【經】唯除阿難在學地得須陀洹 |
唯だ阿難を除く。学地に在りて、須陀洹を得たるのみ。 |
唯だ、
『学地に在り!』、
『須陀洹』を、
『得ただけである!』。
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【論】問曰。何以言唯除阿難。 |
問うて曰く、何を以ってか、『唯だ阿難のみを除く。』と言う。 |
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阿難(あなん):梵名aananda。具には阿難陀と云う。歓喜、慶喜、又は無染と訳す。仏十大弟子の一。多聞第一と称せらる。迦毘羅城の釈氏にして、仏陀の従弟なり。『大智度論巻24下注:阿難』参照。 |
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答曰。上所讚諸阿羅漢。阿難不在其數。何以故。以在學地未離欲故。 |
答えて曰く、上に讃ずる所の諸の阿羅漢は、阿難、其の数に在らず。何を以っての故に、学地に在りて、未だ欲を離れざるを以っての故なり。 |
答え、
上に、
諸の、
其の、
『数』中に、
『阿難』は、
『入らないからである!』。
何故ならば、
『阿難』は、
『学地』に、
『在り!』、
未だ、
『欲』を、
『離れないからである!』。
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問曰。大德阿難。第三師大眾法將。種涅槃種已無量劫。常近佛持法藏。大德利根何以至今未離欲作學人。 |
問うて曰く、大徳阿難は、第三の師にして、大衆の法将なり。涅槃の種を種うること、已に無量劫、常に仏に近づいて、法蔵を持す。大徳利根なるに、何を以ってか、今に至るまで、未だ欲を離れず、学人と作る。 |
問い、
『大徳阿難』は、
『第三の師として!』、
『大衆』の、
『法将であり!』、
『無量劫』以来、
『涅槃』の、
『種』を、
『種えて!』、
『仏』に、
『常に!』、
『近侍して!』、
『法』の、
『蔵』を、
『護持し!』、
『大徳にして!』、
『利根であった!』のに、
何故、
『今に至るまで!』、
未だ、
『欲を離れず!』、
『学人に!』、
『甘んじているのですか?』。
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法将(ほうしょう):仏法上の将官。 |
参考:『大智度論巻100:『問曰。阿難是聲聞人。何以以般若波羅蜜囑累。而不囑累彌勒等大菩薩。答曰。有人言。阿難常侍佛左右供給所須。得聞持陀羅尼。一聞常不失。既是佛之從弟。又多知多識名聞廣普四眾所依。是能隨佛轉法輪第三師。佛知舍利弗壽短早滅度故不囑累。又阿難是六神通三明共解脫。五百阿羅漢師。能如是多所利益。是故囑累。彌勒等諸大菩薩佛滅度後。各各分散至隨所應度眾生國土。彌勒還兜率天上。毘摩羅鞊文殊師利亦至所應度眾生處。佛又以是諸菩薩深知般若波羅蜜力不須苦囑累。阿難是聲聞人隨小乘法。是故佛慇懃囑累。』 |
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答曰。大德阿難本願如是。我於多聞眾中最第一。亦以諸佛法阿羅漢所作已辦。不應作供給供養人。以其於佛法中能辦大事煩惱賊破。共佛在解脫床上坐故。 |
答えて曰く、大徳阿難の本願は是の如し、『我れは多聞の衆中に於いて、最も第一たらん。亦た諸仏の法は、阿羅漢は所作已に辦ずるを以って、応に供給、供養の人と作るべからず。其の仏法中に於いて、能く大事を辦じて、煩悩の賊破れ、仏と共に、解脱の床上に在りて坐するを以っての故なり』、と。 |
答え、
『大徳阿難』の、
『本願』は、是の通りである、――
わたしは、
『多聞』の、
『衆』中に、
『最も第一となっても!』、
亦た、
『諸仏の法』を以って、
『阿羅漢の所作』を、
『完成すれば!』、
『供給、供養する!』、
『人』と、
『作ることはできない!』。
何故ならば、
『阿羅漢』は、
『仏法』中に、
『大事を成し遂げて!』、
『煩悩の賊』が、
『破れており!』、
『仏と共に!』、
『解脱』の、
『床上』に、
『坐るからである!』、と。
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本願(ほんがん):梵語puurva-pranidhaanaの訳。因位の誓願の意。又本誓、或いは宿願とも名づく。即ち仏及び菩薩が過去に於いて発起せる誓願を云う。「無量寿経巻上」に、「其の本願ありて自在に化する所、衆生の為の故に弘誓の鎧を被り、徳本を積累し、一切を度脱せしむ」と云い、「阿閦仏国経巻上善快品」に、「是れ阿閦如来の昔時の願の致す所たり」と云い、又「十住毘婆沙論巻5易行品」に、「阿弥陀仏の本願是の如し、若し人我を念じ、名を称して自ら帰せば、即ち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得ん」と云える即ち其の例なり。蓋し仏及び菩薩の過去所発の本願には多種の別あり、就中、一切の菩薩は悉く皆無上菩提心を発し、弘誓の鎧を被りて無量の衆生を救度し、煩悩を断除し、徳本を積累し、以って成仏せんことを要期すべきものなるが故に、之を称して総願と名づく。四弘誓、二十大誓荘厳等の如き是れなり。又別に浄仏国土の大願を発し、十方面に於いて各其の仏国土を浄め、衆生を成就せんことを要誓し、或いは又穢土に成仏して難化の衆生を救度せんことを志願するあり。此等は菩薩各自の意楽によりて発起する所にして、其の志願同じからざるが故に別願と名づく。「悲華経巻2大施品」に、「諸菩薩等は何の業を以っての故に清浄の世界を取り、何の業を以っての故に不浄の世界を取り、何の業を以っての故に寿命無量に、何の業を以っての故に寿命短促なるや。仏聖王に告ぐ、大王当に知るべし、諸菩薩等は願力を以っての故に清浄の土を取りて五濁の悪を離る。復た菩薩あり、願力を以っての故に五濁の悪を求む」と云える即ち其の意なり。彼の「道行般若経巻6恒竭優婆夷品」所説の五願、「放光般若経巻13夢中行品」の二十九願、「阿閦仏国経巻上」の二十願、「大阿弥陀経巻上」等の二十四願、「無量寿経巻上」所載の四十八願等の如きは、皆浄仏国土の本願にして即ち前者に属し、「悲華経巻7」所説の釈迦の五百の大願、「弥勒菩薩所問本願経」所説の弥勒の奉行十善願の如きは穢土成仏の本願にして、即ち後者に属するなり。又別に衆生の諸病を除き、或いは一切の苦悩及び恐怖等を抜かんと志願するあり、「薬師如来本願経」所説の十二願、「薬師瑠璃光七仏本願功徳経巻上」所説の四十四願、「悲華経巻3」所載の観世音の救苦願の如き是れなり。其の他、普賢菩薩の十大願、初地及び初学菩薩所発の十種行願等あり。就中、現在初発の願は唯発願と云い、本願とは言わず。本願とは専ら過去因位に発起せる宿願を指すなり。弥陀の四十八願は浄土教の弘通と共に古来最も喧伝せられ、特に彼の第十八願は十方衆生の来生を誓われたるものにして、衆生の往生は一に此の願力成就に由るが故に呼んで之を王本願と称す。「選択本願念仏集」に、「四十八願の中、既に念仏往生の願を以って本願中の王となすなり」と云える即ち其の意なり。又本願の語は人の宿願宿志の義にも用いらる。「倶舎論巻9」に、「苾芻尼は本願力に由るが故に、彼れ世世に於いて自然の衣あり」と云い、「東大寺要録巻1本願章」に、「天璽国押開豊桜彦天皇(聖武天皇)は堂伽藍の本願なり」と云い、「叡岳要記巻上」に、「奏して勅符を降し、以って大師の本願を遂ぐ」と云える皆其の例なり。又「平等覚経巻1」、「放光般若経巻19」、「大品般若経巻17、26」、「大方等大集経巻17虚空蔵菩薩品」、「文殊師利仏土厳浄経」、「観薬王薬上二菩薩経」、「地蔵本願経」、「往生論註」、「安楽集」、「往生礼讃」、「往生要集」等に出づ。<(望) |
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本願(ほんがん):梵にpuurva-praNidhaanaに作り、因位時の誓願を指す。また本誓、宿願に作り、即ち仏及び菩薩の過去世、未だ仏果を成ぜざる以前に於いて取所を救度せんが為に発す処の誓願なり。因位に於ける発願の今日に至りてその果を得るが故に果位に対して本願と称す。また本を根本の解と無し、菩薩の心広大にして誓願もまた無量なりといえども、ただこの願を以って根本と為せば、故に本願と称す。<(佛) |
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復次長老阿難。種種諸經聽持誦利觀故。智慧多攝心少。二功德等者。可得漏盡道。以是故。長老阿難是學人須陀洹。 |
復た次ぎに、長老阿難は、種種の諸の経を聴き、持ち、誦して、利く観るが故に、智慧多く、心を摂すること少なし。二功徳の等しき者は、漏尽の道を得べし。是を以っての故に、長老阿難は、是れ学人にして、須陀洹なり。 |
復た次ぎに、
『長老阿難』は、
種種の、
諸の、
『経』を、
『聴き!』、
『持(たも)ち!』、
『誦し!』
『利く観た!』ので、
是の故に、
『智慧』が、
『多かった!』が、
『摂心(禅定)』は、
『少なかった!』。
若し、
『智慧、摂心』の、
『二功徳』が、
『等しければ!』、
『漏を尽くす!』、
『道』も、
『得られたであろう!』。
是の故に、
『長老阿難』は、
『学人であり!』、
『須陀洹なのである!』。
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復次貪供給世尊故。是阿難為佛作供給人。如是念。若我早取漏盡道。便遠世尊不得作供給人。以是故。阿難雖能得阿羅漢道。自制不取。 |
復た次ぎに、世尊に供給するを貪るが故なり。是の阿難は、仏の為に供給人と作り、是の如く念ずらく、『若し我れ早く漏尽の道を取らば、便ち世尊に遠ざかり、供給人と作るを得ず。』と。是を以っての故に、阿難は、能く阿羅漢道を得と雖も、自ら制して取らざるなり。 |
復た次ぎに、
『世尊』に、
『供給する!』ことを、
『貪ったからである!』。
是の、
『阿難』は、
『仏の為に!』、
『供給人』と、
『作ったのであるが!』、
是のように、
『念じたのである!』、――
若し、
わたしが、
『早く!』、
『便( すなわ)ち!』、
『世尊を遠ざけることになり!』、
『供給人』と、
『作ることもできなくなる!』、と。
是の故に、
『阿難』は、
『阿羅漢道』を、
『得る!』ことも、
『可能であった!』が、
自ら、
『制して!』、
『取らなかったのである!』。
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復次處時人未合故。何等處能集法。千阿羅漢未在耆闍崛山。是為處。世尊過去時未到。長老婆耆子不在。以是故。長老阿難漏不盡。要在世尊過去。集法眾合婆耆子說法勸諫。三事合故得漏盡道。 |
復た次ぎに、処と時と人と未だ合せざるが故なり。何等の処にか、能く法を集むる。千の阿羅漢、未だ耆闍崛山に在らず。是れを処と為す。世尊の過去りたもう時、未だ到らず。長老婆耆子在らず、是を以っての故に、長老阿難の漏尽きず。要(かな)らず、世尊過ぎ去りたまい、法を集むる衆合し、婆耆子法を説いて勧諌す、三事合するに在るが故に、漏尽の道を得るなり。 |
復た次ぎに、
『処、時、人』が、
『処』とは、――
何のような、
『処ならば!』、
『法』を、
『集められるのか?』。
『耆闍崛山』には、
未だ、
『千阿羅漢』が、
『集まっていなかった!』ので、
是れを、
『処』と、
『言うのである!』。
『時』とは、――
『世尊』の、
『過去の時』は、
未だ、
『到らず!』、
『長老婆耆子』も、
未だ、
『居らなかった!』ので、
是の故に、
『長老阿難』の、
『漏が尽きていない!』のは、
『世尊』の、
『過去時』に、
『到る!』ことと、
『集法』の、
『衆』が、
『集まる!』ことと、
『婆耆子』が、
『説法するよう!』、
『勧諌(説得)する!』ことという、
『時、処、人』の、
『三事』が、
『必要だったからであり!』、
『長老阿難』は、
是の、
『三事』が、
『合した!』が故に、
『漏を尽くす!』、
『道』を、
『得たのである!』。
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婆耆子(ばぎし):梵名vRjiputra。巴梨名vajjiputta、又跋闍子、祇支子等に作る。仏入滅後、阿難をして解脱せしめたる比丘の名。「四分律巻54」、「根本説一切有部毘奈耶雑事巻39」、「迦葉結経巻1」等に出づ。
勧諌(かんけん):すすめいさめる。 |
参考:『四分律巻54』:『其世尊在時皆共學戒。而今滅後無學戒者。諸長老。今可料差比丘多聞智慧是阿羅漢者。時即差得四百九十九人。皆是阿羅漢多聞智慧者。時諸比丘言。應差阿難在數中。大迦葉言。勿以阿難在數中。何以故。阿難有愛恚怖癡。有愛恚怖癡。是故不應令在數中。時諸比丘復言。此阿難是供養佛人。常隨佛行。親從世尊。受所教法。彼必處處疑問世尊。是故今者應令在數。即便令在數。諸比丘皆作是念。我等當於何處集論法毘尼多饒飲食臥具無乏耶。即皆言。唯王舍城房舍飲食臥具眾多。我等今宜可共往集彼論法毘尼。時大迦葉即作白。大德僧聽。此諸比丘為僧所差。若僧時到僧忍聽。僧今往王舍城集共論法毘尼。白如是。作白已。俱往毘舍離。時阿難在道行。靜處心自念言。譬如新生犢子猶故飲乳。與五百大牛共行。我今亦如是學人有作者。而與五百阿羅漢共行。時諸長老皆往毘舍離。阿難在毘舍離住。諸比丘比丘尼優婆塞優婆私國王大臣種種沙門外道。皆來問訊多人眾集。時有跋闍子比丘。有大神力。已得天眼知他心智。作如是念。今阿難在毘舍離。比丘比丘尼優婆塞優婆私國王大臣種種沙門外道。皆來問訊多人眾集。我今寧可觀察阿難。為是有欲無欲耶。即便觀察阿難。是有欲非是無欲。復念言。我今當令其生厭離心。將欲令阿難生厭離心。即說偈言 靜住空樹下 心思於涅槃 坐禪莫放逸 多說何所作 時阿難聞跋闍子比丘說厭離已。即便獨處精進不放逸寂然無亂。是阿難未曾有法。時阿難在露地敷繩床夜多經行。夜過明相欲出時身疲極。念言。我今疲極。寧可小坐。念已即坐。坐已方欲亞臥。頭未至枕頃於其中間心得無漏解脫。此是阿難未曾有法。時阿難得阿羅漢已。即說偈言 多聞種種說 常供養世尊 已斷於生死 瞿曇今欲臥』 |
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復次大德阿難。厭世法少不如餘人。是阿難世世王者種。端正無比福德無量。世尊近親常侍從佛。必有此念。我佛近侍知法寶藏。漏盡道法我不畏失。以是事故不大慇懃。 |
復た次ぎに、大徳阿難は、世法を厭うこと少なく、余人に如かざればなり。是の阿難は、世世に王者の種にして、端正無比にして、福徳無量なり。世尊に近親し、常に侍りて仏に従えば、必ず此の念有り、『我れは仏に近侍せば、法宝の蔵を知らん。漏尽の道法は我れ失うを畏れず。』と。是の事を以っての故に、大いに慇懃ならず。 |
復た次ぎに、
『大徳阿難』は、
『厭世の法』が、
『少なく!』、
『余の人』に、
『及ばなかったからである!』。
是の、
『阿難』は、
『世世に!』、
『王者の種として!』、
『端正無比であり!』、
『福徳無量であり!』、
『常に!』、
『世尊に親近して!』、
『仏』に、
『侍従していた!』ので、
『必ず!』、
此の念が有った、――
わたしが、
『仏』に、
『近侍しておれば!』、
『法宝の蔵』を、
『知ることになる!』。
わたしは、
『漏尽の道という!』、
『法』を、
『失っても!』、
『畏れない!』、と。
是の事の故に、
『漏尽の道』を、
『修める!』、
『慇懃(苦労)』が、
『大きくなかったのである!』。
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近親(ごんしん):近づき親しむ。親近。
慇懃(おんごん):委曲を尽くすこと。ねんごろなこと。 |
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問曰。大德阿難名。以何因緣。是先世因緣。是父母作字。是依因緣立名。 |
問うて曰く、大徳阿難の名は、何の因縁を以ってするや。是れ先世の因縁なりや、是れ父母の作れる字(な)なりや。是れ因縁に依りて名を立つや。 |
問い、
『大徳阿難』は、
何のような、
『因縁』で、
『名づけられたのですか?』。
是れは、
『先世』の、
『因縁ですか?』。
是れは、
『父母の作った!』、
『字(な)ですか?』。
是れは、
『因縁に依って!』、
『立てられた!』、
『名ですか?』。
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答曰。是先世因緣亦父母作名亦依因緣立字。 |
答えて曰く、是れ先世の因縁なり。亦た父母の作れる名なり。亦た因縁に依りて立つる字なり。 |
答え、
是れは、
『先世』の、
『因縁でもあり!』、
亦た、
亦た、
『因縁に依って!』、
『立てられた!』、
『字でもある!』。
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問曰。云何先世因緣。 |
問うて曰く、云何が先世の因縁なる。 |
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答曰。釋迦文佛先世作瓦師。名大光明。爾時有佛名釋迦文。弟子名舍利弗目乾連阿難。佛與弟子俱到瓦師舍一宿。 |
答えて曰く、釈迦文仏、先世に瓦師と作り、大光明と名づく。爾の時、仏有り、釈迦文と名づけ、弟子を舎利弗、目乾連、阿難と名づく。仏は、弟子と倶に、瓦師の舎(いえ)に到りて一宿す。 |
答え、
『釈迦文仏』は、
『先世』に、
『瓦師と作り!』、
『大光明』と、
『呼ばれていた!』が、
爾の時、
『釈迦文と呼ばれる!』、
『仏が有り!』、
『弟子』を、
『舎利弗、目乾連、阿難』と、
『称した!』。
『仏』は、
『弟子と倶に!』、
『瓦師の舎(いえ)に到って!』、
『一宿した!』。
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釈迦文(しゃかもん):梵語zaakyamuni。又釈迦牟尼に作る。仏名。『大智度論巻2上注:釈迦文』参照。
瓦師(がし):陶工。 |
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爾時瓦師。布施草坐燈明石蜜漿三事。供養佛及比丘僧。便發願言。我於當來老病死惱五惡之世作佛。如今佛名釋迦文。我佛弟子名亦如今佛弟子名。以佛願故得字阿難。 |
爾の時、瓦師は、草坐、灯明、石蜜漿の三事を布施して、仏、及び比丘僧を供養し、便ち願を発して言わく、『我れ、当来の老病死の悩と、五悪の世に於いて、仏と作り、今の仏の如く釈迦文と名づけ、我が仏弟子の名も、亦た今の仏弟子の名の如くならん。』と。仏の願を以っての故に、阿難と字づくるを得たり。 |
爾の時、
『瓦師』は、
『草坐、灯明、石蜜の漿』の、
『三事を布施して!』、
『仏と比丘僧』を、
『供養する!』と、
便ち( smoothly )、
『願を発( おこ)して!』、こう言った、――
わたしは、
『未来』の、
『今の!』、
『仏のように!』、
『釈迦文』と、
『呼ばれ!』、
わたしの、
『仏弟子』は、
『今の!』、
『仏弟子のように!』、
『呼ばれよう!』、と。
是の、
『仏の願』の故に、
『阿難』と、
『呼ばれるのである!』。
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草坐(そうざ):地面に香草を敷いた座。
石蜜漿(しゃくみつしょう):氷砂糖の入った水。
当来(とうらい):未来。
五悪(ごあく):五種の悪の意。一に殺生、二に偸盗、三に邪淫、四に両舌悪口妄言綺語、五に飲酒なり。「無量寿経巻下」に、「今我れ此の世間に於いて作仏して、五悪五痛五焼の中に処するを最も劇苦と為す。群生を教化して五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、其の意を降化し、五善を持して其の福徳度世長寿泥洹の道を獲しむ」と云い、又「潅頂経巻1」に、「我れ当に更に汝に五戒の法を授くべし。仏言わく第一不殺、第二不盗、第三不邪婬、第四不両舌悪口妄言綺語、第五不飲酒なり」と云える是れなり。此の中、第四に両舌悪口妄言綺語の四種を挙ぐるは、普通の五戒に同じからず、一種の特説なりと謂うべし。慧遠の「無量寿経義疏巻下」に、前引「無量寿経」の五悪五痛五焼の文を釈し、「五戒の防ぐ所の殺盗邪婬妄語飲酒は、是れ其の五悪なり。此の五悪を作り、現世の中に於いて王法罪を治し、身厄難に遭うを五痛と為し、此の五悪を以って、未来世に於いて三途に報を受くるを説いて五焼と為す」と云い、憬興の「無量寿経連義述文賛巻下」には、有説は五戒の所防たる身の三非(即ち殺盗婬)を三と為し、口の四(即ち妄語綺語悪口両舌)を第四と為し、飲酒を第五と為す、此の五因に酬いて五痛五焼の果を受く。痛は苦受、焼は苦具にして、皆地獄の報なりとなすも、此れ恐らくは然らずとし、而して自ら慧遠に同じく、殺盗邪婬妄語飲酒を五悪とし、之に由りて王法牢獄に繋がるるを五痛とし、三途の果報を受くるを五焼と為すと云えり。又「優婆塞五戒威儀経」、「四天王経」、「無量寿経義疏(吉蔵)」等に出づ。<(望) |
参考:『別訳雑阿含経巻8(141)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤 獨園。時有一天。光色倍常。於其夜中。來詣佛所。威光顯照。遍于祇洹。赫然大明。卻坐一面。而說偈言 誰於睡名寤 誰於寤名睡 云何染塵垢 云何得清淨 佛以偈答言 若持五戒者 雖睡名為寤 若造五惡者 雖寤名為睡 若為五蓋覆 名為染塵垢 無學五分身 清淨離塵垢 天復說偈讚言
往昔已曾見 婆羅門涅槃 嫌怖久棄捨 能度世間愛 爾時此天。聞佛所說。歡喜而去』
参考:『仏般泥洹経巻1』:『佛告逝心理家。人在世間。其有貪欲。自放恣者。即有五惡。何等為五。一者財產日耗減。二者不知道意。三者眾人所不敬。死時有悔。四者醜名惡聲。遠聞天下。五者死入地獄三惡道中。人能伏心。不自放恣者。即有五善。何等為五。一者財產日增。二者有道行。三者眾人所敬。至死無悔。四者好名善譽。遠聞天下。五者死生上福德之處。不自放恣。有是五善。汝等自思惟之。佛為逝心理家。說經竟。皆歡喜為佛作禮而去。』 |
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復次阿難世世立願。我在釋迦文佛弟子多聞眾中。願最第一字阿難。 |
復た次ぎに、阿難は、世世に願を立つらく、『我れ、釈迦文仏の弟子の多聞の衆中に在りて、願わくは最も第一にして、阿難と字づけん。』と。 |
復た次ぎに、
『阿難』は、
『世世に!』、
『願』を、こう立てた、――
わたしは、
『釈迦文仏の弟子』の、
『多聞の衆』中に、
『在り!』、
願わくは、
『最も第一』の、
『阿難』と、
『呼ばれよう!』、と。
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復次阿難世世忍辱除瞋。以是因緣故。生便端正。父母以其端正見者皆歡喜故字阿難。(阿難者秦言歡喜)是為先世因緣字。 |
復た次ぎに、阿難は、世世に忍辱して、瞋を除けば、是の因縁を以っての故に、生まるれば便ち端正なり。父母は、其の端正なるを、見る者、皆歓喜するを以っての故に、阿難と字づけたり。(阿難とは、秦に歓喜と言う)是れを先世の因縁の字と為す。 |
復た次ぎに、
『阿難』は、
『世世に!』、
『忍辱を修めて!』、
『瞋』を、
『除いた!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『生まれながらに!』、
『端正であり!』、
其の、
『端正』の故に、
『見る者』が、
皆、
『歓喜する!』が故に、
『父母』は、
『阿難』と、
『呼んだのである!』。
何故ならば、
『阿難』とは、
秦に、
『歓喜』と、
『言うからである!』。
是れが、
『阿難』の、
『先世』の、
『因縁に依る!』、
『字である!』。
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云何父母作字。昔有日種王。名師子頰。其王有四子。第一名淨飯。二名白飯。三名斛飯。四名甘露飯。有一女名甘露味。淨飯王有二子佛難陀。白飯王有二子跋提提沙。斛飯王有二子提婆達多阿難。甘露飯王有二子摩訶男阿泥盧豆。甘露味女有一子名施婆羅。 |
云何が、父母の作れる字なる。昔、日種の王有り、師子頬と名づく。其の王に、四子有り、第一を浄飯と名づけ、二を白飯と名づけ、三を斛飯と名づけ、四を甘露飯と名づく。一女有り、甘露味と名づく。浄飯王に二子有り、仏と難陀なり。白飯王に二子有り、跋提と提沙なり。斛飯王に二子有り、提婆達多と阿難なり。甘露飯王に二子有り、摩訶男と阿泥廬豆なり。甘露味女に一子有り、施婆羅と名づく。 |
何のように、
昔、
『日種の王が有り!』、
『師子頬』と、
『呼ばれていた!』が、
其の、
『師子頬王』には、
『四子が有り!』、
第一は、
『浄飯』と、
『呼ばれ!』、
第二は、
『白飯』と、
『呼ばれ!』、
第三は、
『斛飯』と、
『呼ばれ!』、
第四は、
『甘露飯』と、
『呼ばれていた!』。
又、
『一女が有り!』、
『甘露味』と、
『呼ばれた!』。
『浄飯王』には、
『二子が有り!』、
『仏』と、
『難陀である!』。
『白飯王』にも、
『二子が有り!』、
『跋提』と、
『提沙である!』。
『斛飯王』にも、
『二子が有り!』、
『提婆達多』と、
『阿難である!』。
『甘露飯王』にも、
『二子が有り!』、
『摩訶男』と、
『阿尼廬豆である!』。
『甘露味女』には、
『一子が有り!』、
『施婆羅』と、
『呼ばれた!』。
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日種(にちしゅ):梵語suuryavaMsa。仏の五姓の一。『大智度論巻3上注:仏五姓』参照。
師子頬王(ししきょうおう):師子頬は梵語星賀賀努siMha-hanuの訳。巴梨語siiha-nanu、釈迦族の王の名。即ち尼求羅王の子にして、浄飯王の父。釈尊の祖父なり。「起世経巻10」、「衆許摩訶帝経巻2」、「仏本行集経巻5賢劫王品」、「大智度論巻3」、「彰所知論巻上」等には王に浄飯、白飯、斛飯、甘露飯の四子ありとし、「島史第三章」には五子ありと云えり。又「五分律巻15」には、「瞿頭羅の子を尼休羅と名づく、尼休羅に四子あり」と云い、王と尼休羅とを同人となせり。又王の弟に師子吼siMhanaadaあり。其の他の事蹟は詳ならず。又「長阿含経巻22」、「大楼炭経巻6」、「四分律巻31」、「毘奈耶破僧事巻2」、「釈迦譜巻1」、「釈迦氏譜」等に出づ。<(望)
浄飯王(じょうぼんおう):浄飯は梵名zuddhodanaの訳。中印度迦毘羅城の主にして、釈尊の父の名。『大智度論巻50上注:浄飯王』参照。
白飯王(びゃくぼんおう):白飯は梵語輸拘盧檀那zuklodanaの訳。巴梨名sukkodana、又設浄とも云う。釈尊の叔父なり。其の父に関し、「仏本行集経巻5賢劫王種品」、「衆許摩訶帝経巻2」、「起世経巻10」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「西蔵訳律蔵」、「大智度論巻3」、「彰所知論巻上」等には師子頬siMhahanu王の二男となし、「十二遊経」、「巴梨文島史diipavaMsa,iii」、「同大史mahaavaMsa,ii」、「緬甸仏伝」等には四男とし、又「五分律巻15」には尼休羅王の二男となせり。又「起世経」には王に帝沙、難提迦の二男、「彰所知論」には帝沙調達、難提迦の二男、「大智度論」には跋提、提沙の二男、「有部毘奈耶破僧事」には恒星、賢善の二男、「五分律」には阿難陀、調達の二男、「十二遊経」には釈迦王、釈少王の二男、「衆許摩訶帝経」には娑帝疎嚕、婆㮈哩賀の二男及び鉢怛囉摩黎の一女、「梵文大事mahaavastu」には、aananda,upadhaana,devadataの三男ありとなせり。其の他の事蹟詳ならず。又「釈迦譜巻1」、「釈迦氏譜」等に出づ。<(望)
斛飯王(こくぼんおう):斛飯は梵語途盧檀那droNodanaの訳。巴梨名dhotodana、又穀浄と翻ず。師子頬王siMha-hanuの子、浄飯王zuddhodanaの弟にして、釈尊の叔父なり。「起世経巻10」、「彰所知論巻上」等には、王に阿尼婁駄、跋提梨迦の二子ありと云い、「五分律巻15」、「十二遊経」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「釈迦譜巻1」、「釈迦氏譜」等には摩訶男、阿尼婁駄の二子とし、「衆許摩訶帝経巻2」には之に跋㮈黎女を加えて三子ありとし、「大智度論巻3」、「大方便仏報恩経巻3」には、提婆達多、阿難の二子ありとなせり。其の他の事蹟詳ならず。又「増一阿含経巻15」等に出づ。<(望)
甘露飯王(かんろぼんおう):甘露飯は梵語阿弥都檀那amRtodanaの訳。巴梨名amitodana、又甘露浄とも云う。釈種師子頬siGhahanu王の子にして、釈尊の叔父なり。父を師子頬王とすることは諸経論多く一致すれども、但だ「五分律巻15」には之を尼休羅となせり。其の中、「巴梨文島史diipavaMsa,iii」、「同大史mahaavaMsa,ii」、及び「緬甸所伝」には師子頬王の五男とし、「梵文大事mahaavastu」、「仏本行集経巻4」、「衆許摩訶帝経巻2」、「起世経巻10」、「大智度論巻3」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「五分律」、「彰所知論巻上」、及び「西蔵所伝」等には四男、「大方便仏報恩経巻3」には三男、「十二遊経」には二男とし、又「大史」には母の名をkaccaanaaとなせり。王は「仏本行集経巻5」に依るに、長じて天臂城主善覚の女二人を娶れりと云い、而して「衆許摩訶帝経」には王は阿難陀、提婆達多の二子及び細嚩羅の一女を挙げたりとし、又「十二遊経」、「起世経」、「破僧事」、「彰所知論」、及び「西蔵所伝」には阿難と提婆達多の二子、「大智度論」には摩訶男、阿泥廬豆の二子、「梵文大事」には阿泥廬豆、摩訶男、拔提bhaTTikaの三子、「五分律」には婆婆、拔提の二子、「大方便仏報恩経」には甘露味の一女を儲けたりとなせり。又「釈迦譜巻1」等に出づ。<(望)
甘露味(かんろみ):不明。
難陀(なんだ):梵名nanda。又別に其の妻孫陀利の名に因みて孫陀羅難陀sundaraanandaとも名づく。浄飯王の第二子、母は釈尊の姨母摩訶波闍波提mahaaprajaapatiiにして、即ち釈尊の異母弟なり。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
跋提(ばっだい):梵名bhadrika?。五比丘の一。『大智度論巻3下注:婆提』参照。
婆提(ばだい):巴梨名bhaddiya。梵名跋提梨迦bhadrika、又はbhadraka、又跋提伽、跋陀羅、婆提、跋提、或いは拔提に作り、小賢、賢善、仁賢、有賢、又は賢と訳す。五比丘の一。釈尊出家の後、阿若憍陳如等と共に浄飯王の命を受けて釈尊に奉侍し、共に苦行を行じ、後鹿野苑初転法輪の時、阿若憍陳如に次いで得道せし大弟子なり。其の族姓に関しては異説あり、「方広大荘厳経巻6」に五人は王師大臣の子弟なりと云い、師を以って迦毘羅城中の大臣の子弟なりとなせるも、「中阿含巻8侍者経」には、「爾の時、多識名徳上尊長老比丘の大弟子等あり、謂わく尊者拘隣若、尊者阿摂貝、尊者跋提釈迦王、尊者摩訶男拘隷、尊者惒破なり」と云い、又「四分律巻4」、「五分律巻3」等に、釈種子跋提王は弥尼捜国に於いて釈種子阿那律、提婆達、婆婆等と共に出家せりとし、「大毘婆沙論巻182」、「大唐西域記巻7婆羅痆斯国の條」にも、五人の中、三人は仏の父の親、二人は母の親なりと云い、師を以って釈尊の一族となせり。此の中、跋提釈迦王とは、恐らく「起世経巻10」、「大智度論巻3」等に釈尊の叔父斛飯王の子とせる跋提梨迦(「五分律巻15」には甘露王の子)を指せるものならんか。「増一阿含経巻3清信士品」に、「我が弟子中、第一の優婆塞にして、(中略)常に喜心を行ずるは所謂拔陀釈種是れなり」と云い、拔陀釈種を優婆塞となせるを以って見るに、跋提釈迦王と今の婆提とは別人となすべきが如く、恐らく同名の故を以って混同を生じたるものなるべし。又「増一阿含経巻22」、「中本起経巻上転法輪品」、「過去現在因果経巻3」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶巻27、30」、「毘尼母経巻1」、「法華経文句巻1上、巻5上」、「金光明最勝王経疏巻1」等に出づ。<(望)
提沙(だいしゃ):不明。
提婆達多(だいばだった):梵名devadatta。釈尊の叔父斛飯王の子、阿難の兄弟たりし仏弟子の名。仏の在世時、五逆罪を犯して僧団を破壊して仏に敵対せるを以って知らる。『大智度論巻3上注:提婆達多』参照。
摩訶男(まかなん):梵名mahaanaama。中印度迦毘羅衛城釈迦種の出にして、或いは斛飯王の子とし、或いは甘露飯王の子とせり。『大智度論巻18上注:摩訶男』参照。
阿尼廬豆(あにるだ):梵名aniruddha。仏十大弟子の一。迦毘羅城の釈氏にして仏陀の従弟なり。その父に関しては異説あり。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
施婆羅(せばら):不明。 |
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師子頬(ししきょう):梵にsiJhahanuに作り、北印度迦毘羅衛国の王、乃ち釈尊の祖父にして、共に淨飯、白飯、斛飯、甘露飯の四子を有し、その長子浄飯王は即ち釈尊の父なり。
淨飯王(じょうぼんおう):梵にzuddhodanaに作り、音訳して首図駄那、輸頭檀那、閲頭檀、悦頭檀等に作り、また意訳して白浄王、真浄王に作る。中印度迦毘羅(かびら、kapilavastu)の城主にして仏の生父なり、その子の難陀(なんだ、nanda)、孫の羅睺羅(らごら、raahula)も皆仏の弟子と為れり。<(佛)
白飯王(びゃくぼんおう):梵にzukulodanaraajaに作り、師子頬王の第二子にして、浄飯王の弟、釈尊の叔父なり。
斛飯王(こくぼんおう):梵にdroNodana、或いはdotodanaに作り、また訳して穀浄という。師子頬王の子にして浄飯王の弟、釈尊の叔父なり。
甘露飯王(かんろぼんおう):梵にamRtodanaに作り、音訳して阿弥都檀那に作る。釈種師子頬王の子にして釈尊の叔父なり。
難陀(なんだ):梵名nanda。釈尊の異母弟にして弟子。『大智度論巻2(下)』参照。
跋提(ばつだい):梵名bhadrika。又抜提、婆提、跋提黎迦、婆帝利迦等に作り、訳して小賢、善賢、仁賢、有賢等に作る。仏の最初に度せる所の五比丘の一。釈迦族に属し、その父に関しては諸伝に載する所一ならず、或いは跋提を謂いて斛飯王の男と為し、或いは白飯王の次子と為し、或いは甘露王の子と為せり。阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ、aajJaata-kauNDinya)等と鹿野苑に於いて仏の教化を受くる、仏最初の弟子と為す。<(佛)
提沙(だいしゃ):不明。
提婆達多(だいばだった):梵名devadatta。斛飯王の子、仏の悪弟子。『大智度論巻3(上)』参照。
摩訶男(まかなん):梵名mahaanaama。(一)仏最初に化度せる所の五比丘の一。また摩訶南、摩訶那摩に作り、意訳して大号、大名に作り、『本起経』には摩男拘利(まなくり、mahaanaama-koliya)に作り、『仏所行讃』中には十力迦葉(じゅうりきかしょう、dazabala-kaazyapa)に作り、及び釈尊の踰城出家の際、その父浄飯王は一族中より選びし五随侍の一。仏成道の後、鹿野苑に於いて初の転法輪を聞き、道を得し弟子の一なり。(二)また釈種摩訶南(sakkamahaanaama)と称し、摩呵南釈、釈摩男に作る。中印度迦毘羅衛城釈迦種に属す。『五分律巻15』、『有部毘奈耶破僧事巻2』等によれば、それを斛飯王の子と為し、『大智度論巻3』等によれば、それを甘露飯王の子と為す。その弟阿那律(あなりつ、aniruddha)の仏門に入りて出家せる後、即ち家事を治理し、仏の教法を重んじて、常に湯薬、衣食等を僧衆に布施せり。『中阿含経巻25苦陰経』には、即ち仏の所説を請い、『増一阿含経巻26』によれば、まさに舎衛城の流離王、迦毘羅衛城の釈迦族を討伐せんとする時、摩訶南は釈迦族を救わんが為に、自ら願いて命を水中に捨てぬと云えり。或いはこの人は五比丘中の摩訶南と同一人と謂える有り。<(佛)
阿尼廬豆(あにるだ):梵名aniruddha。また阿尼廬陀、阿[少/兔]楼駄、阿那律、阿難律、阿楼陀等に作り、意訳して無滅、如意、無障、無貪、随順義人、不浄有無等に為す。即ち仏十大弟子の一なり。中印度迦毘羅衛城の釈氏、仏の従弟、それに関して『起世経巻10』、『五分律巻15』、『衆許摩訶帝経巻2』等は斛飯王の子と為し、『仏本行集経巻11』、『大智度論巻3』は甘露飯王の子と為す。仏成道の後、帰郷するに当りて、阿那律と阿難、難陀、優波離等は即ち出家して弟子と為れり。出家の後、阿那律は修道精進して、模範と称するに堪う。彼はかつて仏の説法中に酣睡して仏に呵責せられ、遂に誓を立てて眠らず、而も眼疾に罹りて失明に至れり。然るに修行益進するを以って心眼漸く開いて遂に仏の弟子中天眼第一と称され、よく天上地下の六道の衆生を見る。<(佛) |
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是中悉達陀菩薩。漸漸長大棄轉輪聖王位。夜半出家。至漚樓鞞羅國中尼連禪河邊。六年苦行。 |
是の中の悉達陀菩薩は、漸漸長大するに、転輪聖王の位を棄てて、夜半に出家し、漚楼鞞螺国中の尼連禅河の辺に至り六年苦行す。 |
是の中に、
『悉達多( siddhaartha )菩薩』は、
次第に、
『長大( 成長)する!』と、
『転輪聖王の位を棄てて!』、
『夜半に!』、
『出家し!』、
『漚楼鞞螺国』中の、
『尼連禅河の辺に到って!』、
『六年!』、
『苦行した!』。
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悉達陀(しっだるた):梵名siddhaartha。目的・目標を達成した人/成功/繁栄( one who has accomplished an aim
or object, successful, prosperous )、目的地に導く/有能な/有効な( leading to the goal,
efficient, efficacious )、目的・意図が知られている人( one whose aim or intention is known
)の義、"[彼れの来た]目的は満たされた"(" he who has fulfilled the object
(of his coming) ")の意を以って呼ばれる、釈尊の浄飯王の太子たりし時の名。『大智度論巻2下注:悉達多、釈迦牟尼仏』参照。
漸漸(ぜんぜん):物の変移の徐にして速ならざるを謂う。ゆっくりと。
転輪聖王(てんりんじょうおう):七宝を有し四天下を領する聖王を云う。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
漚楼鞞螺国(うるびらこく):漚楼鞞螺は梵名uruvilvaa。中印度摩伽陀国の有る聚落名。『大智度論巻26上注:優楼頻螺聚落』参照。
尼連禅河(にれんぜんが):尼連禅は梵名nairaJjana。優楼頻螺聚落を流れる河の名。『大智度論巻1上注:尼連禅河』参照。 |
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悉達多(しっだるた):梵名siddhaartha。乃ち釈尊の浄飯王の太子たりし時の名なり。また薩婆悉達多(さばしつだった、sarvasiddhaartha)、薩婆頞他悉陀、薩縛頞他悉地、悉達羅他、悉多頞他、悉達、悉多、悉陀等に作り、意訳して一切義成、一切事成、財吉、吉財、成利、験事、験義等に作る。釈尊出生して迦毘羅城浄飯王の長子たりし時、善占相の阿私陀(あしだ、asita)仙人、この王子の過去世に於ける諸の善根功徳に因り、殊勝の相好を具備し、よく一切の善事を成就せんことを知暁し、またかつて王子、もし在家なれば必ず転輪聖王と為り、もし出家なれば則ち無上正覚を成就せんことを預言せるに、上述の意義を表示せんが為の故に悉達多と命名せり。<(佛) |
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是時淨飯王愛念子故。常遣使問訊欲知消息。我子得道不。若病若死。 |
是の時、浄飯王は、子を愛念するが故に、常に使を遣して問訊せしめ、消息を知らんと欲す、『我が子は道を得たりや不や、若しは病むや、若しは死すや。』と。 |
是の時、
『浄飯王』は、
『子を愛念する!』が故に、
常に、
『使』を、
『遣(つかわ)して!』、
『安否を訊(たず)ね!』、
『子』の、
『消息』を、
『知ろうとした!』、――
わたしの、
『子』は、
『道』を、
『得たのか、何うか?』。
若しは、
『病んでいるのではないか?』、
『死んだのではないか?』、と。
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問訊(もんじん):安否を訊ねること。 |
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使來白王。菩薩唯有皮骨筋相連持耳。命甚微弱。若今日若明日不復久也。 |
使の来たりて王に白さく、『菩薩は、唯だ皮と骨と筋と有り、相連なりて持(たも)つのみ。命は甚だ微弱にして、若しは今日、若しは明日にも、復た久しからざらん。』と。 |
『使が来て!』、
『王』に、こう白( もう)した、――
『菩薩』は、
唯だ、
『皮、骨、筋が有り!』、
『互に連なり合って!』、
『身』を、
『持(たも)たせているだけです!』。
『命』は、
『甚だ微弱であり!』、
『今日か?』
『明日か?』、
復た( もう)、
『久しくはないでしょう!』、と。
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王聞其言甚大愁念沒憂惱海。我子既不作轉輪王。又不得作佛。一何衰苦無所得而死。如是憂惱荒迷憒塞。 |
王の其の言を聞き、甚だ大いに愁念して憂悩の海に没すらく、『我が子は、既に転輪王に作らず、又仏と作るを得ず。一に何ぞ衰苦して、得る所無くして、死せんや。』と。是の如く憂悩し、荒迷して憒塞せり。 |
『王』は、
其の、
『言を聞いて!』、
『念』を、
『憂悩の海』に、
『没した!』、――
わたしの、
『子』は、
既に( at end )、
『転輪聖王』にも、
『作らず!』、
又、
『仏』と、
『作ることもできず!』、
一に( 専ら)、
『衰えて!』、
『苦しんでおり!』、
何の、
『所得も無いまま!』に、
『死んでしまうのか?』、と。
是のように、
『憂え悩んで!』、
『荒れすさみ!』、
『心が乱れて!』、
『気が塞いだ!』。
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衰苦(すいく):衰え苦しむ。
荒迷(こうめい):荒れすさんで迷う。。
憒塞(けそく):心が乱れて気が塞ぐ。 |
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是時菩薩棄苦行處。食百味乳糜身體充滿。於尼連禪水中洗浴已。至菩提樹下坐金剛座。而自誓言。要不破此結加趺坐成一切智。不得一切智終不起也。 |
是の時、菩薩は苦行の処を棄て、百味の乳糜を食し、身体充満して、尼連禅の水中に於いて洗浴し已り、菩提樹の下に至りて金剛座に坐し、自ら誓言すらく、『要(かな)らず、此の結跏趺坐を破らずして、一切智を成ぜん。一切智を得ずんば、終に起たじ。』と。 |
是の時、
『菩薩』は、
『苦行の処を棄てて!』、
『身体が充満する!』と、
『尼連禅』の、
『水中』に、
『洗浴して!』、
『菩提樹の下』の、
『金剛座』に、
『坐り!』、
自ら、
『誓って!』、こう言った、――
要( かなら)ず、
此の、
『結跏趺坐を破らずに!』、
『一切智』を、
『成就せねばならぬ!』。
『一切智を得るまでは!』、
『終(つい)に!』、
『起つことはあるまい!』、と。
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菩提樹(ぼだいじゅ):梵にbodhi-druma、bodhi-taru、bodhi-vRkSaに作り、或いは単にbodhiと称す。また意訳して覚樹、道樹、道場樹、思惟樹、仏樹等と称す。釈尊は即ち中印度摩竭陀国伽耶城南の菩提樹の下に無上正覚を証得せるにより、故にこの称あり。この樹、原は鉢多(azvattha)と称し、また貝多、阿説他、阿沛多に作り、意訳して吉祥、元吉と為す。学名をFicus religiosaと為し、その果実を畢鉢羅(ひっぱら、pippala)と称し、故にまた畢鉢羅樹と称す。桑科に属し、東印度を原産とし、常緑高木にして高さは3m以上に達し、その葉は心形を呈して末端は尖長なり、花は球形の花嚢の中に隠れ、花嚢熟する時は暗橙色を呈し、小果を内蔵す。<(佛)
金剛座(こんごうざ):梵にvajraasanaと称し、また金剛斉に作り、仏成道の時所坐の座を指す。中印度摩竭陀国伽耶城南の菩提樹の下に位し、そのなお金剛の如く堅固不壊なるを以って、故に金剛座と称す。<(佛)
乳糜(にゅうび):(一)梵にtarpaNaに作り、音訳して怛鉢那、歎波那に作り、即ち穀類を以って磨きて粉末と成し、製成する所の食物なり。『有部毘奈耶巻36』等にはtarpaNaを訳して餅、麩と作せり。(二)梵にpaayasaに作り、また乳粥に作る。通常多く米粟等を以って牛羊の乳中に入れ、これを煮熟し、八種の粥の一と為す。釈尊には菩提樹下の成正覚の前に、かつて乳粥(或いは牛乳と謂う)の供養を接受せる因縁有り。<(佛) |
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是時魔王將十八億眾到菩薩所。敢與菩薩決其得失。菩薩智慧力故大破魔軍。 |
是の時、魔王は十八億の衆を将いて菩薩の所に到り、敢て菩薩と、其の得失を決せんとす。菩薩は、智慧の力の故に大いに、魔軍を破れり。 |
是の時、
『魔王』は、
『十八億の衆を将( ひき)いて!』、
敢て、
『菩薩』と、
『得、失』を、
『決しようとした!』が、
『菩薩』は、
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魔不如而退自念。菩薩叵勝當惱其父。至淨飯王所詭言。汝子今日後夜已了。 |
魔は如かずして退き、自ら念ずらく、『菩薩には勝つべからず、当に其の父を悩ますべし。』と。浄飯王の所に至りて、詭(いつわ)りて言わく、『汝が子は、今日の後夜已に了(おわ)れり。』と。 |
『魔』は、
『菩薩』に、
『及ばないまま!』、
『退いて!』、
自ら、こう念じた、――
『菩薩』には、
『勝つ!』ことが、
『難しい!』ので、
其の、
『父』を、
『悩まさねばならない!』、と。
『浄飯王の所に至る!』と、
『王を詭( あざむ)いて!』、こう言った、――
お前の、
『子』は、
今日、
『後夜(夜明前)に!』、
『死んでしまった!』、と。
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叵(は):べからず、できないの意。不可に同じ。又かたし、難の意。 |
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王聞此語驚怖墮床。如熱沙中魚。王時悲哭而說偈言
阿夷陀虛言 瑞應亦無驗
得利之吉名 一切無所獲
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王は此の語を聞き、驚怖して床に堕つること、熱沙中の魚の如し。王は時に悲哭して、偈を説きて言わく、
阿夷陀は虚言せり、瑞応も亦た験無し、
利を得る吉名も、一切獲る所無し。
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『王』は、
此の、
『語を聞いて!』、
『驚き怖れて!』、
『床に崩れ堕ち!』、 まるで、
『熱沙』中の、
『魚のようであった!』。
『王』は、
その時、
『悲しみ!』、
『哭(なげ)きながら!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
『阿夷陀』の、
『言』は、
『虚だった!』。
『瑞応( 吉兆)』も、
『効験』が、
『無かった!』。
『利』を、
『得るはず!』の、
『吉名』も、
何も、
『得させてくれた!』ものは、
『無かった!』、と。
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熱沙(ねっさ):熱い砂漠。砂漠は沙漠が本字。砂鉄丹砂曠砂等は皆石に从い、沙洲沙漠塵沙風沙等は皆水に从う。
阿夷陀(あいだ):梵名asita。釈尊降誕の時、之を占相して成仏を予言せし仙人の名。『大智度論巻21下注:阿私陀』参照。
瑞応(ずいおう):めでたいしるし。吉兆。悉達多太子の具有する三十二相を云う。
験(けん):しるし。ききめ。効験。 |
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是時菩提樹神大歡喜。持天曼陀羅華。至淨飯王所說偈言
汝子已得道 魔眾已破散
光明如日出 普照十方土
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是の時、菩提樹神は大歓喜し、天の曼陀羅華を持ちて、浄飯王の所に至り、偈を説いて言わく、
汝が子は已に道を得て、魔衆は已に破散す、
光明は日の出づるが如く、普く十方の土を照らせり。
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是の時、
『菩提樹神』は、
『大歓喜して!』、
『天の曼陀羅華を持つ!』と、
『浄飯王の所』に、
『至り!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
お前の、
『子』が、
『道を得る!』と、
『魔の衆』は、
『破れ散った!』。
『光明』が、
まるで、
『日』が、
『出たかのように!』、
普く、
『十方の国土』を、
『照らしている!』、と。
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菩提樹神(ぼだいじゅじん):梵語bodhi-vRkSa-devataaの訳。菩提樹の神格の義。
曼陀羅華(まんだらけ):梵にmaandaara、maandaarava、mandaaraka等に作り、意訳して天妙、悦意、適意、雑色、円、柔軟声、闃、白等に作り、また曼陀勒華、曼那羅華、曼陀羅梵華、曼陀羅帆華等に作る。その花の大なるを、称して摩訶曼陀羅華と為す。曼陀羅華を四種天華の一、乃ち天界の花の名と為す。花色は赤に似て美しく、見る者の心を悦ばせ、その樹は波利質多(はりしった、paarijaata、忉利天宮の樹名)樹と同種なり。学名をErythrina
indica(Coral tree)と為し、印度に産す。夏季に開花、六七月頃に結実し、葉は頗る繁茂なり。また学名をCalotropis giganteaに為すものは、馬利筋属の植物しして、また曼陀羅と称し湿婆(しつば、ziva)神の献供に係わる花なり。<(佛) |
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王言。前有天來言。汝子已了。汝今來言壞魔得道。二語相違誰可信者。 |
王の言わく、『前に有る天の来たりて言わく、汝が子は已に了れりと。汝が今来たりて言わく、魔を壊りて道を得と。二語相違す、誰か信ずべき者なる。』と。 |
『王』は、こう言った、――
前にも、
お前は、
今、
『来て!』、こう言っている、――
『魔を壊( やぶ)って!』、
『道』を、
『得た!』、と。
『二人』の、
『語』は
『相違している!』。
誰を、
『信じればよいのか?』。
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樹神又言。實不妄語。前來天者詭言已了。是魔懷嫉故來相惱。今日諸天龍神華香供養空中懸繒。汝子身出光明遍照天地。 |
樹神の又言わく、『実にして妄語にあらず。前に来たる天は、詭りて已に了ると言えり。是れ魔の嫉を懐くが故に来たりて、相悩ますなり。今日、諸天、龍神華香を供養し、空中に繒(きぬ)を懸く。汝が子は、身より光明を出して、遍く天地を照らせり。』と。 |
『樹神』は、
又、こう言った、――
『前に来た!』、
『天』は、
『詭いて!』、
『死んでしまった!』と、
『言った!』が、
是れは、
『魔』が、
『嫉妒』を、
『懐いた!』が故に、
『来て!』、
お前を、
『悩ましたのだ!』。
今日、
『諸の天、龍、神』が、
『華、香を供養して!』、
『空』中に、
『繒(きぬ)を懸ける!』と、
お前の、
『子』が、
『身』より、
『光明』を、
『出して!』、
遍く、
『天、地』を、
『照らした!』、と。
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繒(そう):絹の織物。 |
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王聞其言於一切苦惱心得解脫。王言我子雖捨轉輪聖王。今得法轉輪王定得大利無所失也。王心大歡喜。 |
王は、其の言を聞きて、一切の苦悩に於いて、心に解脱を得。王の言わく、『我が子は、転輪聖王を捨てたりと雖も、今、法の転輪王を得たり。定めて大利を得て、失う所無からん。』と。王は、心に大いに歓喜せり。 |
『王』は、
『樹神』の、
『言』を、
『聞く!』と、
『心』が、
『一切の苦悩より!』、
『解脱した!』。
『王』は、こう言った、――
わたしの、
『子』は、
今、
定んで、
『大利を得て!』、
『失う!』所が、
『無いだろう!』、と。
『王』は、
『心』に、
『大歓喜した!』。
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是時斛飯王家使來白淨飯王。言。貴弟生男。王心歡喜言。今日大吉是歡喜日。語來使言。是兒當字為阿難。是為父母作字。 |
是の時、斛飯王の家より使来て、浄飯王に白して言さく、『貴弟は男を生めり。』と。王は心に歓喜して、『今日は大吉なり。是れ歓喜の日なり。』と言い、来使に、語りて言わく、『是の児は、当に字づけて、阿難と為すべし。』と。是れを父母の作りし字と為す。 |
是の時、
『斛飯王』の、
『家使が来て!』、
『浄飯王に白して!』、こう言った、――
あなたの、
『弟』に、
『男(むすこ)』が、
『生まれた!』、と。
『王』は、
『心に歓喜して!』、こう言った、――
今日は、
『大吉である!』、
『歓喜の日だ!』、と。
『来使に語って!』、こう言った、――
是の、
『児』は、
『阿難』と、
『呼ばせるがよい!』、と。
是れが、
『父母の作った!』、
『字である!』。
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云何依因緣立名。阿難端正清淨如好明鏡。老少好醜容貌顏狀。皆於身中現。其身明淨。女人見之欲心即動。是故佛聽阿難著覆肩衣。 |
云何が、因縁に依りて名を立つる。阿難は端正にして、清浄なり。好明の鏡の如く、老少、好醜、容貌、顔状、皆身中に於いて現るるに、其の身明浄なれば、女人、之を見るに、欲心即ち動く。是の故に、仏は、阿難に肩を覆う衣を著くることを聴したまえり。 |
『因縁に依って!』、
『名を立てる!』とは、
何ういうことか?――
『阿難』は、
『端正であり!』、
『清浄であった!』が、
譬えば、
『好もしく!』、
『明るい!』、
『鏡のように!』、
『老、少』や、
『好、醜』の、
『容貌』や、
『顔状』は、
皆、
『身』中に、
『現われるのである!』が、
『阿難』は、
『身』が、
『明るく!』、
『浄らかであった!』ので、
『女人』は、
『阿難を見る!』と、
『欲心』が、
『動くのであり!』、
是の故に、
『仏』は、
『阿難』に、
『覆肩衣を著ける!』ことを、
『聴(ゆる)された!』。
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覆肩衣(ふくけんえ):衣で両肩を覆うこと。通常比丘は仏の前に於いて、右肩を脱ぐものとされ、是れを偏袒右肩と称する。 |
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是阿難能令他人見者心眼歡喜故名阿難。於是造論者讚言
面如淨滿月 眼若青蓮華
佛法大海水 流入阿難心
能令人心眼 見者大歡喜
諸來求見佛 通現不失宜
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是の阿難は、能く他人の見る者の心眼をして、歓喜せしむれば、故に阿難と名づくるなり。是に於いて造論者の讃じて言わく、
面の浄きこと満月の如く、眼は青蓮華の若し、
仏法の大海水は、阿難が心に流入せり。
能く人の心眼をして、見る者を大歓喜せしむれば、
諸の来求して仏に見ゆるに、通じて現るるも宜しきを失せず。
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是の、
『阿難』は、
『他人の見る者』の、
『心、眼』を、
『歓喜させることができる!』ので、
是の故に、
『阿難( enjoyment )』と、
『呼ばれたのである!』が、
是( ここ)に於いて、
『造論者』は、
『阿難を讃じて!』、こう言うことにする、――
『阿難』の、
『面( かお)』は、
『浄らかな!』、
『満月のようであり!』、
『眼』は、
『青い!』、
『蓮華のようだ!』が、
『阿難』の、
『心』には、
『仏法の大海水』が、
『流入している!』。
『阿難』の、
『身』は、
『見る者』の、
『心、眼を大歓喜させる!』が、
『仏を見ようとする!』、
『諸の来者』に、
『身を!』、
『現しながら!』、
『通じて!』、
『度』を、
『過ぎることがない!』。
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如是阿難雖能得阿羅漢道。以供給供養佛故自不盡漏。以此大功德故。雖非無學在無學數中。雖未離欲在離欲數中。以是故共數五千中。以實未是阿羅漢故。言唯除阿難 |
是の如く、阿難は、能く阿羅漢道を得と雖も、仏を供給し、供養するを以っての故に、自ら漏を尽くさず。此の大功徳を以っての故に、無学に非ずと雖も、無学の数中に在り、未だ離欲ならずと雖も、離欲の数中に在り。是を以っての故に、共に五千の中に数うるも、実には、未だ是れ阿羅漢ならざるを以っての故に、言わく、『唯だ阿難を除く』と。 |
是のような、
『阿難』は、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得ることができた!』が、
『仏』に、
『供給、供養しよう!』と、
『思った!』が故に、
自ら、
『漏』を、
『尽くさなかったのであり!』、
此の、
『大功徳』の故に、
『無学ではないが!』、
『無学の数(衆)』中に、
『在ったのであり!』、
未だ、
『離欲してはいなかった!』が、
『離欲の数』中に、
『在ったのである!』。
是の故に、
『共に!』、
『五千』中に、
『数えられながら!』、
『実に!』は、
未だ、
『阿羅漢でない!』が故に、
こう言うのである、――
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