巻第三(上)
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初品中住王舎城釈論第五(巻第三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


王舎城に住まる

【經】住王舍城 王舎城に住(とど)まる。
『王舎城』に、
『住(とど)まられた!』。
  王舎城(おうしゃじょう):梵名raajagRhaの訳。中印度摩揭陀(梵magadha)国の王都の名。『大智度論巻22上注:王舎城』参照。
【論】今當說。問曰。何以不直說般若波羅蜜法。而說佛住王舍城。 今、当に説くべし。問うて曰く、何を以ってか、直だ般若波羅蜜の法を説かずに、仏の王舎城に住まりたまえることを説く。
今、説かねばならぬ、――
問い、
何故、
直()だ、
『般若波羅蜜』という、
『法』を、
『説かず!』に、
而(しか)も、
『仏』は、
『王舎城に住まられた!』と、
『説くのですか?』。
答曰。說方時人。令人心生信故。云何名住。四種身儀坐臥。行住是名住。又以怖魔軍眾。自令弟子歡喜入種種諸禪定故。在是中住。 答えて曰く、方、時、人を説いて、人心をして、信を生ぜしめんが故なり。云何が、住と名づくる。四種の身儀の坐臥行住、是れを住と名づけ、又魔の軍衆を怖(おど)して、自ら弟子をして歓喜せしめ、種種の諸の禅定に入らしめんを以っての故に、是の中に在りて住まりたまえり。
答え、
『方(地方)』や、
『時』や、
『人』を、
『説く!』のは、
則ち、
『人の心』に、
『信を生じさせるからである!』。
何を、
『住まる!』と、
『称するのか?』、――
即ち、
『四種の身儀である!』
『坐、臥、行、住』を、
『住』と、
『称する!』。
又、
『魔軍の衆』を、
『怖れさせ!』、
自ら、
『弟子』を、
『歓喜させて!』、
種種の、
『諸の禅定』に、
『入れる!』為の故に、
是の、
『王舎城』中に、
『住まられたのである!』。
  坐臥行住(ざがぎょうじゅう):身の四種の威儀。『大智度論巻26上注:四威儀』参照。
復次三種住。天住梵住聖住。六種欲天住法。是為天住。梵天等乃至非有想非無想天住法。是名梵住。諸佛辟支佛阿羅漢住法。是名聖住。於是三住法中住聖住法。憐愍眾生故。住王舍城。 復た次ぎに、三種の住は、天住、梵住、聖住なり。六種の欲天の住法、是れを天住と為す。梵天等、乃至非有想非無想天の住法、是れを梵住と名づく。諸の仏、辟支仏、阿羅漢の住法、是れを聖住と名づく。是の三法住中に於いて、聖住の法に住まり、衆生を憐愍するが故に、王舎城に住まる。
復た次ぎに、
『住』には、
『三種の住』の、
『天住、梵住、聖住』が、
『有る!』。
『天住』とは、
『六種の欲天』の、
『住法である!』。
『梵住』とは、
『梵天等、乃至非有想非無相天』の、
『住法である!』。
『聖住』とは、
『諸仏、辟支仏、阿羅漢』の、
『住法である!』。
是の、
『三住法』中に於いて、
『仏』は、
『聖の住法に住まり!』、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
『王舎城』に、
『住まられたのである!』。
  天住(てんじゅう):梵語divya-vihaaraの訳。欲天の住処の義。三住の一。『大智度論巻18下注:三住』参照。
  梵住(ぼんじゅう):梵語braahma-vihaaraの訳。梵天の住処の義。三住の一。『大智度論巻18下注:三住』参照。
  聖住(しょうじゅう):梵語aarya-vihaaraの訳。聖者の住処の義。三住の一。『大智度論巻18下注:三住』参照。
  三住(さんじゅう):梵語trayo vihaaraaHの訳。即ち聖住、梵住、天住の総称。『大智度論巻18下注:三住』参照。
  欲天(よくてん):欲界所属の天の意。即ち四大王衆(梵caaturmahaaraajakaayika)、三十三(梵trayastriMza、即ち忉利天)、夜摩(梵yaama)、覩史多(梵tuSita)、楽変化(梵nirmaaNa-rati)、他化自在(梵paranirmita-vaza-vartin)の六種の天を云う。『大智度論巻1上注:欲界』参照。
  梵天(ぼんてん):色界初禅の三天、即ち梵衆(梵brahma-paariSadya)、二に梵輔(梵brahma-purohita)、三に大梵(梵mahaa-brahman)を云う。『大智度論巻1色界』参照。
  非有想非無相天(ひうそうひむそうてん):梵語naivasaMjJaanaasaMjJaayatanaの訳。無色界の最頂天の名。『大智度論巻18(上)注:非想非非想処、無色界』参照。
  住法(じゅうほう):梵語sthaana?の訳。滞在する場所の義。
  参考:『仏説発菩提心破諸魔経巻2』:『爾時婆羅門白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩依何而住。乃能得成二足尊果。住有幾種。願佛世尊廣為宣說所有住法。如是說者。即同宣說菩提法門最上希有。佛告婆羅門言。汝今當知住有三種。所謂天住梵住聖住。此中何名天住所謂但修慈行。若人先於東方。身業行慈語業行慈意業行慈廣大熾盛。南西北方四維上下亦復如是。身業行慈語業行慈意業行慈廣大熾盛。此說名為天住。何名梵住。所謂修四無量行。何等為四。謂慈悲喜捨。此說名為梵住。何名聖住。所謂修三解脫門。何等為三。所謂空無相無願。此說名為聖住。菩薩摩訶薩當依如是聖住中住』
  三住(さんじゅう):三種の心を住処に喩える。
  (1)天住:布施、持戒、善心の三事。
  (2)梵住:慈、悲、喜、捨の四無量心。
  (3)聖住:空三昧、無相三昧、無作三昧の三三昧。
  六欲天(ろくよくてん):欲界の諸天。(1)四王天:持国、広目、増長、多聞の四王を有するが故に四王天と名づく、(2)忉利(とうり)天:三十三天と訳す。帝釈天を中央と為し、四方に各八天を有するが故に、天の数に従って三十三天と名づく、(3)夜摩(やま)天:時分と訳す。彼の天の中には時時、快きかなと唱うるが故に名づく、(4)兜率(とそつ)天:喜足と訳す。五欲の楽に於いて喜足の心を生ずるが故に名づく、(5)楽変化天:五欲の境に於いて自ら楽しんで変化するが故に名づく、(6)他化自在天:五欲の境に於いて他をして自在に変化せしむるが故に名づく。この中の四王天は須弥山の中腹に在り、忉利天は須弥山の頂上に在るが故にこれを地居天といい、兜率天以上は空中に在って住るが故にこれを空居天という。<(丁)
  梵天(ぼんてん):色界の初禅天を指す。この天は欲界の婬欲を離れて寂静清淨なるが故に梵天という。この中には三天有りて、第一を梵衆天、第二を梵輔天、第三を大梵天というが、ただ常に梵天と称するものは、大梵天王を指し、名づけて尸棄(しき)といい、深く正法を信じて、仏の出世に逢うごとに、必ず最初に来て法輪を転ぜんことを請じ、また常に仏の右辺に住まりて、手に白き払子を持つ。外道所説の梵天は則ち大いに異なる。<(丁)
  非有想非無想天(ひうそうひむそうてん):無色界の最頂天。この天は極めて静妙であり、すでに粗想無きが故に非有想と称し、なお細想有るが故に非無想と称す。
復次布施持戒善心三事故名天住。慈悲喜捨四無量心故名梵住。空無相無作。是三三昧名聖住。聖住法佛於中住。 復た次ぎに、布施、持戒、善心の三事の故に天住と名づけ、慈、悲、喜、捨の四無量心の故に、梵住と名づけ、空、無相、無作の、是の三三昧を聖住と名づく。聖住の法は、仏は中に於いて住まりたまえり。
復た次ぎに、
『布施、持戒、善心』という、
『三事』の故に、
『天住』と、
『称し!』、
『慈、悲、喜、捨』の、
『四無量心』の故に、
『梵住』と、
『称し!』、
『空、無相、無作』という、
『三三昧』を、
『聖住』と、
『称し!』、
『聖住法』中に、
『仏』は、
『住まられた!』。
  四無量心(しむりょうしん):梵語catvaari-apramaaNaaniの訳。四種の無量の義。衆生に対し楽を与え、苦を抜くの心の無量なるを云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  三三昧(さんさんまい):梵語trayaH samaadhayaHの訳。三種の三昧の義。即ち、空、無相、無作の三種の三昧を云う。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻82』:『復次菩薩林中修無量故。生極光淨或作梵王。由還王都設大施會作轉輪王。由受持戒作天帝釋。復次此經中說三福業事。謂施戒修。如彼經說。苾芻當知。我念過去造三種業得三種果。由彼我今具大威德。所謂布施調伏寂靜。布施即是施福業事。調伏即是戒福業事。寂靜即是修福業事。施福業事能感輪王。戒福業事感天帝釋。修福業事感大梵王。或極光淨。如契經說。有三種福業事。一施性福業事。謂以諸飲食衣服香花。廣說乃至及醫藥等。奉施沙門婆羅門等。二戒性福業事。謂離斷生命離不與取。離欲邪行。離虛誑語。離飲酒等。三修性福業事。謂慈俱行心。無怨無對無惱無害。廣說如前。悲喜捨俱行心廣說亦爾。』
  参考:『中阿含経巻21長寿王品説処経』:『阿難。我本為汝說四無量。比丘者。心與慈俱。遍滿一方成就遊。如是二三四方。四維上下。普周一切。心與慈俱。無結.無怨.無恚.無諍。極廣甚大。無量善修。遍滿一切世間成就遊。如是悲.喜心與捨俱。無結.無怨.無恚.無諍。極廣甚大。無量善修。遍滿一切世間成就遊。阿難。此四無量。汝當為諸年少比丘說以教彼。若為諸年少比丘說教此四無量者。彼便得安隱。得力得樂。身心不煩熱。終身行梵行』
  参考:『大智度論巻20』:『四無量心者。慈悲喜捨。慈名愛念眾生。常求安隱樂事以饒益之。悲名愍念眾生。受五道中種種身苦心苦。喜名欲令眾生。從樂得歡喜。捨名捨三種心。但念眾生不憎不愛。修慈心為除眾生中瞋覺故。修悲心為除眾生中惱覺故。修喜心為除不悅樂故。修捨心為除眾生中愛憎故。』
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻29』:『無量有四。一慈二悲三喜四捨。言無量者。無量有情為所緣故。引無量福故。感無量果故。』
  参考:『増一阿含経巻16』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。此三三昧。云何為三。空三昧.無願三昧.無想三昧。彼云何名為空三昧。所謂空者。觀一切諸法。皆悉空虛。是謂名為空三昧。彼云何名為無想三昧。所謂無想者。於一切諸法。都無想念。亦不可見。是謂名為無想三昧。云何名為無願三昧。所謂無願者。於一切諸法。亦不願求。是謂。名為無願三昧。如是。比丘。有不得此三三昧。久在生死。不能自覺寤。如是。諸比丘。當求方便。得此三三昧。如是。諸比丘。當作是學』
  四無量心(しむりょうしん):無量の衆生を済度せんと欲する心。本、外道これを以って梵天に生ずる行と為せば、これを仏教に取り入れたものと思われる。
  (1)慈無量心:『よく楽を与える』の心。
  (2)悲無量心:『よく苦を抜く』の心。
  (3)喜無量心:『人の苦を離れて楽を得るを見て慶悦を生ずる』の心。
  (4)捨無量心:上の三心を捨てて、心に著せざること。また怨親平等、怨を捨て親を捨てること。この四心は普く無量の衆生に縁じ、無量の福を引くが故に無量心と名づけ、また平等に一切の衆生を利するが故に等心と名づく。
  三三昧(さんさんまい):空、無相、無作の三三昧、これに有漏無漏の二種あり有漏を三三昧、無漏を三解脱門という。この三三昧は、蓋し菩薩の衆生済度とは、身を空しうして、相手を択ばず、苦労を厭わない、このような三三昧中に行われる。
  (1)空三昧:世間は因縁によって造られ、『我(われ)』も『我所(わが所有、または所属)』もないと観ずること。要は我は空なりと観ずること。
  (2)無相三昧:涅槃とは色声香味触の五法と男女の二相と有為の三相(もの、心、ものでも心でもない)を離れることであると観ずること。有為とは本性がなく因縁によって作られたもので、物という意味。要をいえば、自他彼我を差別しないこと。菩薩はこの三昧中に衆生を救う、即ち救いの対象について差別の意識を持たない。
  (3)無作三昧:無願三昧ともいう。この世に於いて何も願わず何も作らないと観ずることをいう。わが行いに善悪の因縁(結果)なしと確信すること。 要するに、一切の善行は意識して作さず、一切の善果は願って求めず、ただ本性本能により善行すること。無作とは無為ともいい、無因縁の造作、行為である。
  菩薩はこの三昧中に衆生を救うとき、自らの大願を意識しない、即ち衆生を救うという意識も大願を立てたという意識も持たない。『大智度論巻20』に云わく、『この三解脱門は、摩訶衍(まかえん、大乗)中には、これ一法なり。行の因縁を以っての故に、三種有りと説く。諸法の空を観ずる、これを空と名づけ、空中に於いては相を取るべからず、この時、空転じて無相と名づけ、無相中には、まさに作す所有りて三界に生ずと為すべからず、この時、無相転じて無作と名づくるなり。譬えば、城に三門有るが如く、一人の身にて、一時に三門より入るを得ず、もし入らんには、則ち一門よりなり。また次ぎに、まさに度すべき者に三種有り。愛多き者、見多き者、愛と見と等しき者なり。見多き者には、為に空解脱門を説く。『一切の諸法は因縁より生じて自性有ること無し。』と見、自性有ること無きが故に空なり、空なるが故に諸見滅す。愛多き者には、為に無作解脱門を説く。『一切法は無常、苦にして因縁より生ず。』と見、見おわりて心に愛を厭離し、即ち道に入るを得。愛と見と等しき者には、為に無相解脱門を説く。『この男女等の相は無し。』と聞くが故に愛を断じ、『一異等の相は無し。』との故に見を断ず。』
復次四種住。天住.梵住.聖住.佛住。三住如前說。佛住者。首楞嚴等。諸佛無量三昧十力四無所畏十八不共法一切智等種種諸慧。及八萬四千法藏度人門。如是等種種諸佛功德。是佛所住處。佛於中住。略說住竟。 復た次ぎに、四種の住は天住、梵住、聖住、仏住なり。三住は、前に説くが如し。仏住とは、首楞厳等の諸の仏の無量の三昧、十力、四無所畏、十八不共法、一切智等の種種諸の慧、及び八万四千の法蔵の人を度する門なり。是の如き等、種種の諸仏の功徳は、是れ仏の所住の処なれば、仏は、中に住まりたまえり。略して住を説き竟れり。
復た次ぎに、
『四種の住』は、
『天住、梵住、聖住、仏住である!』。
此の中の、
『三住』は、
前に、
説く通りである。
『仏住』とは、
『諸仏』の、
『首楞厳等の無量の三昧』と、
『十力、四無所畏、十八不共法』と、
『一切智等の種種の諸慧』と、
『八万四千の法蔵という!』、
『人を度す門である!』。
是れ等のような、
種種の、
諸の、
『仏の功徳』が、
『仏』の
『住まられる処であり!』、
是の中に、
『仏』は、
『住まられたのである!』。
『住』を、
『略して!』、
『説き竟(おわ)った!』。
  首楞厳(しゅりょうごん):梵語zuuraMgama-samaadhiの訳。三昧の名。『大智度論巻43下注:首楞厳三昧』参照。
  三昧(さんまい):梵語samaadhiの音訳。正定、又は等持等と訳す。心の一境に住して動ぜざる状態を云う。『大智度論巻20上注:三昧』参照。
  十力(じゅうりき):梵語deza balaaniの訳。十種の力の義。仏菩薩の諸法を如実に知る智力に十種の別あるを云う。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  四無所畏(しむしょい):梵語catvaari vaizaaradyaaniの訳語にして、四種の無所畏の意。即ち仏、菩薩は四種の無所畏を得るが故に、説法に当りて怖畏する所なく勇猛安穏なるをいう。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):梵語aSTaadazaaveNikaa buddha-dharmaaHの訳。十八種の共通ならざる法の意。即ち声聞縁覚に通ぜず、唯仏又は菩薩のみ有する十八種の功徳法を云う。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
  参考:『瑜伽師地論巻34』:『言聖住者。謂空住無願住無相住滅盡定住。言天住者。謂諸靜慮諸無色住。言梵住者。謂慈住悲住喜住捨住。』



王舎城

王舍城者。問曰。如舍婆提迦毘羅婆波羅奈大城。皆有諸王舍。何以故獨名此城為王舍。 王舎城とは、問うて曰く、舎婆提、迦毘羅婆、波羅奈の如き大城は、皆、諸の王舎有り、何を以っての故にか、独り此の城を名づけて、王舍と為す。
『王舎城』とは、――
問い、
『舎婆提』や、
『迦毘羅婆』や、
『波羅奈』などの、
『大城(大都市)』には、
皆、
諸の、
『王の舎(いえ)』が、
『有る!』。
何故、
独り、
此の、
『城』を、
『王の舎』と、
『呼ぶのですか?』。
  舎婆提(しゃばだい):梵名zraavastii、又舎衛国と称す。即ち憍薩羅(梵kosala)国の王都、城内に祇園精舎あり、此の城内に於いて釈尊は、数乞食せられたりと伝う。『大智度論巻22上注:舎衛国』参照。
  迦毘羅婆(かびらば):梵名kapila-vastu。仏の誕生したまいし故国の名。『大智度論巻25上注:迦毘羅衛』参照。
  波羅奈(はらな):梵名vaaraaNasii。仏の初転法輪の処として知られる。『大智度論巻21上注:婆羅痆斯国』参照。
  舎婆提(しゃばだい、zraavastii):また舎衛城に作る。本城名なりしが後に以って国号と為せり。その国の本の名を憍薩羅国(こうさら、kosala)と為し、南方の憍薩羅国と別たんが為の故に城名を以って名づけて国号と為す。新に室羅伐、室羅伐悉底に作り、訳して聞者、聞物、豊徳、好道等という。この城は多く名声の人を出だし、多く勝物を生ぜしが故なり。また別名有りて尸羅跋提、捨羅婆悉帝夜城等という。仏の在世時、波斯匿王ここに居し、城内に祇園精舎有り。<(丁)
  迦毘羅婆(かびらば、kapiravastu):具名を迦毘羅婆蘇都に作り、また迦毘羅衛(かびらえ)、迦維、迦維羅閲、迦維羅越、迦毘羅、迦比羅皤窣都、迦夷羅、伽維羅衛、迦比羅婆修斗等に作り、城名にして国名なり。この城の主浄飯王は釈尊の実父なり。<(望)
  波羅奈(はらな、vaaraNasi):また波羅捺、波羅奈斯、波羅痆斯、波羅捺写等に作り、中印度の国名なり。今のベナレス。この中の鹿野園は、仏の初めて憍陳如等五比丘のために法輪を転ぜし処と為す。<(丁)
答曰。有人言。是摩伽陀國王有子。一頭兩面四臂。時人以為不祥。王即裂其身首棄之曠野。羅剎女鬼。名梨羅。還合其身而乳養之。後大成人力能并兼諸國王。有天下取諸國王萬八千人。置此五山中。以大力勢治閻浮提。閻浮提人因名此山。為王舍城。 答えて曰く、有る人の言わく、『是の摩伽陀国の王に、子有りて、一頭、両面、四臂なり。時の人、以って不祥と為す。王、即ち其の身と首とを裂きて、之を曠野に棄つ。羅刹女鬼の梨羅と名づくるもの、還(ま)た其の身を合せて、之を乳養す。後大いに成人するに、力は、能く諸国の王を并兼す。天下を有し、諸国の王を取ること万八千人にして、此の五山中に置き、大力勢を以って、閻浮提を治むれば、閻浮提の人は因って、此の山を名づくるに、王舎城と為す。
答え、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『摩伽陀国の王』には、
『子が有り!』、
『一頭』、
『両面』、
『四臂であった!』が、
時の、
『人』が、
『不祥(不吉)である!』と、
『言った!』ので、
『王』は、
其の、
『身、頭を裂いて!』、
『曠野』に、
『棄てた!』が、
『梨羅と呼ばれる!』、
『羅刹女鬼』が、
還()た、
其()の、
『身を合せて!』、
『乳で養った!』。
後に、
『大きな!』、
『人』と、
『成る!』と、
其の、
『力』で、
諸の、
『国王の有する!』、
『天下』を、
『兼ね併せることができ!』、
『一万八千人』の、
『諸の国王』を、
『取って!』、
此の、
『王舎城』の、
『五山』中に、
『置いた(幽閉した)!』。
『大きな!』、
『力勢』で、
『閻浮提』を、
『治めた!』ので、
是の、
『因縁』により、
『閻浮提の人』は、
此の、
『山』を、
『王舎城』と、
『称したのである!』。
  摩伽陀国(まがだこく):摩伽陀は梵名magadha、中印度の古国の名。王都を王舎城と称す。『大智度論巻1上注:摩揭陀国』参照。
  羅刹女鬼(らせつにょき):梵語raakSasiiの訳。羅刹raakSasaの女の意。即ち人に血肉を噉う悪鬼の総称。『大智度論巻23上注:羅刹』参照。
  梨羅(りら):梵名khadira?の音訳。月の義。
  乳養(にゅうよう):乳を与えて養う。
  并兼(へいけん):合せかねる。合わせて一つにする。
  五山(ごせん):王舎城を周囲する五山。「増一阿含経巻32」、「仏本行集経巻48」等に、霊鷲山(祇離渠呵gijhakuuTa)、広普山(毘富羅山vepulla)、白善山(槃塗山paNDava)、負重山(倍呵羅vebhaara)、仙人掘山(離師祇離isigiri)の五山の名を挙ぐる是れなり。
復次有人言。摩伽陀王先所住城。城中失火一燒一作。如是至七。國人疲役王大憂怖。集諸智人問其意故。有言宜應易處。王即更求住處。見此五山周匝如城。即作宮殿於中止住。以是故名王舍城。 復た次ぎに、有る人の言わく、摩伽陀王の先に住する所の城は、城中に失火して、一たび焼き一たび作り、是の如く七たびに至り、国人、役に疲る。王、大いに憂怖して、諸の智人を集め、其の意故を問う。有るが言わく、『宜しく応に処を易(か)うべし。』と。王、即ち更に住処を求め、此の五山の周匝せること城の如きなるを見、即ち宮殿を作りて、中に止住す。是を以っての故に、王舎城と名づく。』と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『摩伽陀の王』の、
先に、
『住んでいた!』、
『城』は、
『城』中に、
『失火して!』、
『一焼する!』ごとに、
『一作して!』、
是のようにして、
『七焼する!』に、
『至り!』、
『国人』が、
『役(労働)』に、
『疲れてくる!』と、
『王』は、
『大いに!』、
『憂え!』、
『怖れて!』、
諸の、
『智人』を、
『集め!』、
其の、
『意故(おもわく)』を、
『問うた!』ところ、
有る人が、
『処を易()えるべきだ!』と、
『言った!』。
『王』は、
即ち、
更に、
『住む処』を、
『求めながら!』、
此の、
『五山を見てみる!』と、
『城壁のように!』、
『周匝(取り囲む)していた!』ので、
即ち、
『宮殿を作って!』、
『宮』中に、
『住んだ!』。
是の故に、
之を、
『王舎城』と、
『呼ぶのである!』。
  意故(いこ):心意/縁故/思う所/おもわく。
  周匝(しゅうそう):めぐりまわる。周る。
復次往古世時。此國有王。名婆藪。心厭世法出家作仙人。是時居家婆羅門。與諸出家仙人共論議。 復た次ぎに、往古の世の時、此の国に王有り、婆藪と名づく。心に世法を厭いて出家し、仙人と作る。是の時、居家の婆羅門、諸の出家の仙人と共に論議す。
復た次ぎに、
『往古()』の、
『世の時』、
此の、
『国』に、
『王が有り!』、
『婆藪(善良vasu)』と、
『呼ばれていた!』が、
『心』に、
『世法』を
『厭い!』、
『出家して!』、
『仙人』と、
『作った!』。
是の時、
『居家の婆羅門』が、
諸の、
『出家の仙人』と、
『論議した!』。
  婆藪(ばしゅ):梵名vasuの音訳。仙人の名。婆羅門中に始めて生を殺して天を祀り、生きながら地獄に堕ち、無量劫を経て、華聚菩薩の大光明の力により地獄を脱れて、釈迦仏の所に詣るに、仏はこれを讃歎して衆のために その大方便力を説いた。
  参考:『摩登伽経巻1』:『摩登伽經明往緣品第二  爾時城中。諸婆羅門長者居士。聞佛度於栴陀羅女。出家為道。咸生嫌忿。而作是言。此下賤種。云何當與諸四部眾。同修梵行。云何當入諸豪貴家。受於供養。如是展轉。共議斯事。乃至聞於波斯匿王。王聞是已。極大驚愕。即便嚴駕。眷屬圍遶。前後導從詣祇洹林。下車去蓋。徐步而進。頂禮佛足。退坐一面。佛知眾會心之所念。欲決所疑。告諸比丘。汝等欲聞本性比丘尼往昔緣不。諸比丘言。唯然欲聞。汝今諦聽。當為汝說。諸比丘乃往過去阿僧祇劫。於恒河側有園。名曰阿提目多。花果繁茂。池流具足。園中有王。名帝勝伽。是栴陀羅摩登伽種。與百千萬栴陀羅眾。共住此園。諸比丘彼帝勝伽。有大智慧。高才勇猛。自識宿命。世所為事。無不通達。我當略說其五功德。一者博練四圍陀典祕密之要。無不了達。二者善解詩書文頌字句長短。三者悉知諸論經紀度聲彼岸。四者能解世俗祠祀咒術醫藥。五善分別大丈夫相。如是智慧。不可窮盡。其王有子。名師子耳。顏容端正。戒行清潔。其心調柔。仁慈和順。眾德具瞻。見者歡喜。摩登伽王。廣教其子。經書咒術。己所知者。悉教授之。故師子耳。知見深遠。亦如其父。等無有異。帝勝伽王。於夜臥中。忽生是念。我子色貌。最為殊勝。眾德具足。人所宗仰。年漸長大。宜為娉妻。必當選擇端正良匹。才德超絕。類如吾子。然後乃當而為求之。當是時也。有婆羅門。名蓮花實。宗族高美。父母真正。七世以來。淨而無雜。通四圍陀。才藝寡匹。時有國王。名曰大與。總領天下。威力自在。以一聚落。封蓮花實。令其統領。其土豐盛。人民殷富。彼蓮花實女。名本性。德貌殊勝。猶師子耳。帝勝伽王。作是念言。唯蓮花實。其女殊妙。吾當為子而求娉之。作是念已。至明清旦。乘大寶車。駕駟白馬。栴陀羅眾。前後圍遶。出家北行。往趣其國。時蓮花實所住處南。有一園苑。名曰悅樂。花果滋茂。樹木敷榮。泉流浴池。淨水盈滿。異類眾鳥。遊戲其上。哀音相和。聞者歡悅。其園廣博。甚可愛樂。猶如諸天難陀之園。摩登伽王。往彼園中。待蓮花實。時婆羅門。亦於晨朝。駕駟白馬。及與五百婆羅門。俱導從圍遶。至園遊觀。彼婆羅門。於其路次。教授弟子技藝等事。且行誦習。而來詣園。帝勝伽王。見蓮花實。安詳而來。威德殊特。心生歡喜。以偈讚曰  如日初出  光明照曜  大士威德  亦復如是  如雪山藥  眾藥中勝  仁者高遠  更無能比  德力深妙  極為嚴顯  猶如秋月  眾星中最  如梵天王  智慧超勝  悉為諸天  所共瞻仰  如天帝釋  一切恭敬  端嚴殊絕  更無能喻  我但略讚  汝之功德  若廣說者  不可窮盡  說是偈已。即起奉迎。更相慰問。然後就坐。蓮花實言。汝栴陀羅下劣之甚。而來至此。欲何所為。答言。仁者世有四事。宜應修習。何等為四。一者本所為事。憶而不忘。二者應當利安於己。三者饒益一切眾生。四者務修婚姻之事。是以我今故來相造。吾有一子。名師子耳。顏容瑰瑋。智慧微妙。欲為娉妻。仁女賢勝。意甚相貪。欲託姻媛。幸能垂意。而見許可。時蓮花實。聞是語已。瞋毒熾盛。極生忿恚。顏容慘結。色貌顰蹙。而語之言。摩登伽種。人所輕賤。甚可猥惡。如毒如火。我今身是婆羅門姓。豪勝尊貴。更無過者。通達圍陀。智慧無比。汝今云何欲來毀辱。如空中月螢燭光明。有目之士。咸知其異。栴陀羅種。比婆羅門。尊貴卑劣。亦復如是。今汝愚癡。不識貴賤不可求處。生心悕望。汝栴陀羅。自有種類。何故欲染清勝之人。且婆羅門。戒行不具。不能通達圍陀妙典。諸婆羅門。不與交遊。況汝凡賤乃生是意。急可速去。不宜久留莫使外人聞斯異言。時帝勝伽。聞是事已。語言。仁者金玉珍異。土木弊惡。貴賤異相。一切悉知。我今不見諸婆羅門。與栴陀羅。而有差別。何以故汝婆羅門不從空出。栴陀羅種獨因地生。婆羅門者。從胎而有。栴陀羅種。亦復如是。而言殊勝。是事不可。婆羅門死。人所畏惡。栴陀羅終。亦無欲見。若言貴賤而有相異。何故生死而無差別。汝意當謂。栴陀羅者。造作惡事。兇暴殘害。欺誑眾生。無慈愍心。以是因緣。名為卑賤。我今當說汝婆羅門。所有惡業虛妄之事。起於諍訟。擾亂賢善。造為妖怪。占星觀月。和合軍陣。殺害眾生。舉要言之。一切惡事。皆婆羅門之所為作。汝婆羅門。性嗜美味。而作是言。若祠祀者。咒羊殺之。羊必生天。若使咒之便生天者。汝今何故不自咒身殺以祠祀求生天耶。何故不咒父母知識妻子眷屬。而盡屠害。使之生天。不滅己身。但殺羊者。當知皆是諸婆羅門。欲食肉故。妄為是說。虛誑之人。而言尊勝。於理不可。婆羅門法。犯四種罪。名為極惡。非婆羅門。何等為四。一者殺害諸婆羅門。二婬師妻。三者盜金。四者飲酒。唯此四惡。名之為罪。自餘殺害。都無果報。而汝法中。得殺罪者。由斷他命。若殺餘人。亦名斷命。何故殺之。而獨無罪。乃至飲酒。亦復如是。當知汝等愚癡無智。橫生妄想。不可以此名為豪貴。又婆羅門。犯前四罪。至心懺悔。還可得滅。手持床足。著弊壞衣。以人髑髏。懸其首上。如是懺悔。滿十二年。戒還具足。成婆羅門。如是愚癡。隨逐邪見。而生憍慢。自謂尊豪。由是觀之。姓皆平等。可以仁女見與吾子。時蓮花實。聞是語已。倍增瞋恚。語帝勝伽。汝不思惟。妄作是語。汝為王者。應知三法。一國土法。二貴賤法。三貢稅法。世有四姓。皆從梵生。婆羅門者。從梵口生。剎利肩生。毘舍臍生。首陀足生。以是義故。婆羅門者。最為尊貴。得畜四妻。剎利三妻。毘舍二妻。首陀一妻。如是分別。種姓各異。汝自卑賤。乃至不入是四姓中。而言諸姓無有異相。違返聖教。欲擾亂我。可宜速還。莫得復語。帝勝伽言。仁者若說世四姓者皆從梵生。而婆羅門。獨從口出。是以最尊更無過者。諸婆羅門。何故亦有手足支節。及四威儀。音聲語言。以此因緣。知無異相。假令異者。應當分別。譬如蓮花有種種異。所謂水陸生花。優缽羅花。瞻蔔香花。目多伽花。蘇蔓那花。如是等花。其色差別。香氣亦異。而汝四姓。不見異相。當知皆是妄想分別。譬如小兒於路遊戲。收聚沙土。以為城舍。或復名曰是金是銀酥酪米麥。而是沙土。不以小兒名因緣故。便成珍寶。汝亦如是。愚癡蔽心。起貢高想。尊貴下賤。不由汝言。即便成就。又婆羅門梵口生者。應當慈忍仁愛眾生。云何殺害咒咀瞋忿。假令四姓皆從梵生。即為兄弟。云何共為婚姻之事。濁禮違理。禽獸無別。一切眾生。隨業善惡。而受果報。所謂端正醜陋。貧賤富貴。壽命終夭。愚癡智慧。如此等事。從業而有。若梵天生。皆應同等。何因緣故。如是差別。又汝法中。自在天者。造於世界。頭以為天。足成為地。目為日月。腹為虛空。髮為草木。流淚成河。眾骨為山。大小便利。盡成於海。斯等皆是。汝婆羅門。妄為此說。夫世界者。由眾生業。而得成立。何有梵天能辦斯事。汝等癡弊。橫生妄想。而言尊勝。人無信受。又婆羅門。命終已後。獨得生天。餘不生者。是則為勝。而汝經中。修行善業。皆生天上。若修善業。便生天者。一切眾生。悉能行善。皆當生天。何故餘人。而獨卑劣。大婆羅門。譬如有人生育四子。各為立字。一名安樂。二曰長壽。三名無憂。四名歡喜。雖一父所生皆同一姓。而有四名差別之異。世間四姓。亦復如是。雖同業報煩惱性欲。而有四名。言婆羅門。乃至剎利毘舍首陀。名雖不同。體無貴賤。諸婆羅門。學圍陀典。恭敬尊重。恃生憍慢。而復因之。以為定性。我今當說此圍陀典。無有實義。易可離散昔者有人。名為梵天。修習禪道。有大知見。造一圍陀。流布教化。其後有仙。名曰白淨。出興于世。造四圍陀。一者讚誦。二者祭祀。三者歌詠。四者禳災。次復更有一婆羅門。名曰弗沙。其弟子眾。二十有五。於一圍陀。廣分別之。即便復為二十五分。次復更有一婆羅門。名曰鸚鵡。變一圍陀。為十八分。次復更有一婆羅門。名為善道。其弟子眾。二十有一。亦變圍陀。為二十一分。次復更有一婆羅門。名曰鳩求。變一圍陀。以為二分。二變為四。四變為八。八變為十。如是展轉。凡千二百十有六種。是故當知。圍陀經典。易可變易。大婆羅門。此圍陀典當分散。時婆羅門性。為隨散壞。當猶存耶。若今猶存。則不應言。諸婆羅門。因圍陀故。性得決定。設隨散壞。汝云何言婆羅門性真實不變。是故汝說我獨尊貴餘人卑劣。是事不然。又婆羅門。自恃智慧善能咒術。輕蔑他人。生豪貴想。然今汝等。所能知者。餘人學習。亦得通達。當知一切皆悉尊貴。何故獨稱婆羅門耶。過去有仙。名婆私吒。其妻即是栴陀羅女。產生二子。長名為純。二名為飲。皆獲仙道。五通具足。變圍陀典。作宅圖法。汝能誹謗此二聖人。言非仙耶。而汝先言。栴陀羅種卑賤下劣。何故其息名為仙乎。昔捕魚師。捕得一魚。剖腹而觀。見有一女。其色正黑。波羅勢仙。與共交會。生育一子。名提婆延。五通自在。威德具足。如斯等比。豈非仙耶。過去久遠。有剎利種。名曰毘摩。亦獲仙道。神力殊勝。智慧深遠。善於言辭。悉能教授。諸婆羅門。若斯之人。寧當下賤。有剎利女。名曰微塵。從婆羅門[言*閻]婆持尼。生育一子。名曰羅摩。有大神力。通諸經論。於盛夏月。共母遊行。日光炎熾。大地斯熱。爆其母足。不能前進。羅摩白言。上我肩上。然後可去。母於爾時。不納其語。小復前行。猶患地熱。羅摩誓曰。若我真實仁和孝敬。當令此日自然隱沒。作是語已。日尋不現。母後採花。花皆合閉。母告之曰。汝今日沒故花不敷。即復誓言若我仁孝。日當復出。立語已訖。日尋顯曜。如是等仙。非婆羅門。神力變化。不可限量。豈可名為下劣人耶。以是因緣。諸姓平等。可以汝女用妻吾子。財幣珍異。恣意相與』
居家婆羅門言。經書云。天祀中應殺生噉肉。 居家の婆羅門の言わく、『経書に云わく、天祀中には、応に生を殺して、肉を噉うべしと。』と。
『居家の婆羅門』は、こう言った、――
『経書』には、こう言っている、――
『天祀(犠牲の祭祀)』中には、
『生(生き物)を殺して!』、
『肉』を、
『噉(くら)わねばならぬ!』、と。
  天祀(てんし):梵語deva-yajJaの訳。天の犠牲の義。犠牲を以って天を供養する祭祀の意。
諸出家仙人言。不應天祀中殺生噉肉。共諍云云。 諸の出家の仙人の言わく、『応に天祀中に、生を殺して、肉を噉うべからず。』と。共に諍うて云云す。
諸の、
『出家の仙人』は、こう言った、――
『天祀』中にも、
『生を殺して!』、
『肉』を、
『噉ってはならぬ!』、と。
共に(いっしょに)、
『あれこれと!』、
『諍(いさか)った!』。
諸出家婆羅門言。此有大王出家作仙人。汝等信不。 諸の出家の婆羅門の言わく、『此に大王有り、出家して仙人と作る。汝等信ずや不や。』と。
諸の、
『出家の婆羅門』は、こう言った、――
此(ここ)には、
有る、
『大王が出家して!』、
『仙人』と、
『作っている!』が、
お前たちは、
此の、
『仙人』を、
『信じるかどうか?』、と。
諸居家婆羅門言信。 諸の居家の婆羅門の言わく、『信ず。』と。
諸の、
『居家の婆羅門』は、こう言った、――
『信じよう!』、と。
諸出家仙人言。我以此人為證。後日當問。 諸の出家の仙人の言わく、『我れは、此の人を以って、証と為し、後日に、当に問うべし。』と。
諸の、
『出家の仙人』は、こう言った、――
わたしは、
此の、
『人を証人として!』、
『後日』、
『問うてみたい!』、と。
諸居家婆羅門。即以其夜。先到婆藪仙人所。種種問已。語婆藪仙人。明日論議汝當助我。 諸の居家の婆羅門は、即ち其の夜を以って、先に婆藪仙人の所に到り、種種に問い已りて、婆藪仙人に語らく、『明日の論議には、汝当に我れを助くべし。』と。
諸の、
『居家の婆羅門』は、
其の、
『夜になると!』、
先に、
『婆数仙人の所』に、
『到り!』、
種種に、
『敬意』を、
『表する!』と、
『婆藪仙人』に、こう語った、――
『明日の論義』には、
わたしを、
『助けてください!』、と。
  (もん):[本義]質問する( ask about )。訪問する( visit )、問責する( ask reprovingly )、挨拶する/敬意を表する/慰問する( ask after, send one's regards to;extend greetings to )、関心/興味を持つ( take an interest in )、審問/審理する( try )、判決( sentence )、追求/研究する( look into )、探す/尋ねる( look for )、責任をもつ( hold responsibility )。
  (とう):[本義]相当/対等( equal, be equal to )。対面する/面と向って( face, turn towards )、担当する( work as, serve as )、請け負う( bear, undertake )、担当する( manage, take charge of )、進行を沮む( block )、看做す( regard as )、抵抗する( withstand )、過去の或る時( just at a time, past )、[時]在/於いて( when )、[代名詞]その/本:例当家/当人( the same )、[仮定]もし( if )、担当する( be in charge of )、看做す( regards as )、匹敵する( match, be equal to )、置き換える/取換える( replace, substitute )、適合する/適当な( appropriate, proper )、此の/本( the same (day etc.) )、質店( pawnshop )。
如是明旦論時。諸出家仙人問婆藪仙人。天祀中應殺生噉肉不。 是の如くして、明旦論ずる時、諸の出家の婆羅門の婆藪仙人に問わく、『天祀中には、応に生を殺して、肉を噉うべしや、不や。』と。
是のようにして、
『明旦(明早朝)の論義』時に、
諸の、
『出家の仙人』は、
『婆藪仙人』に、こう問うた、――
『天祀』中には、
『生を殺して!』、
『肉』を、
『噉わねばならぬのか?』、と。
  明旦(みょうたん):明早朝。
婆藪仙人言。婆羅門法天祀中應殺生噉肉。 婆藪仙人の言わく、『婆羅門の法は、天祀中に応に生を殺して、肉を噉うべし。』と。
『婆藪仙人』は、こう言った、――
『婆羅門の法』には、
『天祀』中に、
『生を殺して!』、
『肉』を、
『噉わねばならぬ!』、と。
諸出家仙人言。於汝實心云何。應殺生噉肉不。 諸の出家の仙人の言わく、『汝が、実の心に於いてや、云何。応に生を殺して、肉を噉うべしや、不や。』と。
諸の、
『出家の仙人』は、こう言った、――
お前の、
『実の心』は、
何うなのか?
即ち、
『生を殺して!』、
『肉』を、
『噉わねばならぬのか?』、と。
婆藪仙人言。為天祀故應殺生噉肉。此生在天祀中死故得生天上。 婆藪仙人の言わく、『天祀の為の故に、応に生を殺して、肉を噉うべし。此の生の、天祀中に在りて死するが故に、天上に生ずるを得。』と。
『婆数仙人』は、こう言った、――
『天祀』の為の故に、
『生を殺して!』、
『肉』を、
『噉わねばならぬのだ!』。
此の、
『生』は、
『天祀』中に、
『死ぬ!』が故に、
『天上』に、
『生まれることができるのだ!』、と。
諸出家仙人言。汝大不是。汝大妄語。即唾之言。罪人滅去。是時婆藪仙人尋陷入地沒踝。是初開大罪門故。 諸の出家の仙人の言わく、『汝は、大いに是ならず。汝は大いに妄語せり。』と。即ち之に唾して言わく、『罪人、滅し去れ。』と。是の時、婆藪仙人、尋いで、地に陥入して踝を没す。是れ初めて大罪の門の開くが故なり。
諸の、
『出家の仙人』は、
こう言った、――
お前は、
『大いに!』、
『間違っているぞ!』。
お前は、
『大いに!』、
『妄語しているのだぞ!』。
そこで、
之に、
『唾をかけて!』、こう言った、――
『罪人』は、
『滅してしまえ!』、と。
是の時、
『婆藪仙人』は、
尋()いで、
『地に陥入して!』、
『踝(くるぶし)』を、
『没した!』。
是れは、
初めて、
『大罪』の、
『門』が、
『開いたからである!』。
  不是(ふぜ):錯誤/過失( mistake, fault )、[否定判断]そうでない( be not )。
  (じん):たずねる/ついで/ひろ。[本義]長さの単位:八尺( a measure of length )。たずねる/探す/尋ねる( look for, search, seek )、探究/研究/推求する( study, research, inquire into )、用いる( use )、尋いで/継続する( continue )、討伐/派兵して鎮圧する( send armed forces to suppress )、追逐/追跡する( pursue )、経常:例尋常( offen )、ついで/尋いで/やがて/久しからず( in a short instant, soon, after a little )、尋ねて/沿って( along )。
諸出家仙人言。汝應實語。若故妄語者。汝身當陷入地中。 諸の出家の仙人の言わく、『汝は、応に実語すべし。若し故(ことさら)に妄語せば、汝が身は、当に地中に陥入すべし。』と。
諸の、
『出家の仙人』は、こう言った、――
お前は、
『実』を、
『語らねばならぬ!』。
若し、
故(ことさら)に、
『妄語すれば!』、
お前の、
『身』は、
『地』中に、
『陥入するだろう!』、と。
婆藪仙人言。我知為天故殺羊噉肉無罪。即復陷入地至膝。如是漸漸稍沒至腰至頸。 婆藪仙人の言わく、『我れは知る、天の為の故に、羊を殺して肉を噉うも、罪無しと。』と。即ち復た地に陥入して膝に至る。是の如く漸漸に稍(やや)没して腰に至り、頸に至る。
『婆数仙人』は、
こう言った、――
わたしは、知っている、――
『天』の為の故に、
『羊を殺して!』、
『肉』を、
『噉う!』ことに、
『罪』は、
『無いのだ!』、と。
そして、
復た、
『地に陥入して!』、
『膝』に、
『至った!』。
是のようにして、
漸漸(徐々)に、
『少し没して!』、
『腰に至り!』、
『頸(くび)に至った!』。
  漸漸(ぜんぜん):徐々に/次第に/ゆっくりと/ますます/少しづつ/一歩づつ( gradually, increasingly, slowly, by degrees, by little and little, step by step )
  (しょう):やや/少し/少しづつ( a bit, a little, a trifle, slightly )。
諸出家仙人言。汝今妄語得現世報。更以實語者。雖入地下。我能出汝令得免罪。 諸の出家の仙人の言わく、『汝は、今妄語して、現世の報を得。更に実を以って語らば、地下に入ると雖も、我れ能く、汝を出して、罪を免るるを得しめん。』と。
諸の、
『出家の仙人』は、こう言った、――
お前は、
今、
『妄語して!』、
『現世の報』を、
『得たのである!』が、
更に、
『実語を用いれば!』、
『地下』に、
『入っても!』、
わたしは、
お前を出して、
『罪』を、
『免れさせられるぞ!』、と。
爾時婆藪仙人自思惟言。我貴重人不應兩種語。又婆羅門四圍陀法中。種種因緣讚祀天法。我一人死當何足計。一心言。應天祀中殺生噉肉無罪。 爾の時、婆藪仙人の自ら思惟して言わく、『我れは貴重の人なり、応に両種を語るべからず。又婆羅門の四韋陀法中の種種の因縁は、祀天の法を讃ず。我れ一人死すとも、当に何をか計るに足るべし。』と。一心に言わく、『応に天祀中に生を殺して、肉を噉うも、罪無かるべし。』と。
爾の時、
『婆数仙人』は、
自ら思惟して、こう言った、――
わたしは、
『貴重の人である!』、
『両種』に、
『語ってはならぬ!』。
又、
『婆羅門の四韋陀法』中には、
種種の、
『因縁』で、
『天を祀る法』を、
『讃じている!』。
わたし、
『一人』が、
『死んだとしても!』、
何が、
『計る!』に、
『足りようか?』、と。
そして、
『一心』に、こう言った、――
『天祀』中には、
『生を殺して!』、
『肉を噉っても!』、
『罪は無いはずだ!』、と。
  四韋陀(しいだ):韋陀は梵語veda。四種の婆羅門根本聖典なり。外道十八大経に摂す。『大智度論巻25(上)注:吠陀、十八大経』参照。
  祀天法(してんのほう):天を祀る方法。
  四韋陀(しいだ、veda):婆羅門の主要な経典。十八大経の中の初めの四。『大智度論巻1注』参照。
  (1)利倶吠陀(りぐべいだ、Rg-veda):祭場に諸神降臨を招請し並びに諸神の威徳を讃唱する者。作焼施(梵hotR)祭官に属す。太古よりの賛美歌の集成。
  (2)三摩吠陀(さんまべいだ、saama-veda):祭祀時に一定の旋律を配合し歌唱する者。詠唱(梵udgaatR)祭官に属す。賛歌に音楽を付して祭式に実用したものの集成。
  (3)夜柔吠陀(やじゅうべいだ、yajur-veda):祭詞の唱誦、祭儀、斎供等の祭式の実務を担当する者。供犠(梵adhvaryu)祭官に属す。季節ごとの祭祀の時の散文による呪文の集成。
  (4)阿闥婆吠陀(あたるばべいだ、atharvaveda):祭儀の始に於いて息災を具足し本領を増益し並びに全般の祭式を総兼する者。総監祭式(梵brahman)祭官に属す。災難から遁れる呪文等、日常の祈念用祭歌の集成。
諸出家仙人言。汝重罪人。催去不用見汝。於是舉身沒地中。從是以來乃至今日。常用婆藪仙人王法。於天祀中殺羊。當下刀時言婆藪殺汝。 諸の出家の仙人の言わく、『汝は重罪人なり。摧け去れ。汝を見るを用いず。』と。是に於いて身を挙げて地中に没す。是れより以来、乃至今日まで、常に婆藪仙人王の法を用うれば、天祀中に於いて羊を殺すに、当に刀を下さんとする時、『婆藪汝を殺せり。』と言う。
諸の、
『出家の仙人』は、こう言った、――
お前は、
『重罪人である!』、
『摧けてしまえ!』。
お前を、
『見るような!』、
『必用はない!』、と。
是の時、
『婆数仙人』は、
『身を挙げて!』、
『地』中に、
『没した!』ので、
是の時以来、
今日に至るまで、
常に、
『婆藪仙人王』の、
『法』を、
『用いて!』、
『天祀』中に、
『羊』を、
『殺すことになった!』が、
ちょうど、
『刀』を、
『下ろす!』時に、
こう言うのである、――
『婆数』が、
『お前を殺すのだぞ!』、と。
  :催去は他本に従い、摧去に改む。
婆藪之子。名曰廣車。嗣位為王。後亦厭世法而復不能出家。如是思惟。我父先王出家生入地中。若治天下復作大罪。我今當何以自處。 婆藪の子を、名づけて広車と曰い、位を嗣いで王と為り、後に亦た世法を厭うも、復た出家する能わずして、是の如く思惟すらく、『我が父、先王は出家して、生きながら地中に入りたまえり。若し天下を治むるも、復た大罪を作したまわん。我れは、今、当に何を以ってか、自ら処すべき。』と。
『婆数の子』は、
『広車と呼ばれて!』、
『王』の、
『位』を、
『嗣()いだ!』が、
後に、
『世法』を、
『厭いながらも!』、
『出家することができなかった!』ので、
是のように、思惟した、――
わたしの、
『父である!』、
『先王』は、
『出家した!』のに、
『生きながら!』、
『地』中に、
『入ったぐらいである!』から、
若し、
『天下』を、
『治めていても!』、
復た、
『大罪』を、
『作したことであろう!』。
わたしは、
今、
何のように、
『自ら!』を、
『処すれば(始末すれば)よいのか?』、と。
  (しょ):[本義]停止/中止する( stop )。居住/生活する( dwell )、社会から退いて孤独に活きる( withdraw from society and live in solitude )、罰する( punish )、治める( manage )、決断/判断する( judge )、任に就く/統括する( take charge of, preside over )、もてなす( treat )、交際する( get along, have social intercourses with )、定めて/常に( steady )、処所/地方/人或は物の在る地方( location, place )、部分/方面( part, point )、部門( department, section )。
如是思惟時聞空中聲言。汝若行見難值希有處。汝應是中作舍住。作是語已便不復聞聲。 是の如く思惟する時、空中の声の言うを聞けり、『汝、若し行かば、値い難き希有の処を見ん。汝は、応に是の中に舎を作りて住すべし。』と。是の語を作し已りて、便ち復た声を聞かず。
是のように思惟していた時、
『空』中に、
『声が聞えて!』、こう言った、――
お前が、
若し、
『行けば!』、
『難値(あいがた)く!』、
『希有な!』、
『処』を、
『見ることになるだろう!』。
お前は、
是の中に、
『舎』を、
『作って!』、
『住むがよい!』。
是のように、
『語る!』と、
『声』は、
復た(もう)、
『聞えなくなった!』。
未經幾時王出田獵。見有一鹿走疾如風。王便逐之而不可及。遂逐不止。百官侍從無能及者。轉前見有五山周匝峻固。其地平正生草細軟好華遍地。種種林木華果茂盛。溫泉涼池皆悉清淨其地莊嚴。處處有散天華天香聞天伎樂。 未だ幾時を経ずして、王は田猟に出で、一鹿の走るを見るに、疾きこと風の如し。王は、便ち之を逐うも、及ぶべからざるも、逐うを遂げんとして止まず。百官、侍従に能く及ぶ者無し。転(うた)た前(すす)んで見るに、五山有り、周匝して峻固なり。其の地は平正、草を生じて細軟なり。好華地に遍くし、種種の林木に、花果茂盛す。温泉、涼池、皆悉く清浄にして、其の地を荘厳す。処処に天華、天香を散ずる有り、天の伎楽聞こゆ。
未だ、
何れほどの、
『時』を、
『経()ることもなく!』、
『王』は、
『田猟(狩猟)に出て!』、
有る、
『一鹿』が、
『風のように!』、
『疾く走る!』のを、
『見た!』。
『王』は、
すぐに、
之を、
『逐()うて!』、
『追いつくことこそできなかった!』が、
最後まで、
『逐う!』のを、
『止めなかった!』ので、
『百官、侍従』には、
『王』に、
『追いつける!』者が、
『無かった!』。
どんどん、
『前に進んでいる!』と、
『五山』が、
『有る!』のが、
『見えてきた!』。
是の、
『五山』は、
『周匝して(取り囲んで)おり!』、
『峻固(高峻堅固)であり!』、
其の、
『地』は、
『平らで!』、
『歪みがなく!』。
『生えている!』、
『草』は、
『細く軟らかく!』、
『地』には、
遍く、
『好もしい華』が、
『咲き揃い!』、
種種の、
『林木、華果』が、
『生い茂り!』、
『温泉』と、
『涼池』は、
皆、
『悉く!』、
『清浄であり!』、
其の、
『地』を、
『荘厳していた!』。
処処に、
『天華』や、
『天香』を、
『散じる!』者が、
『有り!』、
『天』の、
『伎楽』が、
『聞えてきた!』。
  田猟(でんろう):狩猟。
  (ずい):[本義]逃れる( escape )。行く/往く( go )、意のままにする/果たす/遂行する/完成/成功する( fulfill, succeed )、推薦する( recommend )、通達する( understand )、知らせる( meke known )、生長/養育する( grow, bring up )、随う/従う( be obedient to )、応じる( comply with )、決断する( make a decision )、引き延ばす( procrastinate )、継続する( continue )、墜落する( fall )、道路( road )、就いては/是に於いて( then, there upon )、驚いたことに( to one's surprise )、最終的結果/ついに( after all, in the final )、尽きる( to the full )、妨げなく/遅滞なく( smooth, unhindered )、終った( finished )、久しい( long )。
  周匝(しゅうそう):とりまく。
  峻固(しゅんこ):険峻堅固。
  平正(ひょうしょう):平らで歪みがない。
  茂盛(もじょう):茂って盛ん。
  伎楽(ぎがく):音楽。
爾時乾闥婆伎。適見王來各自還去。是處希有未曾所見。今我正當在是中作舍住。如是思惟已。群臣百官尋跡而到。 爾の時、乾闥婆の伎、適(たまたま)王の来たるを見、各自ら還り去る。『是の処は希有にして、未だ曽て見る所にあらず。今、我れは正しく、当に是の中に在りて舎を作り、住すべし。』と、是の如く思惟し已るに、群臣、百官、跡を尋ねて、到れり。
爾の時、
『乾闥婆の伎(歌い手)』は、
適(たまた)ま、
『王の来る!』のを、
『見て!』、
各自、
『還っていった!』。
『王』は、
是のように思惟した、――
是の、
『処』は、
『希有であり!』、
未だ、
『曽(かつ)て!』、
『見たこともない!』。
今こそ、
わたしは、
是の中に、
『舎(いえ)』を、
『作って!』、
『住まねばならぬ!』。
是のように思惟すると、――
『群臣、百官』が、
『跡を尋(たず)ねて!』、
『到着した!』。
  乾闥婆(けんだつば):梵名gandharvaの音訳。楽神。伎楽を司る天。『大智度論巻25下注:乾闥婆』参照。
  (ぎ):梵語 nartaka? の訳、又伎人と訳す、舞踏家/歌手/俳優( dancer, singer, actor )の義。
王告諸臣。我前所聞空中聲言。汝行若見希有難值之處。汝應是中作舍住。我今見此希有之處。我應是中作舍住即捨本城於此山中住。 王の諸臣に告ぐらく、『我れ前(さき)に聞く所の空中の声の言わく、汝行きて、若し希有にして値い難き処を見ば、汝応に是の中に舎を作りて住すべしと。我れ今、此の希有の処を見る。我れは、応に是の中に舎を作りて、住すべし。』と。即ち本の城を捨てて、此の山中に住せり。
『王』は、
『諸の臣』に、こう告げた、――
わたしが、
前(さき)ほど、
『聞いた!』、
『空中の声』は、
こう言っていた、――
お前が、行って、
若し、
『希有で!』、
『値()い難い!』、
『処』を、
『見たならば!』、
お前は、
是の中に、
『舎』を、
『作って!』、
『住まねばならぬ!』、と。
わたしは、
今、
此の、
『希有』の、
『処』を、
『見た!』ので、
わたしは、
是の中に、
『舎』を、
『作って!』、
『住まねばならぬ!』、と。
『王』は、
そして、
本の、
『城』を、
『捨てて!』、
此の、
『山』中に、
『住んだのである!』。
是王初始在是中住。從是已後次第止住。是王元起造立宮舍故。名王舍城。略說王舍城本起竟 是の王は、初めて、是の中に在りて住するを始め、是れより已後、次第に止住せり。是の王は、宮舎を造立の元起であるが故に、王舎城と名づく。略して、王舎城の本起を説き竟れり。
是の、
『王』が、
是の中に、
『最初に!』、
『居住したのである!』が、
是れ以後、
『次第に(次々と)!』、
『居住して!』、
是の、
『王』が、
『宮舎』を、
『造立した!』、
『始まりである!』が故に、
是れを、
『王舎城』と、
『呼んだのである!』。
『王舎城』の、
『本起』を、
『略説した!』。
  初始(しょし):最初の/最初に( initial )。
  止住(しじゅう):梵語 prati√(vas) の訳、住む/居住する( to live, dwell )の義。
  元起(がんぎ):本起、起始/開始( the beginning, at first )。



耆闍崛山

【經】耆闍崛山中 耆闍崛山中に、
『耆闍崛山』中に、‥‥

  耆闍崛山(ぎじゃくっせん):耆闍崛gijjha-kauuTaは巴梨名。梵名姞栗陀羅矩吒gRdhra-kuuTa。中印度摩揭陀国王舎城の東北に位せる精舎の名。『大智度論巻27下注:耆闍崛山』参照。
  耆闍崛山(ぎじゃくっせん):梵名gRdhrakuuTa。霊鷲山と訳し、王舎城の東北に在る山の名で山頂に精舎がある。山容が鷲の頭に似るにより名づける。
【論】耆闍名鷲。崛名頭。 耆闍を鷲と名づけ、崛を頭と名づく。
『耆闍(梵 gRdhra )』を、
秦に、
『鷲』と、
『称し!』、
『崛(梵 kuuTa )』を、
秦に、
『頭()』と、
『称する!』。
問曰。何以名鷲頭山。 問うて曰く、何を以ってか、鷲頭山と名づくる。
問い、
何故、
『鷲頭(梵 gRdhra-kuuTa )山』と、
『呼ばれるのですか?』。
  鷲頭山(じゅづせん):耆闍崛山に同じ。耆闍崛(梵gRdhra-kuuTa)を鷲頭と訳す。
答曰。是山頂似鷲。王舍城人見其似鷲。故共傳言鷲頭山。因名之為鷲頭山。 答えて曰く、是の山の頂は、鷲に似たれば、王舎城の人、其の鷲に似たるを見たが故に、共に伝えて、『鷲の頭の山』と言い、因りて、之を名づけて『鷲頭山』と為す。
答え、
是の、
『山の頂』が、
『鷲』に、
『似ている!』ので、
『王舎城の人』が、
其の、
『鷲に似ている!』のを、
『見ていた!』が故に、
共に、
『鷲頭山』と、
『言い!』
『伝えてきた!』が故に、
是れを、
『鷲頭山』と、
『称するのである!』。
復次王舍城南屍陀林中多諸死人。諸鷲常來噉之。還在山頭。時人遂名鷲頭山。是山於五山中最高大。多好林水聖人住處。 復た次ぎに、王舎城の南の屍陀林中には、諸の死人多く、諸の鷲常に来たりて、之を噉い、還りて山頭に在り。時の人、遂に鷲頭山と名づく。是の山は、五山中に最も高大にして、好き林水多く、聖人の住処なり。
復た次ぎに、
『王舎城の南』の、
『屍陀林(梵 ziita-vana )』中には、
諸の、
『死人』が、
『多く!』、
諸の、
『鷲』が、
『常に来て!』、
『之を噉っては!』、
『山』の、
『頭()』に、
『還ってゆく!』ので、
『時の人』は、
遂に、
是れを、
『鷲頭山』と、
『呼ぶようになった!』。
是の、
『山』は、
『五山』中に、
『最高』、
『最大であり!』、
『好もしい!』、
『林、水』が、
『多い!』ので、
『聖人』の、
『住む!』、
『処である!』。
  屍陀林(しだりん):梵名ziita-vana。古、死屍を棄てし林の名。『大智度論巻21上注:尸陀林』参照。



王舎城と舎婆提

問曰。已知耆闍崛山義。佛何以故住王舍城。諸佛法普慈一切。如日照萬物無不蒙明。如漚祇尼大城富樓那跋檀大城阿藍車多羅大城弗迦羅婆多大城。如是等大城多人豐樂而不住。何故多住王舍城舍婆提大城。 問うて曰く、已に耆闍崛山の義を知れり。仏は、何を以ってか、王舎城に住まりたまえる。諸仏の法は、慈を一切に普くすること、日の万物を照らして、明を蒙らざる無きが如し。漚祇尼大城、富楼那跋檀大城、阿藍車多羅大城、弗迦羅婆多大城、是の如き等の大城には、人の豊楽なる多きも、住したまわず。何を以っての故にか、多く、王舎城、舎婆提の大城に住したまえる。
問い、
已に、
『耆闍崛山』の、
『義(意味)』を、
『知った!』。
『仏』は、
何故、
『王舎城』に、
『住まられたのか?』。
諸の、
『仏の法』は、
普く、
『一切を!』、
『慈しまねばならぬ!』。
例えば、
『日』が、
『万物を照らせば!』、
『明』を、
『蒙らない!』者が、
『無いようなものである!』。
例えば、
『漚祇尼( ujjayinii )の大城』や、
『富楼那跋檀( puNDravardhana )の大城』や、
『阿藍車多羅( ahicchatra )の大城』や、
『弗迦羅婆多( puSkaraavatii )の大城』など、
是れ等の、
『大城(大都会)』は、
『多くの人』が、
『豊かに!』、
『楽しんでいた!』のに、
『仏』は、
『住まられず!』、
何故、
『王舎城( raajagRha )』や、
『舎婆提( zraavastii )』の、
『大城』に、
『多く!』、
『住まられたのですか?』。
  漚祇尼(うぎに):梵名ujjayiniiの音訳。阿般提(avanti)国の首都。
  富楼那跋檀(ふるなばつだん):梵名puNDravardhanaの音訳。東印度の古国。
  阿藍車多羅(あらんしゃたら):梵名ahicchatraの音訳。中印度の古国。
  弗迦羅婆多(ふからばた):梵名puSkaraavatii。不明。
  舎婆提(しゃばだい):梵名zraavastiiの音訳。居薩羅(kosala)国の首都。舎衛城。
  十六大国(じゅうろくだいこく):仏在世の頃、印度に存立せし十六の大国をいう。一に鴦伽(おうが、aGga)、二に摩竭陀(まかだ、magadha)、三に迦尸(かし、kaazi)、四に居薩羅(こさら、kosala)、五に跋祇(ばつぎ、vajji)、六に末羅(まつら、malla)、七に支提(しだい、ceDi)、八に抜沙(ばつしゃ、vatsa)、九に居楼(こる、kuru)、十に般闍羅(はんじゃら、paJcaala)、十一に阿湿波(あしつは、azvaka)、十二に阿般提(あはんだい、avanti)、十三に婆蹉(ばしゃ、matsya)、十四に蘇羅娑(そらしゃ、zuurasena)、十五に乾陀羅(けんだら、gandhaara)、十六に剣洴沙(けんびょうしゃ、kamboja)なり。「長阿含経巻5闍尼沙経」に「仏弟子あり、処処に命終するも仏は皆、これを記す、某は某処に請じ、某は某処に生ずと。鴦伽国、摩竭国、迦尸国、居薩羅国、跋祇国、末羅国、支提国、抜沙国、居楼国、般闍羅国、阿湿波国、阿般提国、婆蹉国、蘇羅娑国、乾陀羅国、剣洴沙国、彼の十六大国に命終するものあらば仏は悉くこれを記す」と云えるこれなり。この中、(1)鴦伽は、また鴦迦、鴦騎、盎誐、泱伽、鴦伽陀、或いは鴦伽摩伽陀に作り、体と訳す。摩竭陀の東に隣し、仏在世の頃はすでに摩竭陀に隷属せしが如し。その首都は瞻波(せんば、campaa)なり。(2)摩竭は、また摩竭陀、或いは傍伽摩竭陀に作る。王舍城(おうしゃじょう、raajagRha)を首都とし、仏時代には中印度に於ける大強国たり。(3)迦尸は、また迦夷に作る。波羅奈斯(はらなし、baaraaNasii)を都城とし、摩竭陀の西、居薩羅の東南に位し、両強国の中間に在りて大なる勢力を有せず。(4)居薩羅は、また憍薩羅に作る。舎衛城(しゃえいじょう、zraavastii)を中心とし、中印度の北部を占め、摩竭陀と共に当時の大強国にして、釈迦族もその配下に在りしという。(5)抜祇は、また跋耆、跋祇、毘時、越時、越祇渝、或いは仏栗氏に作り、避と訳す。恒河を隔てて摩竭陀の北に在り、離車(りしゃ、lichavi)、毘提訶(びだいか、videha)等の所属の同盟に成れる共和国にして、離車は毘舎離(びしゃり、vaizaali)に都し、毘提訶は蜜稀羅(みちら、mithila)に都す。(6)末羅は、また跋羅、摩羅、満羅、末利、末牢に作り、力士、壮士、華氏、或いは華と訳す。抜祇の北に在りて、拘尸那竭羅(くしながら、kuzinagara)城をその首都とす。(7)支提は、また枝提、支陀、支提廋、或いは脂提渝に作る。迦尸の西に当り、憍賞弥を首府とす。(8)抜沙は、また跋蹉、嚩蹉、筏蹉、婆蹉、或いは越蹉に作る。迦尸の西、支提の南に在り。時に或いは支提と同視せらる。憍賞弥(きょうしょうみ、kauzaambii)を首都となす。(9)居楼は、また拘溜、拘類、句留、狗猟、鳩留、鳩楼、倶嚕、倶盧、拘留沙、或いは拘楼廋に作り、作または姓と訳す。恒河の上流の西岸にして、現今のデーリ(Dehli)地方に当れり。インドラプラスタ(indraprastha)を首都とす。(10)般闍羅は、また般闍荼、般遮羅、般遮耶、半時羅、半闍、或いは半左に作る。恒河を隔てて居楼の東に在り。北部般闍羅(はんじゃら、uttara-paJcaala)、南部般闍羅(dakSiNaa-paJcaala)の二部より成り、北部はカンピラ(kaMpilla)、南部はカンニャクッジャ(kanyaakubja)をその都邑となす。(11)婆蹉は、居楼の南、塩牟那(yamunaa)河の西岸に在り。(12)蘇羅婆は、また蘇羅咜、速頼咜、戍羅西那、首羅先那に作り、勇軍と訳す。また塩牟那河の西岸にして、婆蹉の南隣に辺り、末土羅(まつどら、madhuraa)を都城とす。(13)阿湿波は、また阿摂貝、阿説迦、阿波耶、頻漯波、或いは頞湿縛迦に作る。蘇羅婆の南に在り、補多勒迦(ほたろくか、potalaka)を首都とす。(14)阿般提は、また阿軬陀、阿般陀、阿婆提、阿和提、晩帝那、阿曇頭、頞飯底、阿和檀提、阿洹提渝に作る。阿湿波の南に在り。この地は後にマールバ(malva)と称せられ、鄔闍衍那(うじゃえんな、ujjayani)を都邑とす。(15)乾陀羅は、また健陀羅に作る。五河地方(Panjab)の西北部を占め、その首都は呾叉始羅(たしゃしら、takSazila)なり。(16)剣洴沙は、また甘菩遮に作る。印度河の西岸にして、乾陀羅の西南に当り、堕羅鉢底(だらはつてい、dvaarapati)をその首府となせり。この十六大国の異説は甚だ多く、しかも皆釈尊在世当時の記録にあらざれば信ずべからずして、敢えてこれ等を枚挙せず。<(望)
波羅柰迦毘羅婆瞻婆婆翅多拘睒鞞鳩樓城等。雖有住時而多住王舍城舍婆提。云何知多住二處。見佛諸經多在二城說。少在餘城。 波羅奈、迦毘羅婆、瞻婆、婆翅多、拘睒鞞、鳩楼城等は、住する時有りと雖も、多く王舎城、舎婆提に住したまえり。云何が、多く二処に住したまえるを知る。仏の諸経を見るに、二城に在りて説けるもの多く、少し余の城に在ればなり。
例えば、
『波羅奈( vaaraaNasii )』、
『迦毘羅婆( kapila-vastu )』、
『瞻婆( campaa )』、
『婆翅多( zaaketa )』、
『拘睒鞞( kauzaambii )』、
『鳩楼城( kuru )』等にも、
『住まられた!』時が、
『有りますが!』、
『王舎城』と、
『舎婆提』とには、
『多く!』、
『住まられています!』。
何故、
『二処』に、
『多く!』、
『住まられた!』と、
『知れるのか?』。
『仏の諸経』を見れば、――
『二城』で、
『説かれた!』ものが、
『多く!』、
『余(ほか)の城』で、
『説かれた!』ものが、
『少ないからです!』。
  波羅奈(はらな):梵名vaaraaNasiiの音訳。迦尸(kaazi)国の首都。現今のベナレス。
  迦毘羅婆(かびらば):梵名kapila-vastuの音訳。釈尊の故国。
  瞻婆(せんば):梵名campaaの音訳。鴦伽(aGga)国の首都。
  婆翅多(ばした):梵名zaaketaの音訳。北憍薩羅(kosala)国の一都城の名。
  拘睒鞞(くせんび):梵名kauzaambiiの音訳。抜沙(vatsa)国の首都。
  鳩楼(くる):梵名kuruの音訳。印度古国名。現在のデーリ地方。
答曰。佛雖大慈等及。以漚祇尼等諸大城是邊國故不住。又彌離車弊惡人多。善根未熟故。如偈說
如日光等照  華熟則時開 
若華未應敷  則亦不強開 
佛亦復如是  等心而說法 
善根熟則敷  未熟則不開 
以是故世尊  住三種人中 
利智善根熟  結使煩惱薄
答えて曰く、仏の、大慈は等しく及ぶと雖も、漚祇尼等の諸の大城は、是れ辺国なるを以っての故に、住まりたまわず。又弥離車は、弊悪人多く、善根の未だ熟せざるが故なり。偈に説くが如し、
日の光の如きは等しく照らすに、華熟すれば則ち時に開き、
若し華未だ敷くに応ぜざれば、則ち亦た強いて開かず。
仏も亦復た是の如く、心を等しうして法を説くも、
善根熟すれば則ち敷き、未だ熟せざれば則ち開かず。
是を以っての故に世尊は、三種の人の中に住したもう、
利智なると善根の熟せると、結使の煩悩の薄きとなり。
答え、
『仏』の、
『大慈』は、
『等しく!』、
『及ぶ!』が、
『漚祇尼等の諸大城』は、
『辺国である!』が故に、
『住まられず!』、
又、
『弥離車( mleccha )』は、
『弊悪』の、
『人が多い!』が故に、
『住まられず!』、
『善根』が、
『未だ熟していない!』が故に、
『住まられなかった!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
譬えば、
『日光』は、
『等しく!』、
『照らす!』が、
『華』は、
『熟す時になれば!』、
『開く!』、
若し、
『華』が、
『敷(ひら)くべき!』、
『時でなければ!』、
『日光』も、
『強いて!』、
『開かせることはない!』。
是のように、
『仏』も、
『心を等しくして!』、
『法』を、
『説かれる!』ので、
『善根』が、
已に、
『熟していれば!』、
『敷くことになる!』が、
未だ、
『熟さなければ!』、
『開くことはない!』。
是の故に、
『世尊』は、
『三種』の、
『人』中にのみ、
『住まられる!』、
謂わゆる、
『利智の人』、
『善根の熟した人』、
『結使、煩悩の薄い人である!』。
  弥離車(みりしゃ):梵語mlecchaの音訳。又弥戻車、弥棃車等に作り、辺地、辺夷無所知者、卑賤、下賎種、垢濁種、楽垢穢、楽作悪業、悪中悪、或いは奴中奴と訳す。即ち辺地卑賤の種族をいう。<(望)
復次知恩故。多住王舍城舍婆提城。 復た次ぎに、恩を知るが故に、多く王舎城と、舎婆提城とに住まりたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『恩』を、
『知る!』が故に、
『王舎城、舎婆提城』に、
『多く!』、
『住まられた!』。
問曰。云何知恩故。多住二城。 問うて曰く、云何が恩を知るが故に、多く二城に住まりたまえる。
問い、
何故、
『恩』を、
『知る!』が故に、
『二城』に、
『多く!』、
『住まられたのですか?』。
答曰。憍薩羅國是佛所生地。如佛答頻婆娑羅王偈說
有好妙國土  在於雪山邊 
豐樂多異寶  名曰憍薩羅 
日種諸釋子  我在是中生 
心厭老病死  出家求佛道
答えて曰く、憍薩羅国は、是れ仏の所生の地なり。仏の頻婆娑羅王に答えて、偈を説きたまえるが如し、
有る好妙の国土、雪山の辺に在り、
豊楽にして異宝多し、名づけて憍薩羅と曰う。
日種の諸釈の子の、我れは是の中に在りて生じ、
心に老病死を厭い、出家して仏道を求む。
答え、
『憍薩羅( kosala )国』に、
『住まられた!』のは、
『仏』の、
『生まれた!』、
『地だからである!』。
例えば、
『仏』が、
『頻婆娑羅( bimbisaara )王に答えられた!』、
『偈』に、こう説く通りである、――
有る、
『好妙の国土』が、
『雪山の辺に在り!』、
『豊かで楽しく!』、
『異宝(珍宝)が多い!』。
是の、
『国』を、
『憍薩羅』と、
『称す!』。
『日種( suuryavaMsa )』の、
諸の、
『釈子( zaakya )である!』、
わたしは、
是の、
『国』中に、
『生まれ!』、
『心』に、
『老、病、死』を、
『厭うて!』、
『出家し!』、
『仏』の、
『道』を、
『求めた!』。
  憍薩羅国(きょうさらこく):憍薩羅は梵名kosala/kozala(又はkosalaa)、巴梨名kosalaa、又嬌薩羅、拘薩羅、拘舎羅、拘薜羅、高薩羅、俱娑羅、居薩羅等に作る。善、工巧、巧善、又は無闘戦と訳す。中印度古王国の名。十六大国の一。舎衛城を首都となし、仏久しく住し給いし地なり。「有部毘奈耶破僧事巻4」に、「一国あり、雪山の傍に住在し、財食甚だ豊足す。名づけて憍薩羅と曰う」と云い、「同巻8」に北方憍薩羅国室羅筏城と云えるもの是れなり。即ち憍薩羅に北憍薩羅uttara-kozalaと南憍薩羅dakSiNa-kozalaの別ある中の前者にして、現今のゴグラgogra河の流域なるウードoude地方に当り、北は尼波羅に接せり。「高僧法顕伝」には、沙祇多城より南行八由旬にして舎衛城に達せしことを記し、拘薩羅国の名を出せるも、玄奘渡天の頃には、室羅筏悉底を以って呼ばれ、憍薩羅又は北憍薩羅の国名は用いられざりしが如し。「大唐西域記巻6」に依れば、室羅伐悉底国は周六千余里、都城は周二十余里にして、頗る荒廃せるも尚お居人あり。気候温和にして縠稼豊饒に、風俗亦淳厚なり。伽藍数百あるも多く圯壊し、僧徒寡少にして正量部を学す。外道甚だ多く天祠百所ありと云い、又祇樹給孤獨園等の聖跡も法顕当時よりは荒蕪に帰せるが如き記述を残せり。又「長阿含巻5闍尼沙経」、「観弥勒上生兜率天経巻上」、「仏母大孔雀明王経巻10」、「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」、「同疏巻上之2」、「慧琳音義巻6、15、26」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  頻婆娑羅王(びんばしゃらおう):頻婆娑羅bimbisaaraは梵名。仏在世時に中印度摩揭陀国に君臨せし王の名。『大智度論巻17上注:頻婆娑羅王』参照。
  日種(にちしゅ):釈迦族の異名。『大智度論巻1上注:釈種、同巻21下注:瞿曇』参照。
  仏五姓(ほとけのごしょう):古来仏の姓を称して、瞿曇(くどん、gautama)、甘蔗(かんしょ、iikSvaaku)、日種(にちしゅ、suuryavaMsa)、釈迦(しゃか、zaakya)、舎夷(しゃい、saaki)の五種と為す。仏の最初の祖、甘蔗王は、また善生王(sujaata)、日種王(suuryavajaza)と称し、この王を釈迦族の祖と為し、また即ち釈尊五姓の一と為す。『仏本行集経巻5』によれば、甘蔗王の前に王有り、称して大茅草王と為す、王位を捨てて出家し、五神通を得て王仙と称す。王仙、衰老して行くこと能わざれば、諸の弟子は外に出でて乞食し、師に虎狼の患有らんことを恐れて遂にこれを盛るに草籠を以ってし、樹上に懸く。時に猟者有り、誤って王仙と認むるに白鳥と為し、これを射殺せるに、その地の滴る処より、後に二甘蔗を生じ、日に曬(さら)されて剖開し、一は童子を生じ、一は童女を生ぜり。大臣、聞いてこれを迎え取り、宮中に於いて養育す。童子の日光の炙るに因り、甘蔗より生ずるを以っての故に善生と称し、甘蔗より出づるを以っての故に甘蔗生と称し、また日の炙るによっての故に日種と称す。女を称するに善賢と為し、後に善生を立てて王と為し、並びに善賢を以ってその妃と為すに、善賢は一子を生ぜり。王は後に第二妃に納れて四子を生ず。善賢妃は、その子をして立たしめんと欲し、王に勧めて四子を国外に放逐せしむ。四子は雪山の南に在りて国を建て、姓を立てて釈迦と為し、また舎夷と号す。これ即ち迦毘羅城なり。その中の三子没せし後、別に一子を王と為して尼拘羅と名づくるに、一子を生じて拘廬と名づけ、後に子の瞿拘廬に伝え、次ぎに子の師子頬(ししきょう、siMhahanu)に伝え、また子の閲頭檀(えつづだん、zuddhodana)に伝え、即ち悉達太子の父王なり、と。<(望)
  憍薩羅(こうさら、kosala):また拘薩羅、拘娑羅、居薩羅に作り、訳して工巧、或いは無闘戦という。二の憍薩羅国あり。中印度に在るを北憍薩羅、南印度に在る南憍薩羅というが、今ここに云う憍薩羅は中印度の北憍薩羅を指す。首都は舎婆提(しゃばだい、zraavastii)は、また舎衛城に作る。仏の故国迦毘羅婆(かびらば、kapila-vastu)はこの国に属していた。<(望)
  頻婆娑羅(びんばしゃら、bimbisaara):仏在世時の摩伽陀国王の名。また瓶沙、洴沙に作る。深く仏法に帰して善根を積むこと多しといえども、終に逆子阿闍世(あじゃせ、ajaatazatru)王の為に幽囚される。
  日種(にちしゅ):釈尊五姓の一。昔二茎の甘蔗が有り、それを日に炙るに男女二人を生ず。これを釈氏の祖と為すが故に日種と号す。『仏本行集経巻5』参照。
又是憍薩羅國主波斯匿王。住舍婆提大城中。佛為法王亦住此城。二主應住一處故。 又是の憍薩羅国の主波斯匿王は、舎婆提大城中に住し、仏は、法王と為りて、亦た此の城に住まりたまえり。二主は、応に一処に住すべきが故なり。
又、
是の、
『憍薩羅国の主』の、
『波斯匿( prasenajit )王』は、
『舎婆提』の、
『大城』中に、
『住まっていた!』が、
『仏』が、
『法の王として!』、
是の、
『城』に、
『住まられていた!』のは、
『二主』は、
当然、
『一処』に、
『住まらねばならぬからである!』。
  波斯匿王(はしのくおう):波斯匿は梵名prasenajit。仏陀時代に於ける中印度舎衛城主の名。『有部毘奈耶雑事巻8』によれば、憍薩羅国王勝光王は、第二夫人を末利(まり、mallikaa、勝鬘と訳し、勝鬘経の勝鬘夫人は、この王夫人の女なり。母子同名)といい、本劫比羅(こうひら、迦毘羅)城の婢女なるが、帰仏の福力を以って王に聘(め)されて夫人と為り、一子を生じ、悪生(あくしょう、virJDhaka)と名づくるに、逆害自立の心有るも、長行大臣これを諌止せり。後に王、長行大臣を将いて仏所に至りて法を聴き、久しく出でざるに、長行、意を変じて、窃かに車馬を引いて城に還り、策して悪生太子を立てて王と為し、大王の二夫人、行雨と勝鬘とを駆逐せり。二夫人、王所に詣りて、中途にて王に遇い、この事を白すに、王は便ち勝鬘をして城に還らしめ、自ら行雨と共に王舍城に向えり。城外に一園林有りて、王はここに停り、行雨をして未生怨王(阿闍世王)に報せしむ。未生怨王、これを聞いて大いに喜び、駕を厳めて自らこれを出迎う。時に勝光王、久しく食を得ざれば、園主に乞うて蘿菔(らふく、大根)五顆を得てこれを食い、水辺に往きて過量にこれを飲むに因り、霍乱を成して遂に仆れ死す。未生怨王、後に来たりて厚くこれを葬れり、と。<(望)『大智度論巻25上注:波斯匿王』参照。
復次是憍薩羅國佛生身地。知恩故多住舍婆提。 復た次ぎに、是の憍薩羅国は、仏の身を生ぜし地なれば、恩を知るが故に、多く舎婆提に住まりたまえり。
復た次ぎに、
是の、
『憍薩羅国』は、
『仏の身』を、
『生じた!』、
『地であり!』。
『仏』は、
『恩』を、
『知られた!』が故に、
『舎婆提』に、
『多く!』、
『住まられた!』。
問曰。若知恩故多住舍婆提者。迦毘羅婆城近佛生處。何不多住。 問うて曰く、若し恩を知るが故に、多く舎婆提に住まりたもうとなれば、迦毘羅婆城は、仏の生処に近し。何んが多く住まりたまわざる。
問い、
若し、
『恩を知る!』が故に、
『多く!』、
『舎婆提』に、
『住まられた!』ならば、
『迦毘羅婆城』は、
『仏』の、
『生処』に、
『近い!』のに、
何故、
『多く!』、
『住まられないのか?』。
  迦毘羅城(かびらじょう):迦毘羅は梵名kapila、城は梵語vastuの訳、蓋し領地の義。釈尊の故国の名。『大智度論巻25上注:迦毘羅衛』参照。
答曰。佛諸結盡無復餘習。近諸親屬亦無異想。然釋種弟子多未離欲。若近親屬則染著心生。 答えて曰く、仏は、諸の結尽き、復た余習無ければ、諸の親属に近づきても、亦た異想無し。然るに釈種の弟子は、多く未だ欲を離れざるに、若し親属に近づけば、則ち染著の心生ずればなり。
答え、
『仏』は、
諸の、
『結』が、
『尽きており!』、
復た、
『余の習』も、
『無い!』ので、
諸の、
『親属』に、
『近づいても!』、
亦た、
『異想(特別の思い!)』は、
『無いのである!』が、
然し、
『弟子』中の、
『釈種』は、
『多く!』が、
未だ、
『欲』を、
『離れていない!』が故に、
若し、
『親属』に、
『近づけば!』、
則ち、
『染著の心』が、
『生じることになるからである!』。
  (けつ):煩悩の異名。
  (しゅう):煩悩の尽きた後の残り香の如きもの。
  染著(せんじゃく):染汚されたる執著の義。『大智度論巻17下注:染汚』参照。
問曰。何以不護舍婆提弟子。而多住舍婆提。 問うて曰く、何を以ってか、舎婆提の弟子を護らず、多く舎婆提に住まりたまえる。
問い、
何故、
『舎婆提』の、
『弟子』を、
『護らずに!』、
『舎婆提』に、
『多く!』、
『住まられたのですか?』。
答曰。迦毘羅婆弟子多。佛初還國。迦葉兄弟千比丘。本修婆羅門法。苦行山間形容憔悴。父王見之。以此諸比丘不足光飾。世尊即選諸釋貴人子弟兼人少壯。戶遣一人強令出家。其中有善心樂道。有不樂者。此諸釋比丘不應令還本生處。舍婆提弟子輩不爾。以是故佛多住舍婆提。不多住迦毘羅婆。 答えて曰く、迦毘羅婆の弟子の多くは、仏の、初めて国に還りたまいしとき、迦葉兄弟の千比丘の、本婆羅門の法を修めて、山間に苦行し、形容憔悴せるに、父王、之を見て、此の諸の比丘の世尊を光飾するに足らざるを以って、即ち諸釈の貴人の子弟にして、人に兼ねて少壮なるを選び、戸ごとに一人を遣して、強いて出家せしむれば、其の中には、善心にして道を楽しむ有り、楽しまざる者有り。此の諸釈の比丘は、応に本の生処に還さしむべからず。舎婆提の弟子の輩は、爾らず。是を以っての故に、仏は、舎婆提に住まること多く、迦毘羅婆に住まること多からず。
答え、
『迦毘羅婆』の、
『弟子』は、
『多くが!』、
『仏』が、
初めて、
『国に還られた!』時の、
『弟子だからである!』。
『迦葉兄弟』の、
『弟子の千比丘』は、
本、
『婆羅門の法を修めながら!』、
『山間で苦行し!』、
『形容が憔悴していた!』ので、
『父王』が、
之を見て、
此の、
『諸の比丘』では、
『世尊を光飾する!』には、
『不足である!』と、
『思い!』、
そこで、
『釈種の貴人』の、
『子弟』中の、
『人に倍して!』、
『少く( 若く )』て、
『壮い( 強い )!』者を、
『選び!』、
『戸ごとに!』、
『一人を遣して!』、
『強いて!』、
『出家させた!』が、
其の中には、
『善心で!』、
『道』を、
『楽しむ!』者も、
『有り!』、
『道』を、
『楽しまない!』者も、
『有った!』ので、
是の、
『諸の釈比丘』は、
本の、
『生処』に、
『還らせてはならない!』が、
『舎婆提』の、
『弟子の輩』は、
『そうでない!』。
是の故に、
『仏』は、
『舎婆提』には、
『多く!』、
『住まり!』、
『迦毘羅婆』に、
『住まる!』ことは、
『多くない!』。
  迦葉兄弟(かしょうきょうだい):迦葉姓の三兄弟を指す。即ち一に優楼頻螺迦葉(うるびらかしょう、uruvilvaa-kaazyapa)、二に那提迦葉(なだいかしょう、nadii-k.)、三に伽耶迦葉(がやかしょう、gayaa-k.)なり。本共に事火外道なりしが、仏成道の後幾ばくもなくその教化を受けて、長兄は五百人、中兄は三百人、小弟は二百人の弟子と共に、正法に帰入せり。『大智度論巻21下注:優楼頻螺迦葉』参照。
  光飾(こうしき):かざる。
  (けん):同時具有( hold two or more ~ concurrently )、合併する/合成する( merge, combine, amalgamate )、併呑する( annex (territory) by force, swallow up )、倍する/倍加する( double )、重複する/累積する( repeat, accumulate )、尽す/竭尽する( exhaust )、超越/勝過する( be superior to )、いっしょに/並びに/共に( be the same as, together with, along with )、全部の( hole )、~と( and )、且つ( and, besides )、更に/その上( still, yet, even more )。
  参考:『増一阿含経巻14ー15』:『爾時。世尊便往至優留毘村聚所。爾時。連若河側有迦葉在彼止住。知天文.地理。靡不貫博。算數樹葉皆悉了知。將五百弟子。日日教化。去迦葉不遠有石室。於石室中。有毒龍在彼止住。爾時。世尊至迦葉所。到已。語迦葉言。吾欲寄在石室中一宿。若見聽者。當往止住。迦葉報曰。我不愛惜。但彼有毒龍。恐相傷害耳。世尊告曰。迦葉。無苦。龍不害吾。但見聽許。止住一宿。迦葉報曰。若欲住者。隨意往住。爾時。世尊即往石室。敷座而宿。結跏趺坐。正身正意。繫念在前。是時。毒龍見世尊坐。便吐火毒。爾時。世尊入慈三昧。從慈三昧起。入焰光三昧。爾時。龍火.佛光一時俱作。爾時。迦葉夜起。瞻視星宿。見石室中。有大火光。見已。便告弟子曰。此瞿曇沙門容貌端政。今為龍所害。甚可憐愍。我先亦有此言。彼有惡龍。不可止宿。是時。迦葉告五百弟子。汝持水瓶。及輿高梯。往救彼火。使彼沙門得濟此難。爾時。迦葉將五百弟子。往詣石室。而救此火。或持水灑者。或施梯者。而不能使火時滅。皆是如來威神所致。爾時。世尊入慈三昧。漸使彼龍無復瞋恚。時。彼惡龍心懷恐怖。東西馳走。欲得出石室。然不能得出石室。是時。彼惡龍來向如來。入世尊缽中住。是時。世尊以右手摩惡龍身。便說此偈 龍出甚為難  龍與龍共集  龍勿起害心  龍出甚為難  過去恒沙數  諸佛般涅槃  汝竟不遭遇  皆由瞋恚火  善心向如來  速捨此恚毒  已除瞋恚毒  便得生天上  爾時。彼惡龍吐舌。舐如來手。熟視如來面。是時。世尊明日清旦。手擎此惡龍。往詣迦葉。語迦葉曰。此是惡龍。極為兇暴。今以降之。爾時。迦葉見惡龍已。便懷恐怖。白世尊曰。止。止。沙門。勿復來前。龍備相害。世尊告曰。迦葉。勿懼。我今已降之。終不相害。所以然者。此龍已受教化。是時。迦葉及五百弟子歎未曾有。甚奇。甚特。此瞿曇沙門極大威神。能降此惡龍。使不作惡。雖爾。故不如我得道真。爾時。迦葉白世尊曰。大沙門。當受我九十日請。所須衣被.飯食.床臥具.病瘦醫藥。盡當供給。爾時。世尊默然受迦葉請。。時。世尊以此神龍著大海中。而彼惡龍隨壽長短。命終之後。生四天王天上。‥‥』
復次出家法應不近親屬。親屬心著如火如蛇。居家婆羅門子為學問故。尚不應在生處。何況出家沙門。 復た次ぎに、出家の法は、応に親属に近づかざるべし。親属は、心の著すること、火の如く、蛇の如し。居家の婆羅門の子は、学門の為の故にすら、尚お応に生処に在るべからず。何に況んや、出家の沙門をや。
復た次ぎに、
『出家の法』は、
『親属』に、
『近づくべきでない!』。
『親属』が、
『心』に、
『著すれば!』、
譬えば、
『火のようであり!』、
『蛇のようである!』。
『居家』の、
『婆羅門』の、
『子』は、
『学問の為だとしても!』、
尚お、
『生処』に、
『在()るべきでない!』。
況して、
『出家の沙門』は、
『尚更である!』。
  沙門(しゃもん):梵語zramaNaの音訳。出家の総名。即ち鬚髪を剃除し、諸悪不善を止息し、身心を調御して能く善品を勤修し、以って涅槃に行趣せんと期待するものを云う。『大智度論巻22上注:沙門』参照。
復次如舍婆提城大。迦毘羅婆不爾。舍婆提城九億家。是中若少時住者。不得度多人。以是故多住。 復た次ぎに、舎婆提城は大きく、迦毘羅婆は爾らざればなり。舎婆提城の九億の家は、是の中に若し少時住まらば、多人を度すを得ざらん。是を以っての故に、多く住まりたまえり。
復た次ぎに、
『舎婆提』などの、
『城』は、
『大きい!』が、
『迦毘羅婆』の、
『城』は、
『そうでない!』。
『舎婆提の城』には、
『九億』の、
『家』が、
『有った!』ので、
是の中に、
『少時』、
『住まっていても!』、
『多く!』の、
『人』を、
『度すことができない!』。
是の故に、
『多く!』、
『住まられたのである!』。
復次迦毘羅婆城中佛生處。是中人已久習行善根熟利智慧。是中佛少時住說法。不須久住度已而去。 復た次ぎに、迦毘羅婆城中は、仏の生処にして、是の中の人は、已に久しく善根を習行すれば、利なる智慧を熟せり。是の中に、仏は少時住まりて、法を説きたもうも、久しく住まるを須(もち)いたまわずして、度し已れば、去りたまえり。
復た次ぎに、
『迦毘羅婆の城』中は、
『仏』の、
『生処であり!』、
是の中の、
『人』は、
已に、
『久しく!』、
『善根(四念処、乃至八聖道分)』を、
『習行している!』ので、
『利い!』、
『智慧』を、
『熟させている!』。
是の中に、
『仏』が、
『少時住まって!』、
『法』を、
『説けば!』、
『久しく!』、
『住まる!』、
『必要がない!』。
故に、
『度してから!』、
『去られたのである!』。
  習行(じゅうぎょう):梵語abhyaasaの訳。繰り返して練習すること。修行。
  利智慧(りなるちえ):梵語tiikSNa-jJaanaの訳。鋭利なる智慧の義。
舍婆提人。或初習行。或久習行。或善根熟。或善根未熟。或利根。或不利根。多學種種經書故研心令利。入種種邪見網中。事種種師。屬種種天。雜行人多。以是故佛住此久。 舎婆提の人は、或いは初めて習行し、或いは久しく習行し、或いは善根熟し、或いは善根未だ熟せず、或いは利根、或いは利根ならざるも、多く種種の経書を学ぶが故に、心を研いで利ならしむれば、種種の邪見の網中に入り、種種の師に事え、種種の天に属し、行を雑うる人多し。是を以っての故に、仏は此に久しく住まりたまえり。
『舎婆提の人』は、
『善根』を、
或は、
『初めて!』、
『習行し!』、
或は、
『久しく!』、
『習行し!』、
或は、
『善根』が、
『已に!』、
『熟し!』、
或は、
『未だ!』、
『熟さず!』、
或は、
『根(信、精進、念、定、慧根))』が、
『利であり!』、
或は、
『利でない!』が、
『多く!』が、
種種の、
『経書』を、
『学んでいる!』が故に、
『研鑽して!』、
『心』を、
『利くさせている!』が故に、
種種の、
『邪見』の、
『網』中に、
『入って!』、
種種の、
『師』に、
『事(つか)え!』、
種種の、
『天』に、
『属して!』、
種種の、
『行』を、
『雑える人』が、
『多い!』。
是の故に、
『仏』は、
此(ここ)に、
『久しく!』、
『住まられたのである!』。
如治癰師知癰已熟。破出膿與藥而去。若癰未熟是則久住塗慰。佛亦如是。若弟子善根熟教化已更至餘處。若可度弟子善根未熟則須久住。 治癰師の、癰の已に熟するを知り、破りて膿を出し、薬を与えて去り、若し癰未だ熟せざれば、是には則ち久しく住まりて、塗りて慰むるが如し。仏も、亦た是の如く、若し、弟子の善根熟すれば、教化し已りて、更に余処に至り、若し度すべき弟子の善根、未だ熟せざれば、則ち須らく久しく住まりたもうべし。
譬えば、
『治癰の師』が、
『癰』が、
已に、
『熟した!』ことを、
『知れば!』、
『癰を破って!』、
『膿を出し!』、
『薬を与えて!』、
『去ることになる!』が、
若し、
『癰』が、
未だ、
『熟していなければ!』、
是(ここ)に、
『久しく住まり!』、
『薬を塗って!』、
『慰めることになる!』。
是のように、
『仏』も、
若し、
『弟子』の、
『善根』が、
『熟していれば!』、
『教化して!』、
更に、
『余の処』に、
『至ることになる!』が、
若し、
『度される!』、
『弟子の善根』が、
未だ、
『熟していなければ!』、
当然、
『久しく!』、
『住まらねばならない!』。
  治癰師(じようのし):腫物を治す医師。
佛出世間。正為欲度眾生著涅槃境界安隱樂處故。是故多住舍婆提。不多住迦毘羅婆。 仏は、世間に出でたまえるは、正に衆生を度して、涅槃の境界、安穏の楽処に著けんと欲したもうが故なり。是の故に、舎婆提に住まること多く、迦毘羅婆に住まること多からず。
『仏』が、
『世間に出る!』のは、
正しく、
『衆生』を、
『度して!』、
『涅槃の境界』という、
『安隠の楽処』に、
『著()けよう!』と、
『思われたからである!』。
是の故に、
『舎婆提』には、
『多く!』、
『住まり!』、
『迦毘羅婆』に、
『多く!』、
『住まられなかったのである!』。
  出世間(しゅっせけん):梵語lokottaraの訳。巴梨語lokuttara、或いは単に出世とも訳す。世間を超越するの義。或いは超人の義。世間に出現するの意。又世間を超出するの意。即ち諸仏が世間に出現して正覚を成じ、衆生を教化し度脱せしむること、或いは有漏の繋縛を出離せる無漏解脱の法を云う。「中阿含巻29八難経」に、「仏衆祐と号す、世に出でて説法し、止息に趣向せしむ」と云い、「大智度論巻4」に、「人寿八万歳に仏出世し、七六五四三二万歳の中に仏出世す。人寿百歳は是れ仏出世の時なり」と云い、又「瑜伽師地論巻21」に、「普く一切諸の有情類に於いて善く利益せんとする増上の意楽を起し、多千の難行苦行を修習し、三大劫阿僧企耶を経て広大なる福徳智慧の二種の資糧を積集し、最後上妙の身を獲得し、無上勝菩提の座に安坐し、五蓋を断除し、四念住に於いて善く其の心を住し、三十七菩提分法を修し、無上正等菩提を現証す。是の如きを名づけて諸仏の出世と為す。過去未来現在の諸仏も皆是の如くなるに由り、名づけて出世と為す」と云い、「法華経巻2譬喩品」に、「諸の衆生をして三界の苦を知らしめ、出世間の道を開示し演説す」と云い、「大方等大集経巻17」に、「善男子、五受陰を名づけて世間と為す。菩薩は善く五陰を分別して、是れ無常乃至如涅槃の性なりと観じ、已に此の道の中に世間及び世間法あることなしと知り、此の道は是れ無漏、是れ出世間にして繋著する所なしと知る。是れを出世間と名づく。」と云い、「成唯識論巻9」に、「世間を断ずるが故に出世間と名づく。二種の随眠は是れ世間の本なり、唯此れのみ能く断ずれば独り出の名を得。或いは出世の名は二義に依って立つ、謂わく体無漏なると、及び真如を証するとなり」と云い、又「六妙法門」に、「世間の果とは即ち是れ苦諦、世間の因とは即ち是れ集諦、出世間の果とは即ち是れ滅諦、出世間の因とは即ち是れ道諦なり」と云える是れなり。是れ三界有漏の因果を世間と称するに対し、無漏の滅道二諦を出世間の法と名づけたるなり。又修道者の位次に就いて之を言わば、地前を世間とし、見道初地以上を出世間とす。「旧華厳経巻23十地品」に、「菩薩是の如き心を発さば即時に凡夫地を過ぎて菩薩位に入り、生まれて仏家に在り、種姓尊貴にして譏嫌することなく一切の世間道を過ぎて出世間道に入り、菩薩法中に住し、諸の菩薩数に在りて等しく三世の如来種中に入り、畢定して阿耨多羅三菩提を究竟す。菩薩是の如き法に住するを住歓喜地と名づく」と云い、「梁訳摂大乗論巻3」に、「正思正修慧は四念処より世第一法に至る、是れ其の位なり。此の心は未だ四諦を証見せざるが故に世間心と名づく。已に四諦を証見するが故に出世離自性法と名づく」と云える即ち其の意なり。然るに「大乗義章巻5本二障義両門分別の條」には「十地経論巻2」等の意に依り地上に就いて更に世間出世間を分別し、初二三地を名づけて世間とし、四地以上を名づけて出世と為すと云い、又「華厳五教章巻1」にも、「本業経、仁王経及び地論、梁摂論の如きは、皆初二三地を以って世間に寄在し、四地より七地に至るを出世間に寄せ、八地已上を出出世間に寄す。出世間の中に於いて四地五地は声聞法に寄せ、六地は縁覚法に寄せ、七地は菩薩法に寄せ、八地已上は一乗法に寄す」と云えり。是れ初地より三地に至るは世間行にして、唯煩悩障を断ずるが故に世間に配し、四地より七地に至り知障を断除するが故に出世間に配し、八地に入りて体障を断除し、八地已上如来地に至りて治想を断除するが故に之を出出世間となせるものなり。又「新華厳経巻35」、「菩薩本業経巻上」、「大智度論巻27、63」、「瑜伽師地論巻70、71」、「梁訳摂大乗論釈巻15」、「倶舎論巻23」、「阿毘達磨蔵集論巻3」、「仏性論巻2」、「究竟一乗宝性論巻4無量煩悩所纏品」、「成唯識論巻2」、「文殊師利菩薩問菩提経論巻下」、「入大乗論巻下」、「大乗義章巻1」、「華厳経探玄記巻9」、「華厳経孔目章巻1」、「華厳五教章巻3」等に出づ。<(望)
佛於摩伽陀國尼連禪河側漚樓頻螺聚落得阿耨多羅三藐三菩提。成就法身故多住王舍城。 仏は、摩伽陀国の尼連禅河の側の漚楼頻螺聚落に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得、法身を成就したもうが故に、多く王舎城に住まりたまえり。
『摩伽陀( magadha )国』の、
『尼連禅河( nairaJjanaa )の側』の、
『優楼頻螺( urubilvaa )の聚落』に於いて、
『仏』は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得て!』、
『法身』を、
『成就された!』が故に、
『王舎城』には、
『多く!』、
『住まられている!』。
  尼連禅河(にれんぜんが):尼連禅nairaJjanaaは梵名。恒河gangesの一支流にして、釈尊成道の古蹟なり。『大智度論巻1上注:尼連禅河』参照。
  漚楼頻螺聚落(うるびらじゅらく):漚楼頻螺uruvilvaaは梵名。聚落の名。其の位置は仏陀伽耶buddh gayaaの南、尼連禅neraJjaraa河に沿える一哩許にして、現今urelと称する地点ならんという。仏此の地に於いて苦行をなし、又乞食して其の村の長者斯那の女須闍多の飲食を受け給いしを以って有名なり。『大智度論巻26上注:優楼頻螺聚落』参照。
  法身(ほっしん):梵語dharma-kaayaの訳。法の身の意。二身の一。肉身に対す。即ち仏所説の正法及び仏所得の無漏法、並びに仏の自性たる真如如来蔵を云う。



王舎城と舎婆提との比較

問曰。已知多住王舍城舍婆提因緣。於此二城。何以多住王舍城。 問うて曰く、已に、多く王舎城と舎婆提とに住まりたまえる因縁を知れり。此の二城に於いては、何を以ってか、多く王舎城に住まりたまえる。
問い、
已に、
『王舎城』と、
『舎婆提』に、
『多く住まる!』、
『因縁』を、
『知った!』。
此の、
『二城』では、
何故、
『王舎城』に、
『多く住まられたのですか?』。
答曰。以報生地恩故。多住舍婆提。一切眾生皆念生地。如偈說
一切論議師  自愛所知法 
如人念生地  雖出家猶諍
答えて曰く、生地の恩に報ずるを以っての故には、多く舎婆提に住まりたまえり。一切の衆生は、皆、生地を念ずればなり。偈に説くが如し、
一切の論議師の、自ら所知の法を愛すること、
人の生地を念ずるが如し、出家すと雖も猶お諍う。
答え、
『生まれた地』の、
『恩』に、
『報いる!』が故に、
『舎婆提』に、
『住まられる!』ことの、
『多い!』のは、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『生まれた地』を、
『念じるからである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
一切の、
『論議師』が、
自ら、
『知る!』、
『法のみ!』を、
『愛する!』のは、
譬えば、
『人』が、
『生まれた!』、
『地』を、
『念じるようだ!』、
『出家しても!』、
猶お、
『法』を、
『諍(いさか)う!』。
以報法身地恩故。多住王舍城。諸佛皆愛法身故。如偈說
過去未來  現在諸佛 
供養法身  師敬尊重
法身於生身勝故。二城中多住王舍城。
法身の地の恩に報ずるを以っての故に、多く王舎城に住まりたまえり。諸仏は、皆、法身を愛したもうが故なり。偈に説くが如し、
過去未来、現在の諸仏は、
法身を供養し、師敬し尊重す。
法身は、生身に勝るが故に、二城中には、多く王舎城に住まりたまえり。
『法身の地』の、
『恩』に、
『報いる!』が故に、
『王舎城』に、
『多く!』、
『住まられた!』。
諸の、
『仏』は、
皆、
『法身』を、
『愛されるからである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『過去、未来、現在』の、
諸の、
『仏』は、
『法身』を、
『供養、師事、恭敬、尊重する!』。
『法身』は、
『生身』に、
『勝る!』が故に、
『二城』中には、
『王舎城』に、
『多く!』、
『住まられたのである!』。
  師敬(しきょう):師事して敬う。
  生身(しょうじん):俗界の身( earthly body )、梵語 janma-kaaya の訳、仏の肉身、化身/法身等の精神的/霊的な身に対す( The physical body of the Buddha, as distinguished from spiritual bodies, such as the transformation body and reality body )。
  法身(ほっしん):梵語 dharma-kaaya の訳、法の身/現実の身、真実の身、戒法の身等( dharma body; reality body; truth body; law body etc. )の義。◎一般的に大乗の教に於いては、法身は完全なる存在について名づけられ、存在の全て――真実性の実体、又は永久の原理としての仏――の示現であるとされ( In general Mahāyāna teaching, the Dharma- body is a name for absolute existence, the manifestation of all existences— the true body of reality, or Buddha as eternal principle )、その本質的な身は、純粋であり、区別の為めの目印[差別相]を有せず、空と相似である( the body of essence that is pure, possesses no marks of distinction, and is the same as emptiness )。◎有部に於いては、仏の二身の一であり、他の一は仏の肉身である生身である( In Sarvâstivāda, one of the two bodies of the Buddha, with the other being his physical body )。
復次以坐禪精舍多故。餘處無有。如竹園鞞婆羅跋恕薩多般那求呵因陀世羅求阿薩簸恕魂直迦缽婆羅王舍城。有五精舍。竹園在平地。餘國無此多精舍。 復た次ぎに、坐禅の精舎の多きを以っての故なり。余処に有ること無し。竹園、鞞婆羅跋恕、薩多般那求呵、因陀世羅求阿、薩簸恕魂直迦鉢婆羅の如き、王舎城に五精舎有り。竹園は平地に在り。余の国には、此の多き精舎無し。
復た次ぎに、
『坐禅の精舎』が、
『多いからである!』、
『余の処』には、
『無かった!』。
例えば、
『竹園( veNu-vana )』、
『鞞婆羅跋恕( vaibhaara-vana )』、
『薩多般那求呵( saptaparNaguhaa )』、
『因陀世羅求阿( indrazailaguhaa )』、
『薩簸恕魂直迦鉢婆羅( sarpiSkuNdika-parva? )のような!』、
『五精舎』が、
『王舎城』に、
『有り!』、
『竹園』は、
『平地』に、
『在った!』が、
『余の国』には、
此のような、
『多くの精舎』が、
『無い!』。
  竹園(ちくおん):梵名veNu-vana、又竹林、竹林精舎と訳し、具に迦蘭陀竹園(梵kaaraNDa-veNuuvana)と称す。迦蘭陀鳥所棲の竹林。また迦蘭陀長者所有の竹林の義。摩伽陀国王舎城と上茅城の間に在り、迦蘭陀長者の所有に係わる。本、尼揵外道に与えられしが、後に仏に奉って僧園と為し、これを印度の僧園の初と為す。謂わゆる竹林精舎なり。『大智度論巻2下注:迦蘭陀竹園』参照。
  鞞婆羅跋恕(びばらばつじょ):梵名vaibhaara-vana。精舎名。王舎城五山の一。一説に、この山の下にある畢鉢羅窟(梵pippalii-guhaa)に於いて迦葉は五百比丘を招集して第一次結集を行う。
  薩多般那求呵(さったぱんなぐか):梵名saptaparNaguhaa。七葉窟と訳す。精舎名。王舎城五山の一。
  因陀世羅求阿(いんだせらぐあ):梵名indrazailaguhaa。因陀羅石室と訳す。精舎名。王舎城五山の一。
  薩簸恕魂直迦鉢婆羅(さはじょこんじかはばら):梵名sarpiSkuNdika-parva?。精舎名。王舎城五山の一。
舍婆提一處。祇洹精舍更有一處。摩伽羅母堂更無第三處。 舎婆提には一処、祇洹精舎と、更に一処、摩伽羅母堂有りて、更に第三の処無し。
『舎婆提』の、
『一処』は、
『祇桓精舍( jetavana-anaathapiNDasyaaraama )であり!』、
更に、
『一処』、
『摩伽羅母堂( mRgaara-maatR-praasada )が有り!』、
更に、
『第三処』は、
『無かった!』。
  祇洹精舎(ぎおんしょうじゃ):具に祇樹給孤獨園(梵語jetavana-anaathapiNDasyaaraama)と称す。摩竭陀国の祇樹太子が樹林を施与し、給孤独長者が園地を施与せしにより名づく。『大智度論巻7下注:祇樹給孤獨園』参照。
  摩伽羅母堂(まがらもどう):梵語mRgaara-maatR-praasadaの訳。又鹿子母堂とも訳す。。蜜利伽羅磨多(梵mRgaara-maatR、鹿子母と訳す)の施与せし講堂。『大智度論巻8下注:鹿子母』参照。
婆羅奈斯國一處。鹿林中精舍名梨師槃陀那。 婆羅奈斯国に一処、鹿林中の精舎、梨師槃陀那と名づく。
『婆羅奈斯( baaraaNasii )国』には、
『一処』、
『鹿林中の精舎であり!』、
『梨師槃陀那( RSipatana )』と、
『呼ばれていた!』。
  婆羅奈斯国(ばらなしこく):婆羅奈斯は梵名baaraaNasii。中印度に在りし古国の名。『大智度論巻21上注:婆羅痆斯国』参照。
  梨師槃陀那(りしはんだな):梵名RSipatanaの音訳。具に仙人住処鹿野苑RSipatana mRgadaava(巴isipatana migadaaya)と称し、鹿林精舎、鹿野苑等に訳す。『大智度論巻26上注:鹿野苑』参照。
毘耶離二處。一名摩呵槃。二名彌猴池岸精舍。 毘耶離には二処、一に摩呵槃と名づけ、二に彌猴池岸精舎と名づく。
『毘耶離( vaizaali )』には、
『二処』、
一は、
『摩呵槃( mahaavana )』と、
『呼び!』、
二は、
『彌猴池岸精舎( markaTa-hrada )』と、
『呼ばれていた!』。
  毘耶離(びやり):梵名vaizaaliの音訳。中印度の国名。仏滅後一百年にて七百の賢聖の第二結集の処。この国内の種族を離車(梵licchavii)という。『大智度論巻2上注:吠舍釐国』参照。
  摩呵槃(まかはん):梵名mahaavana。大林と訳す。毘耶離国の林名。<(丁)
  彌猴池岸(みこうちがん):梵名markaTa-hradaの訳。中印度毘舎離国菴羅女園の側に位す。昔獼猴の群集まりて仏の為にこの池を作り、仏曽て此の処に於いて諸経を説きたまえり。天竺五精舎の一。
鳩睒彌一處。名劬師羅園。如是諸國。或一處有精舍。或空樹林。以王舍城多精舍坐禪人所宜其處安隱故多住此。 鳩睒弥には、一処、劬師羅園と名づく。是の如き諸国には、或いは一処に精舎有り、或いは空樹林あり。王舎城には、精舎多く、坐禅人に宜しき所なるを以って、其の処は安隠なるが故に、多く此に住まりたまえり。
『拘睒弥( kauzaambii )』には、
『一処』、
『劬師羅園( kokila )』と、
『呼ばれていた!』。
是れ等の、
諸の、
『国』には、
或は、
『一処』の、
『精舎』か、
或は、
『空樹林』が、
『有るだけである!』が、
『王舎城』には、
『精舎が多く!』、
『坐禅人』には、
『宜しき所であり!』、
其の、
『処』が、
『安隠である!』が故に、
此に、
『多く!』、
『住まられたのである!』。
  鳩睒弥(くせんみ):鳩睒弥は梵名kauzaambiiの音訳。古代印度の大都市の名。『大智度論巻14下注:憍賞弥国』参照。
  劬師羅園(くしらおん):劬師羅は梵名kokilaの音訳。カッコウに似た鳥の名。
復次是中有富那羅等六師。自言。我是一切智人。與佛為對。及長爪梵志婆蹉姓拘迦那大等。皆外道大論議師。及長者尸利崛多提婆達多阿闍貰等。是謀欲害佛不信佛法各懷嫉妒。有是人輩故佛多住此。譬如毒草生處近邊必有良藥。 復た次ぎに、是の中には、富那羅等の六師有りて、自ら、『我れは是れ一切智人なり』、と言いて。仏と対を為す。及び長爪梵志、婆蹉姓の拘迦那大等は、皆、外道の大論議師なり。及び長者の尸利崛多、提婆達多、阿闍貰等は、是れ謀りて仏を害せんと欲し、仏法を信ぜず、各嫉妒を懐けり。是の人輩有るが故に、仏は多く此に住まりたまえり。譬えば、毒草の生処の近辺には、必ず良薬有るが如し。
復た次ぎに、
是の中には、
『富那羅( puurna )』等の、
『六師』が、
『有り!』、
自ら、
わたしは、
『一切智』の、
『人である!』と、
『言って!』、
『仏』に、
『対抗していた!』。
及び、
『長爪梵志( dirghanakhabrahamacaarin )』や、
『婆蹉姓( vatsa )の拘迦那大』等は、
皆、
『外道』の、
『大論議師であり!』、
及び、
『長者の尸利崛多( srigupta )』や、
『提婆達多( devadatta )』や、
『阿闍貰( ajaatazatru )』等は、
『謀略して!』、
『仏』を、
『害しよう!』と、
『思い!』、
『仏』の、
『法』を、
『信じず!』、
各々、
『嫉妒』を、
『懐いていた!』。
是のような、
『人』の、
『輩()』が、
『有る!』が故に、
『仏』は、
此に、
『多く!』、
『住まられた!』。
譬えば、
『毒草』の、
『生える処』の、
『近辺』には、
必ず、
『良薬』が、
『有るようなものである!』。
  富那羅(ふなら):梵名puurnaの音訳。具に富蘭那迦葉puuraNa-kazyapaと称す。釈尊在世時に中印度に勢力有る六師外道の一。『大智度論巻26上注:富蘭那迦葉』参照。
  六師外道(ろくしげどう):梵語SaT-zaastaaraaHの訳。釈尊の時代に中印度に勢力ありし六人の外道論師をいう。
  (1)富蘭那迦葉(ふらんなかしょう):梵名puuraNa-kazyapaの音訳。また富蘭迦葉、不蘭迦葉、富蘭那等に作り、意訳して亀、飲光、護光と訳す。『法句譬喩経巻3地獄品』によれば、富蘭那迦葉を舎衛国婆羅門師と為し、五百の弟子有り。かつて仏と道力を較量し、敗に落ちて後、水に投じて死せり、或いは説かく、それを奴隷の子と為して、常に裸形を為せり、と。『長阿含巻17沙門果経』によれば、その主張は無因論にして、無道徳論なり、衆生の迷悟等には皆因縁無し、善悪諸業にもまた果報無しと為せり。別に巴利文増支部によれば、富蘭那迦葉は人を分けて六種の階級と為す、即ち、(ⅰ)黒生:屠夫、猟師等の賎業に就く者。(ⅱ)青生:仏教の比丘及び論を業とする者、論を作す者。(ⅲ)赤生:尼乾子の徒衆。(ⅳ)黄生:在家の裸形者。(ⅴ)白生:邪命外道。(ⅵ)最勝白生:難陀婆蹉、瞿沙商吉迦、末伽梨拘舍梨子等なり。即ち殺生、偸盗等は罪を造らず、布施、修養等も福を生じないとする。
  (2)末伽梨拘舍梨子(まかりくしゃりし):梵名maskarii-gozaaliiputraの音訳。また末伽梨拘賖梨子等に作る。これを自然論者と為し、衆生の苦楽は因縁に由らずして、ただ自然の産生なりと主張する者なり。末伽梨とは、乃ち常行(常に歩く)の意にして、この外道は常に行きて住まらざるが故にこれを称す。即ち衆生は霊魂、地、水、火、風、虚空、得、失、苦、楽、生、死の十二要素からなる実体であり、自己の意志に由らず、互いに影響されず、初めから840万大劫輪廻することが決定されているとする。
  (3)刪闍夜毘羅胝子(さんじゃやびらちし):梵名saJjayii-vairaTiiputraの音訳。また刪闍耶毘蘭荼、散若夷毘羅梨子等に作る。仏在世時に頗る勢力有り、舎利弗と目揵連等も帰仏の前に於いてはかつてこれに師事せるも、その学説は詳ならず、或いは懐疑論の消極主義に係わって、一切の智を捨てて、専ら実践修行を重んずるものなり。即ち真理を有るがままに認識し説明することは不可能であり、来世の存在も善悪の果報も、それに関して判断することを避けた。
  (4)阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたきしゃきんばら):梵名ajitakezakambalaの音訳。また阿市多雞舍甘跋羅、阿支羅翅舍甘婆羅等に作り、無勝髪褐と意訳す。釈尊在世時、中印度にて婆羅門教の中に極めて勢力を具えし一派と為す。その学説は、『長阿含経巻17沙門果経』によれば、心物二元を共に断滅に帰し、善悪禍福、因縁果報、過去未来等を否認して、ただ現世にその快楽を尽くすことを主張せり、また即ち謂わゆる順世外道中の断滅論、唯物論、感覚論、快楽説なり。然るに別して『維摩経略疏巻4』、『注維摩経巻3』、『希麟音義巻9』等の所説によれば、則ちこれを謂って、苦行外道の一にして、現世の受苦を来世の受楽の因と為すが故に、弊衣を著け、自ら髪を披いて五熱を持って身を炙り、種種の苦行を行ずることを主張せりと為す。即ち衆生は、地、水、火、風の四元素からなり、霊魂は存在せず、死後に善悪の果報を受けることもないとする。
  (5)迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんねん):梵名kakuda-katyaayanaの音訳。また迦羅拘陀迦旃延等に作り、剪剃と意訳す。この外道は一切の衆生の罪福は悉く自在天の所作なりと為し、自在天喜べば則ち衆生安楽、自在天瞋れば則ち衆生苦悩するが故に、まさに一切の罪福は自在天の主宰に帰すべくして、人は罪福有りと言うべからずと謂い、またもし人にして一切の衆生を殺害するも、心に慚愧を生ぜずんば、遂に悪道に堕ちざること、なお虚空の塵水を受けざるが如し、もし慚愧を生ぜば、即ち地獄に入ること、なお大水の地を潤湿するが如しと謂えり。即ち不生不滅不変の七要素である地、水、火、風、苦、楽、生命のみが実在し、個別の霊魂は無く、例え頭を切り落としても生命を奪うことにならない、剣による裂け目はただ七要素に間隙を生じたに過ぎないとする。
  (6)尼乾陀若提子(にけんだにゃくだいし):梵名nigrantha-jJaatiputraの音訳。また尼乾陀、尼乾子、尼揵陀弗咀羅、尼乾弗怛羅等に作り、勒沙婆(梵rsabha)を開祖、尼乾陀若提子を中興の祖と為す。この外道は、苦行を修むるを以って世間の衣食の束縛を離れ、煩悩の結と三界の繋縛を遠離することを期す、故に離繋、不繋、無継、無結等の訳名あり。またこの外道は形を露すことを以って恥と為さざるが故に世人に、無慚外道、裸形外道と貶めらる。尼揵陀若提子の入寂後久しからずして、尼乾子外道は分かれて空衣と白衣との二派と成り、空衣派は衣を着けざる裸体生活を主唱すれば、一般に称して裸形外道、露形外道と為し、白衣派は、即ち北印度の僧訶補羅国の一帯に流行すれば、寒気を避けんが為に白衣を著く。これ或いは即ちその分裂して二派を為す原因なり。『大唐西域記巻3』によれば、本師の所説の法は、多く仏教の義を窃すみ、類に随うて法を説き、軌義に擬則す。大なるを苾芻と称し、小なるを沙彌と称し、威儀と律行とは頗る僧法に同ず。ただ少し髪を留めて、これを裸形に加え、或いは所服有るも白色を異と為せば、この流に拠って別くれば、やや区分することを用う。その天師の像は窃かに如来に類し、衣服を差と為すも、相好に異なること無し、と。即ち存在とは霊魂と、運動の条件、静止の条件、虚空、物質の要素からなり、霊魂は業の重みにより上昇できずに輪廻している。厳格な禁欲の生活はこの業を払い落して、霊魂を解脱せしむるとする。<(望)
  (たい):[本義]応当する( answer, reply )。両者が対面する/相互に( face, mutual, face to face )、対抗/相当/相配する( match )、対比/比較/確認する( check, compare, identify )、和する/混ぜる( mix, add )、扱う/対応する( treat, deal with, cope with )、二分する( divide into halves )、揚げる/顕揚/顕示する( spread, make known, display one's power )、抵当に入れる( mortgage )、勝負する( have a contest )、値する( be worthy of, not letting down )、対して/向って( subtend, be directed at )、配偶者( spouse )、相手/敵対者( opponent )、対抗策/対策( countermeasure )、対句( antithetical couplet )、二人共に( together )、一対( couple, pair )、[動作の対象]( to, toward )。
  長爪梵志(ちょうそうぼんし):梵名dirghanakhabrahamacaarinの訳。長爪はその名にして梵志は梵行を志す外道の総称なり。舎利弗の舅、摩訶倶郗羅(梵mahaakauSThila)、姉舎利と論義して如かざれば、倶郗羅思惟して言わく、姉の力には非ざるなり、必ず智人を懐き、母の口に寄せて言えるなり。未だ生ぜざるに乃ち爾り、生じて長大するに及ばば、まさにこれを云何せん?思惟しおわりて憍慢心を生じ、広く論義せんが故に出家して梵志と作り、南天竺国に入りて始めて経書を読めるに諸人の問うて言わく、爾は何経を習わんと欲す?長爪答えて言わく、十八種の大経は尽くこれを読まんと欲す。諸人語りて曰く、汝が寿命を尽くすもなお一も得ざらん。何をか況やよく尽くをや?長爪自ら誓いて言わく、われ爪を剪らずして要ず十八種の経を読み尽くさん。人、爪の長いを観て、号して長爪梵志と為す。既に学成りて、諸の論師を摧き、還って本国に至るに、姉の生子を問えるに、曰く、かれ生じて十六歳に至るに、論義して一切の人に勝れるも、ある釈種の道人、頭を剃りて弟子と為せり、と。長爪これを聞いて直ちに仏の所に詣り、仏に語りて曰く、瞿曇!われは一切の法を受けず、と。仏の長爪に問わく、汝が言わく一切の法を受けずとは、この見を受くるや不や?かれこの見をわれ受くと言わば則ち自らの語に相い違うと知り、便ち答えて言わく、一切の法を受けず、この見もまた受けず、と。仏の言わく、汝は一切の法を受けずしてこの見もまた受けず、則ち受くる所無く、衆人と異なり無からん。何を用って自ら高ぶり憍慢を生ずることかくの如し?長爪答うること能わずして、自ら負処に墜つるを知り、仏に於いて身心を生ずれば、仏は為に法を説いてその邪見を断じ、彼は則ち坐して聖果を得たり。<(望)『大智度論巻1、同巻25上注:長爪梵志』参照。
  婆蹉(ばしゃ):梵名vatsaの音訳。また婆嗟に作る。三種の婆蹉有り、(1)仏弟子の一。常に苦行を修めて仏に称讃さる。『増一阿含経巻3』:『我声聞中第一比丘、‥‥苦身露坐、不避風雨、所謂婆嗟比丘是』。(2)仏在世時の婆蹉種の出家修行者。『雑阿含経巻34』によれば、かつて多く仏及び仏弟子に、『命と身との関係、如来に後の死の有りや無しや、有我なるや無我なるや、世間は常なるや無常なるや等の問題に関して教を請うた。これを称して婆蹉種の出家と為す。主に外道に帰依する出家。(3)犢子部。詳しくは婆蹉富楼(梵vaatsii-putriiya)に作り、意訳して犢子部と為す。<(佛)『大智度論巻2(下)注』参照。
  拘迦那大(くかなだい):不明。
  尸利崛多(しりくった):梵名sriguptaの音訳。徳護と訳す。王舎城の長者なり。外道の勧めを受けて門内に火坑を造り、食中に毒薬を置いて仏を請じ、これを害せんと欲するも、仏は知りてその家に至り、大神力を現せば、長者は神力を見て、慚愧し懺悔せり。『仏説徳護長者経』参照。<(望)
  提婆達多(だいばだった):梵名devadattaの音訳。また調達、略して提婆、達多に作り、天熱、天授等に意訳す。仏の在世時、五逆罪を犯して僧団を破壊して仏に敵対せし悪比丘。釈尊の叔父斛飯王の子、阿難の兄弟(別に甘露飯王、白飯王、或いは善覚長者の子等の異説有り)。幼時、釈尊、難陀と共に諸芸を習うに、その技優異にして常に釈尊と競争せり。仏の成道の後、仏に随いて出家し、十二年間に於いて善心修行して精勤懈らず。後に未だ聖果を得る能わざるに因り、その心を退転せしめ漸く悪念を生じて神通を学びて利養を得んと欲するも仏許さざれば、遂に十力迦葉の処に至りて神通力を習得し、摩伽陀国阿闍世太子の供養を受く。これに由りて提婆は愈よ憍慢を加え、仏に代りて僧団を領導せんと欲するも、また未だ仏に允許を得ず。この後、提婆は五百の徒衆を率いて僧団を離脱し、自ら大師と称して五法を制定し、これを以って速かに涅槃の道を得ると為し、遂に僧伽の和合を破れり。その立つる処の五法とは、諸書の記載一ならずして、『有部毘奈耶破僧事巻10』によれば、五法を不食乳酪、不食魚肉、不食塩、受用衣時不截その縷績(即ち長布を用う)、住村舍而不住阿蘭若処と為す。また『十誦律巻4巻36』によれば、五法を尽形寿受著衲衣、尽形寿受乞食之法、尽形寿受一食の法、尽形寿受露地坐法、尽形寿受断肉法と為し、その他にも法義の解釈等に関して提婆はまたその異説を唱えること有りと為す。提婆は摩伽陀国王舎城に於いて独立教団を擁立し、阿闍世の礼遇を受くるに勢力漸く大となれり。仏はかつて屡々比丘衆に告げて誡むらく、『提婆の利養を貪る勿かれ』、と。後に提婆は阿闍世に教唆して父を弑せしめ、並びに謀りて新王の威勢を藉り、教法の王と為らんとす。阿闍世は遂にその父頻婆娑羅王を幽禁して自ら王位に登り、提婆もまた仏を迫害せんと欲して、五百人の投石器を以って仏を撃殺せんとするも未だ果たさず。また耆闍崛山に於いて大石を投下せるに、金毘羅神接阻すといえども砕片仏足を傷つけて血を出だせり。また仏の王舎城に入る時に乗じて狂象を放ちこれに害を加えんとするも、象は仏に遇うて即ち帰服し、事もまた成らず。その時、舎利弗及び目揵連は提婆の徒衆に勧め諭してまた仏の僧団に帰せしめ、阿闍世王もまた仏の教化を受けて懺悔帰依するも、提婆はなお悪念を捨てずして、蓮花色比丘尼を撲打して死に至らしめ、また十指の爪の中に毒を置いて、仏足に礼するに由り仏を傷つけんとせしも、ただ仏足の堅固なること巌を如くして、提婆は反って自ら手指を破り、乃ちその地に於いて命終せり。古来、破和合僧、出仏身血、放狂象、殺蓮花色比丘尼、十爪毒手等の五事を提婆の五逆と為し、また特に破僧、傷仏、殺比丘尼の三事を称して三逆と為す。<(望)
  阿闍貰(あじゃせ):梵名ajaatazatruの音訳。仏在世時中印度摩竭陀国頻婆娑羅王(梵bimbisaara)の子。また阿闍多沙兜楼、阿闍貰、阿闍多設咄路等に作り、未生怨、法逆と意訳す。またその母を韋提希と名づくるが故にまた阿闍世韋提希子と称す。後に父王を弑して自ら立ち、大いに中印度の覇権を張れり。その母胎に処する時に於いて、占師の預言すらく、この子は降生の後まさに父を弑すべし、と。父王、占師の預言を聴いて十分に驚恐し、遂に楼上よりこれを将って投棄せるも、僅かに手指を切断せるのみにして未だ死なざれば、故にまた婆羅留支(梵valaruci、折指の義)と称せり、並びにその未だ生ずる前に既に怨を結び已れるを以って、これを称して未生怨と為す。長ずるに及び、立ちて太子と為り、提婆達多の唆を聴信するに因り、父王を地牢中に幽禁せしめて、これを死に到らしめんと欲す。即位の後、隣近の諸小国を併呑して威を四方に震わし、印度等一の基礎を定む。後に父を弑せし罪に因り、遍体に瘡を生ぜしに、仏の前に至りて懺悔すれば即ち平癒せるに、遂に仏に帰依せり。仏の滅度の後、仏教の兄弟の大護法と為り、摩訶迦葉の七葉窟の経典を結集せる時には、阿闍世王は大檀越と為りて、一切の資具を供給せり。<(望)
  参考:『雑阿含経巻34』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有婆蹉種出家來詣佛所。合掌問訊。問訊已。退坐一面。白佛言。瞿曇。欲有所問。寧有閑暇見答以不。佛告婆蹉種出家。隨汝所問。當為汝說。婆蹉種出家白佛言。云何。瞿曇。命即身耶。佛告婆蹉種出家。命即身者。此是無記。云何。瞿曇。為命異身異耶。佛告婆蹉種出家。命異身異者。此亦無記。婆蹉種出家白佛。云何。瞿曇。命即身耶。答言。無記。命異身異。答言。無記。沙門瞿曇有何等奇。弟子命終。即記說言。某生彼處。某生彼處。彼諸弟子於此命終捨身。即乘意生身生於餘處。當於爾時。非為命異身異也。佛告婆蹉。此說有餘。不說無餘。婆蹉白佛。瞿曇。云何說有餘。不說無餘。佛告婆蹉。譬如火。有餘得然。非無餘。婆蹉白佛。我見火無餘亦然。佛告婆蹉。云何見火無餘亦然。婆蹉白佛。譬如大聚熾火。疾風來吹。火飛空中。豈非無餘火耶。佛告婆蹉。風吹飛火。即是有餘。非無餘也。婆蹉白佛。瞿曇。空中飛火。云何名有餘。佛告婆蹉。空中飛火依風故住。依風故然。以依風故。故說有餘。婆蹉白佛。眾生於此命終。乘意生身往生餘處。云何有餘。佛告婆蹉。眾生於此處命終。乘意生身生於餘處。當於爾時。因愛故取。因愛而住。故說有餘。婆蹉白佛。眾生以愛樂有餘。染著有餘。唯有世尊得彼無餘。成等正覺。沙門瞿曇。世間多緣。請辭還去。佛告婆蹉。宜知是時。婆蹉出家聞佛所說。歡喜隨喜。從坐起而去』
如偈說
譬如師子  百獸之王 
為小虫吼  為眾所笑 
若在虎狼  猛獸之中 
奮迅大吼  智人所可
諸論議師如猛虎 
在此眾中無所畏 
大智慧人多見聞 
在此眾中最第一
偈に説くが如し、
譬えば師子は、百獣の王なれば、
小虫の為に吼ゆれば、衆の笑う所と為り、
若し虎狼の、猛獣の中に在りて、
奮迅大吼すれば、智人の可とする所の如し。
諸の論議師の、猛虎の如き、
此の衆中に在りても、畏るる所無し。
大智慧の人は、見聞多く、
此の衆中に在りて、最も第一なればなり。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
譬えば、
『師子』という、
『百獣の王』が、
『小虫』に、
『吼えれば!』、
『衆()』に、
『笑われる!』が、
『虎狼』という、
『猛獣』中に於いて、
『奮迅し!』、
『大吼すれば!』、
『智人』に、
『認められるように!』、
諸の、
『論議師』は、
譬えば、
『猛虎のようである!』が、
此の、
『衆』中に於いても、
『畏れる!』ことが、
『無い!』。
『大智慧の人』は、
『多く!』、
『見、聞して!』、
此の、
『衆』中に於いて、
『最も!』、
『第一だからである!』。
  (ざい):[本義]生存/存在する( be living, exist )。~に居る/処する( be at, be on )、依る:例山不在高水不在深( depend on, rest with, be in )、属す/所属する( be a member of an organization, join or belong an organization )、視察/観察:例存往者在来者( inspect )、挨拶する( greet )、到達/到着する( arrive )、[動作の場所/時間/範囲等]~に於いて( in, on, at )、~従り( from )、ちょうど:或は正在( just, be in )、地方/処( place )、[動詞の後に用いて可能を表示する助辞]=得、[語気を表示する助辞]、[著に相当する助辞]。
以是大智多聞人皆在王舍城故。佛多住王舍城。 是の大智、多聞の人の皆、王舎城に在るを以っての故に、仏は多く、王舎城に住まりたまえり。
是の、
『大智、多聞』の、
『人』は、
皆、
『王舎城』に、
『在()た!』が故に、
『仏』は、
『多く!』、
『王舎城』に、
『住まられたのである!』。
復次頻婆娑羅王。到伽耶祀舍中。迎佛及餘結髮千阿羅漢。是時佛為王說法。得須陀洹道。即請佛言。願佛及僧就我王舍城。盡形壽受我衣被飲食臥具醫藥。給所當得。佛即受請。是故多住王舍城。 復た次ぎに、頻婆娑羅王は、伽耶の祀舎中に到りて、仏、及び結髪を除きし千阿羅漢を迎う。是の時、仏は、王の為に法を説き、須陀洹の道を得るに、即ち仏に請うて言わく、『願わくは仏、及び僧、我が王舎城に就き、形寿を尽くすまで、我が衣被、飲食、臥具、医薬を受けたまえ。当に得べき所を給せん。』と。仏は、即ち請を受け、是の故に、多く王舎城に住まりたまえり。
復た次ぎに、
『頻婆娑羅王』は、
『伽耶( gaja )』の、
『祀舎(神社)』中に、
『到り!』、
『仏』と、
『結髪を除いた!』、
『千阿羅漢』を、
『迎えた!』。
是の時、
『仏』は、
『王』の為に、
『法を説いて!』、
『須陀洹(預流果)の道』を、
『得させられた!』。
『王』は、
『仏を請うて!』、こう言った、――
願わくは、
『仏と僧』が、
わたしの、
『王舎城』に、
『就いて(赴任して)!』、
『形()、寿』を、
『尽くす( exhaust )まで!』、
わたしの、
『衣服、飲食、臥具、医薬』を、
『受けたまえ!』。
当然、
『得られるべき!』所を、
『支給します!』、と。
『仏』は、
そこで、
『請』を、
『受けられた!』ので、
是の故に、
『多く!』、
『王舎城』に、
『住まられたのである!』。
  伽耶(がや):梵語gajaの音訳。象の義。具に梵gaja-ziirSaと称し、象頭山と訳す。山名。是れに二処有り、一には霊鷲山附近の提婆達破僧事を作せし処、二には仏成道処の附近に在り。
  祀舎(ししゃ):神を祀る社。
  余結髪(よのけっぱつ):他本に従い、除結髪に改む。
  須陀洹(しゅだおん):梵語srota-aapanna。四沙門果の一。即ち聖者の見惑を断尽せる者を云う。又入流、至流、逆流、或いは預流等と訳す。声聞四果中の初果の名なり。入流とは初めて聖道に入るの義、逆流とは生死の流れに違背するなり。三界の見惑を断ちて即ちこの果を得。初めて四諦の道理を認めて聖者の流れに入る位にして阿羅漢に至る最初の位。『大智度論巻18上注:須陀洹、同巻18下注:四向四果』参照。
  (しゅう):接近する/近づく( come close to, move towards )、帰する/属する( belong to )、赴任する( assume the office of )、完成/成功する( accomplish )、終る/尽きる( end )、適応する/適する/身をゆだねる( accommodate oneself to, suit, fit, yield )、登る/開始する( ascend, start )。
  尽形寿(じんぎょうじゅ):一生涯。
  衣被(えひ):衣服。
  所当得(しょとうとく):得は契合の義。ちょうど必要なだけ。
復次閻浮提四方中。東方為始。日初出故。次第南方西方北方。東方中摩伽陀國最勝。摩伽陀國中王舍城最勝。是中有十二億家。 復た次ぎに、閻浮提の四方中、東方を始と為す、日の初めて出るが故なり。次第に南方、西方、北方なり。東方中には摩伽陀国最勝なり。摩伽陀国中には王舎城最勝なり。是の中に十二億の家有り。
復た次ぎに、
『閻浮提』の、
『四方』中には、
『日』が、
『初めに!』、
『出る!』が故に、
『始』は、
『東方であり!』、
『次第に!』、
『南方、西方、北方である!』が、
『東方』中には、
『摩伽陀国』が、
『最も!』、
『勝れており!』、
『摩伽陀国』中には、
『王舎城』が、
『最も!』、
『勝れていて!』、
是の中には、
『十二億の家』が、
『有った!』。
  閻浮提(えんぶだい):梵名jambudvipaの音訳。又贍部州に作る。『長阿含経巻18閻浮提品』によれば、須弥山の南に天下あり、閻浮提と名づく。その土は南に狭く北に広く、縦横七千由旬あり。人面もまた爾り。この地形に拠る、とあり、即ち須弥山の南方の大洲の名にして即ち古代印度大陸を指すものと知る。或いは又吾人の住処なりともいう。閻浮提の名に関しては、其の地に閻浮と名づくる樹木あれば、之に因りて名づくると為す。
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻11』:『論曰。於外海中大洲有四。謂於四面對妙高山。南贍部洲北廣南陜。三邊量等。其相如車。南邊唯廣三踰繕那半。三邊各有二千踰繕那。唯此洲中有金剛座。上窮地際下據金輪。一切菩薩將登正覺。皆坐此座上起金剛喻定。以無餘依及餘處所有堅固力能持此故。東勝身洲東陜西廣。三邊量等。形如半月。東三百五十。三邊各二千。西牛貨洲圓如滿月。徑二千五百。周圍七千半。北俱盧洲形如方座。四邊量等。面各二千。等言為明無少增減。隨其洲相人面亦然。復有八中洲。是大洲眷屬。謂四大洲側各有二中洲。贍部洲邊二中洲者。一遮末羅洲。二筏羅遮末羅洲。勝身洲邊二中洲者。一提訶洲。二毘提訶洲。牛貨洲邊二中洲者。一舍搋洲。二嗢怛羅漫怛里拏洲。俱盧洲邊二中洲者。一矩拉婆洲。二憍拉婆洲。此一切洲皆人所住。有說。唯一邏剎娑居。頌曰 此北九黑山  雪香醉山內  無熱池縱廣  五十踰繕那  論曰。此贍部洲從中向北。三處各有三重黑山。有大雪山。在黑山北。大雪山北有香醉山。雪北香南有大池水。名無熱惱。出四大河。一殑伽河。二信度河。三徙多河。四縛芻河。無熱惱池縱廣正等。面各五十踰繕那量。八功德水盈滿其中。非得通人無由能至。於此池側有贍部林樹形高大其果甘美。依此林故名贍部洲。或依此果以立洲號。‥‥』
佛涅槃後。阿闍貰王以人民轉少故。捨王舍大城。其邊更作一小城。廣長一由旬。名波羅利弗多羅。猶尚於諸城中最大。何況本王舍城。 仏の涅槃の後、阿闍貰王は、人民の転た少なきを以っての故に、王舍大城を捨てて、其の辺に更に一小城を作れり。広長一由旬、波羅利弗多羅と名づく。猶尚お諸城中に於いて最大なり。何に況んや、本の王舎城をや。
『仏』の、
『涅槃の後』、
『阿闍世王』は、
『人民』が、
『次第に!』、
『少なくなった!』が故に、
『王舍』の、
『大城』を、
『捨てて!』。
其の辺に、
更に、
『広長一由旬』の、
『一小城』を、
『作り!』、
『波羅利弗多羅( paaTaliputra )』と、
『呼んだ!』が、
猶お、
諸の、
『城』中の、
『最大であった!』。
況して、
本の、
『王舎城』は、
『言うまでもない!』。
  由旬(ゆじゅん):梵語yojanaの訳。帝王の一日の行軍の里程。或いは四十里、或いは三十里という。凡略10㎞。
  波羅利弗多羅(ぱらりぷったら):梵名paaTaliputraの音訳。中印度摩竭陀国の都城。また波吒釐子城、波吒羅城、巴羅利弗城等に作り、華氏城と意訳す。恒河の南岸に位し阿闍世王の時に之を建つ。<(望)
復次是中人多聰明皆廣學多識。餘國無此。 復た次ぎに、是の中の人は、多く聡明にして、皆広く学び、多く識るも、余の国には、此れ無し。
復た次ぎに、
是の中の、
『人』は、
『多く!』が、
『聡明であり!』、
皆、
『広く学んで!』、
『多く識っていた!』が、
『余の国』には、
此の、
『事』が、
『無かった!』。
復次有人應得道者。待時待處待人。佛豫知釋提桓因及八萬諸天。應在摩伽陀國石室中得道。是故佛多住王舍城。 復た次ぎに、有る人は、応に道を得べき者にして、時を待ち、処を待ち、人を待つ。仏は豫(あらかじ)め、釈提桓因、及び八万の諸天の、応に摩伽陀国の石室中に在りて、道を得べきを知りたまえば、是の故に仏は、多く王舎城に住まりたまえり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
当然、
『道』を、
『得るはずである!』が、
而し、
『時、処、人』を、
『待たなくてはならない!』。
『仏』は、
預(あらか)じめ、
『釈提桓因と八万の諸天』が、
『摩伽陀国の石室( indrazailaguhaa )』中に於いて、
『道を得る!』ことを、
『知っていられた!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『多く!』、
『王舎城』に、
『住まられたのである!』。
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):梵名zakradevaanaam-indra。具に釈迦提桓因陀羅、釈提婆那民に作り、略して釈提桓因、釈迦提婆と称し、又天帝釈、帝釈天、天主等に作り、並びに因陀羅(indra)、憍尸迦(kausika)、娑婆婆等の異称あり。須弥山頂なる忉利天善見城に住する天主なり。『雑阿含経巻40』に、『世尊、何の因、何の縁ありて釈提桓因を釈提桓因と名づくる。仏、比丘に告ぐらく、釈提桓因は本、人たりし時、頓に施を行じ、沙門婆羅門の貧窮困苦し、生を求めて行路に乞うものには、施すに飲食、銭財、穀布、華香、厳具、床臥、灯明を以ってするに堪能なるを以っての故に釈提桓因と名づく』と云い、『大智度論巻54』に、『釈提桓因とは、釈迦は秦に能と言い、提婆は秦に天と言い、因提は秦に主と言い、合してこれを言わば釈提婆那民なり』と云える是れなり。<(望)『大智度論巻21(下)注:因陀羅』参照。
  摩伽陀国石室(まがだこくしゃくしつ):即ち因陀羅石室(梵名indrazailaguhaa)の意。「長阿含巻10釈提桓因問経」等に依るに、釈提桓因、及び忉利の諸天衆の此の窟中に於いて仏より教を受けたる事を記せり。
  参考:『長阿含巻10釈提桓因問経』:『一時。佛在摩竭國菴婆羅村北。毘陀山因陀娑羅窟中。爾時。釋提桓因發微妙善心。欲來見佛。今我當往至世尊所。時。諸忉利天聞釋提桓因發妙善心。欲詣佛所。即尋詣帝釋。白言。善哉。帝釋。發妙善心。欲詣如來。我等亦樂侍從詣世尊所。時。釋提桓因即告執樂神般遮翼曰。我今欲詣世尊所。汝可俱行。此忉利諸天亦當與我俱詣佛所。對曰。唯然。時。般遮翼持琉璃琴。於帝釋前忉利天眾中鼓琴供養。時。釋提桓因.忉利諸天及般遮翼。於法堂上忽然不現。譬如力士屈伸臂頃。至摩竭國北毘陀山中。爾時。世尊入火焰三昧。彼毘陀山同一火色。時國人見。自相謂言。此毘陀山同一火色。將是如來諸天之力。時。釋提桓因告般遮翼曰。如來.至真甚難得睹。而能垂降此閑靜處。寂默無聲。禽獸為侶。此處常有諸大神天侍衛世尊。汝可於前鼓琉璃琴娛樂世尊。吾與諸天尋於後往。對曰。唯然。即受教已。持琉璃琴於先詣佛。去佛不遠。鼓琉璃琴。以偈歌曰  跋陀禮汝父  汝父甚端嚴  生汝時吉祥  我心甚愛樂  本以小因緣  欲心於中生  展轉遂增廣  如供養羅漢  釋子專四禪  常樂於閑居  正意求甘露  我專念亦爾  能仁發道心  必欲成正覺  我今求彼女  必欲會亦爾  我心生染著  愛好不捨離  欲捨不能去  如象為鉤制  如熱遇涼風  如渴得冷泉  如取涅槃者  如水滅於火  如病得良醫  飢者得美食  充足生快樂  如羅漢遊法  如象被深鉤  而猶不肯伏  [馬*奔]突難禁制  放逸不自止  猶如清涼池  眾花覆水上  疲熱象沐浴  舉身得清涼  我前後所施  供養諸羅漢  世有福報者  盡當與彼供  汝死當共死  汝無我活為  寧使我身死  不能無汝存  忉利天之主  釋今與我願  稱汝禮節具  汝善思察之  爾時。世尊從三昧起。告般遮翼言。善哉。善哉。般遮翼。汝能以清淨音和琉璃琴稱讚如來。琴聲.汝音。不長不短。悲和哀婉。感動人心。汝琴所奏。眾義備有。亦說欲縛。亦說梵行。亦說沙門。亦說涅槃‥‥』
復次其國豐樂乞食易得。餘國不如。 復た次ぎに、其の国の豊楽にして、乞食の得易きこと、余の国は如かず。
復た次ぎに、
其の、
『国』は、
『豊かで!』、
『楽しく!』、
『乞食して!』、
『食』を、
『得易い!』が、
余の、
『国』は、
『王舎城』に、
『及ばない!』。
又以三因緣故。一者頻婆娑羅王約敕。宮中常作千比丘食。二者樹提伽。雖人中生常受天富樂。又多富貴諸優婆塞。三者阿波羅邏龍王。善心受化作佛弟子。除世飢饉故常降好雨。是故國豐。 又、三因縁を以っての故なり。一には頻婆娑羅王約勅して、宮中に常に千比丘の食を作す。二には樹提伽は、人中に生ずと雖も、常に天の富楽を受け、又富貴の諸の優婆塞多し。三には阿波羅邏龍王の善心、化を受けて仏弟子と作れば、世の飢饉を除かんが故に、常に好雨を降らす。是の故に国豊かなり。
又、
『三因縁』の故に、
『王舎城』に、
『多く!』、
『住まられた!』、――
一には、
『頻婆娑羅王』が、
『宮』中に於いて、
『常に千比丘の食を作る!』と、
『約束し!』、
『勅命した!』。
二には、
『樹提伽( jotiska )』が、
『人中に生まれながら!』、
常に、
『天の豊楽』を、
『受けていた!』し、
又、
『富貴』の、
諸の、
『優婆塞』が、
『多かった!』。
三には、
『阿波羅邏龍王( apalaala )』の、
『善心』が、
『化を受け!』、
『仏弟子』と、
『作った!』ので、
『世の飢饉』を、
『除く!』為に、
『常に!』、
『好雨を降らせた!』ので、
是の故に、
『国』が、
『豊かであった!』。
  約勅(やくちょく):約束して命じる。
  樹提伽(じゅだいが):梵名jyotiska。印度摩竭陀国王舎城の人、一説には瞻婆国の人にして仏弟子の一なり。又聚底色迦、殊底色迦、殊提、樹提等に作り、星暦、有命、火生、光明と意訳す。『南本大般涅槃経巻28』に依れば、瞻婆城に大長者あり、年老いて子無く、六師外道に奉持し以って子を得んことを求む。久しからずして、その妻懐胎す。六師に問うに、六師皆言わく、『是れ女子にして長命ならず』、と。復た仏に問うに、仏言わく、『必ず男子にして、妙相と福徳を具足す』、と。六師之を聞くに因り嫉妬して、乃ち菴羅果を以って毒薬に和合し母をしてこれを服せしむるに、未だ幾ばくならずして死す。其の長者乃ち薪を積みて火葬せり。時に、火死屍を焼いて腹裂け、子中より出でて火中に端坐す。仏、耆婆を遣わして火に入れ児を抱かしむるに、清涼の大河の中に入るが如く、児を抱いて還る。長者、また仏に請うて之に命名す。仏の謂わく、この児、猛火(梵jyotis、樹提と音訳す)中に生ずれば、故に名を取りて樹提迦と為せ、と。別に『光明童子因縁経』によれば、樹提迦は後に仏の所に至って出家し、煩悩を断除して阿羅漢果を証せり、と。<(佛)
  優婆塞(うばそく):梵語upaasaka、又烏波索迦、優波娑迦等に作り、近事、近事男、近善男、信士、信男、清信士等に意訳す。即ち在家のまま三宝に親近奉持して五戒を受持する男居士。在家二衆の一、四衆の一、七衆の一にして、優婆夷と同じく在家にて仏法を信仰するに係わる者を指す。『仏本行集経巻32』によれば、仏は成道の後、差梨尼迦樹(kSiriNika、善く乳汁を出だす樹)林に至りて結跏趺坐するに、爾の時、北天竺より来たれる提謂(trapusa)、波利(bhallika)なる二商主、麨、酪、蜜を和えし所の摶(だん、団子)を以って仏に供養し、三自帰戒を受く、是れを最初の優婆塞と為す、と。<(佛)
  阿波羅囉(あぱらら):梵名apalaala、又阿波邏羅に作る。龍王の名。北印度烏仗那(udyaana)国の池は阿波羅囉の所住なれば、故に之を阿波羅囉龍泉と名づく。
  (け):教化( to teach )、梵語 asaadhya の訳、征服/支配される/勝たれる/従順になる( to be subdued or mastered or won or managed, conquerable, amenable )の義、改宗させる/導く/変える( To proselytize, to guide; to transform. )の意。
如佛涅槃後。長老摩呵迦葉欲集法思惟。何國豐樂乞食易得疾得集法。如是思已。憶王舍城中頻婆娑羅王約敕常設千比丘食。 仏の涅槃の後、長老摩訶迦葉の法を集めんと欲して、思惟するが如し、『何れの国か豊楽にして、乞食して得易く、疾かに法を集むることを得ん。』と。是の如く思い已りて、憶すらく、『王舎城中には、頻婆娑羅王の約勅すらく、常に千比丘の食を設けんと。』と。
例えば、
『仏』の、
『涅槃の後』、
『長老摩訶迦葉』は、
『法』を、
『集めたい!』と、
『思い!』、
こう思惟した、――、
何の、
『国』が、
『豊かで!』、
『楽しく!』、
『乞食して!』、
『食』を、
『得易い!』が故に、
疾かに、
『法』を、
『集めることができるのか?』、と。
是のように思惟して、
『王舎城』中には、
『頻婆娑羅王』が、
『約束して!』、
『勅命した!』ので、
常に、
『千比丘の食が設けられている!』ことを、
『憶いだした!』。
頻婆娑羅王雖死此法不斷。是中食易得易可集法。餘處無如是常供。若行乞食時諸外道來共論議。若共論議集法事廢。若不共論便言諸沙門不如我。如是思惟。擇取最上千阿羅漢。將就耆闍崛山集結經藏。以是三因緣。故知摩伽陀國乞食易得。 『頻婆娑羅王死すと雖も、此の法は断ぜず。是の中には食を得ること易(たやす)く、法を集むべきこと易し。余処は是の如き常に供する無し。若しは乞食に行く時、諸の外道来たりて共に論議せん。若し共に論議せば、法を集むる事廃れん。若し共に論ぜざれば、便ち言わん、諸の沙門は、我れに如かずと。』と、是の如く思惟し、最上の千阿羅漢を択び取り、将いて耆闍崛山に就き、経蔵を集結せり。是の三因縁を以っての故に知る、摩伽陀国は乞食して得易しと。
『頻婆娑羅王』は、
『死んでいた!』が、
此の、
『法』は、
『断たれていない!』ので、
是の中は
『食を得易く!』、
『法を集め易い!』が、
余の処は、
是のような、
『供給』は、
『常設されていない!』ので、
若し、
『乞食を行う!』時、
諸の、
『外道が来れば!』、
『共に!』、
『論義するだろう!』。
若し、
『共に論議すれば!』、
諸の、
『法を集める!』、
『事(仕事)』は、
『廃止されるだろう!』。
若し、
『共に論議しなければ!』、
諸の、
『沙門』は、
『わたし達に及ばない!』と、
『言うだろう!』と、
是のように思惟すると、――
『最上』の、
『千阿羅漢』を、
『択んで!』、
『取り!』、
『将(ひき)いて!』、
『耆闍崛山』に、
『就け(赴任させ)!』、
『経蔵』を、
『集めて!』、
『結んだ!』。
是の、
『三因縁』の故に、こう知ることになる、――
『摩伽陀国』は、
『乞食して!』、
『食』を、
『得易い!』、と。
如阿含及毘尼中說言。毘耶離國時時有飢餓。如降難陀婆難陀龍王兄弟經中說。舍婆提國飢餓。餘諸國亦時時有飢餓。摩伽陀國中無是事。以是故知。摩伽陀國豐樂乞食易得 阿含、及び毘尼中の如きに説いて言わく、『毘耶離国は、時時、飢餓有り。』と。『降難陀婆難陀龍王兄弟経』中の如きに言わく、『舎婆提国は、飢餓あり。余の諸国も亦た時時飢餓有り。摩伽陀国中に、是の事無し』と。是を以っての故に知るらく、『摩伽陀国は豊楽にして、乞食得易し。』と。
例えば、
『阿含(経蔵)、毘尼(律蔵)中の説』は、こう言っている、――
『毘耶離国』は、
時々、
『飢餓』が、
『有る!』、と。
例えば、
『降難陀婆難陀龍王兄弟経中』には、こう説いている、――
『舎婆提国』は、
『飢餓しており!』、
『余の諸国』にも、
『時々!』、
『飢餓が有る!』が、
『摩伽陀国』中には、
是の、
『事』は、
『無い!』、と。
是の故に、こう知る、――
『摩伽陀国』は、
『豊かで!』、
『楽しく!』、
『乞食して!』、
『食』を、
『得易い!』、と。
  参考:『雑宝蔵経巻3龍王偈縁』:『佛在王舍城。提婆達多。往至佛所。惡口罵詈。阿難聞已。極生瞋恚。驅提婆達多令出去。而語之曰。汝若更來。我能使汝得大苦惱。諸比丘見已。白佛言。希有世尊。如來常於提婆達多。生慈愍心。而提婆達多。於如來所。恒懷惡心。阿難瞋恚。即驅使去。佛言。非但今日。於過去世。亦曾如此。昔於迦尸國。時有龍王。兄弟二人。一名大達。二名優婆大達。恒雨甘雨。使其國內。草木滋長。五穀成熟。畜生飲水。皆得肥壯。牛羊蕃息。時彼國王。多殺牛羊。至於龍所。而祠於龍。龍即現身。而語王言。我既不食。何用殺生。而祠我為數語不改。兄弟相將。遂避此處。更到一小龍住處。名屯度脾。屯度脾龍。晝夜瞋恚。惡口罵詈。大達語言。汝莫瞋恚。比爾還去。優婆大達。極大忿怒。而語之言。唯汝小龍。常食蝦蟆。我若吐氣。吹汝眷屬。皆使消滅。大達語弟。莫作瞋恚。我等今當還向本處。迦尸國王。渴仰我等。迦尸國王。作是言曰。二龍若來。隨其所須。以乳酪祀。更不殺生。龍王聞已。即還本處。於是大達。而作是偈言  盡共合和至心聽  極善清淨心數法  菩薩本緣所說事  今佛顯現故昔偈  天中之天三佛陀  如來在世諸比丘  更出惡言相譏毀  大悲見聞如此言  集比丘僧作是說  諸比丘依我出家  非法之事不應作  汝等各各作麤語  更相誹謗自毀害  汝不聞知求菩提  修集慈忍難苦行  汝等若欲依佛法  應當奉行六和敬  智者善聽學佛道  為欲利益安眾生  普於一切不惱害  修行若聞應遠惡  出家之人起忿諍  猶如冰水出於火  我於過去作龍王  兄弟有二同處住  若欲隨順出家法  應斷瞋諍合道行  第一兄名為大達  第二者名優婆達  俱不殺生持淨戒  有大威德厭龍形  恒向善趣求作人  若見沙門婆羅門  修持淨戒又多聞  變形供養常親近  八日十四十五日  受持八戒撿心意  捨己住處詣他方  有龍名曰屯度脾  見我二龍大威德  知己不如生嫉恚  恒以惡口而罵詈  [月*逢]頷腫口氣麤出  瞋怒心盛身脹大  出是惡聲而謗言  幻惑諂偽見侵逼  聞此下賤惡龍罵  優波大達極瞋恚  請求其兄大達言  以此惡語而見毀  恒食蝦蟆水際住  如此賤物敢見罵  若在水中惱水性  若在陸地惱害人  聞惡欲忍難可堪  今當除滅身眷屬  一切皆毀還本處  大力龍王聞弟言  所說妙偈智者讚  若於一宿住止處  少得供給而安眠  不應於彼生惡念  知恩報恩聖所讚  若息樹下少蔭涼  不毀枝葉及花果  若於親厚少作惡  是人終始不見樂  一餐之惠以惡報  是不知恩行惡人  善果不生復消滅  如林被燒而燋兀  後還生長復如故  背恩之人善不生  若養惡人百種供  終不念恩必報怨  譬如仙人象依住  生子即死仙養活  長大狂逸殺仙人  樹木屋宇盡蹋壞  惡人背恩亦如是  心意輕躁不暫停  譬如洄澓中有樹  不修親友無返復  如似白[疊*毛]甄叔染  若欲報怨應加善  不應以惡而毀害  智者報怨皆以慈  擔負天地及山海  此擔乃輕背恩重  一切眾生平等慈  是為第一最勝樂  如渡河津安隱過  慈等二樂亦如是  不害親友是快樂  滅除憍慢亦是樂  內無德行外憍逸  實無有知生憍慢  好與強諍親惡友  名稱損減得惡聲  孤小老者及病人  新失富貴羸劣者  貧窮無財失國主  單己苦厄無所依  於上種種困厄者  不生憐愍不名仁  若至他國無眷屬  得眾惡罵忍為快  能遮眾惡鬥諍息  寧在他國人不識  不在己邦眾所輕  若於異國得恭敬  皆來親附不瞋諍  即是己國親眷屬  世間富貴樂甚少  衰滅苦惱甚眾多  若見眾生皆退失  制不由己默然樂  怨敵力勝自羸弱  親友既少無所怙  自察如是默然樂  非法人所貪且慳  不信無慚不受言  於彼惡所默然樂  瞋恚甚多殘害惡  好加苦毒於眾生  如此人邊默然樂  不信強梁喜自高  得逆諂偽詐幻惑  於如此人默然樂  破戒兇惡無慮忍  恒作非法無信行  於此人所默然樂  妄語無愧好兩舌  邪見惡口或綺語  傲慢自高深計我  極大慳貪懷嫉妒  於此人所默然樂  若於他處不知己  亦無識別種性行  不應自高生憍慢  至餘國界而停住  衣食仰人不自在  若得毀罵皆應忍  他界寄住仰衣食  若為基業欲快樂  亦應如上生忍辱  若住他界仰衣食  乃至下賤來輕己  諸是智者宜忍受  在他界住惡知友  愚小同處下賤人  智者自隱如覆火  猶如熾火猛風吹  炎著林野皆焚燒  瞋恚如火燒自他  此名極惡之毀害  瞋恚欲心智者除  若修慈等瞋漸滅  未曾共住輒親善  恒近惡者是癡人  不察其過輒棄捨  作如上事非智者  若無愚小智不顯  如鳥折翅不能飛  智者無愚亦如是  以多愚小及無智  不能覺了智有力  以是義故諸賢哲  博識多聞得樂住  智者得利心不高  失利不下無愚癡  所解義理稱實說  諸有所言為遮惡  安樂利益故宣辯  為令必解說是語  智者聞事不卒行  思惟籌量論其實  明了其理而後行  是名自利亦利他  智者終不為身命  造作惡業無理事  不以苦樂違正法  終不為己捨正行  智者不慳無嫉恚  亦不嚴惡無愚癡  危害垂至不恐怖  終不為利讒搆人  亦不威猛不怯弱  又不下劣正處中  如此諸事智者相  威猛生嫌懦他輕  去其兩邊處中行  或時默然如啞者  或時言教如王者  或時作寒猶如雪  或時現熱如熾火  或現高大如須彌  或時現卑如臥草  或時顯現猛如王  或時寂滅如解脫  或時能忍飢渴苦  或時堪忍苦樂事  於諸財寶如糞穢  自在能調諸瞋恚  或時安樂縱伎樂  或時恐怖猶如鹿  或時威猛如虎狼  觀時非時力無力  能觀富貴及衰滅  忍不可忍是真忍  忍者應忍是常忍  於羸弱者亦應忍  富貴強盛常謙忍  不可忍忍是名忍  嫌恨者所不嫌恨  於瞋人中常心淨  見人為惡自不作  忍勝己者名怖忍  忍等己者畏鬥諍  忍下劣者名盛忍  惡罵誹謗愚不忍  如似兩石著眼中  能受惡罵重誹謗  智者能忍花雨象  若於惡罵重誹謗  明智能忍於慧眼  猶如降雨於大石  石無損壞不消滅  惡言善語苦樂事  智者能忍亦如石  若以實事見罵辱  此人實語不足瞋  若以虛事而罵辱  彼自欺誑如狂言  智者解了俱不瞋  若為財寶及諸利  忍受苦樂惡罵謗  若能不為財寶利  設得百千諸珍寶  猶應速疾離惡人  樹枝被斫不應拔  人心已離不可親  便從異道遠避去  可親友者滿世間  先敬後慢而輕毀  亦無恭敬不讚歎  如似白鵠輕飛去  智者遠愚速應離  好樂鬥諍懷諂曲  喜見他過作兩舌  妄言惡口亦綺語  輕賤毀辱諸眾生  更出痛言入心髓  不護身業口與意  智者遠離至他方  嫉妒惡人無善心  見他利樂及名稱  心生熱惱大苦毒  言語善濡意極惡  唯智能遠至他方  人樂惡欲貪利養  諂曲要取無慚愧  內不清淨外亦然  智者速遠至他方  若人無有恭恪心  憍慢所懷無教法  自謂智者實愚癡  慧者遠離至他方  此處飲食得臥具  并諸衣被憑活路  應當擁護念其恩  猶如慈母救一子  愛能生長一切苦  先當斷愛而離瞋  悉能將人至惡趣  自高憍慢亦應捨  富貴親友貧賤離  如此之友當速遠  若為一家捨一人  若為一村捨一家  若為一國捨一村  若為己身捨天下  若為正法捨己身  若為一指捨現財  若為身命捨四支  若為正法捨一切  正法如蓋能遮雨  修行法者法擁護  行法力故斷惡趣  如春盛熱得蔭涼  修行法者亦復然  與諸賢智趣向俱  多得財利不為喜  若失重寶不為憂  不常懃苦求乞索  是名堅實大丈夫  施他財寶甚歡喜  世間過惡速捨離  安立己身深於海  是名雄健勝丈夫  若解義理眾事巧  為人柔軟共行樂  諸人歎說善丈夫  優波大達作是言  我今於兄倍信敬  假使遭苦極困厄  終不復作諸惡事  若死若活得財產  及失財產不造惡  兄今當知我奉事  願以持戒而取死  不以犯戒而取生  何故應當為一生  而可放逸作惡行  生死之中莫放逸  我於生死作不善  遭值惡友造非法  得遇善友以斷除  佛入宿命知了說  告諸比丘是本偈  爾時大達是我身  優波大達是阿難  當知爾時屯度脾  即是提婆達多身  比丘當知作是學  是名集法總攝說  宜廣慎行應恭敬  諸比丘僧修是法』
復次王舍城在山中閑靜。餘國精舍平地故。多雜人入出來往易故不閑靜。又此山中多精舍。諸坐禪人諸聖人皆樂閑靜多得住中。佛是聖人坐禪人主。是故多住王舍城。如是等種種因緣故多住王舍城。 復た次ぎに、王舎城は山中に在りて閑静なり。余の国の精舎は平地なるが故に、多雑の人の入出、来往易きが故に閑静ならず。又此の山中には精舎多く、諸の坐禅人、諸の聖人は、皆閑静を楽しむに、多く中に住まることを得。仏は、是れ聖人、坐禅人の主なり。是の故に多く王舎城に住まりたもう。是の如き種種の因縁の故に、多く王舎城に住まりたまえり。
復た次ぎに、
『王舎城』は、
『山中に在る!』ので、
『閑静である!』が、
『余の国』では、
『精舎』が、
『平地に在る!』が故に、
『雑多な人』の、
『入出、来往』が、
『容易であり!』、
『閑静でない!』。
又、
此の、
『山』中には、
『精舎が多い!』が故に、
諸の、
『坐禅人』や、
『聖人』が、
皆、
『閑静』を、
『楽しんでおり!』、
多くが、
『精舎』中に、
『住まることができた!』が、
『仏』は、
『聖人』と、
『坐禅人』との、
『主であり!』、
是の故に、
『王舎城』に、
『多く!』と、
『住まられた!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『多く!』、
『王舎城』に、
『住まられたのである!』。
問曰。若住王舍城可爾。何以不多住竹園而多住耆闍崛山。 問うて曰く、若しは、王舎城に住まること、爾るべし。何を以ってか、竹園に住まること多からず、而も耆闍崛山に住まること多きや。
問い、
若し、
『王舎城』に、
『住まられる!』ことが、
『爾うだとすれば!』、
何故、
『竹園』に、
『住まる!』ことは、
『多くなく!』、
『耆闍崛山』には、
『多く!』、
『住まられたのですか?』。
答曰。我已答。聖人坐禪人樂閑靜處。 答えて曰く、我れは已に答えたり。聖人、坐禅人は、閑静の処を楽しむと。
答え、
わたしは、
已に、こう答えた、――
『聖人、坐禅人』は、
『閑静の処』を、
『楽しむ!』、と。
問曰。餘更有四山。鞞婆羅跋恕等。何以不多住。而多住耆闍崛山。 問うて曰く、余にも更に四山有り。鞞婆羅跋恕等には、何を以ってか、多く住まらず、而も耆闍崛山に多く住まりたまえる。
問い、
余にも、
更に、
『四山』、
『有る!』が、
何故、
『鞞婆羅跋恕』等には、
『住まられる!』ことが、
『多くなく!』、
而も、
『耆闍崛山』に、
『多く!』、
『住まられたのですか?』。
答曰。耆闍崛山於五山中最勝故。云何勝。耆闍崛山精舍近城而山難上。以是故雜人不來。近城故乞食不疲。以是故佛多在耆闍崛山中。不在餘處。 答えて曰く、耆闍崛山は五山中に於いて最勝なるが故なり。云何が勝るる。耆闍崛山の精舎は、城に近くして、而も山は上り難し。是を以っての故に、雑人来たらず。城に近きが故に、乞食して疲れず。是を以っての故に、仏は多く、耆闍崛山中に在(ましま)すも、余の処には在せず。
答え、
『耆闍崛山』は、
『五山』中に、
『最も!』、
『勝れているからである!』。
何のように、
『勝れていたのか?』、――
『耆闍崛山』の、
『精舎』は、
『城に近い!』が、
『上る!』には、
『難しく!』、
是の故に、
『雑多な人』が、
『来ない!』し
『城に近い!』が故に、
則ち、
『乞食して!』、
『疲れないからである!』。
是の故に、
『仏』は、
『多く!』、
『耆闍崛山』中に、
『在()られ!』、
『余の処』に、
『在られた!』のは、
『多くなかったのである!』。



摩訶迦葉、耆闍崛山中に弥勒を待つ

復次長老摩訶迦葉。於耆闍崛山。集三法藏。可度眾生。度竟欲隨佛入涅槃。清朝著衣持缽入王舍城乞食已。上耆闍崛山語諸弟子。我今日入無餘涅槃。如是語已入房結加趺坐。諸無漏禪定自熏身。 復た次ぎに、長老摩訶迦葉は、耆闍崛山に於いて、三法蔵を集め、度すべき衆生を度し竟りて、仏に随って、涅槃に入らんと欲す。清朝、衣を著け、鉢を持して、王舎城に入り、乞食し已りて耆闍崛山に上り、諸の弟子に語らく、『我れは、今日、無余涅槃に入らん。』と。是の如く語り已りて、房に入り、結跏趺坐して、諸の無漏の禅定に自ら身を熏ず。
復た次ぎに、
『長老摩訶迦葉』は、
『耆闍崛山』で、
『法蔵』を、
『三種に!』、
『集めて!』、
『衆生』の、
『度すべき!』者を、
『度し竟(おわ)る!』と、
『仏に随って!』、
『涅槃に入ろう!』と、
『思った!』。
『清朝に!』、
『衣を著けて!』、
『鉢を持つと!』、
『王舎城』に、
『入って!』、
『乞食した!』後、
『耆闍崛山に上り!』、
諸の、
『弟子』に、こう語った、――
わたしは、
今日、
『無余涅槃』に、
『入る!』、と。
是のように語ると、――
『房(自室)』に、
『入って!』、
『結跏趺坐し!』、
諸の、
『無漏の禅定』で、
自ら、
『身』を、
『熏じた(浄めた)!』。
  無余涅槃(むよねはん):梵語nirupadhizeSa-nirvaaNaの訳。残す所無き涅槃の義。肉体を滅尽し、生死の苦を永く離れたる涅槃の意。『大智度論巻1上注:涅槃』参照。
  結跏趺坐(けっかふざ):梵語nyaSiidat-paryaGkamaabhujyaの訳。禅定に入る時の坐法。
  無漏禅定(むろのぜんじょう):梵語anaasrava-dhyaana?の訳。世俗的傾向を離れた禅定の義。心の煩悩の滅尽せる状態に於いて入る禅定の意。
摩訶迦葉諸弟子。入王舍城語諸貴人。知不。尊者摩訶迦葉今日入無餘涅槃。 摩訶迦葉の諸の弟子の王舎城に入りて、諸の貴人に語らく、『知るや不や、尊者摩訶迦葉の、今日、無余涅槃に入るを。』と。
『摩訶迦葉』の、
諸の、
『弟子』は、
『王舎城に入って!』、
諸の、
『貴人』に、こう語った、――
知っていますか?
『尊者摩訶迦葉』は、
今日、
『無余涅槃』に、
『入られます!』。
諸貴人聞是語皆大愁憂言。佛已滅度。摩訶迦葉持護佛法。今日復欲入無餘涅槃。諸貴人諸比丘。晡時皆共集耆闍崛山。 諸の貴人の、是の語を聞いて、皆大いに愁憂して言わく、『仏は、已に滅度したまい、摩訶迦葉、仏の法を持護せるに、今日、復た無余涅槃に入らんと欲す。』と。諸の貴人、諸の比丘、晡時に皆、共に耆闍崛山に集まる。
『諸の貴人』は、
是の、
『語』を、
『聞くと!』、
皆、
『大いに!』、
『愁憂して!』、こう言った、――
『仏』は、
已に、
『滅度された!』し、
『仏の法』を、
『保持して!』、
『守護していた!』、
『摩訶迦葉』も、
今日、
復た、
『無余涅槃』に、
『入ろうとしている!』、と。
『諸の貴人』と、
『諸の比丘』は、
晡時(夕方)に、
皆、
共に(いっしょに)、
『耆闍崛山』に、
『集まった!』。
  晡時(ほじ):日暮れ前。午後四時頃。
長老摩訶迦葉。晡時從禪定起入眾中坐。讚說無常。諸一切有為法因緣生故無常。本無今有已有還無故無常。因緣生故無常。無常故苦。苦故無我。無我故有智者不應著我我所。若著我我所。得無量憂愁苦惱一切世間中。心應厭求離欲。 長老摩訶迦葉は、晡時に禅定より起ち、衆中に入りて坐り、無常を讃じて説かく、『諸の一切の有為法は、因縁生なるが故に無常なり。本無きものは今有り、已に有るものは無に還るが故に無常なり。因縁生の故に無常なり。無常の故に苦なり。苦なるが故に無我なり。無我なるが故に有智の者は、応に我我所に著すべからず。若し我我所に著せば、無量の憂愁と苦悩とを得ん。一切の世間の中は、心応に厭うて、欲を離れんことを求むべし。』と。
『長老摩訶迦葉』は、
晡時に、
『禅定』より、
『起()つと!』、
『衆』中に、
『入って!』、
『坐り!』、
『無常』を、
『讃じて!』、
こう説いた、――
諸の、
一切の、
『有為法』は、
『因縁』の、
『生(所生)である!』が故に、
『無常であり!』、
『本無く、今有る!』者が、
『已に有れば!』、
『無に還ることになる!』が故に、
『無常である!』。
『因縁の生』は、
故に、
『無常であり!』、
『無常である!』が故に、
『苦であり!』、
『苦である!』が故に、
『無我である!』。
『無我である!』が故に、
『有智の者』は、
『我、我所』に、
『著すべきでない!』。
若し、
『我、我所』に、
『著すれば!』、
無量の、
『憂愁、苦悩』を、
『得るだろう!』。
一切の、
『世間』中を、
『心』に、
『厭うて!』、
『欲を離れる!』、
『道』を、
『求めねばならぬ!』。
  有為法(ういほう):梵語saMskRta-dharmaの訳。作られた物、拵えられた物の義。為作ある法の意。即ち因縁所成の現象の諸法を云う。『大智度論巻23上注:有為、同巻43上注:無為法』参照。
  因縁生(いんねんしょう):梵語hetupratyaya-samutpannaの訳。因縁の生産物の義。因縁所生。
  我我所(ががしょ):梵語aatma-aatmaniina?の訳。自己と自己の所属の義。即ち我れと我が心、身、家族、財産、家、村落、国土等の意。
如是種種說世界中苦。開導其心令入涅槃。說此語竟著從佛所得僧伽梨。持衣缽捉杖。如金翅鳥現上昇虛空。四種身儀坐臥行住。一身現無量身。滿東方世界。於無量身還為一身。身上出火身下出水。身上出水身下出火。 是の如く種種に世界中の苦を説いて、其の心を開導し、涅槃に入らしむ。此の語を説き竟りて、仏より得し所の僧伽梨を著け、衣鉢を持ち杖を捉りて、金翅鳥の如く虚空に上昇し、四種の身儀を現わして、坐臥行住し、一身もて無量の身を現わし、東方の世界を満たし、無量の身を還た一身と為し、身の上に火を出して身の下に水を出し、身の上に水を出して身の下に火を出せり。
是のように、
種種に、
『世界』中の、
『苦』を、
『説いて!』、
『弟子』の、
『心を開導して!』、
『涅槃』に、
『入らせた!』。
此の、
『語』を説き竟ると、――
『仏に貰った!』、
『僧伽梨(九條衣)』を、
『身』に、
『著ける!』と、
『衣、鉢を持って!』、
『杖』を、
『捉()り!』、
『金翅鳥のように!』、
『虚空』に、
『上昇する!』と、
『四種の身儀』の、
『坐、臥、行、住』を、
『現し(見せ)!』、
『一身』中に、
『無量の身』を、
『現して!』、
『東方』の、
『世界』を、
『満たす!』と、
『無量の身』を、
『一身』に、
『還らせ!』、
『身の上』より、
『火を出して!』、
『身の下』より、
『水を出し!』、
『身の上』より、
『水を出して!』、
『身の下』より、
『火を出した!』。
  僧伽梨(そうぎゃり):梵語saMghaaTi,saNghaati、saGghaati等の音訳。三衣の一。即ち九條以上の衣を云う。又必ず割截して製するが故に重衣、或いは重複衣と云い、其の條数多きが故に雑砕衣と云い、王宮又は聚落に入る時著用するが故に入王宮聚落衣と云い、又諸衣中最大なるが故に大衣と云い、普通に下品に約して九條衣とも称す。『大智度論巻26上注:僧伽梨』参照。
  摩訶迦葉の僧伽梨:摩訶迦葉は大富の婆羅門長者の子であり出家したときには価百千金の僧伽梨を著けていたが、仏がそれを柔らかいと言われると、それを奉げて代りに仏の糞掃衣を受けた。
  金翅鳥(こんじちょう):梵名蘇鉢刺尼suparNiの訳。又迦楼羅garuDaとも名づく。大怪鳥の名。『大智度論巻25(下)注:迦楼羅』参照。
  身儀(しんぎ):梵語kaayeryaapathaの訳。身体に関する正しい道の義。身に関する行儀作法の意。『大智度論巻26上注:四威儀』参照。
  参考:『雑阿含経巻41』:『尊者摩訶迦葉語阿難言。我自出家。都不知有異師。唯如來.應.等正覺。我未出家時。常念生.老.病.死.憂.悲.惱苦。知在家荒務。多諸煩惱。出家空閑。難可俗人處於非家。一向鮮潔。盡其形壽。純一滿淨。梵行清白。當剃鬚髮。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。以百千金貴價之衣。段段割截為僧伽梨。若世間阿羅漢者。闇從出家。我出家已。於王舍城那羅聚落中間多子塔所。遇值世尊正身端坐。相好奇特。諸根寂靜。第一息滅。猶如金山。我時見已。作是念。此是我師。此是世尊。此是羅漢。此是等正覺。我時一心合掌敬禮。白佛言。是我大師。我是弟子。佛告我言。如是。迦葉。我是汝師。汝是弟子。迦葉。汝今成就如是真實淨心所恭敬者。不知言知。不見言見。實非羅漢而言羅漢。非等正覺言等正覺者。應當自然身碎七分。迦葉。我今知故言知。見故言見。真阿羅漢言阿羅漢。真等正覺言等正覺。迦葉。我今有因緣故。為聲聞說法。非無因緣故。依。非無依。有神力。非無神力。是故。迦葉。若欲聞法。應如是學。若欲聞法。以義饒益。當一其心。恭敬尊重。專心側聽。而作是念。我當正觀五陰生滅。六觸入處集起.滅沒。於四念處正念樂住。修七覺分.八解脫。身作證。常念其身。未嘗斷絕。離無慚愧。於大師所及大德梵行常住慚愧。如是應當學。爾時。世尊為我說法。示教照喜。示教照喜已。從座起去。我亦隨去。向於住處。我以百千價直衣割截僧伽梨。四攝為座。爾時。世尊知我至心。處處下道。我即敷衣。以為坐具。請佛令坐。世尊即坐。以手摩衣。歎言。迦葉。此衣輕細。此衣柔軟。我時白言。如是。世尊。此衣輕細。此衣柔軟。唯願世尊受我此衣。佛告迦葉。汝當受我糞掃衣。我當受汝僧伽梨。佛即自手授我糞掃納衣。我即奉佛僧伽梨。如是漸漸教授。我八日之中。以學法受於乞食。至第九日。起於無學』
南西北方亦如是。眾心厭世皆歡喜已。於耆闍崛山頭。與衣缽俱作是願言。令我身不壞。彌勒成佛。我是骨身還出。以此因緣度眾生。如是思惟已。直入山頭石內。如入軟埿。入已山還合。 南西北方も亦た是の如くして、衆心に世を厭わしめ、皆歓喜せしめ已るに、耆闍崛山の頭(いただき)に於いて、衣鉢と倶に、是の願を作して言わく、『我が身をして壊せざらしめよ。弥勒成仏せば、我が是の骨身還た出で、此の因縁を以って、衆生を度せん。』と。是の如く思惟し已りて、直ちに山頭の石内に入ること、軟埿に入るが如し。入り已りて山還た合わさる。
『南、西、北方』にも、
亦た、
是のようにして、
『衆(弟子)の心』に、
『世』を、
『厭わせ!』、
皆を、
『歓喜させる!』と、
『耆闍崛山の頭( peak )』に於いて、
『衣、鉢と倶(とも)に!』、
是の、
『願を作して!』、こう言った、――
わたしの、
『身』を、
『腐らせるな!』。
わたしは、
『弥勒』が、
『仏』と、
『成る!』時、
是の、
『骨身』が、
『還た!』、
『出て!』、
此の、
『骨身の因縁』で、
『衆生』を、
『度すだろう!』、と。
是のように思惟すると、――
『山頭』の、
『石』中に、
『入ったのである!』が、
『摩訶迦葉』が、
『軟埿()』に、
『入るように!』、
『入る!』と、
『山』は、
『還た!』、
『合わさった!』。
  弥勒(みろく):梵名maitreyaの音訳。又梅呾麗耶、彌帝隷、梅低梨、迷諦隷等に作り、慈氏と訳して菩薩の姓と為す。名を阿逸多(あいった、ajita)といい、無能勝と訳す。或いは阿逸多を姓と為し、彌勒を名と為すとも言う。南天竺婆羅門の家に生じ、釈迦如来の仏位を紹ぐ、補処の菩薩なり。『弥勒下生経』によれば、婆羅門の家に出生して後に仏弟子と為るも、仏に先んじて滅に入り、菩薩身を以って天人の為に法を説き、兜率天に住す。またこの菩薩は諸の衆生を成熟せんと欲し、初めて心を発して由り、即ち肉を食わず、この因縁を以って慈氏と名づく、と。<(望)
後人壽八萬四千歲。身長八十尺。時彌勒佛出。佛身長百六十尺。佛面二十四尺。圓光十里。是時眾生聞彌勒佛出世。無量人隨佛出家。 後の人寿八万歳、身長八十尺の時、弥勒仏出でたもう。仏の身長は百六十尺、仏面は二十四尺、円光は十里なり。是の時、衆生は、弥勒の世に出でたもうを聞き、無量の人が、仏に随うて出家す。
後に、
『人』の、
『寿命が八万四千歳で』、
『身長が八十尺の』時、
『弥勒仏』が、
『世』に、
『出られた!』。
『仏』は、
『身長が百六十尺』、
『面長が二十四尺』、
『円光( halo )が十里であった!』。
是の時、
『衆生』は、
『弥勒仏』が、
『世に出た!』と、
『聞き!』、
無量の、
『人』が、
『仏に随って!』、
『出家した!』。
  仏面(ぶつめん):仏の顔。
  円光(えんこう):梵語razmi-maNDala?の訳。梵語razmiは光明、光線の義。梵maNDalaは太陽や月の丸い光輝 halo の義。仏菩薩の頭から放射される円状の光の意。
  参考:『佛說彌勒大成佛經』:『爾時世尊次第乞食。將諸比丘還至本處入深禪定。七日七夜寂然不動。彌勒佛弟子色如天色。普皆端正厭生老病死。多聞廣學守護法藏行於禪定。得離諸欲如鳥出[穀-禾+卵]。爾時釋提桓因。與欲界諸天子。歡喜踊躍。復說偈言  世間所歸大導師  慧眼明淨見十方  智力功德勝諸天  名義具足福眾生  願為我等群萌類  將諸弟子詣彼山  供養無惱釋迦師  頭陀第一大弟子  我等應得見過佛  所著袈裟聞遺法  懺悔前身濁惡劫  不善惡業得清淨  爾時彌勒佛。與娑婆世界前身剛強眾生及諸大弟子。俱往耆闍崛山到山下已。安詳徐步登狼跡山。到山頂已舉足大指躡於山根。是時大地十八相動既至山頂彌勒以手兩向擘山如轉輪王開大城門。爾時梵王持天香油灌摩訶迦葉頂。油灌身已擊大揵椎。吹大法蠡。摩訶迦葉即從滅盡定覺。齊整衣服偏袒右肩。右膝著地長跪合掌。持釋迦牟尼佛僧迦梨。授與彌勒而作是言。大師釋迦牟尼多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。臨涅槃時以此法衣付囑於我。令奉世尊。時諸大眾各白佛言。云何今日此山頂上有人頭蟲。短小醜陋著沙門服。而能禮拜恭敬世尊。時彌勒佛訶諸大弟子莫輕此人。而說偈言  孔雀有好色  鷹鶻鷂所食  白象無量力  師子子雖小  撮食如塵土  大龍身無量  金翅鳥所搏  人身雖長大  肥白端正好  七寶瓶盛糞  污穢不可堪  此人雖短小  智慧如練金  煩惱習久盡  生死苦無餘  護法故住此  常行頭陀事  天人中最勝  苦行無與等  牟尼兩足尊  遣來至我所  汝等當一心  合掌恭敬禮  說是偈已告諸比丘。釋迦牟尼世尊。於五濁惡世教化眾生。千二百五十弟子中。頭陀第一身體金色。捨金色婦出家學道。晝夜精進如救頭然。慈愍貧苦下賤眾生。恒福度之為法住世。摩訶迦葉者此人是也。說此語已。一切大眾悉為作禮。爾時彌勒持釋迦牟尼佛僧伽梨。覆右手不遍纔掩兩指。復覆左手亦掩兩指。諸人怪歎先佛卑小。皆由眾生貪濁憍慢之所致耳。告摩訶迦葉言。汝可現神足并說過去佛所有經法。爾時摩訶迦葉踊身虛空作十八變。或現大身滿虛空中。大復現小如葶藶子。小復現大。身上出水身下出火。履地如水履水如地坐臥空中身不陷墜。東踊西沒西踊東沒。南踊北沒北踊南沒。邊踊中沒中踊邊沒。上踊下沒下踊上沒。於虛空中化作琉璃窟。承佛神力。以梵音聲說釋迦牟尼佛十二部經。大眾聞已怪未曾有八十億人遠塵離垢。於諸法中不受諸法得阿羅漢。無數天人發菩提心。繞佛三匝還從空下。為佛作禮說有為法皆悉無常。辭佛而退還耆闍崛山本所住處。身上出火入般涅槃。收身舍利山頂起塔。彌勒佛歎言。大迦葉比丘是釋迦牟尼佛於大眾中。常所讚歎頭陀第一通達禪定解脫三昧。是人雖有大神力而無高心。能令眾生得大歡喜。常愍下賤貧苦眾生彌勒佛歎大迦葉骨身言。善哉大神德釋師子大弟子大迦葉。於彼惡世能修其心。爾時摩訶迦葉骨身。即說偈言  頭陀是寶藏  持戒為甘露  能行頭陀者  必至不死地  持戒得生天  及與涅槃樂  說此偈已。如琉璃水還入塔中。爾時說法之處。廣八十由旬長百由旬。其中人眾若坐若立若近若遠。各見佛在其前獨為說法。彌勒佛住世六萬億歲。憐愍眾生故令得法眼。滅度之後諸天世人闍維佛身。時轉輪王收取舍利。於四天下各起八萬四千塔。正法住世六萬歲。像法二萬歲。汝等宜應勤加精進。發清淨心起諸善業。得見世間燈明彌勒佛身必無疑也。佛說語已。尊者舍利弗。尊者阿難。即從座起為佛作禮。胡跪合掌白佛言。世尊。當何名斯經。云何奉持之。佛告阿難。汝好憶持。普為天人分別演說。莫作最後斷法人耶。此法之要。名一切眾生斷五逆種淨除業障報障煩惱障修習慈心與彌勒共行。如是受持。亦名一切眾生得聞彌勒佛名必免五濁世不墮惡道經。如是受持。亦名破惡口業心如蓮花定見彌勒佛經。如是受持。亦名慈心不殺不食肉經。如是受持。亦名釋迦牟尼佛以衣為信經。如是受持。亦名若有聞佛名決定得免八難經。如是受持。亦名彌勒成佛經。如是受持。佛告舍利弗。佛滅度後比丘比丘尼優婆塞優婆夷。天龍八部鬼神等。得聞此經受持讀誦禮拜供養恭敬法師。破一切業障報障煩惱障。得見彌勒及賢劫千佛。三種菩提隨願成就。不受女人身。正見出家得大解脫。說是語已。時諸大眾聞佛所說。皆大歡喜禮佛而退』
佛在大眾中。初說法時九十九億人得阿羅漢道。六通具足。第二大會九十六億人得阿羅漢道。第三大會九十三億人得阿羅漢道。自是已後度無數人。 仏、大衆中に在りて、初めて法を説きたもう時、九十九億の人が阿羅漢道を得て、六通具足す。第二大会には、九十六億の人阿羅漢道を得。第三大会には九十三億の人阿羅漢道を得、是れより已後も、無数の人を度したまえり。
『仏』は、
『大衆』中に於いて、
『初めて!』、
『法を説いた!』時、
『九十九億の人』が、
『阿羅漢道を得て!』、
『六神通』を、
『具足した!』。
『第二大会』で、
『法を説いた!』時には、
『九十六億の人』が、
『阿羅漢道』を、
『得た!』。
『第三大会』で、
『法を説いた!』時には、
『九十三億の人』が、
『阿羅漢道』を、
『得た!』。
是れ以後も、
『法を説いて!』、
『無数の人』を、
『度された!』。
  六通(ろくつう):梵語SaD-abhijJaaHの訳。六種の神通力の意。『大智度論巻18下注:六神通』参照。
爾時人民久後懈厭。彌勒佛見眾人如是。以足指扣開耆闍崛山。是時長老摩訶迦葉骨身。著僧伽梨而出禮彌勒足。上昇虛空現變如前。即於空中滅身而般涅槃。 爾の時、人民は久後にして懈厭せり。弥勒仏は、衆人の是の如くなるを見て、足の指を以って扣(たた)き、耆闍崛山を開きたもう。是の時、長老摩訶迦葉の骨身、僧伽梨を著けて出て、弥勒の足に礼し、虚空に上昇して、変を現わすこと前の如く、空中に於いて、身を滅して般涅槃せり。
爾の時、
『人民』は、
『久しい後のことであり!』、
『懈(なま)けて!』、
『厭()きていた!』。
『弥勒仏』は、
是のような、
『衆人を見て!』、
『足の指』で、
『耆闍崛山』を、
『扣(たた)いて!』、
『開けた!』。
是の時、
『長老摩訶迦葉』の、
『骨身』が、
『僧伽梨』を、
『著けて!』、
『出る!』と、
『弥勒仏』の、
『足』を、
『礼し!』、
『虚空に上昇して!』、
『前のように!』、
『変化』を、
『現した!』。
そして
『空』中に、
『身を滅して!』、
『般涅槃した!』。
  懈厭(けえん):懈怠と厭足。おこたりあきる。
  (へん):変化。梵語vikurvaNaの訳。又はRddhi、不思議の変異、或いは天心より示現する変異の意。仏菩薩等が衆生教化の為に其の身上に示現する種種不可思議の変異を云う。『大智度論巻2上注:神変』参照。
  般涅槃(はつねはん):梵語pari-nirvaaNaの音訳。涅槃(nirvaaNa)は又泥洹、泥曰、涅槃那、涅隷槃那等に作り、作滅、寂滅、滅度、寂、無生等に訳し、是れ亦た択滅、離繋、解脱等と同義の詞なり。或いは又般涅槃(般は梵語pariの音訳にして完全の義、意訳して円寂と作す)に作る。原意は吹滅を指し、或いは吹滅の状態を表し、後に転じて煩悩を燃焼する火の滅尽して、悟智(即ち菩提)を完成する境地を指す。是れ乃ち生死(迷界)超越せる悟界にして、復た仏教終極の実践目的と為す。故に仏教の特徴を表して法印の一に列ね、『涅槃寂静』と称す。大乗、小乗に於いて涅槃の解釈は大きく異なり、異説紛々なるも、之を般若に約して大別すれば、以下の二の如し。(1)小乗部派仏教:涅槃とは即ち煩悩を滅却せる状態にして、其の中に又有余(依)涅槃と無余(依)涅槃との分あり。前者は煩悩を断つと雖も、肉体(意は即ち残余の依身、略称して余依、或いは余)残存の情形なり。後者は灰身滅智の状態にして、即ち一切を滅に帰す無の状況なり。(2)大乗中論等:実相を以って涅槃と為し、実相もまた即ち因縁所生の法上の空性と為すが故に生死の世間と区別有ること無し。<(佛)
爾時彌勒佛諸弟子怪而問言。此是何人。似人而小。身著法衣能作變化。 爾の時、弥勒仏の諸の弟子の怪しみて、問うて言わく、『此れは是れ何人なりや、人に似たるも小さく、身に法衣を著けて、能く変化を作す。』と。
爾の時、
『弥勒仏』の、
諸の、
『弟子』は、
『怪しんで!』、
『問うて!』、こう言った、――
此れは、
何ういう、
『人ですか?』、――
『人』に、
『似ていながら!』、
『小さく!』、
『身』には、
『法衣』を、
『著けて!』、
『変化』を、
『作すことができます!』、と。
彌勒佛言。此人是過去釋迦文尼佛弟子。名摩訶迦葉。行阿蘭若少欲知足。行頭陀比丘中第一。得六神通共解脫大阿羅漢。彼時人壽百年少出多減。以是小身。能辦如是大事。汝等大身利根。云何不作如是功德。 弥勒仏の言わく、『此の人は是れ過去の釈迦文尼仏の弟子なり、摩訶迦葉と名づけ、阿蘭若の少欲知足を行じ、頭陀を行じて、比丘中の第一なり、六神通と共解脱を得たる大阿羅漢なり。彼の時は人寿百年を少し出で、多く減ずるに、是の小身を以って、能く是の如き大事を辦ず。汝等は大身利根なるに、云何が是の如き功徳を作さざる。』と。
『弥勒仏』は、こう言った、――
此の、
『人』は、
『過去の釈迦文尼仏』の、
『弟子であり!』、
『摩訶迦葉』と、
『呼ばれている!』。
『阿蘭若』を、
『行って!』、
『少欲知足であり!』、
『頭陀』を、
『行って!』、
『比丘中の第一であり!』、
『六神通を得て!』、
『共解脱した!』、
『大阿羅漢である!』。
彼の時の、
『人の寿命』は、
『百年』を、
『出る!』者は、
『少なく!』、
『百年』より、
『減る!』者が、
『多かった!』が、
是の、
『小身』で、
是のような、
『大事』を、
『辦じた(成し遂げた)のである!』。
お前達は、
『大身、利根でありながら!』、
何故、
是のような、
『功徳』を、
『作さないのか?』、と。
  阿蘭若(あらんにゃ):梵語araNyaの音訳。又阿練茹、阿練若、阿蘭那等に作り、略して蘭若、練若と称し、訳して山林、荒野と為し、出家人の修行と居住とに適合する僻静の場所を指す。又訳して、遠離処、寂静処、最閑処、無諍処と為し、即ち聚落より一拘廬舎(kroza、大牛の鳴喚、或いは鼓声の音響の聴聞すべき所の距離)の距離のある、修行に適した空閑処を指す。その住処或いは居住者を即ち阿蘭若迦(aaraNyaka)と称す。<(望)
  少欲知足(しょうよくちそく):少欲と知足との併称。少欲は梵語alpecchaの訳。知足は梵語saMtuSTaの訳。未得の事法に於いて多く求めず貪せざるを少欲と云い、已得の事法に於いて少しく得るも満足するを知足と云う。『大智度論巻2上注:少欲知足』参照。
  頭陀(づだ):梵語dhuutaの音訳。煩悩の塵垢を除去するを謂い、苦行の一なり。また杜多、杜荼、投多、偸多、塵吼多に作り、意訳して抖擻、修治、棄除等と為す。意は即ち衣、食、住等に対してその貪著を捨て、以って身心を修練す。また頭陀行、頭陀事、頭陀功德(dhuuta-guna)と称す。日常生活に対して立つる所は、以下の十二種の修行規定の如し、即ち十二頭陀行と称す、(1)在阿蘭若処:世人の居処を離れて安静の所に住す、(2)常行乞食、(3)次第乞食:乞食の時は貧富の家を分かたず、門に沿うて托鉢す、(4)受一食法:一日一食、(5)節量食:過食せざるを指す、即ち鉢の中にただ一団の飯を受く、(6)中後不得飲漿:中食の後、再び漿を飲まず、(7)著弊衲衣:廃棄布にて作る所の襤褸衣を著く、(8)但三衣:三衣の外、多余の衣無し、(9)塚間住:墓地に住む、(10)樹下止、(11)露地坐:露天の地に坐す、(12)但坐不臥:即ち常に坐す。<(佛)又『大智度論巻42下注:頭陀』参照。
  共解脱(くげだつ):煩悩、及び解脱の二障を併せ断ずるの意。『大智度論巻18(下)注:解脱』参照。
是時諸弟子皆慚愧發大厭心。彌勒佛隨眾心。為說種種法。有人得阿羅漢阿那含斯陀含須陀洹。有種辟支佛善根。有得無生法忍不退菩薩。有得生天人中受種種福樂。 是の時、諸の弟子は、皆、慚愧して、大厭心を発せり。弥勒仏は、衆心に随いて、為に種種の法を説けば、有る人は、阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹を得、有るは辟支仏の善根を種え、有るは無生法忍、不退の菩薩を得、有るは天人中に生ずるを得て、種種の福楽を受く。
是の時、
諸の、
『弟子』は、
皆、
『慚愧して!』、
『大厭心』を、
『発した!』。
『弥勒仏』は、
『衆(弟子)』の、
『心』に、
『随い!』、
『衆』の為に、
『種種の法』を、
『説いた!』ので、
有る、
『人』は、
『阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹』を、
『得ることになり!』、
有る、
『人』は、
『辟支仏道を得る!』、
『善根』を、
『種えることになり!』、
有る、
『人』は、
『無生法忍を得て!』、
『菩薩道』を、
『退かず!』、
有る、
『人』は、
『天、人中に生まれて!』、
種種の、
『福楽』を、
『受けることになった!』。
  阿那含(あなごん):梵語anaagaaminの音訳。不還、不来、又は不来相と訳す。声聞四果の第三、欲界九品の惑を断尽し、再び欲界に還り来たらざる聖者の名。『大智度論巻18下注:阿那含』参照。
  斯陀含(しだごん):梵語sakRd-aagaaminの音訳。意訳して一来、一往来と為す。沙門四果の第二なり。即ち須陀洹の聖者が進みて更に欲界の一品より五品に至る修惑を断除せるを称す。『大智度論巻32下注:斯陀含』参照。
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語pratyeka-buddhaの音訳。縁覚と訳す。現身に教を受けずして無師独悟し、能く自ら調するも他を調せざる一種の聖者を云う。『大智度論巻18(上)注:縁覚』参照。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語anutpattika-dharma-kSaantiの訳。又無生忍とも名づく。即ち諸法無生の理を観じて之を諦忍するを云う。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
  不退(ふたい):梵語阿鞞拔致avinivartaniiyaの訳。菩薩の地位より退転せざるの義。『大智度論巻36上注:阿鞞跋致』参照。
以是故知。是耆闍崛山福德吉處。諸聖人喜住處。佛為諸聖人主。是故佛多住耆闍崛山。 是を以っての故に知るらく、『是の耆闍崛山は、福徳の吉処にして、諸の聖人の喜ぶ住処なり。』と。仏は、諸の聖人の主為れば、是の故に、仏は、多く耆闍崛山に住まりたまえり。
是の故に、こう知る、――
是の、
『耆闍崛山』は、
『福徳』を、
『得られる!』、
『吉処であり!』、
諸の、
『聖人』の、
『喜ぶ!』、
『住処である!』、と。
『仏』は、
諸の、
『聖人』の、
『主であり!』、
是の故に、
『仏』は、
『耆闍崛山』に、
『多く住まられたのである!』。
復次耆闍崛山。是過去未來現在諸佛住處。如富樓那彌帝隸耶尼子經中說。佛語富樓那。若使三千大千世界劫燒若更生。我常在此山中住。一切眾生以結使纏縛。不作見佛功德。以是故不見我。 復た次ぎに、耆闍崛山は、是れ過去、未来、現在の諸仏の住処なり。『富楼那弥帝隷耶尼子経』中に説くが如し、『仏の富楼那に語りたまわく、若しは三千大千世界をして、劫焼せしめ、若しは更に生ぜしめんに、我れは常に、此の山中に在りて住まらん。一切の衆生は、結使を以って纏縛するが故に、見仏の功徳を作さず、是を以っての故に、我れを見ず。』と。
復た次ぎに、
『耆闍崛山』は、
『過去、未来、現在』の、
諸の、
『仏』の、
『住処だからである!』。
例えば、
『富楼那弥帝隷耶尼子( puurNa-maitraayaNii-putra )経』中には、
こう説かれている、――
『仏』は、
『富楼那』に、こう語られた、――
若し、
『三千大千世界』を、
『劫焼させ!』、
『更に生じさせた!』としても、
わたしは、
常に、
此の、
『山』中に、
『住まっている!』が、
一切の、
『衆生』は、
『結使』に、
『纏縛されている!』が故に、
『仏を見る!』という、
『功徳』を、
『作すことがなく!』、
是の故に、
わたしを、
『見ないのである!』、と。
  富楼那弥帝隷耶尼子経(ふるなみていれいやにしきょう):不明。
  富楼那(ふるな):梵名puurNaの音訳。具に富楼那弥多羅尼子puurNa-maitraayaNii-putraに作る。釈尊十大弟子の一。説法第一と称す。『大智度論巻33上注:富楼那弥多羅尼子』参照。
  三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):梵語tri-saahastra-mahaa-saahasraaH loka-dhaatavaHの訳。四禅天に依りて覆わるる世界の総称。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
  劫焼(こうしょう):梵語kalpa-daahaの訳。世界の終わりに起る大火災の意。『大智度論巻2下注:劫火』参照。
  参考:『妙法蓮華経巻5如来寿量品』:『我成佛已來。復過於此百千萬億那由他阿僧祇劫。自從是來。我常在此娑婆世界說法教化。亦於餘處百千萬億那由他阿僧祇國導利眾生。』
復次耆闍崛山清淨鮮潔。受三世佛及諸菩薩。更無如是處。是故多住耆闍崛山。 復た次ぎに、耆闍崛山は、清浄鮮潔にして、三世の仏、及び諸の菩薩を受くるも、更に是の如き処無し。是の故に多く、耆闍崛山に住まりたまえり。
復た次ぎに、
『耆闍崛山』は、
『清浄、鮮潔であり!』、
『三世』の、
『仏と諸菩薩』を、
『受けてきた!』が、
更に、
是のような、
『処』は、
『無い!』。
是の故に、
『多く!』、
『耆闍崛山』に、
『住まられるのである!』。
復次諸摩訶衍經。多在耆闍崛山中說。餘處說少。何以故。是中淨潔有福德閑靜故。一切三世諸佛住處。 復た次ぎに、諸の摩訶衍経は、多く耆闍崛山中に在りて説き、余処に説くことは少なし。何を以っての故に、是の中は浄潔にして、福徳有りて、閑静なるが故に、一切の三世の諸仏の住処なり。
復た次ぎに、
諸の、
『摩訶衍(大乗)経』は、
『多く!』が、
『耆闍崛山』中で、
『説かれた!』が、
『余の処』に、
『説かれる!』ことは、
『少ない!』。
何故ならば、
是の中は、
『清浄、鮮潔であり!』、
『福徳が有って!』、
『閑静である!』が故に、
一切の、
『三世』の、
『諸仏』の、
『住処だからである!』。
十方諸菩薩。亦讚歎恭敬此處。諸天龍夜叉阿修羅伽留羅乾闥婆甄陀羅摩睺羅伽等大力眾神。守護供養恭敬是處。 十方の諸の菩薩も、亦た此の処を讃歎恭敬し、諸の天、龍、夜叉、阿修羅、伽留羅、乾闥婆、甄陀羅、摩睺羅伽等の大力の衆神も、是の処を守護し、供養、恭敬す。
『十方』の、
諸の、
『菩薩』も、
此の、
『処』を、
『讃歎、恭敬している!』し、
諸の、
『天、龍、夜叉、阿修羅、伽楼羅、乾闥婆、甄陀羅、摩睺羅伽』等の、
『大力の衆神』も、
是の、
『処』を、
『守護、供養、恭敬している!』。
  八部衆(はちぶしゅ):天に所属して時に仏法を助ける八部の衆。この八部は総じて人の眼には見ること能わざるを以って冥衆八部と称し、八部中の天龍の神験殊勝なるが故に天龍八部といい、また龍神八部と名づく。
    (1)天衆(deva):欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天なり。身に光明を具うるが故に名づけて天と為し、また自然の果報の殊妙なるが故に名づけて天と為す。
    (2)龍衆(naaga):畜類と為し、水属の王なり。八大龍王を列ぬ。
    (3)夜叉(やしゃ、yakSa):また薬叉に作る。空中を飛行する鬼神なり。
    (4)乾闥婆(けんだつば、gandharva):香陰と訳す。陰とは五陰の色身なり、彼の五陰はただ香臭を嗅いで長養するが故に香陰と名づく。帝釈天の楽神なり。
    (5)阿修羅(あしゅら、asura):訳して無酒、或いは非天に作り、また無端正に作る。この果報は天に類するといえども、天部に非ざるが故に非天といい、また容貌醜悪なるが故に無端正といい、彼の果報に美女有るも酒無きが故に無酒といい、常に帝釈と戦闘する神なり。
    (6)伽留羅(がるら、garuDa):また迦楼羅に作り、金翅鳥と訳す。両翅の相い去ること、三百三十六万里なる有りて、龍を撮りて食と為す。
    (7)甄陀羅(きんだら、kiMnara):また緊那羅に作り、非人、歌神と訳す。人に似て頭上に角有るが故に人非人と名づけ、帝釈天の楽神なるが故に楽神という。帝釈に二種の楽神有り、前の乾闥婆を俗楽の奏者と為し、これを則ち法楽の奏者と為す。
    (8)摩睺羅伽(まごらが、mahoraga):また摩睺羅迦に作り、訳して大蟒神、大腹行、地龍と作す。<(佛)
如偈說
是耆闍崛山  諸佛所住處 
聖人所止息  覆蔭一切故 
眾苦得解脫  唯有真法存
偈に説くが如し、
是の耆闍崛山は、諸仏所住の処、
聖人の止息する所なり。一切を覆蔭するが故に、
衆苦の解脱を得、唯だ真法の存する有るのみ。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
是の、
『耆闍崛山』は、
諸の、
『仏』が、
『住まる!』、
『処であり!』、
『聖人』が、
『息(やす)む!』、
『処である!』。
一切を、
『蔭(かげ)に!』、
『覆(おお)う!』が故に、
諸の、
『苦』は、
『解脱』を、
『得て!』、
唯だ、
『真の!』、
『法のみ!』が、
『有る!』、と。
  止息(しそく):とどまりやすむ。
  覆蔭(ふくおん):蔭を作って覆い護る。
復次是中十方無量智慧福德大力菩薩。常來見釋迦牟尼佛。禮拜恭敬聽法。故佛說諸摩訶衍經。多在耆闍崛山。諸摩訶衍經般若為最大。今欲說故云何不住耆闍崛山。略說住耆闍崛山因緣竟 復た次ぎに、是の中には、十方の無量の智慧と福徳と大力の菩薩、常に来たりて、釈迦牟尼仏に見(まみ)え、礼拝、恭敬して法を聴く、故に仏は摩訶衍経を説きたもうに、多く、耆闍崛山に在(ましま)せり。諸の摩訶衍経には般若を最大と為す、今説かんと欲したもうが故に、云何が耆闍崛山に住まりたまわざる。耆闍崛山に住まりたもう因縁を略説し竟れり。
復た次ぎに、
是の中は、
『十方』より、
『無量の智慧、福徳、大力』の、
『菩薩』が、
常に来て、
『釈迦牟尼仏に見(まみ)え!』、
『礼拝し!』、
『恭敬して!』、
『法を聴く!』が故に、
『仏』は、
『諸の摩訶衍経』の、
『多く!』を、
『耆闍崛山』で、
『説かれたのである!』。
諸の、
『摩訶衍の経』中には、
『般若』が、
『最も!』、
『大きい!』。
今、
是の、
『般若』を、
『説こう!』と、
『思われた!』が故に、
何うして、
『耆闍崛山』に、
『住まられないことがあろうか?』。
『耆闍崛山』に、
『住まられる!』、
『因縁』を、
『略説した!』。

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