巻第一(上)
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大智度初序品中緣起義釋論第一(卷第一)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


摩訶般若波羅蜜を讃ずる偈

 智度大道佛從來 
 智度大海佛窮盡
 智度相義佛無礙 
 稽首智度無等佛
智度の大道に、仏は従(よ)って来たまい
智度の大海を、仏は窮め尽(つく)くしたまえば
智度の相義に、仏は礙(さわり)無し
智度と無等の仏を稽首せん
『智度(般若波羅蜜)』という、     ――仏宝を稽首する――
『大道』は、
『仏』の、
『来られた!』、
『道である!』。
『智度』の、
『大海』は、
『仏』の、
『窮め尽された!』、
『智慧の海である!』。
『智度』の、
『相義』を、
『仏』は、
『説かれて!』、
『無礙である!』。
『智度』と、
『無等の仏』とを、
『稽首する!』。
  智度大道(ちどのだいどう):智度は般若波羅蜜の訳。智を以って苦の河を度(わた)るの意。般若波羅蜜は大道にして、其の広きこと一切の衆生の一時に能く行く所であるが、実に能く行く者は少い。
  智度大海(ちどのだいかい):般若波羅蜜は智慧にして、その理の深く、用の広いことを大海に譬える。
  智度相義(そうぎのそうぎ):相義はありさまとことわり。みかけとその意味。相は五感を以って感ずる所、義は其の由る所の理、理由、わけ。即ち般若波羅蜜の相とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を指し、義は諸法の実相の空なることを指す。
  無礙(むげ):さわりがない。障害となるものがない。
  無等仏(むとうのほとけ):等しきものの無き仏。比べようもない仏の意。
  稽首(けいしゅ):頭を地につける礼法。
 有無二見滅無餘 
 諸法實相佛所說
 常住不壞淨煩惱 
 稽首佛所尊重法
有無の二見は、滅して余(あま)す無く
諸法の実相は、仏の説かるる所なれば
常住不壊にして、煩悩を浄む
仏の尊重したもう所の法を稽首せん
諸(もろもろ)の、     ――法宝を稽首する――
『有、無』等の、
『二見』を、
『余す所無く!』、
『滅して!』、
諸の
『法の実相』を、
『仏』は、
『説かれた!』。
『常住、不壊にして!』、
『煩悩』を、
『浄める!』
『法』、
『仏』に、
『尊重される!』、
『法』を、
『稽首する!』。
  諸法実相(もろもろのほうのじっそう):諸法は万物、或いは一切の事物の意、実相は其の一切の事物の性は実に空であり、皆因縁に由って生ずる所、即ち虚妄の性なることを云う。
  有無二見(うむのにけん):事物を有ると見ると、無いと見るとの如き二種の見解を云う。例:地獄、極楽、吾人、他人等の如し。
  常住不壊(じょうじゅうふえ):常に存在して変化しない。
  尊重(そんじゅう):たっとびおもんじる。
 聖眾大海行福田 
 學無學人以莊嚴
 後有愛種永已盡 
 我所既滅根亦除
聖衆の大海は、福田を行じ
学無学の人は、以(も)って荘厳す
後の有愛の種は、永く已(すで)に尽き
我所は既に滅して、根も亦(ま)た除(のぞ)こる
『聖衆()』の、      ――僧宝を稽首する――
『大海』は、
『福田』を、
『行い!』、
『学、無学』の、
『人』で、
『荘厳する!』。
『後世』の、
『有、愛の種』は、
『永く!』、
『滅し!』、
『我所』が、
『滅して!』、
『根(命根/六根)』も、
『除かれた!』。
  聖衆(しょうじゅ):煩悩を滅した清らかな人の集まり。仏、阿羅漢等の如し。
  福田(ふくでん):布施の種を蒔いて、福を刈り取る田の意。仏、阿羅漢等の如し。
  学無学人(がくとむがくのひと):未だ学ばなければならない阿羅漢以前を学人といい、既に学び已った阿羅漢を無学人という。
  莊嚴(しょうごん):おごそかに飾りつける。ていねいに飾る。
  後有愛種(のちのうあいのたね):後生の有(う)と、愛(あい)とを生ずる種の意。有は生存、愛は憎愛。共に十二因縁の一。十二因縁とは、本来は空であるべき人が、如何にして我は実在するという誤った自覚を得るのか、との問いに対する答えで、人は(1)無明(むみょう、愚昧、盲目的無智)という因を中心にして、(2)行(ぎょう、身の活動)と、(3)識(しき、心の活動)とを得て、(4)名色(みょうしき、身心)となり、(5)六処(ろくしょ、眼耳鼻舌身意)を具えて、(6)触(そく、接触)する事物を、(7)受(じゅ、感受)して、(8)愛(あい、愛憎)を生じ、(9)取(しゅ、執著)することにより、(10)有(う、生存、彼我の区別)を自覚し、(11)生(しょう、生命、生活)を自覚し、(12)老死(ろうし、生を失う苦しみ)を自覚する、というもの。
  永已尽(ながくすでにつく):永久に滅尽する。
  我所(がしょ):我が所有の意、我(が)の依りどころ。人の身心を指す。『我れは存在する』とする迷妄の対象。或いは自身を我といい、また自身以外を我所いうこともある。
 已捨世間諸事業 
 種種功德所住處
 一切眾中最為上 
 稽首真淨大德僧
已(すで)に世間の、諸の事業を捨て
種種の功徳の、所住する処を
一切の衆中の、最も上と為す
真浄の大徳僧を稽首せん
已(すで)に、       ――阿羅漢を稽首する――
『世間』の、
諸の、
『事業』を、
『捨てて!』、
種種の、
『功徳』の、
『住処!』、
一切の、
『衆()』中の、
『最上であり!』、
『真浄である!』、
『大徳の僧』を、
『稽首する!』。
  世間(せけん):俗世間。生死に流転するを世間といい、生死を尽くした涅槃を出世間という。
  事業(じごう):営むこととその成果。仕事。
  功徳(くどく):美点( merit(s) )、梵語 puNya の訳、さい先の良い( auspicious, propitious )、公平/公正な( fair )、人を喜ばせる( pleasant )、善良な( good )、正義の( right )、高潔な( virtuous )、称讃に値する( meritorious )、清潔な( pure )、神聖な( holy, sacred )の義。幸運、美徳、幸運、善良( Blessedness, virtue, fortune, goodness )の意。特別な美徳、価値ある特質( Excellent virtue, valuable quality )にして、善行に従って蓄積された( that which is accumulated according to one's good actions )ものの意。過失に対す( the opposit of a fault )。良い運命を齎す原因/美徳の根本( The causes of good destiny; virtuous roots )、仏の智慧を獲得する為めの必要な資財( The necessary materials for attaining the Buddha's enlightenment )の意。又梵語 guNa の訳、称讃さるべき特質の義、「德」の頃参照。即ち総じて人を喜ばせ、福を獲得せしむる智力の意。
  所住処(しょじゅうのところ):住所。住居。すまい。
  一切衆中(いっさいのしゅちゅう):衆(しゅ)は集まりの称。数に同じ。職業を同じくする者の集まり。
  真浄大徳僧(しんじょうだいとくのそう):僧は僧伽の略、仏道修行者である比丘、比丘尼等の集団。大徳は長老、又は徳の高い僧侶の意。
 一心恭敬三寶已 
 及諸救世彌勒等
 智慧第一舍利弗 
 無諍空行須菩提
一心に三宝を恭敬し已(おわ)り
諸の救世の弥勒等
智慧第一の舎利弗
無諍空行の須菩提に及べり
『一心』に、
『三宝』を、
『恭敬して!』、
諸の、
『救世の弥勒』等を、
『恭敬し!』、
『智慧第一の舎利弗』や、
『無諍空行の須菩提』に、
『及んだ!』。
  恭敬(くぎょう):恭しく敬うこと。
  三宝(さんぼう):三つの宝。仏宝、法宝、僧宝をいう。
  救世(ぐせ):世の苦難を救う。
  弥勒(みろく):大菩薩の名。かつて弗沙仏のもとで釈迦と共に修行した。『大智度論巻1注:弥勒菩薩、同巻3、4』参照。
  舎利弗(しゃりほつ):仏弟子中の智慧第一。大衆の為に般若波羅蜜を問う。『大智度論巻11、21下注:舍利弗』参照。
  須菩提(しゅぼだい):仏弟子中の解空第一。大衆の為に般若波羅蜜を説く。『大智度論巻11上注:須菩提』参照。
  無諍空行(むじょうくうぎょう):空行は空理に基づく行動。其の空に二種あり、一には衆生空とは、即ち我れと彼れと、男と女と、高貴と卑賎と、人と畜生と等、皆同じく平等、空性の者なりと見て、分別差別を離れたるを云い、二には法空とは、衆生以外の一切の事物の平等無差別なるを知ることを云う。即ち一切法の空とは、我が信奉する所の法も、彼れの信奉する所の法も、共に空性のものにして、是非を分別すべからざる者なれば、自ら諍論を離れて、寂滅の境地に在るを謂いて、無諍空行と云うのである。蓋し正法、邪法の別ありと雖も、互いに諍いて譲るべからず、是れ即ち般若波羅蜜に則して見るに、果てしなき諍論は捨て置きて先ず布施、持戒、忍辱等を行ずべきこと明らかであるが故に、無諍と空行とは不可分であり、故に智慧を以って諍論せざる者は、空行を為す者と知る。
  弥勒菩薩(みろくぼさつ):弥勒は梵語梅呾麗耶maitreyaの訳。巴梨名metteyya、又梅怛儷薬、末怛唎耶、弥帝礼、弥帝麗、弥帝隷、或いは梅任梨に作り、慈氏と訳す。当来閻浮提に下生し、釈尊に次いで成仏する菩薩なり。故に又一生補処の菩薩、補処の薩埵、或いは弥勒如来とも称せらる。蓋し此の菩薩は元と釈尊の弟子にして実在の人なりしが如く、「賢愚経巻12波婆梨品」に、波羅奈国波羅摩達王に輔相あり、一の男児を生む。三十二相衆好備満し、身色紫金にして姿容挺特なり。其の母懐妊已来素性一変し、苦厄を悲矜し、黎民を慈潤せしを以って、因って彼の児に字して弥勒と曰う。其の舅に波婆梨あり、波梨弗多羅国に在りて国師となり、聡明にして五百の弟子を領す。弥勒は乃ち彼れに師事して経書を学び、未だ久しからずして諸書に通達せしにより、波婆梨は其の美を顕揚せんが為に大会を設けて諸の婆羅門に供施し、後仏が王舎城鷲頭山に在るを聞き、弥勒等の十六人を遣わして仏所に詣らしめ、自己が幾相を具するや等の事を問わしむるに、仏は一一如実に答えられたるを以って深く敬仰の心を生じ、更に仏の説法を聞きて十五人は阿羅漢果を得たりと記し、「巴梨文スッタニパータsutta-nipaata,paaraayana,i-iii.敍詞」中にも亦た略ぼ同一の記事あり。又「大智度論巻29」に、「弥勒菩薩の如き、白衣の時の師を跋婆犁と名づく、三相あり、一に眉間白毛相、二に舌覆面相、三に陰蔵相なり」と云い、「観弥勒菩薩上生兜率天経」に、弥勒は波羅奈国劫波利村波婆利大婆羅門の家に生まれたりと云い、「一切智光明仙人慈心因縁不食経」にも弥勒を加波利婆羅門の子となせり。之に依るに此の菩薩は中印度波羅奈vaaraaNasii国の人にして、初め波婆梨baavarii婆羅門に師事し、後仏弟子となりて其の教化を受けたるものなるが如し。但し「旧華厳経巻60」に、「我れ(弥勒)此の閻浮提南界摩離国内の拘提聚落婆羅門家種姓の中に生まれ、我れ南方に於いて諸の衆生の所応に随って示現し、而も之を化度す」と云い、「注維摩詰経巻1」にも南天竺婆羅門の子なりとせり。是れ異説なるも、「スッタニパータ敍詞」中に波婆梨が南方アラカaLakaに近きアッサカassakaの地、ゴーダーヴァリーgodaavarii河の辺に移住し、大供養会を設けしことを伝うるに依るに、弥勒も亦た当時其の師に随って南方に赴きたるを以って、遂に南方誕生の説を生じたるに非ざるかを疑うべきものあり。弥勒当来成仏の説に関しては前引「賢愚経」の連文に、仏は後浄飯王の請に依りて大衆と共に迦比羅城に還り給うに、姨母摩訶波闍波提は自ら一端の金色の氎を作りて仏に上る。仏は時に衆僧に施すべきことを命ぜられたるを以って、順次に之を持して僧中に行くも取る者なく、後弥勒遂に之を受け、尋いで其の衣を著して波羅奈城に入るに、一穿珠師あり、銭十万を得べき穿珠の業を捨てて弥勒に供養し、其の説法を聴く。彼の妻瞋りて夫を嫌責せしに由り、弥勒は之を伴うて共に精舎に到り、衆僧に穿珠師所得の利益を問うに、時に阿那律は自ら過去九十一劫の時、一鉢の少糜を辟支仏に施せし因縁によりて世世乏少する所なく、今尚お其の福報を受けつつあることを説く。時に仏は阿那律が過去の事縁を説けるに対し、我れ亦た未来世の事を説くべしと宣し、当来人寿八万四千歳の時、勝伽zaGkha転輪王出世し、時に一婆羅門の子弥勒あり、出家学道して三会に説法し、広く衆生を度すべしと説かれたるに、爾の時弥勒は自ら当来弥勒如来たらんことを願じ、又其の会中に阿侍多ajitaあり、自ら亦た彼の転輪王たらんことを願ず。仏時に弥勒に当来成仏の記を授け、成仏の後も名を改めず、常に弥勒と字すべきを説かれたりと云えり。此の中、弥勒受衣及び穿珠師聴法の事は「雑宝蔵経巻5大愛道施仏金縷織成衣幷穿珠縁」にも之を記するも、彼の経には弥勒授記の事を言わず、又「中阿含巻13説本経」には、仏波羅奈国鹿野園に在りし時、阿那律が過去辟支仏供養の因縁を説きしに依り、仏亦た諸比丘の為に未来の事を説くべしと宣し、未来久遠人寿八万歳の時、螺saGkha転輪王出現し、四種の軍ありて天下を整御し、法を以って教令して安楽ならしめんと説き給うに、時に衆中に阿夷哆あり、我れ彼の螺転輪王たらんことを願うと陳べたるを以って、仏は之を愚癡人なりと呵し、又未来久遠人寿八万歳の時、弥勒如来出現して梵行を広演流布し、無量百千の比丘衆あらんと説き給うに、時に衆中に弥勒あり、我れ彼の弥勒如来たらんことを願うと陳べたるを以って、仏は之を讃じて金縷織成の衣を与え、当来成仏の記を授けたりと云い、「大毘婆沙論巻178」にも此の経を引き、「阿氏多は世間輪王の位を求むるが故に仏之を訶し、慈氏は出世法輪王の位を求むるが故に仏之を讃ず」と云えり。此の経には摩訶波闍波提及び穿珠師の事を言わざるも、優波離の往縁を挙げ、又金色衣の授与を説くを以って見るに、元と皆同一説話を伝えたるものなるを知るを得べし。「法華経巻6随喜功徳品」、「平等覚経巻4」等に弥勒と阿逸多とを同人となすも、今の説に依るに其の別人なるを知るべく、且つ「出曜経巻6」に、「十六裸形梵志、十四人は般泥洹を取り、二人は取らず、弥勒と阿耆是れなり」と云い、「尊婆須蜜菩薩所集論巻12」に、「十六婆羅門、阿逸と弥勒是れ其の二なり」と云えるは、彼の波婆梨の命によりて仏所に詣でたる十六人の中、十四人(賢愚経には十五人)は阿羅漢果を得て般泥洹し、弥勒と阿逸多の二人は般泥洹を取らず、当来閻浮提に下生して弥勒は成仏し、阿逸多は転輪聖王となるべきことを意味するものにして、即ち亦た「賢愚経」等と同一所伝なるを知るべし。又弥勒が仏成道の化儀に順じて先づ兜率天に生ずとなせることは、「旧華厳経巻60」、「尊婆須蜜菩薩所集論序」等に皆之を説き、又「観弥勒菩薩上生兜率天経」は主として弥勒が彼の天宮に居住するの相を説けるものにして、兜率上生の信仰は即ち之に基づく所なり。弥勒の下生成仏は兜率天の寿四千歳を尽くしたる後にして、即ち人間の五十七億六千万年の後に当り、其の時人寿は増して八万四千歳(或いは八万歳)となり、国土は変じて清浄豊楽となるべしとせらる。即ち「弥勒下生経」に弥勒当来下生成仏の事を説き、将来久遠に此の閻浮提の地は平整となりて鏡の如く、土地豊熟にして人民熾盛に、街巷行を成し、伏蔵自然に発現して諸の珍宝多く、時気和適し、四時節に順じ、身に百八の病患なく、人心均平にして皆同一意に、言辞一類にして差別なし。時に螺佉転輪聖王出現して翅頭城に君臨し、正法を以って治化す。王に大臣あり、修梵摩brahmaayuと名づけ、妻を梵摩越brahmavatiiと名づく。時に弥勒菩薩は兜率天に於いて父母の不老不少を観察し、神を降して右脇より生じ、身黄金色にして三十二相八十種好あり。出家学道して龍華樹下に成道し、摩竭国界毘提村中鶏足山に上り、摩訶迦葉より釈尊付属の僧伽梨を受けて之を著し、初会に九十六億、二会に九十四億、三会に九十二億の人を度して皆阿羅漢果を得しめ、寿八万四千歳にして遂に滅度すべしと云える是れなり。「弥勒来時経」、「弥勒大成仏経」、「弥勒下生成仏経」等にも亦た皆同説を掲ぐ。就中、弥勒が摩訶迦葉より釈尊付属の僧伽梨を受くと云えるは、「大毘婆沙論巻135」、「大智度論巻3」、「阿育王伝巻4」等にも伝うる所にして、前の「賢愚経」等所説の金色衣授受の説と相通ずるもなりというべし。蓋し弥勒当来成仏の信仰は印度に於いて夙に行われたるものにして、「増一阿含経巻45」、「賢劫経巻7千仏興立品」等に皆弥勒を以って未来出現の第一仏となし、「阿毘曇八揵度論巻27」い亦た当来弥勒成仏の事を載し、婆須蜜、僧伽羅刹等は兜率に上生せりと伝えられ、又「巴梨文大史mahaavamsa xxxii.」にドゥタガーマニーduTThagaamanii王(西紀前161ー137)が臨終に弥勒を念願せしことを記し、「名僧伝抄法盛伝」には、仏滅度の後四百八十年に呵利難陀羅漢あり、兜率天に昇りて仏の真影を写し、憂長国(高僧法顕伝に陀歷国とす)の東北に牛頭栴檀の弥勒大像を造れりと云い、「高僧伝巻5道安伝」には前秦苻堅が使を西域に遣わし、弥勒結珠像を将来せしことを記し、「法苑珠林巻29」には、唐王玄策が印度に使せし時、摩訶菩提寺の弥勒像を図写して帰国せしことを伝え、「大唐西域求法高僧伝巻下霊運伝」には、運は那爛陀寺の弥勒像を図写せりと云い、又「大唐西域記巻7」には、戦主国都城の西北の伽藍に弥勒像を安置し、「同巻8」には摩揭陀国、菩提樹の東の精舎に白銀を以って鋳せし十余尺の弥勒像ありしことを記せり。以って弥勒信仰の興隆を知るべし。又「長阿含巻6転輪聖王修行経」、「雑阿含経巻43」、「増一阿含経巻11、38、49」、「義足経巻上」、「雑譬喩経」、「発覚浄心経」、「大乗方等要慧経」、「大宝積経巻111」、「旧華厳経巻42」、「菩薩処胎経巻2三世等品」、「大毘婆沙論巻135」、「大智度論巻1、4、9、38、61」、「維摩経略疏巻5」、「弥勒経遊意」、「玄応音義巻25」、「大唐西域記巻4、5、10」、「倶舎論光記巻18」、「開元釈教録巻18」、「大日経疏巻1、13、16」等に出づ。<(望)
 我今如力欲演說 
 大智彼岸實相義
 願諸大德聖智人 
 一心善順聽我說
我が今力の如く、演説せんと欲するは
大智の彼岸と、実の相義なり
願わくは諸の大徳と、聖智の人
一心に善順して、我が説を聴け
わたしは、        ――大徳よ聴きたまえ!今大智度の実の相義を説こう――
今、
力のままに、述べ説こう、――
『大智』の、
『彼岸という!』、
『実相の義を!』。
願わくは、
諸の、
大徳聖智の人よ!
『一心』に、
『善順して!』、
わたしの、
『説』を、
『聴け!』。
  如力(にょりき):力にしたがい。所有の力を尽くして。
  演説(えんぜつ):種種に典籍、故事、譬え等を引いて解り易く延べ説くこと。
  大智彼岸(だいちのひがん):大智度。即ち摩訶般若波羅蜜、大智を以って渡るべき彼の岸の意。迷妄の此岸に対し覚悟の世界を彼岸という。自在なる智慧の世界。
  聖智(しょうち):俗智の対語。空理に基づく智慧。
  善順(ぜんじゅん):よくしたがう。よくさからわずにの意。あるがままにしたがってさからわない。
 



般若波羅蜜を説く因縁

問曰。佛以何因緣故。說摩訶般若波羅蜜經。諸佛法不以無事及小因緣而自發言。譬如須彌山王不以無事及小因緣而動。今有何等大因緣故。佛說摩訶般若波羅蜜經 問うて曰(いわ)く、仏は何の因縁を以っての故(ゆえ)にか、摩訶般若波羅蜜経を説きたもうや。諸仏の法は、事無きと、小因縁を以ってしては、自(みずか)ら発言したまわず。譬(たと)えば須弥山王は、事無きと、及び小因縁を以って、動かざるが如(ごと)し。今、何等の大因縁有るが故に、仏は、摩訶般若波羅蜜を説きたもうや。
問い、
『仏』は、
何の、
『因縁』の故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのですか?』。
諸の、
『仏の法(やりかた)』では、
『事件の無い!』時と、
『因縁の小さい!』時には、
自ら、
『言(ことば)』を、
『発しられません!』。
譬えば、
『須弥山王』が、
『事件の無い!』時と、
『因縁の小さい!』時には、
『動かない!』のと、
『同じです!』。
今、
何のような、
『大因縁』の故に、
『仏』は、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説かれるのですか?』。
  因縁(いんねん):原因、理由。わけ。『大智度論巻32上注:四縁、六因、因縁』参照。
  (ほう):[ヒンズー教/仏教の]法/徳/守るべき軌範( dharma )、梵語 dharma の訳、文脈により種種の語に訳される( Rendered into English variously according to the context )、例えば真理/現実/事物/現象/要素/成分/精神的要素/特質である( as: truth, reality; thing, phenomenon, element, constituent, (mental) factor; quality )。◯「dharma」の語は元と印度語の動詞語幹 √(dhR) より派生し、「保存する/維持する/保つもの」の意を有し、特に「人の活動を保存/維持するもの」の意を有する( The word dharma is originally derived from the Indic root dhr, with the meaning of 'that which preserves or maintains,' especially that which preserves or maintains human activity )。◯仏教に於いては此の語は、広範なる意味を有すると雖も、主要な意味は、仏によって伝えられた、完全に真実に一致する教訓/学説である( The term has a wide range of meanings in Buddhism, but the foremost meaning is that of the teaching delivered by the Buddha, which is fully accordant with reality )。従って真理/真実/真実の原理/法則でもあり( Thus, truth, reality, true principle, law (Skt. satya) )、完全な宗教としての仏教を暗示する。法は、三宝の第二でもある( It connotes Buddhism as the perfect religion. The Dharma is also the second component among the Three Treasures (triratna) 佛法僧 )、そしてそれは法身という観念に於いて、西洋の「霊的」の意に近似している( and in the sense of dharmakāya 法身 it approaches the Western idea of 'spiritual.' )。◯それは一切の事物、或いは何か小/大、可見/不可見、真実/不実の事物、現象、真実、原理、方式、有形の物/抽象的な概念等の意味に於いて使用される( It is used in the sense of 一切 all things, or anything small or great, visible or invisible, real or unreal, affairs, truth, principle, method, concrete things, abstract ideas, etc. )。◯法は、実体を有し、それ自身の性質を帯びるものとして説明され( Dharma is described as that which has entity and bears its own attributes )、特性/特質/性質/要因等の意味に於いて、此の語は、一般に印度の学問的著述に於いて、認識可能な全般的体験の有らゆる詳細を述べることに使用されている( It is in the sense of attribute, quality, characteristic quality, factor, etc. that this term is commonly used in Indian scholastic works to fully detail the gamut of possible cognitive experiences )。◯阿毘曇学派の説一切有部等は、七十五法を列挙し、一方瑜伽唯識派では体験的世界の事象を百種の現象[百法]として分類する( Abhidharma schools such as Sarvâstivāda enumerated seventy-five dharmas 七十五法, while the Yogâcāra school categorized the events of the experiential world into one hundred types of phenomena 百法 )。唯識は、二乗[声聞/縁覚]の修行者に於いては、是れ等の法に於ける自性の欠如が、正しく認識されていないと主張している( Yogâcāras argued that the lack of inherent identity in these dharmas is not duly recognized by the practitioners of the two vehicles 二乘 )。◯六種の認識される対象[六塵]中に於いて、法は、思考的意識[意識]の対象としての概念に等しい( Among the six cognitive objects 六塵, dharmas are equivalent to 'concepts,' being the objects of the thinking consciousness 意識 )。[漢語としての]法には、その他にも慣習/習癖/標準的習性/社会的秩序等の意味を有する( Other meanings include: custom, habit, standard of behavior; social order )。
  発言(ほつごん):言をおこす。発言する。
  須弥山王(しゅみせんおう):須弥sumeruは梵語。世界の中央に聳立する大高山の名。山の中の王につき須弥山王と称す。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。
答曰。佛於三藏中廣引種種諸喻。為聲聞說法不說菩薩道。唯中阿含本末經中。佛記彌勒菩薩。汝當來世當得作佛號字彌勒。亦不說種種菩薩行。佛今欲為彌勒等廣說諸菩薩行是故說摩訶般若波羅蜜經 答えて曰く、仏は、三蔵中に広く種種諸の喩を引き、声聞の為に、法を説きたまえるも、菩薩道を説きたまわず。唯だ中阿含本末経中に、仏は、弥勒菩薩を、『汝は当来の世に、当に仏と作るを得て、号を弥勒と字(な)づくべし』と記したまえるも、亦た種種の菩薩行を説きたまわざれば、今、弥勒等の為に、広く諸の菩薩行を説かんと欲して、是の故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。
答え、      ――弥勒等の為に菩薩行を説く――
『仏』は、
『三蔵』中に、
種種に、
諸の、
『喻(たとえ)』を、
『引き!』、
『声聞』の為に、
『法』を、
『説かれた!』が、
『菩薩』の、
『道』は、
『説かれなかった!』。
唯だ、
『中阿含本末経』中に、
『仏』は、
『弥勒菩薩』に、
『記』を、こう授けられたが、――
お前は、
未来の世に、
『仏』と、
『作()り!』、
『号』を、
『弥勒』と、
『呼ばれるだろう!』、と。
亦た、
種種の、
『菩薩』の、
『行』は、
『説かれなかった!』ので、
『仏』は、
今、
『弥勒等の菩薩』の為に、
広く(くわしく)、
諸の、
『菩薩の行』を、
『説こう!』と、
『思い!』、
是の故に、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  当来世(とうらいのよ):未来世に同じ。
  声聞(しょうもん):仏の教を直に聞く者の意。即ち小乗を奉ずる仏教信者。『大智度論巻7上注:声聞』参照。
  三蔵(さんぞう):小乗法宝を経蔵、律蔵、論蔵の三蔵に分類せしもの。梵語triiNi piTakaaniの訳。巴梨語tiiNi piTakaani、三種の摂蔵の意。(一)仏教の聖典を三種に類摂せしもの。又三法蔵とも名づく。一に素呾䌫蔵suutraanta-piTaka(巴梨語suttanta-piTaka)、二に毘奈耶蔵vinaya-p.(巴同じ)、三に阿毘達磨蔵abhidharma-p.(巴abhidhamma-p.)なり。又修多羅蔵毘尼蔵阿毘曇蔵に作り、訳して経蔵律蔵論蔵、或いは契経蔵調伏蔵対法蔵と云い、又阿毘達磨蔵を摩得勒伽maatRkaa、或いは鄔波題鑠upadeza(巴梨語upadesa)と名づく。「増一阿含経巻2」に、「契経と律と法とを三蔵となす」と云い、「十誦律巻60」に、「我等今応に一切の修妒路、一切の毘尼、一切の阿毘曇を集むべし」と云い、「大智度論巻100」に、「摩訶迦葉は諸の比丘を将いて、耆闍崛山の中に在りて三蔵を集む」と云い、「分別功徳論巻1」に、「首陀会天は密かに阿難に告げて曰わく、正に当に三分と作すべきのみと。即ち天の所告の如く判じて三分と作す、一分は契経、二分は毘尼、三分は阿毘曇なり」と云える是れなり。蓋し此の三蔵は能詮の教門にして、即ち戒定慧の三学を詮す。故に「大毘婆沙論巻1」に、「若し増上心論道に依らば是れ素怛䌫なり、若し増上戒論道に依らば是れ毘捺耶なり、若し増上慧論道に依らば是れ阿毘達磨なり。(中略)有るが是の説を作す、素怛䌫の中、増上心論道に依るは是れ素怛䌫なり。増上戒論道に依るは即ち毘捺耶なり、増上慧論道に依るは即ち阿毘達磨なり。毘捺耶の中、増上戒論道に依るは是れ毘捺耶なり。増上心論道に依るは即ち素怛䌫なり、増上慧論道に依るは即ち阿毘達磨なり。阿毘達磨の中、増上慧論道に依るは是れ阿毘達磨なり、増上心論道に依るは即ち素怛䌫なり、増上戒論道に依るは即ち毘捺耶なり」と云えり。此の中、前説は心即ち定を素怛䌫、戒を毘奈耶、慧を阿毘達磨となせるものにして、即ち増勝に約して三蔵は各一学を詮すとなし、後説は剋性門の意に依り、三蔵各三学を詮すとなせるものなり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻11」には、「三種の学を開示せんと欲するが為の故に素怛䌫蔵を建立す。所以は何ぞ、要ず此の蔵に依りて所化の有情は三学を解了す、此の蔵の中に広く三種の所修学を開するに由るが故なり。増上戒学、増上心学を成立せんと欲するが為の故に毘奈耶蔵を建立す。要ず此の蔵に依りて二の増上学方に成立することを得。所以は何ぞ、広く別解脱律儀の学道を釈する聖教を所依止と為して、方に能く浄尸羅を修治するが故なり。浄尸羅は無悔等を生ずるに依りて、漸次に修学して心に定を得るが故なり。増上慧学を成立せんと欲するが為の故に阿毘達磨蔵を建立す。要ず此の蔵に依りて増上慧学方に成立することを得。所以は何ぞ、此の蔵中に能く広く諸法を簡択する巧方便を開示するが故なり」と云えり。是れ素怛䌫は戒定慧の三を詮し、毘奈耶は戒定の二を詮し、阿毘達磨は唯慧を詮すとなすの説なり。「大乗荘厳経論巻4」に出す所亦た之に同じ。「大乗起信論義記巻上」に依るに、若し剋性門に依らば三蔵各一学を詮す、今の「雑集論」の所説の如きは即ち兼正門に依る。経は寛きを以っての故に三を具し、律は次なれば二を具し、論は狭きが故に唯だ一なり。又是れ本末門の意なり。即ち経は是れ本、余の二は次第に末なりと云えり。以って其の説の趣旨を見るべし。又「大毘婆沙論巻1」に依るに、三蔵は其の所顕等流等亦た各異あることを説き、所謂素怛䌫は次第の所顕、毘捺耶は縁起の所顕、阿毘達磨は性相の所顕なり。又素怛䌫は是れ力の等流、毘捺耶は是れ大悲の等流、阿毘達磨は是れ無畏の等流なり。又種種雑説するは是れ素怛䌫、諸の学処を説くは是れ毘捺耶、諸法の自相共相を分別するは是れ阿毘達磨なりと云い、更に広く多種の差別を説けり。又「大乗荘厳経論巻4」には、九因あるが故に三蔵の別を立つとす。彼の文に「三を成ずるに九因あり、修多羅を立つるは疑惑を対治せんが為なり。若し人あり、義に於いて処処に疑を起こさば、彼の人をして決定を得しめんが為の故なり。毘尼を立つるは受用の二辺を対治せんが為なり。楽行の辺を離れんが為に有過の受用を遮し、苦行の辺を離れんが為に無過の受用を聴す。阿毘曇を立つるは自心の見取を対治せんが為なり、不倒の法相は此れ能く示すが故なり。復た次ぎに修多羅を立つるは三学を説かんが為なり、毘尼を立つるは戒学心学を成ぜんが為なり、持戒に由るが故に不悔なり、不悔に由るが故に随次に定を得るなり。阿毘曇を立つるは慧学を成ぜんが為なり、不顛倒の義は此れ能く択ぶが故なり。復た次ぎに修多羅を立つるは正しく法及び義を説かんが為なり、毘尼を立つるは謂わく法及び義を成就し、勤方便に由りて煩悩滅するが故なり。阿毘曇を立つるは法及び義に通達せんが為なり、種種の簡択に由りて此れを方便と為すが故なり。此の九因に由るが故に三蔵を立つ」と云える是れなり。「唐訳摂大乗論釈巻1」に出す所亦た略ぼ之に同じ。又此の三蔵は、元と小乗声聞法の中の分類なりしが如きも、後大乗菩薩法の中にも亦た其の別ありとなすに至れり。「法華経巻5安楽行品」に、「貪著小乗三蔵学者」と云い、「大智度論巻100」に、「仏口の所説は、文字語言を以って分って二種と為す、三蔵は是れ声聞法、摩訶衍は是れ大乗法なり」と云えるは、共に三蔵を以って小乗声聞法の中の分類となすの説なり。然るに「大乗荘厳経論巻4」、「唐訳世親摂大乗論釈巻1」等には、此の三蔵は下上乗の差別に由るが故に、復た説いて声聞蔵及び菩薩蔵の二となすと云い、「大乗法苑義林章巻2本」に、上下乗を分たば以って六蔵を成ずと云い、又「大乗起信論義記巻上」に、彼の声聞鈍根下乗の法執分別に依るが為に、三蔵を施設して声聞の理行果等を詮示するを声聞蔵と名づけ、諸の菩薩利根上乗の三無性二無我智に依るが為に、三蔵を施設して菩薩の理行位果を詮示するを菩薩蔵と名づくと云えり。此等は大乗菩薩蔵にも亦た三蔵ありとなすの説なり。但し「大智度論巻100」に仏在世の時には三蔵の名あることなく、但だ修多羅を持する比丘、毘尼を持する比丘、摩多羅伽を持する比丘あるのみと云うに依れば、三蔵の名は仏滅後に於いて起りたるものなるを知るべし。蔵の字義に関しては、「大乗荘厳経論巻4」、「唐訳摂大乗論巻1」等に摂の義とし、即ち一切所応知の義を摂するが故に蔵と名づくと云うも、覚音の説に依れば、蔵はpariyatti即ち諳記されたるもの、又はbhaajana即ち器の義なりと云えり。諳記されたるものとは、三蔵は元と筆録せられたるものに非ず、即ち諳誦の法を以って師資口伝したることを意味し、又器とは所応知の義を容受するの意に取れるものなり。「文殊師利普超三昧経巻中」に、「菩薩蔵とは無量の器と名づく。(中略)無限の施聞戒定慧度知見の器たり。故を以って名づけて菩薩筺蔵と曰う」と云えるは、即ち亦た器の義に約して蔵を解したるなり。又「雑阿含経巻35」、「増一阿含経巻1」、「四分律巻58」、「毘尼母経巻3」、「善見律毘婆沙巻1」、「迦葉結経」、「阿育王伝巻4」、「大智度論巻2」、「瑜伽師地論巻25、81、85」、「顕揚聖教論巻6」、「大乗阿毘達磨集論巻6」、「長阿含経序」、「出三蔵記集巻1」、「大乗義章巻1」、「維摩経義記巻1」、「金剛般若波羅蜜経略疏巻上」、「盂蘭盆経疏巻上」、「大唐西域記巻9」、「倶舎論光記巻1」等に出づ。(二)三乗の人に約して教法を三種に類摂せるもの。一に声聞蔵、二に縁覚蔵、三に菩薩蔵なり。「文殊師利普超三昧経巻中三蔵品」に、「菩薩に斯の三の筺要蔵あり、何をか三と謂う、一に曰わく声聞、二に曰わく縁覚、三に曰わく菩薩蔵なり。声聞蔵とは他の音響を承けて而も解脱を得。縁覚蔵とは縁起十二の所因を暁了し、報応因起の所尽を分別す。菩薩蔵とは無量諸法の正義を綜理し、自ら覚を分別す」と云い、「入大乗論巻上」に、「此の大乗の中に亦た三乗を説くを即ち三蔵と名づく。菩薩蔵経の中に説くが如き、仏阿闍世王に告ぐ、族姓子、蔵に三種あり、何等をか三となす、謂わく声聞蔵、辟支仏蔵、菩薩蔵なり」と云える是れなり。是れ即ち声聞の理行果等を詮示するを声聞蔵と名づけ、縁覚の理行果を詮示するを縁覚蔵、又は辟支仏蔵と名づけ、菩薩の理行果等を詮示するを菩薩蔵と名づけたるなり。又「阿闍世王経巻下」、「大乗義章巻1」、「大乗法苑義林章巻2本」、「大乗起信論義記巻上」、「縁覚経大疏巻2上」等に出づ。<(望)
  参考:『中阿含巻13説本経』:『佛復告曰。彌勒。汝於未來久遠人壽八萬歲時。當得作佛。名彌勒如來.無所著.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。猶如我今如來.無所著.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。汝於此世。天及魔.梵.沙門.梵志。從人至天。自知自覺。自作證成就遊。猶如我今於此世。天及魔.梵.沙門.梵志。從人至天。自知自覺。自作證成就遊。汝當說法。初妙.中妙.竟亦妙。有義有文。具足清淨。顯現梵行。猶如我今說法。初妙.中妙.竟亦妙。有義有文。具足清淨。顯現梵行。汝當廣演流布梵行。大會無量。從人至天。善發顯現。猶如我今廣演流布梵行。大會無量。從人至天。善發顯現。汝當有無量百千比丘眾。猶如我今無量百千比丘眾』
復次有菩薩修念佛三昧。佛為彼等欲令於此三昧。得增益故。說般若波羅蜜經。如般若波羅蜜初品中說。佛現神足放金色光明。遍照十方恒河沙等世界。示現大身清淨光明種種妙色滿虛空中。佛在眾中端正殊妙無能及者。譬如須彌山王處於大海。諸菩薩見佛神變。於念佛三昧倍復增益。以是事故。說摩訶般若波羅蜜經 復(ま)た次ぎに、有る菩薩は念仏三昧を修むれば、仏は彼等の為に、此(こ)の三昧に於(お)いて、増益を得しめんと欲するが故に、般若波羅蜜を説きたまえり。般若波羅蜜初品中に説くが如し。仏は、神足を現わして、金色の光明を放ち、遍く十方の恒河沙等の世界を照らして、大身を示現したまえるに、清浄の光明、種種の妙色、虚空中に満てり。仏は、衆中に在りて、端正殊妙なること、能く及ぶ者無し。譬えば須弥山王の大海に於いて処するが如し。諸の菩薩は、仏の神変を見て、念仏三昧に於いて、倍して復た増益す。是を以っての故に、摩訶般若波羅蜜を説きたまえり。
復()た次に、    ――菩薩の念仏三昧を増益する――
有る、
『菩薩』は、
『念仏三昧』を、
『修める!』。
『仏』は、
彼等の為に、
此の、
『三昧』を、
『増益させよう!』と、
『思われた!』が故に、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
例えば、
『般若波羅蜜経初品』中に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『神足(神通力)』を、
『現して!』、
『金色の光明』を、
『放ち!』、
遍く、
『十方』の、
『恒河の沙(すな)』に、
『等しい!』ほどの、
『世界』を、
『照らして!』、
『大身』を、
『示現される!』と、
『清浄』な、
『光明』と、
『種種の名色』とが、
『虚空』中を、
『満たした!』。
『仏』は、
『衆()』中に、
『居られる!』時、
『端正であり!』、
『殊妙であり!』、
『衆』中に、
『及ぶことのできる!』者が、
『無い!』のは、
譬えば、
『須弥山』が、
『大海』中に、
『聳え立つ!』のと、
『同じである!』。
諸の、
『菩薩』は、
『仏』の、
『神変(神通の変化)』を、
『見て!』の、
『念仏三昧』が、
『前に倍して!』、
『増益した!』、と。
是の、
『事』の故に、
『仏』は、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説かれたのである!』。
  増益(ぞうやく):ふやしてくわえる。増加。
  神足(じんそく):五神通の一。身を以って不思議を現わす。『大智度論巻16下注:五通』参照。
  十方恒河沙等世界(じっぽうのごうがしゃにひとしきせかい):十方は東西南北、東南、南西、西北、北東、及び上下を指し、十方のガンジズ河の底の砂粒の数に等しい世界の意。
  大身(だいしん):仏の身量は無限であり、宇宙をも凌ぐことを云う。
  示現(じげん):示して見せる。
  妙色(みょうしき):すばらしい肉体。
  端正殊妙(たんじょうしゅみょう):正しくととのい特別すばらしい。
  念仏三昧(ねんぶつさんまい):「一心に仏を念じる」という三昧/定の名。『大智度論巻1上注:念仏、大智度論巻17下注:定、同注:三摩鉢底、巻20上注:三昧』参照。
  念仏(ねんぶつ):梵語buddhaanusmRtiの訳。巴梨語buddhaanussati、仏を憶念するの義。転じて又仏の相好等を念観し、或いは仏の名号を唱うるの意に用いらる。「雑阿含経巻33」に六念の中の念仏を説き、「聖弟子は如来の事を念ずべし、如来は応等正覚明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊なりと。聖弟子是の如く念ずる時、貪欲纏を起こさず、瞋恚と愚癡心を起こさず。其の心正直にして如来の義を得、如来の正法を得、如来の正法に於いて、如来の所に於いて随喜の心を得、随喜の心已りて歓悦し、歓悦已りて身猗息し、身猗息し已りて楽を覚受し、楽を覚受し已りて其の心定まり、心定まり已らば、彼の聖弟子は兇嶮の衆生の中に於いて諸の罣閡なく、法流水に入りて乃ち涅槃に至らん」と云えり。是れ仏は十号具足の応等正覚者なりと念ずる時、貪瞋癡起らず、其の心正直にして乃至定を得、無漏の法水に入りて遂に涅槃に至るべきことを説けるものなり。又「増一阿含経巻2広演品」に十念の中の念仏を明かし、「若し比丘あり、正身正意にして結跏趺坐し、繋念前に在りて他想あることなく、専精に仏を念じ、如来の形を観じて未だ目を離さざれ。已に目を離れずんば便ち如来の功徳を念ぜよ。如来の体は金剛の所成にして、十力具足し四無所畏あり、衆に在りて勇健なり。如来の顔貌は端正無双にして、之を視るも厭くことなし。戒徳成就し、猶お金剛の如くにして毀るべからず、清浄にして瑕なく亦た琉璃の如し。如来の三昧は未だ始めより減あらず、已息永寂して他念なく、憍慢強梁の諸情憺怕にして、欲意恚想愚惑の心、猶豫網結皆尽く除尽す。如来の慧身は、智に崖底なく罣礙する所なし。如来の身は解脱成就し、諸趣已に尽きて、復た生分の我れ当に更に生死に堕すべしと言うものなし。如来の身は知見城を度り、他人の根の応度不度、此生死彼周旋往来生死の際を知り、解脱ある者解脱なき者、皆具に之を知ると。是れを念仏を修行せば便ち名誉あり、大果報を成じて諸善普く具し、甘露味を得て無為処に至り、便ち神通を成じて諸の乱想を除き、沙門果を獲て自ら涅槃に致ると謂う」と云えり。是れ即ち如来の相好を観じ、並びに其の十力四無所畏、及び戒定慧解脱解脱知見の五分法身の功徳を念ずるを念仏と名づけ、之を修行することによりて遂に四沙門果を得、自ら涅槃に到るべしとなすの意なり。又「長阿含巻5闍尼沙経」には、優婆塞の人が念仏して天上に生じたることを説き、「我れ本人王たりし時、如来の法の中に於いて優婆塞と為り、一心に仏を念じて命終を取る。故に生じて毘沙門天王の太子と為ることを得たり」と云い、又「増一阿含経巻32力品」に、「衆生は身口意に悪を行ずるも、彼れ若し命終に如来の功徳を憶せば、三悪趣を離れて天上に生ずることを得ん。正使い極悪の人も天上に生ずることを得ん」と云い、「那先比丘経」に、「王又那先に問う、卿曹沙門言わく、人は世間に在りて悪を作りて百歳に至るも、死せんと欲する時に臨みて仏を念ぜば、死後に皆天上に生ずと。我れ是の語を信ぜず。(中略)那先言わく、船中の百枚の大石は船に因るが故に没するを得ず、人に本悪ありと雖も一時念仏すれば、是れを用いて泥犁の中に入らず、便ち天上に生ず」と云えり。此等は念仏の功によりて生天を得となすの説なり。又「般舟三昧経」には念仏三昧の法を説き、一心に他方現在の仏を念じ、仏に三十二相及び巨億の光明あり、衆の中に在りて説法しつつありと念ぜば、定中に於いて彼の仏を見、亦た其の国に往生することを得べしとなせり。「般舟三昧経行品」に、「何の法を以って此の国に生ずることを得るや。阿弥陀仏報えて言わく、来生せんと欲せば当に我が名を念ずべし、休息あることなくんば則ち来生することを得んと。仏言わく、専念の故に往生することを得、常に仏身に三十二相八十種好あり、巨億の光明徹照し、端正無比にして菩薩の中に在りて説法するを見ん。(中略)仏を念ずるを用いての故に是の三昧を得」と云える即ち其の説なり。又「大阿弥陀経巻下」に、「至誠に願じて阿弥陀仏国に往生せんと欲し、常に念じて至心に断絶せずんば、其の人便ち今世に於いて道を求むる時、即ち自然に其の臥止夢中に於いて阿弥陀仏及び諸の菩薩阿羅漢を見、其の人寿命終らんと欲する時、(中略)則ち阿弥陀仏国に往生せん」と云い、「旧華厳経巻7賢首品」に、「念仏三昧は必ず見仏し、命終の後仏前に生ず。彼の臨終を見ては念仏を勧め、又尊像を示して瞻敬せしめよ」と云い、「同巻20金剛幢菩薩十廻向品」に、「正しく三世一切の諸仏を念ぜば、念仏三昧悉く具足することを得ん」と云い、又「文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経巻下」に、「一行三昧に入らんと欲せば、応に空閑に処して諸の乱意を捨て、相貌を取らず、心を一仏に繋けて専ら名字を称すべし。仏の方所に随って端身正向し、能く一仏に於いて念念相続せば、即ち是の念中に能く過去未来現在の諸仏を見ん」と云えるは、皆即ち般舟三昧見仏の法を説けるものなり。又「旧華厳経巻46入法界品」には、功徳雲比丘が善財童子の所問に対し、菩薩の要行として、円満普照念仏三昧門、一切衆生遠離顛倒念仏三昧門、一切力究竟念仏三昧門、諸法中心無顛倒念仏三昧門、分別十方一切如来念仏三昧門、不可見不可入念仏三昧門、諸劫不顛倒念仏三昧門、随時念仏三昧門、厳浄仏刹念仏三昧門、三世不顛倒念仏三昧門、無壊境界念仏三昧門、寂静念仏三昧門、離月離時念仏三昧門、広大念仏三昧門、微細念仏三昧門、莊嚴念仏三昧門、清浄事念仏三昧門、浄心念仏三昧門、浄業念仏三昧門、自在念仏三昧門、虚空等念仏三昧門の二十一種の念仏三昧を示したることを記せり。蓋し念仏三昧には仏の名号を念じ、仏の色身相好を念じ、仏の法身を念じ、又諸法実相を念ずる等の別あり。「大智度論巻21」に念仏を修する次第を説き、初に仏の十号を念じ、次に仏の三十二相八十随形好及び神通功徳力を念じ、次に仏の戒定慧解脱解脱知見の五分法身を念じ、次に復た仏の一切智一切智見大慈大悲十力四無所畏四無礙智十八不共法等を念ずべしと云い、又「十住毘婆沙論巻12助念仏三昧品」には、「新発意の菩薩は応に三十二相を以って仏を念ずべし、先に説くが如し。転た深入して中勢力を得ば、応に法身を以って仏を念ずべし。心転た深入して上勢力を得ば、応に実相を以って仏を念じて貪著せざるべし。(中略)是の人は未だ天眼を得ざるが故に、他方世界の仏を念ずるに則ち諸山の障礙あり、是の故に新発意の菩薩は応に十号の妙相を以って仏を念ずべし。(中略)十号の妙相とは、所謂如来応供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊なり。(中略)是の人、名号を縁ずるを以って禅法を増長し、則ち能く相を縁ず。是の人、爾の時即ち禅法に於いて相を得、所謂身に殊異の快楽を得ん。当に知るべし、般舟三昧を成ずるを得たることを。三昧成ずるが故に諸仏を見ることを得」と云い、又「思惟略要法」にも、初に生身観法、次に法身観法を挙げ、後更に諸法実相観法を明かし、「諸法実相観とは、当に知るべし諸法は因縁より生ず、因縁生の故に自在を得ず、自在ならざるが故に畢竟空相なり。但だ仮名のみありて実なるものあることなし。若し法実に有らば無と説くべからず、先に有りて今無き、是れを名づけて断と為す。常ならず断ならず、亦た有無ならず、心識処滅し言説亦た尽く。是れを甚深清浄観と名づくるなり」と云えり。以って其の念の種別及び行修の次第を知るべし。又「摂大乗論巻下」には、法身を縁じて念仏を修習するに七種の相あることを明かし、世親の往生論には奢摩他、毘婆舎那の法によありて、阿弥陀仏及び其の浄土を観察すべきことを説き、智顗の著と伝うる「五方便念仏門」には、念仏に称名往生念仏三昧門、観相滅罪念仏三昧門、諸境唯心念仏三昧門、心境俱離念仏三昧門、性起円通念仏三昧門の五種の別ありとし、浄土往生を求むるには称名往生門、懼障を除かんとするには観相滅罪門、迷心執境を離れんとするには諸境唯心門、実有の計を除かんとするには心境俱離門、深寂滅を希う者は性起円通門に依りて各念仏を修すべしと云い、澄観の「華厳経疏巻56」にも亦た、縁境念仏門、摂境唯心念仏門、心境俱泯念仏門、心境無礙念仏門、重重無尽念仏門の五種の別を立て、宗密の「華厳経行願品別行疏鈔巻4」には、称名念、観像念、観想念、実相念の四種の念仏を出し、其の中、「文殊般若経」の説に基づきて相貌を取らず、専ら仏名を称念するを称名念とし、「大宝積経」等の説に基づき、塑画等の像を念観するを観像念とし、「観仏三昧経」、「坐禅三昧経」等に基づき、仏の相好を観ずるを観想念とし、「文殊般若」及び「占察」等の経に基づき、自身及び一切法の真実相を観ずるを実相念となせり。亦た懐感の「釈浄土群疑論巻7」には、有相無相の二種の念仏三昧を明かし、無相の念仏三昧を得んと欲せば法身仏を念じ、有相の念仏三昧を得んと欲せば報化身仏を念ずべしとし、源信の「往生要集巻下末」には、尋常の念相に定散有相無相の四種の別ありとし、坐禅入定して仏を観ずるを定業とし、行住坐臥に散心念仏するを散業とし、或いは相好を念じ、或いは名号を念じ、偏に穢土を厭いて浄土を求むるを有相業とし、仏を称念し浄土を欣求すと雖も、而も身土は畢竟空にして幻の如く夢の如く、復た空なりと雖も而も有なりと観じ、無二に通達して第一義に入るを無相業と名づくと云えり。又飛錫の「念仏三昧宝王論」には三世仏通念の法を説き、現在仏を念じて心を一境に専注し、過去仏を念じて、因果相同じきを知り、未来仏を念じて、一切衆生等同の想を起こすべきことを論じ、伝灯の「大仏頂首楞厳経円通疏巻5」には、念仏に念他仏、念自仏、自他俱念の三種の別あることを明かす等、諸師種種の念仏あるを説けり。又「中阿含巻55持斎経」、「増一阿含経巻14高幢品」、「放光般若経巻16漚和品」、「仏蔵経巻上念仏品」、「菩薩念仏三昧経巻4讃三昧相品」、「同正観品」、「十住毘婆沙論巻5易行品」、「同巻9念仏品」、「分別功徳論巻2」、「解脱道論巻6」等に出づ。<(望)
  参考:『大品般若経巻1』:『爾時世尊自敷師子座結跏趺坐直身繫念在前。入三昧王三昧一切三昧悉入其中。是時世尊。從三昧安詳而起。以天眼觀視世界舉身微笑。從足下千輻相輪中。放六百萬億光明。足十指兩踝兩[跳-兆+尃]兩膝兩髀腰脊腹脅背臍心胸德字。肩臂手十指。項口四十齒。鼻兩孔。兩眼兩耳。白毫相肉髻。各各放六百萬億光明。從是諸光出大光明。遍照三千大千國土。從三千大千國土。遍照東力如恒河沙等諸佛國土。南西北方四維上下亦復如是。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。光明出過東方如恒河沙等諸佛國土。南西北方四維上下亦復如是。爾時世尊舉身毛孔。皆亦微笑而放諸光。遍照三千大千國土。復至十方如恒河沙等諸佛國土。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。爾時世尊以常光明。遍照三千大千國土。亦至東方如恒河沙等諸佛國土。乃至十方亦復如是。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。爾時世尊出廣長舌相。遍覆三千大千國土熙怡微笑。從其舌根放無量千萬億光。是一一光化成千葉金色寶花。是諸花上皆有化佛。結跏趺坐說六波羅蜜。眾生聞者必得阿耨多羅三藐三菩提。復至十方如恒河沙等諸佛國土皆亦如是。』
復次菩薩初生時。放大光明普遍十方。行至七步四顧觀察。作師子吼。而說偈言
 我生胎分盡 是最末後身
 我已得解脫 當復度眾生
作是誓已身漸長大。欲捨親屬出家修無上道。
復た次ぎに、菩薩は、初めて生まるる時、大光明を放ちて十方を普遍し、行くこと七歩に至りて、四顧し観察して、師子吼を作し、而も偈を説いて言(のたま)わく、
我れ生じて胎分尽き、是れ最も末後の身なり、
我れ已に解脱を得て、当(まさ)に復た衆生を度すべし
是の誓を作(な)し已りて、身漸(ようや)く長大するに、親属を捨てて出家し、無上道を修めんと欲す。
復た次ぎに、   ――諸天の勧請を受けて、初の法輪を転じる――
『菩薩』は、
初めて、
『生まれた!』時、
『大光明』を、
『放って!』、
遍く、
『十方』を、
『照らし!』、
『行く(歩く)!』こと、
『七歩』に、
『至り!』、
『四方』を、
『顧(かえり)みて!』、
『観察し!』、
『師子吼して!』、
『偈』を説き、こう言われた、――
わたしは、
『生まれて!』、
『胎の分(割り当て)』が、
『尽きた!』。
是れは、
『最も末後(最後)』の、
『身である!』。
わたしは、
已に、
『解脱』を、
『得た!』、
当然、
『衆生』を、
『度さねばならぬ!』、と。
是のように、
『誓って!』、
『身』が、
『暫く(やがて)!』、
『長大(成長)する!』と、
『親族』を、
『捨てて!』、
『出家し!』、
『無上の道』を、
『修めよう!』と、
『思われた!』。
  初生(しょしょう):生まれたばかりの。
  普遍(ふへん):ひろくあまねくする。
  四顧(しこ):四方をみまわす。
  師子吼(ししく):如来の説法を師子王の一たび咆吼すれば百獣悉く懾伏するに喩える。『大智度論巻24下注:師子吼』参照。
  (げ):四句を以って一章となす韻文。或いは歌。『大智度論巻4上注:偈』参照。
  解脱(げだつ):生死の苦縛を解いて脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  度衆生(しゅじょうをどす):度はわたす。渡に同じ。大乗、即ち大きな乗り物に載せ、苦の河を渡すの意。
  長大(ちょうだい):成長する。
  無上道(むじょうどう):この上ない道。
中夜起觀見諸伎直后妃婇女狀若臭屍。即命車匿令被白馬。夜半踰城行十二由旬。到跋伽婆仙人所住林中。以刀剃髮。以上妙寶衣貿麤布僧伽梨。於泥連禪河側六年苦行。日食一麻或食一米等。而自念言。是處非道。 中夜に起きて、諸伎、直の后妃、婇女の状(さま)を見るに、臭屍の若(ごと)し。即ち車匿に命じて、白馬を被(おお)わしめ、夜半に城を踰(こ)え、行くこと十二由旬にして、跋伽婆仙人の住する所の林中に到り、刀を以って剃髪し、上妙の宝衣を麁布の僧伽梨に貿(か)え、泥連禅河の側(ほとり)に於(お)いて六年苦行し、日に一麻を食し、或いは一米等を食して、自ら念じて言わく、『是の処は、道に非ず』と。
『中夜(真夜中)』に、
『起きて!』、
『観察する!』と、――
諸の、
『伎(俳優)』や、
直(とのい)の、
『后妃』や、
『婇女』の、
『状(さま)』は、
『臭い!』、
『屍(しかばね)』を、
『見るようであった!』。
『即座に!』、
『車匿(御者の名)』に、
『命じて!』、
『白馬』に、
『鞍』を、
『被()かせ!』、
『夜半』に、
『城』を、
『踰()えて!』、
『行く!』こと、
『十二由旬(由旬≒10㎞)』、
『婆伽婆仙人』の、
『住する!』、
『林』中に、
『到る!』と、
『刀』を、
『用いて!』、
『髪』を、
『剃り!』、
『上妙の宝衣』を、
『粗布の法衣』と、
『交換して!』、
『尼連禅河の側(ほとり)』で、
『六年』、
『苦行して!』、
『日ごと!』に、
『一粒の麻』を、
『食い!』、
或は、
『日ごと!』に、
『一粒の米』等を、
『食っていた!』が、
自ら、
念じて(心中に思い)、こう言った、――
是の、
『処(場所)』は、
『道でない!』、と。
  中夜(ちゅうや):初夜、中夜、後夜の真ん中。真夜中頃を指す。
  (ぎ):わざおぎ。歌舞、演劇等に従事する俳優。
  (じき):とのい。宿直。
  后妃(こうひ):きさき。皇后。
  婇女(さいにょ):うねめ。天子の御膳を給仕する官女。
  臭屍(しゅうし):くさいかばね。
  車匿(しゃのく):馭者の名。『大智度論巻33上注:車匿』参照。
  由旬(ゆじゅん):梵語yojana、巴梨名同じ。又兪旬、由延、踰繕那、瑜膳那、踰闍那に作り、合、和合、応、限量、一程、或いは駅と訳す。印度の里程の名。蓋し梵語yojanaは「軛を附する」の義なる語根yujより来たれる名詞にして元と軛を牡牛に附載して一日に旅行しうる里程を指せるものなるが如し。然るに其の計数に関し異説あり。「有部毘奈耶巻21」、「大毘婆沙論巻136」、「倶舎論巻12」、「順正理論巻32」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻17」、「彰所知論巻上器世界品」等には八拘盧舎を以って一由旬となし、「方広大荘厳経巻4現藝品」、「摩登迦経巻下明時分別品」、「摩訶僧祇律巻9」等には四拘盧舎を以って一由旬となせり。又之を支那の里数に配するにも多説あり。即ち「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」には四十里を一由旬とし、「注維摩詰経巻6」には僧肇の説を挙げ、「由旬は天竺の里数の名なり。上由旬は六十里、中由旬は五十里、下由旬は四十里なり」と云えり。是れ旧訳の所謂四十里一由旬の説なり。又「大唐西域記巻2」に、「踰繕那とは古より聖王の一日軍行なり。旧に一踰繕那は四十里なりと伝う。印度の国俗には乃ち三十里、聖教に載する所は惟だ十六里なり。窮微の数は一踰繕那を分ちて八拘盧舎と為す」と云い、「慧苑音義巻下」に、「仏本行集経巻12」の文を引き、「計するに一由旬は合一十七里余二百八十歩あり」と云えり。是れ一由旬は十六里或いは十七里余に当るとなすの説なり。又義浄の「有部百一羯磨巻3」の挟註に、「瑜膳那と言うは既に正翻なし。義は東夏の一駅に当りて三十余里なるべし。旧に由旬と云うは訛略なり。若し西国の俗法に準ぜば四俱盧舎を一瑜膳那と為す。一俱盧舎を計るに八里あるべし、即ち是れ其の三十二里に当れり。若し内教に準ぜば八俱盧舎を一瑜膳那と為す、一俱盧舎に五百弓あり、弓に一歩数あり。其の歩数に準ずるに纔かに一里半余、将に之を八倍するも十二里に当らんとす、此れ乃ち一駅に充たず。親しく当今西方の瑜膳那を験するに一駅あるべし、故に今皆一駅と作して之を翻ず。庶くば遠滞なからん」と云えり。是れ印度の俗法には四俱盧舎を以って一由旬とし、仏典中には八俱盧舎を一由旬となすことを伝うるものにして、上記俱盧舎の両説の由来を知るを得べく、又俗法に准ぜば一由旬は三十二里に当ると云うは、即ち「西域記」の国俗三十里説に略ぼ合致するを見るべし。但し此の中、俗法の四俱盧舎一由旬を数えて三十二里とし、内教は之を倍増して八俱盧舎を一由旬となし、而も里程は半減以下に之を十二里となせるは、俗法と内教とに於いて俱盧舎の量を定むる同じからざるに起因するなり。即ち仏典に於いては摩揭陀国に行われたる五百弓若しくは四百弓一俱盧舎の説を取り、俗法には二千弓一俱盧舎の説を取りしものなるべし。フリートJ.Fleetは印度の一肘hatsaを以って半碼とし、之に基づきて前記「西域記」に掲ぐる由旬の量を換算し、内教に用いる摩揭陀の一由旬十六里を一万六千肘、即ち四.五四哩、国俗の三十里を三万二千肘、即ち九.〇九哩、旧伝の四十里を国俗の一.三分の一即ち一二.一二哩となし、就中、旧伝の説を以って最も原本的のものとし、二頭の牡牛が満載せる車両を牽引しうる距離なりとし、且つ此の一由旬は玄奘の所謂百里に相当すとなせり。然るにヴォストMajor Vostは一肘を以って半碼より少しく長きものとし、内教の由旬を約五.三哩、国俗を一〇.六哩、旧伝を一四.二哩と解せり。又「翻梵語巻10」、「玄応音義巻2、3」、「続高僧伝巻2達摩笈多附伝」、「慧琳音義巻1、27」、「希麟音義巻6」、「翻訳名義集巻8」等に出づ。<(望)
  跋伽婆仙(ばっかばせん):跋伽婆bhaargavaは梵名。巴梨名bhaggava、又婆伽婆、或いは跋伽に作り、瓦師と訳し、一に無不達とも名づく。毘舎離国の一苦行林に住せし仙人にして、釈尊が出家踰城の後、直に其の地に到り、一宿して道を問われしを以って其の名著わる。其の学説は詳ならざるも、「過去現在因果経巻2」に、此の仙人と倶に修行せし諸仙は、凡べて苦行を修して生天を求め、草又は樹皮を被り、花果を食し、或いは自餓の法を行じ、水火に事え、日月を奉じ、或いは一脚を翹(つまだ)て、塵土又は荊棘等に臥せりと云えば、此の仙も亦た苦行外道なりしを察するを得べし。其の他の事蹟伝わらず。又「仏本行経巻2瓶沙王問事品」、「仏本行集経巻20観諸異道品」、「有部毘奈耶破僧事巻3」、「仏所行讃巻2車匿還品」、「大智度論巻1」、「翻梵語巻5」等に出づ。<(望)
  上妙宝衣(じょうみょうのほうえ):すばらしい金銀宝石で装飾された衣。
  麁布(そふ):粗末なぬの。
  僧伽梨(そうぎゃり):三衣の一。法衣。『大智度論巻26上注:僧伽梨、三衣』参照。
  泥連禅河(にれんぜんが):恒河の一支流、釈尊成道の古蹟。『大智度論巻1上注:尼連禅河』参照。
  尼連禅河(にれんぜんが):尼連禅nairaJjanaaは梵名。巴梨名neraJjaraa、又はniraJjaraa、又尼連禅那、尼連然、尼連、尼蓮、或いは泥連に作り、不楽着と訳し、又尼連禅江、尼連江水、尼連水の称あり。恒河gangesの一支流にして、釈尊成道の古蹟なり。「方広大荘厳経巻7苦行品」に、「菩薩は伽耶山を出で已り、次第に巡行して優楼頻螺池側に至り、東面して尼連河を視見するに、其の水清冷湍洄皎潔、涯岸は平正にして林木扶踈に、種種の花果鮮栄にして愛すべし。河辺の村邑は処処豊饒に、棟宇相接し、人民殷盛なり」と記し、又「過去現在因果経巻3、4」に、釈尊出家の後、尼連禅河の側に静坐思惟し、苦行を修すること六年、遂に座より起ち、尼連禅河に入りて洗浴するに、身体羸痩して自ら出づる能わず。時に天神来下して樹枝を案じ、之を攀ぢて水を出で、牧牛女難陀波羅の乳糜の供養を受け、尋いで畢波羅樹(即ち菩提樹)下に至りて成道せられたりと云えるもの是れなり。其の沿岸には幾多の聖蹟あり、「大唐西域記摩揭陀国の條」に玄奘当時の状況を記し、河の西岸伽耶gayaa城の西南五六里にして伽耶山に至り、又南方及び二十里にして菩提樹あり、樹の南に苦行林あり、其の附近に釈尊が河水に沐浴し、乳糜、麨蜜等の供養を受け、又三迦葉を教化し給いし故跡あり、皆窣堵波を建つ。又河の東岸、菩提樹を距つる東北十四五里にして鉢羅笈菩提praag-bodhi山(即ち前正覚山)ありと云えり。「高僧法顕伝」に記する所亦た粗ぼ之に同じ。此の河はベンゴールbengal州ハザリバグhazaribagh地方シメリアshimeriaに源を発し、北流して仏陀伽耶buddha gayaの北方に於いてモーハナーmohanaa河と合しパトナpatnaの東方に至りて恒河に注げり。又「長阿含巻4遊行経」、「中阿含巻23水浄梵志経」、「雑阿含経巻39」、「太子瑞応本起経巻下」、「修行本起経巻下」、「仏五百弟子自説本起経優為迦葉品」、「四分律巻31、32」、「仏所行讃巻3」、「大唐西域記巻6」、「同解説」、「玄応音義巻2」等に出づ。<(望)
  念言(ねんじていう):心中に強く思って言う。
爾時菩薩捨苦行處。到菩提樹下坐金剛處。魔王將十八億萬眾來壞菩薩。菩薩以智慧功德力故。降魔眾已。即得阿耨多羅三藐三菩提。是時三千大千世界主梵天王名式棄。及色界諸天等。釋提桓因。及欲界諸天等。并四天王。皆詣佛所勸請世尊初轉法輪。亦是菩薩念本所願及大慈大悲故。受請說法。諸法甚深者般若波羅蜜是。以是故佛說摩訶般若波羅蜜經 爾(そ)の時、菩薩は、苦行の処を捨てて、菩提樹の下に到り、金剛の処に坐すに、魔王は十八億万の衆を将い来て、菩薩を壊(やぶ)らんとす。菩薩は、智慧の功徳力を以っての故に、魔衆を降し已り、即(すなわ)ち阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。是の時、三千大千世界の主、梵天王の尸棄と名づくるもの、及び色界の諸の天等、釈提桓因、及び欲界の諸の天等、並びに四天王、皆、仏所に詣でて、世尊に初の転法輪を請う。亦た是の菩薩は、本の願う所、及び大慈大悲を念ずるが故に、請を受けて法を説きたまわく、『諸の法の甚深なる者は、般若波羅蜜是れなり。』と。是(ここ)を以っての故に、仏は般若波羅蜜を説きたまえり。
爾()の時、
『菩薩』が、
『苦行の処』を、
『捨てて!』、
『菩提樹の下』に、
『到り!』、
『金剛の座』に、
『坐る!』と、
『魔王』は、
『十八億万』の、
『魔衆』を、
『将(ひき)いて!』、
『菩薩』を、
『壊(やぶ)り!』に、
『来た!』が、
『菩薩』は、
『智慧』という、
『功徳の力』の故に、
『魔衆』を、
『降(くだ)し!』、
即座に、
『阿耨多羅三藐三菩提(仏の境地)』を、
『得た!』。
是の時、
『三千大千世界の主』の、
『尸棄』という、
『梵天の王』や、
『色界』の、
『諸天』の、
『釈提桓因』等や、
『欲界』の、
『諸天』等や、
『四天王』が、
皆、
『仏の所(もと)』に、
『詣(いた)って!』、
『世尊』に、
『初の転法輪(説法)』を、
『勧請した(請うた)!』。
亦た、
是の、
『菩薩』は、
『本願』と、
『大慈大悲』とを、
『念じられた!』が故に、
是の、
『勧請』を、
『受けて!』、
『説法された!』が、
諸の、
『法』中の、
『最も深い!』者が、
『般若波羅蜜なので!』、
是の故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  金剛処(こんごうのところ):金剛は最も堅い物質。心の堅固にして挫折しないさまに喩える。
  魔王(まおう):欲界六天中第六他化自在天の主。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
  阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):梵語anuttara-samyaksaMbodhi、無上等正覚と訳す。清浄の仏世界を得た欠くる所のなき完き満足の境地。『大智度論巻45上注:阿耨多羅三藐三菩提』参照。
  三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):十億の世界の意。四禅天に依りて覆わるる世界の総称。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
  梵天王(ぼんてんのう):色界初禅天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
  尸棄(しき):梵名zikhin、又式、式棄、式詰等に作り、頂髻、或いは火と訳す。大梵天王の名。
  色界(しきかい):梵語ruupa-dhaatuの訳。巴梨語同じ。色所属の界の意。三界の一。又色天、或いは色行天とも名づく。色は変礙の義、或いは示現の義。界は能く自相を持するの義、或いは種族の義なり。即ち浄妙の色質を有する器世界及び有情の総称にして、欲界の上方に位する天人の住処を云う。凡べて定地なるも、其の所入の定に浅深次第あるに由りて自ら四地の別あり。所謂四禅天なり。又四静慮処、或いは生静慮とも名づく。「倶舎論巻8」に、「此の欲界の上に処に十七あり。謂わく三の静慮処に各三あり、第四静慮処にのみ独り八あり。器及び有情を総じて色界と名づく」と云える是れなり。此の中、三の静慮処に各三ありとは、即ち初禅二禅三禅の三地に各三天あるを云い、第四静慮処にのみ独り八ありとは、第四禅に即ち八天あるを云うなり。初禅の三天とは一に梵衆brahma-paariSadya、二に梵輔brahma-purohita、三に大梵mahaa-brahmanなり。二禅の三天とは、一に少光pariittaabhaa、二に無量光apramaaNaabhaa、三に極光浄aabhaas-varaなり。三禅の三天とは、一に少浄pariitta-zubha、二に無量浄apramaaNa-zubha、三に遍浄zubha-kRtsnaなり。四禅の八天とは、一に無雲anabhraka、二に福生puNya-prasava、三に広果bRhat-phala、四に無煩avRha、五に無熱atapa、六に善現sudRza、七に善見sudarzana、八に色究竟akaniSThaなり。「順正理論巻21」に、其の名義を釈し、「広善の所生なるが故に名づけて梵と為し、此の梵即ち大なるが故に大梵と名づく。彼れ中間定を獲得するに由るが故に、最初に生ずるが故に最後に歿するが故に、威徳等勝るるが故に名づけて大と為す。大梵の所有所化所領なるが故に梵衆と名づけ、大梵の前に於いて行列侍衛するが故に梵輔と名づく。自地の天の内に光明最小なるが故に少光と名づけ、光明転た勝れて量測り難きが故に無量光と名づけ、浄光遍く自地の処を照らすが故に極光浄と名づく。意地の受楽を説いて名づけて浄と為す、自地の中に於いて此の浄最も劣なるが故に少浄と名づけ、此の浄転た増して量測り難きが故に無量浄と名づけ、此の浄周普するが故に遍浄と名づく。意は更に楽の能く此れに過ぐるもの無きを顕す。以下の空中天の所居の地は、雲の密合するが如くなるが故に説いて雲と名づく。此の上の諸天は更に雲地なし、無雲の首に在るが故に無雲と説く。更に異生の勝福ありて方に往生すべき所なるが故に説いて福生と名づく。方所に居在する異生の果の中、是れ最も殊勝なるが故に広果と名づく。離欲の聖者は聖道の水を以って煩悩の垢を濯うが故に名づけて浄と為し、浄身の所止なるが故に浄居と名づく。或いは此に住して生死の辺を窮むることは、債を還し尽くせし如くなるが故に名づけて浄と為し、浄者の所住なるが故に浄居と名づく。或いは此の天の中には異生の雑わることなく、純聖の所止なるが故に浄居と名づく。繁は謂わく繁雑、或いは謂わく繁広なり。繁雑なき中に此れ最も初なるが故に、繁広天の中に最も劣なるが故に説いて無繁(即ち無煩)と名づく。或いは無求と名づくるは、無色界に趣入することを求めざるが故なり。已に善く雑修静慮の上中品の障を伏除し、意楽調柔して諸の熱悩を離るるが故に無熱と名づく。或いは全の下生の煩悩を熱と名づく、此れ初めて離遠すれば無熱の名を得。或いは復た熱とは熾盛を義と為す、謂わく上品の雑修静慮と及び果とは此れ猶お未だ証せざるが故に無熱と名づく。已に上品の雑修静慮を得ば果徳彰れ易きが故に善現と名づけ、雑修定の障は余品至微にして、見極めて清徹するが故に善見と名づく。更に処として有色の中に於いて能く此れに過ぐるものあること無きを色究竟と名づく。或いは此れ已に衆苦所依の身の最後辺に到るを色究竟と名づく。有が言わく、色とは是れ積聚の色なり。彼の後辺に至るを色究竟と名づくと。此の十七処の諸の器世間並びに諸の有情を総じて色界と名づく」と云えり。以って其の名称の意義を知るべし。然るに色界諸天の廃立に関しては諸経論に頗る異説あり。「長阿含経巻20」には、「色界の衆生に二十二種あり。一には梵身天、二には梵輔天、三には梵衆天、四には大梵天、五には光天、六には少光天、七には無量光天、八には光音天、九には浄天、十には少浄天、十一には無量浄天、十二には遍浄天、十三には厳飾天、十四には小厳飾天、十五には無量厳飾天、十六には厳飾果実天、十七には無想天、十八には無造天、十九には無熱天、二十には善見天、二十一には大善見天、二十二には阿迦尼吒天なり」と云い、「起世経巻8」、「起世因本経巻8」、「大般若経巻403」等に出す所之に同じ。「旧華厳経巻13」、「新華厳経巻21」、「大般若経巻402」、「仏本行集経巻9」等には此の中の無想天を除きて二十一天とす。「華厳経探玄記巻7」に華厳の二十一天を釈し、「然るに余処には四禅の中に於いて各三天ありと説き、此に各四というは、皆一は是れ総にして余の三は是れ別なるが故なり。謂わく初禅中の梵眷属天、二禅中の光天、三禅中の浄天、四禅の密身天は、此れ各是れ総なり。故に同じからざるなり」と云えり。是れ初禅の梵身天、二禅の光天、三禅の浄天、四禅の厳飾天を以って各総名となし、総別兼挙するが故に二十一天ありとなすも、実は即ち唯十七天に過ぎずとなすの意なり。「大毘婆沙論巻136」、「立世阿毘曇論巻6」、「雑阿毘曇心論巻2」並びに「大乗阿毘達磨蔵集論巻6」等には、上記の二十二天中、梵身、光天、浄天及び厳飾の四天を除きて十八天を立て、「仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経巻4」、「金光明最勝王経巻3」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「順正理論巻21」、「有部尼陀那目得迦巻1」、「彰所知論巻上」等には、更に無想天を除きて十七天となし、「阿毘曇心論経巻5」には大梵天を除き、無想天を加えて亦た十七天とし、「中阿含巻9地動経」には更に無想天を除きて十六天となせり。「大毘婆沙論巻98」に依るに、初禅に梵衆、梵輔、大梵の三天ありとなすは西方諸師の所立にして、迦溼弥羅国の諸論師は大梵を梵輔に摂し、初禅に唯二処ありとなすと云えり。是れ今の「中阿含経」の説に合するが如し。「阿毘達磨蔵顕宗論巻12」に十六天説を挙ぐる中、「何に縁りて大梵及び無想天なきや。寿量等は殊なれども別に建立せざるは別に大梵の一を立つべからざるが故なり。要ず同分に依りて天処の名を立つ。一の梵王を同分と名づく可きに非ず。寿量等は余と同じからずと雖も、然も一身にして同分を成ぜざるに由るが故に、梵輔と合して一天を立つ。高下は異なりと雖も然も地に別なし。無想の有情は、彼の広果と寿身量等差別なきが故に、亦た異因なきが故に、立てて第四処と為すべからず」と云えり。是れ有部の正義を敍説せるものというべし。又「順正理論巻21」に、「上座は色界に十八天を立つ。故に是の言を作さく、諸の静慮を修するに各三品あり、謂わく上中下なり。三品の因に随って三の天処に生ず。第一静慮の大梵天王は、自類相望して同分あることを得。梵輔の処と勝劣殊あること聚落の辺の阿練若処の如し。相隣近すと雖も而も処同じからず。無想の有情は、第四定に於いて第四処と為す。広果天と差別あるが故なり」と云えり。是れ十八天説の所由を挙げたるなり。「倶舎論頌疏巻8」に依るに、経部宗は色界の中に十七天を立て、薩婆多宗は唯十六天を立て、上座部は十八天を立つと云えり。去来之に依りて「十六七八薩経上」と称すと雖も是れ謬説なるを免れず。十六天説は迦溼弥羅国諸論師の所立なることは、「大毘婆沙論巻98」、「倶舎論巻8」等に記する所なるも、十七天説は所謂西方師の所立にして経部宗の説に非ず。又十八天説は「順正理論」に上座の説となすも、其の所謂上座は二十部中の上座部に非ずして、即ち経部の本師室利羅多を指すなり。「倶舎論光記巻9」に、「余復釈言より染濁作意に至るは、此れは是れ経部の中の室利羅多の解なり。此には執勝と名づく。正理に呼んで上座と為す」と云えるは即ち其の証なり。されば円暉の説は正しからずというべし。又「順正理論巻21」に、一師は初静慮の中に総じて二処を立てて大梵を開かず。第四静慮に別に無想天を立て、合して十七天ありと説くと云えり。是れ「阿毘曇心論経」の説に当れり等の異説ありて、更に枚挙すべからず。又「兜沙経」、「新華厳経巻22」、「仁王般若波羅蜜経巻上」、「大毘婆沙論巻137、145」、「大智度論巻16」、「成実論巻12」、「菩薩地持経巻2」、「倶舎論巻5、28」、「順正理論巻22、31」、「大乗義章巻8末」、「仁王般若経疏巻1」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻2」、「華厳経孔目章巻2」、「瑜伽論略纂巻2」、「瑜伽論記巻2下」、「城喩式論述記巻3本、7本」、「同了義灯巻6本」、「法華経玄賛巻2」、「同摂釈巻4」、「倶舎論光記巻8、11」、「同宝疏巻8、11」、「同頌疏巻11」、「法苑珠林巻2」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):須弥山頂忉利天の主。因陀羅、天帝釈、帝釈天等とも称す。『大智度論巻21下注:因陀羅』参照。
  欲界(よくかい):梵語kaama-dhaatuの訳。巴梨語同じ。欲所属の界の意。又欲を任持する界の意。三界の一。即ち食欲婬欲等を有する有情の居住する世界を云う。「大毘婆沙論巻193」に、「欲界に二十処あり。(中略)無間地獄より乃至他化自在天は、皆欲愛に差別せらるるに由るが故に欲界を建立す」と云い、「雑阿毘曇心論巻8修多羅品」に、「八大地獄、畜生、餓鬼、四天下、六欲天、此の二十を欲界と説く。此の諸の衆生は欲を以って身と衆具と及び第二を受く。是の故に欲界と説く」と云える是れなり。是れ欲界は等活saMjiiva、黒縄kaala-suutra、衆合saMghaata、号叫raurava、大叫mahaa-raurava、炎熱tapana、大熱pratapana、無間ariiciの八大地獄、傍生tiryaJc(即ち畜生)、鬼趣preta(即ち餓鬼)、及び南瞻部jambu-dviipa、東勝身puurva-videha、西牛貨apara-godaaniiya,北俱盧uttara-kuruの四大洲、四大王衆caaturmahaaraajakaayika、三十三trayastriMza(即ち忉利天)、夜摩yaama、覩史多tuSita、楽変化nirmaaNa-rati、他化自在paranirmita-vaza-vartinの六欲天、即ち総じて二十処より成ることを説けるものなり。但し「長阿含経巻20忉利天品」には、欲界に地獄、畜生、餓鬼、人、阿須倫、四天王、忉利天、焔摩天、兜率天、化自在天、他化自在天及び魔天の十二種の別ありとし、「瑜伽師地論巻4」には八大地獄、八寒地獄、四大洲、八中洲、六欲天、餓鬼及び非天の三十六処ありとなせり。今二十処と言うは此の中の阿須倫(非天)を鬼或いは天に摂し、又魔天を他化自在天に、八寒地獄を八大地獄に、八中洲を四大洲に摂するに由るなり。其の位置等に関しては、「倶舎論巻11分別世間品」に南瞻部州等の四大洲は妙高山(即ち須弥山)の西方に在り、南瞻部州は其の南辺は三由旬半(立世阿毘曇論巻2に三由旬)、他の三辺は各二千由旬(長阿含経巻18に縦広七千由旬)、東勝身洲は東辺は三百五十由旬、他の三辺は各二千由旬(立世阿毘曇論に広さ二千三百三十三由旬三分の一、周囲七千由旬、長阿含に縦広九千由旬)、西牛貨洲は径二千五百由旬、周囲七千半由旬(立世阿毘曇論に広さ二千三百三十三由旬三分の一、周囲七千由旬、長阿含に縦広八千由旬)、北俱盧洲は四辺各二千由旬(長阿含に縦広一万由旬)あり。八大地獄は南瞻部州の下方に在り。就中、無間地獄は瞻部州より下方二万由旬に位置し、深広各二万由旬あり。余の七大地獄は無間地獄の上に在りて次第に各重累せり。傍生は水と陸と空とに住し、其の本処は大海に在り。鬼趣は琰魔王国を本処とし、展転して余処に散居す。琰魔王国は瞻部州の下五百由旬に位置し、縦広亦た五百由旬あり。六欲天は瞻部州の上方に次第に重累せり。就中、四大王衆天は妙高山の第四層級の四面を占め、山より傍出すること二千由旬(立世阿毘曇論巻4に周囲各千由旬、長阿含経巻20に妙高山の四方各千由旬、縦広各六千由旬)、瞻部州の上層四万由旬の処に在り。三十三天は妙高山の頂上にして瞻部州より八万由旬の上層に位し、縦広八万由旬あり。夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天の四天は即ち空居天にして虚空に住し、就中、夜摩天は瞻部州より十六万由旬、覩史多天は三十二万由旬、楽変化天は六十四万由旬、他化自在天は百二十八万由旬の上層を占め、縦広各皆八万由旬ありと云えり。此の中、八大地獄鬼趣及び傍生の十処は悪趣にして、即ち身口意に悪を行ずる者其の中に生じ、四大洲六欲天の十処は善趣にして、善を行ずる者の生ずる処たり。其の身量は地獄傍生及び鬼趣は不定なるも、瞻部州の人は三肘半、勝身洲の人は八肘(一説三肘半)、牛貨洲の人は十六肘(一説三肘半)、俱盧洲の人は三十二肘(一説七肘)、四大王衆天は四分の一俱盧舎(一説半由旬)にして、其の初生の者は人間の五歳(一説一二歳)の童の如く、三十三天は半俱盧舎(一説一由旬)、其の初生の者は人間の六歳(一説二三歳)、夜摩天は四分の三俱盧舎(一説二由旬)、其の初生の者は人間の七歳(一説三四歳)、覩史多天は一俱盧舎(一説四由旬)、其の初生の者は人間の八歳(一説四五歳)、楽変化天は一俱盧舎四分の一(一説八由旬)、其の初生の者は人間の九歳(一説五六歳)、他化自在天は一俱盧舎半(一説十六由旬)にして、其の初生の者は人間の十歳(一説六七歳)の童の如し。又寿量は瞻部州の人は定限なく(一説百歳)、劫減には極寿十歳、劫初には無量歳(一説八万歳)、勝身洲の人は二百五十歳(一説五百歳、又三百歳)、牛貨洲の人は五百歳(一説二百五十歳、又二百歳)、俱盧洲の人は千歳、四大王衆天は人の五十歳を一昼夜とし五百歳、三十三天は人の百歳を一昼夜とし千歳、夜摩天は人の二百歳を一昼夜とし二千歳、覩史多天は人の四百歳を一昼夜とし四千歳、楽変化天は人の八百歳を一昼夜とし八千歳、他化自在天は人の千六百歳を一昼夜とし一万六千歳、等活地獄は四大王衆天の寿量を一昼夜とし五百歳、黒縄地獄は三十三天の寿量を一昼夜とし千歳、衆合地獄は夜摩天の寿量を一昼夜とし二千歳、号叫地獄は覩史多天の寿量を一昼夜とし四千歳、大叫地獄は楽変化天の寿量を一昼夜とし八千歳、炎熱地獄は他化自在天の寿量を一昼夜とし一万六千歳、大熱地獄は半中劫、無間地獄は一中劫、傍生は多く定限なく、極長は一中劫(一説一劫)、鬼趣は人間の一月を一日とし五百歳なり。但し余の諸処には中夭の者あるも、唯北俱盧洲のみ定んで千歳なり。此等の有情は皆段食(一説に地獄は識食)を食とし、以って生存するなり。又地獄の衆生を除き他の諸趣には皆婬事あり。就中、鬼趣傍生及び人は形を交えて婬を成じ、且つ不浄を出し、四天王衆、三十三の二天は形を交うるも不浄なく、夜摩天は纔かに抱きて婬を成じ、覩史多天は但だ手を執り、楽変化天は相向かいて笑み、他化自在天は相視て婬を成ず。又人と傍生とは卵胎湿化の四生に通じ、鬼趣は胎生及び化生、地獄と天とは唯化生なりと云う。又欲界に定ありや否やに関し、「毘婆沙論巻10」に欲界には定の名あるも定の用なしと云い、「大乗義章巻11」には諸説を出し、達摩多羅は欲界には一向に定なきが故に四善根を修起するを得ずとし、瞿沙は欲界に六禅定あるが故に之を依として四善根を修起するを得とし、摩訶僧祇部も亦た欲界に禅定ありと説くと云えり。又「長阿含経巻19、21」、「起世経巻1至9」、「大方等大集経巻33、39」、「品類足論巻6」、「舎利弗阿毘曇論巻7」、「大毘婆沙論巻136、137、147、192」、「立世阿毘曇論巻6、7」、「大智度論巻16、54」、「瑜伽師地論巻5」、「倶舎論巻3」、「順正理論巻21、31」、「大乗義章巻7、8」、「摩訶止観巻9上」等に出づ。<(望)
  四天王(してんのう):須弥山中腹四王天の四主。『大智度論巻26下注:四王天、四天王』参照。
  世尊(せそん):梵語路伽那他loka-naathaの訳。巴梨語同じ。又梵語loka-jyeSTha、巴梨語loka-jeTTha、世に尊重せらるる者、或いは世中の最尊者の意。仏の尊称なり。「十号経」に、「云何が世尊なる、仏言わく、我れ因地に於いて自ら審に有らゆる善法、戒法、心法、智慧法を観察し、復た貪等の不善の法が能く諸有の生滅等の苦を招くを観じ、無漏智を以って彼の煩悩を破して無上覚を得たり。是の故に天人凡聖世出世間咸く皆尊重す、故に世尊と曰う」と云い、曇鸞の「往生論註巻上」に、「世尊とは諸仏の通号なり。智を論ぜば則ち義として達せざるなく、断を語れば則ち習気余ることなし。智断具足して能く世間を利し、世の為に尊重せらる、故に世尊と曰う」と云える是れなり。蓋し世尊の原語は、若し敵対正翻に依らばloka-naatha、又はloka-jyeSThaなるも、諸経論には多く婆伽婆bhagavatを翻じて世尊となし、又他語を世尊と訳せる例も少なからず。今「法華経」に就いて之を見るに、梵文にbhagavat(具徳者)、loka-naatha(世主)、loka-vidu(世の賢者)、lokaadhipati(世の勝者)、jina(勝者)、naatha(主)、naayaka(導師)、vinaayaka(導師)、mhaa-vinaayaka(大導師)、buddha(覚者)、jineendra(勝者王)、svayaM-bhu(自然生者)、sugata(善逝)、mha-rSi(大仙)、mahaa-viira(大雄者)、puruSa-rSabha(人中牛王)、naroottama(最上人)、mahaa-muni(大牟尼)、taayin(救度者)、anuttara(無上士)、dharma-raaja(法王)、prajaanaaM naayaka(衆生の導師)、ananta-cakSus(無辺眼者)とあるを、漢訳には総じて皆翻じて世尊となせり。之に依るに世尊の語は最も解知し易きが故に古来訳者は多く義訳せしものなるを知るべし。又「大智度論巻2」、「百論巻上」、「大日経疏巻1」、「翻梵語巻1」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)『大智度論巻21下注:婆伽婆、仏』参照。
  勧請(かんじょう):こうてすすめる。願う。
  転法輪(てんぽうりん):梵語dharma-cakra-pravartanaの訳。巴梨語dhamma-cakka-ppavattana、法輪を転ずるの意。又転梵輪とも名づく。八相の一。即ち仏成道の後、四聖諦等の法を説き、衆生をして各得道せしめたるを云う。「過去現在因果経巻3」に仏成道の後、婆羅㮈国に至り、阿若憍陳如等の五人の為に初めて四聖諦の法を説き、憍陳如等は諸法の中に於いて遠塵離垢し、法眼浄を得たることを敍し、其の下に、「諸人聞き已りて欣悦無量に、高声に唱えて言わく、如来今日婆羅㮈国鹿野苑中の仙人住処に於いて大法輪を転ず。一切世間の天人魔梵、沙門婆羅門の転ずる能わざる所なり」と云える是れなり。是れ仏鹿野苑に於いて始めて法輪を転ぜられたることを伝うるものにして、之を初転法輪と名づくるなり。其の時日に関しては、「過去現在因果経巻3」、「法華経巻1方便品」等に仏成道三七日の後とし、「十地経論巻1」には第二七日後、「四分律巻31」には六七日後、「方広大荘厳経巻10」には七七日後、「五分律巻15」には八七日後、「大智度論巻7、34」には五十七日後となせり。蓋し仏の説法を転法輪と名づくるは譬喩に約したるものにして、「大毘婆沙論巻182」に、「問う、何故に法輪と名づくるや。答う、此の輪は是れ法の所成にして、法を自性と為すが故に法輪と名づく。世間の輪が金等の所成にして金等を性と為すを金等の輪と名づくるが如し。此れも亦た是の如し。(中略)問う、何故に輪と名づくる、輪は是れ何の義なりや。答う、動転して住せざるの義は是れ輪の義、此れを捨てて彼に趣くの義は是れ輪の義、能く怨敵を伏するの義は是れ輪の義なり。斯れ等の義に由るが故に名づけて輪と為す」と云い、又「大智度論巻25」に転梵輪と名づくるの義を解し、「転梵輪とは清浄の故に梵と名づけ、仏の智慧及び智慧相応の法、是れを輪と名づけ、仏の所説を受者は法に随って行ずる、是れを転と名づく。是の輪は四念処を具足するを以って轂と為し、五根五力を輻と為し、四如意足を堅牢輞と為し、(中略)是の輪は能く転ずる者なく、是の輪は仏法を持す。是れを以っての故に転梵輪と名づく。復た次ぎに仏の法輪を転ずるは、転輪聖王の宝輪を転ずるが如し」と云えり。是れ如来が法を説いて衆生の無知を摧破するを転輪聖王が金輪を転じて須弥四洲を降伏するに喩えたるものにして、即ち彼の金輪が金の所成なるが故に金輪と名づくるが如く、如来の法輪は四念処五根等の法を以って組織せられたるが故に、法輪と名づくるの意を明にしたるものなり。法輪の自性に関しては諸部の間に異説あり。就中、説一切有部に於いては唯八支聖道を以って法輪の体とす。「大毘婆沙論巻182」に、「云何が法輪なる、答う、八支聖道なり。若し相応と随転とを兼ねば則ち五蘊の性なり。此れは是れ法輪の自性なり」と云える其の説なり。是れ法輪は正しく八支聖道を体とし、若し相応と随転との法を取らば則ち五蘊を性となすことを説けるものなり。又「大毘婆沙論巻183」に、「問う、仏所説の法を尽く法輪と名づくるや。答う不なり。唯見道に入らしむる者を乃ち法輪と名づく」と云い、「倶舎論巻24」に、「即ち此の中に於いて唯見道に依りて、世尊は有処に説いて法輪と名づく。世間の輪に速等の相あるが如く、見道は彼れに似たるが故に法輪と名づく。見道如何が彼れと相似するや、速行等は彼の輪に似たるに由るが故なり。謂わく見諦の道は速疾に行ずるが故に、捨取あるが故に、未伏を降すが故に、已伏を鎮するが故に、上下に転ずるが故に、此の五相を具すること世間の輪の如きに似たり」と云えり。是れ説一切有部に於いては仏の一切の所説を転法輪となさず、必ず人をして見道に入らしめ、彼の煩悩を摧破するを要すとし、世間の輪に速行等の五相あるが如く、見道にも亦た此の五相あるが故に、即ち彼の見道を名づけて転法輪となすべしというの説なり。又「大乗法苑義林章巻1本総料簡章」に、「多聞部、薩婆多部、雪転部、犢子部、法上部、賢胄部、正量部、密林山部、化他部、経量部の十部は同じく説く、諸仏の語は皆利益を為すに非ず。要ず物機に逗し、務めて道に入らしむるを利益と名づく。故に唯八聖道のみ是れ正法輪の轂輞輻円なり。煩悩を摧破するを名づけて輪と為すが故なり。故に世友は説く、如来の語は皆転法輪たるに非ず。世尊の所言にも亦た不如義あり、八正道を詮する教は八道の境なるが故に亦た法輪と名づく。所余の功徳及び所余の教は聖教と名づくと雖も法輪と名づけず」と云い、多聞部等の諸部も亦た唯八聖道を以って法輪の体となすことを明にせり。然るに大衆部等に於いては、仏語には総べて不如義なきが故に、一切の仏語は皆転法輪と名づくべしと云い、随って法輪は仏語を以って体とすと説くべしとなせり。「大毘婆沙論巻182」に摩訶僧祇部の説を出し、「彼れ是の説を作す、一切の仏語は皆是れ法輪なり。若し聖道是れ法輪なりと謂わば、則ち菩提樹下に已に法輪を転ずべし。何が故に婆羅痆斯に至るを方に転法輪と名づくるや」と云い、又「異部宗輪論」に大衆部、一説部、説出世部、雞胤部の本宗同義を挙げ、「諸の如来の語は皆転法輪なり」と云い、又「大乗法苑義林章巻1本」に、「大衆部、一説部、説出世部、雞胤部、説仮部、制多山部、西山住部、北山住部、法蔵部、飲光部の十部は同じく説く、仏の一切の語は皆利益と為す、如来の所言には不如義なし。唯八聖道のみ是れ正法輪なるに非ず、一切の功徳も能く諸惑を摧く、並びに法輪と名づく」と云える即ち其の説なり。之に依るに大衆部一説部等の諸部に於いて、仏の一切の語を皆転法輪と名づけたるを知るべし。又「大般涅槃経巻14」に、「諸仏世尊は、凡そ所説あれば皆悉く名づけて転法輪と為すなり」と云い、又前引「大乗法苑義林章」の連文に、「大乗を明さば、正文に仏の所語は皆其の義に如かず、咸く転法輪なりと説くものなしと雖も、然も正法輪は唯八聖道なり、余は正に非ずと雖も是れ助法輪なり」と云えり。之に依るに大乗に於いても亦た大衆部に同じく仏の一切の所説を以って転法輪とし、其の中、特に八聖道を正法輪、余の所言を助法輪となすの意なるを見るべし。又「華厳経探玄記巻3」には、五教の別に従って法輪の体性を異にするとし、即ち小乗に約せば八正道を体となし、初教に約せば無分別智を体となし、終教に約せば真理を体となし、頓教に約せば理智倶に泯じ、教の果も亦た亡じて言慮を絶するを体となし、円教に約せば無尽法門を体となすと云えり。是れ所説の法の浅深に依りて法輪の体に不同ありとなすの説なり。蓋し転法輪は鹿野苑に於いて始めて四諦の法輪を転ぜられたる以来、諸処に於ける説法も亦た皆転法輪なること固より言を要せざる所なるも、大乗に於いては所説の内容に約し、鹿苑の説法を初転法輪とし、之に対して更に第二第三の転法輪ありとなすに至れり。彼の「大品般若経巻12無作品」に、「爾の時、諸天子は虚空の中に立ち、大音声を発して踊躍歓喜し、漚波羅華、波頭摩華、拘物頭華、分陀利華を以って仏の上に散じ、是の如きの言を作す、我等は閻浮提に於いて第二の法輪転じ、是の中の無量百千の天子は無生法忍を得たるを見ると」と云えるは、即ち鹿苑四諦の法輪を初転とし、般若の法を開説せるを第二の法輪転となせるものなり。又「解深密経巻2無自性相品」には三時の転法輪あることを説き、「世尊は初め一時に於いて婆羅痆斯仙人の堕処施鹿林中に在りて、惟だ声聞乗に発趣する者の為に、四諦の相を以って正法輪を転ず。是れ甚だ奇に、甚だ希有と為し、一切世間の諸天人等の先に能く如法に転ずる者あることなしと雖も、而も彼の時に於いて転ずる所の法輪は、有上有容にして是れ未了義なり、是れ諸の諍論安足の処所なり。世尊は昔第二時の中に在りて、惟だ大乗に発趣する者の為に一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃に依り、隠密の相を以って正法輪を転ず。更に甚だ奇に、甚だ希有と為すと雖も、而も彼の時に於いて転ずる所の法輪も亦た是れ有上にして容受する所あり、猶お未了義にして、是れ諸の諍論安足の処所なり。世尊は今第三時の中に於いて、普く一切乗に発趣する者の為に、一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃無自性性に依り、顕了の相を以って正法輪を転ず。第一甚奇にして最も希有と為す。今世尊の転ずる所の法輪は無上無容にして是れ真の了義なり、諸の諍論安足の処所に非ず」と云えり。是れ鹿苑に於ける四諦の説法を初時とし、般若皆空の説を第二時、深密中道の教を第三時となすの意にして、即ち亦た前の般若第二法輪転の説に加上したるものというべし。真諦及び玄奘等は三法輪の説を立て、此の中の初時有教を名づけて転法輪、第二時空教を照法輪、第三時中道教を持法輪となせり。又吉蔵の「法華遊意巻上」には、「法華経巻2」の文に依りて別に三法輪の説を唱え、華厳一乗教を根本法輪、中間の三乗教を枝末法輪、法華の会三帰一を摂末帰本法輪と称せり。此等は皆所説の内容に約して転法輪に諸種の別ありとなすの説なり。又「海龍王経巻3女宝錦受決品」に、宝錦女は無動輪、本無輪、無断輪、無著輪、無二輪、無言法輪、清浄輪、断諸不調輪、無乱輪、至誠輪、空無輪等の諸法輪を転ずと云い、「旧華厳経巻31」には、一切の諸仏は妙法輪、無量法輪、一切覚法輪、知一切法蔵法輪、無著法輪、無礙法輪、一切世間灯法輪、示現一切智法輪、一切諸仏同一法輪等の無量阿僧祇の法輪を転じ、転ずべき所に随って仏事の不可思議を施作すと云い、「悲華経巻5」には、菩薩は四清浄法を成就し、虚空法輪、不可思議法輪、不可量法輪、無我法輪、無言説法輪、出世法輪、通達法輪を転ずと云えり。是れ亦た所説の不同に就き法輪の名を立てたるものというべし。又「華厳経巻59」には如来の転法輪に十種の事あることを明かし、「一には清浄の四無畏智を具足し、二には四辯随順の音声を出生し、三には善く能く四真諦の相を開闡し、四には諸仏の無礙解脱に随順し、五には能く衆生の心をして皆浄信ならしめ、六には所有の言説は皆唐捐ならず、能く衆生の諸苦の毒箭を抜き、七には大悲願力の加持する所、八には随って音声を出すに十方一切の世界に普遍し、九には阿僧祇劫に於いて説法して断ぜず、十には所説の法に随って皆能く根力覚道禅定解脱三昧等の法を生起すと云い、又「大乗法苑義林章巻1」、「法華経玄賛巻2、4」等には広く五門に約して法輪の体等を分別し、即ち八聖道を法輪の体、四聖諦十二因縁三性等の諸法を法輪の境、諸の聖道の助伴たる五蘊の功徳を法輪の眷属、聞思修三慧の如く能く聖道を生ずる諸数を法輪の因、道に因りて証せし菩提涅槃を法輪の果となすと云い、「華厳経探玄記巻3」には、二障の使習は法輪の所断、真俗二諦は法輪の境、福慧万行は法輪の眷属、一教及び念処等は法輪の因、菩提涅槃は法輪の果なりとせり。又「長阿含経巻1」、「雑阿含経巻15」、「増一阿含経巻10、14」、「中本起経巻上」、「維摩詰所説経巻上仏国品」、「菩薩処胎経巻5」、「如来不思議秘密大乗経巻11、12」、「四分律巻32」、「阿毘曇毘婆沙論巻21」、「大毘婆沙論巻41」、「大智度論巻1、52、65」、「雑阿毘曇心論巻10」、「瑜伽師地論巻49、95」、「転法輪経憂波提舎」、「倶舎論光記巻24」、「同宝疏巻1、24」等に出づ。<(望)
  本願(ほんがん):梵語 puurva- praNidhaana の訳、以前の誓い/過去世の願( Past vows )の義。菩薩の発菩提心時の誓願を指す。
復次有人。疑佛不得一切智。所以者何。諸法無量無數。云何一人能知一切法。佛住般若波羅蜜。實相清淨如虛空。無量無數法中。自發誠言。我是一切智人欲斷一切眾生疑。以是故說摩訶般若波羅蜜經 復た次ぎに、有る人の疑わく、『仏は、一切智を得ず。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、諸法は無量無数なればなり。云何(いかん)が一人にして、能(よ)く一切の法を知らんや。』と。仏は、般若波羅蜜に住したまえば、実相の清浄なること虚空の如し、無量無数の法中に、自ら誠言を発したまわく、『我れは是れ一切智の人なり。一切の衆生の疑いを断ぜんと欲す。』と。是を以っての故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。
復た次ぎに、     ――衆生の疑惑を断じる――
有る人は、
こう疑っているが、――
『仏』は、
『一切智』を、
『得ていない!』。
何故ならば、
諸の、
『法』は、
『無量であり!』、
『無数だからだ!』。
何故、
『一人』で、
『一切』の、
『法』を、
『知ることができるのか?』、と。
『仏』は、
『般若波羅蜜』という、
『虚空のように!』、
『清浄な!』、
『実相』中に、
『住(とど)まり!』、
『無量、無数の法』中に、
自ら、
『誠実の言(ことば)』を、こう発しられた、――
わたしは、
一切を、
『知る!』、
『一切智の人である!』。
一切の、
『衆生の疑』を、
『断じよう!』、と。
是の故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  誠言(じょうごん):誠実なることば。
  一切智(いっさいち):内外一切の法相を知る智慧。『大智度論巻37上注:一切智』参照。
  実相(じっそう):如実の相の意。即ち諸法の真実不虚の相を云う。「南本涅槃経巻36」に、「世尊、云何が名づけて実相となす。善男子、無相の相を名づけて実相となす。世尊、云何が名づけて無相の相となす。善男子、一切法は自相他相及び自他相なく、無因相なく、作相なく受相なく、作者相なく受者相なく、法非法相なく、男女相なく、士夫相なく、微塵相なく時節相なく、為自相なく為他相なく、為自他相なく、有相なく無相なく、生相なく生者相なく、因相なく因因相なく、果相なく果果相なく、昼夜相なく明闇相なく、見相なく見者相なく、聞相なく聞者相なく、覚知相なく覚知者相なく、菩提相なく得菩提者相なく、業相なく業主相なく、煩悩相なく煩悩主相なし。善男子、是の如き等の相の随って滅する所の処を真実相と名づく。善男子、一切の諸法は皆是れ虚仮なり、随って其の滅する処、是れを名づけて実となす。是れを実相と名づけ、是れを法界と名づけ、畢竟智と名づけ、第一義諦と名づけ、第一義空と名づく」と云い、又「大智度論巻32」に、「諸法の如に二種あり、一には各各相、二には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如き、是の如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如き、地若し実に是れ堅相ならば、何を以っての故に、膠蝋等と火と会する時、其の自性を捨つるや。神通ある人は地に入ること水の如し。又木石を分散すれば則ち堅相を失し、又地を破して以って微塵となし、方を以って塵を破すれば終に空に帰し、亦た堅相を失す。是の如く地相を推求すれば則ち不可得なり、若し不可得ならば其れ実に皆空なり。空は則ち是れ地の実相なり。一切の別相も皆亦た是の如し。是れを名づけて如となす」と云える是れなり。是れ蓋し諸法各各の相は虚仮虚妄にして、破すべく壊すべきものなるに対し、無漏智所証の実相は虚妄の諸相を離れ、平等一如にして妄情の前には全く不可得なるの意を明にしたるものなり。又天台家等に於いて盛んに諸法実相の義を唱え、又密家には声字実相の説をなせり。空海の「声字実相義」に、「声字分明にして実相顕る。所謂声字実相とは即ち是れ法仏平等の三密にして、衆生本有の曼荼なり。(中略)声発して虚しからず、必ず物の名を表するを号して字と曰う。名は必ず体を招く、之を実相と名づく」と云える即ち其の説なり、又「中論巻3」、「注維摩詰経巻3」、「往生論註巻下」、「維摩経義記巻4末」、「大般涅槃経疏巻33」、「法華経文句記巻4中」、「大日経疏巻1」、「吽字義」等に出づ。<(望)
復次有眾生應得度者。以佛大功德智慧無量難知難解故。為惡師所惑。心沒邪法不入正道。為是輩人起大慈心。以大悲手授之令入佛道。是故自現最妙功德。出大神力。 復た次ぎに、有る衆生は応に度を得べき者なるも、仏の大功徳の智慧は、無量にして、難知難解なるを以っての故に、悪師の惑わす所と為り、心、邪法に歿して、正道に入らず。是の輩(はい)の人の為に、大慈の心を起こし、大悲の手を以って之(これ)に授けて、仏道に入らしめんとし、是の故に自ら最妙の功徳を現して、大神力を出したまえり。
復た次ぎに、
有る、
『衆生』は、
『度』を、
『得られるはずである!』が、
『仏』の、
『大功徳の智慧』が、
『知り難く!』、
『理解し難い!』が故に、
『悪師』に、
『惑わされて!』、
『心』が、
『邪悪』の、
『法』に、
『没して!』、
『真正』の、
『道』に、
『入ることができない!』。
是の、
『輩(衆生)』の為に、
『仏』は、
『大慈』の、
『心』を、
『起し!』、
『大悲』の、
『手』を、
『授けて!』、
『仏』の、
『道』に、
『入らせようとし!』、
是の故に、
自ら、
『最妙の功徳』を、
『現して!』、
『大神力』を、
『出されたのである!』。
  是輩(このはい):輩は同類を指すの語。是れ等に同じ。
  難知難解(なんちなんげ):知りがたく理解しがたい。
  大神力(だいじんりき):理解しがたい巨大な力。
如般若波羅蜜初品中說。佛入三昧王三昧。從三昧起。以天眼觀十方世界。舉身毛孔皆笑。從其足下千輻輪相。放六百千萬億種種色光明。從足指上至肉髻。處處各放六百千萬億種種色光明。普照十方無量無數如恒沙等諸佛世界。皆令大明。佛從三昧起欲宣示一切諸法實相斷一切眾生疑結故。說般若波羅蜜經 般若波羅蜜の初品中に説くが如し、『仏は、三昧王三昧に入りて、三昧より起ち、天眼を以って、十方の世界を観たまえるに、挙身の毛孔、皆笑い、其の足下の千輻輪相より、六百千万億の種種の色の光明を放ち、足の指より、上は肉髻に至るまで、処処に各六百千万億の種種の色の光明を放ちて、普(あまね)く十方の無量無数、恒河沙等の如き諸仏の世界を照らし、皆、大明ならしむ』、と。仏は、三昧より起ちて、一切の諸法の実相を宣示し、一切の衆生の疑結を断ぜんと欲したもうが故に、般若波羅蜜経を説きたまえり。
例えば、
『般若波羅蜜初品』中に、こう説く通りである、――
『仏』が、
『三昧王三昧』に、
『入って!』、
『三昧』より、
『起ち!』、
『天眼』で、
『十方の世界』を、
『観察される!』と、
『全身』の、
『毛孔』が、
皆、
『笑って!』、
其()の、
『足下の千輻輪相』より、
『六百千万億』の、
『種種の色』の、
『光明』が、
『放たれ!』、
『足の指』より、
上の、
『肉髻』に、
『至る!』まで、
処処、
各各より、
『六百千万億』の、
『種種の色』の、
『光明』が、
『放たれ!』、
普(あまね)く、
『十方』の、
『無量、無数』の、
『恒河の沙』に、
『等しい!』ほどの、
『諸仏』の、
『世界』を、
『照らして!』、
皆、
『大いに!』、
『明かるくした!』、と。
『仏』は、
『三昧』より、
『起って!』、
一切の、
諸の、
『法の実相』を、
『広く!』、
『示す!』ことにより、
一切の、
『衆生』の、
『疑結』を、
『断じようとして!』、
故に、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  三昧王三昧(さんまいおうさんまい):一切の諸の三昧を其の中に摂する三昧の名。『大智度論巻7下注:三昧王三昧、同巻17下注:定、同巻20上注:三昧』参照。
  天眼(てんげん):物質を見るに障害する所の無い目。『大智度論巻5上注:五眼』参照。
  挙身毛孔(こしんのもうく):全身の毛穴。
  (しょう):ひらく。花の開くを花笑うと云うが如し。
  足下千輻輪相(そくげのせんぷくりんそう):仏の足裏の車輪の相。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
  肉髻(にくけい):仏の頭頂の隆起せる相。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
  宣示(せんじ):広く示す。
  疑結(ぎけつ):疑いの煩悩。『大智度論巻15上注:五下分結、同巻41下注:結、十結』参照。
  三昧(さんまい):『大智度論巻7』に『善心にて一処に住(とど)まりて動かず』という。また、『菩薩は百千の種々の三昧を生み出して、衆生を煩悩から解放する、譬えば、貧に苦しむ人は富ましめる為に、種々の財物を蓄えて貧者に与え、諸の病人の為には種々の薬を与えて治す』等ともあるように、三昧とは一心に衆生の為に働くことをいう。
復次有惡邪人懷嫉妒意誹謗言。佛智慧不出於人。但以幻術惑世。斷彼貢高邪慢意故。現無量神力無量智慧力。於般若波羅蜜中自說。我神德無量三界特尊。為一切覆護。若一發惡念獲罪無量。一發淨信受人天樂。必得涅槃果 復た次ぎに、有る悪邪人は、嫉妬の意を懐き、誹謗して言わく、『仏の智は、人を出でず。但(た)だ幻術を以って、世を惑わすのみ。』と。彼の貢高、邪慢の意を断ぜんが故に、無量の神力、無量の智慧力を現し、般若波羅蜜中に於いて、自ら説きたまわく、『我が神徳は無量にして、三界に特(ひと)り尊く、一切の覆護為(た)り。若(も)し一たび、悪念を発(おこ)さば罪を獲(う)ること無量なり、一たび浄信を発さば、人天の楽を受け、必ず涅槃の果を受けん。』と。
復た次ぎに、    ――貢高、邪慢の者を摧く――
有る、
『邪悪の人』は、
『嫉妒』の、
『意(こころ)』を、
『懐(いだ)き!』、
『誹謗して!』、こう言う、――
『仏』の、
『智慧』は、
『人』を、
『超えるものではない!』。
但だ、
『幻術』で、
『世間』を、
『惑わすのみだ!』、と。
彼れの、
『貢高、邪慢』の、
『意』を、
『断とうとする!』が故に、
『無量の神力』と、
『無量の智慧力』とを、
『現して!』、
『般若波羅蜜』中に、
自ら、こう説かれたのである、――
わたしの、
『神徳(神力)』は、
『無量であり!』、
『三界』中に、
『特に尊く!』、
一切の、
『衆生』の、
『覆護として!』、
若し、
一たび、
『悪念』を、
『発(おこ)して!』、
無量の、
『罪』を、
『獲()ても!』、
一たび、
『浄信』を、
『発せば!』、
『人、天の楽』を、
『受けて!』、
必ず、
『涅槃の果』を、
『得るだろう!』、と。
  誹謗(ひぼう):そしること。
  貢高(くこう):自薦自高の意。自らを挙げて自らを高うすること。
  邪慢(じゃまん):よこしまにして慢心すること。
  神力(じんりき):神通力。超絶的な力。
  神徳(じんとく):神力に同じ。善い力のみを云う。
  三界(さんがい):欲界、色界、無色界の総称。即ち一切衆生所居の処。『大智度論巻1上注:色界、欲界、同巻18上注:無色界』参照。
  特尊(とくそん):ひとり尊い。独尊。
  覆護(ふご):おおいまもる者。守護。
  悪念(あくねん):悪をなそうとする思い。悪心。
  浄信(じょうしん):浄い信心。心を浄めて善悪の果報を信ずること。
  人天(にんてん):人間と、及び諸天と。
  涅槃果(ねはんのか):果報としての涅槃。『大智度論巻1上注:涅槃』参照。
  涅槃(ねはん):梵語nirvaaNa。巴梨語nibbaana、又泥洹、泥曰、涅槃那、涅隷槃那、抳縛南、涅婆南、䁥縛喃に作り、滅、寂滅、滅度、或いは寂と訳す。又般涅槃parinirvaaNa(巴parinibbaana)と云い、一に波利抳縛南、波利涅婆南に作り、円寂と訳す。又摩訶般涅槃mahaa-parinirvaaNa(巴mahaa-parinibbaana)とも称し、大円寂と訳す。即ち一切の煩悩災患の永尽せる境地を云う。「雑阿含経巻18」に、「涅槃とは貪欲永く尽き、瞋恚永く尽き、愚癡永く尽き、一切の諸煩悩永く尽く。是れを涅槃と名づく」と云い、「入阿毘達磨論巻下」に、「一切の災患煩悩の火滅するが故に涅槃と名づく」と云える是れなり。是れ貪瞋癡の三火滅し、衆苦永尽せるを涅槃と名づけたるなり。涅槃の字義に関しては、「大毘婆沙論巻28」に、「煩悩滅するが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに三火息むが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに三相寂するが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに臭穢を離るるが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに諸趣を離るるが故に名づけて涅槃と為す。復た次ぎに槃は稠林に名づけ、涅を名づけて出と為す、蘊の稠林を出づるが故に涅槃と名づく。復た次ぎに槃を名づけて織と為し、涅を名づけて不と為す、不織を以っての故に名づけて涅槃と為す。縷者あれば即ち織る所あるも、無ければ則ち然らざるが如く、是の如く若し業煩悩あらば便ち生死を織るも、無学は業煩悩あることなきが故に生死を織らず、故に涅槃と名づく。復た次ぎに槃は後有に名づけ、涅を名づけて無と為す、後有なきが故に名づけて涅槃と為す。復た次ぎに槃は繋縛に名づけ、涅を名づけて離と為す、繋縛を離るるが故に名づけて涅槃と為す。復た次ぎに槃は一切生死の苦難に名づけ、涅は超度に名づく、一切生死の苦難を超度するが故に涅槃と名づく」と云い、又「大般涅槃経巻25」に、不織、不覆、不去不来、不取、無不定、無新故、無障礙、無相、無有、無和合、無苦の義を各涅槃と名づくと云えり。蓋し梵語涅槃nirvaaNaは、前接字nir(nis)と、動詞vaaと、後接字Na(na)との三字より成れる語にして、此の中nisは「不」、「無く」、「外に」、又は「を離れて」の義を有し、vaaは「吹く」、「香を放つ」、「行く」、「動く」等の義を有し、naは分詞を作る後接字にして、即ち前接動詞を名詞化するものなり。従って此の語には、一に「吹き消されたること」、或いは「消えたること」、二に「香を放たざること」、三に「行かざること」等の諸義あり。今煩悩滅し、三火息み、又は三相寂するが故に涅槃と名づくと云えるは、即ち此の中の第一義に当り、臭穢を離ると云えるは第二義に当り、諸趣を離る、又は不去不来と云えるは第三義に当ると云うべく、又此の語を以って「不」の義なる前接字nirと、「織る」の義なる動詞veより来たれる名詞vaana(織)との合成語と解せば「不織」の義となり、「林」の義なる名詞vanaより来たれる名詞vaana(稠林)との合成語と解せば「稠林を出でたる」の義となり、「生」の義なる名詞vaanaとの合成語と解せば「後有なきこと」、「生死の苦難を超度せること」等の義となるべく、又「覆う」、或いは「障礙す」の義なる動詞vRより来たれる名詞vaanaとの合成語と解せば、即ち「不覆」、「無障礙」、「繋縛を離れたること」等の義となるべきが如く、兎に角煩悩衆苦永滅して更に後有なき境地を称したるものなるを知るべし。又「大般涅槃経巻33」には涅槃に無量の名ありとし、無生、無出、無作、無為、帰依、窟宅、解脱、光明、灯明、彼岸、無畏、無退、安処、寂静、無相、無二、一行、清浄、無闇、無礙、無諍、無漏、広大、甘露、吉祥の二十五異名を列ね、「四諦論巻3」には又無為、無下等の六十六種の別名を出せり。凡そ涅槃は阿羅漢の人が煩悩を永断して得る所の果にして、之に有余依と無余依との二種あり、有余依涅槃は煩悩既に永尽せるも、猶お依身ありて色心相続するを云い、無余依涅槃は依身亦た滅して更に余なきを云うなり。小乗諸部の中、説一切有部に於いては、滅諦涅槃は無為法にして、慧の揀択力に由りて得せらるる果なるが故に之を択滅pratisaMkhyaa-nirodhaと名づくとし、即ち慧を以って四聖諦の理を揀択し、煩悩を断ずる時、諸の有漏法は繋縛を離れ、解脱を証得するを択滅となし、而して択滅は離繋を以って性とし、其の体実に有り、且つ其の性善にして常住なりとなすなり。「大毘婆沙論巻34」に帰依法を解する中、「此の中、若し法実有とは実に涅槃あることを顕す。此の言は有るが是の説を作し、唯衆苦滅するを説きて涅槃と名づく、実に体あるに非ずというを遮し、涅槃には実に自体あるを顕さんと欲するが為の故に是の説を為す」と云い、又「同巻31」に、「一切法の中、唯涅槃のみありて是れ善、是れ常なり。余は爾らざるが故に不同類と名づく。謂わく所余の法は、有るは善なるも常に非ず、有るは常なるも善に非ず、有るは二倶に非ず。涅槃は独り善常の二義を具す、是の故に独り不同類と名づくるなり」と云える其の意なり。然るに経量部に於いては、涅槃は唯煩悩及び諸苦の永滅に名づけたるものにして、別に自体あるに非ずとし、即ち揀択力に由りて過去及び現在の煩悩の種子を滅し、未来の煩悩並びに後有をして不生ならしむる永断の分位に涅槃を仮立すとなせり。「倶舎論巻6」に、「不生は本来自有なり。若し揀択なくんば諸法は応に生ずべし。揀択生ずる時、法は永く起らず、此の不起に於いて択は功能あり。謂わく先時に於いては未だ生の障あらざるも、今生の障と為る。不生を造るには非ず。(中略)二世(即ち過去現在)に起こす所の煩悩は未来の諸の煩悩を生ぜんが為の故に現の相続に於いて種子を引起す。此の種断ずるが故に彼れを亦た断と名づく、異熟尽くる時を亦た説きて業尽と名づくるが如し。以来の衆苦及び諸の煩悩は種なきに由るが故に、畢竟不生なるを説きて名づけて断と為す。(中略)復た聖教に能く涅槃は唯非有を以って其の自性と為すと顕すことあり、謂わく契経に言わく、所有の衆苦皆余なく断じ、各別に捨棄し、尽く離染し滅し静息し永没して余苦続かず、取らず生ぜず、此れ極めて寂静、此れ極めて美妙なりと。謂わく諸依及び一切の愛を捨し、尽く離染し滅するを名づけて涅槃と為す」と云えり。是れ経量部に於いては揀択生ずる時、煩悩の種子断ずるが故に、未来の衆苦及び諸の煩悩畢竟して生ぜざるを名づけて涅槃となし、涅槃は唯衆苦及び煩悩の永滅に名づけたるものなるが故に、別に其の自体あるに非ずとなづの意を説けるものなり。又説一切有部に於いては、涅槃は非学非無学の法にして、恒に自性に住して常住不変なりとなし、余部の涅槃転変論及び涅槃決定論を否認せり。「大毘婆沙論巻33」に、「復た次ぎに涅槃は先には是れ非学非無学にして後転じて学と成り、先には是れ学にして後転じて無学と成り、先には是れ無学にして復た転じて学と成るべからずとは、涅槃は転変不定にして三種ありと説く者を遮する意なり。若し爾らば涅槃は得に随って変易し、応に無常なるべきが故に正理に応ぜず。又涅槃には応に学あり無学あり非学非無学あるべからずとは、涅槃の体類を差別して三種ありと説く者を遮する意なり。若し爾らば涅槃は位の差別に随って雑乱あるが故に正理に応ぜず。謂わく異生の位は三を具して一を得し、有学位に至れば三を具して二を得し、無学位に至るも亦た三種を具す、若し具に三を得せば応に学の得あるべく、若し唯二を得せば応に具足して涅槃を得する者に非ざるべし。(中略)若し諸位に各三を具するも、而も得に随うが故に各但だ一と名づくと言わば、是れ則ち涅槃は得に随って転変するものにして、応に前説の如く無常の過あるべし。是の故に此の説も亦た理に応ぜず。(中略)涅槃は恒に是れ非学非無学なるを以って、諸法決定して雑乱あることなく、恒に自性に住して自性を捨てず、涅槃は常住にして変易あることなし。是の故に涅槃は但だ応に非学非無学と言うべし」と云える是れなり。是れ転変論者は、涅槃は学無学非学非無学に於いて転変不定なりとし、決定論者は涅槃の体に学無学非学非無学の三種あり、各此の三を具するも、得に別あるが故に学無学等の異を生ずとなすに対し、説一切有部に於いては涅槃は唯一にして転変なく、即ち恒に非学非無学なりと説くの意を明にせるなり。蓋し小乗諸部中には、是の如く涅槃の有体無体一体多体等に関し異説ありと雖も、通じて皆煩悩及び諸苦の永尽せる境地を名づけて涅槃となし、就中、説一切有部に於いては其の性を善とし、常住不変となすと雖も、是れ唯法を以って実有となすに過ぎずして、別に之に積極的意義ありとなすに非ず。然るに大乗経論に至りては涅槃を以って不生不滅の義なりとし、之を如来の法身と同視し、種種の積極的意味を附せり。「大般涅槃経巻6」に、「若し如来の涅槃に入るこたおは、薪尽きて火滅するが如くなりと言わば不了義の名づく。若し如来は法性に入ると言わば是れを了義と名づく」と云い、「同巻4」に、「若し油尽き已らば明も亦た倶に尽く、其の明の滅するをば煩悩の滅に喩う。明は滅尽すと雖も灯爐猶お存す。如来も亦た爾り、煩悩滅すと雖も法身常に存す」と云い、「法華経巻5寿量品」に、「爾来無量劫、衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ずるも而も実には滅度せず、常に此に住して説法す」と云い、「勝鬘経一乗章」に、「一乗を得る者は阿耨多羅三藐三菩提を得。阿耨多羅三藐三菩提は即ち是れ涅槃界なり。涅槃界とは即ち是れ如来の法身なり」と云えり。是れ皆釈尊の涅槃は薪尽きて火滅するが如きには非ず。即ち法性常住の境地に入れるものにして、所謂肉身逝くと雖も法身常存すとなし、法身を以って如来の大般涅槃の体となすべきことを説けるものなり。又「大般涅槃経巻4」に、「大涅槃とは即ち是れ諸仏の法界なり」と云い、「同巻11」に、「是の大涅槃は即ち是れ諸仏の甚深の禅定なり」と云い、「同巻23」に常楽我淨を名づけて大涅槃となすと云い、又「大智度論巻83」に、「涅槃は無相無量不可思議にして諸の戯論を滅す、此れ涅槃の相なり。即ち是れ般若波羅蜜なり」と云い、「法華論巻下」に、「唯如来のみありて大菩提を証し、究竟じて一切の智慧を満足するを大涅槃と名づく」と云い、又「金光明最勝王経巻1如来寿量品」に、「其の十法あり、能く如来応正等覚の真実の理趣を解し、究竟の大般涅槃ありと説く。云何が十となす、一には諸仏如来は究竟して諸の煩悩障所知障を断尽するが故に名づけて涅槃となす。二には諸仏如来は善く能く有情の無性及び法の無性を解するが故に名づけて涅槃となす。三には能く身依及び法依を転ずるが故に名づけて涅槃となす。四には諸の有情に於いて任運に化の因縁を休息するが故に名づけて涅槃となす。五には真実無差別相の平等法身を証得するが故に名づけて涅槃となす。六には生死及び涅槃に二性なきを了知するが故に名づけて涅槃となす。七には一切法に於いて其の根本を了し、清浄を証するが故に名づけて涅槃となす。八には一切法無生無滅に於いて善く修行するが故に名づけて涅槃となす。九には真如法界実際平等に正智を得るが故に名づけて涅槃となす。十には諸の法性及び涅槃の性に於いて無差別を得るが故に名づけて涅槃となす」と云い、更に二種の十法涅槃の説を出せる如き、即ち皆積極的に涅槃の相を説示せるものというべし。又「大般涅槃経巻2寿命品」に、「何等をか名づけて秘密の蔵をなす、猶お伊字の三点の如く、若し並ばば則ち伊を成ぜず、縦なるも亦た成ぜず。摩醯首羅の面上の三目の如くにして乃ち伊の三点を成ずることを得。若し別なるも亦た成ずることを得ず。我れも亦た是の如し、解脱の法も亦た涅槃に非ず、如来の身も亦た涅槃に非ず、摩訶般若も亦た涅槃に非ず、三法各異なるも亦た涅槃に非ず。我れ今是の如き三法に安住し、衆生の為の故に涅槃に入ると名づく」と云えり。是れ所謂三徳秘蔵の大涅槃説にして、即ち前引「婆沙」等の離繋択滅説と、「大智度論」等の般若即涅槃説と、及び如来法身説とを綜合して、以って三法一体不縦不横の義を組成せしものとなすべきが如し。吉蔵の「大乗玄論巻3涅槃義」に、此の三徳を以って涅槃となすに総じて四義あることを明かし、「三徳を涅槃と為す所以は略して四種の義あり。生死と涅槃と相対するに生死に三障あり、謂わく煩悩と業と苦なり。報障に対するが故に法身と名づけ、業障に対するが故に解脱を辨じ、煩悩障に対して波若を説く。二には如来の三業自在なることを顕さんと欲す。法身あるが故に身業自在なり、波若を具する故に口業自在なり、解脱あるが故に意業自在なり。三には境として照らさざるなきを名づけて波若と為し、感として応ぜざるなきを法身と名づけ、累として尽くさざるなきを解脱と称す。故に三徳を宗と為すなり。四には二乗の三徳円ならざるに対せんが為なり。身智あれば解脱足らず、解脱亦た円なれば則ち身智なし。故に如来の三徳円備すと名づく」と云い、又智顗の「法華経玄義巻5下」等には、広く此の三徳を三道三識三般若三菩提等の三法に配せり。又「十地経論巻2」には涅槃に性浄方便浄の二種の別あることを説き、「彼の智は已に方便壊涅槃を顕し、亦た性浄涅槃を示す。偈に定滅と言うが故なり。定とは同相涅槃を成ず、自性寂滅なるが故なり。滅とは不同相方便壊涅槃を成ず、智縁滅を示現するが故なり」と云い、又「三無性論巻上」に、「清浄如如とは所謂滅諦なり。亦た三義あり、(中略)三に垢浄二滅なり、謂わく本来清浄と無垢清浄となり。分別性に約して本来無垢と説き、依他性に約して無垢清浄と説く。何を以っての故に、此の性に体ありて則ち能く染汚す、道に由りて垢を除くが故に清浄を得。本来清浄は即ち是れ道前道中なり、無垢清浄は即ち是れ道後なり。此の二の清浄を亦た二種の涅槃と名づく。前は即ち択滅に非ず、自性本有にして智慧の所得に非ざればなり。後は即ち択滅にして修道の所得なり。前に約するが故に本有と説き、後に約するが故に始有と説く」と云えり。是れ本来清浄自性寂滅なるを性浄涅槃とし、慧の揀択に由りて染汚の垢を除き、清浄を得するを方便浄又は無垢清浄涅槃と名づけ、且つ其の中、無垢清浄は修道の所得なれば之を択滅とし、自性清浄は慧の所得に非ざれば択滅の摂に非ざることを明にするの意なり。又慧遠の「大乗義章巻18涅槃義」には、涅槃に性浄涅槃、方便涅槃、応化涅槃の三種ありとし、智顗の「金光明経玄義巻上」等には、性浄涅槃、円浄涅槃、方便浄涅槃の三種の別ありとなせり。又「梁訳摂大乗論釈巻13」には、涅槃に本来清浄涅槃、無住処涅槃、有余涅槃、無余涅槃の四種あることを説き、「成唯識論巻10」に之を釈し、本来自性清浄涅槃とは一切法相真如の理にして、一切の有情平等に之を共有し、其の性本寂なるが故に涅槃と名づく。有余依涅槃とは真如が煩悩障を出でたるものにして、尚お微苦の所依ありと雖も、而も障永く寂するが故に涅槃と名づく。無余依涅槃とは真如が生死の苦を出でたるものにして、余依亦た滅し、衆苦永く寂するが故に涅槃と名づく。無住処涅槃とは真如が所知障を出でたるものにして、大悲と般若とに輔翼せられ、生死及び涅槃に住せず、未来際を窮めて有情を利楽するも、其の用常に寂なるが故に涅槃と名づくと云えり。是れ自性清浄の如来法身を以って涅槃の体とし、其の法身が煩悩障を出でたるを有余依涅槃、生死の苦を出でたるを無余依涅槃、所知障を出でて生死に住せず涅槃に住せざるを無住処涅槃と名づけたるなり。此の中、亦た初の自性清浄涅槃は真如の理にして択滅の摂に非ず、後の三は皆択滅なりとし、且つ択滅は唯施設有にして実有に非ずとなすなり。又「大乗義章巻18涅槃義」に涅槃の分斉に総じて四種の不同ありとし、「分斉に四あり、一は是れ事滅なり、生死の因を断じ、生死の果を滅するを名づけて涅槃と為す。二には徳滅なり、諸仏の涅槃は万徳を円備す、衆徳を具すと雖も妙寂離相なり、之を称して滅と為す。又復た離性を亦た説いて滅と為す。(中略)三には応滅なり、応滅に二あり、一に現に有の因を断じて生死の果を尽くす、之を名づけて滅と為す。二に化を息めて真に帰し、用息むを滅と称す。四には理滅なり、経中に説くが如く、一の苦滅諦にして一切衆生即ち涅槃の相なりと。是の如き等なり。理滅に二あり、一には相虚なり、妄情の起こす所にして、一切の諸法は相有体無なり、之を名づけて滅となす。此れ即ち経中の空如来蔵なり。二には真空なり、真如来蔵は相を離れ性を離る、之を名づけて滅と為す。(中略)此の四相望するに亦た本末あり、理滅を本となす。理中の相空の滅を見るに由りて前の事滅を成ず、理を悟りて情を捨て、生死を離るるが故なり。理中の真空の滅を証するに由りて前の徳滅を成ず、彼の真法の如く性相を離るるが故なり。徳に依りて用を起こす、故に応滅あり」と云えり。是れ涅槃は如来蔵を以って其の体とし、就中、空如来蔵の義に由りて事滅あり、不空如来蔵の義に由りて徳滅あり、徳滅に由りて更に応滅を示現すとなすの意なり。按ずるに涅槃の説は古くより印度に行われたるものにして、薄伽梵歌bhagavad-giitaa,v.に梵我一如の境地を梵涅槃brahma-nerbaaNaと名づけ、又「入楞伽経巻4」には、外道所執の涅槃に自体相涅槃、種種相有無涅槃、自覚体有無涅槃、諸陰自相同相断相続体涅槃の四種の別あることを明かし、「同巻6涅槃品」には二十種外道の涅槃説を挙げ、提婆の「外道小乗涅槃論」に略して其の義を解し、又「大毘婆沙論巻200」には、外道は現に五妙欲を受け、並びに初静慮乃至第四禅の受楽を以って涅槃となすことを説き、此の五種の現法涅槃論は、我ありて常に涅槃を得と執するが故に常見品に入ると云い、「瑜伽師地論巻11」には、四禅等の浄定は煩悩を伏して寂静の義あるが故に之を彼分涅槃と名づくと云える如き皆其の説なり。仏教中に於いては我の実有を認めざるが故に、涅槃は単に滅に帰するを其の元意となしたるが如きも、大乗興るに及びて如来法身の永存を説き、遂に涅槃は真如法身を以って其の体性とすとなすに至れり。又般涅槃は円寂と訳するにより、去来僧侶の死を円寂或いは新円寂と云い、又帰寂、入寂、示寂、或いは単に寂と称するを例とせり。又「増一阿含経巻7」、「中阿含巻10涅槃経」、「雑阿含経巻26」、「入楞伽経巻2」、「首楞厳三昧経」、「大般涅槃経巻5」、「発智論巻2」、「大毘婆沙論巻32」、「尊婆須蜜菩薩所集論巻10」、「解脱道論巻11五方便品」、「中論巻4観涅槃品」、「百論巻下破常品」、「大智度論巻18、19、22、23、32、50、55」、「仏性論巻4」、「倶舎論巻1、28」、「涅槃論」、「涅槃経本有今無偈論」、「順正理論巻17」、「大般涅槃経集解巻1、6」、「大般涅槃経疏巻3、9」、「華厳経孔目章巻4」、「倶舎論光記巻6」、「成唯識論述記巻1本、10末」、「金光明最勝王経疏巻2」、「涅槃経疏三徳指帰巻2、16」等に出づ。<(望)
  涅槃(ねはん):梵語nirvaana、迷妄を脱して、無為法性に安立するの意。
復次欲令人信受法故。言我是大師。有十力四無所畏。安立聖主住處心得自在。能師子吼轉妙法輪。於一切世界最尊最上 復た次ぎに、人をして法を信受せしめんと欲するが故に言わく、『我れは是れ大師なり。十力、四無所畏有りて、聖主の住処に安立し、心に自在を得て、能く師子吼して妙法輪を転じ、一切の世界に於いて、最尊最上たり。』と。
復た次ぎに、     ――妙法を信受させる――
『人』に、
『法』を、
『信受させたい!』と、
『思う!』が故に、
こう言われたのである、――
わたしは、
『大師である!』。
わたしには、
『十力』と、
『四無所畏』とが、
『有り!』、
『聖主の住処』に、
『安立している!』。
わたしは、
『心』に、
『自在』を、
『得て!』、
『獅子吼し!』、
『妙法の輪』を、
『転じることができる!』。
わたしは、
一切の、
『世界』中の、
『最尊であり!』、
『最上である!』、と。
  信受(しんじゅ):信用する( to have confidence )、◯梵語 adhimukti の訳、信用( confidence )の義、◯梵語 abhy- upa- √(gam)の訳、同意する( to assent, agree to )の義。
  十力(じゅうりき):仏の有する十種の智慧力。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  四無所畏(しむしょい):仏が説法するに際し、畏るる所の無きに四種の別あるを云う。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  安立(あんりゅう):安んじて立つ。
  聖主住処(しょうしゅのじゅうしょ):聖衆中の主のすまい。
  自在(じざい):梵語伊湿伐羅iizvaraの訳。又はvazitaa、巴梨語issara、無礙又は縦任の義。即ち意の欲する所に随って所為皆縦任無礙なるを云う。蓋し自在は諸仏及び上位の菩薩の得る所の功徳にして、諸経論には之に関し宣説するもの尠からず。就中、「旧華厳経巻26十地品」には十自在の説を出せり。即ち彼の文に、「是の菩薩は善く是の如きの諸身を起こすことを知り、則ち命自在aayur-vazitaa、心自在cetc-v.、財自在pariSkaara-v.、業自在karma-v.、生自在upapatti-v.、願自在praNiDhaana-v.、信解自在adhimukti-v.、如意自在Rddhi-v.、智自在jJaana-v.、法自在dharma-v.を得」と云える是れなり。「旧華厳経巻39離世間品」、「法集経巻3」並びに「顕揚聖教論巻8」等には亦た十自在の説あり。其の名称及び次第は互いに少異ありと雖も、説は今の経と正しく一致するなり。此の中、命自在とは又寿命自在、或いは寿自在とも称す。即ち長劫に寿命を住持して其の化益無窮なるを云い、心自在とは阿僧祇の三昧を出生して深智に入るを云い、財自在とは又荘厳自在、物自在、或いは衆具自在とも称す。即ち大荘厳を以って一切の国土を荘厳するを云い、業自在とは諸業に於いて大自在を得、随時に報を受くるを云い、生自在とは又受生自在とも称す。即ち一切の国土に於いて自在に生を受くるを云い、願自在とは所願に随って随時随処に菩提を成ずるを云い、信解自在とは又解脱自在、信自在、或いは勝解自在とも称す。即ち一切の世界に諸仏の充満するを見るを云い、如意自在とは又神力自在、或いは神変自在とも称す。即ち一切の大神変を示現するを云い、智自在とは念念の中に於いて如来の十力無所畏を示現し覚悟するを云い、法自在とは即ち無量無辺の法門を示現するを云うなり。就中、命自在、心自在及び財自在の三は、順次に法施、無畏施、財施の布施行を成満することに由りて之を得。業自在、生自在の二は持戒の行を成満し、願自在は精進行を成満し、信解自在は忍辱、安受、通達の三忍行を成満し、如意自在は静慮の行を成満し、智自在及び法自在の二は般若の行を成満することによりて之を得とせらるるなり。又「旧華厳経巻39離世間品」には之と別種の十自在の説あり。即ち彼の文に「菩薩摩訶薩に十種の自在あり、何等をか十と為す、所謂衆生自在、刹自在、法自在、身自在、願自在、境界自在、智自在、通自在、神力自在、力自在なり。仏子、是れを菩薩摩訶薩の十種の自在と為す」と云い、而して亦た彼の一一に各十種の自在あることを説き、総じて百種の自在を出せり。就中、第一に衆生自在に十種の自在ありとは、一に度脱一切衆生自在、二に持一切衆生想自在、三に為一切衆生説法未曽失時自在、四に変化一切衆生自在、五に安置一切衆生於一毛道而不迫迮自在、六に於一切世界一切衆生中示現為王自在、七に於一切衆生中示現帝釈梵王自在、八に於一切衆生中示現声聞縁覚不転威儀自在、九に於一切衆生中示現菩薩行自在、十に於一切衆生中示現仏身相好荘厳覚悟一切智力自在なり。第二に刹自在に十種ありとは、一に令一切刹為一刹自在、二に令一切刹入一毛道自在、三に於一切刹深入無尽方便自在、四に於一切刹示現一身結跏趺坐充満自在、五に令一切刹現入己身自在、六に神力震動一切仏刹不令衆生恐怖自在、七に以一切刹荘厳荘厳一刹示現自在、八に以一刹荘厳荘厳一切刹示現自在、九に一如来身及其眷属皆悉充満一切仏刹示現衆生自在、十に一切刹小刹中刹大刹広刹深刹翻覆刹俯刹仰刹平正刹以此等刹示現衆生自在なり。第三に法自在に十種ありとは、一に一切法即是一法一法即是一切法而不違衆生法相自在、二に般若波羅蜜出生一切法覚悟一切衆生不了知自在、三に於一切法悉離法想普令衆生入勝法自在、四に一切諸法入一方便分別解脱無量方便自在、五に一切諸法言語道断而能演説無量法門自在、六に於一切法巧方便転普門法輪無尽自在、七に一切諸法入一法門於不可説劫分別解脱不可窮尽自在、八に一切法悉入仏法殊勝衆生自在、九に一切法示現無量無辺自在、十に一切法無礙実際無量無辺猶如幻網於無量劫為衆生説不可窮尽自在なり。第四に身自在に十種ありとは、一に令一切衆生入己身自在、二に己身示現一切衆生身自在、三に一切仏身示現一仏身自在、四に一仏身示現一切仏身自在、五に一切刹置己身内自在、六に一法身充満三世示現衆生自在、七に一身入三昧無量身起三昧自在、八に一身成最正覚示現衆生等身自在、九に一切衆生身作一衆生身示現一切衆生身自在、十に一切衆生身示現法身法身示現一切衆生身自在なり。第五に願自在に十種ありとは、一に一切菩薩願即是己願願自在、二に以一切仏願力菩提示現衆生願自在、三に随其所応悉令成就阿耨多羅三藐三菩提願自在、四に於不可数阿僧祇劫大願不断願自在、五に遠離識身不著智身而示現一切身願自在、六に不捨己事而能成満一切他事願自在、七に教化成熟一切衆生令不退転願自在、八に於一切阿僧祇劫修菩薩行未曽断絶願自在、九に於一毛道成等正覚願力充満一切仏刹為一一衆生示現不可説不可説世界願自在、十に説一句法法雲普覆一切法界震実法雷耀明解脱電光澍甘露法雨充満一切衆生心願願自在なり。第六に境界自在に十種の自在ありとは、一に菩薩は法界の境界に在るも示現して衆生の境界に在り、二に仏の境界に在るも示現して衆魔の境界に在り、三に涅槃の境界に在るも生死の境界を離れず、四に一切智の境界に在るも菩薩の境界を離れず、五に寂滅の境界に在るも散乱衆生の境界を捨てず、六に離一切虚妄の境界に在るも虚妄の境界を離れず、七に荘厳力の境界に在るも非一切智境界を示現す、八に無衆生の実際の境界に在るも化度一切衆生の境界を捨てず、九に諸禅三昧解脱通明智離欲の境界に在るも一切世界衆生の境界を示現す、十に如来行菩提荘厳の境界に在るも声聞縁覚寂静威儀の境界を示現するなり。第七に智自在に十種ありとは、一に無尽辯智自在、二に不惑一切陀羅尼智自在、三に決定知一切衆生諸根智自在、四に於一念中以無礙心智悉知一切衆生心心数法智自在、五に知一切衆生心心使煩悩習気随病対治法智自在、六に於一念中深入如来十力智自在、七に無礙智知三世衆生随時度脱智自在、八に於一念中成等正覚示現一切衆生智自在、九に於一衆生想了達一切衆生業行智自在、十に於一衆生音声示現一切衆生音声智自在なり。第八に通自在に十種ありとは、一に一切世界示現身一身境界通自在、二に於一如来大衆中坐聴受正法悉能聞持一切諸仏大衆会法通自在、三に於一衆生一念境界成不可説無上菩提一切衆生無不知者通自在、四に出一妙音皆能充徧一切世界出生一切音声各各別異一切衆生無不開解通自在、五に於一念中示現尽過去際劫一切衆生諸業果報無不知者通自在、六に令一切世界皆悉荘厳通自在、七に観察三世平等通自在、八に出生一切諸仏菩提及衆生願、九に放大法光明通自在、十に一切天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那羅摩睺羅伽帝釈梵王及一切声聞縁覚諸菩薩等悉恭敬尊重善能護持諸如来力一切善根通自在なり。第九に神力自在に十種ありとは、一に以不可説世界入一微塵神力自在、二に於一微塵中顕現一切法界等一切仏刹神力自在、三に於一毛孔皆悉容受一切大海能持遊行一切世界不令衆生有恐怖心神力自在、四に以一切世界内己身中悉能顕現一切衆生事神力自在、五に以一毛繋不可思議金剛囲山悉持遊行一切世界不令衆生有恐怖心神力自在、六に不可説劫示現一劫一劫示現不可説諸成敗劫不令衆生有恐怖心神力自在、七に於一切世界示現水火風災成敗不令衆生有恐怖心神力自在、八に一切世界水火風災壊時悉能住持一切衆生資生之具神力自在、九に以不可思議世界置於掌中遠擲他方過不可説世界不令衆生有恐怖心神力自在、十に令一切衆生解一切仏刹猶如虚空神力自在なり。第十に力自在に十種ありとは、一に衆生力自在、二に仏刹力自在、三に法力自在、四に劫力自在、五に仏力自在、六に行力自在、七に如来力自在、八に無師智力自在、九に一切智力自在、十に大悲力自在なり。「華厳経探玄記巻17」に「初めに十章を列し、後に百門を以って次第に解釈す」と云える即ち其の意なり。又「自在王菩薩経巻上」には、「菩薩摩訶薩に四自在の法あり、是の法を以っての故に能く自在に行じ、諸の衆生をして大乗に住することを得しむ。何等か四なる、一には戒自在、二には神通自在、三には智自在、四には慧自在なり」と云い、「大宝積経巻68遍浄天授記品」には寿命自在、生自在、業自在、覚観自在及び衆具果報自在の五種の自在を説き、又「辯中辺論巻上」、「大乗荘厳経論巻5」等には無分別自在、浄土自在(又刹土自在)、智自在、業自在の四種の自在を出せり。就中、「自在王菩薩経」には自ら広く四自在を解説し、具足戒を行じて諸戒を具するが故に所願皆成ずるを戒自在とし、天眼、天耳等の五通を具足して所欲無礙なるを神通自在とし、陰智、性智等の五智を具足して無滞自在なるを智自在とし、義無礙智、法無礙智等の四無礙智を得て能く諸法に通じ、章句を解釈することを慧自在と名づくと云えり。又「新華厳経巻46」、「宝雨経巻4」、「十地経論巻10」、「摂大乗論釈巻9(無性)」、「華厳経孔目章巻3」、「華厳経探玄記巻14」、「華厳経疏巻47」等に出づ。<(望)
  十力(じゅうりき):仏の有する十種の智慧力。
  (1)処非処智力:物事の理と非理を知る。
  (2)業異熟智力:三世に渡る業の因果関係を知る。
  (3)静慮解脱等持等至智力:禅定、三昧等について知る。
  (4)根上下智力:衆生の理解力、能力を知る。
  (5)種々勝解智力:衆生がどこまで仏法を理解したかを知る。
  (6)種々界智力:衆生の置かれている環境を知る。
  (7)遍趣行智力:諸趣に生まれる行いの因果を知る。
  (8)宿住隨念智力:過去世の事を思い出すことができる。
  (9)死生智力:衆生の死生について知る。
  (10)漏尽智力:煩悩が尽きることについて知る。
  四無所畏(しむしょい):仏が説法するに際し畏るる所の無きに四種の別あるを云う。
  (1)一切智無所畏:全てを知っていることに対する自信。
  (2)漏尽無所畏:煩悩が無いことに対する自信。
  (3)説障道無所畏:修行の障りは全て説き終わったという自信。
  (4)説苦道無所畏:この世は全て苦であることを説き終わったという自信。
復次佛世尊欲令眾生歡喜故。說是般若波羅蜜經言。汝等應生大喜。何以故。一切眾生入邪見網。為異學惡師所惑。我於一切惡師邪網中得出。十力大師難可值見。汝今已遇。我隨時開發三十七品等諸深法藏。恣汝採取 復た次ぎに、仏世尊は、衆生をして歓喜せしめんと欲するが故に、是の般若波羅蜜経を説いて、言(のたま)わく、『汝等(なんじら)、応(まさ)に大喜を生ずべし。何を以っての故に、一切の衆生は、邪見の網に入り、異学の悪師の惑わす所と為(な)る。我れは、一切の悪師の邪網中より、出すことを得。十力の大師は値見すべきこと難く、汝は今已に遇(あ)えり。我れは時に随いて三十七品等の諸の深法の蔵を開発し、汝等をして恣(ほしいまま)にに採取せしめん。
復た次ぎに、    ――深法の蔵を開く――
『仏、世尊』は、
『衆生』を、
『歓喜させよう!』と、
『思う!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『説いて!』、こう言われた、――
お前たちは、
『大喜』を、
『生じなくてはならない!』。
何故ならば、
一切の、
『衆生』は、
『邪見の網』に、
『入って!』、
『異学』の、
『悪師』に、
『惑わされているからだ!』。
わたしは、
一切の、
『悪師』の、
『邪網』中より、
『出すことができる!』、
『十力の大師であり!』、
『値見する(出会う)!』ことが、
『難しい!』が、
お前は、
今、
已に、
『遇っている!』。
わたしは、
時に随い、
『三十七品』等の、
諸の、
『深法の蔵』を、
『開き!』、
お前たちに、
『恣(ほしいまま)に!』、
『採取させよう!』、と。
  汝等(なんじら):お前たち。
  大喜(だいき):おおよろこび。
  邪見網(じゃけんのあみ):因果を信じず、来世の身心の有無に拘泥するを網に捕われたる状に喩える。『大智度論巻26上注:五見』参照。
  異学悪師(いがくあくし):邪見を以って人を誤導する師。
  邪網(じゃもう):邪見の網。
  値見(ちけん):遭遇してまみえる。
  三十七品(さんじゅうしちほん):助けて菩提に至る三十七品の行の総称。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
  随時(ずいじ):時の宜しきにしたがう。適当な時に。
  開発(かいほつ):ひらく。
  深法蔵(じんぽうのくら):甚だ深い法の蔵。
  三十七品(さんじゅうしちほん):助けて菩提に至る三十七品の行、即ち次の四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚支、八正道の総称。
  四念処(しねんじょ):常楽我淨の四顛倒(てんどう、逆しまの見解)を破る。
  (1)身念処:身は不淨である観察として、身は浄であるとする顛倒を破る。
  (2)受念処:受は苦であると観察して、受は楽であるとする顛倒を破る。
  (3)心念処:心は無常であると観察して、心は常であるとする顛倒を破る。
  (4)法念処:法は無我であると観察して、法(事物、肉体と心)にわが有るとする顛倒を破る。
  四正勤(ししょうごん):四つの努力。
  (1)悪を生じないよう、精進して勤める。
  (2)悪を断つよう、精進して勤める。
  (3)善を生じるよう、精進して勤める。
  (4)善を増大せしめよう、精進して勤める。
  四如意足(しにょいそく):四正勤に次いで修める四種の禅定。前の四念処中には実の智慧を修め、四正勤中には正しい精進を修めて智慧と精進力を増多せしめたのであるが、定力が小し弱いため、今四種の禅定を修めて心を摂め、禅定と智慧とを均等ならしめ、所願を皆得ようとする。意のままに得る、これを以って如意、或いは神足という。
  (1)欲如意足:欲を主として禅定を得る。
  (2)精進如意足:精進(努力)を主として禅定を得る。
  (3)心如意足:心念を主として禅定を得る。
  (4)思惟如意足:観察を主として禅定を得る。
  五根(ごこん):仏道に必要な根本的能力。
  (1)信根:仏法僧の三宝と四諦を信ずること。
  (2)精進根:十善などの善いことを怠らずに行うこと。
  (3)念根:正法を憶念して忘れないこと。
  (4)定根:心を散乱せしめないこと。
  (5)慧根:真理を思惟すること。
  五力(ごりき):五根が増長して、五障の勢力を治する者。
  (1)信力:信根が増長して、よく諸の邪信を破る者。
  (2)精進力:精進根が増長して、よく諸の懈怠を破る者。
  (3)念力:念根が増長して、よく諸の邪念を破る者。
  (4)定力:定根が増長して、よく諸の乱想を破る者。
  (5)慧力:慧根が増長して、よく諸の癡惑を破る者。
  七覚支(しちかくし):覚りを助ける七つのもの。七つの覚りの成分。
  (1)念覚支:憶念して忘れないこと。
  (2)択法覚支:物事の真偽を選択する智慧のこと。
  (3)精進覚支:正法に精進すること。
  (4)喜覚支:正法を喜ぶこと。
  (5)軽安覚支:身心が軽快であること。
  (6)定覚支:心を散乱せしめないこと。
  (7)捨覚支:心が偏らず平等であること。捨とは平等の意。
  八正道:生死を脱れる道の八成分。
  (1)正見:苦集滅道の四諦の理を認めること。
  (2)正思惟:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。
  (3)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。
  (4)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。
  (5)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。
  (6)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。
  (7)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。
  (8)正定:正しい智慧でもって、心を統一すること。
復次一切眾生為結使病所煩惱。無始生死已來。無人能治此病者。常為外道惡師所誤。我今出世為大醫王集諸法藥。汝等當服。是故佛說摩訶般若波羅蜜經 復た次ぎに、一切の衆生は、結使の病の為に煩悩せらるるも、無始の生死已来、人の能く此の病を治す者無く、常に外道の悪師の為に誤たる。我れ今出世して、大医王と為り、諸法の薬を集むれば、汝等当(まさ)に服すべし。』と。是の故に仏は、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。
復た次ぎに、      ――諸の法薬を服ませる――
一切の、
『衆生』は、
『結使』という、
『病』に、
『煩悩されている(悩まされている)!』が、
『無始の生死(原初)』以来、
此の、
『病』を、
『治せる!』者は、
『無く!』、
常に、
『外道』の、
『悪師』に、
『誤らされてきた!』。
わたしは、
今、
『世間』に、
『出て!』、
『大医王と為り!』、
諸の、
『法の薬』を、
『集めてきた!』。
お前たちは、
之を、
『服まねばならぬ!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  結使(けっし):人を生死に結びつけ、又人を使役する者。煩悩の異名。『大智度論巻41下注:結、十結』参照。
  煩悩(ぼんのう):乱し悩せること。又能く其れを為す者。『大智度論巻27下注:煩悩』参照。
  無始生死(むしのしょうじ):始まりのない生死。
  已来(いらい):以来。
復次有人念言。佛與人同亦有生死。實受飢渴寒熱老病苦。佛欲斷彼意故。說是摩訶般若波羅蜜經。示言。我身不可思議。梵天王等諸天祖父。於恒河沙等劫中。欲思量我身尋究我聲不能測度。況我智慧三昧。如偈說
 諸法實相中 諸梵天王等
 一切天地主 迷惑不能了
 此法甚深妙 無能測量者
 佛出悉開解 其明如日照
復た次ぎに、有る人の念じて言わく、『仏も人と同じく、亦た生死有りて、実に飢渇、寒熱、老病の苦を受けたもう。』と。仏は、彼の意(こころ)を断ぜんと欲したもうが故に、是の摩訶般若波羅蜜経を説き、示して言わく、『我が身は不可思議なり。梵天王等の諸天の祖父すら、恒河沙等の劫中に於いて、我が身を思量し、我が声を尋究せんと欲すれど、測度する能(あた)わず。況んや我が智慧、三昧をや。』と。
偈に説くが如し、
諸法の実相中には、諸の梵天王等
一切の天地の主も、迷惑して了する能わず
此の法は甚だ深妙なり、能く測量する者無し
仏出でて悉く開解す、其の明日の照らすが如し
復た次ぎに、   ――仏の身口意業の不可思議を説く――
有る人は、
『念じて!』、こう言う、――
『仏』にも、
『人』と、
『同じように!』、
亦た、
『生、死』が、
『有り!』、
実に、
『飢渴、寒熱、老病の苦』を、
『受けられる!』、と。
『仏』は、
彼れの、
『意』を、
『断とう!』と、
『思われた!』が故に、
是の、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説き示して!』、こう言われた、――
わたしの、
『身』は、
『不可思議である!』。
『梵天王』等の、
『諸天の祖父』は、
『恒河の沙』に、
『等しい!』ほどの、
『劫』中に、
わたしの、
『身』を、
『思量し!』、
わたしの、
『声』を、
『尋ね究めようとした!』が、
わたしの、
『身、声』を、
『測度することができなかった!』。
況して、
わたしの、
『智慧、三昧』は、
『尚更である!』、と。
『偈』に、こう説く通りである、――
諸の、
『法の実相』中には、
諸の、
『梵天王』等の、
一切の、
『天、地の主』も、
『迷惑して!』、
『了解することができない!』。
此の、
『法(法の実相)』は、
甚だ、
『深妙であり!』、
『測量できる!』者が、
『無かった!』が、
『仏』が、
『世間』に、
『出て!』、
悉く、
『解き!』、
『開かれた!』ので、
其れは、
『日』に、
『照らされたように!』、
『明了である!』。
  飢渇(きかつ):うえとかわき。
  寒熱(かんねつ):さむさとあつさと。
  思量(しりょう):おもいはかる。
  尋究(じんぐ):たずねきわめる。
  測度(しきど):はかる。
  迷惑(めいわく):まよいまどう。
  深妙(じんみょう):奥深く微妙。
  測量(しきりょう):はかる。
  開解(かいげ):ひらきとく。
又如佛初轉法輪時。應時菩薩從他方來欲量佛身。上過虛空無量佛剎。至華上佛世界。見佛身如故。菩薩說言
 虛空無有邊 佛功德亦爾
 設欲量其身 唐勞不能盡
 上過虛空界 無量諸佛土
 見釋師子身 如故而不異
 佛身如金山 演出大光明
 相好自莊嚴 猶如春華敷
如佛身無量。光明音響亦復無量。戒定慧等諸佛功德皆悉無量。如密跡經中三密。此中應廣說
又、仏の初めて法輪を転じたもう時の如し。時に応じて菩薩、他方より来たりて、仏身を量らんと欲し、虚空の上を、無量の仏刹を過ぐして、華上仏の世界に至れども、仏身を見れば、故(もと)の如し。菩薩の説いて言わく、
虚空に辺有ること無く、仏の功徳も亦た爾(しか)り
設(たと)い其の身を量ろうと欲するも
唐(いたずら)に労して、尽くす能(あた)わず
上に虚空界を過ぐること、無量諸の仏土なれど
釈の師子身を見れば、故の如くして異ならず
仏の身は金山の如く、大光明を演出し
相好自ら荘厳して、猶お春の華の敷くが如し
仏身の無量なるが如く、光明音響も亦復た無量なり。戒定慧等の諸仏の功徳も、皆悉く無量なること、密跡経中の三密の如し。此の中にも、応に広く説くべし。
又、     ――仏の身業の不可思議を説く――
例えば、
『仏』が、
初めて、
『法輪』を、
『転じられた!』時、
他方より、
『菩薩』が、
『来て!』、
『仏』の、
『身』を、
『量ろうとし!』、
『虚空』上を、
『無量の仏刹(仏の国土)』を、
『過ぎ!』、
『華上仏』の、
『世界』にまで、
『至った!』が、
『仏』の、
『身』は、
『故(もと)のように!』、
『見えた!』。
『菩薩』は、
『偈』を説いて、こう言った、――
『虚空』に、
『辺』が、
『無いように!』、
亦た、
『仏の功徳』も、
『同じである!』。
若し、
『仏』の、
『身』を、
『量ろうとすれば!』、
唐(いたずら)に、
『労しても!』、
『尽すことはできない!』。
『虚空界』上を、
無量の、
『諸仏』の、
『国土』を、
『過ぎて!』、
『釈師子』の、
『身』を、
『見れば!』、
『身』は、
『故のままに!』、
『異ならない!』。
『仏身』は、
譬えば、
『金山のように!』、
『大光明』を、
『演出し!』、
『相好』が、
自ら、
『荘厳して!』、
猶お、
『春の華』を、
『敷いたようだ!』。
『仏』の、
『身』が、
『無量である!』のと、
『同様に!』、
『光明』や、
『音響』も、
亦た、
『無量である!』。
『戒、定、慧』等の、
『諸仏の功徳』も、
亦た、
悉く、
『無量である!』のは、
例えば、
『密跡経』中の、
『三密(仏の身口意)』と、
『同じである!』が、
此の中にも、
『広く!』、
『説くことになるだろう!』。
  他方(たほう):此の世界以外。
  仏刹(ぶっせつ):仏の国土。
  仏土(ぶつど):仏の国土。仏刹。
  釈師子身(しゃくのしししん):釈迦仏の身を師子の身に喩える。
  金山(こんせん):金色に輝く山を仏に喩える。
  演出(えんしゅつ):ひろがる。
  相好(そうごう):仏の三十二の殊特の相と、八十種の好ましい所。『大智度論巻10下注:八十随形好、同巻21下注:三十二相』参照。
  戒定慧(かいじょうえ):持戒、禅定、智慧のこと。『大智度論巻1上注:三学』参照。
  華上仏(けじょうぶつ):大宝積経所載の蓮華上如来。
  三密(さんみつ):如来の身口意業の不可思議なるを云う。
  参考:『大宝積経巻10密迹金剛力士会』:『佛成道未久時。轉法輪遊波羅奈。東方去是世界甚遠。乃得思夷華佛土。世界曰懷調。有菩薩名曰應持。來詣忍界奉覲世尊。稽首作禮敬問供事。禮足下已。繞佛七匝則往其前。應持菩薩時心念言。我欲度知如來身限。自變其身高三百三十六萬里。觀如來身五百四十三萬兆垓二萬億里。則心念言。我獲神足。神通自娛。我寧可復測度佛身所入云何。佛以威德。以神足力。上方去此百億江河沙諸佛國土。有世界名蓮華嚴。其土有佛名蓮華上。如來至真等正覺。現在說法。應持菩薩往在其前。不能睹之。在上而立遙視。永不逮見世尊大聖能仁佛頂。欲見頂相永不得見也。不知佛身高長廣遠幾千億載江河沙佛土。』
  参考:『大宝積経巻10至11密迹金剛力士会』:『如來祕要。有三事。何謂為三。一曰身密。二曰口密。三曰意密何謂身密。如來於斯無所思想。亦不惟念。普現一切威儀禮節。或有諸天人民。自喜經行。見睹如來經行之時。諸天人民心自念言。世尊為上。斯等逮見如來身密。佛之所念亦不思望。一切眾生睹見如來至真妙德威儀。若諸天人喜坐。見如來坐。若諸天人喜臥。見如來臥。‥‥何謂為如來口祕要。其夜如來逮無上正真道。成最正覺。至無餘界泥洹之界。滅度日夜。於其中間。施一文字以能頒宣。一一分別無數億載。講演布散無限義理。所以者何。如來常定。如來至真無出入息。無所思念。亦無所行。無復思想。悉無所行。雖口所宣無想無行。‥‥何謂為如來心祕要。其業清淨。所以因緣一切諸天子所生。以一識慧。壽八萬四千劫。又其神識不轉不變。以為餘識乃至定意還得壽命。從彼終沒。因其所行受身而生。』
  三密(さんみつ):身密、語密、意密をいい、如来自証の三密をいう。如来の三密とは、身語意の三業は本来平等であり、身は語に等しく、語は意に等しいことをいい、皆法界に遍満していることをいう。謂わゆる法仏の平等の三密である。然らば則ち一切の形色は身密であり、一切の音声は語密であり、一切の理は意密である。これを密というのは、人には秘隠されているの意味ではなく、これ等の義は、法仏自証の境であれば、凡人の分が無いが故に密といい、またわれ等には一切平等について、本来これを具えていながら、惑染によりこれを隠秘されているので、これを密というのである。
復次佛初生時墮地行七步。口自發言。言竟便默。如諸嬰孩不行不語。乳餔三歲。諸母養育漸次長大。 復た次ぎに、仏は初めて生まるる時、地に堕ちて七歩行き、口に自ら言を発して、言い竟(おわ)りて便(すなわ)ち黙すること、諸の嬰孩の如し。行かず語らずして、乳餔すること三歳、諸母養育して、漸次長大す。
復た次ぎに、
『仏』は、
初めて、
『生まれた!』時、
『地』に、
『堕ちて!』、
『七歩』、
『行き!』、
『口』に、
自ら、
『言(ことば)』を、
『発しられた!』が、
言ってしまうと、
『黙ってしまい!』、
諸の、
『嬰孩(幼児)のように!』、
『行くこともなく!』、
『語ることもなく!』、
『三歳(三年)』、
『乳』を、
『飲み!』、
諸の、
『母(乳母)』が、
『養育して!』、
『漸次(次第に)!』、
『長大(成長)した!』。
  嬰孩(ようがい):嬰児。
  乳餔(にゅうほ):乳を飲む。
  三歳(さんさい):三年に同じ。
  漸次(ぜんじ):ゆっくりと次第して。
然佛身無數過諸世間。為眾生故現如凡人。凡人生時身分諸根及其意識未成就故。身四威儀坐臥行住言談語默。種種人法皆悉未了。日月歲過漸漸習學能具人法 然(しか)るに仏身は無数にして、諸の世間に過ぎたり。衆生の為の故に凡人の如きを現す。凡人は生時に、身分、諸根、及び其の意識、未だ成就せざるが故に、身の四威儀、坐臥行住、言談語默、種種の人法、皆悉く、未だ了せず。日月歳過ぎ、漸漸に習学して、能く人法を具す。
然(しか)し、
『仏』の、
『身』は、
『実に!』、
『無数であり!』、
諸の、
『世間の人』を、
『超えている!』。
『仏』は、
『衆生』の為の故に、
『凡人のように!』、
『現されたのである!』。
『凡人』は、
『生まれる!』時、
『身の分』や、
『諸の根』や、
『意識』は、
未だ、
『成就(成熟)していない!』が故に、
『身』の、
『四威儀である!』、
『坐、臥、行、住』や、
『口』の、
『言、談、語、黙』や、
種種の、
『人法(人の機能/要素)』は、
皆、
悉く、
『完全でなく!』、
『日、月、歳』を、
『過ごして!』、
『漸漸と(徐々に)!』、
『習学して!』、
漸く、
『人法』を、
『具えることができるのである!』。
  身分(しんぶん):身の部分。
  諸根(しょこん):外境に接する根本器官。即ち眼耳鼻舌身意の六根を云う。
  身四威儀(みのしいぎ):身を以ってする坐臥行住を云う。
  坐臥行住(ざがぎょうじゅう):すわると、ふせると、あるくと、とまると。
  言談語默(ごんだんごもく):言はことばを発すること。談はあれこれ相手とはなすこと。語はことばをもって意志を通ずること。默はだまること。
  人法(にんぽう):人と名づけたる法、即ち事物の意。『大智度論巻1上注:法』参照。
  未了(いまだりょうせず):まだはっきりしない。
  漸漸(ぜんぜん):ゆっくりと。
今佛云何生。便能語能行。後更不能以此致怪。但為此故以方便力現行人法如人威儀。令諸眾生信於深法。 今、仏は云何(いか)んが生じて、便ち能く語り、能く行くに、後に更に能わざる。此(ここ)を以って怪を致すが故に、但だ此の為の故に、方便の力を以って、人法を行ずること、人の威儀の如くなるを現し、諸の衆生をして深法を信ぜしむ。
今、
『仏』は、
何故、
『生まれた!』時には、
便ち(難無く)、
『語ることができ!』、
『行くことができた!』のに、
後には、
更に(もう)、
『出来なくなったのか?』。
此の故に、
『怪訝』を、
『招く!』ので、
但だ、
此の、
『事』の為の故に、
『方便』の、
『力』を、
『用いて!』、
例えば、
『人』の、
『威儀のような!』、
『人法』を、
『現して!』、
『行い!』、
諸の、
『衆生』に、
『深い法』を、
『信じさせられたのである!』。
  致怪(けをいたす):怪訝の意をまねく。
  方便(ほうべん):智慧より出る所の方法。『大智度論巻25上注:善巧方便、同巻41下注:方便』参照。
  方便(ほうべん):般若に対する言葉であり、則ち真如の智に達するを般若と為し、権道の智に達するを方便と為すを謂う。権道とは乃ち他を利益する手段方法である。この釈に依れば則ち大小乗一切の仏教は、概ねこれを称して方便と為す。方とは方法、便とは使用、使用とは一切の衆生の機に適合する方法をいう。また方を方正の理と為し、便とは巧妙なる言辞と為す。種種の機に対して、方正の理と巧妙なる言を用いることである。また方とは衆生の方域、便とは教化の便法として、諸の機の方域に応じて、適化の便法を用いる。
  賢聖(けんじょう):賢とは善に和するの義。善に和し、悪を離れるといえども、未だ無漏の智を発さず、理を証せず、惑を断たずして、凡夫の位に在る者を、賢といい、既に無漏の智を発して理を証し、惑を断じるに次いで凡夫の性を捨てたる者を聖という。見道前の七方便の位を賢といい、見道以上を証という。
若菩薩生時便能行能語。世人當作是念。今見此人世未曾有。必是天龍鬼神。其所學法必非我等所及。何以故。我等生死肉身為結使業所牽不得自在。如此深法誰能及之。以此自絕不得成賢聖法器。為是人故。於嵐毘尼園中生 若しは菩薩生るる時、便ち能く行き、能く語らば、世人は、当に是の念を作すべし、『今見る此の人は、世に未だ曽(かつ)て有らず。必ず是れ天、龍、鬼神ならん。其の学ぶ所の法も、必ず我等の及ぶ所に非ず。何を以っての故に、我等が生死の肉身は、結使の業の為に牽かれて、自在を得ざればなり。此の深法の如き、誰か能く之に及ばん。』と。此の自ら絶えて、賢聖の法器と成るを得ざる以って、是の人の為の故に、嵐毘尼園中に生じたまえり。
若し、
『菩薩』が、
『生まれた!』時に、
便ち(難無く)、
『行くことができ!』、
『語ることができれば!』、
『世間の人』は、
是の念を作すはずである、――
今、
『見る!』、
此の、
『人』は、
『世間』に、
『未曽有である!』。
必ず、
是れは、
『天か!』、
『龍か!』、
『鬼神だろう!』。
其の、
『学ぶ!』所の、
『法』も、
必ず、
わたし達の、
『及ぶ所ではないだろう!』。
何故ならば、
わたし達の、
『生、死の肉身』は、
『結使の業』に、
『牽()かれて!』、
『自在でないからである!』。
誰が、
此のような、
『深い!』、
『法』に、
『及ぶことができるのか?』、と。
此の、
自ら、
『道』を、
『絶やして!』、
『賢聖の法器』と、
『成ることができない!』が故に、
是の、
『人』の為に、
『嵐毘尼園』中に、
『生まれられたのである!』。
  賢聖法器(けんじょうのほうき):仏法を受ける器。
  嵐毘尼園(らんびにおん):花園の名。『大智度論巻26上注:藍毘尼園』参照。
雖即能至菩提樹下成佛。以方便力故。而現作孩童幼小年少成人。於諸時中次第而受嬉戲術藝服御五欲。具足人法。後漸見老病死苦生厭患心。於夜中半踰城出家。到鬱特伽阿羅洛仙人所。現作弟子而不行其法。雖常用神通自念宿命。迦葉佛時持戒行道。而今現修苦行六年求道 即ち、能く菩提樹下に至りて、仏と成ると雖(いえど)も、方便力を以っての故に、孩童、幼小、年少、成人と作るを現し、諸の時中に於いて、次第に嬉戯、術藝、服御、五欲を受けて、人法を具足し、後に漸(ようや)く、老病死の苦を見て、厭患心を生じ、夜中の半ばに於いて、城を踰えて出家し、鬱特伽、阿羅洛仙人の所に到りて弟子と作るを現したまえるも、其の法を行ぜず、常に神通を用いて、自ら宿命を念じたもうに、迦葉仏の時の持戒、行道すと雖も、今、苦行を修めて、六年の求道を現したもう。
即座に、
『菩提樹』下に、
『至って!』、
『仏』と、
『成ることもできた!』が、
『方便の力』を、
『用いた!』が故に、
『孩童(児童)』、
『幼小(幼年)』、
『年少(少年)』、
『成人』と、
『作る!』ことを、
『現された!』。
諸の、
『時期』中に於いて、
次第に、
『嬉戯(遊び)』、
『術藝(学問)』、
『服御(乗馬)』、
『五欲(色、声、香、味、触欲)』を、
『受けて!』、
『人法』を、
『具足(満足)し!』、
後に、
漸く、
『老、病、死の苦』を、
『見て!』、
『厭患の心』を、
『生じられ!』、
夜半に、
『城』を、
『踰えて!』、
『出家し!』、
『鬱特伽、阿羅洛』という、
『仙人の所』に、
『到って!』、
『弟子と作る!』ことを、
『現された!』が、
其の、
『法』を、
『用いられず!』、
常に、
『神通』を、
『用いて!』、
自ら、
『宿命(過去世の生)』を、
『念じられる!』と、
已に、
『迦葉仏の時』、
『持戒して!』、
『道を行っていたのである!』が、
今、
復た、
『苦行』を、
『修めて!』、
『六年』、
『道を求める!』ことを、
『現されたのである!』。
  孩童(がいどう):小児。
  嬉戯(きげ):あそびたわむれること。
  術藝(じゅつげい):六藝。即ち礼、楽、射、御、書、数を云う。
  服御(ふくぎょ):馬に乗り、車を御すること。
  五欲(ごよく):色声香味触の五境を云う。
  厭患心(えんげんしん):いといわずらわしく思う心。
  鬱特伽(うっどか):梵名udraka、仙人の名。又鬱頭藍に作る。『大智度論巻22上注:数論』参照。
  阿羅洛(あららく):梵名aaraadakaalaama、仙人の名。又阿羅藍に作る。『大智度論巻22上注:数論』参照。
  迦葉仏(かしょうぶつ):過去の仏の名。『大智度論巻4上注:迦葉仏』参照。
  行道(ぎょうどう):道を求めて修行すること。
  宿命(しゅくみょう):過去の生活。
  求道(ぐどう):道を探しもとめること。
菩薩雖主三千大千世界而現破魔軍成無上道。隨順世法故現是眾變。今於般若波羅蜜中。現大神通智慧力故。諸人當知。佛身無數過諸世間 菩薩は、三千世界の主たりと雖も、魔軍を破りて、無上道を成ずるを現し、世法に随順するが故に、是の衆変を現したまえり。今、般若波羅蜜中に於いて、大神通と智慧との力を現したもうが故に、諸人は、当に、『仏の身は無数にして、諸の世間を過ぎたり』と知るべし。
『菩薩』が、
『三千大千世界』の、
『主でありながら!』、
而も、
『魔の軍』を、
『破って!』、
『無上の道』を、
『完成する!』ことを、
『現された!』のは、
『世法』に、
『随順された!』が故に、
是のような、
『衆変(多くの神変)』を、
『現されたのである!』。
今、
『般若波羅蜜』中に於いて、
『大神通』と、
『智慧の力』を、
『現された!』が故に、
諸の、
『人』は、こう知ることになる、――
『仏の身』は、
『無数であり!』、
諸の、
『世間』を、
『超えている!』、と。
  随順(ずいじゅん):したがってさからわない。
  衆変(しゅへん):神通力による多くの変事。多くの神変。
復次有人應可度者。或墮二邊。或以無智故。但求身樂。或有為道故修著苦行。如是人等於第一義中失涅槃正道。佛欲拔此二邊令入中道故。說摩訶般若波羅蜜經 復た次ぎに、有る人は、応に度すべき者なるも、或いは二辺に堕ち、或いは無智なるを以っての故に、但だ身の楽を求め、或いは道の為の故に、苦行を修著する有り。是の如き人等は、第一義中に於いて、涅槃の正道を失えば、仏は、此の二辺より抜いて、中道に入れしめんと欲したもうが故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。
復た次ぎに、     ――有、無の二辺を離れさせる――
有る、
『人』は、
『度されるはずである!』が、
或は、
『二辺』に、
『堕ちたり!』、
或は、
『無智』の故に、
但だ、
『身の楽』のみを、
『求めたり!』、
或は、
『有為(生死)の道』の為に、
『苦行』を、
『修めて!』、
『執著する!』。
是れ等のような、
『人』は、
『第一義』中に於いて、
『涅槃』の、
『正道』を、
『失っている!』ので、
『仏』は、
此の、
『二辺』より、
『抜いて!』、
『中道』に、
『入れたい!』と、
『思い!』、
故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  二辺(にへん):善悪の果報の有無等、相反する二種の見解を云う。『大智度論巻26上注:五見、同巻41下注:十結』参照。
  修著(しゅじゃく):執著して修める。
  第一義(だいいちぎ):諸法の実相。『大智度論巻1上注:第一義』参照。
  中道(ちゅうどう):二辺を離れた道。二辺に執著しない道の意。『大智度論巻43上注:中道』参照。
復次分別生身法身供養果報故。說摩訶般若波羅蜜經。如舍利塔品中說 復た次ぎに、生身、法身の供養の果報を分別したもうが故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。舎利塔品中に説くが如し。
復た次ぎに、     ――法身を供養することを説く――
『仏』を、
『供養する!』、
『果報』に於いて、
『生身』と、
『法身』とを、
『分別する!』が故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
例えば、
『舎利塔品』中に、
『説かれた通りである!』。
  生身(しょうじん):父母所生の身の意。『大智度論巻16下注:生身』参照。
  法身(ほうしん):仏所説の法を仏の真実身と為す。『大智度論巻16下注:法身』参照。
  参考:『大品般若経巻10法称品』:『復次世尊。是摩尼寶。若著篋中舉寶出。其功德薰篋故人皆愛敬。如是世尊在所在處。有書般若波羅蜜經卷。是處則無眾惱之患。亦如摩尼寶所著處則無眾難。世尊。佛般涅槃後舍利得供養。皆是般若波羅蜜力。禪那波羅蜜乃至檀那波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切智法相法住法位法性。實際不可思議性一切種智是諸功德力。善男子善女人作是念。是佛舍利一切智一切種智大慈大悲。斷一切結使及習。常捨行不錯謬法等諸佛功德住處。以是故。舍利得供養。世尊。舍利是諸功德寶波羅蜜住處。不垢不淨波羅蜜住處。不生不滅波羅蜜。不入不出波羅蜜不增不損波羅蜜。不來不去不住波羅蜜。是佛舍利。是諸法相波羅蜜住處。以是諸法相波羅蜜修薰故舍利得供養。』
復次欲說阿鞞跋致阿鞞跋致相故說。又為魔幻魔事故說 復た次ぎに、阿毘跋致と、阿毘跋致の相とを説かんと欲したもうが故に説き、又魔幻、魔事の為の故に説きたまえり。
復た次ぎに、     ――阿鞞跋致と魔事とを説く――
『阿鞞跋致(不退)』と、
『阿鞞跋致の相』とを、
『説こうとし!』、
又、
『魔の幻』と、
『魔の事(仕事)』とを、
『説こうとされた!』が故に、
『説かれた!』。
  阿鞞跋致(あびばっち):梵語avinivartaniiya、不退と訳す。菩薩の地より退かないの意。『大智度論巻36上注:阿鞞跋致』参照。
  魔幻(まげん):魔の現す幻事。『大智度論巻5下注:魔』参照。
  魔事(まじ):摩の仕事。『大品般若経巻13魔事品』、『大智度論巻68釈魔事品』参照。
  参考:『大品般若経巻13魔事品』:『爾時慧命須菩提白佛言。世尊。是善男子善女人發阿耨多羅三藐三菩提心。行六波羅蜜成就眾生淨佛國土。佛已讚歎說其功德。世尊。云何是善男子善女人求於佛道生諸留難。佛告須菩提。樂說辯不即生。當知是菩薩魔事。須菩提言。世尊。何因緣故。樂說辯不即生是菩薩魔事。佛言。有菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。難具足六波羅蜜。以是因緣故樂說辯不即生是菩薩魔事。復次須菩提。樂說辯卒起。當知亦是菩薩魔事。世尊。何因緣故。樂說辯卒起復是魔事。佛言。菩薩摩訶薩行檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜著樂說法。以是因緣故樂脫辯卒起。當知是菩薩魔事。‥‥』
復次為當來世人供養般若波羅蜜因緣故。又欲授三乘記別故。說是般若波羅蜜經。如佛告阿難。我涅槃後。此般若波羅蜜。當至南方。從南方至西方。後五百歲中當至北方。是中多有信法善男子善女人。種種華香瓔珞幢幡伎樂燈明珍寶以財物供養。若自書若教人書。若讀誦聽說。正憶念修行。以法供養。是人以是因緣故。受種種世間樂。末後得三乘入無餘涅槃。如是等觀諸品中因緣事故。說般若波羅蜜經 復た次ぎに、当来の世の人の般若波羅蜜を供養する因縁の為の故に、又三乗の記別を授けんと欲したもうが故に、是の般若波羅蜜を説きたまえり。仏の阿難に告げたまえるが如し、『我が涅槃の後、此の般若波羅蜜は、当に南方に至り、南方より西方に至るべく、後の五百歳中に当に北方に至るべし。是の中に多く法を信ずる善男子、善女人有り、種種の華香、瓔珞、幢幡、伎楽、灯明、珍宝、以って財物の供養し、若(も)しは自ら書き、若しは人に教えて書かしめ、若しは読誦、聴説、正憶念、修行して、以って法の供養せん。是の人は是の因縁を以っての故に、種種の世間の楽を受け、末後には三乗を得て、無余涅槃に入らん。』と。是の如き等の諸品中の因縁事を観る故に、般若波羅蜜を説きたまえり。
復た次ぎに、   ――記別の因縁を観る――
『当来の世(来世)の人』が、
『般若波羅蜜』を、
『供養する!』、
『因縁とする!』為の故に、
又、
『三乗』の、
『記別』を、
『授けようとされた!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
例えば、こうである、――
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
わたしの、
『涅槃の後』、
此の、
『般若波羅蜜』は、
『南方』に、
『至り!』、
『南方』より、
『西方』に、
『至るだろう!』。
その後の、
『五百歳』中に、
『西方』より、
『北方』に、
『至るだろう!』。
是の中に、
『法』を、
『信じる!』、
『善男子、善女人』が、
『多く!』、
『有り!』、
種種の、
『華香、瓔珞、幢幡、伎楽、灯明、珍宝』の、
『財物』を、
『用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『供養するだろう!』。
若しくは、
自ら、
『般若波羅蜜』を、
『書き!』、
若しは、
『人』に、
『教えて!』、
『書かせ!』、
若しは、
自ら、
『読誦し!』、
『聴き!』、
『説き!』、
『正憶念し!』、
『修行する!』ことを、
『用いて!』、
『法』を、
『供養するだろう!』。
是の、
『人』は、
是の、
『因縁』の故に、
種種の、
『世間の楽』を、
『受け!』、
『末後(最後)』には、
『三乗の法』を、
『得て!』、
『無余涅槃』に、
『入るだろう!』、と。
是れ等のように、
『諸品』中に、
『因縁の事』を、
『観る!』が故に、
『仏』は、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  三乗記別(さんじょうのきべつ):仏が弟子等の為に、将来の阿羅漢果、辟支仏道、仏果を予告すること。
  記別(きべつ):記録して区別する( to record and differentiate )、梵語 vyaakaraNa の訳、分離/区別/差別( separation, distinction, discrimination )、説明/詳細記述( explanation, detailed description )の義、[仏教徒に於いては]予測/予言( (with Buddhists) prediction, prophecy )の義、保証/仏が弟子の将来の仏果(成仏)を予告すること( Guarantee; prediction; the Buddha's foretelling of the future of his disciples to Buddhahood. )の意。
  阿難(あなん):梵名aananda、仏の侍従の名。『大智度論巻24下注:阿難』参照。
  善男子(ぜんなんし):男の信者。
  善女人(ぜんにょにん):女の信者。
  華香(けこう):花と香木。
  瓔珞(ようらく):垂して胸等を飾るもの。
  幢幡(どうばん):旗の類の荘厳具。
  伎楽(ぎがく):音楽。
  財物供養(ざいもつのくよう):財物を以って供養するの意。法供養に対す。
  読誦(どくじゅ):経を読むと、経を諳誦すると。
  聴説(ちょうぜつ):説法を聴く。
  正憶念(しょうおくねん):正しく記憶する。
  法供養(ほうのくよう):法の書写、読誦、聴説、正憶念、修行等を以って供養する。財供養に対す。
  無余涅槃(むよねはん):肉体を滅尽し、生死の苦を永く離れたる涅槃の意。『大智度論巻1上注:涅槃』参照。
  参考:『大品般若経巻13聞持品』:『舍利弗言。世尊。十方現在無量無邊阿僧祇諸佛。皆識皆以佛眼見是善男子善女人書深般若波羅蜜時乃至修行時。佛言。如是如是。舍利弗。十方現在無量無邊阿僧祇諸佛。皆識皆以佛眼見是善男子善女人書深般若波羅蜜時乃至修行時。舍利佛。是中求菩薩道善男子善女人。若書是深般若波羅蜜。受持讀誦正憶念如說修行。當知是人近阿耨多羅三藐三菩提不久。舍利弗。善男子善女人書是深般若波羅蜜。受持讀誦乃至正憶念。是人於深般若波羅蜜多信解相。亦供養恭敬尊重讚歎是深般若波羅蜜。華香瓔珞乃至幡蓋供養。舍利弗。諸佛皆識皆以佛眼見是善男子善女人。是善男子善女人供養功德當得大利益大果報。舍利弗。是善男子善女人以是供養功德因緣故終不墮惡道中。乃至阿惟越致地終不遠離諸佛。舍利弗。是善男子善女人是善根因緣故。乃至阿耨多羅三藐三菩提終不遠離六波羅蜜。終不遠離內空乃至無法有法空。終不遠離四念處乃至八聖道分。終不遠離佛十力乃至阿耨多羅三藐三菩提。舍利弗。是深般若波羅蜜佛般涅槃後當至南方國土是中比丘比丘尼優婆塞優婆夷。當書是深般若波羅蜜。當受持讀誦思惟說正憶念修行。以是善根因緣故終不墮惡道中受天上人中樂增益六波羅蜜。供養恭敬尊重讚歎諸佛。漸以聲聞辟支佛佛乘而得涅槃。舍利弗。是深般若波羅蜜從南方當轉至西方。所在處是中比丘比丘尼優婆塞優婆夷。當書是深般若波羅蜜。當受持讀誦思惟說正憶念修行。以是善根因緣故終不墮惡道中。受天上人中樂增益六波羅蜜。供養恭敬尊重讚歎諸佛。漸以聲聞辟支佛佛乘而得涅槃。舍利弗。是深般若波羅蜜從西方當轉至北方。所在處是中比丘比丘尼優婆塞優婆夷。當書是深般若波羅蜜。當受持讀誦思惟說正憶念修行。以是善根因緣故終不墮惡道中。受天上人中樂增益六波羅蜜。供養恭敬尊重讚歎諸佛。漸以聲聞辟支佛佛乘而得涅槃。』
  三乗(さんじょう):乗は運載、または乗り物の義。永遠の菩薩行を信奉する者たちは自らを大乗と称し、安楽の境地を自身のみに求める者たちを小乗、更にその小乗を二分して声聞、辟支仏と称した。
  (1)声聞(しょうもん):仏の声を聞いた者。仏に依り安楽な境地を求めて煩悩を断とうとする聖者。
  (2)辟支仏(びゃくしぶつ):無仏、無法の時に世に出て、仏に依らず煩悩を断った聖者。
  (3)菩薩:一切の衆生を済度してから涅槃に入る永遠の修行者。菩薩の船は大きいので大乗という。



四種の悉檀

復次佛欲說第一義悉檀相故。說是般若波羅蜜經。有四種悉檀。一者世界悉檀。二者各各為人悉檀。三者對治悉檀。四者第一義悉檀。四悉檀中一切十二部經。八萬四千法藏。皆是實無相違背。佛法中有。以世界悉檀故實有。以各各為人悉檀故實有。以對治悉檀故實有。以第一義悉檀故實有 復た次ぎに、仏は第一義悉檀の相を説かんと欲したもうが故に、是の般若波羅蜜を説きたまえり。四種の悉檀有り、一には世界悉檀、二には各各為人悉檀、三には対治悉檀、四には第一義悉檀なり。四悉檀中に、一切の十二部経、八万四千の法蔵は、皆、是れ実にして、相違背する無し。仏法中には、有るは世界悉檀を以っての故に実なり、有るは各各為人悉檀を以っての故に実なり、有るは対治悉檀を以っての故に実なり、有るは第一義悉檀を以っての故に実有なり。
復た次ぎに、     ――第一義悉檀の相を説く――
『仏』は、
『第一義悉檀の相』を、
『説こう!』と、
『思われた!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
『悉檀』には、
『四種』有り、
一には、
『世界悉檀』、
二には、
『各各為人悉檀』、
三には、
『対治悉檀』、
四には、
『第一義悉檀である!』。
『四悉檀』中には、
一切の、
『十二部経』や、
『八万四千の法蔵』は、
皆、
『実であり!』、
互に、
『違背する!』ことが、
『無い!』。
『仏法』中の、
『有』とは、
或は、
『世界悉檀』を、
『用いる!』が故に、
『実に!』、
『有であり!』、
或は、
『各各為人悉檀』を、
『用いる!』が故に、
『実に!』、
『有であり!』、
或は、
『対治悉檀』を、
『用いる!』が故に、
『実に!』、
『有であり!』、
或は、
『第一義悉檀』を、
『用いる!』が故に、
『実に!』、
『有である!』。
  四種悉檀(ししゅのしっだん):四種の悉檀の意。即ち十二部経中の一切の経論を、四種の悉檀中に摂するを以って、相違背すること無からしめんと欲して建立せるものなり。『大智度論巻1上、並びに同注:四悉檀』参照。
  四悉檀(ししっだん):四種の悉檀の意。又略して四悉とも云う。悉檀は梵語siddhaanta、成就、宗、又は理等と訳す。「法華玄義巻1下」に悉檀を梵漢兼挙の語とし、悉は徧、檀は檀那daanaの略にして施と訳すと云うも正しからず。即ち仏法中の所説に四種の範疇あるが故に各其の義を成じて互いに相違背せざるを云う。一に世界悉檀、二に各各為人悉檀、三に対治悉檀、四に第一義悉檀なり。「大智度論巻1」に、「四種の悉檀あり、一には世界悉檀、二には各各為人悉檀、三には対治悉檀、四には第一義悉檀なり。四悉檀の中に一切の十二部経、八万四千の法蔵を総摂す。皆是れ実にして相違背するものなし。仏法の中には世界悉檀を以っての故に実有なり、各各為人悉檀を以っての故に実有なり、対治悉檀を以っての故に実有なり、第一義悉檀を以っての故に実有なるものあり」と云える是れなり。是れ蓋し仏法中に種種の説あり、一見矛盾なるが如きもの少なからずと雖も、其れ等は世界悉檀等の義に依れるものにして、各皆実義なるを明にするの意なり。此の中、世界悉檀とは世間に随順して我人あり等と説くを云う。「大智度論巻1」に、「云何が世界悉檀と名づくる、法あり因縁に随って和合するが故に有り、別の性なし。譬えば車の如き轅軸輻輞等和合するが故に有り、別の車なし。人も亦た是の如し、五衆和合するが故に有り、別の人なし。(中略)若し実に人なくんば、仏云何ぞ我れ天眼を以って衆生を見ると言うや。是の故に当に知るべし、人ありとは世界悉檀の故なり、是れ第一義悉檀には非ず。(中略)譬えば乳の如き色香味触の因縁あるが故に是の乳あり、若し乳実に無くんば乳の因縁も亦た応に無かるべし、今乳の因縁実に有るが故に乳も亦た応に有るべし。一人の第二頭第三手の如き、因縁なくして而も仮名のみ有るには非ず。是の如き等の相を名づけて世界悉檀と為す」と云える是れなり。是れ世間に随順するが為に、因縁和合の義により我人ありと説くが如きを世界悉檀と名づくるの意なり。次に各各為人悉檀とは、一事の中に於いて或る者に対しては之を許し、或る者に対しては之を許さず、機の宜しき所に随って施設するを云う。「大智度論巻1」に、「云何が各各為人悉檀と名づくる、人の心行を観じて為に法を説くに一事の中に於いて或るは聴し、或は聴さず。経の中に説く所の如し、雑報業の故に世間に雑生して雑触を得、雑受を得と。更に破群那経の中に説くことあり、人の触を得るものなく、人の受を得るものなしと。問うて曰わく、此の二経云何が通ずる、答えて曰わく、人あり後世を疑い罪福を信ぜずして不善の行を作し、断滅の見に堕するを以って、彼の疑を断じ、彼の悪行を捨てしめんと欲し、彼の断見を抜かんと欲す、是の故に世間に雑生し雑触を得、雑受を得と説くなり。是の破群那は我あり神ありと計して計常の中に堕す。破群那仏に問うて言わく、大徳誰か受くると。若し仏某甲某甲受くと説かば便ち計常中に堕し、其の人の我見倍復た牢固にして移転すべからず。是を以っての故に受者触者ありと説かず。是の如きの相は是れを名づけて各各為人悉檀と為す」と云える是れなり。是れ断滅の見に堕する者に対して業果の法ありと説き、破群那の如き計常論者に対しては受報の者なしと説くが如きを名づけて各各為人悉檀となすの意なり。次に対治悉檀とは病に応じて薬を説くが如く、多貪等の人の為に各其の対治の法を示すを云う。「大智度論巻1」に、「云何が対治悉檀と名づくる、法あり対治には則ち有り、実性には則ち無し。譬えば重熱せる膩酢鹹の薬草飲食等は、風病の中に於いては名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若しは軽冷なる甘苦渋の薬草飲食等は、熱病に於いては名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若しは軽き辛苦渋の熱せる薬草飲食等は、冷病の中に於いては名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ざるが如し。仏法中に心病を治するも亦た是の如く、不浄観の思惟は貪欲病の中に於いては名づけて善対治の法と為すも、瞋恚病の中に於いては名づけて善と為さず、対治の法に非ず。所以は何ぞ、身の過失を観ずるを不浄観と名づく、若し瞋恚の人あり過失を観ぜば、則ち瞋恚の火を増益するが故なり。慈心を思惟するが瞋恚病の中に於いては名づけて善対治の法と為すも、貪欲病の中に於いては名づけて善と為さず、対治の法に非ず。所以は何ぞ、慈心は衆生の中に於いて好事を求め功徳を観ず。若し貪欲の人あり、好事を求め功徳を観ぜば則ち貪欲を増益するが故なり。因縁観の法は愚癡病の中に於いては名づけて善対治の法と為すも、貪欲瞋恚病の中に於いては名づけて善と為さず、対治の法に非ず。所以は何ぞ、邪観を先とするが故に邪見を生ず、邪見は即ち是れ愚癡なればなり」と云える是れなり。是れ不浄観は貪欲病の為に善対治となるも、瞋恚病の為には対法とならず、是の如く病に対して各其の法薬の真実なるを対治悉檀と名づくるなり。次に第一義悉檀とは前の三の如く世界乃至対治等の義に由らず、直に第一義によりて諸法実相の理を詮明するを云う。「大智度論巻1」に、「云何が第一義悉檀と名づくる、一切の法性、一切の論議語言、一切の是法非法は一一に分別し破散すべし。諸仏辟支仏阿羅漢所行の真実の法は破すべからず散ずべからず。上の三悉檀の中に於いて通ぜざる所の者は此の中に皆通ず。(中略)一切の語言の道を過ぎて心行処滅し、遍く所依なく諸法を示さず、諸法実相にして初なく中なく後なく、尽きず壊せず、是れを第一義悉檀と名づく。摩訶衍義偈の中に説くが如し、語言尽き竟り、心行亦た訖る。生ぜず滅せず、法涅槃の如し。諸の行処を説くを世界法と名づけ、不行処を説くを第一義と名づく。一切実、一切非実、及び一切実亦非実、一切非実非不実、是れを諸法の実相と名づくと。是の如き等の処処の経中に第一義悉檀を説く、是の義甚深にして見難く解し難し。仏是の義を説かんと欲するが故に摩訶般若波羅蜜経を説く」と云える是れなり。是れ一切の論議語言は悉く破散すべきも、諸仏及び辟支仏阿羅漢等の所行の法は真実にして破散すべからず、語言の道を過ぎ、心行処滅するを名づけて第一義悉檀となすの意なり。「法華経玄義巻1下」に、第一義悉檀に可説不可説の二種ありとし、諸仏等の所得の法を不可説とし、一切実、一切不実等の四句を可説に約すとなせり。又「法華経玄義巻1下」等には之を生滅等の四教の四諦に配し、世界悉檀を蔵教生滅の四諦、為人悉檀を通教無生の四諦、対治悉檀を別教無量の四諦、第一義悉檀を円教無作の四諦に配し、且つ広く諸義を分別せり。又「大乗義章巻2」、「維摩経玄疏巻1」、「大乗法苑義林章巻1末」、「法華経玄賛巻4」、「華厳五十要問答巻下」、「華厳経孔目章巻3」、「同探玄記巻3」等に出づ。<(望)
  十二部経(じゅうにぶきょう):仏の教説を十二部に分類せしもの。『大智度論巻22上注:十二部経』参照。
  実有(じつう):実に有る。空のみが真の有なることを云う。
  四悉檀(ししつだん):悉檀とは成就と訳し、仏の説法は四悉檀を出でず。この四法を以って衆生の仏道を成就する。
    世界悉檀:仏は先ず、凡情の人我等の仮名を用いるのに順じ、衆生の楽しむ所に随順して世界の法を説き、聞く者をして歓喜適悦せしむ。
    各各為人悉檀:仏は法を、衆生の機に鑑みて説く。機の宜しきの大小、種子を宿せることの浅深に随いて各人に応ずる所の法を説き、彼をして正信を発起せしめ、善根を増長せしむ。
    対治悉檀:貪欲の多き者には慈心を教え、愚癡の多き者には因縁観を教え、かくの如く種種の法薬を施して、衆生の悪病を除く。
    第一義悉檀:仏は衆生の機縁既に熟せるを見、諸法の実相を説いて彼をして真証に入らしむ。
  これを要すれば、仏は始め浅近の事理を説いて聞く者をして悦ばしむ、これが世界である。衆生をして善根を生ぜしむ、これが為人である。衆生の悪病を除く、これが対治である。遂に悟らしめて聖道に入らしむ、これが第一義である。
  十二部経:一切の経を十二に分かつ。『大智度論巻33』
    修多羅(しゅたら):契経 と訳す。経典中の直説の法の義、長行の文をいう。契経とは理に契 い、機に契う経典の意。長行は定型句や韻文でない普通文をいう。
    祇夜(ぎや):応頌 と訳す。前の長行の文に応じ重ねてその義を頌で宣べる。頌は定型句。
    伽陀(かだ):諷頌 と訳す。長行に依らず、直ちに偈頌の句を作る者。法句経の如きもの。
    尼陀那(にだな):因縁と訳す。仏を見て法を聞く因縁及び仏の説法教化の因縁の処を説く。諸経の序品の如きは、即ち因縁経である。
    伊帝目多伽(いていもくたか):本事と訳す。仏が弟子の過去世の因縁を説く。
    闍多伽(じゃたか):本生と訳す。仏が自身の過去世の因縁を説く。
    阿浮達摩(あぶだつま):未曾有と訳す。仏の現す種種の神力、不思議の事を記す。
    阿波陀那(あばだな):譬喩と訳す。譬喩する処を説く。
    憂波提舎(うばだいしゃ):論議と訳す。法理の論議、問答を記す。
    優陀那(うだな):自説と訳す。問う者無く、仏が自ら説く。阿弥陀経の如きもの。
    毘仏略(びぶつりゃく):方広と訳す。方正広大の真理を説く。
    和伽羅(わから):授記と訳す。菩薩に成仏の記を授ける。
  この十二部中、修多羅、祇夜、伽陀の三者は、経文上の体裁、余の九部はその経文所載の別事に従って名を立てる。



世界悉檀

世界者有法從因緣和合故有無別性。譬如車轅軸輻輞等和合故有無別車。人亦如是。五眾和合故有無別人。若無世界悉檀者。佛是實語人。云何言我以清淨天眼見諸眾生隨善惡業死此生彼受果報。善業者生天人中。惡業者墮三惡道 世界とは、有る法は、因縁の和合によるが故に有りて、別の性無し。譬えば車の轅、軸、輻、輞等の和合の故に有りて、別の車無きが如し。人も亦た是の如く、五衆の和合の故に有りて、別の人無し。若し世界悉檀無くんば、仏は是れ実語の人なるに、云何が、『我れは、清浄の天眼を以って、諸の衆生を見るに、善悪の業に随いて、此(ここ)に死して彼(かしこ)に生じ、果報を受く。善業の者は天、人中に生じ、悪業の者は三悪道に堕す。』と言(のたま)える。
『世界悉檀』とは、――
有る、
『法』は、
『因縁』の、
『和合』の故に、
『有る!』が、
別の、
『性』は、
『無い!』。
例えば、
『車』の、
『轅(ながえ)』や、
『軸(じく)』、
『輻()』、
『輞(おおわ)』等の、
『和合』の故に、
『有り!』、
別の、
『車』は、
『無いように!』、
『人』も、
是のように、
『五衆(色、受、想、行、識)』の、
『和合』の故に、
『有り!』、
別の、
『人』は、
『無い!』。
若し、
『世界悉檀』が、
『無ければ!』、
『仏』は、
『実語の人である!』のに、
何故、こう言われたのだろう?――
わたしは、
『清浄な!』、
『天眼』で、こう見た、――
諸の、
『衆生』は、
『善、悪の業』に、
『随って!』、
『此(ここ)に死に!』、
『彼(かしこ)に生まれて!』、
『果報』を、
『受ける!』。
『善業の者』は、
『天、人』中に、
『生まれ!』、
『悪業の者』は、
『三悪道』中に、
『堕ちるのである!』、と。

  (ほう):梵語dharmaの訳語、自性を保持して改変せざるもの、或いはそのように見えるものの意。通常事物の孰れをも指す。此の中に因縁所生の法を有為法といい、有為法に非ざる法を無為法という。『大智度論巻23上注:有為、同巻32上注:法、同巻43上注:無為法』参照。
  五衆(ごしゅ):五衆の積聚の意。又五蘊、五陰と称す。即ち色受想行識の総称。『大智度論巻1上注:五蘊』参照。
  五蘊(ごうん):梵語paJca skandhaaHの訳。巴梨語paJca khandhaa、又五陰、五衆、或いは五聚とも云う。五種の積聚の意。三科の一。即ち一切有為の法を類聚するに五種の別あるを云う。一に色蘊ruupa-skandha(巴梨語ruupa-khandha)、二に受蘊vedanaa-s.(巴vedanaa-kh.)、三に想蘊aMjJaa-s.(巴saJJaa-kh.)、四に行蘊saMskaara-s.(巴saGkhaara-kh.)、五に識蘊vijJaana-s.(巴viJJaaNa-kh.)なり。「集異門足論巻11」に、「五蘊とは一に色蘊、二に受蘊、三に想蘊、四に行蘊、五に識蘊なり。云何が色蘊なる。答う、諸の所有の色の若しは過去、若しは未来、若しは現在、若しは内、若しは外、若しは麁、若しは細、若しは劣、若しは勝、若しは遠、若しは近、是の如き一切を略して一聚と為し、説きて色蘊と名づく」と云い、受想行識も亦た皆是の如く広説せり。此の中、色蘊とは即ち所有の色法の類聚を称し、受蘊とは苦楽捨及び眼触等所生の諸受、想蘊とは眼触等所生の諸想、行蘊とは色受想及び識を除きて余の一切の有為法、識蘊とは眼識等の諸識の各類聚を称す。但し倶舎等には七十五法を立て、其の中、十一種の色法を色蘊、心所有法の一種たる受を受蘊、想を想蘊、余の心所有法の四十四種及び十四種の心不相応行法を行蘊、一種の心法を識蘊に摂し、総じて有為七十二法を類聚して五蘊と為し、唯識家に於いては百法を立て、其の中、初の三蘊は倶舎に同じきも、行蘊に心所有法の余の四十九種及び二十四種の心不相応行法、識蘊に八種の心法を摂し、合して有為九十四法を五蘊に摂すと為せり。無為を蘊に摂せざる所以は、凡そ蘊は過去等の品類差別ありて、略して一聚とすべきものに限りて之を立つ。然るに無為には是の如き積聚の義なし。又蘊は染浄の二依と為る。然るに無為には都べて是の如き依の義なきを以ってなり。又此の中、色受想行識と次第せる所以に就き、「倶舎論巻1」には総じて四説を出せり。所謂随麁次第、随染次第、随器等次第、随界別次第是れなり。随麁次第とは、麁細の別に由りて其の次第を論ず。即ち色は有対にして諸蘊の中に最も麁なり。故に最初に色蘊を立つ。無色の中には受の行相亦た最も麁なり、手等痛むと云うが如し。故に次に受蘊を立つ。想の相は次いで麁なり、男女等の想了知し易きが如し。故に次に想蘊を立つ。行の相は識よりも麁なり、貪瞋等の行了知し易きが如し。故に次に行蘊を立つ。識は総じて境相を取り、其の相最も細なり。故に最後に識蘊を立つとす。随染次第とは、染汙の先後に由りて其の次第を論ず。所謂無始已来、男女は色に於いて更相愛楽す。故に初に色を立つ。此れ楽受の味に耽著するに由る、故に次に受を立つ。受に耽著することは復た倒想に因る、故に次に想を立つ。倒想は煩悩に由りて生ず、故に次に行を立つ。煩悩は識に依りて生じ、而も此等の四蘊は皆識を染汙す、故に最後に識を立つとす。随器等次第とは、食を進むる先後に喩えて其の次第を論ず。所謂客を迎えんと欲するに先づ好器を求む。色は受の所依にして猶お器の如し、故に初に色を説く。既に器を得已らば次に飲食を求む。受は有情の身を増益損減するが故に猶お飲食の如し、故に次に受を説く。食を得已らば次に助味を求む。想は助けて受を生ずるに由るが故に猶お助味の如し、故に次に想を説く。飲食助味を得と雖も復た人の調理を須つ。行は業煩悩の力に由りて愛非愛等の異熟生ずるが故に猶お廚人の如し、故に次に行を説く。既に調理し已りて客に進めて受用せしむ。識は有情身中の主にして猶お食者の如し、故に最後に識を説くとす。随界別次第とは、三界の別に由りて其の次第を論ず。所謂欲界の中には諸の妙欲あり、色相顕了なるが故に初に色を説き、色界静慮には勝喜等あり、受相顕了なるが故に次に受を説き、下三無色の中には空等の相を取り、想の相顕了なるが故に次に想を説き、非想非非想の中には思最も勝にして、行の相顕了なるが故に次に行を説き、此の四蘊は識の所住なるが故に最後に識を説くとす。是の如く麁細と染汙と器等と界別とに随うが故に、五蘊の次第を立つ。又行蘊の中、受と想との二法を立てて別に二蘊と為す所以は、前の随麁等の四種の次第因の外、更に諍根と生死との二因あるを以ってなり。諍根因とは凡そ諍根に二種あり、一に諸欲に著し、二に諸見に著する是れなり。然るに諸欲に貪著するは味受力に由り、諸見に貪著するは倒想力に由る。既に受と想とを二種の諍根の最勝の因と為すが故に、此の二を立てて各別に一蘊と為す。生死因とは受に耽著し、倒想を起こすに由るが故に三界生死に輪迴す。既に受と想とは生死の法の最勝の因なるが故に、此の二を立てて各別に一蘊と為せるなりと云えり。又「瑜伽師地論巻54」には五蘊の次第に就き、生起所作、対治所作、流転所作、住所作、安立所作の五種の別あることを説けり。生起所作とは、眼は色を縁となして眼識を生じ、乃至意は諸法を縁となして能く意識を生ず。故に初に色蘊を説き、次に識蘊を説き、次第に受等の心所を生ずるが故に、次に受想行の次第に依りて之を説くを云い、対治所作とは、常楽我淨の四種の顛倒を対治するに四念住を説く中、先づ色蘊を説きて浄倒を対治し、次に受蘊を説くことに由りて楽倒を対治し、次に識蘊を説きて我倒を除き、次に想行の二蘊を説きて常倒を対治するを云い、流転所作とは、凡夫は能く根及び境界を依止とし、之を受用して諸の雑染心を生じ、種種の境界を画作し、善不善の業を造作するが故に、次第に色受想行と説き、識蘊は一切の所染なるが故に後に之を説くとなすを云い、住所作とは、色識住、受識住、想識住、行識住の四識住及び識の次第に依るとなすを云い、安立所作とは、諸の世間は先づ色を了するが故に初に色蘊を立て、次に受によりて進退苦楽を知るが故に受蘊を立て、想蘊によりて是の如きの類、是の如きの性を分別するが故に次に想蘊を立て、行蘊によりて是の如きの愚智を知るが故に次に行蘊を立て、識蘊によりて内我を安立するが故に後に之を説くとなすを云うなり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」に依るに、五種の我事を顕さんが為に唯色等の五蘊を建立すと云えり。五種の我事とは一に身具我事、二に受用我事、三に言説我事、四に造作一切法非法我事、五に彼所依止我自体事なり。就中、身具とは、身は内の五根の所依にして、色境は我の資具なるを云う。是れ即ち内外の色蘊を摂す。受用とは、我は身に依りて諸の境界に於いて苦楽を受用するを云う、即ち受蘊なり。言説とは、己と他とに随って言説を起するを云う、即ち想蘊なり。造作一切法非法とは、我の善不善の所行を云う。即ち行蘊なり。彼所依止とは、識は是れ身具等の所依にして、有情多く之を計執して我の自体事となす。即ち識蘊なり。此の中、初の四は我の衆具事、後の一は我の自体事なり。是れ蓋し五蘊の施設は畢竟衆生の我執を破し、無我の理に達せしむるが為なることを明かせるなり。五蘊は総じて一切有為法の大別にして、有漏無漏及び三性に通ず。故に諸論の中に亦た種種の名を標して以って其の種別を説明せり。即ち「大毘婆沙論巻75」等に、五蘊の中、特に有漏に属するものを五取蘊と名づけ、「大乗義章巻8本」には、更に有漏無漏三性に約して総じて九種の別を立つ。一に生得善陰、二に方便善陰、三に無漏善陰、四に不善五陰、五に穢汙五陰、六に報生五陰、七に威儀五陰、八に工巧五陰、九に変化五陰なり。初の三は善、次の一は不善、後の五は無記、又第三は無漏、余の八は有漏なり。又「摩訶止観巻5上」にも亦た九種を分別せり。一に果報五陰、二に無記五陰、三に起見汙穢五陰、四に起愛汙穢五陰、五に善五陰、六に悪五陰、七に工巧五陰、八に方便五陰、九に無漏五陰なり。初の四及び第七は無記、第五、第八、第九は善、第六は不善、又前の八は有漏、第九は無漏なり。「大王法苑義林章巻5本」には総じて十種の蘊を立つ。一に無漏善蘊、二に加行善蘊、三に生得善蘊、四に不善蘊、五に有覆無記蘊、六に異熟無記蘊、七に威儀無記蘊、八に工巧無記蘊、九に変化無記蘊、十に自性無記蘊なり。初の三は善、次の一は不善、後の六は無記、又初の一は無漏、後の九は有漏なり。又「摩訶止観巻5上」に依るに、十界に約して五陰等の不同を論じ、三途は有漏の悪陰界入、三善は有漏の善陰界入、二乗は無漏の陰界入、菩薩は亦有漏亦無漏の陰界入、仏は非有漏非無漏の陰界入なり。是の如く十種の陰界不同なるを五陰世間と名づくと云えり。蓋し小乗有部等に於いては、五蘊の法皆実有と為すと雖も、大乗般若等の中には五蘊皆空と説き、又小乗及び唯識大乗等には、五蘊は有為法にして生滅遷流を免れずと為すも、「大般涅槃経巻39」には、「色は是れ無常なり、是の色を滅するに因りて解脱常住の色を獲得す。受想行識も亦た是れ無常なり、是の識を滅するに因りて解脱常住の識を獲得す」と云い、又「色は即ち是れ空なり、空色を滅するに因りて解脱非空の色を獲得す」と云えり。是れ皆法相以上の説なり。又「雑阿含経巻2、3」、「増一阿含経巻26」、「五陰譬喩経」、「五蘊皆空経」、「大毘婆沙論巻74」、「瑜伽師地論巻13、55、66」、「顕了聖教論巻5」、「大乗阿毘達磨集論巻1」、「大乗広五蘊論」、「雑阿毘曇心論巻1」、「倶舎論巻1」、「同光記巻1、1余」、「順正理論巻1、2、3」、「法苑義林章補缺巻7」等に出づ。<(望)
  三悪道(さんあくどう):地獄、餓鬼、畜生の総称。
  五衆(ごしゅ):衆は塞揵陀(そくけんだ)の訳語。陰と訳し、また衆と訳し、蘊と訳す。陰とは積集の義。衆とは衆多のものが聚に和すの義、また蘊の義である。これは数多の積集なる有為法の自性を顕せば、有為法の用を作すも、純一の法無く、或いは類を同じうし、或いは類を異にするも、必ず多数の小分の相い集まりて、その用を作すが故に、則ち概ねこれを陰、或いは蘊という(陰とは蔭覆の義)。大別これに五法あり。
  色衆:総じて五根(眼耳鼻舌身)五境(色声香味触)等を兼ねる有形の物質。
  受衆:境に対して事物を承受する心の作用。
  想衆:境に対して事物を想像する心の作用。
  行衆:その他、境に対しての貪瞋等善悪一切に関する心の作用。
  識衆:境に対し事物を了別識知する心の作用。
  一衆生中にこれを求むれば、則ち色衆の一は即ち身、他の四衆は即ち心である。
復次經言。一人出世多人蒙慶福樂饒益。佛世尊也如法句中說。神自能救神。他人安能救神。自行善智是最能自救。如瓶沙王迎經中佛說。凡人不聞法。凡人著於我。又佛二夜經中說。佛初得道夜至般涅槃夜。是二夜中間所說經教。一切皆實不顛倒。若實無人者。佛云何言我天眼見眾生。是故當知有人者。世界悉檀故。非是第一義悉檀 復た次ぎに、経に言わく、『一人出世すれば、多人慶を蒙り、福楽饒益す。仏世尊なり。』と。法句中に説くが如きは、『神自ら能く神を救う。他人安(いづく)んぞ能く神を救わん。自ら善智を行ずる、是れ最も能く自ら救う。』と。瓶沙王迎経中に仏の説きたもうが如きは、『凡人は法を聞かず、凡人は我に著す。』と。又仏は二夜経中に説きたまわく、『仏の初めて道を得たる夜より、般涅槃の夜に至るまで、是の二夜の中間に説く所の経に教うるは、一切皆実にして、顛倒せず。』と。若し実に人無くんば、仏は云何が、『我れ天眼もて、衆生を見る。』と言える。是の故に、当に知るべし、人有りとは、世界悉檀の故にして、是れ第一義悉檀に非ず。
復た次ぎに、
『経』には、こう言っている、――
『一人』が、
『世』に、
『出れば!』、
則ち、
『多くの人』が、
『慶(よろこび)』を、
『蒙(こうむ)り!』、
『福、楽』が、
『饒益する(満ち溢れる)!』。
是れは、
『仏、世尊である!』、と。
『法句』中には、こう説いている、――
『神』は、
自ら、
『神』を、
『救うことができる!』のに、
『他人』が、
何故、
『神』を、
『救うことができるのか?』。
自ら、
『善智』を、
『行えば(思案すれば)!』、
最も、
『自ら』を、
『救うことができる!』、と。
『瓶沙王迎経』中に、
『仏』は、こう説かれている、――
『凡人』は、
『法』を、
『聞かない!』。
『凡人』は、
『我』に、
『著している!』、と。
『二夜経』中に
『仏』は、こう説かれた、――
『仏』は、
初めて、
『得道の夜』より、
『般涅槃の夜』までの、
是の、
『二夜の中間』に、
『説かれた!』、
『経の教(おしえ)』は、
一切が、
皆、
『実であり!』、
『顛倒でない!』、と。
若し、
『実に!』、
『人』が、
『無ければ!』、
『仏』は、
何故、こう言われたのか?――
わたしは、
『天眼』で、
『衆生』を、
『観た!』、と。
是の故に、こう知らねばならぬ、――
『人』が、
『有る!』とは、
『世界悉檀』で、
『説いたからであり!』、
是れは、
『第一義悉檀ではない!』、と。
  出世(しゅっせ):世に出現するの意。即ち諸仏が世間に出現して正覚を成じ、衆生を教化し度脱せしむるを云う。「中阿含巻29八難経」に、「仏衆祐と号す、世に出でて説法し、止息に趣向せしむ」と云い、「大智度論巻4」に、「人寿八万歳に仏出世し、七六五四三二万歳の中に仏出世す。人寿百歳は是れ仏出世の時なり」と云い、又「瑜伽師地論巻21」に、「普く一切の諸の有情類に於いて善く利益せんとする増上の意楽を起こし、多千の難行苦行を修習し、三大劫阿僧企耶を経て広大なる福徳智慧の二種の資糧を積集し、最後上妙の身を獲得し、無上勝菩薩の座に安坐し、五蓋を断除し、四念住に於いて善く其の心を住し、三十七菩提分法を修し、無上正等菩提を現証す。是の如きを名づけて諸仏の出世と為す。過去未来現在の諸仏も皆是の如くなるに由り、名づけて出世と為す」と云える是れなり。是れ皆諸仏の世に出現して正覚を成ずるを出世と名づけたるなり。
  蒙慶(もうきょう):よろこびをこうむる。福をこうむる。
  福楽饒益(ふくらくにょうやくす):福楽がゆたかである。福楽が満ち溢れる。
  (じん):かみ。山川樹木等の聖霊神。天、天神とも称す。又人の精気のことも神と称す。
  般涅槃(はつねはん):梵語parinirvaaNa、円寂と訳す。涅槃に同義。『大智度論巻1上注:涅槃』参照。
  (が):梵語aatmanの訳語にして主宰の義、己我の自体を指す。『大智度論巻5上注:我』参照。
  顛倒(てんどう):梵語viparyaasaの訳。即ち不浄を浄と為し、苦を楽とあ為し、無我を我と為し、無常を常たお為すが如き、顛倒せる妄見の意。『大智度論巻18上注:四顛倒』参照。
  参考:『増一阿含経巻3』:『爾時。世尊告諸比丘。若有一人出現於世。多饒益人。安隱眾生。愍世群萌。欲使天.人獲其福祐。云何為一人。所謂多薩阿竭.阿羅呵.三耶三佛。是謂一人出現於世。多饒益人。安隱眾生。愍世群萌。欲使天.人獲其福祐。是故。諸比丘。常興恭敬於如來所。是故。諸比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『法句経巻下』:『諸惡莫作  諸善奉行  自淨其意  是諸佛教  佛為尊貴  斷漏無婬  諸釋中雄  一群從心  快哉福報  所願皆成  敏於上寂  自致泥洹  或多自歸  山川樹神  廟立圖像  祭祠求福  自歸如是  非吉非上  彼不能來  度我眾苦  如有自歸  佛法聖眾  道德四諦  必見正慧  生死極苦  從諦得度  度世八道  斯除眾苦  自歸三尊  最吉最上  唯獨有是  度一切苦  士如中正  志道不慳  利哉斯人  自歸佛者  明人難值  亦不比有  其所生處  族親蒙慶  諸佛興快  說經道快  眾聚和快  和則常安』
  参考:『中阿含巻11頻鞞娑邏王迎仏経』:『世尊即知摩竭陀人心之所念。便告比丘。愚癡凡夫不有所聞。見我是我而著於我。但無我.無我所。空我.空我所。法生則生。法滅則滅。皆由因緣合會生苦。若無因緣。諸苦便滅。眾生因緣會相連續則生諸法。如來見眾生相連續生已。便作是說。有生有死。我以清淨天眼出過於人。見此眾生死時.生時。好色.惡色。或妙.不妙。往來善處及不善處。隨此眾生之所作業。見其如真。若此眾生成就身惡行。口.意惡行。誹謗聖人。邪見成就邪見業。彼因緣此。身壞命終。必至惡處。生地獄中。若此眾生成就身善行。口.意善行。不誹謗聖人。正見成就正見業。彼因緣此。身壞命終。必昇善處。乃至天上。我知彼如是。然不語彼。此是我為能覺.能語.作教.作起.教起。謂彼彼處受善惡業報。於中或有作是念。此不相應。此不得住。其行如法。因此生彼。若無此因便不生彼。因此有彼。若此滅者。彼便滅也。所謂緣無明有行。乃至緣生有老死。若無明滅。則行便滅。乃至生滅則老死滅。』
  参考:『中阿含経巻34』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。如來自覺世間。亦為他說。如來知世間。如來自覺世間習。亦為他說。如來斷世間習。如來自覺世間滅。亦為他說。如來世間滅作證。如來自覺世間道跡。亦為他說。如來修世間道跡。若有一切盡普正。有彼一切如來知見覺得。所以者何。如來從昔夜覺無上正盡之覺。至于今日夜。於無餘涅槃界。當取滅訖。於其中間。若如來口有所言說。有所應對者。彼一切是真諦。不虛不離於如。亦非顛倒。真諦審實。若說師子者。當如說如來。所以者何。如來在眾有所講說。謂師子吼。一切世間。天及魔.梵.沙門.梵志。從人至天。如來是梵有。如來至冷有。無煩亦無熱。真諦不虛有。於是。世尊說此頌曰 知一切世間  出一切世間  說一切世間  一切世如真  彼最上尊雄  能解一切縛  得盡一切業  生死悉解脫  是天亦是人  若有歸命佛  稽首禮如來  甚深極大海  知已亦修敬  諸天香音神  彼亦稽首禮  謂隨於死者  稽首禮智士  歸命人之上  無憂離塵安  無礙諸解脫  是故當樂禪  住遠離極定  當自作燈明  無我必失時  失時有憂慼  謂墮地獄中  佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  :神が他人の供養を当てにしていなければ、何の為に供養するのか?神を当てにするな!。
問曰。第一義悉檀是真實。實故名第一。餘者不應實 問うて曰く、第一義悉檀は、是れ真実なり。実なるが故に、第一と名づく。余は応に実なるべからず。
問い、
『第一義悉檀』は、
『真実であり!』、
『実である!』が故に、
『第一』と、
『称するのだから!』、
『他の者』は、
『実であるはずがない!』。
答曰。不然。是四悉檀各各有實。如如法性實際世界悉檀故無。第一義悉檀故有。人等亦如是。世界悉檀故有。第一義悉檀故無。所以者何。人五眾因緣有故有是人等譬如乳色香味觸因緣有故有是乳若乳實無。乳因緣亦應無。今乳因緣實有故。乳亦應有。非如一人第二頭第三手無因緣而有假名。如是等相名為世界悉檀。 答えて曰く、然(しか)らず。是の四悉檀には、各各実有り。如、法性、実際の如きは世界悉檀の故に無く、第一義悉檀の故に有り。人等も亦た是の如く、世界悉檀の故に有り、第一義悉檀の故に無し。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、人は、五衆の因縁有るが故に是の人等有り。譬えば乳は、色香味触の因縁有るが故に是の乳有るが如し。若し乳、実に無くんば、乳の因縁も亦た応に無かるべし。今、乳の因縁実に有るが故に、乳も亦た応に有るべし。一人の第二の頭、第三の手の因縁無くして、仮名のみ有るが如きに非ず。是の如き等の相を名づけて、世界悉檀と為す。
答え、
そうでない!
是の、
『四悉檀』の、
各各に、
『実』が、
『有るからである!』。
例えば、
『如』や、
『法性』、
『実際』などは、
『世界悉檀』で、
『説く!』が故に、
『無く!』、
『第一義悉檀』の故に、
『有る!』。
『人』等も、
是のように、
『世界悉檀』の故に、
『有る!』と、
『説き!』、
『第一義悉檀』の故に、
『無い!』と、
『説くのである!』。
何故ならば、
『人』は、
『五衆』という、
『因縁』の、
『有る!』が故に、
是の、
『人』等が、
『有るからである!』。
譬えば、
『乳』は、
『色、香、味、触』の、
『因縁』の、
『有る!』が故に、
是の、
『乳』が、
『有るようなものである!』。
若し、
『乳』が、
『実に!』、
『無ければ!』、
『乳』の、
『因縁』も、
『無いはずである!』。
今、
『乳』の、
『因縁』が、
『実に!』、
『有る!』が故に、
『乳』も、
亦た、
『有るはずである!』。
譬えば、
『一人』の、
『第二の頭』や、
『第三の手』には、
『因縁』が、
『無く!』、
但だ、
『仮名』のみが、
『有るというような!』ことと、
『同じではない!』。
是れ等のような、
『相』を、
『世界悉檀』と、
『称する!』。
  (にょ):如如、或いは真如とも称す。真実にして如常なるの意。『大智度論巻6下注:真如』参照。
  法性(ほっしょう):法の体性の意。諸法の真実如常なる本性。『大智度論巻32上注:法性』参照。
  実際(じっさい):真実際の意。涅槃の実証を云う。『大智度論巻6下注:実際』参照。
  如如(にょにょ)、法性(ほっしょう)、実際(じっさい):如、真如、如実ともいう。一切万物の真実不変の本性である。一切の法は、その各各に不同の属性が有り、地の如きには堅性が有り、水の如きには湿性が有るのであるが、しかし、この各々別の属性は実有ではなく、一一は皆、空を実体としている。故にその実性を称して如というのであるが、また如とは、諸法の本性をいうが故に法性とも称し、法性とは真実究竟、至極の辺際であるが故に実際とも称する。即ち、如、法性、実際の三者は皆、諸法の実相の異名に他ならない。



各各為人悉檀

云何各各為人悉檀者。觀人心行而為說法。於一事中或聽或不聽。如經中所說。雜報業故。雜生世間得雜觸雜受。更有破群那經中說。無人得觸無人得受 云何(いかん)が各各為人悉檀なるとは、人の心行を観て、為に法を説き、一事中に於いても、或(ある)いは聴(ゆる)し、或は聴さず。経中に説く所の如し、『雑報の業の故に、世間に雑生し、雑触、雑受を得。』と。更に破群那経中に説く有り、『人の触を得る無く、人の受を得る無し。』と。
『各各為人悉檀』とは、何か?――
『人』の、
『心行(志向)』を、
『観て!』、
『法』を、
『説く!』ので、
或は、
『一事(同一事)』中にも、
或は、
『聴し(許可し)!』、
或は、
『聴さない!』。
例えば、
『経』には、こう説かれているが、――
『善、悪』の、
『雑(まじ)った!』、
『報業(業報)』の故に、
『善、悪』の、
『世界』に、
『雑って!』、
『生まれ!』、
『細、麁』の、
『触』を、
『雑って!』、
『得!』、
『楽、苦』の、
『受』を、
『雑って!』、
『得る!』、と。
更に、
『破群那経』中には、この説が有る、――
『触』を、
『得る!』ような、
『人』は、
『無く!』、
『受』を、
『得る!』ような、
『人』は、
『無い!』、と。
  心行(しんぎょう):梵語citta-caryaの訳語にして、意は心の作用、活動、行為、行を指し、意訳して想、或は思と為す。『大智度論巻6下注:心行』参照。
  (ちょう):ゆるす。ききいれる。従、順。まかせる。任。
  雑報業(ぞうほうのごう):雑多なる善悪の業の故に、雑多なる罪福の報を受けるの意。
  雑生(ぞうしょう):天人乃至地獄の雑多なる生。
  雑触(ぞうそく):雑多なる浄穢の触。
  雑受(ぞうじゅ):雑多なる苦楽の受。
  参考:『正法念処経巻4』:『何者三角。若人行善不善無記種種雜業。地獄天人諸處雜生。彼不善業。生地獄中。善業天中。雜業人中。若行三業。於三處生。如是名為三角生死。比丘如是。緣於相想』
  参考:『雑阿含経巻15』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有四食資益眾生。令得住世攝受長養。何等為四。一.麤摶食。二.細觸食。三.意思食。四.識食。時。有比丘名曰頗求那。住佛後扇佛。白佛言。世尊。誰食此識。佛告頗求那。我不言有食識者。我若言有食識者。汝應作是問。我說識是食。汝應問言。何因緣故有識食。我則答言。能招未來有。令相續生。有有故有六入處。六入處緣觸。頗求那復問。為誰觸。佛告頗求那。我不言有觸者。我若言有觸者。汝應作是問。為誰觸。汝應如是問。何因緣故生觸。我應如是答。六入處緣觸。觸緣受。復問。為誰受。佛告頗求那。我不說有受者。我若言有受者。汝應問。為誰受。汝應問言。何因緣故有受。我應如是答。觸緣故有受。受緣愛。復問。世尊。為誰愛。佛告頗求那。我不說有愛者。我若說言有愛者。汝應作是問。為誰愛。汝應問言。何緣故有愛。我應如是答。緣受故有愛。愛緣取。復問。世尊。為誰取。佛告頗求那。我不說言有取者。我若說言有取者。汝應問言。為誰取。汝應問言。何緣故有取。我應答言。愛緣故有取。取緣有。復問。世尊。為誰有。佛告頗求那。我不說有有者。我若說有有者。汝應問言。為誰有。汝今應問。何緣故有有。我應答言。緣取故有有。能招當來有觸生是名有。有六入處。六入處緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老.病.死.憂.悲.惱苦。如是純大苦聚集。謂六入處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老.病.死.憂.悲.惱苦滅。如是純大苦聚集滅。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  心行(しんぎょう):行は造作、作用、行動、行為の義。心は念念(一瞬一瞬)に遷流する者であるが故に心行といい、善悪の所念を心行という。
  (そく):根と境との接触により生ずる所の精神作用。眼等の六根(感覚)、色等の六境(対象)、眼識等の六識(認識)の和合により眼触等の六触を生ずる。
  (じゅ):受は触により誘発される快不快、明暗、色彩等の印象感覚。
問曰。此二經云何通 問うて曰く、此の二経は、云何が通ずる。
問い、
此の、
『二経』が、
何故、
『通じるのですか?』。
答曰。以有人疑後世不信罪福。作不善行墮斷滅見。欲斷彼疑捨彼惡行。欲拔彼斷見。是故說雜生世間雜觸雜受。是破群那計有我有神。墮計常中。破群那問佛言。大德誰受。若佛說某甲某甲受。便墮計常中。其人我見倍復牢固不可移轉。以是故不說有受者觸者。如是等相是名各各為人悉檀 答えて曰く、有る人は、後世を疑いて、罪福を信ぜず、不善行を作して、断滅見に堕つるを以って、彼の疑を断じて、彼の悪行を捨てしめんと欲し、彼の断見を抜かんと欲す。是の故に、『世間に雑生して、雑触、雑受す。』と説く。是の破群那は、我有り、神有りと計(け)し、計常中に堕つ。破群那の仏に問うて言わく、『大徳、誰か受くる。』と。若し仏、『某甲、某甲受く。』と説きたまわば、便(すなわ)ち計常中に堕ち、其の人の我見は倍して復た牢固となり、移転すべからず。是を以っての故に、『受者、触者有り。』と説きたまわず。是れ等の如き相は、是れを各各為人悉檀と名づく。
答え、
有る、
『人』は、
『後世の有(存在)』を、
『疑って!』、
『罪、福』の、
『報』を、
『信じず!』、
『不善』の、
『行』を、
『作して!』、
『断滅』の、
『見』に、
『堕ちる!』ので、
彼れの、
『疑』を、
『断って!』、
『悪行』を、
『捨てさせ!』、
『断見』を、
『抜こう!』と、
『思う!』が故に、
是の故に、こう説くのである、――
『善、悪』の、
『世間』に、
『雑って!』、
『生まれ!』、
『細、麁の触』を、
『雑って!』、
『得!』、
『楽、苦の受』を、
『雑って!』、
『得る!』、と。
是の、
『破群那』は、
『我』や、
『神』が、
『有る!』と、
『計し(思い)!』て、
『計常(我見)』中に、
『堕ちている!』ので、
『破群那』は、
『仏』に、こう問うた、――
大徳!
誰が、
『苦、楽』を、
『受けるのですか?』、と。
『仏』が、
若し、
『某甲某甲(誰それ)』が、
『受ける!』と、
『説かれれば!』、
便ち(すらりと)、
『計常』中に、
『堕ちることになる!』ので、
其の、
『人』の、
『我見(計常見)』は、
倍して、
『牢固(堅固)になり!』、
『移転させられなくなる!』。
是の故に、
『受ける者』や、
『触れる者』が、
『有る!』とは、
『説かれなかったのである!』。
是れ等のような、
『相』を、
『各各為人悉檀』と、
『称するのである!』。
  断滅見(だんめつけん):我は滅して、現世と後世とは断ずるとする。『大智度論巻7注:見』参照。
  断見(だんけん):断滅見に同じ。
  破群那(はぐんな):比丘名。又頗求那と称す。人の縁起生なるを知らず。『雑阿含経巻15』参照。
  (が):梵語aatmanの訳。自ら在りと認識する主体。『大智度論巻5上注:我、我所』参照。
  (じん):梵語puruSaの訳。神我とも称す。我の主体にして有見無作を性とする。『大智度論巻2下注:神、同巻22上注:数論』参照。
  (け):かんがえる。おもんぱかる。
  計常見(けじょうけん):梵語zaazvata-darzanaの訳、またはzaazvata-dRSTiの訳、常有を計するの意。『大智度論巻14上注:常見』参照。
  大徳(だいとく):高齢の僧に呼びかける辞。
  某甲(むこう):だれそれ。
  牢固(ろうこ):堅固。
  我見(がけん):梵語aatma-dRSTiの訳。五蘊和合の身の上に、実の我ありと計する謬見を云う。『大智度論巻14上注:我見』参照。
  断滅見(だんめつけん):断見。我は滅して、現世と後世とは断絶するとする見解。
  計常見(けじょうけん):常見。我は常であり、現世と後世とは連続するとする見解。
  我見:自我の主宰者を認めて、われ有り、とする見解。



対治悉檀

對治悉檀者。有法對治則有。實性則無。譬如重熱膩酢鹹藥草飲食等。於風病中。名為藥。於餘病非藥。若輕冷甘苦澀藥草飲食等。於熱病名為藥。於餘病非藥。若輕辛苦澀熱藥草飲食等。於冷病中名為藥。於餘病非藥 対治悉檀とは、有る法は、対治なれば則ち有り、実性なれば則ち無し。譬えば重、熱、膩、酢、鹹なる薬草、飲食等は、風病中には、名づけて薬と為し、余病に於いては薬に非ず。若し軽、冷、甘、苦、渋なる薬草、飲食等なれば、熱病に於いては、名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若し軽、辛、苦、渋、熱なる薬草、飲食等なれば、冷病中に於いては、名づけて薬と為すも、余病に於いては、薬に非ざるが如し。
『対治悉檀』とは、――
有る、
『法』は、
『対治する!』時には
『有る!』が、
『実性』としては、
則ち、
『無いことになる!』。
譬えば、こういうことである、――
『重い!』、
『熱い!』、
『脂っこい!』、
『酸っぱい!』、
『塩辛い!』
『薬草、飲食』等は、
『風病』中には、
『薬』と、
『称される!』が、
『他の病』には、
『薬ではない!』。
若し、
『軽い!』、
『冷たい!』、
『甘い!』、
『苦い!』、
『渋い!』、
『薬草、飲食』等ならば、
『熱病』には、
『薬』と、
『称される!』が、
『他の病』には、
『薬ではない!』。
若し、
『軽い!』、
『辛い!』、
『苦い!』、
『渋い!』、
『熱い!』、
『薬草、飲食』等ならば、
『冷病』中には、
『薬』と、
『称される!』が、
『他の病』には、
『薬ではない!』。
  対治(たいじ):対して治す。
  (に):脂っこい。
  (かん):塩辛い。
  飲食(おんじき):飲み物と食い物。
  風病(ふうびょう):かぜ。風邪。気の狂う病気。手足のしびれる病気、中風。
佛法中治心病亦如是。不淨觀思惟。於貪欲病中名為善對治法。於瞋恚病中不名為善。非對治法。所以者何。觀身過失名不淨觀。若瞋恚人觀過失者。則增益瞋恚火故。思惟慈心於瞋恚病中名為善對治法。於貪欲病中不名為善。非對治法。所以者何。慈心於眾生中。求好事觀功德。若貪欲人求好事觀功德者。則增益貪欲故。因緣觀法於愚癡病中名為善對治法。於貪欲瞋恚病中不名為善。非對治法。所以者何。先邪觀故生邪見。邪見即是愚癡 仏法中に心病を治すも、亦た是の如く、不浄観の思惟は、貪欲病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、瞋恚病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、身の過失を観るを、不浄観と名づけ、若し瞋恚の人、過失を観れば、則ち瞋恚の火を増益するが故なり。慈心を思惟するは、瞋恚病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、貪欲病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、慈心は衆生中に於いて、好事を求めて、功徳を観ればなり。若し貪欲の人、好事を求めて功徳を観れば、則ち貪欲を増益するが故なり。因縁の観法は、愚癡病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、貪欲、瞋恚病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、先に邪観するが故に、邪見を生ず、邪見とは、即ち是れ愚癡なればなり。
『仏法』中に、
『心の病』を、
『治す!』のも、
亦た、
是のように、
『不浄観の思惟』は、
『貪欲病』中には、
『善い!』、
『対治法である!』が、
『瞋恚病』中には、
『善くもなく!』、
『対治法でもない!』。
何故ならば、
『身の過失』を、
『観る!』のが、
『不浄観であり!』、
若し、
『瞋恚の人』が、
『過失』を、
『観れば!』、
則ち、
『瞋恚の火』を、
『増益するからである!』。
『慈心の思惟』は、
『瞋恚病』中には、
『善い!』、
『対治法である!』が、
『貪欲病』中には、
『善くもなく!』、
『対治法でもない!』。
何故ならば、
『慈心』とは、
『衆生』中に於いて、
『好事を求める!』者が、
『功徳(利益)』を、
『観るからである!』。
若し、
『貪欲の人』が、
『好事』を、
『求めて!』、
『功徳』を、
『観れば!』、
則ち、
『貪欲』を、
『増益するだろう!』。
『因縁(十二因縁)の観法』は、
『愚癡病』中には、
『善い!』、
『対治法である!』が、
『貪欲、瞋恚病』中には、
『善くもなく!』、
『対治法でもない!』。
何故ならば、
先に、
『邪観する!』が故に、
『邪見』を、
『生じる』が、
『邪見』とは、
即ち(とりもなおさず)、
『愚癡だからである!』。
  不浄観(ふじょうかん):身の不浄を観察して貪欲を除く法。『大智度論巻17下注:九想観』参照。
  思惟(しゆい):思い巡らすこと。
  因縁観法(いんねんのかんぽう):老死の苦を召致する十二種の次第因縁を観察すること。『大智度論巻44上注:十二因縁』参照。
  過失(かしつ):あやまち。過は当を失する、失は得の反対。則ち当を失し善無きの意。
  貪欲(とんよく):梵語raagaの訳。三毒の一。財物等を欲求する精神作用。『大智度論巻1上注:貪』参照。
  瞋恚(しんに):梵語pratighaの訳。三毒の一。衆生を憎恚する精神作用。『大智度論巻18上注:瞋』参照。
  愚癡(ぐち):梵語mohaの訳。三毒の一。事理に闇迷なる精神作用。『大智度論巻18上注:癡』参照。
  (とん):梵語raagaの訳。七十五法の一、百法の一。又貪欲、或いは貪愛とも名づく。即ち染汚の愛にして、財物等を欲求する精神作用を云う。「大毘婆沙論巻29」に、「愛に二種あり、一に染汚は謂わく貪なり、二に不染汚は謂わく信なり」と云い、「倶舎論巻16」に、「他の財物に於ける悪欲を貪と名づく。謂わく他の財に於いて非理に欲を起こし、如何にせば彼れをして我れに属して他に非ざらしめんと、力竊の心を起こして他物を躭求す。是の如き悪欲を貪業道と名づく」と云い、又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」に、「貪とは三界の愛を体と為し、衆苦を生ずるを業と為す。衆苦を生ずとは、謂わく愛の力に由りて五取蘊を生ずるが故なり」と云える是れなり。是れ他物等に於いて染汚の愛著を起こし、五取蘊を引き衆苦を生ぜしむを貪と名づけたるなり。又「瑜伽師地論巻55」に貪は十事によりて生ずることを明かし、「貪は十事に由りて生ず、一に取蘊、二に諸見、三に未得の境界、四に已得の境界、五に已に受用する所の過去の境界、六に悪行、七に男女、八に親友、九に資具、十に後有及び無有なり。問う、何の貪が何の事に於いて生ずるや。答う、其の次第に随って十貪は十事に於いて生ず。何等か十と為す、謂わく事貪、見貪、貪貪、慳貪、蓋貪、悪行貪、子息貪、親友貪、資具貪、有無有貪なり」と云えり。是れ即ち事貪は取蘊、見貪は諸見、貪貪は未得の境、慳貪は已得の境、蓋貪は再受用の境、悪行貪は諸の悪行、子息貪は男女、親友貪は親友、資具貪は一切の資具、有無有貪は当有と後有の断との二見を各境界として生ずることを明にするの意なり。蓋し貪は三界に通じ、就中、欲界の貪を欲貪と名づけ、其の性不善にして、十悪、五蓋、及び三不善根の一とす。上二界の貪を有貪と名づけ、其の性有覆無記にして、欲貪と共に六根本煩悩、十随眠及び九結の一とし、又其の性猛利に非ざるが故に五鈍使の一に数えらる。又説一切有部に於いては、之を不定地法とし、又無漏縁に非ず、唯喜楽の二受と相応し、随煩悩及び八纏の中の無慚、慳、掉挙の三、並びに六垢の中の誑憍の二を其の等流となすも、唯識家にては不定地となさず、又喜楽の二受の外、違遠に会う時亦憂苦の二受とも相応し、見と倶なるものは無漏を縁じ、覆及び誑等の随惑は亦貪の一分を体とすとなせり。又「倶舎論巻9」に刹那の十二縁起を説く中、愛支を貪煩悩、之と相応する諸纏を取支となし、唯識家にては愛支は中下品の貪を体となし、取支も亦た貪を体とし、之を後有の身を縁じて生ずる潤生の愛となせり。又「倶舎論巻22」に依るに、経部は「中阿含経巻7分別聖諦品」の説に基づき、四諦の中の集諦は唯愛を以って体とすと云い、「大般涅槃経巻13」、「瑜伽師地論巻68」等にも亦た此の説を載録せり。又「品類足論巻3」、「大毘婆沙論巻68」、「雑阿毘曇心論巻3」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻21」、「顕揚聖教論巻1」、「成唯識論巻6」、「倶舎論光記巻16」、「成唯識論述記巻6末」、「大乗阿毘達磨論述記巻3」等に出づ。<(望)
  不浄観:美人も死ねばその本然の相に帰る。次ぎの如き九相を観察して、その空、無常なるを知る。(1)脹相(ちょうそう):死体は膨張し、(2)壊相(えそう):死体は生きた姿を留めない。筋肉も張りを失い筋肉らしさをなくす。(3)血塗相(けつづそう):何処からか血液などが滲み出し血まみれの様相を表わし、(4)膿爛相(のうらんそう):何もかもがグチャグチャとして膿み爛れたようになる。(5)青相(しょうそう):それも日に曝されて青く変色して、(6)噉相(かんそう):鳥獣が来て死体を啄ばんだり齧ったりする。(7)散相(さんそう):鳥獣が噉った後は筋によって繋がれていた、手、足、頭などが散乱し、(8)骨相(こつそう):血肉を既に失えば骸骨が残るばかり。(9)焼相(しょうそう):その骨を拾って火に焼けば灰となって地に帰る。
  十二因縁:本来は空であるべき人が、如何にして我は実在するという誤った自覚を得るのか、との問いに答えて次の如き十二の因縁を観察する。人は(1)無明(むみょう、愚昧、盲目的無智)という因を中心にして、(2)行(ぎょう、身の活動)と、(3)識(しき、心の活動)とを得て、(4)名色(みょうしき、身心)となり、(5)六処(ろくしょ、眼耳鼻舌身意)を具えて、(6)触(そく、接触)する事物を、(7)受(じゅ、感受)して、(8)愛(あい、愛憎)を生じ、(9)取(しゅ、執著)することにより、(10)有(う、生存、彼我の区別)を自覚し、(11)生(しょう、生命、生活)を自覚し、(12)老死(ろうし、生を失う苦しみ)を自覚する。
問曰。如佛法中說十二因緣。甚深如說。佛告阿難。是因緣法甚深難見難解難覺難觀。細心巧慧人乃能解。愚癡人於淺近法猶尚難解。何況甚深因緣。今云何言愚癡人應觀因緣法 問うて曰く、仏法中には、十二因縁を、甚だ深しと説く。説の如し、『仏、阿難に告げたまわく、是の因縁の法は、甚だ深くして、見難く、解(げ)し難く、覚り難く、観難し。細心、巧慧の人にして、乃(すなわ)ち能く解す。愚癡の人は、浅近の法に於いてすら、猶尚(な)お、解し難し。何(いか)に況(いわ)んや、甚だ深き因縁をや。』と。今は、云何(いかん)が、愚癡の人にして、応に因縁の法を観ずべしと言う。
問い、
例えば、
『仏法』中には、
『十二因縁』を、
『甚だ深い!』と、
『説いて!』、
是のように、説かれている、――
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
是の、
『因縁の法』は、
『甚だ深く!』、
『見難く!』、
『理解し難く!』、
『覚り難く!』、
『観察し難い!』ので、
『細心、巧慧の人』が、
乃ち(ようやく)、
『理解できるのである!』。
『愚癡の人』は、
『浅く近い!』、
『法』すら、
尚お、
『理解し難いのであるから!』、
況して、
『甚だ深い!』、
『因縁』を、
『理解できるはずがない!』、と。
今、
何故、こう言うのか?――
『愚癡の人』が、
『因縁の法』を、
『観察すべきだ!』、と。
  十二因縁(じゅうにいんねん):生起する十二科目の連鎖( twelve links of dependent arising )、梵語 dvaadaza- astanga pratiitya samutpaada の訳、何物が人間の苦悩を生じさせるものであるのかを調査した時、仏は、それが揺るぎない順序で条件付けられた十二段階の連続体であることを発見した( When inquiring into what it is that gives rise to human suffering, the Buddha found it to be a continuum of twelve phases of conditioning in a regular order )。是れ等の十二段階に条件付けられた存在とは、是の順序に於いて、先の段階は、次の段階を生起する縁となる( In this order, the prior situation is the condition for the arising of the next situation )、又同じ順序で、若し先の条件が消滅させらるならば、次の条件も消滅させられる( Also, in the same order, if the prior condition is extinguished, the next condition is extinguished )。古典的決まり文句として、「無明滅するが故に、識滅するが故に‥‥」等と読む( The classical formula reads "By reason of nescience dispositions; by reason of dispositions consciousness," etc. )。◯更に十二因縁は輪迴の原因と看做すまでに変容される:( A further application of the twelve nidānas is made in regard to their causation of rebirth: ) (1) 無明:無始の過去より相続する苦悩に関して無知、 (2) 業:過去の生の善と悪、 (3) 萌芽:知覚の或る形態、 (4) 名色:身と心とに進化する[胎内に於いて]、 (5) 六処:誕生間際の六種の感覚器官、 (6) 触:子供時代の理解力は接触に限定される、 (7) 受:6又は7歳からの感受性、又は芽生え初めた理解力と識別力、 (8) 愛:思春期の渇望、性欲、 (9) 取:感覚的存在としての衝動、 (10) 有:未来の業に関する実質/存在を形成する、 (11) 生:再生の準備としての業が完成する、 (12) 老死( (1) nescience, as inherited affliction from the beginningless past; (2) karma, good and evil, of past lives; (3) conception as a form of perception; (4) nāmarūpa, or body and mind evolving (in the womb); (5) the six organs on the verge of birth; (6) childhood whose intelligence is limited to sparśa, contact or touch; (7) receptivity or budding intelligence and discrimination from 6 or 7 years; (8) thirst, desire, or love, age of puberty; (9) the urge of sensuous existence; (10) forming the substance, bhāva, of future karma; (11) the completed karma ready for rebirth; (12) old age and death )。初の二支は前世に関連し、後の十支は現在世に関連する( The two first are associated with the previous life, the other ten with the present )。その論理は同じく、輪迴の領域に適用される( The theory is equally applicable to all realms of reincarnation )。◯十二因縁は、又図式中に表わされ、その中央に蛇(瞋り)、豚(無知、又は愚鈍)、鳩(渇望)を置いて、根本的罪業を表示する( The twelve links are also represented in a chart, at the center of which are the serpent (anger), boar (nescience, or stupidity), and dove (lust) representing the fundamental sins )。それぞれは他の者の尾を捉えて、命の輪を生じさせる罪の連結を象徴する( Each catches the other by the tail, typifying the train of sins producing the wheel of life )。◯又別の学派では、十二因縁を次のように呈示している:( In another circle the twelve links are represented as follows: ) (1) 無学: 盲目の女性、(2) 行動:仕事中の壷師、又は果実を集める男、 (3) 意識:落ち着かない猿、 (4) 名色:小舟、 (5) 感覚器官:家、 (6) 触:並んで坐る男女、 (7) 感覚:矢の刺さった男、 (8) 渇望:酒を飲む男、 (9) 欲望:結合した男女、 (10) 存在:出産を通して、 (11) 誕生:屍骸を運ぶ男、 (12) 病気/老人/死:杖をつく老女( (1) nescience, a blind woman; (2) action, a potter at work, or man gathering fruit; (3) consciousness, a restless monkey; (4) name and form, a boat; (5) sense organs, a house; (6) contact, a man and woman sitting together; (7) sensation, a man pierced by an arrow; (8) desire, a man drinking wine; (9) craving, a couple in union; (10) existence through childbirth; (11) birth, a man carrying a corpse; (12) disease, old age, death, an old woman leaning on a stick )。
答曰。愚癡人者。非謂如牛羊等愚癡。是人欲求實道。邪心觀故生種種邪見。如是愚癡人當觀因緣。是名為善對治法。若行瞋恚婬欲人欲求樂欲惱他。於此人中非善非對治法。不淨慈心思惟。是二人中是善是對治法。何以故。是二觀能拔瞋恚貪欲毒刺故 答えて曰く、愚癡の人とは、牛羊等の如き愚癡を謂うに非ず。是の人は、実道を欲求すれど、邪心もて観るが故に、種種の邪見を生ず。是の如き愚癡の人は、当に因縁を観ずべし。是れを名づけて、善き対治法と為す。若し瞋恚、婬欲を行ずる人、楽を求めんと欲すれば、他を悩まさんと欲す。此の人の中に於いては、善に非ず、対治法に非ず。不浄、慈心の思惟は、是の二人中には、是れ善、是れ対治法なり。何を以っての故に、是の二観は、能く瞋恚、貪欲の毒刺を抜くが故なり。
答え、
『愚癡の人』とは、
『牛、羊』等の、
『愚癡』を、
『謂うのではない!』。
是の、
『人』は、
『実の道』を、
『求めよう!』と、
『思いながら!』、
『邪心』で、
『観察する!』が故に、
種種の、
『邪見』を、
『生じるのである!』。
是のような、
『愚癡の人』は、
『因縁』を、
『観察すべきであり!』、
是れを、
『善い!』、
『対治法だ!』と、
『称するのである!』。
若し、
『瞋恚、婬欲を行う!』、
『人』が、
『楽』を、
『求めよう!』と、
『思ったり!』、
『他』を、
『悩ませよう!』と、
『思えば!』、
是の、
『人』には、
『因縁の法』は、
『善くもなく!』、
『対治法でもない!』。
是の、
『二人』には、
『不浄観、慈心の思惟』が、
『善いのであり!』、
『対治法である!』。
何故ならば、
是の、
『二観』は、
『瞋恚、貪欲の毒刺』を、
『抜くことができるからである!』。
復次著常顛倒眾生。不知諸法相似相續。有如是人觀無常。是對治悉檀。非第一義。何以故。一切諸法自性空故。如說偈言
 無常見有常  是名為顛倒
 空中無無常  何處見有常
復た次ぎに、常に著する顛倒せる衆生は、諸法の相似の相続を知らず。是の如き人の無常を観ずること有らば、是れ対治悉檀にして、第一義に非ず。何を以っての故に、一切の諸法は自性空なるが故なり。偈を説いて言うが如し、
無常を有常と見る、是れを名づけて顛倒と為す
空中には無常無し、何処(いづく)にか有常を見ん
復た次ぎに、
『常』に、
『著する!』ような、
『顛倒した!』、
『衆生』は、
諸の、
『法』が、
『相似の相続である!』ことを、
『知らない!』。
是のような、
『人』が、
『有り!』、
是の、
『人』が、
『無常』を、
『観察すれば!』、
則ち、
『対治悉檀である!』が、
『第一義ではない!』。
何故ならば、
一切の、
諸の、
『法の自性』は、
『空だからである!』。
例えば、
『偈』に説いて、こう言う通りである、――
『無常』を、
『有常』と、
『見れば!』、
是れを、
『顛倒』と、
『呼ぶ!』が、
『空』中には、
『無常』も、
『無い!』、
何処に、
『有常』を、
『見るのか?』。
  相似相続(そうじのそうぞく):前念の因縁を以って後念を引くことを、あたかも念が相続しているように見えることを云う。
  無常(むじょう):梵語阿儞怛也anityaの訳。又anityataa、巴梨語anicca、常住することなきの意。常住に対す。即ち一切の有為法は生滅遷流して常住するものなきを云う。「雑阿含経巻10」に、「色は無常、受想行識は無常、一切の行は無常なり」と云い、「中阿含巻29説無常経」に、「色は無常なり、無常なれば則ち苦なり、苦なれば則ち非神なり」と云い、「大般涅槃経巻14聖行品」に、「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり」と云える是れなり。是れ一切有為の諸法は悉く生滅無常なるものなることを説けるものなり。又「大般涅槃経巻14」に、「我れ諸行を観ずるに悉く皆無常なり。云何が知るや、因縁を以っての故なり。若し諸法の縁より生ずることあるものは則ち無常なりと知る」と云い、「大智度論巻19」に、「是の有為法は一切因縁に属するが故に無常なり。先に無くして今有るが故に、今有るも後に無なるが故に無常なり。復た次ぎに無常の相は常に有為法に随逐するが故に、有為法は増損あることなきが故に、一切の有為法は相侵剋するが故に無常なり」と云い、又「同巻23」に、「一切の有為法は無常なりとは、新新に生滅するが故に、因縁に属するが故に、増積せざるが故なり。復た次ぎに生ずる時来処なく、滅にも亦た去処なし。是の故に無常と名づく」と云い、「顕揚聖教論巻14成無常品」に、「無常性とは、謂わく有為法は三有為相と共に相応するが故なり。一に生相、二に滅相、三に住異相なり」と云えり。是れ有為法は悉く皆因縁によりて生じ、生住異滅の三有為相(又は四相)と合して刹那に生滅し、本無今有、今有後無なるが故に総じて無常と名づくることを明にせるなり。又「大智度論巻43」には、無常に念念無常と相続無常の二種あることを明かし、「無常に亦た二種あり、一には念念滅なり、一切の有為法は一念住するに過ぎず、二には相続の法は壊するが故に名づけて無常と為す、人命の尽くるが如く、火の草木を焼くが若く、水を煎ずれば消尽するが如し」と云えり。是れ一切有為法の刹那に滅するを念念無常とし、人の寿命尽きて死滅するが如きを相続無常となせるものなり。又「辯中辺論巻中」には、徧依円の三性に約して無常に無性無常、生滅無常、垢浄無常の別あることを説き、遍計所執の其の体都無にして常なきを無性無常、或いは無物無常と名づけ、依他の諸法の縁生にして起尽あるを生滅無常、又は起尽無常と云い、円成実の其の位転変するを垢浄無常、又は有垢無垢無浄と名づくと云えり。是れ唯縁生有為の諸法を無常となすのみに非ず、円成実の法にも亦た転変無常の義ありとなすの説なり。又「顕揚聖教論巻14成無常品」には六種及び八種の無常を出し、「六種の無常とは、一に無性無常、二に失壊無常、三に転異無常、四に別離無常、五に得無常、六に当有無常なり。八種の無常とは、一に刹那門、二に相続門、三に病門、四に老門、五に死門、六に心門、七に器門、八に受用門なり。此の中、刹那と相続の二種の無常は一切処に遍じ、病等の三無常は内色に在り、心無常は唯名のみに在り、器と受用の二無常は外色に在り」と云い、「大乗達磨雑集論巻6」には、無常の相に非有相、壊滅相、変異相、別離相、現前相、法爾相、刹那相、相続相、病等相、種種心行転相、資産興衰相、器世成壊相の十二種あることを明かし、其の他「入楞伽経巻7無常品」には、一切の外道に八種の無常あることを説けり。又世相の無常を観ずるを無常観、或いは非常観と云い、其の趣旨を説ける偈頌を無常偈と呼び、又病僧を置く堂を無常院、無常堂、或いは延寿堂と称せり。又「雑阿含経巻1、47」、「長阿含経巻4」、「法句経巻上」、「大品般若経巻7」、「維摩経巻上」、「大般涅槃経巻17、38」、「大毘婆沙論巻38、39」、「大智度論巻18、22、28、31、37、84」、「十二門論」、「瑜伽師地論巻18、34」、「成唯識論巻8」、「四分律行事鈔巻下之四」等に出づ。<(望)
  有常(うじょう):無常ならざるを云い、又常、或いは常住と称す。『大智度論巻1上注:常住』参照。
  常住(じょうじゅう):梵語nitya-sthitaの訳。又sadaa-sthitaに作る。常に住するの意。又略して常とも名づく。無常に対す。即ち過現未の三世に亘りて常恒に存在し、生滅変易なきものを云う。「雑阿含経巻30」に、「夫れ生ずる者は死あり、何ぞ奇とするに足らんや、如来世に出づるも及び世に出でざるも法性常住なり。彼の如来自ら知りて等正覚を成ず」と云い、「大般涅槃経巻34」に、「我れ又一時比丘に喩告して是の言を作す、十二因縁は有仏無仏性相常住なりと」と云えり。是れ縁起法性の理の常恒不変なることを説けるものなり。又「勝鬘経自性清浄章」に、「世間の言説の故に死あり生あり、死とは諸根壊し、生とは新に諸根起るなり。如来蔵は生あり死あるに非ず。如来蔵は有為の相を離る、如来蔵は常住不変なり」と云い、「大般涅槃経巻34」に、「法身は即ち是れ常楽我淨にして永く一切の生老病死を離る。白に非ず黒に非ず、長に非ず短に非ず、此に非ず彼に非ず、学に非ず無学に非ず。若し仏出世するも及び出世せざるも常住不動にして変易あることなし」と云えり。此等は如来の法身を常住不変となせるものなり。然るに「大乗荘厳経論巻3菩提品」等には唯如来の法身のみならず、報応二身も亦た常住なりとし、法身を本性常、報身を無間常、応身を相続常となし、「仏性論巻4」には又三身の常住を説くに総じて十種の因縁ありとなせり。即ち「仏性論無変異品」に、「此の三身は恒に能く世間利益等の事を生起するが故に常住と説く。常住とは十種の因縁に依る、十とは一に因縁無辺、二に衆生界無辺、三に大悲無辺、四に如意足無辺、五に無分別智無辺、六に恒に禅定に在りて散なし、七に安楽清凉、八に世間の八法を行ずるも染せられず、九に甘露寂静にして死魔を遠離し、十に本性法然にして無生無滅なり。一に因縁無辺の故に常なりとは、無量劫来身命財を捨するは正法を摂せんが為なり。正法既に辺際なく無窮無尽なり、還って無窮の因を以って無窮の果を感ず。果は即ち三身なるが故に是れ常なることを得るなり。二に衆生無辺の故に常なりとは、初発心の時に四弘誓を結し、十無尽の大願を起こす、若し衆生不可尽ならば我が願も尽くることなけん。衆生若し尽きば我が願も乃ち尽きんと。衆生既に其れ無尽なり、是の故に化身は常に世間に在りて衆生を教導し、窮尽あることなきなり。三に大悲無辺の故に常なりとは、若し諸の菩薩の分に大悲を有するすら尚お能く恒に衆生を救いて心に斉限なく、久しく生死に住して涅槃に入らず。何に況んや如来は衆徳円満して常に大悲に在り、救拔の恒思豈に辺際あらんや。是の故に常と言うなり。四に四如意無辺の故に常なりとは、世間に四神足を得る者あれば尚お能く住寿四十小劫なり。何に況んや如来は大神足の師たり、而も当に住寿自在にして億百千劫に広く衆生を化すること能わざるべけんや。是の故に常と名づく。五に無分別慧無辺の故に常なりとは、生死涅槃の二執を遠離して一向に第一義諦と相応す、不動不出なるが故に是れ常なるを知る。六に恒に禅定に在るが故に常なりとは、世間に人の禅定を得る者あれば、尚お能く水火の為に燼溺せられ、刀箭に傷つけられず。何に況んや如来は常に禅定に在り。而も応に壊す可けんや。是の故に常と名づく。七に安楽清凉の故に常なりとは、安楽は即ち是れ金剛心なり、能く無明住地最後念の無常の苦を除く、苦なきを以っての故に、故に安楽と名づく。仏果顕成するが故に清凉と名づく、是れ解脱道なるが故に名づけて常と為す。八に世間の八法を行ずるも染せられざるが故に常なりとは、仏身は復た道前に在りて生死と相応すと雖も、而も彼の煩悩の為に染せられず、妄想の縁なきが故に是れ常住なり。九に甘露寂静にして死魔を遠離するが故に常なりとは、甘露は人をして長仙不死ならしむ、金剛の心は能く無明最後念の惑を除くが故に仏果の常楽を得。常楽の故に寂静なり、寂静の故に死魔を遠離す、死魔を離るるが故に是れ常住の法なり。十に性無生滅の故に是れ常なりとは、法身は本無今有本有今無に非ず、三世に行ずと雖も三世法に非ず、何を以っての故に此れは是れ本有にして始めて今有になるに非ず、三世の法を過ぐ、是の故に常と名づく」と云えり。此れ三身の体用常恒不断なるが故に総じて常住と名づくべきことを明にせるなり。又「大般涅槃経疏巻8」には、経の於諸常中最為第一の文を解し、「於諸常中最為第一とは何等の常に於いて而も第一と言うや。自ら世間に相続不断を常と名づくるあり、復た三無為常あり。煩悩を断じて得する者を数縁常と名づけ、事縁差う者を非数縁常と名づけ、此の二なき者を虚空常と名づく。此の四種は皆悉く如来の常に及ばず。如来の常は即ち是れ妙有なるが故に第一と言う、此れ三蔵の義なり。又真諦の常は生死の虚偽に対す、謂わく此の真常は既に生死なし、亦た此の真なければ亦た照応なし。如来常は本と自ら之有り、待対する所なし。其の常実の照なるが故に第一と云うなり。此れ通の義に約す。又常と言うは常無常を出づ、即ち是れ非常非無常の真常なるのみ。此れ別の義に約す。又如来常とは辺に即して而も中、三点を具足して不縦不横なり、是の故に此の常を最も第一と為す。円教の義に約するなり」と云えり。是れ如来常は世間の相続不断並びに三無為常と其の義異なることを説けるものなり。其の他、世間相常住、仏性常住等の説あり。又「雑阿含経巻12」、「法華経巻1方便品」、「大般涅槃経巻3、39」、「金光明最勝王経巻2夢見金鼓懺悔品」、「梁訳摂大乗論釈巻13」、「唐訳摂大乗論釈巻10」、「仏地経論巻7」、「成唯識論巻10」、「華厳五教章巻4」等に出づ。<(望)
  参考:『中論巻4顛倒品』:『於無常著常  是則名顛倒   空中無有常  何處有常倒  若於無常中  著無常非倒   空中無無常  何有非顛倒』
問曰。一切有為法皆無常相。應是第一義。云何言無常非實。所以者何。一切有為法生住滅相。前生次住後滅故。云何言無常非實 問うて曰く、『一切の有為法は、皆無常の相なり。』とは、応に是れ第一義なるべし。云何が、『無常は実に非ず。』と言う。所以は何んとなれば、一切の有為法は、生住滅の相にして、前に生じ、次に住し、後に滅するが故に、云何が、『無常は実に非ず。』と言える。
問い、
一切の、
『有為法』は、
皆、
『無常の相である!』という、
是れが、
『第一義であるはずだ!』。
何故、
『無常』が、
『実でない!』と、
『言うのですか?』。
何故ならば、
一切の、
『有為法』は、
『生、住、滅の相だからである!』、
諸の、
『法』は、
前が、『生であり!』、
次が、『住であり!』、
後が、『滅である!』のに、
何故、
『無常』は、
『実でない!』と、
『言うのですか?』。
  有為法(ういほう):梵語saMskRta-dharmaの訳。為作ある法の義。即ち因縁所成の現象の諸法を云う。『大智度論巻23上注:有為、同巻43上注:無為法』参照。
答曰。有為法不應有三相。何以故。三相不實故。若諸法生住滅。是有為相者。今生中亦應有三相。生是有為相故。如是一一處亦應有三相。是則無窮。住滅亦如是。若諸生住滅。各更無有生住滅者。不應名有為法。何以故。有為法相無故。以是故。諸法無常非第一義 答えて曰く、有為法は、応に三相有るべからず。何を以っての故に、三相は実ならざるが故なり。若し諸法の生、住、滅、是れ有為の相ならば、今、生中にも亦た応に三相有るべし。生は是れ有為の相なるが故なり。是の如く一一の処にも、亦た応に三相有るべし。是れ則ち無窮なり。住、滅も亦た是の如し。若し諸の生、住、滅、各、更に生、住、滅有ること無くんば、応に有為法と名づくべからず。何を以っての故に、有為法の相無きが故なり。是を以っての故に、諸法の無常は、第一義に非ず。
答え、
『有為法』にも、
『三相』は、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『三相』は、
『実でないからである!』。
若し、
諸の、
『法』の、
『生、住、滅』が、
『有為の相ならば!』、
今、
『生』中にも、
『三相』が、
『有るはずだ!』、
『生』が、
『有為』の、
『相だからである!』。
是のような、
『一一の処(生の生、住、滅)』にも、
『三相』が、
『有るはずであり!』、
是れは、
則ち、
『無窮である!』。
『住、滅』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若し、
諸の、
『生、住、滅』の、
各に、
更に、
『生、住、滅』が、
『無ければ!』、
是の、
『法』を、
『有為法』と、
『呼ぶはずがない!』。
何故ならば、
『有為法』の、
『相』が、
『無いからである!』。
是の故に、
諸の、
『法』が、
『無常である!』とは、
『第一義ではない!』。
  三相(さんそう):有為法の相を生住滅の三種に分類せるもの。『大智度論巻1上注:三有為相、相』参照。
  三有為相(さんういそう):三種の有為の相の意。又三有為、或いは三相とも名づく。即ち有為法の能相に三種の別あるを云う。一に生相、二に住異相、三に滅相なり。「増一阿含経巻12」に、「此の三有為は有為の相なり。云何が三と為す、従って起る所を知り、当に遷変すべきを知り、当に滅尽すべきを知る」と云い、「大毘婆沙論巻39」に、「三有為の有為相あり、有為の起亦た了知すべく、尽及び住異も亦た了知すべし」と云い、又「諸法の初起を生と名づけ、後尽を滅と名づけ、中熟を老と名づく」と云える是れなり。是れ能く諸法を起こすを生相と云い、能く諸法を衰異せしむるを住異相と云い、能く諸法を壊滅するを滅相と名づけたるなり。「倶舎論巻5」に、「若し法の三世に行じて遷流せしむるを、此の経に説いて有為の相と為す。諸の有情をして厭畏を生ぜしむるが故なり。謂わく彼の諸行、生の力に遷されて、未来より現在に流入せしめ、異及び滅相の力に遷迫せられて、現在より過去に流入せしめ、其れをして衰異及び壊滅せしむるが故なり。伝説すらく、人の稠林に処するに、三の怨敵ありて損害を為さんと欲するあり。一は稠林より之を牽きいて出でしめ、一は其の力を衰えしめ、一は命根を壊するが如し。三相の行に於ける応に知るべし亦た爾り。住は彼の行に於いて摂受し安立し、常に楽うて相捨離せざるが故に、立てて有為の相の中に在らず。又無為法に自相住あり、住相は彼れに濫ずるが故に経に説かずと。有が謂わく、此の経の説は住と異と総合して一と為して住異相と名づくと。何ぞ是の如く総合して説くことを用いることを為すや。住は是れ有情の愛著する所の処なれば、厭捨せしめんが為に異と合説す。黒耳と吉祥と倶なりと示すが如し」と云えり。是れ経に唯三相のみを立て、四相を説かざる所以を会釈したるものなり。又「順正理論巻13」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻7」、「倶舎論光記巻5」、「同宝疏巻5」、「同法義巻5」等に出づ。<(望)
  (そう):梵語lakSaNa、又はnimittaの訳。形相、又は状態の意。性に対す。即ち諸法の形像状態を云う。「大乗入楞伽経巻5刹那品」に、「此の中、相とは謂わく所見の色等の形状各別なる、是れを名づけて相と為す」と云い、「大智度論巻31」に、「一切法に二種の相あり、総相と別相なり。此の二の相空なるが故に名づけて相空と為す。問うて曰わく、何等か是れ総相、何等か是れ別相なる。答えて曰わく、総相とは無常等の如し。別相とは諸法は皆無常なりと雖も而も各別相あり、地を堅相と為し、火を熱相となすが如し」と云える是れなり。是れ一切法は総じて言わば無常等を其の相となし、別して言わば地は堅を相となし、火は熱を相となし、乃至色等の形状各別なるを皆名づけて相となすことを明にせるなり。又前引「大智度論」の連文に性相の別を説き、「性と相と何等の異かある。答えて曰わく、有る人言わく、其の実には異なく、名に差別あるのみ。性を説かば則ち為に相を説き、相を説かば則ち為に性を説く。譬えば火性は即ち是れ熱相なりと説き、熱相は即ち是れ火性なりと説くが如し。有る人言わく、性と相は少しく差別あり。性は其の体を言い、相は可識を言う。釈子の禁戒を受持するは是れ其の性なり、剃髪割截染衣は是れ其の相なり。梵志の自ら其の法を受くるは是れ其の性なり、頂に周羅ありて三奇杖を執るは是れ其の相なるが如し。火の如き熱は是れ其の性、烟は是れ其の相なり」と云えり。是れ性は物の体を云い、相は識るべく見るべき相状を云うとなすの意なり。又「大乗起信論」には真如に体相用の三大ありとし、其の中相大を説き、「相大とは、謂わく如来蔵に無量の性功徳を具足するが故なり」と云い、又其の次下に、「実に此の諸の功徳の義ありと雖も、而も差別の相なく、等同一味にして唯一真如なり。此の義云何ん、無分別にして分別の相を離るるを以って、是の故に無二なり」と云えり。是れ真如の自体に大智慧光明、遍照法界、真実識知等の諸の功徳の義あるを相大と名づけたるものなり。其の他、「大毘婆沙論巻39」等に、一切有為の諸法に各生相住相異相滅相の四相あることを説き、「大智度論巻31」に諸法に有相知相識相縁相増上相因相果相総相別相及び依相の別ありとし、「十地経論巻1」に総相別相同相異相成相壊相の六相を出し、又「大乗起信論」には有相無相非有相非無相有無俱相、一相異相非一相非異相一異俱相等を分別せり。又「入楞伽経巻7五法門品」、「大智度論巻29」、「瑜伽師地論巻72」、「顕揚聖教論巻6」、「成唯識論巻2、5」、「大乗義章巻4、10」、「成唯識論述記巻9本」、「大乗起信論義記巻上」等に出づ。<(望)
  (そう):特質( characteristic )、◯梵語 lakSaNa の訳、属性/目印/辨別すべき特徴( An attribute, a mark; distinctive feature )の義。◯梵語 nimitta の訳、知覚的特性/知覚的形状/現象/特性( A perceptual quality, a perceptual form, a sign; defining attribute )の義。◯梵語 aakaara の訳、知覚的心象( Perceptual image )の義。◯梵語 saMjJaa の訳、形状/外観/状態/様相/状況/印象( Form, appearance, state, condition, aspect, situation, expression, external appearance, outwardly expressed appearance )の義。◯識別された様相/自己に関する人、我の如きと連ねられた人相、我相の如きは、言外の意として法、即ち客観的構成概念に等しい( Discriminated aspect(s). When juxtaposed with the notions of self, such as 人 and 我, it is equivalent in connotation to 法, i.e. objective constructs )。
復次若一切實性無常則無行業報。何以故。無常名生滅。失故。譬如腐種子不生果。如是則無行業。無行業云何有果報。今一切賢聖法有果報。善智之人所可信受。不應言無。以是故。諸法非無常性。如是等無量因緣。說不得言諸法無常性。一切有為法無常。苦無我等亦如是。如是等相名為對治悉檀 復た次ぎに、若し一切の実性が、無常なれば、則ち行業の報無し。何を以っての故に、無常を生滅失すと名づくるが故なり。譬えば腐りたる種子の果を生ぜざるが如し。是の如きは則ち行業無し。行業無くんば、云何が果報有らん。今、一切の賢聖の法に、果報有ること、善智の人の信受すべき所なり、応に無しと言うべからず。是を以っての故に、諸法は無常の性なるに非ず。是の如き等の無量の因縁は、説いて、『諸法は無常の性なり。』と言うを得ず。一切の有為法の無常、苦、無我等も亦た是の如し。是の如き等の相を名づけて、対治悉檀と為す。
復た次ぎに、
若し、
一切の、
実の、
『性』が、
『無常ならば!』、
則ち、
『行業の報』は、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『無常』とは、
『生、滅』を、
『失うということだからである!』。
譬えば、
『腐った種子』が、
『果』を、
『生じないように!』、
是のようであれば、
則ち、
『行業(行為)』は、
『無いことになり!』、
『行業』が、
『無ければ!』、
何故、
『果報』が、
『有るのか?』。
今、
一切の、
『賢聖の法』には、
『果報』が、
『有る!』が、
『善智の人』は、
『賢聖の法』を、
『信受するはずであり!』、
『果報』が、
『無い!』と、
『言うはずがない!』。
是の故に、
諸の、
『法』は、
『無常』という、
『性ではない!』。
是れ等のような、
無量の、
『因縁』で、こう説いている、――
諸の、
『法』は、
『無常の性である!』とは、
『言えず!』、
一切の、
『有為法』の、
『無常、苦、無我』等も、
『是の通りである!』。
是れ等のような、
『相』を、
『対治悉檀』と、
『称する!』。
  賢聖(けんじょう):賢(梵bhadra)と聖(梵aarya)の併称。賢とは即ち善和の意、聖とは即ち正理に会うの意。即ち有漏智を以って善根を修むる者を称して賢者と為し、無漏智を以って正理を証見する者を称して聖者と為す。『大智度論4上注:賢聖』参照。



第一義悉檀

第一義悉檀者。一切法性一切論議語言。一切是法非法。一一可分別破散。諸佛辟支佛阿羅漢所行真實法。不可破不可散。上於三悉檀中所不通者。此中皆通 第一義悉檀とは、一切の法性、一切の論議語言、一切の是法非法は、一一分別して、破散すべし。諸の仏、辟支仏、阿羅漢の行ずる所の、真実の法は、破すべからず散ずるべからず。上の三悉檀中に於いて通ぜざる所も、此の中には皆通ず。
『第一義悉檀』とは、――
『仏法』中に、
謂わゆる、
一切の、
『法の性』、
『論議、語言』、
『是法、非法(の分別)』は、
『一一』が、
『分別(分解)されて!』、
『破散される!』が、
諸の、
『仏、辟支仏、阿羅漢』の、
『行う!』所の、
『真実の法』は、
『破ることもできず!』、
『散じることもできない!』とは、
上の、
『三悉檀』中には、
『通じない所である!』が、
此の中には、
皆、
『通じるのである!』。
  論議(ろんぎ):問答して理否を分つこと。
  語言(ごごん):ことば。言語。はなし。相談。語は意を伝えること。言はことばを発すること。
  是法非法(ぜほうひほう):正しいことと、正しくないこと。
  破散(はさん):ばらばらにやぶる。
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語pratyeka-buddha、現身に教を受けずして無師独悟し、能く自ら調するも他を調せざる一種の聖者を云う。『大智度論巻18上注:縁覚』参照。
  阿羅漢(あらかん):梵語arhat、一切の煩悩を断尽して尽智を得、世人の供養を受くるに適当なる聖者を云う。『大智度論巻17下注:阿羅漢』参照。
  法性(ほっしょう):実相、真如、法界、涅槃等ともいい、皆異名同体である。性とは体とも言われ不改を指す。真如とは万法の体であり、染に在ろうと浄に在ろうと、有情の数に在ろうと非情の数に在ろうと、その性は不改不変であるが故に法性という。
問曰。云何通 問うて曰く、云何が通ずる。
問い、
何故、
『通じるのですか?』。
答曰。所謂通者。離一切過失。不可變易不可勝。何以故。除第一義悉檀。諸餘論議諸餘悉檀皆可破故。如眾義經中所說偈
 各各自依見 戲論起諍競
 若能知彼非 是為知正見
 不肯受他法 是名愚癡人
 作是論議者 真是愚癡人
 若依自是見 而生諸戲論
 若此是淨智 無非淨智者
答えて曰く、謂わゆる通ずとは、一切の過失を離れ、変易すべからず、勝つべからず。何を以っての故に、第一義悉檀を除きて、諸余の論議、諸余の悉檀は、皆破すべきが故なり。衆義経中に説く所の偈の如し、
各各自らの見に依(よ)り、戯論して諍競を起こし
若し能く彼れの非を知らば、是れを正見を知ると為す
肯(あえ)て他法を受けざる、是れ愚癡の人と名づけ
是の論議を作す者は、真に是れ愚癡の人なり
若し自ら是とする見に依りて、諸の戯論を生ずるに
若し此れは是れ浄智ならば、浄智に非ざる者無けん
答え、
謂わゆる、
『通じる!』とは、――
一切の、
『過失』を、
『離れている!』ので、
誰にも、
『変易されず!』、
『勝たれることもない!』。
何故ならば、
『第一義悉檀』を、
『除いて!』、
『他の論議、悉檀』は、
皆、
『破られるからである!』。
例えば、
『衆義経』中に、
『偈』に説く通りである、――
各各は、     ――第一偈――
自ら、
『見』に、
『依って!』、
『戯論』を、
『起して!』、
『諍競し!』、
若し、
彼れの、
『非』を、
『知れば!』、
是れを、
『正見』を、
『知る!』と、
『思いこむ!』。
敢(あえ)て、   ――第二偈――
他の、
『法』を、
『受けなければ!』、
是れを、
『愚癡の人』と、
『称し!』、
是のような、
『論議』を、
『作す!』者は、
真に、
是れは、
『愚癡の人である!』。
若し、     ――第三偈――
自ら、
『是とする!』、
『見』に、
『依って!』、
諸の、
『戯論』を、
『生じながら』、
若し、
此れを、
『浄い!』、
『智だとすれば!』、
誰が、
『浄くない!』、
『智なのか?』。
  変易(へんやく):かわること。変遷。変更。
  諸余(しょよ):その他の。
  戯論(けろん):梵語prapaJcaの訳。戯弄の談論の意。即ち彼れは彼の処を是とし、我れは我が処を是としするに於いて、斉限なく論ずることを云う。『大智度論巻1上注:戯論』参照。
  諍競(じょうきょう):言い争うこと。
  是見(ぜけん):是とする見。善いと思う見解。
  衆義経(しゅぎきょう):不明。
  参考:『義足経巻1』:『自說淨法無上  餘無法明及我  著所知極快樂  因緣諦住邪學  常在眾欲願勝  愚放言轉相燒  意念義忘本語  轉說難慧所言  於眾中難合義  欲難義當竟句  在眾窮便瞋恚  所難解眾悉善  自所行便生疑  自計非後意悔  語稍疑忘意想  欲邪難正不助  悲憂痛所言短  坐不樂臥喑咋  本邪學致辭意  語不勝轉下意  已見是尚守口  急開閉難從生  意在難見對生  出善聲為眾光  辭悅好生意喜  著歡喜彼自彼  自大可墮漏行  彼不學從何增  已學是莫空諍  不從是善解脫  多倚生痛行司  行求輩欲與難  勇從來去莫慚  令當誰與汝議  抱冥柱欲難曰  汝邪諦自守癡  汝行花不見果  所出語當求義  越邪度轉求明  法義同從相傷  於善法勇何言  彼善惡受莫憂  行億到求到門  意所想去諦思  與大將俱議軍  比螢火上遍明』
此三偈中。佛說第一義悉檀相。所謂世間眾生。自依見自依法自依論議。而生諍競。戲論即諍競本。戲論依諸見生。如說偈言
 有受法故有諸論 
 若無有受何所論 
 有受無受諸見等 
 是人於此悉已除
行者能如實知此者。於一切法一切戲論。不受不著不見。是實不共諍競。能知佛法甘露味。若不爾者則謗法。
此の三偈中に、仏は第一義悉檀の相を説きたまえり。謂わゆる『世間の衆生は、自らの見に依り、自らの法に依り、自らの論議に依りて、諍競を生ず。戯論は、即ち諍競の本にして、戯論は諸見に依り生ず。』と。偈を説きて言うが如し、
法を受くること有るが故に、諸論有り
若し受くること有る無くんば、何の論ずる所ぞ
諸の見等を、受くる有り受くる無し、
是の人は、此に於いて悉く已に除けり
行者、能く如実に此(ここ)を知らば、一切の法、一切の戯論に於いて、受けず著せず見ずして、是れ実に共に諍競せず、能く仏法の甘露味を知る。若し爾(しか)らずんば、則ち法を謗(そし)らん。
此の、
『三偈』中に、
『仏』は、
『第一義悉檀』の、
『相』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、
『世間の衆生』は、      ――第一偈の釈――
自らの、
『見』に、
『依って!』、
自らの、
『法』に、
『依って!』、
自らの、
『論議』に、
『依って!』、
而も、
『諍競』を、
『生じている!』が、
『戯論(≒論義)』は、
即ち、
『諍競』の、
『本であり!』、
『戯論』は、
諸の、
『見により!』、
『生じる!』、と。
『偈』に説いて、こう言う通りである、――
『法』を、
『受ける(信奉する)!』ことの、
『有る!』が故に、
諸の、
『論』が、
『有る!』、
若し、
『受ける!』ことが、
『無ければ!』、
何を、
『論ずるのか?』。
諸の、
『見』を、
『受ける(認める)!』者も、
『有り!』、
『見』を、
『受けない(認めない)!』者も、
『有る!』が、
是の、
『人』は、
此れを、
悉く、
『除いた!』。
『行者』は、
此の、
『事』を、
『如実』に、
『知ることができれば!』、
一切の、
『法、戯論』に於いて、
『受けることもなく!』、
『著することもなく!』、
『見ることもない!』。
是れは、
実に、
『共に(いっしょに)!』、
『諍競しない!』ので、
『仏』の、
『法の甘露味』を、
『知ることができる!』。
若し、
そうでなければ、
則ち、
『法』を、
『謗(そし)ることになるだろう!』。
  如実(にょじつ):◯梵語 abhisamaya の訳、明了に知ること( clear understanding )。◯梵語 yathaabhuutam の訳、事実/真実に従う/随順すること( in accordance with fact, according to what has happened, according to the truth )。
若不受他法不知不取。是無智人。若爾者應一切論議人皆無智。何以故。各各不相受法故。所謂有人自謂。法第一義淨。餘人妄語不淨。譬如世間治法。故治法者刑罰殺戮種種不淨。世間人信受行之。以為真淨。於餘出家善聖人中。是最為不淨 若し他法を受けず、知らず、取らざれば、是れ無智の人なり。若し爾らば、応に一切の論議人は、皆無智なり。何を以っての故に、各各、相法を受けざるが故なり。謂わゆる有る人の自らの法を謂わく、第一義にして浄なり、余人は妄語にして不浄なりと。譬えば世間の治法の如し。故(もと)より治法は刑罰、殺戮にして種種の不浄なるも、世間の人は、之(これ)を信じ受け行い、以って真浄と為し、余の出家、善、聖人中に於いては、是れを最も不浄と為す。
若し、     ――第二偈の釈――
『他』の、
『法』を、
『受けることもなく!』、
『知ることもなく!』、
『取ることもなければ!』、
是れは、
『無智の人である!』。
若し、
そうならば、
一切の、
『論議の人』は、
皆、
『無智のはずである!』。
何故ならば、
各各が、
互に、
『法』を、
『受けないからである!』。
謂わゆる、
有る人は、
自ら、こう謂う、――
是の、
『法』は、
『第一義であり!』、
『浄である!』が、
他の人は、
『妄語()であり!』、
『不浄である!』、と。
譬えば、
『世間の治法』などは、
故(もと)より、
『治法者』は、
『刑罰し!』、
『殺戮する!』が故に、
種種に、
『不浄である!』。
『世間の人』は、
是の、
『治法』を、
『信じ!』、
『受け!』、
『行い!』、
是れを、
『真に!』、
『浄いとしている!』が、
他の、
『出家人』や、
『善聖の人』には、
是れは、
『最も!』、
『不浄だとされている!』。
  治法(じほう):国を治める方法。
  刑罰(ぎょうばつ):けいばつ。
  殺戮(せつろく):さつりく。殺して屍をさらすこと。
  妄語(もうご):梵語mRSaa-vaadaの訳。虚妄、偽りの語。『大智度論巻26下注:妄語』参照。
外道出家人法。五熱中一腳立拔髮等。尼犍子輩以為妙慧。餘人說此為癡法。如是等種種外道出家白衣婆羅門法。各各自以為好。餘皆妄語 外道の出家人の法は、五熱中に一脚もて立ち、髪を抜く等を、尼揵子の輩は、以って妙慧と為し、余人は此れを説いて、癡法と為す。是の如き等、種種の外道の出家、白衣、婆羅門の法は、各各、自らを以って好と為し、余は皆妄語なり。
『外道の出家人』の、
『法』は、
『五熱』中に、
『一脚』で、
『立つ!』とか、
『髪』を、
『抜く!』等であり、
『尼犍子の輩』は、
是れを、
『素晴らしい!』、
『慧だとし!』、
『他の人』は、
此れを、
『癡(たわけ)』の、
『法だとする!』。
是れ等のような、
種種の、
『外道』の、
『出家、白衣、婆羅門の法』を、
各各が、
自らを、
『好もしい!』と、
『思いこみ!』、
他は、
皆、
『妄語だとしている!』。
  五熱(ごねつ):外道の苦行。五体を火に熱するを云う。<(丁)
  尼犍子(にけんじ):苦行外道の一派。尼犍は梵名nigrantha、無結と訳す。苦行を以って煩悩の結を離るるの意。『大智度論21下注:尼揵子論師』参照。
  妙慧(みょうえ):すばらしい智慧。
  癡法(ちほう):愚癡の法。おろかな法。
  白衣(びゃくえ):俗人の称。出家の対。俗人の白衣を好むが故なり。
  婆羅門(ばらもん):梵名braahmaNa。巴梨名同じ、又婆囉賀磨拏、婆羅欱末拏、或いは没囉憾摩に作る。浄行、梵行、又は承習と訳し、一に梵志とも称す。即ち印度に於いて四姓の最上に位する僧侶及び学者の階級を云う。「長阿含巻6小縁経」に、「我が婆羅門種を最も第一と為す、余は卑劣なり。我が種は清白にして余は黒冥なり。我が婆羅門種は梵天より出で、梵の口より生じ、現法の中に於いて清浄の解を得、後も亦た清浄なり」と云い、「同巻15種徳経」に「我が婆羅門は五法を成就し、言う所至誠にして虚言あることなし。云何が五と為す、一には婆羅門は七世已来父母真正にして、他人の軽毀する所とならず。二には異学の三部諷誦通利し、種種の経書尽く能く分別し、世典の幽微も綜練せざることなく、又能く大人の相法を善くし、吉凶祭祀儀礼を明察す。三には顔貌端正に、四には持戒具足し、五には智慧通達す。是れを五と為す」と云い、又「慧琳音義巻29」に、「婆羅門。(中略)即ち色界初禅の梵天の名なり。彼の国の人民は四類差別す、婆羅門は即ち其の一なり。自ら相伝えて云う、我れは梵天の口より生ず、独り梵の名を取りて以って其の称と為すと。世業相伝えて四囲陀論を習う。例するに皆博学多知、志を守ること貞白に、文儒雅操、道を高くして仕えず。其の中の聡俊頴達なる者は多く王者の師と為り、封邑を受けて而も自ら居る。最も上等と為すなり」と云えり。是れ皆婆羅門は元と梵天の口より生じ、顔貌端正、清浄高潔にして、吠陀っを習い祭祀を司るを以って其の業とし、四姓中最も其の上位に居るものなるを伝うるなり。又「成実論巻7三業品」に、「世法経に説く、四品の人あり、婆羅門と刹利と毘舎と首陀羅となり。是の四品の人に各自ら法あり、婆羅門に六法あり、刹利に四法、毘舎に三法、首陀羅に一法なり。六法とは一に自ら天祠を作し、二に天祠の師と作り、三に自ら違駄を読み、四に亦他人に教え、五に布施し、六に施を受く。四法とは一に自ら天祠を作すも師と作らず、二に他より違駄を受け他に教えず、三に布施するも施を受けず、四に人民を守護す。三法とは天祠を作すも師と作らず、自ら違駄を読むも他に教えず、自ら布施するも施を受けず。一法とは謂わく上の三品の人に供給するなり」と云い、又「摩登伽経巻上明往縁品」に、「婆羅門は最も尊貴と為し、四妻を畜うることを得。刹利は三妻、毘舎は二妻、首陀は一妻なり」と云えり。此等は元と皆「摩奴法典 maanava- dharma- zaastra I,88-91x, 75- 79」等に規定する所にして、即ち婆羅門族のみ独り祭祀の師となり、他人に吠陀を教え、他人より施を受け、又四姓より各妻妾を娶ることを得べき等の特権を有すとせられたるものなり。又婆羅門は其の生涯を梵行brahma-caarin、家住gRha-stha、林棲vaana-prastha、遁世saMnyaasinの四期に分ち、各期に於いて所定の本務を遂行すべきものとせられ、即ち年甫めて八歳に達せば師に就き、爾後十二年間吠陀を学び、祭儀を習うを名づけて梵行期とし、後家に帰り結婚して嗣子を得、又祖霊を祭り、俗務を営むを名づけて家住期とし、年既に老いて家産を其の子に譲り、樹林に棲居して苦行を修し、専ら思索に耽りて宗教的生活に入るを名づけて林棲期とし、後更に世俗の執着を絶ち、麁衣を被り水瓶を持し、遊行遍歴を事とするを名づけて遁世期となすなり。又「倶舎論光記巻1」に婆羅門の法を記し、「七歳已上は家に在りて学問し、十五已去は婆羅門の法を受けて遊方学問し、年三十に至らば家嗣の断絶せんことを恐れ、家に帰りて婦を娶り、子を生みて嗣を継ぎ、年五十に至らば山に入りて道を修す」と云えるは、一種の四期説を伝えたるものというべし。又「雑阿含経巻9」に、「自ら餓えて塚間に居り、三浴して三典を誦するも、根門を守護せず、猶お夢に宝を得たるが如く、編髪して皮褐を衣し、戒盗灰を身に坌し、麁衣以って身を蔽い、杖を執りて水瓶を持し、婆羅門に仮形して以って利養を求む」と云い、「有部毘奈耶雑事巻1」に、婆羅門は白土或いは白灰を其の額上に抹して三画と為すと云えるは、共に林棲期、若しくは遁世期に於ける婆羅門の状態を記せるものなるが如し。蓋し遁世期の婆羅門の行法は、仏教に移入せられて比丘の生活の規範となりしもの少なからざるが如く、彼の遊行、乞食、雨安居等の制が両者相通じ、又遁世期に於ける婆羅門を比丘bhikSa沙門zramaNa、或いは遊行者parivraajakaと称する如き皆其の好例なり。彼の「中阿含巻48馬邑経」、「雑阿含経巻17、29」、「増一阿含経巻47」等に、沙門と婆羅門とを同義となし、又「大智度論巻10、44」等に、出家求道の人を沙門、在家学問の人を婆羅門と称すとなすが如き、皆其の消息を伝うるものというべし。又「長阿含巻16三明経」には、吠陀を誦持流布せし旧婆羅門に阿咤摩aTThaka、婆摩vaamaka、婆摩提婆vaamadeva、毘婆審vessaamitta、伊尼羅斯aGgirasa、蛇婆提伽yamataggi、婆婆悉vaaseTTha?、迦葉kassapa、阿楼那、瞿曇摩、首脂、婆羅損陀等ありと云い、「長阿含巻13阿摩画経」、「中阿含巻38鸚鵡経」、「同巻40頭那経」、「大毘婆沙論巻14」等にも粗ぼ同説を出し、又「瑜伽師地論巻29」には、婆羅門に種姓、名想(仮名)、正行の三種の別ありとし、婆羅門種の家に生まれたるものを種姓婆羅門、仮に呼びて婆羅門と名づけたるものを名想婆羅門、悪不善の法を駆擯せし善行の人を正行婆羅門と名づくと云えり。又「長阿含巻5典尊経」、「雑阿含経巻4」、「増一阿含経巻11、46」、「善見律毘婆沙巻4」、「金剛針論」、「大毘婆沙論巻77、150、179」、「大智度論巻32」、「瑜伽師地論巻7、55、70」、「注維摩詰経巻2」、「経律異相巻40、41」、「玄応音義巻18、22」、「慧琳音義巻3、25、26」等に出づ。<(望)
  参考:『別訳雑阿含経巻11』:『如是我聞。一時佛在王舍城迦蘭陀竹  林。爾時尸蔔梵志。往詣佛所。問訊已訖。在一面坐。而作是言。瞿曇。若有婆羅門。作是說。隨所作業。悉是過去。本所作因。於現在世。所作諸業。能增過去不善之因。現在之世。若不造業。則能破壞生死之橋。四流永絕。更不流轉。以業盡故。苦亦得盡。苦盡則苦邊際盡。瞿曇。此事云何。佛告尸蔔。如汝所言。彼諸沙門婆羅門等。作如是說。隨所造業。悉是過去本業因緣。乃至盡苦邊際。若如是者。以何因緣。於現在世。而有種種風冷病等。四大增損。若如是者。為自所作。為他所作。尸蔔白佛。他之所作。佛告尸蔔。云何自己所作。常拔鬚髮。或舉手立。不在床坐。或復蹲坐。以之為業。或復坐臥於棘刺之上。或邊椽坐臥。或坐臥灰土。或牛屎塗地。於其中坐臥。或翹一足。隨日而轉。盛夏之月。五熱炙身。或食菜。或食稗子。或食舍樓伽。或食糟。或食油滓。或食牛糞。或日三事火。或於冬節。凍冰襯體。有如是等無量苦身法。是名自己所作。云何名為從他作苦。為他手足及以力杖瓦石打擲。如是等苦。是則名為從他得苦。一切世人。四大增損。或為風冷。而起是患。如是等患。現所見事。云何彼諸婆羅門等。若作是見。言以此故。能盡苦際。即是自作過咎。如是等咎。一切世人。皆共知之。彼自虛說。以五因緣故。能令身心受諸苦惱。何等為五。所謂貪欲瞋恚掉悔疑。如斯五法。能令眾生現在之世身心苦惱。復有五因緣故。於現在世。能令身心常得快樂不受苦惱。何等為五。所謂能斷貪欲之心。則於現在。能令身心受法快樂。何以故。以有貪欲瞋恚掉悔故。能令眾生受諸苦惱。若能斷除。則受快樂。無有憂患。是故應當斷除如是貪欲瞋恚掉悔。若斷除者。無熱無惱。不待時節。當得解脫。必趣涅槃。尸蔔是名現在所得法。復有現前所得法。所謂正見正語正業正命正方便正志正念正定。說是法時。尸蔔梵志。遠離塵垢。於諸法中。得法眼淨。既得道已。即整衣服。合掌向佛。而白佛言。世尊。唯願如來慈哀憐愍。聽我出家。如來即聽出家。既出家已。於空靜處。慇懃精進。得阿羅漢』
  尼揵子(にけんじ):この外道は苦行を修めるを以って世間の衣食の束縛を離れるに因り、煩悩の結と三界の繋縛を遠離することを期す。またこの外道は形を露すことを以って恥と為さず、故に世人貶称して無慚外道、裸形外道と為す。
  五熱(ごねつ):熱暑の日光の下に身体を曝し、身の四方に火を燃やす苦行。
  印度四姓(いんどししょう):印度には生まれながらに厳しい階級の差別があり、それを四姓という。(1)婆羅門(ばらもん):浄行者と意訳す。或いは出家、或いは在家の浄行を修めて涅槃を求める者。吠陀(べいだ)経典を学習伝授し、祈祷、祭祀を掌理して神と人間との媒介を為す。(2)刹帝利(せつていり):田主、王種と意訳す。王族乃至士族の階級。政治及び軍事を掌管して代々世に君臨し、その他の三姓を統括する。(3)毘捨(びしゃ):居士、田家、商賈(しょうこ、商人)と意訳す。農業、牧畜、工業、商業等の生産事業に従事する一般平民階級。(4)首陀羅(しゅだら):農種、殺生種と意訳す。最下位の奴隷階級にして終身、前の三種の姓に奉持するをその本務とする。また前の三種の姓は吠陀を念誦すること及び祭祀の権を有し、死後に再び世に生まれるので再生族と称するが、首陀羅はすでに誦経、祭祀の権無く、再び世に転生することが無いので、一生族と称す。
是佛法中亦有犢子比丘說。如四大和合有眼法。如是五眾和合有人法。犢子阿毘曇中說。五眾不離人。人不離五眾。不可說五眾是人離五眾是人。人是第五不可說法藏中所攝 是の仏法中にも、有る犢子比丘の説かく、『四大和合して、眼法有るが如く、是の如く五衆和合して、人法有り。』と。犢子阿毘曇中に説かく、『五衆は人を離れず、人は五衆を離れず、五衆は是れ人なり、五衆を離るるは是れ人なりと説くべからず。人は是れ第五不可説法蔵中の所摂なり。』と。
是の、
『仏法』中にも、
亦た、
有る、
『犢子部の比丘』は、こう説いている、――
例えば、
『四大(地、水、火、風)』の、
『和合』に、
『眼法()』が、
『有る!』が、
是のように、
『五衆(色、受、想、行、識)』の、
『和合』に、
『人法()』が、
『有る!』、と。
『犢子部の阿毘曇』中には、こう説かれている、――
『五衆』は、
『人』を、
『離れず!』、
『人』は、
『五衆』を、
『離れない!』。
『五衆』は、
是れが、
『人である!』と、
『説くこともできず!』、
『五衆』を、
『離れた!』者が、
『人である!』とも、
『説くことができない!』。
『人』は、
『第五不可説』という、
『法蔵』の、
『所摂(所属)である!』、と。
  犢子(とくし):梵語跋私弗底梨与vaastii-ptriiyaの訳。仏教内の一派。五法蔵の説を立てる。『大智度論巻21下注:犢子部』参照。
  比丘(びく):巴梨語bhikkhu、梵語bhikSu、或いはbhikSuka、又苾芻、苾蒭、煏芻、備芻、比呼に作り、乞士、除士、薫士、或いは破煩悩、除饉、悕魔と訳す。五衆の一。七衆の一。即ち男子の出家入道して具足戒を受けたるものを云う。「雑阿含経巻4」に、「仏は婆羅門に告ぐ、汝今正法の中に於いて出家して具足戒を受くることを得べし。比丘の分を得ん」と云い、「摩訶僧祇律巻2」に、「比丘とは具足を受け、善く具足を受け、如法にして不如法に非ず、和合して不和合に非ず、称歎すべくして称歎すべからざるに非ず、二十を満じて満ぜざるに非ず。是れを比丘と名づく」と云える是れなり。是れ即ち満二十歳以上にして具足戒を受け、如法にして如法ならざるものを比丘と称することを明にせるなり。蓋し比丘の守るべき戒行威儀等は諸律に具に規定する所にして、即ち具戒を受け、三衣一鉢等を護持し、乞食して自活し、阿蘭若処等に住し、少欲知足にして諸の煩悩を離れ、精進して道を修し、以って涅槃を得んことを期すべきに在り。「雑阿含経巻4」に、「所謂比丘とは、但だ乞食を以って在家の法を受持するのみに非ず、是れ何ぞ比丘と名づけんや。功徳と過悪に於いて倶に離れて正行を修し、其の心に畏るる所なき、是れを比丘と名づく」と云い、又「正法念処経巻49」に、「若し一切に近づかずして悪衆を捨離し、水草の食に足ることを知る、是れを真の比丘と名づく。諸の境界を得已りて、之を棄つること火を捨つるが如く、我慢の過を除断す、是れを真の比丘と名づく。内外倶に寂静にして、智の光明もて荘厳し、持戒の衣に身を覆う、是れを真の比丘と名づく。世間の法を遠離し、動かざること須弥の如く、一切の世間に愛せらる、是れを真の比丘と名づく」と云い、又「同巻3」に楽って塚間に住し、当日食を取る等の二十四法を列ぬるが如き、皆其の行事を説けるものなり。仏成道の直後、鹿野苑に於いて始めて法輪を転じ、阿若憍陳如等の五人を度せられたるを以って比丘の初めとし、仏在世には大比丘千二百五十人ありとし、阿含等の諸経には常に其の会の聴衆として之を列せり。比丘の受持すべき具足戒は諸律によりて其の数異あるも、「四分戒本」には之を二百五十戒となせり。比丘の語義に関しては、「大智度論巻3」に、「云何が比丘と名づくる。比丘を乞士と名づく、清浄活命の故に名づけて乞士となす。(中略)復た次ぎに比を破と名づけ、丘を煩悩と名づく。能く煩悩を破するが故に比丘と名づく。復た次ぎに出家の人を比丘と名づく。譬えば胡漢羌虜に各名字あるが如し。復た次ぎに戒を受くる時自ら言う、我れ某甲比丘尽形寿持戒と。故に比丘と名づく。復た次ぎに比を怖と名づけ、丘を能と名づく。能く魔王及び魔の人民を怖れしむ。出家剃頭して染衣を著け、戒を受くるに当りて是の時魔怖る。何を以っての故に怖るや、魔王言わく、是の人は必ず涅槃に入ることを得んと」と云えり。是れ比丘に乞士、破煩悩、出家人、浄持戒、及び怖魔の五義あることを説けるものなり。「注維摩詰経巻1」、「観無量寿経義疏巻本」、「華厳経随疏演義鈔巻85」、「慧琳音義巻27」、「希麟音義巻5」等に皆比丘に怖魔、乞士、浄命、浄持戒、破悪の五義ありとなせるは、即ち此の説に基づく所なり。又「維摩経略疏巻1」には更に除饉の義ありとし、「比丘を釈せば或いは有翻と言い、或いは無翻と言う。有翻と言うは翻じて除饉と云う。衆生は薄福にして、因に在りて法の自資なく、報を得るも饉乏する所多し。出家の戒行は是れ良福田にして能く物の善を生じ、因果の饉乏を除けばなり。無翻と言うは名に三義を含めばなり、智論に云わく、一に破悪、二に怖魔、三に乞士なりと」と云えり。「玄応音義巻3」、「慧琳音義巻8、57」等に亦た同説を出せり。按ずるに梵語bhikSuは、「乞求する」、或いは「乞食する」の義なる動詞bhikSより来たれる名詞にして、「乞求者」、或いは「乞食者」の義あり、故に乞士と翻じ、又此の語を「破する」の義なる動詞bhidの過去受動分詞bhinnaと、「煩悩」の義なる名詞klezaとの合成語bhinna-klezaとせば破煩悩の義を生ずるなり。比丘の種類に関しては、「十誦律巻1」並びに「倶舎論巻15」に、名字(或いは名想)比丘saMjJaa-bhikSu、自言(或いは自称)比丘pratijJaa-bhikSu、為乞(或いは乞匃)比丘bhikSata iti bhikSuH、破煩悩(或いは破惑)比丘bhinna-kleazatvaad bhikSuHの四種の別ありとなせり。即ち「十誦律」に、「名字比丘とは名を以って称となす。自言比丘とは白四羯磨を用いて具足戒を受く。又復た賊住比丘あり、鬚髪を剃除し、袈裟を被著し、自ら我れは是れ比丘なりと言う。是れを自言比丘と名づく。為乞比丘とは他より食を乞うが故なり。婆羅門の如きは他より乞う時、亦た我れは是れ比丘なりと言う。是れを為乞比丘と名づく。破煩悩比丘とは、諸漏結縛の煩悩の衆生は、能く後身を受けて熱苦の報を生じ、生死往来相続の因縁あり。若し能く知見し、是の如きの漏を断じて根本を拔尽し、多羅樹の頭を断ずるが如く畢竟じて生ぜざる、是れを破煩悩比丘と名づく」と云える是れなり。又「四分律巻1」には、名字比丘、相似比丘、自称比丘、善来比丘、乞求比丘、著割截衣比丘、破結使比丘の七種を出し、「大宝積経巻114」には、阿蘭若比丘、乞食比丘、畜糞掃衣比丘、樹下比丘、塚間比丘、露処比丘の六種を出せり。蓋し比丘の称は元と沙門zraamanaと共に印度婆羅門の間に用いられたるものにして、仏弟子を比丘と名づくるは恐らく彼れに取りしものなるべし。又「長阿含巻15究羅檀頭経」、「雑阿含経巻14」、「増一阿含経巻3」、「阿羅漢具徳経」、「仏五百弟子自説本起経」、「出曜経巻19」、「大宝積経巻113」、「大般涅槃経巻34」、「正法念処経巻4」、「諸法集要経巻9」、「四分律巻32至35」、「五分律巻1、15至17」、「分別功徳論巻2」、「瑜伽師地論巻29」、「法華経文句巻1上」、「四分律含注戒本疏巻1上、2上」、「同羯磨疏巻3上」、「倶舎論光記巻15」、「玄応音義巻8」、「華厳経探玄記巻18」、「四分律開宗記巻1末」、「慧琳音義巻2、18」、「翻訳名義集巻3」、「釈氏要覧巻上」等に出づ。<(望)
  四大(しだい):地水火風の四大種の総称。『大智度論巻18下注:四大種』参照。
  眼法(げんぽう):眼と名づけられた法の意。眼に同じ。
  犢子阿毘曇(とくしあびどん):犢子部の論蔵。謂わゆる「舍利弗阿毘曇論」。
  阿毘曇(あびどん):阿毘達磨蔵abhidharma-piTakaの略。三蔵中の論蔵。『大智度論巻1上注:三蔵』参照。
  離五衆(ごしゅをはなる):犢子部では、人は五衆と非即非離の関係にあるとする。
  第五不可説法蔵(だいごふかせつほうぞう):犢子部の説く五法蔵中の一にして、是の中に人法を摂す。『大智度論巻1上注:五法蔵』参照。
  所摂(しょしょう):しょうするところ。含まれる。
  五法蔵(ごほうぞう):梵語paJca dharma-kozaaHの訳。五種の法蔵の意。略して五蔵と称し、又五法海とも名づく。即ち所知の一切法を五類に分摂するを云う。一に過去蔵atiita-koza、二に現在蔵pratyutpanna-k.、三に未来蔵anaagata-k.、四に無為蔵asaMskRta-k.、五に不可説蔵anabhilaapya-k.なり。「成実論巻3有我無我品」に、「汝の法中に説く、可如の法とは謂わく五法蔵なり、過去と未来と現在と無為と及び不可説となり。我は第五法の中に在り」と云い、「倶舎論巻29破我品」に、「汝が許す所の三世、無為、及び不可説の五種の爾焔jJeya(可知の義)も亦た応に不可説なるべし。補特伽羅は第五及び第五に非ずとも説くべからざるを以っての故なり」と云える是れなり。是れ小乗犢子部に於いては可知の法を五種に分類し、而も我を立て之を第五不可説蔵に摂することを説けるものなり。此の中、初の三は有為法を三世に別開せしものなるが故に、之を総称して三世蔵と名づく。即ち有為聚なり。第四は無為聚にして三世に非ず、第五は非即非離蘊の我にして三世及び無為に非ず、即ち非二聚なり。犢子部所立の我に関しては、「中論巻2」に、「犢子部衆の如きは、色即ち是れ我と言うを得ず、色を離れて是れ我と言うを得ず。我は第五不可説蔵の中に在りと説く」と云い、「大智度論巻1」に、「犢子阿毘曇の中に説く、五衆は人に離れず、人は五衆に離れず、五衆是れ人、五衆を離るる是れ人と説くべからず。人は是れ第五不可説法蔵中の所摂なり」と云い、又「異部宗輪論」に、「其の犢子部の本宗同義は、謂わく補特伽羅あり、即蘊離蘊に非ず」と云い、「同述記」に之を釈して、「謂わく実に我あり、有為無為に非ず。而も蘊に即せず離せず。仏の無我と説くは但だ即蘊離蘊なきなり。外道等の所計の如きの我は悉く皆是れ無なるも、不可説の非即蘊離蘊の我なきにあらず。既に不可説なれば亦た形量大小等を言うべからず。乃至成仏まで此の我は常に在り」と云えり。之に依るに彼の部に於いては非即非離蘊の我を立て、之を三世及び無為に摂せず、全く不可説のものとなしたるを知るべし。蓋し此の説は我の実有を認むるものなるを以って、「中論」、「成実論」、「倶舎論」、竝びに「成唯識論巻1」等に極力之を破し、又智顗、法蔵等は之を貶して附仏法の外道となせるも、「大般若波羅蜜多経巻490」に、「此の六波羅蜜多に住する三乗の聖衆は、能く五種の所知の彼岸を度す。何等をか五となす、一には過去、二には未来、三には現在、四には無為、五には不可説なり」と云い、又「十住毘婆沙論巻10」に、「諸仏は是の三昧に住して悉く能く過去と現在と未来と過出三世と不可説との五蔵所摂の法に通達す、是の故に一切処不礙と名づく」と云うに依れば、其の説は夙に大乗中にも唱えられたるを見るべし。故に「倶舎論宝疏巻30」に犢子部の計を挙げ、其の下に、「此の五法蔵は大般若の五種法海に同じ、謂わく三世と無為と及び不可説となり。不可説とは是れ勝義諦なり、犢子部の不染邪智は謂わく勝義諦にして、是れ其の我体なり。外道染汙邪智の実我ありと執するに同じからず」と云い、又「倶舎論要解巻10」に、「経部の一師及び犢子部正量部等の如きは、補特伽羅を建立す。略ぼ大乗所説の仏性如来蔵等と相似たり。是れ甚深の理趣門、心意識の測量する所に非ず。豈に薪火乳酪等の世間現所知の境界を以って敢て此を譴斥すべけんや」と云えり。是れ恐らく妥当の見解にして、大乗の所謂仏性如来蔵の説は、此の不可思議補特伽羅と大衆部等の所立に係る心性本浄説とに縁由するものなるを認め得べきが如し。又「大乗入楞伽経巻10」、「大毘婆沙論巻11」、「成実論巻3無我品」、「摩訶止観巻10上」、「止観補行伝弘決巻10之1」、「大乗法苑義林章巻上本」、「成唯識論述記巻1本」、「倶舎論光記巻30」、「華厳五教章巻上之3」、「華厳経疏巻3」、「成唯識論了義灯巻2本」等に出づ。<(望)
  犢子(とくし):小乗犢子部。その名の由来に種種有るも、その一例を挙ぐれば凡そ次の如し、上古に仙あり、山の静処に居り。貪欲すでに起りて止まる所を知らず、近に母牛あり、因て染して子を生む。自後の仙種を皆犢子という。仏の在日に犢子外道あり、仏に帰して出家す、この後の門徒相い伝えて絶えず、ここに至りて部を分かち、遠く襲うて従って名とし、犢子部という、と。またその法脈は仏より、舎利弗に伝え、舎利弗は羅睺羅(らごら、仏の実子にして弟子)に伝え、羅睺羅は犢子に伝えしものと聞こゆ。
  五法蔵(ごほうぞう):犢子部では所知の一切法を五類に分けて五蔵に入れ、即ち一に過去蔵、二に現在蔵、三に未来蔵、四に無為蔵、五に不可説蔵とする。この中の初の三は有為法を三世に開別するものなれば有為聚と為し、第四は無為聚、第五は非即非離蘊の我にして三世及び無為に非ず。犢子部では、人を五衆と非即非離の関係にあるとして、この第五不可説蔵に分類するを特色とする。
說一切有道人輩言。神人一切種一切時一切法門中。求不可得。譬如兔角龜毛常無。復次十八界十二入五眾實有。而此中無人。 説一切有の道人の輩の言わく、『神、人を一切種、一切時、一切法門中に、求むれど得べからず。譬えば兔角、亀毛の常に無きが如し。復た次ぎに十八界、十二入、五衆は実に有るも、此の中に人無し。』と。
『説一切有部』の、
『道人の輩』は、
こう謂っている、――
『神(輪迴の主体)』や、
『人(六道の生)』は、
一切の、
『種(地、水、火、風、空、識)』、
『時』、
『法門』中に、
『求めても!』、
『得られない(認められない)!』。
譬えば、
『兔の角』や、
『亀の毛』が、
『常に!』、
『無いようなものである!』。
復た次ぎに、
『十八界』、
『十二入』、
『五衆』は、
『実に!』、
『有る!』が、
此の中に、
『人』は、
『無い!』、と。
  説一切有道人(せついっさいうどうにん):説一切有部に属する道人の意。『大智度論巻1上注:説一切有部』参照。
  説一切有部(せついっさいうぶ):梵語薩婆阿私底婆地sarvaasti-vaadinの訳。巴梨名sabbattivaada、又薩婆阿私底婆拖、薩婆帝婆、薩婆諦婆、薩婆多、薩衛に作り、一切有、一切語言とも訳す。又具に阿離耶暮攞薩婆悉底婆拖(aarya-muula-saravaasti-vaada)と云い、聖根本説一切有部と翻じ、略して有部、有部宗、或いは有宗とも名づく。又一に説因部の称あり。小乗二十部の一。上座部に属する一派にして、三世一切法皆実有なりと説くが故に此の称あり。「異部宗輪論」に、「三百年の初に少しく乖諍あり、分れて両部となる、一は説一切有部、亦た説因部とも名づく。二は即ち本上座部なり」と云い、「三論玄義」に、「次に上座弟子部とは仏滅度の後、迦葉は三蔵を以って三師に付す。修多羅を以って阿難に付し、毘曇を以って富楼那に付し、律を以って優婆離に付す。阿難世を去り修多羅を以って末田地に付し、末田地は舎那婆斯に付し、舎那婆斯は優婆堀多に付し、優婆堀多は富楼那に付し、富楼那は寐者柯に付し、寐者柯は迦旃延尼子に付す。迦葉より寐者柯に至るまで二百年已来異部なし。三百年の初に至りて迦旃延尼子世を去り、便ち分れて両部と成る。一に上座弟子部、二に薩婆多部なり。分れて二部と成る所以は、上座弟子は但だ経のみを弘め、経を以って正と為す。律は開遮不定なり、毘曇は但だ経を釈す、或いは本を過ぎ、或いは本を減ずるが故に、正しく之を弘めざるも亦た二蔵を棄捨せず。而るに薩婆多は毘曇最勝なりと謂い、故に偏に之を弘む。迦葉より掘多に至るまでは正しく経を弘め、富楼那より稍本を棄てて末を弘むるが故に正しく毘曇を弘め、迦旃延に至りて大いに毘曇を興す」と云えり。是れ上座部は迦葉、阿難より優婆掘多に至るまでは唯経を弘めたるも、富楼那に及び三蔵中、稍毘曇を重んずるの傾向を生じ、後迦旃延子に至りて之を最勝となし、専ら毘曇を弘めたるが故に、遂に上座弟子との間に対立関係を生じ、仏滅三百年の初に当部の分立を見るに至りしことを敍せるものなり。但し「文殊師利問経巻下分部品」、並びに「西蔵所伝bhavya」の教団分裂詳説等には、当部分派の年代及び異名等に関し異説する所あり。蓋し迦旃延尼子kaatyaayaniiputraは当部の祖にして「阿毘達磨発智論」を作り、八揵度を立てて諸法の性相を判じ、大いに阿毘曇を鼓吹せし大論師なり。「大毘婆沙論巻1」に其の徳を歎じ、「彼の尊者にも亦た微妙甚深猛利の善巧覚慧あり、善く諸法の自相共相を知り、文義及び前後際に通達し、善く三蔵を解し、三界の染を離れて三明を成就し、六神通及び八解脱を具し、無礙解を得、妙願智を獲たり。(中略)故に彼の尊者は願智力を以って法の所益を観じ、而して此の論を造る」と云えり。以って其の尊重恭敬せられたるを見るべし。継いで五百阿羅漢あり、「大毘婆沙論巻200巻」を製して具に、「阿毘達磨発智論」の文義を釈し、茲に当部の教義は大成せらるるに至れり。而るに「大毘婆沙論」は其の文義広汎なるが故に、後之が撮要を企てたるもの多く、即ち仏滅第五百年中炎羅縛竭国に出世せる法勝は、其の綱要を撮りて偈を作り、自ら之を釈して「阿毘曇心論」と号し、次いで優婆扇多は八千偈、我修槃頭は六千偈、又一師は一万二千偈を以って共に法勝の偈を釈し、後仏滅六百年に至り、法救は「雑阿毘曇心論11巻」を撰して更に法勝の「阿毘曇心」を釈し、又「五事毘婆沙論2巻」を作りて「品類足論の五事品」を解し、後世親出世するに及びて「倶舎論30巻」を作り、経部の義を以って「毘婆沙」の説を批判せり。之に対して衆賢は「順正理論80巻」、「顕宗論40巻」を製し、世親の説を破して旧義を祖述し、衆賢の師悟入は又「入阿毘達磨論1巻」等を出し、其の他、仏陀駄娑は「説一切有部大毘婆沙論」、徳慧、安慧、称友、増満等は又各「倶舎釈論」を作り、当部の義を顕彰せり。其の伝承に関しては前引「三論玄義」に優婆掘多以下、富楼那、寐者柯、迦旃延尼子と次第相承せりとなせるも、「出三蔵記集巻12薩婆多部仏大跋陀羅師宗相承略伝」には、阿難、末田地、舎那婆斯、優波掘、迦旃延、婆須蜜、吉栗瑟那、勒比丘、馬鳴、瞿沙、富楼那、達磨多羅、寐遮迦、難提婆秀、巨沙、般遮尸棄、達摩浮帝、羅睺羅、沙帝貝尸利、達摩巨沙、師子、達摩多羅、因陀羅摩那、瞿羅忌利、鳩摩羅大、衆護、優波羶大、婆婆難提、那迦難提、法勝、婆難提、破楼求提、婆修跋慕、比栗瑟嵬弥多羅、比楼、比闍延多羅、摩帝戾拔羅、呵梨跋慕、波秀槃頭、達摩呵帝、旃陀羅、勒那多羅、槃頭達多、不若多羅、仏大尸致利、仏駄悉達等の五十四人を列名せり。是れ必ずしも出世年代の順位に依りしものならざるが如きも、之に依りて略ぼ其の伝承の梗概を察するを得べし。其の所立の宗義は「大毘婆沙論」等に広説する所にして、大衆部と大いに異あり。即ち彼の大衆部に在りて仏身を唯無漏等となすに対し、当部に於いては十八界中、前十五界を唯有漏となすが故に、随って仏の生身も亦た定んで有漏なりとし、且つ仏の説法中には無記語あり、唯八正道を以って正法輪の体となすと説き、仏身に量数因の三無辺あるを許さず、伽耶出現の身は化縁尽くれば永く寂滅に入るとし、又菩薩は三祇百劫を満じ已りて漸く忍位に至り、一刹那の心に能く四諦を知るも但だ総相にして差別の相を知らずと云い、又初果無退後三果有退と説き、阿羅漢にも退の義ありとなし、唯虚空等の三無為を立て、及び心性本浄を許さざるが如き、大衆部等の差異二三にして止まらざるなり。又「異部宗輪論」には当部の本宗同義を出し、「其の説一切有部の本宗同義とは、謂わく一切有部の諸の是れ有なるものは皆二に所摂なり、一に名、二に色なり。過去未来の体も亦た実有なり。一切の法処は皆是れ所知にして亦た是れ所識及び所通達なり。生老住無常の相は心不相応行蘊の所摂なり。有為の事に三種あり、無為の事にも亦た三種あり。三有為相には別に実体あり。三諦は是れ有為にして、一諦は是れ無為なり。四聖諦は漸現観なり。空と無願の二の三摩地に依りて倶に正性離生に入ることを得べし。欲界の行を思惟して正性離生に入る。若し已に正性離生に入ることを得ば、十五心の頃を説きて行向と名づけ、第十六心を説きて住果と名づく。世第一法は一心にして三品あり、世第一法は定んで退すべからず。預流の者に退の義なく、阿羅漢には退の義あり。(中略)四沙門果は定んで漸得に非ず。若し先に已に正性離生に入らば、世俗道に依りて一来及び不還果を証することあり。四念住に能く一切の法を摂すと説くべし。一切の随眠は皆是れ心所にして、心と相応し所縁の境を有す。一切の随眠は皆纏の所摂なるも、一切の纏は皆随眠の摂なるには非ず。縁起支の性は定んで是れ有為なり、亦た縁起支の阿羅漢に随って転ずるものなり。阿羅漢に増長の福業あり。唯欲色界にのみ定んで中有あり。眼等の五識身は染ありて離染なく、但だ自相のみを取り、唯無分別なり。(中略)一切の行は皆刹那滅なりと説く。定んで少法の能く前世より転じて後世に至るものなし。但だ世俗の補特伽羅ありて移転ありと説く。活時の行聚は即ち無余に滅して転変の諸蘊なし。出世の静慮あり、尋にも亦た無漏あり。善の是れ有の因なるものあり。等引地の中に語を発するものなし。八支聖道は是れ正法輪なり」等と云えり。以って其の所立の要旨を見るべし。又当部は三蔵の中、阿毘達磨を以って最勝となし、専ら之を弘宣せりと雖も、亦た別部の律を伝え、五部律の一に数えらえたり。即ち「十誦律」にして、姚秦弗若多羅、羅什と共に之を支那に翻伝し、六十一巻あり。其の語又「薩婆多毘尼毘婆沙9巻」、「薩婆多部毘尼摩得勒伽10巻」等訳出せられ、唐代に至り義浄は更に「根本説一切有部毘奈耶50巻」、「同苾芻尼毘奈耶20巻」、「同毘捺耶雑事40巻」、「同破僧事20巻」、「同薬事18巻」、「同出家事4巻」、「同安居事1巻」、「同随意事1巻」、「同皮革事2巻」、「同羯耻那衣事1巻」、「同尼陀那5巻」、「同目得迦5巻」、「同百一羯磨10巻」、「同戒経1巻」、「同苾芻尼戒経」、「同毘奈耶尼陀那目得迦摂頌1巻」、「同略毘奈耶雑事摂頌1巻」、「同毘奈耶頌3巻」、「薩婆多部律摂14巻」等を翻伝せり。当部は迦溼弥羅国を中心とし、健馱邏地方並びに中西印度及び西域等に盛んに弘伝せられ、小乗二十部中最も優勢なりしのみならず、支那に於いても亦た夙に其れ等の諸論は翻伝せられ、南北朝時代には毘曇宗と称して其の講習盛んに行われ、唐代以後は倶舎宗として、専ら「倶舎論」によりて毘婆沙の宗義を研窮し、以って今日に及べり。又「舎利弗問経」、「大方等大集経巻22」、「十八部論」、「部執異論」、「四諦論巻1」、「仏性論巻1」、「出三蔵記集巻3」、「異部宗輪論述記」、「大乗法苑義林章巻1本」、「倶舎論宝疏巻1」、「南海寄帰内法伝巻1」、「華厳五教章巻1」等に出づ。<(望)
  (じん):梵語puruSaの訳。神我とも称す。我の主体にして有見無作を性とする。『大智度論巻2下注:神、同巻22上注:数論』参照。
  兔角(とかく):兔の角。有得ない者の譬え。
  亀毛(きもう):亀の毛。有得ない者の譬え。
  十八界(じゅうはちかい):梵語aSTaadaza dhaatavaHの訳。巴梨語aTThaadasa dhaatavo、十八の種族の意。又十八持と名づく。三科の一。即ち一身中に能依の識、所依の根及び所縁の境の十八類の種族あるを云う。一に眼界cakSur-dhaatu、二に色界ruupa-dh.、三に眼識界cakSur-vijJaana-dh.、四に耳界zrotra-dh.、五に声界zabda-dh.、六に耳識界zrotra-vijJaana-dh.、七に鼻界ghraaNa-dh.、八に香界gandha-dh.、九に鼻識界ghraaNa-vijJaana-dh.、十に舌界jihvaa-dh.、十一に味界rasa-dh.、十二に舌識界jihvaa-vijJaana-dh.、十三に身界kaaya-dh.、十四に触界spraSTavya-dh.、十五に身識界kaaya-vijJaana-dh.、十六に意界mano-dh.、十七に法界dharma-dh.、十八に意識界mano-vijJaana-dh.なり。「雑阿含経巻16」に、「云何が種種界なる、謂わく十八界なり。眼界色界眼識界、乃至意界法界意識界なり。是れを種種界と名づく」と云い、「大毘婆沙論巻71」に、「十八界とは謂わく眼界色界眼識界、耳界声界耳識界、鼻界香界鼻識界、舌界味界舌識界、身界触界身識界、意界法界意識界なり」と云い、「倶舎論巻1」に、「何に縁りて十八界を立つることを得るや。頌に曰わく、第六の依を成ずるが故に、十八界なること応に知るべし。論じて曰わく、五識界の如きは別に眼等の五界ありて依と為す。第六意識は別の所依なし、此の依を成ぜんが為の故に意界を説く。是の如く所依と能依と境界とに、応に知るべし各六界ありて十八を成ずることを」と云える是れなり。是れ根境識の三に各六界の別あるが故に総じて十八界を成ずることを説けるものにして、即ち十二処中の眼処乃至意処を、各所依の根と能依の識とに分別したるものなり。此の中、眼識の所依たる眼根を眼界と名づけ、眼識の所縁たる色境を色界と名づけ、色界を了別する眼識を眼識界と名づけ、乃至意識の所依たる無間滅の意根を意界と名づけ、意識の所縁たる法境を法界と名づけ、法界を了別する意識を意識界と名づくるなり。就中、法界には十二処中の法処の如く、無表色、四十六心所法、十四不相応行及び三無為の六十四法を摂す。若し大乗百法に就いて之を言わば、五十一心所、二十四不相応行、六無為及び法処所摂色の八十二法を摂するなり。又界の意義に関し「大毘婆沙論巻71」には種族の義、段の義、分の義、片の義、異相の義、不相似の義、分斉の義、種種因の義、馳流の義、任持の義、長養の義の十一義を出し、就中「倶舎論巻1」には、「法の種族の義は是れ界の義なり、一の山中に多の銅鉄金銀等の族あるを説きて多界と名づくるが如く、是の如く一身、或いは一相続に十八類の諸法の種族あるを十八界と名づく、此の中の種族は是れ生本の義なり、かくの如くの眼等は誰が生本なる、謂わく自の種類の同類因なるが故なり」と云えり。是れ界を以って種族即ち生本の義とし、眼等は各皆自類の同類因となり、又無為法は心心所法の生ずる本となるが故に、総じて之を界と名づくることを明にせるなり。又大乗に於いては界を解して種子の義とす。「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」に、「眼界は何の相ぞ、謂わく眼の会と現とに色を見、及び此の種子の積集せる異熟の阿頼耶識は是れ眼界の相なり。(中略)眼識界は何の相ぞ、謂わく眼の色を縁ずるに依りて色に似て了別すると、及び此の種子の積集せる異熟の阿頼耶識は是れ眼識界の相なり。眼識界の相の如く、耳鼻舌身意識界の相も亦た爾り」と云える即ち其の説なり。是れ種族生本の義より転じたるものというべし。又「中阿含巻47多界経」、「舎利弗阿毘曇論巻2」、「瑜伽師地論巻59」、「三無性論巻下」、「大乗義章巻8末」、「倶舎論光記巻1」、「大乗法苑義林章巻5本」等に出づ。<(望)
  十二入(じゅうににゅう):心心所を長養する法を十二種に分類せるもの。識に関する六の所依と六の所縁とを云う。即ち眼耳鼻舌身意の六根、及び色声香味触法の六境なり。『大智度論巻1上注:十二処』参照。
  十二処(じゅうにしょ):梵語dvaadaza aayatanaaniの訳。巴梨語dvaadasaayatanaani、又十二入、或いは十二入処とも名づく。三科の一。処は生長等の義。即ち心心所を長養する法を十二種に分類せるもの。一に眼処cakSur-aayatana、二に耳処zrotraayatana、三に鼻処ghraaNaayatana、四に舌処jihvaayatana、五に身処kaayaayatana、六に意処mana-aayatana、七に色処ruupaayatana、八に声処zabdaayatana、九に香処gandhaayatana、十に味処rasaayatana、十一に触処spraSTavyaayatana、十二に法処dharmaayatanaなり。「雑阿含経巻13」に、「云何が一切と名づくるや。仏、婆羅門に告ぐ、一切とは謂わく十二入処なり、眼、色、耳、声、鼻、香、舌、味、身、触、意、法、是れを一切と名づく」と云い、「大毘婆沙論巻71」に、「所依及び所縁に愚なる者の為に十二処を説く、謂わく分別の識に六の所依と六の所縁と有るが故なり」と云える是れなり。此の中、眼等の六は心心所の所依にして之を六内処と名づけ、色等の六は心心所の所縁にして之を六外処と名づく。又眼耳鼻舌身及び色声香味触の十処は謂わゆる十色処にして五蘊の中の色蘊(無表色を除く)に当り、意処は即ち識蘊にして、六識及び意界の七心界を摂し、法処は受想行の三蘊即ち四十六心所及び十四不相応行、並びに無表色及び三無為の六十四法を摂し、総じて此の十二に有為無為の一切法を摂尽するなり。又大乗所立の百法に就いて分別せば、十色処の外、意処に八識を摂し、法処に五十一心所、二十四不相応行、六無為及び法処所摂色の八十二法を摂するなり。蓋し三科の法門中、五蘊は略にして利根、十八界は広にして鈍根の為にするに対し、十二処は略ならず広ならず、即ち中根にして特に色に愚なる者の為に之を説くなり。又「大毘婆沙論巻73」には処に生門の義、生路の義、蔵の義、倉の義、経の義、殺処の義、田の義、池の義、流の義、海の義、白の義、浄の義等ありとし、就中、生門の義を解し、「生門の義是れ処の義とは、城邑の中に諸物を出生し、此に由りて諸の有情の身を長養するが如く、是の如く所依及び所縁は内に通じて種種の心心所法を生じ、此れに依りて染浄の相続を長養す」と云えり。又処の原語に関し、『大乗法苑義林章巻5本」に、「梵に阿野怛那(aayatana)と云う。旧に翻じて入と為すは此れ亦た然らず、若し入と言わば梵に鉢羅吠舎(praveza)と云うべし。旧経にも亦た訳して処と為す者あり、空無辺処、阿練若処の如し」と云えり。是れ入と訳するを謬となす説なりと雖も、aayatanaは動詞aa-yatに由来する名詞にして、入の義なきに非ざるなり。又「識身足論巻3、12」、「大毘婆沙論巻74」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「雑阿毘曇心論巻1」、「倶舎論巻1」、「順正理論巻2」、「大乗五蘊論」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「大乗義章巻8末」、「法界次第初門巻上之上」、「倶舎論光記巻1余」、「法宗原」、「華厳経孔目章巻1」、「百法問答鈔巻1」、「有宗七十五法記巻中」等に出づ。<(望)
  神人:天神と人間。または幽顕の二衆、霊魂と世人。
  説一切有道人(せついっさいうどうにん):小乗の一派、説一切有部の道人。説一切有部は三世一切の法は皆これ実有なり、と説くが故にこの称あり。道人は得道の人、外道を得し人の意。
  三科(さんが):五蘊(五陰、五衆)、十二処(十二入)、十八界の三門。三門は皆凡夫の実我の執を破らんと欲するが為に施設す。凡夫の迷執は頗る偏ること有り、心に迷うことの偏に重き者の為には、色を合して一と為し、心を開いて四と為し、五蘊を立つ。色蘊の一は色なり、後の受想行識は心の差別なり。次ぎに色に迷うことの偏に重き者には、色を開いて十と為し、心を合して二と為して、十二処を立つ。五根五境の十処は色なり、意根法境の二処は心なり。次ぎに色心共に迷える者の為には、色を開いて十と為し、心を開いて八と為して十八界を立つ。五根五境の十界は色なり、意根と法境及び六識の八界は心なり。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻9』:『然諸有者。有說二種。一實物有。謂蘊界等。二施設有。謂男女等。有說三種。一相待有。謂如是事。待此故有。待彼故無。二和合有。謂如是事。在此處有在彼處無。三時分有。謂如是事。此時分有彼時分無。有說五種。一名有。謂龜毛兔角空花鬘等。二實有。謂一切法各住自性。三假有。謂瓶衣車乘軍林舍等。四和合有。謂於諸蘊和合施設補特伽羅。五相待有。謂此彼岸長短事等(然れば諸の有とは、二種を説く有り、一に実物の有、謂わゆる蘊界等なり、二に施設の有、謂わゆる男女等なり、三種を説く有り、一に相待の有、謂わゆるかくの如き事とは、これを待つが故に有り、彼を待つが故に無し、二に和合の有、謂わゆるかくの如き事とは、此処に在りて有り、彼処に在りて無し、三に時分の有、謂わゆるかくの如き事とは、此の時分には有り、彼の時分には無し、五種を説く有り、一に名の有、謂わゆる亀毛、兔角、空の花鬘等なり、二に実の有、謂わゆる一切法は謂わゆる自性に住まる、三に仮の有、謂わゆる瓶、衣、車乗、軍、林、舎等なり、四に合の有、謂わゆる諸蘊和合して補特伽羅(ほとがら、人)を施設す、五に相待の有、謂わゆる此彼の岸、長短等の事なり)』。
  阿毘達磨大毘婆沙論:説一切有部の正依の論蔵。
更有佛法中方廣道人言。一切法不生不滅。空無所有。譬如兔角龜毛常無 更に有る仏法中の方広道人の言わく、『一切の法は不生、不滅、空にして所有無し。譬えば兔角、亀毛の常に無きが如し。』と。
更に、
有る、
『仏法』中の、
『方広道人』は、こう言っている、――
一切の、
『法』は、
『不生、不滅であり!』、
『空であり!』、
『無所有(何も無いこと)である!』。
譬えば、
『兔の角』や、
『亀の毛』が、
『常に!』、
『無いようなものだ!』、と。
  不生不滅(ふしょうふめつ):常に在りて生滅しないの意。法が生滅の相を有しないことを云う。
  (くう):梵語舜若zuunyaの訳。空無、空虚、空寂、空浄、又は非有等の義。是れに衆生空、法空の二空、内空、外空、内外空の三空等の如き多種の空あり。此の中、衆生空とは、衆生は五蘊の仮の和合にして、性として定まりたる法なきが故に、此の中には我も我所もなく、従って我れと彼と、男と女と、貴と賎との差別も無きことを云い、法空とは色受想行識の五蘊乃至十二入十八界の如き、是れ等の法も性として定まりたる者なきが故に空なることを云い、内空とは、眼耳鼻舌身意の六根の空なるを云い、外空とは色声香味触法の六境の空なるを云い、内外空とは内外の六根六境共に空なるを云う。復た次ぎに、「大品般若経巻5問乗品」に説くが如きは、内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、自相空、諸法空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空の十八空種の空の名を挙げ、仏は自ら其の義を説いて「須菩提の仏に白して言さく、何等をか、内空と為すと。仏の言わく、内法を、眼耳鼻舌身意と名づく。眼の、眼なるは、空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は、自ら爾ればなり。耳の、耳なるは空なり。鼻の、鼻なるは空なり。舌の、舌なるは空なり。身の、身なるは空なり。意の、意なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを内空と名づく。何等をか、外空と為す。外法を、色声香味触法と名づく。色の、色なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。声の、声なるは空なり。香の、香なるは空なり。味の、味なるは空なり。触の、触なるは空なり。法の、法なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを外空と名づく。何等をか、内外空と為す。内外法を、内の六入、外の六入と名づく。内法の、内法なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は、自ら爾ればなり。外法の、外法なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを内外空と名づく。何等をか、空空と為す。一切の法は空にして、是の空も亦た空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを空空と名づく。何等をか、大空と為す。東方の、東方なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。南西北方四維上下の、南西北方四維上下なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを大空と名づく。何等をか、第一義空と為す。第一義を、涅槃と名づく。涅槃の、涅槃なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを第一義空と名づく。何等をか、有為空と名づく。有為法を、欲界、色界、無色界と名づく。欲界の欲界なるは空なり。色界の色界なるは空なり。無色界の無色界なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを有為空と名づく。何等をか、無為空と為す。無為法を名づけて、生相無く、住相無く、滅相無しと為す。無為法の、無為法なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無為空と名づく。何等をか、畢竟空と為す。畢竟を、諸法は竟りに至るまで得べからずと名づく。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを畢竟空と名づく。何等をか、無始空と為す。法の若きは、初の来処を得べからず。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無始空と名づく。何等をか、散空と為す。散を、諸法に滅無しと名づく。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを散空と名づく。何等をか、性空と為す。一切の法性の、若しは有為法の性、若しは無為法の性は、是の性は、声聞、辟支仏の所作に非ず、仏の所作に非ず、亦た余人の所作に非ずして、是の性の、性なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを性空と名づく。何等をか、自相空と為す。自相を、色の壊相、受の受相、想の取相、行の作相、識の識相と名づく。是の如き等の有為法、無為法の、各各の自相は、空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを自相空と名づく。何等をか、諸法空と為す。諸法を、色受想行識、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、眼界色界眼識界、乃至意界法界意識界と名づけ、是の諸法の、諸法なるは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを諸法空と為す。何等をか、不可得空と為す。諸法を求むるも、得べからず。是の得べからざるは空なればなり。常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを不可得空と名づく。何等をか、無法空と為す。若し法無くんば、是れも亦た空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無法空と名づく。何等をか、有法空と為す。有法を、諸法の和合中に、自らの性、相有りと名づく。是の有法は空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを有法空と名づく。何等をか、無法有法空と為す。諸法中に法無く、諸法の和合中に、自らの性、相有り。是の無法有法は空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無法有法空と名づく」等と言えり。然るに、是の如き多種の空ありと雖も、是れ皆「大智度論巻31」に、「十八種の法の中に著を破るを以っての故に十八の空有りと説く」と云えるが如く、此等の十八種の空等は皆、外道等の十八種の執病を破せんが為の薬にして、又空を分別の対象とすれば、還って執空の病に堕ちしむる毒薬と為る。是を以っての故に即ち、「大智度論巻18」に、「問うて曰く、是の邪見は三種にして、一には罪福の報を破りて、罪福を破らず、因縁の果報を破りて、因縁を破らず、後世を破りて、今世を破らず。二には罪福の報を破りて、亦た罪福を破り、因縁の果報を破りて、亦た因縁を破り、後世を破りて、亦た今世を破り、一切の法は破らず。三には一切の法を破りて、皆所有無からしむ。観空の人も、亦た真に空にして、所有無しと言えば、第三の邪見と、何等の異なりか有らん。答えて曰く、邪見は、諸法を破りて、空ならしめ、観空の人は、諸法の真に空なるを知って、破せず壊せず。復た次ぎに、邪見の人は、諸法は、皆空にして、所有無し!と言いて、諸法の空相を取りて、戯論す。観空の人は、諸法は、空なりと知って、相を取らず、戯論せず。復た次ぎに、邪見の人は、口に、一切は空なりと説くと雖も、然るに愛処に於いて愛を生じ、瞋処に瞋を生じ、慢処に慢を生じ、癡処に癡を生じて、自ら、其の身を誑(まどわ)す。仏弟子の如きは、実に空を知りて、心動ぜず、一切の結使は、生処にも、復た生ぜず。譬えば、虚空の、煙火も染むる能わず、大雨も湿す能わざるが如し。是の如く、空を観ずるに、種種の煩悩も、復た其の心に著せず。復た次ぎに、邪見の人は、所有無しと言うも、愛の因縁より出でず。真空の名も、愛の因縁より生ず。是れを異なりと為す。四無量心、諸の清浄の法も、縁ずる所の実ならざるを以っての故に、猶尚お、真空の智慧と等しからず。何に況んや、此の邪見をや。復た次ぎに、是の見を名づけて、邪見と為し、真空の見を名づけて、正見と為す。邪見を行ずる人は、今世には弊悪の人と為り、後世には当に地獄に入るべし。真空を行ずる智慧の人は、今世には誉を致し、後世には仏と作るを得ん。譬えば、水火の異なるが如く、亦た甘露と毒薬、天食の須陀を以って、臭糞に比すが如し。」と云えり。是を以って即ち空の義の単に空無の意に非ざるを知るべし。『大智度論巻31、46、同巻42下注:十八空』参照。
  無所有(むしょう):法に所有無しの意。即ち法が実体を有しないことを云う。又無為法の異名とも云う。『大智度論巻43上注:無為法』参照。
  方広道人(ほうこうどうにん):方広は梵語毘仏略vaipulyaの訳。又方等、広大、広破、無比等とも訳す。是れ十二部経の一にして、「大智度論巻33」には、之を「未曽有経」と訳し、其の他には多く「方等」、或いは「方広」等に訳すものなるも、「順正理論巻44」に、「方広と言うは謂わく正理を以って広く諸法を辯ず、一切法の性相衆多にして広言辞に非ざれば辯ずる能わざるを以っての故なり。亦た広破と名づく。此の広言に由りて能く極堅無智の闇を破するが故なり。或いは無比と名づく。此の広言は理趣幽博にして余に比なきに由るが故なり」と云い、「大智度論巻1」に、「有る仏法中の方広道人の言わく、一切の法は不生不滅、空、無所有にして、譬えば兔角、亀毛の常に無きが如し」と云えるに由り、之を推せば、蓋し大乗悪取空の人なるが如し。『大智度論巻1上注:悪取空』参照
  悪取空(あくしゅくう):梵語dur-gRhiitaa zuunyataaの訳。悪しく空の義を取るの意。又僻取空に作る。即ち縁生無性の理を知らず、空の義を謬解するを云う。「菩薩地持経巻2」に、「若し沙門婆羅門、此彼都べて空なりと謂う。是れを悪取空と名づく」と云い、「成唯識論巻7」に、「二諦を撥無するは是れ悪取空なり。諸仏は説いて不可治となす」と云い、「華厳五教章巻4」に、「無性縁生に達せざるが故に即ち性空を失す。性空を失するが故に還って情の中の悪取空に堕す」と云い、又「華厳経探玄記巻10」に、「悪取空とは空乱意なり。宝性論に依るに空乱意に三種の過あり。彼の論に云わく、是の如きの心を起す、実に法は断滅することあり、後時に涅槃を得と。又復た人あり、空を以って有物となし、我れ応に空を得べしと。又是の如き心を生ず、色等の法を離れて別に更に空あり、我れ応に修行し彼の空を得べしと」と云えるは皆其の義を説けるものなり。又「大智度論巻1」に、「仏法の中に方広道人あり、言わく一切法は不生不滅、空にして所有なし。譬えば兔角亀毛の如く常に無なりと」とあり。是れ皆諸法は縁生の故に即空無性なるの理を知らず、妄に空の義を謬解するを云うなり。又「瑜伽師地論巻36」、「瑜伽論記巻9之上」等に出づ。<(望)
  方広道人(ほうこうどうにん):小乗中の仏法に附す外道を犢子道人といい、大乗中の仏法に附す外道を方広道人という。大乗方広の空理に悪執して、空見に堕ちた者をいう。
如是等一切論議師輩。自守其法不受餘法。此是實餘者妄語。若自受其法自法供養自法修行他法不受不供養為作過失。若以是為清淨。得第一義利者。則一切無非清淨。何以故。彼一切皆自愛法故 是の如き等の一切の論議師の輩は、自ら其の法を守って、余の法を、『此れは是れ実なり、余は妄語なり』として受けず。若し自ら其の法を受けて、自らの法を供養し、自らの法もて修行し、他の法を受けず、供養せざれば、過失を作すと為す。若し是を以って清浄と為し、第一義の利を得とせば、則ち一切は清浄に非ざる無し。何を以っての故に、彼の一切は、皆、自愛の法なるが故なり。
是れ等の、     ――第三偈の釈――
一切の、
『論議師の輩』は、
自ら、
其の、
『法』を、
『守って!』、
他の、
『法』を、
『受けず!』に、
こう言う、――
此れは、
『実である!』が、
他は、
『妄語である!』、と。
若し、
自ら、
其の、
『法』を、
『受け!』、
『供養し!』、
『修行して!』、
他の、
『法』を、
『受けず!』、
『供養しなければ!』、
是れは、
『過失』を、
『作すことになる!』。
若し、
是れを、
『清浄であり!』、
『第一義の利を得たのだ!』と、
『思えば!』、
則ち、
一切は、
『清浄でない!』ものが、
『無いことになる!』。
何故ならば、
彼れの、
一切の、
『法』は、
皆、
『自愛』の、
『法だからである!』。
問曰。若諸見皆有過失。第一義悉檀。何者是 問うて曰く、若し諸の見に、皆過失有らば、第一義悉檀とは、何者なりや是れ。
問い、
若し、
諸の、
『見』に、
皆、
『過失』が、
『有れば!』、
『第一義悉檀』とは、
是れは、
『見であるのか?』、
『見でないのか?』、
いったい、
『何者なのですか?』。
答曰。過一切語言道心行處滅遍無所依不示諸法。諸法實相無初無中無後不盡不壞。是名第一義悉檀。如摩訶衍義偈中說
 語言盡竟  心行亦訖
 不生不滅  法如涅槃
 說諸行處  名世界法
 說不行處  名第一義
 一切實一切非實 
 及一切實亦非實 
 一切非實非不實 
 是名諸法之實相
答えて曰く、一切の語言の道を過ぎて、心行の処滅し、遍く所依を無くして、諸法を示さずんば、諸法の実相は初無く、中無く、後無く、尽きず壊せず。是れを第一義悉檀と名づく。摩訶衍義の偈中に説けるが如し、
語言尽き竟(おわ)りて、心行も亦た訖(おわ)り
不生不滅なれば、法は涅槃の如し
諸行の処を説いて、世界法と名づけ
行ぜざる処を説くを、第一義と名づく
一切は実なり、一切は実に非ず
及び一切は実にして、亦た実に非ず
一切は実に非ず、実ならざるに非ず
是れを諸法の実相と名づく
答え、
一切の、
『語言』の、
『道』を、
『過ぎて!』、
『心行』の、
『処()』が、
『滅し!』、
『心行』の、
『所依(語言)』が、
『無くなる!』、
諸の、
『法』を、
『空しく!』、
『示さなければ!』、
諸の、
『法の実相』は、
『初、中、後が無く!』、
『尽きることもなく!』、
『壊されることもない!』。
是れを、
『第一義悉檀』と、
『称する!』。
例えば、
『摩訶衍の義』の、
『偈』中に、こう説く通りである、――
『語言』が、
『尽きて!』、
『心行』も、
『停止した!』、
『不生、不滅』の、
『法』は、
『涅槃のようだ!』。
『諸行の処(言説)』を、
『説いて!』、
『世界(世間)の法』と、
『呼び!』、
『不行の処()』を、
『第一義』と、
『呼ぶ!』。
一切は、     ――空中には何者も無いが故に、一切が有る――
『実であり!』、
『実でなく!』、
『実であり、且つ実でなく!』、
『実でなく、且つ実でないでもない!』もの、
是れを、
諸の、
『法の実相』と、
『呼ぶ!』。
  語言道(ごごんのみち):言葉による方法。
  心行処(しんぎょうのところ):思慮の場、即ち言葉を指す。心行/諸行は心の動きの義。
  所依(しょえ):よりどころ。心行の所依は言葉である。
  不尽不壊(ふじんふえ):尽きてなくなることもなく、こわれることもない。
  摩訶衍(まかえん):梵語mahaa-yaanaの訳。大乗の意。『大智度論巻1上注:大乗』参照。
  大乗(だいじょう):梵語摩訶衍mahaa-yaanaの訳。又摩訶衍那に作る。広大なる車乗の意。小乗に対す。即ち六波羅蜜を行じ、一切の衆生を化度し、以って成仏を期する菩薩所被の法門を云う。「放光般若経巻4問摩訶衍品」に、「世尊、云何が当に菩薩は大乗に趣くと知るべき、是の乗に乗じて当に何の所にか至るべき、誰か当に是の乗を成ずべきものぞ。仏須菩提に告げて言わく、六波羅蜜は是れ菩薩摩訶薩の大乗なり」と云い、「法華経巻2譬喩品」に、「若し衆生あり、仏世尊に従って法を聞いて信受し、勤修精進して一切智、仏智、自然智、無師智、如来の知見、力無所畏を求め、無量の衆生を愍念し、安楽にし、天人を利益して一切を度脱す。是れを大乗の菩薩と名づけ、此の乗を求むるが故に名づけて摩訶薩と為す」と云い、「大方等大集経巻17虚空蔵菩薩品」に、「云何が荘厳菩薩乗と為すと云うや。善男子、乗とは謂わく無量なり、辺崖なきが故に、普く一切に遍ずること喩えば虚空の如く、広大にして一切衆生を容受するが故に、声聞辟支仏と共ならず。是の故に大乗と名づく」と云い、「大宝積経巻28大乗十法会」に、「諸仏如来の正真正覚所行の道は、彼の乗を名づけて大乗と為し、名づけて上乗と為し、名づけて妙乗と為し、名づけて勝乗と為し、無上乗と名づけ、無上上乗と名づけ、無等乗と名づけ、不悪乗と名づけ、名づけて無等等乗と為す。善男子、是の義を以っての故に名づけて大乗と為す」と云える是れなり。是れ即ち六波羅蜜を以って其の行相となし、無量の衆生を愍念して之を度脱せしめ、以って仏の一切智等を求むるを大乗と名づけたるなり。然るに大乗の称は広く之を分別するに数多の義あり、「放光般若経巻5歎衍品」に、「須菩提仏に白して言わく、唯世尊のみ摩訶衍なり。摩訶衍とは諸天世間人阿須倫の上に出づ。衍は空と等しく虚空の如く、無量無央数の衆生の為に而も救護を作す。此を以って世尊を摩訶衍と為す。菩薩摩訶薩は亦た来時を見ず、亦た去時を見ず、亦た住処を見ず。摩訶衍も是の如く亦た前後を見ず、亦た中央を見ず。世尊、是の故に摩訶衍を名づけて無有与等者となす、而も双あることなし。是の故に名づけて摩訶衍と曰うと、仏須菩提に告ぐ、是の如し是の如し、須菩提摩訶衍とは六波羅蜜是れなり。復た摩訶衍あり、謂わゆる諸の陀羅尼門、諸の三昧門、首楞厳三昧、乃至虚空際解脱無所著三昧なり。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と為す。須菩提、復た摩訶衍あり、内外空乃至無有空なり。是れを摩訶衍と為す。復た摩訶衍あり、三十七品仏十八法なり。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と為す」と云い、「十二門論観因縁門」に、「問うて曰わく、何が故に名づけて摩訶衍と為すや。答えて曰わく、摩訶衍とは二乗に於いて上たるが故に大乗と名づく。諸仏の最大なるも是の乗能く至る、故に名づけて大と為す。諸仏の大人是の乗に乗ずるが故に、故に名づけて大と為す。又能く衆生の大苦を滅除し、大利益の事を与うるが故に大と為す。又観世音、得大勢、文殊師利、弥勒菩薩等の是の諸大士の所乗なるが故に、故に名づけて大と為す。又此の乗は能く一切諸法の辺底を尽くすを以っての故に名づけて大と為す。又般若経の中に仏自ら摩訶衍の義の無量無辺なるを説くが如き、是の因縁を以っての故に名づけて大と為す。大分の深義は謂わゆる空なり、若し能く是の義に通達せば即ち大乗に通達し六波羅蜜を具足して障礙する所なし」と云い、又「菩薩善戒経巻7功徳品」に、「云何が大乗と名づくる、七事の大あるが故に大乗と名づく。一には法大なり、法大とは菩薩の法蔵は十二部経に於いて最上最大なり、故に毘仏略と名づく。二には心大なり、心大とは謂わく阿耨多羅三藐三菩提の心を発するなり。三には解大なり、解大とは菩薩蔵の毘仏略経を解するなり。四には浄大なり、浄大とは菩薩発心し已り、其の心清浄にして乃至阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。五には荘厳大なり、荘厳大とは菩薩は功徳荘厳智慧荘厳を具足して阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。六には時大なり、時大とは菩薩摩訶薩は阿耨多羅三藐三菩提の故に、三阿僧祇劫に苦行を修行す。七には具足大なり、具足大とは菩薩は三十二相八十種好を具足して以って自ら荘厳し、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。法大、心大、解大、浄大、荘厳大、時大、是の如きの六大は之を名づけて因と為し、具足大は之を名づけて果と為す」と云い、「大乗阿毘達磨蔵集論巻11」に、「七種の大の性と相応するに由るが故に大乗と名づく。何等をか名づけて七種の大の性と為す、一に境大性とは、菩薩道を以って百千等の無量の諸経を縁じ、広大なる教法を境界と為すが故なり。二に行大性とは、正しく一切の自利他利広大の行を行ずるが故なり。三に智大性とは、広大なる補特伽羅法無我を了知するが故なり。四に精進大性とは、三大劫阿僧企耶に於いて方便して無量百千の難行の行を勤修するが故なり。五に方便善巧大性とは、生死及び涅槃に住せざるが故なり。六に証得大性とは、如来の諸の力無畏不共仏法等の無量無数の大功徳を得るが故なり。七に業大性とは、生死の際を窮めて一切の成菩提等を示現し、広大なる諸の仏事を建立するが故なり」と云い、又「金剛仙論巻2」に、「汎く大乗を明すに二種あり、一には因中の大乗なり、謂わく十地六波羅蜜なり。十地の菩薩は六波羅蜜に乗じて極果に趣くことあを明かすが故に因大乗と曰う。二には果頭の大乗なり、謂わく無為法身仏果是れなり。(中略)大乗の義に乃ち無量あり、且く略して四種を辨ず。一には体大なり、大乗の体は万徳を包含して五乗の因果を出生することを明かす、故に体大と名づく。二には大人の所乗なり、菩薩大士は此の地に乗じて仏果に行趣することを明かす。三には大人の所証なり、唯諸仏如来のみ此の法を窮会することを明かす。四には能く大義を成ず、諸仏は既に常果を証し、復た能く衆生を化益して大恩の義あることを明かす、故に能成大義と曰うなり。此の四義を具するが故に大乗と名づく」と云い、又「説妙法決定業障経」に、一に令人深楽、二に不動、三に無過、四に無量、五に如四大海、六に金翅及び緊那羅摩睺羅伽雑類所敬、乾闥婆所讃、八に諸天恭敬、九に梵天帰依、十に天帝敬、十一に四王所摂、十二に龍王供養、十三に菩薩奉持、十四に成就仏性、十五に賢聖帰依、十六に一切普堪所受、十七に如藥樹王、十八に断諸煩悩、十九に能転法輪、二十に無言無説、二十一に如虚空相、二十二に三宝種性無断、二十三に鈍根衆生不信、二十四に超過一切の諸義あるが故に大乗と名づくと云える皆其の説なり。之を概するに六波羅蜜の道は諸仏及び諸大菩薩の所乗にして、能く衆生の大苦を滅し、及び大利益の事を与うるのみならず、亦た能く一切諸法の辺底を尽くすが故に名づけて大となし、又大菩提心を発し、最上の毘仏略経を解し、自利利他広大の行を修し、三大阿僧祇劫に精進苦行し、双べて福智の二荘厳を具足し、遂に諸仏最大の妙果を得て永く広大なる仏事を建立するが故に、大乗の名を立つとなすの意なり。蓋し大乗は菩薩所行の法にして、即ち成仏を要期し、一切衆生を度脱せしめんことを願じ、又諸法皆空の理を了知し、以って法執を離るべしとなすに在り。是れ元と原始仏教徒が五蘊十二処等の法を実有とし、其の性相を究めんが為に煩瑣なる阿毘達磨の学を唱え、又或る者は山林に隠栖して自ら三昧に耽り、毫も人類の救済を意とせず、唯阿羅漢果を証して涅槃に入らんことをのみ期したるに依り、之が反動として勃興せし一種の革新思想たるや明らかなり。其の名称の如きも褒貶の意にて大乗教徒の自ら命名せしものに係り、即ち従来弘伝せられたる教法は、声聞の所行にして其の義究竟せず、唯自利を修し、唯我空を知り、唯涅槃を証せんとするに過ぎざるが故に貶して小乗となし、之に対して菩薩所行の法は二利具足し、双べて二空を知り、三祇に成仏を要期するものなるが故に褒して大乗となせるものなり。然るに大乗経典は時代を逐うて漸次編纂結集せられたるものの如く、初期時代には般若皆空の説専ら行われ、龍樹、提婆等の諸論師盛んに之を祖述したるも、後三性中道の説興り、無相皆空を未了となすに至れり。「解深密経巻2無自性相品」に、世尊は初め一時に於いて惟だ声聞乗に発趣する者の為に四諦の相を以って正法輪を転じ、次に第二時の中に惟だ発趣して大乗を修する者の為に、一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃に依りて、隠密の相を以って正法輪を転じ、今第三時の中に於いて普く一切乗に発趣する者の為に、一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃無自性性に依りて、顕了の相を以って正法輪を転ずと云い、又最勝子の「瑜伽師地論釈」に、「仏涅槃の後、魔事紛起して部執競い興り、多く有見に著す。龍猛菩薩は極喜地を証し、大乗無相空教を採集して中論等を造り、真要を究暢して彼の有見を除く。聖提婆等の諸大論師は百論等を造りて弘く大義を闡く。是れに由りて衆生復た空見に著す。無著菩薩は位初地に登り、法光定を証して大神通を得、大慈尊に事え、請うて此の論を説く」と云い、「南海寄帰内法伝巻1序」に、「若し菩薩を礼して大乗経を読まば、之を名づけて大と為し、斯の事を行わざれば之を号して小と為す。云う所の大乗とは二種に過ぐるなし、一には則ち中観、二には乃ち瑜伽なり。中観は則ち俗有真空にして、体虚なること幻の如く、瑜伽は則ち外無内有にして事皆唯識なり」と云えり。是れ蓋し小乗有教先づ出で、次に般若空教興り、後即ち深密中道の教唱えられたることを示すものというべし。但し印度には唯是の如く般若深密即ち中観瑜伽の二大乗宗のみ多く弘布せられ、支那に流伝するに及びて、前者は三論宗、後者は法相宗と称せられたりと雖も、而も此の他に尚お華厳、法華、維摩、無量寿、楞伽、勝鬘、涅槃、大集等の多数の大乗経典出現し、各其の理を宣明し、主唱する所互いに同じからざるものあり。就中、「旧華厳経巻34宝王如来性起品」には、謂わゆる三照の譬喩を出し、如来は常に無量無礙の智慧の光明を放ちて、先づ菩薩摩訶薩等の諸大山王を照らし、次に縁覚を照らし、次に声聞を照らし、次に決定善根の衆生を照らし、然る後悉く一切の衆生乃至邪定を照らし、為に未来饒益の因縁を作すと云い、又「大般涅槃経巻14聖行品」には謂わゆる五味相生の説を掲げ、仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出すと云い、仏説法の次第を暗示するものの如く、共に頗る意義多含の説をなせり。支那に伝訳せらるるに及び、劉宋慧観は始めて五味相生の説に依りて二教五時の教判を立て、華厳を頓教とし、漸教の中に五時を開き、阿含を第一時有相教、般若を第二時無相教、維摩思益等を第三時仰揚教、法華を第四時同帰教、涅槃を第五時常住教と名づけ、仏の説法は此の次第に依りて行われたるものとなし、尋いで岌法師、劉虬、宗愛、僧旻、済法師、大亮、法雲等の諸師も亦た皆之を承けて各其の説をなし、共に涅槃経を以って大乗終窮の極談なりと判じ、後天台智顗は又五時八教の説を立て、華厳を初時、阿含を第二時、方等を第三時、般若を第四時、法華及び涅槃を第五時となし、法華は超八の醍醐にして、涅槃は捃拾教たるに過ぎずとなせり。此の中、慧観等は専ら涅槃を尚びしを以って之を涅槃宗と名づけ、智顗の一派は主として法華を宗とするが故に、之を法華宗又は天台宗と称す。北魏慧光は四宗の判を立て、般若を以って第三誑相宗、涅槃及び華厳を第四常宗と名づけ、自軌は五宗の判を立て、涅槃を第四真実宗、華厳を第五法界宗と名づけ、唐法蔵は五教十宗の判を立て、阿含を第一小乗教、般若及び深密を第二大乗始教、勝鬘、密厳等を第三終教、地位漸次依らざるを第四頓教、華厳を第五円教となせり。是れ皆華厳を尚ぶの説にして、就中、法蔵の法系に属する者を華厳宗と称す。蓋し大乗は元と声聞小乗の法に対し、菩薩大人の所乗の道として宣説せられたるものなりと雖も、法華経興り二乗作仏の説唱えらるるに及びて、声聞も亦た此の道に帰すべきものとせられ、尋いで涅槃経に至り悉有仏性の説唱えらえ、一切衆生悉く皆成仏すべしとせらるるに及びて、茲に大乗は有らゆる衆生を運載して如来地に到るべき絶待の大道となるに至れり。「法華経巻1方便品」に、「十方仏土の中には唯一乗法のみあり、二もなく亦た三もなし」と云えるは即ち其の意を明にせるなり。此の中、大乗の外に二乗の法ありとなすを三乗教と名づけ、一切皆大乗に帰すべしとなすを一乗教と名づく。是れ亦た大乗に於ける主なる部門にして、古来前者を権大乗、後者を実大乗と称するなり。又北魏菩提流支等に依りて「十地経論」伝訳せられ、之を翫習するものを地論宗と称し、尋いで陳真諦「摂大乗論」を出し、之を講敷するものを摂論宗と名づく。此の二宗は主として阿梨耶の真妄に就き其の所見を異にし、即ち前者は阿梨耶を以って如来蔵心とし、後者は之を有漏随眠の識となせるものにして、亦た印度以来の伝承の不同に基づくものなるは言を俟たず。「無量寿経」に往生浄土の法を説き、龍樹は之に依りて難易二道を分別し、唐代道綽、善導等之を祖述して此土入聖の法を自力聖道とし、浄土往生を他力易行となせり。此の教旨を奉ずるものを称して浄土宗、又は念仏宗と名づく。後密教起りて瑜伽の観行を主唱し、専ら事相を尚び、華厳、法華、無量寿等を以って総じて顕教と名づけ、顕教は無明の辺域にして明の分位に非ずと貶し、唯真言法の中のみ即身成仏すとなせり。又禅の一派に於いては教外別伝の旨を主張し、顕密権実の諸教を総じて教内の宗とし、直に人心を指して見性成仏すべきことを鼓説し、其の下に臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼、黄龍、楊岐等の諸派を生ぜり。惟うに大乗は既に印度に於いて多種多様の萌芽を有したるも、未だ悉く発展するに至らず、支那及び本邦に伝えらるるに及びて始めて絢爛たる精華を開き、仏の教道を発揮して実に余蘊なきものあり。現時錫蘭、暹羅等の南方諸国が専ら小乗仏教を奉ずるに対し、本邦等に凡べて唯大乗諸派の流行を見るは、即ち皆古来の高僧大徳の功に帰すべきものなるを知るべし。又「長阿含巻2遊行経」、「増一阿含経巻1序品」、「持心梵天所問経巻3志大乗品」、「悲華経巻6」、「宝女所問経巻4大乗品」、「維摩経巻上弟子品」、「勝鬘経一乗章」、「地蔵十輪経巻7」、「不退転法輪経巻1」、「菩薩瓔珞経巻10」、「大智度論巻6、31、79」、「瑜伽師地論巻13、46」、「梁訳摂大乗論巻中」、「同釈巻15」、「十住毘婆沙論巻5易行品」、「入大乗論巻上」、「中辺分別論巻下」、「成唯識宝生論巻1」、「大乗荘厳論経巻1成宗品」、「大乗大義章巻下」、「大般涅槃経集解巻35」、「法華経義記巻2」、「大乗義章巻1、9」、「摩訶止観巻3下」、「法華経玄義巻1上、巻5下、巻8上、巻10上」、「同文句巻3下」、「釈禅波羅蜜次第法門巻1上」、「四教義巻1」、「維摩経玄疏巻2」、「同略疏巻1」、「法華玄論巻2、3」、「三論玄義」、「三論遊意義」、「安楽集巻上」、「四分律行事鈔巻中」、「大乗法苑義林章巻1本」、「法華経玄賛巻1本」、「華厳五教止観」、「華厳経探玄記巻1」、「華厳五教章巻1」、「華厳遊心法界記」、「大乗起信論義記巻上」、「同疏巻上」、「入楞伽心玄義」、「大方広仏華厳経疏巻1、2」、「華厳原人論」、「華厳経疏玄談巻1」、「新華厳経論巻1」、「縁覚経略疏巻上1」、「大乗四論玄義巻9、10」、「万善同帰集巻上」、「辨顕密二教論」、「十住心論」等に出づ。<(望)
  一切実(いっさいじつ):一切の法は実である。『大智度論巻1上注:四句分別』参照。
  一切非実(いっさいひじつ):一切の法は実でない。『大智度論巻1上注:四句分別』参照。
  一切実亦非実(いっさいじつやくひじつ):一切の法は実もあり亦た実でないもある。『大智度論巻1上注:四句分別』参照。
  一切非実非不実(いっさいじつひふじつ):一切の法は実でもなく実でないでもない。『大智度論巻1上注:四句分別』参照。
  四句分別(しくふんべつ):四句の分別の意。四句は梵語caatSkoTikaの訳。又四句法とも名づく。即ち肯定、否定、複肯定、複否定の四句を以って諸法を分類する形式を云う。「雑阿含経巻34」に、「時に一の外道あり是の如きの言を作す、長者、我れ一切の世間を見るに常なり、是れ即ち真実にして余は虚妄なりと。復た有るは説いて言わく、長者、我れ一切の世間を見るに無常なり、此れは是れ真実にして余は則ち虚妄なりと。復た有るは説いて言わく長者、世間は常無常なり、此れは是れ真実にして余は則ち虚妄なりと。復た有るは説いて言わく、世間は常に非ず無常に非ず、此れは是れ真実にして余は則ち虚妄なりと」とあり。此の中、第一の外道は世間を常住となすものにして、即ち単の肯定なり。第二の外道は世間を無常となすものにして、即ち前の否定なり。第三の外道は世間を亦たは常亦たは無常となすものにして、即ち前二句の合肯定なり。第四の外道は世間を常に非ず無常に非ずとなすものにして、即ち第三句の否定なり。又「新華厳経巻21」に、「何等をか無記の法となす、謂わく世間は有辺なり、世間は無辺なり、世間は亦有辺亦無辺なり、世間は有辺に非ず無辺に非ず。世間は有常なり、世間は無常なり、世間は亦有情亦無常なり、世間は有常に非ず無常に非ず。如来は滅後有なり、如来は滅後無なり、如来は滅後亦有亦無なり、如来は滅後有に非ず無に非ず。我及び衆生は有なり、我及び衆生は無なり、我及び衆生は亦有亦無なり、我及び衆生は非有非無なり」と云い、「仏性論巻1」に、「一に自よりし、二に他よりし、三に倶に自他よりし、四に自他よりせず。此の四句を尋ぬるに皆生の義なし」と云い、又「外道小乗四宗論」に、「問うて曰わく云何が一異俱不俱と言う。答えて曰わく、諸の外道あり、言わく一切法一と、諸の外道あり、言わく一切法異と、諸の外道あり、言わく一切法俱と、諸の外道あり、言わく一切法不俱と」と云い、「大乗起信論」に、「真如の自性は有相に非ず、無相に非ず、非有相に非ず非無相に非ず、有無俱相に非ず。一相に非ず、異相に非ず、非一相に非ず非異相に非ず、一異俱相に非ず」と云い、又「法華経玄義巻8下」に、蔵通別円の四教に各有門、空門、亦有亦空、非有非空の四門ありと云える如き、皆四句を以って法を分類し、其の義を揀択せしものに係る。又此の四句に単の四句、複の四句、具足の四句、絶言の四句等の別あり。「摩訶止観巻5下」に、見惑に就いて単、複、具足、無言の四見の別ありと云い、又「宗鏡録巻46」に、「且く単の四句とは一に有、二に無、三に亦有亦無、四に非有非無なり。複の四句とは一に有有と有無、二に無有と無無、三に亦有亦無有と亦有亦無無、四に非有非無有と非有非無無なり。而も複と言うは四句の中に皆有無を説くなり。具足の四句とは四句の中に皆四を具するが故なり、第一の有句に四を具すとは、謂わく一に有有、二に有無、三に有亦有亦無、四に有非有非無なり。第二の無の句の中に四を具すとは、一に無有、二に無無、三に無亦有亦無、四に無非有非無なり。第三の亦有亦無に四を具すとは、一に亦有亦無有、二に亦有亦無無、三に亦有亦無亦有亦無、四に亦有亦無非有非無なり。第四の非有非無に四を具すとは、一に非有非無有、二に非有非無無、三に非有非無亦有亦無、四に非有非無非有非無なり。上の四の一十六句を具足の四句となす。第四に絶言の四句とは、一の単の四句の外に一の絶言と、二の複の外に一の絶言と、三の具足の四句の外に一の絶言との三の絶言あり。(中略)法に在りては四句と名づけ、悟入には四門と名づけ、妄計には四執と名づけ、毀法には四謗と名づく。是に知る四句は不動なるも得失空しく生じ、一法は無差なるも昇沈自ら異なるを」と云えり。是れ前の四句の義に准じて更に四種の句を分別したるものと云うべく、又前の四句の外に各一の絶言あることを明にせるものなるを見るべし。「楞伽阿跋多羅宝経巻4」に、「若し事なく因なくんば則ち有に非ず無に非ず、若し有に非ず無に非ずんば則ち四句を出づ。四句は是れ世間の言説なり、若し四句を出づれば則ち四句に堕せず」と云える亦た即ち其の意なり。又「雑阿含経巻32」、「旧華厳経巻12」、「大般涅槃経巻39」、「入楞伽経巻6」、「大智度論巻38、70」、「倶舎論巻2、8、30」、「広百論釈論巻8」、「四教義巻3」、「摩訶止観巻2上」、「同輔行伝弘決巻3之3」、「大涅槃経会疏巻3」、「大乗起信論義記巻中本」、「華厳経探玄記巻6」、「同随疏演義鈔巻1、24」等に出づ。<(望)
  参考:『中論巻3観法品』:『諸佛或說我  或說於無我  諸法實相中  無我無非我  諸法實相者  心行言語斷  無生亦無滅  寂滅如涅槃  一切實非實  亦實亦非實  非實非非實  是名諸佛法  自知不隨他  寂滅無戲論  無異無分別  是則名實相』
  諸行(しょぎょう):行は遷流の義。諸の心の動き、心行。また因縁所生の事物、有為法を指す。
  不行(ふぎょう):諸行の対語、涅槃、無為法。
  四句分別(しくふんべつ):有と空とを以って諸法を分別する。謂わゆる、有にして空に非ず、これ第一句の有門なり、これに反して謂わゆる、空にして有に非ず、これ第二句の空門なり、これに反して謂わゆる、また有にしてまた空なり、これ第三句の亦有亦空門なり、これに反して謂わゆる、有に非ずして空に非ず、これ第四句の非有非空門なり、有無の法門はここに尽き、更に第五句無く、一異、有無等の義についてこれを分別するも、またかくの如し。これを四句の門といい、また四句分別という。
如是等處處經中說。第一義悉檀。是義甚深難見難解。佛欲說是義故。說摩訶般若波羅蜜經 是の如き等、処処の経中に説かく、『第一義悉檀、是の義は甚だ深く、見難く、解し難し。』と。仏は、是の義を説かんと欲したもうが故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。
是れ等のように、
処処の、
『経』中に、こう説いている、――
『第一義悉檀の義』は、
『甚だ深く!』、
『見難く!』、
『理解し難い!』、と。
『仏』は、
是の、
『義』を、
『説こう!』と、
『思われた!』が故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。



長爪梵志

復次欲令長爪梵志等大論議師。於佛法中生信故。說是摩訶般若波羅蜜經。有梵志號名長爪。更有名先尼婆蹉衢多羅。更有名薩遮迦摩揵提等。是等閻浮提大論議師輩言。一切論可破。一切語可壞。一切執可轉。故無有實法。可信可恭敬者 復た次ぎに、長爪梵志等の大論議師をして、仏法中に於いて、信を生ぜしめんと欲したもうが故に、是の摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。有る梵志を号して、長爪と名づく。更に有るを先尼婆蹉衢多羅と名づけ、更に有るを薩遮迦摩揵提と名づくる等なり。是れ等の閻浮提の大論議師の輩の言わく、『一切の論は破すべし。一切の語は壊るべし。一切の執は転ずべし。故に実法の信ずべく、恭敬すべき者有ること無し』、と。
復た次ぎに、
『長爪梵志』等の、
『大論議師』に、
『仏法』中に於いて、
『信』を、
『生じさせようとする!』が故に、
是の、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
『長爪』と、
『呼ばれる!』、
『梵志』が、
『有り!』、
更に、
『先尼婆蹉衢多羅』と、
『呼ばれる!』者が、
『有り!』、
更に、
『薩遮迦摩揵提』等と、
『呼ばれる!』者が、
『有った!』が、
是れ等の、
『閻浮提』の、
『大論議師の輩』は、こう言っていたのである、――
一切の、
『論』は、
『破られる!』。
一切の、
『語』は、
『壊される!』。
一切の、
『執(執著)』は、
『転じさせられる!』。
故に、
『信じられ!』、
『恭敬される!』ような、
『実の法』は、
『無い!』、と。
  長爪梵志(ちょうそうぼんし):仏弟子の名。舎利弗の舅、即ち舎利弗の母の弟。『大智度論巻25上注:長爪梵志』参照。
  梵志(ぼんし):梵語婆羅門braahmaNaの訳。即ち婆羅門は無垢清浄に住し、梵天に生ぜんことを志求するが故に此の称あり。「玄応音義巻18」に、「婆羅門。此の言は訛略なり、応に婆羅賀磨拏と云うべし。此の義は梵天の法を承習する者を云う。其の人種の類は自ら云わく、梵天の口より生じ、四姓中の勝なるものなるが故に独り梵の名を取ると。唯五天竺にのみあり、諸国には即ち無し。経中の梵志も亦た此の名なり。正しくは静胤と言う。是れ梵天の苗胤を言うなり」と云い、又「瑜伽論記巻19上」に、「梵とは西国の言なり、此に翻じて寂静と為す。謂わく涅槃なり。志は是れ此の方の語なり、梵を志求するが故に梵志と云う」と云える是れなり。是れ梵を志求し、又は梵天の法を承習するが故に梵志と名づくることを明かせるなり。「中阿含巻48馬邑経」に、「諸悪不善の法たる諸漏穢汚の当来有の本、煩熱苦報生老病死の因たるものを遠離す、是れを梵志と謂う」と云い、又「増一阿含経巻9」には、梵志に漏尽阿羅漢等の三義あることを説き、「法句経巻下梵志品braahmaNa-vagga」には、梵志に流を截りて渡り、無欲なること梵の如く、知行已に尽く等の三十六義ありとし、「出曜経巻29、30梵志品」には、総じて梵志の五十七義を出せり。又経典中に散見する梵志の有名なる者に、長爪梵志、黒氏梵志、鹿杖梵志等あり。是れ皆元と婆羅門族の出なるを顕わすなり。又「中阿含経巻35至41」、「増一阿含経巻47」、「大智度論巻56」、「瑜伽師地論巻70」等に出づ。<(望)
  先尼婆蹉衢多羅(せんにばしゃくたら):梵名zreNika vatsagotra、不明。『大智度論巻31下注:先尼梵志』参照。
  薩遮迦摩揵提(さっしゃかまけんだい):梵名satyaka nirganthiiputra、巴梨名saccaka-nigaNTha-putta。尼乾陀若提子を中興の祖となす外道の一派に属する論師を云う。『大智度論巻21(下)注:尼揵子論師』参照。
  閻浮提(えんぶだい):梵名jambu-dviipa、四洲の一。須弥山の南に存する大洲の名。即ち吾人等の住する此の世界を指す。『大智度論巻1上注:四洲、同巻35下注:閻浮提』参照。
  四洲(ししゅう):梵語catvaaro dviipaaHの訳。巴梨語cattaaro diipaa、四の洲嶼の意。又須弥四洲、四大洲、或いは四天下とも名づく。須弥山の四方、大海中に在りて其の洲最大なるが故に此の称あり。一に弗婆提puurva-videha(巴梨語pubba-videha)、二に閻浮提jambu- dviipa(巴jambuu-diipa)、三に瞿陀尼apara-godaaniiya(巴apara-goyaana)、四に鬱単越uttara-kuru(巴同じ。)なり。又東勝神洲、南瞻部州、西牛貨洲、北俱盧洲とも称す。「中阿含巻11四洲経」に、「我れに閻浮洲あり、極めて大富楽にして多く人民あり。(中略)我れに亦復た瞿陀尼洲あり、亦た弗婆鞞陀提洲あり、亦た鬱単曰洲あり」と云える是れなり。「起世経巻1」に之を詳説して、「諸比丘、須弥山王の北面に洲あり、鬱単越と名づく。其の地は縦広十千由旬にして四方正等なり。彼の洲の人面は還た地形に似たり。諸比丘、須弥山王の東面に洲あり、弗婆提と名づく。其の地は縦広九千由旬にして、円なること満月の如し。彼の洲の人面は還た地形に似たり。諸比丘、須弥山王の西面に洲あり瞿陀尼と名づく。其の地は縦広八千由旬にして、形半月の如し。彼の洲の人面は還た地形に似たり。諸比丘、須弥山王の南面に洲あり、閻浮提と名づく。其の地は縦広七千由旬にして北は濶く南は狭く、婆羅門の車の如し。其の中の人面は還た地形に似たり」と云い、又「倶舎論巻11」に、「外海の中に於いて大洲に四あり、謂わく四面に於いて妙高山に対せり。南瞻部州は北は広く南は狭く、三辺は量等しくして其の相は車の如し。南辺は唯広さ三踰繕那半なり、三辺は各二千踰繕那あり。唯此の洲の中にのみ金剛座あり、上は地際を窮め、下は金輪に拠る。一切の菩薩将に正覚に登らんとするに、皆此の座の上に坐して金剛喩定を起す。余の依及び余の処所には堅固力ありて能く此れを持すること無きを以っての故なり。東勝神洲は東は陿く西は広く、三辺は量等しくして形半月の如し。東は三百三十、三辺は各二千なり。西牛貨洲は円なること満月の如く、径二千五百、周囲七千半なり。北俱盧洲は形方座の如く、四辺の量等しく面各二千なり。等の言は少しの増減もなきことを明さんが為なり。其の洲の相に随って人の面も亦た然り」と云えり。又「長阿含経巻18閻浮提洲品」、「大楼炭経巻1」、「起世因本経巻1」、「新華厳経巻13」、「瑜伽師地論巻2」、「順正理論巻21」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻17」、「彰所知論巻上」、「法苑珠林巻2」、「玄応音義巻13」、「慧苑音義巻上」、「仏祖統紀巻31」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  恭敬(くぎょう):うやまうさま。
  四洲(ししゅう):須弥山の四方の海中に在る四大洲。(1)南閻浮提(えんぶだい):或いは林により、或いは果により、この名を立てる。(2)東毘提訶(びだいか):身形勝れるが故に勝身という。(3)西瞿陀尼(くだに):牛を貿易するが故に牛貨という。(4)北鬱単越(うったんおつ):四洲中に於いて国土の最勝なるが故に勝処という。
如舍利弗本末經中說。舍利弗舅摩訶俱絺羅。與姊舍利論議不如。俱絺羅思惟念言。非姊力也。必懷智人寄言母口。未生乃爾。及生長大當如之何。思惟已生憍慢心。為廣論議故出家作梵志。入南天竺國始讀經書。 舎利弗本末経中に説くが如し。舎利弗の舅、摩訶倶絺羅は、姉舎利と論議するも、如かず。倶郗羅の思惟し念じて言わく、『姉の力に非ざるなり。必ず智慧の人を懐き、母の口に言を寄するならん。未だ生ぜざるに、乃ち爾り。生じて長大するに及ばば、当に之如何にせん。』と。思惟し已りて憍慢心を生じ、広く論議せんが為の故に、出家し梵志と作りて、南天竺国に入り、始めて経書を読む。
『舎利弗本末経』中には、こう説かれている、――
『舎利弗の舅(母の兄弟)』の、
『摩訶倶絺羅』は、
『姉の舎利』と、
『論議して!』、
『及ばなかった!』。
『拘郗羅』は、
『思惟し!』、
『念じて!』、こう言った、――
是れは、
『姉の力ではない!』。
必ず、
『智人』を、
『懐(はら)んでおり!』、
『母の口』に、
『言(ことば)』を、
『寄せているのだ!』。
未だ、
『生まれてもいない!』のに、
今から、
是れほどでは、
『生まれて!』、
『長大(成長)すれば!』、
是のような、
『人』は、
『何うなることか?』、と。
『拘郗羅』は、
『思惟する!』と、
『心』に、
『憍慢』を、
『生じ!』、
『広く!』、
『論議する!』為の故に、
『出家して!』、
『梵志』と、
『作り!』、
『南天竺国』に、
『入って!』、
『経書』を、
『読み始めた!』。
  (きゅう):母の兄弟の称。
  摩訶倶絺羅(まかくちら):梵名mahaakauSThilya、大膝と訳す。舎利弗の舅、長爪梵志の名。『大智度論巻25上注:長爪梵志』参照。
  舎利(しゃり):梵名zaari、鳥の名。又舎利弗の母の名、眼其の鳥に似るを以って名づけらる。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
  不如(しかず):およばない。
  憍慢(きょうまん):梵語adhi-maanaの訳。巴梨語同じ。自ら高ぶり他を下げすむ心状。『大智度論巻49下注:憍慢、憍、慢』参照。
  天竺(てんじく):梵名indu?、印度古名。唐代以後は多く印度を用いる。
  参考:『別訳雑阿含経巻11』:『如是我聞。一時佛在王舍城迦蘭陀竹  林。爾時長爪梵志往詣佛所。在一面坐而作是言。如我今者。於一切法。悉不忍受。佛告長爪梵志。汝於諸法悉不忍者。見是忍不。長爪復言。如此之見。我亦不忍。佛告長爪梵志。汝若不忍如是見者。何故而言。我於諸法。悉皆不忍。誰為汝出不忍之語。佛復告大姓。汝若知若見。不忍是見。即斷是見。已棄是見。譬如有人。既嘔吐已。若如是者於餘見中。即不次第。便為不取。便是不生。長爪梵志復作是念。汝所言我已斷是見。已棄是見。譬如人吐便於諸見。無有次第。不取不生。佛告長爪。若如是者。多有眾生。同汝所見。亦復如是論者。諸有異道沙門婆羅門。若捨是見。更不受異見。是名少智。極為尟薄。亦名愚癡。梵志當知。世間眾生。皆依三見。初言我忍一切。第二言一切不忍。第三言我少忍少不忍。賢聖弟子。觀察初見。能起貪欲瞋恚愚癡。常為如是三毒纏縛。不得遠離。能生患害。能生結使。不得解脫。喜樂於欲守護縛著。是名為忍。若不忍者能生貪欲瞋恚愚癡常為如斯三毒所纏。不能遠離獲得解脫。喜樂於欲。常為愛取守護縛著。是名不忍。若見少忍少不忍。亦復如是忍如上忍中說。不忍如上不忍中說。賢聖弟子。若說言忍。便為與彼二見共諍。若言不忍。亦復與彼二見共諍。若言少忍少不忍。亦與二見共諍。以己所見違於他故。便起諍論。若起諍論。必相毀害。以共諍論生毀害故。以見是過生諸諍論故。便棄是見。不受餘見。以是義故。能斷是見。棄離是見。猶如人吐。於諸見中。無有次第。不取不生。賢聖弟子。若言忍及以不忍。少忍少不忍亦有是過。如是梵志。此色顯現四大所成。賢聖弟子。見是身無常。既見無常。便能離欲。見此身滅。即便捨離。若見身無常。便離身欲。便離身愛。離身窟宅。除身決定想。梵志當知。受有三種。苦受樂受不苦不樂受。如此三受。以何為因。云何為習。因何而生從何處出。以觸為因。因觸生習。習從觸生。因觸所生。若觸滅則受滅。離熱得涼。譬如日沒。身邊命邊。受身邊時。知是身邊。受命邊時知是命邊。如實而知。無有錯謬。賢聖弟子。若受樂受。知身必壞。若受苦受不苦不樂受知身必壞。若受樂受非和合受。苦受不苦不樂受。亦復如是。云何名為與受不和合。所謂貪欲瞋恚愚癡。不與生老病死而共和合。憂悲苦惱。眾苦聚集。爾時尊者舍利弗。出家半月。侍如來側。以扇扇佛。于時如來為說斷於離欲之法。時舍利弗如是觀察。諸法無常。即便離欲證成。棄捨諸見。無生漏盡。心得解脫。長爪梵志。於諸法中。得法眼淨。如上所說。既得信心。即白佛言。唯願世尊。聽我出家。爾時如來即聽出家。既出家已。懃修精進。得阿羅漢道』
諸人問言。汝志何求。學習何經。長爪答言。十八種大經盡欲讀之。諸人語言。盡汝壽命猶不能知一。何況能盡 諸人の問うて言わく、『汝は志して何をか求め、学びて何経をか習う。』と。長爪の答えて言わく、『十八種の大経は尽く、之を読まんと欲す。』と。諸人語りて言わく、『汝が寿命を尽くすとも、猶お一を知る能わず。何をか況んや能く尽くすをや。』と。
諸の、
『人』が問うて、こう言った、――
お前は、
何を、
『求めよう!』と、
『志(こころざ)し!』、
何の、
『経』を、
『学習するのか?』、と。
『長爪』は答えて、こう言った、――
『十八種』の、
『大経』を、
『悉(ことごと)く!』、
『読もうと思う!』、と。
諸の、
『人』が語って、こう言った、――
お前の、
『寿命』を、
『尽しても!』、
猶()お、
『一すら!』、
『知ることはできまい!』。
況()して、
『読み尽くせる!』などと、
『言うまでもない!』、と。
  十八種大経(じゅうはっしゅのだいきょう):印度外道の経書に十八種の別あるの意。『大智度論巻25上注:十八大経』参照。
  十八大経(じゅうはちだいきょう):四韋陀(いだ、veda)、六論、八論。婆羅門の修める十八種の学問。
  (1)利倶吠陀(りぐべいだ、Rg-veda):太古よりの賛美歌の集成。
  (2)三摩吠陀(さんまいべいだ、saama-v):賛歌に音楽を付して祭式に実用のものを集む。
  (3)夜柔吠陀(やじゅうべいだ、yajur-v):季節ごとの祭祀の時の散文による呪文を集む。
  (4)阿闥婆吠陀(あたるばべいだ、atharava-v):災難から遁れる呪文等の祭歌などを集む。
  (5)式叉(しきしゃ、zikSaa)論:六十四種の能法(のうほう、技芸学問)を釈す。
  (6)毘伽羅(びから、vyaakaraNa)論:諸音声の法を釈す。
  (7)柯刺波(からは、kalpa)論:諸天、仙人の上古以来の因縁と名字を釈す。
  (8)竪底沙(じゅていしゃ、jyotiSa)論:天文地理算数等の法を釈す。
  (9)闡陀(せんだ、chandas)論:仏弟子、五通の仙人等を偈によって説く。
  (10)尼鹿多(にろくた、nirukta)論:一切の物名を立て因縁を釈す。
  (11)肩亡婆(けんもうば、?)論:諸法の是非を簡単に釈す。
  (12)那邪毘薩多(なじゃびさった、naya-vistara?)論:諸法の道理を明かす。
  (13)伊底呵婆(いていかば、ltihaasa)論:伝記、宿世の事を明かす。
  (14)僧法(そうほう、saaJkhya)論:二十五諦なる者を明かす。
  (15)課伽(かが、garga?)論:心を摂する法を明かす。
  (16)陀菟(だつ、dhanur)論:用兵の法を釈す。
  (17)揵闥婆(けんだつば、gandharva)論:音楽の法を明かす。
  (18)阿輸(あゆ、aayur-zaastra)論:医方なる者を明かす。
長爪自念。昔作憍慢為姊所勝。今此諸人復見輕辱。為是二事故。自作誓言我不剪爪。要讀十八種經書盡。 長爪の自ら念ずらく、『昔、憍慢を作して、姉の勝つ所と為れり。今、此の諸人にも復た軽辱せらる。』と。是の二事の為の故に、自ら誓を作して言わく、『我れ爪を剪(き)らずして、要(かなら)ず十八種の経書を読みて尽くさん。』と。
『長爪』は、
自ら、こう念じた、――
昔、
『憍慢』を、
『作して!』、
『姉』に、
『勝たれた!』が、
今、
此の、
諸の、
『人』にも、
復た、
『軽辱(軽蔑)された!』、と。
是の、
『二事』の為の故に、
自ら、
『誓を作して!』、こう言った、――
わたしは、
『爪』を、
『剪()らずに!』、
要(かなら)ず、
『十八種の経』を、
『読み尽くすだろう!』、と。
  (らる):せらる。~される。受け身を示す辞。
  軽辱(きょうにく):かろんじはずかしめる。軽蔑。
人見爪長因號為長爪梵志。是人以種種經書智慧力。種種譏刺是法是非法是應是不應是實是不實是有是無。破他論議。譬如大力狂象唐突蹴踏無能制者 人は爪の長きを見るに因り、号して長爪梵志と為す。是の人種種の経書、智慧の力を以って、種種に譏刺して、『是れ法なり。』、『是れ法に非ず。』、『是れ応なり。』、『是れ応ならず。』、『是れ実なり。』、『是れ実ならず。』、『是れ有り。』、『是れ無し。』と他の論議を破る。譬えば大力の狂象の唐突し、蹴踏して能く制する者の無きが如し。
『人』は、
『爪』が、
『長い!』のを、
『見て!』、
之を、
『長爪梵志』と、
『呼んだ!』。
是の、
『人』は、
種種の、
『経書の智慧』の、
『力』を、
『用いて!』、
種種に、
『嘲笑し!』、
『皮肉って!』、
是れは、
『法である!』、
是れは、
『法でない!』、
是れは、
『そうすべきである!』、
是れは、
『そうすべきでない!』、
是れは、
『実である!』、
是れは、
『実でない!』、
是れは、
『有る!』、
是れは、
『無い!』と、
他の、
『論議』を、
『破った!』。
譬えば、
『大力の狂象』が、
『唐突に!』、
『蹴散らし!』、
『踏みにじって!』、
誰にも、
『制止されない!』のと、
『同じである!』。
  譏刺(きし):嘲笑諷刺。あざわらい/あてこすること。
  (おう):当に同じ。然り。そのはず。当然。
  狂象(ごうぞう):くるった象。
  唐突(とうとつ):乱暴/攻撃的に。
  蹴踏(しゅうどう):ふみつける。
如是長爪梵志以論議力。摧伏諸論師已。還至摩伽陀國王舍城那羅聚落。至本生處問人言。我姊生子今在何處。有人語言。汝姊子者適生八歲。讀一切經書盡。至年十六論議勝一切人。有釋種道人姓瞿曇。與作弟子。 是の如く長爪梵志は論議の力を以って、諸論師を摧伏し已り、還って摩伽陀国王舎城の那羅聚落に至り、本の生処に至りて人に問うて言わく、『我が姉の生ぜし子、今、何処(いづく)にか在る。』と。有る人の語りて言わく、『汝が姉の子は、適(はじ)めて生まれて八歳にして、一切の経書を読みて尽くし、年十六に至るに論議して、一切の人に勝てり。有る釈種の道人、姓瞿曇なるものの与(ため)に弟子と作れり。』と。
是のように、
『長爪梵志』は、
『論義の力』で、
諸の、
『論議師』を、
『摧伏する(屈伏させる)!』と、
還()た、
『摩伽陀国王舎城』の、
『那羅聚落』に、
『至った!』。
『梵志』は、
本の、
『生処』に、
『至る!』と、
『人』に問うて、こう言った、――
わたしの、
『姉』は、
『子』を、
『生んだ!』が、
今、
何処に、
『居るのか?』、と。
有る、
『人』が、こう言った、――
お前の、
『姉の子』は、
『生まれて!』、
『八歳になる!』と、
一切の、
『経書』を、
『読み尽し!』、
『十六歳になる!』と、
一切の人と、
『論義して!』、
『勝った!』が、
有る、
『釈種の道人』で、
『姓』が、
『瞿曇という者』の、
『弟子』と、
『作っている!』、と。
  摧伏(さいぶく):くじいて屈伏させる。
  摩伽陀国(まがだこく):摩伽陀は梵名magadha、中印度の古国の名。『大智度論巻1上注:摩揭陀国』参照。
  摩揭陀国(まかだこく):摩揭陀magadhaは梵名。巴梨語同じ。又摩竭陀、摩竭提、摩伽陀、摩訶陀、默竭陀、墨竭提、摩竭、或いは摩揭に作り、無害、不害、無毒害、無悩害、不悪処、致甘露処、持甘露処、甘露処、善勝、不至、聡恵、大体、又は天羅と訳す。中印度古国の名。印度十六大国の一なり。「大唐西域記巻8」に其の国勢を敍し、「摩揭陀国は周五千余里、城に居人少なく、邑に編戸多し。地沃壌にして稼穡滋く、異の稲種あり、其の粒麁大にして香味殊越に、光色特に甚だし。彼の俗之を供大人米と謂う。土地墊湿なれば邑は高原に居る。孟夏の後、仲秋の前には流水に平居し、以って船を泛ぶべし。風俗淳質、気序温暑にして志学を崇重し、仏法を尊敬す。伽藍五十余所、僧徒万有余人、並びに多く大乗の法教を宗習す。天祠数十、異道寔に多し」と云い、其の下順次に華子城paaTali-putra、其の附近の阿育azoka王塔、仏足石、鶏園寺kukkuTaaraama趾、提婆及び馬鳴の外道降伏の旧蹟、頻婆沙羅bimdusaara王末孫建立の鞮羅釈迦tilazaakya伽藍、附近の仏入定の大山、徳慧及び戒賢の外道降伏の遺蹟、伽耶gayaa城附近の前正覚山、菩提樹、金剛座、魔王嬈仏処、梵天勧請処、仏苦行処、尼連禅河、二商主供養処、三迦葉帰仏処、摩訶菩提僧伽藍、鶏足山kukkuTapada-giri、杖林yaSTi-vana、王舎城raajagRha附近の旧城趾、舎利弗開悟処、鷲峰gRdhrakuuTa山、毘布羅vipula山、迦蘭陀竹園、阿闍世ajaatazatru王建立の仏舎利塔、第一結集の遺趾、那爛陀naalanda寺、目犍連の故里、帝釈窟indrasaala-guha、亘娑haMsa塔、迦布徳kapota伽藍等の存せしことを記せり。其の地は即ち恒河左岸の支流たるソンson河の東に位し、現今のビハールbihar、特に南ビハール地方に当り、而してパトナpatna(即ち華氏城)及び伽耶を其の中心となせり。蓋し摩揭陀の名称は「アトハルヴァ・サンヒターatharva-saMhitaa」に出づるを初見とし、西暦紀元前七世紀の中葉に当り、シシュナーガziznaaga王此の地に拠りてシャイシュナーガ王朝zaizunaagaを立て、王舎城(今のラーヂギールrajgiir)に都す。尋いで第五世頻婆沙羅bimbisaara王に至りて東方鴦伽aGga(今のブハーガルプルbhaagalpur)を征服し、更に憍薩羅及び毘提訶videhaより后妃を迎えて益々国勢を張り、又都を旧王舎城の北に遷せりと伝えらる。王の治世中に釈尊は伽耶附近に於いて成道し、王舎城等に住して説法教化せられしにより、王も亦た之に帰依し、又王妃の親縁なるマハーヴィーラmahaaviiraは耆那jaina教を創唱せり。後其の子阿闍世は父を弑して王位に上り、憍薩羅と戦い、又恒河の北毘舎離vaisaaliを征し、其の版図は遠くヒマラヤ山麓に及び新に華氏城を築きて離車族licchaviに備うる所あり。「巴梨文大史mahaavaMsa,iv.」には、阿闍世の子鬱陀耶跋陀羅udaya-bhaddakaは父を弑し、鬱陀耶の子阿那律anuruddha亦た父を弑して各王位に即きたりと云うも、「ヴィシュヌ・プラーナviSNu-puraaNa」等には、阿闍世と鬱陀耶との間にダッルブハカdarbhaka(又はdarsaka)王ありとなせり。就中、鬱陀耶王は華氏城附近に別に拘蘇摩城kusumapuraを建設せしが、其の頃より波斯の圧迫を蒙り、同王朝は遂に衰亡せり。尋いで賎種の難陀nanda王朝之に代り、一時覇権振るいたりしも、西紀前323年頃、旃陀崛多candragupta王は之を滅ぼして孔雀王朝mauryaを興し、頻頭娑羅王を経、阿育王に至りて遂に全印度を統一し、大いに国勢を張れり。後同185年頃、将軍弗沙蜜多羅puSyamitraは王を弑し、自立してシュンガzuGga王朝を始め、華氏城に都し、其の領土は現今のビハール、ティルフトtirhut、アグラagra及びオードoudh連合州に及びしが如し。尋いで西紀前73年頃、婆羅門の宰相ヴァスデーヴァvasudevaは之を亡ぼし、カーンヴァkaaNva王朝を建てしも、同28年頃に至り、東南印度に雄視せし案達羅andhra王朝の亡ぼす所となり、同王朝は西紀225年頃まで中印度に覇権を有したりしが、第四世記の初、チャンドラ・グップタcandra-gupta王崛起して新に崛多gupta王朝を起し、次いでサムッドラ・グップタsamudra-gupta王及びヴィクラマーディチャvikramaaditya王に及び殆ど全印度を統治せり。第五世紀の中葉以後漸次衰微し、其の領土は摩揭陀地方に限られ、第八世紀に至りてベンゴールbengal地方に拠りしパーラpaala王朝遂に之に代われり。崛多王朝時代は文化隆盛にして、仏教中にも亦た瑜伽派の勃興を見、頗る活気を呈せり。「高僧法顕伝」にヴィクラマーディチャ王当時の情勢を敍し、巴連弗邑(華氏城)は殷盛にして印度最大の都邑なり、羅汰私迷の建立せし摩訶衍僧伽藍、並びに小乗僧六七百人の止住せる僧伽藍あり。行像亦行われ、王舎城には迦蘭陀竹園尚お存し、伽耶城は既に空荒なりしも、仏得道処の三伽藍に皆住僧ありしことを記せり。されど玄奘の時に至り、華氏城等が荒蕪に帰せしを以って見るに、第七世紀の初頭には既に同王朝の甚だ振るわざりしを知るなり。又「翻梵語巻8」、「法華経文句巻1上」、「玄応音義巻1、21」、「慧苑音義巻1」等に出づ。<(望)
  王舎城(おうしゃじょう):王舍は梵名曷羅闍姞利呬raaja-gRhaの訳。中印度摩揭陀国往古の首府の名。『大智度論巻22上注:王舎城』参照。
  那羅聚落(ならじゅらく):梵名那羅陀naaladaは村の名。舎利弗、長爪梵志の故里。
  生処(しょうじょ):生まれたところ。
  (てき):たまたま。丁度( just )。
  釈種(しゃくしゅ):釈迦種族の意。釈は梵語釈迦zakyaの略。又zaakya、zakiyaに作る。巴梨名sakya、又はsaakiya、sakyaa、sakka、能仁、能、或いは直と訳す。浄飯王家の本姓にして、刹帝利種に属す。「長阿含経巻13」に依るに、過去久遠世の時に王あり、声摩okkaakaと名づく。王に四子あり、少しく犯す所ありて擯せられ、国を出でて雪山の南に到り、直樹林saaka-saNDa中に住す。後其の四子の母及び諸家属皆之を追念し、即ち直樹林中に詣りて四子を見る。時に諸母言わく、我が女は汝の子に与えん、汝の女は我が子に与えよと。即ち相配匹して夫婦と成り、後男子を生む、容貌端正なり。時に声摩王之を聞き、歓喜して此の言を発す、此れは真の釈子、真の釈童子なり、能く自ら存立すと。此れによりて釈と名づく。声摩王は即ち釈種の先なりと云い、又「有部毘奈耶破僧事巻2」に、「爾の時、四王子は諸の人衆と漸漸に前行し、雪山の下、弶伽河の側、劫比羅仙人の所住に近き処に至る。時に四王子は諸の人衆と各茅草を剪りて以って居舎となし、此れに依りて住す。爾の時、衆人共に相採捕して以って自ら養活す。時に四王子は日日三時に劫比羅仙の所に往きて親近供養す。(中略)時に彼の仙人は神通力あり、其の楽う所に随って皆成就を得。即ち金瓶を持して中に水を盛満し、余の好処に詣りて水を灑ぎて界を為し、王子に告げて曰わく、汝等此の地に於いて安止すべしと。時に諸王子は仙人の教を奉じ已りて、即ち城壁を築き其の内に止住す。彼の仙人水を灑ぎて界を為す、此れに因りて名を立てて劫比羅城と為す。(中略)爾の時、増長王は群臣に問うて曰わく、我が四子今何の所にか在る。群臣報じて曰わく、王の諸子等は過ありしに因るが故に王は国を出でしむ。并びに諸の姉妹と今は雪山の下、天示城の中に在りて自ら広く城邑を営むを見ると。増長王曰わく、我が諸子等豈能く此の如く自ら成就せしや不や。群臣報じて曰わく能くすと。時に増長王即ち大いに踊躍し、端坐挙手して諸臣に告げて曰わく、我が子大いに能くす、我が子大いに能くすと。大威徳に由りて大能大能と言うが故に釈迦の名を得たり」と云えり。是れ憍薩羅国娑枳多zaaketa城主声摩即ち懿摩弥ikSvaaku王を以って釈種の祖先とし、且つ彼の四王子が有能なりしに由りて釈迦の名を得たりとなせるものなり。又「仏本行集経巻5賢劫王種品」にも同一記事を出し、其の下に「是の故に姓を立てて称して釈迦と為す。釈迦は大樹の蓊蔚たる枝條の下に住するを以って、是の故に名づけて奢夷耆耶となす」と云えり。此の中、奢夷耆耶は梵語zakiyaの音写なるが如く、「長阿含経巻13」の子註にも「釈は秦に能と言う、直樹林に在るが故に釈と名づく、釈は秦の言に亦直と言う」とあり。されば能の義に依りて釈迦zakyaと称し、直樹の義に依りて奢夷耆耶zakiyaと名づけたるものとなすべきが如し。又釈種には此の他に瞿曇種、甘蔗種、日炙種等の異名あり。蓋し懿摩弥王はアーリヤ人種aryan中の有名なる王族なりしを以って、其の苗裔なる釈種も亦た即ち純粋のアーリヤ民族なりというべし。リス・デヴィヅT.W.Rhys Davidsに依るに、アーリヤ民族の一部は太古印度西北部に達し、尋いで迦溼弥羅より雪山の麓に沿うて東南に進み、憍薩羅を経て釈迦国に到りしものならんとせり。然るにビールS.Bealは釈迦族を以ってチューラン人種Turaniansの塞族となし、彼の釈迦zakyaなる語は塞zaka族に属する人人の義なりと云えり。按ずに、塞族は希臘人がsaka(複数sakai)と呼べる種族にして、梨車毘licchavi及び末羅mallaと共に蒙古系に属する人種なり。「漢書西域伝巻66上」に、「塞種は分散して往往数国となる(師古曰わく、即ち所謂釈種なるものなり。亦た語に軽重あるのみ)。疏勒より以西北、休循、捐毒の属は皆故の塞種なり」と云えるもの即ち是れなり。然るに塞種の印度侵入は、西暦紀元前第二世紀の半頃に信度sindhuを通じて行われしを以って最初とし、随って事は仏教興起以後に属するが故に、釈種を塞族と解するは即ち当らずというべし。又スプーナーD.B.Spoonerは釈種を以ってイラン人種Iraniansなりと説くも之れ亦た一説に止まるべし。斯くて釈種は雪山の南麓、盧呬尼rohiNii(今のコーハーナkohaana)河畔に定住し、農作牧畜を生業とし、漸次数個の都邑を作り、一小独立国を形成したるが如く、釈尊出世の当時に於いては、現今の尼波羅国nepalの南境、ラープチraapti河の東辺一帯の地を領し、其の都邑の如きも迦毘羅衛kapilavatthuを首とし、其の他に提婆陀訶devadaha、車頭caatumaa、舎弥村saamagaama、クホーマドゥッサkhomadussa、石主silaavatii、弥婁離metaluupa、サッカラsakkara等の十余所を算せり。仏音buddha-ghosaは釈尊父母の両系には各八万の戸数を擁せりと伝え、リス・デヴィヅは之に依りて、釈種の全人口を凡そ百万と推定せり。されど是れ必ずしも依憑とするに足らず。遠祖懿摩弥王より釈尊の父浄飯王に至るまでの王統に関しては多説あり。「大楼炭経巻6」には、伊摩ikSvaaku(大善生)、烏猟、不尼nipura、師子siihahanu、悦頭檀suddhodana(浄飯)の五王を挙げ、「長阿含巻22世本縁品」、「四分律巻31」及び「釈迦譜巻1」には、烏猟の次に更に渠羅婆(瞿羅)を加えて六王とし、「仏本行集経巻5」には、甘蔗、尼拘羅(別成)、拘盧、瞿拘盧、師子頬、閲頭檀の六王を列ね、「五分律巻15」には鬱摩、尼楼、象頭羅、瞿頭羅、尼休羅、浄飯の六王を出し、「彰所知論巻上」には、懿師摩、厳鐲、厳鐲足、致所、牛居、師子頬、浄飯の七王を算し、其の他又懿摩弥王より数十百代を経となすの説あり。就中、釈尊の曾祖父を尼求羅nipura、祖父を師子頬siihahanu、父を浄飯suddhodana王となすは漢訳諸伝の粗ぼ一致する所なり。又迦毘羅衛の東方、盧呬尼河の対岸に提婆陀訶城あり、所謂拘利koli城にして、釈尊の母摩耶夫人出生の地なり。両城は時に水利に関して争闘する所ありしも、常に婚を通じて親密なる関係を保持せり。「巴梨文大史mahaavaMsa,II」に依るに、迦維羅衛城主闍耶先那jayasenaに王子師子頬及び王女耶輸陀羅yasodharaaあり、又拘利城主提婆陀訶釈迦devadahasakaに王子安闍難aJjaNa、及び王女建遮那kaccaanaaあり。師子頬は建遮那と婚して浄飯等の五王子及び阿弥多amitaa等の二王女を挙げ、安闍耶は耶輸陀羅を迎えて善覚uppabuddha等の二王子及び摩耶maayaa、波闍波提pjaapatiiの二王女を産み、又浄飯王は摩耶を妃として悉達多siddhattha、即ち釈尊を誕し、善覚は阿弥多を迎えて跋陀羅迦延bhaddakaccaana等を生み、後又悉達多は跋陀羅迦延を娶りて羅睺羅raahulaを挙ぐとせり。兎に角両王家姻戚関係の密なるものありしは事実なり。釈種は又自ら持すること尊貴にして、他種族と婚せず、長く其の血統の純潔を保持したるも、政治的実力は必ずしも大ならず。憍薩羅、摩揭陀両大国の間に介在し、僅かに其の独立を維持せしに過ぎざりしが如し。後憍薩羅国波斯匿prasenajit王の子毘盧択迦viruuDhaka王位を紹ぐに及び、迦毘羅衛を攻めて遂に釈種を沴滅せり。「増一阿含経巻26」に当時の状景を敍し、「是の時流離王は九千九百九十万人を殺し、流血河を成せり。迦毘羅越城を焼き、往きて尼拘留園に行く。是の時、流離王は五百の釈女に語りて言わく、汝等慎んで愁憂すること莫かれ。我れは是れ汝の夫なり、汝は是れ我が婦なりと。(中略)五百の女人皆王を罵って言わく、誰か此の身を持して婢生種と共に交通せんやと。時に王瞋恚し、尽く五百の釈女を取り、其の手足を兀って深坑中に著く。是の時、流離王悉く迦毘羅越を壊り已りて還って舎衛城に詣る」と云えり。以って其の惨状を見るべし。是れ仏涅槃12年前の事なり。或いは云う、仏滅数年後なりと。されば釈種はその興起より僅に数百年にして遂に滅亡せしものなるが如し。後迦毘羅衛の地は全く荒廃せしものの如く、「高僧法顕伝」に、「城中都べて王民なく、甚だしきこと坵荒の如し。只衆僧あり、民戸数十家のみ」と云い、又「大唐西域記巻6」には、「劫比羅伐窣堵国は周四千余里、空城十数、荒蕪已に甚だし。王城頽圯して周量詳ならず。其の内宮城周十四五里、甎を塁して成り、基跡峻固なり。空荒久遠にして、人里稀曠なり」と云えり。後十九世紀末に至り、藍毘尼園の遺址等発見せられ、尋いで迦毘羅衛の故地も亦た確定せらるるに至れり。又「中阿含巻33釈問経」、「起世経巻10」、「起世因本経巻10」、「琉璃王経」、「衆許摩訶帝経巻2」、「四分律巻31、41」、「五分律巻21」、「根本説一切有部雑事巻18」、「同薬事巻8」、「釈迦氏譜」、「釈氏要覧巻上」等に出づ。<(望)
  瞿曇(くどん):梵名gautama、釈迦種族の姓の名。『大智度論巻21下注:瞿曇』参照。
長爪聞之即起憍慢。生不信心而作是言。如我姊子聰明如是。彼以何術誘誑剃頭作弟子。說是語已直向佛所 長爪、之を聞きて即ち憍慢を起し、不信の心を生じて、是の言を作さく、『我が姉の子の如き、聡明なること是の如し。彼れ、何の術を以ってか、誘誑し、頭を剃りて、弟子と作せるや。』と。是の語を説き已りて、直ちに仏所に向えり。
『長爪』は、
之を、
『聞く!』と、
『憍慢』が、
『起こり!』、
『心』に、
『不信』を、
『生じて!』、
こう言った、――
若し、
わたしの、
『姉の子』が、
是れほど、
『聡明ならば!』、
彼れは、
何のような、
『術』を、
『用いて!』、
『誑(たぶらか)し!』、
『頭を剃って!』、
『弟子』と、
『作したのか?』、と。
こう言うと、――
『長爪』は、
まっすぐ、
『仏の所』へ、
『向った!』。
  誘誑(ゆうこう):誘い出してたぶらかす。
  剃頭(たいとう):頭髪をそりのぞく。
爾時舍利弗初受戒半月。佛邊侍立以扇扇佛。長爪梵志見佛問訊訖。一面坐作是念。一切論可破一切語可壞。一切執可轉。是中何者是諸法實相。何者是第一義。何者性。何者相。不顛倒。如是思惟。譬如大海水中欲盡其涯底。求之既久不得一法實可以入心者。彼以何論議道。而得我姊子。作是思惟已而語佛言。瞿曇。我一切法不受。 爾の時、舎利弗は初めて受戒して半月、仏の辺に侍り立ち、扇を以って仏を扇げり。長爪梵志、仏に見(まみ)えて問訊し訖(おわ)り、一面に坐して、是の念を、『一切の論は破すべし。一切の語は壊すべし。一切の執は転ずべし。是の中に、何者か、是れ諸法の実相なる。何者か、是れ第一義なる。何者か性なる。何者か相の顛倒せざる。』と作し、是の如く思惟すらく、『譬えば大海水中に、其の涯底を尽くさんと欲するが如く、之を求めて既に久しけれど、一法として、実に以って心に入るべき者を得ず。彼れは何の論議の道を以ってか、我が姉の子を得たる。』と。是の思惟を作し已りて、仏に語りて言わく、『瞿曇、我れは一切の法を受けず。』と。
爾()の時、
『舎利弗』は、
『戒』を、
『受けて!』から、
『半月ばかり!』、
『仏の辺』に、
『侍(はべ)って!』、
『立ち!』、
『扇』で、
『仏』を、
『扇いでいた!』。
『長爪梵志』は、
『仏』に、
『会見して!』、
『問訊(挨拶)する!』と、
『一面』に、
『坐して!』、
こう考えた、――
一切の、
『論』は、
『破られ!』、
一切の、
『語』は、
『壊される!』。
一切の、
『執(執著)』は、
『転じさせられる!』。
是の中には、
何者が、
『諸の法』の、
『実相なのか?』。
何者が、
『第一義なのか?』。
何のような、
『性、相』が、
『顛倒しないのか?』、と。
こう思惟(推理)した、――
譬えば、
『大海水』中に、
其の、
『涯底(限界的海底)』を、
『尽そうとして!』、
『求めるように!』、
既に、
『久しく!』、
『求めた!』が、
実に、
『一法』として、
『心』に、
『適(かな)うものがない!』。
彼れは、
『論義』の、
『道( way )』を、
『用いて!』、
わたしの、
『姉の子』を、
『手に入れたのか?』、と。
是のように思惟すると、
『仏』に語って、こう言った、――
瞿曇!
わたしは、
一切の、
『法』を、
『受けない(認めない)!』、と。
  受戒(じゅかい):戒を受くるの意。又納戒とも称す。即ち在家出家の人が師に就き又は自誓等によりて戒を受得するを云う。若し能授に就かば授戒と称するなり。蓋し仏教の教団に七衆の別あり、即ち優婆塞、優婆夷、舎弥、沙弥尼、式叉摩那、比丘、比丘尼なり。就中、初の二は在家にして共に五戒を受け、後の五は出家にして舎弥及び沙弥尼は共に十戒を受け、式叉摩那を六法正学戒を受け、比丘及び比丘尼は具足戒を受く。又在家にして別に一日一夜八斎戒を受くるものあり。之を優波婆沙と名づく。此の中、式叉摩那の六法は沙弥戒を離れて別に存するものに非ざるが故に、戒の別に就いて言わば、在家の五戒及び八戒、出家の十戒及び具足戒の四種を出でざるなり。之を普通に五八十具と称す。凡そ戒は多く他の教に従って得するものなりと雖も亦た別に自然得等あり。「倶舎論巻14」に、「別解脱の律儀は他の教等に由りて得す。能く他を教うる者を名づけて他と為す。是の如く他の教力に従って戒を発するが故に、此の戒を他の教に由りて得すと説く。此れに復た二種あり、謂わく僧伽と補特伽羅とに従って差別あるが故なり。僧伽に従って得すとは、謂わく比丘比丘尼及び正学戒なり。補特伽羅に従って得すとは、謂わく余の五種の戒なり。諸の毘奈耶毘婆沙師説く、十種の具戒を得する法あり、彼れを摂せんが為の故に復た等の言を説く。何等をか十と為す、一には自然に由る、謂わく仏と独覚となり。二には正性離生に入ることを得るに由る、謂わく五苾芻なり。三には仏の善来苾芻と命ずるに由る、謂わく耶舎等なり。四には仏を信受して大師と為すに由る、謂わく大迦葉なり。五には善巧に所問に酬答するに由る、謂わく蘇陀夷なり。六には八尊重の法を敬重するに由る、謂わく大生主なり。七には遣使に由る、謂わく法授尼なり。八には持律を第五人と為すに由る、謂わく辺国に於いてす。九には十衆に由る、謂わく中国に於いてす。十には三たび仏法僧に帰すと説くに由る、謂わく六十の賢部共に集まりて具戒を受くるなり」と云える即ち其の説なり。是れ戒を得するに他の教に由るものと自然得等との別あるを説けるものなり。就中、他教に由るとは普通に之を従他受と称す。従他受の中、比丘比丘尼及び式叉摩那の正学戒は、戒和上並び数人の僧衆に由り、舎弥沙弥尼の二種は和上及び阿闍梨の二人、優婆塞等の在家の三種は和上一人に従って戒を受得するなり。毘奈耶毘婆沙師の十種の得戒の中、第一は自然得にして、即ち仏及び独覚が尽智心の位に於いて、無師にして具足戒を得るを云い、第二は見道得にして、即ち阿若憍陳如等の五比丘が見道位に於いて具足戒を得せるを云い、第三は善来得にして、即ち仏が耶舎に対し善来比丘と称せられたるに由りて得戒せるを云い、第四は自誓得にして、即ち大迦葉が仏を大師と信受するに由りて得戒せるを云い、第五は蘇陀夷は聡明にして尚お七歳なるも、善く巧みに仏の問いに酬答せしが故に、二十歳に満たずして受具を許されたるを云い、第六は敬重得にして、即ち最初の比丘尼たる大生主が八種の比丘尊重法を説くを聞きて得戒せるを云い、第七は遣使得にして、即ち法授尼が僧中に往かんと欲するも難を恐るるが故に比丘尼を遣わして得戒せるを云い、第八は所謂五人得にして、辺国に於いては僧衆少なきが故に、唯和上等の五人に従って得戒するを云い、第九は所謂十衆得にして、中国に於いては僧衆多きが故に極少十人を減ぜずして得戒するを云い、第十は三帰得にして、六十人の賢聖が三帰を説くを聞きて具足戒を受得せるを云うなり。又「瑜伽師地論巻53」には、律儀を受くるに自受他受及び自然受の別あることを説けり。是の如く戒を受得するに諸種の別ありと雖も、世に多く行わるるものは所謂従他受にして、即ち和上に就き一白三羯磨の法によりて得戒するなり。今略して其の受法を述べんに、優婆塞優婆夷の五戒は、先づ彼等をして法に依りて三帰を受けしめ、次に一一不殺生等の五戒に就き、此の形寿(即ち一生涯)を尽くすまで能く持つや否やを問い、能持を誓わしむるものなり。「優婆塞戒経巻3」に依るに此の戒を受けんと欲する者は先づ東方(父母)南方(師長)西方(妻子)北方(善知識)下方(奴婢)上方(沙門婆羅門)の六方を供養し、父母妻子奴婢国王の聴許を得、後大徳の処に至りて戒を受けんことを乞い、大徳比丘は、父母等聴許するや否や、仏法僧物及び他物を負わざるや否や、内外の病なきや否や等の十五問を発し、此等の遮難なきを確かめたる後、方に戒を授くることを説けり。優波婆沙の八斎戒は一日一夜を限るものにして、即ち晨旦に之を受くるを法とす。但し若し礙縁あらば斎(朝食)し竟りて之を受くるも亦た得するなり。受法の次第は、「四分律刪補随機羯磨巻上諸戒受法篇」に依るに、先づ三帰を受け、次に八戒の一一に就きて一日一夜能く持つべきことを誓い、後願を発して「我れ今此の八関斎の功徳を以って悪趣八難辺地に堕せず、此の功徳を持して一切衆生の悪を摂取し、所有の功徳を彼の人に恵施して無上正真の道を成ぜしめん。亦た将来弥勒仏の世の三会に生老病死を度することを得しめん」と唱うべしとなせり。沙弥沙弥尼の十戒は、沙弥等は先づ比丘又は比丘尼に従って三帰を受け、仏教に順じて出家し、某甲を和上と為し、如来を世尊と為すべきことを陳べ、次に十戒の一一に就いて形寿を尽くすまで之を持つべきことを誓い、以って其の戒を受得するなり。式叉摩那即ち正学女の六法戒は、十歳曽嫁の女及び十八歳沙弥尼の受くる戒にして、共に二年を期限とす。其の受法は先づ比丘尼の所に於いて、某甲を和上として受戒せんことを乞い、和上は諸尼に対して之を認容すべきや否やを諮り、後一一の戒相を説き、羯磨の法に依りて受者をして能持を誓わしむるなり。次に比丘大戒の受法は、「刪補随機羯磨巻上諸戒受法篇」に依るに、五縁を具して方に成就すとなせり。五縁とは一に能受の人、二に所対、三に発心乞戒、四に心境相応、五に事成究竟なり。初に能受の人とは之に亦た五種の簡別あり、一に受具の人は必ず人なるべく、即ち阿修羅非人畜生を簡ぶ。二に諸根具足して儀容端正なるべく、即ち身相不具及び狂聾唖等を簡ぶ。三に身心清浄にして道器なるべく、即ち先に受戒して重を破り、又は諸の重罪業を造りし者を簡ぶ。四に相具即ち形同にして三衣を著すべく、即ち俗服荘厳を簡び、又裸形を簡ぶ。五に法同にして、即ち既に沙弥戒を受け、少分法を得たるものなるべきを云う。二に所対の境に七あり、一に結界の成ずるを要し、二に秉法の僧あるを要し、三に僧数満足するを要し、四に界内の僧集合するを要し、五に白四羯磨の教法あるを要し、六に衣鉢等の資縁具足するを具し、七に仏法流布の時なるを要するを云うなり。此の中、僧数満足とは中国に於いては三師七証即ち合して十師、辺国に於いては三師二証即ち合して五師の具足すべきことを説けるものなり。三師とは戒和上と、羯磨阿闍梨と教授阿闍梨とを云い、七証とは之を証明する七人の学証師を云うなり。三に発心乞戒とは、僧前に在りて自ら名を称し、和尚の名を称し、具戒を受けんことを乞うを云い、四に心境相応とは、既に界成じて僧具し、法正しく縁合するも、若し心別縁して戒本を念ぜず、或いは境と心と乖かば得戒せざるが故に、心境をして相応せしむるを云い、五に事成究竟とは、始め請師より終り正受戒に至るまで、事事前後違することなきを要するを云うなり。上記の五縁具足せば、次に正しく戒を受くるに又八法あり、一に請師法、二に安受者所在、三に差人問縁、四に出衆問法、五に白召入衆法、六に乞戒法、七に戒師和上問法、八に正問法なり。一に請師法とは十師を招請するの法にして、即ち和尚に対して、某甲、大徳を請して和尚となす、願わくは大徳、我が為に和尚と作り給え。我れ大徳に依るが故に具足戒を受くることを得。慈愍の故にと三唱して請う等なり。二に安受者所在とは、受者が空隠没離見聞の処、又は界外に在らざるを云い、三に差人問縁とは、十三難事等を問うべき教授師を定むるを云い、四に出衆問法とは、屏処に於いて十三難十遮を解説して其の有無を問うを云う。若し衆中に在らば惶怖多きが故に、特に屏処に於いてするなり。五に白召入衆法とは、教授師は既に問遮を終りて僧中に還来し、衆に対して和尚と受者との名を告げ、受者を召入して戒師の前に来たらしむるを云い、六に乞戒法とは、至誠の心を以って求哀乞戒するを云い、七に戒師和上問法とは、戒師が衆僧に対して受者の乞戒を宣し、正問せんとするを告ぐるを云い、八に正問法とは、前の出衆問法の如く受者に対し二十三難十遮を問うを云うなり。次に正しく授戒せんとするに当り、和尚は衆僧に対して受者の乞戒、及び遮難なきを宣し、受戒を認容すべきや否やを問い、衆黙然として之を認容するや、乃ち戒を授け已りて是事如是持と唱うること三度、之を三羯磨と称す。後更に四波羅夷の一一の戒相を説き、之を持つや否やを問い、能持を誓わしむるなり。又四依(糞掃衣、乞食、樹下坐、腐爛薬)の法を授けて一一能持と答えしめ、最後に受者は和尚を以って依止と為すと宣し、以って其の儀を了るなり。比丘尼大戒の受法も亦た之に準ずるなり。又「瑜伽師地論巻53」には六種の因縁ある者は比丘戒を授くべからずとす。即ち一に意楽損害、二に依止損害、三に男形損害、四に白法損害、五に他に繋属し、六に他を護る為なり。就中、意楽損害とは、王の為に逼録せられ、又は強賊の為に侵害せらるるに由り、在家は活命し難く出家は易きを思い、詐りて僧中に投じ、而も同住の僧の知る所となりて駆擯せられんことを恐るるを云い、依止損害とは十遮の中に説く如き疾病あるを云い、男形損害とは扇搋迦と半択迦とを云い、白法損害とは、無慚無愧に由りて所有の白法をして劣薄ならしめたる輩にして、即ち造無間業、比丘尼犯、外道、賊住等を云い、他に繋属すとは王臣、負債者、僕従及び父母の聴許せざる者等を云い、他を護る為とは即ち変化の者にして、例せば龍の化して比丘相を現じたるに授戒せば、彼れ睡眠の時本形に復し、寤めて亦た比丘相となるを以って、之を見る者他の比丘に於いても憎悪の心を起し、恭敬又は布施をせざるに至るべし。故に此等の六種の因縁ある者には戒を授くべからずとなすなり。又此の中、出家五衆の戒は皆全分受なりと雖も、在家の五戒には全受分受の両説あり。即ち「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」、「大毘婆沙論巻124」、「倶舎論巻14」等には、五戒は具足して之を受けざるべからずとなすも、「増一阿含経巻20」には、「若し復た清信士、一戒を奉持せば善処天上に生ず。何に況んや二三四五をや」と云い、又「優婆塞戒経巻3」にも一分少分多分満分の優婆塞あることを記し、又「成実論巻8」には八斎戒も分受することを得となし、「大乗法苑義林章巻3末」に、「以上の一切出家の戒は、既に道器たるを以って必ず具に受け、具に持して方に成ずべし。近事近住は即ち是の如くならず、方便を以って誘うが故なり」と云えり。是れ皆在家の戒の分受を認むるの説なり。蓋し「四分律」等の所謂小乗戒の受法は略ぼ上述の如くなるも、然るに大乗に於いては別に三聚十重等の戒を説くが故に、随って其の受法等は之と同じからざるものなり。且く地持、瑜伽等の諸論の中には三聚浄戒を説く、所謂律儀戒、摂善法戒、饒益有情戒なり。就中、律儀戒は前記小乗戒に同じく、即ち七衆所受の五八十具の戒なり。「瑜伽師地論巻40」に、「律儀戒とは謂わく諸の菩薩所受の別解脱律儀にして、即ち是れ苾芻戒、苾芻尼戒、正学戒、勤策男戒、勤策女戒、近事男戒、近事女戒なり。是の如き七種は在家出家の二分に依止す、応の如く知るべし、是れを菩薩の律儀戒と名づく」と云い、又貞慶の「南都叡山戒勝劣事」に、「第一律儀戒とは、声聞菩薩大乗小乗共受する戒なり。此の律儀戒を以って或いは具足戒と名づけ、或いは比丘戒と名づく。故に方に大小の比丘僧を成ず」と云える是れなり。是の如く律儀戒の相は即ち小乗に同じきが故に、随って其の受法も前記四分律宗に異なる所なく、即ち七衆各別に其の戒を受得するなり。之を別受と称し、之に対して七衆総じて亦た摂善法及び饒益有情戒を受くるを通受と名づく。「菩薩戒通別二受鈔」に、「菩薩の受法に二の軌則あり。一に別受は、声聞法の如く白四法を以って此の戒を受くるなり。摂善と摂生の二戒に通ぜず、但だ律儀を受くるが故に別受と名づく。二に通受は、声聞法に異にして、七衆皆三聚羯磨に依りて此の戒を受くるなり。既に摂善摂生の二戒に通ずるが故に通受と名づく」と云える即ち其の意なり。但し律儀戒の相は是の如く小乗に異ならずと雖も、其の意楽は全く彼と同じからず。故に「菩薩戒通別二受鈔」に、「問う、別受の法に就いて若し声聞と別異なくんば、菩薩寧ろ声聞の心に住するや。答う、此の難非なり。誰か菩薩は心に住すと言わんや。戒法同じと雖も期心全く別なり、所謂声聞は自利の心に住し、無余を証せんことを期するが故に此の戒を受く。菩薩は無上道心を発起し、大覚を期するが故に此の戒を受く。豈に別ならずや」と云えり。以って其の意を知るべし。此の戒は主として南都法相宗等に於いて行われたる所なり。又「梵網経」には別に十重四十八軽戒を説き、之を以って大乗菩薩所受の戒相となせり。其の受法に関し、智顗の「菩薩戒義疏巻上」に受戒の縁を説くに三段あり、一に信心を須う、二に三障なし、三に人法を縁と為すと云えり。就中、信心を須うとは、戒を受けんとする者は善悪因果を信じ、仏果の常楽我淨を信じ、又戒法の功徳並びに自他の人皆仏性を具すと信ずるを云う。二に三障なしとは、受戒の人は煩悩障業障及び報障の三障なきを要するを云う。就中、煩悩障は凡夫常に具するが故に必ずしも之を障とせず。業障とは現身に七逆を作り、又は十重禁戒を犯じたるを云う、蓋し此等の重罪の障不障に就いては多説あるも、其の中、七逆の一を犯じたる者は仮令懺するも障となり、十重は之を懺すれば必ずしも障と成らずとなすを正義とす。即ち「梵網経巻下」に、「若し受戒せんと欲する時は、師問うて言うべし、汝現身に七逆罪を作らざるや否やと。菩薩の法師は七逆の人の為に現身に戒を受けしむることを得ざれ」と説くにより、之を業障となすなり。報障とは果報の障にして、即ち地獄及び餓鬼は重苦に逼悩せらるるを以って概して戒器に非ず。「梵網経巻下」に、「若し仏戒を受けん者は、国王王子、百官宰相、比丘比丘尼、十八梵天、六欲天子、庶民黄門、婬男婬女、奴婢八部、鬼神金剛神、畜生乃至変化人にもあれ、但だ法師の語を解する者は尽く戒を受持し、皆第一清浄者と名づく」と云い、又「一切有心の者は皆仏戒を摂(ウ)くべし」と云い、又「菩薩瓔珞本業経巻下」に、「六道の衆生は戒を受得す。但だ法師の語を解すれば戒を得して失せず」と云える如きは、皆即ち報障の軽き者に就いて説くなり。三に人法を縁となすとは、人は即ち戒師にして、法は即ち受法を記せる諸種の戒儀を云う。初に人を縁となすとは、之に諸仏と聖人と凡師との三類あり、諸仏に亦た真仏と像仏との別あり、就中、真仏とは妙海王及び王子が盧舎那仏に就いて受戒せるが如きを云い、像仏とは自誓受の時、金像木像等の前にて受得するを云う。聖人に亦た十地等の真聖と像聖との別あり、後者は亦た自誓受得の縁たること仏に同じ。凡師は必ず真人に限るものにして、五徳を具するを要す、即ち一に持戒、二に十臘以上、三に律蔵を解し、四に禅思に通じ、五に慧玄を窮むるなり。但し湛然の「授菩薩戒儀」には、菩薩戒は正しく仏菩薩に従って受得す、凡師は唯聖師に代わりて羯磨を秉し、戒を伝うる者に過ぎざれば、之を称して伝教師となすべしとし、「請師の條」に於いて伝教師と衆聖と併せ請ずべきことを記せり。衆聖とは即ち釈尊を和上、文殊菩薩を羯磨阿闍梨、弥勒菩薩を教授阿闍梨、一切如来を尊証師、一切菩薩を同学等侶となすものにして、即ち是れ「観普賢菩薩行法経」の説に基づく所なり。「略述大乗戒儀巻下」に、澆末の世に於いて五徳具足の師を得ること難きが故に、凡師を単に伝教師とし、正しく聖者を以って戒和上と為すと云えるは、即ち此の意を明にせるなり。次に法縁の戒儀に就いては、「菩薩戒義疏」に梵網本、地持本、高昌本、瓔珞本、新撰本、制旨本の六種を挙ぐ。されど普通には専ら湛然の「授菩薩戒儀」を用う。之に十二門あり、第一開導、第二三帰、第三請師、第四懺悔、第五発心、第六問遮、第七授戒、第八証明、第九現相、第十説相、第十一広願、第十二勧持にして、即ち此の十二門の次第に依りて戒を授くるなり。又此の梵網菩薩戒に於いても通受別受あり、即ち七衆に通じて三聚浄戒(十重四十八軽戒を律儀戒とする)を授くるを通受とし、菩薩の五戒を優婆塞優婆夷に、菩薩の十戒を沙弥沙弥尼に、菩薩の六法戒を式叉摩那に、菩薩の具足戒たる十重四十八軽戒を比丘比丘尼に授くるを別受とす。「梵網経巻下」に、「一切の国王王子、大臣百官、比丘比丘尼、信男信女、婬男婬女、十八梵天、六欲天子、無根二根、黄門奴婢、一切の鬼神を簡択することを得ず、尽く戒を受くることを得しむ」と云えるは即ち通受を説けるものというべく、又「一切衆生の八戒五戒十戒を犯じ、禁(十重四十八軽戒を指すとす)を毀り、七逆八難一切犯戒の罪を見ば応に教えて懺悔せしむべし」と云えるは即ち別受の意となすべく、又「占察善悪業報経巻上」にも七衆別受の意あり。此の中、十重四十八軽戒を以って特に菩薩大僧の具足戒となせることは最澄の首唱に係り、南都法相の徒の痛撃措かざる所なり。即ち最澄の「四條式」に、「大乗の大僧戒、十重四十八教誡を制し以って大僧戒と為す」と云い、「顕戒論巻中」に、「梵網経の下巻に言わく、諦に聴け、我れ正に仏法中の戒蔵波羅提木叉を誦せんと。又云わく、仏諸の仏子に告げて言わく、十重の波羅提木叉ありと。(中略)明らかに知る、菩薩の十重戒を名づけて別解脱戒と為すことを。既に別解脱戒と言う、何に由りてか僧と名づけざらん」と云えるは即ち其の説なり。又「同論」に、梵網戒は道俗奴婢に通じ、若し之を受くるを名づけて僧と為さば、奴婢も亦た僧たるべしと言える南都の問難に答えて、「出家在家通じて戒を受くと雖も而も僧不僧別あり、亦た具分同じからず。奴婢出家すれば先に受くるは先に坐し、郎君家に在れば後に受くるも先に坐す。奴と郎と類別なり、一例することを得ず」と云い、以って通受の法と七衆の別との濫ずべからざる旨を辨ぜり。此の戒は主として叡山に行われ、後浄土宗、禅宗、日蓮宗等の間にも伝えられ、自ら其の戒儀を異にするに至れり。就中、浄土宗に於いては専ら湛然の「授菩薩戒儀」に依ると雖も、亦た「古本戒儀」、「新本戒儀」、「略戒儀」、「庭儀戒儀」等の異あり。又別に布薩戒の受法あり。禅宗の受戒に関しては道元の「正法眼蔵受戒章」に其の加行を説き、「その儀はかならず祖師を焼香礼拝し、応受菩薩戒を求請するなり。すでに聴許せられて、沐浴清浄にして新浄の衣を著す。あるいは衣服を浣染して、華を散じ香をたき、礼拝恭敬してその身に著す。あまねく形像を礼拝し、三宝を礼拝し、尊宿を礼拝し、諸障を除去し、身心清浄なることを得べし」と云い、次ぎに正しく羯磨を秉して三帰、三聚浄戒、及び梵網十重禁戒の一一に就き、能く持つべきことを誓わしむべしとなせり。日蓮宗に於いては法華経の題目を唱うるを以って本門無作の戒体となすが故に、其の戒儀等は頗る他に同じからず。其の受法に関しては、「祖書綱要刪略巻7」に依るに、日蓮の図示に係る大曼荼羅中、久遠実成の釈尊を戒和尚、多宝如来を羯磨阿闍梨、上行菩薩日蓮を教授阿闍梨、十方分身の釈尊を一証、自界他方の菩薩乃至閻王冥官等の下九界の凡聖を一伴となし、受者先づ大曼荼羅を頂礼勧請し、次に伝戒師は「授職潅頂口伝鈔」に依りて寿量品等の経釈を読誦し、更に手に法華経を擎げ、「本門戒体鈔」に就きて略して十重禁戒の相を示し、此の経を信じて其の題目を唱うれば世尊は本地証得の所有の功徳を譲与し給う。是れ持戒なるを以って今身已後忘失すべからずと示し、次に右手に経の第六巻を取り、釈尊の因行果徳及び十方三世諸仏の自利利他の功徳は汝の身に来入すべしと告げ、爾前の殺生罪を捨てて本門寿量久遠の不殺生戒を持せんことを誓わしめ、次いで経を頂載せしめ、唱題三遍の後、汝已に妙覚の極位を得たり。是れ本門寿量の当体蓮華の仏にして、所住の処は寂光土なりと告げ、以って即身成仏の心地を決定せしむるなりとせり。又真言宗に於いては別に秘密三昧耶仏戒を説き、如上顕教の諸戒と全く異あり。即ち善無畏三蔵の「禅要」には、其の受法として発心門、供養門、懺悔門、帰依門、発菩提心門、問遮難門、請師門、羯磨門、結界門、修四摂門、十重戒門の十一門を立て、空海の「秘密三昧耶戒儀」亦た之に同じく、元杲の「具支潅頂式」には、後の結界等の三門を羯磨門に摂して、凡べて八門となせり。此の中、請師とは十方一切の諸仏を大尊証とし、阿閦宝生阿弥陀天鼓雷音の四仏を和尚、普賢慈氏妙徳除蓋障の四菩薩を羯磨阿闍梨、普賢金剛観自在を教授阿闍梨とす。正しく授くる所の戒は、三聚浄戒並びに四摂、四波羅夷、十重戒及び仏性三昧耶戒なり。三聚浄戒は瑜伽に同じ。四摂とは布施愛語利行同事にして、即ち三密門に入りて四障を除くを云い、四波羅夷とは正法を捨てて邪行を起すべからざる等の四重を云い、十重戒とは菩提心を退すべからざる等の十戒を指すなり。又仏性三昧耶戒とは、種種の事作法に依りて秘密曼荼羅に入るべき法器を成ぜしむるを云う。之に楊枝打、塗香、花鬘、焼香、灯明、歯木、金剛線、金剛水の八種の作法あり。即ち初に三昧耶戒真言、発菩提心真言、発本覚種種智心真言等を受持し、次に仏性三昧耶戒を受持するの由を啓白し、後仏性三昧耶戒を帰命頂礼して楊枝打等の作法を行ずるなり。就中、歯木とは密語を誦して受者をして少しく楊枝を嚼み、以って一切の煩悩を破するを想念せしむるを云い、金剛線とは之を受くるに依りて無漏の五根を具せしむることを云い、金剛水とは種種の妙香を以って水に和し、受者をして之を飲み、諸の重障を除滅し、内外清浄にして秘密の法器に堪えしむるを云う。諸作法に皆印言結誦等を用うるは、亦た顕教の受法に同じからざる所なり。又天台宗真盛派に於いては梵網戒を授くるに併せて潅頂の儀を行い、之を受戒潅頂と称せり。又「五分律巻15至17」、「四分律巻31至35」、「摩訶僧祇律巻23」、「十誦律巻21」、「有部毘奈耶出家事」、「羯磨」、「弥沙塞羯磨本」、「曇無徳律部雑羯磨」、「十誦羯磨比丘要用」、「毘尼母経巻1」、「善見律毘婆沙巻7」、「沙弥十戒法并威儀」、「沙弥尼戒経」、「沙弥尼離戒文」、「優婆塞五戒経」、「大愛道比丘尼経巻上」、「受十善戒経」、「菩薩内戒経」、「菩薩戒羯磨文」、「受五戒八戒文」、「菩薩瓔珞本業経巻下」、「大乗義章巻10」、「四分律行事鈔巻上3」、「同資持記巻上3之1、2、巻下4之2」、「四分律疏巻7」、「同開宗記巻11」、「重治毘尼事義集要巻11」、「出家授戒作法」、「法苑珠林巻87至89」、「四明尊者教行録巻1」、「東大寺要録巻9」、「東大寺授戒方軌」、「八斎戒作法要解」、「授菩薩戒儀要解」等に出づ。<(望)
  問訊(もんじん):梵にpratisaJmodanaに作り、問い訊ぬるの義にして敬礼法の一種なり。即ち合掌曲躬して安否を問うをいう。『大智度論巻2上注:問訊』参照。
  涯底(がいてい):底のきわみ。
佛問長爪。汝一切法不受。是見受不。佛所質義。汝已飲邪見毒。今出是毒氣。言一切法不受。是見汝受不 仏の長爪に問いたまわく、『汝が一切の法を受けずとは、是の見を受くるや不(いな)や。』と。仏の質(ただ)したもう所の義は、『汝は、已に邪見の毒を飲めり。今、是の毒気を出さん。』となり、言わく、『一切の法を受けずとは、是の見を汝は受くるや不や。』と。
『仏』は、
『長爪』に、こう問われた、――
お前の、
一切の、
『法』を、
『受けない!』という、
是の、
『見(見解)』も、
『受けないのか?』、と。
『仏』の、
『質問された!』、
『義(意味)』は、こうである、――
お前は、
已に、
『邪見の毒』を、
『飲んでいる!』。
今、
是の、
『毒気』を、
『出してやろう!』。
そこで、こう言われた、――
一切の、
『法』を、
『受けない!』という、
是の、
『見』を、
お前は、
『受けるのか?』、
『受けないのか?』、と。
爾時長爪梵志如好馬見鞭影即覺便著正道。長爪梵志亦如是。得佛語鞭影入心。即棄捐貢高慚愧低頭。如是思惟。佛置我著二處負門中。若我說是見我受。是負處門麤。故多人知。云何自言一切法不受。今受是見。此是現前妄語。是麤負處門多人所知。第二負處門細。我欲受之。以不多人知故。作是念已。答佛言。瞿曇。一切法不受。是見亦不受 爾の時、長爪梵志は、好馬の鞭影を見て、即ち覚り、便(すなわ)ち正道に著(つ)くが如し。長爪梵志も亦た是の如く、仏語の鞭影の心に入るを得て、即ち貢高を棄捐し、慚愧して頭を低(た)れ、是の如く思惟すらく、『仏は、我れを置きて、二処の負門中に著(つ)く。若し我れ、是の見を我れ受くと説かば、是の負処の門は、麁なるが故に、多人知らん。云何が自ら、一切の法を受けずと言える。今、是の見を受くれば、此れは是れ現前の妄語なり。是の麁なる負処の門は、多人の知る所なり。第二の負処の門は細なり。我れ之を受けんと欲す。多人の知らざるを以っての故に。』と。是の念を作し已りて、仏に答えて言わく、『瞿曇、一切の法を受けず。是の見も亦た受けず。』と。
爾の時、
『長爪梵志』は、
譬えば、
『好馬』が、
『鞭の影』を、
『見て!』、
即座に、
『覚り!』、
間もなく、
『正道』に、
『著く(就く)ように!』。
『長爪梵志』も、
是のように、
『仏の語』という、
『鞭の影』が、
『心』に、
『入ってしまう!』と、
即座に、
『貢高(慢心)』を、
『棄捐して(捨てて)!』、
『慚愧し(恥じ入り)!』、
『低頭して(頭をたれて)!』、
是のように思惟した、――
『仏』は、
わたしを、
『二処の負門』中に、
『著けた(就けた)!』。
若し、
わたしが、こう説けば、――
是の、
『見』を、
『わたしは、受ける!』、と。
是の、
『負処の門』は、
『麁(粗大)である!』が故に、
『多く!』の、
『人』が、
『知ってしまうだろう!』。
何故、
自ら、こう言ったのだろう?――
一切の、
『法』を、
『受けない!』。
今、
是の、
『見』を、
『受ければ!』、
此れは、
『現前の(明白な)!』、
『妄語(虚言)であり!』、
是の、
『麁』の、
『負処の門』は、
『多く!』の、
『人』に、
『知られている!』が、
『第二』の、
『負処の門』は、
『細(微細)であり!』、
『多く!』の、
『人』に、
『知られていない!』。
故に、
わたしは、
之を、
『受けよう(認めよう)!』と、
『思う!』、と。
是のように考えると、
『仏』に答えて、こう言った、――
瞿曇!
一切の、
『法』を、
『受けない!』し、
是の、
『見』も、
『受けない!』、と。
  好馬(こうめ):よきうま。
  鞭影(べんよう):むちのかげ。
  仏語(ぶつご):ほとけのことば。
  棄捐(きえん):すてさる。捨てて除く。
  貢高(くこう):梵語 stambha の訳、又慢と訳す、慢心/うぬぼれること/傲慢( inflation, pretentiousness, arrogance )の義。
  慚愧(ざんき):はじいる。自ら恥じるを慚とし、他人に向って発露するを愧とする。
  低頭(たいず):あたまをたれる。
  負処(ふしょ):敗戦の場の意。
  (そ):粗大。
  現前(げんぜん):目前に於いて顕現する意。
  (さい):細微。
  多人(たにん):おおくのひと。
佛語梵志。汝不受一切法。是見亦不受。則無所受。與眾人無異。何用自高而生憍慢如是 仏の梵志に語りたまわく、『汝が、一切の法を受けず、是の見も亦た受けずとは、則ち受くる所無くして、衆人と異なる無し。何を用ってか、自高し、憍慢を生ずること、是の如き。』と。
『仏』は、
『梵志』に、こう語られた、――
お前が、
一切の、
『法』を、
『受けず!』、
是の、
『見』も、
『受けないとすれば!』、
お前には、
則ち、
『受ける!』所が、
『無いことになり!』、
衆の、
『人』と、
『異ならない!』。
何故、
自ら、
『高ぶり!』、
是のような、
『憍慢(己惚れ)』を、
『生じるのか?』、と。
  衆人(しゅにん):多くの人。ひとびと。
  何用(なにをもって):何以に同じ。なぜ。
  自高(じこう):みずからを高しとする。
  憍慢(きょうまん):梵語 adhimaana の訳、過剰な自己評価/自負心/高慢/傲慢( high opinion of one's self, self-conceit, pride, haughtiness )の義。己惚れ。
長爪梵志不能得答。自知墮負處。即於佛一切智中起恭敬生信心。自思惟。我墮負處。世尊不彰我負。不言是非。不以為意。佛心柔濡。第一清淨。一切語論處滅。得大甚深法。是可恭敬處。心淨第一。 長爪梵志、答え得る能わずして、自ら負処に堕ちたるを知り、即ち仏の一切智中に恭敬を起し、信心を生じて、自ら思惟すらく、『我れは負処に堕つるも、世尊は我が負けを彰(あらわ)さず、是非を言わず、以って意と為したまわず。仏心は柔濡にして、第一に清浄なり。一切の語論の処滅して、大いなる甚だ深き法を得たまえば、是の恭敬すべき処、心の浄なること第一なり。』と。
『長爪梵志』は、
何う、
『答えるのか?』、
『分らなくなって!』、
自ら、
『負処』に、
『堕ちた!』ことを、
『知り!』、
即座に、
『仏』の、
『一切智』中に、
『恭敬』を、
『起し!』、
『心』中に、
『信』を、
『生じて!』、
自ら、こう思惟した、――
わたしは、
『負処』に、
『堕ちた!』が、
『世尊』は、
わたしの、
『負(まけ)』を、
『彰(あきら)かにせず!』、
『是だ!』とも、
『非だ!』とも、
『言わず!』、
『気にもしない!』。
『仏』は、
『心』が、
『柔軟であり!』、
『第一に清浄である!』。
一切の、
『言語』や、
『論義』の、
『処(対象)』が、
『滅しており!』、
『甚だ深く!』、
『大きな法』を、
『得た!』、
『仏の心』は、
『恭敬すべき処であり!』、
『第一に清浄である!』、と。
  恭敬(くぎょう):之を敬うさま。
  信心(しんじん):疑念を生ぜずして之を信ずる心。
  不彰(あらわさず):表明しない。
  是非(ぜひ):よいとわるいと。
  柔濡(にゅうにゅ):やわらかでうるおう。
  以為(いい):推定/思考/確信/思惟する( presume, think, believe, consider )。
佛說法斷其邪見故。即於坐處得遠塵離垢。諸法中得法眼淨。時舍利弗聞是語得阿羅漢。是長爪梵志出家作沙門。得大力阿羅漢 仏は、法を説きて、其の邪見を断ちたまえるが故に、即ち坐処に於いて、塵垢を遠離し、諸法の中に、法眼浄を得たり。時に舎利弗は、是の語を聞いて、阿羅漢を得たり。是の長爪梵志は出家して、沙門と作り、大力の阿羅漢を得たり。
『仏』が、
『法』を、
『説いて!』、
其の、
『邪見』を、
『断たれた!』が故に、
『長爪梵志』は、
即座に、
『坐処』に於いて、
『六境』という、
『塵』を、
『遠ざけ!』、
『煩悩』という、
『垢』を、
『離れることができ!』、
諸の、
『法(正法、邪法)』中に、
『法の眼』を、
『浄めることができた!』。
その時、
『舎利弗』は、
是の、
『語(仏の所説)』を、
『聞いて!』、
『阿羅漢』と、
『作ることができ!』、
是の、
『長爪梵志』は、
『出家して!』、
『沙門(弟子)』と、
『作り!』、
『大力』の、
『阿羅漢』と、
『作ることができた!』。
  遠離(おんり):とおざけはなす。
  塵垢(じんく):ちりとあか。煩悩の異名。煩悩の塵垢とも言う。
  法眼浄(ほうげんじょう):梵語dharmacakSu-vizuddhaの訳。法眼清浄なるの意。又浄法眼、或いは清浄法眼とも称す。即ち四聖諦の法に於いて疑惑する所なく正しく其の理を知見するを云う。『大智度論巻22上注:法眼浄』参照。
  沙門(しゃもん):梵名zramaNa、息止、息心、息悪等と訳す。即ち出家を指す。『大智度論巻22上注:沙門』参照。
  沙門(しゃもん):息心、浄志等と訳す。出家の仏弟子。修行に勤めて煩悩を息(やす)める義であり、外道仏徒を論ぜず、出家であれば皆沙門と称するのが原義であるが、特に仏弟子を指すことが多い。
若長爪梵志。不聞般若波羅蜜氣分離四句第一義相應法。小信尚不得。何況得出家道果 若し長爪梵志、般若波羅蜜の気分の四句を離れたる第一義相応の法を聞かずんば、小信すら尚お得ず。何に況んや、出家の道果を得るをや。
若し、
『長爪梵志』が、
『般若波羅蜜の気分である!』、
『四句』を、
『離れて!』、
『第一義』に、
『相応する!』、
『法』を、
『聞かなければ!』、
『小信』すら、
尚お、
『得られなかっただろう!』。
況して、
『出家の道果』を、
『得られるはずがない!』。
  四句(しく):有無等に関する四種の分別。即ち有、無、亦有亦無、非有非無。『大智度論巻1上注:四句分別』参照。
  第一義(だいいちぎ):梵語paramaarthaの訳。即ち最上の意味、或いは最上の意義、価値、利益、目的等の意にして、涅槃、或いは諸法実相を指すの語なり。即ち「大品般若経巻5問乗品」に、「何等をか第一義空と為す、第一義とは涅槃なり。何を以っての故に性自爾なればなり。是れを第一義空と名づく」と云い、「大智度論巻31」に、「第一義空とは第一義は諸法実相に名づく、破せず壊せざるが故なり。是の諸法実相も亦た空なり。何を以っての故に受なく著なきが故なり。若し諸法実相有ならば応に受くべく応に著すべし。実なきを以っての故に受けず著せず。若し受著あらば即ち是れ虚誑なり。」と云う。以って其の意義を知るべし。
  相応(そうおう):相かなうこと。互いによりそうこと。
  小信(しょうしん):ちいさな信心。
  道果(どうか):道を行くことの果報。
佛欲導引如是等大論議師利根人故。說是般若波羅蜜經 仏は、是れ等の大論議師の如き利根の人を導引せんと欲するが故に、是の般若波羅蜜経を説きたまえり。
『仏』は、
是れ等の、
『大論議師のような!』、
『利根の人』の為に、
是の、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
  導引(どういん):先導( guide )。引導。



諸法の実相

復次諸佛有二種說法。一者觀人心隨可度者。二者觀諸法相。今佛欲說諸法實相故。說是摩訶般若波羅蜜經。如說相不相品中。諸天子問佛。是般若波羅蜜甚深。云何作相。佛告諸天子。空則是相無相無作相無生滅相無行之相常不生如性相寂滅相等 復た次ぎに、諸仏には二種の説法有り、一には人心を観て、度すべき者に随う。二には諸法の相を観る。今、仏は、諸法の実相を説かんと欲するが故に、是の摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。相不相品中に説きたもうが如し。諸の天子の仏に問わく、『是の般若波羅蜜は甚だ深し、云何が相を作す。』と。仏の諸の天子に告げたまわく、『空は則ち是れ相なり。無相、無作の相、無生滅の相、無行の相、常不生、如性の相、寂滅の相等なり。』と。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』には、
『二種』の、
『説法』が、
『有り!』、
一には、
『人の心』を、
『観て!』、
『済度される!』者に、
『随って!』、
『説き!』、
二には、
諸の、
『法の相』を、
『観て!』、
『説かれる!』。
今、
『仏』は、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『説こうとされた!』が故に、
是の、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
例えば、
『相不相品』中には、こう説かれている、――
諸の、
『天子』は、
『仏』に、こう問うた、――
是の、
『般若波羅蜜』は、
『甚だ深い!』が、
何のように、
『相』を、
『作すのですか?』、と。
『仏』は、
『諸の天子』に、こう告げられた、――
『空』とは、
是れが、
『般若波羅蜜』の、
『相である!』。
『相』も、
『作相』も、
『生滅相』も、
『行相』も、
『無く!』、
『不生』の、
『如性の相であり!』、
『寂滅の相である!』等、
是れが、
『般若波羅蜜』の、
『相である!』。
  (くう):一切の因縁所生の法には、性として定まりたる法なきを云う。『大智度論巻1上注:空』参照。
  無相(むそう):◯梵語 alakSaNa, animitta, nirnimitta の訳、相が無い( devoid of marks )、属性/特性/可見可聞等の属性/形質/特色が無い( Without attributes, lacking characteristics, absence of perceptual attributes, lacking form or shape, featureless )の義。◯梵語 abhaava- lakSaNa の訳、不存在の相( the mark of non-existence )の義。
  無相(むそう):梵語animittaの訳。形相なきの意。有相に対す。「大品般若経巻22遍学品」に、「是の一切法は皆合せず散ぜず、色なく形なく対なく、一相にして所謂無相なり」と云い、「大宝積経巻5」に、「一切諸法の本性は皆空なり、一切諸法の自性は無性なり。若し空無性ならば彼れ則ち一相にして所謂無相なり。無相なるを以っての故に彼れ清浄を得、若し空無性ならば彼れ即ち相を以って表示すべからず」と云えり。是れ一切諸法は自性なく、本性空なるが故に即ち無相なることを説けるものなり。又「大般涅槃経巻30師子吼菩薩品」に、涅槃には色相声相香相味相触相生住壊相男相女相の十相なし。故に涅槃を無相と名づくと云い、「大智度論巻61」には、無相に仮名相、法相、無相相の三種あることを説き、乃至無相相にも著すべからずと云い、又「百論巻上捨罪福品」に、「無相とは一切の相を憶念せず、一切の受を離れ、過去未来現在の法に心所著なきに名づく。一切法は自性なきが故に則ち所依なし。是れを無相と名づく」と云える是れなり。又「大品般若経巻10、21」、「大智度論巻18、59、83」、「十二門論」、「大乗義章巻2」、「法華経玄義巻10上」等に出づ。<(望)
  有相(うそう):梵語saakaaraの訳。形相あるものの意。無相に対す。「大乗起信論」に、「真如の自相は、有相に非ず無相に非ず」と云い、「大日経巻7真言事業品」に、「甚深無相の法は劣慧の堪えざる所なり、彼等に応ぜんが為の故に、兼ねて有相を存して説く」と云えり。是れ差別有形の事象を指して有相と名づけたるなり。
  無作(むさ):梵語akarmaka?、或いはakRtrima?の訳。造作、行為無きの意。一切の諸法は自性無く、本性空なるが故に、作法なきを云う。
  無行(むぎょう):行なきの意。行は梵語saMskaaraの訳。五蘊の一。十二因縁の一。凡そ思の義なり。『大智度論巻11下注:行』参照。
  常不生(じょうふしょう):常に生ぜずの意。常住にして生滅なき法を云う。
  如性(にょしょう):即ち真如なり。真如は梵語tathaataa、或はbhuuta-tathataaの訳語にして、真実にして如常なるの意なり。また如如、如実、或は単に如とも名づく。即ち諸法の真実如常の性をいう。『大智度論巻6下注:真如』参照。
  寂滅(じゃくめつ):梵語vyupazamaの訳。巴梨語vuupasama、略して単に滅とも名づく。即ち生死を度脱せる寂静無為の境地を云う。「雑阿含経巻22」に、「一切の行は無常なり、是れ則ち生滅の法なり。生ずれば既に復た滅し、倶に寂滅を楽となす」と云い、「増一阿含経巻23」に、「一切の行は無常なり、生ずれば必ず死あり。生ぜざれば必ず死せず。此の滅を最も楽となす」と云える是れなり。是れ生死の誼動不安なるに対し、不生不死の寂静安隠なるを寂滅と称したるなり。又「法華経巻1方便品」に、「我れ涅槃を説くと雖も、是れ亦た真の滅に非ず。諸法は本より来(コノカタ)、常に自ら寂滅の相なり」と云い、「大智度論巻94」に、「阿耨多羅三藐三菩提も亦た自性空にして仏の所作に非ず、大菩薩の所作に非ず、阿羅漢辟支仏の所作にも非ず。常に寂滅の相にして戯論語言なし」と云えり。是れ諸法本来寂滅の相なるを示し、生死を離れて別に涅槃の求むべきものあるに非ざることを説けるものなり。又「入楞伽経巻9」に、「是の如き癡声聞は、諸相の為に漂蕩せらる。彼れに究竟処なく、亦復た還生せず、寂滅三昧samaadhi-kaayaを得て無量劫に覚めず。是れ声聞の定にして、我が諸菩薩に非ず」と云い、「大乗荘厳経論巻4」に、「問う、云何が小乗の寂滅に趣くことを遮する。答う、大を退して小滅に趣くを遮するなり」と云えるは、特に小乗の涅槃を呼んで寂滅と名づけたるなり。又「僧伝」等に僧尼の死を寂と称するは寂滅の略にして、即ち涅槃に入れることを意味するなり。又「大般涅槃経巻10」、「瑜伽師地論巻50」、「中辺分別論巻上」、「大乗荘厳経論巻3」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻9」、「華厳経捜玄記巻4末」、「同探玄記巻2」、「大乗法苑義林章巻1末」、「華厳経疏巻40」等に出づ。<(望)
  参考:『大品般若経巻14問相品』:『佛告欲界色界諸天子。諸天子。空相是深般若波羅蜜相。無相無作無起無生無滅無垢無淨。無所有法無相。無所依止虛空相。是深般若波羅蜜相。諸天子。如是等相是深般若波羅蜜相。』
  無相(むそう):行いの対象は特定できない。誰が、何を、誰に、を意図しない。
  無作(むさ):善悪の行いは特定できない。自らの損得を意図しない。
  無生滅(むしょうめつ):生滅は特定できない。生滅を意図しない。
  無行(むぎょう):修行は特定できない。所得を意図しない。
  寂滅(じゃくめつ):分別を滅して寂静の世界に住す。
復次有二種說法。一者諍處。二者不諍處。諍處如餘經中說。今欲明無諍處故。說是般若波羅蜜經。有相無相有物無物有依無依有對無對有上無上世界非世界亦如是 復た次ぎに、二種の説法有り、一には諍処、二には不諍処なり。諍処とは、余の経中に説けるが如し。今は、無諍の処を明さんと欲するが故に、是の般若波羅蜜経を説きたまえり。有相、無相、有物、無物、有依、無依、有対、無対、有上、無上、世界、非世界も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『二種』の、
『説法』が有り、
一には、
『諍処(諍いの起きる場)』、
二には、
『不諍処(諍いの起きない場)である!』。
『諍処』は、
例えば、
『他の経』中に、
『説く通りである!』が、
今は、
『無諍処(空法)』を、
『説き明かそう!』と、
『思われた!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
  諍処(じょうしょ):論議の対象。
  不諍処(ふじょうしょ):論議することのできない対象。
  有物(うもつ):物が有る。
  無物(むもつ):物が無い。
  有依(うえ):所依が有って自立しない。
  無依(むえ):所依が無くて自立する。
  (え):梵語saMnizrayaの訳。物の依止、又は依憑となるものを云う。「倶舎論巻13」に、「唯欲界繋の初刹那の後の所有る無表は過の大より生ず。此を所依として無表起ることを得。現身の大種は但だ能く依となる。転随転の因となること、其の次第に随って輪の地を行くに手と地とを依となすが如し」と云い、「成唯識論巻4」に、「依とは謂わく、一切の生滅を有する法が、因に仗り縁に託して而も生じ住することを得るなり。諸の仗託する所を皆説いて依となす。王と臣と互いに相依る等の如し」と云える是れなり。是れ蓋し物の親依となるものを所依と名づくるに対し、疎依を依と称したるなり。五因の中には立てて依因とす。「倶舎論巻6」に、「生じ已りて大種に随逐して転ずるが故に、師等に依るが如きを依因となす」と云える是れなり。又「阿毘達磨順正理論巻20」、「倶舎論光記巻6、13」、「同宝疏巻13」、「成唯識論述記巻4末」等に出づ。<(望)
  有対(うたい):梵語sa-pratighaの訳。無対に対す。対は礙の義にして、即ち五根五境及び心心所等の法が他の為に障礙せられて生ぜず、若しくは所取所縁の境の為に拘礙せられて、他に転ずる能わざるを云う。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  無対(むたい):梵語apratighaの訳。対礙なきの意。有対に対す。即ち無障礙の法を云う。『大智度論巻20下注:無対』参照。
  有上(うじょう):最極に非ざるを云う。
  無上(むじょう):最極最上なるを云う。
  世界(せかい):梵語 loka-dhaatuの訳。巴利語同じ。毀壊せらるべき処の意。即ち即ち衆生住居の所依処たる山川国土乃至三千大千世界等を云う。『大智度論巻23上注:世界』参照。
  非世界(ひせかい):世界に非ざるものの意。蓋し涅槃の如し。
  有相(うそう)、無相(むそう):可視可見の法を有相といい、衆相を超えた絶対の真理を無相という。
  有依(うえ)、無依(むえ):有依は依り所があり自立しないこと、依り所が無く自立するものを無依という。
  有対(うたい)、無対(むたい):有対とは対象により、心が拘束されること。対とは碍(さまたげ)の意。碍はまた二つに分類でき、一は障碍で五根(眼耳鼻舌身)、五境(色声香味触)が相互に障碍をなすこと、物質としてある空間を所有して他を邪魔することをいう。 二は拘碍で六根(眼耳鼻舌身意)、六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)と心所(心の働き)により心が拘束されて自由にならないこと。 故に有対とは上の性質をもつもの、無対はもたないもののことをいう。無対とは対象により、心が拘束されないこと。有対に対する語で、物あるいは心が礙げられず自由であることをいう。
  世界(せかい)、非世界(ひせかい):地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五道に流転することを世界、衆生世間といい、不生不滅にして無為なることを非世界という。
問曰。佛大慈悲心但應說無諍法。何以說諍法 問うて曰く、仏の大慈悲心は、但だ応に無諍の法のみを説くべし。何を以ってか、諍の法を説きたもう。
問い、
『仏』の、
『大慈悲の心』は、
但だ、
『無諍の法』を、
『説かれるはずである!』。
何故、
『諍の法』を、
『説かれるのですか?』。
答曰。無諍法。皆是無相常寂滅不可說。今說布施等及無常苦空等諸法。皆為寂滅無戲論故說。 答えて曰く、無諍の法は、皆是れ無相にして、常に寂滅なれば、説くべからず。今、布施等、及び無常、苦、空等の諸法を説くは、皆、寂滅、無戯論と為すが故に説く。
答え、
『無諍()の法』では、
皆、
『無相であり!』、
常に、
『寂滅(沈黙)である!』が故に、
『相』を、
『説くことができない!』が、
今、
『布施』等や、     ――布施、四諦等の空を説くも、否定するものではない――
『無常、苦、空』等の、
諸の、
『法』を、
『説く!』のは、
皆、
『寂滅であり!』、
『無戯論である!』が故に、
皆、
『寂滅、無戯論である!』等と、
『説くのである!』。
  無戯論(むけろん):梵語 aprapaJca の訳、概念的拡散が無い( without conceptual proliferations )/形而上学的憶測が無い( without metaphysical speculation )/戯論が無いの義、梵語prapaJcaは戯論と訳す、冗長な、或いは滑稽な対話( ludicrous dialogue )の義。甲乙是非を論じて、互いに相譲らざれば、即ち此の論議は無益、有害なるのみ、即ち是れが戯論である。故に仏は、一切法の義に於いて空を立てて戯論を廃された、即ち是れが無戯論である。
  戯論(けろん):概念の推敲( conceptual elaboration )、梵語 prapaJca, abhilaapya, aakhyaayaka 等の訳、拡張/展開/表明( expansion, development, manifestation )、多数/多様性( manifoldness, diversity )、拡大/くどくどしさ/拡散/おびただしさ( amplification, prolixity, diffuseness, copiousness )、出現/現象( appearance, phenomenon )、宇宙の拡大/可視的世界( the expansion of the universe, the visible world )、共通して誤解された価値( mutual false plaise )、馬鹿げた対話( ludicrous dialogue )、より明瞭な形態に於ける曖昧な習慣の繰り返し( the repetition of an obscure rule in a clearer form )、偽り/トリック/詐欺/エラー( deceit, trick, fraud, error )、反対/逆行( opposition, reversion )の義、[無駄な]論義/観念の増殖/哲学的思索/知的浅薄さ/知的遊戯( (Idle) discourse; ideational proliferation; metaphysical speculation; intellectual frivolity; intellectual play. )の意。龍樹によれば、言葉とは、現実を覆い隠すものであり、主観的欺瞞以外の何ものでもなく、有情を無智と苦悩へ導くものである[対意語:dezanaa ( 指示direction, 指導instruction )](According to Nāgârjuna 龍樹, words that conceal and cover reality, which are nothing but subjective counterfeits, and lead sentient beings further into ignorance and affliction (ant.→ deśanā). )が、中観派と唯識派の聖典を含む、種々の哲学的流派による、非常に多くの、法華経等のよく知られた大乗聖典が、この重要な概念に関しては、各各に彼等自身の定義、及び分類を提案している( Many of the better-known Mahāyāna canonical texts from various philosophical streams—including Madhyamaka and Yogâcāra texts, the Lotus Sutra and others, offer their own definitions and categorizations of this important concept )。
利根者知佛意不起諍。鈍根者不知佛意。取相著心故起諍。此般若波羅蜜。諸法畢竟空故無諍處。若畢竟空可得可諍者。不名畢竟空。是故般若波羅蜜經名無諍處。有無二事皆寂滅故 利根の者は、仏の意を知りて、諍を起さず。鈍根の者は、仏の意を知らずして、相を取らんとする著心の故に、諍を起す。此の般若波羅蜜の諸法は、畢竟じて空なるが故に、無諍の処なり。若し畢竟じて空なるに、得べくして諍うべくんば、畢竟じて空なりと名づけず。是の故に般若波羅蜜経を、無諍の処と名づく。有、無の二事は、皆寂滅するが故なり。
『利根の者』は、
『仏』の、
『意(意志)』を、
『知る!』ので、
『諍』を、
『起さない!』が、
『鈍根の者』は、
『仏』の、
『意』を、
『知らず!』、
『相』を、
『取って!』、
『心』に、
『著(付着)する!』が故に、
『諍』を、
『起すのである!』。
此の、
『般若波羅蜜』中に、
諸の、
『法』は、
『畢竟じて!』、
『空である!』が故に、
是の、
『法』は、
『無諍』の、
『処である!』。
若し、
『法』が、
『畢竟じて!』、
『空である!』のに、
是の、
『法』を、
『認めることができ!』、
『諍うことができれば!』、
是れを、
『畢竟空』とは、
『呼ばない!』。
是の故に、
『般若波羅蜜経』を、
『無諍の処』と、
『称する!』のは、
『有無の二事』が、
皆、
『寂滅するからである!』。
  畢竟(ひっきょう):要するに、つまり、結局。究竟。
復次餘經中多以三種門說諸法。所謂善門不善門無記門。今欲說非善門非不善門非無記門諸法相故。說摩訶般若波羅蜜經。學法無學法非學非無學法。見諦斷法思惟斷法無斷法。可見有對不可見有對不可見無對。上中下法小大無量法。如是等三法門亦如是 復た次ぎに、余の経中には、多く三種の門を以って、諸法を説く。謂わゆる善門、不善門、無記門なり。今、非善門、非不善門、非無記門の諸法の相を説かんと欲するが故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。学法、無学法、非学非無学法、見諦断法、思惟断法、無断法、可見有対、不可見有対、不可見無対、上、中、下法、小、大、無量法、是の如き等の三法の門も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『他の経』中には、
多く、
『三種の門』を、
『用いて!』、
諸の、
『法』を、
『説く!』。
謂わゆる、
『善の門』、
『不善の門』、
『無記(無決定)の門である!』。
今、
『非善の門』、
『非不善の門』、
『非無記の門』という、
諸の、
『法の相』を、
『説こうとする!』が故に、
則ち、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
『学法、無学法、非学非無学法』や、
『見諦断の法、思惟断の法、無断の法』、
『可見有対、不可見有対、不可見無対の法』、
『上、中、下の法』、
『小、大、無量の法』、
是れ等のような、
『三法の門』も、
『是の通りである!』。
  (ぜん):梵語kuzalaの訳。巴梨語kusala、不善無記と共に三性の一。即ち其の性安隠にして此世及び他世を順益すべき白浄の法を云う。「大毘婆沙論巻51」に、「若し法、巧便の所持にして能く愛果を招き、性安隠なるが故に善と名づく」と云い、「倶舎論巻15」に、「安隠の業を説きて名づけて善となす」と云い、「成唯識論巻5」に、「能く此世他世の順益をなすが故に名づけて善となす」と云える是れなり。是れ善は其の性安穏なるのみならず、亦た能く可愛の果を招き、此世他世を順益すべきものなることを示せるなり。蓋し善には勝義、自性等の別あり。「大毘婆沙論巻51」には、善に勝義善、自性善、相応善及び等起善の四種ありとなせり。其の中、勝義善とは又真実善と名づく。勝義諦門に於いて善と称せらるるものにして、即ち涅槃の法を云うなり。「菩薩瓔珞本業経巻下大衆受学品」に、「第一義諦に順じて起るを善と名づく」と云えるは即ち此の意を説けるものなり。自性善とは余縁を藉らず、其の体性自ら善なるものにして、即ち慚愧及び三善根を云う。相応善とは又相属善、或いは相雑善とも名づく。即ち意業の善にして、前の三善根等と相応する心心所法を云い、等起善とは又発起善と名づく。即ち意業によりて発起せられたる善にして、身口二業及び不相応行の善を云うなり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻3」には、広く自性善、相属善、随逐善、発起善、第一義善、生得善、方便善、現前供養善、饒益善、引摂善、対治善、寂静善、等流善の十三種を分別せり。就中、自性善とは信、慙及び愧、三善根乃至不害等の十一種の善の心所法を云い、相属善とは自性善と相応する他の心所法を云い、随逐善とは善法の習気を云い、発起善とは所発の身語二業の善を云い、第一義善とは真如を云い、生得善とは思惟加行に由らざる任運起の善を云い、方便善とは正法を聞き如理作意して生ずる善を云い、現前供養善とは如来に対して諸の供養業を興すを云い、饒益善とは四摂法を以って有情を饒益するを云い、引摂善とは施戒等の福業を以って生天の異熟を引摂し、或いは涅槃の因を顕得するを云い、対治善とは厭壊対治、断対治等の諸の対治を云い、寂静善とは一切の煩悩を断尽せる涅槃界を云い、等流善とは寂静の増上力に由りて発起せられたる神通等の功徳法を云うなり。又善に有漏善、無漏善等の別あり。「梁訳摂大乗論釈巻13」に、「有流善を白と為し、無流善を浄と為す」と云えり。是れ有漏善を白法、無漏善を浄法と名づけたるなり。又此の中、有漏善は世間の善、無漏善は出世の善と称せらる。其の他、悪行を止息するを止善、勝徳を行修するを行善と云い、又観仏等を定善、称名等を散善と称し、尚お善に関する種別少なからず。又「品類足論巻6」、「大毘婆沙論巻144」、「大智度論巻37」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「雑阿毘曇心論巻3」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻13、15」、「順正理論巻36、40」、「随相論」、「十八空論」、「成唯識論巻10」、「大乗義章巻7」、「法界次第初門巻上之上」、「倶舎論光記巻13、15」、「成唯識論述記巻10末」等に出づ。<(望)
  不善(ふぜん):梵語akuzalaの訳。巴梨語akusala、善ならざるの意。善無記と共に三性の一。悪に同じ。即ち其の性不安隠にして、能く此世及び他世の違損をなす黒悪の法を云う。「大毘婆沙論巻51」に、「若し法、巧便の所持に非ずして能く不愛の果を招き、性不安隠なるが故に不善と名づく。此れ総じて苦集諦の少分を顕わす。即ち諸の悪法なり」と云い、「同巻94」に、「不善とは謂わく一切の煩悩なり、善法を障うるが故に説きて不善と為す。是れ善に違するの義なり」と云い、又「成唯識論巻5」に、「能く此世他世の違損と為るが故に不善と名づく」と云える是れなり。是れ其の性不安隠にして能く不可愛の果を招き、此世他世の違順となる諸の悪法を不善と名づけたるなり。此の中、性不安隠とは滅諦に非ざるを顕わし、巧便の所持に非ずとは道諦に非ざるを顕わし、能く不愛の果を招くとは即ち苦集諦の少分(愛果を招くを除く)たることを顕わすの意なり。又「大毘婆沙論巻51」の連文に不善に四事の別あることを明かし、「四事に由るが故に不善と名づく。一に自性の故に、二に相応の故に、三に等起の故に、四に勝義の故なり。自性の故にとは謂わく自性不善なり。有説は是れ無慚無愧なり。有説は是れ三不善根なりと。相応の故にとは謂わく相応不善なり。即ち彼の相応の心心所法なり。等起の故にとは謂わく等起不善なり。即ち彼の所起の身語二業の不相応行なり。勝義の故にとは謂わく勝義不善なり。即ち是れ生死は不安隠なるが故に不善と名づく」と云い、又「倶舎論巻13」に、「勝義不善とは謂わく生死の法なり。生死の中の諸法は皆苦を以って自性と為し、極めて不安隠なること尚お痼疾の如くなるに由る。自性不善とは謂わく無慚愧と三不善根となり。有漏の中、唯無慚愧及び貪瞋等の三不善根は、相応及び余の等起を待たずして、体是れ不善なること猶お毒薬の如くなるに由る。相応不善とは謂わく彼の相応なり。心心所法は要ず無慚愧と不善根とに相応するに由りて方に不善の性を成ず。異なれば則ち然らず。毒を雑うる水の如し。等起不善とは謂わく身語業と不相応行なり。是れ自性相応不善の所等起なるを以っての故なり。毒薬の汁の引生する所の乳の如し」と云えり。是れ無慚無愧及び三不善根は其の体自ら不善にして、猶お毒薬の如くなるが故に之を自性不善と名づけ、之と相応する心心所法は相応に由りて不善となるが故に、之を相応不善と名づけ、此の自性及び相応不善に由りて引起せられたる身語業及び不相応行法を等起不善と名づけ、又総じて生死の中の諸法は皆苦を以って自性とし、彼の滅諦涅槃の安穏なるに反し、極めて不安穏なるが故に之を勝義不善と名づけたるなり。之に依るに説一切有部に於いては、第一義には総じて生死有為の諸法を以って不善とし、別して有漏法の中には無慚無愧及び三不善根を立てて不善の体とし、諸の心心所は之と相応して不善の身語業を引起し、以って不可愛の果を招くとなせるものなるを知るべし。又「大毘婆沙論巻51」に分別論者は癡を自性不善、識を相応不善、身語業を等起不善、生死を勝義不善となし、脇尊者は非理作意を自性不善、之と相応するを相応不善、非理作意より等起し、非理作意の等流果なるを等起不善となすと云い、又「大乗阿毘達磨蔵集論巻4」には、広く不善に自性、相属、随逐、発起、第一義、生得、方便、現前供養、損害、引摂、所治、障礙の十二種の別を立て、染汚意相応及び色無色界の煩悩等を除き、所余の能く悪行を発する煩悩随煩悩を自性不善とし、此の煩悩随煩悩の相応法を相属不善、彼の習気を随逐不善、彼の所起の身語業を発起不善、一切の流転を第一義不善、不善を串習するに由りて是の如き異熟を感得し、不善に於いて任運に楽住するを生得不善、不善の丈夫に親近して不正法を聴き、不如理作意して身語意の悪行を行ずるを方便不善、随一天衆に帰依し、牛羊等を害して以って天神を祭るを現前供養不善、一切の処に於いて身語意の種種の邪行を起すを損害不善、諸の悪行を行じ已りて、悪趣善趣に於いて不愛果の異熟を引摂するを引摂不善、諸の対治の所対治の法を所治不善、能く諸の善品の法を障礙するを障礙不善となせり。又「品類足論巻2」、「雑阿毘曇心論巻3」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻2、15」、「成実論巻9過患品」、「順正理論巻36」等に出づ。<(望)
  無記(むき):梵語avyaakRtaの訳。善不善と共に三性の一。其の性の善又は不善を記別すべからざる法を云う。「倶舎論巻2」に、「此の所縁の十有対の中に於いて、色及び声を除きて余の八は無記なり。謂わく五色根と香味触の境とは記して善不善の性と為すべからず、故に無記と名づく」と云い、「順正理論巻4」に、「無記と言うは、記説して善不善と為すべからざるが故なり。応に讃毀すべき法にして、記説して黒白品の中に在るべきを名づけて有記と為す。若し二品に於いて皆容れざる所にして、体分明ならざるを無記と名づく」と云い、又「成唯識論巻5」に、「善不善の義の中に於いて記別すべからざるが故に無記と名づく」と云える是れなり。是れ記別して其の性の善又は不善となすべからざる法を無記と名づけたるなり。但し無記の解釈に関しては異説あり。「大毘婆沙論巻51」に、「復た次ぎに仏は善法には可愛の果ありと記し、不善法には非愛の果ありと記す。若し法にして彼の二果の記すべきものなきを説いて無記となす。復た次ぎに二事に由るが故に善法は記すべし、一に自性に由り、二に異熟に由る。不善法も亦た爾り。無記には自性の記すべきものありと雖も、而も異熟なきが故に無記と名づく」と云い、又「雑阿毘曇心論巻1」に、「楽報の記すべきに非ず、亦た苦報の記すべきに非ざるを無記と曰う」と云えり。是れ善不善は当来の異熟果を招くが故に、愛非愛の果の記すべきものあるも、善不善に非ざる法は異熟を招かざるが故に、当来の果の記すべきものなく、即ち此の法を無記と名づくとなすの説なり。然るに「倶舎論巻2」の連文に此の説を不可とし、「有説は異熟果を記する能わざるが故に無記と名づくと。若し爾らば無漏は唯無記なるべし」と破せり。但し「同巻13」に、「諸の有漏法にして若し異熟果を記する能わざる者は無記の名を立つ」と云うに依るに、単に有漏法に就かば感果に約して無記を解するも不可なきを知るべし。凡そ無記には有覆と無覆との別あり、有覆無記は其の性染汚にして聖道を覆障し、或いは心を蔽うて不浄ならしむるものを云い、無覆無記は其の性染汚ならず、聖道を覆障することなきものを云う。就中、無覆無記に異熟、威儀、工巧、通果の四種あり。或いは之に自性及び勝義の二種を加えて六種とし、有覆と合して総じて七無記ありとなすなり。又「大毘婆沙論巻97、144」、「倶舎論巻7」、「同光記巻2、13、15」、「成唯識論巻3、5、10」、「同述記巻5末」、「大乗義章巻7」、「大処法演義林章巻5本」等に出づ。<(望)
  学法(がくほう):無漏有為の有学の五蘊の意。蓋し有学人の五蘊の如し。『大智度論巻1上注:三学』参照。
  無学法(むがくほう):無漏有為の無学の五蘊の意。蓋し無学人の五蘊の如し。『大智度論巻1上注:三学』参照。
  非学非無学法(ひがくひむがくほう):有漏の五蘊及び無為。蓋し凡夫人の五蘊の如し。『大智度論巻1上注:三学』参照。
  三学(さんがく):三種の学の意。(一)梵語tisraH zikSaaHの訳。巴梨語tisso sikkhaa、聖果を得る為に修習すべき学要に三種あるを云う。具に戒定慧三学と称す。一に増戒学adhiziila(巴梨語adhisiila)、二に増心学adhicitta(巴同じ)、三に増慧学adhiprajJaa(巴adhipaJJaa)なり。「四分律巻58」に、「復た三学あり、増戒学、増心学、増慧学なり。此の三学を学して須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢果を得。是の故に当に勤精進して此の三学を学すべし」と云い、「倶舎論巻24」に、「学要に三あり、一に増上戒、二に増上心、三に増上慧なり。戒定慧を以って三の自体と為す」と云える是れなり。此の中、増戒学とは又増上戒学、或いは戒学とも名づく。能く身口意所作の悪業を防止するを云い、増心学とは又増上心学、増上意学、増意学、或いは定学とも名づく。能く散を摂し神を澄まして見性悟道するを云い、増慧学とは又増上慧学、或いは慧学とも名づく。能く煩悩を断除して本性を顕発するを云う。「大乗義章巻10」に、「防禁を戒と名づけ、澄静を定と曰い、定は神内に静なるが故に復た意と名づけ、亦た名づけて心と為し、観達を慧と称す。此の三の中に於いて進習するを学と称し、学進むを増と名づく」と云えり。以って三学の名義を知るべし。之を法門に配釈するに大小乗異説あり、「摩訶僧祇律巻2」には、「増上戒学とは謂わゆる波羅提木叉の広略の説なり、増上意学とは謂わゆる九次第正受なり。増上慧学とは謂わゆる四真諦なり」とあり。「雑阿含経巻29」、「集異門足論巻5」等略ぼ之に同じ。是れ即ち五八十具等の広略の諸戒を学するを戒学とし、初禅次第定等の九次第定を学するを心学とし、苦集滅道の四諦を学するを慧学となせるものなり。然るに「菩薩地持経巻10」には之を六度に配して、施戒忍進の四波羅蜜を戒学、禅波羅蜜を意学、般若波羅蜜を慧学とし、「大乗義章巻10」には、三聚浄戒を戒学、有覚有観、無覚有観、無覚無観を定学、聞思修の三慧を慧学と為せり。又此の三学は経律論三蔵に依りて詮示せらる。故に「大毘婆沙論巻1」に、若し増上心論道に依らば是れ素怛䌫なり、若し増上戒論道に依らば是れ毘奈耶なり、若し増上慧論道に依らば是れ阿毘達磨なり。但し素怛䌫中に増上戒増上慧論道あり、毘奈耶中に亦た増上心増上慧論道あり、阿毘達磨中に亦た増上心増上戒論道あるも、今は増勝に依りて其の説を作すと云い、又「大乗荘厳経論巻4」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻11」等には、三学を開示せんが為に素怛䌫蔵を建立し、戒定二学を開示せんが為に毘奈耶蔵を建立し、慧学を開示せんが為に阿毘達磨蔵を建立すと云えり。蓋し三学は実に仏道の至要にして、一切の法門は悉く此に摂尽せざることなし。故に道安の「比丘大戒序(出三蔵記集巻11所収)」に、「世尊は教法を立つるに三あり、一には戒律なり、二には禅定なり、三には智慧なり。斯の三は至道の由戸、泥洹の関要なり。戒は三悪を断ずるの干将なり、禅は分散を絶つの利器なり、慧は薬病を済うの妙医なり。此の三を具する者、道を取るに於いて何かあらん」と云えり。又「長阿含巻8衆集経」、「般泥洹経巻上」、「大般涅槃経巻17、29」、「仏蔵経巻下」、「本事経巻6」、「十誦律巻21」、「善見律毘婆沙巻7」、「大毘婆沙論巻1」、「顕揚聖教論巻6」、「梁訳摂大乗論釈巻1」、「出三蔵記集巻11」、「大乗起信論義記巻上」、「翻訳名義集巻10」等に出づ。(二)学習の満未満等に約して三種の人を分別するを云う。一に有学zaikza(巴梨語sekha)、二に無学azaikza(巴asekha)、三に非学非無学naivazaikza-naazaikzaなり。「中阿含巻30福田経」に、「世の中に凡そ二種の福田の人あり。云何が二と為す、一には学人、二には無学人なり。学人に十八あり、無学人に九あり」と云い、又「大智度論巻18」に、「是の智慧に三種あり、学と無学と非学非無学となり。非学非無学智とは、乾慧地の不浄、安那般那、欲界繋の四念処、煖法、頂法、忍法、世間第一法等の如し。学智とは苦法智忍の慧、乃至向阿羅漢第九無礙道中の金剛三昧慧なり。無学智とは阿羅漢第九解脱智なり。是れより已後は一切無学智なり、尽智無生智等の如し」と云える是れなり。此の中、四向四果を有学とし、阿羅漢果を無学とし、異生を非学非無学とす。有学に随信行、随法行等の十八人あり、十八有学と称す。無学に思法等の九人あり、九無学と称するなり。又「倶舎論巻24」に、「義准するに、已に前来辨ずる所の四向三果を皆有学と名づくることを成ず。何に縁りてか前の七は有学の名を得る、漏尽を得んが為に常に楽学するが故なり。学要に三あり、一に増上戒、二に増上心、三に増上慧なり。戒定慧を以って三の自体と為す。若し爾らば異生も応に有学と名づくべし。爾らず、未だ如実に諦理を見知せざるが故に、彼れ後時に正学を失すべきが故なり。(中略)学法は云何、謂わく有学の者の無漏有為法なり。無学法は云何、謂わく無学の者の無漏有為法なり。云何ぞ涅槃を名づけて学と為さざる、無学と異生と亦た成就するが故なり。此れ復た何に縁りてか無学と名づけざる、有学と異生と亦た成就するが故なり」と云えり。之に依るに無漏有為の有学の五蘊を有学法と名づけ、無漏有為の無学の五蘊を無学法と名づけ、有漏の五蘊及び無為を非学非無学法と名づくることを知るべく、又異生凡夫は戒定慧を学すと雖も未だ諦理を見ず、後時に正学を失することあるべきが故に有学と称せざるを見るべし。又「雑阿含経巻28」、「大智度論巻22」、「倶舎論巻4」、「同光記巻4」、「大乗義章巻17本」、「大乗法苑義林章巻5本」等に出づ。<(望)
  見諦断法(けんたいだんのほう):見諦断は梵語darzana-heyaの訳。三断の一。即ち見道位に於いて四諦の理を見て断ずべき煩悩の意。『大智度論巻20下注:三断』参照。
  思惟断法(しゆいだんのほう):思惟断はbhaavanaa-heyaの訳。三断の一。即ち修道位に於いて思惟修習して断ずべき煩悩の意。『大智度論巻20下注:三断』参照。
  無断法(むだんのほう):無断はa-heyaの訳。三断の一。即ち其の体無漏にして、断ぜらるべきものに非ざるの意。『大智度論巻20下注:三断』参照。
  可見有対(かけんうたい):有対の法中、見らるべきものを云う。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  不可見有対(ふかけんうたい):有対の法中、見るべからざるを云う。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  不可見無対(ふかけんむたい):見るべからざる無対の法の意。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  (ぜん)、不善(ふぜん)、無記(むき):善、悪、善悪未決を指す。
  学法(がくほう)、無学法(むがくほう)、非学非無学法(ひがくひむがくほう):真理を研究して妄惑を断ったが未だ煩悩の尽きない者の智慧を学法、真理を究め妄惑を断ち煩悩を尽くして学ぶべきものの無い者の智慧が無学法、それ以外の智慧を非学非無学法という。『大智度論巻18(上)』参照。
  見諦断法(けんたいだんほう)、思惟断法(しゆいだんほう)、無断法(むだんほう):初めて真理を見て煩悩を断つ位を見諦断といい、真理を知り尽くして煩悩を断ち尽くそうと努力する位を思惟断といい、断つべき煩悩の無い位を無断という。『大智度論巻20(下)』参照。
  可見有対(かけんうたい)、不可見有対(ふかけんうたい)、無対(むたい):身心を障礙し拘束して人の自由を奪うものの中で眼に見えるものを可見有対といい、眼に見えないものを不可見有対といい、身心を拘束しないものを無対という。
復次餘經中說四念處隨聲聞法門。於是比丘觀內身三十六物。除欲貪病。如是觀外身觀內外身。今於四念處欲以異門說般若波羅蜜。如所說菩薩觀內身。於身不生覺觀不得身。以無所得故。如是觀外身觀內外身。於身不生覺觀不得身。以無所得故。於身念處中。觀身而不生身覺觀是事甚難。三念處亦如是。四正勤四如意足四禪四諦等。種種四法門亦如是 復た次ぎに、余の経中は、四念処を説くも、声聞の法門に随う。是(ここ)に於いて比丘は、内身の三十六物を観て、欲貪の病を除き、是の如く外身を観、内外身を観る。今、四念処に於いて、異門を以って、般若波羅蜜を説かんと欲したまえり。説く所の如きは、菩薩は内身を観て、身に於いて覚観を生ぜずして身を得ず。所得無きを以っての故なり。是の如く外身を観、内外身を観るに、身に於いて覚観を生ぜずして身を得ず、所得無きを以っての故なり。身念処中に於いて、身を観るに、身の覚観を生ぜざること、是の事は甚だ難く、三念処も亦た是の如し。四正勤、四如意足、四禅、四諦等の種種の四法の門も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『他の経』中に、
『説かれた!』、
『四念処』は、
『声聞』に、
『随う!』、
『法門であり!』、
是の、
『四念処』に於いて、
『比丘』は、
『内身の三十六物』を、
『観て!』、
『欲、貪の病』を、
『除き!』、
是のように、
『外身』を、
『観たり!』、
『内外身』を、
『観たりして!』、
種種の、
『病』を、
『除くのである!』が、
今は、
『四念処』に於いて、
『異なる門』を、
『用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『説こうとするのである!』。
例えば、こう説かれている、――
『菩薩』は、
『内身』を、
『観察する!』が、
『身』に於いて、
『覚、観』を、
『生じず!』、
是れが、
『身である!』と、
『認められない!』。
何故ならば、
『身』は、
『無所得だからである!』。
是のように、
『外身』や、
『内外身』を、
『観察する!』が、
皆、
『身』に於いて、
『覚、観』を、
『生じず!』、
是れが、
『身である!』と、
『認められない!』。
何故ならば、
『身』は、
『無所得だからである!』。
『身念処』中に於いて、
『身』を、
『観察しながら!』、
而も、
『覚、観』を、
『生じない!』という、
是の、
『事』は、
『甚だ難しい!』が。
他の、
『三念処』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
『四正勤』、
『四如意足』、
『四禅』、
『四諦』等の、
種種の、
『四法の門』も、
『是の通りである!』。
  四念処(しねんじょ):梵語catvaari smRty-upasthaanaaniの訳。四種の念処の意。即ち身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なりと念ずる観法の名。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  内身(ないしん)、外身(げしん)、内外身(ないげしん):内身とは自己の身体、外身とは他身、内外身とは内なる外身、即ち自己の心中に映ずる他身。『大智度論巻19(下)』参照。
  三十六物不浄(さんじゅうろくもつのふじょう):身の不浄に三十六種の別ありの意。即ち髪、毛、爪、歯、眵(めやに)、涙、涎、唾、屎(くそ)、溺(いばり)、垢、汗、皮、膚(はだ)、血、肉、筋、脈、骨、髄、肪(あぶら)、膏(あぶら)、脳、膜、肝、胆、腸、胃、脾、腎、心、肺、生蔵、熟蔵、赤痰、白痰なり。
  欲貪(よくとん):梵語kaama-raagaの訳。巴梨語同じ。又欲貪随眠とも名づく。有貪に対す。即ち欲界の貪煩悩を云う。「品類足論巻3」に、「欲貪とは云何、謂わく諸欲に於いて貪等貪を起して執蔵防護し、耽著愛楽す。是れを欲貪と名づく」と云い、「入阿毘達磨論巻上」に、「謂わく諸欲を貪するが故に欲貪と名づけ、此の貪即ち随眠なるが故に欲貪随眠と名づく。此れ唯欲界の五部を五と為す、謂わく見苦所断乃至修所断なり」と云える是れなり。是れ上二界の貪煩悩を有貪と名づくるに対し、諸欲を貪する欲界五部所断の貪煩悩を欲貪と名づけたるなり。又「大毘婆沙論巻83」に貪欲の能対治を説き、「契経に説くが如き、不浄観を修して能く欲貪を断じ、捨無量を修して亦た欲貪を断ずと。此の二何の別ありや。答う、不浄観を修して婬欲貪を対治し、捨無量を修して境界貪を対治す。復た次ぎに不浄観を修して顕色貪を対治し、捨無量を修して形色貪を対治す。復た次ぎに不浄観を修して細触貪を対治し、捨無量を修して容儀貪を対治す。復た次ぎに不浄観を修して形貌貪を対治し、捨無量を修して有情貪を対治す。是れを差別と謂う」と云えり。是れ欲貪に婬欲貪、境界貪等の別ありとし、就中、婬欲貪等は不浄観を以って対治し、境界貪等は捨無量を以って対治することを明にせるなり。又「倶舎論巻19、29」、「同光記巻19、29」、「順正理論巻45」等に出づ。<(望)
  覚観(かくかん):覚と観との総称。覚は梵語vitarkaの訳。事理に対する粗略の思考を云う。観は梵語vicaaraの訳。即ち細なる心の思考にして、諸法の名義等を思惟する精神作用なり。『大智度論巻17下注:覚、観』参照。
  無所得(むしょとく):梵語apraaptivaの訳。所得(取得praaptiva)なきの意。略して無得とも名づく。有所得に対す。即ち畢竟空相にして一物も所得すべきものなきを云う。
  身念処(しんねんじょ):梵語kaaya-smRty-upasthaanaの訳。身は不浄なりと念ずる観法の名。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  四正勤(ししょうごん):梵語catvaari prahaaNaaniの訳。四種の正断の意。三十七菩提分法の一科。即ち悪を遮断し善を生長せしめんが為に方便精勤するを云う。『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  四如意足(しにょいそく):即ち欲求(欲)、心念(心)、精進(勤)、観照(観)四法の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する三摩地(定)にして、三十七道品中、四念処、四正勤に次ぐ第三行法なり。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  四禅(しぜん):梵語catvaari dhyaanaaniの訳語。禅は梵語褝那(dhyaana)の略、静慮と訳す。故にまた四静慮とも名づく。即ち色界の静慮に四種の別あるを云う。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  四諦(したい):梵語catvaary aarya-satyaaniの訳。諦とは審実不虚の義にして、即ち苦、集、滅、道に関する四種の真実にして改まらざる理義を云う。『大智度論巻18下注:四聖諦』参照。
  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『佛告須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四念處。何等四。須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀亦無身覺。以不可得故。外身中內外身中循身觀亦無身覺。以不可得故。懃精進一心除世間貪憂。內受內心內法。外受外心外法。內外受內外心內外法。循法觀亦無法覺。以不可得故。懃精進一心除世間貪憂。』
  参考:『大乗阿毘達磨雑集論巻10』:『內身者。謂於此身中所有內色處。由自身中眼耳鼻舌身根內處所攝故。墮有情數故名內。外身者。謂外所有外色處。由外色聲香味觸等外處所攝故。非有情數故名外。內外身者。謂內處相應所有外處根所依止。由己身中眼等五處相應根所依住所有色等外處墮有情數故。外處所攝故名內外。又於他身中所有內色處。約處建立約身建立說名內外。』
  四念処(しねんじょ):自ら身、受、心、法を観察して常楽我淨の四顛倒を破ること。(1)身念処:この身は不淨であると観察して、世間は淨であるとの見解を正す。(2)受念処:我々の五感に感ずるところのものは、全て苦であると観察して、この世が楽であるとの見解を正す。(3)心念処:心は常ならざることを観察して、この世は常なりという見解をただす。(4)法念処:法は無我なることを観察して、この世に我ありという見解を正す。
  四禅(しぜん):色界、即ち欲望がなく色身のみの世界。その禅定に四階位がある。初禅から第四禅の各階位に、既にその段階に達した根本定と、そこに達する準備段階的な近分定とがある。 また初禅の近分定を、特に未至定或は未到地といい、初禅の根本定と二禅の近分定との中間を、特に中間地という。(1)初禅:覚(粗雑な感覚)、観(思惟観察)、喜、楽のみがあり、定中に煩悩が起きない。(2)二禅:喜、楽のみあって、心が浄まり信根が生じる。(3)三禅:楽のみがあって、捨(しゃ、自他の区別を失う)、正念、正慧、定を得る。(4)四禅:感覚を受けず不楽不苦、捨、念清浄、定を得る。
  四諦(したい)、正しい見解の義。(1)苦諦(くたい):この世に生存するということは苦るしみである(三界六趣の苦報)。これを詳にいえば謂わゆる四苦八苦であり、即ち生苦、老苦、病苦、死苦、及び怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、五陰盛苦である。この中の五陰盛苦とは見るもの聞くものすべてが苦となりうることをいう。(2)集諦(じったい):原因は貪り、怒りのような煩悩と、善悪に拘わらず行いにより生じる。苦を集めるものは愛である、愛には六処あり、眼処、耳鼻舌身意処である。この中に愛があれば心を汚染して煩悩となる。(3)滅諦(めったい):原因を断てば、苦しみはなくなる(無我を得れば苦しみはない)。もし愛の六処を解脱すれば心は汚染されず煩悩を生じない。(4)道諦(どうたい):原因を断つためには、八正道に依る。八正道とは即ち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定をいう。
復次餘經中佛說五眾無常苦空無我相。今於是五眾欲說異法門故。說般若波羅蜜經。如佛告須菩提。菩薩若觀色是常行不行般若波羅蜜。受想行識是常行。不行般若波羅蜜。色無常行不行般若波羅蜜。受想行識無常行不行般若波羅蜜。 復た次ぎに、余の経中に、仏は五衆の無常、苦、空、無我の相を説きたまえるも、今、是の五衆に於いて、異法の門を説かんと欲するが故に、般若波羅蜜経を説きたまえり。仏の須菩提に告げたまえるが如し、『菩薩、若し色を観て、是れ常なりと行ずれば、般若波羅蜜を行ぜず。受、想、行、色は是れ常なりと行ずれば、般若波羅蜜を行ぜず。色は無常なりと行ずれば、般若波羅蜜を行ぜず。受、想、行、識は無常なりと行ずれば、般若波羅蜜を行ぜず』と。
復た次ぎに、
『他の経』中に、
『仏』は、こう説かれている、――
『五衆(色受想行識)』は、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
『空であり!』、
『無我である!』、と。
今、
是の、
『五衆』に於いて、
『異なる!』、
『法門』を、
『説こうとされた!』が故に、
則ち、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
例えば、
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩』が、
若し、
『色』を、
『観察して!』、
是れは、
『常である!』と、
『思惟すれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行っていない!』。
若し、
『受想行識』を、
『観察して!』、
是れは、
『常である!』と、
『思惟すれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行っていない!』。
若し、
『色』を、
『観察して!』、
是れは、
『無常である!』と、
『思惟すれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行っていない!』。
若し、
『受想行識』を、
『観察して!』、
是れは、
『無常である!』と、
『思惟すれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行っていないのである!』、と。
  (ぎょう):修行、実行する/練習する( to practice )、○梵語 carya, pratipad prayoga 等の訳、引受ける、指導する、行う、遂行する(To undertake; conduct, do, carry out )、日常的に行う/成し遂げる( to practice; accomplishing, practicing )等の義、通路、宗教上の行為、行為、又は悟りの最終段階に人を近づかせる為めの行動/運動( a path. Religious acts, deeds, or exercises aimed at taking one closer to the final goal of enlightenment )等の意。○梵語 saMskaara, saMskRta の訳、寄せ集める( putting together )、上手に形づくる( forming well )、 完璧にする( making perfect )、完成( accomplishment )、装飾( embellishment, adornment )、浄化( purification, cleansing )、準備(making ready, preparation )、[食事の]仕上げ( dressing (of food) )、[金属の]精錬( refining (of metals) )、[宝石の]研磨( polishing (of gems) )、 [動物、又は植物の]育成( rearing (of animals or plants) )等の義、転じて丁寧に造り上げられた[物]の意、更に転じて条件付きの事物/原因を通して生成された法、即ち謂わゆる有為法(Conditioned things; dharmas produced through causation, i.e., so- called conditioned phenomena )を指す、即ち心中に投じられた事物の影の意、飽くまでも影であって事物、それ自体ではない。○又心の形成( forming the mind )、訓練/教育( training, education )の義、思(梵語 cintaa :thought )、又は心行(梵語 caitasika, citta- pracaara:mental functions, the operation of the mind, mental fuctors )に同等の意、即ち心の動きを指す、故に行と名づけ、十二因縁の一、五陰の一と為す。
  参考:『大品般若経巻3相行品第十』:『爾時須菩提白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩無方便欲行般若波羅蜜。若行色為行相。若行受想行識為行相。若色是常行為行相。若受想行識是常行為行相。若色是無常行為行相。若受想行識是無常行為行相。』
五受眾五道。如是等種種五法門亦如是。餘六七八等。乃至無量法門亦如是 五受衆、五道、是の如き等の種種の五法の門も亦た是の如し。余の六、七、八等の、乃至無量の法門も亦た是の如し。
『五受衆(凡夫の色受想行識)』や、
『五道(地獄、餓鬼、畜生、人、天)』等、
是れ等のような、
種種の、
『五法門』も、
『是の通りであり!』、
他の、
『六、七、八』等、
乃至、
『無量の法門』も、
『是の通りである!』。
  五受衆(ごじゅしゅ):梵語paJca upaadaana-skandhaaHの訳。取より生じ、或いは取を生ずる五種の蘊の意。即ち煩悩より生じ、或いは煩悩を生ずる有漏の五蘊を云う。即ち凡夫の五衆なり。
  五道(ごどう):梵語paJca gatayaHの訳。五種の所趣の意。即ち地獄、餓鬼、畜生、人、天の五種の趣くべき道を云う。『大智度論巻16上注:五趣』参照。
如摩訶般若波羅蜜無量無邊。說般若波羅蜜因緣亦無量無邊。是事廣故。今略說摩訶般若波羅蜜因緣起法竟 摩訶般若波羅蜜の無量、無辺なるが如く、般若波羅蜜を説く因縁も、亦た無量、無辺なり。是の事の広きが故に、今、略して摩訶般若波羅蜜の因縁起の法を説き竟(おわ)れり。
『摩訶般若波羅蜜』が、
『無量、無辺であるように!』、
『般若波羅蜜』の、
『因縁』も、
『無量、無辺である!』が、
是の、
『事』は、
『広い!』が故に、
今、
『摩訶般若波羅蜜』の、
『縁起の法( the chain of causation:原因と結末 )』を、
『略説した!』。
  因縁起(いんねんぎ):梵語 pratiitya-samutpaada の訳、因縁より生起する( arising from causes and conditions )の義。縁起( the chain of causation )。


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