≪第I部 解題≫
≪第1章 解題≫
   「大智度論」とは、龍樹菩薩の造、後秦鳩摩羅什の訳に係る「摩訶般若波羅蜜経(通称大品般若経)」の釈論を指し、また「智度論」、「大論」等に略称され、或はただ単に「論」とも称され、その百巻に及ぶ大著であることと、その重要性に鑑み、釈経論中随一の称を以って他に君臨するのみならず、それによって大乗の何たるかを明す者として、その有用性は測知すべからずと言って憚らざる所である。その梵本は羅什の訳業を以って廃棄せられたるが如くして、今それを伺い知るべからざる所であるが、「望月仏教大辞典(以後望月と略し、徒労を省き誤謬を僅少ならしめんが為に屡々引用する)」に依れば、その梵名をmahaa- prajJaapaaramita- upadeza、即ち摩訶般若波羅蜜優婆提舎の如く想定せられているので、且らくそれに拠るに、摩訶は即ち大、般若は智、波羅蜜は度、優婆提舎は論、則ち大智度論と知るのであるが、この摩訶般若波羅蜜は、即ちその内容により「摩訶般若波羅蜜経」を指すものであることは論を待たないのであり、優婆提舎もまたその内容によって知れるが如く、経の註釈を云うのである。また、優婆提舎は十二部経の一であり、論議、法義、説義、法説、広普、論義経、或は註解章句経等と訳し、随い(upa)て示す(diz)ものの義、即ち仏の経説に就き、仏または高弟等が一一文句を論議分別してその義を明らかならしめ、その相を辨ずる経典の一形式を指すものであるが故に、大智度論とは、摩訶般若波羅蜜経に就き、一一の文句を論議分別して、その義を明らかならしめ、その相を辨ずる経典と知るのである。

≪第2章 作者≫
   作者の龍樹(梵名 naagaarjuna 那伽閼刺樹那)に就いては、「龍樹菩薩伝(鳩摩羅什訳)」に詳しいが、今復た前引望月に依るに、「また那伽夷離淳那、那伽曷樹那、或は那伽阿順那に作り、龍樹の外に龍猛、或は龍勝と訳す。「龍樹菩薩伝」に依れば、南印度の人、婆羅門種なり。生まれて天聴奇悟、乳哺の中に在りて諸梵志の四吠陀を誦するを聞き、其の文を諷し義を領す。弱冠にして天文地理を初め、諸の道術悉く綜習せざるなし。時に契友三人と共に青薬を以って身を隠し、王宮に入りて美人を侵陵す。事露れて三人は斬られたるも、師は纔かに身を以って冤れ、仍りて欲は苦の本たるを悟り、山に入り一仏塔に詣でて出家受戒し、九十日にして三蔵を誦し、更に異経を求むるも得る所なし。遂に雪山に入り、塔中の一老比丘より大乗経を受け、其の実義を知るも未だ通利せず。既にして外道論師の義宗を摧き、自ら邪慢の心を起こし、仏経尚お未だ尽くさざるものありとなし、新戒を起て新衣を著け、独り静処の水精房中に住す。時に大龍菩薩あり、見て之を愍み、師を接して海に入り、宮殿中に於いて七宝蔵を開き、方等深奥の経典、無量の妙宝を授く。師受けて之を読むこと九十日にして通解し、尋いで南印度に還り、大いに仏法を弘め、外道を摧伏し、広く摩訶衍を明して優婆提舎十万偈を作り、また荘厳仏道論、大慈方便論各五千偈、中論五百偈、無畏論十万偈を造り、大乗経をして大いに印度に行わしむ。時に一婆羅門あり、国王に請い、政聴殿に於いて師と呪術を諍い、遂に屈伏せられて其の徳に帰す。また当時南印度王は邪道を信用し、沙門釈子は一も見ることを得ず。師乃ち王を度せんと欲し、其の募に応じて王家の宿衛となり、王と論議して遂に法化に伏せしめたりと云う。但し「提婆菩薩伝」には亦た之を提婆の所為となせり。また西蔵所伝の記述は之と頗る異同あり、ターラナータの「西蔵文七高僧書」に依るに、師は南方ヴァーイダッルプハ vaidarbha(西蔵文八十四成道者伝には東印度カーンチー kaJciiの一部なるカホーラ kahora)の婆羅門の家に生まれ、七歳那爛陀に至り、羅睺羅raahulaより「無量寿陀羅尼 aparimitaayur- dhaaraNii」を受け、出家して大小乗及び諸の学術を習い、「大孔雀女 mahaa- mayuurii」、「拘留拘囉 kurkullaa」、「九夜叉」、「大黒 mahaa- kaala」等の諸種の悉地を成就し、数珠、眼薬、刀、迅足、不老薬及び神通等を修得し、尋いで十二歳ヂャンブハラ jambhalaの夜叉より建築の材料を得、「拘留拘囉陀羅尼」に依りて徳叉迦龍王の女及び其の眷属を迎え、之を使役して一百八の僧院、一千の寺院、一万の支提を建立し、後又龍の国に至りて「十万頌般若 zatasaahasrikaa- prajJaa- paaramitaa」、陀羅尼及び因明の書を得、還りて諸論を作り、シャンカラ zaGkara等を破斥し、セーンドハパ sendhapa比丘を論破し、また南方ヂャターサングハータ jaTaasaGghaataに於いて五百の外道を摧伏し、揵稚巌 ghaNTaa- zaila、ドヒンコータ dhiGkoTa等の諸山を黄金に変じ、後二百年の間、諸夜叉女と共に吉祥山 zrii-parvataに住し、曼特羅を修習し、三十二相を得たりと云えり。これ頗る密教化せられたる紀伝にして、多く後世の伝説に係るものなるべし。師の入寂に関しては、「龍樹菩薩伝」に一小乗法師あり、常に忿嫉を懐き、師の世に住する久しきを願わざるを知り、師乃ち退きて閑室に入り、日を経るも出でず、弟子戸を破りて之を看るに遂に蝉蛻して去れりと云い、「大唐西域記巻10憍薩羅国の條」には、師は娑多婆訶王の帰敬を受け、薬術を閑いて寿数百に及ぶも志貌衰えず、王も亦た師より妙薬を得て寿数百に至り、王の稚子其の位を嗣ぐの期なきを憂い、母の言に従いて伽藍に至り、師の頭を乞いしを以って、師は乾茅葉を取りて自ら頸を刎り、王亦た之を聞きて哀愁して命終せりと云い、「西蔵伝」にも亦た同一伝説を掲げ、王の末子スシャックティ suzaktiの請に依り、師は自ら迦奢草を以って頸を切るに、時に声あり、これより安楽国 sukhaavatiiに至り、後再び此の身に還帰せんと告げ、首は五体の観世音石像となり、体は夜叉之を寺院に奉安せりと云えり。(中略)其の出世年代に関しては、僧叡の「大智度論序」に、「馬鳴は正法の余に起こり、龍樹は像法の末に生まる」と云い、廬山慧遠の「大智論抄序(出三蔵記集巻10所收)」に、「九百の運に接す」と云えり。これ師を像法の末、仏滅九百年頃の出となすの説なり。また「百論疏巻上之上序釈」に僧叡の「成実論序」を引き、「仏滅後三百五十年に馬鳴出世し、五百三十年に龍樹出世す」と云えり。これ師の出世を仏滅五百三十年となすが如くなるも、「三論遊意義」并びに慧影の「大智度論疏巻1(起信論義記教理抄巻5所引)所載の成実論序」に、「後五百三十年」又は「その後の五百三十年」と記するに依れば、五百三十年は馬鳴以後の年数を挙げたるものにして、即ち師の出世を仏滅八百八十年に置くの意と解せざるべからず。後周道安の「二教論」に、羅什法師の年紀は仏滅を周㐮王十五年甲申(西紀前六三七年)に置くと云えば、仏滅八百八十年は即ち西暦第三世紀の中葉に当り、前の「九百の運に接す」の語に符号するのみに非ず、亦た龍樹菩薩伝(羅什訳)に「今に至りて始めて百歳を過ぐ」と記するに合致すというべし。その著作は、漢訳大蔵経に「大智度論100巻」、「十住毘婆沙論17巻」、「十二門論1巻」、「中論(本頌のみ)4巻」(以上姚秦鳩摩羅什訳)、「壹輸盧迦論(後魏瞿曇般若留支訳)」、「大乗破有論」、「六十頌如理論」、「大乗二十頌論」(以上宋施護訳)、「十八空論(陳真諦訳)」、「迴諍論(後魏毘目智仙瞿曇留支共訳)」、「方便心論(同吉迦夜訳)」、「因縁心論頌、同釈各1巻」(以上失訳)、「菩提資糧論6巻(隨達摩笈多訳、本論龍樹造、釈は他師)」、「菩提心離相論1巻(宋施護訳)」、「菩提行経4巻(宋天息災訳)」、「釈摩訶衍論10巻(姚秦筏提摩多訳)」、「福蓋正行所集経12巻(宋日称訳)」、「龍樹菩薩為禅陀迦王説法要偈(宋求那跋摩訳)」等あり。就中、「十八空論」、「方便心論」は師の作に非ざるべく、「菩提行経」は西蔵訳に寂天の集とし、「釈摩訶衍論」及び「五明論」は支那に於ける偽撰なり。その他、「梵文法集名数経」、「迦才浄土論巻中所載十二礼文」、「唐不空訳金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」等も、亦た師の作と伝うるも、恐らく後人の撰述なるべし。(中略)その他にも師の真撰と認むべきものありと雖も、多数は後世の仮托に係るものなるが如し。また師の梵名及び訳名に関し、「龍樹菩薩伝」に、「其の母樹下に之を生む、因りて阿周陀那と字す。阿周陀那は樹の名なり。龍を以って其の道を成ず、故に龍を以って字に配し、号して龍樹と曰うなり」と云い、「元魏瞿曇般若留支訳順中論翻訳之記」に、「諸国語言には中天の音正し。彼に那伽夷離淳那と言い、此に龍勝と云う。名味皆足る。上世の徳人が龍樹と言うは一廂を片合す、未だこれ全当ならず」と云い、「大唐西域記巻8」には梵名那伽閼刺樹那を註し、「唐に龍猛と言う。旧に訳して龍樹と曰うは非なり」と云い、また法蔵の「十二門論宗致義記巻上」に、「龍樹菩薩造とは梵語に名づけて那伽阿順那と作す。那伽は此に龍と云い、阿順那は羅什は翻じて樹と為し、慈恩三蔵(玄奘)は翻じて猛と為す。並びに敵対正翻に非ず。知る所以は近く大原三蔵(地婆訶羅)に問うに云わく、西国の俗尽く説く、前代に猛壮の人あり、阿順那と名づく。翻じて猛と為すは但だ彼の人を指すのみ、正しく其の名を訳するに非ず。また西国に一色樹あり、亦た阿順那と名づく。此の菩薩は樹下に在りて生まる、因りて阿順那と名づく。この故に翻じて樹と為すは亦た彼の樹を指す、正しく名を翻ずるに非ず」と云えり。かくの如く訳名に就いては、所説あるも共に其の梵名を naagaarjunaとなし、また「梵文菩提行経 bodhisattva- caryaavata- aara」、月称 candrakiirtiの「中論釈 prasannapadaa」、師子賢 haribhadraの「般若釈 prajJaapaaramitaa- vyaakhyaa」等にも、皆亦た其の梵名を挙げて naagaarjunaとなせり。然るに「梵文入楞伽経 laGkaavataara- suutra懸記」の文には naagaahvayaH sa naamnaaに作り、同西蔵訳にも亦た de- miN klu- shes bod- pa- steと記し、共に「其の名は龍と呼ばるるものなり」の意にして、漢訳に之を龍樹となすは現存梵本並びに西蔵訳に合せざるものと云うべし(後略)」と云う。即ち龍樹は西暦三世紀、南印度の人にして、中論(本頌のみ)、十二門論、十住毘婆沙論、大智度論等の作者である事の外は、皆伝説の域を出でず、確実な事は何一つ知れないのであるが、その思想は上記四論の中に明らかである。

≪第3章 訳者≫
   訳者鳩摩羅什(梵名 kumaarajiiva)に就いて、望月に依れば、「究摩羅什、鳩摩羅什婆、鳩摩羅時婆、拘摩羅耆婆、鳩摩羅耆婆に作り、略して羅什、或は什とも云う。童寿と訳す。父を鳩摩炎と名づけ、印度の人にして、其の家世世国相たりしが、出家して亀茲国に来たり国師となり、其の王妹耆婆を娶り、遂に師を生む。師容貌岐嶷、聡慧俊爽なり。七歳にして出家し、日に千偈を誦し、また毘曇の義を学す。九歳母に携えられて辛頭河を渡り、罽賓に至り、王の従弟槃頭達多を師とし、雑蔵、中阿含、長阿含等の凡そ四百万偈を受け、また達多及び外道論師と論議し、国王並びに寺僧の為に敬崇せらる。十二歳母と共に亀茲に遷り、また月氏の北山に至るに、一羅漢あり見て以って之を異とし、母に謂って曰わく、常に此の沙弥を守護すべし、若し三十五に至りて破戒せずんば、大いに仏法を興し、無数の人を度すること優波掬多と異なること無かるべし。若し戒全からざれば、正に才明俊藝の法師なるべきのみと。尋いで進んで沙勒国に到り、仏鉢を拝し停ること一年、阿毘曇、六足諸論、増一阿含を誦し、備に其の義に達す。王乃ち大会を設け、師をして転法輪経を説かしむ。師亦た余暇を以って転法輪経、四韋陀、五明諸論、外道経書、陰陽星算等を博覧して、悉く通暁せざることなし。時に莎車王子兄弟二人あり、兄を須利耶跋陀、弟を須利耶蘇摩と名づく。蘇摩は才技絶倫にして頗る大乗に通じ、兄及び諸学者皆共に之を師とす。師亦た奉じて之に師事し、阿耨達経を聞き、これより専ら方等諸経を究め、遂に中百二論及び十二門論等を受く。尋いで温宿国に到り、道士と論議して之を挫き、適ま亀茲国王に迎えられて国に還り、広く諸経を説き、厚く帰崇を受く。王宮に受戒し、卑摩羅叉に就いて十誦律を学ぶ。既にして其の母、亀茲の国勢日に非なるを観て印度に至らんと欲し、師に謂って曰わく、方等深教応に大に真丹に闡くべし、之を東土に伝うるは唯だ汝の力のみ。但し自身に於いて利なし、其れ如何がすべきと。師答うるに、誓って躯を忘れて大法を流伝せんことを以ってし、遂に母に別れて亀茲に留まり、新寺に住す。後寺側故宮の中に於いて、初めて放光経を得て之を披閲し、停住すること二年、広く大乗経論を誦し、其の秘奥に達す。王金師子座を造り、大秦の錦褥を鋪き、師をして登座説法せしむ。俄にして罽賓の師槃頭達多、亀茲に来る。師乃ち欣懐措く能わず、為に徳女問経を説く。達多初め信ぜず、後遂に嘆じて曰わく、和上はこれ我が大乗の師、我れはこれ和上の小乗の師と。ここに於いて西域諸国悉く師の神儁に伏し、演説ある毎に皆座側に長跪し、師をして之を践んで座に登らしむるに至れり。前秦建元十八年九月、符堅は驍騎将軍呂光等を遣して、亀茲及び烏耆諸国を討たしめ、且つ師を迎うべきを以ってす。時に師は亀茲王白純に説いて抗することなからしめんとす。王従わずして之と戦い、大敗して殺され、師は亦た光の為に獲られて陣中に在り。光乃ち師の年歯尚お少きを見て、強いて亀茲王の女を以って之に娶らし、逼って犯戒せしむ。既にして光、軍を凉州に回えすや、適ま符堅、姚萇の為に害せられしを聞き、因って自立して王を関外に称す。尋いで光卒し、其の後簒奪相次ぎ、また既に道を弘めざるを以って、師は凉州に停り、多く歳月を経と雖も、徒らに其の深解を蘊んで化を宣ぶるに由なし。後秦弘始三年五月、姚興軍を遣し呂隆を討って之を降し、因って師を迎えて関中に入り、其の年、十二月二十日長安に達す。秦王待つに国師の礼を以ってし、甚だ優遇を加え、遂に請うて西明閣及び逍遙園に入り、衆経を訳出せしむ。明年坐禅三昧経、阿弥陀経等を出し、五年四月始めて大品般若経を訳するや、秦王姚興親ら旧経を執りて以って相讐校し、僧䂮、僧遷等五百余人、其の義旨を詳にして然して後之を書し、明年四月に至りて其の功を訖う。王公以下並びに其の風を欽し、請うて長安大寺に於いて新経を講説せしむ。七年十二月に至りて大智度論を出し、八年五月法華経を翻し、次いで維摩、梵網等を訳し、十年四月小品般若経を出す。其の余、金剛般若、十住、思益、中、百、十二門論、成実論等、凡そ三十五部二百九十七巻を伝訳せり。これ「出三蔵記集巻2」に伝うる所、若し「開元釈教録巻4」に依らば、七十四部三百八十四巻とせり。師率ね経論を暗誦して究尽せざることなく、また漢言を能くし、音訳流便を主とす。時に四方の義士万里より必集し、悉く資の礼を執らざるはなし。廬山慧遠は当時の龍象なり。而も遠く書を裁して疑義を諮う所あり。「問大乗中深義十八科(大乗大義章)」は其の問答を録せるものなり。師常に歎じて曰わく、吾れ若し筆を著けて大乗阿毘曇を作らば、迦旃延子の比に非ざるなり。今秦地に在りて深識の者寡く、翮を此に折る。将た何の論ずる所ぞと。乃ち悽然として止む。唯だ姚興の為に実相論二巻を著わし、並びに維摩を註す。言を出せば章を成し、改刪する所なし。人と為り神情朗徹、傲岸にして群を出で、且つ篤性仁厚、汎愛を心となし、己を虗うして善く誘い、終日倦むことなし。姚興嘗て師に謂って曰わく、大師は聡明超悟、天下比なし。若し一旦後世せば、法種嗣ぐものなからんと。遂に妓女十人を以って逼って之を受けしむ。爾来僧坊に住せず、別に廨舎を立て供給豊盈なり。一日疾あり、衆に告げて曰わく、自ら闇昧を以って謬って伝訳に充つ。若し所伝謬り無くんば、焚身の後舌をして焦爛せざらしむべしと。後秦弘始十五年四月十三日、遂に長安大寺に寂す、年七十。逍遙園に荼毘するに、唯だ舌のみ灰せざりしと云う。「高僧伝巻2」に、師の寂年を弘始十一年八月二十日と為し、且つ云わく、什の死年月、諸記同じからず。或は云う弘始七年、或は云う八年、或は云う十一年と。尋ぬるに七と十一とは字或は訛誤ならん。而も訳経録中、猶お十一年なる者あり、恐らくは三家に雷同して、以って正しきこと無かるべしと。今「広弘明集巻23」に収むる僧肇の「鳩摩羅什法師誄」に依る。門下三千余人と号し、就中、道融、僧叡、僧肇、道生、曇影、慧観、道恒、曇済を什門の八俊と称し、特に前の四人を関中の四傑、後の四人を四英と呼べり」と云う。これにて凡その所は知ることができよう。

≪第4章 所引経論≫
   大智度論は、その中に引用せられたる諸経論の多さを以って知られ、それを具さに調べれば、論の作成年代等を推して知ることができる。望月に依れば、凡そ次のとおりである。
現存最古の経典の一と称せらる「巴梨文経集 sutta- nipaata」に一致せるもの――
1 衆義経
aTThaka- vagga,12. cuulaviyuuha- sutta
巻1
2 阿他婆耆経
aTThaka- vagga,9. maagandiya- sutta
1
3 波羅延経阿耆陀羅中偈
paaraayana- vagga,2.
ajitamaaNava- pucchaa
並びに偈
uraga- vagga,12. Muni- Sutta
3
4 波羅延優波尸羅中偈
paaraayana- vagga,7.
upasiivamaaNava- pucchaa
4
5 婆跋隷説話
paaraayana- vagga,1. vatthugaathaa
4, 29
6 雑法蔵経
mahaa- vagga,2. padhaana- sutta
5
7 一菩薩以偈呵眠睡弟子言
cuula- vagga,10. uTThaana- sutta
17
8 義品偈
aTThaka-vagga、8. pasuura-sutta
18
9 波羅延経利衆経
paaraayana-vagga、2.
ajita- maaNava- pucchaa?
27, 31



その他のもの、――
1 阿含本末経 巻1
2 密迹経又は密迹金剛経 1, 10, 26, 57
3 瓶沙王迎経又は頻婆娑羅王迎経 1, 18
4 法句 1, 5, 35, 57
5 仏二夜経 1
6 破群那経 1
7 犢子阿毘曇又は犢子児阿毘曇、
舎利弗阿毘曇
1, 2, 7
8 摩訶衍義偈 1
9 栰喩経 1, 31, 85
10 天問経 1, 26
11 中論 1, 5, 19, 25, 38
12 時経 1
13 毘尼又は八十部毘尼、八十部律 1, 3, 38, 49, 68, 74, 84, 93, 100
14 釈提桓因得道経 2
15 讃仏偈 2, 5
16 解脱戒経 2
17 刪陀迦旃延経 2
18 集法経 2
19 増一阿含 2
20 中阿含 2, 23
21 長阿含 2, 4, 9, 33
22 相応阿含又は雑阿含 2, 9, 10, 31, 32, 54
23 発智経八揵度又は迦旃延子阿毘曇、
迦旃延経
2, 7, 13, 23, 26, 27, 31
24 八揵度鞞婆娑又は阿毘曇鞞婆娑
迦旃延子阿毘曇鞞婆娑
2, 4, 29, 37, 38, 39, 74
25 舎利弗阿毘曇 2
26 六分阿毘曇又は六足阿毘曇 2, 68, 100
27 蜫勒 2, 18
28 放牛譬喩経 2
29 仏答頻婆娑羅王偈 3
30 阿含 3, 49
31 降難陀婆難陀龍王兄弟経 3
32 富楼那弥帝隷耶尼子経 3
33 須跋陀梵志経 3
34 信品中偈 3
35 難陀迦経 3
36 蜫盧提迦経 3
37 栴檀譬喩経 3
38 讃摩訶衍偈 4
39 首楞厳三昧経 4, 10, 26, 29, 34, 40, 75
40 阿波陀那経 4, 11, 33, 100
41 不可思議経又は不可思議解脱経 5, 33, 35, 50, 100
42 梵網経 5, 18
43 毘那婆那王経 5
44 天会経 5
45 徳女経 6
46 阿毘曇 6, 8 16~21, 23, 26, 27, 28, 31, 32, 33, 49, 55, 68, 75, 81, 83, 98
47 法華経 7, 9, 10, 26, 30,32, 33, 38, 46, 50, 57, 79, 84, 93, 100
48 般舟三昧経又は般舟経 7, 33
49 毘摩羅詰経 9, 15, 17, 28, 30, 85, 92, 95, 98
50 多持経 9
51 阿弥陀仏経又は阿弥陀経 9, 92
52 諸仏要集経 9
53 華手経又は華首経 10, 33, 46, 100
54 毒蛇喩経 12
55 四天王経 13
56 天地本起経 13
57 優鉢羅華比丘尼本生経 13
58 蘇陀蘇摩王経 14
59 讃精進偈 15
60 菩薩本生経 16, 33
61 除欲蓋偈 17
62 仏教瞋弟子偈 17
63 禅経 17, 22, 24, 28
64 讃般若波羅蜜偈 18
65 馬星比丘為舎利弗説偈 18
66 千難 19
67 網明菩薩経 20, 22, 28
68 阿那律仏滅度時説 22
69 諸阿羅漢得道時説偈 23
70 多性経 24
71 分別業経 24
72 浄経 24
73 孫陀利経 25
74 一切漏障経 25
75 一切不行経 26
76 長爪梵志経 26
77 持心経 27, 29, 32, 71, 81
78 宝頂経 28
79 本生経 28
80 賢劫経 29
81 漸備経又は十地経 29, 49
82 餓鬼経 30
83 羅陀経 31
84 三十三天品経 32
85 二百五十戒経 33, 100
86 菩薩阿波陀那 33
87 六波羅蜜経 33, 46
88 大雲経 3l, 46, 100
89 摩訶迦旃延所解修多羅 33
90 尼陀阿波陀那 34
91 三法経 34
92 菩薩本起経 38
93 本起経 46
94 断一切衆生疑経 46
95 雲経 46, 100
96 法雲経 46, 100
97 弥勒問経 46
98 龍王経 51
99 阿差末経 53
100 地獄品 66
101 光讃 67, 79
102 放光 67, 79
103 道行 67
104 小品 79
105 城譬喩経 80
106 辟支仏経 81
107 転法輪経 86
108 婆差経 93
109 譬喩経 97
110 智印経 98
111 四阿含優婆提舎 99
112 諸仏本起経 100
113 宝雲経 100
114 大悲経 100
115 方便経 100
116 龍王問経 100
117 阿修羅王問経 100
118 摩偸羅国毘尼 100
119 罽賓国毘尼 100
120 八十部毘婆沙解釈 100


≪第5章 大品般若経≫
   大品般若経は具さに摩訶般若波羅蜜経(梵名 paJcaviMzati- saahasrikaa- prajJaapaaramitaa)に作り、通称大品般若経、或は大品経と云う。二十七巻、或は三十巻、或は四十巻。凡べて九十品ある。以下にその品名及び相応する大智度論中の品名を挙げる。
摩訶般若波羅蜜経 大智度論
1 序品 1 初序品中縁起義釈論 巻1
2 〃如是我聞一時〃 1
3 〃総説如是我聞〃 2
4 〃婆伽婆〃 2
5 〃住王舎城〃 3
6 〃共摩訶比丘僧〃 3
7 〃四衆義〃 3
8 〃菩薩〃 4
9 〃摩訶薩埵〃 5
10 〃菩薩功徳〃 5
11 〃十喩〃 6
12 〃意無礙〃 6
13 〃仏土願〃 7
14 〃放光〃 7
15 〃十方諸菩薩来〃 9
16 〃舎利弗因縁〃 11
17 〃檀波羅蜜義〃 11
18 〃讃檀波羅蜜義〃 11
19 〃檀相義〃 11
20 〃檀波羅蜜法施義〃 11
21 〃尸羅波羅蜜義〃 13
22 〃戒相義〃 13
23 〃讃尸羅波羅蜜義〃 13
24 〃羼提波羅蜜義〃 14
25 〃羼提波羅蜜法忍義〃 15
26 〃毘梨耶波羅蜜義〃 15
27 〃毘梨耶波羅蜜義〃 16
28 〃禅波羅蜜〃 17
29 〃般若波羅蜜〃 18
30 〃般若相義〃 18
31 〃三十七品義〃 19
32 〃三三昧義〃 20
33 〃四無量義〃 20
34 〃八背捨義〃 21
35 〃九相義〃 21
36 〃八念義〃 21
37 〃十想〃 23
38 〃十一智〃 23
39 〃十力〃 24
40 〃四無畏義〃 25
41 〃十八不共法〃 26
42 〃大慈大悲義〃 27
43 〃欲住六神通〃 28
44 〃布施随喜心過上〃 28
45 〃迴向〃 29
46 〃善根供養義〃 30
47 〃諸仏称讃其命〃 30
48 〃十八空義〃 31
49 〃四縁義〃 32
50 〃到彼岸義〃 33
51 〃見一切仏世界義〃 33
2 奉鉢品 2 釈報応品 35
3 習応品(習相応品) 3 〃習相応品 35
4 往生品 4 〃往生品 38
5 歎度品 5 〃歎度品 40
6 舌相品 6 〃舌相品 40
7 三仮品 7 〃三仮品 41
8 勧学品 8 〃勧学品 41
9 集散品 9 〃集散品 42
10 相行品 10 〃行相品 43
11 幻学品(幻人品) 11 〃幻人無作品 44
12 句義品 12 〃句義品 44
13 金剛品(摩訶薩品) 13 〃摩訶薩品 45
14 楽説品(断見品) 14 〃断見品 45
15 辯才品(富樓那品) 15 〃大荘厳品 45
16 乗乗品 16 〃乗乗品 46
17 荘厳品 17 〃無縛無脱品 46
18 問乗品(摩訶衍品) 18 〃摩訶衍品 46
19 広乗品(四念処品) 19 〃四念処品 48
20 発趣品 20 〃発趣品 49
21 出到品 21 〃出到品 50
22 勝出品 22 〃勝出品 51
23 等空品(含受品) 23 〃含受品 51
24 会宗品 24 〃会宗品 52
25 十無品 25 〃十無品 52
26 無生品 26 〃無生品 53
27 問住品(天主品) 27 〃天主品 54
28 幻聴品(幻人聴法品) 28 〃幻人聴法品 55
29 散花品 29 〃散華品 55
30 三歎品(顧視品) 30 〃顧視品 56
31 滅諍品(現功徳品) 31 〃滅諍乱品 56
32 大明品(宝塔品) 32 〃宝塔校量品 57
33 述成品 33 〃述誠品 57
34 勧持品 34 〃勧受持品 58
35 遣異品(梵志品) 35 〃梵志品 58
36 尊導品(阿難称誉品) 36 〃阿難称誉品 58
37 法称品 37 〃校量舎利品 59
38 法施品(十善品) 38 〃校量法施品 60
39 随喜品(随喜迴向品) 39 〃随喜回向品 61
40 照明品(大度品) 40 〃照明品 62
41 信毀品(泥梨品) 41 〃信謗品 62
42 歎浄品 42 〃歎浄品 63
43 無作品(面各千仏品) 43 〃無作実相品 64
44 遍歎品(百波羅蜜品) 44 〃諸波羅蜜品 65
45 聞持品(耳品) 45 〃歎信行品 66
46 魔事品 46 〃魔事品 68
47 両過品(両不和合品) 47 〃両不和合品 68
48 仏母品 48 〃仏母品 69
49 問相品 49 〃問相品 70
50 成辦品(大事起品) 50 〃大事起品 71
51 譬喩品 51 〃譬喩品 71
52 知識品 52 〃善知識品 71
53 趣智品 53 〃趣一切智品 71
54 大如品(大如相品) 54 〃大如品 72
55 不退品 55 〃阿毘跋致品 73
56 堅固品(転不転品) 56 〃転不転品 73
57 深奥品(灯炷品) 57 〃灯炷品 74
58 夢行品(夢入三昧品) 58 〃夢中入三昧品 75
59 河天品 59 〃恒伽提婆品 75
60 不証品(学空不証品) 60 〃学空不証品 76
61 夢誓品(中不夢証品) 61 〃夢中不証品 76
62 魔愁品(同学品) 62 〃同学品 77
63 等学品 63 〃等学品 77
64 浄願品(随喜品) 64 〃願楽品 78
65 度空品(称揚品) 65 〃称揚品 78
66 累教品(嘱累品) 66 〃嘱累品 79
67 無尽品 67 〃無尽方便品 80
68 摂五品(六度相摂品) 68 〃六度相摂品 80
69 方便品 69 〃大方便品 82
70 三慧品 70 〃三恵品 83
71 道樹品(種樹品) 71 〃道樹品 85
72 道行品 72 〃菩薩行品 85
73 三善品(種善根品) 73 〃種善根品 85
74 遍学品 74 〃遍学品 86
75 三次品(次第行品) 75 〃次第学品 86
76 一念品(無漏行六度品) 76 〃一心具万行品 87
77 六喩品(夢化六度品) 77 〃六喩品 88
78 四摂品 78 〃四摂品 88
79 善達品 79 〃善達品 89
80 実際品 80 〃実際品 90
81 具足品(照明品) 81 〃照明品 91
82 浄土品(浄仏国品) 82 〃浄仏国土品 92
83 畢定品 83 〃畢定品 93
84 差別品(四諦品) 84 〃四諦品 94
85 七譬品 85 〃七喩品 95
86 平等品 86 〃平等品 95
87 如化品 87 〃涅槃如化品 96
88 常啼品 88 〃薩陀波崙品 96
89 法尚品(曇無竭品) 89 〃曇無竭品 99
90 嘱累品 90 〃嘱累品 100




≪第Ⅱ部 般若波羅蜜≫

≪第6章 経及び論の主旨≫
   大智度論は、大品般若経を釈することを旨とするのであるから、その主旨は独自ではなく、経の主旨に同じなくてはならない。本来、経、論を読む所以の者は、一にはその主旨を知らんが為の故であるが、しかし預め、その主旨を知っておれば、譬えば航海に海図と羅針盤とを有すれば、誤たずに目的地に到達できるが如く、経、或は論を十全に理解して誤たざるの道理でもある。もし主旨を知らずに論、或は経を読めば、百巻にも及ぶ論、二十七巻の経は、その大なるが故に理解を阻み、恐らくは象を撫づる群盲の如き愚を呈し、或は厚き雲に覆われたる雪山を旅するが如き状を来たさずには置かないであろう。
   然しながら、まづ先に、この大乗の論者は、何ゆえに、特にこの経を簡択して論を造ったのかを問うてみよう、即ち「論巻46」に、「問うて曰わく、この経を名づけて般若波羅蜜と為す。又仏は須菩提に命じて菩薩の為に般若波羅蜜を説かしめたもう。須菩提は応に般若波羅蜜を問うべく、仏も亦応に般若波羅蜜を答えたもうべし。今須菩提は、何を以ってか乃ち摩訶衍(まかえん、大乗)を問い、仏も亦摩訶衍を答えたまえる。答えて曰わく、般若波羅蜜は摩訶衍の一義にして、但だ名字異なるのみ。若し般若波羅蜜を説くに、摩訶衍を説くも咎無し。摩訶衍とは仏道に名づく。この法を行ずれば、仏に至るを得。謂わゆる六波羅蜜なり。六波羅蜜中、第一に大なるは般若波羅蜜なり。後品に、仏、種種に大因縁を説きたもうが如し。若し般若波羅蜜を説けば、則ち六波羅蜜を摂す。若し六波羅蜜を説けば、則ち具さに菩薩道を説く。謂わゆる初発意より乃ち仏を得るに至る。譬えば、王来たれば必ず営従有り。従者を説かずと雖も、当に必ず有るを知るべきが如し。摩訶衍も亦かくの如し。菩薩の初発意の所行は、仏道を求めんが為の故なり。修集する所の善法は、随うて衆生を度すべし。説く所の種種の法とは、謂わゆる本起経、断一切衆生疑経、華手経、法華経、雲経、大雲経、法雲経、弥勒問経、六波羅蜜経、摩訶般若波羅蜜経なり。かくの如き等の無量無辺阿僧祇の経は、或は仏の説、或は化仏の説、或は大菩薩の説、或は声聞の説、或は諸の得道の天の説なり。この事の和合するを、皆摩訶衍と名づく。この諸経の中にて、般若波羅蜜、最も大なるが故に摩訶衍と説き、即ち知り已りて般若波羅蜜を説く。諸余の助道法は、般若波羅蜜と和合する無ければ、則ち仏に至る能わず。ここを以っての故に、一切の助道法は、皆これ般若波羅蜜なり。後品の中に、仏、須菩提に、「汝が説く摩訶衍は、般若波羅蜜と異ならず」と語りたもうが如し」と云うのがこれである。即ち論者は、この中に、大乗とは即ち仏道であり、仏道とは六波羅蜜であり、この六波羅蜜を般若波羅蜜と謂うと云い、大乗法の中には般若波羅蜜が最大なるが故に、これを大乗と謂うと云っているが、これ即ち摩訶般若波羅蜜経を釈す所以である。
  そこで話を元にもどせば、便ち望月には、「吉蔵の大品経義序に、初の六品は仏自ら宗を開き、舎利弗を対告として上根の人の為に説き、第七三仮品以下の三十八品は須菩提に命じて中根の人の為に説かしめ、第四十五聞持品以下の四十六品は重ねて下根の諸天及び人の為に説けるものなりとなせり」と云い、それに依って大品の主旨は前の六品中に都て説き明かされたることを説くものと知るのである。この中では、純ら般若波羅蜜の義を説くことを旨とする序品第一乃至奉鉢品第二の中より、直ちに主旨に係る部分を、試みに抜き出して以下に示す。大品の主題は、般若波羅蜜と、及びその実践者たる菩薩の二に限り、その解明がその所謂主旨であるが、その中、菩薩に関しては、従属的主題であるが故に、ここには取らないことにする。


  (1)序品第一の分
1 仏の舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    一切種智を以って、
    一切法を知らんと欲せば、
  当に、
    般若波羅蜜を習行すべし。
舎利弗の仏に白して言さく、
  菩薩摩訶薩は、
    云何が、
      一切種智を以って、
      一切法を知らんと欲し、
    当に、
      般若波羅蜜を習行すべし。
2 仏の舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    不住法を以って、般若波羅蜜中に住すれば、
      無所捨の法を以って、
        応に、檀波羅蜜を具足すべし、
        施者、受者、財物の不可得の故に、
      罪と不罪と不可得の故に、
        応に、尸羅波羅蜜を具足すべし、
      心の不動の故に、
        応に、羼提波羅蜜を具足すべし、
      身心精進して不懈怠の故に、
        応に、毘梨耶波羅蜜を具足すべし、
      不乱不味の故に、
        応に、褝那波羅蜜を具足すべし、
      一切法に於いて不著の故に、
        応に、般若波羅蜜を具足すべし。
3   菩薩摩訶薩は、
    不住法を以って
      般若波羅蜜の中に住すれば、
      不生の故に、
    応に、
      四念処、四正勤、四如意足、五根五力、
      七覚分、八聖道分、空三昧、無相三昧、
      無作三昧、四禅、四無量心、四無色定、
      八背捨、八勝処、九次第定、十一切処、
      九相(脹相、壊相、血塗相、膿爛相、
        青相、噉相、散相、骨相、焼相)、
      念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念入出息、
      十想(無常想、苦想、無我想、食不浄想、
        一切世間不可楽想、死想、不浄想、断想、
        離欲想、尽想)、
      十一智(法智、比智、他心智、世智、苦智、
        集智、滅智、道智、尽智、無生智、如実智)、
      三三昧(有覚有観三昧、無覚有観三昧、
        無覚無観三昧)、
      三根(未知欲知根、知根、知已根)
      を具足すべし。
4   菩薩摩訶薩は、
    仏の、
      十力、四無所畏、四無礙智、
      十八不共法、大慈、大悲を、
      遍く、知らんと欲せば、
    当に、
      般若波羅蜜を習行すべし。
5   菩薩摩訶薩は、
    道慧を、具足せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を習行すべし。
  菩薩摩訶薩は、
    道慧を以って、道種慧を具足せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を習行すべし、
    道種慧を以って、一切智を具足せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を習行すべし、
    一切智を以って、一切種智を具足せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を習行すべし、
    一切種智を以って、煩悩の習を断ぜんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を行ずべし。
舎利弗、
  菩薩摩訶薩は、
    応に、かくの如く般若波羅蜜を学ぶべし。
6 復た次ぎに、
舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    菩薩の位に上らんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    声聞、辟支仏地を過ぎて、
    阿惟越致地に住せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    六神通に住せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一切の衆生の意の趣向する所を知らんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    一切の声聞、辟支仏の智慧に勝らんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    諸の陀羅尼門、三昧門を得んと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一切の声聞、辟支仏を求むる人の布施する時、
      随喜心を以って、その上を過ぎんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一切の声聞、辟支仏を求むる人の持戒する時、
      随喜心を以って、その上を過ぎんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一切の声聞、辟支仏を求むる人の
      三昧、智慧、解脱、解脱知見に、
      随喜心を以って、その上を過ぎんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一切の声聞、辟支仏を求むる人の
      諸の禅定、解脱三昧に、
      随喜心を以って、その上を過ぎんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
7   菩薩摩訶薩は、
    少施、少戒、少忍、少進、少禅、少智を行ずるに、
      方便力の回向を以っての故に、
      無量無辺の功徳を得んと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
8   菩薩摩訶薩は、
    檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、
    毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜を行ぜんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
9   菩薩摩訶薩は、
    世世の身体をして、仏と相似せしめ、
    三十二相、八十随形好を具足せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    菩薩の家に生まれんと欲し、
    童真地を得んと欲し、
    諸仏を離れざらんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    諸の善根を以って、諸仏を供養し、
    恭敬、尊重、讃歎を随意に成就せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一切の衆生の所願の
      飲食、衣服、臥具、塗香、車乗、房舎、
      床榻、灯燭等を満てんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
10 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    恒河沙等の国土の衆生をして、
      檀那波羅蜜に立たしめ、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、
      毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜に立たしめんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一善根を仏の福田中に植えて、
      阿耨多羅三藐三菩提を得るに至るも
      尽きざらんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
11 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    十方の諸仏をして、その名を称讃せしめんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    一発意にて、
    十方の恒河沙等の諸仏の国土に到らんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    一音を発し、
    十方恒河沙等の諸仏国土に声を聞かせんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
12 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    諸仏の国土をして、断ぜざらしめんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
13 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空、
    有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、
    自相空、諸法空、不可得空、無法空、有法空、
    無法有法空に住せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
14   菩薩摩訶薩は、
    諸法の因縁、次第縁、縁縁、増上縁を知らんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    諸法の如、法性、実際を知らんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    応に、かくの如く般若波羅蜜に住すべし。
15 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    三千大千国土中の大地、
    諸山の微塵を数えて知らんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    一毛を析きて百分と為し、一分毛を以って
    三千大千国土中の大海、江河、池泉の
      諸水を尽く挙げ、
      而も、水性を嬈さざらんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
  三千大千国土中の諸火一時に皆然え、
    譬えば、
      劫尽きて焼くる時の如きに、
      菩薩摩訶薩の一吹きにて、
        滅せしめんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
  三千大千国土中の諸大風起こり、
    三千大千国土及び諸須弥山を吹き破りて、
      腐草を摧くが如くならしめんと欲するに、
    菩薩摩訶薩の一指を以って、その風力を障え、
      起たざらしめんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    一結跏趺坐にて、
      三千大千国土の虚空に遍満せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    一毛を以って、
      三千大千国土中の諸の須弥山王を挙げて擲げ、
      他方の無量阿僧祇の諸仏の国土を過ぎても、
      衆生を嬈さざらんと欲し、
    一食を以って、
      十方の各恒河沙等の諸仏及び僧に
      供養せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    一衣、花香、瓔珞、末香、塗香、焼香、灯燭、
      幢幡、花蓋等を以って、
      諸仏及び僧に供養せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    十方の各恒河沙等の国土中の衆生をして、
      悉く戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見を
        具せしめんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
      須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、
      阿羅漢果を得しめ、乃至、
        無余涅槃を得しめんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
16 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    般若波羅蜜を行じて、布施する時、
    応に、是の如く分別すべし、
      是の如き布施は、
        刹利大姓、婆羅門大姓、
        居士大家に生ずることを得、
      是の如き布施は、
        四天王天処、三十三天、夜摩天、兜率陀天、
        化楽天、他化自在天に生ずることを得、
      是の布施に因り、
        初禅、二禅、三禅、四禅、無辺空処、
        無辺識処、無所有処、非有想非無想処に
        生ずることを得、
      是の布施に因り、
        八聖道分を生ずることを得、
      是のこの布施に因り、
        能く、須陀洹道乃至仏道を得れば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
17 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    般若波羅蜜を行じて、布施する時、
    慧の方便力を以っての故に、
  能く、
    檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、
    毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜、般若波羅蜜を具足す。
舎利弗の
  仏に白して言わく、
  菩薩摩訶薩は、
    云何が、
      布施する時、慧の方便力を以っての故に、
      檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足する。
仏の
  舎利弗に告ぐらく、
    施人、受人、財物の不可得の故に、能く、
      檀那波羅蜜を具足す、
    罪、不罪の不可得の故に、
      尸羅波羅蜜を具足す、
    心の不動の故に、
      羼提波羅蜜を具足す、
    身心の精進と不懈怠の故に、
      毘梨耶波羅蜜を具足す、
    不乱、不味の故に、
      褝那波羅蜜を具足す、
    一切法の不可得を知るが故に、
      般若波羅蜜を具足す。
18 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    過去、未来、現在の諸仏の功徳を得んと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    有為、無為法の彼岸に到らんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    過去、未来、現在の諸法の
      如、法相、無生際を知らんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
19  復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    一切の声聞、辟支仏の前に在らんと欲し、
    諸仏に給侍せんと欲して、
    諸仏の内眷属たらんと欲し、
      大眷属を得んと欲し、
      菩薩の眷属を得んと欲し、
      浄報し大施せんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
20 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    慳心、破戒心、瞋恚心、懈怠心、乱心、
    癡心をして起たしめんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
21 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    一切の衆生をして、
      布施の福処、持戒の福処、衆生の福処、
      勧導の福処に立たしめと欲し、
    衆生をして、
      財福、法福に立たしめんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
22 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    五眼を得んと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    何等か、
      五眼なる、
      肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼なり。
  菩薩摩訶薩は、
    天眼を以って、
      十方の恒河沙等の
      国土中の諸仏を見んと欲し、
    天耳を以って、
      十方の
        諸仏の所説の法を聞かんと欲し、
        諸仏の心を知らんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    十方の、
      諸仏の所説の法を聞き、
        聞き已りて、乃ち、
        阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、
        忘れざらんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    過去、未来の諸仏の国土を見、及び、
    現在の十方の諸仏の国土を見んと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
23 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    十方の、
      諸仏の所説の十二部の経、修多羅、祇夜、
      受記経、伽陀、優陀那、因縁経、阿波陀那、
      如是語経、本生経、未曽有経、論義経の、
    諸の、
      声聞等の聞くと聞かざるとを聞き、
      尽く誦して、受持せんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    十方の、
      恒河沙等の世界の中の、諸仏の所説の法の、
      已に説かれ、今説き、当に説くべきを聞き已りて、
    一切を、
      信持して自ら行い、亦た
      他人の為に説かんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
24 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    過去の諸仏の已に説き、
    未来の諸仏の当に説くべきを聞き、聞き已りて、
      自ら利し、亦た他人をも利せんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    十方の、
      恒河沙等の諸の世界の中間の闇処、
      日月に照らされざる処を、
      光明を治して、普く照さんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    十方の、
      恒河沙等の世界の中の、
      仏名、法名、僧名の有ること無きに、
    一切の、
      衆生をして、
      皆正見を得て三宝の名を聞かしめんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    十方の、
      恒河沙等の諸の世界の中の衆生をして、
    我が力を以っての故に、
      盲者には、視ることを得しめ、
      聾者には、聴くことを得しめ、
      狂者には、念ずることを得しめ、
      裸者には、衣を得しめ、
      飢渇者には、飽満することを得しめんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
25 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    十方の、
      恒河沙等の世界の中の衆生の、
      諸の三悪趣に在る者をして、
    我が力を以っての故に、
      皆、人身を得しめんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    十方の、
      恒河沙等の世界の中の衆生をして、
    我が力を以っての故に、
      戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見に立たせて、
      須陀洹果、乃至
      阿耨多羅三藐三菩提を
        得しめんと欲せば、
        当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
26 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    諸仏の意義を学ばんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    象王の如き視観を得んと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
  菩薩摩訶薩は、
    「我れをして、
       行く時は、地を離れて、
       四指足は、地を蹈まざらしめよ。
     我れは、当に、
       四天王天乃至阿迦尼吒天の
       無量千万億の天衆と共に、
       囲繞され恭敬されて菩提樹の下に至るべし」と、
    是の願を、作さば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我れは、当に、
       菩提樹の下に於いて坐せんに、
         四天王天乃至阿迦尼吒天は、
         天衣を以って座と為すべし」とせば、
           当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我れは、
       阿耨多羅三藐三菩提を得る時には、
         行住座臥の処をして、
         尽く金剛たらしめん」とせば、
           当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
27 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    出家の日に、
      即ち、阿耨多羅三藐三菩提を成じ、
      即ち、この日に法輪を転じ、
    法輪を転ずる時には、
      無量阿僧祇の衆生は、
        塵を遠ざけ垢を離れて、
        諸法の中に法眼浄を得、
      無量阿僧祇の衆生は、
        一切法を受けざるが故に、
        諸の漏心に解脱を得、
      無量阿僧祇の衆生は、
        阿耨多羅三藐三菩提に於いて
        不退転を得んと欲せば、
          当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我れ、
       阿耨多羅三藐三菩提を得る時には、
         無量阿僧祇の声聞を以って僧と為し、
       我が一説法の時には、
         便ち、座上に於いて
         尽く、阿羅漢を得しめん」とせば、
         当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我れは、
       無量阿僧祇の菩薩摩訶薩を以って僧と為し、
       我が一説法の時には、
         無量阿僧祇の菩薩をして、
         皆阿惟越致を得しめん」とし、
    寿命の無量、
      光明の具足を得んと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我れ、
       阿耨多羅三藐三菩提を成ずる時には、
         世界の中に、
           婬欲、瞋恚、愚癡無く、亦た、
           三毒の名すら無く、
         一切の衆生は、
           是の如き
           智慧、善施、善戒、善定、
           善梵行を成就して、
           善く、衆生を嬈さざらん」とせば、
         当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我が、
       般涅槃の後には、
         法をして、
           滅尽すること無く、亦た、
           滅尽の名すら無からしめん」とせば、
       当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
    「我れ、
       阿耨多羅三藐三菩提を得る時には、
         十方の、
           恒河沙等の世界の中の衆生、
             我が名を聞けば、必ず、
             阿耨多羅三藐三菩提を得ん」と、
     是の如き等の
       功徳を得んと欲せば、
       当に、般若波羅蜜を学ぶべし。

  (2)奉鉢品第二の分
28 仏の舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    方便力を以っての故に、
      五欲を化作して、中に於いて、
        楽を受け、
        衆生を成就することも、
        亦た復たかくの如し。
    是の菩薩摩訶薩は、
      欲に於いて染せず、
        種種の因縁を以って
        五欲を毀呰して、
          欲は熾然たりと為し、
          欲は穢悪たりと為し、
          欲は毀壊たりと為し、
          欲は怨の如しと為す。
  是の故に、
  舎利弗!
    当に知るべし、
      菩薩摩訶薩は、
        衆生の為の故に、
        五欲を受くと。
29  舎利弗の
  仏に白して言わく、
  菩薩摩訶薩は、
    云何が、応に般若波羅蜜を行ずべし。
仏の
  舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    般若波羅蜜を行ずる時、
      菩薩を見ず、
      菩薩の字を見ず、
      般若波羅蜜を見ず、
      亦た、我れ般若波羅蜜を行ずと見ず、
      亦た、我れ般若波羅蜜を行ぜずと見ず、
    何を以っての故にか、
      菩薩と、
      菩薩の字の
        性は空なればなり。
  空中には、
    色無く、受想行識無く、
    色を離れて亦た空無く、
    受想行識を離れて亦た空無し。
    色は即ちこれ空にして、空は即ちこれ色なり、
    受想行識は即ちこれ空にして、空は即ちこれ識なり、
  何を以っての故にか、
  舎利弗!
    但だ、名字有るが故に、謂いて菩提と為し、
    但だ、名字有るが故に、謂いて菩薩と為し、
    但だ、名字有るが故に、謂いて空と為せばなり、
  所以は何んとなれば、
    諸法の実性は、
      無生、無滅、無垢、無浄なるが故なり。
  菩薩摩訶薩は、
    是の如く行じて、
    亦た生を見ず、亦た滅を見ず、
    亦た垢を見ず、亦た浄を見ず。
  何を以っての故にか、
    名字とは、
      是れ因縁和合の作法なるを、
        但だ、分別憶想して、
        仮に、名づけて説けばなり。
  是の故に、
    菩薩摩訶薩は、
      般若波羅蜜を行ずる時、
        一切の名字を見ず、
        見ざるが故に著せざるなり。

   上記に示す中、下記に抜き出せる分は、特に般若波羅蜜の義を明すに直接係るものにして、特に重要であり、その他は従属的であるか、若しくは小乗、或は大乗の阿毘曇に摂せらるべき阿羅漢道、菩薩道、仏道に関する修行、或はそれ等の功徳について、それ等は皆般若波羅蜜中に摂すと説くものに過ぎず、余り重要ではない。


  (3)般若波羅蜜を明す分。
2 仏の舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    不住法を以って、般若波羅蜜中に住すれば、
      無所捨の法を以って、
        応に、檀波羅蜜を具足すべし、
        施者、受者、財物の不可得の故に、
      罪と不罪と不可得の故に、
        応に、尸羅波羅蜜を具足すべし、
      心の不動の故に、
        応に、羼提波羅蜜を具足すべし、
      身心精進して不懈怠の故に、
        応に、毘梨耶波羅蜜を具足すべし、
      不乱不味の故に、
        応に、褝那波羅蜜を具足すべし、
      一切法に於いて不著の故に、
        応に、般若波羅蜜を具足すべし。
8   菩薩摩訶薩は、
    檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、
    毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜を行ぜんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
10 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    恒河沙等の国土の衆生をして、
      檀那波羅蜜に立たしめ、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、
      毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜に立たしめんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし、
    一善根を仏の福田中に植えて、
      阿耨多羅三藐三菩提を得るに至るも
      尽きざらんと欲せば、
      当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
12 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    諸仏の国土をして、断ぜざらしめんと欲せば、
    当に、般若波羅蜜を学ぶべし。
17 復た次ぎに、
  舎利弗!
  菩薩摩訶薩は、
    般若波羅蜜を行じて、布施する時、
    慧の方便力を以っての故に、
  能く、
    檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、
    毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜、般若波羅蜜を具足す。
舎利弗の
  仏に白して言わく、
  菩薩摩訶薩は、
    云何が、
      布施する時、慧の方便力を以っての故に、
      檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足する。
仏の
  舎利弗に告ぐらく、
    施人、受人、財物の不可得の故に、能く、
      檀那波羅蜜を具足す、
    罪、不罪の不可得の故に、
      尸羅波羅蜜を具足す、
    心の不動の故に、
      羼提波羅蜜を具足す、
    身心の精進と不懈怠の故に、
      毘梨耶波羅蜜を具足す、
    不乱、不味の故に、
      褝那波羅蜜を具足す、
    一切法の不可得を知るが故に、
      般若波羅蜜を具足す。
28 仏の舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    方便力を以っての故に、
      五欲を化作して、中に於いて、
        楽を受け、
        衆生を成就することも、
        亦た復たかくの如し。
    是の菩薩摩訶薩は、
      欲に於いて染せず、
        種種の因縁を以って
        五欲を毀呰して、
          欲は熾然たりと為し、
          欲は穢悪たりと為し、
          欲は毀壊たりと為し、
          欲は怨の如しと為す。
  是の故に、
  舎利弗!
    当に知るべし、
      菩薩摩訶薩は、
        衆生の為の故に、
        五欲を受くと。         
29  舎利弗の
  仏に白して言わく、
  菩薩摩訶薩は、
    云何が、応に般若波羅蜜を行ずべし。
仏の
  舎利弗に告ぐらく、
  菩薩摩訶薩は、
    般若波羅蜜を行ずる時、
      菩薩を見ず、
      菩薩の字を見ず、
      般若波羅蜜を見ず、
      亦た、我れ般若波羅蜜を行ずと見ず、
      亦た、我れ般若波羅蜜を行ぜずと見ず、
    何を以っての故にか、
      菩薩と、
      菩薩の字の
        性は空なればなり。
  空中には、
    色無く、受想行識無く、
    色を離れて亦た空無く、
    受想行識を離れて亦た空無し。
    色は即ちこれ空にして、空は即ちこれ色なり、
    受想行識は即ちこれ空にして、空は即ちこれ識なり、
  何を以っての故にか、
  舎利弗!
    但だ、名字有るが故に、謂いて菩提と為し、
    但だ、名字有るが故に、謂いて菩薩と為し、
    但だ、名字有るが故に、謂いて空と為せばなり、
  所以は何んとなれば、
    諸法の実性は、
      無生、無滅、無垢、無浄なるが故なり。
  菩薩摩訶薩は、
    是の如く行じて、
    亦た生を見ず、亦た滅を見ず、
    亦た垢を見ず、亦た浄を見ず。
  何を以っての故にか、
    名字とは、
      是れ因縁和合の作法なるを、
        但だ、分別憶想して、
        仮に、名づけて説けばなり。
  是の故に、
    菩薩摩訶薩は、
      般若波羅蜜を行ずる時、
        一切の名字を見ず、
        見ざるが故に著せざるなり。


≪第7章 般若波羅蜜≫
   般若波羅蜜の義は、甚深広大にして言葉を以ってしては之を説くべからずと云うと雖も、凡そ上表の如きに示す所であり、更に分類整理して仮設し、一種の、三種の、六種のを具有するものであると為せば、極めて旨く説明されて遺漏する所無きが如く思われる。就中一種の体とは、又体性、或いは本性とも云い、即ち大慈悲を指す。三種の性とは、則ち三種の性相の謂にして一には不住性、二には平等性、三には不戯論性を云う。六種の相とは又六種の行、或いは六種の行相と称し、これに身行、心行の二種あり、即ち身行とは布施持戒忍辱波羅蜜の三種の波羅蜜を云い、心行とは精進禅定般若波羅蜜の三種の波羅蜜を云う。此の中、大慈悲は、これを経、論には「衆生の為の故に」、或は「大慈悲の故に」と説き、仏法の有らゆる功徳は大慈悲の発する所に外ならざるが故に、般若波羅蜜とは則ち仏法に外ならざるが故に、般若波羅蜜中の一切の諸功徳は、皆この中より生ずるのであり、又次の三種の性、六種の行をも生ずるのである。三種の性とは、又一種の体に関する三種の相とも称しうるのであり、或は慈悲に基づく謂わゆる大乗空の三種の性相でもある。その中、一に不住性とは、又不著性とも称し、経に「一切法に於いて著せざるが故に」と云うのがこれである。即ち河を渡り已れば、既に無用の筏を捨てるが如く、一切の法に著せざるを云う。二に平等性とは、又無分別性、不可得性とも称し、一切を等観するを以っての故に、彼我、彼此、是非、常無常、浄不浄等の一切に不分別、平等なることを云い、即ち経に、「施者、受者、財物の不可得の故に」、復た「一切法の不可得を知るが故に、般若波羅蜜を具足す」と云い、又「大品巻27法尚品第八十九」に、「曇無竭菩薩、薩陀波崙菩薩に告げて言わく、善男子、諦聴諦受、今当に汝が為に般若波羅蜜の相を説くべし。善男子、諸法は等しきが故に、まさに知るべし、般若波羅蜜も亦た等し」と云えるを釈して、「大智度論巻100曇無竭品第八十九」に、「或はある人の言わく、般若波羅蜜の力の故に、諸法は皆平等なりと観るも、諸法の性は、性として自ら平等なるに非ず。この故に、曇無竭の言わく、諸法平等の故に般若波羅蜜平等なりと。所以は何んとなれば、因、果相似たるが故なり。初めに諸法は平等なりと観ず、これ因なり、心を決定して般若波羅蜜を得る、これを果と為す」と云うのがこれである。三に不戯論性とは、上の不住性と平等性より発する、当然の帰結であるが、その重要性は無視することができないので、ここに一科を立つるものである。即ち「仏遺教経」には、「汝等比丘、若し種種戯論せば、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も猶お未だ得脱せじ。是の故に比丘当に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に速かに戯論の患を滅すべし。是を不戯論と名づく」と云い、復た「中論」には、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出なり。能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す」と云うが如く、戯弄の談論を為せば、即ち真理に違背し、善法を破壊するのである。蓋し言葉は文脈に於いてのみ意義を有する所であり、その語られたる経中に於いてのみ真と為すべきであるが故に、言葉に就いての論議を戯論と云うのである。この不戯論性に就いては、特に「大般若経」に詳しく、即ち「大般若波羅蜜多経巻 368至369」に、「復た次ぎに、善現、菩薩摩訶薩は深般若波羅蜜多を行ずる時、応に色の若しは常若しは無常は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に受想行識の若しは常若しは無常は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に色の若しは楽若しは苦は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に受想行識の若しは楽若しは苦は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に色の若しは我若しは無我は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に受想行識の若しは我若しは無我は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に色の若しは浄若しは不浄は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。応に受想行識の若しは浄若しは不浄は戯論すべからずと観ずべく、故に応に戯論すべからず。(後略)」と、かくの如く一巻を優に超えて詳述する所であり、即ち般若波羅蜜の極めて重要な性として、一切の法は論じて他と諍うべきではないと説くものである。六種の行は、これは上記大慈悲の生ずる所であり、般若波羅蜜の働きの全き様相を指すものと曰うべきである。已上、般若波羅蜜の説明を竟る。

≪第8章 六波羅蜜≫
   六波羅蜜とは般若波羅蜜の全き行相を云うのであるが、それは皆大慈悲より生ぜし所であることを知らなくてはならない。就中、檀那波羅蜜とは布施であり、他に与えることであるが、他に対して深く共感するを以っての故に、自他の区別の無き状態に於いての布施であり、その故に施者、受者は不可得なるが故にと云う。次に尸羅波羅蜜とは持戒であり、他に対して害せざることであるが、大慈悲に由って生ずる行であるが故に、罪と不罪と不可得の故にと云うのである。即ち摩訶薩埵王子が飢えたる虎の母子に身を与えたるが如きは、自身には父母を悲しませる罪を得、虎は人を害する罪を得るが如き行為であると雖も、罪と不罪とは不可得なるが故に、仏の制せられたる戒を持するのである。次に羼提波羅蜜とは忍辱であり、他に害せられても、それを忍んで堪えることであり、即ち大慈悲の故に、相手に対して深く共感し、その故に心の動かざるが故にと云うのである。次に毘梨耶波羅蜜とは精進であり、懈らざることであるが、大慈悲の故に、自ら頭上に燃ゆる火を払わざる者の無きが故に、身心精進して懈らざるが故にと云うのである。次に褝那波羅蜜とは一心にして、心の乱れないことであるが、大慈悲の故に、苦海に沈める衆生の無量無辺なるが故に、心は乱れず、禅味を楽しまざるが故にと云うのである。次に般若波羅蜜は上記のとおりであるが、他の五波羅蜜との関係で言えば、般若波羅蜜に関して「大智度論巻29迴向釈論第四十五」には、経の「菩薩摩訶薩は檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜を行ぜんと欲せば、まさに般若波羅蜜を学すべし」を釈して、「問うて曰く、五波羅蜜の相は即ちこれ般若波羅蜜の相なるや不や。もしこれ般若波羅蜜の相ならば、まさに五に差別と名づくべからず。もし異ならば何を以っての故にか、檀波羅蜜を行ぜんと欲せば、まさに般若波羅蜜を学ぶべしと言うと。答えて曰く、亦同亦異なり。異とは般若波羅蜜は諸法の実相を観るが故に一切法を受けず著せずと名づけ、檀を内外の一切の所有を捨つと名づけ、般若波羅蜜の心を以って施を行ず、この時、檀は波羅蜜と名づくることを得。また次ぎに、五波羅蜜は諸の功徳を殖え、般若波羅蜜はその著心、邪見を除く。一人は穀を種え、一人は衆穢を耘除して果実を増長することを得しむるが如し」と云い、又「大智度論巻8放光釈論第十四」に、「問うて曰く、仏は今、般若波羅蜜を説かんと欲するに、何を以ってか、化仏をして六波羅蜜を説かしむると。答えて曰く、この六波羅蜜、及び般若波羅蜜は一法無異なり。この五波羅蜜は般若波羅蜜を得ざれば、波羅蜜と名づけず。檀波羅蜜の如きも、般若波羅蜜を得ざれば、世界の有尽の法の中に没在し、或は阿羅漢、辟支仏道の般涅槃を得るも、もし般若波羅蜜を得て共に合せば、これを波羅蜜と名づけ、よく仏道に至るなり。ここを以っての故に般若波羅蜜と六波羅蜜とは一法無異なり」と云えるにより知ることができる。

≪第9章 四悉檀≫
   四悉檀とは四種の悉檀の意、梵語悉檀 siddhaantaは成就と訳し、仏の衆生を成就するには、四種の方便の説あることを云う。即ち一に世界悉檀、二に各各為人悉檀、三に対治悉檀、四に第一義悉檀である。大智度論は、略ぼ全域に亘って般若経を解説し、般若波羅蜜を解き明かすものであるが、小乗法と大乗法との差違に関して、「この四悉檀中には一切の十二部経、八万四千の法門を総摂す。皆これ実にして相違背するものなし。仏法の中には世界悉檀を以っての故に実有なり、各各為人悉檀を以っての故に実有なり、対治悉檀を以っての故に実有なり、第一義悉檀を以っての故に実有なり」と説くことにより、巧みに此等の間に存在する矛盾を解決したのである。就中、一に世界悉檀とは、世間に随順して我人ありと説くを云う。「大智度論巻1」に、「云何が世界悉檀と名づくる、法あり因縁に従って和合するが故に有り、別の性なし。譬えば車の如き轅軸輻輞等和合するが故に有り、別の車なし。人も亦かくの如し、五衆和合するが故に有り、別の人なし。(中略)若し実に人なくんば、仏云何ぞ我れ天眼をもて衆生を見ると言うや。この故に当に知るべし、人ありとは世界悉檀の故なり、これ第一義悉檀には非ず。(中略)譬えば乳の如き色香味触の因縁あるが故にこの乳あり、若し乳実に無くんば乳の因縁も亦応に無かるべし、今乳の因縁実に有るが故に乳も亦応に有るべし。一人の第二頭第三手の如き、因縁なくして而も仮名のみ有るには非ず。かくの如き等の相を名づけて世界悉檀と為す」と云うのがこれである。二に各各為人悉檀とは、一事の中に於いて或る者に対しては之を許し、或る者に対しては之を許さず、機の宜しき所に随って施設するを云う。「大智度論巻1」に、「云何が各各為人悉檀と名づくる、人の心行を観じて為に法を説くに、一事の中に於いて或は聴し、或は聴さず。経の中に説く所の如し、雑報業の故に世間に雑生して雑触を得、雑受を得と。更に破群那経の中に説くことあり、人の触を得るものなく、人の受を得るものなしと。問うて曰わく、此の二経云何が通ずる、答えて曰わく、人あり後世を疑い罪福を信ぜずして不善の行を作し、断滅の見に堕するを以って、彼の疑を断じ、彼の悪行を捨てしめんと欲し、彼の断見を抜かんと欲す、この故に世間に雑生し雑触を得、雑受を得と説くなり。この破群那は我あり神ありと計して計常の中に堕す。破群那仏に問うて言わく、大徳誰か受くると。若し仏某甲某甲受くと説かば便ち計常中に堕し、其の人の我見倍し復た牢固にして移転すべからず。ここを以っての故に受者触者ありと説かず。かくの如き等の相はこれを名づけて各各為人悉檀と為す」と云うのがこれである。三に対治悉檀とは病に応じて薬を説くが如く、多貪等の人の為には各其の対治の法を示すを云う。「大智度論巻1」に、「云何が対治悉檀と名づくる、法あり対治には則ち有り、実性には則ち無し。譬えば重熱せる膩酢鹹の薬草飲食等は、風病の中に於いては名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若しは軽冷なる甘苦渋の薬草飲食等は、熱病に於いては名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若しは軽き辛苦渋の熱せる薬草飲食等は、冷病の中に於いては名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ざるが如し。仏法中に心病を治するも亦かくの如く、不浄観の思惟は貪欲病の中に於いては名づけて善対治の法と為すも、瞋恚病の中に於いては名づけて善と為さず、対治の法に非ず。所以は何ぞ、身の過失を観ずるを不浄観と名づく、若し瞋恚の人あり過失を観ぜば、則ち瞋恚の火を増益するが故なり。慈心を思惟するは瞋恚病の中に於いては名づけて善対治と為すも、貪欲病の中に於いては名づけて善と為さず、対治の法に非ず。所以は何ぞ、慈心は衆生の中に於いて好事を求め功徳を観ず。若し貪欲の人あり、好事を求め功徳を観ぜば則ち貪欲を増益するが故なり。因縁観の法は愚癡病の中に於いては名づけて善対治と為すも、貪欲瞋恚病の中に於いては名づけて善と為さず、対治の法に非ず。所以は何ぞ、邪観を先とするが故に邪見を生ず、邪見は即ちこれ愚癡なればなり」と云うのがこれである。四に第一義悉檀とは前の三の如く世界乃至対治等の義に由らず、直ちに第一義によりて諸法実相の理を詮明するを云う。「大智度論巻1」に、「云何が第一義悉檀と名づくる、一切の法性、一切の論議語言、一切の是法非法は一一に分別し破散すべし。諸仏辟支仏阿羅漢所行の真実の法は破すべからず散ずべからず。上の三悉檀の中に於いて通ぜざる所の者は此の中に皆通ず。(中略)一切の語言の道を過ぎて心行処滅し、遍く所依なく諸法を示さず、諸法実相にして初なく中なく後なく、尽きず壊せず、これを第一義悉檀と名づく。摩訶衍義偈の中に説くが如し、語言尽き竟り、心行亦訖る。生ぜず滅せず、法涅槃の如し。諸の行処を説くを世界法と名づけ、不行処を説くを第一義と名づく。一切実、一切非実、及び一切実亦非実、一切非実非不実、これを諸法の実相と名づくと。かくの如き等の処処の経中に第一義悉檀を説く、この義甚深にして見難く解し難し。仏この義を説かんと欲するが故に摩訶般若波羅蜜経を説く」と云うのがこれである。大智度論は、この四悉檀を以って、仏は十二部経乃至八万四千の法門を説くも、その間に矛盾の如き有ること無しと為し、大智度論の論趣は、都てこれに依るものであるが、蓋しこれは般若波羅蜜を以って八万四千の法門に応用したものと言え、その示唆する所は甚だ重要である。

≪第10章 阿耨多羅三藐三菩提≫
   梵語 anuttara-samyak-saMbodhiは、即ち無上正等正覚、無上正遍知等と訳し、阿耨多羅三藐三仏陀(anuttara- samyak- saMbuddha)とは阿耨多羅三藐三菩提を完成せる者の意であるが故に、是れを仏の尊称と為す。即ち阿耨多羅三藐三菩提とは仏所得の覚悟の智を云うのである。これに就き、「大品巻1」には、「舎利弗、空行の菩薩摩訶薩は、声聞辟支仏地に堕ちず、能く仏土を浄めて衆生を成就し、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得。」と云い、これを釈して「大智度論巻37」には、「釈して曰く、声聞、辟支仏の地に堕せずとは、空相は応に二種有り、一には但空、二には不可得空なり。但だ空のみを行ずれば声聞、辟支仏の地に堕し、不可得空を行ずれば、空も亦た不可得にして、則ち処として堕すべき無し。復た二種の空有り、一には方便無き空にして二地に堕す、二には方便有る空にして則ち堕す所無く、直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至る。復た次ぎに、本より深き悲心有りて空に入れば則ち堕せず。大悲心無くんば則ち堕せん。かくの如き等の因縁に二地に堕す。能く仏世界を浄め衆生を成就すとは、菩薩は是の空相応中に住して、復た礙する所無く、衆生を教化して十善道及び諸の善法を行ぜしめ、衆生の善法を行ずる因縁を以っての故に、仏土清浄なり。不殺生を以っての故に寿命長く、不劫不盗を以っての故に仏土豊楽にして念に応じて即ち至る。かくの如き等、衆生の善法を行ずるは則ち仏土の荘厳なり。」と云う。これを以ってこれを推求するに、阿耨多羅三藐三菩提とは仏土を浄めることであり、仏土を浄めるとは則ち衆生を成就することである。そして衆生を成就するとは、衆生を教化して十善道等を行ぜしむると、并びに上に記載する所の「また次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、恒河沙等の国土の衆生をして、檀那波羅蜜に立たしめ、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、褝那波羅蜜に立たしめんと欲せば、当に、般若波羅蜜を学ぶべし、一善根を仏の福田中に植えて、阿耨多羅三藐三菩提を得るに至るも尽きざらんと欲せば、当に、般若波羅蜜を学ぶべし。」が、応にそれに他ならないのである。

≪第11章 中論との関係≫
   「中論」、即ち龍樹菩薩造、梵志青目釈、姚秦鳩摩羅什訳に就き、「大智度論」と作者を同じうするものであるが、屡々そのスタンスの違いを問う動きがある。即ち「世界宗教大事典(平凡社)」中の"大智度論"の項に、「中論などの竜樹の論書が多く空の立場に立つのに対し、本書(大智度論)は諸法実相の肯定面を重視し、菩薩の実践を説く」と云うが如きそれであるが、これは中論に就いての甚だしい謬見と言って差し支えない。何故ならば中論に説くが如きは、決して菩薩道や、般若波羅蜜を離れた空を説くものではないからである。又単なる空を説くものでもなく、或は空さえも否定する空、何処まで行っても何もない曠野の如き空を説くものでもないからである。即ちこの中に説かれるのは、菩薩道中の空であり、般若波羅蜜中の空であり、菩薩道に於ける種種の戯論を離れんが為に説く空だからである。何を以っての故に知る、則ち「中論巻1因縁品」に、「不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、不来にして亦た不出、能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す、我れ稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。」と説き、復た「大智度論巻5初品中菩薩功徳釈論第十」の中にも同じく、「不生にして不滅、不断にして不常、不一にして不異、不去にして不来、因縁生の法は、諸の戯論を滅すと、仏は能く是れを説きたまえば、我れは今当に礼すべし。」と説くが故に、是の八不は、蓋し皆、諸の戯論を滅せんが為の故に説かれたる所であると知るのである。
   望月に依れば「龍樹の中論本頌四百四十五偈を青目が解釈せしもの。二十七品あり、一に観因縁品、二に観去来品、三に観六情品、四に観五陰品、五に観六種品、六に観染染者品、七に観三相品、八に観作作者品、九に観本住品、十に観燃可燃品、十一に観本際品、十二に観苦品、十三に観行品、十四に観合品、十五に観有無品、十六に観縛解品、十七に観業品、十八に観法品、十九に観時品、二十に観因果品、二十一に観成壊品、二十二に観如来品、二十三に観顛倒品、二十四に観四諦品、二十五に観涅槃品、二十六に観十二因縁品、二十七に観邪見品である。この中、初に「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出、能説是因縁、善滅諸戯論、我稽首礼仏、諸説中第一」の帰敬頌を置き、次ぎに本文の中、第一観因縁品には、帰敬頌中の不生亦不滅の義を釈し、三時、一異、因縁、有無の諸門を分ちて定実去来の見を破し、第三観六情品より第五観六種品に至る三品には、眼等の六情、色等の六塵、並びに五陰及び地水火風空識の六種 dhaatuに対する堅執を破し、第六観染染者品には、染 raagaの煩悩及び之に染汚せらるる染者raktaに対する執見を破し、第七観三相品には、有為法の生住滅相及び無為法に対する執を破し、第八観作作者品より第十観燃可燃品に至る三品には、衆生所作の業 karmanと能作の衆生即ち作者 kaaraka、並びに眼耳苦楽等の起こる以前に存すと計せらるる本住 praag- vyavasthita- bhaava、即ち我の執を破し、更に燃 agni、即ち火と可燃indhana即ち薪との喩を以って之を重説し、第十一観本際品には、生死 saMsaara等の一切法は本際 puurva- koTi不可得にして、即ち始終なきことを明し、第十二観苦品には、苦等の一切法に於ける自作、他作、共作及び無因作の四計を破し、第十三観行品には、諸の行 saMskaaraの虚誑及び空の義を破し、第十四観合品には、境と根及び我等の異 anya並びに合 saMsargaの無なることを説き、第十五観有無品には、自性 svabhaava、他性 parabhaava、自他性等の過を挙げて総じて有無の見を破し、第十六観縛解品には、諸行の生滅、並びに生死の縛 bandhanaと涅槃の解 mokSaとの別を破して不離の理を明し、第十七観業品には、業の体性、相続、不失法 avipraNaaza、断滅、業所得の果報、起業の人等を破し、第十八観法品には、三乗の得益を明して諸法無我実相を説き、第十九観時品より第二十一観成壊品に至る三品には過現未の三時、因果の有無及び合不合等、並びに世間の成壊に関する邪見を破して重ねて実相を明し、第二十二観如来品には、如来は有無を以って分別すべからざることを示し、第二十三観顛倒品には、煩悩及び常我楽浄等の顛倒断滅の義を破し、第二十四観四諦品には、一切皆空と説かば四諦、四道果、三宝及び世俗法を毀壊すべしとの難を通じ、以って因縁生法真空の義を明にし、第二十五観涅槃品には、邪の涅槃を破して、真の涅槃及び之と世間と無差別なることを説き、第二十六観十二因縁品には、小乗十二因縁の順逆観を示し、第二十七観邪見品には、小乗の見解を以って過去及び未来に対する常見等を破し、終に「一切法空故、世間常等見、何処於何時、誰起是諸見。瞿曇大聖主、憐愍説是法、悉断一切見、我今稽首礼」の偈を挙げて帰結となせり。要するに龍樹の本頌は、外道異学の邪見、並びに仏教中に於いて決定相を求めんとするの執著を破し、以って実相の正観を証せしむるを其の主旨となすに在り」と云って、この「中論」を簡潔に要約している。
   更に青目は龍樹造論の意趣を釈して、「問うて曰わく、何が故に此の論を造るや。答えて曰わく、有る人は万物は大自在天より生ずと言い、有るは韋紐天より生ずと言い、有るは和合より生ずと言い、有るは時より生ずと言い、有るは世性より生ずと言い、有るは変より生ずと言い、有るは自然より生ずと言い、有るは微塵より生ずと言う。かくの如き等の謬あるが故に、無因邪因、断常等の邪見に堕し、種種に我我所を説いて正法を知らず。仏はかくの如き等の諸の邪見を断じて仏法を知らしめんと欲するが故に、先に声聞法の中に於いて十二因縁を説き、又已に習行して大心あり深法を受くるに堪うる者の為に、大乗法を以って因縁の相を説く。所謂一切法不生不滅、不一不異等にして、畢竟空無所有なりと。般若波羅蜜中に説くが如し、仏須菩提に告ぐ、菩薩は道場に坐す時、十二因縁は虚空の如くして尽くすべからずと観ず、と。仏の滅度の後、後の五百歳の像法中には、人の根は鈍に転じて、諸法に深く著し、十二因縁、五陰、十二入、十八界等の決定相を求め、仏意を知らずして但だ文字のみに著す。大乗法の中に畢竟空なりと説くを聞きても、何の因縁の故に空なるやを知らずして、即ち疑見を生ず。若し都て畢竟じて空ならば、云何が罪福の報応等有るを分別せんや。かくの如きは則ち世諦も第一義諦も無く、この空の相を取りて、而も貪著を起し、畢竟空の中に於いて種種の過を生ず。龍樹菩薩は、これ等の為の故に、この中論を造れり」と云う。この中、上に引用せる所の二偈は、二辺に著して邪見、戯論を起すことを遮せんが為の故に、仏は、一切は畢竟じて空なるが故に、この二辺を離るべしと説くと云い、その中間の諸偈は皆この二偈を敷衍するものである。青目の釈は、今の大乗者は畢竟空等を聞くも、その文字に著するのみにして、その因縁を知らざるが故に論者はこの中論を説くと云う。又「大品巻1奉鉢品第二」に、「舎利弗の仏に白して言わく、菩薩摩訶薩は云何が応に般若波羅蜜を行ずべきと。仏の舎利弗に告ぐらく、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦た我れ般若波羅蜜を行ずと見ず、亦た我れ般若波羅蜜を行ぜずと見ず。何を以っての故にか、菩薩と菩薩の字との性は空なればなり。空中には色無く受想行識無く、色を離れては亦た空無く、受想行識を離れては亦た空無し。色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり、受想行識は即ちこれ空なり、空は即ちこれ識なり。何を以っての故にか、舎利弗、但だ名字有るが故に謂いて菩提と為し、但だ名字有るが故に謂いて菩薩と為し、但だ名字有るが故に謂いて空と為せばなり。所以は何んとなれば、諸法の実性は、無生無滅無垢無浄の故なり。菩薩摩訶薩は、かくの如く行じて、亦た生を見ず、亦た滅を見ず、亦た垢を見ず、亦た浄を見ず。何を以っての故にか、名字はこれ因縁和合の作法なるに、但だ分別憶想して仮に名づけて説けばなり。この故に菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず、見ざるが故に著せずと」と云うのも、青目の釈と同じ事を言っているのである。これ等を以って後は推して知るべし、この中論は総じて二辺に著する戯論を離れて、所謂中道を行くことを説くものであるが、別に中道というものが有ると為せば、復たしても中道の有無の二辺に著することになる。寧ろ言葉に関して、それに対する事物は決して固定されることはなく、言葉は文脈に沿ってのみ意義を有するものであるが故に、阿毘曇の如き、但だ言葉の是非のみを論議することの愚を説くものと知るべきであり、故に大智度論の説く所と差違が有る訳ではない。寧ろ大智度論のサブセットに相当すると考えるのが妥当である。

≪第12章 摩訶衍≫
   摩訶衍(梵語 mahaayaana)とは大乗と訳し、その義は、「大智度論巻4菩薩釈論第八」の偈に、「◆この大乗を得る人は、能く一切に楽を与え、利益するには実法を以って、無上道を得しむ。◆この大乗を得る人は、一切に慈悲するが故に、頭目を以って布施し、これを捨つること草木の如し。◆この大乗を得る人は、清浄戒を護持し、氂牛の尾を愛し、身の寿命を惜まざるが如し。◆この大乗を得る人は、能く無上忍を得て、若し身を割截するもの有りても、これを視ること草を断つが如し。◆この大乗を得る人は、精進して厭惓無く、力行して休息せざること、大海を抒む者の如し。◆この大乗を得る人は、広く無量の定を修め、神通と聖道と力と、清浄にして自在を得。◆この大乗を得る人は、諸の法相を分別して、実の智慧を壊する無く、この中に已に具さに得。◆不可思議の智と、無量の悲心の力もて、二法の中に入らずして、一切の法を等観す。◆驢馬駝象の乗は、同じと雖も相比せず、菩薩及び声聞の、大小もまたかくの如し。◆大慈悲を軸と為し、智慧を両輪と為し、精進を駛馬と為し、戒定を銜と為す。◆忍辱心を鎧と為し、総持を轡勒と為せば、摩訶衍人の乗は、能く一切を度す」と説く。即ち摩訶衍とは六波羅蜜に名づけ、般若波羅蜜とは則ち摩訶衍の義であると知るのである。以下に少し長いが「大智度論巻46釈摩訶衍品第十八」の全文を載せて、この解題を終る。

   〔経〕爾の時、須菩提、仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なる。云何が当に菩薩摩訶薩の、大乗に発趣するを知るべき。是の乗は何れの処にか発し、是の乗は何れの処にか至り、当に何れの処にか住すべき。誰か是の乗に乗じて出づべき者ぞ。』と。仏、須菩提に告げたまわく、『汝、何等か是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なると問う。須菩提、六波羅蜜は、是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なり。何等か六なる、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜なり。云何が檀波羅蜜と名づく。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、内外の所有を、共に一切衆生に布施し、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。無所得を用っての故に。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の檀波羅蜜と名づく。云何が尸羅波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、自ら十善道を行い、亦た他をして十善道を行わしむ。無所得を用っての故に。是れを菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜と名づく。云何が羼提波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、自ら忍辱を具足し、亦た他をして忍辱を行わしむ。無所得を用っての故に。是れを菩薩摩訶薩の羼提波羅蜜と名づく。云何が毘梨耶波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、五波羅蜜を行い、勤修して息まず。亦た一切衆生を五波羅蜜に安立す。無所得を用っての故に。是れを菩薩摩訶薩の毘梨耶波羅蜜と名づく。云何が禅波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、自ら方便を以って諸禅に入り、禅に随って生ぜず、亦た他を教えて諸禅に入らしむ。無所得を用っての故に。是れを菩薩摩訶薩の禅波羅蜜と名づく。云何が般若波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、一切の法に著せず、亦た一切の法性を観ず。無所得を用っての故に。亦た他をして、一切の法に著せず、亦た一切の法性を観ぜしむ。無所得を用っての故に。是れを菩薩摩訶薩の般若波羅蜜と名づく。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と為す。復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩に、復た摩訶衍有り、謂わゆる内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、自相空、諸法空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空なり。』と。須菩提の仏に白して言さく、『何等をか内空と為す。』と。仏の言わく、『内空は、眼、耳、鼻、舌、身、意に名づく。眼の眼とするは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。耳の耳とするは空なり。鼻の鼻とするは空なり。舌の舌とするは空なり。身の身とするは空なり。意の意とするは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを内空と名づく。何等をか外空と為す。外法空は色、声、香、味、触、法に名づく。色の色とするは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。声の声とするは空なり。香の香とするは空なり。味の味とするは空なり。触の触とするは空なり。法の法とするは空なり。常に非ず、滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを外空と名づく。何等をか内外空と名づくる。内外法は内の六入、外の六入に名づく。内法の内法とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。外法と外法とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを内外空と名づく。何等をか空空と為す。一切法は空にして、是の空も亦た空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを空空と名づく。何等をか大空と為すや。東方の東方とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。南西北方、四維上下の南西北方、四維上下とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを大空と名づく。何等をか第一義空と為す。第一義とは涅槃に名づく。涅槃の涅槃とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを第一義空と名づく。何等をか有為空と為す。有為法とは、欲界、色界、無色界に名づく。欲界の欲界とするは空なり。色界の色界とするは空なり。無色界の無色界とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを有為空と名づく。何等をか無為空と為す。無為空とは名づけて、無生相、無住相、無滅相と為す。無為法の無為法とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを無為空と名づく。何等をか畢竟空と為す。畢竟とは、諸法の至竟不可得なるに名づく。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを畢竟空と名づく。何等をか無始空と名づく。若し法の初の来処は不可得なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを無始空と名づく。何等をか散空と為す。散とは諸法の無滅に名づく。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを散空と名づく。何等をか性空と為す。一切の法性、若しは有為法の性、無為法の性、是の性は声聞辟支仏の所作に非ず、仏の所作に非ず、亦た余人の所作にも非ず。是の性の性とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを性空と名づく。何等をか自相空と為す。自相とは色の壊相、受の受相、想の取相、行の作相、識の識相に名づく。是の如き等の有為の法、無為の法は、各各自相空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを自相空と名づく。何等をか諸法空と為す。諸法は色受想行識、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、眼界色界眼識界乃至意界法界意識界に名づく。是の諸法の諸法たるは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを諸法空と為す。何等をか不可得空と為す。諸法を求むるに不可得なり。是の不可得は空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを不可得空と名づく。何等をか無法空と為す。若し法の無なる、是れ亦た空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを無法空と名づく。何等をか有法空と為す。有法とは諸法の和合中、自らの性相有るに名づく。是の有法は空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを有法空と名づく。何等をか無法有法空と為す。諸法の中に法無きと、諸法和合の中に自らの性相有ると、是の無法有法は空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。何を以っての故に、性として自ら爾ればなり。是れを無法有法空と名づく。復た次ぎに、須菩提、法の法相とするは空なり。無法の無法相とするは空なり。自法の自法相とするは空なり。他法の他法相とするは空なり。何等をか法の法相とするは空なりと名づくる。法とは五衆に名づく。五衆は空なり。是れを法相空と名づく。何等をか無法の無法相とするは空なりと名づくる。無法は無為法に名づく。是れを無法の無法相とするは空なりと名づく。何等をか自法の自法とするは空なりと名づくる。諸法は自法空なり。是の空は智の作に非ず、見の作に非ず。是れを自法の自法とするは空なりと名づく。何等をか他法の他法とするは空なりと名づくる。若しは仏、出でたもうも、若しは仏、出でたまわざるも、法住、法相、法位、法性、如、実際、此れを過ぐる諸法は空なり。是れを他法の他法とするが空なりと名づく。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。』と。
   〔論〕問うて曰く、『是の経を名づけて般若波羅蜜と為す。又仏は須菩提に命じて菩薩の為に般若波羅蜜を説かしめたまう。須菩提は応に般若波羅蜜を問うべく、仏も亦た応に般若波羅蜜を答えたもうべし。今、須菩提は何を以ってか、乃ち摩訶衍を問い、仏も亦た摩訶衍を答えたまえる。』と。答えて曰く、『般若波羅蜜は、摩訶衍の一義にして、但だ名字の異なるのみ。若し般若波羅蜜を説くに、摩訶衍を説くも咎無し。摩訶衍とは仏道に名づく。是の法を行ずれば、仏に至るを得。謂わゆる六波羅蜜なり。六波羅蜜中、第一に大なるは般若波羅蜜なり。後品に、仏、種種に大因縁を説きたもうが如し。若し般若波羅蜜を説けば、則ち六波羅蜜を摂す。若し六波羅蜜を説けば、則ち具に菩薩道を説く。謂わゆる初発意より乃ち仏を得るに至る。譬えば、王来たれば必ず営従有り。従者を説かずと雖も、当に必ず有るを知るべきが如し。摩訶衍も亦た是の如し。菩薩の初発意の所行は仏道を求めんが為の故なり。修集する所の善法は、随うて衆生を度すべし。説く所の種種の法とは、謂わゆる本起経、断一切衆生疑経、華手経、法華経、雲経、大雲経、法雲経、弥勒問経、六波羅蜜経、摩訶般若波羅蜜経なり。是の如き等の無量無辺阿僧祇の経は、或は仏の説、或は化仏の説、或は大菩薩の説、或は声聞の説、或は諸の得道の天の説なり。是の事の和合するを、皆摩訶衍と名づく。此の諸経の中にて、般若波羅蜜最も大なるが故に摩訶衍と説き、即ち知り已りて般若波羅蜜を説く。諸余の助道法は、般若波羅蜜と和合する無ければ、則ち仏に至る能わず。是を以っての故に、一切の助道法は皆、是れ般若波羅蜜なり。後品の中に、仏、須菩提に、「汝が説く摩訶衍は、般若波羅蜜と異ならず」と語りたもうが如し。』と。問うて曰く、『若し爾らば、初に何を以ってか、先ず摩訶衍を説かざる。』と。答えて曰く、『我れ上に般若波羅蜜を説くは、最大なるが故に、応に先ず説くべし。又仏は意に摩訶般若波羅蜜を説かんと欲して、大光明を放ちたもうに、十方の諸の菩薩は、各自ら仏に、「今何を以ってか、是の光明有る」と問えり。諸仏は各答えて言わく、「娑婆世界に仏有り。釈迦牟尼と名づく。般若波羅蜜を説かんと欲す」と。彼の諸の菩薩、及び諸の天人は和合して来たる。舎利弗、仏に問わく、「世尊、云何が菩薩摩訶薩は一切法を知らんと欲して、般若波羅蜜を習行する」と。又仏は初品の中に、種種に般若波羅蜜の功徳を讃じて、「若し是れを得んと欲する者は、当に般若波羅蜜を学すべし」と。是の如き等の因縁有るが故に、応に始めに般若波羅蜜を説くべし。仏の須菩提に命じたまわく、「汝は諸の菩薩の為に般若波羅蜜を説け」と。須菩提は謙して言さく、「菩薩は空にして、但だ名のみ有り」と。後に言さく、「能く是の如く解了して菩薩の相を知れば、即ち是れ般若波羅蜜を行ずるなり」と。既に是れを知り已りて、菩薩の句義を問い、次に摩訶薩の義有り。摩訶薩の義中に大荘厳の摩訶衍有り。勇夫の種種の器杖の荘厳有りと雖も、駛馬に乗らずんば、則ち能く為す無きが如し。是の大乗は、天竺の語に摩訶衍と名づく。諸仏は法愛を断ずるが故に、又般若波羅蜜の義を明すに、異なる無きが故に、仏は訶したまわず。是れを以っての故に、須菩提、更に異名を作りて、摩訶衍を問えり。』と。
   問うて曰く、『摩訶衍の序中に説くが如くば、初発心より乃ち仏道に至るまで、仏道の為の故に、一切の善法を集むるを、皆摩訶衍と名づく。今何を以ってか、但だ六波羅蜜を説いて摩訶衍と為す。』と。答えて曰く、『先に説くが如し。般若波羅蜜は、則ち六波羅蜜を説く。六波羅蜜を説けば、則ち一切の善法を摂す。是を以っての故に、応に是の問いを作すべからず。諸の善法は多し。何を以ってか但だ六波羅蜜を説かんやと。復た次ぎに、摩訶衍は初発心に願を作すより、乃ち後の方便等の六波羅蜜に至るまでなり。是の諸法は名づけて波羅蜜と為さずと雖も、然も義は皆六波羅蜜中に在り。初発心に願を作すが如き、大悲等の心力大なるが故、毘梨耶波羅蜜と名づけ、小利を捨て大乗を取るを、般若波羅蜜と名づく。方便は即ち是れ智慧なり。智慧は淳浄なるが故に、変じて方便と名づく。衆生を教化し、仏世界を浄むる等は、皆六波羅蜜の中に在り。義に随うて相摂するのみ。』と。問うて曰く、『若し爾らば、後に何を以ってか更に十八空、百八三昧等を説いて、摩訶衍と名づくる。』と。答えて曰く、『六波羅蜜は、是れ摩訶衍の体なり。但だ後に広く其の義を分別す。十八空、四十二字等の如きは、是れ般若波羅蜜の義なり。百八三昧等は是れ禅波羅蜜の義なり。是を以っての故に、初に六波羅蜜を説く。』と。問うて曰く、『何を以っての故に、正しく六波羅蜜を説けば、多からず少なからざる。』と。答えて曰く、『仏を法王と為す。衆生の度すべきに随うて或時は略して一二三四を説き、或時は広く説きたもう。賢劫経の八万四千の波羅蜜の如し。復た次ぎに、六道の衆生は、皆身心の苦悩を受く。地獄の衆生の如きは拷掠の苦あり。畜生の中には相残害するの苦あり。餓鬼の中には飢餓の苦あり。人中には欲を求むるの苦あり。天上には所愛の欲を離るる時の苦あり。阿修羅道には闘諍の苦あり。菩薩は大悲心を生じて、六道の衆生の苦を滅せんと欲するが故に、六波羅蜜を生ず。是を以っての故に、六波羅蜜を説けば、多からず少なからざるなり。』と。問うて曰く、『檀波羅蜜に種種の相有り。此の中に仏は、何を以ってか、但だ五相を説きたまえる。謂わゆる、薩婆若に相応する心を用って、内外の物を捨てて、是の福を一切衆生と共にし、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。無所得なるを用っての故に。何を以ってか、大慈悲心、諸仏を供養すること、及び神通、布施等を説かざる。』と。答えて曰く、『是の五種の相の中に一切の布施を摂す。薩婆若に相應する心もて布施すとは、此の仏道を縁じ、仏道に依るなり。内外を捨つとは、則ち一切の煩悩を捨つるなり。衆生と共にすとは、則ち是れ大悲心なり。迴向すとは、此の布施を以って但だ仏道を求めて余報を求めざるなり。無所得なるを用っての故にとは、諸法の実相たる般若波羅蜜の気分を得るが故なり。禅波羅蜜は誑に非ず倒に非ず、亦た窮尽無し。』と。問うて曰く、『若し爾らば、則ち五種の相を須たずして、但だ薩婆若相応の心を説けば則ち足らん。』と。答えて曰く、『此の事は爾るべし。但だ衆生は、云何が薩婆若に応ずる心の義なるやを知らざるを以っての故に、是の故に四事を以って其の義を分別す。薩婆若に応ずる心とは、菩薩の心を以って仏の薩婆若を求め、縁と作し、念と作し、心を繋けて是の布施を持し、薩婆若の果を得んと欲し、今世の因縁、名聞、恩分等を求めず、亦た後世の転輪聖王、天王の富貴の処を求めず。衆生を度せんが為の故に、涅槃を求めず、但だ一切智等の諸仏の法を具せんと欲す。一切衆生の苦を尽くさんが為の故なり。是れを薩婆若に応ずる心と名づく。内外の物とは、内は頭脳、骨髄、血肉等の捨て難きに名づくるが故に、初に在りて説く。外物は、国土、妻子、七宝、飲食等なり。一切衆生と共にとは、是の布施の福徳の果報を、一切衆生と共に用うるなり。譬えば、大家の穀を種えて、人と共に食するが如し。菩薩の福徳の果報は、一切衆生、皆来たりて依附す。譬えば、好果の樹には、衆鳥帰り集まるが如し。迴向とは、是の福徳の辺は余報を求めず、但だ阿耨多羅三藐三菩提を求むるなり。』と。問うて曰く、『先には薩婆若に応ずる心と言い、後には迴向と言う。何等の異なりか有る。』と。答えて曰く、『薩婆若に応ずる心は、諸の福徳の因縁を起さんが為なり。迴向とは、余報を求めずして、但だ仏道を求むるなり。復た次ぎに、薩婆若相応の心は、阿耨多羅三藐三菩提に応ずるが為の故なり。施は先に義を説くが如し。薩婆若を主と為せば、一切の功徳は皆薩婆若の為なり。仏を讃ずるの智慧に二種有り。一には無上正智を阿耨多羅三藐三菩提と名づく。二には一切種智を薩婆若と名づく。無所得を用うとは、般若波羅蜜の心を以って布施し、諸法実相に順じて虚誑ならざるなり。是の如き等に檀波羅蜜の義を説く。』と。問うて曰く、『尸羅波羅蜜は、則ち一切の戒法を統ぶ。譬えば大海の衆流を総摂するが如し。謂わゆる不飲酒、中食を過ごさず、杖を衆生に加えざる等、是の事は十善中に摂せず。何を以ってか、但だ十善を説く。』と。答えて曰く、『仏は総相に六波羅蜜を説きたもう。十善は総相戒と為す。別相には無量の戒有り。不飲酒と中食を過ごさざるは不貪の中に入れ、杖を衆生に加えざる等は不瞋の中に入れ、余道は義に随うて相従う。戒は身業、口業に名づけ、七善道の所摂なり。十善道は、初後に及ぶ。心を発して殺さんと欲し、是の時方便を作して、悪口し、鞭打し、繋縛し、斫刺し、乃至死に垂んたらしむるは、皆初に属し、死して後、皮を剥ぎ、食噉し、割截し、歓喜するは皆後と名づく。命を奪うは、是れ本体なり。此の三事の和合するを、総べて殺不善道と名づく。是を以っての故に、十善道を説けば、則ち一切の戒を摂するを知る。復た次ぎに、是の菩薩は慈悲心を生じて、阿耨多羅三藐三菩提を発し、布施して衆生を利益し、其の須うる所に随うて、皆之を給与す。持戒して衆生を悩さず、諸苦を加えず、常に無畏を施すは、十善道を根本と為す。余は是れ衆生を悩さざるの遠因縁なり。戒律は、今世に涅槃を取るが為の故なり。婬欲は衆生を悩さずと雖も、心を繋縛するが故に、大罪と為す。是を以っての故に、是の戒律中には、婬欲を初と為す。白衣には、不殺戒、前に在り。福徳を求むるが為の故なり。菩薩は今世の涅槃を求めず、無量世中に於いて生死に往返し、諸の功徳を修し、十善道を旧戒と為し、余の律儀を客と為す。復た次ぎに、若し仏、好世に出でたまえば、則ち此の戒律無し。釈迦文仏の如きは、悪世に在すと雖も、十二年の中は亦た此の戒無し。是を以っての故に、是れ客となるを知る。復た次ぎに、二種の戒有り。有仏の時は、或は有り或は無し。十善は仏有るも仏無きも、常に有り。復た次ぎに、戒律中の戒は復た細微なりと雖も、懺すれば則ち清浄なり。十善戒を犯せば復た懺悔すと雖も、三悪道の罪を除かれず。比丘、畜生を殺せば復た悔するを得と雖も、罪報猶お除かざるが如し。是の如き等の種種の因縁の故に、但だ十善道を説く。亦た自ら行い、亦た他に教うるを名づけて、尸羅波羅蜜と為す。十善道は、七事は是れ戒、三は守護と為すが故に、通じて名づけて尸羅波羅蜜と為す。余の波羅蜜も、亦た是の如し。義に随うて分別す。初品の中に六波羅蜜の論議を広説するが如し。是の経を般若波羅蜜と名づく。般若波羅蜜は捨離相と名づく。是を以っての故に、一切法中、皆無所得を用うるが故に。』と。
   問うて曰く、『若し有所得を用って、諸の善法を集むるすら、猶尚お難しと為す。何に況んや、無所得を用ってするをや。』と。答えて曰く、『若し是の無所得の智慧を得れば、是の時、能く善行を妨げ、或は邪疑を生ず。若し是の無所得の智慧を得ざれば、是の時、妨ぐる所無く、亦た邪疑を生ぜず。仏も亦た心に著して相を取り、諸の善道を行ずるを称したまわず。何を以っての故に、虚誑にして世間に住し、終に尽に帰すればなり。若し心に著して善を修すれば、破する者則ち易し。若し空に著して悔を生ずれば、還りて是の道を失す。譬えば、火を草中に起すに、水を得れば則ち滅し、若し水中に火生ずれば、則ち物の能く滅する無きが如し。初めて習行し、心に著して相を取り、菩薩の福徳を修するは、草に生ずる火の滅を得べきこと易きが如く、若し実相を体得する菩薩の、大悲心を以って、衆行を行ずるの破り得べきこと難きは、水中に生ずる火の能く滅する者無きが如し。是を以っての故に、無所得の心を用って衆行を行ずと雖も、心も亦た弱からず、疑悔を生ぜず。是れを略して六波羅蜜の義を説くと名づく。広説すれば初品の中の如し。
   一一の波羅蜜に、皆十八空を具足すとは、六波羅蜜の中に般若波羅蜜の義を説き、諸法に著せざるなり。所以は何ん、十八空を以っての故に。十八空の論議は初品の中の如し。仏の舎利弗に告げたまわく、「菩薩摩訶薩、十八空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と。彼の義は応に此の中に広説すべし。』と。問うて曰く、『十八空の、内空等の後に、皆「常に非ず滅に非ざるが故に」と言う。此の義云何。』と。答えて曰く、『若し人、此の空を習わずんば、必ず二辺に堕せん。若しは常、若しは滅なり。所以は何ん、若し諸法実に有ならば、則ち滅の義無く、常の中に堕せん。人の一舎より出でて、一舎に入るは、眼に見ずと雖も、名づけて無と為さざるが如し。諸法も亦た爾なり。未来世より現在世に入り、現在世より過去世に入る。是の如くなれば則ち滅せず。行者は有を以って患と為す。空を以って有を破し、心に復た空を貴ぶ。空に著する者は、則ち断滅に堕す。是を以っての故に、是の空を行じて以って有を破し、亦た空に著せず。是の二辺を離れ、以って中道を行ず。是の十八空は、大悲心を以って衆生を度せんが為なり。是の故に、十八空の後に、皆「常に非ず滅に非ず」と言えり。是れを摩訶衍と名づく。若し此れに異なる者は、則ち是れ戯論狂人なり。仏法の中に於いては空にして所得無し。人の珍宝の聚中に於いて水精の珠を取り、眼に見て好しと雖も、価値(あたい)する所無きが如し。』と。問うて曰く、『若し十八空、已に諸空を摂せば、何を以ってか更に四空を説く。』と。答えて曰く、『十八空の中に現空尽く摂す。諸仏に二種の説法有り。或は初めに略して後に広く、或は初めに広くして後に略す。初めに略して後に広きは、義を解せんが為の故なり。初めに広くして後に略するは、持し易きが為の故なり。或は後会の衆生の為に略して、其の要を説き、或は偈頌を以ってす。今仏は前に広く十八空を説き、後に略して四空の相を説きたもう。法の法相たるは空なりとは、一切法の中に法相は不可得なり、色の中に色相の不可得なるが如し。復た次ぎに法中に法を生ぜざるが故に、名づけて法の法たるは空なりと為す。無法の無法たるは空なりとは無為法を無法と名づく。何を以っての故に、相は不可得なるが故に。』と。問うて曰く、『仏は三相を以って無為法を説きたもう。云何が無相と言う。』と。答えて曰く、『然らず。生を破するが故に無生と言い、住を破するが故に無住と言い、滅を破するが故に無滅と言う。皆生住滅の辺に従うて此の名有り。別に無生無滅の法無し。是れを無法の無法とするは空なりと名づく。是の義は無為空の中に説くが如し。自法の自法とするは空なりとは、自法とは、諸法の自性に名づく。自性に二種有り。一には世間の法の如し、地の堅性等なり。二には聖人は如、法性、実際を知る、此の法は空なりと。所以は何ん、智見に由りて知らざるが故なり。二性有り、空なるは先に説くが如し。』と。問うて曰く、『如、法性、実際は無為法の中に已に摂す。何を以ってか、復た更に説く。』と。答えて曰く、『観ずる時、分別して、五衆の実相なる法性、如、実際を説く。又空の智慧観に非ざるが故に、空性をして自ら爾らしむ。』と。問うて曰く、『色の如きは、是れ自法にして、識を他法と為す。此の中に、何を以ってか、如、法性、実際は、仏有るも仏無きも常住にして、是れを過ぎたるを名づけて他法空と為すと説く。』と。答えて曰く、『有る人は、未だ善く見結を断ぜざるが故に、処処に著を生ず。是の人は、是の如、法性、実際を聞き、是れを過ぎ已りて更に余法有りと謂う。是を以っての故に、如、法性、実際を過ぐるも、亦た空なりと説く。』と。

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