巻第四(下)
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大智度初品中菩薩釋論第八(卷第四)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


兜率天上に生じる

是菩薩六波羅蜜滿。在迦葉佛所。作弟子。持淨戒行功德生兜率天上。 是の菩薩は、六波羅蜜満つるに、迦葉仏の所に在りて、弟子と作り、浄戒を持し、功徳を行じて、兜率天上に生ず。
是の、
『菩薩』は、
『六波羅蜜』が、
『満ちる!』と、
『迦葉仏』の所で、
『弟子』と作り、
『浄戒』を持し、
『功徳』を行じて、
『兜率天』上に、
『生じた!』。
  兜率天(とそつてん):兜率tuSitaは梵名。巴梨名tusita、又都率、兜術、兜率陀、兜率哆、兜牽陀、覩史多、都史多、兜駛多に作り、知足、妙足、喜足、或いは喜楽と訳す。六欲天の一。即ち夜摩天の上、欲界六天の第四位に位する天なり。「立世阿毘曇論巻6」に、「云何が第四天を兜率陀天と名づくる。歓楽飽満し、其の資具に於いて自ら満足を知り、八聖道に於いて知足を生ぜず。故に説いて名づけて兜率陀天と名づく」と云い、「仏地経論巻5」に、「都史多天は後身の菩薩、中に於いて教化し、多く喜足を修するが故に喜足と名づく」と云える是れなり。是れ此の天は其の資具に於いて自ら満足を知り、又最後身の菩薩其の中に於いて教化するが故に、知足或いは喜足と名づくることを明せるなり。但し「慧苑音義巻上」には、「兜率陀は具に珊兜牽陀と云い、此に喜楽集と曰う。倶舎の中に依るに三義ありて此の名を得、一に喜事、二に聚集、三に遊葉なり。旧に翻じて喜足と為し、或いは知足と曰うは正翻に非ず」と云えり。是れ兜率陀は具に珊兜牽陀saMtuSitaにして、喜楽集を其の正翻とし、喜事等の三義ありとなすの説なり。此の天は閻浮提より三十二万由旬、夜摩天より十六万由旬を距つる上層に位し、虚空密雲の上に在り、縦広八万由旬にして、最後身の菩薩の住処と信ぜられ、釈尊も閻浮降生以前は此の天に住し、弥勒は現に亦補処の菩薩として此の天界に在りとせらるる所なり。「観弥勒上生兜率天経」に弥勒が此の天に上生せし時の光景を敍し、彼の処に五百万億の天子あり、一生補処の菩薩の為に弘誓の願を発して五百万億の宝宮を化作し、一一の宝宮に七重の垣あり、一一の垣は七宝の所成にして、一宝より五百億の光明を出し、一一の光明中に五百億の蓮華あり、皆五百億の七宝行樹を化作し、一一の樹葉に五百億の宝色あり、五百億の閻浮檀金の光を放ち、光中より五百億の諸天宝女を出し、女は各樹下に住立して、五百億の宝及び無数の瓔珞の妙音楽を出すものを執り、楽音中に不退転地法輪の行を演説す。又一一の垣牆の高さは六十二由旬、厚さ十四由旬にして五百億の龍王之を囲繞し、一一の龍王は五百億の七宝行樹を雨して垣上を荘厳し、自然に風ありて其の樹を吹動し、樹相振触して苦空無常無我諸波羅蜜を演説す。又時に牢度跋提と名づくる一の大神あり、弥勒菩薩の為に善法堂を造らんことを誓願し、即ち額上より自然に五百億の宝珠を出し、瑠璃玻瓈一切の衆色具足せざるなく、紫紺摩尼の如く表裏映徹し、摩尼光は空中に廻旋して化して四十九重の微妙の宝宮となり、一一の欄楯は梵摩尼宝の所成にして、其の間より自然に九億の天子、五百億の天女を化作し、一一の天子の手中に無量億万の七宝の蓮華あり、一一の蓮華の上に無量億の光あり、諸の楽器を具し、鼓せざるに自ら鳴る時、諸天女は亦自然に楽器を執りて競い起りて歌舞し、詠ずる所の歌音は十善四弘誓願を演説し、諸天聞く者無上道心を発さざるなし。又彼の諸園中に八色の瑠璃の渠あり、一一の渠は五百億の宝珠を以って合成し、中に八味の水ありて八色具足し、其の水上りて梁棟の間に湧遊し、四門外に於いて四華を化生し、一一の華上に二十四の天女あり、身色微妙なること諸菩薩の荘厳身相の如く、手中に自然に五百億の宝器を化生し、一一の宝器中に天の諸の甘露盈満し、左肩に無量の瓔珞を荷佩し、右肩に復無量の楽器を負い、菩薩の六波羅蜜を讃歎す。若し彼の天に往生する者あらば、自然に此の天女の侍御を得ん。又七宝の大師子座あり、高さ四由旬にして、閻浮檀金無量の衆宝を以って荘厳し、座の四角頭に四の蓮華を生じ、一一の蓮華は百宝より成り、一一の宝より百億の光明を出し、其の光微妙にして化して五百億の衆宝雑華荘厳宝帳と為り、十方面に百千の梵王あり、各各梵天の妙宝を持し、之を宝鈴と為して宝帳の上に懸け、又小梵王あり天の衆宝を持し、之を羅網と為して帳上に弥覆す。百千無数の天子天女眷属亦各宝華を持して以って座上に布き、諸の蓮華より自然に皆五百億の宝女を出し、宝女は手に白拂を執りて帳内に侍立す。又持宮の四角に四の宝柱あり、一一の宝柱に百千の楼閣あり、梵摩尼珠を以って交絡と為し、諸の閣間に百千の天女あり、色妙無比にして楽器を執り、其の楽音中より苦空無常無我諸波羅蜜を演説す。又彼の天に五大神あり、第一を宝幢、第二を花徳、第三を香音、第四を喜楽、第五を正音と名づくと云えり。是れ弥勒菩薩上生の為に彼の天が更に荘厳せられたることを説けるものなり。又其の天人は手を執りて以って陰陽を成じ、初生の児は閻浮提の人の八歳(又は三四歳、或いは九歳)の如く、七日に至りて成人し、身長は四由旬、衣は長さ八由旬、広さ四由旬、重さ一銖半あり。天の四千歳を以って其の定寿とす、即ち彼の天の一昼夜は閻浮提の四百歳に当るを以って、其の四千歳は閻浮提の五十七億六千万歳に相当するなり。又此の天は諸仏浄土の荘厳を敍述するに当り、引例せらるること少なからず。即ち「大宝積経巻12密迹金剛力士会」に、密迹金剛力士成仏の時、其の普浄世界の有らゆる諸業は兜率天の如く、被服飲食宮殿園観交露楼閣も等しくして異なしと云い、「海龍王経巻2総持門品」に、梵首天王如来の仏土は平等にして柔輭なる衣の如く、乃至衣服飲食は兜術天上の如く、其の国の所有は等しくして差特なしと云い、又「大方等大集経巻16虚空蔵品」に、普光明王如来の世界は衆生に上中下なく、人天同等なること兜率天の如しと云える皆其の例なり。又古来弥勒信仰の流行と共に此の天に往来し、或いは其の中に往生せんことを求めたるもの多く、又「続高僧伝巻12」には、随霊幹が嘗て蓮華蔵世界海観及び弥勒天宮観を造りしことを記し、又「続日本紀巻17天平勝宝元年二月の條」には、行基は留止する処に皆道場を建て、畿内に凡そ四十九処ありと云い、「笠置寺縁起」には、孝謙天皇の天平勝宝三年十月実忠は笠置寺の龍穴に入り、北方一里を過ぎて都率内院あり、四十九院摩尼宝殿一一之を巡礼せりと云えり。是れ「観弥勒上生兜率天経」に、「此の摩尼の光は空中に廻旋して化して四十九重の微妙の宝宮と為る」と説くに依り、兜率の内院に四十九院ありとなせるものなるべく、其の他、弥勒浄土変の造立も古くより屡行われたるを見るなり。又密教に於いては此の天子を「現図胎蔵界曼荼羅外金剛部院」の西北方に安ず。其の形像は身白肉色にして、右手は臂を屈して乳下に当て、中三指を屈し、小指を伸べて未敷蓮華を持し、左手は拳印を為して腰に叉す。左右に侍女あり、亦白肉色にして、各右手に未敷蓮華を持せり。種子はtaM又はtu、三摩耶形は荷葉上の未敷蓮華なり。但し「阿闍梨所伝曼荼羅図位」中には、第三重東方に唯兜率陀天の一尊を安じ、「胎蔵図像巻下」には東方に天子并びに四眷属を図出し、又「玄法寺儀軌巻2」、「青龍寺儀軌巻下」には、西北方他化自在天と光音天との間に唯一尊を配せり。又「長阿含経巻20忉利天品」、「同巻21三災品」、「増一阿含経巻44」、「大楼炭経巻4」、「起世経巻1、7」、「弥勒下生経」、「方広大荘厳経巻1兜率天宮品」、「大毘婆沙論巻136」、「大智度論巻9、10」、「立世阿毘曇論巻7」、「瑜伽師地論巻5」、「倶舎論巻8、11」、「順正理論巻31」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「雑阿毘曇心論巻2」、「彰所知論巻上」、「法苑珠林巻2、3」、「金剛頂瑜伽十八会指帰」、「理趣釈巻上」、「玄応音義巻3、19」、「慧琳音義巻31」等に出づ。<(望)
  兜率天(とそつてん):兜率は梵名tuSitaの音訳にして、また都率天、兜術天、兜率陀天、兜率多天、兜師陀天、睹史多天、兜駛多天に作り、意訳して知足天、妙足天、喜足天、喜楽天に作る。乃ち欲界六天の第四天にして、夜摩天と楽変化天の間に位し、夜摩天を距つること十六万由旬、虚空密雲の上に在りて縦広八万由旬なり。『仏説立世阿毘曇論巻6』に、「云何が第四天を兜率陀と名づくる。歓楽飽満しその資具に於いて自ら満足を知り、八聖道に於いて知足を生ぜず。故に名を説いて兜率陀天と為す」と云い、『仏地経論巻6』に、「睹史多天は後身の菩薩、中に於いて教化し、多く喜足を修むるが故に喜足と名づく」と云えるこれなり。この天に内外両院有り、兜率内院は乃ち即まさに仏と成らんとする者(即ち補処の菩薩なり)の居処にして、今は則ち弥勒菩薩の浄土と為す。<(佛)
問曰。菩薩何以生兜率天上。而不在上生不在下生。是大有福德應自在生。 問うて曰く、菩薩は、何を以ってか、兜率天上に生じて、而も上に在りて生ぜず、下に在りて生ぜざる。是れ大いに福徳有れば、応に自在に生ずべし。
問い、
『菩薩』は、
何故、
『兜率天』上に、
『生まれられ!』、
『上』にも、
『下』にも、
『生まれられなかった!』のですか?
是の、
『菩薩』が、
大いに、
『福徳』を、
『有していられる!』ならば、
当然、
『自在』に、
『生まれられる!』はずですが?
  (ざい):おいて。於。
答曰。有人言。因緣業熟應在是中生。 答えて曰く、有る人の言わく、『因縁の業熟すれば、応に是の中に在りて生ずべし。』と。
答え、
有る人は、
こう言っている、――
『因縁』の、
『業』が、
『熟した!』のであるから、
当然、
是の、
『娑婆世界』中に、
『生まれられる!』はずである、と。
復次下地中結使厚濁。上地中結使利。兜率天上結使不厚不利。智慧安隱故。 復た次ぎに、下地中の結使は厚く濁り、上地中の結使は利なり。兜率天上の結使は厚からず、利ならず。智慧と安隠なるが故なり。
復た次ぎに、
『下地』中の、
『結使』は、
『厚く濁り!』、
『上地』中の、
『結使』は、
『利い!』が、
『兜率天』上の、
『結使』は、
『厚くも利くもない!』、
何故ならば、
『智慧があり!』、
『安隠だから!』である。
復次不欲過佛出世時故。若於下地生命短壽終。時佛未出世。若於上地生命長壽未盡。復過佛出時。兜率天壽與佛出時會故。 復た次ぎに、仏の出世の時を過ぎんことを欲したまわざるが故なり。若し、下地に於いて生ぜば、命短く、寿終らんとする時には、仏未だ出世せざらん。若し、上地に於いて生ぜば、命長く、寿未だ尽きざるに、復た仏の出づる時を過ぎん。兜率天の寿と、仏の出づる時と、会するが故なり。
復た次ぎに、
『仏』として、
『世』に、
『出る!』時を、
『過ごそう!』と、
『思われなかった!』からである。
若し、
『下地』に、
『生まれた!』ならば、
『命』が、
『短い!』ので、
『寿』が、
『終った!』時は、
未だ、
『仏』は、
『世』に、
『出ない!』し、
若し、
『上地』に、
『生まれた!』ならば、
『命』が、
『長い!』ので、
『寿』が、
未だ、
『尽きない!』のに、
もう、
『仏』の、
『出る!』時を、
『過ごしてしまう!』が、
『兜率天』は、
『寿』と、
『仏』の、
『出る!』時とが、
『ぴったり会う!』からである。
復次佛常居中道故。兜率天於六天及梵之中。上三下三。於彼天下必生中國。中夜降神。中夜出迦毘羅婆國行中道。得阿耨多羅三藐三菩提。中道為人說法。中夜入無餘涅槃。好中法故中天上生。 復た次ぎに、仏は、常に中道に居(お)られるが故なり。兜率天は、六天、及び梵の中にして、上に三、下に三あり。彼の天より下るに、必ず中国に生じ、中夜に神を降し、中夜に迦毘羅婆国を出で、中道を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得、中道に人の為に法を説き、中夜に無余涅槃に入りたまい、中法を好むが故に、中天上に生じたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
常に、
『中道』に、
『居()られる!』からである。
『兜率天』は、
『六欲天、及び梵』の、
『中』であり、
『下』に、
『三(四天王天、三十三天、夜摩天)』あり、
『上』に、
『三(楽変化天、他化自在天、梵天)』あり、
彼の、
『天』より、
『下る!』時には、
必ず、
『中国』に、
『生まれられ!』、
『神』を、
『降す!』のは、
『中夜』であり、
『迦毘羅婆国』を、
『中夜』に、
『出られ!』、
『中道』を、
『行じ!』て、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られ!』、
『中道』の、
『法』を、
『人』の為に、
『説かれ!』、
『涅槃』には、
『中夜』に、
『入られた!』ように、
『中』という、
『法』を、
『好まれた!』が故に、
『中』の、
『天』に、
『生まれられた!』のである。



天上より人間を観察する

如是菩薩兜率天上生竟。以四種觀人間。一者觀時二者觀土地三者觀種姓四者觀生處。 是の如く菩薩は、兜率天上に生じ竟り、四種を以って、人間を観たまえり。一には、時を観る、二には、土地を観る、三には、種姓を観る、四には、生処を観るなり。
是のように、
『菩薩』は、
『兜率天』上に、
『生まれられる!』と、
『四種』に、
『人間』を、
『観察された!』、
一には、
『時』を、
『観られ!』、
二には、
『土地』を、
『観られ!』、
三には、
『種姓』を、
『観られ!』、
四には、
『生処』を、
『観られた!』のである。
云何觀時。時有八種佛出其中。第一人長壽八萬四千歲時。第二人壽七萬歲。第三人壽六萬歲。第四人壽五萬歲。第五人壽四萬歲。第六人壽三萬歲。第七人壽二萬歲。第八人壽一百餘歲。菩薩如是念。人壽百歲佛出時到。是名觀時。 云何が、時を観る。時には、八種の有りて、仏は其の中に出でたもう。第一は、人長寿にして、八万四千歳の時なり、第二は、人の寿、七万歳、第三は、人の寿、六万歳、第四は、人の寿、五万歳、第五は、人の寿、四万歳、第六は、人の寿、三万歳、第七は、人の寿、二万歳、第八は、人の寿、一百余歳なり。菩薩は、是の如く念じたまえり、『人の寿、百歳の仏の出づる時到れり。』と。是れを時を観ると名づく。
何のように、
『時』を、
『観られる!』のか?
『時』には、
『八種』有り、
『仏』は、
其の、
『八種』の中に、
『出られる!』が、
第一の、
『人』は、
『長寿』であり、
『八万四千歳の時』、
第二には、
『人』の、
『寿』が、
『七万歳の時』、
第三には、
『人』の、
『寿』が、
『六万歳の時』、
第四には、
『人』の、
『寿』が、
『五万歳の時』、
第五には、
『人』の、
『寿』が、
『四万歳の時』、
第六には、
『人』の、
『寿』が、
『三万歳の時』、
第七には、
『人』の、
『寿』が、
『二万歳の時』、
第八には、
『人』の、
『寿』が、
『一百余歳の時』である。
『菩薩』は、
是のように念じられた、――
『人』の、
『寿』が、
『百歳の時』に、
『出るはず!』の、
『仏』の、
『出る!』時が、
『到った!』、と。
是れを、
『時』を、
『観る!』と、
『称する!』のである。
云何觀土地。諸佛常在中國生。多金銀寶物飲食豐美其土清淨。 云何が、土地を観る。諸仏は、常に中国に在りて生ず。金銀、宝物多く、飲食豊美にして、其の土清浄なればなり。
何のように、
『土地』を、
『観られる!』のか?――
諸の、
『仏』は、
常に、
『中国』に、
『生まれられる!』。
何故ならば、
『金銀』、
『宝物』が、
『多く!』、
『産出し!』、
『飲食』が、
『豊か!』で、
『美味』であり、
其の、
『土地』は、
『清浄』だからである。
云何觀種姓。佛生二種姓中。若剎利。若婆羅門。剎利種勢力大故。婆羅門種姓智慧大故。隨時所貴者。佛於中生。 云何が、種姓を観る。仏は、二種の姓中に生じたまい、若しは刹利、若しは婆羅門なり。刹利種の勢力大なるが故、婆羅門種の智慧大なるが故なり。時に貴ぶ所の者に随いて、仏は中に生まれたもう。
何のように、
『種姓』を、
『観られる!』のか?――
『仏』は、
『刹利』か、
『婆羅門』の、
『二種』の、
『姓』中に、
『生まれられる!』。
何故ならば、
『刹利種』は、
『勢力』が、
『大』であり、
『婆羅門種』は、
『智慧』が、
『大』である!が故に、
『仏』は、
其の中、
『時』の、
『貴ばれる!』方に、
『生まれられる!』のである。
云何觀生處。何等母人能懷那羅延力菩薩。亦能自護淨戒。如是觀竟。唯中國迦毘羅婆淨飯王后。能懷菩薩。如是思惟已。於兜率天下。不失正慧入於母胎。 云何が、生処を観る。何等の母人か、能く那羅延力の菩薩を懐きて、亦た能く自ら浄戒を護らん。是の如く観竟るに、唯だ中国の迦毘羅婆の浄飯王の后のみ、能く菩薩を懐かんと、是の如く思惟し已り、兜率天より下り、正慧を失わずして、母胎に入りたまえり。
何のように、
『生処』を、
『観られる!』のか?――
何のような、
『母人』ならば、
『那羅延』のような、
『力』を、
『有する!』、
『菩薩』を、
『懐く!』ことが、
『可能』なのか?
亦た、
自ら、
『浄戒』を、
『護る!』ことが、
『可能』なのか?と、
是のように、
『観られた!』ところ、
唯だ、
『中国』の、
『迦毘羅婆』の、
『浄飯王』の、
『后(きさき)』のみが、
『菩薩』を、
『懐く!』ことが、
『可能』である!と、
是のように、
『思惟』される!と、
『兜率天』より、
『下られ!』、
『正慧』を、
『失わず!』に、
『母』の、
『胎』中に、
『入られた!』のである。
  那羅延(ならえん):梵名naaraayaNa。天上の力士を云う。『大智度論巻4下注:那羅延天』参照。
  那羅延天(ならえんてん):那羅延naaraayaNaは梵名。巴梨名同じ。生本、人生本と訳し、又堅固力士、鉤鎖力士、金剛力士、人中力士、或いは単に力士をも称す。印度古神の名なり。「中観論疏巻1末」に、「那羅延は此に生本と云う。其れ是の衆生の本なるを以っての故なり」と云い、「玄応音義巻24」に、「那羅は此に翻じて人と為し、延那は此に生本と云う。謂わく人の生本は即ち是れ大梵王なり。外道は一切の人皆梵王より生ずと謂えり、故に人生本と名づくるなり」と云えり。蓋し那羅延naaraayaNaは、naaraa(人即ちnaraより生ぜるものの義)に、子即ち後裔の義なるayanaを加えたる語にして、即ち人の子の義なり。是れ印度神話に宇宙の本源たる原人puruSaの別名をnaraとし、那羅延は其の原人より生じ、宇宙創造に関連あるものとせられしに由るなり。但し「マハーナーラーヤナ・ウパニシャッドmahaanaaraayaNopaniSad」に於いては、原人に代うるに那羅延を以ってし、之を最高の一神となせり。又那羅延を以って大梵王となせることは、「摩奴法典」に原水はnaraより生じ、人の最初の住所ayana(layana?)なるが故にnaaraayaNaと名づくと云うに基づくものなるが如し。又「ナーラーヤナ・ウパニシャッドnaaraaayaNopaniSad」等には、那羅延を以って毘紐viSNuの権化とし、oM namo naaraayaNaayaの八字の呪を唱うれば昇天し得べしとなせり。「大日経疏巻10」に、「毘紐天には衆多の別名あり、即ち是れ那羅延天の別名なり。是れ仏の化身なり。(中略)所謂此の天は迦婁羅鳥に乗りて空中を行くなり」と云い、又「慧琳音義巻6」に、「那羅延。梵語なり。欲界中の天の名なり、一に毘紐天と名づく。多力を求めんと欲する者承事供養し、若し精誠に祈祷せば多く神力を獲るなり」と云えるは、皆那羅延を以って毘紐と同神となすの説なり。「外道小乗涅槃論」に外道囲陀論師の説を挙げ、「那羅延天の臍中より大蓮華を生じ、蓮華より梵天祖公を生ず彼の梵天は一切の命無命の物を作る、梵天の口中より婆羅門を生じ、両臂中より刹利を生じ、両髀中より毘舎を生じ、両脚跟より首陀を生ず。一切の大地は是れ福徳を修する戒場なり。一切の華草を生じて以って供養と為し、山野の禽獣、人中の猪羊驢馬等を化作す。界場の中に於いて殺害して梵天に供養せば、彼の処に生ずることを得るを涅槃と名づく」と云い、又那羅延論師の説を挙げ、「我れ一切の物を造る、我れ一切衆生の中に於いて最勝なり。我れは一切世間の有命無命の物を生ず。我れは是れ一切山中の大須弥山王なり、我れは是れ一切水中の大海なり、我れは是れ一切藥中の穀なり、我れは是れ一切仙人中の迦毘羅牟尼なり。若し人あり至心に水草華果を以って我れを供養せば、我れ彼の人を失わず、彼の人我れを失わず」と云い、又摩醯首羅論師の説を出し、「果は是れ那羅延の所作、梵天は是れ因なり。摩醯首羅は一体にして三分あり、所謂梵天、那羅延、摩醯首羅なり」と云えり。是れ囲陀論師は那羅延を以って梵天の母とし、摩醯首羅論師は那羅延を以って大自在天の一体三分となせるものなるを見るべし。又「理趣釈巻下」にも一体三分説を掲げ、「麽度羯囉の三兄弟とは、是れ梵王、那囉延、摩醯首羅の異名なり。(中略)此の三天は仏法中の三宝三身を表す。仏宝は是れ金剛薩埵、法宝は観自在菩薩、僧宝は是れ虚空蔵菩薩なり。此の三は皆毘盧遮那心の菩提心中より流出せるなり、亦三法兄弟と名づく」と云えり。是れ梵王、那囉延、摩醯首羅の三天を以って三宝及び三身に配せるものにして、即ち那羅延は三身中の報身、三宝中の法宝観自在菩薩を表すとの意なり。又「大三摩惹経」に那羅延等の十天は大神通無量の威徳を具し、迦毘羅林に来たりて聴法すと云い、「集一切福徳三昧経」に、「仏は千世界主の那羅延菩薩を対告衆として集一切福徳三昧を説くとなすが如きは、梵天帝釈等に同じく、那羅延を以って仏の信奉者となせるものというべし。又「大毘婆沙論巻30」に那羅延は大力を有することを説き、「契経に説くが如き、菩薩の身に那羅延力を具すと。此の力は其の量云何ん。有が是の説を作す、十の凡牛の力は一の豪牛の力に等しく、十の豪牛の力は一の青牛の力に等しく、十の青牛の力は一の凡象の力に等しく、十の凡象の力は一の香象の力に等しく、十の香象の力は一の大諾健那の力に等しく、十の大諾健那の力は一の鉢羅塞健提の力に等しく、十の鉢羅塞建那の力は半那羅延力に等しく、二の半那羅延力は一の那羅延力に等し。菩薩の身力と此の力と等しきなりと」と云い、「集一切福徳三昧経巻上」、「大般涅槃経巻11」、「倶舎論巻27」等にも亦同説を出し、又「無量寿経巻上」に、「国中の菩薩、金剛那羅延身を得ずんば正覚を取らじ」と云い、「大方等大集経巻11海慧菩薩品」に、「十万子あり、勇猛勇健にして、悉く皆半那羅延力を具す」と云えり。是れ皆此の天の有する力の頗る大なることを説けるものなり。「等集衆徳三昧経巻上」に、「那羅延は晋に鉤鎖力士と名づく」と云い、「華厳経探玄記巻15」に、「那羅延は此に堅牢と云う。即ち帝釈の力士の名なり」と云い、「慧琳音義巻26」に、「那羅延、此に力士と云い、或いは天中と云い、或いは人中力士と云い、或いは金剛力士と云うなり。或いは堅固力士と云う」と云えるは皆此の有力の義に就き釈せるなり。後世此の意に依りて密迹金剛と共に之を二王尊と称し、寺院の門に安ずるの風を生ぜり。又密教にては、此の天を胎蔵界曼荼羅外金剛部院の西方、即ち西門の左方に列せり。形像は身青黒色にして三面を具し、迦楼羅鳥に駕して右足を垂れ、左手は掌にして腰に当て、右手は屈して頭指上に輪を支持せり。三面の中、正面は三目、右面は白象、左面は黒猪にして宝冠瓔珞を著す。其の右側に那羅延天妃あり、円座に趺坐し、身肉色にして左手に華葉を持せり。但し「別尊雑記巻52」所載の像は二獣面の位置のみ之と同じからず。又「撰集百縁経巻1」、「雑宝蔵経巻1」、「勝思惟梵天所問経巻5」、「新華厳経巻1、45」、「陀羅尼集経巻11」、「大華厳長者問仏那羅延力経」、「不空羂索神変真言経巻4」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻1」、「那羅延天共阿修羅王闘戦法」、「倶舎論頌疏巻27」、「慧苑音義巻1」、「慧琳音義巻30、41」等い出づ。<(望)
  那羅延(ならえん):那羅延天、梵にnaaraayaNaに作り、また那羅延那天、那羅野拏天に作り、意訳して堅固力士、金剛力士、鉤鎖力士、人中力士、人生本天と為す。乃ち大力を具有する印度の古神なり。『一切経音義巻70』に、「那羅延(那羅はこれを云って人と為し、延那はこれを生の本と云う。謂わゆる人生の本にして、即ちこれ大梵王なり。外道、一切の人は皆、梵王より生ずと謂えるが故に人生の本と名づく)」と云えるこれなり。<(望)



人間に下生する

問曰。何以故。一切菩薩末後身從天上來。不從人中來。 問うて曰く、何を以っての故にか、一切の菩薩の、末後の身は、天上より来たりて、人中より来たらざる。
問い、
何故、
一切の、
『菩薩』の、
『末後』の、
『身』は、
『天上』より、
『人中』に、
『来る!』のであって、
『人中』より、
『人中』に、
『来ない!』のですか?
答曰。乘上道故。六道之中天道最上 答えて曰く、上の道に乗ずるが故なり。六道の中、天道は最上なり。
答え、
『上』の、
『道』に、
『乗られる!』からであり、
『六道』中、
『天』の、
『道』は、
『最も!』、
『上にある!』。
復次天上下時種種瑞應未曾所有。若從人道。人道不能有此。 復た次ぎに、天の上下する時の種種の瑞応は、未だ曽て有したもう所にあらず。若し人道に従わば、人道には、此れ有ること能わざればなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『諸天』の、
『上、下する!』時の、
『種種』の、
『瑞応』を、
未だ、
『所有された!』ことが、
『なかった!』が、
若し、
『人道』に従えば、
『人道』は、
此れを、
『有する!』ことが、
『できない!』からである。
  瑞応(ずいおう):めでたいしるし。祥瑞。
復次人敬重天故。 復た次ぎに、人は、天を敬い重んずるが故なり。
復た次ぎに、
『人』は、
『天』を、
『敬い!』、
『重んじる!』からである。



母胎に入る

問曰。一切人以垢心有相續入母胎。一切邪慧相應。云何名菩薩正慧入母胎。 問うて曰く、一切の人は、垢心有るを以って、相続して母胎に入れば、一切の邪慧相応す。云何が、菩薩は正慧にして、母胎に入ると名づく。
問い、
一切の、
『人』は、
『垢穢』の、
『心』を、
『有する!』ままに、
『相続』して、
『母胎』に、
『入る!』のであり、
一切の、
『邪慧』が、
『相応』する!。
何故、
『菩薩』は、
『正慧』を以って、
『母胎』に、
『入る!』というのですか?
答曰。有人言。有相續時一切眾生邪慧心入母胎。菩薩憶念不失故。名正慧入母胎。 答えて曰く、有る人の言わく、『有るいは相続の時、一切の衆生は、邪慧の心もて、母胎に入るも、菩薩は、憶念して失せざるが故に、正慧もて、母胎に入ると名づく。
答え、
有る人は、
こう言っている、――
有るいは、
『相続』する!時、
一切の、
『衆生』は、
『邪慧』の、
『心』で、
『母胎』に、
『入る!』が、
『菩薩』は、
『正慧』を、
『憶念』して、
『忘失しない!』が故に、
『正慧』で、
『母胎』に、
『入る!』というのである、と。
中陰中住則知中陰住。入胎時知入胎。歌羅羅時知住歌羅羅。(受胎七日赤白精和合時也)頞浮陀(二七日時如璽胞狀也)時知住頞浮陀。伽那時知住伽那。(三七日時如凝酪也)五皰時知住五皰。出生時知出生。是中憶念不失。是名正慧入母胎。 中陰中に住すれば、則ち中陰に住すと知り、胎に入る時には、胎に入るを知り、歌羅羅(受胎七日、赤白の精和合の時なり)の時には、歌羅羅に住すと知る。頞部陀(二七日の時、璽胞の如き状なり)の時には、頞部陀に住すと知り、伽那(三七日の時、凝酪の如きなり)の時には、伽那に住すと知り。五皰の時には、五皰に住すと知り、出生の時には、出生すと知り、是の中に憶念して、失せざる、是れを正慧にて母胎に入ると名づく。
『中陰』中に住まれば、
『中陰』中に、
『住まっている!』と、
『知り!』、
『入胎』の時には、
『胎』に、
『入った!』と、
『知り!』、
『歌羅羅』の時には、
『歌羅羅』に、
『住まっている!』と、
『知り!』、
『頞部陀』の時には、
『頞部陀』に、
『住まっている!』と、
『知り!』、
『伽那』の時には、
『伽那』に、
『住まっている!』と、
『知り!』、
『五皰』の時には、
『五皰』に、
『住まっている!』と、
『知り!』、
『出生』の時には、
『胎』より、
『出生した!』と、
『知る!』ことであるが、
是の中に、
常に、
『憶念』して、
『忘失しない!』こと、
是れを、
『正慧』にして、
『母胎』に、
『入る!』というのである。
  中陰(ちゅうおん):又中有といい、梵にantaraa-bhavaと称す。此に死して彼に生ずる中間に受くる所の陰形なり。陰とは五陰の陰(新訳には五蘊という)なり。倶舎宗は以って一定の中陰有りと為し、成実宗は以ってこれ無しと為し、大乗宗は以って有無不定なり、謂わゆる極善極悪の人に中陰無く、直ちに至る所に至り、余は皆これ有りと為す。『大乗義章巻8』に「命報の終謝するを名づけて無有と為し、生後死前を名づけて本有と為し、両身の間に受くる所の陰形を名づけて中有と為す」と云えるこれなり。<(丁)『大智度論巻4下注:中有』参照。
  中有(ちゅうう):梵語antaraa-bhavaの訳。又中陰、中蘊と翻じ、或いは中陰有とも名づく。中間の有の意。四有の一。七有の一。即ち死有と生有との中間に於いて受くる一種の身を云う。「大毘婆沙論巻70」に、「死有の後に居り、生有の前に在り、二有の中間に有の自体起る。欲と色との有の摂なり、故に中有と名づく」と云い、「倶舎論巻8」に、「死と生との二有の中の五蘊を中有と名づく。未だ至るべき所に至らざるが故に、中有は生に非ず」と云える是れなり。是れ人等死して後、次の生を感ずるに至るまでの中間に於いて受くる一種の身を称したるものにして、即ち死有と生有との中間の存在なるが故に、中有と名づくることを明にせるなり。蓋し中有の身は所謂意生身manomaya(又は意成身)にして、又健達縛gandharva、求生saMbhavaiSin、或いは起abhinirvRttiとも称せらる。「倶舎論巻10」に、「復た求生と説くは何の所因たりや、此れ中有に目づく。仏世尊は五種の名を以って中有を説くに由るが故なり。何等をか五と為す、一には意成、意より生ずるが故なり。精血等の所有の外縁合して成ずる所に非ざるが故なり。二には求生、常に喜んで当生の処を尋察するが故なり。三には食香、身香食に資けられて生処に往くが故なり。四には中有、二趣の中間の所有の蘊なるが故なり。五には起と名づく、当生に対向して暫時起るが故なり。契経に説くが如し。有壊して自体起り、有壊して世間生ずと。起とは謂わく中有なり」と云えり。是れ中有の身は意より生ぜる化生の身にして、精血等の所成に非ず。常に香を食するが故に健達縛と名づけ、又当生の処を尋求するが故に求生と名づけ、本有壊して後、当生に対向して暫時起るものなるが故に起と名づくとなすの意なり。唯欲色二界に受生すべき者のみ此の身を受け、無色界に生ずるものは之を受けず。就中、地獄等の五趣に受生するものの受くる中有の身は各皆異あり。「大宝積経巻56入胎蔵会」に、「此の中蘊の形に其の二種あり、一には形色端正、二には容貌醜陋なり。地獄の中有は容貌醜陋にして焼杌木の如く、傍生の中有は其の色烟の如く、餓鬼の中有は其の色水の如く、人天の中有は形金色の如く、色界の中有は形色鮮白なり。無色界天には元と中有なし、色なきを以っての故なり。中蘊の有情は或いは二手二足なるあり、或いは四足多足、或いは復た足なし。其の先業に随い、託生の処に応じて、所感の中有は即ち彼の形の如し。若し天の中有は頭即ち上に向い、人と傍生と鬼とは横行して去り、地獄の中有は頭直ちに下に向う。凡そ諸の中有は皆神通を具し、空に乗じて去る。猶お天眼の遠く生処を観るが如し」と云い、又「倶舎論巻9」に、中有と当生の趣たる本有とは同一業の所引なるが故に、中有の形量は本有の形量の如し。其の中、欲界の人の中有の量は五六歳の小児の如く、而も其の根は明利なり。欲界の菩薩の中有は盛年の時の如く、形量周円にして諸の相好を具足し、若し入胎せんとする時は百俱胝の四大洲を照らす、色界の人の中有は形量円満すること本有に同じく、慚愧あるが故に衣と倶に生ず。色界の菩薩の中有も亦た衣と倶に生ず。例せば鮮白苾芻尼は衣を以って四方僧に布施せし功徳に由り世世自然に衣あり、般涅槃の時も此の衣を以って屍を纏い火葬せるが如し。欲界の中有には衣なし、是れ皆増長の無慚愧に由る。無色界には中有なし。又中有は極細なるが故に、同類眼は相見ることを得るも、諸の肉眼は見ること能わず。若し極浄の天眼を修得せば、異趣の中有を見ることを得べし。又中有は業の勢力強盛にして、最疾の業通を具得し、世尊と雖も能く遮抑することなく、初業の異熟勝妙なるが故に五根を具足し、無対礙にして金剛山等も遮すること能わず。又人等の趣に往くべき中有已に生ぜば、一切種の力も之を転じて余趣に往かしむること能わず。又欲界の中有は極細の香気を食となすが故に健達縛と称す。少福の者は唯悪香を食とし、多福の者は好香を食となすと云えり。又中有の期間に関し多説を挙げ、大徳は命根は別業の因に非ず、所趣の人等の衆同分と一なるが故に、生縁未だ和合せざれば中有恒存すべく、随って其の期間は定限なしとし、世友は極多も唯七日にして、若し生縁合せざれば即ち数死し数生ずとし、設摩達多は七七日にして定んで結生すとし、毘婆沙師は、中有は生有を楽求するが故に久しく住せず、速かに往きて結生す。若し生処既に決定せる時は業力能く其の縁をして和合せしめ、若し不定ならば余処の余類に寄生すべしとなし、又中有結生の相を説き、遠方に住在すと雖も、業力所起の眼根に由りて、能く生処の父母交会するを見て倒心を起し、若し男ならば母を縁じて愛を起し、若し女ならば父を縁じて愛を起し、之に依りて自ら所愛と合するの想をなし、不浄泄れて胎に至る時、是れ己が身なりと謂いて即ち喜慰を生ず。此の蘊厚きに由りて中有便ち没して結生す。若し地獄の中有には、自身冷雨寒風に逼切せられ、熱地獄の火焔の熾然たるを見て心に煖触を欣び、仍りて身を彼の処に投じ、或いは熱風盛火に逼害せられ、寒地獄を見て心に清涼を欲し、乃ち身を彼の処に投ずと云えり。以って其の住時の期限及び結生の相状等を知るべし。蓋し説一切有部に於いては是の如く中有の実存を説くと雖も、分別論者等は之を認めず。「大毘婆沙論巻69」に、「或いは有は執す、三界の受生には皆中有なしと、分別論者の如し。或いは復た有は説く、欲色界に生ずるには定んで中有ありと、応理論者の如し。問う、分別論者は何の量に依るが故に中有なしと執するや。答う、至教量に依る。謂わく契経に説く、若し一類ありて増長の五無間業を造作せば、無間に必定して地獄の中に生ずと。既に無間に必ず地獄に生ずと言うが故に、中有は決定して無なることを知る。又伽他に説く、再び生じて汝今盛位を過ぐ、衰に至りて将に琰摩王に近づかんとす。前路に往かんと欲するも資糧なく、中間に住せんことを求むるも所止なしと。既に中間に所止の処なしと説くが故に、中有は決定して無たることを知る。又過難を説きて中有なきことを証す。謂わく影と光との中に間隙なきが如く、死有と生有とも応に知るべし亦然りと。問う、応理論者は何の量に依るが故に中有ありと説くや。答う、至教量に依る。契経に説くが如し、母胎に入るには要らず三事倶に現在前するに由る。一には母身是の時調適なり、二には父母交愛して和合す、三には健達縛正しく現在前すと。中の身を除きて何をか健達縛とせん。前蘊已に壊す、何ぞ現在前せんや。故に健達縛は便ち是れ中有なり。又経に中般涅槃ありと説く。中有若し無くんば此れ何に依りてか立たん。余経に復た説く、此の身已に壊して余の身未だ生ぜず、意成の有情、愛に依止し、而も取を施設すと。世尊既に此の身已に壊して余身未だ生ぜず、意成の有情は愛に依りて取を立つと説くが故に、中有は決定して無に非ざることを知る。若し中有無くんば、意成の有情とは何の所表に名づけたる。又過難を説きて中有あることを証す。謂わく此の洲より歿して北俱盧等に生ぜんに、若し中有無くんば、此の身已に滅して彼の身未だ生ぜず、中間応に断ずべし。是れ則ち彼の身は本無にして而も有り、此の身は亦則ち本有にして而も無し。法も亦た応に爾るべし、本無にして而も有り、有り已りて還って無し。斯の過あること勿かれ。故に中有あり」と云えり。以って両者の主張を見るべし。此の中、応理論者とは即ち説一切有部の所伝を指し、分別論者とは「異部宗輪論」に依るに、大衆部、設出世部、鶏胤部及び化他部の所計を指せるものなるが如し。中有の有無は一時諸部の間に盛んに論諍せられたるものにして、「大般涅槃経巻18」には、如来の滅後声聞弟子の間に起るべき十四異論の一として之を掲げ、「成実論巻3」には、有中陰品無中陰品を設けて相互の主張を敍述せり。之に関し「大乗義章巻8本」に、「其の有無を定むること経論同じからず、毘曇法の中には定んで中陰あり、成実法の中には一向に定んで無し。有無偏に定むるが故に諍論を成ず。故に涅槃に云わく、我が諸の弟子は我が意を解せずして唱言すらく、如来は中陰を宣説するに、一向に定んで有り、一向に定んで無しと。大乗の所説は有無不定なり、上善と重悪との趣報は速疾なれば則ち中陰なし、五逆業の如し。余業には即ち有り。偏に定むるに異なるが故に諍論なし」と云い、又大乗法中には無色界にも陰あることを説くと云えり。又極楽浄土の往生に中有ありや否やに関し、「釈浄土群疑論巻2」に有無の二釈を出せり。即ち一釈は中有なしとし、此の土に命終して蓮華の中に坐するは、胎に処するに似同するが故に、生有の摂にして中有に非ずと云い、一釈は中有ありとし、即ち穢土に死して直ちに浄土生有の身を受くるに非ず、必ず中有を経て、彼の浄土に生じ、宝池の上に至りて方に生有の身を成ずべきものなりと云い、中有ありと雖も、既に華台に乗ずるが故に穢土受生の中有に同じからず。又極楽の中有及び生有は共に華台に乗ずるも、中有は生に趣き、生有は生に至り、中有は色身劣に、生有は色身勝れ、中有は根晦く、生有は根明なるの別あり。且つ中有は慚愧あるが故に衣を着し、頭上足下にして、香を食とす。弾指の如き頃に往生を得るが故に食を労するを要せずと雖も、十万億土を経るに、空中に於いて諸仏国土の香飯の気を食して以って陰身を資け、受生の処に趣くものなるを明にせり。又古来婆沙等の説に依りて人の死後七七日間を中陰と称し、各七日毎に斎を設け、経を読誦し、特に最後の四十九日を満中陰と名づけ、其の冥福を祈念するの風行われつつあり。又俗に此の期間は亡魂晦迷すとなし、中有に迷う等と云えり。又「雑阿含経巻25」、「南本涅槃経巻27」、「正法念処経巻57、58」、「中陰経」、「潅頂経巻11」、「大毘婆沙論巻60、68」、「雑阿毘曇心論巻9」、「順正理論巻21、23」、「瑜伽師地論巻1」、「同記巻1上」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻6」、「倶舎論光記巻8、9、10」、「成唯識論述記巻6末」、「異部宗輪論述記」、「法苑珠林巻69」、「釈浄土群疑論探要記巻5」等に出づ。<(望)
  歌羅羅(からら):梵語kalalaの音訳にして、父母の両精初めて和合し凝結せる者を指す。又迦羅邏、歌邏邏、羯羅藍、羯刺藍に作り、意訳して凝滑、和合、雑穢、胞胎、膜に作り、胎内五位の一と為す。即ち託胎以後の初七日間の状態なり。『一切経音義巻47』に、「羯邏藍(梵語、旧に歌邏邏と言い、これを凝滑と云う。父母不浄の和合にして、蜜を酪に和えたるが如く、泯然として一を成す。生を受けて七日中に於いては凝滑なること酪上の凝膏の如し、漸く結すれば肥滑有るなり)」と云える是れなり。<(望)
  頞浮陀(あぶだ):梵語arubudaの音訳にして、又頞部曇、遏部曇、阿浮陀、安浮陀に作り、意訳して皰、腫物と為す。胎内五位の一にして乃ち託胎の後の二七日の胎児の状態にして、即ち凝酪中に皰結を生ずる位なり、故に皰、或は水泡と称す。<(望)
  伽那(がな):梵語ghanaの音訳にして、又伽訶那、健男、健南、羯南、蹇南に作り、意訳して堅、堅厚、凝厚、或は硬肉に作る。胎内五位の第四にして、即ち託胎より後、四七日に至るまで、胎児の漸く堅厚に趨く位なり。<(望)
  五皰(ごほう):鉢羅奢佉(梵prazaakhaa)の訳語にして、又意訳して支節、枝枝に作る。乃ち手足の既に形成せられたる位にして、即ち受胎の後の五七日より第三十八個七日(出生の時)に至るまでの間なり。<(望)
  胎内五位(たいないごい):梵語paJca-pratisandhyaHの訳。又結胎五位に作る。乃ち胎外の五位の対称なり。伝統仏教には胎児の母体中に受胎するより、出生に至るまでの266日間に於いて次第に分けて五個の位階と為すに、即ち一には羯刺藍(梵kalala)、又歌羅羅、羯羅藍に作り、意訳して凝滑、雑穢と為す。初めて受胎せしより後、七日間なり。二には頞部曇(梵arbuda)、又阿部曇、頞浮陀等に作り、意訳して皰、皰結と為す。第二の七日間なり。三には閉尸(梵pezii)、又蔽尸、萆尸に作り、意訳して凝結、肉段と為す。第三の七日間なり。四には鍵南(梵ghana)、又健男、羯南に作り、意訳して凝厚と為す。第四の七日間なり。五には鉢羅奢佉(梵prazaakhaa)、意訳して支節、枝枝と為す。手足の已に形成せる位にして、即ち受胎後の第五の七日乃至、第三十八の七日(出生の時)の間なり。此の外にも、胎内の分位の別に関して、印度には古来即ち数説有り、「瑜伽師地論」は之を分ちて八位と為し、化他部、正量部は則ち六位を謂い、数論外道は第五位を以って第四位に摂し、僅かに四位の説を立つ。又「増一阿含経巻30」、「南本涅槃経巻34」、「大智度論巻4」、「玄応音義巻23」、「慧琳音義巻13」等に出づ。<(佛)
復次餘人在中陰住時。若男於母生欲染心。此女人與我從事。於父生瞋恚。若女於父生染欲心。此男子與我從事。於母生瞋恚。如是瞋恚心染欲心菩薩無此。 復た次ぎに、余人は、中陰に在りて住する時、若し男なれば、母に於いて、『此の女人は、我が与(ため)に従事す』と、欲染心を生じて、父に於いて、瞋恚を生ず。若し女なれば、父に於いて、『此の男子は、我が与に従事す』と、欲染心を生じて、母に於いて、瞋恚を生ず。是の如き瞋恚心、欲染心は、菩薩には、此れ無し。
復た次ぎに、
余人は、
『中陰』に、
『住まる!』時、
『男』ならば、
『母』に於いて、
此の、
『女人』は、
わたしの為に、
『事』に、
『従うべきだ!』と、
『心』に、
『欲染』を、
『生じる!』ので、
『父』に於いて、
『心』に、
『瞋恚』を、
『生じる!』し、
『女』ならば、
『父』に於いて、
此の、
『男子』は、
わたしの為に、
『事』に、
『従うべきだ!』と、
『心』に、
『欲染』を、
『生じる!』ので、
『母』に於いて、
『心』に、
『瞋恚』を、
『生じる!』が、
是のような、
『瞋恚心』や、
『欲染心』は、
『菩薩』には、
『無い!』のである。
菩薩先已了知是父是母。是父是母能長養我身。我依父母生身得阿耨多羅三藐三菩提。是淨心念父母。相續入胎。是名正慧入母胎。 菩薩は、先に已に了知したまわく、『是れ父なり、是れ母なり。是の父と、是の母とは、能く我が身を長養す。我れは、父母に依りて身を生じ、阿耨多羅三藐三菩提を得。』と。是の浄心もて、父母を念じ、相続して胎に入りたまえば、是れを正慧にして、母胎に入ると名づく。
『菩薩』は、
先に、
已に、こう了知されている、――
是れは、
『父』である!。
是れは、
『母』である!。
是の、
『父』と、
是の、
『母』とが、
わたしの、
『身』を、
『長養される!』のであり、
わたしは、
是の、
『父、母』に依って、
『身』を、
『生じ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』のである、と。
是のような、
『浄心』を以って、
『父』と、
『母』とを、
『念じながら!』、
『相続』して、
『胎』に、
『入られる!』ので、
是れを、
『正慧』を以って、
『母』の、
『胎』に、
『入る!』というのである。



三十二相を具足する

是菩薩滿十月正慧不失念。出胎行七步。發口言。是我末後身。乃至將示相師。汝觀我子實有三十二大人相不。若有三十二相具足者。是應有二法。若在家當為轉輪聖王。若出家當成佛。 是の菩薩は、十月を満たすも、正慧にして失念せず、胎を出でて七歩行き、口に言を発すらく、『是れ我が末後の身なり。』と。乃至将(も)って相師に示すらく、『汝、我が子を観よ、実に三十二大人相有りや、不や。』と。若し三十二相有りて、具足せば、是れに、応に二法有るべし。若し在家ならば、当に転輪聖王と為るべし。若し出家せば、当に仏と成るべし。
是の、
『菩薩』は、
『十月』間、
『正慧』にして、
『失念せず!』、
『胎』を出て
『七歩』、
『歩く!』と、
『口』より、
『言(ことば)』を、こう発した、――
是れは、
わたしの、
『末後(最後)』の、
『身である!』、と。
乃至、
『父王』は、
『菩薩』を以って、
『相師』に示して、こう言われた、――
あなたが、
わたしの、
『子』を、
『観てくれ!』、
わたしの、
『子』には、
ほんとうに、
『三十二』の、
『大人相』が、
『有るのか?』、と。
若し、
『三十二相』が、
『有り!』、
『具足する!』ならば、
是れに、
『在家』と、
『出家』との、
『二法』が、
『有る!』、
若し、
『在家』ならば、
『転輪聖王』と、
『為るだろう!』、
若し、
『出家』ならば、
『仏』と、
『成るだろう!』。
  三十二大人相(さんじゅうにだいにんそう):梵語dvaatriMzan mahaa-puruSa-lakSaNaaniの訳。仏、及び転輪聖王の身に具足せる三十二種の微妙の相の意。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
諸相師言。地天太子實有三十二大人相。若在家者當作轉輪王。若出家者當成佛。 諸の相師の言わく、『地と、天の太子は、実に三十二の大人相有り。若し在家ならば、当に転輪王と作るべし。若し出家ならば、当に仏と成るべし。』と。
諸の、
『相師』は、
こう言った、――
『地(転輪聖王)』と、
『天()』との、
『太子』は、
実に、
『三十二』の、
『大人相』が、
『有ります!』、
若し、
『在家』ならば、
『転輪王』と、
『作られる!』ことだろう、
若し、
『出家』ならば、
『仏』と、
『成られる!』だろう、と。
王言。何等三十二相。 王の言わく、『何等か、三十二の相なる。』と。
『王』は、
こう言われた、――
何のような、
『相』を、
『三十二相』というのか?
相師答言。一者足下安平立相。足下一切著地間無所受。不容一針。 相師の答えて言わく、『一には足下安平立相なり、足下の一切は、地に著きて、間に受くる所無く、一針すら容(い)れず。
『相師』は答えて、
こう言った、――
一には、
『足下安平立の相』である!、
『足下(足裏)』の、
一切は、
『地』に、
『著いており!』、
『間』には、
『受ける!所(へこみ)』が、
『無く!』、
『針』の、
『一本』すら、
『入りません!』。
二者足下二輪相千輻輞轂三事具足。自然成就不待人工。諸天工師毘首羯磨不能化作如是妙相。 二には足下二輪相なり、千輻、輞、轂の三事具足し、自然の成就にして、人の工を待たず。諸天の工師たる毘首羯磨も、是の如き妙相を化作する能わず。
二には、
『足下二輪相』である!、
『千の輻()』、
『輞(おおわ)』、
『轂(こしき)』の、
『三事』が、
『具足』し、
『自然』に、
『成就した!』もので、
『人』の、
『工作』を、
『待ちません!』。
諸の、
『天』の、
『工師』である!、
『毘首羯磨』にも、
是のような、
『妙相』を、
『化作する!』ことは、
『できません!』。
  毘首羯磨(びしゅかつま):梵名vizvakarman。妙業、妙匠、工巧、巧化師等に訳す。三十三天に住し、帝釈天の命を奉じて建築彫刻等を司る神匠の名なり。『大智度論巻4上注:毘首羯磨』参照。
  化作(けさ):梵語abhinirmiNotiの訳。仏菩薩が、神力を以って変化し、種種の身や、又種種の事物を造作することを云う。<(丁)
問曰。何以故不能。 問うて曰く、何を以っての故に、能わざる。
問い、
何故、
『できない!』のですか?
答曰。是毘首羯磨。諸天工師不隱沒智慧。是輪相善業報。是天工師生報得智慧。是輪相行善根智慧得。是毘首羯磨一世得。是智慧。是輪相從無量劫智慧生。以是故毘首羯磨不能化作。何況餘工師。 答えて曰く、是の毘首羯磨は、諸天の工師は、不隠没の智慧なるも、是の輪相は、善業の報なり。是の天の工師は、生報にして得たる智慧なるも、是の輪相は、善根を行ぜし、智慧の得なり。是の毘首羯磨は、一世にして、是の智慧を得るも、是の輪相は、無量劫の智慧より生ず。是を以っての故に、毘首羯磨は、化作する能わず。何に況んや、余の工師をや。
答え、
是の、
『毘首羯磨』、
諸の、
『天』の、
『工師』の、
『智慧』は、
『不隠没(悪ではない!)』の、
『無記(善、悪不定)』の、
『智慧』である!が、
是の、
『輪相』を、
『為した!』、
『智慧』は、
『善業』の、
『報』である!。
是の、
『天』の、
『工師』の、
『智慧』は、
『生報(前世の業報)』で、
『得た!』、
『智慧』である!が、
是の、
『輪相』は、
『善根』を、
『行う!』、
『智慧』で、
『得た!』ものである。
是の、
『毘首羯磨』は、
是の、
『智慧』を、
『一世』の、
『業報』を以って、
『得た!』が、
是の、
『輪相』は、
『無量劫』の、
『智慧』より、
『生じた!』ものである。
  不隠没智慧(ふおんもつちえ):梵語anivRta-avyaakRta?の訳、又不隠没無記と名づく。即ち聖道を覆障することなき無記性の法をいう。『大智度論巻32上注:無覆無記』参照。
  生報(しょうほう):此の生に善悪の業を作り、来生に苦楽の果報を受くの意。三報の一。『大智度論巻24(上)注:三報』参照。
三者長指相。指纖長端直。次第傭好指節參差。 三には長指相なり、指は繊長、端直にして、次第に傭好し、指節は参差す。
三には、
『長指相』である!、
『指』が、
『細長く!』、
『真直ぐ!』であり、
『次第に細く!』なり、
『指節(関節)』は、
『不揃い!』である。
  繊長(せんちょう):細長い。
  端直(たんじき):真直ぐ。
  次第(しだい):ありさま、状景。
  傭好(ようこう):均等。でこぼこしない。
  参差(しんし):長さに差がある。不揃い。
四者足跟廣平相。 四には足跟広平相なり。
四には、
『足跟広平相』である!、
『足』の、
『跟(かかと)』は、
『広く!』、
『平ら!』である。
  足跟(そくこん):かかと。
五者手足指縵網相。如鴈王張指則現不張則不現。 五には手足指縵網相なり、雁王の如く指を張れば、則ち現われ、張らざれば、則ち現われず。
五には、
『手足指縵網相』である!、
『雁王』のように、
『指』を、
『張る!』と、
『縵網(まく)』が、
『現われ!』、
『張らない!』と、
『現われない!』。
  縵網(まんもう):幕と網。鳥類の如き指の間の膜を云う。
  雁王(がんおう):大きな雁。
六者手足柔軟相。如細劫波毳勝餘身分。 六には手足柔軟相なり、細き劫波の毳(にこげ)の如く、余の身分に勝る。
六には、
『手足柔軟相』である!、
譬えば、
『細い!』、
『劫波(良種の綿)』の、
『毳(にこげ)』のようであり、
余の、
『身の分』より、
『勝れている!』。
  劫波(こうは):樹名。梵語karpaasaの音訳、また劫波育樹、劫波娑樹、劫貝樹、劫貝娑樹、古貝樹、迦波羅樹に作り、意訳して時分樹と作す。学名をgossypium hebaceumと称し、綿の一種に属し、東アジアに原産し、印度デカン地方に栽培すること甚だ広し。その絮(わた)は製して布衣と成すべく、その衣を劫貝依(梵karpaasaka)と称す。種子は油を搾ること可なり。<(望)
七者足趺高滿相。以足蹈地不廣不狹。足下色如赤蓮華。足指間網及足邊色如真珊瑚。指爪如淨赤銅。足趺上真金色。足趺上毛青毘琉璃色。其足嚴好。譬如雜寶屐種種莊飾。 七には足趺高満相なり、足を以って地を蹈めば、広からず、狭からず、足下の色は、赤蓮華の如く、足指の間の網、及び足辺の色は、真の珊瑚の如く、指の爪は、浄き赤銅の如く、足趺上は真金色、足趺上の毛は、青き毘琉璃の色にして、其の足の厳好なること、譬えば雑宝の屣を種種に荘飾したるが如し。
七には、
『足趺高満相』である!、
『足』で、
『地』を、
『蹈む!』と、
『跡』は、
『広くもなく!』、
『狭くもなく!』、
『足』の、
『下()』の、
『色』は、
譬えば、
『赤い!』、
『蓮華』のよう!であり、
『足』の、
『指の間』の、
『膜』、
及び、
『足』の、
『辺(側面)』の、
『色』は、
譬えば、
『真の!』、
『珊瑚』のよう!であり、
『足』の、
『爪』は、
譬えば、
『浄らかな!』、
『赤銅』のよう!であり、
『足』の、
『趺上(こう)』は、
『真の!』、
『金色』であり!、
『足』の、
『趺上』の、
『毛』は、
『青い!』、
『毘琉璃色』であり、
其の、
『足』は、
『厳か!』にして、
『好ましく!』、
譬えば、
『雑宝』の、
『屐(サンダル)』が、
種種に、
『装飾された!』ようである。
  足趺(そくふ):足の甲。
  毘琉璃(びるり):梵語vaiduuryaの音訳にして七宝の一なり。また流離、琉璃、吠琉璃耶、吠努璃野、鞞稠利夜、吠琉璃、筏琉璃、毘頭梨、鞞頭梨に作り、意訳して青色宝、遠山宝、不遠山宝と為す。即ち猫目石の一種にして、種類に青、白、赤、黒、緑等の各種の顔色有り。その最大の特色は乃ちこれ同化の性質を具有し、また即ち琉璃に接近する何なる物にも任え、皆琉璃の色を被りて同化する所なり。相い伝うるに、虚空の顔色(青色)は即ちこれにして、須弥山南方の琉璃宝の映現する所の者に由ると。<(望)
  雑宝(ぞうほう):種種雑多な宝石。
  (げき):木履。
  荘飾(しょうじき):装飾。
八者伊泥延膊相。如伊泥延鹿膊隨次傭纖。 八には伊泥延膊相なり、伊泥延鹿の膊の、随次に傭繊なるが如し。
八には、
『伊泥延腨相』である!、
譬えば、
『伊泥延鹿(鹿王)』のよう!に
『腨(ふくらはぎ)』が、
『次第』に、
『細長く!』なる。
  伊泥延(いないえん):梵語eNi、aiNeyaの訳語にして、また伊尼延、因泥延、翳泥耶、瑿泥延、伊梨延陀に作り、即ち羚羊の一種なり。訳して鹿王と為す。毛黒く、足脛は繊円にして、長短所を得るが故に常にこれを以って比し、仏の三十二相中の腨相に喩う。<(望)
  (せん):ふくらはぎ。
  傭繊(ようせん):均等に細い。
  :膊(はく)は肩の骨なれば、他本及び理に従い、腨に改む。
九者正立手摩膝相。不俯不仰以掌摩膝。 九には正立手摩膝相なり、俯かず、仰がずして、掌を以って膝を摩(な)づるなり。
九には、
『正立手摩膝相』である!、
『真直ぐ!』立ち、
『俯かず!』、
『仰がず!』に、
『掌』で、
『膝』を、
『摩(なで)られる!』。
十者陰藏相。譬如調善象寶馬寶。 十には陰蔵相なり、譬えば調うること善き象宝、馬宝の如し。
十には、
『陰蔵相』である!、
譬えば、
『善く!』、
『調えられた!』、
『象宝』や、
『馬宝』のよう!である。
  象宝(ぞうほう):梵語hasti-ratnaの訳。転輪聖王七宝の一。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
  馬宝(めほう):梵語azva-ratnaの訳。転輪聖王七宝の一。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
問曰。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提。時諸弟子何因緣見陰藏相。 問うて曰く、若し菩薩、阿耨多羅三藐三菩提を得たれば、時の諸の弟子は、何の因縁にてか、陰蔵相を見る。
問い、
若し、
『菩薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られた!』ならば、
その時の、
諸の、
『弟子』は、
何のような、
『因縁』で、
『菩薩』の、
『陰蔵相』を、
『見た!』のですか?
答曰。為度眾人決眾疑故示陰藏相。 答えて曰く、衆人を度して、衆疑を決せんが為の故に、陰蔵相を示したまえり。
答え、
『衆多』の、
『人』を、
『度す!』為と、
『衆多』の、
『疑』を、
『決する!』為の故に、
『菩薩』は、
『陰蔵相』を、
『示された!』のである。
復有人言。佛化作馬寶象寶示諸弟子言。我陰藏相亦如是。 復た、有る人の言わく、『仏は、馬宝、象宝を化作して、諸の弟子に示し、我が陰蔵相も、亦た是の如しと言えり。』と。
復た、
有る人は、
こう言っている、――
『仏』は、
『馬宝』と、
『象宝』とを、
『化作』する!と、
諸の、
『弟子』に示して、
こう言われたのである、――
わたしの、
『陰蔵相』も、
亦た、
是の通りである!、と。
十一者身廣長等相。如尼拘盧陀樹。菩薩身齊為中四邊量等。 十一には身広長等相なり、尼拘盧陀樹の如く、菩薩の身は、臍を中と為すに、四辺の量等し。
十一には、
『身広長等相』である!、
譬えば、
『尼拘盧陀樹』のよう!に、
『菩薩』の、
『身』は、
『臍』を、
『中心』として、
『四辺』の、
『量(身長と両手を広げた幅)』が、
『等しい!』。
  尼拘盧陀(にくろだ):樹名。梵語nyagrodhaの音訳なり、また尼拘律樹、尼拘陀樹、尼拘屢陀樹、尼拘尼陀樹、尼拘類樹、尼俱盧陀樹、諾瞿陀樹等に作り、意訳して無節、縦広、多根と為す。学名をficus indicaと称し、桑科に属し、形状は榕樹に類似す。印度、錫蘭(セイロン)等の地に産し、高さ10メートル乃至15メートル、樹葉は長楕円形を呈し、葉端は尖状と為す。枝より下垂する気根を出だし、地に達するにまた根を生ずれば、大なるは100メートル四方に及び、枝葉は繁茂して四方に蔓を生ず。然れどもどの種子は甚だ小なるが故に仏典には常に小因より大果報を得るに喩う。<(望)『大智度論巻8上注:尼拘律樹』参照。
  (さい):へそ。臍。
十二者毛上向相。身有諸毛生。皆上向而[禾*犀]。 十二には毛上向相なり、身に諸毛の生ゆる有り、皆、上を向きて、穉(わか)し。
十二には、
『毛上向相』である!、
『身』に有る!
諸の、
『毛』は、
皆、
『上向き!』に、
『生え!』て、
而も、
『稚(おさな)い!』。
十三者一一孔一毛生相。毛不亂青琉璃色。毛右靡上向。 十三には一一孔一毛生相なり、毛は乱れず青き琉璃色にして、毛は右に靡き上に向く。
十三には、
『一一孔一毛生相』である!、
『毛』は、
『青い!』、
『琉璃色』であり、
『毛』は、
『乱れることなく!』、
『右に靡(なび)き!』、
『上に向く!』。
十四者金色相。 十四には金色相なり。
十四には、
『金色相』である。
問曰何等金色。 問うて曰く、何等か、金色なる。
問い、
何のような、
『金色』ですか?
答曰。若鐵在金邊則不現。今現在金比佛在時金則不現。佛在時金比閻浮那金則不現。閻浮那金比大海中轉輪聖王道中金沙則不現。金沙比金山則不現。金山比須彌山則不現。須彌山金比三十三諸天瓔珞金則不現。三十三諸天瓔珞金比焰摩天金則不現。焰摩天金比兜率陀天金則不現。兜率陀天金比化自在天金則不現。化自在天金比他化自在天金則不現。他化自在天金比菩薩身色則不現。如是色是名金色相。 答えて曰く、鉄、金の辺に在れば、則ち現われざるが若(ごと)く、今現在の金は、仏在時の金に比すれば、則ち現われず。仏在時の金は、閻浮那金に比すれば、則ち現われず。閻浮那金は、大海中の転輪聖王の道中の金沙に比すれば、則ち現われず。金沙は、金山に比すれば、則ち現われず。金山は、須弥山に比すれば、則ち現われず。須弥山の金は、三十三諸天の瓔珞の金に比すれば、則ち現われず。三十三諸天の瓔珞の金は、焔摩天の金に比すれば、則ち現われず。焔摩天の金は、兜率陀天の金に比すれば、則ち現われず。兜率陀天の金は、化自在天の金に比すれば、則ち現われず。化自在天の金は、他化自在天の金に比すれば、則ち現われず。他化自在天の金は、菩薩の身色に比すれば、則ち現われず。是の如き色、是れを金色相と名づく。
答え、
譬えば、
『鉄』が、
『金の辺』では、
『現われない(見えない)!』ように、
今、
『現在』の、
『金』は、
『仏在世時』の、
『金』に比べれば、
『現われない!』、
『仏在世時』の、
『金』は、
『閻浮那金』に比べれば、
『現われない!』、
『閻浮那金』は、
『大海』中の、
『転輪聖王の道』中の、
『金沙』に比べれば、
『現われない!』、
『金沙』は、
『金山』に比べれば、
『現われない!』、
『金山』は、
『須弥山』に比べれば、
『現われない!』、
『須弥山』は、
『三十三諸天』の、
『瓔珞』の、
『金』に比べれば、
『現われない!』、
『三十三諸天』の、
『瓔珞』の、
『金』は、
『焔摩天』の、
『金』に比べれば、
『現われない!』、
『焔摩天』の、
『金』は、
『兜率陀天』の、
『金』に比べれば、
『現われない!』、
『兜率陀天』の、
『金』は、
『化自在天』の、
『金』に比べれば、
『現われない!』、
『化自在天』の、
『金』は、
『他化自在天』の、
『金』に比べれば、
『現われない!』、
『他化自在天』の、
『金』は、
『菩薩』の、
『身色』に比べれば、
『現われない!』、
是のような、
『色』を、
『金色相』というのである。
   閻浮那金(えんぶなこん):閻浮那は、また閻浮那提に作り、梵語jambunadasuvarNaの音訳なり、また閻浮檀金、炎浮檀金、閻浮那陀金、剡浮那他金に作り、金の名なり。その色は赤黄にして紫焔の気を帯ぶ。閻浮は樹名にして、檀或は那提は訳して河と為す。閻浮樹の下に河有り、閻浮檀という。この河の中に金を出だせば、これを閻浮檀金という、即ち閻浮河の金なり。<(望)『大智度論巻9上注:閻浮檀金』参照。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):また転輪王、転輪聖帝、輪王、飛行転輪帝、飛行皇帝に作り、梵語のcakra-vati-raajanの訳語にして、また音訳して斫迦羅伐辣底遏羅闍、遮迦羅跋帝、遮加越に作る。意は即ち輪宝(戦車に相当す)を旋転する王なり。王の擁するに七宝(輪、象、馬、珠、女、居士、主兵臣)有り、四徳(長寿、無疾病、容貌出色、宝蔵豊富)を具足し、須弥四洲を統一し、正法を以って世を御せば、その国土は豊饒にして、人民は和楽す。<(佛)
  金沙(こんしゃ):金の砂子。
  金山(こんせん):梵語kaaJcana-parvataの訳。金所成の山の義。須弥山と鉄囲山との中間に在る七山の総称。七金山。『大智度論巻4下注:七金山』参照。
  七金山(しちこんせん):梵語septa-haimaaHの訳。七個の金山の意。須弥山sumeru(巴梨語siNeru)と鉄囲山cakra-vaaDa(巴cakka-vaaLa)との中間に在る七山の名。其の山悉く金の所成なるを以って此の称あり。一に踰健達羅yugaMdhara(巴yugandhara)、二に伊沙駄羅iiSaadhara(巴iisadhara)、三に朅地洛迦khadiraka(巴karaviika)、四に蘇達梨舎那sudarzana(巴sudassana)、五に頞湿縛羯拏azvakarNa(巴assakaNNa)、六に毘那怛迦vinataka(巴同じ)、七に尼民達羅nimiMdhara(巴nemindhara)なり。「大毘婆沙論巻133」に、「金宝を以って七金山を成ず、蘇迷盧を遶りて金輪の上に住す。水中に在るの量は蘇迷盧に同じきも、水を出でて相望めば各半半に減ず。(中略)七金山の間に七の内海あり、八功徳水其の内に盈満せり」と云い、又「瑜伽師地論巻2」に、「中品性の者は七金山を成ず、謂わく持双山、毘那矺迦山、馬耳山、善見山、朅達洛迦山、持軸山、尼民達羅山なり。是の如き諸山は其の峯布列す。各形状に由りて差別して名と為し、蘇迷盧を繞りて次第して住す。蘇迷盧の量は高さ八万踰繕那なり、広さ亦之に如き、下、水際に入るの量も亦復た爾り。亦持双山は彼の半に等しく、此れより次第に余の六金山は其の量漸減して、各其の半に等し。(中略)又七金山は其の間に水あり、八支徳を具す、名づけて内海と為す。復た諸龍宮を成ず、八大龍あり、並びに劫を経て住す。謂わく地持龍王、歓喜近喜龍王、馬騾龍王、目支隣陀龍王、意猛龍王、持国龍王、大黒龍王、黳羅葉龍王なり。是の諸龍王は帝釈の力に由りて数ば非天と共に相戦諍す。其の諸龍衆の類に四種あり、謂わく卵生、胎生、湿生、化生なり。妙翅鳥の中の四類も亦た爾り。復た余水あり、内海の外に在るが故に外海と名づく」と云える是れなり。此の中、踰健達羅は又樹巨陀羅、喩漢多、由乾陀、乾陀に作り、持双、双持、又は双迹と訳す。直接須弥を繞る山にして高さ四万由旬あり、伊沙馱羅は又伊沙陀羅、伊沙多に作り、持軸又は自在持と訳す。踰健達羅を繞る山にして高さ二万由旬あり。朅地洛迦は又朅達洛迦、佉陀羅、佉提羅迦に作り、擔木又は空破と訳す。伊沙馱羅を繞る山にして高さ一万由旬あり。蘇達梨舎那は善見、善現と訳す。朅地洛迦を繞る山にして高さ五千由旬あり。頞湿縛羯拏は又阿波尼に作り、馬耳、馬半頭、馬片頭と訳す。蘇達梨舎那を繞る山にして高さ二千五百由旬あり。毘那怛迦は又維那兜、毘耶那迦に作り、障礙、象鼻、調伏と訳す。頞湿縛羯拏を繞る山にして高さ其の半なり。尼民達羅は又尼民陀羅、尼弥多羅に作り、持地又は持辺と訳す。毘那怛迦を繞る山にして高さ亦其の半なり。但し「長阿含経巻18」、「起世経巻1」、「立世阿毘曇論巻2」等にも亦須弥及び鉄囲と共に此の七山の名を出すも、其の説述頗る今と相違あり。又「長阿含経巻20」、「起世因本経巻10」、「大楼炭経巻5」、「倶舎論巻11」、「順正理論巻31」、「彰所知論巻上」、「翻訳名義集巻7」、「大明三蔵法数巻30」等に出づ。<(望) 
  三十三諸天(さんじゅうさんしょてん):梵語devaas trayas-triMzaaHの訳。四天王天の上、欲界六天の第二を云う。即ち天帝釈所居の天界にして須弥山の頂上に在り。四方に各八天、中央善見城を合わせて総じて三十三天あり。『大智度論巻9上注:忉利天』参照。
  焔摩天(えんまてん):梵語yaamaadevaaHの訳。即ち三十三天の上、欲界六天の第三を云う。『大智度論巻9上注:夜摩天』参照。
  兜率陀天(とそつだてん):梵語tuSitaの訳。即ち焔摩天の上、欲界六天の第四を云う。『大智度論巻9上注:兜率天』参照。
  化自在天(けじざいてん):梵語nirmaaNa-ratiの訳。即ち兜率天の上、欲界六天の第五を云う。『大智度論巻9上注:化楽天』参照。
  他化自在天(たけじざいてん):梵語para-nirmita-vaza-vartinの訳。即ち欲界六天の最頂天を云う。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
  参考:『大智度論巻35』:『如閻浮提者。閻浮樹名其林茂盛。此樹於林中最大。提名為洲此洲上有此樹林。林中有河底有金沙。名為閻浮檀金。以閻浮樹故名為閻浮洲。此洲有五百小洲圍繞通名閻浮提。』
  参考:『長阿含経巻18』:『復有叢林名葡萄。縱廣五十由旬。過是地空。其空地中復有花池。縱廣五十由旬。復有缽頭摩池.俱物頭池.分陀利池。毒蛇滿中。各縱廣五十由旬。過是地空。其空地中有大海水。名鬱禪那。此水下有轉輪聖王道。廣十二由旬。挾道兩邊有七重牆.七重欄楯.七重羅網.七重行樹。周匝校飾。以七寶成。閻浮提地轉輪聖王出于世時。水自然去。其道平現。去海不遠有山。名鬱禪。其山端嚴。樹木繁茂。花果熾盛。眾香芬馥。異類禽獸靡所不有。去鬱禪山不遠有山。名金壁。中有八萬巖窟。八萬象王止此窟中。其身純白。頭有雜色。口有六牙。齒間金填。過金壁山已。有山名雪山。縱廣五百由旬。深五百由旬。東西入海。雪山中間有寶山。高二十由旬。雪山埵出高百由旬。其山頂上有阿耨達池。縱廣五十由旬。其水清冷。澄淨無穢。七寶砌壘.七重欄楯.七重羅網.七重行樹。種種異色。七寶合成。其欄楯者。金欄銀桄。銀欄金桄。琉璃欄水精桄。水精欄琉璃桄。赤珠欄馬瑙桄。馬瑙欄赤珠桄。車磲欄眾寶所成。金網銀鈴。銀網金鈴。琉璃網水精鈴。水精網琉璃鈴。車磲網七寶所成。金多羅樹金根金枝銀葉銀果。銀多羅樹銀根銀枝金葉金果。水精樹水精根枝琉璃花果。赤珠樹赤珠根枝馬瑙葉馬瑙花果。車磲樹車磲根枝眾寶花果。阿耨達池側皆有園觀浴池。眾花積聚。種種樹葉。花果繁茂。種種香風。芬馥四布。種種異類。諸鳥哀鳴相和。阿耨達池底。金沙充滿。其池四邊皆有梯陛。金桄銀陛。銀桄金陛。琉璃桄水精陛。水精桄琉璃陛。赤珠桄馬瑙陛。馬瑙桄赤珠陛。車磲桄眾寶陛。遶池周匝皆有欄楯。生四種花。青.黃.赤.白。雜色參間。華如車輪。根如車轂。花根出汁。色白如乳。味甘如蜜。阿耨達池東有恒伽河。從牛口出。從五百河入于東海。阿耨達池南有新頭河。從師子口出。從五百河入于南海。阿耨達池西有婆叉河。從馬口出。從五百河入于西海。阿耨達池北有斯陀河。從象口中出。從五百河入于北海。阿耨達宮中有五柱堂。阿耨達龍王恒於中止』
十五者丈光相。四邊皆有一丈光。佛在是光中端嚴第一。如諸天諸王寶光明淨。 十五には丈光相なり、四辺に皆、一丈の光有り。仏は、是の光中に在りて、端厳なること第一にして、諸天の諸王の宝の光明の如く、浄らかなり。
十五には、
『丈光相』である!、
『身』の、
『四辺』には、
皆、
『一丈』の、
『光』が、
『有り!』、
『仏』は、
是の、
『光』の中で、
『端厳』なる!こと、
『第一』にして、
諸の、
『天』の、
諸の、
『王』の、
『宝』の、
『光明』のよう!に、
『浄らか!』である。
  一丈(いちじょう):10尺。周制に225cmという。
十六者細薄皮相。塵土不著身。如蓮華葉不受塵水。若菩薩在乾土山中經行。土不著足。隨藍風來吹破土山。令散為塵乃至一塵不著佛身。 十六には細薄皮相なり、塵土は身に著かずして、蓮の華葉の塵水を受けざるが如し。若し菩薩、乾土の山中に在りて、経行したもうにも、土は足に著かず。随藍の風来たりて、土山を吹き破り、散らして塵と為らしめんにも、乃至一塵すら、仏身に著かず。
十六には、
『細薄皮相』である!、
『塵土』が、
『身』に、
『著かない!』。
譬えば、
『蓮』の、
『華、葉』が、
『塵、水』を、
『受けない!』ように、
若し、
『菩薩』が、
『乾土』の、
『山』中に、
『経行』していた!としても、
『土』は、
『足』に、
『著かず!』、
『随藍』の、
『風』が来て、
『土』の、
『山』を、
『吹き破り!』、
散らして、
『塵』に、
『為した!』としても、
乃至、
『一塵』すら、
『仏(菩薩)』の、
『身』には、
『著かない!』のである。
  随藍(ずいらん):梵語vairambhakaの音訳にして、また毘嵐、吠嵐婆、毘藍婆、旋藍に作り、意訳して迅猛風、恒起風、旋風と為す。即ち宇宙形成の始(劫初)と成立の終(劫末)に起こる所の迅速にして猛烈なる大風なり。<(佛)
  経行(きょうぎょう):梵語caGkramanaの訳語にして、意は一定の場所の中に在りて往復回旋する行走を指す。通常、食後に在りて疲倦する時、或は坐禅して惛沈、瞌睡の時、即ち起きて経行す。即ち一種の身心の安静を調剤する散歩なり。<(佛)
十七者七處隆滿相。兩手兩足兩肩項中七處。皆隆滿端正色淨勝餘身體。 十七には七処隆満相なり、両手、両足、両肩、項中の七処は、皆隆満し、端正にして、色の浄らかなること、余の身体に勝る。
十七には、
『七処隆満相』である!、
『両手、両足、両肩、項中』の、
『七処』が、
皆、
『隆満』し、
『端正』であり、
『色』が、
『浄らか!』で、
余の、
『身体』よりも、
『勝れている!』。
  項中(こうちゅう):うなじのなかごろ。
  隆満(りゅうまん):もりあがってみちる。
十八者兩腋下隆滿相。不高不深。 十八には両腋下隆満相なり、高からず深からず。
十八には
『両腋下隆満相』である!、
『両腋下』は、
『隆満』しており、
『高くもなく!』、
『深くもない!』。
十九者上身如師子相。 十九には上身如師子相なり。
十九には、
『上身如師子相』である。
二十者大直身相。於一切人中身最大而直。 二十には大直身相なり、一切の人中に於いて、身は最も大にして、直なり。
二十には、
『大直身相』である!、
一切の、
『人』中に於いて、
『身』は、
最も、
『大きく!』、
『直(まっす)ぐ!』である。
二十一者肩圓好相。一切治肩無如是者。 二十一には肩円好相なり、一切の肩を治するに、是の如き者無し。
二十一には、
『肩円好相』である!、
一切の、
『人』の、
『肩』を、
『比較』しても、
是のような、
『肩』は、
『無い!』。
  (じ):くらべる。比較。
二十二者四十齒相。不多不少餘人三十二齒。身三百餘骨。頭骨有九。菩薩四十齒。頭有一骨。菩薩齒骨多頭骨少。餘人齒骨少頭骨多。以是故異於餘人身。 二十二には四十歯相なり、多からず少なからず。余人は、三十二歯、身に三百余骨、頭骨に九有り。菩薩は四十歯、頭に一骨有り、菩薩は歯骨多く、頭骨少なし。余人は歯骨少なく、頭骨多し。是を以っての故に、余人の身に於いて異なり。
二十二には、
『四十歯相』である!、
『歯』は、
『四十』よりも、
『多くもなく!』、
『少なくもない!』。
余の人は、
『歯』が、
『三十二』、
『身』には、
『三百余』の、
『骨』、
『頭』には、
『九』の、
『骨』が有る!が、
『菩薩』は、
『歯』が
『四十』で、
『頭』には、
『一』の、
『骨』が有る!。
『菩薩』は、
『歯』の、
『骨』が、
『多く!』、
『頭』の、
『骨』が、
『少ない!』が、
余の人は、
『歯』の、
『骨』が、
『少なく!』、
『頭』の、
『骨』が、
『多い!』ので、
是の故に、
余の人の、
『身』とは、
『異なる!』のである。
二十三者齒齊相。諸齒等無麤無細不出不入。齒密相人不知者謂為一齒。齒間不容一毫。 二十三には、歯斉相なり、諸の歯は等しく、麁なる無く、細なる無く、出でず、入らず。歯密相なるを、人知らざれば、謂いて一歯と為す。歯間には、一毫すら容れず。
二十三には、
『歯斉相』である!、
諸の、
『歯』は、
『等しく!』、
『大きすぎる!』ものも、
『小さすぎる!』ものも、
『無く!』、
『出すぎた!』ものも、
『入りすぎた!』ものも、
『無い!』、
『歯密相』である!が、
『知らない!』、
『人』は、
是れを、
『一歯だ!』と、
『謂う!』。
『歯間』には、
『一毫』すら、
『入らない!』。
二十四者牙白相。乃至勝雪山王光。 二十四には牙白相なり、乃至雪山王の光にも勝る。
二十四には、
『牙白相』である!、
乃至、
『雪山王』の、
『光』よりも、
『勝っている!』。
二十五者師子頰相。如師子獸中王平廣頰。 二十五には師子頰相なり、師子、獣中の王の如く、平広の頬なり。
二十五には、
『師子頬相』である!、
『獣』中の、
『王』である!、
『師子』のよう!に、
『頬』は、
『平らか!』で、
『広い!』。
二十六者味中得上味相。有人言。佛以食著口中。是一切食皆作最上味。何以故。是一切食中有最上味因故。無是相人不能發其因故。不得最上味。 二十六には味中得上味相なり、有る人の言わく、『仏は、食を以って、口中に著くれば、是の一切の食は、皆、最上味と作る。何を以っての故に、是の一切の食中に、最上味の因有るが故なり。是の相無くんば、人は、其の因を発すこと能わざるが故に、最上味を得ず。』と。
二十六には、
『味中得最上味相』なり、
有る人は、
こう言っている、――
『仏』は、
『食』を以って、
『口』中に、
『著ける!』と、
是の、
一切の、
『食』は、
皆、
『最上味』と、
『作る!』、
何故ならば、
是の、
一切の、
『食』中に、
『最上味』の、
『因』が、
『有る!』からであるが、
若し、
『人』に、
是の、
『相』が、
『無かった!』ならば、
其の、
『因』を、
『発(おこ)す!』ことが、
『できない!』ので、
故に、
『最上味』を、
『得られない!』のである、と。
復有人言。若菩薩舉食著口中。是時咽喉邊兩處。流注甘露和合諸味。是味清淨故。名味中得上味。 復た有る人の言わく、『若し菩薩は、食を挙げて口中に著くれば、是の時、咽喉の辺の両処より甘露を流注し、諸味に和合し、是の味の清浄なるが故に、味中に上味を得と名づく。』と。
復た、
有る人は、
こう言っている、――
若し、
『菩薩』が、
『食』を挙げて、
『口』中に、
『著けた!』ならば、
是の時、
『咽喉(のど)』の、
『辺』の、
『両処(両側)』より、
『甘露』が流注して、
諸の、
『味』に、
『和合する!』ので、
是の、
『味』は、
『清浄となる!』。
是の故に、
『味』中に、
『上味』を、
『得る!』というのである、と。
二十七者大舌相。是菩薩大舌從口中出覆一切面分。乃至髮際。若還入口口亦不滿。 二十七には大舌相なり、是の菩薩の大舌は、口中より出でて、一切の面分を、乃至髪際まで覆い、若し還りて口に入るにも、口は亦た満たず。
二十七には、
『大舌相』である!、
是の、
『菩薩』の、
『大舌』は、
『口』中より、
『出る!』と、
一切の、
『面(かお)』の、
『分』を、
乃至、
『髪際』まで、
『覆う!』が、
還って、
『口』に、
『入った!』ときにも、
『口』は、
『少しも!』、
『いっぱいにならない!』、と。
二十八者梵聲相。如梵天王五種聲從口出。其一深如雷。二清徹遠聞聞者悅樂。三入心敬愛。四諦了易解。五聽者無厭。 二十八には梵声相なり、梵天王の五種の声、口より出づるが如し。其の一には深きこと雷の如し、二には清徹にして遠く聞こえ、聞く者悦楽す、三には心に入りて敬愛せしむ、四には諦了して解し易し、五には聴く者に厭くこと無し。
二十八には、
『梵声相』である!、
『梵天王』のように、
『五種』の、
『声』が、
『口』より、
『出る!』、
其の、
一には、
『雷のよう!』に、
『深い!』、
二には、
『清徹』して、
『遠く!』に、
『聞こえ!』、
『聞いた!』者は、
『悦び!』、
『楽しむ!』、
三には、
『心』に入って、
『敬われ!』、
『愛される!』、
四には、
『声』が、
『明了』で、
『解りやすい!』、
五には、
『聴く!』者に、
『飽きる!』ことが、
『無い!』である。
  梵声(ぼんじょう):梵語brahma-svaraの訳。大梵天王所出の音声の意。『大智度論巻21下注:梵音』参照。
  諦了(たいりょう):はっきりわかる。
菩薩音聲亦如是。五種聲從口中出。迦陵毘伽聲相。如迦陵毘伽鳥聲可愛。鼓聲相。如大鼓音深遠。 菩薩の音声も、亦た是の如く、五種の声、口中より出で、迦陵毘伽声相は、迦陵毘伽鳥の声の愛すべきが如く、鼓声相は、大鼓の音の深遠なるが如し。
『菩薩』の、
『音声』も、
亦た、
是のように、
『五種』の、
『声』が、
『口』中より、
『出る!』が、
其の、
『迦陵毘伽声相』は、
『迦陵毘伽鳥』の、
『声のよう!』に、
『愛らしく!』、
『鼓声相』は、
『大鼓』の、
『音のよう!』に、
『遠く!』まで、
『聞こえる!』。
  迦陵毘伽(かりょうびんが):梵名kalaviGka。好声と訳す。雀又は其の類の鳥の名。声の美妙を以って有名なり。『大智度論巻25上注:迦陵頻伽』参照。
二十九者真青眼相。如好青蓮華。 二十九には真青眼相なり、好き青蓮華の如し。
二十九には、
『真青眼相』である!、
『眼相』は、
譬えば、
『好もしい!』、
『青蓮華のよう!』である。
三十者牛眼睫相。如牛王眼睫長好不亂。 三十には牛眼睫相なり、牛王の如く、眼睫は長く好もしく、乱れず。
三十には、
『牛眼睫相』である!
『牛王』のような、
『眼』は、
『睫(まつげ)』が、
『長く!』、
『好もしく!』、
『乱れない!』。
三十一者頂髻相。菩薩有骨髻如拳等在頂上。 三十一には頂髻相なり、菩薩には骨髻の拳に等しきが如き有りて、頂上に在り。
三十一には、
『頂髻相』である!、
『菩薩』には、
『骨』の、
『髻(もとどり)』が有り、
『拳』にも、
『等しい!』ものが、
『頂(いただき)』の、
『上』に、
『在る!』。
  骨髻(こっけい):梵語uSNiiSa-ziirSaの訳。肉髻とも訳す。仏菩薩の頂上に在る肉の隆起を云う。
三十二者白毛相。白毛眉間生不高不下。白淨右旋舒長五尺。 三十二には白毛相なり、白毛眉間に生じ、高からず、下からず、白浄にして右に旋(めぐ)り、舒(の)ぶれば長さ五尺なり。
三十二には、
『白毛相』である!、
『白毛』が、
『眉間』に生じて、
『高くもなく!』、
『低くもなく!』、
『白く浄らか!』で、
『右に渦巻き!』、
『延べる!』と、
『長さ!』は、
『五尺』である!。
相師言。地天太子三十二大人相如是。菩薩具有此相。 相師の言わく、『地と、天の太子の三十二大人相は、是の如し。菩薩には、具に此の相有り。』と。
『相師』は、
こう言った、――
『地』と、
『天』との、
『太子』の、
『三十二』の、
『大人相』は、
是のようなものです!が、
『菩薩』には、
具(つぶさ)に、
此の、
『相』が、
『有ります!』、と。
問曰。轉輪聖王有三十二相。菩薩亦有三十二相。有何差別。 問うて曰く、転輪聖王に、三十二相有り、菩薩にも、亦た三十二相有り。何んが差別か有る。
問い、
『転輪聖王』に、
『三十二相』が、
『有り!』、
『菩薩』にも、
亦た、
『三十二相』が、
『有る!』ならば、
何のような、
『差別』が、
『有る!』のですか?
答曰。菩薩相者有七事勝轉輪聖王相。菩薩相者。一淨好。二分明。三不失處。四具足。五深入。六隨智慧行不隨世間。七隨遠離。轉輪聖王相不爾。 答えて曰く、菩薩の相は七事の、転輪聖王の相に勝るる有り。菩薩の相は、一には浄好、二には分明、三には処を失わず、四には具足す、五には深く入る、六には智慧の行に随い、世間に随わず、七には遠離に随う。転輪聖王の相は爾らず。
答え、
『菩薩の相』には、
『七事』が有り、
『転輪聖王の相』に、
『勝っている!』。
『菩薩の相』は、
一には、
『浄らか!』で、
『好もしい!』、
二には、
『分かれており!』、
『明らか!』である、
三には、
『処』を、
『失わない!』、
四には、
『具足している!』、
五には、
『深く!』、
『刻まれている!』、
六には、
『智慧』の、
『行(働き)』に、
『随った!』もので、
『世間』の、
『好み! 』には、
『随わない!』、
七には、
『世間』を、
『遠離する!』ことに、
『随った!』ものである。
『転輪聖王』の、
『三十二相』は、
『そうでない!』。
問曰。云何名相。 問うて曰く、何んが相と名づくる。
問い、
何故、
『相』と、
『称する!』のですか?
答曰。易知故名相。如水異火以相故知。 答えて曰く、知り易きが故に相と名づく。水の、火と異ること、相を以っての故に知るが如し。
答え、
『知る!』ことが、
『容易になる!』が故に、
『相』と、
『称する!』のである。
例えば、
『水』と、
『火』と、
『異なる!』のは、
『相』を以ってすれば、
『易しく!』、
『知ることができる!』。
問曰。菩薩何以故三十二相不多不少。 問うて曰く、菩薩は、何を以っての故にか、三十二相より多からず、少なからざる。
問い、
『菩薩』は、
何故、
『三十二相』よりも、
『多くもなく!』、
『少なくもない!』のですか?
答曰。有人言。佛以三十二相莊嚴身者。端正不亂故。若少者身不端正。若多者佛身相亂。是三十二相端正不亂不可益不可減。猶如佛法不可增不可減。身相亦如是。 答えて曰く、有る人の言わく、『仏は、三十二相を以って、身を荘厳したまえば、端正に乱れざるが故なり。若し少なければ、身は端正ならず、若し多ければ、仏の身相乱る。是の三十二相は、端正にして乱れざるに、益すべからず、減らすべからざること、猶お仏法の増すべからず、減らすべからざるが如し。身相も、亦た是の如し。』と。
答え、
有る人は、
こう言っている、――
『仏』が、
『身』を、
『三十二相』を以って、
『荘厳される!』と、
『身』は、
『端正』となり!、
『乱れない!』。
若し、
『少ない!』ときには、
『身』が、
『端正でなくなり!』、
若し、
『多い!』ときには、
『仏』の、
『身相』が、
『乱れる!』。
是の、
『三十二相』が、
『端正であり!』、
『乱れない!』ので、
是れを、
『益すこともできず!』、
『減らすこともできない!』というのは、
例えば、
『仏法』を、
『増すこともできず!』、
『減らすこともできない!』のと同じであり、
『身相』も、
亦た、
是の通りなのである。
問曰。菩薩何以故以相嚴身。 問うて曰く、菩薩は、何を以っての故にか、相を以って身を厳(かざ)る。
問い、
『菩薩』は、
何故、
『相』を以って、
『身』を、
『厳(かざ)る!』のですか?
答曰。有人見佛身相心得信淨。以是故以相嚴身。 答えて曰く、有る人は、仏の身相を見て、心に信浄を得。是を以っての故に、相を以って身を厳るなり。
答え、
有る人は、
『仏』の、
『身』に、
『相』を、
『見る!』ことで、
『心』に、
『信心清浄』を、
『得る!』ので、
是の故に、
『相』を以って、
『身』を、
『厳る!』のである。
  信浄(しんじょう):梵語prasannaの訳。明快、明瞭の義。疑心を除けば、信心清浄なり。
復次諸佛以一切事勝故。身色威力種姓家屬智慧禪定解脫眾事皆勝。若佛不莊嚴身相是事便少。 復た次ぎに、諸仏は、一切の事に勝れたるを以っての故に、身色、威力、種姓、家属、智慧、禅定、解脱の衆事、皆、勝る。若し仏、身相を荘厳したまわずんば、是の事便ち少(おと)らん。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
一切の、
『事』に於いて、
『勝れている!』ので、
故に、
『身色(容貌)』、
『威力(勢力)』、
『種姓(家柄)』、
『家属(家族)』、
『智慧』、
『禅定』、
『解脱』等の、
『衆(多く!)』の、
『事』が、
皆、
『勝れている!』はずであり、
若し、
『仏』が、
『身』の、
『相(みため)』を、
『荘厳されなかった!』ならば、
是の、
『事』が、
『劣る!』ということになる。
  (しょう):おとる。劣。
復次有人言。阿耨多羅三藐三菩提住是身中若身相不嚴。阿耨多羅三藐三菩提不住此身中。 復た次ぎに、有る人の言わく、『阿耨多羅三藐三菩提は、是の身中に住す。若し、身相を厳かならずんば、阿耨多羅三藐三菩提は、此の身中に住せざらん。
復た次ぎに、
有る人は、
こう言っている、――
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
是の、
『身』中に、
『住まる!』のであるが、
若し、
『身』の、
『相』が、
『厳かでなかった!』ならば、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
此の、
『身』中に、
『住まらない!』。
譬如人欲娶豪貴家女。其女遣使語彼人言。若欲娶我者。當先莊嚴房室除卻污穢塗治香熏安施床榻被褥綩綖幃帳幄慢幡蓋華香必令嚴飾。然後我當到汝舍。 譬えば人の豪貴の家の女を娶らんと欲するに、其の女は使を遣し、彼の人に語りて言わく、『若し我れを娶らんと欲せば、当に先に房室を荘厳すべし。汚穢を除却して、塗り治め、香を薫じ、床榻、被褥、綩綖、幃帳、幄幔、幡蓋、華香を安施して、必ず厳飾ならしむべし。然る後に、我れは当に汝が舎(いえ)に到るべし。』と。
譬えば、
『人』が、
『豪貴の家』より、
『女(むすめ)』を、
『娶(めと)ろう!』とすると、
其の、
『女』が、
『使』を遣し、その人に語って、
こう言うのと同じである、――
若し、
わたしを、
『娶りたい!』と、
『思われた!』ならば、
先に、
『房室』を、
『荘厳してください!』、
即ち、
『汚穢』を、
『取り除き!』、
『壁』を、
『塗り直し!』、
『香』を、
『熏じ!』、
『床榻(ベッド)』と、
『被褥(蒲団)』と、
『綩綖(カーペット)』と、
『幃帳(寝台の垂れ幕)』、
『幄幔(入口の垂れ幕)』、
『幡蓋(ベッドの天蓋)』、
『華香』を、
『置き整え!』て、
必ず、
『厳かに!』、
『飾ってください!』。
その後、
わたしは、
あなたの、
『舎(いえ)』に、
『入る!』ことにします、と。
  房室(ぼうしつ):へや。
  塗治(づぢ):壁を塗り整える。
  香薫(こうくん):香をたきしめる。
  床榻(しょうとう):寝台。
  被褥(ひにく):蒲団。
  綩綖(おんえん):敷物。
  幃帳(いちょう):寝台用の垂れ幕。
  幄幔(あくまん):寝室用の垂れ幕。
  幡蓋(ばんがい):寝室用の装飾と寝台用の天蓋。
  華香(けこう):花と香。
  安施(あんせ):安置と施設。物を置くことと、飾り付けること。
  厳飾(ごんじき):丁寧に飾り付ける。荘厳と同じ。
阿耨多羅三藐三菩提亦復如是。遣智慧使未來世中到菩薩所言。若欲得我先修相好以自莊嚴。然後我當住汝身中。若不莊嚴身者我不住也。以是故菩薩修三十二相。自莊嚴身為得阿耨多羅三藐三菩提故。 阿耨多羅三藐三菩提も、亦復た是の如く、智慧の使を未来世中に遣して、菩薩の所に到らしめて言わく、『若し、我れを得んと欲せば、先に相好を修め、以って自ら荘厳すべし。然る後に、我れは当に汝が身中に住すべし。若し身を荘厳せずんば、我れは住せず。』と。是を以っての故に、菩薩は、三十二相を修め、自ら身を荘厳するは、阿耨多羅三藐三菩提を得んが為の故なり。
『阿耨多羅三藐三菩提』も、
亦復た、
是のように、
『智慧』という!、
『使』を、
『未来世』中に遣し、
『菩薩』の所に到らしめて、
こう言うのである、――
若し、
わたしを、
『得たい!』と、
『思う!』ならば、
先に、
『相好』を修めて、
『自ら!』を、
『荘厳してください!』、
その後、
わたしは、
あなたの、
『身』中に、
『住まります!』、
若し、
『身』を、
『荘厳しなかった!』ならば、
わたしは、
『住まりません!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『三十二相』を修めて、
自らの、
『身』を、
『荘厳された!』が、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』為に、
『荘厳された!』のである。



出家して阿耨多羅三藐三菩提を得る

是時菩薩漸漸長大。見老病死苦厭患心生。夜半出家。六年苦行。食難陀婆羅門女益身十六功德石蜜乳糜。食竟。菩提樹下破萬八千億鬼兵魔眾已。得阿耨多羅三藐三菩提。 是の時、菩薩は、漸漸に長大し、老病死の苦を見て、厭患心を生じ、夜半に出家して、六年苦行し、難陀婆羅門の女の身を益する十六の功徳の石蜜の乳糜を食い、食い竟りて、菩提樹下に万八千億の鬼兵、魔衆を破り已り、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
是の時、
『菩薩』は、
少しづつ、
『成長された!』が、
『老、病、死』の、
『苦』を、
『見た!』ことにより、
『心』に、
『厭患』を、
『生じられ!』て、
夜半に、
『出家』して、
『六年』、
『苦行された!』。
やがて、
『婆羅門』の、
『女(むすめ)』の、
『難陀』の、
『布施する!』所の、
『十六』の、
『功徳』を以って、
『身』を、
『益する!』という、
『砂糖』入りの、
『乳糜』を、
『食われる!』と、
『菩提樹』下に於いて、
『万八千億』の、
『鬼兵、魔衆』を、
『破り!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られた!』のである。
  難陀婆羅門女(なんだばらもんにょ):梵名braahmaNii nandaaの訳。婆羅門家の女性たる難陀の意。
  石蜜(しゃくみつ):梵語guDa、madhu等の訳。砂糖の塊。氷砂糖。或いは其の汁。
  乳糜(にゅうび):梵語madhu-paayasaの訳。米を乳で煮た粥の意。
  参考:『仏本行集経巻25』:『爾時軍將斯那耶那婆羅門家。有於二女。一名難陀(隋言喜)。二名婆羅(隋言力)。然彼二女。極大端正。可喜無比。世間少雙。彼之二女。往昔曾聞。去此北方雪山之下。有一釋種聚落處所。名曰迦毘羅婆蘇都。彼城之內。有一釋王。名為淨飯。彼王第一最大夫人。名為摩耶。而彼夫人。生一太子。極甚端正。可喜絕殊。容貌非常。身黃金色。頭頂上圓。猶如傘蓋。鼻如鸚鵡。臂長至膝。一切身體。悉皆正等。諸根充備。猶如金象。具足三十二大人相。莊嚴其身。周匝而滿八十種好。時彼太子。既誕生已。將向相師婆羅門所占者。其記云。此太子若在家者。必當得作轉輪聖王治四天下作大地主。是時具得七寶。正法治化世間。若捨出家。必成多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。名稱遠聞。彼二女聞如此語已。早曾諮父。作如是言。今者既聞。如是釋種。其子端正。可喜無雙。彼太子可作我夫主。爾時軍將斯那耶那。從彼提婆婆羅門邊。傳聞菩薩此消息已。語二女言汝姊妹等。心願應成。所以者何。汝等今速。往詣於彼最大沙門苦行之處。何以故。汝至彼已。請彼沙門布施及食尊重供養。奉油并酥以用塗身。然後別供暖水澡浴。如是因緣。後應得成汝等心願。爾時軍將二女。聞父如是敕已。將於家常所有之食及油酥等。至於菩薩苦行之處。到已頂禮於菩薩足。將所齎食。奉上菩薩。作如是言。大善尊者。願食於我此所奉食。爾時菩薩。從彼二女。受於食已。隨意而食。取酥及油。塗摩其身。然後暖水以用澡浴。是時菩薩。以彼油酥。用塗摩身。各隨毛孔。悉入其體。譬如土聚。或復疏沙瀉酥及油。悉皆浸入。並不復現。如是如是。菩薩身體。所塗酥油。皆悉入盡。並不復現。菩薩是時猶未得復本形身相。爾時菩薩。飯食已訖。告彼二女。作如是言。汝姊妹等。藉此功德。欲求何願。時彼二女白菩薩言。大善尊者。我等昔聞有一釋種。生一太子。可喜端正。世所無雙。我願彼人作於我夫。菩薩報言。汝姊妹等。我即是彼釋種太子。我從今去。願不更受五慾之樂。我於當來。欲成就阿耨多羅三藐三菩提。願欲轉於無上法輪。是時彼女姊妹二人。聞此語已。白菩薩言。大聖仁者。此事若然。仁者必定得成於彼阿耨多羅三藐三菩提。成已當至我等之家。願見我等。我等當為尊者作於聲聞弟子。菩薩復報彼二女言。如是如是。如汝姊妹二人所願。從此已去。彼之二女。日別送食。以與菩薩。并將酥油。先以塗摩菩薩之身。然後別將暖水。洗浴菩薩身體。乃至漸漸。令菩薩復本身飾相。爾時菩薩告彼二女。作如是言。汝姊妹等。從今已去。莫作別意。將息身法。但送我食。何以故。我從今後。我若當共女人身根兩相觸者。無有是處。我意不樂。我意不然。』
問曰。得何功德故名為佛。 問うて曰く、何の功徳をか、得たまいしが故に、名づけて仏と為す。
問い、
何のような、
『功徳』を、
『得られた!』が故に、
『仏』と、
『称する!』のですか?
答曰。得盡智無生智故。名為佛。 答えて曰く、尽智、無生智を得たまいしが故に、名づけて仏と為す。
答え、
『尽智』と、
『無生智』とを、
『得られた!』が故に、
『仏』と、
『称する!』のである。
  尽智(じんち):梵語kSaya-jJaanaの訳。既に尽く一切の煩悩を断って則ち我はすでに苦を知り、集を断ち、滅を証し、道を修むと知る。即ち尽く煩悩を断つ時、生ずる所の自信智なり。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  無生智(むしょうち):梵語anutpaada-jJaanaの訳。是れ即ち利根の羅漢のみ所有せる智に限りて、既に知断証修の事已りて更に知断証修の事無きが故に無生と云う。自ら此の無生を覚り、而も我は再び知断証修をせずと知る智なり。鈍根の羅漢には、更に退没すること有りて再び知断証集を要すれば、則ちこの知を具うること能わず。『大智度論巻18下注:十智』
復次有人言。得佛十力四無所畏十八不共法三達無礙三意止。一者受教敬重佛無喜。二者不受教不敬重佛無憂。三者敬重不敬重心無異。大慈大悲三十七道品一切諸法總相別相悉知故故名為佛。 復た次ぎに、有る人の言わく、『仏の十力、四無所畏、十八不共法、三達、無礙、三意止、一には教を受けて敬重するも、仏に喜無く、二には教を受けずして敬重せざるも、仏に憂無く、三には敬重するも敬重せざるも、心に異無し。大慈、大悲、三十七道品を得て、一切の諸法の総相、別相を悉く知るが故に、故に名づけて仏と為す。』と。
復た次ぎに、
有る人は、
こう言っている、――
『仏』の、
『十力』、
『四無所畏』、
『十八不共法』、
『三達』、
『四無礙解』、
『三意止』、
即ち、
一には、
『教』を、
『受けた!』者が、
『尊敬した!』としても、
『仏』には、
『喜ばれる!』ことが、
『無い!』、
二には、
『教』を、
『受けない!』者が、
『尊敬しなかった!』としても、
『仏』には、
『憂われる!』ことが、
『無い!』、
三には、
『尊敬する!』者にも、
『尊敬しない!』者にも、
『仏』の、
『心』は、
『異なる!』ことが、
『無い!』。
『大慈、大悲』、
『三十七道品』を、
『得た!』ならば、
一切の、
諸の、
『法』の、
『総相(空相)』と、
『別相(各各相)』とを、
悉く、
『知ることになる!』ので、
故に、
『仏』と、
『称する!』のである、と。
  十力(じゅうりき):仏菩薩の諸法を如実に知る智力に十種の別あるを云う。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  四無所畏(しむしょい):仏菩薩の四種の無所畏を得るが故に、説法に当りて怖畏する所なく、勇猛安隠なるを云う。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):声聞縁覚には通ぜず、唯仏菩薩のみ有する十八種の功徳法を云う。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
  三達(さんだつ):無学位に至りて愚闇を除尽し、三事に於いて通達無礙なる智明を云う。『大智度論巻16下注:三明』参照。
  無礙(むげ):四種の無礙自在なる解智を云う。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  三意止(さんいし):梵語triiNi smRty-upasthaanaaniの訳。又三念住と訳し、意を止住せしむる処に三種の別あるを云う。『大智度論巻19上注:三念住』参照。
  三十七道品(さんじゅうしちどうほん):即ち菩提に順趣する法の品類に総じて三十七種あるを云う。則ち四念処、四正懃、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分の総称なり。『大智度論巻17(下)注:三十七菩提分法』参照。
  総相(そうそう):無常、苦、空等の諸法に通ずる相を云う。『大智度論巻2下注:総相』参照。
  別相(べっそう):火の熱相、水の湿相、地の堅相、風の動相の如き、諸法各別の相を云う。『大智度論巻2下注:別相』参照。
問曰。何以故。未得佛道名為菩薩。得佛道不名為菩薩。 問うて曰く、何を以っての故にか、未だ仏道を得ざるを、名づけて菩薩と為し、仏道を得たるを、名づけて菩薩と為さざる。
問い、
何故、
未だ、
『仏』の、
『道』を、
『得ない!』者を、
『菩薩』と、
『称し!』、
『仏』の、
『道』を、
『得た!』者を、
『菩薩』と、
『称しない!』のですか?
答曰。未得佛道心愛著。求欲取阿耨多羅三藐三菩提。以是故名為菩薩。已成佛道更得佛種種異大功德故。更有異名名為佛。 答えて曰く、未だ仏道を得ざれば、心愛著し求めて、阿耨多羅三藐三菩提を取らんと欲す。是を以っての故に、名づけて菩薩と為す。已に仏道を成ずれば、更に仏の種種の異なる大功徳を得るが故に、更に異名有りて、名づけて仏と為す。
答え、
未だ、
『仏』の、
『道』を、
『得ない!』時は、
『心』が、
『愛著』し、
『探し求め!』て、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『取りたい!』と、
『思う!』ので、
是の故に、
『菩薩(菩提を求める人)』と、
『称する!』が、
已に、
『仏』の、
『道』を、
『得た!』者は、
更に、
『仏』の、
種種の、
『異なる!』、
『大功徳』を、
『得る!』が故に、
更に、
『異なる!』、
『名』を、
『有する!』ことになり、
是の故に、
『仏』と、
『称する!』のである。
譬如王子未作王名為王子。已作王不復名王子。既為王雖是王子不名王子。 譬えば王子は、未だ王と作らざれば、名づけて王子と無し、已に王と作れば、復た王子と名づけず、既に王と為りたれば、是れ王子なりと雖も、王子と名づけざるが如し。
譬えば、
『王子』は、
未だ、
『王』と、
『作らない!』時は、
『王子』と、
『称する!』が、
已に、
『王』と、
『作った!』時には、
もう、
『王子』とは、
『称しない!』、
既に、
『王である!』が故に、
是れが、
『王子であった!』としても、
もう、
『王子』とは、
『呼ばれない!』のである。
菩薩亦如是。未得佛道名為菩薩。已得佛道名為佛。聲聞法中摩訶迦旃延尼子弟子輩。說菩薩相義如是。 菩薩も、亦た是の如く、未だ仏道を得ざれば、名づけて菩薩と為し、已に仏道を得れば、名づけて仏と為す。声聞法中の摩訶迦旃延尼子の弟子の輩は、菩薩の義を説くこと是の如し。
『菩薩』も、
亦た、
是のように、
未だ、
『仏』の、
『道』を、
『得ない!』時には、
『菩薩』と、
『呼び!』、
已に、
『仏』の、
『道』を、
『得た!』者を、
『仏』と、
『称する!』のである。
『声聞法』中の、
『摩訶迦旃延尼子』の、
『弟子の輩()』は、
『菩薩』の、
『義』を、
是のように、
『説いている!』。
  摩訶迦旃延尼子(まかかせんねんにし):摩訶迦旃延尼mahaakaatyaayaniiは梵名。子はputraの訳。説一切有部の大論議師の名。『大智度論巻22上注:迦多衍尼子、同巻26上注:摩訶迦旃延』参照。



摩訶衍人の反論

摩訶衍人言。是迦旃延尼子弟子輩。是生死人。不誦不讀摩訶衍經。非大菩薩。不知諸法實相。自以利根智慧。於佛法中作論議。 摩訶衍人の言わく、『是の迦旃延尼子の弟子の輩は、是れ生死の人にして、摩訶衍経を誦せず、読まず、大菩薩に非ず、諸法の実相を知らず、自ら利根の智慧を以って、仏法中に於いて、論議を作す。
『摩訶衍人』は、
こう言っている、――
是の、
『迦旃延尼子』の、
『弟子の輩』は、
『生死の人』であり、
『摩訶衍(大乗)』の、
『経』を、
『誦しもしない!』し、
『読みもしない!』ので、
故に、
『菩薩ではない!』。
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知りもせず!』に、
『自ら』の、
『利根』の、
『智慧』を以って、
『仏』の、
『法』中に於いて、
『論議』を、
『作している!』。
諸結使智定根等於中作義。尚處處有失。何況欲作菩薩論議。譬如少力人跳小渠尚不能過。何況大河。於大河中則知沒失。 諸の結使、智、定、根等に、中に於いて義を作すも、尚お処処に失有り。何に況んや、菩薩の論議を作さんと欲するをや。譬えば少力の人は、小渠を跳ぶにすら、尚お過ぐる能わず、何に況んや大河をや。大河中に於いては、則ち没失するを知らん。
諸の、
『結使』、
『智』、
『定』、
『根』等、
『声聞』の、
『法』中に於いて、
『義(意味づけ)』を、
『作している!』が、
尚お、
処処に、
『過失』を、
『有している!』、
況して、
『菩薩』の、
『法』中に、
『論議』を、
『作そう!』とすれば、
更に、
『多い!』のは、
『言うまでもない!』。
譬えば、
『少力』の、
『人』は、
『小渠(どぶ川)』すら、
『跳ぼう!』として、
尚お、
『跳び越える!』ことは、
『容易ではない!』、
況して、
『大河』は、
言うまでもなく!、
『大河』の中で、
『没失する!』のを、
『知ることだろう!』。
問曰。云何失。 問うて曰く、云何が、失なる。
問い、
何のような、
『過失』をいうのですか?
答曰。如上言三阿僧祇劫過名為菩薩。三阿僧祇中頭目髓腦布施心無有悔。是阿羅漢辟支佛所不能及。 答えて曰く、上に言えるが如き、『三阿僧祇劫過ぎたるを、名づけて菩薩と為し、三阿僧祇中に、頭目髄脳を布施して、心に悔有ること無し。』と。是れ阿羅漢、辟支仏の及ぶ能わざる所なり。
答え、
上に、
こう言った、――
『三阿僧祇劫』を、
『過ぎた!』者を、
『菩薩』といい、
是の、
『三阿僧祇劫』中に、
『頭目』や、
『髄脳』を、
『布施』する!が、
『心』には、
『悔ゆる!』ことが、
『無い!』、と。
是れは、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』の、
『及ぶ!』ことの、
『できない!』所である。
如昔菩薩為大薩陀婆。渡大海水惡風壞船。語眾賈人捉我頭髮手足。當渡汝等。眾人捉已以刀自殺。大海水法不停死屍。即時疾風吹至岸邊。大慈如是。而言非者誰。是菩薩 昔、菩薩の、大薩陀婆と為りたるが如し、大海水を渡らんとし、悪風船を壊(やぶ)るに、衆賈人に語らく、『我が頭髪、手足を捉れ。当に汝等を渡すべし。』と。衆人、捉え已るに、刀を以って、自ら殺す。大海水の法は、死屍を停めず。即時に疾風吹き、岸辺に至らしむ。大慈は、是の如し。而るに非と言わば、誰か是の菩薩なる。
昔、
『菩薩』は、
『大薩陀婆(大商主)』であった!が、
『大海』の、
『水』を、
『渡っている!』と、
『悪風』が、
『船』を、
『壊した!』ので、
『商人』たちに、
こう語った、――
わたしの、
『頭髪』と、
『手足』とを、
『捉えておれ!』、
お前たちに、
『大海』を、
『渡らせてやろう!』、と。
『衆人』が、
しっかり、
『捉える!』と、
『刀』を以って、
『自ら』を、
『殺した!』。
『大海水』の、
『法』は、
『死屍』を、
『停めない!』ので、
即時に、
『疾風』が吹き、
『船』を、
『岸辺』に、
『寄せた!』。
『大慈』とは、
是のようなもの!である、
『そうでない!』と、
『言う!』のであれば、
いったい、
誰が、
是の、
『菩薩』なのか?
  薩陀婆(さたば):梵語saarthavaaha。商主、賈客、導師等に訳す。隊商のリーダーを云う。
  悪風(あくふう):ひどい風。
  賈人(こにん):商人。
  参考:『除蓋障菩薩所問経巻10』:『復次善男子。菩薩若修十種法者即如大海。何等為十。一者為大寶聚。二者深難徹底。三者廣大無量。四者次第漸深。五者不宿死屍。六者皆同一味。七者容受眾流。八者潮不失時。九者水族所依。十者無有邊際。善男子。云何是菩薩為大寶聚。譬如大海廣積眾寶。閻浮提中一切人眾。咸取其寶無有窮盡。菩薩亦復如是。廣積一切智功德寶。一切有情皆取是寶亦無窮盡。是即菩薩為大寶聚。又善男子。譬如大海深難徹底。菩薩亦復如是。一切有情於菩薩法莫測其際。又善男子。譬如大海廣大無量。菩薩亦復如是。功德智慧廣大無量。又善男子。譬如大海次第漸深。菩薩亦復如是。一切智深一切智漸深一切智極深。又善男子。譬如大海不宿死屍。何以故。大海法爾如是故。菩薩亦復如是。不與煩惱結漏及不善知識而所共止。何以故。菩薩法爾如是故。又善男子。譬如大海眾流入中皆同一味。所謂鹹味。菩薩亦復如是。積集一切善法皆同一味。所謂一切智味。又善男子。譬如大海容受眾流而其海水不增不減。菩薩亦復如是。容受無量一切法水。而菩薩智慧不增不減。又善男子。譬如大海潮不失時。菩薩亦復如是。所應成熟化度有情亦不過時。又善男子。譬如大海為諸水族依止窟宅。菩薩亦復如是。為一切有情一切善法之所依止。又善男子。譬如大海一切有情悉取其水而無邊際。菩薩亦復如是。廣為一切有情宣說法要。亦無邊際。善男子。菩薩若修如是十種法者即如大海。』
第二阿僧祇劫行滿。未入第三阿僧祇。時於燃燈佛所受記為佛。即時上昇虛空見十方佛。於虛空中立讚然燈佛。 『第二阿僧祇劫の行満ち、未だ第三阿僧祇に入らざる時、然灯仏の所に於いて、仏と為らんの記を受け、即時に虚空に上昇して、十方の仏に見(まみ)え、虚空中に於いて、立ちて然灯仏を讃ず。』と。
『第二阿僧祇劫』の、
『行』が、
『満ち!』、
未だ、
『第三阿僧祇劫』に、
『入らない!』時、
『菩薩』は、
『然灯仏』の所に於いて、
『記』を、
『仏と為るだろう!』と、
『受ける!』と、
即時に、
『虚空』に、
『上昇』して、
十方の、
『仏』に、
『見えた!』後、
『虚空』中に、
立って、
『然灯仏』を、
『讃えた!』。
然燈佛言。汝過一阿僧祇劫。當得作佛名釋迦牟尼。得記如是。而言爾時未是菩薩豈非大失。 然灯仏の言わく、『汝は、一阿僧祇劫を過ぎて、当に仏と作るを得、釈迦牟尼と名づくべし。』と。記を得ること是の如し、而も、『爾の時、未だ是れ菩薩にあらず』と言わば、豈(あ)に大失に非ざるや。
『然灯仏』は、
こう言われた、――
お前は、
『一阿僧祇劫』を過ぎて、
『仏』と、
『作った!』時には、
『釈迦牟尼』と、
『呼ばれる!』だろう、と。
是のように、
『記』を、
『受けた!』者を、
爾の時には、
未だ、
『菩薩ではない!』と、
『言った!』とすれば、
何うして、
『大失でない!』と、
『言える!』のか?
迦旃延尼子弟子輩言。三阿僧祇劫中未有佛相。亦無種佛相因緣。云何當知。是菩薩一切法先有相。然後可知其實。若無相則不知。 迦旃延尼子の弟子の輩の言わく、『三阿僧祇劫中には、未だ仏の相有らず。亦た仏の相の因縁を種うることも無し。云何が、当に是れ菩薩なることを知るべき。一切の法は、先に相有りて、然る後に其の実を知ればなり。若し相無くんば、則ち知らざるなり。』と。
『迦旃延尼子』の、
『弟子の輩』は、こうこう言っている、――
『三阿僧祇劫』中には、
未だ、
『仏』の、
『相』を、
『有しない!』し、
亦た、
『仏』の、
『相』の、
『因縁』を、
『種える!』ことも、
『無い!』のであるから、
何うして、
是れが、
『菩薩である!』と、
『知れよう?』、
一切の、
『法』は、
先に、
『相』が、
『有り!』、
その後、
其の、
『実』を、
『知ることができる!』のである。
若し、
『法』に、
『相』が、
『無かった!』ならば、
其れを、
『知ることはない!』のである、と。
摩訶衍人言。受記為佛。上昇虛空見十方佛。此非大相耶。為佛所記當得作佛。得作佛者此是大相。捨此大相而取三十二相。 摩訶衍人の言わく、『記を仏と為らんと受け、虚空に上昇して、十方の仏に見ゆる、此れ大相に非ずや。仏の為に、『当に仏と作るを得べし』と記せらるに、仏と作るを得んとは、此れは是れ大相なり。此の大相を捨てて、而も三十二相を取れり。
『摩訶衍』の、
『人』は、こう言う、――
『記』を、
『仏と為るだろう!』と、
『受け!』、
『虚空』に、
『上昇』して、
『十方』の、
『仏』に、
『見える!』というのに、
此れが、
『大人』の、
『相でない!』と、
『言う!』のか?
『仏』に、
『仏』と、
『作るだろう!』と、
『記せられた!』が、
『仏』と、
『作る!』ことが、
『できる!』という、
此れが、
『大人』の、
『相』なのだ!、
此の、
『大人』の、
『相』を、
『捨てておきながら!』、
而も、
『三十二相』を、
『取る!』のか?
三十二相轉輪聖王亦有。諸天魔王亦能化作此相。難陀提婆達等皆有三十相。婆跋隸婆羅門有三相。摩訶迦葉婦有金色相。乃至今世人亦各各有一相二相。若青眼長臂上身如師子。如是等種種或多或少。汝何以重此相。 三十二相は、転輪聖王にも亦た有り。諸天、魔王も亦た、能く此の相を化作す。難陀、提婆達等にも、皆、三十相有り。婆跋隸婆羅門には三相有り。摩訶迦葉の婦には、金色相有り。乃至今世の人にも、亦た各各に一相、二相有り。若しは青眼、長臂、上身の師子の如きなり。是の如き等の種種にして、或いは多く、或いは少なし。汝は、何を以ってか、此の相を重んずる。
『三十二相』は、
『転輪聖王』にも、
亦た、
『有る!』し、
諸の、
『天』や、
『魔王』も、
此の、
『相』を、
『化作する!』ことが、
『できる!』、
『難陀』や、
『提婆達』等にも、
皆、
『三十相』が、
『有り!』、
『婆跋隸婆羅門』には、
『三相』が、
『有り!』、
『摩訶迦葉』の、
『婦』には、
『金色相』が、
『有り!』、
乃至、
『今世』の、
『人』にも、
各各、
『一相』か、
『二相』かが、
『有り!』、
例えば、
『青眼相』、
『長臂相』、
『上身如師子相』などのように、
是れ等の、
種種が、
『多かったり!』、
『少なかったり!』するのに、
お前は、
何故、
此の、
『相』を、
『重んじる!』のか?
  難陀(なんだ):梵名nanda、巴梨名同じ。又別に其の妻孫陀利の名に因みて孫陀羅難陀sundaraanandaとも名づく。釈尊の異母弟。後世尊の本に出家して、阿羅漢を得る。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
  提婆達(だいばだつ):梵名devadatta。釈尊の従兄弟。後世尊の本に出家せしも、悪心を起して破和合僧の罪に堕つ。『大智度論巻24下注:提婆達多』参照。
  婆跋隸(ばばり):梵名pravari。又波婆離、波婆梨、波婆利等に作る。如来在世時の弥勒菩薩の舅名なり。波梨弗多羅国に在りて国師と為り、多数の弟子有り、年百二十にして帰仏し、阿那含果を証す。「賢愚経巻12波婆離品」に出づ。<(丁)又『大智度論巻1上注:弥勒菩薩』参照。
  摩訶迦葉婦(まかかしょうふ):摩訶迦葉の婦の金色相を有せしこと、「雑譬喩経(09)」に出づ。
  参考:『賢愚経巻12波婆離品』:『如是我聞。一時佛在王舍城鷲頭山中。與尊弟子千二百五十人俱。爾時波羅奈王。名波羅摩達。王有輔相。生一男兒。三十二相。眾好備滿。身色紫金。姿容挺特。輔相見子。倍增怡悅。即召相師。令占相之。相師披看。歎言奇哉。相好畢滿。功德殊備。智辯通達。出踰人表。輔相益喜。因為立字。相師復問。自從生來。有何異事。輔相答言。甚怪異常。其母素性。不能良善。懷妊已來。悲矜苦厄。慈潤黎元。等心護養。相師喜言。此是兒志。因為立字。號曰彌勒。父母喜慶。心無有量。其兒殊稱。合土宣聞。國王聞之。懷懼言曰。念此小兒。名相顯美。儻有高德。必奪我位。曼其未長。當豫除滅。久必為患。作是計已。即敕輔相。聞汝有子。容相有異。汝可將來。吾欲得見。時宮內人。聞兒暉問。知王欲圖。甚懷湯火。其兒有舅。名波婆梨。在波梨弗多羅國。為彼國師。聰明高博。智達殊才。五百弟子。恒逐諮稟。於時輔相。憐愛其子。懼被其害。復作密計。遣人乘象送之與舅。舅見彌勒。睹其色好。加意愛養。敬視在懷。其年漸大。教使學問。一日諮受。勝餘終年。學未經歲普通經書。時波婆梨。見其[外*男]甥兒。學既不久。通達諸書。欲為作會顯揚其美。遣一弟子。至波羅奈。語於輔相。說兒所學。索於珍寶。欲為設會。其弟子往至于中道。聞人說佛無量德行。思慕欲見。即往趣佛。未到中間。為虎所噉。乘其善心。生第一四天。波婆梨。自竭所有合集財賄。為設大會。請婆羅門。一切都集。供辦餚膳種種甘美。設會已訖。大施噠嚫。一人各得五百金錢。布施訖竟。財物罄盡。有一婆羅門。名勞度差。最於後至。見波婆梨。我從後來。雖不得食。當如比例與我五百金錢。波婆梨答言。我物已盡。實不從汝有所愛也。勞度差言。聞汝設施。有望相投。云何空見不垂施惠。若必拒逆不見給者。汝更七日。頭破七段。時波婆梨。聞是語已。自思惟言。世有惡咒及餘蠱道。事不可輕。儻能有是。財物悉盡。卒無方計。念是愁憂。深以為懼。前使弟子終生天者。遙見其師愁悴無賴。即從天下。來到其前。問其師言。何故愁憂。師具以事廣說因緣。天聞其語。尋白師言。勞度差者。未識頂法。愚癡迷網惡邪之人。竟何所能。而乃憂此。今唯有佛。最解頂法。無極法王。特可歸依。時波婆梨。聞天說佛。即重問之。佛是何人。天即說佛生迦毘羅衛淨飯王家。右脅而生。尋行七步。稱天人尊。三十二相。八十妙好。光照天地。梵釋侍御。三十二瑞。振動顯發。相師觀見。記其兩處。在家當作轉輪聖王。出家成佛。睹老病死。不樂國位。踰宮出國。六年苦行。菩提樹下。破十八億魔。於後夜中。普具佛法。三明六通十力無畏十八不共。悉皆滿備。至波羅奈。初轉法輪。阿若憍陳如五人漏盡。八萬諸天。得法眼淨。無數天人。發大道意。復到摩竭。度鬱毘羅并舍利弗目健連等。出千二百五十比丘以為徒類。號曰眾僧。功德智能。不可稱計。總而言之。名為佛也。今在王舍鷲頭山中。時波婆梨。聞歎佛德。自思惟言。必當有佛。我書所記佛星下現。天地大動。當生聖人。今悉有此。似當是也。即敕彌勒等十六人。往見瞿曇。看其相好眾相若備。心念難之。我師波婆梨。為有幾相。如我今者。身有兩相。一髮紺青。二廣長舌。若其識之。復更心難。我師波婆梨。年今幾許。如我年者。今百二十。若其知之。復更心念。我師波婆梨。是何種姓。欲知我種。是婆羅門。若其答識。復更心難。我師波婆梨。有幾弟子。如我今者。有五百弟子。若答知數。斯必是佛。汝等必當為其弟子。令遣一人語我消息。時彌勒等。進趣王舍。近到鷲頭山。見佛足跡。千輻輪相昉然如畫。即問人言。此是誰跡。有人答言。斯是佛跡。時彌勒等。遂懷慕仰。徘徊跡側。豫欽渴仰。時有比丘尼剎羅。持一死虫著佛跡處。示彌勒等。各共看此。汝等欽羨歎慕斯跡。躡殺眾生有何奇哉。彌勒之等。各共前看。諦觀形相是自死虫。即問比丘尼。汝誰弟子。比丘尼答言。是佛弟子。時彌勒等。各自說言。佛弟子中。乃有是人。漸進佛所。遙見世尊。光明顯照。眾相赫然。即數其相。不見其二。佛即為其出舌覆面。復以神力。令見陰藏。見相數滿。益以歡喜。即奉師敕。遙以心難。我師波婆梨。為有幾相。佛即遙答。汝師波婆梨。唯有二相。一髮紺青。二廣長舌。聞是語已。復更心難。我師波婆梨。年今幾許。佛遙答言。汝師波婆梨。年百二十。既聞是已。復心念難。我師波婆梨。是何種姓。佛即遙答。汝師波婆梨。是婆羅門種。得聞是已。復更心難。我師波婆梨。有幾弟子。佛即遙答。汝師波婆梨。有五百弟子。於時會者。聞佛所說。甚怪如來獨說此語。時諸弟子。長跪問佛。世尊何故。而說是言。佛告比丘。有波婆梨。在波婆梨弗多羅國。遺十六弟子。來至我所。試觀我相。因心念難。是以一一還以答之。時彌勒等。聞佛答難。事事如實。一無差違。深生敬仰。往至佛所。頭面禮訖。卻坐一面。佛為說法。其十六人。得法眼淨。各從座起。求索出家。佛言善來。鬚髮自墮。法衣在身。尋成沙門。重以方便。為其說法。其十五人。成阿羅漢。時彌勒等。自共議言。波婆梨師。在遠悒遲。宜時遣人還白消息。十六人中。時有一人。字賓祈奇。是波婆梨姊子。眾人即遣往白消息。還到本國波婆梨所。具以聞見。廣為說之。波婆梨聞已。喜發於心。即從坐起。長跪合掌。向王舍城。自說誠言。生遭聖世。甚難值遇。思睹尊容。稟受清化。年已老邁。足力不強。雖有誠款。靡由自達。世尊大慈。豫知人心。唯願屈神。來見接濟。於時如來。遙知其意。屈伸臂頃。來到其前。禮已舉頭。尋見世尊。驚喜踊躍。禮拜問訊。請令就坐。恭肅侍佛。佛為說法。逮阿那含。於時世尊。尋還鷲頭山。時淨飯王。聞佛道成遊行教化多有所度。情懷渴仰。思得睹覲。告優陀耶。汝往佛所。騰我志意。白於悉達。汝本有要得道當還。願遵往言。時來相見。優陀耶到。具宣王意。佛尋可之。七日當往。優陀耶喜。還白消息。淨飯王聞。告語諸臣。優陀耶來。云佛當還。莊嚴城內。極令清潔。塗污街陌。遍豎幢幡。饒儲華香。當俟供養。嚴辦已訖。與諸群臣。四十里外。奉迎世尊。於時如來。與大眾俱。八金剛力士。住在八面。時四天王。各在前導。時天帝釋。與欲界諸天。侍衛其左。時梵天王。與色界天。侍衛其右。諸比丘僧。列在其後。佛在眾中。放大光明。暉曜天地。威踰日月。普與大眾。乘虛而往。漸欲近王。下齊人頭。王與臣民夫人婇女。觀見大眾。晃朗俱顯。佛在中央。如星中月。王大歡喜。不覺下禮禮畢問訊。與共還國。住尼拘盧陀僧伽藍。是時國法。男女有別。王與臣民。日日聽法。聞法開悟。得度者眾。諸女人輩。各懷怨恨。佛與大眾。雖復還國。男子有幸。獨得見聞。我曹女人。不蒙恩祐。佛知其意。即語王言。自今已後。令國男女。番休聽法一日一更。從是已後。蒙度甚多。時佛姨母摩訶波闍波提。佛已出家。手自紡織。預作一端金色之[(畾/且)*毛]。積心係想。唯俟於佛。既得見佛。喜發心髓。即持此[(畾/且)*毛]。奉上如來。佛告憍曇彌。汝持此[(畾/且)*毛]。往奉眾僧時波闍波提。重白佛言。自佛出家。心每思念。故手紡織。規心俟佛。唯願垂愍。為我受之。佛告之曰。知母專心欲用施我。然恩愛之心。福不弘廣。若施眾僧獲報彌多。我知此事。是以相勸。佛又言曰。若有檀越。於十六種具足別請。雖獲福報。亦未為多。何謂十六。比丘比丘尼。各有八輩。不如僧中。漫請四人。所得功德。福多於彼。十六分中。未及其一。將來末世。法垂欲盡。正使比丘。畜妻俠子。四人以上。名字眾僧。應當敬視如舍利弗目犍連等。時波闍波提。心乃開解。即以其衣。奉施眾僧。僧中次行。無欲取者。到彌勒前。尋為受之。於後世尊。與比丘僧。遊波羅奈。轉行化導。爾時彌勒。著金色[(畾/且)*毛]衣。身既端正。色紫金容。表裏相稱。威儀詳序。入波羅奈城。欲行乞食。到大陌上。擎缽住立。人民之類。睹其色相。圍遶觀看。無有厭足。雖皆欽敬。無能讓食。有一穿珠師。偶到道宕。見於彌勒。甚懷敬慕。即問大德。為得食未。答言未得。尋請將歸。辦設飲食。食已澡漱。為說妙法。言辭高美。聽之無厭。時有大長者。值欲嫁女。先與一珠。雇令穿之。若其穿訖。當與錢十萬。於時長者。遣人來索。珠師聞法。五情甘樂。語言且去。比後當穿。其人復語。今急須之。念時著手。囑已還去。具語長者。斯須之頃。重遣往索。猶故聽法。未為穿之。還語長者。長者恨言。既重相雇。不唐倩託。今乃前卻。不稱我要。更重遣人。因齎錢往。若其未穿。還擔珠來。使人到問。猶故聽法。知未穿珠。急從還索。事不得已。即取還他。穿珠之師。在彌勒前。次第聽法。心無厭退。其妻瞋恚。嫌責夫言。須臾之勞。當得錢十萬。以供家中衣食乏短。但聽沙門浮美之談。亡失爾許錢財之利。夫聞其言。情懷悔恨。彌勒知意。而語之言。汝今能共至精舍不。答言可爾。即時共到精舍。將到僧中。問眾僧言。若有檀越。請一持戒清淨沙門。就舍供養。所得盈利。何如有人得十萬錢。時憍陳如。尋即說言。假使有人。得百車珍寶。計其福利。不如請一淨戒沙門就舍供養得利弘多。舍利弗言。設令有人。得一閻浮提滿中珍寶。猶不如請一淨戒者就舍供養獲利彌多。目犍連言。正使有人。得二天下滿中七寶。實不如請一清淨沙門。於舍供養得利極多。其餘比丘。如是各各。引於方喻。比挍其利。皆悉多彼。時阿那律復自說言。正令得滿四天下寶。其利猶復不如請一清淨沙門詣舍供養得利殊倍。所以然者。我是其證。自念過去九十一劫時。世有佛號毘婆尸。般涅槃後。經法滅盡。時閻浮提。有一大國。名波羅奈。爾時國中。有一薩薄。家居巨富。無所乏少。有二男兒。各皆端正。長名淚吒。小字阿淚吒。父垂命終。告敕二子。我必不免。當即後世。汝等兄弟。念相承奉。合心并力。慎勿分居。所以然者。譬如一絲。不任繫象。合集多絲。乃能制象。譬如一葦。不能獨燃。合捉一把。燃不可滅。今汝兄弟。亦復如是。共相依恃。外人不壞。內穆懃家則財業日增。囑誡之後。氣絕命終。兄弟奉教。合居數時。後阿淚吒婦。自心念言。今共居止。逼難兄家。人客知識不得瞻待。若當分異各自努力。情既無難可自成家。念是事已。具向夫說阿淚吒。聞婦所言。以為不可。婦復慇懃。廣引道理。阿淚吒。情迴以事白兄。兄復引父垂命之言。廣示方比不可之理。時阿淚吒婦。數數勸夫。其夫意決急求分居兄見意盛。與分家居。分異之後。阿淚吒夫妻。恣情放志。招合伴黨。飲噉奢侈。不順禮度。未經幾年。家物耗盡。窮罄無計。詣兄丐之兄復矜之。與錢十萬。用盡更索。如是六返。前後凡與六十萬錢。後復來求。兄復呵責。亡父敕誡。汝不承用。未經幾時。求共分異。喪用無度。不可供給。前後與汝六十萬錢。汝不知足。復更來求。今復更與汝十萬錢。能有能無更勿來索。其弟得責。慚愧取錢。夫婦改操。謹身節用。懃心家業。財產日廣。其後漸富。更無乏短。其兄淚吒。連遭衰艱。所在破亡。財物迸散。家理頓窮無有方計。往到弟邊。說所契闊。求索少錢。供足不逮。其弟瞋嫌。而語兄言。謂望兄家。不識有貧。云何復來。從我所索。作是語已。乃不讓食。兄便還去。而自愕然。生死之中。何可畏耶。析體兄弟。不識恩養。豈況他人。當推義理。心即厭世。捨家入山。靜坐思惟諸法生滅。心即開悟。成辟支佛。威儀可觀。入城乞食。後值歲儉。人民飢乏。時辟支佛。乞食難得。時弟阿淚吒。後轉貧窮。復值歲荒。食穀不繼。日往取薪。賣糴稗子。共家婦兒。以自供活。一日晨朝。早往入澤。於城門中。見辟支佛。威儀可觀。入城乞食。即往取薪。還來到門。見辟支佛空缽而出。心自生念。此是快士。晨見入城。今乃空來。若今與我共歸至舍。當共分食以奉施之。作是念已。捨之而去。時辟支佛。尋知其意。即隨其後。往到門中。阿淚吒見之。心用歡喜。即為敷床。請令入坐。索其自分稗子之糜。躬手自持。施辟支佛時辟支佛。語阿淚吒言。汝亦飢渴。當共分噉。阿淚吒白言。我曹世俗。食無時節。尊日一食。但願為受。即受食訖。感其至心。遭斯歲儉。父子不救。能割身分。以用見施。當為現變令其歡喜。即飛虛空。身出水火。廣現神足。還住其前。語阿淚吒言。欲求何願。恣隨汝意。見變歡喜踊躍即前至心。自立誓言。一切眾生。多種求財。我願世世。莫有所乏。情有所欲。應意而至。又願將來。得遇上士功德勝汝百千萬倍。令我於彼得漏盡證神足變化與汝不異。求願已訖。倍復歡喜。時辟支佛。還歸所止。時阿淚吒。即還入澤取薪。到見一兔。意欲捕取。走逐轉近。以鎌遙擲。即時墮地。適欲前取。化為死人上其背上。急抱其頭。盡力推卻。不能令卻。心懷恐怖。慞惶苦惱。意欲入城。共婦解卻。復恐人見令不聽入。留待日暮。以衣用覆。擔負入城往趣其舍。已到舍內。自然墮地。變成一聚閻浮檀金。光明晃昱。并照比舍。展轉談之。上徹於王。王即遣人。往看審實。使人到觀。見是死人。尋還白王。是死人耳。王問餘人。猶言是金。甚怪所以。重遣人看。如是七返。來言不定。王即自往。親往看之。見是死人。形漸欲臭。即問阿淚吒。汝見是何。答言。看實是金。即取少許。用奉於王。王見金色。敬之未有。問其所由。何緣得此。於時阿淚吒。具以本末向王而說。必當由施辟支佛故。王聞其語。歎言善哉。汝得快利。值此上人。即更賜與。拜為大臣。如是諸尊。彼阿淚吒者。即我身是。我於彼世。以少稗糜施辟支佛。因自求願。緣是以來。九十一劫。生天人中。無所乏少。三事挺特。端正受稱。情有所欲。應意而至。乃至今身。在家之時。我常優遊。不喜世務。兄摩訶男。常有怨辭。我母語言。我兒福德。摩訶男言。我獨勞慮。家理田業。優閑臥食。云何福德。其母欲試。遣我至田。監臨種作。令不送食。我怪食遲。遣人往索。母遣人語我云無所有。我還白母。唯願與我。送無所有。於時其母。聞兒是語。即取寶案。嚴具器物。以襆覆上。送以與我。令摩訶男逐而看之。已到我前。發去其襆。百味飲食。案器悉滿。如是餘時。在所應意。若令滿得四天下寶。劫盡之時。理當消滅。復不得久。如是我以少糜施辟支佛。九十一劫。福利未減復緣斯德。見佛度苦。以是之故。故知請一淨戒比丘。於舍供養得利多彼四天下寶。時阿那律。說是語已。於時世尊。從外來入。聞阿那律說過去事。告諸比丘。汝等比丘。說過去事。我復次說當來之世。此閻浮提。土地方正。平坦廣博。無有山川。地生濡草。猶如天衣。爾時人民壽八萬四千歲。身長八丈。端正殊妙。人性仁和。具修十善。彼時當有轉輪聖王。名曰勝伽(晉言具也)。彼時當有婆羅門家生一男兒。字曰彌勒。身色紫金。三十二相。眾好畢滿。光明殊赫。出家學道。成最正覺。廣為眾生。轉尊法輪。其第一大會。度九十三億眾生之類。第二大會。度九十六億。第三大會。度九十九億。如是比丘。三會說法。得蒙度者。悉我遺法種福眾生。或三寶中。興供養者。出家在家。持齊戒者。燒香燃燈禮拜之者。皆得在彼三會之中。三會度我遺殘眾生。然後乃化同緣之徒。於時彌勒。聞佛此語。從座而起。長跪白佛言。願作彼彌勒世尊。佛告之曰。如汝所言。汝當生彼為彌勒如來。如上教化。悉是汝也。於時會中。有一比丘。名阿侍多。長跪白佛。我願作彼轉輪之王。佛告之曰。汝但長夜。貪樂生死。不規出耶。於時在會一切大眾。見佛世尊授彌勒決當來成佛。猶字彌勒。各皆有疑。欲知本末。尊者阿難。即起白佛。彌勒成佛。復字彌勒。不審從何造起名字。佛告阿難。諦聽著意。過去無量阿僧祇劫。此閻浮提。有一大國王名曇摩留支。領閻浮提。八萬四千國。六萬山川。八十億聚落。二萬夫人婇女。一萬大臣。有一小國豐樂。是中國王。名波塞奇。時弗沙佛。初出於世。在此國中。化導眾生。時波塞奇。王與諸群臣。專供養佛及於眾僧。不暇得往朝覲大王。貢獻音信。亦悉斷替。於時大王。怪其間絕。即遣使者。往責所以。使者到已。宣王言令。比年已來。人信俱斷。汝為人臣。何以違常。將有異心。欲懷逆耶。時波塞奇。得大王教。自知違替。靡知所如。即往見佛。白如是事。佛告王言。汝勿憂慮。但還遣使以誠告言。佛在我國。朝夕承事。是以不暇往覲大王。國內財物。供佛及僧。無有遺餘可以獻貢。波塞奇王。得佛教已。即還報使。如佛所語。使到見王。具道其意。大王聞之。甚懷盛怒。即合諸臣。共詳此事。諸臣皆言。彼王驁慢。橫引道理。宜合兵眾往攻伐之。王即然之。合兵躬往。前軍近到。彼王乃知。心懷怖懼。急往白佛。佛告王言。莫用憂慮。但自往見。宣說前語。波塞奇王。即與群臣。往到界上。見於大王。禮問畢訖。住在一面。大王責問。汝何所恃。違慢失常。不來朝覲。波塞奇言。佛世難值。甚難得睹。頃來在國。化導民物。朝夕侍奉故使違替。於時大王。復更重責。正使令爾何以斷獻。波塞奇言。佛有徒眾。名曰眾僧。戒德清淨。世良福田。合國所有。常用供養。無有盈長可以為貢。曇摩留支。聞此語已。告言且住。須我見佛。見佛來還。乃問汝罪。即與群臣。往至佛所。是時如來。大眾圍遶。各悉靜然端坐入定。有一比丘。入慈三昧。放金光明。如大火聚。曇摩留支。遙見世尊。光明顯赫明曜踰日。大眾圍遶。如星中月。為佛作禮。問訊如法。見此比丘。光明特顯。即白世尊。此一比丘。入何等定。光曜乃爾。佛告大王。此比丘者。入慈等定。王聞是語。倍增欽仰。言此慈定。巍巍乃爾。我會當習此慈三昧。作是願已。志慕慈定。意甚柔濡。更無害心。即時請佛及比丘僧。唯願迴神。往至大國。佛即許可剋日當往。波塞奇王。聞佛欲往至大王國。甚懷戀恨。愁悸無憀。心自念言。若當令我是大王者。如來則當常住我國。由我小故不得自在。念是事已。即問佛言。諸王之中。何者最大。佛告之曰轉輪王大波塞奇王。因自作願願我由來。供養佛及眾僧。持此功德。誓願將來世世。常作轉輪之王。如是阿難。爾時大王曇摩留支者。今彌勒是。始於彼世。發此慈心。自此以來。常字彌勒。彼波塞奇王。今祇陀是。乃於彼中。常作轉輪王。自是以來。世世恒作。乃至今日。功德不盡。是以今日。復求索作。時穿珠。師聞說是已。尋發無上正真道意。其餘會者。聞佛所說。有得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢者。有發無上正真道意者。有得遷住不退地者。各皆敬戴。歡喜奉行』
  参考:『雑譬喩経(09)』:『迦葉父者名曰尼俱律陀。摩竭國人也。出  自婆羅門種。宿命福德生世大富。其珍奇寶物於彼國第一。比國王財富千分少一耳。夫婦孤獨乏無兒息。近在舍側有大樹神。時彼夫婦為欲有兒故求彼樹神。三生祭祠歲歲不絕。故其所求。永無本末。其人遂忿便急與之。期告樹神曰。我更盡心七日相事。若復無驗當揃伐汝。棄都道頭以火燒之。樹神聞其言甚大驚怖。不知何方令得子息。即便上告息意天王。具以事情向天王說。息意天王即將樹神詣天帝釋。以其所告白天帝釋。釋即以天眼觀欲界中。未有堪任為彼子者。帝釋便告梵天王。具以事情向梵王說。梵王即以天眼觀視其界。見一梵天臨當壽終。便告之曰。汝可下生閻浮提。為摩竭國尼俱律陀婆羅門作子。梵天對曰。婆羅門者多諸邪見。我若下生不能為其作子。梵王答曰。婆羅門宿時大德。欲界眾生無有堪任為作子者。汝若往生吾當敕天帝釋。令擁護汝不使中道墮邪見也。梵天曰諾。不違聖教。時天帝釋即還欲界。具以此意告敕樹神。樹神歡喜還告長者。勿憂勿懼勿見瞋恨。卻後七日必令有子。如其所言七日已滿。其婦人便覺有娠。滿十月已其子乃生。軀身金色而有光明。相師占曰。此兒宿福有大威德。志力清遠不貪世務。若後出家必登聖道。父母聞之復大愁憂。恐兒長大棄吾出家。以何方便當制止之。復自思惟欲界所重遂在美色。當為擇取端正好女以繫之耳。至年十五欲為娶婦。迦葉聞之甚大愁憂。語父母言。我志樂清淨不須婦也。迦葉辭至三。父母答如初。於時迦葉語父母言。我不用凡女人為婦也。若能得紫金色女端正無比爾乃取之耳。所以然者。欲必令此事不可辦故也。於是其父母召諸婆羅門。令循行國中。其有女子身體金色具足女相端正殊好爾乃取之。於是諸婆羅門設權策鑄作金女神。顏貌端正光色微妙。舁天像行從國至國高聲大唱。諸有女人得見金女神禮拜供養者。後出嫁時當得好婿。體黃金色顏貌殊妙智慧無比。聚落國邑諸有女人。聞此唱者莫不虛心。皆出奉迎禮拜供養。唯有一女軀體金色端正殊好。獨處閑室不肯出迎。諸女諫曰。其有見金女神者皆得如願。汝何以獨不出迎。答曰吾志閑淨不好餘願也。諸女復曰。雖無所願暫共一觀當復何損。爾時諸女遂共此女出到金女神前。此女既到光色明淨。映奪金女神光金不復現。於是諸婆羅門見已。還報長者具足廣說。於是長者即遣媒人。到其女家宣長者意。其女父母先亦聞迦葉名。敬承往意遂相然可。彼女聞之甚大愁憒。父母所逼事不獲已。遂便適長者家。既到與迦葉相見。二人相對志各凝潔。雖為夫婦了無恩情。其婦遂與迦葉結誓我與君等。各處異房要不相觸。爾時夫婦各處一房。其父伺迦葉出時。密遣人壞去一房。唯令與婦共同一室。雖共同室而復異床。其父尋復遣人持一床去。於是夫婦雖共同床。其婦更與夫誓。我若眠時君當經行。君眠時我當經行。時其婦臥一臂垂地。有大毒蛇欲來嚙之。迦葉見已有慈愍心。持衣裹手舉著床上。尋時驚覺便大瞋怒語迦葉言。我先有要如何相犯。迦葉報言。汝臂落地毒蛇欲嚙。是故相救非故觸也。毒蛇故在邊住。指而示之其婦乃悟。於是夫婦自相與議。我等何不出家修道。時夫婦二人遂辭父母。俱共出家山澤行道。時有婆羅門將五百弟子亦住此山。見迦葉夫婦便生毀謗言。出家之法宜各貞潔。何有夫婦共相隨理。於時迦葉便捨其婦。以五百兩金貿緻衲衣別處一林。其婦即依止婆羅門求為弟子。婆羅門五百弟子。見此女人形色端正日日行婬。此女人不得自在。遂不能堪。便告其師。師便為之戒約弟子。令節其所欲。迦葉後值佛出世。聞法受化即得羅漢。聞其本妻在梵志邊。便將來詣佛。佛為說法得羅漢。頭髮自落法服在身。成比丘尼。遊行教化。正值波斯匿王大會。諸比丘尼便得入王宮裏。教化諸夫人皆令持一日齋。王暮還宮命諸夫人。皆云持齋無肯來者。王便大瞋怒語使人言。誰教諸夫人齋。使人答言。某甲比丘尼。王便呼來令九十日。代諸夫人受婬欲。此皆是昔之因緣誓願所追還也。故使雖得羅漢不能相免』
何經中言三阿僧祇劫中菩薩不種相因緣。 何の経中に、『三阿僧祇劫中に、菩薩は相の因縁を種えず。』と言える。
何の、
『経』中に、こう言うのか?――
『三阿僧祇劫』中に、
『菩薩』は、
『相の因縁』を、
『種えない!』、と。
如難陀澡浴鞞婆尸佛願得清淨端正。於一辟支佛塔青黛塗壁。作辟支佛像因而作願。願我恒得金色身相。又作迦葉佛塔中級。以此三福因緣。世世受樂處處所生恒得端嚴。是福之餘。生迦毘羅婆釋種中。為佛弟子得三十大人相。清淨端正。出家得阿羅漢道。 難陀の如きは、鞞婆尸仏を澡浴するに、願いて清浄と端正とを得、一辟支仏の塔に於いて、青黛を壁に塗り、辟支仏の像を作り、因って願を作さく、『願わくは、我れ恒に金色の身相を得ん。』と、又迦葉仏の塔中の級を作り、此の三福の因縁を以って、世世に楽を受け、処処の生まるる所に、恒に端厳を得。是の福の余に、迦毘羅婆の釈種中に生じて、仏弟子と為り、三十大人相を得て、清浄端正なるに、出家して、阿羅漢道を得たり。
『難陀』などは、
『鞞婆尸仏』を、
『澡浴させた!』時には、
『清浄』と、
『端正』とを、
『得られる!』ようにと、
『願い!』、
『一辟支仏』の、
『塔』に於いて、
『壁』に、
『青黛』を、
『塗り!』、
『辟支仏』の、
『像』を、
『作った!』ので、
因って、
願わくは、――
わたしは、
恒に、
『金色』の、
『身相』を、
『得られるように!』と、
『願』を作し、
又、
『迦葉仏』の、
『塔』の中に、
『級(承露槃)』を、
『作った!』が、
此の、
『三福』の、
『因縁』を以って、
世世に、
『楽』を、
『受ける!』ことができ、
処処に、
『生じる!』所の、
『身』には、
恒に、
『端厳』を、
『得た!』のであり、
是の、
『福の余』は、
『迦毘羅婆』の、
『釈種』中に生じて、
『仏』の、
『弟子』と、
『作る!』ことができ、
『三十大人相』の、
『清浄』と、
『端正』とを、
『得た!』のであり、
『出家』して、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得た!』のである。
  鞞婆尸仏(びばしぶつ):鞞婆尸は梵名vipazyin。又弗沙puSya、底沙tiSya等とも名づく。過去七仏の第一仏にして、即ち過去荘厳劫中出現の仏なり。『大智度論巻37下注:毘婆尸仏』参照。
  青黛(しょうたい):青いまゆずみ。紺青色の塗料。
  (きゅう):梵語pariSaNDaの訳。有る種の建造物に於ける特有の部分の義。漢語級は階段の義。「仏五百弟子自説本起経難提品」に依れば、承露槃、即ち塔上の重重の相輪なりと云えり。
  迦葉仏(かしょうぶつ):梵名kaazyapa-buddha。過去七仏の第六。又現在賢劫千仏の第三仏にして、即ち釈尊の前出なり。『大智度論巻4上注:迦葉仏』参照。
  参考:『仏五百弟子自説本起経難提品』:『難提品第二十六(十四偈) 昔惟衛佛世  我施煖浴室  一洗比丘僧  便自發願言  令我與是等  尊眾共集會  世世得清涼  離欲無垢塵  端正常徐好  清淨若妙花  於彼壽終後  便得生天上  在天上人間  顏色好端正  世世所生處  所住大勢尊  於彼壽終後  來還生人間  諸天及人民  見我無厭足  見辟支佛塔  繕治泥整頓  聖飾令鮮白  於上懸幡蓋  我時自發願  欲求得相好  金體紫磨色  端嚴無有比  因是所作福  生波羅奈國  於脂惟尼生  作子無恚害  見迦葉佛塔  其心為歡喜  輒詣其寺中  豎立承露槃  用是施塔故  及治聖飾塔  興建剎柱槃  受福不可量  從彼有餘福  於是最後世  生釋氏王家  便為佛之弟  我身自然有  大人之相好  莊嚴成羅羼  平等布三十  佛普見說我  端正最第一  已除盡諸漏  逮得甘露句  難提父母子  於比丘僧中  於阿耨達池  自說本所作』
   参考:『根本説一切有部毘奈耶薬事巻17』:『爾時諸耆宿苾芻。又告具壽難陀曰。具壽羅怙羅。已說業報。次至具壽。于時難陀即說頌曰  毘缽尸佛教  時我設香湯  洗浴苾芻僧  便發如是語  願我當來世  及諸如是眾  清淨無瑕垢  煩惱漏皆除  容儀得端正  顏色過蓮花  其時命既過  得生於天上  天上甚超絕  人趣亦殊妙  隨所生流處  恒安常富貴  後持獨覺身  起塔鮮白淨  嚴飾塗香已  黃色而覆上  胡跪合掌言  當願諸根具  身相如金色  善持而不變  由此善根故  生波羅[病-丙+尼]斯  與迦陀國王  而為第二子  又見迦攝塔  虔恭生淨意  於其此塔中  而懸一傘蓋  由先浴眾僧  塗塔黃色因  施塔傘蓋故  多獲諸安樂  由斯餘福業  於其最後身  生釋迦王族  與如來為弟  我今於此身  具備大丈夫  三十殊妙相  而無欠闕者  釋迦師子教  而我得出家  證極阿羅漢  除熱獲清涼  蒙佛記於我  端嚴甚可樂  我生皆已盡  至於無上處  此善者難陀  對佛苾芻眾  於無熱惱池  說斯先業報』
   参照:『根本説一切有部毘奈耶雑事巻12』:『時彼王弟引佛世尊。入溫室內授香水等以充澡浴。見佛世尊身如金色。三十二相八十種好周遍莊嚴。見已歡喜生深信心。洗浴既竟著衣服已。即便頂禮世尊雙足。發是願言。我今幸遇最上福田微申供養。願此善因於未來世。身得金色與佛無異。如世尊弟於欲境中。深生耽著強拔令出。得趣安隱究竟涅槃。願我當來得為佛弟獲金色身亦復如是。我於欲境生耽著時。強牽令出愛染深河。得趣涅槃安隱之處。汝等苾芻勿生異念。彼親慧王耽欲之弟。即難陀苾芻是。由於昔時請毘缽尸佛。入浴室中香湯澡浴。淨心發願彼之善因。今為佛弟身作金色。我於耽著婬欲之境。強拔令出捨俗出家。究竟涅槃至安隱處』
佛說於五百弟子中。難陀比丘端正第一。此相易得。云何言於九十一大劫中種餘一生中得。是為大失。 仏の説きたまわく、『五百の弟子中に於いて、難陀比丘は端正第一なり。』と。此の相は、得ること易し。云何が、『九十一大劫中に於いて種えて、余の一生中に得。』と言える。是れを大失と為す。
『仏』は、
こう説かれた、――
『五百』の、
『弟子』中に於いて、
『難陀比丘』は、
『第一』に、
『端正である!』、と。
此の、
『相』は、
『容易に!』、
『得られる!』のに、
何故、
こう言うのか?――
『九十一大劫』中に於いて、
『種えた!』、
『相』を、
余の、
『一生』中に、
『得る!』、と。
是れは、
『大失』である!。
汝言初阿僧祇劫中。不知當作佛不作佛。二阿僧祇劫中知當作佛。不自稱說。三阿僧祇劫中知得作佛能為人說。 汝が言わく、『初の阿僧祇劫中には、当に仏と作るべしや、仏と作らざるやを知らず。二の阿僧祇劫中に、当に仏と作るべきを知るも、自ら称説せず。三阿僧祇劫中に、仏と作ることを得と知り、能く人の為に説く。』と。
お前は、
こう言った、――
『初』の、
『阿僧祇劫』中には、
将来、
『仏』と、
『作る!』のか?
『仏』と、
『作らない!』のか?を、
『知らない!』、
『第二』の、
『阿僧祇劫』中には、
将来、
『仏』と、
『作るだろう!』と、
『知る!』が、
『自ら』は、
何も、
『口にしない!』、
『第三』の、
『阿僧祇劫』中には、
将来、
『仏』と、
『作ることができる!』と、
『知る!』し、
其れを、
『人』に、
『説くこともある!』、と。
  称説(しょうせつ):のべる。口にする。
佛何處說是語。何經中有是語。若聲聞法三藏中說。若摩訶衍中說。 仏は、何処にか、是の語を説きたまえる。何の経の中にか、是の語を有する。若しは、声聞法の三蔵中に説きたまえりや、若しは摩訶衍中に説きたまえりや。
『仏』は、
何処に、
是の、
『語(ことば)』を、
『説かれた!』のか?
何の、
『経』中に、
是の、
『語』が、
『説かれている!』のか?
若しは、
『声聞法』の、
『三蔵』中に、
『説かれている!』のか?
若しは、
『摩訶衍』中に、
『説かれている!』のか?
迦旃延尼子弟子輩言。雖佛口三藏中不說。義理應爾。阿毘曇鞞婆沙菩薩品中。如是說。 迦旃延尼子の弟子の輩の言わく、『仏の口は、三蔵中に説きたまわずと雖も、義理は、応に爾るべく、『阿毘曇鞞婆沙』の菩薩品中に、是の如く説けり。』と。
『迦旃延尼子』の、
『弟子の輩』は、こう言った、
『仏』は、
『口』で、
『三蔵』中には、
『説かれなかった!』が、
『義理(道理)』は、
当然、
『そうなるはず!』であり、
『阿毘曇鞞婆沙』の、
『菩薩品』中には、
是のように、
『説かれている!』。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻177』:『有說。依一施行分別三劫阿僧企耶量。謂若時菩薩雖行惠施。而未能捨一切物施一切田。齊此名為初劫阿僧企耶。若時菩薩能行惠施。亦能捨一切物而未能施一切田。或能施一切田而未能捨一切物。齊此名為第二劫阿僧企耶。若時菩薩能行惠施。亦能捨一切物及能施一切田。齊此名為第三劫阿僧企耶。有說。依所逢事佛分別三劫阿僧企耶量。謂過去久遠人壽百歲時。有佛名釋迦牟尼。出現於世。生剎帝利釋迦種中。母名摩訶摩耶。父名淨飯。子名羅怙羅。城名劫比羅筏窣睹多諸釋種。侍者弟子名阿難陀。第一雙弟子名舍利子大目揵連。爾時世間五濁增盛。為生老死之所逼迫。愚癡盲瞑無將導者。彼佛世尊以悲願力於中出現。精進增上化導有情未曾暫息。由如此故為風所薄。肩背有疾。時有陶師名曰廣熾。佛知時至即告侍者阿難陀言。吾今身疾不安。汝可往廣熾陶師家求胡麻油及煖水。為吾塗洗。侍者敬諾往陶師家。住廣熾前愛語問訊已。方便讚佛種種功德勝戒定慧。三十二相八十隨好圓光赫奕。智見無礙辯才無滯。復告廣熾。如是世尊若不出家。當為輪王王四洲界。我及汝等一切世間皆為僕使。然今棄捨如是王位出家苦行。得阿耨多羅三藐三菩提。具一切智見。斷一切疑網。施一切決定。能盡一切問論源底。視諸有情猶如一子。今者在此不遠而住。然為拔濟汝等苦故恒涉道路。為風所薄肩背勞積。須油煖水故相造詣。頗能施耶。爾時廣熾聞已踊躍歎未曾有。如何人間有是功德。即報尊者。仁今且還。我當如命自往佛所。其去未久。廣熾即辦生胡麻油及煖香水持往佛所。佛遙見之。為令彼人種善根故脫去餘衣。唯留襯身踞机而待。廣熾到已發淳淨心。以所持油恭敬善巧。塗佛肩背種種摩搦。復以煖水香湯灌洗。佛時風疾釋然除愈。以慈軟音慰喻廣熾。彼聞歡喜即發願言。願我未來當得作佛。名號眷屬時處弟子。如今世尊等無有異。當知彼陶師者即釋迦菩薩。由本願故今名號等如昔不異。然從彼佛發是願後。乃至逢事寶髻如來。是名初劫阿僧企耶滿。從此以後乃至逢事然燈如來。是名第二劫阿僧企耶滿。復從此後乃至逢事勝觀如來。是名第三劫阿僧企耶滿。此後復經九十一劫修妙相業。至逢事迦葉波佛時方得圓滿。有說。有三種阿僧企耶。一劫阿僧企耶。二生阿僧企耶。三妙行阿僧企耶。劫阿僧企耶者。謂以大劫為一積至洛叉俱胝。展轉乃至過婆揭羅數。生阿僧企耶者。謂一一劫經無數生。妙行阿僧企耶者。謂一一劫修無數妙行。由此三種阿僧企耶證無上覺。此不應理。如實義者。此中但說經三劫阿僧企耶。修行圓滿』
答曰摩訶衍中說初發心。是時知我當作佛。如阿遮羅菩薩。於長手佛邊。初發心時乃至金剛座處成佛道。於其中間顛倒不淨心不生。 答えて曰く、摩訶衍中に説かく、『初めて発心す、是の時知る、我れは当に仏と作るべしと。』と。阿遮羅菩薩の如きは、長手仏の辺に於いて、初めて発心せる時、乃至金剛座に処し、仏道を成ぜし、其の中間に於いて、顛倒の不浄心を生ぜず。
答え、
『摩訶衍』中には、
こう説く、――
初めて、
『発心』した!ならば、
是の時に、
こう知る、――
わたしは、
『仏』と、
『作るだろう!』と、と。
『阿遮羅菩薩』などは、
『長手仏』の、
『辺』に於いて、
『初め!』て、
『発心した!』時より、
乃至、
『金剛座』に坐して、
『仏』の、
『道』を、
『成した!』時までの、
其の、
『中間』に於いて、
『顛倒』の、
『不浄心』を、
『生じなかった!』。
  阿遮羅菩薩(あしゃらぼさつ):阿遮羅は梵名acala、不動と訳す。「翻梵語巻2」に、「阿遮羅、訳して不動と曰う」と云えるが如し。
  長手仏(ちょうしゅぶつ):不明。
如首楞嚴三昧中四種菩薩。四種受記。有未發心而授記。有適發心而授記。有於前授記他人盡知己身不知。有於前授記他人己身盡知。 首楞厳三昧中の如きの、四種の菩薩は、四種に記を受く。有るいは未だ発心せざるに、記を授け、有るいは発心するに適(あた)りて、記を授け、有るいは前に於いて、記を授け、他人は尽く知るも、己身は知らず、有るいは前に於いて、記を授け、他人も、己身も尽く知る。
『首楞厳三昧』中などは、
『四種』の、
『菩薩』が、
『四種』に、
『記』を、
『受けている!』。
有る、
『菩薩』は、
未だ、
『発心しない!』のに、
『記』を、
『授けられた!』。
有る、
『菩薩』は、
ちょうど、
『発心した!』時に、
『記』を、
『授けられた!』。
有る、
『菩薩』は、
『前(以前)』に、
『記』を、
『授けられていた!』のを、
『他人』は、
『尽く!』が、
『知っていた!』が、
『自身』は、
『知らなかった!』。
有る、
『菩薩』は、
『前』に、
『記』を、
『授けられた!』のを、
『他人』も、
『自身』も、
『尽く!』が、
『知っている!』。
  己身(こしん):おのがみ。自身。
  参考:『首楞厳三昧経巻下』:『堅意菩薩白佛言。世尊。今此惡魔聞說首楞嚴三昧。為解縛故發菩提心。亦得具足佛法因緣耶。佛言。如汝所說。惡魔以是三昧福德因緣及發菩提心因緣故。於未來世。得捨一切魔事魔行魔諂曲心魔衰惱事。從今已後。漸漸當得首楞嚴三昧力。成就佛道。堅意菩薩。謂惡魔言。如來今已與汝授記。魔言。善男子。我今不以清淨心發阿耨多羅三藐三菩提。如來何故與我授記。如佛言曰。從心有業從業有報。我自無心求菩提道。如來何故與我授記。時佛欲斷眾會疑故。告堅意言。菩薩授記凡有四種。何謂為四。有未發心而與授記。有適發心而與授記。有密授記。有得無生法忍現前授記。是謂為四。唯有如來能知此事。一切聲聞辟支佛所不能知。堅意。云何名為有未發心而與授記。或有眾生往來五道。若在地獄若在畜生若在餓鬼。若在天上若在人間。諸根猛利好樂大法。佛知是人過此若干百千萬億阿僧祇劫。當發阿耨多羅三藐三菩提心。又於若干百千萬億阿僧祇劫。行菩薩道。供養若干百千萬億那由他佛。教化若干百千萬億無量眾生。令住菩提。又過若干百千萬億阿僧祇劫。當得阿耨多羅三藐三菩提。號字如是。國土如是。聲聞眾數壽命如是。滅後法住歲數如是。佛告堅意。如來悉能了知此事復過於是。是名未發心而與授記。爾時長老摩訶伽葉。前白佛言。從今以後我等當於一切眾生生世尊想。所以者何。我等無有如是智慧。何等眾生有菩薩根何等眾生無菩薩根。世尊。我等不知如是事故。或於眾生生輕慢心。則為自傷。佛言。善哉善哉。伽葉。快說此言。以是事故。我經中說。人則不應妄稱量眾生。所以者何。若妄稱量於他眾生。則為自傷。唯有如來。應量眾生及與等者。以是因緣。若諸聲聞及餘菩薩。於諸眾生應生佛想。適發心已得受記者。或自有人。久殖德本修習善行。勤心精進諸根猛利。好樂大法有大悲心。普為眾生求解脫道。是人發心。即住阿惟越致入菩薩位。墮畢定數出過八難。如是等人適發心時。諸佛即與授阿耨多羅三藐三菩提記。名號如是。國土如是。壽命如是。如是等人。如來知心而與授記。是名發心即與授記。密授記者。自有菩薩。未得受記而常精勤。求阿耨多羅三藐三菩提。樂種種施樂一切施。受法堅固持戒不捨深發莊嚴。有大忍力等心眾生。勤行精進求諸善法。身心不懈如救頭然。行念安隱能得四禪。樂求智慧行佛菩提。久行六度有成佛相。時餘菩薩。天龍夜叉乾闥婆等。皆作是念。如此菩薩勤心精進實為希有。幾時當得阿耨多羅三藐三菩提。其號云何。國土何名。聲聞眾數多少云何。佛為斷此眾生疑故而與授記。普令眾會皆得聞知。唯是菩薩。獨不得聞佛神力故。令一切眾知是菩薩成佛號字國土如是聲聞眾數多少如是。眾所疑者時悉決了。於此菩薩生世尊想。而是菩薩。不能自知我為得記為未得記。是為菩薩密得受記。現前受記者。有菩薩久集善根無不見得。常修梵行觀無我空。於一切法得無生忍。佛知此人功德智慧悉已具足。則於一切天人魔梵沙門婆羅門大眾之中。現前授記。作是言。善男子。汝過若干百千萬億劫。當得成佛。號字如是。國土如是。聲聞。眾數壽命如是。時無數人隨效是人。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。是人佛前得受記已。身昇虛空高七多羅樹。堅意。是名第四現前受記』
汝云何言於二阿僧祇劫知受記而不自稱說。 汝は、云何が言える、『二阿僧祇劫に於いて、記を受くるを知るも、自ら称説せず。』と。
お前は、
何故、
こう言うのか?――
『第二』の、
『阿僧祇劫』に於いては、
『記』を、
『受けた!』ことは、
『知っている!』が、
『自ら』は、
『口にしない!』、と。
復次佛言無量阿僧祇劫作功德欲度眾生何以故言三阿僧祇劫。三阿僧祇劫有量有限。 復た次ぎに、仏の言わく、『無量阿僧祇劫に功徳を作し、衆生を度せんと欲す。』と。何を以っての故にか、『三阿僧祇劫』と言える。三阿僧祇劫は、有量有限なり。
復た次ぎに、
『仏』は、
こう言われた、――
『無量阿僧祇劫』に、
『功徳』を、
『作す!』ことで、
『衆生』を、
『度したい!』と、
『思う!』、と。
お前は、
何故、
こう言っているのか?――
『三阿僧祇劫だ!』と。
『三阿僧祇劫』とは、
『有量』であり!
『有限』である!。
  参考:『首楞厳三昧経巻下』:『時舍利弗。問文殊師利言。若人已得入於涅槃。於諸有中不復相續。汝今云何而作是說。世尊。我念過去照明劫中。三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。此義云何。文殊師利言。如來現在。是一切知者。一切見者。真實語者。不欺誑者。世間天人無能誑者。我所說者佛自證知。我若異說則為誑佛。舍利弗。彼時照明劫中。有佛出世號曰弗沙。利益世間諸天人已入於涅槃。是佛滅後法住十萬歲。法滅之後其中眾生。於辟支佛有度因緣。假使百千億佛。為之說法不信不受。唯皆可以辟支佛身威儀法則而得度脫。是諸眾生皆共志求辟支佛道。是時無有辟支佛出。是諸眾生無處得種善根因緣。我於爾時為教化故自稱我身是辟支佛。隨諸國土城邑聚落。皆知我身是辟支佛。我時皆為現辟支佛形色威儀。是諸眾生深心恭敬。皆以飲食供養於我。我受食已。觀其本緣所應聞法。為解說已。身飛虛空猶如鴈王。是時眾生皆大歡喜。以恭敬心頭面禮我。而作是言。願使我等於未來世皆得法利如今是人。舍利弗。以是因緣成就無量無數眾生令種善根。我時觀察知諸人眾供養我食生懈厭心。即時告言。我涅槃時至。百千眾生聞是語已。各持華香雜香蘇油。來至我所。我於爾時入滅盡定。以本願故。不畢竟滅。是諸眾生謂我命終。供養我故以香薪[卄/積]而燒我身。謂我實滅。我時復至異國大城。自稱我是辟支佛身。其中眾生亦以飲食來供養我。我於其中示入涅槃。亦謂我滅。皆來供養共燒我身。如是舍利弗。我於爾時滿一小劫。三百六十億世。作辟支佛身示入涅槃。於諸大城。一一皆以辟支佛乘。度脫三十六億眾生。舍利弗。菩薩如是。以辟支佛乘。入於涅槃而不永滅。文殊師利說是語時。三千大千世界六種震動。光明遍照。千億諸天供養文殊師利法王子。雨諸天華。皆作是言。是實希有。我等今日得大善利。見佛世尊。及見文殊師利法王子。又聞說是首楞嚴三昧。世尊。文殊師利法王子。成就如是未曾有法。住何三昧能現如是未曾有法。佛告諸天。文殊師利法王子住首楞嚴三昧。能作如是希有難事。菩薩住此三昧。為作信行而不隨他信。亦作法行。而於法相轉於法輪不退不失。亦作八人。於諸無量阿僧祇劫。為八邪者而行於道作須陀洹。為生死水漂流眾生。不入法位作斯陀含。遍現其身於諸世間。作阿那含。亦復來還教化眾生作阿羅漢。亦常精進求學佛法亦作聲聞。以無礙辯為人說法作辟支佛。為欲教化因緣眾生示入涅槃。三昧力故還復出生。諸天子。菩薩住是首楞嚴三昧。皆能遍行諸賢聖行。亦隨其地有所說法而不住中。諸天聞佛說如是義。悉皆涕淚而作是言。世尊。若人已入聲聞辟支佛位。永失是首楞嚴三昧。世尊。人寧作五逆重罪。得聞說是首楞嚴三昧。不入法位作漏盡阿羅漢。所以者何。五逆罪人聞是首楞嚴三昧。發阿耨多羅三藐三菩提心已。雖本罪緣墮在地獄。聞是三昧善根因緣還得作佛。世尊。漏盡阿羅漢猶如破器。永不堪任受是三昧。世尊。譬如有人施蘇油蜜。多有人眾持種種器。中有一人用心不固破所持器。雖詣所施蘇油蜜所無所能益。但得自飽不能持還施與餘人。是中有人持器完堅。既得自飽亦持滿器施與他人。蘇油蜜者是佛正法。所持器破但得自足。不能持還施他人者。即是聲聞及辟支佛。持完器者即是菩薩。身自得足亦能持與一切眾生。是時二百天子。心欲退轉於阿耨多羅三藐三菩提者。從諸天子聞是語已。及聞文殊師利法王子不可思議功德勢力。更以深心發阿耨多羅三藐三菩提。不復隨先退轉之心。皆白佛言。我等乃至危害失命不捨是心。亦終不捨一切眾生。世尊。唯願我等聞是首楞嚴三昧善根因緣。當得菩薩十力。何等十。於菩提心得堅固力。於不可思議佛法得深信力。多聞得不忘力。往來生死得無疲力。於諸眾生得堅大悲力。於布施中得堅捨力。於持戒中得不壞力。於忍辱中得堅受力。魔不能壞得智慧力。於諸深法得信樂力。爾時佛告堅意菩薩。若有眾生於今現在若我滅後。聞是首楞嚴三昧能信樂者。當知是人悉皆得是菩薩十力。』
  :衆生は無量、無辺なるが故に、菩薩も亦た無量、無辺なり。
問曰。摩訶衍中雖有此語我亦不能都信。 問うて曰く、摩訶衍中には、此の語有りと雖も、我れは、亦た都べてを信ずる能わず。
問い、
『摩訶衍』中には、
此の、
『語』が、
『有る!』が、
わたしは、
やっぱり、
『都()べて!』を、
『信じる!』ことは、
『できません!』。
答曰。是為大失。是佛真法佛口所說。汝無反。復汝從摩訶衍中出生。云何言我不能都信。 答えて曰く、是れを、大失と為す。是の仏の真の法は、仏の口の説く所なり。汝は、反(そむ)くこと無かれ。復た、汝は摩訶衍中より出生せり。云何が、『我れは、都べてを信ずる能わず』と言える。
答え、
是れは、
『大きな!』、
『失(あやまり)である!』。
是の、
『仏』の、
『真』の、
『法』は、
『仏』の、
『口』を以って、
『説かれた!』ものである。
お前は、
『反(そむ)いてはならない!』。
復た、
お前は、
『摩訶衍』中より、
『出生した!』のに、
何故、
こう言っているのか!――
わたしは、
『都べて!』は、
『信じられない!』、と。
  :声聞道、辟支仏道は皆、摩訶衍の摂する所なり。
復次摩訶衍論議此中應廣說。 復た次ぎに、摩訶衍の論議は、此の中に、応に広く説くべし。
復た次ぎに、
『摩訶衍』の、
『論議』は、
此の中に、
『広く!』、
『説くはず!』である。
復次說是三十二相業因緣。欲界中種非色無色界中種。 復た次ぎに、『是の三十二相の業の因縁は、欲界中に種え、色、無色界中に種うるに非ず。』と説けり。
復た次ぎに、
こう説いている!――
是の、
『三十二相』の、
『業』の、
『因縁』は、
『欲界』中には、
『因縁』を、
『種える!』が、
『色、無色界』中に、
『因縁』を、
『種えることはない!』と。
無色界中以無身無色。是三十二相是身莊嚴故。於中不得種可爾。色界中何以不得種。 無色界中には、身無く、色無きを以って、是の三十二相は、是れ身を荘厳するが故に、中に於いて、種うるを得ざること、爾るべし。色界中には、何を以ってか、種うるを得ざる。
『無色界』中には、
『身』も、
『色』も、
『無い!』のに、
是の、
『三十二相』は、
『身』を、
『荘厳する!』、
故に、
『無色界』中に於いて、
『種えられない!』のは、
『その通りだろう!』が、
而し、
『色界』中に、
何故、
『種える!』ことが、
『できない!』のか?
色界中大有諸梵王。常請佛初轉法輪。是智慧清淨能求佛道。何以言不得種三十二相因緣。 色界中には、大いに、諸梵の王有りて、常に仏に、初めて法輪を転じたまわんことを請い、是の智慧は清浄にして、能く仏道を求む。何を以ってか、『三十二相の因縁を種うるを得ず。』と言う。
『色界』中には、
諸の、
『梵天』の、
『王』が、
『有り!』、
常に、
『仏』に、
『初』の、
『法輪』を、
『転じられるよう!』、
『請うている!』、
是の、
『智慧』は、
『清浄』であり!、
『仏』の、
『道』を、
『求める!』ことに、
『任えられる!』のに、
何故、
『三十二相』の、
『因縁』を、
『種えられない!』と、
『言う!』のか?
又言人中得種非餘道。 又言わく、『人中に種うるを得て、余の道に非ず。』と。
又、
こう言っている!――
『人』中には、
『種える!』ことが、
『できる!』が、
余の、
『道』には、
『種えない!』、と。
如娑伽度龍王十住菩薩。阿那婆達多龍王七住菩薩。羅[目*侯]阿修羅王亦是大菩薩。復何以言餘道不得種三十二相因緣。 娑伽度龍王の如きは、十住の菩薩なり。阿那婆達多龍王は、七住の菩薩なり。羅睺阿修羅王も、亦た是れ大菩薩なり。復た何を以ってか、『余の道には、三十二相の因縁を種うるを得ず。』と言える。
例えば、
『娑伽度龍王』は、
『十住』の、
『菩薩』であり!、
『阿那婆達多龍王』は、
『七住』の、
『菩薩』である!
亦た、
『羅睺阿修羅王』も、
亦た、
『大菩薩』である!のに、
いったい、
何故、
こう言っているのか?――
余の、
『道(畜生道、阿修羅道等)』には、
『三十二相』の、
『因縁』を、
『種えられない!』、と。
  娑伽度龍王(しゃかどりゅうおう):梵名saagara-naagaraajaの訳。龍王の名なり。『大智度論巻4下注:娑竭羅龍王』参照。
  娑竭羅龍王(しゃからりゅうおう):娑竭羅saagaraは梵名。巴梨名同じ。又娑伽羅、娑竭、沙竭に作る。海と訳す。八大龍王の一。観音二十八部衆の一。「長阿含経巻19龍鳥品」に、「大海水の底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬、宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝せる厳飾は皆七宝より成り、乃至無数の衆鳥相和して鳴く」と云い、「起世経巻5」に、「別に諸龍あり、金翅鳥王の取ること能わざる所なり。謂わく娑伽羅龍王なり。未だ曽て彼の金翅鳥王の驚動する所とならず」と云える是れなり。又此の龍王は護法の龍神として、「法華経巻1序品」、「華厳経巻1世主妙厳品」等に之を列衆の一に加え、又「海龍王経」4巻、「仏為海龍王説法印経」、「仏為娑伽羅龍王所説大乗経」及び「十善業道経」各1巻は、仏が特に此の龍王の為に演説せられたる経として伝えらる。名称の由来に関し、「法華経文句巻2下」に、「娑伽羅とは居海に従いて名を受く、華厳に称する所なり。旧に云わく国に因りて名を得と。本は智度の大海に住し、迹は滄溟に処す」と云い、「華厳経疏巻5」には、「娑伽羅とは此に海と云うなり。大海中に於いて此れ最尊なるが故に独り其の名を得」と云えり。又此の龍王は降雨の龍神として、古来請雨法を修する時之を本尊とす。「華厳経巻51」に、「最勝の龍王娑竭羅は、雲を興して普く四天下を覆い、一切の処に於いて雨ふらすこと各別なるも、而も彼の龍は心に二念なし」と云い、又「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経巻3」に、「我れ娑伽羅龍王は、七百阿僧祇劫より已来常に此の陀羅尼を行ず。(中略)若し諸国王渇乏して雨を須たば、我れ能く給足して其れをして豊実ならしめ、四天下の中、普く皆等しからしめん」と云える即ち其の説なり。又此の龍王は千手観音の眷属として、二十八部の一に配せらる。其の形像は、「千手観音造次第法儀軌」に、「色は赤白にして、左手に赤龍を執り、右手は刀なり」と云えり。奈良興福寺並びに京都蓮華王院安置の像は国宝に編せらる。又「大楼炭経巻3龍鳥品」、「起世因本経巻5」、「蓮華面経巻下」、「大雲輪請雨経巻上」、「大方等大雲経請雨品巻64」、「法海経」、「千手経二十八部衆釈」、「慧苑音義巻上」等に出づ。<(望)
  阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう):阿那婆達多anavataptaは梵名。龍王の名なり。『大智度論巻4下注:阿耨達龍王』参照。
  阿耨達龍王(あのくたつりゅうおう):阿耨達anavataptaは梵名。巴梨名anotatta、又阿耨達多、阿那婆達多、阿那婆達、阿羅娑喩多、阿那婆噏多に作る。無熱悩、又は無焚と訳す。龍王は梵語naaga-raajaの訳。八大龍王の一。阿耨達池に住し、四大河を分出して閻浮洲を潤し、一切馬形の龍王として其の徳最も勝れたりと称せらる。「長阿含経巻18」に依るに、阿耨達の宮中に五柱の堂あり、阿耨達龍王は恒に中に於いて止まる。閻浮提の有らゆる龍王に尽く三患あるも、唯だ阿耨達龍王には之れ無し。三患とは一に熱風熱沙の為に身を吹かれて皮肉骨髄を焼かる。二に悪風起りて龍宮を吹く時、宝飾の衣失して龍身自ら現わる。三に宮中に在りて娯楽する時、金翅鳥来たりて捕撮し、或いは生まるる時、為に害せらる。故に諸龍怖懼して常に熱悩を懐くと雖も、唯此龍王は都べて此等の諸患なし。故に阿耨達と名づくと云えり。又「大智度論巻7」に、「北辺の雪山中に阿那婆達多池あり。是の池中に金色の七宝の蓮華あり、大きさ車蓋の如し。阿那婆達多龍王は是れ七住の大菩薩なり」と云い、「大唐西域記巻1」に、八地の菩薩は願力を以って龍王と化し、其の中に潜宅すとあり。之に依るに、此の龍王は菩薩の化身として尊崇せられたるを見るなり。又「大楼炭経巻1」、「起世経巻1」、「増一阿含経巻29」、「仏五百弟子自説本起経」、「旧華厳経巻2、42」、「慧苑音義巻下」、「法華経文句巻2下」、「法華経玄賛巻2本」、「翻梵語巻7」等に出づ。<(望)
  羅睺阿修羅王(らごあしゅらおう):梵語raahuasura、四種阿修羅王の一なり。具には羅睺羅阿修羅という。羅睺羅を執月と訳す。此の阿修羅王は帝釈と戦う時、能く其の手を以って日月を執り、其の光を障蔽するが故に名づく。「法華義疏巻1」に、「羅睺とは、此れを障持と云う、又吸気と云う。(中略)問わく、何故に修羅の手は月を障うる。答うらく、月は此れ帝釈軍の前鋒なり、故に手を以って之を障え、月を食わんと欲す。正法念処経に云わく、日月は放光して修羅の眼を障え、見えざらしむ。故に手を以って之を障うと」と云い、「大智度論巻10」に、「一時羅睺羅阿修羅王は月を噉わんと欲す。月天子怖れて疾かに仏の所に到り、偈を説かく、大智精進仏世尊、我れ今帰命稽首礼す。是の羅睺羅は我れを悩乱す。願わくは仏憐愍して救護されんことをと。仏の羅睺羅の与に偈を説いて言わく、月は能く暗を照らして清涼たり。是れ虚空中の天の灯明たり。其の色は白浄にして千光有り。汝は月を呑む莫かれ、疾かに放ち去れと。是の時羅睺羅は怖懅して汗を流し、即ち疾かに月波梨を放てり」と云い、「法華玄賛巻2」に、「羅睺は此には執日と云い、非天(阿修羅)と天と闘う時、将に四天王天は先に其れと戦わんとするに、日月天子、盛光明を放ちて非天の眼を射るに、此れを非天の前鋒と為し、手を以って日を執りて其の光を障蔽するが故に執日と云う」と云えり。<(丁)
  十住菩薩(じゅうじゅうぼさつ):菩薩の位階を初発心乃至補処位の十階位に分別する中の第十補処位の菩薩なることを云う。或いは三乗共十地の第十位ならん。『大智度論巻4下注:十住、三乗共十地」参照。
  七住菩薩(しちじゅうぼさつ):菩薩の位階を初発心乃至補処位の十階位に分別する中の第七不退位の菩薩なることを云う。或いは三乗共十地の第七地ならん。『大智度論巻4下注:十住、三乗共十地」参照。
  十住(じゅうじゅう):十種の地住の意。又十地住、十法住、或いは十解とも称す。即ち菩薩の趣入すべき住位に十種の階段あるを云う。一に波藍耆兜波菩薩法住、又発意住、初発心住と名づく。二に阿闍浮菩薩法住、又治地住、持地住と名づく。三に渝阿闍菩薩法住、又応行住、修行住と名づく。四に闍摩期菩薩法住、又生貴住と名づく。五に波渝三般菩薩法住、又修成住、方便具足住と名づく。六に阿耆三般菩薩法住、又行登住、正心住と名づく。七に阿惟越致菩薩法住、又不退住、不退転住と名づく。八に鳩摩羅浮童男菩薩法住、又童真住と名づく。九に渝羅闍菩薩法住、又了生住、法王子住と名づく。十に阿惟顔菩薩法住、又補処住、潅頂住と名づく。「菩薩本業経十地品」に、「諸の族姓子、仏を求めんと欲せば十地の住あり、往古来今皆此れに由りて成じ、衆祐の歎ずる所なり。是れ無量なるべきも具に陳べて演説し、仏の所言の如くならん。何等をか十と為す、第一に発意、第二に治地、第三に応行、第四に生貴、第五に修成、第六に行登、第七に不退、第八に童真、第九に了生、第十に補処なり」と云い、又「旧華厳経巻8菩薩十住品」に、「菩薩摩訶薩の十住行は去来現在諸仏の所説なり。何等をか十と為す、一を初発心と名づけ、二を治地と名づけ、三を修行と名づけ、四を生貴と名づけ、五を方便具足と名づけ、六を正心と名づけ、七を不退と名づけ、八を童真と名づけ、九を法王子と名づけ、十を潅頂と名づく。諸仏子、是れを菩薩の十住と名づく」と云える是れなり。「菩薩瓔珞本業経巻下釈義品」に華厳の十住を解し、「仏子、発心住とは是れ上進分の善根の人、若しは一劫二劫、一恒二恒三恒の仏所に十信心を行じて三宝を信じ、常に八万四千の般若波羅蜜に住して、一切の行一切の法門皆習受して行じ、常に信心を起して邪見十重五逆八倒を作らず、難処に生ぜずして常に仏法に値い、広多聞慧、多く方便を求め、始めて空界に入りて空性の位に住するが故に名づけて住と為す。空理智心、古仏法を習いて一切の功徳自造ならず、心に一切の功徳を生ずるが故に名づけて地と為さず、但だ住と名づくることを得。仏子、治地住とは常に空心に随って八万四千の法門を浄め、清浄鮮白なるが故に治地住と名づく。仏子、一切行を長養するが故に修行住と名づく。仏子、生じて仏家に在りて種性清浄なるが故に生貴住と名づく。仏子、多く無量の善根を習うが故に方便具足住と名づく。仏子、第六般若を成就するが故に正心住と名づく。仏子、無生畢竟空界に入りて、心心常に空無相願を行ずるが故に不退住と名づく。仏子、発心より倒を生ぜず、邪魔破菩提の心を起さざるが故に童真住と名づく。仏子、仏王の教中に従って解を生じ、当に仏位を紹ぐべきが故に法王子住と名づく。仏子、上の九に空を観ずるに従って無生心最上を得るが故に潅頂住と名づく」と云い、又「大乗義章巻14」に更に其の義相を分別し、「発心住の中に相別三あり、一に発心の相は仏法僧を縁じ、及び衆生を縁じて菩提心を起す。二に所成の相は前の発心に因りて十力の分を得、処非処より乃ち漏尽に至る。三に所学の相は十種の法を学し、菩提心をして転勝堅固にして無上道を成ぜしむ。経に広説するが如し。治地住の中に相別二あり、一に利他行は諸の衆生に於いて十種の心を発す、経に広説するが如し。二に自利行は十種の法を学し、始め多聞より乃ち安住に至る。亦経に説くが如し。修行住の中に相別二あり、一に煩悩を護るの行とは一切法に於いて十種に観察す、謂わく苦無常空無我等なり。二に小乗を護るの行とは衆生界法界世界に於いて十種に分別す。生貴住の中に相別二あり、一に聖法の中より具足行を出生す。彼の経に説くが如く、聖教の中より生じて十種の法を修す、一に仏を信じて壊せず、二に法を究竟し、三に寂然定意、四に衆生を分別し、五に仏刹を分別し、六に世界を分別し、七に諸業を分別し、八に果報を分別し、九に生死を分別し、十に涅槃を分別するなり。十の中、初の一は是れ同敬智、第二の一句は是れ自住処畢竟智、第三の一句は是れ真如智、後の七は是れ其の分別所説の智なり。二に上仏法を求めて厭足あることなく十種の法を学す、謂わく三世諸仏の法の中に於いて能く解し能く修し、能く具足するに堪うるを即ち以って九と為し、等しく諸仏を観ずるを以って第十と為す。方便具足住の中に相別二あり、一に衆生を化する行に広く十種あり、謂わく衆生を救い、一切の生を饒益して安楽ならしむる等なり。経に広説するが如し。二に衆生を知るの行とは、十種を修学して衆生法を知る。備に経に説くが如し。正心住の中に相別二あり、一に決定信は異説を聞くと雖も仏法の中に於いて正信動ぜず。二に決定智とは十種の智を学し、一切法の無相無性不可修等を観ず。不退住の中に相別二あり、一に不退願は異説を聞くと雖も仏法の中に於いて求心退せず。広く十種あり、備に経に説くが如し。二に不退智は具に十種ありて一切法を知る。亦経に説くが如し。童真住の中に相別二あり、一に勝行を得とは十種の法に於いて心に安住を得。謂わく身行浄く口行浄く意行浄く、意に随って生を受けて衆生を知る等なり。二に浄仏国土とは一切の仏刹に於いて皆悉く能く知り、能く動じ能く持し能く観じ能く詣り能く遍至する等なり。法王子住の中に相別二あり、一に衆生を化する行とは、善く十種の化衆生の法を解し、二に菩提を求むるの行とは、法王の処に於いて十種の智を学す。潅頂住の中に相別三あり、一に度衆生とは修行に堪能し、十種の智を成じて能く衆生を度す。二に甚深所入の境界を得、一切衆生乃至第九法王子の菩薩も測量すること能わず。三に所知広くして、十種の智を学し一切法を知るなり。十住位の中に曠く法界一切の行徳を備う」と云えり。以って其の名称及び意義を知るべし。蓋し此の十住は「菩薩瓔珞本業経」に之を五十二位中の第十一乃至第二十位とし、「梁訳摂大乗論釈巻11」にも十信十解十行十廻向の名を挙ぐるにより、亦之を地前三賢の初位となすと雖も、「仁王」、及び「梵網」等には十住の名を出さず。且つ此の中、第一を発心住、第七を不退住、第九を法王子住、第十を潅頂住と名づくるは、元と即ち此の十位を以って菩薩修行の位次を括尽するの意と見るを得べく、之を地前三賢の初位に配するが如きは、歓喜等の十地の成立したる後、調和せんが為に企てられたる安排と認むべきものなるが如し。又此の十位を「梵文大事maahaavaastu Vol.I.ch.iv.」所載の難登、結慢、華荘厳、明輝、心広、妙相具足、難勝、生誕因縁、王子位、潅頂位等の十地に対照するに、彼の王子位、観頂位は今の法王子住、潅頂住に当り、又難登は今の行登、華荘厳は治地住、心広は正心住、妙相具足は方便具足住、生誕因縁は生貴住と其の義通ずる所ありというべし。兎に角此の十住の説は其の成立頗る古く、恐らく菩薩階位の諸説中、最初に唱道せられたるものなるべし。又「十住断結経巻1至4」にも広く其の相を説けり。又「菩薩十住行道品」、「菩薩十住経」、「菩薩内戒経」、「菩薩内習六波羅蜜経」、「新華厳経巻16」、「同疏巻17、18」、「同随疏演義鈔巻37、38」、「大仏頂首楞厳経巻8」、「菩薩瓔珞本業経巻上」、「法華経玄義巻5上」、「四教義巻5」、「菩薩戒義疏巻上」、「成唯識論述記巻9」、「大乗入道次第」、「華厳経探玄記巻5」、「華厳五教章巻2」、「十住心論巻6」等に出づ。<(望)
  三乗共十地(さんじょうくじゅうじ):声聞人及び菩薩の共にする十の位階をいう。「大智度論巻75」に、十地とは乾慧地等なり、(一)乾慧地には二種有り、一に声聞、二に菩薩なり。声聞人は独り涅槃の為の故に勤めて精進して持戒し、心清浄にして道を受くるに堪任す。或は観仏三昧を習い、或は不浄を観じ、或は慈悲を行い、無常等を観じ、分別して諸の善法を集めて不善法を捨て、智慧有りと雖も禅定の水を得ず。則ち道を得ること能わざるが故に乾慧地と名づく。菩薩に於いては則ち初発心より乃ち未だ順忍を得ざるに至る。(二)性地とは、声聞人は暖法より乃ち世間第一法に至る。菩薩に於いては順忍を得て諸法の実相に愛著するも、また邪見を生ぜずして禅定の水を得る。(三)八人地とは、苦法忍より乃ち道比智忍に至るまで、この十五心なり。菩薩に於いては則ちこれ無生法忍なり、菩薩の位に入れり。(四)見地とは、初めて聖果を得たる、謂わゆる須陀洹果なり。菩薩に於いては則ちこれ阿鞞跋致地なり。(五)薄地とは、或は須陀洹、或は斯陀含なり、欲界の九種の煩悩の分を断てるが故に。菩薩に於いては阿鞞跋致地を過ぎて、乃ち未だ仏に成らざるに至る。諸の煩悩を断ちて余気もまた薄し。(六)離欲地とは、欲界等の貪欲、諸の煩悩を離れたる、これを阿那含と名づく。菩薩に於いては欲の因縁を離れしが故に五神通を得。(七)已作地とは、声聞人は尽智、無生智を得て、阿羅漢を得たるなり。菩薩に於いては仏地を成就す。(八)辟支仏地とは、先世に辟支仏道の因縁を種え、今世に少しばかりの因縁を得て出家し、また深き因縁法を観じて道を成す、名づけて辟支仏なり。辟支伽とは秦に因縁と言い、また覚と名づく。(九)菩薩地とは、乾慧地より乃ち離欲地に至るまで、上に説くが如し。また次ぎに、菩薩地とは、歓喜地より乃ち法雲地に至るまでを皆菩薩地と名づく。ある人の言わく、一たび心を発せしより、乃ち金剛三昧に至るまでを菩薩地と名づく、と。(十)仏地とは、一切種智等の諸仏の法なり。菩薩は自地の中に於いて行具足せば、他地の中に於いて観具足し、二事を具うるが故に具足と名づく。問うて曰く、何を以っての故にか、菩薩の辟支仏地に似たるを説かざる。答えて曰わく、余地には名字を説かず、辟支仏地には辟支仏の名字を説くが故なりと云えるこれなり。またこの中の一一の地に就き、「大品般若経巻6発趣品」には、この地の菩薩のまさに作すべき所と、まさに作すべからざる所とを説いて、「仏須菩提に告ぐ、汝が問わく、云何が菩薩摩訶薩は大乗に発趣するやとは、もし菩薩摩訶薩、六波羅蜜を行ずる時、一地より一地に至る、これを菩薩摩訶薩大乗に発趣すと名づく。須菩提、仏に白して言さく、世尊、云何が菩薩摩訶薩、一地より一地に至るや。仏の言わく、菩薩摩訶薩は一切の法に来去の相なく、また法の若しは来、若しは去、若しは至、若しは不至有ること無きを知る、諸法の相滅せざるが故に。菩薩摩訶薩は、諸地に於いて念ぜず、思惟せず、而も地業を修治し、また地を見ず。何等か菩薩摩訶薩、地業を治むる。菩薩摩訶薩は初地に住する時、十事を行ず、一には深心堅固、無所得を用っての故に。二には一切衆生の中に於いて等心なり、衆生不可得の故に。三には布施、施者受者不可得の故に。四には善知識に親近して自ら高ぶらず。五には法を求む、一切法は不可得の故に。六には常に出家す、家は不可得の故に。七には仏身を愛楽す、相好は不可得の故に。八には法教を演出す、諸法の分別は不可得の故に。九には憍慢を破す、法生の慧不可得の故に。十には実語、諸語不可得の故に。菩薩摩訶薩はかくの如く初地の中に住し、十事を修治し、地業を治む。また次ぎに須菩提、菩薩摩訶薩は二地の中に住し、常に八法を念ず、何等をか八となす、一には戒清浄、二には恩を知り恩を報ず、三には忍辱力に住す、四には歓喜を受く、五には一切衆生を捨てず、六には大悲心に入る、七には師を信じて恭敬し諮受す、八には諸波羅蜜を勤求す。須菩提、これを菩薩摩訶薩、二地の中に住し、満足すべき八法と名づく。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は三地の中に住して五法を行ず、何等をか五となす、一には多く学問して厭足なし、二には法施を浄めて、而も自ら高ぶらず、三には仏国土を浄めて、而も自ら高ぶらず。四には世間の無量の懃苦を受けて以って厭うことを為さず。五には慚愧の処に住す。須菩提、これを菩薩摩訶薩三地の中に住して満足すべき五法と名づく。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は四地の中に住してまさに行を受け、十法を捨つるべからず。何等をか十となす、一には阿蘭若住処を捨てず、二には少欲、三には知足、四には頭陀の功徳を捨てず、五には戒を捨てず、六には諸欲を穢悪とす、七には世間の心を厭い、涅槃の心に順う。八には一切の所有を捨つ、九には心没せず、十には一切の物を惜まず。須菩提、これを菩薩摩訶薩四地の中に住して十法を捨てずと名づく。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は五地の中に住して十二法を遠離す。何等をか十二となす、一には白衣に親しむころを遠離す、二には比丘尼を遠離す、三には他家を慳惜することを遠離す、四には無益の談説を遠離す、五には瞋恚を遠離す、六には自大を遠離す、七には蔑人を遠離す、八には十不善道を遠離す、九には大慢を遠離す、十には自用を遠離す、十一には顛倒を遠離す、十二には婬怒癡を遠離す。須菩提、これを菩薩摩訶薩五地の中に住して十二事を遠離すと為す。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は六地に住してまさに六法を具足すべし。何等をか六となす、謂わゆる六波羅蜜なり。また六法あり、まさに為すべからざる所なり。何等をか六となす、一には声聞辟支仏の意を作さず、二には布施に憂心を生ずべからず、三には索むる所有るを見て心没せず、四には所有の物は布施す、五には布施の後心悔いず、六には深法を疑わず。須菩提、これを菩薩摩訶薩は六地の中に住してまさに六法を満具し、六法を遠離すべしと名づく。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は七地の中に住して、まさに二十法を遠離すべし、まさに著すべからざる所なり。何等をか二十となす、一には我に著せず、二には衆生に著せず、三には寿命に著せず、四には衆数、乃至知者、見者に著せず、五には断見に著せず、六には常見に著せず、七にはまさに相を作すべからず、八にはまさに因見を作すべからず、九には名色に著せず、十には五陰に著せず、十一には十八界に著せず、十二には十二入に著せず、十三には三界に著せず、十四には著処を作さず、十五には所期の処を作さず、十六には依処を作さず、十七には依仏の見に著せず、十八には依法の見に著せず、十九には依僧の見に著せず、二十には依戒の見に著せず。この二十法はまさに著すべからざる所なり、また二十法あり、まさに具足して満ずべし。何等をか二十となす、一には空を具足す、二には無相を証す、三には無作を知る、四には三分清浄、五には一切の衆生の中に慈悲智具足す、六には一切の衆生を念ぜず、七には一切の法を等観し、この中にもまた著せず、八には諸法の実相を知り、この事もまた念ぜず、九には無生法忍、十には無生智、十一には諸法の一相を説く、十二には相を分別することを破す、十三には憶想を転ず、十四には見を転ず、十五には煩悩を転ず、十六には定慧の地を等しうす、十七には意を調う、十八には心寂滅す、十九には無礙智、二十には染愛せず。須菩提、これを菩薩摩訶薩七地の中に住して、まさに二十法を具足すべしと名づく。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は八地の中に住してまさに五法を具足すべし。何等をか五となす、衆生心に順入す、諸神通に遊戯して諸仏の国を見る、所見の仏国の如く自ら仏国を荘厳す、如実に仏身を観ず、自ら仏身を荘厳す、これ五法具足して満ず。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は八地の中に住して、また五法を具足す。何等をか五となす、上下の諸根を知る、仏国土を浄む、如幻三昧に入る、常に三昧に入りて衆生所応の善根に随って身を受く。これを菩薩摩訶薩八地の中に住して五法を具足すとなす。また次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は九地の中に住して、まさに十二法を具足すべし。何等をか十二となす、無辺の世界に度す所の分を受く、菩薩の所願の如きを得る、諸の天龍夜叉揵闥婆の語を知りて為に法を説く、胎に処して家を成就す、生ずる所を成就す、姓を成就す、眷属を成就す、出生を成就す、出家を成就す、仏樹を成就して荘厳す、一切を成就す、諸善功徳を成満具足す。須菩提、これを菩薩摩訶薩九地に住してまさに十二法を具足すべしと名づく。須菩提、十地の菩薩は、まさに知るべし、仏の如し」と云えり。
  娑伽度龍王(しゃがどりゅうおう):また娑伽羅龍王、娑迦邏龍王、海龍王等に作り、梵名をsagara-naaga-raajaと称す。一時、仏霊鷲山に在り、無量の衆囲遶せる時、忽ち海龍王、無数の眷属を率いて仏処に詣づ。仏は為に深法を説けば、則ち大歓喜し、仏に海底の龍宮に降りて、以って供養を受け、法を説くことを請えり。仏、これを許す。時に龍王、大殿を化作して、紺琉璃、紫磨黄金を以って荘厳し、宝珠の瓔珞、七宝を欄楯と為せり。極めて広大たりて、また海辺より金、銀、琉璃三道の宝階を通じて龍宮に至らしめ、以って世尊及び大衆を請えり。世尊乃ち無量の大衆を率いて龍宮に至り、大殿の師子座に坐して更に妙法を説きて以って龍属を化せり。『仏説海龍王経』、『仏為娑伽羅龍王所説大乗経』参照。
汝言人中閻浮提種。鬱怛羅曰不可種。有義彼中人無吾我。著樂不利根故。 汝が言わく、『人中には閻浮提に種えて、鬱怛羅曰には種うべからず、義有り、彼の中の人は、吾我の楽に著する無く、利根ならざるが故なり。』と。
お前は、
こう言っている!、――
『人』中には、
『閻浮提』に、
『因縁』を、
『種える!』が、
『鬱怛羅曰』には、
『種えられない!』、と。
『義(道理)』は、
『有る!』、――
『鬱怛羅曰』中の、
『人』は、
『吾我』が、
『無い!』が故に、
『楽』に、
『著することがなく!』、
則ち、
『利根でない!』からである。
  鬱怛羅曰(うったらわつ):梵名uttara-kuru。須弥山の周囲の海中に存する四大洲の中、北の大洲を云う。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
劬陀尼弗婆提二處。福德智慧壽命勝閻浮提。何以不得種。 劬陀尼、弗婆提の二処の福徳、智慧、寿命は、閻浮提に勝る。何を以ってか、種うるを得ざる。
『劬陀尼』と、
『弗婆提』との、
『二処』の、
『福徳、智慧、寿命』は、
『閻浮提』に、
『勝っている!』のに、
何故、
『種える!』ことが、
『できない!』のか?
  劬陀尼(くだに):梵名apara-godaaniiya。須弥山の周囲の海中に存する四大洲の中、西の大洲を云う。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
  弗婆提(ふばだい):梵名puurva-videha。須弥山の周囲の海中に存する四大洲の中、東の大洲を云う。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
復次汝言一思種一相。是心彈指頃六十生滅。一心中不住不能分別。云何能種大人相。 復た次ぎに、汝が言わく、『一思に一相を種う。』と。是の心は、弾指の頃に六十生滅あり。一心中に住まらずんば、分別する能わず。云何が、能く大人相を種えん。
復た次ぎに、
お前は、
こう言っている!――
『一思』に、
『一相』を、
『種える!』と。
是の、
『心』は、
『弾指の頃』に、
『六十回』、
『生、滅する!』し、
『思』は、
『一心』中に、
『住まれない!』と、
『分別する!』ことが、
『できない!』。
何故、
『大人』の、
『相』を、
『種える!』ことが、
『できる!』のか?
  弾指頃(だんじのきょう):指を弾く極めて短い間。
此大人相不應不了心得種。以是故多思和合能種一相。如重物一人不能擔。必須多人力。 此の大人相は、応に了せざる心に種うる得べからず。是を以っての故に、多思和合して、能く一相を種うるなり。重き物は、一人にて擔う能わず、必ず多人の力を須(ま)つが如し。
此の、
『大人』の、
『相』は、
『明了でない!』、
『心』に、
『種える!』ことは、
『できない!』。
是の故に、
『多く!』の、
『思』が、
『和合』して、
『一相』を、
『種える!』ことが、
『できる!』のである。
譬えば、
『重い!』、
『物』は、
『一人』で、
『擔(にな)う!』ことが、
『できない!』ので、
必ず、
『多く!』の、
『人』の、
『力』を、
『須()つ!』のである。
  不了(ふりょう):さとらぬ。明らかでない。了解せぬ。
如是種相。要得大心多思和合爾乃得種。以是故名百福相。百大心思種福德是名百福相。不應一思種一相。餘事尚不得一思種一事。何況百福相。 是の如く、相を種うるには、要(かな)らず、大心得て、多思和合して、爾して乃ち種うるを得。是を以っての故に、百福の相と名づく。百の大心と思と、福徳を種うる、是れを百福の相と名づけ、応に一思もて、一相を種うるべからず。余事すら、尚お一思の一事種うるを得ず、何に況んや、百福の相をや。
是のように、
『相』を、
『種える!』には、
要らず、
『大心』を得て、
『多思』と、
『和合』し、
爾のようにして、
ようやく、
『種える!』ことが、
『できる!』ので、
是の故に、
『百福』の、
『相』と、
『称する!』のである。
是の、
『相』は、
『百』の、
『大心』の、
『思』が、
『福徳』を、
『種える!』ので、
『百』の、
『福』の、
『相』と、
『称する!』のであり、
当然、
『一思』で、
『一相』を、
『種えられるはずがない!』。
余の、
『事』すら、
『一思』で、
『一事』を、
『種える!』ことは、
『できない!』、
況して、
『百福』の、
『相』を、
『種えられるはずがない!』のである。
  百福相(ひゃくふくそう):梵語zata-puNya-lakSaNaの訳。百(多く)の福徳を有する相の義。
何以故言釋迦文尼菩薩心未純淑。弟子心純淑。彌勒菩薩心純淑。弟子心未純淑。是語何處說。 何を以っての故にか、言わく、『釈迦文尼菩薩の心は、未だ純淑ならざるに、弟子の心は純淑なり。弥勒菩薩の心は純淑なるも、弟子の心は、未だ純淑ならず。』と。是の語は何処にて説かるる。
何故、
こう言っているのか?――
『釈迦文尼菩薩』の、
『心』は、
未だ、
『純淑でなかった!』が、
『弟子』の、
『心』は、
『純淑であった!』、
『弥勒菩薩』の、
『心』は、
『純淑であった!』が、
『弟子』の、
『心』は、
『純淑ではなかった!』、と。
是の、
『語(はなし)』は、
何処に、
『説かれている!』のか?
  純淑(じゅんしゅく):梵語paripakva?の訳。成熟とも訳す。完成の義。
三藏中摩訶衍中無是事。此言自出汝心。汝但見釋迦文尼菩薩。於寶窟中見弗沙佛七日七夜以一偈讚。彌勒菩薩。亦種種讚弗沙佛。但阿波陀那經中不說。汝所不知 三蔵中にも、摩訶衍中にも、是の事無し。此の言は、自ら汝が心に出でたり。汝は、但だ釈迦文尼菩薩の、宝窟中に於いて、弗沙仏を見、七日七夜一偈を以って讃ずるを見たるのみ。弥勒菩薩も、亦た種種に弗沙仏を讃じたるも、但だ阿波陀那経中に説かざれば、汝が知らざる所なるのみ。
『三蔵』中にも、
『摩訶衍』中にも、
是の、
『事』は、
『無い!』、
此の、
『言(ことば)』は、
自ら、
お前の、
『心』に、
『出た!』のである。
お前は、
但だ、これだけを見た!――
『釈迦文尼菩薩』が、
『宝窟』中に於いて、
『弗沙仏』を、
『見る!』と、
『七日七夜』に、
『一偈』を以って、
『讃じた!』と。
『弥勒菩薩』も、
亦た、
種種に、
『弗沙仏』を、
『讃じた!』が、
但だ、
『阿波陀那経』中に、
『説かれていない!』ので、
お前が、
『知らなかった!』だけなのだ。
  阿波陀那(あぱだな):梵語avadaana。譬喩、或いは解語等と訳す。『大智度論巻22上注:十二部経』参照。
無因緣故。汝便謂彌勒弟子心未純淑。如是皆為違失。 因縁無きが故に、汝は便ち、『弥勒の弟子の心は、未だ純淑ならず。』と謂えり。是の如きは、皆、違失と為す。
『知る!』、
『因縁』が、
『無かった!』が故に、
お前は、
軽々しく、こう謂う、――
『弥勒』の、
『弟子』の、
『心』は、
未だ、
『純淑ではなかった!』、と。
是のようなことは、
皆、
『違失(過失)』である!。
汝言菩薩一切物能施無所愛惜。如尸毘王為鴿故。割肉與鷹心不悔恨 汝が言わく、『菩薩は、一切の物を能く施して、愛惜する所無し。尸毘王の鴿の為の故に、肉を割きて鷹に与うるも、心に悔恨せざるが如し。』と。
お前は、
こう言っている!――
『菩薩』は、
一切の、
『物』を、
『施す!』ことが、
『できる!』ので、
『愛惜する!』所の、
『物』は、
『無い!』、
譬えば、
『尸毘王』が、
『鴿』の為に、
『肉』を割いて、
『鷹』に、
『与えた!』が、
『心』が、
『悔恨しなかった!』のと同じだ、と。
如以財寶布施。是名下布施。以身布施是名中布施。種種施中心不著。是為上布施。 財宝を以って布施するが如きは、是れを下の布施と名づけ、身を以って布施する、是れを中の布施と名づけ、種種の施中に、心の著せざる、是れを上の布施と為す。
例えば、
『財宝』を以って、
『布施する!』のは、
『下』の、
『布施』であり!、
『身』を以って、
『布施する!』のは、
『中』の、
『布施』であり!、
種種に、
『布施する!』中に、
『心』が、
『著さなかった!』ならば、
是れが、
『上』の、
『布施』である!。
汝何以讚中布施。為檀波羅蜜滿。此施心雖大多慈悲。有知智慧。有不知智慧。 汝は、何を以ってか、中の布施を讃じて、檀波羅蜜満てりと為す。此の施の心は大にして、慈悲多しと雖も、有るいは智慧を知り、有るいは智慧を知らざるなり。
お前は、
何故、
『中』の、
『布施』を、
『讃じ!』て、
『檀波羅蜜』が、
『満ちた!』と、
『思う!』のか?
此の、
『施』は、
『心』が、
『大であり!』、
『慈悲』も、
『多い!』が、
而し、
有るいは、
『智慧』を、
『知る!』者であり、
有るいは、
『智慧』を、
『知らない!』者である。
如人為父母親屬不惜身。或為主不惜身。以是故知為鴿不惜身是中布施。 人の、父母、親属の為には身を惜まず、或いは主の為には身を惜まず。是を以っての故に知る、鴿の為に身を惜まざるは、是れ中の布施なりと。
例えば、
『人』は、
『父母』や、
『親属』の為ならば、
『身』を、
『惜まない!』し、
或いは、
『主』の為ならば、
『身』を、
『惜まない!』。
是の故に、
こう知る!――
『鴿』の為に、
『身』を、
『惜まない!』、
是れは、
『中』の、
『布施である!』、と。
問曰菩薩為一切眾生為父母為主者。為一切人故。以是故。非直不惜身為檀波羅蜜滿。 問うて曰く、菩薩の一切の衆生の為、父母の為、主の為とは、一切の人の為の故なり。是を以っての故に、直だ身を惜まざるを、檀波羅蜜満つと為すに非ず。
問い、
『菩薩』の、
一切の、
『衆生の為』、
『父母の為』、
『主の為』とは、
一切の、
『人』の、
『為だから!』です。
是の故に、
直()だ、
『身』を、
『惜まない!』ことを以って、
『檀波羅蜜』が、
『満ちた!』と、
『言うのではありません!』、。
答曰。雖為一切眾生。是心不清淨。不知己身無吾我。不知取者無人無主。不知所施物實性不可說一不可說異。於是三事心著是為不清淨。 答えて曰く、一切の衆生の為なりと雖も、是の心は清浄ならず。己身に吾我無きを知らず、取者に人無く、主無きことを知らず、施す所の物と、実性とは一と説くべからず、異と説くべからざるを知らず、是の三事に於いて、心著する、是れを不清浄と為す。
答え、
一切の、
『衆生の為』であっても、
是の、
『心』は、
『清浄でない!』。
何故ならば、
『己身』には、
『吾我』が、
『無い!』ことを、
『知らず!』、
『取者』には、
『人』も、
『主』も、
『無い!』ことを、
『知らず!』、
『施す!』所の、
『物』と、
『実性』とは、
『一』とも、
『異』とも、
『説くことができない!』ことを、
『知らない!』からであり、
是の、
『三事』に、
『心』が、
『著する!』が故に、
是れを、
『清浄でない!』と、
『言う!』のである。
於世界中得福德報。不能直至佛道。如說般若波羅蜜中。三事不可得亦不著。是為具足檀波羅蜜滿。如是乃至般若波羅蜜 世界中に於いて、福徳の報を得るも、直ちに仏道に至る能わず。般若波羅蜜中に、『三事は得べからず、亦た著せず、是れを檀波羅蜜を具足して、満つと為す。是の如く、乃至般若波羅蜜までなり。』と説くが如し。
『世界(世間)』中に、
『福徳』の、
『報』を、
『得た!』としても、
直ちに、
『仏』の、
『道』に、
『至るのではない!』。
『般若波羅蜜』中に、
こう説く通りである、――
『三事』は、
『得られない!』ので、
『著さない!』、
是れを、
『檀波羅蜜』が、
『具足』して、
『満ちる!』といい、
是のように、
乃至、
『般若波羅蜜』まで、
『具足』して、
『満ちる!』ことである、と。
能分別大地城郭聚落作七分。是為般若波羅蜜滿。 能く大地、城郭、聚落を分別して、七分と作す、是れを般若波羅蜜満つと為すとは、
『大地』や、
『城郭』、
『聚落』を、
『分別』して、
『七分』と、
『作す!』ことが、
『できる!』ならば、
是れを、
『般若波羅蜜』が、
『満ちる!』と、
『称する!』とは、――
是般若波羅蜜無量無邊如大海水。諸天聖人阿羅漢辟支佛乃至初行菩薩。尚不能知其邊涯。十地住菩薩乃能知。云何汝言能分大地城郭聚落作七分。是名般若波羅蜜滿。 是の般若波羅蜜は、無量無辺なること、大海水の如し。諸天、聖人、阿羅漢、辟支仏、乃至初行の菩薩すら、尚お其の辺涯を知る能わず。十地に住する菩薩にして、乃ち能く知る。云何が、汝は言う、『能く大地、城郭、聚落を分けて、七分と作す、是れを般若波羅蜜満つと名づく。』と。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『大海水』のように、
『無量』であり!、
『無辺』である!。
諸の、
『天、聖人、阿羅漢、辟支仏、乃至初行の菩薩』すら、
尚お、
其の、
『辺涯(はて)』を、
『知る!』ことは、
『できない!』、
『十地(十住)』に、
『住する!』、
『菩薩』のみが、
ようやく、
『知る!』ことが、
『できる!』のである。
何故、
お前は、
こう言っている!のか?――
『大地』や、
『城郭』、
『聚落』を分けて、
『七分』と、
『作す!』ことが、
『できる!』ならば、
是れを、
『般若波羅蜜』が、
『満ちる!』と、
『称する!』、と。
是事是算數法能分地。是世俗般若波羅蜜中少許分。譬如大海水中一渧兩渧。 是の事は、是れ算数の法なり。能く地を分つは、是れ世俗の般若波羅蜜中の少許の分なり。譬えば大海の水中の一渧、両渧なり。
是の、
『事』は、
『算数』の、
『法』である!。
『地』を、
『分ける!』ことが、
『できる!』というのは、
是れは、
『世俗』の、
『般若波羅蜜』の、
『少し許り!』の、
『分』であり!、
譬えば、
『大海』の、
『水』の中の、
『一滴!』か、
『二滴!』である。
實般若波羅蜜名三世諸佛母。能示一切法實相。 実の般若波羅蜜を、三世の諸仏の母にして、能く一切法の実相を示すと名づく。
実の、
『般若波羅蜜』は、
『三世』の、
諸の、
『仏』の、
『母』であり!、
一切の、
『法』の、
『実相』を、
『示す!』ものである。
是般若波羅蜜無來處無去處。一切處求不可得。如幻如響如水中月見便失。諸聖人憐愍故。雖一相以種種名字說是般若波羅蜜諸佛智慧寶藏。汝言大失。 是の般若波羅蜜は、来処無く、去処無く、一切処に求めて得べからざること、幻の如く、響の如く、水中の月の如く、見れば便ち失う。諸の聖人の、憐愍したもうが故に、一相なりと雖も、種種の名字を以って、『是の般若波羅蜜は、諸仏の智慧の宝蔵なり。』と説きたまえば、汝が言は、大失なり。
是の、
『般若波羅蜜』には、
『来処』も、
『去処』も、
『無く!』、
一切の、
『処』に、
『求めた!』としても、
『得られない!』。
譬えば、
『幻』か、
『響』か、
『水』中の、
『月』のように、
『見えた!』とたんに、
『見失う!』のであるが、
諸の、
『聖人』は、
『衆生』を、
『憐愍される!』ので、
故に、
『一相』ではある!が、
種種の、
『名字』を以って、
こう説かれる!――
是の、
『般若波羅蜜』は、
諸の、
『仏』の、
『智慧』の、
『宝蔵である!』と。
是の故に、
お前の、
『言(ことば)』は、
『大失(大間違い)』である!。
汝言四種觀。觀時觀土地觀種族觀生處。人壽八萬歲佛出世。七六五四三二萬歲中佛出世。人壽百歲是佛出世時。 汝が言わく、『四種に観るとは、時を観る、土地を観る、種族を観る、生処を観るなり。人寿八万歳に仏は出世したまい、七六五四三に万歳中に仏は出世したまい、人寿百歳は、是れ仏の出世したもう時なり。』と。
お前は、
こう言っている!――
『四種』に、
『観察される!』、
所謂、
『時』、
『土地』、
『種族』、
『生処』を、
『観察される!』。
『人寿』が、
『八万歳』の時、
『仏』は、
『世』に、
『出られる!』、
『七、六、五、四、三、二万歳』中にも、
『仏』は、
『世』に、
『出られる!』、
『人寿』が、
『百歳』の時にも、
『仏』は、
『世』に、
『出られる!』と。
若諸佛常憐愍眾生。何以正八種時中出世。餘時不出。 若し諸仏は、常に衆生を憐愍したまわば、何を以ってか、正に八種の時中にのみ、出世したまい、余の時には出でたまわざる。
若し、
諸の、
『仏』が、
常に、
『衆生』を、
『憐愍される!』のであれば、
何故、
正しく、
『八種』の、
『時』の中にのみ、
『世』に、
『出られる!』が、
『余の時』には、
『出られない!』のか?
佛法不待時。如好藥服時便差病。佛法亦如是不待時。 仏法は時を待たず。好薬を服する時、便ち病を差(いや)すが如く、仏法も亦た、是の如く時を待たず。
『仏』の、
『法』は、
『時』を、
『待たない!』。
譬えば、
『好薬』は、
『服用した!』時には、
もう、
『病』を、
『癒している!』が、
『仏』の、
『法』も、
亦た、
是のように、
『時』を、
『待たない!』のである。
問曰。雖菩薩憐愍眾生諸佛不待時。過八萬歲人長壽多樂。染愛等結使厚。根鈍非可化時。若百歲後時人短壽苦多瞋恚等諸結使更厚。此樂時苦。時非得道時以是故佛不出世。 問うて曰く、菩薩は、衆生を憐愍し、諸仏は時を待たずと雖も、八万歳を過ぎたる人は、長寿にして、楽多く、染愛等の結使厚く、根鈍なれば、化すべき時に非ず。若し百歳より、後の時の人なれば、短寿にして、苦多く、瞋恚等の諸の結使も更に厚し。此の楽の時も、苦の時も、道を得る時に非ず。是を以っての故に、仏は世に出でたまわざるなり。
問い、
『菩薩』が、
『衆生』を、
『憐愍』し、
諸の、
『仏』は、
『時』を、
『待たれない!』としても、
『八万歳』を、
『過ぎた!』時の、
『人』は、
『長寿』であり、
『楽』が、
『多い!』ので、
『染愛』等の、
『結使』が、
『厚く! 』、
『根』が、
『鈍っている!』、
是の故に、
是れは、
『化すべき!』、
『時でない!』し、
若し、
『百歳』よりも、
『後』の時の、
『人』ならば、
『短寿』であり、
『苦』が、
『多い!』ので、
『瞋恚』等の、
諸の、
『結使』が、
『更に厚い!』。
此の、
『楽』の時も、
『苦』の時も、
『道』を、
『得る!』ような、
『時でない!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『世』に、
『出られない!』のです。
  :人寿は劫が移るごとに変化して十歳より、八万歳に至ると為すの説。『大智度論巻2上注:劫』参照。
答曰。諸天壽出千萬歲。有先世因緣。雖多樂染愛厚能得道。何況人中不大樂。 答えて曰く、諸の天寿は、千万歳を出づるも、先世の因縁有れば、楽多く、染愛厚しと雖も、能く道を得。何に況んや、人中の大ならざる楽をや。
答え、
諸の、
『天』は、
『寿』が、
『千万歳』を、
『過ぎる!』が、
『先世』の、
『因縁』が有り、
『楽』が、
『多く!』て、
『染愛』が、
『厚い!』のに、
『道』を、
『得る!』ことが、
『できる!』、
況して、
『人』中の、
『大きくもない!』、
『楽』などに、
『妨げられようか!』。
三十六種不淨易可教化。以是故人壽過八萬歲佛應出世。是中人無病心樂故。人皆利根福德。福德利根故應易得道。 三十六種の不浄は、易(たやす)く教化すべし。是を以っての故に、人寿は八万歳を過ぎても、仏は応に出世したもうべし。是の中の人は、病無く、心楽しむが故に、人は、皆利根にして福徳あり。福徳と利根との故に、応に易く道を得べし。
『人』は、
『三十六種』の、
『不浄物』を、
『有する!』が故に、
易(たやす)く、
『教化』でき、
『道』を、
『求めさせられる!』ので、
是の故に、
『人寿』が、
『八万歳』を、
『過ぎ!』ても、
『仏』は、
『世』に、
『出られるはず!』である。
是の中の、
『人』には、
『病』が、
『無く!』、
『心』が、
『楽しむ!』が故に、
『人』は、
皆、
『利根』であり!、
『福徳』がある!。
『福徳』と、
『利根』の故に、
『道』を、
『得る!』ことも、
『易しいはず!』である。
  三十六種不浄(さんじゅうろくしゅふじょう):人中に三十六種の不浄物充満せるを云う。即ち(1)髪、(2)毛、(3)爪、(4)歯、(5)眵(めやに)、(6)涙、(7)涎、(8)唾、(9)屎(くそ)、(10)溺(いばり)、(11)垢、(12)汗、(13)皮、(14)膚(はだ)、(15)血、(16)肉、(17)筋、(18)脈、(19)骨、(20)髄、(21)肪(あぶら)、(22)膏(あぶら)、(23)脳、(24)膜、(25)肝、(26)胆、(27)腸、(28)胃、(29)脾、(30)腎、(31)心、(32)肺、(33)生蔵、(34)熟蔵、(35)赤痰、(36)白痰なり。<(丁)『大智度論巻21上注:三十六物』参照。
復次師子鼓音王佛時。人壽十萬歲。明王佛時。人壽七百阿僧祇劫。阿彌陀佛時人壽無量阿僧祇劫。汝云何言過八萬歲佛不出世。 復た次ぎに、師子鼓音王仏の時、人寿は十万歳なり。明王仏の時、人寿は七百阿僧祇劫なり。阿弥陀仏の時、人寿は無量阿僧祇劫なり。汝は、云何が、『八万歳を過ぐれば、仏は出世せず。』と言える。
復た次ぎに、
『師子鼓音王仏』の時、
『人寿』は、
『十万歳』である!。
『明王仏』の時、
『人寿』は、
『七百阿僧祇劫』である!。
『阿弥陀仏』の時、
『人寿』は、
『無量阿僧祇劫』である!。
お前は、
何故、こう言うのか?――
『八万歳』を、
『過ぎる!』と、
『仏』は、
『世』に、
『出られない!』、と。
  師子鼓音王仏(ししくおんのうぶつ):師子鼓音王は梵名siMha-dundubhisvara-raajaの訳。
  明王仏(みょうおうぶつ):明王は梵名aaloka-raajaの訳。
  阿弥陀仏(あみだぶつ):梵名amita-buddha。西方極楽浄土の教主。『大智度論巻21下注:阿弥陀仏』参照。
問曰。摩訶衍經有此事。我法中無十方佛。唯過去釋迦文尼拘陳若等一百佛。未來彌勒等五百佛。 問うて曰く、摩訶衍経には、此の事有るも、我が法中には十方の仏無し。唯だ過去の釈迦文尼、拘陳若等の一百の仏、未来の弥勒等の五百の仏あり。
問い、
『摩訶衍経』には、
此の、
『事』が、
『有る!』が、
わたしの、
『法』中には、
『十方の仏』は、
『無い!』。
唯だ、
『過去』の、
『釈迦文尼』、
『拘陳若』等の、
『一百仏』と、
『未来』の、
『弥勒』等の、
『五百仏』とが、
『有る!』のみです。
  拘陳若(くちんにゃ):梵名krakucchanda。過去七仏の第四、賢劫千仏の第一仏なり。『大智度論巻4下注:拘楼孫仏』参照。
  拘楼孫仏(くるそんぶつ):梵名krakucchandha-buddha。巴梨名kakusandha-buddha、又迦羅鳩孫陀、迦羅鳩飡陀、迦羅迦孫提、迦羅迦村駄、羯洛迦孫駄、羯羅迦寸陀、羯羅迦寸地、覚礫拘荀大、羯句忖那、拘留孫、拘屢孫、俱留孫、迦鳩留、拘珊提、鳩留秦、拘楼等に作る。領持、滅累、所応断已断、成就美妙等と訳す。過去七仏の第四。賢劫千仏の第一仏なり。「長阿含巻1大本経」に依るに、此の賢劫中に於いて拘楼孫出世し、其の時人寿四万歳なり。姓は迦葉kassapa、父は祀得aggidattaと称し、婆羅門種なり。母を善枝visaakhaa、子を上勝、時の王を安和khema、其の所治の城を安和城khemavatiiと名づけ、尸利沙siriisa樹下に於いて成仏し、一会説法に四万人を度す。其の中、主なるものは毘楼vidhura及び薩尼saJjiivaの二人にして、侍者を善覚buddhijaと名づくと云い、又「七仏経」には、賢劫の第六劫に於いて俱留孫仏出世すとし、父を野倪也那多、母を尾舎佉、時の王を刹謨刹摩、所治の城を刹摩、首位の弟子を散爾嚩、侍者を没提輸と名づくと云い、「増一阿含経巻45」には姓は迦葉、人寿五万歳の時出世し、弟子は八万人、吉祥を侍者とすと云い、「七仏父母姓字経」には、父を阿枝違兜、母を随舎迦、子を鬱多羅、時の王を須訶提王、所治の国を輪訶唎提那、弟子を僧耆と維留、侍者を浮提と名づくと云い、又「四分律比丘戒本」には、拘楼孫仏は「譬如蜂採華、不壊色与香、但取其味去、比丘入聚然、不違戾他事、不観作不作、但自観身行、若正若不正」の戒経を説けりと云えり。遺蹟に関し、「高僧法顕伝」には、舎衛城の東南十二由旬にして那毘伽naabhika邑に到る、是れ拘楼秦仏の所生の処、父子相見の処、般泥洹の処、亦皆塔を起つと云い、「大唐西域記巻6室羅伐悉底国の條」に、「城南行くこと五十余里にして故城に至る。窣堵波あり。是れ賢劫中人寿六万歳の時、迦羅迦村駄仏の本生の城なり。城南遠からず窣堵波あり、正覚を成じ已りて父に見えしの処なり。城の東南の窣堵波には彼の如来遺身の舎利あり、前に石柱を建つ。高さ三十余尺、上に師子の像を刻し、傍ら寂滅の事を記す。無憂王の建つるところなり」と云えり。之に依るに古くより遺蹟の崇拜行われたるを知るも、今はその跡を存せず。又「増一阿含経巻15、34」、「出曜経巻2」、「中阿含巻30降魔経」、「七仏讃唄伽他」、「賢劫経巻7」、「観仏三昧海経巻10」、「阿育王経巻4」、「仏名経巻8」、「大集地蔵十輪経巻7」、「新華厳経巻73」、「大智度論巻9」、「翻梵語巻1」、「慧苑音義巻上、下」、「慧琳音義巻18、23、26」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
答曰。摩訶衍論中種種因緣。說三世十方佛。何以故。十方世界有老病死婬怒癡等諸苦惱。以是故佛應出其國。 答えて曰く、摩訶衍の論中には種種の因縁もて、三世十方の仏を説けり。何を以っての故に、十方の世界に、老病死、婬怒癡等の諸の苦悩有れば、是を以っての故に、仏は応に其の国に出でたもうべし。
答え、
『摩訶衍』の、
『論』中の、
種種の、
『因縁』は、
『三世、十方』の、
『仏』を、
『説いている!』。
何故ならば、
『十方』の、
『世界』には、
『老病死』や、
『婬怒癡』等の、
諸の、
『苦悩』が、
『有る!』からであり、
是の故に、
当然、
『仏』は、
其の、
『国』に、
『出られるべき!』だからである。
如經中說。無老病死煩惱者諸佛則不出世。 経中に説くが如し、『老病死、煩悩無くんば、諸仏は則ち出世したまわず。』と。
例えば、
『経』の中には、
こう説かれている、――
若し、
『老病死』や、
『煩悩』が、
『無かった!』ならば、
諸の、
『仏』は、
『世』に、
『出ない!』、と。
  参考:『別訳雑阿含経巻4(67)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時波斯匿王。於閑靜處。作是思惟。世有三法。一者可憎。二不可愛。三不可追念。何謂可憎。所謂老也。何謂不可愛。所謂病也。何謂不可追念。所謂死也。波斯匿王。思惟是已。即從坐起。往詣佛所。頂禮佛已。在一面坐。白佛言。世尊。我於靜處。作是思惟世有三法。一者可憎二者不可愛。三者不可追念。何謂可憎。所謂老也。何謂不可愛。所謂病也。何謂不可追念。所謂死也。佛告王曰。如是如是。此三種法。實如王言。佛言大王。世間若無此三佛不出世。亦不說法。以有此三故。佛出世為眾說法。爾時世尊。即說偈言 王車嚴飾盛  莊挍甚奇妙  久故色毀敗  如身必歸老  實法無衰老  展轉相付故  咄哉老賊惡  端正殊妙色  汝能壞敗也  設壽滿百年  必入于死徑  病來奪其力  老將付與死  是故常樂禪  撿心勤精進  了知生邊際  勝彼魔軍眾  度有生死岸  佛說是已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次多病人應有多藥師。汝等聲聞法。長阿含中。毘沙門王以偈白佛
 稽首去來現在諸佛 
 亦復歸命釋迦文佛
復た次ぎに、病人多くんば、応に多くの薬師有るべし。汝等が声聞法の長阿含中に、毘沙門王の偈を以って仏に白さく、
去、来、現在の諸仏に稽首す、
亦復た、釈迦文仏に帰命す。
復た次ぎに、
『病人』が、
『多い!』ということは、
当然、
『薬師』も、
『多く!』、
『有るはず!』である。
お前たちの、
『声聞法』の、
『長阿含』中に、
『毘沙門王』が、
『偈』を以って、
『仏』に、こう白している!――
『過去』と、
『未来』と、
『現在』の、
諸の、
『仏』に、
『稽首』します!。
亦た、
更に、
『釈迦文仏』には、
『帰命』します!、と。
汝經說過去未來現在諸佛言稽首。釋迦文尼佛言歸命。以此故知。現在有餘佛。若無餘國佛。何以故。前稽首三世佛。後別歸命釋迦文尼佛。 汝が経には説かく、過去、未来、現在の諸仏には、『稽首』と言い、釈迦文仏には、『帰命』と言う。此を以っての故に知る、現在にも余の仏有り、と。若し余の国の仏無くんば、何を以っての故にか、前に三世の仏に稽首し、後に別して、釈迦文尼仏に帰命する。
お前の、
『経』に説かれている!が――
『過去、未来、現在』の、
『諸仏』には、
『稽首します!』と、
『言いながら!』、
更に、
『釈迦文尼仏』には、
『帰命します!』と、
『言っている!』。
此の故に、
こう知ることになる!――
『現在』には、
『釈迦文尼仏』以外の、
余の、
『仏』が、
『有る!』と。
若し、
余の、
『国』の、
『仏』が、
『無かった!』ならば、
何故、
前に、
『三世』の、
『仏』に、
『稽首した!』のに、
後に、
『別に!』、
『釈迦文尼仏』に、
『帰命する!』のか?
  毘沙門王(びしゃもんおう):毘沙門天の主。毘沙門は梵にvaizravaNaに作り、多聞天と訳す。又拘毘羅kuveraとも称す。四天王中、西方に位する天を云う。『大智度論巻26下注:四天王』参照。
  帰命(きみょう):梵語南無namasの訳。巴梨namo、凡そ三義有り、一には身命を仏に帰趣する義、二には仏の教命に帰順する義、三には命根を一心の本元に還帰する義なり。総じて信心の至極なるを表する詞なり。<(望)或いは帰依(梵zaraNa)の義なるが如し。『大智度論巻4下注:帰依』参照。
  帰依(きえ):梵語zaraNaの訳。巴梨語saraNa、帰投依憑して救護を請うの意。又単に帰とも云う。其の語義に関しては、「大毘婆沙論巻34」に、「救護の義は是れ帰依の義なり」と云い、「倶舎論巻14」に、「帰依は救済を義とす。彼れを依とするに依りて、能く永く一切の苦を解脱するが故なり」と云い、又「法界次第初門巻上之下帰依仏の釈」には、「帰とは反還を以って義となす。邪師に反して還って正師に事う、故に帰と名づく。依とは憑なり。心の霊覚に憑りて三塗及び三界生死を出づることを得るなり」と云えり。「大毘婆沙論巻34」に契経の義を挙げ、「衆人は怖に逼らるれば、多く諸山園苑及び叢林、孤樹制多等に帰依す。此の帰依は勝に非ず、此の帰依は尊に非ず。此の帰依に因りて能く衆苦を解脱せず。諸の仏に帰依し、及び法僧に帰依することあらば、四聖諦の中に於いて、恒に慧を以って観察して、苦を知り苦の集を知り、長く衆苦を超ゆることを知り、八支聖道を知り、安隠の涅槃に趣く。此の帰依は最勝なり、此の帰依は最尊なり。必ず此の帰依に因りて能く衆苦を解脱す」と云い、又「大般涅槃経巻5」に、「解脱は即ち是れ帰処なり。若し是の如きの解脱に帰依することありて、余の依を求めざるは、譬えば人あり王に依恃して余の依を求めざるが如し。復王に依ると雖も則ち動転あり、解脱に依らば動転あることなし」と云えり。是れ仏法僧の三宝を以って真の所帰依となすべきを説けるものなり。又「大毘婆沙論巻34」に能帰依の体に関し諸説を挙げ有説は名等を以って能帰依とし、有説は語業とし、有説は亦身業なりとし、有説は是れ信なりとし、如是説者は身語業及び能く彼を起す心心所法并びに諸の随行、是の如き等の五蘊を能帰依の体となすと云えり。又「大乗法苑義林章巻4本」には、帰依を敬礼に対望して七種の異ありとし、一に帰依は唯だ重に拠りて身語に局り、二に具に三宝に帰するが故に境広く、三に言を発して必ず未来際を尽くし、四に情懇にし表と無表とに通じ、五に必ず身語を合するが故に義重く、六に相を帯ぶるが故に唯欲色二界に局り、七に真理を観じて而も亦成ずるが故に義勝ると云えり。<(望)
  稽首(けいしゅ):首を地に至らしむるの意。また稽首礼とも称す。即ち身業の恭敬にして、頭を屈して地に至らしむる礼儀を云う。帰命と稽首との別に関し、「大智度論巻4」に、「この王は未だ欲を離れず、釈迦文尼所得の道に在りて敬愛の心重きが故に帰命し、余仏の所に於いては直だ稽首す」と云えり。これ帰命は重く、稽首は軽しとなすの説なり。また「大乗起信論義記巻上」にもこれに関し、「通じて論ずれば皆三業を具す。別して分かてば稽首は身に属し、帰命はこれ意なり。三業の中には意業を重しと為す」と云えり。<(望)
  参考:『仏説毘沙門天王経』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時毘沙門天王。與百千無數藥叉眷屬。於初夜分俱來佛所。放大光明照祇陀園一切境界。五體投地禮世尊足。住立一面合掌向佛以偈讚曰 歸命大無畏  正覺二足尊  諸天以天眼  觀我無所見  過現未來佛  三世慈悲主  一一正遍知  我今歸命禮 爾時毘沙門天王說此偈已。白佛言世尊。有諸聲聞苾芻苾芻尼優婆塞優婆夷。或於曠野林間樹下經行坐臥。我此藥叉非人之類。有信佛言者有少信之者。復有無數諸惡藥叉不信佛言。惱亂有情令不安隱。善哉世尊所有阿吒曩胝經能為明護。若有苾芻苾芻尼優婆塞優婆夷及諸天人。受持讀誦禮敬供養廣為人說。皆能衛護為作吉祥。爾時會中有諸正信藥叉之眾。合掌白言。唯願天王說此經典我等樂聞。時毘沙門天王默然受請。即向佛前頭面禮足。承佛威神告藥叉言。今此經典若有所得宣布流通。能除眾生一切煩惱。是故我今歸依頂禮』
  稽首(けいしゅ):梵語には伴談(vandana)といい、或は伴提(vandi)といい、訳して稽首という。即ち、頭を下くして地に至るなり。<(丁)
  帰命(きみょう):梵語には南無(namas)といい、訳して帰命という。即ち三義有り、(一)身命を仏に帰趣すの義、(二)仏の教命に帰順すの義、(三)命根の一心の本元に還帰する義なり。総じて信心の至極なるを表すことばなり。<(丁)
此王未離欲在釋迦文尼所得道敬愛心重故歸命。於餘佛所直稽首。 此の王は、未だ欲を離れず、釈迦文尼の所に在りて、道を得れば、敬愛の心重きが故に帰命し、余の仏の所に於いては、直(た)だ稽首せり。
此の、
『毘沙門王』は、
未だ、
『欲』を、
『離れず!』、
『釈迦文尼仏』のもとに、
『道』を、
『得た!』ので、
『敬愛』の、
『心』が、
『重い!』が故に、
『帰命する!』のであり、
余の、
『仏』には、
『直()だ!』、
『稽首する!』のである。
問曰。佛口說。一世間無一時二佛出。亦不得一時二轉輪王出。以是故。不應現在有餘佛。 問うて曰く、仏の口に説かく、『一世間には、一時に二仏の出づる無く、亦た一時に二転輪王の出づるを得ず。』と。是を以っての故に、応に現在に余の仏有るべからず。
問い、
『仏』の、
『口』は、こう説いている、――
『一世間』には、
『一時』に、
『二仏』の、
『出る!』ことは、
『無い!』、
亦た、
『一時』に、
『二転輪王』の、
『出る!』ことも、
『有得ない!』と。
是の故に、
『現在』に、
余の、
『仏』の、
『有るはずがない!』のです。
  参考:『中阿含巻47多界経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。尊者阿難獨安靖處宴坐思惟。心作是念。諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。於是。尊者阿難則於晡時。從宴坐起。往詣佛所。稽首佛足。卻住一面。白曰。世尊。我今獨安靖處宴坐思惟。心作是念。諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。世尊告曰。如是。阿難。如是。阿難。諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。猶如從葦[卄/積]草[卄/積]生火。燒樓閣堂屋阿難。如是諸有恐怖。從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。昔過去時若有恐怖。彼一切亦從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。當來時諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。今現在諸有恐怖。從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。是為愚癡有恐怖。智慧無恐怖。愚癡有遭事.災患.憂慼。智慧無遭事.災患.憂慼。阿難。諸有恐怖.遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡可得。不從智慧。於是。尊者阿難悲泣淚出。叉手向佛。白曰。世尊。云何比丘愚癡非智慧。世尊答曰。阿難。若有比丘不知界。不知處。不知因緣。不知是處.非處者。阿難。如是比丘愚癡非智慧。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘愚癡非智慧。世尊。云何比丘智慧非愚癡。世尊答曰。阿難。若有比丘知界.知處.知因緣。知是處.非處者。阿難。如是比丘智慧非愚癡。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘智慧非愚癡。世尊。云何比丘知界。世尊答曰。阿難。若有比丘見十八界知如真。眼界.色界.眼識界。耳界.聲界.耳識界.鼻界.香界.鼻識界。舌界.味界.舌識界。身界.觸界.身識界。意界.法界.意識界。阿難。見此十八界知如真。復次。阿難。見六界知如真。地界.水界.火界.風界.空界.識界。阿難。見此六界知如真。復次。阿難。見六界知如真。欲界.恚界.害界。無欲界.無恚界.無害界。阿難。見此六界知如真。復次。阿難。見六界知如真。樂界.苦界.喜界.憂界.捨界無明界。阿難。見此六界知如真。復次。阿難。見四界知如真。覺界.想界.行界.識界。阿難。見此四界知如真。復次。阿難。見三界知如真。欲界.色界.無色界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。色界.無色界.滅界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。過去界.未來界.現在界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。妙界.不妙界.中界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。善界.不善界.無記界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。學界.無學界.非學非無學界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見二界知如真。有漏界.無漏界。阿難。見此二界知如真。復次。阿難。見二界知如真。有為界.無為界.阿難。見此二界知如真。阿難。見此六十二界知如真。阿難。如是比丘知界。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知界。世尊。云何比丘知處。世尊答曰。阿難。若有比丘見十二處知如真。眼處.色處。耳處.聲處。鼻處.香處。舌處.味處。身處.觸處。意處.法處。阿難。見此十二處知如真。阿難。如是比丘知處。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知處。云何比丘知因緣。世尊答曰。阿難。若有比丘見因緣及從因緣起知如真。因此有彼。無此無彼。此生彼生。此滅彼滅。謂緣無明有行乃至緣生有老死。若無明滅則行滅。乃至生滅則老死滅。阿難。如是比丘知因緣。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知因緣。云何比丘知是處.非處。世尊答曰。阿難。若有比丘見處是處知如真。見非處是非處知如真。阿難。若世中有二轉輪王並治者。終無是處。若世中有一轉輪王治者。必有是處。阿難。若世中有二如來者。終無是處。若世中有一如來者。必有是處。阿難。若見諦人故害父母。殺阿羅訶。破壞聖眾。惡心向佛。出如來血者。終無是處。若凡夫人故害父母。殺阿羅訶。破壞聖眾。惡心向佛。出如來血者。必有是處。阿難。若見諦人故犯戒。捨戒罷道者。終無是處。若凡夫人故犯戒。捨戒罷道者。必有是處。若見諦人捨離此內。從外求尊.求福田者。終無是處。若凡夫人捨離此內。從外求尊.求福田者。必有是處。阿難。若見諦人從餘沙門.梵志作是說諸尊。可見則見。可知則知者。終無是處。若凡夫人從餘沙門.梵志作是說諸尊。可見則見。可知則知者。必有是處。阿難。若見諦人信卜問吉凶者。終無是處。若凡夫人信卜問吉凶者。必有是處。阿難。若見諦人從餘沙門.梵志卜問吉凶相應。見有苦有煩。見是真者。終無是處。若凡夫人從餘沙門.梵志卜問吉凶相應。見有苦有煩。見是真者。必有是處。阿難。若見諦人生極苦甚重苦。不可愛.不可樂.不可思.不可念乃至斷命。捨離此內。更從外求。或有沙門.梵志。或持一句咒。二句.三句.四句.多句.百千句咒。令脫我苦。是求苦.習苦.趣苦.苦盡者。終無是處。若凡夫人捨離此內。更從外求。或有沙門.梵志持一句咒。二句.三句.四句.多句.百千句咒。令脫我苦。是求苦.習苦.趣苦.苦盡者。必有是處。阿難。若見諦人受八有者。終無是處。若凡夫人受八有者。必有是處。阿難。若身惡行。口.意惡行。因此緣此。身壞命終。趣至善處。生於天中者。終無是處。若身惡行。口.意惡行。因此緣此。身壞命終。趣至惡處。生地獄中者。必有是處。阿難。若身妙行。口.意妙行。因此緣此。身壞命終。趣至惡處。生地獄中者。終無是處。若身妙行。口.意妙行。因此緣此。身壞命終。趣至善處。生天中者。必有是處。阿難。若身惡行。口.意惡行。受樂報者。終無是處。阿難。若身惡行。口.意惡行。受苦報者。必有是處。阿難。若身妙行。口.意妙行。受苦報者。終無是處。若身妙行。口.意妙行。受樂報者。必有是處。阿難。若不斷五蓋心穢.慧羸。心正立四念處者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處者。必有是處。阿難。若不斷五蓋.心穢.慧羸。心不正立四念處。欲修七覺意者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處。修七覺意者。必有是處。阿難。若不斷五蓋.心穢.慧羸。心不正立四念處。不修七覺意。欲得無上正盡覺者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處。修七覺意。得無上正盡覺者。必有是處。阿難。若不斷五蓋.心穢.慧羸。心不正立四念處。不修七覺意。不得無上正盡覺。盡苦邊者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處。修七覺意。得無上正盡覺。盡苦邊者。必有是處。阿難。如是比丘知是處.非處。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知是處.非處。於是。尊者阿難叉手向佛。白曰。世尊。此經名何。云何奉持。世尊告曰。阿難。當受持此多界.法界.甘露界.多鼓.法鼓.甘露鼓.法鏡.四品。是故稱此經名曰多界。佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰。雖有此言汝不解其義。佛說一三千大千世界中。無一時二佛出。非謂十方世界無現在佛也。 答えて曰く、此の言有りと雖も、汝は其の義を解せず。仏の説きたまわく、『一三千大千世界中に、一時に二仏の出づる無し。』と。十方の世界に、現在の仏無しと謂うに非ず。
答え、
此の、
『言(ことば)』は、
『有った!』としても、
お前は、
其の、
『義(意味)』を、
『解っていない!』。
『仏』は、
『一』の、
『三千大千世界』中には、
『一時』に、
『二仏』は、
『無い!』と、
『説かれた!』のであり、
『十方』の、
『世界』には、
『現在』の、
『仏』が、
『無い!』と、
『謂われたのではない!』のである。
如四天下世界中。無一時二轉輪聖王出。此大福德人無怨敵共世故。以是故。四天下一轉輪聖王。 四天下の世界中に、一時に二転輪聖王の出づる無きが如きは、此の大福徳の人は、怨敵の世を共にする無きが故に、是を以っての故に、四天下に一転輪聖王なり。
『四天下』の、
『世界』中に、
『一時』に、
『二転輪聖王』の、
『出る!』ことが、
『無い!』というのは、
此の、
『大福徳』の、
『人』には、
『怨敵』が、
『世』を、
『共にする!』ことが、
『無い!』からである。
是の故に、
『四天下』には、
『一人』の、
『転輪聖王』なのである。
佛亦如是。於三千大千世界中亦無二佛出。佛及轉輪聖王經說一種。汝何以信餘四天下。更有轉輪聖王。而不信餘三千大千世界中更有佛。 仏も、亦た是の如く、三千大千世界中に於いては、亦た二仏の出づること無し。仏、及び転輪聖王は、経に説くこと一種なり。汝は、何を以ってか、余の四天下には、更に転輪聖王有るを信じ、余の三千大千世界中に、更に仏有るを信ぜざる。
『仏』も、
亦た、
是のように、
『三千大千世界』中に、
『二仏』が、
『出られる!』ことは、
『無い!』のである。
『仏』と、
『転輪聖王』とを、
『経』中には、
『一種』として、
『説いている!』のである。
お前は、
何故、
余の、
『四天下』に、
更に、
『転輪聖王』が、
『有る!』のを、
『信じ!』、
余の、
『三千大千世界』中に、
更に、
『仏』が、
『有る!』ことを、
『信じない!』のか?
復次一佛不能得度一切眾生。若一佛能度一切眾生者。可不須餘佛。但一佛出。 復た次ぎに、一仏は、一切の衆生を度を得しむる能わず。若し一仏にして、能く一切の衆生を度せば、余の仏を須(ま)たずして、但だ一仏のみ出づるべし。
復た次ぎに、
『一仏』のみでは、
『一切』の、
『衆生』に、
『度』を、
『得させる!』ことが、
『できない!』。
若し、
『一仏』のみで、
『一切』の、
『衆生』を、
『度する!』ことが、
『できる!』ならば、
余の、
『仏』を、
『須()つまでもなく!』、
但だ、
『一仏』のみが、
『出ればよい!』のである。
如諸佛法度可度眾生已而滅。如燭盡火滅。有為法無常性空故。以是故。現在應更有餘佛。 諸仏の法の如きは、度すべき衆生を度し已れば、滅す。燭尽きれば、火の滅するが如し。有為法は無常にして、性空なるが故なり。是を以っての故に、現在には、応に更に余の仏有るべし。
諸の、
『仏』という、
『法』は、
『度すべき!』、
『衆生』を、
『度してしまった!』ならば、
『滅する!』ので、
譬えば、
『燭』が、
『尽きる!』と、
『火』も、
『滅する!』のと同じである。
何故ならば、
『有為法(肉身)』は、
『無常』であり!、
『性空』だから!である。
是の故に、
『現在』にも、
更に、
余の、
『仏』が、
『有るはず!』である。
復次眾生無量苦亦無量。是故應有大心菩薩出。亦應有無量佛。出世度諸眾生。 復た次ぎに、衆生は無量にして、苦も亦た無量なり。是の故に応に、大心の菩薩の出でたもう有るべし。亦た応に無量の仏の出世して、諸の衆生を度したもうこと有るべし。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『無量』であり!、
『苦』も、
亦た、
『無量』である!、
是の故に、
当然、
『大心』の、
『菩薩』の、
『出られる!』ことが、
『有るはず!』であり、
亦た、
当然、
無量の、
『仏』が、
『世』に出て、
諸の、
『衆生』を、
『度される!』ことも、
『有るはず!』である。
問曰。如經中說無量歲中佛時時出。譬如漚曇婆羅樹華時時一出。若十方佛充滿。佛便易出易得不名為難值。 問うて曰く、経中に説くが如く、無量歳中に、仏は、時時出でたもう。譬えば漚曇婆羅樹の華の時時に一たび出づるが如し。若し十方に仏充満せば、仏は便ち出で易く、得易し、名づけて値い難しと為さず。
問い、
『経』中には、
こう説いている、――
『無量歳』中に、
『仏』は、
『時時(まれに)』、
『出られる!』、
譬えば、
『漚曇婆羅樹』の、
『華』が、
『時時』、
『一度だけ!』、
『出る!』のと同じである、と。
若し、
『十方』に、
『仏』が、
『充満』していた!ならば、
『仏』は、
『出易く!』、
『得易い!』ことになり、
故に、
『値い難い!』とは、
『言われない!』だろう。
  漚曇婆羅樹(うどんばらじゅ):梵語udumbara。又烏曇婆羅、優曇波羅、優曇跋羅、鄔曇鉢羅、鬱曇鉢等に作し、意訳して瑞応花、霊瑞花と為す。学名をficus glomerataと称し、南方暖熱の地に生ずる、闊葉樹にして高3メートル余の隠花植物なり。葉形は梨に似て、その果の大なるは小児の拳の如く、小なるは拇指の如し。生じて熟せば食うも皆美味なること無く、その果は十数顆相い聚り、樹幹に於いて生ず。この樹を、過去七仏の第五拘那含牟尼仏の道樹と為す。その隠花植物たるに因り、人眼にはその花を見難く、故に以ってこの樹の開花あれば則ち特別の瑞応有りと為し、故に瑞応花の称有り。また諸経論中に、烏曇婆羅華を仏の出世の得難きの譬喩と為す。<(望)
  時時(じじ):梵語kaalena kaalam?の訳。'多くの年月を経過した後に'の義。ときどき。ときおり。
  参考:『仏般泥洹経巻2』:『爾等無得以吾去故不奉經戒。慎無懈慢。諸比丘。爾等熟視佛顏色。佛不可復得起。卻後十五億七千六十萬歲。乃復有佛耳。佛世難值經法難聞。眾僧難值。唯佛難見也。閻浮提內有尊樹王。名優曇缽。有實無華。優曇缽樹。有金華者世乃有佛。吾正於今當般泥洹。爾曹於經有疑結者。及佛在時。當決所疑。今不釋結。後莫轉爭曼。我在時急質所疑。』
答曰不爾。為一大千世界中佛無量歲時時出。不言一切十方世界中難。亦為罪人不知恭敬不勤精進求道。以是故語言佛無量歲時時一出。 答えて曰く、爾らず。一大千世界中に、仏は無量歳に時時出でたもうと為すも、一切の十方の世界中に難しとは言わず。亦た罪人の恭敬を知らずして、勤めて精進し、道を求めずと為し、是を以っての故に、語りて言わく、『仏は、無量歳に時時一たび出でたもう。』と。
答え、
そうではない!
『一』の、
『大千世界』中に、
『仏』が、
『無量歳』に、
『時時』、
『出られる!』のであり、
一切の、
『十方』の、
『世界』中に、
『出難い!』とは、
『言わなかった!』。
亦た、
『罪人』は、
『仏』を、
『恭敬する!』ことを、
『知らない!』し、
勤めて、
『精進』して、
『道』を、
『求める!』ことも、
『知らない!』為に、
是の故に、
是の、
『罪人』に語って、
こう言ったのである、――
『仏』は、
『無量歳』に、
『時時』、
『一度だけ!』、
『出られる!』、と。
又此眾生眾罪報故。墮惡道中無量劫尚不聞佛名。何況見佛。以是人故言佛出世難。 又此の衆生は、衆罪報ゆるが故に、悪道中に堕ちれば、無量劫にも、尚お仏の名すら聞かず。何に況んや、仏を見るをや。是を以っての故に言わく、『仏は、世に出づること難し。』と。
又、
此の、
『衆生』は、
『多く!』の、
『罪』が、
『報いる!』が故に、
『悪道』中に、
『堕ちる!』ので、
『無量劫』中にも、
尚お、
『仏』の、
『名』すら、
『聞こえてこない!』、
況して、
『仏』に、
『見(まみ)える!』、
『道理がない!』、
是の故に、
こう言う、――
『仏』が、
『世』に、
『出られる!』のには、
『値い難い!』、と。
問曰。若現在十方多有諸佛菩薩。今一切眾生罪惡苦惱。何以不來度之。 問うて曰く、若し現在、十方に多く諸仏、菩薩有らば、今の一切の衆生の罪悪、苦悩は、何を以ってか、来て之を度せざる。
問い、
若し、
『現在』、
『十方』に、
『多く!』の、
諸の、
『仏』や、
『菩薩』が、
『有る(居られる)!』ならば、
『今』の、
『一切』の、
『衆生』の、
『罪悪』や、
『苦悩』を、
何故、
『来!』て、
『度されない!』のですか?
答曰。眾生無量阿僧祇劫罪垢深厚。雖有種種餘福。無見佛功德故不見佛。如偈說
 好福報未近  衰罪未除卻 
 現在不能見  大德有力人 
 大德諸聖人  心亦無分別 
 慈悲一切人  一時令欲度 
 眾生福德熟  智慧根亦利 
 若為現度緣  即時得解脫 
 譬如大龍王  隨願雨眾雨 
 罪福隨本行  各各如所受
答えて曰く、衆生は、無量阿僧祇劫の罪垢、深厚なれば、種種の余の福有りと雖も、仏に見ゆる功徳無きが故に、仏を見ず。偈に説くが如し、
好福の報未だ近からず、衰罪を未だ除却せざれば、
現在の大徳有力の人を、見ること能わず。
大徳の諸の聖人は、心にも亦た分別する無く、
慈悲は一切の人をして、一時に度せしめんと欲す。
衆生の福徳熟し、智慧の根も亦た利なるに、
若し為に現われて縁を度したまわば、即時に解脱を得ん。
譬えば大龍王の、願に随いて衆雨を雨ふらすが如く、
罪福は本行に随い、各各の受くる所に如(したが)う。
答え、
『衆生』の、
『無量阿僧祇劫』の、
『罪の垢』は、
『深く!』、
『厚い!』ので、
『種種』に、
余の、
『福』が、
『有った!』としても、
『仏』に、
『見(まみ)える!』ような、
『功徳』は、
『無く!』、
故に、
『仏』を、
『見ない!』のである。
『偈』を以って、
こう説こう!――
『好もしい!』、
『福』の、
『報』には、
『近づかず!』、
『衰え!』て、
『老いる!』、
『罪』は、
『除かれない!』、
『現在』の、
『大徳』と、
『有力』の、
『人』を、
『見る!』ことは、
『一目』といえど、
『おぼつかない!』。
『大徳』の、
諸の、
『聖人』たちの、
『心』には、
何も、
『分別する!』ことなど、
『無い!』のだし、
『慈悲』は、
『一時』に、
『一切』の、
『人』を、
『度そう!』と、
『思われている!』。
『衆生』の、
『福徳』が、
『已に!』、
『熟し!』、
『智慧』の、
『根』が、
『利くなっている!』ならば、
『仏』が、
『身』を、
『現わし!』て、
『縁じる(見る)!』、
『人』を、
『度される!』ので、
即時に、
『解脱する!』ことが、
『できる!』。
譬えば、
『大龍王』が、
『願』に随って、
『雨』を、
『降らす!』ように、
『罪福』の、
『報』は、
『本行』に、
『随い!』、
『各各』の、
『受ける!』所と、
『為る!』。
  (にょ):したがう。随従。ゆく、いたる。往適。
問曰。若自有福德自有智慧。如是人佛能度。若無福德智慧佛不度。若爾者自有福德智慧不待佛度。 問うて曰く、若し自ら福徳有り、自ら智慧有らば、是の如き人を、仏は能く度したまい、若し福徳、智慧無ければ、仏は度したまわず。若し爾らば、自ら福徳、智慧有らば、仏の度したもうを待たざらん。
問い、
若し、
自ら、
『福徳』を、
『有する!』とか、
自ら、
『智慧』を、
『有する!』とか、
是のような、
『人』ならば、
『仏』は、
『度する!』ことが、
『できる!』が、
若し、
『福徳』も、
『智慧』も、
『無かった!』ならば、、
『仏』は、
『度されない!』と、
若し、
そうならば、
自ら、
『福徳』と、
『智慧』とを、
『有する!』者は、
『仏』に、
『度される!』のを、
『待たない!』のですか?
答曰。此福德智慧從佛因緣出。若佛不出世。諸菩薩以十善因緣四無量意。後世罪福報種種因緣教道。 答えて曰く、此の福徳と、智慧とは、仏の因縁より出づれば、若しは仏、世に出でたまわずとも、諸の菩薩は、十善の因縁、四無量意、後世の罪福の報、種種の因縁を以って、道を教う。
答え、
此の、
『福徳』と、
『智慧』とは、
『仏』の、
『因縁』より、
『出る!』のであり、
若し、
『仏』が、
『世』に、
『出られなかった!』としても、
諸の、
『菩薩』が、
『十善(不殺、不盗、不邪婬等)』の、
『因縁』や、
『四無量意(慈悲喜捨)』、
『後世』に、
『受ける!』、
『罪福の報』など、
種種の、
『因縁』を以って、
『道』を、
『教える!』。
  十善(じゅうぜん)十悪(じゅうあく):十善とは即ち十善業なり、梵語にはdazakuzala-karmaaniと称す。乃ち身口意三業中に行う所の十種の善行為なり。また十善業道、十善道、十善根本業道、十白業道という。またこれに反して身口意の行う所の十種の悪行為を称して十悪と為し、また十不善業道(梵dazaakuzala-karma-pathaani)、十悪業道、十不善根本業道、十黒業道に作る。即ち、(一)殺生、(二)偸盗、(三)邪淫、(四)妄語、(五)両舌、即ち離間語(人をして離反せしむる語)、破語を説く、(六)悪口、即ち悪語、悪罵なり、(七)綺語、即ち雑穢語、非応語、散語、無義語なり、乃ち染心より発する所なり、(八)貪欲、即ち貪愛、貪取、慳貪なり、(九)瞋恚、(十)邪見、即ち愚癡なり。以上の十悪を離るるを則ち十善と為す。この順序に依れば、身業に属する者に三、口業に属する者に四、意業に属する者に三あり。<(佛)『大智度論巻8下注:十善』参照。
  四無量意(しむりょうい):梵にcatvaary apramaaNaaniと称し、また四無量心、四無量、四等心、四等、四心に作る。即ち仏、菩薩の普く無量の衆生を度せんが為に、苦を離れて楽を得しむるに、まさに具有すべき四種の精神なり。『中阿含経巻21』、『大智度論巻20』に挙ぐる阿毘曇の解釈によれば、即ち(一)慈無量(梵maitry-apramaaNa):無量の衆生に縁じて、彼等をして楽を得しむる法を思惟して、慈等至(即ち三昧なり)に入る、故に称して慈無量と為す。(二)悲無量(梵karuNaapramaaNa):無量の衆生に縁じて、苦を離れしむる法を思惟して、悲等至に入る、故に称して悲無量と為す。(三)喜無量(梵muditaapramaaNa):無量の衆生のよく苦を離れ楽を得るを思惟して、内心に於いて深く喜悦を感じ、喜等至に入る、故に称して喜無量と為す。(四)捨無量(梵upekSaapramaaNa):無量の衆生の一切は平等なるを思惟して、怨親の別有ること無く、捨等至に入る、故に称して捨無量と為す。<(佛)『大智度論巻8下注:四無量』参照。
若無菩薩。有種種經中說。人得此法行福德因緣。 若し菩薩無くとも、種種の経中の説有れば、人は、此の法を得て、福徳の因縁を行ず。
若し、
『菩薩』が、
『無かった!』としても、
種種の、
『経』中には、
『説かれた!』、
『法』が、
『有る!』ので、
『人』は、
此の、
『法』を、
『得る!』ことで、
『福徳』の、
『因縁』を、
『行う!』のである。
復次人雖有福德智慧。若佛不出世。是世界中受報不能得道。若佛出世乃能得道。是為大益。 復た次ぎに、人に、福徳、智慧有りと雖も、若し仏、世に出でたまわずんば、是の世界中に報を受けて、道を得る能わず。若し仏、世に出でたまえば、乃ち能く道を得る、是れを大益と為す。
復た次ぎに、
『人』に、
『福徳』や、
『智慧』が、
『有った!』としても、
若し、
『仏』が、
『世』に、
『出られなかった!』ならば、
是の、
『世界』中に、
『報』を、
『受ける!』ので、
『道』を、
『得る!』ことは、
『できない!』が、
若し、
『仏』が、
『世』に、
『出られる!』と、
ようやく、
『道』を、
『得る!』ことが、
『できる!』ので、
是れを、
『大きな!』、
『益』と、
『為す!』のである。
譬如人雖有目日不出時不能有所見。要須日明得有所見。不得言我有眼何用日為。 譬えば人に、目有りと雖も、日の出でざる時には、見る所有る能わず、要(かな)らず日の明るきを須(ま)ちて、見る所有るを得ば、『我れに眼有り、何をか日を用いて為さん。』と言うを得ざるが如し。
譬えば、
『人』に、
『目』が、
『有った!』としても、
『日』の、
『出ていない!』時には、
何んな、
『物』も、
『見る!』ことは、
『できない!』のであり、
何か、
『見る!』、
『物』が、
『有る!』為には、
要(かなら)ず、
『日』が、
『明るくなる!』のを、
『須たなくてはならない!』ので、
こうは言えない!――
わたしには、
『眼』が、
『有る!』のだから、
何の為に、
『日』を、
『用いる!』と、
『言う!』のか?と。
如佛說二因二緣能生正見。一從他聞法。二內自如法思惟福德事故。能生善心利根智慧故。能如法思惟。以是故知從佛得度。 仏の説きたまえるが如く、『二因、二縁は、能く正見を生ず。一には、他より法を聞き、二には、内に自ら如法に思惟し、福徳の事の故に、能く善心を生じ、利根の智慧の故に、能く如法に思惟す。』と。是を以っての故に、仏によりて、度を得るを知る。
例えば、
『仏』は、
こう説かれている、――
『二因』、
『二縁』により、
『正見』を、
『生じる!』ことが、
『できる!』。
一には、             
『他』より、
『法』を、
『聞き!』、
二には、             
『内』に、
自ら、
『如法(ありのまま)』に、
『思惟する!』と。
『福徳』の、         
『事』の故に、
『善心』を、
『生じる!』ことが、
『でき!』、
『利根』と、         
『智慧』との故に、
『如法』に、
『思惟する!』ことが、
『できる!』のである。
是の故に、
こう知ることになる、――
『仏』により、
『度』を、
『得る!』のである、と。
  参考:『長阿含巻8衆集経』:『如是我聞。一時。佛於末羅遊行。與千二百五十比丘俱。漸至波婆城闍頭菴婆園。爾時。世尊以十五日月滿時。於露地坐。諸比丘僧前後圍繞。世尊於夜多說法已。告舍利弗言。今者四方諸比丘集。皆共精勤。捐除睡眠。吾患背痛。欲暫止息。汝今可為諸比丘說法。對曰。唯然。當如聖教。爾時。世尊即四牒僧伽梨。偃右脅如師子。累足而臥。時。舍利弗告諸比丘。今此波婆城有尼乾子命終未久。其後弟子分為二部。常共諍訟相求長短。迭相罵詈。各相是非。我知此法。汝不知此。汝在邪見。我在正法。言語錯亂。無有前後。自稱己言。以為真正。我所言勝。汝所言負。我今能為談論之主。汝有所問。可來問我。諸比丘。時。國人民奉尼乾者。厭患此輩鬥訟之聲。皆由其法不真正故。法不真正無由出要。譬如杇塔不可復圬此非三耶三佛所說。諸比丘。唯我釋迦無上尊法。最為真正可得出要。譬如新塔易可嚴飾。此是三耶三佛之所說也。諸比丘。我等今者。宜集法.律。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說一正法。一切眾生皆仰食存。如來所說復有一法。一切眾生皆由行往。是為一法如來所說。當共集之。以防諍訟。使梵行久立。多為饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說二正法。一名。二色。復有二法。一癡。二愛。復有二法。有見.無見。復有二法。一無慚。二無愧。復有二法。一有慚。二有愧。復有二法。一盡智。二無生智。復有二法。二因二緣生於欲愛。一者淨妙色。二者不思惟。復有二法。二因二緣生於瞋恚。一者怨憎。二者不思惟。復有二法。二因二緣生於邪見。一者從他聞。二者邪思惟。復有二法。二因二緣生於正見。一者從他聞。二者正思惟。復有二法。二因二緣。一者學解脫。二者無學解脫。復有二法。二因二緣。一者有為界。二者無為界。諸比丘。是為如來所說。當共撰集以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說三正法。謂三不善根。一者貪欲。二者瞋恚。三者愚癡。復有三法。謂三善根。一者不貪。二者不恚。三者不癡。復有三法。謂三不善行。一者不善身行。二者不善口行。三者不善意行。復有三法。謂三不善行。身不善行.口不善行.意不善行。復有三法。謂三惡行。身惡行.口惡行.意惡行。復有三法。謂三善行。身善行.口善行.意善行。復有三法。謂三不善想。欲想.瞋想.害想。復有三法。謂三善想。無欲想.無瞋想.無害想。復有三法。謂三不善思。欲思.恚思.害思。復有三法。謂三善思。無欲思.無恚思.無害思。復有三法。謂三福業。施業.平等業.思惟業。復有三法。謂三受。樂受.苦受.不苦不樂受。復有三法。謂三愛。欲愛.有愛.無有愛。復有三法。謂三有漏。欲漏.有漏.無明漏。復有三法。謂三火。欲火.恚火.愚癡火。復有三法。謂三求。欲求.有求.梵行求。復有三法。謂三增盛。我增盛.世增盛.法增盛。復有三法。謂三界。欲界.恚界.害界。復有三法。謂三界。出離界.無恚界.無害界。復有三法。謂三界。色界.無色界.盡界。復有三法。謂三聚。戒聚.定聚.慧聚。復有三法。謂三戒。增盛戒.增盛意.增盛慧。復有三法。謂三三昧。空三昧.無願三昧.無相三昧。復有三法。謂三相。止息相.精勤相.捨相。復有三法。謂三明。自識宿命智明.天眼智明.漏盡智明。復有三法。謂三變化。一者神足變化。二者知他心隨意說法。三者教誡。復有三法。謂三欲生本。一者由現欲生人天。二者由化欲生化自在天。三者由他化欲生他化自在天。復有三法。謂三樂生。一者眾生自然成辦。生歡樂心。如梵光音天初始生時。二者有眾生以念為樂。自唱善哉。如光音天。三者得止息樂。如遍淨天。復有三法。謂三苦。行苦.苦苦.變易苦。復有三法。謂三根。未知欲知根.知根.知已根。復有三法。謂三堂。賢聖堂.天堂.梵堂。復有三法。謂三發。見發.聞發.疑發。復有三法。謂三論。過去有如此事。有如是論。未來有如此事。有如是論。現在有如此事。有如是論。復有三法。謂三聚。正定聚.邪定聚.不定聚。復有三法。謂三憂。身憂.口憂.意憂。復有三法。謂三長老。年耆長老.法長老.作長老。復有三法。謂三眼。肉眼.天眼.慧眼。諸比丘。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說四正法。謂口四惡行。一者妄語。二者兩舌。三者惡口。四者綺語。復有四法。謂口四善行。一者實語。二者軟語。三者不綺語。四者不兩舌。復有四法。謂四不聖語。不見言見。不聞言聞。不覺言覺。不知言知。復有四法。謂四聖語。見則言見。聞則言聞。覺則言覺。知則言知。復有四法。謂四種食。摶食.觸食.念食.識食。復有四法。謂四受。有現作苦行後受苦報。有現作苦行後受樂報。有現作樂行後受苦報。有現作樂行後受樂報。復有四法。謂四受。欲受.我受.戒受.見受。復有四法。謂四縛。貪欲身縛.瞋恚身縛.戒盜身縛.我見身縛。復有四法。謂四刺。欲刺.恚刺.見刺.慢刺。復有四法。謂四生。卵生.胎生.濕生.化生。復有四法。謂四念處。於是。比丘內身身觀。精勤不懈。憶念不忘。捨世貪憂。外身身觀。精勤不懈。憶念不忘。捨世貪憂。內外身身觀。精勤不懈。憶念不忘。捨世貪憂。受.意.法觀。亦復如是。復有四法。謂四意斷。於是。比丘未起惡法。方便使不起。已起惡法。方便使滅。未起善法。方便使起。已起善法。方便思惟。使其增廣。復有四法。謂四神足。於是。比丘思惟欲定滅行成就。精進定.意定.思惟定。亦復如是。復有四法。謂四禪。於是。比丘除欲.惡不善法。有覺.有觀。離生喜.樂。入於初禪。滅有覺.觀。內信.一心。無覺.無觀。定生喜.樂。入第二禪。離喜修捨.念.進。自知身樂。諸聖所求。憶念.捨.樂。入第三禪。離苦.樂行。先滅憂.喜。不苦不樂.捨.念.清淨。入第四禪。復有四法。謂四梵堂。一慈.二悲.三喜.四捨。復有四法。謂四無色定。於是。比丘越一切色想。先盡瞋恚想。不念異想。思惟無量空處。捨空處已入識處。捨識處已入不用處。捨不用處已入有想無想處。復有四法。謂四法足。不貪法足.不瞋法足.正念法足.正定法足。復有四法。謂四賢聖族。於是。比丘衣服知足。得好不喜。遇惡不憂。不染不著。知所禁忌。知出要路。於此法中精勤不懈。成辦其事。無闕無減。亦能教人成辦此事。是為第一知足住賢聖族。從本至今。未常惱亂。諸天.魔.梵.沙門.婆羅門.天及世間人。無能毀罵。飯食.床臥具.病瘦醫藥。皆悉知足。亦復如是。復有四法。謂四攝法。惠施.愛語.利人.等利。復有四法。謂四須陀洹支。比丘於佛得無壞信。於法.於僧.於戒得無壞信。復有四法。謂四受證。見色受證.身受滅證.念宿命證.知漏盡證。復有四法。謂四道。苦遲得.苦速得.樂遲得.樂速得。復有四法。謂四聖諦。苦聖諦.苦集聖諦.苦滅聖諦.苦出要聖諦。復有四法。謂四沙門果。須陀洹果.斯陀含果.阿那含果.阿羅漢果。復有四法。謂四處。實處.施處.智處.止息處。復有四法。謂四智。法智.未知智.等智.知他人心智。復有四法。謂四辯才。法辯.義辯.詞辯.應辯。復有四法。謂四識住處。色識住.緣色.住色。與愛俱增長。受.想.行識中亦如是住。復有四法。謂四扼。欲扼.有扼.見扼.無明扼。復有四法。謂四無扼。無欲扼.無有扼.無見扼.無無明扼。復有四法。謂四淨。戒淨.心淨.見淨.度疑淨。復有四法。謂四知。可受知受.可行知行.可樂知樂.可捨知捨。復有四法。謂四威儀。可行知行.可住知住.可坐知坐.可臥知臥。復有四法。謂四思惟。少思惟.廣思惟.無量思惟.無所有思惟。復有四法。謂四記論。決定記論。分別記論.詰問記論.止住記論。復有四法。謂佛四不護法。如來身行清淨。無有闕漏。可自防護。口行清淨.意行清淨.命行清淨。亦復如是。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。又。諸比丘。如來說五正法。謂五入。眼色.耳聲.鼻香.舌味.身觸。復有五法。謂五受陰。色受陰。受.想.行.識受陰。復有五法。謂五蓋。貪欲蓋.瞋恚蓋.睡眠蓋.掉戲蓋.疑蓋。復有五法。謂五下結。身見結.戒盜結.疑結.貪欲結.瞋恚結。復有五法。謂五上結。色愛.無色愛.無明.慢.掉。復有五法。謂五根。信根.精進根.念根.定根.慧根。復有五法。謂五力。信力.精進力.念力.定力.慧力。復有五法。謂滅盡枝。一者比丘信佛.如來.至真.等正覺。十號俱具。二者比丘無病。身常安穩。三者質直無有諛諂。能如是者。如來則示涅槃徑路。四者自專其心。使不錯亂。昔所諷誦。憶持不忘。五者善於觀察法之起滅。以賢聖行。盡於苦本。復有五法。謂五發。非時發.虛發.非義發.虛言發.無慈發。復有五法。謂五善發。時發.實發.義發.和言發.慈心發。復有五法。謂五憎嫉。住處憎嫉.檀越憎嫉.利養憎嫉.色憎嫉.法憎嫉。復有五法。謂五趣解脫。一者身不淨想。二者食不淨想。三者一切行無常想。四者一切世間不可樂想。五者死想。復有五法。謂五出要界。一者比丘於欲不樂.不動。亦不親近。但念出要。樂於遠離。親近不怠。其心調柔。出要離欲。彼所因欲起諸漏纏。亦盡捨滅而得解脫。是為欲出要。瞋恚出要.嫉妒出要.色出要.身見出要。亦復如是。復有五法。謂五喜解脫入。若比丘精勤不懈。樂閑靜處。專念一心。未解得解。未盡得盡。未安得安。何謂五。於是。比丘聞如來說法。或聞梵行者說。或聞師長說法。思惟觀察。分別法義。心得歡喜。得歡喜已。得法愛。得法愛已。身心安隱。身心安隱已。則得禪定。得禪定已。得實知見。是為初解脫入。於是。比丘聞法喜已。受持諷誦。亦復歡喜。為他人說。亦復歡喜。思惟分別。亦復歡喜。於法得定。亦復如是。復有五法。謂五人。中般涅槃.生般涅槃.無行般涅槃.有行般涅槃.上流阿迦尼吒。諸比丘。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。又。諸比丘。如來說六正法。謂內六入。眼入.耳入.鼻入.舌入.身入.意入。復有六法。謂外六入。色入.聲入.香入.味入.觸入.法入。復有六法。謂六識身。眼識身。耳.鼻.舌.身.意識身。復有六法。謂六觸身。眼觸身。耳.鼻.舌.身.意觸身。復有六法。謂六受身。眼受身。耳.鼻.舌.身.意受身。復有六法。謂六想身。色想.聲想.香想.味想.觸想.法想。復有六法。謂六思身。色思.聲思.香思.味思.觸思.法思。復有六法。謂六愛身。色愛身。聲.香.味.觸.法愛身。復有六法。六淨本。若比丘好瞋不捨。不敬如來。亦不敬法。亦不敬眾。於戒穿漏。染汙不淨。好於眾中多生諍訟。人所憎惡。嬈亂淨眾。天.人不安。諸比丘。汝等當自內觀。設有瞋恨。如彼嬈亂者。當集和合眾。廣設方便。拔此諍本。汝等又當專念自觀。若結恨已滅。當更方便。遮止其心。勿復使起。諸比丘。佷戾不諦.慳吝嫉妒.巧偽虛妄.自因己見.謬受不捨.迷於邪見.與邊見俱。亦復如是。復有六法。謂六界。地界.火界.水界.風界.空界.識界。復有六法。謂六察行。眼察色。耳聲.鼻香.舌味.身觸.意察法。復有六法。謂六出要界。若比丘作是言。我修慈心。更生瞋恚。餘比丘語言。汝勿作此言。勿謗如來。如來不作是說。欲使修慈解脫。更生瞋恚想。無有是處。佛言。除瞋恚已。然後得慈。若比丘言。我行悲解脫。生憎嫉心。行喜解脫。生憂惱心。行捨解脫。生憎愛心。行無我行。生狐疑心。行無想行。生眾亂想。亦復如是。復有六法。謂六無上。見無上.聞無上.利養無上.戒無上.恭敬無上.憶念無上。復有六法。謂六思念。佛念.法念.僧念.戒念.施念.天念。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說七正法。謂七非法。無信.無慚.無愧.少聞.懈怠.多忘.無智。復有七法。謂七正法。有信.有慚.有愧.多聞.精進.總持.多智。復有七法。謂七識住。或有眾生。若干種身。若干種想。天及人是。是初識住。或有眾生。若干種身而一想者。梵光音天最初生時是。是二識住。或有眾生。一身若干種想。光音天是。是三識住。或有眾生。一身一想。遍淨天是。是四識住。或有眾生。空處住.識處住.不用處住。復有七法。謂七勤法。一者比丘勤於戒行。二者勤滅貪欲。三者勤破邪見。四者勤於多聞。五者勤於精進。六者勤於正念。七者勤於禪定。復有七法。謂七想。不淨想.食不淨想.一切世間不可樂想。無想.無常想.無常苦想.苦無我想。復有七法。謂七三昧具。正見.正思.正語.正業.正命.正方便.正念。復有七法。謂七覺意。念覺意.法覺意.精進覺意.喜覺意.猗覺意.定覺意.護覺意。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說八正法。謂世八法。利.衰.毀.譽.稱.譏.苦.樂。復有八法。謂八解脫。色觀色。一解脫。內無色想觀外色。二解脫。淨解脫。三解脫。度色想滅瞋恚想住空處解脫。四解脫。度空處住識處。五解脫。度識處住不用處。六解脫。度不用處住有想無想處。七解脫。度有想無想處住想知滅。八解脫。復有八法。謂八聖道。正見.正志.正語.正業.正命.正方便.正念.正定。復有八法。謂八人。須陀洹向.須陀洹.斯陀含向.斯陀含.阿那含向.阿那含.阿羅漢向.阿羅漢。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說九正法。所謂九眾生居。或有眾生。若干種身。若干種想。天及人是。是初眾生居。復有眾生。若干種身而一想者。梵光音天最初生時是。是二眾生居。復有眾生。一身若干種想。光音天是。是三眾生居。復有眾生。一身一想。遍淨天是。是四眾生居。復有眾生。無想無所覺知。無想天是。是五眾生居。復有眾生。空處住。是六眾生居。復有眾生。識處住。是七眾生居。復有眾生。不用處住。是八眾生居。復有眾生。住有想無想處。是九眾生居。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。諸比丘。如來說十正法。所謂十無學法。無學正見.正思.正語.正業.正命.正念.正方便.正定.正智.正解脫。是為如來所說正法。當共撰集。以防諍訟。使梵行久立。多所饒益。天.人獲安。爾時。世尊印可舍利弗所說。時。諸比丘聞舍利弗所說。歡喜奉行』
如是等種種多有違錯。欲作般若波羅蜜論議故。不能復廣論餘事
大智度論卷第四
是の如き等の種種に多く違錯有るも、般若波羅蜜の論議を作さんと欲するが故に、復広く、余の事を論ずる能わず。
大智度論巻第四
是れ等のように、
『声聞法』中の、
『般若波羅蜜』の、
『論議』には、
種種の、
『違錯(間違い)』が、
『多く!』、
『有る!』が、
『般若波羅蜜』の、
『論議』を、
『作したい!』と、
『思う!』が故に、
もう、
『余の事』を、
『論じている!』ことは、
『できない!』。

大智度論巻第四


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