巻第三(下)
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大智度共摩訶比丘僧釋論第六(卷第三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


摩訶比丘僧と共に

【經】共摩訶比丘僧 摩訶比丘僧と共なり。
『摩訶比丘僧(大比丘たち)』と、
『起居』を、
『共にされていた!』。
  摩訶比丘僧(まかびくそう):梵語mahaa-bhikSu-saMghaの訳。大比丘の大集団の意。『大智度論巻1上注:比丘、同巻26上注:僧』参照。
【論】共名一處一時一心一戒一見一道一解脫。是名為共。 共とは、一処、一時、一心、一戒、一見、一道、一解脱に名づけ、是れを名づけて共と為す。
『共にする!』とは、
『処、時、心、戒、見、道、解脱』が、
『同一である!』ことを、
『称し!』、
是れを、
『共にする!』と、
『呼んだのである!』。
摩訶秦言大。或多或勝。云何大。一切眾中最上故。一切障礙斷故。天王等大人恭敬故。是名為大。云何多。數至五千故名多。云何勝。一切九十六種道論議能破。故名勝。 摩訶とは、秦に『大』、或いは『多』、或いは『勝』と言う。云何が、『大』なる。一切の衆中に、最上なるが故に、一切の障礙を断つが故に、天王等の大人の恭敬するが故に、是れを名づけて『大』と為す。云何が、『多』なる。数の五千に至るが故に、『多』と名づく。云何が、『勝』なる。一切の九十六種の道を論議して、能く破るが故に、『勝』と名づく。
『摩訶』とは、
秦に、
『大』と、
『言い!』、
或は、
『多』とか、
『勝』と、
『言う!』。
何故、
『大なのか?』、――
一切の、
『衆()』中の、
『最も!』、
『上位である!』が故に、
一切の、
『障礙』を、
『尽く!』、
『断じた!』が故に、
『天王』等の、
『大人』に、
『恭敬される!』が故に、
是れを、
『大』と、
『称するのである!』。
何故、
『多なのか?』、――
『数』が、
『五千』に、
『至る(及ぶ)!』が故に、
是れを、
『多』と、
『称するのである!』。
何故、
『勝なのか?』、――
一切の、
『九十六種の外道』と、
『論義して!』、
『破ることができる!』が故に、
是れを、
『勝』と、
『称するのである!』。
  (しゅ):梵語僧伽saMghaの訳。集会の義。或る目的をもって一緒に生活する集団、或いは社会、共同体の意。又僧佉、僧等に作り、大衆、和合僧とも訳す。『大智度論26上注:僧』参照。
  九十六種道(くじゅうろくしゅどう):外道の六師に、各各弟子十五あり、故に外道に総じて九十六種の別あるを云う。『大智度論巻3上注:六師外道、同巻27下注:九十六種外道』参照。
云何名比丘。比丘名乞士。清淨活命故名為乞士。如經中說。舍利弗入城乞食。得已。向壁坐食。 云何が、比丘と名づくる。比丘を乞士と名づけ、清浄活命するが故に、名づけて乞士と為す。経中に説くが如く、舎利弗、城に入りて乞食す。得已りて、壁に向いて坐して食えり。
何故、
『比丘』と、
『称するのか?』、――
『比丘』を、
『乞士と称する!』が、
『清浄に!』、
『活命する!』が故に、
是れを、
『乞士』と、
『称するのである!』。
例えば、
『経』中には、こう説かれている、――
『舎利弗』は、
『城』に、
『入って!』、
『乞食し!』、
『食を得る!』と、
『壁に向って!』、
『食った!』。
  清浄活命(しょうじょうかつみょう):梵語parizuddhaajiiva、或いはzuddhaajiivaの訳。清浄なる活命の意。八正道中の正命(梵samyag-aajiiva)に同じ。邪命(梵mithyaa-jiiva)の対語。即ち呪術等の邪命を捨てて、如法に衣服飲食床榻湯薬等の諸の生活の具を求むるを云う。『大智度論巻3下注:邪命』参照。
  邪命(じゃみょう):梵語mithyaa-jiivaの訳。巴梨語micchaa-jiiva、正道に由らず邪道によりて活命するを云う。「長阿含経巻14」に、「沙門瞿曇には是の如き事なし。余の婆羅門の如きは他の信施を食し、遮道の法を行じて邪命自活し、男女の吉凶好醜を瞻相し、及び畜生を相して以って利養を求む」と云い、又「観仏三昧海経巻10観仏密行品」に、「若し是の如き邪命の業を起さば、此の邪命の業は猶お狂象の蓮華池を壊するが如し。此の邪命の業も亦復た是の如く善根を壊敗す」と云える是れなり。又「摩訶僧祇律巻7」には邪命に身邪命、口邪命、及び身口邪命の三種あることを説き、「身邪命とは水瓶木器を作りて売り、酥を盛る革嚢、縄索、結網、縫衣を作り、学びて餅を作りて売り、学びて医薬を売り、人の為に信を伝う。是の如くして種種に食を求むる、是れを身邪命と名づく。口邪命とは呪を誦し術を行じ、蛇を呪し龍を呪し、鬼を呪し病を呪し、水を呪し火を呪す。是の如くして種種に食を求むる、是れを口邪命と名づく。身口邪命とは手自ら火を然して口に呪術を説き、手に酥油を潅ぎ、芥子を灑散す。是の如くして種種に食を求むる、是れを身口邪命と名づく」と云い、又「大智度論巻19」には邪命に五種の別あるを説き、「一には若し行者利養の為の故に詐りて異相奇特を現ず。二には利養の為の故に自ら功徳を説く。三には利養の為の故に吉凶を占相して人の為に説く。四には利養の為の故に高声に威を現じて人をして畏敬せしむ。五には利養の為の故に所得の供養を称説して以って人心を動かす。邪の因縁にて活命するが故に是れを邪命と為す」と云えり。是れ出家修道の人にして自活の為に物を販売し、吉凶を占相し、呪術を行い、或いは種種の奇特の異相等を現ずるを総じて邪命と名づけたるなり。又外道中、特に邪命外道と称するものあり、「佛本行集経巻45布施竹園品」に、「其の道人を阿耆毘伽(随に邪命と云う)と名づく」と云い、「成唯識論述記巻1末」に、「邪命等の如しとは即ち是れ阿時縛迦外道なり。応に正命と云うべし。仏法に之を毀るが故に邪命と云う」と云える是れなり。阿耆毘伽(又阿夷維、阿耆維に作る)aajiivika、阿時縛迦(又阿時婆迦、阿寅婆迦、阿時婆に作る)aajiivakaは共に活命の義にして、邪命の意に非ず。故に述記に正命と云うなり。是れ釈尊当時に出世し、尼犍子の一派なる末迦利瞿舎梨makkhali-gosalaの徒を指し、又当時の外道修行者の総称ともなり居りしが如し。「舎利弗阿毘曇論巻14」、「大智度論巻73」、「成実論巻12」、「倶舎釈論巻6」、「倶舎論巻8、17」、「大乗義章巻10」、「摩訶止観巻7」、「同補行伝弘決巻10之2」、「法華経文句巻1上」、「倶舎論光記巻8」、「華厳経疏巻15」等に出づ。<(望)
是時有梵志女名淨目。來見舍利弗。問舍利弗言。沙門汝食耶。答言食。 是の時、梵志の女有り、浄目と名づくる、来たりて舎利弗を見、舎利弗に問うて言わく、『沙門、汝は食するや。』と。答えて言わく、『食す。』と。
是の時、
有る、
『梵志(出家の婆羅門)の女(むすめ)』の、
『浄目』と、
『呼ばれる!』者が、
『来て!』、
『舎利弗を見る!』と、
『舎利弗』に、
問うて、こう言った、――
沙門(お坊さま)!
お前さまは、
『食いなさるかね?』、と。
答えて、こう言った、――
『食う!』、と。
  梵志(ぼんし):梵語婆羅門braahmaNaの訳。即ち婆羅門は無垢清浄に住し、梵天に生ぜんことを志求するが故に此の称あり。『大智度論巻1上注:梵志』参照。
  沙門(しゃもん):梵語zramaNaの訳。浄志、息悪等と訳す。仏教を奉じて出家せしものの意。『大智度論巻22上注:沙門』参照。
  参考:『雑阿含経(500)巻18』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。尊者舍利弗亦住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。尊者舍利弗晨朝著衣持缽。入王舍城乞食。乞食已。於一樹下食。時。有淨口外道出家尼從王舍城出。少有所營。見尊者舍利弗坐一樹下食。見已。問言。沙門食耶。尊者舍利弗答言。食。復問。云何。沙門下口食耶。答言。不也。姊妹。復問。仰口食耶。答言。不也。姊妹。復問。云何。方口食耶。答言。不也。姊妹。復問。四維口食耶。答言。不也。姊妹。復問。我問沙門食耶。答我言。食。我問仰口耶。答我言。不。下口食耶。答我言。不。方口食耶。答我言。不。四維口食耶。答我言。不。如此所說。有何等義。尊者舍利弗言。姊妹。諸所有沙門.婆羅門明於事者.明於橫法.邪命求食者.如是沙門.婆羅門下口食也。若諸沙門.婆羅門仰觀星曆。邪命求食者。如是沙門.婆羅門則為仰口食也。若諸沙門.婆羅門為他使命。邪命求食者。如是沙門.婆羅門則為方口食也。若有沙門.婆羅門為諸醫方種種治病。邪命求食者。如是沙門.婆羅門則為四維口食也。姊妹。我不墮此四種邪命而求食也。然我。姊妹。但以法求食而自活也。是故我說不為四種食也。時。淨口外道出家尼聞尊者舍利弗所說。歡喜隨喜而去。時。淨口外道出家尼於王舍城里巷四衢處讚歎言。沙門釋子淨命自活。極淨命自活。諸有欲為施者。應施沙門釋種子。若欲為福者。應於沙門釋子所作福。時。有諸外道出家聞淨口外道出家尼讚歎沙門釋子聲。以嫉妒心。害彼淨口外道出家尼。命終之後生兜率天。以於尊者舍利弗所生信心故也』
  参考:『長阿含経(大本経)巻1』:『又於異時。復飭御者嚴駕出遊。於其中路逢一沙門。法服持缽。視地而行。即問御者。此為何人。御者答曰。此是沙門。又問。何謂沙門。答曰沙門者。捨離恩愛。出家修道。攝御諸根。不染外欲。慈心一切。無所傷害。逢苦不慼。遇樂不欣。能忍如地。故號沙門。太子曰。善哉。此道真正永絕塵累。微妙清虛。惟是為快。即飭御者迴車就之。爾時。太子問沙門曰。剃除鬚髮。法服持缽。何所志求。沙門答曰。夫出家者。欲調伏心意。永離塵垢。慈育群生。無所侵嬈。虛心靜寞。唯道是務。太子曰。善哉。此道最真。尋飭御者。齎吾寶衣并及乘轝。還白大王。我即於此剃除鬚髮。服三法衣。出家修道。所以然者。欲調伏心意。捨離塵垢。清淨自居。以求道術。於是。御者即以太子所乘寶車及與衣服還歸父王。太子於後即剃除鬚髮。服三法衣。出家修道』
  梵志(ぼんし、braahmaNa):また婆羅門、梵士に作り、意訳して浄裔、浄行と為し、また浄行者、浄行梵士等と称す。婆羅門は無垢清淨に住して梵天に生ずることを志求するが故に、この称有り。『玄応音義巻18』によれば、婆羅門はまさに婆羅賀磨拏に作るべくして、意は梵天の法を承習する者を指し、自ら称して梵天の口由り生じ、四姓中に最も殊勝なるが故に独り梵の名を取ると為す。また『瑜伽論記巻19』によれば梵を西国の言にして訳して寂静、涅槃と為し、志は本地の語にして梵を志求するに当り、故に合せて梵士と称す、と。また『大智度論巻56』によれば、梵志とは、これ一切の出家の外道なり、もしくはその法を承用する者もまた梵志と名づく、と。
  沙門(しゃもん、zramaNa):また室羅末拏、舎囉摩拏に作り、また沙門那、沙聞那、娑門、桑門、喪門に作り、意訳して勤労、功労、劬労、勤懇、静志、浄志、息止、息心、息悪、勤息、修道、貧道、乏道等に作り、出家者の総称にして、内外二道に通ず。また即ち鬚髪を剃除して、諸悪を止息し、善く心身を調え、諸善を勤行して以って涅槃に行趣するを期す出家の修道者を指す。
淨目言。汝沙門下口食耶。答言不姊。仰口食耶。不。方口食耶。不。四維口食耶。不。 浄目の言わく、『汝、沙門は、下口食なるや。』と。答えて言わく、『不なり。姉。』と。『仰口食なるや。』、『不なり。』。『方口食なるや。』、『不なり。』、『四維口食なるや。』、『不なり。』と。
『浄目』は、
こう言った、――
お前さま!
『沙門』は、
『下向いた!』、
『口』で、
『食いなさるのか?』、と。
答えて、こう言った、――
『食いません!』、
姉よ!、と。
――
『仰向いた!』、
『口』で、
『食いなさるのか?』。
――
『食いません!』。
――
『四方を向いた!』、
『口』で、
『食いなさるのか?』。
――
『食いません!』。
――
『四維を向いた!』、
『口』で、
『食いなさるのか?』。
――
『食いません!』。
  (し):女を親しみ敬って呼ぶ語。
  下口食(げくじき):四口食の一。出家の人、薬を合し穀を種え樹を殖うる等、不浄に活命するを云う。『大智度論巻3下注:四食』参照。
  仰口食(ぎょうくじき):四口食の一。出家の人、星宿日月風雨雷電霹靂を観視して、不浄に活命するを云う。『大智度論巻3下注:四食』参照。
  方口食(ほうくじき):四口食の一。出家の人、豪勢に曲媚し、使を四方に通じ、言を巧みにし多く求めて、不浄に活命するを云う。『大智度論巻3下注:四食』参照。
  四維口食(しゆいくじき):四口食の一。出家の人、種種の呪術を学し、吉凶を卜筮して、不浄に活命するを云う。『大智度論巻3下注:四食』参照。
  四食(しじき):梵語catvaara aahaaraaHの訳。又はaahaara-catuSka、巴梨語cattaaro aahaaraa、四種の食の意。(一)有情の衣身等を長養任持するに四種の食あるを云う。一に段食kavaDiM-kaaraahaara、又はkavalii-kaaraahaara(巴kabalinkaaraahaara)、二に触食sparzaa.(巴phassaa.)、三に思食manaH-samcetanaa.(巴mano-saGcetanaa.)、四に識食vijJaanaa.(巴viJJaaNaa.)なり。「長阿含巻8衆集経」に、「復た四法あり、謂わく四種食なり。摶食、触食、念食、識食なり」と云い、「中阿含巻7大拘郗羅経」に、「如何が食の如真なる、謂わく四食あり。一は摶食の麁細、二は更楽食、三は意思食、四は識食なり。是れを食の如真を知ると謂う」と云い、「倶舎論巻10」に、「食に四種あり、一に段、二に触、三に思、四に識なり」と云える是れなり。此の中、段食とは又摶食、揣食、見取食、麁摶食に作る。即ち段別して之を飲噉し、有情の依身を摂養滋長せしむるものを云う。香味触の三を以って其の体と為す。「雑阿毘曇心論巻10」に、「彼の摶食とは諸根四大を長養するが故に説いて食という」と云い、「倶舎論巻10」に、「是の如き段食は唯欲界に在り、段食と貪とを離れて上界に生ずるが故に唯欲界繋なり。香味触の三は一切皆段食の自体と為る。段別を成して飲噉す可きが故なり。謂わく口と鼻とを以って分分に之を受くるなり」と云い、「成唯識論巻4」に、「一には段食は変壊を相と為す。謂わく欲界繋の香味触の三は変壊の時に於いて能く食の事を為す。此れに由りて色処は段食に摂せらるる非ず、変壊の時に色は用なきを以っての故なり」と云える其の意なり。又此の段食に麁細の二種あり。「集異門足論巻8」には、「資養せられるる有情の大小、及び段に依って漸次に麁と細とを施設す」と云い、「成実論巻2四諦品」に、「揣食とは若しは麁、若しは細。飯等を麁と為し、酥油香気及び諸飲等は是れを名づけて細と為す」と云い、又「倶舎論巻10」に、「段に二種あり、謂わく細及び麁なり。細とは謂わく中有の食なり、香を食と為すが故なり。及び天と劫初の食なり、変穢なきが故に、油を砂に沃ぐが如く支に散入するが故なり。或いは細汗虫、嬰児等の食を説いて名づけて細と為す。此れに翻ずるを麁と為す」と云えり。是れ飯麨麺魚肉等を麁(巴oLaarika)、酥油香気及び諸の飲料等を細(巴sukhuma)となすなり。次に触食とは又細触食、細滑食、温食、更楽食、楽食とも名づく。即ち境に触することに由りて心心所を長養摂益するを云う。即ち有漏の根境識和合して生ずる所の諸触が、其の所取の境に対し喜楽等の愛を生じて心心所を摂益し、之に由りて諸根大種を長養するを云う。「長阿含経巻20忉利天品」に、「何等か衆生の触食なる、卵生の衆生は触食なり」と云い、「集異門足論巻8」に、「云何が触食なる。答う、若し有漏の触を縁となし、能く諸根をして長養し大種をして増益せしめ、又能く滋潤し随って滋潤し、乃至持し随って持する是れを触食と名づくる。其の事は如何、答う鵝、雁、孔雀、鸚鵡、鴝鵒、春鸚、離黃、命命鳥等が既に卵を生じ已り、時時に親附し、時時に覆育し、時時に温煖して楽触を生ぜしむるが如し」と云い、「雑阿毘曇心論巻10」に、「触と心心法を長養するが故に説いて食という」と云い、「成唯識論巻4」に、「二に触食は境に触するを相と為す。謂わく有漏の触が纔かに境を取る時、喜等を摂受して能く食の事を為す。此の触は諸識と相応すと雖も、六識に属する者は食の義偏に勝る。麁顕の境に触して喜と楽と及び順益の捨とを摂受して資養すること勝るるが故なり」と云える皆其の意なり。此の中、「長阿含」の説は所謂温食の意にして、卵が母鶏等の温熱を受けて資養せらるるを特に触食となせるものなり。又「増一阿含経巻21」には衣服等を触食となせり。即ち彼の文に、「所謂更楽食とは、衣裳繖蓋雑香華熏火及び香油と、婦人の為に集聚する諸余の身体の所更楽の者とを名づけて更楽食と為す」と云える是れなり。又「長阿含経巻20忉利天品」には、「何をか謂って四と為す、摶細滑食を第一と為し、触食を第二と為し、(中略)閻浮提の人は種種の飯麨麺魚肉を以って摶食と為し、衣服洗浴を細滑食と為す」と云えり。是れ衣服及び洗浴を以って摶食の一種と為すの説なるも、人の衣服等は卵の温熱を受けて発育すると其の義異ならざるが故に、彼の所謂細滑食は即ち今の触食の義に当れりというべし。次に思食とは又念食、意食、意思食、意念食、或いは業食とも名づく。即ち有漏の思業が欲と俱転して可愛の境を希望し、能く当有の果を引き、諸有をして滋長相続せしむるを云う。「長阿含経巻20」に、「何等か衆生の念食なる、衆生あり念に因りて存することを得、諸根増上して寿命絶えず。是れを念食と名づく」と云い、「集異門足論巻8」に、「云何が意思食なる、答う若し有漏を縁となして、能く諸根をして長養し、大種をして増益せしめ、又能く滋潤し随って滋潤し、乃至持し随って持する是れを意思食と名づく。其の事は云何。答う、魚、亀、鼈、室首摩羅、部盧迦等の出でて陸地に至り、諸卵を生じ已りて細沙をもて之を覆い、復た還って水に入るに、若し彼の諸卵が母を思うて忘れずんば便ち腐壊せざるが如し」と云い、「雑阿毘曇心論巻10」に、「意思とは当来の有を長養するが故に説いて食という」と云い、「成唯識論巻4」に、「意思食とは希望を相と為す。謂わく有漏の思が欲と俱転し、可愛の境を希うて能く食の事を為す。此の思は諸識と相応すと雖も、意識に属するものは食の義偏に勝る。意識は境に於いて希望すること勝れたるが故なり」と云える即ち其の意なり。又「増一阿含経巻21」には、「彼れ云何が名づけて念食と為す。諸の意中に念想する所、思惟する所のもの、或いは口を以って説き、或いは体を以って触れ、及び諸の所持の法なり。是れを名づけて念食と為すと謂う」と云えり。次に識食とは、有漏の識が前の段等の三食の勢力に由りて能く当来の果を起し、身命を執持して壊断せしめざるを云う。「長阿含経巻20」に、「何等か識食なる、地獄の衆生及び無色天、是れを識食と名づく」と云い、「集異門足論巻8」に、「云何が識食なる、答う若し有漏の識を縁となし、能く諸根をして長養し大種をして増益せしめ、又能く滋潤し随って滋潤し、乃至持し随って持する是れを識食と名づく。其の事は如何。答う、世尊の頗勒窶那に記を教うる経の中に説くが如し、頗勒窶那、当に知るべし、識食は能く当来の後有を生起せしむと。是の如き等の類を説いて識食と名づく」と云い、「雑阿毘曇心論巻10」に、「識とは名色を長養するが故に説いて食という」と云い、「成唯識論巻4」に、「四には識食は執持を相と為す。謂わく有漏の識は、段と触と思との勢力に由りて増長し、能く食の事を為す。此の識は諸識の自体に通ずと雖も、而も第八識は食の義偏に勝る。一類相続して執持すること勝れたるが故なり」と云える其の意なり。又「増一阿含経巻21」には、「彼れ云何が識食と為す。所念の識とは意の所知なり、梵天を首と為し、乃至有想天は識を以って食と為す。是れを名づけて識食と為すと謂う」と云えり。蓋し諸の有漏法は皆諸有を滋長するの義ありと雖も、上述の四種は其の義最も殊勝なるが故に特に立てて食となすなり。就中、初の二は現身の所依及び能依を資益するの義殊勝なり。所依とは即ち有根身にして、段食能く之を摂養し、能依とは心心所にして触食能く之を資益す。後の二は能く後有を引き、能く後有を起すの義に於いて殊勝なり。即ち当生に於いて思食能く引き、思食引き已りて業の所熏の識の種子力によりて、後有起ることを得るなり。又此の四食の中、段食は唯欲界に限り、余の三食は三界に通ず。但し四生五趣の別に随って其の主とする所自ら同じからざるものあり。「大毘婆沙論巻130」に、「問う、何の界に於いて幾ばくの食あるや、答う、欲界には四を具すれども段食偏に増し、色界には三あるも触食偏に増し、無色にも亦た三あるも下三無色は思食偏に増し、非想非非想処は識食偏に増す。有が説く、非想非非想処も亦た思食増す。一思能く八十千劫の寿量の果を感ずる故なりと。問う、何の趣に於いて幾ばくの食ありや。答う、地獄には四を具するも識食偏に増す。問う、地獄の中に何の段食あるや。答う、鎔銅汁を飲み、熱鉄丸を呑むを以って段食と為す。(中略)傍生は四を具するも随一偏に増す、種類処所差別あるが故なり。鬼趣には四を具するも思食偏に増す。(中略)人及び欲天は皆四食を具するも、然も段食偏に増す。(中略)問う、何の生に於いて幾ばくの食あるや、答う、卵生には四を具するも触食偏に増す。有が説く、思食増すと。(中略)有余師説く、若し母、卵中の子を憶念せば卵は即ち壊せず、母若し之を忘れば彼の卵は即ち壊すと。此れ理に応ぜず、所以は何ぞ、他の食を以って能く自らの命を持することなし、是の故に前説は理に於いて善と為す。胎生は四を具するも段食偏に増し、湿生は四を具するも触食偏に増し、化生は四を具するも随一偏に増す。種類処所に差別あるが故なり」と云える即ち是れなり。又此の四食を凡聖等に約して分別せば亦四種の異あり、一に非清浄依止住食、又不浄依止住食、或いは不清浄依止住食と名づく。二に浄不浄依止住食、三に清浄依止住食、又一向浄依止住食と名づく。四に能顕依止住食、又示現住食、或いは示現依止住食と名づく。「梁訳摂大乗論釈巻14」に、「四食とは一に非清浄依止住食なり、謂わく段等の四食は欲界の衆生の身をして相続して住することを得しむ。欲界の衆生は見修の二縛を具するが故に依止不清浄なり。此の依止は四食に由りて住することを得、故に非清浄依止住食と名づく。二に浄不浄依止住食とは謂わく業と識と触との三食は色無色界の衆生の身をして相続して住することを得しむ。此の二界の衆生は已に下界の惑を離れたるも、未だ自地及び上界の惑を離れざるが故に、依止は亦浄不浄なり。此の依止は三食に由りて住するを得、故に浄不浄依止住食と名づく。三に清浄依止住食とは、謂わく段等の四食は声聞縁覚の身をして相続して住することを得しむ。二乗の人は三界の惑已に尽くるが故に依止清浄なり。此の依止は四食に由りて住するを得、故に清浄依止住食と名づく。四に能顕依止住食とは、段等の四食悉く是れ諸仏の食なり。何を以っての故に諸仏は此の食に由るが故に、自身を顕して世に住するを得、施主の浄信を生長せんが為に、因の功徳善根の為の故なり。此の食は如来の食の事を作さず、如来の食時に諸天は為に受けて諸の衆生に施す。是れ如来の意の許す所なり。衆生此の食に由りて応に成仏を得べし。衆生をして成仏を得しめんが為の故に如来は手を以って食に触るることを示現す。此の如き等の義は悉く是れ甚深なり」と云い、「大乗阿毘達磨蔵集論巻5」に、「又此の四食の差別を建立するに略して四種あり、一に不浄依止住食、謂わく欲界の異生は具縛に由るが故なり。二に浄不浄依止住食、謂わく有学及び色無色の異生は余縛あるが故なり。三に清浄依止住食、謂わく阿羅漢等は一切の縛を解脱するが故なり。四に示現住食、謂わく諸仏及び已証の大威徳の菩薩は、食力を示現するに由りて住するが故なり」と云えり。又「長阿含巻9十上経、同巻10」、「大楼炭経巻4」、「起世経巻7」、「起世因本経巻7」、「大集法門経巻上」、「中阿含経巻49、54」、「雑阿含経巻14、15」、「大般涅槃経巻38」、「正法念処経巻18、67」、「大仏頂首楞厳経巻8」、「集異門足論巻1」、「大毘婆沙論巻129、130」、「雑阿毘曇心論巻8」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「瑜伽師地論巻5、50、57、66、94」、「摂大乗論釈論巻10」、「順正理論巻30」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻15」、「大乗義章巻8本」、「倶舎論光記巻10」、「成唯識論述記巻4末」、「大乗法苑義林章巻4本」、「成唯識論了義灯巻4末」、「華厳経疏巻28」、「同演義鈔巻48」、「宗鏡録巻50」、「法苑珠林巻99」、「釈氏要覧巻19」等に出づ。(二)諸比丘の遠離すべき四種の食の意。四邪命食、四口食、或いは四不浄食とも名づく。即ち下仰方維の四邪に依りて得たる食を云う。一に下口食、二に仰口食、三に方口食、四に維口食なり。維口食は又四維口食に作る。「大智度論巻3」に、「舎利弗、城に入りて乞食し、得已りて壁に向いて坐して食す。是の時梵志の女あり、浄目と名づく。来たりて舎利弗を見て、舎利弗に問うて言わく、沙門汝は食するや、答えて言わく食す。浄目言わく、汝沙門は下口食するや、答えて言わく不なり、姉よ。仰口食するや、不なり。方口食するや、不なり。四維口食するや、不なり。浄目言わく、食法に四種あり、我れ汝に問うに汝不と言う。我れ解せず、汝当に説くべしと。舎利弗言わく、出家の人あり、薬を合し穀を種え樹を殖うる等、不浄に活命する者は是れを下口食と名づく。出家の人あり、星宿日月風雨雷電霹靂を観視し、不浄に活命する者は是れを仰口食と名づく。出家の人あり、豪勢に曲媚し、使を四方に通じ、言を巧みにし多く求め、不浄に活命する者は是れを方口食と名づく。出家の人あり、種種の呪術を学し、吉凶を卜筮し、是の如き等の種種不浄に活命する者は是れを四維口食と名づく。姉よ、我れは是の四不浄食の中に堕せず、清浄乞食を用って活命す」と云える是れなり。是れ即ち諸比丘は是れ等の四邪命食を遠離し、唯乞食を以って清浄に自活すべきことを説けるものにして、之を名づけて正命食と云うなり。又「止観補行伝弘決巻4之1」、「大蔵法数巻21」等に出づ。<(望)
  四口食(しくじき):まさに四種邪命、四種邪食、四邪命食、四不浄食に作すべし。邪命とは正当ならざる方法に依って生活を謀ることをいい、戒律は比丘のまさに四種の邪命を遠離してただ清淨の乞食を以って活命すべしと規定する。『大智度論巻3』によれば、四種の邪命とは、即ち(1)下口食:田園に種植し、湯薬を和合し、以って衣食を求めて自ら活命するをいう、(2)仰口食:星宿、日月、風雨、雷電、霹靂等の術数を仰観し、以って衣食を求めて自ら活命するをいう、(3)方口食:豪勢に曲媚して使いを四方に通じ、巧言して多くを求め、以って自ら活命するをいう、(4)四維口食:四維とは乃ち堪輿家(風水家)所用の二十四方位中の四隅なり。種種の呪術、吉凶の卜算を学び、以って衣食を求めて自ら活命するをいう。<(望)
淨目言。食法有四種。我問汝。汝言不。我不解。汝當說。 浄目の言わく、『食法には四種有り。我れ、汝に問えるに、汝は不と言う。我れには解せず。汝、当に説くべし。』と。
『浄目』は、こう言った、――
『食法』には、
『四種有る!』ので、
わたしは、
お前に、
『問うた!』が、
お前は、
『そうでない!』と、
『言う!』。
お前は、
『四種の食法』を、
『説明せねばならない!』、と。
舍利弗言。有出家人合藥種穀殖樹等不淨活命者。是名下口食。 舎利弗の言わく、『有る出家人は、薬を合わせ、穀を種え、樹を殖うる等、不浄に活命すれば、是れを下口食と名づく。
『舎利弗』は、こう言った、――
有る、
『出家人』は、
『薬を合わせたり!』、
『穀(もみ)を種えたり!』、
『樹(たちき)を殖えたり!』等をして、
『不浄』に、
『活命している!』が、
是れを、
『口』を、
『下に向けて食う!』と、
『呼ぶ!』。
有出家人觀視星宿日月風雨雷電霹靂不淨活命者。是名仰口食。 有る出家人は、星宿、日月、風雨、雷電、霹靂を観視して、不浄に活命すれば、是れを仰口食と名づく。
有る、
『出家人』は、
『星宿、日月、風雨、雷電、霹靂を観察して!』、
『不浄』に、
『活命している!』が、
是れを、
『口』を、
『仰向けて食う!』と、
『呼ぶ!』。
有出家人曲媚豪勢通使四方巧言多求不淨活命者。是名方口食。 有る出家人は、豪勢に曲媚して、使を四方に通じ、言巧みに多く求めて、不浄に活命すれば、是れを方口食と名づく。
有る、
『出家人』は、
『豪勢』に、
『身を曲げて!』、
『媚を売り!』、
『四方』に、
『使者』を、
『通じたり!』、
『巧言』で、
『多く!』を、
『求めたりして!』、
『不浄』に、
『活命している!』が、
是れを、
『口』を、
『四方に向けて食う!』と、
『呼ぶ!』。
  豪勢(ごうせい):勢力ある者。
  曲媚(ごくみ):身を曲げて人に媚びること。
有出家人學種種咒術卜筮吉凶如是等種種不淨活命者。是名四維口食。 有る出家人は、種種の呪術を学び、吉凶を卜筮す。是れ等の如き、種種の不浄に活命する者、是れを四維口食と名づく。
有る、
『出家人』は、
種種の、
『咒術を学んで!』、
『吉、凶』を、
『卜筮する(占う)!』が、
是れ等のような、
種種に、
『不浄に!』、
『活命する!』者、
是れを、
『口』を、
『四維に向けて食う!』と、
『呼ぶのです!』。
  四維(しゆい):東西南北の四隅、即ち東南、南西、西北、北東の意、或いは陰陽の義を含むか。「淮南子巻1原道訓」に、「夫れ道なる者は天を覆い、地を載せ、(中略)四維に横たえて陰陽を含む」と云い、「同巻3天文訓」に、「禹、以って朝昼、昏夜と為し、夏日の至りには則ち陰は陽に乗じ、是を以って万物就きて死す。冬日の至りには則ち陽は陰に乗じ、是を以って万物仰ぎて生ず。昼は陽の分、夜は陰の分なり、是を以って陽気勝てば則ち日脩(なが)くして夜短し。陰気勝てば則ち日短くして夜脩し。帝、四維を張り、之を運(めぐら)すに斗(北斗七星)を以ってす」と云い、同じく後文に、「天地設くるを以って分れて陰陽と為る。陽は陰に於いて生じ、陰は陽に於いて生ず。陰陽相錯(まじわ)るに、四維乃ち通じて、或いは死し、或いは生じて、万物乃ち成る」と云えり。是れを推して考うるに、陰陽の相交わる所の処、即ち是れ四維なるを知るべし。陰陽の相交わるを豫め知らんとするは、即ち是れ卜筮なり。蓋し以って四維口食と名づくる所以なり。又「大漢和辞典四維の項」に依れば、「戯具の名。[太平御覧、工藝、四維]晋季秀四維賦序、四維戯とは、衞尉贄侯の造る所也、紙に画きて局と為し、木を截りて碁と為す。象元一を取り、分ちて二と為して陰陽の位に準じ、剛柔の象に擬すれば、変動無為、其の中に生ず」と云えり。是れも亦占いの道具なるが如し。
姊。我不墮是四不淨食中。我用清淨乞食活命。 姉、我れは是の四不浄食中に堕ちず、我れは清浄の乞食を以って活命せり。』、と。
姉よ!
わたしは、
是の、
『四種の不浄食』中に、
『堕ちてはいない!』。
わたしは、
清浄な、
『乞食を用いて!』、
『活命しているのだ!』。
是時淨目聞說清淨法食。歡喜信解。舍利弗因為說法得須陀洹道。如是清淨乞食活命故名乞士。 是の時、浄目は、清浄法の食を説くを聞き、歓喜し信解す。舎利弗は為に法を説くに因り、須陀洹道を得。是の如き清浄に乞食して活命するが故に、乞士と名づく。
是の時、
『浄目』は、
『清浄な!』、
『食法が説かれる!』のを、
『聞いて!』、
『歓喜し!』、
『法』を、
『信じて!』、
『理解した!』し、
『舎利弗』は、
『浄目』の為に、
『説法した因縁』で、
『須陀洹の道』を、
『得たのである!』。
是のような、
『清浄』の、
『乞食を用いて!』、
『活命する!』が故に、
『比丘』を、
『乞士』と、
『称するのである!』。
  須陀洹(しゅだおん):梵語srota-aapanna。預流、至預、入流、或いは逆流と訳す。四沙門果の一。即ち初果の聖者にして見惑を断尽せる者を云う。『大智度論巻18上注:須陀洹、同巻18下注:四向四果』参照。
復次比名破。丘名煩惱。能破煩惱故名比丘。 復た次ぎに、比を破と名づけ、丘を煩悩と名づくれば、能く煩悩を破るが故に、比丘と名づく。
復た次ぎに、
『比(梵bhi)』を、
『破る!』と、
『称し!』、
『丘(梵kSu)』を、
『煩悩(梵kleza<kSu)』と、
『称すれば!』、
『煩悩』を、
『破ることができる!』が故に、
是れを、
『比丘』と、
『称するのである!』。
  比丘(びく):梵語bhikSu、乞士と訳す。男子の出家入道して具足戒を受けたる者を云う。『大智度論巻1上注:比丘』参照。
  (び):梵にbhidに作り、破る、砕くと訳す。
  (く):梵にkSu、kSudhに作り、飢えると訳す。貪欲の義なり。
  比丘(びく、bhikSu):また苾芻、苾蒭、芻、煏備芻等に作り、意訳して乞士、乞士男、除士、薫士、破煩悩、除饉、怖魔等に為す。乃ち四衆の一、五衆の一、七衆の一にして出家得度して具足戒を受けし男子を指す。女子については比丘尼(びくに、bhikSuNii)といい、また苾芻尼、苾蒭尼、芻尼、煏備芻尼等に作り、意訳して乞士女、除女、薫女等に為し、出家得度して具足戒を受けし女子を指す。『大智度論巻3』によればこの比丘の語義に五種有り、即ち(1)乞士(乞食を行じ清淨の自活を以ってする者)、(2)破煩悩、(3)出家人、(4)清淨持戒、(5)怖魔なり。比丘の語原は求乞(bhikS)の一語より来たりて、また解いて梵(bhinna-kleza)と為すも可なり。<(佛)
復次出家人名比丘。譬如胡漢羌虜各有名字。 復た次ぎに、出家人を比丘と名づく。譬えば胡、漢、羌、虜の各に名字有るが如し。
復た次ぎに、
『出家人』を、
『比丘』と、
『称する!』のは、
譬えば、
『胡、漢、羌、虜の各各』にも、
『名字』が、
『有るようなものである!』。
  (こ):北方の異民族の名。
  (かん):国名。紀元前206年漢の劉邦の立てた国、また三国の一、また五胡十六国の一等。
  (きょう):西方の異民族の名。
  (りょ):とりこ。虜囚。また化外の民。
復次受戒時自言。我某甲比丘盡形壽持戒。故名比丘。 復た次ぎに、受戒の時、自ら、『我れ某甲比丘は、形寿を尽くすまで、持戒す』と言うが故に、比丘と名づく。
復た次ぎに、
『受戒の時』に、
自ら、こう言う、――
わたくし、
『某甲(何某)比丘』は、
『形寿( one's body and life )』を、
『尽くすまで!』、
『持戒する!』、と。
故に、
『比丘』と、
『称するのである!』。
  受戒(じゅかい):戒を受け、道に入るの義。『大智度論巻1上注:受戒』参照。
  形寿(ぎょうじゅ):形と寿。形寿を尽くすは一生涯の意。
復次比名怖。丘名能。能怖魔王及魔人民。當出家剃頭著染衣受戒。是時魔怖。 復た次ぎに、比を怖と名づけ、丘を能と名づくるは、能く魔王、及び魔の人民を怖(おど)すなり。出家するに当りて剃頭し、染衣を著けて、戒を受くるに、是の時を魔は怖る。
復た次ぎに、
『比(梵bhi)』を、
『怖(梵bhii)』と、
『称し!』、
『丘(梵kSu)』を、
『能(梵kSam)』と、
『称すれば!』、
則ち、
『魔王、及び魔の人民』を、
『怖(おど)すことができる!』。
『比丘』が、
『出家する!』時、
『頭を剃り!』、
『染衣を著けて!』、
『戒を受けるのである!』が、
是の時、
『魔』は、
『怖れるのである!』。
  染衣(せんね):梵名袈裟kaSaayaの訳。染色した衣の意。『大智度論巻1下注:袈裟』参照。
何以故怖。魔王言是人必得入涅槃。如佛說。有人能剃頭著染衣一心受戒。是人漸漸斷結離苦入涅槃 何を以っての故に怖るる。魔王の言わく、『是の人は必ず、涅槃に入るを得ん。』と。仏の説きたもうが如し、『有る人、能く頭を剃り、染衣を著け、一心に受戒すれば、是の人は漸漸に、結を断じて苦を離れ、涅槃に入る。』と。
『魔』は、
何故、
『怖れるのか?』、――
『魔王』が、
こう言うからである、――
是の、
『人』は、
必ず、
『涅槃』に、
『入ることができるだろう!』、と。
『仏』が、こう説かれた通りである、――
有る、
『人』が、
『頭を剃り!』、
『染衣を著けて!』、
『一心』に、
『戒』を、
『受けることができれば!』、
是の、
『人』は、
次第に、
『結を断じて』、
『苦を離れ!』、
やがて、
『涅槃』に、
『入るだろう!』、と。
云何名僧伽。僧伽秦言眾。多比丘一處和合是名僧伽。譬如大樹叢聚是名為林。一一樹不名為林。除一一樹亦無林。如是一一比丘不名為僧。除一一比丘亦無僧。諸比丘和合故僧名生。 云何が、僧伽と名づくる。僧伽とは、秦に衆と言う。多き比丘一処に和合するが故に、是れを僧伽と名づく。譬えば、大樹の叢聚は、是れを名づけて林と為し、一一の樹を名づけて林と為さず、一一の樹を除けば、亦た林無きが如し。是の如く、一一の比丘を名づけて、僧と為さず、一一の比丘を除けば、亦た僧無し。諸の比丘の和合するが故に、僧の名生ず。
何故、
『僧伽(梵saMgha)』と、
『称するのか?』、――
『僧伽』とは、
秦に、
『衆(多い!)』と、
『言うが!』、
則ち、
『多くの比丘』が、
『一処』に、
『和合する!』ので、
是れを、
『僧伽』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『大樹の叢聚』を、
『林と呼んで!』、
『一一の樹』は、
『林』と、
『呼ばれず!』、
『一一の樹を除けば!』、
『林』が、
『無くなるように!』、
是のように、
『一一の比丘』は、
『僧』と、
『呼ばれない!』が、
『一一の比丘を除けば!』、
『僧』も、
『無くなるのであり!』、
諸の、
『比丘』の、
『和合』の故に、
『僧の名』が、
『生じるのである!』。
  僧伽(そうぎゃ):梵語saMgha。又略して僧に作り、衆と訳す。三宝の一。即ち如来の教法を信受し、其の道を行じて入聖得果する者を云う。『大智度論巻26上注:僧』参照。
  叢聚(そうじゅ):群がり集まること。
  僧伽(そうが、saMgha):略して僧と称し、意訳して和、衆と為す。乃ち和合の意なり、故にまた和合衆、和合僧、海衆(衆僧和合して海水一味なるが如し、故に海を以って喩と為して海衆と称す)。また梵語と漢語と合せ称して僧侶と為す。この外にまた僧家、僧伍等の称有り。三宝の一と為し、即ち如来の教法を信受し、その道を奉行して、聖に入り果を得る者を指す。また即ち出家剃髪して仏より道を学び、戒、定、慧、解脱、解脱知見を具足し、四向四果に住する聖弟子を指し、或いは仏法を信受し、仏道を修行する団体を指す。蓋し如来成道の後、始めて鹿野苑に至り、阿若憍陳如等の五比丘を度せるを僧伽の濫觴と為す。<(佛)
是僧四種。有羞僧。無羞僧。啞羊僧。實僧。 是の僧は四種にして、有羞僧、無羞僧、唖羊僧、実僧なり。
是の、
『僧』は、
『四種有り!』、
『有羞僧』と、
『無羞僧』と、
『唖羊僧』と、
『実僧である!』。
  四種僧(ししゅそう):『大智度論巻3』によれば僧侶はその品位に依り有羞僧、無羞僧、唖羊僧、実僧の四種に分けられる。(1)有羞僧:また慚愧僧に作り、持戒して破らず、身口清淨にしてよく好醜を分つ羞恥心、慚愧心を有する僧を指す。(2)無羞僧:また破戒僧に作り、戒を破りて身口不浄、悪として作さざるは無しの無羞恥心の僧を指す。(3)唖羊僧:また愚癡僧に作り、愚癡無智なること唖羊の如き僧を指す。(4)実僧:また真実僧に作り、即ち真実の僧にして、学、無学の聖者を指す。<(佛)『大智度論巻22上注:沙門、同巻26上注:僧』参照。
  参考:『十誦律巻30』:『佛語諸比丘。清淨同見四比丘。是名眾僧。若五比丘清淨同見。是名眾僧。若十比丘清淨同見。是名眾僧。若二十比丘清淨同見。是名眾僧。是中四比丘清淨同見僧中。可如法作諸羯磨。除自恣羯磨。除受大戒羯磨。除出罪羯磨。是中五比丘清淨同見僧中。可如法作諸羯磨。除中國受大戒羯磨。除出罪羯磨。是中十比丘清淨同見僧中可如法作諸羯磨。除出罪羯磨。是中二十比丘清淨同見僧中。可如法作一切羯磨。爾時長老優波離問佛言。世尊。頗有僧不如法作羯磨耶。佛語優波離。有五種僧。一者無慚愧僧。二者羺羊僧。三者別眾僧四者清淨僧。五者真實僧。無慚愧僧者。破戒諸比丘。是名無慚愧僧。羺羊僧者。若比丘凡夫鈍根無智慧。如諸羺羊聚。在一處無所知。是諸比丘不知布薩。不知布薩羯磨。不知說戒。不知法會。是名羺羊僧。別眾僧者。若諸比丘一界。內處處別作諸羯磨。清淨僧者。凡夫持戒人及凡夫勝者。是名清淨僧。真實僧者學無學人。是名真實僧。是中前三種僧。能作非法羯磨。後二種不能作非法羯磨。』
云何名有羞僧。持戒不破。身口清淨。能別好醜。未得道。是名有羞僧。 云何が、有羞僧と名づくる。持戒して破らず、身口清浄にして能く好醜を別つも、未だ道を得ざる、是れを有羞僧と名づく。
何故、
『有羞僧』と、
『呼ばれるのか?』、――
是の、
『僧』は、
『戒』を、
『持(たも)って!』、
『破らない!』が故に、
『身、口が清浄であり!』、
『好、醜を別けることができる!』ので、
未だ、
『道』を、
『得ていなくても!』、
是れを、
『有羞僧』と、
『称するのである!』。
云何名無羞僧。破戒。身口不淨。無惡不作。是名無羞僧。 云何が、無羞僧なる。破戒の身口不浄にして、悪として作さざる無き、是れを無羞僧と名づく。
何故、
『無羞僧』と、
『呼ばれるのか?』、――
是の、
『僧』は、
『戒を破って!』、
『身、口』が、
『清浄でなく!』、
『悪』として、
『作らない!』ものが、
『無い!』ので、
是れを、
『無羞僧』と、
『呼ぶのである!』。
云何名啞羊僧。雖不破戒。鈍根無慧。不別好醜。不知輕重。不知有罪無罪。若有僧事。二人共諍。不能斷決。默然無言。譬如白羊乃至人殺不能作聲。是名啞羊僧。 云何が、唖羊僧と名づくる。破戒せずと雖も、鈍根、無慧にして、好醜を別たず、軽重を知らず、有罪と無罪とを知らず、若し僧に事有りて、二人共に諍うも、断決する能わず、黙然として無言なる、譬えば白羊の、乃至人の殺すまで、声を作す能わざるが如き、是れを唖羊僧と名づく。
何故、
『唖羊僧』と、
『呼ぶのか?』、――
是の、
『僧』は、
『戒を破らない!』が、
『鈍根であり!』、
『智慧が無い!』ので、
『好、醜』を、
『別ける!』ことを、
『知らず!』、
『軽、重』を、
『量る!』ことを、
『知らず!』、
『罪』の、
『有、無すら!』、
『知らない!』ので、
若し、
『僧』に、
『事』が、
『起っても!』、
則ち、
『二人』は、
『共に!』、
『諍(いさか)うばかりで!』、
『是、非』を、
『断定して!』、
『決心することができず!』、
『黙然として!』、
『言う!』ことが、
『無い!』。
譬えば、
『白羊』が、
『人』に、
『殺される!』に、
『至るまで!』、
『声』を、
『立てられない!』のと、
『同じなので!』、
是れを、
『唖羊僧』と、
『呼ぶのである!』。
云何名實僧。若學人若無學人。住四果中。行四向道。是名實僧。是中二種僧可共。百一羯磨說戒受歲種種得作。 云何が、実僧と名づくる。若しは学人、若しは無学人、四果中に住して、四向道を行ずる、是れを実僧と名づく。是の中に二種の僧とは、百一羯磨、説戒、受歳を共にして、種種に作すを得べし。
何故、
『実僧』と、
『称するのか?』、――
是の、
『僧』は、
或は、
『学人か!』、
『無学人であり!』、
則ち、
『四果』中に、
『住(とど)まりながら!』、
『四向』という、
『道』を、
『行くので!』、
是れを、
『実僧』と、
『称する!』。
是の中の、
『二種の僧(有羞僧、実僧)』は、
『百一羯磨(決議事項に賛否を表すこと)や!』、
『説戒(破戒に関する罪の申告)や!』、
『受歳(年越しの儀式)』を、
『共にすることができ!』、
種種に、
『行』を、
『作すことができる!』。
  学人(がくにん):梵語zaikSaの訳。尚お学すべきものある人の意。有学人の略称。『大智度論巻1下注:学人』参照。
  無学人(むがくにん):梵語azaikSaの訳。已に学ぶべきもの無き人の義。『大智度論巻22上注:無学道』参照。
  四果(しか):梵語catvaari-phalaaniの訳。小乗修道の位階に四種の別あるを云う。『大智度論巻2上注:四果、同巻18下注:四向四果』参照。
  四向(しこう):梵語catvaaraH-pratipannaaHの訳。四果に至る過程にあるを云う。『大智度論巻2上注:四向、同巻18下注:四向四果』参照。
  百一羯磨(ひゃくいちかつま):百一の義はその法数の多きが故に百といい、その多数の法に各々一種の羯磨有るが故に百一羯磨という。羯磨とは僧中に事を作すに、衆の同意賛成を求め、その事を成就する作法なり。
  説戒(せっかい):梵語布薩poSadhaの訳。即ち毎半月十五日等に集会し、各罪過を懺悔して清浄に住するを云う。『大智度論巻13下注:布薩』参照。
  受歳(じゅさい):歳は梵語varSaka、又はvarSaの訳。雨の義。又臘、臈、法﨟、戒臈、夏臈等に訳し、以って比丘の受具戒以来の年数を表わす。俗人は歳末除日を以って受歳するも、比丘は夏安居(梵vaarSika、四月十六日至七月十五日)の終る日、即ち七月十五日を以って受歳するを云う。
  羯磨(かつま):梵語karma、又はkarman。作業、或いは造作の義。辦事作法と訳す、即ち授戒、懺悔等の業事に関する一種の宣告式を指し、此の宣告文に由りて、其の事の成就するを以っての故なり。『大智度論巻16上注:羯磨』参照。
  参考:『十誦律巻56』:『有二種羯磨。一治罪羯磨。二成善羯磨。治罪羯磨者。謂苦切羯磨依止羯磨驅出羯磨下意羯磨擯羯磨。如是等苦惱羯磨。是名治罪羯磨。成善羯磨者。謂受戒羯磨布薩羯磨自恣羯磨出罪羯磨布草羯磨。如是等能成善法羯磨。是名成善羯磨。羯磨事者。隨所從因緣作羯磨。是名羯磨事。遮羯磨者。若羯磨時不如法作白。不如法唱說。別眾非法可壞。是名遮羯磨。不遮羯磨者。若羯磨時如法作白如法唱說。和合眾如法不可壞。是名不遮羯磨。出羯磨者。諸比丘語擯比丘言。汝已被舉。出去。僧不得與汝同事。何以故。僧已作羯磨。汝今出去。是名出羯磨。捨羯磨者。擯比丘僧還與解擯。還共作羯磨同事共住。是名捨羯磨。苦切事者。若比丘喜鬥亂諍訟。僧因是故作苦切羯磨。是名苦切。出罪事者。三種出罪事。若見若聞若疑。是三種事應以時出。莫以非時。當以實出。莫以妄語。當以利益出。莫以無益。當軟語出。莫以惡口。以慈悲心莫以瞋恨。‥‥出罪者。有五種如法出罪。不向不共住人別住人未受具足戒人出罪。出殘罪出見罪。是名如法出罪。白者。白眾是事故名白。有僧事初向僧說故名白。白羯磨者。受具足戒布薩說戒自恣等。是名白羯磨。白二羯磨者。若白已一唱說如是白二羯磨。是名白二羯磨。白四羯磨者。若白已三唱說。是三羯磨并白為四。是名白四羯磨。‥‥語者。比丘應語。長老。汝作某罪。是罪當發露。莫覆藏。當如法除滅。是名為語。憶念者。比丘應語。長老。汝憶念某時某處作如是罪不。是名憶念。說事羯磨者。汝長老。於此處不白我等不得餘處去。是名說事羯磨。‥‥』
  説戒(せっかい):布薩(ふさつ、poSadha、upavasatha、upoSadha、upavaasa)の訳語なり。また梵に優波婆素陀、優婆娑、布薩陀婆、布灑他、布沙他等に作り、また意訳して浄住、長浄、長養、増長、善宿、長住、近住、共主、断、捨、斉、断増長等に作る。即ち同住の比丘の半月毎に一処に集会し、或いは布薩堂(upposathaagaara、即ち説戒堂なり)に斉集して、律法に精熟せる比丘に請うて波羅提木叉(はらだいもくしゃ、pratimokSa、戒本)を説かしめ、以って過去半月内の行為の是非を戒本に合せて反省し、もし戒を犯せること有らば、則ち衆の前に於いて懺悔して、比丘をして均しくよく浄戒中に長住せしめ、善法を長養して功徳を増長せしむ。また在家信徒の六斎日に於いて八斎戒を受持することもまた布薩と称し、よく善法を増長せしむるを謂う。<(佛)
  受歳(じゅさい):比丘は夏安居(げあんご、外出を禁じられる雨季の三ヶ月間)をおえると、法臈(ほうろう、比丘の受戒以来の年数)に一を増す、これを受歳という。
  羯磨(かつま、karman):訳して作業といい、授戒、懺悔等の業事を作す一種の宣告式なり。この宣告文に由りその事の成就するを以っての故に名づく。『慧苑音義上』に云わく、羯磨とはこれ辦事と云い、所謂諸の法事はこれに由りて成辦するなり、と。この羯磨には必ず四法を具う、(1)法:正しく挙行の作法なり、これを名づけて秉法(へいほう、執事法)と為す。(2)事:或いは犯罪の事、或いは懺悔の事等、羯磨の行う所の事実なり。(3)人:羯磨を就行して定むる人数なり。(4)界:羯磨を行う処の結界なり。『四分律刪繁補闕行事鈔上一』に見るに、またその秉法に三種有り、心念法、対首法、衆僧法なり。(1)心念法とは、事の微小に至る時、或いは界中に人無し、衆僧及び対首する者無しといえども、また独り心念の境を発して明了に口にこれを言えば、則ちその事成辦す、これを独秉という。この心念法にまた三有り、一は但心念法:ただ自ら説くを得れば、仮令界中に人有るも、またこれに対するを要せず、軽微を懺悔する突吉羅罪(とっきらざい、duSkRta、戒律の罪名、微罪)の如し。二は対首心念法:原はこれ対首法なれど、界内無人なるに由り仏は心念を開いて、薬等を浄受する事を説きたまえり。三は衆法心念:原はこれ衆僧法なれど、ただ界内無人なれば、故に独秉の心念を開く。(2)対首法とは、対首とは、一人以上三人の比丘に対してこれを説くなり。これに二有り、一は但対首法:当分の対首法と為すが故に界中に多僧有るも要ずしもこれを用いず、一人乃至三人に対首すれば則ち事足るなり、三衣等を受くる事これなり。二は衆法対首:衆僧法と為すべきに界中無人なれば対を開くこと、前の心念と同じなり。(3)衆僧法とは、必ず四人以上にて羯磨を秉(と)る、これを僧の秉る所と為すが故に衆僧法と曰い、また僧秉と云う(慈恩は三人以上を以って衆と為し、南山は四人以上を以って衆と為す)。これに三有り、一は単白なり、或いは白一という(これを唱言と為さば、以って白一と為すこと不可なり。これ実は羯磨の形式に非ず、この唱言と決定との二を合せて羯磨成就す)、或いは事、或いは常に行う所、或いは厳制を僧に一説告して、事は便ち成るなり。二は白二なり、参渉して宜しく和を通じることに由るが故に、先に表白を為して事を挙げて告知し、後に一羯磨を挙げて処の可不を量るなり。白及び羯磨に通じ、これを白二と謂う。三は白四なり、受戒、懺重等の事に於いて先に一白を以って事を告げて知らしめ、後に三回羯磨を挙げて処の可不を量るなり。一白三羯磨を合せて白四と為す。<(佛)
是中實聲聞僧六千五百。菩薩僧二種。有羞僧實僧。以是實僧故餘皆得名僧。以是故名比丘僧 是の中の実の声聞僧は六千五百、菩薩僧は二種にして有羞僧と、実僧なり。是の実僧を以っての故に、余も皆、僧と名づくるを得、是を以っての故に、比丘僧と名づくるなり。
是の中に、
『実僧』は、
『声聞』が、
『六千五百!』、
『菩薩僧』は、
『有羞僧、実僧』の、
『二種であった!』が、
是の中の、
『実僧』の故に、
『余の僧』も、
皆、
『僧』と、
『呼ばれるのであり!』、
是の故に、
『比丘僧』と、
『称するのである!』。



大数五千分

【經】大數五千分 大数は五千分なり。
『大数(概数)』は、
『五千分()である!』。
【論】云何名大數。少過少減。是名為大數。云何名分。多眾邊取一分。是名分。是諸比丘千萬眾中。取一分。五千人以是故名五千分 云何が、大数と名づくる。少しく過ぎ、少しく減ずる、是れを名づけて大数と為す。云何が、分と名づくる。多くの衆の辺より一分を取る、是れを分と名づく。是の諸の比丘は、千万の衆中より、一分を取りたる五千人なり、是を以っての故に、五千分と名づく。
何故、
『大数』と、
『呼ぶのですか?』。
即ち、
『少しばかり!』、
『多過ぎるか!』、
『少過ぎれば!』、
是れを、
『大数』と、
『称する!』。
何故、
『分』と、
『呼ぶのですか?』。
即ち、
『多衆(多人数)の辺』より、
『一分』を、
『取れば!』、
是れを、
『分』と、
『称する!』。
是の、
『諸比丘の千万衆』中より、
『一分の五千人』を、
『取った!』ので、
是の故に、
『五千分』と、
『称するのである!』。



皆、阿羅漢である

【經】皆是阿羅漢 皆、是れ阿羅漢なり。
皆、
是れは、
『阿羅漢( arhat )である!』。
  阿羅漢(あらかん):梵語arhat、応、応供、応真と訳す。声聞四果の一。又如来十号の一。一切の煩悩を断尽して尽智を得、世人の供養を受くるに適当なる聖者を云う。『大智度論巻2下注:阿羅漢』参照。
【論】問曰。云何名阿羅漢。阿羅名賊。漢名破。一切煩惱賊破是名阿羅漢。 問うて曰く、云何が、阿羅漢と名づくる。阿羅を賊と名づけ、漢を破と名づけ、一切の煩悩の賊を破る、是れを阿羅漢と名づく。
問い、
何故、
『阿羅漢』と、
『称するのか?』。
答え、
『阿羅(梵ara)』を、
『賊(梵ariの訳)』と、
『称し!』、
『漢(梵hat)』を、
『破る(梵hanの訳)』と、
『称して!』、
一切の、
『煩悩という!』、
『賊』を、
『破る!』が故に、
是れを、
『阿羅漢』と、
『称するのである!』。
復次阿羅漢一切漏盡故。應得一切世間諸天人供養。 復た次ぎに、阿羅漢は、一切の漏の尽くるが故に、応に一切の世間の、諸の天、人の供養を得べし。
復た次ぎに、
『阿羅漢(梵arhat: 受けるに足る deserving )』は、
一切の、
『漏』が、
已に、
『尽きた!』が故に、
一切の、
『世間の諸の天、人』の、
『供養を受ける!』に、
『相応しい!』。
復次阿名不。羅漢名生。後世中更不生。是名阿羅漢 復た次ぎに、阿を不と名づけ、羅漢を生と名づけ、後世中に更に生ぜざる、是れを阿羅漢と名づく。
復た次ぎに、
『阿(梵a)』を、
『不』と、
『称し!』、
『羅漢(梵ruhat:騰起する rise-up )』を、
『生』と、
『称すれば!』、
即ち、
『後世』中に、
『更に!』、
『生じない!』が故に、
是れを、
『阿羅漢』と、
『称するのである!』。



諸の漏は已に尽きた

【經】諸漏已盡 諸漏已に尽く。
諸の、
『漏(煩悩)』は、
已に、
『尽きた!』。
  (ろ): 梵にaasravaの訳。流注、漏泄の意にして、煩悩の異名なり。煩悩の滅尽を即ち称して漏尽と為す。即ち衆生の因を煩悩と為し、常に眼耳等の六根の門に由り過患を漏泄するを謂う。また生死の中に三界を流転するが故にこの煩悩を称して漏と為す。『大智度論巻20下注:漏』参照。
  (ろ):梵にaasrava、asravaに作り、訳して流注、漏泄と為す、煩悩の異名なり。煩悩の滅尽を即ち称して漏尽と為す。即ち衆生の因を煩悩と為し、常に眼耳等の六根の門に由り過患を漏泄するを謂う。また生死の中に三界を流転するが故にこの煩悩を称して漏と為す。
【論】三界中三種漏已盡無餘。故言漏盡也 三界中の三種の漏、已に尽きて余無きが故に、『漏尽く』と言う。
『三界』中の、
『三種の漏(欲、有、無明漏)』が、
『已に、尽きて!』、
『余(殘り)が無い!』が故に、
こう言うのである、――
『漏』が、
『尽きた!』、と。
  三種漏(さんしゅのろ):欲漏、有漏、無明漏の総称。『大智度論巻3下、巻19上注:三漏』参照。
  三漏(さんろ):三種の汚染( three kinds of contamination )、梵語 traya aasravaaH の訳。梵語 aasrava は漏と訳し、飯を炊く時に出る泡( the foam on boiling rice )、又流水に向って開き、水の流れるがままの状態にある扉( a door opening into water and allowing the stream to descend through it )の義、外境に向って心を駆り立てる五感の行動/苦痛/苦悩/煩悩( the action of the senses which impels the soul towards external objects, distress, affliction, pain )の意。即ち、
  1. 欲漏(梵 kaamaasrava ):欲望による汚染 the contamination of desire,
  2. 有漏(梵 bhaavaasrava ):存在による汚染 the contamination of existence,
  3. 無明漏(梵 avidyaasrava ):無知による汚染 the contamination of nescience.
  参考:『北本大般涅槃経巻37』:『迦葉菩薩復白佛言。世尊。如佛所說三有漏者。云何名為欲漏有漏無明漏耶。佛言。善男子。欲漏者。內惡覺觀因於外緣生於欲漏。是故我昔在王舍城告阿難言。阿難。汝今受此女人所說偈頌。是偈乃是過去諸佛之所宣說。是故一切內惡覺觀外諸因緣。名之為欲。是名欲漏。有漏者。色無色界內諸惡法外諸因緣。除欲界中外諸因緣內諸覺觀。是名有漏。無明漏者。不能了知我及我所。不別內外。名無明漏。善男子。無明即是一切諸漏根本。何以故。一切眾生無明因緣於陰入界憶想作相。名為眾生。是名想倒心倒見倒。以是因緣生一切漏。是故我於十二部經說無明者。即是貪因瞋因癡因。』
  三漏(さんろ):又三有漏に作り、衆生をして三界の欲漏、有漏、無明漏等の三種の煩悩に留住せしむるを指す。(1)欲漏:また欲有漏に作り、即ち欲界に繋縛する所の煩悩三十六睡眠中、五部の無明を除きし外、その余の三十一種に別に十纏を加え称して欲漏と為し、共に四十一種を計す。(2)有漏:また有有漏に作り、即ち色界、無色界に繋縛する所の根本煩悩の各々三十一睡眠中より各々五部の無明を除きしその余の二十六種、二界を合せて五十二種と為す。(3)無明漏:三界五部の無明なり、即ち三界の癡の煩悩を称して無明漏と為す。<(佛)



もう煩悩は無い

【經】無復煩惱 復た煩悩無し。
復た(もう)、
『煩悩』は、
『無い(存在しない)!』。
【論】一切結使流受扼縛蓋見纏等斷除故。名無煩惱也 一切の結、使、流、受、扼、縛、蓋、見、纏等を断除するが故に、無煩悩と名づく。
一切の、
『結(人を生死に結びつける)』、
『使(人を駆使して六趣の迷境を流転させる)』、
『流(人を欲、有、見、無明の境に漂流させる)』、
『受(人に種種の苦を受けさせる)』、
『扼(人を無明の軛に結びつける)』、
『縛(三毒に縛せられて自在を得ない)』、
『蓋(善心を蓋障して修行を妨げる)』、
『見(正道を失わせ、生死の境に沈没させる)』、
『纏(心に纏結して、修善を妨ぐ)』等を、
『断ち切って!』、
『除き去る!』が故に、
是れを、
『煩悩が無い!』と、
『称する!』。
  煩悩(ぼんのう):梵語吉隷舎klezaの訳。又意訳して惑に作る。即ち衆生の身心に悩、乱、煩、惑、汚等を発生せしむる精神作用の総称なり。人は意識或いは無意識の間に、我欲、我執の目的に到達せんが為に、恒に苦楽の境域に沈淪し、而も煩悩の束縛を招致す。これに種種の異名有り、その作用によって所謂随眠、纏、蓋、結、縛、漏、取、繋、使、垢、暴流、軛、塵垢、客塵等の各種の名称あるも種種の煩悩の中に貪、瞋、癡の三惑を以って一切の煩悩の根源と為す。これ等の煩悩の名称の用法には広狭の二義有りて、もし加うるに以って分類せば則ち極めて複雑を為す。倶舎等によれば、通常煩悩を分くるに根本煩悩(本惑、根本惑)、枝末煩悩(随惑、随煩悩)の二種と為し、根本煩悩をまた分かちて貪、瞋、癡(無明)、慢、疑、見(悪見)等の六煩悩(随眠)と為し、その中にも、見はまた分くべくして有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見等の五種と為し、合せ称して十煩悩(十使)と為す。見には推察探求の性質有りて、その作用の猛利なるにより称して五利使と為し、その他を称して五鈍使と為す。また他にも倶舎、唯識共に更に多くの分類法有り。<(望)
  (けつ):梵語bandhana或いはsaMyojanaの訳。煩悩の異名なり。又結使に作る。使は即ち使煩悩(煩悩せしむ)、結は繋縛の義と為す。蓋し煩悩は衆生を迷境に繋縛して生死の苦を出離せしめず、故にこの称有り。諸の経論の所説には結の類別に多種有り、略して下に挙ぐるが如し。(一)二結:『中阿含経巻33』によれば、結に慳、嫉の二種有り。(二)三結:『増一阿含経巻17』によれば、邪結(また身見結に作る)、戒盗結(また戒禁取見結に作る)、疑結等の三結を出だす。五見と疑等の六煩悩も、またこの三結中に包含す。『阿毘曇甘露味論』、『倶舎論巻21』等によれば、愛、恚、無明の三者を称して三結と為す。もしこの三結を断滅せば、則ち預流果を得て、よく一切の見惑を断つべし、と。『光讃般若経巻2』によれば、貪身、狐疑、毀戒等三者を挙げて三結と為す。(三)四結:『増一阿含経巻20』によれば、欲結、瞋結、癡結、利養結等の進取を挙げ、また四身結、四縛と作す。即ち『成実論巻10』、『毘婆沙論巻2』、『大乗義章巻5』等によれば、貪嫉身結、瞋恚身結、戒取身結、貪著是実取身結(また見取身結に作る)を挙ぐ。(四)五結:『中阿含経巻56』、『阿毘達磨発智論巻3』、『集異門足論巻12』、『倶舎論巻21』等の所説の五結は分ちて五下分結と五上分結との二種と為し、五下分結は衆生を将いて欲界に結縛する五種の煩悩、即ち有身見結、戒禁取見結、疑結、欲貪結、瞋恚結等の五種と為し、五上分結を衆生を将いて色界、無色界に結縛する五種の煩悩、即ち色貪結、無色貪結、掉挙結、慢結、無明結等の五結と為し、総じて上記を摂すれば、欲界、色界、無色界等の五結を貪結、瞋結、慢結、嫉結、慳結等の五結なり。(五)九結:『雑阿含経巻18』、『阿毘達磨発智論巻3』、『辯中辺論巻上』等によれば、愛、恚、慢、無明、見、取、疑、嫉、慳等の九種の煩悩を九結と為す。これを六種の根本煩悩に係くるに、まさに見を分ちて身、辺、邪の三見を称して見結と為し、見取見と戒禁取見とを合せて取結と為すべきに、上の嫉結、慳結を加えて九結を成すなり。また『大毘婆沙論巻50』には九結の体(自性)は共に一百種を有すと説く。<(佛)
  使(し):煩悩の異名なり。全きは正使と称すべし。煩悩の吾人を駆使して迷の世界(生死)に流転せしむるに因り、故に煩悩を称して使と為す。随眠(ずいみん、anuzaya)と同義なり。十随眠(貪、瞋、慢、癡、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見、疑)中に於いて、見性に属するを有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見等の五見と為し、その道理を推求するに性質は比較的猛利なるが故に五利使と称し、その余の貪、瞋、癡、慢、疑の性質は則ち比較的遅鈍にして以って制伏することの難きが故に五鈍使と称す。<(佛)
  (る):又暴流(ぼうる、ogha)に作り、之に四有れば四暴流(しぼうる、catvaara oghaaH)、四流、四大暴河、四瀑河に作る。即ち煩悩の異名なり。煩悩のよく善品をして流失せしむること、なお洪水の家屋、樹木をして流失せしむるが如し。かつ暴流には漂激、騰注、墜溺の義を倶有し、所謂諸の煩悩等は衆生を漂激、騰注、墜溺し、それをして諸界、諸趣、諸生に於いて生死に流転せしむ。故に四暴流とは乃ち善品を流失せしむる四類の煩悩を指す。『増一阿含経巻23』によれば、即ち(一)欲暴流(kaama-ogha):即ち眼、耳、鼻、舌、身の五根は色、声、香、味、触等の五境に相応して、ここに識想を起す、即ち所謂五欲なり。(二)有暴流(bhava-ogha):所謂有とは三界の有にして、欲有、色有、無色有の三有これなり。(三)見暴流(dRSTy-ogha):錯誤、偏邪の思想、見解なり。例えば世界を視るに有辺界、或いは無辺界と為す、世間を謂いて有情、或いは無常と為す、如来の死後の存在、不存在を臆度する等の邪見なり。(四)無明暴流(avidyaa-ogha):即ち無知、無信、無見なり。心意貪欲にして恒に希望あり。及びその五蓋、貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、調戯蓋、疑蓋あり。若しはまた苦を知らず、集を知らず、尽を知らず、道を知らず、これを名づけて無明流と為す。<(佛)
  (じゅ):梵語vedanaaの訳。心所の名にして五蘊の一と為す。また受は根(感官)、境(対象)、識(認識の主体)三者和合の触(即ち接触感覚)によって生ず。受の分類に種種有り、『雑阿含経巻17』によれば、(一)一受:受の自相に苦、楽、捨等の三種有りといえども、苦受は苦苦に属し、楽受は壊苦に属し、捨受は行苦に属せば、一切は皆苦なり、故に一受と称す。(二)二受:心受、身受を合せて二受と称す。(1)身受:眼識乃至身識等の前五識の感受は肉体の受に属せば、故に身受と称す。(2)心受:第六身識の感受は精神の受に属せば、故に心受と称す。外に『大毘婆沙論巻115』等参照。(三)三受:受の自相に依って分別する所有り、即ち、(1)楽受は可愛の境に対して感受し、(2)苦受は不可愛の境に対して感受し、(3)捨受はまた不苦不楽受に作りて、苦楽の受に非ず、即ち非可愛、非不可愛の境に対する感受なり。(四)四受:界繋の不同に依り分別する所有り、(1)欲界繋受:また有味著受と称し、所謂自体に属する愛相応の受なり、(2)色界繋受、(3)無色界繋受、(4)不繋受なり。後の三項はまた無味著受と称し、不相応の受に属す。(五)五受:また五受根と称し、身、心受の自相に依って別有り、(1)楽受:また楽根と称し、五識相応の身悦、及び第三禅の意識相応の受なり、(2)喜受:また喜根と称し、初、二禅及び欲界の意識相応の心悦なり、(3)苦受:また苦根と称し、五識相応の身不悦なり、(4)憂受:また憂根と称し、意識相応の心不悦なり、(5)捨受:また捨根と称し、身心の非悦、非不悦なり。また別に五受あり、(1)自性受:受の心所なり、即ち苦、楽等の諸受をいう。(2)相応受:即ち苦、楽等の諸受に相応する触の心所なり。(3)所縁受:また境界受と称し、苦、楽等の諸受の境界をいう。(4)異熟受:また報受と称し、異熟の諸業を感受するをいう。(5)現前受:所謂苦、楽等の諸受の中に正しく現行を起す者なり。(六)六受:また六身受、六受法と称し、六根、六識を経由して以って六境を覚知するを得、また根、境、識等の和合の六触に由り産生する眼触所生の受乃至意触所生の受なり。(七)十八受:また十八意近行受と称し、六喜意近行、六憂意近行、六捨意近行等と為す。所謂喜、憂、捨等の三受は意識を以って近縁と為し、各々色、声等の六境に於いて活動す、乃ち十八受有り。(八)三十六受:また三十六師句と称し、所謂前項の十八意近行に各々染品と善品との別有りと為す。(九)百八受:所謂前項の三十六受に各々過去、現在、未来の三世の別有りと為す。(十)無量受:この外にも無量の受有りと為す。<(佛)
  (やく):梵語yogaの訳。馬に軛(くびき)をつけるの義。之に四軛(梵catvaaro yogaaH)有るも、皆四暴流に同じものと為す。
  (ばく):梵語bandhanaの訳。拘束の義。(一)貪等の煩悩が衆生を拘束して自在ならざらしむるをいう。『品類足論巻1』に「縛とは云何、諸の結をまた縛と名づく。また三縛有り、謂わく貪縛、瞋縛、癡縛なり」といい、『順正理論巻54』に「よく繋縛するを以っての故に縛の名を立つ。即ちこれよく離染に趣くを遮するの義なり、また『大乗阿毘達磨群集論巻6』に「善方便に於いて自在を得ざるが故に名づけて縛と為す。なお外の縛の諸の衆生を縛して、二事に於いて自在を得ざらしむるが如し。一には意に随って遊行するを得ず、二には所在の処に於いて意に随って所作するを得ず。まさに知るべし、内法の貪瞋癡の縛もまたまたかくの如し』と云えるこれなり。(二)相応縛、所縁縛の別有り、即ち随眠が童子の心心所法を縛するを相応縛とし、所縁の法を縛するを所縁縛と為すなり。『大毘婆沙論巻86』に「所縁縛とは、ただ有漏に於いてのみ随眠は彼を縁じて必ず随増するが故なり。無漏を縁ずといえども、随増せざるが故に縛の義無し。相応縛とは要ず彼の煩悩の未断なるに相応し、煩悩断じおわらば相応すといえども縛の義無し云云」、と云えるこれなり。<(望)
  (がい):梵語aavaraNaの訳。覆障の義にして煩悩の異名なり。煩悩は善心を覆障するが故に称して蓋と為す。五種の蓋有り、即ち貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉挙悪作蓋、疑蓋を合せて五蓋と称す。<(佛)
  (けん):梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。観視、推度の義にして、眼の所見に由りて或いは推想し、某事に対して一定の見解を産生するを指す。所謂見解、思想、主義、主張の意にして、正見、邪見等の別あり。これを分類するに二見、五見、七見、十見等の別有り、(一)二見:有見と無見、或いは断見と常見等を指し、これは五見の中の辺見なり。(二)五見:(1)身見:また有身見、我見等に作り、「我」の存在の有に執すを我見と為し、これは我に属すと為すを以って則ち我所見と称す、(2)辺見:また辺執見に作り、極端な一辺の見解に偏執す。例えば我は死後にも常住不滅なりと謂うを常見(有見)と為し、我は死後には則ち断絶すと謂うを称して断見(無見)と為す。(3)邪見:因果の道理を否定する見解なり。(4)見取見:即ち錯誤の見解に執著して以って真実と為せる者なり。(5)戒禁取見:また戒取見、戒盗見に作り、即ち不正確なる戒律、禁制等を視て涅槃に達すべき戒行と為し、この種の執著を即ち戒禁取見と為す。(三)七見:五見に(6)果盗見:邪行に由る所得の結果を正確なりと為して執著す、(7)疑見:真理を懐疑す等を加えて七見と為す。(四)十見:五見に貪見、恚見、慢見、癡見、疑見等を加えて十見と為す。<(佛)
  (てん):梵語paryavasthaanaの訳。心の纏縛はよく修善を妨礙するを指し、煩悩(尤も随煩悩を指す)の異名と為す。無慚、無愧、嫉、慳、悔、睡眠、掉挙、惛沈等の八随煩悩を称して八纏と為し、八纏に忿、覆を加えて則ち十纏と為す。<(佛)



心に好解脱を得、慧に好解脱を得た

【經】心得好解脫慧得好解脫 心に好解脱を得、慧に好解脱を得。
『心』には、
『好解脱』を、
『得ており!』、
『慧』にも、
『好解脱』を、
『得ている!』。
  (しん):梵語cittaの訳。心法或いは心事とも名づく。即ち縁慮の用を有する法を云う。『大智度論巻14上注:心所有法、同巻19下注:心』参照。
  (え):梵語prajJaaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。事理を簡択する精神作用を云う。『大智度論巻14上注:心所有法、同巻23下注:慧』参照。
【論】問曰。何以說心得好解脫慧得好解脫。 問うて曰く、何を以ってか、『心に好解脱を得、慧に好解脱を得。』と説く。
問い、
何故、こう説くのですか?――
『心』には、
『好解脱』を、
『得ており!』、
『慧』にも、
『好解脱』を、
『得ている!』、と。
答曰。外道離欲人。一處一道心得解脫。非於一切障法得解脫。以是故。阿羅漢名心得好解脫慧得好解脫。 答えて曰く、外道の離欲人は、一処、一道の心に解脱を得るも、一切の障法に於いて、解脱を得るに非ず。是を以っての故に、阿羅漢を、心に好解脱を得、慧に好解脱を得と名づく。
答え、
『外道』の、
『離欲人』は、
『一処、一道の心』に、
『解脱』を、
『得たのであり!』、
『一切の障法』に、
『解脱』を、
『得たのではない!』。
是の故に、こう言うのである、――
『阿羅漢』を、
『心』にも、
『好解脱』を、
『得ており!』、
『慧』にも、
『好解脱』を、
『得ている!』、と。
  障法(しょうほう):聖道を覆蔽し出離を遮蓋すべき煩悩等の法の意。『大智度論巻3下注:障』参照。
  (しょう):梵語aavaraNaの訳。巴梨語同じ、障礙の意。又礙とも称す。即ち聖道を覆蔽し出離を遮蓋する煩悩等を云う。『大毘婆沙論巻115」に、「問う、何故に障と名づくるや、答う、是の如きの三種は能く聖道、及び聖道の加行の善根を礙う、是の故に障と名づく」と云い、「倶舎論巻24」に、「多の麁重能く違害するに由るが故に、出離に非ざるが故に、説いて名づけて障と作す。此れ能く自地を越ゆるを礙するに由るが故なり。獄の厚壁の能く出離を障うるが如し」と云える是れなり。蓋し諸経論に障の種別を説くこと同じからず。「発智論巻11」には聖道及び聖道の加行を礙うるものに煩悩障、業障、異熟障の三種ありとす。就中、数数現行する恒起の煩悩を煩悩障となし、五無間業を業障となし、三悪趣並びに人趣中の北洲及び無想天を以って異熟障となすなり。「倶舎論巻18」に此の中の業障に関し、「異熟業の三時の中に於いて極めて能く障を為すあり。三時と言うは頌に曰わく、将に忍と不還と無学とを得んとするに業を障と為す。論じて曰わく、若し頂位より将に忍を得んとする時、業は皆極めて障を為す。忍は彼の異熟地を超ゆるを以っての故なり。人の将に本所居の国を離れんとするに、一切の債主皆極めて障を為すが如し。若し不還果を得んとすることある時、欲界繋の業は皆極めて障を為す、唯現法受に随順する業を除く。若し無学果を得んとすることある時、色無色界の業は皆極めて障を為す、亦順現を除く。」と云えり。以って異熟業は特に忍位等の三時に於いて極めて障を為すものなるを知るべし。又「倶舎」等には別に定を障うる劣無知を立てて解脱障となすなり。即ち彼の「論巻25」に、「唯慧に依りて煩悩障を離るる者に慧解脱を立て、兼ねて定を得るに依りて解脱障を離るる者に倶解脱を立つ」と云える是れなり。是れ慧を障うるを煩悩障となすに対し、定を障うるを解脱障、又は定障と名づけたるなり。又「大乗瑜伽金剛性曼殊室利千臂千鉢大教王経巻5」には瑜伽秘密の三摩地を礙うるものに、我慢重障、嫉妒重障、貪欲重障の三種ありとし、「釈禅波羅蜜次第法門巻4」には修定を礙うるものに、沈昏闇蔽障、悪念思惟障、境界通迫障の三種ありとなせり。此等は皆定障を分別せるものというべし。又「金光明最勝王経巻2三身品」には、惑障、業障、智障の三障を説き、惑障清浄なれば能く応身を現じ、業障清浄なれば能く化身を現じ、智障清浄なれば能く法身を現ずと云えり。大乗唯識家に於いては一切の障を煩悩障及び所知障の二種に総該し、所知障の中、更に異生性障等の十重障を分別し、之を十地の所断となすなり。「成唯識論述記巻1本」に、「障は謂わく覆礙なり。所知の境を覆うて智をして生ぜざらしめ、大涅槃を礙えて顕証せざらしむ。故に名づけて障となす」と云えり。是れ所知の境を覆うて智をして生ぜざらしむるを所知障と名づけ、大涅槃を閡えて現証せざらしむるを煩悩障となすの意なり。又此の二障は生死相続に於いて業の助縁となるなり。故に「成唯識論巻8」に、「因とは謂わく有漏無漏の二業なり、正しく生死を感ずるが故に説いて因と為す。縁とは謂わく煩悩所知の二障なり。助けて生死を感ぜしむるが故に説いて縁と為す」と云えり。又煩悩障は我執を根本と為して余の諸の煩悩を生じ、所知障は法執を根本と為して余諸惑を生ず。即ち執に由らずして生ずる障なしとなすなり。又「菩薩地持経巻9住品」、「梁訳摂大乗論釈巻4」等には、所知障を皮、膚、骨の三種に分ち、十三住の中、歓喜住に皮障を断じ、無開発無相住に膚障を断じ、如来住に骨障を断ずとなせり。又「解深密経巻3分別瑜伽品」には、終定の障に奢摩他障、毘鉢舎那障、俱障の三種ありとし、身財を顧恋するを奢摩他障、諸の聖教に於いて随欲するを得ざるを毘鉢舎那障、相雑を楽いて少喜足に住するを俱障となし、又五蓋の中、掉挙及び悪作を奢摩他障、惛沈睡眠及び疑を毘鉢舎那障、貪欲及び瞋恚を俱障なりとせり。又「無上依経巻上菩提品」には、無上菩提を証得し能わざる障に闡提障、外道障、声聞障、縁覚障の四種あることを明し、「勝思惟梵天所問経論巻1」には、大乗心を散乱せしむるものに四障ありとし、小乗心に堕するを乗障、三昧の楽に著する辟支仏の心を教化衆生障、仏法を求むるに厭足あるを聚集仏法満足功徳障、所聞の如く広く人の為に説き正念観察せざるを畢竟聚集一切仏法障と名づくと云い、又「中阿含巻28瞿曇弥経」、「法華経巻4提婆達多品」には、女人の身に梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王及び仏となることを得ざる五障ありとし、「大日経疏巻1」には除一切蓋障三昧を得ざる障に、煩悩障、業障、生障、法障、所知障の五種あることを説けり。又「大毘婆沙論巻153」、「雑阿毘曇心論巻3」、「辯中辺論巻上」、「瑜伽師地論巻99」、「菩薩地持経巻1、3」、「順正理論巻70」、「仏性論巻2」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻10、13」、「仏地経論巻7」、「大乗義章巻5本」、「倶舎論光記巻17、24」、「成唯識論了義灯巻1末」、「華厳五教章巻3」等に出づ。<(望)
  解脱(げだつ):梵にvimokSaに作り、毘木叉、毘目叉に音訳す、或いはvimukuti、或いはmuktiに作り、また毘木底、木叉、木底と音訳す。解放の意にして、煩悩の束縛より解放して迷苦の境地を超脱するを指す。よく迷いの世界を超度するを以っての故に、また度脱と称し、解脱を得るを以っての故に得脱と称す。また三界の束縛の中より解脱を得るを分別して欲纏解脱、色纏解脱、無色纏解脱と称し、修習する所断の煩悩の不同により分ちて見所断煩悩解脱、修所断煩悩解脱等に為し、特に生死の原因を断絶して再び業報の輪廻に拘束されない事を論ずれば、涅槃、円寂の意を含み相通ずるものがある。<(佛)
復次諸阿羅漢。二道心得解脫。見諦道思惟道。以是故名心得好解脫。學人心雖得解脫。非好解脫。何以故。有殘結使故。 復た次ぎに、諸の阿羅漢は、二道の心に解脱を得、見諦道と思惟道なり。是を以っての故に、心に好解脱を得と名づく。学人は、心に解脱を得と雖も、好解脱に非ず。何を以っての故に、殘りの結使有るが故なり。
復た次ぎに、
諸の、
『阿羅漢』は、
『見諦道、思惟道という!』、
『二道の心』に、
『解脱』を、
『得ている!』ので、
是の故に、
『心』に、
『好解脱を得た!』と、
『称するのである!』。
『学人』は、
『心』に、
『解脱を得ている!』が、
『好解脱ではない!』。
何故ならば、
『殘りの結使』が、
『有るからである!』。
  見諦道(けんたいどう):梵語darZana-maargaの訳語にして、また見諦、見道と称す。修行の階位にして、修道、無学道と合わせて三道と称す。即ち無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位なり。『大智度論巻2上注:見道』参照。
  思惟道(しゆいどう):梵語bhaavanaa-maargaの訳。数数修習する道の意。三道の一。又有学道とも称す。即ち見道に於いて四諦の理を見照したる後、更に修習して修惑を断ずる位を云う。『大智度論巻27上注:修道』参照。
  三道(さんどう):声聞或いは菩薩の三種の道を指す。即ち見諦道(けんたいどう、darzana-maarga)、思惟道(しゆいどう、bhaavanaa-maarga)、無学道(むがくどう、azaikSa-maarga)なり。見諦道はまた見諦、見道に作り、修行の階位なり。思惟道、無学道と合せて三道と称す。即ち無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位なり。見道以前を凡夫と為し、見道に入る以後を則ち聖者と為す。それに次いで見道の後に更に具体的事相に対して反覆して修習を加うる位を思惟道と為し、この見諦道と思惟道とを合せて有学道と称す。これに相い対する無学道は、また無学位、無学果、無学地等に作り、意は既に究極最高の悟境に入り、すでに学ぶ所の無い位に達するを指す。また思惟道は、修道に作り、意は数数修習道を指す。これ四向四果中の預流果乃至阿羅漢向に相当し、預流向は見諦道、阿羅漢果は無学道に相当する。また八忍八智の十六心に於いては苦法忍より乃ち道比忍に至る初の十五心を見諦道、第十六心の道比智を思惟道に当てる。<(望)
復次諸外道等。助道法不滿。若行一功德若行二功德求道不能得。如人但布施求清淨。如人祀天。言能脫憂衰。能得常樂國中生。 復た次ぎに、諸の外道等は、助道法を満てずして、若しは一功徳を行じ、若しは二功徳を行ずれば、道を求めて、得ること能わず。人の但だ布施して、清浄を求むるが如く、人の天を祀りて、『能く憂衰を脱る』、『能く常楽の国中に生ずるを得』と言うが如し。
復た次ぎに、
諸の、
『外道』等の、
『助道』の、
『法』は、
『満足でなく!』、
『一功徳か!』、
『二功徳ぐらい!』を、
『行って!』、
『道』を、
『求めても!』、
『得ることができない!』。
例えば、
『人』が、
但だ、
『布施をして!』、
『清浄(梵天)』を、
『求めたり!』、
『人』が、
但だ、
『天を祀るだけで!』、
こう言うようなものである、――
『憂哀』を、
『脱れられるだろう!』、とか、
『常楽の国』中に、
『生まれられるだろう!』、と。
亦更有言八清淨道。一自覺二聞三讀經四畏內苦五畏大眾生苦六畏天苦七得好師八大布施。但說第八名清淨道。 亦た更に有るは、『八清浄道とは、一に自ら覚る、二に聞く、三に経を読む、四に内苦を畏るる、五に大衆の苦を生ずるを畏るる、六に天苦を畏るる、七に好師を得る、八に大いに布施するなり』と言い、但だ『第八を、清浄の道と名づく』と説く。
亦た、
更に、
有る者は、
こう言って、――
『八清浄道』とは、
一には、
『自ら!』、
『覚るという!』、
『道』、
二には、
『他より!』、
『聞くという!』、
『道』、
三には、
『経』を、
『読むという!』、
『道!』、
四には、
『内』の、
『苦を畏れるという!』、
『道』、
五には、
『大衆(地水火風)の生じる!』、
『苦を畏れるという!』、
『道』、
六には、
『天』の、
『苦を畏れるという!』、
『道』、
七には、
『好もしい!』、
『師を得るという!』、
『道』、
八には、
『大いに!』、
『布施をするという!』、
『道である!』が、
こう説いている、――
但だ、
『第八』の、
『布施のみ!』が、
『清浄に至る!』、
『道である!』、と。
復次有外道。但布施持戒說清淨。有但布施禪定說清淨。有但布施求智慧說清淨。 復た次ぎに、有る外道は、但だ布施、持戒のみを、清浄なりと説き、有るは、但だ布施、禅定のみを、清浄なりと説き、有るは、但だ布施と、智慧を求むるのみを、清浄なりと説く。
復た次ぎに、
有る、
『外道』は、
但だ、
『布施、持戒のみ』が、
『清浄に至る!』と、
『説き!』、
有るいは、
但だ、
『布施、禅定のみ』が、
『清浄に至る!』と、
『説き!』、
有るいは、
但だ、
『布施して!』、
『智慧を求めれば!』、
『清浄に至る!』と、
『説く!』。
如是等種種道不具足。若無功德若少功德。說清淨。是人雖一處心得解脫。不名好解脫。涅槃道不滿足故。如偈說
無功德人不能渡 
生老病死之大海 
少功德人亦不渡 
善行道法佛所說
是の如き等、種種の道は具足せずして、若しは無功徳、若しは少功徳にして、清浄なりと説く。是の人は、一処の心に解脱を得と雖も、好解脱と名づけず。涅槃の道の満足せざるが故なり。
偈に説くが如し、
無功徳の人は、渡る能わず、
生老病死の、大海は、
少功徳の人も、亦た渡らず、
善き行道の法は、仏の所説なり。
是れ等のような、
種種の、
『道』は、
『具足していない(完全でない)!』。
若し、
『功徳』が、
『無くても!』、
『少なくても!』、
『清浄に至る!』と、
『説けば!』、
是の、
『人』は、
『一処の心』に、
『解脱』を、
『得たとしても!』、
是れは、
『好解脱』と、
『呼ばれることはない!』。
何故ならば、
『涅槃の道として!』、
『満足しないからである!』。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『生、老、病、死という!』、
『大海』は、
『無功徳』の、
『人』には、
『渡ることができない!』し、
『少功徳』の、
『人』にも、
『渡ることができない!』。
『道を行く!』、
『善い法』は、
『仏によって!』、
『説かれている!』。
  功徳(くどく):梵語求那guNaの訳。又懼曩、麌曩に作る。功能徳福の義。「法華経巻3薬草喩品」に、「如来真実の功徳を説く」と云い、「無量寿経巻上」に、「諸の衆生をして功徳成就せしむ」と云える其の例なり。功徳の解釈に関しては慧遠の「維摩義記巻1本」に、「功徳とは亦た福徳と名づく、福は福利を謂う。善能く資潤して行人を福利するが故に福と為す。是れ其の善行の家の徳なるが故に福徳と名づく。清冷等は是れ水の家の徳なるが如し。功は功能を謂う、善に資潤利益の功あり、故に名づけて功と為す。還って是れ善行の家の徳なるが故に功徳と名づく」と云い、又吉蔵の「仁王般若経疏巻上1」に、「功徳とは功を施すを功と名づけ、己に帰するを徳と曰う。亦云わく、功を忘れて徳を遺す、故に功徳と云うなり」と云い、「勝鬘宝窟巻上本」に、「悪尽くるを功と曰い、善満つるを徳と称す。又徳とは得なり。功を修して得る所なるが故に功徳と名づく」と云えり。又曇鸞の「往生論註巻上」には、功徳に虚偽真実の二種ありとし、「二種の功徳あり、一には有漏心より生じ、法性に順ぜず。所謂凡夫人天の諸善、人天の果報は、若しは因、若しは果、皆是れ顛倒にして皆是れ虚偽なり。是の故に不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄業より起りて仏事を荘厳し、法性に依りて清浄相に入る。是の法は顛倒ならず、虚偽ならず、名づけて真実の功徳と為す」と云い、又「景徳伝灯録巻3菩提達磨の條」には、「帝問うて曰わく、朕即位已来、造寺写経度僧、紀するに勝うべからず、何の功徳かある。師曰わく、並びに無功徳。帝曰わく、何を以って無功徳なる。師曰わく、此れ但だ人天の小果有漏の因にして、影の形に随うが如く、有なりと雖も実に非ず。帝曰わく、如何なるか是れ真功徳。答えて曰わく、浄智妙円、体自ら空寂、是の如き功徳は世を以って求めず」と云えり。是れ亦功徳の真偽を分別したるものなり。又功徳の深広なるを海に喩えて、功徳海guNa-saagaraと云い、其の貴重なるを宝に況して、功徳宝guNa-ratnaと云い、其の他、功徳蔵、功徳聚、功徳荘厳、功徳田、功徳林の如き、功徳を冠せる語多し。又「大乗義章巻9」、「金光明経玄義巻下」等に出づ。<(望)
  功徳(くどく):梵にguNaに作り、懼曩、求那に音訳す。意に功能の福徳を指し、また所謂善を行じて獲得する所の果報なり。<(佛)
是中應說須跋陀梵志經。須跋陀梵志年百二十歲。得五神通。阿那跋達多池邊住。夜夢見一切人失眼裸形冥中立。日墮地破大海水竭。大風起吹須彌山破散。 是の中に、応に須跋陀梵志経を説くべし。須跋陀梵志は、年の百二十歳にして、五神通を得、阿那跋達多池の辺に住す。夜夢に、一切の人、眼を失い、裸形にして、冥中に立つのを見る。日は地に堕ちて破れ、大海の水竭(つ)く。大風起りて吹き、須弥山破散す。
是の中には、
『須跋陀梵志経』を、説かねばならない、――
『須跋陀梵志』は、
『年は百二十歳であり!』、
『五神通を得て!』、
『阿那跋達多池の辺に住んでいた!』。
夜になって、
『夢を見た!』、――
『一切の人』が、
『眼を失い!』、
『裸形のまま!』、
『冥( dark )中に立っていた!』。
『日が堕ちて!』、
『地が破れて!』、
『大海水』が、
『枯竭した!』。
『大風が起こり!』、
『須弥山』を、
『吹いて!』、
『破散させた!』。
  須跋陀(しゅばっだ):釈尊滅度の時、最後の法を聞き度を得た弟子の名。『大智度論巻3下注:須跋陀羅』参照。
  須跋陀羅(しゅばっだら):梵名subhadra。巴梨名subhadda、又蘇跋陀羅、薮婆頭楼、須跋陀、須拔陀、須拔、須跋に作り、善賢、好賢、又は善好賢と訳す。仏の最後の教誡を受けて得道せし弟子の名。「長阿含巻4遊行経」に、「是の時、拘尸城内に一の梵志あり、名づけて須跋と曰う。年百二十にして耆旧多智なり。沙門瞿曇が今夜双樹の間に於いて当に滅度を取るべきを聞き、自ら念言すらく、吾れ法に於いて疑あり、唯瞿曇のみありて能く我が意を解せん。今当に時に及べり、自ら力めて行かんと。即ち其の夜に於いて拘尸城を出で、双樹の間に詣でて阿難の所に至り、問訊し已りて一面に立ち、阿難に白して曰わく、我れ聞く、瞿曇沙門は今夜当に滅度を取るべしと。故に此に来至して一たび相見えんことを求む。我れ法に於いて疑あり、願わくは瞿曇に見えて我が意を一決せん。寧ろ閑暇ありて相見ゆることを得るや不やと。阿難報じて言わく、止めよ止めよ、須跋。仏の身に疾あり、労擾することなかれと。須跋固く請うて乃ち再三に至る。(中略)時に仏は阿難に告ぐ、汝遮止すること勿かれ。此に来入せしめて疑を決せんと欲するを聴せ。嬈乱せしむることなかれ。設し我が法を聞かば必ず開悟を得んと。阿難乃ち須跋に告ぐ、汝仏に覲えんと欲せば、宜しく知るべし是の時なりと。須跋即ち入りて問訊し、已りて一面に坐す。(中略)仏之に告げて曰わく、若し諸法の中に八聖道なくば、則ち第一沙門果第二第三第四沙門果なし。須跋よ、諸法の中に八聖道あるを以っての故に、便ち第一沙門果第二第三第四の沙門果あり。須跋よ、今我が法の中に八聖道あり、第一沙門果第二第三第四の沙門果あり。外道異衆には沙門果なしと。(中略)是に於いて須跋は即ち其の夜に於いて出家授戒し、梵行を浄修し、現法の中に於いて自身に証を作し、生死已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辦じ、如実智を得て更に有を受けじと。時に夜未だ久しからずして即ち羅漢と成る。是れを如来最後の弟子と為す。便ち先づ滅度し、仏は後る」と云える是れなり。又「増一阿含経巻3弟子品」には、「最後に証を取り、漏神通を得たるは、所謂須拔比丘是れなり」とあり、又「増一阿含経巻1、37」、「雑阿含経巻35」、「別訳雑阿含経巻6」、「仏般泥洹経巻下」、「大般涅槃経巻下」、「般泥洹経巻下」、「撰集百縁経巻4」、「仏遺教経」、「大般涅槃経巻40」、「大般涅槃経後分巻上」、「有部毘奈耶雑事巻38」、「大毘婆沙論巻1、93」、「大智度論巻3」、「大唐西域記巻6」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻22」、「慧琳音義巻18、26」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  阿那跋達多池(あなばつだったち):梵名anavatapta、又阿耨達池、阿耨大泉、阿那達池、阿那婆答多池、阿那婆踏池に作り、略して阿耨と称し、意訳して清涼池、無熱悩池と為す。閻浮提の四大河の発源の地なり。『大毘婆沙論巻15』、『倶舎論巻11』によれば、この池は大雪山の北、香酔山(gandhamaadana、現在のカイラス(kailana)山に推定さる)以南に位し、これを称して無熱悩池と為す、周囲凡そ八百里、金、銀、琉璃、頗梨等の四宝を以って岸辺を装飾す、その池の金沙弥満して、清波は皎鏡をなし、ある龍王ここに居し、名づけて阿耨達と為す、池中にはよく清冷の水を出だし、池の東を恒河(ごうが、gaGgaa)の出口と為し、南を信度河(しんどが、sindhu)と為し、西を縛芻河(ばくすうが、vakSa)と為し、北を徙多河(したが、ziitaa)と為す、と。<(望)
  五神通(ごじんづう):五種の神通力の意。『大智度論巻16下注:五通』参照。
  参考:『雑阿含経(979)巻35』:『如是我聞。一時。佛住俱夷那竭國力士生處堅固雙樹林中。爾時。世尊涅槃時至。告尊者阿難。汝為世尊於雙樹間敷繩床。北首。如來今日中夜於無餘涅槃而般涅槃。爾時。尊者阿難奉教。於雙樹間敷繩床。北首。訖。來詣佛所。稽首佛足。退住一面。白佛言。世尊。已於雙樹間敷繩床。北首。爾時。世尊詣雙樹間。於繩床上北首右脅而臥。足足相累。繫念明想。正念正智。時。俱夷那竭國有須跋陀羅外道出家。百二十歲。年耆根熟。為俱夷那竭國人恭敬供養。如阿羅漢。彼須跋陀羅出家聞世尊今日中夜當於無餘涅槃而般涅槃。然我有所疑。希望而住。沙門瞿曇有力。能開覺我。我今當詣沙門瞿曇。問其所疑。即出俱夷那竭。詣世尊所。爾時。尊者阿難於園門外經行。時。須跋陀羅語阿難言。我聞沙門瞿曇今日中夜於無餘涅槃而般涅槃。我有所疑。希望而住。沙門瞿曇有力。能開覺我。若阿難不憚勞者。為我往白瞿曇。少有閑暇。答我所問。阿難答言。莫逼世尊。世尊疲極。如是須跋陀羅再三請尊者阿難。尊者阿難亦再三不許。須跋陀羅言。我聞古昔出家耆年大師所說。久久乃有如來.應.等正覺出於世間。如優曇缽花。而今如來中夜當於無餘涅槃界而般涅槃。我今於法疑。信心而住。沙門瞿曇有力。能開覺我。若阿難不憚勞者。為我白沙門瞿曇。阿難復答言。須跋陀羅。莫逼世尊。世尊今日疲極。爾時。世尊以天耳聞阿難與須跋陀羅共語來往。而告尊者阿難。莫遮外道出家須跋陀羅。令入問其所疑。所以者何。此是最後與外道出家論議。此是最後得證聲聞。善來比丘。所謂須跋陀羅v爾時。須跋陀羅。世尊為開善根。歡喜增上。詣世尊所。與世尊面相問訊慰勞已。退坐一面。白佛言。瞿曇。凡世間入處。謂富蘭那迦葉等六師。各作如是宗。此是沙門。此是沙門。云何。瞿曇。為實各各有是宗不。爾時。世尊即為說偈言。 始年二十九  出家修善道  成道至於今  經五十餘年  三昧明行具  常修於淨戒  離斯少道分  此外無沙門。佛告須跋陀羅。於正法.律不得八正道者。亦不得初沙門。亦不得第二.第三.第四沙門。須跋陀羅。於此法.律得八正道者。得初沙門。得第二.第三.第四沙門。除此已。於外道無沙門。斯則異道之師。空沙門.婆羅門耳。是故。我今於眾中作師子吼。說是法時。須跋陀羅外道出家遠塵離垢。得法眼淨。爾時。須跋陀羅見法.得法.知法.入法。度諸狐疑。不由他信。不由他度。於正法.律得無所畏。從坐起。整衣服。右膝著地。白尊者阿難。汝得善利。汝得大師。為大師弟子。為大師雨。雨灌其頂。我今若得於正法.律出家.受具足。得比丘分者。亦當得斯善利。時。尊者阿難白佛言。世尊。是須跋陀羅外道出家今求於正法.律出家.受具足。得比丘分。爾時。世尊告須跋陀羅。此比丘來修行梵行。彼尊者須跋陀羅即於爾時出家。即是受具足。成比丘分。如是思惟。乃至心善解脫。得阿羅漢。時。尊者須跋陀羅得阿羅漢。解脫樂覺知已。作是念。我不忍見佛般涅槃。我當先般涅槃。時。尊者須跋陀羅先般涅槃已。然後世尊般涅槃』
  須跋陀(しゅばつだ):梵名subhadra、具に須跋陀羅、蘇跋陀羅に作り、また須跋、藪婆頭楼等にも作り、意訳して善賢、好賢、善好賢と作し、仏の入滅前、最後に教誡を受けて道を得し弟子にして、道を得し時にはすでに百二十歳になれり、聡明多智にして仏の八正道を説くを聞き、即ちその夜に於いて出家受戒し、梵行を浄修して夜に入りて未だ久しからざるに即ち阿羅漢と成り、並びに仏の前に先に滅度を取れりと為す。<(佛)
覺已恐怖。思惟言。何以故爾。我命欲盡。若天地主欲墮。猶豫不能自了。 覚め已りて恐怖し、思惟して言わく、『何を以っての故に爾る。我が命の、尽きんと欲するや、若しは天地の主の堕ちんと欲するや。』と。猶豫して、自ら了する能わず。
『夢より!』、
『覚めて!』、
『恐怖しながら!』、
『思惟して!』、こう言った、――
何故、
『爾()うだったのか?』。
わたしの、
『命』が、
『尽きようとしているのか?』。
若しは、
『天、地の主』が、
『堕ちようとしているのか?』。
『思い迷って!』、
自ら、
『意味』を、
『決了することができなかった!』。
  猶豫(ゆうよ):ぐずぐずして決断しない。躊躇。
以有此惡夢故。先世有善知識天。從上來下語須跋陀言。汝莫恐怖。有一切智人名佛。後夜半當入無餘涅槃。是故汝夢。不為汝身。 此の悪夢有るを以っての故に、先世の有る善知識の天、上より下に来たりて、須跋陀に語りて言わく、『汝、恐怖する莫かれ。一切智人有り、仏と名づく。後夜の半ばに、当に無余涅槃に入りたもうべし。是の故に、汝は夢みるも、汝が身の為にあらず。』と。
此の、
『悪夢』が、
『有った!』が故に、
有る、
『先世よりの善知識(友人)』が、
『天上より!』、
『下って来て!』、
『須跋陀に語って!』、こう言った、――
お前は、
『恐怖しなくてもよい!』。
有る、
『仏と呼ばれる!』、
『一切智』の、
『人』が、
『後夜の半ばに!』、
『無余涅槃』に、
『入られることになった!』。
是の故に、
お前が、
『夢』を、
『見たのだ!』。
お前の、
『身の為に!』、
『見たのではない!』、と。
  善知識(ぜんちしき):梵語kalyaaNa-mitraの訳。正直又は有徳の友の意。又単に知識、或いは真善友、善真友、善友、真友、親友とも称す。悪知識に対す。即ち人を化導利益する有徳の善親友を云う。『大智度論巻48上注:善知識』参照。
  善知識(ぜんちしき):梵にkalyaaNamitraに作り、音訳して迦羅蜜、迦里也曩蜜怛羅に作り、正直にして徳行有り、よく正道を教導する人を指す。また知識、善友、親友、勝友、善親友に作り、これに反して邪道を教導する人を称して、悪知識と為す。『大品般若経巻27』によれば、よく空、無相、無作、無生、無滅の法を説いて一切種智に及び、人をして歓喜信楽せしむる者を称して善知識と為す。『華厳経入法界品』に述ぶる善財童子は求道の過程中に於いて五十五位の善知識を参訪せり。即ち上は仏、菩薩に至り、下は人、天の以って何種の恣態を出現するかを論ぜず、凡そ衆生をしてよく捨悪修善に引導し、仏道に入れる者は、均しく称して善知識と為すべし。<(佛)
是時須跋陀。明日到拘夷那竭國樹林中。見阿難經行。語阿難言。我聞汝師說新涅槃道。今日夜半當取滅度。我心有疑。請欲見佛決我所疑。 是の時、須跋陀は、明日、拘夷那竭国の樹林中に至り、阿難の経行せるを見、阿難に語りて言わく、『我れ聞く、汝が師は新たに涅槃の道を説き、今日夜半に当に滅度を取るべしと。我が心に疑あり、請うて仏に見え、我が疑う所を決せんと欲す。』と。
是の時、
『須跋陀』は、
『夜が明ける!』と、
『拘夷那竭国』の、
『樹林』中に、
『到り!』、
『阿難』が、
『経行している!』のを、
『見て!』、
『阿難に語って!』、こう言った、――
わたしは、
『お前の師』が、
『新しい!』、
『涅槃の道』を、
『説かれた!』が、
『今日の夜半』に、
『滅度を取られる!』と、
『聞いた!』。
わたしの、
『心』には、
『疑義』が、
『有る!』。
請う!
『わたしの疑義』を、
『仏』に、
『見(まみ)えて!』、
『決することにしたい!』、と。
  拘夷那竭国(くいながこく): 梵名kuzinagara、中印度の国名、釈尊入滅の地。『大智度論巻26上注:拘尸那竭羅』参照。
阿難答言。世尊身極。汝若難問勞擾世尊。須跋陀如是重請至三。阿難答如初。 阿難の答えて言わく、『世尊が身は極まれり。汝が、若し難問せば、世尊を労擾せん。』と。須跋陀の、是の如く請を重ねて、三たびに至るも、阿難の答うること、初の如し。
『阿難は答えて!』、こう言った、――
『世尊』は、
『身』が、
『極まっている(疲れている)!』。
お前が、
若し、
『難問すれば!』、
『世尊』を、
『労擾(疲労・混乱)させることになろう!』、と。
『須跋陀』は、
是のように、
『請』を、
『重ねて!』、
『三たびに至り!』、
『阿難』は、
亦た、
『初のように!』、
『重ねて!』、
『答えた!』。
  労擾(ろうじょう):疲れさせて乱す。
佛遙聞之敕語阿難。聽須跋陀梵志來前自在難問。是吾末後共談。最後得道弟子。 仏の遙かに、之を聞きて阿難に敕語したまわく、『須跋陀梵志を聴して、前に来たらしめ、自在に難問せしめよ。是れは吾が末後に共に談じて、最後に道を得る弟子なり』、と。
『仏』は、
『遙かに!』、
之を、
『聞かれる!』と、
『阿難に勅して!』、こう語られた、――
『須跋陀梵志』を、
『聴(ゆる)して!』、
『前に来させ!』、
『自在に!』、
『問難させよ!』。
是れは、
わたしの、
『最後』に、
『共に!』、
『談じて(対話して)!』、
『最後』に、
『道を得る!』、
『弟子である!』、と。
是時須跋陀得前見佛。問訊世尊已。於一面坐。如是念。諸外道輩捨恩愛財寶出家皆不得道。獨瞿曇沙門得道 是の時、須跋陀、前(すす)みて仏に見ゆるを得、世尊に問訊し已りて、一面に坐し、是の如く念ずらく、『諸の外道の輩は、恩愛、財宝を捨てて出家するも、皆、道を得ず。独り瞿曇沙門のみ道を得。』と。
是の時、
『須跋陀』は、
『前にすすんで!』、
『仏』に、
『見えることができ!』、
『世尊に問訊する!』と、
『壁の一面』に、
『坐って!』、
是の念を作した、――
諸の、
『外道の輩』は、
『恩愛、財宝を捨てて!』、
『出家しても!』、
皆、
『道』を、
『得ることがない!』のに、
独り、
『瞿曇沙門のみ』が、
『道』を、
『得たというのか!』、と。
  問訊(もんじん):安否を問い訊ねる。挨拶の礼式。『大智度論巻2上注:問訊』参照。
  瞿曇(くどん):梵名gautamaの音訳。印度刹帝利種族中の一姓。瞿曇仙人の苗裔にして、即ち釈尊所属の本姓を云う。『大智度論巻21下注:瞿曇』
如是念竟。即問佛言。是閻浮提地。六師輩各自稱言。我是一切智人。是語實不。 是の如く念じ竟りて、即ち仏に問うて言わく、『是の閻浮提の地の六師の輩は、各、自ら称して言わく、我れは是れ一切智の人なりと。是の語は実なりや不や。』と。
『須跋陀』は、
是のように念じると、
即ち、
『仏に問うて!』、こう言った、――
是の、
『閻浮提の地』で、
『六師の輩』は、
各、
『自ら!』を、
『称して!』、こう言っている、――
『わたしこそ!』、
『一切智の人である!』、と。
是の、
『語』は、
『実ですか?』、と。
  閻浮提(えんぶだい):梵名jambu-dviipa。須弥山の南の海上に位する大洲の名。蓋し印度に擬するが如し。『大智度論巻35下注:閻浮提』参照。
  六師(ろくし):釈尊当時、印度に出でたる外道の主たる者に六人あるを云う。『大智度論巻3上注:六師外道』参照。
爾時世尊以偈答曰
我年二十九  出家學佛道 
我出家已來  已過五十歲 
淨戒禪智慧  外道無一分 
少分尚無有  何況一切智
其の時、世尊の偈を以って答えて曰わく、
我れ年二十九にして、出家し仏道を学べり、
我れ出家して已来、已に五十歳を過ぐ。
浄戒、禅、智慧は、外道には一分も無し、
少分すら尚お有ること無く、何に況んや一切智をや。
爾の時、
『世尊』は、
『偈で答えて!』、こう言われた、――
わたしは、
『二十九の年に!』、
『出家して!』、
『仏道』を、
『学び!』、
わたしが、
『出家してから!』、
『五十歳』を、
『過ぎた!』。
わたしの、
『浄戒、禅定、智慧』は、
『外道』には、
『一分すら!』、
『存在しない!』、
『外道』には、
『少分すら!』、
『無いのだから!』、
況して、
『一切智』は、
『言うまでもない!』。
若無八正道。是中無第一果第二第三第四果。若有八正道。是中有第一果第二第三第四果。 若し、八正道無くんば、是の中には第一果、第二、第三、第四果無し。若し、八正道有らば、是の中には、第一果、第二、第三、第四果有り。
若し、
『八正道が無ければ!』、
是の中には、
『第一の果』も、
『第二、第三、第四の果』も、
『無い!』が、
若し、
『八正道が有れば!』、
是の中には、
『第一の果』も、
『第二、第三、第四の果』も、
『有るだろう!』。
  八正道(はっしょうどう):涅槃に趣く八種の正道を云う。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  第一果(だいいっか):四種の沙門果中、第一の果の意。『大智度論巻2上注:四果』参照。
  八正道(はっしょうどう):梵にaaryaaSTaaGgika-maargaに作り、八種の涅槃に趣く正道を求むなり。また八聖道、八支正道、八聖道分、八道行、八直行、八正、八道、八支、八法、八路に作り、乃ち三十七道品の中に最もよく仏教の実践を代表する法門なり。即ち八種の涅槃解脱に通向する正確なる方法、或いは経路なり。釈尊転法輪の時の所説は、楽欲及び苦行の二辺を離れ、中道を趨向する者にして、即ちこの八正道を指す。八とは即ち(一)正見:また諦見に作り、即ち苦はこれ苦なり、集はこれ集なり、滅はこれ滅なり、道はこれ道なり、善悪の業有りて善悪の業報有り、此世彼世有り、父母有り、世に真人有りて至善の処に住し、善に去りて善に向い、此世彼世に於いて自覚自証成就す。(二)正思惟:また正志、正分別、正覚、或いは諦念に作り、即ち欲覚、恚覚、及び害覚無きことを謂う。(三)正語:また正言、諦語に作り、即ち妄言、両舌、悪口、綺語等を離るるを謂う。(四)正業:また正行、諦行に作り、即ち殺生、不与取等を離るるを謂う。(五)正命:また諦受に作り、即ち呪術等の邪命を捨て、如法に衣服、飲食、床榻、湯薬等の諸の生活の具を求むを謂う。(六)正精進:また正方便、正治、諦法、諦治に作り、すでに生ぜし悪法は断たしめ、未だ生ぜざる悪法は起たしめず、未だ生ぜざる善法は生ぜしめ、すでに生ぜし善法は増長満具せしむるを発願して、即ちよく方便を求めて精勤するを謂う。(七)正念:また諦意に作り、即ち自他の相を以って身、受、心、法等の四者を観察するを謂う。(八)正定:また諦定に作り、即ち悪不善の法を離れて初禅乃至四禅を成就するを謂う。八正道とは乃ち衆生の迷界の此岸より悟界の彼岸に渡り到るに所持すべき力なるが故に、船、筏を以って譬えと為し、八道船、八筏の称を有す。また、車輪の輻、轂、輞の相互に車の転動を助くるが如きの故に譬えて八輪と称し、またこれを聖者の遊行の所と為し、故にまた八遊行、八由行に作る。これに反して邪見、邪思、邪語、邪業、邪命、邪精進、邪念、邪定を称して八邪、八邪行と為す。『中阿含経巻7分別聖諦経』参照。<(佛)
須跋陀是我法中有八正道。是中有第一道果第二第三第四道果。餘外道法皆空。無道無果無沙門無婆羅門。如是我大眾中。實作師子吼。 須跋陀、是の我が法中には、八正道有り。是の中に第一の道果、第二、第三、第四の道果有り。余の外道の法は、皆、空なれば、道無く、果無く、沙門無く、婆羅門無し。是の如く、我れは大衆中に、実に師子吼を作せり、と。
須跋陀!
是の、
わたしの、
『法』中には、
『八正道』が、
『有り!』、
是の中には、
『第一』の、
『道果』が、
『有り!』、
『第二、第三、第四』の、
『道果』が、
『有る!』。
余の、
『外道』の、
『法』中には、
皆、
『空しく!』、
『道』も、
『果』も、
『沙門』も、
『婆羅門』も、
『無い!』。
是のように、
わたしは、
『大衆』中に、
『真実を!』、
『師子吼したのである!』。
  師子吼(ししく):梵語siMha-naadaの訳。如来の説法が能く一切の戯論を滅し、九十六種の異見を砕破するを、師子王の一たび咆吼すれば百獣悉く懾伏するに喩えたるもの。『大智度論巻24下注:師子吼』参照。
須跋陀梵志聞是法得阿羅漢道。思惟言。我不應佛後般涅槃。如是思惟竟。在佛前結加趺坐。自以神力身中出火燒身而取滅度。 須跋陀梵志は、是の法を聞きて、阿羅漢道を得、思惟して言わく、『我れは、応に仏の後に般涅槃すべからず。』と。是の如く思惟し竟りて、仏前に在りて、結跏趺坐し、自ら神力を以って身中より火を出して、身を焼き、滅度を取れり。
『須跋陀梵志』は、
是の、
『法を聞いて!』、
『阿羅漢の道』を、
『得る!』と、
『思惟して!』、こう言った、――
わたしは、
『仏の後まで!』、
『般涅槃せずにはいられない!』。
是のように、
『思惟する!』と、
『仏』の、
『前に!』、
『結跏趺坐し!』、
『自らの神力で!』、
『身』中より、
『火』を、
『出しながら!』、
『身を焼いて!』、
『滅度』を、
『取った!』。
  般涅槃(はつねはん):梵語pari-nirvaaNaの音訳。完全なる涅槃の義。身心を滅し尽くすの意。『大智度論巻3上注:般涅槃』参照。
  結跏趺坐(けっかふざ):跏趺は足の甲を股に懸くるの意、足首を累ね足裏を上に向けて斉える坐法をいう。即ち通常坐禅の時の坐法なり。『大智度論巻7下注:結跏趺坐』参照。
以是故。佛言無功德少功德。是助道法不滿。皆不得度。佛說一切功德具足故。能度弟子。譬如小藥師以一種藥二種藥不具足故不能差重病。大藥師輩具足眾藥。能差諸病。 是を以っての故に、仏の言わく、『無功徳、少功徳は、是れ助道法満たざれば、皆、度を得ず』、と。仏の説きたまわく、『一切の功徳具足するが故に、能く弟子を度す。譬えば、小薬師は、一種の薬、二種の薬の具足せざるを以っての故に、重病を差(いや)す能わず。大薬師の輩は衆薬を具足するが故に、能く諸の病を差すが如し。』と。
是の故に、
『仏』は、こう言われたのである、――
『功徳』が、
『無いか!』、
『少なければ!』、
是の、
『助道』の、
『法』は、
『満足せず!』、
皆、
『度』を、
『得ることがない!』、と。
『仏』は、こう説かれた、――
一切の、
『功徳が具足している!』が故に、
『弟子』を、
『度すことができる!』。
譬えば、
『小薬師』は、
『一種か!』、
『二種の!』、
『薬しか!』、
『具足しない!』が故に、
『重い!』、
『病』を、
『差(いや)すことができない!』が、
『大薬師の輩』は、
『多く!』の、
『薬』を、
『具足する!』が故に、
諸の、
『病を差すことができる!』のと、
『同じである!』。
問曰。若一切三界煩惱離故。心得解脫。何以故。佛言染愛離心得解脫。 問うて曰く、若し一切の三界の煩悩を離るるが故に、心に解脱を得ば、何を以っての故にか、仏は、『染愛を離れて、心に解脱を得。』と言えり。
問い、
若し、
一切の、
『三界』の、
『煩悩』を、
『離れる!』が故に、
『心』に、
『解脱』を、
『得るならば!』。
何故、
『仏』は、こう言われたのですか?――
『染愛』を、
『離れた!』、
『心』が、
『解脱』を、
『得る!』、と。
  染愛(せんあい):梵語raagaの訳。愛欲の義。蓋し愛結の意。『大智度論巻3下注:愛、同巻42上注:愛』参照。
  (あい):梵にtRSNaaに作り、また愛支に作って十二因縁の一と為す。一切の事物に貪恋執著する意なり。『南伝法句経(212偈)』中に『従愛生憂患、従愛生怖畏、離愛無憂患、何処有怖畏』と云い、また継いで同偈の中に、愛の転変により、次第に親愛(巴pema)、欲楽(巴rati)、愛欲(巴kaama)、渇愛(巴taNhaa)等の四種を出だす、と云えり。所謂愛とは、乃ち自己の有する親属、血縁関係に対する情愛を指して言い、所謂親愛とは、乃ち他人に対する友情、所謂欲楽とは、則ちこれある一特定の人物に対する愛情、所謂愛欲とは、専ら性愛関係を建立する情愛を指し、所謂渇愛とは、過分に執著するに因り以って癡病を致す愛情を指す。また梵にanunaya-saMyojanaに作り、愛結の略称にして九結の一なり。また随順結に作り、即ち境に染著する貪煩悩を指す。<(佛)
  十二因縁(じゅうにいんねん):また十二縁起に作り、即ち衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類せるものにして、一に無明avidyaa、二に行saMskaara、三に識vijJaana、四に名色naama-ruupa、五に六処SaD-aayatana、六に触sparza、七に受vedanaa、八に愛tRSNaa、九に取upaadaana、十に有bhava、十一に生jaati、十二に老死jaraa-maraNaなり。これ即ち『長阿含経巻10』には即ち、癡(無明)に縁ずるが故に行有り、行に縁ずるが故に識有り、識に縁ずるが故に名色有り、名色に縁ずるが故に六入(六処)有り、六入に縁ずるが故に触有り、触に縁ずるが故に受有り、受に縁ずるが故に愛有り、愛に縁ずるが故に取有り、取に縁ずるが故に有有り、有に縁ずるが故に生有り、生に縁ずるが故に老死有りて憂悲苦悩の大患を集むる所なり、と云い、『雑阿含経巻12』には、縁起の法は乃ち永恒不変の真理なり、仏はこの真理を観察し開悟して並びに正定の為にこの法を開示せり、と云えるが如く、人間の生存の苦悩は如何にして成立し、また如何にして滅除し証悟に至るかを説きしものなり。この各々支を辞義に即して解釈すれば、凡そ以下に示すが如し。即ち(一)無明:闇鈍なる心に諸法の事理を照す明り無し、即ち癡の異名にして道理を知らず盲目的に生存を志すを謂う。これ有るが故に我、我所の存在を信ずるが故に生存の第一原因と為す。(二)行:造作、遷流の二義あり、即ち身心の活動を指す。(三)識:境に対する認識、識別の作用なり。(四)名色:心は形無く名のみの存在なるが故に名といい色は形色を示す、即ち五陰中の色陰を称して色と為し、受乃至識陰を称して名と為し、併せて吾人の身心を指す。(五)六処:即ち眼耳鼻舌身意の六根なり、即ち吾人の感覚器官を指す。(六)触:根、境、識の和合により生ずる心所法なり、即ち心が境に接触して生ずる心の動揺的精神作用を指す。(七)受:所触の境を領納する心所法なり。これに苦受、楽受、捨受の三受、或いは憂受、喜受を加えて五受の別有りと為す。(八)愛:即ち貪著、執著、渇愛なり。これに欲愛、法愛の二愛、或いは欲愛、有愛、非有愛、または欲愛、色愛、無色愛の三愛等あり。即ち自己の所有に対する愛憎なり。(九)取:所対の境界に取著するを取と謂い、自己の身心に執著するを指す。(十)有:無或いは空に対する語にして三界六趣の有を指す。即ち迷界に於ける生存なり。(十一)生:有為法の現起するを名づけて生と為す。即ち吾人の我我所見を生ずるなり。(十二)老死:時を経し後には衰変せざるを得ずこれを名づけて老と為し、乃ち命根尽くるを名づけて死と為す。即ち苦の極みなり。この十二因縁中に於いて無明、行、識、名色、六処の五支は身心の構成を示し、触、受、愛、取、有の四支は心の境に対するに及んで生存を認識するに至る次第を表し、生と老死の二支は三界六趣の生死は苦に外ならないことを示す。総じてこれを曰えば、吾人の生存(の確信)は無明及び物質的身心の作用に過ぎずと説くものなり。これに反し『説一切有部』等はこの解釈を胎生的に作し、これを分位縁起と称す、蓋し三世通用の有を計らんが為なり。即ち無明と行とは過去世に煩悩を起して業を作りしときの有情(衆生)の分位、即ち五蘊(身心)と為し、この過去世の二因により心識が初めて母胎に託生する一刹那の有情の分位を識、託生の第二刹那以後六根の未だ具わらざる有情の分位を名色、胎内に於いてすでに六根を具えし分位を六処、出胎の後のただ触(接触感覚)有るのみの二三歳に至るまでを触、感受の勝れる四五歳より十四五歳に至るまでを受と謂いて、この識より乃ち受に至るまでを現在世の五果と為す、愛欲の盛んなる十六七歳以後を愛、貪著の心の勝る三十歳以後を取、後世の果報の業を造る分位を有と謂いて、この愛より有に至るまでを現在世の三因と為し、この因により未来世に生るる分位を生、以後死に至るまでを老死と謂い、この二を未来世の二果と為すものなり。この中に就き『大智度論巻5』に、「十二因縁生の法は、種種の法門によく巧みに説けり。煩悩と業と事法とは次第に展転し相続して生ず、これを十二因縁と名づく。この中の無明、愛、取の三事を煩悩と名づけ、行と有との二事を業と名づけ、余の七分を名づけて体事と為す。この十二因縁の初の二は過去世に摂し、後の二は未来世に摂し、中の八は現在世に摂す。これ略して三事を説く。煩悩、業、苦、この三事は展転して、更に互いに因縁と為る。この煩悩は業の因縁、業は苦の因縁、苦は苦の因縁、苦は煩悩の因縁、煩悩は業の因縁、業は苦の因縁、苦は苦の因縁なり。これ展転して更に互いに因縁と為ると名づくるなり。過去世の一切の煩悩はこれを無明と名づく。無明より業を生ず、よく世界の果を作るが故に名づけて行と為す。行より垢心を生ず、初の身の因は犢子の母を識るが如く、自ら相識るが故に名づけて識と為す。この識は無色の四陰を共に生じ、この所住の色に及ぶ、これを名色と名づく。この名色の中に眼等の六情を生ず、これを六入と名づく。情と塵と識と合す、これを名づけて触と為す。触より受を生じ、受の中に心著す、これを渇愛と名づく。渇愛の因縁により求む、これを取と名づく。取により、後世の因縁の業あり、これを有と名づく。有により、また後世の五衆を受く、これを生と名づく。生により、五衆熟して壊す、これを老死と名づく。老死は憂悲、哭泣、種々の愁悩を生ず。衆苦、和合して集まる。もし一心に諸法の実相の清浄なるを観ずれば、則ち無明尽く。無明尽くるが故に行尽く。乃ち衆苦の和合して集まれるもの皆尽くるに至る。これ十二因縁の相なり」、と有部の説を引けるも、然るにまた更に続けて、「また次ぎに、この十二因縁の観の中に、法愛を断じて心著せず、実相を知る、これを名づけて巧みと為す。彼の般若波羅蜜の不可尽品の中に、仏、須菩提に告げたまわく、癡は虚空の如く尽くすべからず。行は虚空の如く尽くすべからず。乃ち衆苦の和合して集まるに至るまで、虚空の如く尽くすべからず。菩薩まさにこの知を作すべし。この知を作すとは癡際を捨つれば、まさに入る所無かるべしと為す。この十二因縁起の観を作さば、則ち道場に坐して薩婆若を得と為す」と云えるは、これ即ち大乗の立場を明らかにせしものと知るべし。蓋しこれ等を俯瞰するに、十二因縁とは、即ち虚妄の我我所を生ずる因縁を十二位に説けるものにして、生存の第一原因たる無明(無智)を因と為し、行(学習機能)と、識(認識機能)とを得て、それを名色(身心の原)と為し、六処(六根)を具えて、触(接触)する事物を、受(感受)して、愛(愛憎)を生じ、取(分別)することにより、有(差別的存在)を自覚し、生(生命)を自覚し、老死(生を失う苦)を自覚するというものなり。また『雑阿含経巻12』、『大毘婆沙論巻23』、『倶舎論巻9』、『成唯識論巻8』、『大乗阿毘達磨雑集論巻4』、『中阿含経巻21、24』、『雑阿含経巻12,13』、『増一阿含経巻30』、『長阿含経巻10』、『過去現在因果経巻3』、『貝多樹下思惟十二因縁経』、『縁起聖道経』、『大法鼓経巻上』、『旧華厳経巻25』、『大般涅槃経巻27、34』、『坐禅三昧経巻下』、『達磨多羅禅経巻下』、『菩薩瓔珞本業経巻上』、『法蘊足論巻10』、『雑阿毘曇心論巻8』、『分別功徳論巻1』、『彰所知論巻下』、『大智度論巻2、5、31、44、80』、『十二因縁論』、『順正理論巻25乃至28』、『瑜伽師地論巻9、10、93、94』等に出づ。<(望)
答曰。愛能繫閉心有大力以是故說。不說餘煩惱。愛斷餘則斷。 答えて曰く、愛は、能く心を繋閉するに、大力有り。是を以っての故に説く。余の煩悩を説かざるは、愛を断ずれば、余も則ち断ずればなり。
答え、
『愛』は、
『心』を、
『繋(つな)いで!』、
『閉ざすことができる!』が故に、
『大きな!』、
『力』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『愛』を、
『離れる!』ことを、
『説かれた!』が、
『余の煩悩』を、
『離れよ!』とは、
『説かれなかった!』。
何故ならば、
『愛』が、
『断たれれば!』、
則ち、
『余の煩悩』も、
『断たれるからである!』。
復次若人言王來知必有將從。染愛亦如是。又如捉巾一頭餘則盡隨。愛染亦如是。愛斷則知餘煩惱皆已斷。 復た次ぎに、若し人、『王来たる。』と言わば、必ず将従有りと知る。染愛も亦た是の如し。又巾の一頭を捉らうれば、余は則ち尽く随うが如し。愛染も、亦た是の如く、愛断ずれば、則ち余の煩悩も、皆已に断つことを知る。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『王』が、
『来た!』と、
『言えば!』、
『必ず!』、
『将従(前後に供奉する者)も有る!』と、
『知るだろう!』。
『染愛』も、
亦た、
『是の通りである!』。
又、
『頭巾』の、
『一頭』を、
『捉えれば!』、
『余』も、
『尽く!』が、
『付随するように!』、
『染愛』も、
是のように、
『愛』が、
『断たれれば!』、
『余の煩悩』も、
『皆、已に断たれた!』と、
『知ることになる!』。
  将従(しょうじゅう):前後に供奉する者。
  (きん):頭巾。
復次諸結使皆屬愛見。屬愛煩惱覆心。屬見煩惱覆慧。如是愛離故。屬愛結使亦離得心解脫。如是無明離故。屬見結使亦離得慧解脫。 復た次ぎに、諸の結使は、皆、愛と見とに属し、愛に属す煩悩は、心を覆い、見に属す煩悩は慧を覆う。是の如き愛を離るるが故に、愛に属する結使も、亦た離れて、心の解脱を慧、是の如く無明を離るるが故に、見に属する結使も、亦た離れて、慧の解脱を得るなり。
復た次ぎに、
諸の、
『結使』は、
皆、
『愛か!』、
『見に!』、
『属しており!』、
『愛に属する!』、
『煩悩』は、
『心』を、
『覆い!』、
『見に属する!』、
『煩悩』は、
『慧』を、
『覆う!』ので、
是のような、
『愛を離れる!』が故に、
『愛に属する!』、
『結使』も、
『離れて!』、
『心』に、
『解脱』を、
『得るのであり!』、
是のように、
『無明(諸見の根本)を離れる!』が故に、
『見に属する!』、
『結使』も、
『離れて!』、
『慧』に、
『解脱』を、
『得るのである!』。
復次是五千阿羅漢。應不退法得無生智。以是故。言心得好解脫慧得好解脫。不退故。退法阿羅漢。得時解脫如劬提迦等。雖得解脫非好解脫。以退法故 復た次ぎに、是の五千の阿羅漢は、応に法より退かずして、無生智を得べし。是を以っての故に言わく、『心に好解脱を得、慧に好解脱を得るは、退せざるが故なり。』と。退法の阿羅漢は、時解脱を得ること、劬提迦等の如く、解脱を得と雖も、好解脱に非ざるは、法より退くを以っての故なり。
復た次ぎに、
是の、
『五千の阿羅漢』は、
『法を退かずに!』、
『無生智』を、
『得るはずであり!』、
是の故に、こう言うのである、――
『心』には、
『好解脱』を、
『得て!』、
『慧』にも、
『好解脱』を、
『得る!』のは、
是れが、
『法』より、
『退かないからである!』、と。
『法より退く!』、
『阿羅漢』の、
『得る!』のは、
『時(一時)の解脱である!』。
例えば、
『劬提迦』等も、
『解脱を得た!』が、
『好解脱ではなかった!』。
何故ならば、
『法より!』、
『退いたからである!』。
  無生智(むしょうち):無学位に於いて我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと遍知し、非択滅の得と俱生する無漏智を云う。十智の一。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  退法阿羅漢(たいほうあらかん):無学の阿羅漢中、疾病等の悪縁に遇うて所得を退失する者を云う。六種阿羅漢の一。九無学の一。『大智度論巻3下注:六種阿羅漢、同巻17下注:阿羅漢、同巻18下注:四向四果、同巻32下注:九無学』参照。
  時解脱(じげだつ):時を須ちて解脱するの意。六種阿羅漢中、不動法を除きて、余の退法、思法、護法、安住法、堪達法の五種の阿羅漢の得る解脱を云う。『大智度論巻3下注:六種阿羅漢、同巻17下注:阿羅漢、同巻18下注:四向四果、同巻32下注:九無学』参照。
  六種阿羅漢(ろくしゅあらかん):声聞四果中の第四阿羅漢果は、その種性の優劣により分ちて六種と為す。即ち(一)退去阿羅漢:疾病等の悪縁に遇えば即ち所得を退失する者を指す、最劣の種性なり。(二)思法阿羅漢:所得の証果を退失せんことを憂懼して恒に自ら害して無余涅槃に入らんと思う者を指す。(三)護法阿羅漢:よく自らの所得の証果を守護する者を指す。(四)安住法阿羅漢:不退不進にてその果位に安住する者を指す。(五)堪達法阿羅漢:善く根を修練すれば不動法に達する者を指す。(六)不動法阿羅漢:根性最も殊勝にして、所得の法を退動せざる者を指す。この六種の阿羅漢の中の前の五者は皆鈍根に属し、須く衣食、住処、師友等の諸縁具足するを待ちてまさに滅盡定等に証入すべきが故に時解脱と称し、僅かによく尽智を証得す。不動法阿羅漢は則ち利根に属し、衣食等の諸縁具足するを待たずしてよく自ら法理を解し、随時に阿羅漢果を証することを得るが故に不時解脱と称し、よく尽智、無生智を証得す。<(佛)
  劬提迦(くだいか):梵名godhika。又瞿低迦に作る。仏弟子にして、時解脱の阿羅漢の名。「雑阿含巻39(1091経)」に依れば、劬提迦は独り静処に思惟し、不放逸を行じ、精勤修習して、自ら饒益するを以って、時解脱を得て身に証を作すこと、六たび時解脱を得て、六たび退く。七たびに及びて遂に復た退くことを厭い、刀を執りて自ら殺す。是れ魔王波旬の甚だ喜ぶ所なるも、世尊は還って、其の堅固具足の士にして常に禅定に住し、昼夜勤めて精進し、生命を顧みず、三有の畏るべきを見て、愛欲を断除し、魔軍を摧伏して、般涅槃せるに依り、記を授けたりと伝う。
  参考:『雑阿含経(1091)巻39』:『如是我聞。一時。佛住王舍城毘婆羅山七葉樹林石室中。時。有尊者瞿低迦。住王舍城仙人山側黑石室中。獨一思惟。不放逸行。修自饒益。時受意解脫身作證。數數退轉。一.二.三.四.五.六反退。還復得。時受意解脫身作證。尋復退轉。彼尊者瞿低迦作是念。我獨一靜處思惟。不放逸行。精勤修習。以自饒益。時受意解脫身作證。而復數數退轉。乃至六反。猶復退轉。我今當以刀自殺。莫令第七退轉。時。魔波旬作是念。沙門瞿曇住王舍城毘婆羅山側七葉樹林石窟中。有弟子瞿低迦住王舍城仙人山側黑石室中。獨一靜處。專精思惟。得時受意解脫身作證。六反退轉。而復還得。彼作是念。我已六反退。而復還得。莫令我第七退轉。我寧以刀自殺。莫令第七退轉。若彼比丘以刀自殺者。莫令自殺。出我境界去。我今當往告彼大師。爾時。波旬執琉璃柄琵琶。詣世尊所。鼓絃說偈。 大智大方便  自在大神力  得熾然弟子  而今欲取死  大牟尼當制  勿令其自殺  何聞佛世尊  正法律聲聞  學其所不得  而取於命終  時。魔說此偈已。世尊說偈答言 波旬放逸種  以自事故來  堅固具足士  常住妙禪定  晝夜勤精進  不顧於性命  見三有可畏  斷除彼愛欲  已摧伏魔軍  瞿低般涅槃  波旬心憂惱  琵琶落於地  內懷憂慼已  即沒而不現  爾時。世尊告諸比丘。汝等當來。共至仙人山側黑石室所。觀瞿低迦比丘以刀自殺。爾時。世尊與眾多比丘往至仙人山側黑石室中。見瞿低迦比丘殺身在地。告諸比丘。汝等見此瞿低迦比丘殺身在地不。諸比丘白佛。唯然。已見。世尊。佛告比丘。汝等見瞿低迦比丘周匝遶身黑闇煙起。充滿四方不。比丘白佛。已見。世尊。佛告比丘。此是惡魔波旬於瞿低迦善男子身側。周匝求其識神。然比丘瞿低迦以不住心。執刀自殺。爾時。世尊為瞿低迦比丘受第一記。爾時。波旬而說偈言 上下及諸方  遍求彼識神  都不見其處  瞿低何所之  爾時。世尊復說偈言 如是堅固士  一切無所求  拔恩愛根本  瞿低般涅槃  佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』



心は調って柔軟である

【經】心調柔軟 心は調い柔軟なり。
『心』は、
『調い!』、
『柔軟である!』。
【論】若有恭敬供養瞋恚罵詈撾打者。心等無異。若得珍寶瓦石視之一等。若有持刀斫截手足。有持栴檀塗身者。亦等無異。 若しは、恭敬、供養、瞋恚、罵詈、撾打する者有るも、心は等しく異無し。若しは、珍宝、瓦石を得るも、之を視ること一等なり。若しは刀を持ちて、手足を斫截する有るも、栴檀を持ちて、身に塗る者有るも、亦た等しくして異無し。
若し、
有る、
『人』が、
『恭敬して、供養しようが!』、
『瞋恚して、罵詈、撾打しようが!』、
『心』は、
『等しくして!』、
『異ならない!』。
若し、
『得た!』ものが、
『珍宝であろうと!』、
『瓦石であろうと!』、
『視る!』のは、
『一様に!』、
『平等である!』。
若し、
有る、
『人』が、
『刀を持って!』、
『手足』を、
『切断しても!』、
有るいは、
『栴檀香を持って!』、
『身』に、
『塗ったとしても!』、
亦た、
『等しくして!』、
『異ならない!』。
  罵詈(めり):悪言を以って人を罵ること。
  撾打(ただ):手又は棒などで人をなぐる。
  斫截(しゃくせつ):截断すること。
  栴檀(せんだん):梵名candanaの音訳。印度に産する香樹の名。『大智度論巻2上注:栴檀』参照。
復次婬欲瞋恚憍慢疑見。根本已斷故。是謂心調柔軟。 復た次ぎに、婬欲、瞋恚、憍慢、疑、見の根本を已に断ずるが故に、是れを心調いて柔軟なりと謂う。
復た次ぎに、
『婬欲、瞋恚、憍慢、疑、見』の、
『根本』を、
『已に!』、
『断じた!』が故に、
是れを、こう謂うのである、――
『心』が、
『調って!』、
『柔軟である!』、と。
  婬欲(いんよく):梵語raagaの訳。又貪、貪欲、貪愛、慳貪、愛貪、愛欲、愛著、愛染、欲、欲貪等に作る。瞋恚(梵dveSa)、愚癡(梵moha)と共に三毒の一。『大智度論巻1上注:貪』参照。
  瞋恚(しんに):梵語dveSa、又はpratighaの訳。恚、怒、瞋等に訳す。貪欲(梵raaga)、愚癡(梵moha)と共に三毒の一。『大智度論巻18上注:瞋』参照。
  憍慢(きょうまん):梵語adhi-maanaの訳。自ら高ぶり他を下げする心状を云う。『大智度論巻49下注:憍、慢、憍慢、七慢』参照。
  (ぎ):又疑結とも称す。諦理を狐疑する煩悩の名。五下分結の一。十結の一。『大智度論巻15上注:五下分結、同巻41下注:十結』参照。
  (けん):理に迷うて起る煩悩。之に五種あり、即ち身見、辺見、邪見、見取見、戒取見にして、十結、或いは十使中の上五に相当し、力鋭利なるが故に五利使、或いは五見と称す。『大智度論巻26上注:五見、同巻41下注:十結』参照。
復次是諸阿羅漢。欲染處不染。應瞋處不瞋。應癡處不癡。守護六情。以是故名心調柔軟。如偈說
人守護六情  如好馬善調 
如是實智人  諸天所敬視
復た次ぎに、是の諸の阿羅漢は、欲染の処に染まず、応に瞋るべき処に瞋らず、応に癡なるべき処に癡ならず、六情を守護す。是を以っての故に、心調いて柔軟なりと名づく。偈に説くが如し、
人の六情を守ること、好き馬の善く調うるが如くんば、
是の如き実の智人は、諸天の敬いて視る所なり。
復た次ぎに、
是の、
諸の、
『阿羅漢』は、
『欲染する!』、
『処()』に、
『染まらず!』、
『瞋恚すべき!』、
『処』を、
『瞋らず!』、
『癡となるべき!』、
『処()』に、
『癡とならない!』が故に、
『六情(眼、耳、鼻、舌、身、意情)』の、
『門』を、
『守護している!』ので、
是の故に、
『心』が、
『調って!』、
『柔軟なのである!』。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『人』が、
『六情』の、
『門』を、
『守護する!』のは、
例えば、
『好い馬』が、
『善く!』、
『調教されたようだ!』。
是のような、
『実智の人』は、
『諸天すら!』、
『敬って視る!』。
諸餘凡人輩不能守護六情。欲瞋慢癡疑見不斷故。不調柔如惡弊馬。以是故。諸阿羅漢名心調柔軟 諸余の凡人の輩は、六情を守護する能わず、欲、瞋、慢、癡、疑、見を断ぜざるが故に調柔ならざること、悪弊馬の如し。是を以っての故に、諸の阿羅漢を、心調いて柔軟なりと名づく。
『諸余の凡人の輩』は、
『六情が守護されず!』、
『欲、瞋、慢、癡、疑、見』が、
『断たれない!』が故に、
『心』は、
『調わず!』、
『柔らかでもなく!』、
譬えば、
『弊悪な!』、
『馬』と、
『同じである!』。
是の故に、
諸の、
『阿羅漢』を、
『称して!』、
『心』が、
『調って柔軟だ!』と、
『謂うのである!』。



摩訶那伽

【經】摩訶那伽 摩訶那伽なり。
『摩訶那伽(大龍)である!』。
  摩訶那伽(まかなが):梵語mahaanaaga。大無罪、大龍象と訳す。即ち阿羅漢及び世尊の徳号なり。
【論】摩訶言大。那名不。伽名罪。諸阿羅漢諸煩惱斷。以是故名不罪。 摩訶を大と言い、那を不と名づけ、伽を罪と名づく。諸の阿羅漢は、諸の煩悩を断ずれば、是を以っての故に、不罪と名づく。
『摩訶(梵mahaa)』を、
『大(梵mahat)』と、
『言い!』、
『那(梵naa)』を、
『不(梵na)』と、
『言い!』、
『伽(梵ga)』を、
『罪(梵agha)』と、
『言う!』。
諸の、
『阿羅漢』は、
諸の、
『煩悩』を、
『断った!』ので、
是の故に、
『不罪(無罪)』と、
『称するのである!』。
  摩訶(まか):梵語mahat。偉大の義。
  (な):梵語na。否定の語。不。
  (が):梵語agha。罪の義。
復次那伽或名龍或名象。是五千阿羅漢。諸無數阿羅漢中最大力。是以故言如龍如象。水行中龍力大。陸行中象力大。 復た次ぎに、那伽を、或いは龍と名づけ、或いは象と名づく。是の五千の阿羅漢は、諸の無数の阿羅漢中、最も大力なり。是を以っての故に、『龍の如く、象の如し。』と言えり。水行中には、龍の力大なり、陸行中には、象の力大なればなり。
復た次ぎに、
『那伽(梵naaga)』を、
或は、
『龍』と、
『呼び!』、
或は、
『象』と、
『呼ぶのである!』が、
是の、
『五千の阿羅漢』は、
諸の、
『無数の阿羅漢』中に、
『最も!』、
『大力である!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
譬えば、
『龍か!』、
『象のようだ!』、と。
何故ならば、
『水を行く!』中には、
『龍』の、
『力』が、
『大であり!』、
『陸を行く!』中には、
『象』の、
『力』が、
『大だからである!』。
  那伽(なが):梵語naaga。龍、或いは象の義。
復次如善調象王。能破大軍直入不迴。不畏刀杖不難水火。不走不退死至不避。諸阿羅漢亦復如是。修禪定智慧。故能破魔軍及諸結使賊。罵詈撾打不悔不恚。老死水火不畏不難。 復た次ぎに、善く調うる象王は、能く大軍を破り、直入して迴らず、刀杖を畏れず、水火を難とせず、走らず、退かずして、死の至るまで、避けず。諸の阿羅漢も、亦復た是の如く、禅定、智慧を修むるが故に、能く魔の軍、及び諸の結使の賊を破り、罵詈、撾打を悔いず、恚らず、老死の水火をも畏れず、難とせず。
復た次ぎに、
譬えば、
『善く調教された!』、
『象王』が、
『大軍』を、
『撃破する!』時、
『直入して!』、
『回避せず!』、
『刀杖を畏れず!』、
『水火を難とせず!』、
『逃走せず!』、
『退却せず!』、
『死の至るまで!』、
『困難』を、
『避けないように!』、
諸の、
『阿羅漢』も、
是のように、
『禅定』と、
『智慧』とを、
『修める!』が故に、
『魔』の、
『軍』を、
『撃破して!』、
『諸結使』の、
『賊』を、
『退却させ!』、
『罵詈されても!』、
『撾打されても!』、
『悔いもせず!』、
『恚りもせず!』、
『老、死の水火』を、
『畏れず!』、
『難としないのである!』。
  刀杖(とうじょう):武器。
復次如大龍王。從大海出起於大雲遍覆虛空。放大電光明照天地。澍大洪雨潤澤萬物。諸阿羅漢亦復如是。從禪定智慧大海水中出。起慈悲雲潤及可度。現大光明種種變化。說實法相雨弟子心令生善牙。 復た次ぎに、大龍王の、大海中より出づるに、大雲を起して、遍く虚空を覆い、大電光を放ちて、天地を明照し、大洪雨を澍(そそ)ぎて、万物を潤沢するが如し。諸の阿羅漢も、亦復た是の如く、禅定、智慧の大海水中より出づるに、慈悲の雲を起して潤(うるお)すこと度すべきに及び、大光明を現して、種種に変化し、実の法相を説いて、弟子の心に雨ふらし、善の牙(め)を生ぜしむ。
復た次ぎに、
譬えば、
『大龍王』が、
『大海より出る!』と、
『大雲を起して!』、
『遍く!』、
『虚空を覆い!』、
『大電光を放って!』、
『天地』を、
『明るく照らし!』、
『大洪雨を澍(そそ)いで!』、
『万物』を、
『潤沢するように!』、
諸の、
『阿羅漢』も、
是のように、
『禅定、智慧』の、
『大海水』中より、
『出る!』と、
『慈悲』の、
『雲』を、
『起して!』、
『度せそうな!』者に、
『及ぶまで!』、
『潤(うるお)し!』、
『大光明を現して!』、
『種種に!』、
『変化し!』、
『実の!』、
『法相』を、
『説いて!』、
『弟子』の、
『心』に、
『雨降らし!』、
『善』の、
『芽』を、
『生じさせるのである!』。
  洪雨(こうう):大量の雨。大豪雨。
  潤沢(にんたく):うるおす。



作す所は已に辦じた

【經】所作已辦 所作は已に辦ず。
『所作(仕事)は、
『已に!』、
『辦じた(対処された)!』。
  所作(しょさ):◯梵語 kriyaa の訳、行為/実施/実行/[複合語]従事する/仕事/行為/行動/請負/活躍/仕事/労働( doing, performing, performance, occupation with (in compound), business, act, action, undertaking, activity, work, labour )、身体的行動/手足を動かすこと( bodily action, exercise of the limbs )、宗教儀式/犠牲式( a religious rite or ceremony, sacrificial act, sacrifice )、文芸作品( a literary work )、医療行為/治療( medical treatment or practice, applying a remedy, cure )、宗教行為/礼拜( religious action, worship )の義。◯梵語 karaNiiya の訳、作す/為す/成すべきこと( to be done or made or effected )、仕事/業務/用事( an affair, business, matter )の義、仕事/義務( business, duty )の意。◯梵語 kaarya の訳、為されるべきこと/試されるべきこと/行われるべきこと/実用的な/便利な( to be made or done or practised or performed, practicable, feasible )、[罰として]課されること( to be imposed (as a punishment) )、行うに適する/適正な( proper to be done, fit, right )、命じられた仕事( to be caused to do )の義、目的/責任/義務( a purpose, responsibility, obligation )の意。
  已辦(いべん):梵語 kRita, abhisaMkRtaavasthaa の訳、行われた/作られた/完成された/達成された( done, made, accomplished, performed )、準備された/用意ができた( prepared, made ready )、獲得された( obtained, gained, acquired )、善く成された/適切な/善い( well done, proper, good )、耕された( cultivated )の義、「完成に向って到達した( All purposes are well done )」の意。
【論】問曰。云何名所作。云何名已辦。 問うて曰く、云何が、所作と名づけ、云何が、已辦と名づくる。
問い、
何故、
『所作(作すべきことを!)』と、
『呼ぶのですか?』。
何故、
『已辦(已に成した!)』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。信戒捨定等諸善法得故。名為所作。智慧精進解脫等。諸善法得故。是名已辦。二法具足滿故。名所作已辦。 答えて曰く、信、戒、捨、定等の諸の善法の得の故に、名づけて所作と為し、智慧、精進、解脱等の諸の善法の得の故に、已辦と名づけ、二法具足して満つるが故に、所作は已辦と名づく。
答え、
『信、戒、捨、定(手段 way )』等の、
諸の、
『善法』が、
『所得である!』が故に、
是れを、
『所作(作された!)』と、
『呼び!』、
『智慧、精進、解脱(目標 purpose )』等の、
諸の、
『善法』が、
『所得である!』が故に、
是れを、
『已辦(辦じた!)』と、
『称し!』、
『二法』が、
『具足して!』、
『満ちる!』が故に、
是れを、
『所作が已に辦じた!』と、
『言うのである!』。
  (しん):心をして澄静ならしむる精神作用。『大智度論巻2上注:信』参照。
  (しゃ):平静、亦たは無関心の義。『大智度論巻11下注:捨』参照。
  :信、戒、捨、定等を初の行とし、然る後に智慧、精進、解脱等を修む。
復次諸煩惱有二種。一種屬愛。一種屬見。屬愛煩惱斷故名所作。屬見煩惱斷故名已辦。 復た次ぎに、諸の煩悩には二種有り、一種は愛に属し、一種は見に属す。愛に属す煩悩の断ずるが故に、所作と名づけ、見に属する煩悩の断ずるが故に已辦と名づく。
復た次ぎに、
諸の、
『煩悩』には、
『二種有り!』、
一には、
『愛』に、
『属する!』、
『煩悩であり!』、
二には、
『見』に、
『属する!』、
『煩悩である!』が、
『愛に属する!』、
『煩悩』を、
『断つ!』が故に、
是れを、
『所作』と、
『呼び!』、
『見に属する!』、
『煩悩』を、
『断つ!』が故に、
是れを、
『已辦』と、
『称する!』。
  :愛に属する煩悩は断ずること易く、見に属する煩悩は断ずること難し。
復次色法善見故名所作。無色法善見故名已辦。可見不可見有對無對等二法亦如是。 復た次ぎに、色法の善を見るが故に、所作と名づけ、無色法の善を見るが故に、已辦と名づく。可見、不可見、有対、無対等の二法も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『色法の善』を、
『見る!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『無色法の善』を、
『見る!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
『可見、不可見の善』、
『有対、無対の善』等の、
『二法を見る!』ことも、
亦た、
『是の通りである!』。
  色法(しきほう):梵語ruupa-dharmaの訳。五位の一。ruupaは形、姿、特質等を示す語にして色と訳す。色法は即ち質礙又は変礙の法を云い、蓋し五根五境等の色蘊を色法となす。『大智度論巻23(上)注:色心二法』参照。
  無色法(むしきほう):梵語aruupa-dharmaの訳。色法に非ざる法、即ち五位中の心、心所法、心不相応行法、無為法を云う。『大智度論巻11上注:五位、同巻14上注:心所有法、同巻19上注:心不相応行、同巻19下注:心、同巻43上注:無為法』参照。
  可見(かけん):眼に見るべきもの。
  不可見(ふかけん):眼を以って見るべからざるもの。
  有対(うたい):梵語sa-pratighaの訳。無対に対す。対は礙の義にして、即ち五根五境及び心心所等の法が他の為に障礙せられて生ぜず、若しくは所取所縁の境の為に拘礙せられて、他に転ずる能わざるを云う。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  無対(むたい):梵語apratighaの訳。対礙なきの意。有対に対す。即ち極微所成に非ざる無障礙の法を云う。『大智度論巻20下注:無対』参照。
  :色、可見、有対の法を見るは易く、無色、不可見、無対の法を見るは難し。
復次不善無記法斷故名所作。善法思惟故名已辦。聞思慧成就故名所作。修慧成就故名已辦。種種三法亦如是。 復た次ぎに、不善、無記の法を断ずるが故に、所作と名づけ、善法を思惟するが故に、已辦と名づく。聞、思慧の成就するが故に、所作と名づけ、修慧成就するが故に、已辦と名づく。種種の三法も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『不善』と、
『無記』の、、
『法を断つ!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『善』の、
『法を思惟する!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
『聞』と、
『思』の、
『慧を成就する!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『修』の、
『慧を成就する!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
種種の、
『三法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  善法(ぜんぽう):其の性安隠にして、此世及び他世を順益する白浄の法を云う。『大智度論巻1上注:善』参照。
  不善法(ふぜんぽう):其の性不安隠にして、能く此世及び他世の違損をなす黒悪の法を云う。『大智度論巻1上注:不善』参照。
  無記法(むきほう):其の性の善又は不善を記別すべからざる法を云う。『大智度論巻1上注:無記』参照。
  聞慧(もんえ):教法を聞きて成ずる所の慧。『大智度論巻28(下)注:三慧』参照。
  思慧(しえ):思惟して成ずる所の慧。『大智度論巻28(下)注:三慧』参照。
  修慧(しゅえ):定に依りて成ずる所の慧。『大智度論巻28(下)注:三慧』参照。
復次煖法頂法忍法世間第一法得故名所作。苦法忍等諸無漏善根得故名已辦。 復た次ぎに、煖法、頂法、忍法、世間第一法を得るが故に、所作と名づけ、苦法忍等の諸の無漏の善根を得るが故に、已辦と名づく。
復た次ぎに、
『煖法、頂法、忍法、世間第一法』を、
『得る!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『苦法忍』等の、
諸の、
『無漏の善根』を、
『得る!』が故に、
是れを、
『已辦』と、
『称する!』。
  煖法(なんぽう):四善根位中の初位。能く具に四聖諦の境を観察し、及び具に十六行相を修むる位。『大智度論巻3(下)注:四善根位、巻18(上)注:四善根位』参照。
  頂法(ちょうぼう):前の煖の善根漸次増長し、成満の時に至りて生ずる善根にして、動(動揺不安定)善根中の最勝なること恰も人の頂の如くなるが故に頂法と名づけ、或いは進退の両際に在ること山頂の如くなるが故に頂と名づく。『大智度論巻3(下)注:四善根位、巻18(上)注:四善根位』参照。
  忍法(にんぽう):頂の善根成満の時に至りて生ずる善根にして、四諦の理に於いて忍可すること最も勝れ、又此の位に於いて動ぜず、能く忍んで悪趣に退堕することなきが故に忍法と名づく。『大智度論巻3(下)注:四善根位、巻18(上)注:四善根位』参照。
  世間第一法(せけんだいいっぽう):上忍位の無間に生ずる善根にして、上品の忍の如く、即ち欲界の苦諦を縁じて一行相を修する唯一刹那なり。有漏世間に於いて最勝なるが故に世間第一法と名づけ、之より無間に見道に入りて、無漏の聖道を生ず。『大智度論巻3(下)注:四善根位、巻18(上)注:四善根位』参照。
  苦法忍(くほうにん):梵語duHkhe dharma-jJaana-kSaantiHの訳。具に苦法智忍と称す。八忍の一。無漏の智を以って欲界の苦諦の境を縁じて、之を忍可する位を云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  無漏(むろ):梵語anaasrabaHの訳。有漏に対す。漏は漏泄の意、又煩悩の異名なり。貪、瞋等の煩悩の日夜眼耳等の六根門より不善を漏泄するが故に称して漏と為す。『大智度論巻1下注:無漏』参照。
  善根(ぜんごん):梵語kuzala-muulaの訳。巴梨語kusala-muula、善の根本となるの意。又善本、或いは徳本とも訳す。即ち根となりて他の善法を生ずるを云う。『大智度論巻2上注:善根』
  四善根位(しぜんこんい):見道以前、四諦を観じ、及び十六行相を修めて無漏の聖位に達する修行階位にして、煖法(なんぽう、uSma-gata)、頂法(ちょうぼう、muurudhaana)、忍法(にんぽう、kSaanti)、世間第一法(せけんだいいっぽう、laukikaagra-dharma)を指す。即ち(一)煖法:よく具に四聖諦の境を観察し、及びよく具に十六行相を修むる位なり。即ち苦諦を観察して非常、苦、空、非我の四行相を修め、集諦を観察して因、集、生、縁の四行相を修め、滅諦を観察して滅、浄、妙、離の四行相を修め、道諦を観察して道、如、行、出の四行相を修む。これを煖法と名づくるは、煖は火の前相なるが如く、この位の善根は惑の薪を焼くべき無漏聖道の火の前相に比すべきものなるが故なり。(二)頂法:前の煖の善根漸次増長し、成満の時に至りて生ずる善根にして、動(動揺不安定)善根の中の最勝なること恰も人の頂の如くなるが故に頂法と名づけ、或いは進退の両際に在ること山頂の如くなるが故に頂と名づく。また具に四諦を観じ、及びよく具に十六行相を修む。(三)忍法:頂の善根成満の時に至りて生ずる善根にして、四諦の理に於いて忍可すること最も勝れ、またこの位に於いては動揺せず、よく忍んで悪趣に退堕すること無きが故に忍法と名づく。この忍位には上中下の三品の別有り、その中の下忍位は四諦十六行相を修め、中忍位にて漸次その所縁及び行相を減じ、最後に僅かに欲界の苦諦の一行相を留めて乃ち二刹那の間に修観するに至り、上忍位に於いては、ただ一行一刹那にして即ち単に欲界苦諦の一行相を修むるのみなり。(四)世間第一法:上忍位の無間に生ずる善根にして、上品の忍の如く、即ち欲界の苦諦を縁じて一行相を修むるただ一刹那なり。有漏世間に於いて最勝なるが故に世間第一法と名づく。これより無間に見道に入り、無漏の聖道を生ずるなり。<(佛)
  :煖法等の四善根位は見道以前の有漏にして、苦法忍以後の八忍八智を無漏と為す。
見諦道得故名所作。思惟道得故名已辦。 見諦道に得るが故に、所作と名づけ、思惟道に得るが故に、已辦と名づく。
『見諦道』の、
『所得である!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『思惟道』の、
『所得である!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
  見諦道(けんたいどう):梵語darzana-maargaの訳。理を見る道の意。三道の一。具に見諦道と称し、略して見諦とも名づく。即ち世第一法の無間に始めて無漏の慧を得て四諦の理を見照する位を云う。『大智度論巻2上注:見道』参照。
  思惟道(しゆいどう):梵語bhaavanaa-maargaの訳。数数修習する道の意。三道の一。又有学道とも称す。即ち見道に於いて四諦の理を見照したる後、更に修習して修惑を断ずる位を云う。『大智度論巻27上注:修道』参照。
  三道(さんどう):声聞或いは菩薩の三種の道を指す。即ち見諦道(けんたいどう、darzana-maarga)、思惟道(しゆいどう、bhaavanaa-maarga)、無学道(むがくどう、azaikSa-maarga)なり。見諦道はまた見諦、見道に作り、修行の階位なり。思惟道、無学道と合せて三道と称す。即ち無漏の智を以って四諦を現観し、その理を見照する位なり。見道以前を凡夫と為し、見道に入る以後を則ち聖者と為す。それに次いで見道の後に更に具体的事相に対して反覆して修習を加うる位を思惟道と為し、この見諦道と思惟道とを合せて有学道と称す。これに相い対する無学道は、また無学位、無学果、無学地等に作り、意は既に究極最高の悟境に入り、すでに学ぶ所の無い位に達するを指す。また思惟道は、修道に作り、意は数数修習道を指す。これ四向四果中の預流果乃至阿羅漢向に相当し、預流向は見諦道、阿羅漢果は無学道に相当する。また八忍八智の十六心に於いては苦法忍より乃ち道比忍に至る初の十五心を見諦道、第十六心の道比智を思惟道に当てる。<(望)
成學道故名所作。無學道得故名已辦。 学道を成ずるが故に、所作と名づけ、無学道を得るが故に、已辦と名づく。
『学道』を、
『成就する!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『無学道』を、
『成就する!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
  学道(がくどう):梵語zikSaa-maargaの訳。未だ学ぶべき道に在るの意。即ち三道中の見諦道、思惟道を云う。
  無学道(むがくどう):梵語azaikSa-maargaの訳。三道の一。又無学位、或いは無学地と名づく。即ち阿羅漢果を証して更に学すべき勝果の道なきを云う。『大智度論巻22上注:無学道』参照。
心解脫得故名所作。慧解脫得故名已辦。 心解脱に得るが故に、所作と名づけ、慧解脱に得るが故に、已辦と名づく。
『心解脱』の、
『所得である!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『慧解脱』の、
『所得である!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
  心解脱(しんげだつ):心が貪愛等の繋縛を離るるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  慧解脱(えげだつ):慧を以って無明煩悩を離るるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
漏盡故名所作。得共解脫故名已辦。 漏の尽くるが故に、所作と名づけ、共解脱を得るが故に、已辦と名づく。
『漏』が、
『尽きる!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『共解脱』を、
『得る!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
  共解脱(くげだつ):阿羅漢、辟支仏の煩悩の障礙、諸禅の障礙を共に離れて解脱を得るを云う。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
一切結使除故名所作。得非時解脫故名已辦。 一切の結使を除くが故に、所作と名づけ、非時解脱を得るが故に、已辦と名づく。
『一切の結使』を、
『除く!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『非時解脱』を、
『得る!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
  非時解脱(ひじげだつ):時を待たずに解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
自利益竟故名所作。利益他人故名已辦。如是等所作已辦義自在說 自ら、利益し竟るが故に、所作と名づけ、他人を利益するが故に、已辦と名づく。是れ等の如き、所作と已辦の義を自在に説けり。
『自ら!』、
『利益した!』が故に、
『所作』と、
『呼び!』、
『他人』を、
『利益した!』が故に、
『已辦』と、
『称する!』。
是れ等のような、
『所作、已辦』の、
『義』は、
『自在に!』、
『説いたものである!』。



擔うものを棄てて、能く擔う

【經】棄擔能擔 擔を棄てて、能く擔う。
『擔( 荷物load )』を、
『捨てて!』、
『擔(にな)うことができる!』。
  (たん):担。<動詞>[本義]天秤棒で運ぶ( carry on a shoulder pole )。背負う( carry on one's back )、引受ける( take upon )。<名詞>天秤棒に載せた荷物( carrying pole and the loads on it )、[譬喩]重荷( burden, load )、重量の単位( a unit of weight (=50 kilograms) )。
【論】五眾麤重常惱故名為擔。如佛所說。何謂擔。五眾是擔。諸阿羅漢此擔已除。以是故言棄擔。 五衆は麁重にして、常に悩ますが故に、名づけて擔と為す。仏の所説の如し、『何をか擔と謂う。五衆は是れ擔なり。』と。諸の阿羅漢は、此の擔を已に除く、是を以っての故に、擔を棄つと言う。
『五衆(色、受、想、行、識)』は、
『麁重であり!』、
『常に!』、
『悩ます!』が故に、
是れを、
『擔』と、
『呼ぶ!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
何を、
『擔と謂うのか?』、
『五衆』が、
『擔である!』、と。
諸の、
『阿羅漢』は、
此の、
『擔』を、
『除いた!』ので、
是の故に、こう言う、――
『擔』を、
『棄てた!』、と。
  麁重(そじゅう):粗く重い。ごつごつと肩に当り、しかも重く感じること。
能擔者。是佛法中二種功德擔應擔。一者自益利。二者他益利。一切諸漏盡。不悔解脫等諸功德。是名自利益。信戒捨定慧等諸功德能與他人。是名利益他。 能く擔うとは、是の仏法中に二種の功徳の擔は、応に擔うべし。一には自らの益利、二には他の益利なり。一切の諸の漏尽、不悔、解脱等の諸の功徳は、是れを自ら利益すと名づけ、信、戒、捨、定、慧等の諸の功徳は、能く他人に与うれば、是れを他を利益すと名づく。
『擔うことができる!』とは、
是の、
『仏法』中には、
『二種の功徳』の、
『擔が有る!』ので、
『擔わねばならぬ!』。
一には、
『自ら!』を、
『利益する!』、
『功徳』、
二には、
『他』を、
『利益する!』、
『功徳である!』。
一切の、
諸の、
『漏』が、
『尽きて!』、
『得る!』、
『不悔』や、
『解脱』等の、
『諸の功徳』を、
『自らを利益する功徳』と、
『呼び!』、
『信、戒、捨、定、慧』等の、
『諸の功徳』は、
『他人に!』、
『与えることができる!』が故に、
是れを、
『他を利益する功徳』と、
『称するのである!』。
  漏尽(ろじん):煩悩が尽きること。
  不悔(ふけ):梵語akaukRtyaの訳。所作の業を追悔せざるの意。悪作、或いは悔に対す。『大智度論巻3下注:悪作』参照。
  悪作(あくさ):梵語kaukRtya(邪悪、悔恨の二義有り)の訳。心所の名。悔に同じ。七十五法の一。不定地法なり。所作の業を追悔するの意。「倶舎論巻4」に、「悪作とは何ぞ、悪所作の体を名づけて悪作と為す。応に知るべし、此の中、悪作の法を縁ずるを説いて悪作と名づく。謂わく悪作を縁じて心に追悔する性なり。空を縁ずる解脱門を説いて名づけて空と為し、不浄を縁ずる無貪を説いて不浄と為すが如し。又世間を見るに、所依の処に約して能依の事を説く、一切の村邑国土皆来たりて集会すると言うが如し。悪作は即ち是れ追悔の所依なるが故に、所依に約して説いて悪作と為す。又果の体に於いて因の名を仮立す。此の六触処を応に知るべし宿作業と名づくと説くが如し」と云える是れなり。此の中、初説は悪所作の事を縁じて追悔するを悪作と名づく。是れ即ち能縁の追悔の上に所縁の境の名を立つる意なり。第二解は、追悔は悪作を所依として生ず、故に能依の追悔の上に所依の名を立つ。第三解は、追悔は悪作の果なり、故に果の追悔の上に因の名を立つとなすなり。又「阿毘達磨順正理論巻11」に、「悪作と言うは、悔は悪作を以って所縁と為すが故に悪作の名を立つ。無想定の如し」と云えるは、即ち倶舎の初解に同じ。是れ皆悪作の悪を入声に読み、所作の悪しかりしを追悔するの義に解したるなり。但し入声の意となすと雖も、其の性必ずしも不善なるに非ず。若しは善、若しは不善、唯だ情に称わざる所作を悪作と名づくるなり。又「大毘婆沙論巻37」には悪作に四句を出し、第一句は已作の悪業を追悔し、第二句は已作の善業を追悔し、第三句は已作の善業の未満を追悔し、第四句は已作の悪業の未満を追悔するとし、すべて已作に約するも、「倶舎論巻4」には未満の事を追悔するをも亦悪作となすべしとし、即ち我れは何故に是の如き事をなさざりしやを追悔するが如きを其の例とせり。又此の中、説一切有部に於いては善の不作業を追悔するは善の悪作、不善の不作業を追悔するは不善の悪作なりとし、悪作は善不善に限り、無記に通ぜずとす。「阿毘達磨順正理論巻11」に、「此の悪作は善不善に通じ無記に通ぜず。憂に随う行なるが故に、貪欲を離るる者成就せざるが故なり。無記の法に是の如き事あるに非ず。然れども追変あり、我れ頃ろ何為れぞ消せずして然も食すと。我れ頃ろ何為れぞ此の壁に画かざると。是の如き等の類は、彼の心乃至未だ憂根に触せず、但だ是れ省察にして未だ悪作を起さず。若し憂根に触すれば便ち悪作を起す。爾の時の悪作は、理、憂根に同じ。故に悪作を説くに是の如き相あり、謂わく心をして慼へしむ。悪作の心品若し憂根を離れば、誰か心をして慼えしめんや」と云える即ち其の意なり。然るに「倶舎論巻4」には、外方の諸師中に無記に通ずる説をなすものありと云い、「成唯識論述記巻7本」にも、亦悪作を三性に通ずとなせり。又唯識家にては悪作を悔と称し、其の解釈も倶舎等に同じからず。即ち「成唯識論巻7」に、「悔は謂わく悪作(オサ)なり。所作の業を悪みて追悔するを性と為し、止を障うるを業と為す。此れ即ち果に於いて因の名を仮立す。先づ所作の業を悪んで、後方に追悔するが故なり。先に作さざりしを悔ゆるも、亦悪作に摂す。追悔して、我れ先に是の如き事業を作さざりしは、是れ我が悪作なりと云うが如し」と云える是れなり。是れ即ち悔は所作の業を嫌悪して、之を追悔するを性とし、奢摩他を障うるを業とし、且つ悪作は果の上に因の名を仮立し、悔は当体に就いて其の名を立つるものなることを明らかにするの意なり。又「成唯識論述記巻7本」に、「悪作の体は何を以って性と為すや。悪は嫌なり、即ち所作の業を嫌悪す。諸の所作の業は、心を起し嫌悪し已りて、而も之を追悔する、方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるを名づけて悪作と為さば、即ち悔の体は唯善なるべし。唯悪事を悔するが故なり。若し所作を嫌悪すといわば、体寧ぞ悔に非ざらんや。是れ悔の因と言うは、若し先に所作を悪まば方に悔を生ず。悪作、悔に非ずんば其の体何ぞや」と云えり。是れ悪作の悪を去声に読み、之を嫌悪の義となせるものなり。古来本邦に於いて、南都北嶺の学者はすべて悪作をオサと読み、三井及び野山にては、アクサと呼ぶを常とせり。又「瑜伽師地論巻11」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻7」、「倶舎論光記巻4」、「同宝疏巻4」「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望)
是諸阿羅漢。自擔他擔能擔故名能擔。 是の諸の阿羅漢は、自らの擔、他の擔を能く擔うが故に、能く擔うと名づく。
是の、
諸の、
『阿羅漢』は、
『自ら!』を、
『利益する!』、
『擔』と、
『他』を、
『利益する!』、
『擔』とを、
『擔うことができる!』が故に、
『擔うことができる!』と、
『称する!』。
復次譬如大牛壯力能服重載。此諸阿羅漢亦如是。得無漏根力覺道。能擔佛法大事擔。以是故諸阿羅漢名能擔 復た次ぎに、譬えば大牛の壮力の能く重載を服するが如し。此の諸の阿羅漢も、亦た是の如く、無漏の根、力、覚、道を得て、能く仏法の大事の擔を擔う。是を以っての故に、諸の阿羅漢を、能く擔うと名づく。
復た次ぎに、
譬えば、
『大牛』は、
『壮力である!』が故に、
『重い荷物』を、
『背負うことができるように!』、
此の、
諸の、
『阿羅漢』も、
是のように、
『無漏』の、
『五根、五力、七覚、八道』を、
『得た!』が故に、
『仏法という!』、
『大事の擔』を、
『擔うことができる!』ので、
是の故に、
『諸の阿羅漢』を、
『擔うことができる!』と、
『称するのである!』。
  壮力(そうりき):盛大なる力。
  (ふく):載せる。負う。
  (さい):車舟の運ぶ所の物。
  根力覚道(こんりきかくどう):五根、五力、七覚支、八正道支の総称。『大智度論巻15下注:五根、五力、同巻18上注:八正道、同巻18下注:七覚支』参照。
  参考:『雑阿含経巻26』:『佛告無畏。若婆羅門有一勝念。決定成就。久時所作。久時所說。能隨憶念。當於爾時習念覺支。修念覺已。念覺滿足。念覺滿足已。則於選擇分別思惟。爾時擇法覺支修習。修擇法覺支已。擇法覺支滿足。彼選擇分別思量法已。則精進方便。精進覺支於此修習。修精進覺支已。精進覺支滿足。彼精進方便已。則歡喜生。離諸食想。修喜覺支。修喜覺支已。則喜覺支滿足。喜覺支滿足已。身心猗息。則修猗覺支。修猗覺支已。猗覺滿足。身猗息已。則愛樂。愛樂已心定。則修定覺支。修定覺支已。定覺滿足。定覺滿足已。貪憂滅。則捨心生。修捨覺支。修捨覺支已。捨覺支滿足。如是。無畏。此因.此緣眾生清淨』
  三無漏根(さんむろこん):梵にtriiNy-anaasravendriyaaNiに作り、無漏の根なるものに三種の別あるの義。二十二根の一科。一に未知当知根(みちとうちこん、anaajJaataajNaasyaamindriya)、二に已知根(いちこん、aajJeendriya)、三に具知根(ぐちこん、aajJaataavindriya)なり。また初を未知欲智根、第二を知根、第三を無知根とも名づけ、意、楽、喜、捨、信、精進、念、定、慧等の九根を以って体と為して立て、その増上の力用有るを以ってよく無漏清淨の聖法を産生するが故に生して根と成す。即ち『雑阿含経巻26』に、三根有り、未知当知根、知根、無知根なり、と云い、『倶舎論巻3』に、意と楽と喜と捨と信(進、念、定、慧)等の五根と、かくの如き九根は、三道に在りて次ぎの如く三無漏根を建立す、謂わゆる見道に在りては、意等の九に依りて未知当知根を立つ。もし修道に在りては、即ちこの九に依りて已知根を立つ、無学道に在りてもまたこの九に依りて具知根を立つ』、と云えるこれなり。即ち(一)未知欲知根:見道の位に属す、この位の人は無始以来未だかつて四諦の真理を知らざれば、彼の真如諦の理を知らんと欲し、遂に地前の方便の解行を修習す、故に未知欲智根と称す。(二)已知根:修道の位に属し、即ちすでに四諦の真理を知り、並びにすでに理に迷える惑を断除すれば、ただ事に迷える惑を断除せんが為に進んで四諦の理を観察し、四諦を清楚に了知したる境なり、故に已知根と称す。(三)具知根:即ち具に四諦の理を洞知せる無学位なり。そのすでに諸の煩悩を断除し、一切の所作具辦するが故にその九根を称して具知根と為す。またこの位はすでに尽智、無生智を得れば、ただ無学果の人にのみこの智有り。<(望)
  無漏根力(むろこんりき):無漏は無煩悩、根力は根本的能力の意であり、また五根五力というが如く、根は潜在的能力、力はその能力の顕現を指す。以下に簡単に纏める。即ち三道とは聖者の通る三種三位の道にして、即ち(1)見道:初めて無漏の智を生じて四諦の理を照見する位。道とは学人の通る道、この道に依り貪瞋癡等の煩悩を断ち、淨楽我常の邪見を排して、不淨苦無我無常の真諦に至る。無漏の智とは四聖諦により煩悩が断たれたとき生ずる智慧を指す。(2)修道:無間(むげん、無暇)に修習するを指す。(3)無学道:真諦を体得し終わった状態を指す。この三道に各々欠くべからざる三種の能力有り、これを三無漏根と称し、聖者の修めるべき三種の根力にして二十二根の最後の三根を指す。即ち(1)未知欲知根:未だ知らざるを知らんと欲する九種の根力。見道に相当す。(2)知根:すでに知りおえたる事を無間に修習する九種の根力、修道に相当す。(3)知己根:すでに知りおえた事を明了に知る九種の根力、無学道に相当す、これなり。この九種の根力は皆同じものにして、即ち意根、楽根、善根、捨根、信根、精進根、念根、定根、慧根の九種の根力を指す。根とは即ち増上の意にして、事に於ける増上(作用)の法を指す。即ち(1)意根:眼耳鼻舌身意の六根の中の意根、抽象的な概念を外界から受ける能力。(2)楽根:楽を感受する能力。(3)善根:善行を欲する能力。(4)捨根:心を平等にたもち苦楽憂喜を感受しない能力。(5)信根:善法を信じる能力。(6)精進根:不懈不怠の能力。(7)念根:憶念して不忘の能力。(8)定根:心を定めて散乱せしめざる能力。(9)慧根:事理を悟る智慧の能力なり。これ等を即ち総じて無漏の根力と称す。<(望)
  二十二根(にじゅうにこん):梵にdvaaviMzatindriyaaNiに作り、二十二の根本的な能力。事に於いて特に増上の義を有する二十二種の法を指す。即ち眼耳鼻舌身意等の六根、男根、女根、命根、苦楽憂喜捨等の五受根、信勤念定慧等の五善根、未知当知、已知、具知の三無漏根なり。樹木は根によりて養分を得て生長すれば、これを増上の義と為し、並びに堅固にして動揺せざる義を草木の根に喩うものなり。
  (1-6)六根:眼耳鼻舌身意を指す。
  (7-8)男女の二根を指す。
  (9)命根:梵にjiivitendriyaに作り、衆生の寿命を指す。衆生の身心は一期(この世に受生してより以って死亡するに至るまで)の相続の間に在り、煖(体温)と識とを維持する者にして、その体を寿と為す。言い換うれば、即ち煖と識とに依り一期の間を維持する者を即ち称して命根と為す。
  (10)苦根:梵にduHkhendriyaに作り、苦を感受する能力を指す。
  (11)楽根:梵にsukhendriyaに作り、楽を感受する能力を指す。
  (12)憂根:梵にdaurmanasyendriyaに作り、憂を感受する能力を指す。
  (13)喜根:梵にsaumanasyendriyaに作り、喜を感受する能力を指す。
  (14)捨根:梵にupekSendriyaに作り、心を平等にする能力。苦楽憂喜を感じず平静なるを指す。
  (15)信根:梵にzraddhendriyaに作り、信は理に入る根本と為す。
  (16)精進根:梵にviiryendriyaに作り、不懈不怠の能力を指す。
  (17)念根:梵にsmRtindriyaに作り、憶念不忘の能力を指す。
  (18)定根:梵にsamaadhindriyaに作り、心を一処に定め散乱せしめざる能力を指す。
  (19)慧根:梵にprajJaa-indriyaに作り、真理に観達するを称して慧と為す、智慧具有して一切を照破し、善法を生出する能力にして、一切の功德を成就すべく、以って道を成すに至るが故に称して慧根と為す。
  (20)未知欲知根:見道の位に於ける意楽善捨信精進念定慧の九根を指す。
  (21)知根:修道の位に於ける意楽善捨信精進念定慧の九根を指す。
  (22)知己根:無学道の位に於ける意楽善捨信精進念定慧の九根を指す。<(望)
  覚道(かくどう):七覚分と八正道とを指す。
  七覚分(しちかくぶん):梵にsaptabodyaGgaaniに作り、また七覚支、七等覚支、七遍覚支、七覚意、七覚志等に作り、略して七覚と称し、乃ち三十七道品中の第六品の行法なり。覚の意は菩提の智慧をいい、七種の法を以ってよく菩提の智慧を開展するが故に覚支と称す。即ち一に念覚支(ねんかくし、smRti-saMbodhyaGga)、二に択法覚支(じゃくほうかくし、dharma-pravicaya-s.)、三に精進覚支(しょうじんかくし、viirya-s.)、四に喜覚支(きかくし、priiti-s.)、五に軽安覚支(きょうあんかくし、prasrabdhi-s.)、六に定覚支(じょうかくし、samaadhi-s.)、七に捨覚支(しゃかくし、upekSaa-s.)なり。これ即ち初めに念覚支を修習し、乃ち最後に捨覚支を修習するに至る。即ち(一)念覚支:心明記の性にして念を以ってその体と為し、億持して忘れざるをいう。(二)択法覚支:慧を以って体と為し、諸法を簡択分別するをいう。(三)精進覚支:勤を以って体と為し、励意にして息まざるをいう。(四)喜覚支:喜を以って体と為し、欣悦歓喜するをいう。(五)軽安覚支:また猗覚支に作り、軽安を以って体と為す、即ち身の軽安及び心の軽安をいう。(六)定覚支:心一境の性にして定を以って体と為し、その心安住して散ぜざるをいう。(七)捨覚支:心平等の性にして行捨を以って体と為し、その心の無警覚にして寂静に住するをいうなり。これを通じて覚支、覚分と名づくるは、この七は菩提の位に近くして如実の覚を助くることの勝るるが故なり。<(望)
  八正道(はっしょうどう):梵にaaryaaSTaaGgika-maargaに作り、八種の正道の意。三十七菩提分法の一科。また八支正道、八支聖道、八聖道支、八聖道分、八賢聖道、八正聖路、八正路、八正法、八直道、八品道、八直行といい、略して八支、八法、八路と称す。即ち涅槃を求趣する道支に八種あるをいう。一に正見(しょうけん、samyag-dRSTi)、二に正志(しょうし、samyak-saMkalpa)、三に正語(しょうご、samyag-vaac)、四に正業(しょうごう、samyag-karmaanta)、五に正命(しょうみょう、samyag-aajiva)、六に正方便(しょうほうべん、samyag-vyaayaama)、七に正念(しょうねん、samyag-smRti)、八に正定(しょうじょう、samyag-samaadhi)なり。『中阿含経巻56羅磨経』に、五比丘、まさに知るべし、二の辺行あり。諸の為道者はまさに学ぶべからざる所なり、一に曰わく欲楽に著す、下賎の業にして凡人の所行なり、二に曰わく自ら煩い自ら苦しむ、賢聖の法に非ずして無義と相応す。五比丘、この二辺を捨てて中道を取ることあらば明を成し、定を成就して而も自在を得、智に趣き覚に趣き涅槃に趣く。謂わゆる八正道なり、正見より乃ち正定に至る、これを謂いて八と為す、と云い、『中阿含経巻7別聖諦経』に、云何が苦滅道の聖諦なる、謂わゆる正見正志正語正業正命正方便正念正定なり、と云えるこれなり。この中に、(一)正見:また諦見と名づく、即ち苦はこれ苦、集はこれ集、滅はこれ滅、道はこれ道なりと見、また施あり、斉あり、呪説あり、善悪の業あり、善悪業の報あり、此世彼世あり、父母あり、世に真人ありて善処に往至し、善く去り善く向い、此世彼世に自ら知り、自ら覚り、自ら作証して成就すと見るをいう。(二)正志:また正思、正思惟、正分別、正覚に作り、或いは諦念と名づく、即ち欲覚恚覚及び害覚無きをいう。(三)正語:また正言に作り、或いは諦語と名づく、即ち妄言、両舌、麁言、綺語等を離るるをいう。(四)正業:また正行に作り、或いは諦行と名づく、即ち殺生、不与取及び邪淫を離るるをいう。(五)正命:また諦受と名づく、即ち耕作、占星、王使、呪術等の邪命を捨てて、如法に衣服飲食床榻湯薬等の諸の生活の具を求むるをいう。(六)正方便:また正精進、正治に作り、或いは諦法と名づく、即ち已生の悪法は断じ、未生の悪法は生ぜざらしめ、未生の善法は生ぜしめ、已生の善法は増長満具せしめんことを発願し、よく方便を求めて精勤するを云う。(七)正念:また諦意と名づく、即ち自相共相を以って身受心法の四を観ずるをいう。(八)正定:また諦定と名づく、即ち欲悪不善の法を離れ、初禅乃至四禅を成就するをいうなり。『雑阿含経巻28』参照。また『倶舎論巻25』によるに、この八支の中、正見は慧を以って体と為し、正思惟は尋を以って体と為し、正語正業及び正命は共に戒を以って体と為し、正精進は勤を以って体と為し、正念は念を以って体と為す、となせり。<(望)



己の利を逮得した

【經】逮得己利 己利を逮得す。
『己』の、
『利』を、
『逮得(獲得)した!』。
  逮得(たいとく):梵語anupraaptaの訳。獲得の義。追い求めて得るの意。
  己利(こり):梵語svakaarthaの訳。自己の所属なる財産の義。
【論】云何名己利。云何非己利。行諸善法是名己利。諸餘非法是名非己利。 云何が、己利と名づくけ、云何が、己利に非ずと名づくる。諸の善法を行ずる、是れを己利と名づけ、諸余の非法、是れを己利に非ずと名づく。
何を、
『己の利』と、
『呼ぶのか?』、
何が、
『己の利でないのか?』。
諸の、
『善法を行う!』ことを、
『己の利』と、
『呼び!』、
諸余の、
『非法(非善法)を行う!』ことを、
『己の利でない!』と、
『称する!』。
復次信戒捨定慧等諸功德。一切財寶勝故。今世後世常得樂故。能到甘露城故。以是三因緣故。名己利。如信品中偈說
若人得信慧  是寶最第一 
諸餘世財利  不及是法寶
復た次ぎに、信、戒、捨、定、慧等の諸の功徳と、一切の財宝に勝るが故に、今世、後世に常に楽を得るが故に、能く甘露の城に到るが故に、是の三因縁を以っての故に、己利と名づく。信品中の偈に説くが如し、
若し人信と慧とを得ば、是の宝は最も第一なり、
諸余の世の財利は、是の法の宝に及ばず。
復た次ぎに、
『信、戒、捨、定、慧』等の、
諸の、
『功徳』は、
一切の、
『財宝』に、
『勝(まさ)る!』が故に、
又、
『今世、後世』に、
常に、
『楽』を、
『得る!』が故に、
『涅槃という!』、
『甘露』の、
『城』に、
『到ることができる!』が故に、
是の、
『三因縁』の故に、
『己の!』、
『利』と、
『呼ぶのである!』。
例えば、
『信品』中の、
『偈』に、こう説く通りである、――
若し、
『人』が、
『信、慧』を、
『得れば!』、
是の、
『宝』は、
『最も第一である!』。
諸余の、
『世間の財、利』は、
是の、
『法の宝』に、
『及ばない!』。
  
  参考:『大智度論巻65歎信行品』:『【經】爾時釋提桓因作是念。若善男子善女人得聞般若波羅蜜經耳者。是人於前世佛作功德與善知識相隨。何況受持親近讀誦正憶念如說行。當知是善男子善女人多親近諸佛。能得聽受如說行能問能答。當知是善男子善女人於前世多供養親近諸佛故。聞是深般若波羅蜜不驚不怖不畏。當知是人亦於無量億劫。行檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。爾時舍利弗白佛言。世尊。若有善男子善女人聞是深般若波羅蜜不驚不怖不畏。聞已受持親近如說習行。當知是善男子善女人如阿鞞跋致菩薩摩訶薩。何以故。世尊。是般若波羅蜜甚深。若先世不久行檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。終不能信解深般若波羅蜜。世尊。若有善男子善女人呰毀深般若波羅蜜者。當知是人前世亦呰毀深般若波羅蜜。何以故。是善男子善女人聞說深般若波羅蜜時。無信無樂心不清淨。當知是善男子善女人。先世不問不難諸佛及弟子。云何應行檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。云何應修內空乃至云何應修無法有法空。云何應修四念處。乃至云何應修八聖道分。云何應修佛十力。乃至云何應修十八不共法。釋提桓因語舍利弗。是深般若波羅蜜。若有善男子善女人。不久行檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。不行內空乃至無法有法空。不行四禪四無量心四無色定。不行四念處乃至八聖道分。不行佛十力乃至十八不共法。如是人不信解是深般若波羅蜜。有何可怪。大德舍利弗。我禮般若波羅蜜。禮般若波羅蜜是禮一切智。佛告釋提桓因。如是如是。憍尸迦。禮般若波羅蜜是禮一切智。何以故。憍尸迦。諸佛一切智皆從般若波羅蜜生。一切智即是般若波羅蜜。以是故憍尸迦。善男子善女人欲住一切智。當住般若波羅蜜。若善男子善女人欲生道種智。當習行般若波羅蜜。欲斷一切諸結及習。當習行般若波羅蜜。善男子善女人欲轉法輪。當習行般若波羅蜜。善男子善女人欲得須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果。當習行般若波羅蜜。欲得辟支佛道。當習行般若波羅蜜。欲教眾生令得須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道。當習行般若波羅蜜。若善男子善女人欲教眾生令得阿耨多羅三藐三菩提。若欲總攝比丘僧。當習行般若波羅蜜【論】釋曰。釋提桓因是諸天主。利根智勝信佛法故倍復增益。如火得風愈更熾盡。聞須菩提以種種因緣讚般若波羅蜜佛以深理成其所讚。帝釋發希有心作是念。若善男子善女人得聞般若經耳者。是人於前世多供養諸佛作大功德。今世得遇好師同學等善知識。因先世供養佛。緣今世善知識故。聞般若波羅蜜能信。何況讀誦思惟正憶念修習禪定籌量分別義趣能成辦事者。當知是人從過去諸佛及弟子聞深般若波羅蜜義。信受不怖不畏。何以故。是人於無量阿僧祇劫行六波羅蜜等諸功德。是故雖未得阿鞞跋致地。於深法中不疑不悔。譬如新劈乾毳隨風東西濕毳紲緻則不可動。新發意菩薩亦如是。不久修德作福。淺薄隨他人語。不能信受般若波羅蜜。若久修福德不隨他語。則能信受深般若波羅蜜不驚不怖。帝釋思惟念般若波羅蜜有無量功德。時舍利弗知帝釋所念而白佛言。世尊。善男子善女人。雖未入菩薩位。能信受深般若波羅蜜。不驚不怖如說修行。是人大福德智慧信力故。當知如阿鞞跋致無異。此中佛自說因緣。般若波羅蜜甚深無相可取可信可受。若能信受是為希有。如人空中種殖是為甚難。一切凡夫得勝法則捨本事。如得禪定樂捨五欲樂。乃至依有頂處捨無所有處功德。不能無所依止而有所捨。如尺蠖尋條安前足進後足盡樹端更無所依止還歸本處。是菩薩未得道。於般若波羅蜜無所依止。而能修福德捨五欲。是事希有。是中說因緣。是人先世信受久行六波羅蜜。大集諸福德。與信相違則毀呰般若波羅蜜。如厚福德者從久積集。不信毀呰者亦從久習。問曰。若先世毀呰誹謗應墮地獄。何緣復得聞般若。答曰。有人言。是人墮地獄罪畢還來毀呰。不說次後身。有人言。作業積集厚重則能與果報。是人前世雖不信。而積業未厚。則未得果報。以餘福德故生人中續復不信。復次有人言。五逆罪次後身必受餘罪。不爾或次後身或久後身。爾時帝釋語舍利弗。是般若波羅蜜畢竟空無所有故甚深。菩薩不久行功德。則著心堅固信力微弱不信般若波羅蜜。乃至一切智何足怪。帝釋思惟籌量。信般若波羅蜜福德無量。不信者得罪深重。深愛敬般若波羅蜜故發是言。我當禮是般若。何以故禮般若波羅蜜則為禮一切智。禮一切智者則禮三世十方諸佛。爾時佛可其言。復說讚般若波羅蜜因緣。所謂諸佛一切智慧。皆從般若中生。是故言若有菩薩欲住一切智中乃至總攝比丘僧。當習行般若波羅蜜』
復次若人今世得樂。後世得樂及涅槃常樂。是名己利餘非己利。如偈說
世知種種無道法 
與諸禽獸等無異 
當求正智要道法 
得脫老死入涅槃
復た次ぎに、若し人、今世に楽を得、後世に楽、及び涅槃を得て常に楽ならば、是れを己利と名づけ、余を己利に非ずと名づく。偈に説くが如し、
世は、種種の無道の法を知るも、
諸の禽獣と、等しくして異無し、
当に正智と、要道の法を求め、
老死を脱るるを得て、涅槃に入るべし。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『今世』に、
『楽』を、
『得て!』、
『後世』にも、
『楽』を、
『得て!』、
『涅槃という!』、
『常楽』を、
『得れば!』、
是れを、
『己の利』と、
『称する!』が、
余の、
『事』は、
『己の利でない!』。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『世間』は、
種種の、
『無道の法』を、
『知っている!』が、
諸の、
『禽獣』と、
『等しくして!』、
『異ならない!』。
当然、
『正智』と、
『要道の法』を、
『求め!』、
『老、死を逃れて!』、
『涅槃』に、
『入るべきである!』。
復次八正道及沙門果。是名諸阿羅漢己利。是五千阿羅漢得道及果。二事俱得故名己利。以是故言逮得己利 復た次ぎに、八正道、及び沙門果は、是れを諸の阿羅漢の己利と名づけ、是の五千の阿羅漢は道、及び果を得れば、二事倶に得るが故に、己利と名づく。是を以っての故に言わく、『己利を逮得す』と。
復た次ぎに、
『八正道』と、
『沙門果』とを、
諸の、
『阿羅漢の己の利』と、
『称する!』。
是の、
『五千の阿羅漢』は、
『道』と、
『果』とを、
『得ており!』、
『二事』を、
皆、
『得た!』が故に、
是れを、
『己の利』と、
『呼ぶ!』。
是の故に、こう言うのである、――
『己の利』を、
『逮得した!』、と。



諸の有結を尽くした

【經】盡諸有結 諸の有結を尽くす。
諸の、
『有結(三界の生を引く煩悩)』を、
『尽くした!』。
  有結(うけつ):梵語bhava-saMyojanaの訳。存在を所因として生死に結縛するものの義。有とは生死の果報ににして欲有、色有、無色有の三有に名づく。其の果報を招致すべき煩悩を結と為す。
【論】三種有。欲有色有無色有。云何欲有。欲界繫業取因緣。後世能生亦是業報。是名欲有。色有無色有亦如是。是名為有。 三種の有とは欲有、色有、無色有なり。云何が、欲有なる。欲界繋の業は、因縁を取りて、後世に能く亦た是の業報を生ず。是れを欲有と名づく。色有、無色有も、亦た是の如し。是れを名づけて有と為す。
『有()』には、
『三種有り!』、
『欲有()』、
『色有』、
『無色有である!』。
何を、
『欲有と言うのか?』、――
『欲界繋』の、
『業』が、
『生の因縁』を、
『取る!』と、
『後世』にも、
『業の報』を、
『生じさせる!』。
是れを、
『欲有』と、
『称する!』。
『色有、無色有』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
是れを、
『有』と、
『称する!』。
  欲界繋(よっかいけ):梵語kaama-dhaatu-bandhana、又はkaama-pratisaMyuktaの訳。欲界に繋縛する煩悩の意。『大智度論巻8下注:繋』参照。
結盡者結有九結。愛結恚結慢結癡結疑結見結取結慳結嫉結。是結使盡及有。是有盡及結使。以是故名有結盡。 結の尽くるとは、結に、九結有り、愛結、恚結、慢結、癡結、疑結、見結、取結、慳結、嫉結なり。是の結使尽くれば、有に及び、是の有尽くれば、結使に及ぶ。是を以っての故に、有結尽くと名づく。
『結が尽きる!』とは、――
『結』には、
『九結有り!』、
『愛、恚、慢、癡、疑、見、取、慳、嫉結である!』が、
是の、
『結使』が、
『尽きる!』と、
『有』に、
『及び!』、
是の、
『有』が、
『尽きる!』と、
『結使』に、
『及ぶ!』ので、
是の故に、
『有結が尽きる!』と、
『称するのである!』。
  九結(くけつ):梵語nava-saMyojanaの訳。九種の結縛の意。即ち衆生を結縛して、生死を出でざらしむる煩悩に九種あるを云う。一に愛anunaya-saMyojana、二に恚pratigha-s.、三に慢maana-s.、四に無明avidyaa-s.、五に見dRSTi-s.、六に取paraamarza-s.、七に疑vicikitsaa-s.、八に嫉irSyaa-s.、九に慳maatsarya-s.なり。即ち六随眠に取と嫉と慳の三を加えたるもの。其の中、六随眠は根本煩悩にして繋縛の義強きが故に、特に立てて結と名づく。但し五見の中、唯だ身と辺と邪との三を立てて見結となし、又四取の中、唯だ見と戒との二取を立てて取結とするには二義あり。一には三見の体は十八事、二取の体も亦十八事にして、即ち物等しきに由り、二には三見は所取にして、二取は能取なれば、能取所取異ありと雖も、共に取の義等しきに由るが故なり。又十纏の中、唯だ嫉と慳との二を立てて結とするに七由あり。一には此の二は数ば現行するに由り、二に嫉は賎の因となり、慳は貧の因となるに由り、三には嫉は憂と相応して徧く戚の随惑を顕わし、慳は喜と相応して徧く歎の随惑を顕わすに由り、四に出家は教法に於いて、在家は財宝に於いて此の二の為に悩乱せらるるに由り、五に帝釈天には甘露の味あり、修羅には女色ありて、天は味を慳み色を嫉み、修羅は色を慳み味を嫉みて、互いに闘諍を興すに由り、六に此の二は人天二趣を悩乱するに由り、七に此の二は自他を悩乱するに由ると云える是れなり。又此の九結は「大毘婆沙論巻50」に、百事を以って自性となすと云えり。即ち愛と慢と無明の三は、各三界五部に通ずるが故に、総じて四十五事あり。恚は欲界五部にして五事あり。見の中、身辺二見は、各三界見苦所断にして六事、邪見は三界各四部にして十二事あり。取の中、見取は三界各四部にして十二事、戒取は三界各苦道所断にして六事あり。疑は三界各四部にして十二事、嫉と慳の二は各欲界修所断にして二事あり。故に計百事を成ずるなり。又「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻54」、「成実論巻10」、「倶舎論巻21」、「同光記巻21」、「同宝疏巻21」、「大乗義章巻5末」等に出づ。<(望)
  愛結(あいけつ):梵語anunaya-saMyojanaの訳。九結の一。境に染著する貪煩悩を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻17下注:愛』参照。
  恚結(いけつ):梵語pratigha-saMyojanaの訳。九結の一。有情に対して憎恚する精神作用を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻18上注:瞋』参照。
  慢結(まんけつ):梵語maana-saMyojanaの訳。九結の一。他に対して自ら挙恃する精神作用を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻49下注:慢』参照。
  癡結(ちけつ):梵語avidya-saMyojanaの訳。九結の一。事理に於いて愚にして之に了達せざる精神情態を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻15下注:無明、同巻18上注:癡』参照。
  疑結(ぎけつ):梵語vicikitsaa-saMyojanaの訳。九結の一。因果の理を疑い、猶豫して決定せざる精神作用を云う。『大智度論巻3下注:九結、疑』参照。
  見結(けんけつ):梵語dRSTi-saMyojanaの訳。九結の一。五見中の身見、辺見、邪見を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻41下注:十結』参照。
  取結(しゅけつ):梵語paraamarza-saMyojanaの訳。九結の一。五見中の見取、戒取を云う。『大智度論巻3下注:九結、同巻41下注:十結』参照。
  慳結(けんけつ):梵語maatsarya-saMyojanaの訳。九結の一。心をして悋著鄙恡ならしむる精神作用を云う。『大智度論巻3下注:九結、慳』参照。
  嫉結(しつけつ):梵語irSyaa-saMyojanaの訳。九結の一。他の善事或いは栄誉等を妒忌する精神作用を云う。『大智度論巻3下注:九結、嫉』参照。
  (ぎ):梵語vicikitsaaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。迷悟因果の理に対して、猶豫して決定せざる精神作用を云う。「大毘婆沙論巻50」に、「苦等の四諦に於いて猶豫す」と云い、「成唯識論巻6」に、「諸の諦理に於いて猶豫するを性とし、能く不疑の善品を障うるを業とす」と云える是れなり。倶舎にては之を不定地法に摂し、又六随眠、十随眠の一とし、唯識にては六根本煩悩の一となせり。但し疑は汎く之を論ずるに二種の別あり、一は随眠性の疑結にして、他は所謂処非処の疑なり。「大毘婆沙論巻50」に、「人あり遠く竪てる物を見て便ち猶豫を生じ、杌か人か、設し彼れは是れ人ならば、男とせんか女とせんかと。或いは二道を見て便ち猶豫を生じ、是れ所往の路か、復た非なるかと。二の衣鉢を見て亦猶豫を生じ、是れ吾が所有か他の所用かというが如き、或いは此等は是れ実の疑結かと疑う。彼の疑をして決定を得しめんと欲するが故に、今此の疑は但だ是れ欲界の無覆無記の邪智を体となし、真の疑結に非ざることを顕わす。真の疑結とは、謂わく苦等の四諦に於いて猶豫す」と云えり。是れ竪物を見て杌か人かと疑うが如きは、欲界無覆無記の邪智にして真の疑結に非ず、真の疑結は即ち苦等の四諦に於いて猶豫するを称すとなすの意なり。又「成唯識論巻4」に、「所縁の事に於いて亦猶豫するは煩悩の疑に非ず。人か杌かと疑うが如し」と云い、「異部宗輪論述記」に、「疑に二種あり、一に随眠性の疑は阿羅漢已に断ず。二に処非処の疑は阿羅漢未だ断ぜず、独覚も此に於いて猶お成就す」と云えるは、皆亦理に迷う随眠性の疑結と、事に於いて猶豫する処非処の疑とを区別せるものなるを知るべし。又浄土門にては疑を信に対する語とし、疑心を去りて信心を起すべきことを説けり。「十住毘婆沙論巻5易行品」に、「疑えば則ち華開けず。信心清浄なるものな、華開けて則ち仏を見る」と云い、「選択本願念仏集巻上」に、「生死の家には疑を以って所止となし、涅槃の城には信を以って能入となす」と云える其の例なり。是れ即ち疑は猶豫の心にして決定を闕くものなるが故に、之を打開して其の信心を一決せしむるを要となすの意なり。又「大毘婆沙論巻196」、「瑜伽師地論巻58」、「倶舎論巻4」、「同光記巻4」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)
  (けん):梵語maatsaryaの訳。鄙悋の義。心所の名。七十五法の一。百法の一。即ち心をして悋著鄙恡ならしむる精神作用を云う。「倶舎論巻21」に、「慳は謂わく財法の巧施と相違して、心をして悋著ならしむ」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が慳と為す。財と法とに耽著して恵捨すること能わず。秘悋を性と為し、能く不慳を障え、鄙畜するを業となす。謂わく慳悋の者は心多く鄙渋し、財と法とを蓄積して、捨する能わざるが故なり」と云える是れなり。倶舎にては之を小煩悩地法の一、八纏又は十纏の一、或いは九結の一とし、貪の等流にして別に実体ありと為すも、唯識にては小随煩悩の一にして、貪愛の一分を以って体とし、貪を離れて別に相用無しとなせり。又「成実論巻10雑煩悩品」には五慳を挙ぐ、一に住処慳とは独り我れ此に住し、余人に用いしめず。二に家慳とは独り我れ此の家に入出し、余人に用いしめず。設い余人あるも我れ中に於いて勝なり。三に施慳とは我れ此の中に於いて独り布施を得、余人に与うること勿かれ。若し余人あるも我れに過ぎしむること勿かれ。四に称讃慳とは独り我れを称讃し、余人を讃する勿けれ。設い余人を讃するも亦我れに勝らしむること勿かれ。五に法慳とは独り我れ十二部経の義を知り、又深義を知るも秘して説かざる是れなり。又「大毘婆沙論巻50」、「瑜伽師地論巻89」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「阿毘達磨順正理論巻54」等に出づ。<(望)
  (しつ):梵語iiSyaaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。即ち他の善事或いは栄誉等を妒忌する精神作用を云う。「倶舎論巻21」に、「嫉とは謂わく他の諸の興盛の事に於いて心して喜ばざらしむるなり。(中略)嫉と忿とは是れ瞋の等流なり」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が嫉と為す、自ら名利を殉(モト)めて他の栄に耐えず、妬忌するを性と為し、能く不嫉を障えて憂慼するを以って業と為す。謂わく嫉妬の者は他の栄を聞見せば、深く憂慼を懐きて安穏ならざるが故なり。此れ亦瞋恚の一分を以って体と為す、瞋を離れば別の嫉の相用なきが故なり」と云える是れなり。倶舎にては之を小煩悩地法の一、八纏又は十纏の一、或いは九結の一とし、瞋の等流にして別体ありとなすも、唯識にては随煩悩の一とし、瞋恚の一分にして別体なしとす。又「成実論巻10九結品」に嫉と慳との別を辨じ、「是の二煩悩は最も是れ鄙弊なり。所以は何ぞ、他の衆生の飢渴の苦悩を見るも、慳心を以っての故に矜済する能わず。他より得るを見ば亦嫉妬の心を生じて悩熱を懐く。是の因縁を以って貧賤醜陋にして威徳なき処に堕す。(中略)若し深く善心を修せば乃ち能く永く嫉妬を断じ、深く布施を修せば然る後尽く慳心を断ず」と云えり。又「大毘婆沙論巻47、48」、「雑阿毘曇心論巻4」、「顕揚聖教論巻1」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻4」、「同光記巻4、21」、「順正理論巻11、54」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1、6」、「成唯識論述記巻6末」、「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望)
問曰。諸阿羅漢結使應永盡。得一切煩惱離故。有不應盡。何以故。阿羅漢未滅度時。眼根等五眾十二入十八持。諸有成就故。 問うて曰く、諸の阿羅漢の結使は、応に永く尽くべし、一切の煩悩を離るるを得るが故なり。有は、応に尽くすべからず。何を以っての故に、阿羅漢は、未だ滅度せざる時に、眼根等の五衆、十二入、十八持の諸の有の成就せるが故なり。
問い、
諸の、
『阿羅漢』の、
『結使』は、
当然、
『永く!』、
『尽きるはずである!』、
何故ならば、
一切の、
『煩悩』を、
『離れられたからである!』。
而し、
『有』が、
『尽きるはずがない!』。
何故ならば、
『阿羅漢』が、
未だ、
『滅度しない!』時の、
『眼根』等の、
『五衆、十二入、十八持』が、
諸の、
『有』を、
『成就させるからである!』。
答曰。無所妨。是果中說因。如佛語檀越。施食時與五事。命色力樂[目*善]。食不能必與五事。有人大得飲食而死。有人得少許食而活。食為五事因。是故佛言施食得五事。 答えて曰く、妨ぐる所無し。是れ果中に因を説けばなり。仏の語りたもうが如し、『檀越の施食する時、五事を与う。命、色、力、楽、膽なり』と。食は、必ずしも五事を与うる能わざるも、有る人は、大いに飲食を得て、死し、有る人は、少し許(ばか)りの食を得て活くるに、食を五事の因と為して、是の故に、仏の言わく、『施食は、五事を得。』と。
答え、
『有が尽きる!』のを、
『妨げる!』所は、
『無い!』。
是れは、
『果』中に、
『因』を、
『説いたものである!』。
例えば、
『仏』が、こう語られた通りである、――
『檀越(施主)』が、
『施食する!』時には、
『五事』を、
『与えることになる!』、
則ち、
『命(寿命)』と、
『色(身体)』と、
『力(活力)』と、
『楽(安楽)』と、
『膽(勇気)である!』、と。
『食』は、
必ずしも、
『五事』を、
『与えるものではない!』が、
有る人は、
『飲、食』を、
『大いに!』、
『得ていながら!』、
『死ぬこともあり!』、
有る人は、
『飲、食』を、
『少しばかり!』、
『得ただけで!』、
『活きている!』ので、
『食』を、
『五事』の、
『因であるとして!』、
是の故に、
『仏』は、こう言われたのである、――
『施食』は、
『五事』を、
『与えることができる!』、と。
  檀越(だんおつ):梵語daana-pati。施主と訳す。気前の良い主人の義。
  [目*善]:今、「過去現在因果経巻3」、「十住毘婆沙論巻6」に従い、理に依って「膽」に改む。
  参考:『過去現在因果経巻3』:『爾時世尊。即便咒願。今所布施。欲令食者。得充氣力。當令施者。得色得力。得膽得喜。安快無病。終保年壽。諸善鬼神。恒隨守護。飯食布施。斷三毒根。將來當獲三堅法報。聰明智慧。篤信佛法。在在所生。正見不昧。現世之中。父母妻子。親戚眷屬。皆悉熾盛。無諸災怪不吉祥事。門族之中。若有命過墮惡道者。當令以今所施之福還生人天。不起邪見。增進功德。常得奉近。諸佛如來。得聞妙說。見諦得證。所願具足』
  参考:『十住毘婆沙論巻6』:『問曰。汝先說知以身支節布施及外物布施所得果報。今可說所得果報。答曰。寶頂經中無盡意菩薩第三十品檀波羅蜜義中說。菩薩立願須食者施食。令我得五事報。一者得壽命。二者得膽。三者得樂。四者得力。五者得色。』
如偈說
斷食死無疑  食者死未定 
以是故佛說  施食得五事
偈に説くが如し、
食を断てば死は疑無きも、食する者も死は未だ定まらず、
是を以っての故に仏の説きたまわく、施食は五事を得と。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『食を断てば!』、
『死』は、
『疑』、
『無い!』が、
『食する!』者も、
『死』は、
『未定である!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『施食すれば!』、
『五事』を、
『与えることができる!』、と。
亦如人食百斤金。金不可食。金是食因故言食金。 亦た人の百斤の金を食うに、金は、食うべからざるも、金は、是れ食の因たるが故に金を食うと言うが如し。
亦た、
例えば、こうである、――
『人』は、こう言うが、――
『百斤』の、
『金』を、
『食った!』、と。
是の、
『人』は、
『金』を、
『食えるのではない!』。
但だ、
『金』は、
『食う!』ことの、
『因縁である!』が故に、
こう言ったのである、――
『金』を、
『食った!』、と。
佛言女人為戒垢。女人非戒垢。是戒垢因故。言女人為戒垢。 仏は、『女人を、戒垢と為す』と言えり。女人は、戒垢に非ざるも、是れ戒垢の因なるが故に、『女人を、戒垢と為す』と言えり。
『仏』は、こう言われた、――
『女人』は、
『戒』の、
『垢(汚染)である!』、と。
『女人』は、
『戒』の、
『垢ではない!』が、
是れは、
『戒』の、
『垢』の、
『因である!』が故に、
こう言われたのである、――
『女人』は、
『戒の垢である!』、と。
如人從高處墮未至地言此人死。雖未死知必死故。言此人死。 人、髙処より堕つるに、未だ地に至らざるに、此の人は死せりと言うが如き、未だ死せずと雖も、必ず死すことを知るが故に、此の人は死せりと言う。
譬えば、こうである、――
『人』が、
『髙処』より、
『堕ちる!』と、
未だ、
『地』に、
『至らない!』のに、
こう言うことがある、――
此の、
『人』は、
『死んだ!』、と。
未だ、
『死んでいなくても!』、
必ず、
『死ぬ!』と、
『知っている!』が故に、
こう言うのである、――
此の、
『人』は、
『死んだ!』、と。
如是諸阿羅漢結使已盡。知有必當盡故。言有結盡 是の如く、諸の阿羅漢の結使は已に尽くるに、有も、必ず当に尽くべきことを知るが故に、『有結尽く。』と言えり。
是のように、
諸の、
『阿羅漢』は、
『結使』が、
『已に!』、
『尽きている!』ので、
『有』も、
『必ず尽きるはずだ!』と、
『知る!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『有結』が、
『尽きた!』、と。



正智は、已に解脱を得た

【經】正智已得解脫 正智に、已に解脱を得。
『正智』に、
已に、
『解脱』を、
『得た!』。
  正智(しょうち):梵語samyag-jJaanaの訳。巴梨語sammaa-JaaNa。(一)無学十支の一。即ち無学位に於いて成就する無漏の尽智及び無生智を云う。「倶舎論巻25」に、「学位は八支を成就し、無学位の中には具に十を成就す。何に縁りてか有学位の中に正解脱あり、及び正智ありと説かざるや。正脱と正智は其の体是れ何ぞ。頌に曰わく、学には余縛あるが故に正脱と智との支なし。解脱は為と無為となり。謂わく勝解と惑の滅となり。有為は無学の支、即ち二は解脱蘊なり。正智は覚に説くが如し、謂わく尽無生智なり」と云える是れなり。是れ正智は即ち菩提にして尽智無生智を体とし、唯無学位にのみ之を成就することを説けるものなり。又「大毘婆沙論巻97」に尽智無生智は唯無漏智にして他の八智の如く無漏の正見に摂せざることを説き、「無漏智にして無漏の見に非ざるあり、謂わく尽無生智なり。此れ智相ありて見相なきが故なり」と云い、又唯意識相応の有漏の善慧を世俗の正見と名づくるに対し、五識と俱生する慧は見の性に非ず、審慮を先となして決度すること能わざるが故に立てて世俗の正智と名づくと云えり。是れ見と智とは寛狭ありとなすの意なり。然るに「成実論巻16見智品」には、正見と正智とは一体にして差別あることなしとし、且つ「正見に二種あり、世間と出世間となり。世間とは謂わく罪福等あり、出世間とは謂わく能く苦等の諸諦に通達するなり。正智も亦た爾り」と云い、尽智無生智は正観を以っての故に亦正見と名づくべきことを論ぜり。又「中阿含巻47五支物主経」、「同巻49聖道経」、「大毘婆沙論巻94、96」、「順正理論巻73」、「倶舎論光記巻25」、「同宝疏巻25」等に出づ。(二)三乗の人の得する無漏の根本智及び後得智を云う。「瑜伽師地論巻72」に、「何等をか正智と為すや、謂わく略して二種あり、一には唯出世間正智、二には世間出世間正智なり。何等をか名づけて唯出世間正智と為す、謂わく此れに由るが故に声聞独覚、諸の菩薩等は真如に通達す。又此れに由るが故に彼の諸の菩薩は五明処に於いて善く方便を修し、多く是の如きの一切の遍行真如智に住するが故に、速かに円満所知障浄を証す。何等をか世間出世間正智と名づくる、謂わく声聞独覚は初の正智を以って真如に通達し已り、此の後に得る所の世間出世間正智に由りて、諸の安立諦の中に於いて心をして三界の過患を厭怖し、三界の寂静を愛味せしむ。又多分此れに安住するに由るが故に、速かに円満煩悩障浄を証す。又即ち此の智未だ曽て得ざるの義を出世間と名づけ、言説の相を縁じて境界と為すの義を亦世間と名づく。是の故に説いて世間出世間と為す」と云えり。是れ即ち二乗菩薩等が真如に通達する根本智を唯出世間正智と名づけ、後得智を以って諸の安立諦を縁ずるを世間の出世間正智と名づくるの意なり。又「入楞伽経巻7」、「大乗入楞伽経巻5」、「唐訳摂大乗論釈巻5」、「辯中辺論巻中」、「三無性論巻上」、「仏性論巻2」、「大乗義章巻3本」、「成唯識論述記巻9本」、「瑜伽論記巻37」等に出づ。(三)梵語jJaanaの訳。法の自性差別を如実に量知する智を云う。即ち真現量と真比量なり。「因明入正理論」に、「復た次ぎに自開悟せんが為に、当に知るべし現比の二量あり。此の中、現量とは謂わく無分別なり。若し正智ありて色等の義に於いて名種等の有らゆる分別を離れ、現現別転するが故に現量と名づく。比量と言うは謂わく衆相に藉りて義を観ず。相に三種あること前に已に説けるが如し。彼れを因と為すに因りて、所比の義に於いて正智生ずることあり。火なり或いは無常なり等と了知する、是れを比量と名づく」と云える是れなり。是れ総じて過らざる量知を正智と名づけたるなり。又「因明入正理論疏巻下」、「因明論疏瑞源記巻9」等に出づ。<(望)(四)梵語三藐三菩提samyak-saMbodhiの訳。又正覚、正等覚等に訳し、即ち真正なる仏の覚悟を云う。『大智度論巻3下注:正覚』参照。
  三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい):梵語samyak-saMbodhi。又正覚、正等覚等に訳し、即ち真正なる仏の覚悟を云う。『大智度論巻3下注:正覚』参照。
  正覚(しょうがく):梵語三藐三菩提samyak-saMbodhiの訳。巴梨語sammaa-sambodhi、具に正等覚、等正覚、或いは正尽覚と称す。無上等正覚の略なり。即ち真正なる仏陀の覚悟を云う。「長阿含巻2遊行経」に、「仏は昔、鬱鞞羅尼連禅水の辺、阿遊波尼俱律樹下に於いて初めて正覚を成ず」と云い、「雑阿含経巻12」に、「縁起の法は我が所作に非ず、亦余人の作にも非ず。然も彼の如来世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成ず」と云い、又「中阿含巻56羅摩経」に、「即便ち草を持して覚樹に往詣し、到り已りて下に布き、尼師壇を敷きて結跏趺坐し、要らず坐を解かずして漏尽を得るに至らん、我れ便ち坐を解かずして漏尽を得るに至り、我れ無病無上安隠涅槃を求めて便ち無病無上安隠涅槃を得、無老無死無愁憂慼無穢汙無上安隠涅槃を求めて便ち無老無死無愁憂慼無穢汙無上安隠涅槃を得、知を生じ見を生じ道品の法を定め、生已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辨じ、更に有を受けじと、知ること真の如くにして、我れ初めて無上正尽覚を覚す」と云える是れなり。是れ蓋し釈尊が菩提樹下金剛座上に於いて正しく縁起の法を覚し、解脱を証得せられたるを正覚と名づけたるなり。「法華経玄賛巻2」に、正覚は外道の邪覚及び菩薩の因覚の未だ満ぜざるに簡び、等覚は二乗の但だ生空を了する偏覚に簡ぶと云い、又「華厳経探玄記巻2」には五教に約して正覚の別を論じ、「一に小乗に約す、生身の仏は此の樹下に於いて、三十四心に初めて正覚を成じ、諸の羅漢に同ずるを以って実成にして化に非ず。二に大乗(始教)に約せば、八相の化身此に示現して初めて正覚を成ず。三に報身に約す(終教)、十地の行満じ、無間道の後に果現じて円明なるを初成正覚と名づく。四に法身に約す(頓教)、謂わく創めて了因を得て最初に円現す。故に初成と曰う。此の上の大乗は並びに無初の初なり。五に十仏に約す(円教)、謂わく一切の因陀羅網無辺世界に遍じて、念念の中に皆初初に成仏し、主伴を具足し三世間を尽くす。是の故に此れ即ち具に前後無量劫初を摂するなり」と云えり。是れ初成正覚は小乗に在りては釈迦生身の実成、始教には八相化身の示現、終教には十地行満の報身、頓教は法身の初成、円教に因陀羅網無辺世界に遍ずる念念初初の成正覚を意味すとなすの意なり。又「往生論註巻上」、「華厳経疏巻4」、「翻訳名義集巻1」、「無量寿経集解巻4」等に出づ。<(望)
【論】如摩犍提梵志弟子舉其屍著床上。輿行城市中多人處唱言。若有眼見摩犍提屍者。是人皆得清淨道。何況禮拜供養者。多有人信其言。 摩犍提梵志の如きは、弟子、其の屍を挙げて床上に著(お)き、輿(か)きて城市中の多人の処に行き、唱えて言わく、『若し眼に摩犍提の屍を見る者有らば、是の人は、皆、清浄の道を得ん。何に況んや、礼拝し供養する者をや。』と。多く、人の其の言を信ずる有り。
例えば、
『摩犍提梵志』の、
『弟子』は、
『摩犍提の屍』を、
『床上』に、
『安置する!』と、
『輿()いて!』、
『城市中の多人の処』に、
『行き!』、
『唱えて!』、こう言った、――
若し、
『眼が有り!』、
『摩犍提の屍』を、
『見たならば!』、
是の、
『人』は、
皆、
『清浄の道』を、
『得るだろう!』。
況して、
『礼拜、供養すれば!』、
『言うまでもない!』、と。
其の、
『言』を、
『多くの人』が、
『信じた!』。
  摩犍提(まけんだい):不明。外道の名。『大智度論巻1(下)』参照。
諸比丘聞是語。白佛言。世尊。是事云何。佛說偈言
小人眼見求清淨 
如是無智無實道 
諸結煩惱滿心中 
云何眼見得淨道 
若有眼見得清淨 
何用智慧功德寶 
智慧功德乃為淨 
眼見求淨無是事
以是故言正智得解脫。
諸の比丘、是の語を聞きて、仏に白して言さく、『世尊、是の事は云何。』と。仏の偈を説いて言わく、
小人は、眼に見て清浄を求むるも、
是の如きは、無智無実の道なり。
諸結、煩悩の心中に満つるに、
云何が、眼に見て浄道を得ん。
若し眼に見て、清浄を得るもの有らば、
何んが智慧と、功徳の宝を用いん。
智慧と功徳と、乃ち浄と為すも、
眼に見て浄を求むれば、是の事無し。
是を以っての故に言わく、『正智に解脱を得。』と。
諸の、
『比丘』は、
是の、
『語』を、
『聞く!』と、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
是の、
『事』は、
『何うでしょうか?』、と。
『仏』は、
『偈を説いて!』、こう言われた、――
『小人』は、
『眼に見て!』、
『清浄の道』を、
『求める!』が、
是のような、
『道』は、
『無智、無実』の、
『道である!』。
諸、
『結の煩悩』が、
『心』中に、
『満ちている!』のに、
何故、
『眼に見て!』、
『清浄の道』を、
『得られるのか?』。
若し、
『眼に見て!』、
『清浄の道』が、
『得られれば!』、
何に、
『智慧』や、
『功徳』の、
『宝』を、
『用いるのか?』。
やっと、
『智慧』や、
『功徳』が、
『浄まったとしても!』、
『眼に見て!』、
『清浄の道』を、
『求めたのであれば!』、
是のような、
『事』は、
『無い!』、と。
是の故に、
こう言うのである、――
『正智』で、
『解脱』を、
『得る!』、と。
問曰。諸阿羅漢所作已辦。更不求進。何以故常在佛邊。不餘處度眾生。 問うて曰く、諸の阿羅漢は所作已に辦じて、更に進むを求めず。何を以っての故にか、常に仏の辺に在りて、余の処には衆生を度せざる。
問い、
諸の、
『阿羅漢』は、
『所作』が、
『已辦(完成)しており!』、
更に、
『進む!』ことを、
『求めない!』。
何故、
常に、
『仏の辺』に、
『居て!』、
『余の処』の、
『衆生』を、
『度さないのですか?』。
答曰。一切十方眾生雖盡應供養佛。阿羅漢受恩重故。應倍供養。所以者何。是阿羅漢從佛得成受無量功德。知結使斷信心轉多。是故諸大德阿羅漢。佛邊受功德樂味供養恭敬報佛恩故。在佛邊住。 答えて曰く、一切の十方の衆生は、尽くが応に仏を供養すべしと雖も、阿羅漢は恩を受くること重きが故に、応に倍して供養すべし。所以は何んとなれば、是の阿羅漢は、仏に従いて成ずるを得、無量の功徳を受け、結使を知りて断じ、信心転た多し。是の故に、諸の大徳の阿羅漢は、仏の辺に功徳の楽味を受け、供養恭敬して、仏の恩に報ずるが故に、仏の辺に在りて住す。
答え、
一切の、
『十方の衆生』は、
尽く、
『仏』を、
『供養すべきである!』が、
『阿羅漢』は、
『重恩を受けている!』が故に、
『倍して!』、
『供養せねばならない!』。
何故ならば、
是の、
『阿羅漢』は、
『仏に従って!』、
『無量』の、
『功徳』を、
『受けて!』、
『成就し!』、
『結使』を、
『断つ!』ことを、
『知った!』ので、
『信心』が、
『次第に!』、
『多くなった!』。
是の故に、
諸の、
『大徳の阿羅漢』は、
『仏の辺』で、
『功徳』の、
『楽味』を、
『受けながら!』、
『仏』を、
『供養し!』、
『恭敬して!』、
『仏』の、
『恩』に、
『報いている!』が故に、
『仏』の、
『辺』に、
『住まるのである!』。
諸阿羅漢圍繞佛故。佛德益尊。如梵天人遶梵天王。如三十三天遶釋提桓因。如諸鬼神遶毘沙門王。如諸小王遶轉輪聖王。如病人病愈住大醫邊。如是諸阿羅漢住在佛邊。諸阿羅漢圍繞供養故。佛德益尊。 諸の阿羅漢の、仏を囲繞するが故に、仏徳は益々尊し。梵天の人の、梵天王を遶(めぐ)るが如く、三十三天の釈提桓因を遶るが如く、諸の鬼神の毘沙門王を遶るが如く、諸の小王の転輪聖王を遶るが如く、病人は、病愈ゆるも、大医の辺に住するが如く、是の如く諸の阿羅漢は、仏の辺に住して在り。諸の阿羅漢の囲繞して供養するが故に、仏徳は益々尊し。
諸の、
『阿羅漢』が、
『仏を囲繞する!』が故に、
『仏の徳』は、
『尊さ!』を、
『益すことになる!』。
譬えば、
『梵天の衆』が、
『梵天王』を、
『囲繞するように!』、
『三十三天の衆』が、
『釈提桓因』を、
『囲繞するように!』、
『諸鬼神』が、
『毘沙門天王』を、
『囲繞するように!』、
『諸小王』が、
『転輪聖王』を、
『囲繞するように!』、
『病人』が、
『病が愈えても!』、
『大医の辺』に、
『住まるように!』、
是のように、
諸の、
『阿羅漢』は、
『仏の辺』に、
『住まるのであり!』、
諸の、
『阿羅漢』が、
『囲繞して!』、
『供養する!』が故に、
『仏の徳』が、
『尊さ!』を、
『益すのである!』。
  囲繞(いにょう):取り巻く。
  (にょう):めぐる。取り巻くの意。
  梵天(ぼんてん):梵名brahmaa。色界初禅天の異名。『大智度論巻4下注:梵天』参照。
  梵天王(ぼんてんのう):梵名mahaa-brahman。又大梵天と称す。色界初禅の最頂天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
  三十三天(さんじゅうさんてん):梵名traayastriMza。欲界第二天の名。又忉利天と称す。『大智度論巻9上注:忉利天』参照。
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):梵名zakya-devendra。三十三天の主の名。即ち須弥山頂なる忉利天善見大城に住し、四天王等を領する天主なり。『大智度論巻21(下)注:因陀羅』参照。
  鬼神(きじん):梵名夜叉yakSa。八部衆の一。即ち地上又は空中等に住し、威勢ありて人を悩害し、或いは毘沙門天王の所領にして、忉利天等に在りて諸天を守護する鬼類を云う。『大智度論巻25下注:夜叉』参照。
  毘沙門王(びしゃもんおう):毘沙門天の主。毘沙門は梵にvaizravaNaに作り、多聞天と訳す。又拘毘羅kuveraとも称す。四天王中、西方に位する天を云う。『大智度論巻26下注:四天王』参照。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):梵語cakra-varti-raajanの訳。七宝を成就し、四徳を具足して須弥四洲を統一し、正法を以って世を治御する大帝王を云う。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
問曰。若諸阿羅漢。所作已辦逮得己利不須聽法。何以故說般若波羅蜜時。共五千阿羅漢。 問うて曰く、若し、諸の阿羅漢は所作を已に辦じて、己利を逮得せば、法を聴くを須いず。何を以っての故にか、般若波羅蜜を説く時、五千の阿羅漢を共にする。
問い、
若し、
諸の、
『阿羅漢』が、
『所作』が、
『完成して!』、
『己の利』を、
『獲得していれば!』、
『法』を、
『聞く!』、
『必要はない!』。
何故、
『般若波羅蜜が説かれる!』時に、
『五千の阿羅漢』は、
『仏』と、
『共にしているのですか?』。
答曰。諸阿羅漢雖所作已辦。佛欲以甚深智慧法試。如佛問舍利弗。如波羅延經阿耆陀難中偈說
種種諸學人  及諸數法人 
是人所行法  願為如實說
是中云何學人。云何數法人。
答えて曰く、諸の阿羅漢は、所作を已に辦ずれど、仏は、甚深の智慧の法を以って、試さんと欲したまえること、仏の舎利弗に問いたまえるが如し。『波羅延経』の阿耆陀の難ずる中の偈に説くが如き、
種種の諸の学人、及び諸の数法人、
是の人の所行の法を、願わくは為に如実に説きたまえ。
是の中に、云何が学人なる、云何が数法人なる。
答え、
諸の、
『阿羅漢』は、
『所作』が、
『完成していた!』が、
『仏』は、
『甚だ深い!』、
『智慧の法』を、
『試そうとされた!』。
例えば、
『仏』が、
『舎利弗』に、こう問われた、――
『波羅延経』で、
『阿耆陀』が、
『難じた!』中に、
『阿耆陀』は、
『偈』を、こう説いたのであるが、――
種種の、
『諸学人』と、
『諸数法人』と、
是の、
『人』の、
『所行の法』を、
願わくは、
『如実』に、
『説いてください!』、と。
是の中の、
『学人』や、
『数学人』とは、
『何を言うのだろう?』。
  阿耆陀(あぎだ):梵名ajita。梵志の名、また阿氏多、阿恃多、阿耆多、阿夷哆、阿逸多に作り、意訳して無勝、無能勝、或いは無三毒に作り、具には波羅延那阿逸多(paaraayana-ajita)に作る。古来より或いは阿逸多を以って即ち弥勒と為せるも、蓋し別に其の人有るが如し。<(望)
  学人(がくにん):未だ学びつつ在る者の意。
  数法人(すうほうにん):已に得たる法を数うる人の意。蓋し無学人の如し。
  参考:『雑阿含経(345)巻14』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告尊者舍利弗。如我所說。波羅延耶阿逸多所問 若得諸法教  若復種種學  具威儀及行  為我分別說  舍利弗。何等為學。何等為法數。時。尊者舍利弗默然不答。第二.第三亦復默然。佛言。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。比丘真實者。厭.離欲滅盡向。食集生。彼比丘以食故。生厭.離欲.滅盡向。彼食滅。是真實滅覺知已。彼比丘厭.離欲.滅盡向。是名為學。復次。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。若比丘真實者。厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。彼從食集生。若真實即是滅盡。覺知此已。比丘於滅生厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。是數法。佛告舍利弗。如是。如是。如汝所說。比丘於真實生厭.離欲.滅盡。是名法數。如是說已。世尊即起。入室坐禪。爾時。尊者舍利弗知世尊去已。不久。語諸比丘。諸尊。我不能辯世尊初問。是故我默念住。世尊須臾復為作發喜問。我即開解如此之義。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。以異句異味而解說之。時。有異比丘往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。尊者舍利弗作奇特未曾有說。於大眾中。一向師子吼言。我於世尊初問。都不能辯。乃至三問默然無答。世尊尋復作發喜問。我即開解。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。佛告比丘。彼舍利弗比丘實能於我一日一夜。乃至異句異味。七夜所問義中悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。所以者何。舍利弗比丘善入法界故。佛說此經已。彼比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『中阿含経巻39波羅延経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。拘娑羅國眾多梵志中後彷徉。往詣佛所。共相問訊。卻坐一面。白曰。瞿曇。欲有所問。聽我問耶。世尊告曰。恣汝所問。時。諸梵志問曰。瞿曇。頗今有梵志學故梵志法。為越故梵志法耶。世尊答曰。今無梵志學故梵志法。梵志久已越故梵志法。時。諸梵志問曰。瞿曇。云何今無梵志學故梵志法。諸梵志等越故梵志法來為幾時耶。彼時。世尊以偈答曰
  所謂昔時有  自調御熱行  捨五欲功德  行清淨梵行  梵行及戒行
  率至柔軟性  恕亮無害心  忍辱護其意  昔時有此法  梵志不護此
  梵志不守護  所有錢財穀  誦習錢財穀  梵志守此藏  衣色若干種
  屋舍及床榻  豐城及諸國  梵志學如是  此梵志莫害  率守護諸法
  往到於他門  無有拘制彼  發家乞求法  隨其食時到  梵志住在家
  見者欲為施  滿四十八年  行清淨梵行  求索明行成  昔時梵志行
  彼不偷財物  亦無有恐怖  愛愛攝相應  當以共和合  不為煩惱故
  怨婬相應法  諸有梵志者  無能行如是  若有第一行  梵志極堅求
  彼諸婬欲法  不行乃至夢  彼因此梵行  自稱梵我梵  知彼有此行
  慧者當知彼  床薄衣極單  食酥乳命存  乞求皆如法  立齋行布施
  齋時無異乞  自於己乞求  立齋行施時  彼不有殺牛  如父母兄弟
  及餘有親親  人牛亦如是  彼因是生樂  飲食體有力  乘者安隱樂
  知有此義理  莫樂殺於牛  柔軟身極大  精色名稱譽  慇懃自求利
  昔時梵志行  梵志為自利  專事及非事  彼當來此世  必度脫此世
  彼月過於月  見意趣向彼  遊戲於夜中  嚴飾諸婦人  吉牛圍繞前
  婦女極端正  人間微妙欲  梵志之常願  具足車乘具  善作縫治好
  家居及婚姻  梵志之常願  彼造作此縛  我等從彼來  大王齋行施
  莫失其財利  饒財物米穀  若有餘錢財  大王相應此  梵志及車乘
  象齋及馬齋  馬齋不障門  聚集作齋施  財物施梵志  彼從此得利
  愛樂惜財物  彼以起為欲  數數增長愛  猶如廣池水  及無量財物
  如是人有牛  於生生活具  彼造作此縛  我等從彼來  大王齋行施
  莫失其財利  饒財物米穀  若汝多有牛  大王相應此  梵志及車乘
  無量百千牛  因為齋故殺  頭角無所嬈  牛豬昔時等  往至捉牛角
  持利刀殺牛  喚牛及於父  羅剎名曰香  彼喚呼非法  以刀刺牛時
  此法行於齋  越過最在前  無有事而殺  遠離衰退法  昔時有三病
  欲不用食者  以憎嫉於牛  起病九十八  如是此增諍  故為智所惡
  若人見如是  誰不有憎者  如是此世行  無智最下賤  各各為欲憎
  若婦誹謗夫  剎利梵志女  及守護於姓  若犯於生法  自在由於欲
如是。梵志。今無梵志學故梵志法。梵志越故梵志法來爾許時也。於是。拘娑羅國眾多梵志白曰。世尊。我已知。善逝。我已解。世尊。我今自歸於佛.法及比丘眾。唯願世尊受我為優婆塞。從今日始。終身自歸。乃至命盡。佛說如是。彼拘娑羅國眾多梵志及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
爾時舍利弗默然。如是三問三默。佛示義端告舍利弗。有生不。 爾の時、舎利弗黙然たり。是の如く三たび問いて、三たび黙す。仏は義端を示して、舎利弗に告げたまわく、『生は有りや、不や。』と。
爾の時、
『舎利弗』は、
『黙然として!』、
『答えなかった!』。
是のように、
『仏』が、
『三たび!』、
『問うて!』、
『舎利弗』が、
『三たび!』、
『黙然としている!』と、
『仏』は、
『義端』を示して、こう告げられた、――
『舎利弗』には、
『生( life )』が、
『有るのか?』、と。
  義端(ぎたん):論義のいとぐち。
  (しょう):◯梵語 jaati の訳、出生/産出( birth, production )、出生に由って定まる[人、動物等の]存在としての形態( the form of existence (as man, animal, &c ) fixed by birth )、出生により与えられる地位/階級/カースト/家族/人種/血統( position assigned by birth, rank, caste, family, race, lineage )の義。◯梵語 utpaada の訳、出現/出生/産出( coming forth, birth, production )、伸びた足を持つこと/両足で立つこと( having the legs stretched out, standing on the legs )の義。生起/産出/生むこと/生まれること( arising, to produce, to bring forth, to beget, to be born )、生命/生活/産出/出現する( life, living; production; coming into existence )の意。◯梵語 abhinirhaara, abhinir√(hR) の訳、又引、引発と訳す、側に置く/個人的に貯蔵すること/獲得する( setting aside or accumulation of a private store, to obtain )の義。
  参考:『雑阿含経巻14(345)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告尊者舍利弗。如我所說。波羅延耶阿逸多所問 若得諸法教  若復種種學  具威儀及行  為我分別說  舍利弗。何等為學。何等為法數。時。尊者舍利弗默然不答。第二.第三亦復默然。佛言。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。比丘真實者。厭.離欲滅盡向。食集生。彼比丘以食故。生厭.離欲.滅盡向。彼食滅。是真實滅覺知已。彼比丘厭.離欲.滅盡向。是名為學。復次。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。若比丘真實者。厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。彼從食集生。若真實即是滅盡。覺知此已。比丘於滅生厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。是數法。佛告舍利弗。如是。如是。如汝所說。比丘於真實生厭.離欲.滅盡。是名法數。如是說已。世尊即起。入室坐禪。爾時。尊者舍利弗知世尊去已。不久。語諸比丘。諸尊。我不能辯世尊初問。是故我默念住。世尊須臾復為作發喜問。我即開解如此之義。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。以異句異味而解說之。時。有異比丘往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。尊者舍利弗作奇特未曾有說。於大眾中。一向師子吼言。我於世尊初問。都不能辯。乃至三問默然無答。世尊尋復作發喜問。我即開解。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。佛告比丘。彼舍利弗比丘實能於我一日一夜。乃至異句異味。七夜所問義中悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。所以者何。舍利弗比丘善入法界故。佛說此經已。彼比丘聞佛所說。歡喜奉行』
舍利弗答。世尊有生。有生者欲為滅。有為生法故名學人。以智慧得無生法故。名數法人。是經此中應廣說。 舎利弗の答うらく、『世尊、生有り。生有れば、滅を為さんと欲す。有為の生法たるが故に、学人と名づけ、智慧を以って無生法を得たるが故に、数法人と名づく。』と。是の経は、此の中に応に広く説くべし。
『舎利弗』は、こう答えた、――
世尊!
『生』は、
『有ります!』。
『生』が、
『有るので!』、
是れを、
『滅したい!』と、
『思っているのです!』。
是れが、
『有為』の、
『生法である!』が故に、
『学人』と、
『呼ばれ!』、
『智慧』で、
『無生の法を得た!』が故に、
『数法人』と、
『呼ばれるのです!』、と。
是の、
『経』については、
此の中にも、
『広く!』、
『説かなければならない!』。
  (めつ):梵語nirvaaNaの訳。寂滅の義。涅槃を云う。又は梵語nirodhaの訳。滅尽の義。滅尽定、滅諦を云う。『大智度論巻1上注:涅槃、同巻2下注:滅、滅諦、同巻17下注:滅尽定』参照。
  有為(うい):梵語梵語saMskRtaの訳。無為に対す。為作あるの義。拵えられたるの意。即ち因縁所成の現象の諸法を云う。『大智度論巻23上注:有為』参照。
  生法(しょうぼう):梵語samutpatti-dharmaの訳。生起せる法の義。
  無生法(むしょうほう):梵語anutpattika-dharmaの訳。生起すること無きの法の義。無生無滅の法。
復次若有漏若無漏諸禪定未得故欲得。已得欲令堅深。故諸阿羅漢佛邊聽法。 復た次ぎに、若しは有漏、若しは無漏の諸の禅定を未だ得ざるが故に、得んと欲し、已に得れば堅深ならしめんと欲するが故に、諸の阿羅漢は、仏の辺に法を聴く。
復た次ぎに、
『有漏』や、
『無漏』の、
諸の、
『禅定』を、
若し、
『得ていなければ!』、
『得よう!』と、
『思い!』、
已に、
『得ていれば!』、
『堅く深めよう!』と、
『思う!』が故に、
諸の、
『阿羅漢』は、
『仏の辺』に、
『法』を、
『聴くのである!』。
復次現前樂故。如難陀迦經中說。以今世樂故聽法。 復た次ぎに、現前の楽の故なり。『難陀迦経』中に説くが如く、今世の楽を以っての故に法を聴く。
復た次ぎに、
『現前の楽』の故に、
『仏の辺』に、
『法』を、
『聴くのである!』。
『難陀迦経』中に、こう説く通りである、――
『今世の楽』の故に、
『法』を、
『聴いた!』、と。
  難陀迦経(なんだかきょう):『雑阿含経(833)巻30』参照。離車(りしゃ、licchavii、毘舎離城刹帝利種)の調象師難陀(nanda、nandaka)に人天の楽を得る法を説く。
  参考:『雑阿含経(833)巻30』:『如是我聞。一時。佛住毘舍離國獼猴池側重閣講堂。時。有善調象師離車。名曰難陀。來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。爾時。世尊告離車難陀言。若聖弟子成就四不壞淨者。欲求壽命。即得壽命。求好色.力.樂.辯.自在即得。何等為四。謂佛不壞淨成就。法.僧不壞淨。聖戒成就。我見是聖弟子於此命終。生於天上。於天上得十種法。何等為十。得天壽.天色.天名稱.天樂.天自在。天色.聲.香.味.觸。若聖弟子於天上命終。來生人中者。我見彼十事具足。何等為十。人間壽命.人好色.名稱.樂.自在.色.聲.香.味.觸。我說彼多聞聖弟子不由他信.不由他欲.不從他聞.不取他意.不因他思。我說彼有如實正慧知見。爾時。難陀有從者。白難陀言。浴時已到。今可去矣。難陀答言。我今不須人間澡浴。我今於此勝妙法以自沐浴。所謂於世尊所得清淨信樂。爾時。離車調象師難陀聞佛所說。歡喜隨喜。從座起。作禮而去』
復次諸阿羅漢在佛邊聽法心無厭足。如昆盧提迦經中說。舍利弗語昆盧提迦。我法中聽法無厭。 復た次ぎに、諸の阿羅漢は、仏の辺に在りて法を聴くに、心に厭足無し。『昆盧提迦経』中に説くが如し、舎利弗の昆盧提迦に語らく、『我が法中には法を聴きて厭うこと無し。』と。
復た次ぎに、
諸の、
『阿羅漢』は、
『仏の辺』に、
『法』を、
『聴いても!』、
『心』に、
『厭足(満足)する!』ことが、
『無い!』。
例えば、
『昆盧提迦経』中に、こう説く通りである、――
『舎利弗』は、
『昆盧提迦』に、こう語った、――
わたしの、
『法』中に、
『法を聴けば!』、
『厭きる!』ことが、
『無い!』、と。
  昆盧提迦(こんるだいか):不明。「翻梵語巻54」に、「昆盧提迦、応に昆盧[簸-竹]迦と云うべし、訳して衆の宗敬する所と曰う」と云えり。
復次如佛大師。自一心從弟子邊聽法。不應難言阿羅漢所作已辦何以聽法。譬如飽滿人得好食猶尚更食。云何飢渴人而言不應食。以是故。諸阿羅漢雖所作已辦。常在佛邊聽法。 復た次ぎに、仏の如き大師も、自ら一心に弟子の辺に従いて、法を聴きたまえば、応に難じて、『阿羅漢は所作已に辦ず。何を以ってか、法を聴く。』と言うべからず。譬えば、飽満の人の好食を得て、猶尚お更に食するが如し。云何が、飢渴の人にして、『応に食すべからず。』と言う。是を以っての故に、諸の阿羅漢は、所作を已に辦ずと雖も、常に仏の辺に在りて、法を聴けり。
復た次ぎに、
例えば、
『仏のような!』、
『大師すら!』、
自ら、
『一心に!』、
『弟子の辺』で、
『法』を、
『聴かれたのである!』から、
当然、
『難じて!』、こう言うべきではない、――
『阿羅漢』は、
『所作』が、
『完成している!』のに、
何故、
『法』を、
『聴くのか?』、と。
譬えば、こうである、――
『飽満した人すら!』、
『好食を得れば!』、
『尚お更に!』、
『食うのに!』、
『飢渴した人』が、
何故、
『好食』を、
『食ってはならないのか?』。
是の故に、
諸の、
『阿羅漢』は、
已に、
『所作』が、
『完成しているのに!』、
常に、
『仏の辺』に、
『法を聴くのである!』。
復次佛住解脫法中。諸阿羅漢亦住解脫法中。住法相應眷屬莊嚴。 復た次ぎに、仏は、解脱法中に住したもうに、諸の阿羅漢も、亦た解脱法中に住すれば、住法相応の眷属の荘厳するなり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『解脱という!』、
『法』中に、
『住まられている!』ので、
諸の、
『阿羅漢』も、
『解脱の法』中に、
『住まる!』。
則ち、
『住法の相応する!』、
『眷属』が、
『仏』を、
『荘厳するのである!』。
如栴檀譬喻經中言。有栴檀林伊蘭圍之。有伊蘭林栴檀圍之。有栴檀栴檀以為叢林。有伊蘭伊蘭自相圍繞。 『栴檀譬喩経』中に言うが如し、『有る栴檀林は、伊蘭之を囲み、有る伊蘭林は、栴檀之を囲み、有る栴檀は、栴檀を以って叢林と為し、有る伊蘭は、伊蘭自ら相囲繞す。』と。
例えば、
『栴檀譬喩経』中に、言う通りである、――
有る、
『栴檀の林』は、
『伊蘭』に、
『囲まれていた!』。
有る、
『伊蘭の林』は、
『栴檀』に、
『囲まれていた!』。
有る、
『栴檀』は、
『栴檀だけで!』、
『叢林を為していた!』。
有る、
『伊蘭』は、
『伊蘭』が、
『自ら!』、
『互に囲繞していた!』。
  栴檀(せんだん):梵名candana。印度等に産する香樹の名。『大智度論巻2上注:栴檀』参照。
  伊蘭(いらん):梵名eraNDa、極臭木と訳す。悪臭ある灌木の名。『大智度論巻2上注:伊蘭』参照。
  叢林(そうりん):やぶとはやし。
  参考:『五苦章句経』:『伊蘭栴檀生有四輩。何謂為四。一曰有栴檀樹。伊蘭遶之。二曰有伊蘭樹。栴檀圍之。三曰有栴檀。栴檀自為叢林。四曰有伊蘭。伊蘭以相圍遶。何謂栴檀伊蘭遶之。有家長者。直信為道。妻子室內不從其教。奉邪倒見。祠祀鬼妖。不從教令。是謂栴檀伊蘭繞之者也。何謂伊蘭栴檀圍之。有家長者。信邪倒見。祠祀鬼妖。妻子兒婦。家內大小。直信三尊。不失八齋。布施為德。六度不廢。長者呵止。不從其教。竊避為之。是謂伊蘭為主栴檀圍之者也。何謂栴檀栴檀以為叢林。有家長者為道。室家眷屬。皆隨其教。不相違戾。直信三尊。心意和同。是謂栴檀栴檀以為叢林者也。何謂伊蘭伊蘭自相圍遶。有家長者。信邪倒見。具行十惡。祠祀鬼妖。闔門烹殺。意同歡喜。是謂伊蘭伊蘭自相圍繞者也。』
  栴檀(せんだん、candana):香木名。訳して与楽という。南印度の摩羅耶(まらや、malaya)山より産出せるは、その山の形の牛頭に似たるを以って牛頭栴檀という。
  伊蘭(いらん、eraavaNa):樹名。花は愛すべきも、気味甚だ悪しく、その悪臭は四十里に及べば、経論注に多く伊蘭を以って煩悩に喩え、栴檀の妙香を以って菩提に比す。<(丁)
佛諸阿羅漢亦復如是。佛住善法解脫中。諸阿羅漢亦住善法解脫中。住法相應眷屬莊嚴。 仏と、諸の阿羅漢も、亦復た是の如し。仏は、善法、解脱中に住したまい、諸の阿羅漢も、亦た善法、解脱中に住すれば、住法相応の眷属の荘厳するなり。
『仏』と、
『諸の阿羅漢』とは、
亦た、
『是の通りである!』。
『仏』が、
『善法』の、
『解脱』中に、
『住まっていられる!』と、
『諸の阿羅漢』も、
『善法』の、
『解脱』中に、
『住まる!』ので、
『住法の相応する!』、
『眷属』が、
『荘厳することになる!』。
佛以大眾圍繞。如須彌山王十寶山圍繞。如白香象王白香象圍繞。如師子王師子眾圍遶。佛亦如是。佛為世間無上福田。與諸弟子圍繞共住 仏の、大衆を以って囲繞したもうこと、須弥山王の十宝山囲繞するが如く、白香象王の白香象囲繞するが如く、師子王の師子衆囲遶するが如く、仏も、亦た是の如し。仏は、世間の無上の福田為れば、諸の弟子の与(ため)に囲繞せられて、共に住したまえるなり。
『仏』が、
『大衆』に、
『囲繞される!』のは、
譬えば、
『須弥山王』が、
『十宝山』に、
『囲繞されたり!』、
『白香象王』が、
『白香象』に、
『囲繞されたり!』、
『師子王』が、
『師子衆』に、
『囲繞されるように!』、
『仏』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『仏』は、
『世間』の、
『無上の!』、
『福田である!』が故に、
諸の、
『弟子』に、
『囲繞されて!』、
『共住されるのである!』。
  須弥山(しゅみせん):須弥は梵語sumeru。又須弥山王と称す。一世界の中央に聳立せる大高山の名。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。
  十宝山(じゅうほうせん):一世界に存する十大山王。「60華厳経巻27十地品」に挙ぐる所に依れば左の如し、一に雪山(梵himavat)、二に香山(梵gandhamaadana)、三に軻梨羅山(梵khadiraka)、四に仙聖山(梵RSgiri)、五に由乾陀羅山(梵yugaMdhara)、六に馬耳山(梵azvakarNagiri)、七に尼民陀羅山(梵nimindhara)、八に斫迦羅山(梵cakravaaDa)、九に宿慧山(梵ketuma)、十に須弥山(梵sumeru)なり。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。
  香象(こうぞう):梵語gandha-hastinの訳。狂象とも訳す。又gandha-gajaに作る。交尾期の象なり。此の期間に於いて、象は其の顳顬よりmada或いはutkaTaと称する一種の香気ある漿を出すを以って此の名あり。『大智度論巻26下注:香象』参照。
  福田(ふくでん):梵語puNya-kSetraの訳。巴梨語puJJa-kkhetta、福を生ずべき田の意。即ち田の能く物を産するが如く、之に施せば能く福を生ずるものを云う。「長阿含巻6小縁経」に、「四双八輩是れを如来の弟子衆と為すなり。敬うべく尊ぶべし、世の福田なり。応に人の供を受くべし」と云い、「中阿含巻30福田経」に、「世の中に凡そ二種の福田の人あり、云何が二となす、一には学人、二には無学人なり。(中略)是に於いて世尊は此の頌を説いて曰わく、世中に学無学あり、尊ぶべく奉敬すべし。彼れ能く其の身を正しくし、口意も亦復た然り。居士よ是れ良田なり、彼れに施さば大福を得ん」と云い、又「大智度論巻4」に、「仏、辟支仏、阿羅漢は皆是れ福田なり。其の煩悩尽きて余無きを以っての故なり」と云えり。是れ学無学の人は総じて尊敬すべく、即ち世の良田なるが故に、之に施さば福を得べきことを説けるものなり。又「諸徳福田経」には、衆僧の中、五徳あるものを名づけて福田となすとし、「何をか謂って五と為す、一には発心して俗を離れ、懐に道を佩するが故に、二には其の形好を毀ち、法に応じて服するが故に、三には永く親愛を割き、適莫なきが故に、四には躯命を委棄し、衆善に遵うが故に、五には大乗を志求し、人を度せんと欲するが故なり。此の五徳を以って名づけて福田と曰う」と云い、「成実論巻1福田品」には、二十七賢聖は貪恚等の諸煩悩を断尽し、又其の心空にして煩悩悪業を起さず、不作法を得、所得の禅定皆清浄にして永く諸煩悩を離れ、憂楽を棄捨し、又能く五種の心縛を断除し、八種の功徳田を成就し、七定を以って善く心を護り、又尽く七種の漏を滅し、戒等の七浄法を具足し、少欲知足等の八功徳を成就し、又能く彼岸に度り、及び勤めて度を求む、故に福田と名づくと云い、又「首楞厳三昧経巻下」には、十法行を具するを真実の福田となすとし、「何等をか十と為す、空無相無願の解脱門に住するも而も法位に入らず、四諦を見知するも而も道果を証せず、八解脱を行ずるも而も菩薩の行を捨てず、能く三明を起すも而も三界に行じ、能く声聞の形式威儀を現ずるも、而も音教に随いて他より法を求めず、辟支仏の形色威儀を現ずるも、而も無礙辯才を以って説法し、常に禅定に在るも而も能く現に一切の諸行を行じ、正道を離れずして而も現に邪道に入り、深く染愛を貪るも而も諸欲の一切の煩悩を離れ、涅槃に入るも而も生死に於いて壊せず捨せず。是の十法あらば、当に知るべし是の人は真実の福田なり」と云えり。是の如く福田は広く学無学三乗の人に通ずと雖も、就中、仏を以って最勝の福田となすなり。「正法念処経巻15」に、「諸の福田の中、仏の福田勝る」と云い、「摩訶摩耶経巻下」に、「一切の福田の中に仏の福田を最となす」と云い、「大智度論巻9」に、「仏は三界に於いて第一の福田なり」と云える皆其の説なり。又「阿毘曇甘露味論巻上布施持戒品」には、福田に大徳貧苦等の三種の別あることを説き、「三種の田あり、大徳あり、貧苦あり、大徳の貧苦あり。云何が大徳なる、仏、菩薩、辟支仏、阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹なり。云何が貧苦なる、畜生、老病、聾盲、瘖唖、是の如き種種の貧苦なり。云何が大徳の貧苦なる、仏菩薩辟支仏阿羅漢阿那含斯陀含須陀洹の老病聾盲瘖唖貧苦なるあり。大徳田は恭敬心をもて大報を得、貧苦田は憐愍心をもて大報を得、大徳貧苦田は恭敬憐愍の心をもて大報を得るなり。是れを福田好と為す」と云い、「大智度論巻12」に、「福田に二種あり、一には憐愍福田、二には恭敬福田なり。憐愍福田は能く憐愍の心を生じ、恭敬福田は能く恭敬の心を生ず」と云えり。是れ仏菩薩及び学無学の人を大徳田又は恭敬福田と称し、老病貧苦等の人を貧苦田又は憐愍福田と名づけたるなり。又「正法念処経巻61」には、母、父、如来、説法法師の四種の福田ありと云い、「大方便仏報恩経巻3」には、衆僧、父母の二種の福田ありとし、衆僧は出三界の福田、父母は三界内の最勝福田なりと云い、又「同巻5」には有作無作の二種の福田ありとし、父母及び師長を有作の福田、諸仏法僧及び諸菩薩を無作の福田となすと云い、「優婆塞戒経巻3供養三宝品」には、報恩、功徳、貧窮の三種の福田ありとし、父母師長和上を報福田、煖法を得たるより乃至阿耨多羅三藐三菩提を得たる人を功福田、一切の窮苦困厄の人を貧窮田と名づくと云い、「像法決疑経」には敬田悲田の二種の福田ありとし、仏法僧の三宝を敬田、貧窮孤老乃至蟻子等を悲田と名づけ、「華厳経探玄記巻8」には、福田に総じて恩田、敬田、徳田、悲田、苦田の五種ありとし、如来及び塔、菩薩知識並びに父母等を恩田亦敬田、聖僧二乗を福田亦敬田、余の乞食及び貧人を悲田亦苦田となせり。又「梵網経巻下」には八福田の説を出し、「八福田の中の諸仏、聖人、一一の師僧、父母、病人」と云い、又「八福田の中、看病福田は第一の福田なり」と云えり。八福田の解説に関しては異説あり、智顗の「菩薩戒義疏巻下」には、仏、聖人、和尚、阿闍梨、僧、父、母、病人の八種なりとし羲寂、太賢、勝荘等亦此の説に同じ。智周の「梵網経菩薩戒本疏巻4」には、仏法僧の三宝、父母、師僧、弟子、諸根不具、百種苦の八種なりとし、法蔵の「梵網経菩薩戒本疏巻5」には、有人の説として造曠路美井、建造橋梁、平治嶮路、孝事父母、供養沙門、供養病人、救済危厄、設無遮大会の八種を挙げ、又有説として三宝、父母、師僧、貧窮、病人、畜生の八種を挙げ、並びに「賢愚経」の説として三宝、知法人、遠行来人、遠去人、飢餓人、病人の八種を列ね、「教乗法数巻27」には、此の中の初の有人の説を取れり。蓋し福田の説は是の如く多種に渉ると雖も、就中、仏及び聖弟子を以って福田となすを其の本説となせるものにして、阿羅漢を応供と称するは即ち之に基づく所なるべし。後貧窮田の説起るに及び、仏等を敬田、貧窮を悲田と名づけ、支那以来此の両田に対する供養恵施相次いで盛んなるものあり。「広弘明集巻28啓福篇道宣の序」に、「今福を論ぜば悲敬を初となす、悲は即ち苦趣の艱辛を哀れみ、拔済して出離せしめんことを思い、敬は則ち仏法の遇い難きを識り、弘く信仰して神を澄ます」と云い、「四天王寺御手印縁起」に、「悲田院は是れ貧窮孤独単己無頼の者を寄住せしめ、日日眷顧して飢渴を致さしむること莫かれ。(中略)敬田院は一切の衆生帰依渇仰し、悪を断じ善を修し、速かに無上菩提を証するの処なり」とあり。後本邦に於いては処処に悲田院の設けあるに至れり。又「雑阿含経巻35、46」、「増一阿含経巻19」、「小品般若経巻8」、「新華厳経巻13」、「大宝積経巻116」、「優婆塞戒経巻2二荘厳品」、「四分律巻2」、「大智度論巻22、30、32」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻23」、「無量寿経義疏巻上(慧遠)」、「広弘明集巻25、27」、「法苑珠林巻21、33、81」、「華厳経探玄記巻8」、「梵網経菩薩戒本疏巻下本(羲寂)」、「同経古述記巻下末」、「同経菩薩戒本述記巻下本(勝荘)」、「梵網菩薩戒経疏刪補巻中」、「華厳経疏巻15」、「釈氏要覧巻中」、「翻訳名義集巻4」、「四分律行事鈔資持記巻下2」、「大明三蔵法数巻33」等に出づ。<(望)
  共住(くじゅう):共に居住する( dwelling together )、梵語 saM-√(vas), saMvaasa, saMvasati, saardhaM-vihaarin の訳、共に滞留する/~の仲間と生活する( Abiding together. Living in society with )の義。
  参考:『60華厳経巻27十地品』:『佛子。是菩薩十地因佛智故。而有差別。如因大地有十大山王。何等為十。所謂雪山王。香山王。軻梨羅山王。仙聖山王。由乾陀山王。馬耳山王。尼民陀羅山王。斫迦羅山王。宿慧山王。須彌山王。如雪山王。一切藥草集在其中。而不可盡菩薩亦如是。住歡喜地。一切世間經書技藝文頌咒術。集在其中。無有窮盡。如香山王一切諸香集在其中。而不可盡。菩薩亦如是。住離垢地。持戒頭陀威儀助法集在其中。無有窮盡。如軻梨羅山王。但以寶成。集諸妙華。取不可盡。菩薩亦如是。住於明地。集一切世間禪定神通解脫三昧。問不可盡。如仙聖山王。但以寶成。多有五通聖人。不可窮盡。菩薩亦如是。住於焰地。集令眾生。入道因緣。種種問難。不可窮盡。如由乾陀山王。但以寶成。集夜叉大神。不可窮盡。菩薩亦如是。住難勝地。集一切自在如意神通。說不可盡。如馬耳山王。但以寶成。集眾妙果。取不可盡。菩薩亦如是。住現前地。集深因緣法。說聲聞果。不可窮盡。如尼民陀羅山王。但以寶成。集一切大力龍神。不可窮盡。菩薩亦如是。住遠行地。集種種方便智慧。說辟支佛道。不可窮盡。如斫迦羅山王。但以寶成。集心自在者。不可窮盡。菩薩亦如是。住不動地。集一切菩薩自在道。說世間性。不可窮盡。如宿慧山王但以寶成。集大神力。諸阿脩羅。無有窮盡。菩薩亦如是。住善慧地。集轉眾生行智。說世間相。不可窮盡。如須彌山王。但以寶成。集諸天神。無有窮盡。菩薩亦如是。住法雲地。集如來十力。四無所畏。說諸佛法。不可窮盡。』



唯だ阿難を除く

【經】唯除阿難在學地得須陀洹 唯だ阿難を除く。学地に在りて、須陀洹を得たるのみ。
唯だ、
『阿難』は、
『除かれる!』。
『学地に在り!』、
『須陀洹』を、
『得ただけである!』。
【論】問曰。何以言唯除阿難。 問うて曰く、何を以ってか、『唯だ阿難のみを除く。』と言う。
問い、
何故、こう言うのですか?――
唯だ、
『阿難だけ!』は、
『除かれる!』、と。
  阿難(あなん):梵名aananda。具には阿難陀と云う。歓喜、慶喜、又は無染と訳す。仏十大弟子の一。多聞第一と称せらる。迦毘羅城の釈氏にして、仏陀の従弟なり。『大智度論巻24下注:阿難』参照。
答曰。上所讚諸阿羅漢。阿難不在其數。何以故。以在學地未離欲故。 答えて曰く、上に讃ずる所の諸の阿羅漢は、阿難、其の数に在らず。何を以っての故に、学地に在りて、未だ欲を離れざるを以っての故なり。
答え、
上に、
諸の、
『阿羅漢』が、
『讃じられた!』が、
其の、
『数』中に、
『阿難』は、
『入らないからである!』。
何故ならば、
『阿難』は、
『学地』に、
『在り!』、
未だ、
『欲』を、
『離れないからである!』。
問曰。大德阿難。第三師大眾法將。種涅槃種已無量劫。常近佛持法藏。大德利根何以至今未離欲作學人。 問うて曰く、大徳阿難は、第三の師にして、大衆の法将なり。涅槃の種を種うること、已に無量劫、常に仏に近づいて、法蔵を持す。大徳利根なるに、何を以ってか、今に至るまで、未だ欲を離れず、学人と作る。
問い、
『大徳阿難』は、
『第三の師として!』、
『大衆』の、
『法将であり!』、
『無量劫』以来、
『涅槃』の、
『種』を、
『種えて!』、
『仏』に、
『常に!』、
『近侍して!』、
『法』の、
『蔵』を、
『護持し!』、
『大徳にして!』、
『利根であった!』のに、
何故、
『今に至るまで!』、
未だ、
『欲を離れず!』、
『学人に!』、
『甘んじているのですか?』。
  法将(ほうしょう):仏法上の将官。
  参考:『大智度論巻100:『問曰。阿難是聲聞人。何以以般若波羅蜜囑累。而不囑累彌勒等大菩薩。答曰。有人言。阿難常侍佛左右供給所須。得聞持陀羅尼。一聞常不失。既是佛之從弟。又多知多識名聞廣普四眾所依。是能隨佛轉法輪第三師。佛知舍利弗壽短早滅度故不囑累。又阿難是六神通三明共解脫。五百阿羅漢師。能如是多所利益。是故囑累。彌勒等諸大菩薩佛滅度後。各各分散至隨所應度眾生國土。彌勒還兜率天上。毘摩羅鞊文殊師利亦至所應度眾生處。佛又以是諸菩薩深知般若波羅蜜力不須苦囑累。阿難是聲聞人隨小乘法。是故佛慇懃囑累。』
答曰。大德阿難本願如是。我於多聞眾中最第一。亦以諸佛法阿羅漢所作已辦。不應作供給供養人。以其於佛法中能辦大事煩惱賊破。共佛在解脫床上坐故。 答えて曰く、大徳阿難の本願は是の如し、『我れは多聞の衆中に於いて、最も第一たらん。亦た諸仏の法は、阿羅漢は所作已に辦ずるを以って、応に供給、供養の人と作るべからず。其の仏法中に於いて、能く大事を辦じて、煩悩の賊破れ、仏と共に、解脱の床上に在りて坐するを以っての故なり』、と。
答え、
『大徳阿難』の、
『本願』は、是の通りである、――
わたしは、
『多聞』の、
『衆』中に、
『最も第一となっても!』、
亦た、
『諸仏の法』を以って、
『阿羅漢の所作』を、
『完成すれば!』、
『供給、供養する!』、
『人』と、
『作ることはできない!』。
何故ならば、
『阿羅漢』は、
『仏法』中に、
『大事を成し遂げて!』、
『煩悩の賊』が、
『破れており!』、
『仏と共に!』、
『解脱』の、
『床上』に、
『坐るからである!』、と。
  本願(ほんがん):梵語puurva-pranidhaanaの訳。因位の誓願の意。又本誓、或いは宿願とも名づく。即ち仏及び菩薩が過去に於いて発起せる誓願を云う。「無量寿経巻上」に、「其の本願ありて自在に化する所、衆生の為の故に弘誓の鎧を被り、徳本を積累し、一切を度脱せしむ」と云い、「阿閦仏国経巻上善快品」に、「是れ阿閦如来の昔時の願の致す所たり」と云い、又「十住毘婆沙論巻5易行品」に、「阿弥陀仏の本願是の如し、若し人我を念じ、名を称して自ら帰せば、即ち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得ん」と云える即ち其の例なり。蓋し仏及び菩薩の過去所発の本願には多種の別あり、就中、一切の菩薩は悉く皆無上菩提心を発し、弘誓の鎧を被りて無量の衆生を救度し、煩悩を断除し、徳本を積累し、以って成仏せんことを要期すべきものなるが故に、之を称して総願と名づく。四弘誓、二十大誓荘厳等の如き是れなり。又別に浄仏国土の大願を発し、十方面に於いて各其の仏国土を浄め、衆生を成就せんことを要誓し、或いは又穢土に成仏して難化の衆生を救度せんことを志願するあり。此等は菩薩各自の意楽によりて発起する所にして、其の志願同じからざるが故に別願と名づく。「悲華経巻2大施品」に、「諸菩薩等は何の業を以っての故に清浄の世界を取り、何の業を以っての故に不浄の世界を取り、何の業を以っての故に寿命無量に、何の業を以っての故に寿命短促なるや。仏聖王に告ぐ、大王当に知るべし、諸菩薩等は願力を以っての故に清浄の土を取りて五濁の悪を離る。復た菩薩あり、願力を以っての故に五濁の悪を求む」と云える即ち其の意なり。彼の「道行般若経巻6恒竭優婆夷品」所説の五願、「放光般若経巻13夢中行品」の二十九願、「阿閦仏国経巻上」の二十願、「大阿弥陀経巻上」等の二十四願、「無量寿経巻上」所載の四十八願等の如きは、皆浄仏国土の本願にして即ち前者に属し、「悲華経巻7」所説の釈迦の五百の大願、「弥勒菩薩所問本願経」所説の弥勒の奉行十善願の如きは穢土成仏の本願にして、即ち後者に属するなり。又別に衆生の諸病を除き、或いは一切の苦悩及び恐怖等を抜かんと志願するあり、「薬師如来本願経」所説の十二願、「薬師瑠璃光七仏本願功徳経巻上」所説の四十四願、「悲華経巻3」所載の観世音の救苦願の如き是れなり。其の他、普賢菩薩の十大願、初地及び初学菩薩所発の十種行願等あり。就中、現在初発の願は唯発願と云い、本願とは言わず。本願とは専ら過去因位に発起せる宿願を指すなり。弥陀の四十八願は浄土教の弘通と共に古来最も喧伝せられ、特に彼の第十八願は十方衆生の来生を誓われたるものにして、衆生の往生は一に此の願力成就に由るが故に呼んで之を王本願と称す。「選択本願念仏集」に、「四十八願の中、既に念仏往生の願を以って本願中の王となすなり」と云える即ち其の意なり。又本願の語は人の宿願宿志の義にも用いらる。「倶舎論巻9」に、「苾芻尼は本願力に由るが故に、彼れ世世に於いて自然の衣あり」と云い、「東大寺要録巻1本願章」に、「天璽国押開豊桜彦天皇(聖武天皇)は堂伽藍の本願なり」と云い、「叡岳要記巻上」に、「奏して勅符を降し、以って大師の本願を遂ぐ」と云える皆其の例なり。又「平等覚経巻1」、「放光般若経巻19」、「大品般若経巻17、26」、「大方等大集経巻17虚空蔵菩薩品」、「文殊師利仏土厳浄経」、「観薬王薬上二菩薩経」、「地蔵本願経」、「往生論註」、「安楽集」、「往生礼讃」、「往生要集」等に出づ。<(望)
  本願(ほんがん):梵にpuurva-praNidhaanaに作り、因位時の誓願を指す。また本誓、宿願に作り、即ち仏及び菩薩の過去世、未だ仏果を成ぜざる以前に於いて取所を救度せんが為に発す処の誓願なり。因位に於ける発願の今日に至りてその果を得るが故に果位に対して本願と称す。また本を根本の解と無し、菩薩の心広大にして誓願もまた無量なりといえども、ただこの願を以って根本と為せば、故に本願と称す。<(佛)
復次長老阿難。種種諸經聽持誦利觀故。智慧多攝心少。二功德等者。可得漏盡道。以是故。長老阿難是學人須陀洹。 復た次ぎに、長老阿難は、種種の諸の経を聴き、持ち、誦して、利く観るが故に、智慧多く、心を摂すること少なし。二功徳の等しき者は、漏尽の道を得べし。是を以っての故に、長老阿難は、是れ学人にして、須陀洹なり。
復た次ぎに、
『長老阿難』は、
種種の、
諸の、
『経』を、
『聴き!』、
『持(たも)ち!』、
『誦し!』
『利く観た!』ので、
是の故に、
『智慧』が、
『多かった!』が、
『摂心(禅定)』は、
『少なかった!』。
若し、
『智慧、摂心』の、
『二功徳』が、
『等しければ!』、
『漏を尽くす!』、
『道』も、
『得られたであろう!』。
是の故に、
『長老阿難』は、
『学人であり!』、
『須陀洹なのである!』。
復次貪供給世尊故。是阿難為佛作供給人。如是念。若我早取漏盡道。便遠世尊不得作供給人。以是故。阿難雖能得阿羅漢道。自制不取。 復た次ぎに、世尊に供給するを貪るが故なり。是の阿難は、仏の為に供給人と作り、是の如く念ずらく、『若し我れ早く漏尽の道を取らば、便ち世尊に遠ざかり、供給人と作るを得ず。』と。是を以っての故に、阿難は、能く阿羅漢道を得と雖も、自ら制して取らざるなり。
復た次ぎに、
『世尊』に、
『供給する!』ことを、
『貪ったからである!』。
是の、
『阿難』は、
『仏の為に!』、
『供給人』と、
『作ったのであるが!』、
是のように、
『念じたのである!』、――
若し、
わたしが、
『早く!』、
『漏を尽くす!』、
『道』を、
『取れば!』、
『便(すなわ)ち!』、
『世尊を遠ざけることになり!』、
『供給人』と、
『作ることもできなくなる!』、と。
是の故に、
『阿難』は、
『阿羅漢道』を、
『得る!』ことも、
『可能であった!』が、
自ら、
『制して!』、
『取らなかったのである!』。
復次處時人未合故。何等處能集法。千阿羅漢未在耆闍崛山。是為處。世尊過去時未到。長老婆耆子不在。以是故。長老阿難漏不盡。要在世尊過去。集法眾合婆耆子說法勸諫。三事合故得漏盡道。 復た次ぎに、処と時と人と未だ合せざるが故なり。何等の処にか、能く法を集むる。千の阿羅漢、未だ耆闍崛山に在らず。是れを処と為す。世尊の過去りたもう時、未だ到らず。長老婆耆子在らず、是を以っての故に、長老阿難の漏尽きず。要(かな)らず、世尊過ぎ去りたまい、法を集むる衆合し、婆耆子法を説いて勧諌す、三事合するに在るが故に、漏尽の道を得るなり。
復た次ぎに、
『処、時、人』が、
未だ、
『合わないからである!』。
『処』とは、――
何のような、
『処ならば!』、
『法』を、
『集められるのか?』。
『耆闍崛山』には、
未だ、
『千阿羅漢』が、
『集まっていなかった!』ので、
是れを、
『処』と、
『言うのである!』。
『時』とは、――
『世尊』の、
『過去の時』は、
未だ、
『到らず!』、
『長老婆耆子』も、
未だ、
『居らなかった!』ので、
是の故に、
『長老阿難』の、
『漏が尽きていない!』のは、
『世尊』の、
『過去時』に、
『到る!』ことと、
『集法』の、
『衆』が、
『集まる!』ことと、
『婆耆子』が、
『説法するよう!』、
『勧諌(説得)する!』ことという、
『時、処、人』の、
『三事』が、
『必要だったからであり!』、
『長老阿難』は、
是の、
『三事』が、
『合した!』が故に、
『漏を尽くす!』、
『道』を、
『得たのである!』。
  婆耆子(ばぎし):梵名vRjiputra。巴梨名vajjiputta、又跋闍子、祇支子等に作る。仏入滅後、阿難をして解脱せしめたる比丘の名。「四分律巻54」、「根本説一切有部毘奈耶雑事巻39」、「迦葉結経巻1」等に出づ。
  勧諌(かんけん):すすめいさめる。
  参考:『四分律巻54』:『其世尊在時皆共學戒。而今滅後無學戒者。諸長老。今可料差比丘多聞智慧是阿羅漢者。時即差得四百九十九人。皆是阿羅漢多聞智慧者。時諸比丘言。應差阿難在數中。大迦葉言。勿以阿難在數中。何以故。阿難有愛恚怖癡。有愛恚怖癡。是故不應令在數中。時諸比丘復言。此阿難是供養佛人。常隨佛行。親從世尊。受所教法。彼必處處疑問世尊。是故今者應令在數。即便令在數。諸比丘皆作是念。我等當於何處集論法毘尼多饒飲食臥具無乏耶。即皆言。唯王舍城房舍飲食臥具眾多。我等今宜可共往集彼論法毘尼。時大迦葉即作白。大德僧聽。此諸比丘為僧所差。若僧時到僧忍聽。僧今往王舍城集共論法毘尼。白如是。作白已。俱往毘舍離。時阿難在道行。靜處心自念言。譬如新生犢子猶故飲乳。與五百大牛共行。我今亦如是學人有作者。而與五百阿羅漢共行。時諸長老皆往毘舍離。阿難在毘舍離住。諸比丘比丘尼優婆塞優婆私國王大臣種種沙門外道。皆來問訊多人眾集。時有跋闍子比丘。有大神力。已得天眼知他心智。作如是念。今阿難在毘舍離。比丘比丘尼優婆塞優婆私國王大臣種種沙門外道。皆來問訊多人眾集。我今寧可觀察阿難。為是有欲無欲耶。即便觀察阿難。是有欲非是無欲。復念言。我今當令其生厭離心。將欲令阿難生厭離心。即說偈言 靜住空樹下  心思於涅槃  坐禪莫放逸  多說何所作  時阿難聞跋闍子比丘說厭離已。即便獨處精進不放逸寂然無亂。是阿難未曾有法。時阿難在露地敷繩床夜多經行。夜過明相欲出時身疲極。念言。我今疲極。寧可小坐。念已即坐。坐已方欲亞臥。頭未至枕頃於其中間心得無漏解脫。此是阿難未曾有法。時阿難得阿羅漢已。即說偈言 多聞種種說  常供養世尊  已斷於生死  瞿曇今欲臥』
復次大德阿難。厭世法少不如餘人。是阿難世世王者種。端正無比福德無量。世尊近親常侍從佛。必有此念。我佛近侍知法寶藏。漏盡道法我不畏失。以是事故不大慇懃。 復た次ぎに、大徳阿難は、世法を厭うこと少なく、余人に如かざればなり。是の阿難は、世世に王者の種にして、端正無比にして、福徳無量なり。世尊に近親し、常に侍りて仏に従えば、必ず此の念有り、『我れは仏に近侍せば、法宝の蔵を知らん。漏尽の道法は我れ失うを畏れず。』と。是の事を以っての故に、大いに慇懃ならず。
復た次ぎに、
『大徳阿難』は、
『厭世の法』が、
『少なく!』、
『余の人』に、
『及ばなかったからである!』。
是の、
『阿難』は、
『世世に!』、
『王者の種として!』、
『端正無比であり!』、
『福徳無量であり!』、
『常に!』、
『世尊に親近して!』、
『仏』に、
『侍従していた!』ので、
『必ず!』、
此の念が有った、――
わたしが、
『仏』に、
『近侍しておれば!』、
『法宝の蔵』を、
『知ることになる!』。
わたしは、
『漏尽の道という!』、
『法』を、
『失っても!』、
『畏れない!』、と。
是の事の故に、
『漏尽の道』を、
『修める!』、
『慇懃(苦労)』が、
『大きくなかったのである!』。
  近親(ごんしん):近づき親しむ。親近。
  慇懃(おんごん):委曲を尽くすこと。ねんごろなこと。
問曰。大德阿難名。以何因緣。是先世因緣。是父母作字。是依因緣立名。 問うて曰く、大徳阿難の名は、何の因縁を以ってするや。是れ先世の因縁なりや、是れ父母の作れる字(な)なりや。是れ因縁に依りて名を立つや。
問い、
『大徳阿難』は、
何のような、
『因縁』で、
『名づけられたのですか?』。
是れは、
『先世』の、
『因縁ですか?』。
是れは、
『父母の作った!』、
『字()ですか?』。
是れは、
『因縁に依って!』、
『立てられた!』、
『名ですか?』。
答曰。是先世因緣亦父母作名亦依因緣立字。 答えて曰く、是れ先世の因縁なり。亦た父母の作れる名なり。亦た因縁に依りて立つる字なり。
答え、
是れは、
『先世』の、
『因縁でもあり!』、
亦た、
『父母』の、
『作った!』、
『名でもあり!』、
亦た、
『因縁に依って!』、
『立てられた!』、
『字でもある!』。
問曰。云何先世因緣。 問うて曰く、云何が先世の因縁なる。
問い、
何のような、
『先世』の、
『因縁ですか?』。
答曰。釋迦文佛先世作瓦師。名大光明。爾時有佛名釋迦文。弟子名舍利弗目乾連阿難。佛與弟子俱到瓦師舍一宿。 答えて曰く、釈迦文仏、先世に瓦師と作り、大光明と名づく。爾の時、仏有り、釈迦文と名づけ、弟子を舎利弗、目乾連、阿難と名づく。仏は、弟子と倶に、瓦師の舎(いえ)に到りて一宿す。
答え、
『釈迦文仏』は、
『先世』に、
『瓦師と作り!』、
『大光明』と、
『呼ばれていた!』が、
爾の時、
『釈迦文と呼ばれる!』、
『仏が有り!』、
『弟子』を、
『舎利弗、目乾連、阿難』と、
『称した!』。
『仏』は、
『弟子と倶に!』、
『瓦師の舎(いえ)に到って!』、
『一宿した!』。
  釈迦文(しゃかもん):梵語zaakyamuni。又釈迦牟尼に作る。仏名。『大智度論巻2上注:釈迦文』参照。
  瓦師(がし):陶工。
爾時瓦師。布施草坐燈明石蜜漿三事。供養佛及比丘僧。便發願言。我於當來老病死惱五惡之世作佛。如今佛名釋迦文。我佛弟子名亦如今佛弟子名。以佛願故得字阿難。 爾の時、瓦師は、草坐、灯明、石蜜漿の三事を布施して、仏、及び比丘僧を供養し、便ち願を発して言わく、『我れ、当来の老病死の悩と、五悪の世に於いて、仏と作り、今の仏の如く釈迦文と名づけ、我が仏弟子の名も、亦た今の仏弟子の名の如くならん。』と。仏の願を以っての故に、阿難と字づくるを得たり。
爾の時、
『瓦師』は、
『草坐、灯明、石蜜の漿』の、
『三事を布施して!』、
『仏と比丘僧』を、
『供養する!』と、
便ち( smoothly )、
『願を発(おこ)して!』、こう言った、――
わたしは、
『未来』の、
『老病死の悩(なやみ)』と、
『五悪』の、
『世』に於いて、
『仏』と、
『作り!』、
『今の!』、
『仏のように!』、
『釈迦文』と、
『呼ばれ!』、
わたしの、
『仏弟子』は、
『今の!』、
『仏弟子のように!』、
『呼ばれよう!』、と。
是の、
『仏の願』の故に、
『阿難』と、
『呼ばれるのである!』。
  草坐(そうざ):地面に香草を敷いた座。
  石蜜漿(しゃくみつしょう):氷砂糖の入った水。
  当来(とうらい):未来。
  五悪(ごあく):五種の悪の意。一に殺生、二に偸盗、三に邪淫、四に両舌悪口妄言綺語、五に飲酒なり。「無量寿経巻下」に、「今我れ此の世間に於いて作仏して、五悪五痛五焼の中に処するを最も劇苦と為す。群生を教化して五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、其の意を降化し、五善を持して其の福徳度世長寿泥洹の道を獲しむ」と云い、又「潅頂経巻1」に、「我れ当に更に汝に五戒の法を授くべし。仏言わく第一不殺、第二不盗、第三不邪婬、第四不両舌悪口妄言綺語、第五不飲酒なり」と云える是れなり。此の中、第四に両舌悪口妄言綺語の四種を挙ぐるは、普通の五戒に同じからず、一種の特説なりと謂うべし。慧遠の「無量寿経義疏巻下」に、前引「無量寿経」の五悪五痛五焼の文を釈し、「五戒の防ぐ所の殺盗邪婬妄語飲酒は、是れ其の五悪なり。此の五悪を作り、現世の中に於いて王法罪を治し、身厄難に遭うを五痛と為し、此の五悪を以って、未来世に於いて三途に報を受くるを説いて五焼と為す」と云い、憬興の「無量寿経連義述文賛巻下」には、有説は五戒の所防たる身の三非(即ち殺盗婬)を三と為し、口の四(即ち妄語綺語悪口両舌)を第四と為し、飲酒を第五と為す、此の五因に酬いて五痛五焼の果を受く。痛は苦受、焼は苦具にして、皆地獄の報なりとなすも、此れ恐らくは然らずとし、而して自ら慧遠に同じく、殺盗邪婬妄語飲酒を五悪とし、之に由りて王法牢獄に繋がるるを五痛とし、三途の果報を受くるを五焼と為すと云えり。又「優婆塞五戒威儀経」、「四天王経」、「無量寿経義疏(吉蔵)」等に出づ。<(望)
  参考:『別訳雑阿含経巻8(141)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤  獨園。時有一天。光色倍常。於其夜中。來詣佛所。威光顯照。遍于祇洹。赫然大明。卻坐一面。而說偈言 誰於睡名寤  誰於寤名睡  云何染塵垢  云何得清淨  佛以偈答言 若持五戒者  雖睡名為寤  若造五惡者  雖寤名為睡  若為五蓋覆  名為染塵垢  無學五分身  清淨離塵垢  天復說偈讚言
 往昔已曾見  婆羅門涅槃  嫌怖久棄捨  能度世間愛  爾時此天。聞佛所說。歡喜而去』
  参考:『仏般泥洹経巻1』:『佛告逝心理家。人在世間。其有貪欲。自放恣者。即有五惡。何等為五。一者財產日耗減。二者不知道意。三者眾人所不敬。死時有悔。四者醜名惡聲。遠聞天下。五者死入地獄三惡道中。人能伏心。不自放恣者。即有五善。何等為五。一者財產日增。二者有道行。三者眾人所敬。至死無悔。四者好名善譽。遠聞天下。五者死生上福德之處。不自放恣。有是五善。汝等自思惟之。佛為逝心理家。說經竟。皆歡喜為佛作禮而去。』
復次阿難世世立願。我在釋迦文佛弟子多聞眾中。願最第一字阿難。 復た次ぎに、阿難は、世世に願を立つらく、『我れ、釈迦文仏の弟子の多聞の衆中に在りて、願わくは最も第一にして、阿難と字づけん。』と。
復た次ぎに、
『阿難』は、
『世世に!』、
『願』を、こう立てた、――
わたしは、
『釈迦文仏の弟子』の、
『多聞の衆』中に、
『在り!』、
願わくは、
『最も第一』の、
『阿難』と、
『呼ばれよう!』、と。
復次阿難世世忍辱除瞋。以是因緣故。生便端正。父母以其端正見者皆歡喜故字阿難。(阿難者秦言歡喜)是為先世因緣字。 復た次ぎに、阿難は、世世に忍辱して、瞋を除けば、是の因縁を以っての故に、生まるれば便ち端正なり。父母は、其の端正なるを、見る者、皆歓喜するを以っての故に、阿難と字づけたり。(阿難とは、秦に歓喜と言う)是れを先世の因縁の字と為す。
復た次ぎに、
『阿難』は、
『世世に!』、
『忍辱を修めて!』、
『瞋』を、
『除いた!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『生まれながらに!』、
『端正であり!』、
其の、
『端正』の故に、
『見る者』が、
皆、
『歓喜する!』が故に、
『父母』は、
『阿難』と、
『呼んだのである!』。
何故ならば、
『阿難』とは、
秦に、
『歓喜』と、
『言うからである!』。
是れが、
『阿難』の、
『先世』の、
『因縁に依る!』、
『字である!』。
云何父母作字。昔有日種王。名師子頰。其王有四子。第一名淨飯。二名白飯。三名斛飯。四名甘露飯。有一女名甘露味。淨飯王有二子佛難陀。白飯王有二子跋提提沙。斛飯王有二子提婆達多阿難。甘露飯王有二子摩訶男阿泥盧豆。甘露味女有一子名施婆羅。 云何が、父母の作れる字なる。昔、日種の王有り、師子頬と名づく。其の王に、四子有り、第一を浄飯と名づけ、二を白飯と名づけ、三を斛飯と名づけ、四を甘露飯と名づく。一女有り、甘露味と名づく。浄飯王に二子有り、仏と難陀なり。白飯王に二子有り、跋提と提沙なり。斛飯王に二子有り、提婆達多と阿難なり。甘露飯王に二子有り、摩訶男と阿泥廬豆なり。甘露味女に一子有り、施婆羅と名づく。
何のように、
『父母』は、
『字』を、
『作ったのか?』、――
昔、
『日種の王が有り!』、
『師子頬』と、
『呼ばれていた!』が、
其の、
『師子頬王』には、
『四子が有り!』、
第一は、
『浄飯』と、
『呼ばれ!』、
第二は、
『白飯』と、
『呼ばれ!』、
第三は、
『斛飯』と、
『呼ばれ!』、
第四は、
『甘露飯』と、
『呼ばれていた!』。
又、
『一女が有り!』、
『甘露味』と、
『呼ばれた!』。
『浄飯王』には、
『二子が有り!』、
『仏』と、
『難陀である!』。
『白飯王』にも、
『二子が有り!』、
『跋提』と、
『提沙である!』。
『斛飯王』にも、
『二子が有り!』、
『提婆達多』と、
『阿難である!』。
『甘露飯王』にも、
『二子が有り!』、
『摩訶男』と、
『阿尼廬豆である!』。
『甘露味女』には、
『一子が有り!』、
『施婆羅』と、
『呼ばれた!』。
  日種(にちしゅ):梵語suuryavaMsa。仏の五姓の一。『大智度論巻3上注:仏五姓』参照。
  師子頬王(ししきょうおう):師子頬は梵語星賀賀努siMha-hanuの訳。巴梨語siiha-nanu、釈迦族の王の名。即ち尼求羅王の子にして、浄飯王の父。釈尊の祖父なり。「起世経巻10」、「衆許摩訶帝経巻2」、「仏本行集経巻5賢劫王品」、「大智度論巻3」、「彰所知論巻上」等には王に浄飯、白飯、斛飯、甘露飯の四子ありとし、「島史第三章」には五子ありと云えり。又「五分律巻15」には、「瞿頭羅の子を尼休羅と名づく、尼休羅に四子あり」と云い、王と尼休羅とを同人となせり。又王の弟に師子吼siMhanaadaあり。其の他の事蹟は詳ならず。又「長阿含経巻22」、「大楼炭経巻6」、「四分律巻31」、「毘奈耶破僧事巻2」、「釈迦譜巻1」、「釈迦氏譜」等に出づ。<(望)
  浄飯王(じょうぼんおう):浄飯は梵名zuddhodanaの訳。中印度迦毘羅城の主にして、釈尊の父の名。『大智度論巻50上注:浄飯王』参照。
  白飯王(びゃくぼんおう):白飯は梵語輸拘盧檀那zuklodanaの訳。巴梨名sukkodana、又設浄とも云う。釈尊の叔父なり。其の父に関し、「仏本行集経巻5賢劫王種品」、「衆許摩訶帝経巻2」、「起世経巻10」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「西蔵訳律蔵」、「大智度論巻3」、「彰所知論巻上」等には師子頬siMhahanu王の二男となし、「十二遊経」、「巴梨文島史diipavaMsa,iii」、「同大史mahaavaMsa,ii」、「緬甸仏伝」等には四男とし、又「五分律巻15」には尼休羅王の二男となせり。又「起世経」には王に帝沙、難提迦の二男、「彰所知論」には帝沙調達、難提迦の二男、「大智度論」には跋提、提沙の二男、「有部毘奈耶破僧事」には恒星、賢善の二男、「五分律」には阿難陀、調達の二男、「十二遊経」には釈迦王、釈少王の二男、「衆許摩訶帝経」には娑帝疎嚕、婆㮈哩賀の二男及び鉢怛囉摩黎の一女、「梵文大事mahaavastu」には、aananda,upadhaana,devadataの三男ありとなせり。其の他の事蹟詳ならず。又「釈迦譜巻1」、「釈迦氏譜」等に出づ。<(望)
  斛飯王(こくぼんおう):斛飯は梵語途盧檀那droNodanaの訳。巴梨名dhotodana、又穀浄と翻ず。師子頬王siMha-hanuの子、浄飯王zuddhodanaの弟にして、釈尊の叔父なり。「起世経巻10」、「彰所知論巻上」等には、王に阿尼婁駄、跋提梨迦の二子ありと云い、「五分律巻15」、「十二遊経」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「釈迦譜巻1」、「釈迦氏譜」等には摩訶男、阿尼婁駄の二子とし、「衆許摩訶帝経巻2」には之に跋㮈黎女を加えて三子ありとし、「大智度論巻3」、「大方便仏報恩経巻3」には、提婆達多、阿難の二子ありとなせり。其の他の事蹟詳ならず。又「増一阿含経巻15」等に出づ。<(望)
  甘露飯王(かんろぼんおう):甘露飯は梵語阿弥都檀那amRtodanaの訳。巴梨名amitodana、又甘露浄とも云う。釈種師子頬siGhahanu王の子にして、釈尊の叔父なり。父を師子頬王とすることは諸経論多く一致すれども、但だ「五分律巻15」には之を尼休羅となせり。其の中、「巴梨文島史diipavaMsa,iii」、「同大史mahaavaMsa,ii」、及び「緬甸所伝」には師子頬王の五男とし、「梵文大事mahaavastu」、「仏本行集経巻4」、「衆許摩訶帝経巻2」、「起世経巻10」、「大智度論巻3」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「五分律」、「彰所知論巻上」、及び「西蔵所伝」等には四男、「大方便仏報恩経巻3」には三男、「十二遊経」には二男とし、又「大史」には母の名をkaccaanaaとなせり。王は「仏本行集経巻5」に依るに、長じて天臂城主善覚の女二人を娶れりと云い、而して「衆許摩訶帝経」には王は阿難陀、提婆達多の二子及び細嚩羅の一女を挙げたりとし、又「十二遊経」、「起世経」、「破僧事」、「彰所知論」、及び「西蔵所伝」には阿難と提婆達多の二子、「大智度論」には摩訶男、阿泥廬豆の二子、「梵文大事」には阿泥廬豆、摩訶男、拔提bhaTTikaの三子、「五分律」には婆婆、拔提の二子、「大方便仏報恩経」には甘露味の一女を儲けたりとなせり。又「釈迦譜巻1」等に出づ。<(望)
  甘露味(かんろみ):不明。
  難陀(なんだ):梵名nanda。又別に其の妻孫陀利の名に因みて孫陀羅難陀sundaraanandaとも名づく。浄飯王の第二子、母は釈尊の姨母摩訶波闍波提mahaaprajaapatiiにして、即ち釈尊の異母弟なり。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
  跋提(ばっだい):梵名bhadrika?。五比丘の一。『大智度論巻3下注:婆提』参照。
  婆提(ばだい):巴梨名bhaddiya。梵名跋提梨迦bhadrika、又はbhadraka、又跋提伽、跋陀羅、婆提、跋提、或いは拔提に作り、小賢、賢善、仁賢、有賢、又は賢と訳す。五比丘の一。釈尊出家の後、阿若憍陳如等と共に浄飯王の命を受けて釈尊に奉侍し、共に苦行を行じ、後鹿野苑初転法輪の時、阿若憍陳如に次いで得道せし大弟子なり。其の族姓に関しては異説あり、「方広大荘厳経巻6」に五人は王師大臣の子弟なりと云い、師を以って迦毘羅城中の大臣の子弟なりとなせるも、「中阿含巻8侍者経」には、「爾の時、多識名徳上尊長老比丘の大弟子等あり、謂わく尊者拘隣若、尊者阿摂貝、尊者跋提釈迦王、尊者摩訶男拘隷、尊者惒破なり」と云い、又「四分律巻4」、「五分律巻3」等に、釈種子跋提王は弥尼捜国に於いて釈種子阿那律、提婆達、婆婆等と共に出家せりとし、「大毘婆沙論巻182」、「大唐西域記巻7婆羅痆斯国の條」にも、五人の中、三人は仏の父の親、二人は母の親なりと云い、師を以って釈尊の一族となせり。此の中、跋提釈迦王とは、恐らく「起世経巻10」、「大智度論巻3」等に釈尊の叔父斛飯王の子とせる跋提梨迦(「五分律巻15」には甘露王の子)を指せるものならんか。「増一阿含経巻3清信士品」に、「我が弟子中、第一の優婆塞にして、(中略)常に喜心を行ずるは所謂拔陀釈種是れなり」と云い、拔陀釈種を優婆塞となせるを以って見るに、跋提釈迦王と今の婆提とは別人となすべきが如く、恐らく同名の故を以って混同を生じたるものなるべし。又「増一阿含経巻22」、「中本起経巻上転法輪品」、「過去現在因果経巻3」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶巻27、30」、「毘尼母経巻1」、「法華経文句巻1上、巻5上」、「金光明最勝王経疏巻1」等に出づ。<(望)
  提沙(だいしゃ):不明。
  提婆達多(だいばだった):梵名devadatta。釈尊の叔父斛飯王の子、阿難の兄弟たりし仏弟子の名。仏の在世時、五逆罪を犯して僧団を破壊して仏に敵対せるを以って知らる。『大智度論巻3上注:提婆達多』参照。
  摩訶男(まかなん):梵名mahaanaama。中印度迦毘羅衛城釈迦種の出にして、或いは斛飯王の子とし、或いは甘露飯王の子とせり。『大智度論巻18上注:摩訶男』参照。
  阿尼廬豆(あにるだ):梵名aniruddha。仏十大弟子の一。迦毘羅城の釈氏にして仏陀の従弟なり。その父に関しては異説あり。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
  施婆羅(せばら):不明。
  師子頬(ししきょう):梵にsiJhahanuに作り、北印度迦毘羅衛国の王、乃ち釈尊の祖父にして、共に淨飯、白飯、斛飯、甘露飯の四子を有し、その長子浄飯王は即ち釈尊の父なり。
  淨飯王(じょうぼんおう):梵にzuddhodanaに作り、音訳して首図駄那、輸頭檀那、閲頭檀、悦頭檀等に作り、また意訳して白浄王、真浄王に作る。中印度迦毘羅(かびら、kapilavastu)の城主にして仏の生父なり、その子の難陀(なんだ、nanda)、孫の羅睺羅(らごら、raahula)も皆仏の弟子と為れり。<(佛)
  白飯王(びゃくぼんおう):梵にzukulodanaraajaに作り、師子頬王の第二子にして、浄飯王の弟、釈尊の叔父なり。
  斛飯王(こくぼんおう):梵にdroNodana、或いはdotodanaに作り、また訳して穀浄という。師子頬王の子にして浄飯王の弟、釈尊の叔父なり。
  甘露飯王(かんろぼんおう):梵にamRtodanaに作り、音訳して阿弥都檀那に作る。釈種師子頬王の子にして釈尊の叔父なり。
  難陀(なんだ):梵名nanda。釈尊の異母弟にして弟子。『大智度論巻2(下)』参照。
  跋提(ばつだい):梵名bhadrika。又抜提、婆提、跋提黎迦、婆帝利迦等に作り、訳して小賢、善賢、仁賢、有賢等に作る。仏の最初に度せる所の五比丘の一。釈迦族に属し、その父に関しては諸伝に載する所一ならず、或いは跋提を謂いて斛飯王の男と為し、或いは白飯王の次子と為し、或いは甘露王の子と為せり。阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ、aajJaata-kauNDinya)等と鹿野苑に於いて仏の教化を受くる、仏最初の弟子と為す。<(佛)
  提沙(だいしゃ):不明。
  提婆達多(だいばだった):梵名devadatta。斛飯王の子、仏の悪弟子。『大智度論巻3(上)』参照。
  摩訶男(まかなん):梵名mahaanaama。(一)仏最初に化度せる所の五比丘の一。また摩訶南、摩訶那摩に作り、意訳して大号、大名に作り、『本起経』には摩男拘利(まなくり、mahaanaama-koliya)に作り、『仏所行讃』中には十力迦葉(じゅうりきかしょう、dazabala-kaazyapa)に作り、及び釈尊の踰城出家の際、その父浄飯王は一族中より選びし五随侍の一。仏成道の後、鹿野苑に於いて初の転法輪を聞き、道を得し弟子の一なり。(二)また釈種摩訶南(sakkamahaanaama)と称し、摩呵南釈、釈摩男に作る。中印度迦毘羅衛城釈迦種に属す。『五分律巻15』、『有部毘奈耶破僧事巻2』等によれば、それを斛飯王の子と為し、『大智度論巻3』等によれば、それを甘露飯王の子と為す。その弟阿那律(あなりつ、aniruddha)の仏門に入りて出家せる後、即ち家事を治理し、仏の教法を重んじて、常に湯薬、衣食等を僧衆に布施せり。『中阿含経巻25苦陰経』には、即ち仏の所説を請い、『増一阿含経巻26』によれば、まさに舎衛城の流離王、迦毘羅衛城の釈迦族を討伐せんとする時、摩訶南は釈迦族を救わんが為に、自ら願いて命を水中に捨てぬと云えり。或いはこの人は五比丘中の摩訶南と同一人と謂える有り。<(佛)
  阿尼廬豆(あにるだ):梵名aniruddha。また阿尼廬陀、阿[少/兔]楼駄、阿那律、阿難律、阿楼陀等に作り、意訳して無滅、如意、無障、無貪、随順義人、不浄有無等に為す。即ち仏十大弟子の一なり。中印度迦毘羅衛城の釈氏、仏の従弟、それに関して『起世経巻10』、『五分律巻15』、『衆許摩訶帝経巻2』等は斛飯王の子と為し、『仏本行集経巻11』、『大智度論巻3』は甘露飯王の子と為す。仏成道の後、帰郷するに当りて、阿那律と阿難、難陀、優波離等は即ち出家して弟子と為れり。出家の後、阿那律は修道精進して、模範と称するに堪う。彼はかつて仏の説法中に酣睡して仏に呵責せられ、遂に誓を立てて眠らず、而も眼疾に罹りて失明に至れり。然るに修行益進するを以って心眼漸く開いて遂に仏の弟子中天眼第一と称され、よく天上地下の六道の衆生を見る。<(佛)
是中悉達陀菩薩。漸漸長大棄轉輪聖王位。夜半出家。至漚樓鞞羅國中尼連禪河邊。六年苦行。 是の中の悉達陀菩薩は、漸漸長大するに、転輪聖王の位を棄てて、夜半に出家し、漚楼鞞螺国中の尼連禅河の辺に至り六年苦行す。
是の中に、
『悉達多( siddhaartha )菩薩』は、
次第に、
『長大(成長)する!』と、
『転輪聖王の位を棄てて!』、
『夜半に!』、
『出家し!』、
『漚楼鞞螺国』中の、
『尼連禅河の辺に到って!』、
『六年!』、
『苦行した!』。
  悉達陀(しっだるた):梵名siddhaartha。目的・目標を達成した人/成功/繁栄( one who has accomplished an aim or object, successful, prosperous )、目的地に導く/有能な/有効な( leading to the goal, efficient, efficacious )、目的・意図が知られている人( one whose aim or intention is known )の義、"[彼れの来た]目的は満たされた"(" he who has fulfilled the object (of his coming) ")の意を以って呼ばれる、釈尊の浄飯王の太子たりし時の名。『大智度論巻2下注:悉達多、釈迦牟尼仏』参照。
  漸漸(ぜんぜん):物の変移の徐にして速ならざるを謂う。ゆっくりと。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):七宝を有し四天下を領する聖王を云う。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
  漚楼鞞螺国(うるびらこく):漚楼鞞螺は梵名uruvilvaa。中印度摩伽陀国の有る聚落名。『大智度論巻26上注:優楼頻螺聚落』参照。
  尼連禅河(にれんぜんが):尼連禅は梵名nairaJjana。優楼頻螺聚落を流れる河の名。『大智度論巻1上注:尼連禅河』参照。
   悉達多(しっだるた):梵名siddhaartha。乃ち釈尊の浄飯王の太子たりし時の名なり。また薩婆悉達多(さばしつだった、sarvasiddhaartha)、薩婆頞他悉陀、薩縛頞他悉地、悉達羅他、悉多頞他、悉達、悉多、悉陀等に作り、意訳して一切義成、一切事成、財吉、吉財、成利、験事、験義等に作る。釈尊出生して迦毘羅城浄飯王の長子たりし時、善占相の阿私陀(あしだ、asita)仙人、この王子の過去世に於ける諸の善根功徳に因り、殊勝の相好を具備し、よく一切の善事を成就せんことを知暁し、またかつて王子、もし在家なれば必ず転輪聖王と為り、もし出家なれば則ち無上正覚を成就せんことを預言せるに、上述の意義を表示せんが為の故に悉達多と命名せり。<(佛)
是時淨飯王愛念子故。常遣使問訊欲知消息。我子得道不。若病若死。 是の時、浄飯王は、子を愛念するが故に、常に使を遣して問訊せしめ、消息を知らんと欲す、『我が子は道を得たりや不や、若しは病むや、若しは死すや。』と。
是の時、
『浄飯王』は、
『子を愛念する!』が故に、
常に、
『使』を、
『遣(つかわ)して!』、
『安否を訊(たず)ね!』、
『子』の、
『消息』を、
『知ろうとした!』、――
わたしの、
『子』は、
『道』を、
『得たのか、何うか?』。
若しは、
『病んでいるのではないか?』、
『死んだのではないか?』、と。
  問訊(もんじん):安否を訊ねること。
使來白王。菩薩唯有皮骨筋相連持耳。命甚微弱。若今日若明日不復久也。 使の来たりて王に白さく、『菩薩は、唯だ皮と骨と筋と有り、相連なりて持(たも)つのみ。命は甚だ微弱にして、若しは今日、若しは明日にも、復た久しからざらん。』と。
『使が来て!』、
『王』に、こう白(もう)した、――
『菩薩』は、
唯だ、
『皮、骨、筋が有り!』、
『互に連なり合って!』、
『身』を、
『持(たも)たせているだけです!』。
『命』は、
『甚だ微弱であり!』、
『今日か?』
『明日か?』、
復た(もう)、
『久しくはないでしょう!』、と。
王聞其言甚大愁念沒憂惱海。我子既不作轉輪王。又不得作佛。一何衰苦無所得而死。如是憂惱荒迷憒塞。 王の其の言を聞き、甚だ大いに愁念して憂悩の海に没すらく、『我が子は、既に転輪王に作らず、又仏と作るを得ず。一に何ぞ衰苦して、得る所無くして、死せんや。』と。是の如く憂悩し、荒迷して憒塞せり。
『王』は、
其の、
『言を聞いて!』、
『甚だ!』、
『大いに!』、
『愁えて!』、
『念』を、
『憂悩の海』に、
『没した!』、――
わたしの、
『子』は、
既に( at end )、
『転輪聖王』にも、
『作らず!』、
又、
『仏』と、
『作ることもできず!』、
一に(専ら)、
『衰えて!』、
『苦しんでおり!』、
何の、
『所得も無いまま!』に、
『死んでしまうのか?』、と。
是のように、
『憂え悩んで!』、
『荒れすさみ!』、
『心が乱れて!』、
『気が塞いだ!』。
  衰苦(すいく):衰え苦しむ。
  荒迷(こうめい):荒れすさんで迷う。。
  憒塞(けそく):心が乱れて気が塞ぐ。
是時菩薩棄苦行處。食百味乳糜身體充滿。於尼連禪水中洗浴已。至菩提樹下坐金剛座。而自誓言。要不破此結加趺坐成一切智。不得一切智終不起也。 是の時、菩薩は苦行の処を棄て、百味の乳糜を食し、身体充満して、尼連禅の水中に於いて洗浴し已り、菩提樹の下に至りて金剛座に坐し、自ら誓言すらく、『要(かな)らず、此の結跏趺坐を破らずして、一切智を成ぜん。一切智を得ずんば、終に起たじ。』と。
是の時、
『菩薩』は、
『苦行の処を棄てて!』、
『百味』の、
『乳糜』を、
『食い!』、
『身体が充満する!』と、
『尼連禅』の、
『水中』に、
『洗浴して!』、
『菩提樹の下』の、
『金剛座』に、
『坐り!』、
自ら、
『誓って!』、こう言った、――
要(かなら)ず、
此の、
『結跏趺坐を破らずに!』、
『一切智』を、
『成就せねばならぬ!』。
『一切智を得るまでは!』、
『終(つい)に!』、
『起つことはあるまい!』、と。
  菩提樹(ぼだいじゅ):梵にbodhi-druma、bodhi-taru、bodhi-vRkSaに作り、或いは単にbodhiと称す。また意訳して覚樹、道樹、道場樹、思惟樹、仏樹等と称す。釈尊は即ち中印度摩竭陀国伽耶城南の菩提樹の下に無上正覚を証得せるにより、故にこの称あり。この樹、原は鉢多(azvattha)と称し、また貝多、阿説他、阿沛多に作り、意訳して吉祥、元吉と為す。学名をFicus religiosaと為し、その果実を畢鉢羅(ひっぱら、pippala)と称し、故にまた畢鉢羅樹と称す。桑科に属し、東印度を原産とし、常緑高木にして高さは3m以上に達し、その葉は心形を呈して末端は尖長なり、花は球形の花嚢の中に隠れ、花嚢熟する時は暗橙色を呈し、小果を内蔵す。<(佛)
  金剛座(こんごうざ):梵にvajraasanaと称し、また金剛斉に作り、仏成道の時所坐の座を指す。中印度摩竭陀国伽耶城南の菩提樹の下に位し、そのなお金剛の如く堅固不壊なるを以って、故に金剛座と称す。<(佛)
  乳糜(にゅうび):(一)梵にtarpaNaに作り、音訳して怛鉢那、歎波那に作り、即ち穀類を以って磨きて粉末と成し、製成する所の食物なり。『有部毘奈耶巻36』等にはtarpaNaを訳して餅、麩と作せり。(二)梵にpaayasaに作り、また乳粥に作る。通常多く米粟等を以って牛羊の乳中に入れ、これを煮熟し、八種の粥の一と為す。釈尊には菩提樹下の成正覚の前に、かつて乳粥(或いは牛乳と謂う)の供養を接受せる因縁有り。<(佛)
是時魔王將十八億眾到菩薩所。敢與菩薩決其得失。菩薩智慧力故大破魔軍。 是の時、魔王は十八億の衆を将いて菩薩の所に到り、敢て菩薩と、其の得失を決せんとす。菩薩は、智慧の力の故に大いに、魔軍を破れり。
是の時、
『魔王』は、
『十八億の衆を将(ひき)いて!』、
『菩薩の所』に、
『到り』
敢て、
『菩薩』と、
『得、失』を、
『決しようとした!』が、
『菩薩』は、
『智慧の力』の故に、
『魔』の、
『軍勢』を、
『大破した!』。
魔不如而退自念。菩薩叵勝當惱其父。至淨飯王所詭言。汝子今日後夜已了。 魔は如かずして退き、自ら念ずらく、『菩薩には勝つべからず、当に其の父を悩ますべし。』と。浄飯王の所に至りて、詭(いつわ)りて言わく、『汝が子は、今日の後夜已に了(おわ)れり。』と。
『魔』は、
『菩薩』に、
『及ばないまま!』、
『退いて!』、
自ら、こう念じた、――
『菩薩』には、
『勝つ!』ことが、
『難しい!』ので、
其の、
『父』を、
『悩まさねばならない!』、と。
『浄飯王の所に至る!』と、
『王を詭(あざむ)いて!』、こう言った、――
お前の、
『子』は、
今日、
『後夜(夜明前)に!』、
『死んでしまった!』、と。
  (は):べからず、できないの意。不可に同じ。又かたし、難の意。
王聞此語驚怖墮床。如熱沙中魚。王時悲哭而說偈言
阿夷陀虛言  瑞應亦無驗 
得利之吉名  一切無所獲
王は此の語を聞き、驚怖して床に堕つること、熱沙中の魚の如し。王は時に悲哭して、偈を説きて言わく、
阿夷陀は虚言せり、瑞応も亦た験無し、
利を得る吉名も、一切獲る所無し。
『王』は、
此の、
『語を聞いて!』、
『驚き怖れて!』、
『床に崩れ堕ち!』、
まるで、
『熱沙』中の、
『魚のようであった!』。
『王』は、
その時、
『悲しみ!』、
『哭(なげ)きながら!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
『阿夷陀』の、
『言』は、
『虚だった!』。
『瑞応(吉兆)』も、
『効験』が、
『無かった!』。
『利』を、
『得るはず!』の、
『吉名』も、
何も、
『得させてくれた!』ものは、
『無かった!』、と。
  熱沙(ねっさ):熱い砂漠。砂漠は沙漠が本字。砂鉄丹砂曠砂等は皆石に从い、沙洲沙漠塵沙風沙等は皆水に从う。
  阿夷陀(あいだ):梵名asita。釈尊降誕の時、之を占相して成仏を予言せし仙人の名。『大智度論巻21下注:阿私陀』参照。
  瑞応(ずいおう):めでたいしるし。吉兆。悉達多太子の具有する三十二相を云う。
  (けん):しるし。ききめ。効験。
是時菩提樹神大歡喜。持天曼陀羅華。至淨飯王所說偈言
汝子已得道  魔眾已破散 
光明如日出  普照十方土
是の時、菩提樹神は大歓喜し、天の曼陀羅華を持ちて、浄飯王の所に至り、偈を説いて言わく、
汝が子は已に道を得て、魔衆は已に破散す、
光明は日の出づるが如く、普く十方の土を照らせり。
是の時、
『菩提樹神』は、
『大歓喜して!』、
『天の曼陀羅華を持つ!』と、
『浄飯王の所』に、
『至り!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
お前の、
『子』が、
『道を得る!』と、
『魔の衆』は、
『破れ散った!』。
『光明』が、
まるで、
『日』が、
『出たかのように!』、
普く、
『十方の国土』を、
『照らしている!』、と。
  菩提樹神(ぼだいじゅじん):梵語bodhi-vRkSa-devataaの訳。菩提樹の神格の義。
  曼陀羅華(まんだらけ):梵にmaandaara、maandaarava、mandaaraka等に作り、意訳して天妙、悦意、適意、雑色、円、柔軟声、闃、白等に作り、また曼陀勒華、曼那羅華、曼陀羅梵華、曼陀羅帆華等に作る。その花の大なるを、称して摩訶曼陀羅華と為す。曼陀羅華を四種天華の一、乃ち天界の花の名と為す。花色は赤に似て美しく、見る者の心を悦ばせ、その樹は波利質多(はりしった、paarijaata、忉利天宮の樹名)樹と同種なり。学名をErythrina indica(Coral tree)と為し、印度に産す。夏季に開花、六七月頃に結実し、葉は頗る繁茂なり。また学名をCalotropis giganteaに為すものは、馬利筋属の植物しして、また曼陀羅と称し湿婆(しつば、ziva)神の献供に係わる花なり。<(佛)
王言。前有天來言。汝子已了。汝今來言壞魔得道。二語相違誰可信者。 王の言わく、『前に有る天の来たりて言わく、汝が子は已に了れりと。汝が今来たりて言わく、魔を壊りて道を得と。二語相違す、誰か信ずべき者なる。』と。
『王』は、こう言った、――
前にも、
有る、
『天が来て!』、こう言った、――
お前の、
『子』は、
『死んでしまった!』、と。
お前は、
今、
『来て!』、こう言っている、――
『魔を壊(やぶ)って!』、
『道』を、
『得た!』、と。
『二人』の、
『語』は
『相違している!』。
誰を、
『信じればよいのか?』。
樹神又言。實不妄語。前來天者詭言已了。是魔懷嫉故來相惱。今日諸天龍神華香供養空中懸繒。汝子身出光明遍照天地。 樹神の又言わく、『実にして妄語にあらず。前に来たる天は、詭りて已に了ると言えり。是れ魔の嫉を懐くが故に来たりて、相悩ますなり。今日、諸天、龍神華香を供養し、空中に繒(きぬ)を懸く。汝が子は、身より光明を出して、遍く天地を照らせり。』と。
『樹神』は、
又、こう言った、――
是れは、
『実である!』、
『妄語ではない!』。
『前に来た!』、
『天』は、
『詭いて!』、
『死んでしまった!』と、
『言った!』が、
是れは、
『魔』が、
『嫉妒』を、
『懐いた!』が故に、
『来て!』、
お前を、
『悩ましたのだ!』。
今日、
『諸の天、龍、神』が、
『華、香を供養して!』、
『空』中に、
『繒(きぬ)を懸ける!』と、
お前の、
『子』が、
『身』より、
『光明』を、
『出して!』、
遍く、
『天、地』を、
『照らした!』、と。
  (そう):絹の織物。
王聞其言於一切苦惱心得解脫。王言我子雖捨轉輪聖王。今得法轉輪王定得大利無所失也。王心大歡喜。 王は、其の言を聞きて、一切の苦悩に於いて、心に解脱を得。王の言わく、『我が子は、転輪聖王を捨てたりと雖も、今、法の転輪王を得たり。定めて大利を得て、失う所無からん。』と。王は、心に大いに歓喜せり。
『王』は、
『樹神』の、
『言』を、
『聞く!』と、
『心』が、
『一切の苦悩より!』、
『解脱した!』。
『王』は、こう言った、――
わたしの、
『子』は、
『転輪聖王』の、
『位』を、
『捨てた!』が、
今、
『法の転輪王』の、
『位』を、
『得た!』、
定んで、
『大利を得て!』、
『失う!』所が、
『無いだろう!』、と。
『王』は、
『心』に、
『大歓喜した!』。
是時斛飯王家使來白淨飯王。言。貴弟生男。王心歡喜言。今日大吉是歡喜日。語來使言。是兒當字為阿難。是為父母作字。 是の時、斛飯王の家より使来て、浄飯王に白して言さく、『貴弟は男を生めり。』と。王は心に歓喜して、『今日は大吉なり。是れ歓喜の日なり。』と言い、来使に、語りて言わく、『是の児は、当に字づけて、阿難と為すべし。』と。是れを父母の作りし字と為す。
是の時、
『斛飯王』の、
『家使が来て!』、
『浄飯王に白して!』、こう言った、――
あなたの、
『弟』に、
『男(むすこ)』が、
『生まれた!』、と。
『王』は、
『心に歓喜して!』、こう言った、――
今日は、
『大吉である!』、
『歓喜の日だ!』、と。
『来使に語って!』、こう言った、――
是の、
『児』は、
『阿難』と、
『呼ばせるがよい!』、と。
是れが、
『父母の作った!』、
『字である!』。
云何依因緣立名。阿難端正清淨如好明鏡。老少好醜容貌顏狀。皆於身中現。其身明淨。女人見之欲心即動。是故佛聽阿難著覆肩衣。 云何が、因縁に依りて名を立つる。阿難は端正にして、清浄なり。好明の鏡の如く、老少、好醜、容貌、顔状、皆身中に於いて現るるに、其の身明浄なれば、女人、之を見るに、欲心即ち動く。是の故に、仏は、阿難に肩を覆う衣を著くることを聴したまえり。
『因縁に依って!』、
『名を立てる!』とは、
何ういうことか?――
『阿難』は、
『端正であり!』、
『清浄であった!』が、
譬えば、
『好もしく!』、
『明るい!』、
『鏡のように!』、
『老、少』や、
『好、醜』の、
『容貌』や、
『顔状』は、
皆、
『身』中に、
『現われるのである!』が、
『阿難』は、
『身』が、
『明るく!』、
『浄らかであった!』ので、
『女人』は、
『阿難を見る!』と、
『欲心』が、
『動くのであり!』、
是の故に、
『仏』は、
『阿難』に、
『覆肩衣を著ける!』ことを、
『聴(ゆる)された!』。
  覆肩衣(ふくけんえ):衣で両肩を覆うこと。通常比丘は仏の前に於いて、右肩を脱ぐものとされ、是れを偏袒右肩と称する。
是阿難能令他人見者心眼歡喜故名阿難。於是造論者讚言
面如淨滿月  眼若青蓮華 
佛法大海水  流入阿難心 
能令人心眼  見者大歡喜 
諸來求見佛  通現不失宜
是の阿難は、能く他人の見る者の心眼をして、歓喜せしむれば、故に阿難と名づくるなり。是に於いて造論者の讃じて言わく、
面の浄きこと満月の如く、眼は青蓮華の若し、
仏法の大海水は、阿難が心に流入せり。
能く人の心眼をして、見る者を大歓喜せしむれば、
諸の来求して仏に見ゆるに、通じて現るるも宜しきを失せず。
是の、
『阿難』は、
『他人の見る者』の、
『心、眼』を、
『歓喜させることができる!』ので、
是の故に、
『阿難( enjoyment )』と、
『呼ばれたのである!』が、
是(ここ)に於いて、
『造論者』は、
『阿難を讃じて!』、こう言うことにする、――
『阿難』の、
『面(かお)』は、
『浄らかな!』、
『満月のようであり!』、
『眼』は、
『青い!』、
『蓮華のようだ!』が、
『阿難』の、
『心』には、
『仏法の大海水』が、
『流入している!』。
『阿難』の、
『身』は、
『見る者』の、
『心、眼を大歓喜させる!』が、
『仏を見ようとする!』、
『諸の来者』に、
『身を!』、
『現しながら!』、
『通じて!』、
『度』を、
『過ぎることがない!』。
如是阿難雖能得阿羅漢道。以供給供養佛故自不盡漏。以此大功德故。雖非無學在無學數中。雖未離欲在離欲數中。以是故共數五千中。以實未是阿羅漢故。言唯除阿難 是の如く、阿難は、能く阿羅漢道を得と雖も、仏を供給し、供養するを以っての故に、自ら漏を尽くさず。此の大功徳を以っての故に、無学に非ずと雖も、無学の数中に在り、未だ離欲ならずと雖も、離欲の数中に在り。是を以っての故に、共に五千の中に数うるも、実には、未だ是れ阿羅漢ならざるを以っての故に、言わく、『唯だ阿難を除く』と。
是のような、
『阿難』は、
『阿羅漢』の、
『道』を、
『得ることができた!』が、
『仏』に、
『供給、供養しよう!』と、
『思った!』が故に、
自ら、
『漏』を、
『尽くさなかったのであり!』、
此の、
『大功徳』の故に、
『無学ではないが!』、
『無学の数()』中に、
『在ったのであり!』、
未だ、
『離欲してはいなかった!』が、
『離欲の数』中に、
『在ったのである!』。
是の故に、
『共に!』、
『五千』中に、
『数えられながら!』、
『実に!』は、
未だ、
『阿羅漢でない!』が故に、
こう言うのである、――
唯だ、
『阿難のみ!』を、
『除く!』、と。



初品中四眾義釋論第七


比丘尼、優婆塞、優婆夷

【經】復有五百比丘尼優婆塞優婆夷。皆見聖諦 復た五百の比丘尼、優婆塞、優婆夷有り、皆聖諦を見る。
復た、
『五百』の、
『比丘尼、優婆塞、優婆夷が有り!』、
皆、
『四聖諦を見た(見道に在った)!』。
  比丘尼(びくに):梵語bhikSuNii、巴梨語bhikkhunii、又苾芻尼、苾蒭尼、煏芻尼、備芻尼、比呼尼、或いは単に尼に作る。比丘bhikSuの女性名詞なり。除女、薫女と訳し、一に沙門尼と名づけ、和語に「アマ」と訓ず。即ち女人の出家入道して具足戒を受けたるものを云う。「五分律巻29」に、「式叉摩那にして二歳戒を学し已らば、応に二部僧中に在りて具足戒を受くべし」と云い、又「善見律毘婆沙巻14」に、「比丘尼とは、二部僧中に従って白四羯磨して具足戒を受く。是れを比丘尼と名づく」と云える是れなり。是れ比丘尼は二歳学法の後、二部僧に就いて具足戒を受くべきことを規定せるものにして、満二十歳以上なるを要するは比丘に同じき所なり。此の中、二部僧中に従って具足戒を受くと云うに両説あり、「四分律巻48比丘尼犍度」、「五分律巻29」等には、初め比丘尼僧の中に於いて和尚、教授師、戒師の三師を求め、安陀会等の比丘尼の五衣及び一鉢を受け、白四羯磨して具足戒を受け、後更に比丘尼僧と倶に比丘僧中に至り、改めて白四羯磨して比丘僧より具足戒を受くべしとし、「大智度論巻13」には、「若し具足戒を受けんと欲せば、応に二部僧中に五衣鉢盂を用い、比丘尼を和尚及び教師と為し、比丘を戒師と為すべし。余は受戒の法の如し。略説せば則ち五百戒、広説せば則ち八万の戒あり。第三羯磨し訖らば、即ち無量の律儀を得て比丘尼を成就す」と云えり。是れ部派の間に行われたる異説なるが如し。蓋し女人の出家入道は仏の姨母瞿曇弥大愛道mahaapajaapatii-gotamiiの懇請に起因するものにして、当時大愛道が仏の聴許によりて出家し、具足戒を受けて比丘尼となり、尋いで亦五百の釈種女が大愛道を和尚として出家得度せしことは、「中阿含巻28瞿曇弥経」、「大愛道比丘尼経」、「五分律巻29」等に悉く記する所なり。仏は女人の出家が正法を壊乱せんことを慮り、特に種種の制戒を設けて其の過非を誡め、具足戒の如きも其の戒條は比丘に比して遙かに多数なるものあり。即ち「四分戒本」に依るに、比丘は二百五十戒を具足戒となすに対し、「比丘尼戒本」には三百四十八戒を制し、又「五分比丘尼戒本」には三百七十三戒(広律三百七十戒)、「十誦比丘尼波羅提木叉戒本」には三百五十四戒、「摩訶僧祇比丘尼戒本」には二百九十戒、「巴梨律蔵比丘尼戒本」には三百十一戒、「西蔵伝比丘尼戒本」には三百六十四戒となせり。「中阿含巻8瞿曇弥経」等には、仏の在世に五百の比丘尼ありしことを伝え、又「増一阿含経巻3比丘尼品」には、声聞中第一の比丘尼として大愛道等の五十人を列ね、「巴梨文長老尼偈therii-gaathaa」には、比丘尼七十三人の讃偈を出し、又「善見律毘婆沙巻2、3」及び「巴梨文大史mahaavaMsa,xiii,xviii,xix,xx」等には、阿育王の王女僧伽蜜多saGghamittaが十八歳にして出家し、二歳学法の後、錫蘭王天愛devaanaMpiyatissaの請を受けて錫蘭に入り、王の夫人阿[少/兔]羅anulaaを始め、五百の侍女を度せしことを記せり。是れ錫蘭に於ける比丘尼の初めなり。又「出三蔵記集巻11比丘尼戒本所出本末序」に、西暦第四世紀に於ける拘夷国(即ち亀茲)比丘尼寺の情況を記し、「阿麗藍(百八十比丘尼)、輸若干藍(五十比丘尼)、阿麗跋藍(三十尼道)、右三寺の比丘尼統は舌弥に依りて法戒を受く。比丘尼は外国の法に独立するを得ざるなり。此の三寺の尼は多くは是れ葱嶺以東の王侯の婦女なり。道の為に遠く此の寺に集まり、法を用いて自ら整え、大に検制あり。亦三月に一たび房を易え、或いは寺を易えて出行す。大尼三人に非ざれば行かず、多く五百戒を持す。亦師なくして一宿する者は輒ち之を弾ず。今出す所の比丘尼大戒本は、此の寺に常に用うる所の者なり」と云えり。以って其の制の厳なりしを見るべし。支那に於いては西晋建興年中、尼浄検が西域沙門智山に従って剃髪して十戒を受け、後東晋咸康年中、僧建月支国より「摩訶僧祇比丘尼戒本」並びに「羯磨」を齎し、升平元年二月曇摩竭多を請して比丘尼戒壇を立つるに及び、浄検は同志三人と共に檀に上りて具足戒を受く。「比丘尼伝巻1」には之を以って支那に於ける比丘尼の始となせるも、「大宋僧史略巻上尼得戒由の條」には、浄検は唯比丘の一衆に就いて得戒せしが故に其の受法未だ全からずとなし、宋元嘉十一年慧果、浄音等三百人が、建康南林寺戒壇に於いて師子国尼鉄索羅等十一人に従って受具せしを以って、漢土比丘尼の始原となすべしと云えり。当時比丘尼の数増加し、統制を要するに至りしを以って、宋太始二年比丘尼宝賢を尼僧正に任じ、法浄を京邑尼都維那となせしことは、「大宋僧史略巻中尼正の條」に記する所なり。本邦に於いては司馬達等の女善信等が高麗僧恵便に従って出家し、尋いで崇峻天皇元年百済に渡航して具足戒を受け、同三年帰朝して桜井寺に住し、大伴狭手彦連女善徳等十二人を度せしを以って比丘尼の始とし、爾後漸次増加し、推古天皇三十二年には五百六十七人ありしと伝えられ、後国分尼寺(即ち法華滅罪寺)建立せらるるに及び、比丘尼は同寺を本所として全国に居住し、平安朝以後皇女又は貴族の息女等の出家せらるる者漸く多く、京都を始め諸処に比丘尼寺の造立を見るに至れり。又「雑阿含経巻24」、「中本起経巻下瞿曇弥来作比丘尼品」、「大愛道比丘尼経巻下」、「撰集百縁経巻8」、「大方便仏報恩経巻5」、「四分律巻49」、「十誦律巻40至47」、「摩訶僧祇律巻30、36至40」、「有部毘奈耶雑事巻30」、「経律異相巻23」、「四分律行事鈔巻下之4」、「同資持記巻下之4」、「四分律疏巻6末」、「四分律開宗記巻5末」、「翻訳名義集巻3」、「日本書紀巻20至22」、「続日本紀巻14」等に出づ。<(望)
  優婆塞(うばそく):梵語upaasaka、巴梨語同じ、又烏婆塞、伊蒲塞、伊婆塞、烏波索迦、鄔波索迦、或いは優波娑迦、優婆娑柯、優波娑迦に作る。近事男と訳す。近善男、近宿男、善宿男、清信士、清信等は其の義翻なり。在家二衆の一、四部弟子の一。即ち三宝に親近し、之に給仕する男性を云う。「佛本行集経巻32」に、世尊成道の後、差梨尼迦樹林に至りて結跏趺坐し給える時、北天竺より来たれる帝梨富娑trapuSa、跋梨迦bhallika(即ち提謂、波利)の二商主は、麨酪蜜和の摶を仏に供養し、帰依仏帰依法帰依僧の三自帰(五分律等には帰依仏帰依法の二自帰とす)を受け、最初の優婆塞の名を得たることを記せり。南方所伝の「律蔵大品mahaavagga」を始め、「五分律巻15」、「過去現在因果経巻3」等にも皆此の記事あり。之に依るに、帝梨富娑及び跋梨迦の二人は、仏教教団中に於ける最初の優婆塞なりしというべし。「増一阿含経巻3」には、仏在世当時の代表的優婆塞として、三果商客等の四十人の名を挙げたり。其の中、三果は恐らく今の帝梨富娑なるべし。又「優婆塞戒経巻3」に依るに、若し三帰を受け、一戒を受持するを一分優婆塞と名づけ、二戒を受持するを少分優婆塞と名づけ、又若し一戒を破すれば是れを無分と名づけ、三、四戒を受持するを多分と名づけ、五戒を受持するを満分優婆塞と名づくと云えり。有部律にては、五戒の分受を許さざるが故に、随って此の如き五種の別を立てず。又「倶舎論巻14」、「大智度論巻13」、「維摩経略疏巻2」、「大唐西域記巻9」、「玄応音義巻21、23」、「法華経玄賛巻2本」、「南海寄帰内法伝巻3」、「慧琳音義巻2、13、25、27」、「希麟音義巻5、8、9」、「翻訳名義集巻3」等に出づ。<(望)
  優婆夷(うばい):梵語upaasikaa、巴梨語同じ。又憂婆夷、優婆斯、鄔婆斯迦、優婆私柯、優婆私呵、優婆賜迦、或いは烏波斯迦に作る。近事女と訳す。近善女、近宿女、善宿女、清信女等は其の義翻なり。在家二衆の一。四部弟子の一。即ち三宝に親近し、之に給仕する女性を云う。三帰を受け、五戒を持するの相は優婆塞に異ならず。「優婆夷浄行法門経」には、毘舎佉等の優婆夷に対して広く優婆夷の浄行を明かし、「優婆夷堕舎迦経」には、堕優婆夷の為に斎戒の法並びに其の功徳を説けり。又「増一阿含経巻3」には、仏在世当時有名なりし優婆夷三十人を挙げ、其の中、難陀陀婆羅を上首とし、南方所伝の「律蔵大品mahaavagga」には、優婆夷の濫觴は耶舎の母yasassa maataaなりとせり。又「倶舎論巻14」、「維摩経略疏巻2」、「大唐西域記巻9」、「法華経玄賛巻2本」、「玄応音義巻21、23」、「慧琳音義巻2、13、25、27」、「希麟音義巻5」、「翻訳名義集巻3」等に出づ。<(望)
  見聖諦(けんしょうたい):謂わゆる三道の一、見道に入ることを指す。『大智度論巻2上注:見道、巻18下注:四聖諦』参照。
  四衆(ししゅ):梵にcatasrah parSadaHに作り、仏教教団を構成する四種の弟子衆を指す。また四輩、四部衆、四部弟子と称し、即ち比丘(びく、bhikSu)、比丘尼(びくに、bhikSuNii)、優婆塞(うばそく、upaasaka)、優婆夷(うばい、upaasikaa)なり。或いは僅かに出家の四衆を指す、即ち比丘、比丘尼、沙彌(しゃみ、zraamaNeraka)、沙彌尼(しゃみに、zraamaNerikaa)なり。
  比丘尼(びくに):梵語bhikSuNii。又苾芻尼、比呼尼、煏芻尼等に作り、意訳して乞士女、除女、薫女等に為し、或いは簡に称して尼と為す。原は出家得度して具足戒を受けし女を指せるも、その後には広く出家の女子を指す。印度の比丘尼有るは、釈尊のその姨母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、mahaapajaapatii)の出家と具足戒を受くるを聴許せるに於いて起り、後に五百釈種女出家得度せり。その戒條は凡そ三百四十八戒なり。<(佛)
  優婆塞(うばそく):梵語upaasaka。又烏波索迦、優波娑迦、伊蒲塞に作り、意訳して近事、近事男、近善男、信士、信男、清信士等に為す。即ち在家にして三宝に親近奉持し、五戒を受持する男なり。在家二衆の一、四衆の一、七衆の一と為す。優婆夷と同じく在家に係わりて仏法を信仰する者なり。『仏本行集経巻32』によれば、仏成道の後、差梨尼迦樹林に至りて結跏趺坐するに、その時、来た天竺より来たる提謂(trapuSa)、波利(bhallika)二商主の麨、酪、蜜を以って和えし所の摶を仏に供養し、三自帰を受けしこと、これを最初の優婆塞と為す。<(佛)
  優婆夷(うばい):梵語upaasikaa。又優婆私訶、優婆斯、優波賜迦に作り、訳して清信女、近善女、近事女、近宿女、信女と為す。即ち三宝に親近し、三帰を受け、五戒を持ち、善法を施行する女衆にして、在家二衆の一、四衆の一、七衆の一と為す。『増一阿含経巻3』には仏在世時に難陀難陀婆羅を優婆夷三十人の上首と為せり。<(佛)
【論】問曰。何以諸比丘五千。餘三眾各五百。 問うて曰く、何を以ってか、諸の比丘は五千にして、余の三衆は、各五百なる。
問い、
何故、
諸の、
『比丘』は、
『五千であり!』、
余の、
『三衆』は、
各、
『五百だったのですか?』。
答曰。女人多短智慧煩惱垢重。但求喜樂愛行多故。少能斷結使得解脫證。 答えて曰く、女人は多く、智慧短(おと)り、煩悩の垢重く、但だ喜楽を求めて、愛を行ずること多し、故に能く、結使を断じて、解脱の証を得ること少なし。
答え、
『女人』の、
『多く!』は、
『智慧』が、
『短慮であり!』、
『結使』の、
『垢』が、
『重いので!』、
但だ、
『喜、楽を求めて!』、
『愛の行い!』が、
『多い!』ので、
『少ししか!』、
『解脱したという!』、
『証( to realize )』を、
『得られない!』。
  (しょう):覚る( to realize )、◯梵語 abhi-saM-budha, abhi-saM-budhyate の訳、既に菩提を獲得している/深く精通している/最上にして完全な智慧を獲得した( having attained the bodhi, deeply versed in, obtain the highest perfect knowledge )の義。◯梵語 adhigama の訳、収集/商業上の利潤/利益/精通/学習/獲得する行為/知識( aquisition, marcantile return, profit, mastery, study, act of attaining, knowledge )の義。実現すること/完全に啓発されている/心中に於いて明了に、疑いなく理解すること( To actualize; to be fully enlightened; to know clearly within oneself, without a doubt. )、結果を理解する/達する/経験する( To realize the result; to reach to; to experience )の意。
如佛說。是因緣起法第一甚深難得。一切煩惱盡離欲得涅槃倍復難見。以是故女人不能多得不如比丘。 仏の説きたもうが如し、『是の因、縁起の法は、第一に甚だ深く、得難きも、一切の煩悩尽き、欲を離れて涅槃を得ること、倍して復た見難し。』と。是を以っての故に、女人は、多く得る能わずして、比丘に如かず。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
是の、
『因縁が起す!』という、
『法』は、
『第一に!』、
『甚だ深く!』、
『理解し難いものである!』が、
一切の、
『煩悩が尽き!』、
『欲を離れて!』、
『涅槃』を、
『得る!』者は、
倍して、
『見る!』ことが、
『難しい!』、と。
是の故に、
『女人』は、
『多く!』が、
『涅槃』を、
『得ることができず!』、
『数では!』、
『比丘に!』、
『及ばないのである!』。
  因縁起(いんねんぎ):梵語pratiitya-samutpaadaの訳。緣によりて起るの義。『大智度論巻3下注:縁起』参照。
  縁起(えんぎ):梵語鉢刺底帝夜参牟播陀pratiitya-samutpaadaの訳。巴梨語paTiicca-samuppanna、緣によりて起るの意。「雑阿含経巻12」に、「縁起の法は我が所作に非ず、亦余人の作にも非ず。然も彼の如来は世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。謂わゆる此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起る。謂わく無明を縁として行あり、乃至純大苦聚の集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚滅す」と云い、又「中阿含巻47多界経」に、「此れに因りて彼れ有り、此れ無くんば彼れ無し。此れ生ずれば彼れ生じ、此れ滅すれば彼れ滅す」(imasmiM sati,idaM hoti;imass' uppaadaa idaM uppajjati;imasmiM asati,idaM na hoti;imassa nirodhaa idaM nirujjhati)と云える是れなり。是れ謂わゆる無明は行の緣となり、行は識の緣となり、乃至生は老死の緣となり、此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起りて、生死相続止まざるの理を明らかにし、同時に亦此れ無くんば彼れ無く、此れ滅すれば彼れ滅するの理に由り、無明を断除して以って涅槃を求むべきことを説けるものなり。蓋し此の縁起の理は仏陀成道の証悟と称せらるるものにして、仏教の根本原理とする所なり。印度の諸外道が個我及び諸法の自性実在を主張したるに対し、仏陀は凡べて之を否定し、万有は唯だ相互に依存するものにして、独立的自性を有するに非ずとし、以って特殊の人生観世界観を建立せるなり。蓋し縁起は多く無明乃至老死の十二支に就き説示せられたるも、時には他の組織にて明さるることあり。「大毘婆沙論巻24」に、世尊は化を受くる者の為に、縁起を施設すること少多不定なり。有処には一の縁起を説く、謂わく一切の有為法を総じて縁起と名づく。有処には二の縁起を説く、謂わく因と果となり。有処には三の縁起を説く、謂わく三世の別、或いは煩悩と業と事とを三となす。有処には四の縁起を説く、謂わく無明と行と及び生と老死となり。乃至有処には十一縁起を説く、智事の中に説くが如し。有処には十二縁起を説く、余の無量の契経の中に説くが如しと云える即ち其の意なり。又縁起の語議に関しては、「大毘婆沙論巻23」に、「縁起とは是れ何の義ぞ。答う、緣を待って起るが故に縁起と名づく。何等の緣をか待つ、謂わく因縁等なり。或いは有説は緣より起るべきことあるが故に縁起と名づく。謂わく性相ありて緣より起るべし。性相なきに非ず、起るべからざるに非ず。復た有説は有る緣より起るが故に縁起と名づく。謂わく必ず緣ありて此れ方に起ることを得るなり。有は是の説を作す、別別の緣より起るが故に縁起と名づく。謂わく別別の物、別別の緣より和合して起る。或いは復た有説は等しく緣より起るが故に縁起と名づく」と云えり。又「倶舎論巻9」には原語の意義に関し、鉢刺底pratiは接頭字にして至の義、医底itiは語根にして行の義なり。鉢刺底の助力により語根の行の義転じて緣の義と成る。又参samは接頭字にして和合の義、嗢utも亦接頭字にして上昇の義、鉢地padiは語根にして有の義なり。即ち有は合と昇とによりて転変して起の義と成る。此の有法が緣に至り已りて和合するに由りて、昇起するを即ち縁起の義となす云い、又一師の説を挙げて、鉢刺底は種種の義、医底は不住の義。不住は種種の助に由るが故に変じて縁の義と成る。参は聚集の義、嗢は上昇の義、鉢地は行の義なり。嗢を先となすに由りて、行は変じて起の義と成る。即ち種種の縁和合し已りて、諸の行法をして聚集昇起せしむるを縁起の義となすと云えり。是の如く其の解釈に多説あるも、要するに有為の諸法は他の縁に由りて生起するものなることを明らかにするに在り。「大毘婆沙論巻23」に心心所法は因等の四縁に由りて生じ、無想滅尽の二定は、所縁縁を除いて他の三縁に由りて生じ、余の不相応行及び色法は、因及び増上の二縁に由りて生ずと云えるは、即ち其の縁の不同を説けるものなり。又「倶舎論巻9」等には縁起と縁已生の法とを区別し、「諸支の因分を説いて縁起と名づく。此れ縁となりて能く果を起すに由るが故なり。諸支の果分を縁已生と説く。此れ皆縁より生ぜらるるに由るが故なり」と云い、又尊者望満puurNaazaの説なる縁起と縁已生の四句分別を挙げ、一に縁起にして縁已生の法に非ず、即ち未来法なり。二に縁已生にして縁起の法に非ず、即ち過去現在の阿羅漢の最後の五蘊なり。三に縁起にして亦縁已生の法なり、即ち過去現在の阿羅漢の最後の五蘊を除いて、諸余の過去現在の法なり。四に縁起に非ず、亦縁已生の法に非ず、即ち無為法なりと云えり。但し是の如く因果二分同じからざるに約せば、縁起と縁已生とは其の別ありとすべきも、「品類足論巻6」に、「縁起法とは云何、謂わく有為法なり。非縁起法とは云何、謂わく無為法なり。縁已生と非縁已生の法も亦爾り」と云うに依れば、此の二は別異に非ざるが如く、兎に角一切有為の諸法は縁起たると同時に、亦縁已生の法たることは明らかなりと謂うべし。蓋し説一切有部等に於いては是の如く十二縁起の説に基づき、延いて一切有為の諸法の縁起相生を論じたるも、単に六識建立なるを以って、生死の苦果は唯即ち煩悩及び業の招く所なりとし、此の他に別に相続の主あることを認めず。然るに大衆部等に於いては根本識の存在を認め、尋いで唯識大乗に及んで七八二識を説き、万有を以って第八阿頼耶識中の種子の開発となし、茲に賴耶縁起の説を構成すると同時に一面に於いては亦分別論者等が主唱せし心性本浄説より転じて如来蔵の教義を生じ、如来蔵心より一切の万有を発生すと説き、之を如来蔵縁起と称するに至れり。思うに此等は六識の外に一種の根本識体を認むるものにして、原始仏教の教義と径庭あるが如きも、而も同じく皆無明を以って迷界発現の元本となせるは、即ち十二縁起説より発展せしものなるを証するものというべし。又華厳に於いて法界縁起を説き、真言に於いて六大縁起を唱うるが如き、其の義旨は前の諸説と同じからざるが如きも、何れも一種の縁起説として、以って「中論」及び天台等の実相論と対峙し、仏教教学の二大傾向と称せられつつあり。後世寺又は仏像等の由来を記したるものを縁起と名づけ、「長谷寺縁起」、又は「当麻寺曼荼羅縁起」等と称するは、其の由りて起れる所以を明らかにすることに於いて、今の十二縁起等と同義なるを以ってなり。<(望)
  参考:『雑阿含経巻12(293)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告異比丘。我已度疑。離於猶豫。拔邪見刺。不復退轉。心無所著故。何處有我為彼比丘說法。為彼比丘說賢聖出世空相應緣起隨順法。所謂有是故是事有。是事有故是事起。所謂緣無明行。緣行識。緣識名色。緣名色六入處。緣六入處觸。緣觸受。緣受愛。緣愛取。緣取有。緣有生。緣生老.死.憂.悲.惱苦。如是如是純大苦聚集。乃至如是純大苦聚滅。如是說法。而彼比丘猶有疑惑猶豫。先不得得想.不獲獲想.不證證想。今聞法已。心生憂苦.悔恨.矇沒.障礙。所以者何。此甚深處。所謂緣起。倍復甚深難見。所謂一切取離.愛盡.無欲.寂滅.涅槃。如此二法。謂有為.無為。有為者若生.若住.若異.若滅。無為者不生.不住.不異.不滅。是名比丘諸行苦寂滅涅槃。因集故苦集。因滅故苦滅。斷諸逕路。滅於相續。相續滅滅。是名苦邊。比丘。彼何所滅。謂有餘苦。彼若滅止.清涼.息沒。所謂一切取滅.愛盡.無欲.寂滅.涅槃。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  縁起(えんぎ):梵にpratiitya-samutpaadaに作り、その意訳を縁起という。また音訳して鉢刺底底夜参牟播頭と為し、一切の諸法(有為法)は皆種種の条件(即ち因縁なり)の和合に因りて成立す、この理を称して縁起と為す。即ち何なる事物も皆各種の条件の相互に依存するに当りて必ず変化(無常)有り、と為せるものなり。現象界に於ける各種の生起生滅の原因、条件に対して仏により証悟せられたる法則にして、『阿含経典』の多処に開明する所の十二支縁起の如く、謂わゆる無明を行の縁と為し、行を識と縁と為し、乃ち生を老死の縁と為すに至るは、「此有るが故に彼有り、此起るが故に彼起る」を以って生死相続の理を明示し、同時にまた「此無ければ則ち彼無く、此滅すれば則ち彼滅す」の理に由り、無明を断除せば、以って涅槃を証すと為す。この縁起の理は乃ち仏成道の証悟にして、仏教の基本原理なり。蓋し仏は印度の諸の外道の主張する所の「個我」及び諸法に具有せる実在の自性等の論点に対し、均しくこれに否定を与えて万有は皆相互依存に係りて、独立の自性有るに非ずと謂えり。これを以って世界、社会、人生及び各種精神現象を産生する根源なりと解釈し、特殊の人生観と世界観を建立して仏教をその他の宗教、哲学、思想と異にする最大の特徴を成す。<(佛)
優婆塞優婆夷有居家故。心不淨不能盡漏止可得四聖諦作學人。如偈說
孔雀雖有色嚴身 
不如鴻鴈能遠飛 
白衣雖有富貴力 
不如出家功德勝
優婆塞、優婆夷は、居家有るが故に、心不浄にして、漏を尽くす能わざれば、四聖諦を得べきも、学人と作るに止む。偈に説くが如し、
孔雀は色有りて、身を厳(かざ)ると雖も、
鴻雁の如く、遠く飛ぶ能わず。
白衣は、富貴の力有りと雖も、
出家の功徳の、勝れるには如かず。
『優婆塞(信男)、優婆夷(信女)』は、
『居家が有る!』が故に、
『心が不浄であり!』、
『漏』を、
『尽くすことができない!』ので、
『四聖諦を得ても!』、
『学人と作る!』に、
『止まる!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『孔雀』は、
『色が有り!』、
『身』を、
『荘厳する!』が、
『遠く飛ぶ!』ことでは、
『鴻雁( swan goose )に!』、
『及ばない!』。
『白衣』は、
『富貴』の、
『力』が、
『有る!』が、
『出家』の、
『功徳の勝る!』には、
『及ばない!』。
以是故諸比丘尼。雖出家棄世業智慧短。是故有五百阿羅漢比丘尼。白衣二眾居家事懅故。得道亦各五百。 是を以っての故に、諸の比丘尼は、出家して、世業を棄つと雖も、智慧短り、是の故に、五百の阿羅漢の比丘尼有るのみ。白衣の二衆は、家に居り、事の懅(あわただ)しきが故に、道を得るも、亦た各五百なり。
是の故に、
諸の、
『比丘尼』は、
『出家して!』、
『世間』の、
『業』を、
『棄てても!』、
『智慧』が、
『短慮である!』。
是の故に、
『五百』の、
『阿羅漢』の、
『比丘尼』が、
『有り!』、
『白衣』の、
『二衆』は、
『居家の事』が、
『懅(あわただ)しい!』が故に、
各、
『道を得た!』者が、
『五百なのである!』。
  白衣(びゃくえ):俗人。『大智度論巻26下注:白衣』参照。
問曰。如五千阿羅漢皆讚三眾何以不讚。 問うて曰く、五千の阿羅漢を、皆讃ずるが如く、三衆は、何を以ってか、讃ぜざる。
問い、
『五千の阿羅漢』は、
皆、
『讃じたのに!』、
『三衆』は、
何故、
『讃じないのですか?』。
答曰。大眾已讚則知餘亦讚。 答えて曰く、大衆を已に讃ずれば、則ち余も亦た讃ずるを知ればなり。
答え、
『大衆』を、
『讃じれば!』、
『余の衆』も、
『讃じた!』と、
『知れるからである!』。
復次若別讚。外道輩當呵言。何以讚比丘尼。生誹謗故。若讚白衣當言為供養故。以是故不讚。 復た次ぎに、若し別して讃ぜば、外道の輩は、当に呵して、『何を以ってか、比丘尼を讃ずる』と言いて、誹謗を生ずべきが故に、若し、白衣を讃ずれば、当に、『供養の為なり。』と言うべきが故に、是を以っての故に、讃ぜざるなり。
復た次ぎに、
若し、
『比丘尼』を、
『別に!』、
『讃じれば!』、
『外道の輩』が、
『呵して!』、――
何故、
『比丘尼を讃じるのか?』と、
『言い!』、
『誹謗』を、
『生じるからであり!』、
若し、
『白衣』を、
『讃じれば!』、こう言うはずである、――
『供養を得る!』為に、
『白衣』を、
『讃じたのだ!』、と。
是の故に、
『比丘尼、優婆塞、優婆夷』を、
『別に!』、
『讃じないのである!』。
問曰。諸餘摩訶衍經。佛與大比丘眾俱。或八千人或六萬十萬人俱。 問うて曰く、諸余の摩訶衍経は、仏の大比丘衆と倶にしたもうこと、或いは八千人、或いは六万、十万人と倶なり。
問い、
『諸余の摩訶衍経』は、
『仏』は、
『大比丘衆』と、
『倶にされており!』、
或は、
『八千人』、
或は、
『六万、十万人』と、
『倶にされている!』。
是摩訶般若波羅蜜經諸經中第一。大如囑累品中說。餘經悉忘失其罪少少。失般若波羅蜜一句其罪大多。以是故知般若波羅蜜經第一大。 是の『摩訶般若波羅蜜経』の、諸経中に第一の大なること、『嘱累品』中に、『余の経は、悉く亡失せんにも、其の罪は少少なり。般若波羅蜜の一句を失せば、其の罪は大多なり。』と説くが如し。是を以っての故に知る、般若波羅蜜経は、第一に大なりと。
是の、
『摩訶般若波羅蜜経』は、
『諸経』中に、
『第一最大である!』が、
例えば、
『嘱累品』中には、こう説かれている、――
『余の経』は、
『悉く!』を、
『忘失しても!』、
其の、
『罪』は、
『少少(僅少)である!』が、
『般若』は、
『一句』を、
『忘失しても!』、
其の、
『罪』は、
『多大である!』、と。
是の故に、
こう知ることになる、――
『般若波羅蜜経』は、
『第一最大である!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻20』:『阿難。若菩薩深了了行六波羅蜜乃至一切種智。是人若住聲聞辟支佛道。不得阿耨多羅三藐三菩提無有是處。是故阿難。我以般若波羅蜜囑累汝。阿難。汝若受持一切法。除般若波羅蜜若忘若失其過小小無有大罪。阿難。汝受持深般若波羅蜜若失一句其過甚大。阿難。汝若受持深般若波羅蜜還忘失其罪甚多。以是故。阿難。囑累汝是深般若波羅蜜。汝當善受持讀誦令利。阿難。若有善男子善女人受持般若波羅蜜。則為受持過去未來現在諸佛阿耨多羅三藐三菩提』
是第一經中當第一大會。何以故聲聞眾數少。止有比丘五千。比丘尼優婆塞優婆夷各五百。 是の第一の経中、第一大会に当りて、何を以っての故に、声聞衆の数少なく、比丘の五千、比丘尼、優婆塞、優婆夷の各五百有るに止まる。
是の、
『第一の経』中には、
『第一の!』、
『大会であるはず!』なのに、
何故、
『声聞衆』は、
『数』が、
『少なく!』、
『比丘』が、
『五千有る!』に、
『止まり!』、
『比丘尼、優婆塞、優婆夷』は、
各、
『五百なのですか?』。
答曰。以是大經甚深難解故。聲聞眾少。譬如王有真寶不示凡人。示大人信愛者。如王謀議時。與諸大臣信愛智人共論。諸餘小臣則不得入。 答えて曰く、是の大経は、甚だ深く、解し難きを以っての故に、声聞衆少なし。譬えば、王に、真の宝を有るも、凡人には示さず、大人、信愛の者のみに示すが如く、王の、謀議する時、諸の大臣、信愛、智人と共に論ずるも、諸余の小臣は、則ち入るを得ざるが如し。
答え、
是の、
『大経』は、
『甚だ深く!』、
『理解し難い!』が故に、
『声聞の衆』が、
『少ない!』。
譬えば、
『王』に、
『真の宝が有っても!』、
『大人』や、
『信愛する!』者には、
『示すが!』、
『凡人』には、
『示さない!』のと、
『同じであり!』、
又、
『王』が、
『議を謀る!』時、
『諸大臣』や、
『信愛する!』者や、
『智人』とは、
『共に!』、
『論じるが!』、
『諸余の小臣』は、
『入ることができない!』のと、
『同じである!』。
復次是六千五百人盡得道。雖不盡解甚深般若波羅蜜。皆能信得無漏四信故。餘經聲聞眾。雖大多雜不盡得道。 復た次ぎに、是の六千五百人は、尽く道を得て、尽くは甚だ深き般若波羅蜜を解せずと雖も、皆、能く信ずるは、無漏の四信を得るが故なり。余の経の声聞衆は、大多なりと雖も、雑りて尽くは道を得ず。
復た次ぎに、
是の、
『六千五百人』は、
『尽く!』が、
『道』を、
『得ており!』、
『甚だ深い!』、
『般若波羅蜜』を、
『尽くは!』、
『理解できないとしても!』、
皆、
『般若波羅蜜』を、
『信じることができる!』のは、
『無漏』の、
『四信(真如と三宝を信じること)』を、
『得ているからである!』。
『余の経』の、
『声聞衆』は、
『多大である!』が、
『道』を、
『得た!』者と、
『得ない!』者とが、
『雑っており!』、
『尽く!』が、
『道を得たのではない!』。
  四信(ししん):真如、及び三宝を信ずるを云う。『大智度論巻18下注:四信』参照。
  無漏四信(むろししん):また四信といい、真如及び三宝を信ずるなり。一に根本を信じ、二に仏を信じ、三に法を信じ、四に僧を信ず。『大乗起信論』に、「信心を説くに四種あり、云何が四と為す、一には根本を信ず、所謂楽うて真如の法を念ずるが故なり。二には仏に無量の功徳ありと信ず、常に念じて親近し、供養し恭敬して善根を発起し、一切智を願求するが故なり。三には法に大利益ありと信じて、常に念じて諸波羅蜜を修行するが故なり。四には僧はよく正しく自利利他を修行すと信じて、常に楽うて諸の菩薩衆に親近し、如実の行を求めて学ぶが故なり」、と云えるこれなり。この中、根本を信ずとは、真如は諸仏の師とする所にして、衆行の本源なり、常にこれを信じて楽念観察すれば、空、有、能、所等の一切対待の相を離るるを得べきが故なり。仏を信ずとは、仏に無量の功徳ありと信じて、常に念じて親近供養し、速かに一切智を得んと願欲するが故なり。法を信ずとは、法はよく慳貪等の障を除きて大利益をなすと信じ、常に念じて諸波羅蜜を修行し、これに順ぜんことを願うが故なり。僧を信ずとは、僧はよく正しく自利利他の大行を修行すと信じて、常に楽うて諸の菩薩衆に親近師、如実の楽を求め学ばんと欲するが故なり。<(望)
復次是中先讚千萬阿羅漢中。擇取最勝五千人。比丘尼優婆塞優婆夷亦爾。勝者難得故不多
大智度論卷第三
復た次ぎに、是の中には、先に千万の阿羅漢を讃ずる中より、最勝の五千人を択び取れり。比丘尼、優婆塞、優婆夷も、亦た爾り。勝れたる者は、得難きが故に多からず。
大智度論巻第三
復た次ぎに、
是の中に、
先に、
『千万』の、
『阿羅漢』を、
『讃じたのであり!』、
『比丘』は、
是の中の、
『最も勝れた!』、
『五千人』を、
『択び取ったのである!』。
『比丘尼、優婆塞、優婆夷』も、
是の通りであるが、
『勝れた!』者は、
『得難い!』が故に、
『多くはない!』。

大智度論巻第三


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