』に説く通りである、――
『綺語』の、
『報』とは、
『餓鬼』中に堕ちて、
『口』より、
『火炎』を、
『出し!』、
『四方に!』、
『大声』を、
『発する!』。
是れが、
『口』の、
『過(あやまち)』の、
『報である!』。
復た、
『多く!』、
『見たり!』、
『聞いたり!』して、
『大衆』中に、
『法』を、
『説いた!』としても、
『誠信(まごころ)』の、
『業でない!』が故に、
『人』は、
誰も、
『信受しない!』。
若し、
『広く!』、
『多く!』、
『聞いて!』、
『人』に、
『信受されたい!』と、
『思う!』ならば、
是の故に、
『至誠でなくてはならず!』、
当然、
『綺語』など、
『作すべきでない!』、と。



もう、懈怠することは無い

【經】無復懈怠 復た、懈怠すること無し。
もう、
『懈怠する(なまける)!』ことは、
『無い!』。
  懈怠(けたい):梵語kausiidyaの訳語にして、また怠に作る。心所の名、倶舎七十五法には六大煩悩の一、唯識百法には随煩悩二十の一にして、勤の対称と為す。即ち断悪修善の事に於いて力を尽くさざるなり。「唯識論巻6」に、「云何が懈怠なる。懈怠は善悪品の修断事中に於ける懶惰を性と為し、よく精進を障えて染を増すを業と為す。謂わゆる懈怠は染を滋長し、故に諸の染事に於いて策励する者をも、また懈怠と名づく」と云えるこれなり。<(望)
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻4』:『大煩惱法地名大煩惱地。此中若法大煩惱地所有名大煩惱地法。謂法恒於染污心有。彼法是何。頌曰 癡逸怠不信 惛掉恒唯染 論曰。此中癡者。所謂愚癡。即是無明無智無顯。逸謂放逸。不修諸善。是修諸善所對治法。怠謂懈怠心不勇悍。是前所說勤所對治。不信者謂心不澄淨。是前所說信所對治。惛謂惛沈。對法中說。云何惛沈。謂身重性心重性。身無堪任性心無堪任性。身惛沈性心惛沈性。是名惛沈。此是心所。如何名身。如身受言。故亦無失。掉謂掉舉令心不靜。唯有如是六種。名大煩惱地法。』
【論】懈怠法破在家人財利福利。破出家人生天樂涅槃樂。在家出家名聲俱滅。 懈怠の法は、在家人の財利、福利を破り、出家人の生天の楽、涅槃の楽を破り、在家、出家の名声は、倶に滅す。
『懈怠』という、
『法』は、
『在家人』ならば、
『財利』や、
『福利』を、
『破る!』ことになり、
『出家人』ならば、
『生天の楽』や、
『涅槃の楽』を、
『破る!』ことになり、
『在家』、
『出家』の、
『名声』は、
倶に、
『滅する!』のである。
大失大賊無過懈怠。如偈說
 懈怠沒善心  癡闇破智明 
 妙願皆為滅  大業亦已失
以是故說無復懈怠
大失、大賊の、懈怠に過ぐる無し。偈に説くが如し、
懈怠、善心を没すれば、癡闇は智明を破り、
妙願も皆為に滅して、大業も亦た已に失う。
是を以っての故に説かく、『復た懈怠すること無し。』と。
『大失』や、
『大賊』中に、
『懈怠』より、
『過ぎた!』ものは、
『無い!』のである。
『偈』に説く通りである、――
『懈怠』が、
『善心』を、
『没する!』と、
『癡闇』が、
『智明』を、
『破る!』。
『妙願』は、
皆、
『懈怠』の為に、
『滅し!』、
『大業』も、
とっくに、
『失われた!』、と。
是の故に、
こう説くのである、――
もう、
『懈怠する!』ことは、
『無くなった!』、と。



已に利養と名聞とを捨てた

【經】已捨利養名聞 已に利養と名聞とを捨つ。
已に、
『利養』や、
『名聞』は、
『捨てた!』。
【論】是利養法如賊壞功德本。譬如天雹傷害五穀。利養名聞亦復如是。壞功德苗令不增長。如佛說譬喻。如毛繩縛人斷膚截骨。貪利養人斷功德本亦復如是。 是の利養の法の、賊の如く功徳の本を壊(やぶ)る。譬えば天雹の五穀を傷害するが如し。利養、名聞も、亦復た是の如く、功徳の苗を壊りて、増長せざらしむ。仏の譬喩を説きたもうが如し、『毛縄もて人を縛れば、膚を断ち、骨を截るが如く、利養を貪る人の、功徳の本を断つこと、亦復た是の如し。』と。
是の、
『利養』という、
『法』は、
『賊』のように、
『功徳』の、
『本』を、
『破る!』。
譬えば、
『天』の、
『雹(ひょう)』が、
『五穀』を、
『傷害する!』ように、
『利養』や、
『名聞』も、
是のように、
『功徳』という、
『苗』を、
『破って!』、
『増長させない!』。
『仏』は、
『譬喩』を以って、
こう説かれた通りである、――
『人毛』で、
『編まれた!』、
『縄』で、
『人』を、
『縛る!』と、
其の、
『膚』を、
『断って!』、
『骨』を、
『截()る!』が、、
『利養』を、
『貪る!』、
『人』も、
是のように、
『功徳』の、
『本』を、
『断つ!』のである、と。
如偈說
 得入栴檀林  而但取其葉 
 既入七寶山  而更取水精 
 有人入佛法  不求涅槃樂 
 反求利供養  是輩為自欺 
 是故佛弟子  欲得甘露味 
 當棄捨雜毒  勤求涅槃樂 
 譬如惡雹雨  傷害於五穀 
 若著利供養  破慚愧頭陀 
 今世燒善根  後世墮地獄 
 如提婆達多  為利養自沒
以是故言已捨利養名聞
偈に説くが如し、
栴檀の林に入るを得て、但だ其の葉を取り、
即ち七宝の山に入るに、更に水精を取る。
有る人は仏法に入りて、涅槃の楽を求めず、
反って利供養を求む、是の輩は自らに欺かる。
是の故に仏弟子、甘露味を得んと欲すれば、
当に雑毒を棄捨して、涅槃の楽を勤求すべし。
譬えば悪雹雨の、五穀を傷害するが如く、
若し利供養に著せば、慚愧と頭陀とを破らん。
今世には善根を焼き、後世に地獄に堕すること、
提婆達多の、利養の為に自らを没せるが如し。
是を以っての故に言わく、『已に利養と、名聞とを捨つ。』と。
『偈』に、こう説く通りである、――
譬えば、
『栴檀』の、
『林』に、
『入りながら!』、
但だ、
其の、
『葉』のみを、
『取ったり!』、
せっかく、
『七宝』の、
『山』に、
『入った!』のに、
更に(かわりに)!、
『水精』を、
『取る!』ように、
有る、
『人』は、
『仏』の、
『法』に、
『入りながら!』、
『涅槃』の、
『楽』を、
『求めず!』、
反って、
『供養』の、
『利益』を、
『求める!』が、
是のような、
『輩()』は、
『自ら!』の為に、
『欺かれる!』だろう。
是の故に、
『仏』の、
『弟子』は、
『甘露味』を、
『得よう!』と、
『思う!』ならば、
当然、
『雑毒』を、
『棄捨し!』て、
『涅槃』の、
『楽』を、
『勤求すべき!』である。
譬えば、
『悪雹』の、
『雨』が、
『五穀』を、
『傷害する!』ように、
若し、
『供養』の、
『利益』に、
『著する!』ならば、
『慚愧』や、
『頭陀』の、
『功徳』を、
『破り!』、
『今世』に、
『善根』を、
『焼いて!』、
『後世』に、
『地獄』に、
『堕ちた!』、
『提婆達多』のように、
『利養』の為に、
『自ら!』を、
『没する!』だろう、と。
是の故に、
こう言うのである、――
已に、
『利養』や、
『名聞』は、
『捨てている!』、と。
  水精(すいしょう):梵語sphaTikaの訳。水晶。クリスタルの義。又水玉、白珠に訳し、又頗棃、頗梨、玻璃、玻棃、頗胝、頗置迦、薩頗胝迦、娑婆致迦、窣坡致迦、塞頗致迦に作る。其の質は瑩浄通明なり、紫、白、紅、碧等多種の顔色有りて、その中に紅色、碧色を以って最も珍貴と為し、紫色、白色は之に次ぐと為す。「大智度論巻10」には、「頗棃は山窟に産出し、千年を経るに氷化して頗棃珠と成る」と云えり。<(望)
  (きょう):さらに。かわりに。代。
  参考:『別訳雑阿含経巻1』:『如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹林。  爾時提婆達多獲得四禪。而作是念。此摩竭提國。誰為最勝。覆自思惟。今日太子阿闍世者。當紹王位。我今若得調伏彼者。則能控御一國人民。時提婆達多作是念已。即往詣阿闍世所。化作象寶。從門而入。非門而出。又化作馬寶。亦復如是。又復化作沙門。從門而入。飛虛而出。又化作小兒。眾寶瓔珞。莊嚴其身。在阿闍世膝上。時阿闍世抱取嗚唼。唾其口中。提婆達多貪利養故。即嚥其唾。提婆達多變小兒形。還伏本身。時阿闍世見是事已。即生邪見。謂提婆達多神通變化。踰於世尊。時阿闍世於提婆達多所。深生敬信。日送五百車食。而以與之。提婆達多與其徒眾五百人。俱共受其供。時有眾多比丘。著衣持缽。入城乞食。飲食已訖。往詣佛所白佛言。世尊。向以時到入城乞食。見提婆達多招集遠近。大獲供養。佛告諸比丘。汝等不應於提婆達所生願羨心。所以者何。此提婆達必為利養之所傷害。譬如芭蕉生實則死。蘆竹駏驉騾懷妊等。亦復如是。提婆達多得於利養。如彼無異。提婆達多愚癡無智。不識義理。長夜受苦。是故汝等。若見於彼提婆達多為於利養之所危害。宜應捨棄貪求之事。審諦觀察。當作是解。莫貪利養。即說偈言  芭蕉生實死  蘆竹葦亦然  貪利者如是  必能自傷損  而此利養者  當為衰損減  嬰愚為利養  能害於淨善  譬如多羅樹  斬則更不生  佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『大荘厳経(四一)巻7』:『復次利養亂於行道。若斷利養善觀察瞋。我昔曾聞。有一比丘在一園中。城邑聚落競共供養。同出家者憎嫉誹謗。比丘弟子聞是誹謗。白其師言。某甲比丘誹謗和上。時彼和上聞是語已。即喚謗者善言慰喻。以衣與之。諸弟子等白其師言彼誹謗人是我之怨。云何和上慰喻與衣。師答之言。彼誹謗者於我有恩應當供養。即說偈言  如雹害禾穀 有人能遮斷 田主甚歡喜 報之以財帛 彼謗是親厚 不名為怨家 遮我利養雹 我應報其恩 雹害及一世 利養害多身 雹唯害於財 利養毀修道 為雹所害田 必有少遺餘 利養之所害 功德都消盡 如彼提婆達 利養雹所害 由彼貪著故 善法無毫釐 眾惡極熾盛 死則墮惡道 利養劇猛火 亦過於惡毒 師子及虎狼 智者觀察已 寧為彼所傷 不為利養害 愚者貪利養 不見其過惡 利養遠聖道 善行滅不生 佛已斷諸結 三有結都解 功德已具滿 猶尚避利養 眾中師子吼 而唱如是言 利養莫近我 我亦遠於彼 有心明智人 誰當貪利養 利養亂定心 為害劇於怨 如以毛繩戮 皮斷肉骨壞 髓斷爾乃止 利養過毛繩 絕於持戒皮 能破禪定肉 折於智慧骨  滅妙善心髓 譬如嬰孩者 捉火欲食之 如魚吞鉤餌 如鳥網所覆 諸獸墜阱陷 皆由貪味故 比丘貪利養 與彼亦無異 其味極尟少 為患甚深重 詐為諂佞者 止住利養中 親近憒鬧亂 妨患之種子 如似疥搔瘡 搔之痒轉增  矜高放逸欲 皆因利養生 此人為我等 遮於利養怨 我以是義故 應盡心供養 如是善知識 云何名為怨 由貪利養故 不樂閑靜處 心常緣利養 晝夜不休息 彼處有衣食 某是我親厚 必來請命我 心意多攀緣 敗壞寂靜心 不樂空閑處 常樂在人間 田利毀敗故 不樂寂定法 以捨寂定故 不名為比丘 亦不名白衣』



法を説いて、悕望する所が無い

【經】說法無所悕望 法を説いて悕望する所無し。
『法』を、
『説く!』が、
『悕望する!』所は、
『無い!』。
  悕望(けもう):ねがいのぞむ。
【論】大慈憐愍為眾說法。不為衣食名聲勢力故說大慈悲故。心清淨故。得無生法忍故。如偈說
 多聞辯慧巧言語 
 美說諸法轉人心 
 自不如法行不正 
 譬如雲雷而不雨 
 博學多聞有智慧 
 訥口拙言無巧便 
 不能顯發法寶藏 
 譬如無雷而小雨 
 不廣學問無智慧 
 不能說法無好行 
 是弊法師無慚愧 
 譬如小雲無雷雨 
 多聞廣智美言語 
 巧說諸法轉人心 
 行法心正無所畏 
 如大雲雷澍洪雨 
 法之大將持法鏡 
 照明佛法智慧藏 
 持誦廣宣振法鈴 
 如海中船渡一切 
 亦如蜂王集諸味 
 說如佛言隨佛意 
 助佛明法度眾生 
 如是法師甚難值
大慈は憐愍して、衆の為に法を説き、衣食、名聞、勢力の為の故に説かず。大慈悲の故に、心清浄なるが故に、無生法忍を得るが故なり。偈に説くが如し、
多聞、辯慧にして、言語を巧みにし、
諸法を美説して、人心を転ずとも、
自ら如法に行わず、正しからざれば、
譬えば雲雷ありて、雨ふらざるが如し。
博学、多聞にして、智慧有るも、
訥口、拙言にして、巧便無くんば、
法宝の蔵を、顕発する能わざること、
譬えば雷無き、小雨の如し。
広く学門せざれば、智慧無く、
法を説く能わずして、好行無けん、
是の弊法師には、慚愧無く、
譬えば小雲にして、雷雨無きが如し。
多聞、広智にして、言語に美しく、
諸法を巧説して、人心を転じ、
行法に心正しくんば、畏るる所無けん、
大雲雷の、洪雨を澍(そそ)ぐが如し。
法の大将の、法鏡を持(たも)ちて、
仏法の、智慧の蔵を照明し、
持誦し、広宣して法鈴を振るは、
海中に船が一切を渡すが如し。
亦た蜂王の、諸味を集むるが如く、
仏言の如きを説きて、仏意に随い、
仏の明法を助けて、衆生を度す、
是の如き法師には、甚だ値(あ)い難し。
『大慈』が、
『憐愍して!』、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説く!』のであって、
『衣食、名声、勢力』を、
『得る!』為の故に、
『法』を、
『説くのではない!』。
『大慈悲』の故に、
『法』を、
『説き!』、
『心』が、
『清浄である!』が故に、
『説き!』、
『心』に、
『無生法忍』を得た!が故に、
『説く!』のである。
『偈』に、こう説く通りである、――
若し、
『多聞』、
『辯才』、
『智慧』を、
『具えて!』、
『言葉』、
『巧みに!』、
諸の、
『法』を、
『美しく!』、
『説いて!』、
『人』の、
『心』を、
『転じた!』としても、
自らの、
『行い!』が、
『如法でなく!』、
『心』の、
『正しくない!』者は、
譬えば、
『雲』も、
『雷』も、
『有る!』のに、
『雨』が、
『降らない!』のと同じだ。
若し、
『博学』、
『多聞』で、
『智慧』が、
『有った!』としても、
『訥弁』で、
『言葉』が、
『拙く!』、
『法』を、
『説く!』ことが、
『巧みでなかった!』ならば、
『法宝』の、
『蔵』を、
『顕発(開発)できない!』、
譬えば、
『雷』が、
『無く!』、
『雨』が、
『少ない!』のと同じだ。
若し、
『広く!』、
『学問しなかった!』ならば、
則ち、
『智慧』が、
『無い!』、
故に、
『法』を、
『説く!』ことも、
『できない!』し、
『好い!』、
『行い!』も、
『無い!』、
是のような、
『弊法師(法師のくず)』は、
『慚愧する(恥じる)!』ことも、
『無い!』、
譬えば、
『少しばかり!』の、
『雲』に、
『雷』も、
『雨』も、
『無い!』のと同じだ。
若し、
『多聞』と、
『広智』とを、
『具えて!』、
『言葉』が、
『美しく!』、
諸の、
『法』を、
『巧みに!』、
『説いて!』、
『人』の、
『心』を、
『転じ!』、
自らも、
『如法』に、
『行う!』ような、
『心』の、
『正しい!』者は、
『畏れる!』所が、
『無い!』、
譬えば、
『大きな!』、
『雲』や、
『雷』が、
『大雨』で、
『大地』を、
『澍(うるお)す!』のと同じだ。
『法』の、
『大将』が、
『法』の、
『鏡』を、
『手に持って!』、
『仏』の、
『法』という、
『智慧』の、
『蔵』を、
『明るく照らし!』、
『法』を、
『持誦し!』、
『広宣して!』、
『法』の、
『鈴』を、
『振る!』ならば、
譬えば、
『海』中に、
『船』が、
『一切』を、
『渡す!』のと同じだ。
亦た、
『蜂王』が、
諸の、
『味()』を、
『集めても!』、
諸の、
『花』を、
『傷害しない!』ように、
『仏』の、
『言葉』を、
『そのまま!』、
『説いて!』、
『仏』の、
『意』に、
『随い!』、
『仏』を、
『助けて!』、
『法』を、
『明かし!』、
『衆生』を、
『度す!』ならば、
是のような、
『法師』は、
『甚だ!』、
『値()い難い!』、と。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語anutpattika-dharma-kSaantiの訳。諸法無生の理を観じて之を諦忍するを云う。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
  辯慧(べんえ):辯才の智慧。辯才。
  美説(みせつ):美しく説く。
  訥口(とつく):訥弁。くちべた。
  拙言(せつごん):話がつたない。
  巧便(ぎょうべん):巧方便。巧みな説法。
  顕発(けんほつ):あらわしあばく。
  好行(こうぎょう):好もしき行い。
  弊法師(へいほうし):ぼろぼろの法師。
  広智(こうち):広い智慧。
  巧説(ぎょうせつ):巧みな説法。
  洪雨(こうう):大雨。
  持誦(じじゅ):保持し、読誦す。
  広宣(こうせん):広く布く。
  参考:『増一阿含経巻17』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有四種雲。云何為四。或有雲雷而不雨。或有雲雨而不雷。或有雲亦雨亦雷。或有雲亦不雨亦不雷。是謂四種雲。世間四種人而像雲。何等四人。或有比丘雷而不雨。或有比丘雨而不雷。或有比丘亦不雨亦不雷。或有比丘亦雨亦雷。彼云何比丘雷而不雨。或有比丘高聲誦習。所謂契經.祇夜.受決.偈.本末.因緣.已說.生經.頌.方等.未曾有法.譬喻。如是諸法。善諷誦讀。不失其義。不廣與人說法。是謂此人雷而不雨。。彼云何人雨而不雷。或比丘有顏色端政。出入行來。進止之宜。皆悉具知。修諸善法。無毫釐之失。然不多聞。亦不高聲誦習。復不修行契經.本末.授決.偈.因緣.譬喻.生經.方等.未曾有法。然從他承受。亦不忘失。好與善知識相隨。亦好與他說法。是謂此人雨而不雷。彼何等人亦不雨亦復不雷。或有一人顏色不端政。出入行來。進止之宜。皆悉不具。不修諸善法。然不多聞。亦不高聲誦習讀。復不修行契經至方等。亦復不與他說法。是謂此人亦不雨亦不雷。。復有何等人亦雨亦雷。或有一人顏色端政。出入行來。進止之宜。亦悉具知。好喜學問。所受不失。亦好與他說法。勸進他人。令使承受。是謂此人亦雷亦雨。是謂。比丘。世間有此四人。是故。比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』



甚深の法を度して忍ぶ

【經】度甚深法忍 甚深の法を度して忍ぶ
『甚だ深い!』、
『法』を、
『度して(渡って)!』、
『忍ぶ(認める)!』。
【論】云何甚深法。十二因緣是名甚深法。如佛告阿難。是十二因緣法甚深難解難知。 云何が甚深の法なる。十二因縁は、是れを甚深の法と名づく。仏の阿難に告げたまえるが如し、『是の十二因縁の法は、甚だ深く、解し難く、知り難し。』と。
何を、
『甚深の法』というのか?――
『十二因縁』は、
『甚深の法』と、
『称されている!』。
『仏』が、
『阿難』に、告げられた通りである、――
是の、
『十二因縁の法』は、
『甚だ深く!』、
『解し難く!』、
『知り難い!』、と。
復次依過去未來世生六十二邪見網永離。是名甚深法。如佛語比丘。凡夫無聞若欲讚佛所讚甚小。所謂若讚戒清淨。若讚離諸欲。若能讚是甚深難解難知法。是為實讚佛。是中梵網經應廣說。 復た次ぎに、過去、未来世の生の六十二邪見の網を永く離るるに依って、是れを甚深の法と名づく。仏の比丘に語りたもうが如し、『凡夫は無聞なれば、若し仏を讃ぜんと欲するも、讃ずる所は甚だ小(すくな)し。謂わゆる若しは戒の清浄なるを讃じ、若しは諸欲を離るるを讃ず。若し是の甚深、難解、難知の法を讃ずれば、是れを実に仏を讃ずと為す。』と。是の中は、梵網経に、応に広く説くべし。
復た次ぎに、
『過去、未来世の生』に就き、
『六十二』の、
『邪見の網』を、
『永く離れる!』に依り、
是の、
『十二因縁の法』を、
『甚深の法』と、
『称する!』。
『仏』は、
『比丘』に、こう語られた――
『凡夫』は、
『聞く!』ことが、
『無い!』ので、
若し、
『仏』を、
『讃じたい!』と、
『思った!』としても、
其の、
『讃じる!』所は、
『甚だ小(すくな)い!』、
謂わゆる、
『戒』が、
『清浄である!』と、
『讃じたり!』、
『諸欲』を、
『離れている!』と、
『讃じたり!』することである。
若し、
是の、
『甚だ深く!』、
『解し難く!』、
『知り難い!』、
『法』を、
『讃じられた!』ならば、
是れが、
『実に!』、
『仏』を、
『讃じた!』のである、と。
是の中は、、
『梵網経』中に、
広く、説かれている。
  六十二見(ろくじゅうにけん):梵語dvaaSaSTi dRSTayaHの訳。巴梨語dvaasaTThi- vatthu、外道の所執に総じて六十二種の別あるを云う。(一)長阿含梵動経の所説。「長阿含巻14梵動経(梵網六十二見経と同本)」に、「諸有の沙門、婆羅門が本劫本見末劫末見に於いて種種無数に意に随って説く所は尽く六十二見中に入る。本劫本界末劫末見種種無数の随意の所説は、尽く六十二見中を出過すること能わず」と云い、「大毘婆沙論巻199」に、「梵網経に説く六十二の諸悪見趣は、皆有身見を本となす。六十二見趣とは、謂わく前際の分別見に十八あり、後際の分別見に四十四あり、前際の分別見に十八ありとは、謂わく四の遍常論、四の一分常論、二の無因生論、四の有辺等論、四の不死矯乱論なり。後際の分別見に四十四ありとは、謂わく十六の有想論、八の無想論、八の非有想非無想論、七の断滅論、五の現法涅槃論なり。この中、過去に依りて分別見を起すを前際分別見と名づけ、未来に依りて分別見を起すを後際分別見と名づく。もし現在に依りて分別見を起すはこれ則ち不定なり。或は前際分別見と名づけ、或は後際分別見と名づく。現在世はこれ未来の前、過去の後なるが故に、或は未来の因、過去の果なるを以っての故なり」と云えるこれなり。これ外道の所執を大別して本劫本見、末劫末見の二種とし、本劫本見即ち過去前際に依りて分別見を起すに五類十八見、末劫末見即ち未来後際に依りて分別見を起すに五類四十四見、合して十類六十二見の別あることを説けるものなり。今「大乗義章巻6六十二見義」に依り略してその別を辨ぜば、本劫本見の中、四の遍常論とは過去に於ける我及び世間の全分常を計するものにして、これに四類あり、一は過去二十劫、二は過去四十劫、三は過去八十劫の事を憶識し、以って各衆生は常住なりと計し、四は自ら捷疾智を以って我及び世間の常住を計するを云う。四の一分常論とは、我及び世間の一分を計するものにして、一は大梵天は常、余の我及び世間は無常、二は彼の梵衆の戯笑放逸の為に定を失して下生せし者は無常、余は常、三は彼の梵衆の相に著し、欲染心を生じて下生せし者は無常、余は常、四は自ら捷疾智を以って分別思量して我及び世間の常無常を計するを云う。二の無因生論とは世間の無因を計するものにして、一は先に無想天に生じ、後人間に生じて往事を憶識し、二は自ら捷疾智を以って分別観察し、共に世間は無因にして有りと計するを云う。四の有辺等論とは、世間の有辺無辺を計するものにして、一は入定観察して世間に辺際あり、辺際なし、三は亦辺際あり亦辺際なし、四は捷疾智を以って非有辺非無辺を計するを云う。四の不死矯乱論とは不死(一に所事の天)の問題に就き自ら知る所なく、即ち矯乱して他に答うるものにして、一は善悪業報に就き自らの所解に随って答え、二は他世有無に就き問者の所見に随って如是と答え、三は善不善の法に就き非善非悪を以って答え、四は他人の所見を取りて答うるを云う。末劫末見の中、十六の有想論とは未来死後に於ける有想を計するものにして、四の四句あり、初の四句は想と色と相対し、一に有色有想、二に無色有想、三に亦有色亦無色有想、四に非有色非無色有想なり。次の四句は想と辺無辺と相対し、一に有辺有想、二に無辺有想、三に亦有辺亦無辺有想、四に非有辺非無辺有想なり。次の四句は想と苦楽と相対し、一に有苦有想、二に有楽有想、三に有苦有楽有想、四に非有苦非有楽有想なり。次の四句は多少相対し、一に唯一想、二に若干想、三に小想、四に無量想と計するを云う。八の無想論とは死後無想を計するものにして二の四句あり。初の四句は無想と色と相対し、一に有色無想、二に無色無想、三に亦有色亦無色無想、四に非有色非無色無想なり。次の四句は無想と辺無辺と相対し、一に有辺無想、二に無辺無想、三に亦有辺亦無辺無想、四に非有辺非無辺無想と計するを云う。八の非有想非無想論とはまた二の四句あり。初の四句は色に対し、一に有色非有想非無想、二に無色非有想非無想、三に亦有色亦無色非有想非無想、四に非有色非無色非有想非無想なり。次の四句は辺無辺に対し、一に有辺非有想非無想、二に無辺非有想非無想、三に亦有辺亦無辺非有想、四に非有辺非無辺非有想非無想と計するものを云う。七の断滅論とは死後の断滅を計するものにして、一はこの四大六入父母所生の身は無常にして断滅に帰し、二は欲界天、三は色界天、四は無色界空無辺処、五は色無辺処、六は無所有処、七は非想非非想処に生じ、各その報尽きて断滅に帰すと計するを云う。五の現法涅槃論とは涅槃に関する異執にして、一は現在の五欲に於いて自ら恣に快楽を受くるが故にこの欲界即ち涅槃なりと計し、二は色界初禅天、三は二禅天、四は三禅天、五は四禅天を涅槃と計するを云うなり。この中、遍常論は彼の外道十六宗中の未来実有宗、一分常論は自在等因宗、また遍常一分常の二を合して諸法皆常宗、無因生論は諸法無因宗、有辺等論は無辺等論宗、不死矯乱論は不死矯乱宗、断滅論は七事断滅宗、現法涅槃論は妄計清浄宗に各相当するなり。また「増一阿含経巻7」、「瑜伽師地論巻87」、「中観論疏巻10末」等に出づ。「長阿含梵動経巻14」、「梵網六十二見経」参照。(二)大品般若経の所説。智顗の「仁王護国般若波羅蜜経疏巻2」に、「六十二見は釈者同じからず。且く大論に依るに五陰の上に於いて皆四句を作す。色陰に於いて過去の色神及び世間は常なり。この事は実なり、余は妄語なりと云う。無常等の三句もまた然り。余の陰もまたかくの如くして二十を成ず。現在の有辺無辺道は五陰の上を歴るに二十あり。死後の如去不如去等もまた二十ありて六十を成ず、この神と身の一なると、神と身の異なるとにて六十二見を成ず」と云えるこれなり。これ大品般若経巻14仏母品、並びに大智度論巻70の所説に依り、過去の五蘊に各常、無常、常無常、非常非無常の四句あるが故に二十句、現在の五蘊に各有辺、無辺、有辺無辺、非有辺非無辺の四句あるが故に二十句、未来の五蘊に各如去、不如去、如去不如去、非如去非不如去の四句あるが故に二十句を成じ、合して六十句あり。これに神と身との一異の二句を加え、総じて六十二見を得となすの説なり。また「十住毘婆沙論巻8」、「大乗義章巻6」、「中観論疏巻10末」等に出づ。(三)涅槃経の所説。「南本涅槃経巻23」に、「云何が菩薩は五事を離る。謂わゆる五見なり。何事をか五と為す。一には身見、二には辺見、三には邪見、四には戒取、五には見取なり。この五見に因りて六十二見を生ず」と云い、潅頂の「大般涅槃経会疏巻23」にこれを解し「我と辺の二種を合して六十二となす、我見に五十六あり、辺見に六あり、我見の五十六とは、欲界の陰に各即離の四見あるを二十と為す、色界もまた爾り、四十と為す、無色にはただ四心あり、各四見なれば十六と為し、前に足して五十六と為す、辺見に六ありとは、三界に各断常あり、六と為す」と云えるこれなり。これ身見を三界五蘊、辺見を三界に配して六十二を成ずとなすの説なり。また「大般涅槃経巻25」、「大般涅槃経会疏巻35」等に出づ。<(望)
  梵網経(ぼんもうきょう):『長阿含経巻14梵動経』、『梵網六十二見経』を指す。
  参考:『長阿含経巻14』:『爾時。世尊於靜室中以天淨耳過於人耳。聞諸比丘有如是論。世尊於淨室起詣講堂所。大眾前坐。知而故問。諸比丘。汝等以何因緣集此講堂。何所論說。時。諸比丘白佛言。我等於乞食後集此講堂。眾共議言。甚奇。甚特。如來有大神力。威德具足。盡知眾生心志所趣。而今善念梵志及弟子梵摩達常隨如來及與眾僧。以無數方便毀謗如來及法.眾僧。弟子梵摩達以無數方便稱讚如來及法.眾僧。所以者何。以其異見.異習.異親近故。向集講堂議如是事。爾時。世尊告諸比丘。若有方便毀謗如來及法.眾僧者。汝等不得懷忿結心。害意於彼。所以者何。若誹謗我.法及比丘僧。汝等懷忿結心。起害意者。則自陷溺。是故汝等不得懷忿結心。害意於彼。比丘若稱譽佛及法.眾僧者。汝等於中亦不足以為歡喜慶幸。所以者何。若汝等生歡喜心。即為陷溺。是故汝等不應生喜。所以者何。此是小緣威儀戒行。凡夫寡聞。不達深義。直以所見如實讚嘆。云何小緣威儀戒行。凡夫寡聞。直以所見如實稱讚。彼讚嘆言。沙門瞿曇滅殺.除殺。捨於刀杖。懷慚愧心。慈愍一切。此是小緣威儀戒行。彼寡聞凡夫以此歎佛。又嘆。沙門瞿曇捨不與取。滅不與取。無有盜心。又嘆。沙門瞿曇捨於婬欲。淨修梵行。一向護戒。不習婬逸。所行清潔。又嘆。沙門瞿曇捨滅妄語。所言至誠。所說真實。不誑世人。沙門瞿曇捨滅兩舌。不以此言壞亂於彼。不以彼言壞亂於此。有諍訟者能令和合。已和合者增其歡喜。有所言說不離和合。誠實入心。所言知時。沙門瞿曇捨滅惡口。若有麤言傷損於人。增彼結恨長怨憎者。如此麤言盡皆不為。常以善言悅可人心。眾所愛樂。聽無厭足。但說此言。沙門瞿曇捨滅綺語。知時之語.實語.利語.法語.律語.止非之語。但說是言‥‥』
復次三解脫門。是名甚深法。如佛說般若波羅蜜中諸天讚言。世尊是法甚深。佛言甚深法者空則是義。無作無相則是義。 復た次ぎに、三解脱門は、是れを甚深の法と名づく。仏の、般若波羅蜜中に説きたまえるが如し、『諸天の讃じて言わく、世尊、是の法は甚だ深しと。仏の言わく、甚深の法は、空則ち是の義なり。無作、無相、則ち是の義なりと』、と。
復た次ぎに、
『三解脱門(空、無相、無作解脱門)』を、
『甚深の法』と、
『称する!』。
『仏』は、
『般若波羅蜜』中に、こう説かれている、――
諸天は、
こう言った、――
世尊!、
是の、
『法』は、
『甚だ深い!』、と。
世尊は、
こう言われた、――
『甚だ深い!』、
『法』とは、――
『空』が、
是の、
『法』の、
『義(意味)であり!』、
『無相、無作』が、
是の、
『法』の、
『義である!』、と。
  三解脱門(さんげだつもん):空、無相、無作の三三昧は、皆解脱の門なることを云う。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻17』:『須菩提言。世尊。何等深奧處。阿惟越致菩薩摩訶薩。住是中行六波羅蜜時。具足四念處乃至具足一切種智。佛讚須菩提。善哉善哉。須菩提。汝為阿惟越致菩薩摩訶薩。問是深奧處。須菩提。深奧處者空是其義。無相無作無起無生無染。寂滅離如法性實際涅槃。須菩提。如是等法是為深奧義。』
復次解一切諸法相。實不可破不可動。是名甚深法。 復た次ぎに、一切の諸法の相は、実に破るべからず、動かすべからずと解す。是れを甚深の法と名づく。
復た次ぎに、
一切の、
諸の、
『法』の、
『相』は、
実に、
『破ることもできず!』、
『動かすこともできない!』と、
『解した!』ならば、
是れを、
『甚深の法』と、
『称する!』のである。
復次除內心想智力。但定心諸法清淨實相中住。 復た次ぎに、内の心想の智力を除けば、但だ、定心のみ、諸法の清浄なる実相中に住す。
復た次ぎに、
内の、
『心想』の、
『智力』を、
『除く!』と、
但だ、
『定心』のみが、
諸の、
『法』の、
『清浄』な、
『実相』中に、
『住まる!』。
譬如熱氣盛非黃見黃。心想智力故。於諸法轉觀。是名淺法。譬如人眼清淨無熱氣。如實見黃是黃。如是除內心想智力。慧眼清淨見諸法實相。 譬えば熱気盛んなれば、黄に非ざるに黄を見るが如く、心想の智力の故に、諸法に於いて転じて観る。是れを浅法と名づく。譬えば人の眼の清浄にして、熱気無ければ、実に黄なるを、是れ黄なりと見るが如く、是の如く内の心想の智力を除きて、慧眼清浄なれば、諸法の実相を見る。
譬えば、
『熱気』が、
『盛んな!』時には、
『黄でない!』のに、
『黄』を、
『観る!』のは、
『心想』の、
『智力』の故に、
諸の、
『法』を、
『転じて!』、
『観る!』からであり、
是の、
『智力』は、
『浅い!』、
『法である!』。
譬えば、
『人』の、
『眼』が、
『清浄であり!』、
『熱気』の、
『無い!』時には、
実に、
『黄』を、
是れは、
『黄である!』と、
『見る!』のであるが、
是のように、
内の、
『心想』の、
『智慧』を、
『除く!』と、
『慧眼』が、
『清浄になる!』ので、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『見る!』。
譬如真水精黃物著中則隨作黃色。青赤白色皆隨色變。心亦如是凡夫人內心想智力故。見諸法異相。 譬えば真の水精に、黄物著すれば、中に則ち随って黄色を作し、青、赤、白色も、皆、色に随って変ずるが如く、心も、亦た是の如く、凡夫人の内の心想の智力の故に、諸法に異相を見る。
譬えば、
真の、
『水精』に、
『黄物』が、
『著く!』と、
『水精』中は、
『黄物』に
『随って!』、
『黄色』を、
『作し!』、
『青、赤、白色』も、
皆、
『色』に、
『随って!』、
『変わる!』ように、
『心』も、
是のように、
『凡夫人』の、
内の、
『心想』の、
『智力』の故に、
諸の、
『法』に、
『異相』を、
『見る!』のである。
觀諸法實相非空非不空不有非不有。是法中深入不轉無所罣礙。是名度深法忍。度名得甚深法。具足滿無所礙。得度彼岸。是名為度 諸法の実相は、『空に非ず、不空に非ず、有ならず、不有に非ず』と観て、是の法中に、深く入りて転ぜず、罣礙する所無し、是れを深法を度して忍ぶと名づく。度とは、甚深の法を得るに名づく。具足して満ち、礙する所無ければ、彼岸に度することを得、是れを名づけて度と為す。
諸の、
『法』の、
『実相』は、
『空でない!』、
『不空でもない!』、
『有るのでもない!』、
『不有でもない!』と、
『観た!』ならば、
是の、
『法』の、
『実相』中に、
『深く入って!』、
『転じない!』時、
『法』中に、
『罣礙する(自由にさせない)!』所が、
『無くなる!』ので、
是れを、
『深法』を、
『度して(渡って)!』、
其の、
『実相』を、
『忍ぶ(認める)!』というのである。
『度す(渡る)!』とは、
『甚深』の、
『法』を、
『得る!』ことであるが、
具足して、
『法』が、
『満ちる!』が故に、
『法』中に、
『罣礙する(邪魔する)!』所が、
『無くなり!』、
『彼岸』に、
『度する(渡る)!』ことが、
『できる!』ので、
是れを、
『度する!』と、
『称する!』のである。



無畏の力を得た

【經】得無畏力 無畏の力を得。
『無畏』という、
『力』を、
『得た!』。
  四無所畏(しむしょい):梵語catvaari vaizaaradyaaniの訳語にして、四種の無所畏の意なり。また四無畏に作り、即ち仏、菩薩は四種の無所畏を得るが故に、説法に当りて怖畏する所なく勇猛安穏なるをいう。(一)仏の四無所畏(梵catvaari tathaagatasya vaizaaradyaani):十八不共法の一科なり。即ち一に諸法現等覚無畏(梵sarva- dharamaabhisaMbodhi- vaizaaradya)、二に一切漏尽智無畏(梵sarvaasrava- kSaya- jJaana- vaizaaradya)、三に障法不虚決定授記無畏(梵antaraayika- dharmaananyathaatva- nizcita- vyaakaraNa- vaizaaradya)、四に為証一切具足出道如性無畏(梵sarva- saMpad- adhigamaaya- nairyaaNika- pratipat- tataatva- vaizaaradya)なり。即ち「増一阿含経巻19」に、「如来出世して四無所畏あり。如来はこの四無所畏を得て便ち世間に於いて所著なく、大衆の中に有りて師子吼して梵輪を転ず。云何が四と為す。われ今すでにこの法を辦ず。たとい沙門、婆羅門、魔もしは魔天、蜎飛、蠕動の類、大衆の中に在りて、われはこの法を成ぜずと言うも、この事然らず、この中に於いて無所畏を得る、これを第一無所畏と為す。わが如きは今日諸漏すでに尽きて更に胎を受けず。もし沙門、婆羅門、衆生の類あり、大衆の中に在りて、わが諸漏は未だ尽きずと言うも、この事然らず。これを第二無所畏という。われ今すでに愚闇の法に離る。還た愚闇の法に就かしめんと欲するも終にこの処なし。もしまた沙門、婆羅門、魔もしは魔天、衆生の類、大衆の中に在りて、われは還た愚闇の法に就く、と言わば、この事然らず。これを如来の三無畏という。諸の賢聖の出要の法は苦際を尽くす。出要せしめざらんと欲するも終にこの処なし。もし沙門、婆羅門、魔もしは魔天、衆生の類あり、大衆の中に在りて、如来は苦際を尽くさず、と言わば、この事然らず。これを如来の四無所畏という。かくの如し、比丘、如来に四無所畏あり。大衆の中に在りて、よく獅子吼して梵輪を転ず。かくの如し、比丘、常に方便を求めて四無所畏を成ずべし。かくの如し、比丘、まさにこの学を作すべし」と云えるこれなり。この中、初に諸法現等覚無畏とは、また正等覚無畏、一切智無所畏、或は等覚無畏とも名づく。即ち仏は諸法に於いて等しく皆覚知して知らざる所なきを称して正等覚となす。余人のこれに対して然らざるべしと難ずることあるも、正見に住して屈伏することなく、安穏にして無怖無畏なるを言う。二に一切漏尽智無畏とは、また漏永尽無畏、漏尽無所畏、或は漏尽無畏とも名づく。即ち仏は自ら諸漏すでに永尽せりと宣して、更に外難を怖畏せざるを云う。三に障法不虚決定授記無畏とは、また説障法無畏、説障道無所畏、或は障法無畏とも名づく。仏は能障の法を説きて、染法のよく障を為すことを示し、これに対する非難を通釈して怖畏する所無きを云う。四に為証一切具足出道如性無畏とは、また説出道無畏、説尽苦道無所畏、或は出苦道無畏とも名づく。仏はよく出離の道を説き、道を修せば必ずよく苦果を出づることを示し、これに対する外難を通釈して怖畏あると悪露なきを云うなり。また「増一阿含経巻42」、「倶舎論巻27」、「大毘婆沙論巻31」、「大智度論巻25」、「成実論巻1」、「雑阿毘曇心論巻6」、「瑜伽師地論巻50」等に出づ。(二)菩薩の四無所畏(梵bodhisattvaanaaM catraari vaizaaradyaani):一に聞陀羅尼受持演説其義得無所畏(梵daaaranii- zrutodgrahaNaartha- nirudeza- vaizaaradya)、二に由証無我悩乱他相現行倶生不通達威儀路三業清浄浄大守護成就無畏(梵nairaatmyaadhigamaatpra- viheThanaa- nimitta- samudaacaara- sahajaanadhigateryaapatha- trikarma- parizuddha- mahaa- rakSa- saMpanna- vaizaaradya)、三に常持法而不忘失畢竟通達慧方便救度有情見歓喜浄諸障難無畏(梵sadodgRhiita- dharmaavismaraNa- prajJopaaya- niSThaagata-sattva-nistaaraNa- prasaada- saMdarazana- zubhaanantaraayika- vaizaaradya)、四に不忘失一切智心不於余乗而求出離能得円満自在一切種利益有情無畏(梵sarva-jJataa- cittaasaMpramoSaanya- yaanaaniryaaNa- saMpuurNa- vaSitaa- sarva- praakaara- sttvaartha- saMpraapaNa- vaizaaradya)なり。即ち「大智度論巻5」に、「無所畏に二種あり、菩薩の無所畏と、仏の無所畏となり。この諸の菩薩は、未だ仏の無所畏を得ずといえども、菩薩の無所畏を得たり。この故に名づけて無畏力を得たりと為す。問うて曰く、何等をか菩薩の四無所畏と為す。答えて曰く、一には、一切の聞をよく持するが故に、諸の陀羅尼を得るが故に、常に憶念して忘れざるが故に、衆中に説法して畏るる所の無きが故なり。二には、一切の衆生の欲、解脱の因縁と諸根の利鈍とを知り、その所応に随いて而も為に法を説くが故に、菩薩は大衆の中に在りて法を説くに畏るる所なし。三には、もしは東方南西北方四維上下より来たりて難問することあるも、われをして如法に答う能わざらしむるものあるを見ず。かくの如き少しばかりの相を見ざるが故に、衆中に於いて法を説くに畏るる所なし。四には、一切衆生の問難を聴受して意の随に如法に答え、よく巧みに一切衆生の疑を断ずるが故に、菩薩は大衆の中に在りて法を説くに畏るる所なし」と云えるこれなり。この中、第一の無所畏は、また能持無所畏、総持無所畏、或は聞法不忘失故於衆中説法得無所畏と名づく。即ち菩薩は一切の法を聞持し憶念して忘れず、故に衆中に於いて法を説く時、更に怖畏する所なきをいう。第二の無所畏は、また知根無所畏、尽知法薬及知衆生恨欲性心説法無所畏、或は一切衆生諸根利鈍随其所応而為説法故於衆中説法得無所畏と名づく。即ち菩薩は一切衆生の恨の利鈍を知るが故に、その所応に随って説法して怖畏する所なきをいう。第三の無所畏は、また答報無所畏、善能問答説法無畏、答法無所畏、以言辞応当酬報其所問世無所畏、或は居一切衆生聴受問難応能随意如法而答故於衆中諸法無所畏とも名づく。即ち菩薩はよく一切衆生の所問に対し、如法自在に応答して更に怖畏する所なきをいう。第四の無所畏は、また決疑無所畏、能断物疑説法無畏、決一切不退無上心不雑於他乗度諸有情遂得真実無畏、或は一切衆生聴受問難随意如法答能巧断一切衆生疑故菩薩在大衆中説法無所畏とも名づく。即ち菩薩はよく一切の有情の問難を聴受し、為に巧みに分別し解説して如法に答うるが故に、即ち物の心を開き、疑網を断じて説法教導するに怖畏する所なきをいう。また「自在王菩薩経巻2」、「大乗義章巻11」、「大乗宝雨経巻4」、「除蓋障菩薩所問経巻7」、「大智度論巻25」等に出づ。<(望)
  参考:『自在王菩薩経巻2』:『自在王。何謂菩薩四無所畏。得陀羅尼故。一切所聞能持故。常不忘念故。於大眾中說法無所畏。隨一切眾生所信解。而為說法如隨病合藥。知見一切眾生諸根。隨應說法。於大眾中而無所畏。是菩薩眾中說法無所疑難。無有東方南方西方北方。有來問我我不能答。乃至無有微畏之相。恣於眾生之所問難。隨問為答而無所畏。善能斷疑故。於大眾中說法而無所畏。自在王。是名菩薩四無所畏。』
【論】諸菩薩四無所畏力成就。 諸の菩薩の四無所畏の力成就す。
諸の、
『菩薩』の、
『四無所畏』という、
『力』が、
『成就した!』のである。
問曰。如菩薩所作未辦。未得一切智。何以故。說得四無所畏。 問うて曰く、菩薩の如きは、作す所未だ辦ぜず、未だ一切智を得ず。何を以っての故にか、四無所畏を得と説く。
問い、
『菩薩である!』からには、
未だ、
『作すべき!』所が、
『具わらず!』、
未だ、
『一切智』を、
『得ていない!』はずである。
何故、
『四無所畏』を、
『得た!』と、
『説く!』のですか?
答曰。無所畏有二種。菩薩無所畏佛無所畏。是諸菩薩雖未得佛無所畏。得菩薩無所畏。是故名為得無畏力。 答えて曰く、無所畏には、二種有り、菩薩の無所畏と、仏の無所畏なり。是の諸の菩薩は、未だ仏の無所畏を得ずと雖も、菩薩の無所畏を得たれば、是の故に名づけて、無畏力を得と為す。
答え、
『無所畏』には、
『二種』有り、
『菩薩の無所畏』と、
『仏の無所畏』とである。
是の、
諸の、
『菩薩』は、
未だ、
『仏』の、
『無所畏』は、
『得ていない!』が、
『菩薩』の、
『無所畏』を、
『得ている!』ので、
是の故に、
こう称するのである、――
『無畏』の、
『力』を、
『得ている!』と。
問曰。何等為菩薩四無所畏。 問うて曰く、何等かを、菩薩の四無所畏と為す。
問い、
何のようなものを、
『菩薩』の、
『四無所畏』というのですか?
答曰。一者一切聞能持故。得諸陀羅尼故。常憶念不忘故。眾中說法無所畏故。二者知一切眾生欲解脫因緣諸根利鈍。隨其所應而為說法故。菩薩在大眾中說法無所畏。三者不見若東方南西北方四維上下有來難問令我不能如法答者。不見如是少許相故。於眾中說法無所畏。四者一切眾生聽受問難。隨意如法答。能巧斷一切眾生疑故。菩薩在大眾中說法無所畏 答えて曰く、一には一切を聞きて能く持するが故に、諸の陀羅尼を得たるが故に、常に憶念して忘れざるが故に、衆中に法を説いて、畏るる所無きが故なり。二には一切の衆生の欲と、解脱の因縁、諸根の利鈍を知りて、其の応ずる所に随いて、為に法を説くが故に、菩薩は、大衆中に在りて、法を説いて畏るる所無し。三には若しは東方、南西北方、四維上下より来たりて、難問する有らんに、我れをして、如法に答うる能わざらしむる者を見ず、是の如きの少し許りの相すら、見ざるが故に、衆中に於いて法を説いて、畏るる所無し。四には一切の衆生聴受し、問難するに、意に随いて如法に答え、能く巧みに一切の衆生の疑を断つが故に、菩薩は大衆中に在りて、法を説いて畏るる所無し。
答え、
一には、      ――一切の法を聞いて持ち、忘れないが故に――
一切の、
『聞いた!』、
『法』を、
『持(たも)つ!』ことが、
『できる!』が故に、
諸の、
『陀羅尼』を、
『得ている!』が故に、
常に、
『憶念(記憶)して!』、
『忘れない!』が故に、
『菩薩』は、
『大衆』中に於いて、
『法』を、
『説いても!』、
『大衆』中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無い!』のである。
二には、      ――一切の衆生の欲、解脱の因縁、諸根の利鈍を知るが故に――
一切の、
『衆生』の、
『欲』と、
『解脱の因縁』と、
『諸根の利鈍』を、
『知り!』、
其の、
『相応しい!』所に、
『随って!』、
其の為に、
『法』を、
『説く!』が故に、
『菩薩』は、
『大衆』中に於いて、
『法』を、
『説いても!』、
『大衆』中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無い!』のである。
三には、      ――一切の難問に如法に答えられるが故に――
若しは、
『東方、南西北方、四維、上下』より来て、
『難問する!』者が、
『有った!』としても、
わたしをして、
『如法』に、
『答える!』ことを、
『できなくさせる!』者など、
『見せない!』し、
わたしは、
是のような、
『相』を、
『少しばかり!』も、
『見せない!』が故に、
『菩薩』は、
『大衆』中に於いて、
『法』を、
『説いても!』、
『大衆』中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無い!』のである。
四には、      ――一切の衆生の疑を巧みに断てるが故に――
一切の、
『衆生』が来て、
『聴受し!』、
『問難した!』としても、
『意のまま!』に、
『如法』に、
『答えて!』、
一切の、
『衆生』の、
『疑』を、
巧みに、
『断つ!』ことが、
『できる!』が故に、
『菩薩』は、
『大衆』中に於いて、
『法』を、
『説いても!』、
『大衆』中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無い!』のである。



諸の魔事を過ごす

【經】過諸魔事 諸の魔事を過ごす。
諸の、
『魔』の、
『事(しごと)』を、
『過ごした!』。
  魔事(まじ):魔の仕事。『大智度論巻68釈魔事品』参照。
  (ま):梵語maaraの音訳にして、具に魔羅といい、また悪魔と名づけ、殺者、奪命、能奪命者、或は障礙と訳す。人の生命を奪い、かつ善事を障礙する悪鬼神をいう。「長阿含経巻20忉利天品」に、欲界の衆生に十二種あるを説く中、十一に他化自在天、十二に魔天を置き、「過去現在因果経巻3」に、「第六天の魔王の宮殿」といい、「瑜伽師地論巻4」に、「また魔羅天宮あり、即ち他化自在天に摂す。然も処所は髙勝なり」と云えり。これ魔王は欲界第六他化自在天の髙処に住することを説けるものなり。また「普曜経巻6降魔品」等には、釈尊成道の時、魔王波旬(梵paapiiyas)が欲妃、悦彼、快観、見従の四女を遣し、嬈乱を企てたることを説き、「長阿含経巻2遊行経」には、阿難が魔王波旬に嬈乱せられて、仏の住世を請わざりしことを記し、「阿育王伝巻5」には、優婆鞠多が三種の死屍を以って花鬘を作り、これを魔の頂に結びしことを伝え、また「増一阿含経巻27」には、魔王波旬に色力、声力、香力、味力、細滑力の五力ありと云い、「仏本行集経巻25」には、魔軍に欲貪、不歓喜、飢渇寒熱、愛著、睡眠、驚怖恐畏、狐疑惑、瞋恚忿怒、競利争名、愚癡無知、自挙矜高、恒常毀他人の十二軍ありと為せり。これ等は魔王の名を波旬といい、種種の力を有し、また魔女魔軍等あり、常に仏及びその弟子等を嬈乱し、善事を妨礙せしことを記すものなり。蓋し梵語魔羅(梵maara)は「死す」の義なる語根(mR)より来たりし名詞にして、即ち「殺す者」の義なり。原、夜摩(梵yama)の思想に基づくものなるが如く、梨倶吠陀中には、夜摩はその倶生神たるヤミー(梵yamii)より「唯一の死すべき者(梵eka-martyu)」と呼ばれ、また人類最初の死者として人に冥土の道を教え、天界の最も遠き所に住し、常に「死(梵mRtyu、即ちmRより来たれる名詞)」を使者として人の生命を奪い、死者は彼の所に至りて夜摩に対面することを記せり。これ夜摩を以って死の神となせるものにして、即ち「殺す者」の義たる魔とその意相通ずるものあるを見るべく、彼の四魔の中の死魔は正しくこの義に基づくものなりというべし。然るに欲界六天の説起こるに及び、夜摩はその第三天に住すと定められ、別の仏教に於いては湿婆(梵ziva)を以って魔神となし、これを第六他化自在天上に置き、正法破壊の悪魔即ち天子魔と号するに至り、後また内観的に魔の義を解説し、終に煩悩魔、五陰魔等の四魔説を生じたるものなるが如し。「大毘婆沙論巻196」に、「諸の煩悩は善法を害するを以っての故に名づけて魔と為す」と云い、「大智度論巻5」に、「慧命を奪い、道法功徳の善本を壊す。この故に名づけて魔と為す」と云えるは、煩悩等を魔と名づけたるものにして、主として善法破壊を魔の義となせるものなるを見るべし。また「大智度論巻5、巻68」には、魔に煩悩魔、五衆魔、死魔、天子魔の四種あることを明し、その下に、「魔は秦に能奪命者と言う。死魔は実によく命を奪うといえども、余はまたよく奪命の因縁と作り、また智慧の命を奪う。この故に殺者と名づく」と云い、「瑜伽師地論巻29」に、「もしは死の所依、もしはよく死せしめ、もしは正しくこれ死、もしはその死に於いて障礙の事を作して超越せしめず。この四種に依りて死魔を建立す。謂わく已生已入現在の五取蘊に依るが故にまさにその死あり。煩悩に由るが故に当来の生を感じ、生じおわらば便ち死喪殞没あり。諸の有情の類は命根尽滅して殀喪殞没す。これ死の自性なり。善を勤修する者、死を超えんが為の故に正しく加行する時、彼の天子魔は大自在を得てよく障礙を為す、障礙に由るが故に、或は死法に於いてよく出でざらしむ」と云えり。これ五陰魔は死の所依、煩悩魔は当来の生を感じて死に至らしめ、死魔は正しく死の自性、天子魔は死を超えんとする者を障礙するが故に、共に魔と名づくることを明せるなり。この中、死を以って通じて魔の義となせるは、即ち夜摩の思想に基づくもとのと為すを得べきも、実には夜摩はただ死魔に当り、天子魔は湿婆の正法破壊を指し、煩悩及び五陰の二魔は更に天子魔の義より転じたるものとなすべきが如し。また「旧華厳経巻42」には、魔に十種の別ありとし、五陰に貪著するを五陰魔、煩悩のよく染汚し障礙するを煩悩魔、自ら憍慢なるを心魔、受生を離るるを死魔、憍慢放逸の心を起すを天魔、心に悔ゆることなきを失善根魔、味著するを三昧魔、彼に於いて著心を生ずるを善知識魔、諸の大願を出生すること能わざるを不知菩提正法魔と名づくと云えり。また「増一阿含経巻26」、「大品般若経巻13魔事品」、「大仏頂首楞厳経巻6」、「大毘婆沙論巻197」、「大智度論巻56、巻58」、「摩訶止観巻5上」等に出づ。<(望)
【論】魔有四種。一者煩惱魔。二者陰魔。三者死魔。四者他化自在天子魔。 魔には四種有り、一には煩悩魔、二には陰魔、三には死魔、四には他化自在天子魔なり。
『魔』には、
『四種』有り、
一には、
『煩悩』という、
『魔であり!』、
二には、
『五陰』という、
『魔であり!』、
三には、
『死』という、
『魔であり!』、
四には、
『他化自在天子』という、
『魔である!』。
  四魔(しま):梵語catvaaro maaraahの訳。即ち人の生命及び慧命を奪う四種の魔を指す。(一)蘊魔(梵skandha- maara):また陰魔、五陰魔、五蘊魔、五衆魔、身魔に作り、即ち色、受、想、行、識等の五蘊の積聚は生死の苦果を成じ、この生死の法はよく慧命を奪うなり。(二)煩悩魔(梵kleza- maara):また欲魔に作り、即ち身中の百八等の煩悩はよく衆生の心を悩乱して、慧命を奪い菩提を成就する能わざるを致す。(三)死魔(梵mRtyu- maara):よく衆生の四大を分散して死に至らしめ、修行者をして継続すること能わざらしむ。(四)天子魔(梵deva- putra- maara):また他化自在天子魔、天魔に作り、即ち欲界第六天の魔王は、よく人の善事を害し、賢聖の法を憎嫉す。種種の擾亂事を作して修行者の善根を破壊し、修行の継続を困難ならしむ。<(佛)
是諸菩薩得菩薩道故。破煩惱魔得法身故。破陰魔得道得法性身故。破死魔常一心故。一切處心不著故。入不動三昧故。破他化自在天子魔。以是故說過諸魔事。 是の諸の菩薩は、菩薩道を得たるが故に、煩悩魔を破り、法身を得たるが故に、陰魔を破り、道を得て、法性身を得たるが故に、死魔を破り、常に一心なるが故に、一切処に心著せざるが故に、不動三昧に入りたるが故に、他化自在天子魔を破る。是を以っての故に説かく、『諸の魔事を過ごす。』と。
是の、
諸の、
『菩薩』は、
『菩薩』の、
『道』を得た!が故に、
『煩悩』という、
『魔』を、
『破り!』、
『法』という、
『身』を得た!が故に、
『五陰』という、
『魔』を、
『破り!』、
『道』を得て!、
『法性の身』を得た!が故に、
『死』という、
『魔』を、
『破り!』、
常に、
『心』を、
『一』にする!が故に、
一切の、
『処』に、
『心』が、
『著さない!』が故に、
『不動』という!、
『三昧』に、
『入る!』が故に、
則ち、
『他化自在天』という、
『魔』を、
『破る!』のである。
是の故に、
こう説く、――
諸の、
『魔』の、
『仕事』を、
『やり過ごした!』、と。
  法身(ほっしん):梵にdharma-kaayaと曰い、即ち法の身の意なり。また法仏、法身仏といい、或は自性身、法性身、如如仏、実仏、または第一身とも称す。二身の一、三身の一なり。即ち仏所説の正法、及び仏所得の無漏の功徳法、並びに仏の自性たる真如、如来蔵を指す。「増一阿含経巻1序品」に、「釈師世に出づるも寿極めて短し。肉体逝くといえども法身在り。まさに法の本をして断絶せざらしむ」と云い、「同巻44」に、「わが滅度の後、法はまさに久しく住すべし。(中略)われ釈迦文仏は寿命極めて長し。然る所以は肉身は滅度を取るといえども法身存在す」と云い、「仏垂般涅槃略説教誡経」に、「わが滅度に於いて波羅提木叉を尊重し、珍敬すべし。(中略)今より已後、わが諸の弟子展転してこれを行ぜば、則ちこれ如来の法身常住にして而も滅せざるなり」と云えり。これ仏所説の法蘊を法身と名づけ、その法の滅尽せざるを法身常住となせるものなり。また「大智度論巻24」に、「声聞人及び菩薩は念仏三昧を修するに、ただ仏身を念ずるのみに非ず。常に仏の種種の功徳の法身を念ずべし」と云い、また「同巻29」に、「生身の為の故に三十二相を説き、法身の為の故に無相と説く。仏身は三十二相、八十随形好を以って自ら荘厳し、法身は十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法の諸の功徳を以って荘厳す」と云えるは、これ仏の諸の無漏の功徳を立てて法身と為すべきことを説けるものなり。「鳩摩羅什法師大義巻1」に、「小乗部の者は、諸の賢聖所得の無漏の功徳を以って、謂わゆる三十七品及び仏の十力四無所畏十八不共法等を以って法身と為す。また三蔵経はこの理を顕示するを以ってまた法身と名づく。この故に天竺諸国には皆、仏には生身なしといえども法身なお存すと云う」云えるに依るに、小乗諸部に於いては仏の所説の三蔵及びその所詮の菩提分法、または仏所得の無漏の功徳法を以って法身と名づけたるを知るなり。大乗に於いても概ねこれ等の説を用うといえども、また別に仏の自性たる真如、浄法界を以って法身と名づけ、法身は即ち無漏、無為、無生、無滅と為す。「維摩経巻1弟子品」に、「諸の如来の身は、即ちこれ法身にして思欲の身に非ず。仏は世尊にして三界を過ぐと為す。仏身は無為にして諸数に堕せず」と云い、「同巻3見阿閦仏国品」に、「自ら身の実相を観るが如く、仏を観るもまた然り。われ如来を観るに、前際より来たらず、後際にさらず、今則ちじゅうせず」と云い、「大般涅槃経巻3金剛身品」に、「如来身とはこれ常住身、不可壊身、金剛の身にして雑食の身に非ず、即ちこれ法身なり。(中略)如来の身はこれ身に非ず、不生不滅不習不修なり」と云い、「仏性論巻3事能品」に、「法身とは即ち真如の理なり」と云い、「仏地経論巻7」に、「法身は清浄真如を以って体と為す。真如は即ち諸法の実性にして法に辺際なし。法身もまた爾り、一切法に遍じて処として有らざるはなく、なお虚空の如し」と云える、皆即ちその説なり。また「大方等如来蔵経」には、「一切衆生の貪欲恚癡諸の煩悩の中に如来智、如来眼、如来身あり」と云い、「究竟一乗宝性論巻31一切衆生有如来蔵品」に、「如来の法身は遍く一切の諸の衆生の身に在り」と云えるは、仏性如来蔵を以って如来の法身とし、一切の衆生もまた皆この性を有すと為すの説なり。また「勝鬘経顛倒真実品」に、「如来の法身はこれ常波羅蜜、楽波羅蜜、我波羅蜜、浄波羅蜜なり。仏の法身に於いてこの見を作す者は、これを正見と名づく」と云い、「大般涅槃経巻34」に、「法身は即ちこれ常楽我淨にして永く一切の生老病死を離れ、非白非黒非長非短、非此非彼非学非無学なり」と云い、「無上依経巻1菩提品」に、「ただ法身のみこれ常、これ楽、これ我、これ浄波羅蜜なり」と云い、また「究竟一乗宝性論巻3」に勝鬘経の文を解して「如来の法身は自性清浄にして、一切の煩悩障智障習気を離れたるを以っての故に名づけて浄と為す。この故に説きてただ如来の法身のみこれ浄波羅蜜なりと言う。寂静第一自在我を得るを以っての故に、無我の戯論を離れて究竟寂静なるが故に名づけて我と為す。この故に説きてただ如来の法身のみこれ我波羅蜜なりと言う。意生陰身の因を遠離するを得るを以っての故に名づけて楽と為す。この故に説きてただ如来の法身のみこれ楽波羅蜜なりと言う。世間涅槃平等証を以っての故に、故に名づけて常と為す。この故に説きてただ如来の法身のみこれ常波羅蜜なりと言う」と云う。即ちこれ等に由って如来の法身は非此非彼等の絶対清浄、絶対平等なる常楽我淨の境地を指すものと知るなり。<(望)『大智度論巻16下注:法身、法性生身』参照。
  法性身(ほっしょうじん):梵語dharmataa-kaayaの訳。法性を証したる身の意。『大智度論巻16下注:法性生身』参照。
復次是般若波羅蜜覺魔品中。佛自說魔業魔事。是魔業魔事盡已過故。是名已過魔事。 復た次ぎに、是の般若波羅蜜の覚魔品中に、仏の自ら、魔業、魔事を説きたまえり。是の魔業、魔事を尽く已に過ごせるが故に、是れを已に魔事を過ごすと名づく。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜の覚魔品』中に、
『仏』は、
自ら、
『魔業、魔事』を、
『説かれている!』が、
是の、
『魔業』と、
『魔事』とを、
尽く、
『已に!』、
『過ごした!』が故に、
是れを、
已に、
『魔』の、
『事』を、
『過ごした!』というのである。
  参考:『大品般若経巻13魔事品』:『摩訶般若波羅蜜經魔事品第四十六  爾時慧命須菩提白佛言。世尊。是善男子善女人發阿耨多羅三藐三菩提心。行六波羅蜜成就眾生淨佛國土。佛已讚歎說其功德。世尊。云何是善男子善女人求於佛道生諸留難。佛告須菩提。樂說辯不即生。當知是菩薩魔事。須菩提言。世尊。何因緣故。樂說辯不即生是菩薩魔事。佛言。有菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。難具足六波羅蜜。以是因緣故樂說辯不即生是菩薩魔事。復次須菩提。樂說辯卒起。當知亦是菩薩魔事。世尊。何因緣故。樂說辯卒起復是魔事。佛言。菩薩摩訶薩行檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜著樂說法。以是因緣故樂脫辯卒起。當知是菩薩魔事。復次須菩提。書是般若波羅蜜經時偃蹇驁慢。當知是菩薩魔事。復次須菩提。書是經時戲笑亂心。當知是菩薩魔事。復次須菩提。若書是經時輕笑不敬。當知是菩薩魔事。復次須菩提。若書是經時心亂不定。當知是菩薩魔事。復次須菩提。書是經時各各不和合。當知是為菩薩魔事。復次須菩提。善男子善女人作是念。我不得是經中滋味便棄捨去。當知是為菩薩魔事。復次須菩提。受持般若波羅蜜讀誦說若正憶念時偃蹇驁慢。當知是為菩薩魔事。復次須菩提。若受持般若波羅蜜經時。親近正憶念時轉相形笑。當知是為菩薩魔事。復次須菩提。若受持般若波羅蜜經讀誦正憶念修行時共相輕蔑。當知是為菩薩魔事。若受持般若波羅蜜讀誦乃至正憶念時散亂心。當知是為菩薩魔事。若受持般若波羅蜜讀誦乃至正憶念時心不和合。當知是為菩薩魔事。須菩提白佛言。世尊。世尊說善男子善女人作是念。我不得經中滋味便棄捨去。當知是為菩薩魔事。世尊。何因緣故。菩薩不得經中滋味便棄捨去。佛言。是菩薩摩訶薩前世不久行般若波羅蜜禪那波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀那波羅蜜。是人聞說是般若波羅蜜。便從座起作是念言。我於般若波羅蜜中無記心不清淨。便從座起去。當知是為菩薩魔事。須菩提白佛言。世尊。何因緣故不與受記。聞說是般若波羅蜜時便從座起去。佛告須菩提。若菩薩未入法位中。諸佛不與受阿耨多羅三藐三菩提記。復次須菩提。聞說般若波羅蜜時。菩薩作是念。我是中無名字心不清淨。當知是為菩薩魔事。須菩提言。何因緣故是深般若波羅蜜中不說是菩薩名字。佛言。未受記菩薩諸佛不記名字。復次須菩提。是菩薩摩訶薩作是念。是般若波羅蜜中。無我生處名字若聚落城邑。是人不欲聽聞般若波羅蜜。便從會中起去。是人如所起念時念念卻一劫。補當更勤精進求阿耨多羅三藐三菩提。復次須菩提。菩薩學餘經棄捨般若波羅蜜終不能至薩婆若。善男子善女人為捨其根而攀枝葉。當知是為菩薩魔事。須菩提白佛言。世尊。何等是餘經。善男子善女人所學不能至薩婆若。佛言。是聲聞所應行經。所謂四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分。空無相無作解脫門。善男子善女人住是中得須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果。是名聲聞所行不能至薩婆若。如是善男子善女人。捨般若波羅蜜親近是餘經。何以故。須菩提。般若波羅蜜中出生諸菩薩摩訶薩。成就世間出世間法。須菩提。菩薩摩訶薩學般若波羅蜜時。亦學世間出世間法。須菩提。譬如狗不從大家求食反從作務者索。如是須菩提。當來世有善男子善女人棄深般若波羅蜜而攀枝葉。取聲聞辟支佛所應行經。當知是為菩薩魔事。須菩提。譬如有人欲得見象見已反觀其跡。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。佛言。諸求佛道善男子善女人亦復如是。得深般若波羅蜜棄捨去。取聲聞辟支佛所應行經。須菩提。當知是為菩薩魔事。須菩提。譬如人欲見大海反求牛跡水。作是念。大海水能與此等不。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。佛言。當來世有求佛道善男子善女人亦如是。得深般若波羅蜜棄捨去。取聲聞辟支佛所應行經。當知是亦菩薩摩訶薩魔事。須菩提。譬如工匠若工匠弟子。欲擬作帝釋勝殿而揆則日月宮殿。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。如是須菩提。當來世有薄福德善男子善女人求佛道者。得是深般若波羅蜜便棄捨去。於聲聞辟支佛所應行經中求薩婆若。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。佛言。當知亦是菩薩魔事。須菩提。譬如有人欲見轉輪聖王見而不識。後見諸小國王取其相貌。如是言轉輪聖王與此何異。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。須菩提。當來世有薄福德善男子善女人求佛道者。得是深般若波羅蜜棄捨去。取聲聞辟支佛所應行經持求薩婆若。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。當知是為菩薩魔事須菩提。譬如飢人得百味食棄捨去。反食六十日穀飯。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。佛言。當來世有求佛道善男子善女人。得聞深般若波羅蜜棄捨去。取聲聞辟支佛所應行經持求薩婆若。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。當知是亦菩薩魔事。須菩提。譬如人得無價摩尼珠反持比水精珠。須菩提。於汝意云何。是人為黠不。須菩提言。為不黠。佛言。當來世有求佛道善男子善女人。得聞深般若波羅蜜棄捨去。取聲聞辟支佛所應行經持求薩婆若。是人為黠不。須菩提言。為不黠。當知是亦菩薩魔事。復次須菩提。是求佛道善男子善女人。書是深般若波羅蜜時。樂說不如法事。不得書成般若波羅蜜。所謂樂說色聲香味觸法。樂說持戒禪定無色定。樂說檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜。樂說四念處乃至阿耨多羅三藐三菩提。何以故。須菩提。是般若波羅蜜中無樂說相。須菩提。般若波羅蜜不可思議相。般若波羅蜜不生不滅相。般若波羅蜜不垢不淨相。般若波羅蜜不亂不散相。般若波羅蜜無說相。般若波羅蜜無言無義相。般若波羅蜜無所得相。何以故。須菩提。般若波羅蜜中無是諸法。須菩提。若有善男子善女人求菩薩道者。書是般若波羅蜜經時。以是諸法散亂心。當知亦是菩薩魔事。須菩提白佛言。世尊。是般若波羅蜜可書耶。佛言。不可書。何以故。般若波羅蜜自性無故。禪那波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀那波羅蜜。乃至一切種智自性無故。若自性無是不名為法。無法不能書無法。須菩提。若求菩薩道善男子善女人作是念。無法是深般若波羅蜜。當知即是菩薩魔事。世尊。是求菩薩道善男子善女人。用字書般若波羅蜜。自念我書是般若波羅蜜。以字著般若波羅蜜。當知亦是菩薩魔事。何以故。世尊。是般若波羅蜜無文字。禪那波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀那波羅蜜無有文字。世尊。色無文字受想行識無文字。乃至一切種智無文字。世尊。若求菩薩道善男子善女人。著無文字般若波羅蜜。乃至著無文字一切種智。當知是亦菩薩魔事。讀誦說正憶念如說修行亦如是。復次須菩提。求佛道善男子善女人。書是般若波羅蜜時。國土念起聚落念起城郭念起方念起。若聞毀謗其師起念。若念父母及兄弟姊妹諸餘親里。若念賊若念旃陀羅。若念眾女若念婬女。如是等種種諸餘異念。留難惡魔復益其念。破壞書般若波羅蜜。破壞讀誦說正憶念如說修行。須菩提。當知是亦菩薩魔事。復次須菩提。求佛道善男子善女人。得名譽恭敬布施供養。所謂衣服飲食臥床疾藥種種樂具善男子善女人書是般若波羅蜜經受讀誦乃至正憶念時。受著是事不得書成般若波羅蜜乃至正憶念。當知是亦菩薩魔事。復次須菩提。求佛道善男子善女人書般若波羅蜜。乃至如說修行時。惡魔方便持諸餘深經與是菩薩摩訶薩。有方便力者。不應貪著惡魔所與諸餘深經。何以故。是經不能令人至薩婆若故。是中無方便菩薩摩訶薩聞是諸餘深經。便捨深般若波羅蜜。須菩提。我是般若波羅蜜中廣說諸菩薩摩訶薩方便道。諸菩薩摩訶薩應當從是中求。須菩提今善男子善女人求菩薩道捨是深般若波羅蜜。於魔所與聲聞辟支佛深經中求方便道。當知亦是菩薩魔事』
復次除諸法實相。餘殘一切法盡名為魔。如諸煩惱結使欲縛取纏陰界入魔王魔民魔人。如是等盡名為魔。 復た次ぎに、諸法の実相を除き、余残の一切の法を尽く名づけて、魔と為す。諸の煩悩の結使、欲、縛、取、纏、陰、界、入、魔王、魔民、魔人の如き、是の如き等を尽く名づけて、魔と為すなり。
復た次ぎに、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『除いた!』、
余残の、
一切の、
『法』を、
尽く、
『魔』と、
『称する!』。
例えば、
諸の、
『煩悩』の、
『結使、欲、縛、取、纏』や、
『陰、界、入』、
『魔王、魔民、魔人』のような、
是れ等を、
尽く、
『魔』と、
『称する!』のである。
問曰。何處說欲縛等諸結使名為魔。 問うて曰く、何れの処にか、欲、縛等の諸の結使を名づけて、魔と為すと説ける。
問い、
何のような、
『処』に、
こう説いているのですか?――
『欲、縛』等の、
諸の、
『結使』を、
『魔』と、
『称する!』、と。
答曰。雜法藏經中。佛說偈語魔王
 欲是汝初軍  憂愁軍第二 
 飢渴軍第三  愛軍為第四 
 第五眠睡軍  怖畏軍第六 
 疑為第七軍  含毒軍第八 
 第九軍利養  著虛妄名聞 
 第十軍自高  輕慢於他人 
 汝軍等如是  一切世間人 
 及諸一切天  無能破之者 
 我以智慧箭  修定智慧力 
 摧破汝魔軍  如坏瓶沒水 
 一心修智慧  以度於一切 
 我弟子精進  常念修智慧 
 隨順如法行  必得至涅槃 
 汝雖不欲放  到汝不到處 
 是時魔王聞  愁憂即滅去 
 是魔惡部黨  亦復沒不現
是名諸結使魔。
答えて曰く、雑法蔵経中に、仏は偈を説いて、魔王に語りたまえり、
欲は是れ汝が初軍、憂愁の軍は第二、
飢渴の軍は第三、愛の軍を第四と為す。
第五は眠睡の軍、怖畏の軍は第六、
疑を第七軍と為し、含毒の軍は第八なり。
第九軍は利養と、虚妄の名聞に著し、
第十軍は自ら高ぶりて、他人を憍慢す。
汝が軍等の是の如きは、一切の世間の人、
及び諸の一切の天に、能く之を破る者無し。
我が智慧の箭と、修定と智慧の力とを以って、
汝が魔軍を摧破すること、坏瓶を水に没するが如し。
一心に智慧を修めて、以って一切を度せんとする、
我が弟子は精進して、常に智慧を修めんと念ず。
随順して如法に行ぜば、必ず涅槃に至るを得ん、
汝が放つを欲せずと雖も、汝が到らざる処に到らん。
是の時、魔王聞きて憂愁し、即ち滅し去る。是の魔の悪部党も、亦復た没して現れず、と。是れを諸の結使の魔と名づく。
答え、
『雑法蔵経』中に、
『仏』は、
『偈』を説いて、
『魔王』に、こう語られた、――
『欲』は、
お前の、
『初軍である!』、
『憂愁』の、
『軍』は、、
『第二である!』、
『飢渴』の、
『軍』は、
『第三である!』、
『愛』の、
『軍』は、
『第四である!』。
『睡眠』は、
『第五』の、
『軍である!』、
『怖畏』の、
『軍』は、
『第六である!』、
『疑』は、
『第七』の、
『軍である!』、
『含毒』の、
『軍』は、
『第八である!』。
『利養』と、
『虚妄の名聞』とに、
『著する!』は、
『第九』の、
『軍であり!』、
『自ら高くして!』、
『他人』を、
『憍慢する!』のは、
『第十』の、
『軍である!』。
お前の、
『軍』等は、
是の通りだ!、
一切の、
『世間』の、
『人』や、
諸の、
一切の、
『天』によっては、
『破られる!』ことが、
『無い!』が、
わたしが、
『智慧の箭』と、
『修定と智慧の力』とを以って、
お前の、
『魔軍』を、
『摧き破った!』時には、
まるで、
『泥瓶』が、
『水に没した!』ようだった。
一心に、
『智慧』を修めて、
一切の、
『衆生』を、
『度そうとしている!』、
わたしの、
『弟子』も、
『精進して!』、
常に、
『智慧』を、
『修めよう!』と、
『念じている!』し、
『随順して!』、
『如法』に、
『智慧』を、
『修行している!』ので、
必ず、
『涅槃』に、
『至る!』ことが、
『できるだろう!』。
お前が、
『放そうとしない!』のは、
『分っている!』が、
お前の、
『手の届かない処』に、
『到るのだ!』、と。
是の時、
『魔王』は、
是れを聞いて、
『憂愁し!』、
『滅し去った!』。
是の、
『魔の悪部隊』も、
もう、
『見えなくなった!』。
是れを、
諸の、
『結使』の、
『魔』と、
『称する!』のである。
  憂愁(うしゅう):うれい。
  飢渴(きかつ):うえとかわき。
  眠睡(みんずい):梵語middhaの訳。睡眠とも称す。十纏の一。五蓋の一。不定地法の一。心をして闇昧ならしむる精神作用を云う。『大智度論巻7上注:十纏、同巻19下注:五蓋』参照。
  含毒(ごんどく):毒をふくむ者、即ち毒蛇の如く、瞋毒を含む者の意なるが如し。又一切の煩悩は本より通称して毒と為すも、貪欲、瞋恚、愚癡の三種の煩悩は衆生の出世の善心を毒害すること最も甚だしきが故に、総じて特に三毒と称す。此の三毒は又身口意等三種の悪行の根源たるが故に、亦た三不善根と称して、煩悩の根本と為す。
  摧破(さいは):くじきやぶる。
  坏瓶(はいびょう):未だ焼いて陶器と為さざるかめ。
  随順(ずいじゅん):すなおにしたがう。
  部党(ぶとう):部隊。
  不現(ふげん):あらわれず。見えなくなる。
  参考:『大方広仏華厳経巻42』:『佛子。菩薩摩訶薩。有十種魔。何等為十。所謂五陰魔。貪著五陰故。煩惱魔煩惱染故。業魔。能障礙故。心魔。自憍慢故。死魔。離受生故。天魔。起憍慢放逸故。失善根魔。心不悔故。三昧魔。味著故。善知識魔。於彼生著心故。不知菩提正法魔。不能出生諸大願故。佛子。是為菩薩摩訶薩十種魔。應作方便速遠離之。佛子。菩薩摩訶薩。有十種魔業。何等為十。所謂忘失菩提心修諸善根。是為魔業。惡心布施瞋持戒者是為魔業。棄捨惡性懈怠眾生。輕慢厭惡亂心無智眾生。是為魔業。慳惜正法。訶責法器眾生。貪求利養為人說法。為非器人說深妙法。是為魔業。不聞波羅蜜。雖聞不修行。生懈怠心。不求深妙無上菩提。是為魔業。遠離善知識。親近惡知識。樂求二乘。於受生處。起離欲寂靜除滅之心。是為魔業。於菩薩所起瞋恚心。說其過惡斷彼利養。常求罪釁惡眼視之。是為魔業。誹謗正法。不聞契經。聞不讚歎。若有法師說法。不能恭敬下意自謙。我說是義彼說非義。是為魔業。學世間論。巧於文字。善於句味。手筆文誦樂說二乘。隱覆深法開演雜語。於非器所說甚深法。遠離菩提安住邪道。是為魔業。已度已安者。親近恭敬而供養之。未度未安者。永不親近恭敬供養。亦不教化。是為魔業。墮增上慢增長諸慢輕蔑眾生。不求正法真實智慧。諸根散亂難可化度。是為魔業。佛子。是為菩薩摩訶薩十種魔業。菩薩摩訶薩。應速遠離正求佛業。佛子。菩薩摩訶薩。有十種捨離魔業。何等為十。所謂親近善知識捨離魔業。不自尊舉不自讚歎。捨離魔業。信佛深法不生誹謗。捨離魔業。未曾忘失一切智心。捨離魔業。安住不放逸修習甚深法。捨離魔業。安住菩薩藏正求一切法。捨離魔業。常欲聽法樂聞深義心無疲倦。捨離魔業。歸依十方一切諸佛。捨離魔業。信心正念一切諸佛菩提樹。捨離魔業。一切菩薩出生善根皆悉不二。捨離魔業。佛子。是為菩薩摩訶薩十種捨離魔業。若菩薩摩訶薩。安住此業。則離一切諸魔業道。』
問曰。五眾十八界十二入何處說是魔。 問うて曰く、五衆、十八界、十二入は、何れの処にか、是れ魔なりと説ける。
問い、
『五衆、十八界、十二入』は、
何のような、
『処』に、
是れが、
『魔である!』と、
『説かれている!』のですか?
答曰。莫拘羅山中。佛教弟子羅陀。色眾是魔。受想行識亦如是。 答えて曰く、莫拘羅山中に、仏は、弟子の羅陀を、『色衆は、是れ魔なり。受想行識も、亦た是の如し。』と教えたまえり。
答え、
『莫拘羅山』中に、
『仏』は、
『弟子の羅陀』を、こう教えられた、――
『色衆』とは、
是れは、
『魔である!』、
『受想行識』も、
亦た、
是の通りである!と。
  莫拘羅山(まくらせん):また摩拘羅山に作る。山名。或は「十誦律巻16」に出る維耶離国摩俱羅山に同じか。『大智度論巻2上注:吠舍釐国』参照。
  羅陀(らだ):弟子名。侍者。或は「十誦律巻16」に出る象守比丘に同じか。
  参考:『雑阿含経巻6(第120経)』:『如是我聞。一時。佛住摩拘羅山。時。有侍者比丘名曰羅陀。爾時。世尊告羅陀言。諸所有色。若過去.若未來.若現在。若內.若外。若麤.若細。若好.若醜。若遠.若近。彼一切當觀皆是魔所作。諸所有受.想.行.識。若過去.若未來.若現在。若內.若外。若麤.若細。若好.若醜。若遠.若近。彼一切當觀皆是魔所作。佛告羅陀。色為常耶。為無常耶。答曰。無常。世尊。復問。若無常者。是苦耶。答曰。是苦。世尊。受.想.行.識亦復如是。復問。羅陀。若無常.苦者。是變易法。多聞聖弟子寧於中見色是我.異我.相在不。答曰。不也。世尊。佛告羅陀。若多聞聖弟子於此五受陰不見是我.是我所故。於諸世間都無所取。無所取故無所著。無所著故自覺涅槃。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。佛說此經已。羅陀比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次若欲作未來世色身。是為動處。若欲作無色身。是亦為動處。若欲作有想無想非有想非無想身。是為一切動處。動是魔縛不動則不縛從惡得脫。此中說眾界入是魔。 復た次ぎに、若し、未来世の色身を作さんと欲せば、是れを動処と為す。若し、無色身を作さんと欲せば、是れも亦た動処と為す。若し、有想、無想、非有想非無想の身を作さんと欲せば、是れを一切の動処と為す。動とは、是れ魔の縛なり。不動は、則ち縛にあらずして、悪より脱るるを得たり。此の中に説かく、『衆、界、入は是れ魔なり。』と。
復た次ぎに、
若し、
『未来世』に、
『色界』の、
『身』に、
『作りたい!』と、
『思う!』ならば、
是れは、
『動く!』、
『処である!』。
若し、
『無色界』の、
『身』に、
『作りたい!』と、
『思う!』ならば、
是れも、
『動く!』、
『処である!』。
若し、
『有想処、無想処、非有想非無想処』の、
『身』に、
『作りたい!』と、
『思う!』ならば、
是の、
一切は、
『動く!』、
『処である!』。
『動く!』のは、
『魔』に、
『縛られている!』からであるが、
『動かない!』のは、
『魔』に
『縛られていず!』、
『悪』より、
『脱れる!』ことが、
『できた!』のである。
是の故に、
此の中に、こう説くのである、――
『衆、界、入』とは、
是れは、
『魔である!』、と。
自在天子魔。魔民魔人即是魔。不須說。 自在天子魔、魔民、魔人の、即ち是れ魔なること、説くを須(ま)たず。
『他化自在天子の魔』、
『魔の民』、
『魔の人』が、
『魔である!』ことは、
『説くまでもない!』。
問曰。何以名魔。 問うて曰く、何を以ってか、魔と名づくる。
問い、
何故、
『魔』というのですか?
答曰。奪慧命壞道法功德善本。是故名為魔。諸外道人輩言是名欲主。亦名華箭亦名五箭。(丹本注云五欲箭也)破種種善事故。 答えて曰く、慧命を奪い、道法と、功徳と、善本を壊れば、是の故に名づけて、魔と為す。諸の外道人輩の言わく、『是れを欲主と名づけ、亦た華箭と名づけ、亦た五箭(丹本の注に云わく、五欲の箭なり)と名づく。種種の善事を破るが故なり。
答え、
『魔』は、
『慧命(智慧の命)』を、
『奪い!』、
『道法、功徳、善本』を、
『破壊する!』ので、
是の故に、
『魔』と、
『称する!』のであるが、
諸の、
『外道の人』等は、
こう言っている、――
是れを、
『欲望の主』と、
『称し!』、
亦た、
『華の箭(色欲の譬喩?)』と、
『称し!』、
亦た、
『五の箭(色声香味触の譬喩?)』と、
『称する!』、
何故ならば、
種種の、
『善事』を、
『破壊する!』からである、と。
  慧命(えみょう):梵語prajJaa-jiivaの訳。智慧の命の意。智慧に慧命無ければ、即ち名づけて智慧と為さざるに云う。『大智度論巻26下注:慧命』参照。
  善本(ぜんぽん):梵語kuzala-muulaの訳。又善根とも称す。善の根本の義。即ち根となりて、他の善を生ずるに云う。『大智度論巻2上注:善根』参照。
  華箭(けせん):不明。蓋し色欲に喩たるものなる乎。
  五箭(ごせん):梵語paJcaayudhaの訳。五つの武器の義。色声香味触の五欲に譬える。
佛法中名為魔羅。是業是事名為魔事。是何等魔事。如覺魔品中說。 仏法中には、名づけて魔羅と為し、是の業と、是の事を名づけて、魔事と為す。是れ何等か、魔事なる。覚魔品中に説けるが如し。
『仏法』中には、
是れを、
『魔羅』と、
『称する!』が、
是の、
『業』と、
『事』とを、
『魔事』と、
『称する!』のである。
是れが、
何のような、
『魔』の、
『事(仕事)』なのか?は、
此の中の、
『覚魔品(魔事品)』中に、
『説かれた!』通りである。
  魔羅(まら):梵語maara。魔に同じ。『大智度論巻5下注:魔』参照。
復次人展轉世間受苦樂結使因緣。亦魔王力因緣。是魔名諸佛怨讎一切聖人賊。破一切逆流人事不喜涅槃。是名魔。 復た次ぎに、人は、世間を展転として、苦、楽を受くるは、結使の因縁にして、亦た魔王の力の因縁なり。是の魔を、諸仏の怨讎、一切の聖人の賊と名づくるは、一切の逆流の人事を破りて、涅槃を喜ばず、是れを魔と名づく。
復た次ぎに、
『人』が、
『世間』を、
『展転として!』、
『苦、楽』を、
『受ける!』のは、
『結使』の、
『因縁であり!』、
亦た、
『魔王の力』の、
『因縁でもある!』。
是の、
『魔』を、
諸の、
『仏』の、
『怨讎(かたき)である!』とか、
一切の、
『賢聖』の、
『賊である!』というのは、
一切の、
『逆流(涅槃の道)』の、
『人事(修行)』を、
『破り!』、
『涅槃』を、
『喜ばない!』からであり、
是れを、
『魔』と、
『称する!』のである。
  逆流(げきる):生死の流れに逆らうの義。
是魔有三事。戲笑語言歌舞邪視。如是等從愛生。縛打鞭拷刺割斫截。如是等從瞋生。炙身自凍拔髮自餓入火赴淵投巖。如是等從愚癡生。 是の魔に、三事有り、戯笑の語言、歌舞の邪視、是の如き等は、愛より生ず。縛打、鞭拷、刺割、斫截、是の如き等は、瞋より生ず。炙身、自凍、拔髪、自餓、入火、赴淵、投巌、是の如き等は、愚癡より生ず。
是の、
『魔』には、
『三事』有り、
『戯笑の言語、歌舞の邪視』、
是れ等は、
『愛()』より、
『生じる!』、
『縛打、鞭拷、刺割、斫截』、
是れ等は、
『瞋』より、
『生じる!』、
『炙身、自凍、拔髪、自餓、入火、赴淵、投巌』、
是れ等は、
『愚癡』より、
『生じる!』。
  戯笑(けしょう):梵語hasitaの訳。冗談を言って笑うこと。
  邪視(じゃし):邪心を以って見つめること。
  縛打(ばくだ):しばってうつ。
  鞭拷(べんこう):むちでうつ。
  刺割(しかつ):槍で刺し、刀で割く。
  斫截(しゃくせつ):断ち切る。
  炙身(しゃしん):身を火にあぶる。
  自凍(じとう):自ら氷上に臥せる。
  拔髪(ぱっぽつ):自ら頭髪を抜く。
  自餓(じが):自ら食を断って餓える。
  入火(にゅうか):焚焼する薪の中に飛び込む。
  赴淵(ふえん):淵に身を投ずる。
  投巌(とうがん):身を崖より投ずる。
又大過失不淨染著世間皆是魔事。憎惡利益不用涅槃及涅槃道亦是魔事。沒大苦海不自覺知。如是等無量皆是魔事。已棄已捨是為過諸魔事 又大過失の不浄の、世間を染著するも、皆、是れ魔事なり。利益を憎悪して、涅槃、及び涅槃の道を用いざるも、亦た是れ魔事なり。大苦海に没して、自ら覚知せざる、是の如き等は無量にして、皆、是れ魔事なり。已に棄て、已に捨つる、是れを諸の魔事を過ぐと為す。
又、
『大過失』の、
『不浄』を以って、
『世間』を、
『染著する!』のも、
皆、
『魔』の、
『仕事である!』、
『利益』を、
『憎悪して!』、
『涅槃』や、
『涅槃の道』を、
『用いない!』のも、
『魔』の、
『仕事である!』、
『大苦』の、
『海』に、
『没しながら!』、
自ら、
『覚知しない!』のも、
『魔』の、
『仕事である!』。
是れ等の、
『無量』の、
『事』は、
皆、
『魔』の、
『仕事である!』が、
是れを、
皆、
『棄捨した!』ので、
是れを、
諸の、
『魔の事』を、
『過ごした!』というのである。



一切の業障は、悉く解脱を得た

【經】一切業障悉得解脫 一切の業障は、悉く解脱を得。
一切の、
『業障(悪業)』は、
悉く、
『解脱する!』ことが、
『できた!』。
  業障(ごうしょう):聖道を障礙する身口意に由って造作する所の不善業。
  三障(さんしょう):梵語triiNy aavaraNaaniの訳語にして、また三重障に作り、即ち聖道及びその前の加行善根を障礙する煩悩障、業障、異熟障を指す。(一)煩悩障(梵klezaavaraNa):本性に熾然たる貪、瞋、癡の三煩悩を具足し、これに由るが故に厭離を生じ難く、教誨し難く、悔悟し難く、免れて離を得ること難く、解脱を得ること難し。(二)業障(梵karmaavaraNa):即ち五無間業、乃ち身口意に由って造作する所の不善業なり。(三)異熟障(梵vipaakaavaraNa):また報障、果報障に作り、煩悩、業を以って因と為し、招感する所の三悪趣等の果報なり。また「北本大般涅槃経巻11」、「仏名経巻1」、「発智論巻11」、「成実論巻8」、「倶舎論巻17」、「大智度論巻5」、「大毘婆沙論巻115」等に出づ。<(佛)
【論】一切惡業得解脫。是名業障得解脫。 一切の悪業の解脱を得る、是れを業障は解脱を得と名づく。
一切の、
『悪業(不善業)』より、
『解脱する!』ことが、
『できた!』、
是れを、
『業障』より、
『解脱する!』ことが、
『できた!』というのである。
問曰。若三種障。煩惱障業障報障。何以捨二障但說業障。 問うて曰く、若し三種の障なれば、煩悩障、業障、報障なり。何を以ってか、二障を捨てて、但だ業障を説く。
問い、
若し、
『三種』の、
『障』を、
『説く!』ならば、
則ち、
『煩悩障、業障、報障』である!。
何故、
『二障』を、
『捨てて!』、
但だ、
『業障』のみを、
『説く!』のですか?
答曰。三障中業力最大故。積集諸業乃至百千萬劫中。不失不燒不壞。與果報時不亡。 答えて曰く、三障中に業力の最大なるが故なり。諸の業を積集すること、乃至百千万劫中にも、失わず、焼けず、壊れず、果報に与(あずか)る時まで亡くならず。
答え、
『三障』中には、
『業』の、
『力』が、
『最大である!』からである。
諸の、
『業』が、
『積集する!』と、
乃至、
『百千万劫』中にも、
『忘失することもなく!』、
『焼損することもなく!』、
『業』の、
『果報』に、
『参与する!』時まで、
『無くならない!』のである。
  (ごう):梵語karmanの訳。衆生の身語意の造作の義、即ち後の果報を招く者の意。『大智度論巻23上注:業』参照。
是諸業能久住和合時。與果報。如穀草子在地中得時節而生不失不壞。 是の諸の業は、能く久しく住して、和合する時には、果報に与る。穀草の子(たね)の地中に在りて、時節を得て生ずるまで、失わず、壊れざるが如し。
是の、
『業』は、
『久しく!』、
『住まる!』ことが、
『できて!』、
『因縁』の、
『和合する!』時、
『果報』に、
『参与する!』のであるが、
譬えば、
『穀草』の、
『種子』が、
『地』中に、
『住まり!』、
『時節』を得て、
『生じる!』まで、
『失われず!』、
『壊れない!』のと同じである。
是諸佛一切智第一尊重。如須彌山王尚不能轉是諸業。何況凡人。如偈說
 生死輪載人  諸煩惱結使 
 大力自在轉  無人能禁止 
 先世業自作  轉為種種形 
 業力最為大  世間中無比 
 先世業自在  將人受果報 
 業力故輪轉  生死海中迴 
 大海水乾竭  須彌山地盡 
 先世因緣業  不燒亦不盡 
 諸業久和集  造者自逐去 
 譬如責物主  追逐人不置 
 是諸業果報  無有能轉者 
 亦無逃避處  非求哀可免 
 三界中眾生  追之不暫離 
 如珂梨羅剎  是業佛所說 
 如風不入實  水流不仰行 
 虛空不受害  無業亦如是 
 諸業無量力  不逐非造者 
 果報時節來  不亡亦不失 
 從地飛上天  從天入雪山 
 從雪山入海  一切處不離 
 常恒隨逐我  無一時相捨 
 直至無失時  如星流趣月
以是故說一切諸業障悉得解脫
是の諸仏の一切智の第一に尊重なること、須弥山王の如きにも、尚お是の諸業を転ずる能わず。何に況んや凡人をや。偈に説くが如し、
生死の輪は人と、諸の煩悩、結使を載せ、
大力もて自在に転じ、人の能く禁止する無し。
先世の業は自ら作すも、転じて種種の形を為す、
業力は最も大と為し、世間中に比(たぐい)無し。
先世の業は自ら在り、人を将(ひき)いて果報を受く、
業力の故に輪転し、生死の海中を迴(めぐ)る。
大海水の乾竭し、須弥山の地尽くるとも、
先世の因縁の業は、焼けず亦た尽きず。
諸業は久しく和集して、造る者を自ら逐うて去る、
譬えば責物主の、人を追逐して置かざるが如し。
是の諸業の果報は、能く転ずる者無し、
亦た逃避する処も無く、哀を求めて免るべきに非ず。
三界中の衆生は、之を追うて暫くも離れざること、
珂梨羅の刺(とげ)の如しとは、是の業の仏の所説なり。
風の実に入らず、水流の仰行せず、
虚空の害を受けざるが如く、業無けんとするも亦た是の如し。
諸業の無量の力も、造る者に非ざれば逐わず、
果報は時節の来たるまで、亡くならず、亦た失わず。
地より飛びて天に上り、天より雪山に入り、
雪山より海に入らんにも、一切の処に離れず。
常恒(つね)に我れを随逐し、一時も相捨つること無く、
直ちに至りて時を失わざること、星の流れて月に趣くが如し。
是を以っての故に説かく、『一切の諸の業障は、悉く解脱を得。』と。
是の、
諸の、
『仏』の、
『一切智』は、
譬えば、
『須弥山王』のように、
『第一』に、
『尊重である!』が、
尚お、
是の、
諸の、
『業』を、
『転じる!』ことは、
『できない!』のであり、
況して、
『凡人』は、
尚更である。
『偈』に、こう説く通りである、――
『生死』の、
『輪』は、
『人』や、
諸の、
『煩悩』や、
『結使』を、
『載せて!』、
『大力』で、
『自在』に、
『転じる!』ので、
『人』には、
『制止できる!』者が、
『無い!』。
『先世』の、
『業』は、
『自ら!』の、
『作る!』所であるが、
『転じて!』、
種種の、
『形(天、人、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄))』と、
『為す!』、
『業』の、
『力』は、
『最も!』、
『大であり!』、
『世間』の中に、
『比(たぐい)』が、
『無い!』。
『先世』の、
『業』は、
『自在に!』、
『人』を、
『将(ひき)いて!』、
『後世』の、
『果報』を、
『受けさせ!』、
『業』の、
『力』の故に、
『輪』が、
『転じて!』、
『生死』という、
『海』中を、
『迴(めぐ)らせる!』。
『大海』の、
『水』が、
『乾いて!』、
『竭()き!』、
『須弥山』の、
『地』が、
『崩れて!』、
『尽きた!』としても、
『先世』に、
『因縁する!』、
『業』は、
『焼けることもなく!』、
『尽きることもない!』。
諸の、
『業』は、
『久しく!』、
『和集して!』、
自ら、
『造る!』者を、
『逐()って行く!』、
譬えば、
『債権者』が、
『人』の、
『後を追って!』、
『見捨てない!』のと同じだ。
是の、
諸の、
『業』の、
『果報』は、
誰にも、
『転じる!』ことなど、
『できない!』、
亦た、
『逃げ隠れする!』、
『処』も、
『無く!』、
『哀れみ!』を求めて、
『免れた!』者も、
『無い!』。
『三界』中の、
『衆生』を追って、
『暫く!』も、
『離れない!』のは、
譬えば、
『珂梨羅』の、
『刺のようだ!』と、
是の、
『業』を、
『仏』は、
『説かれた!』。
譬えば、
『風』は、
『実』中には、
『入らない!』し、
『水』は、
『逆さ!』には、
『流れない!』、
『虚空』は、
『傷』を、
『受けない!』が、
『業』が、
『無くなれ!』と、
『思っても!』、
亦た、
是のように、
『無理な!』ものは、
『無理なのだ!』。
諸の、
『業』の、
『力』は、
『無量である!』が、
『造らない!』者を、
『逐うことはない!』、
『果報』は、
『時節』が、
『来る!』まで、
『無くなることもなく!』、
『失われることもない!』。
『地』より、
『飛んで!』、
『天』に、
『上り!』、
『天』より、
『雪山』に、
『入り!』、
『雪山』より、
『海』に、
『入った!』としても、
一切の、
『処』に、
『離れない!』。
常に、
わたしを、
『逐って!』、
『後に!』、
『随い!』、
『一時』も、
わたしを、
『捨ておかない!』、
わたしの所に、
『直ちに!』、
『至り!』、
『時』を、
『失う!』ことが、
『無い!』、
譬えば、
『流星』が、
『月』に、
『趣く!』ように、と。
是の故に、
こう説くのである、――
一切の、
諸の、
『業障』は、
悉く、
『解脱する!』ことが、
『できた!』、と。
  生死輪(しょうじのりん):生死を車輪に譬える。
  禁止(ごんし):制止。
  乾竭(けんかつ):かわきつきる。
  逐去(ちくこ):後を追って行く。
  責物主(さいもつしゅ):債権者。債主。
  追逐(ついちく):あとをおう。
  逃避(とうひ):にげかくれする。
  珂梨羅(かりら):梵語khadiraの訳語にして、また羯地羅、却陀羅、朅地羅、佉陀羅、朅陀羅、佉達羅、珂棃羅、軻棃羅、可棃羅、竭地洛迦、朅地洛迦、朅達洛迦に作り、空破と訳す。樹名、学名をacaciacatechuという。この樹は頗る堅硬にして、護摩の薪或は護摩檀の橛等に用いられ、その樹脂は阿仙薬catechuとして薬用に供せらる。印度東部の海道に近きオリッサorissa地方に産す。「陀羅尼集経巻10」に、「まさに功徳天の像前に於いて一肘の水壇を立て、檀門の辺にて却陀羅木を焼く」と云い、「有部鼻奈耶巻3」に、「曼荼羅を作り、彼の四方に於いて朅地羅木を釘し、五色の線を以ってこれを囲繋す」と云い、「大毘婆沙論巻173」に、「世尊にもまた背痛頭痛あり、朅地羅の刺に足を傷つく」と云えるこれなり。<(望)
  :刹は、他本に従い、刺に改める。
  水流(すいる):川の流れ。
  仰行(ごうぎょう):おあおぎゆく。低きより高きに行く。
  常恒(じょうごう):つねにかわらず。
  随逐(ずいちく):あとにしたがう。
  参考:『大宝積経巻28』:『善男子。佉陀羅刺。刺如來足。是事云何。善男子。如來示現業果報故。令未來世作如是知。如來成就無量功德而有業報。何況我等及其餘者。』
  参考:『別訳雑阿含経(第287経)巻14』:『如是我聞。一時佛在王舍城毘婆山側七葉窟中。時佛為佉陀羅刺腳極為苦痛。如來默受。雖復苦痛無所請求。爾時有八天子。顏容端正來詣佛所。中有一天言。沙門瞿曇實是丈夫人中師子。雖受苦痛不捨念覺心無惱異。若復有人於瞿曇大師子所生誹謗者。當知是人甚大愚癡。第二天亦作是說。瞿曇沙門丈夫龍象。雖受苦痛不捨念覺心無惱異。若復有人於瞿曇龍象所生誹謗者。當知是人甚大愚癡。第三天復作是言。沙門瞿曇如善乘牛。第四天復作是言。沙門瞿曇如善乘馬。第五天復作是言。沙門瞿曇猶如牛王。第六天復作是言。沙門瞿曇無上丈夫。第七天復作是言。沙門瞿曇人中蓮花。第八天復作是言。沙門瞿曇猶如分陀利。觀彼禪寂極為善定。終不矜高亦不卑下。止故解脫。解脫故止。時第八天。即說偈言 非彼清淨心 假使滿百千 通達五比施 為於戒取縛 沒溺愛欲海 不能度彼岸 爾時八天說此偈已。頂禮佛足。還其所止 垂下及遮止 名稱及技能 彈琴并棄捨 種別善丈夫 慳貪不惠施 八天為第十』



巧みに因縁の法を説く

【經】巧說因緣法 巧みに因縁の法を説く。
巧みに、
『因縁』の、
『法』を、
『説いた!』。
【論】十二因緣生法。種種法門能巧說。煩惱業事法次第展轉相續生。是名十二因緣。 十二因縁生の法の種種の法門を、能く巧みに説かく、『煩悩の業の事法は、次第に展転し、相続して生ず』と。是れを十二因縁と名づく。。
『十二因縁生』という!、
『法』の、
種種の、
『法門』は、
巧みに、
こう説く、――
『煩悩』の、
『業(行為)』や、
『事(現象)』という、
『法』は、
『次第に(次々と)!』、
『展転相続して(連続して受継ぎ)!』、
『生じる!』、と。
是れを、
『十二因縁』と、
『称する!』のである。
  十二因縁生(じゅうにいんねんしょう):又十二縁起とも称する。虚妄の生存に執著し苦を受くるに至る十二位の理由。即ち、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死を指す。『大智度論巻44上注:十二因縁』参照。
  (じ):現象。『大智度論巻5(下)注:事理』参照。
  事理(じり):事とは梵語arthaの訳語にして、また義とも訳す、その本来の意味は目的、対象、意味、利益、財産等を指すものにして、語根arth(求める)に係る名詞なり。これは理(梵tattva、また乃ち本質、本性、実在を意味し、実相、真実、諦と訳す)に相対し、故によく合して事理と称す。即ち事相の差別を事と為し、真理の体同を理と為すなり。この相対に二義あり、即ち(一)凡夫の迷情に依り所見の事相を称して事と為し、聖者の智に依って通達する所の真理を称して理と為す。これ謂わゆる真理なるも、各宗派に依って説に不同あり、或は四諦の理を指し、或は真空の理を指し、或は中道の理を指す。(二)これを視るに現象と、本体との相対と為し、即ち森羅万象差別の現象事法を称して事と為し、これ等の現象の本体、乃ち平等無差別の理性真如を以って称して理と為す。この現象の事と、本体の理との二者の関係に就き、各家説を立てて不同なり。(1)「倶舎論巻25」によるに、乃ち苦、集、滅、道等の四諦を理と為し、虚妄の現象を事と為すと説けり。(2)唯識家の説によれば、事は乃ち他に依って起こる事法にして、理とは則ち本自円成の如実の真如なり、二は具に不即不離の関係を有すと説けり。蓋し事と理との別は、概ね有為と無為との不同に在り、故に事理の不即(非一体)と謂い、而も真如の理は、その自体の凝然不動、寂静止息すといえども、然どもまた綿綿と現象を衍出し、而も事法の所依と為せば、故に事理の不離(この外に他無し)と謂うなり。(3)「大乗起信論」によれば、真如(理)は縁に随うて万法(事)の現象を展開す、因って事は即ち理にして、理は即ち事なりと説けり。また「華厳五教止観」、「宝蔵論」、「摩訶止観巻2上、巻4上」、「大乗玄論巻4」、「大乗法苑義林章巻1末」、「華厳法界観門」、「万善同帰集巻3」、「蘇悉地経疏巻1」、「百法問答鈔巻4」等に出づ。<(佛)
  展転相続(てんでんそうぞく):梵語paraMparaa-saMtaanaの訳。連続して受継ぎ、途切れないの意。
是中無明愛取三事名煩惱。行有二事名為業。餘七分名為體事。 是の中に無明、愛、取の三事を、煩悩と名づけ、行、有の二事を名づけて、業と為し、余の七分を名づけて、体事と為す。
是の中の、
『無明、愛、取』の、
『三事』を、
『煩悩』とし、
『行、有』の、
『二事』を、
『業』とし、
余の、
『七分』を、
『体事』とする。
是十二因緣。初二過去世攝。後二未來世攝。中八現前世攝。是略說三事。煩惱業苦。 是の十二因縁の初の二は、過去世に摂し、後の二は未来世に摂し、中の八を現前世に摂す。是れ略説すれば三事にして煩悩、業、苦なり。
是の、
『十二因縁』の、
『初の二(無明、行)』は、
『過去』の、
『世』に、
『摂し!』、
『後の二(生、老死)』は、
『未来』の、
『世』に、
『摂し!』、
『中の八(識、名色、六処、触、受、愛、取、有)』は、
『現前』の、
『世』に、
『摂する!』が、
是れを、
『略説』すれば、
『三事であり!』、
『煩悩、業、苦である!』。
是三事展轉更互為因緣。是煩惱業因緣。業苦因緣。苦苦因緣。苦煩惱因緣。煩惱業因緣。業苦因緣。苦苦因緣。是名展轉更互為因緣。 是の三事は展転し、更に互に因縁と為る。是の煩悩は業の因縁なり、業は苦の因縁なり、苦は苦の因縁なり、苦は煩悩の因縁なり、煩悩は業の因縁なり、業は苦の因縁なり、苦は苦の因縁なり。是れを展転して、更に互いに因縁を為すと名づく。
是の、
『三事(煩悩、業、苦)』は、
『展転して!』、
更に、
『互いに!』、
『因縁』と、
『為りあう!』。
是の、
『煩悩』は、
『業』の、
『因縁となり!』、
『業』は、
『苦』の、
『因縁となり!』、
『苦』は、
『苦』の、
『因縁となり!』、
『苦』は、
『煩悩』の、
『因縁となり!』、
『煩悩』は、
『業』の、
『因縁となり!』、
『業』は、
『苦』の、
『因縁となり!』、
『苦』は、
『苦』の、
『因縁となる!』。
是れを、
『展転して!』、
更に、
『互いに!』、
『因縁』と、
『為る!』というのである。
過去世一切煩惱是名無明。 過去世の一切の煩悩は、是れを無明と名づく。
『過去』の、
『世』の、
『一切の煩悩』を、
『無明』と、
『称する!』。
從無明生業。能作世界果故。名為行。 無明より、業を生じて、能く世界の果を作すが故に、名づけて行と為す。
『無明』より、
『業』を、
『生じる!』と、
『世界』の中に、
『果』と、
『作ることができる!』ので、
故に、
『行』と、
『称する!』。
從行生垢心。初身因如犢子識母。自相識故名為識。 行より、垢心を生ずると、初の身の因なり、犢子の母を識るが如く、自ら相識る、故に名づけて識と為す。
『行』より、
『垢心』を、
『生じる!』と、
『初の!』、
『身』の、
『因であり!』、
譬えば、
『犢子(子牛)』が、
『母』を、
『識る!』ように、
『自ら!』、
『己である!』と、
『識る!』ので、
故に、
『識』と、
『称する!』。
  垢心(くしん):煩悩の垢に汚染された心。
  犢子(とくし):子牛。
是識共生無色四陰及是所住色。是名名色。 是の識は共に無色の四陰、及び是の住する所の色を生ず。是れを名色と名づく。
是の、
『識』は、
『無色』の、
『四陰(受想行識)』と、
『四陰』の、
『住まる!』所の、
『色』とを、
共に、
『生じる!』と、
是れを、
『名色』と、
『称する!』。
是名色中生眼等六情。是名六入。 是の名色中に眼等の六情を生ず、是れを六入と名づく。
是の、
『名色』中に、
『眼』等の、
『六情(眼耳鼻舌身意)』を、
『生じる!』と、
是れを、
『六入』と、
『称する!』。
情塵識合是名為觸。 情塵識合するに、是れを名づけて触と為す。
『情(眼等)』と、
『塵(色等)』と、
『識(眼識等)』とが、
『合する!』と、
是れを、
『触』と、
『称する!』。
從觸生受。 触より、受を生ず。
『触』より、
『受』が、
『生じる!』。
受中心著。是名渴愛。 受中に心著す。是れを渇愛と名づく。
『受』中に、
『心』が、
『著する!』と、
是れを、
『渇愛』と、
『称する!』。
渴愛因緣求是名取。 渇愛の因は縁じて求む、是れを取と名づく。
『渇愛』という!、
『因』は、
『塵()』を、
『縁じて(触れて)!』、
『求める!』、
是れを、
『取』と、
『称する!』。
從取後世因緣業。是名有。 取より、後世の業に因縁す、是れを有と名づく。
『取』によって、
『後世』の、
『生』の、
『業』を、
『因縁する!』、
是れを、
『有』と、
『称する!』。
從有還受後世五眾。是名生。 有より、還(ま)た後世の五衆を受く。是れを生と名づく。
『有』によって、
還た(ふたたび)!、
『後世』の、
『五衆(五陰)』を、
『受ける!』、
是れを、
『生』と、
『称する!』。
從生五眾熟壞。是名老死。 生より、五衆熟して壊る、是れを老死と名づく。
『生』によって、
『五衆』が、
『熟す!』と、
『壊れる!』、
是れを、
『老死』と、
『称する!』。
老死生憂悲哭泣種種愁惱。眾苦和合集。 老死は憂悲、哭泣、種種の愁悩を生じ、衆苦和合して集まる。
『老死』は、
『憂悲、哭泣』、
『種種の愁悩』を、
『生じる!』ので、
『衆苦』が、
『和合して!』、
『集まる!』。
若一心觀諸法實相清淨則無明盡。無明盡故行盡。乃至眾苦和合集皆盡。是十二因緣相。如是能方便不著邪見為人演說。是名為巧。 若し、一心に諸法の実相の清浄なるを観れば、則ち無明尽く。無明尽くるが故に、行尽く。乃至衆苦の和合して集まることも、皆尽くるなり。是の十二因縁の相を、是の如く、能く方便して、邪見に著せず、人の為に演説する、是れを名づけて、巧みにと為す。
若し、
『一心』に、
諸の、
『法』の、
『実相』は、
『清浄である!』と、
『観る!』ならば、
則ち、
『無明』が、
『尽きる!』だろう。
『無明』が、
『尽きる!』が故に、
『行』も、
『尽きる!』し、
乃至、
『衆苦の和合の集まり』も、
皆、
『尽きる!』のである。
是の、
『十二因縁』の、
『相』を、
是のように、
『方便(解釈)して!』、
『邪見』に、
『著すことなく!』、
『人』の為に、
『演説する!』こと、
是れを、
『巧みに!』と、
『称する!』のである。
復次是十二因緣觀中。斷法愛心不著。知實相是名為巧。 復た次ぎに、是の十二因縁の観中に、法愛を断じて、心著せず、実相を知る、是れを名づけて、巧みにと為す。
復た次ぎに、
是の、
『十二因縁』を、
『観察する!』中に、
『法』の、
『愛』を、
『断つ!』ので、
『心』が、
『法』に、
『著すことがない!』、
故に、
『実相』を、
『知る!』ことになり、
是れを、
『巧みに!』と、
『称する!』。
  法愛(ほうあい):梵語dharma-saGga、又はdharma-tRSNaaの訳。法に対する執著、愛著等を云う。愛に属する煩悩の一。『大智度論巻42上注:愛』参照。
如彼般若波羅蜜不可盡品中。佛告須菩提。癡如虛空不可盡。行如虛空不可盡。乃至眾苦和合集。如虛空不可盡。菩薩當作是知。作是知者。為捨癡際應無所入。作是觀十二因緣起者。則為坐道場得薩婆若 彼の般若波羅蜜の不可尽品中の如し、仏の須菩提に告げたまわく、『癡は、虚空の如く、尽くすべからず。行は、虚空の如く、尽くすべからず。乃至衆苦の和合の集は、虚空の如く、尽くすべからず。菩薩は、当に是の知を作すべし。是の知を作す者は、癡の際を捨つるが為に、応に入る所無かるべし。是の十二因縁起を観るを作す者は、則ち道場に坐して、薩婆若を得と為す。
彼の、
『般若波羅蜜』の、
『不可尽品』中に、
『仏』が、
『須菩提』に告げられた通りである、――
『癡』は、
『虚空のように!』、
『尽くせない!』し、
『行』も、
『虚空のように!』、
『尽くせない!』、
乃至、
『衆苦の和合の集』も、
『虚空のように!』、
『尽くせない!』と、
『菩薩』は、
是の、
『知見』を、
『作すべき!』である。
是の、
『知見』を、
『作す!』者は、
『癡』の、
『際(場所)』を、
『捨ててしまう!』ので、
当然、
『入る!』所が、
『無いはず!』である。
是のように、
『十二縁起』を、
『観る!』ことを、
『成就した!』ならば、
則ち、
『道場』に、
『坐したまま!』で、
『薩婆若』を、
『得る!』だろう、と。
  須菩提(しゅぼだい):梵名subhuutiの音訳。また蘇補底、須扶提、須浮帝、数浮帝、修浮帝、須楓等に作り、意訳して善業、善吉、善現、善実、善見、空生等に為す。乃ち仏十大弟子の一なり。原、舎衛国婆羅門の子にして、智慧人に過ぐれども、性は悪劣にして瞋恨熾盛なれば、親友に厭患され、遂に家を捨てて山林に入れるに、山神これを導いて仏所に詣り、仏為に瞋恚の過患を説く。乃ち自ら悔やんでその罪を懺謝し、後に須陀洹果を得て、また阿羅漢果を証せり。仏の弟子中、最も善く空理を解するに係て、解空第一と称され、仏の法会中には、常に仏の当機衆に任ずれば、屡々般若経典中に見ゆ。また「中阿含経巻43」、「増一阿含経巻3、28」、「大毘婆沙論巻179」、「大智度論巻53」に出づ。<(佛)『大智度論巻11上注:須菩提』参照。
  (にゅう):梵語aayatanaの旧訳、新訳を処と為す、即ち家、宿舎の意にして、即ち根境の相い渉入して識を生ずるを称して入の為し、その場所の故に称して処と為す。十二入の如し、新訳には十二処に作る。<(望)
  薩婆若(さばにゃ):梵語sarvajJa、或はsarvajJataaの音訳にて、また薩般若、薩芸然、薩婆若多に作り、意訳して一切智と為す。即ち内外の一切の法相を了知する智を指し、また即ち仏智を指して言う。<(佛)
  十二因縁起(じゅうにいんねんき):十二因縁に同じ。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻20無尽品』:『爾時須菩提作是念。是諸佛阿耨多羅三藐三菩提甚深。我當問佛。作是念已。白佛言。世尊。是般若波羅蜜不可盡。佛言。虛空不可盡故。般若波羅蜜不可盡。世尊。云何應生般若波羅蜜。佛言。色不可盡故。般若波羅蜜應生。受想行識不可盡故。般若波羅蜜應生。檀那波羅蜜不可盡故。般若波羅蜜應生。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜不可盡故。般若波羅蜜應生。乃至一切種智不可盡故。般若波羅蜜應生。復次須菩提。癡空不可盡故。菩薩摩訶薩般若波羅蜜應生。行空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。識空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。名色空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。六處空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。六觸空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。受空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。愛空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。取空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生有空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。生空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。老死憂悲苦惱空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。如是須菩提。菩薩摩訶薩般若波羅蜜應生。須菩提。是十二因緣是獨菩薩法。能除諸邊顛倒。坐道場時應如是觀當得一切種智。須菩提。若有菩薩摩訶薩。以虛空不可盡法。行般若波羅蜜觀十二因緣。不墮聲聞辟支佛地。住阿耨多羅三藐三菩提。』



阿僧祇劫より已来、大誓願を発す

【經】從阿僧祇劫已來發大誓願 阿僧祇劫より、已来(このかた)、大誓願を発せり。
『阿僧祇劫』より、
已来(このかた)、
『大誓願』を、
『発(おこ)してきた!』。
  阿僧祇劫(あそうぎこう):極大の時間。『大智度論巻2上注:劫、同巻4上注:阿僧祇』参照。
【論】阿僧祇義。菩薩義品中已說。 阿僧祇劫の義は、菩薩義品中に已に説けり。
『阿僧祇』の、
『義』は、――
『菩薩義品』中に、
已に、
『説いてある!』。
劫義佛譬喻說。四千里石山有長壽人。百歲過持細軟衣一來拂拭。令是大石山盡。劫故未盡。四千里大城。滿中芥子。不概令平。有長壽人百歲過一來取一芥子去。芥子盡。劫故不盡。 劫の義は、仏の譬喩に説きたまわく、『四千里の石山に、長寿の人有り。百歳を過ぐるごとに、細軟の衣を持し、一来して、払拭し、是の大石山を尽くさしむるも、劫は故(もとのまま)にして、未だ尽きず。四千里の大城の中に、芥子を満たす。概(かきなら)して平らかならしめず。長寿の人有り、百歳を過ぐるごとに、一来して、一芥子を取りて去る。芥子尽くるも、劫は故にして、尽きず。』と。
『劫』の、
『義』は、――
『仏』は、
『譬喩』して、こう説かれた、――
有る、
『石山』は、
『一辺』が、
『四千里』の、
『立方体』であった。
有る、
『長寿の人』が、
『百年』ごとに、
『一度』来て!、
『細軟』の、
『衣』で、
『払拭し!』、
是の、
『大石』の、
『山』を、
『尽きさせた!』が、
『劫』は、
『故(もと)のように!』、
『尽きていなかった!』。
有る、
『大城』は、
『一辺』が、
『四千里』の、
『立方体』であり、
中に、
『芥子』を、
『満たして!』、
『山盛り!』にした。
有る、
『長寿の人』が、
『百年』ごとに、
『一度』来て!、
『芥子』を、
『一粒』、
『取去った!』。
やがて、
『芥子』は、
『尽きた!』が、
『劫』は、
『故のように!』、
『尽きていなかった!』、と。
  細軟(さいなん):繊細柔軟。
  払拭(ふっしょく):はらいぬぐう。
  (がい):とかき。升をかきならす道具。とかきでかきならす。
菩薩如是無數劫。發大正願度脫眾生願名大心要誓。必度一切眾生斷諸結使。成阿耨多羅三藐三菩提。是名為願 菩薩は、是の如き無数の劫、大正願を発して、衆生を度脱す。願を大心の要誓と名づく。『必ず一切の衆生を度して、諸の結使を断ぜしめ、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜん。』、是れを願と為す。
『菩薩』は、
是のような、
『無数』の、
『劫』に、
『大きく、正しい!』、
『願』を
『発して!』、
『衆生』を、
『度脱する!』。
『願』を、
『大心』の、
『要誓(堅い決意)』と、
『称する!』ならば、
必ず、
一切の、
『衆生』を、
『度して!』、
諸の、
『結使』を、
『断じさせ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成就する!』ぞと、
『誓う!』こと、
是れを、
『願』と、
『称する!』のである。
  要誓(ようぜい):梵語satyaadhiSThaanaの訳。誓いを伴う堅い決意の意。



顔色和悦して常に先に問訊し、語る所は麁ならず

【經】顏色和悅常先問訊所語不麤 顔色和悦して、常に先に問訊し、語る所は麁ならず。
『顔』の、
『色』は、
『和悦して!』、
常に、
『先に!』、
『問訊し!』、
『語る!』所の、
『言葉』は、
『粗雑でない!』。
  問訊(もんじん):梵語abhibhaaSaNaの訳。挨拶の言葉を述べるの義。道中の安否を問い訊ねるの意。『大智度論巻2上注:問訊』参照。
【論】瞋恚本拔故。嫉妒除故。常修大慈大悲大喜故。四種邪語斷故。得顏色和悅。如偈說
 若見乞道人  能以四種待 
 初見好眼視  迎逆敬問訊 
 床座好供養  充滿施所欲 
 布施心如是  佛道如在掌 
 若能除四種  口過妄語毒 
 兩舌惡綺語  得大美果報 
 善軟人求道  欲度諸眾生 
 除四邪口業  譬如馬有轡
瞋恚の本を抜くが故に、嫉妬の除こるが故に、常に大慈大悲大喜を修むるが故に、四種の邪語の断ずるが故に、顔色の和悦なるを得るなり。偈に説くが如し、
若し乞道人に見ゆるに、能く四種を以って待つ、
初めて見ゆるに好眼もて視、迎逆し敬って問訊す。
床座の好きを供養し、充満して欲する所を施す、
布施の心の是の如きに、仏道は掌に在るが如し。
若し能く四種の口の過、妄語の毒、
両舌、悪、綺語を除けば、大美の果報を得ん。
善軟の人の道を求めて、諸の衆生を度せんと欲せば、
四邪口業を除くこと、譬えば馬に轡の有るが如し。
『瞋恚』の、
『本』が、
『抜けている!』が故に、
『嫉妬』が、
『除かれている!』が故に、
常に、
『大慈、大悲、大喜』を、
『修めている!』が故に、
『四種』の、
『邪語』が、
『断たれた!』が故に、
『顔』の、
『色』に、
『和悦』を、
『得る!』のである。
『偈』に、こう説く通りである、――
若し、
『乞道』の、
『人』に、
『出会った!』ならば、
是のように、
『四種』の、
『接待法』を、
『用いよう!』、
初に、
『向かいあった!』時、
『好もしい!』、
『眼』で、
『見つめよう!』、
『向って!』、
『歩いて!』、
『出迎えよう!』、
『敬う!』、
『心を』、
『身に示そう!』、
『口』に、
『安否を!』、
『訊ねよう!』。
次には、
『好もしく!』、
『床座』を、
『勧めて!』、
『供養して!』、
『欲する!』所を、
『施して!』、
『充足させよう!』、
『布施』の、
『心』が、
是のようならば、
『仏』の、
『道』は、
『明るく!』、
『掌』に、
『在る!』のを、
『見るようだ!』。
若し、
『四種』の、
『口』の、
『過である!』、
『妄語、両舌、悪口、綺語』という!、
『毒』を、
『除いた!』ならば、
『大きく、美味い!』、
『果(このみ)』という!、
『報』を、
『得る!』だろう。
若し、
『善良』で、
『柔軟』な、
『人』が、
『道』を、
『求めて!』、
諸の、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思う!』ならば、
『四種』の、
『邪悪な!』、
『口業』を、
『除くべき!』だ、
譬えば、
『馬』に、
『轡』が、
『有る!』ように、と。



大衆中に、畏るる所無きを得る

【經】於大眾中得無所畏 大衆中に於いて、無所畏を得。
『大衆』中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無くなっている!』。
  大衆(だいしゅ):梵語摩訶僧伽(mahaasaMgha)の訳語にして、また多衆とも作す。この中、梵語僧伽(saMgha)は、また僧と略し、また意訳して和合、或は衆と作し、即ち四人(新訳には三人)以上の比丘の集まりにして、「大智度論巻3」に、「僧伽とは、秦に衆と言い、多比丘の一処に和合す、これを僧伽と名づく」と云えるこれなり。また大衆に就きて多くは多数の衆の意を以って、「大品般若経巻4辯才品」に、「十方の諸仏歓喜し、大衆の中に於いて称名讃歎す」と云い、「法華経巻1序品」に、「この時、天より曼陀羅華摩訶曼陀羅華曼珠沙華摩訶曼珠沙華を雨して仏の上及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に振動す」と云えるが如けれど、然れどもまた「大智度論巻45」に、「大衆とは、仏を除きて余の一切の賢聖なり」と云えるが如きは賢聖の意なり、或は「舎利弗問経」に、「旧を学する者多く、従って以って名となして摩訶僧祇と為し、新を学する者少く、而もこれ上座なれば、上座し従って名となして他俾羅となす」と云えるが如きは上座部に対する大衆部の称となすものなれば、蓋しこの語の解は一に非ずと知るべし。<(望)
【論】大德故。堅實功德智慧故。得最上辯陀羅尼故。於大眾中得無所畏。如偈說
 內心智德薄  外善以美言 
 譬如竹無內  但示有其外 
 內心智德厚  外善以法言 
 譬如妙金剛  中外力具足
大徳の故に、堅実なる功徳、智慧の故に、最上辯陀羅尼を得たるが故に、大衆中に於いて、畏るる所無きを得るなり。偈に説くが如し、
内心に智徳薄くして、外に美言を以って善きは、
譬えば竹の内無く、但だ其の外有るを示すが如し。
内心に智徳厚くして、外に法言を以って善きは、
譬えば妙金剛の、中と外とに力具足するが如し。
『徳』が、
『大である!』が故に、
『功徳』と、
『智慧』とが、
『堅実である!』が故に、
『最上辯』という、
『陀羅尼』を、
『得ている!』が故に、
是の故に、
『大衆』の中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無くなった!』のである。
『偈』に、こう説く通りである、――
『内』の、
『心』に、
『智慧』と、
『功徳』とが、
『薄く!』、
『外』を、
『美しい!』、
『言葉』で、
『飾って!』、
『善い!』のは、
譬えば、
『竹』は、
『内』が、
『無い!』のに、
但だ、
其の、
『外』が、
『有る!』ことのみを、
『示している!』ようだ。
『内』の、
『心』に、
『智慧』と、
『功徳』とが、
『厚く!』、
『外』に、
『法』の、
『言葉』を、
『説いて!』、
『善い!』のは、
譬えば、
『素晴らしい!』、
『金剛』は、
『中』にも、
『外』にも、
『力』が、
『具足している!』ようだ、と。
復次無畏法成就故。端正貴族大力。持戒禪定智慧語議等皆成就。是故無所畏。 復た次ぎに、無畏法の成就するが故に、端正、貴族、大力、持戒、禅定、智慧、語義等は、皆成就す。是の故に畏るる所無し。
復た次ぎに、
『畏れる!』ことが、
『無い!』という、
『法』が、
『成就している!』が故に、
『端正、貴族、大力、持戒、禅定、智慧、語義』等も、
皆、
『成就する!』ので、
是の故に、
『畏れる!』所が、
『無い!』のである。
以是故於大眾中無所畏。如偈說
 少德無智慧  不應處高座 
 如豺見師子  竄伏不敢出 
 大智無所畏  應處師子座 
 譬如師子吼  眾獸皆怖畏
是を以っての故に大衆中に畏るる所無し。偈に説くが如し、
少徳にして智慧無きは、応に高座に処すべからず、
豺の師子を見て、竄伏し敢て出でざるが如し。
大智の畏るる所無きは、応に師子座に処すべし、
譬えば師子吼して、衆獣皆怖畏するが如し。
是の故に、
『大衆』中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無い!』のは、
『偈』に、こう説く通りである、――
『徳』が、
『少なく!』、
『智慧』の、
『無い!』者は、
当然、
『高座』に、
『処()るべきでない!』、
譬えば、
『豺(やまいぬ)』が、
『師子』を、
『見る!』と、
『穴』に、
『隠れ伏して!』、
『出ようとしない!』ように。
『智慧』が、
『大きく!』、
『畏れる!』所の、
『無い!』者は、
当然、
『師子座』に、
『上るべきだ!』、
譬えば、
『師子』が、
『吼える!』と、
『衆獣』が、
皆、
『怖畏する!』ように。
  (ざい):やまいぬ。
  竄伏(ざんふく):かくれてふせる。
無量無邊智慧福德力集故。無所畏如偈說
 若人滅眾惡  乃至無小罪 
 如是大德人  無願而不滿 
 是人大智慧  世界中無惱 
 是故如此人  生死涅槃一
無量無辺の智慧と、福徳の力の集まるが故に、畏るる所無し。偈に説くが如し、
若し人、衆悪を滅して、乃至小罪すら無くんば、
是の如き大徳の人は、願うて満たざること無し。
是の人の大智慧は、世界中に悩無く、
是の故に此の如き人は、生死と涅槃と一なり。
『無量、無辺』の、
『智慧』と、
『福徳』との、
『力』が、
『集まる!』が故に、
『畏れる!』所が、
『無い!』のである。
『偈』に、こう説く通りである、――
若し、
『人』が、
『衆悪』を、
『滅して!』、
乃至、
『小罪』すら、
『無くなれば!』、
是のような、
『大徳』の、
『人』の、
『願い!』は、
『満たされない!』ことが、
『無い!』。
是の、
『人』の、
『大きな!』、
『智慧』は、
『世界』中に、
『悩む!』ことが、
『無い!』、
是の故に、
此のような、
『人』の、
『生死』と、
『涅槃』とは、
『一である!』、と。
復次獨得菩薩無所畏故。如毘那婆那王經中說。菩薩獨得四無所畏。如先說 復た次ぎに、独り菩薩の無所畏を得るが故なり。毘那婆那王経中に、『菩薩は独り、四無所畏を得。』と説けるが如きは、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
独り、
『菩薩』の、
『四無所畏』を、
『得た!』からである。
例えば、
『毘那婆那王経』中に、
『菩薩』のみが、
独り、
『四無所畏』を、
『得る!』と、
『説く!』のは、
此の中の、
先に、
『説いた!』のと、
『同じ!』ことである。
  毘那婆那王経:不明。「多羅葉記巻下」に、「毘那婆那王経 此に無林と云う」と云い、「翻梵語巻1」に、「毘那婆那王経 訳して毘那とは旡なり、婆那とは林なり」と云えり。



無数億劫に法を説いて巧みに出る

【經】無數億劫說法巧出 無数億劫に法を説き、巧みに出づ。
『無数億劫』に、
『法』を、
『説いて!』、
『巧みに出た!』。
【論】不放逸等諸善根自身好修。是諸菩薩非一世二三四世乃至無量阿僧祇劫集功德智慧。如偈說
 為眾生故發大心 
 若有不敬生慢者 
 其罪甚大不可說 
 何況而復加惡心
不放逸等の諸の善根を、自ら身に好く修めたる、是の諸の菩薩は、一世、二、三、四世に非ず、乃至無量阿僧祇劫に功徳と智慧とを集む。偈に説くが如し、
衆生の為の故に、大心を発すに、
若し不敬にして、慢を生ずる者有らば、
其の罪の甚だ大なること、説くべからず、
何に況んや、復た悪心を加うるをや。
『不放逸』等の、
諸の、
『善根』を、
自らの、
『身』に、
『好もしく!』、
『修めた!』、
是の、
『菩薩』は、
『一世』とか、
『二、三、四世ではなく!』、
乃至、
『無量阿僧祇劫』に、
『功徳』と、
『智慧』とを、
『集めた!』のである。
『偈』に、こう説く通りである、――
『衆生』の為の故に、
『大心』を、
『発した!』のに、
若し、
『不敬』の、
『心』に、
『慢』を、
『生じた!』ならば、
其の、
『罪』は、
『甚だ大きく!』、
『説くこともできないほど!』だ。
況して、
その上に、
『悪心』までも、
『加えた!』となれば、
『言うまでもない!』、と。
  不放逸(ふほういつ):梵語apramaadaの訳。慎重なることの義。
  悪心(あくしん):梵語duSta-cittaの訳。邪悪な心。悪意ある心。
復次是菩薩。無數無量劫中。修身修戒修心修慧。生滅縛解逆順中自了了。知諸法實相 復た次ぎに、是の菩薩は、無数無量劫の中、身を修め、戒を修め、心を修め、慧を修むれば、生滅の縛、解は、逆、順中に自ら了了たりて、諸法の実相を知る。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『無数無量劫』中に、
『身(即ち不浄観)』、
『戒(即ち無量戒)』、
『心(即ち静慮)』、
『慧(即ち般若)』を、
『修めてきた!』ので、
『生、滅』の、
『縛』と、
『解』については、
『十二因縁』の、
『逆観(老死より、無明に至る観)』、
『順観(無明より、老死に至る観)』中に、
自ら、
『了了』となり、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知っている!』。
有三種解。聞解義解得解。種種說法門中無所罣礙。皆得說法方便智慧波羅蜜。是諸菩薩所說如聖人說皆應信受。如偈說
 有慧無多聞  是不知實相 
 譬如大闇中  有目無所見 
 多聞無智慧  亦不知實義 
 譬如大明中  有燈而無目 
 多聞利智慧  是所說應受 
 無慧亦無明  是名人身牛
三種の解有り、聞解、義解、得解なり。種種に法門を説く中に罣礙する所無きは、皆、説法の方便、智慧波羅蜜を得。是の諸の菩薩の所説は、聖人の説くが如く、皆、応に信受すべし。偈に説くが如し、
慧有りて多聞無きは、是れ実相を知らず、
譬えば大闇中に、目有れども見る所無きが如し。
多聞にして智慧無きも、亦た実義を知らず、
譬えば大明中に、灯有れども目無きが如し。
多聞にして利き智慧なるは、是の所説は応に受くべし、
慧無くして亦た明無きは、是れを人身の牛と名づく。
『解(罣礙を解く)』には、
『三種』有り、
『聞解(言葉に於いて罣礙する所が無い)』、
『義解(意味に於いて罣礙する所が無い)』、
『得解(説法に於いて罣礙する所が無い)』であるが、
此の中の、
『得解』は、
種種に、
『法門』を、
『説く!』中に、
『罣礙する!』所が、
『無く!』、
皆、
『説法の方便』と、
『智慧波羅蜜』とを、
『得た!』者である。
是の、
諸の、
『菩薩』の、
『説く!』所は、
『聖人』が、
『説いている!』ように、
皆、
『信受すべき!』である。
『偈』に、こう説く通りである、――
『智慧はある!』が、
『多聞でない!』者は、
是れは、
『実』の、
『相』を、
『知らない!』ので、
譬えば、
『大闇』中には、
『目』が有っても、
『見る!』所が、
『無い!』のと同じだ。
『多聞である!』が、
『智慧のない!』者は、
是れは、
『実』の、
『義(意味)』を、
『知らない!』ので、
譬えば、
『大明』中に、
『灯』も有りながら、
『目』が、
『無い!』のと同じだ。
『多聞でもあり!』、
『智慧もある!』者は、
是の、
『説く!』所こそ、
『信じて!』、
『受けるべき!』だ。
『智慧もなく(無慧)!』、
『多聞でもない(無明)!』者は、
是れを、
『人身』の、
『牛』と、
『称する!』、と。
  (とく):梵語praaptiの訳。能く法を獲得して失わざらしむる不相応行法の名。七十五法の一。『大智度論巻5下注:得不得』参照。
  得非得(とくひとく):得と非得との併称。得は梵語praaptiの訳。非得は梵語apraaptiの訳。共に七十五法の一。百法の一。又十四不相応行の一、二十四不相応行の一。即ち能く法を獲して失わざらしむるを得と名づけ、之に反し法を成就せざらしむるを非得と名づくるなり。「品類足論巻1辯五事品」に、「得とは謂わく諸法を得す」と云い、「入阿毘達磨論巻下」に、「得とは謂わく法を有する者を称説す。因の法に三種あり、一に浄、二に不浄、三に無記なり。浄とは謂わく信等なり、不浄とは謂わく貪等なり、無記とは謂わく化心等なり。若し此の法を成ずるを有法者と名づく。此の定因を称説して得、獲、成就と名づく。得若し無ならば貪等の煩悩現在前する時、有学は既に無漏心なきが故に応に聖者に非ざるべし。異生若し善無記心を起こさば、爾の時応に已離染者と名づくべし。又諸の聖者は諸の異生と与に涅槃の得なく、互いに相似するが故に応に倶に異生と名づくべく、或いは倶に聖者と名づくべし。(中略)故に知る、法の外に定んで実の得あることを。此れに二種あり、一には未だ得ざると已に失せるとを今獲す、二には得し已りて失せずして成就す。応に知るべし非得は此れと相違す」と云い、「倶舎論巻4」に、「得に二種あり、一には未だ得ざると已に失せるとを今獲す、二には得し已りて失せずして成就す。応に知るべし非得は此れと相違す。何の法の中に於いて得非得ありや、自相続及び二滅の中に於いてす。謂わく有為法にして若し自相続の中に堕在するものあらば得非得あり。他相続に非ず、他身の法を成就することあることなきが故なり。非相続に非ず、非情の法を成就することあることなきが故なり。且らく有為法は決定して是の如し。無為法の中には唯二滅に於いて得非得あり。一切の有情に非択滅を成就せざる者なし。故に対法の中に伝説すること是の如し。誰か無漏法を成ずる、謂わく一切の有情なりと。初刹那の具縛の聖者及び余の一切の具縛の異生を除き、諸余の有情は皆択滅を成ず。決定して虚空を成就することあることなし。故に虚空に於いては得ありと言わず。得なきを以っての故に非得も亦たなし、宗に得と非得は相翻じて立つと明すが故なり」と云える是れなり。是れ得非得は唯自相続と二滅との中にのみ有なることを明せるものにして、即ち有為法の自身中に堕在するものには得非得あり、他身の法を成就することなきが故に他相続に非ず、非情の法を成就することなきが故に非相続に非ず。又無為法中には択滅と非択滅とに於いて得非得あり、虚空を成就することなきが故に、虚空には得非得なきを明らかにするの意なり。蓋し得は法を自身中に堕在せしめて失せざるものを称し、説一切有部に於いては之を非色非心の不相応法とし、命根と衆同分とに依りて転ずる実有の法となすなり。之に獲pratirambhaと成就samanvaagamaの別あり。即ち未だ曽て得せざる法、若しくは曽て得したるも已に失せる法の未来生相に至る時、之を得するを獲と名づけ、得し已りて現在第二刹那以後失せざるを成就と名づく。又得は是の如く法を得して之を自身中に堕在せしむるものなりと雖も、得それ自体も亦た法なるが故に更に之を得し自身中に堕在せしむるを要す。故に得にも亦た之を得する第二の得なかるべからず。之に関し「倶舎論巻4」に、「無窮の過なし、得は展転して更に相成することを許すが故に、法の生ずる時、其の自体を并せて三法俱起するを以ってなり。第一に本法、第二に法の得、第三に得の得なり。謂わく相続の中の法の得起るが故に本法と及び得の得とを成就し、得の得起るが故に法の得を成就す。是の故に此の中に無窮の過なし」と云えり。是れ法生ずる時、得起りて其の法を得するを法の得と名づけ、又別に第二の得起りて彼の法の得を得するを得の得と名づく。就中、法の得は本法と及び得の得とを成就し、得の得は法の得を成就し、展転して更互に相成するが故に、法生ずる時、其の自体を并せて唯三法俱起し、無窮に第三第四等の得を要せざることを説けるものなり。此の中、法の得を又大得と名づけ、得の得を小得或いは隨得と称す。是の如く法の事体初めて生起する時、唯三法俱起し、第二刹那には六法、第三刹那には十八法、第四刹那には五十四法俱起す。六法とは初刹那の三法の得と及び之を得する三の隨得とを云い、十八法とは初刹那の三法ならびに第二刹那の六法の得と、及び之を得する九の隨得とを云い、五十四法とは初二刹那の九法並びに第三刹那の十八法の得と及び之を得する二十七の隨得とを云う。是の如く後後の刹那に得は展転倍増して、一有情中無量無辺の諸得俱起すとなすなり。又凡そ有為法の得には法前得、法後得、法俱得の三種の別あり。法前得とは法の前に起る得にして、又之を前生得、牛王引前得と名づけ、法後得とは法の後に起る得にして、又随後得、或いは犢子随後得と名づけ、法俱得とは法と俱起する得にして、又之を俱生得、或いは影随行得と名づく。択滅非択滅は無為法にして前後倶に非ざるが故に、其の得は非前非後非俱なり。前の三種に合すれば総じて四種の得あり。「大毘婆沙論巻158」に、「得に総じて四種あり、一に彼の法の前に在り、二に彼の法の後に在り、三に彼の法と倶なり、四に彼の法の前後及び倶に非ず。若し所得の法は則ち六種あり、一に所得の法に唯俱得のみあるあり、異熟生等の如し。二に所得の法に唯前得のみあるあり、三の類智の辺の世俗智等の如し。有説は此等にも亦俱得あり。三に所得の法に唯俱得と後得とのみあるあり、別解脱戒等の如し。四に所得の法に唯俱得と前得とのみあるあり、道類忍等の如し。五に所得の法に具に前後俱得あるあり、所余の善染汚等の如し。六に所得の法に前後俱得ありと説くべからざるも而も諸得あるあり、謂わく択滅と非択滅となり。必ず法に唯法後得のみある者なし、現在前する時必ず得あるが故なり」と云い、又「倶舎論巻4」に、「無覆無記の得は唯俱起にして前後生なし、勢力劣なるが故なり。法若し過去ならば得も亦た過去なり、法若し未来ならば得も亦た未来なり、法若し現在ならば得も亦た現在なり。一切の無覆無記法の得は皆是の如くなりや、爾らず、云何ん、眼耳通及び能変化を除く。謂わく耳眼通の慧及び能変化の心は勢力強きが故に、加行の差別の成辦する所なるが故なり。是れ無覆無記の性に収むと雖も、而も前後及び俱起の得あり。若し工巧処及び威儀路の極めて数習するものは得も亦た爾なりと許す、唯無覆無記法の得のみ但だ俱起ありや、爾らず、云何ん。有覆無記の色の得も亦た爾なり。謂わく諸の有覆無記の表色の得も亦た前の如く但だ俱起のみあり。上品ありと雖も而も亦無表を発すること能わず、故に勢力微劣なり。此れに由りて定んで法の前後得なし。無記法の得に別異あるが如く、善不善の得にも亦異ありや、亦有り。云何ん、謂わく欲界繋の善不善の色の得には前起なく、唯俱生及び後起の得のみあり」と云えり。之に依るに法の現在前する時必ず皆法俱得あり。就中、善及び染汚、並びに有覆無記及び無覆無記中の一分は、其の勢力強きが故に具に法俱法前法後の三得あり。無覆無記中の異熟生及び無覆無記中の身語表は、勢力劣なるが故に唯法俱得のみあり、法前及び法後得なく、欲界繋の善(別解脱戒)及び不善(悪戒)の色は、法俱及び法後の二得ありて法前得なく、道類忍の如きは法俱及び法前の二得ありて法後得なく、現観辺の世俗智の如きは其の法起らざるが故に唯法前得のみありて法俱得なきを知るべし。又「品類足論巻1辯五事品」には得の外に別に依得、事得、処得の三種の得ありとし、之を解して「依得とは云何、謂わく所依処を得す。事得とは云何、謂わく諸蘊を得す。処得とは云何、謂わく内外処を得す」と云えり。是れ亦所得の法に就き得を分類せしものというべし。又「倶舎論巻4」に三性、繋不繋、三学及び三断等に約して得の摂属を判じ、「又善等の法の得は唯善等なり、謂わく善不善及び無記の法に其の次第の如く善不善無記の三得あり。又有繋の法の得は唯自界なり、謂わく欲色界無色界の法に其の次第の如く唯欲色無色の三得あり。若し無繋の法の得は四種に通ず、謂わく無漏法なり。総じて之を言わば得に四種あり、即ち三界の得と及び無漏となり。別して分別せば、非択滅の得は三界繋に通じ、若し択滅の得は色無色繋及び無漏、其の道諦の得は唯無漏のみあり。故に無繋法の得には四種あり。又有学法の得は唯有学なり、若し無学法の得は唯無学なり。非学非無学の得には差別あり、謂わく此の法の得は総じて説かば三あり、別して分別せば一切の有漏及び三無為を皆非学非無学法と名づく。且らく有漏法には唯非学非無学の得のみあり、非択滅の得及び非聖道所引の択滅の得も亦是の如し。若し有学道所引の択滅の得は即ち有学、若し無学道所引の得は即ち無学なり。又見修所断の法は其の次第の如く見修所断の得あり、非所断の法の得は差別あり、謂わく此の法の得は総じて説くに二あり、別して分別せば諸の無漏法を非所断と名づく。非択滅の得は唯修所断なり、若し非聖道所引の択滅の得も亦た是の如し。聖道所引の択滅の得及び道諦の得は皆非所断なり」と云えり。以って其の別を見るべし。次ぎに非得は得に反して法を獲得成就せざるを云う。説一切有部に於いては得に同じく之を不相応法の一とし、命根と衆同分とに依りて転ずる実有の法となせり。「倶舎論巻4」に、「性の差別とは、一切の非得は唯無覆無記性の摂なり。世の差別とは過去と未来に各三種あり、謂わく現在の法には決定して現在の非得あることなく、唯過去未来の非得のみあり。過去未来の一一には各三世の非得あり。界の差別とは三界繋の法及び不繋の法に各三の非得あり、謂わく欲界繋の法に三界の非得あり、色無色界繋及び不繋も亦た爾なり」と云い、又「大毘婆沙論巻158」に得非得の差別を明かし、「得と非得は何の差別ぞ、答う、名即ち差別あり、謂わく得と名づけ非得と名づく。復た次ぎに得は有漏無漏なるも非得は唯有漏なり。復た次ぎに得は善不善無記なるも非得は唯無記なり。復た次ぎに得は三界繋及び不繋なるも非得は唯三界繋なり。復た次ぎに得は学無学非学非無学なるも非得は唯非学非無学なり。復た次ぎに得は見所断修所断不断なるも非得は唯修所断なり。復た次ぎに得は染汚不染汙なるも非得は不染汙なり。復た次ぎに得は異熟非異熟なるも非得は唯非異熟なり。復た次ぎに得は有異熟無異熟なるも非得は唯無異熟なり。復た次ぎに得は所得の法と或いは俱起し、或いは俱起せざるも、非得は所不得の法と必ず俱起せず。復た次ぎに得は苦集道の三諦の摂なるも、非得は唯苦聖諦の摂なり。是の如き等の門を以って応に得非得の差別を知るべし」と云えり。是れ非得は唯無覆無記性、唯有漏、唯三界繋、唯非学非無学、唯修所断、唯不染汙、唯非異熟、唯無異熟にして、有記性乃至有異熟のものあることなく、又唯過去及び未来の一一の法にのみ各三世の非得あり、現在の法には決定して現在の非得なきことを明にするの意なり。若し非得も得の如く所非得の法に随って善不善あり、即ち煩悩の非得は不善、善の非得は善なりとせば、煩悩を断じたる聖者に煩悩の非得なく、善を断じたる断善根のものに善の非得なかるべし。又若し無漏法の非得を無漏なりとせば、凡夫は常に聖法と相応するが故に遂に異生性なかるべし。之に関し前引「倶舎論」の連文に、「定んで非得の是れ無漏なるものなし。所以は何ぞ、聖道の非得を説きて異生性と名づくと許すに由るが故なり。本論に言うが如し、云何が異生性なる、謂わく不獲聖法と。不獲は即ち是れ非得の異名なり。異生性是れ無漏なりと説くこと理に応ずるに非ず」と云えり。是れ即ち聖道の非得を異生性と名づくるが故に、非得は唯有漏にして定んで無漏なるものなきを明にせるなり。是の如く説一切有部に於いては得非得を実法とし、委細に其の性類等を説くと雖も経量部に在りては其の説を非し、別に種子を立てて其の成就不成就を説き、之を得非得の義となせり。「倶舎論巻4」に此の両部の諍点を往復徴問し、「若し得することなければ、異生聖者が世俗心を起こすに応に異生及び諸の聖者の建立差別なかるべし(有部所立)。豈に煩悩の已断未断差別あるが故に応に差別あるべきにあらずや(経部所立)。若し得なしと執せば如何ぞ煩悩の已断と及び未断とを説くべき。得ありと許さば断未断成ず。煩悩の得の離と未離とに由るが故なり(有部所立)。此れ所依に差別あるに由るが故に、煩悩の已断未断の義成ず。謂わく諸の聖者の見修道の力は所依の身をして転変して本に異ならしめ、彼の二道所断の惑の中に於いて復た功能の其れを現起せしむるなし。猶お種子の火に焚焼せられ、転変して前に異にして能生の用なきが如し。是の如く聖者所依の身中に生惑の能なきを煩悩断と名づけ、或いは世間道が所依の中の煩悩の種子を損するを亦名づけて断と為し、上と相違するを名づけて未断と為す。諸の未断の者を説いて成就と名づけ、諸の已断の者を不成就と名づく。是の如き二種は但だ仮にして実に非ず。(中略)故に所依の中に唯種子ありて未拔未損増長自在なり、是の如き位に於いて成就の名を立つ。別物あることなし」と云えり。是れ経量部に於いては煩悩の未断を成就、已断を不成就とし、異生と聖者は煩悩の種子の成不成に由りて其の差別を建立するが故に、別に実有の得等を立つるを要せずとなすの意を説けるものなり。又大乗唯識家に於いても得の実有を非して之を仮法とし、別に非得を立てず、之に代ゆるに異生性を以ってし、亦之を仮立となせり。「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」に、「得とは謂わく善不善無記の法の若しは増し、若しは減ずるに於いて獲得成就を仮立す。善不善無記の法とは依処を顕わし、若しは増し若しは減ずとは自体を顕わす。何を以っての故に、増あるに由るが故に説いて上品の信等を成就すと名づけ、減あるに由るが故に説いて下品の信等を成就すと名づく。獲得成就を仮立すとは仮立を顕わす。(中略)異生性とは、謂わく聖法不得に於いて異生性を仮立す」と云い、又「成唯識論巻1」に、「得非得等は色心及び諸の心所の如く体相得べきに非ず、色心及び諸の心所に異にして作用得べきに非ず。此れに由るが故に知る、定んで実有に非ず。但だ色等の分位に依りて仮立す。(中略)然るに有情可成の諸法の分法に依りて三種の成就を仮立す。一に種子成就、二に自在成就、三に現行成就なり。此れに翻ずるに不成就の名を仮立す。此の類多しと雖も而も三界見所断の種の未だ永害せざる位に於いて、非得を仮立して異生性と名づく。諸の聖法に於いて未だ成就せざるが故なり」と云える即ち其の説なり。此の中、一切の見修所断の煩悩、任運起の諸の無記法、及び生得善等の所有の種子の未だ損害せられざるを種子成就と名づけ、加行所生の善法、及び工巧処、変化心、威儀路無記等の一分の加行力に由りて成ずるものを自在成就と名づけ、善等の三種の法の現行するを現行成就と名づく。又不成就は之に反するものにして、其の類多しと雖も、就中、見所断の種子の未だ永害せられざる位は即ち聖法未成就なるが故に、此の位に於いて非得を仮立し、之を異生性と名づくとなすの意なり。以って説一切有部との異同を見るべし。又「大毘婆沙論巻157、159、162」、「倶舎論巻21」、「瑜伽師地論巻52」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「大乗広五蘊論」、「顕識論」、「倶舎論光記巻2、4」、「成唯識論述記巻2本」等に出づ。<(望)
問曰。應言無數億劫巧說法。復何以言出。 問うて曰く、応に、『無数億劫に巧みに法を説く。』と言うべし。復た何を以ってか、『出づ。』と言う。
問い、
当然、
こう言うべきである、――
『無数億劫』に、
『法』を、
『巧みに!』、
『説いた!』、と。
いったい、
何故、
こう言うのですか?――
『出た!』、と。
答曰。於無智人中及弟子中說法易。若多聞利智善論議人中說法難。 答えて曰く、無智人中、及び弟子中に於いては、法を説くこと易きも、若し多聞、利智にして、善く論義する人の中には、法を説くこと難し。
答え、
『無智』の、
『人』とか、
『弟子』の中に於いて、
『法』を、
『説く!』ことは、
『易しい!』が、
若し、
『多聞、利智』で、
『論義のうまい!』、
『人』の中で、
『法』を、
『説く!』ことは、
『難しい!』。
若小智法師是中退縮。若大學多聞。問難中大膽欣豫。一切眾中有大威德。如天會經中偈說
 面目齒光明  普照於大會 
 映奪諸天光  種種皆不現
以是故名為無數億劫巧說法中能得出
大智度論卷第五
若し小智の法師ならば、是の中に退縮せん。若し大学、多聞なれば、問難中に大胆、欣予して、一切の衆中に大威徳有り。天会経中の偈に説けるが如し、
面、目、歯の光明、普く大会を照らせば、
諸天の光を映し奪いて、種種に皆現れず、と。
是を以っての故に、名づけて無数億劫に巧みに法を説き、中に能く出づることを得と為すなり。
大智度論巻第五
若し、
『小智』の、
『法師』ならば、
是の中に、
『退縮する!』だろうが、
若し、
『大学、多聞』ならば、
『問難』中にも、
『大胆(勇敢)に!』、
『欣予(喜楽)して!』、
一切の、
『衆』中に、
『大威徳』を、
『現わす!』からである。
『天会経』の、
『偈』に、こう説く通りである、――
『面(おもて)』と、
『目(まなこ)』と、
『歯』との、
『光明』が、
普く、
『大会』中を、
『照らす!』と、
諸の、
『天』の、
『光』を、
『映して!』、
『奪い!』、
種種の、
『光』は、
皆、
『見えなくなった!』、と。
是の故に、
こう説くのである、――
『無数億劫』に、
『法』を、
『巧みに!』、
『説き!』、
『衆』中に、
『傑出して!』、
『現れた!』、と。

大智度論巻第五
  退縮(たいしゅく):しりごみ萎縮する。
  大胆(だいたん):勇敢なること。
  欣予(ごんよ):喜び楽しむ。
  (よう):うつす。照らす。
  (しゅつ):あらわれる。見、現。ぬきんでる。傑出。
  天会経(てんえきょう):蓋し「大薩遮尼乾子所問経」の謂なり。
  参考:『大般若経巻1』:『多俱胝劫巧說無盡』
  参考:『大薩遮尼乾子所問経巻1』:『爾時世尊。為諸無量百千萬億諸大眾等。恭敬圍繞。處在百千萬福莊嚴功德勝藏師子座上。結加趺坐。如來妙色身光威德。其相殊特照曜顯現。蓋諸一切天龍八部。譬如須彌山王涌出大海。威光殊勝照曜顯現蓋諸小山。如來世尊大須彌王。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現蓋諸大眾。亦復如是。譬如初月。光輪漸長至月滿足。其光殊勝照曜顯現。映奪一切星宿諸光。如來世尊。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現。映諸一切天人大眾。亦復如是。譬如虛空清淨無垢。離諸一切雲翳塵染。其中日輪放大光明。其光殊勝照曜顯現。映奪一切諸虫螢火所有光明皆悉不現。如來日輪。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現。映蔽一切釋提桓因。諸梵天王四天王等光明不現。亦復如是。譬如闇夜在大山頂然大火輪。光明殊勝照曜顯現一切皆見。如來山火。處在百千萬福莊嚴師子妙座。光明殊特照曜顯現有緣皆見。亦復如是。譬如師子諸獸之王在於深山。威力殊勝照曜顯現。降伏一切諸虫獸等。如來師子諸法之王。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現。降伏一切外道異見諸眾生等。亦復如是。譬如離垢八楞摩尼如意寶珠置在高幢。放大光明隨眾生願雨令滿足。其光殊勝照曜顯現遍照十方。如來摩尼。處在百千萬福莊嚴師子妙座。大智慧明威光殊特照曜顯現遍照十方滿眾生願。亦復如是。譬如自在轉輪聖王。威德殊勝照曜顯現。悉能降伏遍四天下一切無有能敵對者。如來世尊轉法輪王。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現。降伏一切諸魔怨敵。亦復如是。譬如釋提桓因以帝釋寶摩尼瓔珞繫在頸上。處善法堂諸天眾中。威德殊勝照曜顯現。降伏一切諸天大眾。如來帝釋。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現蓋諸天人。亦復如是(中略)爾時聖者文殊師利法王子菩薩。見諸無量大眾雲集。見佛世尊現大勝妙希有之相。作是思惟。今者世尊。為何事故。先現此相。我有疑事。今應當問。何以故。如來世尊。處在百千萬福莊嚴師子妙座。威光殊特照曜顯現。如是無量大眾集會。難可值遇。作是念已。即從坐起。偏袒右肩右膝著地合掌向佛。即以偈頌讚歎如來。而說偈言
 世尊十力雄  天人諸世間  三界無與等  何有能過者  譬如須彌王  出大海小山  深固不傾動  諸天蒙安隱  如來須彌王  過聖生死海  諸功德住持  安住不可動  功德須彌身  顯出諸世間  一切依如來  安隱住涅槃  譬如空無障  滿月獨明照  一切星宿光  隱沒不能現  如來十力淨  智慧月明朗  神通弟子眾  亦如星宿光  譬如日光輪  照曜諸世間  除滅一切闇  諸小光不現  如來智日輪  照除世間闇  諸梵王等光  隱沒不能現  譬如夜然火  置在高山頂  以體明淨故  十方闇皆見  如來大明火  智慧山高顯  照煩惱闇界  法性令開現  譬如師子王  雄猛蓋諸獸  不現威怒相  一切獸降伏  如來師子王  無畏力具足  慈心諸外道  自然皆降伏  譬如摩尼珠  放光照世間  隨諸眾生願  一切雨滿足  如來摩尼珠  智慧幢照遠  能雨大法雨  滿足眾生願  譬如轉輪王  具足七寶福  遊諸四天下  怨對生親友  如來轉輪王  具足十力寶  攝諸四魔眾  皆歸如來道  譬如帝釋王  三十三天主  布正善法堂  諸天歡喜受  如來天帝釋  三界大法王  慈心觀諸趣  坐涅槃法堂  興大慈悲雲  雨甘露法雨  天人歡喜受  修行無上道』


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