【經】皆得陀羅尼及諸三昧行空無相無作已得等忍 |
皆、陀羅尼、及び諸三昧を得て、空、無相、無作を行じ、已に等忍を得。 |
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陀羅尼(だらに):梵dhaaraNiiに作り、また陀羅那、陀憐尼に作り、意訳して持、総持、能持能遮と為し、以って善法を持ちて散ぜしめず、悪法を持ちてこれを起さしめざる力用と名づく。乃ちこれを分ちて四種と為す、即ち(一)法陀羅尼:仏法を聞持して忘れず、また名聞陀羅尼と名づく。(二)義陀羅尼:諸法の義を総持して忘れざるなり。(三)咒陀羅尼:禅定に依って秘密語を発し不測の神験を有するを咒と謂うに、咒陀羅尼とは咒に於いて総じて忘れざるなり。(四)忍陀羅尼:諸法の実相に安住するを忍と謂うに、忍を持つを名づけて忍陀羅尼と為す。聞、義、咒、忍の四者は所持の法と為すなり、能持の体に由りこれを言う、法、義の二者は念と慧とを以って体と為し、咒は定を以って体と為し、忍は無分別智を以って体と為すなり。<(佛)『大智度論巻42下注:陀羅尼』参照。
三昧(さんまい):梵語samaadhiの音訳にして、また三摩地、三摩提、三摩帝に作り、意訳して等持、定、正定、定意、調直定、正心行処等に為す。即ち心を将って一処(或は一境)に定め、住して動かざる状態をいう。これを等持と訳せるは、等とは乃ち心を開いて浮(掉挙)沈(惛沈)を離れしめ、平等の安詳を得しむるを指し、持とは則ち心を将って専ら一境に止むる意を指す。『経部』及び『成実論』等にはこれを別の実有の心所と為さず、ただ心の一境に相続して転ずるを三摩地と名づくとせり。蓋し、三摩地、解脱(vimokza)、禅(dhyaana)、及び三摩鉢底(samaapatti)等は、皆心の相続して一境に転ずる状態を指せるものなりといえども、その義は各同じからず。これに関して『大智度論巻28』に「三昧に二種あり、声聞法中の三昧と、摩訶衍法中の三昧となり。声聞法中の三昧とは、謂わゆる三三昧なり。また継ぎに三三昧あり、空空三昧、無相無相三昧、無作無作三昧なり。また三三昧あり、有覚有観、無覚有観、無覚無観なり。また五支三昧、五智三昧等あり。これを諸の三昧と名づく。また次ぎに一切の禅定をまた定と名づけ、また三昧と名づく。四禅を除ける諸余の定をまた定と名づけ、また三昧と名づけ、名づけて禅と為さず。十地の中の定を名づけて三昧と為す」といい、また『十住毘婆沙論巻11』には「禅とは四禅なり、定とは四無色定、四無量心等を皆名づけて定と為す、解脱とは八解脱なり、三昧とは諸禅、解脱を除いて余の定を尽く三昧と名づく。ある人の言わく、三解脱門、及び有覚有観定、無覚有観定、無覚無観定を名づけて三昧と為す、と。ある人の言わく、定は小に、三昧は大なり。この故に一切の諸仏菩薩の所得の定を皆三昧と名づく、と。」と云えり。この中に、諸説あるも、要するに狭義には、ただ空、無相、無願、及び有覚有観等の三を三昧と名づけ、広義には、即ち四禅、及び余の諸定をも皆また称して三昧と為すの意なり。また『雑阿毘曇心論巻6』、『成実論巻12』、『十地経論巻5』、『大乗義章巻13』、『瑜伽師地論巻11』、『倶舎論巻28』、『発智論巻17』、『阿毘曇八揵度論巻26』、『雑阿毘曇心論巻7』等に出づ。<(佛)『大智度論巻20上注:三昧』参照。
空(くう):三三昧の一。空三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
無相(むそう):三三昧の一。無相三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
無作(むさ):三三昧の一。無作三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
三三昧(さんさんまい):梵語trayaH-samaadhayaHの訳語にして、また三三摩地、三等持、三定等に作り、三種の三昧を指す。三昧とは禅定の異称にして、『大乗義章巻13』によれば、心体寂静にして邪乱を離るるを称して、三昧と為す、と云い、この三昧を分って有漏、無漏の二種と為し、有漏の定を三三昧と称し、無漏の定を三解脫門と称す。『増一阿含経巻16』、『大毘婆沙論巻104』等によれば:即ち(一)空三昧(梵zuunyataa-samaadhi):即ち一切の諸法は皆悉く空虚なりと観る空諦の空、無我二行相と相応の三昧にして、諸法は因縁所生たりと観て、我、我所の二者は皆空なりと為す。(二)無相三昧(梵animitta-samaadhi):即ち一切の諸法は皆想念無く、また見るべからずと観て滅諦の滅、静、妙、離四行相と相応の三昧なり。また涅槃は色声香味触の五法、男女二相、及び三有為相の十相を離るるが故に無相と称す。(三)無願三昧(梵apraNihita-samaadhi):また無作三昧、無起三昧に作り、即ち一切の諸法に対して願求する所の無き、苦諦の苦、無常二行相、集諦の因、集、生、縁四行相と相応の三昧なり。『増一阿含経巻16』には「これに三三昧あり、云何が三と為す、空三昧、無願三昧、無相三昧なり。云何が彼を名づけて空三昧と為す、謂わゆる空とは一切の諸法は皆悉く空虚なりと観る、これを謂って空三昧と為す。云何が彼を名づけて無相三昧と為す、謂わゆる無相とは一切の諸法に於いて都て想念無く、また不可見なる、これを謂って無相三昧と為す。云何が名づけて無願三昧と為す、謂わゆる無願とは一切の諸法に於いてまた願求せざる、これを謂って無願三昧と為す。かくの如く比丘、この三三昧を得ざることあらば、久しく生死に在りて自ら覚悟する能わず」と云えるも、蓋し三三昧の解釈に就いては諸論の説に不同あり、『大毘婆沙論巻104』には「三縁に由るが故にただ三を建立す。一に対治の故に、二に期心の故に、三に所縁の故なり」と云えり。対治の故にとは、空三摩地は対治に約して建立せしものにして、即ち有身見の近対治なるをいう。謂わゆる非我の行相を以って我の行相を対治し、空の行相を以って我所の行相を対治するなり。期心の故にとは、無願三摩地は諸の修行者の期心に約して建立せしものにして、即ち三有の法を願わざるを言う。所縁の故にとは、無相三摩地は所縁に就いて建立せしものにして、即ちこの定の所縁は色等の十相を離るるを云うなり。また『倶舎論巻28』には「空三摩地は、謂わゆる空と非我との二種の行相と相応する等持なり。無相三摩地は謂わゆる滅諦を縁ずる四種の行相と相応する等持なり。涅槃は十相を離るるが故に無相と名づけ、彼を縁ずる三摩地に無相の名を得。謂わゆる色等の五と男女の二種と三有為の相となり。無願三摩地は、謂わゆる余の諦を縁ずる十種の行相と相応する等持なり。非常と苦と因とは厭患すべきが故に、道は船筏の如く必ず捨つべきが故に、よくかれを縁ずる定に無願の名を得。皆現の所対を超過せんが為の故なり。空と非我との二相は厭捨する所に非ず、涅槃の相と相似するを以っての故なり。このこの三に各二種有り、謂わゆる浄及び無漏なり。世と出世の等持は別なるが故なり。世間の摂なる者は十一地に通じ、出世の摂なる者はただ九地に通ず」と云えり。これ行相差別によりて三三摩地を建立するの説なり。また『大智度論巻20』には三解脱門に就いて「摩訶衍中にはこれは一法にして、行の因縁を以っての故に、三種有りと説く、諸法の空を観るに、これを空と名づけ、空中に於いて相を取るべからざれば、この時空転じて無相と名づけ、無相中にはまさに所作有りて三界の生を為すべからざれば、この時無相転じて無作と名づく」、と云いて大乗的解釈と為せり。<(佛)『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
等忍(とうにん):忍は忍辱、忍耐、堪忍、認許、認可、安忍等の意にして、即ち等忍とは、一切の衆生を等しいと認可し、忍耐するを云う。「大智度論巻5」に「復た次ぎに、一切の衆生中に、種種の相を著せず。衆生相と空相とは一等無異なりと、是の如く観る、是れを衆生等と名づく。若し人、是の中に於いて心等しく無礙なれば、直ちに不退に入る、是れを等忍を得と名づく。等忍を得たる菩薩は、一切の衆生に於いて瞋らず、悩ませざること慈母の子を愛するが如し」と云える是れなり。 |
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【論】問曰。何以故。以此三事次第讚菩薩摩訶薩。 |
問うて曰く、何を以ってか、此の三事を以って、次第に、菩薩摩訶薩を讃ずる。 |
問い、
何故、
此の、
『三事( 陀羅尼、三昧、等忍)』を以って、
次第に( 次々と)、
『菩薩摩訶薩』を、
『讃じる!』のですか?
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答曰。欲出諸菩薩實功德故。應讚則讚應信則信。以一切眾生所不能信甚深清淨法。讚菩薩。 |
答えて曰く、諸の菩薩の実の功徳を出さんと欲するが故に、応に讃ずべくんば則ち讃じ、応に信ずべくんば応に信じて、一切の衆生の信ずる能わざる所の甚深清浄の法を以って、菩薩を讃ず。 |
答え、
諸の、
『菩薩』の、
『実』の、
『功徳』を、
『出そう!』とするが故に、
『讃じなくてはならない!』、
『功徳』を、
『讃じ!』、
『信じなくてはならない!』、
『功徳』を、
『信じ!』て、
一切の、
『衆生』には、
『信じられない!』ような、
『甚だ深く!』、
『清浄な!』、
『法』を以って、
『菩薩』を、
『讃じた!』のである。
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復次先說菩薩摩訶薩名字。未說所以為菩薩摩訶薩。以得諸陀羅尼三昧及忍等諸功德故。名為菩薩摩訶薩。 |
復た次ぎに、先に、菩薩摩訶薩の名字を説きたるも、未だ、菩薩摩訶薩と為す所以を説かず。諸の陀羅尼、三昧、及び忍等の、諸の功徳を得るを以っての故に、名づけて、菩薩摩訶薩と為す。 |
復た次ぎに、
先に、
『菩薩摩訶薩』という!、
『名字』を、
『説いた!』が、
未だ、
『菩薩摩訶薩』と、
『為す( 称する)!』、
『所以( 理由)』を、
『説いていない!』。
『菩薩摩訶薩』とは、
諸の、
『陀羅尼』や、
『三昧』や、
『忍』等の、
諸の、
『功徳』を、
『得ている!』ので、
故に、
『菩薩摩訶薩』と、
『称する!』のである。
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問曰。已知次第義。何以故名陀羅尼。云何陀羅尼。 |
問うて曰く、已に次第の義を知る。何を以っての故にか、陀羅尼と名づくる。云何が陀羅尼なる。 |
問い、
已に、
『次第に讃じた!』、
『義(意味)』を、
『知った!』。
何故、
『陀羅尼』と、
『称する!』のですか?
何のような、
『陀羅尼』ですか?
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答曰。陀羅尼秦言能持。或言能遮。 |
答えて曰く、陀羅尼は、秦に能持と言い、或いは能遮と言う。 |
答え、
『陀羅尼』とは、
『保持する!』ことを、
『言い!』、
或いは、
『遮断する!』ことを、
『言う!』。
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能持者。集種種善法。能持令不散不失。譬如完器盛水水不漏散。 |
能持とは、種種の善法を集めて、能く持し、散ぜしめず、失せしめず。譬えば、完き器に、水を盛れば、水は漏散せざるが如し。 |
『能持( 保持)』とは、――
種種の、
『善法』を、
『集めた!』ならば、
『能く( 善く)!』、
『保持して!』、
『散失させない!』ことである。
譬えば、
『完全な!』、
『器』に、
『水』を、
『盛る!』ならば、
『水』は、
『漏れず!』、
『散失しない!』のと同じである。
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善法(ぜんぽう):梵語kuzalaa-dharmaaHの訳語にして、善に合する一切の道理を指し、即ち五戒(不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)、十善(不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪、不瞋、正見)、三学(戒、定、慧)、六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)等を指し、謂わゆる悪法の対称なり。通常、五戒、十善を世間の善法、三学、六度を出世間の善法と為すも、二は深浅の差異有りといえども、皆順理、益世の法たるが故に、称して善法と為す。<(佛) |
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能遮者。惡不善根心生。能遮令不生。若欲作惡罪。持令不作。是名陀羅尼。 |
能遮とは、悪不善根、心に生ずるを、能く遮して、生ぜざらしむ。若しは、悪罪を作さんと欲せば、持して作さざらしむ。是れを陀羅尼と名づく。 |
『能遮( 遮断)』とは、――
『不善( 悪)根』が、
『心』に、
『生じる!』のを、
『遮り!』、
『心』に、
『生じさせない!』ことである。
若しは、
『悪罪』を、
『作そう!』と、
『思った!』時、
『戒』を、
『持(たも)って!』、
『作させない!』、
是れを、
『陀羅尼』と、
『称する!』のである。
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善根(ぜんこん)、不善根(ふぜんこん):梵語akuzala-muulaを不善根、梵語kuzala-muulaを善根と意訳し、即ち地獄、餓鬼、畜生の三悪趣に生じる根本的煩悩を三不善根、即ち貪不善根、恚不善根、癡不善根と称し、人天の二善処及び涅槃を得る根本的善を三善根、即ち不貪善根、不恚善根、不癡善根と称す。『増一阿含経巻13』、『大智度論巻2上注:善根』参照。 |
参考:『増一阿含経巻13』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有此三不善根。云何為三。貪不善根.恚不善根.癡不善根。若比丘有此三不善根者。墮三惡趣。云何為三。所謂地獄.餓鬼.畜生。如是。比丘。若有此三不善根者。便有三惡趣。比丘當知。有此三善根。云何為三。不貪善根.不恚善根.不癡善根。是謂比丘有此三善根。若有此三善根者。便有二善處。涅槃為三。云何二趣。所謂人.天是也。是謂比丘有此三善者。則生此善處。是故。諸比丘。當離三不善根。修三善根。如是。諸比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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是陀羅尼或心相應。或心不相應。或有漏或無漏。無色不可見無對一持一入一陰攝。法持法入行陰九智知(丹注云除盡智)一識識(丹注云一意識)阿毘曇法。陀羅尼義如是。 |
是の陀羅尼は、或いは心相応、或いは心不相応、或いは有漏、或いは無漏、無色、不可見無対にして、一持、一入、一陰に摂す、法持、法入、行陰なり、九智に知り(丹注に云わく、尽智を除く)、一識に識る(丹注に云わく、一意識なり)。阿毘曇法には、陀羅尼の義是の如し。 |
是の、
『陀羅尼』は、
『心相応』か、『心不相応』、
『有漏』か、『無漏』、
『無色』の、『不可見無対』、
『一持、一入、一陰』、
謂わゆる、
『法持、法入、行陰』に、
『摂し(ふくまれ)!』、
『九智( 十智中より滅智を除く)』を以って、 ――丹注には尽智と云う――
『知り!』、
『一識( 意識)』を以って、
『識る!』と、
『阿毘曇』の、
『法』中に説く!、
『陀羅尼』の、
『義』は、
是の通りである。
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心相応行(しんそうおうぎょう):また心相応、心相応行法に作り、一切の心所法を指す。即ち心の働きなり。心所法は心王と同時に起きて作用するが故に心(王)相応と称し、その有為法に係わるを以っての故に行と称す。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
心不相応行(しんふそうおうぎょう):また心不相応、心不相応行法に作り、五衆(色受想行識)中の行衆に摂するも、無想定の如く心、心所に相応しないもの。即ち梵語citta-viprayukta-saMskaaraの訳語にして、乃ち倶舎家、唯識家等は一切の諸法に関して色法、心法、心所法、心不相応行法、無為法の五位を立て、その中の第四を指す。これは即ち色、心二法に属せず、心に相応せざる有為法の聚集なり。「説一切有部」の義によれば、色、心及び心所の外に在りて、別に心不相応の実法有り、その体は有為法に係わり、また五蘊中の行蘊所摂と為すが故に心不相応行と称す。「経部」、「唯識」等は則ち不相応行は乃ち色、心の分位に於いて仮に立つる所なれば、並べて実法に非ずと主張せり。心不相応行の数に関して、諸種の異説あり、「倶舎」は得、非得、同分、無想果、滅尽定、命根、生、住、異、滅、名身、句身、文身等の十四種の不相応行法を挙げ、「順正理論巻12」には、これに、和合性を加えて十五を立て、「品類足論巻1」には、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、依得、事得、処得、生、老、住、無常性、名身、句身、文身等の十六法を挙げ、この外に、「分別部」、及び「犢子部」等は、睡眠を将ってまた計りて不相応法と為し、「唯識」では「瑜伽師地論巻3」に、得、無想定、滅尽定、無想異熟、命根、衆同分、生、老、住、無常、名身、句身、文身、異生性、流転、定異、相応、勢速、次第、時、方、数、和合及び不和合等二十四種の不相応行法を挙げ、「大乗阿毘達磨集論巻1」には、不和合を除いて二十三不相応行法を説き、「大乗五蘊論」には則ち得、無想等至、滅尽等至、無想所有、命根、衆同分、生、老、住、無常、名身、文身、異生性等の十四法を出だせり。<(望)『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
無色(むしき):色蘊無きことの意。
不可見無対(ふかけんむたい):見るべからざる無対の法の意。『大智度論巻20下注:有対』参照。
持(じ)、入(にゅう)、陰(おん):五陰、十二入、十八持の略なり。『大智度論巻5上注:三科』参照。
三科(さんが):陰入持とは、五陰(五衆、五蘊)、十二入(十二処)、十八持(十八界)の略にして、また陰入界、蘊処界に作り、通常これを三科と称す。何れも諸法万有を分類したる名目なり。『倶舎論巻1』の頌に「愚と根と楽との三の故に、蘊処界を説く」とあり、これは色心等に愚なる差別と、機根に利中鈍の異あると、及び楽欲の不同とに由りて、この三科を別に説くことを示したるなり。就中、愚の差別とは、心所に愚なる者の為には、心所を委細にして五蘊を説き、色法に愚なる者の為には、色法を委細にして十二処を説き、色心二法に愚なる者の為には、色心二法を委細にして十八界を説くをいい、根の差別とは、利根の者の為には五蘊、中根の為には十二処、鈍根の為には十八界を説くをいい、楽欲の不同とは、略説を欲する者の為には五蘊、中説を欲する者の為には十二処、広説を欲する者の為には十八界を説くを云うなり。<(望)『大智度論巻1(下)注:三科』参照。
五蘊(ごうん):梵語paJca-skandhaの訳語にして、また五陰、五衆、五聚に作り、三科の一なり。蘊(梵skandha、塞揵陀と音訳す)とは、乃ち積聚、類別の意にして、即ち一切の有為法を類聚するに五種の別あるをいう。『集異門足論巻11』によれば、(一)色蘊(梵ruupa-skandha):即ち一切の色法の類従なり。(二)受蘊(梵vedanaa-skandha):即ち苦、楽、捨、及び眼触等所生の諸受なり。(三)想蘊(梵saMjJaa-skandha):眼触等所生の諸想なり。(四)行蘊(梵saMskaara-skandha):即ち色、受、想、識以外の一切の有為法にして、また即ち意志と心との作用なり。(五)識蘊(梵vijJaana-skandha):即ち眼識等諸識の各類聚なり。五蘊は有漏、無漏、及び善、不善、無記の三性に通じ、故に緒論中にもまた各種の名称を以ってその殊別を説明す。「倶舎」等は七十五法を立て、その中、十一種の色法を色蘊、心所有法の一種たる受を受蘊、想を想蘊、余の心所有法の四十四種、及び十四種の心不相応行法を行蘊、一種の心法を色蘊に摂し、総じて有為七十二法を類聚して五蘊と為す。「唯識」等は百法を立て、その中、初の三蘊は倶舎に同じきも、行蘊に心所有法の余の四十九種、及び二十四種の心不相応行法、識蘊に八種の心法を摂し、合して有為九十四法を五蘊に摂すと為せり。またこの中、色受想行識と次第せる所以に就き、「瑜伽師地論巻54」には、生起所作、対治所作、流転所作、住所作、安立所作の五種の別あることを説けり。即ち生起所作とは、眼は色を縁となして眼識を生じ、乃至意は諸法を縁となしてよく意識を生ず。故に初に色蘊を説き、次ぎに識蘊を説き、次第に受等の心所を生ずるが故に、次ぎに受想行の次第に依りてこれを説くを云い、対治所作とは、常楽我淨の四種の顛倒を対治するに四念住を説く中、先づ色蘊を説きて浄倒を対治し、次ぎに受蘊を説くことに由りて楽倒を対治し、次ぎに識蘊を説きて我倒を除き、次ぎに想行の二蘊を説きて常倒を対治するを云い、流転所作とは、凡夫はよく根及び境界を依止とし、これを受用して諸の雑染心を生じ、種種の境界を画作し、善不善の業を造作するが故に、次第に色受想行と説き、識蘊は一切の所染なるが故に後にこれを説くとなすを云い、住所作とは、色識住、受識住、想識住、行識住の四識住及び識の次第に依るとなすを云い、安立所作とは、諸の世間は先づ色を了するが故に色蘊を立て、次ぎに受によりて進退苦楽を知るが故に受蘊を立て、想蘊によりてかくの如きの類、かくの如きの性を分別するが故に次ぎに想蘊を立て、行蘊によりてかくの如きの愚智を知るが故に次ぎに行蘊を立て、識蘊によりて内我を安立するが故に後にこれを説くとなすを云うなり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻1」に依るに、五種の我事を顕さんが為にただ色等の五蘊を建立すと云えり。五種の我事とは、一に身具我事、二に受用我事、三に言説我事、四に造作一切法非法我事、五に彼所依止我自体事なり。就中、身具とは、身は内の五根の所依にして、色境は我の資具なるを云う、これ即ち内外の色蘊を摂す。受用とは、我が身に依りて諸の境界に於いて苦楽を受用するを云う、即ち受蘊なり。言説とは、己と他とに随って言説を起するを云う、即ち想蘊なり。造作一切法非法とは、我の善不善の所行を云う、即ち行蘊なり。彼所依止とは、識はこれ身具等の所依にして、有情多くこれを計執して我の自体事と作す、即ち識蘊なり。この中、初の四は我の衆具事、後の一は我の自体事なり。これは蓋し五蘊の施設は畢竟衆生の我執を破し、無我の理に達せしむるが為なることを明せり。また五蘊に就きては種種多数に亘る論説あり、枚挙するに暇なし。<(望)
十二処(じゅうにしょ):梵語aayatanaaniの訳語にして、また十二入、或は十二入処に作る。三科の一にして、即ち、処は生長等の義なり。即ち心心所を長養する法を十二種に分類せるもの。即ち(一)眼処(梵cakSur-aayatana)、(二)耳処(梵zrotraayatana)、(三)鼻処(梵ghraaNaayatana)、(四)舌処(梵jihvaayatana)、(五)身処(梵kaayaayatana)、(六)意処(梵mana-aayatana)、(七)色処(梵ruupaayatana)、(八)声処(梵zabdaayatana)、(九)香処(梵gandhaayatana)、(十)味処(梵rasaayatana)、(十一)触処(梵spraSTavyaayatana)、(十二)法処(梵dharmaayatana)なり。「雑阿含経巻13」に「云何が一切と名づくる。仏、婆羅門に告げたまわく、一切とは謂わゆる十二入処なり、眼、色、耳、声、鼻、香、舌、味、身、触、意、法、これを一切と名づく」と云い、「大毘婆沙論巻71」に「所依及び所縁の愚なる者の為に、十二処を説く、謂わゆる分別の識に六の所依と六の所縁とあるが故なり」と云えるこれなり。この中、眼等の六は、心心所の所依にしてこれを六内処と名づけ、色等の六は、心心所の所縁にしてこれを六外処と名づく。また眼耳鼻舌身及び色声香味触の十処は、謂わゆる十色処にして五蘊の中の色蘊(無表色を除く)に当り、意処は即ち識蘊にして、六識及び意界の七心界を摂し、法処は受想行の三蘊即ち四十六心所及び十四不相応行、並びに無表色、及び三無為の六十四法を摂し、総じてこの十二に有為無為の一切の法を摂し尽くす。また大乗所立の百法に就いて分別せば、十色処の外、意処に八識を摂し、法処に五十一心所、二十四不相応行、六無為及び法処所摂の色の八十二法を摂す。蓋し三科の法門中、五蘊は略にして利根、十八界は広にして鈍根の為にするに対し、十二処は略ならず広ならず、即ち中根にして特に色に愚なる者の為にこれを説くなり。<(望)
十八界(じゅうはっかい):梵語aSTaadaza dhaatavaHの訳語にして、十八の種族の意なり、また十八持に作り、三科の一にして、即ち一身中に能依の識、所依の根及び所縁の境の十八類の種族あるを云う。即ち(一)眼界(梵cakSur-dhaatu)、(二)色界(梵ruupa-dh.)、(三)眼識界(梵cakSur-vijJaana-dh.)、(四)耳界(梵zrotra-dh.)、(五)声界(梵zabda-dh.)、(六)耳識界(梵zrotra-vijJaana-dh.)、(七)鼻界(梵gharaaNa-dh.)、(八)香界(梵gandha-dh.)、(九)鼻識界(梵gharaaNa-vijJaana-dh.)、(十)舌界(梵jihvaa-dh.)、(十一)味界(梵rasa-dh.)、(十二)舌識界(梵jihvaa-vijJaana-dh.)、(十三)身界(梵kaaya-dh.)、(十四)触界(梵spraSTavya-dh.)、(十五)身識界(梵kaaya-vijJaana-dh.)、(十六)意界(梵mano-dh.)、(十七)法界(梵dharma-dh.)、(十八)意識界(梵mano-vijJaana-dh.)なり。「雑阿含経巻16」に「云何が種種界なる。謂わゆる十八界なり。眼界色界眼識界、乃至意界法界意識界なり。これを種種界と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に「何に縁りてか十八界を立つることを得る。頌して曰わく、第六の依を成ずるが故に、十八界なることまさに知るべし。論じて曰わく、五識界の如きは別に眼等の五界ありて依と為す。第六意識は別の所依なり。この依を成ぜんが為の故に意界を説く。かくの如く所依と能依と境界とに、まさに知るべし、各六界ありて十八を成ずることを」と云えるこれなり。これ根、境、識の三に各六界の別あるが故に総じて十八界を成ずることを説けるものにして、即ち十二処中の眼処乃至意処を、各所依の根と能依の識とに分別したるものなり。この中、眼識の所依たる眼根を眼界と名づけ、眼識の所縁たる色境を色界と名づけ、色界を了別する眼識を眼識界と名づけ、乃至意識の所依たる無間滅の意根を意界と名づけ、意識の所縁たる法境を法界と名づけ、法界を了別する意識を意識界と名づくるなり。就中、法界とは十二処中の法処の如く、無表色、四十六心所法、十四不相応行、及び三無為の六十四法を摂す。もし大乗百法に就いてこれを云わば、五十一心所、二十四不相応行、六無為及び法処所摂色の八十二法を摂するものなり。また界の意義に関し、「大毘婆沙論巻71」には種族の義、段の義、分の義、片の義、異相の義、不相似の義、分斉の義、種種因の義、馳流の義、任持の義、長養の義の十一義を出だし、就中、「倶舎論巻1」には「法の種族の義はこれ界の義なり。一の山中に多の銅鉄金銀等の族あるを説きて多界と名づくるが如く、かくの如く一身、或は一相続に十八種の諸法の種族あるを十八界と名づく。この中の種族はこれ生本の義なり。かくの如き眼等は誰が生本なる、謂わく自の種類の同類因なるが故なり」と云えり。これ界を以って種族即ち生本の義と為し、眼等は各皆自類の同類因となり、また無為法は心心所法の生ずる本となるが故に、総じてこれを界と名づくることを明にせるなり。<(望)
十智(じっち):法智、比智、世智、他心智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智。『大智度論巻18下注:十智』参照。 |
参考:『品類足論巻9』:『意業一界一處一蘊攝。九智知。除滅智。一識識。』 |
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復次得陀羅尼菩薩。一切所聞法以念力故。能持不失。 |
復た次ぎに、陀羅尼を得たる菩薩は、一切の所聞の法を、念力を以っての故に、能く持して失せず。 |
復た次ぎに、
『陀羅尼』を、
『得た!』、
『菩薩』は、
『念』の、
『力』を以っての故に、
一切の、
『聞く!』所の、
『法』を、
『記憶し!』て、
『忘失しない!』のである。
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復次是陀羅尼法常逐菩薩。譬如間日瘧病。是陀羅尼不離菩薩。譬如鬼著。是陀羅尼常隨菩薩。如善不善律儀。 |
復た次ぎに、是の陀羅尼の法の、常に菩薩を逐うこと、譬えば間日の瘧病の如し。是の陀羅尼の、菩薩を離れざること、譬えば鬼の著くが如し。是の陀羅尼の、常に菩薩に随うこと、善不善の律儀の如し。 |
復た次ぎに、
是の、
『陀羅尼』は、
常に、
『菩薩』を、
『逐う!』ので、
譬えば、
『間日(一日おきに発る!)』の、
『瘧病(マラリア)』のようだ。
是の、
『陀羅尼』は、
『菩薩』を、
『離れない!』ので、
譬えば、
『鬼神』が、
『著いた!』ようだ。
是の、
『陀羅尼』は、
常に、
『菩薩』に、
『随う!』ので、
譬えば、
『善、不善』の、 ――善悪の因果の必定なるが如し――
『律儀』のようだ。
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間日(けんにち):日を隔てること。
瘧病(ぎゃくびょう):おこり。一種の熱病。日を隔て、又は毎日時を定めて発し、或いは寒く、或いは熱くなる病。マラリア。
鬼(き):また餓鬼に作り、梵語pretaの訳語にして、また音訳して薜荔哆に作る。即ち恐怖の形相を具有し、人をして悩害せしむる衆生を指し、五道の一、六道の一と為す。六道中に所立の餓鬼道は、諸天の駆使に遭うて常に飢渇する者にして、別に弊鬼、有威徳鬼、無威徳鬼、多財餓鬼、無財餓鬼等有りて、皆閻魔王界に住す。『大智度論巻16上注:餓鬼』参照。
善律儀(ぜんりちぎ)、不善律儀(ふぜんりちぎ):時を定め事を定めてこれを守り行うを律儀といい、これに善悪の二種有り、即ち戒法の如きを善の律儀、漁猟の如きを悪律儀と為し、就中、十不善業の中より貪欲、瞋恚、邪見を除ける殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語を指して七不善律儀と称し、これに反するを七善律儀と称す。『大智度論巻13下注:善律儀、同巻24上注:悪律儀』参照。 |
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復次是陀羅尼。持菩薩不令墮二地坑。譬如慈父愛子。子欲墮坑。持令不墮。 |
復た次ぎに、是の陀羅尼は、菩薩を持して、二地の坑に堕ちしめざること、譬えば慈父の子を愛し、子坑に堕ちんと欲するに、持して、堕ちざらしめんが如し。 |
復た次ぎに、
是の、
『陀羅尼』は、
『菩薩』を持して、
『二地( 声聞、辟支仏)』の、
『坑』に、
『堕ちさせない!』。
譬えば、
『父』は、
『子』を、
『愛している!』ので、
『子』が、
『坑』に、
『堕ちよう!』とすると、
『子』を、
『保持し!』て、
『堕ちないようにさせる!』のと同じである。
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復次菩薩得陀羅尼力故。一切魔王魔民魔人。無能動無能破無能勝。譬如須彌山凡人口吹不能令動。 |
復た次ぎに、菩薩は陀羅尼の力を得るが故に、一切の魔王、魔民、魔人も、能く動かす無く、能く破る無く、能く勝つ無し。譬えば須弥山を、凡人の口もて吹けども、動かしむる能わざるが如し。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『陀羅尼』の、
『力』を、
『得る!』が故に、
一切の、
『魔王、魔民、魔人』には、
『動かす!』ことの、
『できる!』者は、
『無く!』、
『破る!』ことの、
『できる!』者も、
『無く!』、
『勝つ!』ことの、
『できる!』者も、
『無い!』のであり、
譬えば、
『須弥山』を、
『凡人』が、
『口』で、
『吹いた!』としても、
『動かす!』ことの、
『できる!』者が、
『無い!』のと同じである。
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問曰。是陀羅尼有幾種。 |
問い、是の陀羅尼に、幾ばくの種か有る。 |
問い、
是の、
『陀羅尼』には、
『幾種』、
『有る!』のですか?
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答曰。是陀羅尼多種。一名聞持陀羅尼。得是陀羅尼者。一切語言諸法耳所聞者皆不忘失。是名聞持陀鄰尼。 |
答えて曰く、是の陀羅尼は多種にして、一を聞持陀羅尼と名づけ、是の陀羅尼を得れば、一切の語言の諸法の、耳に聞く所は、皆、忘失せず、是れを聞持陀隣尼と名づく。 |
答え、
是の、
『陀羅尼』は、
『多種』であり、
一を、
『聞持陀羅尼』といい、
是の、
『陀羅尼』を、
『得た!』者は、
一切の、
『語言( ことば)』を以って、
『説かれる!』、
『諸法』を、
『耳』に、
『聞こえた!』分は、
『皆(何もかも)』、
『忘失しない!』ので、
是れを、
『聞持陀隣尼(陀羅尼)』と、
『称する!』のである。
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復有分別知陀羅尼。得是陀羅尼者。諸眾生諸法大小好醜分別悉知。如偈說
諸象馬金 木石諸衣
男女及水 種種不同
諸物名一 貴賤理殊
得此總持 悉能分別 |
復た分別知陀羅尼有り、是の陀羅尼を得れば、諸の衆生、諸の法の大小、好醜の分別を尽く知る。偈に説くが如し、
諸の象、馬、金、木、石、諸の衣、
男、女、及び水は、種種同じからず。
諸の物は名は一なれど、貴賎の理を殊にす、
此の総持を得れば、悉く能く分別す。
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復た、
『分別知陀羅尼』が有り、
是の、
『陀羅尼』を、
『得た!』者は、
諸の、
『衆生』や、
諸の、
『法』の、
『大、小』、
『好、醜』を、
『分別』して、
『悉く!』を、
『知る!』のであり、
例えば、
『偈』に説く!通りである、――
諸の、
『象、馬、木、石』や、
諸の、
『衣、男、女、水』などは、
『種種』に、
『同じではない!』し、
諸の、
『物』は、
『名』が、
『一』であっても、
『貴、賎』の、
『理(たち)』が、
『殊(異)なる!が、
此の、
『総持( 陀羅尼)』を得れば、
悉くを、
『分別する!』ことが、
『できる!』。
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理(り):たち。さが。性質。
総持(そうじ):梵語陀羅尼dhaaraNiiの訳。善を持ちて失わず、悪を持ちて起たしめざるの義なり。念と定、慧とを以ってその体と為し、菩薩所修の念、定、慧にこの功德を具う。『大智度論巻42下注:陀羅尼』参照。 |
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註:陀羅尼dhaaraNiiの語は、「持す」、「保つ」の義なる語根dhRより来たれる語にして、原義に記憶して忘れざるの意を有し、即ち一種の記憶法を云うが如し。 |
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復有入音聲陀羅尼。菩薩得此陀羅尼者。聞一切語言音。不喜不瞋。一切眾生如恒河沙等劫。惡言罵詈心不憎恨。 |
復た入音声陀羅尼有り、菩薩の、此の陀羅尼を得る者は、一切の語言の音を聞きて、喜ばず瞋らず。一切の衆生の恒河沙に等しきが如き劫、悪言、罵詈せんにも、心に憎恨せず。 |
復た別の、
『入音声陀羅尼』が有り、
『菩薩』が、
此の、
『陀羅尼』を、
『得た!』ならば、
一切の、
『語言』の、
『音』を、
『聞いて!』も、
其れを、
『喜ぶこともなく!』、
『瞋ることもない!』。
一切の、
『衆生』が、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『劫』、
『悪言し!』、
『罵詈した!』としても、
其れを、
『憎むこともなく!』、
『恨むこともない!』。
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問曰。菩薩諸漏未盡。云何能如恒河沙等劫。忍此諸惡。 |
問うて曰く、菩薩の諸漏は、未だ尽きず。云何が、能く恒河沙に等しきが如き劫、此の諸悪を忍ばん。 |
問い、
『菩薩』の、
諸の、
何故、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『劫』、
此の、
諸の、
『悪』を、
『忍ぶことができる!』のですか?
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答曰。我先言得此陀羅尼力故能爾。 |
答えて曰く、我れ先に言えり、『此の陀羅尼の力を得るが故に、能く爾り。』と。 |
答え、
わたしは、
先に、
こう言ったはずだ、――
此の、
『陀羅尼』の、
『力』を、
『得た!』が故に、
爾のような、
『事』が、
『できる!』のだ、と。
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復次是菩薩雖未盡漏。大智利根能思惟。除遣瞋心作是念。若耳根不到聲邊。惡聲著誰。 |
復た次ぎに、是の菩薩は、未だ漏尽きずと雖も、大智、利根なれば、能く思惟して、瞋心を除遣し、是の念を作さく、『若し耳根、声の辺に到らざれば、悪声は、誰にか著(つ)かん。 |
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『漏』が、
『尽きていない!』が、
而し、
『大智』、
『利根』で、
『思惟する!』ことができ、
『瞋心』を、
『除き遣る!』ので、
是の、
『念』を作す!のである、――
若し、
『耳根』が、
『声の辺』に、
『到らなければ!』、
いったい、
『悪声』は、
『誰に!』、
『著(つ)く!』というのか?
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又如罵聲聞便直過。若不分別誰當瞋者。凡人心著吾我。分別是非而生恚恨。 |
又、罵声の如きは、聞けば便ち直ちに過ぐ。若し分別せずんば、誰か当に瞋者なるべけんや。凡人の心は、吾我に著して、是非を分別すれば、而して恚恨を生ずるなり。』と。 |
又、
『罵声』などは、
『聞けば!』、
『直ちに!』、
『過ぎる!』ものである。
若し、
『分別しなければ!』、
誰を、
『瞋者』に、
『当てればよい!』のだろう。
『凡人』は、
『心』に、
『吾我』に著して、
『是、非』を、
『分別する!』が、
爾のようにして、
『恚恨』を、
『生じる!』のだ、と。
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当(とう):なぞらえる。比擬する。 |
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復次若人能知諸言隨生隨滅前後不俱則無瞋恚。亦知諸法內無有主。誰罵誰瞋。 |
復た次ぎに、若し人能く、諸の言は、随って生じ、随って滅して前後倶ならず、則ち瞋恚する無しと知り、亦た諸法の内に、主有ること無しと知らば、誰か罵り、誰か瞋らん。 |
復た次ぎに、
若し、
『人』が、――
諸の、
『言( ことば)』は、
『生じる!』端から、
『滅する!』ので、
『前、後』が、
『倶(いっしょ)でない!』、
則ち、
『言』中に、
『瞋恚( いかり)』は、
『無いのだ!』と、
『知り!』、
亦た、
諸の、
『法( 声)』の、
『内』に、
『主( 罵者)』は、
『無い!』と、
『知ることができれば!』、
いったい、
誰が、
『罵り!』、
誰が、
『其れ!』を、
『瞋る!』というのだろう?
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若有人聞殊方異語。此言為好彼以為惡。好惡無定雖罵不瞋。 |
若し有る人、殊方の異語を聞きて、此の言を好と為し、彼れは以って、悪と為さば、好悪定まり無きに、罵ると雖も、瞋らざらん。 |
若し、
有る、
『人』が、
『殊方( 異国)』の、
『異語(知らないことば)』を、
『聞いて!』、
此れは、
『好きだ!』と、
『言っている!』と、
『思い!』、
彼れは、
『嫌いだ!』と、
『思って!』、
『言った!』とするならば、
則ち、
『好きだ!』も、
『嫌いだ!』も、
『定まる!』ことは、
『無い!』ので、
彼れが、
『罵った!』としても、
『瞋る!』ことは、
『無い!』はずである。
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若有人知語聲無定則無瞋喜。如親愛罵之。雖罵不恨。非親惡言聞則生恚。 |
若し有る人、語声に定まり無きを知らば、則ち瞋喜無けん。親、之を愛して罵らば、罵ると雖も恨まざらん。親に非ざるもの、悪みて言うを聞かば、則ち恚を生ぜん。 |
若し、
有る、
『人』が、
『語声』には、
『定まり!』が、
『無い!』ことを、
『知っていた!』ならば、
則ち、
『瞋る!』ことも、
『喜ぶ!』ことも、
『無い!』はずである。
例えば、
『親( おや)』が、
之を、
『愛して!』、
『罵る!』ならば、
たとえ、
『罵られて!』も、
『恨まない!』が、
『親でない!』者が、
『悪んで!』、
『罵る!』ならば、
則ち、
『恚(いかり)』を、
『生じる!』のである。
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如遭風雨則入舍持蓋。如地有刺則著靴鞋。大寒燃火熱時求水。如是諸患但求遮法而不瞋之。 |
風雨に遭えば、則ち舎に入りて、蓋を持するが如く、地に刺有れば、則ち靴か、鞋を著け、大寒には火を燃やし、熱時には水を求むるが如く、是の如き諸患は、但だ遮法を求めて、之を瞋らず。 |
例えば、
『風雨』に、
『遭った!』ならば、
則ち、
『舎( いえ)』に入って、
『蓋』を、
『持ってくる!』だろうし、
若し、
『地』に、
『刺』が、
『有った!』ならば、
則ち、
『靴』か、
『鞋(わらじ)』を、
『著ける!』だろうし、
『大寒』ならば、
『火』を、
『燃やす!』とか、
『熱時』には、
『水』を、
『求める!』とか、
是のような、
諸の、
『患( わずらい)』は、
但だ、
『遮る!』、
『法』を、
『求める!』だけで、
之を、
『瞋る!』者は、
『無い!』のである。
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罵詈諸惡亦復如是。但以慈悲息此諸惡不生瞋心。 |
罵詈の諸悪も、亦復た是の如く、但だ慈悲を以って、此の諸悪を息むれども、瞋心を生ぜず。 |
『罵詈する!』ことの、
諸の、
『悪』も、
亦復た、
是の通りである。
但だ、
『慈悲』を以って、
此の、
諸の、
『悪』を、
『止めさせよう!』とするだけで、
『心』に、
『瞋(いかり)』を、
『生じない!』。
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復次菩薩知諸法不生不滅其性皆空。若人瞋恚罵詈。若打若殺如夢如化。誰瞋誰罵。 |
復た次ぎに、菩薩は、諸法の不生不滅にして、其の性の皆空なるを知る。若し人、瞋恚し、罵詈して、若しは打ち、若しは殺さんとも、夢の如く、化の如し。誰か瞋り、誰か罵らん。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
諸の、
其の、
『性』は、
皆、
『空である!』と、
『知る!』。
若し、
『人』が、
『瞋恚し!』、
『罵詈して!』、
若しくは、
『打とう!』が、
『殺そう!』が、
皆、
『夢のよう!』であり、
『化のよう!』である。
いったい、
誰が、
『瞋っている!』のであり、
誰が、
『罵っている!』のであろうか?
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復次若有人如恒河沙等劫。眾生讚歎。供養衣食臥具醫藥華香瓔珞。得忍菩薩其心不動不喜不著。 |
復た次ぎに、若し有る人を、恒河沙の如きにも等しき劫、衆生が讃歎して衣食、臥具、医薬、華香、瓔珞を供養すとも、忍を得たる菩薩は、其の心動かず、喜ばず、著せざるなり。 |
復た次ぎに、
有る、
『人』を、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『劫』、
『衆生』が、
『讃歎』して、
『衣食、臥具、医薬、華香、瓔珞』を、
『供養した!』としても、
『忍( 等忍)』を、
『得た!』、
『菩薩』の、
其の、
『心』は、
『動くこともなく!』、
『喜ぶこともなく!』、
『著することもない!』のである。
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忍(にん):梵語kSaantiの訳。心よく安住して他の侮辱悩害等を堪忍する意。『大智度論巻6下注:忍、忍辱』参照。 |
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問曰。已知菩薩種種不瞋因緣。未知實讚功德而亦不喜。 |
問うて曰く、已に菩薩の種種の瞋らざる因縁を知るも、未だ実に功徳を讃ずるにも、亦た喜ばざるやを知らず。 |
問い、
已に、
『菩薩』の、
種種の、
『瞋らない!』、
『因縁』は、
『知った!』が、
未だ、
『実』に、
『功徳』を、
『讃じた!』としても、
やっぱり、
『喜ばないのか?』を、
『知りません!』。
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答曰。知種種供養恭敬是皆無常。今有因緣故來讚歎供養。後更有異因緣則瞋恚。若打若殺。是故不喜。 |
答えて曰く、種種の供養、恭敬は、是れ皆無常なり、今、因縁有るが故に、来たりて讃歎し、供養せるも、後に更に異なる因縁有らば、則ち瞋恚して、若しは打ち、若しは殺さんと知る、是の故に、喜ばざるなり。 |
答え、
こう知るからである、――
種種の、
『供養』や、
『恭敬』は、
是れは、
『皆!』、
『無常である!』、
今は、
『因縁』が有る!が故に、
来て、
『讃歎したり!』、
『供養したり!』しているが、
後に、
更に別の、
『異なる!』
『因縁』が、
『有る!』ようになれば、
則ち、
『瞋恚し!』て、
『打ったり!』、
『殺したり!』することだろう、と。
是の故に、
『喜ばない!』のである。
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復次菩薩作是念以我有功德智慧故來讚歎供養。是為讚歎功德非讚我也。我何以喜。 |
復た次ぎに、菩薩の是の念を作さく、『我れに、功徳、智慧有るを以っての故に、来たりて讃歎し、供養するも、是れを功徳を讃歎すと為して、我れを讃ずるに非ざるなり。我れは、何を以ってか、喜ばん。』と。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の『念』を作す!のである、――
わたしに、
『功徳』や、
『智慧』が、
『有る!』が故に、
来て、
『讃歎したり!』、
『供養したり!』するのであり、
是れは、
『功徳』を、
『讃歎するのであり!』、
わたしを、
『讃歎するのではない!』。
わたしが、
何を、
『思って!』、
『喜ぶ!』というのか?と。
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復次是人自求果報故。於我所作因緣。供養我作功德。譬如人種穀。溉灌修理地亦不喜 |
復た次ぎに、是の人は、自ら果報を求むるが故に、我が作す所の因縁に於いて、我れを供養して、功徳を作す。譬えば、人、穀を種え、漑潅し、修理すとも、地は、亦た喜ばざるが如し。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の『念』を作す、――
是の、
『人』は、
自ら!の、
『果報(功徳)』を、
『求めている!』が故に、
わたしの、
『作した!』所の、
『因縁( 功徳)』に於いて、
わたしを、
『供養し!』ながら、
自ら!の、
『功徳(果報)』を、
『作している!』のだ。
譬えば、
『人』が、
『地』に、
『穀』を種えて、
『潅漑したり!』、
『修理したり!』したとしても、
『地』は、
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復次若人供養我。我若喜受者。我福德則薄他人得福亦少。以是故不喜。 |
復た次ぎに、若し人、我れを供養するに、我れ若し喜んで受くれば、我が福徳は則ち薄く、他人の得る福も、亦た少なし。是を以っての故に喜ばず。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の『念』を作す、――
若し、
『人』が、
わたしを、
『供養し!』て、
わたしが、
若し、
『喜んで!』、
『受けた!』ならば、
わたしの、
『福徳』は、
『薄くなる!』だろうし、
他人の、
『得る!』、
『福』も、
やっぱり、
『少なくなる!』だろう、と。
是の故に、
『喜ばない!』のである。
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復次菩薩觀一切法如夢如響。誰讚誰喜。我於三界中未得脫。諸漏未盡未得佛道。云何得讚而喜。 |
復た次ぎに、菩薩は、一切法の夢の如く、響の如きを観る。誰か讃じ、誰か喜ばん。我れは、三界中に於いて未だ脱るるを得ず、諸漏未だ尽きず、未だ仏道を得ず。云何が讃を得て、喜ばんや。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『法』は、
『夢のようだ!』、
『響のようだ!』と、
『観る!』のである。
誰が、
『讃じ!』、
誰が、
『喜ぶ!』というのか?
わたしは、
『三界』中より、
諸の、
『漏( 煩悩)』も、
『仏』の、
何故、
『讃歎』を、
『得た!』ぐらいで、
『喜ぶ!』というのか?と。
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若應喜者唯佛一人。何以故。一切功德都已滿故。 |
若し、応に喜ぶべき者ならば、唯だ仏一人ならん。何を以っての故に、一切の功徳は、都べて已に満ちたまえるが故なり。 |
若し、
本当に、
『喜んで!』、
『然るべき!』者とは、
唯だ、
『仏』、
『一人』のみ!である。
何故ならば、
一切の、
『功徳』が、
都( す)べて、
『已に!』、
『満ちている!』からである。
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是故菩薩得種種讚歎供養供給心不生喜。如是等相名為入音聲陀羅尼。 |
是の故に、菩薩は、種種の讃歎、供養、供給を得れども、心に喜を生ぜず。是の如き相を名づけて、入音声陀羅尼と為す。 |
是の故に、
『菩薩』は、
種種の、
『讃歎』、
『供養』、
『供給』を、
『得た!』としても、
『心』に、
『喜(よろこび)』が、
『生じない!』のである。
是れ等の、
『相』を、
『入音声陀羅尼』と、
『称する!』のである。
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復有名寂滅陀羅尼無邊旋陀羅尼隨地觀陀羅尼威德陀羅尼華嚴陀羅尼音淨陀羅尼虛空藏陀羅尼海藏陀羅尼分別諸法地陀羅尼明諸法義陀羅尼。 |
復た、寂滅陀羅尼、無辺旋陀羅尼、随地観陀羅尼、威徳陀羅尼、華厳陀羅尼、音浄陀羅尼、虚空蔵陀羅尼、海蔵陀羅尼、分別諸法地陀羅尼、明諸法義陀羅尼有り。 |
復た、
『寂滅陀羅尼』、
『無辺旋陀羅尼』、
『随地観陀羅尼』、
『威徳陀羅尼』、
『華厳陀羅尼』、
『音浄陀羅尼』、
『虚空蔵陀羅尼』、
『海蔵陀羅尼』、
『分別諸法地陀羅尼』、
『明諸法義陀羅尼』が有る。
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如是等略說五百陀羅尼門。若廣說則無量。以是故言諸菩薩皆得陀羅尼。 |
是の如き等は、略説すれば五百陀羅尼門、若し広説すれば則ち無量なり。是を以っての故に言わく、諸の菩薩は皆、陀羅尼を得と。 |
是れ等は、
略して、
『五百陀羅尼門』を、
『説き!』、
若し、
広く、
『説けば!』、
『無量である!』。
是の故に、
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諸三昧者。三三昧空無作無相。 |
諸の三昧とは、三三昧の空、無作、無相なり。 |
諸の、
『三昧』とは、――
『三三昧』、
謂わゆる、
『空三昧』、
『無作三昧』、
『無相三昧』である。
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有人言。觀五陰無我無我所。是名為空。住是空三昧。不為後世故起三毒。是名無作。緣離十相故。五塵男女生住滅故。是名無相。 |
有る人の言わく、『五陰の無我、無我所なるを観る、是れを名づけて空と為す。是の空三昧に住して、後世の為の故の、三毒を起さざる、是れを無作と名づく。縁の、十相を離るるが故に、五塵、男女、生住滅の故に、是れを無相と名づく。』と。 |
有る人は、
こう言っている、――
『五陰』には、
『我』も、
『我所』も、
『無い!』と、
『観る!』が故に、
是れを、
『空三昧』と称する!。
是の、
『空三昧』に住すれば、
『後世』の、
『為( 原因)』の故の、
『三毒(貪欲、瞋恚、愚癡)』を、
『起さない!』が故に、
是れを、
『無作三昧』と称する!。
『縁( 意)』が、
『十相』を、
『離れる!』が故に、
謂わゆる、
『五塵(色声香味触)、男女、生住滅』を、
『離れる!』が故に、
是れを、
『無相三昧』と称する!と。
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我(が):梵語aatmanの訳。巴梨語attan、主宰の義、または身体の義なり、即ち己我の自体を指す。「成唯識論巻1」に「我は謂わゆる主宰なり」と云い、「同述記巻1」にはこれを解して、「我は主宰の如しとは、国の主に自在あるが如くなるが故に、及び補宰のよく割断するが如くなるが故に、自在力及び割断力あるの義、我に同ずるが故なり」と云えり。また「百法問答鈔巻1」に「我とは自在の義なり、世間にワレハトと云いて自在に振る舞うが如し。常一主宰を以って自在の義となす。謂わゆる無常なるものは自在に非ず。常住なるもの自在を得。次ぎに独一にして並ぶものなきが故に自在なり。次ぎにこの所の衆なるが故に自在なり。次ぎにこの諸人の中に官宰なるが故にまた自在なり。仍りて常一主宰の義を以って自在の義となす。故に我はその体、有情の衣身なり」とあり、「大品般若経巻2」には、我の十六異名を列ぬ。一に我、二に衆生、三に寿者、四に命者、五に生者、六に養育者、七に衆数、八に人、九に作者、十に使作者、十一に起者、十二に使起者、十三に受者、十四に使受者、十五に知者、十六に見者これなり。蓋し未だ我執を断ぜざる者は、実我ありと固執すれども、すでにこれを離るれば、一切法無我の理を知り、涅槃に入ることを得。故に仏経中、勉めて実我の執を破すといえども、而もこれを立つることは、独り外道に限らず、小乗の諸部の中にも有り。「唯識論巻1」に依るに、所執の我に三種あり、一に即蘊、二に理蘊、三に非即非離蘊なり。即蘊の我とは、色受想行識の五蘊を離れて、別に我の体有るに非ず、即ち五蘊の身を総じて計して我と為すを云う。世人の執する所多くはこれなり。離蘊の我とは、数論、勝論等の外道及び小乗経量部等の計する所にして、五蘊の法を離れて、別体ありと説くと云う。これにまた三種の別あり。一に数論、勝論等は、我はその体常にして周遍し、量、虚空に同じく、処に随って業を造り、苦楽を受くと説く。即ち数論の如き二十五諦を立ててその最後を神我と名づけ、勝論の如き六句義を立てて第一実句義の中に我を置き、共に実の勢用ある本体となせるこれなり。二に無慚外道等は、我はその体常なりといえども、量は定まらず、即ち身の大小に随って巻舒ありと説く。三に獣主外道等は、我はその体常なり至細にして一極微の如く、身中に潜転して事業を作すと説く。「大般涅槃経巻2」に「凡夫愚人所計の我とは、或は説いて言うことあり、大さ拇指の如し。或は芥子の如し。或は微塵の如し」と云うは、また外道の計を説けるものなり。また小乗経量部の如き、五蘊の外に微細の実我有りと説けり。「異部宗輪論述記」に「経量部は勝義補特伽羅ありと執す。ただこれ微細にして施設すべきこと難し。即ち実我なり。正量等の非即蘊離蘊にして、蘊の外に調然として別体ありと云うに同じからざるが故なり」と云えるこれなり。非即非離蘊の我とは、小乗犢子部、正量部等の計にして、即ち五法蔵を立てて、我を不可説蔵に摂し、我は五蘊に即するに非ず、また五蘊をはなれたるに非ず、五蘊と我とは不即不離にして、而も実在なりと説けるを云う。「華厳経疏巻3」に「呼んで附仏法の外道と作す」と云えるこれなり。然るに仏法中、我の語を用いたる所もまた多し。謂わゆる如是我聞、設我得仏等これなり。これ即ち仮に五蘊和合の人を呼べる名称にして、ただ名字のみありて、その体無く、謂わゆる随世流布我なり。「大智度論巻1」に依るに、世界法の中に我の語を説くに三の根本あり、一には邪見、二には慢、三には名字なり、と。邪見とは凡夫は我見未だ亡ぜざるが故に実に我ありと執して我の語を説くを云い、慢とは有学の聖者は我見すでに除くといえども、なお我慢あるが故に、我の語を説くを云い、名字とは仏及び無学の聖者は我見、我慢皆すでに除きて我執全く無しといえども、世間の流布に随って、我の語を説くを云う。この中、邪見は今の実我にして、名字は即ち仮我なり。また法蔵の「梵網経菩薩戒本疏巻1」には、我に通じて六種の別を立つ。一に我執とは、ただ分別倶生の所執を性となす。凡夫に在り。二に慢我とは、ただ倶生を性となす。有学位に在り。三に習気我とは、二我の余習を性となす。無学位に在り。四に随世流布我とは、諸仏等の世の流布に随って仮に我と称するを云う。五に自在我とは、如来の後得智を以って性となす。涅槃経の八自在これなり。六に真我とは、真如の四徳たる常楽我淨の中の我徳を云う。真を以って性となす、と。この中、自在我及び真我は謂わゆる大我にして真如の常住自在の妙用に名づけたるものなり。<(望)
我所(がしょ):梵語mama-kaaraの訳語にして、即ち我の所有、我の所属、若しくは我と離れざる物の意なり。即ち我所見の所執たる五取蘊の法を云う。「大乗阿毘達磨雑集論巻1」に我所に相応我所、随転我所、不離我所の三種ありとし、これに執するを我所見となすと云えり。「百法問答鈔巻1」には「所とは所属なり、余法を我の物に属するが故に我所と名づく」と云えるは、即ち従属の義によりて述べたるなり。この中、我所見とは、即ち梵語mama-kaara-dRSTii)の訳語にして、我所を執する謬見の意なり。即ち我が五蘊の法を執して、我は五蘊を有す、五蘊の法はこれ我が所属なり、我は五蘊の中にあり、と計度するを云う。これ二十句薩迦耶見の中の後の十五句なり。「大毘婆沙論巻8」に「十五は我所見なり。謂わゆる等しく随って我は色を有す。色はこれ我所、我所は色の中に在り。我は受想行識を有す、受想行識はこれ我所、我は受想行識中に在りと観ずるなり」と云えるこれなり。「大乗阿毘達磨雑集論巻1」には、我所見に相応我所、随転我所、不離我所の三種ありとし、「相応我所とは、我は色を有す、乃至我は識を有す。我と彼れ(五蘊)と相応するに依りて彼を有すと説くが故なり。随転我所とは、識は我に属す、乃至識は我に属す。もし彼れ、この自在力に由りて転じ、或は捨し、或は没するを、世間に彼れはこれ我所と説くが故なり。不離我所とは、我は色の中に在り、乃至我は識の中に在り。所以は何ん、彼れ実に我は蘊中に処在し、遍体随行すと計するが故なり」と云えり。この中、色等の五蘊の法は、我と相応するが故に、我は色等を有すと執するを相応我所と名づく、我が瓔珞と云うが如きその例にして、即ち我が身と相応するの意なり。五蘊の法は我に従属し、その自在力に由りて転ずと執するを随転我所と名づく。我が僮僕と云うが如きその例にして、即ち我に随従して転ずるの意なり。我は色等に離れず、即ちその中に在りて遍体随行すと執するを不離我所と名づく。我が器と云うが如きその例にして、即ち我が身、その器の中に処在するの意なり。かくの如く、五蘊の法一一に皆この三義有るが故に、総じて十五の我所見を成ず。これに五種の我見を加うれば、三十種の薩迦耶見となり、乃至六十五、七十二、九百三十六等の数を成ずるを得べし。また「大毘婆沙論巻9、巻49」、「倶舎論巻19」、「同光記巻19」、「同宝疏巻19」、「成唯識論巻4、巻6」、「同述記巻5本、巻6末」、「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望)
注:一本に離十相故は、離十相法に作る。蓋し意の通り易きが故なり。 |
参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻33』:『云何無學定蘊。答無學三三摩地。謂空無願無相。問定體唯一。謂心所法中三摩地。云何建立三種差別。答以近對治三種障故謂空三摩地近對治有身見。無願三摩地近對治戒禁取。無相三摩地近對治疑。復次行相別故。謂空三摩地三行相俱即空非我。無願三摩地十行相俱即苦非常集道各四。無相三摩地四行相俱即緣滅四。復次以三事故。一以對治故。二以意樂故。三以所緣故。以對治故建立空三摩地。謂非我行相對治我見。空行相對治我所見。如我見我所見已見已所見。五我見十五我所見亦爾。復次非我行相對治我愛。空行相對治我所愛。如我愛我所愛。我慢我所慢亦爾。以意樂故建立無願三摩地。謂諸賢聖由意樂故。不願有及聖道。所以者何。以諸賢聖由意樂故。不願流轉及蘊世苦聖道。依流轉及蘊世苦故。亦不願緣道行相。雖非不願。而意樂故立無願名。問聖者何故修聖道耶。答為涅槃故。謂除聖道。更無異法能得涅槃。故修習之非本意樂。以所緣故建立無相三摩地。謂滅諦中無有十相。故名無相五塵男女三有為相。說名十相。復次以滅諦中無上中下及蘊世相故名無相。滅四行相此為所緣。故名無相。』 |
我(が):梵語aatman、阿特曼、阿坦麽に作る。原意は「呼吸」なり、引き申べて生命、自己、身体、自我、本質、自性と為す。泛く独立永遠の主体を指し、此の主体は、一切の物の根源内に於いて潜在し、而も支配して個体を統一す。乃ち印度思想界の重要なる主題の一なり。仏教は、無我説を主張して、存在と縁起性の関係を明示して、永遠の存続(常)、自主独立の存在(一)、中心の所有主(主)、一切を支配する(宰)等の性質を否定し、而も「我」の不存在、不真実なるを強調す。「利倶吠陀(梵Rg-veda,1500B.C.)以来、即ち「我」の一語を使用するも、「梵書時代(梵braahmana,1000B.C.~800B.C.)に至りて、人類の生命活動の主体の息(梵praana、即気息)が次第に演変して、個体の生命現象の意味を成し、「我」は則ち本質を為す者に係る。「百道梵書(梵zatapatha)」中の如きに、言語、視力、聴力等の生命現象は、「我」を以って基礎と為すに係りて、且く「我」由り来たりて統御し、視ること、造物主(梵prjaapati)と相同じきを呈現す。「奥義書時代(梵upanisad,800B.C.~600B.C.)」に、「我」の宇宙を創造するを主張し、或いは謂わく「我」は是れ個人我(小我)にして、然も同時に亦た是れ宇宙の中心原理たる大我、梵(梵brahman、意に謂わく宇宙の原理なりと)と「我」とを、乃ち一体、同一なりと為し、更に一歩を進めて、唯「我」のみ方に真の実在と為し、余は皆虚幻(梵maayaa)なりと主張す。「阿含経典」中には、下に列ぬる四種の「我」に関する観念見解を否定す:(一)人類の個体の全体を「我」と為すこと、即ち五蘊を我と為す。(二)各個体内の中心の生命を「我」と為すこと、即ち五蘊を有する我なり。(三)宇宙の原理を「我」と為すこと、即ち我中に五蘊を有するなり。(四)存在の一要素毎に、皆各其の固有の性質(自性)を有すること、即ち五蘊中に有る我なり。上述の四種は乃ち後世の所謂有身見なり、亦た分けて二種と為すべし、一を我見と為す、乃ち第一項の五蘊を我と為す。二を我所見と為す、即ち其の余の三項なり。我所とは、我の所有、所属を指し、我に於いて離れざる事物に及ぶ。生死輪廻の主体を構成するに対する無我説との関係につき、部派仏教は各種の解釈を作了せり。説一切有部にては人我と法我とを立てて、個体中心生命の我(即ち人我)を否定すと雖も、但だ実体の我(即ち法我、乃ち一切の存在の構成要素)を承認して、恒有と為し、此等の人我見と法我見とを称して、二種我見と為す。犢子部と正量部とは非即非離蘊の我を主張す、蓋し生命の個体は即ち五蘊に由る仮合の構成(即蘊)に非ず、亦た五蘊の外に別に一我有る(離蘊)に非ざるなり。亦た即ち我と五蘊と具有の不即不離の関係を主張せり。経量部にては別に勝義補特伽羅の説有り。仏教以外及び部派仏教の諸説の「我」に対し、「成唯識論巻1」には類分して、即蘊の我(世間一般所説)、離蘊我(数論、勝論、経量部等の所説)及び非即非離蘊我(犢子部、正量部等所説)の三種と為し、並びに加うるに批判を以ってす。大乗仏教に就いて言わく、但だ個体の我(人我)を否定するのみにあらず、亦た部派承認の其の存在の法我(構成存在要素の実体)をも否定し、而も人法二無我説を主張し、一切は、皆是れ無自性(性空)と為すを認む。同時に、部派仏教は、一切は存在するも、尽く是れ無常、苦、無我、不浄なり、然も倘し能く煩悩を滅尽せば、即ち究竟涅槃の境界に達すべしと為すと認む。此に於いて大乗仏教は則ち一切の存在を本より空と為すことを主張し、開悟の後の涅槃の境界を、必ず絶対の自由と為すが故に、常、楽、我、常の四徳の説を有す。此処の「我」は、凡夫諸見の小我と大いに異なり、而も称して大我、真我と為す、概して之を言わば、「我」には四種の分類有り、(一)凡我、凡夫所修の迷の我を指す。(二)神我(梵puruSa、訳して丈夫、人、原人等と作す)、六師外道(仏教以外の学派)所説の我を指す。(三)仮我、並びに無実体なるに仮名して我と為すを指す。五蘊より仮合せる肉体を称呼して我と為すが如し。(四)真我、意に如来の法身を指し、其の特性は、「八大自在我」に由り、加うるに説明を以ってすべし。此の外に、印度諸学派(外道)の「我」を説くに於いて、十六種の分類有り、一般に十六知見、或いは十六神我と作す。知見の意とは謂わゆる知者、見者なり、即ち我に知と見との能力有るを謂う。十六とは即ち我、衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人(者)、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者等なり。「大智度論巻35」参照。<(佛)
我所(がしょ):梵語mama-kaara。我の所有と為す観念を指して、全て我の所有と称す。即ち我の所有、我の所属の意。即ち自身を以って我と為し、自身以外の物を謂いて、皆我の所有と為す。仏教中に於いては、我と我所とは、一切の世俗の分別の基本分別に係ると為すと認められ、故に破除の対象と為す。又我所の分を、相応我所、随転我所、不離我所と為し、若し之に執せば、則ち称して我所見(我の所有に執する偏見)と為す。凡そ我所見の執著する所なる五取蘊の法は、皆、此の「我所」の観念を源とするが故に、「集異門足論巻12」に、「五取蘊等に於いて、我、或は我所を観見するに随い、此より忍、欲、慧の観見を起す。」と謂えり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「注維摩詰経巻5」、「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望) |
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有人言。住是三昧中知一切諸法實相。所謂畢竟空。是名空三昧。 |
有る人の言わく、『是の三昧中に住して、一切の諸法の実相、謂わゆる畢竟じて空なるを知る、是れを空三昧と名づく。 |
有る人は、
こう言っている、――
是の、
『三昧』中に住すれば、
一切の、
諸の、
謂わゆる、
『畢竟』じて、
『空である!』と、
『知る!』が故に、
是れを、
『空三昧』と称する!。
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知是空已無作。云何無作。不觀諸法若空若不空若有若無等。如佛說法句中偈
見有則恐怖 見無亦恐怖
是故不著有 亦復不著無
是名無作三昧。 |
是の空を知り已れば、無作なり。云何が無作なる。諸法の若しは空、若しは不空、若しは有、若しは無等を観ざればなり。仏の法句中の偈に説きたまえるが如し、
有を見れば則ち恐怖し、無を見れば亦た恐怖す、
是の故に有に著せざれ、亦復た無にも著せざれ。
是れを無作三昧と名づく。 |
是の、
『空』を、
『知った!』者は、
『無作である!』。
何を、
『無作三昧』というのか?――
諸の、
『法』に、
『空』や、
『不空』を、
『観ない!』こと、
『有』や、
『無』を、
『観ない!』こと等である。
『仏』は、
『法句』中の、
『偈』に、
こう説かれた、――
『有』を見れば、
『恐怖する!』、
『無』を見ても、
やっぱり、
『恐怖する!』、
是の故に、
『有』に、
『著するな!』、
『無』には、
もっと、
『著するな!』、と。
是れを、
『無作三昧』というのである。
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参考:『法句経巻下』:『泥洹品法句經第三十六三十有六章 泥洹品者。敘道大歸。恬惔寂滅。度生死畏 忍為最自守 泥洹佛稱上 捨家不犯戒 息心無所害 無病最利 知足最富 厚為最友 泥洹最快 飢為大病 行為最苦 已諦知此 泥洹最樂 少往善道 趣惡道多 如諦知此 泥洹最安 從因生善 從因墮惡 由因泥洹 所緣亦然 麋鹿依野 鳥依虛空 法歸其報 真人歸滅 始無如不 始不如無 是為無得 亦無有思 心難見習可睹 覺欲者乃具見 無所樂為苦際 在愛欲為增痛 明不清淨能御 無所近為苦際 見有見聞有聞 念有念識有識 睹無著亦無識 一切捨為得際 除身想滅痛行 識已盡為苦竟 猗則動虛則淨 動非近非有樂 樂無近為得寂 寂已寂已往來 來往絕無生死 生死斷無此彼 此彼斷為兩滅 滅無餘為苦除 比丘有世生 有有有作行 有無生無有 無作無所行 夫唯無念者 為能得自致 無生無復有 無作無行處 生有作行者 是為不得要 若已解不生 不有不作行 則生有得要 從生有已起 作行致死生 為開為法果 從食因緣有 從食致憂樂 而此要滅者 無復念行跡 諸苦法已盡 行滅湛然安 比丘吾已知 無復諸入地 無有虛空入 無諸入用入 無想不想入 無今世後世 亦無日月想 無往無所懸 我已無往反 不去而不來 不沒不復生 是際為泥洹 如是像無像 苦樂為以解 所見不復恐 無言言無疑 斷有之射箭 遘愚無所猗 是為第一快 此道寂無上 受辱心如地 行忍如門閾 淨如水無垢 生盡無彼受 利勝不足恃 雖勝猶復苦 當自求去勝 已勝無所生 畢故不造新 厭胎無婬行 種燋不復生 意盡如火滅 胞胎為穢海 何為樂婬行 雖上有善處 皆莫如泥洹 悉知一切斷 不復著世間 都棄如滅度 眾道中斯勝 佛以現諦法 智勇能奉持 行淨無瑕穢 自知度世安 道務先遠欲 早服佛教戒 滅惡極惡際 易如鳥逝空 若已解法句 至心體道行 是度生死岸 苦盡而無患 道法無親疏 正不問羸強 要在無識想 結解為清淨 上智饜腐身 危跪非實真 苦多而樂少 九孔無一淨 慧以危貿安 棄猗脫眾難 形腐銷為沫 慧見捨不貪 觀身為苦器 生老病無痛 棄垢行清淨 可以獲大安 依慧以卻邪 不受漏得盡 行淨致度世 天人莫不禮』 |
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云何無相三昧。一切法無有相。一切法不受不著。是名無相三昧。如偈說
言語已息 心行亦滅
不生不滅 如涅槃相 |
云何が無相三昧なる。一切の法は、相有ること無く、一切の法を受けず、著せざる、是れを無相三昧と名づく。偈に説くが如し、
言語已に息み、心行も亦た滅す、
不生不滅なること、涅槃の相の如し。
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何を、
『無相三昧』というのか?――
一切の、
『法』は、
『相』を、
『有する!』ことが、
『無い!』が故に、
一切の、
『法』を、
『受けることもなく!』、
『著することもない!』、
是れを、
『無相三昧』と称する。
『偈』に、
こう説く通りである、――
『言語』は、
『已に』、
『息(や)んだ!』、
『心行( 思慮)』も、
『亦た』、
『滅した!』、
『不生』、
『不滅』とは、
『涅槃』の、
『相のようだ!』。
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心行(しんぎょう):梵語citta-pravRttiの訳。心の動き。思。 |
参考:『大智度論巻2』:『復次知一切諸法實不壞相不增不減。云何名不壞相。心行處滅言語道斷。過諸法如涅槃相不動。以是故名三藐三佛陀。』 |
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復次十八空是名空三昧。種種(丹注云五道生有本有死有中有業)有中心不求。是名無作三昧。一切諸相破壞不憶念。是名無相三昧。 |
復た次ぎに、十八空は、是れを空三昧と名づく。種種(丹注に云わく、五道の生有、本有、死有、中有の業なりと)有中に、心求めざる、是れを無作三昧と名づく。一切の諸相の破壊して憶念せざる、是れを無相三昧と名づく。 |
復た次ぎに、
『十八空』は、
是れを、
『空三昧』と称する!、
種種の、
『有( 生有、本有、死有、中有)』中に、
『心』が、
『求めない!』こと、
是れを、
『無作三昧』と称する!、
一切の、
諸の、
『相』が、
『破壊し!』て、
『憶念しない!』こと、
是れを、
『無相三昧』と称する!。
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十八空(じゅうはちくう):対治する内容に随う種種の空。『大智度論巻31』参照。
(1)内空:眼耳鼻舌身意の六根は空である。
(2)外空:色声香味触法の六境は空である。
(3)内外空:自身の一切は、皆空である。
(4)空空:空と観ることも、また空である。
(5)大空:十方の世界は、皆空である。
(6)第一義空:諸法の外、実相も、また自性なく空である。
(7)有為空:一切の因縁によって造られたものは空である。
(8)無為空:因縁によって造られたもの以外、即ち涅槃もまた空である。
(9)畢竟空:有為空も無為空も、また空である。
(10)無始空:無始よりの存在も空である。
(11)散空:仮の集合は離散し破壊する相を有し、空である。
(12)性空:諸法の性は、常に空である。
(13)自相空:一切の法の総相、別相は皆空である。
(14)諸法空:有法は無いが故に、一切の諸法は空である。
(15)不可得空:諸法は求めても得られないが故に、即ち空である。
(16)無法空:過去と未来の諸法は、空である。
(17)有法空:現在の諸法は、空である。
(18)無法有法空:過去現在未来の諸法は、皆空である。
四有(しう):有とは衆生、或は存在の意。
(1)生有:誕生、人の誕生する瞬間を指す。
(2)本有:誕生から死までの有を指す。
(3)死有:死、人の死ぬ瞬間を指す。
(4)中有:死から次ぎの誕生までの有を指す。 |
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問曰。有種種禪定法。何以故。獨稱此三三昧。 |
問うて曰く、種種の禅定の法有り。何を以っての故にか、独り、此の三三昧のみを称する。 |
問い、
『禅定』には、
種種の、
『法』が、
『有る!』。
何故、
此の、
『三三昧』のみを、
『称する(名を揚げる)!』のですか?
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禅定(ぜんじょう):禅とは、梵語dhyaanaの音訳と為し、定は、梵語samaadhi則ち三昧の意訳と為す。禅と定との意は皆、心をある一境に繋念、専注して散乱せしめざるを指す。<(佛)
禅(ぜん):具に褝那、駄衍那、持阿那等に造り、梵語dhyaanaの音訳にして、また意訳して静慮、思惟修習、棄悪、功徳の叢林等と為し、寂静にして審慮するの意、即ち心一境に住して正審思慮し、定、慧均等なる状態をいう。「大毘婆沙論巻141」に「静は謂わゆる寂静、慮は謂わゆる籌量なり。この四地の中にのみ定慧平等なるが故に静慮と称す。余は随って欠くことあれば、この名を得ず」と云い、「瑜伽師地論巻33」に「静慮と言うは、一の所縁に於いて繋念寂静にして正審思慮す。故に静慮と名づく」と云えり。これ即ち他想を止め、心を一境に専注して極めて寂静ならしめ、以って正審思慮するを禅と名づけたるものなり。この中、寂静は止にして定を云い、思慮は観にして慧を云う。ただ四禅のみ止観均行、定慧平等なるが故に静慮と名づけ、余の四無色定等の如きは定慧平等ならざるが故に禅と称せざることを明にするの意なり。また禅はよく因となりて智慧神通四無量等の功徳を生ずるが故に功徳の叢林とも称す。蓋し禅は心一境性をその自性と為すといえども、尋伺喜楽等の有無に依りて初禅二禅三禅四禅の四種に分別せらる。「大毘婆沙論巻80」に「初禅には尋、伺、喜、楽、心一境性の五支、二禅には内等の浄、喜、楽、心一境性の四支、三禅には行捨、正念、正慧、受楽、心一境性の五支、四禅には不苦不楽受、行捨清浄、念清浄、心一境性の四支を摂し、総じて四禅に十八支あり」と云えり。また四禅には欠く三種の等至の相あり、一に味等至、二に浄等至、三に無漏等至なり。味等至とは、また味禅とも名づけ、即ち愛と相応する定にして、静慮の功徳に味著するをいい、浄等至とは、また浄禅とも名づけ、無貪等の白浄法と相応する定にして、即ち愛味の過患を了知し、愛と相応せざるをいい、無漏等至とは、愛と相応せず、また味著せられざる定にして、即ち聖者の四諦を観じ、または現観を修する方便として入る所の定を云うなり。この中、初の二は有漏定にして、後の一は無漏定なり。凡そ禅定は大小二乗及び外道凡夫等も皆通じて、これを修するものなるが故に、形式は同一なるも、所観の法及びその目的等に於いて大異あり。就中、大乗に於いてはこれを六波羅蜜若しくは十波羅蜜の一とし、菩薩の修すべき必須の要行となすなり。「大品般若経第一序品」に、「不乱不味の故に、まさに褝那波羅蜜を具足すべし」と云い、「大智度論巻17」に広くこれを釈し「問うて云わく、菩薩の法は一切衆生を度するを以って事と為す。何を以っての故に林沢閑坐し、山間に静黙して独りその身を善くし、衆生を棄捨するや。答えて曰わく、菩薩は身は衆生を遠離すといえども、心は常に捨てず。静処に定を求めて実智慧を獲得し、以って一切を度せんとす。譬えば薬を服し、身を将って仮に家務を息むるも、気力平健せば則ち業を修むること故の如くなるが如し。菩薩の宴寂もまたまたかくの如く、禅定力を以って智慧の薬を服し、神通力を得ばまた衆生に在り、或は父母妻子と作り、或は師徒宗長、或は天或は人、下は畜生と作るに至り、種種の語言をもて方便して開導う。(中略)菩薩はこれに因りて大悲心を発し、常楽の涅槃を以って衆生を利益せんと欲す。この常楽の涅槃は実智慧より生じ、実智慧は一心禅定より生ず。譬えば灯を然すが如き、灯はよく照すといえども、大風の中に在らば用を為すこと能わず、もしこれを密室に置かば、その用乃ち全し。散心中の智慧もまたかくの如し。もし禅定の静室無くんば、智慧ありといえども、その用全からず。禅定を得ば則ち実智慧生ず。ここを以っての故に、菩薩は衆生を離れて遠く静処に在りて禅定を求得すといえども、禅定清浄なるを以っての故に、智慧もまた浄し。譬えば油炷浄きが故に、その明もまた浄きが如し。ここを以っての故に浄智慧を得んと欲する者はこの禅定を行ず。また次ぎに、世間の近事を求むるにも、専心なること能わざれば則ち事業成ぜず。何に況んや甚深の仏道にして而も禅定を用いざらんや。禅定を摂諸乱心と名づく。乱心は軽飄なること鴻毛よりも甚だしく、馳散して停らず。駛きこと疾風に過ぎ、制止すべからざること獼猴よりも劇しく、暫く減じて転た滅すること掣電よりも甚だし。心相はかくの如く禁止すべからず。もしこれを制せんと欲せば禅に非ざれば定まらず。偈に説くが如き、禅を守智の蔵と為す、功徳の福田なり、禅を清浄水と為す、よく諸の欲塵を洗う、禅を金剛鎧と為す、よく煩悩の箭を遮る、未だ無余を得ずといえども涅槃の分はすでに得、金剛三昧を得て結使の山を摧破し、六神通を得てよく無量の人を度す。囂塵天日を蔽うも、大雨はよくこれを淹い、覚観の風心を散ずるも、禅定よくこれを滅す」と云えり。これ即ち菩薩の衆生を度するに、禅定の欠くべからざるを説けるものなり。<(望) |
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答曰。是三三昧中思惟近涅槃故。令人心不高不下平等不動。餘處不爾。以是故獨稱是三三昧。 |
答えて曰く、是の三三昧中に思惟すれば、涅槃に近づくが故に、人心をして、高からず、下からず、平等にして、動ぜざらしむ。余の処は爾らず。是を以っての故に、独り是の三三昧のみを称す。 |
答え、
是の、
『三三昧』中に、
『思惟する!』と、
『涅槃』に、
『近づく!』が故に、
『人心』をして、
『高ぶらせず!』、
『へり下らせず!』、
『平等(傾かず)にし!』て、
『動かしめない!』が、
余の、
是の故に、
是の、
『三三昧』のみを、
『称する!』のである。
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餘定中或愛多或慢多或見多。是三三昧中。第一實義實利能得涅槃門。以是故。諸禪定法中。以是三空法為三解脫門。亦名為三三昧。 |
余の定中には、或いは愛多く、或いは慢多く、或いは見多し。是の三三昧中の第一実義、実利は、能く涅槃を得る門なり。是を以っての故に、諸の禅定の法中、是の三空法を以って、三解脱門と為し、亦た名づけて三三昧と為す。 |
余の、
『定』中には、
或いは、
『愛』が、
『多い!』とか、
或いは、
『慢』が、
『多い!』とか、
或いは、
『見』が、
『多い!』とかであるが、
是の、
『三三昧』中の、
『第一』の、
『実義』と、
『実利』とは、
『涅槃』を、
『得ることのできる!』、
『門』であり、
是の故に、
諸の、
『禅定』の、
『法』中に、
是の、
『三空』という!、
『法』を以って、
『三解脱門』と、
『為し!』、
亦た、
『三三昧』とも、
『称する!』のである。
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愛(あい):梵語tRSNaaの訳。又愛支に作って十二因縁の一と為す。一切の事物に貪恋執著する意なり。『大智度論巻3下注:愛』参照。
慢(まん):梵語maanaの訳。巴梨語同じ。心所の名。七十五法の一。百法の一。他に対して自ら挙恃する精神作用を云う。『大智度論巻49下注:慢』参照。
見(けん):梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。観視、推度の義にして、眼の所見に由りて或いは推想し、某事に対して一定の見解を産生するを指す。『大智度論巻3下注:見』参照。 |
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是三三昧實三昧故。餘定亦得名定。 |
是の三三昧は、実の三昧なるが故に、余の定も、亦た定と名づくるを得。 |
是の、
『三三昧』が、
『実』の、
『三昧』である!が故に、
余の、
『定( 三昧)』も、
亦た、
『定』と、
『称することができる!』のである。
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定(じょう):梵語三昧samaadhiの訳。安定不動の意。即ち心の一境に凝住して散動せざる情態を云う。『大智度論巻17下注:定』参照。 |
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註:蓋し余の定中に三三昧の少分有るが故に定と名づく、若し三三昧無かりせば、云何が定と名づくるを得ん。 |
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復次除四根本禪。從未到地乃至有頂地。名為定。亦名三昧。非禪四禪亦名定亦名禪亦名三昧。 |
復た次ぎに、四根本禅を除きて、未到地、乃至有頂地を名づけて、定と為し、亦た三昧にして禅に非ずと名づけ、四禅を、亦た定と名づけ、亦た禅と名づけ、亦た三昧と名づく。 |
復た次ぎに、
『未到地』より、
『有頂地』までは、
『四根本禅』を除いて、
『定』とか、
『三昧』と、
『称する!』が、
『禅』と、
『称することはない!』。
『四禅( 四根本禅)』は、
『定』とも、
『禅』とも、
『三昧』とも、
『称する!』、
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四根本禅(しこんぽんぜん):上二界八地には各根本定と近分定と有り、欲界の修惑を断じて発する所の禅定を初禅の根本定と為し、乃ち無所有処の修惑を断って得る所の禅定を非想処の根本定と為すに至る。また欲界の煩悩を伏して発する所の初禅の根本定に近似の禅定を初禅の近分定と為し、乃ち無所有処の煩悩を伏して発する所の非想処の根本定に近似の禅定を非想処の近分定と為す。この八根本定及び、八近分定の中に、初禅の近分定は他の近分定と相異の点有るが故に別に名を立てて未到地、或は未至定、未到定と謂う。未だ根本定に至らざるの義なり。近分の義もまたこれに同じ。またこの八根本定の中、色界の四禅を称して四根本禅と為す。『大智度論巻7下注:四禅、同巻17下注:根本定、近分定』参照。
未到地(みとうじ):梵語anaagamya-samaadhiの訳。初禅の近分定、即ち初禅に至る直前の定を云う。『大智度論巻7下注:四禅、同巻17下注:根本定、近分定』参照。
有頂地(うちょうじ):梵語bhavaagraの訳。頂の処の意。即ち非想非非想処を云う。『大智度論巻18上注:非想非非想処』参照。 |
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諸餘定亦名定亦名三昧。如四無量四空定四辯六通八背捨八勝處九次第定十一切處等諸定法。 |
諸余の定は、亦た定と名づけ、三昧と名づく。四無量、四空定、四辯、六通、八背捨、八勝処、九次第定、十一切処等の諸の定法の如し。 |
諸の、
余の、
例えば、
『四無量』、
『四空定』、
『四辯』、
『六通』、
『八背捨』、
『八勝処』、
『九次第定』、
『十一切処』等の、
諸の、
『定法』である。
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四無量(しむりょう):慈無量、悲無量、喜無量、捨無量の四無量心。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
四空定(しくうじょう):無色界の四種の禅定。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
四辯(しべん):法無礙、義無礙、辞無礙、楽説無礙の四無礙智。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
六通(ろくつう):如意通、天眼通、天耳通、他心智通、宿命通、漏尽通の六神通。『大智度論巻18下注:六神通』参照。
八背捨(はっぱいしゃ):貪著の心を捨てる定力に八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
八勝処(はっしょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
九次第定(くしだいじょう):四禅、四無色定、滅尽定の九を合わせて次第に修習する。『大智度論巻17下注:九次第定』参照
十一切処(じゅういっさいじょ):一切の処に青黄赤白地水火風空識を観察し、一切はその十法に過ぎずと観じて、物に貪著する心を除く。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。 |
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四無量心(しむりょうしん):後世に梵天に生ずる楽を求める定。
(1)慈無量:他に楽を与えること無量なること。
(2)悲無量:他の苦を除くこと無量なること。
(3)喜無量:他が楽を得て、それを喜ぶことが無量なること。
(4)捨無量:心の平等なること無量をいう。
四無色定(しむしきじょう):無色界の四種の禅定。
(1)空無辺処定:空間は無限大なりと思惟すること。
(2)識無辺処定:識は無限大なりと思惟すること。
(3)無所有処定:何者も無しと思惟すること。
(4)非想非非想処定:想に非ず無想にも非ざる定。
四無礙智(しむげち):四無礙解、四無礙辯、四辯、仏菩薩が説法するときの自在な智慧による辯才。
(1)法無礙:名字、言葉、文章の持つ意味の範囲に精通して説法に無礙なること。
(2)義無礙:仏の法の持つ意味をよく理解し精通して説法に無礙なること。
(3)辞無礙:詞無礙、種種の地方の言葉に精通して説法に無礙なること。
(4)楽説無礙:説法を楽しんで無礙なること。
八背捨(はっぱいしゃ):八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階をいう。
(1)内心の色想を除くために、不淨観を修める。
(2)内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。
(3)前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起たしめない。
(4)色想をすべて滅して、空無辺処定に入る。
(5)空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。
(6)識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。
(7)無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。
(8)受想などを捨てて、滅尽定に入る。
八勝処(はっしょうじょ):欲界の物を観察して貪著の心を除くための八段階をいう。
(1)内に色相が有り、外の色の少しの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
(2)内に色相が有り、外の色の多くの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
(3)内に色相が無く、外の色の少しの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
(4)内に色相が無く、外の色の多くの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
(5)内に色相が無く、外の色の青を勝れて知り、勝れて観る。
(6)内に色相が無く、外の色の黄を勝れて知り、勝れて観る。
(7)内に色相が無く、外の色の赤を勝れて知り、勝れて観る。
(8)内に色相が無く、外の色の白を勝れて知り、勝れて観る。 |
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復有人言。一切三昧法有二十三種。有言六十五種。有言五百種。摩訶衍最大故無量三昧。 |
復た有る人の言わく、『一切の三昧の法に、二十三種有り』と。有るが言わく、『六十五種なり。』と。有るが言わく、『五百種なり。摩訶衍は最大なるが故に、無量の三昧あり。』と。 |
復た、
有る人は、
こう言っている、――
一切の、
『三昧』の、
『法』には、
『二十三種』有る!と。
有る人は、
こう言っている、――
『六十五種』有る!と。
有る人は、
こう言っている、――
『五百種』有る!が、
『摩訶衍』は、
『最大』である!が故に、
『無量』の、
『三昧』が有る!と。
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所謂遍法性莊嚴三昧。能照一切三世法三昧。不分別知觀法性底三昧。入無底佛法三昧。如虛空無底無邊照三昧。如來力行觀三昧。佛無畏莊嚴力嚬呻三昧。法性門旋藏三昧。一切世界無礙莊嚴遍月三昧。遍莊嚴法雲光三昧。菩薩得如是等無量諸三昧。 |
謂わゆる、遍法性荘厳三昧、能照一切三世法三昧、不分別知観法性底三昧、入無底仏法三昧、如虚空無底無辺照三昧、如来力行観三昧、佛無畏荘厳力頻呻三昧、法性門旋蔵三昧、一切世界無礙荘厳遍月三昧、遍荘厳法雲光三昧、菩薩は、是の如き等の無量の三昧を得。 |
謂わゆる、
『遍法性荘厳三昧』、
『能照一切三世法三昧』、
『不分別知観法性底三昧』、
『入無底仏法三昧』、
『如虚空無底無辺照三昧』、
『如来力行観三昧』、
『仏無畏荘厳力嚬呻三昧』、
『法性門旋蔵三昧』、
『一切世界無礙荘厳遍月三昧』、
『遍荘厳法雲光三昧』であり、
『菩薩』は、
是れ等の、
『無量』の、
諸の、
『三昧』を、
『得ている!』。
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復次般若波羅蜜摩訶衍義品中。略說則有一百八三昧。初名首楞嚴三昧乃至虛空不著不染三昧。廣說則無量三昧。以是故說。諸菩薩得諸三昧 |
復た次ぎに、般若波羅蜜摩訶衍義品中に、略説して、則ち一百八三昧有り、初を首楞厳三昧と名づく、乃至虚空不著不染三昧なり。広説すれば、則ち無量の三昧なり。是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、諸の三昧を得。』と。 |
復た次ぎに、
『般若波羅蜜摩訶衍義品』中に、
『略説している!』が、
則ち、
『一百八三昧』が有り、
初を、
『首楞厳三昧』と称し、
乃至、
『虚空不著不染三昧』である。
若し、
『広説した!』ならば、
則ち、
『無量』の、
『三昧』が有り、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、
諸の、
『三昧』を、
『得ている!』、と。
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首楞厳三昧(しゅりょうごんさんまい):梵語zuuraMgama-samaadhiの音訳にして、健相、健行、一切事竟と意訳す。即ち仏所得の三昧の名なり。健相とは幢旗の堅固なるに譬え、以って仏徳の堅固にして諸魔の壊る能わざるに比し、一切事竟とは、仏徳の究竟なるを云う。「大智度論巻47」に、「首楞厳三昧とは、秦に健相と言い、分別して諸の三昧の行相、多少、深浅を知り、大将の諸兵力の多少を知るが如し。また次ぎに、菩薩は、この三昧を得るに、諸の煩悩魔及び魔人のよく壊る者の無きこと、譬えば転輪聖王の主兵宝将の所住は至る処、よく壊伏する者の無きが如し」と云い、また「涅槃経巻27」には「首楞厳とは一切事竟るに名づく。厳とは堅なり、一切は畢竟して堅固を得るに、名づけて首楞厳となす。ここを以っての故に、首楞厳定を名づけて仏性と為すと言う」と云い、また「首楞厳三昧経」には、「菩薩、首楞厳三昧を得んに、よく三千大千世界を以って芥子の中に入れ、諸の山河、日月、星宿をして悉く故の如く現ぜしむるも、迫迮せざるを、諸の衆生に示さん」と云えり。<(丁) |
参考:『大品般若経巻5問乗品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩摩訶衍。云何當知菩薩摩訶薩發趣大乘。是乘發何處。是乘至何處。當住何處。誰當乘是乘出者。佛告須菩提。汝問何等是菩薩摩訶衍。須菩提。六波羅蜜是菩薩摩訶薩摩訶衍。何等六。檀那波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。云何名檀那波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。內外所有布施共一切眾生迴向阿耨多羅三藐三菩提用無所得故。須菩提。是名菩薩摩訶薩檀那波羅蜜。云何名尸羅波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自行十善道亦教他行十善道。以無所得故。是名菩薩摩訶薩尸羅波羅蜜。云何名羼提波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自具足忍辱亦教他行忍辱。以無所得故。是名菩薩摩訶薩羼提波羅蜜。云何名毘梨耶波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。行五波羅蜜懃修不息。亦安立一切眾生於五波羅蜜。以無所得故。是名菩薩摩訶薩毘梨耶波羅蜜。云何名禪那波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自以方便入諸禪不隨禪生。亦教他令入諸禪。以無所得故。是名菩薩摩訶薩禪那波羅蜜。云何名般若波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。不著一切法亦觀一切法性。以無所得故。亦教他不著一切法。亦觀一切法性。以無所得故。是名菩薩摩訶薩般若波羅蜜。須菩提。是為菩薩摩訶薩摩訶衍。復次須菩提。菩薩摩訶薩復有摩訶衍。所謂。內空。外空。內外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空。須菩提白佛言。何等為內空。佛言。內法名眼耳鼻舌身意。眼眼空非常非滅故。何以故。性自爾。耳耳空鼻鼻空舌舌空身身空意意空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名內空。何等為外空。外法名色聲香味觸法。色色空非常非滅故。何以故。性自爾。聲聲空香香空味味空觸觸空法法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名外空。何等為內外空。內外法名內六入外六入。內法內法空非常非滅故。何以故。性自爾。外法外法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名內外空。何等為空空。一切法空是空亦空非常非滅故。何以故。性自爾。是名空空。何等為大空。東方東方相空。非常非滅故。何以故。性自爾。南西北方四維上下。南西北方四維上下空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名大空。何等為第一義空。第一義名涅槃。涅槃涅槃空非常非滅故。何以故。性自爾。是名第一義空。何等為有為空。有為法名欲界色界無色界。欲界欲界空。色界色界空。無色界無色界空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名有為空。何等為無為空。無為法名若無生相無住相無滅相。無為法無為法空非常非滅故。何以故。性自爾。是為無為空。何等為畢竟空。畢竟名諸法畢竟不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名畢竟空。何等為無始空。若法初來處不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無始空。何等為散空。散名諸法無滅。非常非滅故。何以故。性自爾。是為散空。何等為性空。一切法性。若有為法性若無為法性。是性非聲聞辟支佛所作。非佛所作亦非餘人所作。是性性空非常非滅故。何以故。性自爾。是名性空。何等為自相空。自相名色壞相。受受相。想取相。行作相。識識相。如是等有為無為法各各自相空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名自相空。何等為諸法空。諸法名色受想行識。眼耳鼻舌身意。色聲香味觸法。眼界色界眼識界。乃至意界法界意識界。是諸法諸法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是為諸法空。何等為不可得空。求諸法不可得是不可得空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名不可得空。何等為無法空。若法無是亦空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法空。何等為有法空。有法名諸法和合中有自性相。是有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名有法空。何等為無法有法空。諸法中無法。諸法和合中有自性相。是無法有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法有法空。復次須菩提。法法相空。無法無法相空。自法自法相空。他法他法相空。何等名法法相空。法名五蔭。五蔭空是名法法相空。何等名無法無法相空。無法名無為法。是名無法無法空。何等名自法自法空。諸法自法空。是空非知作非見作。是名自法自法空。何等名他法他法空。若佛出若佛未出。法住法相法位法性如實際。過此諸法空。是名他法他法空。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂名首楞嚴三昧。寶印三昧。師子遊戲三昧。妙月三昧。月幢相三昧。出諸法三昧。觀頂三昧。畢法性三昧。畢幢相三昧。金剛三昧。入法印三昧。三昧王安立三昧。放光三昧。力進三昧。高出三昧。必入辯才三昧。釋名字三昧。觀方三昧。陀羅尼印三昧。無誑三昧。攝諸法海三昧。遍覆虛空三昧。金剛輪三昧。寶斷三昧。能照三昧。不求三昧。無住三昧。無心三昧。淨燈三昧。無邊明三昧。能作明三昧。普照明三昧。堅淨諸三昧三昧。無垢明三昧。歡喜三昧。電光三昧。無盡三昧。威德三昧。離盡三昧。不動三昧。不退三昧。日燈三昧。月淨三昧。淨明三昧。能作明三昧。作行三昧。知相三昧。如金剛三昧。心住三昧。普明三昧。安立三昧。寶聚三昧。妙法印三昧。法等三昧。斷喜三昧。到法頂三昧。能散三昧。分別諸法句三昧。字等相三昧。離字三昧。斷緣三昧。不壞三昧。無種相三昧。無處行三昧。離朦昧三昧。無去三昧。不變異三昧。度緣三昧。集諸功德三昧。住無心三昧。淨妙華三昧。覺意三昧。無量辯三昧。無等等三昧。度諸法三昧。分別諸法三昧。散疑三昧。無處三昧。一莊嚴三昧。生行三昧。一行三昧。不一行三昧。妙行三昧。達一切有底散三昧。入名語三昧。離音聲字語三昧。然炬三昧。淨相三昧。破相三昧。一切種妙足三昧。不喜苦樂三昧。無盡相三昧。陀羅尼三昧。攝諸邪正相三昧。滅憎愛三昧。逆順三昧。淨光三昧。堅固三昧。滿月淨光三昧。大莊嚴三昧。能照一切世三昧。三昧等三昧。攝一切有諍無諍三昧。不樂一切住處三昧。如住定三昧。壞身衰三昧。壞語如虛空三昧。離著虛空不染三昧。云何名首楞嚴三昧。知諸三昧行處。是名首楞嚴三昧。云何名寶印三昧。住是三昧能印諸三昧。是名寶印三昧。云何名師子遊戲三昧。住是三昧能遊戲諸三昧中如師子。是名師子遊戲三昧。云何名妙月三昧。住是三昧能照諸三昧如淨月。是名妙月三昧。云何名月幢相三昧。住是三昧能持諸三昧相。是名月幢相三昧。云何名出諸法三昧。住是三昧能出生諸三昧。是名出諸法三昧。云何名觀頂三昧。住是三昧能觀諸三昧頂。是名觀頂三昧。云何名畢法性三昧。住是三昧決定知法性。是名畢法性三昧。云何名畢幢相三昧。住是三昧能持諸三昧幢。是名畢幢相三昧。云何名金剛三昧。住是三昧能破諸三昧。是名金剛三昧。云何名入法印三昧。住是三昧入諸法印。是名入法即三昧。云何名三昧王安立三昧。住是三昧一切諸三昧中安立住如王。是名三昧王安立三昧。云何名放光三昧。住是三昧能放光照諸三昧。是名放光三昧。云何名力進三昧。住是三昧。於諸三昧能作勢力。是名力進三昧。云何名高出三昧。住是三昧能增長諸三昧。是名高出三昧。云何名必入辯才三昧。住是三昧能辯說諸三昧。是名必入辯才三昧。云何名釋名字三昧。住是三昧能釋諸三昧名字。是名釋名字三昧。云何名觀方三昧。住是三昧能觀諸三昧方。是名觀方三昧。云何名陀羅尼印三昧。住是三昧持諸三昧印。是名陀羅尼印三昧。云何名無誑三昧。住是三昧於諸三昧不欺誑。是名無誑三昧。云何名攝諸法海三昧。住是三昧能攝諸三昧如大海水。是名攝諸法海三昧。云何名遍覆虛空三昧。住是三昧遍覆諸三昧如虛空。是名遍覆虛空三昧。云何名金剛輪三昧。住是三昧能持諸三昧分。是名金剛輪三昧。云何名斷寶三昧。住是三昧斷諸三昧煩惱垢。是名斷寶三昧。云何名能照三昧。住是三昧能以光明顯照諸三昧。是名能照三昧。云何名不求三昧。住是三昧無法可求。是名不求三昧。云何名無住三昧。住是三昧中不見一切法住。是名無住三昧。云何名無心三昧。住是三昧心心數法不行。是名無心三昧。云何名淨燈三昧。住是三昧於諸三昧中作明如燈。是名淨燈三昧。云何名無邊明三昧。住是三昧與諸三昧作無邊明。是名無邊明三昧。云何名能作明三昧。住是三昧即時能為諸三昧作明。是名能作明三昧。云何名普照明三昧。住是三昧即能照諸三昧門。是名普照明三昧。云何名堅淨諸三昧三昧。住是三昧能堅淨諸三昧相。是名堅淨諸三昧三昧。云何名無垢明三昧。住是三昧能除諸三昧垢。亦能照一切三昧。是名無垢明三昧。云何名歡喜三昧。住是三昧能受諸三昧喜。是名歡喜三昧。云何名電光三昧。住是三昧照諸三昧如電光。是名電光三昧。云何名無盡三昧。住是三昧於諸三昧不見盡。是名無盡三昧。云何名威德三昧。住是三昧於諸三昧威德照然。是名威德三昧。云何名離盡三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名離盡三昧。云何名不動三昧。住是三昧令諸三昧不動不戲。是名不動三昧。云何名不退三昧。住是三昧能不見諸三昧退。是名不退三昧。云何名日燈三昧。住是三昧放光照諸三昧門。是名日燈三昧。云何名月淨三昧。住是三昧能除諸三昧闇。是名月淨三昧。云何名淨明三昧。住是三昧於諸三昧得四無闇智。是名淨明三昧。云何名能作明三昧。住是三昧於諸三昧門能作明。是名能作明三昧。云何名作行三昧。住是三昧能令諸三昧各有所作。是名作行三昧。云何名知相三昧。住是三昧見諸三昧知相。是名知相三昧。云何名如金剛三昧。住是三昧能貫達諸法亦不見達。是名如金剛三昧。云何名心住三昧。住是三昧心不動不轉不惱。亦不念有是心。是名心住三昧。云何名普明三昧。住是三昧普見諸三昧明。是名普明三昧。云何名安立三昧。住是三昧於諸三昧安立不動。是名安立三昧。云何名寶聚三昧。住是三昧普見諸三昧如見寶聚。是名寶聚三昧。云何名妙法印三昧。住是三昧能印諸三昧以無印印故。是名妙法印三昧。云何名法等三昧。住是三昧觀諸法等無法不等。是名法等三昧。云何名斷喜三昧。住是三昧斷一切法中喜。是名斷喜三昧。云何名到法頂三昧。住是三昧滅諸法闇亦在諸三昧上。是名到法頂三昧。云何名能散三昧。住是三昧中能破散諸法。是名能散三昧。云何名分別諸法句三昧。住是三昧分別諸三昧諸法句。是名分別諸法句三昧。云何名字等相三昧。住是三昧得諸三昧字等。是名字等相三昧。云何名離字三昧。住是三昧諸三昧中乃至不見一字。是名離字三昧。云何名斷緣三昧。住是三昧斷諸三昧緣。是名斷緣三昧。云何名不壞三昧。住是三昧不得諸法變異。是名不壞三昧。云何名無種相三昧。住是三昧不見諸法種種。是名無種相三昧。云何名無處行三昧。住是三昧不見諸三昧處。是名無處行三昧。云何名離矇昧三昧。住是三昧離諸三昧微闇。是名離朦昧三昧。云何名無去三昧。住是三昧不見一切三昧去相。是名無去三昧。云何名不變異三昧。住是三昧不見諸三昧變異相。是名不變異三昧。云何名度緣三昧。住是三昧度一切三昧緣境界。是名度緣三昧。云何名集諸功德三昧。住是三昧集諸三昧功德。是名集諸功德三昧。云何名住無心三昧。住是三昧於諸三昧心不入。是名住無心三昧。云何名淨妙花三昧。住是三昧令諸三昧得淨妙如花。是名淨妙花三昧。云何名覺意三昧。住是三昧諸三昧中得七覺分。是名覺意三昧。云何名無量辯三昧。住是三昧於諸法中得無量辯。是名無量辯三昧。云何名無等等三昧。住是三昧諸三昧中得無等等相。是名無等等三昧。云何名度諸法三昧。住是三昧度一切三界。是名度諸法三昧。云何名分別諸法三昧。住是三昧諸三昧及諸法分別見。是名分別諸法三昧。云何名散疑三昧。住是三昧得散諸法疑。是名散疑三昧。云何名無住處三昧。住是三昧不見諸法住處。是名無住處三昧。云何名一莊嚴三昧。住是三昧終不見諸法二相。是名一莊嚴三昧。云何名生行三昧。住是三昧不見諸行生。是名生行三昧。云何名一行三昧。住是三昧不見諸三昧此岸彼岸。是名一行三昧。云何名不一行三昧。住是三昧不見諸三昧一相。是名不一行三昧。云何名妙行三昧。住是三昧不見諸三昧二相。是名妙行三昧。云何名達一切有底散三昧。住是三昧入一切有一切三昧。智慧通達亦無所達。是名達一切有底散三昧。云何名入名語三昧。住是三昧入一切三昧名語。是名入名語三昧。云何名離音聲字語三昧。住是三昧不見諸三昧音聲字語。是名離音聲字語三昧。云何名然炬三昧。住是三昧威德照明如炬。是名然炬三昧。云何名淨相三昧。住是三昧淨諸三昧相。是名淨相三昧。云何名破相三昧。住是三昧不見諸三昧相。是名破相三昧。云何名一切種妙足三昧。住是三昧一切諸三昧種皆具足。是名一切種妙足三昧。云何名不喜苦樂三昧。住是三昧不見諸三昧苦樂。是名不喜苦樂三昧。云何名無盡相三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名無盡相三昧。云何名多陀羅尼三昧。住是三昧能持諸三昧。是名多陀羅尼三昧。云何名攝諸邪正相三昧。住是三昧。於諸三昧不見邪正相。是名攝諸邪正相三昧。云何名滅憎愛三昧。住是三昧不見諸三昧憎愛。是名滅憎愛三昧。云何名逆順三昧。住是三昧不見諸法諸三昧逆順。是名逆順三昧。云何名淨光三昧。住是三昧不得諸三昧明垢。是名淨光三昧。云何名堅固三昧。住是三昧不得諸三昧不堅固。是名堅固三昧。云何名滿月淨光三昧。住是三昧諸三昧滿足如月十五日。是名滿月淨光三昧。云何名大莊嚴三昧。住是三昧大莊嚴成就諸三昧。是名大莊嚴三昧。云何名能照一切世三昧。住是三昧諸三昧及一切法能照。是名能照一切世三昧。云何名三昧等三昧。住是三昧於諸三昧不得定亂相。是名三昧等三昧。云何名攝一切有諍無諍三昧。住是三昧能使諸三昧不分別有諍無諍。是名攝一切有諍無諍三昧。云何名不樂一切住處三昧。住是三昧不見諸三昧依處。是名不樂一切住處三昧。云何名如住定三昧。住是三昧不過諸三昧如相。是名如住定三昧。云何名壞身衰三昧。住是三昧不得身相。是名壞身衰三昧。云何名壞語如虛空三昧。住是三昧不見。諸三昧語業如虛空。是名壞語如虛空三昧。云何名離著虛空不染三昧。住是三昧。見諸法如虛空無閡。亦不染是三昧。是名離著虛空不染三昧。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍』 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行空無相無作者。問曰前言菩薩得諸三昧。何以故。復言行空無相無作。 |
空、無相、無作を行ずるとは、問うて曰く、前に言わく、『菩薩は、諸の三昧を得』と。何を以っての故にか、復た『空、無相、無作を行ず。』と言う。 |
『空、無相、無作』を、
『行う!』とは、――
問い、
前には、
復た、
何故、
こう言うのか?――
『空、無相、無作』を、
『行っている!』と。
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答曰。前說三昧名未說相。今欲說相。是故言行空無作無相。 |
答えて曰く、前には、三昧の名を説きて、未だ相を説かず。今は、相を説かんと欲するが故に、是の故に、『空、無作、無相を行ず。』と言う。 |
答え、
前には、
『三昧』の、
『名』を、
『説いた!』が、
未だ、
『相』を、
『説かなかった!』ので、
今、
『三昧』の、
『相』を、
『説こう!』として、
こう言うのである、――
『空』、
『無作』、
『無相』を、
『行っている!』、と。
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若有人行空無相無作。是名得實相三昧。如偈說
若持戒清淨 是名實比丘
若有能觀空 是名得三昧
若有能精進 是名行道人
若有得涅槃 是名為實樂 |
若し、有る人、空、無相、無作を行ずれば、是れを実相三昧を得と名づく。偈に説くが如し、
若し持戒して清浄なれば、是れを実の比丘と名づく。
若し有るが能く空を観ずれば、是れを三昧を得と名づく。
若し有るが能く精進すれば、是れを道を行く人と名づく。
若し有るが涅槃を得れば、是れを名づけて実の楽と為す。
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若し、
有る人が、
『空』、
『無相』、
『無作』を、
『行っている!』ならば、
是れを、
例えば、
『偈』に説く通りである、――
若し、
有る人が、
『持戒』して、
『清浄』ならば、
是れを、
『実』の、
『比丘』という。
若し、
有る人が、
『空』を、
『観ることができる!』ならば、
是れを、
『三昧』を、
『得た!』という。
若し、
有る人が、
『精進する!』ことが、
『できる!』ならば、
是れを、
若し、
有る人が、
『涅槃』を、
『得た!』ならば、
是れを、
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已得等忍者。問曰。云何等云何忍。 |
已に等忍を得とは、問うて曰く、云何が等、云何が忍なる。 |
已に、
『等忍』を、
『得ている!』とは、――
問い、
何を、
『等』といい、
何を、
『忍』というのですか?
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等(とう):又平等とも称す。差別無く、均斉せる心の状態。『大智度論巻19下注:平等』参照。
忍(にん):梵語kSaantiの訳。又羼提に作り、忍辱と訳す。『大智度論巻6下注:忍、忍辱』参照。 |
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答曰。有二種等。眾生等法等。忍亦二種眾生忍法忍。 |
答えて曰く、二種の等有り、衆生等と、法等となり。忍にも、亦た二種あり、衆生忍と、法忍となり。 |
答え、
『等』には、
『二種』有り、
『衆生等』と、
『法等』である!。
『忍』にも、
『二種』有り、
『衆生忍』と、
『法忍』である!。
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云何眾生等。一切眾生中等心等念等愛等利。是名眾生等。 |
云何が、衆生等なる。一切の衆生中に、等しき心もて、等しく念じ、等しく愛し、等しく利する、是れを衆生等と名づく。 |
何を、
『衆生等』というのか?
一切の、
『衆生』中に、
『等しい!』、
『心』で、
『等しく念じ!』、
『等しく愛し!』、
『等しく利する!』、
是れを、
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問曰。慈悲力故於一切眾生中。應等念。不應等觀。何以故。菩薩行實道不顛倒如法相。云何於善人不善人大人小人人及畜生。一等觀。不善人中實有不善相。善人中實有善相。大人小人人及畜生亦爾。如牛相牛中住。馬相馬中住。牛相非馬中。馬相非牛中。馬不作牛故。眾生各各相。云何一等觀而不墮顛倒。 |
問うて曰く、慈悲の力の故に、一切の衆生中に於いて、応に等しく念ずべきも、応に等しく観るべからず。何を以っての故に、菩薩は、実の道を行じ、顛倒せざること、法相の如し。云何が、善人不善人、大人小人、人及び畜生に於いて、一等に観る。不善人中には、実に不善相有り、善人中には実に善相あり、大人、小人、及び畜生も、亦た爾り。牛相は、牛中に住し、馬相は馬中に住するも、牛相は馬中に非ず、馬相は牛中に非ず、馬は牛と作らざるが故なり。衆生の各各の相を、云何が一等に観て、而も顛倒に堕せざる。 |
問い、
『慈悲』の、
『力』の故に、
一切の、
『衆生』中に於いて、
当然、
『等しく!』、
『念ずべき!』であるが、
当然、
『等しく!』、
『観るはずがない!』。
何故、
『善人、不善人』、
『大人、小人』、
『人、及び畜生』を、
『一等』に、
『観る!』のか?
『不善人』中には、
『善人』中には、
『大人』と、
『小人』、
『人』と、
『畜生』も、
亦た、
爾の通りである。
例えば、
『牛』の、
『馬』の、
『牛』の、
『馬』の、
何故ならば、
『馬』は、
『牛』に、
『作らない!』からである。
『衆生』の、
各各の、
『相』を、
何故、
『一等』に、
『観た!』としても、
『顛倒』に、
『堕ちない!』のですか?
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非(ひ):ない。無。 |
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答曰。若善相不善相是實。菩薩應墮顛倒。何以故破諸法相故以諸法非實。善相非實不善相非多相非少相。非人非畜生非一非異。以是故汝難非也。如說諸法相偈
不生不滅 不斷不常
不一不異 不去不來
因緣生法 滅諸戲論
佛能說是 我今當禮 |
答えて曰く、若し善相、不善相が、是れ実ならば、菩薩は応に顛倒に堕すべし。何を以っての故に、諸法の相を破るが故なり。諸法は、実の善相に非ず、実の不善相に非ず、多相に非ず、少相に非ず、人に非ず、畜生に非ず、一に非ず、異に非ざるを以ってなり。是を以っての故に、汝が難は非なり。諸法の相を説く偈の如し、
生にあらず滅にあらず、断にあらず常にあらず、
一にあらず異にあらず、去にあらず来にあらず、
因縁生の法は、諸の戯論を滅す、
仏能く是れを説きたまえば、我れは今当に礼すべし。
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答え、
若し、
『善相』や、
『不善相』が、
『実』ならば、
『菩薩』は、
『顛倒』に、
『堕ちるはず!』である、
何故ならば、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『破る!』からである。
然し、
諸の、
『法』は、
実の、
『善相ではなく!』、
実の、
『不善相でもない!』、
『多相でもなく!』、
『少相でもない!』、
『人でもなく!』、
『畜生でもない!』
『一でもなく!』、
『異でもない!』のであるから、
是の故に、
例えば、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『説く!』偈の通りである、――
諸の、
『法』は、
『生でもない!』し、
『滅でもない!』。
『断でもない!』し、
『常でもない!』。
『一でもない!』し、
『異でもない!』。
『去るでもない!』し、
『来るでもない!』。
『因縁』が、
『法』を、
『生じる!』のであり、
諸の、
『戯論』を、
『滅する!』のである。
『仏』は、
わたしは、
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参考:『中論巻1』:『不生亦不滅 不常亦不斷 不一亦不異 不來亦不出 能說是因緣 善滅諸戲論 我稽首禮佛 諸說中第一 問曰。何故造此論。答曰。有人言萬物從大自在天生。有言從韋紐天生。有言從和合生。有言從時生。有言從世性生。有言從變生。有言從自然生。有言從微塵生。有如是等謬故墮於無因邪因斷常等邪見。種種說我我所。不知正法。佛欲斷如是等諸邪見令知佛法故。先於聲聞法中說十二因緣。又為已習行有大心堪受深法者。以大乘法說因緣相。所謂一切法不生不滅不一不異等。畢竟空無所有。如般若波羅蜜中說。佛告須菩提。菩薩坐道場時。觀十二因緣。如虛空不可盡。佛滅度後。後五百歲像法中。人根轉鈍。深著諸法。求十二因緣五陰十二入十八界等決定相。不知佛意但著文字。聞大乘法中說畢竟空。不知何因緣故空。即生疑見。若都畢竟空。云何分別有罪福報應等。如是則無世諦第一義諦。取是空相而起貪著。於畢竟空中生種種過。龍樹菩薩為是等故。造此中論 不生亦不滅 不常亦不斷 不一亦不異 不來亦不出 能說是因緣 善滅諸戲論 我稽首禮佛 諸說中第一 以此二偈讚佛。則已略說第一義。』 |
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復次一切眾生中。不著種種相。眾生相空相一等無異。如是觀。是名眾生等。 |
復た次ぎに、一切の衆生中の、種種の相に著せず、衆生相と、空相とは一等にして無異なりと、是の如く観る、是れを衆生等と名づく。 |
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』中の、
種種の、
『相』に、
『著することなく!』、
『衆生相』も、
『空相』も、
『一等であり!』、
『無異である!』と、
是のように、
『観る!』、
是れを、
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若人是中心等無礙。直入不退。是名得等忍。得等忍菩薩。於一切眾生不瞋不惱如慈母愛子。如偈說
觀聲如呼響 身行如鏡像
如此得觀人 云何而不忍
是名眾生等忍。 |
若し人、是の中に心等しくして、無礙なれば、直ちに不退に入る。是れを等忍を得と名づく。等忍を得たる菩薩は、一切の衆生に於いて、瞋らず、悩ませざること、慈母の子を愛するが如し。偈に説くが如し、
声は呼響の如し、身行は鏡像の如しと観る、
此の如き観を得たる人が、云何が忍ばざらん。
是れを衆生の等忍と名づく。 |
若し、
『人』が、
是の中に、
『心』が、
『等しく!』て、
『無礙』ならば、
直ちに、
『不退』に、
『入る!』ので、
是れを、
『等忍を得た!』という。
『等忍を得た!』、
『菩薩』は、
一切の、
『衆生』に於いて、
『瞋ることもなく!』、
『悩ませることもなく!』、
譬えば、
『慈母』が、
『子』を、
『愛する!』ようである。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『声』は、
『呼響(こだま)のようだ!』と、
『観て!』、
『身』の、
『行い!』は、
『鏡像のようだ!』と、
此のように、
『観る!』ことの、
『できる!』、
『人』が、
何うして、
『忍ばない!』ことが、
『あろうか?』と。
是れを、
『衆生』の、
『等忍』と、
『称する!』のである。
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呼響(くごう):こだま。
身行(しんぎょう):身の行い。 |
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云何名法等忍。善法不善法有漏無漏有為無為等法。如是諸法入不二入法門。入實法相門。如是入竟。是中深入諸法實相時。心忍直入無諍無礙。是名法等忍。如偈說
諸法不生不滅
非不生非不滅
亦不生滅非不生滅
亦非不生滅非非不生滅 |
云何が、法の等忍と名づくる。善法、不善法、有漏、無漏、有為、無為等の法、是の如き諸法の、不二入の法門に入り、実の法相の門に入り、是の如く入り竟りて、是の中に深く、諸法の実相に入る時、心は忍んで、直ちに無諍、無礙に入る、是れを法の等忍と名づく。偈に説くが如し、
諸法は不生不滅にして、
非不生非不滅、
亦不生滅非不生滅、
亦非不生滅非非不生滅なり。
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何を、
『法』の、
『等忍』というのか?
『善法』や、
『不善法』、
『有漏』や、
『無漏』、
『有為』や、
『無為』等の、
『法』、
是のような、
諸の、
『法』の、
『不二入』の、
『法門』に、
『入り!』、
『実』の、
『法相の門』に、
『入り!』、
是のように、
『入った!』ならば、
是の中に、
深く、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『入る!』時、
『心』は、
忍んで、
直ちに、
是れを、
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
諸の、
『法』は、
『生でもなく!』、
『滅でもない!』。
亦た、
『不生でもなく!』、
『不滅でもない!』。
亦た、
『生滅しない!』し、
『生滅しないでもない!』、
亦た、
『生滅しないでもなく!』、
『生滅しないでないでもない!』、と。
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無諍(むじょう):梵語araNaaの訳語、また音訳して阿蘭那に作り、即ち諍論を息むの意なり。諍(梵raNa即ち好戦なり)とは、即ち諍論を指し、煩悩の異名なり。「倶舎論巻27」によれば、よく諸の有情をして貪瞋癡等の煩悩を生ぜしめざる智、並びに具に他人の煩悩を止息する力を有し、ただ仏及び阿羅漢のみこれを具うること有りと為し、その他の有情の及ぶ能わざる所の殊勝の徳力と為す。<(佛)
無礙(むげ):梵語apratihataの訳。又anaavaraNa、障礙なきの意。又無閡に作り、具に無障礙、無罣礙、或いは無所罣礙とも称す。「大品般若経巻16大如品」に、「是の法は無礙なり。色を礙えず、受想行識を礙えず、乃至一切種智を礙えず。諸天子、是の法を無礙の相と名づく。虚空等の如くなるが故なり」と云い、「大智度論巻72」に之を解し、「是の般若波羅蜜の相は一切法に随順して障礙する所なし。何を以っての故に、般若波羅蜜に於いても亦著せず、不障礙の因縁は虚空等の如しと説くが故なり」と云えり。是れ般若波羅蜜の相は虚空の如く一切法に随順して障礙する所なきを説けるものなり。蓋し無礙には心無礙、色無礙、解無礙、辯無礙等の諸種の別あり。「大智度論巻6」に、「是の菩薩は無量清浄の智慧を得るが故に、諸法の中に於いて心無礙なり」と云い、「同巻72」に、「今世に善法を得て智慧無礙なり。身を捨てて法身無礙を得、意に随って十方に至りて衆生を教化す」と云い、「大乗起信論」に、「色無礙自在、救世大悲者」と云い、又「品類足論巻5」に、「四無礙解あり、謂わく法無礙解、義無礙解、詞無礙解、辯無礙解なり」と云える是れなり。又「大宝積経巻14密迹金剛力士会」に、菩薩は総持無所罣礙、辯才無所罣礙、道法無所罣礙を得ることを説き、「新華厳経巻43十定品」に、菩薩若し無礙輪三昧に入らば、無礙の身語意業に住し、無礙の仏国土に住し、無礙の成就衆生智、無礙の調伏衆生智を得、無礙の光明を放ち、無礙の光明網を現じ、無礙広大の変化を示し、無礙清浄の法輪を転じ、菩薩の無礙自在を得んと云い、「同巻56離世間品」には、菩薩に衆生無礙用等の十種の無礙用あることを明かし、「同巻46仏不思議法品」には、諸仏に往一切世界無障礙住等の十種の無障礙住ありとし、「同巻47」に、諸仏に十種の無礙解脱あることを説き、又「華厳経疏巻1」に、毘盧遮那の仏身には用周無礙等の十種の無礙を具足することを明かし、「華厳経探玄記巻3」に、蓮華蔵世界に情事無礙等の十種の無礙を具足することを説き、「華厳法界玄鏡巻上」等には理事無礙法界、事事無礙法界の相を委説し、其の他、仏智の自在なるを無礙智と云い、仏光の覆障せらるることなきを無礙光と称し、其の用例甚だ多し。又「般若波羅蜜多心経」、「往生論註巻下」、「華厳五教章巻1至4」、「華厳経疏巻4、11、56」等に出づ。<(望)
不二法門(ふにほうもん):善悪、有無等の二法無き法門。『大智度論巻5上注:入不二法門』参照。
入不二法門(にゅうふにほうもん):不二法門に入るの意。又入不二門と名づく。即ち差別対待を亡泯して一如平等に悟入せし境地を云う。「維摩経巻中入不二法門品」に、「爾の時、維摩詰は衆菩薩に謂いて言わく、諸の仁者、云何が菩薩は不二法門に入るや。各楽う所に随って之を説けと。会中に菩薩あり、法自在と名づく、説きて言わく、諸の仁者、生滅を二と為す、法は本不生なれば今則ち滅なし。此の無生法忍を得る、是れを入不二法門と為すと。(中略)楽実菩薩曰わく、実不実を二と為す、実に見る者は尚お実を見ず、何に況んや非実をや。所以は何ぞ、肉眼の所見に非ず、慧眼乃ち能く見ればなり。而も此の慧眼には見もなく不見もなし。是れを入不二法門と為すと。是の如く諸菩薩各各説き已りて文殊師利に問う、何等か是れ菩薩の入不二法門なる、文殊師利曰わく、我が意の如きは一切法に於いて言なく説なく、示なく識なく、諸の問答を離る。是れを入不二法門と為すと。是に於いて文殊師利は維摩詰に問う、我等各自ら説き已れり、仁者当に説くべし、何等か是れ菩薩の入不二法門なる。時に維摩詰は黙然として言なし。文殊師利歎じて曰わく、善哉善哉、乃至文字語言あることなし。是れ真に入不二法門なり」と云える是れなり。是れ法自在菩薩は生滅、徳守菩薩は我我所、不眴菩薩は受不受、徳頂菩薩は垢浄、善宿菩薩は是動是念、善眼菩薩は一相無相、妙臂菩薩は菩薩心声聞心、弗沙菩薩は善不善、師子菩薩は罪福、師子意菩薩は有漏無漏、浄解菩薩は有為無為、那羅延菩薩は世間出世間、善意菩薩は生死涅槃、現見菩薩は尽不尽、普守菩薩は我無我、電天菩薩は明無明、喜見菩薩は色色空、明相菩薩は四種異空種異、妙意菩薩は眼色、無尽意菩薩は布施廻向一切智、深慧菩薩は空是無相是無作、寂根菩薩は仏法衆、心無礙菩薩は身身滅、上善菩薩は身口意善、福田菩薩は福行罪行不動行、華厳菩薩は従我起二、徳蔵菩薩は有所得相、月上菩薩は闇明、宝印手菩薩は楽涅槃不楽世間、珠頂王菩薩は正道邪道、楽実菩薩は実不実の不二を観じ、又文殊師利は諸法の無言無説無示無識を以って入不二法門となしたるに対し、維摩詰は即ち黙を以って不二を顕したることを説けるものにして、即ち諸法の実相は言亡慮絶し、説くべからず、示すべからざるものなることを明にするの意なり。「注維摩詰教巻8」に僧肇の説を挙げ、「無言を言うことあるは、未だ無言を言うことなきに若かず、所以に黙然たるなり。上の諸菩薩は言を法相に措く、文殊は無言を言うことあり、浄名は無言を言うことなし。此の三は宗を明すこと同じと雖も而も迹に深浅あり。所以に言は無言に後れ、知は無知に後る。信なる哉」と云えり。是れ前の法自在等の三十一菩薩は言を法相に措き、文殊は無言に於いて言し、維摩は無言に於いて黙せしことを指摘し、以って其の所入の事に浅深あることを論じたるなり。又慧遠の「維摩義記巻3末」に之を遣相、融相の二門に要摂し、「此の不二門は是れ法界中の一門の義なり。門別にして殊なると雖も而も妙旨虚融し、同義として在らざるはなし。在らざることなきが故に、一切諸法は皆是れ不二なり。諸法皆是なり。豈に局る所あらんや。但し此の文中には且く三十三人の辨ずる所に約して以って其の異を辨ず。辨ずる所異なりと雖も、要摂すれば唯二のみ。一に遣相門は、二相双べ捨つるを名づけて不二と為し、留むる所あるに非ず。二に融相門は、二法同体なるを名づけて不二と為し、遣る所あるに非ず」と云えり。是れ前の三十一菩薩は二相双べて捨遣するが故に之を遣相門の不二とし、後の文殊及び維摩は二法同体にして捨遣する所あるに非ずとなすが故に、之を融相門の不二と名づけたるなり。又吉蔵の「浄名玄論巻1」には所入の不二法門の体に関し、「問う義宗は乃ち広く不二を陳ぶるも、未だ不二は定んで何等の法なるやを詳にせず。答う、有る人言わく、不二法門は則ち真諦の理なりと。有る人言わく、不二法門は謂わく実相般若なりと。有る人言わく不二法門は則ち性浄涅槃阿梨耶識なりと。有る人言わく、不二法門は謂わく阿摩羅識自性清浄心なりと。四宗の中、初の二は境に約し、後の両は心に拠る。識と境と義殊なると雖も、而も同じく四向を絶す」と云えり。以って其の説の不同を見るべし。又湛然の「法華玄義釈籤巻14」に、色心、内外、修性、因果、染浄、依正、自他、三業、権実、受潤の十双に約して不二を論じ、「大仏頂首楞厳経巻5」に驕陳那以下二十五聖が各所入の円通を説けるは、共に今の経説に依憑するものなりというべし。又「大乗義章巻1」、「維摩経玄疏巻3」、「維摩経文疏巻26」、「維摩経略疏巻9」、「説無垢称経賛巻5末」、「華厳経探玄記巻8」等に出づ。<(望) |
参考:『維摩詰所説経巻2入不二法門品』:『爾時維摩詰。謂眾菩薩言。諸仁者。云何菩薩入不二法門。各隨所樂說之。會中有菩薩名法自在。說言。諸仁者。生滅為二。法本不生今則無滅。得此無生法忍。是為入不二法門。德守菩薩曰。我我所為二。因有我故便有我所。若無有我則無我所。是為入不二法門。不眴菩薩曰。受不受為二。若法不受則不可得。以不可得故無取無捨無作無行。是為入不二法門。德頂菩薩曰。垢淨為二。見垢實性則無淨相順於滅相。是為入不二法門。善宿菩薩曰。是動是念為二。不動則無念。無念則無分別。通達此者。是為入不二法門。善眼菩薩曰。一相無相為二。若知一相即是無相。亦不取無相入於平等。是為入不二法門。妙臂菩薩曰。菩薩心聲聞心為二。觀心相空如幻化者。無菩薩心無聲聞心。是為入不二法門。弗沙菩薩曰。善不善為二。若不起善不善。入無相際而通達者。是為入不二法門。師子菩薩曰。罪福為二。若達罪性則與福無異。以金剛慧決了此相無縛無解者。是為入不二法門。師子意菩薩曰。有漏無漏為二。若得諸法等則不起漏不漏想。不著於相亦不住無相。是為入不二法門。淨解菩薩曰。有為無為為二。若離一切數則心如虛空。以清淨慧無所礙者。是為入不二法門。那羅延菩薩曰。世間出世間為二。世間性空即是出世間。於其中不入不出不溢不散。是為入不二法門。善意菩薩曰。生死涅槃為二。若見生死性則無生死。無縛無解不生不滅。如是解者。是為入不二法門。現見菩薩曰。盡不盡為二。法若究竟盡若不盡皆是無盡相。無盡相即是空。空則無有盡不盡相。如是入者。是為入不二法門。普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我實性者不復起二。是為入不二法門。電天菩薩曰。明無明為二。無明實性即是明。明亦不可取離一切數。於其中平等無二者。是為入不二法門。喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門。‥‥』
参考:『大智度論巻30』:『復次若菩薩持戒清淨具足無所分別。持戒破戒於一切諸法。畢竟不生常空法忍精進不休不息不著不厭精進懈怠一相不異。無量無邊無數劫懃修精進。都欲受行甚深禪定無所依止。定亂不異不起於定而能變。身無量遍至十方說法度人。行深智慧觀一切法不生不滅非不生非不滅亦非不生亦非不滅非非不生非非不滅。過諸語言心行處滅。不可壞不可破不可受不可著。諸聖行處淨如涅槃。亦不著是觀意亦不沒。能以智慧而自饒益。如是菩薩諸佛讚歎。』 |
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已得解脫(丹注云於邪見得離故言解脫也)空非空(丹注云於空不取故言非也)是等悉捨滅諸戲論言語道斷。深入佛法心通無礙不動不退。名無生忍。是助佛道初門以是故說已得等忍 |
已に解脱を得れば、(丹注に云わく邪見に於いて離を得るが故に、解脱と言うなり)空も、非空も(丹注に云わく空に於いて取らざるが故に、非ずと言うなり)是れ等を悉く捨て、諸の戯論を滅せば、言語の道断え、深く仏法に入りて、心は通じて無礙となり、不動不退なるを、無生忍と名づく。是れ仏道を助くる初門なり、是を以っての故に説かく、『已に等忍を得』と。 |
已に、
『解脱』を得た!ならば、
『空』とか、
『空でない!』とか、
是れ等を、
悉く、
『捨ててしまい!』、
諸の、
『戯論』を、
『滅する!』と、
『言語』の、
『道』が、
『断えて!』、
深く、
『仏』の、
『法』に、
『入る!』ので、
『心』が、
『通じて!』、
『無礙となり!』、
『不動となり!』、
『不退となる!』、
是れを、
『無生忍』と、
『称する!』が、
是れは、
『仏』の、
『道』を、
『助ける!』、
『初門』である!ので、
是の故に、
こう説くのである、――
已に、
『等忍』を、
『得ている!』、と。
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戯論(けろん):梵語prapaJcaの訳。戯弄の談論の意。即ち実理に違背し、善法を増進せざる無義無益の言論を云う。「仏遺教経」に、「汝等比丘、若し種種戯論せば、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も猶お未だ得脱せじ。この故に比丘常に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に速かに戯論の患を滅すべし。これを不戯論と名づく」と云い、「中論巻1観因縁品」に、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出なり。能くこの因縁を説き、能く諸の戯論を滅す」と云い、又「瑜伽師地論巻91」に、「此の中、能く無義を引く思惟分別所発の語言を名づけて戯論と為す。何を以っての故に、かくの如きの事に於いて勤加行する時、小分も善法を増益し不善法を損すること能わず。この故に彼を説いて名づけて戯論と為す」と云えるこれなり。又「中論巻3観法品」には、戯論に愛論見論の二種あることを説き、「中観論疏巻1」に之を解して、愛論とは一切法に於いて取著の心あるを云い、見論とは一切法に於いて決定の解を作すを云う。又利根の者は見論を起し、鈍根の人は愛論を起す。又在家の人は愛論を起し、出家の人は見論を起し、又天魔は愛論を起し、外道は見論を起し、又凡夫は愛論を起し、二乗は見論を起すと云えり。又「仏性論巻3」には三種及び九種の戯論を説けり。即ち彼の文に、「戯論に三あり、一に貪愛、二に我慢、三に諸見なり。この三の戯論は、如来之を滅して已に尽くるが故に、無戯論を以って事と為す。戯論には三義あり、一に能く実理に違礙し、二に虚誑世間と名づけ、三に解脱を障隔す。初は正境に違し、次は正行に違し、後は正得に違す。此の三義を合して名づけて戯論と為す。又戯論に九種あり、一には通じて我を計し、二には的にこれ我と計し、三には我は応に生ずべしと計し、四には我は更に生ぜずと計し、五には我は有色にして応に生ずべしと計し、六には我は無色にして応に生ずべしと計し、七には我は有想にして応に生ずべしと計し、八には我は無想にして応に生ずべしと計し、九には我は非想非非想にして応に生ずべしと計す」と云えるこれなり。又「中観論疏巻1」には別に五種の戯論を挙げ、一には仏に誡勧二門あり、諸悪莫作を名づけて誡門と為し、諸善奉行を名づけて勧門と為す。悪は理に乖くことあれば、㾈墜して他を損し、苦を感ずるが故に戯論と名づく。善は理に符すれば、清昇して他を利し楽を招く。故に戯論に非ず。二には善に二門あり、有所得の善は不動不出なれば名づけて戯論と為し、無所得の善は能動能出なるが故に戯論に非ず。三には有得無得の二を名づけて戯論と為す、諸の二あるものは道無く果なければなり。若し有得無得平等無二なるをば不戯論と名づく、無二の性は即ちこれ実性なればなり。四には二と不二とこれ二辺なれば並びに戯論と名づけ、非二非不二を不戯論と為す。又二不二、非二非不二は並びにこれ名相なれば皆名づけて戯論と為し、言亡慮絶を不戯論と為す。五には若しは戯論あり、若しは不戯論ある並びにこれ戯論なり。若し戯論なく不戯論なき、方にこれ不戯論なりと云えり。又「仏遺教経論疏節要」に戯論に二種を分ち、一は真実の理に於いて戯論を生じ、二は世間の事に於いて戯論を生ずと云えり。上に挙ぐる所の諸説は、主として真実の理に於いて戯論を生ずるを説けるものなり。又「大日経疏巻5」、「遺教経論略疏」等に出づ。<(望)
無生忍(むしょうにん):無生無滅の理に安住して動かざるの意。三種忍法の一。『大智度論巻41下注:無生忍、三種忍法』参照。 |
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