巻第五(上)
大智度初品中摩訶薩埵釋論第九
1.摩訶薩埵
大智度初品中菩薩功德釋論第十
2.陀羅尼、三三昧、等忍
3.無礙陀羅尼
4.五通
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大智度初品中摩訶薩埵釋論第九(卷第五)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


摩訶薩埵

【經】摩訶薩埵 摩訶薩埵(摩訶薩)
『摩訶薩埵(摩訶薩)』
  摩訶薩埵(まかさった):梵語mahaasattva、巴梨語mahaasatta。(一)乃ち菩薩、或は大士の通称にして略して摩訶薩と称す。摩訶(mahaa)を意訳して大と作し、薩埵(sattva)は乃ち有情、衆生の義なれば、摩訶薩埵とは即ちこれ大有情、大衆生なり。謂わゆるこの大衆生とは、願の大なる、行の大なる、度衆生の大なるに係わり、世間の諸の衆生中に於いて最上と為し、その大心の不退なるが故に摩訶薩埵と称す。『大智度論巻5』参照。(二)釈尊の因位に於ける修行時の名にして、又薩埵王子と称す。謂わゆる過去世に一王有り、名を摩訶羅陀(梵mahaa-ratha、大車と意訳す)と名づく、善法を勤修せり。三子有て、皆相好端正なり、第一太子を摩訶波那羅(梵mahaa-praNaada)と名づけ、次子を摩訶提婆(梵mahaa-deva)、三子を摩訶薩埵と名づく。一日、三たりの王子、竹林に遊びて一虎の七子を産せるを見るに、七子は母虎を囲繞し周匝せるも、饑餓憔悴し、身体羸弱して其の命将に絶えんなんとす。三たりの王子は皆悲愴の念を生ずるも、離れて去りぬ。既にして摩訶薩埵大いに悲心を生じ、先に二兄をして宮に返らしめ、独り林中に還りて餓虎の所に至り、無上菩提を求めんが為に、此の穢身を捨てんと欲し、遂に自ら衣服を脱ぎて竹枝上に置き、種種に誓を作し已り、即ち身を委ねて餓虎の前に臥す。虎は薩埵の慈威の力を畏れて敢えて食わず。薩埵これを見て、高処に上りて地に身を投ず、時に小神、手を以って王子を捧ぐるが故に損傷無し。薩埵は復た乾竹を以って頸を刺せり、是の時、大地は六種に振動し、天華乱れ堕ちぬ。餓虎薩埵の流血を見るに、始めて漸く近づき、血を舐めて肉を食い、唯だ余骨を留むるのみ。此れ即ち仏本生譚中、投身餵(飼)虎の因縁なり。爾の時の虎の七子とは、即ち後来の、仏在世時の五比丘、舎利弗、目揵連なり。釈尊も亦た此の功德を以って十一劫を超越せり。『賢愚経巻1』、『金光明経巻4』、『大宝積経巻80』、『菩薩本行経巻2』、『分別功徳論巻2』等に於いて出づ。<(佛)
  参考:『大品般若経巻1序品』:『如是我聞。一時佛住王舍城耆闍崛山中。共摩訶比丘僧大數五千分。皆是阿羅漢諸漏已盡無復煩惱心得好解脫慧得好解脫。其心調柔軟摩訶那伽。所作已辦。棄擔能擔逮得己利。盡諸有結正智已得解脫。唯阿難在學地得須陀洹。復有五百比丘尼優婆塞優婆夷等。皆得聖諦。復有菩薩摩訶薩。皆得陀羅尼及諸三昧行空無相無作。已得等忍得無閡陀羅尼悉是五通言必信受無復懈怠。已捨利養名聞。說法無所悕望。度深法忍得無畏力過諸魔事。一切業障悉得解脫。巧說因緣法。從阿僧祇劫以來發大誓願。顏色和悅常先問訊所語不麤。於大眾中而無所畏。無數億劫說法巧出。解了諸法如幻如焰如水中月如虛空如響如揵闥婆城如夢如影如鏡中像如化。得無閡無所畏。悉知眾生心行所趣。以微妙慧面度脫之。意無罣閡大忍成就如實巧度。願受無量諸佛國土。念無量國土諸佛三昧常現在前。能請無量諸佛。能斷種種見纏及諸煩惱。遊戲出生百千三昧。諸菩薩如是等種種無量功德成就』
【論】問曰。云何名摩訶薩埵。 問うて曰く、云何が、摩訶薩埵と名づくる。
問い、
何故、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』のですか?
答曰。摩訶者大薩埵名眾生。或名勇心。此人心能為大事不退不還大勇心故名為摩訶薩埵。 答えて曰く、摩訶とは大なり、薩埵を衆生と名づけ、或いは勇心と名づく。此の人の心は、能く大事を為すに、退かず、還らざる大勇心なるが故に、名づけて摩訶薩埵と為す。
答え、
『摩訶(mahaa)』とは、
『大』である!、
『薩埵(sattva)』を、
『衆生』と、
『称し!』、
或いは、
『勇心』と、
『称する!』。
此の、
『人』の、
『心』は、
『大事』を、
『為すことができ!』、
『大事』より、
『退くこともなく!』、
『引き返すこともない!』、
『大勇心』である!ので、
故に、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』のである。
復次摩訶薩埵者。於多眾生中最為上首故。名為摩訶薩埵。 復た次ぎに、摩訶薩埵とは、多くの衆生中に於いて、最も上首と為すが故に、名づけて摩訶薩埵と為す。
復た次ぎに、
『摩訶薩埵』とは、
『多く!(mahaa)』の、
『衆生(sattva)』中の、
『最も!』、
『上首である!』、
故に、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』のである。
復次多眾生中起大慈大悲成立大乘。能行大道得最大處故。名摩訶薩埵。 復た次ぎに、多くの衆生中、大慈大悲を起して、大乗を成立し、能く大道を行じて、最大の処を得るが故に、摩訶薩埵と名づく。
復た次ぎに、
『多く(mahaa)!』の、
『衆生(sattva)』中に、
『大慈(mahaa-maitrii)』、
『大悲(mahaa-karuNaa)』を起して、
『大乗(mahaa-yaana)』を建立し、
『大道(mahaa-patha)』を行き、
『最大の処(mahaa-sthaana)』を得る!ので、
故に、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』のである。
復次大人相成就故。名摩訶薩埵。摩訶薩埵相者。如讚佛偈中說
 唯佛一人獨第一 
 三界父母一切智 
 於一切等無與等 
 稽首世尊希有比 
 凡人行惠為己利 
 求報以財而給施 
 佛大慈仁無此事 
 怨親憎愛以等利
復た次ぎに、大人相成就するが故に、摩訶薩埵と名づく。摩訶薩埵の相は、讃仏偈中に説くが如し、
唯だ仏一人のみ、独り第一なり、
三界の父母たる、一切智は、
一切の等に於いて、与(とも)に等しきは無し、
稽首す、世尊は希有の比なり。
凡人の恵を行ずるは、己利の為なり、
報を求むるに、財を以って給施す、
仏の大慈仁は、此の事無し、
怨親憎愛、以って等しく利す。
復た次ぎに、
『大人相(mahaa-puruSa-lakSaNa)』が、
『成就している!』、
故に、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』。
『摩訶薩埵』の、
『相』とは、――
例えば、
『讃仏偈』中に説く!通りである、――
唯だ、
『仏』、
『一人』のみが、
『独り!』、
『第一である!』、
『三界』の、
『父母』である!、
『一切智』は、
『一切』の、
『等(ともがら)』中に、
『等しい!』者が、
『無い!』、
『稽首』して言う、――
『世尊』は、
『希有』の、
『比(ともがら)』である!と。
『凡人』が、
『恵(施し)』を、
『行う!』のは、
『己れ』を、
『利する!』、
『為である!』、
『報』を求めて、
『財』を、
『施す!』、
『仏』の、
『大きな!』、
『慈仁(慈心)』には、
此の、
『事』が、
『無い!』。
『怨、親』の、
『憎、愛』には、
『慈仁』を以って、
『等しく!』、
『利する!』。
  (とう):ともがら。たぐい。等類。同じ階級。
  (ひ):ともがら。たぐい。倫比。類、等。
  (え):めぐむ。恵施。
  慈仁(じにん):梵語maitreyaの訳。慈心の意。
復次必能說法。破一切眾生及己身大邪見大愛慢大我心等諸煩惱故。名為摩訶薩埵。 復た次ぎに、必ず能く法を説いて、一切の衆生、及び己身の大邪見、大愛慢、大我心等の諸の煩悩を破るが故に、名づけて摩訶薩埵と為す。
復た次ぎに、
必ず、
『法』を、
『説く!』に、
『任え!』て、
一切の、
『衆生』や、
『己身』という、
『大邪見』、
『大愛慢』、
『大我心』等の、
諸の、
『煩悩』を、
『破る!』ので、
故に、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』。
  (のう):たう。たえられる。できる。任。
復次眾生如大海無初無中無後。有明智算師。於無量歲計算不能盡竟。 復た次ぎに、衆生は、大海の如く、初無く、中無く、後無く、明智の算師有りて、無量歳に於いて計算するも、尽くし竟る能わず。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『大海(mahaa-samudra)』のように、
『初』も、
『中』も、
『後』も、
『無い!』ので、
『明智』の、
『算師(計算師)』がいて、
『無量歳』に、
『計算した!』としても、
『計算し尽くす!』ことは、
『できない!』。
如佛語無盡意菩薩。譬如十方一切世界乃至虛空邊際。合為一水。令無數無量眾生。共持一髮取一渧而去。更有無央數眾生。如前共持一髮取一渧而去。如是令彼大水悉盡無餘。眾生故不盡。 仏の無尽意菩薩に語りたまえるが如し、『譬えば十方の一切の世界、乃至虚空の辺際を合して、一水と為し、無数無量の衆生をして、共に一髪を持して、一渧を取り去らしめ、更に無央数の衆生有りて、前の如く共に、一髪を持して一渧を取り去らしむ。是の如くするも、彼の大水をして、悉く尽きしめ、余無からしむるに、衆生は故(な)お尽きざるが如し』と。
『仏』は、
『無尽意菩薩』に、
こう語られた、――
譬えば、
『十方』の、
『一切』の、
『世界』と、
『虚空の辺際』とを合して、
『一水』と、
『為した!』とする。
『無数』、
『無量』の、
『衆生』をして、
共に、
『一髪』を持たせて、
彼の、
『水』より、
『一渧(一滴)』を、
『取去らせ!』、
更に、
『無央数』の、
『衆生』に、
前のように、
共に、
『一髪』を持たせて、
彼の、
『水』より、
『一渧』を、
『取去らせる!』。
是のようにして、
彼の、
『大水』をして、
『悉く!』を、
『尽くし!』て、
『一渧』も、
『残すことなく!』、
『無くさせた!』としても、
『衆生』は、
『猶お!』、
『尽きない!』のである、と。
  無尽意菩薩(むじんいぼさつ):無尽意は梵語阿蹉末akSaya-matiの訳。又無尽慧とも訳し、又無量意菩薩とも称す。賢劫十六尊の一。「金剛界曼荼羅三摩耶会」等の外壇北方五尊中の西端に安ぜらるる菩薩なり。娑婆世界に在りて無尽無余の衆生を度せんと誓願せるが故に此の名あり。密号は定恵金剛、或いは無尽金剛、種子は(vi)、三昧耶形は上雲沢五色雲なり。形像は白肉色にして、左手は拳にして腰に安じ、右手に花雲を持せり。「大方等大集経巻27無尽意菩薩品」に依るに、此の菩薩は舎利弗をして不眴世界の普賢如来を見せしめんが為に、仏土三昧に入り、合掌して遙かに彼の仏を礼し、微妙の華を散じて供養するに、彼の華普賢如来の世界に至り、彼の国の諸菩薩之を見て、乃ち娑婆世界釈迦文仏及び大衆を見んことを楽いしに依り、普賢如来は大光明を放ちて娑婆世界を照らし、悉く遙かに此の土を見せしめたりと云えり。無尽意の名称に関しては、彼の経の連文に一切諸法の因縁果報を無尽意と名づく。一切諸法は不可尽なるが故に、即ち発菩提心不可尽乃至方便無尽なるが故なりと云い、「観音義疏巻上」に之を釈し、「凡そ八十無尽あり、八十無尽は悉く能く一切の仏法を含受す。是れに従って名を得て無尽意と名づく」と云い、又「法華経玄賛巻12末」に、「無尽意とは阿差末経に説く、六度四摂等の種種の行を行じて衆生を度せんことを誓い、衆生界尽きば菩薩の意も乃ち尽きん。衆生界尽きざれば菩薩の意も尽くること無けんと。故に無尽意と名づく」と云えり。又「法華経巻7観世音菩薩普門品」、「大宝積経巻115」、「阿差末菩薩経」、「金剛頂瑜伽中略出念誦経」、「大乗観想曼拏羅浄諸悪趣経巻上」等に出づ。<(望)
  一渧(いったい):一滴。
  無央数(むおうしゅ):梵語asaMkhyeyaの訳。計るべからざるものの義。不可計、無数、無量とも訳す。
  (こ):なお。猶お。もとのように。
  参考:『阿差末菩薩経巻4』:『阿差末菩薩復謂舍利弗。慈氏菩薩而不可盡。所以者何。其慈曠大無邊際故。仁若虛空不可限量。所以無邊者猶若眾生四大如空無所不周。以慈普覆亦如四大。地水火風不可稱限故不可盡。菩薩弘慈亦復若茲不可窮極。故曰無際。猶空無邊一切四大悉不可量。眾生無盡仁不可限。故曰菩薩大慈無盡。爾時舍利弗問阿差末。眾生四大數不可盡為何謂也。阿差末曰。地水火風其數過於藥草叢林。時舍利弗復問。可為眾生興引譬乎。阿差末曰。可假借喻。不可以民庶為數極。舍利弗問。所喻云何。阿差末曰。猶如東西南北四維上下合為世界各如江沙十方佛土合為大海。取一切人盡住海邊。各以一毛取海水數。舉一渧水為一江沙人。舉二渧水為二江沙人。如是渧數大海水盡。眾生之限不可盡極。群黎四大亦不可數亦復若斯。菩薩大慈靡所不周。阿差末菩薩謂舍利弗。若能弘慈。其德福慶不可盡極。舍利弗言。實不可盡。阿差末曰。若有菩薩聞眾生數不可窮盡。不恐不懼不以懷懅。爾乃應曰慈不可盡。』
  参考:『大方等大集経巻29』:『爾時無盡意菩薩復語舍利弗。菩薩修慈亦不可盡。何以故。菩薩之慈無量無邊。是修慈者無有齊限等眾生界。菩薩修慈發心普覆。舍利弗。譬如虛空無不普覆。是菩薩慈亦復如是。一切眾生無不覆者。舍利弗。如眾生界無量無邊不可窮盡。菩薩修慈亦復如是。無量無邊無有窮盡虛空無盡故眾生無盡。眾生無盡故菩薩修慈亦不可盡。是謂大士所修慈心不可得盡。舍利弗言。善男子。齊幾名眾生界。無盡意言。所有地界水火風界其量無邊。而猶不多於眾生界。舍利弗言。唯善男子。頗可得說譬喻比不。無盡意言可說。但不得以小事為喻。舍利弗。東方去此盡一恒沙佛之世界。南西北方四維上下。皆一恒沙佛世界。作一大海其水滿溢。使一恒河沙等諸眾生聚集。共以一毛破為百分以一分毛渧取一渧。如是一恒河沙共取一渧。二恒河沙共取二渧。如是展轉乃至盡此滿大海水盡。是眾生界猶不可盡。菩薩慈心悉能遍覆如是眾生。』
以是眾生等。無邊無量不可數不可思議。盡能救濟令離苦惱著於無為安隱樂中。有此大心欲度多眾生故。名摩訶薩埵。 是の衆生等の、無辺、無量、不可数、不可思議なるを以って、尽く能く救済し、苦悩を離れしめて、無為安隠の楽中に著(お)く。此の大心有りて、多くの衆生を度せんと欲するが故に、摩訶薩埵と名づく。
是の、
『衆生』等が、
『無辺』、
『無量』、
『不可数』、
『不可思議』であった!としても、
『尽く!』を、
『救済し!』て、
『苦悩』を、
『離れさせ!』、
『無為』という!、
『安隠』の、
『楽』中に、
『著()く!』ことが、
『できる!』。
此の、
『大心』は、
『多く!』の、
『衆生』を、
『度したい!』と、
『思う!』ので、
故に、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』のである。
  無為(むい):梵語asaMskRtaの訳語、乃ち為(梵saMskRta)とは造作の義にして、因縁の造作無きことを無為といい、また生住異滅の四相の造作無きことを無為という。乃ち真如、法性、法界、実相等を指し、即ち真理の異名なり。これ原は、涅槃に係わる異名なれど、後には涅槃以外に種種の無為を立てて三無為、六無為、九無為等の諸説を為せり。小乗各部派中、説一切有部は、択滅無為、非択滅無為、虚空無為を立て合せて三無為と為し、大衆部、一説部、説出世部は、三無為の外に、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処等の四無色処、及び縁起支性(十二縁起の理)、聖道支性(八聖道の理)等を立てて総じて九無為と為し、化他部は則ち不動、善法真如、不善法真如、無記法真如を以って、四無色処に取って代え、また九無為の説を作せり。大乗唯識家は、三無為の外に、別に不動、想受滅、真如を立て合せて六無為を為し、或は真如を開き立てて善法、不善法、無記法と為し、八無為と為す。また無為法(梵asaMskRta-dharma)は説一切有部に於いてはこれを有体と為すも、経量部、及び大乗唯識家に於いては無体として、その実相を認めず、就中、唯識家に於いては無為は識変と法性とに依りて化立するものと為し、即ち経等に宣説せる虚空等の名を聞き、数習力に因りて無為に似たる相を変現し、前後相似して変易無きを仮説し、或は空、無我所に顕るる法性真如の義に依り、仮に障礙を離れたるを虚空無為等と称したるものにして、色心等の外に別に常法の無為と名づけらるべきもの無しと為すなり。また『発智論巻2』、『品類足論巻1』、『大毘婆沙論巻21、39』、『顕揚聖教論巻1』、『倶舎論巻1』、『成唯識論巻2』等に出づ。<(佛)
如不可思議經中漚舍那優婆夷語須達那菩薩言。諸菩薩摩訶薩輩不為度一人故。發阿耨多羅三藐三菩提心。亦非為二三乃至十人故。非百非千非萬非十萬非百萬。非一億十百千萬乃至億億。非為阿由他億眾生故發心。非那由他億非阿耶陀眾生故。非頻婆羅。非歌歌羅。非阿歌羅。非簸婆羅。非摩波羅非波陀。非多婆。非鞞婆呵。非怖摩非念摩。非阿婆迦。非摩伽婆。非毘羅伽。非僧伽摩。非毘薩羅。非謂閻婆。非鞞闍迦。非鞞盧呵。非鞞跋帝。非鞞伽多非兜羅。非阿婆羅那。非他婆羅。非鞞婆耶婆。非藐寫非鈍那耶寫。非[酉*益]婆羅。非鞞婆羅。非菩遮多。非阿跋伽陀。非鞞施他。非泥婆羅。非[酉*益]犁浮陀。非波摩陀夜。非比初婆。非阿犁浮陀。非阿犁薩寫。非[酉*益]云迦。非度于多。非呵樓那。非摩樓陀非叉夜。非烏羅多。非末殊夜摩。非三摩陀。非毘摩陀。非波摩陀。非阿滿陀羅。非婆滿多羅。非摩多羅。非[酉*益]兜末多羅。非鞞摩多羅。非波羅多羅。非尸婆多羅。非[酉*益]羅。非為羅。非提羅。非枝羅。非翅羅。[酉*益]尼羅。非斯羅。非波羅。非彌羅。非婆羅羅。非迷樓。非企盧。非摩屠羅。非三牟羅。非阿婆夜。非劍摩羅。非摩摩羅。非阿達多。非[酉*益]樓。非鞞樓婆。非迦羅跋。非呵婆跋。非鞞婆跋。非婆婆。非阿羅婆。非娑羅婆羅。非迷羅浮羅。非摩遮羅。非陀摩羅。非波摩陀。非尼伽摩。非阿跋多。非泥提舍。非阿叉夜。非三浮陀。非婆摩摩。非阿婆陀。非漚波羅。非波頭摩。非僧佉非伽提。非漚波伽摩。非阿僧祇非阿僧祇阿僧祇。非無量非無量無量。非無邊非無邊無邊。非無等非無等無等。非無數非無數無數。非不可計非不可計不可計。非不可思議非不可思議不可思議。非不可說非不可說不可說。 不可思議経中に、漚舎那優婆夷の須達那菩薩に語りて言わく、『諸の菩薩摩訶薩の輩は、一人を度せんが為の故に、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すにあらず。亦た二三乃至十人の為の故にも非ず。百にも非ず、千にも非ず、万にも非ず、十万にも非ず、百万にも非ず、一億にも十百千万ないし億億にも非ず。阿由他億(あゆたおく)の衆生の為の故に心を発すにも非ず。那由他億(なゆたおく)にも非ず、阿耶陀(あやだ)の衆生の故にも非ず。頻婆羅(びんばら)にも非ず、歌歌羅(かから)にも非ず、阿歌羅(あから)にも非ず、簸婆羅(はばら)にも非ず、摩波羅(まはら)にも非ず、波陀(はだ)にも非ず、多婆(たば)にも非ず、鞞婆呵(びばか)にも非ず、怖摩(ふま)にも非ず、念摩(ねんま)にも非ず、阿婆迦(あばか)にも非ず、摩伽婆(まがば)にも非ず、毘羅伽(びらが)にも非ず、僧伽摩(そうがま)にも非ず、毘薩羅(びさら)にも非ず、謂閻婆(いえんば)にも非ず、鞞闍迦(びじゃか)にも非ず、鞞盧呵(びるか)にも非ず、鞞跋帝(びばつたい)にも非ず、鞞伽多(びかた)にも非ず、兜羅(とら)にも非ず、阿婆羅那(あばらな)にも非ず、他婆羅(たばら)にも非ず、鞞婆耶婆(びばやば)にも非ず、藐写(まくしゃ)にも非ず、鈍那耶写(どんなやしゃ)にも非ず、醯婆羅(けいばら)にも非ず、鞞婆羅(びばら)にも非ず、菩遮多(ぼしゃた)にも非ず、阿跋伽陀(あばつかだ)にも非ず、鞞施他(びせた)にも非ず、泥婆羅(ないばら)にも非ず、醯犁浮陀(けいりぶだ)にも非ず、波摩陀夜(はまだや)にも非ず、比初婆(ひしょば)にも非ず、阿犁浮陀(ありぶだ)にも非ず、阿犁薩写(ありさつしゃ)にも非ず、醯云迦(けいうんか)にも非ず、度于多(どうた)にも非ず、呵楼那(かるな)にも非ず、摩楼陀(まるだ)にも非ず、叉夜(しゃや)にも非ず、烏羅多(うらた)にも非ず、末殊夜摩(ましゅやま)にも非ず、三摩陀(さんまだ)にも非ず、毘摩陀(びまだ)にも非ず、波摩陀(はまだ)にも非ず、阿満陀羅(あまんだら)にも非ず、婆満多羅(ばまんたら)にも非ず、摩多羅(またら)にも非ず、醯兜末多羅(けいとまつたら)にも非ず、鞞摩多羅(びまたら)にも非ず、波羅多羅(はらたら)にも非ず、尸婆多羅(しばたら)にも非ず、醯羅(けいら)にも非ず、為羅(いら)にも非ず、提羅(だいら)にも非ず、枝羅(しら)にも非ず、翅羅(しら)にも非ず、醯尼羅(けいにら)にも非ず、斯羅(しら)にも非ず、波羅(はら)にも非ず、弥羅(みら)にも非ず、婆羅羅(ばらら)にも非ず、迷楼(めいる)にも非ず、企盧(きる)にも非ず、摩屠羅(まとら)にも非ず、三牟羅(さんむら)にも非ず、阿婆夜(あばや)にも非ず、剣摩羅(けんまら)にも非ず、摩摩羅(ままら)にも非ず、阿達多(あだつた)にも非ず、醯楼(けいる)にも非ず、鞞楼婆(びるば)にも非ず、迦羅跋(からばつ)にも非ず、呵婆跋(かばばつ)にも非ず、鞞婆跋(びばばつ)にも非ず、婆婆(ばば)にも非ず、阿羅婆(あらば)にも非ず、娑羅婆羅(しゃらばら)にも非ず、迷羅浮羅(めいらぶら)にも非ず、摩遮羅(ましゃら)にも非ず、陀摩羅(だまら)にも非ず、波摩陀(はまだ)にも非ず、尼伽摩(にかま)にも非ず、阿跋多(あばつた)にも非ず、泥提舎(ないだいしゃ)にも非ず、阿叉夜(あしゃや)にも非ず、三浮陀(さんぶだ)にも非ず、婆摩摩(ばまま)にも非ず、阿婆陀(あばだ)にも非ず、漚波羅(うはら)にも非ず、波頭摩(はづま)にも非ず、僧佉(そうぎゃ)にも非ず、伽提(かだい)にも非ず、漚波伽摩(うはがま)にも非ず、阿僧祇(あそうぎ)にも非ず、阿僧祇阿僧祇(あそうぎあそうぎ)にも非ず、無量にも非ず、無量無量にも非ず、無辺にも非ず、無辺無辺にも非ず、無等にも非ず、無等無等にも非ず、無数にも非ず、無数無数にも非ず、不可計にも非ず、不可計不可計にも非ず、不可思議にも非ず、不可思議不可思議にも非ず、不可説にも非ず、不可説不可説にも非ざるなり。
例えば、
『不可思議経』中に、
『漚舎那優婆夷』は、
『須達那菩薩』に、こう言っている、――
諸の、
『菩薩摩訶薩』は、
『一人』を、
『度す!』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提心』を、
『発すのではない!』、
亦た、
『二、三、乃至十人』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提心』を、
『発すのでもなく!』、
『百人』でもなく!、
『千人』でもなく!、
『万人』でもなく!、
『十万』でもなく!、
『百万』でもなく!、
『一億、十、百、千万、乃至億億』でもなく!、
『阿由他(あゆた)億の衆生』の為の故に、
『心』を、
『発すのでもない!』、
『那由他(なゆた)億』でもない!、
『阿耶陀(あやだ)の衆生』の故でもない!、
『頻婆羅(びんばら)、歌歌羅(かから)』でもない!、
『阿歌羅(あから)、簸婆羅(はばら)』でもない!、
『摩波羅(まはら)、波陀(はだ)』でもない!、
『多婆(たば)、鞞婆呵(びばか)』でもない!、
『怖摩(ふま)、念摩(ねんま)』でもない!、
『阿婆迦(あばか)、摩伽婆(まがば)』でもない!、
『毘羅伽(びらが)、僧伽摩(そうがま)』でもない!、
『毘薩羅(びさら)、謂閻婆(いえんば)』でもない!、
『鞞闍迦(びじゃか)、鞞盧呵(びるか)』でもない!、
『鞞跋帝(びばつたい)、鞞伽多(びかた)』でもない!、
『兜羅(とら)、阿婆羅那(あばらな)』でもない!、
『他婆羅(たばら)、鞞婆耶婆(びばやば)』でもない!、
『藐写(まくしゃ)、鈍那耶写(どんなやしゃ)』でもない!、
『醯婆羅(けいばら)、鞞婆羅(びばら)』でもない!、
『菩遮多(ぼしゃた)、阿跋伽陀(あばつかだ)』でもない!、
『鞞施他(びせた)、泥婆羅(ないばら)』でもない!、
『醯犁浮陀(けいりぶだ)、波摩陀夜(はまだや)』でもない!、
『比初婆(ひしょば)、阿犁浮陀(ありぶだ)』でもない!、
『阿犁薩写(ありさつしゃ)、醯云迦(けいうんか)』でもない!、
『度于多(どうた)、呵楼那(かるな)』でもない!、
『摩楼陀(まるだ)、叉夜(しゃや)』でもない!、
『烏羅多(うらた)、末殊夜摩(ましゅやま)』でもない!、
『三摩陀(さんまだ)、毘摩陀(びまだ)』でもない!、
『波摩陀(はまだ)、阿満陀羅(あまんだら)』でもない!、
『婆満多羅(ばまんたら)、摩多羅(またら)』でもない!、
『醯兜末多羅(けいとまつたら)、鞞摩多羅(びまたら)』でもない!、
『波羅多羅(はらたら)、尸婆多羅(しばたら)』でもない!、
『醯羅(けいら)、為羅(いら)』でもない!、
『提羅(だいら)、枝羅(しら)』でもない!、
『翅羅(しら)、醯尼羅(けいにら)』でもない!、
『斯羅(しら)、波羅(はら)』でもない!、
『弥羅(みら)、婆羅羅(ばらら)』でもない!、
『迷楼(めいる)、企盧(きる)』でもない!、
『摩屠羅(まとら)、三牟羅(さんむら)』でもない!、
『阿婆夜(あばや)、剣摩羅(けんまら)』でもない!、
『摩摩羅(ままら)、阿達多(あだつた)』でもない!、
『醯楼(けいる)、鞞楼婆(びるば)』でもない!、
『迦羅跋(からばつ)、呵婆跋(かばばつ)』でもない!、
『鞞婆跋(びばばつ)、婆婆(ばば)』でもない!、
『阿羅婆(あらば)、娑羅婆羅(しゃらばら)』でもない!、
『迷羅浮羅(めいらぶら)、摩遮羅(ましゃら)』でもない!、
『陀摩羅(だまら)、波摩陀(はまだ)』でもない!、
『尼伽摩(にかま)、阿跋多(あばつた)』でもない!、
『泥提舎(ないだいしゃ)、阿叉夜(あしゃや)』でもない!、
『三浮陀(さんぶだ)、婆摩摩(ばまま)』でもない!、
『阿婆陀(あばだ)、漚波羅(うはら)』でもない!、
『波頭摩(はづま)、僧佉(そうぎゃ)』でもない!、
『伽提(かだい)、漚波伽摩(うはがま)』でもない!、
『阿僧祇(あそうぎ)、阿僧祇阿僧祇(あそうぎあそうぎ)』でもない!、
『無量、無量無量』でもない!、
『無辺、無辺無辺』でもない!、
『無等、無等無等』でもない!、
『無数、無数無数』でもない!、
『不可計、不可計不可計』でもない!、
『不可思議、不可思議不可思議』でもない!、
『不可説、不可説不可説』でもない!。
  不可思議経(ふかしぎきょう):大方広仏華厳経四十巻の異名なり。『大智度論巻5上注:大方広仏華厳経』参照。
  漚舎那優婆夷(うしゃなうばい):又休捨優婆夷に作り、梵語aazaaの音訳にして悕望、希望、大明星と訳す。即ち華厳経に於いて善財童子を教うる五十五善知識中の第八なり。
  須達那菩薩(しゅだつなぼさつ):具に梵名をsudhana-zreSThi-daarakaに作り、即ち善財童子と訳し、華厳経入法界品中の求道の菩薩と為す。『旧華厳経巻45入法界品』によれば、善財童子を福城長者の子と為し、入胎及び出生の時に於いて、種種の珍宝自然に湧現せるが故にこれを称して善財と為す。その後、文殊師利菩薩の教誨を受けて遍く南方の諸国に遊び、先に可楽国に至りて功徳雲比丘を参訪し、念仏三昧門を受け、これに継いで、菩薩、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、童子、童女、夜天、天女、婆羅門、長者、医師、船師、国王、仙人、仏母、王妃、地神、樹神等を歴訪して種種の法門を聴受し、終に普賢菩薩の道場に至って無生法界に証入せり。<(佛)
  大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんぎょう):梵名健拏驃訶gaNDa-vyuuha四十巻。華厳部(縮天五、六、正一○)唐般若訳。具に「大方広佛華厳経入不思議解脱境界普賢行願品」と称し、略して「普賢行願品」と呼び、又「四十華厳」、或いは「貞元経」とも云う。善財童子が五十五の善知識に歷参して普賢の行願を成ずることを説けるもの。「新旧両訳華厳経入法界品」の別訳なり。初に仏一時室羅伐城逝多林給孤獨園の大荘厳重閣に在り。普賢文殊等の五千の菩薩、五百の声聞及び諸の世王等来会し、仏即ち師子頻申三昧siMha-vijRmbhita-samaadhiに入りて微妙の荘厳を現ぜしことを敍し、次に又十方世界より諸菩薩集会し、舎利弗等の大声聞は仏の自在神変を見聞し得ざるを説き、次に十方より集会せる菩薩の上首は各偈を以って仏を讃じ、普賢菩薩は十種の法句を以って師子頻申三昧神通境界の相を開示し、仏は又諸菩薩をして此の三昧に安住せしめんが為に、白毫より大光明を放ちて普く十方一切の世界を照らし、諸菩薩をして法界の仏事を見せしめたるを説き、次に諸菩薩は仏の光照を蒙りて大悲門を得、十方に於いて種種に示現して衆生を摂益するも、而も仏処を離れざることを敍し、次に文殊師利童子maJjuzrii-kumaarabhuutaは善住楼閣pratiSThaana-kuuTaagaaraより出で、仏を供養し頂礼して南方に往き、舎利弗等の諸比丘と同行し、諸比丘に大乗法を説きて菩提心を発さしめ、漸次に南行して福生城dhanyaakara-nagaraの東、荘厳幢娑羅林vicitra-saaladhvaja-vyuuhaに至り、諸大龍王并びに其の眷属の為に説法して不退転を得しめたることを説き、次に福城の優婆塞優婆夷童子童女等来詣し、其の中、文殊は童子の上首善財sudhanaの殊勝相を観察し、為に一切の仏法を説くに、善財童子は即ち菩提心を発して菩薩所行の道を問い、文殊は之に対して真の善知識を求め、其の教誨に従うべきを答え、尋いで善財童子は南方に善知識を歷訪し、先づ南方勝楽raamaavaraanta(?)国に至り、吉祥雲megha-zrii比丘に就いて憶念一切諸仏平等境界無礙智慧普見法門samanta-mukha(M)saravaarambaNa-vijJapti-samavasaraNaalokaa(yaaM)-buddhaanusmRtiを聞き、次に南方海門saagara-mukha国に至り、海雲saagara-megha比丘に就いて諸仏菩薩光明妙行普眼法門samanta-netra-tathaagata-bodhisattva-caryaa-viblaa a-dharma-paryaayaを聞き、次に又南行して楞伽道辺laMkaapathaの海岸saagara-tiira聚落に至り、妙住supratiSThita比丘に従って普遍速疾勇猛不空供養諸仏成熟衆生無礙解脱門samanta-javo tathaagata-puujopasthaana-prayogaH sarva-sattva-paripaakaanukulo 'saGga-mukho bodhisattva-vimokSaHを聞き、次に南方達邏比叱dramiDapaTTana国金剛層vajra-pura城に至り、弥伽megha大士に就いて妙音陀羅尼光明法門sarvasvati-dhaaraNy-aalokaを聞き、次に南方住林vanavaasin聚落に至り、解脱mukta長者に就いて如来甚深無礙荘厳解脱法門asaGga-vyuuha-tathaagata-vimokSaを聞き、次に又南行して閻浮提畔jaMbuudviipa-ziirSa遍無垢amalaspharaNa住所に至り、海幢saagara-dhvaja比丘に従って般若波羅蜜清浄光明三昧法門prajJaa-paaramitaa-vihaaraを聞き、次に南行して海潮処samudra-vetaaDin円満光mahaaprabha大城の東、普荘厳samanta-vyuuha園林に至り、伊舎那aazaa優婆夷に就いて離憂安隠幢azoka-krama-dhvaja解脱門を聞き、次に南方海潮処那羅素naalayus国に至り、大威猛声bhiiSmottara-nirghoSa仙人に従って菩薩無勝幢解脱門paraajita-dhvaja-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方伊沙那iSaaNa聚落に至り、勝熱jayoSma-yatana波羅門を訪うて菩薩普円満無尽輪解脱aparyaadanta-maNDala-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方師子頻申siMha-vijRmbhita城に至り、慈行maitraayaNii童女に就いて般若波羅蜜普荘厳門samanta-smRti-vyuuha-prajJaapaaramitaa-mukha-parivartaを聞き、次に南方三目tri-nayana国に至り、妙見sudarzana比丘に従って菩薩随順無尽灯解脱門anizaanta-jJaana-pradiipa-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方円満多聞zramaNa-maNDala国妙門sumukha城に至り、根自在主indriyezvara童子に就いて一切工巧大神通智光明法門sarva-dharma-jJaana-zilpaabhijJaavad-bodhisattva-jJaanaavalokaを聞き、次に南方海別住samudra-pratiSThaana城に至り、辨具足prabhuutaa優婆夷を訪うて菩薩無尽福徳荘厳蔵解脱門akSaya-vyuuha-puNya-koza-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方大有mahaasambhava城に至り、具足智vidvat長者に従って随意出生福徳蔵解脱門manas-koza-sambhava-puNya-vimokSaを聞き、次に南方師子宮siMha-pota城に至り、尊法宝髻ratna-cuuDa長者に就いて菩薩無障礙願普遍荘厳福徳蔵解脱門apratihata-praNidhi-maNDala-vyuuha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方藤根vetra-muulaka国普遍門samanta-mukha城に至り、普眼samanta-netra長者に参じて令一切衆生普見諸仏承事供養歓喜法門sarva-sattva-saMtoSaNa-samanta-mukha-buddha-darzana- puujopasthaana-gandha-bimba-dharma-mukhaを聞き、次に南方多羅幢taala-dhvaja城に至り、甘露火anala王に謁して如幻解脱変化法門maayaagata-sattva-vimokSaを聞き、次に南方妙光suprabha城に至り、大光mahaaprabha王に就いて菩薩大慈幢行解脱門mahaa-maitrii-dhvaja-bodhisattva-caryaa-jJaanaaloka-mukhaを聞き、次に南方安住sthiraa王都に至り、不動acalaa優婆夷に従って菩薩難摧伏智慧蔵解脱門duryodhana-jJaana-garbha-bodhisattva-vimokSa、菩薩所修堅固受持大願行門dRDha-samaadaanaayaaM bodhisattva-caryaayaam anuzikSamaaNaH、一切法平等地総持門sarva-dharma-samataa-bhuumi-dhaaraNy-anugama、一切法智光照辯才門sarava-dharmatalodyotana-pratibhaanaa-jJaanaaloka-kauzalya、及び菩薩求一切法心無疲厭荘厳三昧(智光明)門sarava-dharma-paryeSTy-aparikheda-vyuuha-samaadhi-samaapannaaを聞き、次に南方都薩羅tosala大城に至り、遍行sarva-gaamin外道を訪うて至一切処随順遍行菩薩行sarva-gaaminii saravatraanugataa bodhisattva-caryaaを聞き、次に南方広博pRthuraaSTra国に至り、具足憂鉢羅華utpala-bhuumiと名づくる鬻香長者gaaMdhika-zreSThinに就いて調和香法gamdha-yuktiを聞き、次に南方楼閣kuuTaagaara大城に至り、婆施羅vairocana船師に従って大悲幢行mahaa-karuNaa-dhvaja(-amogha-darzana-zravaNa-saMvaasaanusmRti naama nadii-nirghoSa-bodhisattva-vimokSaH)を聞き、次に南方楽瓔珞nandi-haara城邑に至り、最勝jayottama長者を訪うて至一切処浄菩薩行法門(無依無作無性無住神通之力)sarva-gaaminii-bodhisattva-caryaa-vizuddhi-mukho ('bhaava-pratiSThitaanabhisaMskaara-vimala-vyuuhaH)を聞き、次に南方無辺際河zroNaaparaanta国羯陵迦林kaliGga-vana城に至り、師子頻申siMha-vijRmbhitaa比丘尼に参じて滅除一切微細分別成就一切智菩薩解脱門sarva-mananaa-samudghaatita-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方険難durga聚落宝荘厳ratna-vyuuha城に至り、伐蘇蜜多vasumitraa女に就いて菩薩離貪欲際解脱法門viraaga-koTii-gata-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方浄達彼岸zubha-paaraGgama城に至り、毘瑟底羅veSThila居士に従って菩薩所得不般涅槃際解脱門aparinirvaaNa-koTi-gata-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方補怛洛迦potalaka山に至り、観自在avalokiteezvara菩薩に参じて菩薩大悲速疾行解脱門mahaa-karNaavilamba-bodhisattva-caryaa-mukhaを聞き、次に東方虚空中より観自在菩薩の所に来詣せる正性無異行ananya-gaamin菩薩に就いて菩薩普門不動速疾行解脱samanta-mukha-nirjavana-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方門主dvaaravatin城に至り、大天mahaadeva神に従って菩薩雲網解脱megha-jaala-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に閻浮提摩竭提国菩提場jambuulviipe magadha-viSaye bodhimaNDeに至り、自性不動sthaavaraa地神に就いて難摧伏智慧蔵解脱門jJaana-duryodhana-garbha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に閻浮提摩竭提国恒河北岸の迦毘羅kapilavastu大城に至り、春和vaasantin夜神に就いて菩薩教化調伏破一切衆生癡闇法光明解脱門sarva-sattva-tamo-vikiraNa-dharmaavabhaasa-jagad-vinaya-mukha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に閻浮提恒河南岸摩竭提国菩提場中に至り、普遍吉祥無垢光samanta-gaMbhiira-zrii-vimala-prabha夜神に従って菩薩寂静禅定楽普遊歩勇猛解脱門zaanta-dhyaana-sukha-samanta-vikrama-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に菩提樹王道場右面に至り、喜目観察一切衆生pramudita-nayana-jagad-virocnaa夜神に従って大速疾力普喜幢無垢解脱門samanta-bhadra-priiti-vipula-vimala-vega-dhvaja-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に如来大衆会中の普救護一切衆生威徳吉祥samanta-sattva-traNojaH-zrii夜神に菩薩普現一切世間調伏衆生解脱門sarva-lokaabhimukha-jagad-vinaya-nidarzana-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に菩提場中の具足功徳寂静音海prazaanta-ruta-zaagaravatii夜神に従って念念速疾出生広大歓喜荘厳解脱門vipula-priiti-vega-saMbhava-citta-kSaNa-vyuuha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に菩提場如来清浄円満会中の守護一切城増長威徳sarava-nagara-rakSaa-saMbhava-tejaH-zrii夜神に就いて菩薩甚深自在可愛妙音解脱門manojJa-ruta-gambhiira-vikurvita-praveza-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に又菩提場仏衆会中の能開敷一切樹華安楽sarva-vRkSa-praphullana-sukha-saMvaasaa夜神に従って菩薩出生広大歓喜調伏衆生蔵普光明解脱門vipula-priiti-saMbhava-nidhaana-saMtuSTy-avabhaasa-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に又菩提場如来会中の守護一切衆生大願精進力光明sarva-jagad-rakSaa-praNidhaana-viirya-prabhaa夜神に就いて菩薩普化衆生令生善根解脱門sarva-sattva-paripaaka-yathaazaya-saMcodana-kuzala-muula-saMbhava -bodhisattva-vimokSaを聞き、次に迦毘羅城嵐毘尼lumbinii園林に至り、妙威徳円満愛敬sutejo-maNDala-rati-zrii林神を訪うて菩薩於無量劫遍一切処示現受生自在神変解脱法門aprameya-kalpa-sarvaarambaNa-bodhisattva-janma-vikurvita-saMdarzana -bodhisattva-vimokSaを聞き、次に西南迦毘羅城の釈種女瞿波gopaaに従って観察菩薩大三昧海微細境界解脱門sarva-bodhisattva-samaadhi-saagara-vyavalokana-viSaya-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に大摩尼毘盧遮那宝蓮華蔵師子座の仏母摩耶maayaaに就いて菩薩大願智幻荘厳解脱門mahaa-praNidhaana-jJaana-maayaa-gata-vyuuha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に三十三天具足正念王の王女天主光surendraabhaaに従って菩薩無礙念清浄荘厳解脱門asaGga-smRti-vizuddha-vyuuha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に迦毘羅城の童子師遍友vizvaamitraの所に至り、善知衆藝zilpaabhijJa童子に就いて善知衆藝円満具足菩薩解脱zilpaabhijJaavad-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に摩竭提国有義kevala聚落婆怛那vartana城に至り、最勝賢bhadrottamaa優婆夷を訪うて無住処無尽輪解脱門anaalaya-maNDala-dharma-paryaayaを聞き、次に南方沃田bharukaccha城に至り、堅固解脱muktaa-saara長者に参じて無著念清浄荘厳解脱門asaGga-smRti-vyuuha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に此の城中の妙月sucandra長者に従って無垢智光菩薩解脱門vimala-jJaana-prabha-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に南方広大声roruka城に至り、無勝軍ajita-sena長者に就いて無尽相解脱門akSaya-lakSaNa-bodhisattva-vimokSaを聞き、次に此の城南達磨聚落dharma-graamaに至り、最寂静ziva-varaagra婆羅門を訪うて住誠願語無尽威徳菩薩解脱satyaadhiSThaanaを聞き、次に南方妙意華門sumanaa-mukha城に至り、徳生zriisambhava童子及び有徳zriimatii童女に就いて幻住解脱maayaa-gata-bodhisattva-vimokSa并びに一切善法の善知識より生じ、及び之を成就する十二頭陀の功徳を聞き、次に南方沃田samudrakaccha国大荘厳mahaa-vyuuha園に至り、毘盧遮那荘厳蔵vairocana-vyuuhaalaMkaara-garbha大楼閣中の弥勒maitreya菩薩に謁して菩提心の徳用を聞き、更に又大楼閣中に入りて微妙荘厳不可思議の境界を観察し、入三世一切境界不忘念智荘厳蔵解脱門sarva-tryadhvaarambaNa-jJaana-pravezaasaMmoSa smRti-vyuuha-gata-vimokSaを聞き、且つ往昔文殊菩薩と同生同行なりしことを聴取し、茲に一百一十城を経過し、進んで又蘇摩那sumana城に至り、文殊菩薩の教示に依りて無数の法門、無辺の大智光明を具足し、種々念仏門、無辺際陀羅尼門、無辺際辯才門、無辺際三昧門、無辺際神通門、無辺際願智門、及び普賢の諸の行願輪に深入し、成就国土の義を聞き、次に一切仏刹の十種の瑞相、並びに十種の大光明相を見、又毘盧遮那如来の前に在りて蓮華蔵師子座に坐せる普賢菩薩の殊特の身相及び無量不可思議の遊戯神通の境界を見て十種の波羅蜜を得、菩薩の摩頂を蒙りて一切仏刹極微塵数の諸大三昧に深入し、普賢菩薩が往昔の円満相応行門によりて究竟三世平等清浄法身、無上清浄色身を得、衆生を成熟するの相を聞き、更に普賢の身内に入り、無尽数の世界を行きて一切衆生を教化し、遂に普賢の行願海を得て普賢及び諸仏と平等となり、又普賢より如来の功徳を成就すべき十種広大の行願及び其の功徳を聞き、斯くて善財童子は踊躍極まりなく、一切の諸大菩薩、六千の比丘、諸大声聞等も皆亦仏の所説を聞きて大に歓喜せしことを敍し、以って経を終れり。之を「新旧両華厳の入法界品」に対比するに、其の敍述大いに同じと雖も、文言は頗る増広せられ、特に第四十巻に於いて普賢の十種大願、及び之を重説せる普賢広大願王清浄偈を新たに添加せり。本経の伝訳に関しては、経の後記に、唐貞元十一年十一月、南天竺烏荼国師子王より自ら親写せし梵本を貢献し、翌年六月長安崇福寺に於いて罽賓三蔵般若梵文を宣べ、広済訳語、円照筆受、智柔及び智通廻綴、澄観及び虚邃等詳定し、同十四年二月に至りて其の功を終りしことを記せり。又其の梵本は現に英国倫敦公立亜細亜学会に一部、同ケンブリッヂ大学図書館に二部、仏国巴里図書館に三部、印度ベンゴール亜細亜学会に一部、並びに本邦河口慧海師将来の本あり。又西蔵訳及び西夏文字の経本あり。蓋し本経は「大智度論巻100」等に掲ぐる所謂不可思議解脱経(入大乗論巻上には結解脱経)にして、元と十万偈ありと称せられ、独立の一経として古くより印度に行われたるものなり。其の梵名gaNDa-vyuuhaは雑華厳飾の義にして、或いは雑華と訳し、略して華厳と称す。新旧両訳の華厳大経は即ち此の経の題名を取りて其の経題となせるものなるが如く、又彼の新旧両経に此の経を入法界品と名づけ、共に最後に置けるは、恐らく後世の合集編纂に係るものなるべし。又此の経に善財童子が南方に遊行し、善知識を歷訪せしことを説けるは、「道行般若経」等に薩陀波崙菩薩が東行して般若を求めしことを伝うるものに類同すというべく、又諸大声聞が仏の自在神変を聞知せずとなせるは、拆小歎大の意を寓せるものにして、「維摩経」等と其の趣旨を一とすというべし。又本経の抄訳に西秦聖堅訳の「羅摩伽経三巻」、唐地婆訶羅訳の「大方広仏華厳経入法界品一巻」、唐不空訳の「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門一巻」あり。又「第四十巻普賢広大願王清浄偈」の異訳に東晋仏陀跋陀羅訳の「文殊師利発願経一巻」、唐不空訳の「普賢菩薩行願讃一巻」あり。就中、「文殊師利発願経」は其の原形なるが如し。註疏に「疏十巻(澄観)」、「別行疏一巻(同上)」、「別行疏二巻(仲希)」、「修証義一巻(浄源)」等あり。又「竜樹菩薩伝」に掲ぐる大不思議論十万偈は、古来本経を釈したるものと云うも事実詳ならず。又五十五善知識歷参を讃詠せしものに、「大方広華厳入法界品讃(楊傑)」、「文殊指南図讃(惟白)」等あり。<(望)
  十大数(じゅうだいすう):十種の大数の意。即ち一阿僧祇を単位とし、漸次転倍して不可説不可説に至る十種の大数を云う。一に阿僧祇asaMkhyeya、二に無量sparimaaNa、三に無辺aparyanta、四に無等asamanta、五に不可数agaNeya、六に不可称atulya、七に不可思acintya、八に不可量ameya、九に不可説anabhilaapya、十に不可説不可説anabhilaapyaanabhilaapyaaなり。「新華厳経巻45阿僧祇品」に、「至至を一阿僧祇と為し、阿僧祇阿僧祇を一阿僧祇転(asaMkhyeya-parivarta)と為し、阿僧祇転阿僧祇転を一無量と為し、無量無量を一無量転(aparimaaNa parivarta)と為し、無量転無量転を一無辺と為し、無辺無辺を一無辺転(aparyanta-parivarta)と為し、無辺転無辺転を一無等と為し、無等無等を一無等転(asamanta-parivarta)と為し、無辺転無辺転を一不可数と為し、不可数不可数を一不可数転(agaNeya-parivarta)と為し、不可数転不可数転を一不可称と為し、不可称不可称を一不可称転(atulya-parivarta)と為し、不可称転不可称転を一不可思と為し、不可思不可思を一不可思転(acintya-parivarta)と為し、不可思転不可思転を一不可量と為し、不可量不可量を一不可量転(ameya-parivarta)と為し、不可量転不可量転を一不可説と為し、不可説不可説を一不可説転(anabhilaapya-parivarta)と為し、不可説転不可説転を一不可説不可説と為し、此れ又不可説不可説を一不可説不可説と為す」と云える是れなり。是れ至至を一阿僧祇とし、之を単位として不可説不可説数を成ずることを説けるものなり。至至の数に関しては、「新華厳経巻45」の連文に、一百洛叉を一俱胝と為し、俱胝俱胝を一阿庾多と為し、阿庾多阿庾多を一那由他と為し、那由他那由他を一頻婆羅と為し、頻婆羅頻婆羅を一矜羯羅と為し、矜羯羅矜羯羅を一阿伽羅と為し、阿伽羅阿伽羅を一最勝と為し、最勝最勝を一摩婆羅と為し、摩婆羅摩婆羅を一阿婆羅と為し、阿婆羅阿婆羅を一多婆羅と為し、多婆羅多婆羅を一界分と為し、界分界分を一普摩と為し、普摩普摩を一祢摩と為し、祢摩祢摩を一阿婆鈴と為し、阿婆鈴阿婆鈴を一弥伽婆と為し、弥伽婆弥伽婆を一毘攞伽と為し、毘攞伽毘攞伽を一毘伽婆と為し、毘伽婆毘伽婆を一僧羯邏摩と為し、僧羯邏摩僧羯邏摩を一毘薩羅と為し、毘薩羅毘薩羅を一毘瞻婆と為し、毘瞻婆毘瞻婆を一毘盛伽と為し、毘盛伽毘盛伽を一毘素陀と為し、毘素陀毘素陀を一毘婆訶と為し、毘婆訶毘婆訶を一毘薄底と為し、毘薄底毘薄底を一毘佉擔と為し、毘佉擔毘佉擔を一称量と為し、称量称量を一一持と為し、一持一持を一異路と為し、異路異路を一顛倒と為し、顛倒顛倒を一三末耶と為し、三末耶三末耶を一毘覩羅と為し、毘覩羅毘覩羅を一奚婆羅と為し、奚婆羅奚婆羅を一伺察と為し、伺察伺察を一周広と為し、周広周広を一高出と為し、高出高出を一最妙と為し、最妙最妙を一泥羅婆と為し、泥羅婆泥羅婆を一訶理婆と為し、訶理婆訶理婆を一一動と為し、一動一動を一訶理蒲と為し、訶理蒲訶理蒲を一訶理三と為し、訶理三訶理三を一奚魯伽と為し、奚魯伽奚魯伽を一達攞歩陀と為し、達攞歩陀達攞歩陀を一訶魯那と為し、訶魯那訶魯那を一摩魯陀と為し、摩魯陀摩魯陀を一懺慕陀と為し、懺慕陀懺慕陀を一毉攞陀と為し、毉攞陀毉攞陀を一摩魯摩と為し、摩魯摩摩魯摩を一調伏と為し、調伏調伏を一離憍慢と為し、離憍慢離憍慢を一不動と為し、不動不動を一極量と為し、極量極量を一阿麽怛羅と為し、阿麽怛羅阿麽怛羅を一勃摩怛羅と為し、勃摩怛羅勃摩怛羅を一伽麽怛羅と為し、伽麽怛羅伽麽怛羅を一那麽怛羅と為し、那麽怛羅那麽怛羅を一奚麽怛羅と為し、奚麽怛羅奚麽怛羅を一鞞麽怛羅と為し、鞞麽怛羅鞞麽怛羅を一鉢羅摩怛羅と為し、鉢羅摩怛羅鉢羅摩怛羅を一尸婆麽怛羅と為し、尸婆麽怛羅尸婆麽怛羅を一翳羅と為し、翳羅翳羅を一薜羅と為し、薜羅薜羅を一諦羅と為し、諦羅諦羅を一偈羅と為し、偈羅偈羅を一窣歩羅と為し、窣歩羅窣歩羅を一泥羅と為し、泥羅泥羅を一計羅と為し、計羅計羅を一細羅と為し、細羅細羅を一睥羅と為し、睥羅睥羅を一謎羅と為し、謎羅謎羅を一娑攞荼と為し、娑攞荼娑攞荼を一謎魯陀と為し、謎魯陀謎魯陀を一契魯陀と為し、契魯陀契魯陀を一摩覩羅と為し、摩覩羅摩覩羅を一娑母羅と為し、娑母羅娑母羅を一阿野娑と為し、阿野娑阿野娑を一迦麽羅と為し、迦麽羅迦麽羅を一摩伽婆と為し、摩伽婆摩伽婆を一阿怛羅と為し、阿怛羅阿怛羅を一醯魯耶と為し、醯魯耶醯魯耶を一薜魯婆と為し、薜魯婆薜魯婆を一羯羅波と為し、羯羅波羯羅波を一訶婆娑と為し、訶婆娑訶婆娑を一毘婆羅と為し、毘婆羅毘婆羅を一那婆羅と為し、那婆羅那婆羅を一摩攞羅と為し、摩攞羅摩攞羅を一娑婆羅と為し、娑婆羅娑婆羅を一迷攞普と為し、迷攞普迷攞普を一者麽羅と為し、者麽羅者麽羅を一駄麽羅と為し、駄麽羅駄麽羅を一鉢攞麽陀と為し、鉢攞麽陀鉢攞麽陀を一毘伽摩と為し、毘伽摩毘伽摩を一烏波跋多と為し、烏波跋多烏波跋多を一演説と為し、演説演説を一無尽と為し、無尽無尽を一出生と為し、出生出生を一無我と為し、無我無我を一阿畔多と為し、阿畔多阿畔多を一青蓮華と為し、青蓮華青蓮華を一鉢頭摩と為し、鉢頭摩鉢頭摩を一僧祇と為し、僧祇僧祇を一趣と為し、趣趣を一至と為すと云えり。「旧華厳経巻29心王菩薩阿僧祇品」に出す所の名声は之と稍異あり。又「華厳経探玄記巻15」に阿僧祇の計数に総じて四説あることを明かし、「阿僧祇は此に無数と云う、即ち数の極なるが故なり。諸の聖教の中に通じて四説あり、一に倶舎論に順ずるに、数六十重に至るを一阿僧祇と名づく。此れ小乗に約す。二に智論第九(現本第四)に依るに数十重に過ぐる已後を阿僧祇と名づく。論に云わく、一一を二と名づけ、二二を四と名づけ、三三を九と名づけ、十十を百と名づけ、十百を千と名づけ、十千を万と名づけ、千万を億と名づけ、千億を那由他と名づけ、千万那由他を頻婆と名づけ、千万頻婆を迦他と名づけ、迦他に過ぐるを阿僧祇と名づく。是の如くにして三阿僧祇を数うと。解して云わく、此れ既に迦他に過ぐと云う。亦即ち通じて後の諸数に過ぐ、故に阿僧祇と名づく。此れ始教に約して説く。三に智論第六(現本第五)に依るに此の品の文を引き還た百数あり、阿僧祇に至る等といえり。此れ終教に約す。四に此の品に依るに百数の僧祇は始めて是れ初数なり。是の如く次第に所数を以って能数に等しくして第十に至るを不可説転と名づく。不可説転等を方に数の極と為す。是の故に前数の数の極は乃ち是れ此の中の初数なり。故に知んぬ此の門は極めて広し。円教に約して辨ずるなり」と云えり。是れ今の十大数は華厳別教一乗の所説にして、小乗始教及び終教等に説く所の数と全く異なるものなることを明らかにするの意なり。又「華厳経普賢行願品巻10」、「華厳経品釈」等に出づ。<(望)
  参考:『大方広仏華厳経巻64』:『爾時善財童子。入普莊嚴園。周遍觀察。見休捨優婆夷。坐於妙座。往詣其所。頂禮其足。遶無數匝。白言。聖者。我已先發阿耨多羅三藐三菩提心。而未知菩薩云何學菩薩行。云何修菩薩道。我聞聖者。善能誘誨。願為我說。休捨告言。善男子。我唯得菩薩一解脫門。若有見聞憶念於我。與我同住。供給我者。悉不唐捐。善男子。若有眾生。不種善根。不為善友之所攝受。不為諸佛之所護念。是人終不得見於我。善男子。其有眾生。得見我者。皆於阿耨多羅三藐三菩提。獲不退轉。‥‥善男子。菩薩初發心無有量。充滿一切法界故。菩薩大悲門無有量。普入一切世間故。菩薩大願門無有量。究竟十方法界故。菩薩大慈門無有量。普覆一切眾生故。菩薩所修行無有量。於一切剎一切劫中修習故。菩薩三昧力無有量。令菩薩道不退故。菩薩總持力無有量。能持一切世間故。菩薩智光力無有量。普能證入三世故。菩薩神通力無有量。普現一切剎網故。菩薩辯才力無有量。一音一切悉解故。菩薩清淨身無有量。悉遍一切佛剎故。善財童子言。聖者。久如當得阿耨多羅三藐三菩提。答言。善男子。菩薩不為教化調伏一眾生故發菩提心。不為教化調伏百眾生故發菩提心。乃至不為教化調伏不可說不可說轉眾生故發菩提心。不為教化一世界眾生故發菩提心。乃至不為教化不可說不可說轉世界眾生故發菩提心。不為教化閻浮提微塵數世界眾生故發菩提心。不為教化三千大千世界微塵數世界眾生故發菩提心。乃至不為教化不可說不可說轉三千大千世界微塵數世界眾生故發菩提心。不為供養一如來故發菩提心。乃至不為供養不可說不可說轉如來故發菩提心。不為供養一世界中次第興世諸如來故發菩提心。乃至不為供養不可說不可說轉世界中次第興世諸如來故發菩提心。不為供養一三千大千世界微塵數世界中次第興世諸如來故發菩提心。乃至不為供養不可說不可說轉佛剎微塵數世界中次第興世諸如來故發菩提心。不為嚴淨一世界故發菩提心。乃至不為嚴淨不可說不可說轉世界故發菩提心。不為嚴淨一三千大千世界微塵數世界故發菩提心。乃至不為嚴淨不可說不可說轉三千大千世界微塵數世界故發菩提心。不為住持一如來遺法故發菩提心。乃至不為住持不可說不可說轉如來遺法故發菩提心。不為住持一世界如來遺法故發菩提心。乃至不為住持不可說不可說轉世界如來遺法故發菩提心。不為住持一閻浮提微塵數世界如來遺法故發菩提心。乃至不為住持不可說不可說轉佛剎微塵數世界如來遺法故發菩提心。如是略說。不為滿一佛誓願故。不為往一佛國土故。不為入一佛眾會故。不為持一佛法眼故。不為轉一佛法輪故。不為知一世界中諸劫次第故。不為知一眾生心海故。不為知一眾生根海故。不為知一眾生業海故。不為知一眾生行海故。不為知一眾生煩惱海故。不為知一眾生煩惱習海故。乃至不為知不可說不可說轉佛剎微塵數眾生煩惱習海故發菩提心。欲教化調伏一切眾生。悉無餘故。發菩提心。欲承事供養一切諸佛。悉無餘故。發菩提心。欲嚴淨一切諸佛國土。悉無餘故。發菩提心。‥‥善財童子言。聖者。此解脫名為何等。答言。善男子。此解脫。名離憂安隱幢。善男子。我唯知此一解脫門。如諸菩薩摩訶薩。其心如海。悉能容受一切佛法。如須彌山。志意堅固。不可動搖。如善見藥。能除眾生煩惱重病。如明淨日。能破眾生無明闇障。猶如大地能作一切眾生依處。猶如好風能作一切眾生義利。猶如明燈能為眾生。生智慧光。猶如大雲能為眾生。雨寂滅法。猶如淨月能為眾生。放福德光。猶如帝釋悉能守護一切眾生。而我云何能知能說彼功德行。』
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻12』:『經說三劫阿僧企耶精進修行方得成佛。於前所說四種劫中。積何劫成三劫無數。累前大劫為十百千。乃至積成三劫無數。既稱無數何復言三。非無數言顯不可數。解脫經說六十數中。阿僧企耶是其一數。云何六十。如彼經言。有一無餘數始為一。一十為十。十十為百。十百為千。十千為萬。十萬為洛叉。十洛叉為度洛叉。十度洛叉為俱胝。十俱胝為末陀。十末陀為阿庾多。十阿庾多為大阿庾多。十大阿庾多為那庾多。十那庾多為大那庾多。十大那庾多為缽羅庾多。十缽羅庾多為大缽羅庾多。十大缽羅庾多為矜羯羅。十矜羯羅為大矜羯羅。十大矜羯羅為頻跋羅。十頻跋羅為大頻跋羅。十大頻跋羅為阿芻婆。十阿芻婆為大阿芻婆。十大阿芻婆為毘婆訶。十毘婆訶為大毘婆訶。十大毘婆訶為嗢蹭伽。十嗢蹭伽為大嗢蹭伽。十大嗢蹭伽為婆喝那。十婆喝那為大婆喝那。十大婆喝那為地致婆。十地致婆為大地致婆。十大地致婆為醯都。十醯都為大醯都。十大醯都為羯臘婆。十羯臘婆為大羯臘婆。十大羯臘婆為印達羅。十印達羅為大印達羅。十大印達羅為三磨缽耽。十三磨缽耽為大三磨缽耽。十大三磨缽耽為揭底。十揭底為大揭底。十大揭底為拈筏羅闍。十拈筏羅闍為大拈筏羅闍。十大拈筏羅闍為姥達羅。十姥達羅為大姥達羅。十大姥達羅為跋藍。十跋藍為大跋藍。十大跋藍為珊若。十珊若為大珊若。十大珊若為毘步多。十毘步多為大毘步多。十大毘步多為跋邏攙。十跋邏攙為大跋邏攙十大跋邏攙為阿僧企耶。於此數中忘失餘八。若數大劫至此數中阿僧企耶名劫無數。此劫無數復積至三。經中說為三劫無數。非諸算計不能數知。故得說為三劫無數。』
  参考:『新華厳経巻45』:『爾時心王菩薩。白佛言。世尊。諸佛如來。演說阿僧祇無量無邊無等不可數不可稱不可思不可量不可說不可說不可說。世尊云何。阿僧祇乃至不可說不可說耶。佛告心王菩薩言。善哉善哉。善男子。汝今為欲令諸世間。入佛所知數量之義。而問如來應正等覺。善男子。諦聽諦聽。善思念之。當為汝說。時心王菩薩。唯然受教。佛言。善男子。一百洛叉。為一俱胝。俱胝俱胝。為一阿庾多。阿庾多阿庾多。為一那由他。那由他那由他。為一頻波羅。頻波羅頻波羅。為一矜羯羅。矜羯羅矜羯羅。為一阿伽羅。阿伽羅阿伽羅。為一最勝。最勝最勝。為一摩婆(上聲呼)羅。摩婆羅摩婆羅。為一阿婆(上)羅。阿婆羅阿婆羅。為一多婆(上)羅。多婆羅多婆羅。為一界分。界分界分。為一普摩。普摩普摩。為一禰摩。禰摩禰摩。為一阿婆(上)鈐。阿婆鈐阿婆鈐。為一彌伽(上)婆。彌伽婆彌伽婆。為一毘[打-丁+羅]伽。毘[打-丁+羅]伽毘[打-丁+羅]伽。為一毘伽(上)婆。毘伽婆毘伽婆。為一僧羯邏摩。僧羯邏摩僧羯邏摩。為一毘薩羅。毘薩羅毘薩羅。為一毘贍婆。毘贍婆毘贍婆。為一毘盛(上)伽。毘盛伽毘盛伽。為一毘素陀。毘素陀毘素陀。為一毘婆訶。毘婆訶毘婆訶。為一毘薄底。毘薄底毘薄底。為一毘佉擔。毘佉擔毘佉擔。為一稱量。稱量稱量。為一一持。一持一持。為一異路。異路異路。為一顛倒。顛倒顛倒。為一三末耶。三末耶三末耶。為一毘睹羅。毘睹羅毘睹羅。為一奚婆(上)羅。奚婆羅奚婆羅。為一伺察。伺察伺察。為一周廣。周廣周廣。為一高出。高出高出。為一最妙。最妙最妙。為一泥羅婆。泥羅婆泥羅婆。為一訶理婆。訶理婆訶理婆。為一一動。一動一動。為一訶理蒲。訶理蒲訶理蒲。為一訶理三。訶理三訶理三。為一奚魯伽。奚魯伽奚魯伽。為一達[打-丁+羅]步陀。達[打-丁+羅]步陀達[打-丁+羅]步陀。為一訶魯那。訶魯那訶魯那。為一摩魯陀。摩魯陀摩魯陀。為一懺慕陀。懺慕陀懺慕陀。為一瑿[打-丁+羅]陀。瑿[打-丁+羅]陀瑿[打-丁+羅]陀。為一摩魯摩。摩魯摩摩魯摩。為一調伏。調伏調伏。為一離憍慢。離憍慢離憍慢。為一不動。不動不動。為一極量。極量極量為一阿麼怛羅。阿麼怛羅阿麼怛羅。為一勃麼怛羅。勃麼怛羅勃麼怛羅。為一伽麼怛羅。伽麼怛羅伽麼怛羅。為一那麼怛羅。那麼怛羅那麼怛羅。為一奚麼怛羅。奚麼怛羅奚麼怛羅。為一鞞麼怛羅。鞞麼怛羅鞞麼怛羅。為一缽羅麼怛羅。缽羅麼怛羅缽羅麼怛羅。為一尸婆麼怛羅。尸婆麼怛羅尸婆麼怛羅。為一翳羅。翳羅翳羅。為一薜羅。薜羅薜羅。為一諦羅。諦羅諦羅。為一偈羅。偈羅偈羅。為一窣步羅。窣步羅窣步羅為一泥羅。泥羅泥羅為一計羅。計羅計羅。為一細羅。細羅細羅。為一睥羅。睥羅睥羅。為一謎羅。謎羅謎羅。為一娑[打-丁+羅]荼。娑[打-丁+羅]荼娑[打-丁+羅]荼。為一謎魯陀。謎魯陀謎魯陀。為一契魯陀。契魯陀契魯陀。為一摩睹羅。摩睹羅摩睹羅。為一娑母羅。娑母羅娑母羅。為一阿野娑。阿野娑阿野娑。為一迦麼羅。迦麼羅迦麼羅。為一摩伽婆。摩伽婆摩伽婆。為一阿怛羅。阿怛羅阿怛羅。為一醯魯耶。醯魯耶醯魯耶。為一薜魯婆。薜魯婆薜魯婆。為一羯羅波。羯羅波羯羅波。為一訶婆婆。訶婆婆訶婆婆。為一毘婆(上)羅。毘婆羅毘婆羅。為一那婆(上)羅。那婆羅那婆羅。為一摩[打-丁+羅]羅。摩[打-丁+羅]羅摩[打-丁+羅]羅。為一娑婆(上)羅。娑婆羅娑婆羅。為一迷[打-丁+羅]普。迷[打-丁+羅]普迷[打-丁+羅]普。為一者麼羅。者麼羅者麼羅。為一馱麼羅。馱麼羅馱麼羅。為一缽[打-丁+羅]麼陀。缽[打-丁+羅]麼陀缽[打-丁+羅]麼陀。為一毘迦摩。毘迦摩毘迦摩。為一烏波跋多。烏波跋多烏波跋多。為一演說。演說演說。為一無盡。無盡無盡。為一出生。出生出生。為一無我。無我無我。為一阿畔多。阿畔多阿畔多。為一青蓮華。青蓮華青蓮華。為一缽頭摩。缽頭摩缽頭摩。為一僧祇。僧祇僧祇。為一趣。趣趣。為一至。至至。為一阿僧祇。阿僧祇阿僧祇。為一阿僧祇轉。阿僧祇轉阿僧祇轉。為一無量。無量無量。為一無量轉。無量轉無量轉。為一無邊。無邊無邊。為一無邊轉。無邊轉無邊轉。為一無等。無等無等。為一無等轉。無等轉無等轉。為一不可數。不可數不可數。為一不可數轉。不可數轉不可數轉。為一不可稱。不可稱不可稱。為一不可稱轉。不可稱轉不可稱轉。為一不可思。不可思不可思。為一不可思轉。不可思轉不可思轉。為一不可量。不可量不可量。為一不可量轉。不可量轉不可量轉。為一不可說。不可說不可說。為一不可說轉。不可說轉不可說轉。為一不可說不可說。此又不可說不可說。為一不可說不可說轉。』
非為一國土微塵等眾生故發心。 一国土の微塵に等しき衆生の為の故に心を発すに非ず。
『一国土』の、
『微塵』にも等しい!、
『衆生』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
  微塵(みじん):梵語aNu-raja或はaNu-rajasの訳。巴梨語同じ、又阿拏、阿菟、阿耨に作り、単に微、或は塵とも称す。即ち眼根所取の最も微細なる色量をいう。『大毘婆沙論巻136』に、「この七極微は一微塵を成す。これ眼と眼識所取の色の中に最も微細なる者なり。これただ三種の眼のみ見る、一に天眼、二に転輪王眼、三に後有に住する菩薩眼なり。七微塵は一銅塵を成す」といい、『倶舎論巻12分別世間品』に、「七極微を一微の量と為し、微を積みて七に至るを一金塵と為す」といえるこれなり。これ一極微が中心となり、その六方に六極微聚集して一微塵を成すことを説けるものなり。また『大智度論巻36』に微塵に大中小の三種有りとし、「この衆微塵に大あり、中あり、小あり。大は遊塵にして見るべく、中は諸天の見る所、小は上聖人の見る所なり。慧眼これを観れば、則ち観る所無し。所以は何んとなれば、性は実に無なればなり」といえり。これ一微塵を小微塵、隙遊塵(vaataayana-cchidra-rajas)を大微塵、中間の銅塵(loha-rajas)等を中微塵と名づけたるものなるが如し。蓋し微塵はその量最小に、かつその数甚だ多きを以って経典中に常に譬喩語等として用いらる。『法華経巻5如来寿量品』に、「譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人ありて抹して微塵と為し、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、かくの如く東行してこの微塵を尽くすが如し」といい、また『新華厳経巻7普賢三昧品』に、「この国土の有らゆる微塵の一一の塵中に世界海微塵数の仏刹あり。一一の刹中に世界海微塵数の諸仏あり。一一の仏前に世界海微塵数の普賢菩薩あり」と云えるが如き、即ちその例なり。また『大智度論巻70』、『成実論巻11』等に出づ。<(望)
非為二三至十百千萬億千萬億阿由陀那由他乃至不可說不可說國土微塵等眾生故發心。 二、三、至十、百、千、万、億、千万億、阿由陀、那由他、乃至不可説不可説の国土の微塵に等しき衆生の為の故に、心を発すに非ず。
『二、三、乃至十、百、千、万、億、千万億』、
『阿由陀、那由他、乃至不可説不可説』の、
『国土』の、
『微塵』にも等しい!、
『衆生』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為一閻浮提微塵等眾生故發心。 一閻浮提の微塵に等しき衆生の為の故に、心を発すに非ず。
『一閻浮提』の、
『微塵』にも等しい!、
『衆生』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
  閻浮提(えんぶだい):梵名jambu-dviipa、四洲の一。須弥山の南に存する大洲の名。即ち吾人等の住する此の世界を指す。『大智度論巻1上注:四洲、同巻35下注:閻浮提』参照。
非為拘陀尼鬱怛羅曰弗婆提微塵等眾生故發心。 劬陀尼、鬱怛羅曰、弗婆提の微塵に等しき衆生の為の故に、心を発すに非ず。
『劬陀尼、鬱怛羅曰、弗婆提』の、
『微塵』にも等しい、
『衆生』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
  劬陀尼(くだに):梵名apara-godaaniiya。四洲の一。須弥山の西に存する大洲の名。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
  鬱怛羅曰(うったらわつ):梵名uttara-kuru。四洲の一。須弥山の北に存する大洲の名。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
  弗婆提(ふばだい):梵名puurva-videha。四洲の一。須弥山の東に存する大洲の名。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
非為小千世界中千世界大千世界微塵等眾生故發心。 小千世界、中千世界、大千世界の微塵に等しき衆生の為の故に、心を発すに非ず。
『小千世界、中千世界、大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『衆生』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
  小千世界(しょうせんせかい):梵語saahasra-cuuDika-loka-dhaatu。千の世界の意。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
  中千世界(ちゅうせんせかい):梵語dvi-saahasra-madhyama-loka-dhaatu。千の小千世界、即ち百万の世界の意。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
  大千世界(だいせんせかい):梵語mahaa-saahasra-loka-dhaatu。千の中千世界、即ち十億の世界の意。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
非為二三至十百千萬億阿由他那由陀乃至不可說不可說三千大千世界微塵等眾生故發心。 二、三、至十、百、千、万、億、阿由他、那由陀、乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき衆生の為の故に、心を発すに非ず。
『二、三、乃至十、百、千、万、億』、
『阿由他、那由陀、乃至不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『衆生』の為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
  三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):梵語tri-saahastra-mahaa-saahasraaH loka-dhaatavaHの訳。四禅天に依りて覆わるる世界の総称にして、即ち大千世界を云う。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
非為供養供給一佛故發心。乃至非為供養供給不可說不可說諸佛故發心。 一仏を供養し、供給せんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の諸仏を供養し、供給せんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏』を、
『供養し!』、
『供給する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
諸の、
『仏』を、
『供養し!』、
『供給する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為供養供給一國土微塵等諸佛故發心。乃至非為供養供給不可說不可說三千大千世界微塵等諸佛故發心。 一国土の微塵に等しき諸仏を供養し、供給せんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき諸仏を供養し、供給せんが為の故に、心を発すに非ず。
『一国土』の、
『微塵』にも等しい!、
諸の、
『仏』を、
『供養し!』、
『供給する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
諸の、
『仏』を、
『供養し!』、
『供給する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為淨一佛土故發心。乃至非為淨不可說不可說三千大千世界微塵等佛土故發心。 一仏土を浄めんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき仏土を浄めんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏土』を、
『浄める!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『仏土』を、
『浄める!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為受持一佛法故發心。乃至非為受持不可說不可說三千大千世界微塵等佛法故發心。 一仏の法を受持せんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき仏の法を受持せんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏』の、
『法』を、
『受持する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『仏』の、
『法』を、
『受持する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為令一三千大千世界中佛種不斷故發心。乃至非為令不可說不可說三千大千世界微塵等三千大千世界中佛種不斷故發心。 一三千大千世界中の仏の種をして、断ぜざらしめんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき三千大千世界中の仏の種を断ぜざらしめんが為の故に、心を発すに非ず。
『一三千大千世界』中の、
『仏』の、
『種』をして、
『断じさせない!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『三千大千世界』中の、
『仏』の、
『種』をして、
『断じさせない!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為分別知一佛願故發心。乃至非為分別知不可說不可說三千大千世界微塵等佛願故發心。 一仏の願を分別して、知らんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき仏の願を分別して、知らんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏』の、
『願』を、
『分別し!』て、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『仏』の、
『願』を、
『分別し!』て、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為莊嚴一佛土故發心。乃至非為莊嚴不可說不可說三千大千世界微塵等佛土故發心。 一仏土を荘厳せんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき仏土を荘厳せんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏』の、
『土(土地)』を、
『荘厳する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『仏』の、
『土』を、
『荘厳する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為分別知一佛會弟子眾故發心。乃至非為分別知不可說不可說三千大千世界微塵等佛會弟子眾故發心。 一仏会の弟子衆を分別して知らんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき仏会の弟子衆を分別して知らんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏』の、
『会』の、
『大衆』を、
『分別し!』て、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『仏』の、
『会』の、
『大衆』を、
『分別し!』て、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為持一佛法輪故發心。乃至非為持不可說不可說三千大千世界微塵等佛法輪故發心。 一仏の法輪を持せんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき仏の法輪を持せんが為の故に、心を発すに非ず。
『一仏』の、
『法輪』を、
『持する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『仏』の、
『法輪』を、
『持する!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為知一人諸心故。 一人の諸心を知らんが為の故に非ず。
『一人』の、
諸の、
『心』を、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為知一人諸根故。 一人の諸根を知らんが為の故に非ず。
『一人』の、
諸の、
『根』を、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為知一三千大千世界中諸劫次第相續故。 一三千大千世界中の諸劫の次第、相続を知らんが為の故に非ず。
『一三千大千世界』中の、
諸の、
『劫』の、
『次第』と、
『相続』とを、
『知る!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
非為分別斷一人諸煩惱故發心。乃至非為分別斷不可說不可說三千大千世界微塵等人諸煩惱故發心。 一人の諸の煩悩を分別して、断ぜんが為の故に、心を発すに非ず。乃至不可説不可説の三千大千世界の微塵に等しき人の諸の煩悩を分別して、断ぜんが為の故に、心を発すに非ず。
『一人』の、
諸の、
『煩悩』を、
『分別し!』て、
『断じる!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
乃至、
『不可説不可説』の、
『三千大千世界』の、
『微塵』にも等しい!、
『人』の、
諸の、
『煩悩』を、
『分別し!』て、
『断じる!』為の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心』を、
『発すのではない!』。
是諸菩薩摩訶薩願言。盡教化一切十方眾生。 是の諸の菩薩摩訶薩の願じて言わく、『一切の十方の衆生を、尽く教化せん。
是の、
諸の、
『菩薩摩訶薩』は願って、
こう言う、――
一切の、
十方の、
『衆生』を、
『尽く!』、
『教化しよう!』。
盡供養供給一切十方諸佛。 一切の十方の諸仏を、尽く供養し、供給せん。
一切の、
十方の、
諸の、
『仏』を、
『尽く!』、
『供養し!』、
『供給しよう!』。
願令一切十方諸佛土清淨。 願わくは、一切の十方の諸仏の土をして、清浄ならしめん。
願わくは、
一切の、
十方の、
諸の、
『仏』の、
『土』を、
『清浄にしよう!』。
  :仏土を清浄にするとは、其の衆生を教化して諸の煩悩を無からしむることを云う。
心堅受持一切十方諸佛法。 心に堅く、一切の十方の諸仏の法を受持せん。』と。
一切の、
十方の、
諸の、
『仏』の、
『法』を、
『心』に、
『堅く!』、
『受持しよう!』。
分別知一切諸佛土故。 一切の諸仏の土を、分別して知らんが故に、
一切の、
諸の、
『仏』の、
『土』を、
『分別し!』て、
『知る!』為の故に、
盡知一切諸佛弟子眾故。 一切の諸仏の弟子衆を、尽く知らんが故に、
一切の、
諸の、
『仏』の、
『弟子衆』を、
『尽く!』、
『知る!』為の故に、
分別知一切眾生諸心故。 一切の衆生の諸の心を、分別して知らんが故に、
一切の、
『衆生』の、
諸の、
『心』を、
『尽く!』、
『知る!』為の故に、
知斷一切眾生諸煩惱故。 一切の衆生の諸の煩悩を、知りて断ぜんが故に、
一切の、
『衆生』の、
諸の、
『煩悩』を、
『知って!』、
『断つ!』為の故に、
盡知一切眾生諸根故。 一切の衆生の諸の根を、尽く知らんが故に、
一切の、
『衆生』の、
諸の、
『根』を、
『尽く!』、
『知る!』為の故に、
諸菩薩發心作阿耨多羅三藐三菩提。 諸の菩薩は、心を発して、阿耨多羅三藐三菩提を作す。
諸の、
『菩薩』は、
『心』を発して、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『作す!』のである。
如是等十門為首。乃至百千萬億阿僧祇門是為道法門。菩薩應知應入略說如是。諸菩薩實道。 是の如き等の十門を首と為し、乃至百千万億阿僧祇の門は、是れ道の為の法門にして、菩薩は応に知るべく、応に入るべし。是の如きを略説すれば、諸の菩薩の実道なり。
是れ等の、
『十』の、
『門』を、
『首』と為して、
乃至、
『百千万億阿僧祇』の、
『門』は、
是れが、
『道』の為の、
『法』の、
『門』であり、
『菩薩』は、
当然、
『知るべき!』であり、
『入らなくてはならない!』のであるが、
略説すれば、
是れは、
諸の、
『菩薩』の、
『実』の、
『道』なのである。
一切諸法皆入皆知。智慧知故一切佛土菩薩道中莊嚴故。 一切の諸法を、皆入り、皆知るとは、智慧もて知るが故に、一切の仏土を、菩薩道の中に荘厳するが故なり。
一切の、
諸の、
『法』に、
『皆、入る!』、
諸の、
『法』を、
『皆、知る!』とは、――
『智慧』を以って、
諸の、
『法』を、
皆、
『知る!』が故に、
『知る!』というのであり、
一切の、
『仏』の、
『土』を、
『菩薩』が、
『道』中に、
『入って!』、
皆、
『荘厳する!』が故に、
『入る!』というのである。
――以上、漚舎那優婆夷の言――
  参考:『新華厳経巻64』:『乃至不為知不可說不可說轉佛剎微塵數眾生煩惱習海故發菩提心。欲教化調伏一切眾生。悉無餘故。發菩提心。欲承事供養一切諸佛。悉無餘故。發菩提心。欲嚴淨一切諸佛國土。悉無餘故。發菩提心。欲護持一切諸佛正教。悉無餘故。發菩提心。欲成滿一切如來誓願。悉無餘故。發菩提心。欲往一切諸佛國土。悉無餘故。發菩提心。欲入一切諸佛眾會。悉無餘故。發菩提心。欲知一切世界中。諸劫次第。悉無餘故。發菩提心。欲知一切眾生心海。悉無餘故。發菩提心。欲知一切眾生根海。悉無餘故。發菩提心。欲知一切眾生業海。悉無餘故。發菩提心。欲知一切眾生行海。悉無餘故。發菩提心。欲滅一切眾生。諸煩惱海。悉無餘故。發菩提心。欲拔一切眾生。煩惱習海。悉無餘故。發菩提心。善男子。取要言之。菩薩以如是等百萬阿僧祇方便行故。發菩提心。善男子。菩薩行。普入一切法。皆證得故。普入一切剎。悉嚴淨故。是故善男子。嚴淨一切世界盡。我願乃盡。拔一切眾生。煩惱習氣盡。我願乃滿。』
  参考:『新華厳経巻18明法品』:『佛子。菩薩。有十種清淨願。何等為十。一願成熟眾生。無有疲倦。二願具行眾善。淨諸世界。三願承事如來。常生尊重。四願護持正法。不惜軀命。五願以智觀察。入諸佛土。六願與諸菩薩。同一體性。七願入如來門。了一切法。八願見者生信。無不獲益。九願神力。住世盡未來劫。十願具普賢行。淨治一切種智之門。佛子。是為菩薩。十種清淨願。』
漚舍那言。善男子我願如是自有世界已來。一切眾生盡清淨。一切煩惱悉斷。 漚舎那の言わく、『善男子、我が願は是の如し、自ら世界を有して已来、一切の衆生は、尽く清浄にして、一切の煩悩は、悉く断ぜり。』と。
『漚舎那』は、
こう言った、――
善男子!
わたしの、
『願』は、
是のようである!
自ら、
『世界』を、
『有した!』時以来、
一切の、
『衆生』は、
『尽く!』が、
『清浄であり!』、
一切の、
『煩悩』は、
『悉く!』が、
『断じられた!』、と。
須達那言。是何解脫。 須達那の言わく、『是れ何の解脱なりや。』と。
『須達那』は、
こう言った、――
是れは、
何ういう!、
『解脱』ですか?と。
漚舍那答言。是名無憂安隱幢。 漚舎那の答えて言わく、『是れを無憂安穏の幢と名づく。』と。
『漚舎那』は、
こう言った、――
是れを、
『無憂安隠』の、
『幢』と、
『称する!』。
我知此一解脫門。不知諸菩薩大心如大海水。一切諸佛法能持能受。諸菩薩心不動如須彌山。諸菩薩如藥王能除一切諸煩惱。諸菩薩如日能照除一切闇。諸菩薩如地能含受一切眾生。諸菩薩如風能益一切眾生。諸菩薩如火能燒一切外道諸煩惱。諸菩薩如雲能雨法水。諸菩薩如月福德光明能照一切。諸菩薩如釋提桓因守護一切眾生。 我れは、此の一解脱門を知り、諸の菩薩の大心は、大海水の如く、一切の諸仏の法を能く持し、能く受くること。諸の菩薩の心の動かざること須弥山の如くなること。諸の菩薩は、薬王の如く、能く一切の諸の煩悩を除くこと。諸の菩薩は、日の如く、能く一切の闇を照除すること。諸の菩薩は、地の如く、能く一切の衆生を含受すること。諸の菩薩は、風の如く、能く一切の衆生を益すること。諸の菩薩は、火の如く、能く一切の外道の諸の煩悩を焼くこと。諸の菩薩は、雲の如く、能く法水を雨ふらすこと。諸の菩薩は、月の如く、福徳の光明をもて、能く一切を照らすこと。諸の菩薩は、釈提桓因の如く、一切の衆生を守護することを知らず。
わたしは、
此の、
『一解脱門』を、
『知っている!』が、
次の事は、
『知らない!』、――
諸の、
『菩薩』の、
『大心』は、
『大海水』のように、
一切の、
『諸仏』の、
『法』を、
『受持することができる!』こと。
諸の、
『菩薩』の、
『心』は、
『須弥山王』のように、
『動かない!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『薬王』のように、
一切の、
諸の、
『煩悩』を、
『除くことができる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『日』のように、
一切の、
『闇』を、
『照除できる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『地』のように、
一切の、
『衆生』を、
『含受できる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『風』のように、
一切の、
『衆生』を、
『益することができる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『火』のように、
一切の、
『外道』の、
諸の、
『煩悩』を、
『焼くことができる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『雲』のように、
『法』の、
『水』を、
『雨ふらすことができる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『月』のように、
『福徳』の、
『光明』で、
『一切』を、
『照らすことができる!』こと。
諸の、
『菩薩』は、
『釈提桓因』のように、
一切の、
『衆生』を、
『守護する!』こと、を。
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):梵名zakradevaanaam-indra。須弥山頂なる忉利天善見城に住する天主の名。『大智度論巻21(下)注:因陀羅』参照。
是菩薩道法甚深。我云何能盡知。以是諸菩薩生大願欲得大事欲至大處故。名摩訶薩埵。 是の菩薩道の法は甚だ深し、我れは云何が、能く尽くを知らん。』と。是を以って、諸の菩薩は、大願を生じて、大事を得んと欲し、大処に至らんと欲するが故に、摩訶薩埵と名づくるなり。
是の、
『菩薩』の、
『道』という!、
『法』は、
甚だ、
『深い!』のである、
わたしに、
何うして、
『尽く!』を、
『知ることができよう!』か?と。
――以上、漚舎那優婆夷の言――
是の故に、
諸の、
『菩薩』を、
其の、
『大願』を生じて、
『大事』を、
『得たい!』と、
『思い!』、
『大処(浄土)』に、
『至ろう!』と、
『思う!』が故に、
是れを、
『摩訶薩埵』と、
『称する!』のである。
復次是般若波羅蜜經中。摩訶薩埵相。佛自說如是。如是相是摩訶薩埵相。 復た次ぎに、是の般若波羅蜜経中に、摩訶薩埵の相を、仏自ら、是の如き、是の如き相は、是れ摩訶薩埵の相なりと説きたまえり。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜経』中にも、
『摩訶薩埵』の、
『相』を、
『仏』は、
自ら、こう説かれている、――
是のような!、
是のような!、
『相』は、
是れが、
『摩訶薩埵』の、
『相である!』、と。
舍利弗須菩提富樓那等諸大弟子。各各說彼品。此中應廣說 舎利弗、須菩提、富楼那等の諸の大弟子も、各各、彼の品を説けり。此の中にも、応に広く説くべし。
『舎利弗』や、
『須菩提』や、
『富楼那』等の、
諸の、
『大弟子』も、
各各、
彼自身の、
『品(品評)』を、
『説いている!』。
此の中にも、
『広く!』、
『説くはず!』である。
  須菩提(しゅぼだい):梵名subhuutiの音訳にして、また蘇補底、須扶提、須浮帝、数浮帝修、浮帝、須楓等に作り、意訳して善業、善吉、善現、善実、善見、空生と為す。乃ち仏十大弟子の一なり。原、舎衛国婆羅門の子にして、智慧人に過ぐるも、然るに性悪劣なれば、瞋恨熾盛にして親友に厭患され、終に家を捨てて山林に入るに、山神これを導いて仏所に詣らしむ。仏は為に瞋恚の過患なるを説けば、師自ら責めて罪を懺悔し、後に須陀洹果を得てまた阿羅漢果を証せり。仏の弟子の中に最も善く空理を解せば、『解空第一』と誉えられ、仏の説法会の中に於いては、常に仏の当機衆に任え、しばしば般若経典中に見ゆ。また『中阿含巻43』、『増一阿含経巻3、巻28』、『大毘婆沙論巻179』、『大智度論巻53』等に出づ。<(佛)
  富楼那(ふるな):仏弟子中の論議第一。『大智度論巻3(上)注:富楼那弥帝隷耶尼子』参照。
  (ほん):しなさだめ。品評。品藻。



大智度初品中菩薩功德釋論第十


陀羅尼、三三昧、等忍

【經】皆得陀羅尼及諸三昧行空無相無作已得等忍 皆、陀羅尼、及び諸三昧を得て、空、無相、無作を行じ、已に等忍を得。
皆、
『陀羅尼』と、
『諸三昧』とを得て、
『空』、
『無相』、
『無作』を、
『行い!』、
已に、
『等忍』を、
『得ている!』。
  陀羅尼(だらに):梵dhaaraNiiに作り、また陀羅那、陀憐尼に作り、意訳して持、総持、能持能遮と為し、以って善法を持ちて散ぜしめず、悪法を持ちてこれを起さしめざる力用と名づく。乃ちこれを分ちて四種と為す、即ち(一)法陀羅尼:仏法を聞持して忘れず、また名聞陀羅尼と名づく。(二)義陀羅尼:諸法の義を総持して忘れざるなり。(三)咒陀羅尼:禅定に依って秘密語を発し不測の神験を有するを咒と謂うに、咒陀羅尼とは咒に於いて総じて忘れざるなり。(四)忍陀羅尼:諸法の実相に安住するを忍と謂うに、忍を持つを名づけて忍陀羅尼と為す。聞、義、咒、忍の四者は所持の法と為すなり、能持の体に由りこれを言う、法、義の二者は念と慧とを以って体と為し、咒は定を以って体と為し、忍は無分別智を以って体と為すなり。<(佛)『大智度論巻42下注:陀羅尼』参照。
  三昧(さんまい):梵語samaadhiの音訳にして、また三摩地、三摩提、三摩帝に作り、意訳して等持、定、正定、定意、調直定、正心行処等に為す。即ち心を将って一処(或は一境)に定め、住して動かざる状態をいう。これを等持と訳せるは、等とは乃ち心を開いて浮(掉挙)沈(惛沈)を離れしめ、平等の安詳を得しむるを指し、持とは則ち心を将って専ら一境に止むる意を指す。『経部』及び『成実論』等にはこれを別の実有の心所と為さず、ただ心の一境に相続して転ずるを三摩地と名づくとせり。蓋し、三摩地、解脱(vimokza)、禅(dhyaana)、及び三摩鉢底(samaapatti)等は、皆心の相続して一境に転ずる状態を指せるものなりといえども、その義は各同じからず。これに関して『大智度論巻28』に「三昧に二種あり、声聞法中の三昧と、摩訶衍法中の三昧となり。声聞法中の三昧とは、謂わゆる三三昧なり。また継ぎに三三昧あり、空空三昧、無相無相三昧、無作無作三昧なり。また三三昧あり、有覚有観、無覚有観、無覚無観なり。また五支三昧、五智三昧等あり。これを諸の三昧と名づく。また次ぎに一切の禅定をまた定と名づけ、また三昧と名づく。四禅を除ける諸余の定をまた定と名づけ、また三昧と名づけ、名づけて禅と為さず。十地の中の定を名づけて三昧と為す」といい、また『十住毘婆沙論巻11』には「禅とは四禅なり、定とは四無色定、四無量心等を皆名づけて定と為す、解脱とは八解脱なり、三昧とは諸禅、解脱を除いて余の定を尽く三昧と名づく。ある人の言わく、三解脱門、及び有覚有観定、無覚有観定、無覚無観定を名づけて三昧と為す、と。ある人の言わく、定は小に、三昧は大なり。この故に一切の諸仏菩薩の所得の定を皆三昧と名づく、と。」と云えり。この中に、諸説あるも、要するに狭義には、ただ空、無相、無願、及び有覚有観等の三を三昧と名づけ、広義には、即ち四禅、及び余の諸定をも皆また称して三昧と為すの意なり。また『雑阿毘曇心論巻6』、『成実論巻12』、『十地経論巻5』、『大乗義章巻13』、『瑜伽師地論巻11』、『倶舎論巻28』、『発智論巻17』、『阿毘曇八揵度論巻26』、『雑阿毘曇心論巻7』等に出づ。<(佛)『大智度論巻20上注:三昧』参照。
  (くう):三三昧の一。空三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  無相(むそう):三三昧の一。無相三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  無作(むさ):三三昧の一。無作三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  三三昧(さんさんまい):梵語trayaH-samaadhayaHの訳語にして、また三三摩地、三等持、三定等に作り、三種の三昧を指す。三昧とは禅定の異称にして、『大乗義章巻13』によれば、心体寂静にして邪乱を離るるを称して、三昧と為す、と云い、この三昧を分って有漏、無漏の二種と為し、有漏の定を三三昧と称し、無漏の定を三解脫門と称す。『増一阿含経巻16』、『大毘婆沙論巻104』等によれば:即ち(一)空三昧(梵zuunyataa-samaadhi):即ち一切の諸法は皆悉く空虚なりと観る空諦の空、無我二行相と相応の三昧にして、諸法は因縁所生たりと観て、我、我所の二者は皆空なりと為す。(二)無相三昧(梵animitta-samaadhi):即ち一切の諸法は皆想念無く、また見るべからずと観て滅諦の滅、静、妙、離四行相と相応の三昧なり。また涅槃は色声香味触の五法、男女二相、及び三有為相の十相を離るるが故に無相と称す。(三)無願三昧(梵apraNihita-samaadhi):また無作三昧、無起三昧に作り、即ち一切の諸法に対して願求する所の無き、苦諦の苦、無常二行相、集諦の因、集、生、縁四行相と相応の三昧なり。『増一阿含経巻16』には「これに三三昧あり、云何が三と為す、空三昧、無願三昧、無相三昧なり。云何が彼を名づけて空三昧と為す、謂わゆる空とは一切の諸法は皆悉く空虚なりと観る、これを謂って空三昧と為す。云何が彼を名づけて無相三昧と為す、謂わゆる無相とは一切の諸法に於いて都て想念無く、また不可見なる、これを謂って無相三昧と為す。云何が名づけて無願三昧と為す、謂わゆる無願とは一切の諸法に於いてまた願求せざる、これを謂って無願三昧と為す。かくの如く比丘、この三三昧を得ざることあらば、久しく生死に在りて自ら覚悟する能わず」と云えるも、蓋し三三昧の解釈に就いては諸論の説に不同あり、『大毘婆沙論巻104』には「三縁に由るが故にただ三を建立す。一に対治の故に、二に期心の故に、三に所縁の故なり」と云えり。対治の故にとは、空三摩地は対治に約して建立せしものにして、即ち有身見の近対治なるをいう。謂わゆる非我の行相を以って我の行相を対治し、空の行相を以って我所の行相を対治するなり。期心の故にとは、無願三摩地は諸の修行者の期心に約して建立せしものにして、即ち三有の法を願わざるを言う。所縁の故にとは、無相三摩地は所縁に就いて建立せしものにして、即ちこの定の所縁は色等の十相を離るるを云うなり。また『倶舎論巻28』には「空三摩地は、謂わゆる空と非我との二種の行相と相応する等持なり。無相三摩地は謂わゆる滅諦を縁ずる四種の行相と相応する等持なり。涅槃は十相を離るるが故に無相と名づけ、彼を縁ずる三摩地に無相の名を得。謂わゆる色等の五と男女の二種と三有為の相となり。無願三摩地は、謂わゆる余の諦を縁ずる十種の行相と相応する等持なり。非常と苦と因とは厭患すべきが故に、道は船筏の如く必ず捨つべきが故に、よくかれを縁ずる定に無願の名を得。皆現の所対を超過せんが為の故なり。空と非我との二相は厭捨する所に非ず、涅槃の相と相似するを以っての故なり。このこの三に各二種有り、謂わゆる浄及び無漏なり。世と出世の等持は別なるが故なり。世間の摂なる者は十一地に通じ、出世の摂なる者はただ九地に通ず」と云えり。これ行相差別によりて三三摩地を建立するの説なり。また『大智度論巻20』には三解脱門に就いて「摩訶衍中にはこれは一法にして、行の因縁を以っての故に、三種有りと説く、諸法の空を観るに、これを空と名づけ、空中に於いて相を取るべからざれば、この時空転じて無相と名づけ、無相中にはまさに所作有りて三界の生を為すべからざれば、この時無相転じて無作と名づく」、と云いて大乗的解釈と為せり。<(佛)『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  等忍(とうにん):忍は忍辱、忍耐、堪忍、認許、認可、安忍等の意にして、即ち等忍とは、一切の衆生を等しいと認可し、忍耐するを云う。「大智度論巻5」に「復た次ぎに、一切の衆生中に、種種の相を著せず。衆生相と空相とは一等無異なりと、是の如く観る、是れを衆生等と名づく。若し人、是の中に於いて心等しく無礙なれば、直ちに不退に入る、是れを等忍を得と名づく。等忍を得たる菩薩は、一切の衆生に於いて瞋らず、悩ませざること慈母の子を愛するが如し」と云える是れなり。
【論】問曰。何以故。以此三事次第讚菩薩摩訶薩。 問うて曰く、何を以ってか、此の三事を以って、次第に、菩薩摩訶薩を讃ずる。
問い、
何故、
此の、
『三事(陀羅尼、三昧、等忍)』を以って、
次第に(次々と)、
『菩薩摩訶薩』を、
『讃じる!』のですか?
答曰。欲出諸菩薩實功德故。應讚則讚應信則信。以一切眾生所不能信甚深清淨法。讚菩薩。 答えて曰く、諸の菩薩の実の功徳を出さんと欲するが故に、応に讃ずべくんば則ち讃じ、応に信ずべくんば応に信じて、一切の衆生の信ずる能わざる所の甚深清浄の法を以って、菩薩を讃ず。
答え、
諸の、
『菩薩』の、
『実』の、
『功徳』を、
『出そう!』とするが故に、
『讃じなくてはならない!』、
『功徳』を、
『讃じ!』、
『信じなくてはならない!』、
『功徳』を、
『信じ!』て、
一切の、
『衆生』には、
『信じられない!』ような、
『甚だ深く!』、
『清浄な!』、
『法』を以って、
『菩薩』を、
『讃じた!』のである。
復次先說菩薩摩訶薩名字。未說所以為菩薩摩訶薩。以得諸陀羅尼三昧及忍等諸功德故。名為菩薩摩訶薩。 復た次ぎに、先に、菩薩摩訶薩の名字を説きたるも、未だ、菩薩摩訶薩と為す所以を説かず。諸の陀羅尼、三昧、及び忍等の、諸の功徳を得るを以っての故に、名づけて、菩薩摩訶薩と為す。
復た次ぎに、
先に、
『菩薩摩訶薩』という!、
『名字』を、
『説いた!』が、
未だ、
『菩薩摩訶薩』と、
『為す(称する)!』、
『所以(理由)』を、
『説いていない!』。
『菩薩摩訶薩』とは、
諸の、
『陀羅尼』や、
『三昧』や、
『忍』等の、
諸の、
『功徳』を、
『得ている!』ので、
故に、
『菩薩摩訶薩』と、
『称する!』のである。
問曰。已知次第義。何以故名陀羅尼。云何陀羅尼。 問うて曰く、已に次第の義を知る。何を以っての故にか、陀羅尼と名づくる。云何が陀羅尼なる。
問い、
已に、
『次第に讃じた!』、
『義(意味)』を、
『知った!』。
何故、
『陀羅尼』と、
『称する!』のですか?
何のような、
『陀羅尼』ですか?
答曰。陀羅尼秦言能持。或言能遮。 答えて曰く、陀羅尼は、秦に能持と言い、或いは能遮と言う。
答え、
『陀羅尼』とは、
『保持する!』ことを、
『言い!』、
或いは、
『遮断する!』ことを、
『言う!』。
能持者。集種種善法。能持令不散不失。譬如完器盛水水不漏散。 能持とは、種種の善法を集めて、能く持し、散ぜしめず、失せしめず。譬えば、完き器に、水を盛れば、水は漏散せざるが如し。
『能持(保持)』とは、――
種種の、
『善法』を、
『集めた!』ならば、
『能く(善く)!』、
『保持して!』、
『散失させない!』ことである。
譬えば、
『完全な!』、
『器』に、
『水』を、
『盛る!』ならば、
『水』は、
『漏れず!』、
『散失しない!』のと同じである。
   善法(ぜんぽう):梵語kuzalaa-dharmaaHの訳語にして、善に合する一切の道理を指し、即ち五戒(不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)、十善(不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪、不瞋、正見)、三学(戒、定、慧)、六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)等を指し、謂わゆる悪法の対称なり。通常、五戒、十善を世間の善法、三学、六度を出世間の善法と為すも、二は深浅の差異有りといえども、皆順理、益世の法たるが故に、称して善法と為す。<(佛)
能遮者。惡不善根心生。能遮令不生。若欲作惡罪。持令不作。是名陀羅尼。 能遮とは、悪不善根、心に生ずるを、能く遮して、生ぜざらしむ。若しは、悪罪を作さんと欲せば、持して作さざらしむ。是れを陀羅尼と名づく。
『能遮(遮断)』とは、――
『不善()根』が、
『心』に、
『生じる!』のを、
『遮り!』、
『心』に、
『生じさせない!』ことである。
若しは、
『悪罪』を、
『作そう!』と、
『思った!』時、
『戒』を、
『持(たも)って!』、
『作させない!』、
是れを、
『陀羅尼』と、
『称する!』のである。
  善根(ぜんこん)、不善根(ふぜんこん):梵語akuzala-muulaを不善根、梵語kuzala-muulaを善根と意訳し、即ち地獄、餓鬼、畜生の三悪趣に生じる根本的煩悩を三不善根、即ち貪不善根、恚不善根、癡不善根と称し、人天の二善処及び涅槃を得る根本的善を三善根、即ち不貪善根、不恚善根、不癡善根と称す。『増一阿含経巻13』、『大智度論巻2上注:善根』参照。
  参考:『増一阿含経巻13』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有此三不善根。云何為三。貪不善根.恚不善根.癡不善根。若比丘有此三不善根者。墮三惡趣。云何為三。所謂地獄.餓鬼.畜生。如是。比丘。若有此三不善根者。便有三惡趣。比丘當知。有此三善根。云何為三。不貪善根.不恚善根.不癡善根。是謂比丘有此三善根。若有此三善根者。便有二善處。涅槃為三。云何二趣。所謂人.天是也。是謂比丘有此三善者。則生此善處。是故。諸比丘。當離三不善根。修三善根。如是。諸比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
是陀羅尼或心相應。或心不相應。或有漏或無漏。無色不可見無對一持一入一陰攝。法持法入行陰九智知(丹注云除盡智)一識識(丹注云一意識)阿毘曇法。陀羅尼義如是。 是の陀羅尼は、或いは心相応、或いは心不相応、或いは有漏、或いは無漏、無色、不可見無対にして、一持、一入、一陰に摂す、法持、法入、行陰なり、九智に知り(丹注に云わく、尽智を除く)、一識に識る(丹注に云わく、一意識なり)。阿毘曇法には、陀羅尼の義是の如し。
是の、
『陀羅尼』は、
『心相応』か、『心不相応』、
『有漏』か、『無漏』、
『無色』の、『不可見無対』、
『一持、一入、一陰』、
謂わゆる、
『法持、法入、行陰』に、
『摂し(ふくまれ)!』、
『九智(十智中より滅智を除く)』を以って、  ――丹注には尽智と云う――
『知り!』、
『一識(意識)』を以って、
『識る!』と、
『阿毘曇』の、
『法』中に説く!、
『陀羅尼』の、
『義』は、
是の通りである。
  心相応行(しんそうおうぎょう):また心相応、心相応行法に作り、一切の心所法を指す。即ち心の働きなり。心所法は心王と同時に起きて作用するが故に心(王)相応と称し、その有為法に係わるを以っての故に行と称す。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  心不相応行(しんふそうおうぎょう):また心不相応、心不相応行法に作り、五衆(色受想行識)中の行衆に摂するも、無想定の如く心、心所に相応しないもの。即ち梵語citta-viprayukta-saMskaaraの訳語にして、乃ち倶舎家、唯識家等は一切の諸法に関して色法、心法、心所法、心不相応行法、無為法の五位を立て、その中の第四を指す。これは即ち色、心二法に属せず、心に相応せざる有為法の聚集なり。「説一切有部」の義によれば、色、心及び心所の外に在りて、別に心不相応の実法有り、その体は有為法に係わり、また五蘊中の行蘊所摂と為すが故に心不相応行と称す。「経部」、「唯識」等は則ち不相応行は乃ち色、心の分位に於いて仮に立つる所なれば、並べて実法に非ずと主張せり。心不相応行の数に関して、諸種の異説あり、「倶舎」は得、非得、同分、無想果、滅尽定、命根、生、住、異、滅、名身、句身、文身等の十四種の不相応行法を挙げ、「順正理論巻12」には、これに、和合性を加えて十五を立て、「品類足論巻1」には、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、依得、事得、処得、生、老、住、無常性、名身、句身、文身等の十六法を挙げ、この外に、「分別部」、及び「犢子部」等は、睡眠を将ってまた計りて不相応法と為し、「唯識」では「瑜伽師地論巻3」に、得、無想定、滅尽定、無想異熟、命根、衆同分、生、老、住、無常、名身、句身、文身、異生性、流転、定異、相応、勢速、次第、時、方、数、和合及び不和合等二十四種の不相応行法を挙げ、「大乗阿毘達磨集論巻1」には、不和合を除いて二十三不相応行法を説き、「大乗五蘊論」には則ち得、無想等至、滅尽等至、無想所有、命根、衆同分、生、老、住、無常、名身、文身、異生性等の十四法を出だせり。<(望)『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
  無色(むしき):色蘊無きことの意。
  不可見無対(ふかけんむたい):見るべからざる無対の法の意。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  (じ)、(にゅう)、(おん):五陰、十二入、十八持の略なり。『大智度論巻5上注:三科』参照。
  三科(さんが):陰入持とは、五陰(五衆、五蘊)、十二入(十二処)、十八持(十八界)の略にして、また陰入界、蘊処界に作り、通常これを三科と称す。何れも諸法万有を分類したる名目なり。『倶舎論巻1』の頌に「愚と根と楽との三の故に、蘊処界を説く」とあり、これは色心等に愚なる差別と、機根に利中鈍の異あると、及び楽欲の不同とに由りて、この三科を別に説くことを示したるなり。就中、愚の差別とは、心所に愚なる者の為には、心所を委細にして五蘊を説き、色法に愚なる者の為には、色法を委細にして十二処を説き、色心二法に愚なる者の為には、色心二法を委細にして十八界を説くをいい、根の差別とは、利根の者の為には五蘊、中根の為には十二処、鈍根の為には十八界を説くをいい、楽欲の不同とは、略説を欲する者の為には五蘊、中説を欲する者の為には十二処、広説を欲する者の為には十八界を説くを云うなり。<(望)『大智度論巻1(下)注:三科』参照。
  五蘊(ごうん):梵語paJca-skandhaの訳語にして、また五陰、五衆、五聚に作り、三科の一なり。蘊(梵skandha、塞揵陀と音訳す)とは、乃ち積聚、類別の意にして、即ち一切の有為法を類聚するに五種の別あるをいう。『集異門足論巻11』によれば、(一)色蘊(梵ruupa-skandha):即ち一切の色法の類従なり。(二)受蘊(梵vedanaa-skandha):即ち苦、楽、捨、及び眼触等所生の諸受なり。(三)想蘊(梵saMjJaa-skandha):眼触等所生の諸想なり。(四)行蘊(梵saMskaara-skandha):即ち色、受、想、識以外の一切の有為法にして、また即ち意志と心との作用なり。(五)識蘊(梵vijJaana-skandha):即ち眼識等諸識の各類聚なり。五蘊は有漏、無漏、及び善、不善、無記の三性に通じ、故に緒論中にもまた各種の名称を以ってその殊別を説明す。「倶舎」等は七十五法を立て、その中、十一種の色法を色蘊、心所有法の一種たる受を受蘊、想を想蘊、余の心所有法の四十四種、及び十四種の心不相応行法を行蘊、一種の心法を色蘊に摂し、総じて有為七十二法を類聚して五蘊と為す。「唯識」等は百法を立て、その中、初の三蘊は倶舎に同じきも、行蘊に心所有法の余の四十九種、及び二十四種の心不相応行法、識蘊に八種の心法を摂し、合して有為九十四法を五蘊に摂すと為せり。またこの中、色受想行識と次第せる所以に就き、「瑜伽師地論巻54」には、生起所作、対治所作、流転所作、住所作、安立所作の五種の別あることを説けり。即ち生起所作とは、眼は色を縁となして眼識を生じ、乃至意は諸法を縁となしてよく意識を生ず。故に初に色蘊を説き、次ぎに識蘊を説き、次第に受等の心所を生ずるが故に、次ぎに受想行の次第に依りてこれを説くを云い、対治所作とは、常楽我淨の四種の顛倒を対治するに四念住を説く中、先づ色蘊を説きて浄倒を対治し、次ぎに受蘊を説くことに由りて楽倒を対治し、次ぎに識蘊を説きて我倒を除き、次ぎに想行の二蘊を説きて常倒を対治するを云い、流転所作とは、凡夫はよく根及び境界を依止とし、これを受用して諸の雑染心を生じ、種種の境界を画作し、善不善の業を造作するが故に、次第に色受想行と説き、識蘊は一切の所染なるが故に後にこれを説くとなすを云い、住所作とは、色識住、受識住、想識住、行識住の四識住及び識の次第に依るとなすを云い、安立所作とは、諸の世間は先づ色を了するが故に色蘊を立て、次ぎに受によりて進退苦楽を知るが故に受蘊を立て、想蘊によりてかくの如きの類、かくの如きの性を分別するが故に次ぎに想蘊を立て、行蘊によりてかくの如きの愚智を知るが故に次ぎに行蘊を立て、識蘊によりて内我を安立するが故に後にこれを説くとなすを云うなり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻1」に依るに、五種の我事を顕さんが為にただ色等の五蘊を建立すと云えり。五種の我事とは、一に身具我事、二に受用我事、三に言説我事、四に造作一切法非法我事、五に彼所依止我自体事なり。就中、身具とは、身は内の五根の所依にして、色境は我の資具なるを云う、これ即ち内外の色蘊を摂す。受用とは、我が身に依りて諸の境界に於いて苦楽を受用するを云う、即ち受蘊なり。言説とは、己と他とに随って言説を起するを云う、即ち想蘊なり。造作一切法非法とは、我の善不善の所行を云う、即ち行蘊なり。彼所依止とは、識はこれ身具等の所依にして、有情多くこれを計執して我の自体事と作す、即ち識蘊なり。この中、初の四は我の衆具事、後の一は我の自体事なり。これは蓋し五蘊の施設は畢竟衆生の我執を破し、無我の理に達せしむるが為なることを明せり。また五蘊に就きては種種多数に亘る論説あり、枚挙するに暇なし。<(望)
  十二処(じゅうにしょ):梵語aayatanaaniの訳語にして、また十二入、或は十二入処に作る。三科の一にして、即ち、処は生長等の義なり。即ち心心所を長養する法を十二種に分類せるもの。即ち(一)眼処(梵cakSur-aayatana)、(二)耳処(梵zrotraayatana)、(三)鼻処(梵ghraaNaayatana)、(四)舌処(梵jihvaayatana)、(五)身処(梵kaayaayatana)、(六)意処(梵mana-aayatana)、(七)色処(梵ruupaayatana)、(八)声処(梵zabdaayatana)、(九)香処(梵gandhaayatana)、(十)味処(梵rasaayatana)、(十一)触処(梵spraSTavyaayatana)、(十二)法処(梵dharmaayatana)なり。「雑阿含経巻13」に「云何が一切と名づくる。仏、婆羅門に告げたまわく、一切とは謂わゆる十二入処なり、眼、色、耳、声、鼻、香、舌、味、身、触、意、法、これを一切と名づく」と云い、「大毘婆沙論巻71」に「所依及び所縁の愚なる者の為に、十二処を説く、謂わゆる分別の識に六の所依と六の所縁とあるが故なり」と云えるこれなり。この中、眼等の六は、心心所の所依にしてこれを六内処と名づけ、色等の六は、心心所の所縁にしてこれを六外処と名づく。また眼耳鼻舌身及び色声香味触の十処は、謂わゆる十色処にして五蘊の中の色蘊(無表色を除く)に当り、意処は即ち識蘊にして、六識及び意界の七心界を摂し、法処は受想行の三蘊即ち四十六心所及び十四不相応行、並びに無表色、及び三無為の六十四法を摂し、総じてこの十二に有為無為の一切の法を摂し尽くす。また大乗所立の百法に就いて分別せば、十色処の外、意処に八識を摂し、法処に五十一心所、二十四不相応行、六無為及び法処所摂の色の八十二法を摂す。蓋し三科の法門中、五蘊は略にして利根、十八界は広にして鈍根の為にするに対し、十二処は略ならず広ならず、即ち中根にして特に色に愚なる者の為にこれを説くなり。<(望)
  十八界(じゅうはっかい):梵語aSTaadaza dhaatavaHの訳語にして、十八の種族の意なり、また十八持に作り、三科の一にして、即ち一身中に能依の識、所依の根及び所縁の境の十八類の種族あるを云う。即ち(一)眼界(梵cakSur-dhaatu)、(二)色界(梵ruupa-dh.)、(三)眼識界(梵cakSur-vijJaana-dh.)、(四)耳界(梵zrotra-dh.)、(五)声界(梵zabda-dh.)、(六)耳識界(梵zrotra-vijJaana-dh.)、(七)鼻界(梵gharaaNa-dh.)、(八)香界(梵gandha-dh.)、(九)鼻識界(梵gharaaNa-vijJaana-dh.)、(十)舌界(梵jihvaa-dh.)、(十一)味界(梵rasa-dh.)、(十二)舌識界(梵jihvaa-vijJaana-dh.)、(十三)身界(梵kaaya-dh.)、(十四)触界(梵spraSTavya-dh.)、(十五)身識界(梵kaaya-vijJaana-dh.)、(十六)意界(梵mano-dh.)、(十七)法界(梵dharma-dh.)、(十八)意識界(梵mano-vijJaana-dh.)なり。「雑阿含経巻16」に「云何が種種界なる。謂わゆる十八界なり。眼界色界眼識界、乃至意界法界意識界なり。これを種種界と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に「何に縁りてか十八界を立つることを得る。頌して曰わく、第六の依を成ずるが故に、十八界なることまさに知るべし。論じて曰わく、五識界の如きは別に眼等の五界ありて依と為す。第六意識は別の所依なり。この依を成ぜんが為の故に意界を説く。かくの如く所依と能依と境界とに、まさに知るべし、各六界ありて十八を成ずることを」と云えるこれなり。これ根、境、識の三に各六界の別あるが故に総じて十八界を成ずることを説けるものにして、即ち十二処中の眼処乃至意処を、各所依の根と能依の識とに分別したるものなり。この中、眼識の所依たる眼根を眼界と名づけ、眼識の所縁たる色境を色界と名づけ、色界を了別する眼識を眼識界と名づけ、乃至意識の所依たる無間滅の意根を意界と名づけ、意識の所縁たる法境を法界と名づけ、法界を了別する意識を意識界と名づくるなり。就中、法界とは十二処中の法処の如く、無表色、四十六心所法、十四不相応行、及び三無為の六十四法を摂す。もし大乗百法に就いてこれを云わば、五十一心所、二十四不相応行、六無為及び法処所摂色の八十二法を摂するものなり。また界の意義に関し、「大毘婆沙論巻71」には種族の義、段の義、分の義、片の義、異相の義、不相似の義、分斉の義、種種因の義、馳流の義、任持の義、長養の義の十一義を出だし、就中、「倶舎論巻1」には「法の種族の義はこれ界の義なり。一の山中に多の銅鉄金銀等の族あるを説きて多界と名づくるが如く、かくの如く一身、或は一相続に十八種の諸法の種族あるを十八界と名づく。この中の種族はこれ生本の義なり。かくの如き眼等は誰が生本なる、謂わく自の種類の同類因なるが故なり」と云えり。これ界を以って種族即ち生本の義と為し、眼等は各皆自類の同類因となり、また無為法は心心所法の生ずる本となるが故に、総じてこれを界と名づくることを明にせるなり。<(望)
  十智(じっち):法智、比智、世智、他心智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  参考:『品類足論巻9』:『意業一界一處一蘊攝。九智知。除滅智。一識識。』
復次得陀羅尼菩薩。一切所聞法以念力故。能持不失。 復た次ぎに、陀羅尼を得たる菩薩は、一切の所聞の法を、念力を以っての故に、能く持して失せず。
復た次ぎに、
『陀羅尼』を、
『得た!』、
『菩薩』は、
『念』の、
『力』を以っての故に、
一切の、
『聞く!』所の、
『法』を、
『記憶し!』て、
『忘失しない!』のである。
復次是陀羅尼法常逐菩薩。譬如間日瘧病。是陀羅尼不離菩薩。譬如鬼著。是陀羅尼常隨菩薩。如善不善律儀。 復た次ぎに、是の陀羅尼の法の、常に菩薩を逐うこと、譬えば間日の瘧病の如し。是の陀羅尼の、菩薩を離れざること、譬えば鬼の著くが如し。是の陀羅尼の、常に菩薩に随うこと、善不善の律儀の如し。
復た次ぎに、
是の、
『陀羅尼』は、
常に、
『菩薩』を、
『逐う!』ので、
譬えば、
『間日(一日おきに発る!)』の、
『瘧病(マラリア)』のようだ。
是の、
『陀羅尼』は、
『菩薩』を、
『離れない!』ので、
譬えば、
『鬼神』が、
『著いた!』ようだ。
是の、
『陀羅尼』は、
常に、
『菩薩』に、
『随う!』ので、
譬えば、
『善、不善』の、   ――善悪の因果の必定なるが如し――
『律儀』のようだ。
  間日(けんにち):日を隔てること。
  瘧病(ぎゃくびょう):おこり。一種の熱病。日を隔て、又は毎日時を定めて発し、或いは寒く、或いは熱くなる病。マラリア。
  (き):また餓鬼に作り、梵語pretaの訳語にして、また音訳して薜荔哆に作る。即ち恐怖の形相を具有し、人をして悩害せしむる衆生を指し、五道の一、六道の一と為す。六道中に所立の餓鬼道は、諸天の駆使に遭うて常に飢渇する者にして、別に弊鬼、有威徳鬼、無威徳鬼、多財餓鬼、無財餓鬼等有りて、皆閻魔王界に住す。『大智度論巻16上注:餓鬼』参照。
  善律儀(ぜんりちぎ)、不善律儀(ふぜんりちぎ):時を定め事を定めてこれを守り行うを律儀といい、これに善悪の二種有り、即ち戒法の如きを善の律儀、漁猟の如きを悪律儀と為し、就中、十不善業の中より貪欲、瞋恚、邪見を除ける殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語を指して七不善律儀と称し、これに反するを七善律儀と称す。『大智度論巻13下注:善律儀、同巻24上注:悪律儀』参照。
復次是陀羅尼。持菩薩不令墮二地坑。譬如慈父愛子。子欲墮坑。持令不墮。 復た次ぎに、是の陀羅尼は、菩薩を持して、二地の坑に堕ちしめざること、譬えば慈父の子を愛し、子坑に堕ちんと欲するに、持して、堕ちざらしめんが如し。
復た次ぎに、
是の、
『陀羅尼』は、
『菩薩』を持して、
『二地(声聞、辟支仏)』の、
『坑』に、
『堕ちさせない!』。
譬えば、
『父』は、
『子』を、
『愛している!』ので、
『子』が、
『坑』に、
『堕ちよう!』とすると、
『子』を、
『保持し!』て、
『堕ちないようにさせる!』のと同じである。
復次菩薩得陀羅尼力故。一切魔王魔民魔人。無能動無能破無能勝。譬如須彌山凡人口吹不能令動。 復た次ぎに、菩薩は陀羅尼の力を得るが故に、一切の魔王、魔民、魔人も、能く動かす無く、能く破る無く、能く勝つ無し。譬えば須弥山を、凡人の口もて吹けども、動かしむる能わざるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『陀羅尼』の、
『力』を、
『得る!』が故に、
一切の、
『魔王、魔民、魔人』には、
『動かす!』ことの、
『できる!』者は、
『無く!』、
『破る!』ことの、
『できる!』者も、
『無く!』、
『勝つ!』ことの、
『できる!』者も、
『無い!』のであり、
譬えば、
『須弥山』を、
『凡人』が、
『口』で、
『吹いた!』としても、
『動かす!』ことの、
『できる!』者が、
『無い!』のと同じである。
問曰。是陀羅尼有幾種。 問い、是の陀羅尼に、幾ばくの種か有る。
問い、
是の、
『陀羅尼』には、
『幾種』、
『有る!』のですか?
答曰。是陀羅尼多種。一名聞持陀羅尼。得是陀羅尼者。一切語言諸法耳所聞者皆不忘失。是名聞持陀鄰尼。 答えて曰く、是の陀羅尼は多種にして、一を聞持陀羅尼と名づけ、是の陀羅尼を得れば、一切の語言の諸法の、耳に聞く所は、皆、忘失せず、是れを聞持陀隣尼と名づく。
答え、
是の、
『陀羅尼』は、
『多種』であり、
一を、
『聞持陀羅尼』といい、
是の、
『陀羅尼』を、
『得た!』者は、
一切の、
『語言(ことば)』を以って、
『説かれる!』、
『諸法』を、
『耳』に、
『聞こえた!』分は、
『皆(何もかも)』、
『忘失しない!』ので、
是れを、
『聞持陀隣尼(陀羅尼)』と、
『称する!』のである。
復有分別知陀羅尼。得是陀羅尼者。諸眾生諸法大小好醜分別悉知。如偈說
 諸象馬金  木石諸衣 
 男女及水  種種不同 
 諸物名一  貴賤理殊 
 得此總持  悉能分別
復た分別知陀羅尼有り、是の陀羅尼を得れば、諸の衆生、諸の法の大小、好醜の分別を尽く知る。偈に説くが如し、
諸の象、馬、金、木、石、諸の衣、
男、女、及び水は、種種同じからず。
諸の物は名は一なれど、貴賎の理を殊にす、
此の総持を得れば、悉く能く分別す。
復た、
『分別知陀羅尼』が有り、
是の、
『陀羅尼』を、
『得た!』者は、
諸の、
『衆生』や、
諸の、
『法』の、
『大、小』、
『好、醜』を、
『分別』して、
『悉く!』を、
『知る!』のであり、
例えば、
『偈』に説く!通りである、――
諸の、
『象、馬、木、石』や、
諸の、
『衣、男、女、水』などは、
『種種』に、
『同じではない!』し、
諸の、
『物』は、
『名』が、
『一』であっても、
『貴、賎』の、
『理(たち)』が、
『殊()なる!が、
此の、
『総持(陀羅尼)』を得れば、
悉くを、
『分別する!』ことが、
『できる!』。
  (り):たち。さが。性質。
  総持(そうじ):梵語陀羅尼dhaaraNiiの訳。善を持ちて失わず、悪を持ちて起たしめざるの義なり。念と定、慧とを以ってその体と為し、菩薩所修の念、定、慧にこの功德を具う。『大智度論巻42下注:陀羅尼』参照。
  :陀羅尼dhaaraNiiの語は、「持す」、「保つ」の義なる語根dhRより来たれる語にして、原義に記憶して忘れざるの意を有し、即ち一種の記憶法を云うが如し。
復有入音聲陀羅尼。菩薩得此陀羅尼者。聞一切語言音。不喜不瞋。一切眾生如恒河沙等劫。惡言罵詈心不憎恨。 復た入音声陀羅尼有り、菩薩の、此の陀羅尼を得る者は、一切の語言の音を聞きて、喜ばず瞋らず。一切の衆生の恒河沙に等しきが如き劫、悪言、罵詈せんにも、心に憎恨せず。
復た別の、
『入音声陀羅尼』が有り、
『菩薩』が、
此の、
『陀羅尼』を、
『得た!』ならば、
一切の、
『語言』の、
『音』を、
『聞いて!』も、
其れを、
『喜ぶこともなく!』、
『瞋ることもない!』。
一切の、
『衆生』が、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『劫』、
『悪言し!』、
『罵詈した!』としても、
其れを、
『憎むこともなく!』、
『恨むこともない!』。
問曰。菩薩諸漏未盡。云何能如恒河沙等劫。忍此諸惡。 問うて曰く、菩薩の諸漏は、未だ尽きず。云何が、能く恒河沙に等しきが如き劫、此の諸悪を忍ばん。
問い、
『菩薩』の、
諸の、
『漏』は、
『未だ!』、
『尽きていない!』。
何故、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『劫』、
此の、
諸の、
『悪』を、
『忍ぶことができる!』のですか?
答曰。我先言得此陀羅尼力故能爾。 答えて曰く、我れ先に言えり、『此の陀羅尼の力を得るが故に、能く爾り。』と。
答え、
わたしは、
先に、
こう言ったはずだ、――
此の、
『陀羅尼』の、
『力』を、
『得た!』が故に、
爾のような、
『事』が、
『できる!』のだ、と。
復次是菩薩雖未盡漏。大智利根能思惟。除遣瞋心作是念。若耳根不到聲邊。惡聲著誰。 復た次ぎに、是の菩薩は、未だ漏尽きずと雖も、大智、利根なれば、能く思惟して、瞋心を除遣し、是の念を作さく、『若し耳根、声の辺に到らざれば、悪声は、誰にか著(つ)かん。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『漏』が、
『尽きていない!』が、
而し、
『大智』、
『利根』で、
『思惟する!』ことができ、
『瞋心』を、
『除き遣る!』ので、
是の、
『念』を作す!のである、――
若し、
『耳根』が、
『声の辺』に、
『到らなければ!』、
いったい、
『悪声』は、
『誰に!』、
『著()く!』というのか?
又如罵聲聞便直過。若不分別誰當瞋者。凡人心著吾我。分別是非而生恚恨。 又、罵声の如きは、聞けば便ち直ちに過ぐ。若し分別せずんば、誰か当に瞋者なるべけんや。凡人の心は、吾我に著して、是非を分別すれば、而して恚恨を生ずるなり。』と。
又、
『罵声』などは、
『聞けば!』、
『直ちに!』、
『過ぎる!』ものである。
若し、
『分別しなければ!』、
誰を、
『瞋者』に、
『当てればよい!』のだろう。
『凡人』は、
『心』に、
『吾我』に著して、
『是、非』を、
『分別する!』が、
爾のようにして、
『恚恨』を、
『生じる!』のだ、と。
  (とう):なぞらえる。比擬する。
復次若人能知諸言隨生隨滅前後不俱則無瞋恚。亦知諸法內無有主。誰罵誰瞋。 復た次ぎに、若し人能く、諸の言は、随って生じ、随って滅して前後倶ならず、則ち瞋恚する無しと知り、亦た諸法の内に、主有ること無しと知らば、誰か罵り、誰か瞋らん。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、――
諸の、
『言(ことば)』は、
『生じる!』端から、
『滅する!』ので、
『前、後』が、
『倶(いっしょ)でない!』、
則ち、
『言』中に、
『瞋恚(いかり)』は、
『無いのだ!』と、
『知り!』、
亦た、
諸の、
『法()』の、
『内』に、
『主(罵者)』は、
『無い!』と、
『知ることができれば!』、
いったい、
誰が、
『罵り!』、
誰が、
『其れ!』を、
『瞋る!』というのだろう?
若有人聞殊方異語。此言為好彼以為惡。好惡無定雖罵不瞋。 若し有る人、殊方の異語を聞きて、此の言を好と為し、彼れは以って、悪と為さば、好悪定まり無きに、罵ると雖も、瞋らざらん。
若し、
有る、
『人』が、
『殊方(異国)』の、
『異語(知らないことば)』を、
『聞いて!』、
此れは、
『好きだ!』と、
『言っている!』と、
『思い!』、
彼れは、
『嫌いだ!』と、
『思って!』、
『言った!』とするならば、
則ち、
『好きだ!』も、
『嫌いだ!』も、
『定まる!』ことは、
『無い!』ので、
彼れが、
『罵った!』としても、
『瞋る!』ことは、
『無い!』はずである。
若有人知語聲無定則無瞋喜。如親愛罵之。雖罵不恨。非親惡言聞則生恚。 若し有る人、語声に定まり無きを知らば、則ち瞋喜無けん。親、之を愛して罵らば、罵ると雖も恨まざらん。親に非ざるもの、悪みて言うを聞かば、則ち恚を生ぜん。
若し、
有る、
『人』が、
『語声』には、
『定まり!』が、
『無い!』ことを、
『知っていた!』ならば、
則ち、
『瞋る!』ことも、
『喜ぶ!』ことも、
『無い!』はずである。
例えば、
『親(おや)』が、
之を、
『愛して!』、
『罵る!』ならば、
たとえ、
『罵られて!』も、
『恨まない!』が、
『親でない!』者が、
『悪んで!』、
『罵る!』ならば、
則ち、
『恚(いかり)』を、
『生じる!』のである。
如遭風雨則入舍持蓋。如地有刺則著靴鞋。大寒燃火熱時求水。如是諸患但求遮法而不瞋之。 風雨に遭えば、則ち舎に入りて、蓋を持するが如く、地に刺有れば、則ち靴か、鞋を著け、大寒には火を燃やし、熱時には水を求むるが如く、是の如き諸患は、但だ遮法を求めて、之を瞋らず。
例えば、
『風雨』に、
『遭った!』ならば、
則ち、
『舎(いえ)』に入って、
『蓋』を、
『持ってくる!』だろうし、
若し、
『地』に、
『刺』が、
『有った!』ならば、
則ち、
『靴』か、
『鞋(わらじ)』を、
『著ける!』だろうし、
『大寒』ならば、
『火』を、
『燃やす!』とか、
『熱時』には、
『水』を、
『求める!』とか、
是のような、
諸の、
『患(わずらい)』は、
但だ、
『遮る!』、
『法』を、
『求める!』だけで、
之を、
『瞋る!』者は、
『無い!』のである。
罵詈諸惡亦復如是。但以慈悲息此諸惡不生瞋心。 罵詈の諸悪も、亦復た是の如く、但だ慈悲を以って、此の諸悪を息むれども、瞋心を生ぜず。
『罵詈する!』ことの、
諸の、
『悪』も、
亦復た、
是の通りである。
但だ、
『慈悲』を以って、
此の、
諸の、
『悪』を、
『止めさせよう!』とするだけで、
『心』に、
『瞋(いかり)』を、
『生じない!』。
復次菩薩知諸法不生不滅其性皆空。若人瞋恚罵詈。若打若殺如夢如化。誰瞋誰罵。 復た次ぎに、菩薩は、諸法の不生不滅にして、其の性の皆空なるを知る。若し人、瞋恚し、罵詈して、若しは打ち、若しは殺さんとも、夢の如く、化の如し。誰か瞋り、誰か罵らん。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
諸の、
『法』は、
『不生』、
『不滅』であり、
其の、
『性』は、
皆、
『空である!』と、
『知る!』。
若し、
『人』が、
『瞋恚し!』、
『罵詈して!』、
若しくは、
『打とう!』が、
『殺そう!』が、
皆、
『夢のよう!』であり、
『化のよう!』である。
いったい、
誰が、
『瞋っている!』のであり、
誰が、
『罵っている!』のであろうか?
復次若有人如恒河沙等劫。眾生讚歎。供養衣食臥具醫藥華香瓔珞。得忍菩薩其心不動不喜不著。 復た次ぎに、若し有る人を、恒河沙の如きにも等しき劫、衆生が讃歎して衣食、臥具、医薬、華香、瓔珞を供養すとも、忍を得たる菩薩は、其の心動かず、喜ばず、著せざるなり。
復た次ぎに、
有る、
『人』を、
『恒河沙』にも、
『等しい!』ほどの、
『劫』、
『衆生』が、
『讃歎』して、
『衣食、臥具、医薬、華香、瓔珞』を、
『供養した!』としても、
『忍(等忍)』を、
『得た!』、
『菩薩』の、
其の、
『心』は、
『動くこともなく!』、
『喜ぶこともなく!』、
『著することもない!』のである。
  (にん):梵語kSaantiの訳。心よく安住して他の侮辱悩害等を堪忍する意。『大智度論巻6下注:忍、忍辱』参照。
問曰。已知菩薩種種不瞋因緣。未知實讚功德而亦不喜。 問うて曰く、已に菩薩の種種の瞋らざる因縁を知るも、未だ実に功徳を讃ずるにも、亦た喜ばざるやを知らず。
問い、
已に、
『菩薩』の、
種種の、
『瞋らない!』、
『因縁』は、
『知った!』が、
未だ、
『実』に、
『功徳』を、
『讃じた!』としても、
やっぱり、
『喜ばないのか?』を、
『知りません!』。
答曰。知種種供養恭敬是皆無常。今有因緣故來讚歎供養。後更有異因緣則瞋恚。若打若殺。是故不喜。 答えて曰く、種種の供養、恭敬は、是れ皆無常なり、今、因縁有るが故に、来たりて讃歎し、供養せるも、後に更に異なる因縁有らば、則ち瞋恚して、若しは打ち、若しは殺さんと知る、是の故に、喜ばざるなり。
答え、
こう知るからである、――
種種の、
『供養』や、
『恭敬』は、
是れは、
『皆!』、
『無常である!』、
今は、
『因縁』が有る!が故に、
来て、
『讃歎したり!』、
『供養したり!』しているが、
後に、
更に別の、
『異なる!』
『因縁』が、
『有る!』ようになれば、
則ち、
『瞋恚し!』て、
『打ったり!』、
『殺したり!』することだろう、と。
是の故に、
『喜ばない!』のである。
復次菩薩作是念以我有功德智慧故來讚歎供養。是為讚歎功德非讚我也。我何以喜。 復た次ぎに、菩薩の是の念を作さく、『我れに、功徳、智慧有るを以っての故に、来たりて讃歎し、供養するも、是れを功徳を讃歎すと為して、我れを讃ずるに非ざるなり。我れは、何を以ってか、喜ばん。』と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の『念』を作す!のである、――
わたしに、
『功徳』や、
『智慧』が、
『有る!』が故に、
来て、
『讃歎したり!』、
『供養したり!』するのであり、
是れは、
『功徳』を、
『讃歎するのであり!』、
わたしを、
『讃歎するのではない!』。
わたしが、
何を、
『思って!』、
『喜ぶ!』というのか?と。
復次是人自求果報故。於我所作因緣。供養我作功德。譬如人種穀。溉灌修理地亦不喜 復た次ぎに、是の人は、自ら果報を求むるが故に、我が作す所の因縁に於いて、我れを供養して、功徳を作す。譬えば、人、穀を種え、漑潅し、修理すとも、地は、亦た喜ばざるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の『念』を作す、――
是の、
『人』は、
自ら!の、
『果報(功徳)』を、
『求めている!』が故に、
わたしの、
『作した!』所の、
『因縁(功徳)』に於いて、
わたしを、
『供養し!』ながら、
自ら!の、
『功徳(果報)』を、
『作している!』のだ。
譬えば、
『人』が、
『地』に、
『穀』を種えて、
『潅漑したり!』、
『修理したり!』したとしても、
『地』は、
其れを、
『喜ばない!』のと同じだ、と。
復次若人供養我。我若喜受者。我福德則薄他人得福亦少。以是故不喜。 復た次ぎに、若し人、我れを供養するに、我れ若し喜んで受くれば、我が福徳は則ち薄く、他人の得る福も、亦た少なし。是を以っての故に喜ばず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の『念』を作す、――
若し、
『人』が、
わたしを、
『供養し!』て、
わたしが、
若し、
『喜んで!』、
『受けた!』ならば、
わたしの、
『福徳』は、
『薄くなる!』だろうし、
他人の、
『得る!』、
『福』も、
やっぱり、
『少なくなる!』だろう、と。
是の故に、
『喜ばない!』のである。
復次菩薩觀一切法如夢如響。誰讚誰喜。我於三界中未得脫。諸漏未盡未得佛道。云何得讚而喜。 復た次ぎに、菩薩は、一切法の夢の如く、響の如きを観る。誰か讃じ、誰か喜ばん。我れは、三界中に於いて未だ脱るるを得ず、諸漏未だ尽きず、未だ仏道を得ず。云何が讃を得て、喜ばんや。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『法』は、
『夢のようだ!』、
『響のようだ!』と、
『観る!』のである。
誰が、
『讃じ!』、
誰が、
『喜ぶ!』というのか?
わたしは、
『三界』中より、
未だ、
『脱れる!』ことが、
『できない!』し、
諸の、
『漏(煩悩)』も、
未だ、
『尽きていない!』し、
『仏』の、
『道』も、
未だ、
『得ていない!』。
何故、
『讃歎』を、
『得た!』ぐらいで、
『喜ぶ!』というのか?と。
若應喜者唯佛一人。何以故。一切功德都已滿故。 若し、応に喜ぶべき者ならば、唯だ仏一人ならん。何を以っての故に、一切の功徳は、都べて已に満ちたまえるが故なり。
若し、
本当に、
『喜んで!』、
『然るべき!』者とは、
唯だ、
『仏』、
『一人』のみ!である。
何故ならば、
一切の、
『功徳』が、
都()べて、
『已に!』、
『満ちている!』からである。
是故菩薩得種種讚歎供養供給心不生喜。如是等相名為入音聲陀羅尼。 是の故に、菩薩は、種種の讃歎、供養、供給を得れども、心に喜を生ぜず。是の如き相を名づけて、入音声陀羅尼と為す。
是の故に、
『菩薩』は、
種種の、
『讃歎』、
『供養』、
『供給』を、
『得た!』としても、
『心』に、
『喜(よろこび)』が、
『生じない!』のである。
是れ等の、
『相』を、
『入音声陀羅尼』と、
『称する!』のである。
復有名寂滅陀羅尼無邊旋陀羅尼隨地觀陀羅尼威德陀羅尼華嚴陀羅尼音淨陀羅尼虛空藏陀羅尼海藏陀羅尼分別諸法地陀羅尼明諸法義陀羅尼。 復た、寂滅陀羅尼、無辺旋陀羅尼、随地観陀羅尼、威徳陀羅尼、華厳陀羅尼、音浄陀羅尼、虚空蔵陀羅尼、海蔵陀羅尼、分別諸法地陀羅尼、明諸法義陀羅尼有り。
復た、
『寂滅陀羅尼』、
『無辺旋陀羅尼』、
『随地観陀羅尼』、
『威徳陀羅尼』、
『華厳陀羅尼』、
『音浄陀羅尼』、
『虚空蔵陀羅尼』、
『海蔵陀羅尼』、
『分別諸法地陀羅尼』、
『明諸法義陀羅尼』が有る。
如是等略說五百陀羅尼門。若廣說則無量。以是故言諸菩薩皆得陀羅尼。 是の如き等は、略説すれば五百陀羅尼門、若し広説すれば則ち無量なり。是を以っての故に言わく、諸の菩薩は皆、陀羅尼を得と。
是れ等は、
略して、
『五百陀羅尼門』を、
『説き!』、
若し、
広く、
『説けば!』、
『無量である!』。
是の故に、
こう言う!のである、――
諸の、
『菩薩』は、
皆、
『陀羅尼』を、
『得ている!』、と。
諸三昧者。三三昧空無作無相。 諸の三昧とは、三三昧の空、無作、無相なり。
諸の、
『三昧』とは、――
『三三昧』、
謂わゆる、
『空三昧』、
『無作三昧』、
『無相三昧』である。
有人言。觀五陰無我無我所。是名為空。住是空三昧。不為後世故起三毒。是名無作。緣離十相故。五塵男女生住滅故。是名無相。 有る人の言わく、『五陰の無我、無我所なるを観る、是れを名づけて空と為す。是の空三昧に住して、後世の為の故の、三毒を起さざる、是れを無作と名づく。縁の、十相を離るるが故に、五塵、男女、生住滅の故に、是れを無相と名づく。』と。
有る人は、
こう言っている、――
『五陰』には、
『我』も、
『我所』も、
『無い!』と、
『観る!』が故に、
是れを、
『空三昧』と称する!。
是の、
『空三昧』に住すれば、
『後世』の、
『為(原因)』の故の、
『三毒(貪欲、瞋恚、愚癡)』を、
『起さない!』が故に、
是れを、
『無作三昧』と称する!。
『縁()』が、
『十相』を、
『離れる!』が故に、
謂わゆる、
『五塵(色声香味触)、男女、生住滅』を、
『離れる!』が故に、
是れを、
『無相三昧』と称する!と。
  (が):梵語aatmanの訳。巴梨語attan、主宰の義、または身体の義なり、即ち己我の自体を指す。「成唯識論巻1」に「我は謂わゆる主宰なり」と云い、「同述記巻1」にはこれを解して、「我は主宰の如しとは、国の主に自在あるが如くなるが故に、及び補宰のよく割断するが如くなるが故に、自在力及び割断力あるの義、我に同ずるが故なり」と云えり。また「百法問答鈔巻1」に「我とは自在の義なり、世間にワレハトと云いて自在に振る舞うが如し。常一主宰を以って自在の義となす。謂わゆる無常なるものは自在に非ず。常住なるもの自在を得。次ぎに独一にして並ぶものなきが故に自在なり。次ぎにこの所の衆なるが故に自在なり。次ぎにこの諸人の中に官宰なるが故にまた自在なり。仍りて常一主宰の義を以って自在の義となす。故に我はその体、有情の衣身なり」とあり、「大品般若経巻2」には、我の十六異名を列ぬ。一に我、二に衆生、三に寿者、四に命者、五に生者、六に養育者、七に衆数、八に人、九に作者、十に使作者、十一に起者、十二に使起者、十三に受者、十四に使受者、十五に知者、十六に見者これなり。蓋し未だ我執を断ぜざる者は、実我ありと固執すれども、すでにこれを離るれば、一切法無我の理を知り、涅槃に入ることを得。故に仏経中、勉めて実我の執を破すといえども、而もこれを立つることは、独り外道に限らず、小乗の諸部の中にも有り。「唯識論巻1」に依るに、所執の我に三種あり、一に即蘊、二に理蘊、三に非即非離蘊なり。即蘊の我とは、色受想行識の五蘊を離れて、別に我の体有るに非ず、即ち五蘊の身を総じて計して我と為すを云う。世人の執する所多くはこれなり。離蘊の我とは、数論、勝論等の外道及び小乗経量部等の計する所にして、五蘊の法を離れて、別体ありと説くと云う。これにまた三種の別あり。一に数論、勝論等は、我はその体常にして周遍し、量、虚空に同じく、処に随って業を造り、苦楽を受くと説く。即ち数論の如き二十五諦を立ててその最後を神我と名づけ、勝論の如き六句義を立てて第一実句義の中に我を置き、共に実の勢用ある本体となせるこれなり。二に無慚外道等は、我はその体常なりといえども、量は定まらず、即ち身の大小に随って巻舒ありと説く。三に獣主外道等は、我はその体常なり至細にして一極微の如く、身中に潜転して事業を作すと説く。「大般涅槃経巻2」に「凡夫愚人所計の我とは、或は説いて言うことあり、大さ拇指の如し。或は芥子の如し。或は微塵の如し」と云うは、また外道の計を説けるものなり。また小乗経量部の如き、五蘊の外に微細の実我有りと説けり。「異部宗輪論述記」に「経量部は勝義補特伽羅ありと執す。ただこれ微細にして施設すべきこと難し。即ち実我なり。正量等の非即蘊離蘊にして、蘊の外に調然として別体ありと云うに同じからざるが故なり」と云えるこれなり。非即非離蘊の我とは、小乗犢子部、正量部等の計にして、即ち五法蔵を立てて、我を不可説蔵に摂し、我は五蘊に即するに非ず、また五蘊をはなれたるに非ず、五蘊と我とは不即不離にして、而も実在なりと説けるを云う。「華厳経疏巻3」に「呼んで附仏法の外道と作す」と云えるこれなり。然るに仏法中、我の語を用いたる所もまた多し。謂わゆる如是我聞、設我得仏等これなり。これ即ち仮に五蘊和合の人を呼べる名称にして、ただ名字のみありて、その体無く、謂わゆる随世流布我なり。「大智度論巻1」に依るに、世界法の中に我の語を説くに三の根本あり、一には邪見、二には慢、三には名字なり、と。邪見とは凡夫は我見未だ亡ぜざるが故に実に我ありと執して我の語を説くを云い、慢とは有学の聖者は我見すでに除くといえども、なお我慢あるが故に、我の語を説くを云い、名字とは仏及び無学の聖者は我見、我慢皆すでに除きて我執全く無しといえども、世間の流布に随って、我の語を説くを云う。この中、邪見は今の実我にして、名字は即ち仮我なり。また法蔵の「梵網経菩薩戒本疏巻1」には、我に通じて六種の別を立つ。一に我執とは、ただ分別倶生の所執を性となす。凡夫に在り。二に慢我とは、ただ倶生を性となす。有学位に在り。三に習気我とは、二我の余習を性となす。無学位に在り。四に随世流布我とは、諸仏等の世の流布に随って仮に我と称するを云う。五に自在我とは、如来の後得智を以って性となす。涅槃経の八自在これなり。六に真我とは、真如の四徳たる常楽我淨の中の我徳を云う。真を以って性となす、と。この中、自在我及び真我は謂わゆる大我にして真如の常住自在の妙用に名づけたるものなり。<(望)
  我所(がしょ):梵語mama-kaaraの訳語にして、即ち我の所有、我の所属、若しくは我と離れざる物の意なり。即ち我所見の所執たる五取蘊の法を云う。「大乗阿毘達磨雑集論巻1」に我所に相応我所、随転我所、不離我所の三種ありとし、これに執するを我所見となすと云えり。「百法問答鈔巻1」には「所とは所属なり、余法を我の物に属するが故に我所と名づく」と云えるは、即ち従属の義によりて述べたるなり。この中、我所見とは、即ち梵語mama-kaara-dRSTii)の訳語にして、我所を執する謬見の意なり。即ち我が五蘊の法を執して、我は五蘊を有す、五蘊の法はこれ我が所属なり、我は五蘊の中にあり、と計度するを云う。これ二十句薩迦耶見の中の後の十五句なり。「大毘婆沙論巻8」に「十五は我所見なり。謂わゆる等しく随って我は色を有す。色はこれ我所、我所は色の中に在り。我は受想行識を有す、受想行識はこれ我所、我は受想行識中に在りと観ずるなり」と云えるこれなり。「大乗阿毘達磨雑集論巻1」には、我所見に相応我所、随転我所、不離我所の三種ありとし、「相応我所とは、我は色を有す、乃至我は識を有す。我と彼れ(五蘊)と相応するに依りて彼を有すと説くが故なり。随転我所とは、識は我に属す、乃至識は我に属す。もし彼れ、この自在力に由りて転じ、或は捨し、或は没するを、世間に彼れはこれ我所と説くが故なり。不離我所とは、我は色の中に在り、乃至我は識の中に在り。所以は何ん、彼れ実に我は蘊中に処在し、遍体随行すと計するが故なり」と云えり。この中、色等の五蘊の法は、我と相応するが故に、我は色等を有すと執するを相応我所と名づく、我が瓔珞と云うが如きその例にして、即ち我が身と相応するの意なり。五蘊の法は我に従属し、その自在力に由りて転ずと執するを随転我所と名づく。我が僮僕と云うが如きその例にして、即ち我に随従して転ずるの意なり。我は色等に離れず、即ちその中に在りて遍体随行すと執するを不離我所と名づく。我が器と云うが如きその例にして、即ち我が身、その器の中に処在するの意なり。かくの如く、五蘊の法一一に皆この三義有るが故に、総じて十五の我所見を成ず。これに五種の我見を加うれば、三十種の薩迦耶見となり、乃至六十五、七十二、九百三十六等の数を成ずるを得べし。また「大毘婆沙論巻9、巻49」、「倶舎論巻19」、「同光記巻19」、「同宝疏巻19」、「成唯識論巻4、巻6」、「同述記巻5本、巻6末」、「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望)
  :一本に離十相故は、離十相法に作る。蓋し意の通り易きが故なり。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻33』:『云何無學定蘊。答無學三三摩地。謂空無願無相。問定體唯一。謂心所法中三摩地。云何建立三種差別。答以近對治三種障故謂空三摩地近對治有身見。無願三摩地近對治戒禁取。無相三摩地近對治疑。復次行相別故。謂空三摩地三行相俱即空非我。無願三摩地十行相俱即苦非常集道各四。無相三摩地四行相俱即緣滅四。復次以三事故。一以對治故。二以意樂故。三以所緣故。以對治故建立空三摩地。謂非我行相對治我見。空行相對治我所見。如我見我所見已見已所見。五我見十五我所見亦爾。復次非我行相對治我愛。空行相對治我所愛。如我愛我所愛。我慢我所慢亦爾。以意樂故建立無願三摩地。謂諸賢聖由意樂故。不願有及聖道。所以者何。以諸賢聖由意樂故。不願流轉及蘊世苦聖道。依流轉及蘊世苦故。亦不願緣道行相。雖非不願。而意樂故立無願名。問聖者何故修聖道耶。答為涅槃故。謂除聖道。更無異法能得涅槃。故修習之非本意樂。以所緣故建立無相三摩地。謂滅諦中無有十相。故名無相五塵男女三有為相。說名十相。復次以滅諦中無上中下及蘊世相故名無相。滅四行相此為所緣。故名無相。』
  (が):梵語aatman、阿特曼、阿坦麽に作る。原意は「呼吸」なり、引き申べて生命、自己、身体、自我、本質、自性と為す。泛く独立永遠の主体を指し、此の主体は、一切の物の根源内に於いて潜在し、而も支配して個体を統一す。乃ち印度思想界の重要なる主題の一なり。仏教は、無我説を主張して、存在と縁起性の関係を明示して、永遠の存続(常)、自主独立の存在(一)、中心の所有主(主)、一切を支配する(宰)等の性質を否定し、而も「我」の不存在、不真実なるを強調す。「利倶吠陀(梵Rg-veda,1500B.C.)以来、即ち「我」の一語を使用するも、「梵書時代(梵braahmana,1000B.C.~800B.C.)に至りて、人類の生命活動の主体の息(梵praana、即気息)が次第に演変して、個体の生命現象の意味を成し、「我」は則ち本質を為す者に係る。「百道梵書(梵zatapatha)」中の如きに、言語、視力、聴力等の生命現象は、「我」を以って基礎と為すに係りて、且く「我」由り来たりて統御し、視ること、造物主(梵prjaapati)と相同じきを呈現す。「奥義書時代(梵upanisad,800B.C.~600B.C.)」に、「我」の宇宙を創造するを主張し、或いは謂わく「我」は是れ個人我(小我)にして、然も同時に亦た是れ宇宙の中心原理たる大我、梵(梵brahman、意に謂わく宇宙の原理なりと)と「我」とを、乃ち一体、同一なりと為し、更に一歩を進めて、唯「我」のみ方に真の実在と為し、余は皆虚幻(梵maayaa)なりと主張す。「阿含経典」中には、下に列ぬる四種の「我」に関する観念見解を否定す:(一)人類の個体の全体を「我」と為すこと、即ち五蘊を我と為す。(二)各個体内の中心の生命を「我」と為すこと、即ち五蘊を有する我なり。(三)宇宙の原理を「我」と為すこと、即ち我中に五蘊を有するなり。(四)存在の一要素毎に、皆各其の固有の性質(自性)を有すること、即ち五蘊中に有る我なり。上述の四種は乃ち後世の所謂有身見なり、亦た分けて二種と為すべし、一を我見と為す、乃ち第一項の五蘊を我と為す。二を我所見と為す、即ち其の余の三項なり。我所とは、我の所有、所属を指し、我に於いて離れざる事物に及ぶ。生死輪廻の主体を構成するに対する無我説との関係につき、部派仏教は各種の解釈を作了せり。説一切有部にては人我と法我とを立てて、個体中心生命の我(即ち人我)を否定すと雖も、但だ実体の我(即ち法我、乃ち一切の存在の構成要素)を承認して、恒有と為し、此等の人我見と法我見とを称して、二種我見と為す。犢子部と正量部とは非即非離蘊の我を主張す、蓋し生命の個体は即ち五蘊に由る仮合の構成(即蘊)に非ず、亦た五蘊の外に別に一我有る(離蘊)に非ざるなり。亦た即ち我と五蘊と具有の不即不離の関係を主張せり。経量部にては別に勝義補特伽羅の説有り。仏教以外及び部派仏教の諸説の「我」に対し、「成唯識論巻1」には類分して、即蘊の我(世間一般所説)、離蘊我(数論、勝論、経量部等の所説)及び非即非離蘊我(犢子部、正量部等所説)の三種と為し、並びに加うるに批判を以ってす。大乗仏教に就いて言わく、但だ個体の我(人我)を否定するのみにあらず、亦た部派承認の其の存在の法我(構成存在要素の実体)をも否定し、而も人法二無我説を主張し、一切は、皆是れ無自性(性空)と為すを認む。同時に、部派仏教は、一切は存在するも、尽く是れ無常、苦、無我、不浄なり、然も倘し能く煩悩を滅尽せば、即ち究竟涅槃の境界に達すべしと為すと認む。此に於いて大乗仏教は則ち一切の存在を本より空と為すことを主張し、開悟の後の涅槃の境界を、必ず絶対の自由と為すが故に、常、楽、我、常の四徳の説を有す。此処の「我」は、凡夫諸見の小我と大いに異なり、而も称して大我、真我と為す、概して之を言わば、「我」には四種の分類有り、(一)凡我、凡夫所修の迷の我を指す。(二)神我(梵puruSa、訳して丈夫、人、原人等と作す)、六師外道(仏教以外の学派)所説の我を指す。(三)仮我、並びに無実体なるに仮名して我と為すを指す。五蘊より仮合せる肉体を称呼して我と為すが如し。(四)真我、意に如来の法身を指し、其の特性は、「八大自在我」に由り、加うるに説明を以ってすべし。此の外に、印度諸学派(外道)の「我」を説くに於いて、十六種の分類有り、一般に十六知見、或いは十六神我と作す。知見の意とは謂わゆる知者、見者なり、即ち我に知と見との能力有るを謂う。十六とは即ち我、衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人(者)、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者等なり。「大智度論巻35」参照。<(佛)
  我所(がしょ):梵語mama-kaara。我の所有と為す観念を指して、全て我の所有と称す。即ち我の所有、我の所属の意。即ち自身を以って我と為し、自身以外の物を謂いて、皆我の所有と為す。仏教中に於いては、我と我所とは、一切の世俗の分別の基本分別に係ると為すと認められ、故に破除の対象と為す。又我所の分を、相応我所、随転我所、不離我所と為し、若し之に執せば、則ち称して我所見(我の所有に執する偏見)と為す。凡そ我所見の執著する所なる五取蘊の法は、皆、此の「我所」の観念を源とするが故に、「集異門足論巻12」に、「五取蘊等に於いて、我、或は我所を観見するに随い、此より忍、欲、慧の観見を起す。」と謂えり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「注維摩詰経巻5」、「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望)
有人言。住是三昧中知一切諸法實相。所謂畢竟空。是名空三昧。 有る人の言わく、『是の三昧中に住して、一切の諸法の実相、謂わゆる畢竟じて空なるを知る、是れを空三昧と名づく。
有る人は、
こう言っている、――
是の、
『三昧』中に住すれば、
一切の、
諸の、
『法』の
『実相』を、
『知る!』、
謂わゆる、
『畢竟』じて、
『空である!』と、
『知る!』が故に、
是れを、
『空三昧』と称する!。
知是空已無作。云何無作。不觀諸法若空若不空若有若無等。如佛說法句中偈
 見有則恐怖  見無亦恐怖 
 是故不著有  亦復不著無
是名無作三昧。
是の空を知り已れば、無作なり。云何が無作なる。諸法の若しは空、若しは不空、若しは有、若しは無等を観ざればなり。仏の法句中の偈に説きたまえるが如し、
有を見れば則ち恐怖し、無を見れば亦た恐怖す、
是の故に有に著せざれ、亦復た無にも著せざれ。
是れを無作三昧と名づく。
是の、
『空』を、
『知った!』者は、
『無作である!』。
何を、
『無作三昧』というのか?――
諸の、
『法』に、
『空』や、
『不空』を、
『観ない!』こと、
『有』や、
『無』を、
『観ない!』こと等である。
『仏』は、
『法句』中の、
『偈』に、
こう説かれた、――
『有』を見れば、
『恐怖する!』、
『無』を見ても、
やっぱり、
『恐怖する!』、
是の故に、
『有』に、
『著するな!』、
『無』には、
もっと、
『著するな!』、と。
是れを、
『無作三昧』というのである。
  参考:『法句経巻下』:『泥洹品法句經第三十六三十有六章  泥洹品者。敘道大歸。恬惔寂滅。度生死畏 忍為最自守  泥洹佛稱上  捨家不犯戒  息心無所害 無病最利  知足最富  厚為最友  泥洹最快  飢為大病  行為最苦  已諦知此  泥洹最樂  少往善道  趣惡道多  如諦知此  泥洹最安  從因生善  從因墮惡  由因泥洹  所緣亦然  麋鹿依野  鳥依虛空  法歸其報  真人歸滅  始無如不  始不如無  是為無得  亦無有思 心難見習可睹  覺欲者乃具見  無所樂為苦際  在愛欲為增痛  明不清淨能御  無所近為苦際  見有見聞有聞  念有念識有識  睹無著亦無識  一切捨為得際  除身想滅痛行  識已盡為苦竟  猗則動虛則淨  動非近非有樂  樂無近為得寂  寂已寂已往來  來往絕無生死  生死斷無此彼  此彼斷為兩滅  滅無餘為苦除 比丘有世生  有有有作行  有無生無有  無作無所行  夫唯無念者  為能得自致  無生無復有  無作無行處  生有作行者  是為不得要  若已解不生  不有不作行  則生有得要  從生有已起  作行致死生  為開為法果  從食因緣有  從食致憂樂  而此要滅者  無復念行跡  諸苦法已盡  行滅湛然安  比丘吾已知  無復諸入地  無有虛空入  無諸入用入  無想不想入  無今世後世  亦無日月想  無往無所懸  我已無往反  不去而不來  不沒不復生  是際為泥洹  如是像無像  苦樂為以解  所見不復恐  無言言無疑  斷有之射箭  遘愚無所猗  是為第一快  此道寂無上  受辱心如地  行忍如門閾  淨如水無垢  生盡無彼受  利勝不足恃  雖勝猶復苦  當自求去勝  已勝無所生  畢故不造新  厭胎無婬行  種燋不復生  意盡如火滅  胞胎為穢海  何為樂婬行  雖上有善處  皆莫如泥洹  悉知一切斷  不復著世間  都棄如滅度  眾道中斯勝  佛以現諦法  智勇能奉持  行淨無瑕穢  自知度世安  道務先遠欲  早服佛教戒  滅惡極惡際  易如鳥逝空  若已解法句  至心體道行  是度生死岸  苦盡而無患  道法無親疏  正不問羸強  要在無識想  結解為清淨  上智饜腐身  危跪非實真  苦多而樂少  九孔無一淨  慧以危貿安  棄猗脫眾難  形腐銷為沫  慧見捨不貪  觀身為苦器  生老病無痛  棄垢行清淨  可以獲大安  依慧以卻邪  不受漏得盡  行淨致度世  天人莫不禮』
云何無相三昧。一切法無有相。一切法不受不著。是名無相三昧。如偈說
 言語已息  心行亦滅 
 不生不滅  如涅槃相
云何が無相三昧なる。一切の法は、相有ること無く、一切の法を受けず、著せざる、是れを無相三昧と名づく。偈に説くが如し、
言語已に息み、心行も亦た滅す、
不生不滅なること、涅槃の相の如し。
何を、
『無相三昧』というのか?――
一切の、
『法』は、
『相』を、
『有する!』ことが、
『無い!』が故に、
一切の、
『法』を、
『受けることもなく!』、
『著することもない!』、
是れを、
『無相三昧』と称する。
『偈』に、
こう説く通りである、――
『言語』は、
『已に』、
『息()んだ!』、
『心行(思慮)』も、
『亦た』、
『滅した!』、
『不生』、
『不滅』とは、
『涅槃』の、
『相のようだ!』。
  心行(しんぎょう):梵語citta-pravRttiの訳。心の動き。思。
  参考:『大智度論巻2』:『復次知一切諸法實不壞相不增不減。云何名不壞相。心行處滅言語道斷。過諸法如涅槃相不動。以是故名三藐三佛陀。』
復次十八空是名空三昧。種種(丹注云五道生有本有死有中有業)有中心不求。是名無作三昧。一切諸相破壞不憶念。是名無相三昧。 復た次ぎに、十八空は、是れを空三昧と名づく。種種(丹注に云わく、五道の生有、本有、死有、中有の業なりと)有中に、心求めざる、是れを無作三昧と名づく。一切の諸相の破壊して憶念せざる、是れを無相三昧と名づく。
復た次ぎに、
『十八空』は、
是れを、
『空三昧』と称する!、
種種の、
『有(生有、本有、死有、中有)』中に、
『心』が、
『求めない!』こと、
是れを、
『無作三昧』と称する!、
一切の、
諸の、
『相』が、
『破壊し!』て、
『憶念しない!』こと、
是れを、
『無相三昧』と称する!。
  十八空(じゅうはちくう):対治する内容に随う種種の空。『大智度論巻31』参照。
   (1)内空:眼耳鼻舌身意の六根は空である。
   (2)外空:色声香味触法の六境は空である。
   (3)内外空:自身の一切は、皆空である。
   (4)空空:空と観ることも、また空である。
   (5)大空:十方の世界は、皆空である。
   (6)第一義空:諸法の外、実相も、また自性なく空である。
   (7)有為空:一切の因縁によって造られたものは空である。
   (8)無為空:因縁によって造られたもの以外、即ち涅槃もまた空である。
   (9)畢竟空:有為空も無為空も、また空である。
   (10)無始空:無始よりの存在も空である。
   (11)散空:仮の集合は離散し破壊する相を有し、空である。
   (12)性空:諸法の性は、常に空である。
   (13)自相空:一切の法の総相、別相は皆空である。
   (14)諸法空:有法は無いが故に、一切の諸法は空である。
   (15)不可得空:諸法は求めても得られないが故に、即ち空である。
   (16)無法空:過去と未来の諸法は、空である。
   (17)有法空:現在の諸法は、空である。
   (18)無法有法空:過去現在未来の諸法は、皆空である。
  四有(しう):有とは衆生、或は存在の意。
   (1)生有:誕生、人の誕生する瞬間を指す。
   (2)本有:誕生から死までの有を指す。
   (3)死有:死、人の死ぬ瞬間を指す。
   (4)中有:死から次ぎの誕生までの有を指す。
問曰。有種種禪定法。何以故。獨稱此三三昧。 問うて曰く、種種の禅定の法有り。何を以っての故にか、独り、此の三三昧のみを称する。
問い、
『禅定』には、
種種の、
『法』が、
『有る!』。
何故、
此の、
『三三昧』のみを、
『称する(名を揚げる)!』のですか?
  禅定(ぜんじょう):禅とは、梵語dhyaanaの音訳と為し、定は、梵語samaadhi則ち三昧の意訳と為す。禅と定との意は皆、心をある一境に繋念、専注して散乱せしめざるを指す。<(佛)
  (ぜん):具に褝那、駄衍那、持阿那等に造り、梵語dhyaanaの音訳にして、また意訳して静慮、思惟修習、棄悪、功徳の叢林等と為し、寂静にして審慮するの意、即ち心一境に住して正審思慮し、定、慧均等なる状態をいう。「大毘婆沙論巻141」に「静は謂わゆる寂静、慮は謂わゆる籌量なり。この四地の中にのみ定慧平等なるが故に静慮と称す。余は随って欠くことあれば、この名を得ず」と云い、「瑜伽師地論巻33」に「静慮と言うは、一の所縁に於いて繋念寂静にして正審思慮す。故に静慮と名づく」と云えり。これ即ち他想を止め、心を一境に専注して極めて寂静ならしめ、以って正審思慮するを禅と名づけたるものなり。この中、寂静は止にして定を云い、思慮は観にして慧を云う。ただ四禅のみ止観均行、定慧平等なるが故に静慮と名づけ、余の四無色定等の如きは定慧平等ならざるが故に禅と称せざることを明にするの意なり。また禅はよく因となりて智慧神通四無量等の功徳を生ずるが故に功徳の叢林とも称す。蓋し禅は心一境性をその自性と為すといえども、尋伺喜楽等の有無に依りて初禅二禅三禅四禅の四種に分別せらる。「大毘婆沙論巻80」に「初禅には尋、伺、喜、楽、心一境性の五支、二禅には内等の浄、喜、楽、心一境性の四支、三禅には行捨、正念、正慧、受楽、心一境性の五支、四禅には不苦不楽受、行捨清浄、念清浄、心一境性の四支を摂し、総じて四禅に十八支あり」と云えり。また四禅には欠く三種の等至の相あり、一に味等至、二に浄等至、三に無漏等至なり。味等至とは、また味禅とも名づけ、即ち愛と相応する定にして、静慮の功徳に味著するをいい、浄等至とは、また浄禅とも名づけ、無貪等の白浄法と相応する定にして、即ち愛味の過患を了知し、愛と相応せざるをいい、無漏等至とは、愛と相応せず、また味著せられざる定にして、即ち聖者の四諦を観じ、または現観を修する方便として入る所の定を云うなり。この中、初の二は有漏定にして、後の一は無漏定なり。凡そ禅定は大小二乗及び外道凡夫等も皆通じて、これを修するものなるが故に、形式は同一なるも、所観の法及びその目的等に於いて大異あり。就中、大乗に於いてはこれを六波羅蜜若しくは十波羅蜜の一とし、菩薩の修すべき必須の要行となすなり。「大品般若経第一序品」に、「不乱不味の故に、まさに褝那波羅蜜を具足すべし」と云い、「大智度論巻17」に広くこれを釈し「問うて云わく、菩薩の法は一切衆生を度するを以って事と為す。何を以っての故に林沢閑坐し、山間に静黙して独りその身を善くし、衆生を棄捨するや。答えて曰わく、菩薩は身は衆生を遠離すといえども、心は常に捨てず。静処に定を求めて実智慧を獲得し、以って一切を度せんとす。譬えば薬を服し、身を将って仮に家務を息むるも、気力平健せば則ち業を修むること故の如くなるが如し。菩薩の宴寂もまたまたかくの如く、禅定力を以って智慧の薬を服し、神通力を得ばまた衆生に在り、或は父母妻子と作り、或は師徒宗長、或は天或は人、下は畜生と作るに至り、種種の語言をもて方便して開導う。(中略)菩薩はこれに因りて大悲心を発し、常楽の涅槃を以って衆生を利益せんと欲す。この常楽の涅槃は実智慧より生じ、実智慧は一心禅定より生ず。譬えば灯を然すが如き、灯はよく照すといえども、大風の中に在らば用を為すこと能わず、もしこれを密室に置かば、その用乃ち全し。散心中の智慧もまたかくの如し。もし禅定の静室無くんば、智慧ありといえども、その用全からず。禅定を得ば則ち実智慧生ず。ここを以っての故に、菩薩は衆生を離れて遠く静処に在りて禅定を求得すといえども、禅定清浄なるを以っての故に、智慧もまた浄し。譬えば油炷浄きが故に、その明もまた浄きが如し。ここを以っての故に浄智慧を得んと欲する者はこの禅定を行ず。また次ぎに、世間の近事を求むるにも、専心なること能わざれば則ち事業成ぜず。何に況んや甚深の仏道にして而も禅定を用いざらんや。禅定を摂諸乱心と名づく。乱心は軽飄なること鴻毛よりも甚だしく、馳散して停らず。駛きこと疾風に過ぎ、制止すべからざること獼猴よりも劇しく、暫く減じて転た滅すること掣電よりも甚だし。心相はかくの如く禁止すべからず。もしこれを制せんと欲せば禅に非ざれば定まらず。偈に説くが如き、禅を守智の蔵と為す、功徳の福田なり、禅を清浄水と為す、よく諸の欲塵を洗う、禅を金剛鎧と為す、よく煩悩の箭を遮る、未だ無余を得ずといえども涅槃の分はすでに得、金剛三昧を得て結使の山を摧破し、六神通を得てよく無量の人を度す。囂塵天日を蔽うも、大雨はよくこれを淹い、覚観の風心を散ずるも、禅定よくこれを滅す」と云えり。これ即ち菩薩の衆生を度するに、禅定の欠くべからざるを説けるものなり。<(望)
答曰。是三三昧中思惟近涅槃故。令人心不高不下平等不動。餘處不爾。以是故獨稱是三三昧。 答えて曰く、是の三三昧中に思惟すれば、涅槃に近づくが故に、人心をして、高からず、下からず、平等にして、動ぜざらしむ。余の処は爾らず。是を以っての故に、独り是の三三昧のみを称す。
答え、
是の、
『三三昧』中に、
『思惟する!』と、
『涅槃』に、
『近づく!』が故に、
『人心』をして、
『高ぶらせず!』、
『へり下らせず!』、
『平等(傾かず)にし!』て、
『動かしめない!』が、
余の、
『処』では、
そうではない!。
是の故に、
是の、
『三三昧』のみを、
『称する!』のである。
餘定中或愛多或慢多或見多。是三三昧中。第一實義實利能得涅槃門。以是故。諸禪定法中。以是三空法為三解脫門。亦名為三三昧。 余の定中には、或いは愛多く、或いは慢多く、或いは見多し。是の三三昧中の第一実義、実利は、能く涅槃を得る門なり。是を以っての故に、諸の禅定の法中、是の三空法を以って、三解脱門と為し、亦た名づけて三三昧と為す。
余の、
『定』中には、
或いは、
『愛』が、
『多い!』とか、
或いは、
『慢』が、
『多い!』とか、
或いは、
『見』が、
『多い!』とかであるが、
是の、
『三三昧』中の、
『第一』の、
『実義』と、
『実利』とは、
『涅槃』を、
『得ることのできる!』、
『門』であり、
是の故に、
諸の、
『禅定』の、
『法』中に、
是の、
『三空』という!、
『法』を以って、
『三解脱門』と、
『為し!』、
亦た、
『三三昧』とも、
『称する!』のである。
  (あい):梵語tRSNaaの訳。又愛支に作って十二因縁の一と為す。一切の事物に貪恋執著する意なり。『大智度論巻3下注:愛』参照。
  (まん):梵語maanaの訳。巴梨語同じ。心所の名。七十五法の一。百法の一。他に対して自ら挙恃する精神作用を云う。『大智度論巻49下注:慢』参照。
  (けん):梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。観視、推度の義にして、眼の所見に由りて或いは推想し、某事に対して一定の見解を産生するを指す。『大智度論巻3下注:見』参照。
是三三昧實三昧故。餘定亦得名定。 是の三三昧は、実の三昧なるが故に、余の定も、亦た定と名づくるを得。
是の、
『三三昧』が、
『実』の、
『三昧』である!が故に、
余の、
『定(三昧)』も、
亦た、
『定』と、
『称することができる!』のである。
  (じょう):梵語三昧samaadhiの訳。安定不動の意。即ち心の一境に凝住して散動せざる情態を云う。『大智度論巻17下注:定』参照。
  :蓋し余の定中に三三昧の少分有るが故に定と名づく、若し三三昧無かりせば、云何が定と名づくるを得ん。
復次除四根本禪。從未到地乃至有頂地。名為定。亦名三昧。非禪四禪亦名定亦名禪亦名三昧。 復た次ぎに、四根本禅を除きて、未到地、乃至有頂地を名づけて、定と為し、亦た三昧にして禅に非ずと名づけ、四禅を、亦た定と名づけ、亦た禅と名づけ、亦た三昧と名づく。
復た次ぎに、
『未到地』より、
『有頂地』までは、
『四根本禅』を除いて、
『定』とか、
『三昧』と、
『称する!』が、
『禅』と、
『称することはない!』。
『四禅(四根本禅)』は、
『定』とも、
『禅』とも、
『三昧』とも、
『称する!』、
  四根本禅(しこんぽんぜん):上二界八地には各根本定と近分定と有り、欲界の修惑を断じて発する所の禅定を初禅の根本定と為し、乃ち無所有処の修惑を断って得る所の禅定を非想処の根本定と為すに至る。また欲界の煩悩を伏して発する所の初禅の根本定に近似の禅定を初禅の近分定と為し、乃ち無所有処の煩悩を伏して発する所の非想処の根本定に近似の禅定を非想処の近分定と為す。この八根本定及び、八近分定の中に、初禅の近分定は他の近分定と相異の点有るが故に別に名を立てて未到地、或は未至定、未到定と謂う。未だ根本定に至らざるの義なり。近分の義もまたこれに同じ。またこの八根本定の中、色界の四禅を称して四根本禅と為す。『大智度論巻7下注:四禅、同巻17下注:根本定、近分定』参照。
  未到地(みとうじ):梵語anaagamya-samaadhiの訳。初禅の近分定、即ち初禅に至る直前の定を云う。『大智度論巻7下注:四禅、同巻17下注:根本定、近分定』参照。
  有頂地(うちょうじ):梵語bhavaagraの訳。頂の処の意。即ち非想非非想処を云う。『大智度論巻18上注:非想非非想処』参照。
諸餘定亦名定亦名三昧。如四無量四空定四辯六通八背捨八勝處九次第定十一切處等諸定法。 諸余の定は、亦た定と名づけ、三昧と名づく。四無量、四空定、四辯、六通、八背捨、八勝処、九次第定、十一切処等の諸の定法の如し。
諸の、
余の、
『定』は、
『定』とも、
『三昧』とも、
『称する!』、
例えば、
『四無量』、
『四空定』、
『四辯』、
『六通』、
『八背捨』、
『八勝処』、
『九次第定』、
『十一切処』等の、
諸の、
『定法』である。
  四無量(しむりょう):慈無量、悲無量、喜無量、捨無量の四無量心。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  四空定(しくうじょう):無色界の四種の禅定。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
  四辯(しべん):法無礙、義無礙、辞無礙、楽説無礙の四無礙智。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  六通(ろくつう):如意通、天眼通、天耳通、他心智通、宿命通、漏尽通の六神通。『大智度論巻18下注:六神通』参照。
  八背捨(はっぱいしゃ):貪著の心を捨てる定力に八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  九次第定(くしだいじょう):四禅、四無色定、滅尽定の九を合わせて次第に修習する。『大智度論巻17下注:九次第定』参照
  十一切処(じゅういっさいじょ):一切の処に青黄赤白地水火風空識を観察し、一切はその十法に過ぎずと観じて、物に貪著する心を除く。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  四無量心(しむりょうしん):後世に梵天に生ずる楽を求める定。
   (1)慈無量:他に楽を与えること無量なること。
   (2)悲無量:他の苦を除くこと無量なること。
   (3)喜無量:他が楽を得て、それを喜ぶことが無量なること。
   (4)捨無量:心の平等なること無量をいう。
  四無色定(しむしきじょう):無色界の四種の禅定。
   (1)空無辺処定:空間は無限大なりと思惟すること。
   (2)識無辺処定:識は無限大なりと思惟すること。
   (3)無所有処定:何者も無しと思惟すること。
   (4)非想非非想処定:想に非ず無想にも非ざる定。
  四無礙智(しむげち):四無礙解、四無礙辯、四辯、仏菩薩が説法するときの自在な智慧による辯才。
   (1)法無礙:名字、言葉、文章の持つ意味の範囲に精通して説法に無礙なること。
   (2)義無礙:仏の法の持つ意味をよく理解し精通して説法に無礙なること。
   (3)辞無礙:詞無礙、種種の地方の言葉に精通して説法に無礙なること。
   (4)楽説無礙:説法を楽しんで無礙なること。
  八背捨(はっぱいしゃ):八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階をいう。
   (1)内心の色想を除くために、不淨観を修める。
   (2)内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。
   (3)前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起たしめない。
   (4)色想をすべて滅して、空無辺処定に入る。
   (5)空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。
   (6)識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。
   (7)無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。
   (8)受想などを捨てて、滅尽定に入る。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の物を観察して貪著の心を除くための八段階をいう。
   (1)内に色相が有り、外の色の少しの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
   (2)内に色相が有り、外の色の多くの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
   (3)内に色相が無く、外の色の少しの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
   (4)内に色相が無く、外の色の多くの好醜を勝れて知り、勝れて観る。
   (5)内に色相が無く、外の色の青を勝れて知り、勝れて観る。
   (6)内に色相が無く、外の色の黄を勝れて知り、勝れて観る。
   (7)内に色相が無く、外の色の赤を勝れて知り、勝れて観る。
   (8)内に色相が無く、外の色の白を勝れて知り、勝れて観る。
復有人言。一切三昧法有二十三種。有言六十五種。有言五百種。摩訶衍最大故無量三昧。 復た有る人の言わく、『一切の三昧の法に、二十三種有り』と。有るが言わく、『六十五種なり。』と。有るが言わく、『五百種なり。摩訶衍は最大なるが故に、無量の三昧あり。』と。
復た、
有る人は、
こう言っている、――
一切の、
『三昧』の、
『法』には、
『二十三種』有る!と。
有る人は、
こう言っている、――
『六十五種』有る!と。
有る人は、
こう言っている、――
『五百種』有る!が、
『摩訶衍』は、
『最大』である!が故に、
『無量』の、
『三昧』が有る!と。
所謂遍法性莊嚴三昧。能照一切三世法三昧。不分別知觀法性底三昧。入無底佛法三昧。如虛空無底無邊照三昧。如來力行觀三昧。佛無畏莊嚴力嚬呻三昧。法性門旋藏三昧。一切世界無礙莊嚴遍月三昧。遍莊嚴法雲光三昧。菩薩得如是等無量諸三昧。 謂わゆる、遍法性荘厳三昧、能照一切三世法三昧、不分別知観法性底三昧、入無底仏法三昧、如虚空無底無辺照三昧、如来力行観三昧、佛無畏荘厳力頻呻三昧、法性門旋蔵三昧、一切世界無礙荘厳遍月三昧、遍荘厳法雲光三昧、菩薩は、是の如き等の無量の三昧を得。
謂わゆる、
『遍法性荘厳三昧』、
『能照一切三世法三昧』、
『不分別知観法性底三昧』、
『入無底仏法三昧』、
『如虚空無底無辺照三昧』、
『如来力行観三昧』、
『仏無畏荘厳力嚬呻三昧』、
『法性門旋蔵三昧』、
『一切世界無礙荘厳遍月三昧』、
『遍荘厳法雲光三昧』であり、
『菩薩』は、
是れ等の、
『無量』の、
諸の、
『三昧』を、
『得ている!』。
 
復次般若波羅蜜摩訶衍義品中。略說則有一百八三昧。初名首楞嚴三昧乃至虛空不著不染三昧。廣說則無量三昧。以是故說。諸菩薩得諸三昧 復た次ぎに、般若波羅蜜摩訶衍義品中に、略説して、則ち一百八三昧有り、初を首楞厳三昧と名づく、乃至虚空不著不染三昧なり。広説すれば、則ち無量の三昧なり。是を以っての故に説かく、『諸の菩薩は、諸の三昧を得。』と。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜摩訶衍義品』中に、
『略説している!』が、
則ち、
『一百八三昧』が有り、
初を、
『首楞厳三昧』と称し、
乃至、
『虚空不著不染三昧』である。
若し、
『広説した!』ならば、
則ち、
『無量』の、
『三昧』が有り、
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『菩薩』は、
諸の、
『三昧』を、
『得ている!』、と。
  首楞厳三昧(しゅりょうごんさんまい):梵語zuuraMgama-samaadhiの音訳にして、健相、健行、一切事竟と意訳す。即ち仏所得の三昧の名なり。健相とは幢旗の堅固なるに譬え、以って仏徳の堅固にして諸魔の壊る能わざるに比し、一切事竟とは、仏徳の究竟なるを云う。「大智度論巻47」に、「首楞厳三昧とは、秦に健相と言い、分別して諸の三昧の行相、多少、深浅を知り、大将の諸兵力の多少を知るが如し。また次ぎに、菩薩は、この三昧を得るに、諸の煩悩魔及び魔人のよく壊る者の無きこと、譬えば転輪聖王の主兵宝将の所住は至る処、よく壊伏する者の無きが如し」と云い、また「涅槃経巻27」には「首楞厳とは一切事竟るに名づく。厳とは堅なり、一切は畢竟して堅固を得るに、名づけて首楞厳となす。ここを以っての故に、首楞厳定を名づけて仏性と為すと言う」と云い、また「首楞厳三昧経」には、「菩薩、首楞厳三昧を得んに、よく三千大千世界を以って芥子の中に入れ、諸の山河、日月、星宿をして悉く故の如く現ぜしむるも、迫迮せざるを、諸の衆生に示さん」と云えり。<(丁)
  参考:『大品般若経巻5問乗品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩摩訶衍。云何當知菩薩摩訶薩發趣大乘。是乘發何處。是乘至何處。當住何處。誰當乘是乘出者。佛告須菩提。汝問何等是菩薩摩訶衍。須菩提。六波羅蜜是菩薩摩訶薩摩訶衍。何等六。檀那波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。云何名檀那波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。內外所有布施共一切眾生迴向阿耨多羅三藐三菩提用無所得故。須菩提。是名菩薩摩訶薩檀那波羅蜜。云何名尸羅波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自行十善道亦教他行十善道。以無所得故。是名菩薩摩訶薩尸羅波羅蜜。云何名羼提波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自具足忍辱亦教他行忍辱。以無所得故。是名菩薩摩訶薩羼提波羅蜜。云何名毘梨耶波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。行五波羅蜜懃修不息。亦安立一切眾生於五波羅蜜。以無所得故。是名菩薩摩訶薩毘梨耶波羅蜜。云何名禪那波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自以方便入諸禪不隨禪生。亦教他令入諸禪。以無所得故。是名菩薩摩訶薩禪那波羅蜜。云何名般若波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。不著一切法亦觀一切法性。以無所得故。亦教他不著一切法。亦觀一切法性。以無所得故。是名菩薩摩訶薩般若波羅蜜。須菩提。是為菩薩摩訶薩摩訶衍。復次須菩提。菩薩摩訶薩復有摩訶衍。所謂。內空。外空。內外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空。須菩提白佛言。何等為內空。佛言。內法名眼耳鼻舌身意。眼眼空非常非滅故。何以故。性自爾。耳耳空鼻鼻空舌舌空身身空意意空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名內空。何等為外空。外法名色聲香味觸法。色色空非常非滅故。何以故。性自爾。聲聲空香香空味味空觸觸空法法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名外空。何等為內外空。內外法名內六入外六入。內法內法空非常非滅故。何以故。性自爾。外法外法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名內外空。何等為空空。一切法空是空亦空非常非滅故。何以故。性自爾。是名空空。何等為大空。東方東方相空。非常非滅故。何以故。性自爾。南西北方四維上下。南西北方四維上下空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名大空。何等為第一義空。第一義名涅槃。涅槃涅槃空非常非滅故。何以故。性自爾。是名第一義空。何等為有為空。有為法名欲界色界無色界。欲界欲界空。色界色界空。無色界無色界空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名有為空。何等為無為空。無為法名若無生相無住相無滅相。無為法無為法空非常非滅故。何以故。性自爾。是為無為空。何等為畢竟空。畢竟名諸法畢竟不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名畢竟空。何等為無始空。若法初來處不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無始空。何等為散空。散名諸法無滅。非常非滅故。何以故。性自爾。是為散空。何等為性空。一切法性。若有為法性若無為法性。是性非聲聞辟支佛所作。非佛所作亦非餘人所作。是性性空非常非滅故。何以故。性自爾。是名性空。何等為自相空。自相名色壞相。受受相。想取相。行作相。識識相。如是等有為無為法各各自相空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名自相空。何等為諸法空。諸法名色受想行識。眼耳鼻舌身意。色聲香味觸法。眼界色界眼識界。乃至意界法界意識界。是諸法諸法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是為諸法空。何等為不可得空。求諸法不可得是不可得空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名不可得空。何等為無法空。若法無是亦空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法空。何等為有法空。有法名諸法和合中有自性相。是有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名有法空。何等為無法有法空。諸法中無法。諸法和合中有自性相。是無法有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法有法空。復次須菩提。法法相空。無法無法相空。自法自法相空。他法他法相空。何等名法法相空。法名五蔭。五蔭空是名法法相空。何等名無法無法相空。無法名無為法。是名無法無法空。何等名自法自法空。諸法自法空。是空非知作非見作。是名自法自法空。何等名他法他法空。若佛出若佛未出。法住法相法位法性如實際。過此諸法空。是名他法他法空。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂名首楞嚴三昧。寶印三昧。師子遊戲三昧。妙月三昧。月幢相三昧。出諸法三昧。觀頂三昧。畢法性三昧。畢幢相三昧。金剛三昧。入法印三昧。三昧王安立三昧。放光三昧。力進三昧。高出三昧。必入辯才三昧。釋名字三昧。觀方三昧。陀羅尼印三昧。無誑三昧。攝諸法海三昧。遍覆虛空三昧。金剛輪三昧。寶斷三昧。能照三昧。不求三昧。無住三昧。無心三昧。淨燈三昧。無邊明三昧。能作明三昧。普照明三昧。堅淨諸三昧三昧。無垢明三昧。歡喜三昧。電光三昧。無盡三昧。威德三昧。離盡三昧。不動三昧。不退三昧。日燈三昧。月淨三昧。淨明三昧。能作明三昧。作行三昧。知相三昧。如金剛三昧。心住三昧。普明三昧。安立三昧。寶聚三昧。妙法印三昧。法等三昧。斷喜三昧。到法頂三昧。能散三昧。分別諸法句三昧。字等相三昧。離字三昧。斷緣三昧。不壞三昧。無種相三昧。無處行三昧。離朦昧三昧。無去三昧。不變異三昧。度緣三昧。集諸功德三昧。住無心三昧。淨妙華三昧。覺意三昧。無量辯三昧。無等等三昧。度諸法三昧。分別諸法三昧。散疑三昧。無處三昧。一莊嚴三昧。生行三昧。一行三昧。不一行三昧。妙行三昧。達一切有底散三昧。入名語三昧。離音聲字語三昧。然炬三昧。淨相三昧。破相三昧。一切種妙足三昧。不喜苦樂三昧。無盡相三昧。陀羅尼三昧。攝諸邪正相三昧。滅憎愛三昧。逆順三昧。淨光三昧。堅固三昧。滿月淨光三昧。大莊嚴三昧。能照一切世三昧。三昧等三昧。攝一切有諍無諍三昧。不樂一切住處三昧。如住定三昧。壞身衰三昧。壞語如虛空三昧。離著虛空不染三昧。云何名首楞嚴三昧。知諸三昧行處。是名首楞嚴三昧。云何名寶印三昧。住是三昧能印諸三昧。是名寶印三昧。云何名師子遊戲三昧。住是三昧能遊戲諸三昧中如師子。是名師子遊戲三昧。云何名妙月三昧。住是三昧能照諸三昧如淨月。是名妙月三昧。云何名月幢相三昧。住是三昧能持諸三昧相。是名月幢相三昧。云何名出諸法三昧。住是三昧能出生諸三昧。是名出諸法三昧。云何名觀頂三昧。住是三昧能觀諸三昧頂。是名觀頂三昧。云何名畢法性三昧。住是三昧決定知法性。是名畢法性三昧。云何名畢幢相三昧。住是三昧能持諸三昧幢。是名畢幢相三昧。云何名金剛三昧。住是三昧能破諸三昧。是名金剛三昧。云何名入法印三昧。住是三昧入諸法印。是名入法即三昧。云何名三昧王安立三昧。住是三昧一切諸三昧中安立住如王。是名三昧王安立三昧。云何名放光三昧。住是三昧能放光照諸三昧。是名放光三昧。云何名力進三昧。住是三昧。於諸三昧能作勢力。是名力進三昧。云何名高出三昧。住是三昧能增長諸三昧。是名高出三昧。云何名必入辯才三昧。住是三昧能辯說諸三昧。是名必入辯才三昧。云何名釋名字三昧。住是三昧能釋諸三昧名字。是名釋名字三昧。云何名觀方三昧。住是三昧能觀諸三昧方。是名觀方三昧。云何名陀羅尼印三昧。住是三昧持諸三昧印。是名陀羅尼印三昧。云何名無誑三昧。住是三昧於諸三昧不欺誑。是名無誑三昧。云何名攝諸法海三昧。住是三昧能攝諸三昧如大海水。是名攝諸法海三昧。云何名遍覆虛空三昧。住是三昧遍覆諸三昧如虛空。是名遍覆虛空三昧。云何名金剛輪三昧。住是三昧能持諸三昧分。是名金剛輪三昧。云何名斷寶三昧。住是三昧斷諸三昧煩惱垢。是名斷寶三昧。云何名能照三昧。住是三昧能以光明顯照諸三昧。是名能照三昧。云何名不求三昧。住是三昧無法可求。是名不求三昧。云何名無住三昧。住是三昧中不見一切法住。是名無住三昧。云何名無心三昧。住是三昧心心數法不行。是名無心三昧。云何名淨燈三昧。住是三昧於諸三昧中作明如燈。是名淨燈三昧。云何名無邊明三昧。住是三昧與諸三昧作無邊明。是名無邊明三昧。云何名能作明三昧。住是三昧即時能為諸三昧作明。是名能作明三昧。云何名普照明三昧。住是三昧即能照諸三昧門。是名普照明三昧。云何名堅淨諸三昧三昧。住是三昧能堅淨諸三昧相。是名堅淨諸三昧三昧。云何名無垢明三昧。住是三昧能除諸三昧垢。亦能照一切三昧。是名無垢明三昧。云何名歡喜三昧。住是三昧能受諸三昧喜。是名歡喜三昧。云何名電光三昧。住是三昧照諸三昧如電光。是名電光三昧。云何名無盡三昧。住是三昧於諸三昧不見盡。是名無盡三昧。云何名威德三昧。住是三昧於諸三昧威德照然。是名威德三昧。云何名離盡三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名離盡三昧。云何名不動三昧。住是三昧令諸三昧不動不戲。是名不動三昧。云何名不退三昧。住是三昧能不見諸三昧退。是名不退三昧。云何名日燈三昧。住是三昧放光照諸三昧門。是名日燈三昧。云何名月淨三昧。住是三昧能除諸三昧闇。是名月淨三昧。云何名淨明三昧。住是三昧於諸三昧得四無闇智。是名淨明三昧。云何名能作明三昧。住是三昧於諸三昧門能作明。是名能作明三昧。云何名作行三昧。住是三昧能令諸三昧各有所作。是名作行三昧。云何名知相三昧。住是三昧見諸三昧知相。是名知相三昧。云何名如金剛三昧。住是三昧能貫達諸法亦不見達。是名如金剛三昧。云何名心住三昧。住是三昧心不動不轉不惱。亦不念有是心。是名心住三昧。云何名普明三昧。住是三昧普見諸三昧明。是名普明三昧。云何名安立三昧。住是三昧於諸三昧安立不動。是名安立三昧。云何名寶聚三昧。住是三昧普見諸三昧如見寶聚。是名寶聚三昧。云何名妙法印三昧。住是三昧能印諸三昧以無印印故。是名妙法印三昧。云何名法等三昧。住是三昧觀諸法等無法不等。是名法等三昧。云何名斷喜三昧。住是三昧斷一切法中喜。是名斷喜三昧。云何名到法頂三昧。住是三昧滅諸法闇亦在諸三昧上。是名到法頂三昧。云何名能散三昧。住是三昧中能破散諸法。是名能散三昧。云何名分別諸法句三昧。住是三昧分別諸三昧諸法句。是名分別諸法句三昧。云何名字等相三昧。住是三昧得諸三昧字等。是名字等相三昧。云何名離字三昧。住是三昧諸三昧中乃至不見一字。是名離字三昧。云何名斷緣三昧。住是三昧斷諸三昧緣。是名斷緣三昧。云何名不壞三昧。住是三昧不得諸法變異。是名不壞三昧。云何名無種相三昧。住是三昧不見諸法種種。是名無種相三昧。云何名無處行三昧。住是三昧不見諸三昧處。是名無處行三昧。云何名離矇昧三昧。住是三昧離諸三昧微闇。是名離朦昧三昧。云何名無去三昧。住是三昧不見一切三昧去相。是名無去三昧。云何名不變異三昧。住是三昧不見諸三昧變異相。是名不變異三昧。云何名度緣三昧。住是三昧度一切三昧緣境界。是名度緣三昧。云何名集諸功德三昧。住是三昧集諸三昧功德。是名集諸功德三昧。云何名住無心三昧。住是三昧於諸三昧心不入。是名住無心三昧。云何名淨妙花三昧。住是三昧令諸三昧得淨妙如花。是名淨妙花三昧。云何名覺意三昧。住是三昧諸三昧中得七覺分。是名覺意三昧。云何名無量辯三昧。住是三昧於諸法中得無量辯。是名無量辯三昧。云何名無等等三昧。住是三昧諸三昧中得無等等相。是名無等等三昧。云何名度諸法三昧。住是三昧度一切三界。是名度諸法三昧。云何名分別諸法三昧。住是三昧諸三昧及諸法分別見。是名分別諸法三昧。云何名散疑三昧。住是三昧得散諸法疑。是名散疑三昧。云何名無住處三昧。住是三昧不見諸法住處。是名無住處三昧。云何名一莊嚴三昧。住是三昧終不見諸法二相。是名一莊嚴三昧。云何名生行三昧。住是三昧不見諸行生。是名生行三昧。云何名一行三昧。住是三昧不見諸三昧此岸彼岸。是名一行三昧。云何名不一行三昧。住是三昧不見諸三昧一相。是名不一行三昧。云何名妙行三昧。住是三昧不見諸三昧二相。是名妙行三昧。云何名達一切有底散三昧。住是三昧入一切有一切三昧。智慧通達亦無所達。是名達一切有底散三昧。云何名入名語三昧。住是三昧入一切三昧名語。是名入名語三昧。云何名離音聲字語三昧。住是三昧不見諸三昧音聲字語。是名離音聲字語三昧。云何名然炬三昧。住是三昧威德照明如炬。是名然炬三昧。云何名淨相三昧。住是三昧淨諸三昧相。是名淨相三昧。云何名破相三昧。住是三昧不見諸三昧相。是名破相三昧。云何名一切種妙足三昧。住是三昧一切諸三昧種皆具足。是名一切種妙足三昧。云何名不喜苦樂三昧。住是三昧不見諸三昧苦樂。是名不喜苦樂三昧。云何名無盡相三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名無盡相三昧。云何名多陀羅尼三昧。住是三昧能持諸三昧。是名多陀羅尼三昧。云何名攝諸邪正相三昧。住是三昧。於諸三昧不見邪正相。是名攝諸邪正相三昧。云何名滅憎愛三昧。住是三昧不見諸三昧憎愛。是名滅憎愛三昧。云何名逆順三昧。住是三昧不見諸法諸三昧逆順。是名逆順三昧。云何名淨光三昧。住是三昧不得諸三昧明垢。是名淨光三昧。云何名堅固三昧。住是三昧不得諸三昧不堅固。是名堅固三昧。云何名滿月淨光三昧。住是三昧諸三昧滿足如月十五日。是名滿月淨光三昧。云何名大莊嚴三昧。住是三昧大莊嚴成就諸三昧。是名大莊嚴三昧。云何名能照一切世三昧。住是三昧諸三昧及一切法能照。是名能照一切世三昧。云何名三昧等三昧。住是三昧於諸三昧不得定亂相。是名三昧等三昧。云何名攝一切有諍無諍三昧。住是三昧能使諸三昧不分別有諍無諍。是名攝一切有諍無諍三昧。云何名不樂一切住處三昧。住是三昧不見諸三昧依處。是名不樂一切住處三昧。云何名如住定三昧。住是三昧不過諸三昧如相。是名如住定三昧。云何名壞身衰三昧。住是三昧不得身相。是名壞身衰三昧。云何名壞語如虛空三昧。住是三昧不見。諸三昧語業如虛空。是名壞語如虛空三昧。云何名離著虛空不染三昧。住是三昧。見諸法如虛空無閡。亦不染是三昧。是名離著虛空不染三昧。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍』
行空無相無作者。問曰前言菩薩得諸三昧。何以故。復言行空無相無作。 空、無相、無作を行ずるとは、問うて曰く、前に言わく、『菩薩は、諸の三昧を得』と。何を以っての故にか、復た『空、無相、無作を行ず。』と言う。
『空、無相、無作』を、
『行う!』とは、――
問い、
前には、
こう言った、――
『菩薩』は、
諸の、
『三昧』を、
『得ている!』と。
復た、
何故、
こう言うのか?――
『空、無相、無作』を、
『行っている!』と。
答曰。前說三昧名未說相。今欲說相。是故言行空無作無相。 答えて曰く、前には、三昧の名を説きて、未だ相を説かず。今は、相を説かんと欲するが故に、是の故に、『空、無作、無相を行ず。』と言う。
答え、
前には、
『三昧』の、
『名』を、
『説いた!』が、
未だ、
『相』を、
『説かなかった!』ので、
今、
『三昧』の、
『相』を、
『説こう!』として、
こう言うのである、――
『空』、
『無作』、
『無相』を、
『行っている!』、と。
若有人行空無相無作。是名得實相三昧。如偈說
 若持戒清淨  是名實比丘 
 若有能觀空  是名得三昧 
 若有能精進  是名行道人 
 若有得涅槃  是名為實樂
若し、有る人、空、無相、無作を行ずれば、是れを実相三昧を得と名づく。偈に説くが如し、
若し持戒して清浄なれば、是れを実の比丘と名づく。
若し有るが能く空を観ずれば、是れを三昧を得と名づく。
若し有るが能く精進すれば、是れを道を行く人と名づく。
若し有るが涅槃を得れば、是れを名づけて実の楽と為す。
若し、
有る人が、
『空』、
『無相』、
『無作』を、
『行っている!』ならば、
是れを、
『実相』の、
『三昧』を、
『得た!』という。
例えば、
『偈』に説く通りである、――
若し、
有る人が、
『持戒』して、
『清浄』ならば、
是れを、
『実』の、
『比丘』という。
若し、
有る人が、
『空』を、
『観ることができる!』ならば、
是れを、
『三昧』を、
『得た!』という。
若し、
有る人が、
『精進する!』ことが、
『できる!』ならば、
是れを、
『道』を、
『行く!』、
『人』という。
若し、
有る人が、
『涅槃』を、
『得た!』ならば、
是れを、
『実』の、
『楽』と、
『称する!』、と。
已得等忍者。問曰。云何等云何忍。 已に等忍を得とは、問うて曰く、云何が等、云何が忍なる。
已に、
『等忍』を、
『得ている!』とは、――
問い、
何を、
『等』といい、
何を、
『忍』というのですか?
  (とう):又平等とも称す。差別無く、均斉せる心の状態。『大智度論巻19下注:平等』参照。
  (にん):梵語kSaantiの訳。又羼提に作り、忍辱と訳す。『大智度論巻6下注:忍、忍辱』参照。
答曰。有二種等。眾生等法等。忍亦二種眾生忍法忍。 答えて曰く、二種の等有り、衆生等と、法等となり。忍にも、亦た二種あり、衆生忍と、法忍となり。
答え、
『等』には、
『二種』有り、
『衆生等』と、
『法等』である!。
『忍』にも、
『二種』有り、
『衆生忍』と、
『法忍』である!。
云何眾生等。一切眾生中等心等念等愛等利。是名眾生等。 云何が、衆生等なる。一切の衆生中に、等しき心もて、等しく念じ、等しく愛し、等しく利する、是れを衆生等と名づく。
何を、
『衆生等』というのか?
一切の、
『衆生』中に、
『等しい!』、
『心』で、
『等しく念じ!』、
『等しく愛し!』、
『等しく利する!』、
是れを、
『衆生』の、
『等』と、
『称する!』のである。
問曰。慈悲力故於一切眾生中。應等念。不應等觀。何以故。菩薩行實道不顛倒如法相。云何於善人不善人大人小人人及畜生。一等觀。不善人中實有不善相。善人中實有善相。大人小人人及畜生亦爾。如牛相牛中住。馬相馬中住。牛相非馬中。馬相非牛中。馬不作牛故。眾生各各相。云何一等觀而不墮顛倒。 問うて曰く、慈悲の力の故に、一切の衆生中に於いて、応に等しく念ずべきも、応に等しく観るべからず。何を以っての故に、菩薩は、実の道を行じ、顛倒せざること、法相の如し。云何が、善人不善人、大人小人、人及び畜生に於いて、一等に観る。不善人中には、実に不善相有り、善人中には実に善相あり、大人、小人、及び畜生も、亦た爾り。牛相は、牛中に住し、馬相は馬中に住するも、牛相は馬中に非ず、馬相は牛中に非ず、馬は牛と作らざるが故なり。衆生の各各の相を、云何が一等に観て、而も顛倒に堕せざる。
問い、
『慈悲』の、
『力』の故に、
一切の、
『衆生』中に於いて、
当然、
『等しく!』、
『念ずべき!』であるが、
当然、
『等しく!』、
『観るはずがない!』。
何故、
『善人、不善人』、
『大人、小人』、
『人、及び畜生』を、
『一等』に、
『観る!』のか?
『不善人』中には、
実に、
『不善』の、
『相』が、
『有り!』、
『善人』中には、
実に、
『善』の、
『相』が、
『有る!』。
『大人』と、
『小人』、
『人』と、
『畜生』も、
亦た、
爾の通りである。
例えば、
『牛』の、
『相』は、
『牛』中に、
『住している!』し、
『馬』の、
『相』は、
『馬』中に、
『住している!』。
『牛』の、
『相』は、
『馬』中には、
『無い!』し、
『馬』の、
『相』は、
『牛』中には、
『無い!』。
何故ならば、
『馬』は、
『牛』に、
『作らない!』からである。
『衆生』の、
各各の、
『相』を、
何故、
『一等』に、
『観た!』としても、
『顛倒』に、
『堕ちない!』のですか?
  (ひ):ない。無。
答曰。若善相不善相是實。菩薩應墮顛倒。何以故破諸法相故以諸法非實。善相非實不善相非多相非少相。非人非畜生非一非異。以是故汝難非也。如說諸法相偈
 不生不滅  不斷不常 
 不一不異  不去不來 
 因緣生法  滅諸戲論 
 佛能說是  我今當禮
答えて曰く、若し善相、不善相が、是れ実ならば、菩薩は応に顛倒に堕すべし。何を以っての故に、諸法の相を破るが故なり。諸法は、実の善相に非ず、実の不善相に非ず、多相に非ず、少相に非ず、人に非ず、畜生に非ず、一に非ず、異に非ざるを以ってなり。是を以っての故に、汝が難は非なり。諸法の相を説く偈の如し、
生にあらず滅にあらず、断にあらず常にあらず、
一にあらず異にあらず、去にあらず来にあらず、
因縁生の法は、諸の戯論を滅す、
仏能く是れを説きたまえば、我れは今当に礼すべし。
答え、
若し、
『善相』や、
『不善相』が、
『実』ならば、
『菩薩』は、
『顛倒』に、
『堕ちるはず!』である、
何故ならば、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『破る!』からである。
然し、
諸の、
『法』は、
実の、
『善相ではなく!』、
実の、
『不善相でもない!』、
『多相でもなく!』、
『少相でもない!』、
『人でもなく!』、
『畜生でもない!』
『一でもなく!』、
『異でもない!』のであるから、
是の故に、
お前の、
『難』は、
『非(不当)である!』。
例えば、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『説く!』偈の通りである、――
諸の、
『法』は、
『生でもない!』し、
『滅でもない!』。
『断でもない!』し、
『常でもない!』。
『一でもない!』し、
『異でもない!』。
『去るでもない!』し、
『来るでもない!』。
『因縁』が、
『法』を、
『生じる!』のであり、
諸の、
『戯論』を、
『滅する!』のである。
『仏』は、
是のように、
『善くぞ!』、
『説かれた!』、
わたしは、
今、
『仏』に、
『礼しよう!』。
  参考:『中論巻1』:『不生亦不滅  不常亦不斷  不一亦不異  不來亦不出  能說是因緣  善滅諸戲論  我稽首禮佛  諸說中第一  問曰。何故造此論。答曰。有人言萬物從大自在天生。有言從韋紐天生。有言從和合生。有言從時生。有言從世性生。有言從變生。有言從自然生。有言從微塵生。有如是等謬故墮於無因邪因斷常等邪見。種種說我我所。不知正法。佛欲斷如是等諸邪見令知佛法故。先於聲聞法中說十二因緣。又為已習行有大心堪受深法者。以大乘法說因緣相。所謂一切法不生不滅不一不異等。畢竟空無所有。如般若波羅蜜中說。佛告須菩提。菩薩坐道場時。觀十二因緣。如虛空不可盡。佛滅度後。後五百歲像法中。人根轉鈍。深著諸法。求十二因緣五陰十二入十八界等決定相。不知佛意但著文字。聞大乘法中說畢竟空。不知何因緣故空。即生疑見。若都畢竟空。云何分別有罪福報應等。如是則無世諦第一義諦。取是空相而起貪著。於畢竟空中生種種過。龍樹菩薩為是等故。造此中論  不生亦不滅  不常亦不斷  不一亦不異  不來亦不出  能說是因緣  善滅諸戲論  我稽首禮佛  諸說中第一  以此二偈讚佛。則已略說第一義。』
復次一切眾生中。不著種種相。眾生相空相一等無異。如是觀。是名眾生等。 復た次ぎに、一切の衆生中の、種種の相に著せず、衆生相と、空相とは一等にして無異なりと、是の如く観る、是れを衆生等と名づく。
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』中の、
種種の、
『相』に、
『著することなく!』、
『衆生相』も、
『空相』も、
『一等であり!』、
『無異である!』と、
是のように、
『観る!』、
是れを、
『衆生』の、
『等』と、
『称する!』のである。
若人是中心等無礙。直入不退。是名得等忍。得等忍菩薩。於一切眾生不瞋不惱如慈母愛子。如偈說
 觀聲如呼響  身行如鏡像 
 如此得觀人  云何而不忍
是名眾生等忍。
若し人、是の中に心等しくして、無礙なれば、直ちに不退に入る。是れを等忍を得と名づく。等忍を得たる菩薩は、一切の衆生に於いて、瞋らず、悩ませざること、慈母の子を愛するが如し。偈に説くが如し、
声は呼響の如し、身行は鏡像の如しと観る、
此の如き観を得たる人が、云何が忍ばざらん。
是れを衆生の等忍と名づく。
若し、
『人』が、
是の中に、
『心』が、
『等しく!』て、
『無礙』ならば、
直ちに、
『不退』に、
『入る!』ので、
是れを、
『等忍を得た!』という。
『等忍を得た!』、
『菩薩』は、
一切の、
『衆生』に於いて、
『瞋ることもなく!』、
『悩ませることもなく!』、
譬えば、
『慈母』が、
『子』を、
『愛する!』ようである。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『声』は、
『呼響(こだま)のようだ!』と、
『観て!』、
『身』の、
『行い!』は、
『鏡像のようだ!』と、
此のように、
『観る!』ことの、
『できる!』、
『人』が、
何うして、
『忍ばない!』ことが、
『あろうか?』と。
是れを、
『衆生』の、
『等忍』と、
『称する!』のである。
  呼響(くごう):こだま。
  身行(しんぎょう):身の行い。
云何名法等忍。善法不善法有漏無漏有為無為等法。如是諸法入不二入法門。入實法相門。如是入竟。是中深入諸法實相時。心忍直入無諍無礙。是名法等忍。如偈說
 諸法不生不滅 
 非不生非不滅 
 亦不生滅非不生滅 
 亦非不生滅非非不生滅
云何が、法の等忍と名づくる。善法、不善法、有漏、無漏、有為、無為等の法、是の如き諸法の、不二入の法門に入り、実の法相の門に入り、是の如く入り竟りて、是の中に深く、諸法の実相に入る時、心は忍んで、直ちに無諍、無礙に入る、是れを法の等忍と名づく。偈に説くが如し、
諸法は不生不滅にして、
非不生非不滅、
亦不生滅非不生滅、
亦非不生滅非非不生滅なり。
何を、
『法』の、
『等忍』というのか?
『善法』や、
『不善法』、
『有漏』や、
『無漏』、
『有為』や、
『無為』等の、
『法』、
是のような、
諸の、
『法』の、
『不二入』の、
『法門』に、
『入り!』、
『実』の、
『法相の門』に、
『入り!』、
是のように、
『入った!』ならば、
是の中に、
深く、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『入る!』時、
『心』は、
忍んで、
直ちに、
『無諍』、
『無礙』に、
『入る!』ので、
是れを、
『法』の、
『等忍』と、
『称する!』のである。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
諸の、
『法』は、
『生でもなく!』、
『滅でもない!』。
亦た、
『不生でもなく!』、
『不滅でもない!』。
亦た、
『生滅しない!』し、
『生滅しないでもない!』、
亦た、
『生滅しないでもなく!』、
『生滅しないでないでもない!』、と。
  無諍(むじょう):梵語araNaaの訳語、また音訳して阿蘭那に作り、即ち諍論を息むの意なり。諍(梵raNa即ち好戦なり)とは、即ち諍論を指し、煩悩の異名なり。「倶舎論巻27」によれば、よく諸の有情をして貪瞋癡等の煩悩を生ぜしめざる智、並びに具に他人の煩悩を止息する力を有し、ただ仏及び阿羅漢のみこれを具うること有りと為し、その他の有情の及ぶ能わざる所の殊勝の徳力と為す。<(佛)
  無礙(むげ):梵語apratihataの訳。又anaavaraNa、障礙なきの意。又無閡に作り、具に無障礙、無罣礙、或いは無所罣礙とも称す。「大品般若経巻16大如品」に、「是の法は無礙なり。色を礙えず、受想行識を礙えず、乃至一切種智を礙えず。諸天子、是の法を無礙の相と名づく。虚空等の如くなるが故なり」と云い、「大智度論巻72」に之を解し、「是の般若波羅蜜の相は一切法に随順して障礙する所なし。何を以っての故に、般若波羅蜜に於いても亦著せず、不障礙の因縁は虚空等の如しと説くが故なり」と云えり。是れ般若波羅蜜の相は虚空の如く一切法に随順して障礙する所なきを説けるものなり。蓋し無礙には心無礙、色無礙、解無礙、辯無礙等の諸種の別あり。「大智度論巻6」に、「是の菩薩は無量清浄の智慧を得るが故に、諸法の中に於いて心無礙なり」と云い、「同巻72」に、「今世に善法を得て智慧無礙なり。身を捨てて法身無礙を得、意に随って十方に至りて衆生を教化す」と云い、「大乗起信論」に、「色無礙自在、救世大悲者」と云い、又「品類足論巻5」に、「四無礙解あり、謂わく法無礙解、義無礙解、詞無礙解、辯無礙解なり」と云える是れなり。又「大宝積経巻14密迹金剛力士会」に、菩薩は総持無所罣礙、辯才無所罣礙、道法無所罣礙を得ることを説き、「新華厳経巻43十定品」に、菩薩若し無礙輪三昧に入らば、無礙の身語意業に住し、無礙の仏国土に住し、無礙の成就衆生智、無礙の調伏衆生智を得、無礙の光明を放ち、無礙の光明網を現じ、無礙広大の変化を示し、無礙清浄の法輪を転じ、菩薩の無礙自在を得んと云い、「同巻56離世間品」には、菩薩に衆生無礙用等の十種の無礙用あることを明かし、「同巻46仏不思議法品」には、諸仏に往一切世界無障礙住等の十種の無障礙住ありとし、「同巻47」に、諸仏に十種の無礙解脱あることを説き、又「華厳経疏巻1」に、毘盧遮那の仏身には用周無礙等の十種の無礙を具足することを明かし、「華厳経探玄記巻3」に、蓮華蔵世界に情事無礙等の十種の無礙を具足することを説き、「華厳法界玄鏡巻上」等には理事無礙法界、事事無礙法界の相を委説し、其の他、仏智の自在なるを無礙智と云い、仏光の覆障せらるることなきを無礙光と称し、其の用例甚だ多し。又「般若波羅蜜多心経」、「往生論註巻下」、「華厳五教章巻1至4」、「華厳経疏巻4、11、56」等に出づ。<(望)
  不二法門(ふにほうもん):善悪、有無等の二法無き法門。『大智度論巻5上注:入不二法門』参照。
  入不二法門(にゅうふにほうもん):不二法門に入るの意。又入不二門と名づく。即ち差別対待を亡泯して一如平等に悟入せし境地を云う。「維摩経巻中入不二法門品」に、「爾の時、維摩詰は衆菩薩に謂いて言わく、諸の仁者、云何が菩薩は不二法門に入るや。各楽う所に随って之を説けと。会中に菩薩あり、法自在と名づく、説きて言わく、諸の仁者、生滅を二と為す、法は本不生なれば今則ち滅なし。此の無生法忍を得る、是れを入不二法門と為すと。(中略)楽実菩薩曰わく、実不実を二と為す、実に見る者は尚お実を見ず、何に況んや非実をや。所以は何ぞ、肉眼の所見に非ず、慧眼乃ち能く見ればなり。而も此の慧眼には見もなく不見もなし。是れを入不二法門と為すと。是の如く諸菩薩各各説き已りて文殊師利に問う、何等か是れ菩薩の入不二法門なる、文殊師利曰わく、我が意の如きは一切法に於いて言なく説なく、示なく識なく、諸の問答を離る。是れを入不二法門と為すと。是に於いて文殊師利は維摩詰に問う、我等各自ら説き已れり、仁者当に説くべし、何等か是れ菩薩の入不二法門なる。時に維摩詰は黙然として言なし。文殊師利歎じて曰わく、善哉善哉、乃至文字語言あることなし。是れ真に入不二法門なり」と云える是れなり。是れ法自在菩薩は生滅、徳守菩薩は我我所、不眴菩薩は受不受、徳頂菩薩は垢浄、善宿菩薩は是動是念、善眼菩薩は一相無相、妙臂菩薩は菩薩心声聞心、弗沙菩薩は善不善、師子菩薩は罪福、師子意菩薩は有漏無漏、浄解菩薩は有為無為、那羅延菩薩は世間出世間、善意菩薩は生死涅槃、現見菩薩は尽不尽、普守菩薩は我無我、電天菩薩は明無明、喜見菩薩は色色空、明相菩薩は四種異空種異、妙意菩薩は眼色、無尽意菩薩は布施廻向一切智、深慧菩薩は空是無相是無作、寂根菩薩は仏法衆、心無礙菩薩は身身滅、上善菩薩は身口意善、福田菩薩は福行罪行不動行、華厳菩薩は従我起二、徳蔵菩薩は有所得相、月上菩薩は闇明、宝印手菩薩は楽涅槃不楽世間、珠頂王菩薩は正道邪道、楽実菩薩は実不実の不二を観じ、又文殊師利は諸法の無言無説無示無識を以って入不二法門となしたるに対し、維摩詰は即ち黙を以って不二を顕したることを説けるものにして、即ち諸法の実相は言亡慮絶し、説くべからず、示すべからざるものなることを明にするの意なり。「注維摩詰教巻8」に僧肇の説を挙げ、「無言を言うことあるは、未だ無言を言うことなきに若かず、所以に黙然たるなり。上の諸菩薩は言を法相に措く、文殊は無言を言うことあり、浄名は無言を言うことなし。此の三は宗を明すこと同じと雖も而も迹に深浅あり。所以に言は無言に後れ、知は無知に後る。信なる哉」と云えり。是れ前の法自在等の三十一菩薩は言を法相に措き、文殊は無言に於いて言し、維摩は無言に於いて黙せしことを指摘し、以って其の所入の事に浅深あることを論じたるなり。又慧遠の「維摩義記巻3末」に之を遣相、融相の二門に要摂し、「此の不二門は是れ法界中の一門の義なり。門別にして殊なると雖も而も妙旨虚融し、同義として在らざるはなし。在らざることなきが故に、一切諸法は皆是れ不二なり。諸法皆是なり。豈に局る所あらんや。但し此の文中には且く三十三人の辨ずる所に約して以って其の異を辨ず。辨ずる所異なりと雖も、要摂すれば唯二のみ。一に遣相門は、二相双べ捨つるを名づけて不二と為し、留むる所あるに非ず。二に融相門は、二法同体なるを名づけて不二と為し、遣る所あるに非ず」と云えり。是れ前の三十一菩薩は二相双べて捨遣するが故に之を遣相門の不二とし、後の文殊及び維摩は二法同体にして捨遣する所あるに非ずとなすが故に、之を融相門の不二と名づけたるなり。又吉蔵の「浄名玄論巻1」には所入の不二法門の体に関し、「問う義宗は乃ち広く不二を陳ぶるも、未だ不二は定んで何等の法なるやを詳にせず。答う、有る人言わく、不二法門は則ち真諦の理なりと。有る人言わく、不二法門は謂わく実相般若なりと。有る人言わく不二法門は則ち性浄涅槃阿梨耶識なりと。有る人言わく、不二法門は謂わく阿摩羅識自性清浄心なりと。四宗の中、初の二は境に約し、後の両は心に拠る。識と境と義殊なると雖も、而も同じく四向を絶す」と云えり。以って其の説の不同を見るべし。又湛然の「法華玄義釈籤巻14」に、色心、内外、修性、因果、染浄、依正、自他、三業、権実、受潤の十双に約して不二を論じ、「大仏頂首楞厳経巻5」に驕陳那以下二十五聖が各所入の円通を説けるは、共に今の経説に依憑するものなりというべし。又「大乗義章巻1」、「維摩経玄疏巻3」、「維摩経文疏巻26」、「維摩経略疏巻9」、「説無垢称経賛巻5末」、「華厳経探玄記巻8」等に出づ。<(望)
  参考:『維摩詰所説経巻2入不二法門品』:『爾時維摩詰。謂眾菩薩言。諸仁者。云何菩薩入不二法門。各隨所樂說之。會中有菩薩名法自在。說言。諸仁者。生滅為二。法本不生今則無滅。得此無生法忍。是為入不二法門。德守菩薩曰。我我所為二。因有我故便有我所。若無有我則無我所。是為入不二法門。不眴菩薩曰。受不受為二。若法不受則不可得。以不可得故無取無捨無作無行。是為入不二法門。德頂菩薩曰。垢淨為二。見垢實性則無淨相順於滅相。是為入不二法門。善宿菩薩曰。是動是念為二。不動則無念。無念則無分別。通達此者。是為入不二法門。善眼菩薩曰。一相無相為二。若知一相即是無相。亦不取無相入於平等。是為入不二法門。妙臂菩薩曰。菩薩心聲聞心為二。觀心相空如幻化者。無菩薩心無聲聞心。是為入不二法門。弗沙菩薩曰。善不善為二。若不起善不善。入無相際而通達者。是為入不二法門。師子菩薩曰。罪福為二。若達罪性則與福無異。以金剛慧決了此相無縛無解者。是為入不二法門。師子意菩薩曰。有漏無漏為二。若得諸法等則不起漏不漏想。不著於相亦不住無相。是為入不二法門。淨解菩薩曰。有為無為為二。若離一切數則心如虛空。以清淨慧無所礙者。是為入不二法門。那羅延菩薩曰。世間出世間為二。世間性空即是出世間。於其中不入不出不溢不散。是為入不二法門。善意菩薩曰。生死涅槃為二。若見生死性則無生死。無縛無解不生不滅。如是解者。是為入不二法門。現見菩薩曰。盡不盡為二。法若究竟盡若不盡皆是無盡相。無盡相即是空。空則無有盡不盡相。如是入者。是為入不二法門。普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我實性者不復起二。是為入不二法門。電天菩薩曰。明無明為二。無明實性即是明。明亦不可取離一切數。於其中平等無二者。是為入不二法門。喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門。‥‥』
  参考:『大智度論巻30』:『復次若菩薩持戒清淨具足無所分別。持戒破戒於一切諸法。畢竟不生常空法忍精進不休不息不著不厭精進懈怠一相不異。無量無邊無數劫懃修精進。都欲受行甚深禪定無所依止。定亂不異不起於定而能變。身無量遍至十方說法度人。行深智慧觀一切法不生不滅非不生非不滅亦非不生亦非不滅非非不生非非不滅。過諸語言心行處滅。不可壞不可破不可受不可著。諸聖行處淨如涅槃。亦不著是觀意亦不沒。能以智慧而自饒益。如是菩薩諸佛讚歎。』
已得解脫(丹注云於邪見得離故言解脫也)空非空(丹注云於空不取故言非也)是等悉捨滅諸戲論言語道斷。深入佛法心通無礙不動不退。名無生忍。是助佛道初門以是故說已得等忍 已に解脱を得れば、(丹注に云わく邪見に於いて離を得るが故に、解脱と言うなり)空も、非空も(丹注に云わく空に於いて取らざるが故に、非ずと言うなり)是れ等を悉く捨て、諸の戯論を滅せば、言語の道断え、深く仏法に入りて、心は通じて無礙となり、不動不退なるを、無生忍と名づく。是れ仏道を助くる初門なり、是を以っての故に説かく、『已に等忍を得』と。
已に、
『解脱』を得た!ならば、
『空』とか、
『空でない!』とか、
是れ等を、
悉く、
『捨ててしまい!』、
諸の、
『戯論』を、
『滅する!』と、
『言語』の、
『道』が、
『断えて!』、
深く、
『仏』の、
『法』に、
『入る!』ので、
『心』が、
『通じて!』、
『無礙となり!』、
『不動となり!』、
『不退となる!』、
是れを、
『無生忍』と、
『称する!』が、
是れは、
『仏』の、
『道』を、
『助ける!』、
『初門』である!ので、
是の故に、
こう説くのである、――
已に、
『等忍』を、
『得ている!』、と。
  戯論(けろん):梵語prapaJcaの訳。戯弄の談論の意。即ち実理に違背し、善法を増進せざる無義無益の言論を云う。「仏遺教経」に、「汝等比丘、若し種種戯論せば、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も猶お未だ得脱せじ。この故に比丘常に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に速かに戯論の患を滅すべし。これを不戯論と名づく」と云い、「中論巻1観因縁品」に、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出なり。能くこの因縁を説き、能く諸の戯論を滅す」と云い、又「瑜伽師地論巻91」に、「此の中、能く無義を引く思惟分別所発の語言を名づけて戯論と為す。何を以っての故に、かくの如きの事に於いて勤加行する時、小分も善法を増益し不善法を損すること能わず。この故に彼を説いて名づけて戯論と為す」と云えるこれなり。又「中論巻3観法品」には、戯論に愛論見論の二種あることを説き、「中観論疏巻1」に之を解して、愛論とは一切法に於いて取著の心あるを云い、見論とは一切法に於いて決定の解を作すを云う。又利根の者は見論を起し、鈍根の人は愛論を起す。又在家の人は愛論を起し、出家の人は見論を起し、又天魔は愛論を起し、外道は見論を起し、又凡夫は愛論を起し、二乗は見論を起すと云えり。又「仏性論巻3」には三種及び九種の戯論を説けり。即ち彼の文に、「戯論に三あり、一に貪愛、二に我慢、三に諸見なり。この三の戯論は、如来之を滅して已に尽くるが故に、無戯論を以って事と為す。戯論には三義あり、一に能く実理に違礙し、二に虚誑世間と名づけ、三に解脱を障隔す。初は正境に違し、次は正行に違し、後は正得に違す。此の三義を合して名づけて戯論と為す。又戯論に九種あり、一には通じて我を計し、二には的にこれ我と計し、三には我は応に生ずべしと計し、四には我は更に生ぜずと計し、五には我は有色にして応に生ずべしと計し、六には我は無色にして応に生ずべしと計し、七には我は有想にして応に生ずべしと計し、八には我は無想にして応に生ずべしと計し、九には我は非想非非想にして応に生ずべしと計す」と云えるこれなり。又「中観論疏巻1」には別に五種の戯論を挙げ、一には仏に誡勧二門あり、諸悪莫作を名づけて誡門と為し、諸善奉行を名づけて勧門と為す。悪は理に乖くことあれば、㾈墜して他を損し、苦を感ずるが故に戯論と名づく。善は理に符すれば、清昇して他を利し楽を招く。故に戯論に非ず。二には善に二門あり、有所得の善は不動不出なれば名づけて戯論と為し、無所得の善は能動能出なるが故に戯論に非ず。三には有得無得の二を名づけて戯論と為す、諸の二あるものは道無く果なければなり。若し有得無得平等無二なるをば不戯論と名づく、無二の性は即ちこれ実性なればなり。四には二と不二とこれ二辺なれば並びに戯論と名づけ、非二非不二を不戯論と為す。又二不二、非二非不二は並びにこれ名相なれば皆名づけて戯論と為し、言亡慮絶を不戯論と為す。五には若しは戯論あり、若しは不戯論ある並びにこれ戯論なり。若し戯論なく不戯論なき、方にこれ不戯論なりと云えり。又「仏遺教経論疏節要」に戯論に二種を分ち、一は真実の理に於いて戯論を生じ、二は世間の事に於いて戯論を生ずと云えり。上に挙ぐる所の諸説は、主として真実の理に於いて戯論を生ずるを説けるものなり。又「大日経疏巻5」、「遺教経論略疏」等に出づ。<(望)
  無生忍(むしょうにん):無生無滅の理に安住して動かざるの意。三種忍法の一。『大智度論巻41下注:無生忍、三種忍法』参照。



無礙陀羅尼

【經】得無礙陀羅尼 無礙陀羅尼を得。
『無礙陀羅尼』を、
『得ている!』。
【論】問曰。前已說諸菩薩得陀羅尼。今何以復說得無礙陀羅尼。 問うて曰く、前に已に説かく、『諸の菩薩は、陀羅尼を得。』と。今は、何を以ってか、復た『無礙陀羅尼を得。』と説く。
問い、
前に、
已に、こう説いている、――
諸の、
『菩薩』は、
『陀羅尼』を、
『得ている!』、と。
今は、
何故、
復た、
こう説くのですか?――
『無礙陀羅尼』を、
『得ている!』、と。
答曰。無礙陀羅尼最大故。如一切三昧中三昧王三昧最大。如人中之王。如諸解脫中無礙解脫。大(丹注云得佛得道時所得也)如是一切諸陀羅尼中。無礙陀羅尼大。以是故重說。 答えて曰く、無礙陀羅尼は最大なるが故なり。一切の三昧中に、三昧王三昧の最大なるが如く、人中の王の如く、諸の解脱中の無礙解脱の大(丹注に云わく得仏得道の時の所得なり)なるが如く、是の如く一切の諸の陀羅尼中に無礙陀羅尼大なり、是を以っての故に重ねて説けり。
答え、
『無礙陀羅尼』は、
『最大』だからである。
譬えば、
一切の、
『三昧』中には、
『三昧王三昧』が、
『最大』であり!、
『人』中には、
『王』が、
『最大』であり!、
諸の、
『解脱』中には、
『無礙解脱』が、
『最大』である!ように、
是のように、
一切の、
諸の、
『陀羅尼』中には、
『無礙陀羅尼』が、
『最大』であり!、
是の故に、
『重ねて!』、
『説いた!』のである。
  三昧王三昧(さんまいおうさんまい):梵語smaadhi-raaja-samaadhiの訳。具に三昧王安立三昧samaadhi-raaja-supratiSThito naama samaadhiH、或いは単に王三昧raaja-samaadhiとも称す。一切の三昧中の王の意。即ち空三昧なるが如し。「増一阿含経巻41」に、「仏の舎利弗に告げて曰わく、汝は今諸根清浄、顔貌人と異あり。汝は今何の三昧にか遊べると。舎利弗の仏に白して言わく、唯然り、世尊、我れは恒に空三昧に遊べりと。仏の舎利弗に告げて言わく、善哉善哉、舎利弗にして、乃ち能く空三昧に遊べり。然る所以は、諸の虚空三昧を最も第一と為せばなり。其れ有る比丘虚空三昧に遊ぶに、吾我、人、寿命無きを計し、亦た衆生有りと見ず、亦復た諸行の本末を見ず、已に見ざれば、亦た行本を造らず、已に行無ければ、更に有を受けず、已に有を受くる無ければ、復た苦楽の報を受けず。舎利弗当に知るべし、我れは昔、未だ仏道を成ぜざれば、樹王の下に坐して便ち是の念を作す、此の衆生の類、何法を剋獲せずして、為に生死に流転し、解脱を得ざると。時に我れ復た是の念を作さく、空三昧有ること無くんば、便ち生死に流浪して、解脱を至竟するを得ざらん。此の空三昧有るも、但だ衆生は未だ、衆生をして想を起し著せしむる念を剋せず。世間の想を起すを以って、便ち生死の分を受く。若し是の空三昧を得ば、亦た所願無く、便ち無願三昧を得ん。無願三昧を得るを以って、此に死して彼に生ずるを求めず。都べて想念無き時、彼の行者は復た無想三昧の得べき娯楽あり。此の衆生の類、皆、三昧を得ざるに由るが故に、生死に流浪すと。諸法を観察し已りて便ち空三昧を得、空三昧を得已りて、便ち阿耨多羅三藐三菩提を成ず。我が爾の時に当りて、空三昧を得るを以って、七日七夜道樹を観視し、目未だ曽て眴かず。舎利弗、此の方便を以って知るらく、空三昧は、諸三昧に於いて最も第一と為す。三昧王三昧とは、空三昧是れなり。是の故に舎利弗、当に方便を求めて、空三昧を辦ずべし。是の如く、舎利弗、当に是の学を作すべしと。爾の時、舎利弗、仏の所説を聞きて、歓喜し奉行せり」と云える、是れ其の意なり。又「放光般若経巻1」には、「爾の時世尊は自ら高座を敷きて結跏趺坐し定意三昧を正受したもう。其の三昧を三昧王と名づけ、一切の三昧は悉く其の中に入る。是の三昧を作し已りて、天眼を持して世界を観視したもう」と云い、又「大品般若経巻5」に、「云何が三昧王安立三昧と名づくる。是の三昧に住せば、一切の諸三昧中に安立して、住すること王の如し、是れを三昧王安立三昧と名づく」と云い、又「大智度論巻7」に、「云何が三昧王三昧と名づくる。是の三昧は、諸三昧中に於いて最も第一自在にして、能く無量の諸法を縁ずること、諸人中に王の第一なる、王中に転輪聖王の第一なる、一切の天上天下に仏の第一なるが如く、此の三昧も亦た是の如く、諸三昧中に於いて最も第一なり」と云い、又「同巻47」に、「三昧王安立三昧とは、譬えば大王の正殿に安住して、諸群臣を召すに、皆悉く命に従うが如く、菩薩、三昧王に入りて、大光明を放ちて、十方に請召すれば、悉く集まらざる無く、又化仏を遣して、遍く十方に至らしむ。安立とは、譬えば国王の正殿に安処するに、身心坦然として、畏懼する所無きが如し」と云える、皆其の例なり。
  参考:『増一阿含経巻41』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。尊者舍利弗清旦從靜室起至世尊所。頭面禮足。在一面坐。爾時。佛告舍利弗曰。汝今諸根清淨。顏貌與人有異。汝今遊何三昧。舍利弗白佛言。唯然。世尊。我恒遊空三昧。佛告舍利弗言。善哉。善哉。舍利弗。乃能遊於空三昧。所以然者。諸虛空三昧者最為第一。其有比丘遊虛空三昧。計無吾我.人.壽命。亦不見有眾生。亦復不見諸行本末。已不見。亦不造行本。已無行。更不受有。已無受有。不復受苦樂之報。舍利弗當知。我昔未成佛道。坐樹王下。便作是念。此眾生類為不剋獲何法。流轉生死不得解脫。時。我復作是念。無有空三昧者。便流浪生死。不得至竟解脫。有此空三昧。但眾生未剋。使眾生起想著之念。以起世間之想。便受生死之分。若得是空三昧。亦無所願。便得無願三昧。以得無願三昧。不求死此生彼。都無想念時。彼行者復有無想三昧可得娛樂。此眾生類皆由不得三昧故。流浪生死。觀察諸法已。便得空三昧。已得空三昧。便成阿耨多羅三藐三菩提。當我爾時。以得空三昧。七日七夜觀視道樹。目未曾眴。舍利弗。以此方便。知空三昧者。於諸三昧最為第一三昧。王三昧者。空三昧是也。是故。舍利弗。當求方便。辦空三昧。如是。舍利弗。當作是學。爾時。舍利弗聞佛所說。歡喜奉行』
復次先說諸菩薩得陀羅尼。不知是何等陀羅尼。 復た次ぎに、先に、諸の菩薩の陀羅尼を得たるを説くも、是れ何等の陀羅尼なるかを知らず。
復た次ぎに、
先には、
こう説いた、――
諸の、
『菩薩』は、
『陀羅尼』を、
『得ている!』と。
而し、
是の、
『陀羅尼』が、
何のような、
『陀羅尼なのか?』は、
『知らない!』からである。
有小陀羅尼如轉輪聖王仙人等所得聞持陀羅尼分別眾生陀羅尼歸命救護不捨陀羅尼。如是等小陀羅尼餘人亦有。 有る小陀羅尼は、転輪聖王、仙人等の所得にして、聞持陀羅尼、分別衆生陀羅尼、帰命救護不捨陀羅尼、是の如き等の小陀羅尼は余人にも、亦た有り。
有る、
『小陀羅尼』は、
『転輪聖王』や、
『仙人』等の、
『得る!』所であり、
『聞持陀羅尼』、
『分別衆生陀羅尼』、
『帰命救護不捨陀羅尼』等、
是れ等の、
『小陀羅尼』は、
『余人』も亦た、
『有する!』のである。
是無礙陀羅尼。外道聲聞辟支佛新學菩薩皆悉不得。唯無量福德智慧大力諸菩薩。獨有是陀羅尼。以是故別說。 是の無礙陀羅尼は、外道、声聞、辟支仏、新学の菩薩、皆、悉く得ず。唯だ無量の福徳の智慧の大力の諸の菩薩のみ、独り、是の陀羅尼有り。是を以っての故に、別に説けり。
是の、
『無礙陀羅尼』は、
『外道』や、
『声聞』、
『辟支仏』、
『新学の菩薩』の、
皆、
『悉く!』が、
『得られない!』、
唯だ、
『無量』の、
『福徳』の、
『智慧』の、
『大力』の、
諸の、
『菩薩』のみが、
独り、
是の、
『陀羅尼』を、
『有する!』のであり、
是の故に、
『別に!』、
『説いた!』のである。
復次是菩薩輩。自利已具足。但欲益彼說法教化無盡。以無礙陀羅尼為根本。以是故諸菩薩。常行無礙陀羅尼 復た次ぎに、是の菩薩の輩は、自利を已に具足すれば、但だ彼れを益せんと欲して、説法教化の尽くることの無きは、無礙陀羅尼を以って、根本と為す。是を以っての故に、諸の菩薩は、常に無礙陀羅尼を行ずるなり。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩の輩()』は、
已に、
『自利』が、
『具足している!』ので、
但だ、
彼の、
『衆生』を、
『利益したい!』とのみ、
『思い!』、
『説法』や、
『教化』の、
『尽きる!』ことが、
『無い!』のは、
『無礙陀羅尼』を以って、
『根本』と、
『為している!』からである。
是の故に、
諸の、
『菩薩』は、
常に、
『無礙陀羅尼』を、
『行っている!』のである。



五通

【經】悉是五通 悉く、是れ五通なり。
悉くが、
『五通』である!。
  五通(ごつう):五種の神通の意。即ち如意、天眼、天耳、他心、宿命を云う。『大智度論巻16下注:五通』参照。
【論】如意天眼天耳他心智自識宿命。 如意、天眼、天耳、他心智、自識宿命なり。
『五通』とは、
『如意』、
『天眼』、
『天耳』、
『他心智』、
『自識宿命』である。
云何如意。如意有三種。能到轉變聖如意。 云何が如意なる。如意に三種有り、能到、転変、聖如意なり。
『如意』とは、
何をいうのか?――
『如意』には、
『三種』有り、
『能到』、
『転変』、
『聖如意』である。
能到有四種。一者身能飛行如鳥無礙。二者移遠令近不往而到。三者此沒彼出。四者一念能至。 能到には、四種有り、一には身の能く飛行すること、鳥の如く無礙なり。二には遠きを移して、近からしめ、往かずとも到る。三には此に没して、彼に出づ。四には一念にして、能く至る。
『能到』には、
『四種』有り、
一には、
『身』は、
『飛行する!』ことが、
『できる!』ので、
『鳥』のように、
『礙(さわり)』が、
『無い!』。
二には、
『遠く!』を、
『近く!』に、
『移す!』ので、
『往かなくても!』、
『到る!』ことが、
『できる!』。
三には、
『此(ここ)』、
『彼(かしこ)』に、
『出没する!』。
四には、
『一念(一瞬の間)』にて、
『至る!』ことが、
『できる!』。
轉變者。大能作小小能作大一能作多多能作一。種種諸物皆能轉變。外道輩轉變極久不過七日。諸佛及弟子轉變自在無有久近。 転変とは、大は、能く小と作り、小は能く大と作る。一は、能く多と作り、多は能く一と作る。種種の諸物は、皆、能く転変す。外道の輩は、転変して、極めて久しきものも、七日を過ぎざるに、諸仏、及び弟子の転変は、自在にして、久近有ること無し。
『転変』とは、
『大』を、
『小』と、
『作すことができたり!』、
『小』を、
『大』と、
『作すことができる!』とか、
『一』を、
『多』と、
『作すことができたり!』、
『多』を、
『一』と、
『作すことができる!』とか、
種種の、
諸の、
『物』を、
皆、
『転変する!』ことが、
『できる!』のであるが、
『外道の輩』の、
『転変』は、
『極めて久しい!』ものでも、
『七日』を、
『過ぎることがない!』のに、
『諸仏、及び弟子』の、
『転変』は、
『自在であり!』、
故に、
『近い!』とか、
『久しい!』とかが、
『無い!』のである。
聖如意者。外六塵中不可愛不淨物。能觀令淨。可愛淨物。能觀令不淨。是聖如意法唯佛獨有。 聖如意とは、外の六塵中の愛すべからざる不浄物を、能く観て、浄ならしめ、愛すべき浄物を、能く観て不浄ならしむ。是の聖如意の法は、唯仏のみに独り有り。
『聖如意』とは、
『外の六塵(色声香味触法)』中の、
『人』に、
『愛されることのない!』、
『不浄』の、
『物』を、
『観る!』ことを以って、
『浄くする!』ことが、
『できる!』し、
『人』に、
『愛される!』、
『浄い!』、
『物』を、
『観る!』ことを以って、
『不浄にする!』ことも、
『できる!』。
是の、
『聖如意』は、
唯だ、
『仏』のみが、
『有する!』。
是如意通從修四如意足生。是如意足通等。色緣故。次第生。不可一時得。 是の如意通は、四如意足を修めるに従って、生ず。是の如意足と、通は等しく、色を縁ずるが故に、次第に生じ、一時に得るべからず。
是の、
『如意通』は、
『四如意足』を、
『修める!』に従って、
『生じる!』のであり、
是の、
『如意足』と、
『如意通』とは、
『等しく!』、
『色』を、
『縁じる!』ので、
故に、
『次第(足より通に至る)に!』、
『生じる!』ので、
『一時(同時)』に、
『得る!』ことは、
『できない!』。
  四如意足(しにょいそく):梵語catvaara-Rddhi-paadaaHの訳語にして、また四神足に作り、即ち欲求(欲)、心念(心)、精進(勤)、観照(観)四法の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する三摩地(定)にして、三十七道品中、四念処、四正勤に次ぐ第三行法なり。(一)欲三摩地断行成就神足(梵chanda-samaadhi-prahaaNa-samannaagata-Rddhi-paada):また欲神足、欲如意足に作り、欲の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。(二)心三摩地断行成就神足(梵citta-samaadhi-prahaaNa-samannaagata-Rddhi-paada):また念神足、念如意足に作り、心の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。(三)勤三摩地断行成就神足(梵viirya-samaadhi-prahaaNa-samannaagata-Rddhi-paada):また勤神足、精進如意足等に作り、勤の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。(四)観三摩地断行成就神足(梵viimaaMsaa-samaadhi-prahaaNa-samannaagata-Rddhi-paada):また観神足、思惟如意足、慧如意足等に作り、観の力に由りて引発せれれて、種種の神用を現起する定を云う。蓋し前の四念処中には実智慧を修め、四正勤中に正精進を修めて精進、智慧は増多するも、定力の小し弱ければ、今四種の定力を得て、以って心を摂め、則ち定慧均等して所願皆得るが故に如意足と名づけ、また神足と名づく。如意とは意の如く得るの義にして、六通中の身如意通と為す。<(佛)『大智度論巻18下注:四神足』参照。
天眼通者。於眼。得色界四大造清淨色。是名天眼。 天眼通とは、眼に於いて色界の四大の造る清浄の色を得る、是れを天眼と名づく。
『天眼通』とは、
『眼』に於いて、
『色界』の、
『四大(地水火風)』の、
『造る!』、
『清浄な!』、
『色()』を、
『得る!』ことであり、
是の、
『眼』を、
『天眼』と、
『称する!』のである。
天眼所見。自地及下地六道中眾生諸物。若近若遠若覆若細諸色無不能照。見 天眼の見る所は、自地及び下地の六道中の衆生と、諸物を、若しくは近、若しくは遠、若しくは覆われ、若しくは細なる、諸の色を、照見する能わざる無し。
『天眼』の、
『見る!』所は、
『自地(色界諸地)』より、
『下地』の、
『六道』中の、
『衆生』と、
『諸物』であり、
『近かろう!』が、
『遠かろう!』が、
『覆われていよう!』が、
『細かかろう!』が、
諸の、
『色』で、
『照らし見る!』ことの、
『できない!』、
『色』は、
『無い!』のである。
天眼有二種。一者從報得。二者從修得。是五通中天眼從修得非報得。何以故。常憶念種種光明得故。 天眼には二種有り、一には報に従って得、二には修に従って得。是の五通中の天眼は、修に従って得、報にて得るに非ず。何を以っての故に、常に種種の光明を憶念して得るが故なり。
『天眼』には、
『二種』有り、
一には、
『報』に、
『従って!』、
『得る!』もの、
二には、
『修(修行)』に、
『従って!』、
『得る!』ものである。
是の、
『五通』中の、
『天眼』は、
『修』に、
『従って!』、
『得る!』のであり、
『報』に、
『従って!』、
『得ることはない!』。
何故ならば
『常に!』、
種種の、
『光明』を、
『憶念する!』ことで、
『得る!』からである。
復次有人言。是諸菩薩輩得無生法忍力故。六道中不攝。但為教化眾生故。以法身現於十方。三界中未得法身菩薩。或修得或報得。 復た次ぎに、有る人の言わく、『是の諸の菩薩の輩は、無生法忍の力を得るが故に、六道中に摂せず。但だ、衆生を教化せんが為の故に、法身を以って、十方に現わる。三界中に、未だ法身を得ざる菩薩は、或いは修得、或いは報得なり。
復た次ぎに、
有る人は、
こう言っている、――
是の、
諸の、
『菩薩の輩』は、
『無生法忍』の、
『力』を、
『得ている!』ので、
故に、
『六道』中に、
『摂しない!』が、
但だ、
『衆生』を、
『教化する!』為の故に、
『法身』を以って、
『十方』に、
『現れる!』のであり、
故に、
是の、
『天眼』は、
『修得である!』が、
『三界』中に、
未だ、
『法身』を、
『得ていない!』、
『菩薩』の、
『天眼』は、
『修得もあり!』、
『報得もある!』、と。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語anutpattika-dharma-kSaantiの訳語にして、謂わゆる諸法に無生無滅の理を観て、これを諦忍し安住して動かざる心なり。また無生忍に作る。「大智度論巻50」によるに、「無生法忍とは、無生滅の諸法実相中に於いて、信受、通達、無礙、不退なる、これを無生忍と名づく」と云い、また「大智度論巻86」に、「二乗の人は諸仏菩薩の智慧に於いて少しく気分を得。この故に八人のもしは智、もしは断、乃ち辟支仏のもしは智、もしは断に至るまで、皆これ菩薩の無生法忍なり。智は学人の八智に名づく、無学に或は九、或は十の断あり、十種の結使を断ずと名づく。(中略)智、断は皆これ菩薩の忍なり。声聞の人は四諦を以って道を得、菩薩は一諦を以って道に入る。仏の説かく、この四諦は皆これ一諦なり、分別するが故に四あり。この四諦の二乗の智、断は皆一諦の中に在りと。菩薩は先に柔順忍の中に住し、無生無滅亦非無生非無滅を学して有見無見有無見非有非無見等を離れ、諸の戯論を滅して無生忍を得るなり。無生忍とは、仏は後品の中に自ら説かく、乃ち仏と作るに至るまで、常に悪心を生ぜず、この故に無生忍と名づくと。論者の言わく、この忍を得て一切法の畢竟空を観じて縁を断ぜば心心数を生ぜず、これを無生忍と名づくと。またまた言わく、よく声聞辟支仏の智慧を過ぐるを無生忍と名づく。声聞辟支仏の智慧は色等の五種の生滅を観じ、心に厭離して解脱を得んと欲す。菩薩は大福徳の智慧を以って生滅を観ずる時、心に怖畏すること小乗の人の如くならず。菩薩は慧眼を以って生滅を求むるに実の定相不可得なり。(中略)無生忍もまたかくの如し、一には生滅を破すといえども、無生無滅にも著せず、故に常顛倒に出せず。二には不生滅に著するが故に常顛倒に堕す。真の無生は、諸観を滅して語言の道断え、一切の法は涅槃の相の如く、故より已来常に自ら無生なりと観ず。智慧を以って観ずるが故に無生ならしむるに非ず。この無生無滅の畢竟寂静なるを得れば、無常観すらなお取らず、何に況んや生滅をや。かくの如き等の相を無生法忍と名づく。この無生忍を得るが故に菩薩位に入る」と云えり。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
  法身(ほっしん):梵語dharma-kaayaの訳。法の身の意。仏所説の正法及び仏所得の無漏法、並びに仏の自性たる真如如来蔵を云う。『大智度論巻16下注:法身、法性生身』参照。
  参考:『大智度論巻86』:『皆是菩薩無生法忍智。名學人八智。無學或九或十斷。名斷十種結使。所謂上下分十結。須陀洹斯陀含略說斷三結。廣說斷八十八結。阿那含略說斷五下分結。廣說斷九十二。阿羅漢略說三漏盡。廣說斷一切煩惱。是名智斷。智斷皆是菩薩忍。聲聞人以四諦得道。菩薩以一諦入道。佛說是四諦皆是一諦。分別故有四。是四諦二乘智斷皆在一諦中。菩薩先住柔順忍中。學無生無滅。亦非無生非無滅。離有見無見有無見非有非無見等。滅諸戲論得無生忍。無生忍者佛後品中自說。乃至作佛常不生惡心。是故名無生忍。論者言得是忍觀一切法畢竟空。斷緣心心數不生。是名無生忍。又復言能過聲聞辟支佛智慧名無生忍。聲聞辟支佛智慧。觀色等五眾生。滅心厭離欲得解脫。菩薩以大福德智慧觀生滅時。心不怖畏如小乘人。菩薩以慧眼求生滅。實定相不可得。如先破生品中說。但以肉眼麤心見有無常生滅。凡夫人於諸法中著常見。是所著法還歸無常。眾生得憂悲苦惱。是故佛說欲離憂苦莫觀常相。是無常破常顛倒故。不為著無常故說。是故菩薩捨生滅觀。入不生不滅中。問曰。若入不生不滅。不生不滅即復是常。云何得離常顛倒。答曰如無常有二種。一者破常顛到不著無常。二者著無常生戲論。無生忍亦如是。一者雖破生滅不著無生無滅故不墮常顛倒。二者著不生滅故墮常顛倒。真無生者滅諸觀語言道斷。觀一切法如涅槃相。從本已來常自無生。非以智慧觀故令無生得是無生無滅畢竟清淨。無常觀尚不取。何況生滅。如是等相名無生法忍。得是無生忍故即入菩薩位。』
問曰。是諸菩薩功德。勝阿羅漢辟支佛。何以故。讚凡夫所共小功德天眼。不讚諸菩薩慧眼法眼佛眼。 問うて曰く、是の諸の菩薩の功徳は、阿羅漢、辟支仏に勝る。何を以っての故にか、凡夫と共にする所の小功德の天眼を讃じて、諸の菩薩の慧眼、法眼、仏眼を讃ぜざる。
問い、
是の、
諸の、
『菩薩』の、
『功徳』は、
『阿羅漢、辟支仏』より、
『勝れている!』。
何故、
『凡夫』と、
『共にする!』、
『小功德』の、
『天眼』を、
『讃じて!』、
諸の、
『菩薩』のみ、
『有する!』、
『大功徳』の、
『慧眼、法眼、仏眼』を、
『讃じない!』のですか?
  五眼(ごげん):梵語paJca cakSuuMSiの訳。巴梨語paJca cakkhuuni、五種の眼の意。一に肉眼(梵maaMsa-cakSus、巴maMsa-cakkhu)、二に天眼(梵divya-ca.、巴dibba-ca.)、三に慧眼(梵prajJaa-ca.、巴paJJaa-ca.)、四に法眼(梵dharma-ca.、巴dhamma-ca.)、五に仏眼(梵buddha-ca.、巴buddha-ca.)なり。「大品般若経巻2」に、「菩薩摩訶薩、五眼を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と云い、「大智度論巻33」に之を釈して「何等か五なる。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼なり。肉眼は近を見て遠を見ず、前を見て後ろを見ず、外を見て内を見ず、昼を見て夜を見ず、上を見て下を見ず、此の礙を以っての故に天眼を求む。この天眼を得ば、遠近皆見え、前後内外昼夜上下悉く皆礙無し。是の天眼は和合因縁生の仮名の物のみを見て実相を見ず。謂わゆる空、無相、無作、無生、無滅なり。前、中、後の如きも亦た爾り。実相の為の故に、慧眼を求む。慧眼を得ば、衆生を見ず、悉く一異の相を滅し、諸著を遠離し、一切法を受けず、智慧の自ら内に滅する、是れを慧眼と名づく。但だし慧眼は衆生を度すること能わず、所以は何んとなれば、分別する所無きが故なり。是を以っての故に法眼を生ず。法眼は、是の人をして是の法を行じ、是の道を得しめ、一切衆生の各各方便門を知りて道証を得しむ。法眼は遍く衆生を度する方便の道を知ること能わず、是を以っての故に仏眼を求む。仏眼は事として知らざる無く、覆障して密なりと雖も、見知せざる無し。余人に於いては極遠なるも仏に於いては至近に、余に於いては幽闇なるも仏に於いては顕明に、余に於いては疑なるも仏に於いては決定し、余に於いては微細なるも仏に於いては麁たり、余に於いては甚深なるも仏に於いては甚浅なり。是の仏眼は事として聞かざる無く、事として見ざる無く、事として知らざる無く、事として難と為すこと無く、思惟する所も無し。一切法の中に仏眼は常に照す」と云える是れなり。「大乗義章巻20末」には釈名等の八門を立てて、五眼の義を詳説せるが、其の中、就人分別の下に、凡夫には唯肉眼天眼の二のみありて余の三種なく、二乗は其の義不定なるも、若し観入の次第に依らば法眼肉眼天眼を具し、若し従寂起用の義に依らば慧眼肉眼天眼を具すというべく、又菩薩は観入門に就かば慧眼肉眼天眼を具し、起用の義に依らば法眼肉眼天眼を具し、仏は五眼悉く円満すと云い、又或義には肉眼は凡夫、天眼は天人、慧眼は二乗、法眼は菩薩、仏眼は仏の所得の眼を称すとなすと云えり。又天台家にては因位には前四眼、果位は即ち仏眼なりと説き、又蔵通別円の四教に各五眼の義の不同ありとし、密教に於いては、横平等の意に依らば五眼に優劣なく、前四眼の徳は皆仏眼に等しとせり。又密教にて専ら仏眼を尊重し、之を仏格化して仏眼尊と称し、仏眼印には五眼を具足す等と説けり。又「大般若波羅蜜多経巻404、479」、「金剛般若波羅蜜多経」、「無量寿経巻下」、「文殊師利問経巻下」、「大智度論巻7、39、67」、「瑜伽師地論巻14、54」、「同記巻28」、「無量寿経義疏巻下」、「三観義巻上」、「華厳経疏巻57」等に出づ。<(望)
答曰有三種天。一假號天二生天三清淨天。轉輪聖王諸餘大王等。是名假號天。從四天王天乃至有頂生處。是名生天。諸佛法身菩薩辟支佛阿羅漢。是名清淨天。是清淨天修得天眼。是謂天眼通。 答えて曰く、三種の天有り、一には仮号の天、二には生天、三には清浄の天なり。転輪聖王、諸余の大王等は、是れを仮号の天と名づく。四天王天より、乃至有頂の生処は、是れを生天と名づく。諸仏、法身の菩薩、辟支仏、阿羅漢は、是れを清浄の天と名づく。是の清浄の天は、天眼を修得すれば、是れを天眼通と謂う。
答え、
『天』には、
『三種』有り、
一には、
『仮号(仮りに呼ぶ)』の、
『天』であり!、
二には、
『生じた!』、
『天』であり!、
三には、
『清浄な!』、
『天』である。
『転輪聖王、諸余の大王』等は、
是れを、
『仮号の天』といい、、
『四天王天、乃至有頂』の、
『生処』は、
是れを、
『生じた天』といい、
『諸仏、法身の菩薩、辟支仏、阿羅漢』は、
是れを、
『清浄な天』という!。
是の、
『清浄な天』の、
『修得』した!、
『天眼』、
是れを、
『天眼通』と、
『謂う!』のである。
佛法身菩薩清淨天眼。一切離欲五通凡夫所不能得。聲聞辟支佛亦所不得。所以者何。小阿羅漢小用心。見一千世界。大用心見二千世界。大阿羅漢小用心。見二千世界。大用心見三千大千世界。辟支佛亦爾。是名天眼通。 仏、法身の菩薩の清浄の天眼は、一切の欲を離れた五通であり、凡夫の得る能わざる所、声聞、辟支仏の亦た得ざる所なり。所以は何んとなれば、小阿羅漢は、小しく心を用いて、一千世界を見、大いに心を用いて二千世界を見る。大阿羅漢は、小しく心を用いて二千世界を見、大いに心を用いて三千大千世界を見る。辟支仏も亦た爾り。是れを天眼通と名づく。
『仏、法身の菩薩』の、
『清浄な!』、
『天眼』は、
一切の、
『欲』を、
『離れた!』、
『五通』であり、
『凡夫』の、
『得る!』ことの、
『できない!』所、
『声聞、辟支仏』の、
亦た、
『得られない!』所である。
何故ならば、
『小阿羅漢』は、
『心』を、
『小(すこ)しく!』、
『用いて!』、
乃ち、
『一千世界(小千世界)』を、
『見ることができ!』、
『心』を、
『大いに!』、
『用いて!』、
乃ち、
『二千世界(中千世界)』を、
『見ることができる!』。
『大阿羅漢』は、
『心』を、
『小しく!』、
『用いて!』、
乃ち、
『二千世界』を、
『見ることができ!』、
『心』を、
『大いに!』、
『用いて!』、
乃ち、
『三千大千世界(大千世界)』を、
『見る!』のであるが、
『辟支仏』も、
亦た、
爾の通りである。
是れが、
『天眼通』である。
云何名天耳通。於耳。得色界四大造清淨色。能聞一切聲天聲人聲三惡道聲。 云何が、天耳通なる。耳に於いて、色界四大造の清浄の色を得て、能く一切の声、天の声、人の声、三悪道の声を聞く。
『天耳通』とは、
何をいうのか?――
『耳』に於いて、
『色界』の、
『四大』の、
『造る!』、
『清浄』な、
『色』を、
『得る!』ことであり、
一切の、
『声』を、
『聞くことができ!』、
『天、人、三悪道』の、
『声』を、
『聞くことができる!』。
云何得天耳通。修得常憶念種種聲。是名天耳通。 云何が、天耳通を得る。修得にして、常に種種の声を憶念す。是れを天耳通と名づく。
『天耳通』は、
何のように、
『得る!』のか?――
『天耳通』は、
『修得』であり!、
常に、
種種の、
『声』を、
『憶念』して、
『得る!』。
是れが、
『天耳通』である。
云何識宿命通。本事常憶念日月年歲至胎中。乃至過去世中。一世十世百世千萬億世。乃至大阿羅漢辟支佛。知八萬大劫。諸大菩薩及佛知無量劫。是名識宿命通。 云何が、識宿命通なる。本の事を、常に憶念す。日、月、年歳は胎中に至るまで、乃至過去世中の一世、十世、百世、千万億世、乃至大阿羅漢、辟支仏は、八万大劫を知り、諸の大菩薩、及び仏は、無量劫を知る。是れを識宿命通と名づく。
『識宿命通』とは、
何をいうのか?――
本の、
『事』を、
『常に憶念する!』ことである。
本の、
『日日の事』、
『月月の事』、
『年歳の事』を、
『胎』中に至る!まで、
『常に!』、
『憶念して!』、
乃至、
『過去世』中の、
『一世』、
『十世』、
『百世』、
『千万億世』を、
『知り!』、
乃至、
『大阿羅漢、辟支仏』は、
『八万大劫』を、
『知り!』、
諸の、
『大菩薩、及び仏』は、
『無量劫』を、
『知る!』、
是れを、
『識宿命通』というのである。
云何名知他心通。知他心若有垢若無垢。自觀心生住滅時。常憶念故得。 云何が、知他心通と名づくる。他心の若しは有垢、若しは無垢なるを知り、自ら心の生、住、滅の時を観て、常に憶念するが故に得るなり。
『知他心通』とは、
何をいうのか?――
『他心』の、
『有垢である!』とか、
『無垢である!』とかを、
『知る!』ことであり、
自らの、
『心』の、
『生じる!』、
『住する!』、
『滅する!』の、
『時』を、
『知る!』ことであり、
常に、
『自心』、
『他心』を、
『憶念する!』が故に、
『得る!』のである。
復次觀他人喜相瞋相怖相畏相。見此相已然後知心。是為他心智初門。是五通略說竟 復た次ぎに、他人の喜相、瞋相、怖相、畏相を観、此の相を見已りて、然る後に心を知る。是れを他心智の初門と為す。是れ五通を略して説き竟れり。
復た次ぎに、
『他人』の、
『喜ぶ!』、
『瞋る!』、
『怖れる!』、
『畏れる!』の、
『相』を、
『観察』し、
此の、
『相』を、
『見る!』と、
その後に、
『心』を、
『知る!』ので、
是れを、
『他心智』の、
『初門』という。
是れで、
『五通』を、
略して、
説き竟った!。


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