問曰。汝愛刹利種。淨飯王子字悉達多。以是故而大稱讚言一切智。一切智人無也。 |
問うて曰く、汝は、刹利種の浄飯王の子の、悉達多と字づくるを愛すれば、是を以っての故に、大いに称讃して、一切智と言うも、一切智の人は無きなり。 |
問い、
お前は、
『刹利種浄飯王の子』を、
『愛して!』、
『悉達多(成利≒嘉名)』と、
『呼んでいる!』ので、
是の故に、
而も、
『大いに称讃して!』、――
『一切智である!』と、
『言っている!』が、
実に、
『一切智』の、
『人』は、
『無い(存在しない)!』。
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刹利種(せつりしゅ):梵語刹利Satriyaは、又刹帝利に作り、王種と訳す。即ち印度四姓の一にして即ち王族、武士階級なり。『大智度論巻32下注:四姓』参照。
浄飯王(じょうぼんおう):浄飯は梵名zuddhodanaの訳。中印度迦毘羅kapila城主。即ち釈尊の父なり。『大智度論巻50上注:浄飯王』参照。
字(じ):[本義]子を生む( give birth to )。懐胎した( pregnant )、養育する( bring up )、愛する( love
)、教育する( teach )、治める( govern )、称する( style )、許嫁( girl remain to be betrothed
)、文字( word; characters )、人の別名( another name taken at the age twenty )、人の名号/別名(
(person's) name and alias )、契約書( receipt, contract )、文字による表現/言葉づかい/文章/詞/言いまわし(
wording, words, diction, words or phrases used in certain context )、字跡/筆跡/書法/書跡/書信/手紙(
handwriting, calligraphy, scripts, letters )、字体( form of a written or printed
character, style of hand writing )、字音( pronunciation of a character )。
而(に):[本義]鬚/頬髭( bristle on the jaws )。[連接の辞]しかも/しかし/更に/しかも/その上に/もし/或は/しかれども(
and, furthermore, moreover, but also, into the bargain, if, in case, however
)、[代名詞]お前/お前の/此れ/此の( you, your, this )、[助詞]~の( of )、[語気]豈に( how could,
how is it possible )、[句末の語気]のみ/耳/而已( only, merely )、如し/似る( seem, like )、[能に通じる]才能能くする(
ability, can )。
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答曰。不爾。汝惡邪故妒瞋佛作妄語。實有一切智人。何以故。佛一切眾生中身色顏貌端正無比。相德明具勝一切人。小人見佛身相。亦知是一切智人。何況大人。 |
答えて曰く、爾らず、汝は悪邪なるが故に、仏を妒瞋して、妄語を作すも、実に一切智の人は有り。何を以っての故に、仏は、一切の衆生中に、身色、顔貌の端正なること無比にして、相、徳、明を具え、一切の人に勝れば、小人すら、仏の身相を見るに、亦た是れ一切智の人なりと知る、何に況んや、大人をや。 |
答え、
そうでない!
お前は、
『邪悪である!』が故に、
『仏』を、
『妒(ねた)んで!』、
『瞋(いか)り!』、
是のような、
『妄語』を、
『作している!』が、
『実に!』、
何故ならば、
『仏』は、
『一切の衆生』中に、
『身色、顔貌』の、
『端正である!』こと、
『比類が無く!』、
『相、徳、明』を、
『具えて!』、
『一切の人』に、
『勝っている!』ので、
『小人』すら、
『仏』の、
『身相』を、
『見れば!』、
是れが、
『一切智の人だ!』と、
『知るのである!』から、
況して、
『大人』は、
『尚更である!』。
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如放牛譬喻經中說。摩伽陀國王頻婆娑羅請佛三月。及五百弟子。王須新乳酪酥供養佛及比丘僧。語諸放牛人來近處住。日日送新乳酪酥。 |
『放牛譬喩経』中に説くが如し。摩伽陀国の王頻婆娑羅は、仏を請ずること三月、五百の弟子に及べり。王は、新しき乳、酪、酥を須めて仏、及び比丘僧を供養せんとして、諸の放牛人に語らく、『近き処に来て住まり、日日、新しき乳、酪、酥を送れ』、と。 |
『放牛譬喩経』中に説く通りである、――
『摩伽陀国王の頻婆娑羅』は、
『仏と五百の弟子』を、
『三月(三ヶ月間)』、
『請うた(招待した)!』。
『王』は、
新しい、
『乳、酪( cream/cheese )、酥( butter )』を、
『須( もと)めて!』、
『仏と比丘僧』を、
『供養する!』為に、
諸の、
『放牛人』に、こう語った、――
『近い処』に、
『来て!』、
『住まり!』、
『日日』、
『新しい乳、酪、酥』を、
『送れ!』と。
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摩伽陀国(まがだこく):摩伽陀は梵名magadha、中印度の古国の名。『大智度論巻1上注:摩揭陀国』参照。
頻婆娑羅(びんばしゃら):梵名bimbisaara。中印度の摩揭陀(magadha)国の王。『大智度論巻30上注:頻婆娑羅』参照。
放牛(ほうご):牧牛に同じ。 |
参考:『仏説放牛経』:『佛說放牛經 後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯 聞如是。一時婆伽婆。在舍衛國祇樹給孤獨園。是時佛告諸比丘。有十一法。放牛兒不知放牛便宜。不曉養牛。何等十一。一者放牛兒不知色。二者不知相。三者不知摩刷。四者不知護瘡。五者不知作煙。六者不知擇道行。七者不知愛牛。八者不知何道渡水。九者不知逐好水草。十者[(殼-一)/牛]牛不遺殘。十一者不知分別養可用不可用。如是十一事。放牛兒不曉養護其牛者。牛終不滋息。日日有減。比丘。不知行十一事如放牛兒者。終不成沙門。此法中終不種法律根栽。無有葉枝覆蔭。不行十一事強為沙門者。死墮三惡道。何等比丘十一行。比丘不知色。不知相應摩刷。不知摩刷應護瘡。不知護瘡應作煙。不知作煙。不知擇道行。不知愛牛。不知何道渡水。不知食處。不知敬長老。比丘。云何不知色。比丘。不知四大。不知四大所造色。比丘如是不知。比丘。云何不知相。比丘。不知癡因緣相。不知黠因緣相。云何不知癡因緣相。比丘。不知黑緣。不知白緣。不知黑白緣。云何不知黠相。不知黑緣。不知白緣。不知白黑緣。比丘。如是不知相。比丘。云何應摩刷而不摩刷。比丘。設欲心發便樂著。不捨不忘不斷絕。起愚癡貪慳及餘惡心。盡懷不吐捨。如是比丘。應摩刷而不摩刷也。比丘。云何應護瘡而不護瘡。比丘。見色起想聞聲愛著。思想形體不知為惡。不護眼根耳鼻舌身心。盡馳外塵而不能護。如是比丘。應護瘡而不護瘡。云何比丘。應作煙而不作煙。比丘。所學聞不知為人說。如是比丘。應起煙而不起煙。云何比丘。不知擇道行。比丘。不入直道行。行於非道。云何行非道。比丘。入婬女里及酒會博戲處。如是比丘。為不知行道。云何比丘不知愛比丘。講說法寶時。不至心愛樂聽。如是比丘。為不知愛。云何比丘。不知渡水。比丘。不知四諦。何等四諦。比丘。不知苦諦苦習諦苦盡諦苦盡道諦。如是比丘。為不知渡水。云何比丘。不知食處。比丘。不知四意止。何等四意止。比丘。不知內觀身外觀身內外觀身。不知內觀痛外觀痛內外觀痛。不知內觀意外觀意內外觀意。不知內觀法外觀法內外觀法。如是比丘。為不知食處。云何比丘。不知食不盡。比丘。設為國王長者清信士女請食。設種種餚饌至心進上。比丘。不知齊限。食已有餘復欲持歸。如是比丘。為不知食不盡。云何比丘。不知敬長老。比丘。恭敬供養之云何不知。設有長老比丘。久習道德學問廣博。小比丘不至心禮敬。見之不起不為避坐。輕慢調戲不以善心待。如是比丘。不知敬長老。其有比丘。不知行十一法。於吾法中不應為沙門。不種法律根栽。無枝葉覆蔭皆自朽壞。不如還為白衣。若強為沙門者必入三惡道。比丘。知放牛兒十一行養護。其能使滋息。云何十一。此放牛兒。為知色。知相。摩刷。護瘡。起煙擇道渡水。愛牛。逐水草。[(殼-一)/牛]知遺殘齊限多少。分別牛好惡。養視可用者。如是放牛者。便能養護增益其牛。佛於是頌曰 放牛兒審諦 牛主有福德 六頭牛六年 成六十不減 放牛兒聰明 知分別諸相 如此放牛兒 先世佛所譽 如是十一法。比丘當行。便能於是法中種法律根栽。枝葉茂盛覆蔭大地。不復朽壞。何等十一。比丘知色。知相。知摩刷。知覆瘡。知時作煙。知行道。知愛。知渡水。知食處。知不盡。知敬長老舊學耆艾恭敬供養。云何比丘知色。比丘。知四大造起色。如是比丘為知色。云何比丘知相。比丘。別癡別黠。云何癡。非所思而思。非所行而行。非所說而說。是為癡。云何為黠。思可思行可行說可說。是為黠。能別癡黠。是為知相。云何比丘應摩刷知摩刷。比丘。設生欲心能制遠避如吐惡見。設起瞋恚慳貪及餘諸惡。能制遠避如吐惡見。如是比丘。應刷知刷。云何比丘應護瘡而護。比丘。眼見色不分別好惡。守護眼根不著外色。遠捨諸惡護於眼根。耳聽聲鼻嗅香舌嗜味身貪細滑意多念。制不令著。護此諸根不染外塵如吐惡見。如是比丘。為知護瘡。云何比丘時時放煙。比丘。如所學所聞所知。以是廣說。如是比丘為知放煙。云何比丘知行道。比丘行審諦八道。知不可行處婬里酒家博戲處終不妄入。如是比丘為知行道。云何比丘知愛。比丘。見說法寶時。至心聽受踊躍愛樂。如是比丘名為知愛。云何比丘知渡水處。比丘。知四諦。云何四諦。苦諦苦習諦苦盡諦苦盡道諦。如是比丘為知渡水。云何比丘知食處。比丘。知四意止。云何四意止。比丘。觀內身觀外身觀內外身。觀內痛觀外痛觀內外痛。觀內意觀外意觀內外意。觀內法觀外法觀內外法。如是比丘為知食處。云何比丘知食不盡。比丘。若國王長者清信士女。以信樂心請於比丘。供養飲食種種餚饌。加敬進勸。比丘知節供身則止。思惟佛語。施者雖豐。當自知限不為盡受。如是比丘知食不盡。云何比丘知敬長老舊學耆艾恭敬供養。比丘。當親近是輩禮敬供養。出入迎逆見來避坐。任力進。上勿以懈慢。如是比丘知。敬長老。比丘。能行是十一事者。於此法中種法律根栽枝葉滋茂。多所覆蔭清淨無垢。爾時世尊。以偈頌曰 有信精進學 受食知節限 恭敬於長老 是行佛稱譽 如此十一法 比丘學是者 晝夜定心意 六年得羅漢 諸比丘聞佛所說。歡喜受行 佛說放牛經』 |
三月(さんがつ):四月十六日乃至七月十五日の三ヶ月間。印度の雨季に当り、僧はこの間遊行せず、僧院に籠もって修行した。安居(あんご)。 |
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竟三月。王憐愍此放牛人語言。汝往見佛還出放牛。 |
三月竟り、王は、此の放牛人を憐愍して、語りて言わく、『汝往きて、仏に見(まみ)え、還(ま)た出て放牛せよ。』と。 |
『三月が竟( おわ)る!』と、
『王』は、
此の、
『放牛人』を、
『憐愍して!』、
『語り!』、
こう言った、――
お前は、
『往って!』、
『仏』に、
『見(まみ)えてから!』、
『還( ま)た!』、
『放牛』に、
『出よ!』、と。
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諸放牛人往詣佛所。於道中自共論言。我等聞人說。佛是一切智人。我等是下劣小人。何能別知實有一切智人。 |
諸の放牛人は、仏の所に往詣し、道中に於いて、自ら共に論じて言わく、『我等は、人の説けるを聞くに、仏は、是れ一切智の人なりと。我等は、是れ下劣の小人なれば、何(いか)んが、能く別けて、実に一切智の人有るを知らん。』と。 |
諸の、
『放牛人』は、
『仏』の、
『処』に、
『到達する!』までの、
『道』中に、
自ら、
『共に(いっしょに)!』、
『論じて!』、
こう言った、――
わたし達は、
『人』が、
『仏は一切智の人だ!』と、
『説く!』のを、
『聞いた!』が、
わたし達のような、
『下劣の小人』には、
何うすれば、
『一切智の人』が、
『実に!』、
『有るのか、無いのか?』を、
『別けて!』、
『知ることができるのだろう?』、と。
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詣(けい):いたる/到る。 |
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諸婆羅門喜好酥酪故。常來往諸放牛人所作親厚。放牛人由是聞婆羅門種種經書名字故。言四違陀經中治病法鬥戰法星宿法祠天法歌舞論議難問法。如是等六十四種世間伎藝。淨飯王子廣學多聞。若知此事不足為難。其從生已來不放牛。我等以放牛祕法問之。若能解者實是一切智人。 |
諸の婆羅門は、酥、酪を喜び好むが故に、常に諸の放牛人の所を来往して、親厚を作すに、放牛人は、是れに由って、婆羅門の種種の経書の名字を聞くが故に言わく、『四韋陀経中の、治病法、闘戦法、星宿法、祠天法、歌舞、論議、難問の法、是の如き等の六十四種の世間の技藝は、浄飯王の子の、広く学びて多聞なれば、若しは此の事を知ること、難きと為すに足らざらんも、其れ生じてより已来、放牛せざらん。我等は、放牛の秘法を以って、之に問わん。若し能く解せば、実に是れ一切智の人ならん。』と。 |
諸の、
『婆羅門』は、
『酥、酪』を、
『喜んで!』、
『好む!』が故に、
常に、
『諸の放牛人の所』に、
『往き来して!』、
『親厚を作していた!』ので、
『放牛人』は、
是れにより、
『婆羅門』の、
種種の、
『経書の名字』を、
『聞いていた!』が故に、
こう言った、――
『四韋陀経』中の、
『治病法、闘戦法、星宿法、祠天法』や、
『歌舞、論義、難問法』など、
是れ等のような、
『六十四種の世間の技藝』は、
『浄飯王の子』も、
『広く学び!』、
『多く聞いているだろう!』から、
若し、
此の、
『事を知っていたとしても!』、
『難とする!』には、
『足らない!』が、
彼れは、
『生まれて以来!』、
『放牛したことがないのだから!』、
わたし達は、
若し、
此の、
『秘法』を、
『理解することができれば!』、
是れこそ、
『実に!』、
『一切智の人である!』、と。
|
親厚(しんこう):親切で手厚くすること。
四韋陀(しいだ、veda):婆羅門の修めるべき十八大経の中の特に重要な四経典、利倶吠陀、三摩吠陀、夜柔吠陀、阿闥婆吠陀をいう。『大智度論巻2下注:十八大経、同巻25上注:吠陀、十八大経』参照。
十八大経(じゅうはちだいきょう):四韋陀、六論、八論。 婆羅門の修める十八種の学問。
(1)利倶吠陀(りぐべいだ、Rg-veda):太古よりの賛美歌の集成。
(2)三摩吠陀(さんまべいだ、saama-v):賛歌に音楽を付して祭式に実用のものを集む。
(3)夜柔吠陀(やじゅうべいだ、yajur-v):季節ごとの祭祀の時の散文による呪文を集む。
(4)阿闥婆吠陀(あたるばべいだ、atharava-v):災難から遁れる呪文等の祭歌などを集む。
(5)式叉(しきしゃ、zikSaa)論:六十四種の能法(のうほう、技芸学問)を釈す。
(6)毘伽羅(びから、vyaakaraNa)論:諸音声の法を釈す。
(7)柯刺波(からは、kalpa)論:諸天、仙人の上古以来の因縁と名字を釈す。
(8)竪底沙(じゅていしゃ、jyotiSa)論:天文地理算数等の法を釈す。
(9)闡陀(せんだ、chandas)論:仏弟子、五通の仙人等を偈によって説く。
(10)尼鹿多(にろくた、nirukta)論:一切の物名を立て因縁を釈す。
(11)肩亡婆(けんもうば、?)論:諸法の是非を簡単に釈す。
(12)那邪毘薩多(なじゃびさった、naya-vistara?)論:諸法の道理を明かす。
(13)伊底呵婆(いていかば、ltihaasa)論:伝記、宿世の事を明かす。
(14)僧佉(そうぎゃ、saaMkhya)論:二十五諦なる者を明かす。
(15)課伽(かが、garga?)論:心を摂する法を明かす。
(16)陀菟(だぬ、dhanur)論:用兵の法を釈す。
(17)揵闥婆(けんだつば、gandharva)論:音楽の法を明かす。
(18)阿輸(あゆ、aayur-zaastra)論:医方なる者を明かす。 |
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作是論已前入竹園。見佛光明照於林間。進前覓佛見坐樹下狀似金山如酥投火其炎大明。有似融金散竹林間上紫金光色。 |
是の論を作し已り、前(すす)みて竹園に入るに、仏の光明の、林間を照らすを見る。前に進み、仏を覓(もと)めて、樹下に坐したもうを見るに、状(さま)は、金山の、酥を火に投じて、其の炎の大いに明るきが如きに似て、金を融かして、竹林の間に散らしたるにも似る、紫金の光色を上ぐる有り。 |
是の、
『論を作す!』と、
『竹園』に、
『進んで!』、
『入り!』、
『仏の光明』が、
『林間を照らす!』のを、
『見た!』。
『前に進みながら!』、
『仏』を、
『探し!』、
『求めている!』と、
『仏』が、
『樹下に坐っている!』のが、
『見えた!』。
其の、
『状( さま)』は、
『金山』に、
『似ており!』、
譬えば、
『酥( butter )』を、
『火』に、
『投じて!』、
其の、
『火炎』が、
『明るく!』、
『輝くようであり!』、
有るいは、
『融けた!』、
『金』が、
『竹林の間』に、
『散らばり!』、
『紫金』の、
『光色を上げる!』のにも、
『似ていた!』。
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竹園(ちくおん):梵名veNu-vanaの訳。又竹林精舎、迦蘭陀竹園とも称す。中印度摩揭陀国王舎城の北方に在りし精舎を云う。『大智度論巻2下注:迦蘭陀竹園』参照。
迦蘭陀竹園(からんだちくおん):迦蘭陀kalandakaは梵名。巴梨名同じ。又迦蘭駄迦、迦蘭多迦、迦蘭那迦、迦闌鐸迦、羯蘭鐸迦、羯嬾駄迦、迦蘭陀夷、迦蘭多、柯蘭陀、迦蘭陀鈐波、或いは迦陵に作る。山鼠と訳し、或いは好鳥、好声鳥、又は鵲封、多鳥と翻ず。竹園は梵語鞞紐婆那veNuvanaの訳。巴梨名veLvana-kalandakanivaapa、此の中、nivaapaは献供又は封等の義なり。又一に梵名kalandaka-nivaasaに作る。nivaasaは住の義なり。中印度摩揭陀国王舎城の北方に在りし園林の名。「中本起経巻上度瓶沙王品」、並びに「大唐西域記巻9」等には、此の竹園を以って長者迦蘭陀の奉施せし処となせるも、「中阿含巻36瞿黙目犍連経」、「初分説経巻下」、「過去現在因果経巻4」等には、王舎城諸園中に於いて最勝なるが故に、摩揭陀国王頻毘娑羅bimbisaaraは、之を仏及び四方僧に施したるものとなせり。園中の精舎に関しては、「高僧法顕伝」に、「旧城(旧王舎城)を出で北に行くこと三百余歩、道の西に迦蘭陀竹園精舎今現に在り。衆僧精舎を掃麗す」と云い、「大唐西域記巻9」には、「山城(旧王舎城)の北門より行くこと一里余にして迦蘭陀竹園に至る。今精舎あり、石基甎室にして東に其の戸を開く。如来世に在りし時多く其の中に居し、説法開化して凡を導き俗を拯う。今如来の身を作れり」とあり。又「仏本行集経巻4、45」、「方広大荘厳経巻12」、「普曜経巻8」、「有部毘奈耶破僧事巻8」、「玄応音義巻19」、「慧琳音義巻12、25、26、41」、「希麟音義巻1、4」、「四分律疏巻2末」、「四分律開宗記巻2本」、「四分律行事鈔資持記巻中1」、「四分律名義標釈巻3」、「毘尼関要巻2」、「翻訳名義集巻7」、「翻梵語巻9」等に出づ。<(望)
前(ぜん):すすむ。前に進む。
覓(みゃく):もとめる。探し求める/尋求。
金山(こんせん):朝日、或いは夕日に照らされて、金色に輝く山の峰。
酥(そ):バター。 |
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視之無厭。心大歡喜。自相謂言
今此釋師子 一切智有無
見之無不喜 此事亦已足
光明第一照 顏貌甚貴重
身相威德備 與佛名相稱
相相皆分明 威神亦滿足
福德自纏絡 見者無不愛
圓光身處中 觀者無厭足
若有一切智 必有是功德
一切諸彩畫 寶飾莊嚴像
欲比此妙身 不可以為喻
能滿諸觀者 令得第一樂
見之發淨信 必是一切智 |
之を視るも厭うこと無く、心に大いに歓喜し、自ら相謂って言わく、――
今此の釈の師子に、一切智を有無するも、
之を見れば喜ばざる無く、此の事も亦た已に足れり。
光明の照らすこと第一にして、顔貌も甚だ貴重なり、
身相に威徳備わりて、仏と名づくるに相称(かな)えり。
相と相と皆分明にして、威神も亦た満足す、
福徳を自ら纏絡して、見る者に愛せざる無し。
円光の身を処する中、観る者に厭足する無し、
若し一切智有らば、必ず是の功徳有らん。
一切の諸の彩画、宝飾もて荘厳せる像も、
此の妙身に比せんと欲せば、以って喩と為すべからず。
能く諸の観者を満たし、第一の楽を得しめて、
之を見れば浄信を発す、必ず是れ一切智ならん。
|
之を、
『視て!』、
『厭きる!』こと、
『無く!』、
『心』に、
『大いに!』、
『歓喜して!』、
自ら、
『互に!』、
『謂いあって!』、
こう言った、――
今、
此の、
『釈の師子』の、
『一切智』を、
『有、無していた!』が、
之を、
『見て!』、
『喜ばない!』者は、
『無いだろう!』、
此の、
『事だけで!』、
『已に(もう)!』、
『足りている!』。
其の、
『光明』は、
『照らす!』こと、
『第一であり!』、
『顔貌』は、
『甚だ!』、
『貴く重々しく!』、
『身相』には、
『威徳』が、
『備わり!』、
『仏』という、
『名』に、
『相応しい!』。
其の、
『相と相』は、
皆、
『清楚・明了であり!』、
『威神』も、
亦た、
『満足であり!』、
『福徳』は、
自ら、
『纏わりつき!』、
『見れば!』、
『愛さない!』者が、
『無い!』。
其の、
『身』を、
『処する!』、
『円光』中を、
『観れば!』、
『厭き足る!』者は、
『無い!』、
若し、
『一切智』が、
『有れば!』、
『必ず!』、
是の、
『功徳』が、
『有るはずだ!』。
一切の、
諸の、
『彩画』や、
『宝飾で荘厳された像』を、
此の、
『妙身』に、
『比(くら)べようとしても!』
『喩(たとえ)としようがない!』。
諸の、
『観る!』者を、
『満足させ!』、
『第一の!』、
『楽を得させる!』。
之を、
『観れば!』、
『浄信』が、
『発(おこ)る!』、
是れは、
『必ず!』、
『一切智であろう!』。
|
釈師子(しゃくのしし):釈迦族の獅子の意。
顔貌(げんみょう):容貌。
相称(そうしょう):あいかなう。つりあう。ふさわしい。相応。
相相(そうとそうと):仏のみ有する三十二相の意。
分明(ぶんみょう):清楚/明白な状( clearly )、簡単/明了な( plainly )、輪郭/境界がはっきりしている( clearly demarcated
)。
纏絡(てんらく):巻き付く/絡みつく( twine, bind, wind )。
円光(えんこう):後光。
厭足(えんそく):あきたりる。
浄信(じょうしん):浄き信心。 |
|
|
|
如是思惟已禮佛而坐。問佛言。放牛人有幾法成就。能令牛群番息。有幾法不成就。令牛群不增不得安隱。 |
是の如く思惟し已りて、仏に礼して坐し、仏に問うて曰く、『放牛人には、幾ばくの法か有りて、成就せば、能く牛群をして、番息せしめ、幾ばくの法か有りて、成就せざれば、牛群をして、増えず、安穏を得しめざる。 |
是のように、思惟すると、――
『仏』を、
『礼して!』、
『坐り!』、
『仏』に問うて、こう言った、――
『放牛人』は、
何れだけの、
『法』が、
『有って!』、
『成就すれば!』、
『牛』の、
『群』を、
『繁殖させられますすか?』。
何れだけの
『法』が、
『有って!』、
『成就しなければ!』、
『牛』の、
『群を増やせず!』、
『安隠を得させられないのですか?』、と。
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番息(ばんそく):繁殖し、安息なることをいう。 |
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佛答言。有十一法。放牛人能令牛群番息。何等十一。知色知相知刮刷知覆瘡知作煙知好道知牛所宜處知好度濟知安隱處知留乳知養牛主。若放牛人知此十一法。能令牛群番息。比丘亦如是。知十一法能增長善法。 |
仏の答えて言わく、『十一法有りて、放牛人は、能く牛群をして、番息す。何等か十一なる。色を知り、相を知り、刮刷を知り、瘡を覆うを知り、煙を作るを知り、好き道を知り、牛の宜しくする所の処を知り、好く度済することを知り、安穏の処を知り、乳を留めることを知り、牛主を養うを知る。若し放牛人、此の十一法を知らば、能く牛群をして、番息ならしめん。比丘も、亦た是の如き、十一法を知らば、能く善法を増長せん。 |
『仏』は答えて、
こう言われた、――
『十一法』が有り、
『放牛人』は、
『牛の群』を、
『繁殖させられる!』。
何のような、
『十一法か?』、――
『色を知り!』、
『相を知り!』、
『刮刷することを知り!』、
『瘡(きず)を覆うことを知り!』、
『煙を作ることを知り!』、
『好道を知り!』、
『牛の宜しい処を知り!』、
『好い渡り場を知り!』、
『安隠の処を知り!』、
『乳を留めることを知り!』、
『牛主を養うことを知る!』。
若し、
『放牛人』が、
此の、
『十一法を知れば!』、
『牛の群』を、
『繁殖させられる!』。
『比丘』も、
是のように、
『十一法を知れば!』、
『善法』を、
『増長することができる!』。
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刮刷(かっさつ):こそげとる。
度済(どさい):渡す。渡し場。
牛主(ごしゅ):牛中の主たるもの。 |
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云何知色。知黑白雜色。比丘亦如是。知一切色皆是四大四大造。 |
云何が、色を知る。黒、白、雑色を知るなり。比丘も、亦た是の如く、一切の色は、皆、是れ四大と、四大の造なりと知る。 |
何のように、
『色』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『比丘』も、
是のように、
一切の、
『色』は、 皆、
『四大か、四大造である!』と、
『知る!』。
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云何知相。知牛吉不吉相。與他群合因相則識。比丘亦如是。見善業相知是智人。見惡業相知是愚人。 |
云何が、相を知る。牛の吉と、不吉の相を知りて、他の群と合するに、相に因りて、則ち識る。比丘も、亦た是の如し、善業の相を見て、是れ智人なりと知り、悪業の相を見て、是れ愚人なりと知る。 |
何のように、
『相』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『牛』の、
『吉( 健康)、不吉( 疾病)』の、
『他の群』と、
『合しても!』、
『相によって!』、
『識別することができる!』。
『比丘』も、
是のように、
『善業』の、
『相』を、
『見て!』、
是れは、
『智人である!』と、
『知り!』、
『悪業』の、
『相』を、
『見て!』、
是れは、
『愚人である!』と、
『知る!』。
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云何刮刷。為諸虫飲血則增長諸瘡。刮刷則除害。比丘亦如是。惡邪覺觀虫飲善根血增長心瘡。除則安隱。 |
云何が、刮刷する。諸の虫の為に血を飲まるれば、則ち諸の瘡を増長するも、刮刷すれば、則ち害を除く。比丘も、亦た是の如し、悪邪の覚観の虫に、善根の血を飲まるれば、心の瘡を増長するも、除けば則ち安隠なり。 |
何のように、
『剔(えぐ)りとるのか?』、――
即ち、
諸の、
『虫』が、
『血』を、
『飲めば!』、
諸の、
『瘡(きず)』を、
『増長することになる!』が、
『剔りとれば!』、
『害』を、
『除くことになる!』。
『比丘』も、
是のように、
『悪邪』の、
『覚、観の虫』が、
『善根の血』を、
『飲めば!』、
『心』の、
『瘡』が、
『増長する!』ので、
『覚、観の虫』を、
『除けば!』、
『安隠となる!』。
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刮刷(かっさつ):引掻いて剔りとる( scratch and remove )。
覚(かく):梵語vitarkaの訳。境に対し妄りに尋求推理すること。『大智度論巻17下注:覚』参照。
観(かん):梵語vicaaraの訳。諸法の名、義等を妄に伺察すること。『大智度論巻17下注:観』参照。 |
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云何覆瘡。若衣若草葉以防蚊虻惡刺。比丘亦如是。念正觀法覆六情瘡。不令煩惱貪欲瞋恚惡虫刺蕀所傷。 |
云何が、瘡を覆う。若しは衣、若しは草、葉を以って、蚊虻の悪刺するを防ぐ。比丘も、亦た是の如し、法を正観せんと念じて、六情の瘡を覆い、煩悩、貪欲、瞋恚の悪虫、刺棘の傷つく所とならしめず。 |
何のように、
『瘡』を、
『覆うのか?』、――
即ち、
『衣』や、
『草』や、
『葉』で、
『蚊虻』の、
『悪刺』を、
『防ぐことである!』。
『比丘』も、
是のように、
『正観の法を念じて!』、
『六情の瘡』を、
『覆い!』、
『煩悩、貪欲、瞋恚』という、
『悪虫、刺棘(とげ)』に、
『傷つけさせないようにする!』。
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蚊(もん):か。夏時に人畜を囓む小飛虫。
虻(もう):あぶ。牛等に寄生し、皮膚の中に卵を産む。
悪刺(あくし):酷く刺すこと。
刺棘(しきょく):とげ。
六情(ろくじょう):眼耳鼻舌身意の六根を云う。 |
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云何知作煙除諸蚊虻。牛遙見煙則來趣向屋舍。比丘亦如是。如所聞而說除諸結使蚊虻。以說法煙引眾生。入於無我實相空舍中。 |
云何が、煙を作るを知る。諸の蚊虻を除き、牛は遙かに、煙を見て、則ち来たりて屋舎に趣向す。比丘も、亦た是の如し、聞く所の如く、諸の結使の蚊虻を除くことを説き、法を説く煙を以って衆生を引き、無我の実相の空舎の中に入る。 |
何のように、
『煙を作る!』ことを、
『知るのか?』、――
即ち、
『煙』は、
『牛』が、
『牛』は、
来て、
『屋舎』に、
『趣向する(まっしぐらに向かう)からである!』。
『比丘』も、
是のように、
『聞いたままに!』、
『法の煙』で、
『衆生を引いて!』、
『無我』という、
『実相の空舎』中に、
『入らせる!』。
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云何知道。知牛所行來去好惡道。比丘亦如是。知八聖道能至涅槃。離斷常惡道。 |
云何が、道を知る。牛の行、来、去する所の好悪の道を知る。比丘も、亦た是の如し、八聖道は、能く涅槃に至り、断常の悪道を離ると知る。 |
何のように、
『道』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『牛』の、
『行ったり!』、
『来たり!』、
『去ったりする!』、
『道』の、
『好、悪』を、
『知ることである!』。
『比丘』も、
是のように、
『八聖道』が、
『涅槃に至らせる!』ことを、
『知り!』、
『断、常』の、
『悪道を離れる!』ことを、
『知る!』。
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云何知牛所宜處。能令牛番息少病。比丘亦如是。說佛法時得清淨法喜。諸善根增盛。 |
云何が、牛の宜しき所の処を知る。能く、牛をして、番息せしめ、少病ならしむ。比丘も、亦た是の如し、仏法を説く時、清浄の法を得て喜び、諸の善根の増盛す。 |
何のように、
『牛』の、
『宜しい(適した)処』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『牛』を、
『繁殖させ!』、
『病を少なくすることである!』。
『比丘』も、
是のように、
『仏』の、
『法』を、
『説けば!』、
その時、
『清浄』の、
『法を得て!』、
『喜び!』、
諸の、
『善根』を、
『増々盛んにするからである!』。
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云何知濟。知易入易度無波浪惡虫處。比丘亦如是。能至多聞比丘所問法。說法者知前人心利鈍煩惱輕重。令入好濟安隱得度。 |
云何が、済を知る。入り易く、度り易く、波浪、悪虫の無き処を知る。比丘も、亦た是の如し、能く多聞の比丘の所に至りて、法を問う。法を説く者は、前の人の心の利鈍、煩悩の軽重を知りて、好き済に入れしむれば、安穏に度を得。 |
何のように、
『済(渡し場)』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『入り易く!』、
『渡り易くて!』、
『波浪・悪虫の無い!』、
『処』を、
『知ることである!』。
『比丘』も、
是のように、
『多聞の!』、
『比丘の所に至って!』、
『法』を、
『問うことができれば!』、
『法を説く!』者は、
『前の人』の、
『心の利、鈍』や、
『煩悩の軽、重』を、
『知って!』、
『好い!』、
『渡し場』に、
『入らせれば!』、
是の、
『人』は、
『安隠に!』、
『渡ることができる!』。
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云何知安隱處。知所住處無虎狼師子惡虫毒獸。比丘亦如是。知四念處安隱無煩惱惡魔毒獸。比丘入此則安隱無患。 |
云何が、安穏の処を知る。住する所の処に、虎狼、師子、悪虫、毒獣無きを知る。比丘も、亦た是の如し、四念処は安穏にして、煩悩の悪魔、毒獣無きを知れば、比丘、此に入りて、則ち安穏にして、患無し。 |
何のように、
『安隠の処』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『住する処』に、
『虎狼、師子、悪虫、害獣の無い!』ことを、
『知る!』。
『比丘』も、
是のように、
『四念処』は、
『安隠であり!』、
『煩悩の悪魔、害獣の無い!』ことを、
『知れば!』、
『比丘』は、
此に入って、
則ち、
『安隠であり!』、
『患が無い!』。
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云何留乳。犢母愛念犢子故與乳。以留殘乳故。犢母歡喜則犢子不竭。牛主及放牛人。日日有益。比丘亦如是。居士白衣給施衣食。當知節量不令罄竭。則檀越歡喜信心不絕。受者無乏。 |
云何が、乳を留める。犢母は、犢子を愛念するが故に、乳を与う。乳を留めて残すを以っての故に、犢母は歓喜し、則ち犢子竭(つ)きざれば、牛主、及び放牛人にも、日日に益有り。比丘も、亦た是の如し、居士、白衣衣食を給施するに、当に知るべし、量を節して、罄竭せしめざれば、則ち檀越歓喜して、信心断えずして、受くる者も乏しきこと無し。 |
何のように、
『乳』を、
『留(とど)めるのか?』、――
即ち、
『犢母( 母牛)』は、
『犢子( 子牛)』を、
『愛する!』が故に、
『乳を与える!』ので、
『乳』を、
『残して!』、
『留めておけば!』、
故に、
『犢母は歓喜して!』、
『犢子』が、
『竭(かわ)かないことになる!』ので、
『牛主( 所有主)と放牛人』は、
『日日に!』、
『益が有る!』。
『比丘』も、
是のように、
『居士、白衣』が、
『衣食』を、
『給施(施与)する!』ので、
当然、こう知らねばならぬ、――
『量』を、
『節して!』、
『枯竭させなければ!』、
則ち、
『檀越』は、
『歓喜して!』、
『信心を絶やさず!』、
『受ける!』者も、
『乏しくなる!』ことが、
『無い!』。
|
犢母(とくも):小牛の母。
犢子(とくし):小牛。
居士(こじ):梵語gRha-patiの訳。家長、家主、長者の義なり。また財に居し、或は家に居する士の意とす。即ち毘舎種(梵vaizya)の豪富なる者、または家の居して得を蘊む有道の士をいう。『大智度論巻6下注:居士』参照。
白衣(びゃくえ):梵語avadaata-vasanaの訳。巴梨名odaata-vasana、白色の衣の意。転じて白衣を着するものを云う。即ち在俗の人の称なり。「長阿含巻8散陀那経」に、「沙門瞿曇の白衣の弟子の中、此れを最上と為す。彼れ必ず此に来たらん、汝は宜しく静黙すべし」と云い、「中本起経巻上還至父国品」に、「仏は比丘に教えて、白衣に親しみ家居を恋うことなからしむ。道俗異なるが故なり」と云い、「仏遺教経」に、「白衣は欲を受く、行道の人に非ず」と云い、「顕揚聖教論巻3」に、「在俗の人とは謂わく家に処する白衣なり、五欲を受用して俗業を営構し、以って自ら活命す」と云える是れなり。是れ印度に於ける在俗の人は白衣を著するが故に之を白衣と名づけたるものにして、即ち出家の人の染衣を用うるに区別せるなり。「大唐西域記巻2」に印度の風俗を敍する中、「衣裳服玩は裁製する所なく、鮮白を貴び、雑綵を軽んず」と云い、「道宣律師感通録」に、「白衣は外道の服なり、斯れ本と出家の者は之を絶つ。三衣は惟れ仏制の名なり、著すれば定んで解脱を得るが故なり。白衣は俗服にして仏厳に制断す」と云えり。以って僧侶の衣制の別なるを知るべし。然るに支那及び本邦に於いては自ら服制の異なるものあり、「仏像幖幟義図説巻上」に、「白衣とは梵土の俗服なり、故に仏之を制す。経論の中に白衣と称するは竝びに居士を指す、惟れ衣相に依るなり。(中略)若し漢土に拠らば賎者の服と為す。陋室銘に往来白丁なしと云い、淵明伝に白衣酒を送ると云うが如き是れなり。但し和朝に於いては、高貴の人に非ざれば之を服すること能わず、常人の如きは或いは祭礼の節、或いは喪儀の時、乃ち白衣を著して以って潔斎に擬す、蓋し国風なるのみ。且つ夫れ沙門の袈裟は染むと雖も、白衣は白を尚ぶ。礼仏式の如き、入衆法の如き、凡そ衣を著するには、則ち必ず白服を以って法衣に襯す。是れ亦俗に順ずるなり」と云えり。蓋し本邦に於いて僧侶が法衣の下に白衣を着用することは、元と出家の風を模したるものなるが如く、即ち我が国高貴の人は古くより白衣を被著せられ、又「平家物語巻11」、「源平盛衰記巻22俵藤太将門中違の事の條」に平将門が白衣を著せしことを伝え、「源平盛衰記巻13高倉宮信連戦の事の條」に、源頼朝が白衣を着せしことを記し、又「貞丈雑記巻3小袖の部」に、「びゃくえとは白衣と書くなり。公家衆の平服は、ゑぼしをかぶり、上は直衣といふ装束を着し、下はさしぬきといふはかまを着給うなり。小袖は白小袖なり。びゃくえといふ時はゑぼしをかぶり、さしぬきを着て、直衣をば着し給わぬなり。直衣を着し給わず、白小袖をあらはす故白衣と云ふなり。武家にても其の心にて、ゑぼしをかぶり、袴をば着して、上にはすあふにても、ひたたれにても着せずしてあるを白衣と云ふなり。肩衣、袴の時は肩衣を着せず、袴ばかりを着したるは白衣なり。今時は袴も着せず、小袖計り着るを白衣といふはあやまりなり。又腰の物ささぬをびゃくえといふは、いよいよあやまりなり」と云えり。之に依るに公家並びに武家の間に式服として白衣の被著行われたるにより、僧家に於いても亦之に傚うて法衣の下に白衣を用うるに至りしものにして、即ち俗に順ぜるものと云うべし。又「中阿含巻12鞞婆陵耆経」、「般舟三昧経巻上、中」、「四分律巻1」、「五分律巻13、14」、「四分律行事鈔資持記巻下4」等に出づ。<(望)
罄竭(きょうかつ):つきる。枯竭。
檀越(だんおつ):梵語daana-pati。巴梨語同じ。具に陀那鉢底と云い、又陀那婆に作り、施主、或いは布施家と訳す。又梵漢兼挙して檀越施主、檀越主、檀那主、或いは檀主とも称す。即ち僧衆に衣食等を施与する信男信女を云う。『大智度論巻22上注:檀越』参照。 |
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云何知養。牛主諸大特牛能守牛群。故應養護不令羸瘦。飲以麻油。飾以瓔珞。標以鐵角摩刷讚譽稱等。比丘亦如是。眾僧中有威德大人。護益佛法摧伏外道。能令八眾得種諸善根。隨其所宜恭敬供養等。 |
云何が、牛主を養うことを知る。諸の大特牛は、能く牛群を守るが故に、応に養護して、羸痩ならしめず、飲むには、麻油を以ってし、飾るには、瓔珞を以ってし、標(しる)すには、鉄角を以ってし、摩刷し、讃誉し、称(ほ)むる等すべし。比丘も、亦た是の如し、衆僧中に威徳の大人有りて、仏法を護益し、外道を摧伏して、能く八衆をして、諸の善根を種うることを得しむれば、其の宜しき所に随いて、恭敬、供養等すべし。 |
何のように、
『牛主( 牛王)』を、
『養う!』ことを、
『知る!』、――
即ち、
諸の、
『大特牛(牡牛)』は、
『牛の群』を、
『守れる!』が故に、
当然、
『養護して!』、
『痩せ衰えさせてはならない!』。
則ち、
『麻油を飲ませて!』、
『瓔珞を飾り!』、
『鉄角で顕示し!』、
『摩擦して!』、
『讃歎、称誉等をするのである!』。
『比丘』も、
是のように、
『衆僧』中の、
『威徳有る!』、
『大人』は、
『仏法を養護し!』、
『外道を摧伏して!』、
『八衆』に、
『諸の善根』を、
『植えさせる!』ので、
其の、
『相応しい!』所に、
『随って!』、
『恭敬、供養等をせねばならない!』。
|
特牛(とくご):おうし。牡牛。
羸痩(るいそう):弱りやせる。
麻油(まゆ):ごま油。
瓔珞(ようらく):首飾。
標(ひょう):勝者のしるしを立てて、人をして見易からしむること。
摩刷(まさつ):摩擦。なでる。
八衆(はちしゅ):沙門、婆羅門、刹利、天、四天王、三十三天、魔、梵を指す。即ち「大智度論巻25」に、「衆中に師子吼するとは、衆とは八衆に名づく。沙門衆、婆羅門衆、刹利衆、天衆、四天王衆、三十三天衆、魔衆、梵衆なり。衆生は、此の八衆に於いて、智慧を悕望す。是の故に経中に但だ、是の八衆を説く」と云える是れなり。 |
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|
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放牛人聞此語已如是思惟。我等所知不過三四事。放牛師輩遠不過五六事。今聞此說歎未曾有。若知此事餘亦皆爾。實是一切智人。無復疑也。是經此中應廣說。以是故知有一切智人。 |
放牛人は、此の語を聞き已りて、是の如く思惟すらく、『我等の知る所は、三四事を過ぎず。放牛師の輩は遠くとも、五六事を過ぎず。』と。今、此の説を聞きて、未だ曽て有らざるを歎ず。若し此の事を知らば、余も亦た皆爾らん。実に是れ一切智の人なり、復た疑うこと無きなり。』と。是の経は、此の中に応に広く説くべし。是を以っての故に、一切智の人有るを知る。 |
『放牛人』は、
此の、
『語』を、
『聞いて!』、
是のように、思惟した、――
わたし達の、
『知る!』所は、
『三、四事』を、
『過ぎない!』し、
『放牛の師輩』は、
『差が有っても!』、
『五、六事』を、
『過ぎない!』。
今、
此の、
『説を聞いて!』、
『未曽有である!』と、
『詠嘆した!』が、
若し、
此の、
『事』を、
『知っていれば!』、
余の、
『事』も、
『皆知っているだろう!』。
実に、
此の、
『人』は、
『一切智である!』。
復た( もう)、
『疑(うたがい)』は、
『無くなった!』、と。
是の、
『経』は、
此の中に、
『広く!』、
『説かねばならぬ!』。
是の故に、こう知る、――
|
遠(おん):[本義]距離が遠い( far, distant )。時間が永い/長い( long )、高遠/大望( lofty, ambitious
)、距たりが大きい( numerous, distant )、深遠/深奥( deep, profound )、遠ざかる/避ける( leave,
depart from, avoid, evade )、違背する( violate, go against )、疎縁/親近しない/接近しない(
keep at a distance, become estranged )、拡大/展開する( expand, spread )、超過する(
surpass, exceed )、僻地/遠方( distant place )。 |
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問曰。世間不應有一切智人。何以故。無見一切智人者。 |
問うて曰く、世間には、応に一切智の人有るべからず。何を以っての故に、一切智の人を見し者の無ければなり。 |
問い、
『世間』には、
『一切智』の、
『人など!』、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『一切智の人』を、
『見た!』者が、
『無いからだ!』。
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答曰。不爾。不見有二種。不可以不見故便言無。一者事實有。以因緣覆故不見。譬如人姓族初及雪山斤兩恒河邊沙數。有而不可知。二者實無無故不見。譬如第二頭第三手。無因緣覆而不見。如是一切智人因緣覆故汝不見。非無一切智人。何等是覆因緣。未得四信心著惡邪。汝以是因緣覆故。不見一切智人。 |
答えて曰く、爾らず。見ざるには、二種有り。見ざるを以っての故に、便ち無しと言うべからず。一には、事は実に有るも、因縁覆うを以っての故に見ず。譬えば、人の姓族の初、及び雪山の斤両、恒河の辺の沙(すな)の数は、有れども、知るべからず。二には、実に無く、無きが故に見ず。譬えば、第二の頭、第三の手は、因縁の覆うこと無きも、見ざるが如し。是の如く、一切智の人は、因縁覆うが故に、汝は見ざるも、一切智の人の無きに非ず。何等か、是れ覆える因縁なる。未だ四信を得ずして、心悪邪に著すれば、汝は、此の因縁覆うを以っての故に、一切智の人を見ず。 |
答え、
そうでない!
『見ない!』には、
『二種』、
『有る!』ので、
『見ない!』が故に、
簡単に、
『無い!』と、
『言うべきではない!』。
一には、
『事』が、
『実に!』、
『有る!』が、
『因縁』に、
『覆われている!』が故に、
『見えない!』、
譬えば、
『人』の、
『姓、族』の、
『初』や、
『雪山』の、
『斤(重量の単位)』や、
『両(重量の単位)』や、
『恒河の辺』の、
『沙』の、
『数』など、
是れ等は、
『有っても!』、
『知ることができない!』。
二には、
『事』が、
『実に!』、
『無く!』、
『実に!』、
『無い!』が故に、
『見えない!』。
譬えば、
『第二の頭』や、
『第三の手』は、
『覆うような!』、
『因縁が無くても!』、
『見えない!』。
是のように、
『一切智の人』は、
『因縁の覆う!』が故に、
お前には、
『見えない!』が、
『一切智』の、
『人』が、
『無いということではない!』。
是の、
『覆う!』、
『因縁』とは、
『何のようなものか?』、――
未だ、
『四信( 真如、及び仏法僧の信)を得ず!』、
『心』が、
『悪邪』に、
『著することである!』。
お前は、
是の、
『因縁の覆う!』が故に、
『一切智の人』を、
『見ないのである!』。
|
可以(かい):可能/許可( can, may )、まずまず/かなり良い( not bad, passable, pretty good )、非常に/大変/極めて(
awful, very, extremely )。
姓族(しょうぞく):氏族。
四信(ししん):真如と、其の発見者たる仏と、其れを演べ説きたる法と、及び其の法を世に伝うべき僧との四事を信ずるの意。『大智度論巻18下注:四信』参照。 |
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問曰。所知處無量故。無一切智人。諸法無量無邊。多人和合尚不能知。何況一人。以是故無一切智人。 |
問い、知る所の処は無量なるが故に、一切智の人無し。諸法は、無量無辺なれば、多人和合するも、尚お知る能わず。何に況んや、一人をや。是を以っての故に、一切智の人無し。 |
問い、
『知られる!』、
『処』が、
『無量である!』が故に、
『一切智』の、
『人』は、
『無い!』。
諸の、
『法』は、
『無量』、
『無辺であり!』、
『多く!』の、
『人』が、
『和合しても!』、
尚お、
『知ることができない!』、
況して、
『一人』は、
『言うまでもない!』。
是の故に、
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答曰。如諸法無量。智慧亦無量無數無邊。如函大蓋亦大。函小蓋亦小。 |
答えて曰く、諸法の無量なるが如く、智慧も亦た無量、無数、無辺なり。函大なれば、蓋も亦た大にして、函小なれば、蓋も亦た小なるが如し。 |
答え、
諸の、
『法』が、
『無量であるように!』、
『智慧』も、
『無量』、
『無数』、
『無辺である!』。
譬えば、
『函』が、
『大きければ!』、
亦た、
『蓋』も、
『大きい!』が、
『函』が、
『小さければ!』、
亦た、
『蓋』も、
『小さいようなものである!』。
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問曰。佛自說佛法不說餘經若藥方星宿算經世典。如是等法若是一切智人。何以不說。以是故知非一切智人。 |
問うて曰く、仏は自ら、仏法を説くも、余の経の若しは薬方、星宿、算経、世典を説きたまわず。是の如き等の法を、若し是れ一切智の人なれば、何を以っての故に、説きたまわざる。是を以っての故に知るらく、一切智の人に非ずと。 |
問い、
『仏』は、
自ら、
『仏』の、
『法』を、
『説かれた!』が
余の、
『経』を、
『説かれたことはない!』。
謂わゆる、
『薬方、星宿、算経の世典である!』が、
若し、
『一切智の人ならば!』、
是れ等のような、
『法』を、
何故、
『説かれなかったのですか?』。
是の故に、こう知る、――
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薬方(やくほう):医術の書。
星宿(しょうしゅく):占星の書。
算経(さんきょう):算術の経書。
世典(せてん):世俗の典籍。 |
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答曰。雖知一切法。用故說。不用故不說。有人問故說。不問故不說。 |
答えて曰く、一切の法を知ると雖も、用うるが故に説き、用いざるが故に説かず。有る人の問うが故に説き、問わざるが故に説かず。 |
答え、
一切の、
『法を知っていても!』、
有る、
『法』を、
『用いる!』が故に、
『説かれ!』、
『法』を、
『用いない!』が故に、
『説かれない!』し、
有る、
『人』が、
『問う!』が故に、
『説かれ!』、
『人』が、
『問わなかった!』が故に、
『説かれないのである!』。
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復次一切法略說有三種。一者有為法。二者無為法。三者不可說法。此已攝一切法。 |
復た次ぎに、一切の法には、略説して三種有り。一には、有為法。二には、無為法。三には、不可説法なり。此に已に、一切の法を摂す。 |
復た次ぎに、
『一切の法』は、
略説して、
『三種』、
『有り!』、
一には、
『有為の法であり!』、
二には、
『無為の法であり!』、
三には、
『不可説の法である!』が、
此の中に、
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