巻第一(下)
如是我聞一時釈論第二
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摩訶般若波羅蜜初品如是我聞一時釋論第二
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


如是

【經】如是我聞一時 是(かく)の如(ごと)く我れ聞けり。一時、
是()のように、
わたしは、
聞いた!、――
一時(あるとき)、‥‥
  如是(にょぜ):かくのごとく。かように。このように。かくのごとし。このとおり。そのとおり。
  一時(いちじ):あるとき。かつて。その当時。
  :”わたしは”、阿難が自らを称していうことば。
  阿難(あなん):釈迦の実父浄飯(じょうぼん)王の弟斛飯(こくぼん)王の第二子。後に仏弟子となり、択ばれて仏に近侍した。
  第一次結集(けつじゅう):ほとんどの経はこの文句で始まるが、それは仏の滅後、正法の失われるのを恐れた摩訶迦葉(まかかしょう)の提唱によって北印度の摩竭陀(まがだ)国王阿闍世(あじゃせ)の庇護のもと、王舎城の畢鉢羅(ひっぱら)窟に五百人の弟子が集まり、各人の記憶に基づいて正しい法と律とが確認された。それを第一次結集という。この時の法の誦者(じゅしゃ、自分の記憶を暗唱する者)として阿難、律の誦者として優波離(うばり)が選出されたことによる。
【論】問曰。諸佛經何以故初稱如是語 問うて曰(いわ)く、諸の仏の経は、何を以(も)っての故(ゆえ)にか、初めに如是の語を称(とな)うる。
問い、
諸(もろもろ)の、
『仏の経』は、
何故(なぜ)、
初めに、
『如是(是のように!)』と、
『称(とな)えるのですか?』。
  (しょう):となう。となえる。あぐ。あげる。挙げて言う。
答曰。佛法大海信為能入。智為能度。如是義者即是信。若人心中有信清淨。是人能入佛法。若無信是人不能入佛法。不信者言是事不如是。是不信相。信者言是事如是 答えて曰く、仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為す。『如是』の義とは、即(すなわ)ち是(こ)れ信なり。若(も)し人、心中に信有りて、清浄なれば、是(こ)の人は、能(よ)く仏法に入る。信ぜざる者の言(い)わく、『是の事は、是の如くならず。』と。是れ不信の相なり。信者は、『是の事は是の如し。』と言う。
答え、
『仏の法』の、
『大海』には、
『信』が、
『能入(海に入らせる者)であり!』、
『智』が、
『能度(彼岸に渡らせる者)である!』が、
『如是(是のように!)』という、
『義(意味)』は、
即(すなわ)ち、
是れが、
『信なのである!』。
若()し、
『人』が、
『心』中に、
『信が有って!』、
『清浄(疑を雑えない)ならば!』、
是の、
『人』は、
『仏の法』に、
『入ることができる!』が、
若し、
『信』が、
『無ければ!』、
是の、
『人』は、
『仏の法』に、
『入ることができない!』、
『信じない者』は、
こう言うからである、――
是の、
『事』は、
『如是(是のよう)でない!』、と。
是れが、
『不信(信じない!)』の、
『相である!』。
『信じる者』は、
こう言うだろう、――
是の、
『事』は、
『如是(是の通り)である!』、と。
  能入(のうにゅう):うまく入れる。又其の人。仏法に入らせる人。案内人。
  能度(のうど):うまく渡す。又其の人。迷いの河を渡す人。渡し人。
  (ど):梵語paaramitaaの訳。渡す、渡るの意。生死を海に譬え、自ら生死の海を渡り、また人をも渡す、これを度と謂う。また梵語波羅蜜を訳して度と曰えり。生死の海を渡る行法なり。『大智度論巻6下注:波羅蜜』参照。
  (しん):信じる心。
  (ち):事理に対して、能く了知決定する精神作用。『大智度論巻23下注:智、慧』参照。
  清浄(しょうじょう):浄く純粋なこと。
  (そう):特質( characteristic )、◯梵語 lakSaNa の訳、属性/目印/辨別すべき特徴( An attribute, a mark; distinctive feature )の義。◯梵語 nimitta の訳、知覚的特性/知覚的形状/現象/特性( A perceptual quality, a perceptual form, a sign; defining attribute )の義。◯梵語 aakaara の訳、知覚的心象( Perceptual image )の義。◯梵語 saMjJaa の訳、形状/外観/状態/様相/状況/印象( Form, appearance, state, condition, aspect, situation, expression, external appearance, outwardly expressed appearance )の義。◯識別された様相/自己に関する人、我の如きと連ねられた人相、我相の如きは、言外の意として法、即ち客観的構成概念に等しい( Discriminated aspect(s). When juxtaposed with the notions of self, such as 人 and 我, it is equivalent in connotation to 法, i.e. objective constructs )。『大智度論巻1上注:相』参照。
譬如牛皮未柔不可屈折。無信人亦如是。譬如牛皮已柔隨用可作。有信人亦如是 譬えば、牛皮の未(いま)だ柔ならずして、屈折すべからざるが如き、信無き人も亦た是の如し。譬えば、牛皮の已(すで)に柔にして、用に随(したが)って作(な)すべきが如き、信有る人も亦た是の如し。
譬(たと)えば、
『牛皮』が、
未(いま)だ、
『柔軟でなければ!』、
『屈折されない!』が、
『無信の人』も、
亦()た、
『是の通りであり!』、
譬えば、
『牛皮』が、
已(すで)に、
『柔軟であれば!』、
『用いられるままに!』、
『作()される!』が、
『有信(うしん)の人』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次經中說信如手。如人有手入寶山中自在取寶。有信亦如是。入佛法無漏根力覺道禪定寶山中。自在所取。無信如無手。無手人入寶山中。則不能有所取。無信亦如是。入佛法寶山。都無所得 復た次ぎに、経中に説かく、『信は、手の如し。』と。人は手有りて、宝山中に入らば、自在に宝を取るが如し。信有るも亦た是の如く、仏法の無漏の根、力、覚、道、禅定の宝山中に入りて、取る所に自在なり。信無きは、手無きが如し。手無き人は、宝山中に入るも、則ち取る所有る能(あた)わず。信無きも亦た是の如く、仏法の宝山に入るも、都(す)べて得る所無し。
復()た次ぎに、
『経』中には、こう説かれている、――
『信』は、
『手のようだ!』、と。
譬えば、
『人』に、
『手が有れば!』、
『宝山』中に、
『入って!』、
『自在に!』、
『宝』を、
『取れる!』が、
『有信の者』も、
是のように、
『仏の法』や、
『無漏の五根、五力、七覚分、八聖道分』や、
『禅定』という、
『宝山』中に、
『入って!』、
『取る!』ことが、
『自在である!』が、
『無信の者』は、
『手』が、
『無い!』のと、
『同じである!』、
『手の無い人』が、
『宝山』中に、
『入れば!』、
則(すなわ)ち、
何も、
『取ることができない!』が、
『無信の者』も、
是のように、
『仏法の宝山』に、
『入っても!』、
都(すべ)て、
『得られる物』が、
『無いのである!』。
  無漏(むろ):梵語anaasrabaHの訳。有漏に対す。漏は漏泄の意、又煩悩の異名なり。貪、瞋等の煩悩の日夜眼耳等の六根門より不善を漏泄するが故に称して漏と為す。又漏に漏落の意あり、煩悩の人をして三悪道に落入せしむるが故に漏と称す。之に因り煩悩有る法を有漏と為し、煩悩の垢染を離れて清浄なる法を称して無漏と為す。涅槃、菩提等の如き、三界の煩悩を能く断除する一切の法は、均しく無漏に属す。「倶舎論巻20」、「大乗義章巻5本」等に出づ。<(佛)『大智度論巻20下注:漏、同巻23上注:無漏法』参照。
  根力覚道(こんりきかくどう):涅槃、或いは菩提を求むるに当り、功用ある三十七品の法中、五根、五力、七覚分、八聖道分を挙げる。『大智度論巻15下注:五根、五力、同巻17下注:三十七菩提分法、同、巻18上注:八正道、同巻18下注:七覚支』参照。
  禅定(ぜんじょう):心をある一境に繋念、専注して散乱せしめざるを云う。『大智度論巻5上注:禅定、禅、巻17下注:定』参照。
  参考:『80華厳経巻27』:『佛子。菩薩摩訶薩。以其手足。施諸眾生。如常精進菩薩。無憂王菩薩。及餘無量。諸菩薩等。於諸趣中。種種生處。布施手足。以信為手。起饒益行。往返周旋。勤修正法。願得寶手。以手為施。所行不空。具菩薩道。常舒其手。擬將廣惠。安步遊行。勇猛無怯。以淨信力。具精進行。除滅惡道。成就菩提。佛子。菩薩摩訶薩。如是施時。以無量無邊。廣大之心。開淨法門。入諸佛海。成就施手。周給十方。願力任持。一切智道。住於究竟離垢之心。法身智身。無斷無壞。一切魔業。不能傾動。依善知識。堅固其心。同諸菩薩。修行施度。』
  五根(ごこん):仏道に必要な根本的能力。
  (1)信根:仏法僧の三宝と四諦を信ずること。
  (2)精進根:十善などの善いことを怠らずに行うこと。
  (3)念根:正法を憶念して忘れないこと。
  (4)定根:心を散乱せしめないこと。
  (5)慧根:真理を思惟すること。
  五力(ごりき):五根が増長して、五障の勢力を治する者。
  (1)信力:信根が増長して、よく諸の邪信を破る者。
  (2)精進力:精進根が増長して、よく諸の懈怠を破る者。
  (3)念力:念根が増長して、よく諸の邪念を破る者。
  (4)定力:定根が増長して、よく諸の乱想を破る者。
  (5)慧力:慧根が増長して、よく諸の癡惑を破る者。
  七覚支:覚りを助ける七つのもの。七つの覚りの成分。
  (1)念覚支:憶念して忘れないこと。
  (2)択法覚支:物事の真偽を選択する智慧のこと。
  (3)精進覚支:正法に精進すること。
  (4)喜覚支:正法を喜ぶこと。
  (5)軽安覚支:身心が軽快であること。
  (6)定覚支:心を散乱せしめないこと。
  (7)捨覚支:心が偏らず平等であること。捨とは平等の意。
  八正道:生死を脱れる道の八成分。
  (1)正見:苦集滅道の四諦の理を認めること。
  (2)正思惟:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。
  (3)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。
  (4)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。
  (5)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。
  (6)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。
  (7)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。
  (8)正定:正しい智慧でもって、心を統一すること。
佛言。若人有信。是人能入我大法海中。能得沙門果不空。剃頭染袈裟。若無信是人不能入我法海中。如枯樹不生華實。不得沙門果。雖剃頭染衣讀種種經能難能答。於佛法中空無所得。以是故。如是義在佛法初。善信相故 仏の言(のたま)わく、『若し人に信有らば、是の人は能く我が大法の海中に入りて、能く沙門の果を得て空しからず。剃頭し、袈裟を染むれど、若し信無くんば、是の人は我が法の海中に入る能わず、枯樹の華実を生ぜざるが如く、沙門の果を得ず。剃頭、染衣し、種種の経を読みて、能く難じ、能く答うと雖(いえど)も、仏法中に於(お)いては、空しく得る所無し。』と。是(ここ)を以っての故に、『如是』の義の仏法の初に在ること、善信の相なるが故なり。
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『人』に、
『信』が、
『有れば!』、
是の、
『人』は、
わたしの、
『法』の、
『大海』中に、
『入ることができ!』
『得られる!』、
『沙門果』も、
『空(むな)しくない!』が、
若し、
『信』が、
『無ければ!』、
『頭を剃り!』、
『袈裟を染めても!』、
是の、
『人』は、
わたしの、
『法』の、
『大海』中に、
『入ることができず!』、
譬えば、
『枯れ樹』に、
『果実』を、
『生じないように!』、
『沙門』の、
『果』を、
『得られない!』。
仮令(たとえ)、
『頭を剃り!』、
『衣を染め!』、
『種種の経を読み!』、
『難ずる(質問する)ことができ!』、
『答えることができた!』としても、
是の、
『人』は、
『仏の法』中には、
『空しく!』、
『無所得(何も得られない)である!』。
是の故(ゆえ)に、
『如是』という、
『義』が、
『仏法の初』に、
『在()る!』のは、
『善信』の、
『相( 特質:characteristic )』を、
『表すためである!』。
  沙門果(しゃもんのか):沙門となり、煩悩を滅して得る聖者の位。『大智度論巻18下注:四向四果、道巻22上注:沙門』参照。
  袈裟(けさ):梵名kaSaaya、巴梨名kasaaya、又はkasaava、又袈裟野、迦邏沙曳、或いは迦沙に作る。濁の義。壊色、不正色、赤色、又は染色等と訳す。僧衆の身に纏う法衣にして、其の色不正なるが故に此の名あり。蓋し袈裟の称は、法衣の色に就いて名を立てたること明なりと雖も、其の色に関しては異説あり。「四分律巻16」に、「若し比丘、新衣を得ば三種に壊色すべし。一一の色の中、随意に壊せよ、若しは青、若しは黒、若しは木蘭なり。若し比丘、三種の壊色、若しは青、若しは黒、若しは木蘭を以ってせず、余の新衣を著せば波逸提なり」と云い、又「十誦律巻15」に、「三種の壊色とは若しは青、若しは泥、若しは茜なり。若し比丘、青衣を得ば応に二種に浄すべし、若しは泥、若しは茜なり。若し泥衣を得ば亦た二種に浄すべし、若しは青、若しは茜なり。若し茜衣を得ば亦た二種に浄すべし、若しは青、若しは泥なり。若し黄衣を得ば、応に三種に浄すべし、青、泥、茜なり。赤衣を得ば応に三種に浄すべし、青、泥、茜なり。白衣を得ば亦た三種に浄すべし、青、泥、茜なり」と云えり。「五分律巻9」、「摩訶僧祇律巻18」、「毘尼母経巻8」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻8」、「有部毘奈耶巻39」、「根本説一切有部百一羯磨巻9」等にも亦た皆同じく三種壊色の説あり。之に依るに、青、黒(泥、又は皂に作る)、木蘭(茜、棧、赤、又は乾陀、或いは不均色に作る)の三種を以って袈裟の如法色となすべきが如し。<(望)『大智度論巻26上注:僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会、三衣』参照。
  参考:『増一阿含経巻11』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有二人不能善說法語。云何為二人。無信之人與說信法。此事甚難。慳貪之人為說施法。此亦甚難。若復。比丘。無信之人與說信法。便興瞋恚。起傷害心。猶如狗惡。加復傷鼻。倍更瞋恚。諸比丘。此亦如是。無信之人與說信法。便起瞋恚。生傷害心。若復。比丘。慳貪之人與說施法。便生瞋恚。起傷害心。猶如癰瘡未熟。復加刀割。痛不可忍。此亦如是。慳貪之人與說施法。倍復瞋恚。起傷害心。是謂。比丘。此二人難為說法。復次。比丘。有二人易為說法。云何為二。有信之人與說信法。不慳貪人與說施法。若。比丘。有信之人與說信法。便得歡喜。意不變悔。猶如有病之人。與說除病之藥。便得平復。此亦如是。有信之人與說信法。便得歡喜。心不改變。若復無貪之人與說施法。即得歡喜。無有悔心。猶如有男女端政。自喜沐浴手面。復有人來。持好華奉上。倍有顏色。復以好衣服飾奉上其人。彼人得已。益懷歡喜。此亦如是。無慳貪之人與說施法。便得歡喜。無有悔心。是謂。比丘。此二人易為說法。是故。諸比丘。當學有信。亦當學布施。莫有慳貪。如是。諸比丘。當作是學。
爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  沙門果(しゃもんか):出家の成果。凡そ声聞の聖者には四階位有り、(1)須陀洹(しゅだおん):預流と訳し、煩悩をあらかた断ちおわって聖者の流れに入る。(2)斯陀含(しだごん):一来と訳し、更に一度天界に生まれ、その後、人界に来て涅槃に入る。(3)阿那含(あなごん):不還と訳す、再び欲界に還ってこない。(4)阿羅漢(あらかん):一切の煩悩を断ちおわって生死を尽くし、涅槃に入る。
  袈裟(けさ):不正、壊、濁、染等と訳す。比丘の着ける法衣を指す。これに大中小の三衣有りて青、黄、赤、白、黒の五正色を避け、その他の雑色を用いる、故に色に従って袈裟という。その形は長方形を為すが故に、形に従って敷具、臥具等という。その相は、小片に割截し、綴り合せて田の畔の如くなるが故に相に従って割截衣、田相衣という。大中小の三枚は名を別にし、その小なる者を安陀会(あんだえ)といい、五條と訳す、その中なる者を鬱多羅僧(うったらそう)といい、七條と訳す、その大なる者を僧伽梨(そうがり)といい、九條、大衣等と訳す。天竺にてはこの三枚の袈裟の外には衣と謂われる者無し。
復次佛法深遠更有佛乃能知。人有信者雖未作佛。以信力故能入佛法
如梵天王請佛初轉法輪以偈請佛
 閻浮提先出  多諸不淨法
 願開甘露門  當說清淨道
佛以偈答
 我法甚難得  能斷諸結使
 三有愛著心  是人不能解
復た次ぎに、仏法は深遠にして、更に仏有りて、乃(すなわ)ち能く知る。人に信有らば、未だ仏と作(な)らずと雖も、信力を以っての故に、能く仏法に入る。梵天王の仏に初めて法輪を転ずるを請ずるに、偈を以って、仏を請ぜしが如し、
閻浮提は先に多く、諸の不浄法を出せり
願わくは甘露の門を開きて、当に清浄の道を説くべし
仏の偈を以って答えたまわく、
我が法は甚だ得難し、能く諸の結使を断ずれど
三有に愛著する心の、是の人は解する能わず
復た次ぎに、
『仏』の、
『法』は、
『深く遠い!』ので、
更に、
『知ることのできる!』のは、
乃ち(ようやく)、
『仏』が、
『有るのみだが!』、
『人』は、
『信』が、
『有れば!』、
未だ、
『仏』と、
『作(な)らなくても!』、
『信の力』の故に、
『仏の法』に、
『入る(理解する)ことができる!』。
例えば、
『梵天王』は、
『仏』に、
『初』の、
『転法輪(説法)』を、
『請()うた!』時、
『偈(詩文)』で、
『仏』に、こう請うた、――
『閻浮提』には、
先に、
諸の、
『不浄の法』が、
『多く出ている!』。
願わくは、
『甘露の門を開き!』、
『清浄の道』を、
『説きたまえ!』、と。
『仏』は、
『偈』で、こう答えられた、――
わたしの、
『法』は、
『甚(はなは)だ!』、
『理解し難(がた)い!』が、
諸の、
『結使(煩悩)』を、
『断つことができる!』。
是の、
『人』は、
『心』が、
『三有』を、
『愛著(執著)する!』ので、
此の、
『法』を、
『理解できない!』、と。
  梵天王(ぼんてんのう):色界初禅大梵天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
  法輪(ほうりん):仏の法を説くことを転輪聖王の宝輪を転じて四天下を屈伏するに喩う。『大智度論巻1上注:転法輪』参照。
  (ない):すなわち。意味を強める辞。猶お。一一段階を経るを意味する語。
  (げ):字数を定めて四句を結ぶ詩文の一種。『大智度論巻4上注:偈』参照。
  閻浮提(えんぶだい):須弥山の南に存する大洲の名。『大智度論巻1上注:四洲、同巻35下注:閻浮提』参照。
  結使(けっし):人を生死に結びつけ、又人を使役する者。煩悩の異名。『大智度論巻41下注:結、十結』参照。
  三有(さんう):三種の存在( three kinds of existence )、梵語 tri- bhava の訳、
  1. 三界の有(存在):『大智度論巻1下注:三界』参照。
    1. 欲有:欲界( realm of desire )の衆生
    2. 色有:色界( realm of form )の衆生
    3. 無色有:無色界( realm of beyond form )の衆生
  2. 有(衆生)の現在より未来に至る三種の状態
    1. 現有:現在の有( present existence or the present body and mind )
    2. 当有:未来の有( future existence or the future body and mind )
    3. 中有:中間の有( an existence in the intermediate )
  三界(さんがい):梵語trayo dhaatavaHの訳。巴梨語tayo dhaatavo、三種の界の意。衆生所居の三種の世界を云う。又三有とも称す。一に欲界kaama-dhaatu、二に色界ruupa-d.、三に無色界aaruupya-d.なり。「雑阿含経巻17」に、「三界あり。云何が三と云う、欲界、色界、無色界なり」と云い、「法華経巻2」に、「三界は安きことなし、猶お火宅の如し」と云える是れなり。其の名称に関し、「華厳経孔目章巻2」に、「三界とは衆生の果報分段の依処なり。阿鼻獄より他化天に至り、男女参居して諸の染欲多し、故に欲界と曰う。初禅梵天より阿迦尼吒天に至り、并びに女形なく亦た欲染なし。宮殿高大なり、是れ色の化生の故に色界と名づく。空無辺処より非想非非想処天に至り、但だ四心ありて色の形質なし、故に無色界と名づく」と云えり。之に依るに欲あるが故に欲界と名づけ、色勝るるが故に色界と名づけ、色質なきが故に無色界と名づけたるを知るべし。又「倶舎論巻8」には三界の中の種別を説き、「地獄と傍生と鬼と人と及び六欲天とを欲界と名づく。二十あり、地獄と洲との異に由る。此の上に十七処あり、色界と名づく。中に於いて三静慮に各三あり、第四静慮に八あり。無色界には処なし、生に由るに四種あり。同分と及び命とに依りて心等をして相続せしむ」と云えり。就中、欲界の二十処とは、等活、黒縄、衆合、号叫、大叫、炎熱、大熱、無間の八大地獄、南瞻部、東勝身、西牛貨、北俱盧の四洲、四天王、忉利、夜摩、都史多、化楽、他化自在の六欲天、并びに傍生、餓鬼の二処を云う。色界の十七処とは、梵衆、梵輔、大梵(初静慮処)、少光、無量光、極光浄(第二静慮処)、少浄、無量浄、遍浄(第三静慮処)、無雲、福生、広果、無煩、無熱、善現、善見、色究竟(第四静慮処)の十七天を指すなり。無色界には方処あることなく、但だ異熟生の空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の四の別あり。総じて四十一処を成ずるなり。又此の三界を分って凡べて九地とす、一に欲界五趣地、二に離生喜楽地、三に定生喜楽地、四に離喜妙楽地、五に捨念清浄地、六に空無辺処地、七に識無辺処地、八に無所有処地、九に非想非非想処地なり。此の中、第一地は欲界、次の四地は色界、後の四地は即ち無色界なり。又之を類別して二十五有とす、即ち欲界を地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣、東勝身等の人の四洲及び六欲天の十四有、色界を初禅、二禅、三禅、四禅、梵天、五那含天、無想天の七有、無色界を空無辺処等の四有に分別するなり。又「南本大般涅槃経巻13」、「品類足論巻5」、「大毘婆沙論巻75、98」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「大智度論巻21」、「瑜伽師地論巻4」、「入阿毘達磨論巻下」、「順正理論巻21」、「倶舎論光記巻7」、「同頌疏巻5」、「法苑珠林巻2、3」等に出づ。<(望)
  参考:『増一阿含経巻10』:『聞如是。一時。佛在摩竭國道場樹下。爾時。世尊得道未久。便生是念。我今甚深之法難曉難了。難可覺知。不可思惟。休息微妙。智者所覺知。能分別義理。習之不厭。即得歡喜。設吾與人說妙法者。人不信受。亦不奉行者。唐有其勞。則有所損。我今宜可默然。何須說法。爾時。梵天在梵天上。遙知如來所念。猶如士夫屈伸臂頃。從梵天上沒不現。來至世尊所。頭面禮足。在一面住。爾時。梵天白世尊曰。此閻浮提必當壞敗。三界喪目。如來.至真.等正覺出現於世。應演法寶。然今復不暢演法味。唯願如來普為眾生廣說深法。又此眾生根原易度。若不聞者。永失法眼。此應為法之遺子。猶如優缽蓮華.拘牟頭華.分陀利華。雖出於地。未出水上。亦未開敷。是時。彼華漸漸欲生。故未出水。或時此華以出水上。或時此華不為水所著。此眾生類亦復如是。為生.老.病.死所見逼促。諸根應熟。然不聞法而便喪者。不亦苦哉。今正是時。唯願世尊當為說法。爾時。世尊知梵天心中所念。又慈愍一切眾生故。說此偈曰 梵天今來勸  如來開法門  聞者得篤信  分別深法要  猶在高山頂  普觀眾生類  我今有此法  昇堂現法眼  爾時。梵天便作是念。如來必為眾生說深妙法。歡喜踊躍。不能自勝。頭面禮足已。即還天上。爾時。梵天聞佛所說。歡喜奉行』
  梵天王(ぼんてんのう):欲界、色界、無色界の三界の中の色界に属する天を四禅天といい、その初禅天に三天ある中の第三大梵天の主を梵天王という。通常、梵天と称するのは、この大梵天の王を指すが、その名を尸棄(しき)といい、仏の出世に逢うごとに、必ず最初に来て転法輪を請う。
梵天王白佛。大德。世界中智有上中下。善濡直心者。易可得度。是人若不聞法者。退墮諸惡難中。譬如水中蓮華。有生有熟。有水中未出者若不得日光則不能開。佛亦如是。 梵天王の仏に白(もう)さく、『大徳、世界の中の智には上、中、下有り。善、濡、直なる心は、易(たやす)く度を得べきも、是の人、若し法を聞かずんば、諸の悪難中に退堕せん。譬えば、水中の蓮華の有るは生じ、有るは熟し、有るは水中に未だ出でざる者にして、若し日光を得ざれば、則ち開く能わざるが如し。仏も亦た是の如し。』、と。
『梵天王』は、
『仏』に、こう白(もう)した、――
大徳!
『世界(三世・三界)』中の、
『智』には、
『上、中、下』が、
『有り!』、
『善良、柔軟、率直な心』ならば、
『度』を、
『得やすい!』が、
是の、
『人』が、
若し、
『法』を、
『聞かなければ!』、
諸の、
『悪難(悪処・難処)』中に、
『退堕することになります!』。
譬えば、
『水』中の、
『蓮華』には、
『生じた!』者も、
『成熟した!』者も、
『未だ水中より出ない!』者も、
『有ります!』が、
若し、
『日光』を、
『得られなければ!』、
則ち、
『開くことができません!』。
『仏』も、
亦た、
『是の通りです!』。
  大徳(だいとく):梵語 bhadanta の訳、仏教徒/仏教の乞食行者に対する尊敬の語( a term of respect applied to a Buddhist, a Buddhist mendicanta )。『大智度論巻8上注:大徳』参照。
  (にゅ):やわらかい。柔軟。たえしのぶ。忍耐。おだやか。温和。
  (じき):まっすぐ。
  退堕(たいだ):善を退き悪に堕ちる。
  悪難(あくなん):地獄、餓鬼、畜生の三悪趣、及び仏法を聞き難き八の難処。『大智度論巻8下注:八難』参照。
佛以大慈悲憐愍眾生故為說法。佛念過去未來現在三世諸佛法。皆度眾生為說法。我亦應爾。如是思惟竟。受梵天王等諸天請說法。爾時世尊以偈答曰
 我今開甘露味門 
 若有信者得歡喜 
 於諸人中說妙法 
 非惱他故而為說
仏は、大慈悲を以って、衆生を憐愍するが故に、為に法を説きたもうに、仏の念じたまわく、『過去、未来、現在三世の諸仏の法は、皆、衆生を度し、為に法を説けり。我れも亦た応に爾(しか)るべし。』と。是の如く思惟し竟(おわ)りて、梵天王等の諸天の説法を請うを受けたまえり。爾(そ)の時、世尊の偈を以って答えて曰(のたま)わく、
我れは今甘露味の門を開かん、
若し信有らば歓喜を得ん、
諸の人中に於いて妙法を説かん、
他を悩まさんが故にして、為めに説くに非ず。
『仏』は、
『大慈悲』で、
『衆生』を、
『憐愍する』が故に、
『衆生』の為めに、
『法』を、
『説かれた!』。
『仏』が、
『過去、未来、現在の三世』の、
諸の、
『仏の法』を、
『念じられる!』と、――
皆、
『衆生を度す!』為めに、
『説かれた!』、
『法であった!』。
わたしも、
亦た、
『爾()うでなければならぬ!』と、
是のように、
『思惟される!』と、
『梵天王等の諸天』の、
『請』を、
『受けて!』、
『説法されたのである!』。
爾の時、
『世尊』は、
『偈』で答えて、こう言われた、――
わたしは、
今、
『甘露味』の、
『門』を、
『開こう!』。
若し、
『有信の者ならば!』、
『歓喜』を、
『得るだろう!』。
諸の、
『人』中に、
『妙法』を、
『説く!』のは、
『他』を、
『悩ます!』為めに、
『説くのではない!』。
  憐愍(れんみん):あわれむ。愛おしみ憂いてあわれむ。愛惜して心配する。
佛此偈中不說布施人得歡喜。亦不說多聞持戒忍辱精進禪定智慧人得歡喜。獨說信人。佛意如是。我第一甚深法微妙無量無數不可思議不動不猗不著無所得法。非一切智人則不能解。是故佛法中信力為初。 仏は、此の偈中には、布施の人の歓喜を得るを説かず、亦た多聞、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の人の歓喜を得るを説かず、独(ひと)り信の人を説くのみ。仏の意は、是の如し、『我が第一に甚だ深き法は、微妙、無量、無数、不可思議、不動、不猗、不著にして、得る所無きの法なり。一切智の人に非ざれば、則ち解する能わず。是の故に、仏法中には信力を初と為すなり。』、と。
『仏』は、
此の、
『偈』中に、
『布施の人』が、
『歓喜を得るだろう!』とも、
『説かれず!』、
『多聞、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の人』が、
『歓喜を得るだろう!』とも、
『説かれず!』、
独(ひと)り、
『信じる人』を、
『説かれたのである!』。
『仏の意』は、こうであろう、――
わたしの、
『第一に!』、
『甚深の法』は、
『微妙であり!』、
『無量・無数であり!』、
『不可思議であり!』、
『動くことなく!』、
『他に頼ることなく!』、
『著することのない!』、
『無所得(認識不能)の法であり!』、
『一切智』の、
『人でなければ!』、
『理解できない!』。
是の故に、
『仏の法』中には、
『信の力』が、
『初である!』、と。
  甚深(じんじん):甚だ奥深い。容易に理解し難い。
  (い):よる。依。
  無所得(むしょとく):何者も獲得されない( nothing to be attained )、◯梵語 apraaptitva の訳、獲得しない( non-attainment, non-acquisition )の義、「何者も獲得されない」の字義は、又「何者にも執著しない」とも訳すことができる( Lit. 'nothing to be attained,' which can also be interpreted as 'nothing to be attached to.' )、執著の欠如と、心中の誤った識別に焦点を当てた、悟りの性格を敍述する一形態( A way of describing the character of enlightenment, which focuses on the lack of attachment and false discrimination in the mind )。◯梵語 anupadhi の訳、欺瞞の無い( without fraud )の義、認識不可能なこと( cannot be perceived )。『大智度論巻18下注:無所得』参照。
  一切智(いっさいち):梵語sarva-jJaanaの訳、仏のみ有する一切を知る智慧( The knowledge of everything, possessed by the Buddha )の意。内外一切の法相を了知する智慧を云う。『大智度論巻37上注:一切智』参照。
信力能入。非布施持戒禪定智慧等能初入佛法。如說偈言
 世間人心動  愛好福果報
 而不好福因  求有不求滅
 先聞邪見法  心著而深入
 我此甚深法  無信云何解
信力は、能(よ)く入るるも、布施、持戒、禅定、智慧等は能く初めて仏法に入るるに非ず。偈を説いて言うが如し、
世間の人は心動きて、福の果報を愛好するも
福の因を好まず、有らんことを求めて滅するを求めず
先に邪見の法を聞きて、心著して深く入れば、
我が此の甚だ深き法を、信無くして云何が解せん
『信の力』は、
『仏』の、
『法』に、
『入らせる!』が、
『布施、持戒、禅定、智慧』等は、
『仏の法』に、
『最初に!』、
『入らせるものではない!』。
譬えば、
『偈』に説いて、こう言う通りである、――
『世間の人』は、
『心』が、
『動いて!』、
『福』の、
『果報』を、
『愛好する!』が、
『福』の、
『因』を、
『好まない!』し、
而(しか)も、
『福』の、
『有る!』ことを、
『求めて!』、
『福』の、
『滅する!』ことは、
『求めない!』。
先に、
『邪見(邪な見解)』の、
『法』を、
『聞いて!』、
『心』が、
『著して( be attached to )!』、
『深く入れば!』、
わたしの、
此の、
『法』は、
『甚だ深い!』のに、
何故、
『信が無くて!』、
『理解できるのか?』。
  (ふく):称讃に価する功績( merit )、梵語 puNya の訳、さい先の良い( auspicous, propitious )、称讃に価する( meritorious )の義、法の実践に因って得られる良い報酬( The good rewards that result from practicing the Dharma. )の意。
  邪見(じゃけん):梵語mithyaa- dRSTiの訳、邪曲なる見解。『大智度論巻11下注:邪見』参照。
  (じゃく):附着/愛着( attachment )、梵語 sakta の訳、しがみ着く/附着する/固着する( clinging, adhering to, sticking in )の義、執著する( be attached to )の意。又執著 abhiniveza [専念/没頭 application, intentness ;attachment ] に同じ。
如提婆達大弟子俱迦梨等。無信法故墮惡道中。是人無信於佛法。自以智慧求不能得。何以故。佛法甚深故。如梵天王教俱迦梨說偈
 欲量無量法 智者所不量
 無量法欲量 此人自覆沒
提婆達の大弟子の倶迦梨等の、法を信ずること無きが故に、悪道中に堕つるが如し。是の人は、仏法を信ずること無く、自ら智慧を以って、求むるも、得る能わず。何を以っての故に、仏法は甚だ深きが故なり。梵天王の倶迦梨を教えて、偈を説けるが如し、
無量の法を量らんと欲するも、智者の量らざる所なり
無量の法を量らんと欲すれば、此の人は自ら覆没す
例えば、
『提婆達の大弟子』の、
『倶伽離』等は、
『法』を、
『信じる!』ことが、
『無い!』が故に、
『悪道』中に、
『堕ちたのである!』。
是の、
『人』は、
『仏の法』を、
『信じる!』ことが、
『無く!』、
自ら、
『智慧』で、
『法』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』。
何故ならば、
『仏の法』は、
『甚だ深いからである!』。
『梵天王』は、
『倶伽離』を、
『教えて!』、
『偈』を、こう説いた、――
『無量の法』を、
『量ろうとして!』も、
『智者』は、
『無量の法』を、
『量りはしない!』。
『無量の法』を、
『量ろうとすれば!』、
此の、
『人』は、
自ら、
『智慧』を、
『覆うて!』、
故に、
『悪道』に、
『没するだろう!』、
  提婆達(だいばだつ):悪弟子の名。『大智度論巻24下注:提婆達多』参照。
  倶迦梨(くがり):提婆達の弟子の名。『大智度論巻13下注:倶伽離』参照。
  覆没(ふくもつ):智慧を覆うて悪道に没するの意。
  提婆達(だいばだつ):釈迦の実父浄飯王(じょうぼんおう)の弟斛飯王(こくぼんおう)の第一子。釈迦の従兄弟して阿難の兄。一時仏に帰依したが、教団を主宰せんと試みるも仏に聴されず、五百の弟子を率いて教団を割る。五百の弟子は後に舍利弗、目揵連の働きによって連れ戻された。
  倶迦梨(くがり):提婆達の支持者。
復次如是義者。若人心善直信。是人可聽法。若無是相則不解如所說偈
 聽者端視如渴飲 
 一心入於語議中 
 踊躍聞法心悲喜 
 如是之人應為說
復た次ぎに、如是の義とは、若し人の心が善、直、信なれば、是の人は、法を聴くべし。若し是の相無ければ、則ち所説の如く解せず、偈に説くが如し、
聴く者の端視すること渇いて飲むが如く
一心に語議中に入りて
踊躍して法を聞き心に悲喜す
是の如き人なれば応(まさ)に為に説くべし
復た次ぎに、
『如是の義』とは、――
若し、
『人』の、
『心』が、
『善( good )、直( frank )、信( honesty )ならば!』、
是の、
『人』は、
『法』を、
『聴くことができる!』が、
若し、
是の、
『善、直、信』という、
『相』が、
『無ければ!』、
則ち、
『説かれた通りに!』、
『理解できない!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『聴く者』が、
『説く者』を、
『真直ぐ!』、
『見詰め!』、
『喉』が、
『渇(かわ)いて!』、
『飲むように!』、
『一心』に、
『語議』中に、
『入り!』、
『踊躍して!』、
『法』を、
『聞くごとに!』、
『心』が、
『悲しんだり!』、
『喜んだりすれば!』、
是のような、
『人の為めにこそ!』、
『説かねばならぬ!』。
  端視(たんし):真直ぐ見つめる。
  踊躍(ゆやく):喜んで踊りあがる。
  :一本に偈字無し。故に理に従って、如偈説に改む。
復次如是義在佛法初。現世利後世利涅槃利。諸利根本信為大力 復た次ぎに、如是の義の、仏法の初に在るは、現世の利、後世の利、涅槃の利にして、諸の利の根本は、信を大力と為せばなり。
復た次ぎに、
『如是の義』が、
『仏法』の、
『初』に、
『在る!』のは、――
『現世、後世、涅槃の利』や、
諸の、
『利の根本』は、
『信』が、
『大力だからである!』。
  (い):作す/行う/作る( do, act, make )、製作/創作( make, compose )、治める( administer )、成る/変成する( become )、は/是( be )、学習/研究( study )、種える( plant )、設立/建立( establish )、させる/使( let )、思う/信じる/考える( think, bilieve, consider )、演奏( play )、によって/られる//被( by )、於いて/在( in )、と/並列関係( and )、そこで/則( then )、もし( if )、或は( or )、助ける( help )、訴える/言う( tell, speak )、由って/為めに( because, for, on account of )、為めに( for, for the benefit of, for the sake of )、向って( facing to, toward )。
復次一切諸外道出家心念。我法微妙第一清淨。如是人自歎所行法毀他人法。是故現世相打鬥諍。後世墮地獄。受種種無量苦。如說偈
 自法愛染故 呰毀他人法
 雖持戒行人 不脫地獄苦
復た次ぎに、一切の諸の外道の出家は心に念ずらく、『我が法は、微妙にして第一に清浄なり。』と。是の如き人は、自ら行ずる所の法を歎じて、他人の法を毀(そし)れば、是の故に現世には相打って闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種種無量の苦を受く。偈に説くが如し、
自ら法に愛染するが故に、他人の法を呰毀すれば
持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず
復た次ぎに、
一切の、
諸の、
『外道の出家』は、
『心』に、こう念じている、――
わたしの、
『法』は、
『微妙であり!』、
『第一に清浄である!』、と。
是のような、
『人』は、
自ら、
『行う!』所の、
『法』を、
『讃歎して!』、
『他人』の、
『法』を、
『毀(そし)る!』ので、
是の故に、
『現世』には、
『打ち合って!』、
『互に闘諍し!』、
『後世』には、
『地獄に堕ちて!』、
『種種無量の苦を受ける!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
自らの、
『法』を、
『愛染する!』が故に、
『他人』の、
『法』を、
『呰毀(そし)れば!』、
仮令、
『持戒の行人であっても!』、
『地獄の苦』を、
『脱(のが)れられない!』。
  愛染(あいぜん):愛著して、煩悩の垢に染まるの意。
  呰毀(しき):責め傷つけてそしる。
  闘諍(とうじょう):論争( a dispute )、梵語 kalaha, vigraha, vivaada, adhikaraNa の訳、感情的な口論/口喧嘩( wrangle and quarrel )。
是佛法中。棄捨一切愛一切見。一切吾我憍慢。悉斷不著。如筏喻經言。汝曹若解我筏喻法。是時善法應棄捨。何況不善法 是の仏法中には、一切の愛、一切の見、一切の吾我、憍慢を棄捨して、悉(ことごと)く断じて著せず。筏喩経に言うが如し、『汝曹(なんじら)、若し我が筏喩の法を解せば、是の時は善法すら応に棄捨すべし。何(いか)に況(いわ)んや、不善の法をや。』と。
是の、
『仏の法』中に、
一切の、
『愛、見、吾我、憍慢』を、
『棄捨して!』、
悉く、
『断じて!』、
『著さない!』。
譬えば、
『筏喩経』に、こう言う通りである、――
お前たちが、
わたしの、
『筏喩の法』を、
『理解すれば!』、
是の時、
『善法すら!』、
『棄捨せねばならぬ!』、
況して、
『不善の法』は、
『言うまでもない!』、と。
  棄捨(きしゃ):捨ててかえりみない。
  (あい):色声香味触法の六欲に染愛すること。『大智度論巻17下注:愛』参照。
  (けん):自ら視た所の境に関し固執すること。『大智度論巻7上注:見』参照。
  吾我(ごが):我れと我が所有の義。我我所とも云う。我れ有りと妄執すること。
  憍慢(きょうまん):自ら高ぶり他を下げすむ心状。『大智度論巻49下注:憍、慢、憍慢』参照。
  筏喩法(ばつゆのほう):譬えば河を渡らんとして、流木を集め筏を造るも、河を渡り終えし時には便ち棄つべきが如く、善法と雖も固執すべからずと教う。
  汝曹(にょそう):なんじら。お前たち。
  参考:『中阿含巻54阿梨咤経』:『云何我為汝等長夜說筏喻法。欲令棄捨。不欲令受。猶如山水甚深極廣。長流駛疾。多有所漂。其中無舡。亦無橋梁。或有人來。而於彼岸有事欲度。彼求度時。而作是念。今此山水甚深極廣。長流駛疾。多有所漂。其中無舡亦無橋梁而可度者。我於彼岸有事欲度。當以何方便。令我安隱至彼岸耶。復作是念。我今寧可於此岸邊收聚草木。縛作椑筏。乘之而度。彼便岸邊收聚草木。縛作椑筏。乘之而度。安隱至彼。便作是念。今我此筏多有所益。乘此筏已。令我安隱。從彼岸來。度至此岸。我今寧可以著右肩或頭戴去。彼便以筏著右肩上或頭戴去。於意云何。彼作如是竟。能為筏有所益耶。時。諸比丘答曰。不也。世尊告曰。彼人云何為筏所作能有益耶。彼人作是念。今我此筏多有所益。乘此筏已。令我安隱。從彼岸來。度至此岸。我今寧可更以此筏還著水中。或著岸邊而捨去耶。彼人便以此筏還著水中。或著岸邊捨之而去。於意云何。彼作如是。為筏所作能有益耶。時。諸比丘答曰。益也。世尊告曰。如是。我為汝等長夜說筏喻法。欲令棄捨。不欲令受。若汝等知我長夜說筏喻法者。當以捨是法。況非法耶』
佛自於般若波羅蜜不念不猗。何況餘法有猗著者。以是故佛法初頭稱如是 仏は、自ら般若波羅蜜に於いてすら、念ぜず猗(よ)りたまわず。何に況んや、余法に有るいは猗著する者なるをや。是(ここ)を以っての故に仏法の初頭には、如是と称するなり。
『仏』は、
自ら、
『般若波羅蜜』を、
『念じることもなく!』、
『頼ることもなかった!』、
況して、
『余の法』を
『頼ったり!』、
『著したりされるだろうか?』。
是の故に、
『仏の法』の、
『初』には、
『如是』と、
『称するのである!』。
  猗著(いじゃく):拠り所として執著する。
佛意如是。我弟子無愛法無染法無朋黨。但求離苦解脫不戲論諸法相。如說阿他婆耆經。摩犍提難偈言
 決定諸法中 橫生種種想
 悉捨內外故 云何當得道
仏の意は、是の如し、『我が弟子には、法を愛するもの無く、法に染むるもの無く、朋党するもの無し、但だ離苦、解脱を求むるも、諸の法相を戯論せず』、と。阿他婆耆経に説けるが如し。摩犍提難じて偈もて言わく、
決定せる諸法の中に、横ざまに種種の想を生ず
悉く内外を捨つるが故に、云何が当(まさ)に道を得べき
『仏の意』は、
是の通りである、――
わたしの、
『弟子』には、
『法を愛する!』者も、
『法に染まる!』者も、
『朋党を組む!』者も、
『無い!』。
但だ、
『離苦、解脱』を、
『求めるだけであり!』、
諸の、
『法の相』を、
『戯論することはない!』、と。
例えば、
『阿他婆耆経』に、こう説く通りである、――
『摩犍提』は、
『偈で難じて!』、こう言った、――
『決定した!』、
諸の、
『法』中にも、
種種の、
『想』が、
『勝手に生じる!』ので、
悉(ことごと)く、
『内、外の想』を、
『捨てた!』。
故に、
何故、
『道』を、
『得ることがあろうか?』、と。
  朋党(ほうとう):同志が相結んで党外の者を排斥すること。
  離苦(りく):苦をはなれる。苦をのがれる。
  解脱(げだつ):苦を離れて世間を脱れる。
  戯論(けろん):答えを得ない無駄な論議。
  法相(ほうそう):法の真実相。
  阿他婆耆経(あたばぎきょう):不明。有るが云わく義足経なりと。
  摩犍提(まけんだい):不明。
  決定(けつじょう):事が決って動かない。
  (おう):帯棧( middle rail )、傍辺/側( side )、水平( horizontal )、横切る( transverse, cross )、広い( broad )、決心を下して一切を顧みない( steel one's heart )、交錯/錯雑( interlock, crisscross )、横に持つ( hold crosswise )、佩帯( wear across )、大概( probably )、とにかく( anyway )、横暴( perverse and violent )、意外/突然( sudden, unexpected )、臨時の( extra )、軽い災害( mishap )。
  内外(ないげ):内の六情、即ち眼耳鼻舌身意、及び外の六欲、即ち色声香味触法の意。
  参考:『義足経巻1摩因提女経』:『佛在句留國。縣名悉作法。時有一梵志。字摩因提。生女端正光世少雙。前後國王亦太子及大臣長者來求之。父皆不應。得人類我女者。乃與為婦。佛時持應器。於縣求食食竟盥澡藏應器。出城到樹間閑靜處坐。摩因提。食後出行園田。道經樹間。便見佛金色身。有三十二相。如日月。王自念言。持女比是大尊。如此人比我女。便還家謂婦言。兒母寧知得所願不。今得婿踰於女。母聞亦喜。即莊飾女。眾寶瓔珞。父母俱將女出城。母見佛行跡。文現分明。謂父言。寧知空出終不得婿。何故。婦說偈言 婬人曳踵行  恚者斂指步  癡人足踝地  是跡天人尊(地恐弛之錯)  父言。癡人莫還為女作患。女必得婿。即將女到佛所左手持臂。右手持瓶。因白佛。今以女相惠可為妾。女見佛形狀端正無比。以三十二相。瓔珞其身。如明月珠。便婬意繫著佛。佛知其意如火燃。佛即時說是義足經言 我本見邪三女  尚不欲著邪婬  今奈何抱屎尿  以足觸尚不可  我所說婬不欲  無法行不內觀  雖聞惡不受厭  內不止不計苦  見外好筋皮裹  尊云何當受是  內外行覺觀是  於黠邊說癡行  亦見聞不為黠  戒行具未為淨  不見聞亦不癡  不離行可自淨  有是想棄莫受  有莫說守口行  彼五惱聞見棄  慧戒行莫婬淨  世所見莫行癡  無戒行彼想有  可我有墮冥法  以見可誰有淨  諦見聞爾可謂  諦意取可向道  往到彼少不想  今奈何口欺尊  等亦過亦不及  已著想便分別  不等三當何諍  悉已斷不空計  有諦人當何言  已著空誰有諍  邪亦正悉無有  從何言得其短  捨欲海度莫念  於[阿-可+聚]縣忍行黠  欲已空止念想  世邪毒伏不生  悉遠世求敗苦  尊言離莫與俱  如水華淨無泥  重塵土不為萎  尊安爾無所貪  於世俗無所著  亦不轉所念想  行如度不隨識  三不作墮行去  捨不教三世事  捨不想無有縛  從黠解終不懈  制見想餘不取  便厭聲步三界  佛說是義足經竟。比丘悉歡喜』
佛答言
 非見聞知覺 亦非持戒得
 非不見聞等 非不持戒得
 如是論悉捨 亦捨我我所
 不取諸法相 如是可得道
仏の答えて言(のたま)わく、
見聞知覚に非ず、亦(ま)た持戒して得るに非ず、
見聞等せざるに非ず、持戒せずして得るに非ず、
是の如き論を悉く捨て、亦た我我所を捨て、
諸の法相を取らざれば、是の如く道を得べし。
『仏』は答えて、こう言われた、――
『見、聞、知、覚して!』、
『得るのでもなく!』、
『持戒して!』、
『得るのでもない!』。
『見、聞等をせずに!』、
『得るのでもなく!』、
『持戒せずに!』、
『得るのでもない!』。
是のような、
『論』を、
『悉く捨てて!』、
亦た、
『我、我所』を、
『捨て!』、
諸の、
『法の相』に、
『執著しなければ!』、
是のようにして、
『道』を、
『得られるだろう!』、と。
  我我所(ががしょ):我れと我が所有( I and mine )、梵語 aatma- aatmiya の訳、自己と自己所有の事物、或は自己に所属する事物;自己と自己に属するものを仮定して( Self and the things possessed, or attached to, by the self; positing a self and what appertains to a self )。『大智度論巻5上注:我、我所』参照。
  (が):自我( self )、梵語 aatman の訳、息/魂、生命/知覚/感覚の本源、独立した魂/自己、個人的存在の基礎( The breath, the soul, principle of life and sensation, The individual soul, self, The basis of personal existence)の義、我れ/我が/我等/我れに/我等が( I, my, we, me, our )、自我/個性( Subject, personality )の意。仏教に於いて、我は、 aatman という印度的概念である、或る不滅、不変の自己と同義語であるが、仏教に於いては、五蘊より成り立つが故に、我は、独立した永久的実体ではないと考えられている( In Buddhism, it is the equivalent of the Indian concept of ātman, an eternal, unchanging 'self,' which in Buddhism is understood as being composed of the five aggregates 五蘊 and hence not an independent and permanent entity. )、我とは、そのような自己に関する確信であるが、それを釈迦牟尼仏陀は、その教の中で論駁したのである( It is the belief in such a self that Śākyamuni Buddha refuted in his teachings. )。仏教はその基本的原理として、無我という観念を採用しているが、但だ我を仮の自己としてならば認めてもいる( Buddhism takes as its fundamental principle the notion of no-self 無我, only recognizing a provisional self. )。不滅の自己が継続的に輪廻するという間違った見解は、有らゆる誤解の基である( The erroneous idea of a permanent self continued in cyclic existence is the source of all illusion. )。大乗に於いて、我という自己の観念は、但だ想像的個人、又は有情的主体に係るのみならず、自己の身心、又は客観的現象に於ける、独立した存在を具象化するような、基本的傾向に係る( In Mahāyāna, the notion of self refers not only to an imagined personality or subject in sentient beings, but also the basic tendency to reify independent existence in either one's own person or objective phenomena, )、即ち人[衆生]無我、及び法無我であり( thus, 'selflessness of person' 人無我 and 'selflessness of phenomena' 法無我. )、涅槃経には、「常住不変の自己は、超越的世界に於いて、輪廻的存在を超え、常、楽、浄と共にある」と説かれている( the Nirvana Sutra posits a permanent self in the transcendental world, above the range of cyclic existence, along with permanence, bliss, and purity 常我樂淨. )。
  我所(がしょ):我が所有( mine )、梵語 aatmiiya の訳、自己の所有( one's own )、自己に付属するもの( That which pertains to the self )の義、個人的/主体的、個人的地位/財産、又は自己に関する有らゆるもの( Personal, subjective; personal conditions, possessions, or anything related to the self 我所有, 我所事. )の意。
  参考:『大智度論巻31』:『一切諸物誰之所有。即分別知無有別主。但於五眾取相故計有人相而生我心。以我心故生我所。我所心生故有利益我者生貪欲。違逆我者而生瞋恚。此結使不從智生從狂惑生故。是名為癡。』、また『我是一切諸煩惱根本。先著五眾為我。然後著外物為我所。我所縛故而生貪恚。貪恚因緣故起諸業。』
摩犍提問曰
 若不見聞等 亦非持戒得
 非不見聞等 非不持戒得
 如我心觀察 持啞法得道
摩犍提の問うて曰く、
若し見聞等をせず、亦た持戒して得るに非ず
見聞等ならざるに非ず、持戒せずして得るに非ず
我が心の如く、観察すせば、唖法を持して道を得ん
『摩犍提』は問うて、こう言った、――
若しは、
『見、聞等せずに!』、
亦た、
『持戒して!』、
『得るのでもない!』。
若しは、
『見、聞等もせず!』、
亦た、
『持戒もせずに!』、
『得るのでもない!』。
わたしの、
『心のように!』、
『観察すれば!』、
『唖法を持(たも)ちながら!』、
『道』を、
『得られるだろう!』、と。
  唖法(あほう):無言の行。
  参考:『五分律巻19』:『佛在舍衛城。爾時眾多比丘住一處安居。共議言。我等若共語者。或致增減。當共立制。勿復有言。若乞食先還。便掃灑食處。以瓶盛水出拭手腳巾。敷諸坐具置盛長食器。量食有長減著其中。如其得少從此取足。食竟次第除屏物事。若獨不勝招伴共舉。如此安居得安樂住。無復是非增減之患。作此議已即便行之。安居既竟。諸佛常法。歲二大會。往到佛所頭面禮足卻坐一面。佛慰問言。汝等安居和合乞食不乏道路不疲耶。答言。安居和合乞食不乏道路不疲。又問汝等安居云何和合。諸比丘即具以答。佛種種訶責。汝等愚癡。如怨家共住。云何而得和合安樂。我無數方便教汝等共住。當相誨誘轉相覺悟以盡道業。於今云何而行啞法。從今若復立不共語法得突吉羅罪』
佛答言
 汝依邪見門 我知汝癡道
 汝不見妄想 爾時自當啞
仏の答えて、言わく、
汝は邪見の門に依り、我れは汝が癡道を知る
汝妄想を見ずんば、爾の時自ら当に唖たるべし
『仏』は答えて、こう言われた、――
お前は、
『邪見の門』に、
『依って!』、
『道』を、
『得ようとしている!』が、
わたしは、
お前の、
『道』が、
『愚癡の道である!』と、
『知っている!』。
お前が、
『妄想』を、
『見なくなれば!』、
爾の時、
『自ら!』、
『唖(おし)となるだろう!』、と。
  (あ):おし。物言わぬひと。
復次我法真實餘法妄語。我法第一餘法不實。是為鬥諍本。今如是義示人無諍法。聞他所說說人無咎。以是故諸佛經初稱如是。略說如是義竟 復た次ぎに、我が法は真実にして、余法は妄語なり。我が法は第一にして、余法は実ならず。是れを闘諍の本と為す。今、如是の義は、人に無諍の法を示せば、他の所説を聞いて、人に説くも咎(とが)無し。是を以っての故に、諸仏の経の初には、如是と称す。略して如是の義を説き竟(おわ)れり。
復た次ぎに、
若し、こう言えば、――
わたしの、
『法』は、
『真実である!』が、
『余の法』は、
『妄語(不実語)である!』。
わたしの、
『法』は、
『第一である!』が、
『余の法』は、
『真実でない!』、と。
是れが、
『闘諍の本である!』。
今、
『如是の義(意味)』は、
『人』に、
『無諍』という、
『法()』を、
『示している!』ので、
『他の所説』を、
『聞いて!』、
『人』に、
『説いても!』、
則ち、
『咎』は、
『無い!』。
是の故に、
『諸仏の経』の、
『初』には、
『如是』と、
『称するのである!』。
以上、――
『如是の義』を、
『略説した!』。
  無諍(むじょうほう):紛争の無い( without strife )、梵語 araNaa, akalaha の訳、討論/否定の無いこと;悩まないこと;「空」、或は論争の無い、又は他と争わない精神的生活に住すること、( Without debate or contradiction; unafflicted; abiding in the 'empty' or spiritual life without debate, or without striving with others )。
  :是のように、わたしは聞いている。汝等諍論する莫かれ、是れ即ち仏の真実の語なり。





我者今當說 我とは、今当に説くべし。
『我(われ)』とは、――
今は、
当然、説かねばならぬ!、――
問曰。若佛法中言一切法空一切無有吾我。云何佛經初頭言如是我聞 問うて曰く、若し、仏法中に、『一切の法は空なり。一切に吾我有ること無し。』と言わば、云何が、仏の経の初頭には、『是の如く、我れ聞けり。』と言う。
問い、
若し、
『仏の法』中に、こう言うならば、――
一切の、
『法』は、
『空であり!』、
一切に、
『吾我( self )』は、
『無い!』、と。
何故、
『仏の経』の、
『初』に、こう言うのですか?――
是のように、
『わたし()』は、
『聞いた!』、と。
  吾我(ごが):自己( self )、梵語 aatman の訳、又我とも訳す、我れ( 'I.' )、仏教徒の禅定に於いて除去すべき自己に関する間違った見解( The mistaken view of self that is to be removed by Buddhist meditation practices )。
  無有(むう):無い。不存在。不具有。梵語 abhaava の訳。不実在、無、欠如( non-existence , nullity , absence )等の義。
答曰。佛弟子輩雖知無我。隨俗法說。我非實我也。譬如以金錢買銅錢人無笑者。何以故。賣買法應爾。言我者亦如是。於無我法中而說我。隨世俗故不應難。如天問經中偈說
 有羅漢比丘 諸漏已永盡
 於最後邊身 能言吾我不
答えて曰く、仏弟子の輩は、無我を知ると雖(いえど)も、俗法に随(したが)って説く。我は実の我に非ざるなり。譬(たと)えば、金銭を以って、銅銭を買うも、笑う者の無きが如し。何を以っての故に、売買の法は、応(まさ)に爾(しか)るべければなり。『我れは』と言うも、亦た是の如し。我法無き中に於いて、我を説くも、世俗に随うが故に、応に難ずべからず。天問経中の偈に説けるが如し、
羅漢比丘有り、諸漏已(すで)に永く尽く
最後辺の身に於いて、能く吾我を言うや不(いな)や
答え、
『仏』の、
『弟子の輩』は、
『無我である!』と、
『知る!』が、
『俗法』に、
『随って!』、
『我』と、
『説くのであり!』、
是の、
『我』は、
『実の我ではない!』。
譬えば、
『金』を、
『銅』と、
『交換すれば!』
『人が笑う!』が、
『金の銭』で、
『銅の銭』を、
『買っても!』、
『笑う人』が、
『無いようなものである!』。
何故ならば、
『売買の法』が、
『爾()うすべきだからである!』。
『我れは!』と、
『言うのも!』、
是のように、
『無我』という、
『法』中に、
『我』を、
『説いても!』、
『世俗』に、
『随う!』が故に、
『難じてはならない!』。
例えば、
『天問経』中の、
『偈』に、こう説く通りである、――
有る、
『阿羅漢の比丘』は、
諸の、
『漏』が、
已に、
『永く!』、
『尽きている!』、
是の、
『阿羅漢』は、
『最後辺の身』で、
『吾れは、我れの!』と、
『言うことができるのか?』、と。
  最後辺身(さいごへんのみ):生死界の辺に生じたる最後の身。『大智度論巻1下注:最後身』参照。
  最後身(さいごしん):梵語antima-dehaの訳。最後の依身に住するの意。又最後生、最後有pazcima-bhaavaとも名づく。即ち生死身の最後の生を云う。「法華経巻1方便品」に、「自ら謂う已に阿羅漢を得たり、是れ最後身にして究竟の涅槃なり」と云い、「倶舎論巻18」に、「最後有に住するを最後生と名づく」と云い、又「瑜伽論略纂巻11」に、「最後身とは謂わく已に欲界に生じ、即ち此の身に成道す。此の身は生死身の最後の有たるが故に、最後身と名づく」と云える是れなり。但し最後身の菩薩と一生所繋との異同に関しては異説あり、「大毘婆沙論巻171」に、「有が説く、第四入胎は是れ最後身の菩薩なり、謂わく覩史多天より歿して浄飯王宮に下生せる時なり。第三入胎は是れ一生所繋の菩薩なり、謂わく当に瞻部州より歿して覩史多天に生ずべき時なり。第二入胎は是れ次に此の前生の菩薩なり、謂わく所従を歿して瞻部州に生じ、迦葉波仏の法中に梵行を修する時なり。第一入胎は謂わく此の前の菩薩なり」と云えり。是れ即ち王宮所生の身を最後身の菩薩とし、覩史多天所住の身を一生所繋となせるものなり。又「大乗法苑義林章巻7本」に、「自受用身は七地以前を一生繋と名づけ、八地以後を最後身と名づく、更に生なきが故なり。蓮華座に処するを坐道場と名づく。他受用身は観音の前身の如きを一生所繋と名づけ、観音の身を最後身と名づけ、七宝の蓮座に処するを坐道場と名づく」と云えり。是れ蓋し三阿僧祇中、地前初阿僧祇を第一生とし、初地より七地に至る二阿僧祇を第二生とし、八地已上第三阿僧祇を第三生となすが故に、七地以前を一生所繋、八地以後を最後身と名づけたるなり。「大毘婆沙論巻171」に、「有が説く、第四入胎は是れ第三阿僧企耶の菩薩なり。第三入胎は第二阿僧企耶の菩薩なり。第二入胎は是れ初阿僧企耶の菩薩なり。第一入胎は是れ此の前の菩薩なり」と云えり亦た此の説に同ずるを見るべし。又「中阿含巻14大善見王経」、「法華経巻3授記品」、「菩薩地持経巻10」、「瑜伽師地論巻37、47」、「顕揚聖教論巻8」、「倶舎論巻5」、「同光記巻18」、「大乗義章巻17本、巻17末」、「法華経玄義巻4下」、「成唯識論述記巻5末」、「瑜伽論記巻9下」、「倶舎論法義巻18」等に出づ。<(望)
  (ろ):煩悩の異名。『大智度論巻20下注:漏』参照。
  吾我(ごが):吾も我も共に一人称の代名詞。われ。わが。われを。われに。古くは主格と所有格には吾を用い、目的格には我を用いた。
  参考:『別訳雑阿含経巻9』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤  獨園。時有一天。光色倍常。來詣佛所。身光顯照。遍於祇洹。赫然大明。卻坐一面。而說偈言 比丘得羅漢  盡諸有漏法  如是滅結者  住於最後身  偽說言是我  偽說言非我  爾時世尊以偈答曰 比丘得羅漢  盡諸有漏法  如斯滅結者  住於最後身  內心終不著  我及以非我  隨順世俗故  亦說我非我  天復以偈讚言 往昔已曾見  婆羅門涅槃  嫌怖久捨離  能度世間愛  爾時此天說此偈已歡喜還宮』
佛答言
 有羅漢比丘 諸漏已永盡
 於最後邊身 能言有吾我
仏の答えて言わく、
羅漢の比丘有り、諸漏已に永く尽く
最後辺の身に於いて、能く吾我有りと言う
『仏』は答えて、こう言われた、――
有る、
『阿羅漢の比丘』は、
諸の、
『漏』が、
已に、
『永く!』、
『尽きている!』。
是の、
『阿羅漢』は、
『最後辺の身』で、
『吾れ、我が!』が、
『有る!』と、
『言うことができる!』、と。
世界法中說我非第一實義中說。以是故諸法空無我。世界法故雖說我無咎 世界法中には、我を説くも、第一義中に説くに非ず。是を以っての故に、諸法は空、無我なるに、世界法の故に、我を説くと雖も、咎無し。
『世界法』中に、
『我』を、
『説く!』のは、
則ち、
『第一義』中に、
『説くのではない!』。
是の故に、
諸の、
『法』は、
『第一義』中には
『空であり!』、
『無我である!』が、
『世界法』の故に、
『我』を、
『説いても!』、
『咎は無い!』。
復次世界語言有三根本一者邪見。二者慢。三者名字。是中二種不淨一種淨。一切凡人三種語邪慢名字。見道學人二種語。慢名字。諸聖人一種語名字。內心雖不違實法。而隨世界人故共傳是語。除世界邪見。故隨俗無諍。以是故除二種不淨語本。隨世故用一種語。佛弟子隨俗故說我無有咎 復た次ぎに、世界の語言には、三根本有り。一には邪見、二には慢、三には名字なり。是の中の二種は不浄にして、一種は浄なり。一切の凡人は、三種の語にして邪、慢、名字なり。見道の学人は二種の語にして慢、名字なり。諸の聖人は一種の語にして名字なり。内心は実法に違わずと雖も、世界の人に随うが故に共に是の語を伝えて、世界の邪見を除くが故に俗に随うも諍うこと無し。是を以っての故に二種の不浄語の本を除き、世に随うが故に一種の語を用う。仏弟子は俗に随うが故に我を説くも、咎有ること無し。
復た次ぎに、
『世界の語言』には、
『三根本』が有り、
一には、
『邪見』、
二には、
『慢』、
三には、
『名字である!』。
是の中の、
『二種(邪見、慢)』は、
『不浄であり!』、
『一種(名字)』は、
『浄である!』。
一切の
『凡人』の、
『語』は、
『三種』、
『邪見、慢、名字である!』。
『見道の(聖者の道を見た!)学人』の、
『語』は、
『二種』、
『慢、名字である!』。
諸の、
『聖人』の、
『語』は、
『一種』、
『名字のみであり!』、
『内心』は、
『実の法』に、
『違わない!』が、
『世界の人』に、
『随う!』が故に、
『世界の人』と、
『共に(いっしょに)!』、
是の、
『語』を、
『伝えて!』、
『世界』の、
『邪見』を、
『除く!』が故に、
『世俗』に、
『随いながら!』、
『無諍である!』。
是の故に、
『二種』の、
『不浄な!』、
『語の本(邪見、慢)』を、
『除いて!』、
『世俗』に、
『随う!』が故に、
『一種の語』を、
『用いる!』ような、
『仏弟子(阿難)』が、
『世俗』に、
『随う!』が故に、
『我』を、
『説いても!』、
『咎は無い!』。
  邪見(じゃけん):我我所が有る等の誤った見解に迷うこと。『大智度論巻26上注:五見』参照。
  (まん):他に対して自ら挙恃する精神作用。『大智度論巻49下注:慢』参照。
  名字(みょうじ):名と字と。名は梵語那摩naamaの訳。字は梵語阿乞史囉akSaraの訳。名は語音に依りて事物の呼召し、人をして覚慧を生ぜしむるものを云い、字は名を表すに用うる文字の総称を云う。<(丁)『大智度論巻1下注:名』参照。
  (みょう):梵語那摩naamaの訳。心不相応行の一。七十五法の一。百法の一。語音に依りて物を呼召し、人をして覚慧を生ぜしむるものを云う。「倶舎論巻5」に、「名は謂わく作想なり、色声香味等の想を説くが如し」と云い、「同光記巻5」に之を釈し、「梵に那摩と云い、唐に名と言う。是れ随の義、帰の義、赴の義、召の義なり。謂わく音声に随って境に帰赴し、色等を呼召するなり。名は能く義を詮するも能く義と合するに非ず。声は能く義を詮するに非ず、亦た義と合するに非ず。故に入阿毘達磨巻2に云わく、即ち語音は親しく義を詮するに非ず、火を説く時便ち口を焼くことなし。要ず語に依るが故に火等の名あり、火等の名に依りて火等の義を詮す。詮とは謂わく能く所顕の義に於いて他の覚慧を生ず、義と合するに非ずと。梵に僧若と云い、唐に想と言う。是れ能く像を取りて専執するの義なり。或いは是れ共に契約を立つるの義なり。作想と言うは作は謂わく造作なり、心所の中の想は像を取り已りて建立し造作するに由る。此の名は是れ想の所作なれば名づけて作想と為す。名は是れ想なりと言うは因に従って称を受く。又解す、謂わく名を縁じて能く想を起す、能く想を作すが故に作想と名づく」と云える是れなり。是れ蓋し声は義を詮するものに非ざるも、名は能く義を詮顕して人の覚慧を生ぜしむるものなることを説き、且つ名は作想なりと言うは、想先づ境に対して像を取り、此の像に依りて物の名起る、即ち名は想の所作なれば、因に従って名を作想なりと説き、或いは又名を縁じて想を起す、名は即ち能くを想を作すものなるが故に、名を作想と説けるものなるを明にせるなり。又名には名と名身と多名身との三種の別あり。「倶舎論光記巻5」に、「名の三種とは、謂わく名と名身と多名身となり。句文も亦た爾り。名に多位あり、謂わく一字生、或いは二字生、或いは多字生なり。一字生とは、一字を説く時但だ名あるべくば、二字を説く時を即ち名身と謂う。或いは是の説を作す、三字を説く時を即ち多名身と謂い、或いは是の説を作す、四字を説く時を方に多名身と謂うと。二字生とは、二字を説く時但だ名あるべくば、四字を説く時を即ち名身と謂う。或いは是の説を作す、六字を説く時を即ち多名身と謂い、或いは是の説を作す、八字を説く時を方に多名身と謂うと。多字生の中、三字生とは三字を説く時但だ名あるべくば、六字を説く時を即ち名身と謂う。或いは是の説を作す、九字を説く時を即ち多名身と謂い、或いは是の説を作す、十二字を説く時を方に多名身と謂うと。此れを門と為すが故に、余の多字生の名と身と名身とは理の如く応に説くべし」と云えり。是れ即ち単を名、複を名身、三以上を多名身と名づけたるものにして、若し一字生に就いて言わば、色又は香の一字は名、色香の二字は名身、色香味の三字、若しくは色香味触の四字は多名身と名づけらるることを示せるなり。説一切有部に於いては声は義を詮せず、名は義を詮表するが故に、声の外に別に名の自体ありとし、経部及び唯識家にては、名は声の上の屈曲差別に過ぎざるが故に、声を離れて別の自体なしとし、之を分位仮立の法となせり。又「大毘婆沙論巻14」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」、「成唯識論巻2」、「同述記巻2末」、「大乗義章巻2」、「大乗法苑義林章巻1本」等に出づ。<(望)
  見道(けんどう):梵語darzana-maargaの訳。理を見る道の意。三道の一。具に見諦道と称し、無漏の智を以って四諦の理を現観する聖者の位を云う。『大智度論巻7下注:見諦道、同巻18下注:三道』参照。
  学人(がくにん):梵語zaiksa、或いはsacchisyaの訳。巴梨語sekha、尚お学すべきものある人の意。有学人の略称。「中阿含経巻30福田経」に、「世中に凡そ二種の福田の人dakkhineyyaあり。云何が二と為す。一には学人sekha、二には無学人asekhaなり。学人に十八あり、無学人に九あり」と云えり。是れ即ち二十七聖を有学と無学とに分類せしものなり。「四教義巻6」に揚ぐる七聖は、此の二十七聖を要約せしものというべく、「此の七聖人に復た二種の不同あり。謂わく、学と無学となり。前五種の聖人は悉く是れ学人、後二種の聖人は是れ無学位なり。学人と言うは、始め苦法忍より真智を発得す。爾してより方に聖人あるなり。聖諦ありて有漏無漏二種の五陰を具し、聖迹を見るが故に名づけて学人となし、諦に於いて推求せざるが故に無学人と名づくるなり」と云えり。即ち七聖の中、随信行等の初の五聖は、共に真智を発得するも、猶お有漏無漏の五陰を具する有学の聖者なれば、後の時解脱、不時解脱の二聖の無学に対して学人と称したるものなり。<(望)『大智度論巻18下注:七聖、同巻40上注:十八有学』参照。
復次若人著無吾我相。言是實餘妄語。是人應難。汝一切法實相無我。云何言如是我聞。今諸佛弟子一切法空無所有。是中心不著。亦不言著諸法實相。何況無我法中心著。以是故不應難言何以說我 復た次ぎに、若し人、吾我無き相に著して、『是れは実なり。余は妄語なり。』と言わば、是の人は、応に難ずべし、『汝が一切法の実相は、無我なれば、云何が是の如く我れ聞けりと言える。』と。今、諸仏の弟子の一切法は空にして所有無しとは、是の中に心著せず、亦た『諸法の実相に著す。』とも言わず。何に況んや、無我の法中に、心著するをや。是を以っての故に、応に難じて、『何を以ってか、我れと説く。』と言うべからず。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『吾我が無い!』という、
『相』に、
『著して!』、
こう言えば、――
是れが、
『実であり!』、
『余(その他)』は、
『妄語である!』、と。
是の、
『人』は、こう難じるはずである、――
お前の、
『一切の法』の、
『実相』が、
『無我ならば!』、
何故、――
『是のように、我れは聞いた!』と、
『言うのか?』、と。
今、
諸の、
『仏の弟子』には、
一切の、
『法』は、
『空であり!』、
『無所有である!』が、
是の中に、
『心』が、
『著することもなく!』、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『著することもない!』。
況して、
『無我の法』に、
『著する!』など、
『言うまでもない!』、
是の故に、
こう難じてはならない、――
何故、
『我』を、
『説くのか?』、と。
  :亦不言著諸法実相は、一本に亦不著諸法実相となす。
  無所有(むしょう):が無い( without )、◯梵語 abhaava の訳、存在しない/何物も存在しない/無形の( Nonexisting; nothing existing, the immaterial )、◯梵語 aakiMcanya の訳、何も無い( nothing whatsoever, want of any possession )、◯梵語 asat, naastitva の訳、存在しない( nonexistent, not being, not existing )の義。
如中論中偈說
 若有所不空 應當有所空
 不空尚不得 何況得於空
 凡人見不空 亦復見於空
 不見見無見 是實名涅槃
 非二安隱門 能破諸邪見
 諸佛所行處 是名無我法
略說我義竟
中論中の偈に説けるが如し、
若し空ならざる所有らば、応当に空なる所有るべし
空ならざるに尚お得ず、何に況んや空を得んをや
凡人は空ならざるを見る、亦復た空をも見る
見と見無きを見ず、是れ実に涅槃と名づく
非二の安穏の門は、能く諸の邪見を破り
諸仏の所行の処なり、是れを無我の法と名づく
略して我の義を説き竟れり
例えば、
『中論』中の、
『偈』には、こう説いている、――
若し、
『空でない!』所()が、
『有れば!』、
『空である!』所も、
『有るはずだ!』。
『空でない!』所すら、
『得られない!』のに、
況して、
『空』を、
『得られるはずがない!』。
『凡人』は、
『空でない!』所を、
『見ていながら!』、
是の中に、
『空』を、
『見て!』、
『見』が、
『有るのか?』、
『無いのか?』も、
『見ないのに!』、
是の、
『空』を、
『涅槃である!』と、
『言う!』。
『空、不空』の、
『二でない!』、
『安隠の門』は、
諸の、
『邪見』を、
『破ることができ!』、
諸の、
『仏の行く!』、
『処である!』が故に、
是れを、
『無我の法』と、
『称する!』。
以上、――
『我の義』を、
『略説した!』。
  中論(ちゅうろん):具には『中観論』と名づく、四巻。龍樹菩薩造り、青目菩薩訳し、姚秦の鳩摩羅什訳す。古来三論の一と為し、極めて尊重さる。その説相は最も徹底して中道を主張し、空を破り仮を破り、進みては併せて中に執する見をも破り、謂わゆる八不中道、即ち無所得の中道を説いて般若思想と為す者である。『中論巻2』参照。
  参考:『中論巻2』:『若有不空法  則應有空法 實無不空法  何得有空法』
  参考:『中論巻2』:『大聖說空法  為離諸見故 若復見有空  諸佛所不化』
  参考:『中論巻3』:『諸佛或說我  或說於無我 諸法實相中  無我無非我
                諸法實相者  心行言語斷 無生亦無滅  寂滅如涅槃』




聞者今當說 聞くとは、今当(まさ)に説くべし。
『聞く!』とは、――
今、
『説かねばならぬ!』、――
問曰。聞者云何。聞用耳根聞耶。用耳識聞。用意識聞耶。若耳根聞。耳根無覺知故不應聞。若耳識聞。耳識一念故不能分別。不應聞。若意識聞。意識亦不能聞。何以故。先五識識五塵。然後意識識。意識不能識現在五塵。唯識過去未來五塵。若意識能識現在五塵者。盲聾人亦應識聲色。何以故。意識不破故 問うて曰く、聞くとは、云何(いかん)が聞く。耳根を用いて聞くや。耳識を用いて聞くや。意識を用いて聞くや。若し耳根聞かば、耳根に覚知無きが故に、応に聞くべからず。若し耳識聞かば、耳識は一念なるが故に、分別する能わざれば、応に聞くべからず。若し意識聞かば、意識も亦た聞く能わず。何を以っての故に、先に五識、五塵を識りて、然る後に意識識れば、意識は、現在の五塵を識る能わず、唯(た)だ過去、未来の五塵を識るのみなればなり。若し意識、能く現在の五塵を識らば、盲、聾の人も亦た応に声、色を識るべし。何を以っての故に、意識は破れざるが故なり。
問い、
『聞く!』とは、
何のように、
『聞くのか?』、――
『耳根』を、
『用いて!』、
『聞くのか?』。
『耳識』を、
『用いて!』、
『聞くのか?』。
『意識』を、
『用いて!』、
『聞くのか?』。
若し、
『耳根』が、
『聞けば!』、
『耳根』には、
『覚、知』が、
『無い!』が故に、
『聞くはずがない!』。
若し、
『耳識』が、
『聞けば!』、
『耳識』は、
『一念である!』が故に、
『分別できず!』、
『聞くはずがない!』。
若し、
『意識』が、
『聞けば!』、
『意識』も、
『聞くことができない!』、
何故ならば、
先に、
『五識(眼識、乃至身識)』が、
『五塵(色、声、香、味、触)』を、
『知り!』、
その後、
『意識』が、
『識るので!』、
『意識』は、
『現在』の、
『五塵』を、
『識ることができず!』、
但だ、
『過去、未来の五塵』を、
『識るのみである!』。
若し、
『意識』が、
『現在』の、
『五塵』を、
『識ることができれば!』、
『眼根、耳根』の、
『破れた!』、
『盲、聾人』も、
『声、色』を、
『識るはずである!』。
何故ならば、
『意識』は、
『破れていないからである!』。
  耳根(にこん):梵語zrotreendriyaの訳。巴梨語sotindriya、耳の根の意。五根又は六根の一。十二処の一。十八界の一。又二十二根の一。略して単に耳とも名づく。即ち耳識の所依にして、声境を取る無見有対の浄色を云う。「品類足論巻1」に、「耳根とは云何、謂わく耳識所依の浄色なり」と云い、「大毘婆沙論巻142」に、「耳根は四処に於いて増上なり、一に自身を荘厳し、二に自身を導養し、三に識等の依となり、四に不共の事を作す。(中略)識等の依となるとは、耳識及び相応法は此れに依りて生ず。不共の事を作すとは唯耳根のみ声を聞き、余の根に非ず」と云える是れなり。耳の語議に関しては、「大乗法苑義林章巻3本」に、「耳とは能聞の義なり、梵に戍縷多と云い、此に能聞と云う。如是我聞も亦た戍縷多と云うが故なり。瑜伽に云わく、数数此に於いて声至れば能く聞くが故に名づけて耳と為すと。翻じて耳と為すは、体用相当すればなり唐言に依りて訳す」と云えり。是れ梵語戍縷多zrotraは能聞の義にして、即ち其の用に約し、唐言の耳は直に其の体に就き名づけたるものなることを明にするの意なり。又「倶舎論巻2」に依るに、耳根の極微は耳穴内に在りて旋環して住し、恰も樺皮を巻くが如し。又能く遠処の声響を聞くも、却って耳根に逼れるものを聞く能わず、故に眼根の如く離中知にして、即ち非至の境を取ると云えり。又此の耳根は十二処の中には耳処zrotraayatana、十八界の中には耳界zrotra-dhaatuと名づくるなり。又「雑阿毘曇心論巻1」、「五事毘婆沙論巻上」、「倶舎論巻1、3」、「瑜伽師地論巻3、54」、「成唯識論巻4、8」、「倶舎論光記巻1、2」等に出づ。<(望)
  耳識(にしき):梵語戍縷多毘若南zrotra-vijJaanaの訳。巴梨語sota-viJJaana、耳の職の意。五識の一。六識の一。十八界の一。即ち耳根を所依とし、声境を了別する職を云う。「品類足論巻1」に、「耳識とは云何、耳根に依りて各声を了別す」と云い、「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」に、「耳識とは謂わく耳に依りて声を縁じ、了別するを性と為す」と云える是れなり。蓋し耳識は眼識と共に唯欲界及び初静慮の二地に在るも、耳根及び其の所依の身并びに声境は、欲界及び四静慮の五地に通ず。随って欲界に生じて自地の耳を以って自地の声を聞き、初静慮乃至二三四静慮地の耳を以って欲界地等の声を聞き、又色界初静慮乃至二三四静慮に生じ、自地乃至二三四静慮地の耳を以って各自地乃至二三四静慮及び欲界地等の声を聞くの別あり。之に関し「倶舎論巻2」に、「耳は身よりも下ならず、声と職とは耳よりも上なるに非ず。声は職に於いて一切なり、二を身に於いてするも亦た然り」と云えり。是れ即ち耳根は其の所依の身と同地、或いは上地なるも、必ず下地なることなく、又耳識と声境とは耳根より同地若しくは下地にして、必ず上地なることなく、且つ声は耳識に望めて等地並びに上下地に通じて其の境界となるものなることを明せるなり。又十八界の中には、之を耳識界zrotra-vijJaana-dhaatuと名づくるなり。又「識身足論巻6」、「五事毘婆沙論巻下」、「雑阿毘曇心論巻1」、「順正理論巻8」等に出づ。<(望)
  意識(いしき):梵語mano-vijJaanaの訳。六識の一。八識の一。九識の一。意に依る識の意。第六識とも名づく。即ち意根を所依として起り、法境を所縁として正しく其の総相を了別する識を云う。『大智度論巻19下注:意識』参照。
  六根(ろっこん):梵語SaD indriyaaNiの訳。六種の根の意。即ち六識の所依たる六種の根を云う。一に眼根cakSur-indriya、二に耳根zrotreentriya、三に鼻根ghraaNeendriya、四に舌根jihveendriya、五に身根kayeendriya、六に意根mana-indriyaなり。「倶舎論巻3」に、「心の所依とは眼等の六根なり」と云い、又「眼等の五根は能く各別の境を了別する職に於いて増上の用あり、第六意根は能く一切の境を了別する職に於いて増上の用あり。故に眼等の六を各立てて根と為す」と云える是れなり。是れ眼等の六根は六識が各其の境を了別する時、増上の用あるが故に立てて根となすことを説けるものなり。又此の六根は色等の六境に対して六内処と称せられ、就中、眼等の五根は各不可見有対の浄色を以って其の体とし、意根は即ち無間滅の意にして十二処中には意処、十八界中には意界と名づく。但し二十二根中に於いては意根は通じて七心界に摂せらるるなり。又「倶舎論巻1、2」、「順正理論巻6」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」等に出づ。<(望)
  六識(ろくしき):六種の職の意。又六識身と名づく。即ち眼等の六根を所依とし各自境を了別する六種の心識を云う。一に眼識cakSur-vijJaana、二に耳識zrotra-v.、三に鼻識ghraaNa-v.、四に舌識jihvaa-v.、五に身識kaaya-v.、六に意識mano-v.なり。「入阿毘達磨論巻下」に、「色等の境に於いて了別するを用と為し、根境の別に由りて六種ありと説く。謂わく眼識乃至意識なり」と云える是れなり。是れ六識は色等の六境を了別するを用とし、又根境に六種の別あるが故に立てて六識となすことを説けるものなり。又六識は所依の六根に由りて其の名を立つ。「倶舎論巻2」に、「何に縁りて色等は正しく是れ所識なるに、而も眼識乃至意識と名づけ、色識乃至法職と名づけざる。(中略)所依勝れ、及び不共の因なるが故に、職の得名は根に随い、境に非ず」と云える其の意にして、即ち職の明昧は根の増損に随い、且つ眼根は眼識の不共所依、乃至意根は意識の不共所依なるが故に、根に随って職の名を立つるものなるを明にせるなり。又六識は欲界の有情のみ之を成就す、色界は段食の性に非ざるが故に香味の二境なく、従って鼻舌二識を成就せず、無色界には所依所縁なきが故に十色界なく、従って亦た前五識あることなきなり。蓋し説一切有部に於いては是の如く根境に六種の別あるが故に立てて六識となすも、其の体は一にして、喩えば一猿の六窓に出没するが如く、唯一の心王のみありて六境に転ずとし、随って六識の俱起を許さず。然るに大乗唯識家に於いては六識の外に末那、阿頼耶の二識を立て、八職体各別なりとし、其の俱起を認むるなり。又「品類足論巻1」、「倶舎論巻1」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」、「成唯識論巻5」等に出づ。<(望)
  五塵(ごじん):梵語paJca rajaaMsiの訳。五種の塵聚の意。即ち色声香味触の五境を指す。『大智度論巻1下注:五境』参照。
  五境(ごきょう):梵語paJcaarthaaHの訳。又paJca viSayaaH、五種の境界の意。又五塵paJca rajaaMsiとも名づく。即ち五根所取の境界を云う。一に色ruupa(巴梨語同じ)、二に声zabda(巴sadda)、三に香gandha(巴同じ)、四に味rasa(巴同じ)、五に触spraSTavya(巴phoTThabba)なり。「倶舎論巻1」に、「五境と言うは、即ち是れ眼等の五根の境界なり。所謂色と声と香と味と所触となり」と云い、又「色に二あり、或いは二十、声に唯八種あり、味に六、香に四種、触は十一を性と為す」と云える是れなり。但し普通には五根に順じて色声香味触と次第するも、今の倶舎の頌に味を先にし香を後にせしに就き、「倶舎論光記巻1」に両説を出せり。一は印度造頌の法は皆声明に依る。若し香を先にし味を後にせば、即ち声明の法を犯す。今本に依りて翻ずるが故に、味を先、香を後と為す。二は彼の五識起る時、定まれる次第なきことを顕さんが為に、越次に説けるものなりと云えり。又旧訳に五塵と云うは、此等の境は能く人の心を垢染するの義に取るなり。又「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻13」、「雑阿毘曇心論巻1」、「順正理論巻1」、「大乗法苑義林章補闕巻7」、「倶舎論宝疏巻1余」、「同要解巻1」等に出づ。<(望)
答曰。非耳根能聞聲。亦非耳識亦非意識能聞聲事從多因緣和合故得聞聲。不得言一法能聞聲。何以故。耳根無覺故不應聞聲。識無色無對無處故。亦不應聞聲。聲無覺亦無根故不能知聲。爾時耳根不破。聲至可聞處。意欲聞情塵意和合故耳識生。隨耳識即生意識。能分別種種因緣得聞聲。以是故不應作是難。誰聞聲 答えて曰く、耳根、能く声を聞くに非ず。亦た耳識にも非ず。亦た意識にも非ず。能く声を聞く事は、多くの因縁の和合するに従うが故に、声を聞くを得れば、一法の能く声を聞くと言うを得ず。何を以っての故に、耳根には覚無きが故に、応に声を聞くべからず。職は無色、無対、無処なるが故に、亦た応に声を聞くべからず。声は、覚無く、亦た根無きが故に、声を知る能わず。爾の時、耳根破れず、声、聞くべき処に至るに、意は、聞かんと欲す。情、塵、意の和合するが故に、耳識生じ、耳識に随いて、即ち意識を生じ、能く種種の因縁を分別して、声を聞くを得。是を以っての故に、応に是の難を作すべからず、『誰か、声を聞かん。』と。
答え、
『耳根』が、
『声』を、
『聞くことができず!』、
亦た、
『耳識でもなく!』、
『意識でもない!』のに、
『声』を、
『聞くことができる!』という、
『事』は、
『多く!』の、
『因縁の和合』の故に、
『声』を、
『聞くことができるのであり!』、
『一法』が、
『声』を、
『聞くことができる!』とは、
『言えない!』。
何故ならば、
『耳根』は、
『無覚である!』が故に、
『声』を、
『聞くはずがなく!』、
『識』は、
『無色、無対、無処である!』が故に、
亦た、
『声』を、
『聞くはずがなく!』、
『声』は、
『無覚、無恨である!』が故に、
『声』を、
『知ることができない!』が、
爾の時、
『耳根』が、
『破れていず!』、
『声』が、
『聞える処』に、
『至り(到達し)!』、
『意』が、
『聞こうとすれば!』、
『情、塵、意の和合』の故に、
『耳識』が、
『生じ!』、
『耳識』に、
『随って!』、
『意識』が、
『生じ!』、
『意識』が、
種種の、
『因縁を分別して!』、
『声』を、
『聞くことができる!』。
是の故に、
誰が、
『声を聞くのか?』という、
是の、
『難』を、
『作してはならない!』。
  (じょう):眼耳鼻舌身意の六根は、亦た六情とも称す。『大智度論巻6上注:六情』参照。
  無対(むたい):有対に対するの語。障礙無きものの義。即ち十二処の中、眼等の五根及び色等の五境の十処は障礙あるが故に之を有対と名づくるに対し、意処及び法処の二処は障礙なきが故に無対となす。『大智度論巻20下注:無対、有対』参照。
  :観察、分別、籌量する以前の粗雑な感覚。耳識等が耳根等より受するもの。
  参考:『大智度論巻23』:『問曰。覺觀有何差別。答曰。麤心相名覺。細心相名觀。初緣中心發相名覺。後分別籌量好醜名觀。』
  無色(むしき):色とは眼等の五根及び色等の五境をいう。謂わゆる物質的存在。
  無対(むたい):眼等の五根及び色等の五境は謂わゆる物質であり、空間を占有して互いに相対し、障礙するのでこれを有対という。これに反し意根及び法境にはそれが無いのでこれを無対という。
  無処(むしょ):処は占有する空間。
  情塵意:六根、六境、六識。
佛法中亦無有一法能作能見能知。如說偈
 有業亦有果 無作業果者
 此第一甚深 是法佛能見
 雖空亦不斷 相續亦不常
 罪福亦不失 如是法佛說
略說聞竟
仏法中にも、亦た一法にして、能く作し、能く見、能く知るものの有ること無し。偈に説くが如し、
業有り亦た果有れども、業果を作す者は無し
此れ第一に甚だ深し、是の法を仏は能く見る
空なりと雖も断ぜず、相続するも亦た常ならず
罪福も亦た失わず、是の如きの法を仏は説きたまえり
略して聞くを説き竟れり。
『仏法』中には、
『一法』で、
『作すことができ!』、
『見ることができ!』、
『知ることができる!』という、
是のような、
『法』は、
『無い!』。
例えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
『業、果』は、
『有る!』が、
『業、果』を、
『作る!』者は、
『無い!』。
此れは、
『第一』に、
『甚だ深い!』が、
是の、
『法』を、
『仏』は、
『見ることができる!』。
『空である!』が、
亦た、
『断ぜず!』、
『相続する!』が、
亦た、
『常でなく!』、
『罪、福』も、
亦た、
『失われない!』。
是のような、
『法』を、
『仏』は、
『説かれた!』。
以上、――
『聞くの義』を、
『略説した!』。
  (ごう):梵語羯磨karmanの訳。巴梨語kamma、造作の義。即ち有情の身語意の造作を云う。『大智度論巻23上注:業』参照。
  参考:『中論巻3』:『雖空亦不斷  雖有亦不常 業果報不失  是名佛所說』
  業果(ごうか):業とは善悪の行い、即ち身口意の善悪の所作をいう。その善性と悪性とにより、必ず苦楽の果を感ずるが故に、これを業因という。それが過去に在れば宿業といい、現在に在れば現業という。




一者今當說 一とは、今当に説くべし。
『一』とは、――
今、
『説かねばならぬ!』、――
問曰。佛法中數時等法實無。陰入持所不攝故。何以言一時 問うて曰く、仏法中に数、時等の法は、実に無し。陰入持に摂せざる所なるが故なり。何を以ってか、『一、時』と言う。
問い、
『仏の法』中に、
『数、時』等の、
『法』は、
『実に無い!』。
何故ならば、
『陰(五陰≒色受想行識)』にも、
『入(十二入≒色声香味触法、眼耳鼻舌身意)』にも、
『持(十八持≒十二入+眼識乃至意識)』にも、
『数、時』は、
『摂されない(含まれない)からである!』。
何故、
こう言うのですか?――
『一の時』、と。
  (ほう):梵語dharmaの訳語。自性を保持して改変せざるものの意。又一切法を色法、心法、心所有法、心不相応法、無為法の五種に分類せしものを五位と称す。『大智度論巻11上注:五位、巻32上注:法、同巻23上注:色法、同巻36上注:心、同巻14上注:心所有法、同巻19上注:心不相応行、同巻19下注:無為法』』参照。
  (すう):梵語saMkhyaaの訳。巴梨語sankhaa、百法の一。二十四不相応行の一。即ち法の分量差別を限定し表示するものを云う。「瑜伽師地論巻56」に、「問う、何の分位に依りて数を建立し、此れに復た幾種あるや。答う、法の斉量を表了する分位に依りて数を建立す。此れに復た三種あり、一数、二数、多数なり」と云い、「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」に、「数とは謂わく諸行の一一の差別に於いて仮立するを数と為す。一一の差別とは一に於いて別なれば、二三等の数は理に応ぜざるが故なり」と云える是れなり。又「勝論」にも二十四徳中に数を立て、所依の実に随って常無常に通ずとなすも、今は諸法を度量分別する分位に数を仮立するが故に固より実体あるに非ざるなり。又「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗百法明門論」、「同疏巻下」、「瑜伽論記巻15下」、「百法問答鈔巻9」等に出づ。<(望)
  陰入持(おんにゅうじ):五陰、十二入、十八持の総称にして、各人の身心を五乃至十八に分類せしものを云う。又陰入持を三科とも称す。『大智度論巻1下注:三科、同巻5上注:三科、五蘊、十二処、十八界』参照。
  (しょう):収めるの義。
  三科(さんが):五蘊(五陰、五衆)、十二処(十二入)、十八界の三門。三門は皆凡夫の実我の執を破らんと欲するが為に施設す。凡夫の迷執は頗る偏ること有り、心に迷うことの偏に重き者の為には、色を合して一と為し、心を開いて四と為し、五蘊を立つ。色蘊の一は色なり、後の受想行識は心の差別なり。次ぎに色に迷うことの偏に重き者には、色を開いて十と為し、心を合して二と為して、十二処を立つ。五根五境の十処は色なり、意根法境の二処は心なり。次ぎに色心共に迷える者の為には、色を開いて十と為し、心を開いて八と為して十八界を立つ。五根五境の十界は色なり、意根と法境及び六識の八界は心なり。
  参考:『瑜伽師地論巻56』:『問何等是界義。答因義。種子義。本性義。種性義。微細義。任持義。是界義。』
  陰入持(おんにゅうじ):五陰、十二入、十八界。陰は五陰、即ち色受想行識、入は十二入、即ち眼等の六根及び色等の六境、持は十八界、即ち六根、六境及び眼識等の六識をいう。『陰持入經巻上』参照。
答曰。隨世俗故有一時無有咎。若畫泥木等作天像。念天故禮拜無咎。說一時亦如是。雖實無一時隨俗說一時無咎 答えて曰く、世俗に随うが故に一、時有るも、咎有ること無し。若し泥、木等に画きて、天像を作すも、天を念ずるが故に礼拜せば、咎無けん。一、時を説くも亦た是の如く、実に一、時無しと雖も、俗に随うて一、時を説けば、咎無し。
答え、
『世俗』に、
『随う!』が故に、
『一、時』が、
『有っても!』、
『咎』は、
『無い!』。
若し、
『泥、木』等に、
『画いて!』、
『天』の、
『像』を、
『作り!』、
『天』を、
『念じる!』が故に、
『礼拜しても!』、
則ち、
『咎』は、
『無い!』。
『一、時』を、
『説く!』のも、
是のように、
『実』に、
『一、時』は、
『無い!』が、
『俗』に、
『随って!』、
『一、時』を、
『説いても!』、
則ち、
『咎』は、
『無い!』。
問曰不應無一時。佛自說言。一人出世間多人得樂。是者何人。佛世尊也。亦如說偈
 我行無師保  志一無等侶
 積一行得佛  自然通聖道
如是等佛處處說一。應當有一
問うて曰く、応に一、時無かるべからず。仏の自ら説いて言わく、『一人、世間に出づれば、多人、楽を得。是の者は何人なりや。仏世尊なり。』と。亦た偈を説きたまえるが如し、
我が行に師保無く、志を一となす等侶無し
一行を積みて仏を得れば、自然に聖道通ず
是の如き等、仏は処処に一と説きたまえば、応当に一有るべし。
問い、
当然、
『一、時』が、
『無いはずがない!』。
『仏』は、
自ら説いて、こう言われた、――
『一人』が、
『世間』に、
『出れば!』、
『多くの人』が、
『楽』を、
『得る!』。
是の、
『人』は、
何のような、
『人なのか?』、
即ち、
是れは、
『仏、世尊である!』、と。
亦た、
『偈』に、説かれた通りである、――
わたしの、
『行』に、
『師保』は、
『無く!』、
『志』を、
『一とする!』、
『等侶』も、
『無く!』、
『一行』を、
『積みながら!』、
『仏』を、
『得て!』、
『自然に!』、
『聖者の道』が、
『通じた!』、と。
是れ等のように、
『仏』は、
処処に、
『一』を、
『説かれており!』、
当然、
『一』が、
『有るはずだ!』。
  師保(しほ):太子を教導傅育する官。師傅(しふ)。師匠、先生。
  等侶(とうりょ):同輩、仲間。
  参考:『長寿王経偈』:『佛為海船師  法橋度河津  大乘道之輿  一切度天人  亦謂自解結  度岸得昇仙  都使諸弟子  縛解至泥洹  敬謁法王來  心正道力安  最勝號為佛  名顯若雪山  譬華淨無疑  得喜如近香  萬身觀無厭  光若靈曜明  八正覺自得  無離無所染  愛盡破欲網  自然無師受  我行無師保  志獨無等侶  積一得作佛  從是通聖道  至道無往返  玄微清妙真  不歿不復生  是處為泥洹  此要寂無上  畢竟不受辛  雖天有善處  皆莫如泥洹  吾師天中天  三界無極尊  相好身丈六  神通遊虛空  華薰去五陰  拔斷十二根  不貪天世位  心淨開法門  佛為無上法  道御清等行  三寶於後世  絕滅諸欲情  離苦勝無為  常樂快安寧  願常會佛前  等度諸群生  佛所本行願  精進百劫勤  四等大布施  十方受弘恩  持戒淨無垢  慈柔護眾生  用慧入禪定  大悲普讀經  常為智所仰  眾聖所共宗  釋梵以為師  乃知佛為尊  難值無有比  最上無過者  功德以流布  當為稽首禮  聽我歌十方  棄蓋寂定禪  光徹照七天  德香殊栴檀  上帝神妙來  歎仰欲見尊  釋梵齊敬意  稽首欲受問  所以佛度世  福施以周匝  所說教戒行  在在悉分明  亦以法流布  弟子樂受行  令天人鬼龍  敬受頭面禮』
復次一法和合故物名為一。若實無一法。何以故。一物中一心生非二非三。二物中二心生非一非三。三物中三心生非二非一。若實無諸數。一物中應二心生。二物中應一心生。如是等三四五六皆爾。以是故。定知一物中有一法。是法和合故。一物中一心生 復た次ぎに、一法和合するが故に、物に名づけて一と為す。若し実に一法無くんば、何を以っての故にか、一物中に一心生じ、二に非ず、三に非ず、二物中に二心生じて、一に非ず、三に非ず、三物中に三心生じて、二に非ず、一に非ざる。若し実に、諸の数無くんば、一物中には、応に二心生ずべく、二物中には、応に一心生ずべし。是の如き等、三、四、五、六皆爾り。是を以っての故に、定んで知る、一物中に、一法有りて、是の法の和合するが故に、一物中に一心生ずと。
復た次ぎに、
『一』という、
『法』が、
『物』と、
『和合する!』が故に、
『物』は、
『一』と、
『呼ばれるのである!』。
若し、
実に、
『一』という、
『法』が、
『無ければ!』、
何故、
『一物()』中に、
『一心』が、
『生じて!』、
而も、
『二心、三心』が、
『生じないのか?』。
何故、
『二物』中には、
『二心』が、
『生じて!』、
而も、
『一心、三心』が、
『生じないのか?』。
何故、
『三物』中には、
『三心』が、
『生じて!』、
而も、
『二心、一心』が、
『生じないのか?』。
若し、
実に、
諸の、
『数』が、
『無ければ!』、
当然、
『一物』中には、
『二心』が、
『生じるはずであり!』、
『二物』中には、
『一心』が、
『生じなくてはならず!』、
是れ等のように、
『三、四、五、六』は、
皆、
『爾うでなければならない!』。
是の故に、
定めて、こう知る、――
『一物』中には、
『一』という、
『法』が、
『有り!』、
是の、
『法』が、
『物』と、
『和合する!』が故に、
『一物』中に、
『一心』が、
『生じるのである!』、と。
  (もつ):天地間に存在する一切のもの。万物。又こと。事。蓋し生物の義なる梵語薩埵sattvaの訳ならんか、即ち衆生の義なり。
  (しん):梵語質多cittaの訳。また心法、或は心事とも名づく。即ち縁慮の用を有する法を云う。『大智度論巻36上注:心』参照。
答曰。若一與物一。若一與物異。二俱有過 答えて曰く、若しは一と物と一なりとせん、若しは一と物と異なりとせん、二は倶(とも)に過(とが)有り。
答え、
若しは、
『一』が、
『物』と、
『一(同じ)でも!』、
若しは、
『一』が、
『物』と、
『異(非一)でも!』、
是の、
『二』には、
倶に()、
『過』が、
『有る!』、
問曰。若一有何過 問うて曰く、若し一ならば、何(いか)なる過か有らん。
問い、
若し、
『一(同一)ならば!』、
何のような、
『過』が、
『有るのか?』。
答曰。若一瓶是一義。如因提梨釋迦。亦是一義。若爾者在在有一者應皆是瓶。譬如在在有因提梨。亦處處有釋迦。今衣等諸物皆應是瓶一。瓶一故如是處處一皆應是瓶。如瓶衣等。悉是一物無有分別 答えて曰く、若し一と、瓶とは、是れ一義なれば、因提梨、釈迦の如きも亦た、是れ一の義なり。若し爾らば、在在に有る一は、応に皆、是れ瓶なるべし。譬えば、在在に有る因提梨も、亦た処処に有る釈迦も、今の衣等の諸物の如きも、皆応に是れ瓶なるべし。一と瓶との一なるが故に、是の如く処処の一は、皆応に是れ瓶なるべし。瓶と衣等の如きは、悉く是れ一なれば、物に分別有ること無し。
答え、
若し、
『一』と、
『瓶』とが、
『一義(一の実体)』ならば、
例えば、
『因提梨』や、
『釈迦』も、
亦た、
『一義であり!』、
若し、
爾うならば、
処処に、
有る、
『一』は、
『皆、瓶でなければならない!』。
譬えば、
在在(処処)に、
『有る(存在する)!』、
『因提梨』も、
処処に、
『有る!』、
『釈迦』も、
今の、
『衣』等の、
諸の、
『物』も、
『皆、瓶のはずである!』。
即ち、
『一』と、
『瓶』とが、
『一である!』が故に、
是のような、
処処の
『一』は、
『皆、瓶でなければならない!』が、
譬えば、
『瓶、衣』等は、
『悉く!』が、
『一である!』が故に、
『物』には、
『分別』が、
『無くなる!』。
  (ぎ):梵語arthaの訳、意味の意。言教に依りて詮明せられたる道理。又は其れ等に依りて詮明し得られざる実理を云う。『大智度論巻41上注:義』参照。
  因提梨(いんだり):梵名indra、又因陀羅に作る。須弥山頂なる忉利天善見大城に住し、四天王等を領する天主の名。又帝釈、天帝釈、釈迦天王、釈迦因陀羅、又は釈提桓因ともいう。『大智度論巻21下注:因陀羅』参照。
  釈迦(しゃか):梵名zakya、巴梨名sakka、即ち釈尊の姓なるも、亦た因陀羅神の姓も同じく釈迦なり。『大智度論巻1上注:釈種、巻21下注:瞿曇、因陀羅』参照。
  在在(ざいざい):ところどころ。処処。
復次一是數法。瓶亦應是數法。瓶體有五法。一亦應有五法。瓶有色有對。一亦應有色有對。若在在一不名為瓶。今不應瓶一。一若說一不攝瓶。若說瓶亦不攝一。 復た次ぎに、一は是れ数法なれば、瓶も亦た応に是れ数法なるべし。瓶の体には、五法有れば、一にも亦た応に五法有るべし。瓶は有色有対なれば、一も亦た応に有色有対なるべし。若し在在の一を名づけて瓶と為さざれば、今応に瓶と一は、一たるべからず。若しは一と説くも、瓶を摂せず。若しは瓶と説くも、亦た一を摂せず。
復た次ぎに、
『一』は、
『数』という、
『法であり!』。
『瓶』も、
『数』という、
『法のはずである!』が、
『瓶の体』には、
『五法(地、水、火、風、空)』が、
『有る!』ので、
『一』にも、
『五法』が、
『有るはずである!』。
『瓶』は、
『有色』、
『有対である!』が故に、
『一』も、
『有色』、
『有対のはずである!』。
若し、
在在の、
『一』を、
『瓶』と、
『呼ばなければ!』、
今、
『瓶』と、
『一』とは、
『一のはずがない!』。
若し、
『一』を、
『説けば(説く時には)!』、
『瓶』を、
『含まず!』、
『瓶』を、
『説けば!』、
『一』を、
『含まないことになる!』。
  有色(うしき):無色に対するの語。色を有するものの意。『大智度論巻1下注:色』参照。
  (しき):梵語路波ruupaの訳。巴梨語同じ。変壊、変礙、質礙、又は示現の義。狭義には眼根所取の境にして、広義には物質の総称なり。(一)眼根所取の境。五境の一。六境の一、十二処の一、十八界の一。又色境、色処、或いは色界とも名づく。声香等に対す。即ち眼根の所取となる青黄等の質礙の境を云う、「中阿含巻47多界経」に、「眼界色界眼識界」と云い、「大毘婆沙論巻13」に、「色処に二十種あり、謂わく青黄赤白長短方円高下正不正、雲烟塵霧影光明暗なり。有るが説く、色処に二十一あり、謂わく前の二十と及び空一顕色なり」と云える是れなり。此の中、長短方円高下正不正の八種を形色と名づけ、青黄赤白雲烟塵霧影光明暗の十二種を顕色と名づくるなり。若し「瑜伽師地論」等に依らば、別に表色を加えて大別三種とす。即ち彼の「論巻1」に、「略説するに三あり、謂わく顕色、形色、表色なり。顕色とは謂わく青黄赤白光影明闇雲烟塵霧及び空一顕色なり。形色とは謂わく長短方円麁細正不正高下色なり。表色とは謂わく取捨屈申行住坐臥なり」と云い、又「大乗五蘊論」に、「云何が色と為す、謂わく眼の境界なり。顕色、形色及び表色等なり」と云える是れなり。蓋し五根五境等の色蘊の中、特に眼根所取の境を色と名づくるに関しては多由あり。「倶舎論巻1」に、「若し眼等の差別の想と名となく、而も体是れ色なるものを立てて色処と名づく。是れ眼等の名に簡別せらるるが為に、総称を標すと雖も而も即ち別名なり。又諸色の中に色処最勝なり、故に通名を立つ。有対に由るが故に、手等の触るる時、即便ち変壊す。及び有見の故に、此に在り彼に在るの差別を示すべし。又諸の世間には唯此の処に於いて同じく説いて色となす。眼等には非ず」と云い、又「百法問答鈔巻1」に、「青黄等の色は形体顕現し、変礙の義勝れたるが故に独り色境と名づくるなり」と云えり。是れ総即別名の義に依り、又色の義勝れ、又有対及び有見等の義あるが故に、特に色の名を立つとなすの意なり。又「識身足論巻11」、「大毘婆沙論巻75」、「順正理論巻1」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻2」、「倶舎論光記巻1」、「同巻1余」、「成唯識論述記巻2本」、「有宗七十五法記巻1」、「倶舎論要解巻1」等に出づ。(二)色蘊所摂の法。心又は空に対す。即ち変礙ある有見無見等の諸法を云う。「雑阿含経巻1」に、「色を愛喜するものは則ち苦を愛喜す、苦を愛喜するものは則ち苦を解脱することを得ず」と云い、又「般若波羅蜜多心経」に、「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり」と云い、「大般涅槃経巻39」に、「色は是れ無常なり、是れ色を滅するに因りて解脱常住の色を獲得す。受想行識も亦た是れ無常なり」と云える是れなり。「倶舎論巻1」等には、此の色に五根五境及び無表色の十一種ありとし、就中、五根五境は十二処十八界中に各各之を別立して、眼処乃至色処等と名づけ、無表色は之を法処及び法界に摂せり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」には、法処所摂の色に極略色、極逈色、受所引色、遍計所起色、自在所生色の五種の別ありとなせり。<(望)
  有対(うたい):無対に対するの語。障礙有るものの意。即ち十二処の中、意処及び法処の二処は障礙なきが故に無対となすに対し、眼等の五根及び色等の五境の十処は障礙あるが故に之を有対と名づく。『大智度論巻20下注:無対、有対』参照。
瓶一不異故。又復欲說一應說瓶。欲說瓶應說一。如是則錯亂 瓶と一と異ならざれば、故に又復た一と説かんと欲すれば、応に瓶と説くべし。瓶と説かんと欲すれば、応に一と説くべし。是の如きは、則ち錯乱なり。
『瓶』が、
『一』と、
『異ならない!』が故に、
又、
『一』を、
『説こうとすれば!』、
『瓶』を、
『説かねばならず!』、
『瓶』を、
『説こうとすれば!』、
『一』を、
『説かねばならない!』。
是のようであれば、
則ち、
『錯乱することになる!』。
問曰。一中過如是。異中有何咎 問うて曰く、一中の過は是の如し。異中に何の咎か有らん。
問い、
『一』中の、
『過』は、
『是の通りである!』が、
『異』中には、
何のような、
『咎』が、
『有るのですか?』。
答曰。若一與瓶異。瓶則非一。若瓶與一異。一則非瓶。若瓶與一合。瓶名一者。今一與瓶合。何以不名一為瓶。是故不得言瓶異一 答えて曰く、若し一、瓶と異ならば、瓶は則ち一に非ざらん。若し瓶、一と異ならば、一は則ち瓶に非ざらん。若し瓶、一と合して、瓶を一と名づけば、今、一は、瓶と合せん。何を以ってか、一を名づけて、瓶と為さざる。是の故に、瓶は一と異なりと言うを得ず。
答え、
若し、
『一』が、
『瓶』と、
『異なれば!』、
則ち、
『瓶』は、
『一でないことなる!』。
若し、
『瓶』が、
『一』と、
『異なれば!』、
則ち、
『一』は、
『瓶でないことになる!』、
若し、
『瓶』が、
『一』と、
『合して!』、
『瓶』を、
『一』と、
『呼ぶとすれば!』、
今、
『一』が、
『瓶』と、
『合して!』、
何故、
『一』を、
『瓶』と、
『呼ばないのか?』。
是の故に、こう言うべきではない、――
『瓶』は、
『一』と、
『異なる!』、と。
問曰。雖一數合故瓶為一。然一不作瓶 問うて曰く、一なる数合するが故に、瓶を一と為すも、然(しか)るに一は瓶と作(な)らず。
問い、
『瓶』が、
『一』という、
『数』と、
『合する!』が故に、
『瓶』が、
『一』と、
『呼ばれたとしても!』、
然(しか)し、
『一』が、
『瓶』と、
『作るのではない!』。
答曰。諸數初一。一與瓶異。以是故瓶不作一。一無故多亦無。何以故。先一後多故。如是異中一亦不可得。以是故二門中求一法不可得。不可得故。云何陰持入攝。但佛弟子隨俗語言名為一心。實不著知數法名字有 答えて曰く、諸の数の初は一にして、一は瓶と異なれば、是を以っての故に、瓶は一と作らず。一に無きが故に、多にも亦た無し。何を以っての故に、先に一なるも、後に多なるが故なり。是の如く異中には、一も亦た得べからず。是を以っての故に、二門中に、一法を求めて得べからず、得べからざるが故に、云何が陰、持、入に摂せん。但だ、仏の弟子は、俗の語言に随うて、名づけて一心と為すも、実に数法、名字有るを知らんと著せず。
答え、
諸の、
『数』の、
『初』は、
『一であり!』、
『一』は、
『瓶』と、
『異なる!』が故に、
是の故に、
『瓶』は、
『一』と、
『作らないのであり!』、
『瓶』に、
『一』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『多(二、三、四等)』も、
『無い!』。
何故ならば、
先が、
『一であり!』、
後が、
『多だからである!』。
是のように、
『異』中にも、
『一』は、
『認められず!』、
是の故に、
『二門(一、異)』中に、
『一』という、
『法』を、
『求めても!』、
『認められず!』、
『認められない!』が故に、
何故、
『数』が、
『陰、持、入』中に、
『含まれるのか?』。
但だ、
『仏の弟子』は、
『世俗の語言』に、
『随って!』、
『一心』と、
『呼ぶだけで!』、
『実に!』於いて、
『数の法、名字』の、
『有、無を知ろう!』と、
『著すのではない!』。
以是故。佛法中言一人一師一時不墮邪見咎。略說一竟 是を以っての故に、仏法中には、『一人、一師、一時』と言えるも、邪見の咎には堕せず。略して一を説き竟れり。
是の故に、
『仏の法』中に、――
『一人』、
『一師』、
『一時』と、
『言っても!』、
『邪見』の、
『咎』に、
『堕ちることはない!』。
以上、――
『一』を、
『略説した!』。




時者今當說 時とは、今当に説くべし。
『時』とは、
今、
『説かねばならぬ!』、――
問曰。天竺說時名有二種。一名迦羅二名三摩耶。佛何以不言迦羅而言三摩耶 問うて曰く、天竺には時の名を説くに、二種有り。一には迦羅と名づけ、二には三摩耶と名づく。仏は、何を以ってか、迦羅と言(のたま)わずに、三摩耶と言える。
問い、
『天竺(印度)に説かれる!』、
『時の名』は、
『二種』有り、
一には、
『迦羅』、
二には、
『三摩耶である!』。
『仏』は、
何故、
『迦羅』と、
『言わずに!』、
而(しか)も、
『三摩耶』と、
『言われたのですか?』。
  迦羅(から):梵語kaala。時と訳す。『大智度論巻1下注:時』参照。
  (じ):梵語迦羅kaalaの訳。巴梨語同じ。時節の義。百法の一。有為の諸法をして遷流相続して、已今当の世位の差別を生ぜしむる法を云う。「瑜伽師地論巻52」に、「云何が時なる、謂わく日輪の出没増上力に由るが故に時節の差別を安立し顕示す。又諸行生滅の増上力に由るが故に、世位の差別を安立し顕示するを総じて説いて時と名づく」と云い、「同巻56」に、「行の相続不断の分位に依りて時を建立す」と云い、又「大乗阿毘達磨蔵集論巻2」に、「時とは謂わく因果相続流転に於いて仮立して時と為す。何を以っての故に、因果相続して転ずることあるに由るが故なり。若し此の因果の已生已滅には過去の時を立て、此れ若し未生には未来の時を立て、已生未滅には現在の時を立つ」と云える是れなり。是れ大乗唯識家の所立にして、法の相続不断の分位に時を仮立するの説なり。蓋し説一切有部に在りては世無別体依法而立と説き、但だ法の已起未起に約して三世を建立し、別に時を立てず。然るに勝論外道に於いては時を立てて実句義の随一となし、地水火風等に同じく実在せるものとし、又「外道小乗涅槃論」には、時論師は時を以って万物の因とし、之を常住の法となせることを記し、又「大智度論巻1」にも、天竺に時を説くに二名あり。一を迦羅と名づけ、二を三摩耶と名づく。仏今、迦羅と言わずして三摩耶と言うは邪見を除かんが為なりと云えり。是の如く外道中に時の実有を計するものありしを以って、龍樹は之を破し、「中論巻3観時品」に、「時若し住せざれば応に得べからず、時の住することも亦た無し。若し時得べからざれば、云何が時の相を説かん。若し時の相なくんば則ち時なし。物に因りて生ずるが故に則ち時と名づくるなり、若し物を離るれば則ち時なし。上来種種の因縁は諸物を破するなり、物なきが故に何ぞ時あらんや」と云えり。是れ有部の世無別体依法而立説と同趣旨なるが如し。但し今瑜伽等に之を不相応行法の一となせるは、時論師等の影響を受けたるものとなすべきが如きも、其の法を仮立となせば、即ち外道の説と同じからざるありというべし。又「時非時経」、「大日経巻1」、「同疏巻1」、「同義釈演密鈔巻8」、「同疏鈔巻39」、「百論巻下」、「同疏巻下」、「瑜伽師地論巻6」、「顕揚聖教論巻9」、「般若灯論釈巻11」、「大乗広百論釈論巻4、5」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末」、「同同学鈔巻7」、「中観論疏巻1」、「大乗法苑義林章巻1」、「雑集論述記巻5」、「百法明門論纂」、「同直解」、「華厳経随疏演義鈔巻13」、「十住心論巻3」、「百法問答鈔巻9」等に出づ。<(望)
  三摩耶(さんまや):梵語samaya、又三昧耶、娑麼耶に作る。「倶に行く」の義なる動詞語根sam-iより来たれる名詞にして、之に時、衆会、一致、規則、教理等の諸義あり。覚音の「dhamma-saGgaNii注釈」中には、三摩耶にsamavaaya(一致、前後撞著せざること)、khaNa(機会)、kaala(時分)、samuuha(衆会)、diTThi(見)、paTilaabha(獲得)、pahaana(棄)、paTivedha(貫通、看破)の九義ありとし、一一其の例を出して之を解釈せり。是の如く諸義ある中、時及び平等(覚音の謂わゆる一致)の二義最も多く行わる。(一)時の義。諸経の初に如是我聞一時evam mayaa zrutam ekasmin samaye等と云えり是れなり。「大智度論巻1」に一時の義を釈し、「天竺に時の名を説くに二種あり。一を迦羅と名づけ、二を三摩耶と名づく。(中略)邪見を除くが故に三摩耶と説きて迦羅と云わず」と云えり。是れ印度の外道中には迦羅kaalaを計して実有となし、万物の因と説くものあるを以って、此等の邪見を除かんが為に、仏経中に多く三摩耶の語を用い、迦羅の語を用いずとなすの意なり。又「大日経義釈演密鈔巻8」に、「初説迦羅等とは、此れ法華に約して迦羅、三摩耶の二種の時を明すなり。方便品に云わく、爾の時、仏は舎利弗に告ぐ、我が今此の衆は復た枝葉なく、純ら貞実あり。舎利弗、是の如き増上慢の人は退するも亦た佳なり。汝今悉く聴け、当に汝の為に説くべしと。舎利弗言わく、唯然り世尊、願楽すらく聞かんと欲す等と。皆迦羅の時に名づくるなり。此れ感応嘉会の時に約す。又云わく、諸仏世尊は唯一大事因縁を以っての故に世に出現す。(中略)諸仏世尊は衆生をして仏知見を開き、清浄を得しめんと欲するが故に世に出現す等と。即ち三摩耶の時なり。是れ正しく経を説くの時分に約するなり」と云い、又観賢の「大日経疏鈔巻2」に、「又云わく、世尊今正しく是れ時なり、善逝今正しく是れ時なりと。梵本に拠るに前の時を迦羅と名づく、是れ長時の時なり。一歳に三分等あるが如し。後の時を三摩耶と名づく、是れ時中の小時なり。昼夜六時の中に復た更に小分ある等の如し」と云えり。以って迦羅と三摩耶との別を知るべし。又「続華厳経略疏刊定記巻2」、「円覚経大疏巻4」、「理趣釈巻上」、「大日経疏演奥鈔巻31」等に出づ。(二)平等又は本誓等の義。「理趣釈巻上」に、「三昧耶とは名づけて本誓となす。亦た時と名づけ、又期契と名づく。亦た曼荼羅の異名となす」と云い、「大日経疏巻9」に、「三昧耶は是れ平等の義、是れ本誓の義、是れ除障の義、是れ警覚の義なり。平等と言うは、謂わく如来此の三昧を現証する時、一切衆生の種種の身語意は悉く皆如来と等しく、禅定智慧と実相身と亦た畢竟じて等しきを見る。是の故に誠諦の言を出して以って衆生に告ぐ。若し我が所言必定して虚ならずんば、一切衆生をして此の誠諦の言を発する時、亦た三密の加持を蒙り、無尽の荘厳も如来と等しからしめんと。是の因縁を以っての故に能く金剛の事業を作す、故に三昧耶と名づくるなり。本誓と言うは、如来此の三昧を見証する時、一切衆生悉く成仏の義ありと見るが故に、即時に大誓願を立て、我れ今要ず普門より無量の方便を以って、一切衆生をして皆無上菩提に至らしめ、衆生界を劑して未だ尽きざる以来は、我が事業終に休息せじと。我が本誓に随って此の誠実の言を発する時、亦た彼の為す所の事業をして皆悉く金剛の性を成ぜしむ。故に三昧耶と名づくるなり。除障と言うは、如来は一切衆生に悉く如来法身あり、但だ一念無明に由るが故に、常に目前にあるも而も覚知せざるを見、是の故に誠実の言を発して、我れ今要ず当に種種の方便を設けて普く一切衆生の為に眼膜を決除せん。若し我が誓願必ず当に成就すべくんば、諸の衆生をして我が方便に随って此の誠実の言を説く時、乃至一生の中に於いて無垢眼を獲て、蓋障都べて尽きしめんと。故に三昧耶と名づくるなり。警覚の義と言うは、如来は一切衆生が皆無明の睡に在るが故に是の如き功徳に於いて自ら覚知せざるを以っての故に、誠言を以って感動して醒悟を得しめ、亦た此を以って諸菩薩等を警覚し、深禅定の窟を起ちて師子頻申を学ばしむ。若し真言の行人ありて此の三昧耶を説かば、我等諸仏は亦た当に本誓を憶持して違越を得ざること、猶お国王の自ら法を制し已りて、還って自ら敬順して之を行うが如くなるべし。故に三昧耶と名づくるなり」と云い、「秘蔵記」に之を要約して、「仏と等しくして差別なしと知るは是れ平等の義なり、我が如くして異なからしむるは是れ誓願の義なり、是の如く驚覚し給うは是れ驚覚の義なり、衆生が仏の加持力を蒙りて益を得るは是れ除垢障の義なり」と云える是れなり。蓋し三昧耶には上記の四義ありと雖も、就中、平等の義を以って法体となし、余の三は即ち平等の上に其の義を成ずるなり。「大日経巻5入秘密漫荼羅法品」に、「我が身は彼と等同なり。真言者も亦た然り。不相異を以っての故に説いて三昧耶と名づく」と云い、「同経疏巻16」に、「所謂三昧耶とは是れ等の義なり。謂わく我れ仏に等しく、仏は我れに等しく、二なく二分なく、究竟じて皆等なり。阿闍梨は仏に等しく、仏は即ち弟子に等しく、此の弟子は但だ十方三世の一切如来に等しきのみに非ず、亦た一切の諸菩薩に等しく、亦た一切の声聞縁覚に等しく、亦た一切の世間天仙の衆に等し。若し此の如く一切に等しきは即ち是れ毘盧遮那の身なり」と云える即ち其の意なり。<(望)
  参考:『中論巻3観時品』:『時若不住不應可得。時住亦無。若時不可得。云何說時相。若無時相則無時。因物生故則名時。若離物則無時。上來種種因緣破諸物。物無故何有時』
  天竺(てんじく):印度古名。唐代以後は多く印度を用いる。
  (じ):迦羅(から)の訳語。有為の諸法をして遷流相続し、已今当の世位の差別を生ぜしむる法。大乗阿毘達磨雑集論巻2に、『時とは謂わく因果相続流転に於いて仮立して時と為す。何を以っての故に、因果相続して転ずることあるに由るが故なり。もしこの因果の已生已滅には過去の時を立て、これもし未生には未来の時を立て、已生未滅には現在の時を立つ』、と云えるが如し。然るに勝論外道に於いては時を立てて実句義の随一となし、地水火風等に同じく実在せるものとし、また時論師は時を以って万物の因とし、これを常住の法となす。これに因りて、仏は時を指すにこの迦羅時を用いずして、三摩耶時を用いる。
  迦羅(から):時、実時と訳す。有為の諸法をして遷流相続し、已今当の世位の差別を生ぜしむる法。時論外道は時間を以って万物の因と為し、その常住不変たることと、万物の成壊、生死はすべて時のしわざであり、然るが故に時は常に一切の物を生じて、涅槃の因たることを認む。これに因り仏は広く通じる経中には迦羅を用いられず、僧中に限定されたる律の中には用いられる。
  三摩耶(さんまや):通常仮時と訳し、倶に行くの義を起源とする語。これを意訳するに諸義ありて、即ち時、衆会、一致、平等、規則、教理等なるも、この中には時と平等と最も多く見られる。印度にては時を表すに迦羅と三摩耶と二種あるも、仏は外道が迦羅を実有と信じたれば、その邪見を除かんがため、広く通じる経中には三摩耶を用い、僧中に限定せられたる律に於いては迦羅を用いられる。
答曰。若言迦羅俱亦有疑 答えて曰く、若し迦羅と言わば、倶(とも)に亦た疑有らん。
答え、
若し、
『迦羅』と、
『言えば!』、
倶に(皆に)、
『疑(うたがい)』が、
『有るからである!』。
問曰。輕易說故應言迦羅。迦羅二字三摩耶三字。重語難故 問うて曰く、軽くして説き易きが故に、応に迦羅と言うべし。迦羅は二字なれども、三摩耶の三字は重くして語り難きが故なり。
問い、
『軽く!』、
『説き易(やす)い!』が故に、
『迦羅』と、
『言うべきです!』。
何故ならば、
『迦羅』は、
『二字』で、
『軽く!』、
『語り易い(話しやすい)!』が、
『三摩耶』の、
『三字』は、
『重く!』、
『語り難(がた)いからです!』。
答曰。除邪見故。說三摩耶。不言迦羅 答えて曰く、邪見を除かんが故に三摩耶と説いて、迦羅と言わず。
答え、
『邪見』を、
『除こうとする!』が故に、
『三摩耶(集会≒時)』と、
『説いて!』、
而も、
『迦羅()』と、
『言われないのである!』。
復次有人言。一切天地好醜皆以時為因。如時經中偈說
 時來眾生熟  時至則催促
 時能覺悟人  是故時為因
 世界如車輪  時變如轉輪
 人亦如車輪  或上而或下
復た次ぎに、有る人の言わく、『一切の天地の好醜は、皆時を以って因と為す。』と。時経中の偈に説くが如し、
時来たれば衆生熟し、時至れば則ち催促す
時は能く人を覚悟せしめ、是の故に時を因と為す
世界は車輪の如く、時変れば輪を転ずるが如し
人も亦た車輪の如く、或いは上り或いは下る
復た次ぎに、
有る、
『人』は、こう言っている、――
一切の、
『天、地』の、
『好、醜』は、
皆、
『時』が、
『因である!』、と。
例えば、
『時経』中の、
『偈』には、こう説かれている、――
『時』が、
『来れば!』、
『衆生』が、
『熟し!』、
『時』が、
『至れば!』、
『衆生』を、
『催促し!』、
『時』は、
『人』を、
『覚悟させる!』が故に、
是の故に、
『時』は、
『因である!』。
譬えば、
『世界』は、
『車輪のようであり!』、
『時の変化』は、
『車輪』を、
『転じるようだ!』。
『人』も、
亦た、
『車輪のように!』、
『或は、上り!』、
『或は、下る!』。
  衆生熟(しゅじょうじゅくす):行業の果報が熟せば、苦楽五道の衆生を受けるの意。
  参考:『雑阿含経巻39』:『如是我聞。一時。佛住王舍城寒林中丘塚間。爾時。世尊告諸比丘。一切行無常。一切行不恒.不安。非穌息。變易之法。乃至當止一切有為行。厭離.不樂.解脫。時。魔波旬作是念。今沙門瞿曇住王舍城寒林中。為諸聲聞說如是法。一切行無常.不恒。非穌息。變易之法。乃至當止一切有為。厭離.不樂.解脫。我當往彼。為作嬈亂。即化作年少。往詣佛所。住於佛前。而說偈言 壽命日夜流  無有窮盡時  壽命當來去  猶如車輪轉  爾時。世尊作是念。此是惡魔欲作嬈亂。即說偈言 日夜常遷流  壽亦隨損減  人命漸消亡  猶如小河水  我知汝惡魔  便自消滅去 時。波旬作是念。沙門瞿曇已知我心。慚愧憂慼。即沒不現』
  (じゅく):果報の異名。
  覚悟(かくご):ぱっと覚らせる。
  上下(じょうげ):天上、人間、畜生、餓鬼、地獄の五道。
更有人言。雖天地好醜一切物非時所作。然時是不變。因是實有。時法細故。不可見不可知。以華果等果故。可知有時。往年今年久近遲疾見此相。雖不見時可知有時。何以故見果知有因故。以是故有時法。時法不壞故常 更に有る人の言わく、『天地の好醜、一切の物は、時の作す所に非ずと雖も、然れども時は是れ不変にして、是(ここ)に因(よ)って実有なり。時法は、細なるが故に、不可見、不可知なるも、華果等の果を以っての故に、時有るを知るべし。往年、今年、久近、遅疾、此の相を見るに、時を見ずと雖も、時有るを知るべし。何を以っての故に、果を見て、因有るを知るが故なり。是を以っての故に、時法有り。時法は壊(やぶ)れざるが故に、常なり。
更に、
有る、
『人』は、こう言っている、――
『天、地』の、
『好、醜』も、
一切の、
『物』も、
『時』に、
『作られたものではない!』が、
然し、
『時』は、
『不変である!』ので、
是の故に、
『時』は、
『実有である!』。
『時』という、
『法』は、
『細(微細)である!』が故に、
『不可見であり!』、
『不可知である!』が、
『華、果』等の、
『果』を、
『用いる!』が故に、
『時』が、
『有る!』と、
『知ることができる!』。
『往年、今年、久近、遅疾』等の、
此の、
『相』を、
『見れば!』、
『時』を、
『見なくても!』、
『時が有る!』と、
『知ることができる!』。
何故ならば、
『果』を、
『見て!』、
『因』の、
『有る!』ことを、
『知るからである!』。
是の故に、
『時』という、
『法』が、
『有り!』、
『時』という、
『法』は、
『壊れない!』が故に、
則ち、
『常である!』。
  実有(じつう):実に存在するの意。有は梵語bhavaの訳にして存在、状態の義を有す。時を実有と見なすに就いては、外道十六宗中の一派なる勝論外道は、諸法の実体を第一実句義と名づけ、これに地、水、火、風、空、時、方、我、意の九種の別を立つればなり。『大智度論巻10下注:勝論』参照。
  (じょう):無常ならざるを云い、又有常、或いは常住と称す。『大智度論巻1上注:常住』参照。
答曰。如泥丸是現在時。土塵是過去時。瓶是未來時。時相常故。過去時不作未來時。汝經書法。時是一物。以是故過去世。不作未來世。亦不作現在世。雜過故。過去世中亦無未來世。以是故無未來世。現在世亦如是 答えて曰く、泥丸は、是れ現在の時、土塵は、是れ過去の時、瓶は、是れ未来の時なるが如くんば、時の相の常なるが故に、過去の時は、未来の時と作らず。汝が経書の法には、時は、是れ一物なればなり。是を以っての故に、過去世は、未来世と作らず、亦た現在世と作らず。過(去)を雑(まじ)うるが故に、過去世中にも亦た未来世無し。是を以っての故に、未来世無く、現在世も亦た是の如し。
答え、
譬えば、
『泥丸』が、
『現在』の、
『時であり!』、
『土塵』が、
『過去』の、
『時であり!』、
『瓶』が、
『未来』の、
『時だとすれば!』、
即ち、
『時の相』は、
『常である!』が故に、
『過去の時』は、
『未来の時』と、
『作らない!』。
お前の、
『経書の法』には、
『時』は、
『一物であり!』、
是の故に、
『過去世』は、
『未来世』と、
『作()らず!』、
亦た、
『現在世』と、
『作ることもない!』。
亦た、
『過去世』中にも、
『未来世』は、
『無い!』、
何故ならば、
『過去』が、
『雑(まじ)るからである!』。
是の故に、
『未来世』は、
『無いのであり!』、
『現在世』も、
『無い!』。
  参考:『中論巻3観時品』:『問曰。應有時以因待故成。因有過去時。則有未來現在時。因現在時。有過去未來時。因未來時。有過去現在時。上中下一異等法。亦相因待故有。答曰 若因過去時  有未來現在  未來及現在  應在過去時  若因過去時。有未來現在時者。則過去時中。應有未來現在時。何以故。隨所因處有法成。是處應有是法。如因燈有明成。隨有燈處應有明。如是因過去時。成未來現在時者。則過去時中。應有未來現在時。若過去時中。有未來現在時者。則三時盡名過去時。何以故。未來現在時。在過去時中故。若一切時盡過去者。則無未來現在時。盡過去故。若無未來現在時。亦應無過去時。何以故。過去時因未來現在時故。名過去時。如因過去時成未來現在時。如是亦應因未來現在時成過去時。今無未來現在時故。過去時亦應無。是故先說。因過去時成未來現在時。是事不然。若謂過去時中無未來現在時。而因過去時成未來現在時。是事不然。何以故 若過去時中  無未來現在  未來現在時  云何因過去  若未來現在時。不在過去時中者。云何因過去時。成未來現在時。何以故。若三時各異相。不應相因待成。如瓶衣等物各自別成不相因待。而今不因過去時。則未來現在時不成。不因現在時。則過去未來時不成。不因未來時。則過去現在時不成。汝先說過去時中。雖無未來現在時。而因過去時。成未來現在時者。是事不然。問曰。若不因過去時。成未來現在時。而有何咎。答曰 不因過去時  則無未來時  亦無現在時  是故無二時  不因過去時。則不成未來現在時。何以故。若不因過去時。有現在時者。於何處有現在時。未來亦如是。於何處有未來時。是故不因過去時。則無未來現在時。如是相待有故。實無有時 以如是義故  則知餘二時  上中下一異  是等法皆無  以如是義故。當知餘未來現在亦應無。及上中下一異等諸法亦應皆無。如因上有中下。離上則無中下。若離上有中下。則不應相因待。因一故有異。因異故有一。若一實有不應因異而有。若異實有。不應因一而有。如是等諸法。亦應如是破。問曰。如有歲月日須臾等差別故知有時。答曰 時住不可得  時去亦叵得  時若不可得  云何說時相  因物故有時  離物何有時  物尚無所有  何況當有時  時若不住不應可得。時住亦無。若時不可得。云何說時相。若無時相則無時。因物生故則名時。若離物則無時。上來種種因緣破諸物。物無故何有時』
問曰。汝受過去土塵時。若有過去時。必應有未來時。以是故實有時法 問うて曰く、汝は、過去の土塵の時を受く。若し、過去の時有れば、必ず応に未来の時有るべし。是を以っての故に、実に時法有り。
問い、
お前は、
『過去』の、
『土塵の時』を、
『認めた!』が、
若し、
『過去の時』が、
『有れば!』、
必ず、
『未来の時』が、
『有るはずである!』。
是の故に、
実に、
『時の法』が、
『有る!』。
  (じゅ):感覚( sensation, feeling )、◯梵語 vedanaa の訳。苦痛( pain, agony )の義、即ち、楽受 sukha- vedanaa ( sensation of pleasure )、苦受 duHkha- vedanaa ( painful feeling )、捨受 upekSaa- vedanaa ( sensation of neither pleasure nor pain )の総じて三種の感覚( three sensations )の意。◯梵語upaadaanaの訳、又取と訳す、執著の義。the act of taking for one's self , appropriating to one's self. 自分の物にする行為、取る。執著する。十二因縁の一。◯梵語 upaadaaya の訳、受取る/取得する( receiving, acquiring )、~の助けを借りて/~を用いて/依存する( by help of, by means of, depending on )の義。◯梵語 samaadaana の訳、残さず全てを手に入れる/抱え込む/請け負う/結果を招く( taking fully or entirely, taking upon one's self. contracting, incurring )の義、容認する/容認( to accept, acceptance )の意。
答曰。汝不聞我先說。未來世瓶。過去世土塵。未來世不作過去世。墮未來世相中。是未來世相時。云何名過去時。以是故過去時亦無 答えて曰く、汝は、我が先に説けるを聞かざるや、『未来世は瓶、過去世は土塵なるに、未来世は、過去世と作らずして、未来世の相中に堕し、是れは未来世の相の時なり。云何が、過去の時と名づくる』、と。是を以っての故に、過去の時も亦た無し。
答え、
お前は、
わたしが、
先に、
『説いた!』のを、
『聞かなかったのか?』、――
譬えば、
『未来世』が、
『瓶であり!』、
『過去世』が、
『土塵だとすれば!』、
則ち、
『未来世()』が、
『過去世(土塵)』と、
『作ることはない!』。
『未来世』の、
『相()』中に、
『堕ちれば!』、
是の、
『未来世』の、
『相の時(瓶の時)』を、
何故、
『過去の時(土塵の時)』と、
『呼ぶのか?』。
  :瓶は土塵には、絶対作らない。
問曰。何以無時。必應有時。現在有現在相。過去有過去相。未來有未來相 問うて曰く、何を以ってか、時無き。必ず応に時有りて、現在には現在の相有り、過去には過去の相あり、未来には未来の相有るべし。
問い、
何故、
『時』が、
『無いのですか?』、
必ず、
『時』が、
『有ります!』、
『現在』には、
『現在の相』が、
『有り!』、
『過去』には、
『過去の相』が、
『有り!』、
『未来』には、
『未来の相』が、
『有るはずです!』。
答曰。若令一切三世時有自相。應盡是現在世。無過去未來時。若今有未來不名未來應當名現在。以是故是語不然 答えて曰く、若し一切三世の時に、自相有らしむれば、応に尽(ことごと)く是れ現在世にして、過去、未来の時無かるべし。若し今、未来有りて、未来と名づけざれば、応当(まさ)に現在と名づくべし。是を以っての故に、是の語は然(しか)らず。
答え、
若し、
一切の、
『三世の時』に、
『自相』を、
『有らせれば!』、
尽(ことごと)く、
是れは、
『現在世でなければならず!』、
即ち、
『過去、未来の時』が、
『無いはずだ!』。
若し、
今、
有る、
『未来』を、
『未来』と、
『呼ばなければ!』、
当然、
『現在』と、
『呼ばねばならない!』ので、
是の故に、
是の、
『語』は、
『間違っている!』。
  :自相=自性の相。性は、絶対変化しないが故に、有らゆる有為法の性は存在しない。
問曰。過去時未來時。非現在相中行。過去時過去世中行。未來世未來時中行。以是故各各法相有時 問うて曰く、過去の時、未来の時は、現在の相中に行ずるに非ず。過去の時は過去世の中に行じ、未来世は未来の時の中に行ず。是を以っての故に、各各の法の相には、時有り。
問い、
『過去の時』や、
『未来の時』が、
『現在の相』中を、
『行く( traverse )ことはない!』。
『過去の時』は、
『過去世』中を、
『行き!』、
『未来世』は、
『未来の時』中を、
『行く!』ので、
是の故に、
各各の、
『法の相(瓶、泥、土塵)』に、
『時』が、
『有るのである!』。
答曰。若過去復過去。則破過去相。若過去不過去。則無過去相。何以故自相捨故。未來世亦如是。以是故時法無實。云何能生天地好醜及華果等諸物。如是等種種除邪見故。不說迦羅時。說三摩耶 答えて曰く、若し過去なるに、復た過去なれば、則ち過去の相を破る。若し過去にして、過去ならざれば、則ち過去の相無し。何を以っての故に、自相を捨つるが故なり。未来世も亦た是の如し。是を以っての故に、時法には、実無し。云何が、能く天地、好醜、及び華果等の諸物を生ぜんや。是の如き等の種種の邪見を除くが故に、迦羅時と説きたまわず、三摩耶と説きたまえり。
答え、
若し、
『過去』が、
復た、
『過去ならば!』、
則ち、
『過去の相』を、
『破ることになる!』。
若し、
『過去』が、
『過去でなければ!』、
則ち、
『過去の相』は、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『自相』を、
『捨てるからである!』。
亦た、
『未来世』も、
『是の通りである!』。
是の故に、
『時の法』には、
『実』が、
『無い!』。
何故、
『天、地』の、
『好、醜、華果』等を、
『生じられるのか?』。
是れ等のような、
種種の、
『邪見』を、
『除こうとする!』が故に、
則ち、
『迦羅時』を、
『説かれずに!』、
『三摩耶』を、
『説かれたのである!』。
見陰界入生滅。假名為時無別時。所謂方時離合一異長短等名字出。凡人心著。謂是實有法。以是故。除棄世界名字語言法 陰界入の生滅を見て、仮名を時と為すも、別の時無し。謂わゆる方、時、離、合、一、異、長、短等の名字出づれば、凡人は心著して、是れ実に法有りと謂えば、是を以っての故に、世界の名字、語言の法を除棄したもうなり。
『陰界入(陰入持)』の
『生、滅』を、
『見て!』、
仮りに、
『時』と、
『呼ぶのである!』が、
別に、
『時』が、
『有るのではない!』。
謂わゆる、
『方、時、離・合、一・異、長・短』等の、
『名字』が、
『出れば!』、
『凡人』の、
『心』が、
『著して!』、
是れを、
『実に!』、
『法が有る!』と、
『謂うので!』、
是の故に、
『世界(世間)』の、
『名字、語言の法』を、
『捨て去られたのである!』。
  陰界入(おんかいにゅう):陰入持に同じ。人の身心なり。
  仮名(けみょう):仮になづけること。
問曰。若無時。云何聽時食遮非時食是戒 問うて曰く、若し時無くんば、云何が、時食を聴(ゆる)して、非時食を『是れ戒なり。』と遮したもう。
問い、
若し、
『時』が、
『無ければ!』、
何故、
『時の食(食事)』を、
『聴(ゆる)し!』、
『非時の食』を、
『是れが戒である!』と、
『遮(さえぎ)られたのですか?』。
  時食(じじき):比丘に許されたる時、即ち午前中に食することを云う。『大智度論巻1下注:非時食、同巻13下注:斎』参照。
  非時食(ひじじき):梵語vikaalabhojanaの訳。巴梨語同じ。具に非時食学処と云い、又離食非時食vikaalabhojana-virati、不過中食戒、或いは不過時食戒とも称す。即ち非時に食を受けて食するを云う。「四分律比丘戒本」に、「若し比丘、非時に食を受けて食せば波逸提なり」と云い、「四分律巻14」に之を解し、「非時とは日中より乃ち明相未出に至る。食とは二種あり、佉闍尼食は上の如し、蒱闍尼の五種食も上の如し。若し比丘非時に食を受けて食せば咽咽波逸提なり、若し非時に過非時は波逸提なり、七日に過七日は波逸提なり。尽形寿に薬を因縁なくして服するは突吉羅なり、非時に非時の想は波逸提なり、非時の疑あるは突吉羅なり、非時に時の想は突吉羅なり、時に非時の想は突吉羅なり、時の疑あるは突吉羅なり。比丘尼は波逸提、式叉摩那、沙弥、沙弥尼は突吉羅なり。是れを謂って犯と為す」と云える是れなり。是れ日中以後、翌朝明相未だ出でざるの間に於いて食を受け、之を食するを非時食と名づけたるものにして、就中、此の非時の間に食を受けて食し、又非時に食を受け、非時を過ぎて食し、七日に食を受け七日を過ぎて食せば波逸提、尽形寿に薬を受け、因縁なくして之を服せば突吉羅、又非時に非時の想を作すは波逸提、非時の疑、若しは非時に時の想を作し、時に非時の想を作す等は即ち突吉羅なることを明せるなり。但し此の中、「五分律巻8」、及び「薩婆多毘尼毘婆沙巻7」には、非時の疑あるを波逸提、「五分律巻8」、「十誦律巻13」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻7」には、非時に時の想を作すを波逸提となし、又「摩訶僧祇律巻3」には、盗心を以って他食を取り、非時に食して満つるは波羅夷、同じく満たざるは偸盗、理によりて食を得、非時に食するは波夜提なりとなせり。制戒の因縁に関しては、「四分律巻14」、「五分律巻8」等に、迦留陀夷が日暮羅閲城に入りて乞食し、妊婦を驚かして堕娠せしめたるに起因すとし、「十誦律巻13」には仏舎衛国に在りし時、十七群比丘が節日に於いて諸居士の園林酒宴の場に入り、其の食を受けて酔乱迷悶せしに基づくとし、「摩訶僧祇律巻17」には、仏舎衛国に在りし時、諸比丘の夜食せしに縁由すとなせり。此の戒は出家の五衆に通じて制するのみならず、亦八斎戒の一として一日一夜在家の二衆にも持せしむるなり。但し「沙弥十戒儀則経」には病僧の為に之を開し、「比丘の病あるが如き、病を治し身を救うには中後の食を許すべし」と云えり。又「四分比丘尼戒本」、「十誦律巻21、53」、「摩訶僧祇律巻30」、「薩婆多部毘尼摩得勒伽巻10」、「根本薩婆多部律摂巻11」、「有部毘奈耶巻36」、「同苾芻尼毘奈耶巻16」、「優陂夷堕舎迦経」、「八関斎経」、「優波離問仏経」、「大乗義章巻12」、「四分律行事鈔巻下3」、「法苑珠林巻88」、「翻訳名義集巻19」等に出づ。
  (しゃ):戒を制して悪を遮断するを云う。
答曰。我先已說世界名字法。有時非實法。汝不應難。亦是毘尼中結戒法。是世界中實。非第一實法相 答えて曰く、我れは先に已(すで)に説けり、世界の名字の法に、時有るも、実の法に非ず、と。汝は応に難ずべからず。亦た是れ毘尼中に結ばれたる戒法にして、是れ世界中の実なるも、第一の実の法相に非ず。
答え、
わたしは、
先に、
已に、こう説いた、――
『世界』の、
『名字の法に有る!』、
『時』は、
『実の法でない!』、と。
故に、
お前は、
『難じてはならない!』。
亦た、
是れ(非時食戒)は、
『毘尼(律蔵)』中に、
『結ばれた!』、
『戒の法であり!』、
『世界(世界悉檀)』の、
『法』中には、
『実である!』が、
『第一真実(第一義悉檀)』の、
『法』の、
『相ではない!』。
  毘尼(びに):梵語vinaya、又毘奈耶とも称す。律蔵の意なり。『大智度論巻2上注:毘尼、同巻24(下)注:律』参照。
吾我法相實不可得故。亦為眾人瞋呵故。亦欲護佛法使久存定弟子禮法故。諸三界世尊結諸戒 吾我の法相は、実に得べからざるが故に、亦た衆人の為に瞋呵せらるるが故に、亦た仏法を護りて久しく存せしめんと欲して、弟子の礼法を定めたもうが故に、諸の三界の世尊は、諸の戒を結びたまえり。
『吾我』という、
『法の相』は、
『実に!』、
『認められない!』が故に、
『仏弟子』にも、
亦た、
『不品行』が、
『有り!』、
則ち、
『衆生』に、
『瞋呵される!』が故に、
亦た、
『仏法』を、
『護って!』、
『永久に!』、
『存続させようとして!』、
『弟子』の、
『礼法』を、
『定める!』為めの故に、
諸の、
『三界の世尊』は、
諸の、
『戒』を、
『結ばれたのである!』。
  瞋呵(しんか):目をいからして責める。
是中不應求有何實。有何名字等。何者相應。何者不相應。何者是法如是相。何者是法不如是相。以是故是事不應難 是の中には、応に何なる実有りや、何なる名字等有りや、何者か相応するや、何者か相応せざるや、何者か是れ法にして、如是の相なる、何者か是れ法にして、不如是の相なるやを求むべからず。是を以っての故に、是の事は、応に難ずべからず。
是の中には、
何のような、
『実』が、
『有るのか?』、
何のような、
『名字』等が、
『有るのか?』、
何者が、
『相応するのか?』、
何者が、
『相応しないのか?』、
何のような、
『法』が、
『如是(真実)の相であるのか?』、
何のような、
『法』が、
『不如是(不実)の相であるのか?』を、
『追求してはならない!』。
是の故に、
是の、
『事』を、
『難じてはならない!』。
問曰。若非時食時藥時衣皆是柯邏。何以不說三摩耶 問うて曰く、若し非時食、時薬、時衣は、皆、是れ迦羅なれば、何を以ってか、三摩耶と説かざる。
問い、
例えば、
『非時食』、
『時薬』、
『時衣について!』は、
皆、
是れは、
『迦羅時である!』。
何故、
『三摩耶』を、
『説かないのか?』。
  時薬(じやく):食時に取る薬を云う。『大智度論巻22上注:時薬』参照。
  時衣(じえ):安居後の一ヶ月に得る衣。『大智度論巻22上注:時衣』参照。
  柯邏(から):梵語kaala、時と訳す。迦羅に同じ。
答曰。此毘尼中說白衣不得聞。外道何由得聞。而生邪見。餘經通皆得聞是故。說三摩耶令其不生邪見。三摩耶詭名。時亦是假名稱。又佛法中多說三摩耶。少說柯邏。少故不應難 答えて曰く、此れ毘尼中に説けば、白衣は聞くを得ず。外道、何に由りてか、聞くを得て、邪見を生ずる。余の経は通じて、皆聞くを得れば、是の故に、三摩耶と説いて、其れをして邪見を生ぜざらしむ。三摩耶は詭(いつわり)の名なり。時も亦た是れ仮名の称なり。又仏法中には多く三摩耶を説き、少しく迦羅を説く。少なきが故に応に難ずべからず。
答え、
此の、
『毘尼』中の、
『説』は、
『白衣』には、
『聞けないからである!』。
『外道』が、
何のような、
『理由』で、
『聞くことができ!』、
而も、
『邪見』を、
『生じるのか?』。
余の、
『経』は、
通じて、
皆、
『外道』にも、
『聞くことができる!』ので、
是の故に、
『三摩耶』を、
『説き!』、
其れに、
『邪見』を、
『生じさせないのである!』。
『三摩耶』は、
『詭名(隠語)であり!』、
『時(迦羅)』も、
『仮の!』、
『名称である!』。
又、
『仏法』中には、
『三摩耶』を、
『説く!』のは、
『多く!』、、
『迦羅』を、
『説く!』のは、
『少ない!』が、
『少ない!』が故に、
『迦羅』を、
『難じてはならない!』。
  白衣(びゃくえ):梵語avadaata-vasanaの訳。白色の衣の意。転じて白衣を着するものを云う。即ち在俗の人の称なり。『大智度論巻26下注:白衣』参照。
  詭名(きみょう):いつわりの名。隠語の如し。
如是我聞一時五語各各義略說竟
大智度論卷第一
『如是、我、聞、一、時』の五語の各各の義を略して説き竟れり。
大智度論巻第一
『如是、我、聞、一、時の五語』の、
各各の、
『義』を、
『略説した!』。

大智度論巻第一


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