巻第二(下)
home

初品中婆伽婆釋論第四
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


婆伽婆(世尊)

【經】婆伽婆 婆伽婆
『婆伽婆(世尊)』は、‥‥
  婆伽婆(ばがば):梵語bhagavat、巴梨語bhagavaa、又bhagavant、又婆伽梵、婆伽伴、婆誐鑁、薄伽梵、薄伽伴、薄伽畔、薄阿梵、薄伽跋帝、婆誐縛底、或いは婆誐嚩帝に作り、有徳、有大功徳、有名称、衆祐、巧分別、能破、或いは世尊と訳す。衆徳を具して世に尊重恭敬せらるる者の意にして、即ち仏の尊称なり。「大智度論巻2」に婆伽婆を釈し、「仏の功徳は無量にして、名号も亦た無量なり。此の名は其の大なる者を取る、人の多く識るを以っての故なり」と云い、又「仏地経論巻1」に、「仏は十種の功徳名号を具す、何故に如来の教の伝法者は、一切の経首に但だ是の如き薄伽梵の名を置くや。謂わく此の一名は世咸な尊重するが故なり。諸の外道も皆本師を称して薄伽梵と名づく。又此の一名は衆徳を総摂するも余名は爾らず、是の故に経首に皆此の名を置く」と云える是れなり。是れ婆伽婆の名は最も広く世に知られ、且つ此の名は独り衆徳を総摂するが故に、之を仏の尊称となすことを明にせるなり。其の語義に関しては、「法蘊足論巻2証浄品」に、「薄伽梵とは、謂わく善法を有するを薄伽梵と名づく。無上の諸善法を成就するが故なり。或いは善法を修するを薄伽梵と名づく、已に無上の諸の善法を修するが故なり。又仏世尊は円満に身戒心慧を修習し、大悲を成就して限なく量なく、無量の法を成ずれば薄伽梵と名づく。又仏世尊は大威徳を具し、能く往き能く至り、能く壊し能く成じ、能く自在に転ずれば薄伽梵と名づく。又仏世尊は永く一切の貪瞋癡等の悪不善の法を破し、永く雑染の後有の熾然たる苦の異熟果を破し、永く当来の生老病死を破すれば薄伽梵と名づく。(中略)又仏世尊は未聞の法に於いて能く自ら通達して最上覚を得、現法智、無障礙智を成じ、善く当来を解し、梵行果を修し、諸弟子の為に分別し解説し、大法会を設けて普く有情に施せば薄伽梵と名づく。(中略)又仏世尊は諸の弟子の為に宜に随って説法し、皆歓喜し恭敬し信受して教の如く修行せしめ、名称普く聞こえて諸方域に遍じ、讃礼せざるものなければ梵と名づく」と云い、「大智度論巻2」に、「婆伽婆とは、婆伽は徳と言い、婆は有と言う。是れを有徳と名づく。復た次ぎに婆伽は分別と名づけ、婆は巧と名づく。巧に諸法の総相別相を分別するが故に婆伽婆と名づく。復た次ぎに婆伽は名声と名づけ、婆は有と名づけ、有名称と名づく。名声を得ること仏の如きものあることなければなり。(中略)復た次ぎに婆伽は破と名づけ、婆は能と名づく。是の人は能く婬怒癡を破するが故に称して婆伽婆と為す」と云い、又「大般涅槃経巻18」に、「婆伽婆とは、婆伽は破に名づけ、婆は煩悩に名づく。能く煩悩を破するが故に婆伽婆と名づく。又能く諸の善法を成就するが故に、又能く善く諸の法義を解するが故に、大功徳ありて能く勝るものなきが故に、大名聞ありて十方に遍きが故に、又能く種種に大に恵施するが故に、又無量阿僧祇劫に於いて女根を吐くが故なり」と云い、「仏地経論巻1」に、「薄伽梵とは、謂わく薄伽の声は六義に依りて転ず、一に自在の義、二に熾盛の義、三に端厳の義、四に名称の義、五に吉祥の義、六に尊貴の義なり。(中略)是の如く一切の如来は一切の種を具有して皆相離れず、是の故に如来を薄伽梵と名づく」と云えり。按ずるに梵語bhagavatは、名詞bhagaと後接字vatとの合成語にして、bhagaには徳、威徳、善法、名声、尊貴、吉祥、端厳、施、智、全能、女根等の義あり。vatは有、或いは具の義なるが故に有徳、有名声等の諸釈を生じたるなり。又婆伽婆bhagavatを以って、破の義なる動詞bhaJjの過去受動分詞bhagna(破れたる)に後接字vatを附したる過去能動分詞bhagnavat(破り了りたる)より転化せしものと解せば、即ち能破の義となるなり。蓋し梵語婆伽婆には元と世尊の義なきも、一般に解し易きが故に、古来多く義訳して之を世尊となすなり。又「増一阿含経巻14」、「百論巻上」、「瑜伽師地論巻38」、「仁王護国般若波羅蜜多道場念誦儀軌巻下」、「大乗義章巻20末」、「仁王般若経疏巻6(吉蔵)」、「翻梵語巻1」、「四分律疏飾宗義記巻3本」、「玄応音義巻3、21」、「異部宗輪論述記」、「華厳経探玄記巻9」、「大日経疏巻1」、「慧琳音義巻1、10、12」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
【論】今當說。釋曰。云何名婆伽婆。婆伽婆者。婆伽言德。婆言有。是名有德。 今当に説くべし。釈して曰く、云何が、婆伽婆と名づくる。婆伽婆とは、婆伽を『徳』と言い、婆を『有り』と言い、是れを『有徳』と名づく。
今、
説かねばならぬ、――
釈す、
何故、
『婆伽婆(bhagavat)』と、
『称するのか?』、
『婆伽婆』とは、
秦に、
『婆伽(bhaga)』を、
『徳』と、
『言い!』、
『婆(vat)』を、
『有り!』と、
『言うので!』、
是れを、
『有徳』と、
『称する!』。
復次婆伽名分別。婆名巧。巧分別諸法總相別相故。名婆伽婆。 復た次ぎに、婆伽を分別と名づけ、婆を巧と名づけ、巧みに諸法の総相、別相を分別するが故に、婆伽婆と名づく。
復た次ぎに、
『婆伽(bhaga)』を、
『分別』と、
『呼び!』、
『婆(vat)』を、
『巧み!』と、
『称する!』が、
諸の、
『法』の、
『総相、別相』を、
『巧みに分別する!』が故に、
是れを、
『婆伽婆』と、
『呼ぶのである!』。
  (ほう):梵語達磨dharmaの訳。また達摩、陀摩、駄摩、曇摩、曇謨、曇無、或は曇に作る。自性を保持して改変せざるものの意。「倶舎論巻1」に、「よく自相を持するが故に(梵sva-lakSaNa-dhaaraNatvena)名づけて法と為す」と云い、「仏地経論巻3」に「法とはこれ自相を持するの義なり」と云い、また「成唯識論巻1」に、「法とは謂わく軌持なり」と云えり。これ法は自相を持するの義なることを説けるものにして、即ち梵語dharmaが「保持」の義なる語根dhRより転化せし名詞なるが故にこの釈を作せるものなり。  蓋し仏典中に於いて法は種種の意味に用いられ、その語義一定ならず。「過去現在因果経巻3」に、「四諦の法輪、これを法宝と為す」と云い、「大毘婆沙論巻182」に初転法輪を釈し「仏この法門を説く時、五苾芻皆法を見る」と云い、また「増一阿含経巻2広演品」に、「夫れ正法とは欲より無欲に至り、諸の結縛と諸蓋の病を離る」と云い、「分別功徳論巻2」にこれを解し「法とは謂わく無漏法、無欲法、道法、無為法なり。浴より無欲に至るなり」と云えり。これ等は四聖諦等の仏所説の教示(梵dezanaa)を法と名づけたるものにして、即ち彼の教示は出離解脱に到達すべき不磨の軌範にして、その性永く改まらざることを顕すの意なり。  また「中阿含巻1善法経」に、「云何が比丘は法を知る(梵dharmmaJJuu)と為す。謂わく比丘は、正経、歌詠、記説、偈吔、因縁、撰録、本起、此説、生処、広解、未曽有法及び説是義を知る。これを謂って比丘法を知ると為すなり」と云い、「大智度論巻22」に、「法に二種あり、一には仏の演説する所の三蔵、十二部、八万四千の法聚なり、二には仏所説の法義にして、謂わゆる持戒、禅定、智慧、八聖道、及び解脱果、涅槃等なり」と云い、また「瑜伽師地論巻81」に、「法とは略して十二種あり、謂わく契経等の十二分教なり」と云えるは、仏の教示の聚集たる聖典(梵paryaapti)を法と名づけたるものにして、また即ち不改の規範たるの意なり。  また「五分律巻2」に、「仏は種種に呵責して、汝の所作は非法なりと」と云い、同巻3に「法を説いて非法を説かず、律を説いて非律を説かず」と云い、「大宝積経巻52」に、「一切諸法は或は名づけて法と為し、或は非法と名づく。何を以っての故に、もしよくかくの如き諸法は皆空、無相、及び無願なりと了知せば、即ち一切法は並びに名づけて法と為す。もし我、及び我所の諸見、随眠に計著することあらば、即ち一切法は並びに非法と名づく」と云えるは、善行(梵guNa)即ち煩悩雑染の伴わざる行為を法と名づけたるものにして、道徳的法則たるの意を顕せるものというべし。  また法は自相を保持して改変せざるの義なるが故に、広く善悪、無愧、有漏、無漏色心等の諸物を各皆呼んで法と称することあり。「雑阿含経巻37」に、法に悪法、真実法の二種、悪法、悪悪法、真実法、真実真実法の四種の別ありとし、「放光般若経巻3了本品」に、「諸法とは謂わく善法悪法、記法未記法、俗法道法、有漏法無漏法、有為法無為法なり」と云い、「大乗入楞伽経巻5刹那品」に、「一切法とは、謂わゆる善法不善法、有為法無為法、世間法出世間法、有漏法無漏法、有受法無受法なり」と云い、「大智度論巻11」に、「一切法とは、識所縁の法はこれ一切法なり。(中略)また次ぎに、智所縁の法はこれ一切法なり。(中略)また次ぎに、二法あり、一切法を摂す、色法無色法、可見法不可見法、有対法無対法、有漏無漏、有為無為、心相応心不相応、業相応業不相応、近法遠法等なり。かくの如き種種の二法は一切法を摂す。また次ぎに、三種の法あり、一切法を摂す、善不善無記、学無学非学非無学、見諦断思惟断断不断なり。また三種の法あり、五衆十二入十八界なり。かくの如き等の種種の三法を持って尽く一切法を摂す。また四種の法あり、過去未来現在法非過去未来現在法、欲界繋法色界繋法無色界繋法不繋法、因善法因不善法因無記法非因善不善無記法、縁縁法縁不縁法縁縁不縁縁法亦非縁縁非不縁縁法なり。かくの如き等の四種の法は一切法を摂す。五種の法あり、色心心相応心不相応無為法なり。かくの如き等の種種の五法は一切法を摂す。六種の法あり、見苦断法見習尽道断法思惟断法不断法なり。かくの如き等の種種の六法あり、乃至無量の法あり、一切法を摂す。これを一切法と為す」と云い、「成実論巻2法聚品」に、「可知等の法聚とは謂わく可知法可識法、色法無色法、可見法不可見法、有対法無対法、有漏法無漏法、有為法無為法、心法非心法、心数法非心数法、心相応法心不相応法、心共有法心不共有法、随心行法不随心行法、内法外法、麁法細法、上法下法、近法遠法、受法非受法、出法非出法、共凡夫法不共凡夫法、次第法非次第法、有次第法無次第法、かくの如き等の二法あり。また三法あり、色法心法心不相応法、過去法未来法現在法、善法不善法無記法、学法無学法非学非無学法、見諦断法思惟断法無断法なり。かくの如き等の三法あり。また四法あり、欲界繋法色界繋法無色界繋法不繋法なり。(中略)五陰、六種、六内入、六外入、六生性、六喜行、六憂行、六捨行、六妙行、七浄、八福生、九次第滅、十聖処、十二因縁、かくの如き可知等の法聚は無量無辺にして説き尽くすべからず」と云い、また倶舎論等に一切の事象を類別して総じて五位七十五法とし、成唯識論等に五位百法となせる如き皆即ちこれなり。その語義に関し、「倶舎論光記巻1」に、「法の名を釈するに二あり。一にはよく自性を持す。謂わく一切法は各自性を守る、色等の性の常に改変せざるが如し。二には軌として勝解を生ぜしむ。無常等は人をして無常等の解を生ぜしむるが如し」と云い、また「成唯識論巻1本」に論の軌持の義を釈し「軌とは謂わく軌範なり、者の解を生ずべきなり。持とは謂わく任持なり、自相を捨てざるなり」と云えり。これは色は自己の質礙の性を保持し、心は自己の縁慮の性を保持し、乃至有漏無漏等の諸物も悉く皆自性を保持して常に改変あることなく、随ってこれ等の諸物はよく軌範となりて人をして一定の解悟を生ぜしむるが故に、名づけて法となすことを明にせるなり。  また六境の中、前五識の境を色声香味触と名づくるに対し、特に意識所縁の境を法、または法処(梵dharmaayatana)、或は法界(梵dharma-dhaatu)と称することあり。これに関し、「大毘婆沙論巻73」に、「十二処の体は皆これ法なりと雖も、而もただ一に於いて法処の名を立つるもまた失あることなし」と云い、具さに十一種の釈を挙げ、また「倶舎論巻1」に、「差別せんが為に一の法処を立つ、一切に非ず。色の如くまさに知るべし。またこの中に於いて受想等の衆多の法を摂するが故にまさに通名を立つべし。また増上法は謂わゆる涅槃なり。この中に摂するが故に独り立てて法と為す」と云えり。これ色等の十二処は皆法なりと雖も、他と区別せんが為に意識の所縁を特に法と名づけ、またこの法処の中には受想等の多数の法を摂し、かつ増上法たる涅槃を摂するが故に、独りこの一処に法の名を立つることを説けるものなり。「法蘊足論巻10処品」に法処所摂の法を挙げ「過去未来現在の諸の所有の法を名づけて法処と為し、また所知乃至所等証と名づく。これまた云何ん、謂わく受、想、思、触、作意、欲、勝解、信、精進、念、定、慧、尋、伺、放逸、不放逸、善根、不善根、無記根、一切の結、縛、随眠、随煩悩、纏、諸の所有の智見、現観、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、住得、事得、処得、生、老、住、無常、名身、句身、文身、虚空、択滅、非択滅、及び余の所有の意根の所知、意識の所了、所有の名号、異語、増語、想、等想、施設の言説を謂って法と名づけ、法界と名づけ、法処と名づけ、彼岸と名づく。かくの如きの法処はこれ外処の摂なり」と云えり。これ色等の五境及び眼等の六識を除き、他の心所不相応及び無為等の諸法を特に法処と名づけたるものにして、これ等の諸物もまた即ち軌持の義に就き法の名を得るなり。  また法の字は種種の語に冠せられ、仏の説法を法輪(梵dharma-cakra)、その聚集を法蘊(梵dh.-skandha)、法蔵(梵dh.-koza)、法聚、法集、法宝蔵と名づけ、また正法の規準たるものを法印(梵dharmoddaana)、これに由りて聖道に通入するを法門(梵dharma-paryaaya)、その中の理趣を法味、これを受用するを法楽、愛楽するを法愛、人の為に説くを法施、他に教えてこれを化するを法化、利益を被らしむるを法益、または法利(梵dharmaartha)、道の於いて験を得るを法力または法験、聖教の滅尽を法滅、迫害を法難と云い、また仏の自体を法身(梵dh.-kaaya)、物の自性を法性(梵dharmataa)、或は法体、その自相を法相、これに執著するを法執(梵dharma-graaha)、または法我見、その執を空ずるを法空(梵dha.-zuuyataa)、理に於いて忍許するを法忍(梵dh.-kSaanti)、明らかにこれを見るを法眼(梵dh.-cakSus)と名づけ、また説法の師を法師(梵dh.-bhaaNaka)、その子弟を法子、法嗣、法弟、法孫、または法類、その相承次第を法脈、法統、法流、或は法系、授戒後の歳次を法臈と云い、また仏を法王(梵dh.-raaja)、菩薩を法王子(梵dh.-raaja-putra)、集会して種種の行事を修するを法会、法事、法要、僧の衣服を法会または法服、諸具を法具と呼び、その他また法灯、宝幢、法鼓、法剣、法鏡、法雷、法雨、法水、法潤、法音、法苑、法山、法海等の如き讃辞の類甚だ多し。  また「中阿含巻28諸法本経」、「長阿含巻8聚集経」、「大品般若経巻4句義品」、「千仏因縁経」、「大智度論巻48、巻70」、「般若灯論巻2」、「大乗荘厳経論巻5、巻6」、「雑阿毘曇心論巻1」等に出づ。<(望)
  総相(そうそう):梵語saamaanya-lakSaNaの訳。又共相、同相、通相等に訳す。一切の諸法に共通する相の義。即ち、無常相、苦相、空相の如きを云う。『大智度論巻1上注:相』参照。
  別相(べっそう):梵語vizeSa-lakSaNa?の訳。又差別相に訳す。諸法に共有せる総相を除き、諸法各各別異の相を云う。即ち火の熱相、水の湿相の如し。又梵語parikalpita-lakSaNaの分別相、遍計所執相と訳せるも同種のものと為せるが如し。『大智度論巻1上注:相』参照。
  諸法(しょほう):万法。万物。法とは自体の義、規則の義、存在の義、事物の義。万有の事理は一一自体を有し、軌則を具うるが故に皆法と名づく。
  総相(そうそう)、別相(べつそう):すべて縁によって作られたもの、即ち有為法(ういほう)には総相と別相との二相(みかけ、すがた)が有る。例えば空、無常、無我の如き相は一切に通用するので総相といい、地の堅相、水の湿相等は、それに固有のものなので別相という。
復次婆伽名名聲。婆名有。是名有名聲。無有得名聲如佛者。轉輪聖王釋梵護世者。無有及佛。何況諸餘凡庶。 復た次ぎに、婆伽を名声と名づけ、婆を有と名づけ、是れを名声有りと名づく。名声を得るに、仏に如(し)く者の有ること無く、転輪聖王、釈梵護世なる者も、仏に及ぶものの有ること無し。何に況んや、諸余の凡庶なるをや。
復た次ぎに、
『婆伽(bhaga)』を、
『名声』と、
『称し!』、
『婆(vat)』を、
『有り!』と、
『称する!』が故に、
是れを、
『名声が有る!』と、
『称する!』。
『仏ほど!』の、
『名声』を、
『得た!』者は、
『無く!』、
『転輪聖王』や、
『釈、梵、護世の者』すら、
『仏』には、
『及ばない!』、
況して、
諸の、
『余の凡人、庶民』は、
『尚更である!』。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):梵に斫迦羅伐棘底曷羅闍(cakrabarti-raja)といい、また遮迦越羅、転輪王、転輪聖帝、輪王に作り、四天下の王なり。この王は、身に仏と同じ三十二相を具え、即位の時に天より輪宝(車輪状の武器)を感得し、その輪宝を転じて四方を降伏するが故に転輪王という。また空中を飛行するが故に飛行皇帝といい、増劫に在りては、人寿二万歳以上に至りて則ち出世し、滅劫に在りては、人寿無量歳より八万歳に至る時に乃ち出世す。その輪宝に金銀銅鉄の四種ありて、その次第の如く四三二一の大洲を領す。即ち金輪王を四洲と為し、銀輪王を東西南の三洲と為し、銅輪王を東南の二洲と為し、鉄輪王を南閻浮提の一洲と為す。<(丁)
  釈梵護世(しゃくぼんごせ):世界の仏法を護持する天神の意。忉利天(とうりてん、三十三天と訳す)の主たる帝釈、及び色界の初禅天の主、大梵天王をいう。<(丁)
  凡庶(ぼんしょ):凡人(聖人の対語)及び庶民(無位無官の平民)。
所以者何。轉輪聖王與結相應。佛已離結。 所以は何んとなれば、転輪聖王は結と相応するも、仏は已に結を離れたまえり。
何故ならば、
『転輪聖王』は、
未だ、
『結(煩悩)』と、
『相応している!』が、
『仏』は、
已に、
『結』を、
『離れているからである!』。
  (けつ):梵語bandhanaの訳。繋縛の義。又結使とも名づく。即ち衆生を結縛して生死を出でざらしむる煩悩を云う。「大毘婆沙論巻46」に、「繋縛の義是れ結の義、合苦の義是れ結の義、雑毒の義是れ結の義なり。此の中、繋縛の義是れ結の義とは、謂わく結は即ち是れ繋なり。云何が然ることを知る。契経に説くが如き、尊者執大蔵は尊者舎利子の所に往き、問うて言わく、大徳、眼は色を結すとせんや、色は眼を結すとせんや、乃至意と法も問を為すこと亦た爾り。舎利子言わく、眼は色を結せず。色は眼を結せず。此の中、貪欲を説いて能結と名づく。乃至意と法も亦た復た是の如し。黒白の牛の同じく一靷に繋がるるが如き、若し問うて言うことあり、黒は白を繋ぐとせんや、白は黒を繋ぐとせんやと。正しく答えて言うべし、黒は白を繋がず、白は黒を繋がず。此の中、靷あるを説いて能繋と名づく。此れに由るが故に結は即ち是れ繋なることを知る」等と云える是れなり。蓋し諸経論に結の種別を挙ぐること同じからず。「中阿含経巻33」には、慳及び嫉の二結を説き、「雑阿含経巻32」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「倶舎論巻21」等には愛、恚、無明の三結を説き、「増一阿含経巻17」には、身邪、戒盗、疑の三結を説き、「光讃般若経巻2」には、貪身、孤疑、毀戒の三結、「成実論巻10雑煩悩品」には、貪嫉身、瞋恚身、戒取身、貪著是実取身の四結、「中阿含経巻56」、「阿毘達磨発智論巻3」、「集異門足論巻12」、「大毘婆沙論巻49」、「倶舎論巻21」等には、貪、瞋、慢、嫉、慳の五結を説き、「阿毘達磨発智論巻3」、「成実論巻12」、「倶舎論巻21」、「辨中辺論巻上」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」等には、愛、恚、慢、無明、見、取、疑、嫉、慳の九結を説けり。
  相応(そうおう):寄り添う。
轉輪聖王沒在生老病死泥中。佛已得渡。 転輪聖王は、生老病死の泥中に没在するも、仏は已に渡るを得たもう。
『転輪聖王』は、
『生、老、病、死』の、
『泥海』中に、
『没している!』が、
『仏』は、
已に、
『泥海』を、
『渡られたのである!』。
  生老病死(しょうろうびょうし):生苦、老苦、病苦、死苦の総称。『大智度論巻2下注:四苦、生苦、老苦、病苦、死苦』参照。
  四苦(しく):梵語catasro duHkhataaHの訳。巴梨語catasso dukkhataa、四種の苦悩の意。一に生苦jaati-duHkha(巴aati-dukkha)、二に老苦jaraa-duHkha(巴jaraa-dukkha)、三に病苦vyaadhi-duHkha(巴vyaadhi-dukkha)、四に死苦naraNa-duHkha(巴maraNa-dukkha)なり。「増一阿含経巻6」に、「生老病死は世の常法なり」と云い、「大般涅槃経巻29」に、「生老病死は常に来たりて衆生を切る」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻78」に四苦を釈して「生相と合するが故に生苦と名づけ、住異相と合するが故に老苦と名づけ、逼悩相と合するが故に病苦と名づけ、滅相と合するが故に死苦と名づく。(中略)復た次ぎに生は是れ一切の苦の安足処にして、苦の良田なり、故に生苦と名づけ、老は能く可愛の盛年を衰変するが故に老苦と名づけ、病は能く可愛の安適を損壊するが故に病苦と名づけ、死は能く可愛の寿命を断滅するが故に死苦と名づく」と云い、又「瑜伽師地論巻61」には、生老病死に各五種の苦相あることを説けり。又経中には此の四を四大山の圧迫に譬うるの説あり、「増一阿含経巻18」に、「大王当に知るべし、此の四大恐怖来至することあらば、此の身は障護すべからず。亦言説呪術薬草符書を以って除去すべからず。云何が四と為す、一には名づけて老となす、少壮を壊敗して顔色なからしむ。二には病尽と名づく、無病を壊敗す。三には名づけて死尽と為す、命根を壊敗す。四には有常の物は無常に帰す。是れを大王此の四法ありて障護すべからず、力の能く伏する所に非ずと謂うなり。大王当に知るべし、猶お四方に四大山あり、四方より来たりて便ち衆生を圧するに、力の却くる所に非ざるが如し」と云い、「別訳雑阿含経巻4」に、「老山は能く壮年の盛色を壊し、病山は能く一切の強健を壊し、死山は能く一切の寿命を壊し、衰耗の山は能く一切の栄華富貴を壊し、妻子喪没し、眷属分離し、銭財亡失す」と云い、又「大般涅槃経巻29」に、「大王、四大山あり、四方より来たりて人民を害せんと欲す。王若し聞かば当に何の計を設くべき。王言わく、世尊設し此れ来たることあらば逃避する処なし。唯当に専心に持戒布施すべしと。我れ即ち讃じて言わく、善い哉大王、我れ四山と説くは即ち是れ衆生の生老病死なり」と云える是れなり。又「中阿含巻7分別聖諦経」、「五王経」、「四諦経」、「大般涅槃経巻12」、「大乗義章巻3」、「摩訶止観巻1之4」、「釈浄土群議論巻6」、「往生要集巻上本」等に出づ。<(望)
  生苦(しょうく):梵語jaati-duHkhaの訳。巴梨語jaati-dukkha、生時の苦の意。四苦の一。八苦の一。即ち衆生の生時に於いて受くる所の苦を云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「諸賢、生とは謂わく彼の衆生、彼彼の衆生の種類、生ずれば則ち生じ、出づれば則ち出で、成ずれば則ち成じ、五陰を興起し已りて命根を得。是れを名づけて生と為す。諸賢、生苦とは謂わく衆生の生時の身受苦受遍受覚遍覚、心受苦受遍受覚遍覚、身心受苦受遍受覚遍覚、身熱受遍受覚遍覚、心熱受遍受覚遍覚、身心熱受遍受覚遍覚、身壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚、心壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚、身心壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚あり。諸賢、生苦を説くとは此れに因るが故に説くなり」と云い、「大毘婆沙論巻78」に、「生は是れ一切の苦の安足処なり、苦の良田なるが故に生苦と名づく」と云える是れなり。是れ衆生の生時に於いて受くる所の苦悩を生苦と名づけたるなり。又「瑜伽師地論巻61」には生苦に五種の相あるを説き、一に那落迦及び餓鬼に生ずる時、又は胎生卵生の時、種種憂苦の随逐するを衆苦所随故苦とし、二に煩悩に随逐せられて性調柔ならず、自在に転ぜざるを麁重所随故苦とし、三に衰老等の衆苦の所依となるを衆苦所依故苦とし、四に受生し已りて貪瞋癡等の煩悩の所依となり、身心安居ならざるを煩悩所依故苦とし、五に生者必ず死し、意の如くなる能わざるを不随所欲離別法故苦となせり。又「五王経」には胎内所受の苦を説き、「何をか生苦と謂う、(中略)母腹中の生蔵の下、熟蔵の上に在り、母一杯の熱食を噉いて其の身体に潅がば鑊湯に入るが如く、母一杯の冷水を飲まば亦寒氷の体を切るが如し。母飽く時は身体を迫迮して痛み言うべからず、母饑ゆる時は腹中了了として亦倒懸の如く、苦を受くること無量なり。其の満月に至りて生まれんと欲する時、頭を産門に向くるに劇きこと両石挟山の如し。生まれんと欲する時、母危ぶみ父怖れ、生まれて草上に堕つるに、身体細軟なれば草其の身に触るるや刀剣を履むが如く、忽然として失声大呼す。此れは是れ苦なりや不や。諸人咸く言わく、此れは是れ大苦なり」と云い、又「大般涅槃経巻12」に、「生とは出相なり。謂わゆる五種あり、一には初出、二には至終、三には増長、四には出胎、五には種種生なり」と云えり。是れ入胎より出生に至るを生苦となすの説なり。又「四諦経」、「大般涅槃経巻12」、「四諦論巻1」、「大乗義章巻3本」、「大明三蔵法数巻33」等に出づ。<(望)
  老苦(ろうく):梵語jaraa-duHkhaの訳。巴梨語jaraa-dukkha、老時の苦の意。四苦の一。八苦の一。即ち老衰時に於いて受くる所の苦を云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「諸賢、老とは謂わく彼の衆生、彼彼の衆生の種類なり。彼れ老耄と為り、頭白く歯落ち盛壮日に衰え、身曲り脚戻り、体重く気上り杖を拄えて行き、肌縮み皮緩みて皺麻子の如く、諸根毀熟し、顔色醜悪なり。是れを名づけて老と為す。諸賢、老苦とは謂わく衆生の老時の身受苦受遍受覚遍覚、心受苦受遍受覚遍覚、身心受苦受遍受覚遍覚、身熱受遍受覚遍覚、心熱受遍受覚遍覚、身心熱受遍受覚遍覚、身壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚、心壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚、身心壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚なり。諸賢、老苦を説くとは此れに由るが故に説くなり」と云い、又「大毘婆沙論巻78」に、「老は能く可愛の盛年を衰変す、故に老苦と名づく」と云える是れなり。是れ衆生が老衰時に受くる所の身心の苦悩を老苦と名づけたるなり。又「瑜伽師地論巻61」には老に五種の相あることを説き、一に盛色衰退し、二に気力衰退し、三に諸根衰退し、四に受用の境界衰退し、五に寿量衰退す、此の五処に於いて衰退するが故に苦なりと云えり。又「増一阿含経巻6、18」、「四諦経」、「修行本起経巻下」、「大般涅槃経巻12」、「正法念処経巻57」、「五王経」、「瑜伽師地論巻85」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)
  病苦(びょうく):梵語vyaadhi-duHkhaの訳。巴梨語vyaadhi-dukkha、病時の苦の意。四苦の一。八苦の一。即ち衆生の病時に於いて受くる所の苦を云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「諸賢、病苦とは謂わく衆生の病時の身受苦受遍受覚遍覚、心受苦受遍受覚遍覚、身心受苦受遍受覚遍覚、身熱受遍受覚遍覚、心熱受遍受覚遍覚、身心熱受遍受覚遍覚、身壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚、心壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚、身心壮熱煩悩憂慼受遍受覚遍覚なり。諸賢、病苦を説くとは此れに因るが故に説くなり」と云い、「大毘婆沙論巻78」に、「病は能く可愛安適を損壊す、故に病苦と名づく」と云える是れなり。是れ衆生が病時に於いて受くる所の身心の苦悩を病苦と名づけたるなり。又「瑜伽師地論巻61」には病苦に五種の相あることを説き、一に身性変壊し、二に憂苦増長して多倍し、三に可意の境に於いて受用するを喜ばず、四に其の所欲に非ざる不可意の境に於いて強いて之を受用し、五に命根をして速かに離壊せしむるが故に苦なりと云えり。蓋し病は四大の不調より発するものにして、「大般涅槃経巻12」に、「病とは謂わく四大の毒蛇互いに調適せざるなり」と云い、又「五王経」に、「人に四大あり、和合して其の身を成ず。何をか四大と謂う、地大水大火大風大なり。一大調わざれば百一の病生じ、四大調わざれば四百四病同時に倶に作る。地大調わざれば挙身沈重し、水大調わざれば挙身膖腫し、火大調わざれば挙身蒸熱し、風大調わざれば挙身掘強し、百節苦痛すること猶お杖楚せらるるが如し。四大進退するに手足任えず、気力虚竭し、坐起には人を須ち、口燥き唇燋げ、筋断じ鼻拆け、目に色を見ず、耳に声を聞かず、不浄流出して身其の上に臥し、心に苦悩を懐き、言は輒ち悲哀なり。六親側に在りて昼夜看視し、初より休息せず、甘膳美食口に入るも皆苦し。此れは是れ苦なりや不や。王答えて言わく、実に是れ大苦なり」と云えり。是れ四大の不調に由りて四百四病を生ずることを説けるものなり。又「中阿含巻7分別聖諦経」には、病に頭痛、眼痛、耳痛、鼻痛、面痛、唇痛、歯痛、舌痛、齶痛、咽痛、風喘、咳嗽、喝吐、喉啤、癲癇、癕癭、経溢、赤膽、壮熱、枯槁、痔瘻、下痢等の二十二種ありとし、「四諦経」には頭病、腹病、耳病、鼻病、口病、唇病、舌病、咽喉病、噦病、変病、下病、熱病、淋瀝病、癲病、咽瘤病、尋尋病、骨節病、皮病、肪病、血熱病、痰病等の二十一種を出し、「大般涅槃経巻12」には身病心病の二種を分ち、身病に水に因るもの、風に因るもの、熱に因るもの、及び雑病の四種、客病に非分強作、妄誤堕落、刀杖瓦石、鬼魅所著の四種、心病に踊躍、恐怖、憂愁、愚癡の四種ありとし、又「大智度論巻8」には、先世の業報に由るもの、及び今世の冷熱風発に由るものとの二種を分ち、今世の病に内病外病ありとし、内病は五臓の不調、外病は奔車、逸馬、搥圧、堕落、兵刃、刀杖等に由りて生ずるものとなせり。又「増一阿含経巻6、17」、「別訳雑阿含経巻4」、「修行本起経巻下」、「仏医経」、「正法念処経巻58、67」、「摩訶僧祇律巻10」、「瑜伽師地論巻85」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)
  死苦(しく):死時の苦の意。四苦の一。八苦の一。梵語maraNa-duHkhaの訳。巴梨語maraNa-dukkha。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「諸賢、死とは謂わく彼の衆生、彼彼の衆生の種類、命終無常にして死喪し散滅し、寿尽き破壊して命根閉塞す。是れを名づけて死と為す。諸賢、死苦とは謂わく衆生の死する時、身受苦受遍受覚遍覚、心受苦受遍受覚遍覚あり。(中略)死苦を説くとは此れに因るが故に説くなり」と云い、「正法念処経巻67」に、「人死するの時大苦悩を受く、法の喩うべきなし。一切の世人皆当に死あるべきこと決定して疑なし」と云い、又「大毘婆沙論巻78」に、「死能く可愛の寿命を断滅するが故に死苦と名づく」と云える是れなり。又「瑜伽師地論巻61」には死苦に五種の相あることを説き、「云何が死苦なる、当に知るべし、此の苦も亦五相に由る。一に所愛の盛なる財宝に離別するが故なり、二に所愛の盛なる朋友に離別するが故なり、三に所愛の盛なる眷属に離別するが故なり、四に所愛の盛なる自身に離別するが故なり、五に命終の時に於いて備に種種の極重の憂苦を受くるが故なり」と云い、又「倶舎論巻10」には死時に断末摩(梵marma-ccheda、或いはmarmacchid)の苦あることを説き、「漸に命終する者は、命終の時に臨んで多く断末摩の苦受の為に逼らる。別物の名づけて末摩(梵marman)と為すものあることなし。然るに身中に於いて異の支節あり、触るれば即ち死を致す、是れを末摩と謂う。若し水と火と風との随一増盛なれば、利刀の刃の如くにして彼の末摩に触る、此れに因りて便ち増上の苦受を生ず。斯れより久しからずして遂に命終を致す」と云い、「大毘婆沙論巻190」に更に其の細説あり。又「増一阿含経巻17」、「修行本起経巻下」、「正法念処経巻58」、「大般涅槃経巻12」、「舎利弗阿毘曇論巻12」、「瑜伽師地論巻85」、「顕揚聖教論巻15」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)  
轉輪聖王為恩愛奴僕。佛已永離。 転輪聖王は、恩愛の奴僕為(た)るも、仏は已に永く離れたもう。
『転輪聖王』は、
『恩愛』の、
『奴僕である!』が、
『仏』は、
已に、
『永く離れられている!』。
  恩愛(おんない):梵語jJaati、或いはanuyata、tRSNa、sneha等の訳。父子、兄弟、夫妻の間相互に執著する情愛を称して、恩愛と為す。世人は情愛の中に沈溺し、因って恩愛の為に縛され、解脱を得ず、故に可視の世界を恩愛の監獄と為す。仏教の主張すらく、世人当に恩愛を捨棄して、仏道に趨入すべし、能く仏道に入るを、方に真正の報恩と為すべしと。故に「法苑珠林巻22」に曰く、「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と。又「諸経要集巻4」、「四分律刪繁補闕行事鈔巻下之4」に出づ。<(佛)
轉輪聖王處在世間曠野災患。佛已得離。 転輪聖王は、世間の曠野の災患に処在するも、仏は已に離るるを得たもう。
『転輪聖王』は、
『世間の曠野』の、
『災患』を、
『住処としている!』が、
『仏』は、
已に、
『災患』を、
『離れられている!』。
  曠野(こうや):空虚な荒れ野。
  災患(さいげん):災難、災害による苦しみ。
轉輪聖王處在無明闇中。佛處第一明中。 転輪聖王は、無明の闇中に処在するも、仏は、第一の明中に処したもう。
『転輪聖王』は、
『無明』の、
『闇』中を、
『住処としている!』が、
『仏』の、
『住処』は、
『第一』の、
『明中である!』。
  無明(むみょう):梵語a-vidyaaの訳。十二因縁の一。又無明支と名づく。癡に同じ。即ち事理に於いて愚にして之に了達せざる精神情態を云う。『大智度論巻15下注:無明』参照。
轉輪聖王若極多領四天下。佛領無量諸世界。 転輪聖王は、若し極めて多くんば、四天下を領するも、仏は無量の諸世界を領したもう。
『転輪聖王』の、
『領する!』のは、
『極めて多い!』者で、
『四天下である!』が、
『仏』の、
『領される!』のは、
『無量の!』、
『諸の世界である!』。
  四天下(してんげ):須弥山の東西南北の海中に夫々在る四大洲。『大智度論巻1上注:四洲』参照。
轉輪聖王財自在。佛心自在。 転輪聖王は、財に自在なるも、仏は、心に自在なり。
『転輪聖王』の、
『財』は、
『自在である!』が、
『仏』は、
『心』が、
『自在である!』。
轉輪聖王貪求天樂。佛乃至有頂樂亦不貪著。 転輪聖王は、天の楽を貪求するも、仏は乃至有頂の楽すら、亦た貪著したまわず。
『転輪聖王』は、
『天の楽』を、
『求めて!』、
『貪る!』が、
『仏』は、
乃至、
『有頂の楽』すら、
『貪著されない!』、
  貪求(とんぐ):貪って求める。
  有頂(うちょう):『大智度論巻2下注:有頂天』参照。
  有頂天(うちょうてん):梵語bhavaagraの訳。巴梨語bhavaagga、有の頂なる天の意。即ち無色界の第四天たる非想非非想処天を云う。「大毘婆沙論巻74」に、「有頂に往くとは、若しは先に無色を得て対し、若しは先に得ずして、彼の欲界より没して、梵衆天に生じ、皆能く非想非非想処に往く」と云い、又「倶舎論巻24」に、「因の差別とは、是れ静慮に於いて雑修と無雑修とあるに由るが故なり。果の差別とは、色究竟天と及び有頂天とを極処となすが故なり」と云い、「同光記巻24」に、「諸の静慮に於いて雑修するなくんば、能く有頂に往きて方に般涅槃す」と云える是れなり。是れ非想非非想処は三有の絶頂なるが故に此の称を立つるなり。但し「法華経巻1序品」の長行の中に「下至阿鼻地獄上至阿迦尼吒天」と云い、「同重頌」に、「従阿鼻獄上至有頂」と記するに依れば、阿迦尼吒即ち色究竟天も亦有頂と称すべきが如きも、是れ恐らく一往の命名なるべく、「現存梵文法華経」には、長行重頌共に同じくbhavaagra即ち有頂に作り、阿迦尼吒の語を出さず。又「法華義疏巻2(吉蔵)」、「倶舎論宝疏巻24」、「法華経句解巻6」等に出づ。<(望)
  貪著(とんじゃく):貪って執著する。
轉輪聖王從他求樂。佛內心自樂。以是因緣佛勝轉輪聖王。諸餘釋梵護世者亦復如是。但於轉輪聖王小勝。 転輪聖王は、他に従りて、楽を求むるも、仏は内心に自ら楽しみたもう。是の因縁を以って、仏は、転輪聖王に勝りたもう。諸余の釈梵護世の者も、亦復た是の如し、但だ転輪聖王よりも、小しく勝るのみ。
『転輪聖王』は、
『他』より、
『楽』を、
『求める!』が、
『仏』は、
『内心』を、
『自ら!』、
『楽しまれる!』。
是の、
『因縁』で、
『仏』は、
『転輪聖王』に、
『勝るのである!』が、
諸の、
『余の釈、梵、護世の者』も、
亦た、
『転輪聖王』に、
『勝る!』が、
但だ、
『小(すこ)し!』、
『勝るだけである!』。



煩悩の残気

復次婆伽名破。婆名能。是人能破婬怒癡故。稱為婆伽婆。 復た次ぎに、婆伽を破と名づけ、婆を能と名づく。是の人は、能く婬怒癡を破るが故に、称して婆伽婆と為す。
復た次ぎに、
『婆伽(bhagna)』を、
『破る!』と、
『称し!』、
『婆(vat)』を、
『能()くする!』と、
『称すれば!』、
是の、
『人』は、
『婬、怒、癡』を、
『能く!』、
『破る!』が故に、
是れを、
『婆伽婆』と、
『称することになる!』。
  婬怒癡(いんぬち):梵語raaga-dveSa-mohaの訳。又貪瞋癡、貪恚癡、欲瞋癡、欲恚癡等に訳す。三種の熾烈なる煩悩の意。『大智度論巻2下注:貪瞋癡』参照。
  貪瞋癡(とんじんち):梵語raaga-dveSa-mohaの訳。又、貪恚癡、婬怒癡、欲瞋癡、欲恚癡等に訳す。三種の熾烈なる煩悩の意。此の中梵語raagaは婬、婬欲、愛、愛染、愛楽、愛欲、愛著、慳貪、敬愛、染、染愛心、染欲、染法、欲、欲楽、欲貪、貪、貪性、貪愛、貪欲、貪縛等に訳し、又羅誐、阿羅伽等に作る。欲楽、渇愛、親愛、貪欲、貪求の義なり。梵語dveSaは瞋、怒、恚、憎、瞋心、瞋恚、垢等に訳し、醍鞞沙、提鞞沙等に作る。瞋恚、憎悪の義なり。梵語mohaは愚癡、無明、疑見、癡、癡惑、癡愛、蒙等に訳し、慕何、謨賀、没劫に作る。真理に無智なること、或いは疑有るの義なり。是の三種は道を害すること熾烈なるに由り、又三毒と称す。『大智度論巻1上貪、巻18上注:瞋、癡、三毒』参照。
問曰。如阿羅漢辟支佛。亦破婬怒癡與佛何異。 問うて曰く、阿羅漢、辟支仏も、亦た婬怒癡を破る。仏と何の異なりか有る。
問い、
例えば、
『阿羅漢、辟支仏』も、
『婬、怒、癡』を、
『破る!』が、
何が、
『仏』と、
『異なるのですか?』。
  阿羅漢(あらかん):梵語arhat、応供と訳す。無漏の聖者の意。『大智度論巻17下注:阿羅漢』参照。
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語pratyeka-buddha、縁覚と訳す。現身に教を受けずして無師独悟し、能く自ら調するも他を調せざる一種の聖者を云う。『大智度論巻18(上)注:縁覚』参照。
  阿羅漢(あらかん):小乗の最高位の聖者、次の特質を有す、(1)煩悩を滅し尽くす。(2)人天の供養を受けるにふさわしい。(3)永久に涅槃界に入って、再び生死の果報を受けることがない。
  辟支佛(びゃくしぶつ):無仏のときに生まれ自力で煩悩を除き尽くした者。始めて発心した時、仏に値わず、世間の法を思惟して後に道を得、身を無仏の世に出だして、性は寂静を好み、加行満ちて師友の教無く、自然に独り悟るが故に独覚といい、また観察するに内外の縁(内の十二因縁、外の飛花落葉)を待って聖果を悟るが故に縁覚という。
答曰。阿羅漢辟支佛雖破三毒。氣分不盡。譬如香在器中香雖出餘氣故在。 答えて曰く、阿羅漢、辟支仏は三毒を破ると雖も、気分を尽くさず。譬えば香器中に在れば、香を出すと雖も、余気は故(もと)のままに在るが如し。
答え、
『阿羅漢、辟支仏』は、
『三毒を破っても!』、
未だ、
『気分(残気)』が、
『尽きていない!』。
譬えば、
『香』が、
『器中に在れば!』、
『香』を、
『出しても!』、
『余気』が、
『故(もと)まま!』、
『在るようなものである!』。
  三毒(さんどく):梵語tri-viSa、或いはtri-doSaの訳。道を害して熾烈なる三種の煩悩の意。即ち貪毒、瞋毒、癡毒の総称なり。『大智度論巻2下注:貪瞋癡、同巻18上注:三毒』参照。
  気分(きぶん):梵語vaasanaaの訳。無意識に心中に残る過去の煩悩の習慣。『大智度論巻11上注:習気』参照。
又如草木薪火燒煙出炭灰不盡。火力薄故。佛三毒永盡無餘。譬如劫盡火燒須彌山一切地都盡無煙無炭。 又草、木、薪の火焼(も)ゆるに、煙出でて炭、灰の尽きざるが如きは、火力の薄きが故なり。仏の三毒は、永く尽きて余無きこと、譬えば劫尽の火の須弥山を焼くに、一切の地は都(す)べて尽きて、煙無く、炭無きが如し。
又、
『草、木、薪』を、
『火で焼く!』と、
『煙が出て!』、
『炭、灰』の、
『尽きない!』のは、
『火』の、
『力』が、
『薄いからである!』が、
『仏』の、
『三毒』は、
『永く尽きて!』、
『何も残らない!』。
譬えば、
『劫が尽きて!』、
『火』が、
『須弥山』を、
『焼く!』と、
一切の、
『地』が、
『皆、尽きて!』、
『煙』も、
『炭』も、
『何もかも!』が、
『無くなるようなものである!』。
  劫尽火(こうじんのひ):梵語kalpaagniの訳。劫の尽くる時に自然に出て世界を焼き尽くす火の意。『大智度論巻2下注:劫火』参照。
  劫火(ごうか):梵語kalpaagniの訳。巴梨語kappaggi、又劫尽火、或いは劫焼kalpa-daahaに作る。壊劫の時に起る火災の意。「法華経巻4見宝塔品」に、「仮使劫焼に乾草を擔負し、中に入りて焼けざるも、亦未だ難しと為さず」と云い、「仁王般若波羅蜜経巻下護国品」に、「破壊劫焼に賊来たりて国を破る時」云云と云い、「大智度論巻27」に、「阿羅漢等の智慧力は薄くして世間の火の如く、諸仏の力は大にして劫尽の火の如し」と云い、「摩訶止観巻5」に、「劫火起る時、菩薩一唾すれば火即ち滅す」と云い、「祖庭事苑巻2」に、「劫火洞然として大千倶に壊し、須弥巨海、磨滅して余なし」と云える皆其の例なり。又「法華経巻5如来寿量品」、「新華厳経巻10」、「大毘婆沙論巻132」、「倶舎論巻12」等に出づ。<(望)
  須弥山(しゅみせん):梵語須弥sumeruは世界に中央に海中より聳ゆる山の名。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。
如舍利弗瞋恚氣殘。難陀婬欲氣殘。必陵伽婆磋慢氣殘。譬如人被鎖初脫時行猶不便。 舎利弗は、瞋恚の気殘り、難陀は、婬欲の気殘り、必陵伽婆磋は、慢の気残るが如きは、譬えば人の鎖を被(き)て、初めて脱ぐ時、行くに猶お便ならざるが如し。
例えば、
『舎利弗』などは、
『瞋恚』の、
『気』が、
『残っていた!』し、
『難陀』などは、
『婬欲』の、
『気』が、
『残っており!』、
『必陵伽婆磋』には、
『慢』の、
『気』が、
『残っていた!』。
譬えば、
『人』が、
『鎖帷子』を、
『長く!』、
『被()けていれば!』、
『脱いだ!』時、
『直には!』、
『歩けないようなものである!』。
  舎利弗(しゃりほつ):梵名zaariputra、釈迦十大弟子中の一。智慧第一と称す。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
  難陀(なんだ):梵名nanda、仏弟子の名。釈尊の姨母摩訶波闍波提mahaaprajaapatiiの子にして、仏の異母弟。牧牛の難陀と別たんが為、其の妻の名を取りて孫陀羅難陀sundaraanandaと称す。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
  必陵伽婆磋(ひりょうがばしゃ):梵名pilinda-vatsa、其の性憍慢にして、言語麁獷なりし阿羅漢の名。『大智度論巻23上注:畢陵伽婆蹉』参照。
  (さ):鎖帷子、細かい鎖で編んだ鎧。
  参考:『別訳雑阿含経(第5経)巻1』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時長老難陀著鮮淨衣。執持好缽。意氣憍慢。陵蔑餘人。自貢高言。我是佛弟姨母之子。爾時眾多比丘往至佛所。頂禮佛足在一面坐。白佛言。世尊。難陀比丘著鮮潔衣。手持淨缽。稱是佛弟。云是姨子。內自憍慢。陵蔑餘人。佛聞語已。遣一比丘。往召難陀。時一比丘受佛敕已。往至其所。語難陀言。世尊喚汝。難陀聞已。即詣佛所。頂禮佛足在一面立。佛告難陀。汝實著鮮潔衣。手持好缽。稱是佛弟姨母之子。憍慢於人。有是事不。難陀答言。實爾世尊。佛告難陀。汝今不應作如是事。汝今應當樂阿練若。處塚間樹下。納衣乞食。若是我弟姨母所生。應當修行如是等事。爾時世尊即說偈言  我當云何見  難陀樂苦行  如彼阿練若  塚間坐乞食  山林閑靜處  捨欲而入定  佛說是偈已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。』
  参考:『別訳雑阿含経(第6経)巻1』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時尊者難陀往至佛所。頂禮佛足在一面坐。爾時世尊告諸比丘。善說法中。難陀比丘最為第一。容儀端正。豪姓之子。難陀比丘最為第一。能捨盛欲。難陀比丘最為第一。收攝諸根。飲食知量。於初後夜精勤修道。修念覺意。常現在前。難陀比丘最為第一。云何名難陀比丘能攝諸根。不著色聲香味觸法。是名難陀能攝諸根。云何名難陀比丘飲食知量。食以止飢。不為色力。為修梵行。裁自取足。如似脂車。又如治癰。不為色力。肥鮮端正。是名難陀飲食知量。云何名難陀比丘於初後夜。精勤修道。晝則經行。夜則坐禪。除陰蓋心。於其初夜。洗足已訖。正身端坐。擊念在前。入于禪定。訖於初夜。又於中夜。右脅著地。足足相累。繫心在明。修念覺意。於後夜初。正身端坐。繫念在前。而此難陀於初後夜。專心行道。等無有異。族姓子。難陀得最上念覺。難陀比丘撿心不散。正觀東方。南西北方。亦復如是。撿心觀察。不令錯亂。苦受樂受。不苦不樂受。悉知緣起。知此諸受起滅久近。亦知諸想起滅因緣。亦知諸覺當住起滅因緣。令諸比丘當作是學。守攝諸根。飲食知量。初中後夜。精勤修習。修最上念覺。當如難陀。佛告諸比丘。我今教汝學難陀比丘所修之行。設有比丘所修之行。猶如難陀。我今亦當教汝等學。爾時世尊即說偈言  若能善攝諸根者  亦能繫念節飲食  是則名為有智人  善知心起之體相  難陀如是我所歎  汝等應當如是學  佛說是已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『増一阿含経巻9慚愧品第十八(6)』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。尊者難陀著極妙之衣。色曜人目。著金廁履屣。復抆飾兩目。手執缽器。欲入舍衛城。爾時。眾多比丘遙見尊者難陀著極妙之衣。入舍衛城乞食。爾時。眾多比丘便往至世尊所。頭面禮足。在於一面坐。須臾退坐。白世尊曰。向者。難陀比丘著極妙之衣。色曜人目。入舍衛城乞食。爾時。世尊告一比丘。汝速往至難陀比丘所。如來呼卿。對曰。如是。世尊。時。彼比丘受世尊教。頭面禮足而去。往至難陀比丘所。到已。語難陀曰。世尊呼卿。是時。難陀聞比丘語。即來至世尊所。到已。頭面禮足。在一面坐。是時。世尊告難陀曰。汝今何故著此極妙之衣。又則著履屣。入舍衛城乞食。時。尊者難陀默然不語。世尊復重告曰。云何。難陀。汝豈不以信牢固出家學道乎。難陀對曰。如是。世尊。世尊告曰。汝今族姓子不應律行。以信牢固出家學道。何由復著極妙之衣。摩治形服。欲入舍衛城乞食。與彼白衣有何差別。爾時。世尊便說此偈  何日見難陀  能治阿練行  心樂沙門法  頭陀度無極  汝今。難陀。更莫造此如是之行。爾時。尊者難陀及四部眾聞佛所說。歡喜奉行』
  三毒(さんどく):婬、怒、癡(貪、瞋、癡)は煩悩の中でも特に毒の力が強いので三毒という。
  気分(きぶん):余習とも習気(じっけ)ともいい、心が煩悩により薫じられ残り香があることで、心には執著がなくても、行動には習慣づけられた悪癖が残っていることをいう。残気。
  舍利弗(しゃりほつ、zaariputra):仏の十大弟子中の智慧第一。また舎利弗多、舎利弗羅、舎利弗怛羅、奢利富多羅、奢利弗多羅、奢唎補怛羅、設利弗怛羅等に作り、意訳して鶖鷺子、秋露子、鴝鵒子等に作り、梵漢並訳して則ち舎利子、舍梨子と称す。旧訳に身子と為すは、或いは誤ってzaari(舎利鳥)を以ってzariira(身体)と作すに係るものなり。梵語putra(弗)は意に子息を謂い、その母の摩竭陀国王舎城の婆羅門論師の女、出生の時に眼の舎利鳥に似たるを以って乃ち命名して舎利と為せるが故に、舎利弗の名は即ち『舎利の子』の謂いなり。また優波底沙(upatiSya)と名づけ、或いは優波提舎、優波帝須等に作り、意訳して大光と作すは、即ち父に従りこの名称を得しものなり。『仏本行集経巻48』によれば、舎利弗は幼きより形貌端厳、長ずるに及んでは諸の技芸を修習して四吠陀に通暁し、年十六には即ちよく他人の論義を挫伏せるに、諸の族弟は皆帰服せり。年少の時より隣村の目犍連(maudgalyaayana)と親交を結べるに、かつて偕伴して王舎城外の祇離渠呵(gijjhakuuTa、即ち霊鷲山なり)の大祭に赴き、衆人の混雑嬉戯するを見て頓に無常の感萌え、即ち鬚髪を剃除して六師外道の中の刪闍夜毘羅胝子(saMjayavairaTTiputra)に投じて出家学道し、僅か七日七夜にして即ちその教旨を貫通し、会衆二百五十人皆これを奉じて上首と為せるも、舎利弗はなお深く、未だ尽く解脱を得る能わざるを憾めり。その時、仏成道して未だ久しからず、王舎城竹林精舍に於いて住まれるに、弟子阿説示(azvajit、また馬勝比丘と称す)著衣持鉢して城中に入りて乞食せり。舎利弗はその威儀の端正にして行歩の穏重なるを見て遂に問わく、師とする所は何人なるや、習う所は何法なるや、と。阿説示は乃ち仏所説の因縁の法を以ってこれに示し、諸法無我の理を了知せしむ。舎利弗は還りて即ち目犍連と各々弟子二百五十人を率いて、同時に竹林精舍に詣りて仏に帰依せり。『十二遊経』によれば、舎利弗は帰仏後、常に仏に随従して聖化を補翼し、諸の弟子の中の上首たり。また聡明なること衆に勝れるを以って、仏の弟子中の智慧第一と誉めらる。別に『衆許摩訶帝経巻11、12』、『賢愚経巻10』によれば、舎利弗は並べて外典に通暁し屡々超絶の辯才を以って赤眼婆羅門等の外道を摧伏せり。また『四分律巻46』、『十誦律巻37』等によれば、仏の晩年、提婆達多五事の非法を唱えて僧団を破らんと欲し、並べて五百比丘を率いて伽耶山中に遁入せしに、舎利弗は乃ち目犍連と共に彼の山に至りて、五百比丘をして自らその非を悟らしめ、また仏に帰せしむ。舎利弗は一生僧伽の長老に崇敬され、かつ屡々仏の讃美する所たるも、後に仏に較べて早く滅に入り、七日の後に荼毘して、遺骨、衣鉢を祇園に葬れば、須達多長者並べてこれが為に塔を建つ。<(望)『大智度論巻11』参照。
  難陀(なんだ、nanda):また孫陀羅難陀(sundarananda)に作り、艶喜と訳して、牧牛の難陀と別つ。これ仏の異母弟にして身長は一丈五尺四寸、容貌端正にして三十相(ただ仏相中の白毫相を欠き、また耳垂が仏よりやや短きのみ)を具う。仏、尼拘律園に於いてそれを度して出家せしむるも、出家の後にもなおその妻を忘れ難く、しばしば妻の処に帰りしに、仏の方便教誡を以って始めて愛欲を断除して阿羅漢果を証し、仏弟子中の調和諸根第一なりと誉めらる。阿羅漢の難陀比丘が極妙の衣を著け、金で飾った履物を履き、目にアイシャドウを入れていたため、世尊にそれでは俗人と何等異ならないではないかと叱責されたが、難陀はただ俗人であった時の習慣からそうしていただけで、別に執著心があってものではない。<(望)
  婬欲(いんよく):色欲等、事物に対する執著心をいう。
  必陵伽婆磋(ひつりょうがばしゃ、pilinda-vatsa):また畢陵伽婆磋、畢蘭陀筏蹉に作り、訳して余習という。釈尊の弟子にして煩悩を尽せしが、五百世の間、婆羅門たりしが故に、高慢の余習有るが故なり。
  (こう):世界の生滅の周期。
時佛從禪起經行。羅睺羅從佛經行。佛問羅睺羅。何以羸瘦。羅睺羅說偈答佛
 若人食油則得力 
 若食酥者得好色 
 食麻滓菜無色力 
 大德世尊自當知
時に仏は禅より起ちて経行したまい、羅睺羅は仏に従いて経行す。仏の羅睺羅に問いたまわく、『何を以ってか、羸痩せる。』と。羅睺羅の偈を説いて仏に答うらく、
若し人油を食わば、則ち力を得ん
若し酥を食わば、好色を得ん
麻滓と菜(な)とを食わば、色力無けん
大徳世尊も、自ら当に知りたもうべし
その時、
『仏』は、
『禅』より、
『起()って!』、
『経行される!』と、
『羅睺羅』も、
『仏に従って!』、
『経行した!』。
『仏』は、
『羅睺羅』に、こう問われた、――
何故、
『痩せて!』、
『弱っているのか?』、と。
『羅睺羅』は、
『偈』を、
『説いて!』、
『仏』に、こう答えた、――
若し、
『人』が、
『油を食えば!』、
『力』を、
『得られ!』、
『酥(バター)を食えば!』、
『色』が、
『好くなる!』が、
『胡麻油』の、
『搾り滓や!』、
『菜っ葉ばかりを!』、
『食っていた!』のでは、
『色も!』、
『力も!』、
『無くなりましょう!』。
『大徳、世尊』の、
自ら、
『知っていられる!』、
『通りです!』。
  (ぜん):梵語褝那dhyaanaの略にして、静慮と訳す。即ち結跏趺坐して縁慮を止め三昧に住するを云う。『大智度論巻2上注:坐禅、同巻17上注:禅』参照。
  経行(きょうぎょう):梵語caGkramanaの訳。一定の個処を往復歩行するを云う。『大智度論巻2上注:経行』参照。
  羅睺羅(らごら):梵名raahula。巴梨名同じ。釈迦十大弟子の一。釈尊出家以前の子にして、妃耶輸陀羅の生む所なり。『大智度論巻24下注:羅睺羅』参照。
  羸痩(るいそう):弱々しく痩せる。
  (そ):牛乳を煮て造ったチーズまたはバター。
  麻滓(まし):ごま油の絞り滓。
  (さい):菜っ葉。
  大徳(だいとく):仏の尊称、また長老比丘の尊称。
  (ぜん):定と訳す。所対の境に心を定めて熟慮すること。
  経行(きょうぎょう):坐禅に対する歩く禅。坐禅中に生ずる眠気を覚ますために辺りを歩く。
  羅睺羅(らごら、raafula):また羅云、羅吼羅、羅睺に作り、仏の嫡子なり。胎に在ること六年、成道の夜に生じ、十五歳にて出家せるに、舎利弗(しゃりほつ、zaariputra)、和上と為りて彼を沙彌と為すに、遂に阿羅漢果を成ぜり。仏の十大弟子の中に在りて密行第一と為す。<(望)
佛問羅睺羅。是眾中誰為上座。羅睺羅答。和上舍利弗。佛言。舍利弗食不淨食。 仏の羅睺羅に問いたまわく、『是の衆中には、誰をか、上座と為す。』と。羅睺羅の答うらく、『和上舎利弗なり。』と。仏の言わく、『舎利弗も、不浄食を食えり。』と。
『仏』は、
『羅睺羅』に、こう問われた、――
是の、
『衆』中には、
誰が、
『上座なのか?』、と。
『羅睺羅』は、こう答えた、――
『和上』の、
『舎利弗』が、
『上座です!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『舎利弗』も、
『不浄の食』を、
『食っているぞ!』、と。
  (しゅ):梵語saMghaの訳。僧、僧伽等に作る。集団の義。仏教教団を指す。『大智度論巻26上注:僧』参照。
  上座(じょうざ):梵語saMgha-sthaviraの訳。僧中の長老の義。
  和上(わじょう):梵語upaadyaaya、また和尚に作る。受戒の人の為に戒律を教うる師となる人。『大智度論巻13下注:和尚』参照。
  不浄食(ふじょうじき):火浄、刀浄、爪浄、蔫乾浄、鳥啄浄の五種の作浄を得ざる食の意。『大智度論巻26(上)注:食』参照。
  (しゅ):衆は僧伽(そうが、集団)の訳語。比丘の集団の意。僧、僧団、僧侶。
  上座(じょうざ):比丘となって以来の年数の多い者。
  和上(わじょう):印度に於ける吾師の呼称。
  不淨食(ふじょうじき):比丘は肉、根菜、木の実、果物、菜っ葉等を、次の五つの方法で調理して生気を取り去った、五種の浄食の他は食ってはならない。(1)火淨:焼くまたは煮る。(2)刀淨:果物の皮と核(たね)を刀で取り去る。(3)爪淨(そうじょう):爪を刀の代わりにつかう。(4)蔫乾淨(せんかんじょう):果物を乾して生気を取り去る。(5)鳥啄淨(ちょうたくじょう):鳥が啄ばんだ残り。
  受請:比丘が俗人から食事の招待を受けること、時には不淨食が混じることもある。
爾時舍利弗轉聞是語。即時吐食自作誓言。從今日不復受人請。 爾の時、舎利弗は転じて、是の語を聞くに、即時に食を吐き、自ら誓を作して言わく、『今日よりは、復た人の請を受けじ。』と。
爾の時、
『舎利弗』は、
『転じ(伝聞し)て!』、
是の、
『語』を、
『聞く!』と、
即時に、
『食』を、
『吐き出して!』、
自ら、
是の誓を作して、こう言った、――
今日より、
復た、
『人』の、
『請(要請/招待)』を、
『受けることはないだろう!』、と。
  (しょう):梵語nimantraNaの訳。招待の義。檀越が僧に請うて比丘、比丘尼を食事に招くこと。是の時僧中の執事は、次第に比丘数名を指事して、公平に請を受けしむ。『大智度論巻22(上)注:僧物』参照。
是時波斯匿王長者須達多等。來詣舍利弗所。語舍利弗。佛不以無事而受人請。大德舍利弗復不受請。我等白衣云何當得大信清淨。 是の時、波斯匿王、長者須達多等、舎利弗の所に来詣して、舎利弗に語らく、『仏は、事無きを以って、人の請を受けたまわず。大徳舎利弗も、復た請を受けたまわざれば、我等白衣は、云何が、当に大信の清浄なるを得べき。』と。
是の時、
『波斯匿王』や、
『長者の須達多』等が、
『来て!』、
『舎利弗の所』に、
『到る!』と、
『舎利弗』に、こう語った、――
『仏』は、
『事』が、
『無ければ!』、
『人』の、
『請』を、
『受けられない!』が、
『大徳舎利弗』までが、
復た、
『請』を、
『受けられないとは!』。
わたし達、
『白衣(俗人)』は、
何のようにして、
『大信の清浄』を、
『得ればよいのか?』、と。
  波斯匿王(はしのくおう):波斯匿は梵名prasenajit、仏在世時の舎衛城の主。後に仏に帰依して大施主となる。憍薩羅国の王。『大智度論巻25上注:波斯匿王』参照。
  長者(ちょうじゃ):梵語zreSThinの訳。又はgRha-pati、巴梨語seTThi。富豪、又は年齢徳行の長ぜる者を云う。「雑阿含経巻5」に、「爾の時那拘羅nakulapitaa長者あり、百二十歳にして年耆い根熟せり」と云い、「増一阿含経巻3清信士品」に、「第一智慧は質多citta長者是れなり。(中略)外道を降伏するは謂わゆる掘多長者是れなり。能く深法を説くは謂わゆる優波掘長者是れなり。(中略)魔宮を降伏するは謂わゆる勇健長者是れなり。福徳盛満なるは闍利長者是れなり。大檀越王は謂わゆる須達sudatta長者是れなり。門族成就するは泯兎長者是れなり」と云い、又「法華経巻2譬喩品」に、「国邑聚落に大長者あり、其の年衰邁して財富無量に、多く田宅及び諸の僮僕あり」と云える其の例なり。此等は皆富豪の士を長者と称したるなり。「法華経文句巻5上」には長者に世間の長者、出世の長者、観心の長者の三種あることを説き、世間の長者は姓貴、位高、大富、威猛、智深、年耆、行浄、礼備、上歎、下帰の十徳を備え、出世の長者は即ち仏にして、真如実際の中より生じ、功成り道著われて十号極まりなく、法財万徳悉く皆具満し、十力雄猛にして魔を降し外を制し、一心三智通達せざることなく、乃至七種の方便来たりて依止するが故に大長者と名づくとし、観心の長者とは、観心の智は実相より出で、生まれて仏家に在りて種性真正に、乃至其の観七方便の上に出づるが故に長者の名を得となせり。又「翻訳名義集巻5長者篇」には、支那の長者は印度に異なることを明し、「西土の豪族なり。富商大賈にして財巨万を積むを咸く長者と称す。此の方は則ち然らず、蓋し有徳の称なり。風俗通に云わく、春秋の末、鄭に賢人あり、一篇を著わして鄭長者と号す。謂わく年耆い徳艾にして事人に長ず。之を以って長者と為す」と云えり。是れ印度に在りては豪族を長者と云い、支那に在りては耆年徳行の人を長者と称することを示したるなり。又「大般涅槃経疏巻8」、「法華義疏巻5」、「梵語雑名」、「法苑珠林巻56」、「慧苑音義巻下」、「玄応音義巻8」等に出づ。<(望)
  須達多(しゅだった):梵名sudatta。中印度舎衛城の長者にして、波斯匿王の大臣なり。其の性慈仁にして常に孤独を憐れみ、衣食を給施せしを以って時人呼んで梵名anaatha-piNDada(給孤獨食、或いは給孤獨と訳す)と称す。即ち祇樹給孤獨園精舎を造りて仏に施すにより名あり。『大智度論巻22上注:須達』参照。
  白衣(びゃくえ):梵語avadaata-vasanaの訳。白色の衣の義。転じて白衣を着するものを云う。即ち在俗の人の称なり。『大智度論巻26下注:白衣』参照。
  大信(だいしん):信は梵語zraddhaaの訳。巴梨語saddhaa、心所の名。七十五法の一、百法の一。不信に対す。即ち心をして澄浄ならしむる精神作用を云う。『大智度論巻2上注:信』参照。
  波斯匿王(はしのくおう、prasenajit):和悦、月光と訳し、また秦に鉢邏犀那時多に作り、勝軍、勝光と訳す。憍薩羅(こうさら)国梵授王の子にして仏在世時舎衛城の主なり。『有部毘奈耶雑事巻8』によれば、憍薩羅国王勝光王これなり。王の第二夫人を末利(訳して勝鬘といい、勝鬘経の勝鬘夫人はこの王夫人の女にして、母子同名なり)といい、もと劫比羅城(迦毘羅城)の婢女と為し、帰仏の福力を以って王に招聘されて夫人と為り、一子を生じて悪生(virJDhaka)と名づくるに、逆害自立の心有るも長行大臣これを諌止せり。後に王、長行大臣を将いて仏所に至り、法を聴いて久しく出でざるに、長行意を変じて窃かに車馬を引いて城に還り、策して悪生太子を立てて王と為し、大王の二夫人、行雨と勝鬘とを駆逐す。二夫人は王所に詣らんとして中途に王に遇い、事を白すに王は便ち勝鬘を城に還し、自ら行雨と共に王舎城に向かう、城外に一園林有りて、王ここに停りて行雨をして未生怨王(阿闍世王、ajaatazatru)に報せしむ。未生怨王これを聞いて大いに喜び駕を厳しめて自らこれを出向かう。時に勝光王、久しく食を得ざれば園主に乞い、蘿菔(らふく、大根)を五顆得てこれを食い、水辺に往きて過量にこれを飲むに因り霍乱を成して遂に仆れて死せり。未生怨王、後に来たりてこれを厚く葬れり、と。<(丁)
  須達多(すだった、sudatta):また蘇達多、須達に作り、訳して善授、善与、善施、善給、善温と作す。中印度舎衛城の長者にして波斯匿王の大臣なり。その性は仁慈にして夙に孤独を憐れみ、好く施を行ずれば、人これを称して、阿那他擯荼陀(anaathapiNDada、また阿難邠邸、阿難賓坻、給孤独食、給孤独に作る)と為せり。仏に帰依して後、祇園精舎(jetavana)を建造して仏に供養せり。<(望)
舍利弗言。我大師佛言。舍利弗食不淨食。今不得受人請。 舎利弗の言わく、『我が大師の仏の言わく、舎利弗は不浄食を食うと。今は、人の請を受くるを得じ。』と。
『舎利弗』は、こう言った、――
わたしの、
『大師』の、
『仏』は、こう言われた、――
『舎利弗』は、
『不浄の食』を、
『食っている!』、と。
今は、
『人』の、
『請』を、
『受けることはできない!』、と。
  大師(だいし):仏の尊称。
  不得(ふとく):できない。許されない。許容できない。
  参考:『瑜伽師地論巻82』:『復次於次第中。先應安住苾芻尸羅。次應聽受如來正法。次應如理作意思惟。如是行者由淨持戒。無有憂悔。由無悔等。漸次生定。由正方便所攝智慧如理作意正思惟故。增上心學速得成滿。如是名為圓滿次第。前前後後漸圓滿故。能成次第者。謂由住學勝利。能成慧為上首。由慧為上首。能成解脫堅固。云何能得住學勝利。乃至能成解脫堅固。謂由念為增上。如是名為能成次第。又如是住修習三學。速得圓滿。此亦名為能成次第。解釋次第者。謂能善教誡聲聞弟子一切應作不應作事。故名大師。又能化導無量眾生令苦寂滅。故名大師。又為摧滅邪穢外道出現世間。故名大師。從他聽聞正法音聲。又能令他聞正法聲。故曰聲聞。』
於是波斯匿等至佛所白佛言。佛不常受人請。舍利弗復不受請。我等云何心得大信。願佛敕舍利弗還受人請。 是(ここ)に於いて波斯匿等は、仏所に至り、仏に白して言さく、『仏は、常には仏の請を受けたまわず。舎利弗も、復た請を受けず。我等は、云何が心に大信を得ん。願わくは、仏、舎利弗に勅して、還(ま)た人の請を受けしめたまえ。』と。
是のような訳で、
『波斯匿』等は、
『仏の所』に、
『至り!』、
『仏』に白(もう)して、こう言った、――
『仏』は、
常に、
『人』の、
『請』を、
『受けられない!』が、
『舎利弗』までが、
復た、
『人』の、
『請』を、
『受けなくなった!』。
わたし達は、
何のようにして、
『心』に、
『大信』を、
『得ればよいのか?』。
願わくは、
『仏』、
『舎利弗』に、
『勅して(命じて)!』、
還()た、
『人の請』を、
『受けさせたまえ!』、と。
  (ちょく):命じる。
佛言。此人心堅不可移轉。佛爾時引本生因緣。昔有一國王。為毒蛇所囓。王時欲死呼諸良醫令治蛇毒。時諸醫言。還令蛇嗽毒氣乃盡。 仏の言わく、『此の人は、心堅くして、移転すべからず。』と。仏は爾の時、本生の因縁を引きたまえり。昔、一国王有り、毒蛇の為に噛まる。王時に死なんと欲し、諸の良医を呼びて、蛇毒を治せしむ。時に諸の医の言わく、『還た蛇をして嗽(す)わしむれば、毒気乃(すなわ)ち尽きん。』と。
『仏』は、
こう言われた、――
此の、
『人の心』は、
『堅くて!』、
『動かせられないだろう!』、と。
『仏』は、
爾の時、
『本生(過去世の生)』の、
『因縁』を、
『引いて!』、
こう言われた、――
昔、
有る、
『一国王』が、
『毒蛇』に、
『囓られた!』。
『王』は、
その時、
『死のうとしていた!』が、
諸の、
『良医を呼んで!』、
『蛇の毒』を、
『治そうとした!』。
その時、
諸の、
『医師』は、こう言った、――
還()た、
『蛇』に、
『毒』を、
『嗽()わせれば!』、
やがて、
『毒気』が、
『尽きるだろう!』、と。
  参考:『十誦律巻61』:『佛在舍婆提。有一居士。請佛及僧明日食。佛默然受。居士知佛默然受已。從座起頭面禮佛足遶竟還歸。是夜辦種種飲食。早起敷床座。遣使白佛。食具已辦。唯聖知時。僧著衣持缽入居士舍。佛住精舍迎食分。是居士見眾坐定。自行澡水。上座中座多美飲食。下座及沙彌。與六十日稻飯胡麻滓合菜煮。與諸居士與眾僧多美飲食竟。自行澡水。取小座具僧前坐聽說法。上座舍利弗說法竟。從座出去。是時羅睺羅作沙彌。食後行到佛所。頭面禮佛足一面立。諸佛常法。比丘食。後如是勞問。多美飲食飽滿不。爾時佛問羅睺羅。僧飲食飽滿足不。羅睺羅言。得者足不得者不足。佛問。何以作是語。羅睺羅言。世尊。諸居士與上座中座多美飲食飽滿。下座及沙彌與六十日稻飯胡麻滓合菜煮。是時羅睺羅羸瘦少氣力。佛知故問羅睺羅。汝何以羸瘦少氣力。羅睺羅即說偈言 食胡麻油大得力  有食酥者得淨色  胡麻滓菜無色力  佛天中天自當知  佛知故問羅睺羅。是僧中誰作上座。答和上舍利弗。佛言。比丘舍利弗不淨食。長老舍利弗聞。今日世尊呵言。比丘舍利弗不淨食。聞竟吐食出。盡壽斷一切請食及僧布施。常受乞食法。諸大貴人居士。欲作僧食。欲得舍利弗入舍。白佛。願佛敕舍利弗還受請。佛告諸人。汝等莫求舍利弗使受請。舍利弗性。若受必受若棄必棄。舍利弗非適今世有是性。乃前過去亦有是性。若受必受若棄必棄。汝等今聽。爾時世尊廣說本生因緣。過去世時有一國王。為毒蛇所螫。能治毒師。作舍伽羅咒。將毒蛇來。先作大火。語蛇言。汝寧入火耶。寧還嗽毒。毒蛇思惟。唾竟云何為命故復嗽已吐。不可還噉。我寧入火死。如是思惟竟投身火中。佛語諸人。蛇者今舍利弗是。此人過去世。若受必受。若棄必棄。今亦如是。是時佛種種因緣呵舍利弗竟。告諸比丘。從今日應行上座法。云何應行。若聞揵搥聲若時到聲。應疾往坐處坐。觀中座比丘下座比丘。或有坐不應法者。若坐不應法者。應示。是比丘若不覺。應彈指。彈指不覺。應語比座。安祥語。若上座施主與僧食時。不應先食。待得遍。聞等供聲乃食。一切僧應隨上座法行』
是時諸醫各設咒術。所囓王蛇即來王所。諸醫積薪燃火敕蛇。還嗽汝毒。若不爾者當入此火。 是の時、諸の医は、各咒術を設くるに、王を囓りたる所の蛇、即ち王の所に来たり。諸の医は、薪を積みて、火を燃やし、蛇に勅すらく、『還た汝が毒を嗽え。若し爾らずんば、当に此の火に入るべし。』と。
是の時、
諸の、
『医師』が、
各、
『咒術』を、
『施す!』と、
すぐに、
『王を囓った!』、
『蛇』が、
『王の所に来た!』。
諸の、
『医師』は、
『薪を積んで!』、
『火』を、
『燃やす!』と、
『蛇』に、こう命じた、――
還た、
お前の、
『毒』を、
『嗽え!』、
若し、
爾うしなければ、
此の、
『火』に、
『入らねばならぬ!』、と。
  (せつ):もうける。施す。列ねる。
毒蛇思惟。我既吐毒云何還嗽。此事劇死。思惟心定即時入火。爾時毒蛇舍利弗是。世世心堅不可動也。 毒蛇の思惟すらく、『我れは既に毒を吐けり。云何が還た嗽わん。此の事は、劇死せん。』と。思惟し心定まりて、即時に火に入れり。爾の時の毒蛇とは、舎利弗是れなり。世世に心堅くして、動かすべからず。』と。
『毒蛇』は、
こう思惟した、――
わたしが、
既に、
『吐いた!』、
『毒』を、
何のようにして、
還た、
『嗽うのか?』。
此のような、
『事をすれば!』、
『あっという間に!』、
『死ぬだろう!』、と。
『毒蛇』は、
是のように、
『思惟して!』、
『心』が、
『定まる!』と、
即時に、
『火』に、
『入ったのである!』が、
爾の時の、
『毒蛇』とは、
『舎利弗』が、
『是れである!』。
『舎利弗』は、
世世に、
『心』が、
『堅くて!』、
『動かせられないのだ!』、と。
  (ぎゃく):[本義]激甚( acute, intense, severe )、繁多にして多樣( numerous and diverse )、困難( hard )、強力( powerful )、急速/疾速( fast )、演劇/戯劇( play and joke, drama, play, opera )。
復次長老必陵伽婆蹉常患眼痛。是人乞食常渡恒水。到恒水邊彈指言。小婢住莫流水。即兩斷得過乞食。 復た次ぎに、長老必陵伽婆磋は、常に眼痛を患えり。是の人、乞食するに常に恒水を渡る。恒水の辺に到りて、弾指して言わく、『小婢住まれ、流るる莫かれ。』と。水、即ち両に断じて過ぐるを得て乞食せり。
復た次ぎに、
『長老必陵伽婆磋』は、
常に、
『眼痛』を、
『患っていた!』。
是の、
『人』は、
『乞食して!』、
常に、
『恒河』を、
『渡っていた!』が、
『恒河の辺』に、
『到る!』と、
『指』を、
『弾いて!』、
こう言い、――
小婢(小娘)!
『住(とど)まれ!』、
『流れるな!』、と。
『恒河』が、
すぐに、
『二分して!』、
『通れるようになる!』と、
『乞食した!』。
  恒水(ごうすい):印度北部の大河。恒河。ガンジス河。
  弾指(だんし):梵語acchaTaazabda、或いはacchaTaasaMghaata、acchaTaa等の訳。即ち拇指と食指との指頭を強力に摩擦して声音を弾き出す、或いは拇指と中指とを以って食指を圧覆す、復た食指を以って外に向け急に弾く。弾指に四義あり、一には虔敬、歓喜を表示す、「法華経巻6神力品」に依るに、諸仏の謦咳の声と弾指の声と普く伝えて十方に至り、大地は皆起きて六種に振動すと云える是れなり。二には警告を表示す、「新訳華厳経巻79」に依るに、善財童子は弥勒菩薩の楼閣の前に至り、弾指して声を出せば、門即ち開啓して其れをして内に入れしむと云える是れなり。三には許諾を表示す、「増一阿含経巻28」に依るに、二龍王有り世尊に、彼等を准許して優婆塞為らしめんことを請う、世尊は弾指して之を允せりと云える是れなり。四には時間の単位なり、弾指して需むる所の極短暫時の間を称して、一弾指、或いは一弾指の頃と為すも、諸説一ならず、「大智度論巻83」には、一弾指に六十念有りと謂い、「倶舎論巻12」には、「壮士の一疾弾指の頃の如きは、六十五刹那なり。是の如きを名づけて、一刹那の量と為す」と云えり。又「菩薩処胎経巻2」、「観無量寿経」、「華厳経探玄記巻18」等に出づ。<(佛)
  小婢(しょうひ):こおんな。こむすめ。罵りの語。
  参考:『増一阿含経巻3弟子品』:『言語麤獷。不避尊貴。所謂比利陀婆遮比丘是。』
  必陵伽婆磋(ひりょうがばしゃ):舎衛城の婆羅門種、初め隠身の咒を学びて名声を得るも、後に仏に遇うてその咒力を失い、遂に出家して仏弟子と為る。
是恒神到佛所白佛。佛弟子必陵伽婆蹉。常罵我言小婢住莫流水。 是の恒神、仏所に到りて仏に白さく、『仏の弟子の必陵伽婆磋は、常に我れを罵りて言わく、『小婢、住まれ水を流す莫かれ。』と。
是の、
『恒河の神』は、
『仏の所』に、
『到る!』と、
『仏』に、こう白した、――
『仏の弟子』の、
『必陵伽婆磋』が、
常に、
わたしを、
『罵って!』、
こう言います、――
小婢!
『住まれ!』、
『河を流れさせるな!』、と。
  恒神(ごうじん):恒河を司る女神。
佛告必陵伽婆蹉。懺謝恒神。必陵伽婆蹉即時合手語恒神言。小婢莫瞋今懺謝汝。是時大眾笑之。云何懺謝而復罵耶。 仏の必陵伽婆磋に告げたまわく、『恒神に懺謝せよ。』と。必陵伽婆磋は、即時に手を合わせ、恒神に語りて言わく、『小婢、瞋る莫かれ。今、汝に懺謝す。』と。是の時、大衆、之を笑うらく、『云何が、懺謝するに、而も復た罵るや。』と。
『仏』は、
『必陵伽婆磋』に、こう告げられた、――
『恒河の神』に、
『懺悔して!』、
『謝れ!』、と。
『必陵伽婆磋』は、
即時に、
『手』を、
『合せる!』と、
『恒河の神』に語って、こう言った、――
小婢!
『瞋るな!』、
今、
お前に、
『懺悔して!』、
『謝ろう! 』、と。
是の時、
『大衆』は、
之を笑って、こう言った、――
何故、
『懺悔して!』、
『謝りながら!』、
復た、
『罵しるのか?』、と。
  懺謝(ざんしゃ):罪を悔いて謝ること。
  大衆(だいしゅ):梵語摩訶僧伽(mahaasaMgha)の訳。又はsabhaa、或いはmahaa-sabhaa、巴梨語同じ。多数の衆の意。又多衆とも作す。此の中、梵語僧伽(saMgha)は、又僧と略し、又意訳して和合、或は衆と作し、即ち四人(新訳には三人)以上の比丘の集まりにして、「大智度論巻3」に、「僧伽とは、秦に衆と言い、多比丘の一処に和合す、これを僧伽と名づく」と云える是れなり。又大衆に就きて多くは多数の衆の意を以って、「大品般若経巻4辯才品」に、「十方の諸仏歓喜し、大衆の中に於いて称名讃歎す」と云い、「法華経巻1序品」に、「この時、天より曼陀羅華摩訶曼陀羅華曼珠沙華摩訶曼珠沙華を雨して仏の上及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に振動す」と云えるが如し。然れども、又「大智度論巻45」に、「大衆とは、仏を除きて余の一切の賢聖なり」と云えるが如きは賢聖の意なり、或は「舎利弗問経」に、「旧を学する者多く、従って以って名となして摩訶僧祇と為し、新を学する者少く、而もこれ上座なれば、上座に従って名となして他俾羅となす」と云えるが如きは上座部に対する大衆部の称となすものなれば、蓋し此の語の解は一に非ざることを知るべし。<(望)
佛語恒神。汝見畢陵伽婆蹉合手懺謝不。懺謝無慢而有此言。當知非惡。此人五百世來常生婆羅門家。常自憍貴輕賤餘人。本來所習口言而已。心無憍也。 仏の恒神に語りたまわく、『汝は、畢陵伽婆蹉の手を合わせて懺謝するを見しや不(いな)や。懺謝し慢無くして此の言有り。当に知るべし、悪に非ず。此の人は、五百世より来(このかた)、常に婆羅門の家に生まれて、常に自ら憍貴し、余の人を軽賎すれば、本より来習いし所の口の言うのみ。心に憍無きなり。
『仏』は、
『恒河の神』に、こう語られた、――
お前は、
見たか?――
『必陵伽婆磋』が、
『手を合せて!』、
『懺悔し!』、
『謝ったのを!』。
『懺悔して謝り!』、
『傲慢』が、
『無いはずなのに!』、
此の、
『言』が、
『有る!』のは、
当然、こう知らねばならぬ、――
是れは、
『心』が、
『悪いわけではないのだ!』、と。
此の、
『人』は、
『五百世』以来、
常に、
『婆羅門』の、
『家』に、
『生まれて!』、
常に、
自らを、
『憍って!』、
『貴び!』、
余の人を、
『軽んじて!』、
『賎しんできた!』ので、
本の、
『習慣となった!』、
『口』が、
『言うのみで!』、
『心』に、
『憍り!』は、
『無いのだ!』、と。
  (まん):梵語maanaの訳。人を軽んじ賎しむこと。『大智度論巻49下注:慢』参照。
  憍貴(きょうき):自ら憍りて貴しとなすこと。
  軽賎(きょうせん):他を軽んじて賎しとなすこと。
  (きょう):梵語madaの訳。自らを尊貴なりとなすこと。『大智度論巻49下注:憍』参照。
  参考:『摩訶僧祇律巻30』:『復次佛住王舍城爾時尊者畢陵伽婆蹉。在聚落中住。日日渡恒水乞食。到恒水上作是言。首陀羅住。我欲過。水即住。過已作如是言。首陀羅汝去。如是水流如故。水神不樂。往到佛所。頭面禮足卻住一面白佛言。世尊。尊者畢陵伽婆蹉語太苦住首陀羅去首陀羅。佛言。呼畢陵伽婆蹉來。來已。佛言。汝實爾不。答言。實爾。佛言。恒神如是嫌汝。汝向懺悔。畢陵伽婆蹉言。我悔過首陀羅。恒神言向首陀羅今首陀羅為有何異而言悔過。畢陵迦婆蹉唯除佛八大聲聞。餘一切盡言首陀羅和上阿闍梨諸上座皆言首陀羅。諸比丘言。尊者畢陵伽婆蹉。乃至和上阿闍梨皆是首陀羅。正有是一人婆羅門出家耶。尊者大迦葉舍利弗目連等如是比皆是婆羅門出家。都不作是語。應作舉羯磨。即集比丘僧。時畢陵伽婆蹉坐禪不來。遣使往喚。使便打戶言。眾僧集喚長老。時畢陵伽婆蹉即觀見比丘僧集欲與我作舉羯磨。即以神力制使比丘。著戶令不得去。眾僧怪使久不還。更遣比丘往喚。後比丘至。捉前使比丘手去來。長老即復相著不得去。如是使使相著皆不得去。諸比丘嫌言。眾中正有此一人大神足耶。尊者大目連豈無此力耶。齊水際作福罰羯磨。佛以神足乘空而來。知而故問。汝作何等。答言。世尊。畢陵伽婆蹉唯除如來八大聲聞。餘乃至和上阿闍梨盡言首陀羅。欲作舉羯磨。僧集不來。遣使往喚。神足復制。便使使相著不來。故欲作齊水際福罰羯磨。佛言。汝來。畢陵伽婆蹉發心頃在佛前立。佛語畢陵伽婆蹉。汝首陀羅語過。諸梵行人嫌汝。答言。世尊。我當如何。我不憍慢。亦不自大。輕蔑於人。然我喚和上阿闍梨諸長老比丘時。發聲便成首陀羅。佛語比丘。是畢陵伽婆蹉非憍慢。亦非自大輕蔑餘人。從五百世來常生婆羅門家首陀羅語習氣不盡。佛語畢陵伽婆蹉。汝本從無始生死已來貪欲瞋恚愚癡尚能永拔。五百世習氣而不能除。從今日後。莫作首陀羅語。聞世尊教恭敬故永不復作。如是毘尼竟。』
  畢陵伽婆蹉(ひつりょうがばしゃ):必陵伽婆磋。
  (らい):よりこのかた、と読む。以来。
  憍貴(きょうき):驕って自らを貴ぶ。
  軽賎(きょうせん):軽んじて侮る。
  所習(しょしゅう):習慣となった事がら。
如是諸阿羅漢。雖斷結使猶有殘氣。如諸佛世尊。若人以刀割一臂。若人以栴檀香泥一臂。如左右眼心無憎愛。是以永無殘氣。 是の如く、諸の阿羅漢は、結使を断ずと雖も、猶お残気有るも、諸仏、世尊の如きは、若し人、刀を以って一臂を割くも、若し人、栴檀香を以って一臂に泥(ぬ)るも、左右の眼の如く、心に憎愛無く、是を以って永く残気無し。
是のように、
諸の、
『阿羅漢』は、
『結使』が、
『断たれていても!』、
猶お、
『残気』が、
『有るのである!』が、
諸の、
『仏、世尊』などは、
若し、
『人』が、
『刀』で、
『一臂』を、
『割いたとしても!』、
『人』が、
『栴檀香』を、
『一臂』に、
『塗ったとしても!』、
『左、右の眼のように!』、
『心』に、
『憎、愛』が、
『無い!』。
是の故に、こう知ることができる、――
『永く!』、
『残気』が、
『無いのである!』、と。
  結使(けっし):煩悩の異称。諸の煩悩は、衆生を纏縛して生死を出離せしめざるが故に結と称し、駆役して衆生を悩乱するが故に使と称す。結に九種有り、使に十種あり、称して九結十使と為す。『大智度論巻1、巻5』参照。
  残気(ざんけ):気分が残る。
栴闍婆羅門女。木杅謗佛於大眾中言。汝使我有娠。何以不憂與我衣食。為爾無羞誑惑餘人。 栴闍婆羅門女の木杅もて、仏を大衆中に於いて謗りて言わく、『汝は、我れをして、娠有らしむるに、何を以ってか憂えざる。我れに衣食を与えよ。爾(なんじ)が羞(は)づる無く、余人を誑惑するが為なり。』と。
『栴闍婆羅門の女(むすめ)』は、
『木の盥』で、
『仏』を、
『謗(そし)り!』、
『大衆』中に、こう言った、――
お前は、
わたしを、
『妊娠させた!』のに、
何故、
わたしを、
『心配しないのか?』。
わたしに、
『衣、食』を、
『与えよ!』。
お前が、
『恥知らず!』にも、
『余の人』を、
『誑惑した(だまくらかした)んだよ!』、と。
  栴闍婆羅門女(せんじゃばらもんにょ):栴闍婆羅門の息女の義。悪女。『大智度論巻2下注:旃遮』参照。
  旃遮(せんしゃ):梵名ciJcaa。巴梨名同じ。又栴遮、栴闍、旃闍、戦遮、氈遮、或いは旃に作り、又栴遮摩那耆ciJcaa maanavikaとも称し、栴遮摩那、栴遮摩、栴摩那祇、栴酌迦、旃酌迦に作る。仏の為に妊めりと称して仏を誹謗せし外道女の名。又懐槃女子とも名づく。仏曽て舎衛国祇樹給孤獨園に在り、大衆に囲繞せられて説法し給いし時、世尊を毀辱せんと欲し、自ら懐に木盂を繋ぎ、衣を以って之を覆うて仏所に至り、大衆の中に在りて声を揚げて曰わく、此の説法の人は口に無量の義を出すと雖も、我と通じて懐妊せしむ。腹中の児は即ち釈種なりと。邪見の者は之を信じ、貞固の者は以って仏を誹謗すとなす。時に天帝釈は其の疑を除かんと欲し、化して白鼠となりて盂の糸を齧断し、糸断の声大衆を震動す。爾の時、衆中の一人起ちて木盂を持して曰わく、是れ汝の児なるやと。時に地自ら裂けて女は阿鼻獄中に堕せりと云える是れなり。「高僧法顕伝」並びに「大唐西域記巻6」には、給孤獨園の附近に其の遺跡ありとなせるも、「生経巻1栴闍摩暴志謗仏経」等には、之を本生話として記述せり。又「六度集経巻5」、「出曜経巻10誹謗品」、「菩薩処胎経巻7行品」、「仏五百弟子自説本起経世尊品」、「有部毘奈耶薬事巻16」、「大毘婆沙論巻35」、「大智度論巻2」、「翻梵語巻6」等に出づ。<(望)
  木杅(もくう):木の盂(たらい)、または鉢、椀。
  (しん):孕みて胎中に振動することあるをいう。妊娠。
  衣食(えじき):衣と食物。
  (い):[本義]母猴。作す/行う( do, act, make )、製作/創造する( make, compose )、治める( administer )、成る( become )、是れ( be )、学習/研究する( study )、植える( plant )、設置/建立する( establish )、させる[使役]( let )、考える/思う( think, believe, consider )、演奏する( play )、為に[受け身]( by )、於いて/在り( in )、~と( and )、則ち( then )、若し( if )、或は( or )、~の/之/的( of )、助ける/祐助( help )、言う/説く( tell, speak )、因る/由る( because, for, on account of )、為に/~に替わって/~に与える( for, for the benefit of )、~の為に/~の利益の為に( for, for the sake of )、対して/向って( facing to, toward )。
  誑惑(こうわく):誑して惑わす。
  参考:『生経巻1仏説旃闍摩暴志謗仏経』:『聞如是。一時佛遊舍衛祇樹給孤獨園。與大比丘眾千二百五十人俱。爾時國王波斯匿。請佛及比丘眾。於中宮飯。佛出祇樹。與大比丘及諸菩薩。天龍神鬼。眷屬圍遶。釋梵四王。華香妓樂。於上供養。香汁灑地。於時世尊與大眾俱。入舍衛城。欲詣王宮。有比丘尼。名曰暴志。木魁繫腹。似如懷妊。因牽佛衣。君為我夫。從得有身。不給衣食。此事云何。時諸大眾。天人釋梵四王。諸天鬼神及國人民莫不驚惶。佛為一切三界之尊。其心清淨過於摩尼。智慧之明超於日月。獨步三世。無能逮者。降伏諸邪。九十六種。莫不歸伏。道德巍巍。不可為喻。虛空無形。不可污染。佛心過彼。無有等侶。此比丘尼。既佛弟子。云何懷惡。欲毀如來。於是世尊見眾會心。欲為決疑。仰瞻上方。時天帝釋尋時來下。化作一小鼠。齧繫魁繩。魁即墮地。眾會睹之。瞋喜交集。怪之所以。時國王瞋。此比丘尼。棄家遠業。為佛弟子。既不能暢歎譽如來無極功德。反還懷妒。誹謗大聖乎。即敕侍者。掘地為深坑。欲倒埋之。時佛解喻。勿得爾也。是吾宿罪。非獨彼殃。乃往過去久遠世時。時有賈客。賣好真珠。枚數甚多。既團明好。時有一女詣欲買之。向欲諧偶。有一男子。遷益倍價。獨得珠去。女人不得。心懷瞋恨。又從請求。復不肯與。心盛遂怒。我前諧珠。便來遷奪。又從請求。復不肯與。汝毀辱我。在在所生。當報汝怨。所在毀辱。悔無所及。佛告諸比丘國王及諸比丘。買珠男子。則我身是。其女身者。則暴志是。因彼懷恨。所在生處。常欲相謗。佛說如是。眾會疑解。莫不歡喜』
是時五百婆羅門師等。皆舉手唱言是是。我曹知此事。是時佛無異色亦無慚色。此事即時彰露地為大動。諸天供養散眾名華。讚歎佛德佛無喜色。 是の時、五百の婆羅門師等、皆、手を挙げて唱えて言わく、『是なり、是なり。我曹(われら)も、此の事を知れり。』と。是の時、仏に、異なる色無く、亦慚づる色無し。此の事、即時に彰露するに、地は為に大いに動き、諸天供養して、衆(あまた)の名華を散らし、仏の徳を讃歎するも、仏に喜ぶ色無し。
是の時、
『五百の婆羅門師』等は、
皆、
『手』を、
『挙げる!』と、
唱えて、こう言った、――
もっともだ!
もっともだ!
我等も、
此の、
『事』は、
『知っているぞ!』、と。
是の時、
『仏』は、
『色』を、
『異にする!』ことも、
『無く!』、
『慚(は)じる!』、
『色』も、
『無かった!』が、
此の、
『事』は、
『即時に!』、
『露見した!』ので、
『地』が、
『その為に!』、
『大いに動いた!』。
諸の、
『天』は、
『供養して!』、
『多くの名華』を、
『撒き散らし!』、
『仏』の、
『徳』を、
『讃歎した!』が、
『仏』には、
『喜びの色』すら、
『無かった!』。
  我曹(がそう):われら。我等、我輩。
  慚色(ざんしき):恥じるようす。
  彰露(しょうろ):真相が露れて明らかになる。露見。
  名華(みょうけ):美しい花。
  讃歎(さんたん):讃嘆。
復次佛食馬麥亦無憂慼。天王獻食百味具足。不以為悅。一心無二。如是等種種飲食衣被臥具。讚呵輕敬等種種事中心無異也。譬如真金燒鍛打磨都無增損。 復た次ぎに、仏は、馬麦を食うも、憂慼すること無く、天王食を献じて、百味具足するも、以って悦びと為さずして、一心に二無し。是の如き等の種種の飲食、衣被、臥具、讃呵、軽敬等の種種の事の中にも、心に異なり無きなり。譬えば、真金を焼き、鍛え、打ち、磨くも、都べて増損無きが如し。
復た次ぎに、
『仏』は、
『馬麦(馬の飼料)』を、
『食われた!』が、
亦た、
『憂慼(憂愁)する!』ことも、
『無かった!』し、
『天王』が、
『百味具足の食』を、
『奉献した!』が、
亦た、
『悦ぶ!』ことも、
『無かった!』。
『仏』は、
『一心であり!』、
『二心』が、
『無い!』ので、
是れ等のような、
種種の、
『飲食、衣被、臥具』や、
『讚められたり、呵られたり!』、
『軽んじられたり、敬われたり!』等の、
種種の、
『事』中にも、
『心』に、
『異が無いであり!』、
譬えば、
『真の金』を、
『焼いて!』、
『鍛え!』、
『打ち!』、
『磨いても!』、
皆、
『増、損が無い!』のと、
『同じである!』。
  馬麦(めみゃく):馬の飼料。
  憂慼(うしゃく):憂愁( sorrowful, mournful, sorrow )。
  天王(てんのう):梵語deva-raajaの訳。諸天の王の義。又四天王の意。『大智度論巻26下注:四天王』参照。
  参考:『十誦律巻26』:『時長老大目犍連白佛。有樹名閻浮提。閻浮提因以為名。我欲取此樹果供養大眾。有呵梨勒林阿摩勒林。鬱單曰有自然粳米。忉利天食修陀味。普皆欲取以供大眾。有甘地味。我以一手擎諸眾生。一手反地。令諸比丘自取而噉。願見聽許。佛言。汝雖有大神力。諸比丘惡行報熟。不可移轉一皆不聽。是國清涼水草豐美。有波羅奈國人。逐水草放馬欲令肥。丁來到此處。馬子信佛心淨。見諸比丘乞食極苦難得。言諸長老。汝等辛苦耶。諸比丘言極辛苦。彼言。我等知汝極飢餓。我等糧食盡。正有馬麥。汝能噉不。諸比丘言。佛未聽我等食馬麥。諸比丘不知云何。以是事白佛。佛言。馬屬看馬人。若是諸牧馬人。能以好草鹽水食馬。此麥自在應受。是馬有五百匹。比丘五百少一。一馬食麥二斗。一比丘給一斗。一斗與馬。中有良馬給麥四斗。二斗給佛。二斗與良馬。阿難取佛分并自取分。持入聚落於一女前讚佛言。姊妹。佛有如是念定智慧解脫解脫知見。大慈大悲。一切智人身有三十二相八十種好。紫磨金色項有圓光。大梵音聲視無厭足。若不出家。當作轉輪聖王。猶如日出。當有七寶及千子。我與汝等無不屬者。今出家得阿耨多羅三藐三佛陀。未度者度。未解者解。未滅度者滅度。除生老病死憂悲苦惱。有小因緣在此安居。汝能持此麥為佛作乾飯不。女言。大德阿難。我家中多務多事不得為作。傍有一女人。聞佛功德即生敬心。如是人者世所希有。白阿難言。可持麥來。我為作飯。從今日汝分我亦當作。更有軟善智慧持戒比丘。我亦與作。女即作飯持與阿難。‥‥』
以是故阿羅漢雖斷結得道。猶有殘氣不得稱婆伽婆。 是を以っての故に、阿羅漢は、結を断じて道を得と雖も、猶お残気有りて、婆伽婆と称するを得ず。
是の故に、
『阿羅漢』は、
『結を断って!』、
『道』を、
『得たとしても!』、
猶お、
『残気』が、
『有るので!』、
是れを、
『婆伽婆』と、
『称することはできないのである!』。



多陀阿伽陀(如来)

問曰。婆伽婆正有此一名更有餘名。 問うて曰く、婆伽婆は正に此の一名のみ有りや、更に余の名有りや。
問い、
『婆伽婆』には、
但だ、
此の、
『一名のみ!』が、
『有るのですか?』、
更に、
余の、
『名』も、
『有るのですか?』。
答曰。佛功德無量。名號亦無量。此名取其大者。以人多識故。復有異名。名多陀阿伽陀等。 答えて曰く、仏は、功徳無量なれば、名号も亦た無量なり。此の名は、其の大なる者を取る、人の多く識るを以っての故なり。復た異名有り、多陀阿伽陀等と名づく。
答え、
『仏』の、
『功徳』は、
『無量である!』が故に、
亦た、
『名号』も、
『無量である!』。
此の、
『婆伽婆の名』は、
其の中の、
『大きい!』者を、
『取った!』。
何故ならば、
『多くの人』が、
『識っているからである!』。
復た、
更に、
『異名』が、
『有り!』、
是れを、
『多陀阿伽陀』等と、
『称する!』。
  多陀阿伽陀(ただあかだ):梵語tathaagata。如来と訳す。仏の称号。『大智度論巻2下注:如来、同巻21下注:十号、仏』参照。
  如来(にょらい):梵語多陀阿伽陀tathaagataの訳。巴梨語同じ。又多陀阿伽度、多他阿伽度、多陀阿伽駄、多訶阿竭、多薩阿竭、怛薩阿竭、怛闥阿竭、怛他竭多、怛他誐多、怛他蘗多、怛他蘗跢、怛佗蘗多、多阿竭に作り、或いは如去とも訳す。如実に来至せし者、又如実より到来せし者、或いは如く来たりし者の意。十号の一。即ち仏の尊称なり。「長阿含巻12清浄経」に、「仏は初夜に於いて最正覚を成じてより末後の夜に及ぶまで、其の中間に於いて言説する所あるものは尽く皆如実(tath'eva)なり。故に如来と名づく。復た次ぎに、如来の所説は事の如く(tathaa-kaarii)、事は所説の如し(tathaa-vaadii)、故に如来と名づく」と云い、「大品般若経巻14問相品」に、「仏は如実の相性を得るが故に名づけて如来と為す」と云い、「大般涅槃経巻18」に、「云何が如来と名づくる、過去の諸仏の如く所説変ぜず。云何が変ぜざる、過去の諸仏は衆生を度せんが為に十二部経を説く。如来も亦た爾り、故に如来と名づく。諸仏世尊は六波羅蜜三十七品十一空より大涅槃に来至す。如来も亦た爾り、是の故に仏を号して如来と為すなり。諸仏世尊は衆生の為の故に随宜方便して三乗を開示し、寿命無量にして称計すべからず。如来も亦た爾り、是の故に仏を号して如来と為すなり」と云える是れなり。是れ仏の言説する所は尽く如実なるが故に如来と名づけ、又其の所説は事の如く、或いは過去諸仏の所説の如く、又仏は六波羅蜜等より大涅槃に来至するが故に如来と名づくることを説けるものなり。又「大智度論巻2」には法相の如く解し、法相の如く説き、諸仏の如く安穏道に乗じて来たり、更に後有の中に至らざるが故に如来と名づくと云い、「同巻21」に、言に錯謬なきが故に如来と名づけ、六波羅蜜を行じて等正覚に来至せるが故に如来と名づけ、涅槃中に去至するが故に多陀阿伽度(如去)と名づくと云い、「同巻55」に、六波羅蜜を行じて仏道を成ずるを得たるが故に如来と名づけ、諸法の如を知り、如の中より来たるが故に如来と名づくと云い、又「巴梨文長部経註sumaGgala-vilaasinii」には如来に九義ありとし、即ち一に諸仏の如く六度を行じて来たるが故に如来と名づけ、二に諸仏の如く生まれて七歩を行き、又煩悩を断じて往き去るが故に如去と名づけ、三に如実の相を逮得せるが故に如来と名づけ、四に四諦十二因縁を如実に等正覚せるが故に如来と名づけ、五に境を如実に知解せるが故に如来と名づけ、六に成道の夜より涅槃の夜に至るまで、如実に語るが故に如来と名づけ、七に所説の如く行ずるが故に如来と名づけ、八に阿揭陀agada薬が一切の毒を制するが如く、仏は一切の有生に勝れたるが故に如来と名づけ、九に如実に四諦の知断証修に達するが故に如来と名づくと云えり。蓋し梵語多陀阿伽陀tathaagataを分解して二語となすに、若し第一語をtathaとすれば「如実」の義、tathaaとすれば「如く」の義、又第二語をaagataとすれば「到来せし」の義、gataとすれば「去りし」の義なり。故に若し此の原語をtathaa-aagataと解せば「如実に来至せし者」、或いは「如実より到来せし者」の義となり、tatha-aagadaaと解せば「如実語」の義となり、tatha-gataと解せば「如実に去りし者」の義となり、tatha-aagataと解せば「如く来たりし者」の義となり、tathaa-gataと解せば「如く去りし者」の義となる。又aagataはaagada(語の意)、或いは阿伽陀agada(薬名)に通じ、又gataはgada(語るの意)に通ず。されば上記の諸説は、各皆此等の義に依りて解釈を下したるものというべし。又「十住毘婆沙論巻1」には如来の義に十一義あることを説き、一に如は涅槃の真実、来は至の義にして、即ち真実中に至る(或いは如実にして至る)を如来と名づくとし、二に如は諸法実相、来は智慧の義にして、即ち実相中に到りて其の義に通達するが故に如来と名づけ、三に如は三解脱門の義にして、即ち自ら三解脱門に来至し、亦た衆生をして此の門に到らしむるが故に如来と名づけ、四に如は四諦の義、即ち一切種を以って四諦を見るが故に如来と名づけ、五に如は六波羅蜜の義、即ち是の六法を以って仏地に来至するが故に如来と名づけ、六に如は諦捨滅慧(即ち実捨寂慧)の四功徳処の義にして、此の四法を以って仏地に至るが故に如来と名づけ、七に如は一切仏法の義、即ち一切の仏法を以って諸仏に至るが故に如来と名づけ、八に如は菩薩の十地の義、即ち十地によりて等正覚に至るが故に如来と名づけ、九に如は八聖道の義、即ち実の八聖道分より来たるが故に如来と名づけ、十に如は機智の二足(即ち般若波羅蜜足と方便足)の義、即ち此の二足によりて仏に来至するが故に如来と名づけ、十一に去って還らざるが故に如来と名づくと云えり。是れ皆如を如実tatha、来を来至aagataの義に解したるなり。其の他「大宝積経巻90」、「大威徳陀羅尼経巻13」、「尊婆須蜜菩薩所集論巻9」、「仏性論巻2如来蔵品」等にも亦た別種の説を出せり。荻原雲来氏は之に関し、tatha、又はtathaaは梵雅語にては真実の義に常用せざるを以って、之を真実の義なる名詞tathyaより転じたるものとなし、tathaagataはtathya-aagata(真に到達せる)、又はtathya-gata(真を覚れる、真を得たる、真に住せる)より転訛せるものなるべしと云えり。又「長阿含巻11阿[少/兔]夷経」、「同巻17露遮経」、「出曜経巻20」、「大方等無想経巻1」、「大品般若経巻16」、「大宝積経巻90」、「十号経」、「大明度経巻1行品」、「坐禅三昧経巻上」、「無量寿如来観行供養儀軌」、「法蘊足論巻2証浄品」、「菩薩地持経巻3無上菩薩品」、「瑜伽師地論巻38菩提品」、「大智度論巻10、24、70、72、85」、「成実論巻1十号品」、「転法輪経憂波提舎」、「注維摩詰経巻9」、「大乗義章巻20末」、「翻梵語巻1」、「慧琳音義巻16、27」、「希麟音義巻4」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
  多陀阿伽陀(ただあかだ、tathaagata):また怛闥阿竭、多陀阿伽度、多陀阿伽駄等に作り、訳して如来に作り、また如去に作る。その来去相い通ずる者は、蓋し、梵語tathaagataは分解してtathaa-gata(如去)、tathaa-aagata(如来)の二種と為すべし。もし前者の解なれば、真如の道に乗じて仏果の涅槃に往くの義と為すが故に称して如去と為し、もし後者の解なれば、則ち真理由り来たり(如実にして来たる)、而も正覚を成ずの義と為すが故に如来と称するなり。仏は即ち真理に乗じて来たり、真如に由りて身を現すが故に仏を尊称して如来と為す。『大智度論』によれば、多陀阿伽陀とは如法に相い解し、如法に相い説き、諸仏の如く安穏の道を来たり、仏もまたかくの如く来たりて、更に後有の中に去りて至らず、この故に多陀阿伽陀と名づく、と。<(望)
  (にょ):そのまま。同じ。似ている。
云何名多陀阿伽陀。如法相解如法相說。如諸佛安隱道來。佛亦如是來更不去後有中。是故名多陀阿伽陀。 云何が、多陀阿伽陀と名づくる。法相の如く解し、法相の如く説き、諸仏の安穏の道を来たるが如く、仏も亦た是の如く来たりて、更に後有の中に去らず。是の故に多陀阿伽陀と名づく。
何故、
『多陀阿伽陀( thataagata )』と、
『呼ぶのか?』。
何故ならば、
諸の、
『法』の、
『相の通り!』に、
『理解し!』、
『法』の、
『相の通り!』に、
『説き!』、
諸の、
『仏』が、
『安隠の道』を、
『来られたように!』、
此の、
『仏』も、
亦た、
是のように、
『来られて!』、
更に、
『後有(後世中の存在)』中に、
『去られない!』が故に、
是の故に、
『多陀阿伽陀』と、
『称するのである!』。
  法相(ほうそう):梵語dharma-lakSaNaの訳。諸法の義相、又は体相の意。「大毘婆沙論巻129」に、「唯仏世尊のみ究竟して諸法の法相に了達し、亦た勢用を知る。余は能く知るに非ず」と云い、「梁訳摂大乗論釈巻6」に、「如来の智は法の体及び法の相に於いて皆障礙なし」と云い、また「成実論巻1衆法品」に、「阿難はこれ大弟子なり、法相に通達す」と云い、「同巻2四法品」に、「了義の修多羅とは謂わくこの義趣は法相に違せず、法相とは比尼に随順するなり。比尼を滅と名づく、有為法は常楽我淨なりと観ぜば則ち貪等を滅せざるも、若し有為法は無常苦空無我なりと観ぜば則ち貪等を滅し、無常等を知るが如きを法相と為す」と云えるこれなり。これ通じて諸法の体相を法相と名づけたるものにして、仏は如実に之に了達することを説けるものなり。又「解深密経巻2一切法相品」に、「諸法の相に略して三種あり、一には遍計所執相、二には依他起相、三には円成実相なり」と云い、広く其の相を宣説し、後瑜伽派に於いて五位百法を建立し、盛に諸法の性相を分別せるを以って之を法相宗と称し、法性一如を主唱する法性宗に対立せしむるに至れり。「華厳五教章巻1」に、「法相交参に約して一乗を明かさば、謂わく三乗の中に亦た因陀羅網及び微細等の事を説くことあるも而も主伴を具せず、或は華厳世界を説くも而も十等を説かず、或は一乗の中にも亦た三乗の法相等あり」と云い、「華厳経隨疏縁起鈔巻38」に、「若し法相宗には、遍計依他の所明の二義は唯事に約し、円成の二義は方にこれ理に於いてす。今法性宗には、遍計の理無と依他の無性は即ちこれ理に於いてし、非有即有はこれ理にして事に徹し、有即非有は即ち事にして理に徹す」と云える其の例なり。また「成実論巻5非相応品」、「順正理論巻38」、「金剛般若波羅蜜経論巻下」等に出づ。<(望)
  後有(ごう):梵語punar-bhavaの訳。後世の有の意。有は果報存在の義にして、即ち未だ涅槃を証せざる者の未来に受くべき果報を云う。「倶舎論巻26」に、「我が生已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辨じ、後有を受けず」と云える其の例なり。是れ阿羅漢は已に尽無生智を得、身心都滅すべきを以って、更に未来の報を受けざるを称したるなり。又「大毘婆沙論巻192」に、「頗勒窶那、識食の所引能く後有を感じ、其れをして現前せしむと説くが如き、彼れ続生の時の心眷属を説いて有と名づく。阿難陀、是の如きの業は能く後有を牽くことありと説くが如き、彼れ後有を牽く思を説いて有と名づく。取は有に縁たりと説くが如き、彼れ分位の五蘊を説いて有と名づく。尊者妙音説いて曰わく、彼れ後有を牽く業を説いて有と名づく」と云えり。又「長阿含巻17布吒婆楼経」、「大毘婆沙論巻29、102」、「瑜伽師地論巻66」、「同記巻18上」等に出づ。<(望)『大智度論巻7上注:有』参照。
  法相(ほっそう):事物の種種相。諸法(事物)は一性なれども相を殊にし、この殊別の相は外より可見である。これを法相という。
  (う):三界の生死。生存の自覚。彼我の自覚。



阿羅呵(応供)

復名阿羅呵。云何名阿羅呵。阿羅名賊。呵名殺。是名殺賊。如偈說
 佛以忍為鎧  精進為剛甲 
 持戒為大馬  禪定為良弓 
 智慧為好箭  外破魔王軍 
 內滅煩惱賊  是名阿羅呵
復た阿羅呵と名づく。云何が阿羅呵と名づくる。阿羅を賊と名づけ、呵を殺と名づけて、是れを殺賊と名づく。偈に説けるが如し、
仏は忍を以って鎧と為し、精進を剛甲と為し、
持戒を大馬と為し、禅定を良弓と為し、
智慧を好箭と為して、外に魔王の軍を破り、
内に煩悩の賊を滅す、是れを阿羅呵と名づく。
復た、
『阿羅訶( arhat )』と、
『呼ばれる!』、――
何故、
『阿羅訶』と、
『称するのか?』。
何故ならば、
『阿羅( ara )』を、
『賊』と、
『称し!』、
『呵( hat )』を、
『殺』と、
『呼ぶ!』が故に、
是れを、
『殺賊』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『忍』の、
『鎧』を、
『著け!』、
『精進』の、
『剛甲』を、
『被り!』、
『持戒』の、
『大馬』に、
『乗り!』、
『禅定』の、
『良弓』を、
『弓手に執り!』、
『智慧』の、
『好箭』を、
『右手に持って!』、
外には、
『魔王の軍』を、
『破り!』、
内には、
『煩悩の賊』を、
『滅ぼす!』ので、
是れを、
『阿羅訶(殺賊)』と、
『称する!』。
  阿羅呵(あらか):梵語arhat、又阿羅漢に作り、応供と訳す。『大智度論巻2下注:阿羅漢、同巻21下注:十号、仏』参照。
  阿羅漢(あらかん):梵語arhat、巴梨語arahant、又阿廬漢、阿羅訶、阿羅呵、阿囉呵、阿黎呵、或いは遏囉曷帝に作り、応、応供、応真と訳す。声聞四果の一。又如来十号の一。一切の煩悩を断尽して尽智を得、世人の供養を受くるに適当なる聖者を云う。「倶舎論巻24」に、「不還の者は進んで色界及び無色界の修所断の惑を断ず。初定の一品を断ずるよりを初となし、有頂の八品を断ずるに至るを後となし、応に知るべし、転じて阿羅漢向と名づく。即ち此の所説の阿羅漢向の中に有頂の惑を断ずる第九の無間道を亦た説いて名づけて金剛喩定となす、一切の随眠皆能く破するが故なり。先に已に破するが故に一切を破せざるも、実には能く一切を破する功能あり。諸の能断惑の無間道の中、此の定相応は最も勝たるが故なり。(中略)此の定は既に能く有頂地の第九品の惑を断じ、能く此の惑尽の得と俱行する尽智を引いて起らしむ。金剛喩定は是れ断惑中の最後の無間道にして、所生の尽智は是れ断惑中の最後の解脱道なり。此の解脱道に由りて諸漏尽の得と最初に俱生するが故に尽智と名づく。是の如く尽智已生の時に至れば便ち無学の阿羅漢果を成ず。既に無学応果の法を得るが故に、別果を得んが為に応に修学すべき所のもの此には有ることなし、故に無学の名を得」と云える是れなり。是れ阿羅漢向に於いて色無色界の修所断の惑を断じ、最後に金剛喩定に入りて有頂地の第九品の惑を断尽する時、尽智生じて即ち無学の阿羅漢果を成ずることを説けるものなり。但し阿羅漢は独り声聞に限らず、独覚及び仏にも共通する称号にして、即ち如来十号の一に数えらる。「成唯識論巻3」に、「阿羅漢とは通じて三乗の無学果位を摂す」と云える是れなり。阿羅漢の語義に関しては、「大毘婆沙論巻94」に、「世間の勝供養を受くるに応ずるが故に阿羅漢と名づく。謂わく世に清浄命縁の阿羅漢に非ざる所応受者あることなければなり。復た次ぎに阿羅とは謂わく一切の煩悩なり、漢を能害と名づく。利慧の刀を用って煩悩の賊を害して余なからしむ、故に阿羅漢と名づく。復た次ぎに羅漢を生と名づく、阿は是れ無の義なり。無生を以っての故に阿羅漢と名づく。彼れ諸界諸趣諸生の生死の法の中に於いて復た生ぜざるが故なり。復た次ぎに漢は一切の悪不善法に名づく、阿羅とは是れ遠離の義なり。諸悪不善法を遠離するが故に阿羅漢と名づく」と云い、又「大智度論巻2」にも阿羅呵に殺賊、不生、応受供養の三義ありと云えり。按ずるにarhanなる語は、「受くるに足る」、「何々する価あり」、若しくは「何事をも作し得る」の義なる五根arhにatを附せるarhat(為他言現在分詞)の単数主格にして、応供の義は之に基づきて解釈せるものなるが如し。然るに前引「倶舎論巻24」の連文に、「此れ唯他の事(旧倶舎論巻18には他の利益の事)を作すに応ずるが故に、諸の有染の者の所応供なるが故に、此の義に依りて阿羅漢の名を立つ」と云い、又「大乗義章巻20末」に四義を以って阿羅呵を解し、一に仏は一切の悪法を断ずるに応ずるが故に応と名づけ、二に如来は寂滅涅槃を証するに応ずるが故に応と名づけ、三に如来は一切の衆生を化するに応ずるが故に応と名づけ、四に如来は諸過悉く已に断尽し、福田清浄にして物の供を受くるに応ずるが故に応供と名づくと云い、「成唯識論述記巻3末」にも、「阿羅漢とは此に正しく応と云う。応とは契当の義なり。煩悩を断ずるに応じ、供を受くるに応ずるが故に、復た分段の生を受けざるに応ずるが故なり。若し但だ応と言わば即ち三義に通ず、故に唯だ応と言いて応供と言わず。若し供の字を著けば唯一義を得て二義を失す」と云えり。此等は皆阿羅漢を以って単に応の義とし、応供は唯其の中の一事を挙げたるに過ぎずとなすの意なり。但し婆沙論等に阿羅漢に殺賊、又は不生等の義ありとなせるは、恐らくプラクリット語に就いて解釈を下したるが為なるべく、即ちプラクリットに於いてはrなる音が分解してriとなるは極めて普通の変化なれば、今arhanは転じてarihanとなるを得べく、而して若しarihanなる語を「賊」若しくは「敵」の義なるariと「斬る」の義なるhanとの二語に分解すれば殺賊の義となる。又arhatをaruhatとして解せばaruhatは「生ず」の義なる語根ruhに打消しのaを附したるものなるが故に即ち不生の義となるを得るなり。又「大般涅槃経巻18」、「善見律毘婆沙巻4」、「雑阿毘曇心論巻2」、「法華義記巻1」、「翻梵語巻1」、「法華経文句巻1上」、「法華義疏巻1」、「阿弥陀経疏(窺基)」、「大日経疏巻1」、「玄応音義巻8」、「慧琳音義巻25至27」、「希麟音義巻4」、「翻訳名義集巻1、2」等に出づ。<(望)『大智度論巻3(下)六種阿羅漢』参照。
  (にん):梵語羼提kSaantiの訳。又忍辱と訳す。心善く安住して他の侮辱悩害等を堪忍するを云う。『大智度論巻6下注:忍辱』参照。
  精進(しょうじん):梵語毘梨耶viiryaの訳。勇悍にして諸の善法を進修するを云う。『大智度論巻15下注:精進』参照。
  剛甲(ごうこう):堅牢な甲冑。
  持戒(じかい):梵語ziilavat?の訳。戒法を護持するの意。破戒に対す。即ち仏所制の戒を受持して触犯なきを云う。「十誦律巻11」に、「持戒とは仏所結の戒を犯ぜず、大戒の教に随いて威儀を知り、応に行ずべきの処、応に行ずべからざるの処を知り、乃至小戒を破するも大怖畏を生ずべし」と云い、「仏垂般涅槃略説教誡経」に、「浄戒を持する者は販売貿易し、田宅を安置し、人民奴婢畜生を畜養することを得ざれ。(中略)当に自ら端心正念にして度を求め、瑕疵を苞蔵し、異を顕わして衆を惑わすことを得ざれ。四の供養に於いて量を知り足ることを知り、趣(わずか)に供事を得て応に畜積すべからず。此れ則ち略して持戒の相を説く。戒は是れ正順解脱の本なり、故に波羅提木叉と名づく。此の戒に依因りて諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得ん。是の故に比丘は当に浄戒を持して毀犯せしむることなかれ」と云い、又「梵網経巻下」に、「汝新学の菩薩は頂戴して戒を受持すべし。是の戒を受持し已らば転じて諸の衆生に授けよ」と云える是れなり。蓋し戒は之を受くるも護持すること甚だ難く、故に諸律には厳に其の犯戒を誡め、波羅夷、僧残等の諸制を設け、又諸経論に持戒の功徳利益を説けるもの甚だ多し。「大般涅槃経巻11聖行品」に、菩薩は禁戒を奉持し、其の心堅きこと金剛の如くすべしと説き、浮嚢の譬喩を挙げ、譬えば人あり、浮嚢を帯持して大海を渡らんと欲するに、一羅刹来たりて浮嚢の全分を与えんことを乞い、或いは半分、三分の一、乃至或いは微塵許を乞うも、其の人肯んぜずして言わく、汝索むる所誠に多からずと雖も、我れ今日方に海を渡らんとし、前途の近遠如何を知らず。若し汝に之を与えば気当に漸に出づべく、海難何によりてか過ぐるを得んと。菩薩の禁戒を護持するも亦た是の如く、常に煩悩の羅刹あり、四禁、僧残、偸蘭遮、捨堕、波夜提、突吉羅を犯ぜば、安穏にして涅槃に入るを得しめんと言うも、菩薩即ち随わず。四重禁乃至突吉羅を持すること敬重堅固なるべしと云い、又「正法念処経巻22」に、「持戒智慧の人は常に三種の楽を得、讃嘆及び財利と後天上に生ずるとなり。(中略)若し人、持戒を楽わば則ち涅槃に至ることを得ん。持戒の人を貴と為す。応に持戒に親近すべし」と云い、「大智度論巻13」に、「持戒の人は安楽を具足し、名声遠く聞こえ、天人敬愛し、現世に常に種種の快楽を得、若し天上人中富貴長寿を欲せば之を取ること難からず」と云い、又「同巻」に、「若し下の持戒は人中に生じ、中の持戒は六欲天中に生じ、上の持戒にして又四禅四空定を行ぜば色無色界の清浄天中に生ず。上の持戒に三種あり、下の清浄持戒は阿羅漢を得、中の清浄持戒は辟支仏を得、上の清浄持戒は仏道を得ん」と云える皆其の説なり。大乗に於いては之を六波羅蜜並びに十波羅蜜の第二とし、又大小二乗通じて戒を三学の初に置くなり。但し所持の戒品は在家出家及び声聞菩薩によりて各同じからず。又此の中、在家の人が一日一夜八斎戒を持するを特に持斎と称するなり。又「中阿含巻55持斎経」、「決定毘尼経」、「菩薩地持経巻4」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻5」、「四分律巻1、17、27」、「大智度論巻30、80」、「四分律行事鈔巻上1」、「同資持記巻上1上」、「梵網経菩薩戒本疏巻1」、「釈氏要覧巻上」等に出づ。<(望)
  大馬(だいめ):大きな馬。
  禅定(ぜんじょう):禅(梵dhyaana)と定(梵語三昧samaadhiの訳)との併称。『大智度論巻17上注:禅、同巻17下注:定』参照。
  良弓(ろうく):良好な弓。
  智慧(ちえ):梵語prajJaaの訳。正しく善悪を簡択する精神作用を云う。或いは智(梵語jJaanaの訳)と慧(梵語prajJaaの訳)との併称。即ち一切の事理に対し決定して能く了知する精神作用を智と称し、事理を簡択する精神作用を慧と称す。『大智度論巻23下注:智、慧』参照。
  好箭(こうせん):良好な箭(や)。
  阿羅呵(あらか、arhat):また阿羅漢に作り、応、応供、応真、殺賊、不生、無生、無学、真人と意訳す。尽く三界の見惑思惑を断ち、尽智を証得して、世間の大供養を受くるに堪える聖者を指す。<(望)
  (にん):認めて堪え忍ぶ。忍辱。
  精進(しょうじん):進んで怠らないこと。進。
復次阿名不。羅呵名生。是名不生。佛心種子後世田中不生。無明糠脫故。 復た次ぎに、阿を不と名づけ、羅呵を生を名づけ、是れを不生と名づく。仏心の種子は、後世の田中に生ぜず、無明の糠を脱するが故なり。
復た次ぎに、
『阿( a )』を、
『不』と、
『称し!』、
『羅呵( rahat )』を、
『生』と、
『呼んで!』、
是れを、
『不生』と、
『称する!』。
何故ならば、
『仏心』の、
『種子』は、
『後世』の、
『田』中に
『生じない!』、
『仏の種子』は、
『無明の糠』を、
『脱れたからである!』。
  無明(むみょう):梵語avidyaaの訳。事理に於いて愚にして了達せざる精神情態を云う。『大智度論巻15下注:無明』参照。
復次阿羅呵名應受供養。佛諸結使除盡得一切智慧故。應受一切天地眾生供養。以是故佛名阿羅呵。 復た次ぎに、阿羅呵を応に供養を受くべきと名づく。仏は、諸の結使除き尽して、一切の智慧を得たまいしが故に、応に一切の天地の衆生の供養を受くべし。是を以っての故に、仏を阿羅呵と名づく。
復た次ぎに、
『阿羅訶』を、
『供養を受ける!』に、
『相応しい!』と、
『称する!』。
『仏』は、
諸の、
『結使』を、
『除き尽して!』、
一切の、
『智慧』を、
『得られた!』が故に、
一切の、
『天、地の衆生』の、
『供養を受ける!』に、
『相応しい!』。
是の故に、
『仏』を、
『阿羅訶』と、
『呼ぶのである!』。



三藐三仏陀(正遍知)

復名三藐三佛陀。云何名三藐三佛陀。三藐名正。三名遍。佛名知。是名正遍知一切法。 復た、三藐三仏陀と名づく。云何が、三藐三仏陀と名づくる。三藐を正と名づけ、三を遍と名づけ、仏を知と名づくるに、是れを正遍知一切法と名づく。
復た、
『三藐三仏陀( samyaksaMbuddha )』と、
『称する!』。
何故、
『三藐三仏陀』と、
『称するのか?』、――
『三藐( samyak )』を、
『正』と、
『称し!』、
『三( saM )』を、
『遍』と、
『称し!』、
『仏陀( buddha )』を、
『知』と、
『称する!』。
是の故に、
是れを、
『一切の法』を、
『正しく遍く知る!』と、
『称するのである!』。
  三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ):梵語samyak-saMbuddha。巴梨語sammaa-sambuddha、又三藐三没駄、三耶三仏、或いは三耶三仏陀に作る。正遍知、正等覚、又正等覚者と訳す。如来十号の一なり。「坐禅三昧経巻上」に、「三藐は秦に真実と言い、三仏陀は一切覚と言う。苦と因習と涅槃と因道とを覚し、正しく四実転ずべからざることを解見し、了尽して余なきが故に真実覚一切と言う」と云い、又「大智度論巻2」に、「三藐を正と名づけ、三を遍と名づけ、仏を知と名づく。是れを正遍知一切法と名づく。問うて曰わく、云何が正遍知なる。答えて曰く、苦を知ること苦の相の如く、集を知ること集の相の如く、滅を知ること滅の相の如く、道を知ること道の相の如き、是れを三藐三仏陀と名づく。復た次ぎに一切諸法は実に不壊の相にして、不増不減なるを知る。云何が不壊の相と名づくる、心行処滅言語道断、諸法を過ぎて涅槃の相の不動なるが如し。是を以っての故に三藐三仏陀と名づく。復た次ぎに一切十方の諸の世界の名号、六道所摂の衆生の名号、衆生の先世の因縁、未来世の生処、一切十方の衆生の心相、諸の結使、諸の善根、諸の出要、是の如き等の一切の諸法を悉く知る。是れを三藐三仏陀と名づく」と云える是れなり。之に依るに如来は能く四諦の理を覚了し、又一切に於いて知らざることなきが故に此の称号を立てたるを知るべし。又「大般涅槃経巻18」、「大乗義章巻20末」、「玄応音義巻3」、「希麟音義巻4」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)『大智度論巻21下注:十号』参照。
  三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ、samyak-saMbuddha):また三耶三仏壇に作り、正遍知、正遍智、正遍覚、正真道、正等覚、正等正覚、正覚等、正等覚者等と訳す。三藐(samyak)は正の意、三(saM)は遍の意、仏陀(buddha)は知、覚の意にして、正遍知とは即ち真正に遍く一切の法を知るなり。この外に梵語samyaksaMbodhiを三藐三菩提と音訳し、旧に正遍知、正遍知道と訳し、新に正等覚、正等正覚と訳す。菩提(bodhi)は法に就いて言い、仏陀(buddha)は則ち人に就いて名づくるなり。故に三藐三菩提を宜しく謂えば正遍知、正等覚、三藐三仏陀は則ちまさに正遍知者、正等覚者を指すべし。
  正遍知(しょうへんち):一切の法(事物)を正しく遍く知る。
  四諦(したい):また四聖諦(ししょうたい)、四真諦(ししんたい)ともいい、即ち聖者の見る所の真理を指す。(1)苦諦(くたい):三界六趣の苦報は、これを迷いの果と為す。(2)集諦(じったい):貪瞋等の煩悩及び善悪の諸業、この二者はよく三界六趣の苦報を集起する。(3)滅諦(めったい):涅槃は、惑業を滅して生死の苦を離る。真空にして寂滅なる、これを滅と名づけ、悟りの果と為す。(4)道諦(どうたい):八正道は、よく涅槃に通ず、故に道と名づけ悟りの因と為す。因みに八正道とは、次の八分よりなる正しい道を指す、(ⅰ)正見:苦集滅道四諦の理を見て、これを明かす。これ無漏の慧を以って体と為し、八正道の主体なり。(ⅱ)正思惟:すでに四諦の理を見たれば、なお思惟して真智をして増長せしむ、無漏の心所を以って体と為す。(ⅲ)正語:真智を以って口業を修め、一切の非理の語を為さず、無漏の戒を以って体と為す。(ⅳ)正業:真智を以って身の一切の邪業を除き、清浄の身業に住す、無漏の戒を以って体と為す。(ⅴ)正命:清浄なる身口意の三業、正法に順じて活命し、邪活の法を離る、無漏の戒を以って体と為す。(ⅵ)正精進:真智を発用して強いて涅槃の道を修む、無漏の勤を以って体と為す。(ⅶ)正念:真智を以って正道を憶念し、邪念をして無からしむ、無漏の念を以って体と為す。(ⅷ)正定:真智を以って無漏の清浄なる禅定に入る、無漏の定を以って体と為す。<(丁)
問曰。云何正遍知。 問うて曰く、云何が、正しく遍く知る。
問い、
何故、
『正しく!』、
『遍く知る!』と、
『呼ばれるのですか?』。
答曰
 知苦如苦相  知集如集相 
 知滅如滅相  知道如道相
是名三藐三佛陀。
答えて曰く、
苦を知ること苦の相の如く、集を知ること集の相の如く、
滅を知ること滅の相の如く、道を知ること道の相の如し。
是れを三藐三仏陀と名づく。
答え、
『苦』を、
『苦の相のように!』、
『知り!』、
『集』を、
『集の相のように!』、
『知り!』、
『滅』を、
『滅の相のように!』、
『知り!』、
『道』を、
『道の相のように!』、
『知る!』ので、
是れを、
『三藐三仏陀』と、
『呼ぶ!』。
  (く):梵語豆佉duHkhaの訳。巴梨語dukkha、又納佉、諾佉に作る。損悩逼迫の義。即ち身又は身心を逼悩して不悦ならしむる状態を云う。(一)三受の一。非愛の境に対する時、身心に覚受する損悩逼迫を云う。「成唯識論巻5」に、「違の境相を領して、身心を逼迫するを説いて苦受と名づく」と云える是れなり。是れ即ち通じて身心を逼悩するを苦受と名づけたるなり。此の中、身受は五識相応なれば無分別にして、心受は第六識相応なれば有分別なり。(二)五受の一。二十二根の一。非愛の境に対する時、身に覚受する逼迫を云う。「倶舎論巻3」に、「身の不悦を苦と名づく」と云い、「成唯識論巻5」に、「苦と楽と各二に分つことは、身と心とを逼し、悦する相各異なるが故なり。無分別と有分別とに由るが故なり。尤も重きと軽微と差別あるが故なり」と云える是れなり。是れ即ち前の三受の中の苦受は、身心を合して一となしたるも、今は無分別(身)と有分別(心)、及び重(身)と軽(心)との別あるが故に、身心を分別し、心の不悦を憂受と名づくるに対して、唯身の不悦を苦受と称したるなり。又此の苦受に能く身をして損悩せしむる義あるを立てて苦根duHkheendriyaと為す。「倶舎論巻3」に、「身受の内に於いて、能く損悩するものを名づけて苦根と為す」と云える是れなり。蓋し此等は主として非愛の境に対する時、感受する逼悩を苦と名づけたるものなるも、此の他に亦愛境の壊滅、又はそれより分離することに由りて生ずる苦、或いは求むるも得ざることより生ずる苦、或いは諸法の無常遷流を見て感受する苦等あり。故に経論中に苦を分類して三苦、四苦、八苦乃至百十苦等となせり。就中、生老病死を四苦と名づけ、又之に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えて八苦となすの説は、尤も古くより行われ、「中阿含巻7分別聖諦経」、「増一阿含経巻17」、「大般涅槃経巻12」、「大毘婆沙論巻78」等に皆出す所なり。又「舎利弗阿毘曇論巻12」には、老苦、死苦、憂苦、悲苦、苦苦、悩苦、大苦聚の七苦、無明苦、行苦、識苦、名色苦、六入苦、触苦、受苦、愛苦、取苦、有苦、生苦の十一苦を説き、又此の二種を合して凡べて十八苦とせり。又「瑜伽師地論巻46」、「顕揚聖教論巻15」、「倶舎論巻22」等には苦苦、壊苦、行苦の三苦を説けり。苦苦とは非愛の境に対して感受する逼悩を云い、壊苦とは可愛の法の壊する時感ずる逼悩を云い、行苦とは所余の捨受の法の無常遷流を見て感ずる逼悩を云うなり。又「瑜伽師地論巻44」には、別離苦、断壊苦、相続苦、畢竟苦の四苦、「同巻85」には老苦、病苦、死苦、非愛合会、所愛別離、所欲匱乏、愁歎、憂苦の八苦、並びに一切苦、広大苦、一切門苦、邪行苦、流転苦、不随欲苦、違害苦、随逐苦、一切種苦の九苦を説き、又「顕揚聖教論巻15」には、受重擔等苦、位変壊苦、麁重苦、死生苦の四苦、並びに時節変異苦、飢苦、渇苦、威儀屈伸入息出息閉目開目等所引苦の四苦、逼悩苦、匱乏苦、大乗違苦、愛変壊苦、麁重苦の五苦、欲根本苦、愚癡報苦、先業縁苦、現因縁苦、浄業縁苦、不浄業縁苦の六苦を説き、「五苦章句経」には諸天苦、人道苦、畜生苦、餓鬼苦、地獄苦の五苦、「正法念処経巻10」には、飢渇患、愛離過患、彼此国土闘諍過患、退生過患、他毀過患、求他過患、寒熱過患、両人相憎共闘過患、失財過患、所求念中不得過患の十苦、「同巻58」には、中陰苦、住胎苦、出胎苦、求食苦、怨会苦、愛別苦、寒熱苦、病苦、他給使苦、求営作苦、近悪交苦、妻子衰悩苦、飢渇苦、他毀苦、老苦、死苦の十六苦を説き、又「瑜伽師地論巻44」には、愚癡異熟苦、行苦所摂苦、畢竟苦、因苦、生苦、自作逼悩苦、戒衰損苦、見衰損苦、宿因苦、広大苦、那迦苦、善趣所摂苦、一切邪行所生苦、一切流転苦、無智苦、増長苦、随逐苦、受苦、麁重苦の十九苦乃至百十苦の説を出せり。又「仏地経巻5」、「法雲経巻1」、「法蘊足論巻6」、「阿毘達磨発智論巻14」、「大智度論巻19」、「瑜伽師地論巻2、61」、「菩薩地持経巻7」、「阿毘達磨順正理論巻9」、「倶舎論巻4」、「同光記巻3」、「法華経文句巻6」、「大乗義章巻3本、7」、「釈氏要覧巻下」、「大明三蔵法数巻12、33」、「百法問答鈔巻4」等に出づ。<(望)『大智度論巻2下注:苦諦』参照。
  苦諦(くたい):梵語duHkha-satyaの訳。又具に苦聖諦duHkhaarya-satyaに作る。巴梨語dukkha-sacca、四諦の一。即ち三界有漏の果(有情及び器世間)の苦なることの審実にして謬らざるを云う。「増一阿含経巻17」に、「云何が名づけて苦諦と為す。所謂苦諦とは、生苦、老苦、病苦、死苦、憂悲悩苦、怨憎会苦、恩愛別離苦、所欲不得苦なり。要を取りて之を言わば五盛陰苦なり。是れを謂って名づけて苦諦と為す」と云える是れなり。是れ蓋し三界有漏の果は、審実に此等の諸苦を生ずるものなるを示すの意なり。然るに有漏の諸果中、或いは楽を生じ、或いは非苦非楽を生じ、必ずしも悉く皆苦を生ずるものならざるが故に、婆沙等の諸論に於いて種種の説を生ずるに至れり。即ち「大毘婆沙論巻78」に、若し五取蘊皆苦なりと云わば、諸蘊の中に楽無きに非ず、如何ぞ総べて有苦無楽と云うやと問い、答に諸説を出す中、有説は苦多楽少に就いて但だ苦蘊と名づくとし、有説は相待して仮に楽ありと説くも、而も実には諸蘊中全く楽なしというと云えり。此の中、初説は説一切有部の義にして、即ち有部の諸師は楽受の実有を認むるが故に苦多楽少を苦諦の義とす。後説は経部の義にして、実の楽受なしとす。又「成実論巻6」にも、「此の三受は皆苦諦の摂なり、若し実に楽あらば苦諦云何が摂せん。又苦は真実にして楽は虚妄なり、何を以って知るとならば、苦心を観ずるを以って能く諸の結を断ず、楽心には非ず。故に皆苦なることを知る」と云えり。是れ楽受を総じて虚妄とし、以って三界皆苦を成ずるの説なり。又「倶舎論巻22」には、「如何が諸の有漏の行は皆是れ苦諦なりと言う可きや。頌に曰わく、苦は三苦と合するに由る。所応の如く一切の可意と非可意と余の有漏の行の法となり。論じて曰わく、三苦の性あり、一に苦苦の性、二に行苦の性、三に壊苦の性なり。諸の有漏の行は、其の所応の如く此の三種の苦の性と合するが故に、皆是れ苦諦なること亦失あることなし」と云い、「顕揚聖教論巻15」にも、「三受の相差別あるに由るが故に三苦の相を建立す、謂わく苦苦の相、壊苦の相、行苦の相なり。此の相に由るが故に、仏は諸受を説いて皆名づけて苦となす」と云えり。是れ蓋し有漏の非可意の苦受の行は、其の体苦なるが故に苦なり。可意の楽受の行は、壊する時苦を感ずるが故に苦なり。不可意非不可意の捨受の行は、生滅遷流を免れざるを以って、聖者之を観ずる時苦怖の心を生ず、故に亦苦なり。即ち此の三苦の相に由りて一切有漏の法は皆苦なりと称することを得となすの意なり。「大乗阿毘達磨蔵集論巻6」には、此の三苦の相を前引「増一阿含」所説の生老等の諸苦に配し、「謂う所の生苦乃至怨憎会苦は能く苦苦を顕す、苦受に順ずるの法は苦の自相の義なるが故なり。愛別離苦、求不得苦は能く壊苦を顕す、已得未得の順楽受の法は壊の自相の義なるが故なり。略して一切を摂する五取蘊の苦は能く行苦を顕す、不解脱二無常の所随は不安隠の義なるが故なり」と云えり。之に依るに三苦の説は八苦等を総略したるものなりと云うべし。又「顕揚聖教論巻2」には、此の中、生老等の八苦を世俗諦の摂、五取蘊苦を勝義諦の摂とし、又「瑜伽師地論巻55」には順苦楽不苦不楽の諸行の中に於いて、自相差別に由るが故に世俗諦を建立し、彼の共相一味の苦なるに由るが故に勝義諦を建立すと云えり。又「中阿含経巻7」、「長阿含経巻9」、「法蘊足論巻6」、「舎利弗阿毘曇論巻4」、「阿毘達磨順正時論巻57、12」、「成実論巻2、3」、「大乗阿毘達磨集論巻3」、「四諦論巻1」、「瑜伽師地論巻61、67」、「大乗義章巻3本」、「倶舎論光記巻22」等に出づ。<(望)『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
  (じゅう):梵語samudayaの訳。結合、招聚の義。又習とも訳す。吾人を苦海に結び付け、未来の生死を招聚するの意にして、即ち愛煩悩を指す。『大智度論巻2下注:集諦』参照。
  集諦(じったい):梵語samudaya-satyaの訳、具さに集聖諦samudaya-aarya-satyaと云う。巴梨語samudaya-sacca、又習諦、苦習聖諦、或は苦集諦とも名づく。四諦の一。即ち愛等が苦果の因となることの審実にして謬らざるを云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が愛習苦習聖諦なる。謂わく衆生には実に愛の内の六処あり。耳鼻舌身意処なり。中に於いて若し愛あり膩あり染あり著あらば是れを名づけて集となす。諸賢、多聞の聖弟子は、我れかくの如く此の法を知り、かくの如く見、かくの如く了し、かくの如く観じ、かくの如く覚するを知る、是れを愛集苦集聖諦と謂う」と云い、「増一阿含経巻17」に、「彼れ云何が名づけて苦習諦と為すや、謂わく習諦とは愛欲と相応して心恒に染著する、是れを謂って名づけて苦習諦と為す」と云い、「雑阿含経巻13」の偈に、「諸業と愛と無明は、因となりて他世の陰を積む」と云い、又「集異門足論巻6」に、「云何が苦集聖諦なる、答う諸の有漏の因、是れを苦集聖諦と名づく」と云える是れなり。是れ三界の苦果が愛等の因によりて招かるることの審実不虚なるを集諦と名づけたるなり。何物を集諦の自性となすやに関しては諸部の間に異説あり。「大毘婆沙論巻77」に依るに、阿毘達磨の諸論師は広く諸の有漏法の因となるものを名づけて集諦となし、譬喩者は業煩悩を以って集諦となし、分別論者は集と集諦とを区別し、後有を招くの愛は集にして集諦なり、余の愛及び余の有漏の因は集なるも集諦に非ずと説くと云えり。又「成実論巻2四諦品」に、「諸の業煩悩は、是れ後身の因縁なるが故に集諦と名づく」と云えるは、即ち譬喩者の説に同じきを見るべし。此の中、分別論者が唯後有を招くの愛を以って集諦となせるは、前掲「中阿含分別聖諦経」の説に依りしものなり。之に関し「大毘婆沙論巻78」には此の説を以って偏に増勝に約せるものとし、実には諸の有漏法の能く因となるものを皆集諦となすべしとなせり。即ち彼の文に「何が故に世尊は但だ集諦は是れ愛なりと説きて余に非ざる。答う、愛は集聖諦を施設する中に於いて勢用増強なり、余の有漏に非ざるが故に、偏に愛は是れ集なりと説きて余に非ず。然るに有漏法は皆是れ集諦なり、行蘊を施設する中に、思は最勝なるが故に思を説いて余に非ざるも、而も実には相応不相応の行皆是れ行蘊なるが如し。是の故に偏に愛を説いて集諦となす」と云い、又「倶舎論巻22」に、「経の所説は是れ密意の言なり、阿毘達磨は法相に依りて説く。然るに経の中に愛を説いて集と為すは偏に起因を説くなり。伽他の中に業と愛と無明とを皆因と為すと説くは、具さに生と起と及び彼の因因とを説くなり。云何が爾ることを知るや、業を生因と為し、愛を起因と為すことは経の所説なるが故なり」と云える其の意なり。之に依るに説一切有部に於いては唯愛のみを以って集諦の自性となさず、有漏法の果性となるの辺を論じて苦諦となすに対し、有漏法の因性となるの辺を皆集諦の摂となすの意なるを知るべし。又「成唯識論巻9」には集諦に習気集、等起集、未離繋集の三種の別ありとし、「一に習気集は謂わく遍計所執自性の執習気なり、彼を執する習気なれば仮に彼の名を立つ。二に等起集は謂わく煩悩業なり。三に未離繋集は謂わく未だ障を離れざる真如なり」と云えり。是れ偏、依、円の三性に約して集諦を説明せるものにして、此の中の等起集は正しく今の集諦の義に当れりというべし。又「雑阿含経巻16」、「長阿含経巻9」、「舎利弗阿毘曇論巻4」、「法蘊足論巻6」、「中論巻4観四諦品」、「雑阿毘曇心論巻8」、「成実論巻7至巻9」、「瑜伽師地論巻67」、「顕揚聖教論巻15」、「四諦論巻2」、「順正理論巻57」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻29」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」、「大乗義章巻3本」、「摩訶止観巻1之3」等に出づ。<(望)『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
  (めつ):梵語nirodhaの訳。阻止、抑圧、破壊等の義。吾人を苦の根本たる生死に流転せしむる所の一切の煩悩を悉く滅し尽くすの意。『大智度論巻2下注:滅諦』参照。
  滅諦(めったい):梵語nirodha-satyaの訳。巴梨語nirodha-sacca、具に滅聖諦nirodhaarya satyaと云い、又苦滅諦、苦尽諦、苦滅聖諦、或いは愛滅苦滅聖諦とも名づく。四諦の一。即ち欲愛を永断せば苦の滅を得ることの審実にして謬らざるを云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が愛滅苦滅聖諦なる、謂わく衆生には実に愛の内の六処あり、眼処耳鼻舌身意処なり。彼れ若し解脱して染せず著せず、断捨し吐尽して無く、欲滅して止没せば是れを苦滅と名づく。諸賢、多聞の聖弟子は、我れ是の如く此の法を知り、是の如く見、是の如く了し、是の如く視、是の如く覚すと知る。是れを愛滅苦滅聖諦と謂う」と云い、「増一阿含経巻17」に、「彼れ云何が名づけて苦尽諦と為す、謂わゆる尽諦とは欲愛永く尽きて余なく、復た更に造らず。是れを謂いて名づけて苦尽と為す」と云い、「法蘊足論巻6」に、「云何が苦滅聖諦なる。謂わく即ち諸愛と後有の愛と憙俱行の愛と彼彼の喜愛とが余なく永断し、棄捨して変じ、吐尽して離し、染滅して寂静隠没するなり。是の如きは略して苦滅聖諦を説く。(中略)謂わく此の四愛未だ断ぜず、未だ遍知せず、未だ滅せず、未だ吐かざれば、後有の苦果相続して生起す。若し已に断じ、已に遍知し、已に滅し已に吐かば後有の苦果復た生起せず。故に此の永断等を苦滅聖諦と名づく」と云える是れなり。是れ諸愛を断捨することに由りて、後有の苦果を招かざるを苦滅聖諦と名づけたるなり。又「法蘊足論」の連文に、滅諦は即ち涅槃なることを説き、「説くが如き、涅槃は是れ真の苦滅なり、是れ諸の沙門の究竟果なり、故に是の如き断等を滅諦と名づくとは、謂わく是れ涅槃の真実に名づく。是の涅槃は此れを名づけて滅と為す、真実に是れ滅なり。若し仏出世するも、若しは出世せざるも是の如き滅の法は法住法界なり。一切の如来は自然に通達し等覚し、宣説し施設建立し、分別開示して其れをして顕了ならしむ。謂わく此れは是れ涅槃なり。此れは是れ滅なり。此れは是れ涅槃の性なり、是の如き滅の性は是れ真是れ実是れ諦是れ如なり。妄に非ず虚に非ず、倒に非ず異に非ず。故に滅諦と名づく」と云い、又「集異門足論巻6」に、「云何が苦滅聖諦なる。答う、択滅無為なり。是れを苦滅聖諦と名づく」と云い、「大毘婆沙論巻77」にも、阿毘達磨の諸論師は択滅を滅諦となすと云えり。是れ滅諦は択力所得の滅にして、即ち法界常住の無為法なることを明にせるなり。但し滅諦は集の滅尽なりや、苦の滅尽なりやに関し異説あり。「大毘婆沙論巻77」に依るに、譬喩者は業煩悩の尽を以って滅諦となし、分別論者は滅と滅諦とを区別し、後有を招く愛の尽は滅にして亦滅諦なるも、余の愛の尽及び余の有漏の因の尽は唯滅にして滅諦に非ずとし、又妙音及び如是説者は、自相続若しは他相続に堕する五蘊の尽、若しは有情数及び無情数の諸蘊の尽は皆是れ滅にして亦滅諦なりとなすと云えり。此の中、譬喩者及び分別論者は唯集の滅を以って滅諦とし、妙音及び如是論者は広く自他相続等の五蘊、即ち苦集の滅尽を滅諦となせるものなるを見るべし。又「三無性論巻上」に七真如の中の清浄真如を滅諦に配し、「六に清浄如如とは謂わゆる滅諦なり。亦三種あり、一に滅類とは謂わく四沙門果なり、即ち是れ見思の両惑滅尽して生ぜず、是れ其の類なり。二に滅諦とは謂わく不顛倒なり、此の滅類は決定して寂静なり、是れ其の諦の義なり。三に滅聖諦とは謂わく滅は一味にして前と異ならず」と云えるは、惑の滅尽を以って滅にして亦滅諦となすの意にして、即ち上の分別論者と其の義相同じというべし。又「四諦論巻3分別滅諦品」には、苦集の滅と滅諦及び無余涅槃との関係を明し、「若し渇愛の滅を名づけて滅諦と為さば、無余涅槃は則ち滅諦に非ざるべし。渇愛の尽くるは応に集滅と名づくべし。云何ぞ苦滅と説かん。若し渇愛尽くるに由るが故に苦滅せば、渇愛無きの人は即ち応に苦なかるべきも、現見するに苦あり。(中略)汝問う、若し渇愛滅するを名づけて滅諦と為さば無余涅槃は則ち滅諦に非ざるべしとは。答う、余の論師説く、清浄梵行の果なるが故に、故に煩悩の滅を名づけて滅諦と為し、一切仮名の滅を無余涅槃と名づくと。此の論の所説は無余涅槃界は是れ真の滅諦なり、何を以っての故に、此の滅を得んが為に浄梵行を修す。富楼那七車譬経の中に説くが如し、諸の阿羅漢は惑尽きて余なきも、而も老病死寒熱飢渇害縛等の苦は猶尚お未だ免れずと。是の故に無余涅槃界は是れ真の滅諦なり。此の真の滅諦は因尽くるに由るが故に得るなり、故に渇愛の尽は是れ真の滅諦なりと説く。優波及多の道理足論に説く、能く無余涅槃界に至らしむるが故に、故に貪愛尽くるを滅諦と名づくることを得と。然りと雖も有余無余の二涅槃界を皆滅諦と名づく。何を以っての故に、因滅するを名づけて有余と為し、果滅するを名づけて無余と為す。因滅するに由るが故に、故に有の因滅す、灯尽くるが故に光尽くるが如し。是の故に二滅を皆滅諦と名づく」と云えり。是れ愛の滅を有余涅槃とし、苦の滅を無余涅槃となすの意なり。又「成実論巻11滅諦聚初立仮名品」に、「論者言わく、三種の心を滅するを名づけて滅諦と為す、謂わく仮名心法心空心なり。問うて曰わく、云何が此の三心を滅するや。答えて曰わく、仮名心は或いは多聞因縁智を以って滅し、或いは思惟因縁智を以って滅す。法心は煖等の法の中に在り、空智を以って滅す。空心は滅尽定に入りて滅し、若しは無余泥洹断相続の時に入りて滅す」と云えり。是れ仮名等の三心を滅するを滅諦となせるものにして、即ち因縁智を以って我執仮名の心を滅し、空智を以って実法を執する心を滅し、滅尽定に入り若しは無余涅槃に入りて相続を断ずる時、更に空心を滅することを明にせるなり。又「辯中辺論巻中」には三性に約して滅諦を分別し、遍計の自性不生なるを自性滅とし、依他の二取不生なるを二取滅とし、真如の本性寂滅なるを本性滅と名づくと云い、即ち三無性を以って滅諦となせり。又「大毘婆沙論巻78、79」、「大智度論巻19」、「解脱道論巻11」、「成実論巻2四諦品」、「同巻11仮名相品」、「同巻12滅法心品」、「同滅尽品」、「顕揚聖教論巻2」、「倶舎論巻1、22、23」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻8」、「成唯識論巻8」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
  (どう):梵語maargaの訳。巴梨語magga、行履すべき路の意。主として涅槃に趣くべき修行の法則を云う。「大智度論巻27」に、「道は一道に名づく、一向に涅槃に趣くなり」と云い、「倶舎論巻25」に、「道の義は云何ん、謂わく涅槃の路なり。此れに乗じて能く涅槃の城に往くが故なり。或いは復た道とは謂わく求の所依なり。此れに依りて涅槃の果を尋求するが故なり」と云える是れなり。是れ涅槃に趣く路を道とし、又涅槃を求むる所依となるものを道と名づけたるものにして、即ち四諦の中の道諦を指すの意なり。然るに広く道を論ずるに人天三乗等の別あり、「大智度論巻84」に、「道に四種あり、一には人天の中に福楽を受くる道にして、所謂福徳を種うるなり。三乗の道に并せて四と為す。菩薩の法は応に衆生を引導して大道の中に著くべし。若し大道に入るに任えざる者は二乗の中に著け、若し涅槃に入るに任えざる者は人天の福楽の中に著け、涅槃の因縁と作す。世間福楽の道は是れ十善布施の諸の福徳なり、三十七品は是れ二乗の道なり、三十七品及び六波羅蜜は是れ菩薩道なり。菩薩は応に了了に是の諸道を知るべし。菩薩は仏道を以って自ら為にし、人の為に余の三道を以ってす」と云える其の説なり。是れ人天は十善布施を以って其の道として世間の福楽を求め、声聞及び縁覚の二乗は四念処乃至八正道等の三十七菩提分法を其の道となして涅槃を求め、菩薩は三十七菩提分法及び六波羅蜜を其の道となし、以って仏果を求めることを説けるものなり。此の中、十善は世間道なるが故に之を有漏道と名づけ、三乗の法は出世間道なるが故に総じて之を無漏の聖道と名づく。但し三乗の中、声聞乗は若し具に之を言わば、加行道、見道、修道、無学道の別あり。其の中、加行道は唯有漏、見道及び無学道は唯無漏、修道は有漏無漏の二道に通ず。又菩薩の六波羅蜜中にも資糧道依止道等の別あり。「梁訳摂大乗論釈巻12」に、「施等の四波羅蜜は是れ資糧道、定波羅蜜は是れ依止道なり。何を以っての故に、四波羅蜜より生ずる所の善法あり、此の善法は般若波羅蜜を生じ、此の般若波羅蜜は定に依止して生ず。般若波羅蜜は即ち是れ無分別智なり」と云えり。是れ施戒忍進の四波羅蜜を以って般若波羅蜜の資糧道とし、定波羅蜜を其の依止道となすの意なり。又「同巻」の初には、「此の無分別智に三種あり、一に加行無分別智は謂わく尋思等の智なり、即ち是れ道の因なり。二に無分別智は即ち是れ道の正体なり。三に無分別後智は即ち是れ出観の智にして、謂わく道の果なり」と云えり。是れ般若根本無分別智を道の正体とし、四尋思等の加行智を道の因、出観後の智を道の果となせるものなり。又「梁訳摂大乗論釈巻14」に、「真如を成就すれば是れ無垢清浄なり。若し道前と道中に在らば垢累未だ尽きず、未だ成就と名づくることを得ず。道後は垢累已に尽くるが故に成就と名づく」と云えり。此の中、道前とは地前を指し、道中とは初地以上十地の中に無分別智を修習する位を云い、道後は金剛心以上を指すなり。「梁訳摂大乗論釈巻14」に、「真如とは謂わく道後の真如なり。無間の位は即ち仏の金剛心なり、能く最後の微細の無明及び無有生死の苦集二諦を滅するが故に一切の垢を解脱す。此の無垢清浄の真如は是れ常住の法なり」と云い、「法華玄義釈籤巻9」に、「道とは謂わく自行真実の道なり。未だ実の道に契わざれば、真如は纏に在るが故に名づけて理と為す、故に地前を以って名づけて道前と為す。初地已上は已に実理を証し、復た此の理に由りて後の行を成ず、初証已後、究竟已前を並びに道中と名づく。此の地の行に由りて理究竟じて顕わる。已顕の理を名づけて道後と為す。自行を証するの後なるが故に道後と名づく」と云えるは共に仏地に至りて一切の垢を解脱し真如顕現するを道後と名づけたるなり。又「三無性論巻上」には真実を見るの義、煩悩邪悪の法を除くの義、涅槃寂静に至るの義を道の用とし、「大乗阿毘達磨蔵集論巻9」には、観察事道、勤功用道、修治定道、現観方便道、親近現観道、現観道、清浄出離道、依根差別道、浄修三学道、発諸功徳道、遍摂諸道道の十一種の別を立て、広く三十七菩提分法、四種正行、四種法迹、止観、三無漏根等の諸道の差別を類摂し、「大智度論巻27」には更に広く善道悪道、世間道出世間道、定道慧道、有漏道無漏道、学道無学道、向道果道の二種、声聞道縁覚道菩薩道、波羅蜜道方便道浄世界道、初発意道行菩薩道成就衆生道の三種、天道梵道聖道仏道の四種、四諦所断道及び修所断道の五種、六神通道、六波羅蜜道の六種、七覚道、七想道等の七種、八正道、八背捨道等の八種、九次第道、九阿羅漢道等の九種、十無学道、十智道の十種等の名を列挙せり。但し此等は主として菩提涅槃に趣向するの路を道と称したるものなりと雖も、道は元と交通往還の義なるが故に、地獄等に趣向するをも亦道と名づけ、地獄等の三趣を三悪道、人天を加えて五道、更に修羅を加えて六道と呼び、其の他又正道邪道、内道外道、難行道易行道、惑業苦三道等の諸目あり。又「大毘婆沙論巻141」、「大智度論巻26、86」、「仏性論巻3」、「梁訳摂大乗論巻15」、「倶舎論巻17」、「随相論」等に出づ。<(望)『大智度論巻2下注:道諦』三性。
  道諦(どうたい):梵語maarga-satyaの訳。巴梨語magga-saccha、具に道聖諦maargaarya-satyaと云い、又趣苦滅道聖諦duHkha-nirodha-gaaminii-pratipad-aarya-satyam(巴dukkha-nirodha-gaaminii-paTipadaa)、苦滅道聖諦、或いは苦出要諦とも名づく。四諦の一。即ち八正道が苦滅の因たることの審実にして謬らざるを云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が苦滅道聖諦なる、謂わく正見正志正語正業正命正方便正念正定なり」と云い、「増一阿含経巻17」に、「所謂苦出要諦とは、謂わく賢聖の八品道なり」と云える是れなり。是れ主として無漏の八聖道を以って道諦となせるものなり。蓋し道諦は所謂滅苦の道にして、即ち尽智無生智を証する聖道を指すなり。若し広く其の道論ぜば三十七覚支あり、即ち四念住、四正断、四神足、五根、五力、七覚支、八聖道支なり。此等は総じて皆道と名づけらるるものにして、「大智度論巻19」に、「三十七品は涅槃の道なり、衆生の願に随い、衆生の因縁に随って各其の道を得」と云い、「成実論巻2四諦品」に、「道諦とは謂わく三十七助菩提法なり」と云い、「四諦論巻4分別道諦品」に、「復た次ぎに聖道とは、或いは説く三十七助覚なりと。何の法を覚となすや、尽智無生智を以って之を名づけて覚となす。三種の人に由りて三品の覚を成ず、謂わく声聞の菩提、辟支の菩提、無上菩提なり」と云えるは、共に三十七覚支を以って通じて道諦となすの意なり。然るに前引「中阿含」等に唯八聖道を以って道諦となせるは、即ち道と道諦とを区別するの意に出でたるものというべく、「大毘婆沙論巻77」には道諦の自性に関し、諸部の間に異説あることを敍せり。即ち彼の文に依るに、阿毘達磨の諸論師は学無学法を以って道諦となし、譬喩者は奢摩他毘婆舎那を道諦となし、分別論者は有学の八支聖道は是れ道にして亦道諦なるも、余の有学法及び一切の無学法は唯道にして道諦に非ずと云い、妙音並びに如是論者は、自相続若しは他相続に堕する五蘊の対治、若しは有情数及び無情数の諸蘊の対治は、皆是れ道にして亦道諦なりと説くと云えり。此の中、分別論者が唯有学の八聖道を以って道諦となせるは前引「中阿含」等の説に順ずるが如く、「成実論巻12定因品」、「四諦論巻4」等にも亦同説を出せり。又阿毘達磨諸論師が広く学無学の法を以って道諦となせるは、総じて無漏の聖道を取るの意にして、「法蘊足論巻6聖諦品」に、「云何が趣苦滅道聖諦なる、謂わく若しは道、若しは聖行にして、過去未来現在の苦に於いて能く永断し、能く棄捨し、能く変吐し、能く尽くし能く離染し、能く滅し能く寂静にし、能く隠没するなり。此れ復た是れ何ぞ、謂わく八支聖道なり。(中略)是の如き所説の八支聖道及び余の無漏の行を趣苦滅道と名づく」と云うに合するものというべし。之に関し「四諦論巻4」に、「当に知るべし三十七品は是れ八道の内に摂す。復た次ぎに正見及び正念は是れ毘婆舎那分なり。此れに由りて無明滅するが故に慧解脱を果と為す。所余の道は奢摩他分に分属す、此れに由りて欲を離るるが故に心解脱を果と為す。是の故に略説せば道に二分あり、一に毘婆舎那、二に奢摩他なり。復た次ぎに蔵論に説く、正言と業と命との三を戒聚と為す、此の戒あるに由りて瞋の悪根本を拔除す。正覚と精進と正定との三を定聚と為す、此れに由りて貪欲の悪根を拔除す。正見と正念との二を慧聚と為す、此れに由りて無明の悪根を拔除す。此の義を以っての故に道に三分あり。(中略)此の聖道は若し広説せば則ち三十七分あり、若し中説せば則ち八分あり、若し略説せば或いは三分、或いは二分あり」と云えり。此れ広中略に約して諸説の不同を解釈せるものというべし。又唯識家に於いては道諦を以って七真如中の正行真如となす。「三無性論巻上」に、「正行真如とは所謂道諦なり。亦三義あり、一に知道とは謂わく分別性に約す、此の性は無体なり。但だ応に須く滅すべきものあることなきを知るべし、故に知道と名づく。二に除道とは依他性に約す、此の性は有対なり。是の故に応に知るべし是れ煩悩の類なり、所以に須らく滅すべし。故に除道と名づく。三に証得道とは真実性に約す、此の性は是れ二空なるが故なり。応に知るべし、除滅の故に、応得の故に正行如如と名づくるなり」と云える其の説なり。此の中、知道とは又遍知道と名づけ、能く遍計所執の無体なるを知るを云い、除道とは又永断道と名づけ、能く依他起の仮法を断ずるを云い、証得道とは又作証道と名づけ、能く二空の理を証するを云い、即ち三性に約して道諦の相を解説せるものにして、自ら諸部の説と異あるを見るべし。又「大毘婆沙論巻78、79」、「大智度論巻94」、「顕揚聖教論巻2」、「辯中辺論巻中」、「倶舎論巻1、22、26」、「随相論」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻8」、「成唯識論巻8」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
復次知一切諸法實不壞相不增不減。云何名不壞相。心行處滅言語道斷。過諸法如涅槃相不動。以是故名三藐三佛陀。 復た次ぎに、一切の諸法は実に不壊の相にして、不増不減なりと知る。云何が不壊の相と名づくる。心行の処滅して、言語の道断え、諸法を過ぎて、涅槃の相の如く不動なり。是を以っての故に、三藐三仏陀と名づく。
復た次ぎに、
一切の、
『諸の法』は、
実に、
『不壊の相であり!』、
『不増、不減である!』と、
『知るからである!』。
何故、
『不壊の相』と、
『呼ぶのか?』、――
則ち、
『心行()』の、
『処(法境)』が、
『滅して!』、
『語言』の、
『道』が、
『断たれ!』、
諸の、
『法の相』を、
『過ぎて!』、
譬えば、
『涅槃の相のように!』、
『動かない!』。
是の故に、
『仏』を、
『三藐三仏陀』と、
『称する!』。
  心行処滅(しんぎょうじょめつ):梵語citta-pravRtti-sthiti-nirodhaの訳。心行の方途滅するの意。思慮分別の遠く及ばざるを云う。即ち心行の処を、即ちcitta-pravRtti-sthiti(心中の法を生起する場所の義)と為し、之を破滅する(nirodha)に由り、心中に思慮、分別無きことを云う。「大智度論巻1」に、「一切語言の道過ぎ、心行処滅す」と云い、「同巻2」に、「正遍知とは、一切の諸法は実に不壊の相にして不増不減なりと知る。云何が不壊なる。心行処滅し、語言の道過ぎ、諸法は涅槃の相の如く不動なり。故に正遍知と名づく」と云い、「摩訶止観巻5下」に、「法性は清浄にして不合不散なり。言語道断じ、心行処滅す」と云い、又「大乗起信論義記巻中」に、「心縁を離るとは意言の分別に非ざるが故なり。心行処滅し、思慧の境に非ず」と云える皆其の例なり。是れ法性真如の理は語言を以って説くべからざるのみならず、亦思慧を以って分別するも知るべからざるものなるを明にせるなり。言語道断と熟せらるる語にして、思慮心行を以って分別すべき理の永く断えたるを云うなり。「起信論疏筆削記巻7」に、「心行処滅とは、相は是れ心の行処なるを以って、行は猶お縁のごとし。既に相を離るれば心に所縁なし、所縁既に無ければ能縁も亦絶す。無相の真理は何ぞ思慧の及ぶ所ならんや」と云い、心行の行を縁の義に解し、有相の法は心の所縁の処なるに反し、無相の理は心の行処に非ざるが故に心行処滅と称すとなせるも、其の説妥当ならざるが如し。蓋し心行の語は唯思量分別を意味し、又処は彼の「無有是処」の処字の如く、理又は方途と義に解すべきものなるを以って、言語道断に同じく、思慮分別の方途の永く絶えたるを称して心行処滅となせるものというべし。又「法華経玄義巻1下」、「大日経疏巻19」等に出づ。<(望)
  言語道断(ごんごどうだん):梵語sarva-vaada-caryocchedaの訳。言語の道断えたるの意。又語言道断、言語道過、名言道断等とも云う。即ち真理の深妙にして、不可説なることを歎ずる語なり。「維摩経巻下見阿閦仏品」に、「不来不去、不出不入、一切言語道断なり」と云い、「旧華厳経巻11」に、「究竟三世皆悉く無性、言語道断なり」と云い、又「択滅涅槃等は有に非ずして有と説く。語言道断なり」と云い、「大智度論巻1」に、「一切語言の道過ぎ、心行処滅す」と云い、「成唯識論巻12」に、「尋思の路絶え、名言の道断えたり」と云い、「法華経文句巻3下」に、「今此の法の深寂なるを明さんとするに言語道断なり。体不可説の故に止めて之を歎ず」と云い、又「大日経疏巻19」に、「嚩字言語道断心行滅するを以っての故に阿字門に入る」と云える皆其の例なり。又「法華経巻5安楽行品」、「大智度論巻5」、「往生論註巻下」、「法華経玄義巻1下」等に出づ。<(望)
  心行処滅(しんぎょうじょめつ):心念の処滅して思念すべからず。心の動く場所を心行の処といい、色声香味触法の六境及び眼耳鼻舌身意の六根を指す。心行とは心の動き、心は念念に遷流するが故に心行といい、また善悪の所念を心行という。
  言語道断(ごんごどうだん):思量を超え言説すべからざるの意。
復次一切十方諸世界名號。六道所攝眾生名號。眾生先世因緣未來世生處。一切十方眾生心相。諸結使諸善根諸出要。如是等一切諸法悉知。是名三藐三佛陀。 復た次ぎに、一切の十方の諸の世界の名号、六道に摂する所の衆生の名号、衆生の先世の因縁、未来世の生処、一切の十方の衆生の心の相、諸の結使、諸の善根、諸の出要、是の如き等の一切の諸法を悉く知る。是れを三藐三仏陀と名づく。
復た次ぎに、
一切の、
『十方』の、
諸の、
『世界の名号』と、
『六道の所摂(所属)』の、
諸の、
『衆生の名号』と、
『衆生』の、
『先世の因縁』と、
『未来世の生処』と、
一切の、
『十方の衆生』の、
『心相』と、
『諸の結使』と、
『諸の善根』と、
『諸の出要(出世の要道)』と、
是れ等のような、
一切の、
『諸法』を、
『悉く!』、
『知る!』が故に、
是れを、
『三藐三仏陀』と、
『称する!』。
  十方(じっぽう):東西南北、東南、南西、西北、北東、及び上下。
  所摂(しょしょう):所属。
  衆生(しゅじょう):生き物。
  結使(けっし):結、及び使の義。即ち煩悩の人を生死に結縛し、駆使して迷境に流転せしむるものなることを云う。『大智度論巻3下注:結、使』参照。
  善根(ぜんごん):梵語kuzala-muulaの訳。善の根本となるの意。根となりて他の善法を生ずるを云う。『大智度論巻2上注:善根』参照。
  出要(しゅつよう):生死を出離すべき要道の義。
  参考:『長阿含経巻22本縁品』:『爾時。無有男女.尊卑.上下。亦無異名。眾共生世。故名眾生』
  参考:『大智度論巻31』:『是二眾則是法念處。於想行眾法中求我不可得。何以故。是諸法皆從因緣生。悉是作法而不牢固無實我法行。如芭蕉葉葉求之中無有堅相。如遠見野馬無水有水想。但誑惑於眼。如是等觀內法外法內外法。問曰。法是外入攝。云何為內法。答曰。內法名為內心相應想眾行眾。外法名為外心相應想眾行眾及心不相應諸行及無為法。一時等觀名為內外法。復次內法名為六情。外法名為六塵。復次身受心及想眾行眾總觀為法念處。何以故。行者既於想眾行眾及無為法中求我不可得。還於身受心中求亦不可得。如是一切法中若色若非色。若可見若不可見。若有對若無對。若有漏若無漏。若有為若無為。若遠若近。若麤若細。其中求我皆不可得。但五眾和合故強名為眾生。眾生即是我。我不可得故亦無我所。我所不可得故一切諸煩惱皆為衰薄。』



鞞侈遮羅那三般那(明行具足)

復名鞞侈遮羅那三般那。秦言明行具足。云何名明行具足。宿命天眼漏盡。名為三明。 復た鞞侈遮羅那三般那と名づけ、秦に明行具足と言う。云何が、明行具足と名づくる。宿命、天眼、漏尽を名づけて三明と為す。
復た、
『鞞侈遮羅那三般那( vidyaa-caraNa-saMpanna )』と、
『称し!』、
秦には、
『明行具足』と、
『言う!』。
何故、
『明行具足』と、
『称するのか?』、――
『宿命、天眼、漏尽』を、
『三明』と、
『呼ぶからである!』。
  鞞侈遮羅那三般那(びししゃらなさんぱんな):梵名vidyaa-caraNa-saMpanna。巴梨名vijja-caraNa-sampanna、明行足と訳し、明善行、明行成、明行円満、或いは明行と翻ず。即ち天眼宿命漏尽の三明及び身口の行業悉く円満具足して失あることなきを云う。『大智度論巻21下注:十号』参照。
  三明(さんみょう):宿命、天眼、漏尽の三事に於いて通達無礙なる智明を云う。即ち宿命とは、我れ及び衆生の百千万億生に於いて、更(カワ)る所の生と性と食と楽と苦と寿等、並びに此の処に死して余処に生じ、余処に死して此の処に生ぜる行と因と信等の種種の宿命の事に就き、皆悉く了知するを云い、天眼とは、諸の衆生の死時生死、善色悪色、上色下色、或いは身口意三業に悪行を成就せる邪法の因縁に由りて、命終の後悪趣の中に生じ、或いは身口意三業の善行を成就せる正法の因縁に由りて、命終の後善趣の中に生ずる等の事に就き、皆悉く了知するを云い、漏尽とは、如実に四諦の理を証して漏心を解脱し、我が生已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辨じ、後有を受けじと了知するを云う。『大智度論巻16下注:三明』参照。
  三明(さんみょう):阿羅漢の智慧の力で闇を照らす三種の神通力。(1)宿命明、自他の過去世の生死の相を知る。(2)天眼明、自他の未来世に於ける生死の相を知る。(3)漏尽明、現在の苦の相を知り、一切の煩悩を尽くす智慧。『大智度論巻2、巻4』参照
問曰。神通明有何等異。 問うて曰く、神通と明と何等の異か有る。
問い、
『神通』と、
『明』とは、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
  神通(じんづう):仏菩薩の定慧力に依りて示現する無礙自在の妙用を云う。即ち之に六種あり、一には神足、即ち意の如く境界を変現し、又飛行自在なるを云い、二には天眼、即ち色界の四大種所造の眼根の、能く自他及び下地の遠近麁細等の諸色を見るを云い、三には天耳、即ち色界四大種所造の耳根の、能く人天三悪道等の一切遠近の声を聞くを云い、四には他心智、即ち能く他人の心の有垢無垢等を知るを云い、五には宿命智、即ち能く過去世の事を憶念し了知するを云い、六には漏尽智、煩悩及び煩悩の習断滅し、復た更に後有を受くることなしと証知するを云う。『大智度論巻2上注:神通、同巻18下注:六神通』参照。
  六神通(ろくじんつう):六種の神通力。(1)神足通:如意ともいい、これに三種有り、(i)能到:即時に何処にでも行くことが出来る能力。(ii)転変:即座に何にでも姿を変える能力。(iii)聖如意:外の六塵中の愛すべからざる不浄物も、よく観察して浄ならしめ、愛すべき浄物も、よく観察して不浄ならしむ、事物の本質を見る能力。『大智度論巻5』参照。(2)天眼通:世間の全てを見通す能力。(3)天耳通:世間の全てを聞く能力。(4)他心通:他の心を全て知る能力。(5)宿命通:自他の過去世を全て知る能力。(6)漏尽通:煩悩が全くないこと。
答曰。直知過去宿命事。是名通。知過去因緣行業。是名明。直知死此生彼。是名通。知行因緣際會不失。是名明。直盡結使不知更生不生。是名通。若知漏盡更不復生。是名明。是三明大阿羅漢大辟支佛所得。 答えて曰く、直(た)だ過去の宿命の事を知る、是れを通と名づけ、過去の因縁と行業とを知る、是れを明と名づく。直だ此に死に彼に生ずるを知る、是れを通と名づけ、行と因縁の際会して失われざるを知る、是れを明と名づけ、直だ結使を尽くして、更に生ずるか、生ぜざるかを知らず、是れを通と名づけ、若し漏尽きて、更に復た生ぜざるを知らば、是れを明と名づく。是の三明は、大阿羅漢、大辟支仏の得る所なり。
答え、
但だ、         ――宿命通、宿命明――
『過去』の、
『宿命の事(事績)』を、
『知るだけならば!』、
是れを、
『通』と、
『呼び!』、
『過去の因縁』と、
『(現在の)行業』とを、
『知れば!』、
是れを、
『明』と、
『称する!』。
但だ、         ――天眼通、天眼明――
『此に死んで!』、
『彼に生じる!』ことを、
『知るだけならば!』、
是れを、
『通』と、
『呼び!』、
『現在の行業』と、
『過去の因縁』とは、
『出会うことになり!』、
『失われない!』と、
『知れば!』、
是れを、
『明』と、
『称する!』。
但だ、         ――漏尽通、漏尽明――
『結使』が、
『尽きた!』のみで、
更に、
『生じるのか?』、
『生じないのか?』を、
『知らなければ!』、
是れを、
『通』と、
『呼び!』、
『漏』が、
『尽きて!』、
更に、
復た、
『生じることはない!』と、
『知れば!』、
是れを、
『明』と、
『称する!』。
是の、
『三明』は、
『大阿羅漢、大辟支仏』の、
『所得である!』。
  (じき):ただ。但だ。
  際会(さいえ):遇合。適ま其の時に逢う。出会う。
  (さい):[本義]二壁の接合点( joint of two walls )。継ぎ目( joint )、辺縁( edge, border )、時候/時機( occasion )、中間( between )、傍辺/近傍( side, nearby, near )、其の時/適まその時に逢う( on the occasion of )、継ぐ/接合する( joint )、出会う/適逢う( meet )、到達する( arrive )、密着する/接する( close to )。
問曰。若爾者與佛有何等異。 問うて曰く、若し爾らば、仏と、何等の異か有らん。
問い、
若し、
爾うならば、
『阿羅漢、辟支仏』は、
『仏』と、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。彼雖得三明明不滿足。佛悉滿足。是為異。 答えて曰く、彼れは、三明を得と雖も、明は満足せず、仏は、悉く満足したもう。是れを異と為す。
答え、
彼の、
『阿羅漢、辟支仏』は、
『三明を得ても!』、
『明』が、
『満足でなく!』、
『仏』の、
『三明』は、
『悉く!』が、
『満足である!』。
是が、
『異なる!』。
問曰。云何不滿。云何滿。 問うて曰く、云何が、満てざる。云何が、満つる。
問い、
何故、
『満足でないのですか?』。
何故、
『満足なのですか?』。
答曰。諸阿羅漢辟支佛宿命智。知自身及他人亦不能遍。有阿羅漢知一世或二世三世十百千萬劫乃至八萬劫。過是以往不能復知。是故不滿天眼明。未來世亦如是。 答えて曰く、諸の阿羅漢、辟支仏の宿命智は、自身、及び他人を知るも、亦た遍くする能わず。有る阿羅漢は、一世、或いは二世、三世、十、百、千、万劫、乃至八万劫を知るも、是を過ぎて以往は、復た知る能わず。是の故に天眼明を満たさず。未来世も、亦た是の如し。
答え、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏』の、
『宿命智』は、
『自身』と、
『他人』との、
『宿命』を、
『知る!』が、
亦た、
『遍く!』、
『知ることはできない!』。
有る、
『阿羅漢』は、
或は、
『過去』の、
『一世か!』、
『二世か!』、
『三世か!』、
『十、百、千、万劫か!』、
『乃至八万劫』を、
『知る!』が、
是れを、
『過ぎる!』と、
『復た(もう)!』、
『知ることができない!』。
是の故に、
『天眼明』を、
『満足せず!』、
『未来世』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  以往(いおう):より昔。以前。
佛一念中生住滅時。諸結使分生時。如是住時。如是滅時。如是苦法忍苦法智中所斷結使悉覺了。知如是結使解脫。得爾所有為法解脫。得爾所無為法解脫。乃至道比忍。見諦道十五心中。諸聲聞辟支佛所不覺知。時少疾故。 仏は、一念中の生住滅の時、諸の結使の分の、生ずる時は是の如し、住する時は是の如し、滅する時は是の如し、苦法忍、苦法智中に断ずる所の結使を、悉く覚了し、是の如き結使の解脱は、爾所(そこばく)の有為法の解脱を得、爾所の無為法の解脱を得と、乃至道比忍の見諦道十五心中まで知りたもうも、諸の声聞、辟支仏の覚知せざる所なり。時の少しく疾きが故なり。
『仏』は、
『一念』中の、
『生時』、
『住時』、
『滅時』を、
『知り!』、
諸の、
『結使の分』を、
『生時は、是の通りである!』、
『住時は、是の通りである!』、
『滅時は、是の通りである!』と、
『知り!』、
『苦法忍、苦法智』中に、
『断たれる!』、
『結使の生、住、滅時』を、
『悉く覚了して!』、
是のような、
『結使の解脱』は、
爾所(そこばく)を、
『有為法として!』、
『解脱を得る!』ことを、
『知り!』、
爾所を、
『無為法として!』、
『解脱を得る!』ことを、
『知り!』、
乃至、
『道比忍』、
『見諦道十五心』中を、
『結使、解脱の生、住、滅時』を、
『知っていられる!』が、
諸の、
『声聞、辟支仏』の、
『覚知しない所である!』のは、
是の、
『生、住、滅の時』が、
『少しばかり!』、
『疾すぎるからである!』。
  一念(いちねん):極めて短い時間。一瞬。
  生住滅(しょうじゅうめつ):有為法の相を生ずる時、住まる時、滅する時の三種に分類する。『大智度論巻1上注:三有為相』参照。
  苦法忍(くほうにん):梵語duHkhe dharma-jJaana-kSaantiHの訳。具に苦法智忍と称す。八忍の一。無漏の智を以って欲界の苦諦の境を縁じて、之を忍可する位を云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  苦法智(くほうち):梵語duHkhedharma-jJaanamの訳。八智の一。欲界の苦諦を縁じて、之を決了証知する無漏の智を云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  有為法(ういほう):梵語saMskRta-dharmaの訳。為作ある法の義。即ち因縁所成の現象の諸法を云う。『大智度論巻23上注:有為、同巻43上注:無為法』参照。
  無為法(むいほう):梵語asaMskRta-dharmaの訳。為作なき法の意。有為法に対す。即ち生滅為作を離れたる無因無果の法を云う。『大智度論巻23上注:有為、同巻43上注:無為法』参照。
  道比忍(どうひにん):梵語maarge'nvaya-jJaana-kSaantiHの訳。具に道比智忍と称す。八忍の一。無漏の智を以って上二界の道諦の境を縁じて、之を忍可する位を云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  見諦道(けんたいどう):梵語darZana-maargaの訳。或いは見道とも称す。苦諦、集諦、滅諦、道諦に関し、無漏の智を以って欲界の苦諦を忍可し、之を了知するに至れば、次第に無間に、上二界の苦諦を忍可し、了知し、乃至欲界の道諦を忍可し、了知し、上二界の道諦を忍可するまでを十五心を称し、是の如く四諦を見る過程を見諦道と称す。更に最後の十六心を得て、上二界の道諦を了知するに至れば、それ以後の過程を思惟道、或いは修道と称す。『大智度論巻2上注:見道』参照。
  有為法(ういほう):無為法に対する語。因縁所生の事物を指す。常に遷移する世間。三界の事物。
  無為法(むいほう):因縁の所生に非ざる事物を指す。涅槃。絶対不動の真理。
  十六心(じゅうろくしん):欲界の四諦について忍可(認可)印証することを四法忍といい、一に苦法忍、二に集法忍、三に滅法忍、四に道法忍をいう、色界無色界の四諦について忍可印証することを四比忍といい、一に苦比忍、二に集比忍、三に滅比忍、四に道比忍をいう、この八忍を以って正に三界の見惑を断ち、既に見惑を断ちおわらば、観照して明了であるが故に則ち八智という。蓋し八忍とは無間道、八智とは解脱道、忍とは智の因、智とは忍の果ということか。この八忍八智を合して見道の十六心と称し、或いは下の十五心を見道に配し、道比智の一心を修道に配する。比とは彼の上二界の比類(同類)の意であり、また比を類ということあるも、意味は同じ。
  見諦道(けんたいどう):初めて無漏の智を生じて明了に四諦の理を観る位。道とは学人の進取すべき道路を指す。
如是知過去眾生因緣漏盡。未來現在亦如是。是故名佛明行具足。 是の如く、過去の衆生の因縁と、漏の尽くるを知りたまいて、未来、現在も、亦た是の如し。是の故に仏は、明行具足すと名づく。
是のように、
『過去』の、
『衆生』の、
『因縁、漏尽』を、
『知り!』、
『未来、現在』も、
亦た、
是のように、
『知っていられる!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『明行具足』と、
『称するのである!』。
行名身口業。唯佛身口業具足。餘皆有失。是名明行具足。 行を、身口の業と名づく。唯だ仏の身口の業のみ具足し、余は皆、失有り。是れを明行具足すと名づく。
『行』を、
『身、口の業』と、
『呼ぶ!』が、
唯だ、
『仏のみ!』が、
『身、口の業』を、
『具足し!』、
余は、
皆、
『失』が、
『有る!』ので、
是れを、
『明行具足』と、
『称する!』。
  (ぎょう):梵語caryaaの訳。修行、或いは善悪の行業を指す。『大智度論巻11下注:行』参照。
  (ごう):梵語karmanの訳。造作の義。身口意の三業を指す。『大智度論巻23上注:業』参照。



修伽陀(好去好説)

復名修伽陀。修秦言好。伽陀或言去。或言說。是名好去好說。 復た修伽陀と名づく。修を秦に好と言い、伽陀を或いは去と言い、或いは説と言い、是れを好去、好説と名づく。
復た、
『修伽陀( sugata )』と、
『称する!』、――
即ち、
『修( su )』を、
秦に、
『好い!』と、
『言い!』、
『伽陀( gata )』を、
或は、
『去る!』と、
『言い!』、
或は、
『説く!』と、
『言う!』ので、
是れを、
『好去/好説』と、
『称する!』。
  修伽陀(しゅがた):梵語sugata、又修伽多、修伽度、蘇揭多、騷伽陁、騷揭多に作り、好去、好説、善行、善趣、善逝等に訳す。即ち種種甚深の三摩提と無量の妙智慧の中に進入すの意なり。好説とは、仏は諸法の実相の如く説き、法愛に著せずして説き、並びによく弟子の智慧力を観察して、或いは布施を説き、或いは涅槃を説き、乃ち五蘊、十二因縁、四諦等の諸法に至り、而も導引して仏道に入れしむの意なり。十号の中の第一を如来と為し、第五を善逝と為すは、如来は即ち如実の道に乗じてこの娑婆世界に善来し、善逝は即ち如実に去りて彼岸に住し、再び生死の海に退没せずの義なり。この二名を用いて以って諸仏の来往自在の徳を顕示す。『大智度論巻21下注:十号』参照。
好去者。於種種諸深三摩提無量諸大智慧中去。如偈說
 佛一切智為大車 
 八正道行入涅槃
是名好去。
好去とは、種種の諸の深き三摩提、無量の諸の大智慧中に於いて去りたもうなり。偈に説くが如し、
仏は一切智を、大車と為し、
八聖道を行きて、涅槃に入りたもう
是れを好去と名づく。
『好く去る!』とは、――
種種の、
諸の、
『深い三摩提(三昧)』中に、
『去り!』、
無量の、
諸の、
『大智慧』中に、
『去るからである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『一切智』という、
『大車』に、
『乗り!』、
『八正道』という、
『道』を、
『行きながら!』、
『涅槃』の、
『城』に、
『入られる!』、と。
是れを、
『好く去る!』と、
『称する!』。
  三摩提(さんまだい):梵語samaadhiの訳。又三昧、三摩地に作り、等持、正定、定等に訳す。心を一境に定め、住して動かざる状態を云う。『大智度論巻5上注:三昧』参照。
  一切智(いっさいち):梵語sarva-jJaanaの訳。内外一切の法相を了知する智慧を云う。『大智度論巻37上注:一切智』参照。
  八正道(はっしょうどう):八種の正道の意。即ち一に正見samyag-dRSTi、二に正志samyak-saMkalpa、三に正語samyag-vaac、四に正業samyak-karmaanta、五に正命samyag-aajiiva、六に正方便samyag-vyaayaama、七に正念samyak-smRti、八に正定samyak-samaadhiなり。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  三摩提(さんまだい):三摩地(さんまじ)、三昧(さんまい)ともいい、等持と訳す。心が平らかで躍りあがったり沈み込んだりしないことを『等』といい、心が散乱しないことを『持』という。即ち心が平静で散乱しないの義。
好說者。如諸法實相說。不著法愛說。觀弟子智慧力。是人正使一切方便神通智力化之。亦無如之何。是人可度是疾是遲。是人應是處度。是人應說布施。或說戒或說涅槃。是人應說五眾十二因緣四諦等諸法能入道。如是等種種。知弟子智力。而為說法。是名好說。 好説とは、諸法を実相の如く説き、法愛に著せずして説けばなり。弟子の智慧力を観て、是の人は、正(たと)い、一切の方便、神通、智慧の力をして、之を化せしむれど、亦た之を如何ともする無し。是の人は、度す可し。是れは疾かなり。是れは遅し。是の人は、応に是処に度すべし。是の人は、応に布施を説くべし。或いは戒を説くべし。或いは涅槃を説くべし。是の人は、応に五衆、十二因縁、四諦等の諸の法を説けば、能く道に入らしむべし。是の如き等の種種に、弟子の智力を知りて、為に法を説く。是れを好説と名づく。
『好く説く!』とは、――
諸の、
『法』の、
『実相の通り!』に、
『説いて!』、
『法愛』に、
『著することなく!』、
『説くからである!』。
是の、
『人』は、
一切の、
『方便、神通、智力』を、
『使って!』、
『化導しても!』、
之は、
『何うしようも!』、
『無い!』。
是の、
『人』は、
『度すことができる!』、
是れは、
『疾かに!』、
『度すことができる!』、
是れは、
『遅く!』、
『度すことができる!』。
是の、
『人』は、
『是処(適切な状況)』で、
『度さねばならぬ!』。
是の、
『人』は、
『布施』を、
『説かねばならぬ!』、
或は、
『戒』を、
『説かねばならぬ!』、
或は、
『涅槃』を、
『説かねばならぬ!』。
是の、
『人』は、
『五衆、十二因縁、四諦』等の、
諸の、
『法』を、
『説いて!』、
そして、
『道』に、
『入れねばならぬ!』。
是れ等のような、
種種に、
『弟子』の、
『智力を知って!』、
『法』を、
『説く!』。
是れを、
『好く説く!』と、
『称する!』。
  法愛(ほうあい):梵語dharma-saGgaの訳。法に著する/法にしがみつく( sticking to dharma, clinging to dharma )の義、偽善/善、或は正義に執著すること( hypocrisy, devotion to justice or virtue )の意。
  是処(ぜしょ):如何なる場所でも( whatever place )、梵語 yatra, sthaana の訳、何処でも( any place )の義、適切な状況/正しい場所( a proper situation, the right place )の意、非処 asthaana ( the wrong place )に対す。
  五衆(ごしゅ):五種の積聚の意。即ち色受想行識を云う。即ち一に色蘊ruupa-skandha、二に受蘊vedanaa-s.、三に想蘊aMjJaa-s.、四に行蘊saMskaara-s.、五に識蘊vijJaana-s.なり。『大智度論巻1上注:五蘊』参照。
  十二因縁(じゅうにいんねん):無明より老死に至る十二位の因縁を以って苦諦を説くもの。即ち一に無明avidyaa、二に行saMskaara、三に識vijJaana、四に名色naama-ruupa、五に六処SaD-aayatana、六に触sparza、七に受vedanaa、八に愛tRSNaa、九に取upaadaana、十に有bhava、十一に生jaati、十二に老死jaraa-maraNaなり。『大智度論巻3下注:十二因縁』参照。
  四諦(したい):四種の真実にして改まらざる理義を云う。即ち一に苦諦duHkha-satya、二に集諦samudaya-s.、三に滅諦nirodha-s.、四に道諦maagra-s.なり。『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
  法愛(ほうあい):愛には二種あり、一は欲愛、凡夫が何にでも愛著すること。二は法愛、菩薩が五戒、十善、三学、六度などの善法に、本来の目的を忘れて執著すること。
  (じゃく):じゃくす。つく。心が事物に纏綿として離れないこと。執著。
  (け):けす。悪から善に変化するよう導く。化導。
  (ど):どす。わたす。悪の岸から善の岸に渡す。
  五衆(ごしゅ):五蘊(ごうん)、五陰(ごおん)ともいう。衆は塞揵陀(そくけんだ、skandha)の訳語。旧には陰(おん)と訳し、また衆(しゅ)と訳し、新には蘊(うん、堆積)と訳す。陰とは積集の義。衆とは衆多のものが聚に和すの義、また蘊の義である。これは数多の積集なる有為法の自性を顕せば、有為法の用を作すも、純一の法無く、或いは類を同じうし、或いは類を異にするも、必ず多数の小分の相い集まりて、その用を作すが故に、則ち概ねこれを陰、或いは蘊という(陰とは蔭覆の義)。大別すればこれに五法あり。(1)色衆:総じて五根(眼耳鼻舌身)五境(色声香味触)等を兼ねる有形の物質。(2)受衆:境に対して事物を承受する心の作用。(3)想衆:境に対して事物を想像する心の作用。(4)行衆:その他、境に対しての貪瞋等善悪一切に関する心の作用。(5)識衆:境に対し事物を了別識知する心の作用。一衆生中にこれを求むれば、則ち色衆の一は即ち身、他の四衆は即ち心である。<(丁)
  十二因縁(じゅうにいんねん):本来は空であるべき人が、如何にして我は実在するという誤った自覚を得るのか、との問いに対する答え。人は(1)無明(むみょう、愚昧、盲目的無智)という素因を中心にして、(2)行(ぎょう、身の活動)と、(3)識(しき、心の活動)とを得て、(4)名色(みょうしき、身心)となり、(5)六処(ろくしょ、眼耳鼻舌身意)を具えて、(6)触(そく、接触)する事物を、(7)受(じゅ、感受)して、(8)愛(あい、愛憎)を生じ、(9)取(しゅ、執著)することにより、(10)有(う、生存、彼我の区別)を自覚し、(11)生(しょう、生命、生活)を自覚し、(12)老死(ろうし、生を失う苦しみ)を自覚する。



路迦憊(知世間)

復名路迦憊。路迦秦言世。憊名知。是名知世間。 復た路迦憊と名づく。路迦を秦に世と言い、憊を知と名づけて、是れを知世間と名づく。
復た、
『路迦憊( lokavid )』と、
『称する!』、――
則ち、
『路迦( loka )』を、
『世(世間/世界)』と、
『称し!』、
『憊( vid )』を、
『知る!』と、
『称して!』、
是れを、
『知世間』と、
『呼ぶ!』。
  路迦憊(ろかび):梵語loka-vid。世間を知るの義。世間解、知世間と訳す。即ち衆生非衆生の二種の世間を知り、世間及び世間の因を知り、世間の滅及び出世間の道を知るを云う。『大智度論巻21下注:十号』参照。
  世間(せけん):梵語lokaの訳。又laukikaに作る。毀壊すべきものの意。略して世と名づく。即ち毀壊すべく、又は対治せらるべき有為有漏の現象を云う。『大智度論巻23上注:世間』参照。
  参考:『大智度論巻70』:『佛言四種邪見皆緣五眾。但於五眾謬計為神。神及世間者。世間有三種。一者五眾世間。二者眾生世間。三者國土世間。此中說二種世間。五眾世間國土世間。眾生世間即是神。於世間相中亦有四種邪見。問曰。神從本已來無故應錯。世間是有云何同神邪見。答曰。但破於世間起常無常相不破世間。譬如無目人得蛇以為瓔珞有目人語是蛇非是瓔珞。佛破世間常顛倒不破世間。何以故現見無常故亦不得言無無常。罪福不失故因過去事有所作故常無常二俱有過故非常非無常。著世間過故。‥‥』
  世間(せけん):路迦(ろか、loka)の訳語なり、即ち毀壊の義。また梵語laukikaに作りて即ち世俗、凡俗の義なり。略して世という。煩悩に纏縛される三界及び有為有漏の諸法の一切の現象を指す。また『世』に遷流の義有り、『間』は間隔の義有り、故に世界の一語と同義なり。世間の分類に関しては二種、三種の別あり、『倶舎論巻8』等によれば、二種の世間を出だして、(1)有常世間:また衆生世間、有情界に作りて一切の有情の衆生を指す、(2)器世間:また物器世間、器世界、器界、器に作りて、有情の居住する山河大地、国土等を指す。また『大智度論巻70』等によれば、三種を出だし、即ち(1)衆生世間:また仮名世間に作る。仮名とは十界、五陰等の諸法の上に於いて仮りに名字を立てて各各不同なり、(2)五陰世間:また五衆世間、五蘊世間に作り、色、受、想、行、識等五陰の形成する所の世間を指す、(3)国土世間:器世間を指し、即ち衆生所依の境界なり。<(佛)
問曰。云何知世間。 問うて曰く、云何が、世間を知る。
問い、
何のように、
『世間』を、
『知るのですか?』。
答曰。知二種世間。一眾生二非眾生及如實相。知世間世間因知世間滅出世間道。 答えて曰く、二種の世間の、一には衆生、二には衆生に非ざるを知る。如実の相に及ぶまで、世間と、世間の因とを知り、世間の滅と、出世間の道とを知る。
答え、
『二種』の、
『世間を知る!』、――
一には、
『衆生の世間』と、
二には、
『非衆生の世間』とを、
『世間』の、
『如実の相』に、
『至るまで!』、
『皆知り!』、
『世間()』と、
『世間の因()』と、
『世間の滅()』と、
『出世間の道()』とを、
『悉く!』、
『知ることである!』。
  衆生(しゅじょう):梵語禅頭jantuの訳。又梵語僕呼繕那bahu-janaの訳。又梵語社伽jagatの訳。共に生存するものの義なり。「玄応音義巻1」に、「禅頭は是戦の反。梵に禅豆と言い、或いは禅兜と言い、或いは繕都と言う。此に訳して衆生と云うなり」と云い、又「同巻23」に、「梵は薩埵と言う、薩は此に有と云い、埵は此に情と言う。故に有情と云う。衆生と言うは梵本を案ずるに、僕呼膳那は此に衆生と云う。語名別なり」と云い、又「倶舎論宝疏巻1」に、「衆生とは即ち有情の異名なり。梵に薩埵と名づけ、此に有情と名づく。梵に社伽と名づけ、此に衆生と名づく。即ち有情と体一にして名異なるのみ」と云い、又「新旧両訳倶舎論巻1」に共にjagatを訳して衆生となせる即ち是れなり。之に依るに衆生の原語は元と一定ならざるを見るべし。又普通に有情は薩埵sattvaの訳なりとし、之を衆生と区別するも、「大智度論巻5」に、「薩埵を衆生と名づく」と云い、「証契大乗経巻上」の註に、「梵音薩埵は旧に訳して衆生と為し、或いは有情と為す」と云い、又「羅什訳阿弥陀経」に衆生、「玄奘訳称讃浄土仏摂受経」に有情とあるも、之に相当する梵文にはsattvaとし、「新旧両訳大乗入楞伽経巻1」に共に衆生とあるも、之に相当する梵文にsattvaとなせるに依れば、薩埵sattvaは亦衆生とも訳せられたるを知るべし。衆生の語議に関しては多説あり。「長阿含経巻22世本縁品」には、「爾の時、男女尊卑上下あることなく、亦異名なし。衆と共に世に生ずるが故に衆生と名づく」と云えり。是れ衆と共に生ずるを衆生の義となすの説なり。又「往生論註巻上」に、「有る論師は汎く衆生の名義を解すらく、其の三有を輪転して、衆多の生死を受くるを以っての故に衆生と名づくと」と云い、「倶舎論光記巻1」に、「衆多の生死を受くるが故に衆生と名づく」と云えるは、即ち衆多の生死を受くるが故に衆生と名づくるの説なり。又「大智度論巻31」に、「但だ五衆和合の故に強いて名づけて衆生と為す」と云い、「大乗同性経巻上」に、「衆生とは衆縁和合するを名づけて衆生と曰う。所謂地と水と火と風と空と識と名色と六入との因縁より生ず」と云えるは、五蘊等の衆縁仮に和合して生ずるを衆生の義となすの意なり。又「不増不減経」に、「即ち此の法身は恒沙に過ぐる無辺の煩悩に纏せられ、無始世より来た、世間の波浪に随順して漂流し、生死に往来するを名づけて衆生と為す」と云えり。是れ法身が煩悩に纏せられて生死に往来するを衆生と名づけたるなり。又「往生論註記巻3」に、「慈行鈔巻1」の説を引きて、衆生の義を明すに五教の不同ありとし、「若し諸教に依らば総じて五解あり。一に蔵始の二教には五蘊相集まるを衆と曰い、縁に依りて起るを生と曰う。二に真妄共に聚るを衆と曰い、非有似有を生と曰う。如来蔵に依りて生滅の心あるなり。三に衆は謂わく四衍の衆、生は謂わく四種の生なり。上の二は終教に依る。四に諸法の暫く聚るを衆と曰い、生無生の相を生と曰う。頓教の衆生は如に即して不壊の相なるが故なり。五に円教には一即ち是れ多なるを衆と曰い、理の事を礙えざるを生と曰う。所謂地水火風空識名色六入の因縁より生ず。衆生とは無明を本となし、愛に依りて住し、業を以って因と為す」と云えり。是れ上の「大智度論」等の所説を蔵始二教、「不増不減経」の所説を終教、「大乗同性経」の所説を円教の義となすの意なるが如し。蓋し普通には無明煩悩を有し、生死に流転するものを衆生と名づくと雖も、若し広く之を言わば、仏及び菩薩等も亦衆生に摂せらるるなり。「旧華厳経巻10夜摩天宮菩薩説偈品」に、「心仏衆生の三法を挙ぐる如き、即ち衆生法の中に菩薩等を摂するものなるを見るべく、又「大智度論巻2」に、「諸法の中に涅槃の無上なるが如く、衆生の中に仏亦無上なり」と云い、「往生論註巻上」に、「今仏菩薩を名づけて衆生と為す、是の義云何、答えて曰わく、経に言わく、一法に無量の名あり、一名に無量の義ありと。衆多の生死を受くるを以っての故に名づけて衆生と為すが如きは、此れは是れ小乗家に釈する三界の中の衆生の名義にして、大乗家の衆生の名義には非ず。大乗家に言う所の衆生とは、不増不減経に言うが如し。(中略)是の故に無生無滅は是れ衆生の義なり」と云い、又「摩訶止観巻5上」に、「五陰を攬るを通じて衆生と称す。衆生同じからず、三途の陰を攬るは罪苦の衆生、人天の陰を攬るは受楽の衆生、無漏の陰を攬るは真聖の衆生、慈悲の陰を攬るは大士の衆生、常住の陰を攬るは尊極の衆生なり」と云える如き、皆広く仏菩薩等を通じて衆生と名づけたるの例なり。又含霊、含識、群萌、群生等は衆生の異名として時に用いらる。又「大智度論巻20、47」、「仏性論巻2」、「仏地経論巻5」、「大乗起信論」、「同義記巻上」、「釈摩訶衍論巻1」、「翻訳名義集巻5」、「釈氏要覧巻中」等に出づ。<(望)
復次知世間。非如世俗知。亦非外道知。知世間無常故苦。苦故無我。 復た次ぎに、世間を知ること、世俗の如き知に非ず、亦た外道の知にも非ず、世間は、無常なるが故に苦なり、苦なるが故に無我なりと知る。
復た次ぎに、
『世間を知る!』とは、
『世俗のように!』、
『知ることでもなく!』、
亦た、
『外道のように!』、
『知ることでもない!』。
『世間』は、
『無常である!』が故に、
『苦である!』と、
『知り!』、
『苦である!』が故に、
『無我である!』と、
『知ることである!』。
復次知世間相非有常非無常。非有邊非無邊。非去非不去。如是相亦不著。清淨常不壞相如虛空。是名知世間。 復た次ぎに、世間の相は、有常に非ず、無常に非ず、有辺に非ず、無辺に非ず、去るに非ず、去らざるに非ずと知り、是の如きの相にも、亦た著したまわざれば、清浄、常、不壊の相なること虚空の如し。是れを知世間と名づく。
復た次ぎに、
『世間の相』を、
『有常でもなく!』、
『無常でもない!』と、
『知り!』、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』と、
『知り!』、
『去るでもなく!』、
『去らないでもない!』と、
『知り!』、
是のような、
『相』にも、
亦た、
『著さず!』、
『世間』は、
『清浄、常、不壊相であり!』、
『虚空のようである!』と、
『知る!』、
是れを、
『世間を知る!』と、
『称する!』。
  参考:『大智度論巻70』:『外道說神有二種。一者常二者無常。若計神常者常修福德後受果報故。或由行道故。神得解脫。若謂神無常者為今世名利故有所作。常無常者。有人謂神。有二種。一者細微常住。二者現有所作。現有所作者。身死時無常。細神是常。有人言神非常非無常。常無常中俱有過。若神無常即無罪福。若常亦無罪福。何以故若常則苦樂不異。譬如虛空雨不能濕風日不能乾。若無常則苦樂變異。譬如風雨在牛皮中則爛壞。以我心故說必有神。但非常非無常。』
  参考:『大智度論巻70』:『世間有邊者。有人求世間根本不得其始。不得其始則無中無後。若無初中後則無世間。是故世間應有始始即是邊。得禪者宿命智力乃見八萬劫事。過是已往不復能知。‥‥‥‥復次有人說。世間初邊名微塵。微塵常法不可破不可燒不可爛不可壞。以微細故但待罪福因緣和合故有身。‥‥‥‥有人言天主即是世界始。造作吉凶禍福天地萬物。此法滅時天還攝取。如是邪因是世界邊。有人說眾生世世受苦樂盡自到邊。譬如山上投縷丸縷盡自止。受罪受福會歸於盡。精進懈怠無異。有人說國土世間八方有邊。唯上下無邊。有人說下至十八地獄上至有頂。上下有邊八方無邊。如是種種說世界邊。有人說眾生世間有邊。如說神在體中如芥子如米。或言一寸。大人則神大小人則神小。說神是色法有分故言神有邊。無邊者有人說神遍滿虛空無處不有。得身處能覺苦樂。是名神無邊。有人言國土世間無始。若有始則無因緣。後亦無窮常受身。是則破涅槃是名無邊。復次說國土世間十方無邊。如是等說神世間國土世間無邊有邊者。有人言。神世間無邊國土世間有邊。或言神世間有邊。國土世間無邊。如上說神是色故。或言上下有邊八方無邊。如是總上二法名為有邊無邊世間。非有邊非無邊者。有人見世間有邊有過無邊亦有過故不說有邊不說無邊。著非有邊非無邊。以為世間實。』
  参考:『大智度論巻70』:『神即是身者。有人言身即是神。所以者何。分折此身求神不可得故。復次受好醜苦樂皆是身。是故言身即是神。身異神異者。有人言。神微細五情所不得。亦非凡夫人所見。攝心清淨得禪定人乃能得見。是故言身異神異。復次若身即是神。身滅神亦滅。是邪見說身異神異。身滅神常在。是邊見。死後有如去者。問曰。先說常無常等。即是後世或有或無。今何以別說如去四句。答曰。上總說一切世間常非常。後世有無事要故別說。如去者如人來此間生。去至後世亦如是。有人言先世無所從來。滅亦無所去。有人言身神和合為人。死後神去身不去。是名如去不如去。非有如去非無如去者。見去不去有失故說非去非不去。是人不能捨神而著非去非不去。』
  参考:『大智度論巻43』:『舍利弗。復問須菩提。云何是色性。云何是受想行識性。云何乃至實際性。須菩提言。無所有是色性。無所有是受想行識性。乃至無所有是實際性。舍利弗。以是因緣故。當知色離色性。受想行識離識性。乃至實際離實際性。舍利弗。色亦離色相。受想行識亦離識相。乃至實際亦離實際相。相亦離相。性亦離性。舍利弗。問須菩提。菩薩摩訶薩若如是學。得成就薩婆若。須菩提言。如是如是。舍利弗。若菩薩摩訶薩如是學得成就薩婆若。何以故。以諸法不生不成就故。舍利弗。問須菩提。何因緣故諸法不生不成就。須菩提言。色色空是色生成就不可得。受想行識識空是識生成就不可得。乃至實際實際空是實際生成就不可得。舍利弗。菩薩摩訶薩如是學漸近薩婆若。漸得身清淨心清淨相清淨。漸得身清淨心清淨相清淨故。是菩薩不生染心不生瞋心不生癡心。不生憍慢心不生慳貪心不生邪見心。是菩薩不生染心乃至不生邪見心故。終不生母人腹中。常得化生。從一佛國至一佛國。成就眾生淨佛世界。乃至阿耨多羅三藐三菩提。終不離諸佛。舍利弗。菩薩摩訶薩當作是行般若波羅蜜。當作是學般若波羅蜜』
  有常(うじょう)無常(むじょう):霊魂の常住不変を、常、有常といい、遷流変易して不常住なるを無常といい、共に邪見である。
  有辺(うへん)無辺(むへん):世間の時間的空間的辺際が有るを有辺といい、辺際がないを無辺という。
  (こ)不去(ふこ):霊魂が身または世間を去ることを去といい、去らないことを不去という。
  清浄(しょうじょう):悪行に因って致す所の過失煩悩を遠離すること。通常、身口意三業に関する三種の清浄についていう。



阿耨多羅(無上)

復名阿耨多羅。秦言無上。云何無上。涅槃法無上。佛自知是涅槃不從他聞。亦將導眾生令至涅槃。如諸法中涅槃無上。眾生中佛亦無上。 復た阿耨多羅と名づけ、秦に無上と言う。云何が、無上なる。涅槃の法は、無上なり。仏は自ら、是の涅槃を知りて、他より聞きたまわず。亦た衆生を将導して、涅槃に至らしむれば、諸法の中に涅槃無上なるが如く、衆生中には仏亦た無上なればなり。
復た、
『阿耨多羅( anuttara )』と、
『称する!』、――
秦に、
『無上』と、
『言う!』。
何故、
『無上』と、
『言うのか?』、――
『涅槃』という、
『法』は、
『無上だからである!』。
『仏』は、
自ら、
是れが、
『涅槃だ!』と、
『知られた!』が、
他より、
『聞かれたのではない!』。
亦た、
『衆生』を、
『将導(導引)して!』、
『涅槃』に、
『至らせられる!』が、
諸の、
『法』中には、
『涅槃』が、
『無上であるように!』、
『衆生』中には、
『仏』が、
『無上だからである!』。
  阿耨多羅(あのくたら):梵語anuttaara。無上、或いは無上丈夫と訳す。自ら涅槃の法を知り、他に従って聞かず。即ち諸法の中に涅槃は無上なるが如く、仏は衆生の中に於いて最上第一なるを云う。
  将導(しょうどう):ひきいみちびく。引率。
復次持戒禪定智慧。教化眾生。一切無有與等者。何況能過。故言無上。 復た次ぎに、持戒、禅定、智慧もて、衆生を教化するに、一切の与(とも)に等しき者の有ること無し。何に況んや、能く過ぐるをや。故に無上と言う。
復た次ぎに、
『持戒、禅定、智慧』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『教化される!』が、
一切に、
『仏に等しい!』者は、
『無く!』、
況して、
『仏を過ぎる!』者など、
『有るはずがない!』。
是の故に、
『仏は無上である!』と、
『言う!』。
復次阿名無。耨多羅名答。一切外道法可答可破。非實非清淨故。佛法不可答不可破。出一切語言道。亦實清淨故。以是故名無答。 復た次ぎに、阿を無と名づけ、耨多羅を答と名づく。一切の外道の法は、答うべく、破るべし。実に非ず、清浄に非ざるが故なり。仏の法は、答うべからず、破るべからず。一切の語言の道を出でて、復た実にして、清浄なるが故なり。是を以っての故に、無答と名づく。
復た次ぎに、
『阿( an )』を、
『無』と、
『称し!』、
『耨多羅( uttara )』を、
『答』と、
『称する!』、
一切の、
『外道の法』には、
『答えることができ!』、
『破ることができる!』が、
『外道の法』は、
『実でなく!』、
『清浄でないからである!』。
『仏』の、
『法』には、
『答えることもできず!』、
『破ることもできない!』、
一切の、
『語言』という、
『道』を、
『出ており!』、
亦た、
『実であり!』、
『清浄である!』が故に、
是の故に、
『無答』と、
『称する!』。



富楼沙曇藐婆羅提(丈夫調御師)

復名富樓沙曇藐婆羅提。富樓沙。秦言丈夫。曇藐言可化。婆羅提言調御師。是名可化丈夫調御師。 復た富楼沙曇藐婆羅提と名づく。富楼沙を秦に丈夫と言い、曇藐を可化と言い、婆羅提を調御師と言い、是れを可化丈夫調御師と名づく。
復た、
『富楼沙曇藐婆羅提( puruSadamyasaarathi )』と、
『称する!』、――
則ち、
『富楼沙( puruSa )』を、
秦に、
『丈夫』と、
『言い!』、
『曇藐( damyak )』を、
秦に、
『化導される!』と、
『言い!』、
『婆羅提( saarathi )』を、
秦に、
『調御の師』と、
『言う!』ので、
是れを、
『化導される!』、
『丈夫』の、
『調御の師』と、
『称するのである!』。
  富楼沙曇藐婆羅提(ふるしゃどんみゃくばらだい):梵語puruSadamyasaarathi。調御丈夫と訳す。意は一切の上部を化導すべき調御師を指す。『大智度論巻2』に曰く、富楼沙(puruSa)を秦に丈夫と言い、曇藐(damyak)を可化と言い、婆羅提(疑うらく娑に作るべし、saarathi)を調御師と言い、これを可化丈夫調御師と名づく。仏の大慈、大悲、大智を以っての故に、ある時は軟美の語、ある時は苦切の語、ある時は雑語、これを以って調御して道を失わしめず、(中略)仏の人を成ずるには三種の道を以って常に道に随いて失わしめず、火の自相を捨てずして乃ち滅に至るが如く、仏の人をして善法を得しむることも、またかくの如く死に至るまで捨てず。ここを以っての故に仏を可化丈夫調御師と名づく、と。<(望)
  可化(かけ):なんとか化導できそうの意。
  丈夫(じょうぶ):立派な男。
  調御師(ちょうごし):調教師。
佛以大慈大悲大智故。有時軟美語。有時苦切語。有時雜語。以此調御令不失道。如偈說
 佛法為車弟子馬 
 實法寶主佛調御 
 若馬出道失正轍 
 如是當治令調伏 
 若小不調輕法治 
 好善成立為上道 
 若不可治便棄捨 
 以是調御為無上
仏は、大慈、大悲、大智を以っての故に、有る時には、軟美の語、有る時には、苦切の語、有る時には、雑(まじ)りたる語、此れを以って調御し、道を失せざらしむ。偈に説くが如し、
仏法を車と為さば、弟子は馬なり
実に法宝の主たる仏、調御したもう
若し馬道を出でて、正轍を失わば
是の如きは当に治めて、調伏せしめ
若し小しく調わざれば、軽法もて治め
好善として成立すれば、道に上らせ
若し治むべからざれば、便ち棄捨す
是の調御を以って、無上と為す
『仏』は、
『大慈、大悲、大智を用いる!故に、
有る時には、
『軟美(優しい!)』の、
『語』を、
『用いて!』、
有る時には、
『苦切(厳しい!)』の、
『語』を、
『用いて!』、
有る時には、
『雑った!』、
『語』を、
『用いて!』、
『人を調御して!』、
『道』を、
『失わせない!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『仏』の、
『法の車』を、
『弟子の馬』に、
『牽かせて!』、
実に、
『法宝の主である!』、
『仏』が、
『調御される!』。
若し、
『馬』が、
『道を出て!』、
『正轍(わだち)』を、
『失えば!』、
『調御し!』、
『治めて!』、
『調伏し!』、
若し、
『馬』が、
『小し!』、
『不調ならば!』、
『軽い!』、
『法』で、
『治め!』、
『好善として(うまく)!』、
『成立(自立)すれば!』、
『道』に、
『上らせ!』、
若し、
『治められなければ!』、
『あっさり!』、
『棄捨する!』。
是のような、
『調御』を、
『無上』と、
『称する!』。
  軟美語(なんみのご):優しく快い言葉。
  苦切語(くせつのご):苦く厳しい言葉。
  雑語(ぞうご):軟美と苦切とを雑えた言葉。
  法宝(ほうぼう):仏所説の法を宝に喩える。
  調御(ちょうご):馬、或いは車を調えて御すこと。
  正轍(しょうてつ):正しいわだち。
  調伏(ちょうぶく):調い屈伏する。
復次調御師有五種。初父母兄姊親里中官法下師法。今世三種法治。後世閻羅王治。 復た次ぎに、調御師には五種有り。初の父母、兄姉、親里、中の官の法、下の師の法、今世には三種の法もて治し、後世には閻羅王治す。
復た次ぎに、
『調御の師』には、
『五種』有り、
初は、
『父母、兄弟、親里(親戚)であり!』、
中は、
『官(役所)の法であり』、
下は、
『師の法である!』が、
『今世』には、
『初、中、下』の、
『三種の法』で、
『治め!』、
『後世』には、
『閻羅(閻魔)王』が、
『治める!』。
  親里(しんり):近所の人。周代の行政区画による、二十五戸。五家を隣と為し五隣を里と為す。
  官法(かんぽう):国の法律。
  師法(しほう):婆羅門師の法。
  閻羅王(えんらおう):地獄を司り罪人を治す。『大智度論巻2下注:閻魔王』参照。
  閻魔王(えんまおう):閻魔yamaは梵名。巴梨名同じ。又夜摩、焔摩、琰摩、剡摩、燄摩、剡魔、琰魔、炎摩、瑫摩、閻摩に作る。双、双世、遮止、静息、或いは縛、深悪勝業、可怖衆、深能静息、又は平等と訳す。王は梵語に邏闍raajaと云うを以って、又閻摩羅社、琰摩邏闍、焔魔邏闍、閻魔羅、閻魔羅王、琰魔王、閻羅王、閻王魔に作り、略して閻羅、閻邏、焔羅、剡王、閻王とも名づけ、或いは焔魔天、又は死王とも称す。鬼世界の始祖又は総主なりと信ぜられたる鬼神なり。諸訳語中、双とは兄妹共に地獄の王となり、兄は男事を治し、妹は女事を治するが故なりとし、双世とは苦楽並べ受くるの意、遮止とは罪人を遮止して更に悪を造らしめざるの意、静息とは罪人が王の示語に依りて己れの罪を知り、以って静息するの意、又平等とは業鏡平等にして、其の罪自ら彰るるの意なりと称せらる。蓋し閻魔は元と吠陀時代の夜摩yama神にして、日神vivasvatと速疾姫saraNyuuとの間の子なりとせられ、仍りて又父の名を取りて之をvaivasvata(vivasvaの子の義)と称し、又其の妹のyamiiと倶生神なるの故を以って双yamaとも呼ばれたり。「Zend Avesta」に依れば、人間の祖なるviivanhvantは始めて蘇摩酒を作りて神を祈り、其の功徳に由りてyimaと称する一子を得たりと云えり。是れ即ち亦今の夜摩なるべし。故に此の神の起原は甚だ古きものならんも、其の発達は吠陀の比較的遅き時代に在りしものの如く、varuNa、bRpaspati、agniの三神と密接なる関係を有し、殊にagniは夜摩の愛友と称せられたり。梨倶吠陀中には此の神に関する讃歌及びyamiiとの対話あり。其の中にyamiiは夜摩を指して唯一の死すべきものeka-martyaなりと呼び、又夜摩は死を欲し、自ら其の身を捨てて他界に入り、衆生の為に冥界への道を発見し、人類最初の死者となれることを記せり。さればyamaを我等の父祖と云い、又mRtyu即ち死と呼び、或いはpitR raaja即ち死者の王と称するが如きは、其の由来する所遠しというべし。又此の時代の夜摩の住処は、天上界の最も遠き所に在りて、常に音楽の奏せらるる楽土なりとし、死者は彼の所に至りて、最初に夜摩とvaruNaとに対面するものとせらる。又夜摩の使者にはsaarameyaと名づくる二匹の狗あり、四目にして幅広き鼻を有し、体は褐色にして斑点あり。能く死者の道を守り、又人間界を徘徊して、死すべき者を嗅ぎ出し、之を守りて他界に導くものとなせり。阿達婆吠陀に於いては、此の外に使者として鳩、鵂鶹等を挙げ、且つ死及び睡眠も夜摩の派遣する所となせり。是の如く吠陀時代に於いては、夜摩の住処を天上界に在りとし、之を楽土となせしが、後下界に転じてyama-puraと称せられ、専ら死者の生前に於ける行為の記録(agra-saMdhaanaaと名づくと)に依りて其の賞罰を司る神となれり。「マハーブハーラタmhaabhaarata」に至りては之に関する記述詳細にして怖るべき相貌を有し、血の如く赤き衣服を著け、王冠を被りて水牛に乗り、一手に棍棒daNDaを持ち、他の手に索を執るとなせり。此の時代の夜摩には二種の性格あり、一は所謂死の神にしてlokaantakRt、lokaanta-yama等と呼ばれ、侍者没栗底mRtyu(死)を随え、又数多の使者yama-duutaを率いて、人の生命を奪うとせらるるもの。死を夜摩宮に往くと云い、殺すことを夜摩宮に送る等と云うは、即ち此の性格をあらわしたるものというべし。他はpreta-raaja即ち死者の王にして、dharma-raaja即ち法王(公正なる判官)又はdharmeendra(正義に通じたる王)と称せられ、南方の地下に住して父祖の世界pitR-lokaの支配者とせらるるもの是れなり。後世の印度教的神話にも、専ら死者の霊魂に苦悩を与うる怖るべき神として伝えられたり。仏教に混入せられたる夜摩は此等の諸思想を受けたるが如く、一方に於いては夜摩天として、六欲天中の第三位に之を列し、他方に於いては閻魔王として、之を冥界の支配者、人の行為の審判官となせり。「大毘婆沙論巻172」に、「施設論に説く、今時鬼世界の王を琰魔と名づくるが如き、是の如く劫初の時に鬼世界の王あり、粃多と名づく。是の故に彼に往き彼に生ずる諸の有情の類を皆閉戻多と名づく」と云い、「立世阿毘曇論巻6」にも、「云何が鬼道を名づけて閉多と曰うや、閻摩羅王を閉多と名づくるが故に、其の生まれたるものと王と同類なるが故に閉多と名づく」と云えり。此の中、粃多pitR又は閉多は父祖の義、閉戻多pretaは父祖の世界に生ずる者の義なり。鬼は支那にて死者の魂を意味する語なれば、即ち此の文は人類中の最初の死者を閻魔王となせるものにして、梨倶吠陀時代の思想を記述せるものと謂うべし。又「瑜伽師地論巻2」には、「復た次ぎに世間に於いて四姓生じ已りて、方に乃ち愛不愛に順ずる五趣の受業を発起し、此れより以後、随一の有情、雑染を感ずる増上業に由るが故に、那洛迦の中に生じて静息王となる。此れより無間に那洛迦卒あり、猶お化生の如し。及び種種の苦具たる謂わゆる銅鉄等ありて、那洛迦の火起り、然る後業に随って有情此に於いて受生す」と云えり。是れ劫初に一の有情が雑染増上の業に由りて那洛迦の中に生じ、閻魔王となれることを説けるものにして、上の婆沙等の説を敷衍したるものなるが如し。又「問地獄経(経律異相巻49所引)」には、「閻羅王は昔し毘沙国王たり、維陀始王と共に戦う。兵力敵せず、因りて誓願を立つらく、願わくは地獄の主となり、臣佐十八人、百万の衆を領し、頭に角耳あり、皆悉く忿懟せんと。同じく誓を立てて曰わく、後当に奉じて此の罪人を助治すべしと。毘沙王とは今の閻羅是れなり、十八人とは諸小王是れなり、百万衆とは諸の阿傍是れなり。北方毘沙門天王に隷す」と云えり。是れ亦閻魔王を以って実業所感の有情となせるものなり。又「長阿含経巻19地獄品」に、「彼の閻魔王は、昼夜三時に大銅钁ありて自然に前に在り。若し鑊、宮内に出づれば王見て怖畏し、捨てて宮外に出づ。若し鑊、宮外に出づれば王見て怖畏し、捨てて宮内に入る。大獄卒あり、閻羅王を捉らえて熱鉄上に臥せしめ、鉄鉤を以って口を擗きて開かしめ、洋銅を之に潅ぎ、其の唇舌を焼き、咽より腸に至るまで燋爛せざるなし。罪を受け訖りて復諸の婇女と相共に娯楽す」と云い、「大楼炭経巻2」、「起世経巻4」等にも亦同説を載せり。此等は閻魔王も亦た他の罪人と同じく、昼夜三時に痛苦を受くとなすの説にして、恐らく早き時代に行われたる思想なるべし。然るに「観仏三昧海経巻5」には、「化の閻羅王」と云い、「大方広十輪経巻1」には、地蔵菩薩は堅固の誓願力を以って一切の衆生を救済し、梵天、自在天、乃至閻羅王身等を現ずと云い、又「瑜伽師地論巻58」には、「焔摩は能く諸の衆生を饒益するに由るが故に、名づけて法王となす。若し諸の衆生那落迦に生じて宿命を憶する者は、焔摩法王更に教誨せず、若し生じ已りて宿命を憶せざるものあらば、王は便ち教誨す」と云えり。此等は閻魔王を以って菩薩等の化現となせるものなるが如し。又閻魔王を人の行為の審判官となせることは、経論の中に広く散見する所なり。「長阿含経巻19地獄品」に閻羅王に老病死の三使者あることを説き、其の下に「獄卒此の罪人を将いて閻羅王の所に詣り、到り已りて白して言わく、此れは是れ天使の召す所なり。唯願わくは大王善く其の辞を問えと。(中略)王復語りて言わく、汝自ら放逸にして身口意を修めて悪を改め善に従うこと能わず。今当に汝をして放逸の苦を知らしむべしと。王又告げて言わく、今汝の罪を受くるは父母の過に非ず、兄弟の過に非ず、亦天帝に非ず、亦先祖に非ず、亦知識僮僕使人に非ず、亦沙門婆羅門の過に非ず。汝自ら悪あるが故に汝今自ら受く」と云い、又「観仏三昧海経巻5」に、「時に閻羅王、宮殿と倶に虚空の中に在り。獄種に告げていわく、汝衆悪を作り、師を殺し師を謗れり。汝が今生ぜる処を拔舌阿鼻と名づく。汝此の獄に在りて当に三劫を経べしと。是の語を作し已りて即ち滅して現ぜず」と云える如き即ち其の説なり。又此の中、閻羅王が老病死の三使者を遣すといえる説話は、「大楼炭経巻2」、「起世経巻4」、「起世因本経巻4」、「立世阿毘曇論巻8」等にも之を出し、又「中阿含巻12天使経」、「鉄城泥梨経」、「閻羅王五天使者経」等には、生老病死及び獄治の五使者を派して人を警策することを記せり。是れマハーブハーラタ時代の夜摩が死即ちmRtyu等を使者となせちと云うに共通する所あるを見るべし。又「大日経巻5秘密曼荼羅品」に、「閻摩は但荼の印にして常に風輪中に処し、没栗底mRtyuは鈴の印なり」と云い、又「同経巻2具縁品」に、「死名等囲繞す」と云えるも、皆亦其の時代の思想を承継せるものというべし。又閻魔王の住処に関しては、「長阿含経巻19地獄品」に、「閻浮提の南大金剛山内に閻羅王宮あり、王所治の所にして、縦広六千由旬あり。其の城七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。乃至、無数の衆鳥相和し、悲鳴すること亦復た是の如し」と云い、「大毘婆沙論巻172」に、「瞻部州の下五百踰繕那にして琰魔王界あり、是れ一切の鬼の本所住処なり」と云い、「正法念処経巻16」、「倶舎論巻11」、「阿毘達磨順正理論巻31」、「彰所知論巻上」等にも亦同説を出せり。是れ閻浮提の南方地下に閻摩王の世界ありとなすの説にして、「マハーブハーラタ」等の所伝と相同じ。「旧華厳経巻11」、「金光明最勝王経巻6」等に、地獄餓鬼畜生に並べて琰摩王界を挙げたるは、亦三悪道の外に別に閻魔の住処を認めたるものというべし。然るに「大般若波羅蜜多経巻520」には、「若し菩薩摩訶薩是の如く学する時、地獄、傍生、剡王魔界に堕せず」と云い、「大宝積経巻75六界差別品」に、「或いは地獄に生じ、或いは畜生に生じ、或いは閻魔界に生じ、或いは阿修羅に生じ、或いは天中に生じ、或いは人中に生ず」と云い、「新華厳経巻10華蔵世界品」に、「地獄、畜生道、及び閻羅処、是の濁悪の世界は恒に憂苦の声を出す」と云い、又「瑜伽師地論巻37」に、「那落迦世界、傍生世界、祖父世界(即ち琰魔世界)、人世界、天世界等を振動す」と云い、「同巻46」に、「或いは十種の所調伏の界あり、一に那落迦、二に傍生、三に琰摩世界、四に欲界天人、五に中有、六に有色、七に無色、八に有想、九に無想、十に非想非非想処なり」と云えるは、共に皆餓鬼界の代わりに閻魔王界を挙げたるものにして、即ち三悪道中の餓鬼界を以って彼の王の住処となせるものと謂うべく、又「立世阿毘曇論巻8閻羅地獄品」に、「邪悪の心を起造し、及び邪曲の語を説き、或いは邪の身業を作り、昔の放逸に由るが故に、少聞にして福徳なく、促命の中に悪をなす、是の人身命を捨てば、即ち閻羅獄に堕す」と云い、「瑜伽師地論巻2」に、「那洛迦の中に生じて静息王となる」と云うが如きは、即ち閻羅の住処を地獄界に在りとなせるものと謂うべし。此の如く其の住処に関し諸説あるも、就中、南方地下に別世界ありとするは、恐らく早き時代の思想なるべく、尋いで閻羅は鬼界の王なるを以って之を餓鬼界に摂すべしとし、後又罪人を考治するの説より転じて、遂に之を地獄界に置くに至りしものなるべし。支那に来たりて閻魔王思想は道教の迷信と混淆して、更に特異の発達をなし、五官王八王十王等の説を生ぜり。「潅頂経巻12」に、「閻羅王は世間名藉の記を主領す。若し人悪をなし、諸の非法を詐り、孝順心なく、乃至五戒を持せず、正法を信ぜず、設い受くることあるも、毀犯する所多ければ、是に於いて地下の鬼神及び伺候者は五官に奏上す、五官は料簡して死を除き生を定め、或いは精神を注録して未だ是非を判ぜず。若し已に定まれば閻羅に奏上す、閻羅監察して罪の軽重に随い、之を考治す」と云い、又「浄度三昧経」に、「凡そ人戒なく、復七事の行なければ、死して地獄に属し、五官の司録する所となる。地獄の天子を閻羅と名づく、諸天人民鬼神龍飛鳥走狩は皆悉く天子に属す。小王に八王あり、復扶容王(扶庸の意)三十国あり、扶容王に各復小統九十六国あり、各主る所同じからず。復外監五官都督司察司録八王司者司隷等あり、伏夜大将軍都官と天帝の符を承け、五道の大王と共に八王の日に於いて諸天人民夷狄雑類鳥狩を案行し、以って善悪を知り種類を分別す」と云い、又「焔羅王供行法次第」に、「行者若し是の法を修せんと欲せば、先づ応に是の王の五変の身、並びに其の大宮一一の縁起を知るべし。其の五変とは一には焔羅法王是れ即ち本号なり。二には死王、三には黄泉国善賀羅王、四には料罪忿怒王、五には檀拏少忿怒王なり。本宮は鉄囲山の北の地中に在り、是れ即ち冥道宮なり。五万の眷属に囲繞せらる。宮の中庭に檀拏幢あり、其の頭に一少忿怒の面あり。王は常に其の面を見て人間の罪の軽重善悪を知る。人間に重罪を作す者あれば其の口より火光を出し、光中より黒縄涌出して警覚す。木札を見て其の姓名を知り、之を料記す。又善を作す者あれば、白蓮華は口より開敷し、其の香善く薫ず。太山府君、五道将軍王は、常に王の教を奉じて能く善悪を定む」と云い、又「地蔵菩薩発心因縁十王経」等に十王等を説ける如き、皆其の説なり。又密教に於いては之を焔摩天と称し、金胎両部曼荼羅中に各其の図像を現わし、帝釈等と倶に之を護世八方天等の一となせり。本邦に行わるるものは、支那道俗の間に流布せられたる混成信仰を継承したるものにして、「十王経」に依る所多く、其の形像も亦皆支那式なり。現今其の絵画若しくは彫刻にて国宝に指定せられたるものに、「京都観智院所蔵絹本著色閻魔天像掛幅一幅(伝会理僧都筆)」、「大津市園城寺所蔵同一幅」、「滋賀県浄信寺所蔵木造閻魔天立像一躯(伝空界作)」、「宇治醍醐寺所蔵閻魔天像一躯」、「奈良白毫寺所蔵同一躯」、「鎌倉円応寺所蔵同坐像一躯(伝雲慶作)」等あり。又俗間に毎年正月十六日及び七月十六日を閻魔の斎日と称し、寺院にては閻魔堂を開帳し、又地獄変相、十王図等を掲げ、鉦盤を打鳴し、、「地獄の釜開き」、「亡者の骨休み日」なりとて、藪入りしたる婢女等は争い詣でて行楽する者多し。又「玄応音義巻13、21」、「法苑珠林巻7、62、88」、「華厳経探玄記巻6」、「往生要集巻上」等に出づ。<(望)
佛以今世樂後世樂及涅槃樂利益故。名師上。四種法治人不久畢壞。不能常實成就。 仏は、今世の楽と、後世の楽と、及び涅槃の楽を以って利益したもうが故に、師の上と名づく。四種の法は、人を治むるも、久しからずして畢(つい)に壊し、常に実に成就する能わず。
『仏』は、
『今世の楽』と、
『後世の楽』と、
『涅槃の楽』で、
『人』を、
『利益する!』が故に、
是れを、
『師の上』と、
『称する!』。
『四種の法』で、
『人』を、
『治めれば!』、
やがて、
『結局は!』、
『調御』が、
『壊(やぶ)れることになり!』、
『常にも!』、
『実にも!』、
『人』を、
『成就することができない!』。
佛成人以三種道。常隨道不失。如火自相不捨乃至滅。佛令人得善法亦如是。至死不捨。以是故。佛名可化丈夫調御師。 仏は、人を成すに、三種の道を以って、常に道に随わしめて、失わざらしめたもう。火の自相を捨てずして、乃至滅するが如く、仏の、人をして、善法を得しむるも、亦た是の如く、死に至るまで捨てざらしめたもう。是を以っての故に、仏を、化す可き丈夫の調御師と名づく。
『仏』は、
『人』を、
『成就する!』のに、
『三種』の、
『道』で、
『成就され!』、
常に、
『道』に、
『随わせて!』、
『失わせない!』。
譬えば、
『火』が、
『滅する!』まで、
『自相』を、
『捨てないように!』、
『仏』が、
『人』に、
『善法』を、
『得させられる!』と、
亦た同じように、
『死ぬまで!』、
『捨てない!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『化導される!』、
『丈夫の調御師』と、
『称するのである!』。
問曰。女人佛亦化令得道。何以獨言丈夫。 問うて曰く、女人は、仏も、亦た化して道を得しめたまえり。何を以ってか、独り丈夫とのみ言う。
問い、
『女人』も、
『仏』は、
『化導して!』、
『道』を、
『得させられる!』のに、
何故、
独り、
『丈夫』と、
『言うのですか?』。
答曰。男尊女卑故。女從男故。男為事業主故。 答えて曰く、男は尊く、女は卑しきが故に、女は、男に従うが故に、男は、事業の主為(た)るが故なり。
答え、
『男は尊く!』、
『女』は、
『卑しいからであり!』、
『女』は、
『男』に、
『従うからであり!』、
『男』は、
『事業』の、
『主だからである!』。
復次女人有五礙。不得作轉輪王釋天王魔天王梵天王。佛以是故不說。 復た次ぎに、女人には、五礙有りて、転輪王、釈天王、魔天王、梵天王、仏に作るを得ず。是を以っての故に説かず。
復た次ぎに、
『女人』には、
『五礙(さわり)』が、
『有る!』ので、
『転輪王』と、
『釈天王』、
『魔天王』、
『梵天王』と、
『仏』には、
『作ることができない!』ので、
是の故に、
『女人の調御師』とは、
『説かないのである!』。
  五礙(ごげ):女人の身に梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王及び仏と作ることを得ざる五種の障礙あるを云う。『大智度論巻2下注:五障』参照。
  五障(ごしょう):梵語paJca aavaraNaaniの訳。巴梨語paJca niivaraNaani、五種の障礙の意。又五礙に作る。女人の身に梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、及び仏と作ることを得ざる五種の障礙あるを云う。「法華経巻4提婆達多品」に、「又女人の身に猶お五障あり、一には梵天王と作ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、死には転輪聖王、五には仏身なり」と云える是れなり。「中阿含経巻28」、「増一阿含経巻38」、「五分律巻29」、「超日明三昧経巻下」、「大智度論巻2、9、56」等にも亦皆此の説を出せり。但し布列の次第は互いに異同あり。就中、「梵文法華経」を撿するに、女人は五の階位paJca-sthaanaに到ることを得ずと記し、梵位brahma-sthaana、帝釈位zakra-sthaana、大王位mahaa-raaja-sthaana、転輪位cakra-varti-sthaana、不退転菩薩位a-vaivartika-boghisattva-sthaanaの五を挙げたり。「超日明三昧経巻下」には之が解説を掲げ、「一に曰わく、女人は帝釈と作ることを得ず。所以は何ん、勇猛少欲なれば乃ち男となるを得べし、雑悪多態なるが故に、女人は天帝釈と作るを得ずと為す。二に曰わく、梵天と作ることを得ず。所以は何ん、清浄行を奉じて垢穢あることなく、四等心を修し、若し四禅に遵わば乃ち梵天に昇る。婬恣にして節なきが故に女人は梵天と作るを得ずと為す。三に曰わく、魔天と作ることを得ず。所以は何ん、十善具足して三宝を尊敬し、二親に孝事し、長老に謙順ならば乃ち魔天を得ん。軽慢不順にして正教を毀失するが故に、女人は魔天と作るを得ずと為す。四に曰わく、転輪聖王と作ることを得ず。所以は何ん、菩薩道を行じて群萌を慈愍し、三尊先聖師父を奉養せば、乃ち転輪王と作りて四天下を主り、人民を教化して普く十善を行じ、道徳を遵崇して法王の教をなすを得ん。匿態に八十四ありて清浄行あることなきが故に、女人は聖帝と作るを得ずと為す。五に曰わく、女人は仏と作ることを得ず。所以は何ん、菩薩心を行じて一切を愍念し、大慈大悲にして大乗の鎧を被り、五陰を消し、六衰を化し、六度を広くし、深慧を了して空無相願を行じ、三脱門を越えて、我人なく寿なく命なしと解し、本無不起法忍を暁了し、一切は幻の如く、化の如く、夢の如く、影、芭蕉、聚沫、野馬、電、焔、水中の月の如く、五処に本無なりと分別し、三趣の想なければ乃ち成仏を得ん。而も色欲に著し、情に淖し、匿態ありて身口意異なるが故に、女人は仏と作るを得ずと為す」と云えり。又「大宝積経巻38」には唯四障を出し、魔王の一障を欠けり。又「法華経玄賛巻9本」、「大明三蔵法数巻28」等に出づ。<(望)
  転輪王(てんりんのう):梵語cakra-varti-raajanの訳。即ち七宝を成就し、四徳を具足して須弥四洲を統一し、正法を以って世を治御する大帝王を云う。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
  釈天王(しゃくてんのう):具に釈提桓因陀羅zakra-devaanaam-indraに作り、欲界の第二天なる忉利天の主。梵天王と共に仏教を守護する。『大智度論巻21下注:因陀羅』参照。
  魔天王(まてんのう):欲界の最頂天なる他化自在天paranirmitavazavartinaの王波旬paapiiyas。正法を害する魔王。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
  梵天王(ぼんてんのう):色界の初禅天の主尸棄zikhin。初禅天中の最頂天なる大梵天の主。仏教を守護する。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
復次若言佛為女人調御師。為不尊重。若說丈夫一切都攝。譬如王來不應獨來。必有侍從。如是說丈夫。二根無根及女盡攝。以是故說丈夫。用是因緣故。佛名可化丈夫調御師。 復た次ぎに、若し、仏は女人の調御師為(た)りと言わば、尊重せられず。若し丈夫と説かば、一切を都べて摂す。譬えば、王来たれば、応に独り来たるべからず、必ず侍従有るが如し。是の如く丈夫と説けば、二根、無根、及び女も、悉く摂す。是を以っての故に、丈夫と説き、是の因縁を用っての故に、仏を、化す可き丈夫の調御師と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『仏』は、
『女人の調御師である!』と、
『言えば!』、
『人』に、
『尊重されない!』し、
若し、
『丈夫』と、
『説けば!』、
一切を、
皆、
『含むからである!』。
譬えば、
『王』が、
『来た!』と、
『言えば!』、
当然、
『独りで!』、
『来るはずがなく!』、
必ず、
『侍従(従者)』が、
『有るのである!』が、
是のように、
『丈夫と説けば!』、
『二根、無恨、女』の、
『尽く!』を、
『含むのであり!』、
是の故に、
『丈夫』と、
『説くのであり!』。
是の、
『因縁』の故に、
『仏』を、
『化導される丈夫の調御師』と、
『称する!』。
  侍従(じじゅう):従者/助力者/随行員( retinue, aide, attendant )。
  二根(にこん):梵名strii-purSeendriyaの訳。男女両根を具するの意。
  無根(むこん):梵名anindriyaの訳。男女の根を共に有せざるものの意。



舍多提婆魔菟舍喃(天人教師)

復名舍多提婆魔菟舍喃。舍多秦言教師。提婆言天。魔菟舍喃言人。是名天人教師。 復た舍多提婆魔菟舍喃と名づく。舍多を秦に教師と言い、提婆を天と言い、魔菟舍喃を人と言うに、是れを天人の教師と名づく。
復た、
『舍多提婆魔菟舍喃( zaastaa deva-manuSyaaNaam )』と、
『称する!』、――
即ち、
『舍多( zaastaa )』を、
秦に、
『教師』と、
『言い!』、
『提婆( deva )』を、
秦に、
『天』と、
『言い!』、
『魔菟舍喃( manuSyaaNaam )』を、
秦に、
『人』と、
『言う!』ので、
是れを、
『天、人の教師』と、
『称する!』。
  舎多提婆魔菟舎喃(しゃただいばまぬしゃなん):梵名zaastaa deva-manuSyaaNaam。天人教師と訳す。即ち応作不応作、是善是不善を示導し、教に随って行じて道法を捨てず、以って煩悩解脱の報を得しむるを云う。亦た余道を度するも、天人を度すること多きが故に天人師と称するなり。『大智度論巻21下注:十号』参照。
云何名天人教師。佛示導是應作是不應作。是善是不善。是人隨教行不捨道法。得煩惱解脫報。是名天人師。 云何が、天人教師と名づくる。仏が、『是れは応に作すべし、是れは応に作すべからず、是れは善なり、是れは不善なり』と示導したもうに、是の人は、教に随うて行じ、道法を捨てざれば、煩悩の解脱の報を得。是れを天人師と名づく。
何故、
『天、人の教師』と、
『称するのか?』。
『仏』が、
こう示導されて、――
『是れは、作さねばならぬ!』、
『是れは、作してはならぬ!』、
『是れは、善である!』、
『是れは、不善である!』と、
是の、
『人』が、
『教』に、
『随って!』、
『行い!』、
『道の法』を、
『捨てなければ!』、
則ち、
『煩悩の解脱』という、
『報』を、
『得るからである!』。
是れを、
『天、人の師』と、
『称する!』。
問曰。佛能度龍鬼神等墮餘道中生者。何以獨言天人師。 問うて曰く、仏は、能く龍、鬼神等の余道中に堕して生ぜし者を度したまえり。何を以ってか、独り、天、人の師と言う。
問い、
『仏』は、
『龍(畜生道)、鬼神(阿修羅道)』等の、
『余道中に墮ちて!』、
『生じた!』者も、
『度されている!』。
何故、
独り、こう言うのか、――
『天』と、
『人』との、
『師である!』、と。
答曰。度餘道中生者少。度天人中生者多。如白色人雖有黑黶子不名黑人。黑少故。 答えて曰く、余の道中に生ぜし者を度すこと少なく、天、人中に生ぜし者を度すこと多し。白色の人に、黒黶子有りと雖も、黒人と名づけざるは、黒の少なきが故なるが如し。
答え、
『余道』中に、
『生じた!』者を、
『度す!』ことは、
『少なく!』、
『天、人』中に、
『生じた!』者を、
『度す!』ことは、
『多いからである!』。
譬えば、
『白色の人』に、
『黒黶子(ほくろ)』が、
『有っても!』、
『黒人』と、
『呼ばない!』のは、
是の、
『黒が少ないからである!』のと、
『同じである!』。
  黒黶子(こくえんし):ほくろ。
復次人中結使薄厭心易得。天中智慧利。以是故。二處易得道。餘道中不爾。 復た次ぎに、人中の結使は薄くして、厭心を得易く、天中の智慧は利なり。是を以っての故に、二処は、道を得易く、余の道中は爾らざるなり。
復た次ぎに、
『人』中は、
『結使が薄く!』、
『厭心』を、
『得易い!』し、
『天』中は、
『智慧が利く!』、
『道の利』を、
『知る!』ので、
是の故に、
是の、
『二処』は、
『道』を、
『得易いのである!』が、
余の、
『道』中は、
『爾うでない!』。
  厭心(えんしん):嫌気のさした心( disgusted mind )、梵語 samvejana の訳、飽き飽きした心( weary mind )の義、世間に飽き飽きした心( a mind sick of the world )の意。
復次言天則攝一切天。言人則攝一切地上生者。何以故。天上則天大。地上則人大。是故說天則天上盡攝。說人則地上盡攝。 復た次ぎに、『天』と言えば、則ち一切の天を摂し、人と言えば、則ち一切の地上に生ぜし者を摂す。何を以っての故に、天上なれば、則ち天大なり、地上なれば、則ち人大なり。是の故に天と説けば、則ち天上に尽くを摂し、人と説けば、則ち地上に尽くを摂す。
復た次ぎに、
『天と言えば!』、
則ち、
一切の、
『天』を、
『摂する(含む)ことになり!』、
『人と言えば!』、
則ち、
一切の、
『地上に生じる!』者を、
『摂する!』。
何故ならば、
『天上』では、
則ち、
『天』が、
『大であり!』、
『地上』では、
則ち、
『人』が、
『大である!』ので、
是の故に、
『天と説けば!』、
則ち、
『天上』を、
『尽く摂することになり!』、
『人と説けば!』、
則ち、
『地上』を、
『尽く摂するのである!』。
復次人中得受戒律儀見諦道思惟道及諸道果。或有人言。餘道中不得。或有人言。多少得。天人中易得多得。以是故佛為天人師。 復た次ぎに、人中には、戒、律儀を受けて、見諦道、及び諸の道果を得るに、或いは有る人の言わく、『余の道中には得ず。』と。或いは有る人の言わく、『多少は得。』と。天人中には、得易く、多く得。是を以っての故に、仏を、天、人の師と為せり。
復た次ぎに、
『人』中には、
『戒、律儀』を、
『受けることができ!』、
『見諦道』や、
『思惟道』を、
『得て!』、
諸の、
『道果』を、
『得ることができる!』。
或は、
有る人は、こう言う、――
『余道』中には、
『得られない!』、と。
有る人は、こう言う、――
『余道』中にも、
『多少は得られる!』、と。
『天、人』中には、
『道』を、
『得易い!』ので、
『多くが得ている!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『天、人の師』と、
『称するのである!』。
  見諦道(けんたいどう):既出。四向四果中の須陀洹向を云う。『大智度論巻2上注:見道』参照。
  思惟道(しゆいどう):梵語bhaavanaa-maargaの訳。数数修習する道の意。三道の一。又有学道とも称す。即ち見道に於いて四諦の理を見照したる後、更に修習して修惑を断ずる位にして、四向四果中の須陀洹果乃至阿羅漢向を云う。『大智度論巻27上注:修道』参照。
  道果(どうか):梵語maarga-phalaの訳。道を修むるに由りて得る所の果報の意。『大智度論巻2上注:四向、四果、同巻18下注:四向四果』参照。
復次人中行樂因多。天中樂報多。善法是樂因。樂是善法報。餘道中善因報少。以是故佛為天人師。 復た次ぎに、人中には、楽の因を行ずること多く、天中には、楽の報多し。善法は、是れ楽の因なり。楽は、是れ善法の報なり。余の道中には、善の因も、報も少なし。是を以っての故に、仏を天人の師と為す。
復た次ぎに、
『人』中には、
『楽』の、
『因を行う!』ことが、
『多く!』、
『天』中には、
『楽』の、
『報を受ける!』ことが、
『多い!』。
『善法』は、
『楽』の、
『因であり!』、
『楽』は、
『善法』の、
『報である!』が、
『余道』中には、
『善』の、
『因、報』が、
『少ない!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『天、人の師』と、
『呼ぶのである!』。



仏陀(知者)

復名佛陀。(秦言知者)知何等法。知過去未來現在眾生數非眾生數有常無常等一切諸法。菩提樹下了了覺知故。名為佛陀。 復た仏陀と名づけ、秦に知者と言う。何等の法をか知る。過去、未来、現在の衆生の数、非衆生の数、有常、無常等の一切の諸法を知り、菩提樹下に了了として覚知したまえるが故に、名づけて仏陀と為す。
復た、
『仏陀( buddha )』と、
『称し!』、
秦には、
『知者』と、
『言う!』。
何のような、
『法』を、
『知るのか?』。
『過去、未来、現在』の、
『衆生の数』、
『非衆生の数』、
『有常、無常』等の、
一切の、
諸の、
『法』を、
『知るのである!』。
『菩提樹』下に、
『了了として(明了に)!』、
『覚知された!』が故に、
是れを、
『仏陀』と、
『称するのである!』。
  仏陀(ぶっだ):梵名buddha。覚者、知者、或いは覚人とも訳す。自覚覚他覚行円満し、三世一切の諸法を知見して覚知了了たるを云う。『大智度論巻21下注:仏』参照。
問曰。餘人亦知一切諸法。如摩醯首羅天。(秦言大自在)八臂三眼騎白牛。如韋紐天(秦言遍悶)四臂捉貝持輪騎金翅鳥。如鳩摩羅天。(秦言童子)是天擎雞持鈴。捉赤幡騎孔雀。皆是諸天大將。如是等諸天各各言大。皆稱一切智。有人作弟子學其經書。亦受其法。言是一切智。 問うて曰く、余の人も、亦た一切の諸法を知る。摩醯首羅天の如きは、秦に大自在と言い、八臂、三眼にして、白牛に騎る。韋紐天の如きは、秦に遍悶と言い、四臂にして、貝を捉り、輪を持して、金翅鳥に騎る。鳩摩羅天の如きは、秦に童子と言い、是の天は雞(にわとり)を擎(かか)げて鈴を持し、赤幡を捉りて孔雀に騎る。皆是れ諸天の大将にして、是の如き等の諸天は、各各、『大なり』と言い、皆、『一切智』と称し、有る人は、弟子と作りて、其の経書を学び、亦た其の法を受けて、『是れ一切智なり』と言う。
問い、
『余の人』も、
一切の、
『諸の法』を、
『知る!』。
例えば、
『摩醯首羅天(大自在)』は、
『八臂、三眼であり!』、
『白牛に騎()る!』、
『韋紐天(梵viSNu, √(viS)=遍滿)』は、
『四臂に貝と輪とを執り!』、
『金翅鳥に騎る!』、
『鳩摩羅天(童子)』は、
『鶏を擎(かか)げて!』、
『鈴を持ち!』、
『赤幡を捉り!』、
『孔雀に騎る!』、
是れ等は、
皆、
諸の、
『天』の、
『大将であり!』、
是れ等の、
『諸天』は、
各、
『大である!』と、
『言い!』、
皆、
『一切智』と、
『称する!』ので、
有る、
『人』は、
其の、
『弟子』と、
『作って!』、
其の、
『経書』を、
『学び!』、
其の、
『法』を、
『受けて!』、
是れを、
『一切智である!』と、
『言う!』。
  摩醯首羅天(まけいしゅらてん):梵語摩醯首羅mahezvaraは、大自在と訳す。即ち是の天は印度教に於ける湿婆ziva神の異名にして、其れを奉ずる者は之を以って世界を造れる最高神と為す。『大智度論巻2下注:大自在天』参照。
  大自在天(だいじざいてん):大自在は梵語摩醯首羅mahezvaraの訳。巴梨語mahissara、又摩醯伊湿伐羅、莫醯伊湿伐羅に作り、或いは自在天、自在天王と云い、又天主とも称す。即ち印度教の一派に於いて世界を造れる最高神格として崇祀する神なり。「長阿含経巻20忉利天品」に、「色究竟天の光明は他自在天に如かず、他自在天の光明は仏の光明に如かず」と云い、「外道小乗涅槃論」に、「地は是れ依処にして、地主は是れ摩醯首羅天なり。三界の中に於ける有らゆる一切の命非命の物は、皆是れ摩醯首羅天の生なり」と云い、又「摩登伽経巻上明往縁品」に、「汝が法中に自在天とは世界を造る」と云える是れなり。是れ摩醯首羅を以って最高実在とし、三界の有らゆる有命無命の万物を造作すとなせるものなり。又此の天に商羯羅(骨瑣天)、嚕捺羅rudra、伊賖那iizaana等の異名あり。「倶舎論光記巻7」に、「自在天は衆生を教化して種種に変現す。応に嶮利等を以って度すべき者には、即ち此の嶮利等の身を現じて之を度脱す。能く險利を為すとは、悪事を嶮と名づけ、衆生を割截するを利と名づけ、能く衆生を焼くを能焼と名づけ、可畏の身を現ずるを可畏と名づけ、恒に苦具を以って有情を逼害するを恒逼害と名づけ、或いは時に楽って血肉体を食うが故に魯達羅と名づく。此に暴悪と云う、大自在天の異名なり。大自在天に総じて千名あり、今現に世に行わるるは唯六十のみあり。魯達羅は即ち一名なり」と云い、又「因明入正理論疏巻上」に、「成劫の始に大自在天は人間に化導し二十四相あり、匡利既に畢りて自在は天に帰す。事うる者顧恋して遂に其の像を立て、其の苦行して悴疲飢羸し、骨節相連なりて形状瑣の如くなるに像る。故に此の像を標して骨瑣天と名づく。劫初に千名ありと雖も、時に減じて猶お十号を存す。此の骨瑣天は即ち一名なり」と云い、「大日経疏巻5」に、「并びに商羯羅天を置く、此れは是れ摩醯首羅なり。一世界の中に於いて大威勢力あり、三千世界の主に非ざるなり。経中の下文に更に嚕捺羅あり、即ち是れ商羯羅の忿怒身なり。事に従って名を立つ」と云い、又「供養十二大威徳天報恩品」に、「伊舎那天喜ぶ時は諸天も亦た喜び、魔衆乱れず。旧に摩醯首羅と名づく。仏言わく、若し摩醯首羅天を供養し已らば、為に一切の諸天を供養せよ。此の天瞋る時は魔衆現われて国土荒乱せん」と云える是れなり。按ずるに大自在天は印度教Hinduismに於ける湿婆zivaの異名にして、即ち梨倶吠陀以来の神格なり。湿婆は元と嚕捺羅rudra(荒神)と名づけ、暴風雷電を司り、人畜草木を殺傷する破壊神として信ぜられたるものにして、今「倶舎論光記」に嚕達羅は此に暴悪と云うと云い、「大威徳天報恩品」に此の天瞋る時、魔衆現われて国土荒乱せんと云えるは、正しく其の神格を表示せるものというべし。然るに湿婆は亦他面に於いて救護治療を司る吉祥神とせられ、夜柔吠陀、阿闥婆吠陀等に出せる商羯羅zaMkara(成福)、pazupati(獣主)、伊舎那iizaana(司配者)、摩訶提婆mahaadeva(大天)、湿婆ziva(吉祥)等の異名は、即ち其の吉祥の方面を現せる称号なり。又「律法経」等に於いては、此の外別に伊湿伐羅iizvara(自在)等の異名を出せり。尋いで其の神位は漸次高上し、「シュヴェーターシュワタラ・ウパニシャットzvetaazvataropaniSad」、「アタルバシラス・ウパニシャットatharvaziras-up.」等には、唯一最高の創造神として記述し、又屡大自在天の称呼を出せり。又「マハーブハーラタmahaabhaarata」に於いては専ら湿婆の名を以って之を呼び、初めは毘湿笯viSNuと共に梵天の下位に在りしも、尋いで等位となり、後遂に之を其の最上位に置き、尋いで又一体三分trimuurtiの説起り、湿婆と梵天及び毘湿笯の三神は一体にして、而も亦其の中に於いて湿婆即ち大自在天は其の主位を占むるものとせらるるに至れり。是の如く此の神は世界創造の最高神格となり、其の体常住にして宇宙に遍満し、所謂虚空を以って頭となし、地を以って身となせる汎神論的神格として考察せらるると同時に、亦崇拜の対象として之を具象化し、其の住処は色界の頂上なる色究竟天上に在りとせらるるに至れり。「倶舎論光記巻7」に、「塗灰外道説く、自在天は三界を出過し三身あり。一に法身は法界に遍充す。二に受用身は色界上の自在天宮に居住す、即ち仏法中に説く摩醯首羅天なり。三目八臂にして身長万六千踰繕那なり。三に化身は形を六道に随いて種種に教化す。此の頌に説けるは化身の天を顕す」と云えり。是れ此の外道は彼の法界周遍の身を以って法身とし、色究竟天所住の三目八臂の身を以って受用身とし、魯達羅等を以って化身となすことを伝うるなり。後此の説は仏教に混入し、遂に彼の住処たる摩醯首羅天宮を以って第十法雲地の菩薩の所居となし、彼の菩薩は即ち此の処に於いて成仏すとなすに至れり。「旧華厳経巻27十地品」に、「第十法雲地の菩薩は、是の地に住して多く摩醯首羅天王と作る」と云い、「大智度論巻9」に、「是の八処に過ぎて十住の菩薩の住処あり、亦浄居と名づけ、大自在天王と号す」と云い、「瑜伽師地論巻4」に、「復た浄宮を超過して大自在の住処あり。十地の菩薩あり、極めて第十地を熏修するに由るが故に其の中に生ずることを得」と云い、又「旧華厳経巻23十地品」に、「一切の仏に於いて授記を得るが故に、一切世間の高大の身を得るが故に」と云い、「十地経論巻1」に之を釈し、「二種の利益とは、現報利益は仏位を受くるが故なり。後報利益は摩醯首羅の智処に生ずるが故なり」と云える其の説なり。是れ第十地の菩薩は多く摩醯首羅天王となり、彼の処に於いて世間最高大の身を現じて以って成仏すとなせるものなり。但し華厳等に是の如く第十地の菩薩が摩醯首羅天王となると説くに関し、「入大乗論巻下願修諸行品」に、「問うて曰わく、摩醯首羅とは世間の摩醯首羅と同じとせんや、更に異ありや。答えて曰わく、是れ浄居の自在にして世間の自在に非ず。汝の摩醯首羅と言うは、名字同じと雖も而も人は一に非ず。浄居の摩醯首羅あり、毘舎闍の摩醯首羅あり。其の浄居の者は是の如き菩薩にして、仏地に隣ること猶お羅縠の障の如く、一刹那の頃に於いて十方世界の微塵数の法悉く能く了知し、能く口を以って吹かば十方の世界皆大いに振動し、又一身を以って一切の仏国に遍す。亦皇太子初めて職を受くる時の如く、己の業力を以っての故に大宝蓮華自然に化出し、一切種智の位を受け、法蓮華王座に坐す」と云えり。是れ摩醯首羅に二種あり、第十地の菩薩は即ち浄居摩醯首羅にして、世間の所謂毘舎闍(顛狂鬼又は噉人精気鬼と訳す)摩醯首羅と同じからずとなすの意なり。又「華厳経探玄記巻9」に、「十地経論」の摩醯首羅智処の語を釈し、「智処に四義あり、一に下三禅は慧多く定少きを以って智をして勝れざらしむ。四無色の中は定多く慧少く、智も亦た勝ならず。此の第四禅は定慧等しきが故に、是の故に智勝る。故に智処と云う。二に此の処は五那含天にして、是れ聖人所生の処なり。聖人は智勝るるが故に智処と云う。三に此の処に十地の菩薩あり、報果を摂す。彼の菩薩は十度の行を摂し、別に智度を成ず、故に彼処を名づけて名づけて以って智処と為す。四に此の処は報身仏を成じ、一切智一切種智を得ることを以っての故に、此の処を名づけて以って智処となす。此れは是れ世間中の最高勝処にして、彼に於いて現に成仏するが故に世間高大の身と云うなり」と云えり。是れ蓋し第十地の菩薩は遂に成仏して三千大千世界の化主となるが故に、之を彼の三界の主なる外道の大自在天に比擬したるものなると同時に、亦応化身が閻浮提に於いて成仏するに対し、報身の成道は即ち色究竟天の最頂に在ることを示さんとするの意に出でたるものというべし。大自在天の形像に関しては諸説あり、「大般涅槃経巻2」に、「摩醯首羅の面上の三目の如し」と云い、「同巻17」に、「梵天自在天八臂天」と云い、「大智度論巻2」に、「摩醯首羅天(秦に大自在と言う)は、八臂三眼にして白牛に騎る」と云い、又「止観補行伝弘決巻10之1」に、「摩醯首羅天は此に大自在と云う、色界頂の天なり。三目八臂にして白牛に騎り、白拂を執る。大威力ありて能く世界を傾覆す。世を挙げて之を尊び、以って化の本と為す」と云えり。是れ三目八臂説にして、其の由来する所最も古しというべし。又「法華経巻1方便品」、「新華厳経巻15賢首品」、「仏所行讃巻3」、「梵網経巻上」、「大教王経巻11」、「守護大千国土経巻下」、「大宝楼閣善住秘密陀羅尼経」、「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」、「不空羂索神変真言経巻16」、「金剛頂瑜伽護摩儀軌」、「摩醯首羅大自在天王神通化生技藝天女念誦法」、「大吉義神呪経巻4」、「陀羅尼雑集巻1、2」、「倶舎論巻7」、「成唯識論巻7」、「同了義灯巻6本」、「観音義疏巻下」、「大乗法苑義林章巻7末」、「玄法寺儀軌巻3」、「大黒天法」、「大日経疏巻10」、「翻梵語巻7」、「慧琳音義巻26、42」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
  韋紐天(いちゅうてん):梵名韋紐viSNuは、印度教の一派に於いて、宇宙創造の最高神格として崇拜さるる神の名。『大智度論巻8上注:毘瑟笯天』参照。
  金翅鳥(こんじちょう):梵名蘇鉢刺尼suparNiの訳。又迦楼羅garuDaとも名づく。大怪鳥の名。『大智度論巻25(下)注:迦楼羅』参照。
  鳩摩羅天(くまらてん):梵名鳩摩羅kumaaraは初禅梵王の名。『大智度論巻2下注:鳩摩羅』参照。
  鳩摩羅(くまら):梵名kumaara。又鳩摩羅伽、鳩摩囉迦、拘摩羅、俱摩羅、矩磨羅に作る。童子と訳す。護世二十六天の一。即ち初禅梵王にして、其の顔童子の如くなるが故に此の名ありと云う。「大智度論巻2」に是の天は雞を擎げ、鈴を持し、赤幡を捉りて孔雀に騎ると云い、「大日経疏巻16」に、「俱摩羅には鑠底の印を作せ。大自在の子なり」と云える是れなり。又「大日経疏巻5」に、塞健那を童子天とし、「摂大儀軌巻中」にも、「塞建は童子と翻ず。三首にして孔雀に乗る」と云うに依り、去来密家に於いて塞健那と俱摩羅とを同一天とし、之を金胎両部曼荼羅中に安ぜり。又「大日経疏巻10」、「蘇悉地羯羅経略疏巻3」、「中観論疏巻1末、7」、「翻梵語巻1」、「慧琳音義巻26」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
答曰。此不應一切智。何以故。瞋恚憍慢心著故。如偈說
 若彩畫像及泥像 
 聞經中天及讚天 
 如是四種諸天等 
 各各手執諸兵杖 
 若力不如畏怖他 
 若心不善恐怖他 
 此天定必若怖他 
 若少力故畏怖他 
 是天一切常怖畏 
 不能除卻諸衰苦 
 有人奉事恭敬者 
 現世不免沒憂海 
 有人不敬不供養 
 現世不妨受富樂 
 當知虛誑無實事 
 是故智人不屬天 
 若世間中諸眾生 
 業因緣故如循環 
 福德緣故生天上 
 雜業因緣故人中 
 世間行業屬因緣 
 是故智者不依天
答えて曰く、此れは応に一切智なるべからず。何を以っての故に、瞋恚、軽慢の心著するが故なり。偈に説くが如し、――
若しは彩画の像、及び泥の像、
経中に聞く天、及び讃の天、
是の如き四種の、諸天等は、
各各手に、諸の兵杖を執る。
若しは力如かざるに、他を畏怖し、
若しは心不善にして、他を恐怖す、
此の天は定んで必ず、若しは他を怖れ、
若しは少力の故に、他を畏怖す。

是の天は一切を、常に怖畏して、
諸の衰苦を、除却する能わず、
有る人奉事して、恭敬するも、
現世には、憂海に没するを免れず。
有る人敬わずして、供養せざるも、
現世には、富楽を受くるを妨げず、
当に知るべし、虚誑にして実事無きを、
是の故に智人は、天に属せず。

若し世間の中の、諸の衆生なれば、
業の因縁の故に、如(まさ)に循環すべし、
福徳の縁の故に、天上に生じ、
雑業の因縁の故に、人中なり。
世間の行業は、因縁に属す、
是の故に智者は、天に依らず。
答え、
此れは、
『一切智のはずがない!』、
何故ならば、
『瞋恚、憍慢』の、
『心』で、
『著するからである!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
若しは、
『彩画の像』、
『泥の像』、
『経中に聞く天』、
『讃歌中の天』、
是れ等の、
『四種の諸天』等は、
各々、
『手』に、
『諸の兵杖(武器)』を、
『執()る!』が、
若しは、
『力』が、
『及ばない!』が故に、
『他』を、
『畏怖する!』か、
若しは、
『心』が、
『不善である!』が故に、
『他』を、
『恐怖しているのだろう!』。
此の、
『天』は、
必定(きっと)、
若しは、
『他』を、
『怖れている!』か、
若しは、
『力』が、
『少ない!』が故に、
是の故に、
『他』を、
『畏怖するのだ!』。
是の、
『天』は、
一切を、
『常に!』、
『怖畏して!』、
諸の、
『衰苦』を、
『除却することができない!』ので、
有る、
『人』が、
是の、
『天』を、
『奉持し!』、
『恭敬しても!』、
『現世』には、
『憂海に沈む!』ことを、
『免れない!』。
有る、
『人』が、
是の、
『天』を、
『敬わず!』、
『供養しなくても!』、
『現世』に、
『富楽を受ける!』ことを、
『妨げられない!』、
当然、こう知らねばならぬ、
是の、
『事』は、
『虚誑であり!』、
『無実である!』、と。
是の故に、
『智人』は、
『天』に、
『属さない!』。
若し、
『世間』中の、
『諸の衆生ならば!』、
『業の因縁』の故に、
『循環するだろう!』。
『福徳の因縁』の故に、
『天上』に、
『生まれ!』、
『雑業の因縁』の故に、
『人中』に、
『生まれ!』、
『世間の行業』は、
『因縁』に、
『属する!』。
是の故に、
『知者』は、
『天』に、
『依らない!』。
  兵杖(ひょうじょう):武器。
  (すい):梵語vyayaの訳。所得なき損失の義。衰耗の意。『大智度論巻2下注:五衰』参照。
  五衰(ごすい):衰は梵語vyayaの訳。五種の衰耗の意。(一)天人命終の時に現るる五種の衰相を云う。「増一阿含経巻24」に、「三十三天に一天子あり、身形に五の死の瑞応あり。云何が五と為す。一に華冠自ら萎み、二に衣裳垢坋し、三に腋下より汗を流し、四に本位を楽しまず、五に王女違叛す」と云い、「仏本行集経巻5」に、「天寿満じ已るに自然にして五衰の相現ずることあり。何等をか五と為す、一には頭上華萎み、二には腋下汗出で、三には衣裳垢膩し、四には身威光を失い、五には本座を楽しまず」と云い、「摩訶摩耶経巻下」に、「爾の時、摩耶は即ち天上に於いて五衰の相を見る。一に頭上の華萎み、二に腋下より汗出で、三に頂中の光滅し、四に両目数瞬き、五に本座を楽しまず」と云える是れなり。又「大毘婆沙論巻70」には大小二種の五衰を挙ぐ。即ち彼の文に、「諸天の中、将に命終せんとする位に先づ二種の五衰の相現ずることあり。一には小、二には大なり。云何が名づけて小の五衰の相と為すや、一には諸天往来転動するに厳身の具より五の楽声を出す。善奏楽の人も及ぶ能わざる所なり。将に命終せんとする位には此の声起らず。有が説く、復た不如意の声を出すと。二には諸天は身光赫奕として昼夜常に照らし、身に影あること無し。将に命終せんとする時、身光微しく昧し。有が説く、全く滅して身影便ち現ずと。三には諸天は膚体細滑にして香池に入りて浴するも、纔かに水を出づる時、水身に着かず、蓮華の葉の如し。将に命終せんとする位には水便ち身に着く。四には諸天は種種の境界悉く皆殊妙にして、諸根を漂脱すること旋火輪の如く、暫くも住することを得ず。将に命終せんとする位には専ら一境に著し、多時を経て捨離すること能わず。五には諸天は身力強勢にして眼嘗て瞬かず。将に命終せんとする時、身力虚劣にして眼便ち数瞬く。云何が名づけて大の五衰の相と為す、一には衣服先には浄くして今は穢る、二には華冠先には盛んにして今は萎む、三には両腋忽然として汗を流す、四には身体に歘ち臭気を生ず、五には本座に安住することを楽しまず。前の五衰の相現じ已るも猶お転ずべし、後の五衰の相現じ已らば転ずべからず」と云える是れなり。又「増一阿含経巻26、49」、「大般涅槃経巻19」、「倶舎論巻19」、「経律異相巻4」、「法苑珠林巻5」、「法華玄義釈籤巻6下」、「大明三蔵法数巻22」等に出づ。(二)犯戒に由りて受くる五種の衰耗の果を云う。「四分律巻59」に、「破戒に五の過失あり、自ら害し、尊者の為に呵せられ、悪名ありて流布し、臨終の時に悔恨を生じ、死して悪道に堕す。是れを五と為す」と云い、「長阿含巻2遊行経」に、「凡そ人犯戒せば五の衰耗あり。何をか謂って五と為す、一には財を求むるも所願遂げず、二には設い所得あるも日に当に衰耗すべし、三には在所至処に衆の敬せざる所なり、四には醜名悪声天下に流聞す、五には身壊命終して当に地獄に入るべし」と云える是れなり。又「般泥洹経巻上」、「過去現在因果経巻3」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻3」、「四分律行事鈔資持記巻上1之3」、「釈氏要覧巻上」等に出づ。<(望)
  除却(じょきゃく):除きさる。
  奉事(ぶじ):奉仕する。
  恭敬(くぎょう):恭しくうやまう。
  虚誑(ここう):うそいつわり。
  (にょ):[本義]従う( follow )。似る( like, as if )、匹敵する( can be compared with )、去る/往く( go )、遭遇する/出会う( meet )、例えば( for instance, for example, such as )、抵抗する( resist )、応に/当に( should )、従う/従順に/その通りに( in accordance with, in conformity to, comply with )、若し/設令( if )、~と/与/和( and )、或は( or )、而し( but )、則ち( then )、語末の助辞/然、語末の助辞/かな/乎。
復次是三天愛之則欲令得一切願。惡之則欲令七世滅。 復た次ぎに、是の三天は、之を愛すれば、則ち一切の願を得しめ、之を悪めば、則ち七世をして滅せしめんと欲す。
復た次ぎに、
是の、
『三天』は、
是の、
『天』を、
『愛すれば!』、
則ち、
『一切の願』を、
『得させようとし!』、
是の、
『天』を、
『悪めば!』、
則ち、
『七世の末裔』まで、
『滅(ほろ)ぼそうとする!』。
佛不爾。菩薩時若怨家賊來欲殺。尚自以身肉頭目髓腦而供養之。何況得佛。不惜身時。以是故獨佛應當受佛名號。應當歸命佛。以佛為師不應事天。 仏は、爾らず、菩薩の時にすら、若し怨家の賊来たりて、殺さんと欲せば、尚お自ら身肉、頭目、髄脳を以って、之を供養す。何に況んや、仏を得て、身を惜まざる時をや。是を以っての故に、独り仏のみ、応当に、仏の名号を受くべし。応当に仏に帰命し、仏を以って師と為すべし。応に天に事(つか)うべからず。
『仏』は、
そうではない、――
『菩薩の時』すら、
若し、
『怨家の賊』が、
『来て!』、
『殺そうとすれば!』、
尚お、
自らの、
『身肉、頭目、髄脳』で、
之を、
『供養したのである!』。
況して、
『仏を得て!』、
『身』を、
『惜まない!』時には、
『尚更である!』。
是の故に、
独り、
『仏のみ!』が、
『仏という!』、
『名号』を、
『受けるべきである!』が故に、
当然、
『仏のみ!』に、
『帰命せねばならず!』、
当然、
『仏のみ!』を、
『師と為さねばならず!』、
当然、
『天』に、
『事(つか)えてはならないのである!』。
  怨家(おんけ):かたきのいえ。仇敵の一族。
復次佛有二事。一者大功德神通力。二者第一淨心諸結使滅。 復た次ぎに、仏には、二事有り、一には、大功徳の神通力、二には、第一の浄心に諸の結使滅す。
復た次ぎに、
『仏』には、
『二事』有り、
一には、
『大功徳』の、
『神通力であり!』。
二には、
『諸の結使の滅した!』、
『第一の浄心である!』。
諸天雖有福德神力。諸結使不滅故心不清淨。心不清淨故神力亦少。 諸天は、福徳の神力有りと雖も、諸の結使滅せざるが故に、清浄ならず。心清浄ならざるが故に、神力も、亦た少なし。
諸の、
『天』にも、
『福徳』の、
『神力』が、
『有る!』が、
諸の、
『結使が滅していない!』が故に、
『心』が、
『清浄でなく!』、
『心が清浄でない!』が故に、
『神力』も、
『少ないのである!』。
聲聞辟支佛雖結使滅心清淨。福德薄故力勢少。 声聞、辟支仏は、結使滅して、心清浄なりと雖も、福徳薄きが故に、力勢少なし。
『声聞、辟支仏』は、
『結使が滅して!』、
『心』が、
『清浄である!』が、
『福徳が薄い!』が故に、
『力勢』が、
『少ない!』。
佛二法滿足故稱勝一切人。餘人不勝一切人。婆伽婆名有德。先已說。 仏は、二法満足するが故に、一切の人に勝ると称す。余人は、一切の人に勝らず。婆伽婆を有徳と名づくること、先に已に説けり。
『仏』は、
『二法(清浄、力勢)』が、
『満足である!』が故に、
一切の、
『人に勝る!』と、
『称する!』が、
『余人』は、
『人』に、
『勝っても!』、
『一切ではない!』。
『婆伽婆』を、
『有徳』と、
『称する!』のは、
先に、
已に、
『説いた通りである!』。



阿娑磨(無等)

復名阿婆磨。(秦言無等) 復た阿娑摩と名づけ、秦に無等と言う。
復た、
『阿娑摩( asama )』と、
『称して!』、
秦には、
『無等』と、
『言う!』。
  阿婆磨(あばま):他本に従い阿娑摩に改む。
  阿娑磨(あしゃま):梵名asama。無等と訳す。仏の尊号。之に比せば余の生に与に等しき者の無しの意。



阿娑摩娑摩(無等等)

復名阿婆摩婆摩(秦言無等等) 復た阿娑摩娑摩と名づけ、秦に無等等と言う。
復た、
『阿娑摩娑摩( asamasama )』と、
『称して!』、
秦に、
『無等等』と、
『言う!』。
  阿婆摩婆摩(あばまばま):他本に従い阿娑摩娑摩に改む。
  阿娑磨娑磨(あしゃましゃま):梵名asamasama。無等等と訳す。仏道及び仏の尊号。仏道の超絶にして与に等しき者の無きが故に無等といい、唯だ仏と仏とのみ等しきが故に無等等という。



路迦那他(世尊)

復名路迦那他(秦言世尊) 復た路迦那他と名づけ、秦に世尊と言う。
復た、
『路迦那他( lokanaatha )』と、
『称して!』、
秦に、
『世尊』と、
『言う!』。
  路伽那多(ろかなた):梵名lokanaatha。世尊と訳す。仏の尊号。仏の万徳を具え世に尊重さるるが故に、また世に於いて独り尊きが故にこの称あり。



波羅伽(度彼岸)

復名波羅伽(秦言度彼岸) 復た波羅伽と名づけ、秦に度彼岸と言う。
復た、
『波羅伽( paaramitaa )』と、
『称して!』、
秦に、
『度彼岸』と、
『言う!』。
  波羅伽(はらか):梵名paaramitaa。度彼岸と訳す。仏の尊号。



婆檀陀(大徳)

復名婆檀陀(秦言大德) 復た婆檀陀と名づけ、秦に大徳と言う。
復た、
『婆檀陀( bhadanta )』と、
『称して!』、
秦に、
『大徳』と、
『言う!』。
  婆檀陀(ばだんだ):梵名bhadanta。大徳と訳す。仏の尊号。



尸梨伽那(厚徳)

復名尸梨伽那(秦言厚德)如是等無量名號。 復た尸梨伽那と名づけ、秦に厚徳と言う。是の如き等の無量の名号あり。
復た、
『尸梨伽那( zriguNa )』と、
『称して!』、
秦に、
『厚徳』と、
『言う!』。
是れ等のような、
無量の、
『名号』が、
『有る!』。
  尸梨伽那(しりかな):梵名zriguNa。厚徳と訳す。仏の尊号。



悉達陀(成利)

父母名字悉達陀(秦言成利)得道時知一切諸法故。是名為佛。應受諸天世人供養。如是等得名大德厚德。如是種種隨德立名。 父母の名づくるに、悉達多と字(な)づけ、秦に成利と言う。道を得し時に、一切の諸法を知るが故に、是れを名づけて、仏と為す。応に諸天、世人の供養を受くべく、是の如き等は、大徳、厚徳と名づくるを得。是の如き種種の徳に随いて、名を立つ。
『父、母』には、
『悉達陀( siddhaartha )』と、
『呼ばれ!』、
秦には、
『成利( siddha-artha )』と、
『言い!』、
『道を得た!』時、
一切の、
『諸法』を、
『知る!』が故に、
是れを、
『仏』と、
『称し!』、
当然、
『諸天、世人』の、
『供養を受ける!』に、
『相応しく!』、
是れ等は、
『大徳、厚徳』と、
『呼ばれる!』に、
『相応しい!』。
是のような、
種種の、
『徳に随って!』、
『名』が、
『立てられるのである!』。
   悉達多(しっだるた):梵名siddhaartha。乃ち釈尊の浄飯王の太子たりし時の名なり。又薩婆悉達多sarvasiddhaartha、薩婆頞他悉陀、薩縛頞他悉地、悉達羅他、悉多頞他、悉達、悉多、悉陀等に作り、意訳して一切義成、一切事成、財吉、吉財、成利、験事、験義等に作る。釈尊出生して迦毘羅城浄飯王の長子たりし時、善占相の阿私陀(asita)仙人、此の王子の過去世に於ける諸の善根功徳に因り、殊勝の相好を具備し、能く一切の善事を成就せんことを知暁し、また曽て王子、若し在家なれば必ず転輪聖王と為り、若し出家せば則ち無上正覚を成就せんと預言せるに、上述の意義を表示せんが為の故に悉達多と命名せり。<(佛)『大智度論巻2下注:釈迦牟尼仏』参照。
  釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ):梵名zaakya-muni-buddha。巴梨名sakya-muni、又釈迦文尼、奢迦夜牟尼、釈迦牟曩、釈迦文に作り、略して釈迦、或いは牟尼、文尼とも云う。能仁、能忍、能寂、能寂黙、能儒、能満、度沃焦等と訳し、或いは梵漢兼挙して釈迦寂静と云い、尊んで又釈尊とも称す。即ち仏教の教祖なり。其の称号に関し、釈迦zaakya(或いはzakya)は種族の名にして能の義、牟尼muniは尊称にして、寂黙、又は賢人の義、即ち釈迦族の賢人の意なり。牟尼の由来に関し、「佛本行集経巻20観諸異道品」に、「菩薩(即ち釈尊)路を行くに諦視徐行し、人ありて借問するも黙然として答えず。彼等人民各相語りて言わく、此の仙人は必ず釈種子ならんと。此れに因りて釈迦牟尼と名づくることを得」と云い、又「有部毘奈耶雑事巻20」に、「太子は城(劫比羅)に入るに、皆悉く黙然牟尼として語るものなし。応に太子に名を与えて釈迦牟尼と曰うべしと。此れは是れ菩薩第二の立名なり」と云えり。是れ牟尼を単に黙然の義となせるものなり。又「阿毘曇八犍度論巻30」に、「文尼は度沃焦なり。沃焦とは無限の生死なり、彼の無学の文尼は已に度し、学の文尼は方に度す。故に文尼度沃焦と曰う」と云えり。是れ牟尼を以って生死を度するの意に解したるものにして、恐らく義訳なるべし。仏陀釈迦牟尼の降誕は今を距つる約二千五百年前に在り。父は中印度迦毘羅kapila-vastu(又はkapila-hvaya)城主浄飯zuddhodana王、母は摩耶maayaaにして、即ち隣国拘利koli城主の女なり。摩耶は既に懐妊し、産期近づけるを以って、当時の習慣に随い拘利城に還らんと欲し、途次藍毘尼luMbinii園に到るに偶ま産気発し、遂に園中に於いて男子を生む。即ち釈尊なり。「中阿含巻8未曽有法経」に依るに、釈尊は過去迦葉仏の時、仏道を志願し、梵行を行じて兜率tusita天に上り、尋いで下天して摩耶の聖胎に托する時、天地震動し、大光明ありて普く世間を照らす。母胎に住するの間は右脇に依倚して其の体を舒べ、血精不浄の為に汚されず。胎を出づる時も亦天地震動し、光明普く世間を照らす。四天子あり手に極細衣を執り、夫人の前に住して童子を讃嘆するに、童子は諸方を観察して七歩せり。時に大池生じ、夫人は其の水によりて浄められ、虚空より冷暖の雨水注下して童子の身に潅ぎ、諸天亦伎楽を奏じて諸種の華香を散じたりと云い、又「修行本起経巻上降身品」、「普曜経巻2欲生時三十二瑞品」、「異出菩薩本起経」、「過去現在因果経巻1」、「仏本行集経巻8樹下誕生品」、「有部毘奈耶雑事巻20」等には、童子は生誕し、行くこと七歩にして手を挙げ、「天上天下唯我為尊、三界皆苦吾当安之」と叫ばれたりと記せり。既にして太子は父王の宮に還り、悉達多siddhaartha(巴siddattha)と命名せらる。悉達多は又薩婆悉達sarva-siddhaartha、薩婆額他悉陀sarvaartha-siddha(巴sabba-siddatta)、薩婆曷刺他悉陀、悉達羅他、或いは悉達に作り、一切義成、一切事成、財吉、吉財、成利、験事、験義等と訳す。即ち「衆許摩訶帝経巻3」に、「爾の時、浄飯王此の祥瑞の種種殊勝なるを見、自ら言って曰わく、我が子降生して大吉祥を具し、能く一切の福徳を円満し、能く一切の善事を成就す。応に為に号を立てて一切義成と名づくべし」と云える是れなり。仏母摩耶は太子生誕の後幾ばくもなく逝去せられしを以って、太子は母妹波闍prajaapatiに依りて養育せられ、長ずるに及び文武の諸藝を習いて皆之に通暁せり。「仏本行集経巻11習学技藝品」、「有部毘奈耶破僧事巻3」等に、太子学藝の師は婆羅門毘奢蜜多羅vizvaamitra(彩光甲)にして、武技の師は羼提提婆kSaantideva(忍天)なりしと云えり。尋いで十七歳(一説に十六歳、十九歳、二十歳)にして、拘利城主善覚suprabuddha王の女耶輸陀羅yazodharaaを迎えて妃とせり。然るに太子は夙に出家学道の志あり、「修行本起経巻下遊観品」等に依るに、太子は嘗て王城の四門より出遊して老者病者死者及び沙門に会い、又虫鳥の相噉うを観て、世の無常にして頼むべからざるを痛感し、常に禅定を事とせられたりと云えり。軈て一子羅睺羅raahulaを挙げ、浄飯王家の継嗣を得るに及び、其の宿志を遂げんと欲し、二十九歳(一説に十九歳)にして、窃かに王宮を出で、自ら衣冠を脱して沙門となり、東南毘舎離vaizaali国に到り、跋伽婆bhaagavaを訪いて道を求められしも、其の所説は太子の意を満たすに足らず。更に南方恒河を渡り、摩揭陀国王舎城raajagRha(一説に毘舎離城)附近に住せる阿羅邏迦藍aaraaDa-kaalaama(一説に阿羅邏と迦藍の二人とす)、及び優陀羅羅摩子udraaka-raamaputraを訪い、其の教を受けしも、皆解脱の道に非ざるを知り、遂に西南尼連禅nairaJjanaa河を渡り、伽耶gayaa城附近の林vanaに入りて自ら思惟考察を事とし、以って真の解脱に達せんことを決意せり。之より先き浄飯王は使を遣して太子の帰郷を促せしも、太子は解脱の道に精進せんことを乞われしを以って、乃ち憍陳如kauNDinya等の五人をして太子に侍従し、修行の伴侶たらしめたり。斯くて太子は数年の間林中に於いて自ら減食等を実行し、久しく苦修練行を積みしが、後遂に苦行は得道の因に非ざるを悟り、因りて苦行林を出で、尼連禅河に入りて沐浴し、乳糜の供養を受けて気力を恢復することを得たり。時に憍陳如等は之を見て修道の堕落となし、乃ち太子を捨てて西方波羅奈baaraaNasii城鹿野mRgadaava園に去れり。是に於いて太子は独り自ら進んで畢波羅pippala樹(即ち菩提樹bodhi-druma)下に至り、金剛座上に吉祥草kuzaを敷きて坐し、等正覚を成ぜざれば此の座を起たじと決意し、数日を経て遂に廓然として大悟し、仏陀成道の自覚を体得せり。時に年三十五歳(一説に三十歳)なり。「修行本起経巻下六年勤苦品」、「同降魔品」、「過去現在因果経巻3」、「仏本行集経巻26至30」、「五分律巻15」等に依るに、当時魔王波旬paapiiyaanは諸の眷属軍衆を率い来たりて太子を悩乱し、成道を妨げんとせしも太子は毫も動ずる所なく、四禅を得て十二因縁を観じ、苦の本を解脱するの道を得られたりと云い、又「中阿含巻56羅摩経」には、「草を持して覚樹に往詣し、到り已りて下に布き、尼師壇を敷きて結跏趺坐し、坐を解かずして漏尽を得るに至らんと要し、我れ便ち坐を解かずして漏尽を得るに至り、我れ無病無上安穏涅槃を求めて便ち無病無上安穏涅槃を得、無老無死無愁憂慼無穢汚無上安穏涅槃を求めて便ち無老無死無愁憂慼無穢汚無上安穏涅槃を得、知を生じ見を生じ、道品の法を定め、生已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辨じ、更に有を受けじと。知ること真の如くにして、我れ初めて無上正尽覚を覚す」と云えり。以って成道時の試練及び内観を見るべし。斯くて仏陀は已に成道し、後暫く其の地に留まりて解脱の楽を受け、尋いで他に対して自覚法を説くべきや否やに就き思惟するに、時に娑婆世界の主大梵天王mahaa-brahmaa来たりて説法を勧請せりと云う。是に於いて仏陀は鹿野園に赴き、先に去りし憍陳如等の五人の為に説法し、それを以って得道せしむ。之を初転法輪と為す。「雑阿含経巻15」、「転法輪経」、「五分律巻15」、「有部毘奈耶雑事巻39」等に依るに、初転法輪に於いて仏陀は四聖諦并びに八正道の法を演説し、愛欲及び苦行の二辺を離れて中道を行ずべきことを示されたりと云えり。尋いで仏陀は其の地の長者耶舎yaza等を教化し、更に尼連禅河附近の優婁頻螺聚落に赴き、事火外道たる優婁頻螺迦葉uruvilvaa-kaazyapa、那提迦葉nadii-k.、伽耶迦葉gayaa-k.の三兄弟及び其の弟子一千人を度し、又王舎城に入りて摩揭陀国王頻婆娑羅bimbisaaraに説法し、其の帰依する所となれり。時に迦蘭陀kalanda長者は、其の所有の竹園を仏陀に献じたるを以って、王は園中に精舎を建てて仏陀を招請せり。是れ即ち迦蘭陀竹林veNuvana-kalandaka-nivaapa精舎なり。仏陀は又刪闍耶外道にして、王舎城附近に住せる舎利弗zaariputra、大目揵連mahaamaudgalyaayana並びに其の徒衆二百五十人を教化して之を弟子とし、仏弟子総じて千二百五十人ardha-trayodaza-bhikSu-zataを得るに至れり。尋いで父浄飯王の招きによりて迦毘羅城に帰省し、父王を始め妃等の為に説法せり。時に浄飯王家の後嗣異母弟難陀nandaを始め、羅睺羅、阿[少/兔]婁駄aniruddha、阿難陀aananda、提婆達多devadatta、及び釈種の理髪人たりし優波離upaali等も、同時に出家して弟子となり、其の教団は頓に増大せり。尋いで仏陀は王舎城に赴き、偶ま舎衛城zraavastiiの長者須達多sudattaの為に説法し給いしが、長者は之に感じ、国に還りて舎衛城の太子祇多jetaの所有に係る園林を譲り受け、林中に大精舎を建てて仏陀に献ぜり。是れ所謂祇樹給孤獨園jetavanaanaathapiNDadasyaaraamaなり。仏陀は須達多の請に応じて舎衛城に遊行し、国主波斯匿prasenajit王を教化し、又毘舎離国王の請により彼の地に遊化し、後又迦毘羅城と拘利城との間に起れる水利の諍論を調停せんが為に再び迦毘羅城に還り、偶ま父王の崩去に遭い、其の葬に会せられたり。時に姨母の波闍波提及び妃耶輸陀羅等も皆出家して仏弟子となれり、是れより比丘尼の教団あるに至れり。後仏陀は諸所に遊行し、到る処に説法して貴賎男女を化益せられたるも、詳細に其等の行迹を伝うるものなし。「僧伽羅刹所集経巻下」に仏陀成道以後四十四年間に於ける夏安居の処所を記するに依るに、仏陀は波羅奈国に於いて初めて法輪を転じ、即ち此に於いて夏坐し、摩竭magadha国王に益あり。成道第二第三第四年は霊鷲頂gRdhrakiita山(王舎城附近)、第五年は脾舒離vaizaalii、第六年は摩拘羅makula山(憍賞弥kauzaambiiに在り)、第七年は母の為に三十三天、第八年は鬼神界、第九年は拘苫毘kakuzaambii国、第十年は枝提山caitya-giri (-parvata)、第十一年は復た鬼神界、第十二年は摩伽陀閑居処、第十三年は復た鬼神界、第十四年は舎衛祇樹給孤獨園、第十五年は迦維羅衛kapila-vastu国釈種村、第十六年は迦維羅衛国、第十七第十八年は羅閲城raajagRha、第十九年は柘梨山中(柘梨は恐らくcaaliyaの音写にして、大唐西域記巻6室羅伐悉底国の條に出せる鴦窶利摩羅aGgulimaalaa捨邪の地なるべし)、第二十年は羅閲城、第二十一年は柘梨山中に還り、鬼神界に於いて余処を経歴せずして四夏坐を連ね、爾後十九年亦余処を経歴せずして舎衛国に於いて夏坐し、最後に跋祇vRji境界毘将村に於いて夏坐せられたりとし、又「八大霊塔名号経」には、仏陀は二十九載王宮に処し、六年雪山に苦行を修し、五歳王舎城に化度し、四年毘沙林に在り、二年惹里巌に安居し、二十三載舎衛に止まり、広厳城vaizaalii、鹿野苑、摩拘梨、忉利天、尸輸那、憍睒弥、宝塔山、大野aalavii、尾努聚落、吠蘭帝veraJja、及び浄飯王都迦毘城に各一年行住せられたりと云えり。又リス・デヴィヅは「錫蘭及び緬甸仏伝」、並びに「巴梨文法句経註dhammapada atthakathaa」等に依りて、祇樹給孤獨園建立以後に於ける仏陀の行跡を記述し、成道第四年に仏陀は暫く毘舎離の大林mahaa-vanaに留まり、後迦毘羅城に還りて釈迦族と拘利族との諍論を調停し、大林に安居し、第五年には安居中、迦毘羅城に赴きて父王の崩去に会し、再び大林の重閣講堂kuuTaagaarasaali-vihaaraに還り、波闍波提等の出家を許し、後摩拘羅山に退き、第六年に其の地に安居し、又仏母摩耶の為に上天説法し、第七年僧迦舎saGkissaに下り、祇樹給孤獨園に赴き、第八年は迦毘羅城に近きサンスマーラsansumaaraに安居して憍賞弥に赴き、第九年にモーガリmogaliの僧伽を撹乱するを避けてパーリレーッヤカpaarileyyakaに退き、翌年村人の建てし小屋に安居し、モーガリ等の罪を許して舎衛城に到り、更に摩揭陀国に赴き、第十一年王舎城附近に安居して憍薩羅国(サティアビアsatiabia)に到り、第十二年同国吠蘭帝に移りて安居し、更にマンタラmantala、波羅㮏、毘舎離、舎衛城等を遊行し、羅睺羅の為に「大羅云経mahaa-raahula-sutta」を説き、第十三年柘梨caaliyaに安居して舎衛城に還り、第十四年祇樹給孤獨園に於いて羅睺羅に僧職を与え、為に「羅云経」を説き、後迦毘羅城に赴き、第十五年迦毘羅城附近の尼拘律nigrodha林中に安居し、祇樹給孤獨園に還り、第十六年アーラヰーaarawii(aalavi?)に赴き、鬼子母haariitiを教化し、第十七年王舎城に安居し、後舎衛城よりアーラヰーに到り、第十八年柘梨山に安居し、第十九年竹林に安居し、摩揭陀を遊行して舎衛城に還り、第二十年同地に安居し、阿難を常随の侍者と定め、又柘梨附近の森林に於いて鴦窶利摩羅を教化せられたりとなせり。就中、「僧伽羅刹所集経」等に仏陀が王舍及び舎衛の二城に多く止住せられたりとなせるは、「大智度論巻3」の所伝に合し、又「分別功徳論巻2」並びに「高僧法顕伝」に、仏陀は二十五年間舎衛城に居住せられたりと云うに略ぼ一致する所あり。是れ蓋し王舎城は摩揭陀国の都城にして、当時印度文化の中心地なりしが故に自ら教化を受くる者多く、又其の附近に耆闍崛山等あり、且つ其の王頻婆娑羅が深く仏陀に帰依せしに由るべく、又舎衛城は北憍薩羅国の都城にして住民多く、且つ祇樹給孤獨精舎等あり、又其の王波斯匿も亦仏陀を崇仰せしが為なるべし。兎も角、仏陀の教化は摩揭陀及び憍薩羅を中心とし、主として中印度地方に行われたるが如し。是の如く仏教教団の新に勃興するに伴い、自ら外道婆羅門等の反抗を来たし、或いは虚偽の事実を構えて仏陀を誹謗し、或いは危害を加えんとする者あるに至り、特に其の晩年提婆達多が叛逆を企てしことは其の最も痛恨とする所なり。「出曜経巻16」、「五分律巻3、25」、「四分律巻46」、「毘尼母経巻4」、「有部毘奈耶破僧事巻13、14」等に依るに、提婆達多は仏陀が既に老齢に達せられたるを以って、一日仏陀に迫りて教団の僧衆を譲与せんことを乞いしも、許されざりしを以って大いに憤懣し、因って頻婆娑羅王の太子阿闍世ajaatazatruを教唆し、父を弑して新王たらしめ、自ら亦仏陀を害して新仏たらんことを企て、酔象を放ちて仏陀を要撃し、或いは大石を落下して仏身を傷つけしも、仏陀を害する能わざりしを以って、遂に仏弟子を誘引し、自ら独立の教団を設けて仏陀に対抗せり。されど、反逆は永く続くべくもなく、舎利弗等の勧説に依りて彼の僧衆は多く正法に復帰し、提婆達多は生きながらにして堕獄せりと伝えらる。「善見律毘婆沙巻2」に阿闍世登位八年仏涅槃すと云うに依れば、提婆達多の反逆は仏陀七十余歳の時に起れる事実なるを知るべし。後又波斯匿王の太子琉璃viDuuDabhaは王位に登り、迦毘羅城を攻めて釈迦族を亡せり。「増一阿含経巻26」、「義足経巻下維楼勒王経」及び「五分律巻21」等に依るに、当時大目揵連等は仏陀に対し、釈迦族を救わんことを建言せしも、仏陀は同族の宿業を説きて滅亡の止むなきを諭示せられたりと云えり。斯くて仏陀の晩年は聊か無事ならざりしが如きも、其の教化は既に普及し、所謂度すべきものは已に度し、未だ度せざるものも亦已に得度の因縁をなさしめたるが故に、仏陀は遂に世寿八十歳を以って拘尸那伽羅kuzinagaraに於いて涅槃に入り給えり。「長阿含巻2遊行経」等に依るに、仏陀は毘舎離城附近の竹林叢beluvagaamaに於いて阿難と共に最後の安居をなし、時に病疾を感ぜられしも、精進して痛苦を忍び、阿難を伴いて遮婆羅caapaala塔に到り、魔王波旬が速かに滅度すべしと云える勧請を却け、定意三昧に入り、更に香塔kuuTaagaaraに詣りて諸比丘を集会し、水乳和合して諍訟を生ずべからざるを諭し、且つ却後三月にして自ら涅槃すべきを宣し、尋いで菴婆羅amba村及び負弥城bhoga-nagaraの北尸舎婆林siMsapaa-vana等に於いて説法し、転じて波婆paavaa城に赴き、冶工純陀cundaの捧ぐる栴檀樹耳suukara-maddavaの供養を受け、又富貴pukkusaを教化し、拘孫河kakuTTha-nadii提上に憩うて渇を医し、且つ其の身を澡浴し、遂に拘尸那伽羅城外末羅mallaa族所有の娑羅saala双樹の間に到りて之を涅槃処となし、阿難をして牀座を敷かしめ、頭北面西にして臥し給えり。時に城内の梵志須跋陀羅subhadda来たりて所疑を決せんことを乞うにより、仏陀は為に説法して最後の弟子と為し、又阿難を慰藉し、更に諸比丘に対して所疑あらば速かに諮問すべしと告げられたるも、比丘等は黙然として言を発するものなかりしを以って、仏陀は彼等が已に浄信を得て法に於いて疑滞なきを知り、常に精進不放逸なるべきを諭し、尋いで初禅より四禅に入り、大円寂に帰せられたることを記せり。時に人天慟哭して世間眼の滅を唱え、双林変じて白鶴の如くなりしと云う。斯くて仏陀の遺骸は末羅族に依りて拘尸那城北の天冠makuTa-bandhana寺に運ばれ、七日供養の後、摩訶迦葉mahaa-kassapa等も参会せしを以って遂に荼毘に附し、其の遺骨は香姓doNa婆羅門に依りて、拘尸那伽羅、波婆、遮羅allakappa、羅摩伽raamagaama、毘留提vethadiipa、迦毘羅、毘舎離、摩揭陀の八国に分配され、又香姓婆羅門は自ら舎利瓶、畢鉢pipphalivana村人は地燋炭を得、各皆塔を建てて之を供養せりと云う。仏陀入滅の年代は去来伝説区区にして一定し難きものあるも、「衆聖点記」の所伝に依れば、西暦紀元前486年に相当するが如し。又仏陀の年寿は「菩薩処胎経巻2三世等品」に八十四、「大毘婆沙論巻126」に八十余、「般泥洹経巻下」に七十九となせるも、「巴梨文大般涅槃経mahaaparinibbaana-sutta,V.」、「金光明経巻1寿量品」、「八大霊塔名号経」、並びに「緬甸所伝」等に皆八十となせり。若し之に依りて降誕の年代を推算せば、即ち西暦紀元前565年に当れり。又降誕等の月日も諸経論に伝うる所一準ならず。就中、降誕に関しては、「長阿含経巻4」、「過去現在因果経巻1」、「仏本行集経巻7」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」等に二月八日とし、「修行本起経菩薩降身品」に四月七日(一に八日に作る)、「太子瑞応本起経巻上」、「異出菩薩本起経」、「仏所行讃巻1生品」、「十二遊経」、「潅洗仏形像経」等に四月八日とし、又「大唐西域記巻6劫比羅伐窣堵国の條」には吠舎佉月後半八日(三月八日に当る)とし、且つ上座部には吠舎佉月後半十五日(此の三月十五日)の説を取ると云えり。又出家に関し、「長阿含経巻4」には二月八日、「過去現在因果経巻2」には二月七日、「修行本起経巻下出家品」に四月七日、「太子瑞応本起経巻上」、「潅洗仏形像経」等に四月八日、「巴梨文本生経仏伝」には阿沙荼月aasaaLhaa第十五日とし、又成道に関し、「長阿含経巻4」、「過去現在因果経巻3」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」に二月八日、「巴梨文大史mahaavaMsa,ch.i.」に吠舎佉月満月の日visaakha-puNNamadivasa、「大唐西域記巻8」には吠舎佉月後半八日(此の三月八日)とし、且つ上座部には吠舎佉月後半十五日(此の三月十五日)の説をなすと云えり。又初転法輪に関し、「菩薩処胎経巻7」に二月八日、「大毘婆沙論巻182」に迦栗底迦月白半八日とし、入滅に関し、「長阿含経巻4」に二月八日、「大般涅槃経巻1」、「善見律毘婆沙巻1」に二月十五日、「巴梨文一切善見sammantapaasaadikaa序」、「同律蔵vinaya-piTaka,Vol.III.」、「同大史第三章」、並びに「大唐西域記巻6拘尸那揭羅国の條」に吠舎佉月後半十五日即ち満月の日、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」に八月八日、「大毘婆沙論巻191」、及び「大唐西域記巻6所載説一切有部所伝」は迦刺底迦月後半八日とし、又「潅洗仏形像経」には四月八日となせり。蓋し是の如く多説ありと雖も、之を大別するに降誕出家及び成道に二月八日、四月八日及び二月十五日の三説、入滅に二月八日、二月十五日、及び八月八日の三説ありとなすを得べし。就中、八月八日(迦刺底迦月後半八日の訳にして、玄奘に従えば即ち唐暦九月八日に当る)入滅及び初転法輪の説は、説一切有部の所伝に係り、二月十五日(吠舎佉月後半十五日の訳にして、玄奘に従えば唐暦三月十五日に当る)降誕及び成道の説は上座部の所伝にして、元と別種の伝説なるが如し。又二月八日、四月八日の両説も、印度諸部の間に於ける所伝の相違なるやも知るべからずと雖も、印度の暦法は元と支那と同じからず、然るに訳者其の意を察せず、遂に斯かる年異を生ぜしものとも見るを得べし。按ずるに支那に於いて夏は建寅即ち太陰暦一月を以って正となし、殷は建丑即ち十二月を以って正となし、周は建子即ち十一月を以って正となす。吠舎佉月は印度紀月の第二月なるを以って、建寅立正の説に依り、其の後半八日を単に八日と訳したるものとせば、即ち二月八日説を得べく、又若し建子立正の説に依らば、吠舎佉月は即ち支那の四月に当るを以って、之を四月八日と訳したるものと云うべし。又印度の立正にも建子建寅等の別あり、若し印度建寅立正、支那建子立正の説に依らば、印度の第二月は支那の四月に当り、若し印度建子立正、支那建寅立正の説に依らば、印度の第四月は支那の二月に当れりと云うべし。道安の「二教論」に、「仏経を案ずるに、如来四月八日入胎し、二月八日生まれ、亦二月八日成道す。生及び成仏に皆光明を放つ、而も出世と云うは即ち成仏の年なり。周は十一月を以って正となす、春秋の四月は即ち夏の二月なり。天竺に依るに正を用うる夏と同じ」と云えるは、印度の立正を建寅、支那の立正を建子とし、即ち印度の二月を以って支那の四月に当るとなすの説なり。又「倶舎論宝疏巻1」に、「婆羅門国は建子を以って正を立つ。此の方には先時より建寅を以って正を立つ。建子の四月は、即ち建寅の二月なり。故に梵本を存するものは四月と云い、此の方に依るものは即ち二月と云う。根本は一なり」と云えるは、印度の立正を建子、支那の立正を建寅とし、即ち印度の四月を以って支那の二月に当るとなすの説なり。若し然らば二月八日四月八日の両説は翻訳の不同に帰すべきものにして、元と異なれる伝説に非ずというべきが如し。唐は夏暦に依りて建寅を以って正となし、且つ印度の暦法は月の十六日より翌月十五日に至る間を一月とし、之を前半(黒分)後半(白分)の二種に区別するものなれば、吠舎佉月後半八日は唐暦により推せば、玄奘の言の如く即ち三月八日に当り、又同後半十五日は即ち三月十五日に当れりというべし。蓋し仏陀釈迦牟尼は印度に出現し、其の肉体は吾等人類と異なる所なく、八十歳を以って拘尸那城外に入滅せられたるものなりと雖も、後世其の恩徳を追懐し、之を讃仰するの余り、仏陀の肉身に三十二相八十種好等の神人的特異の相状ありとし、又仏陀は過去本生に於いて六波羅蜜を満ぜんが為に種種の難行苦行を敢てせられたりとし、其の結果、仏陀には其れ等の因行に酬報せられたる真実報身あり、彼の八十入滅の身は人類応同の化身にして、即ち仏陀の実身に非ずとなし、遂に二身三身四身等の仏陀論を展開するに至れり。是れ皆仏陀の人格の崇高偉大にして、其の徳沢の異常なりしに起因するものと云うべし。凡そ仏陀行化の事迹は広く大小乗経律論等に散見すと雖も、一化一縁に関するもの多く、就中、仏伝として一代の行迹を記述するものを挙ぐれば、「修行本起経二巻」、「太子瑞応本起経二巻」、「普曜経八巻(梵本lalitavistara)」、「方広大荘厳経十二巻」、「異出菩薩本起経一巻」、「中本起経二巻」、「過去現在因果経四巻」、「興起行経二巻」、「仏本行集経六十巻」、「衆許摩訶帝経十三巻」、「仏所行讃五巻(梵本buddha-carita)」、「仏本行経七巻」、「僧伽羅刹所集経三巻」、「有部毘奈耶破僧事二十巻」、「四分律受戒揵度」、「五分律受戒揵度」、「巴梨律蔵大品mahaa-vagga,ch.i.」、「梵文大事mahaavastu第二篇」、「巴梨文本生経仏伝nidaana-kathaa(仏音buddhaghosa造)」、「マーラ・アランカーラ・ヴァットゥmaalaaMkaara-vatthu(原本散佚せるも緬甸訳あり。ビガンデーP.Bigandet之を英訳し、The Life or Legend of Gaudama,the Buddha of the Burmese.と題す)」等あり。<(望)



放牛十一譬喩

問曰。汝愛刹利種。淨飯王子字悉達多。以是故而大稱讚言一切智。一切智人無也。 問うて曰く、汝は、刹利種の浄飯王の子の、悉達多と字づくるを愛すれば、是を以っての故に、大いに称讃して、一切智と言うも、一切智の人は無きなり。
問い、
お前は、
『刹利種浄飯王の子』を、
『愛して!』、
『悉達多(成利≒嘉名)』と、
『呼んでいる!』ので、
是の故に、
而も、
『大いに称讃して!』、――
『一切智である!』と、
『言っている!』が、
実に、
『一切智』の、
『人』は、
『無い(存在しない)!』。
  刹利種(せつりしゅ):梵語刹利Satriyaは、又刹帝利に作り、王種と訳す。即ち印度四姓の一にして即ち王族、武士階級なり。『大智度論巻32下注:四姓』参照。
  浄飯王(じょうぼんおう):浄飯は梵名zuddhodanaの訳。中印度迦毘羅kapila城主。即ち釈尊の父なり。『大智度論巻50上注:浄飯王』参照。
  (じ):[本義]子を生む( give birth to )。懐胎した( pregnant )、養育する( bring up )、愛する( love )、教育する( teach )、治める( govern )、称する( style )、許嫁( girl remain to be betrothed )、文字( word; characters )、人の別名( another name taken at the age twenty )、人の名号/別名( (person's) name and alias )、契約書( receipt, contract )、文字による表現/言葉づかい/文章/詞/言いまわし( wording, words, diction, words or phrases used in certain context )、字跡/筆跡/書法/書跡/書信/手紙( handwriting, calligraphy, scripts, letters )、字体( form of a written or printed character, style of hand writing )、字音( pronunciation of a character )。
  (に):[本義]鬚/頬髭( bristle on the jaws )。[連接の辞]しかも/しかし/更に/しかも/その上に/もし/或は/しかれども( and, furthermore, moreover, but also, into the bargain, if, in case, however )、[代名詞]お前/お前の/此れ/此の( you, your, this )、[助詞]~の( of )、[語気]豈に( how could, how is it possible )、[句末の語気]のみ/耳/而已( only, merely )、如し/似る( seem, like )、[能に通じる]才能能くする( ability, can )。
答曰。不爾。汝惡邪故妒瞋佛作妄語。實有一切智人。何以故。佛一切眾生中身色顏貌端正無比。相德明具勝一切人。小人見佛身相。亦知是一切智人。何況大人。 答えて曰く、爾らず、汝は悪邪なるが故に、仏を妒瞋して、妄語を作すも、実に一切智の人は有り。何を以っての故に、仏は、一切の衆生中に、身色、顔貌の端正なること無比にして、相、徳、明を具え、一切の人に勝れば、小人すら、仏の身相を見るに、亦た是れ一切智の人なりと知る、何に況んや、大人をや。
答え、
そうでない!
お前は、
『邪悪である!』が故に、
『仏』を、
『妒(ねた)んで!』、
『瞋(いか)り!』、
是のような、
『妄語』を、
『作している!』が、
『実に!』、
『一切智』の、
『人』は、
『有るのだ!』。
何故ならば、
『仏』は、
『一切の衆生』中に、
『身色、顔貌』の、
『端正である!』こと、
『比類が無く!』、
『相、徳、明』を、
『具えて!』、
『一切の人』に、
『勝っている!』ので、
『小人』すら、
『仏』の、
『身相』を、
『見れば!』、
是れが、
『一切智の人だ!』と、
『知るのである!』から、
況して、
『大人』は、
『尚更である!』。
如放牛譬喻經中說。摩伽陀國王頻婆娑羅請佛三月。及五百弟子。王須新乳酪酥供養佛及比丘僧。語諸放牛人來近處住。日日送新乳酪酥。 『放牛譬喩経』中に説くが如し。摩伽陀国の王頻婆娑羅は、仏を請ずること三月、五百の弟子に及べり。王は、新しき乳、酪、酥を須めて仏、及び比丘僧を供養せんとして、諸の放牛人に語らく、『近き処に来て住まり、日日、新しき乳、酪、酥を送れ』、と。
『放牛譬喩経』中に説く通りである、――
『摩伽陀国王の頻婆娑羅』は、
『仏と五百の弟子』を、
『三月(三ヶ月間)』、
『請うた(招待した)!』。
『王』は、
新しい、
『乳、酪( cream/cheese )、酥( butter )』を、
『須(もと)めて!』、
『仏と比丘僧』を、
『供養する!』為に、
諸の、
『放牛人』に、こう語った、――
『近い処』に、
『来て!』、
『住まり!』、
『日日』、
『新しい乳、酪、酥』を、
『送れ!』と。
  摩伽陀国(まがだこく):摩伽陀は梵名magadha、中印度の古国の名。『大智度論巻1上注:摩揭陀国』参照。
  頻婆娑羅(びんばしゃら):梵名bimbisaara。中印度の摩揭陀(magadha)国の王。『大智度論巻30上注:頻婆娑羅』参照。
  放牛(ほうご):牧牛に同じ。
  参考:『仏説放牛経』:『佛說放牛經   後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯  聞如是。一時婆伽婆。在舍衛國祇樹給孤獨園。是時佛告諸比丘。有十一法。放牛兒不知放牛便宜。不曉養牛。何等十一。一者放牛兒不知色。二者不知相。三者不知摩刷。四者不知護瘡。五者不知作煙。六者不知擇道行。七者不知愛牛。八者不知何道渡水。九者不知逐好水草。十者[(殼-一)/牛]牛不遺殘。十一者不知分別養可用不可用。如是十一事。放牛兒不曉養護其牛者。牛終不滋息。日日有減。比丘。不知行十一事如放牛兒者。終不成沙門。此法中終不種法律根栽。無有葉枝覆蔭。不行十一事強為沙門者。死墮三惡道。何等比丘十一行。比丘不知色。不知相應摩刷。不知摩刷應護瘡。不知護瘡應作煙。不知作煙。不知擇道行。不知愛牛。不知何道渡水。不知食處。不知敬長老。比丘。云何不知色。比丘。不知四大。不知四大所造色。比丘如是不知。比丘。云何不知相。比丘。不知癡因緣相。不知黠因緣相。云何不知癡因緣相。比丘。不知黑緣。不知白緣。不知黑白緣。云何不知黠相。不知黑緣。不知白緣。不知白黑緣。比丘。如是不知相。比丘。云何應摩刷而不摩刷。比丘。設欲心發便樂著。不捨不忘不斷絕。起愚癡貪慳及餘惡心。盡懷不吐捨。如是比丘。應摩刷而不摩刷也。比丘。云何應護瘡而不護瘡。比丘。見色起想聞聲愛著。思想形體不知為惡。不護眼根耳鼻舌身心。盡馳外塵而不能護。如是比丘。應護瘡而不護瘡。云何比丘。應作煙而不作煙。比丘。所學聞不知為人說。如是比丘。應起煙而不起煙。云何比丘。不知擇道行。比丘。不入直道行。行於非道。云何行非道。比丘。入婬女里及酒會博戲處。如是比丘。為不知行道。云何比丘不知愛比丘。講說法寶時。不至心愛樂聽。如是比丘。為不知愛。云何比丘。不知渡水。比丘。不知四諦。何等四諦。比丘。不知苦諦苦習諦苦盡諦苦盡道諦。如是比丘。為不知渡水。云何比丘。不知食處。比丘。不知四意止。何等四意止。比丘。不知內觀身外觀身內外觀身。不知內觀痛外觀痛內外觀痛。不知內觀意外觀意內外觀意。不知內觀法外觀法內外觀法。如是比丘。為不知食處。云何比丘。不知食不盡。比丘。設為國王長者清信士女請食。設種種餚饌至心進上。比丘。不知齊限。食已有餘復欲持歸。如是比丘。為不知食不盡。云何比丘。不知敬長老。比丘。恭敬供養之云何不知。設有長老比丘。久習道德學問廣博。小比丘不至心禮敬。見之不起不為避坐。輕慢調戲不以善心待。如是比丘。不知敬長老。其有比丘。不知行十一法。於吾法中不應為沙門。不種法律根栽。無枝葉覆蔭皆自朽壞。不如還為白衣。若強為沙門者必入三惡道。比丘。知放牛兒十一行養護。其能使滋息。云何十一。此放牛兒。為知色。知相。摩刷。護瘡。起煙擇道渡水。愛牛。逐水草。[(殼-一)/牛]知遺殘齊限多少。分別牛好惡。養視可用者。如是放牛者。便能養護增益其牛。佛於是頌曰  放牛兒審諦  牛主有福德  六頭牛六年  成六十不減  放牛兒聰明  知分別諸相  如此放牛兒  先世佛所譽  如是十一法。比丘當行。便能於是法中種法律根栽。枝葉茂盛覆蔭大地。不復朽壞。何等十一。比丘知色。知相。知摩刷。知覆瘡。知時作煙。知行道。知愛。知渡水。知食處。知不盡。知敬長老舊學耆艾恭敬供養。云何比丘知色。比丘。知四大造起色。如是比丘為知色。云何比丘知相。比丘。別癡別黠。云何癡。非所思而思。非所行而行。非所說而說。是為癡。云何為黠。思可思行可行說可說。是為黠。能別癡黠。是為知相。云何比丘應摩刷知摩刷。比丘。設生欲心能制遠避如吐惡見。設起瞋恚慳貪及餘諸惡。能制遠避如吐惡見。如是比丘。應刷知刷。云何比丘應護瘡而護。比丘。眼見色不分別好惡。守護眼根不著外色。遠捨諸惡護於眼根。耳聽聲鼻嗅香舌嗜味身貪細滑意多念。制不令著。護此諸根不染外塵如吐惡見。如是比丘。為知護瘡。云何比丘時時放煙。比丘。如所學所聞所知。以是廣說。如是比丘為知放煙。云何比丘知行道。比丘行審諦八道。知不可行處婬里酒家博戲處終不妄入。如是比丘為知行道。云何比丘知愛。比丘。見說法寶時。至心聽受踊躍愛樂。如是比丘名為知愛。云何比丘知渡水處。比丘。知四諦。云何四諦。苦諦苦習諦苦盡諦苦盡道諦。如是比丘為知渡水。云何比丘知食處。比丘。知四意止。云何四意止。比丘。觀內身觀外身觀內外身。觀內痛觀外痛觀內外痛。觀內意觀外意觀內外意。觀內法觀外法觀內外法。如是比丘為知食處。云何比丘知食不盡。比丘。若國王長者清信士女。以信樂心請於比丘。供養飲食種種餚饌。加敬進勸。比丘知節供身則止。思惟佛語。施者雖豐。當自知限不為盡受。如是比丘知食不盡。云何比丘知敬長老舊學耆艾恭敬供養。比丘。當親近是輩禮敬供養。出入迎逆見來避坐。任力進。上勿以懈慢。如是比丘知。敬長老。比丘。能行是十一事者。於此法中種法律根栽枝葉滋茂。多所覆蔭清淨無垢。爾時世尊。以偈頌曰  有信精進學  受食知節限  恭敬於長老  是行佛稱譽  如此十一法  比丘學是者  晝夜定心意  六年得羅漢  諸比丘聞佛所說。歡喜受行  佛說放牛經』
  三月(さんがつ):四月十六日乃至七月十五日の三ヶ月間。印度の雨季に当り、僧はこの間遊行せず、僧院に籠もって修行した。安居(あんご)。
竟三月。王憐愍此放牛人語言。汝往見佛還出放牛。 三月竟り、王は、此の放牛人を憐愍して、語りて言わく、『汝往きて、仏に見(まみ)え、還(ま)た出て放牛せよ。』と。
『三月が竟(おわ)る!』と、
『王』は、
此の、
『放牛人』を、
『憐愍して!』、
『語り!』、
こう言った、――
お前は、
『往って!』、
『仏』に、
『見(まみ)えてから!』、
『還()た!』、
『放牛』に、
『出よ!』、と。
諸放牛人往詣佛所。於道中自共論言。我等聞人說。佛是一切智人。我等是下劣小人。何能別知實有一切智人。 諸の放牛人は、仏の所に往詣し、道中に於いて、自ら共に論じて言わく、『我等は、人の説けるを聞くに、仏は、是れ一切智の人なりと。我等は、是れ下劣の小人なれば、何(いか)んが、能く別けて、実に一切智の人有るを知らん。』と。
諸の、
『放牛人』は、
『仏』の、
『処』に、
『到達する!』までの、
『道』中に、
自ら、
『共に(いっしょに)!』、
『論じて!』、
こう言った、――
わたし達は、
『人』が、
『仏は一切智の人だ!』と、
『説く!』のを、
『聞いた!』が、
わたし達のような、
『下劣の小人』には、
何うすれば、
『一切智の人』が、
『実に!』、
『有るのか、無いのか?』を、
『別けて!』、
『知ることができるのだろう?』、と。
  (けい):いたる/到る。
諸婆羅門喜好酥酪故。常來往諸放牛人所作親厚。放牛人由是聞婆羅門種種經書名字故。言四違陀經中治病法鬥戰法星宿法祠天法歌舞論議難問法。如是等六十四種世間伎藝。淨飯王子廣學多聞。若知此事不足為難。其從生已來不放牛。我等以放牛祕法問之。若能解者實是一切智人。 諸の婆羅門は、酥、酪を喜び好むが故に、常に諸の放牛人の所を来往して、親厚を作すに、放牛人は、是れに由って、婆羅門の種種の経書の名字を聞くが故に言わく、『四韋陀経中の、治病法、闘戦法、星宿法、祠天法、歌舞、論議、難問の法、是の如き等の六十四種の世間の技藝は、浄飯王の子の、広く学びて多聞なれば、若しは此の事を知ること、難きと為すに足らざらんも、其れ生じてより已来、放牛せざらん。我等は、放牛の秘法を以って、之に問わん。若し能く解せば、実に是れ一切智の人ならん。』と。
諸の、
『婆羅門』は、
『酥、酪』を、
『喜んで!』、
『好む!』が故に、
常に、
『諸の放牛人の所』に、
『往き来して!』、
『親厚を作していた!』ので、
『放牛人』は、
是れにより、
『婆羅門』の、
種種の、
『経書の名字』を、
『聞いていた!』が故に、
こう言った、――
『四韋陀経』中の、
『治病法、闘戦法、星宿法、祠天法』や、
『歌舞、論義、難問法』など、
是れ等のような、
『六十四種の世間の技藝』は、
『浄飯王の子』も、
『広く学び!』、
『多く聞いているだろう!』から、
若し、
此の、
『事を知っていたとしても!』、
『難とする!』には、
『足らない!』が、
彼れは、
『生まれて以来!』、
『放牛したことがないのだから!』、
わたし達は、
『放牛』の、
『秘法』を、
『問うてみよう!』。
若し、
此の、
『秘法』を、
『理解することができれば!』、
是れこそ、
『実に!』、
『一切智の人である!』、と。
  親厚(しんこう):親切で手厚くすること。
  四韋陀(しいだ、veda):婆羅門の修めるべき十八大経の中の特に重要な四経典、利倶吠陀、三摩吠陀、夜柔吠陀、阿闥婆吠陀をいう。『大智度論巻2下注:十八大経、同巻25上注:吠陀、十八大経』参照。
  十八大経(じゅうはちだいきょう):四韋陀、六論、八論。 婆羅門の修める十八種の学問。
  (1)利倶吠陀(りぐべいだ、Rg-veda):太古よりの賛美歌の集成。
  (2)三摩吠陀(さんまべいだ、saama-v):賛歌に音楽を付して祭式に実用のものを集む。
  (3)夜柔吠陀(やじゅうべいだ、yajur-v):季節ごとの祭祀の時の散文による呪文を集む。
  (4)阿闥婆吠陀(あたるばべいだ、atharava-v):災難から遁れる呪文等の祭歌などを集む。
  (5)式叉(しきしゃ、zikSaa)論:六十四種の能法(のうほう、技芸学問)を釈す。
  (6)毘伽羅(びから、vyaakaraNa)論:諸音声の法を釈す。
  (7)柯刺波(からは、kalpa)論:諸天、仙人の上古以来の因縁と名字を釈す。
  (8)竪底沙(じゅていしゃ、jyotiSa)論:天文地理算数等の法を釈す。
  (9)闡陀(せんだ、chandas)論:仏弟子、五通の仙人等を偈によって説く。
  (10)尼鹿多(にろくた、nirukta)論:一切の物名を立て因縁を釈す。
  (11)肩亡婆(けんもうば、?)論:諸法の是非を簡単に釈す。
  (12)那邪毘薩多(なじゃびさった、naya-vistara?)論:諸法の道理を明かす。
  (13)伊底呵婆(いていかば、ltihaasa)論:伝記、宿世の事を明かす。
  (14)僧佉(そうぎゃ、saaMkhya)論:二十五諦なる者を明かす。
  (15)課伽(かが、garga?)論:心を摂する法を明かす。
  (16)陀菟(だぬ、dhanur)論:用兵の法を釈す。
  (17)揵闥婆(けんだつば、gandharva)論:音楽の法を明かす。
  (18)阿輸(あゆ、aayur-zaastra)論:医方なる者を明かす。
作是論已前入竹園。見佛光明照於林間。進前覓佛見坐樹下狀似金山如酥投火其炎大明。有似融金散竹林間上紫金光色。 是の論を作し已り、前(すす)みて竹園に入るに、仏の光明の、林間を照らすを見る。前に進み、仏を覓(もと)めて、樹下に坐したもうを見るに、状(さま)は、金山の、酥を火に投じて、其の炎の大いに明るきが如きに似て、金を融かして、竹林の間に散らしたるにも似る、紫金の光色を上ぐる有り。
是の、
『論を作す!』と、
『竹園』に、
『進んで!』、
『入り!』、
『仏の光明』が、
『林間を照らす!』のを、
『見た!』。
『前に進みながら!』、
『仏』を、
『探し!』、
『求めている!』と、
『仏』が、
『樹下に坐っている!』のが、
『見えた!』。
其の、
『状(さま)』は、
『金山』に、
『似ており!』、
譬えば、
『酥( butter )』を、
『火』に、
『投じて!』、
其の、
『火炎』が、
『明るく!』、
『輝くようであり!』、
有るいは、
『融けた!』、
『金』が、
『竹林の間』に、
『散らばり!』、
『紫金』の、
『光色を上げる!』のにも、
『似ていた!』。
  竹園(ちくおん):梵名veNu-vanaの訳。又竹林精舎、迦蘭陀竹園とも称す。中印度摩揭陀国王舎城の北方に在りし精舎を云う。『大智度論巻2下注:迦蘭陀竹園』参照。
  迦蘭陀竹園(からんだちくおん):迦蘭陀kalandakaは梵名。巴梨名同じ。又迦蘭駄迦、迦蘭多迦、迦蘭那迦、迦闌鐸迦、羯蘭鐸迦、羯嬾駄迦、迦蘭陀夷、迦蘭多、柯蘭陀、迦蘭陀鈐波、或いは迦陵に作る。山鼠と訳し、或いは好鳥、好声鳥、又は鵲封、多鳥と翻ず。竹園は梵語鞞紐婆那veNuvanaの訳。巴梨名veLvana-kalandakanivaapa、此の中、nivaapaは献供又は封等の義なり。又一に梵名kalandaka-nivaasaに作る。nivaasaは住の義なり。中印度摩揭陀国王舎城の北方に在りし園林の名。「中本起経巻上度瓶沙王品」、並びに「大唐西域記巻9」等には、此の竹園を以って長者迦蘭陀の奉施せし処となせるも、「中阿含巻36瞿黙目犍連経」、「初分説経巻下」、「過去現在因果経巻4」等には、王舎城諸園中に於いて最勝なるが故に、摩揭陀国王頻毘娑羅bimbisaaraは、之を仏及び四方僧に施したるものとなせり。園中の精舎に関しては、「高僧法顕伝」に、「旧城(旧王舎城)を出で北に行くこと三百余歩、道の西に迦蘭陀竹園精舎今現に在り。衆僧精舎を掃麗す」と云い、「大唐西域記巻9」には、「山城(旧王舎城)の北門より行くこと一里余にして迦蘭陀竹園に至る。今精舎あり、石基甎室にして東に其の戸を開く。如来世に在りし時多く其の中に居し、説法開化して凡を導き俗を拯う。今如来の身を作れり」とあり。又「仏本行集経巻4、45」、「方広大荘厳経巻12」、「普曜経巻8」、「有部毘奈耶破僧事巻8」、「玄応音義巻19」、「慧琳音義巻12、25、26、41」、「希麟音義巻1、4」、「四分律疏巻2末」、「四分律開宗記巻2本」、「四分律行事鈔資持記巻中1」、「四分律名義標釈巻3」、「毘尼関要巻2」、「翻訳名義集巻7」、「翻梵語巻9」等に出づ。<(望)
  (ぜん):すすむ。前に進む。
  (みゃく):もとめる。探し求める/尋求。
  金山(こんせん):朝日、或いは夕日に照らされて、金色に輝く山の峰。
  (そ):バター。
視之無厭。心大歡喜。自相謂言
 今此釋師子  一切智有無 
 見之無不喜  此事亦已足 
 光明第一照  顏貌甚貴重 
 身相威德備  與佛名相稱 
 相相皆分明  威神亦滿足 
 福德自纏絡  見者無不愛 
 圓光身處中  觀者無厭足 
 若有一切智  必有是功德 
 一切諸彩畫  寶飾莊嚴像 
 欲比此妙身  不可以為喻 
 能滿諸觀者  令得第一樂 
 見之發淨信  必是一切智
之を視るも厭うこと無く、心に大いに歓喜し、自ら相謂って言わく、――
今此の釈の師子に、一切智を有無するも、
之を見れば喜ばざる無く、此の事も亦た已に足れり。
光明の照らすこと第一にして、顔貌も甚だ貴重なり、
身相に威徳備わりて、仏と名づくるに相称(かな)えり。
相と相と皆分明にして、威神も亦た満足す、
福徳を自ら纏絡して、見る者に愛せざる無し。
円光の身を処する中、観る者に厭足する無し、
若し一切智有らば、必ず是の功徳有らん。
一切の諸の彩画、宝飾もて荘厳せる像も、
此の妙身に比せんと欲せば、以って喩と為すべからず。
能く諸の観者を満たし、第一の楽を得しめて、
之を見れば浄信を発す、必ず是れ一切智ならん。
之を、
『視て!』、
『厭きる!』こと、
『無く!』、
『心』に、
『大いに!』、
『歓喜して!』、
自ら、
『互に!』、
『謂いあって!』、
こう言った、――
今、
此の、
『釈の師子』の、
『一切智』を、
『有、無していた!』が、
之を、
『見て!』、
『喜ばない!』者は、
『無いだろう!』、
此の、
『事だけで!』、
『已に(もう)!』、
『足りている!』。
其の、
『光明』は、
『照らす!』こと、
『第一であり!』、
『顔貌』は、
『甚だ!』、
『貴く重々しく!』、
『身相』には、
『威徳』が、
『備わり!』、
『仏』という、
『名』に、
『相応しい!』。
其の、
『相と相』は、
皆、
『清楚・明了であり!』、
『威神』も、
亦た、
『満足であり!』、
『福徳』は、
自ら、
『纏わりつき!』、
『見れば!』、
『愛さない!』者が、
『無い!』。
其の、
『身』を、
『処する!』、
『円光』中を、
『観れば!』、
『厭き足る!』者は、
『無い!』、
若し、
『一切智』が、
『有れば!』、
『必ず!』、
是の、
『功徳』が、
『有るはずだ!』。
一切の、
諸の、
『彩画』や、
『宝飾で荘厳された像』を、
此の、
『妙身』に、
『比(くら)べようとしても!』
『喩(たとえ)としようがない!』。
諸の、
『観る!』者を、
『満足させ!』、
『第一の!』、
『楽を得させる!』。
之を、
『観れば!』、
『浄信』が、
『発(おこ)る!』、
是れは、
『必ず!』、
『一切智であろう!』。
  釈師子(しゃくのしし):釈迦族の獅子の意。
  顔貌(げんみょう):容貌。
  相称(そうしょう):あいかなう。つりあう。ふさわしい。相応。
  相相(そうとそうと):仏のみ有する三十二相の意。
  分明(ぶんみょう):清楚/明白な状( clearly )、簡単/明了な( plainly )、輪郭/境界がはっきりしている( clearly demarcated )。
  纏絡(てんらく):巻き付く/絡みつく( twine, bind, wind )。
  円光(えんこう):後光。
  厭足(えんそく):あきたりる。
  浄信(じょうしん):浄き信心。
如是思惟已禮佛而坐。問佛言。放牛人有幾法成就。能令牛群番息。有幾法不成就。令牛群不增不得安隱。 是の如く思惟し已りて、仏に礼して坐し、仏に問うて曰く、『放牛人には、幾ばくの法か有りて、成就せば、能く牛群をして、番息せしめ、幾ばくの法か有りて、成就せざれば、牛群をして、増えず、安穏を得しめざる。
是のように、思惟すると、――
『仏』を、
『礼して!』、
『坐り!』、
『仏』に問うて、こう言った、――
『放牛人』は、
何れだけの、
『法』が、
『有って!』、
『成就すれば!』、
『牛』の、
『群』を、
『繁殖させられますすか?』。
何れだけの
『法』が、
『有って!』、
『成就しなければ!』、
『牛』の、
『群を増やせず!』、
『安隠を得させられないのですか?』、と。
  番息(ばんそく):繁殖し、安息なることをいう。
佛答言。有十一法。放牛人能令牛群番息。何等十一。知色知相知刮刷知覆瘡知作煙知好道知牛所宜處知好度濟知安隱處知留乳知養牛主。若放牛人知此十一法。能令牛群番息。比丘亦如是。知十一法能增長善法。 仏の答えて言わく、『十一法有りて、放牛人は、能く牛群をして、番息す。何等か十一なる。色を知り、相を知り、刮刷を知り、瘡を覆うを知り、煙を作るを知り、好き道を知り、牛の宜しくする所の処を知り、好く度済することを知り、安穏の処を知り、乳を留めることを知り、牛主を養うを知る。若し放牛人、此の十一法を知らば、能く牛群をして、番息ならしめん。比丘も、亦た是の如き、十一法を知らば、能く善法を増長せん。
『仏』は答えて、
こう言われた、――
『十一法』が有り、
『放牛人』は、
『牛の群』を、
『繁殖させられる!』。
何のような、
『十一法か?』、――
『色を知り!』、
『相を知り!』、
『刮刷することを知り!』、
『瘡(きず)を覆うことを知り!』、
『煙を作ることを知り!』、
『好道を知り!』、
『牛の宜しい処を知り!』、
『好い渡り場を知り!』、
『安隠の処を知り!』、
『乳を留めることを知り!』、
『牛主を養うことを知る!』。
若し、
『放牛人』が、
此の、
『十一法を知れば!』、
『牛の群』を、
『繁殖させられる!』。
『比丘』も、
是のように、
『十一法を知れば!』、
『善法』を、
『増長することができる!』。
  刮刷(かっさつ):こそげとる。
  度済(どさい):渡す。渡し場。
  牛主(ごしゅ):牛中の主たるもの。
云何知色。知黑白雜色。比丘亦如是。知一切色皆是四大四大造。 云何が、色を知る。黒、白、雑色を知るなり。比丘も、亦た是の如く、一切の色は、皆、是れ四大と、四大の造なりと知る。
何のように、
『色』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『黒、白、雑色』を、
『知ることである!』。
『比丘』も、
是のように、
一切の、
『色』は、
皆、
『四大か、四大造である!』と、
『知る!』。
云何知相。知牛吉不吉相。與他群合因相則識。比丘亦如是。見善業相知是智人。見惡業相知是愚人。 云何が、相を知る。牛の吉と、不吉の相を知りて、他の群と合するに、相に因りて、則ち識る。比丘も、亦た是の如し、善業の相を見て、是れ智人なりと知り、悪業の相を見て、是れ愚人なりと知る。
何のように、
『相』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『牛』の、
『吉(健康)、不吉(疾病)』の、
『相を知って!』、
『群』に、
『分ければ!』、
『他の群』と、
『合しても!』、
『相によって!』、
『識別することができる!』。
『比丘』も、
是のように、
『善業』の、
『相』を、
『見て!』、
是れは、
『智人である!』と、
『知り!』、
『悪業』の、
『相』を、
『見て!』、
是れは、
『愚人である!』と、
『知る!』。
云何刮刷。為諸虫飲血則增長諸瘡。刮刷則除害。比丘亦如是。惡邪覺觀虫飲善根血增長心瘡。除則安隱。 云何が、刮刷する。諸の虫の為に血を飲まるれば、則ち諸の瘡を増長するも、刮刷すれば、則ち害を除く。比丘も、亦た是の如し、悪邪の覚観の虫に、善根の血を飲まるれば、心の瘡を増長するも、除けば則ち安隠なり。
何のように、
『剔(えぐ)りとるのか?』、――
即ち、
諸の、
『虫』が、
『血』を、
『飲めば!』、
諸の、
『瘡(きず)』を、
『増長することになる!』が、
『剔りとれば!』、
『害』を、
『除くことになる!』。
『比丘』も、
是のように、
『悪邪』の、
『覚、観の虫』が、
『善根の血』を、
『飲めば!』、
『心』の、
『瘡』が、
『増長する!』ので、
『覚、観の虫』を、
『除けば!』、
『安隠となる!』。
  刮刷(かっさつ):引掻いて剔りとる( scratch and remove )。
  (かく):梵語vitarkaの訳。境に対し妄りに尋求推理すること。『大智度論巻17下注:覚』参照。
  (かん):梵語vicaaraの訳。諸法の名、義等を妄に伺察すること。『大智度論巻17下注:観』参照。
云何覆瘡。若衣若草葉以防蚊虻惡刺。比丘亦如是。念正觀法覆六情瘡。不令煩惱貪欲瞋恚惡虫刺蕀所傷。 云何が、瘡を覆う。若しは衣、若しは草、葉を以って、蚊虻の悪刺するを防ぐ。比丘も、亦た是の如し、法を正観せんと念じて、六情の瘡を覆い、煩悩、貪欲、瞋恚の悪虫、刺棘の傷つく所とならしめず。
何のように、
『瘡』を、
『覆うのか?』、――
即ち、
『衣』や、
『草』や、
『葉』で、
『蚊虻』の、
『悪刺』を、
『防ぐことである!』。
『比丘』も、
是のように、
『正観の法を念じて!』、
『六情の瘡』を、
『覆い!』、
『煩悩、貪欲、瞋恚』という、
『悪虫、刺棘(とげ)』に、
『傷つけさせないようにする!』。
  (もん):か。夏時に人畜を囓む小飛虫。
  (もう):あぶ。牛等に寄生し、皮膚の中に卵を産む。
  悪刺(あくし):酷く刺すこと。
  刺棘(しきょく):とげ。
  六情(ろくじょう):眼耳鼻舌身意の六根を云う。
云何知作煙除諸蚊虻。牛遙見煙則來趣向屋舍。比丘亦如是。如所聞而說除諸結使蚊虻。以說法煙引眾生。入於無我實相空舍中。 云何が、煙を作るを知る。諸の蚊虻を除き、牛は遙かに、煙を見て、則ち来たりて屋舎に趣向す。比丘も、亦た是の如し、聞く所の如く、諸の結使の蚊虻を除くことを説き、法を説く煙を以って衆生を引き、無我の実相の空舎の中に入る。
何のように、
『煙を作る!』ことを、
『知るのか?』、――
即ち、
『煙』は、
諸の、
『蚊虻』を、
『除き!』、
『牛』が、
遙かに、
『煙』を、
『見れば!』、
『牛』は、
来て、
『屋舎』に、
『趣向する(まっしぐらに向かう)からである!』。
『比丘』も、
是のように、
『聞いたままに!』、
諸の、
『結使を除く!』ことを、
『説き!』、
『法の煙』で、
『衆生を引いて!』、
『無我』という、
『実相の空舎』中に、
『入らせる!』。
云何知道。知牛所行來去好惡道。比丘亦如是。知八聖道能至涅槃。離斷常惡道。 云何が、道を知る。牛の行、来、去する所の好悪の道を知る。比丘も、亦た是の如し、八聖道は、能く涅槃に至り、断常の悪道を離ると知る。
何のように、
『道』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『牛』の、
『行ったり!』、
『来たり!』、
『去ったりする!』、
『道』の、
『好、悪』を、
『知ることである!』。
『比丘』も、
是のように、
『八聖道』が、
『涅槃に至らせる!』ことを、
『知り!』、
『断、常』の、
『悪道を離れる!』ことを、
『知る!』。
云何知牛所宜處。能令牛番息少病。比丘亦如是。說佛法時得清淨法喜。諸善根增盛。 云何が、牛の宜しき所の処を知る。能く、牛をして、番息せしめ、少病ならしむ。比丘も、亦た是の如し、仏法を説く時、清浄の法を得て喜び、諸の善根の増盛す。
何のように、
『牛』の、
『宜しい(適した)処』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『牛』を、
『繁殖させ!』、
『病を少なくすることである!』。
『比丘』も、
是のように、
『仏』の、
『法』を、
『説けば!』、
その時、
『清浄』の、
『法を得て!』、
『喜び!』、
諸の、
『善根』を、
『増々盛んにするからである!』。
云何知濟。知易入易度無波浪惡虫處。比丘亦如是。能至多聞比丘所問法。說法者知前人心利鈍煩惱輕重。令入好濟安隱得度。 云何が、済を知る。入り易く、度り易く、波浪、悪虫の無き処を知る。比丘も、亦た是の如し、能く多聞の比丘の所に至りて、法を問う。法を説く者は、前の人の心の利鈍、煩悩の軽重を知りて、好き済に入れしむれば、安穏に度を得。
何のように、
『済(渡し場)』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『入り易く!』、
『渡り易くて!』、
『波浪・悪虫の無い!』、
『処』を、
『知ることである!』。
『比丘』も、
是のように、
『多聞の!』、
『比丘の所に至って!』、
『法』を、
『問うことができれば!』、
『法を説く!』者は、
『前の人』の、
『心の利、鈍』や、
『煩悩の軽、重』を、
『知って!』、
『好い!』、
『渡し場』に、
『入らせれば!』、
是の、
『人』は、
『安隠に!』、
『渡ることができる!』。
云何知安隱處。知所住處無虎狼師子惡虫毒獸。比丘亦如是。知四念處安隱無煩惱惡魔毒獸。比丘入此則安隱無患。 云何が、安穏の処を知る。住する所の処に、虎狼、師子、悪虫、毒獣無きを知る。比丘も、亦た是の如し、四念処は安穏にして、煩悩の悪魔、毒獣無きを知れば、比丘、此に入りて、則ち安穏にして、患無し。
何のように、
『安隠の処』を、
『知るのか?』、――
即ち、
『住する処』に、
『虎狼、師子、悪虫、害獣の無い!』ことを、
『知る!』。
『比丘』も、
是のように、
『四念処』は、
『安隠であり!』、
『煩悩の悪魔、害獣の無い!』ことを、
『知れば!』、
『比丘』は、
此に入って、
則ち、
『安隠であり!』、
『患が無い!』。
云何留乳。犢母愛念犢子故與乳。以留殘乳故。犢母歡喜則犢子不竭。牛主及放牛人。日日有益。比丘亦如是。居士白衣給施衣食。當知節量不令罄竭。則檀越歡喜信心不絕。受者無乏。 云何が、乳を留める。犢母は、犢子を愛念するが故に、乳を与う。乳を留めて残すを以っての故に、犢母は歓喜し、則ち犢子竭(つ)きざれば、牛主、及び放牛人にも、日日に益有り。比丘も、亦た是の如し、居士、白衣衣食を給施するに、当に知るべし、量を節して、罄竭せしめざれば、則ち檀越歓喜して、信心断えずして、受くる者も乏しきこと無し。
何のように、
『乳』を、
『留(とど)めるのか?』、――
即ち、
『犢母(母牛)』は、
『犢子(子牛)』を、
『愛する!』が故に、
『乳を与える!』ので、
『乳』を、
『残して!』、
『留めておけば!』、
故に、
『犢母は歓喜して!』、
『犢子』が、
『竭(かわ)かないことになる!』ので、
『牛主(所有主)と放牛人』は、
『日日に!』、
『益が有る!』。
『比丘』も、
是のように、
『居士、白衣』が、
『衣食』を、
『給施(施与)する!』ので、
当然、こう知らねばならぬ、――
『量』を、
『節して!』、
『枯竭させなければ!』、
則ち、
『檀越』は、
『歓喜して!』、
『信心を絶やさず!』、
『受ける!』者も、
『乏しくなる!』ことが、
『無い!』。
  犢母(とくも):小牛の母。
  犢子(とくし):小牛。
  居士(こじ):梵語gRha-patiの訳。家長、家主、長者の義なり。また財に居し、或は家に居する士の意とす。即ち毘舎種(梵vaizya)の豪富なる者、または家の居して得を蘊む有道の士をいう。『大智度論巻6下注:居士』参照。
  白衣(びゃくえ):梵語avadaata-vasanaの訳。巴梨名odaata-vasana、白色の衣の意。転じて白衣を着するものを云う。即ち在俗の人の称なり。「長阿含巻8散陀那経」に、「沙門瞿曇の白衣の弟子の中、此れを最上と為す。彼れ必ず此に来たらん、汝は宜しく静黙すべし」と云い、「中本起経巻上還至父国品」に、「仏は比丘に教えて、白衣に親しみ家居を恋うことなからしむ。道俗異なるが故なり」と云い、「仏遺教経」に、「白衣は欲を受く、行道の人に非ず」と云い、「顕揚聖教論巻3」に、「在俗の人とは謂わく家に処する白衣なり、五欲を受用して俗業を営構し、以って自ら活命す」と云える是れなり。是れ印度に於ける在俗の人は白衣を著するが故に之を白衣と名づけたるものにして、即ち出家の人の染衣を用うるに区別せるなり。「大唐西域記巻2」に印度の風俗を敍する中、「衣裳服玩は裁製する所なく、鮮白を貴び、雑綵を軽んず」と云い、「道宣律師感通録」に、「白衣は外道の服なり、斯れ本と出家の者は之を絶つ。三衣は惟れ仏制の名なり、著すれば定んで解脱を得るが故なり。白衣は俗服にして仏厳に制断す」と云えり。以って僧侶の衣制の別なるを知るべし。然るに支那及び本邦に於いては自ら服制の異なるものあり、「仏像幖幟義図説巻上」に、「白衣とは梵土の俗服なり、故に仏之を制す。経論の中に白衣と称するは竝びに居士を指す、惟れ衣相に依るなり。(中略)若し漢土に拠らば賎者の服と為す。陋室銘に往来白丁なしと云い、淵明伝に白衣酒を送ると云うが如き是れなり。但し和朝に於いては、高貴の人に非ざれば之を服すること能わず、常人の如きは或いは祭礼の節、或いは喪儀の時、乃ち白衣を著して以って潔斎に擬す、蓋し国風なるのみ。且つ夫れ沙門の袈裟は染むと雖も、白衣は白を尚ぶ。礼仏式の如き、入衆法の如き、凡そ衣を著するには、則ち必ず白服を以って法衣に襯す。是れ亦俗に順ずるなり」と云えり。蓋し本邦に於いて僧侶が法衣の下に白衣を着用することは、元と出家の風を模したるものなるが如く、即ち我が国高貴の人は古くより白衣を被著せられ、又「平家物語巻11」、「源平盛衰記巻22俵藤太将門中違の事の條」に平将門が白衣を著せしことを伝え、「源平盛衰記巻13高倉宮信連戦の事の條」に、源頼朝が白衣を着せしことを記し、又「貞丈雑記巻3小袖の部」に、「びゃくえとは白衣と書くなり。公家衆の平服は、ゑぼしをかぶり、上は直衣といふ装束を着し、下はさしぬきといふはかまを着給うなり。小袖は白小袖なり。びゃくえといふ時はゑぼしをかぶり、さしぬきを着て、直衣をば着し給わぬなり。直衣を着し給わず、白小袖をあらはす故白衣と云ふなり。武家にても其の心にて、ゑぼしをかぶり、袴をば着して、上にはすあふにても、ひたたれにても着せずしてあるを白衣と云ふなり。肩衣、袴の時は肩衣を着せず、袴ばかりを着したるは白衣なり。今時は袴も着せず、小袖計り着るを白衣といふはあやまりなり。又腰の物ささぬをびゃくえといふは、いよいよあやまりなり」と云えり。之に依るに公家並びに武家の間に式服として白衣の被著行われたるにより、僧家に於いても亦之に傚うて法衣の下に白衣を用うるに至りしものにして、即ち俗に順ぜるものと云うべし。又「中阿含巻12鞞婆陵耆経」、「般舟三昧経巻上、中」、「四分律巻1」、「五分律巻13、14」、「四分律行事鈔資持記巻下4」等に出づ。<(望)
  罄竭(きょうかつ):つきる。枯竭。
  檀越(だんおつ):梵語daana-pati。巴梨語同じ。具に陀那鉢底と云い、又陀那婆に作り、施主、或いは布施家と訳す。又梵漢兼挙して檀越施主、檀越主、檀那主、或いは檀主とも称す。即ち僧衆に衣食等を施与する信男信女を云う。『大智度論巻22上注:檀越』参照。
云何知養。牛主諸大特牛能守牛群。故應養護不令羸瘦。飲以麻油。飾以瓔珞。標以鐵角摩刷讚譽稱等。比丘亦如是。眾僧中有威德大人。護益佛法摧伏外道。能令八眾得種諸善根。隨其所宜恭敬供養等。 云何が、牛主を養うことを知る。諸の大特牛は、能く牛群を守るが故に、応に養護して、羸痩ならしめず、飲むには、麻油を以ってし、飾るには、瓔珞を以ってし、標(しる)すには、鉄角を以ってし、摩刷し、讃誉し、称(ほ)むる等すべし。比丘も、亦た是の如し、衆僧中に威徳の大人有りて、仏法を護益し、外道を摧伏して、能く八衆をして、諸の善根を種うることを得しむれば、其の宜しき所に随いて、恭敬、供養等すべし。
何のように、
『牛主(牛王)』を、
『養う!』ことを、
『知る!』、――
即ち、
諸の、
『大特牛(牡牛)』は、
『牛の群』を、
『守れる!』が故に、
当然、
『養護して!』、
『痩せ衰えさせてはならない!』。
則ち、
『麻油を飲ませて!』、
『瓔珞を飾り!』、
『鉄角で顕示し!』、
『摩擦して!』、
『讃歎、称誉等をするのである!』。
『比丘』も、
是のように、
『衆僧』中の、
『威徳有る!』、
『大人』は、
『仏法を養護し!』、
『外道を摧伏して!』、
『八衆』に、
『諸の善根』を、
『植えさせる!』ので、
其の、
『相応しい!』所に、
『随って!』、
『恭敬、供養等をせねばならない!』。
  特牛(とくご):おうし。牡牛。
  羸痩(るいそう):弱りやせる。
  麻油(まゆ):ごま油。
  瓔珞(ようらく):首飾。
  (ひょう):勝者のしるしを立てて、人をして見易からしむること。
  摩刷(まさつ):摩擦。なでる。
  八衆(はちしゅ):沙門、婆羅門、刹利、天、四天王、三十三天、魔、梵を指す。即ち「大智度論巻25」に、「衆中に師子吼するとは、衆とは八衆に名づく。沙門衆、婆羅門衆、刹利衆、天衆、四天王衆、三十三天衆、魔衆、梵衆なり。衆生は、此の八衆に於いて、智慧を悕望す。是の故に経中に但だ、是の八衆を説く」と云える是れなり。
放牛人聞此語已如是思惟。我等所知不過三四事。放牛師輩遠不過五六事。今聞此說歎未曾有。若知此事餘亦皆爾。實是一切智人。無復疑也。是經此中應廣說。以是故知有一切智人。 放牛人は、此の語を聞き已りて、是の如く思惟すらく、『我等の知る所は、三四事を過ぎず。放牛師の輩は遠くとも、五六事を過ぎず。』と。今、此の説を聞きて、未だ曽て有らざるを歎ず。若し此の事を知らば、余も亦た皆爾らん。実に是れ一切智の人なり、復た疑うこと無きなり。』と。是の経は、此の中に応に広く説くべし。是を以っての故に、一切智の人有るを知る。
『放牛人』は、
此の、
『語』を、
『聞いて!』、
是のように、思惟した、――
わたし達の、
『知る!』所は、
『三、四事』を、
『過ぎない!』し、
『放牛の師輩』は、
『差が有っても!』、
『五、六事』を、
『過ぎない!』。
今、
此の、
『説を聞いて!』、
『未曽有である!』と、
『詠嘆した!』が、
若し、
此の、
『事』を、
『知っていれば!』、
余の、
『事』も、
『皆知っているだろう!』。
実に、
此の、
『人』は、
『一切智である!』。
復た(もう)、
『疑(うたがい)』は、
『無くなった!』、と。
是の、
『経』は、
此の中に、
『広く!』、
『説かねばならぬ!』。
是の故に、こう知る、――
『一切智』の、
『人』は、
『有るのだ!』、と。
  (おん):[本義]距離が遠い( far, distant )。時間が永い/長い( long )、高遠/大望( lofty, ambitious )、距たりが大きい( numerous, distant )、深遠/深奥( deep, profound )、遠ざかる/避ける( leave, depart from, avoid, evade )、違背する( violate, go against )、疎縁/親近しない/接近しない( keep at a distance, become estranged )、拡大/展開する( expand, spread )、超過する( surpass, exceed )、僻地/遠方( distant place )。
問曰。世間不應有一切智人。何以故。無見一切智人者。 問うて曰く、世間には、応に一切智の人有るべからず。何を以っての故に、一切智の人を見し者の無ければなり。
問い、
『世間』には、
『一切智』の、
『人など!』、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『一切智の人』を、
『見た!』者が、
『無いからだ!』。
答曰。不爾。不見有二種。不可以不見故便言無。一者事實有。以因緣覆故不見。譬如人姓族初及雪山斤兩恒河邊沙數。有而不可知。二者實無無故不見。譬如第二頭第三手。無因緣覆而不見。如是一切智人因緣覆故汝不見。非無一切智人。何等是覆因緣。未得四信心著惡邪。汝以是因緣覆故。不見一切智人。 答えて曰く、爾らず。見ざるには、二種有り。見ざるを以っての故に、便ち無しと言うべからず。一には、事は実に有るも、因縁覆うを以っての故に見ず。譬えば、人の姓族の初、及び雪山の斤両、恒河の辺の沙(すな)の数は、有れども、知るべからず。二には、実に無く、無きが故に見ず。譬えば、第二の頭、第三の手は、因縁の覆うこと無きも、見ざるが如し。是の如く、一切智の人は、因縁覆うが故に、汝は見ざるも、一切智の人の無きに非ず。何等か、是れ覆える因縁なる。未だ四信を得ずして、心悪邪に著すれば、汝は、此の因縁覆うを以っての故に、一切智の人を見ず。
答え、
そうでない!
『見ない!』には、
『二種』、
『有る!』ので、
『見ない!』が故に、
簡単に、
『無い!』と、
『言うべきではない!』。
一には、
『事』が、
『実に!』、
『有る!』が、
『因縁』に、
『覆われている!』が故に、
『見えない!』、
譬えば、
『人』の、
『姓、族』の、
『初』や、
『雪山』の、
『斤(重量の単位)』や、
『両(重量の単位)』や、
『恒河の辺』の、
『沙』の、
『数』など、
是れ等は、
『有っても!』、
『知ることができない!』。
二には、
『事』が、
『実に!』、
『無く!』、
『実に!』、
『無い!』が故に、
『見えない!』。
譬えば、
『第二の頭』や、
『第三の手』は、
『覆うような!』、
『因縁が無くても!』、
『見えない!』。
是のように、
『一切智の人』は、
『因縁の覆う!』が故に、
お前には、
『見えない!』が、
『一切智』の、
『人』が、
『無いということではない!』。
是の、
『覆う!』、
『因縁』とは、
『何のようなものか?』、――
未だ、
『四信(真如、及び仏法僧の信)を得ず!』、
『心』が、
『悪邪』に、
『著することである!』。
お前は、
是の、
『因縁の覆う!』が故に、
『一切智の人』を、
『見ないのである!』。
  可以(かい):可能/許可( can, may )、まずまず/かなり良い( not bad, passable, pretty good )、非常に/大変/極めて( awful, very, extremely )。
  姓族(しょうぞく):氏族。
  四信(ししん):真如と、其の発見者たる仏と、其れを演べ説きたる法と、及び其の法を世に伝うべき僧との四事を信ずるの意。『大智度論巻18下注:四信』参照。
問曰。所知處無量故。無一切智人。諸法無量無邊。多人和合尚不能知。何況一人。以是故無一切智人。 問い、知る所の処は無量なるが故に、一切智の人無し。諸法は、無量無辺なれば、多人和合するも、尚お知る能わず。何に況んや、一人をや。是を以っての故に、一切智の人無し。
問い、
『知られる!』、
『処』が、
『無量である!』が故に、
『一切智』の、
『人』は、
『無い!』。
諸の、
『法』は、
『無量』、
『無辺であり!』、
『多く!』の、
『人』が、
『和合しても!』、
尚お、
『知ることができない!』、
況して、
『一人』は、
『言うまでもない!』。
是の故に、
『一切智』の、
『人』は、
『無い!』。
答曰。如諸法無量。智慧亦無量無數無邊。如函大蓋亦大。函小蓋亦小。 答えて曰く、諸法の無量なるが如く、智慧も亦た無量、無数、無辺なり。函大なれば、蓋も亦た大にして、函小なれば、蓋も亦た小なるが如し。
答え、
諸の、
『法』が、
『無量であるように!』、
『智慧』も、
『無量』、
『無数』、
『無辺である!』。
譬えば、
『函』が、
『大きければ!』、
亦た、
『蓋』も、
『大きい!』が、
『函』が、
『小さければ!』、
亦た、
『蓋』も、
『小さいようなものである!』。
問曰。佛自說佛法不說餘經若藥方星宿算經世典。如是等法若是一切智人。何以不說。以是故知非一切智人。 問うて曰く、仏は自ら、仏法を説くも、余の経の若しは薬方、星宿、算経、世典を説きたまわず。是の如き等の法を、若し是れ一切智の人なれば、何を以っての故に、説きたまわざる。是を以っての故に知るらく、一切智の人に非ずと。
問い、
『仏』は、
自ら、
『仏』の、
『法』を、
『説かれた!』が
余の、
『経』を、
『説かれたことはない!』。
謂わゆる、
『薬方、星宿、算経の世典である!』が、
若し、
『一切智の人ならば!』、
是れ等のような、
『法』を、
何故、
『説かれなかったのですか?』。
是の故に、こう知る、――
『仏』は、
『一切智の人でない!』、と。
  薬方(やくほう):医術の書。
  星宿(しょうしゅく):占星の書。
  算経(さんきょう):算術の経書。
  世典(せてん):世俗の典籍。
答曰。雖知一切法。用故說。不用故不說。有人問故說。不問故不說。 答えて曰く、一切の法を知ると雖も、用うるが故に説き、用いざるが故に説かず。有る人の問うが故に説き、問わざるが故に説かず。
答え、
一切の、
『法を知っていても!』、
有る、
『法』を、
『用いる!』が故に、
『説かれ!』、
『法』を、
『用いない!』が故に、
『説かれない!』し、
有る、
『人』が、
『問う!』が故に、
『説かれ!』、
『人』が、
『問わなかった!』が故に、
『説かれないのである!』。
復次一切法略說有三種。一者有為法。二者無為法。三者不可說法。此已攝一切法。 復た次ぎに、一切の法には、略説して三種有り。一には、有為法。二には、無為法。三には、不可説法なり。此に已に、一切の法を摂す。
復た次ぎに、
『一切の法』は、
略説して、
『三種』、
『有り!』、
一には、
『有為の法であり!』、
二には、
『無為の法であり!』、
三には、
『不可説の法である!』が、
此の中に、
已に、
『一切の法』が、
『含まれている!』。


十四難に答えない理由

問曰。十四難不答。故知非一切智人。何等十四難。世界及我常世界及我無常。世界及我亦有常亦無常。世界及我亦非有常亦非無常。世界及我有邊。無邊。亦有邊亦無邊。亦非有邊亦非無邊。死後有神去後世。無神去後世。亦有神去亦無神去。死後亦非有神去。亦非無神去後世。是身是神。身異神異。若佛一切智人。此十四難何以不答。 問うて曰く、十四難に、答えたまわざるが故に、一切智の人に非ざるを知る。何等か、十四難なる。世界、及び我は常なり。世界、及び我は無常なり。世界、及び我は亦た有常にして亦た無常なり。世界、及び我は、亦た有常に非ずして亦た無常に非ず。世界、及び我は有辺なり。無辺なり。亦た有辺にして亦た無辺なり。亦た有辺に非ずして亦た無辺に非ず。死後に神の後世に去る有り。神の後世に去る無し。亦た神の去る有りて亦た神の去る無し。死後に亦た神の去る有るに非ずして亦た神の後世に去る無きに非ず。是の身是れ神なり。身異なり神異なり。若し、仏、一切智の人ならば、此の十四難には、何を以ってか、答えたまわざる。
問い、
『十四難』に、
『答えていない!』が故に、
『一切智の人ではない!』と、
『知れる!』。
何のような、
『十四難か?』、――
  1. 『世界、及び我』は、
    『常である!』。
  2. 『世界、及び我』は、
    『無常である!』。
  3. 『世界、及び我』は、
    『亦常、亦無常である!』。
  4. 『世界、及び我』は、
    『亦非有常、亦非無常である!』。
  5. 『世界、及び我』は、
    『有辺である!』。
  6. 『世界、及び我』は、
    『無辺である!』。
  7. 『世界、及び我』は、
    『亦有辺、亦無辺である!』。
  8. 『世界、及び我』は、
    『亦非有辺、亦非無辺である!』。
  9. 『死後の神』は、
    『後世に去る!』ことが、
    『有る!』。
  10. 『死後の神』は、
    『後世に去る!』ことが、
    『無い!』。
  11. 『死後の神』は、
    『後世に去る!』ことが、
    『亦有り、亦無い!』。
  12. 『死後の神』は、
    『後世に去る!』ことが、
    『亦有るに非ず、亦無きに非ず!』。
  13. 『身』は、
    『神である!』。
  14. 『身』は、
    『神』と、
    『異なる!』。
若し、
『仏』が、
『一切智の人ならば!』、
何故、
此の、
『十四難』に、
『答えないのか?』。
  世界(せかい):梵語loka-dhaatuの訳。原義は壊れるべき処。世とは遷流の義、界は方位を指す。即ち時間上には過去、現在、未来三世の遷流が有り、空間上には東西南北、上下十方等の定位、場所が有るの意である。また即ち衆生の居住する所依の処、山川、国土等を指す。『大智度論巻23上注:世界』参照。
  (が):梵語aatmanの訳。呼吸の義。引いては生命、自己、身体、自我、本質、自性等を指す。また、独立永遠の主体を指す。この主体は、一切の物の根源の内に潜在して、一個体を支配し統一する。乃ち印度思想界の重要な主題の一であるが、仏教は無我説を主張して、存在と縁起との性の関係を明示して、永遠の存続(常)、自主独立の存在(一)、中心の所有主(主)、一切を支配する(宰)等の性質を否定して、『我』の不存在、不真実を強調する。<(望)『大智度論巻5上注:我』参照。
  (じん):梵語puruSaの訳。また神我という。外道所執の実我。我の体は常実にして霊妙不可思議なれば、これを称して神我という。数論外道は身心乃至霊魂等の諸法に於いて二十五諦を立て、その中の最初の自性諦を本性、中間の二十三諦を変異とし、これに対して第二十五神我諦は本性に非ず、変異に非ず、その体は実有にして常住なりとする。神我の実有を証するに五因あり、一に聚集は他の為なるが故にとは、凡そ世間の一切の聚集を見るに皆他の為にす。譬えば、床席等の造作聚集せらるるは床席それ自らの所用たるに非ず、必ず人の為に設くるが如く、五大聚りて身を成ずるも、これ身自らの為に非ず、必ず他にこれを受用すべきもの、即ち我あるが故なりとなすを云い、二に三徳に異なるが故にとは、自性及び中間の二十三諦は喜憂闇の三德と相い離れず、盲目的なれば、これに対して三德の相を有せず、よく彼の自性等を知見すべき常住の我無かるべからずとなすを云い、三に依の故にとは、もし人、この身に依らば身に作用あり、もし人依ること無ければ、身は作用する能わず。かくの如く、自性は我の所依なるが故によく変異を生ず。故に我有ることを知るとなすを云い、四に食者の故にとは、世間の飲食の如き別の食者あり、かくの如く五大等は所食の法なれば、別の能食者たる我無かるべからずとなすを云い、五に独離の故にとは、ただ身のみありて他に独離の我無くば、解脱の方便を説くも無用に帰し、また父母の遺骨を供養するも福徳無かるべく、これ等の義あるが故に別我あるを知るとなす。<(望)『大智度論巻22上注:神、数論』参照。
  (い):[本義]奇異/奇怪( strange, queer, odd )。[形容詞]不同( different )、[代名詞]其の他/別の( other )、[動詞]庇護する( shelter )、区別/分類する( distinguish, divide )、驚く( be surprised, be astonished )、畏敬する( respect )、補助する( assist )、[名詞]以前:例異日、異時( before, formerly, in the past )、将来:例異日、異時( after, later, future )、怪異( strange )、才能:例異才、異能( special skill, special ability )。
  参考:『起世経巻5』:『諸比丘。或有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。我及世間常。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。我及世間無常。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門。作如是見。作如是言。我及世間亦常無常。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門。作如是見。作如是言。我及世間非常非無常。此事實餘虛妄。諸比丘。或有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。我及世間有邊。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。我及世間無邊。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。我及世間亦有邊亦無邊。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。我及世間非有邊非無邊。此事實餘虛妄諸比丘。或有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。命即是身。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。命異身異。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。有命有身。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。無命無身。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。如來死後有有。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。如來死後無有。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。如來死後亦有有亦無有。此事實餘虛妄。復有一種沙門婆羅門等。作如是見。作如是言。如來死後非有有非無有。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。我及世間常。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於諸行中當有我見。當有世見。離諸行中當有我見。當有世見。以是義故。彼等作如是見。作如是說。我及世間常。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。我及世間無常。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於諸行中。當有無我見。無世間見。離諸行中。當有無我見無世間見。以是義故。彼等作如是說。我及世間無常。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。我及世間亦常亦無常。此是實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於諸行中。當有我見及世間見。離諸行中。當有我見及世間見。以是義故。彼等作如是說。我及世間亦常無常。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。我及世間非常非非常。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於諸行中。當有我見及世間見。離諸行中。當有我見及世間見。是故彼等作是說言。我及世間非常非非常。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。我及世間有邊。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。作如是說。命有邊人有邊。從初託胎在母腹中名命死後殯埋名人。上人從初出生受身四種七返墮落七度流轉。七走七行成就命及入命聚。是故彼等作如是說。我及世間有邊。此事實餘虛妄。諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。我及世間無邊。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。作如是說。命無有邊人無有邊。從初託胎在母腹中名命。死後殯埋名人。上人從初出生。受身四種。七返墮落。七度流轉。七走七行成就命及入命聚。是故彼等作如是說。我及世間無邊。此事實餘虛妄。諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。我及世間亦有邊亦無邊。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。作如是說。命亦有邊亦無邊。是人從初託胎在母腹中。死後殯埋。上人從初受身四種。七返墮落。七度流轉。七走七行成就命及入命聚。是故彼等作如是說。我及世間。亦有邊亦無邊。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。我及世間非有邊非無邊。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。作如是說。世間非有邊非無邊。從初受身四種。七返墮落。七度流轉。七走七行已成就命及入命聚。是故彼等作如是言。我及世間非有邊非無邊。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。命即是身。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於身中見有我及見有命。於餘身中亦見有我及見有命。是故彼等作如是言。即命是身。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。命異身異。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於身中見有我及見有命。於餘身中亦見有我及見有命。是故彼等作如是言。命異身異。此事實餘虛妄。諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。有命有身。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於身中見有我及見有命。於餘身中亦見有我及見有命。是故彼等作如是言。有命有身。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。非命非身。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於身中不見有我不見有命。於餘身中亦不見有我不見有命。是故彼等作如是言。非命非身。此事實餘虛妄。諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。作如是說言。如來死後有有。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於世作如是見。從壽命當至壽命。亦當趣向流轉。是故彼等作如是言。如來死後有有。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。如來死後無有。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於世作如是見。此有壽命至彼。後有壽命即斷。是故彼等作如是言。如來死後無有。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。如來死後亦有有亦無有。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於世作如是見。此處命斷。往至彼處。趣向流轉。是故彼等作如是言。如來死後亦有有亦無有。此事實餘虛妄諸比丘。是中所有沙門婆羅門等。作如是見。如是說言。如來死後非有有非無有。此事實餘虛妄者。彼諸沙門婆羅門等。於世作如是見。人於此處命斷壞已。移至彼處命亦斷壞。是故彼等作如是言。如來死後非有有非無有。此事實餘虛妄爾時佛告諸比丘言。諸比丘。我念往昔有一國王。名曰鏡面。彼鏡面王曾於一時意欲觀諸生盲以為戲樂。即便宜敕普告國內生盲丈夫。皆令集會。既集會已。語彼群盲作如是言。汝等生盲。頗亦能知象之形相。其狀云何。彼諸生盲同聲答言。天王。我等生盲。實不能知象之形相。王復告言。汝等先來既未識象。今者欲知象形相不。時彼群盲復同答言。天王。我實未識。若蒙王恩。我等或當知象形相。時鏡面王即時降敕。喚一象師。而告之言。卿可速往我象廄內。取一象來。置於我前。示諸盲人。時調象師受王敕已。即將象來置王殿前。語眾盲言。此即是象。時諸盲人各各以手摩觸其象。爾時象師復語眾盲。汝觸象已。以實報王。時眾盲人有觸鼻者。有觸牙者。有觸耳者。有觸頭項背脅尾腳諸身分者。時王問言。諸生盲輩汝等已知象形相耶。諸生盲人同答王言。天王。我等已知象之形相。爾時彼王即復問言。汝等諸盲。若知象者象為何相。時群盲中有觸鼻者。即白王言。天王。象形如繩。觸其牙者。答言。天王。象形如橛。觸其耳者。答言。天王。象形如箕。觸其頭者。答言。天王。象形如甕。觸其項者。答言。天王。象如屋[木*伏]。觸其背者。答言。天王。象如屋脊。觸其脅者。答言。天王。象形如簟。觸其髀者。答言。天王。象形如樹。觸其腳者。答言。天王。象形如臼。觸其尾者。答言。天王。象如掃帚。時眾盲人各各答言。天王象形如是。天王象形如是。作如是白已。時王即告眾盲人言。汝亦不知是象非象。況能得知象之形相。時彼眾盲各各自執。共相諍鬥。各各以手自遮其面。互相誼競。互相呰毀。各言已。是時鏡面王見彼眾盲如是諍競。大笑歡樂。王於彼時即說偈言  是等群盲生無目  橫於此事互相諍  曾無有人教語之  云何能知象身分  諸比丘。如是如是。世間所有諸沙門婆羅門等。亦復如是。既不能知如實苦聖諦。苦集聖諦。苦滅聖諦。苦滅道聖諦。既不實知。當知彼等。方應長夜共生諍鬥。流轉生死。互相呰毀。互相罵辱。既生諍鬥。執競不休。各各以手。自遮其面。如彼群盲。共相惱亂。於中有偈  若不能知苦聖諦  亦復不知苦集因  所有世間諸苦法  此苦滅盡無餘處  於中是道尚不知  況知滅苦所行行  如是其心未解脫  未得智慧解脫處  彼既不能諦了觀  但知趣向生老死  未得免離諸魔縛  豈能到於無有處  諸比丘。若有沙門婆羅門等。能知如實苦聖諦。苦集苦滅苦滅道聖諦。如實知者。應當如是隨順修學。彼等長夜和合共行。各各歡喜無有諍競。同趣一學。猶如水乳。共相和合。一處同住。示現教師所說聖法。安樂處住。此中說偈  若能知是諸有苦  及所有生諸苦因  既知一切悉皆苦  應令盡滅無有餘  若知此滅由於道  便到苦滅所得處  即能具足心解脫  及得智慧解脫處  則能到於諸有邊  如是不至生老死  長得免脫於魔縛  永離世間諸有處』
答曰。此事無實故不答。諸法有常無此理。諸法斷亦無此理。以是故佛不答。譬如人問搆牛角得幾升乳。是為非問。不應答。 答えて曰く、此の事には、実無きが故に、答えたまわず。諸法に常有りとは、此の理無し。諸法は断なりも、亦た此の理無し。是を以っての故に、仏は答えたまわず。譬えば、人の、牛の角を搆(ひ)いて、幾升の乳を得るやと問うが如きは、是れ問に非ずと為し、応に答うべからず。
答え、
此の、
『事』は、
『無実である!』が故に、
『答えられない!』。
諸の、
『法』が、
『有常ならば!』、
此の、
『理』は、
『無い!』し、
諸の、
『法』が、
『断ならば!』、
此の、
『理』も、
『無い!』。
是の故に、
『仏』は、
『答えられないのである!』。
譬えば、
『人』が、
『牛』の、
『角を搆(ひ)いて!』、
『乳』を、
『幾升得られるのか?』と、
『問うた!』としても、
是れは、
『問にならない!』ので、
『答えるはずがない!』。
  (こう):牽く/引っぱる( pull, draw )。
復次世界無窮如車輪。無初無後。 復た次ぎに、世界に窮無く、車輪の如く、初無く、後無し。
復た次ぎに、
『世界』は、
譬えば、
『車輪のように!』、
『無窮であり!』、
則ち、
『初、後』が、
『無い!』。
復次答此。無利有失墮惡邪中。佛知十四難常覆四諦諸法實相。如渡處有惡虫水不應將人渡。安隱無患處。可示人令渡。 復た次ぎに、此れに答うるも、利無く、失有りて、悪邪中に堕す。仏の知りたまわく、『十四難は、常に四諦と、諸法の実相を覆う。渡る処に、悪虫の水有らば、応に人を将(ひき)いて渡るべからざるが如く、安穏にして、患無き処を、人に示して、渡らしむべし』、と。
復た次ぎに、
此れに、
『答えても!』、
『利が無く!』、
『失』が、
『有るだけで!』、
『悪邪』中に、
『堕ちることになる!』。
『仏』は、こう知っていられる、――
『十四難』は、
常に、
『四諦』や、
『諸法の実相』を、
『覆う!』ので、
譬えば、
『渡し場』に、
『悪虫の水』が、
『有れば!』、
当然、
『人を将(ひき)いて!』、
『渡るべきでないように!』、
『安隠な!』、
『患の無い処』を、
『人に示して!』、
『渡らせねばならぬ!』、と。
復次有人言。是事非一切智人不能解。以人不能知故佛不答 復た次ぎに、有る人の言わく、『是の事は、一切智の人の解すること能わざるに非ず。人の、知る能わざるが故に、仏は答えたまわず。』と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『事』は、
『一切智の人』が、
『理解できないのではない!』。
『人』には、
『知ることのできない!』、
『事である!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『答えられないのだ!』、と。
復次若人無言有。有言無。是名非一切智人。一切智人。有言有。無言無。佛有不言無。無不言有。但說諸法實相。云何不名一切智人。 復た次ぎに、若し人、無きを、有りと言い、有るを、無しと言わば、是れを一切智の人に非ずと名づく。一切智の人は、有れば、有りと言い、無ければ、無しと言う。仏は、有るを、無しと言わず、無きを、有りと言わず、但だ諸法の実相を説きたもう。云何が、一切智の人と名づけざる。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『無い!』のに、
『有る!』と、
『言い!』、
『有る!』のに、
『無い!』と、
『言えば!』、
是の、
『人』は、
『一切智の人でない!』と、
『呼ばれる!』。
若し、
『一切智の人ならば!』、
『有れば!』、
『有る!』と、
『言い!』、
『無ければ!』、
『無い!』と、
『言う!』が、
『仏』は、
『有れば!』、
『無い!』と、
『言わず!』、
『無ければ!』、
『有る!』と、
『言わず!』、
但だ、
『諸法の実相』を、
『説くのである!』。
是れを、
何故、
『一切智の人』と、
『呼ばないのか?』。
譬如日不作高下亦不作平地等一而照。佛亦如是。非令有作無。非令無作有。常說實智慧光照諸法 譬えば、日は高下を作さず、亦た平地と作らず、等一にして、照らすが如し。仏も、亦た是の如し、有りをして、無しと作さしめず、無しをして、有りと作さしめず、常に実を説きて、智慧の光もて、諸法を照らしたもう。
譬えば、
『日』が、
『高慢、卑下』を、
『作さず!』、
亦た、
『地』を、
『平らにする!』ことも、
『作さず!』、
而も、
『平等、一様』に、
『照らす!』が、
『仏』も、
是のように、
『有』を、
『無』と、
『作さず!』、
『無』を、
『有』と、
『作さず!』、
常に、
『実』を、
『説きながら!』、
『智慧の光』で、
『諸法』を、
『照らされるのである!』。
  高下(こうげ):比較的優れる/劣る、良い/悪い( relative superiority or inferiority, good and bad )の意。両者の相対的な関係に於いて高低、優劣を表す。
  参考:『善見律毘婆沙巻5』:『優波離欲證律藏根本。於是舍利弗從靜處起。而作是念。問曰。何謂為靜。答曰。寂靜無聲。亦言一心寂靜。云何佛法久住。從毘婆尸佛而答。餘者義自當知。問曰。舍利弗何不自以神力觀看可知而來白佛。答曰不得。舍利弗若以神力觀看。正可知諸佛久住不久住。若分別諸佛因緣不能通了。大德大蓮華言能。何以故。所以上羅漢十六種智。如此之理不足為難。依止如來欲顯世尊為上。是故來白佛而問。佛答舍利弗。餘者律句次第自當知。云何因緣者。此義易知。佛語舍利弗毘婆尸佛者。語為初。諸佛非是懈怠。或為一人二三人如是增上乃至一切三千大千世界眾生說法有生異心。此眾少應略說。此眾大應廣說。亦不作高下說法。悉皆平等一種說法。譬如師子王七日一起覓食。臨捉眾生無大小先吼而捉。何以故。若師子捉眾生時不先大吼用輕心故。或得脫者。是故皆吼令眾生怖伏而捉。佛亦如是。於一切眾生無大小。皆以慇懃說之。若有略說眾生或不勤心修習。何以故。如來為尊重法故。今我世尊說法。譬如大海水同一味。過去諸佛亦復如是。然眾生心易教授。今說一偈義令入四諦。是故過去諸佛。不廣說法修登偈耶。』
如一道。人問佛言。大德十二因緣佛作耶。他作耶。 一道人の仏に問うて言わく、『大徳、十二因縁は、仏の作れるや。他の作れるや。』と。
例えば、
『一道人』が、
『仏』に問うて、こう言った、――
大徳!
『十二因縁を作った!』のは、
『仏ですか?』、
『他ですか?』、と。
  道人(どうにん):梵語parivraajakaの訳。又梵志とも称す。出家、乞食して道を求める人の意。
  十二因縁(じゅうにいんねん):衆生の老病死の苦は、無明を因とすると為すとして、其れを十二支に分類せるものを云う。即ち無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死なり。『大智度論巻3下注:十二因縁、同巻44上注:十二因縁』参照。
佛言。我不作十二因緣。餘人亦不作。有佛無佛生因緣老死。是法常定住。佛能說是生因緣老死乃至無明因緣諸行。 仏の言わく、『我れは十二因縁を作らず、余の人も、亦た作らず。仏有るも、仏無きも、生は、老死に因縁たり。是の法は、常に常住す。仏は、能く、是の生は、老死に因縁たり、乃至無明は、諸行に因縁たりと説くのみ。』と。
『仏』は、こう言われた、――
『十二因縁を作った!』のは、
『わたしでもなく!』、
『余人でもない!』。
『仏』が、
有ろうと、無かろうと、――
『生』は、
『老死』の、
『因縁である!』。
是の、
『法』は、
『常に!』、
『常住するのである!』が故に、
『仏』は、
こう説くことができるのである、――
『生』は、
『老死』の、
『因縁であり!』、
『乃至無明』は、
『諸行』の、
『因縁である!』と、と。
復次十四難中若答有過罪。若人問。石女黃門兒長短好醜何類。此不應答。以無兒故。 復た次ぎに、十四難中に、若し答うれば、過罪有り。若し、人、『石女、黄門の児の、長短、好醜は、何の類なりや。』と問わば、此れ、応に答うべからず、児無きを以っての故なり。
復た次ぎに、
『十四難』中に、
若し、
『答えれば!』、
『過罪』が、
『有る!』。
若し、
『人』が、
こう問うたとしても、――
『石女、黄門』の、
『児』は、
『背が高いか、低いか?』、
『顔は好いか、醜いか?』、
『何のような類なのか?』と。
此れには、
当然、
『答えてはならない!』、
何故ならば、
『児』が、
『無いからである!』。
  石女(しゃくにょ):梵語vandhyaa、或いはbandhyaaの訳。不妊、或いは無子の婦人の義。子を生まざる婦女を云う。又処女と訳し、和語にウマズメと訓ず。「大毘婆沙論巻16」に、「空とは彼れに聖道の胎なきことを顕わす。女の身中懐孕に任えず、空にして子なきが故に説いて石女と名づくるが如し」と云い、「大般涅槃経巻25」に、「譬えば石女の本と子の相なきが如く、功力無量の因縁を加うと雖も、子得べからず。心も亦是の如く、本と貪の相なし、衆縁を造ると雖も貪由りて生ずることなし」と云える其の例なり。又「倶舎論巻19」に、「石女の児の白黒等の性の如し」と云い、「因明入正理論」に、「自語相違とは、我が母は是れ其の石女なるべしと言うが如し」とあり。「倶舎論光記巻19」に今の論文を解して、「又問うて言うが如し、石女所生の児は白とせんや、黒等の性とせんやと。若し此の問を得ば亦応に捨置すべし。石女は本と自ら児なし、何ぞ白黒を論ぜんや、女の児を生まざるを名づけて石女と為すが故なり」と云えり。是れ子を生まざる石女の児vadhyaa-suta(又はvadhyaa-putra)の白黒を論ずるを戯論となせるものにして、亀毛兔角等と同義の譬喩として用いらる。但し「四分律行事鈔資持記巻中2」に、「石女とは、根の婬を通ぜざる者なり」と云い、「翻訳名義集巻5」に、「扇提羅は此に石女と云う。男女根なきが故なり。槃大子は此れ楞伽に出づ。若し大乗入楞伽には則ち石女児と云う」と云えるは、義今と異あるが如し。蓋し石女とは女根を具すと雖も、而も児を生まざる女人に名づけたるものにして、無根の扇提、半成の半択迦等と同じからざるべきが故に、名義集等の説は当らざるものとなすべきが如し。又「宝鏡三昧歌」に、「木人方に歌い、石女起ちて舞う。情識の到るに非ず、寧ろ思慮を容れんや」と云えるは即ち女人の石像を指せるものにして、今の石女の意に同じからず。是れに依りて木人石女の譬喩あり。即ち情識分別を離れたる天真の妙用を示すの意なり。又「維摩経巻中観衆生品」、「大毘婆沙論巻15」、「仏地経論巻6」、「瑜伽師地論巻6」、「因明入正理論疏巻中本」等に出づ。<(望)
  黄門(おうもん):梵語paNDakaの訳。又不男、不能男、非男非女、閹人等に訳す。不能行婬の男なり。『大智度論巻24上注:五種不能男』参照。
復次此十四難是邪見非真實。佛常以真實。以是故置不答。 復た次ぎに、此の十四難は、是れ邪見にして、真実に非ず。仏は、常に真実を以ってし、是を以っての故に置きて答えたまわず。
復た次ぎに、
此の、
『十四難』は、
『邪見であり!』、
『真実でない!』が、
『仏』は、
『常に!』、
『真実』を、
『用いられる!』が故に、
是の故に、
『置いて!』、
『答えられなかったのである!』。
復次置不答。是為答。有四種答。一決了答。如佛第一涅槃安隱。二解義答。三反問答。四置答。此中佛以置答。 復た次ぎに、置きて答えざるを、是れ答うと為す。四種の答うること有り。一には、決了して答う。仏は第一にして、涅槃は安穏なるが如し。二には、義を解きて答う。三には、問を反して答う。四には、置きて答うなり。此の中に、仏は、置くを以って答えたまえり。
復た次ぎに、
『置いて!』、
『答えない!』のも、
『答である!』。
『答』には、
『四種』有り、
一には、
『問』を、
『決了して!』、
『答える!』。
例えば、
『仏』は、
『第一である!』とか、
『涅槃』は、
『安隠である!』と、
『答えるようなものである!』。
二には、
『義』を、
『解説して!』、
『答える!』。
三には、
『問』を、
『反して!』、
『答える!』。
四には、
『問』を、
『置いて(捨てて)!』、
『答える!』。
此の中に、
『仏』は、
『置いて!』、
『答えられたのである!』。
  四種答(ししゅとう):又四記答、四記とも称す。問に答うるに当って、仏の用いらるる答え方に、四種の別有るを云う。一には決了答:若し人一切有情は皆当に死すべきや否やと問わば、応に一向に記すべし、一切有情は皆当に死すべしと。二には解義答:若し人凡べて死する者は皆当に生ずべきやと問わば、応に分別して記すべし、煩悩ある者は当に生ずべし、余は然らずと。三には反問答:若し人は勝とせんか、劣とせんかと問わば応に反問して記すべし、何の所に比して然か云うや、若し天に比せば応に人は劣れりと記すべし、若し三途に比せば人は勝れたりと記すべしと。四には置答:若し人五蘊と有情と一とせんや、異とせんやと問わば、応に捨置記なるべし、有情は実在にあらざるが故に一異の性を論ずること能わざればなり。『大智度論巻35下注:四記』参照。
  参考:『百喩経巻3』:『(五八)二子分財喻 昔摩羅國有一剎利。得病極重。必知定死。誡敕二子。我死之後善分財物。二子隨教於其死後分作二分。兄言弟分不平。爾時有一愚老人言教汝分物使得平等。現所有物破作二分。云何破之。所謂衣裳中割作二分槃瓶亦復中破作二分。所有盆瓨亦破作二分。錢亦破作二分。如是一切所有財物盡皆破之而作二分。如是分物人所嗤笑。如諸外道偏修分別論。論門有四種有決定答論門。譬如人一切有皆死此是決定答論門。死者必有生是應分別答。愛盡者無生。有愛必有生。是名分別答論門。有問人為最勝不。應反問言。汝問三惡道為問諸天。若問三惡道人實為最勝。若問於諸天人必為不如。如是等義名反問答論門。若問十四難。若問世界及眾生有邊無邊有終始無終始如是等義。名置答論門。諸外道愚癡自以為智慧。破於四種論作一分別論。喻如愚人分錢物破錢為兩假』
汝言無一切智人。有是言而無義。是大妄語。 汝が言わく、『一切智の人無し』とは、是の言有るも、義無し。是れ大妄語なり。
お前は、こう言った、――
『一切智の人』は、
『無い!』、と。
是の、
『言』は、
『有ったとしても!』、
而し、
『義(語の意味)』が、
『無い!』。
是れは、
『大きな!』、
『妄語である!』。
  妄語(もうご):真実ならざる語の意。『大智度論巻2上注:妄語、妄語戒』参照。
實有一切智人。何以故。得十力故。知處非處故。知因緣業報故。知諸禪定解脫故。知眾生根善惡故。知種種欲解故。知種種世間無量性故。知一切至處道故。先世行處憶念知故。天眼分明得故。知一切漏盡故。淨不淨分明知故。說一切世界中上法故。得甘露味故。得中道故。知一切法若有為若無為實相故。永離三界欲故。如是種種因緣故。佛為一切智人。 実に、一切智の人有り。何を以っての故に、十力を得るが故に、処と非処とを知るが故に、因縁と業報とを知るが故に、諸の禅定、解脱を知るが故に、衆生の根の善、悪を知るが故に、種種の欲と、解とを知るが故に、種種の世間の無量の性を知るが故に、一切の至る処と、道とを知るが故に、先世の行処を憶念して、知るが故に、天眼の分明たるを得るが故に、一切の漏の尽きたるを知るが故に、浄、不浄を分明して、知るが故に、一切の世界中の、上の法を説くが故に、甘露味を得るが故に、中道を得るが故に、一切の法の、若しは有為、若しは無為の実相を知るが故に、永く三界の欲を離るるが故に、是の如き種種の因縁の故に、仏を一切智の人と為すなり。
実に、
『一切智の人』は、
『有る!』。
何故ならば、
  1. 『十力』を、
    『得た!』が故に、
  2. 『処(是処)、非処』を、
    『知る!』が故に、
  3. 『因縁、業報』を、
    『知る!』が故に、
  4. 諸の、
    『禅定、解脱』を、
    『知る!』が故に、
  5. 『衆生』の、
    『根の善、悪』を、
    『知る!』が故に、
  6. 種種の、
    『欲、解』を、
    『知る!』が故に、
  7. 種種の、
    『世間』の、
    『無量の性』を、
    『知る!』が故に、
  8. 一切の、
    『至る(極まる)!』、
    『処、道』を、
    『知る!』が故に、
  9. 『先世』の、
    『行処(行業)』を、
    『憶念して!』、
    『知る!』が故に、
  10. 『天眼』で、
    『分明して!』、
    『得る(認識する)!』が故に、
  11. 一切の、
    『漏が尽きた!』と、
    『知る!』が故に、
  12. 『浄、不浄』を、
    『分明して!』、
    『知る!』が故に、
  13. 一切の、
    『世界』中の、
    『上の法』を、
    『説く!』が故に、
  14. 『甘露味』の、
    『法』を、
    『得た!』が故に、
  15. 『中道』を、
    『得た!』が故に、
  16. 『一切の法』の、
    『有為や、無為の!』、
    『実相を知る!』が故に、
  17. 永く、
    『三界の欲』を、
    『離れる!』が故に、
是のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『仏』は、
『一切智の人である!』。
  十力(じゅうりき):仏菩薩の諸法を如実に知る智力に十種の別あるを云う。一には処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理の意。二には業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報の意にして、未だ其の果報の善悪が決定していないことを云う。三には静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。四には根上下智力:衆生の根力の優劣と得る所の果報の大小を知る智力。根とは能く生ずるの意、何かを生み出す能力を云う。五には種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。六には種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。七には遍趣行智力:五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。八には宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。九には死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。十には漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力を云う。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  処非処(しょひしょ):梵語staana-astaanaの訳。此の中staanaは処又は是処と訳し、聖処、場所、適切、適切な場所等の義を有する語。又astaanaは非処と訳し、処に対する否定の語。即ち其れが道理を有する場所か、道理を有する場処に非ざるかを云う。
  中道(ちゅうどう):梵語antaraa、或いはmadhyamaa-pratipadの訳。仏の所説の法の常断、有無等の両辺に執せざることを云う。『大智度論巻43上注:中道』参照。
  参考:『大智度論巻24:『問曰。佛有無量力。何以故但說十力。答曰。諸佛雖有無量力。度人因緣故。說十力足成辦其事。(1)以是處不是處智力。分別籌量眾生是可度是不可度。(2)以業報智力。分別籌量是人業障是人報障是人無障。(3)以禪定解脫三昧智力。分別籌量是人著味是人不著味。(4)以上下根智力。分別籌量眾生智力多少。(5)以種種欲智力。分別籌量眾生所樂。(6)以種種性智力。分別籌量眾生深心所趣。(7)以一切至處道智力。分別籌量眾生解脫門。(8)以宿命智力。分別眾生先所從來。(9)以生死智力。分別眾生生處好醜。(10)以漏盡智力分別籌量眾生得涅槃。佛用是十種力度脫眾生。審諦不錯皆得具足。以是故佛雖有無量力但說此十力。』



一切智人を讃ずる偈

問曰。有一切智人。何等人是。 問うて曰く、一切智の人有らば、何等の人か、是れなる。
問い、
『一切智の人』が、
『有れば!』、
是れは、
何のような、
『人ですか?』。
答曰。是第一大人三界尊名曰佛。 答えて曰く、是れ第一の大人、三界の尊にして、名づけて仏と曰う。
答え、
是れは、
『第一の大人であり』、
『三界の尊である!』。
是れを、
『仏』と、
『称する!』。
如讚佛偈說
 頂生轉輪王  如日月燈明 
 釋迦貴種族  淨飯王太子 
 生時動三千  須彌山海水 
 為破老病死  哀愍故生世 
 生時行七步  光明滿十方 
 四觀發大音  我生胎分盡 
 成佛說妙法  大音振法鼓 
 以此覺眾生  世間無明睡 
 如是等種種  希有事已現 
 諸天及世人  見之皆歡喜 
 佛相莊嚴身  大光滿月面 
 一切諸男女  視之無厭足 
 生身乳餔力  勝萬億香象 
 神足力無上  智慧力無量 
 佛身大光明  照曜佛身表 
 佛在光明中  如月在光裏 
 種種惡毀佛  佛亦無惡想 
 種種稱譽佛  佛亦無喜想 
 大慈視一切  怨親等無異 
 一切有識類  咸皆知此事 
 忍辱慈悲力  故能勝一切 
 為度眾生故  世世受勤苦 
 其心常一定  為眾作利益 
 智慧力有十  無畏力有四 
 不共有十八  無量功德藏 
 如是等無數  希有功德力 
 如師子無畏  破諸外道法 
 轉無上梵輪  度脫諸三界
仏を讃じて、偈に説くが如し、
頂生転輪王の、日月灯明の如き、
釈迦貴種の族なる、浄飯王の太子なり。
生時には三千の、須弥山と海水とを動かし、
老病死の哀愍を破らんが、為の故に世に生ず。
生時には行くこと七歩にして、光明は十方に満ち、
四もを観て大音を発すらく、我が生胎の分尽きたりと。
仏と成りては妙法を説き、大音に法鼓を振るわせ、
此れを以って衆生を、世間の無明の睡より覚す。
是の如き等の種種の、希有の事を已に現わし、
諸天及び世人は、之を見て皆歓喜す。
仏相は身を荘厳し、大光は月面に満つ、
一切の諸の男女は、之を視るに厭足無し。
生身の乳餔の力は、万億の香象に勝り、
神足の力無上にして、智慧の力無量なり。
仏身に大光明あり、照曜として仏身を表わす、
仏は光明中に在りて、月の光裏に在るが如し。
種種に仏を悪毀するも、仏には亦た悪想無し、
種種に仏を称誉するも、仏には亦た喜想無し。
大慈もて一切を視るに、怨親は等しくして異無く、
一切の有識の類は、咸(ことごと)く皆此の事を知る。
忍辱と慈悲の力の故に、能く一切を勝(た)え、
衆生を度せんが為の故に、世世に勤苦を受く。
其の心は常に一定にして、衆の為に利益を作す、
智慧の力には十有り、無畏の力には四有り。
不共には十八有りて、功徳の蔵は無量なり、
是の如き等無数の、希有なる功徳力あり。
師子の畏るること無きが如く、諸の外道の法を破りて、
無上の梵輪を転じ、諸の三界を度脱す。
例えば、
『讃仏の偈』に、こう説く通りである、――
『頂生』という、
『転輪王』は、
『日、月、灯明のようであった!』が、
『釈迦』という、
『貴種族』の、
『浄飯王の太子』は、
『生時』には、
『三千大千』の、
『須弥山、海水』が、
『動き!』、
『老、病、死』の、
『苦』を、
『破り!』、
『衆生』を、
『哀愍する!』が故に、
『世に生まれた!』。
『生時』には、
『七歩歩いて!』、
『光明』が、
『十方を満たし!』、
『四方を観て!』、
『大音』を、
『発する!』、――
わたしの、
『生』は、
『胎の分』が、
『尽きた!』、と。
『仏と成って!』、
『妙法を説き!』、
『大音に!』、
『法鼓』を、
『振るわせ!』、
此の、
『大音』で、
『衆生』を、
『覚す!』、
『世間』は、
『無明』中に、
『睡っている!』。
是のような、
種種の、
『希有の事』を、
『現す!』と、
諸の、
『天、世人』は、
『之を見て!』、
『皆歓喜する!』。
『仏』の、
『相』は、
『身』を、
『荘厳し!』、
『大光』は、
『月の面(かんばせ)』に、
『満ちる!』。
一切の、
『諸の男、女』は、
『之を視て!』、
『厭き足ることが無い!』。
『生身』は、
『乳餔(乳を吸う!)の力すら!』、
『万億の香象』に、
『勝り!』、
『神足(神通)』の、
『力』は、
『無上であり!』、
『智慧』の、
『力』は、
『無量である!』。
『仏身』の、
『大光明は照曜して!』、
『仏身』を、
『表わす!』。
『月』が、
『光裏』に、
『在るように!』、
『仏』は、
『光明』中に、
『在る!』。
『仏』を、
種種に、
『悪(にく)み!』、
『毀(そし)っても!』、
『仏』には、
『悪む想』が、
『無く!』、
種種に、
『誉()め!』、
『称(たた)えても!』、
『仏』には、
『喜ぶ想』が、
『無い!』。
『大慈』は、
一切を、
『視て!』、
『怨、親が等しく!』、
『異想が無い!』。
一切の、
『識有る類(衆生)』は、
皆、
『此の事』を、
『知る!』。
『忍辱、慈悲』の、
『力』の故に、
一切に、
『勝()えることができ!』、
『衆生を度す!』為の故に、
世世に、
『勤苦』を、
『受ける!』、
其の、
『心』は、
『常に!』に、
『一定であり!』、
『衆生』の為に、
『利益』を、
『作す!』。
『智慧』の、
『力』には、
『十』が、
『有り!』、
『無畏』の、
『力』には、
『四』が、
『有り!』、
『不共』の、
『法』には、
『十八』が、
『有り!』、
『功徳』の、
『蔵』は、
『無量である!』。
是れ等のような、
『希有の!』、
『功徳の力』は、
『無数であり!』、
『師子のように!』、
『畏れる!』ことが、
『無く!』、
諸の、
『外道』の、
『法』を、
『破り!』、
『無上の!』、
『梵輪』を、
『転じて!』、
諸の、
『三界』を、
『度脱する!』。
  頂生転輪王(ちょうしょうてんりんのう):梵語muurdhagata chakra-vartinの訳。頭頂より生じた転輪王の意。釈尊の先世の名。『大智度論巻8下注:頂生王』参照。
  生胎(しょうたい):胎より生まれることと、胎に入ること。即ち生と云うに同じ。
  生身(しょうじん):父母所生の身の意。法身に対す。『大智度論巻16下注:生身、法身』参照。
  乳餔(にゅうほ):乳を吸うこと。
  香象(こうぞう):梵語gandha-hastinの訳。狂象とも訳す。又gandha-gajaに作る。交尾期の象なり。此の期間に於いて、象は其の顳顬よりmada或いはutkaTaと称する一種の香気ある漿を出すを以って此の名あり。『大智度論巻26下注:香象』参照。
  神足(じんそく):梵語Rddhi-paadaの訳。又如意足とも訳す。神通力の意。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  光裏(こうり):光のうち。光のなか。
  悪毀(あくき):にくんでそしる。憎悪し毀謗する。
  称誉(しょうよ):ほめたたえる。称讃し褒誉する。
  有識(うしき):識を有する者の意。有情、衆生に同じ。
  智慧力(ちえりき):仏の智慧の力、即ち十力に同じ。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  無畏力(むいりき):説法に当って仏の有する四種の無畏の力。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):仏菩薩のみ有して他と共にせざる戒力、定力、慧力には十八種の別有るを云う。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
  梵輪(ぼんりん):梵語brahma-cakraの訳。法輪dharma-cakraに同じ。法を説くことの意。『大智度論巻1上注:転法輪』参照。
  度脱(どだつ):済度し、解脱させること。
  四無畏(しむい):説法に関する畏れるもののない自信。
  (1)一切智無所畏:一切智の人であることにたいする畏れ無き自信。
  (2)漏尽無所畏:煩悩を尽くしたという畏れ無き自信。
  (3)説障道無所畏:修行の障(さまたげ)を説くことにたいする畏れ無き自信。
  (4)説尽苦道無所畏:戒定慧等の苦を滅する道を説くことにたいする畏れ無き自信。
  不共(ふぐう):仏のみに有して他と共にせずの義。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):仏と菩薩のみがもつ功徳。『大智度論巻26(上)』参照。
  (1)身無失:仏は戒定慧と智慧と慈悲を用いて常にその身を修めるが故に一切の煩悩がない。
  (2)口無失:その為に身の過失がなく、口の過失がなく、
  (3)念無失:心に思うことにも過失がない。
  (4)無異想:仏は一切の衆生を平等に済度して、心に選ぶことがない。
  (5)無不定心:仏は行住坐臥において勝れた禅定にあって、心が散乱することがない。
  (6)無不知己捨:仏は一切の事物に通じてそれに執著しない。
  (7)欲無減:仏は衆生を済度することを欲して、厭きることがない。
  (8)精進無減:仏は衆生を済度して休息することがない。
  (9)念無減:仏は三世の諸仏の法と一切の智慧に相応して満足し、その状態から退くことない。
  (10)慧無減:仏は一切の智慧を具えて尽きることがない。
  (11)解脱無減:仏は一切の執著を永久に遠離する。
  (12)解脱知見無減:仏は一切に解脱しているため、あらゆることを実相のままに理解する。
  (13)一切身業隨智慧行:仏の一切の身業は智慧に随う。
  (14)一切口業隨智慧行:仏の一切の口業は智慧に随う。
  (15)一切意業隨智慧行:仏の一切の意業は智慧に随う。
  (16)智慧知過去世無礙:仏の智慧は全ての衆生の過去世を礙(さまたげ)なく照らし知る。
  (17)智慧知未来世無礙:仏の智慧は全ての衆生の未来世を礙)なく照らし知る。
  (18)智慧知現在世無礙:仏の智慧は全ての衆生の現在世を礙なく照らし知る。
是名為婆伽婆。婆伽婆義無量。若廣說則廢餘事。以是故略說
大智度論卷第二
是れを名づけて、婆伽婆と為す。婆伽婆の義は無量なり。若し広く説かば、則ち余の事を廃せん。是を以っての故に略して説くのみ。
大智度論巻第二
是れを、
『婆伽婆』と、
『称する!』が、
『婆伽婆』の、
『義』は、
『無量であり!』、
若し、
『広く説けば!』、
『余事』を、
『廃することになる!』。
是の故に、
『略して説いた!』。

大智度論巻第二


著者に無断で複製を禁ず。
Copyright(c)2014 AllRightsReserved