巻第四(上)
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大智度初品中菩薩釋論第八(卷第四)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


菩   薩

【經】復有菩薩摩訶薩 復た菩薩摩訶薩有り。
復た、
『菩薩摩訶薩が有った!』。
  菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ):梵語菩提薩埵摩訶薩埵bhodhi-sattva-mahaa-sattvaの略。声聞縁覚の菩提を求めず、仏の菩提を求むる者、即ち大乗菩薩の意にして、即ち大乗の修行者にして弘誓の大願を発し、仏国土を浄め衆生を成就せんが為に無量永劫に勤行精進し、以って成仏を期待する大心の上士を云う。『大智度論巻4上注:菩薩』参照。
  菩薩(ぼさつ):梵語菩提薩埵bodhi-sattvaの略。巴梨語bodhi-satta、又菩提索多、冒地薩怛縛、或いは扶薩に作り、道衆生、覚衆生、道心衆生等と訳す。三乗の一、十界の一。即ち無上菩提を求め、衆生を利益し、諸波羅蜜の行を修して当来成仏すべき大心の衆生を云う。「舎利弗阿毘曇論巻8」に、「若し人三十二相成就し、他に従って聞かず、他の教を受けず、他の説を請わず、他の法を聴かず、自ら思い自ら覚し自ら観じ、一切法に於いて知見無礙にして、当に自力自在豪尊勝貴自在を得べく、当に無上正覚を知見するを得べく、当に如来の十力四無所畏を成就し、大慈を成就して法輪を転ずべき、是れを菩薩の人と名づく」と云い、「大智度論巻52」に、「深く空法に入りて六波羅蜜を行じ、大慈大悲ある是れを菩薩の人と名づく」と云い、又「瑜伽師地論釈」に、「大覚を希求し、有情を悲愍し、或いは菩提を求むる志願堅猛に、長寿に修証して永く世間を出で、大行大果あるが故に菩薩と名づく」と云える皆其の説なり。菩提薩埵の語義に関しては、「大毘婆沙論巻176」に、「此の薩埵は未だ阿耨多羅三藐三菩提を得ざる時、増上の意楽を以って恒に菩提に随順し、菩提に趣向し、菩提に親近し、菩提を愛楽し、菩提を尊重し、菩提を渇仰し、証を求め証を欲して懈らず息まず、菩提の中に於いて心暫くも捨つることなきに由る。是の故に名づけて菩提薩埵と為す。(中略)復た次ぎに薩埵は是れ勇猛者の義なり、未だ阿耨多羅三藐三菩提を得ざる時、恒に菩提に於いて精進勇猛にして速証を求欲す。是の故に名づけて菩提薩埵と為す」と云い、又「仏地経論巻2」に、「諸の薩埵は菩提を求むるが故なり、(中略)又菩提と薩埵を縁じて境となすが故に菩薩と名づく、自利利他の大願を具足して大菩提を求め、有情を利するが故なり。又薩埵とは是れ勇猛の義なり、精進勇猛に大菩提を求むるが故に菩薩と名づく」と云えり。是れ菩提薩埵に菩提を求むる薩埵(即ち有情)の義、勇猛に菩提を求むる者の義、並びに菩提と薩埵(有情)を縁じて境となし、自利利他するの義あることを明せるなり。又「大智度論巻4」に、「菩提は諸仏の道に名づけ、薩埵は或いは衆生、或いは大心に名づく。是の人は諸の仏道の功徳を尽く得んと欲し、其の心断ずべからず破すべからず、金剛山の如し。是れを大心と名づく。(中略)復た次ぎに称讃せらるる好法を名づけて薩と為し、好法の体相を名づけて埵と為す。菩薩の心は自利利他なるが故に、一切衆生を度するが故に、一切法の実性を知るが故に、阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に一切賢聖の為に称讃せらる。故に是れを菩提薩埵と名づく。所以は何ぞ、一切諸法の中には仏法第一なり、是の人は是の法を取らんと欲するが故に賢聖の為に讃歎せらる。復た次ぎに是の如き人は、一切衆生をして生老死を脱せしめんが為の故に仏道を索む。是れを菩提薩埵と名づく」と云えり。是れ菩提薩埵に菩提を得んと欲する大心(即ち薩埵)の義、菩提を求むる好人(即ち薩埵)にして賢聖の為に称讃せらるるの義、衆生(即ち薩埵)を度脱せんが為に菩提を求むるの義ありとなすの説なり。又「不空羂索陀羅尼儀軌経巻上」に、「菩提を智と名づけ、薩埵を悲と名づく」と云えるは、衆生を薩埵と為せるものにして、即ち「仏地経論」の第二説と同義なりというべし。又菩提は三乗に通じ、従って声聞縁覚の菩提を求むる者も亦菩提薩埵と名づけらるべき義あるが故に、特に無上菩提を求むる者を摩訶薩埵mahaa-sattva、摩訶薩、又は菩薩摩訶薩、菩提薩埵摩訶薩埵、或いは摩訶菩提質帝薩埵と名づくるなり。「大智度論巻4」に、「三種の道は皆是れ菩提なり、一には仏道、二には声聞道、三には辟支仏道なり。辟支仏道声聞道も菩提を得と雖も、而も称して菩提と為さず、仏の功徳中の菩提を称して菩提と為し、是れを菩提薩埵と名づく」と云い、又「仏地経論巻2」に、「菩薩摩訶薩とは、謂わく諸の薩埵は菩提を求むるが故に此れ三乗に通ず。大を簡取せんが為の故に須らく復た摩訶薩の言を説くべし」と云える即ち其の意なり。又諸経論には菩薩の異名を挙ぐるもの多く、即ち「大宝積経巻36試験菩薩品」に、菩提薩埵、広大薩埵、極妙薩埵、勝出一切三界薩埵、身業無失語業無失意業無失、身業清浄語業清浄意業清浄、身業無動語業無動意業無動の七名を説き、「度世品経巻4」並びに「新華厳経巻57」には、開士(菩提薩埵)、大士(摩訶薩埵)、尊人(第一薩埵)、聖士(勝薩埵)、超士(最勝薩埵)、上人(上薩埵)、無上(無上薩埵)、力士(力薩埵)、無双(無等薩埵)、無思議(不思議薩埵)の十名を列ね、「菩薩地持経巻8菩薩功徳品」には勇猛、無上、仏子、仏持、大師、大聖、大商主、大名称、大功徳、大自在の十名を出し、「瑜伽師地論巻46」、「顕揚聖教論巻8」並びに「大乗荘厳経論巻12」には、菩提薩埵摩訶薩埵mahaa-sattva(摩訶薩)、成就覚慧dhiimat(有慧者)、最上照明uttama-dyuti(最上照明、上成就)、最勝真子jina-putra(最勝之子、降伏子)、最勝任持jinaadhaara(最勝所依、降伏持)、普能降伏vijetR(最勝所使、能降伏)、最勝萌芽jinaaGkura(降伏牙)、勇健vikraanta(猛健、勇猛)、最聖paramaazcarya(上軌範師、上聖)、商主saarthavaaha(導師)、大称mahaa-yazas(具大名称、大名称)、憐愍kRpaalu(成就慈悲、有悲)、大福mahaa-puNya(大福徳)、自在iizvara(富自在、自在行)、法師dhaarmika(大法師、正説者)の十五名を挙げ、其の他又正士、始士、高士、大道心成衆生等の称あり。蓋し菩薩は大乗の修行者に名づけたるものにして、即ち弘誓の大願を発し、仏国土を浄め衆生を成就せんが為に無量永劫に勤行精進し、以って成仏を期待する大心の上士を云うなり。彼の「六度集経」等に掲ぐる諸種の本生を初めとし、「道行般若経巻1道行品」、「放光般若経巻3問僧那品」等に明せる菩薩の僧那僧涅、「大阿弥陀経巻上」、「華厳経普賢行願品」等に出せる諸種の誓願、諸部の「般若経」並びに「菩薩地持経」等に広説せる六波羅蜜、「解脱道論巻8」、「旧華厳経巻38離世間品」等に掲ぐる十波羅蜜等の法は、皆其の実践に関する行規を示したるものなり。又菩薩には悟解の浅深によりて階位の不同あり、就中、「菩薩本業経」、「菩薩十住行道品経」等には発意等の十住の位次ありとし、「放光般若経巻4」、「大品般若経巻6」等には乾慧等の十地の別ありとし、「漸備一切智徳経」、「十地経」等には歓喜等の十地あることを説き、「菩薩地持経巻9」には種性地等の十二住あることを明かし、「華厳経」には住行向地の四十位、「菩薩瓔珞本業経巻上」には信住行向地及び等覚の五十一位ありとなせり。又「大智度論巻4」、「十住毘婆沙論巻4」等には、菩薩に総じて鞞跋致(退転)と阿鞞跋致(不退転)の二種ありと云い、「大智度論巻38」には結使を断じて六神通を得たるを法身の菩薩、結使を断ぜざるを生身の菩薩と名づけ、「同巻93」には大力菩薩と新発心菩薩の二種を分ち、「菩薩地持経巻8菩薩功徳品」には、菩薩に種性gotra-stha、入avatiirNa、未浄a-zuddhazaya、浄zuddhaazaya、未熟a-paripakva、熟paripakva、未定a-niyati-patita、定niyati-patita、一生eka-jaati-pratibaddha、最後身caramabhavikaの十種あることを説き、其の中、種性とは未だ浄心を得ざるに名づけ、発心修学するを入と名づけ、已に入るも未だ浄心地に入らざるを未浄と名づけ、浄心地に入るを浄と名づけ、浄の中、未だ畢竟地に入らざるを未熟と名づけ、畢竟地に入るを熟と名づけ、熟の中、未だ定地に入らざるを未定と名づけ、已に定地に入るを定と名づけ、又熟の中、次に無上菩提を得るを一生と名づけ、此の生に得るを最後身と名づくと云い、又「成唯識論巻9」には菩薩に頓悟漸悟の別ありとし、「華厳五教章巻3」には八地已還の菩薩に悲増上、智増上の二類あり、惑を留めて分段身を受くるを悲増とし、惑を伏して変易身を受くるを智増となすと云えり。其の他又「大宝積経巻59、82」、「優婆塞戒経巻3摂取品」、「大智度論巻7」等には、菩薩に在家出家の二種あることを説き、「大宝積経巻3」には其の中主として在家菩薩の行相を示し、「大乗本生心地観経巻7波羅蜜多品」には出家在家の菩薩に各九品あり、上根の三品は皆蘭若に住し、無間に精進して有情を利益し、中下二根の菩薩は或いは蘭若に住し、或いは聚落に居り、縁に随って衆生を利益し安隠ならしむと云い、「菩薩地持経巻4方便処戒品」、「瑜伽師地論巻4瑜伽処戒品」、「梵網経巻下」等には各皆出家在家菩薩の受持すべき波羅夷及び軽戒を説述せり。又古来印度に於いて龍樹、世親等を菩薩と称し、支那にては竺法護を敦煌菩薩、道安を印手菩薩と云い、又「仏祖統紀巻42」に唐僖宗は大行に常精進菩薩の号を賜いしことを記し、本邦に於いても天平21年行基に大菩薩、正安2年睿尊に興正菩薩、嘉暦3年忍性に菩薩、元徳2年覚盛に大悲菩薩、延文3年日蓮に大菩薩号を賜い、遂に亦高僧に対する一種の徽号となれり。又「放光般若経巻5」、「光讃経巻2」、「大品般若経巻4、26」、「小品般若経巻1」、「大般若経巻4、71、377、593」、「仏母宝徳蔵般若波羅蜜多経巻上」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻4」、「法華経巻2」、「阿惟越致遮経巻上」、「大宝積経巻24、87、98、103、112」、「資益梵天所問経巻1、3」、「大方等大集経巻12」、「華手経巻6」、「商主天主所問経」、「無上依経巻上」、「仏語経」、「法集経巻5」、「菩薩行五十縁身経」、「占察善悪業報経巻下」、「大智度論巻41、44、45、71、74、94」、「金剛般若波羅蜜経論巻中」、「仏母般若波羅蜜多円集要義釈論巻1」、「金剛仙論巻2、6、7」、「十住毘婆沙論巻1」、「梁訳摂大乗論釈巻4」、「摂大乗論釈巻1(無性)」、「瑜伽師地論巻46」、「涅槃論」「注維摩詰経巻1」、「経律異相巻8至12」、「翻梵語巻2」、「大乗義章巻17」、「観音義疏巻上」、「維摩経略疏巻1」、「仁王般若陀羅尼釈」、「大日経疏巻1、20」、「慧琳音義巻27」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻下3」、「大乗法苑義林章巻2」、「法華経玄賛巻2本」、「勧発菩提心集巻下」、「四分律疏飾宗義記巻7本」、「華厳経疏巻5」、「大宋僧史略巻下」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ):即ち菩提薩埵摩訶薩埵(ぼだいさったまかさった、梵bodhi-sattva-mahaa-sattva)の略語なり。菩薩とは、菩提薩埵(ぼだいさった、梵bodhi-sattva)の略称にして、また菩提索多、冒地薩怛縛、或は扶薩に作り、意訳して道衆生、覚有上、大覚有情、道心衆生と作す。意は即ち求道求大覚の人、求道の大心人なり。菩提(ぼだい、梵bodhi)とは覚、智、道の意にして、薩埵(さった、梵sattva)は衆生、有情の意なり。声聞、縁覚と合せて三乗と称し、即ち智を以って上は無上菩提を求め、悲を以って下は衆生を化し、諸の波羅蜜行を修めて未来に仏果を成就する修行者、また即ち自利、利他の二行円満にして勇猛なる求菩提者を指す。声聞、縁覚の二乗に対して言い、もしくはその求むる菩提(覚智)の観点よりこれを視るに、また称して菩薩と為すも可なり。而も特別に無上菩提を求むる大乗修行者を指して、則ち称して摩訶薩埵(梵mahaa-sattva、摩訶の意は即ち大なり)、摩訶薩、菩薩摩訶薩、菩提薩埵摩訶薩埵、摩訶菩提質帝薩埵等に為し、以って二乗と区別す。経典中に挙出する所の菩薩の異名は多く有り:開士(菩提薩埵)、大士(摩訶薩埵)、尊人(第一薩埵)、聖士(勝薩埵)、超士(最勝薩埵)、上人(上薩埵)、無上(無上薩埵)、力士(力薩埵)、無双(無等菩薩)、無思議(不思議薩埵)、仏子、仏持、大師、大聖、大功徳、大自在、正士、始士、高士、大道心成衆生、法臣、法王子、勝生子、広大薩埵、極妙薩埵、勝出一切三界薩埵、身業無失語業無失意業無失、身業清浄語業清浄意業清浄、身業無動語業無動意業無動、成就覚慧(梵dhiimat)、最上照明(梵uttama-dyuti、上成就)、最勝真子(梵Jina-putra、最勝の子、降伏子)、最勝任持(梵jinaadhaara、最勝所依、降伏持)、普能降伏(梵vietR、最勝所使、能降伏)、最勝萌芽(梵jinaaVkura、最勝芽)、勇健(梵vikraanta、勇健、勇猛)、最聖(梵paramaazcarya、上規範師、上聖)、商主(梵saarthavaaha、導師)、大称(梵mahaa-vazas、具大名称、大名称)、憐愍(梵kRpaalu、成就慈悲、有悲)、大福(梵mahaa-puNya、大福徳)、自在(梵iizvara、富自在、自在行)、法師(梵dhaarmika、大法師、正説者)等なり。また菩薩の乃ち大菩提心を発してより、世出世の勝希願を満足するを以って、故に菩薩衆を称して勝願菩提の大心衆と為す。<(佛)
【論】問曰。若從上數。應先菩薩次第比丘比丘尼優婆塞優婆夷。菩薩次佛故。若從下數。應先優婆夷次第優婆塞比丘尼比丘菩薩。今何以先說比丘。次三眾。後說菩薩。 問うて曰く、若し上より、数うれば、応に菩薩を先にして、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷と次第すべし。菩薩は、仏に次ぐが故なり。若し下より、数うれば、応に優婆夷を先にして、優婆塞、比丘尼、比丘、菩薩と次第すべし。今は、何を以ってか、先に、比丘を説き、次に三衆、後に菩薩を説く。
問い、
若し、
『上』より、
数えれば、
先に、
『菩薩であり!』、
次第して、
『比丘』、
『比丘尼』、
『優婆塞』、
『優婆夷でなければならない!』、
何故ならば、
『菩薩』は、
『仏』に、
『次第するからである!』。
若し、
『下』より、
数えれば、
先に、
『優婆夷であり!』、
次第して、
『優婆塞』、
『比丘尼』、
『比丘でなければならない!』。
今は、
何故、
先に、
『比丘を説き!』、
次に、
『三衆(比丘尼、優婆塞、優婆夷)であり!』、
後に、
『菩薩』を、
『説くのですか?』。
答曰。菩薩雖應次佛。以諸煩惱未盡故。先說阿羅漢。諸阿羅漢智慧雖少而已成熟。諸菩薩智慧雖多而煩惱未盡。是故先說阿羅漢。 答えて曰く、菩薩は、応に仏に次ぐべしと雖も、諸の煩悩の未だ尽きざるを以っての故に、先に阿羅漢を説く。諸の阿羅漢は、智慧少しと雖も、已に成熟し、諸の菩薩は、智慧多しと雖も、煩悩未だ尽きず。是の故に、先に阿羅漢を説く。
答え、
『菩薩』は、
当然、
『仏』に、
『次ぐべきではあるが!』、
諸の、
『煩悩』が、
未だ、
『尽きていない!』が故に、
先に、
『阿羅漢』を、
『説くのである!』。
諸の、
『阿羅漢』の、
『智慧』は、
『少ない!』が、
已に、
『成熟しており!』、
諸の、
『菩薩』の、
『智慧』は、
『多い!』が、
『煩悩』が、
未だ、
『尽きていない!』。
是の故に、
先に、
『阿羅漢』を、
『説くのである!』。
  成熟(じょうじゅく):梵語 abhiniSpatti の訳。完成、成就、達成等の義。
佛法有二種。一祕密二現示。現示中佛辟支佛阿羅漢皆是福田。以其煩惱盡無餘故。 仏法には、二種有り、一には秘密、二には現示なり。現示中に仏、辟支仏、阿羅漢の、皆是れ福田なるは、其の煩悩の尽きて余無きを以っての故なり。
『仏法』には、
『二種有り!』、
一には、
『秘密であり!』、
二には、
『現示されている!』。
『現示された!』、
『法』中に、
『仏』も、
『辟支仏』も、
『阿羅漢』も、
皆、
『福田である!』のは、
其の、
『煩悩が尽きており!』、
『余り!』が、
『無いからである!』。
  秘密(ひみつ):梵語abhisaMdhiの訳。本意を隠すの義。
  現示(げんじ):梵語prakaazitaの訳。隠さず顕示されたの義。
  福田(ふくでん):梵語puNya-kSetraの訳。福を生ずべき田の意。即ち田の能く物を産するが如く、之に施せば能く福を生ずるものを云う。『大智度論巻3下注:福田』参照。
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語pratyeka-buddhaの訳。二乗の一。三乗の一。現身に教を受けずして無師独悟し、能く自ら調するも他を調せざる一種の聖者を云う。『大智度論巻18上注:縁覚』参照。
  顕密二教(けんみつにきょう):顕教と密教との併称。顕は顕露にして解し易きを云い、蜜は秘密にして開き難きを云う。具に顕露秘密と云い、又は顕示秘密とも称す。「大智度論巻4」に、「仏法に二種あり、一には秘密、二には顕示なり。顕示の中に仏辟支仏阿羅漢は皆是れ福田なり、其の煩悩尽きて余なきを以っての故なり。秘密の中には諸菩薩無生法忍を得て、煩悩已に断じ、六神通を具して衆生を利益すと説く」と云い、又「同巻65」に、「諸仏の事に二種あり、一には密、二には現なり」と云えり。天台智顗は此の説に基づき、頓漸不定の判教の中、不定教に顕露不定と秘密不定の両教を開き、化儀に約して此の二教の得益互いに殊あることを論ぜり。二本に及んで空海、円仁等は専ら之に依りて教相を判じ、教理に約して盛んに此の二教の優劣を唱説せり。空海の「辯顕密二教論巻上」に、「夫れ仏に三身あり、教は則ち二種なり。応化の開説を名づけて顕教と曰う、言顕略にして機に逗す。法仏の談話は之を密蔵と謂う、言秘奥にして実説なり。顕教の契経は部に百億あり。蔵を分たば則ち一十五十一の差あり、乗を言わば則ち一二三四五の別あり。行を談ぜば六度を宗と為し、成を告ぐれば三大を限と為す。是れ則ち大聖分明に其の所由を説けり。若し秘蔵「金剛頂経」の説に拠らば、如来の変化身は、地前の菩薩及び二乗凡夫等の為に三乗の教法を説き、他受用身は地上の菩薩の為に顕の一乗等を説く。並びに是れ顕教なり。自性受用仏は自受法楽の為に、自眷属の為に各三密門を説く。之を密教と謂う」と云い、又「秘蔵宝鑰巻中」に、「大にして之を論ずるに二種あり、一には顕教の法、二には密教の法なり。顕教の中に又二あり、言わく一乗、三乗別なるが故なり。一乗とは如来の他受用身が十地より初地に至りて現ずる所の報身所説の一乗の法是れなり。三乗とは応化の釈迦が二乗及び地前の菩薩等の為に説く所の経是れなり。密教とは自性法身大毘盧遮那如来が、自の眷属と自受法楽の故に説く所の法是れなり。所謂真言乗とは是れなり」と云える是れなり。是れ他受用及び応化身の説法を顕教とし、自性受用身の説法を密教と名づけたるなり。又覚鑁の「顕密不同頌」には具に顕密二教の別を対説し、「顕は応化身の説、密は法性仏の談なり。顕は随他意の教、密は随自意の説なり。顕は因分可説、密は果分可説なり。顕は修行種因、密は性徳円満なり。顕を散善門と名づけ、密を三摩地と称す。顕宗は因人の称、密教は果仏の宗なり。顕は因縁の法、密は法界本有なり。顕は興廃定まることなく、密は常住不改なり。顕は無明の分位、密は大日遍明なり。顕は是れ権方便、密は即ち真実語なり。顕の理は所生にして末、密の事は能生にして源なり。顕には法身黙然し、密には性仏説法す。顕には性仏無形なるも、密には法身有体なり。顕には性身利を失し、密には自他並べ益す。顕には法身に通なく、密には性仏霊用あり。顕の理は六根を無にし、密は之を四身と見る。顕の理は六境を無にし、密は之を三金と照らす。顕の理は六識を無にし、密は之を種智と知る。顕は未だ内証を説かず、密は内外を兼備す。顕は分の理秘を説き、密は事理倶に密なり。顕は一心を本と為し、密は三等を宗と為す。顕は事を以って理に帰し、密は事理不二なり。顕は障を断じて道を得、密は惑に即して成仏す。顕は理一にして事異に、密は事理平等なり。顕の理には相用なく、密の如には三大を具す。顕の理は有為の事、密の事は無為の理なり。顕教は遮情門、密教は表徳門なり。顕経は浅略門、密法は深秘門なり。顕を字相門と名づけ、密を字義門と曰う。顕は多功にして一を成じ、密は一にして能く他を成ず。顕は分に句義を説き、密は兼ねて字義を説く。顕は事劣理勝、密は共に殊特に居す。顕は一印会、四印十八会に迷い、顕は三秘密、両部五部等に迷い、顕は未だ四曼、四持五持等を知らず。顕は未だ五秘、五相五輪等を知らず。顕は未だ五知、十六、三十七、一百二十八、五百等の種智、乃至十仏刹微塵数等の慧を知らず、顕は皆覚知せず。密は独り通達を得。此の如き等の浅深、斯の如き等の優劣、纔かに其の一隅を開く、誰か彼の三端を示さん」と云えり。是れ蓋し東密家の主唱にして、即ち自性法身の所説たる「大日経」等を密教とし、余の応化身等の所説たる一乗及び三乗等を並びに皆顕教に属せしむるものなりと雖も、台密家の所説は之を稍同じからず。円仁の「蘇悉地経略疏巻1」に、「問う、何等を名づけて顕教と為すや。答う、諸の三乗教は是れを顕と為す。問う、何が故に彼の三乗教を以って顕教と為すや。答う、未だ理事俱密を説かざるが故なり。問う、言う所の理事俱密とは其の趣如何。答う世俗勝義円融不二なる是れを理密と為す。若し三世如来の身語意密は是れを事密と為す。問う、華厳、維摩、般若、法華等の諸大乗教は、此の顕密に於いて何等の摂ぞや。答う、華厳、維摩等の諸大乗教の如きは皆是れ密教なり。問う、若し皆是れ密と云うが如くんば、今の所立の真言秘教と何等の異ありや。答う、彼の華厳等の経は倶に密と為すと雖も、而も未だ如来秘密の旨を尽くさず。故に今の所立の真言教と別なり。たとい少しく密言等を説くと雖も、未だ如来秘密の意を究尽することを為さず。今の所立の毘盧遮那、金剛頂等の経は、咸く皆如来の事理俱密の意を究尽す。是の故に別と為すなり」と云い、又安然の「真言宗教時問答巻4」に、「教に三種あり。蘇悉地疏に云わく教に二種あり、一に顕示教とは謂わく三乗教なり。世俗勝義未だ円融せざるが故なり。二に秘密教とは謂わく一乗教なり。世俗勝義一体にして融ずるが故なり。秘密教の中に亦二種あり、一に理秘密教とは、謂わく華厳、般若、維摩、法華、涅槃等なり。但だ世俗勝義不二を説き、未だ真言密印の事を説かざるが故なり。二に事理俱密教とは、謂わく大日経、金剛頂経、蘇悉経等なり。亦世俗勝義不二を説き、亦真言密印の事を説くが故なり。云云。前後都合するが故に三教と為す」と云えり。之に依るに円仁等は三乗教を顕教、一乗教を密教となし、更に密教の中に理密、俱密を分ち、華厳、法華等を理密とし、大日経等を理事俱密となし、所謂事勝理同の説を唱えたるを見るべし。然るに中世に及び台密家の中に天台真言優劣の論を生じ、今の円仁、円珍、及び安然等の所説を一時の権宜に出でたるものと為し、法華と大日とは同一円教にして、全く勝劣なしと唱うる者あるに至れり。即ち証真の「天台真言同異章」に、教行人理に約して天台真言二宗別ならざることを論じ、中に、「問う、菩提心義の中には三教を下と為し、円教を中となし、真言を上と為す、云云。如何が意を得べきや。答う、具に三密を断ずるが故に且く上と為す、実理の勝劣を論ぜざるなり。余文の真言を以って勝と為すもの、準例して知るべし。若し理実を論ぜば、天台真言二円別ならず。故に教時諍に云わく、円教の有門に真言宗を称し、円教の空門に達磨宗を称すと。(中略)若し必ず神咒を以って勝となさば、天台四種三昧の中、応に方等三昧、請観音等は法華三昧に勝ると云うべきなり。若し手印必ず殊勝なりと云わば、応に有相行は無相行に勝ると云うべきなり」と云い、「教苑摘要」には、「顕教に広く三千を明かすは、因果倶に開して以って互具互融を顕わし、密教に曼荼羅を説くは、因を合し果を開して以って果上の具徳を顕わす。剋して其の体を論ずれば、理具の三千は即ち理曼荼羅、修徳の三千は即ち智曼荼羅なり。開合異なりと雖も、其の理一なり。世人は但だ三千と聞きては、本具なることを知ると雖も、敬信を生ぜず。曼荼羅を見ては敬信を生ずと雖も、本具なることを知らず。此れ二教の融会を知らざるに由る。台密を学ぶもの、事理の三千即ち両部の曼荼羅なることを会得せば、則ち顕密異なりと雖も、大道差うことなきを知らん」と云える如き是れなり。是れ所謂顕密一致説にして、主として理同に就いて其の無別を論じたるなり。按ずるに東密に在りては、有相の六大を以って其の教体となすが故に、顕劣密勝の義を主張すと雖も、台密に於いては無相の阿字門を以って密教の教体となすが故に、自ら円密一致の旨を論証するに至りしものにして、教体に対する所見の不同より其の説の異を生じたるものと謂うべし。但し台東両家是の如く其の説を殊にするも、三劫成仏を以って主として顕教に属するは、二者相同じきが如し。「辯顕密二教論巻上」に、「成を告ぐれば三大を限と為す」と云い、「大日経開題」に、「顕教に於いて修行するものは、三大劫を経て難行苦行するも、或いは得、或いは得ず」と云い、「即身成仏義」に、「諸経論の中に皆三劫成仏と説く。今即身成仏の義を建立す」と云い、又円仁の「金剛頂大教王経疏巻1本」に、「顕教は必ず劫数を経て最上を証得す。たとい日夜月等を取りて名づけて劫数と為すと雖も、而も現生に於いて初無数劫をも経歴すること能わず、三無数大劫をや。毘盧遮那経第一に云わく、普く十方に於いて真言道清浄句の法を宣説す。謂わゆる初発心より乃ち十地に至り、次第に此の生に満足すと。既に十地此生満足と云う、若し此の文に准ぜば、顕教に三無数劫を経歴して証する所の最上成満の菩薩住は、密教の力にて此の生に満足すと云うべし。又金剛頂五秘密に云わく、顕教の修行に於いては、久久に三大無数劫を経て、然して後無上菩提を証成す。若し毘盧遮那仏自受用身所説の内証自覚聖智の法、及び大普賢金剛薩埵他受用身の智に依らば、則ち現生に於いて曼荼羅阿闍梨に遇逢し、乃至潅頂受職の金剛名号を受け、此れより已後、広大甚深不思議の法を受得して二乗十地を超越すと。又云わく、人法二執悉く皆平等にして、現生に初地を証得し、漸次昇進すと。若し此等の文に依らば、応に現生の中に初地の仏乃至第十地の仏等を成ずることを得と云うべし」と云い、「蘇悉地羯羅経略疏巻2」に、「彼の三乗教は、三無数劫を経歴して希に成仏を得るが故なり。今此の密教は劫数を歷ず、速かに成仏するが故なり」と云うに依りて之を知るを得べし。又「法華経玄義巻10上、10下」、「十住心論巻9、10」、「大日経旨帰」、「法華真言勝劣事」、「五輪九字明秘密釈」、「顕密不同章」等に出づ。<(望)
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語pratyeka-buddhaの音訳、これを意訳して縁覚、独覚と作す。また貝支迦、辟支に作り、声聞と合せて二乗の一と為し、三乗の一と為す。乃ち無師にしてよく自覚自悟せる聖者なり。『大智度論巻18』によれば、二義有りて(一)無仏の世に出生せるも、当時は仏法すでに滅すれば、ただ先世の衆行の因縁(先世の因縁)に因り自らの智慧を以って道を得。(二)他より聞くことなく自ら覚り、十二因縁の理を観悟して道を得、と為す。<(佛)
  福田(ふくでん):梵語puNya-kSetraの訳語にして、謂わゆる福徳を生ずべき田の意なり。凡そ仏、僧、父母、悲苦者を敬待すれば、即ち福徳、功德を得べきこと、なお農人の田を耕してよく収穫することの有るが如し。故に田を以って喩と為し、則ち仏、僧、父母、悲苦者を即ち称して福田と為す。『正法念処経巻15』、『大方便仏報恩経巻3』等によれば、仏を大福田、最勝福田と為し、父母を三界内の最勝福田と為す、『優婆塞戒経巻3供養三宝品』、『像法決疑経』、『大智度論巻12』、『華厳経探玄記巻8』等によれば、恭敬を受くる仏、法、僧等を称して敬田(恭敬福田、功徳福田)と為し、報答を受くる父母及び師長を称して恩田(報恩福田)と為し、憐愍を受くる貧者及び病者を称して悲田(憐愍福田、貧窮福田)と為し、以上の三者を合せて三福田と称す。また『大方便仏報恩経巻5』によれば、求むる所有りて為すを称して有作福田と為し、父母、師長の如し。求むる所無くして為すを称して無作福田と称し、諸仏、菩薩等の如きなり。以上の二者を称して二種福田と為す。二種の福田に関しては、なお『中阿含経巻30福田経』に、学人田(修行中の聖者なり)と無学人田(究極を得し聖者なり):及び敬田と恩田、悲田と敬田等多種を説く。別に『阿毘曇甘露味論巻上布施持戒品』には、大徳田(敬田に相当す)、貧苦田(悲田に相当す)、大徳貧苦田等の三種の田を説き、『倶舎論巻18』には則ち趣田(畜生等)、苦田(貧者等)、恩田(父母等)、徳田(仏等)等の四種の田を説けり。<(佛)
祕密中說諸菩薩得無生法忍。煩惱已斷具六神通利益眾生。以現示法故。前說阿羅漢。後說菩薩。 秘密中には説かく、『諸の菩薩は、無生法忍を得て、煩悩已に断じ、六神通を具足して、衆生を利益す。』と。現示の法を以っての故に、前に阿羅漢を説き、後に菩薩を説く。
『秘密の法』中には、こう説かれている、――
諸の、
『菩薩』が、
『無生法忍を得れば!』、
『煩悩』は、
已に、
『断じられ!』、
『六神通を具足して!』、
『衆生』を、
『利益する!』、と。
『現示された!』、
『法』を、
『用いる!』が故に、
則ち、
『前に!』、
『阿羅漢』を、
『説き!』、
『後に!』、
『菩薩』を、
『説くのである!』。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語 anutpattika-dharma-kSaanti の訳。又無生忍とも名づく。即ち諸法無生の理を観じて之を諦忍するを云う。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
  :無生法忍を得たる菩薩は、六道を遍くして、衆生を利益するも、此の事を敢て説かず、秘密と為せるは、乃ち信じ難く、説き難きが故なり。亦た以って諍論を避くるの意あるべし。
復次菩薩以方便力。現入五道受五欲引導眾生。若在阿羅漢上。諸天世人當生疑怪。是故後說。 復た次ぎに、菩薩は方便力を以って、五道に現入し、五欲を受けて、衆生を引導す。若し、阿羅漢の上に在らば、諸天、世人、当に疑怪を生ずべし。是の故に後に説く。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『方便力を用いる!』が故に、
『五道(天、人、畜生、餓鬼、地獄)に入って!』、
『身』を、
『現し!』、
『五欲(色、声、香、味、触)を受けながら!』、
『衆生』を、
『引導する!』ので、
若し、
『阿羅漢よりも!』、
『上位に!』、
『在れば!』、
諸の、
『天、世人』が、
『疑、怪』を、
『生じることになる!』。
是の故に、
『後に!』、
『説くのである!』。
問曰。在阿羅漢後可爾。何以乃在優婆塞優婆夷後。 問うて曰く、阿羅漢の後に在ること爾るべし。何を以ってか、乃ち優婆塞、優婆夷の後に在る。
問い、
『阿羅漢の後』に、
『在る!』のは、
『爾うあるべきだ!』が、
いったい、
何故、
『優婆塞、優婆夷の後』に、
『在るのですか?』。
答曰。四眾雖漏未盡。盡在不久故。通名聲聞眾。 答えて曰く、四衆は、漏未だ尽きずと雖も、尽くること久しからざるに在るが故に、通じて声聞衆と名づく。
答え、
『四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)』は、
『漏』が、
未だ、
『尽きていなくても!』、
『漏』の、
『尽きるのは!』、
『久しくない!』が故に、
通じて、
『声聞衆』と、
『称されるのである!』。
若於四眾中間。說菩薩者則不便。如比丘尼得無量律儀故。應次比丘後在沙彌前。佛以儀法不便故。在沙彌後。此諸菩薩亦如是。雖應在學人三眾上。以不便故在後說。 若し四衆の中間に於いて、菩薩を説かば、則ち不便なり。比丘尼の如きは、無量の律儀を得るが故に、応に比丘の後を次ぎ、沙弥の前に在るべきも、仏は、儀法の不便なるを以っての故に、沙弥の後に在(お)きたまえり。此の諸の菩薩も、亦た是の如く、応に学人三衆の上に在くべきも、不便なるを以っての故に、後に在きて説く。
若し、
『四衆の中間』に、
『菩薩』を、
『説くとすれば!』、
則ち、
『不便である!』。
例えば、
『比丘尼』は、
『無量』の、
『律儀』を、
『得ている!』が故に、
当然、
『比丘』の、
『後』に、
『次第し!』、
『沙弥』の、
『前』に、
『在るべきである!』が、
『仏』は、
『儀式の法』が、
『不便である!』が故に、
『沙弥の後』に、
『比丘尼』を、
『置かれたのである!』。
此の、
諸の、
『菩薩』も、
是のように、
『三衆(須陀洹、斯陀含、阿那含)』の、
『学人』の、
『前に在るべきである!』が、
それでは、
『不便である!』が故に、
『後に!』、
『説かれるのである!』。
  律儀(りつぎ):梵語saMvaraの訳。身口意の過非を防護するものの意。『大智度論巻22下注:律儀』参照。
  沙弥(しゃみ):梵名zraamaNeraka。出家して十戒を受持し、具足戒を受くるに至るまでの男子を云う。『大智度論巻22上注:沙弥、沙弥尼』参照。
  学人(がくにん):梵語zaiksa、或いはsacchisyaの訳。尚お学すべきものある人の意。有学人の略称。『大智度論巻1下注:学人』参照。
  学人(がくにん):阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹は皆欲界の煩悩を断った聖者であるが、この中ですでに学びおわった者、即ち阿羅漢を称して無学人と為し、未だ学ぶべき者、即ち余の三者を称して学人と為す。『大智度論巻18下注:七聖、同巻40上注:十八有学』参照。
復次有人言。菩薩功德智慧。超殊阿羅漢辟支佛。是故別說。 復た次ぎに、有る人の言わく、『菩薩の功徳、智慧は、阿羅漢、辟支仏を超殊す。是の故に別して説く。』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』の、
『功徳()、智慧』は、
『阿羅漢、辟支仏』を、
『超越する!』ので、
是の故に、
『別に!』、
『説かれたのである!』、と。
問曰。聲聞經中但說四眾。此中何以別說菩薩眾。 問うて曰く、声聞経中には、但だ四衆を説く。此の中には、何を以ってか、別に菩薩衆を説く。
問い、
『声聞経』中には、
但だ、
『四衆のみ!』が、
『説かれている!』が、
此の中には、
何故、
別に、
『菩薩衆』が、
『説かれているのですか?』。
答曰。有二種道。一聲聞道。二菩提薩埵道。比丘比丘尼優婆塞優婆夷四眾。是聲聞道。菩薩摩訶薩是菩提薩埵道。 答えて曰く、二種の道有り、一には声聞道、二には菩提薩埵道なり。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆は、是れ声聞道なり。菩薩摩訶薩は、是れ菩提薩埵道なり。
答え、
『二種の道が有り!』、
一には、
『声聞』の、
『道であり!』、
二には、
『菩提薩埵』の、
『道である!』が、
『比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷』の、
『四衆』は、
『声聞』の、
『道であり!』、
『菩薩摩訶薩』は、
是れは、
『菩提薩埵』の、
『道である!』。
以是故。聲聞法中經初。無佛在某處某處住爾所菩薩俱。但言佛某處某處住與爾所比丘俱。如說佛在波羅柰與五比丘俱。佛在伽耶國中與千比丘俱。佛在舍婆提與五百比丘俱。如是種種經初。不說與菩薩若干人俱。 是を以っての故に、声聞法中の経の初には、『仏の某処、某処に在りて、爾所の菩薩と倶に住したまえり』無く、但だ、言わく、『仏は、某処、某処に、爾所の比丘と倶に住したまえり。』と。『仏は、波羅奈に在りて、五比丘と倶にしたまえり』、『仏は、伽耶国中に、千比丘と倶にしたまえり』、『仏は、舎婆提に於いて、五百比丘と倶にしたまえり』と説くが如き、是の如き種種の経の初には、『菩薩の若干人と倶にしたまえり』とは説かず。
是の故に、
『声聞法』中の、
『経の初』には、
こう説かれず、――
『仏』は、
『某処、某処に!』、
『居られ!』、
『爾所の(何人かの)!』、
『菩薩』と、
『倶にされていた!』、と。
但だ、こう言うのである、――
『仏』は、
『某処、某処に!』、
『住まり!』、
『爾所の!』、
『比丘』と、
『倶にされていた!』、と。
例えば、
こう説かれている、――
『仏』は、
『波羅奈に居られ!』、
『五比丘』と、
『倶にされていた!』。
『仏』は、
『伽耶国中に居られ!』、
『千比丘』と、
『倶にされていた!』。
『仏』は、
『舎婆提に居られ!』、
『五百比丘』と、
『倶にされていた!』。
是のように、
種種の、
『経の初』には、こうは説かれていない、――
『菩薩』の、
『若干の人』と、
『倶にされていた!』、と。
  爾所(そこばく):梵語 etaavat の訳、幾ばくの/何人かの/諸の( so many )。
  波羅奈(はらな):梵名vaaraaNasii。中印度に在りし古国の名。『大智度論巻21上注:婆羅痆斯国』参照。
  伽耶国(がやこく):梵語gajaの音訳。象の義。具に梵gaja-ziirSaと称し、象頭山と訳す。山名。是れに二処有り、一には霊鷲山附近の提婆達破僧事を作せし処、二には仏成道処の附近に在り。
  舎婆提(しゃばだい):梵名zraavastii。又舎衛城と云う。中印度古王国の名。『大智度論巻22上注:舎衛国』参照。
  :爾の所の比丘とは、爾の某処、某処を主な所住の処と為す比丘の意。
問曰。諸菩薩二種。若出家若在家。在家菩薩總說在優婆塞優婆夷中。出家菩薩總在比丘比丘尼中。今何以故別說。 問うて曰く、諸の菩薩は二種にして、若しは出家、若しは在家なり。在家の菩薩は、総じて説きて、優婆塞、優婆夷中に在り、出家の菩薩は、総じて比丘、比丘尼中に在り。今は、何を以ってか、別に説く。
問い、
諸の、
『菩薩』は、
『二種であり!』、
『出家か!』、
『在家である!』が、
『在家の菩薩』は、
『総じて!』、
『優婆塞、優婆夷』中に、
『説かれており!』、
『出家の菩薩』は、
『総じて!』、
『比丘、比丘尼』中に、
『説かれている!』。
今は、
何故、
『別に!』、
『説かれているのですか?』。
答曰。雖總在四眾中。應當別說何以故。是菩薩必墮四眾中。有四眾不墮菩薩中。何者是。有聲聞人辟支佛人。有求生天人。有求樂自活人。此四種人不墮菩薩中。何以故。是人不發心言我當作佛故。 答えて曰く、総じて四衆中に在りと雖も、応当に別に説くべし。何を以っての故に、是の菩薩は、必ず四衆中に堕すも、有る四衆は、菩薩中に堕せざればなり。何者か、是れなる。有るいは声聞人、辟支仏人、有るいは天に生ずることを求むる人、有るいは自ら活くるを楽しまんと求むる人、此の四種の人は、菩薩中に堕せず。何を以っての故に、是の人は、心を発して、『我れ当に仏と作るべし。』と言わざるが故なり。
答え、
『菩薩』は、
『総じて!』、
『四衆』中に、
『在る!』が、
当然、
『別に!』、
『説くべきである!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
必ず、
『四衆』中に、
『堕ちることになる!』が、
有る、
『四衆』は、
『菩薩』中に、
『堕ちることはない!』。
是れは、
何のような、
『人なのか?』。
有るいは、
『声聞』や、
『辟支仏』の、
『人であり!』、
有るいは、
『天に生まれよう!』と、
『求める!』、
『人であり!』、
有るいは、
『楽』を、
『求めて!』、
『自ら!』を、
『活かす!』、
『人である!』が、
是の、
『四種の人』が、
『菩薩』中に、
『堕ちることはない!』。
何故ならば、
是の、
『人』は、
『心』を、
『発して!』、
こう言わないからである、――
わたしは、
『仏に!』、
『作らなくてはならない!』、と。
  菩提心(ぼだいしん):梵にbodhi-cittaに作り、具にはこれを称して阿耨多羅三藐三菩提心(梵anuttara-samyak-saJbodhi-citta、阿耨多羅三藐三菩提は意訳して無上正等正覚、無上正等覚、無上正真道、無上正遍知に作り、即ち仏所覚悟の智慧にして平等、円満の意を含むなり)と為し、また意訳して無上正真道意、無上菩提心、無上道心、無上道意、無上心、道心、道意、道念、覚意に作り、即ち無上菩提を求むる心なり。菩提心を一切の諸仏の種子、浄法長養の良田と為す。もしこの心を発し、勤行精進して六波羅蜜を行わば、即ち浄土を成じて心に阿耨多羅三藐三菩提(無上道)を証すべし。故に知る、菩提心は乃ち一切の志願の始にして、菩提の根本、大悲及び菩薩行の所依なり、と。故に大乗の菩薩の最初に発起すべき必須の大心を指すなり。蓋し、菩提心とは世間を浄めて清浄の国土を得んと欲する菩薩の大心をいい、菩提とは清浄の国土を成じおえたる仏の円満の境地を指すものなり。<(佛)
  参考:『大智度論巻41』:『問曰。菩提心無等等心大心有何差別。答曰。菩薩初發心緣無上道。我當作佛是名菩提心。無等名為佛。所以者何。一切眾生一切法無與等者。是菩提心與佛相似。所以者何。因似果故。是名無等等心。是心無事不行。不求恩惠深固決定。復次檀尸波羅蜜是名菩提心。所以者何。檀波羅蜜因緣故。得大富無所乏少。尸波羅蜜因緣故。出三惡道人天中尊貴住。二波羅蜜果報力故。安立能成大事。是名菩提心。羼提毘梨耶波羅蜜相。於眾生中現奇特事。所謂人來割肉出髓如截樹木。而慈念怨家血化為乳。是心似如佛心。於十方六道中。一一眾生皆以深心濟度。又知諸法畢竟空。而以大悲能行諸行。是為奇特。譬如人欲空中種樹。是為希有。如是等精進波羅蜜力勢與無等相似。是名無等等。入禪定行四無量心。遍滿十方與大悲方便合。故拔一切眾生苦。又諸法實相滅一切觀。諸語言斷而不墮斷滅中。是名大心。復次初發心名菩提心。行六波羅蜜名無等等心。入方便心中是名大心。如是等各有差別。』
復次菩薩得無生法忍故。一切名字生死相斷出三界。不墮眾生數中。何以故。聲聞人得阿羅漢道滅度已。尚不墮眾生數中。何況菩薩。 復た次ぎに、菩薩は無生法忍を得るが故に、一切の名字と、生死の相を断じて、三界を出で、衆生の数中に堕せず。何を以っての故に、声聞人は、阿羅漢道を得て、滅度し已るに、尚お衆生の数中に堕せず。何に況んや、菩薩をや。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『無生法忍を得る!』が故に、
一切の、
『名字』と、
『生死の相』とを、
『断じて!』、
『三界を出て!』、
『衆生の数』中に、
『堕ちることがない!』。
何故ならば、
『声聞人すら!』、
『阿羅漢道を得て!』、
『滅度すれば!』、
尚お、
『衆生の数』中に、
『堕ちないのである!』から、
況して、
『菩薩』は、
『尚更だからである!』。
如波羅延優波尸難中偈說
 已滅無處更出不 
 若已永滅不出不 
 既入涅槃常住不 
 惟願大智說其實
『波羅延優波尸の難』中の偈に説くが如し、
已に滅せば、処として更に出づる無きや不や、
若し已に永滅せば、出でざるや不や、
既に涅槃に入らば、常住なりや不や、
惟だ大智に願わくは、其の実を説きたまえ。
例えば、
『波羅延の優婆夷』が、
『仏を難じた!』中の、
『偈』に、こう説く通りである、――
已に、
『滅したのに!』、
更に、
『出るという!』ことが、
何処かに、
『有るのですか?』。
若し、
『永く滅すれば!』、
もう、
『出ないのですか?』。
既に、
『涅槃に入ってしまえば!』、
『常に!』、
『住まっているのですか?』。
願わくは、
『大智の人よ!』、
其の、
『真実』を、
『説いてください!』。
  波羅延(はらえん):梵語paaraayaNa。西域の邑落の名。「一切経音義巻48」に、「波羅延とは、西域の邑落名なり」と云えり。また『大智度論巻3(下)注:阿耆陀』参照。
  優波尸(うぱし):優婆夷、即ち清信女。「翻梵語巻1」に、「優波尸を訳して曰わば、清信女なり」と云う。
  (ゆい):<動詞>[本義]思う/考える( think )、である/為す/是れ( be )、有る/有する( have )、従う/随従する( obey )、願う/希望する( hope )、~に在る( lie in )。<副詞>只だ是れ/只だ有り( only )、動作・行為の重複するを示す/又( again )、猶お/還って( still )、希望を表す( wish )。<接続詞>~と/与/和( and )、そこで/則ち( then )、然しながら/雖然( even if )。<條件> 由って/以って( because )。<助詞>年、月、日の前に用いる。句首に用いる時は実義無し。
佛答曰
 滅者即是不可量 
 破壞因緣及名相 
 一切言語道已過 
 一時都盡如火滅
仏の答えて曰わく、
滅すれば、即ち是れ量るべからず、
因縁、及び名相を破壊して、
一切の語言の道を、已に過ぎ、
一時に都べて尽くること、火の滅するが如し。
『仏は答えて!』、こう言われた、――
『滅した!』者が、
何故、
『量れるのか?』。
已に、
『因縁』と、
『名、相』とは、
『破られた!』。
一切の、
『語言』の、
『道』を、
『過ぎ去り!』、
『一時』に、
『都(みな)!』が、
『尽きるだろう!』。
譬えば、
『火』が、
『消えたように!』。
  名相(みょうそう):名と相/名前と形状( name and form )、梵語 naama- saMsthaana の訳、名前と外観、謂わゆる眼に見え、耳に聞こえるもの、( name and appearance that which is seen with the eyes and that which is heard with the ears. )即ち名/色 ;二は倶に非実にして、妄想を生じさせる( i. e. the visible; both are unreal and give rise to delusion )。名目上のもの( that which is nominal )。
如阿羅漢。一切名字尚斷。何況菩薩能破一切諸法。知實相得法身而不斷耶。以是故。摩訶衍四眾中。別說菩薩。 阿羅漢の如きすら、一切の名字を尚お断ず。何に況んや、菩薩は、能く一切の諸法を破り、実相を知りて、法身を得るに、断ぜざるをや。是を以っての故に、摩訶衍の四衆中には、別に菩薩を説く。
例えば、
『阿羅漢すら!』、
一切の、
『名字』を、
何とか、
『断じている!』のに、
況して、
『菩薩』が、
一切の、
諸の、
『法を破って!』、
『実相』を、
『知り!』、
『法身を得ていながら!』、
『断じない!』ことが、
『有ろうか?』。
是の故に、
『摩訶衍』中には、
『四衆と別に!』、
『菩薩』を、
『説くのである!』。
問曰。何以故。大乘經初。菩薩眾聲聞眾兩說。聲聞經初獨說比丘眾。不說菩薩眾。 問うて曰く、何を以っての故に、大乗経の初に、菩薩衆、声聞衆を両(ふたつ)ながら説き、声聞経の初には、独り比丘衆のみを説いて、菩薩衆を説かざるや。
問い、
何故、
『大乗経の初』には、
『菩薩衆、声聞衆』を、
『両方とも!』、
『説くのに!』、
『声聞経の初』には、
『比丘衆のみを説いて!』、
『菩薩衆』を、
『説かないのですか?』。
答曰。欲辯二乘義故。佛乘及聲聞乘。聲聞乘陜小。佛乘廣大。聲聞乘自利自為。佛乘益一切。 答えて曰く、二乗の義を辯ぜんと欲するが故なり。仏乗、及び声聞乗は、声聞乗は狭小にして、仏乗は広大なり。声聞乗は自利を自らの為にし、仏乗は一切を益す。
答え、
『二乗(声聞乗、仏乗)』の、
『義(意味)』を、
『辯じよう(区別しよう)としたからである!』。
謂わゆる、
『仏乗、声聞乗』中に、
『声聞乗』は、
『狭く!』、
『小さい!』が、
『仏乗』は、
『広く!』、
『大きい!』。
『声聞乗』は、
『自らの利』を、
『自ら為すだけである!』が、
『仏乗』は、
『一切を!』、
『利益する!』、と。
  (べん):<動詞>[本義]弁論/論争する( argue, debate )、見分ける/区別する/辨じる( distinguish )、処理する/統御する( manage, handle )。<形容詞>口が達者である/弁が立つ( adept at talk )。
復次聲聞乘多說眾生空。佛乘說眾生空法空。如是等種種分別說是二道故。摩訶衍經聲聞眾菩薩眾兩說。 復た次ぎに、声聞乗は多く、衆生空を説き、仏乗は衆生空、法空を説く。是の如き等、種種に分別して、是の二道を説くが故に、摩訶衍経には、声聞衆、菩薩衆を両ながら説く。
復た次ぎに、
『声聞乗』は、
『多く!』が、
『衆生は空である!』と、
『説く!』が、、
『仏乗』は、
『衆生』も、
『法』も、
『空である!』と、
『説く!』。
是れ等のように、
種種に、
是の、
『二道』を、
『分別して!』、
『説く!』が故に、
『摩訶衍経』には、
『声聞衆、菩薩衆の両方』を、
『説くのである!』。  
如讚摩訶衍偈中說
 得此大乘人  能與一切樂 
 利益以實法  令得無上道 
 得此大乘人  慈悲一切故 
 頭目以布施  捨之如草木 
 得此大乘人  護持清淨戒 
 如犛牛愛尾  不惜身壽命 
 得此大乘人  能得無上忍 
 若有割截身  視之如斷草 
 得此大乘人  精進無厭惓 
 力行不休息  如抒大海者 
 得此大乘人  廣修無量定 
 神通聖道力  清淨得自在 
 得此大乘人  分別諸法相 
 無壞實智慧  是中已具得 
 不可思議智  無量悲心力 
 不入二法中  等觀一切法 
 驢馬駝象乘  雖同不相比 
 菩薩及聲聞  大小亦如是 
 大慈悲為軸  智慧為兩輪 
 精進為駛馬  戒定以為銜 
 忍辱心為鎧  總持為轡勒 
 摩訶衍人乘  能度於一切
摩訶衍を讃ずる偈中に説くが如し、
此の大乗を得る人は、能く一切に楽を与え、
利益するには実法を以ってし、無上道を得しむ。
此の大乗を得る人は、一切を慈悲するが故に、
頭目を以って布施するも、之を捨つること草木の如し。
此の大乗を得る人は、清浄戒を護持すること、
犛牛の尾を愛して、身と寿命を惜まざるが如し。
此の大乗を得る人は、能く無上の忍を得て、
若しは有るもの身を割截するも、之を視て草を断つが如し。
此の大乗を得る人は、精進するに厭惓無く、
力行して休息せず、大海を抒(く)む者の如し。
此の大乗を得る人は、広く無量の定を修め、
神通と聖道の力、清浄なれば自在を得。
此の大乗を得る人は、諸法の相を分別し、
無壊の実智慧をも、是の中に已に具さに得たり。
不可思議の智と、無量の悲心の力は、
二法中に入らずして、等しく一切の法を観る。
驢馬、駝、象の乗は、同じと雖も相比せず、
菩薩及び声聞の、大小も亦た是の如し。
大慈悲を軸と為し、智慧を両輪と為し、
精進を駛馬と為し、戒と定とを銜と為し、
忍辱心を鎧と為し、総持を轡勒と為し、
摩訶衍の人乗りて、能く一切を度す。
例えば、
『摩訶衍を讃じる偈』中に、こう説く通りである、――
此の、
『大乗を得た人』は、
一切の、
『衆生』に、
『楽』を、
『与えながら!』、
『真実の法』を、
『用いて!』、
『利益し!』、
『無上』の、
『道』を、
『得させる(理解させる)!』。
此の、
『大乗を得た人』は、
一切の、
『衆生』に、
『慈悲心』を、
『起す!が故に、
『頭目』を、
『用いて!』、
『布施しようと!』、
まるで、
『草木のように!』、
『捨てることができる!』。
此の、
『大乗を得た人』は、
まるで、
『犛牛(コブウシ)』が、
其の、
『尾』を、
『愛するように!』、
『清浄』の、
『戒』を、
『護持して!』、
『身、命』を、
『取られようと!』、
『惜むことがない!』。
此の、
『大乗を得た人』は、
『無上』の、
『忍辱』を、
『得て!』、
有る者が、
『身』を、
『割截しようと!』、
まるで、
『草木を断つかのように!』、
『視つめる!』。
此の、
『大乗を得た人』は、
『精進して!』、
『厭惓する!』こと、
『無く!』、
『努力して!』、
『行いながら!』、
まるで、
『大海を汲む者のように!』、
『休息しない!』。
此の、
『大乗を得た人』は、
『無量の定』を、
『広く!』、
『修め!』、
『神通、聖道』の、
『力』を、
『用いて!』、
『清浄』に、
『自在』を、
『得る!』。
此の、
『大乗を得た人』は、
諸の、
『法の相』を、
『分別する!』が、
『実の智慧』を、
『壊る!』ことが、
『無く!』、
是の、
『法相』中に、
『実の智慧』が、
『具足する!』。
若し、
『不可思議の智』と、
『無量の慈悲心』の、
『力を用いれば!』、
『彼れか、此れか!』、
『是か、非か!』の、
『二法』中に、
『入ることなく!』、
『一切の法』を、
『等しく!』、
『観るだろう!』。
譬えば、
『驢馬の乗』と、
『駱駝の乗』と、
『象の乗』とは、
『人』を、
『乗せる!』ことでは、
『同じだが!』、
とても、
『比べものにならないように!』、
『菩薩の乗』と、
『声聞の乗』も、
是のように、
『大、小』は、
『比べものにならない!』。
譬えば、
『大慈悲』を、
『軸だ!』と、
『思い!』、
『智慧』を、
『両輪』と、
『思い!』、
『精進』を、
『駛馬』と、
『思い!』、
『戒、定』を、
『銜(くつわ)だ!』と、
『思い!』、
『忍辱心』を、
『鎧だ!』と、
『思い!』、
『総持』を、
『轡、勒だ!』と、
『思え!』、
『摩訶衍人の乗』は、
『一切』を、
『度すことができる!』。
  犛牛(りご):牛の一種。尾の長く美しきことを以って知らる。
  割截(かっさい):たち切る。
  厭惓(えんけん):飽きてうむ。
  力行(りきぎょう):力をつくして行う。
  無壊(むえ):智慧の破らるること無きを云う。
  駛馬(しめ):速く走る馬。
  (かん):くつわ。馬の口にくわえさせる棒状の鉄。
  (ひ):たずな。銜に着けて馬を制御する革紐。
  (ろく):おもがい。銜を馬の口に装着する革紐。
  総持(そうじ):梵語陀羅尼dhaaraNiiの訳。善を持ちて失わず、悪を持ちて起たしめざるの義なり。念と定、慧とを以ってその体と為し、菩薩所修の念、定、慧にこの功德を具う。『大智度論巻42下注:陀羅尼』参照。
問曰。如聲聞經初但說比丘眾。摩訶衍經初。何以不但說菩薩眾。 問うて曰く、声聞経の初には、但だ比丘衆のみを説くが如く、摩訶衍経の初には、何を以ってか、但だ菩薩衆のみを説かざる。
問い、
『声聞経の初』に、
但だ、
『比丘衆のみ!』を、
『説くように!』。
『摩訶衍経の初』には、
何故、
但だ、
『菩薩衆のみ!』を、
『説かないのですか?』。
答曰。摩訶衍廣大。諸乘諸道皆入摩訶衍。聲聞乘陜小不受摩訶衍。譬如恒河不受大海。以其陜小故。大海能受眾流。以其廣大故。摩訶衍法亦如是如偈說
 摩訶衍如海  小乘牛跡水 
 小故不受大  其喻亦如是
答えて曰く、摩訶衍は広大にして、諸の乗、諸の道は、皆、摩訶衍に入るも、声聞乗は、狭小にして、摩訶衍を受けざればなり。譬えば、恒河の大海を受けざるは、其の狭小なるを以っての故にして、大海の能く衆流を受くるは、其の広大なるを以っての故なるが如く、摩訶衍の法も、亦た是の如し。偈に説くが如し、
摩訶衍は海の如く、小乗は牛跡の水なり、
小なるが故に大を受けざること、其の喩も亦た是の如し。
答え、
『摩訶衍という!』、
『乗』は、
『広く!』、
『大きい!』ので、
諸の、
『乗』や、
『道』は、
皆、
『摩訶衍』に、
『入る!』が、
『声聞という!』、
『乗』は、
『狭く!』、
『小さい!』ので、
即ち、
『摩訶衍』を、
『受けられない!』。
譬えば、
『恒河』が、
『大海』を、
『受けない!』のは、
其れが、
『狭く!』、
『小さいからであり!』、
『大海』が、
『衆流』を、
『受けられる!』のは、
其れが、
『広く!』、
『大きいからであるように!』、
『摩訶衍』という、
『法』も、
亦た、
『是の通りなのである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『摩訶衍』は、
譬えば、
『海』に、
『似ており!』、
『小乗』は、
譬えば、
『牛跡の水』に、
『似ている!』。
『小である!』が故に、
『大』を、
『受けない!』という、
其の、
『譬喩』も、
是の、
『喩えに!』、
『似ている!』。
  牛跡(ごしゃく):牛の足跡のくぼみ。



菩提薩埵

問曰。何等名菩提。何等名薩埵。 問うて曰く、何等をか、菩提と名づくる。何等をか、薩埵と名づくる。
問い、
『菩提』とは、
何を、
『称するのですか?』。
『薩埵』とは、
何を、
『称するのですか?』。
答曰。菩提名諸佛道。薩埵名或眾生或大心。是人諸佛道功德。盡欲得其心。不可斷不可破。如金剛山。是名大心。如偈說
 一切諸佛法  智慧及戒定 
 能利益一切  是名為菩提 
 其心不可動  能忍成道事 
 不斷亦不破  是心名薩埵
答えて曰く、菩提を、諸の仏道と名づけ、薩埵を、或いは衆生、或いは大心と名づく。是の人は、諸の仏道の功徳を、尽く得んと欲し、其の心の断ずべからず、破すべからざること、金剛山の如し。是れを大心と名づく。偈に説くが如し、
一切の諸の仏法の、智慧、及び戒、定は、
能く一切を利益し、是れを名づけて菩提と為す。
其の心は動かすべからず、能く成道の事を忍び、
断ぜず亦た破せず、是の心を薩埵と名づく。
答え、
『菩提』とは、
諸の、
『仏の道』を、
『称し!』、
『薩埵』とは、
或は、
『衆生』を、
『称し!』、
或は、
『大心』を、
『称する!』。
是の、
『菩提薩埵という!』、
『人』は、
諸の、
『仏道』の、
『功徳』を、
尽く、
『得よう!』と、
『思って!』、
其の、
『心』が、
譬えば、
『金剛山のように!』、
『断たれもせず!』、
『破れもしない!』ので、
是れを、
『大心』と、
『呼ぶのである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
一切の、
諸の、
『仏』の、
『法としての!』、
『智慧、戒、定』は、
一切の、
『衆生』を、
『利益することができ!』、
是れを、
『菩提』と、
『称する!』。
其の、
『心』は、
『動かされることなく!』、
『道を成す!』、
『仕事』を、
『忍ぶことができ!』、
亦た、
『断たれもせず!』、
『破られもしない!』ので、
是の、
『心』を、
『薩埵』と、
『称する!』。
  金剛山(こんごうせん):又金剛囲山、金剛輪山とも云い、梵にcakravaaDaparvataに作り、世界を周嬈する鉄囲山なり。『起世経巻2』に云わく、諸余の大山及び須弥山王の外に、別に一山有りて、斫迦羅(旧訳鉄囲山)と名づく。高さ六百八十万由旬、縦広まあ六百八十万由旬なり。弥密牢固なる金剛の成す所なれば破壊すべきこと難し、と。又「無量寿経上」に、須弥山及び金剛鉄囲一切諸山、と云い、「同下」には、金剛囲山、須弥山王、と云えり。『大智度論巻4上注:鉄囲山』参照。
  鉄囲山(てっちせん):梵語cakravaaDa-parvataの訳。巴梨名cakkavaaLa-pabbata、又鉄輪囲山、輪囲山、或いは金剛囲山、金剛山とも名づく。即ち須弥四洲の外海を囲繞する鉄所成の山を云う。「立世阿毘曇論巻2数量品」に、「鹹海の外に山あり、名づけて鉄囲と曰う。水に入ること三百十二由旬半、水を出づること亦然り。周廻三十六億一万三百五十由旬なり」と云い、「大毘婆沙論巻133」に、「次に土等を以って四大洲を成ず、下は金輪に拠り、金山の外を遶り、最後は鉄を以って輪囲山を成ず。四洲の外に在りて牆の囲遶するが如し」と云える是れなり。是れ即ち此の世界は中央に須弥山あり、四宝を以って成じ、其の周囲に由健達羅乃至尼民達羅等の七金山あり、各山の間に各一海あり、最後の尼民達羅山を匝る第八海は即ち鹹海にして、閻浮等の四洲は其の海中に点在し、而して此の鹹海の周囲に山あり、牆を繞らすが如くなるが故に輪囲と云い、鉄の所成なるが故に鉄囲山と称することを説けるものなり。但し「起世経巻1閻浮洲品」には此の山を七宝所成となし、又「同巻2地獄品」には鉄囲山外に更に復た一重の大鉄囲山あることを説き、「四大洲と八万の小洲、諸余の大山及び須弥山の他に於いて別に一山あり、斫迦羅と名づく。(前代の旧訳に鉄囲山と云う)高さ六百八十万由旬、縦広亦六百八十万由旬なり。弥密牢固にして金剛の所成なり、破壊すべきこと難し。諸の比丘、此の鉄囲の外に復た一重の大鉄囲山あり、高広正等にして前の由旬の如し。両山の間は極大黒闇にして光明あることなし。日月には是の如き大威神大力大徳あるも、彼れを照らして光明を見せること能わず。両山の間に於いて八大地獄あり」と云えり。「長阿含経巻19地獄品」並びに「大楼炭経巻2泥梨品」等の所説亦之に同じ。是れ両重の鉄囲山あり、其の中間に八大熱地獄の処所ありとなせるものなり。「立世阿毘曇論巻1地獄品」に、両両世界の鉄輪の外辺に寒地獄ありと云えるも亦同説なるが如し。又「彰所知論巻上器世界品」には三種の鉄囲山あることを明かし、「四洲界を一数として千に至るを小千界と為し、一の小鉄囲山囲繞す。此の小千界を一数として千に至るを中千界と為し、一の中鉄囲山囲遶す。此の中千界を一数として千に至るを三千大千世界と為し、一の大鉄囲山囲遶す。是の如き百億数の四洲界等ありて皆悉く行布す。鉄囲山等の諸洲の山間黒闇の処には昼夜あることあく、手を挙げて見ることなし」と云えり。是れ千中大の三千世界に各鉄囲山ありて囲繞すとなすの説なり。又「長阿含経巻21三災品」、「起世経巻9世住品」、「立世阿毘曇論巻10」、「三法度論巻下」、「瑜伽師地論巻2」、「倶舎論巻11」、「順正理論巻31」、「大乗阿毘達磨集論巻6」、「倶舎論光記巻11」等に出づ。<(望)
復次稱讚好法名為薩。好法體相名為埵。菩薩心自利利他故。度一切眾生故。知一切法實性故。行阿耨多羅三藐三菩提道故。為一切賢聖之所稱讚故。是名菩提薩埵。所以者何。一切諸法中佛法第一。是人欲取是法故。為賢聖所讚歎。 復た次ぎに、好法を称讃するを、名づけて薩と為し、好法の体相を、名づけて埵と為す。菩薩の心は、自ら利し、他を利するが故に、一切の衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切の賢聖の称讃する所と為すが故に、是れを菩提薩埵と名づく。所以は何んとなれば、一切の諸法中、仏法は第一なり。是の人は、是の法を取らんと欲するが故に、賢聖の讃歎する所と為ればなり。
復た次ぎに、
『好法』を、
『称讃する!』ことを、
『薩』と、
『称し!』、
『好法』の、
『体相』を、
『埵』と、
『称するならば!』、
『菩薩の心』は、
『自ら利して!』、
『他』を、
『利する!』が故に、
『一切の衆生』を、
『度する!』が故に、
『一切の法』の、
『実性』を、
『知る!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提に至る!』、
『道』を、
『行く!』が故に、
『一切の賢聖』に、
『称讃される!』ので、
是の故に、
是れを、
『菩提薩埵』と、
『称する!』。
何故ならば、
『一切の諸法』中には、
『仏法』が、
『第一である!』が、
是の、
『人』は、
是の、
『法』を、
『取ろうとする!』が故に、
則ち、
『賢聖』に、
『讃歎されるからである!』。
  (さつ):梵語sat。賢人の義。
  (た):梵語tattva?。本質、本生、真理等の義。
  体相(たいそう):体と相。実質を体と為し、実質に依って外に現れる差別の支分を相と為す。体は一なり、相は一に非ざるなり。体は絶待なり、相は相待なり。体は無限なり、相は有限なり。
  (たい):梵svabhaavaの訳語。体質或は体性の意。即ち法の主質、またはその存立の根本条件となるべき実体をいう。<(望)
  (そう):梵lakSaNaの訳語にして、即ち事物の形相或は状態の意にして、乃ち性質、本体等に相対する語なり。<(佛)
  賢聖(けんじょう):賢(梵bhadra)と聖(梵aarya)の併称なり。賢とは即ち善和の意にして、見道以前の調心離悪の人を指し、謂わゆる凡夫の離悪なれど未だ無漏智を発さざる、理を証せずして未だ惑を断たざる、見道以前に係わる位なり。聖とは即ち正理に会うの意にして、見諦の理を証して異を捨て性を生ずる人を指し、謂わゆる凡夫の性を捨て去りて、無漏智を発し、証理断惑の見道以後に属する位なり。これを要るに、有漏智を以って善根を修むる者を称して賢者と為し、無漏智を以って正理を証見する者を称して聖者と為す。これにつき諸経各各に種種の異説あり、その一二を挙ぐれば、『中阿含経巻30』によれば、十八学人(有学)と九無学とを合するを以って二十七賢聖と為す。十八学人とは、即ち信行、法行、信解脱、見到、身証、家家、一種、向須陀洹、得須陀洹、向斯陀含、得斯陀含、向阿那含、得阿那含、中般涅槃、生般涅槃、行般涅槃、無行般涅槃、上流色究竟なり。九無学とは、即ち思法、昇進法、不動法、退法、不退法、護法、実住法、慧解脱、倶解脱なり。『倶舎論巻22』よれば、見道以前に七賢を立て、見道以後に四聖及び七聖を立つ。七賢とは、即ち五停心、別相念住、総相念住、煖、頂、忍、世第一法なり。四聖とは、即ち須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果なり。七聖とは、即ち随信行、随法行、信解、見至、身証、慧解脱、倶解脱なり。もし見道、修道、無学道等の三道と四聖、七聖とを以って相い配列せば、則ち見道とは即ちこれ上記四聖中の初果向位中の鈍根(随信行)、及び利根(随法行)にして、修道は即ち前三果、後三向の位中の鈍根(信解)、及び利根(見至)、無学道は乃ち第四果中の鈍根(慧解脱)、及び利根(倶解脱)なり。『大品般若経巻17』、『大智度論巻75』等は、三乗共十地を以って賢聖の別を説き、即ち乾慧地、性地、八人地、見地、薄地、離欲地、已作地、辟支仏地、菩薩地、仏地等の十地中、初の二地を以って賢と為し、後の八地を以って聖と為す。<(望)
復次如是人為一切眾生。脫生老死故索佛道。是名菩提薩埵。 復た次ぎに、是の如き人は、一切の衆生の生老死を脱せしめんが為の故に、仏道を索(もと)む。是れを菩提薩埵と名づく。
復た次ぎに、
是のような、
『人』は、
一切の、
『衆生』に、
『生老死』を、
『脱れさせる!』爲の故に、
『仏道』を、
『求索する!』ので、
是れを、
『菩提薩埵』と、
『称するのである!』。
復次三種道皆是菩提。一者佛道二者聲聞道三者辟支佛道。辟支佛道聲聞道。雖得菩提。而不稱為菩提。佛功德中菩提稱為菩提。是名菩提薩埵。 復た次ぎに、三種の道は、皆是れ菩提なり、一には仏道、二には声聞道、三には辟支仏道なり。辟支仏道、声聞道は、菩提を得と雖も、称して、菩提と為さず。仏の功徳中の菩提を、称して菩提と為し、是れを菩提薩埵と名づく。
復た次ぎに、
『道』には、
『三種有る!』が、
是れは、
皆、
『菩提である!』。
即ち、
一には、
『仏の道であり!』、
二には、
『声聞の道であり!』、
三には
『辟支仏の道である!』が、
然し、
『辟支仏の道』と、
『声聞の道』とは、
『菩提(覚り!)を得た!』者でも、
『菩提』と、
『称されることはない!』。
『仏の功徳』中の、
『菩提のみ!』が、
『菩提』と、
『称され!』、
是れを、
『菩提薩埵』と、
『呼ぶのである!』。
問曰。齊何來名菩提薩埵。 問うて曰く、何より来たりてか、菩提薩埵と名づくる。
問い、
『菩提薩埵』と、
『呼ばれる!』のは、
何処から、
『来るのですか?』。
  (さい):<名詞>調味料/剤( flavouring )、登る/昇る[躋に通じる]( ascend )。<形容詞>[本義]均斉の取れた/平らな( neat, even )、整然とした/均斉の取れた/均一の( in good order, neat, uniform )、平等な( equal )、整列する/用意が整った/完全な( all present, all ready, complete )、好い( good )、疾い/敏捷な( quick, fast, speed )。<動詞>地位等が同等である/相当する( equal, of the same class, rank or status )、同程度に到達する( be on a level with, reach a certain point or line )、斉える/整列させる( trim )、集める/集合する( assemble )、ぴったり適する( right down )、斎戒( fast )、資/援助( finance, subsidize, support )。<副詞>同じく/並びに/一斉に/皆( same, in common, simultaneously )、<前置詞>従り( from )。
答曰。有大誓願心不可動。精進不退。以是三事名為菩提薩埵。 答えて曰く、大誓願有り、心動かすべからず、精進して不退なり。是の三事を以って、名づけて菩提薩埵と為す。
答え、
『大誓願が有る!』、
『心が動かされない!』、
『精進して退かない!』という、
是のような、
『三事』の故に、
『菩提薩埵』と、
『称されるのである!』。
復次有人言。初發心作願。我當作佛度一切眾生。從是已來名菩提薩埵。如偈說
 若初發心時  誓願當作佛 
 已過諸世間  應受世供養
從初發心到第九無礙。入金剛三昧中。是中間名為菩提薩埵。
復た次ぎに、有る人の言わく、『初めて発心するに、願を作さく、我れ当に仏と作りて、一切の衆生を度すべし、と。是れより已来を、菩提薩埵と名づく。』と。偈に説くが如し、
若し初めて心を発す時、当に仏と作るべしと誓願せば、
已に諸の世間を過ぎて、応に世の供養を受くべし。
初めて発心してより、第九無礙に到り、金剛三昧中に入るまでの、是の中間を、名づけて菩提薩埵と為す。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『初めて!』、
『心』を、
『発(おこ)す!』と、
『願』を、こう作すので、――
わたしは、
『仏と作って!』、
『一切の衆生』を、
『度さねばならない!』、と。
是れより、
『以後』を、
『菩提薩埵』と、
『称するのである!』、と。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
若し、
『初めて!』、
『心』を、
『発した!』時に、
『誓願して!』、こう言えば、――
『仏』と、
『作らねばならない!』、と。
已に、
諸の、
『世間』の、
『人』を、
『過ぎている!』ので、
『世間』の、
『供養を受ける!』に、
『相応しい!』。
即ち、
『初めて!』、
『心』を、
『発した!』時より、
『第九無礙に到って』、
『金剛三昧』中に、
『入る!』までの、
是の、
『中間』を、
『菩提薩埵』と、
『称するのである!』。
  第九無礙(だいくむげ):正しく一切諸の煩悩、結使を断ち已らんとする位を云う。
  九無礙道(くむげどう):正しく煩悩を断つ位の九無漏道を指す。また九無間道に作る。間とは即ち礙、或いは隔の義にして、謂わゆる真智の理を観て、惑に間礙(隔)せられざるなり。煩悩なお存するも後に於いて択滅(涅槃)の理を得んと念ずるが故に煩悩と択滅の間に更に間隔無きを無間と称す。三界を分かちて九地と為すに、九地の一一に修惑、見惑有り。一地の修惑をまた九品に分かちてこれを断じ、一品の惑を断ずる毎に、各々無間、解脱の二道有り。即ち正しく煩悩を断ずる位を無間道と為し、断じて後に相続して得る所の智を解脱道と為す。修惑は各地に立ちて九品有り、故によく対治する道もまた九品有り、これを九無間道、九解脱道と称す。無学の聖者も根を練って種性を転ずる時もまた九無間、九解脱有り。「倶舎論巻二十五、巻三十三」参照。<(望)『大智度論巻12上注:九解脱、同巻17(下)注:四道』参照。
  九品惑(くほんわく):又九品煩悩に作る。即ち貪、瞋、慢、無明の四種の修惑なり、此の麁細について分ちて上中下等の九品と為す。蓋し三界は総じて九地あり、欲界、四禅及び四無色是れなり。其の中に欲界には具に四種の修惑あり、四禅及び四無色には瞋を除ける三惑有り。その各地の中に於いてこれ等の修惑を総じて上上乃至下下の九品に分つが故に、九地を合せて八十一品有り、これを名づけて八十一品の修惑と為す。有漏無漏の両断に通じ、凡夫もまたその中の下八地七十二品を断ずることを得。蓋し聖者につきてこれを言わば、修道位に欲界の前六品を断ずる者を第二果とし、欲界の九品を全断する者を第二果とし、上二界の七十二品を断ずる者を第四果と為す。又此の一品を断ずる毎に、各無間、解脱の二道あり。即ち煩悩の得を断ずる位を無間道とし、断じおわりて相続する所得の智を解脱道とす。地地の障に九品あるが故に、能対治の道にもまた九品あり、之を九無間道、九解脱道と称す。無学の聖者が練根を修する時もまた九無間、九解脱あり。又『大毘婆沙論巻81』、『倶舎論巻24』等に出づ。<(望)
  金剛三昧(こんごうさんまい):梵語vajra-samaadhiの訳。金剛の如く堅固不動にして、能く一切の煩悩を断破する三昧の意。『大智度論巻4上注:金剛喩定』参照。
  金剛喩定(こんごうゆじょう):梵語vajropamaa-samaadhiの訳。金剛に喩うべき定の意。又金剛三昧、金剛心、或いは頂三昧とも名づく。即ち定の堅固不動にして能く一切の煩悩を断破するを、金剛の堅固にして他の諸物を砕破するに喩えたるもの。「大毘婆沙論巻28」に、「問う、何が故に名づけて金剛喩定と為すや。答う、煩悩として、断ぜず破せず穿たず砕かざるもの有ること無き、譬えば金剛の若しは鉄、若しは牙、若しは貝、若しは珠石等、断ぜず破せず穿たず砕かざるもの有ること無きが如し。是の故に此の定を金剛喩と名づく」と云い、又「大智度論巻47」に、「如金剛三昧とは能く一切の諸の煩悩結使を破して遺余することなく、譬えば釈提桓因が手に金剛を執りて阿修羅の軍を破するが如し。即ち是れ学人の末後心なり。是の心より次第に三種の菩提たる声聞菩提、辟支仏菩提、仏無上菩提を得。金剛三昧とは能く一切の諸法を破し、無余涅槃に入りて更に有を受けず。譬えば真金剛の能く諸の山を破して、滅尽して余なからしむるが如し」と云い、又「倶舎論巻24」に、「阿羅漢向の中、有頂の惑を断ずる第九の無間道を亦説いて名づけて金剛喩定と為す。一切の随眠皆能く破するが故なり。先に已に破するが故に一切を破せざれども、実には能く一切を破する功能あり」と云い、「成唯識論巻10」に、「修所断とは、後に十地の修道位中に於いて漸次にして断じ、乃至正しく金剛喩定を起し、一刹那の中に方に皆断尽す」と云える是れなり。是れ三乗学人の末後心を称するものにして、即ち小乗に在りては、阿羅漢向の人が有頂地第九品の惑を断ぜんとする最後の無間道を金剛喩定と名づけ、大乗に在りては、第十地の菩薩が少量の俱生所知障及び任運起の煩悩障の種子を頓断せんが為に入る所の定を称して金剛喩定と名づけたるなり。「大乗義章巻9」に大小二乗の位次に依りて金剛の義に各通別五義の不同あることを論ぜり。即ち彼の文に、「位に就いて論ずるに金剛の義に通あり別あり。小乗法の中に通別五あり、一に聖を簡びて凡に異にす、見道已上の無漏の聖慧が能く壊し難きを破するを通じて金剛と名づく。二に修を簡びて見に異にす、唯修道の対治無礙を取りて以って金剛と為す。余は皆非なり。三に上を簡びて下に異にす、雑心に説くが如く、唯非想地の見修の無礙は是れ其の金剛なり。余は悉く非なり。四に勝を簡びて劣に異にす、雑心に説くが如く、唯非想地の修道の無礙を以って金剛と為す。余は皆非なり。五に終を簡びて始に異にす、唯非想地の修道の治の中の末後の一治は是れ其の金剛なり。余は皆非なり。此れ終りを窮むるを以って破障畢竟す、故に偏に之を説く。大乗法の中に通別五あり、一に信を簡びて謗に異にす、十信已上の信心成就して永く謗法を離るるを同じく金剛と曰う。二に住を簡びて退に異にす、習種已上の解行成就して、堅固にして壊し難きを斉しく金剛と名づく。三に出世を簡びて世間に異にす、初地已上の証真の無漏の能く惑妄を破して、破壊すべからざるを悉く金剛と名づく。四に上を簡びて下に異にす、第十地の中の一切の智徳を皆金剛と名づく。故に地経の中に、十地の菩薩初めて地に入る時、離垢三昧を得と。離垢三昧は猶お是れ金剛破障の義なり。五に終を簡びて始に異にす、其れ唯最後窮終の一念を以って金剛と為す。故に地持に云わく、最後身の菩提樹下に於いて、衆相離垢障三昧を得るを金剛三昧の所摂と名づくと。斯を以って準験するに局りて窮終に在り」と云える是れなり。是れ広く分別すれば金剛の名は諸位に通ずと雖も、別して言わば、小乗には非想地の最後の一治、大乗には第十地の最後窮終の一念を以って金剛となすべきことを説けるものなり。又「大日経疏巻6」には仏性を観ずるを金剛三昧と名づけたり。彼の文に、「一切如来定とは、大般涅槃経に明かすが如く、一切の心ある者は悉く仏性ありと。此の仏性を即ち首楞厳定と名づけ、亦金剛三昧と名づけ、亦般若波羅蜜と名づく。仏仏の道は同じくして更に異路なし。若し行人あり、初発心の時能く言の如く正しく仏性を観ぜば、亦即ち名づけて如来定に入ると名づく」と云える其の意なり。又「増一阿含経巻3弟子品」、「金剛三昧経」、「菩薩瓔珞本業経巻上」、「金光明最勝王経巻2」、「金剛頂経巻1」、「雑阿毘曇心論巻10」、「大毘婆沙論巻155」、「大智度論巻84」、「瑜伽師地論巻12」、「同略纂巻5」、「同記巻4下」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻10」、「倶舎論巻28」、「成唯識論述記巻10末」、「同了義灯巻7本」、「倶舎論光記巻24」、「同宝疏巻24」、「華厳経探玄記巻14」、「大日経疏巻1」等に出づ。<(望)
  参考:『大智度論巻17』:『若有漏道。依上地邊離下地欲。若無漏道。離自地欲及上地。以是故凡夫於有頂處不得離欲。更無上地邊故。若佛弟子欲離欲界欲欲界煩惱。思惟斷九種上中下。上上.上中.上下.中上.中中.中下.下上.下中.下下。斷此九種故。佛弟子若依有漏道欲得初禪。是時於未到地。九無礙道八解脫道中。現在修有漏道。未來修有漏無漏道。第九解脫道中。於未到地現在修有漏道。未來修未到地有漏無漏道及初禪邊地有漏。若無漏道欲得初禪亦如是。若依有漏道離初禪欲。於第二禪邊地。九無礙道八解脫道中。現在修二禪邊地有漏。未來修二禪邊地有漏道。亦修無漏初禪及眷屬。第九解脫道中。於第二禪邊地。現在修二禪邊地有漏道。未來修二禪邊地初禪無漏及眷屬二禪淨無漏。若無漏道離初禪欲。九無礙道八解脫道中。現在修自地無漏道。未來修初禪及眷屬有漏無漏道。第九解脫道中。現在修自地無漏道。未來修初禪及眷屬有漏無漏道。及修二禪淨無漏乃至無所有處離欲時亦如是。非有想非無想處離欲時。九無礙道八解脫道中。但修一切無漏道。第九解脫道中。修三界善根及無漏道。除無心定。』
  金剛三昧(こんごうさんまい):三乗の行人の最後に一切の煩悩を断ずるに、各々究竟の果を得る三昧なり。『大智度論巻47』に云わく、金剛三昧の如きは、よく一切諸の煩悩、結使を破りて遺余有ることなく、譬えば釈提桓因、手に金剛を執りて阿修羅の軍を破るが如し。即ちこれ学人の末後の心にして、この心より三種の菩提に次第す、声聞の菩提、辟支仏の菩提、仏の無上菩提なり、と。<(丁)
是菩提薩埵有兩種。有鞞跋致有阿鞞跋致。如退法不退法阿羅漢。阿鞞跋致菩提薩埵。是名實菩薩。以是實菩薩故。諸餘退轉菩薩皆名菩薩。譬如得四道人。是名實僧。以實僧故。諸未得道者。皆得名僧。 是の菩提薩埵には、両種有り、有るは鞞跋致、有るは阿鞞跋致なり。退法と、不退法の阿羅漢の如し。阿鞞跋致の菩提薩埵を、是れを実の菩薩と名づけ、是の実の菩薩を以っての故に、諸余の退転の菩薩も、皆、菩薩と名づく。譬えば、四道を得た人を、是れを実の僧と名づけ、実の僧を以っての故に、諸の未だ道を得ざる者をも、皆僧と名づくるを得るが如し。
是の、
『菩提薩埵』には、
『二種有り!』、
有るいは、
『鞞跋致(退転)』の、
『菩提薩埵であり!』、
有るいは、
『阿鞞跋致(不退)』の、
『菩提薩埵である!』。
譬えば
『退法』と、
『不退法』の、
『阿羅漢』と、
『同じである!』が、
是の中の、
『阿鞞跋致の菩提薩埵のみ!』が、
『実』の、
『菩薩であり!』、
是の、
『実の菩薩』の故に、
『諸余の退転の菩薩』も、
皆、
『菩薩』と、
『呼ばれるのである!』。
譬えば、
『四道を得た!』、
『人』を、
『実の僧』と、
『呼び!』、
『実の僧』の故に、
未だ、
『道』を、
『得ていない!』、
『諸の人』も、
皆が、
『僧』と、
『呼ばれるようなものである!』。
  鞞跋致(びばっち):梵語vaivartika。退と訳す。阿鞞跋致の対語。阿耨多羅三藐三菩提を得ずして、他に退転する菩薩を云う。『大智度論巻36上注:阿鞞跋致』参照。
  阿鞞跋致(あびばっち):梵語avaivartika。不退と訳す。菩薩の地位より退転せざるの義。即ち阿耨多羅三藐三菩提を得んと期待し、深くその信に住して諸の善法を集め、それより退転して二乗地等に堕落せざるの意なり。『大智度論巻36上注:阿鞞跋致』参照。
  退法阿羅漢(たいほうあらかん):情況により所得を失う恐れのある阿羅漢。『大智度論巻3(下)注:六種阿羅漢』参照。
  四道(しどう):煩悩を断除し、真理を証得するに四種の過程あるを指し、これに依って涅槃の果を証得すべく、一切の仏法の修習方法の概括と為す。即ち(一)加行道(けぎょうどう、梵prayoga-maarga):また方便道と称す。即ち無間道の前に於いて、煩悩を断除せんことを求めんが為に準備を行う修行なり。(二)無間道(むげんどう、梵aanantarya-maarga):また無礙道と称す。即ち直接、煩悩を断除する修行にして、これに由り解脱道に進入するに惑によって間隔せられざる位なり。(三)解脱道(げだつどう、梵vimukti-maarga):即ちすでに煩悩中より解脱し、真理を証得し、解脱を獲得する修行なり。(四)勝進道(しょうしんどう:梵vizeSa-maarga):また勝道、三余道と称す。即ち解脱道の後に於いて、更に一歩進んでその余の殊勝の行を行い、全き解脱を完成し、或は満足して惑を断ち、而も観察を作す修行なり。『阿毘達磨倶舎論巻25』参照。<(佛)



阿鞞跋致

問曰。云何知是菩薩鞞跋致阿鞞跋致。 問うて曰く、云何が、是れ鞞跋致、阿鞞跋致なるを知る。
問い、
 是の、
『菩薩』が、
『鞞跋致であるか?』、
『阿鞞跋致であるか?』を、
何のように、
『知るのですか?』。
答曰。般若波羅蜜阿鞞跋致品中。佛自說阿鞞跋致相。如是相是退轉。如是相是不退轉。 答えて曰く、般若波羅蜜の阿鞞跋致品中に、仏の自ら、阿鞞跋致の相を、是の如き相は是れ退転、是の如きの相は是れ不退転なりと説きたまえり。
答え、
『般若波羅蜜』の、
『阿鞞跋致品』中に、
『仏』は、
自ら、
『阿鞞跋致の相』を、こう説かれている、――
是のような、
『相』は、
『退転の相であり!』、
是のような、
『相』は、
『不退転の相である!』、と。
  参考:『大品般若経巻16不退品』:『須菩提白佛言。世尊。以何等行何等類何等相貌。知是阿惟越致菩薩摩訶薩。佛告須菩提。若菩薩摩訶薩能知凡夫地聲聞地辟支佛地佛地。是諸地如相中無二無別。亦不念亦不分別。入是如中聞是事直過無疑。何以故。是如中無一無二相故。是菩薩摩訶薩亦不作無益語。但說利益相應語。不視他人長短。須菩提。以是行類相貌。知是阿惟越致菩薩摩訶薩。須菩提言。世尊。復以何行類相貌。知是阿惟越致菩薩摩訶薩。佛告須菩提。若菩薩摩訶薩能觀一切法。無行無類無相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。須菩提白佛言。世尊。若一切法無行無類無相貌。菩薩於何等法轉名不轉。佛言。若菩薩摩訶薩色中轉。受想行識中轉。是名菩薩不轉。復次須菩提。菩薩摩訶薩檀那波羅蜜中轉。乃至般若波羅蜜中轉。內空中乃至無法有法空中轉。四念處中乃至十八不共法中轉。聲聞辟支佛地中轉。乃至阿耨多羅三藐三菩提中轉。當知是菩薩摩訶薩不轉。何以故。須菩提。色性無。是菩薩何所住。乃至阿耨多羅三藐三菩提性無。是菩薩何所住。復次須菩提。菩薩摩訶薩不觀相外道沙門婆羅門面貌言語。不作是念是諸外道若沙門若婆羅門實知實見。若說正見無有是事。復次菩薩不生疑不著戒取不墮邪見。亦不求世俗吉事以為清淨。不以華香瓔珞幡蓋伎樂禮拜供養餘天。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。阿惟越致菩薩摩訶薩常不生下賤家。乃至不生八難之處。常不受女人身。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩常行十善道。自不殺生不教人殺生。讚歎不殺生法。歡喜讚歎不殺生者。乃至自不邪見不教人邪見。不讚歎邪見法。不歡喜讚歎行邪見者。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩乃至夢中。亦不行十不善道。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩為益一切眾生故行檀那波羅蜜。乃至為益一切眾生故行般若波羅蜜。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩所有諸法。受讀誦說正憶念。所謂修妒路乃至憂波提舍。是菩薩法施時作是念。是法施因緣故滿一切眾生願。以是法施功德與一切眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩於甚深法中不疑不悔。須菩提言。世尊。菩薩於甚深法中何因緣故不疑不悔。佛言。是阿惟越致菩薩都不見有法可生疑處。若色受想行識乃至阿耨多羅三藐三菩提。不見是法可生疑處悔處。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩身口意業柔軟。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩以慈身口意業成就。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩不與五蓋俱婬欲瞋恚睡眠掉悔疑。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩一切處無所愛著。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩出入去來坐臥行住常念一心。出入去來坐臥行住舉足下足安隱詳序。常念一心視地而行。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩所著衣服及諸臥具。人不惡穢。好樂淨潔少於疾病。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。常人身中有八萬戶蟲侵食其身。是阿惟越致菩薩摩訶薩身無是蟲。何以故。是菩薩功德出過世間。以是故。是菩薩無是戶蟲。是菩薩功德增益。隨其功德得身清淨。得心清淨。須菩提。以是行類相藐。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩。得身清淨得心清淨。佛言。菩薩摩訶薩隨其所得增益善根。滅除心曲心邪。須菩提。是名菩薩摩訶薩身清淨心清淨。以是身心清淨故。能過聲聞辟支佛地入菩薩位中。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩不貴利養。雖行十二頭陀。不貴阿蘭若法。乃至不貴但三衣法。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩常不生慳貪心。不生破戒心瞋動心懈怠心散亂心。不生愚癡心。不生嫉妒心。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩心住不動智慧深入。一心聽受所從聞法。及世間事皆與般若波羅蜜合。是菩薩摩訶薩不見產業之事不入法性者。是事一切皆見與般若波羅蜜合。以是因緣故須菩提。是名阿惟越致菩薩阿惟越致相。復次須菩提若惡魔於阿惟越致菩薩前化作八大地獄。一一地獄中有千億萬菩薩。皆被燒煮受諸辛酸苦毒。語菩薩言。是諸菩薩皆是阿惟越致。佛所授記墮大地獄中。汝若為佛授阿惟越致記者。當入是大地獄中。佛為授汝地獄記。汝不如還捨菩薩心。可得不墮地獄得生天上。須菩提。若是菩薩見是事聞是事。心不動不疑不驚。作是念。阿惟越致菩薩若墮地獄畜生餓鬼中。終無是處。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。惡魔化作比丘被服來至菩薩所。語菩薩言。汝先聞應如是淨修六波羅蜜。乃至應如是淨修得阿耨多羅三藐三菩提。是事汝疾悔捨。汝先於過去未來現在諸佛所。從初發心乃至法住。於其中間所作善根。隨喜迴向阿耨多羅三藐三菩提是事汝亦疾放捨。若汝疾捨我當語汝真佛法。汝先所聞皆非佛法非佛教。皆是文飾合集作耳。我所說是真佛法。若是菩薩聞作是說心驚疑悔。當知是菩薩未得諸佛授記。未定住阿惟越致性中。若是菩薩心不動不驚不疑不悔。隨順依止無作無生法。不信他語不隨他行。行六波羅蜜時不隨他語。乃至行阿耨多羅三藐三菩提時亦不隨他語。須菩提。譬如漏盡阿羅漢。不信他語不隨他行。現見諸法實相惡魔不能轉。如是須菩提。阿惟越致菩薩摩訶薩亦如是。求聲聞道辟支佛道人。不能破壞不能折伏其心。須菩提。是菩薩摩訶薩。必定住阿惟越致地中。不隨他語乃至佛語不直信取。何況求聲聞辟支佛人。及惡魔外道梵志語。終無是處。何以故。是菩薩不見有法可隨信者。所謂若色受想行識。若色如乃至識如。乃至不見若阿耨多羅三藐三菩提。阿耨多羅三藐三菩提如。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。魔作比丘身來到菩薩所。語菩薩言。汝所行者是生死法非薩婆若道。汝今身取苦盡證。是時惡魔為菩薩。用世間行說似道法。是似道法三界繫。所謂骨相若初禪乃至非有想非無想語。善男子。用是道用是行。當得須陀洹果。乃至當得阿羅漢果。汝行是道今世苦盡。汝用受生死中種種苦惱為。今是四大身尚不用受。何況當更受來身。須菩提。若是菩薩摩訶薩心不驚不疑不悔作是念。是比丘益我不少。為我說似道法。行是似道法。不至須陀洹果證。不得至阿羅漢辟支佛道證。何況得至阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩益復歡喜作是念。是比丘益我不少。為我說遮道法。我知是遮道法。是不遮學三乘道。是時惡魔知菩薩歡喜作是言。善男子。汝欲見是菩薩摩訶薩供養如恒河沙等諸佛。衣被飲食臥具醫藥資生所須。亦於如恒河沙等諸佛所。行檀那波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。亦親近如恒河沙等諸佛。諮問菩薩摩訶薩道。世尊。菩薩摩訶薩云何住菩薩摩訶薩乘。云何行檀那波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。四念處乃至大慈大悲。是菩薩摩訶薩如佛所教。如是住如是行如是修。是菩薩摩訶薩如是教如是學。尚不得阿耨多羅三藐三菩提不得薩婆若。何況汝當得阿耨多羅三藐三菩提。若菩薩摩訶薩聞是事。心不異不驚。益復歡喜作是念。是比丘益我不少。為我說遮道法。是遮道法不得須陀洹道。乃至不得阿羅漢辟支佛道。何況得阿耨多羅三藐三菩提。是時惡魔知是菩薩心不沒不驚。即於是處化作多比丘。語菩薩言。此皆是發意求佛道菩薩。今皆住阿羅漢地。是輩尚不能得阿耨多羅三藐三菩提。汝云何能得。若菩薩摩訶薩即作是念。此是惡魔說似道行。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不應轉阿耨多羅三藐三菩提心。亦不應墮聲聞辟支佛道中。復作是念。行檀那波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜乃至一切種智。不得阿耨多羅三藐三菩提無有是處。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。復次須菩提。菩薩摩訶薩作是念。若菩薩能如佛所說。不遠離般若波羅蜜心乃至一切種智。是菩薩終不退阿耨多羅三藐三菩提若菩薩覺知魔事。亦不失阿耨多羅三藐三菩提。以是行類相貌。當知是阿惟越致菩薩摩訶薩相。須菩提白佛言。世尊。於何法轉名為不轉。佛言。於色相轉於受想行識相轉。於十二入相十八界相婬欲瞋恚愚癡相。邪見相四念處相。乃至聲聞辟支佛相。乃至佛相轉。以是名為不退轉菩薩摩訶薩相。何以故。是阿惟越致菩薩摩訶薩。以是自相空法。入菩薩位得無生法忍。何以故。名無生法忍。是中乃至少許法不可得。不可得故不作。不作故無生。是名無生法忍。菩薩摩訶薩以是行類相貌。當知是阿惟越致菩薩摩訶薩』
復次若菩薩一法。得好修好念。是名阿鞞跋致菩薩。何等一法。常一心集諸善法如說。諸佛一心集諸善法故。得阿耨多羅三藐三菩提。 復た次ぎに、若し菩薩は、一法を好く修め、好く念ずるを得れば、是れを阿鞞跋致の菩薩と名づく。何等か、一法なる。常に一心に、諸の善法を集む。『諸仏は、一心に諸の善法を集めたもうが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。』と説くが如し。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
『一法』を、
『好く修められ!』、
『好く念じられれば!』、
是れを、
『阿鞞跋致』の、
『菩薩である!』と、
『称する!』。
是れは、
何のような、
『一法か?』、――
諸の、
『善法』を、
『常に!』、
『一心に!』、
『集めることである!』。
例えば、こう説く通りである、――
諸の、
『仏』は、
諸の、
『法』を、
『一心に!』、
『集めた!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得たのである!』、と。
復次有菩薩得一法。是阿鞞跋致相。何等一法。正直精進。如佛問阿難。阿難汝說精進如是世尊。阿難汝讚精進如是善逝。阿難常行常修常念。精進乃至令人得阿耨多羅三藐三菩提。如經廣說。 復た次ぎに、有る菩薩は、一法を得るに、是れ阿鞞跋致の相なり。何等か、一法なる。正直に精進するなり。仏の阿難に問いたもうが如し、『阿難、汝は精進を説けるや。』、『是の如し、世尊。』、『阿難、汝は精進を讃ぜしや。』、『是の如し、善逝。』、『阿難、常に行じ、常に修め、常に念じて、精進なれば、乃ち人をして、阿耨多羅三藐三菩提を得しむるに至らん。』、と。経に広く説くが如し。
復た次ぎに、
有る、
『菩薩』は、
『一法』を、
『得ただけでも!』、
是れは、
『阿鞞跋致』の、
『相である!』。
何のような、
『一法か?』、――
『正直に!』、
『精進することである!』。
例えば、
『仏』は、
『阿難』に、こう問われた、――
阿難!
お前は、
『精進』を、
『説いていたのか?』、と。
――
その通りです!
世尊!
――
阿難!
お前は、
『精進』を、
『讃歎していたのか?』。
――
その通りです!
世尊!
――
阿難!
『精進して!』、
『常に行い!』、
『常に修め!』、
『常に念じて!』、
ようやく、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『人に得させられるのだ!』、と。
即ち、
『経』に、
『広く!』、
『説かれた通りである!』。
  参考:『雑阿含巻27(727経)』:『如是我聞。一時。佛在力士聚落人間遊行。於拘夷那竭城希連河中間住。於聚落側告尊者阿難。令四重襞疊敷世尊鬱多羅僧。我今背疾。欲小臥息。尊者阿難即受教敕。四重襞疊敷鬱多羅僧已。白佛言。世尊。已四重襞疊敷鬱多羅僧。唯世尊知時。爾時。世尊厚襞僧伽梨枕頭。右脅而臥。足足相累。繫念明相。正念正智。作起覺想。告尊者阿難。汝說七覺分。時。尊者阿難即白佛言。世尊。所謂念覺分。世尊自覺成等正覺。說依遠離.依無欲.依滅.向於捨。擇法.精進.喜.猗.定.捨覺分。世尊自覺成等正覺。說依遠離.依無欲.依滅.向於捨。佛告阿難。汝說精進耶。阿難白佛。我說精進。世尊。說精進。善逝。佛告阿難。唯精進。修習多修習。得阿耨多羅三藐三菩提。說是語已。正坐端身繫念。時。有異比丘即說偈言  樂聞美妙法  忍疾告人說  比丘即說法  轉於七覺分  善哉尊阿難  明解巧便說  有勝白淨法  離垢微妙說  念.擇法.精進.  喜.猗.定.捨覺  此則七覺分  微妙之善說  聞說七覺分  深達正覺味  身嬰大苦患  忍疾端坐聽  觀為正法王  常為人演說  猶樂聞所說  況餘未聞者  第一大智慧  十力所禮者  彼亦應疾疾  來聽說正法  諸多聞通達  契經阿毘曇  善通法律者  應聽況餘者  聞說如實法  專心黠慧聽  於佛所說法  得離欲歡喜  歡喜身猗息  心自樂亦然  心樂得正受  正觀有事行  厭惡三趣者  離欲心解脫  厭惡諸有趣  不集於人天  無餘猶燈滅  究竟般涅槃  聞法多福利  最勝之所說  是故當專思  聽大師所說  異比丘說此偈已。從座起而去』
復次若得二法。是時是阿鞞跋致相。何等二法。一切法實知空。亦念不捨一切眾生。如是人名為阿鞞跋致菩薩。 復た次ぎに、若し、二法を得ば、是の時、是れ阿鞞跋致の相なり。何等か、二法なる。一切法は、実に空なりと知り、亦た一切の衆生を念じて捨てざる、是の如き人を、名づけて阿鞞跋致の菩薩と為す。
復た次ぎに、
若し、
『二法』を、
『得れば!』、
是の時も、
『阿鞞跋致』の、
『相である!』。
何のような、
『二法か?』、――
一切の、
『法』は、
『実に空である!』と、
『知りながら!』、
一切の、
『衆生』を、
『念じて!』、
『捨てなければ!』、
是のような、
『人』が、
『阿鞞跋致の菩薩』と、
『称されるのである!』。
復次得三法。一者若一心作願欲成佛道。如金剛不可動不可破。二者於一切眾生悲心徹骨入髓。三者得般舟三昧。能見現在諸佛。是時名阿鞞跋致。 復た次ぎに、三法を得。一には、若し一心に願を作して、仏の道を成ぜんと欲するに、金剛の、動かすべからず、破るべからざるが如くし、二には、一切の衆生に於いて、悲心、骨に徹し、髄に入り、三には、般舟三昧を得て、能く諸仏の現在したもうを見ん。是の時を、阿鞞跋致と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『三法』を、
『得れば!』、
『爾の時である!』。
謂わゆる、――
一には、
若し、
『一心』に、
『願』を、
『作して!』、
『仏の道』を、
『完成させよう!』と、
『思ったならば!』、
譬えば、
『金剛のように!』、
『動かされず!』、
『破られないこと!』。
二には、
一切の、
『衆生』に、
『対して!』、
『悲心』が、
『骨髄』に、
『徹入すること!』。
三には、
『般舟三昧を得て!』、
『現在』の、
『諸仏』を、
『見ることができること!』。
是の、
『三法を得た!』時を、
『阿鞞跋致』と、
『称する!』。
  般舟三昧(はんじゅうさんまい):梵語pratyutpanna-samaadhiの訳。諸仏を現前に見る三昧を云う。『大智度論巻9上注:般舟三昧』参照。



阿毘曇中の菩薩

復次阿毘曇中。迦旃延尼子弟子輩言。何名菩薩。自覺復能覺他。是名菩薩。必當作佛。是名菩薩。菩提名漏盡人智慧。是人從智慧生。智慧人所護智慧人所養故。是名菩薩。 復た次ぎに、阿毘曇中に、迦旃延尼子の弟子の輩の言わく、『何をか、菩薩と名づくる。自ら覚り、復た能く他を覚らしむ、是れを菩薩と名づけ、必ず当に仏と作るべき、是れを菩薩と名づく。菩提を漏の尽きたる人の智慧と名づく。是の人は、智慧より生じ、智慧の人に護られ、智慧の人に養わるるが故に、是れを菩薩と名づく。』と。
復た次ぎに、
『阿毘曇』中には、
『迦旃延尼子』の、
『弟子の輩』は、こう言っている、――
何を、
『菩薩』と、
『称するのか?』。
自ら、
『覚って!』、
復た、
『他人』を、
『覚らせれば!』、
是れが、
『菩薩であり!』、
必ず、
『仏と!』、
『作るはずである!』。
是れを、
『菩薩と称する!』のは、
『菩提』とは、
『漏尽の人』の、
『智慧』を、
『指す!』ので、
是の、
『人』は、
『智慧より!』、
『生じて!』、
『智慧』の、
『人』に、
『護られ!』、
『智慧』の、
『人』に、
『養われるのであり!』、
是れを、
『菩薩』と、
『称するのである!』、と。
  迦旃延尼子(かせんねんにし):梵名kaatyaayaniiputra。西北印度の仏教を宣揚せし有部の大論師にして、発智論の著者の名。『大智度論巻22上注:迦多衍尼子』参照。
又言發阿鞞跋致心。從是已後名菩薩。 又言わく、『阿鞞跋致の心を発し、是れより已後を、菩薩と名づく。』と。
又、こうも言っている、――
若し、
『阿鞞跋致』の、
『心』を、
『発すれば!』、
是れ以後を、
『菩薩』と、
『称する!』、と。
又言若離五法得五法。是名菩薩。何謂五法。離三惡道常生天上人間。離貧窮下賤常得尊貴。離非男法常得男子身。離諸形殘缺陋諸根具足。離捨喜忘常憶宿命。得是宿命智慧。常離一切惡法。遠離惡人。常求道法攝取弟子。如是名為菩薩。 又言わく、『若し五法を離れて、五法を得れば、是れを菩薩と名づく。何をか、五法と謂う、三悪道を離れて、常に天上、人間に生じ、貧窮、下賎を離れて、常に尊貴なるを得、男に非ざる法を離れて、常に男子の身を得、諸の形残、欠陋を離れて、諸根具足し、喜忘を離捨して、常に宿命を憶し、是の宿命の智慧を得て、常に一切の悪法を離れ、悪人を遠離し、常に道法を求めて、弟子を摂取す。是の如きを名づけて、菩薩と為す。』と。
又、こうも言っている、――
若し、
『五法を離れて!』、
『五法』を、
『得れば!』、
是れを、
『菩薩』と、
『称する!』。
何を、
『五法と謂うのか?』、――
『三悪道』を、
『離れて!』、
常に、
『天上、人間』に、
『生じる!』。
『貧窮、下賎』を、
『離れて!』、
常に、
『尊、貴』を、
『得る!』。
『非男の法( womanhood )』を、
『離れて!』、
常に、
『男子の身』を、
『得る!』。
『諸の形残欠陋( body devects )』を、
『離れて!』、
常に、
『諸根具足( entire body )』を、
『得る!』。
『喜忘』を、
『離捨して!』、
常に、
『宿命( a former existence )』を、
『想い出し!』、
是の、
『宿命』の、
『智慧を得て!』、
常に、
一切の、
『悪法を離れて!』、
『悪人を遠離し!』、
常に、
『道の法を求めて!』、
『弟子を摂取する!』。
是のような、
『人』を、
『菩薩』と、
『称するのである!』。
  貧窮(びんぐ):梵語 daardrya の訳、貧困( poverty )。
  下賎(げせん):梵語 niicakula の訳、賎民( a low family )。
  尊貴(そんき):梵語 uccaiHkula の訳、貴族/上流階級( exalted family, high family )。
  非男法(ひなんのほう):梵語 striibhava の訳、女性の立場/女性であること( state of a woman, womanhood )。
  刑残欠陋(ぎょうざんけつる):梵語 vaikalya の訳、欠陥/虚弱/不備/欠点/弱点/不全/不足( imperfection, weakness, defectiveness, defect, frailty, incompetency, insufficiency )。
  形残(ぎょうざん):身体不具。
  欠陋(けつる):不具醜悪。
  諸根具足(しょこんぐそく):梵語 avikala-kaaya の訳、完全な身( entire body )。
  喜忘(きもう):憙忘/容易に忘れる。梵語 sampramoSa の訳、奪う/放心/喪失( carrying off, abstraction, loss )。
  憶宿命(しゅくみょうをおもう):梵語 jaatismara の訳、前世の身を想い出す( recollecting a former existence )。
  宿命智慧(しゅくみょうのちえ):梵語 puurvanivaasa の訳、以前の住居( former habitation )の義、前世の身( a former existence )の意。
  :宿命を知る者は、必ず善法を修めて善業の報を取り、必ず悪法を離れて不善業の報を遠ざく。
又言從種三十二相業已來。是名菩薩。 又言わく、『三十二相の業を種えしより已来、是れを菩薩と名づく。』と。
又、こうも言っている、――
『三十二相』の、
『業』を、
『種えた!』時より、
是れを、
『菩薩』と、
『称する!』、と。
  三十二相(さんじゅうにそう):仏にのみ具有する三十二種の好もしい相。
    (1)足下安平立(そくげあんぴょうりゅう)相:足裏が地に密着し安定した立ち方。
    (2)千輻輪(せんぷくりん)相:足の裏の千の輻(や)をもつ輪の文様。
    (3)手指繊長(しゅしせんちょう)相:手の指が細長い。
    (4)手足柔軟(しゅそくにゅうなん)相:手足が柔らかい。
    (5)手足縵網(しゅそくまんもう)相:手足の指の間に網が張り、家鴨の水かきのよう。
    (6)足跟満足(そくこんまんぞく)相:足のかかとが丸く膨れる。
    (7)足趺高好(そくふこうこう)相:足の背が高く隆起する。
    (8)腨如鹿王(せんにょろくおう)相:股の肉が鹿のように円く張る。
    (9)手過膝(しゅかしつ)相:手が長く膝にとどく。
    (10)馬陰蔵(めおんぞう)相:男根が馬のように体内に密蔵される。
    (11)身縦広(しんじゅうこう)相:身長と両手を広げた長さが等しい。
    (12)毛孔生青色(もうくしょうしょうしき)相:一一の毛孔から青色の一毛が生じて乱れない。
    (13)身毛上靡(しんもうじょうび)相:身毛が右巻きに上に向かって靡く。
    (14)身金色(しんこんじき)相:身体の色が黄金のよう。
    (15)常光一丈(じょうこういちじょう)相:身から光明を放って四方各一丈を照らす。
    (16)皮膚細滑(ひふさいかつ)相:皮膚が柔らかく滑らか。
    (17)七処平満(しちしょひょうまん)相:両足裏、両掌、両肩と頭頂が平らで肉が隆起する。
    (18)両腋満(りょうえきまん)相:腋の下が充満する。
    (19)身如獅子(しんにょしし)相:身体が獅子のように平らかででこぼこがなくて厳粛。
    (20)身端直(しんだんじき)相:身体が端正で曲がらない。
    (21)肩円満(けんえんまん)相:両肩が円満に盛り上がる。
    (22)四十歯(しじゅうし)相:四十枚の歯。
    (23)歯白斉密(しびゃくさいみつ)相:四十の歯が白く浄らかで緊密。
    (24)四牙白淨(しげびゃくじょう)相:四の牙が白く大きい。
    (25)頬車如獅子(きょうしゃにょしし)相:両頬が獅子のように隆満する。
    (26)咽中津液得上味(いんちゅうしんえきとくじょうみ)相:咽喉中の唾で何を食っても上味。
    (27)広長舌(こうちょうぜつ)相:舌が広長、柔軟で薄く、広げれば顔面を覆って髪の生え際に至る。
    (28)梵音深遠(ぼんのんじんおん)相:音声は清浄で遠くまで聞こえる。
    (29)眼色如紺青(げんしきにょこんじょう)相:瞳の色が紺青。
    (30)眼睫如牛王(げんしょうにょごおう)相:睫が牛のように長い。
    (31)眉間白毫(みけんびゃくごう)相:両眉の間に白い毛が右に渦巻いて常に光を放つ。
    (32)頂成肉髻(ちょうじょうにっけい)相:烏瑟膩(うしつに、頂上の肉)が髻のように隆起する。
  参考:『大智度論巻88』:『云何三十二相。一者足下安平立平如奩底。二者足下千輻輞輪輪相具足。三者手足指長勝於餘人。四者手足柔軟勝餘身分。五者足跟廣具足滿好。六者手足指合縵網勝於餘人。七者足趺高平好與跟相稱。八者伊泥延鹿[跳-兆+專][跳-兆+專]纖好如伊泥延鹿王。九者平住兩手摩膝。十者陰藏相如馬王象王。十一者身縱廣等如尼俱盧樹。十二者一一孔一毛生色青柔軟右旋。十三者毛上向青色柔軟右旋。十四者金色相其色微妙勝閻浮檀金。十五者身光面一丈。十六者皮薄細滑不受塵垢不停蚊蚋。十七者七處滿兩足下兩手中兩肩上項中皆滿字相分明。十八者兩腋下滿。十九者上身如師子。二十者身廣端直。二十一者肩圓好。二十二者四十齒。二十三者齒白齊密而根深。二十四者四牙最白而大。二十五者方頰車如師子。二十六者味中得上味咽中二處津液流出。二十七者舌大軟薄能覆面至耳髮際。二十八者梵音深遠如迦蘭頻伽聲。二十九者眼色如金精。三十者眼睫如牛王。三十一者眉間白毫相軟白如兜羅綿。三十二者頂髻肉成。是三十二相佛身成就。光明遍照三千大千世界。』
問曰。何時種三十二相業因緣。 問うて曰く、何れの時にか、三十二相の業の因縁を種うる。
問い、
何のような、
『時に!』、
『三十二相』の、
『業の因縁』を、
『種えるのですか?』。
答曰。過三阿僧祇劫。然後種三十二相業因緣。 答えて曰く、三阿僧祇劫を過ぎ、然る後に三十二相の業の因縁を種う。
答え、
『初発心』より、
『三阿僧祇劫を過ぎて!』、
その後、
『三十二相』の、
『業の因縁』を、
『種えるのである!』。
  阿僧祇(あそうぎ):梵語asaJkhyaの音訳にして、印度の数目の一、無量数或は極大数の意なり。又阿僧伽、阿僧企耶、阿僧、僧祇等に作り、意訳して不可算計、或は無量数、無央数等に為す。一阿僧祇に一千万万万万万万万万兆(万万を億と為し、万億を兆と為す)有りと称するによれば、印度の六十種の数目単位の中に於いて、阿僧祇を第五十二数と為す。<(佛)
  (こう):梵にkalpa。長時、大時、時と訳す原、古代印度婆羅門教の極大時限の時間単位なり。『大智度論巻2上注:劫』参照。
  参考:『無上依経巻下』:『佛告阿難。有百八十不共之法。此是如來勝妙功德。一者三十二相。二者八十種好。三者六十八法。何者三十二相。菩薩修四因緣。一持戒。二禪定。三者忍辱。四者捨財及諸煩惱。修此四因堅固不動。以此業緣得二種相。一者足下平滿。所履踐地悉皆平夷。稱菩薩腳無有坑埳。二者行步平整無有斜戾。若菩薩種種供養父母師長。種種給濟苦難眾生。去來往反勤行此事。以此業緣得足下輪相。轂輞成就千輻莊嚴。若菩薩不逼惱他不行竊盜。見他所愛不生貪奪。不自矜高除卻憍慢。於師尊長起迎問訊侍立瞻奉合掌恭敬。以此業緣得二種相。一者手指纖長傭直沒節。二者其身方大端政莊嚴。具前三種業因緣故。得足跟長。行前三業更修四攝利益他事。以此業緣手足十指悉皆網密。猶如鵝王。若菩薩於師父母扶持侍養。自手塗傅蘇油膏藥。按摩洗浴衣飴瞻視。得手足柔軟潤澤細滑。掌色赤好如紅蓮花。若菩薩修諸善法心無厭惓。增長上上得足踝傭滿。若菩薩修學正法為他演說。往來宣化不生疲極。以是業緣得鹿王[蹲-酋+(十/田/ㄙ)]。若菩薩未得之法勤求欲知。已得之法利他轉化。三種惡業斷塞不起。六塵惡法不染身心。於身病者施其湯藥。於心病者為作良醫。以此業緣得身端直。若菩薩見怖畏者為作救護。於貧裸者施與衣食。恒懷慚愧遮惡不起。以此業緣得陰馬藏。若菩薩護身口意恒令清淨。受施知足用亦知量。施病者藥施貧者財。若有眾生不平等業。乃至受用亦不平等。勸其修行平等之事。以此業緣得身方滿。從橫量等如尼拘類樹。若菩薩方便巧修諸勝善法。無中下品恒令增上。以此業緣得身毛上靡右旋宛轉。若菩薩自性利根多思惟義。親近智者值善知識。於尊長處灑掃清淨。於尊長身洗持按摩。於支提處除去糞穢。客塵煩惱不令污心。以此業緣得一孔一毛皮膚細滑不受塵水。若菩薩衣服飲食車乘臥具諸莊嚴物歡喜施與心無悔吝。以此業緣得身金色圓光一丈。若菩薩軟美飲食廣施無限。令多眾生悉得飽足。以此業緣得七處滿。若菩薩見善眾生欲興善法。同其正業為其尊導。安立善中除斷惡事。以此業緣得師子臆。若菩薩於眾生中為利益事修四正勤。如師子王心無所畏。以此業緣得二種相。一者兩肩平整兩腋下滿。二者兩臂圓直如象王鼻立過于膝。若菩薩離兩舌業。於怨憎中作和合語。行四攝法攝取眾生。思惟深義修平等慈。以此業緣得二種相。一者口四十齒齊密不疏白猶珂雪。二者得四牙相如月初生。若菩薩見諸眾生有所須欲。稱心施與若財若法。以此業緣得二種相。一者師子頤二者頸圓淨。若菩薩守護眾生如視一子。多生信心慈念無量。廣施醫藥無穢濁心。以此業緣得二種相。一者咽喉具足千脈。以受美味津液流潤。二者身鉤鎖骨如那羅延。若菩薩自行十善教他修行。見修行者歡喜讚歎。大悲無量憐愍眾生。發弘誓心攝受正法。以此業緣得二種相。一者有鬱尼沙頂骨涌起自然成髻。二者舌廣薄長如蓮華葉。若菩薩恒說實語愛語美語。敷演正法不使顛倒。以此業緣得梵音聲如迦陵頻伽。妙響深遠如天鼓振。若菩薩起慈敬心觀諸世間如父如母。不起三毒視諸眾生。以此業緣得二種相。一者眼瞼青好如優缽羅華。二者眼睫紺焰猶如牛王。若菩薩見善眾生修三學法。稱讚其美不起毀呰。見有謗者遮制守護。以此業緣得白毫相。當於眉間右旋上靡。復次阿難。菩薩修行四種正業。得三十二相。一者決定無雜。二者諦觀微密。三者常修無間。四者不顛倒行。第一業緣得足下平滿。第二業緣得九種相。一者足下輪相。二者足踝傭滿。三者手足十指網密。四者皮膚細軟。五者得七處滿。六者兩肩平整兩腋下滿。七者臂傭圓。八者舌廣長。九者師子臆。第三業緣得五種相。一者指纖長。二者腳跟長。三者身端不曲。四者橫豎量等。五者頸圓淨。第四業緣得諸餘相。復次阿難。若十方一切眾生俱行十善。如此功德更百倍增長。以此業緣。惟得菩薩一毛之相入一切毛。功德更百倍增。然後能得菩薩一好入一切好。功德更百倍增。然後能得菩薩一相入一切相功德。離白毫相離鬱尼沙。如是功德更增百倍得白毫相。又增百倍得鬱尼沙相。入鬱尼沙功德千倍增長。得如來商珂不共之法相好所攝。因此相好。如來一聲遍滿十方無量世界。阿難。是三十二相有三因緣不可思議。一者時節不可思議。修行數滿三阿僧祇劫。二者心樂不可思議。為安樂利益一切眾生故。三者品類不可思議。修一切善離一切惡。是種類無窮故。是故如來身具相好不可思議』
問曰。幾時名阿僧祇。 問うて曰く、幾ばくの時をか、阿僧祇と名づくる。
問い、
何れほどの、
『時』を、
『阿僧祇』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。天人中能知算數者。極數不復能知。是名一阿僧祇。如一一名二。二二名四。三三名九。十十名百。十百名千。十千名萬。千萬名億。千萬億名那由他。千萬那由他名頻婆。千萬頻婆名迦他。過迦他名阿僧祇。 答えて曰く、天人中の、能く算数を知る者、数を極むるも、復た知る能わず。是れを一阿僧祇と名づく。一一を二と名づくるが如く、二二を四と名づけ、三三を九と名づけ、十十を百と名づけ、十百を千と名づけ、十千を万と名づけ、千万を億と名づけ、千万億を那由他と名づけ、千万那由他を頻婆と名づけ、千万頻婆を迦他と名づけ、迦他を過ぐるを阿僧祇と名づく。
答え、
『天、人』中の、
『数』を、
『算える!』ことを、
『知る!』者が、
『数』を、
『極めて!』、
もう、
『それ以上は!』、
『知ることができない!』時、
是れを、
『一阿僧祇』と、
『称する!』。
例えば、
『一と一と』を、
『二と呼び!』、
『二の二倍』を、
『四と呼び!』、
『三の三倍』を、
『九と呼び!』、
『十の十倍』を、
『百と呼び!』、
『十の百倍』を、
『千と呼び!』、
『十の千倍』を、
『万と呼び!』、
『千の万倍』を、
『憶と呼び!』、
『千の万倍の億倍』を、
『那由他と呼び!』、
『千の万倍の那由他倍』を、
『頻婆と呼び!』、
『千の万倍の頻婆倍』を、
『迦他と呼び!』、
『迦他を過ぎる!』を、
『阿僧祇と呼ぶ!』。
  極数(ごくしゅ):かぞえ尽くす。
  那由他(なゆた):梵語nayutaの音訳なり、また那庾多、那由多、那術、那述に作る。数の名目にして、この地の億に当たるも、億に十万、百万、千万の三等有るが故に諸師の那由他の数を定むること不同なり。
  頻婆(びんば):梵語頻婆羅(viJvara)の略語、数量の名なり、訳して十兆という。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻177』:『問如契經說。菩薩經三劫阿僧企耶。修行四波羅蜜多方得圓滿。此是何等劫耶。答有說是中劫。有說。是成劫。有說。是壞劫。如是說者此是大劫。積此大劫至一阿僧企耶。如是至三阿僧企耶修習圓滿。問此劫阿僧企耶量云何可知。答有說。以大劫為一。積此一至百千名洛叉。至百百千名俱胝。百千俱胝名那庾多。百千那庾多名頻婆。百千頻婆名建他。此後非算數智所及。至此所不及位名一劫阿僧企耶量。第二第三劫阿僧企耶量亦爾。有說。以大劫為一。積此一至百千名洛叉。至百百千名俱胝。百千俱胝名俱胝俱胝。百千俱胝俱胝名阿哲哲俱胝。百千阿哲哲俱胝名阿吒吒俱胝。百千阿吒吒俱胝名阿庾多。百千阿庾多名阿庾多分。百千阿庾多分名那庾多。百千那庾多名那庾多分。百千那庾多分名俱物陀。百千俱物陀名俱物陀分。百千俱物陀分名缽特摩。百千缽特摩名缽特摩分。百千缽特摩分名迦末羅。百千迦末羅名迦末羅分。百千迦末羅分名捺稚那。百千捺稚那名捺稚那分。百千捺稚那分名睹胝。百千睹胝名睹胝分。百千睹胝分名阿波波。百千阿波波名阿波波分。百千阿波波分名吒吒。百千吒吒名吒吒分。百千吒吒分名鄔伽。百千鄔伽名鄔伽分。百千鄔伽分名跋羅。百千跋羅名跋羅分。百千跋羅分名婆揭羅。從此以後非算數智所及。至此所不及位名一劫阿僧企耶量。第二第三劫阿僧企耶量亦爾。有說。非算數智所不及故名阿僧企耶。然有契經說六十數。於中有一數名阿僧企耶積大劫數至此數時名一劫阿僧企耶。如彼經言。有一無餘數始為一。十一為十。十十為百。十百為千。十千為缽羅薜陀。十缽羅薜陀為洛叉。十洛叉為頞底洛叉。十頞底洛叉為俱胝。十俱胝為末陀。十末陀為阿庾多。十阿庾多為大阿庾多。十大阿庾多為那庾多。十那庾多為大那庾多。十大那庾多為缽羅那庾多。十缽羅那庾多為大缽羅那庾多。十大缽羅那庾多為矜羯羅。十矜羯羅為大矜羯羅。十大矜羯羅為頻跋羅。十頻跋羅為大頻跋羅。十大頻跋羅為阿芻婆。十阿芻婆為大阿芻婆。十大阿芻婆為毘婆訶。十毘婆訶為大毘婆訶。十大毘婆訶為嗢蹭伽。十嗢蹭伽為大嗢蹭伽。十大嗢蹭伽為婆喝那。十婆喝那為大婆喝那。十大婆喝那為地致婆。十地致婆為大地致婆。十大地致婆為醯都。十醯都為大醯都。十大醯都為羯臘婆。十羯臘婆為大羯臘婆。十大羯臘婆為印達羅。十印達羅為大印達羅。十大印達羅為三磨缽耽。十三磨缽耽為大三磨缽耽。十大三磨缽耽為揭底。十揭底為大揭底。十大揭底為枯筏羅闍。十枮筏羅闍為大枮筏羅闍。十大枮筏羅闍為姥達羅。十姥達羅為大姥達羅。十大姥達羅為跋藍。十跋藍為大跋藍。十大跋藍為珊若。十珊若為大珊若。十大珊若為毘步多。十毘步多為大毘步多。十大毘步多為跋邏攙。十跋邏攙為大跋邏攙。十大跋邏攙為阿僧企耶。此後更有八數及前為六十數積一大劫。至此第五十二阿僧企耶數。時名一劫阿僧企耶。第二第三劫阿僧企耶亦復如是。』
如是數三阿僧祇。若行一阿僧祇滿行第二阿僧祇。第二阿僧祇滿行第三阿僧祇。譬如算數法。算一乃至算百百算竟還至一。如是菩薩一阿僧祇過還從一起。 是の如く三阿僧祇を数えて、若し、行じて一阿僧祇満つれば、第二の阿僧祇を行じ、第二の阿僧祇満つれば、第三の阿僧祇を行ず。譬えば算数の法もて、一を算え、乃至百を数え、百数え竟りて、還って一に至るが如し。是の如く、菩薩は一阿僧祇を過ぎて、還って一より起つ。
是のように、
『三阿僧祇』を、
『数えて!』、――
若し、
『行』が、
『一阿僧祇』を、
『満たせば!』、
『第二』の、
『阿僧祇』を、
『行じ!』
『行』が、
『第二の阿僧祇』を、
『満たせば!』、
『第三』の、
『阿僧祇』を、
『行じるのである!』が、
譬えば、
『算数法』で、
『一を数えて!』、
やがて、
『百を数える!』に、
『至り!』、
『百を数え竟る!』と、
還って、
『一を数える!』に、
『至るように!』、
是のように、
『菩薩』は、
『一阿僧祇』が、
『過ぎる!』と、
還って、
『一』より、
『起つ(出発する)のである!』。
初阿僧祇中。心不自知我當作佛不作佛。二阿僧祇中。心雖能知我必作佛。而口不稱我當作佛。三阿僧祇中。心了了自知得作佛。口自發言無所畏難。我於來世當作佛。 初の阿僧祇中の心は、自ら、我れは、当に仏と作るべしとも、仏と作らざるべしとも知らず。二阿僧祇中の心は、能く、我れは必ず仏と作ると知ると雖も、口には、『我れは当に仏と作るべし』、と称えず。三阿僧祇中の心は、了了に自ら、仏と作ることを得と知り、口に自ら、『我れは、来世に於いて当に仏と作るべし』、と言を発するに、所畏の難無し。
『初の阿僧祇』中の、
『心』は、
自ら、
『わたしは、仏と作るはずだ!』とも、
『わたしは、仏と作らないだろう!』とも、
『知らず!』、
『第二の阿僧祇』中の、
『心』は、
『わたしは、必ず仏と作るだろう!』と、
『知ることができる!』が、
『口』で、
『わたしは、仏と作るはずだ!』と、
『称することはない!』。
『第三の阿僧祇』中の、
『心』は、
『了了(明了)に!』、
自ら、
『仏と作るはずだ!』と、
『知り!』、
『口』には、
自ら、
『わたしは、来世に仏と作るだろう!』と、
是のような、
『言』を、
『発しても!』、
『非難』を、
『畏れる!』ことが、
『無い!』。
釋迦文佛。從過去釋迦文佛到剌那尸棄佛為初阿僧祇。是中菩薩永離女人身。 釈迦文仏は、過去の釈迦文仏より、剌那尸棄仏に到るまでを、初の阿僧祇と為して、是の中に菩薩は、永く女人の身を離れたまえり。
『釈迦文仏』は、
『過去』の、
『釈迦文仏の時』より
『剌那尸棄仏の時』が、
『到るまで!』が、
『初の阿僧祇であり!』、
是の中に、
『菩薩』は、
『女人の身』を、
『永く離れることになった!』。
  釈迦文仏(しゃかもんぶつ):梵名zaakya-muni-buddha。又釈迦牟尼仏に作り、尊んで又釈尊とも称す。即ち仏教の教祖なり。『大智度論巻2下注:釈迦牟尼仏』参照。
  剌那尸棄仏(らなしきぶつ):梵語ratnazikhin-buddha。宝頂と訳す。即ち過去の仏の名。
  釈迦文(しゃかもん):仏名。また釈迦牟尼に作り、梵語Zaakyamuniの音訳。印度迦毘羅城(kapilavastu)の主浄飯王(zuddhodana)の子、母を摩耶(maayaa)といい、名を悉多(siddhaartha)太子と呼ぶ。城東嵐毘尼園(lumbini)に於いて生まれ、生後七日にして母歿し、姨母波闍波提(prajaapati)これを養育し、跋陀羅尼(bharani)これを教養す。幼にして人生の諸現象に対し、すでに思惟する処あり。或は閻浮樹の下に耕農の苦を思い、或は諸獣相い食うを見て人生の闘争を厭い、また四門に於いて出遊の途上、生老病死の相を観て遁世の志有り。遂に月夜に乗じて侍者車匿(chaNDaka)をして伴わしめ、白馬犍陟(kaNThaka)に跨がりて出家し、跋伽婆(bhaargava)を尋ねて苦行出離の道を聞き、更に摩竭陀国王舎城北弥楼山(meru)に阿藍迦藍(aaraaDakaalaama)を訪いて僧佉派(saaJkhya、数論派)の法を聞き、転じて鬱陀羅仙(udraka)を歴問するも、皆求むる所の大法を得ざれば、去りて漚楼頻螺村(uruvilvaa)の苦行林に入りて厳苦すること六年、形容削廋し、酷烈の苦を極め、継いで以って苦行は解脱涅槃の道に非ずと為し、断然として前日の行を改め、尼連禅河(nairaJjana)に於いて浴し、以って身垢を去り、村女の捧ぐる所の乳糜を受けて正覚山菩提樹の下に思惟して曰く、等正覚を得ずんばこの坐を起たず、と。思惟すること七七日、四諦十二因縁の法を観、ここに於いて覚者(buddha)、世尊(lokajyestha)と成り、人天の師と為ること、時に年三十五、これより以後四十余年、四方に遊歴して群類を化導し、西歴紀元前四百八十七年拘尸那城(kuzinagara)外の沙羅双樹に於いて、白花の香に包まれて遂に大般涅槃せり。<(丁)
  :永離女人身:永久に女人の身を以って生を受けざるを云う。
從剌那尸棄佛至燃燈佛為二阿僧祇。是中菩薩七枚青蓮華。供養燃燈佛。敷鹿皮衣布髮掩泥。是時燃燈佛。便授其記。汝當來世作佛名釋迦牟尼。 剌那尸棄仏より、然灯仏に至るまでを、二阿僧祇と為し、是の中に菩薩は、七枚の青蓮華もて然灯仏を供養し、鹿皮の衣を敷き、髪を布いて、泥を掩うに、是の時、然灯仏は、便ち、『汝は、当来の世に、仏と作りて、釈迦牟尼と名づく。』と、其の記を授けたまえり。
『剌那尸棄仏より!』、
『然灯仏まで!』が、
『第二の阿僧祇であり!』、
是の中に、
『菩薩』は、
『七枚の青蓮華』で、
『然灯仏』を、
『供養し!』、
『鹿皮の衣を敷き!』、
『髪を布()いて!』、
『泥』を、
『掩(おお)った!』ので、
是の時、
『然灯仏』は、
其れに、
『記』を、こう授けた、――
お前は、
未来世には、
『仏と作り!』、
『釈迦牟尼』と、
『呼ばれるだろう!』、と。
  然灯仏(ねんとうぶつ):梵名diipaMkara-buddha。過去に出現し、釈尊に授記せし仏の名。『大智度論巻25下注:定光如来』参照。
  参考:『仏本行集経巻3』:『‥‥爾時我心作是思惟。諸佛世尊。不尚錢財以為供養。唯法供養。聖所稱譽。我未有法義無空見。今可買覓上妙好華。持以奉獻。願未來世得作於佛。我時即至一鬘師家。語彼人言。仁者可賣此花與我。爾時彼人報於我言。仁者童子。汝可不聞。降怨大王出敕告下。所有華鬘悉不聽賣與於他人。何以故。王欲自取持供養佛。我聞彼人如是語已。復更至於餘鬘師店。求索華買。彼還答我如前不異。如是處處買華不得。於街巷裏。私竊訪求。見一青衣取水婢子。名曰賢者。密將七莖優缽羅華。內於瓶中。從前而來。我見彼已。心生歡喜。即語之言。汝將此華。欲作何事。我今與汝五百金錢。汝可與我瓶內七莖優缽羅華。彼女復言。仁者童子。汝可不聞。然燈世尊多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。今欲入城受此地主降怨王請。王於佛所。生尊重心。復欲建立諸功德故。宣令國內十二由旬。所有香油華鬘之屬。不聽一人私竊盜賣。若有賣者。唯王得買自將供養。以我比舍有一鬘師。名曰怨讎。彼有一女。私從我邊取五百錢。即盜與我此七莖華。我既違禁。得於此華。自欲供養然燈世尊多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。實不可得。時我復更語彼女言。善女所說因緣。我今已知。汝可取我五百金錢與我五莖優缽羅華。兩莖還汝。爾時彼女即答我言仁者童子。汝取此華。欲作何用。我時報言。如來出世。難見觀逢。今既遭遇。欲買此華上然燈如來多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。種諸善根。為未來世求於阿耨多羅三藐三菩提。爾時彼女復語我言。我觀童子。內外形容。身心勇猛愛法精進。汝必當得阿耨多羅三藐三菩提。‥‥』
  参考:『仏本行集経巻3』:『‥‥我時見彼然燈如來。生信敬心。生殷重心。生敬心已。將此七莖優缽羅花。散於佛上。發此願言。若我來世得作佛時。如今然燈如來得法。及於大眾無有異者。所散之華。住虛空中。花葉向下。花莖向上。當佛頂上。成於華蓋。隨佛行住。我見如是神通德力。倍復生於信敬之心。阿難。時彼無量無邊人眾。各將無價妙好衣裳。布於道上。所謂微細迦尸迦衣。細白[疊*毛]衣。細芻摩衣。微妙細軟拘周摩衣。及妙繒綵憍奢耶被。為欲供養然燈佛故。覆地令滿。阿難。我於是時。見彼無量無邊人眾。將無價衣悉皆覆地。時我身上唯一鹿皮。我將鹿皮布於地上。而我鹿皮覆地之處。為彼人眾惡罵瞋嫌。抴我鹿皮遠擲他處。我生此念。嗚呼世尊然燈如來。可不憐愍慈念我耶。生此念已。佛知我心。憐愍我故。時然燈佛以神通力。變一方地。如稀土泥。時彼人眾見此路泥。各各避行。無有一人入於泥者。我時行見速往泥所。見彼泥已。即生此念。如是世尊。云何令踐此泥中行。若泥中行泥污佛腳。我今乃可將臭肉身於此泥上作大橋梁。令佛世尊履我身過。我時即鋪所有鹿皮。解髮布散。覆面而伏。為佛作橋。一切人民未得踐過。唯佛最初蹈我髮上。如是供養然燈佛多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀故。復生是念。願此然燈如來世尊。及聲聞眾。足蹈我身及頭髮上。渡於此泥。復發此願。願未來世得作佛時。如今然燈如來無異。如是威德。如是勢力。作天人師。又願我今盡此身命。若然燈佛。不授我記。我終不起於此泥中。當是童子布身髮時。是時大地六種震動。所謂東涌西沒。西涌東沒。南涌北沒。北涌南沒。中涌邊沒。邊涌中沒‥‥』
  然灯仏(ねんとうぶつ):梵名diipaJkara、音訳して提和竭羅、提洹竭に作り、また燃灯仏、普光仏、錠光仏に作る。過去世に於いて釈迦菩薩に成道の記別を授けし仏なり。『修行本起経巻上』によれば、提和衛国(梵diipavatii)に聖王有り、灯盛と名づく、王命終に臨みし時、まさに国を太子錠光に付託せんとするも、太子世の無常を知りて、また国をその弟に授け、出家して沙門と為り、後に仏果を成ぜり。時に梵志儒童有り、錠光仏の遊化に値遇し、花を買うて仏に供せしに、仏、儒童の為に来世の成仏の記を授く。この儒童は、便ち後来の釈迦牟尼仏なり。<(佛)
從燃燈佛至毘婆尸佛為第三阿僧祇。若過三阿僧祇劫。是時菩薩種三十二相業因緣。 然灯仏より、毘婆尸仏に至るを第三阿僧祇と為し、若し三阿僧祇劫を過ぐれば、是の時、菩薩は、三十二相の業の因縁を種う。
『然灯仏より!』、
『毘婆尸仏まで!』が、
『第三の阿僧祇であり!』、
若し、
『第三の阿僧祇』を、
『過ぎれば!』、
『菩薩』は、
『三十二相』の、
『業の因縁』を、
『種えることになる!』。
  毘婆尸仏(びばしぶつ):毘婆尸は梵名vipazyin。又弗沙puSya、底沙tiSya等とも名づく。過去七仏の第一仏にして、即ち過去荘厳劫中出現の仏なり。『大智度論巻37下注:毘婆尸仏』参照。
  毘婆尸(びばし):梵名vipazyin、過去七仏の第一仏なり。また毘鉢尸、鞞婆尸、維衛等に作り、意訳して勝観、浄観、勝見、種種見等に為す。即ち過去荘厳劫中に出現せる仏なり。釈尊は因位に於ける百劫の相好業を修めし時、この仏の宝龕中に坐して威光赫奕たるに遇逢し、遂に七日七夜掌を合わせ足を翹(つまだ)って、これを讃歎せり。巴利文大史に、この仏は乃ち燃灯仏を以って首と為す二十四仏中の第十九仏なりと謂い、別に『長阿含経巻1』によれば、この仏は過去九十一劫前に於いて出世し、その時、人寿八万歳、その父を槃頭と名づけて刹帝利種の拘利若姓、母は槃頭婆提、子を方膺と名づく。その時の王を槃頭と名づけ、王城を槃頭婆提と名づく。この仏、波波羅樹の下に於いて成道し、初会の説法にて衆十六万八千を度し、次会の説法にて衆十萬人を度し、三会の説法にて衆八萬人を度し、その中に騫陀、提舎の二高足有り、執事の弟子を無憂と名づく、と云えり。<(佛)
問曰。三十二相業何處可種。 問うて曰く、三十二相の業は、何れの処にか、種うべき。
問い、
『三十二相』の、
『業の因縁』は、
何処ような、
『処』に、
『種えられるのですか?』。
答曰。欲界中。非色無色界。於欲界五道在人道中種。於四天下閻浮提中種。於男子身種非女人。佛出世時種。佛不出世不得種。緣佛身種。緣餘不得種。 答えて曰く、欲界中にして、色、無色界に非ず。欲界の五道に於いては、人道中に在りて種え、四天下に於いては、閻浮提中に種え、男子の身に於いて種え、女人に非ず。仏の出世の時に種え、仏の出世したまわざれば、種うるを得ず。仏の身を縁じて種え、余を縁じては種うるを得ず。
答え、
『欲界』中に、
『種えて!』、
『色、無色界』中には、
『種えず!』、
『欲界』の、
『五道』に於いては、
『人道』中に、
『種え!』、
『四天下』に於いては、
『閻浮提』中に、
『種え!』、
『男子の身』を、
『種えて!』、
『女人の身』は、
『種えず!』、
『仏の出世の時』に、
『種えて!』、
『仏の出世しない時』には、
『種えず!』、
『仏身を縁じ(見聞覚知し)て!』、
『種える!』が、
『余を縁じても!』、
『種えることはできない!』。
  :仏身を縁ずるとは、見る、聞く、触れるを云う。
問曰。是三十二相業因緣。於身業口業意業何業種。 問うて曰く、是の三十二相の業の因縁は、身業、口業、意業に於いて、何れの業を種うる。
問い、
是の、
『三十二相』の、
『業の因縁』は、
『身業、口業、意業』の、
何の、
『業』を、
『種えるのですか?』
答曰。意業種非身口業。何以故是意業利故。 答えて曰く、意業に種え、身、口業に非ず。何を以っての故に、意業は利なるが故なり。
答え、
『意業』には、
『種える!』が、
『身業、口業』には、
『種えない!』。
何故ならば、
是の、
『意業』は、
『鋭利だからである!』。
問曰。意業有六識。是三十二相業。為是意識種。是五識種 問うて曰く、意業には、六識有り。是の三十二相の業は、是れ意識種うと為すや、是れ五識種うや。
問い、
『意業』には、
『六識有る!』が、
是の、
『三十二相』の、
『業の因縁』は、
『意識が種えるのですか?』、
『五識が種えるのですか?』。
答曰。是意識非五識。何以故。五識不能分別。以是故意識種。 答えて曰く、是れ意識にして、五識に非ず。何を以っての故に、五識は分別する能わざれば、是を以っての故に、意識種うるなり。
答え、
是れは、
『意識』が、
『種えるのであって!』、
『五識』が、
『種えることはない!』。
何故ならば、
『五識』は、
『分別できない!』ので、
是の故に、
『意識』が、
『種えるのである!』。
問曰。何相初種。 問うて曰く、何れの相をか、初めに種うる。
問い、
何の、
『相』を、
『初めに!』、
『種えるのですか?』。
答曰。有人言。足安立相先種。何以故先安立然後能種餘相。 答えて曰く、有る人の言わく、『足安立相を先に種う。何を以っての故に、先に安立すれば、然る後には、能く余の相を種うればなり。』と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『足安立相』が、
『先に!』、
『種えられる!』。
何故ならば、
先に、
『安立しておれば!』、
その後、
『余の相』を、
『種えられるからである!』、と。
  安立(あんりゅう):梵語supratiSThitaの訳。しっかりと立つの義。
有人言。紺青眼相初種。得此眼相大慈觀眾生。此兩語雖有是語不必爾也。若相因緣和合時便是初種。何必安立足為初。 有る人の言わく、『紺青眼相を初めに種う。此の眼相を得て、大慈もて、衆生を観ればなり。』と。此の両語は、是の語有りと雖も、必ずしも爾らず。若し相の因縁和合する時なれば、便ち是れを初に種う。何ぞ必ずしも、安立足を初と為さんや。
有る人は、こう言っている、――
『紺青眼の相』が、
『初めに!』、
『種えられる!』。
此の、
『眼相』を、
『得て!』、
『大慈』で、
『衆生』を、
『観るのである!』、と。
此の、
『両の語』は、
是のような、
『語』が、
『有ったとしても!』、
必ずしも、
『爾の通りではない!』。
若し、
『相』の、
『因縁』が、
『和合する!』時、
『便ち( just )』、
『初めて!』、
『種えるとすれば!』、
何故、
『必ず!』、
『安立足』が、
『初でなければならないのか?』。
問曰。一思種。為多思種。 問うて曰く、一思して種うや、多思して種うと為すや。
問い、
『一』の、
『思い!』で、
『種えるのか?』、
『多く!』の、
『思い!』で、
『種えるのか?』。
答曰。三十二思種三十二相。一一思種一一相。一一相百福德莊嚴。 答えて曰く、三十二思して、三十二の相を種う。一一の思は、一一の相を種え、一一の相を百の福徳荘厳す。
答え、
『三十二』の、
『思い!』で、
『三十二の相』を、
『種え!』、
『一一』の、
『思い!』が、
『一一の相』を、
『種えるのであり!』、
『一一』の、
『相』を、
『百の福徳』が、
『荘厳するのである!』。
問曰。幾許名一福德。 問うて曰く、幾ばくをか、一福徳と名づくる。
問い、
『何れほど( how many )!』を、
『一福徳』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。有人言。有業報轉輪聖王。於四天下受福樂得自在。是名一福德。如是百福成一相。 答えて曰く、有る人の言わく、『有る業報の転輪聖王の、四天下に於いて、福楽を受け、自在を得る、是れを一福徳と名づけ、是の如き百福もて、一相を成ず。』と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
有る、
『業報で得た!』、
『転輪聖王』が、
『四天下』に、
『受けて得る!』、
『福楽』と、
『自在』とを、
是れを、
『一福徳』と、
『呼ぶ!』時、
是のような、
『百の福徳』が、
『一相』を、
『成すのである!』。
復有人言。作釋提桓因。於二天中得自在。是名一福德。 復た、有る人の言わく、『釈提桓因と作りて、二天中に於いて自在を得る、是れを一福徳と名づく。』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『釈提桓因と作って!』、
『二天』中に、
『自在』を、
『得るならば!』、
是れを、
『一福徳』と、
『称する!』、と。
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):梵名zakra-devaanaam-indra。忉利天の主。須弥山頂喜見城に居し、三十三天、及び四天王天を統領す。『大智度論巻3上注:釈提桓因、同巻21下注:因陀羅』参照。
復有人言。作他化自在天王。於欲界中得自在。是名一福。 復た有る人の言わく、『他化自在天王と作りて、欲界中に於いて自在を得る、是れを一福と名づく。』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『他化自在天王と作って!』、
『欲界』中に、
『自在』を、
『得るならば!』、
是れを、
『一福』と、
『称する!』、と。
  他化自在天(たけじざいてん):他化自在は梵語para-nirmita-vaza-vartinの訳。六欲天の一。即ち化楽天の上、欲界の最上第六位に位する天にして、此の天の主を魔王とも称す。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
  他化自在天(たけじざいてん):略して他化天と名づく。欲界六天中の第六にして、故に称して第六天と為す。この天は快楽の為に自己の楽具、変現を要せず、下天化作せんに他の楽事を仮りて自在に遊戯し、故に他化自在と名づけ、梵に娑舎跋提(paranirmitavazavartina)と名づく。この天を欲界の主と為し、色界の主摩醯首羅(まけいしゅら、mahezvara)と倶に、皆正法を害する魔王と為す。即ち四魔(煩悩魔、五陰魔、死魔、天魔)中の天魔なり。仏成仏の時、来たり試して障害せる者も、またこの天魔なり。或は言わく、第六天上に別に魔の宮殿有りて、魔王はここに住み、他化天の王に非ず、と。『大智度論巻9』に曰く、この天、他の化する所を奪いて自ら娯楽すれば、故に他化自在と言う、と。<(丁)
復有人言。除補處菩薩餘一切眾生所得福報。是名一福。 復た、有る人の言わく、『補処の菩薩を除き、余の一切の衆生の得る所の福報、是れを一福と名づく。』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『補処の菩薩を除いて!』、
『余の衆生の得られる!』、
『一切の!』、
『福報は!』、
是れを、
『一福』と、
『呼ぶのである!』、と。
  補処(ふしょ):前の仏の処を補う菩薩の意。即ち前の仏に嗣いで次に仏と成る菩薩を云う。『大智度論巻4上注:一生補処』参照。
  一生補処(いっしょうふしょ):梵語eka-jaati-pratibaddhaの訳。一生所繋の義。即ち一生の後に仏の処を補うの意なり。又略して補処とも云う。又梵語carama-bhavikaも之と同義にして、最後の輪廻者の義なり。「菩薩本業経十地品」に菩薩の十地住の行位を明かす中、第十位を名づけて補処とし、此の菩薩には十事あり、智及び難しと説き、又仏の三途無際の慧等を学し、更に復た学する所なきが故に補処と名づくと云い、其の下に、「十十の法成じてより、現世に無上正真の道を紹代することを得て、最正覚となりて天下を度脱す」と云えり。是れ此の第十住の菩薩は、既に仏の智慧を学して更に学すべきものなく、現世に仏の処を補うて最正覚を成ずることを説けるものなり。又「阿閦仏国経巻上発意受慧品」に、「一仏刹より復た一仏刹に遊び、即ち兜術天に住し、一生補処の法を得」と云い、「師子月仏本生経」に、「彌猴発願し已り、阿羅漢に五戒を受くるに由るが故に畜生業を破し、命終して即ち兜率天上に生じ、一生補処の菩薩に値遇す」と云い、又「無量寿経巻上」に、「他法仏土の諸菩薩衆、我が国に来生せば、究竟じて必ず一生補処に至らしめん」と云える皆其の例なり。又「大日経具縁真言品」に、「一生補処の菩薩は仏地三昧道に住し、造作を離れて世間の相を知り、業地に住し仏地に堅住す」と云い、「同経疏巻6」に之を釈して、「此れは是れ一生所繋の菩薩なり。此れにより兜率天宮に上生し、次いで仏位を紹ぐが故に一生補処と名づくるなり。今此の経宗に一生と言うは、謂わく一よりして生ずるなり。初め浄菩提心を得る時、一実の地より無量無辺の三昧総持門を発生し、是の如く一一の地の中に次第に増長す。当に知るべし亦爾り、第十地に至るまでに満足し、第十一地に至らず。爾の時一実の境界より具足して一切の荘厳を発生す。唯だ如来の一位を少き、未だ証知を得ず、更に一転法性の生ありて即ち仏処を補う。故に一生補処と名づく」と云えり。但し一生補処の位次に関しては古来諸説あり。玄一の「無量寿経記巻上」に、「一生補処と言うは、且く穢土の菩薩に約するに四種あり。一に住定の菩薩なり、謂わく相好業を修する百劫中の菩薩は定んで四の過失を離れ、二の果報を得。此の定位に住するが故に住定と言うなり。二に仏地に近き菩薩なり、若し通説せば亦是れ位定なり、若し別説せば知足天以落の一生是れなり。三に一生補処の菩薩なり。知足天の菩薩は、此の天の一生を受け已りて能く仏処を補うが故なり。四に最後生の菩薩なり。謂わく成仏の身なり。若し浄土に約すれば未だ成文を見ず」と云えり。此の中、第一は正定位に住する菩薩を云い、第二は仏地に近き菩薩を云い、第三は都率天に住する菩薩を云い、第四は都率より人中に下生し成仏する身を云うなり。又「菩薩資糧論巻1」、「観弥勒上生兜率天経賛巻上」、「弥勒上生経宗要」、「阿弥陀経略記」、「阿弥陀経疏(窺基)」、「同通賛疏巻中」、「大明三蔵法数巻4」、「四十八願釈」、「無量寿経鈔巻4」等に出づ。<(望)
  補処(ふしょ):前の仏、すでに滅せし後、仏と成りてその処を補う、これを補処と名づく。即ち前の仏に嗣いで仏と成る菩薩なり。また一生を隔てて仏と成るを、則ちこれを一生補処と謂うなり。またこの位を名づけて等覚と為し、弥勒は即ち釈迦如来の補処の菩薩なり。「維摩詰経巻上」に、「弥勒は一生補処に在り」と云い、「大智度論巻7」に、「弥勒菩薩はまさに補処と称すべし」と云えるこれなり。<(丁)
復有人言。天地劫盡一切眾生共福德故。三千大千世界報立。是名一福。 復た、有る人の言わく、『天地の劫尽くるまで、一切の衆生の福徳を共にするが故に、三千大千世界報じて立つ、是れを一福と名づく。』
復た、
有る人は、こう言っている、――
『天、地の劫(寿命)の尽きる!』までの、
『衆生』の、
『一切の福徳』を、
『共にする!』が故に、
『三千大千世界』が、
『報いて!』、
『成立するのである!』が、
是れを、
『一福』と、
『呼ぶ!』。
  三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):四禅天に依りて覆わるる世界の総称にして、須弥山を中心とする一世界の千倍の復た千倍の更に復た千倍の世界にして、即ち百億の日月、百億の須弥山、百億の四天下、百億の六欲天、百億の初禅天、百億の二禅天及び千の三禅天あるを云う。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
復有人言。是福不可量不可以譬喻知。如三千大千世界一切眾生皆盲無目。有一人能治令差。是為一福。一切人皆被毒藥。一人能治令差。一切人應死。一人能捄之令脫。一切人破戒破正見。一人能教令得淨戒正見。如是等為一福。 復た、有る人の言わく、『是の福は、不可量にして、譬喩を以ってしても知るべからず。三千大千世界の一切の衆生、皆盲いて目無きに、一人有りて、能く治し、差(い)えしむるが如き、是れを一福と為す。一切の人、皆毒薬を被るに、一人、能く治して差えしむ。一切の人、応に死すべきに、一人、能く之を捄(すく)いて脱れしむ。一切の人、戒を破り、正見を破るに、一人、能く教えて、浄戒、正見を得しむ。是の如き等を、一福と為す。』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『福』は、
『量ることもできず!』、
『譬喩を用いて知ることもできない!』。
譬えば、
『三千大千世界』の、
一切の、
『衆生』が、
皆、
『盲いて!』、
『無目であっても!』、
有る、
『一人』が、
『治療して!』、
『愈すことができれば!』、
是れが、
『一福である!』。
又、
一切の、
『人』が、
皆、
『毒薬』を、
『服まされても!』、
『一人』が、
『治療して!』、
『愈すことができれば!』、
又、
一切の、
『人』が、
皆、
『死ぬはずなのに!』、
『一人』が、
『救助して!』、
『脱出させれば!』、
又、
一切の、
『人』が、
『戒を破り!』、
『正見を破ったとしても!』、
『一人』が、
『教えて!』、
『浄戒、正見を得させられれば!』、
是れ等のようなものを、
『一福』と、
『呼ぶのである!』、と。
復有人言。是福不可量不可譬喻。是菩薩入第三阿僧祇中。心思大行。種是三十二相因緣。以是故。是福無能量。唯佛能知。 復た、有る人の言わく、『是の福は、不可量にして、譬喩すべからず。是の菩薩は、第三阿僧祇中に入りて、心に大行を思うて、是の三十二相の因縁を種う。是を以っての故に、是の福を能く量る無く、唯だ仏のみ、能く知りたもう。』と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『福』は、
『量ることもできず!』、
『譬喩することもできない!』が、
是の、
『菩薩』は、
『第三の阿僧祇中に入り!』、
『心』に、
『大行』を、
『思って!』、
是の、
『三十二相の因縁』を、
『種えることになる!』。
是の故に、
是の、
『福』を、
『量れる!』者は、
『無く!』、
唯だ、
『仏のみ!』が、
『知るだけである!』、と。



弗沙仏の二弟子

問曰。菩薩幾時能種三十二相。 問うて曰く、菩薩は、幾ばくの時か、能く三十二相を種うる。
問い、
『菩薩』は、
何れほどの、
『時』、
『三十二相』を、
『種えることができるのですか?』。
答曰。極遲百劫。極疾九十一劫。釋迦牟尼菩薩。九十一大劫行辦三十二相。 答えて曰く、極めて遅きは百劫、極めて疾きは九十一劫なり。釈迦牟尼菩薩は、九十一大劫行じて、三十二相を辦じたまえり。
答え、
『極めて!』、
『遅ければ!』、
『百劫』、
『種えるし!』、
『極めて!』、
『疾ければ!』、
『九十一劫』、
『種えることになる!』。
『釈迦牟尼菩薩』は、
『九十一大劫』、
『修行して!』、
『三十二相』を、
『成就された!』。
  大劫(だいこう):梵語mahaa-kalpaの訳。世界の生住滅を単位と為すが如き極大時を云う。『大智度論巻2上注:劫』参照。
  参考:『大智度論巻38』:『問曰。云何名跋陀。云何名劫。答曰。如經說有一比丘問佛言。世尊幾許名劫。佛告比丘。我雖能說汝不能知。當以譬喻可解。有方百由旬城溢滿芥子。有長壽人過百歲持一芥子去。芥子都盡劫猶不澌。又如方百由旬石。有人百歲持迦尸輕軟疊衣一來拂之石盡劫猶不澌。時中最小者六十念中之一念。大時名劫。劫有二種。一為大劫。二為小劫。大劫者如上譬喻。劫欲盡時眾生自然心樂遠離。樂遠離故除五蓋入初禪。是人離生喜樂。從是起已。舉聲大唱言。諸眾生甚可惡者是五欲第一。安隱者是初禪。眾生聞是唱已。一切眾生心皆自然遠離五欲入於初禪。自然滅覺觀入第二禪。亦如是唱。或離二禪三禪亦如是。三惡道眾生自然得善心。命終皆生人中。若重罪者生他方地獄。如泥犁品中說。是時三千大千世界無一眾生在者。爾時二日出乃至七日出。三千大千世界地盡皆燒盡。如十八空中廣說劫生滅相。復有人言。四大中三大有所動作故。有三種劫。或時火劫起燒三千大千世界。乃至初禪四處。或時水劫起漂壞三千大千世界。乃至二禪八處。或時風劫起吹壞三千大千世界。乃至三禪十二住處。是名大劫。小劫亦三種。外三大發故世界滅。內三毒發故眾生滅。所謂飢餓刀兵疾病。復有人言。時節歲數名為小劫。如法華經中說。舍利弗作佛時正法住世二十小劫。像法住世二十小劫。佛從三昧起。於六十小劫中說法華經。是眾小劫和合名為大劫。劫簸秦言分別時節。跋陀者秦言善。有千萬劫過去空無有佛。是一劫中有千佛興。諸淨居天歡喜故名為善劫。淨居天何以知此劫當有千佛。前劫盡已廓然都空。後有大水。水底涌出有千枚七寶光明蓮華。是千佛之相。淨居諸天因是知有千佛。以是故說是菩薩於此劫中得阿耨多羅三藐三菩提‥‥』
如經中言。過去久遠有佛名弗沙。時有二菩薩。一名釋迦牟尼。一名彌勒。 経中に言うが如し、過去久遠に仏有り、弗沙と名づく。時に二菩薩有り、一を釈迦牟尼と名づけ、一を弥勒と名づく。
例えば、
『経』中に、こう言われている、――
『過去、久遠の時』、
『弗沙と呼ばれる!』、
『仏』が、
『有った!』。
是の時、
『二菩薩が有り!』、
一を、
『釈迦牟尼』と、
『呼び!』、
一を、
『弥勒』と、
『呼んだ!』。
  弗沙(ふしゃ):梵名puSya、釈尊が因位三阿僧祇劫修行成満の後、更に百劫に相好業を修せられし時、逢事せし仏の名。『大智度論巻37下注:毘婆尸仏、同43上注:底沙仏』参照。
  弥勒(みろく):梵名maitreya。当来閻浮提に下生し、釈尊に次いで成仏する菩薩の名。『大智度論巻1上注:弥勒菩薩』参照。
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻18』:『若時菩薩普於一切能施一切乃至眼髓。所行惠捨但由悲心。非自希求勝生差別。齊此布施波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩被析身支。雖未離欲貪而心無少忿。齊此戒忍波羅蜜多。修習圓滿。若時菩薩勇猛精進因行。遇見底沙如來坐寶龕中入火界定威光赫奕特異於常。專誠瞻仰忘下一足。經七晝夜無怠。淨心以妙伽他讚彼佛曰 天地此界多聞室  逝宮天處十方無  丈夫牛王大沙門尋地山林遍無等  如是讚已便超九劫。齊此精進波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩處金剛座。將登無上正等菩提。次無上覺前住金剛喻定。齊此定慧波羅蜜多修習圓滿。能到自所往圓德彼岸。故此六名曰波羅蜜多。』
  参考:『仏本行集経巻4』:『阿難。我念往昔。有一如來。出現於世。號曰弗沙多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。時彼佛在雜寶窟內。我見彼佛。心生歡喜。合十指掌。翹於一腳。七日七夜。而將此偈讚歎彼佛。而說偈言 天上天下無如佛  十方世界亦無比  世間所有我盡見  一切無有如佛者。阿難。我以此偈歎彼佛已。發如是願。乃至彼佛語侍者言。是人過於九十四劫。當得作佛號釋迦牟尼。我於彼時。得授記已。不捨精進。增長功德。無量世中。作梵釋天轉輪聖王。以是善業因緣力故。我得四種辯才具足。無有一人能共我論降伏我者。我得成於阿耨多羅三藐三菩提。乃至轉於無上法輪』
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻177』:『問此相異熟業經於幾時修習圓滿。答多分經百大劫。唯除釋迦菩薩。以釋迦菩薩極精進故超九大劫。但經九十一劫修習圓滿。便得無上正等菩提。其事云何。如契經說。過去有佛號曰底砂。或曰補砂。彼佛有二菩薩弟子勤修梵行。一名釋迦牟尼。二名梅怛儷藥。爾時彼佛觀二弟子誰先根熟。即如實知慈氏先熟。能寂後熟。復觀二士所化有情誰根先熟。又如實知釋迦所化應先根熟。知已即念。我今云何令彼機感相會遇耶。然令一人速熟則易。非令多人。作是念已。便告釋迦。吾欲遊山汝可隨去。爾時彼佛取尼師檀。隨路先往既至山上。入吠琉璃龕敷尼師檀。結跏趺坐入火界定。經七晝夜受妙喜樂。威光熾然。釋迦須臾亦往山上處處尋佛。如犢求母。展轉遇至彼龕室前。欻然見佛威儀端肅光明照曜。專誠懇發喜歎不堪。於行無間忘下一足。瞻仰尊顏目不暫捨。經七晝夜。以一伽他讚彼佛曰 天地此界多聞室  逝宮天處十方無  丈夫牛王大沙門  尋地山林遍無等  如是讚已便超九劫。於慈氏前得無上覺。』
弗沙佛。欲觀釋迦牟尼菩薩心純淑未。即觀見之。知其心未純淑。而諸弟子心皆純淑。又彌勒菩薩心已純淑。而弟子未純淑。 弗沙仏は、釈迦牟尼菩薩の心の純淑なりや、未だしやを観んと欲し、即ち之を観見して、其の心未だ純淑ならざるも、諸の弟子の心は、皆、純淑なるを知る。又弥勒菩薩の心は、已に純淑なるも、弟子は未だ純淑ならず。
『弗沙仏』は、
『釈迦牟尼菩薩』の、
『心』が、
『成熟しているのか?』、
『成熟していないのか?』を、
『観察しよう!』と、
『思い!』、
是の、
『心』を、
『観察して!』、
『見る!』と、
其の、
『心』は、
未だ、
『成熟していない!』のに、
諸の、
『弟子の心』は、
皆、
『成熟している!』のを、
『知った!』。
又、
『弥勒菩薩』の、
『心』は、
已に、
『成熟している!』のに、
諸の、
『弟子の心』は、
『成熟していなかった!』。
  純淑(じゅんしゅく):梵語paripakva?の訳。成就、完成の義。諸根成熟の意。漢語の意味はまじりけなくよい、完成して立派の意。又純熟、淳熟、成就、根塾とも云う。
  観見(かんけん):観はつまびらかに見る。見は視て心に悟る。よく見て知ること。観察見知。
是時弗沙佛。如是思惟。一人之心易可速化。眾人之心難可疾治。如是思惟竟。弗沙佛。欲使釋迦牟尼菩薩疾得成佛。上雪山上。於寶窟中入火定。 是の時、弗沙仏の、是の如く思惟したまわく、『一人の心は、速かに化すべきこと易く、衆人の心は、疾かに治すべきこと難し。』と。是の如く思惟し竟りて、弗沙仏は、釈迦牟尼菩薩をして、疾かに仏と成るを得しめんと欲し、雪山上に上りて、宝窟中に於いて、火定に入りたまえり。
是の時、
『弗沙仏』は、
是のように、思惟した、――
『一人の心』は、
『疾かに化す!』ことが、
『容易である!』が、
『衆人の心』は、
『疾かに治す!』ことが、
『困難である!』、と。
『弗沙仏』は、
是のように、思惟すると、――
『釈迦牟尼菩薩』に、
『疾かに!』、
『仏と成らせたい!』と、
『思い!』、
『雪山上に上り!』、
『宝窟』中に於いて、
『火定』に、
『入られた!』。
  (け):梵語paripaacana?の訳。通常教化と訳す。成熟に至らしめること。
  雪山(せっせん):梵名himaalaya、又はhimavat、himavanta、himavaan。巴梨名同じ。雪蔵の義。又雪嶺、大雪山、或いは冬王山とも称す。印度の西北方より東方に湾曲して連互せる大山脈を云う。「倶舎論巻11」に、「此の瞻部洲は中より北に向うに、三処に各三重の黒山あり。大雪山あり、黒山の北に在り。大雪山の北に香酔山あり、雪の北、香の南に大池水あり、無熱悩と名づく」と云い、「大唐西域記巻1」に、「贍部洲の中地は阿那婆答多池なり、香山の南、大雪山の北に在り」と云える是れなり。此の中、三重の黒山とは恐らく現今のヒマーラヤHimalaya山脈中、南方より次第に高く連互せるサブヒマーラヤSub-Himalaya、ローワーヒマーラヤLower-Himalaya、スノーヒマーラヤSnow Himalayaの三大山脈を指せるものなるべし。其の中、スノーヒマーラヤ中には世界の最高峰たるエベレストEverest山あり、又其の東方にカンチェンジンガKunchinjinga山、西方にマナサルワルManasarowar湖及びカイラースkailaasa山あり。就中マナサルワル湖は阿那婆答多池anavatapta(即ち無熱悩池)にカイラース山は香酔gandha-maadana山に相当するが如し。又近時スヴェン・ヘディンSven Hedinの探検に由りて、今のヒマーラヤ山脈の北方に更に之と平行せる大山脈あるを発見せり。即ちトランスヒマーラヤTrans Himalayaと呼ばれる。蓋し雪山と称せらるる山脈は古今同じからざるが如く、「大唐西域記」には掲職国の東南、迦畢試国の北方に当るとし、而して梵衍那国、鉢露羅国、尼波羅国は共に其の山中に在りとなせり。是れ即ちパミールPamir(即ち葱嶺)の西南方ヒンドゥクシュHindu-Kush山脈をも総じて雪山と称したるなり。「西域記巻1掲職国の條」に、「掲職国は東西五百余里、南北三百余里あり。(中略)東南より大雪山に入る。山谷高深、峯巌危険にして風雪相継ぎ、盛夏も凍を含み、積雪谷に弥り、溪径渉り難し。山神鬼魅暴に妖祟を縦にし、群盗横行して殺害を務と為す。行くこと六百余里にして覩貨邏国境を出で梵衍那国に至る」と云えり。以って其の山勢の一班を知るを得べし。又此の辺国は阿育王時代に既に仏教の弘伝せられたる地にして、「善見律毘婆沙巻2」に、大徳末示摩majjhima、大徳迦葉kassapagotta、大徳提婆alakadeva、純毘帝須dundubhissara、大徳提婆sahadevaは、雪山辺himavantadesabhaagaに到りて「初転法輪経」を説き、八億の人為に得道し、又大徳五人は各一国に到りて教化し、五千人出家せることを記せり。又上座部が雪山地方に入りて其の宗義を宣布せしことは「部執異論疏(三論玄義検幽集巻6所引)」等に伝うる所なり。又古来支那河州の西北より鄯州、青海、吐蕃を経、雪山を越えて尼波羅に至る道路あり。東道又は吐蕃道と称せらる。唐太宗貞観十五年文成公主の吐蕃降嫁に際し、玄照は之を送りて当道を過ぎ、又貞観末年に道生、永徽年中に玄太は各此の道を取り、雪嶺を越えて印度に入れりと云う。又「長阿含巻3遊行経」、「雑阿含経巻49」、「正法念処経巻68」、「大乗宝要議論巻7」、「釈迦方志巻上」、「大唐西域記求法高僧伝巻上」等に出づ。<(望)
  火定(かじょう):身より火炎を発する三昧の意。『大智度論巻4上注:火界三昧』参照。
  火界三昧(かかいさんまい):梵語aghi-dhaatu-ssamaadhiの訳。身より火炎を発する三昧の意。又火定、火界定、火三昧、火生三昧、火光三昧、或いは火焔三昧とも云う。「中阿含巻11頻婆娑羅王迎仏経」に、「尊者鬱毘羅迦葉、火定に入り已りて身中より便ち種種の火焔を出す。青黄赤白にして中に水精の色あり。下身より火を出し、上身より水を出し、上身より火を出し、下身より水を出す」と云い、又「大毘婆沙論巻177」に、「爾の時、彼の仏(底砂)は尼師壇を取り、路に随って先往し、既に山上に至りて吠琉璃龕に入り、尼師壇を敷き結跏趺坐して火界定に入り、七昼夜を経て妙喜の楽を受け、威光熾然たり」と云えり。此等は事火の説に基づく三昧を称したるものなるが如し。又「摩訶僧祇律巻32」に、「即ち神足を以って虚空に上昇し、火光三昧に入り、以って自ら闍維して般泥洹に入る」と云い、「大般涅槃経巻下」に、「爾の時、須跋陀羅は前みて仏に白して言わく、我れ今天人尊の涅槃に入りたまうを見るに忍びず、我れ今日に於いて世尊に先んじて涅槃に入らんと欲す。仏言わく善哉と。時に須跋陀羅即ち仏前に於いて火界三昧に入りて般涅槃す」と云えるは、荼毘に附するを火界三昧と名づけたるが如し。又密教に於いては不動明王所入の三昧を火生三昧と名づく。「底哩三昧耶不動尊聖者念誦秘密法巻上」に、「不動は亦自身より遍く火焔の光を出す。即ち是れ本尊自ら火生三昧に住す。又火を明すに四義あり、二種は世間、二種は出世間なり。世間の火とは、一に是れ内火は三毒の煩悩、之を名づけて火となす。能く諸の衆生の諸善功徳を焼くが故なり。二に外火は能く衆生を成就し、万物を長養す。出世間の火は是れ大智火なり。九十五種の外道法の中に事火を最となすが如く、大火龍が出世の火を変ずるが如き、衆生を焼損し、亦能く衆物を焚焼す。此の無動の智火は、先づ能く火龍を降伏し、諸の異道を制し、上は等覚に至り、下は衆生に至って皆能く諸の煩悩乃至菩提大智の習気を焼き、亦一切衆生の無明煩悩の黒闇の障を焼くが故なり。又本尊真言の句に自ら火生の義あり、即ち摩賀盧沙の句是れなり。此の智火は阿字一切智門に住し、重重に諸の菩薩広大の習気煩悩を焼き尽くして余なからしむるが故に、火生三昧と名づく」と云える是れなり。是れ浄菩提心の智火を以って三毒五欲の煩悩を焼尽するの意にして、恐らく事火の説より来たれるものなるべし。又「大日経巻2普通真言蔵品」に、「薄伽梵、一切の障を息めんが為の故に火生三昧に住し、此の大摧障聖者不動主真言を説く」と云い、「同義釈巻7」に、「囉字門は是れ毘盧遮那大忿怒の火にして、能く一切の世界を焼き、灰燼して遺なからしむ。今不動尊は此の火中より生ずること、猶お軍吒利尊の執金剛火中より生ずるが如し。是の故に如来、火生三昧に住す」と云えり。是れ蓋し不動明王は大日如来の差別智身にして、此の二不二なるが故に、大日は不動に即して普門の身を現じ、不動は大日に即して一門の身を現ずるを説けるものとす。又不動明王法を修する行者は、必ず此の三昧に入るを軌則とす。又「頻婆娑羅王経」、「帝釈所問経」、「大智度論巻4」、「底哩三昧耶不動尊聖者念誦秘密法巻中」、「勝軍不動明王四十八使者秘密成就儀軌」等に出づ。<(望)
是時釋迦牟尼菩薩。作外道仙人。上山採藥。見弗沙佛坐寶窟中入火定放光明。見已心歡喜。信敬翹一腳立。叉手向佛一心而觀。目未曾眴七日七夜。以一偈讚佛
 天上天下無如佛 
 十方世界亦無比 
 世界所有我盡見 
 一切無有如佛者
是の時、釈迦牟尼菩薩は、外道の仙人と作り、山に上りて薬を採るに、弗沙仏の宝窟中に坐して、火定に入り、光明を放つを見る。見已りて、心歓喜し信敬して、一脚を翹(あ)げて立ち、手を叉して仏に向かい、一心に観る。目の未だ曽て眴(またた)かざること七日七夜、一偈を以って仏を讃ずらく、
天上天下に、仏に如くもの無く、
十方の世界にも、亦た比する無し。
世界の有らゆるもの、我れは尽く見るも、
一切に、仏に如(し)く者の有ること無し。
是の時、
『釈迦牟尼菩薩』は、
『外道の仙人と作り!』、
『山に上って!』、
『薬草』を、
『採っていた!』が、
『弗沙仏』が、
『宝窟中に坐り!』、
『火定』に、
『入って!』、
『光明』を、
『放たれる!』のを、
『見た!』。
『釈迦牟尼菩薩』は、
是の、
『光明を見て!』、
『心』に、
『歓喜し!』、
『信敬して!』、
『一脚』を、
『翹(あ raise )げて!』、
『立つ!』と、
『叉手(合掌)して!』、
『仏』に、
『向い!』、
『一心に観て!』、
『七日七夜』、
『目を眴(またた)かず!』、
『一偈を作って!』、
『仏』を、こう讃じた、――
『天上、天下』に、
『仏』に、
『似た!』者は、
『無く!』、
『十方の世界』にも、
『仏』に、
『比べられる!』者は、
『無い!』。
『世界』の、
『有らゆる!』者を、
わたしは、
『尽く!』、
『見た!』が、
『一切の世界に!』、
『仏』に、
『及ぶ!』者は、
『無かった!』。
  (ぎょう):あげる。挙。
  叉手(さしゅ):手を合せる。合掌。叉は木のまたの如きを云う。
  :一脚を翹げて立つ:一歩を蹈み出さんとして片足を挙ぐるに、驚きて凝り固まれるを云う。
七日七夜諦觀世尊目未曾眴。超越九劫於九十一劫中。得阿耨多羅三藐三菩提。 七日七夜、世尊を諦観し、目は未だ曽て眴かざれば、九劫を超越して、九十一劫中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
『七日、七夜』、
『世尊』を、
『諦(あき carefully )らかに!』、
『観ていながら!』、
『目』を、
『少しも!』、
『眴かせなかった!』ので、
『百劫』中の、
『九劫』を、
『跳越えて!』、
『九十一劫』中に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得たのである!』。
問曰。若釋迦牟尼菩薩。聰明多識能作種種好偈。何以故。七日七夜一偈讚佛。 問うて曰く、若し、釈迦牟尼菩薩が、聡明、多識なれば、能く種種の好偈を作りたまわん。何を以っての故にか、七日七夜に一偈をもて、仏を讃じたもう。
問い、
若し、
『釈迦牟尼菩薩』が、
『聡明であり!』、
『多く!』を、
『識っていて!』、
種種の、
『好い偈』を、
『作ることができるならば!』、
何故、
『七日、七夜』中に、
『一偈だけで!』、
『仏を讃じたのですか?』。
答曰。釋迦牟尼菩薩。貴其心思不貴多言。若更以餘偈讚佛心或散亂。是故七日七夜以一偈讚佛。 答えて曰く、釈迦牟尼菩薩は、其の心思を貴び、多言を貴びたまわず。若し、更に余の偈を以って、仏を仏を讃じたまわば、心は、或いは散乱せん。是の故に、七日七夜に一偈を以って、仏を讃じたまえり。
答え、
『釈迦牟尼菩薩』は、
其の、
『心』に、
『思う!』ことを、
『貴んで!』、
『言』の、
『多い!』ことは、
『貴ばなかった!』ので、
若し、
更に、
『余の偈を作って!』、
『仏』を、
『讃じたならば!』、
或は、
『心』が、
『散乱しただろう!』。
是の故に、
『七日、七夜』に、
『一偈だけで!』、
『仏を讃じたのである!』。
問曰。釋迦牟尼菩薩。何以心未純淑。而弟子純淑。彌勒菩薩自心純淑。而弟子未純淑。 問うて曰く、釈迦牟尼菩薩は、何を以ってか、心未だ純淑ならざるに、弟子は純淑なりて、弥勒菩薩は、自ら心純淑にして、弟子は未だ純淑ならざる。
問い、
『釈迦牟尼菩薩』は、
何故、
『心』が、
『成熟していない!』のに、
『弟子の心だけ!』が、
『成熟し!』、
『弥勒菩薩』は、
自らの、
『心』が、
『成熟している!』のに、
『弟子』は、
『成熟していないのですか?』。
答曰。釋迦牟尼菩薩。饒益眾生心多。自為身少故。彌勒菩薩。多為己身少為眾生故。 答えて曰く、釈迦牟尼菩薩は、衆生を饒益する心多く、自ら身の為少なきが故に、弥勒菩薩は、己の身の為多く、衆生の為少なきが故なり。
答え、
『釈迦牟尼菩薩』は、
『衆生』を、
『饒益する!』爲の、
『心』が、
『多く!』、
『自ら』の、
『身』の爲の、
『心』は、
『少ないからであり!』、
『弥勒菩薩』は、
『己れ』の、
『身』の爲の、
『心』が、
『多く!』、
『衆生』の爲の、
『心』が、
『少ないからである!』。
從鞞婆尸佛。至迦葉佛。於其中間九十一大劫。種三十二相業因緣集竟。六波羅蜜滿。何等六。檀波羅蜜.尸羅波羅蜜.羼提波羅蜜.毘梨耶波羅蜜.禪波羅蜜.般若波羅蜜。 鞞婆尸仏より、迦葉仏に至る、其の中間の九十一大劫に於いて、三十二相の業を種え、因縁を集め竟り、六波羅蜜満てり。何等か、六なる。檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜なり。
『毘婆尸仏より!』、
『迦葉仏まで!』の、
其の、
『中間の九十一大劫』に於いて、
『三十二相』の、
『業の因縁』を、
『集めて!』、
『種えてしまう!』と、
『六波羅蜜』が、
『満ちた!』。
何のような、
『六か?』、――
謂わゆる、
『檀(布施)波羅蜜』、
『尸羅(持戒)波羅蜜』、
『羼提(忍辱)波羅蜜』、
『毘梨耶(精進)波羅蜜』、
『禅(禅定)波羅蜜』、
『般若波羅蜜である!』。
  迦葉仏(かしょうぶつ):梵名kaazyapa-buddha。巴梨名kassapa-buddha、又迦葉波、迦摂波、或いは迦摂に作る。飲光と訳す。過去七仏の第六。又現在賢劫千仏の第三仏にして、即ち釈尊の前出なり。「長阿含巻1大本経」に依るに、此の賢劫中に於いて迦葉仏出づ。其の時人寿二万才なり。姓は迦葉、尼拘類nigrodha樹下に於いて成仏し、弟子二万人あり。其の中、主なる者は提舎tissa及び婆羅婆bhaaradvaajaの二人にして、又執事の弟子を善友sabbamittaと名づく。父の名は梵徳brahmadattaと称し、婆羅門種なり。又母を財主dhanavatii、子を集軍、時の王を汲毘kiki、其の所治の城を波羅捺baaraNasiiと名づくと云い、又「七仏経」には、賢劫の第八劫に於いて迦葉仏出世すとし、首位の弟子を婆囉特嚩惹、侍者を薩里嚩蜜怛囉、父を蘇没囉賀摩、母を没囉賀摩麌鉢多、時の王を訖里計、所治の城を波羅奈と名づくと云い、「増一阿含経巻45」には、姓は迦葉及び婆羅堕、弟子は六万人、侍者は導師なりと云い、「七仏父母姓字経」には、父は阿枝達耶、母は檀那越提耶、子は沙多和、国は波羅私、王は其甚堕、弟子は質耶輪と波達和、侍者は薩波蜜なりと云えり。又「四分律比丘戒本」には、迦葉仏は一切悪莫作、当奉行諸善、自浄其志意、是則諸仏教の戒経を説けりとし、「増一阿含経巻44」には、此仏滅度の後法住すること僅かに七日なりと云えり。又「雑阿含経巻15、34」、「増一阿含経巻48」、「毘婆尸仏経巻下」、「起世経巻10」、「出曜経巻2」、「仏名経巻8」、「翻梵語巻1」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。
  六波羅蜜(ろくはらみつ):梵語SaTpaaramitta、具さに六波羅蜜多とも称し、六度、六度無極、或は六到彼岸と訳す。彼岸に到達すべき勝行に六種の別あることを云う。一に檀那波羅蜜daana-paaramitaa、二に尸羅波羅蜜ziila-p.、三に羼提波羅蜜kSaanti-p.、四に毘梨耶波羅蜜viirya-p.、五に褝那波羅蜜dhyaana-p.、六に般若波羅蜜prajJaa-p.なり。「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩は不住の法を以って般若波羅蜜の中に住し、無所捨の法を以って応に檀那波羅蜜を具足すべし、施者、受者、及び財物は不可得なるが故なり。罪不罪は不可得なるが故に応に尸羅波羅蜜を具足すべし、心動ぜざるが故にまさに羼提波羅蜜を具足すべし、身心精進して懈怠せざるが故に応に毘梨耶波羅蜜を具足すべし、不乱不味なるが故に応に褝那波羅蜜を具足すべし、一切法に於いて著せざるが故に応に般若波羅蜜を具足すべし」と云えるこれなり。この中、檀那波羅蜜はまた檀波羅蜜、陀那波羅蜜に作り、布施波羅蜜、施波羅蜜、或は布施度無極と名づく。即ち財施、無畏施、法施を行じ、能く慳貪を対治し、貧窮を除くを云う。尸羅波羅蜜はまた尸波羅蜜に作り、持戒波羅蜜、戒波羅蜜、或は戒度無極と名づく。即ち律儀戒、摂善法戒、饒益有情戒を持し、能く悪業を対治し、身心清涼なるを云う。羼提波羅蜜はまた羼底波羅蜜、羼波羅蜜に作り、忍辱波羅蜜、安忍波羅蜜、忍波羅蜜、或は忍辱度無極と名づく。耐怨害忍、安受苦忍、諦察法忍を修し、能く瞋恚を対治し、その心安住するを云う。毘梨耶波羅蜜はまた毘離耶波羅蜜、惟逮波羅蜜に作り、精進波羅蜜、進波羅蜜、或は精進度無極と名づく。被甲精進、方便精進、饒益有情精進を行じ、能く懈怠を対治し、善法を生長するを云う。褝那波羅蜜はまた禅波羅蜜、持訶那波羅蜜に作り、禅定波羅蜜、静慮波羅蜜、或は禅度無極と名づく。現法楽住静慮、引発神通静慮、饒益有情静慮を修し、能く乱意を対治し、内意を摂持するを云う。般若波羅蜜はまた般羅若波羅蜜に作り、智慧波羅蜜、慧波羅蜜、或は明度無極と名づく。縁世俗慧、縁勝義慧、縁有情慧を得、愚癡を対治し、諸法の実相を暁了するを云うなり。六波羅蜜の次第に関し、「大乗荘厳経論巻7」には前後、下上、麁細の三由を挙げ、前後とは資財を顧みざるに由るが故に戒を持し、戒を持し已りて能く忍辱を起し、忍辱已りて能く精進を起し、精進已りて能く禅定を起し、禅定已りて能く真法を解す。下上とは下は施、上は戒、乃至下は定、上は智なり。麁細とは麁は施、細は戒、乃至麁は定、細は智なりと云い、「解深密経巻4」には六波羅蜜を立つるに二由ありとし、一に前の三は有情を饒益す、即ち布施に由るが故に、資具を摂受して有情を饒益し、持戒に由るが故に、損害逼迫悩乱を行ぜずして有情を饒益し、忍辱に由るが故に、彼の損害逼迫悩乱に於いて能く忍受し有情を饒益す。二に後の三は諸の煩悩を対治す、即ち精進に由るが故に、未だ一切の煩悩を永伏せず、亦た未だ一切の随眠を永害せずと雖も、能く勇猛に諸の善品を修して煩悩の為に傾動せられず、静慮に由るが故に永く煩悩を伏し、般若に由るが故に永く随眠を害すと云えり。また此の六波羅蜜は戒定慧三学の所摂にして、「解深密経巻4」には、施戒忍の三を増上戒学、禅を増上心学、般若を増上慧学の所摂、進を三学に通ずとし、「菩薩地持経巻10」には進を亦た増上戒学の所摂となせり。また「解深密経巻4」、「菩薩地持経巻1」には、施戒忍の三を福徳資糧、般若を智慧資糧、進禅の二を福智の両資糧に通ずとなし、「優婆塞戒経巻2」には、施戒進の三を福荘厳、忍禅慧の三を智荘厳となせり。蓋し六波羅蜜は、菩薩修行の方規として大乗諸経論に広説せらるる所なりと雖も、説一切有部に於いては唯施戒進及び般若の四波羅蜜を説くに過ぎず、「大毘婆沙論巻178」に、「外国師は説く、六波羅蜜多ありと。謂わく前の四に於いて忍と静慮を加う。迦湿弥羅国の緒論師は言わく、後の二波羅蜜多は即ち前の四の所摂なり。謂わく忍は戒の中に摂在し、静慮は般若に摂在す。戒慧満ずる時、即ち彼れを満と名づくるが故なり。復た別に六波羅蜜多を説くことあり、謂わく前の四に於いて聞及び忍を加う」と云えり。之に依るに迦湿弥羅の緒論師は唯四波羅蜜を説き、外国師は今の六波羅蜜の説を成し、更にまた四波羅蜜に聞及び忍を加えて六波羅蜜となすの説ありしを知るなり。また「六度集経」、「大般若経巻579至巻600」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻5至巻10」、「優婆塞戒経巻1、巻4至巻7」、「旧華厳経巻5」、「大法炬陀羅尼経巻10」、「大智度論巻11至巻18」、「瑜伽師地論巻39至巻43」、「大乗荘厳経論巻8」、「梁訳摂大乗論巻10」、「大乗阿毘達磨雑集論巻11、巻12」、「定唯識論巻9」、「大乗義章巻12」等に出づ。<(望)
  檀波羅蜜(だんはらみつ):梵語daana-paaramitaa。又檀那波羅蜜、布施波羅蜜、施波羅蜜に作る。六波羅蜜の一。十波羅蜜の一。施には財施、法施、無畏施等ありて、能く慳吝を対治し、貧窮を除滅す。財施とは、財貨を施して他人に予え、法施とは、他人の為に法を説いて教化し、無畏施とは、他人をして安心せしめ、怖畏せしず。菩薩は、此を以って人に施し、故に特に施波羅蜜と称す。又「瑜伽師地論巻39」に依れば、菩薩の施波羅蜜に九種の相あり、即ち自性施、一切施、難行施、一切門施、善士施、一切種施、遂求施、此世他世楽施、清浄施なりと云えり。又「華厳経入不思議解脱境界普賢行願品巻2」、「増一阿含経巻19」、「菩薩本縁経」、「菩薩本行経」、「大方便仏報恩経巻4、7」、「悲華経巻2、5至10」、「仏本行集経巻1」、「大品般若経」並びに諸の般若経典、「大智度論巻11、12」等に出づ。<(佛)『大智度論巻4上注:六波羅蜜、同巻6下注:波羅蜜、同巻11下注:布施』参照。
  尸羅波羅蜜(しらはらみつ):梵語ziila-paaramitaa。又持戒波羅蜜、戒波羅蜜に作る。六波羅蜜の一。十波羅蜜の一。持戒を主となす波羅蜜を云う。『大智度論巻2下注:持戒、同巻4上注:六波羅蜜、同巻6下注:波羅蜜、同巻13上注:尸羅波羅蜜』参照。
  羼提波羅蜜(せんだいはらみつ):梵語kSaanti-paaramitaa。忍辱を主とする波羅蜜を云う。『大智度論巻4上注:六波羅蜜、同巻6下注:波羅蜜、同巻14上注:羼提波羅蜜、忍辱』参照。
  毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ):梵語viirya-paaramitaa。精進を主とする波羅蜜を云う。『大智度論巻4上注:六波羅蜜、同巻6下注:波羅蜜、同巻15下注:毘梨耶波羅蜜、精進』参照。
  禅波羅蜜(ぜんはらみつ):梵語dhyaana-paaramitaa。禅定を主とする波羅蜜を云う。『大智度論巻4上注:六波羅蜜、同巻6下注:波羅蜜、同巻17上注:褝那波羅蜜、禅』参照。
  般若波羅蜜(はんにゃはらみつ):梵語prajJaa-paaramitaa。智慧を主とする波羅蜜を云う。『大智度論巻4上注:六波羅蜜、同巻6下注:波羅蜜、同巻18上注:般若、般若波羅蜜』参照。
  参考:『四分律比丘戒本』:『‥‥若更有餘佛法。是中皆共和合應當學
    忍辱第一道  佛說無為最  出家惱他人  不名為沙門
    此是毘婆尸如來無所著等正覺。說是戒經
    譬如明眼人  能避嶮惡道  世有聰明人  能遠離諸惡
    此是尸棄如來無所著等正覺。說是戒經
    不謗亦不嫉  當奉行於戒  飲食知止足
    常樂在空閑  心定樂精進  是名諸佛教
    此是毘葉羅如來無所著等正覺。說是戒經
    譬如蜂採華  不壞色與香  但取其味去  比丘入聚然
    不違戾他事  不觀作不作  但自觀身行  若正若不正
    此是拘樓孫如來無所著等正覺。說是戒經
    心莫作放逸  聖法當勤學  如是無憂愁  心定入涅槃
    此是拘那含牟尼如來無所著等正覺。說是戒經
    一切惡莫作  當奉行諸善  自淨其志意  是則諸佛教
    此是迦葉如來無所著等正覺。說是戒經
    善護於口言  自淨其志意  身莫作諸惡
    此三業道淨  能得如是行  是大仙人道
    此是釋迦牟尼如來無所著等正覺。於十二年中。為無事僧說是戒經。‥‥』
  参考:『大智度論巻11』:『【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中。以無所捨法具足檀波羅蜜。施者受者及財物不可得故【論】問曰。般若波羅蜜是何等法。答曰。有人言。無漏慧根。是般若波羅蜜相。何以故。一切慧中第一慧。是名般若波羅蜜。無漏慧根是第一。以是故無漏慧根。名般若波羅蜜。問曰。若菩薩未斷結。云何得行無漏慧。答曰。菩薩雖未斷結。行相似無漏般若波羅蜜。是故得名行無漏般若波羅蜜。譬如聲聞人。行暖法頂法忍法世間第一法。先行相似無漏法。後易得生苦法智忍。復有人言菩薩有二種。有斷結使清淨。有未斷結使不清淨。斷結使清淨。菩薩能行無漏般若波羅蜜。問曰。若菩薩斷結清淨。復何以行般若波羅蜜。答曰。雖斷結使。十地未滿未莊嚴佛土未教化眾生。是故行般若波羅蜜。復次斷結有二種。一者斷三毒。心不著人天中五欲。二者雖不著人天中五欲。於菩薩功德果報五欲。未能捨離。如是菩薩應行般若波羅蜜。譬如長老阿泥盧豆。在林中坐禪時。淨愛天女等。以淨妙之身來試阿泥盧豆。阿泥盧豆言。諸姊作青色來不用雜色。欲觀不淨不能得觀。黃赤白色亦復如是。時阿泥盧豆。閉目不視。語言。諸姊遠去。是時天女即滅不現。天福報形猶尚如是。何況菩薩無量功德果報五欲。又如甄陀羅王。與八萬四千甄陀羅。來到佛所彈琴歌頌以供養佛。爾時須彌山王及諸山樹木。人民禽獸一切皆舞。佛邊大眾乃至大迦葉。皆於座上不能自安。是時天須菩薩。問長老大迦葉。耆年舊宿行十二頭陀法之第一。何以在座不能自安。大迦葉言。三界五欲不能動我。是菩薩神通功德果報力故。令我如是。非我有心不能自安也。譬如須彌山四邊風起不能令動。至大劫盡時毘藍風起如吹爛草。以是事故知。二種結中一種未斷。如是菩薩等應行般若波羅蜜。是阿毘曇中。如是說。復有人言。般若波羅蜜是有漏慧。何以故。菩薩至道樹下乃斷結。先雖有大智慧有無量功德。而諸煩惱未斷。是故言菩薩般若波羅蜜是有漏智慧。復有人言。從初發意乃至道樹下。於其中間所有智慧。是名般若波羅蜜。成佛時是般若波羅蜜。轉名薩婆若。復有人言。菩薩有漏無漏智慧。總名般若波羅蜜。何以故。菩薩觀涅槃行佛道。以是事故。菩薩智慧應是無漏。以未斷結使事未成辦故。應名有漏。復有人言。菩薩般若波羅蜜。無漏無為不可見無對。復有人言。是般若波羅蜜不可得相。若有若無若常若無常若空若實。是般若波羅蜜。非陰界入所攝。非有為非無為非法非非法。無取無捨不生不滅。出有無四句。適無所著。譬如火焰四邊不可觸以燒手故。般若波羅蜜相亦如是。不可觸以邪見火燒故。問曰。上種種人說般若波羅蜜。何者為實。答曰。有人言各各有理皆是實。如經說。五百比丘各各說二邊及中道義。佛言。皆有道理。有人言。末後答者為實。所以者何。不可破不可壞故。若有法如毫氂許有者。皆有過失可破。若言無亦可破。此般若中有亦無無亦無非有非無亦無。如是言說亦無。是名寂滅無量無戲論法。是故不可破不可壞。是名真實般若波羅蜜。最勝無過者。如轉輪聖王降伏諸敵而不自高。般若波羅蜜亦如是。能破一切語言戲論。亦不有所破。復次從此已後品品中種種義門。說般若波羅蜜。皆是實相。以不住法住般若波羅蜜中。能具足六波羅蜜。問曰。云何名不住法住般若波羅蜜中能具足六波羅蜜。答曰。如是菩薩觀一切法非常非無常。非苦非樂非空非實。非我非無我。非生滅非不生滅。如是住甚深般若波羅蜜中。於般若波羅蜜相亦不取。是名不住法住。若取般若波羅蜜相。是為住法住』
  迦葉仏(かしょうぶつ):梵にkaazyapa buddhaと名づけ、また迦葉波仏、迦摂波仏、迦摂仏に作り、意訳して飲光仏と為す。乃ち釈尊以前の仏にして、過去七仏中の第六仏と為し、また現在賢劫千仏中の第三仏と為す。伝説には釈迦牟尼の前世の師にして、曽て記して曰く、釈迦は将来必定して仏と成るべし、と。『長阿含経巻1』によれば、迦葉仏は賢劫中に出世し、その時、人寿二万歳なり、姓は迦葉にして、尼拘律樹(巴利nigrodha)の下に成仏せり、弟子に二萬人有り、提舎(巴利tissa)及び婆羅婆(巴利bhaaradvaaja)の二人を以って高足と無し、執事の弟子を善友(巴利sabbamitta)と名づけ、父を梵徳(巴利brahmadatta)と名づくる婆羅門種、母を財主(巴利dhanavatii)と名づく、子に集軍と名づくる有り、その時の王を汲毘(巴利kiki)と名づけ、その治むる所の城を波羅奈(梵baaraNasii)と名づく、と。<(佛)
  六波羅蜜(ろくはらみつ):梵SaD-paaramitaaに作り、或は六波羅蜜多と称し、意訳して六度、六度無極、六到彼岸と作す。波羅蜜を訳して度と為すは、到彼岸の意にして、即ち理想を達成する、完成するの意なり。乃ち大乗中に菩薩の仏道を成ぜんと欲して実践する六種の徳目なり。即ち(一)布施波羅蜜(梵daana-p.):また施波羅蜜、檀那波羅蜜、布施度無極に作り、財施及び法施(教うるに真理を以ってす)、無畏施(衆生の恐怖を除去し、それをして安心せしむ)の三種有りて、よく慳貪を対治し、貧窮を消除す。(二)持戒波羅蜜(梵zila-p.):また戒波羅蜜、尸羅波羅蜜、戒度無極に作り、即ち戒律を持守し、並びに常に自省してよく悪業を対治し、心身をして清涼ならしむ。(三)忍辱波羅蜜(梵kSaanti-p.):また忍波羅蜜、羼提波羅蜜、忍辱度無極に作り、即ち迫害を忍耐して、よく瞋恚を対治し、心をして安住せしむ。(四)精進波羅蜜(梵virya-p.):また進波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、精進度無極に作り、即ちその他の五徳目を実践する時、進趣して不撓不屈、よく懈怠を対治して善法を生長す。(五)禅定波羅蜜(梵dhyaana-p.):また禅波羅蜜、褝那波羅蜜、禅度無極に作り、即ち禅定を修習し、よく乱意を対治して心をして安定せしむ。(六)智慧波羅蜜(梵prajJaa-p.):また慧波羅蜜、般若波羅蜜、明度無極に作り、即ち愚癡を対治して真実の智慧を開き、即ち生命を把握すべき真諦なり。蓋し、布施波羅蜜(求めらるれば必ず与う)、持戒波羅蜜(与えられずんば決して取らず)、忍辱波羅蜜(取らるるには決して瞋らず)、精進波羅蜜(以上三波羅蜜に精進して決して怠らず)、禅定波羅蜜(以上四波羅蜜中に決して心を乱さず)、般若波羅蜜(慈悲を体と為しながらもそれに矛盾する事なく、自在に空観を用って種種の方便を出生し、一切の衆生を利益する智慧)と為すに、これ自己の安心、世間の平和を齎すための解に外ならず。大乗の理念ここに集約せるを知るべし。また云うまでもなく、この六波羅蜜は各々独立するものに非ずして、相互に関連して始めて各々波羅蜜と名づくるを得べし。<(佛)『大智度論巻11~18』参照。



檀波羅蜜が満ちる

問曰。檀波羅蜜云何滿。 問うて曰く、檀波羅蜜は、云何が満つる。
問い、
『檀波羅蜜』は、
何のように、
『満ちるのですか?』。
答曰。一切能施無所遮礙。乃至以身施時。心無所惜。譬如尸毘王以身施鴿。 答えて曰く、一切を、能く施すも、遮礙する所無く、乃至身を以って施す時、心に惜む所無し。譬えば、尸毘王の身を以って、鴿(はと)に施せしが如し。
答え、
一切の、
『所有する物』を、
『施すことができて!』、
『遮礙する!』所が、
『無く!』、
乃至、
『身』を、
『施す!』時にすら、
『惜む心』が、
『無い!』。
譬えば、
『尸毘王』が、
『身』を、
『鴿(はと)に施した!』のと、
『同じである!』。
  尸毘王(しびおう):尸毘ziviは梵名。釈尊因位に菩薩行を修せられし時の名。『大智度論巻33上注:尸毘王』参照。
  参考:『賢愚経巻1』:『過去久遠阿僧祇劫。於閻浮提。作大國王。名曰尸毘。王所住城號提婆拔提。豐樂無極。時尸毘王主閻浮提八萬四千諸小國土。六萬山川。八千億聚落。王有二萬夫人婇女。五百太子。一萬大臣。行大慈悲。矜及一切。時天帝釋。五德離身。其命將終。愁憒不樂。毘首羯摩。見其如是。即前白言。何為慷慨。而有愁色。帝釋報言。吾將終矣。死證已現。如今世間。佛法已滅。亦復無有諸大菩薩。我心不知何所歸依。是以愁耳。毘首羯摩。白天帝言。今閻浮提有大國王。行菩薩道。名曰尸毘。志固精進。必成佛道。宜往投歸。必能覆護。解救危厄。天帝復白。若是菩薩。當先試之。為至誠不。汝化為鴿。我變作鷹。急追汝後。相逐詣彼大王坐所。便求擁護。以此試之。足知真偽。毘首羯摩。復答天帝。菩薩大人。不宜加苦。正應供養。不須以此難事逼也。爾時帝釋。便說偈言  我亦非惡心  如真金應試  以此試菩薩  知為至誠不  說是偈已。毘首羯摩。自化為鴿。帝釋作鷹。急追鴿後。臨欲捉食。時鴿惶怖。飛趣大王。入王腋下。歸命於王。鷹尋後至。立於殿前。語大王言。今此鴿者。是我之食。來在王邊。宜速還我。我飢甚急。尸毘王言。吾本誓願。當度一切。此來依我。終不與汝。鷹復言曰。大王。今者云度一切。若斷我食命不得濟。如我之類非一切耶。王時報言。若與餘肉。汝能食不。鷹即言曰。唯得新殺熱肉。我乃食之。王復念曰。今求新殺熱肉者。害一救一。於理無益。內自思惟。唯除我身。其餘有命。皆自護惜。即取利刀。自割股肉。持用與鷹。貿此鴿命。鷹報王曰。王為施主。等視一切。我雖小鳥。理無偏枉。若欲以肉貿此鴿者。宜稱使停。王敕左右。疾取稱來。以鉤鉤中。兩頭施盤。即時取鴿。安著一頭。所割身肉。以著一頭。割股肉盡。故輕於鴿。復割兩臂兩脅。身肉都盡。故不等鴿。爾時大王舉身自起。欲上稱盤。氣力不接。失跨墮地。悶無所覺。良久乃穌。自責其心。我從久遠。為汝所困。輪迴三界。酸毒備嘗。未曾為福。今是精進立行之時。非懈怠時也。種種責已。自強起立。得上稱盤。心中歡喜。自以為善。是時天地六種震動。諸天宮殿皆悉傾搖。乃至色界諸天。同時來下。於虛空中見於菩薩行於難行。傷壞軀體。心期大法。不顧身命。各共啼哭。淚如盛雨。又雨天華而以供養。爾時帝釋還復本形。住在王前。語大王曰。今作如是難及之行。欲求何等。汝今欲求轉輪聖王帝釋魔王。三界之中欲求何等。菩薩答言。我所求者。不期三界尊榮之樂。所作福報欲求佛道。天帝復言。汝今壞身。乃徹骨髓。寧有悔恨意耶。王言無也。天帝復曰。雖言無悔。誰能知之。我觀汝身。戰掉不停。言氣斷絕。言無悔恨。以何為證。王即立誓。我從始來乃至於今。無有悔恨大如毛髮。我所求願。必當果獲。至誠不虛如我言者。令吾身體即當平復。作誓已訖。身便平復。倍勝於前。天及世人。歎未曾有。歡喜踊躍。不能自勝。尸毘王者今佛身是也。』
  尸毘王(しびおう):梵zibiに作り、また湿鞞王、尸毘迦王と称す。種種の本生中に、釈尊因位に尸毘王為りし時、身を以って鴿(はと)に代え、鷹を養えりと伝う。『賢愚経巻1』等参照。
釋迦牟尼佛本身作王。名尸毘。是王得歸命救護陀羅尼。大精進有慈悲心。視一切眾生如母愛子。 釈迦牟尼仏は、本、身を王と作して、尸毘と名づく。是の王は、帰命救護の陀羅尼を得て、大精進し、慈悲心有りて、一切の衆生を視ること、母の子を愛するが如し。
『釈迦牟尼仏』は、
本、
『尸毘と呼ばれる!』、
『王の身』と、
『作っていた!』が、
是の、
『王』は、
『帰命救護陀羅尼を得て!』、
『大いに!』、
『精進しており!』、
『慈悲心が有った!』ので、
『一切の衆生』を、
『母が子を愛するように!』、
『視ていた!』。
  帰命(きみょう):梵語南無namasの訳。巴梨語namo、尊敬、服従の義。教命に帰順し、又は姓命を尽くして諸仏に帰投するの意。「大乗起信論義記巻上」に依るに二釈あり、一釈は、帰は是れ趣向の義、命は謂わく己身の性命。即ち己が重んずる所の命を尽くして、三宝に帰向するを云うとし、一釈は、帰は是れ敬順の義、命は謂わく諸仏の教命なり。即ち如来の教命を敬奉するを名づけて帰命となすと云えり。<(望)
  帰命救護(きみょうくご):梵語namas zaraNa?の訳。帰順者の避難所の意。
  陀羅尼(だらに):梵語dhaaraNii。能く総持して忘失せざる念慧の力を云う。『大智度論巻42下注:陀羅尼』参照。
  参考:『大智度論巻5』:『陀羅尼秦言能持。或言能遮。能持者。集種種善法。能持令不散不失。譬如完器盛水水不漏散。能遮者。惡不善根心生。能遮令不生。若欲作惡罪。持令不作。是名陀羅尼。』
  帰命(きみょう):梵語南無namasの訳。巴梨namo、凡そ三義有り、一には身命を仏に帰趣する義、二には仏の教命に帰順する義、三には命根を一心の本元に還帰する義なり。総じて信心の至極なるを表する詞なり。<(丁)
  陀羅尼(だらに):梵dhaaraNiiに作り、また陀羅那、陀憐尼に作り、意訳して持、総持、能持能遮と為し、以って善法を持ちて散ぜしめず、悪法を持ちてこれを起さしめざる力用と名づく。乃ちこれを分ちて四種と為す、即ち(一)法陀羅尼:仏法を聞持して忘れず、また名聞陀羅尼と名づく。(二)義陀羅尼:諸法の義を総持して忘れざるなり。(三)咒陀羅尼:禅定に依って秘密語を発し不測の神験を有するを咒と謂うに、咒陀羅尼とは咒に於いて総じて忘れざるなり。(四)忍陀羅尼:諸法の実相に安住するを忍と謂うに、忍を持つを名づけて忍陀羅尼と為す。聞、義、咒、忍の四者は所持の法と為すなり、能持の体に由りこれを言う、法、義の二者は念と慧とを以って体と為し、咒は定を以って体と為し、忍は無分別智を以って体と為すなり。<(佛)
時世無佛。釋提桓因命盡欲墮。自念言。何處有佛一切智人。處處問難不能斷疑。知盡非佛。即還天上愁憂而坐。 時の世に仏無く、釈提桓因は命尽きて堕ちんと欲するに、自ら念じて言わく、『何れの処にか、仏にして一切智の人有る。』と。処処に問難せしも、疑を断ずる能わず。尽く仏に非ざるを知り、即ち天上に還りて、愁憂して坐せり。
その時、
『世』には、
『仏』が、
『無く!』、
『釈提桓因』は、
『命が尽きて!』、
『天より!』、
『堕ちようとしていた!』ので、
自ら、
『念じて!』、こう言った、――
何処かに、
『仏という!』、
『一切智の人』は、
『無いのだろうか?』、と。
処処に、
『問難した!』が、
『疑』を、
『断じることができず!』、
『尽く!』が、
『仏ではない!』と、
『知ることになった!』ので、
即ち、
『天上に還り!』、
『愁憂しながら!』、
『坐っていた!』。
  問難(もんなん):問い質す。
巧變化師毘首羯磨天。問曰。天主何以愁憂。 巧変化師の毘首羯磨天の問うて曰わく、『天主、何を以ってか、愁憂したもう。』と。
『巧変化師』の、
『毘首羯磨天が問うて!』、こう言った、――
天主!
何故、
『愁憂されているのですか?』、と。
  巧変化師(ぎょうへんげし):工藝と変化の師意。
  毘首羯磨(びしゅかつま):梵名vizvakarman。巴梨名vissakamma、又毘湿縛羯磨、毘守羯磨、尾首羯磨、毘首建磨、或いは毘首婆羯磨に作り、妙業、妙匠、工巧、巧化師、或いは種種工業、種種工巧とも訳す。三十三天に住し、帝釈天の命を奉じて建築彫刻等を司る神匠の名なり。諸経論に屡記述せらるる所にして、「起世経巻7」に、「時に釈天王は瓔珞をを得んと欲し、即ち毘守羯磨天子を念ず、時に彼の天子は即便ち衆宝瓔珞を化作して天王に奉上す。若し三十三天の諸の眷属等にして瓔珞を須うる者あらば、毘守羯磨は亦皆化出して而も之を供給す」と云い、「有部毘奈耶薬事巻6」に、「爾の時、帝釈は工巧天(梵に毘首羯磨天と云う)に勅す、汝今より大声王宮の端厳道場に往き、金幢の挙高千尋なるを化作し、種種の雑宝もて間錯せよ」と云い、「大般涅槃経巻中」に、「時に天帝釈は王の心念を知り、一の天子を呼ぶ、毘首建磨と名づく。極めて妙巧を為し、事として能わざるはなし。而も之に語りて言わく、今閻浮提の転輪聖王の大善見と名づく、其れ今更に宮城を開拓せんと欲す、汝便ち下りて作監匠と為り、其の居処をして厳麗雕飾ならしめ、我が如く異なからしむべしと。彼の天は勅を奉じて即便ち来下し、猶お壮士の臂を屈伸する頃の如くに、閻浮提に到りて王の前に当りて立つ。時に王既に彼の天子の形の風姿端正なるを見て、必ず非凡なるを知り、之に問うて言わく、汝は是れ何の神にして、而も忽ち来下するやと。天即ち答えて言わく、大王当に知るべし、我れは天帝釈の大臣なり、毘首建磨と名づく、極めて工巧を閑う。大王心に宮殿を開広せんと欲するが故に、天帝釈は我れを遣して来下せしめ、作監匠となりて以って王を助けしむと。(中略)毘首建磨既に彼の王の為に宮城を造作し、皆悉く竟り已りて王と辞別す」と云い、又「大乗造像功徳経巻上」に、仏が一夏三十三天に上りて母の為に説法せられし時、毘首羯磨天は優填王の心願を察して為に仏像を造立し、又仏下天の時、三道の宝階を作れりと云い、「大智度論巻35」に、帝釈天は尸毘王の布施行を試みんが為に、毘首羯磨をして鴿と化作し、王の身肉を割与せしめたりと云える如き皆其の記事なり。之に依るに毘首羯磨は帝釈天に属し、工藝を司る大臣として伝えられたるを見るべし。蓋し此の天は太陽神話と関係あるものの如く、利倶吠陀Rg-vedaに太陽を以って宇宙の創造者となし、之を工匠が材料を組合わせて家屋を造るに比し、名づけて造一切神vizvakarmanと呼び、又「プラーナpuraaNa」に、毘首羯磨の女を日天に嫁するに、光輝に堪えざりしを以って、彼れは日光の八分の一を取り、之を以って種種の物を造作せりと云えるは、即ち其の消息を伝うるものとなすべく、斯くて後遂に独立して工藝の神となり、「マハーブハーラタmahaabhaarata」には、彼れが須弥山上に天宮(即ち帝釈天宮)を建立し、又諸神の持物、厳身の衣器等を造作したりと記し、「ラーマーヤナraamaayaNa」には、羅刹の為に楞伽城を造るとなし、其の性は頗る希臘のヘファイストスhephaestosに似たるものあり。「玄応音義巻26」に、「毘湿縛羯磨天は此に種種工業と云う。案ずるに西国の工巧は多く此の天を祭るなり」と云うに依れば、後世には工藝の神として祭祀せられたるを知るなり。又「金剛界曼荼羅」三十七尊中の金剛業(又尾首羯磨、或いは金剛毘首、金剛羯磨の名あり)菩薩は、此の天と同尊なりと称せらる。「長阿含巻3遊行経」、「起世因品経巻7」、「大毘婆沙論巻95」、「大智度論巻4」、「順正理論巻12」、「摩訶止観巻5上」等に出づ。<(望)
  参考:『起世経巻7』:『爾時帝釋天王。復更心念三十二天諸小王等。并三十二諸小天眾。時彼小王及諸天眾。亦生是心。帝釋天王。今念我等。如是知已。各以種種眾妙瓔珞莊嚴其身。各乘車乘。俱共往詣天帝釋所。到已各各在前而住。時天帝釋見諸天已。亦自種種莊嚴其身。服眾瓔珞。諸天大眾。前後左右。周匝圍遶。與諸小王。共昇伊羅婆那龍象王上。帝釋天王正當中央。坐其頭上。左右兩邊。各有十六諸小天王。坐彼伊羅婆那龍象王化頭之上。各各坐已。時天帝釋。將諸天眾。向波婁沙迦及雜色車雜亂歡喜等園。到已停住。其歡喜等四園之中。各各皆有三種風輪。謂開淨吹。略說如前。開淨地及吹花等。諸比丘。彼諸園中。吹花分散。遍布地上。深至于膝。其花香氣處處普熏。時天帝釋。與諸小天王及三十二天眾。前後圍繞。入雜色車歡喜等園。嬉戲受樂。隨意遊行。或坐或臥。時釋天王。欲得瓔珞。即念毘守羯磨天子。時彼天子。即便化作眾寶瓔珞。奉上天王。若三十三天。諸眷屬等。須瓔珞者。毘守羯磨。亦皆化出而供給之。欲聞音聲及伎樂者。則有諸鳥出種種聲。其聲和雅令天樂聞。諸天爾時如是受樂。一日乃至七日。一月乃至三月種種歡娛。澡浴嬉戲。行住坐臥。隨意東西。諸比丘。帝釋天王。有十天子。常為守護。何等為十。一名因陀羅迦。二名瞿波迦。三名頻頭迦。四名頻頭婆迦。五名阿俱吒迦。六名吒都多迦。七名時婆迦。八名胡盧祇那。九名難茶迦。十名胡盧婆迦。諸比丘。帝釋天王。有如是等十天子眾。恒隨左右。不曾捨離。為守衛故』
  毘首羯磨(びしゅかつま):梵vizvakarmanに作り、また毘守羯磨に作り、また毘湿縛羯磨に作る。即ち帝釈の臣にして、種種の工巧物を化作し、また建築を司る天神なり。毘首羯磨を種種の工業と訳し、これにより西土の工巧者はこの天を祭ると云う。<(丁)
答曰。我求一切智人不可得。以是故愁憂。 答えて曰わく、『我れは、一切智の人を求むるに、得べからざれば、是を以っての故に愁憂す。』、と。
『答えて!』、こう言った、――
わたしは、
『一切智の人』を、
『求めている!』が、
『得られない!』ので、
是の故に、
『愁憂しているのだ!』、と。
毘首羯磨言。有大菩薩。布施持戒禪定智慧具足。不久當作佛。 毘首羯磨の言わく、『大菩薩有り、布施、持戒、禅定、智慧具足すれば、久しからずして、当に仏と作るべし。』、と。
『毘首羯磨』は、こう言った、――
有る、
『大菩薩』の、
『布施、持戒、禅定、智慧』が、
『具足している!』ので、
『久しからずして!』、
『仏』と、
『作るはずです!』、と。
帝釋以偈答曰
 菩薩發大心  魚子菴樹華 
 三事因時多  成果時甚少
帝釈の偈を以って答えて曰わく、
菩薩の大心を発すは、魚子菴樹の華なり、
三事は因時多くして、果を成ずる時甚だ少なし。
『帝釈』は、
『偈で答えて!』、こう言った、――
『菩薩の発(おこ)す!』、
『大心』と、
『魚の子』と、
『菴羅の華』との、
『三事』は、
『因』を、
『作る!』時には、
『多い!』が、
『果』と、
『成る!』時には、
『甚だ少ない!』。
  菴樹(あんじゅ):梵名aamra。果樹の名。『大智度論巻4上注:菴没羅樹』参照。
  菴没羅樹(あんもらじゅ):菴没羅aamraは梵名。又amra、amlaphala、amarapuSpa、amarapuSpaka、菴摩羅、菴磨羅、菴婆羅、又は菴羅に作る。巴梨名amba、柰と訳す。「注維摩経巻1」に、「菴羅は果樹の名なり。其の果は桃に似て而も桃に非ず」と云い、「玄応音義巻8」に、「菴羅は或いは菴婆羅と言う、果の名なり。案ずるに此の果は花多くして子を結ぶこと甚だ少なし。其の葉は柳に似て而も長さ一尺余、広さ三指許り。果の形は梨に似て而も底鉤曲す。彼の国には名づけて王樹と為す。謂わく王城に在りて之を種うるなり。経中に生熟知り難しとは即ち此れなり。旧訳に柰と云うは誤なるべし。正しくは菴没羅と言う」と云える是れなり。此の樹は学名Mangifera indica、通称Mangoと呼び、印度の地到る処に産するも、特に孟買は其の果の良好を以って名あり。冬季に小なる花を開き、五六月の頃に至り其の果熟す。但し此の樹は其の種類多く、果が生熟共に緑色なるもの、熟すれば黄又は橙黄色を呈するもの、黄色を呈するも尚お未熟なるもの、緑色のままにて既に熟するもの等あり。実に生熟知り難し。従って又其の味に好悪あり、悪なるは果肉に繊維多くして酸味あり。好なるは繊維殆ど無く、芳香ありて頗る美味なり。彼の戯曲シャクンタラ中に、恋人に擬したる「サスカーラ」は即ち此の樹の異名なり。又「善見律毘婆沙巻1」に、「熟菴羅果を献ず」と云えるは、蓋し此の樹果を指せるならん。但し「大般泥洹経巻6」に、菴羅樹及び閻浮樹は三時に変じ、ある時は茂葉あり、ある時は華果あり、ある時は衰落すと云えり。是れ恐らく今の菴没羅にあらずしてaamraatakaの類を称したるものなるべし。aamraatakaは学名Spondias Mangiferaと呼び、落葉樹にして、熟するも尚お酸味甚だしき果を結び、其の大さ形共に小雞卵の如く、薬味に混じ、又食用に加味せらるるものなり。案ずるに菴没羅は他に梵名類似の植物数多あるを以って、往往彼此混同せられ、従って其の解説区区にして一概に信ずべからざるものあり。又「㮈女祇域因縁経」、「大般涅槃経巻12、22、28」、「大般若波羅蜜多経巻356、460、524」、「善見律毘婆沙巻17」、「十二因縁論」、「阿毘達磨順正理論巻33」、「大唐西域記巻4」、「玄応音義巻25」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻4、5、7、11、25、26、28、51」、「翻訳名義集巻8」、「翻梵語巻9」等に出づ。<(望)『大智度論巻8下注:菴婆羅婆利、同巻14上注:奈園、菴羅樹園』参照。
毘首羯磨。答曰。是優尸那種尸毘王。持戒精進大慈大悲禪定智慧不久作佛。 毘首羯磨の答えて曰く、『是の優尸那種の尸毘王の持戒、精進、大慈、大悲、禅定と智慧とは、久しからずして仏と作るべし。』、と。
『毘首羯磨は答えて!』、こう言った、――
是の、
『優尸那種』の、
『尸毘王』の、
『持戒、精進、大慈、大悲、禅定、智慧ならば!』、
『久しからずして!』、
『仏』と、
『作ります!』、と。
  参考:『翻梵語巻6雑人名』:『優尸那 應云漚舍那 譯曰大明星也 大智論第四卷』
釋提桓因。語毘首羯磨。當往試之。知有菩薩相不。汝作鴿我作鷹。汝便佯怖入王腋下。我當逐汝。 釈提桓因の毘首羯磨に語らく、『当に往きて之を試し、菩薩の相の有りや、不やを知るべし。汝は鴿と作り、我れは鷹と作らん。汝が、便ち佯怖して、王の腋下に入らんに、我れ当に汝を逐うべし。』と。
『釈提桓因』は、
『毘首羯磨』に、こう語った、――
『往って!』、
之を、
『試し!』、
『菩薩の相』が、
『有るか、無いか?』を、
『知るとしよう!』。
お前は、
『鴿』に、
『作れ!』、
わたしは、
『鷹』に、
『作ろう!』。
お前は、
すぐさま、
『怯えた振りして!』、
『王の腋下』に、
『入れ!』、
わたしは、
お前を、
『逐うことになろう!』、と。
  佯怖(ようふ):詐りて怖れる。
毘首羯磨言。此大菩薩云何以此事惱。 毘首羯磨の言わく、『此の大菩薩にして、云何が、此の事を以って悩まん。』と。
『毘首羯磨』は、こう言った、――
此の、
『大菩薩』が、
何うして、
此の、
『事ぐらいで!』、
『悩みましょう!』、と。
釋提桓因說偈言
 我亦非惡心  如真金應試 
 以此試菩薩  知其心定不
說此偈竟。毘首羯磨。即自變身作一赤眼赤足鴿。釋提桓因。自變身作一鷹。急飛逐鴿。鴿直來入王掖底。舉身戰怖動眼促聲
釈提桓因の偈を説いて言わく、
我れも亦た悪心に非ず、真金の応に試むべきが如し、
此に菩薩を試むるを以って、其の心の定まるや不やを知る。
此の偈を説き竟るに、毘首羯磨は、即ち自ら身を変じて、一赤眼、赤足の鴿と作り、釈提桓因は、自ら身を変じて一鷹と作り、急ぎ飛びて鴿を逐うに、鴿は直ちに来たりて、王の腋底に入り、身を挙げて戦き怖れ、眼を動かして、声を促がす。
『釈提桓因』は、
『偈を説いて!』、こう言った、――
わたしも、
『心』が、
『悪い訳ではないが!』、
譬えば、
『真金』は、
『試さねばならぬようなものだ!』。
此れで、
『菩薩』を、
『試して!』、
『菩薩の心』が、
『定まっているか、何うか?』を、
『知ろう!』。
『釈提桓因』が、
此の、
『偈』を、
『説く!』と、
『毘首羯磨』は、
すぐさま、
自ら、
『身を変じて!』、
『赤目、赤足の鴿』と、
『作り!』、
『釈提桓因』は、
自ら、
『身を変じて!』、
『一鷹』と、
『作って!』、
急に、
『飛び立つ!』と、
『鴿』を、
『逐った!』。
『鴿』は、
真直ぐ、
『来て!』、
『王の腋底』に、
『入り!』、
『身を挙げて!』、
『戦(おのの)き!』、
『怖れ!』、
『眼を動かして!』、
『声』を、
『促がした( be urgent )!』。
  戦怖(せんぷ):おののきおそれる。
  促声(そくしょう):緊迫した声を立てる。
是時眾多人相與而語曰
 是王大慈仁  一切宜保護 
 如是鴿小鳥  歸之如入舍 
 菩薩相如是  作佛必不久
是の時、衆多の人、相与に語りて曰わく、
是の王の大慈仁は、一切を宜しく保護す、
是の鴿の如き小鳥も、之に帰すれば舎に入るが如し、
菩薩の相は是の如し、仏と作ること必ず久しからず。
是の時、
『衆多の人』は、
『互に!』
『語り合って!』、こう言った、――
是の、
『王』の、
『大慈仁(仁慈:仁愛慈善)』は、
一切を、
『宜しく( should, suitable )!』、
『保護するはずだ!』。
是の、
『鴿のような!』、
『小鳥』も、
是の、
『王』に、
『帰すれば( surrender )』、
譬えば、
『舎(いえ)』に、
『入ったようなものだ!』。
是のような、
『相』は、
『菩薩の相!』、
是の、
『菩薩』が、
『仏と作る!』のも、
『久しくないだろう!』、と。
  (ぎ):適当( suitable, fitting )、当然( should, certainly )、大概( almost )。
  (き):[女性が]結婚すること( (od a woman) get married )、帰還する/還る( go back, return )、辞職する/辞任する( resign )、死ぬ( pass away )、投降する/身を委せる( surrender )、寄せ集める( put together )、対応する/向かう( tend )、決算する( settle accounts )、贈物をする( give as a gift )。
是時鷹在近樹上。語尸毘王。還與我鴿此我所受。 是の時、鷹は、近くの樹上に在りて、尸毘王に語らく、『還して我れに鴿を与えよ、此れは我が受くる所なり。』と。
是の時、
『鷹』は、
『近く!』の、
『樹上より!』、
『尸毘王』に、こう語った、――
わたしに、
『鴿』を、
『還せ!』。
此れは、
わたしに、
『授けられたものだ!』、と。
  所受(しょじゅ):授かりもの。
王時語鷹。我前受此非是汝受。我初發意時。受此一切眾生皆欲度之。 王の時に鷹に語らく、『我れ前に此れを受く、是れ汝が受くるに非ず。我れ、初めて発意せし時、此の一切の衆生を受けて、皆、之を度せんと欲せり。』と。
是の時、
『王』は、
『鷹』に、こう語った、――
わたしが、
此れを、
『受けた!』のが、
『先である!』、
此れを、
『受けた!』のは、
『お前ではない!』。
わたしは、
初めて、
『意を発した!』時より、
此の、
一切の、
『衆生』を、
『受けたならば!』、
皆、
『度そう!』と、
『思っているのだ!』、と。
鷹言。王欲度一切眾生。我非一切耶。何以獨不見愍。而奪我今日食。 鷹の言わく、『王の一切の衆生を度せんと欲するに、我れは一切に非ずや。何を以ってか、独り愍を見(あら)わさず、而も我が今日の食を奪うや。』と。
『鷹』は、こう言った、――
『王』が、
一切の、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思うならば!』、
一切に、
わたしは、
『入らないのか?』。
わたしだけに、
何故、
『愍れみ!』を、
『見せることなく!』、
わたしの、
『今日の食』を、
『奪うのか?』。
  (けん):あらわす。みせる。現。
王答言。汝須何食。我作誓願其有眾生。來歸我者必救護之。汝須何食亦當相給。 王の答えて言わく、『汝は、何なる食をか、須(もち)うる。我が誓願を作さく、其れ有る衆生来たりて、我れに帰せば、必ず之を救護せんと。汝は、何なる食を、須いんとするも、亦た当に相給すべし。』と。
『王は答えて!』、こう言った、――
お前には、
何のような、
『食』が、
『必要なのか?』。
わたしは、
『誓願』は、こう作している、――
有る、
『衆生が来て!』、
わたしに、
『帰したならば!』、
必ず、
之を、
『救護しよう!』、と。
お前が、
何のような、
『食』を、
『必要としようと!』、
必ず、
わたしが、
『給するであろう!』、と。
鷹言。我須新殺熱肉。 鷹の言わく、『我れは、新たに殺せし熱き肉を須う。』と。
『鷹』は、こう言った、――
わたしには、
『殺したて!』の、
『熱い肉』が、
『必要である!』、と。
王念言。如此難得。自非殺生無由得也。我當云何殺一與一。思惟心定即自說偈
 是我此身肉  恒屬老病死 
 不久當臭爛  彼須我當與
如是思惟已。呼人持刀自割股肉與鷹。
王の念じて言わく、『此の如きは、得難し。自ら生を殺すに非ずんば、得るに由無し。我れは当に、云何が、一を殺して、一に与えん。』と。思惟して、心定まり、即ち自ら偈を説かく、
是れ我が、此の身肉、
恒に、老病死に属せり、
久しからずして、当に臭爛すべし、
彼れ須う、我れは当に与うべし。
是の如く思惟し已り、人を呼び、刀を持ちて、自ら股の肉を割きて、鷹に与う。
『王は念じて!』、こう言った、――
此のような、
『殺したて!』の、
『肉を得る!』ことは、
『難しい!』。
自ら、
『殺生しなければ!』、
『得る方法』が、
『無い!』。
わたしに、
何うして、
『一を殺して!』、
『一に!』、
『与えることができようか?』。
是のように、
『思惟して!』、
『心』が、
『定まる!』と、
自ら、
『偈』を、こう説いた、――
わたしの、
此の、
『身肉』は、
恒に、
『老、病、死』に、
『属す!』、
久しからずして、
『臭く!』、
『爛れるだろう!』。
彼れに、
此の、
『肉』が、
『必要ならば!』、
当然、
わたしは、
『与えねばならぬ!』、と。
是のように、
『思惟する!』と、
『人を呼んで!』、
『刀』を、
『持たせ!』、
自ら、
『股の肉を割いて!』、
『鷹』に、
『与えた!』。
鷹語王言。王雖以熱肉與我。當用道理令肉輕重得與鴿等勿見欺也。 鷹の王に語りて言わく、『王は、熱きに肉を我れに与うと雖も、当に道理を用いて、肉の軽重をして、鴿と等しきを得しむべし。欺を見(あら)わす勿かれ。』と。
『鷹』は、
『王に語って!』、こう言った、――
『王』は、
わたしに、
『熱い肉』を、
『与えてくれた!』が、
『道理を用いれば!』、
『肉の軽、重』を、
『鴿』に、
『等しくさせるべきだろう!』、
わたしは、
『王』に、
『欺かれはせんぞ!』、と。
王言持稱來。以肉對鴿。鴿身轉重王肉轉輕。 王の言わく、『称(はかり)を持ちて来たれ。』と。肉を以って鴿に対すれば、鴿の身は重きに転じ、王の肉は軽きに転ず。
『王』は、こう言った、――
『秤(はかり)』を、
『持って!』、
『来い!』、と。
『王』の、
『肉』を、
『鴿』に、
『対向させる!』と、
『鴿の身』は、
『次第に!』、
『重くなり!』、
『王の肉』は、
『次第に!』、
『軽くなった!』。
王令人割二股亦輕不足。次割兩膞兩臗兩乳項脊。舉身肉盡。鴿身猶重。王肉故輕。 王は、人をして二股を割かしむるも、亦た軽くして足らず。次に両膞、両臗、両乳、項、脊を割かしめ、身を挙げて肉を尽くすも、鴿の身は猶お重く、王の肉は故(もと)より軽し。
『王』は、
『人に命じて!』、
『両股を割かせた!』が、
亦た、
『軽くなって!』、
『足らなかった!』。
次いで、
『両膞(はぎ)』、
『両臗(しり)』、
『両乳』、
『項』、
『脊』と、
『割かせて!』、
『身を挙げて!』、
『肉』を、
『尽くさせた!』が、
『鴿の身』は、
猶お( yet, still )、
『重く!』、
『王の肉』は、
『故(もと as original )のように!』、
『軽かった!』。
  (せん):ふくらはぎ。
  (かん):しり。
是時近臣內戚。安施帳幔。卻諸看人。王今如此無可觀也。 是の時、近臣、内戚は、帳幔を安施し、諸の看人を卻(かえ)す、『王は、今、此の如く、観るべき無し。』と。
是の時、
『近臣』や、
『同居の親戚』は、
『帳幔(とばり)を設置して!』
諸の、
『見舞いの人』を、
『卻(かえ)してしまう!』と、
こう言った、――
『王』は、
今、
此のように、
『観られる!』ものが、
『無い!』、と。
  内戚(ないしゃく):同居の親戚。
  安施(あんせ):おきほどこす。設置。
  帳幔(ちょうまん):軍中に張る幕。
  看人(かんにん):見舞う人、見守る人。
尸毘王言。勿遮諸人聽令入看。而說偈言
 天人阿修羅  一切來觀我 
 大心無上志  以求成佛道 
 若有求佛道  當忍此大苦 
 不能堅固心  則當息其意
尸毘王の言わく、『諸人を遮る勿かれ。人を聴(ゆる)して看せしめよ。』と。而して偈を説きて言わく、
天、人、阿修羅、一切来たりて我れを観よ、
大心の無上の志を以って、成仏の道を求むるを。
若し仏道を求むる有らば、当に此の大苦を忍ぶべし、
心を堅固にする能わざれば、則ち当に其の意を息むべし。
『尸毘王』は、こう言った、――
諸の、
『人』を、
『遮らず!』、
『入る!』ことを、
『聴(ゆる)して!』、
『看させよ!』、と。
而も、
『偈を説いて!』、こう言った、――
『天、人、阿修羅』の、
一切は、
『来て!』、
わたしが、
『大心』と、
『無上の志』とで、
『成仏の道を求めている!』のを、
『観よ!』。
若し、
有る者が、
『仏道』を、
『求めるならば!』、
当然、
此の、
『大苦』を、
『忍ばねばならぬ!』。
若し、
『意を堅固にできなければ!』、
其の、
『意』を、
『休ませるがよい!』、と。
是時菩薩。以血塗手攀稱欲上。定心以身盡以對鴿。鷹言。大王此事難辦。何用如此以鴿還我。 是の時、菩薩は、血に塗れた手を以って、称に攀(よ)ぢて上らんと欲す。心を定め、身を以って尽くして、以って鴿に対す。鷹の言わく、『大王、此の事の辦じ難し。何ぞ、此の如きを用うる。鴿を以って我れに還せ。』と。
是の時、
『菩薩』は、
『血にぬれた!』、
『手』で、
『秤』に、
『攀()じ上ろうとして!』、
『心を定める!』と、
『身の尽く!』を、
『鴿』に、
『対峙させた!』。
『鷹』は、こう言った、――
大王!
此の、
『事』は、
『成し遂げる!』のが、
『難しいぞ!』。
此のような、
『事をして!』、
何に、
『用いようとするのか?』。
『鴿』を、
わたしに、
『還すのだ!』、と。
王言鴿來歸我終不與汝。我喪身無量於物無益。今欲以身求易佛道。以手攀稱。 王の言わく、『鴿来たりて、我れに帰すれば、終に汝に与えず。我れ身を喪うこと無量なりとも、物に於いて無益なり。今、身を以って求め、仏道に易(か)えんと欲す。』と。手を以って称に攀(よ)づ。
『王』は、こう言った、――
『鴿』が、
来て、
わたしに、
『身を委ねたからには!』、
終(つい)に、
お前に、
『与えることはない!』。
わたしは、
『身』を、
『喪(うしな)う!』ことが、
『無量であっても!』、
『物質』には、
『益(価値)』が、
『無い!』。
今、
『身』を、
『用いて!』、
『求める!』のは、
『仏道』と、
『交換したい!』と、
『思うからだ!』、と。
そして、
『手』で、
『秤』に、
『しがみついた!』。
  (もち):<名詞>[本義]万物( object )。物品/物件( article, thing )、仕事/用事( affair )、外界/社会( the outside world )、雑色の牛( varicolored ox )、雑色の旗( motley flag )、[家畜の]種類、等級( category )、顔色( color )、[哲学用語:心に相対する]物質/中身( substance, content )、物産( products )、他人/衆人( the orhers )、背景/景色( scenery )、財産( property )、神霊( deities )、標識/記号( mark )。<動詞>選択する( choose )、観察する( observe )。
爾時菩薩。肉盡筋斷不能自制。欲上而墮自責心言。汝當自堅勿得迷悶。一切眾生墮憂苦大海。汝一人立誓欲度一切。何以怠悶。此苦甚少地獄苦多。以此相比於十六分猶不及一。我今有智慧精進持戒禪定。猶患此苦。何況地獄中人無智慧者。 爾の時、菩薩は、肉尽き、筋断じて自ら制する能わず。上ろうと欲して堕ち、自ら心を責めて言わく、『汝は、当に自ら堅くすべし。迷悶を得る勿かれ。一切の衆生は、憂苦の大海に堕す。汝一人、誓を立てて、一切を度せんと欲す。何を以ってか、怠り悶えん。此の苦は甚だ少なく、地獄の苦は多し。此を以って相比すれば、十六分の猶お一にも及ばず。我れに、今智慧、精進、持戒、禅定有りとも、猶お此の苦を患う。何に況んや、地獄中の人の智慧無き者をや。』と。
爾の時、
『菩薩』は、
『肉が尽きて!』、
『筋』が、
『断たれていた!』ので、
自ら、
『制することができず!』、
『上ろうとする!』ごとに、
『堕ちる!』ので、
自ら、
『心を責めて!』、こう言った、――
お前は、
自ら、
『心を堅固にして!』、
『迷悶』を、
『感じてはならない!』。
一切の、
『衆生』は、
『憂、苦の大海』に、
『堕ちている!』ので、
お前は、
『一人』で、
『一切を度したい!』と、
『誓』を、
『立てた!』のに、
何故、
『怠り!』、
『悶えているのか?』。
此の、
『苦』は、
『甚だ少ない!』が、
『地獄の苦』は、
『多いのだぞ!』。
此の、
『苦を比べれば!』、
『十六分の一』にも、
『及ばないのだ!』。
わたしには、
今、
『智慧、精進、持戒、禅定が有る!』のに、
猶お、
此の、
『苦』を、
『患っている!』。
況して、
『地獄中の人』で、
『智慧の無い!』者は、
『尚更ではないか?』、と。
是時菩薩。一心欲上復更攀稱。語人扶我。 是の時、菩薩は、一心に上らんと欲して、復た更に称に攀ぢ、人に語らく、『我れを扶けよ。』と。
是の時、
『菩薩』は、
『一心』に、
『上ろうとして!』、
復た、
『秤』に、
『しがみつく!』と、
『人』に、こう語った、――
わたしを、
『扶(たす)けて!』、
『上らせよ!』、と。
是時菩薩。心定無悔。諸天龍王阿修羅鬼神人民皆大讚言。為一小鳥乃爾。是事希有。 是の時、菩薩は、心定まりて悔ゆること無し。諸天、龍王、阿修羅、鬼神、人民は、皆大いに讃じて言わく、『一小鳥の為にすら、乃ち爾り。是の事は希有なり。』と。
是の時、
『菩薩』は、
『心が定まって!』、
『悔ゆる!』ことが、
『無かった!』ので、
諸の、
『天、龍王、阿修羅、鬼神、人民』は、
皆、
『大いに!』、
『讃じて!』、こう言った、――
『一小鳥』の為にすら、
『あれ( that )ほどにも!』、
『苦労されるとは!』、
是のような、
『事』は、
『希有である!』、と。
  (ない):<代名詞>お前の/汝が( your )、彼れの( his )、此の( this )、此のように( so )。<動詞>是れ( be )。<副詞>ちょうど今( just now )、只だ/僅かに( only then )、不意に/なんと( unexpectedly, actually )、同時に( at the same time )、そこで/そうすると/是に於いて( then, where upon )。<接続詞>しかし/しかしながら( but, however )。
  (に):<形容詞>[本義]窓の花柄格子( figure, decorative pattern )。華麗な様子( luxuriant )、近い( near )、浅近( shallow )。<代名詞>第二人称/汝( you )、彼れ/彼のような( that )、此れ/此のような( this )。<助詞>形容詞・副詞を作る語尾/然、のみ/耳/而已、しかり/是( yes )。
即時大地為六種振動。大海波揚枯樹生華。天降香雨及散名華。天女歌讚必得成佛。 即ち、時に大地は為に六種に振動し、大海は波を揚げ、枯樹は華を生じ、天は香雨を降らせ、及び名華を散じ、天女は歌いて、『必ず、仏と成るを得ん。』と讃ず。
即時に、
『菩薩の為に!』、
『大地』は、
『六種に震動し!』、
『大海』は、
『波を揚げ!』、
『枯樹』は、
『華を生じ! 、
『天』は、
『香の雨』を、
『降らして!』、
『名華』を、
『散らす!』に、
『及び!』、
『天女』は、
『歌で讃じて!』、こう言った、――
必ず、
『仏』に、
『成ることができるだろう!』、と。
是時四方神仙皆來讚言。是真菩薩必早成佛。 是の時、四方の神仙、皆来たり、讃じて言わく、『是れ真の菩薩なり、必ず早く仏と成らん。』と。
是の時、
『四方の神仙』が、
皆、
『来て!』、
『讃じながら!』、こう言った、――
是れこそ、
『真の!』、
『菩薩である!』、
『必ず!』、
『早く!』、
『仏と成るだろう!』、と。
鷹語鴿言。終試如此不惜身命。是真菩薩。即說偈言
 慈悲地中生  一切智樹牙 
 我曹當供養  不應施憂惱
鷹の鴿に語りて言わく、『試むるを終えよ。此の如き身命を惜まざるは、是れ真の菩薩なり。』と。即ち偈を説きて言わく、
慈悲の地中に生ぜし、一切智の樹牙は、
我曹当に供養すべし、応に憂悩を施すべからず。
『鷹』は、
『鴿に語って!』、こう言った、――
『菩薩』を、
『試す!』のを、
『終えよ!』。
此のように、
『身、命』を、
『惜まない!』のは、
是れこそ、
『真の!』、
『菩薩である!』、と。
そして、
『偈を説いて!』、こう言った、――
『慈悲の地』中に、
『生じた!』、
『一切智の樹』の、
『芽である!』。
我等は、
『供養せねばならぬ!』、
『憂悩』を、
『施してはならぬ!』、と。
  樹牙(じゅげ):樹木の芽。
  我曹(がそう):われら。
毘首羯磨。語釋提桓因言。天主汝有神力。可令此王身得平復。 毘首羯磨の、釈提桓因に語りて言わく、『天主、汝に、神力有り、此の王の身をして、平復を得しむべし。』と。
『毘首羯磨』は、
『釈提桓因に語って!』、こう言った、――
天主!
お前には、
『神通力』が、
『有る!』。
此の、
『王の身』を、
『回復させるのがよかろう!』、と。
  平復(ひょうぶく):平常にもどる。
釋提桓因言。不須我也。此王自作誓願大心歡喜。不惜身命感發一切令求佛道。 釈提桓因の言わく、『我れを須いず。此の王は、自ら誓願を作すに、大心歓喜すればなり。身命を惜まず、一切を感発して、仏道を求めしめたり。』と。
『釈提桓因』は、こう言った、
わたしを、
『必要とはしていまい!』。
此の、
『王』は、
自ら、
『誓願を作しながら!』、
『大心』が、
『歓喜しており!』、
『身、命を惜まず!』、
『一切を!』、
『感発(感動・発動)して!』、
『衆生』に、
『仏道』を、
『求めさせたのだ!』。
  感発(かんぽつ):感動させて発動する。感動させて動かす。
帝釋語人王言。汝割肉辛苦心不惱沒耶。 帝釈の、人王に語りて言わく、『汝は、肉を割きて辛苦するに、心は悩みに没せざるや。』と。
『帝釈』は、
『人王に語って!』、こう言った、――
お前は、
『肉』を、
『割いて!』、
『辛苦している!』が、
『心』が、
『悩に!』、
『没することはないのか?』、と。
王言。我心歡喜不惱不沒。 王の言わく、『我が心は歓喜して、悩まず没せず。』と。
『王』は、こう言った、――
わたしの、
『心』は、
『歓喜しており!』、
『悩むこともなく!』、
『没することもない!』、と。
帝釋言。誰當信汝心不沒者。 帝釈の言わく、『誰か、当に汝が心の没せざるを信ずべき者なる。』と。
『帝釈』は、こう言った、――
誰が、
お前の、
『心が没しない!』などと、
『信じられよう?』、と。
是時菩薩作實誓願。我割肉血流不瞋不惱。一心不悶以求佛道者。我身當即平復如故。即出語時身復如本。 是の時、菩薩は実の誓願を作さく、『我れは、肉を割かれ、血を流すも、瞋らず、悩まず、一心に悶えずして、以って仏道を求むる者なり。我が身は、当に即ち平復すること、故(もと)の如かるべし。』と。即ち、語を出せる時、身は、復た本の如し。
是の時、
『菩薩』は、
『実の誓願』を、こう作した、――
わたしは、
『肉を割いて!』、
『血を流しながら!』、
『瞋ることもなく!』、
『悩むこともなく!』、
『一心』が、
『悶えることもなく!』、
『仏道』を、
『求めていたならば!』、
わたしの、
『身』は、
当然、
『即座に!』、
『回復するはずだ!』、と。
そして、
是の、
『語』が、
『口』より、
『出た!』時には、
『身』は、
『本のように!』、
『回復していた!』。
人天見之皆大悲喜歎未曾有。此大菩薩必當作佛。我曹應當盡心供養。願令早成佛道。當念我等。 人天は、之を見て、皆大いに悲喜して未曽有を歎ずらく、『此の大菩薩は、必ず当に仏と作るべし。我曹は、応当に心を尽くして、供養し、願いて早く、仏道を成ぜしむべく、当に我等を念ずべし。』と。
『人、天』は、
之を見て、
皆、
『大いに!』、
『悲しんだり!』、
『喜んだりしながら!』、
『未曽有の事』を、こう歎じた、――
此の、
『大菩薩』は、
『必ず!』、
『仏と作るはずだ!』。
わたし達は、
『心を尽くして!』、
『供養せねばなるまい!』。
願わくは、
早く、
『仏道』を、
『成就して!』、
わたし達を、
『念じられますように!』、と。
是時釋提桓因毘首羯磨各還天上。如是等種種相。是檀波羅蜜滿。 是の時、釈提桓因と、毘首羯磨は、各天上に還れり。是の如き等の種種の相は、是れ檀波羅蜜の満つるなり。
是の時、
『釈提桓因』と、
『毘首羯磨』とは、
各、
『天上』に、
『還っていった!』。
是れ等のような、
種種の、
『相』は、
『檀波羅蜜』が、
『満ちたのである!』。



尸羅波羅蜜が満ちる

問曰。尸羅波羅蜜云何滿。 問うて曰く、尸羅波羅蜜は、云何が満つる。
問い、
『尸羅波羅蜜』は、
何のように、
『満ちるのですか?』。
答曰。不惜身命護持淨戒。如須陀須摩王。以劫磨沙波陀大王故。乃至捨命不犯禁戒。 答えて曰く、身命を惜まず、浄戒を護持するなり。須陀須摩王の、劫磨沙波陀大王を以っての故に、乃至命を捨つるも、禁戒を犯さざるが如し。
答え、
『身、命』を、
『惜まずに!』、
『浄戒』を、
『護持することである!』、
例えば、
『須陀須摩王』は、
『劫磨沙波陀大王』の故に、
乃(すなわ)ち、
『命』を、
『捨てる!』に、
『至るまで!』、
『禁戒』を、
『犯さなかった!』。
  須陀須摩王(しゅだしゅまおう):須陀須摩zrutasomaは梵名。釈尊因位時の名。『大智度論巻4上注:須陀素弥王』参照。
  須陀素弥王(しゅだそみおう):須陀素弥zrutasomaは梵名。巴梨名sutasoma、又修陀素弥、須陀須摩、須陀摩に作り、普明と訳す。釈尊因位に国王となりて菩薩行を修せられし時の名。「菩薩本行経巻下」に、「我れ須陀素弥王の時、百王死に臨みしに其の命を済い、迦摩沙颰王をして正見に入らしめ、十二年の悪誓を消除することを得しむ」と云い、「仁王般若波羅蜜経巻下護国品」に、「時に普明王、即ち上の偈を以って王に答う、王是の法を聞きて空三昧を得、九百九十九王も亦法を聞き已りて皆三空門定を証す。時に斑足王大いに歓喜す」と云える是れなり。此の本生譚は諸経に散説する所なるも、今「賢愚経巻11無悩指鬘品」に依りて其の梗概を陳ぶべし。過去の世に此の閻浮提に一大国あり、波羅㮈(天羅)と名づけ、王を波羅摩達と名づく。一日山林に遊猟して牸師子と交接し、懐胎して便ち一子を生む。其の形人に似たるも唯足に斑駮あり、故に迦摩沙波陀(駮足又は斑足と訳す)と字す。長大にして雄才猛志、父王崩後、其の位を継ぐ。時に一仙人あり、日日王宮に来たりて食を受く。後此の仙人事によりて大に瞋り、因りて呪して爾後十二年間王をして恒に人肉を食せしめんと言い、飛んで山中に帰る。後王の厨監適ま肉を辦ずるを忘れ、死児の肉を調理して之を奉ずるに、王食して甚だ美なりとし、更に之を求むるにより、日日小児を捕えて王の食膳に供す。時に城中の人民此の事を知り、乃ち王を殺して禍害を除かんと欲し、王が浴池に来るを待ち兵を伏せて之を囲む。王驚怖して復び作さざるべきを誓うも、許さざるを以って乃ち変じて飛行羅刹と成り、今より汝等所愛の妻児を捕えて之を食い尽くすべしと言い、遂に虚空に飛び去り、山間に止まりて多人を殺噉す。後諸羅刹来たりて其の眷属となり、仍りて一千の王を取り、其の肉を割きて一大宴会を張らんとし、已に九百九十九王を得て之を深山に幽閉し、最後に須陀素弥王を捕えて山中に至る。時に須陀須弥王愁憂悲泣して止まず。駮足王其の所以を問うに即ち言わく、我れ身を愛惜するに非ず、但だ一婆羅門に布施を約し、未だ果たさざるが故に愁うるのみ。願わくは我れに七日を仮せ、彼の婆羅門に布施し、而して後来たりて死に就くべしと。乃ち放たれて其の国に帰り婆羅門に施与す。時に婆羅門は王の久しからずして死に就くを知り、仍りて「劫數終極、乾坤洞然、須彌巨海、都為灰煬、天龍人鬼、於中彫喪、二儀尚殞、國有何常、生老病死、輪轉無際、事與願違、憂悲為害、欲深禍重、瘡疣無外、三界都苦、國有何賴、有本自無、因緣成諸、盛者必衰、實者必虛、眾生蠢蠢、都如幻居、三界皆空、國土亦如、識神無形、假乘四蛇、無眼寶養、以為樂車、形無常主、神無常家、形神尚離、豈有國耶」の偈を説く。王之を聞きて歓喜し、即ち太子を立てて自ら代らしめ、尋いで山に往き、駮足王の為に前偈を説き、更に殺罪及び其の悪報、並びに慈心不殺の福を演ぶるに、駮足は悔悟敬戴して其の教を奉じ、即ち諸王を放ちて各本国に還らしめ、又自ら須陀素弥王の保護によりて本国に帰還し、是れより更に人を噉わず。遂に覇王となりて善く人民を治せり。其の時の須陀素弥王は釈尊、駮足王は今の鴦仇摩羅なりと云える是れなり。蓋し此の説話は経に依りて具略あり、又駮足王の生立、諸王捕捉の動機、並びに諸王の数等も異同少なからず。就中、「六度集経巻4」並びに「仁王般若波羅蜜経」には、唯本説話の後段のみを記述し、「僧伽羅刹所集経巻上」には単に須陀素弥王教化の一節を挙げ、諸王捕捉の事等を言わず。又「六度集経」並びに「大智度論巻4」には諸王の数を九十九人とし、「雑譬喩経巻上」には四百九十九人、「仁王般若波羅蜜経」には今の「賢愚経」に同じく九百九十九人となせり。以って此の説話が種種に伝えられしを見るべし。又印度アジャンタAjanta第十七号窟殿の壁画には本説話を図出し、駮足王が群臣の為に殺害せられんとする相、及び羅刹に変じて宮殿より飛去せる状を顕し、又瓜哇ボロブドルBorobudurの廊壁にも、駮足が飛行して宮殿を去り、諸臣之を仰ぎ見るの様を彫出せり。又「央掘魔羅経巻1」、「旧雑譬喩経巻下」、「楞伽阿跋多羅宝経巻4」、「師子素駄娑王断肉経」等に出づ。<(望)
  劫磨沙波陀王(こうましゃはだおう):梵語kalmaaSapaadaの音訳にして、また迦摩沙波陀王、劫摩沙波陀王等に作り、意訳して鹿足王、斑足王、駁足王等と為す。『賢愚経巻11』によれば、過去世の中に一波羅奈国あり、その王名を波羅摩達と為す、一日山林に遊び、獅子と交わりて一子を生ず、その形は人に似たるも、ただ足に斑あり、故に斑足と名づく。長ずるに及び、雄才猛志を具え、父の位を継承す。後に小児の肉を嗜食するを以って、民に捕えらえ、遂に化して飛行羅刹と作り、山間に止住せり。かつて一千王の肉を取らんと欲し、斑足九百九十九王を捕得しおわり、最後に須陀素弥王(梵zrutasoma)を捕得せる時、その感化を受くるに因って悔悟し、遂に再び人を食わざりけり、と。<(佛)『大智度論巻4上注:須陀素弥王』参照。
  須陀須摩王(しゅだしゅまおう):梵語zrutasomaの音訳にして、また修陀素弥王、須陀素弥王、須陀摩王に作り、意訳して普明王と為す。即ち釈尊の因位に於いて国王と為り、菩薩行を修めし時の名なり。『賢愚経巻11無悩指鬘品』によれば、過去世閻浮提に一大国有り、波羅捺(天羅)と名づく。国王を迦摩沙波陀(梵kalmaasapaada、また駁足、斑足、鹿足に作る)と名づけ、好んで人肉を食えり。後に変じて飛行羅刹と成り、山間に止住して、多人を殺して噉えり。また諸の羅刹の来たりてその眷属と為ること有り、駁足王、千王の肉を取らんと欲して、故に大宴会を設け、すでに九百九十九王を得て、最後に須陀素弥王を捕えしに、王は従容として死に就き、並びに為に殺罪及びその悪報を説き、更に慈心不殺の福を説けり。駁足王これを聞いて悔悟し、遂に諸王を釈放し、この後は再び人を食わず。昔時の須陀素弥とは即ち後来の釈尊、駁足王とは即ち後来の鴦仇摩羅なり、と。<(佛)
昔有須陀須摩王。是王精進持戒常依實語。晨朝乘車將諸婇女入園遊戲。出城門時有一婆羅門來乞語王言。王是大福德人我身貧窮。當見愍念賜丐少多。 昔、須陀須摩王有り。是の王は、精進して持戒し、常に実語に依れり。晨朝、車に乗り、諸の婇女を将いて、園に入りて、遊戯せんと、城の門を出づる時、有る一婆羅門の来たりて乞い、王に語りて、言わく、『王は、是れ大福徳の人にして、我が身は貧窮なり。当に愍念を見せ、丐(こ)うに少多を賜るべし。』と。
昔、
『須陀須摩という!』、
『王』が、
『有った!』。
是の、
『王』は、
『精進して!』、
『持戒しており!』、
常に、
『実語』に、
『依っていた!』。
晨朝、
『王』は、
『車に乗り!』、
諸の、
『婇女を将いて!』、
『園に入り!』
『遊戯しようとして!』、
『城門を出る!』時、
有る、
『一婆羅門』が、
『来て!』、
『乞いながら!』、
『王』に、
『語って!』、こう言った、――
『王』は、
『大福徳』の、
『人である!』が、
わたしの、
『身』は、
『貧に窮している!』。
当然、
『愍念』を、
『見せて!』、
『少多(少しばかり)!』、
『乞人』に、
『賜れ!』、と。
  晨朝(じんちょう):早朝。夜明け頃。
  婇女(さいにょ):女官。
  (けん):みせる。あらわす。現。
  愍念(みんねん):あわれみのおもい。
  (がい):<動詞>乞い求める( beg )、求める/請求する( ask for )、与える/施捨する( give )、免除/減免する( remit )。<名詞>乞人/乞丐/乞者( begger )。  
王言諾。敬如來告當相布施須我出還。作此語已入園澡浴嬉戲。 王の言わく、『諾、如来の、当に相布施すべしと告げたまえるを敬わん。我が出でて還るを須(ま)て。』と。此の語を作し已りて、園に入り、澡浴し、嬉戯せり。
『王』は、こう言った、――
承知した!
『如来』が、
『布施せねばならない!』と、
『告げられた!』ことを、
『尊重しよう!』。
わたしが、
『園を出て!』、
『帰還する!』のを、
『待て!』、と。
『王』は、
此れを、
『語る!』と、
『園に入り!』、
『澡浴して!』、
『嬉戯した!』。
  (なく):よろしい。応当のことば。
  (きょう):<動詞>[本義]恭しくして( respectfully )。丁重に待遇する( treat carefully )、尊重/尊敬する( respect )、[茶、酒、煙草唐を]奉る( serve )。<名詞>敬意/謝意( respect, gratitude )、贈物( gift, present )。
時有兩翅王名曰鹿足空中飛來。於婇女中捉王將去。譬如金翅鳥海中取龍。諸女啼哭號慟。一園驚城內外搔擾悲惶。 時に、両翅の王、名づけて鹿足と曰う有り、空中を飛来し、婇女中に於いて、王を捉えて、将(まさ)に去らんとす。譬えば金翅鳥の海中より龍を取るが如し。諸女啼哭し、号慟し、一園驚き、城の内外搔擾し、悲惶す。
その時、
有る、
『鹿足と呼ばれる!』、
『両翅の王』が、
『空中を飛んで!』、
『婇女』中に、
『来る!』と、
譬えば、
『金翅鳥』が、
『海』中に、
『龍』を、
『捉えるように!』、
『王』を、
『捉える!』と、
『将いて去った!』。
諸の、
『婇女』は、
『啼哭し(泣き叫び)!』、
『号慟して(声を挙げて悲しみ)!』、
『一園』中を、
『驚かせ!』、
『城』の、
『内、外』は、
『搔擾し(大騒ぎになり)!』、
『悲惶した(悲しみ畏れた)!』。
  両翅(りょうし):ふたつのつばさ。両翼。
  金翅鳥(こんじちょう):梵名迦楼羅garuDa、龍を取って食う巨鳥。『大智度論巻25下注:迦楼羅』参照。
  啼哭(たいこく):泣き叫ぶ。
  号慟(ごうどう):大声を挙げて大いに哀しむ。慟哭。
  搔擾(そうじょう):さわぎみだれる。
  悲惶(ひおう):悲しみ畏れる。
鹿足負王騰躍虛空至所住止。置九十九諸王中。 鹿足は、王を負うて、虚空を騰躍し、住する所に至りて止まり、九十九の諸王中に置けり。
『鹿足』は、
『王を背負って!』、
『虚空を飛騰し!』、
『所住の処』に、
『至る!』と、
『捕囚である!』、
『九十九の諸王』中に、
『置いた!』。
  騰躍(とうやく):おどりあがる。
須陀須摩王涕零如雨。鹿足王語言。大剎利王汝何以啼如小兒。人生有死合會有離。 須陀須摩王の涕の零るること雨の如し。鹿足王の語りて言わく、『大刹利王、汝は、何を以ってか、啼くこと、小児の如くなる。人生ずれば死すること有り、合会すれば離るること有り。』、と。
『須陀須摩王』が、
『雨のように!』、
『涙』を、
『零(こぼ)している!』と、
『鹿足王が語って!』、こう言った、――
大刹利の王!
お前は、
何故、
『小児のように!』、
『泣いているのか?』。
『人』は、
『生ずれば!』、
『死』が、
『有り!』、
『合会すれば!』、
『離』が、
『有るものだ!』。
  刹利(せつり):梵語Satriyaの音訳にして、また刹帝利に作り、王種と訳す。即ち印度四姓の一にして即ち王族、武士階級なり。
須陀須摩王答言。我不畏死甚畏失信。我從生已來初不妄語。今日晨朝出門時有一婆羅門來從我乞。我時許言還當布施。不慮無常辜負彼心自招欺罪。是故啼耳。 須陀須摩王の答えて言わく、『我れは、死を畏れず、甚だ信を失するを畏る。我れは生じてより已来、初より妄語せず。今日、晨朝門を出でし時、一婆羅門の来たる有りて、我れにより乞えり。我れ、時に許して、『還るに、当に布施すべし。』と言い、無常を慮らずして、彼れの心を辜負し、自ら欺罪を招く。是の故に啼くのみ。』と。
『須陀須摩王は答えて!』、こう言った、――
わたしは、
『死』を、
『畏れるのではない!』。
『信を失う!』ことを、
『甚だ!』、
『畏れているのだ!』。
わたしは、
『生まれて!』以来、
『初めより!』、
『妄語したことはない!』が、
今日、
『門を出る!』時、
『一婆羅門が来て!』、
わたしに、
『乞うた!』ので、
その時、
わたしは、
『還ったら!』、
『布施しよう!』と、
『許して!』、
『無常を考慮せず!』、
『彼れの心』を、
『失望させ!』、
自ら、
『欺誑の罪』を、
『招いてしまった!』。
是の故に、
『啼いているのだ!』、と。
  辜負(こふ):羞じること無き行動に失敗する/値しない/失望させる( fail to live up to, be unworthy, let down )。
鹿足王言。汝意欲爾畏此妄語。聽汝還去七日布施婆羅門訖便來還。若過七日不還我有兩翅力取汝不難。 鹿足王の言わく、『汝が意に爾らんことを欲し、此の妄語を畏るるならば、汝に還り去りて、七日婆羅門に布施するを聴(ゆる)さん。訖(おわ)らば、便ち来たり還れ。若し七日を過ぎて還らずんば、我れに両翅の力有り、汝を取るも難からざらん。』と。
『鹿足王』は、こう言った、――
お前の、
『意』が、
爾のように、
『思い!』、
此の、
『妄語』を、
『畏れるならば!』、
お前が、
『還って去り!』、
『七日の間』、
『婆羅門に布施する!』ことを、
『聴(ゆる)そう!』。
『訖(おわ)れば!』、
『直ぐにでも!』、
『還って!』、
『来い!』。
若し、
『七日』を、
『過ぎて!』、
『還らなければ!』、
俺の、
『両翅の力』で、
『お前を取る!』ことは、
『難しくはない!』、と。
須陀須摩王得還本國恣意布施。立太子為王。大會人民懺謝之言。我智不周物治不如法當見忠恕。如我今日身非已有正爾還去。 須陀須摩王は、本国に還ることを得、意を恣(ほしいまま)にして、布施し、太子を立てて、王と為し、大会の人民に、之を懺謝して言わく、『我が智は、物に周からず。治むるに如法ならず。当に忠恕を見せるべし。我が今日の身の如きは、已に有するに非ず。正に爾(そこ)に、還り去らん。』と。
『須陀須摩王』は、
『本国に還って!』、
『意のままに!』、
『布施し!』、
『太子』を、
『立てて!』、
『王とする!』と、
『大会』の、
『人民』に、
『懺謝して!』、こう言った、――
わたしの、
『智』は、
『物』を、
『周く知ることはなく!』、
『世』を、
『如法に!』、
『治めることもなかった!』が、
皆は、
『忠義』と、
『寛恕』とを、
『見せられよ!』。
わたしの、
『今日』と、
『同じような!』、
『身』は、
『明日』には、
已に、
『存在しない!』。
正しく、
『爾の処に!』、
『還り去らねばならぬだろう!』、と。
  懺謝(ざんしゃ):懺悔して謝罪する。
舉國人民及諸親戚叩頭留之。願王留意慈蔭此國。勿以鹿足鬼王為慮也。當設鐵舍奇兵。鹿足雖神不畏之也。 国を挙げて、人民、及び諸の親戚、叩頭して之を留むらく、『願わくは、王、意を留めて、此の国を慈蔭したまえ。鹿足鬼王を以って、慮と為したもう勿かれ。当に鉄舎と奇兵を設くべし。鹿足は、神なりと雖も、之を畏れざれ。』と。
『国を挙げて!』、
『人民』と、
『諸の親戚』は、
『叩頭し!』、
『引留めて!』、こう言った、――
願わくは、
王よ!
『意を留めて!』、
此の、
『国』を、
『慈蔭せられよ!』。
『鹿足などという!』、
『鬼王』の為に、
『遠慮することはありません!』。
『鉄の舎(いえ)』と、
『奇兵』とを、
『設け( set up )ましょう!』。
『鹿足』が、
『神であっても!』、
『畏れてはなりません!』。
  叩頭(くづ):頭を地にたたきつける。
  慈蔭(じおん):いつくしんでたすける。
  (りょ):うれい。憂慮。
  (せち):<動詞>[本義]陳列/場所を見つける( display, find a place for )。創立/建立/設立( create, establish, set up )、画策する( plot )、設置する( set up )、施行/実現する( carry out )、配置する/用意する( arrange, fix up )。<接続詞>若し/仮設( if )。<形容詞>完備した( complete )、大きな( larage )。
  鉄舎(てっしゃ):鉄のいえ。
  奇兵(きひょう):異常の計略を用いて敵の不意に乗ずる兵。
王言不得爾也。而說偈言
 實語第一戒  實語昇天梯 
 實語小而大  妄語入地獄 
 我今守實語  寧棄身壽命 
 心無有悔恨
如是思惟已。王即發去到鹿足王所。
王の言わく、『爾ることを得ず。』と。而も偈を説いて言わく、
実語は第一の戒なり、実語は天に昇る梯なり、
実語は小にして大なり、妄語せば地獄に入らん、
我れは今実語を守るに、寧ろ身と寿命を棄つるとも、
心に悔恨あること無し。
是の如く思惟し已りて、王は即ち発ち去りて、鹿足王の所に到れり。
『王』は、
『爾れは!』、
『出来ない!』と、
『言いながら!』、
『偈を説いて!』、こう言った、――
『実語こそ!』は、
『第一』の、
『戒であり!』、
『実語こそ!』は、
『天に昇る!』、
『梯子である!』。
『実語』は、
『小さくとも!』、
『大である!』が、
『妄語すれば!』、
『地獄』に、
『堕ちるだろう!』。
わたしは、
今、
『実語』を、
『守れるならば!』、
寧ろ、
『身、寿命を棄てても!』、
『心』に、
『悔恨は無いだろう!』。
是のように、
『思惟する!』と、
『王』は、
即座に、
『発ち去って!』、
『鹿足王の所』に、
『到った!』。
鹿足遙見歡喜而言。汝是實語人不失信要。一切人皆惜身命。汝從死得脫還來赴信汝是大人。 鹿足の、遙かに見るに、歓喜して言わく、『汝は、是れ実語の人なり。信要を失わず。一切の人は、皆身命を惜む。汝は、死より脱るるを得て、還り来たりて、信に赴く。汝は、是れ大人なり。』と。
『鹿足』は、
遙かに、
『王を見る!』と、
『歓喜して!』、こう言った、――
お前は、
『実語の人であり!』、
『信頼、約束』を、
『失わなかった!』。
一切の、
『人』は、
皆、
『身、命』を、
『惜むが!』、
お前は、
『死』を、
『脱れられたのに!』、
『還って来て!』、
『信頼』に、
『身を投じた!』。
お前は、
『大人である!』、と。
  (よう):<名詞>[本義]人の腰( waist )。要点/綱要( important point )、帳簿( book )、重要な地位/要職( important position )、縄( strow rope, code )、総要/案( scheme )。<動詞>出席を請う( invite )、同盟を結ぶ/誓約する( ally, promise, pledge )、求める/探求する( seek, pursue )、要撃する/迎え撃つ( intercept )、出迎える( meet )、約束する/制限する/禁止する( keep within bounds, restrain, prohibit )、強要する/抑圧する( force, coerce )、和する/会合する( join, meet )、審察/検査する( examine, verify, check )。<形容詞>重要/重大な( important, essential )、簡要な( concise and to the point )、地位的影響力が大きい/要職( powerful and influential )、険要/戦略的に重要( strategic )。<動詞>険要を守る( hold (a strategic point), guard )、要求する( want, ask for, beg )、希望する( wish to, want to )、かならず/応当/必須( shoud, must, be going to )、比較する( compare )。<接続詞>若し( if, suppose, in case )。
  (ふ):<動詞>[本義]おもむく( go to )。到達する/到る/至る( get to, attend )、訃報( give obituary )、跳び込む/身を挙げて投入する( jump into )、身を投ずる/参与する( join )、合する/順応する( accord with )、遊泳する( swim )。
爾時須陀須摩王讚實語。實語是為人非實語非人。如是種種讚實語呵妄語。 爾の時、須陀須摩王は、実語を讃ずらく、『実語は、是れを人を為す。実語に非ずんば、人に非ず。』と。是の如く種種に実語を讃じ、妄語を呵せり。
爾の時、
『須陀須摩王』は、
『実語』を、こう讃じた、――
『実語すれば!』、
是れは、
『人である!』が、
『実語でなければ!』、
『人でない!』、と。
是のように、
種種に、
『実語を讃じて!』、
『妄語』を、
『訶責したのである!』。
  (か):しかる。叱責する。
鹿足聞之信心清淨。語須陀須摩王言。汝好說此今相放捨汝既得脫。九十九王亦布施汝。隨意各還本國。如是語已百王各得還去。 鹿足は、之を聞いて信心清浄となり、須陀須摩王に語りて言わく、『汝は、好く此れを説けり。今は相放捨せん。汝は、既に脱るるを得、九十九王も、亦た汝に布施せん。意の随(まま)に、各本国へ還せ。』と。是の如く語り已るに、百王は、各還り去るを得たり。
『鹿足』は、
之を、
『聞いて!』、
『信心』が、
『清浄になり!』、
『須陀須摩王に語って!』、こう言った、――
お前は、
此の、
『事』を、
『好く説いた!』。
今は、
お前を、
『釈放することにしよう!』。
亦た、
『九十九の王』も、
お前に、
『布施することにしよう!』。
『意のままに!』、
『各の本国』へ、
『還らせよ!』、と。
『鹿足』が、
是のように、
『語った!』ので、
『百王』は、
各、
『本国』へ、
『還ることができた!』。
  信心(しんじん):信と相応する心の意。即ち信によりて澄浄なることを得たる心を云う。『大智度論巻25下注:信心』参照。
  放捨(ほうしゃ):放ちて捨てる。釈放。
如是等種種本生中相是為尸羅波羅蜜滿。 是の如き等の種種の本生中の相は、是れを尸羅波羅蜜満つと為す。
是れ等のような、
種種の、
『本生経』中の、
『相』は、
是れを、
『尸羅波羅蜜が満ちた!』と、
『言うのである!』。
  本生(ほんしょう):梵語jaatakaの訳。九部経の一、十二部経の一。仏が過去永劫に種種の生を受け、菩薩道を行ぜられし故事を云う。『大智度論巻27上注:本生』参照。



羼提波羅蜜が満ちる

問曰。羼提波羅蜜云何滿。 問うて曰く、羼提波羅蜜は、云何が満つる。
問い、
『羼提波羅蜜』は、
何のように、
『満ちるのですか?』。
答曰。若人來罵撾捶割剝支解奪命心不起瞋。如羼提比丘。為迦梨王截其手足耳鼻心堅不動。 答えて曰く、若し、人来たりて、罵り、撾捶し、割剥し、支解し、命を奪わんにも、心に瞋を起さず。闡提比丘の如きは、迦梨王の為に、其の手足、耳鼻を截らるるも、心堅くして動かざり。
答え、
若し、
『人が来て!』、
『罵り!』、
『撲り!』、
『杖で打ち!』、
『肉を割き!』、
『皮を剥ぎ!』、
『四肢を解いて!』、
『命』を、
『奪ったとしても!』、
『心』は、
『瞋』を、
『起すことがない!』。
例えば、こうである、――
『闡提比丘』は、
『迦利王』に、
其の、
『手、足』や、
『耳、鼻』を、
『切断されたが!』、
『心』は、
『堅固であり!』、
『不動であった!』。
  撾捶(たすい):撲り、杖で打つ。
  割剥(かつはく):肉を割き、皮を剥ぐ。
  支解(しげ):四肢を切り離す。
  羼提比丘(せんだいびく):梵名kSaanti-bhikSu。釈尊因位に忍辱を修行せし時の仙人にして比丘の名。『大智度論巻4上注:忍辱仙』参照。
  忍辱仙(にんにくせん):梵語kSaanti-vaadi-rSiの訳。巴梨語khanti-vaadi-taapasa、羼提波梨kSaanti-paara、羼提和kSaanti-vaadin(巴khanti-vaadi)に作り、説忍、又は忍語と訳し、一にクンダカクマーラkuNDaka-kumaaraとも称す。釈尊因位に菩薩行を修せられし時の名。「賢愚経巻2羼提波梨品」に依るに、過去久遠劫の時、波羅㮏国に王あり、迦梨kaaliと名づく。時に一大仙人あり、羼提波梨と名づけ、五百の弟子と共に山林に在りて忍辱の行を修す。一日王は四大臣及び夫人婇女等を従えて山林に遊観し、疲極まりて睡息す。時に婇女等花林を観んと欲して遊行し、適ま羼提波梨が端坐思惟するを見、敬心を生じて衆花を其の上に散じ、前に坐して法を聴く。王覚めて之を知り、婇女等に戯れしかを疑い、怒りて仙人を責め、何事を修するかを問うに、忍辱を行ずと答えたるに依り、王は之を試みんと欲し、即ち剣を抜きて其の手脚耳鼻を裁断す。然るに仙人顔色変ぜず、猶お自ら辱を忍ぶと称す。王大に驚きて曰わく、汝辱を忍ぶと云うも、何を以って之を証するやと。時に仙人答えて曰わく、我が至誠虚ならずんば、血当に変じて乳と為り、身当に還復すべしと。言い訖るに果して其の身平復すること故の如し。時に仙人又王に告げて曰わく、汝は女色の故に刀を以って我が形を截つ、我れ後成仏せば、当に慧刀を以って汝の三毒を断つべしと。王乃ち懺悔し、後常に仙人を宮に請じて供養す。爾の時の仙人羼提波梨は今の釈尊、迦梨王及び四大臣は憍陳那等の五比丘なりと云える是れなり。此の説話は有名にして、「巴梨文本生khantivaadi-jaataka」、「中本起経巻上転法輪品」、「出曜経巻23泥洹品」、「六度集経巻5」、「金剛般若波羅蜜経」、「鞞婆沙論巻9」、「大智度論巻14」等にも亦皆之を出せり。但し「巴梨文本生」及び「出曜経」には王名を迦藍浮klaabuとなし、又「大唐西域記巻3烏仗那国の條」には、此の事縁を以って同国に起りしことなりとし、其の都城瞢掲釐城の東に忍辱仙の塔ありしことを記せり。又近時グリューンウェーデルA.Grunvedelが蒐集せしキヂールKizil廃寺の壁画中に、王が右手に剣を取り、仙人の両手を切断せるの状を描けるものあり、是れ恐らく今の説話を図示せしものなるべし。又「大方便仏報恩経巻3論議品」には、過去毘婆尸仏像法の世に波羅㮏国大王の子に忍辱太子あり、性善にして瞋らざるが故に忍辱と名づく。一時王の病篤き時、大臣等奸計を設けて太子を除かんと欲し、不瞋の人の眼晴を得ば王の病を治すべしと称し、乃ち太子の骨を断じ髄を出し、其の両目を剜れることを記し、其の時の太子は即ち今の釈尊なりと云えり。是れ亦忍辱本生の別種の説話なりというべし。又「菩薩本行経巻下」、「僧伽羅刹所集経巻上」、「父子合集経巻5」、「大智度論巻26」等に出づ。<(望)
  迦梨王(かりおう):梵名kaliGga-raaja、或はkali-raajaの音訳にして、また迦利王、歌利王、哥利王、羯利王、迦陵伽王、羯陵伽王、迦藍浮王に作り、意訳して闘諍王、悪生王、悪世王、悪世無道王等と為す。本生中に出現せる王の名なり。仏、過去世に於いて忍辱仙人たりし時、この王、悪逆無道なり。一日、宮人を率いて出遊し、樹下に於いて坐禅せる忍辱仙人に遇う。随侍せる諸女これを見て、歌利王を捨てて忍辱仙人の処に至り、法を聞きけるに、王これを見て悪心生じ、遂に仙人の肢体を割截せり。これを菩薩の忍辱行満つる相の例と為す。<(佛)
  参考:『賢愚経巻2羼提波梨品』:『如是我聞。一時佛在羅閱祇竹園林中止。爾時世尊。初始得道。度阿若憍陳如等。次度鬱卑羅迦葉兄弟千人。度人漸廣。蒙脫者眾。於時羅閱祇人。欣戴無量。莫不讚歎。如來出世。甚為奇特。眾生之類。咸蒙度苦。又復歎美憍陳如等。及鬱毘羅眾。諸大德比丘。宿與如來有何因緣。法鼓初震。特先得聞。甘露法味。獨先服嘗。時諸比丘。聞諸人民之所稱宣。即具以事。往白世尊。佛告之曰。乃往過去。與此眾輩。有大誓願。若我道成。當先度之。諸比丘聞已。復白佛言。久共誓願。其事云何。唯垂哀愍。願為解說。佛告諸比丘。諦聽諦聽。善思念之。乃往久遠無量無邊不可思議阿僧祇劫。此閻浮提。有一大國。名波羅奈。當時國王。名為迦梨。爾時國中。有一大仙士。名羼提波梨。與五百弟子。處於山林。修行忍辱。于時國王與諸群臣夫人婇女。入山遊觀。王時疲懈。因臥休息。諸婇女輩。捨王遊行。觀諸花林。見羼提波梨端坐思惟。敬心內生。即以眾花而散其上。因坐其前。聽所說法。王覺顧望。不見諸女。與四大臣。行共求之。見諸女輩坐仙人前。尋即問曰。汝於四空定。為悉得未。答言未得。又復問曰。四無量心。汝復得未。答言未得。王又問曰。於四禪事。汝為得未。猶答未得。王即怒曰。於爾所功德。皆言未有。汝是凡夫。獨與諸女。在此屏處。云何可信。又復問曰。汝常在此。為是何人。修設何事。仙人答曰。修行忍辱。王即拔劍。而語之言。若當忍辱。我欲試汝。知能忍不。即割其兩手。而問仙人。猶言忍辱。復斷其兩腳。復問之言。故言忍辱。次截其耳鼻。顏色不變。猶稱忍辱。爾時天地。六種震動。時仙人五百弟子。飛於虛空。而問師言。被如是苦。忍辱之心。不忘失耶。其師答言。心未變易。王乃驚愕。復更問言。汝云忍辱。以何為證。仙人答曰。我若實忍。至誠不虛。血當為乳。身當還復。其言已訖。血尋成乳。平完如故。王見忍證。倍懷恐怖。咄我無狀。毀辱大仙。唯見垂哀受我懺悔。仙人告曰。汝以女色。刀截我形。吾忍如地。我後成佛。先以慧刀。斷汝三毒。爾時山中。諸龍鬼神。見迦梨王[打-丁+王]忍辱仙人。各懷懊惱。興大雲霧。雷電霹靂。欲害彼王。及其眷屬。時仙人仰語。若為我者。莫苦傷害。時迦梨國王。懺悔之後。常請仙人。就宮供養。爾時有異梵志徒眾千人。見王敬待羼提波梨。甚懷妒忌。於其屏處。坐以塵土糞穢。而以坌之。爾時仙人。見其如是。即時立誓。我今修忍。為於群生。積行不休。後會成佛。若佛道成。先以法水。洗汝塵垢。除汝欲穢。永令清淨。佛告比丘。欲知爾時羼提波梨者。則我身是。時王迦梨及四大臣。今憍陳如等五比丘是。時千梵志塵坌我者。今鬱卑羅等千比丘是。我於爾時。緣彼忍辱誓當先度。是故道成。此等之眾。先得度苦。時諸比丘。聞佛所說。歎未曾有。歡喜奉行』
  闡提比丘(せんだいびく):梵名kSaanti-bhikSu。また忍辱仙(梵kSaanti-vaadi-RSi)、羼提波梨(梵kSaanti-paala)、羼提和(梵kSaanti-vaadin)に作り、説忍、或は忍語と訳す。『賢愚経巻2』によれば、過去久遠劫の時、婆羅捺国に王あり、迦利(梵kaali)と名づく。時に一大仙人あり、羼提波梨と名づけ、五百の弟子と共に山林に在りて忍辱行を修す。一日、王は四大臣及び夫人婇女等を従えて山林に遊観し、疲れ極まりて睡息せり。時に婇女等、花林を観んと欲して遊行し、適ま羼提波梨が端坐思惟するを見、敬心を生じて衆花をその上に散じ、前に坐して法を聴けり。王覚めてこれを知り、婇女等に戯れしかと疑い、怒りて仙人を責め、何事を修するかを問うに、忍辱を行ずと答えたるに由り、王はこれを試んと欲して、即ち剣を抜きてその手脚耳鼻を裁断す。然るに仙人は顔色変ぜず、なお自ら辱を忍ぶと称す。王、大いに驚いて曰わく、汝辱を忍ぶと云うも、何を以ってこれを証するやと。時に仙人答えて曰わく、わが至誠虚ならずんば、血は変じて乳と為り、身はまさに還復すべしと。言いおわるに果たしてその身の平復すること故の如し。時に仙人また王に告げて曰わく、汝は女色の故に刀を以ってわが形を截てり、われは後に成仏せば、まさに慧刀を以って汝の三毒を断つべしと。王乃ち懺悔し、後常に仙人を宮に請じて供養せり。その時の仙人羼提波梨は今の釈尊にして、迦利王及び四大臣は憍陳那等の五比丘なりと云えるこれなり。『中本起経巻1、菩薩本行経巻2、出曜経巻23、六度集経巻5、大智度論巻14、26等』参照。<(望)



毘梨耶波羅蜜が満ちる

問曰。毘梨耶波羅蜜云何滿。 問うて曰く、毘梨耶波羅蜜は、云何が満つる。
問い、
『毘梨耶波羅蜜』は、
何のように、
『満ちるのですか?』。
答曰。若有大心勤力。如大施菩薩。為一切故以此一身。誓抒大海令其乾盡定心不懈。 答えて曰く、若しは大心有りて、勤力せん。大施菩薩の如きは、一切の為の故に、此の一身を以って、誓って大海を抒(く)み、其れをして乾し尽くさしめんとして、心を定めて懈(おこた)らず。
答え、
若しは、
『大心が有って!』、
『力』を、
『尽くすだろう!』。
例えば、
『大施菩薩』などは、
一切の、
『衆生』の為の故に、
此の、
『一身を用いて!』、
『大海』を、
『汲み尽くして!』、
『乾かそう!』と、
是のように、
『誓う!』と、
『心』を、
『定めて!』、
『怠らなかったのである!』。
  勤力(ごんりき):勤めて力を尽くすこと。
  大施菩薩(だいせぼさつ):釈尊因位に修行せし時の名。『大智度論巻4上注:大施太子』参照。
  大施太子(だいせたいし):釈尊因位に菩薩行を修せられし時の名。又普施、或いは能施とも訳す。仏本生譚の一なり。蓋し此の説話は諸経論に散説せられ、其の族姓等互いに異同あり。即ち「六度集経巻1」には、族姓を出さず、「大智度論巻4」には単に大施菩薩とし、「同巻12」には大国王の太子とし、「賢愚経巻8大施抒海品」には尼拘楼陀婆羅門の子となせり。今「賢愚経」に依りて其の要旨を述べんに、過去無数無量阿僧祇劫に閻浮提に大国王あり、王城中に一婆羅門あり、尼拘楼陀と号す。聡明博達にして財法富饒なるも子息の以って紹継すべきものなし。諸天星宿に祷祀すること十二年にして始めて男子を得、大施と名づく。長ずるに及び聡明にして学を好み、又諸藝に通ず。後大施は深宮を出でて城中に往き、乞児、屠児、耕者、猟者、魚師等の辛苦労作し、又多く畜生を殺害するを見て酸傷歎息し、自ら思惟すらく、是の諸の衆生は皆貧窮にして衣食を欠くが故に此の悪業を作り、其の業に由りて命終の後三途に堕す。甚だ愍悼すべしと。仍りて父に乞うて大蔵を開き、普く衣食宝物を施す。諸蔵為に尽きんとするや、大施は更に財宝を得て之を群生に供給せんと欲し、五百の賈人を従えて海に入り、宝所に至りて多く衆宝を採拾す。是に於いて賈人は還らんことを求め、帰途に就きたるも、大施は独り前行して銀城に達し、龍王の為に四念処慧を説きて如意珠を得、更に琉璃城に到り、龍王の為に四神足を説きて如意珠を得、更に進んで金城に到り、龍王の為に諸法の名字本末を分別して遂に又如意珠を得。此の中、銀城所得の珠は二千由旬に、琉璃城所得の珠は四千由旬に、金城所得の如意珠は八千由旬に各七宝の所須を雨ふらすものなり。大施は既に此の宝を得て其の所望を達し、仍りて海外に出でて小眠するに、海中の龍輩来たり、密かに其の珠を取りて逃れ去る。大施覚めて之を知り、乃ち海を乾して之を得んと欲し、誓言して剋志し、亀甲を以って海水を抒むや、海神来たりて其の不能なるを説く。時に首陀会天遙かに之を見、尽く天衣を以って同じく水中を弇う。諸龍即ち惶怖して遂に如意珠を還す。大施之を得て本国に帰るに、其の父母大施と別れてより迷憒啼哭して為に其の明を失す。是に於いて大施は珠を以って父母の目を治し、尋いで又珠の威徳によりて父母及び国王臣民の一切の諸蔵を盈満せしめ、普く閻浮提の一切の人民に珍宝衣食を雨ふらせたりと云う。爾の時の尼拘楼陀婆羅門は今の浄飯王、母は摩訶摩耶、大施は釈尊、銀城中の龍王は舎利弗、琉璃城中の龍王は目犍連、金城中の龍王は阿難、海神は即ち離越なりと云える是れなり。大施の原名に関しては、「賢愚経巻8」に之を摩訶闍迦樊とし、又「翻梵語巻2賢愚経巻8の條」には、「摩訶闍迦檀、応に摩訶檀那と云うべし。経に大施と云う」と云えり。思うに闍迦樊又は闍迦檀は恐らく于闐語なるべく、梵語には宜しく摩訶檀那mahaa-daanaとなすべきが如し。又「経律異相巻32」、「四教義巻4」等に出づ。<(望)
  参考:『賢愚経巻8大施抒海品』:『如是我聞。一時佛。在羅閱祇耆闍崛山中。與尊弟子千二百五十人俱。爾時世尊。念須侍者。諸尊弟子。憍陳如等。各共觀察。知佛所念。時憍陳如從坐而起。偏袒右肩。合掌長跪白佛。貪得侍近捉衣持缽。唯願垂愍。賜教聽許。佛告之曰。汝年老邁。自須給侍。何忍使汝復見供事。時憍陳如。知佛不聽。禮已還坐。摩訶迦葉。舍利弗。目揵連。及諸弟子。五百人等。次第白佛。皆求給侍。佛皆不聽。時阿那律。試觀佛意。見佛志趣。心在阿難。如日在東照于舍宅。光從東牖。直至西壁。世尊志意亦復如是。諸大弟子。皆亦觀知。時舍利弗。及目犍連。從坐處起。到阿難前。語阿難言。世尊志意。欲得於仁以為侍者。仁有善利。獨蒙稱可。宜速往白求為佛侍。時賢者阿難。見諸上座來到其前。又聞其語。尋起合掌。白上座言。世尊德重。智慧深遠。以我常近親侍奉事。懼招罪尤。自遺殃患。舍利弗等。復語之言。今觀世尊。專注致意。欲得於仁以為侍者。如日初出照于室宅。光從東牖。直照西壁。世尊注心。亦復如是。又復世尊。究人情能知仁堪任。是以留意。宜時速白求為侍者。賢者阿難。重得是語。思惟是事。靡知所如。復更合掌。白諸上座。若今世尊賜我三願。我乃堪任為佛侍者。何謂為三。世尊故衣。勿與我著。世尊殘食。莫令我噉。時節進現。隨我裁量。賜此三願。乃能侍佛。舍利弗等。聞是語已。具以其事。往白世尊。佛聞此已。告舍利弗。諸弟子等。阿難所以求索不著我故衣者。阿難長慮恐諸弟子懷嫉妒者。而生此心。國王臣民。諸檀越輩。施佛貴價細濡之衣。阿難貪此。故求給事。復索不噉我殘食者。慮諸弟子復生此心。如來缽中。所食之餘。甘美百味。世無此食。阿難嗜故。而來側近。阿難所以索自裁量時節進現者。慮諸弟子及外道眾來求進現。有所難問。不知時節。儻相惱觸。又為侍者。當候時節。飲食所宜。便身益體。一一制度。慮過見及。是以先預索此三願。又復阿難。不但今日索自知時。過去世時。奉侍於我。善知時宜。時舍利弗重白佛言。不審過去奉事於佛。善知時宜。其事云何。佛告舍利弗。汝欲聞者。諦聽著心。當為汝說。唯然世尊。諾當善聽。佛告舍利弗。乃往過去無數無量阿僧祇劫。有大國王。領閻浮提八萬四千小國八十億聚落。王所住城。名婆樓施舍。於是城中。有一婆羅門。號尼拘樓陀。聰明博達。天才殊邈。王甚宗戴。師而事之。八萬四千諸小國王。悉遙敬慕。瞻仰所在。四遠貢獻。遣使諮承。略而言之。如奉大王。於是婆羅門。富敵王家。但無子息可以紹繼。出入坐臥。每懷此愁。不知何方可以得子。即禱祀梵天。天帝四王。摩醯跋羅。及餘諸天日月星宿。山河樹神。種種禱祀。無所不遍。剋誠積報經十二年其大夫人。便覺有娠。聰明女人。能得知此。自知所懷。必是男兒。即以情事白婆羅門。婆羅門歡喜。倍增怡躍。即敕家內夫人婇女。來共擁護。夫人進止。飲食床薦。極令細濡。調適稱給。莫違其意。十月已滿。便生男兒。身紫金色。頭髮紺青。端正超異。人相難有。婆羅門見。喜不自勝。即召相師。來共相之。相師披觀。嘆未曾有。此兒相好。福德弘廣。天下所瞻。如子賴母。其父歡喜。敕為立字。天竺作字。依於二種或依星宿。或依變異。相師便問。懷妊以來。有何變異。其父答言。此兒之母。素來忌惡。少於慈順。不脩慈慧。自懷妊來。心性改異。矜憐苦厄。如母愛子。志好布施。無有貪惜。相師聞之。歡喜而言。是此兒志。故使然也。當為立字號摩訶闍迦樊。晉言大施。其兒漸大。父甚愛念。別為作宮。立三時殿。冬溫夏涼。春秋居中。安諸妓侍。以娛樂之。其兒聰明。好樂學問。誦持俗典。十八部書。文既通利。并善其義。學諸技術。靡所不通。其後大施。白其父言。久在深宮。思欲出遊。父聞此語。即敕臣吏。我子大施。欲出遊行。掃灑街陌。除諸不淨。豎諸幢幡。散華燒香。莊嚴道路。極令潔淨。施設辦已。大施於是乘大白象。七寶挍飾。搥鍾鳴鼓。作倡伎樂。千乘萬騎。導從前後。行大御道。往詣城門。於時國中。人民之類。於樓閣上。挾道兩邊。競共觀看。無有厭足。皆各言曰。甚奇甚妙。睹其威相。猶如梵天。轉復前行。見諸乞兒。著弊壞衣。執持破器。卑言求哀。丐我少許。大施見之。而問之曰。汝等何以辛苦乃爾。或有答言。我無父母兄弟妻子。貧窮孤煢。無所恃怙。或有答言。我有長病。不能作役。自活無路。或有答言。我之不幸。數遭破亡。債負盈集。身口所切。無方自濟。是以行乞。以託餘命。大施聞已。酸嘆而去。次復前行。見諸屠兒。[利-禾+皮]剝畜生。削割枰賣。大施見問。咄作何等。各各言曰。祖父已來。屠殺為業。若捨此事。無以自濟。大施嘆息。捨之而去。次見耕者。以犁墾地。虫從土出。蝦蟆拾吞。復有蛇來。吞食蝦蟆。孔雀飛來。啄食其蛇。大施問之。此作何等。答言。墾地於中下種。後當得穀以自供養。并復當得以輸王家。大施聞已。深歎而去。次復前行。見諸獵者。張網設罝。捕諸禽獸。見諸禽獸。墮罝網中。自挽自頓。不能得脫。悲鳴相喚。各懷怖懼。大施見之。何以作此。各共答言。我等唯仰獵殺為業。若不為此。存活無路。聞其語已。酸傷而去。次復前行。見捕魚師。張設羅網。所得甚多。積著陸地。趣能動搖。復問其故。咄何以爾。各前答言。祖父已來。無餘生業。唯仰捕魚。賣供衣食。大施見已。甚懷愍悼。而自思惟。是諸眾生。皆由貧窮乏衣食故。為此惡業。殺害眾生。歡喜極意。壽終之後。當歸三塗從冥入冥。何其怪哉。作是念已。迴駕還宮。思憶是事。愁憂不樂。往見其父。求索一願。父語大施。隨汝所求。終不相違。即自說言。先日出遊。睹彼人民。求衣求食。勞形役思。殺害欺誑。具諸惡業。意甚矜憐。思欲賑給。唯願垂恩。施我大藏。聽自恣施濟眾所乏。父告之曰。我聚財寶。盡為汝故。汝意欲爾。奈何相違。兒得父教。即敕宣下一切人民。摩訶闍迦樊。欲設大檀。有所須者。皆悉來取。唱令已訖。沙門婆羅門。貧窮負債。孤苦疾病。諸城道路。前後而去。諸人民輩。有從百里二三五百千里來者。復從三千五千萬里來者。皆強弱相扶。四方雲集。一切給與。滿其所願。須衣與衣。須食給食。金銀七寶。車馬輦輿。園田六畜。稱意而與。如是布施。經數時中。諸藏之物。三分已二。時典藏吏。往白其父。摩訶闍迦樊。自布施來。藏物三分。已施其二。諸王信使。當有往返。願熟思惟。後勿見責。父聞吏語。自思惟言。吾愛此子。不能距逆。寧復空藏。何能中斷如是布施。復經數時。用殘藏物。三分復二。吏復更白。前所殘物。三分之中已更用二。諸王信使。事須報知。今藏垂空。願更重思。時婆羅門而語吏言。吾愛此子愛心隆厚未曾違失。面折其意汝可方便。假設因緣。來求物時乍稱不在且令餘殘延引日月。吏得語已。即閉藏戶。小復他行乞兒來集。至大施所。大施將來詣吏求物。其吏不在。比行推覓。經歷時節。困乃得之。雖復得物。不稱時要。大施自念。今此小吏自力何敢不承受我。將是父意。故使爾耳。又人子之法。不宜空竭父母之藏令其盡也。今此藏中。所殘無幾。作是念已。我當云何多得財寶。用滿我意。濟給群生。即問諸人。今此世間。作何事業。可得多財用之難盡。或有人言。多種五穀。脩治園圃。可得多財。或有人言。多養六畜。隨時蕃息。可得多財。或有人言。不避劇難。遠出行估。最得多財。或有人言。唯有入海。採取珍寶。最得多財。大施聞此。而自言曰。耕種養畜。遠出行估。既非我宜。得利無幾。唯有入海。此計可從。我當力勵。求辦此事。作是念已。往白父母。今欲入海。求多珍寶。還用施給。濟民所乏。唯願見聽。得遂所志。父母聞語。驚而問言。世人入海。窮貧無計。分棄身命。無所顧戀。汝有何事。復欲習此。若欲布施。我家所有。一切眾物。及藏中殘。盡令汝用。莫入大海。又復海中。眾難甚多。水浪迴波。摩竭大魚。惡龍羅剎。水色之山。如是眾嶮。難可經過。汝有何急。投身此難。我等命存。終不相聽。宜息汝意。勿多紛紜。大施聞此願不從心。甚懷悒慼。而自心念。我今所願。欲辦大事。設復貪身。事何由成。以身布地。伏父母前。而自言曰。若必顧留。違我志願。伏身此地。終不復起。父母聞此。心懷灼然。與諸內官。前諫喻曰。海道遼遠。險難事多。往者甚眾。來還者尟。我念求子。禱祀諸天。精誠懇惻。靡所不遍。經十二年。困乃從願。適汝長大。欲得捨我。念棄此志。還起飲食。從一日二日至于六日。如是種種。諫喻求曉。其言如初。執志不迴。父母心懼。自共議言。此兒前後。欲有所作。要令成辦。未曾中退。就令入海。猶望還期。今必拒遮。到其七日。交見其禍。為之奈何。宜當聽去。轉憂在後。言議已決。俱來兒邊。各捉一手。而語兒言。聽隨汝意起還就食。大施聞此。即起就飯。飯食已訖。即起出外。廣行宣令。告語眾人。我今躬欲入海採寶。誰欲往者。可共俱進。我為薩薄。自辦行具。於時國中。有五百人。聞是令已。僉然應命。即辦所須。剋定發日。日到裝駕。辭別趣道。王與群臣并其父母諸王太子臣民之類。數千萬人。送到路次。各贈妙寶。供道所須。啼哭斷絕。於是別去。轉行數日。止宿曠野。值遇群賊。來欲伺盜。菩薩憐愍。即以所齎。盡用丐與。轉前到城。城名放缽。城中有婆羅門。名迦毘梨。於時大施。往到其所。欲從貸索三千兩金。時婆羅門。有一妙女。身紫金色。頭髮紺青。端正絕世。更無儔類。八萬四千諸小國王。皆為太子。求悉不許。是時大施。到其門中。問迦毘梨。欲共相見。其女在內。聞外語聲。歡喜驚起。語父母言。在外之者。斯是我婿。時迦毘梨。即出相見。睹其色狀。知必非凡。聞其須金。一切許給。又復左手。捉金澡罐。右手捉女。語大施言。今我此女。容貌殊異。諸王遣使。各為子求。今睹薩薄。端正相似。請以此女。用相奉侍。大施答言。我今方當涉難入海焉知能得安全還不。預受君女。此非所以。迦毘梨言。若令吉還。當為我受。是時大施。即許可之。時迦毘梨。歡喜便與三千兩金及餘所須。於是共別。轉前到海。敕語賈人。牢治其船。令有七重。候風以至。推著海中。以七張大索。繫於岸邊。便搖鈴唱。令告眾賈人。汝等皆聽海中之難。黑風羅剎。水浪洄澓。惡龍毒氣。水色之山。摩竭大魚。眾難甚多。百伴入海。時一安還。誰欲退者。可於此住。索斷之後。欲悔無及。若能堅心。不顧身命。分捨父母兄弟妻子。際遇安隱。得七寶還者。子孫七世。食用不盡。作是令已。便斷一索。日日如是。七日復唱令已斷第七索。望風舉帆。船疾如箭。普與眾賈。到於寶所。大施多聞明識諸寶輕重貴賤色貌好醜。示諸賈客。如是色寶。致之不重。價貴可取。如是輩寶。致重價賤。各共莫取。又復約敕。取寶多少。當令得中。多則船重。重則沈沒。少雖船輕。不補勞苦。誡語已訖。各勤採拾。積著船上。寶足裝嚴。便欲來還。於時大施。不欲上船。諸人悉集。問其意故。大施答言。我欲前進至龍王宮求如意珠。盡我身命。不得不還。眾賈聞此。愁慘無憀。各共白言。我曹之等。憑賴薩薄。捐捨所重。冒嶮至此。冀望相因。全濟還家。今者云何。欲見棄捨。大施答言。我當為汝自誓求願。令汝曹等安隱還國。諸賈人聞。心怖乃安。大施導師。手執香鑪。向於四方。而自立誓。我不憚勞。涉海求珍。用濟群生飢乏之困。合集此德。用求佛道。若我至誠。所願當就。令此眾賈及船珍寶。不逢惡難。安全還國。作誓已訖。眾賈前抱導師手足。涕泣愴恨。辭別還國。斷索舉帆。還閻浮提。皆蒙安隱。得出大海。爾時大施。與眾別後。前入於水。水可齊膝。行經七日。轉復前行。其水漸深。可齊於岐。復經七日。如是前進七日齊腰。七日齊項。七日恒浮。到一山邊。兩手捉木。刺山而上。經乎七日。乃徹山頂。於彼山上。平行七日。復還下山。七日徹下。到於水邊。水中皆有金色蓮花。有諸毒蛇。其毒極盛。悉以其身。纏蓮花根。菩薩見此。即自端坐繫心攝念。入慈三昧。念諸毒蛇本生之時。皆由瞋恚嫉妒倍盛。故生此中。受斯惡形。極以慈心。矜憐悲念。慈心已滿。彼諸蛇毒。皆自除歇。大施即起。躡花而行。復經七日。乃得度蛇。轉復前行。見諸羅剎。聞人香臭。皆來求覓。大施已見。攝心慈觀。諸羅剎輩。敬心自生。濡語來問。欲何所至。大施具答。欲求如意寶珠。羅剎歡喜。而自念言。此福德人。去於龍宮。其道猶遠。云何使此經涉辛苦。我當接過於諸嶮難。即時接去。度四百由旬。乃還放地。於是大施。轉自前行。見一銀城。白淨皦然。知是龍城。歡喜往趣。見其城外。有七重塹。滿諸塹中。皆有毒蛇。其毒猛盛。視之可惡。大施導師。念諸毒蛇。皆由前身怒害多盛。故受如斯可惡之形念慈哀愍如視赤子。慈心已滿。蛇毒悉除。即起蹈上。行詣龍城。見有二龍以身繞城。交頭門閫。見於大施。仰頭愕視。大施尋時。復入慈心。龍毒便除。低頭不視。大施即前。躡上而過。城中有龍。坐七寶殿。遙見菩薩。驚起自念。今我城外。七重塹中。皆有毒蛇。餘龍夜叉。無敢妄越。斯是何人。能來至此。即前迎問。作禮恭敬。請令就座。坐七寶床。種種美膳。以用供養。食已談語。問其來意。菩薩答言。閻浮提人。貧窮辛苦。求於財寶供衣食故。殺害欺誑。具造眾惡。命終之後。墜三惡道。意甚憐愍。欲救濟故。涉嶮遠來。見於大王。求栴陀摩尼。往用救濟。積此功德。誓求佛道。若不距逆。唯見給與。龍王答言。栴陀摩尼。難得之寶。汝故遐嶮。正來為此。若能開意。留住一月。受少微供。因為說法。栴陀摩尼。爾乃可得。菩薩可之。龍王日日。供設百味。作諸伎樂。供養菩薩。菩薩便為具足。分別四念處慧。經一月竟。辭當還去。龍王歡喜。解髻寶珠。以用奉上。因而言曰。大士慈心。普濟難及。此志強猛。必至佛道。我願為作智慧弟子。菩薩可之。而問之言。今汝此珠。有何力能。即答之言。此珠能雨二千由旬一切所須。菩薩自念。此珠雖快。故未辦我曠濟大事。諸龍大小。送到門外。重相辭謝。於是別去。轉復前行。遙見一城。純青琉璃。其色清潔。復前往趣。其城外邊。亦七重塹。諸塹之中亦滿毒蛇。菩薩見已。念此諸蛇。瞋妒所致。故來此中。受此毒形。端坐入慈。極加哀念。慈心已盛。毒皆得除。經蹈其上。往趣城門。亦見二龍。以身纏城。交頭門閫。已見菩薩。擎頭怒視。菩薩尋時。思惟慈心。慈心已滿。其毒復除。便復低頭。菩薩蹈過。爾時城中。有一龍王。坐七寶殿。遙見菩薩。驚起自念。計我城外。七重蛇塹。諸龍夜叉。無能越者。此是何人能來至此。尋下迎問。恭敬作禮。請詣殿上。坐七寶床。辦諸百味。盛美飯食。食竟徐徐。談問所由。菩薩因答故來之意。唯欲求乞旃陀摩尼。龍王白言。旃陀摩尼。甚為難得。苟欲得者。願受我請。二月住此。并見開示菩薩之行。龍王供設種種飲食。作諸伎樂。而以供養。菩薩具足。為其分別四神足事。經二月已。辭當還去。龍王即出髻中寶珠。以用奉上。因立要誓。大士勤心。悲濟群生。其心廣大。必至佛道。我願為作神足弟子。菩薩可言。如汝所願。又復問此。所與寶珠。力能云何。龍即答言。此珠能雨四千由旬一切所須。菩薩自念。此珠轉勝。雖復殊妙。未稱我意。諸龍大小。送出門外。各懷戀恨。於是別後。轉更前進。見一金城。其色晃晃。甚為妙好。菩薩往趣。見其城外。亦七重塹。諸塹之中。亦滿毒蛇。菩薩自念。此諸毒蛇。亦由前身習恚憎妒怒害盛故。受此毒形。端坐入慈。極加愛念。慈心已至。蛇毒皆除。便前登躡。蹈上而過。到於城門。亦見二龍。以身纏城。交頭門閫。已見菩薩。仰頭愕視。菩薩如法。入于慈定。龍毒得除。低頭而視。即前躡上。度入城中。彼時城中。亦有龍王。處於寶殿。遙見菩薩。愕然自念。我此城外。有七重塹。滿中毒蛇。餘龍夜叉。無能越者。今此何人。能來至此。心極奇怪。尋下迎問。致敬為禮。請令上殿。施七寶床。讓之令坐。坐已具食種種美味。食已徐問所以來意。菩薩答言。閻浮提人。薄德窮苦。勞身役思。殺害欺誑為衣食故。具十不善。命終後。復墮三劇苦中。意甚愍傷。思欲救濟。承海龍王。有如意珠。故涉遐嶮。唯望得此。龍王答言。如意寶珠。此難得物。大士故來。望當相與。若欲得者。四月留住。受我微供。并見教誨。菩薩尋可。龍王歡喜。日日施設百味上美。躬自斟酌。奉進甘食。亦復敕作種種伎樂。菩薩恒為分別諸法名字本末。廣宣其義龍王敬慕。專意聽受。朝夕問訊。不失時節隨時所須。龍自裁量。諸龍夜叉。來欲求現。可進可退。自立限度。奉事四月。善知時宜。四月已竟。菩薩辭去。爾時其龍即解髻中如意之珠。用奉上之。因立誓願。大士弘誓。慈心曠濟。悲彼群生。不憚勤勞。必能成佛。拔濟荼蓼。願作侍者總持弟子。菩薩許之。又復問言。所可施珠。力能何如。龍王答言。此珠能雨八千由旬七寶所須。菩薩歡喜。而自念言。閻浮提地。七千由旬。此珠之德。副我所望。前後所得。凡有三珠。繫在衣角。即起出城。諸龍大小。送到城外。各懷悲戀。遂共別去。菩薩到前。捉珠求願。若今實是旃陀摩尼。當令我身能飛虛空。求願已訖。即舉其身。便能飛翔。出于海外。已度海難。小眠休息。是時海中。有諸龍輩。自共議言。我曹海中。唯此三珠。其德甚大。難有般比。此人皆能。索得持去。可惜此寶。當還攝取。言議已竟。密解持去。菩薩眠覺。看珠不在。即自思惟。此中無人。必是海龍。持我寶去。我為此珠。經涉遐嶮。今垂還國滿我所願。雖取我珠。吾終不放。會當盡力抒此海水。誓心剋志。畢命於此。若不得珠。終不空歸。思惟已定。即行海邊。得一龜甲。兩手捉持。方欲抒海。海神知意。來問之曰。海水深廣。三百三十六萬里。正使一切人民之類。盡來共杼。不能使減。況汝一身。而欲辦此。菩薩答言。若人至心。欲有所作。事無不辦。我得此寶。當用饒益一切群生。以此功德。用求佛道。我心不懈。何以不能。是時首陀會天。遙見菩薩。一身一意。獨執勤勞。欲用充濟安樂一切我曹云何不往佐助。展轉相語。來至其所。菩薩下器。一切諸天。盡以天衣。同弇水中。菩薩出器。諸天舉衣。棄著餘處。一反抒海。減四十里。二反抒之。減八十里。三反抒之。減百二十里。其龍惶怖。來到其所。語言止止。更莫抒海。菩薩尋休。龍來問言。汝求此寶。用作何等。菩薩答言。欲用給濟一切眾生。龍復問言。如汝言者。我曹海中眾生甚多。何以不與。必欲得去。菩薩答言。海中之類亦是眾生。然無劇苦。如閻浮提人民之類。為錢財故。殺害欺誑。作十不善。死墮三途。我以人類。解於法化。故來索寶。先充所乏。後以十善。而勸誨之。龍聞其語。出珠還之。爾時海神。見其精進強力所作。即作誓言。汝今如是。精進不休。必成佛道。我願為作精進弟子。菩薩得珠。復更飛去。到便先問入海同伴賈客。即下在地。同伴見之。驚喜無量。皆共歎言。甚奇甚特。轉復前行。到放缽城。迦毘梨婆羅門。聞於菩薩海中吉還。歡喜踊躍。出迎問訊。并請同伴。為設客會。辦具種種餚膳飲食。食訖談敘行路恤耗。是時菩薩持其寶珠。指歷其家。婆羅門家內。諸藏悉滿。會者睹此。歎未曾有。時迦毘梨。莊嚴其女。若干種寶。挍飾其身。躬手自捉金寶澡罐。先自洗手。後牽女臂。授與菩薩。菩薩為受。迦毘梨歡喜。嚴五百伎女。擇取才能工為伎者。具五百白象。眾寶莊挍。極令奇異。用送其女。菩薩敕伴。駕乘即路。城中大小。送到道次。作眾伎樂。導從還國。大施父母。自與兒別。憂結迷憒。啼哭過哀。其目俱冥。盲無所見。兒還到國。禮拜問訊。父母聞聲。以手摩捫。爾時審知大施還國。悲喜交代。窮責其子。汝實無狀。捨我入海。困苦我曹。微命趣存。汝大海中。得何等物。菩薩出珠。以授父母。父母手捉。而自言曰。今我藏中。如斯石比。亦不少也。何用辛苦。方乃得此。菩薩取珠。指父母眼。目欻明淨。如風除雲。既還得視。心遂欣豫。感此珠德。嘆言甚奇。汝雖辛苦。功不唐捐。菩薩復捉其珠。而從求願。若是旃陀摩尼者。使我父母。身下自然。當有七寶奇妙珍異床座。上有嚴淨七寶大蓋。言訖尋成。一切皆喜。菩薩復更捉珠求願。令我父母及王臣民一切諸藏皆悉盈滿。即以其珠。四向歷訖。如語悉滿。莫不驚喜。即時遣人。乘八千里象。告閻浮提一切人民。摩訶闍迦樊。海中吉還。得如意珠。其德殊異。卻後七日。當令其珠雨於一切珍寶衣食。隨人所須。自恣而取。皆各齋戒。儲[仁-二+(亡/大)]以待。告下遍已。七日頭到。大施菩薩。沐浴其身。著新淨衣。至平坦地。即持其珠。著高幢頭。手執香鑪。四方求願。閻浮提人。貧窮辛苦。欲得濟給令無有乏。若當實是旃陀摩尼者。便當次第雨眾所須。求願已訖。四方陰雲。即時風起。吹諸不淨。瑕穢糞掃。皆悉除去。次雨微水。以掩塵土。次雨飲食。百味上美。次雨五穀。次雨衣服。次雨七寶種種奇珍。閻浮提內。眾寶積滿。人民之類。自恣而取。上妙衣食。盈溢有餘。視諸珍寶。猶如瓦石。爾時菩薩。觀民充足。即遣臣吏四遠。告下閻浮提內。咸使聞知。汝等群民。先由窮乏。求於衣食及諸財寶。更相欺誑。殺害極意自利忘義。不惟罪福。命終皆墮三塗之中。從冥入冥。受罪多劫。常相悲憐。無由相濟故忘形苦。涉嶮入海。得此寶珠。來用相救。汝等既已更無乏短。念自剋勵勤脩十善。攝身口意。慈仁孝順。精進御意。勿懷放逸。種種方便。廣敕奉善。因作文書。告諸王臣。騰其法誨。咸令聞知。更相勸督。勿妄為非。爾時一切閻浮提內。既蒙大恩慈澤霑潤。各思何方。仰酬至德。又蒙優教。敕使脩善。咸皆慕義。專習慈敬。制身口意。不妄犯非。命終之後。皆得生天。如是舍利弗。欲知爾時父婆羅門尼拘樓陀者。今現我父淨飯王是。爾時母者。今現我母摩訶摩耶是。時大施者。今我身是。銀城中龍者。今舍利弗是。琉璃城中龍者。今目犍連是。金城中龍者。今阿難是。時海神者。今離越是。阿難為龍王時。奉事於我。善知時宜。乃至今日。素自知時。阿難。欲得此三願者。隨從其意。阿難聞此。歡喜踊躍。從座處起。長跪白佛。當盡形壽為佛侍者。時諸會者。聞佛所說。感念大恩。專心剋勵。思惟四諦諸法出要。有得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢者。有種辟支佛善根因緣者。有發無上正真道意者。有得住不退地者。咸共歡喜。頂戴奉行』
亦如讚弗沙佛七日七夜翹一腳目不眴。 亦た弗沙仏を讃えて、七日七夜一脚を翹(あ)げ、目を眴かざるが如し。
亦た、
『弗沙仏を讃えた!』時などは、
『七日七夜』、
『一脚を上げて!』、
『目』を、
『眴かせなかったのである!』。



禅波羅蜜が満ちる

問曰。禪波羅蜜云何滿。 問うて曰く、禅波羅蜜は、云何が満つる。
問い、
『禅波羅蜜』は、
何のように、
『満ちるのですか?』。
答曰。如一切外道禪定中得自在。 答えて曰く、一切の外道の禅定中に、自在を得るが如し。
答え、
例えば、
一切の、
『外道の禅定』中に、
『自在』を、
『得ることである!』。
又如尚闍梨仙人坐禪時無出入息。鳥於螺髻中生子不動不搖。乃至鳥子飛去。 又尚闍利仙人の如きは、坐禅の時、出入息無く、鳥の、螺髻中に子を生ずるも動かず、揺らさず、乃至鳥の子の飛び去れるなり。
又、
『尚闍利仙人』などは、
『坐禅する!』時、
『出入する!』、
『息』が、
『無かった!』ので、
『鳥』が、
『螺髻』中に、
『子』を、
『生んだのである!』が、
やがて、
『鳥の子』が、
『飛び去ってしまう!』まで、
『動くこともなく!』、
『揺るぐこともなかったのである!』。
  尚闍梨(しょうじゃり):昔、釈尊の螺髻仙人たりし時の名。『大智度論巻17』に云わく、釈迦牟尼仏は原、螺髻仙人と為りて、尚闍利と名づく。常に第四禅定を治めしに出入する息を断ち、一樹の下に在りて坐し、兀然として不動なり。ある鳥、かくの如きを見て、これを謂いて木と為し、即ち髻の中に卵を生めり。この菩薩、禅より覚めて、頂上に鳥の卵の有るを知り、即ち自ら思惟すらく、もしわれ動きを起さば、鳥の母、必ず復来たらざらん、鳥の母来たらずんば、鳥の卵は必ず壊せん、と。即ちまた禅に入り、鳥の子の飛び去るに至りて、乃ち起てり。これを禅波羅蜜の満つる相という、と。<(佛)
  螺髻(らけい):梵天王は頂髪を留め、之を結いて螺の如し、称して螺髻と為す。西土の梵志は之に效いて螺髻を為す、故に螺髻仙人と曰う。「象頭精舎経」には、「螺髻仙人」と有り、異訳の「大乗伽耶山頂経」には、之を「長髻梵志」と謂い、「伽耶山頂経」には、之を「編髪梵志」と謂えり。又梵王を指しても「螺髻」と曰う。「維摩経仏国品」に曰わく、「螺髻梵王の舎利弗に語るらく」と。<(丁)
  参考:『大智度論巻17(下)』:『如釋迦文尼佛。本為螺髻仙人。名尚闍利。常行第四禪。出入息斷在一樹下坐兀然不動。鳥見如此謂之為木。即於髻中生卵。是菩薩從禪覺知頭上有鳥卵。即自思惟。若我起動鳥母必不復來。鳥母不來鳥卵必壞。即還入禪。至鳥子飛去爾乃起』



般若波羅蜜が満ちる

問曰。般若波羅蜜云何滿。 問うて曰く、般若波羅蜜は、云何が満つる。
問い、
『般若波羅蜜』は、
何のように、
『満ちるのですか?』。
答曰。菩薩大心思惟分別。 答えて曰く、菩薩は、大心もて思惟し分別す。
答え、
『菩薩』の、
『大心』が、
『思惟し!』、
『分別するからである!』。
如劬嬪陀婆羅門大臣。分閻浮提大地作七分。若干大城小城聚落村民盡作七分。般若波羅蜜如是。 劬嬪陀婆羅門大臣の如きは、閻浮提の大地を分けて七分と作し、若干の大城、小城、聚落、村民を、尽く七分と作したり。般若波羅蜜も、是の如し。
例えば、
『劬嬪陀という!』、
『婆羅門の大臣』などは、
『閻浮提の大地』を、
『七分』に、
『分け!』、
若干の、
『大城、小城、聚落、村民』も、
尽く、
『七分』に、
『分けたのである!』。
『般若波羅蜜』とは、
即ち、
『是のようなものである!』。
  劬嬪陀(くひんだ):梵名kapphina、kappina或はgovindaの音訳と為す。また意訳して焔鬘に作り、大典尊と称し、釈尊因位の婆羅門大臣たりし時の名なり。劬嬪陀大臣、閻浮提の地を等分して七分と為し、これをして諍事無からしむ。これ菩薩の般若波羅蜜を盛満せる相なり。『長阿含経巻5』によれば、過去久遠の時、国王地主に太子慈悲有り、また一婆羅門大臣典尊有り、太子慈悲にまた六刹利大臣の朋友有り。時に、国王地主、深宮に入りて五欲を自ら楽める時、典尊に国を委ねて国事を処理せしむ。後に太子慈悲、王位を紹げるに、自らもまた典尊の子、賢相大典尊に国事を委ぬ。大典尊は王に進言して国を七分し、六刹利大臣を推して封国を治せしむるに、六王もまた通じて大典尊に国の事を委ね、宮に入りて五欲を娯みたれば、大典尊は都合七国の事を宰領して、諍事を無からしめたり。蓋し、或は衆多の弱小国を統一して大強国と為す、或は一大強国を部分して衆多の国と為す、この二法の失せざるが如きは智慧の爾らしむる所なり。<(望)『大智度論巻4上注:地主王』参照。
  地主王(じしゅおう):地主王は梵語儞扇波帝dizaaM-patiの訳。巴梨名disaam-pati、或いはdisam-pati、又方主、城主、或いは地自在と訳す。印度太古の王なり。「増一阿含経巻13地主品」に依るに、過去久遠世に大王あり、地主と名づく、閻浮提を総領す。其の大臣に善明なるものあり、王は閻浮提の半を与えて之を統治せしむ。善明に一子あり、灯光と名づく。年二十九にして出家学道し、即夜に成道す。仍りて善明は四十億の男女に囲繞せられ、灯光如来の所に至りて妙法を聴き、悉く法眼浄を得て出家学道し、皆阿羅漢を成ず、後如来は彼の四十億の衆を将いて地主王の国界を遊行するに、王は亦四十億の衆を将いて躬ら往きて之を迎え、如来は為に妙法を説き、彼の衆も亦悉く法眼浄を得て出家学道し、皆阿羅漢を成ず。後復た王は群臣を将いて彼の如来の所に至りて妙法を聞き、形寿を尽くすまで四事を以って供養せんことを請い、即ち城を去る一由旬の所に堂舎を建立し、諸の物具飲食等を施設し、如来及び八十億の衆に供養す。是の如く王は七万歳の間供養懈ることなく、後彼の如来無余涅槃に入るや、王は香花を以って供養し、四衢の道路に四の廟寺を建て、八十億の衆亦漸漸涅槃するや、其の舎利を収めて神寺を建立し、七万歳の間之を供養し、遺法滅尽の後遂に自ら滅度を取る。爾の時の地主王は即ち釈尊自身なりと云える是れなり。「大法鼓経巻上」にも亦粗ぼ同一説話を載せり。然るに「長阿含巻5典尊経」に出す所は之と其の記事大に異あり。即ち王の大臣を典尊govindaと名づけ、王は国事を以って彼れに委付す。典尊の死後、其の子焔鬘jotipaala父の後を承けて宰相となり、聡明多智にして治理に明らかに、天下悉く称して大典尊と為す。後地主王崩じ、其の子慈悲reNu即位するや、所領の閻浮提を七分して其の六分を六刹利大臣に分つ。大典尊即ち七国の事を理し、更に七大居士の家事を処し、七百の梵志を教授す。後大典尊出家剃髪するや、七国王、七大居士、七百梵志、四十夫人を始め、乃至八万四千人同時に亦出家して之に従う。爾の時の大典尊は即ち釈尊なりと云うに在り。又諸経等に印度太古の諸王を列ぬる中、地主王、或いは方主王あり。就中、「起世経巻10」には地主王を以って寐鬚羅mithilaa城に治せし王とし、別に又其の後に方主王ありと云い、「衆許摩訶帝経巻1」には地主王を阿喻馱大城の主とし、又別に儞扇波帝王を出し、「有部毘奈耶破僧事巻1」には地主王を無戦城の王とし、「彰所知論巻上」には方主王を挙げ、之を南瞻部洲最初の分田主より第二十六代に当る王となせり。又「四分律巻31」及び「佛本行集経巻3発心供養品」等に出せる勝怨vaasava王本生、並びに「悲華経巻2」に載せる無諍念王本生も之と同種の説話に属するものと云うべし。又「長阿含経巻20忉利天品」、「起世因品経巻10」、「大堅固婆羅門縁起経巻上」、「佛本行集経巻4賢劫王種品」等に出づ。<(望)
  参考:『長阿含経典尊経巻5』:『‥‥童子告曰。汝樂聞者。諦聽。諦受。當為汝說。告諸天曰。如來往昔為菩薩時。在所生處聰明多智。諸賢。當知過去久遠時。世有王名曰地主。第一太子名曰慈悲。王有大臣名曰典尊。大臣有子名曰焰鬘。太子慈悲有朋友。其朋亦與六剎利大臣而為朋友。地主大王欲入深宮遊戲娛樂時。即以國事委付典尊大臣。然後入宮作倡伎樂。五欲自娛。時。典尊大臣欲理國事。先問其子。然後決斷。有所處分。亦問其子。其後典尊忽然命終。時地主王聞其命終。愍念哀傷。撫膺而曰。咄哉。何辜失國良幹。太子慈悲默自念宮。王失典尊以為憂苦。今我宜往諫於大王。無以彼喪而生憂苦。所以然者。典尊有子名曰焰鬘。聰明多智乃過其父。今可徵召以理國事。時。慈悲太子即詣王所。具以上事白其父王。聞太子語已。即召焰鬘而告之曰。吾今以汝補卿父處。授汝相印。彼時焰鬘受相印已。王欲入宮。復付後事。時。相焰鬘明於治理。父先所為焰鬘亦知。父所不及焰鬘亦知。其後名稱流聞海內。天下咸稱為大典尊。時。大典尊後作是念。今王地主年已朽邁。餘壽未幾。若以太子紹王位者。未為難也。我今寧可先往語彼六剎利大臣。今王地主年已朽邁。餘壽未幾。若以太子紹王位者。未為難也。君等亦當別封王土。居位之日。勿相忘也。時。大典尊即往詣六剎利大臣。而告之曰。諸君。當知今王地主年已朽邁。餘壽未幾。若以太子紹王位者。未為難也。汝等可往白太子此意。我等與尊生小知舊。尊苦我苦。尊樂我樂。今王衰老。年已朽邁。餘壽未幾。今者太子紹王位者。未為難也。尊設登位。當與我封。時。六剎利大臣聞其語已。即詣太子。說如上事。太子報言。設吾登位。列土封國。當更與誰。時。王未久忽然而崩。國中大臣尋拜太子補王正位。王居位已。默自思念。今立宰相。宜准先王。復自思念。誰堪此舉。正當即任大典尊位。時。王慈悲即告大典尊。我今使汝即於相位。授以印信。汝當勤憂。綜理國事。時。大典尊聞王教已。即受印信。王每入宮。輒以後事付大典尊。大典尊復自念言。吾今宜往六剎利所。問其寧憶昔所言不。即尋往詣語剎利曰。汝今寧憶昔所言不。今者太子以登王位。隱處深宮。五欲自娛。汝等今者可往問王。王居天位。五欲自娛。寧復能憶昔所言不。時。六剎利聞是語已。即詣王所。白大王言。王居天位。五欲自娛。寧復能憶昔所言不。列土封邑。誰應居之。王曰。不忘昔言。列土封邑。非卿而誰。王復自念。此閻浮提地。內廣外狹。誰能分此以為七分。復自念言。唯有大典尊乃能分爾。即告之曰。汝可分此閻浮提地。使作七分。時。大典尊即尋分之。王所治城。村邑郡國。皆悉部分。六剎利國亦與分部。王自慶言。我願已果。時。六剎利復自慶幸。我願已果。得成此業。大典尊力也。六剎利王復自思念。吾國初建。當須宰輔。誰能堪任。如大典尊。即當使之。通領國事。爾時。六剎利王即命典尊。而告之曰。吾國須相。卿當為吾通領國事。於是。六國各授相印。時。大典尊受相印已。六王入宮遊觀娛樂。時皆以國事付大典尊。大典尊理七國事。無不成辦。‥‥』


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